謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!68

このエントリーをはてなブックマークに追加
1神奈川県民
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

邪馬台国は、三世紀に日本列島に存在したとされる国の一つであり
古代史最大の謎として人々の関心は高い。
この日本建国に関わる邪馬台国、女王卑弥呼について議論をしましょう。

前スレ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1341485535/
2サガミハラハラ:2012/08/18(土) 12:46:37.43
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡です。
卑弥呼は正しくはヒミカです。
3日本@名無史さん:2012/08/18(土) 13:57:29.86
サガミさん、余白が多いですよ。
43:2012/08/18(土) 13:58:44.78
失礼しました、間違えました。
5日本@名無史さん:2012/08/18(土) 17:06:58.45
弥生時代末期の北部九州。
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)国も、跡継ぎを巡る「大乱」で卑弥呼(アマテラス)に国を譲る。
これを不服とした卑弥弓呼の狗奴国と交戦状態になり、倭国は分裂。卑弥呼は戦争中に急死する。

奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向→神武東征≡瀬戸内海⊇≡大和
....................隼人(鹿児島)

卑弥呼の跡を継いだ筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国
(後の熊襲)を滅ぼし、倭国を再統一する。
その男系末裔であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東征(東遷)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。

※記紀が投馬国の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の叔母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(投馬国王と台与の子孫である)大王家の系図操作。漢委奴国王(スサノオ)と帥升(大国主)は建国の功績を消され出雲に祀られる。

-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代

【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=♂投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=♀邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=♂投馬(日向)系大王


-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>>>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇、筑紫系天皇の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都

一白
大王
6日本@名無史さん:2012/08/18(土) 20:19:39.73
ウリナラ♪マンセー♪   ウリナラ♪マンセー♪  ウリナラ♪マンセー♪  ウリナラ♪マンセー♪

    ∧_,,∧       ∧_,,∧        ∧_,,∧        ∧_,,∧
 (((o<*`∀´ >o))) (((o<*`∀´ >o)))  (((o<*`∀´ >o)))  (((o<*`∀´ >o))) 
    ヽ   .ヽ ♪     ヽ   .ヽ ♪     ヽ   .ヽ ♪      ヽ   .ヽ ♪
     し―-J       し―-J        し―-J         し―-J
7日本@名無史さん:2012/08/18(土) 20:24:56.16
o   o    
  ノi^ヽ、_,ヘ、   
   / _,,,......,,,_i    
  γノノλノ))   . サガミハラハラ氏は公園を今すぐ発掘しなさい!
  ,ヘ,ゝ゚ ー゚ノ,)    
  ,ゝ. (,_`]l[´iン    今晩、掘りなさい! スコップとツルハシで・・・
 ζ_./'~|鬥「|ゝ  
  £'r_,ィ_ァ┘   
8サガミハラハラ:2012/08/18(土) 22:33:02.45
あしたの夕刊に、盗掘犯逮捕の記事がでますね。
9日本@名無史さん:2012/08/18(土) 22:40:31.87
最近の公園はね、
地下にいろいろ仕掛け作るので(震災対策で水タンク埋納とか)

もうとっくに掘り終わってるよ
何もなかったんだろさ
10日本@名無史さん:2012/08/19(日) 08:18:03.17
日本を建国したのはスサノオだったのかよっ!
11日本@名無史さん:2012/08/21(火) 02:49:13.18
何を今更岩倉や。
12レス長たらし毘古:2012/08/21(火) 23:44:07.03
>>10
>日本を建国したのはスサノオだったのかよっ!

建国してお譲りになられたので、代わりに豪華絢爛なあの大きな出雲大社。
これは別に記紀も隠してはいない。ただ、神話代にもってきて、その移譲の
具体的な年代が描かれなかった事だけが悔やまれる。
また、記を素直に読んでも、スサノウ領域とアマテラス領域は、しばらくの
間競合しながらも並存する。記は、その並存期を終らしたイベントこそが
「出雲の国譲りだ」と主張している。この両領域の区分も記には明記されて
いる。天の河の誓約でスサノウ・アマテラス二人の間に生まれた子がどこに
祀られているか?でその境界線はある程度想定は可能。

大国主なき後の倭人文化域は、近似の神話体系を共有するゆるやかな群雄割拠
だった。その様子を、魏晋の外交官は「こもごも戦い久しく主なし」と記述。
13日本@名無史さん:2012/08/22(水) 20:18:42.50
14卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/22(水) 21:20:40.24
私は、投馬国は但馬で、邪馬台国は大和だと思っている。
それは、日本海航路が主流だった時代の情報が、中国に伝わっていたのである。
東夷伝の記録はかなり古い時代のもので、古い時代の情報なのである。

関門海峡が開けたのは仲哀神功時代のことだという伝承がある。
それ以前は日本海航路が主流だったのである。
その時代の情報が中国に伝わっていたのである。
15日本@名無史さん:2012/08/23(木) 12:57:10.38
日本海航路を延々と行ったら寒くなるわな。儋耳・朱崖なんて言葉が
でてくるわけがない。
16卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/23(木) 17:41:27.35
九州だって冬は寒いぞw
大和だって夏は暑いw
17日本@名無史さん:2012/08/23(木) 22:01:28.99
発見!
 もう状況証拠も整ってきました。
大スクープが近づきつつあるようです。
http://saisentannomizude-zennojyunkanwo.blogzine.jp/kagomekagome/2012/07/post_79ab.html
18日本@名無史さん:2012/08/23(木) 23:18:40.76
畿内説はここまで堕ちたか・・・
19卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/25(土) 17:45:14.83
考証

遣倭載斯烏越等

この載斯は、文脈から考えて、どうしても官職名だと思われるが、
辰韓の官に殺奚というのがある。これに似てはいまいか。
20日本@名無史さん:2012/08/25(土) 20:32:59.70
耳に馴染んでいないでしょうけど
むかしむかし「按召」とゆうグループがおったとさ

(221)十月 召文王妙コ以其女雲帽獻之
(228)七月 召文王妙楚入朝 請以國獻 以帝女多禮妻之

陳壽の描写は「穢王」の一派の「召文」がばらけた直後のの描写
従って 官のに「樊濊」「殺奚」とかの列挙があるわけだが

ちなみに 「倭載斯烏越」のは
「倭」が設定した「載斯」という官の「烏越」さん
「烏越」さんのの「烏」がお日さまのことだって気付かないひとは未熟
「烏越」さんの「烏越」が地名として残っている可能性を排除してはいけませぬよ
21日本@名無史さん:2012/08/25(土) 20:34:30.65
「按召」 わろす

貼りちがえたけどほんとは「召文」な
22卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/25(土) 21:34:38.02
私が何を書いても、お前しか反応がないのが悲しい(笑)
23レス長たらし毘古:2012/08/25(土) 22:41:28.02
>>17
続報が待たれますね。当方も、それがヒミコに関する物かどうかは不問です
が、「かごめかごめ」も他の幾つかの童謡同様、何かしらの暗号である可能性
を感じています。所謂ユダヤ教との関連で良く取り沙汰される「かごめ
かごめ」がよもやヒミコとも関係があったとは。。続報が待たれますね。

さて、ここでも「前出雲」に関して、眉唾には思いながらも関連を模索して
見ようと言う奇特な方も現れ始めましたようですので、いよいよ今回は、
魏晋の外交官が来倭(来日)した当時の、倭人文化域のあり様に関して、
架説を張り巡らしてみようと思います。

まず、この「前出雲」なる勝手な造語を、ある程度架説の中で適切に扱う
ために、この「前出雲」を以下のように設定。
@スサノウの神話体系に始まり、スサノウの後裔と語られている大国主の
存命期までの期間を架説。
Aスサノウの神話体系を基礎とした国家群地域。スサノウの神話体系を共有
している。当然この神話体系共有国家群は、アマテラス神話体系とも関与して
来る筈なので。
B上記のうち、アマテラス神話体系をも共有する地域は除外。同様に、
アマテラス神話共有時代もこれに含まない。従って、前出雲の文化的影響度は
「国譲り」によって完全に払拭されたとは限定できず、むしろ「出雲大社」
建設によって払拭されたと考えた方が妥当。

この上記の条件で考察した場合、前出雲の文化は、スサノウに始まり、
崇神大王への出雲の神宝の献納をもって終焉したと考えるのが妥当となる。
(但しこれは日本書紀の主張で、古事記ではこれに該当するイベントは
ヤマトタケルの出雲訪問と考えた方が妥当である。その場合は、更に前出雲
の文化の終焉はヤマトタケルの時代、とこうなる)
24レス長たらし毘古:2012/08/25(土) 23:00:12.78
さて、そうするとですね。魏晋の外交官が来日(来倭)された時、記紀いずれ
にせよ、「前出雲」の文化はあった。もしくは少なくとも残滓していた、と
こう言う話に成るんです。だがしかし、魏志倭人伝にはその事は全く描かれて
いない。ここが大きな不思議であり、この大不思議があるが故に魏志倭人伝の
ヒミコの件が@日本と全く関係無いA大和王権とは全く関係無いB日本の記録
の方がこれを隠している間違っているC魏志倭人伝自体が間違っている。
と言う、この四分岐にいきなりぶつかってしまう、と言う不幸な事態が発生
してしまいます。これがそもそもの邪馬台国論争と成っているのが現状。

そこで、当方は、上記四分岐が、可能な限り「少ない」と言う状況が成り立つ
為の架説を構築してみます。

前出雲王国が、まず崩壊しています。(記紀によると、これは国譲りと評され
ているイベントの暫く後、となります)
前出雲王国は崩壊しているが、それにしても、大陸民族とは民族外見も文化
共有も全く違う、「ある程度の同慣習共有諸小国」は分散しています。
同慣習共有地域がある以上、「他国(他地域)」からの来訪外交団が来日
(来倭)した場合、ある程度「一枚岩」のフリをする必要があります。
従って、魏志倭人伝が表記するとおり、「女王を共立」する、この前提条件が
存続する為には、国譲りか国盗りかの言い回し問題は別としても、「同慣習
共有前提」は、確実にあらねばならないと、こうなります。

さて、この「共立」の前提になる物はなんでしょうか?
記紀を信用しても、この時期の大和王権の「アマテラス信奉」も、まだ西日本
を束ねるほどの確固とした物には成長していない事は明らかです。
とすると、ヒミコなる女王を共立するためには、「アマテラスだけ」では、
かなり力不足は否めません。
しかし、国譲りしたばかりの「スサノウの神話体系」を持ち出す事も、これも
多分危険でしょう。
25レス長たらし毘古:2012/08/25(土) 23:15:20.57
さて、そうすると「共立の為の詭弁」のために、どこを持って来たら、一番
西日本の倭人文化域の諸小国達にとって都合がいいでしょうか?

それは、アマテラスの神話体系もスサノウの神話体系も、どちらよりも「祖」
である物を持ってくる必要があります。それはイザナギイザナミとなります
が、残念ながら、イザナミは黄泉の国にいらっしゃいますので、引っ張り出せ
ませんし、イザナギも、スサノウとの確執がありますので、イザナギそのもの
を持ち出すと、前出雲の残党も黙ってはおれなくなりましょう。
従って、@イザナギとアマテラスの関係性Aアマテラスとスサノウの天の河の
誓約、と言う二重構造を持ち出します。
こうする事によって、前出雲の残党も「文句は言えない」構造にできます。

つまり、この時代に「共立されるため」には、スサノウ直系は論外、イザナギ
直系は見つかり難い、アマテラス直系でも前出雲の残党が黙っていない、
と言う構図になるために、あえて、イザナギ神話体系とアマテラス神話体系
の両方共を引き継ぐ者である条件が、かなり必要になります。

この架説の構築で、@魏志倭人伝に「なぜ(前)出雲は描かれていないか?」
と言う疑問も、A「なぜ(ヒミコなる)女王が共立されたのか?」と言う疑問
も、どちらもスムーズに解釈可能になります。
@は、その時代まだ倭人文化域では、「前出雲を語ることはタブー」であった
とするなら描かれてなくて当然となりますし、Aは、「共立と言う形でしか」
外交官と謁見する代表者を選出できなかったのも当然となります。
26レス長たらし毘古:2012/08/25(土) 23:37:57.01
そこで、先述した「前出雲」の勢力範囲ですが、(もちろん、これは直轄地
とは違います。あくまでも、前出雲・スサノウの神話体系がその宗属関係に
おいて有効である範囲、と言う意味合いです)

これは古事記にも正確ではないとしても、おぼろげに描かれています。

まず、イザナミを産褥死させたカグツチがイザナギによって切り殺される所
から、話は始まります。カグツチの体は八つに分かれて飛び散ります。そして
カグツチを切った剣から零れたその血も八つに飛び散ります。これが、
スサノウとイザナギの争奪の対象となり、勝利したスサノウはこれを占有し、
敗北したイザナギは淡路島(若しくは近江?)に幽閉されます。
⇒これは、前出雲勢力圏のほぼ東の国境と想定されます。(近畿も含まれる)

次に、スサノウとアマテラスの天の河の誓約というイベントです。これにより
両者は、「仲直り(記の主張)の象徴」として、子供(神)を産みます。
この子供は、安芸広島の厳島神社や、北九州や、山口県に祀られている神々で
ある事からも。。
⇒前出雲勢力圏のほぼ西の国境と想定されます。

この二つの神話イベントから、前出雲の勢力圏は、中国地方&近畿地方&
甲信越の西半分、と、このくらいの範囲になるかと想定されます。少なくとも
前出雲の残党が残っていて、彼らが最大限に勢力範囲を主張するならば、この
範囲になるかもしれません。また、事実、記の主張する「出雲の国譲り」の
主な合戦場は、「この範囲」の国境沿いか、軍事的要衝にて行われています。
27レス長たらし毘古:2012/08/25(土) 23:53:31.81
さてさて、こんな「大きな国」が(滅ぶか)国を譲った、その数百年後
(もっと短いかもしれません。あくまでも日本神話からは「時代」は検証
しきれません)魏志倭人伝は、来訪してこう言います。

「こもごも戦い久しくぬしなし」

(まー、そりゃそうでしょう。。)

但し、これが「日本書紀」から考えた場合、大矛盾になります。しかしながら
「古事記」から考えた場合、それほど大きな矛盾とまでは言えず、単なる見解
の相違程度の話となります。

古事記から考えた場合のみ(日本書紀から考える事は一切しないで)、神武
大王〜開化大王の間の期間は、どう考えても、「大和王権の直接支配できて
いる範囲」は、近畿と北九州と瀬戸内海が関の山となります。もし、これらの
「最大範囲」を直轄的に占有できていたとしても、魏晋の外交官とサシで
対峙するには、少し役不足。。じゃない、えーと、力量不足感は否めません。
しかし、大和王権が、「イザナギとアマテラスの関係」と「アマテラスと
スサノウの関係」を「盾に取」ったら、どうでしょうか?その場合、西日本
(つまり当時風に言うと倭人域)全てを「代表」する事は可能になります。

さて、ここからは当方の超勝手な妄想ですが。
大和王権が、モモソ毘売を「共立」するために、前出雲を「歴史上抹殺」
しようとしたなら、どうでしょうか?
そうですね。当然、前出雲の残党は「大激怒」でしょうね。
崇神大王は、この前出雲の残党の「大激怒」を応援にして、ライバル建ハニ
ヤスを打ち負かし、大王位に着任します。

大王位に着任した後の崇神大王が、三輪の神をまつり、出雲の神宝を献上
させる事が、この架説の場合、可能になって来ます。
「前出雲」を語る事のタブーは、モモソ時代までにMAXになり、崇神大王
時代に払拭され始めます。
28レス長たらし毘古:2012/08/26(日) 00:05:50.26
さて、閑話休題。

以上は、ヒミコなる女性と共立する為の、三神話(イザナギ・アマテラス・
スサノウ)と言う構図で架説してみましたが、これ、アマテラスの一部を、
仮に「ツクヨミ」としても、可能っちゃー可能でもあるんだよね。但し、
皆さんご存知のとおり、記紀からツクヨミ様を正確に拾い上げる事は、かなり
至難。ですので、まあ、わかりやすく、アマテラス様に、お代理いただいた、
と言う次第でもあります。(拝)

なぜなら。。アマテラス様でも、スサノウ様の子孫の残党は、黙っちゃいない
部分もあると思うんだよね。でも、ツクヨミ様なら、アマテラス派・スサノウ
派、どちらもカドが立たないと言う構図もありうるかとも思うんだよね。

だーがしかし。そこも(いや、そここそがっ!)記紀に描かれてない。当方
にゃ、そっちの方が、とっても不可思議、ちちんぷいぷい。

スサノウ様が、お尻から食べ物を出してお供えしてきた食物神を「失礼な
やっちゃっ!」と怒って殺しちゃってるんだよね?スサノウさんのやんちゃ
ブリが、果たしてツクヨミ様とは、いかなる関係性を紡いでいたのか?とか、
まだまだ謎は多いですね!
29日本@名無史さん:2012/08/26(日) 00:27:48.09
紀では
保食神のことを「穢哉 鄙矣 寧可以口吐之物 敢養我乎」といって「抜剣撃殺」したのは月夜見尊

30レス長たらし毘古:2012/08/26(日) 00:58:24.45
>>29
ご指摘ありがとうございます。ごっちゃになってて申し訳無い。そちらが正しい
です。(そして、更にそこから話が広がると、おわかりになられている辺りは
かなりご明察です。ですが、そこはまた別の機会に。。)
31卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/26(日) 09:20:38.15
あまりこんなことは書きたくないのだが、レス長たらし毘古はうざい。
唐松山と同じで、妄想に妄想を積み重ねて議論しているので、読む気にならない。

他人を罵倒する言葉は書いていないので、人畜無害だが、うざいことに変わりはない。
稗箕狐という男は、うざい上に、自惚れと思い上がりが感じられるので、腹が立つ。
32太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/26(日) 09:28:57.01
オマエもひどい盲象暴走野郎だろう。w
33日本@名無史さん:2012/08/26(日) 11:37:14.16
                 うざくて読めん
    サッ ミ _______ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄
      ∧__||// ∧__∧  |  ∧__∧
     (・ω・||/<_#`Д´>  | <    >←卑弥呼は朝鮮
     ( ⊃|| (    )  | (    )
     し―-J ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  u―u'

  #人間、悲しいかな「自分のことは見えない」
34日本@名無史さん:2012/08/26(日) 11:38:49.32
唐松=太国=レス長たらし
35日本@名無史さん:2012/08/26(日) 12:32:27.66
36日本@名無史さん:2012/08/26(日) 13:04:45.35
卑弥呼コリア説と、脳みそ唐っぽ山だけは、飛ばして読むのが吉。
37卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/26(日) 18:25:07.54
知恵は細いがずんぐりむっくりの太国が何か言っているようだが、無視しよう。

>>35は稗箕狐だろうが、そういう地図があることは私も知っている。
しかしその地図は信用できない。大体、朝鮮の地図は、ひどい間違いを犯しているのが多い。

ときどき絵を描いて私を揶揄している男がいるが、もしかして例のアンポンタンか?
だとしたらなかなか多才な男だな。ハングルが読めるというのもこの男か?
ソウルの方が美人が多い、とか、侏儒とはペンギンだ、などとトボけたことを書いているのもこの男だろう。
多才で、センスもあるようだが、如何せん、頭はあまりよろしくないようでw
38日本@名無史さん:2012/08/26(日) 18:30:41.77
ウリナラ起源説は、もう聞き飽きた。
39私は怒っている:2012/08/26(日) 18:44:54.44
少しここを借ります。
昨日、二時間と2000円もかけて、講演会「考古学からみたヤマトタケル伝説」を聞きいきました。
講師は関西の大学の考古学の講師でした。二時間の講演のうち1時間は古事記と日本書紀の記載の
比較でした。そして、ヤマトタケルの白鳥伝説は陵の濠での水鳥の羽音を幻視した結果だと述べた。
妄想もいい加減にして欲しい。考古学が分からないところを妄想してよいのか。考古学は発掘により
記紀記載の歴史を証明する学問で無いのか。せめて、ヤマトタケルが東国より連れ帰った白鳥が
葬送のときに放たれたのでは、くらいの想像に留めて欲しい。
これでは、ヤマトタケルを貶めているのと同じだ。考古学者は日本の歴史を貶めていることが多い
ように思う。だから隣国人がつけこんでくる。
後半は、いろいろな水鳥埴輪を解説していたが、結局、白鳥伝説とは関係無いと結論していた。
関係無いなら始めから講演するな。東国の破鏡分布など考古学者らしい、ヤマトタケルを研究して欲しい。


40卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/26(日) 18:52:42.88
私はウリナラ起源説を唱えているわけではないぞ。
卑弥呼は朝鮮にいた、と言っているだけだ。
最近は、卑弥呼は満州にいた、に改名しようかと思っているが、
朝鮮の方がインパクトが強いからそうしているのだ。

君らは朝鮮説を笑っているようだが、では、たとえば、
古代の日本に大夫を名乗るような階層があったかね?
そういう文献があるなら出してもらいたいものだ。

倭奴国の使者は大夫を自称した。難升米も大夫難升米と書かれている。
倭人は呉の太伯の末裔を自称するとも書かれている。
こういうのを読んだとき、誰しも、これは日本のことではないのではないか、
と思ったことがあるはずだ。
実際、古代の日本に大夫などという官職も位階も階層もなかったし、
日本人が太伯の末裔を自称することなどあるはずがないのだ。

しかし高句麗にはあった。それはネット高句麗史を読めば分かる。
また馬韓や百済や加耶にもあった可能性がある。
というのはソウルの古墳から「大夫」銘のある土器が出土しているのだ。

今は暑いから書く気にならないが、もう少し涼しくなれば書くつもりである。
難升米が百済人と思われる墓誌も見つかっている。大率も百済の官だ。
41卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/26(日) 19:02:53.06
>>39
ヤマトタケルの白鳥伝説には実に深い意味が込められているのだ。
それは現代の学者には分らないことだ。
もちろんその講師の話もまったくのデタラメで、君が怒るのも無理はない。

ヤマトタケル白鳥伝説や記紀神話に秘められた深い真実は、
現代の学問では絶対に分らないようなものだ。
それは将来、人類が進化して、過去を霊視できるようにならないと理解できないものなのである。
42日本@名無史さん:2012/08/26(日) 20:56:50.56
百済なんて国3世紀には存在しませんよ

それにしても朝鮮さんは考古学なんて無視しているのかと思ってました
ピョンヤン近くの遺跡から「楽浪」と書かれた封泥が出土していますよ
ソウルの土器と同じように参考にしてみてください
43卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/26(日) 21:21:14.47
>>42
二年己丑, <溫祚>改國號曰<伯濟>  己丑は西暦29年

伯濟は西暦29年に建国されている。
中国は通好してきた国しか伝を立てない。
百済が中国に通好してきたのはずっと後なので百済伝は書かれていないが、
それ以前に建国されていたのは明らかなことだ。

楽浪封泥が偽物であることについては以下参照

http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/666908.html
44日本@名無史さん:2012/08/26(日) 21:33:06.78
45唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/26(日) 21:43:48.88
>ヤマトタケルの白鳥伝説は陵の濠での水鳥の羽音を幻視した結果だと述べた。

日本武尊が天皇になった頃には、湛水した水濠を持つ御陵が存在した。
その御陵とは、箸墓である。
46唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/26(日) 21:49:00.00
あっ、間違えた
日本武尊の息子、仲哀が天皇になったときだった。
47唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/26(日) 22:08:32.97
新羅本紀に書紀の記事を合わせると
崇神天皇 189年〜216年  五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応。
垂仁天皇 217年〜239年 239年邪馬台国官伊支馬
景行天皇 240年〜261年 箸墓は箸陵(263年)。
成務天皇 262年〜265年 46年伸ばす 262〜311
仲哀天皇 266年〜274年 312〜320
神功皇后 275年〜343年 321〜389
応神天皇 344年〜384年 390〜430
仁徳天皇 313年〜399年 359〜445 神功三九年大歳を元年とする。
履中  400〜  405年兄王は前年帯方界での行方不明。
反正  406〜
允恭  412〜  413年倭、高句麗が東晋へ朝貢その翌年が新羅の医者。
安康  454〜
雄略  457〜  嶋王は動かない。

10奈解泥師今196~230 ・11助賁尼師今230~247 ・12沾解泥師今247~261
13味鄒泥師今262~284
14儒禮泥師今284~298
15基臨泥師今298~310
16訖解泥師今310~356奈解王の孫。母は助賁王の娘命元夫人昔氏。
17奈勿麻立干356~402味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。

成務・仲哀の世継ぎは成立しない。
味鄒・儒禮と訖解・奈勿の間の世継ぎは成立しない。
しかし、新羅192年・209年と奈勿=神功=百済王家は整合する。
そのかわり、5世紀をどうするか?
48卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/26(日) 22:11:49.87
>>44
これは誰だ、稗箕狐か? 何が言いたいのか不明だが、
高句麗と高麗は別だぞ。高麗の安邊府という意味だ。

そこに沸流水があったというのか?
高句麗の沸流水がそんなところにあるはずがない。
私は今日、本居宣長の「鉗狂人」を途中まで読んだが、
宣長は和漢三才図会は信用できないと書いていたと記憶している。
49唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/26(日) 22:21:26.54
ネット朝鮮史は
味鄒・儒禮と訖解・奈勿の間の世継ぎは成立しない。
味鄒・儒禮までを引き下げて、訖解・奈勿と整合をはかる。
この場合、崇神等も引き下げられて、崇神世=卑弥呼となる。
しかし、崇神5,6年の出来事は、後漢193年とも整合していた。
そして、崇神世の任那建国は211年という指標があったが、魏・晋が半島を管理する時代に
任那建国が来る。←不可能である。
崇神世の出来事を正しいとできない。
もちろん、百済王家に整合させた、神功・応神紀の記事もほとんど否定される。

考古学が50年遡上した意味は、歴史設定を50年引き上げろということである。
50卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/26(日) 22:39:23.34
>あっ、間違えた

唐松山はいつも間違えているぞ(笑)
51唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/26(日) 23:04:39.65
味鄒・儒禮までを引き下げて、訖解・奈勿と整合をはかる。
違うのか?
味鄒・儒禮と訖解・奈勿の間の世継ぎは成立しない。
味鄒・儒禮までを引き下げて、訖解・奈勿と整合をはかる。

考古学の言う纒向は、2世紀後半に無人の纒向に人が住み着き。
2世紀前半と中期に大型建物が築かれ、箸墓築造をもって、緩やかに衰退する。
52日本@名無史さん:2012/08/26(日) 23:07:50.23
痛い苦しいと朝鮮氏の断末魔 イキロ
53唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/26(日) 23:08:26.61
>纏向遺跡は通常、古墳時代前期前半(布留1)まで存続したとされるが、
>実際に掘ってる橋本輝彦氏によれば、布留1の土器は出るもののほとんどは布留0で、
>布留1は微々たるものだという。

布留0式には、箸墓を含む20年程度が考えられている。
だから、箸墓=崇神世では、垂仁・景行の居場所がない。
54日本@名無史さん:2012/08/26(日) 23:14:51.46
55日本@名無史さん:2012/08/26(日) 23:15:52.98
金  kum
金野 Kumya ぽい
56日本@名無史さん:2012/08/26(日) 23:39:29.62
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/wakan/wakan-chi/page.html?style=b&part=8&no=9

倭名
  久太羅 くたら
  之良木 しらき
  古末   こま

江原道本渉貊地
咸鏡道本高麗地
57唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/26(日) 23:59:06.79
>また、これに連なる資料の「阿達羅紀(224年)」「伐休紀(248年)」等の夫余も百済を指しています。

ネット朝鮮史とは、このように新羅本紀の古いところを奈勿麻立干に接合しようと書き換えたものじゃあないの?
新羅本紀の古いところを引き下げれば、文献上崇神は卑弥呼と重なる。
しかし、それ以前に、考古学は50年遡上してしまっている。
だから、崇神=卑弥呼では、纒向の説明ができない。
58日本@名無史さん:2012/08/27(月) 00:09:01.42
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%87%8E%E9%83%A1
朝鮮民主主義人民共和国 > 咸鏡南道 > 金野郡
金野郡(クミャぐん)

http://en.wikipedia.org/wiki/Kumya
Kumya is a county in South Hamgyong province, North Korea.

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/47/File-NKorea_county_map_2011.png
Kumya 安邊 Anbyon

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%BE%BA%E9%83%A1
安邊府 安辺郡 アンビョン

http://maps.google.co.jp/maps?q=39.545000,127.240000
Kumya 沸流水 航空写真でみてね

倭山→元山 Wonsan ?
59卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 08:41:19.44
>>54-58(57は除く)
だから和漢三才図会もWikiも間違いだと言っているのに。
パカだな、お前は。
60唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 12:06:40.38
367年(307)丁卯 赤土(赤兎)九月以康世女千康妻夫余太子吉须
372年壬申(水猿:妊娠)6月、基临帝崩
373年癸酉(K鸡:聖酉)十一月近肖古殂谨须立遣发亥吊之
奈勿王 7年[聖未383] 三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
奈勿王 8年[甲申384]夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之
奈勿王9年(木鷄:을유385)10월, 침류(枕流)가 졸(卒)하고 아우 진사(辰斯)가 섰다.

近仇首→368枕流誕生→384?阿花誕生。
枕流の誕生を368年として384年阿花誕生?早すぎる気はするが不可能ではない?
阿花が乳児の場合、辰斯が王位につくのは当然である。失礼にはあたらない。
失礼にあたるのは、阿花がもっと成長している場合である。

奈勿王 7年=323年神功49年(己巳二四九)倭臣熊彦=千熊長彦。
338年 神功六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
339年 神功六五年(乙酉二六五)百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。
王子阿花は、年少(15歳以下)であっても、乳児ではない。だから失礼にあたる。
この場合、百済王家は、書紀の干支を使用した差込記事となる。
61唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 12:48:15.95
阿花が乳児の場合、辰斯が王位につくのは当然である。失礼にはあたらない。
失礼にあたるのは、阿花がもっと成長している場合である。

そして、辰斯が王位につくのが何故貴国(倭国)に対して失礼なのか?
百済の建国は、330年ころには成立しているであろう。340年代には百済国はある。
であるならば、それ位後に関与した倭国に失礼なところは無い。
倭国に失礼がある場合を考えれば、百済建国に倭が関与した場合である。
323年神功49年領土分与。これが百済建国であれば、「辰斯奪立爲王」は完全にアウト。
倭国は肖古王に対して領土を分与したのであり、その世継ぎであれば失礼はない。
辰斯はそれを奪ったから失礼にあたり、殺されるのである。
62日本@名無史さん:2012/08/27(月) 17:50:45.82
またきむち語の掲示板のなかみ自動翻訳かけてからに貼ったりしているのね

373年癸酉(K鸡:聖酉) のはきむち語使いのひと鱈まちがって貼ってるしね

唐松山 ◆V0F34EbmQAのこて著しく評価堕ちちゃうような貼付けは止したほうがよいよ
63太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/27(月) 18:17:54.44
新羅本紀の古いところを引き下げれば、文献上崇神は卑弥呼と重なる。
しかし、それ以前に、考古学は50年遡上してしまっていない。
だから、崇神=卑弥呼と、纒向の説明は無関係である。

64唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 18:37:10.93
>きむち語使いのひと鱈まちがって貼ってるしね

そのキムチと歴史を1つにしないと、歴史にならない。
65卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 18:42:34.89
>>60-61
唐松山氏よ、阿花がいつ誕生したかは、どこかに書いてあるはずだから、調べれば分かるよ。

百済はもっとずっと早い時期に建国されてるよ。
<溫祚>改國號曰<伯濟> が西暦29年だ。
これは国号を改めたのであって、それ以前は百済だったのだろう。
だから西暦29年より早く建国されているのである。
66日本@名無史さん:2012/08/27(月) 18:48:58.65
アホくさ、ネットの朝鮮史なんて根拠のない妄想ばかりじゃないかw
67卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 18:50:47.27
いや、アホくさいのは南解次次雄だ(哄笑)
68日本@名無史さん:2012/08/27(月) 19:06:00.41
ダメだ・・・もう我慢の限界・・・なにこの糞スレ・・・・

もうね、金融工学を学んでる自分からすると馬鹿馬鹿しくて観てられないのね・・・
高卒とか文系の人は楽しめるかも知れないけど、自分は無理っすわ・・・

っつーことで落ちるわw あとは高卒&文系の諸君で楽しんでくれやノシ
69日本@名無史さん:2012/08/27(月) 19:16:45.96
>>64
唐松山 ◆V0F34EbmQAは また原文にめえとおさないで書いてるから

ミスで貼ってるところの理解ができていない

指摘してあげても無駄なんだな

これ ぶたになんちゃらとかゆうやつであろうて
70唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 19:26:44.20
近仇首307年結婚→308枕流誕生?→ 328年阿花誕生?。

奈勿王 7年=323年神功49年(己巳二四九)倭臣熊彦=千熊長彦。
338年 神功六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
339年 神功六五年(乙酉二六五)百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王
王子阿花が328年ころの生まれであれば、339年で”年少”と記録されても整合する。

奈勿王の引き上げになぜこだわるか?
奈勿麻立干 356~402 この数字では世継ぎが成立しない。だから、基臨泥師今などを引き下げて、世継ぎを成立させる。←これで「王子阿花年少」の説明ができなかった。
であれば、引き上げると「王子阿花年少」の説明ができる。
百済王家を引き上げると、だぶついた仁徳紀の説明ができ、書紀の編年ができる。
その場合、書紀の記事のほとんどが正しいと認識できるようになる。
だから、こだわるのである。

>ミスで貼ってるところの理解ができていない

(水猿:妊娠)←(水猿≠妊娠)ということね。
71唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 19:37:20.06
>百済はもっとずっと早い時期に建国されてるよ。

百済が国として魏・晋時代に成立していたか?
半島に存在するのは、馬韓人を王とする辰国と不耐濊だけだ。
だから、不耐濊=百済の前身。馬韓に馬韓王も存在しない。
不耐濊は、郡の下働きを生業とする。よって自分の意志では独立できない。
72唐松山 ◇V0F34EbmQAのまぬけ:2012/08/27(月) 19:45:51.17
373年癸酉(K鸡:聖酉)十一月近肖古殂谨须立遣发亥吊之


誤 373年癸酉(K鸡:聖酉)
正 (375)六年 豕(豕=乙亥) [訖解尼今紀]
正 (375)   木豕 (木豕=乙亥) [奈勿大聖神帝紀 月嬭神經曰]
<br>
<br>
誤 十一月 近肖古殂 谨须立 遣发亥吊之 ←自動翻訳で文字化け
正 十一月 近肖古殂 謹須立 遣發亥吊之 [訖解尼今紀]
正 十一月 近肖古殂 謹須立 遣發亥吊之 [奈勿大聖神帝紀 月嬭神經曰]
73卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 19:50:21.04
>>71
パカだな、唐松山氏は。
馬韓の中に伯済がちゃんと存在してるじゃないか。

卑弥呼の時代には馬韓はすでに伯済に制圧されてしまっているよ。
ところが東夷伝にはそのことが書かれていない。
だから東夷伝の記録はかなり古い時代の情報だと分かるんだよ。

ネット三国史には百済王記もあるから読んでごらんよ。
74卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 19:54:09.26
あっ、間違えた。百済王紀だ。

百済王記で検索しても出てこないから注意。
75唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 20:53:14.12
>ネット三国史

これが、時空をゆがめたものである事実に気づかねばならんのだよ。

年輪降水量

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi

新羅本紀の192年や後漢書の183,193年の冷夏凶作。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。
この時代は降水量が少ない、冷夏が予想される。つまり温暖化は雨量の増大、この反対の出来事である。
このグラフから、年輪年代が正しいことが解る。

卑弥呼の登場は、この凶作から、40年後の出来事である。
これが起こったのは、弥生後期後半であり、纒向に各地の土器が持ち込まれる直前。
そして、任那建国は崇神58年直後であり新羅209年の記事がこれにあたる。
76日本@名無史さん:2012/08/27(月) 20:53:17.17
BC58 金蛙喪妻欲迎柳花 聖子在腹不肯嫁之
    好人(柳花母)左勧 (屋)斗辰(河伯,柳花父)右請
    4月5日芻牟誕生

BC40 鄒牟19歳 辛巳 ■禮后(柳花妹,好人女,金蛙女)生@光明(類利)
BC36 東明 2年 乙酉 (卒本女王)召西奴生子A沸流
BC33 東明 5年 戊子 (卒本女王)召西奴生子B温祚(斗切)

BC19 光明元 壬寅 三月上命以B斗切改名B温祚
             四月上崩 @東宮即位 B温祚太子
             九月■禮太后生大行女■再思公主
BC17 甲辰 灌奴桂婁爲B温祚治
BC. 6 乙卯 七月 B温祚立柵于漢山 以■再思公主妻之
AD. 2 壬戌 九月 ■再思公主生B温祚子●多婁
AD. 8 戊辰 B温祚遷都漢山
AD29 己丑 B温祚改國號曰伯濟 以解婁為太輔 (解)婁解素之次子也
AD37 丁酉 冬 B温祚傳位●多婁
AD42 壬寅 九月 ●多婁献汗南故地而南下 遣兵伐新羅 以助●多婁


汗南の故地から南方に都の漢山があり、汗南故地を献してからにさらに南下

漢山はふつうに漢江があるところだろ
77唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 21:05:12.13
年輪降水量

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi

新羅本紀の192年や後漢書の183厳冬,193年の冷夏凶作。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。
この時代は降水量が少ない、冷夏が予想される。つまり温暖化は雨量の増大、この反対の出来事である。
このグラフから、年輪年代が正しいことが解る。

>馬韓はすでに伯済に制圧されてしまっているよ。

では、なぜ百済が扶余と記載されているのか?
そして、馬韓土器と百済土器に違いがある。
ネット三国史では、考古学まで書き換えられない。
78卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 21:08:07.51
妄想大好きエロパカ稗箕狐よ、漢山〈安圖〉と書いてあるだろが。
79日本@名無史さん:2012/08/27(月) 21:10:54.30
日本史の勉強がまったく進みません…教科書をよんでも流れが全然頭に入らないんです…

友達に相談したら「とりあえず一問一答をそこそこ覚えたら流れを理解してなくても京産ぐらいなら合格できる」と言われたんですが、流れを理解してなくても一問一答やったらそこそこの点数はとれるもんなんでしょうか?

ちなみに一問一答は東進の完全版のやつです
80日本@名無史さん:2012/08/27(月) 21:10:58.56
落書きのコレクションが大好物のひと 死にそうかも
81卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 21:17:11.88
>>77
>なぜ百済が扶余と記載されているのか? ←そんなことは知らん。百済も夫余だからだろうよ。
>馬韓土器と百済土器に違いがある。←どこがどう違うのか、あなたには分かるのか?
それにそもそもなぜこれが馬韓土器でこれが百済土器だと分かるのか。

とにかくあなたは余計な考古学知識がありすぎるから却って判断が狂っているのだよ。
考古学なんて、実にいいかげんな学問なのだ。
そんなものに立脚して論を立てるのは馬鹿げたことなのだよ。
82唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 21:17:31.46
http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001c.html
4〜5世紀の全羅南道・栄山江流域を中心とした地域に,百済に属さぬ独自の政治勢力(馬韓)
が存在したのではないかという議論は,最近の重要な研究 課題となってきている。

神功49年の半島占拠と領土分与は存在し、馬韓は倭の支配地だ。
だから、倭が分与した土地以外に百済は存在し得ないのである。
その馬韓を百済の要望により少しづつ分与するのであるが、
継体時代に倭が了承した以上の土地を領土とする。これに困ったのが金冠伽耶であり
541年、建国330年で新羅に降る。
83日本@名無史さん:2012/08/27(月) 21:17:45.21
安邊 安辺 アンビョン のところの裏側に北漢江の源流部があるからな

川下ればふつうに漢山にたどり着いちゃうよな

「こおくり」なんてどおでもエエみたいなかんじでさ

もれの興味があるのは「こま」の方だからな
84日本@名無史さん:2012/08/27(月) 21:23:48.91
唐松山っておばか

百済の王家のなかみにじゅうぶんに倭人の血がまざちゃってるんだから

べつに分けて政治勢力云々する必要とか無いよ
85日本@名無史さん:2012/08/27(月) 21:26:39.51
アンビョンのピラフとか喰いて
86卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 21:30:27.72
>>82
その辺にあったのは加耶だよ。
もとはソウル辺りは加耶とか新羅の版図だったのだ。
ネット三国史に書いてあるよ。

加耶というのは通説のような半島南岸部にあったのではない。
半島南岸部にあったのは浦上八国と呼ばれる国々だ。
加耶や金官はそれより北方にあったのだ。

>>83
もれはもれらしくもれた考察を続けてればいいよ。
87日本@名無史さん:2012/08/27(月) 21:32:30.42
伽耶は蔚山周辺なんだな
88唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 22:00:52.79
http://members3.jcom.home.ne.jp/kofun2-hp/kankkhyou.htm#kankkhyou
全羅南道光州広域市  栄山江流域 月桂洞1号墳
ここに、円筒埴輪がある。
それに対する見解は?
89日本@名無史さん:2012/08/27(月) 22:13:17.22
ただたんに 哆唎國守穂積臣押山 委意斯移麻岐弥 ののお里なんだろ
90唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 22:42:43.89
つまり、馬韓は倭の領土であり、百済の領土ではないと。
91日本@名無史さん:2012/08/27(月) 22:45:15.02
誰か、唐っぽとキムチを姥捨て山に捨ててきてくれ。
92卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 22:51:29.09
>>90
だからそんなところは馬韓ではないって。
その辺は浦上八国だよ。
卑弥呼や五王はそこらにいたかもしれないのだ。

馬韓は、百済に制圧されてからは、おそらく北方に退いているのだ。
遼寧省や吉林省の南部にね。高句麗や帯方郡のすぐ近くにあったのだ。
だから卑弥呼は馬韓の女王である可能性が最も高いのだよ。
93日本@名無史さん:2012/08/27(月) 22:51:56.56
穗積臣等之祖

故 邇藝速日命 娶登美毘古之妹 登美夜毘賣
生子 宇麻志麻遲命 【此者 物部連 穗積臣 婇臣祖也】

08.大倭根子日子國玖琉命 娶穗積臣等之祖 内色許男命 妹 内色許賣命
09.開化天皇即位前紀 母曰欝色謎命 穗積臣達祖欝色雄命之妹也

崇神天皇七年,垂仁天皇二五年 穗積臣遠祖大水口宿禰

13.若帶日子天皇 娶穗積臣等之祖 建忍山垂根之女 名弟財郎女

景行天皇四〇年 弟橘媛 穗積氏忍山宿禰之女也
景行天皇五一年 穗積氏忍山宿禰之女 弟橘媛

継体天皇六年  遣穗積臣押山 使於百済
継体天皇七年  穗積臣押山〈百済本記云 委意斯移麻岐弥〉

欽明天皇十六年 穗積磐弓臣
推古天皇八年  以穗積臣為副将軍〈 並闕名  〉
94日本@名無史さん:2012/08/27(月) 23:01:41.69
もうさ 全羅南道光州広域市のとこが卑彌呼さんのお里でエエんじゃに
95レス長たらし毘古:2012/08/27(月) 23:03:48.12
今日はおみあげがないので、通りすがり一言主。
白鳥伝説に関して。そう言えば天智天皇も(白鷺だったかな?ウロスマン)
鳥になっとるんよね。
皇族で、鳥になって飛んでった方々と言えば、ヤマトタケルさんと天智天皇
さんが有名ですね。
個人的には普通にこう思っています。「謎の失踪をなされた」「だがしかし
後継ぎは決めなければならない」「死んだと確認できていない」「死因不明
死体場所不明」「仮に殺人にて殺されたとしても犯人が特定できない」

こう言う条件を満たしている場合、文献上は「鳥になられた」と言う表現に
なってしまうんではにゃかろうかと、そう思っております。
96卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 23:09:19.07
>>93
稗箕狐よ、そんなデータを上げても誰も読まないのだ。
お前はそのデータから何を言いたいのだ。それを書かなきゃダメだよ。
ここの読者はそんなデータをいちいちじっくり読んで考察することなどしたくないのだ。
めんどくさいからな。

お前はいつもぼかした書き方をしているが、
お前が言いたいことが伝わっていると思わないほうがいいぞ。
いちいちじっくり考えないと何を言っているのか意味不明な文など、
誰も真剣に読まない。
唐松山の書き込みも、同じ意味で、真剣には読まれていない。
何が書かれているのかさえ分らないからだ。
とにかくもっと短刀直入に書け。まあお前のその性格では無理だろうが。
自己を韜晦して、文章も凝りに凝ったイミフな文を書いて、
自己をさらけ出すことがそんなに怖いのか。
97日本@名無史さん:2012/08/27(月) 23:13:47.24
記紀とかまともによんだことないひとが なんかごたくならべているなあ
98日本@名無史さん:2012/08/27(月) 23:15:34.50
ぽまいもほんとおばかだなあ ただたんにチラシの裏しているだけなのにさ
99卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 23:18:03.13
>>95
レス長たらし毘古君、全然、そんな理由では有馬温泉ですよ。
君らには絶対に分りませんですよ。
学者にも分りま千円ですよ。

私は、ある程度、分かっていますがね。
君らには教えることができないのでござんす。
秘儀というものは、ごく一部の、知的にも道徳的にも優秀な者にしか、
教えてはいけないのでござんす。
ここには、そんな奴は一人もいないのでござんす。
だから、教えるわけにはいかないのでござんす。
100唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 23:25:21.79
>もうさ 全羅南道光州広域市のとこが卑彌呼さんのお里でエエんじゃに

でもさ
景行が倭王であれば、九州筑紫の神夏磯媛が我之屬類であるから、
女王卑弥呼は、神夏磯媛になる。

書記には卑弥呼の候補としてこれ以外の名がない。
101卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/27(月) 23:26:43.69
>>97-98
いつもながら性格の悪そうな書き込みだな。
だからお前は好きになれない。

生意気さでは19歳の右に出る者はいないが、
自惚れの強さではお前の右に出る者はいない。
お前ほど高慢ちきな男は見たことがないよ。
102唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/27(月) 23:28:20.57
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
103日本@名無史さん:2012/08/27(月) 23:33:14.73
>>100
いいせんいってるじゃん

山門郡にいた卑彌呼のすえの血縁者の鏡の女王さんが

月読んで珠使いの干満詐欺とか実演するの上手なひめさまに

がっつしやられて滅ぼされた。
104レス長たらし毘古:2012/08/27(月) 23:40:05.32
さて、古事記ベースで考えた前出雲王朝の「その後の姿」はどうか?
今日はこれだけにしときましょうか。

@スサノウの宮=スガの宮=スガ=清⇒蘇我
A倭の五王時代に活躍した「橘」の一族⇒推古天皇も橘、聖徳太子も橘
B神功皇后の副官武内宿禰=蘇我の先祖
C崇神大王は、前出雲を文献上抹消しようとした建ハニ(&モモソ)陣営を
討ち破って王位着任

そう、前出雲の「亡霊」は、武内氏(&蘇我氏)を介して、古事記直前まで
脈々と受け継がれているのです。そして、その史実こそが、古事記の編纂者
によって大改造させられるのです。
105レス長たらし毘古:2012/08/27(月) 23:41:28.72
蘇我毛人が、「なぜ大王かのように振舞ったのか?」の謎が、ここで明らかに
なって来る。馬子&毛人&入鹿の時代の蘇我氏は、古事記が主張する程度の
「単なる臣下一族」とは言い切れなかった可能性が、当時はあったのかも
しれませんね。
なぜなら、もし前出雲王統をベースに考えた場合、上記の血脈を継ぐ蘇我
(の毛人)は、カナリのサラブレットになる可能性が浮上します。

そして、逆に古事記が、なぜその血脈を「サラブレット」としたくなかった
か?の理由も、ここから反証されて来ます。彼をサラブレットとした場合、
初期大和王権が、前出雲王権の「属国」であった暗黒の時代を、どうしても
表記せざるを得なくなります。つまり、初期大和王権が、「前出雲」の権威や
権力を、どこかの段階で併呑し凌駕した過程も、どうしても描かなければ
ならなくなります。

「神話の時代の正当な王位を継いでいる」としながらも、且つ「(一時期
でも)どこかの属国でもなかった」とするためには、前出雲そのものの多くの
部分がタブーでかつ不可避となります。

従って、前出雲の「神話部分」は、よりボリュームアップされ、初期大和の
前出雲への属国時代の「史実部分」は、単なる家系図のみとボリュームダウン
されて、古事記では表記されます。
106レス長たらし毘古:2012/08/27(月) 23:48:03.28
>>99
あ、長書き中にて、レス遅れて申し訳無い。

> 秘儀というものは、ごく一部の、知的にも道徳的にも優秀な者にしか、
教えてはいけないのでござんす。

ここだけ同感ですね。教えてはいけないと言うか、教えることが出来ない、
あるいは教えてもしょうがない、と言う感じにはなってしまうかとも思い
ます。こちらもこちらの秘儀までは伝えきれない以上、そちらがそちらの
秘儀までは明かせないと言う筋も理解はできます。深くまでは問いません。

もちろん、「鳥=謎の失踪の象徴説」は、あくまでも当方の直感的感想で
あって、「絶対そうだ」とまで主張する気もこちらにはありません。
107レス長たらし毘古:2012/08/27(月) 23:59:37.86
卑弥呼なる女性が韓半島まで持って行けるかどうか?に関しては、当方は
あまり知識もないので、語ることはあまりしないですね。ただ、当方が架説
する「倭人分布域」には、南韓も含まれ得るので、その意味では可能性は
全否定まではしません。

ただ、当方のベースはあくまでも「古事記」と「瀬戸内海近隣」ですが。
魏志倭人伝の読み解き上、どうしても「その範囲を超える」と言うケースが
可能であれば、それはそれで一説としては拝聴させて戴きます、拝。
108日本@名無史さん:2012/08/28(火) 00:22:28.67
多遲麻毛理
たぢま那の卑奴母離(鄙守=邑守)
たちばな

「常世國之登岐士玖能迦玖能木實 持參上侍」
 常世國之 つきくしのかぐのきみ
 常世國之 月支の迦具夜比賣命 (垂仁天皇の妃)

11.【垂仁】伊久米伊理毘古伊佐知命 又娶 大筒木垂根王之女 迦具夜比賣命

09.【開化】若倭根子日子大毘毘 娶 旦波之大縣主 名由碁理之女 竹野比賣
生御子 比古由牟須美命
     比古由牟須美王 之子 大筒木垂根王
                    大筒木垂根王之女 迦具夜比賣命


多遲麻毛理が迦具夜比賣命を常世國からつれて来たとすると

09.【開化】の血筋の人が常世國においでであった とゆうことにはなりますが
109レス長たらし毘古:2012/08/28(火) 00:29:16.23
さて、ここからは超妄想です。(妄想で締めと言うのも何ですがw)
・熊襲=熊をかぶる?
とした場合、「百襲」とは何か?
ツクヨミさん健在期には、ひょっとして「月襲」だったんじゃにゃかろーか?

そう、ツクヨミ失踪の正体こそが、スサノウを文献上消滅させようとして、
返り討ちにあった、モモソ毘売が崇めていた神話体系だったのでは?

モモソ ツクヨミ ヒミコ が、ここでまさにリンクするかのような超妄想。

モモソ伝説が怪事件と共に夜半の内に終焉するのも、ツクヨミ神がパッタリ
音沙汰無くなってしまうのも、ヒミコが難解に没するのも、ここで一致
するような気もします。

崇神大王が前出雲的スサノウ神話をヨイショするならば、「それに反する側」
は文献上可能な限り抹消したいものかもしれませんね。抹消されたツクヨミ
の代理として、スサノウ&大国主がピックアップされ(⇒それが古事記で
描かれている処の前出雲神話)、それを補完する為に九州アマテラスと伊勢
アマテラスは活用されます。(後にソレらが融合期)
(注:この場合、九州アマテラスか伊勢アマテラスのどちらかのオリジナルの
多くはツクヨミである可能性が浮上)

ツクヨミだけが知っている。イザナギの話も、タカミムスビの話も。だが、
ツクヨミだけにそれらを語らせてはならぬ。スサノウ信者とアマテラス信者
は、(当時)そう思ったのかもしれません。
蘇我氏も物部氏も、いや、聖徳太子の遣隋使時代に至るまでの初期大和王朝
は「夜にまつりごとを行っていた」と言うのも、この超妄想によって、自然に
説明が可能になってまいるのでございます。月見団子モグモグ。
110レス長たらし毘古:2012/08/28(火) 00:41:02.27
>>108
・橘=多遲麻毛理
・月支の迦具夜比賣命=筑紫のかぐや姫

ですね。そろそろお月見なので、こう言う筋も個人的には好きですね。
因幡の白兎に出て来るのも「兎」、月で踊っているのも「兎」、そして
宇佐神宮と「兎」。。兎さんだけが知っているのかもしれませんね。

前出雲時代、兎氏と和邇氏が対立していた、そこに出て来た大国主が仲裁
といった感じでしょうか。多分、このエピソードだけに限らず、前出雲神話
を完全否定したい側も、大国主だけは完全否定しきれなかった。完全否定
したらいろいろ諸問題が発生した。完全否定したくなかった。
こう考えると、スムーズに繋がる部分もまた多くなってきますね。

「あの」大国主さま「さえ」素直に国譲りに「応じてくださった」と、この様
な構図が、初期大和王権には必要だったのかもしれませんね。
111レス長たらし毘古:2012/08/28(火) 00:50:20.46
>>108
えと、象徴的すぎた言い方だったので、言い直ししときます。
当方は、開化側の「迦具夜比賣命」も、垂仁側の「迦具夜比賣命 」も、同一人
あるいは、同一位の二人、と想定します。

開化と垂仁がもし同一時代並行王朝なら、同一人となりますし、もし別時代
(1〜2世代を挟んだ)王朝時代なら、先代迦具夜比賣命と後継迦具夜比賣命と
こう言う感じになるかと思われます。
もし斜め並行なら、「同一人物」の可能性が高くなって来ると思われます。
(月の宮でカナリ長生きなされたと言うパターンね)可能は可能。
112レス長たらし毘古:2012/08/28(火) 01:16:13.58
筑紫(月)の兎さん、なぜ因幡にいらっしゃる?
ワニの背越えて、いらっしゃる。
でもそれじゃワニに襲われない?
そう、襲われたけど、大国主さんが助けてくれたんよ。

兎さんが、なぜ・どうやって筑紫⇒因幡と至ったか?がこれでスムーズに
解説できる。(と古事記編者は考えたことでしょう)
なぜなら、当時の古事記編者は、前出雲の版図を「中国地方のみ」と想定
しているからです。因幡の白兎のワニ渡りは、「想定される」前出雲の版図
の西はしから東はしへの「渡航=国替え」となり、ここに大国主さまの
介助(口添え)があれば、それは「充分に可能」となる構図。

もし、この想定を全肯定するなら、当時の中国地方の「周囲の海」はワニの
版図(制海域)となり、これも「その頃の西日本を語る古事記」と大きい矛盾
は発生しません。ただ、果たしてワニの海が、中国地方の日本海側か?
瀬戸内海側か?が不明なだけです。
豊玉伝説を信じると、これは瀬戸内海経由でも可能ですし、少名彦伝説を
信じるなら、これは日本海経由もけして不可能ではありません。

そして、流浪の民、因幡の白兎は、後日ふるさと宇佐の地を神格化させます。
宇佐に神社を建設。(但し、その時着任した氏族が因幡のウサギ氏と果たして
どんな関係であるのか?はまだまだ浅学の私には未詳ですが。。)
113日本@名無史さん:2012/08/28(火) 01:25:17.34
稲葉は委奴国と関係あるのかもしれん。
114日本@名無史さん:2012/08/28(火) 01:35:04.25
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=130.18572969688&latitude=33.573600419421

ここの稲葉には初期の古墳群があったりしたよ
115卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/28(火) 08:52:18.41
蘇我氏は天皇家から出ているのだから、天皇になってもおかしくないのである。
継体天皇だって、天皇家から出ているから、天皇になったのである。
天皇に対する考え方が、昔と今とは異なっていたかもしれないのであって、
そういうことを考えずに蘇我氏陰謀説とか藤原氏陰謀説を論じても無駄なのである。

あの金印は偽物であって、委奴国などという国は無かったのである。

すべて、通説の上に胡坐をかいて歴史を論じても、それは所詮無駄話なのである。
116日本@名無史さん:2012/08/28(火) 11:29:44.91
>継体天皇だって、天皇家から出ているから、天皇になったのである。
そんな話は信じるのかい?
117日本@名無史さん:2012/08/28(火) 13:09:59.29
>通説の上に胡坐をかいて歴史を論じても、それは所詮無駄話なのである

ネット挑戦しの上に胡坐をかいてる方に、そう言われましてもねえ・・
118日本@名無史さん:2012/08/28(火) 13:13:23.66
「ネット挑戦し」とは、じつは「ネット朝鮮史」のことなのである。
119唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/28(火) 17:44:14.29
>委奴国などという国は無かったのである。

そのかわり、倭奴国があった。
倭人伝 景初二年六月 倭女王遣大夫難米等詣郡求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏送詣京都
 其年十二月詔書報倭女王曰

謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。

つまり、魏は公孫氏と対峙中に、その南方韓へ使者を遣わして見聞する。この使者が渡海し、
倭奴国を訪れ、朝貢を促す。当然倭の領土の多くが参加するほうが魏にとっては都合がよい。
倭奴国には、後漢時代に朝貢し、「倭奴国王」を認められているという実績がある。
しかし、倭奴国は乱により疲弊し、一人で朝貢するほどの実力は失せている。
「腐っても鯛」の言葉が示すよう、倭国の頂点は倭奴国である、そこで、倭奴国は、朝貢に
協賛する勢力を集める。その最東端が邪馬台国だ。邪馬台国には崇神世に金管伽耶(狗邪
韓国)建国に協力した実績があり、その狗邪韓国から鉄の供給を受け、もっとも勢いがあ
るということは、魏使も調べて知っている。だから、邪馬台国が加わることは魏使の希望
でもあった。
こうして、景初3年12月 皇帝へのあいさつ。
倭女王曰制詔親魏倭王彌呼。←この部分で“ぬけ”があると思うがこれでもよい。
倭女王曰く:「詔に従い 親魏倭王卑弥呼参りました」。
つまり、後漢の承認した倭奴国王の位で、後漢から禅譲された魏に従う。と挨拶するの
である。
つまりここに、魏が女王卑弥呼に王位を授与をしていない。ただこの言葉がしるされてい
るということは、魏は、倭奴国王位継承の卑弥呼を“王”と認めたということである。
120卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/28(火) 19:34:26.71
卑弥呼の倭は大和ではないことだけは、ほぼ確かである。その理由は−

卑弥呼は最初の朝貢から生口を土産として連れて行っている。
生口が喜ばれることを知っているのである。
ところで、それ以前に生口を献上しているのは帥升だ。
だから卑弥呼の倭は帥升の倭だと思われる。

ところで、この帥升の倭を大和だと思う人はいまい。
それはちょうど倭奴国を大和だと思う人がいないのと同じだ。
だから卑弥呼の倭は大和ではない。

しかし私は倭奴国も帥升の倭も九州だとは思わない。
だから卑弥呼の倭も九州だとは思わないのである、私は。

話は変わるが、ピョンヤンよりソウルの方が美人が多い(笑)
121卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/28(火) 19:44:18.64
丸都がどこか分った。ちゃんと書いてあった。

<丸都城(今吉林)>
<丸都(吉林)>
<牛山(吉林小白山)>

故国原帝紀と山上大帝紀に書いてある。

話は変わるが、侏儒とはペンギンである(笑)
122日本@名無史さん:2012/08/28(火) 20:03:16.91
吉林て広いぞ
123日本@名無史さん:2012/08/28(火) 20:09:13.09
倭の中心とは瀬戸内東部だよ、もう常識ですな。
大体卑弥呼は南方系だしなw
124日本@名無史さん:2012/08/28(火) 20:23:15.09
唐松山氏の想定が一番倭国の状況に近いかもしれないな
但し、それを倭人伝に正確に記述しているとは思えないが
125卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/28(火) 21:18:52.92
生口については諸説あるが、捕虜のことだというのが有力な説の一つである。
卑弥呼が最初の朝貢で献上した生口というのは、おそらく公孫氏側の兵士である。
だから魏の皇帝は喜んだのだろう。
公孫氏側の兵士を捕虜に出来るのは、遼東半島近くにいた馬韓である。
日本ではそんなことはできない。

帥升が献上した百六十人の生口というのも、捕虜かもしれない。
その頃中国と敵対していた、満州か遼西あたりの民族を馬韓が捕虜にして、
献上したのかもしれない。
126日本@名無史さん:2012/08/28(火) 21:20:20.42
>>119
>邪馬台国には崇神世に金管伽耶(狗邪 韓国)建国に協力した実績があり、
 その狗邪韓国から鉄の供給を受け、もっとも勢いがある。

【 奉汝所獻男生口四人・女生口六人・斑布二匹二 】
三十カ国中、最低だろ?

間抜けな田舎国家邪馬台国は、半島戦争中も知らず恒例の御歳暮を届けに行った。 
捕らえられた難升米は、尋問を受ける。
ここから、大月氏に似合うフィクション邪馬台国ストーリーが始まった。
犯人は、仲達だろ?
127日本@名無史さん:2012/08/28(火) 21:25:15.37
生口って技術を持った職人さんじゃないの?
品物だけをもらうより作る方法も得たほうが嬉しいだろ
現在の支那を見ても、作る方法を得るためにスパイ・美人局・言いがかりによる技術移転、あらゆる方法で作る方法を得ようとしてる
これが支那人が生まれ持った習性なんだろう
128日本@名無史さん:2012/08/28(火) 21:26:37.70
倭「なんなら呉側についてもいいだぜ?」
129日本@名無史さん:2012/08/28(火) 21:31:53.06
ちなみに刀伊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%80%E4%BC%8A%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

>当時の女真は農耕の習慣を持っておらず、代わりに農耕民族を拉致して自己の勢力圏内で農耕に従事させて食糧を確保していたとも言われている

現在の支那人の主流は満州系だろうし、拉致して奴隷として生産活動させるのが奴らの常套手段なんだろう
130唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/28(火) 21:45:02.40
>捕らえられた難升米は、尋問を受ける。

まあ あわてるな。

使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)大倭(大和)は女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、伊都国に置いた如刺史
が監督する。諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、

ホ38300 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは
ツクシむけ ヒメコトシソヨ ヤマトヒメ コトシモモヤツ よろこびて ヨハヒいたれば
ワレたりぬ わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつし つかえしむ
131日本@名無史さん:2012/08/28(火) 21:54:44.76
三國志魏書 濊伝
「其邑落相侵犯,輒相罰責生口牛馬,名之為責禍」

三國志魏書 倭人伝
「若行者吉善,共顧其生口財物」

生口は三國志では奴隷だろうね
132唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/28(火) 21:58:30.37
倭女王遣大夫難米等詣郡求詣天子朝獻

難升米は女王配下の人間だ。理解できるだろ?
ところが、この名前を書紀は何と記している?
〈魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝獻。太守■夏遣使將送詣京都也。〉
難斗米だ。
升と斗は、筆運びが似ている。だから、間違えやすい。
そこで、“難斗米”を読むと、“ナトベ”になる。
もちろん、“難のトベ”ということだ。
どこに居住したか名前から判断できるだろ。
133日本@名無史さん:2012/08/28(火) 21:58:51.56
朝鮮半島では生産技術を持った人は中国様に連行されて生産奴隷にされてしまうから、職人になるのを避ける文化が生まれたんかな?
134日本@名無史さん:2012/08/28(火) 22:13:55.15

   難升米     なの しこめ ♂
大夫難升米 おお なの しこめ ♂
  倭難升米   いな の しこめ ♂
135日本@名無史さん:2012/08/28(火) 22:15:17.56
136日本@名無史さん:2012/08/28(火) 22:19:38.61

   難升米     なだ の しこめ ♂
大夫難升米 おお なだ の しこめ ♂
  倭難升米   いなだ の しこめ ♂
137日本@名無史さん:2012/08/28(火) 22:20:08.48
日本書紀は魏志を引用してるんだから、難斗米は引用ミスだろ。

もし書紀編者が「難升米」ではなく「難斗米」が正しいとする依拠文献があるのなら、
当然それをこそ日本書紀に載せてるだろ。自分たちの古い史料を誇るように。
138日本@名無史さん:2012/08/28(火) 22:24:44.10
1斗=10升 10倍…   大役を果たして偉くなったのかな
139唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/28(火) 22:29:56.26
>日本書紀は魏志を引用してるんだから、難斗米は引用ミスだろ。

そうかな?
とりあえず、書紀が魏志を引用したのは、書記編纂時である。
であれば、より原文に近いとも考えることができる。
例えば、
魏志:南至邪馬壹【臺】國 女王之所都
北史:,至邪馬臺國,即倭王所都。

この違いがどこで発生したか?
140唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/28(火) 22:43:38.16
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
〈魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝獻。太守■夏遣使將送詣京都也。〉
同じ文字を記したはずなのに 景初二年六月≠景初三年六月。

景初二年は、否定され、景初三年が使われるのが普通である。
つまり、書紀の方が正確?
141日本@名無史さん:2012/08/28(火) 22:50:09.85
日本の古代史は、邪馬台国論争が解決しなうと、先に進まないんだよ。
厳密にいえば、商業的な邪馬台国九州説が邪魔して
先に進まないと言っても良い。
142日本@名無史さん:2012/08/28(火) 22:51:42.11
>>139
現在残る史料でも、*魏志には*「邪馬壹国」となってるよ
北史には確かに「邪馬臺国」とあるが

書紀の編者が引用したのは「魏志」
143唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/28(火) 22:55:15.51
北史 倭國 続き
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。
倭人伝 正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜
金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。

正始元年、梯儁等は、詔書印綬をささげて倭国を詣でる。
仮の倭王(倭王位授与前)に拜し、詔書とその他を賜う。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
倭王は、使いを遣わし、“倭王”に詔してくれた恩に答えると感謝の意を表す。

つまり、別人であるからその後の記事に双方が登場するのである。

あとは、これらを書紀がどう表現しているか。
それが昨日の 神夏磯媛は我之屬類。なのである
本当は、卑弥呼の死も男王の死も記載されてはいるが、漢字変換に失敗して記事の中に
埋没してしまっている。
144日本@名無史さん:2012/08/28(火) 22:55:42.49
たとえば、製鉄はいつから始まったか。
九州の状況を見ると、弥生時代から始まっていたと解釈しても
良いと思われる。
しかし、畿内説にとっては都合が悪いので、製鉄の開始はずっと
遅いものと解釈する。
こういうようなものが多い。
145日本@名無史さん:2012/08/28(火) 23:14:46.21
製鉄が弥生時代から始まっていたなら、広島あたりの方が早かろうね
146唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/28(火) 23:19:46.31
>製鉄はいつから始まったか。

古墳に副葬された鉄器は、すべて半島からもたらされたものである。
神功前紀 秋九月庚午朔己卯。令諸國集船舶練兵甲。時軍卒難集。
神功前紀 冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。 新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
神功四七年(丁卯二四七)四月百濟王使久■。彌州流。莫古。令朝貢。時新羅國調使與久■共詣。

渡海が縁で、新羅は調を納めるようになる。
その納められた調に大量の鉄器がある。
だから、半島から鉄が入らなくなるまで製鉄はない。
鉄が入らなくなったのは、欽明天皇二年(五四一)四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
なのである。
147日本@名無史さん:2012/08/28(火) 23:21:52.56
>>141
>厳密にいえば、商業的な邪馬台国九州説が邪魔して先に進まないと言っても良い。

いや、別に。数あるジャワとか沖縄とかと同列の弱小説だから、邪魔にもならん。
148日本@名無史さん:2012/08/28(火) 23:31:36.32
製鉄が始まるのは、高温焼結炉を使えるようになった、
須恵器伝来以降のことだろう。

ただし、温度コントロールが出来ればそれで良いということではなく、
還元ガスコントロールまで扱う技術が必要なので、

製鉄職人も連れてくる必要があるだろう。

6世紀以降と思われるが、糸島半島には、たたらではなく、
高炉の原型となる連続製鉄施設が発掘されている。
149日本@名無史さん:2012/08/28(火) 23:48:55.93
>>148
畿内説のいうことなんか信じられんわ。
その場その場のご都合主義だからな。
箸墓はどうなったんだよ。三角縁神獣鏡はどうなったんだよ。
150日本@名無史さん:2012/08/28(火) 23:56:07.29
吉野ヶ里遺跡が邪馬台国ではないかと話題になって、畿内説の考古学者も
特に異論はなかったようだったが、しばらくして纏向遺跡を卑弥呼時代に
もって来た。当然、吉野ヶ里遺跡は卑弥呼時代の前になる。

畿内説の人は、これを出版業界やマスコミなどを巻き込んで宣伝しまくった。
そのエネルギーにはあきれたな。そこまでやるかと思った。
畿内説というのは、そういう説だと思う。宣伝しまくることで成り立っている。
151日本@名無史さん:2012/08/28(火) 23:57:43.44
現在の福岡市周辺の筑紫国の、半島からの鉄の輸入は
当然博多湾と糸島半島であろう。

熊本の肥後国は、肥前国を経由して、唐津松浦からだろう。
しかし、鳥栖周辺など、肥前国の東側は、筑紫国だった形跡がある。

ひょっとしたら、以前は長崎をぐるっと回った航路で鉄を輸入していたが、
輸入に有利な松浦から肥後までの鉄ルートを確保するために、
鳥栖から佐賀、松浦の肥前国を「獲った」のかもしれない。
152日本@名無史さん:2012/08/29(水) 00:01:16.68
>>149
ファビョるなよ、お里が知れるぞw
153唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/29(水) 00:11:46.01
>しばらくして纏向遺跡を卑弥呼時代にもって来た。

なぜ持ってきたのかわかっていない。
新羅本紀に書紀の記事を合わせると
崇神天皇 189年〜216年  五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応。
垂仁天皇 217年〜239年 239年邪馬台国官伊支馬
景行天皇 240年〜261年 箸墓は箸陵(263年)。
成務天皇 262年〜265年 46年伸ばす 262〜311
仲哀天皇 266年〜274年 312〜320
神功皇后 275年〜343年 321〜389
応神天皇 344年〜384年 390〜430
仁徳天皇 313年〜399年 359〜445 神功三九年大歳を元年とする。
履中  400〜  405年兄王は前年帯方界での行方不明。
反正  406〜
允恭  412〜  413年倭、高句麗が東晋へ朝貢その翌年が新羅の医者。
安康  454〜
雄略  457〜  嶋王は動かない。

10奈解泥師今196~230 ・11助賁尼師今230~247 ・12沾解泥師今247~261 ・13味鄒泥師今262~284
14儒禮泥師今284~298 ・15基臨泥師今298~310
16訖解泥師今310~356奈解王の孫。母は助賁王の娘命元夫人昔氏。
17奈勿麻立干356~402味鄒王の甥であり婿。母は休禮夫人金氏。妃は味鄒王の娘保反夫人金氏。

成務・仲哀の世継ぎは成立しない。
味鄒・儒禮と訖解・奈勿の間の世継ぎは成立しない。
しかし、新羅192年・209年と奈勿=神功=百済王家は整合する。

この分断された歴史の早いほうが正しいと認定されたのだ。
だから、昨日書き込んだ 神功六五年 百濟枕流王薨。王子阿花年少。でも書記の記事を正しいとするためには
奈勿・百済王家を引き上げる必要があるというのだ。
154太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/29(水) 00:21:25.85
>崇神天皇 189年〜216年 ・・・←大ウソ 空年は無い。

崇神元年 崇神天皇 即位:紀
崇神2年 中山神社 この年 創建(埼玉県)
崇神3年 磯城宮に遷:紀
崇神4年 天皇 天下経綸の詔:紀
崇神5年 疾疫 民多く死 :紀
崇神6年 日神を倭笠縫に祀る:紀
崇神7年 天皇 神浅茅原行幸 卜事:紀
崇神8年 大田々根子に大神を祭らしむ:紀
崇神9年 天皇夢で墨坂神等を祠る:紀
崇神10年 群卿を四方に派遣:紀
崇神11年 四道将軍戎夷平定を奏す:紀
崇神12年 調役の詔:紀
崇神13年 生石神社 創建(兵庫県)
崇神14年 9月1日 野代宮で奉斎(三重県):倭姫命世記
崇神15年 阿陀比売神社 創建(奈良県)
崇神17年 始て船舶を造る:紀
崇神18年 国造神社 創建(阿蘇市)
崇神19年 前年から庶万饒いを楽しむ:大成経
崇神20年 一月 善の詔:大成経
崇神21年 本年から21年間 無事:大成経
崇神26年 豊城入彦 誕生:ホツマ
崇神29年 垂仁天皇 誕生:紀
崇神30年 養父神社 創建(兵庫県)
155太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/29(水) 00:22:45.82
>>154 続き 空年は大ウソ

崇神38年 チチツク倭姫 誕生;ホツマ
崇神39年 日神 遷座:籠神社略記
崇神40年 千代気根 誕生:ホツマ
崇神41年 英彦山神宮 社殿完成(九州)
崇神43年 磯城厳橿本宮日神を祀る 山口坐神社(天理)
崇神48年 夢見で活目尊を立太子:紀
崇神49年 泉神社 香色雄命 勅命にて鎮祭(茨城県)
崇神50年 大沢神社 相殿神を合祀
崇神51年 日前社遷座(和歌山県)
崇神53年 越前の大彦大臣 明星天子の夢見:嶋廻縁起
崇神54年 穴山門神社 創建(岡山県)
崇神56年 吉志部神社 瑞籬宮から奉遷(紫金山付近)
崇神58年 崇神天皇 ケヒ行幸:ホツマ
崇神59年 崇神49年から本年まで豊饒:大成経
崇神60年 天皇 出雲神宝を見んと欲す:紀
崇神61年 玉置神社 創建(奈良県)
崇神62年 農事を勧む:紀
崇神63年 来年まで市も寛に楽しき:大成経
崇神64年 伊賀隠市守宮 遷幸:倭姫命世記
崇神65年 熊野本宮 社殿創立:皇年代略記
崇神66年 伊賀穴穂宮に遷 :倭姫命世記
崇神67年 熊野奥照神社 勧請(弘前市)
崇神68年 崇神天皇 崩御:紀
156太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/29(水) 00:23:39.99
(崇神)五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応せず。
157日本@名無史さん:2012/08/29(水) 08:02:48.87
古代の女王♀と言えば、西のクレオパトラに、東の卑弥呼。

クレオパトラはエリザベス・テーラーのイメージが強いらしいけど、
卑弥呼は荒川静香のイメージ。
158卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 08:53:56.24
ネット三国史を読んでいない奴は物を識らないから困るな。
古代の満州朝鮮は女王がゴロゴロいたのだ。
女王がいなかったのは高句麗と百済くらいなものだ。
それ以外はほとんど女王がいた。
とくに加耶などは女王ばかりだ。
新羅も表向きは男王だが、政治は王妃に任せていた。
南韓の国々は女系国家だったようだ。
北方でも高句麗以外は女王がごろごろいた。

史書を見ると日本は勇猛と書かれているが、
平安朝のなよなよした女性的時代を現出させているわけで、
南韓と同じような女性的国家だった一面もある。
新羅などは日本の歌会のような行事を早くから行っているわけで、
日本は、われわれの思っている以上に新羅的国家である。あるいは、
新羅はわれわれの想像以上に日本的国家である。
159日本@名無史さん:2012/08/29(水) 08:57:30.60
三国史記とかどうでもいいんだよ
朝鮮がどうしたの?ぼく?
160日本@名無史さん:2012/08/29(水) 08:59:53.26
>女王がいなかったのは高句麗と百済くらいなものだ

朝鮮男は文盲だからなかみちゃんと読めていないよな

こうゆう嘘のこと書くとと軽蔑されるわな
161卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 09:13:03.53
>>160
159のような馬鹿はどうでもいい。
稗箕狐よ、召西奴は短期間女王だった。しかしそれだけだ。
他に高句麗と百済で女王がいたか?

尤も私もざっと読んだだけだから詳しいことは記憶していないがな。
これから、めんどくさいが、最初からじっくりと読み直してみようと思っているところだ。
162卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 09:20:13.48
>>159
この男がたぶん、おこちゃまかよ、と書いた低能だな。
緑の印字の名無しの中にひとり低能のゴロツキがいると思っていたが、
それがこいつだ。
163日本@名無史さん:2012/08/29(水) 09:20:18.94
161のお前がどうでもいいwwwwwww
笑うとこかwwwwwwwwww
>稗箕狐よ、召西奴は短期間女王だった。
おまえw年代とか分からんのかwwwwwwwwww
164卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 09:31:12.70
>>163
私が間違えたのは召西奴は一時期卒本の女王だったということだ。
年代など関係ない。

ということはお前もネット三国史を読んでいるのだな。
まあ馬鹿でも読まないより読むほうがいい。
がんばって読め、低能。
165日本@名無史さん:2012/08/29(水) 09:33:35.49
>>163
もう相手にするな
逆に笑われるから
166日本@名無史さん:2012/08/29(水) 09:36:10.17
ネット〜なんて何の根拠もない工作員チームの捏造史だしw
167日本@名無史さん:2012/08/29(水) 09:39:09.15
>>164
>年代など関係ない。
おまえ凄いなw三国史とか斜め読みだwボケwなんの価値もないw
168卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 09:46:15.92
>>167
お前の馬鹿さの方が凄いw
169卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 09:50:58.92
>>165-167
がド低能であることは分った。
で、これがここの連中の平均レベルなのだ。
伊作も19才も唐松も太国も稗箕狐も、
その他名前を入れて書いている連中はこれより少しはましだ。
上の連中は馬鹿である上にゴロツキだ。
170日本@名無史さん:2012/08/29(水) 09:58:29.79
>卑弥呼は朝鮮にいた

多分、この人は凄く頭がいいんでしょうね
朝鮮人は素晴らしいですね
ところで、属国時代の文献が多いのですが?どう思われますか?
171日本@名無史さん:2012/08/29(水) 10:08:06.13
まだですか?朝鮮さん
172唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/29(水) 14:58:41.24
>ネット〜なんて何の根拠もない工作員チームの捏造史だしw

まあその通りではあるが、そのおかげで
百済王家も移動できることが認識できたんだから感謝しなきゃ。
173唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/29(水) 16:46:07.06
神功皇后 275年〜343年 321〜389。46年加算すると百済王家が整合する
新羅本紀 味鄒・儒禮と訖解・奈勿の間の世継ぎは成立しない。

これまでの歴史は、奈勿=肖古王=神功紀の設定で語られてきた。
その間に考古学は、50年遡上した。
そしていま、ネット朝鮮史が新羅本紀を書き換えて、味鄒・儒禮と訖解・奈勿を整合させる。
肖古王=神功紀の設定も遡上しないと、考古学と整合しない。
であるならば、新羅本紀は、肖古王、奈勿とともに遡上させて味鄒・儒禮につなぐのが正解である。
174日本@名無史さん:2012/08/29(水) 18:50:34.41
>>161
土人の女酋長さんたちのことを

なびかせたり虜にしたりしてからに

嫁はんにしちゃうとシマが増えたりするのが

高句麗の先祖のところだからなあ
175日本@名無史さん:2012/08/29(水) 18:54:18.17
とりわけ まとめてどーんとゆうやつは これかな

(AD51 建武27 大武神帝)二十四年辛亥 三月
扶余太師王文卒 上遣○○○○定其亂
而擒其女主高耶為后 東扶余47國皆為國土
自解夫婁歴金蛙帶素高耶四世百十年 而國除 中間帶弗竊位19年
176日本@名無史さん:2012/08/29(水) 19:09:32.43
高耶 とかの検出したかったら こおゆうスキルも使えたりしますよ

鯖さんおばかだからきれちゃうでそね 貼ってみてみたらあ

http://www.google.co.jp/search?q="高耶"+site:http://hys5005.tistory.com
177日本@名無史さん:2012/08/29(水) 20:01:00.47
嫁のリストが支配域のリストとおおきくかぶったりしているんだよね

つまりは

高句麗の先祖のところは

なびかせたり虜にしたりしてからに

嫁はんにしちゃった女王さんがごろごろおったとゆうことにはなるがな
178卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 21:50:21.84
>>170
属国時代とは日本統治時代のことかな?
桓檀古記が出たのはその時代のことだが、
民族意識が高まったので、民族の誇りを取り戻すために古文献を集めたのだろう。
偽書とされる根拠もたわいのないものだ。平等という語が使われている、とか。
平等という言葉なんて古くからあったに相違ないのだ。
阿羅、阿蘇山などの地理が支離滅裂だが、それが却って偽書でない証拠である。
近代に書かれたものなら、阿羅や阿蘇山の位置について間違うはずはないからだ。

揆園史話が偽書ではないことは本文を読めば分かる。
ネット三国史も偽書ではない。後世の人間の想像力で書けるような代物ではない。
179卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 21:59:23.18
君らが桓檀古記やネット三国史を読まないのは、朝鮮説に興味がないからである。
私だって、朝鮮説でないなら、そんなものは読もうとは思わない。
私は、山形明郷や浜名寛祐を読んで、朝鮮説に興味があるから読むのである。

パソコンのある時代に生まれて、ネットでしか読めない朝鮮古文献が公開されているのに、
それを読まないのは、惜しいことである。
宣長や白石や、山形明郷や浜名寛祐が生きていたら、競うようにして読むに違いないのだ。
180唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/29(水) 22:13:50.77
>朝鮮古文献が公開されているのに、

これと、ネット三国史では大いに違うだろ。
まあその違いが面白いんだが、君はだまされるタイプだから最初に注意
したんだが、
完全にミイラ取りがミイラになった。
181卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/29(水) 22:18:56.67
私が想像力と称しているのは、別にたいしたことではないのだ。
満州朝鮮に檀君の時代があったと聞いて、へえー、そうなのか、と思えることである。
バッカじゃねーか、そんなもんあるわきゃねーだろwww
などと思う人間は想像力がないのだ。

津田左右吉というのは、おそらく理系的な人間だったのである。
理性的、合理的な判断力に優れた、スマートでカッコイイ学者だったのだ。
しかし古代史学に必要なのは想像力である。
大昔のことは、どうせ分らないのだから、賢しらな理知を捨てて信じてみようという態度である。

偽書だからという理由で読まない人間より、
ホツマや九鬼文書を読んでいる唐松や太国の方が、古代史学には向いているのである。
182日本@名無史さん:2012/08/29(水) 22:22:05.05
唐松山 ◆V0F34EbmQA は

原文まともに読んでいないで勝手なこと逝ってるだけだからあぼ〜んしてあげよう
183唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/29(水) 22:53:35.00
>原文まともに読んでいないで勝手なこと逝ってるだけだからあぼ〜んしてあげよう

ありがと
なぜネット朝鮮史がダメかというと、それは百済王家に合わせているだけだから
考古学とは合致しない、だからダメなんだ。
以前、ラジオ氏(ネット朝鮮史の張本人)との会話を乗せただろ。
覚えていなきゃあそれでいいんだが、
百済王家に合わせれば、書紀の記事は全て捏造記事として抹殺できる。
これ以上の思考のある読み物ではない。
新羅本紀に書紀の記事を合わせると
崇神天皇 189年〜216年  五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応。
垂仁天皇 217年〜239年 239年邪馬台国官伊支馬
景行天皇 240年〜261年 箸墓は箸陵(263年)。
成務天皇 262年〜265年 46年加算する 262〜311
仲哀天皇 266年〜274年 312〜320
神功皇后 275年〜343年 321〜389。46年加算すると百済王家が整合する
応神天皇 344年〜384年 390〜430
仁徳天皇 313年〜399年 359〜445 神功三九年大歳を元年とする。
履中  400〜  405年兄王は前年帯方界での行方不明。 反正  406〜

百済王家に歴史を合わせて100年議論して卑弥呼が見つかったか?
考古学はとっくに見捨てた数字だ。
184唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/29(水) 23:04:39.16
神功皇后321〜389
この数字で渡海はあるか? ありませ〜ん。ハイ正解
369年=七支刀 16日丙午の存在しない年←存在しない日付を刻む馬鹿がいるか?
は〜い百済王家が刻ませました。
だから、百済王家もあぼ〜んです。
185日本@名無史さん:2012/08/29(水) 23:04:59.57
図面を書かされた779mの山頂のポイントに行ってみると、
そこにキッチリと卑弥呼おばさんのお墓はありました。
本格的な発掘作業に近々に着手します。
 論争にも終止符のようです。
http://saisentannomizude-zennojyunkanwo.blogzine.jp/kagomekagome/2012/08/post_488e.html
186レス長たらし毘古:2012/08/29(水) 23:11:37.17
さて、今宵もできれば短くと行きたいものですが、どうなりますかはてさて。

以前、「保食神を誰が殺したか?」に関して、ツッコミ等々ありましたので
素直に読み返して来ました。結果は以下のとおりです。

【古事記】スサノウ自身が保食神を「無礼」と感じ殺害。
【日本書紀】アマテラスが保食神を「無礼」と感じ、ツクヨミに殺害させた。

そうですね。明らかに「広がって」しまうのです。この両書の食い違い。
この食い違いは、両書の製作意図と、時代性によって「生じた矛盾」としか
思い様がありません。
古事記当時では、「スサノウが保食神を殺した」とあたりまえのように思われ
ていたのが、なぜ日本書紀の頃には「アマテラスがツクヨミに殺させた」と
ならねばならなかったのか?ここが争点です。

まあ、これは広がりすぎるのと、以前に当方自身がここにてある程度の見解
(や妄想w)を示しているので、今回はとりたてて広げません。
さて、今回は「ツクヨミ神話体系架説」について、少々砂上の楼閣を構築して
みたいと思います。
187日本@名無史さん:2012/08/29(水) 23:12:17.08
唐松山の芸風が、少し変わったようである。
そう思うのは、私だけであろうか
188レス長たらし毘古:2012/08/29(水) 23:26:36.03
今回の架説のキーワードは、先述した、ツクヨミ・モモソ・因幡の白兎です。
モモソ時代のツクヨミ神話の共有文化範囲に関する架説です。

これは先述した、「前出雲」の時代と並立か、少し前の時代に位置します。
古事記における、出雲大国主伝説〜開化大王までの間を、当方架説においては
「前出雲の時代」と架設しているので、それと同じ時期かそれより少し前と
言う感じで想定していただければわかりやすいでしょう。

この「ツクヨミ文化範囲」を「有った」と架説した場合、ツキ・ツクヨミ・
モモソ・因幡の白兎によって、その地理的範囲はどのように設定できるか?
を妄想してみます。すると、以下のようになります。

【範囲架説】北九州〜四国(&瀬戸内海)〜因幡

と言う、まるで前出雲を包囲するかの如き「三日月型」とあいなります。
もし、この範囲に、ある程度の権威形式や権力構造の共有が仮にある場合、
ツクヨミ文化圏とスサノウ文化圏は、競合や対立する可能性は非常に高く、
そして対立が高じた場合は、「どちらかがどちらかを消し去る」可能性も
けして低くはなさそうな地理条件と言えましょう。

それが起きたのが、モモソ時代の建ハニヤス事件。と当方は架説します。
この時の結果勝者は、前出雲側のスサノウを信奉するグループと手を組んだ
近畿在中のアマテラスの子孫、これが即ち崇神大王、とこうなります。
189唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/29(水) 23:41:52.19
>そう思うのは、私だけであろうか

そう君だけ
じつは、私にとって卑弥呼は解決済み。ただ、その編年を誰も信じない。
だから、そちらに力を入れていたのであるが、もともと信じられていない編年であるから
誰もついてこれない。
だから、卑弥呼から説明するのである。そして、欺瞞ネット朝鮮史が出てきたので
こちらの説明もしやすくなっている。
190日本@名無史さん:2012/08/29(水) 23:48:25.89
さすが唐松山さんにも羞恥心とゆうものがあるだろうから

自動翻訳で化けた変なの貼るのだけはやめにしたのでわ
191レス長たらし毘古:2012/08/29(水) 23:49:08.66
つまり、時系列でこれを並べると、以下のようになります。

◎まず、前出雲統一国家が西日本で最大範囲となる
@神話の如き出雲の国譲り(←天照が後ろ盾で、月読がメイン)
Aスサノウ神話GPとアマテラス神話GPと月読神話GPがこもごも戦い
Bいわゆる「久しく主なし」状態
Cアマテラス神話GPが月読神話GPをバックアップしてモモソ共立
Dスサノウ神話GPがアマテラス神話GPと組んで、モモソの子孫を排除
E崇神大王が大王位着任

古事記では、この上記@が月読の関連がほとんど表記されず、あくまでも
アマテラス主催で前出雲に国譲りを迫ったかのように描かれたために、
タケミカヅチ・タケミナカタ等々、いろいろな「不明な血筋の神族」が
登場してしまいます。

古事記では、この上記Aが神武未然の時代として描かれ、いわゆる
神話的逸話群のみの時代、として描かれます。

そして、古事記で上記Bは、神武〜開化までの時代がそれに相当し、そして
いよいよ上記Cの時代に、魏晋の外交官とモモソは九州東北部で伝説の
「外交会談」を実施します。

上記DEの時代に、モモソ外交は否定され、モモソの子孫や勢力団体は、
西日本の中央政治からは遠ざけられます。この時に、「ツクヨミ」は、完全に
口承神話から「抹消」されます。
192唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/29(水) 23:54:54.14
Name:K-Mat
>阿達羅・伐休などを引き下げて奈勿に繋ぐ。
訖解・奈勿とそれ以前の王朝と世継ぎが繋がらない。だから正しい年代でつなぐ必要がある。ここまでは、正しい。
そして、文献の時代を動かすには、考古学の知見に従う。「伐休紀(248年)」←考古学の知見に従っていない。

 そもそも三国史記も三国遺事も記紀も、全て紀年は延長されていて、ある時期以前は信頼出来ない。だから、中国史書と一致する部分は信頼性がある。

 その例が百済の近肖古王、近仇首王。

新羅本紀(「奈勿大圣神帝紀」や一連の史書も含む)の紀年は奈勿王や次の訥祇麻立干(の即位年次)についてさえ疑わしい。(pdfの通り)

 唐松山氏は、奈勿尼師今を60年遡上させると言うが、そうしたら次代の訥祇麻立干以降に繋がらない。だから、訥祇麻立干以降の在位年次をわざと載せていない。

K-Mat氏はラジオ氏の太鼓持ち。
193レス長たらし毘古:2012/08/30(木) 00:00:30.17
古事記の「保食神を殺したのはスサノウだ」とする主張と、日本書紀の
「保食神を殺したのはアマテラスの命を受けたツクヨミだ」とする主張の
食い違いは、この神話的混乱期を解明し様とアプローチした両者が、それぞれ
その「基礎資料」とした物が、この当時の「真反対の勢力の伝説」だった
からではなかろうか?
(してみると、タケミカヅチ・タケミナカタ等々、出雲の国譲りにてその所属
神話体系の不明な神々は、ひょっとしてツクヨミ神話体系に所属してた?
あるいは、ツクヨミ神話体系が無いと充分に説明がしきれない神々だったの
かもね?)

また、出雲の国譲りの首謀者が、ツクヨミ系であった場合、その後モモソが
スサノウ系神話体系の根絶を図ろうとしたのも、それをまた返り討ちされて
逆にツクヨミ系神話体系の方が崇神大王によって根絶されたのも、この流れも
理も筋も通る気がしてきます。

保食神殺しの本当の実行者は、現在架説構築中ですが、古事記の主張が
まず「ぽこっと」あったが、そこだけブツギレ話なのと、そして、その同じ
話が日本書紀では、筋良く(本筋に綺麗に挿入されて)流れるように
物語の一部として描かれている挿入話である事実が、全てを物語っている
ような、そんな気もしてきます。

つまり、「保食神が誰によってなにゆえ殺されなければならなかったか?」
こそが鍵であり。古事記主張のように、「スサノウさん犯行説」を唱える
歴史観が編纂時代のベースにあり、それが日本書紀の頃には「アマテラス
さんの命でツクヨミさんがやった説」にしなければならなかったお家事情が
書紀編纂期には発生していた。とこう考える方が自然に思えて来ます。
194唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/30(木) 00:04:00.30
続き
>次代の訥祇麻立干以降に繋がらない。

343年前燕 句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
ソウル夢村土城の積み石塚を近肖古王からの墳墓と言うが、それ以前から百済は存在する。
積み石塚はそれ以前の墳墓を陵辱している。
そして、武寧王の選択した墳墓は、この積み石塚が陵辱した盛り土墳である。
つまり、高句麗に占拠された50年の歴史を欠くのが百済の正しい歴史なのだ。
195レス長たらし毘古:2012/08/30(木) 00:12:25.53
さてさて、この保食神。阿波踊りで有名な、阿波の神様と言う事です。
そう、つまり四国東北部。これは先述した「ツクヨミを思わせる三日月地帯」
に綺麗に納まっています。
四国を中心とし、西端で北九州と接し、東端で因幡(小浜の近く!)と
接する、このミステリー三日月地帯。

さて!ここでお立会い。アマテラスさんが、近畿制圧を進めていた、オシホ
さん、ニニギさん、ニギハヤヒさんの、あの時代!

アマテラスさんが「最初に上陸した」のは、いつも小浜(因幡の近く!)です
ね。このミステリー三日月地帯を架空した場合、九州からバビューンと小浜に
上陸する事は前出雲がたとえ「でん」とあって、万が一九州アマテラスの
邪魔をしたとしても、ツクヨミが味方なら、小浜上陸は可能なのです。

そして、神武さんの東征(当方は、これは当方移住と架説、これは先述済)
も、このミステリー三日月地帯が健在でアマテラス寄りなら、充分可能
なのです。

大国主さまが、たとえそこまで「良い人」じゃなくても、因幡の白兎は
北九州宇佐(or委那?)から、バビューンと因幡まで渡れるのです。
そして、ここからは飛躍妄想ですが、同時代に韓半島から来日なされた
神功皇后の遠い祖先も同じく可能は可能になって来るのです。。
196レス長たらし毘古:2012/08/30(木) 00:33:14.42
さて、妄想超特急は、そろそろ終着駅に近づいて来ています。(もうしばらく
のご辛抱をお願いします)
実は、このミステリー三日月地帯に、もうひとつスッポリはまる逸話体系が
あります。それは、豊玉伝説です。

白兎を苦しめたワニさん。これはワタツミ(海)の神の娘の豊玉姫のシモベ
でもあります。彼等は山幸さんを助けるのみならず、山幸さんとの間の子孫
の(つまりは神武さん)の東方移住(東征)を影ながら助成します。
ルートはど真ん中瀬戸内海を通過し、阿波付近の対岸紀伊に上陸します。

そうなのです。本来なら古事記ですら、このツクヨミ&豊玉は、綺麗に
描かれていなければならないのです。
だがしかし、ここでもう一つの「血脈」をご考慮いただきたい。神武さまの
近畿での奥様。これはイスケオリさまですが、この方、古事記では三輪の神
の落し種と描かれていますが、日本書紀(の一伝)では、大国主の娘
(えと、ウロですみません、孫娘かもしれません拝)となっております。

つまり、神武さまが、近畿である程度の一大勢力になるまでの間に、その
後援者が「スサノウの子孫」でもあり、「トヨタマの子孫」でもある、と言う
構図。そして、トヨタマは、ツクヨミとは無縁では無さそうな地理関係。
ここまで「描かれない」のは、あまりにも不自然であり、そこに、スサノウ
神話体系GPによる、ツクヨミ神話体系GP逸話の「抹消」があった、
(注:但し、これは古事記編纂期より大分前でなければおかしい)と架説でも
しない限り、この不自然さは解消できないのです。
197レス長たらし毘古:2012/08/30(木) 00:44:01.22
いっさいがっさいUSA いっさいがっさいUSA

さて、一切合財ツクヨミにしているような感を抱かせそうなので、ここらで
微調整して、本日は終了。
当方が「ツクヨミ神話体系と関連している可能性」を感じるのは、以下の方々
です。

@高木神(及びその頃・その世代の神話群の神々)
Aタケミカヅチ・タケミナカタ(出雲の国譲り時期の神系不明の神々)
Bトヨタマさま&ワニの一族
Cそしていよいよ超飛躍で、ヒミコと呼ばれた女王モモソさま。

これらが、崇神〜武内宿禰の間の「蘇我の先祖様の長き時代」に、口承神話
から「抹消」されます。これによって、記紀の編纂者の困る事、困る事。

なぜ「抹消」されたのか?それは、モモソ(=ヒミコ)外交が気に入らない
人たち(主に前出雲の残党)がバックアップした王権こそが、建ハニヤスの
乱を破って王権に就いた、崇神大王王権だったからなーのです。と言う架説。
198レス長たらし毘古:2012/08/30(木) 01:06:15.07
>>195、の訂正とお詫び

>アマテラスさんが「最初に上陸した」のは、いつも小浜・・・(誤)
→ アマテラスさんの使者が「最初に上陸した」のは、いつも小浜・・・(正)

大変失礼いたしました。サーフィン白USAギと共に、バビューン♪
199卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/30(木) 09:18:37.41
ご静聴ありがとうございました。

二大妄想王 
レス長たらし毘古 
唐松山
より
200日本@名無史さん:2012/08/30(木) 14:26:36.96
>>115
> 蘇我氏は天皇家から出ているのだから、天皇になってもおかしくないのである。


平将門も天皇家から出ているが。
201唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/30(木) 14:40:34.77
妄想というのは、
ないものを「アル」という、そういうことであるから
たとえば、「半島に卑弥呼がいた」などというものがそれにあたる。
とはいえ、今の編年のままではできないという場合は、書き換える理由も必要なんだ。
その場合は、文献同士を並べて、検討する必要がある。
307年 丁卯 赤兎 九月以康世女千康妻夫余太子吉须
奈勿王 7年=323年神功49年(己巳二四九)倭臣熊彦=千熊長彦。
338年 神功六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
339年 神功六五年(乙酉二六五)百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。
346年 応神三年辰斯王立之失禮
王子阿花は、年少(15歳以下)であっても、乳児ではない。だから失礼にあたる。

奈勿麻立干は引き上げたほうが、書紀と良く対応する。だから、引き上げた編年も検討できる。
これは、妄想ではない。
ホ34253 ミマナクニ ソナカシチして ミツギなす そのミチノリは ツクシより キタえフチノリ
ウミへだて シラキのツサぞ

新羅を北へ持ってゆくこともできない。
それが現実だ。だから、与えられた現実の中で卑弥呼をさがす。
202唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/30(木) 15:06:09.08
倭人伝登場人物
倭女王=大乱の国に立てられた女王 神夏磯姫(カンカシヒメ)か? 神夏磯媛は我之屬類。
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王(男王)の部下 斗は書紀
都市牛利(たしうり)=田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王=景行 になる
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
狗奴國=女王国の南にある。狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫
ついでに書紀より
倭女王卑弥呼=巾3尺の石
男王=筑紫の大木
官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、
伊支馬=イクメ=垂仁
彌馬升=ヤマシロ=タタネコ (ホ37048 ミワのタタネコ ヤマシロが) 
彌馬獲支? ヤマワケ?
203日本@名無史さん:2012/08/30(木) 16:08:39.67
卑弥呼も邪馬台国も登場しない「日本書紀」

なんの関連もない史料である「魏志倭人伝」と「日本書紀」とを
無理やり「整合させよう」ということが土台無理な話
204卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/30(木) 19:08:44.60
日本説(大和説、九州説)が苦しいのは、朝貢の動機と目的の説明が付かないことである。
たまたま日本から朝貢しようと帯方郡に行ってみたら、魏と公孫氏が戦争中だった…。
そういうふうな説明しか付かないのである。つまり偶然、戦争中に朝貢してしまった、という説である。

ところが卑弥呼は偶然朝貢したのではない。生口を連れているのである。
生口には明らかに捕虜、捕獲した人間の意味があって、ネット高句麗史にも、

十一月,<尉厭><馬黎>< 狗>等伐<北沃沮>拓地千餘里,以其生口八萬,置於<杜訥原)>之西…

という記事がある。卑弥呼は中国への献上品は生口が喜ばれることを知っているのである。
まったく初めての朝貢ならそんなことは知らないはずである。
景初二年の六月という絶妙の時期に帯方郡を訪れていることも偶然ではない。
朝貢しなければならない理由と目的がちゃんとあったのである。
日本から物見遊山で中国に行こうとしたのではないのである。
205日本@名無史さん:2012/08/30(木) 19:22:56.60
卑弥呼コリア説が苦しいのは、てんでお話にならないことだな。
206日本@名無史さん:2012/08/30(木) 20:16:39.31
景初二年説と3年説があることも知らないみたいだな。とにかく、魏が朝鮮半島に
おいて優位を占めたことは分かった時期だろう。
一方、倭国では倭国の乱が終わり、卑弥呼が共立された。実質は、魏と通交があった
北九州が敗れたということだ。魏から新倭国に対して攻撃があるかも知れん。魏にあ
いさつしておこうか、これが遣使の理由だよ。
207日本@名無史さん:2012/08/30(木) 20:28:43.40
新知識や技術、思想を求めるのは十分な理由にはなるぞ。
208唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/30(木) 20:55:29.11
>朝貢の動機と目的の説明が付かないことである。
倭人伝:景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。
 其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。
書紀:〈魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝獻。

現在の魏志は、書紀編纂時より劣化している。
そして、その朝貢は、詔書にむくいる と表記している。
『詔書にむくいる』とは、先に詔書が存在する。詔書が卑弥呼にもたらされた時期を推定すれば、
その朝貢は、明帝景初三年六月。が正しい。
魏が戦争終結前に、使いを南方の韓に派遣する。その魏使が、後漢に朝貢した実績のある
倭奴國を訪れる。魏志の博物誌はこのあたりまでのものである。
この時点では、まだ卑弥呼は共立されていない。なぜそれが言えるかといえば、
共立された女王卑弥呼が存在していれば、卑弥呼共立の過程など必要がない。
ただ、「倭奴國に女王がいた」だけですむ。
そして、正始元年に梯儁等が、まっすぐ邪馬臺國へ向かっている。
つまり、魏は、女王卑弥呼を認めているにもかかわらず、ヤマトを目指す。
魏は倭地で今一番実力のあるのが、邪馬台国であるという認識にたっている。
女王を共立した倭奴國から見れば、朝貢は復活の切り札。
209卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/30(木) 21:13:19.85
205、206、は無視して>>207
それは結局、偶然説だな。
そんなことのためにわざわざ景初二年六月という危険な時期に行く必要はない。

>>208
報いる、ではなく、書を倭女王に報じて曰く、だよ。
210日本@名無史さん:2012/08/30(木) 21:20:41.53
>景初二年六月という危険な時期に行く必要はない

わかってて行った訳じゃねーだろw
海が比較的安定している時期を選んで渡るだけだ。
211太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/30(木) 21:40:34.08
伊支馬≠イキマ≠垂仁=イクメイリヒコイサチノミコト

イヨ≠五百野姫
212日本@名無史さん:2012/08/30(木) 21:51:20.39
>景初二年六月という危険な時期

遼東公孫氏のがレビラト大好きで土人臭が香しい

したがって

海峡域の海賊土人にとっても

あながち他人事とも云えないぽいよな
213日本@名無史さん:2012/08/30(木) 22:02:53.61
遼東公孫氏のは

辺境の土人がへんに自立して燕王自称しちゃったというのが

もっともありそうなストーリーだけどな

土人が漢の人ふうの名前騙ってからに

洛陽の欲深の臨時の主に連絡取ったら

およそ実質の支配域からは遥かに隔絶したところの

遼東太守の肩書きぽおおんとくれた

以下略
214卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/30(木) 22:17:40.68
景初二年六月。
これを偶然と思っている間は邪馬台国問題は解けないのである。
これは偶然ではないのである。
卑弥呼の遣使はそのジャストタイミングで帯方郡を訪れているのである。

景初二年説を説いたのは古田や伊作だが、
伊作説の唯一の弱点であった、劉マと劉夏の交替の謎が、
ネット三国史によって解かれたのである。それは既に私が上げた。

魏が公孫氏討伐に乗り出す前に、魏は高句麗の協力を取り付けている。
魏の軍隊が洛陽を出る前から、高句麗は公孫氏討伐が行われることを知っているのである。
高句麗はかつて馬韓や靺鞨を率いて遼東郡を襲ったことがあり、
高句麗と馬韓や靺鞨はしばしば行動を共にしている。
だから馬韓や靺鞨も公孫氏討伐が行われることを知っていたと思われる。
馬韓は戦況を観察していて、帯方郡が魏に占拠され、公孫氏と通じていた劉マが放逐された、
あるいは殺されたのを確認して、帯方郡を訪れたのである。卑弥呼は馬韓の女王である。
215日本@名無史さん:2012/08/30(木) 22:57:33.51
238 景初 2 戊午 のときに生息していたとされるひとは たとえば

○ 金官駕洛主居登 ← 金官駕洛主 惱窒裔 首露のおかわり

○ 加耶君美理神 と その夫の 河智さん ← 居登の妹毗可の娘夫婦

○ 百済の先祖のの 肖古王素古 ← 仇知王伯古の第五子

○ 肖古王 夫人の 公孫度末娘の宝皐さん ← 公孫康異母妹で 公孫康の嫁
                             ←    死んでから  公孫恭の嫁
                             ← 他所に逝ってから 肖古王の嫁
216日本@名無史さん:2012/08/30(木) 22:58:19.76
その理由じゃ卑弥呼が馬韓の女王である必然性がまるでないな。
倭人伝における渡海の困難さが殊更強調されている事からわかるように、
単純に時期を選んで渡海しているのだよ。
217唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/30(木) 23:13:44.06
二年春,遣太尉司馬宣王征淵。六月,軍至遼東。
八月丙寅夜,大流星長數十丈,從首山東北墜襄 平城東南。壬午,淵眾潰,與其子脩將數百騎突圍東南走,大兵急擊之,當流星所墜處,斬 淵父子。

晝夜攻之。時有長星,色白,有芒鬣,自襄平城西南流于東北,墜於梁水,城中震慴。文懿大懼,・・
令曰:「古之伐國,誅其鯨鯢而已,諸為文懿所詿誤者,皆原之。中國人欲還舊鄉,恣聽之。」
時有兵士寒凍,乞襦,帝弗之與。

公孫氏との戦いは、景初2年6月からその年の初冬まで続く。
218唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/30(木) 23:24:38.22
景初元年六月,地震。九月,吳將朱然圍江夏。皇后毛氏崩。二年正月,討公孫文懿。三年正月,明帝崩。
. . . . . . . . . . . . . . . . . .
景初二年八月,彗星見張,長三尺,逆西行,四十一日滅。占同上。張,周分野。 十月癸巳,客星見危,逆行,在離宮北、騰蛇南。
甲辰,犯宗星。己酉,滅。占曰:「客星所出有兵喪。虛危為宗廟,又為墳墓。客星近離宮,則宮中將有大喪,就先君於宗廟之象也。」
三年正月,帝崩。
219日本@名無史さん:2012/08/30(木) 23:25:29.05
○ 金官駕洛主居登 のの生息域は 

首露のおかわりなんだから 金海だろうさね

居登 だから 琴海のほおが文字面の見栄えとかエエけどね

ここの酋長は

もとのが伽耶山のとこから逃げてきてコロニーしたとかですとね

首露のかあちゃんは 加耶世主 正見母主 とゆう女神ですとさ
220日本@名無史さん:2012/08/30(木) 23:29:06.77
「金官駕洛」主のもとのでどころのが「加耶」で

それが伽耶山の麓なら

「加耶」つうのは高霊の池山洞古墳群のとこにきまるよね

ここのは死んだときに生きたお供え物を要求するつう土人の女酋長ね

加耶君の美理神さんつうのは卑彌呼さんよりちょっぴり若いんだよね

同じ人ではないけど 海峡挟んでそれぞれのが 可也さん伽耶さんだからね

この2つのお山の規模比較すると列島のがずっと小さいから

もすかして卑彌呼さんの先祖の血縁の人のあっちいって増殖したのかもしれない


221日本@名無史さん:2012/08/30(木) 23:49:16.05
もすかして卑彌呼さんの先祖の血縁の人のあっちいって増殖したのかもしれない

とゆうことは

その逆も可也だわな

どのみち土人は行ったり来たりなんだろうからさ
222卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/31(金) 08:19:01.51
>>216
持衰の話なんて、それがほんとに日本の風習なのかは疑問が提出されているし、
日本の、一体いつの時代の風習なのかも不明だ。

君らはそうやっていつまで経っても倭人伝風俗記事大好き少年だからダメなのだ。
三十代や四十代になっても、考えていることはまったく中高生レベルなのである。
223卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/31(金) 08:25:03.11
>>220
稗箕狐よ、残念だったな。

가야산(伽倻山) - 삼각산(三角山) [[[웅진변]]]

伽倻山は三角山である。三角山はソウル特別市にある山。
ソウル辺りは加耶や新羅の版図だったのだ。
新羅は百済の南にもある、という中国史書の記述は、正しかったのである。
224日本@名無史さん:2012/08/31(金) 08:32:17.76
朝鮮人は倭人伝=虚構説か?中高生でも理解出来る事を、
無理な解釈で難解にしてるだけだろw

大陸への渡航を政変のタイミングにあわせて行なえるような、
正確な情報入手経路が存在したとは思えないが。
225卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/31(金) 08:32:29.84
>>216
持衰の話を信用するなら、帥升の倭は日本ではないと思わなければならない。
なぜなら日本から百六十人もの生口を連れて行くのは不可能だから。
>>220
倭人が新羅の西海を襲ったという記事がネット新羅史に二箇所ほどある。
それを見ても、新羅が百済の東だけにあったのではないことが分かる。
226卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/31(金) 08:36:00.73
>>224
>大陸への渡航を政変のタイミングにあわせて行なえるような、
>正確な情報入手経路が存在したとは思えないが。

だからこそ卑弥呼の倭は日本ではない、と私は主張しているのだが。
227日本@名無史さん:2012/08/31(金) 08:38:27.40
記紀に新羅は倭の一部だったと書かれてるし、
三国史記にも新羅は倭人の王がいたと書かれてるだろ。
生口は半島南部からでもOK。
228日本@名無史さん:2012/08/31(金) 08:46:31.52
卑弥呼が半島にいたならそう記述すれば済む話だろw
229日本@名無史さん:2012/08/31(金) 08:55:35.72
魏志倭人伝で卑弥呼に与えた明帝の詔書に
「汝の所在は踰遠なり」
とある以上、「朝鮮は卑弥呼」が云う場所ではありえない。

同じような場所の王に与えた同じような表現を
証拠として示すべきである。
230日本@名無史さん:2012/08/31(金) 09:03:53.48
ネット朝鮮史とか強調する奴らは、基本的に特定思想の下に
活動しとるからな。早い話が工作活動だよ。
231日本@名無史さん:2012/08/31(金) 09:08:32.18
>>223
ばかだなあ 

卑彌呼さんの先祖の血縁の人がそっちの方にもいってて増殖したのかもしれない だけなのだ
232卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/31(金) 09:40:45.93
>>227
>三国史記にも新羅は倭人の王がいたと書かれてるだろ
そんなことはどこにも書かれていない。

二十二年癸亥(AD3年)  <陜父>以瓢浮海入<新羅>  
二十三年甲子(AD4年)  <鵲>太子浮海入<新羅> 
新羅以女妻鵲太子A.D.8
鵲太子爲新羅太輔 (A.D.10)
是年, <伐休>為<羅>主. 其父<仇鄒>, <陜父>子也. 母曰<只珍內禮>, <仇道>之妹也 AD184
正月, <宝金>遣<美品>来朝, <鵲>太子之裔也 AD403

高句麗の陜父や鵲太子が新羅の王族となっている。
この他、陜父は新羅昔氏の祖上なり、とどこかに書かれていた。
懸命に探したが見つからなかったが、そのうちまた探しておく。

>>231
私は伽倻山や新羅の位置の話をしているのであって、血統の話をしているのではない。
お前はいつも地理の話を血統の話にすりかえる。いや、まあそれはそれでいいのだが。
233日本@名無史さん:2012/08/31(金) 10:56:48.22
脱解王は倭人だろ。
234唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 12:04:07.87
>日本から百六十人もの生口を連れて行くのは不可能だから。

後漢193年冷夏飢饉=新羅192,3年倭人大餓渡来=崇神5,6年=弥生後期後半。
=青谷上寺地に船団の絵=岐阜の土器に船団の絵。

この新羅192,3年を引き下げるのがネット朝鮮史
この崇神5,6年を引き下げるのが太タヌキ殿
ついでに後漢193年を引き下げられるか?
そして弥生後期後半を引き下げられるか?

引き下げた場合、纒向に纒向3代(崇神・垂仁・景行)がおさまらない。
纒向時代とは弥生後期後半から箸墓築造までの時空であり、纒向時代の真ん中に、邪馬台国伊支馬の記事が来る。
235唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 12:18:06.57
逆に言えば、ネット朝鮮史 を正しいとするためには
新羅192,3年倭人大餓渡来=崇神5,6年と魏志が重なるか?
239年邪馬台国官伊支馬
247年 卑弥呼死亡
252年?壹與

この時空に設定できるのか?
箸墓築造は250〜270年で纒向はゆるやかな衰退時代に入る。
236太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/31(金) 12:51:08.42
逆に言えば、ネット朝鮮史 を正しいとするためには
新羅192,3年倭人大餓渡来≠崇神5,6年
237唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 13:02:47.96
247年 卑弥呼死亡=モモソヒメの葬儀であるならば、(崇神10年)
243年 その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、
245年 その6年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、

ここに新羅192,3年倭人大餓千余人の渡来。崇神5,6年がくる。
“倭人大餓千余人の渡来”を半島内の出来事としても、半島の記事に登場しない。

はっきりいて、“卑弥呼死亡=モモソヒメの葬儀”は昔の設定。
その昔の設定にあわせて、朝鮮史を引き下げる。
しかしその出来事と魏志は整合しない。
この設定を否定する考古学は50年時代を引き上げる。
その時
新羅192,3年倭人大餓千余人の渡来。まで崇神5,6年が引き上げられる。
238太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/31(金) 13:09:51.62
新羅192,3年倭人大餓千余人の渡来。まで崇神5,6年が引き上げられない。

空腹多抜キも空腹では数日間でお陀仏だ。

それが千人もの畿内から半島までの糧食といったら1日3食でも、10日間
だと仮定したとき、3万人もの食事を確保せねばならない。おまけに飲料水も
海水を飲むわけにはいかんからこれも十二分以上の溜めこみを大樽をべらぼうに
用意して船内の倉庫の置いとかにゃぁならぬ。

出来っこないのが正常人の脳内なら自明だ。
それが出来ると言って改めない野郎は、即 松沢病院候補者だ。ww
239唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 13:20:50.04
>新羅192,3年倭人大餓渡来≠崇神5,6年

太タヌキ殿よ気張らなくていい。
ラジオ氏は、太国倍年の数字を「ネット朝鮮史とほぼ整合する」と認定してくれているんだから。
編年もできない太国倍年ではあるが、その時代設定は同じである。
つまり、太タヌキ殿はネット朝鮮史の支持者なのである。
これで、卑弥呼朝鮮氏にも否定されることは少なくてすむ。
240太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/31(金) 13:26:50.57
空年空腹多抜キよ

編年なんか毎回書きこんでるぜ。デタラメを書きこむな。ww

空年佛はすでに 年愚の納め時。

成務、景行、崇神の年表で、どこにも空年など無〜い。

観念するんだな。ppp
241唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 13:43:19.82
>編年なんか毎回書きこんでるぜ。デタラメを書きこむな。ww

ああ、数字は書き込んでいる、しかしその中身は空白で、記事の説明には使っていない。
>新羅192,3年倭人大餓渡来≠崇神5,6年

では、崇神5,6年は西暦の何年でその時何が起こった?
三角鏡を作ったのか?
記事の説明としては不十分である。
せっかくラジオ氏が”新羅192,3年倭人大餓渡来”を太タヌキ殿のいう崇神5,6年あたりに引き下げてくれたんだぜ。
242唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 14:00:36.42
”新羅192,3年倭人大餓渡来”を太タヌキ殿のいう崇神5,6年あたりに引き下げてくれたが
崇神世の任那建国を211年で良いと認定してしまった、新羅209年だ。
であるならば、新羅192,3年倭人大餓渡来も固定され、考古学の言う纒向と整合する。
太国倍年は、考古学の支持が得られない。
考古学とどう整合させるのだ?
243太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/31(金) 14:51:51.16
空年多ヌキよ
多抜キ汁も食えないんでは、到底半島への到達は出来まい。
10日間の場合、どうやって3万の多勢の弁当等を確保するのか、飲料水の
莫大な量も到底船に積めまい。所詮オマエの空年多抜キの化けの皮が
はがれておる。pp

全然、オマエの論は現実遊離の不整合極まりないデタラメである。

記事の説明としては不十分なのはオマエの得意技だろう。ww

41年の具体的説明が不十分極まりなく、数年前から毎回質問してるが
オマエはその説明ができない。いつも数字のマジックをやってるらしく、
悉くその具体性が無い。つまりオマエは説明ができない。
244唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 15:52:32.61
>オマエの論は現実遊離の不整合極まりないデタラメである。

新羅本紀に書紀の記事を合わせると
崇神天皇 189年〜216年  五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応。
垂仁天皇 217年〜239年 239年邪馬台国官伊支馬
景行天皇 240年〜261年 
成務天皇 262年〜265年 46年伸ばす 262〜311
仲哀天皇 266年〜274年 312〜320
神功皇后 275年〜343年 321〜389 百済王家と整合する
応神天皇 344年〜384年 390〜430
仁徳天皇 313年〜399年 359〜445 神功三九年大歳を元年とする。
履中  400〜  405年兄王は前年帯方界での行方不明。

成務時代の不整合46年を崇神などの引き下げで整合させると
卑弥呼≒モモソヒメと時代が重なる。
その正しさを崇神5,6年=ネット新羅192,3年で説明することができる。
それは、魏志に書かれた238〜250年程度の時空になる。
魏志に倭人大餓が存在するか?存在しない。
なぜならば、魏志は後漢193年とともにある。だから、後漢193年を引き下げられない。
しかし、百済王家から逆算すれば、崇神5,6年=ネット新羅192,3年が得られる。

太国倍年:崇神5,6年=ネット新羅192,3年←これで良いんだろ?
だから、崇神5,6年≠新羅192,3年を主張するには、それだけ明快な説明が必要となる。
245太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/31(金) 16:42:56.58
説明するのは、オマエが3万人分の食と水と千人乗船可能な船をどのように
工面するのかで、それだけ明快な説明が必要とされる。

オマエは例の各表のどこに57年とかの空年があるのか、その明確な説明
を必要とするが、オマエはその説明が出来ない。笑 ww
246太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/31(金) 16:45:11.03
>応神天皇 344年〜384年 390〜430
>仁徳天皇 313年〜399年 359〜445

       ↑

 逆とした脳は松沢病院ご歓迎 笑笑・・・www
247太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/08/31(金) 16:52:30.85
>新羅本紀に書紀の記事を合わせると

オマエの脳が臭魔伝とオマエのアグラかきのために恣意的勝手に決めた合
わせもので、何の説得力も無い。

当初から恣意に景行に重点を置いたデタラメであり、これが最高級の盲象たる
景行日本統一とかのイカサマ論を天狗のアグラが目的でオマエの脳が勝手
気ままにインチキを決めたものであり、超S級のイカサマ論である。
248日本@名無史さん:2012/08/31(金) 18:55:08.16
辰言【王】或云【呼 】貴人之稱

辰言【卑彌王】或云【卑彌呼 】
249唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 19:06:03.26
>恣意的勝手に決めた合わせもので、何の説得力も無い。

たしかにその通りである。

1年が120日などというのは、太タヌキ殿がアグラかきのために恣意的勝手に決めた合
わせもので、何の説得力も無い。

だから、1年、120日の中で歴史の説明。
崇神5,6年にネット新羅192,3年をもって来られても説明できないからいい迷惑なだけなんだろ?
1年の長さを「120日で説明できる」などは、当初から恣意に編年するためのデタラメであり、これが最高級の盲象たる
1年=120日とかのイカサマ論を天狗のアグラが目的でオマエの脳が勝手
気ままにインチキを決めたものであり、超S級のイカサマ論である。

ほら口先だけなら何とでも言える。
だから、こんな無駄な書き込みでなく、その編年上での説明が必要なんだ。
250卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/31(金) 19:35:55.64
>>233
Wikiで調べると、脱解→仇鄒→伐休となっているが、
ネット三国史では陜父→仇鄒→伐休となっており、陜父が昔氏の祖だとされている。
<陜父>以瓢浮海入<新羅>
の瓢が瓢公の伝説になっていると思われる。

またWikiに書かれている脱解の結婚と大輔就任は、その年次まで鵲太子と完全に一致している。
新羅以女妻鵲太子A.D.8
鵲太子爲新羅太輔 (A.D.10)

因みに桓檀古記によれば多婆那国は朝鮮半島の国で倭の国ではない。
251日本@名無史さん:2012/08/31(金) 19:43:27.73
「脱解」さんのお名前は「召文」せっとあっぱーの「脱脱」さんのとかぶったりしている

紫帝庶子山雲枕婢脱脱生山雲子景コ
山雲獻脱脱于翠帝
翠帝寵愛之 立爲后
翠帝殂 脱脱自稱神后 迎召文爲繼夫

脱脱乃立其子 景コ 在位六十五年 (AD05-AD70) 文物大興
252日本@名無史さん:2012/08/31(金) 19:50:26.95
「枕婢」とか見下して書いてはあるが

「自稱神后」が実現できるためには

それはそれなりの背景とゆうか前提があって然るべきで

たぶんそれは もとのが「脱脱」さんのが

当時の土人の世の中において

それなりのステータスを備えた存在であったはず

つうことで

おそらく「脱脱」さんは

「女國王女」かなんかのなれのはての可能性とか大也
253卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/31(金) 19:57:39.16
陜父については桓檀古記はこれまた奇怪な話を伝えている。

先是陜父奔南韓居馬韓山中從而出居者數百餘家未幾歲連大裙流離遍路
陜父乃知將革誘衆塗糧舟從浿水而下由海浦而潛航直到狗邪韓國乃加羅海北岸也
居數月轉徙于阿蘇山而居之是爲多婆羅國之始祖也
後倂于任那聯政以治三國在海七國在陸初弁辰狗邪國人先在團聚是爲狗邪韓國
多婆羅一稱多羅韓國自忽本而來與高句麗早已定親故常爲烈帝所制
多羅國與安羅國同隣而同姓舊有熊襲城今九州熊本城是也
254日本@名無史さん:2012/08/31(金) 20:15:42.85
>>253
「今九州熊本城是也」からすると

「今」っていっているこれ書いたひとは近世のひとぽいな

ただしこおゆうのは

書いた時期が新しいから読んでも無駄とゆうことにはかならずしもならんからな
255日本@名無史さん:2012/08/31(金) 20:18:14.78
ネット朝鮮史は捏造オンパレードで参考にならんよ。
256日本@名無史さん:2012/08/31(金) 20:22:57.89
いやいや ここのは

近世の半島知識人の古代脳内地図とか探るのには参考になるよ

あと 熊本城とか阿蘇山とかが島にあったとゆうのは周知の常識だったか
257日本@名無史さん:2012/08/31(金) 20:26:18.14
258唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 20:58:24.69
><陜父>以瓢浮海入<新羅>の瓢が瓢公の伝説になっていると思われる。

魏が調べた239年あたりで、辰国(新羅)の王は馬韓人である。
新羅本紀によれば、その頃の王は昔氏である。
ここで、昔氏=馬韓人が成立する。
259卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/31(金) 20:59:59.71
私が思うに、多婆那(多婆羅、多羅)国というのは、
ネット史で多伐と書かれている国である。
で、その多伐はどこかといえば、多伐(大丘)と書かれているから、
今の大邱である。

上の文の阿蘇山や九州を日本と解釈するからおかしくなるのであって、
阿蘇山を今の伽耶山、九州をかつて朝鮮に置かれた九州制と解すれば、
さほど支離滅裂な内容ではない。
上の文をよく読めば、狗邪韓国から日本に轉徙したとは書かれていない。
260日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:05:58.80
>>253

先是陜父奔南韓
居馬韓山中從而出居者數百餘家
未幾歲連大裙流離遍路
陜父乃知將革誘衆塗糧舟
從浿水而下 由海浦 而潛航直到狗邪韓國 乃加羅海北岸也
居數月轉徙于阿蘇山而居之 是爲多婆羅國之始祖也
後倂于任那聯政以治
三國在海 七國在陸
初弁辰狗邪國人先在團聚 是爲狗邪韓國
多婆羅一稱多羅韓國
自忽本而來與高句麗早已定親故常爲烈帝所制
多羅國與安羅國同隣而同姓
舊有熊襲城今九州熊本城是也


----------------------------------------------------
BC19 壬寅 二月 鵲夫人生(芻牟子)鵲太子
        陜父妻柴花乳之(四月芻牟没)
BC03 戊午 陜父以瓢浮海入新羅
AD04 甲子 鵲太子浮海入新羅
AD08 戊辰 新羅以女妻鵲太子
AD10 庚午 鵲太子爲新羅太輔
261日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:17:46.56
「陜父乃知將革誘衆塗糧舟」 

陜父の出迎えの先導で「連大裙」=「鵲太子」が

「從浿水而下 由海浦 而潛航直到狗邪韓國 乃加羅海北岸也」

半島の東岸を南下して狗邪韓國に到着なんだろ

ただし、江戸時代の半島のひとの理解なんだけどな
262日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:18:04.15
>>259
アホらし、結局何の根拠も無い訳じゃないか。
263日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:20:59.97
ここのところの「浿水」は「金野(くみゃ)」のところの「浿水」だべさね
264日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:21:04.00
桓檀古記なんて何時書かれた書物だよw

日本人は竹内文書を持ち出さなくちゃいけなくなるぞ。
265日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:31:41.09
>>264

>>256 現地の人の歴史観だからな

状況 「瓢公」の「脱解王」さんと「陜父」がかぶっている

     移動の方向性は南からのと北からので真逆

結局 「くみゃ」と「狗邪」と「多婆」のあいだの交流が濃厚にあっただろう

     江戸時代の半島のひとはかくのごとく理解した
266卑弥呼は朝鮮にいた:2012/08/31(金) 21:39:15.40
>>262
多婆那、多婆羅、多羅、多伐

語呂が似ている(笑)
267日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:45:35.13
>>266
これもまぜといてね

哆唎 多利 垂 足 多婁


あと

216 丙申 阿達羅四年四月 多婆那以迎烏カ爲君
268日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:55:00.30
もうさ

「狗邪」も 「くみゃ」と 読んであげれば良いかもね


そしたら これのを逆立ちさせて 「邪狗」なら

こちらのは 「やくむ」に 化けちゃったりするけどさ
269日本@名無史さん:2012/08/31(金) 21:57:21.32
>移動の方向性は南からのと北からので真逆

海を渡る技術に長けてるのは倭の海人族だ
というのは基本認識だよ。

そういえば最近も竹島まで生け簀で泳いでいた
俳優がいたなw
270日本@名無史さん:2012/08/31(金) 22:15:48.97
王遣使詣京都帶方郡
諸韓國及郡使倭國
皆臨津搜露 傳送文書 賜遺之物

ここのの「諸韓國使倭國」のは

たぶん自前の船便設定してからに来ていたりしたのかもね
271唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 22:54:07.79
>「諸韓國使倭國」
>諸韓國及郡使倭國

"及郡"が抜けちゃった。なんとかならんか?

諸韓國と郡を使って倭国に文書 賜遺之物 ・・・多分違う。
郡使は諸韓國・・・及がぬける。
言いたいことは
倭国内では、皆臨津搜露 傳送文書 賜遺之物に 間違いがない。になるはず。
半島は郡の管理下にある。倭国では、伊都か儺、筑紫に管理官。
272日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:14:04.80
よく読めないひとにしんせつしてあげよう

お使いの往来のは以下のがあったんだろ
1.「王遣使詣京都」
2.「王遣使帶方郡」
3.「諸韓國使倭國」
4.「帶方郡使倭國」
273レス長たらし毘古:2012/08/31(金) 23:16:51.10
さて、今日はいよいよ、その「ツクヨミ」の痕跡を可能な限り古事記から
探してみようと思います。

実は、これは先述した保食神である、「大宜都比売神(オゲツヒメガミ)」が
キーワードとなります。

古事記では、このお方の名前(そしてそれに由来すると思われる名前)が
神話編に二回、人神編前半に一回、登場して来ます。
神話編(神代)の二回は、オゲツヒメ神の生誕と死の二回になります。古事記
をあまり読んだ事の無い方の為に、あえてその話を簡潔に以下に述べますと。

@オゲツヒメ神誕生:イザナギ&イザナミが国産みにて産んだ島々神の一人
として誕生。後の方に産まれた島神で、イザナミはこの子の次の子カグツチ
(火の神)を産んで体を壊す。その後、イザナミは嘔吐物・便・尿と共に
それぞれ神を産み(注:当方が個人的に注視している便の神ハニヤスビコ等
もこれらに含まれる)体を壊してイザナミは黄泉の国(死後の世界)へ逝く。

Aオゲツヒメ神の死:保食神の件で描かれるオゲツヒメ神の漢字は、先述の
漢字名「大宜都比売神」とは違い、「大気津比売神」と表記される。この神
は鼻・口・尻からお供え物を生成し、スサノウに献納した為(注:古事記で
はこうだが、日本書紀では献納先はアマテラスとなっている)これを失礼と
感じ激怒したスサノウに切り殺される。そのオゲツヒメ神の遺体からは、
稲・粟・小豆・稲などの豊かな農産物が芽生えるようになる。
274日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:25:47.24
ここので

「倭州ごっこ」しておるのを記述してくれちゃってるんだよね

國國有市 交易有無使大倭監之
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之
常治伊都國 於國中有如(州)刺史

ここのは

● 「國國」のは「諸韓國」のも含む

● 「使大倭」は「諸韓國」にも派遣

● 「檢察諸國 諸國畏憚之」のの「諸國」は「諸韓國」のがメイン

● 「一大率」は「倭州ごっこ」で「如(州)刺史」ファンクションしちょる


ちなみに 「韓」が「郡」の直轄であれば

「國」ではなくて「縣」で統べるのがあの頃の制度史上ではふつう



275唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 23:29:11.29
>3.「諸韓國使倭國」

任那(狗邪韓国)とは、通好がある。
しかし、これを諸韓國にまで広げられるか?
頑張れば、辰国(新羅)まで広げることはできる。
ツノガアラシトと天日矛までだろうと思うが、ホケノ山に楽浪鏡が存在するということは
郡方面の韓国とも?
276日本@名無史さん:2012/08/31(金) 23:35:15.95
3.「諸韓國使倭國」 のは極端なはなし お里帰りくらいにみとけばエエよ
277レス長たらし毘古:2012/08/31(金) 23:41:55.63
そして、以下は「神」とは違い天孫の家系図の中に見出される「オゲツヒメ」

◎意祁都比売:開化大王の妻(の一人)。和邇臣の祖である日子国意祁都命を
兄に持つ。又、開化との間に生まれた子供(=日子坐王:ヒコイマスノミコ)
の更にその子供に、当方が再三述べている、沙本毘古&沙本毘売の、いわゆる
沙本の乱の主人公でもある兄妹がいる。

つまり「オゲツヒメ(オケツヒメ)」を媒介に、神代の国産みから開化の代
まで「つながり得るもう一つの血筋」があった可能性がここで浮上して来る。
今風に「当て字」するならば、オゲツヒメとは、お月ヒメ、とも当て字が
できるような気はしてこないだろうか?そう、オゲツヒメ=お月ヒメ、かも。

そう思って、もう一度、オゲツヒメの数少ない足跡を見直してみると、次の
架説の橋立が、おぼろげに浮かび上がって来る。
⇒ツクヨミ(=オゲツヒメ、もしくは、ツクヨミ配下としてのオゲツヒメ)は
神代の代にスサノウに殺される。(注:オゲツヒメは阿波地方の神と伝)
⇒国譲り〜初期大和王権興隆期に、オゲツヒメの子孫とスサノウの子孫の
「力関係」が逆転していく。
⇒開化の頃(即ちモモソの頃)には、オゲツヒメの子孫が復興している。
(これが、モモソやオケツヒメの流れであり、沙本の流れになる)

そう、オゲツヒメ神は、即ちイコール、ツクヨミ神(もしくはその配下)で
あり、そしてこれを信奉するグループは、少なくとも、開化代・沙本代まで
「存続」し続けているのである。しかしながら、この血流は、ここでパッタリ
消えてしまう。

ワニを従える一方の神「オゲツヒメ神」が、ここで架説浮上して来る。あれ?
この「ワニを従える」って、古事記の他の部分でも無かったっけ?
そう、それは豊玉ヒメである。つまり、ワニを従えるお月ヒメが、古事記編纂
までに、ワニを従える豊玉ヒメ、へと書き換えられたと言う可能性である。
278唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/08/31(金) 23:51:55.44
>>274

違うな。
それは、晋時代になる。
晋は、倭人の上下関係を尊ぶ、約束を違えない(伝送に間違いがない)、争いが少ない
(訴訟が少ない)。これを自分の配下にする。
盗賊を喜びとする高句麗とどちらが信頼できるか?
そして、時代は、庄内式土器が九州に持ち込まれた後。
魏の終焉と箸墓築造はほぼ同じ、箸墓は最初の大王墓。
だから、箸墓以前に九州までを支配領域にする。
こう考えるから、邪馬台国官伊支馬=239年垂仁崩御。
景行紀が卑弥呼の時代と重なり、神夏磯媛(カンカシヒメ)は我が属類。
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に勅使の如きを置き女王国(九州)の北部に置いた1大卒を監督する、1大卒は諸国を
検察し、諸国はそれを畏れ憚る。

この1大卒を渡海させたのが神功前紀であり、その経費として・・・
この、渡海が縁で新羅は調を納めるようになる。纒向5類。

ネット朝鮮史が圧縮してくれた新羅本紀を元の位置に戻すと百済王家も遡上する。
その上で日本史をみれば、書紀の記述は正しい出来事になる。
だから、面白い。
279レス長たらし毘古:2012/09/01(土) 00:14:23.16
そして、やはり魏志【倭】人伝とか【倭】人文化域とかの話をしているので、
ここで一度、この頃の【倭】の字の付く大王の方々を古事記から参照して
みよう。(し号は送り名で、当然後代からつけた名前なので、ここでは帝位
に付く前のお名前に限定したいと思う)

@代:神倭イワレ毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト) =神武大王
C代:大倭ヒコスキトモ命 =い徳大王
E代:大倭タラシヒコクニオシビト命 =孝安大王
F代:大倭ネコヒコフトニ命 =孝霊大王
G代:大倭ネコヒコクニクル命 =孝元大王
H代:若倭ネコヒコオオビビ命 =開化大王

そして、これ以降は「倭」の字が皇子名に付く大王は皆無である。
@〜E代までが、倭の勢力と「どこか別の勢力」とが、「輪番」で大王を
輩出した、とも見れる、この名前の継承順。
いや、更に妄想を強くした場合、@〜Eの時代は、「倭」の勢力と、
「どこか別」の勢力との、両方から「奥さんをもらっていた」とも見える構図
で、この構図が、開化の代を最後にパッタリ止んだ、とも見えるのである。

ちなみに、当方は、この頃の「倭人文化域」の「婚礼慣習」は、かなり母系的
と考えている。母系社会の場合、「妻の実家」は、これは今の現代日本人が
考えるより旦那の家への「発言権が強い」と想定できる。

つまり、初期大和王権は、@〜Eの代は、「どこかの二つの勢力から交互」に
「妻を決められる」ような関係性であり、F〜Hの代は、「その一方のみ」と
「婚姻を結ぶ」ような関係へと限定した。と、このように思えて成らない。
280レス長たらし毘古:2012/09/01(土) 00:22:45.02
そう、察しの良い方はもうお気づきであろう。この「倭」を冠する名前の母方
こそが、古事記では深く触れていないのである。
「触れていないので、即ちツクヨミ」と言うのはあまりに即決すぎるが、
逆に言えば、触れていないので、ツクヨミ(orオゲツヒメ)神話体系の子孫
の可能性も、これまた皆無では無いのである。

当方は、この@〜Eの時代こそ、スサノウ神話体系氏族(国譲り以降の残党)
とツクヨミ神話体系氏族(いわゆる倭の氏族)の、その両方に恭順していた
初期大和王権と想定する。もしくは、それが言い過ぎであるならば、少なく
ともその両者と初期大和王権が三鼎立していた時代、と言う言い方に言い直し
ても良い。

そこで興味深い事は、我らがヤマトトモモソ毘売であるが、これは読みは
確かにどうしたって、「ヤマトトモモソ」にしかならないのだが、その当て字
は、わざわざ「倭」の字を(あえて避けたかのように)別の当て字がなされ
ているのである。これはどう考えても「漢字だけを読む人」に「ばれない為」
と考えるのが自然に思えてならないのだが、まあそこはしばし置いておく。

そう、我々の乗っている妄想列車は終着駅に近づきつつある。メーテル星こそ
が、阿波なのである。そして、当時アワと呼ばれている地は、淡路島or阿波or
近江、この三箇所。
ヒミコの外交使節との謁見場所は、九州である。しかし、居城(宮)はこの
三箇所のどこかである。しかし、ワニを配下に従えるモモソ様=ヒミコ様が
「ワニに乗って来れない」場所から謁見会場に来るとも考え難い。従って
近江は考え難い。

すると残るのは、淡路島と阿波国である。
281レス長たらし毘古:2012/09/01(土) 00:59:50.32
さて、閑話休題。
先述の「倭」のお名前のつく立太子さまのお母様集をおまけにつけちゃおう。

@・・・は、この三鼎状態ができる前の話(&ヤヤコシクナル)なので除。
Cの母:波延(ハエ)の県主の娘のアクトヒメ
Eの母:尾張連の祖の奥津余曾の妹のヨソタホヒメ
Fの母:先代Eの姪のオシカヒメ(古事記には少なくともこの系図は無い)
Gの母:十市(トヲチ)の県主の大目の娘のクハシヒメ
Hの母:穂積臣等の祖の内色許男命の妹のウツシコメ

Cの母の「ハエ」ですが、これも当方の話を良くお聞き下さっている方には
馴染みは深いと思いますが、ハエを思わせる神様や、モモソヒメの別名等々
当方架説の幻のツクヨミ神話体系では良く出て来るキーワードでもあります。

Eの母の尾張連ですが、これは伊勢系やヤマトタケル伝説における中心氏族
でもありますね。してみると、この頃くらいに、ワニの主人がツクヨミで
あるかトヨタマであるかの、二説並立時代が構造的には発生しそうですね。

そして、Hの母、これがこの架説から考えると、とても不自然な感じがする
名前順と言う気がしてきます。そう、なぜなら、Hの母だけが、クッキリと
スサノウの神話体系なのですから。。これも「倭の字」とはハッキリここで
隔絶すると言う覚悟があったとしたならば、この不自然さはむしろ道理に
叶っている現象なのかもしれませんね。
282日本@名無史さん:2012/09/01(土) 01:16:15.09
現在の箸墓が卑弥呼の墓かどうかは兎も角、
モモソが卑弥呼に該当する人物だという事は否定出来ないのである。
283日本@名無史さん:2012/09/01(土) 01:25:30.35
卑弥呼が箸が陰部に刺さって死んだはずがない
アマテラスの機織り侍女だろ
284レス長たらし毘古:2012/09/01(土) 01:43:51.36
さて、更に与太話に突入しますが、先日のNHKさんの邪馬台国の番組に
関してですが、あの中では、魏志倭人伝SIDEの編集意図から、邪馬台国の
位置をリアルバージョンより、「もっと呉(三国志の一国)の裏手側に
もってった」と言う説の仮説がありました。ある程度興味深く見させて頂き
ましたが、もしその仮説だとしても、あの仮説のままだと少し弱い気も
しました。

いやしくも国書である以上、「明らかに間違った位置関係」は、これは海外
発行パンフレットだったとしても、ややマズイ。そして、その相違位置関係
表示を強行したのならば、逆に「じゃあ、その文章をトリックで読み解いた
なら正しい位置が浮き上がる」と言う構図にしなければならない筈で、
これにもやはり、魏志倭人伝の「表読み&裏読み」の「両方を存分に」解明
する必要が生じてしまう筈です。

ま、架説を念じている当方が言える筋ではありませんが、あくまでも感想ね。
(あ、当方の話を読んでる方はある程度お察しかと思いますが、当方は
比較的「放射説」に近い感じね。A国B国C国D国・・・邪馬台国、の構造
の内、文法的に間のC国D国は「内包された付随説明」であって、旅程その
ものでは無いって感想立場です、拝)
辿り着く先が九州の東北部のどこらか、と架説想定しています。北方の防衛
施設は、前出雲王権の残党対策に置かれます。また南のハヤト熊襲が、まだ
敵対中です。九州西北部が、時々反乱します。うーん、時代環境ともピッタリ
(あくまでもそれがしの頭の中では、ではありますが。。w)
黒歯国こそが、スサノウ神話体系の残党の近畿勢力である大年神の子孫と
アマテラスの派遣軍団(神武大王)の子孫とツクヨミの子孫の三鼎時代の
「どれか」とこうなります。黒歯国の候補は、当方は大年神の子孫等、
スサノウ神話体系の国譲り以降の残存勢力と想定しています。
285レス長たらし毘古:2012/09/01(土) 01:55:49.28
>283
>卑弥呼が箸が陰部に刺さって死んだはずがない

感想だけで言うと同感です。「ヒミコが嫌いな勢力」が「あの時代の逸話」を
後に口承伝説で残し、それがそのまま「古事記まで伝えられた」としたら
どうでしょうか?当方の架空筋は、そのように解釈しております。

例えば「死因のわからない死に方をされた、数十年前の嫌いな勢力の側の
偉い人」を描く場合、「どのように描けば一番たたりが少ないか?」と考えた
場合、その表現方法しか無かったのかもしれませんね。
下手な描き方をすればたたられます。かと言って、今王権を握っている集団
から見れば美化はしたくない人物です。うーん、難しい。書かないで済む
ならそれに越した事はないが、書かなければそれはそれで他にいろいろ矛盾が
出てしまうほどの大人物。。
286日本@名無史さん:2012/09/01(土) 02:11:35.99
なるほど…すごく納得。
箸が刺さって死んだっていうのは美化してないしむしろ貶してるね。
書いた側とは違う勢力の人だったとすれば合点がいくね。
想像力すごいですね。
287唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/01(土) 02:12:15.36
No.10091 近肖古王- 肖古王= 120年. 投稿者:radio 投稿日:2009/10/28(Wed) 00:37
百済王気草稿王 9, 肖古王(草稿王) 在位 29年 226年 - 254年
三国史記百済本紀近肖古王 17, 近肖古王(近肖古王) 在位 30年, 346年 ~375年
即位年 346年- 226年= 120年偏差.
退位年 375年- 254年= 121年偏差.  (乙亥二五五)◆五十五年。百濟肖古王薨。
*そうするので, 日本書紀著者は歪曲されなかった草稿王紀年を見たから,
肖古王と 近肖古王の偏差が 120年差があることを報告, 日本書紀を 2甲子= 120年を引き上げたのです.

いうことが逆なんだよね。 百済本紀は、
はじめ日本書紀の肖古王をその位置に配置したが時空が成立しない。
だから、120年後ろに移すと同時に新羅奈勿麻立干もそれに合わせて
後ろに動かす。こうして出来たのが3国史記である。
そして、動かす前の奈勿麻立干が奈勿大聖神帝紀になる。
よって、奈勿麻立干は、前に移動して世継ぎをはかるのが正解である。
288唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/01(土) 03:22:58.55
新羅奈勿麻立干と肖古王は同時代であるが、3国史では、時空が狂っている。

1, 仇知王(旧地王) 在位 39年, AD188年- AD226年 己婁王(妓樓王)の 7番目息子, お母さんは 屹氏(フルシ), 盖婁王(ゲルワング)の腹違な弟(妹).
AD155年生まれ, AD226年死亡. 34歳に即位, 死亡年 72歳.
2, 肖古王(草稿王) 在位 29年, AD226年 - AD254年 仇知王(旧地王)の 5番目息子, お母さんは 田氏(全氏).
AD214年生まれ, AD274年死亡. 13歳に即位, 死亡年 61歳.
3, 仇首王(鳩首王) 在位 11年, AD254年 - AD264年 肖古王(草稿王)の 長子, お母さんは 沙氏(サシ).
AD230年生まれ, AD264年死亡. 25歳に即位, 死亡年 35歳.
仇首王の誕生を干支1巡繰り下げると290年生まれとなる

290年 仇首王の誕生
307年 丁卯 赤兎 九月以康世女千康妻夫余太子吉须 (367年)
312年(水猿:壬申)6月、基临帝崩 新羅本紀310年
奈勿王 7年癸未=323年神功49年(己巳二四九)倭臣熊彦=千熊長彦。
329年己丑(乙亥二五五)◆五十五年。百濟肖古王薨。
338年 神功六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。(384年)
339年 神功六五年(乙酉二六五)百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。(385年)
346年 応神三年辰斯王立之失禮
王子阿花は、年少(15歳以下)であっても、乳児ではない。だから失礼にあたる。

百済王家は、書紀の干支を使用した差込記事である。
ただし、肖古王AD214年生まれ・・仇首王AD230年生まれ・・短すぎる。

289日本@名無史さん:2012/09/01(土) 07:06:03.78
貶さなきゃいけない大人物ならやはりモモソが卑弥呼だな。
墓の記事まで詳細に書かれてる位だし。
290卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/01(土) 08:39:14.95
ご静聴ありがとうございました。

レス長たらし毘古
唐松山
稗箕狐
ほか名無し二、三名
より
291太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/01(土) 21:41:27.85
邪馬台国官伊支馬=239年 ×→垂仁崩御。
292日本@名無史さん:2012/09/01(土) 21:46:26.26
いしま
293日本@名無史さん:2012/09/01(土) 21:47:50.71
馬のがめなら

やめたいこく
294日本@名無史さん:2012/09/01(土) 21:56:03.96
イシマタラ
295日本@名無史さん:2012/09/01(土) 22:24:35.10
卑弥呼は朝鮮にいた
唐松山
稗箕狐
太国

チミ達は吉本興行の劇団員になり給え。ボケ専門の役者なら務まるかも知れんぞ。
296唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/02(日) 15:07:51.69
百済王気草稿王 9, 肖古王(草稿王) 在位 29年 226年 - 254年
三国史記百済本紀近肖古王 17, 近肖古王(近肖古王) 在位 30年, 346年 ~375年
即位年 346年- 226年= 120年偏差.
退位年 375年- 254年= 121年偏差.  (乙亥二五五)◆五十五年。百濟肖古王薨。
*そうするので, 日本書紀著者は歪曲されなかった草稿王紀年を見たから,
肖古王と 近肖古王の偏差が 120年差があることを報告, 日本書紀を 2甲子= 120年を引き上げたのです.

こんな言い訳が成立するのか?
書紀の肖古王は、正しく百済本紀の近肖古王より120年早い。
そこに正しい草稿王(肖古王)が存在する。
とはいえ、神功渡海が200年になることはない。
であるならば、120年引き下げれば正しい位置になるのか?

現在は、神功紀を120年引き下げた位置が正しい歴史とされている。
百済本紀が書紀の神功・応神紀の干支を使用した場合の思考が抜けている。
297日本@名無史さん:2012/09/02(日) 19:12:19.95
なんか漢文が読めないひとだってのが共通認識化されつつあるもようです
298卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/02(日) 19:51:31.64
漢文が読める、読めない云々より、
唐松山氏が何を言おうとしているか、未だに私はさっぱり理解できないw
50年遡上云々といつも書いているが、何のことやらさっぱり分らんw

とにかくこの人は、人に物を説明するのが非常に下手である。
この人は、学校の先生にはなれない。
299卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/02(日) 19:57:04.51
譬えて言えば、太国は単純骨折だが、唐松山は複雑骨折である(笑)
単純骨折は治癒可能だが、複雑骨折は治癒困難である。
300卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/02(日) 20:02:30.47
稗箕狐という男は、妄想過多だが、
色々な可能性を考慮しているという点では、
名無しの単純な男どもより少しはましである。
301日本@名無史さん:2012/09/02(日) 20:03:07.68
唐松山にヒントをやりたいが、
読む人に分かり易い文章を書くコツは、

一にも二にも、短く書く事。とくに2chでは。
四行以内でかくこと。止むを得ない場合でも六行以内で!
302日本@名無史さん:2012/09/02(日) 20:24:07.56
ちょおせんくんたらひまそおだなねたぎれかよ
303太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/02(日) 21:57:02.50
朝鮮男よ オマエは大骨粗しょう症か?

稀代のデ○パを把握せねばならない。ww
304日本@名無史さん:2012/09/02(日) 22:19:24.25
「卑弥呼は朝鮮にいた」氏は人物としては良さそうだな。人の良さでは太国氏(対唐松山氏における対応は異常ではあるが)
と同等かな。
稗箕狐氏はかなりひねくれた性格かな。文章から判断すればのことだが。土人などの言葉使いも感じがよくない。
305唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/02(日) 22:19:50.89
ネット朝鮮史の問題点は、2重表記となっている
肖古王と近肖古王の問題だ。
ピタリ120年差で同名があると思うか?
しかも、肖古王と神功紀肖古王は同じ干支であるが、近肖古王とする。
この問題点を無視しているのが、ネット朝鮮史なのだよ。
306唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/02(日) 22:31:06.43
ネット朝鮮史が言いたいのは、近肖古王からの編年は正しいから
編年もできない日本書紀の言うことはすべて世迷言である。
だから、日本建国に百済が協力したのであるから、半島政権に感謝しなさい。

太タヌキ殿の編年がそれを物語る。
307卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/02(日) 22:41:52.62
>>304
この人は頭が良さそうだ(笑)
正直言って、名無しの中にこんな頭の良い男がいるとは思わなかった。
新人か?

まあ稗箕狐もそれほどひどい男ではない。
たまに私をマヌケ呼ばわりするから腹が立つだけで、
それさえなければ人畜無害な男ではある。
ただかなり知識がありそうな男で、その知識を鼻にかけているようなところがある。

太国は古代史よりあちらの方に関心があるようで、
よからぬ目的のために体を鍛えている(ウヒヒ)

>>305
唐松山には珍しく、単純で分りやすい投稿だ。
いつもこういう投稿を心がければよろしい。
308日本@名無史さん:2012/09/02(日) 22:49:42.24
この時代の日本では大歳記念法が使われてたっぽい。
その証拠は書紀に大歳による干支が併記されてること。
それは中国・半島についても同様と思われる。
大歳記念法だとその性質上、季節の途中で年号が変わる。
神功皇后の妊娠期間の問題とか、△の年号の問題とかは、その大歳記念法で記されたものを後の時代の人間が太陽太陰暦に変換する際に生じた齟齬と思われる。
309日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:06:39.03
>>308
大歳記念法について、分かりやすく教えて下さい
(あるいはURLでもおk)
310唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/02(日) 23:08:30.53
>この時代の日本では大歳記念法が使われてたっぽい。

天皇即位の年にはほとんど全てに”大歳”と記されている。
例外として、神功39年大歳がある。つまり、天皇即位の暗示だ。
しかし、応神には、百済王家が続いているから応神ではない、次の仁徳即位の暗示だ。
311日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:09:31.69
太歳記年法だったか、スマン
312日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:10:47.30
313唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/02(日) 23:12:08.00
古事記成務崩御 267年乙卯 
古事記仲哀崩御 274年壬戌 古事記「壬戌」を274年とする。
神功皇后 275年〜343年 
応神天皇 344年〜384年 古事記応神崩御 366年甲午
仁徳天皇 313年〜399年 古事記仁徳崩御 399年丁卯

神功三九年(己未二三九)大歳己未。〈魏志云。明帝景初三年六月。
景初三年(神功三九年)から74年後が仁徳即位(313年)でありそれは、神功三九年大歳でもある。
これが、書記編纂の中では1番のカラクリ。
だから、出来事は上記の数字に合致する。
314唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/02(日) 23:18:03.40
316年 仁徳天皇四年(丙子三一六)悉除課役。 316年西晋滅亡。
323年 神功四十九年春三月 千熊長彦
324年 仁徳天皇十二年(甲申三二四)高麗國貢鐵盾。鐵的。 メスリ山の鉄弓との対決だ。
324年 神功五十年 於是皇太后歡之問久曰。海西諸韓既賜汝國。
326年 神功52年 七支刀
343年 仁徳天皇三一年(癸卯三四三)正月 立大兄去來穂別尊爲皇太子。
343年 神功六九年 葬狹城盾列陵。

365年 仁徳天皇五三年(乙丑三六五)。新羅不朝貢。
364年 新羅 倭兵が大挙して侵入

370年? 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月呉國。高麗國並朝貢。
371年 応神天皇二八年(丁巳二九七)九月 高麗王遣使朝貢。
372年 東晋の勅使が百済を訪問

年度に多少の齟齬はあっても出来事はこの時空である。
315日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:28:40.71
また手前勝手な願望ベースにしていぢくりまわして妄想かいてくれちゃってるしね

316唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/02(日) 23:36:34.33
神功渡海の指標を何にするか?
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3100
長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき) 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、同時に甕棺、
土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成さ れている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は畿内の庄内系の土器の影響
下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水の地 であり、また平戸や生月、北松浦の
半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネットワークで結ばれた集団であったことが推測される。
317日本@名無史さん:2012/09/02(日) 23:37:05.69
枯松=太国ってのは既に判明しちゃってるからね。
アク禁がどうのこうのってやつで。
本来太歳については太国のテリトリーのはずだったんだが、それももう忘れちゃってるw
318唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/02(日) 23:38:51.27
神功前紀 冬十月己亥朔辛丑。從和珥津發之。 新羅王常以八十船之調。貢于日本國。其是之縁也。
神功四七年(丁卯二四七)四月百濟王使久■。彌州流。莫古。令朝貢。時新羅國調使與久■共詣。

神功時代は、新羅から調(税)が納められていた。
319唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/02(日) 23:41:56.17
纏向4類(後)箸中山(最初の大王、260±10年)・燈籠山、布留0の指標、
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 [274年神功渡海]
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。 新羅からの調(税)
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
纏向5類(前)東殿塚・下池山  308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳 纏向5類(後プレ)椿井大塚山 
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。316年晋滅亡、仁徳4年課役の停止(兵の引き上げ)
320唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/02(日) 23:57:14.58
この纒向5類の時代をどう読むかだ。
5類の時代に纒向に王宮はない。
鉄は豊富に供給されていて順調に発展している。
そして、△鏡の時代である。
321唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/03(月) 00:04:19.01
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
ここへ、神功渡海を持ってくれば、書紀の記事は正しいとなる。
322日本@名無史さん:2012/09/03(月) 07:29:51.44
古代史に資格なんてあるっけ?

あれば、誰か取得してきなよ。
323卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/03(月) 09:04:53.71
太歳記年法といっても、この年には木星がどこそこにありました、と指示しているだけで、
木星の位置が変わったから年次を変えた、というわけではない。
本末転倒してはならぬ。

木星の位置とは無関係に、一年を区切る指標なり暦があったはずで、
ただ、その年次を表わす方法として、太歳とか干支が用いられたのである。
324日本@名無史さん:2012/09/03(月) 10:13:56.24
太歳紀年法については、とりあえず新城新蔵と飯島忠夫の
論争を読むのがよいのではないか。

この両者の論争については、「科学図書館」
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/sciencelib.html
のなかの「中国古代天文暦法の小部屋(新城新蔵・飯島忠夫を中心に)」
に幾つかの関連する論文がアップされている
325太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/03(月) 14:27:25.85
畿内で最初の大王は神武である。

景行は臭魔伝での末代の天皇であり、九州王朝の存在は景行の日本統一
なんぞ出来てないことを意味する。

日本統一は九州王朝滅亡の文武、元明のころである。
326唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/03(月) 20:16:41.16
紀元1世紀初頭 弥生第4様式末・・地方の土器
紀元1世紀半ば 弥生第5様式初め・・近畿の土器
紀元3世紀初め 庄内式・・・各地の土器が混ざり、九州にも存在する
3世紀中葉すぎ 布留0式・・箸墓  半島の土器も混じる。
3世紀末〜   布留1式・・纒向には少ない。

弥生第4様式末。地方小地域の大王
布留0式。   魏、半島とも関係のある倭地の大王。
327卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/03(月) 21:47:27.25
>>325
知恵は細いが足は太い太国よ、九州王朝存在の根拠は何処に。
328唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/04(火) 00:59:04.78
纏向遺跡とは、2世紀末に人が住み着いてから箸墓までの7、80年間であり、庄内式土器が中心になる。
この中に纒向3代をおさめないと説明ができなくなる。

太国倍年は、崇神元年=237年=πパイで説明。
こんなもんで、纒向の説明ができるわけがない。
だから、九州に”幻の九州王朝”を自作して纒向の説明できない言い訳として
使っているだけ。
329卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/04(火) 08:42:43.16
>>328
>2世紀末に人が住み着いてから

そんな馬鹿なことはありえない。
今から一万年以上前をアトランティス時代というのだが、
その頃人類はアトランティス大陸に住んでいたわけだ。
で、その頃アトランティス大陸以外に人類は住んでいなかったのか、
と問われると、私は知らないから、知らないとしか答えようがないが、
ともかくアトランティス崩壊後にアトランティスから逃れてきた人々が、
全世界に散らばったことは確かであり、日本にもそういう人々が逃れてきた。
だから少なくとも一万年くらい前から日本に人は住んでいたのであり、
当然大和にも住んでいたのである。
330唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/04(火) 11:46:13.15
>当然大和にも住んでいたのである。

人口が少ない時は、住居の位置に偏りが出る。唐子が都市であったから、纒向に村があったわけではない。
2世紀末以前の土器などが皆無に近いのが纒向遺跡
人が住み着いてすぐ、2世紀末に各地の土器が持ち込まれる。
これは、唐子・鍵などを放棄した住民の東方山麓への移住でもある。
これを数字に直すと
189年崇神元年
193年〜 崇神5.6年凶作。逃散
198年 崇神10年 異俗多帰。
まあこういうことが起こったとできる。
331唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/04(火) 15:22:05.05
編年には2通りある。
崇神世=卑弥呼→4世紀箸墓→372年七支刀=百済王家。
この編年が50年遡上した。
崇神5,6年=新羅192,3年=後漢193年→3世紀箸墓→326年七支刀≠百済王家。

新羅192,3年→≠奈勿=近肖古王。

書記も新羅本紀も、双方に空白を差し込まないと時代が整合しない。
332唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/04(火) 15:29:38.55
訂正
×書記も新羅本紀も、双方に空白を差し込まないと時代が整合しない。

新羅本紀には空白の時空があるから、解消する必要がある。
書紀の崇神を引き上げると、百済王家とのあいだが間延びしすぎる。
崇神5,6年=新羅192,3年=後漢193年→3世紀箸墓→372年七支刀=百済王家。
これでは間延びのしすぎである。
333太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/04(火) 18:41:04.70
崇神5,6年≠新羅192,3年=後漢193年

腹ペコじゃぁ到底渡海は千人も不可能。

つまり等号はデタラメ。
334太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/04(火) 18:43:21.13
太国倍年は、崇神元年=237年≠πパイで説明。
こんなもんで、纒向の説明ができるわけがある。
だから、九州に”実在の九州王朝”を証明して、纒向の説明できる言い訳として
使っているだけ。
335太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/04(火) 18:46:34.66
宿主空年は、神功元年前年=274年=日蝕数日間続くで説明。
こんなもんで、編年の説明ができるわけがない。
だから、臭魔に”幻のアスス年暦”を自作して纒向の説明できない言い訳として
使っているだけ。
336太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/04(火) 18:50:28.75
また「真・太国先生」にも読んで戴き、「悪く盲象したね」とお駄めの言葉
を戴いていた。このアスス暦の太陰太陽暦の解読結果を見ると
「ホツマツタヱ」のインチキ性も脱帽するのは、私ばかりでしょうか。 ww

337卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/04(火) 21:52:14.35
ネット史に次のような記述がある。

急利女水皇妻倭太子       AD368 基臨尼今紀 (仁徳代)
<羅>以<急利>女爲<倭>主之婦 AD312 美川大帝紀 (応神崩御、仁徳未即位)

紀年には56年もの差があるが、新羅の急利の娘が倭の太子もしくは倭の主に嫁したという記事である。
年代から考えて仁徳の皇子に嫁いだのだと思われるが、
仁徳の皇子で新羅の女性を妃にした皇子はいるのだろうか。
いなければ、この倭は大和ではないということになるのだが。
338日本@名無史さん:2012/09/04(火) 21:57:59.00
朝鮮人はお断り。
339唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/04(火) 22:07:49.93
ラジオ氏
沾解尼今紀(チォムヘニグムギ) 四年 四月 倭献土物 其太子求婚 于老戯之 "虜汝王為塩奴矣 何可婚乎"
使怒帰和絶 4年(A.D.313) 4月 倭(なぜ)が物産を捧げる, その 太子(太子)が求婚した. 于老(迂路)がそ
の使臣を戯れて "お前の王を捕らえて 塩奴(ヨックノ−)で作る. どうして婚事ができるのか?" と言った.
使臣が画家出る帰る和親が切れた.
* 313- 277= 36 +1= 37歳. (于老の年)
* 癸酉(聖酉)= 313年.
----------------------------
*AD313年に 求婚(求婚)を要請した 倭

年代を書き換えて整合させようとしているだけ。


340卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/04(火) 22:10:28.84
急利の娘が倭に嫁いだということはWikiにも書かれているから、
三国史記にも書かれているのだろう。
だから君らもこういう記事を無視してはいけない。

行程論争に明け暮れるより、
こういう記事をキチンと検証する方が大切なのだぞ。
341卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/04(火) 22:14:43.51
私が先ほどネットでざっと調べた限り、
仁徳の皇子で新羅の女性と結婚した皇子はいない。

ということは上の記事の倭は大和ではない、ということになるのである。
342唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/04(火) 22:33:40.58
奈勿聖帝 317年
十一月加耶君守克殂慕诃立以宣失为太后时加耶与倭相通不遵朝廷之令
至是以倭王女为妻而不听宣失之言遣使责之

317年までには、伽耶(任那)と倭は婚姻関係を結んでいる。
奈勿聖帝紀における”倭”という認識がこれ以前に無い。
343卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/04(火) 22:38:16.58
またこういう記事もある。

<觧忠>等殺<碟>而迎立<腆支>. 其妻<八須>, <仁コ>女也, AD405 永楽大帝紀

仁コの皇女が腆支の妻になったという記事だ。
しかしWikiによれば仁コの皇女で腆支の妻になったような皇女はいない。
尤も記紀に漏れた仁徳の皇子女はたくさんいたかもしれないが。
344唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/04(火) 22:42:46.21
與倭和親互市交婚稱其國曰野
왜(倭)와 화친하여 호시(互市)를 열고 교혼(交婚)하였는데
그 나라를 야(野)라고 칭했다.

このうち”야(野)”を日本語変換すると”野党”と訳される。
訳された漢字に意味はない、その読み方のみに意味がある。
この場合は、野=野党(ヤマト)という読みが妥当だろう。
つまり、倭の存在を認識していてもヤマトの認識は無かった。
345太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/04(火) 22:49:59.61
畿内で最初の大王は神武である。

景行は臭魔伝での末代の天皇であり、九州王朝の存在は景行の日本統一
なんぞ出来てないことを意味する。

日本統一は九州王朝滅亡の文武、元明のころである。

宿主空年は、神功元年前年=274年=日蝕数日間続くで説明。
こんなもんで、編年の説明ができるわけがない。
だから、臭魔に”幻のアスス年暦”を自作して纒向の説明できない言い訳として
使っているだけ。

また「真・太国先生」にも読んで戴き、「悪く盲象したね」とお駄めの言葉
を戴いていた。このアスス暦の太陰太陽暦の解読結果を見ると
「ホツマツタヱ」のインチキ性も脱帽するのは、私ばかりでしょうか。 ppp
346卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/04(火) 22:51:10.47
唐松山氏は奈勿聖帝紀しか読んだことがないのか。
高句麗史も新羅史も百済史もたくさんネットに上がってるのに。
そんなことだから稗箕狐に馬鹿にされるんだよ。

倭は野とも書かれている。野党などとはどこにも書かれていない。
そんな自動翻訳に頼っているからダメなんだよ。
あなたのいいかげんさにも、いいかげん、呆れてきた。
347唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/04(火) 22:59:35.85
>高句麗史も新羅史も百済史もたくさんネットに上がってるのに。

全てを整合させているんだろ?
であれば、日本の歴史と合わせられる新羅中心で良い。
だから、
後漢193年=新羅192,3年=崇神5,6年
崇神58年=新羅209年=任那建国。
動かせない。動かない。
348日本@名無史さん:2012/09/04(火) 23:29:06.44
婆娑尼師今記 (A.D.126 - A.D.158:재위33년)
祗摩紀      (A.D.159 - A.D.191:재위33년)


婆娑尼師今 新羅の第5代の王(在位: 80年 - 112年)
祇摩尼師今 新羅の第6代の王(在位:112年 - 134年)

上側のは前世紀後半に発掘された史料のサブタイトル
下側のがwikiの数値
手を入れれば入れただけ古くなってしまうという構造だな
349唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/04(火) 23:56:06.37
神功52年七支刀、372年−326年=46年
A.D.159−在位:112年=47年
崇神を”後漢193年=新羅192,3年=崇神5,6年 ”ここまで持ち上げると
考古学の纒向に3代(崇神・垂仁・景行)を配すことができる。
その場合、新羅192年は動かせない。
逆に、七支刀(百済王家)が引き上げられる。
326年 神功52年七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午(東晋17日丙午)
350日本@名無史さん:2012/09/05(水) 00:08:09.97
--------------------------------------------------------
【wikiの編年 - 10世紀以降に成立した編纂物による】
--------------------------------------------------------
赫居世 居西干 新羅の 初代の王(在位:紀元前57年 - 4年)
脱解  尼師今 新羅の第4代の王(在位: 57年 - 80年)
婆娑  尼師今 新羅の第5代の王(在位: 80年 - 112年)
祇摩  尼師今 新羅の第6代の王(在位:112年 - 134年)


--------------------------------------------------------
【三國史記新羅本紀記事をAD126により補正した編年】
 脱解没年をAD126に設定すると赫居世在位三十九年はAD42
--------------------------------------------------------
赫居世 居西干 (AD004 - AD064)
脱解  尼師今 (AD103 - AD126)
婆娑 尼師今記 (AD126 - AD158)
祗摩 紀      (AD159 - AD191)
351日本@名無史さん:2012/09/05(水) 00:21:16.08
脱解没年をAD125に設定すると ここのは1年ずれてたりすることにはなるが

すこしおもしろかったところが

三國史記新羅本紀記事自体に編年の齟齬があったというところ

記事編年とおりだと脱解生年の赫居世在位三十九年の年代が合わないのね

複数の系列の酋長さんのところの世継ぎのこと

無駄に纏め上げてシリーズ化したりしているから

そおゆうことにはなるとはおもふが
352日本@名無史さん:2012/09/05(水) 00:40:00.44
本倭人の脱解さんの在位期間は2世紀のあたまの第一四半世紀

ということは

(107) 倭國王【帥升】等獻生口百六十人願請見 のとかぶる時期のひとですよ



てか 【帥升】のに似たお名前のひとに

(47) 蚕支落部【戴升】反屬于漢 本盖馬臣也 二十三年冬句驪蠶支落大加戴升等萬餘口詣樂浪内屬

とか

公孫度字【升濟】 本遼東襄平人也 始度以中平六年(190)據遼東
353卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/05(水) 09:20:15.46
高句麗史を読み直しているが、いろいろ面白いことに気付く。たとえば−

身分ある人の妻を内儀というが、これは高句麗の宮廷女性のトップの位階のことである。
また髪の長さが九尺ある王女の記事があり、日本の平安時代と同じような宮廷が営まれていたことが窺える。
また始祖三代の歴史書を三代鏡と名付けている。これは日本の大鏡、増鏡などを想起させる。
舎人、采女、歌会…。悉くこれ高句麗由来のものである。
日本は想像以上に高句麗文化の影響を受けている。

>>352
戴升。これは私も注目したが、残念ながら年代が違った。
しかし遼西方面の部族の長の名前には日本人っぽいものが結構ある。
354日本@名無史さん:2012/09/05(水) 09:39:51.08
>>347 :349
崇神5,6年の記事は疫病の流行(インフルエンザ、鳥ウィルス)など
ではなく、世界的異常気象による大凶作(冷害)ではないでしょうか
この頃の天変地異の古記録についてご存じの方はいませんか.
もしそうなら、朝鮮半島、中国、ローマなどにも文書記録があると
思われます.よろしくお願いします.
355太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/05(水) 15:37:42.87
崇神を”後漢193年=新羅192,3年=崇神5,6年 ”ここまで持ち上げると
考古学の纒向に3代(崇神・垂仁・景行)を配すことができない。
356太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/05(水) 15:41:52.01
後漢193年=新羅192,3年≠崇神5,6年

畿内空腹千人もの糧食と水とを十数日分とその収容可能船舶を確保すること
なんぞ到底不可能事であり、空腹ヤセ多抜キこと宿主の主張はデタラメなの
である。
357卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/05(水) 17:36:28.50
最近の収穫−

高句麗と新羅、高句麗と百済の国境がどのあたりか、大体分った。

それから楽浪と呼ばれる地域は三箇所にあったような気がする。
一つはウラジオストク界の楽浪国、一つは漢が遼東に置いた楽浪郡、
もう一つは遼西方面に鮮卑などが置いた楽浪郡。

それから鶏林というのは国名である可能性がある。
これが果たして新羅と同一かどうかは今後の研究課題である。
鶏林が吉林であることはほぼ確か。
358唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/05(水) 18:26:20.45
>この頃の天変地異の古記録についてご存じの方はいませんか.

http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi

新羅本紀の192年や後漢書の183厳冬,193年の冷夏凶作。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。袁山松書曰:「是時羣賊起,天下始亂。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。
この時代は降水量が少ない、冷夏が予想される。つまり温暖化は雨量の増大、この反対の出来事である。
このグラフから、年輪年代が正しいことが解る。

後漢193年=新羅192年 1年の齟齬、残り46年。
359唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/05(水) 22:19:28.11
新羅本紀に書紀の記事を合わせると

崇神天皇 189年〜216年 第X様式末 五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応。
垂仁天皇 217年〜239年 239年邪馬台国官伊支馬。景行天皇 240年〜261年 
成務天皇 262年〜265年 46年加算する 262〜311。仲哀天皇 266年〜274年 312〜320
神功皇后 275年〜343年 321〜389。46年加算すると百済王家が整合する
神功52年 七支刀 326年。+46年で372年。
応神天皇 344年〜384年 390〜430
仁徳天皇 313年〜399年 359〜445 神功三九年大歳を元年とする。
履中  400〜  405年兄王は前年帯方界での行方不明。 反正  406〜

神功52年372年七支刀を支持しても、応神天皇末が430年はあまり支持されない、
また、その後ろに仁徳を置くこともない。
なぜだ?
360太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/05(水) 22:23:39.40
崇神天皇×189年〜216年 第X様式末 五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応せず。

後漢193年=新羅192,3年≠崇神5,6年

畿内空腹千人もの糧食と水とを十数日分とその収容可能船舶を確保すること
なんぞ到底不可能事であり、空腹ヤセ多抜キこと宿主の主張はデタラメなの
である。


361太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/05(水) 22:25:07.51
>応神天皇 344年〜384年・・・
>仁徳天皇 313年〜399年

 上は ↑ 松沢病院ご入門の論
362日本@名無史さん:2012/09/05(水) 23:16:31.01
空っぽ山もふてえ野郎も知らねえな。
神武は2世紀末(180年前後)の倭国乱の時に九州から瀬戸内を経て近畿に入った人物だ。
事の始まりは異常気象による飢饉で半島から倭人や韓人(中には高句麗人も混じって)が九州
に押し寄せたことだ。帥升系倭国はそれら難民を受け入れたが食糧不足に陥り大混乱となった。
この食糧不足は直ぐには解消せず、腕づくでの奪い合いが始まり、倭国乱と呼ばれる争乱が数年
間続いた。

神武は倭国王家の一員であったが、争乱によって弾きだされるようにして(記紀では単に新天地
を求めてとぼかしている)九州を出て行ったのである。半島からの難民も相当数随行している。
奈良に入った神武は奈良湖の干拓事業を始めた。この事業が認められて現地のボスとなったので
ある。
363唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/05(水) 23:34:57.76
>神武は2世紀末(180年前後)の倭国乱の時に九州から瀬戸内を経て近畿に入った人物だ。

1世紀半ばからの弥生第X様式土器とは、
多少の違いはありつつ、畿内全般で使われた土器である。
この頃の、関東では、市か郡程度の範囲では同じであるが、となりの郡とでは違う様相を示す。
つまり、弥生第X様式始まりとは、機内がひとつになった時空をあらわす。
弥生第X様式の終焉は、2世紀末ころであり、
唐子・鍵移籍の終焉(弥生第X様式を環濠に捨てる)
そして、各地の土器が持ち込まれるが、そこに九州の土器は無い。
364唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/05(水) 23:49:59.73
ホ30025 ヲシクモと ナガスネうてば にけゆくを をひてカハチに とゝまりて タケチノコリと
アウヱモロ ヤマトのソフに ふせがしむ モノヌシかえり ヲシクモは カハチにゆきて
ヲシホより カスガをまねき ヒラヲカの ヤシロまつりて カミとなる ツクシのタネコ
モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて おさめしむ ヲヲモノヌシは
アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも サホコみな タミをおさめて
しつかなり いまアマキミの クラヒなる

神武即位の時空だ。
近江伊勢遺跡の繁栄は、弥生後期の始まり(1世紀半ば)であり、弥生後期後半で衰退する。
大物主の初子たたねこを崇神に使えさせる。
つまり、弥生後期後半(193年崇神5年)の凶作までが近江伊勢遺跡の繁栄。
365ローガン:2012/09/06(木) 01:37:18.30
>>362
>奈良に入った神武は奈良湖の干拓事業を始めた。

久しぶりですね。
366卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/06(木) 08:49:54.66
>>362
この男が、こういうことを、冗談で書いているのではなく、
本気で書いているのだとしたら、病院に行った方がいい。
367日本@名無史さん:2012/09/06(木) 08:53:28.48
縄文人がキチガ○というのは皆知ってる
368日本@名無史さん:2012/09/06(木) 09:01:09.57
朝鮮人が同類なのも皆知ってる
369卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/06(木) 09:02:54.52
中筒男は黙っていなさい(苦笑)
370radio:2012/09/06(木) 10:47:40.90
ニナ豸モ� シoト�
1. コユセモハタ (41ト�) ヘニカィ 13ト� ~ 53ト�
2. Xヘ� (22ト�) ヘニカィ 53ト� ~ 74ト�
3. トマス� (20ト�) ヘニカィ 74ト� ~ 93ト�
4. ネ蠡� (20ト�) ヘニカィ 93ト� ~ 112ト�
5. テ匿� (15ト�) ヘニカィ 112ト� ~ 126ト�
6. ニナ豸 (33ト�) 126ト� ~ 158ト�
371radio:2012/09/06(木) 10:49:24.27
婆娑記 紀年
1. 赫居世 (41年) 推定 13年 ~ 53年
2. X王 (22年) 推定 53年 ~ 74年
3. 南解 (20年) 推定 74年 ~ 93年
4. 儒理 (20年) 推定 93年 ~ 112年
5. 脫解 (15年) 推定 112年 ~ 126年
6. 婆娑 (33年) 126年 ~ 158年
372radio:2012/09/06(木) 11:06:12.98
伐休紀 10年, AD253年, 6月
十年 六月 倭大饑 男女一千余口 乞食來泊 命居南鄙閑地 賜食就業 是爲倭圃 與作平齊名

<日本書紀 崇神天皇の紀年>
開化 28年 => 崇神 1年, 247年, 1月. (崇神 即位, 247年, 1月) <== 基準点, 立御間城入彦尊爲皇太子
開化 60年 => 崇神 2年, 248年, 4月.
崇神 元年 => 崇神 3年, 249年, 1月. (崇神 1年, 247年, 1月)
崇神 3年 => 崇神 5年, 251年, 9月. (崇神 3年, 249年, 9月)
崇神 4年 => 崇神 6年, 252年, 10月. (崇神 4年, 250年, 10月)
崇神 5年 => 崇神 7年, 253年. (崇神 5年, 251年)
崇神 6年 => 崇神 8年, 254年. (崇神 6年, 252年)
崇神 7年 => 崇神 9年, 255年, 2月. (崇神 7年, 253年, 2月) <== 基準点, 倭の大饑.
崇神 8年 => 崇神 10年, 256年, 4月. (崇神 8年, 254年, 4月)
崇神 9年 => 崇神 11年, 257年, 3月. (崇神 9年, 255年, 3月)
崇神 10年 => 崇神 12年, 258年, 7月. (崇神 10年, 256年, 7月)
崇神 11年 => 崇神 13年, 259年, 4月. (崇神 11年, 257年, 4月)
崇神 12年 3月=> 崇神 14年, 260년, 3월. (崇神 12年, 258年, 3月)<== 基準点, 古事記の沒年干支

(*崇神 13年 => 臺與 1年, 259年, 1月.)
崇神 17年 => 臺與 5年, 263年, 7月
崇神 48年 1月 => 臺與 6年, 264年, 1月
(*臺與 7年, 265年, 1月.)

崇神 48年 4月 => 垂仁 1年, 265年, 4月.
373日本@名無史さん:2012/09/06(木) 17:36:00.97
>>371

1. 居世 (61年) 004年 - 064年 (居世在位三十九年=AD42年より)
2. 慈充 (21年) 064年 - 084年
3. 儒理 (19年) 084年 - 102年 (記事が疎な期間を短縮切捨)
4. 吐解 (24年) 102年 - 125年 脱解本多婆那國所生也
5. 婆娑 (33年) 126年 - 158年 (脱解二十四年を125年と仮定)
6. 祇味 (33年) 159年 - 191年
7. 逸聖 (21年) 192年 - 212年
7. 達羅 (29年) 213年 - 243年 216多婆那以迎烏カ爲君←息長垂先祖
                     232倭女王遣其弟狛比古等獻其土物
                         ↑       ↑
                       卑彌呼     難升米
                     御眞津比賣命   御眞木入日子印惠命
                     御間城姫      崇神天皇
                   父:大毘古命      父:大毘毘命(開化)
                   母:伊賀迦色許賣命 母:伊賀迦色許賣命
374日本@名無史さん:2012/09/06(木) 18:34:54.21
女國女王のレビラト婚の履歴

♀鏡の雌鳥女王   ♂雄鶏
-------------------------------------
   内色許賣 ┳ 【08.孝元】
伊賀迦色許賣 ┳ 【08.孝元】
伊賀迦色許賣 ┳ 【  -  】大毘古
伊賀迦色許賣 ┳ 【09.開化】大毘毘
  御眞津比賣 ┳ 【  -  】卑彌弓呼
  御眞津比賣 ┳ 【10.崇~】御眞木入日子印惠


けっかでかしたので著名なのが
-------------------------------------
伊賀迦色許賣 ┳ 【  -  】大毘古
     御眞津比賣(卑彌呼)

伊賀迦色許賣 ┳ 【09.開化】大毘毘
     【10.崇~】御眞木入日子印惠(難升米)

  御眞津比賣 ┳ 卑彌弓呼
     【11. 垂仁】伊玖米入日子伊沙知命(掖邪狗)


  御眞津比賣 ┳ 【10.崇~】御眞木入日子印惠(難升米)
     千千都久和比賣命(壹與) or
          伊賀比賣命(壹與)
375卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/06(木) 18:40:29.70
今日の収穫−

新羅の月城というのは、どうやら開城あたりにあったようだ。
臨津江地方を新羅は百済から借りていた。
月城はその地方にあったと思われる。

おまけの話。伊作大先生は、都をトと読ます例はない、とのたまっているが、
日本はいざ知らず、朝鮮に於いては必ずしもそうではない例を発見した。

七月, <毗处>築<刀那城(都羅山在開城)> 
<毗処>, 重築<都羅城>乃<刀那>也   (長壽大帝紀)
376362:2012/09/06(木) 21:31:37.33
>>366
この前「人物はよさそうだ」と褒めてあげたんだが、「病院に行った方がいい」とコメントするとは!
まあ、仕方ないか。「人が良い」は必ずしも褒め言葉ではないからね〜。
377362:2012/09/06(木) 21:35:26.46
>>365
>久しぶりですね。

はて?いつかお会いしましたか?
378日本@名無史さん:2012/09/06(木) 22:28:43.19
ローガンによる、オレオレ詐欺か。
379唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/06(木) 22:30:52.48
>伐休紀 10年, AD253年, 6月
>十年 六月 倭大饑 男女一千余口 乞食來泊 命居南鄙閑地 賜食就業 是爲倭圃 與作平齊名
>伐休紀 10年, AD253年, 6月
十年 六月 倭大饑 男女一千余口 乞食來泊 命居南鄙閑地 賜食就業 是爲倭圃 與作平齊名

崇神5年は凶作の年であり、民の離散は、同6年である。
AD253年,と出来るのは、景行20年頃で
日本武尊の九州で、「檢察諸國、諸國畏憚之、」
日本武尊関東で倭国統一、ここが大倭成立。
使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る

380唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/06(木) 22:44:50.73
>伐休紀 10年, AD253年, 6月
>十年 六月 倭大饑 男女一千余口 乞食來泊 命居南鄙閑地 賜食就業 是爲倭圃 與作平齊名

伐休紀 10年=後漢193年6月寒風冬のごとし。
逆に言えば、設定引き下げに失敗すると
神功52年七支刀=372年が326年に引き上げられる。
46年差。
381卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/06(木) 22:59:30.54
まさか>>304>>362が同じ人物とは。
文章だけでは分らないものだな〜。
382362:2012/09/06(木) 23:31:57.90
>>381
ははは。私は百の人格を演じ分ける名優の如く、文章を使い分けることができるのだ。
人は私のことをシェークスピアの生まれ変わりと思う(だろう)。
情け深さは仏陀の如し。何を隠そう、マザーテレサは私の母だ。
383日本@名無史さん:2012/09/07(金) 00:28:49.83
>マザーテレサは私の母

母が明治43年生まれなんだから、>>362は後期高齢者だな。
384卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 08:55:37.55
>>382
あまり多くを語らないほうがいいよ、底が割れるから。
名無しの奴らは、一見、知識もありそうで、たまにまともなことも書くのだが、
腰を入れて話してみると、トンデモない珍説盲説の持ち主だったりする。
九州論者はたいていこれで、畿内論者も、おそらくはそれに近い。
385radio:2012/09/07(金) 15:39:36.84
成務 48年 => 仲哀 1年, 326年, 3月. (立甥足仲彦尊爲皇太子)
成務 60年 => 仲哀 2年, 327年, 6月.
仲哀 元年 => 仲哀 3年, 328年, 1月.
仲哀 2年 => 仲哀 4年, 329年, 1月.
仲哀 8年 => 仲哀 5年, 330年, 1月.
仲哀 9年 => 仲哀 6年, 331年, 2月. <=== 基準点(331年)
神功 元年 => 神功 1年, 332年, 2月.
神功 2年 => 神功 2年, 333年, 11月.

神功 3年 => 應神 1年, 335年, 1月. (335年= 乙未, 應神 元年) (立譽田別皇子爲皇太子)

"成務"という呼称で.. "務"という字を辞書で捜してみれば..
"務= 政事" という意味があります.
そうするので, "成務"という意味は "政事を 完成した." こんな意味です.

成務天皇の一番重要な政事は何でしょうか?

すぐ熊襲の征伐でした.
成務天皇はお父さんである日本武尊ともに熊襲の征伐を完成するから そんな意味が天皇の名前で形成になったのです.

*景行 46年 = 成務 元年 <=== 古書
*景行 51年 = 成務 元年 <=== 日本書紀

どんな古書を見れば.. 成務天皇の元年を現わす"立太子"の記事が日本書紀での景行 51年にあるのではなくて, 景行46年になっていて, 元年の基準店が上に上がっていることを見られます.
こんなに記事を再調整したことは日本書紀の編集者が成霧天皇の記事を日本書紀の中にたくさんたくさん残るためだからです.
それで ideaを出した形態が "3重に" 記事を配置しておいた形態です.
このようにすることで.. 日本書紀の編集者は成霧天皇の記事たちを景行天皇の記事の?にたくさん入れることができました.
386日本@名無史さん:2012/09/07(金) 16:08:19.30
>>384
素人なんだから当然じゃね?
387日本@名無史さん:2012/09/07(金) 16:35:57.15
>>362
崇神5年は181年ではありませんか.ニュージランドで火山の大爆発があったとされる年です.
成層圏に火山灰の塵が溜まるので寒くなるのです.
535年欽明天皇の時代のクラカタウ火山大爆発の時もそうでした.
魏志倭人伝 日本書紀でググッて見て下さい.

388日本@名無史さん:2012/09/07(金) 16:37:30.50
火山ってその二つしかないの?
389卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 18:47:19.77
大体、唐松山は、飢餓の年は滅多に無かったと思い込みすぎである。
ネット史を読めば、旱魃、大雨などで民飢餓という記事がごろごろある。
夏なのに寒い、とか、冬なのに雪が降らない、という記事もある。
日食の記事もゴロゴロあるのである。

だから、そんな自然現象記事で、紀年を割り出すことはできない。
390日本@名無史さん:2012/09/07(金) 19:25:18.25
まああれだわそおゆうのは当たってもピンポイントであたるだけだな

てか紀のは編年じたいがもとのがへんですね

予め枠組み確保しちゃってからに記事を流し込むような手法だからな

まんべんなく記事があるとゆうよりも初年に振れた方にかためて流し込んである氏ね

391唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/07(金) 20:19:04.14
>ネット史を読めば、旱魃、大雨などで民飢餓という記事がごろごろある。

半島の話ね。
半島は、畑作が中心になる。だから、雨が適度にふらねばならない。
半島における水田は、この伐休紀の倭人が南部で水田稲作を行う。
そして、本格的に水田稲作を取り入れたのが、323年神功49年以後だ。
いいかい、大陸中国の黄河(今の北京)あたりは全て畑作だ。
新羅王家は大陸伝いに半島南東部に入る。
だから、水田稲作は持っていない。
392362:2012/09/07(金) 21:58:53.99
>>387
崇神は4世紀初めの人物ですな。初代神武から1世紀に亘った奈良湖の干拓事業を完成させて地位を確立
したのですな。
393卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 22:17:30.51
>>391
いや、そんなことはない。ネット高句麗史を読めば、
王子や王女が生まれたときに、その母親に米を与えている。
323年神功49年よりずっと以前からだ。(だったと思う。いちいち記憶していないが。)

それに米作であろうと麦作であろうと、不作のときは飢餓になるわけで、
そういう記事がごろごろあるのだから、編年の決め手にはならない。
394日本@名無史さん:2012/09/07(金) 22:23:15.19
ネット高句麗史て改竄があるらしいね
395卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 22:32:36.46
改竄があろうとなかろうと君らには関係ないことである。
どうせ君らは読まないのだから。
396唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/07(金) 22:44:13.25
>その母親に米を与えている。

そう、畑作のコメね。

>編年の決め手にはならない。

弥生後期後半に何があったか?
唐子・鍵遺跡が放棄されたのは、弥生後期後半である。
近江伊勢遺跡の衰退も、弥生後期後半である。
青谷上寺地遺跡の、分解された人骨は食人を表す、同じく弥生後期後半である。

この直後に、纒向に各地の土器が持ち込まれる。
欽明天皇二年(五四一)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年。辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
・・・己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。

日本の製鉄遺跡は、”欽明天皇二年(五四一)”この直後からしかない。
397唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/07(金) 22:53:56.11
それから、纒向遺跡。
纏向遺跡は、何時だ? 2世紀末頃から箸墓築造(260±10年)までだ。
埴輪と出来るのは、ホケノ山(225〜250年)の穴あき壺からだ。
つまり、239年邪馬台国官伊支馬と同時代である。
この239年付近に崇神を配しても、半島は魏・晋が管理している。
だから、この時代では任那建国が設定できない。
398卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 23:02:42.59
で、唐松山の目的は何なのだ?

卑弥呼をいつの時代に設定したいのだ?
神武をいつの時代に設定したいのだ?
崇神をいつの時代に設定したいのだ?

あなたは大和説なのか?
大和説なら卑弥呼を誰に比定しているのだ?
狗奴国はどこに比定しているのだ?
399唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/07(金) 23:16:50.50
だからね。
後漢193年=新羅192年=崇神5年・・・1年
神功52年七支刀=372年または326年。・・・46年

193年=崇神5年から七支刀326年。この時空は
ネット朝鮮史の新羅本紀47年引き下げと同じ時空になる。
つまり、新羅本紀の奈勿王の世つぎの齟齬は修正されるべきであるが
この、奈勿王を固定するのか引き上げるのか?
奈勿王を固定した場合は、それ以前の王が引き下げられるのであるが
どちらが歴史とできるのか?
奈勿王を引き上げた場合、崇神の任那建国や神功紀が正しいとできるのである。

書紀の記事の正しさを証明する。そして、編年の正しさとできる。

>大和説なら卑弥呼を誰に比定しているのだ?

倭人伝239〜240年は、このスレを最初から読んでくれ。
この後の出来事も書こうか?
400卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/07(金) 23:45:49.26
>>399
いや、だからそんなことはどうでもいいのだ。
>>398
の質問に簡潔に答えてくれ。根拠は書かなくていいから。
401唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/07(金) 23:59:51.52
240年景行元年 
正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國
田道間守は、梯儁等を伴い弥生に大和へ帰着する。その時垂仁(伊支馬)の葬儀は終わっている。
通常、天皇の葬儀は、崩御年の翌年が多いのに、垂仁の場合は、崩御から半年で葬儀だ。
つまり、景行のもとに魏使の訪問が伝えられていたとするべきだろう。
晋書正始元年東倭重譚納具。その年のうちに景行は「詔書」のお礼をする。
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人・・・伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁推定30才。
245年其六年 詔賜倭難米黄幢付郡假授 女王に黄幢假授。
景行天皇十二年(壬午八二)七月。熊襲反之不朝貢。←誰の言い分か?この時点では、景行は九州を
治めていない。つまり、九州女王国の言い分である。
だから、九州遠征、その最初に筑紫神夏磯媛(カンカシヒメ)へ挨拶するのである。
筑紫神夏磯媛は我之屬類。倭王景行の「我之屬類」として、筑紫女王神夏磯媛。
だから、この戦争は、女王と景行軍対女王に従わない勢力及び熊襲(熊本)。
この戦争の最後が熊襲(熊本)の平定である。つまり、周辺諸国の調略が先にある。
この戦争の進め方に魏使の関与がみてとれる。
つまり、戦争の仕方を知らなければ、まず本丸に攻め込みそこを落とす。
失敗すれば、回復不能に陥る可能性がある。だから、弱い周辺部から攻め落とすのである。
この戦争中に12年神夏磯媛死亡、18年男王死亡。
20年 遣五百野皇女令祭天照大神。(253年)
402唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/08(土) 00:05:53.78
ホ38300      フソサミヱ キサラギヨカに
ホ38301      ヰオノヒメ クスコウチミコ
ホ38302      イセノカミ まつるいわひは
ホ38303      ツクシむけ ヒメコトシソヨ
ホ38304      ヤマトヒメ コトシモモヤツ
ホ38305      よろこびて ヨハヒいたれば
ホ38306      ワレたりぬ わがヤソモノべ
ホ38307      ソフツカサ ヰオノにうつし
ホ38308      つかえしむ

壹與=五百野姫を軍隊(1大卒)付きで筑紫に派遣。
背けば、日本武尊を派遣。日本武尊は帰ったその年(28年=40年)秋に関東へ、
これで邪馬台国が大倭となる。
使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大倭は伊都国に刺史如きを置き 女王国(九州)の北に特別に置いた一大率を監督し治め
諸国を検察する 諸国はこれを畏れ憚る
403日本@名無史さん:2012/09/08(土) 01:32:30.42
ホツマ真理教信者に、何を質問しようと
訳の分からないことを口走るだけだ。
404日本@名無史さん:2012/09/08(土) 04:28:41.79
唐松山のすごさを垣間見た思いがする
405唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/08(土) 10:11:50.26
東夷伝の中で一番上下関係が安定し、争い訴訟ごとの少ないのが倭国だ。
倭国の老若男女は皆酒が好きとも書いてある。
これだけで、当時の政治機構、形態を分析すれば、その中心に“神宮、神社”という政治の中心が見えてくる。
酒造りに必要なものとして“米”は必須だ、そして、米を醸すには、温度管理がある。
発酵し酒ができるまで、40°C程度を数日間保つ。個人でやるより、集団で行う方が楽だ。
だから、ここに神社という政治機構が見える。「お神酒上がらぬ神はない」
朝廷のシノギとして、種貸しがある。これをスムーズに行うためには、祭りに酒を振舞う。
酒が飲みたければ、この政治機構を民も容認する。そして、共同作業だ。
これを否定して、村8分になれば酒が飲めない。つまり争いも少ない。

この争いが少なく且つ上下関係もはっきりしている。これに魏が目を付けないということはない。
この朝廷を冊封体制に組み込む。組み込むにあたり分裂国家より統合された国家の方がより良い。
だから、倭国統一に関与し、倭国統一を果たす。それが大倭なのである。
そして、この大倭を活用したのが、晋であり、神功渡海である。
406唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/08(土) 10:30:43.39
274年 晋書帝紀 二月,分幽州五郡置平州。
326年 神功52年七支刀。
この数字から割り出される編年は
274年神功渡海(古事記壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。)
神功皇后 275年〜343年
応神天皇 344年〜384年。
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。(古事記丁卯・・・399年丁卯)
神功39年を239年景初3年として、74年後の313年に仁徳が即位する。
その神功39年大歳は、仁徳即位年でもある。
この渡海が縁で、新羅から毎年調(税)が納入される。それが土器編年の纒向5類、布留1式になる。
407日本@名無史さん:2012/09/08(土) 13:00:19.74
水上のおやしろで瓜喰ってお月見してたりのは

ふつうの高句麗のイメージからほど遠いとゆわざるをえないかな

(BC23) 七月 上(芻牟)與召皇后(召西奴) 如胡盧湖 玩月食瓜而 慰二桂之靈 於湖上神祠
408卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/09(日) 19:56:50.66
朱蒙の重臣で、新羅昔氏の祖とされる陜父はロシア人だったのではあるまいか。

<芻牟>與<好人>親徃<曷思國>懷柔<黃頭>民,(中略)
有子曰<陜父>八歲能觧文,願為<芻牟>臣,其母再贊兒,黃頭而雪膚.

黃頭で雪膚といえば金髪の白人ではないのか。
409卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/09(日) 21:02:22.03
楽浪王柴吉が牛山を襲ったという記事があり、その後の記述から判断しても、
この牛山は吉林にあった牛山(丸都)とは別である。

とすれば高句麗と新羅がしばしば衝突した牛山というのは、
この、柴吉が襲った牛山かもしれない。
410日本@名無史さん:2012/09/09(日) 22:18:41.06

>>402

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1326970386/
学問・文系 [日本史] “謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!63”

361 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2012/01/25(水) 22:54:16.91
>>326
ツクシむけ ツクシ平け
大和から伊勢 斎宮は伊勢


倭姫命世記

【五百野皇女、日本武尊】

 大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけ のすめらみこと)の二十年[庚寅]、倭姫命、「歳既に老いぬ、仕ふること能はず、

吾足りぬ」と宣ひて、斎内親王に仕奉るべき物部八十氏の人々を定め給ひて、十二司寮官等をば五百野皇女久須姫命(いほののひめ

みこ くすひめのみこと)に移し奉る。
 即ち春二月[辛巳]朔[甲申]、五百野皇女を遣して、御杖代とて、多気宮を造り奉りて、斎ひ慎しみ侍らしめ給ひき。伊勢斎宮群

行の始、是なり。ここに倭姫命、宇治の機殿の礒宮に坐し給へり。日神を祀奉ること倦きことなし。


伊勢斎宮群行の始、是なり。
411唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/09(日) 22:44:37.49
>倭姫命、「歳既に老いぬ、仕ふること能はず、吾足りぬ」と宣ひて、

この状態じゃあ、日本武尊に対応できないわな。
412日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:01:18.98
五百野皇女を遣して、御杖代とて、多気宮を造り奉りて、斎ひ慎しみ侍らしめ給ひき。


多気宮
413日本@名無史さん:2012/09/09(日) 23:03:10.99
ホ38304      ヤマトヒメ コトシモモヤツ
ホ38305      よろこびて ヨハヒいたれば
ホ38306      ワレたりぬ
414唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/09(日) 23:07:05.88
ホ36002 ヤマトヒメカミしつむアヤ
タマキミヤ コホナツキソム キサキユメ ヤマトヲヲクニ カミのシテ たまえばはらみ
ツキみちて うまずにやめて ミトセのち ナヅキソムカに うむミコの ナはヤマトヒメ
あとやみて カナヅキフカに ハハまかる
ホ36021 ソヤトシサツキ ソカキサキ うむミコニシキ イリヒコの イムナヰソキネ
フソマフユ うむミコヤマト オシロワケ イムナタリヒコ

倭媛は母を亡くしたから、斎王となる。景行とは数字上8歳年上。まあ5歳以上は離せないだろう。
景行元年に、日本武尊が誕生する。ここで景行を19歳とすると
景行27年で日本武尊16歳であるから、この時点で倭媛の年齢は、推定30才程度である。
415唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/10(月) 00:22:21.63
>御杖代とて

ホ36082 垂仁22年 フソフホシハス スエヤカに ヤマトメヨシコ コトシソヒ カミにみつぎの
ミツエシロ ワカゴオヤコが ともなふて ウスメがミグジ あぐるとて をとすクシだに
トシこえて いでたつハツヒ アケコハラ イセタカミヤに いりませば
ホ36093  ミトセのち トヨスキヨハヒ モモミツで ミツエならすと みならわせ
ホ38308  景行20年 クスコヲカミの ミツエシロ タケノミヤヰに つゝしみて
つかえはんべる ヤマトヒメ ウヂハタドノの イソミヤに ひらきしづかに
ヒノカミを まつればながく うまなくぞ

「御杖代」ではないのでは?
416唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/10(月) 02:17:40.43
訂正
×景行27年で日本武尊16歳であるから、この時点で倭媛の年齢は、推定30才程度である。
○景行27年で日本武尊16歳であるから、この時点で倭媛の年齢は、推定40才程度である。
417日本@名無史さん:2012/09/10(月) 18:19:33.39
朝鮮くんはがむばって読むところがえらいよな

まあね読めないひととかはしょうがないけどさ

嘘読み程度のはやれるかもしれないくせに読む気の無いやつは論外

もおさ

まんどくさいって居直るきちがいとかもいたりしてさ
418日本@名無史さん:2012/09/10(月) 18:45:02.43
>>408
(BC42) 「卯 原贊太子 母再贊妃 妃加菽公女韋氏 封曷思王」

17歳の芻牟が再贊さんに原贊太子を生ましておる

BC43に陜父が八歳だから陜父はBC50の生まれ

再贊さんは陜父のかあちゃんで

子を産ませたおねえさんの息子さんが陜父なんだから

「有子曰陜父八歳」云々の書き方ははじめて会ったみたいで他人行儀だね
419日本@名無史さん:2012/09/10(月) 19:03:12.00
(解慕)漱皇羊皇后 諱聖 黄竜侯羊川(烏禅幕)之女

三女 禽 為胡王虚閭(權渠單于)之妻 生子狦(稽侯:呼韓邪)

匈奴史のも書き換えを要すだわな

烏禅幕は西の方の酋長だと勘違いされてきておるわ

たしかに遼西とか烏北平とかのあたりのほうがストーリーの通りが良い罠
420卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/10(月) 21:21:57.44
>>418
まだそこまでは読んでいないが、
そこに書いてあるのは、太子と、その母と、その封国の一覧表であって、
東明十九年の話ではない。
陜父と出会った後で、その母を妃にしたのだろう。
>>419
黄竜はハルピンあたりにあったと思われる国で、
羊川というのは、たしか朱蒙と父母か祖父母を同じくする、朱蒙の同族である。
匈奴も鮮卑も、早くから朱蒙の同族と婚姻関係にあるはずだ。
高句麗は中国の王族とも姻戚関係にある。
魏や呉や越の王を高句麗が任命していたと思う。
421日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:53:28.83
>>418
あちゃあ まぬけなことかいちゃったなあ
422日本@名無史さん:2012/09/10(月) 23:58:17.07
乾分にした子のの金髪母にてえだしたりしてさ
423唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/11(火) 02:27:11.65
5世紀の金冠

http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/02/blog-post_27.html
シベリアと新羅・百済・伽倻の間には高句麗という国があったのに、高句麗にはこのような冠はないようだ。
高句麗を経由せずに、どのようにしてシャーマニズムや樹木形や鹿の角形の立飾のある冠が伝わったのだろ
う。

奈勿大圣神帝纪
 @323年 7年水羊=癸未 三月夫余流民三十户又来降夫余与倭相通年
年受其民散置都鄙倭臣熊彦美而善辩与阿尒相通多听其言故国人异反或归于我亦归于丽
A327年(火豕=丁亥、) 禁买扶余女为妻先是小民无妻者多买扶余女子扶余怨之至是命禁之仍许加耶民相婚
B339年(黄豕=己亥、)黄豕正月以扶余降民分置南路择其有技者属于各典以通其才

339年に60年を加えると、高句麗軍が新羅に駐留している。
北方扶余の降民の説明ができない、またこの技術者を各典に配置することもかなわないだろう。
考古学は、北方扶余の金細工が新羅に渡ったことを認めている。
424卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/11(火) 09:24:04.89
唐松山はあいかわらず誤解しているな。
ネット新羅史に夫余と書いてあるのは百済だと、何回言ったら分かるんだ。

それにあいかわらず奈勿大神帝紀しか読んでいないようだ。
高句麗にはちゃんと神仙思想があったのだ。
神仙か仏教か儒教かで迷っているところなどは日本の仏教受容期と同じだ。
425唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/11(火) 10:09:47.19
>ネット新羅史に夫余と書いてあるのは百済だと、何回言ったら分かるんだ。

扶余と書いてあるのは、不耐濊こと百済の前身である。
西晋滅亡まで、不耐濊は民間(帯方)と雑居する。
つまり、
扶余(不耐濊・百済)という勢力は北方の扶余よりは少しマシな土地にいる。
帯方は逃げ出すほど居心地は悪くない。
320年?に北方扶余は高句麗に攻め込まれ、数万の人民を略取されている。
この略取された人民が南に逃げ出した場合でも”扶余の降民”である。
前燕は、342年に、高句麗の人民を搾取する。そして、347年には、北方扶余の人民を搾取する。
この時点では、百済は独立してもっとも勢いのある勢力であるから、ここから逃げ出す人民はいない。
そこで問題となるのが
好太王碑と百済本紀の関係である。
百済本紀を信じても、その事跡を確認できないのが韓国考古学。
好太王碑のいう安羅までの南下は金官伽耶の変化で確認できている。
金官伽耶が釜山から追い出された事は確認できているが、ソウルの積み石塚を近肖古王の墓とする。
同じ積み石塚は、同じ時期に王碑の近くでも築かれている。
426唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/11(火) 10:21:31.39
韓国の言い分を具現化しなくてはならない。
まず
百済は馬韓から起こる。
近肖古王の墓は積み石塚である。(同時代の高句麗と同じ墳墓)
武寧王の墳墓は、横穴式円墳の範疇に入るが、近肖古王の墳墓を継承していない。
馬韓土器と百済土器は別物である。簡単に言えば、扶余と馬韓に違いがある。

矛盾だらけなんだな。
427卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/11(火) 12:41:12.08
>>425-426
まったくあなたも分からず屋というか、頑固というか、救いがたい人だな。
夫余の王の名前を見て御覧。百済の王の名前が書いてあるだろ。

扶余と馬韓に違いがあるのは当たり前である。ネット史を読めば分かるが、
百済は最初から馬韓にあったのではない。温祚が南下して馬韓の東北の地に住まわせてもらったのだ。
その後平壌付近に移って、馬韓を滅ぼしたのである。
428唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/11(火) 21:58:30.87
>馬韓を滅ぼしたのである。

であるならば、馬韓は百済の一部になるが、
馬韓土器は百済土器ではなく、前方後円墳が光州に存在する。
つまり、5世紀後半に百済に分け与えた馬韓が存在するということだ。
429唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/11(火) 22:18:58.65
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/koguryo_006.htm
4世紀になると積石が段状になる方壇階梯式積石塚へと発展する。山城下古墳群では積 石墓は450基、16%、方壇階梯積石墓は9基しかない。なお、大王陵、将軍塚のような巨石古墳は高句麗の積石塚の中でも集安にしか存在せず、い ずれも王陵クラスと考えられる。

http://ameblo.jp/ame6t2o5utilyuu/entry-11057147247.html
.韓国ソウル・そのC「石村洞百済初期積石塚・夢村土城」

集安の積石塚は、高句麗の墳墓である。
石村洞百済初期積石塚を近肖古王の墓という。ところが、百済初期の王墓は盛り土円墳ともいう。
武寧王墓は、この盛り土円墳が発展したもの。
好太王碑が正しければ、石村洞百済初期積石塚は高句麗が築いた墳墓である。

つまり、好太王碑と百済本紀のどちらがより正しいか?
430卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/11(火) 23:04:49.92
>>428
馬韓はおそらく鴨緑江以北の遼東半島地域、遼寧省南部、
あるいは吉林省南部に逃げて、細々と命脈を保っていたのである。
漢江以南は加耶や新羅の版図であって、馬韓はそんなところに逃げたのではない。

漢江以南の遺跡というのは、基本的に加耶の遺跡だと考えたほうが良い。
431日本@名無史さん:2012/09/11(火) 23:56:53.54
倭の遺跡じゃないの?
432卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/12(水) 09:08:35.01
今朝、倭の五王のことを考えていて、またまた画期的な新説に思い至った。
いや、誰でも、ちょっと考えれば分かることなのだが、
なぜ誰もこのことに気付かなかったのだろう、と思えるようなことだ。

書くのが惜しいからここには書かないが、
五王の倭が日本ではないのは、ほぼ確実だ。
433日本@名無史さん:2012/09/12(水) 09:23:31.96
プッw
434日本@名無史さん:2012/09/12(水) 16:58:49.49
朝鮮氏の馬韓
435卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/12(水) 19:16:20.41

五王の倭を 日本のことだと 思ってる その心こそ 哀れなりけれ
436日本@名無史さん:2012/09/12(水) 21:07:41.80
そんなことを思ってる奴をからかったって無駄だろ。
437唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/12(水) 21:59:16.25
>馬韓はおそらく鴨緑江以北の遼東半島地域、

地域が2重になっていると言いたいのね。
とりあえず、時空が2重になっていることは確かである。
つまり、正しい歴史とは
神功52年七支刀=372年から逆算した崇神は卑弥呼と時代が重なる。
神功52年七支刀=326年から逆算した崇神は、新羅193年と崇神6年が重なる。

まあ、2択問題ではあるが、考古学が認めるのはどっちだ?
438唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/12(水) 22:07:47.64
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山。誉田御廟山までは110年。
応神天皇 344年〜384年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。

神功元年の内乱から、2王体制が視野に入る。
だから5世紀の王は、書紀と古事記では違っている。

履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申 404年帯方界への侵攻で兄王行方不明になる。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・(426年?) 413年倭と高句麗は東晋へ朝貢。翌年新羅の医者。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。(賛)
安康天皇 454年〜456年 ・・・・珍・済  元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。
清寧天皇 480年〜484年  顕宗天皇 485年〜487年  賢天皇 488年〜498年  武烈天皇 499年〜506年
継体天皇 507年〜533年 丁未・・・(499年?)
439卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/12(水) 22:47:55.51
大体、唐松山の投稿は、一体何が言いたいのか不明なので返答のしようがないのだが、

応神天皇 344年〜384年
仁徳天皇 313年〜399年

よく見ると在位がダブっているではないか。
まあ、相当に変な人であることは既に分かっているので、別に驚かないがw
440唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/12(水) 22:53:50.47
>よく見ると在位がダブっているではないか。

そのとおり。
書紀を正しい歴史書というためには、これ以外の編年はないのだ。
そして、重なった部分は、同じ記事が双方に登場するのが書記なのだ。
441日本@名無史さん:2012/09/12(水) 22:58:23.56
>>439
唐松山に生えている木を唐変木と言う。(2ちゃんwikiより)
442唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/12(水) 23:24:09.17
書紀の編年
神功39年=239年景初3年として、その74年後が 313年仁徳元年。
神功39年大歳とは、この仁徳元年でもある。
では正しい239年景初3年がどこにあるかというと
邪馬台国官伊支馬=垂仁による田島守=都市牛利(たしうり)派遣であり
ホケノ山(225〜250年)穴あきつぼは初期の埴輪である。
晋書正始元年東倭重譚納具。=240年景行即位。

ここに崇神の影もない。
だから、何故崇神がこの時代に配されたか?
それは、誤りのある百済王家を正しいとした為である。
その誤差が、新羅本紀で47年存在する。
443radio:2012/09/14(金) 13:45:38.66
神武 甲寅年 => 神武 1年, 102年, 10月.
神武 乙卯年 => 神武 2年, 103年, 3月.
神武 戊午年 => 神武 3年, 104年, 2月.
神武 己未年 => 神武 4年, 105年, 2月.
神武 庚申年 => 神武 5年, 106年, 8月.
神武 1年 => 神武 1年(6年), 107年, 1月. (神武 即位, 107年= 丁未)
神武 2年 => 神武 2年(7年), 108年, 2月.
神武 4年 => 神武 4年(9年), 110年, 2月.
神武 31年 => 神武 31年(36年), 137年, 4月.

神武 32年 => 綏靖 1年, 138年, 1月. (綏靖 即位, 138年= 戊寅) (即位: 52歲)
神武 76年 => 綏靖 2年, 139年, 3月.
綏靖 己卯年 => 綏靖 3年, 140年, 11月.
綏靖 1年 => 綏靖 4年, 141年, 1月.
綏靖 2年 => 綏靖 5年, 142年, 1月.
綏靖 4年 => 綏靖 7年, 144年, 4月.

綏靖 25年 => 安寧 1年, 145年, 1月.
綏靖 33年 => 安寧 2年, 146年, 5月. (綏靖 崩, 歲)
安寧 1年 => 安寧 3年, 147年, 10月.
安寧 2年 => 安寧 4年, 148年.
安寧 3年 => 安寧 5年, 149年, 1月.

安寧 11年 => 懿徳 1年, 150年, 1月.
安寧 38年 => 懿徳 2年, 151年, 12月.
懿徳 1年 => 懿徳 3年, 152年, 2月.
懿徳 2年 => 懿徳 4年, 153年, 1月.

懿徳 22年 => 孝昭 1年, 154年, 2月.
懿徳 34年 => 孝昭 2年, 155年, 9月.
孝昭 1年 => 孝昭 3年, 156年, 1月.
孝昭 29年 => 孝昭 31年, 184年, 1月.
444radio:2012/09/14(金) 13:56:21.76
応神天皇の 母は 御刀媛です.

★ 『日本書紀』巻七 景行天皇 十三年(癸未 八三)五月◆ 成務 3年, 318年, 5月.
十三年 夏五月。 悉平襲国。 // 因以居於高屋宮。 已六年也。 於是。 其国有佳人。 曰御刀媛御刀。 此云彌波迦志。 則召為妃。 生□国別皇子。 是日向国造之始祖也。

* 御刀媛 --- 豊国別命 (X)
* 御刀媛 --- 吉備兄彦命(= 若野毛二俣王= 応神天皇) (O)
* 御刀媛 --- 吉備兄彦命(応神天皇) --- 豊国別命 (O)

* 御刀媛(みはかしひめ) = 彌波迦志(みはかし)= 日向之美波迦斯毘売(ひむかのみはかしひめ)
---------------------------------------------------------------------------------

成務天皇が 318年, 集権後 3年になった年に.. 熊襲征伐を終わらせます.
熊襲国に 美人があるから.. 妻で迎えます.
彼女が すぐ, 応神天皇の 母である 御刀媛です.
318年に王后に迎えたので.. 応神天皇の出生した年は 320年ほどが適当です.

ところが.. ここで問題は何でしょうか?
445radio:2012/09/14(金) 14:00:18.53
『日本書紀』文章で
御刀媛の生んだ息子が '吉備兄彦命'と表記しないで, 豊国別皇子だと過ち表記しておきました.
豊国別皇子は 応神天皇の息子にあたる人です.
すなわち, 『日本書紀』では 吉備兄彦命が 御刀媛の息子なのにかかわらず. 文章を操作して..
吉備兄彦命 代りに.. 吉備兄彦命の息子にあたる 豊国別命を書いておいたのです.

* 御友別命(成務天皇, 妻:御刀媛) --- 吉備兄彦命(応神天皇) --- 豊国別命 (O)

文章を操作しながら.. 応神天皇が入って行かなければならない席に..
1世代低めて.. 応神天皇の息子である, 豊国別命を入れておきました.
日本書紀の文章と系譜で両方が同時に操作になりながら..
吉備兄彦命(応神天皇)が削除になったから.. 応神天皇のお母さんを把握しにくい原因でした.
応神天皇が 九州と関連深いことは 応神天皇のお母さんが 熊襲国出身だからです.

*応神天皇の 父は 成務天皇です.
*応神天皇の 母は 御刀媛です.
446唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/14(金) 15:17:03.29
新羅本紀に書紀の記事を合わせると
崇神天皇 189年〜216年  五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応。
垂仁天皇 217年〜239年 239年邪馬台国官伊支馬
景行天皇 240年〜261年 
成務天皇 262年〜265年 ●46年加算する 262〜311
仲哀天皇 266年〜274年 312〜320
神功皇后 275年〜343年 321〜389。46年加算されていると百済王家が整合する
応神天皇 344年〜384年 390〜430
仁徳天皇 313年〜399年 359〜445 神功三九年大歳を元年とする。
履中  400〜  405年兄王捜索は前年に帯方界での行方不明。 反正  406〜
允恭  412〜  413年 倭、高句麗が東晋へ朝貢その翌年が新羅の医者。
安康  454〜  雄略457〜  武寧、嶋王は動かない。

成務・仲哀の世継ぎは成立しない。
しかし、新羅192年・209年と奈勿=神功=百済王家は整合する。
447唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/14(金) 15:20:19.48
307年 丁卯 赤兎 九月以康世女千康妻夫余太子吉须(貴須結婚) (367年)
312年壬申(水猿)6月、基临帝崩 新羅本紀310年
奈勿王 7年=323年神功49年(己巳二四九)倭臣熊彦=千熊長彦。
338年 神功六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。(384年)
339年 神功六五年(乙酉二六五)百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。(385年)
346年 応神三年辰斯王立之失禮
王子阿花は、年少(15歳以下)であっても、乳児ではない。だから失礼にあたる。

百済王家は、書紀の干支を使用した差込記事である。
この数字上であれば、好太王碑は全て事実である。
448卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/14(金) 18:55:43.62
このradioという男も、相当頭がおかしいのではあるまいかw
449日本@名無史さん:2012/09/14(金) 19:08:20.23
書紀自体がそおとお狂っているから鬱たのかもしれない
450卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/14(金) 19:21:24.75
稗箕狐も最近は元気がないな。

私は今日から婆娑尼師今紀に移ったぞ。
どうも新羅の中心部は京畿道にあったような気がする。
出てくる地名や城が京畿道のものばかりなのだ。
後世の注釈者も慶州の位置については迷いがあるようで、三箇所も候補地を挙げている。

경주(慶州)/동경 - 안동(安東), 상주(尙州), 부평(富平) [[[웅진변]]]
451日本@名無史さん:2012/09/14(金) 19:28:20.02
統一新羅のときのエディターが妄しているのとかはどおでも良い罠
452卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/14(金) 19:46:50.01
後世の注釈はそんな頃ではないぞ。20世紀前後だ。

北沃沮〈猶太人自治州〉
沃沮〈浦鹽斯コ之尼古里 高麗之吉州也〉

のような注釈がある。猶太人自治州ができてから後だ。
尼古里というのはウスリースクの旧称ニコリスクのこと。
ウスリースクがニコリスクと呼ばれていた頃に書かれた注釈である。
453日本@名無史さん:2012/09/14(金) 19:52:43.02
婆娑のところのだたら 「聖父」「許婁」つうひとのことが樹に生る

おこさまが「多婁」さんだけど

「摩帝爲聖父(許婁)私臣」とか「加良爲聖父(許婁)私臣」とかって

百済の先祖のかなんかなのでしょうか?
454日本@名無史さん:2012/09/14(金) 20:06:22.94
455卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/14(金) 20:08:38.30
>>453
私は専ら地理記事に注目して読んでいるので、気にもならなかったが、
百済とは何の関係もないと思うが。

話は変わるが、後世の注釈だからといって、信用できない、とは言えない。
特に高句麗史の比定地は信用できる。なぜなら、湯原(かつては県であった)という地があるから、
<湯西(鐵驪界)>
<湯東(烏屯河上流地方)>
と比定しているのであり、また、ハルピンはついこの間まで、河浜と呼ばれていたから、
河濱〈哈爾濱〉
と比定しているのである。その他の地も記述から判断して比定しているのであり、大いに信用できる。
456日本@名無史さん:2012/09/14(金) 20:21:56.16
聖父の許婁さんには摩帝さんとゆう私臣がおるんだから

ご本人は相当エロイよね

てか逆にゆうと

なんちゃら帝さんとかのたぐいのは

そこいらじゅうにごろごろころがっているてなかんじっぽいよね
457日本@名無史さん:2012/09/14(金) 23:01:10.15
無知なんで教えてほしんだけど
天皇を崇拝してる人とか保守の陣営にとって卑弥呼ってどういう存在なの?
九州の一部族の長みたいな立場であったほうが都合良い感じ?
458radio:2012/09/15(土) 09:43:48.63
武内宿禰の出生年の把握は簡単です.

it's simple ....

日本書紀 景行12年 記事を見れば..
次のような文章が出ます.

● 『日本書紀』巻七 景行天皇 十二年(壬午 八二)十二月 丁酉《五》◆ 成務 2年, 317年, 12月.
十二月 癸巳朔 丁酉。 議討熊襲。 於是。 天皇詔群卿曰。 朕聞之。 襲国有厚鹿文。 ■ 鹿文者。 是両人熊襲之渠帥者也。 衆類甚多。 是謂熊襲八十梟帥。 其鋒不可当焉。 少興師則不堪滅賊。 多動兵是百姓之害。 何不仮鋒刃之威。 坐平其国。 時有一臣進曰。

*時有一臣進曰。
459radio:2012/09/15(土) 09:44:36.74
ところが, <先代舊事本紀 大成經>を見れば..

*<先代舊事本紀 大成經> 景行 12年
十二年 十二月 癸巳朔 丁酉 詔群卿曰。朕聞之。熊襲國有厚鹿文。鹿文者 是二人渠帥者 而時武內臣 生年八歲 猶壯人勢議謀之曰

*而時武內臣 生年八歲

この "一臣" と言う人物が "武内臣" だと出ています.
この時が 8歳だと書かれています.

熊襲を討伐しようと議論する中の時期なので, 成務 2年, 317年の事です.
この時, 武内宿禰が 8歳だとなっているので..

そのため, 武内宿禰の出生年は簡単に計算されます.

*317年- 7歳= 310年.

武内宿禰の出生年は 310年に計算されて出ます.

ところが, これよりは 1年低めて, 311年と思います.

これは古書を見て.. 判断することののため.. 説明が難解です.
それで説明を略しました
460卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/15(土) 16:44:01.78
>>458-459
成務2年は132年なり。
461卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/15(土) 17:41:29.93
今日は祇摩紀を読んだのだが、新羅の中心部が漢江周辺にあったことは確実である。
問題は加耶だが、加耶はそれより北にあった可能性がある。

伽倻山(三角山)

こういう比定地も書かれているわけだし。
462日本@名無史さん:2012/09/15(土) 18:05:29.50
>>457
人によって考え方が違う。卑弥呼と天皇家とはまったく関係が無いという人も
いるし、記紀の中の天皇家の誰かを卑弥呼に比定する人もいる。ただしそれも
想定であって論証は無いことが多い。村雨賢次という人が「邪馬台国はどこへ
行った」という著書の中で卑弥呼と天皇家の系統を描いているが、一読をおす
すめする。
463日本@名無史さん:2012/09/15(土) 19:12:28.87
卑彌呼は御眞津比賣だとおもふよ

          彌馬都日目さんね

ふさわしいお名前だろ
464日本@名無史さん:2012/09/15(土) 19:17:54.47
うそつきは古事記のがはじまり

日本書紀に至って立派な泥棒さんに育った

先代舊事本紀たらはそれのの追補版でいろいろ追加しているっぽい

うそに混ざってほんとのことが伝わっているかもしれないけど

ベースのがうその塊だから選り分けるとかむずかしいよ
465卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/15(土) 21:06:11.16
稗箕狐は嘘つき
466日本@名無史さん:2012/09/15(土) 21:19:52.74
嘘つき のにきょおみがあるひとは

"虚言ヲ仰ラルゝ神" "天照大神"

このあたりぐぐるのがエエよ
467卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/15(土) 21:33:12.66
嘘が大好きエロパカ稗箕狐
468日本@名無史さん:2012/09/15(土) 21:46:51.36
方形周溝墓のある領域が、倭の那国の支配域。
漢江以南だな。
漢江が国境だったのかも
469日本@名無史さん:2012/09/15(土) 22:19:19.80
彌馬都日目さんの支配域は

彌馬なんだから半島南岸とか含むのは当然のこと

「みま」のを「壬」の文字あてたりしたのは

倭のコアなところのの「北」にあったから当然のこと

漢字の名札の「彌馬」のの原義は「ぴかぴかの南」

470日本@名無史さん:2012/09/15(土) 22:23:37.40
「辰韓」のの原義は「東南にある韓」

「馬韓」のの原義は「南にある韓」

それぞれのびゅーする原点のは「漢」の領域ののコアなところだろね
471卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/15(土) 22:33:49.72
落書き王稗箕狐
472唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/15(土) 22:53:35.74
ホ38016 コゾウヅキ はらみてうまず フソヒツキ へてシハスモチ ウスはたに モチハナなして
フタゴうむ ヱのナモチヒト オウスミコ トのナハナヒコ ヲウスミコ
ホ38053 ヰホネシモ ソヰカヒのデに うむコのナ ワカタリヒコぞ
ホ40273 ハノキヨカ ワカタリヒコを ヨツギミコ タケウチスクネ
ムネノトミ ミコとタケウチ ヲナヒドシ

垂仁90年4月(ウヅキ)から21ヶ月後が、景行元年12月になる。
景行5年11月(ネシモ。ネ=冬至11月)成務と武内宿禰は同じ年。
景行27年時点で、日本武尊(ヲウス)は、16歳。

>成務 2年, 317年の事です.

景行12年の熊襲(九州遠征)は、庄内式土器。
(纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 景行12年以降。
神功渡海は、
http://www.pref.nagasaki.jp/jiten/ruin.php?id=3100
長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき) 平戸市大島村前平1456
田油津媛=田平媛。

逆立ちしても百済本紀には繋がらない。
だから、奈勿王を317年からに設定する必要がある。
473唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/15(土) 23:33:54.47
崇神天皇六五年(戊子前三三)七月。任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也。任那者。去筑紫國二千餘里。北阻海以在鷄林之西南。
ホ34253 ミマナクニ ソナカシチして ミツギなす そのミチノリは ツクシより キタえフチノリ
ウミへだて シラキのツサぞ

474radio:2012/09/16(日) 09:45:40.07
卑弥呼は朝鮮にいた氏!


百済の建国は AD42年ほどです.
<高句麗史抄>は部分的に記事を採択する時 気を付けなければなりません.
そのまま信じてはいけないです.(注意要望)

温祖と沸流と多樓は 王では なかったです. they were not king.

十濟を建国した王は三国史記で名前が完全に削除になりました.
小さな古書がもう一つあります.
そのため, その十濟を建国した王の名前は 三国史記で 分からないです.
百済本紀ではその削除された王が 十濟を建国した事項が
百済本紀の温祖王の記事の下段に付けられています.
475日本@名無史さん:2012/09/16(日) 12:15:06.12
芻牟鏡読んだら

三国史記がまぬけなこと書いちゃってるのが恥ずかしいよな
476radio:2012/09/16(日) 14:58:27.86
http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/GDS/GDS_VIEW.jsp?ptype
=list&subtype=wy&bookid=GR36036_00IB&volnum
=0001&dtype=2&articleid=011

*崇惠殿誌(숭혜전지)
新羅金氏誕降事蹟 新羅脫解王九年乙丑[漢明帝 永平 八年]
三月 夜聞城西始林樹間
有鷄鳴聲遲明 遣匏公[倭國人以匏渡海 而來 故號匏公]
視之有金色小櫃
掛於樹梢白鷄鳴於其下 匏公還告王 使人取櫃 開之
有小男兒 在其中 姿貌奇偉
王喜謂左右曰 此豈非天助我 以令胤乎 乃收養 及長
聰明多智略 乃名閼智[小兒之稱]
以其出於金櫃 故姓金氏 改始林爲鷄林 因以爲國號
以太子康造女妻之 是爲摩貞夫人
昔氏至七世孫味鄒代沾解 而立爲王
[東史補遺曰 永平三年 庚申 八月 四日 匏公夜行月城西里
見火光明於始林
紫雲從天垂地 雲中有小男兒 姿貌奇偉 王喜謂左右曰
豈非天助我以令胤乎
抱載還闕 鳥獸相隨蹌蹌 王擇日冊爲太子 及長 聰明多智略
乃各閼智
因生賜姓 故曰金氏 後讓位婆娑 不卽位 以太子康造女妻之
○東國通鑑云 昔] [脫解得金閼智於鷄林 養于官中 拜爲大輔
○崔瀣曰 金氏爲貴族 蓋起新羅之初 俗傳金櫃(금궤)降之自天
取以爲姓 又言自以爲少昊金天氏之後 因姓焉]
477radio:2012/09/16(日) 15:00:37.66
http://kyujanggak.snu.ac.kr/GDS/GDS_VIEW.jsp?setid=57731&pos=1&ptype=list&subtype=wy&bookid=GR33739_00IB&volnum=0002&articleid=003&dtype=2

琬琰通考(완염통고)
伐休王[姓昔氏 ○脫解王孫 父角干仇鄒 世系圖作角干康造 母只珍內禮夫人金氏 ○十二年]
478卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/16(日) 17:20:54.12
radio氏へ

たしかにネットの高句麗史と百済史では内容に違いがあるので、私も戸惑っているのだが、
その十濟を建国した王のことが書いてあるという小さな古書とは何なのか、よければ教えてほしい。
非常に興味がある。
479日本@名無史さん:2012/09/16(日) 17:33:40.94

中国人の聞き違いを記録しただけ。

480日本@名無史さん:2012/09/16(日) 18:19:34.70
>>462
レスありがとう
逆に左翼側の人からすると卑弥呼ってどんなポジションなの?
卑弥呼がどういう立場だと都合がいいのかな?
481日本@名無史さん:2012/09/16(日) 18:24:55.42
昔居た伊作みたいな考えかたじゃね?
482唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/16(日) 21:00:07.85
>高句麗史と百済史では内容に違いがあるので、

時空が狂っているのだ。
だから、
百済史と書記では、内容の認識に違いが出る。
483卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/16(日) 21:19:13.17
>>482
いや、唐松山氏よ、そういう違いではないのだ。
たとえば沸流と温祚の出自が、高句麗史と百済史では違う。
それから高句麗史では沸流は卒本にいたまま死去している。
温祚も安図まで南下して、そこから更に南下したように書かれているが、
どこへ南下したかは書かれていない。

地名や河川の比定も高句麗史と百済史では大きく異なっている。
彌鄒忽、浿水、漢水、南沃沮。特にこれらの比定地が全然異なっている。
私の印象では高句麗史の方が信用できる、特に比定地に関しては。

今日、図書館で東洋文庫の満州朝鮮関係の本をぱらぱらと見ていて、
牡丹江の旧称が忽汗水であることを知った。高句麗史では、
汗水(牧丹江)
となっていて、もともと記事から判断してそれで正しいと思っていたが、
その正しさが裏付けられた。
484唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/16(日) 21:56:01.17
高句麗は、魏志にも登場する。しかし、百済は登場しない。
げは、魏・晋時代の百済はんと言う勢力であったか?
当然東夷の中の1国でしかない。
その東夷の中で、もっともながい時空で書かれているのが倭人伝である。
その中で、楽浪・帯方は遼東の民の入植地でもある。
485唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/16(日) 23:00:24.43
246年 東夷の反乱
247年 韓ついに滅ぶ。
以後も女王などが登場するのが倭人伝である。
”韓”には、馬韓・弁韓・辰韓などが含まれる。
”韓”を北へ追いやれば、半島に倭地ができるというものではない。
486日本@名無史さん:2012/09/17(月) 17:51:17.22
にほんごもふべんらしい
487卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 19:10:01.62
>>484の解説
げは、→ では、
百済はんと → 百済はなんと
488卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 19:40:25.63
<沙伐(忠州)>

これはどうもおかしい。なぜなら奈解紀にこんな記事がある。

十三年 二月 西巡一善沙伐至管城 撫慰將士 歷捺己召文 而還

新羅の中心部は京畿道のはずで、沙伐(忠州)が西にあるのは変である。

<一善(玻州)>

これは正しい。
489日本@名無史さん:2012/09/17(月) 20:11:43.30
最適解を見つけないと全容は見えてこないのに、思い込みだけで否定するなんて…
490日本@名無史さん:2012/09/17(月) 20:19:04.85
491日本@名無史さん:2012/09/17(月) 20:21:16.63
492日本@名無史さん:2012/09/17(月) 20:45:59.85
http://map.konest.com/dpoi/100421545?ln=1

こっちのが8世紀の新羅の景徳王陵

>>490のは1世紀の召文の景徳王陵
493唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/17(月) 21:12:00.60
>>487 訂正感謝。
それで、
神功紀とはどの時代の記事であるか?
神功39年を景初3年とする読み方が存在し、
その神功39年は大歳の年である。書記の「大歳」は天皇即位と関係がある。

応神の誕生は、渡海の年であり、それから40年が経過している。
その時、応神は年少のウジノワキイラッコに王位を譲ろうとしている。
つまり、渡海から40年後に即位できるのは、仁徳である。
そして、その人徳即位は、景初3年から74年後の“313年仁徳即位”であると
書紀は主張しているのである。
そして、“313年仁徳即位”より39年前の274年が神功渡海の年になる。
で、ここで存在できる暦として、
神武から使われていた暦(ホツマの暦)から
半島で使われていた暦への書き換えが313年仁徳即位からとなり
それは五行12支。
3年(AD379)黄兎(己卯)つちのとう・ホツマおみと。
4年(AD380)白龍(白龙=庚辰)かのえたつ・ホツマさやえ。
仏教とともに来日した暦は、10干12支であり、10干12支から甲子=きのえね、
という読み方は発生しない。
494卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 21:22:52.96
>>490-492
は稗箕狐か? だとしたらガッカリだな。
お前もネットで調べるだけの電波人間だったのか。
お前はもう少しまともな奴だと思っていたのだがな。

ネットで調べたら、たとえば丸都は集安とかその辺が出てくるはずで、
彌鄒忽は仁川と出てくるはずなのである。
楽浪郡や帯方郡も半島内と出てくるのである。
せっかくネット史を読んでいながら、電波を信じているようでは悲しい。
495日本@名無史さん:2012/09/17(月) 21:58:10.93
伐休六年(249) 正月 以召文爲剛州 牛乙太守

http://www.koreasanha.net/board/index.php?mid=travels&page=1&document_srl=257631

これに松氏の得意技かけるとちょっとだけ召文の遺跡の情報が取得できる

黄金の出土物とか横穴の積み石のが木に生ります
496卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/17(月) 22:58:16.32
召文というのはよく出てくるのだが、どこにあったのかさっぱり分らんw
まあ実際ネットに上がっている所にあったのかもしれないが。

沙伐が実際に忠州だったとすると、また考え直さなければならないが、
どうも新羅の中心は京畿道だと思わざるをえないのだが…。
497日本@名無史さん:2012/09/17(月) 23:52:04.54
邪馬台国は四国にありましたが・・何か?
498日本@名無史さん:2012/09/18(火) 00:14:04.96
四国にあったのは、サヌカイト王国だ。
499日本@名無史さん:2012/09/18(火) 03:36:44.07
自分達の祖先は宮崎の高千穂峰周辺からやってきた人達だって書いてあるじゃん
何を今更
500日本@名無史さん:2012/09/18(火) 07:18:02.32
ともかく、四国が最高なんだyo!
四国万歳!
501radio:2012/09/18(火) 13:59:36.92
卑弥呼は朝鮮にいた氏

古書= 菊露秋寫(국로추사)

*癸卯 十四年 [新羅四十年 高句麗元年 十濟元年] (국로추사)
先是高朱蒙亡命逃避於卒本扶餘國 扶餘王無子 只有三女 見其朱蒙爲人俊秀 乃以二女妻之 生二男 長曰沸[音不]流 次溫
祚 及長 見其先娶禮氏所生類利爲太子 恐爲不容 沸流兄弟陰與鳥干馬黎等十人 南遁至漢山 登負兒嶺 望占可居地 沸流欲居海濱 馬黎等諫曰 惟此河南北帶漢水 東據高岳 南接沃野 西阻大海 可宜定都 沸流不聽乃築彌鄒忽城於海濱 因以定都
○春三月 高溫祚亡命入于馬韓 王見其爲人非凡 愛而奇之 割東北界百里地 而封王 於是溫祚築慰禮城於河南[今稷山]建國 定都 以馬藜等十人爲輔相 國號十濟
○十濟與高句麗同出扶餘 世系相續 故建東明王廟 [見馬韓史]
○冬十月 東沃阻遣使修貢於新羅 獻良馬二十匹 [東沃阻在蓋馬山東 今咸鏡道咸興 人性剛直勇悍 善戰]

http://cafe412.daum.net/_c21_/bbs_read?grpid=bluw&fldid=BMLV&page=1&prev_page=0&firstbbsdepth=&lastbbsdepth=zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz&edge=&contentval=00004zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz&selectyn=Y
502radio:2012/09/18(火) 14:31:07.99
*蝿伊呂杼= 弟橘媛(日本武尊의 母)


〔古事記 安寧天皇〕
一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮。
故、此王有二女。
兄名 蝿伊呂泥。亦名 意富夜麻登久邇阿禮比賣命。
弟名 蝿伊呂杼也。


*和知都美命 ==> 知知都美命= 石衝別命.

*蝿伊呂杼= 弟橘媛(日本武尊의 母).

古事記의 安寧天皇의 文章를 變更시킨다.


知知都美命者、有二妹。
兄名 蝿伊呂泥。亦名 意富夜麻登久邇阿禮比賣命。
弟名 蝿伊呂杼也。
503日本@名無史さん:2012/09/18(火) 15:40:15.62
なんで?
504日本@名無史さん:2012/09/18(火) 18:02:42.86
>>501
前世紀後半に発掘された「芻牟鏡」とか「芻牟大帝紀」とか読んだら

900年ほど前の人がわからなくなってしまっていた1100年ほど遡った時点のこと

妄想してまぬけなこと書いちゃってるのが恥ずかしいよな

<三国史記ののまぬけ記事>
沸流(19歳)欲居於海濱 分其民 歸彌鄒忽以居之
溫祚(斗切)(16歳)都河南慰禮城 以十臣爲輔翼 國號十濟
是前漢成帝鴻嘉三年也(BC18)

この時期は芻牟が死亡した直後で彼のでかした土人の帝国をどうやって分割相続しようかって時期だろ

900年ほど前の人はそおゆう背景の理解とかまるで欠如しちゃっていて掻いてるんだよな
505卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/18(火) 18:59:45.55
>>501
感謝。百済王紀の文章とほぼ同じだな。
しかしこの比定地は信用できない。なぜなら、
馬韓の首都が平壌だったことは桓檀古記などから既に分かっている。
その馬韓の東北の地を借りたのに、
河南[今稷山]
ということはありえないからである。
他の比定地もいくつか載っているが、間違っている。
十濟あるいは伯済あるいは百済は、そんな南方にあったのではないのである。
506卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/18(火) 19:13:47.23
今日の収穫−

遊花閑徒 山尺水尺海尺島尺亦皆署于兵官 (A.D.336 味鄒尼今紀)

なぜこれが興味深いかというと、次のような文献があるからである。

水尺才人耕種を事とせず…山谷に相聚して倭賊と詐称す、云々 (高麗紀 大明洪武21年)

似たような記事に、
高麗の太祖のとき、契丹が高麗を侵略すると、白丁が我々も倭人だといって契丹軍を迎えた、云々
という記事がある。ここで「我々も」と言っているところが興味を引くのである。
我々も、というからには、契丹も倭人だということである。
契丹人が倭人であると目されていたのである。
14世紀に於いてさえ、倭人とは必ずしも日本人ではないのである。
507卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/18(火) 19:17:03.94
14世紀→10世紀に訂正
508【邪馬台国検定】審査委員長:2012/09/18(火) 20:32:00.00

@邪馬台国のことが記されている書物は?

A邪馬台国が存在した時代は?

B邪馬台国と対立してたクニは?

全問正解者はいるかな?!
509日本@名無史さん:2012/09/18(火) 20:36:03.34
魏志倭人伝、弥生時代、コウナ国
510日本@名無史さん:2012/09/18(火) 22:20:52.05
511卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/18(火) 23:08:49.07
稗箕狐が召文の位置をネットで調べてくれたので、
念のために「朝鮮彊域誌 新羅図」というのを見てみたのだが、
この図では全然違う位置に書かれている。

この図は実にいいかげんな地図なのだが、それなりに参考になるのである。
この図では一善の北に沙伐があり、沙伐の東に潢水という川を挟んで召文がある。
で、よく考えれば、ネット新羅史の記述と大体合致しているのである。
512唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/18(火) 23:19:40.48
ホ37191 コソホキサラギ ミコトのり カグをもとめに タジマモリ トコヨにゆけよ
わがをもふ クニトコタチの ミヨのハナ コソコホサシヱ アフミハヒ キミまかるトシ
モモミソナ ミコのモハいり ヨソヤヨル ハニタテモノし シハスソカ スガラフシミに
ミヲクリの タビもかゝやく カミのミユキぞ
あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ カクのキヨサホ
カグヨサホ もちきたるマに キミまかる・・・はるかにゆきし トコヨとは カミのかくれの
をよびなき フリをなじむの トトセぶり あにをもひきや しのぎゑて さらかえるとは
・・・ノコシフミ ミコみたまひて カグキミが ハナタチバナは かれがツマ ヲシヤマやりて
よばしむる チチモトヒコと のぼりくる ミコよろこびて モトヒコに ユルシハたまひ
モをつとむ ハナタチバナが サツキまつ ヨハにうむコに ミコトのり ムカシのヒトの
オをとゝむ オトタチバナと ナをたまひ にたるスガタの ヲシヤマに とつぐハハコも
おんめぐみ ふかきゆかりの タメシなるかな

239年垂仁90年、田道間守を魏に派遣するが、田島守が帰国した景行元年。
時至9ヶ月24日後・・・魏でも明帝が崩御するも、それは、暦には及ばない、
天皇家の暦では、この1年が、“振りをなじむの10年ぶり”。
景行は、モトヒコに殉葬の許可を出す。その田道間守の妻ハナタチバナが子を生む。
その妻子は、ヲシヤマに嫁ぐ。

ホ38013 フホヤヨヒ キビツヒコがメ たつキサキ ハリマのイナヒ オイラツメ ウチメのときに
コゾウヅキ はらみてうまず フソヒツキ へてシハスモチ ウスはたに モチハナなして
フタゴうむ ヱのナモチヒト オウスミコ トのナハナヒコ ヲウスミコ
垂仁90年4月から、21ヶ月後の景行元年12月にオウス、コウス兄弟が生まれる。
景行27年でコウス(日本武尊)は16歳。
240年景行元年、255年景行27年。
513唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/18(火) 23:53:52.54
>山谷に相聚して倭賊と詐称す、云々 (高麗紀 大明洪武21年)

14世紀の倭寇だよな?
倭寇の大半は、倭人では無かったという話だろ?
514日本@名無史さん:2012/09/19(水) 00:29:30.48
脱解はけ〜ん


婆娑尼師今五年 (AD130)

八月 太君(脱解)以暑疾崩 于日知宅 上與惠后臨泣 曰 “父今棄我何去”
太君曰 “歸侍先今 此願畢矣 骨門無相殘 努來無相欺 知之乎”
上曰諾 太君乃崩 天地晦冥 上痛哀之 以父今禮葬 于壤井陵門 阿孝今堂皆殉之
不能禁 太君足智多謀有 大功于社稷 又喜女色
所畜嬪妾 千有余人 生子女七百人 不能盡知 自神以來 初有之事也
515卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/19(水) 09:14:42.89
>>514
太君は脱解ではないと思うが。
516卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/19(水) 09:48:54.57
いや、間違えた。そうか、太君は脱解のことなのか。
脱解というのはもっと昔の人かと思っていた。
しかし世代的には儒理尼師今と脱解は同世代だから、
儒理尼師今のことかもしれないな。
まあまたいつかゆっくり考えてみることにする。

たまに稗箕狐に一本取られることがあるが、これで三回目だなw
517radio:2012/09/19(水) 11:06:54.85
太君は脱解がそうです。

*太君= 脱解

婆娑尼師今記 5年、8月記事です。
三国史記新羅本記では脱解24年記事に該当します。

AD130年、8月. <=== 婆娑尼師今記 5年
AD80年、8月. <=== 脱解24年の記事

*130年- 80年= 50年の偏差.

*脱解は AD51年生(出生)です。
518日本@名無史さん:2012/09/19(水) 18:00:53.34
>>517

(108)脱解    元年      4.脱解尼師今立(108-130)
                   一云吐解 時年六十二 (47-130) 姓昔 妃阿孝夫人
        |
        |
        |

(128)脱解 二十一年 秋八月 阿餐 吉門與加耶兵 戰於黄山津口 獲一千餘級
                   以吉門爲波珍餐 賞功也
(128)婆娑    三年  八月 推火草八等合 加耶兵 欲納良刀 于卞山 吉門迎
                   戰于黄山津口 大破之 虜獲千餘 乃進其爵 爲波珍

(130)脱解 二十三年 春二月 慧星見東方 又見北方 二十日乃滅
(130)婆娑    五年  二月 大光星出 自東北 凡二十日 或曰聖人出

(130)脱解 二十四年 夏四月 京都大風 金城東門自壞
(130)婆娑    五年  四月 大風 大井東門頽壞

(130)脱解 二十四年 秋八月 王薨 葬城北壤井丘
(130)婆娑    五年  八月 太君以暑疾崩 于日知宅(卞山!)
                   上痛哀之 以父今禮葬 于壤井陵門 阿孝今堂皆殉之
519日本@名無史さん:2012/09/19(水) 21:39:16.84
>>480
九州説を全力で支持
それが日教組です
520卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/19(水) 22:11:44.22
웅진변

この韓国語は何と読むのだろうか。分かる人はいないか?
521日本@名無史さん:2012/09/19(水) 22:17:03.21
ウッチンピョンじゃまいか
522卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/19(水) 22:24:10.77
バカタレ、日本語に直せ、日本語に!
523唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/19(水) 22:28:31.73
http://translation.infoseek.ne.jp/
マルチ翻訳 によれば、熊津人
524卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/19(水) 22:41:01.02
なるほど、そういうサイトがあるのか。
唐松氏よ、ありがとう。
試しにやってみたら、

熊津弁

と出てきた。どうやらこれに似た題名の書物があって、
ネット新羅史の比定地などはこの書物に依拠しているようだ。
しかしこの書物の比定地はどうも信用できないという印象だ。
525日本@名無史さん:2012/09/19(水) 22:41:03.50
ちがうな、熊津弁
526審査委員長:2012/09/19(水) 22:45:32.42
>>510
>これめえとおしておいたほおがエエよ

なんですか?そりゃ

527日本@名無史さん:2012/09/20(木) 00:20:53.55
>>524
가야산(伽倻山) - 삼각산(三角山) [[[웅진변]]]
伽倻山(伽倻山) - 三角山(三角山) [[[熊津べん]]]
伽倻山(伽倻山) - 三角山(三角山) [[[熊津弁]]] ×
伽倻山(伽倻山) - 三角山(三角山) [[[熊津便]]] ×
伽倻山(伽倻山) - 三角山(三角山) [[[熊津辺]]] ○
528卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 09:16:13.69
>>527
あ、なーるほど、と言いたいのだが、

가림(加林) - 부평(富平) [[[강역문답]]]遮蔽(加林) - 富平(富平)[[[彊域問答]]]
가야산(伽倻山) - 삼각산(三角山) [[[웅진변]]]伽倻山(伽倻山) - 三角山(三角山)[[[ウンジン便]]]

とあるところを見ると、[[[ウンジン便]]]というのは書物の題名のように思えるのである。それに、

계림(鷄林) - 경주(慶州) [[[웅진변]]]桂林(鸡林) - レース(庆州)[[[ウンジン便]]]

とあり、慶州が熊津辺というのは、やや変である。参考までに−
http://pds18.egloos.com/pds/201105/05/14/place_list.txt
529卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 09:29:07.30
上のurlをクリックして文字化けした画面が現れたときは、
再度上のurlをコピペしてgoogleで検索して「このページを訳す」をクリックして下さい。
530radio:2012/09/20(木) 09:36:38.46
1. 赫居世 (41年)推定13年 ~ 53年//(61年) BC57年- AD4年
2. X王 (22年)推定 53年 ~ 74年
3. 南解 (20年)推定 74年 ~ 93年// (21年) 4年- 24年
4. 儒理 (20年)推定 93年 ~ 112年// (34年) 24年- 57年
5. 脫解 (15年)推定112年 ~ 126年// (24年)57年- 80年 (56年- 70年)
6. 婆娑 (33年) 126年 ~ 158年 // (33年) 80年- 112年 (70年- 102年)
7. 祇摩 (33年) 159年 ~ 191年 // (23年) 112年- 134年 (102年- 134年)

*祇摩王の在位期間が33年で 10年が増えています.
そうするので, 三国史記新羅本紀の祇摩王の在位期間をまた調整してくれなければなりません.

* (102年- 134年) <== 新羅本紀 祇摩王の在位期間を調整した部分

それでは?
脱解王の在位期間が 14年 or 15年というのが 分かることができます.
理解ができますか?
531radio:2012/09/20(木) 09:45:22.49
http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihpc/hanjiquery?@50^2011167109^807^^^404020250003^1@@1059892651
集/小說/訓世評話/下卷(P.70)

[56]多婆那國,在倭國東比一千里,一名龍城國。其國王舍達婆婆,
娶女國王女為妃。有娠七年,乃生大卵。王曰:..................
.............年長而嗣位焉。”後儒理王將死,曰:
“先生顧命也,以脫解繼焉。”脫解,一云吐解,時年六十二,在位十四年薨。
.............親子儒理先繼為王,儒理又臨終,一從先生遺命,
把位子傳與姐夫昔脫解。這昔脫解年到六十二,在位十四年歿了。

*台湾の中央研究所サイトで "多婆"を検索語で入れて検索すれば..(現在は IDが必要)
"訓世評話" という小説冊で 脱解王が 14年在位したと書かれています.
そのため, いろいろに計算して, 脱解王の在位期間が 14年 or 15年だと主張するのです.
532radio:2012/09/20(木) 09:53:47.15
脱解の出生年= AD51年.
脱解の即位年= AD112年. 壬子. 62歳に 即位.
脱解の死亡年= AD130年. 8月. 80歳に 死亡.
脱解の在位年= 14年.

*また計算.

脱解= AD51年出生
+ 61歳 即位
-----------------
112年
+ 14年 在位.
-----------------
126年 退位.
+ 4年 (婆娑王5年 死亡)
-----------------
130年 死亡.
533radio:2012/09/20(木) 10:46:10.56
<新羅本紀 脫解 17년>
十七[주석1]年 倭人侵木出島 王遣角干羽烏禦之 不克 羽烏死之
脫解 17년(AD73년, 癸酉)=> 脫解 11년(AD122년, 壬戌)
(5월) 倭人(왜인)이 목출도(木出島)에 침입하였다.
왕이 각간(角干) 羽烏(우오)를 보내 그들을 방어하게 했으나 이기지 못하고
羽烏(우오)는 전사하였다.

*1) 原本 誤刻. 三國史節要 鑄字本에 의거 수정. 목판본 삼국사기에 十一年으로 표시.
534卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 12:52:24.77
面白い記事があったので紹介しておこう。

夢見大鹿而生帝 在胎十五月 狀皃俊異

訖解尼今紀は在胎十五月で生まれた、という記事だ。
他にも似たような記事がどこかにあった。

夢幻如が、応神の父は仲哀ではない、と得意げに書いていたが、そんなことはないのである。
535日本@名無史さん:2012/09/20(木) 14:11:14.48
>夢見大鹿而生帝 在胎十五月 狀皃俊異
>訖解尼今紀は在胎十五月で生まれた、という記事だ。
書いてあるから事実だとは言えない。
536日本@名無史さん:2012/09/20(木) 16:58:46.61
張政の19年間の逗留により、伊都国、日本海側の親公孫氏勢力の権威を簒奪し、
交易国家群から、朝鮮半島を牽制しうる中央集権型国家へ再編させる。
それには、東国(関西、東海地方など)の物的、人的資源を開発する必要がある。
537日本@名無史さん:2012/09/20(木) 18:02:00.68
遼東公孫氏といふは

現地の土人が漢字のお名前使用して漢人に化けたとゆうのが本当のところ

本貫はなんか帶方縣あたりらしいよ

おそらく高句麗系の系図のところからわあぷしているんだろとみたり

公孫淵と公孫修の親子は殺されてしまったけど

公孫沼たら公孫讓たらゆうご子息がその先生きのこって

帶方王女宝果をでかして血筋は百濟王家に繋がっている

帶方王虔たらゆうひともおったけどな
538日本@名無史さん:2012/09/20(木) 18:14:06.45
>>518

(130)婆娑    五年  八月 太君以暑疾崩 于日知宅(卞山!)

おまいらもにぶいよな せっかくびっくりまあくつけてあげているのにさ





太君脱解は 日知さんのとこで逝った すなはち 卞山だよ

太君脱解はもとのが卞韓の大酋長でありましたとさ

それが辰韓の大酋長さんのこと兼任していたりしただけだろ

帝は同時に並行して2人より大でも可なのでありましたとさ
539卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 18:50:29.62
>>535
まあ、それはそうだが、滅多にないことだから特記されているわけで、
そう簡単に否定するわけにもいかない。
>>536
>張政の19年間の逗留 ← こんな証拠がどこに?
>>537-538
>遼東公孫氏といふは 現地の土人が漢字のお名前使用して漢人に化けたとゆうのが本当のところ
確かな証拠はあるか?
卞山が卞韓にあったという証拠は?
540日本@名無史さん:2012/09/20(木) 19:04:00.25
「樂」 音洛

「卞」 樂也。或作弁。

「弁韓」=「卞韓」=「樂韓」=「洛韓」=「樂浪」?

そおいえば 「弁樂奴國」とゆうのがあったが比定とかされてるの見たことない
541日本@名無史さん:2012/09/20(木) 19:05:16.24
(BC54) 「柴吉稱樂浪」
(BC39) 「與樂浪王柴吉定界」
(BC39) 「柴吉欲得奄東盖斯之地 曰"我本南沃沮也 願得沃沮故地"上許之」
(BC34) 「柴吉不能自安願以女献 上(芻牟)命陜父妻之 是為柴花夫人」
(BC29) 「命再思與柴吉定界以竹ュ以東為樂浪」
(BC23) 「東巡至樂浪浮海 納柴吉女鵲氏為夫人 盖陜父之請也」
(BC19) 「二月鵲氏生鵲太子」(天~)
(BC19) 「上(芻牟)命以斗切(15)改名溫祚」
(BC19) 「四月上(芻牟)崩(40) 東宮(琉璃)(22)即位 溫祚太子」
(BC12) 「五月(樂浪) 柴吉子昌特立」
(BC02) 「玄公主爲鵲太子妃」
(BC03) 「陜父以瓢浮海入新羅」
(AD04) 「鵲太子浮海入新羅」
(AD08) 「新羅以女妻鵲太子」
(AD10) 「鵲太子爲新羅太輔」
(AD47) 「三月樂浪反 上親征其都沃沮拔之 崔理北走南沃沮
(AD54) 「樂浪自柴吉四世八十餘年 而國除(BC54-BC29-54)


芻牟のおうち―┐
   南沃沮   │東巡至樂浪浮海
北走↑      │
 其都沃沮←―┘
  樂浪
542卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 19:27:48.09
ネット百済史で、明らかに間違っていると思われる比定地は、
南沃沮〈鴨麹]西 今大孤山之地 時爲北部馬韓〉
である。これはおそらく、ネット高句麗史で、
<南沃沮〈鴨溝界〉
<南沃沮(鴨滿界)>
とある鴨溝界、鴨滿界を鴨麹]の河口と勘違いしたのだろう。

しかし間違いにも有益な部分がある。それは、
大孤山の地すなわち遼東半島南部を北部馬韓の地と解釈していることである。
他の記事を見ても、遼寧省南部は馬韓の地とされていることが分かる。
543審査委員長:2012/09/20(木) 19:42:06.26
ここのテーマはなんだろうな?
544卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 19:46:46.79
卑弥呼は馬韓の女王なのだから、テーマにぴったり適った内容だと思うのだがw
545審査委員長:2012/09/20(木) 19:52:54.16
馬韓の女王?(゚〜゚)
546卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 19:55:44.61
君は卑弥呼馬韓女王説も知らないで審査委員長をしてるのか(憫笑)
547審査委員長:2012/09/20(木) 19:58:16.75
じゃ、卑弥呼馬韓女王説なるものを
ここ見てる皆さんに分かり易く説明して下さい。
ほら〜ほら〜言えませんw
548卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/20(木) 20:03:36.12
いや、これまで何回も説明してきたがね。
もう聞き飽きたという奴がいるくらいだからw

君が知りたければ浜名寛祐とか山形明郷を読めばいいよ。
549日本@名無史さん:2012/09/20(木) 20:54:36.85
基地外ばっかだなww
やっぱ素人の邪馬台国オタなどきもすぎるわ。
550日本@名無史さん:2012/09/20(木) 21:16:21.97
基礎知識がなくまともな議論ができない連中は、トンデモで遊ぶことになるんだよ。
551日本@名無史さん:2012/09/21(金) 01:07:47.68
基礎知識書いて
552日本@名無史さん:2012/09/21(金) 11:54:20.89
たくさん本を読もう。自然に身につくから。
553日本@名無史さん:2012/09/22(土) 16:59:45.19
基が正確性に欠けてる文献だから
いくら読んだところで真実には近づかないだろ
554日本@名無史さん:2012/09/22(土) 17:14:59.87
邪馬台国の女王卑弥呼は馬鹿の女王ではありません。ちなみに朝鮮人は馬鹿です。
555卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/22(土) 18:37:21.32
一寸面白い記事があったので紹介しておこう。

五月 召加耶博士五人 入京 使骨門子弟 習其文字 A.D.427(訥祗天王紀)

新羅と伽耶は言語が異なっていたのだろうか。意外といえば意外だ。
加耶に独特の文字があったというのも意外。
556日本@名無史さん:2012/09/22(土) 19:00:05.04
任那と耽羅島には独特の言語がありました。それは日本語です。
557日本@名無史さん:2012/09/22(土) 19:20:29.18
>基が正確性に欠けてる文献だから
どんな文献の話をしているのかな? やっぱり読解力がなさすぎる。
558日本@名無史さん:2012/09/22(土) 20:13:01.89
>>557
それってぱくりの日本なんちゃらのことかね
559日本@名無史さん:2012/09/22(土) 21:02:12.95
三國史記新羅本紀読んでたら
 「徐那伐」
   「蘇伐公」
   「伊伐餐」
 「音汁伐國」
   「多伐國」

んでこれのの「伐」が 「延陀勃」の「勃」と関係あるかもと妄で調査

「大夫稱伐」  「徐那伐」のは「徐」の「邦」の「大夫」のいい

さらに 「邪讀如徐」 おいおい「邪」の発声は「や」とは限らないのか

んで 邪
xié



xú  とか
邪 《正韻》祥於切 xiáng wū
xiū のも

邪馬臺
xú mǎ tái
しまたい

邪馬壹
xú mǎ yī
しまい
560卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/22(土) 21:37:37.73
ネット新羅史で野と書かれているのは、広義では倭、狭義では畿内大和であることが、
諸々の記事から推測できる。そこで野の初出を調べてみると、

四月 野人加乙五古等 以爲厚福太子之命 奪我船泊 マ連縛獻…A.D.164 祇摩紀

これが初出である。この野人は大和人なのかどうかは不明だが、次の記事は大和と思われる。

與倭和親 互市交婚 稱其國曰野 A.D.382 奈勿大聖神帝紀

つまり少なくともA.D.382にはヤマトという国名が対外的に知られていたのである。
因みにネット新羅史には婆娑尼師今紀以前は欠けているので、
倭が早くから野と呼ばれていた可能性は十分ある。

ということで、九州説諸君には気の毒だが、大和という国名は早くから存在したのである。
561卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/22(土) 22:11:10.15
因みに、なぜ野が畿内大和のことと思われるかと言えば、
腆支を野に人質に出したとか、美海を野に人質に出した、というような記事があるからである。
そして記紀にそれらが大和の天皇家に人質として来ていたことになっている。
だから野とは畿内大和のことだと想像がつくのである。
562唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/22(土) 23:53:53.64
六年 玄馬・・・與倭和親互市交婚稱其國曰野
왜(倭)와 화친하여 호시(互市)를 열고 교혼(交婚)하였는데
그 나라를 야(野)라고 칭했다.

この韓国語を直訳すると「野」の部分は「野党」と直訳された。
つまり「野」の読みは「やとう」に近いよって、「やまと」が正解である。

この6年の次の年に「倭臣熊彦」千熊長彦の登場であるから、
神功48年の記事である。
563日本@名無史さん:2012/09/23(日) 02:01:27.84
>記紀にそれらが大和の天皇家に人質として来ていたことになっている。
古事記のどこにそんな記事がある?
564日本@名無史さん:2012/09/23(日) 06:34:30.95
>>1
 >邪馬台国問題に終止符!68

いつになったら終止符が打てるの?(笑)
決定打が出ない限り、永遠に続くね!
565卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/23(日) 09:39:55.59
>>563
記にはないが紀にはあるだろう。
腆支や美海が人質として大和にいたことになっているはずだ。
古田は、いや九州にいたのだと解釈しようとしているようだが、曲解だろう。
私は記紀も所蔵してないので記憶で書くが、
天皇が腆支や美海と会話していたような記事があったはずで、
天皇は大和にいたのだから、腆支や美海も大和にいたのである。

だから野とは大和で、筑後山門郡ではないのである。
566radio:2012/09/23(日) 10:23:17.72
邪馬臺(야마대, YAMADAE) <== 魏志
耶馬堆(야마퇴, YAMATOE) <== 後漢書

227年= 太和 元年
太和(曹睿):三国魏明帝曹睿由227年至233年的年號。

*阿達羅紀4年(216年) 四年 四月 多婆那以迎烏郎爲君
*阿達羅紀20年(232年) 二十年 五月 倭女王遣其弟狛比古等 獻其土物 請交易物貨 乃立倭典 與之通聘

<有史八代の 紀年>
孝靈 1年 = 216年
孝靈 6年 = 231年

孝元 1年 = 232年
孝元 7年 = 238年

開化 1年 = 239年
開化 8年 = 246年

崇神 1年 = 247年
567日本@名無史さん:2012/09/23(日) 10:45:44.86
>>565
記紀と書く以上、古事記、日本書紀の両方にないと嘘だな。

>天皇が腆支や美海と会話していたような記事があったはずで、
>天皇は大和にいたのだから、腆支や美海も大和にいたのである。
記紀の描く天皇がどこにいたかなんぞ、分かったものではない。 こじつけでは
だめだ。自分で記紀を読め、大和にいたなんてでてこない。

568radio:2012/09/23(日) 10:57:51.42
★『日本書紀』卷九 神功皇后攝政 五年(乙酉 二〇五)三月 己酉《七》◆ 戊午, 418년 9월~ 419년 5월. (418- 205= 213년 편차)
五年 春三月 癸卯朔 己酉。新羅王遣汗禮斯伐。毛麻利叱智。富羅母智等朝貢。仍有返先質微叱許智伐旱之情。是以誂許智伐旱而紿之曰。
使者汗禮斯伐。毛麻利叱智等告臣曰。我王以坐臣久不還而悉沒妻子爲孥。冀 還本土。知虛實而請焉。皇太后則聽之。因以副葛城襲津彦而遣之。
共到對馬宿于鋤海水門。時新羅使者毛麻利叱智等。竊分船及水手。載微叱旱岐令逃於新羅。乃造蒭靈置微叱許智之床。詳爲病者。告襲津彦曰。
微叱許智忽病之將死。襲津彦使人。令看病者。旣知欺而捉新羅使者三人。納檻中以火焚而殺。乃詣新羅。次于蹈鞴津。拔草羅城還之。是時俘人等。
今桑原。佐糜。高宮。忍海。凡四邑漢人等之始祖也。

*微叱許智伐旱(みしつきょちバツカン)= 美海(みかい,うみ) = 未斯欣(み(び)しきん)
*毛麻利叱智(모마리질지)= 毛末(모말, 일본내의 가명)= 朴提上(박제상)

*美海= AD393년생, 母= 保反后(보반후), 父= 내물왕.
*AD410년에 倭로 감. 410년- 393년= 17살+ 1살= 18살때. AD419년, 5월에 돌아옴(27살때)
*履中天皇때의 일임.
569唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/23(日) 12:30:29.77
阿達羅尼師今 154~184
173 倭の女王卑弥呼の使者来訪。ここを姫を追って、天日矛の来日とする。
ホ35054 アメヒホコ モロスケをうむ モロスケは ヒナラギをうむ ヒナラギは キヨヒコをうむ
キヨヒコは タシマモリうむ
ホツマと古事記では多少違うが、175年モロスケをうむ・194年ヒナラギをうむ
214年キヨヒコをうむ・233年タシマモリうむ

219年垂仁3年8月 ミホハモロスケ トミにめす 諸助45歳程度。
239年垂仁90年 都市牛利(たしうり)=田島守
田島守は古事記の言うようにキヨヒコの弟であれば、数字的に合う。

諸助の子孫は多遅摩斐泥−多遅摩比那良岐と続き、この比那良岐の子が多遅麻毛理、多遅摩比多訶、清日子の三人。
息長帯比売命 母は天日矛裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)。
230多遅摩比多訶 ・248葛城高顙媛・256息長帯比売命・274年応神誕生 ここから逆算。
570唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/23(日) 12:45:14.67
書紀の編年
神功39年=239年景初3年として、その74年後が 313年仁徳元年。
神功39年大歳とは、この仁徳元年でもある。神功39年=313年。
百済本紀120年差=書紀74年差、その誤差は46年。

46年差で見ると
307年 丁卯(赤兎)九月以康世女千康妻夫余太子吉须(貴須結婚) (367年丁卯)
312年壬申(水猿)6月、基临帝崩 新羅本紀310年 (372年壬申)
奈勿王 7年癸未=323年神功49年(己巳二四九)倭臣熊彦=千熊長彦。(383年)
338年 神功六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。(384年)
百済本紀 384 枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)
339年 神功六五年(乙酉二六五)百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。(385年)
346年 応神三年辰斯王立之失禮
王子阿花は、年少(15歳以下)であっても、乳児ではない。だから失礼にあたる。
阿花が乳児であれば、叔父辰斯が王位につくのは当然である。
書紀:307年貴須結婚、その孫である王子阿花は、339年時点、31年後で年少である。
百済:367年貴須結婚、その孫である王子阿花は、385年時点、18年後で年少にならない。
571卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/23(日) 12:52:47.39
>>567
天皇が九州にいた、などと思いたがるのは君たち九州論者だけである。
腆支や美海が人質だった時の天皇は誰かは知らないが
(ネットで調べればすぐに分かるのだが、調べるのはめんどくさい)、
天皇はたいていは大和(か河内)にいたのである。
572日本@名無史さん:2012/09/23(日) 12:57:09.75
仲哀や神功が筑紫にいたことは信用しないってか。
573日本@名無史さん:2012/09/23(日) 13:09:46.51
熊襲の土人の酋長の歴史書ぱくって天皇でっちあげただけさ

天皇なんて天武のころに発明したブツだってゆうでしょ

なぜかそのあたりは通説らしいんだけどね

肥え出して記紀読むのなら 

天皇のところは 「しゅうちょう」か「おかみ」あたりで肥え出して桶
574日本@名無史さん:2012/09/23(日) 15:27:28.31
こんな、改行の多い奴ウザイなあ
出ていけよ
575日本@名無史さん:2012/09/23(日) 15:47:40.80
>>573
天皇という名称が生まれたのはその頃かもしれないが、その実態が誕生して
いた時期がいつかについては別の考え方が必要。
神武東征の頃から天皇の実質は誕生していた可能性がある。名称と実態を
混同させようとしているのは畿内説の常套手段か。
576日本@名無史さん:2012/09/23(日) 16:13:46.44
>>510
神皇正統記ヘッドの万世一系とゆうのが確立するのは

表面に女帝が出なくなったその以降のことだから

桓武のとおちゃんの即位がひとつのエポックだよな

もそっと後の時期になったあたりでも手下の貴族さんは通い婚ズバズバなんだから

父系でビシバシ継承とゆうのは必要とされた御伽噺みたいなもので

実際に皇位につく人は女王家のなれのはての血筋を引くことがひとつの条件とかゆう

こわいこわいおはなしですわな
577日本@名無史さん:2012/09/23(日) 18:34:23.19
まぁ重要なのは畿内のヤマトの土地だ。
紀元前の神武伝承を史実とするならな。
いくら九州説が頑張ったところで所詮は邪推だ。
クマソの歴史書をパクる?そんな必要性がどこにあんだよw
578日本@名無史さん:2012/09/23(日) 18:45:56.57
つーか天皇でも大王でもいいが
世襲制の王権委譲が行われるようになったのは
おそらく5世紀以降だろ
3世紀頃なら大王位は有力首長層の持ち回りで
記紀にあるような親子や兄弟間の譲位など少ないだろ
579日本@名無史さん:2012/09/23(日) 20:48:50.06
>>577
神武東征は皇室の歴史書といわれる古事記と日本書紀に書かれているわけだが。

>>578
何を根拠にすればそういうことが言えるのかな?
580日本@名無史さん:2012/09/23(日) 23:59:42.71
卑弥呼にも生理とかあったんだろ?
581日本@名無史さん:2012/09/24(月) 00:15:54.74
土人だけに一緒に死にたいとかゆう奇特なへんなひともたくさんいただろう

江戸期に入ってもそういう土人っぽい慣習は残っていたりしたもの
582日本@名無史さん:2012/09/24(月) 03:22:41.10
アマテラス=卑弥呼・台与で丸く収まるじゃん。
583日本@名無史さん:2012/09/25(火) 17:22:32.59
>>580
戦死したという説があるくらいだから
女装してただけかもな
卑弥呼の弟のひとり二役とか
584日本@名無史さん:2012/09/25(火) 19:30:06.56
インターセックスは神です
585日本@名無史さん:2012/09/25(火) 20:00:07.43
>>583
中国史書に未婚女王と書かれてるくらいだしいくらなんでもそれはw
男王なら生涯未婚を貫く必要もなかったんだし
586唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/25(火) 22:44:26.33
ホ32209 いわくイセには メとつぎて うみのオヤなし むかしヲバ メイいまはツヅ うむコあり

伊勢(神宮)に嫁ぐとは、神宮の巫女になることであり、その頂点に斎王がいる。
つまり、神宮の巫女になった女性は生涯結婚しない。
巫女になる条件として、出産時などに母が死ぬ、
母を亡くした幼児は神宮で育てられる。
そして、女性が旦那を持たずに生きてゆける時代ではない。

587唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/25(火) 22:58:48.61
ホ32021 ナツウチメ ヤマトクニカが ミツコうむ ナはみなヤマト モモソヒメ
ホ34054 モモソヒメ ヲホモノヌシの ツマとなる ヨにはきたりて ヒルみえず

モモソヒメも母を亡くして、三輪(大物主)大神の巫女となる。
夜は間男。そして、妊娠、堕胎に失敗して死亡する。
ただし、このモモソヒメと崇神のモモソヒメとは姉妹であり本人ではない。
588卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/25(火) 23:16:22.93
唐松山氏も通俗的だな。
歴史というものはだな、あなたが思っているほど俗っぽいものではないんだぞ。
モモソ姫の話には、現代人が想像もつかないほど深い意味が秘められているのだ。
ヤマトタケルの白鳥伝説も然り。

記紀を捏造だとか造作だなどと言うのは、早い話、下衆の勘繰りなのだ。
589日本@名無史さん:2012/09/25(火) 23:18:14.51
卑弥呼については、倭人伝に「以婢千人自侍」とある。
後の伊勢の斎宮制度に似ているような気がする。
590日本@名無史さん:2012/09/26(水) 00:52:17.91
箸墓古墳の石積み遺構ってやっぱ被葬者卑弥呼説に都合悪いの?
591唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/26(水) 00:53:14.77
>唐松山氏も通俗的だな。

歴史を構成するのが人間であるから通俗的になるのは必然である。

>記紀を捏造だとか造作だなどと言うのは、早い話、下衆の勘繰りなのだ。

神功渡海も半島占拠も領土分与も認めるのが正しい歴史認識である。
その為の編年の見方として
神功39年大歳。であり渡海から40年後のこの年こそ、景初3年から74年後の
313年仁徳即位の年である。
渡海の34年前が239年景初3年。仲哀に9年をさくと、その35年前に邪馬台国官伊支馬になる。
まあその程度の数字になるから、伊支馬とはイクメであり垂仁となる。
592卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/26(水) 09:31:08.78
>>591
伊支馬というのは官名であって個人名ではない。
だから伊支馬が垂仁というのはありえない。

他にも諸々の理由で伊支馬が垂仁というのはありえない話である、
いつも太国が指摘しているようにw
593唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/26(水) 10:18:11.39
倭人伝は、纒向遺跡のどの時代に相当するかわかっているのか?
まず纒向は、2世紀後半から箸墓までの7、80年間。
倭人伝はそのうちの、ホケノ山から箸墓までの20余年。
布留0は、20年程度。
布留1式は纒向に少ない。布留式自体が纒向から離れた編年指標である。
594唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/26(水) 10:25:20.52
>諸々の理由で伊支馬が垂仁というのはありえない話である、

なぜか教えてあげようか?
それは百済王家を書紀と120年差で読むからである。
百済王家と書紀が74年差(46年の齟齬)でなくては、書記の編年ができない。
つまり、百済本紀は、高句麗に占拠された50年の歴史を欠き、書紀を参考に肖古王と近肖古王を作り出した。
595唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/26(水) 10:44:23.01
古事記成務崩御 267年乙卯 
古事記仲哀崩御 274年壬戌 古事記「壬戌」を274年とする。
神功皇后 275年〜343年 
応神天皇 344年〜384年 古事記応神崩御 366年甲午
仁徳天皇 313年〜399年 古事記仁徳崩御 399年丁卯

神功三九年(己未二三九)大歳己未。〈魏志云。明帝景初三年六月。
景初三年(神功三九年)から74年後が仁徳即位(313年)でありそれは、神功三九年大歳でもある。
これが、書記編纂の中では1番のカラクリ。
だから、出来事は上記の数字に合致する。

316年 仁徳天皇四年(丙子三一六)悉除課役。 316年西晋滅亡。
323年 神功四十九年春三月 千熊長彦(倭臣熊彦)・奈勿7年(AD383年、323年) 1月, 水羊, 癸未, 倭臣熊彦
324年 仁徳天皇十二年(甲申三二四)高麗國貢鐵盾。鐵的。 メスリ山の鉄弓との対決だ。
324年 神功五十年 於是皇太后歡之問久曰。海西諸韓既賜汝國。
326年 神功52年 七支刀
343年 仁徳天皇三一年(癸卯三四三)正月 立大兄去來穂別尊爲皇太子。
343年 神功六九年 葬狹城盾列陵。

365年 仁徳天皇五三年(乙丑三六五)。新羅不朝貢。
364年 新羅 倭兵が大挙して侵入

370年? 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月呉國。高麗國並朝貢。
371年 応神天皇二八年(丁巳二九七)九月 高麗王遣使朝貢。
372年 東晋の勅使が百済を訪問

年度に多少の齟齬はあっても出来事はこの時空である。
596唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/26(水) 10:59:46.04
323年 神功49年 領土分与。
324年 神功五十年 於是皇太后歡之問久曰。海西諸韓既賜汝國。
326年 神功52年 七支刀
「神功49年 領土分与」この真意を確かめるため50年に百済の使者は大和を訪れる。
領土分与は大和の真意であることを確認して、52年七支刀
わかる?
372年神功52年七支刀=369年銘では神功五十年の出来事の説明ができない。
しかも369年は16日丙午の存在しない年である。
597唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/26(水) 11:39:46.26
履中天皇 400年〜405年 兄王捜索の話は、帯方界での敗戦をうけたもの。
上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)の前方部に球状の高まり。
百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議9/18発表。

この前方部の球状の高まりが兄王こと大兄イザホワケの墳墓か?
598日本@名無史さん:2012/09/26(水) 12:55:15.87
なんかこのスレに日本の命運がかかってるよね
599日本@名無史さん:2012/09/26(水) 22:45:29.75
>>586
開化の話
いわくイセ(妹背、夫婦)には メとつぎて うみのオヤなし 
むかしヲバ(ウツシコメ) メイ(イカシコメ)いまはツヅ うむコあり
つらなるヱダの ヲシマコト ハハはたがひぞ

>>587
三つ子
ナツウチメ ヤマトクニカが ミツコうむ
ナはみなヤマト モモソヒメ (ヤマト)ヰサセリヒコに (ヤマト)ワカヤヒメ 
ハハもヤマトの ヲヲミヤメ
600日本@名無史さん:2012/09/26(水) 23:44:58.39
>まず纒向は、2世紀後半から箸墓までの7、80年間。
3世紀後半からだろう。百年ちがってるぞ。
601唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/27(木) 00:09:01.31
>3世紀後半からだろう。百年ちがってるぞ。

昔の考古学とは50年、100年違っている。というお話ね。
なぜ狂ったか考えたか?
狂った理由は、百済本紀を書紀編年の指標としたからだ。
書紀を百済本紀と同期させても、書紀の言い分はほとんど否定される。
つまり、百済本紀は書紀の記事を否定はできても肯定は出来ない。 
逆に言えば、書紀の主張する数字に百済本紀を合わせれば済む。
書紀の設定を50年遡上させる。これで解決だ。

その読み方として
神功39年大歳、景初3年
渡海から40年後の神功39年に313年仁徳即位を当てはめれば
神功39年から74年前が景初3年邪馬台国官伊支馬(垂仁の崩御年)になる。
602日本@名無史さん:2012/09/27(木) 00:13:09.25
もおそお垂れ流しで無理な俺様編年とかおしつけるとかのがへんなひとだわ
603唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/27(木) 00:22:17.27
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.htm
l
寺沢薫 案 (畿内 大和) 弥生第W様式と第X様式の変わり目が神武即位。
纏向新偏年

崇神 189〜216年(基本は38年の空白であるがこれ以外に2年を開化から割り振られている)
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年=後漢193年冷夏飢饉 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。[崇神10年異俗多帰]
纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀209年)[崇神58年?任那建国]
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(庄内式穴あき壺)。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
景行 240〜261年(38年の空白)
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王、260±10年)・燈籠山、布留0の指標、
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
604日本@名無史さん:2012/09/27(木) 00:22:21.55
>>601
畿内説の考古学は連戦連敗だから、過去を否定しないとどうしようもない立場に
あるよなあ。少しは反省したらいいのに。
たとえば、三角縁神獣鏡についての総括とか。
畿内説の考古学的柱だったのに、今では過去の出来事にして知らん顔している。
605唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/27(木) 00:36:14.07
欽明天皇二年(五四一辛酉)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔(24代眞興王)元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代
孫仇衝王之降于當國也.
・・・己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年(210年) 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
ホツマによれば、崇神58年にツノガアラシトの訪問を受け、兵を授ける。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。

金官伽耶が新羅に降るのは、欽明天皇二年(五四一辛酉)だ。
その年で建国330年である。
崇神を卑弥呼の時代に配しても、魏・晋が半島を管理する時代に任那建国はない。
考古学は、卑弥呼の時代に庄内式土器が九州に持ち込まれたとする。
持ち込んだのは景行である。とするならば、
邪馬台国官伊支馬(イクメ=垂仁)都市牛利(たしうり)=田島守。
ホケノ山には、楽浪鏡と埴輪(穴あき壺)で垂仁末。プラス殉葬墓。
垂仁の墳墓に田島守の殉葬。
中期の大型建物が日代宮。
606唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/27(木) 00:40:51.53
>たとえば、三角縁神獣鏡についての総括とか。

晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。 新羅からの調(税)
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山  308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳 
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。316年西晋滅亡 仁徳4年課役の停止

纒向5類の時代とは、新羅から調(税)が毎年納められた時代であり、△鏡の時代でもある。
607日本@名無史さん:2012/09/27(木) 00:56:29.87
>>601
妄想の話ではない。考古学的にみて巻向は3世紀後半以降だろうといっているんだ。
608唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/27(木) 21:48:58.67
>考古学的にみて巻向は3世紀後半以降だろうといっているんだ。

どこにそんな編年が掲載されているか?
ウィキでみても
180〜210年 X様式 北溝北部下層 灰粘土層
210〜250年 纒向2類 辻地区土坑2 庄内I式(庄内古式) などとなっている。
だから、この数字に合う文献を探せば、後漢193年冷夏、飢饉・新羅193年倭人大餓・崇神5,6年。

崇神が2世紀末にならないという文献が存在するのか?存在しないだろ。
ただ、百済王家から逆算すれば、崇神と卑弥呼が重なる。これは認めるが
直接、「崇神と卑弥呼が重なる」とする文献は存在しない。
609唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/27(木) 23:31:09.09
>だろうといっているんだ。

アテとふんどしは向こうから外れる。
Wikiより 纒向遺跡
奈良盆地南東の三輪山のふもとに広がる纒向遺跡は、2世紀末葉に突如出現して、4世紀中
葉ころに突然消滅した大集落遺跡であり、・・・

これが正しいのであれば、これに合う文献の読み方が存在すればいいんだよな。
610唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/28(金) 01:03:25.36
文献から編年
天皇   西暦     増し(1章=19年空白年の差し込み) 
神武天皇 42年〜63年  3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり。近江伊勢遺跡。
綏靖天皇 64年〜77年  1章
安寧天皇 78年〜82
懿徳天皇 83 〜93年  3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は異母兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章 
孝元天皇 165年〜183年 2章
開化天皇 184年〜188年 ≒3章-2年 2年の異常 開化崇神は同じ暦
崇神天皇 189年〜216年 ≒2章+2年 五,六年の記事は、後漢193年=新羅192年〜3年に対応。
垂仁天皇 217年〜239年 4章 邪馬台国官伊支馬=垂仁・都市牛利(たしうり)=田島守
ホケノ山 楽浪鏡・埴輪(穴あき壺)石囲い木槨、殉葬墓。
景行天皇 240年〜261年 2章 
250年ころ 庄内式土器(纒向3類)が北部九州へ持ち込まれる(九州遠征)
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(大倭)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
箸墓(260±10年)最初の大王墓=景行墓
成務天皇 262年〜265年 ≒3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。
仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)一大率を渡海させる。
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山。誉田御廟山までは110年。
応神天皇 344年〜384年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。

神功39年は313年であり、渡海(応神誕生)から40年目であり、239年から74年である。
611日本@名無史さん:2012/09/28(金) 05:21:22.70
>たとえば、三角縁神獣鏡についての総括とか。
景行紀に鏡を榊に吊して出迎えたというように、
鏡を渡すとは服属儀礼であり、
その際、本当に大事なものは渡さずに、
関西人好みのゴテゴテ大きな物を大量生産した。
その後、古墳の棺外に戦利品としてまとめて埋められることとなる。
612日本@名無史さん:2012/09/28(金) 11:41:28.22
>>608>>609
遺跡内出土遺物で最も古いものは、縄文時代後・晩期のものだ。だが、誰もそのころから
纒向があったとは言わない。遺跡からは弥生時代の集落は発見されておらず、環濠も検出
されていない。銅鐸の破片や土坑が2基発見されているのみである。この遺跡より南に少し
離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住
居なども検出している。また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。
となると、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つ
かっており、「纒向編年」で「纒向1類」とされているからといって、直ちに信用はできない。
近くの遺物が紛れ込んだかも知れないし、いわゆる纒向遺跡とは無関係な単なる弥生住民の
遺物かも知れない。3世紀前半の遺構はあまり認められず、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃か
ら4世紀初めにかけてであるとされる。早くからあったと主張したい気持ちは分かるが、考古
学的に君の言うような時期の遺跡と言えるものではない。
613radio:2012/09/28(金) 15:35:32.85

★ 『日本書紀』巻九 神功皇后攝政 五年 三月 己酉《七》◆ 戊午, 418年 9月~ 419年 5月. (418- 205= 213年偏差)
五年 春三月 癸卯朔 己酉。 新羅王遣汗礼斯伐。 毛麻利叱智。 富羅母智等朝貢。 仍有返先質微叱許智伐旱之情。
是以□許智伐旱而□之曰。 ...........................

* 微叱許智伐旱= 美海= 未斯欣(み(び)しきん)
* 毛麻利叱智= 毛末(モマル, 朴提上の日本内の仮名)= 朴提上
* 美海= AD393年生, 母= 保反后, 父= 那勿王.
* AD410年に 倭で go. 410年- 393年= 17歳+ 1歳= 18歳の頃. AD419年, 5月に戻って来(27歳の頃)
* 履中天皇の時の仕事だ.
614radio:2012/09/28(金) 15:41:06.42
**渟葉田瓊入媛 ── 祖別命(稲別命= 祖父別命= 朝庭別命= 於知別命= 意知別命= 落別命= 八綱田命= 大水口宿禮= 大江王) ── 日本武尊

── 膽香足姫命(鐸石別命= 伊賀帯日子命= 伊賀五十日足彦命= 五十日帶日子王)

615唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/28(金) 16:59:45.43
景行天皇十二年秋七月。熊襲反之不朝貢。「熊襲反・・・」は、九州卑弥呼の言い分だ。
だから、最初に筑紫の神夏磯媛(カンカシヒメ)へ挨拶にゆく。
神夏磯媛(卑弥呼)は景行(倭王)にとって「我之屬類」。

仲哀8年・・・時岡縣主祖熊鰐。・・・又筑紫伊覩縣主祖五十迹手。

出迎えるのは仲哀8年だ。つまり、景行12年から仲哀8年までのあいだに何が起きたか?
1, 2年の狂いはあるが、この時空の出来事。
247年 景行12年 景行と九州王朝は、協力して九州平定を目指す。
同年冬 神夏磯媛死亡
248年 景行は魏使とともに、一旦ヤマトに帰る、まもなく戦線に戻り、筑紫の西方か
ら平定を進める。諸縣=玄海町諸津。
景行18年に筑紫の男王が死亡する。
景行20年に 壹與(五百野姫)を軍隊付きで筑紫に派遣する。
255年 景行27年 遣日本武尊令撃熊襲。時年十六。
256年 景行28年=同40年日本武尊雄誥之曰。熊襲既平。未經幾年。古事記未經幾時。
これで、邪馬臺國が倭国の代表者となるのである。
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(大倭)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
274年神功渡海とは、
晋による渡海命令であり、一大率を半島の警察軍として活用する。
渡海命令は仲哀の死より優先され、一大率の維持経費として、新羅から調(税)が納められる。
616唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/28(金) 17:21:50.79
>「纒向編年」で「纒向1類」とされているからといって、直ちに信用はできない。

編年出来るだけの層序があるから編年できるんだよ。
それを文献ですると
後漢193年=崇神5年=新羅192年(新羅本紀には1年を加える)
欽明天皇二年(五四一辛酉)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔(24代眞興王)元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代
孫仇衝王之降于當國也.
・・・己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年(210年) 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ
仇衝朝末〔欽明天皇二年541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年である。

崇神は、188年から220年の範囲に収まる。次の垂仁末を239年伊支馬とすることができる。
庄内土器を九州に持ち込んだのは景行となる。
617唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/28(金) 17:38:54.09
気候と社会の共振現象 年輪降水量。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

 降水量が少ない時期が続く=寒冷期である。
年輪降水量グラフは、年輪年代法に基づく。
日本に於いても、183〜193年頃は寒冷期である。
新羅 192年 4月大雪。
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。

この年輪年代が狂っているとはできない。
だから、編年のある年輪から炭素C14の誤差もはじき出せる。
年輪年代が正しければ、炭素C14でも同じ編年を得ることが出来る。
618卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/29(土) 10:44:18.17
けふもまた 流れを止める 唐松山
妄想に 妄想を積む 唐松山
実の成る 木は生えてゐない 唐松山

ぐちゃぐちゃに 複雑骨折 唐松山
619唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/29(土) 11:49:45.14
無視しようとしても考古学は正しい年代をはじき出しているのだ。
だから
後漢193年=新羅192年=崇神5年。
この設定はなかなか動かない。
しかし、ネット朝鮮史はこの数字を動かしている。
ではどうなるか?
逆に、百済王家が引き上げられる。
これで、百済王家と好太王碑の齟齬も解決だ。
620唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/29(土) 12:25:15.25
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 [274年神功渡海]
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。 新羅からの調(税)△鏡。
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。316年西晋滅亡 仁徳4年課役の停止
 [323年神功49年]
仁徳天皇十二年(甲申三二四)七月 高麗國貢鐵盾。鐵的。[324年神功50年]
旧纏向5式  326年七支刀、大量の渡来人 旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3)
  仲津山古墳
旧纏向6式 須恵器を伴う 370年前燕滅亡 TK73石津丘古墳
TK216誉田御廟山古墳 渡海(274年)から110年後。
399年 ON46大仙古墳
406? 履中天皇陵とされる上石津ミサンザイ古墳では前方部上に球状の高まりがある
ことをあらためて確認。

神功52年七支刀 領土分与の謝礼である以上、領土分与を確認した神功50年以後
の年号しか刻むことはできない。
つまり、372年神功52年七支刀=369年神功49年の年号を刻む。これはありえない。
621卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/29(土) 13:09:44.27
伊支馬をば 活目入彦にする 唐松山
都市牛利は 田道間守だと 唐松云ひ

下手な芸 唐松山の 語呂合わせ 
622唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/29(土) 21:19:18.52
239年 邪馬台国官伊支馬
ホケノ山(225〜250年) 2重口縁壺(庄内式穴あき壺)は埴輪である。

神功39年大歳、景初3年。 
神功39年大歳とは、渡海から40年後の仁徳即位の年であり、景初3年から74年が経過している。
百済本紀の百済王家とは、46年差がある。
新羅本紀と百済本紀には、奈勿王紀で46年差がある。
奈勿王紀の固定に失敗すると、奈勿王紀が遡上すると同時に百済王家も46年遡上する。

274年神功渡海から35年前が伊支馬であり、埴輪のホケノ山である。
当然ながら、埴輪は垂仁末からである。
623本格派左腕:2012/09/29(土) 22:50:23.99
朝鮮氏の しょんべんも効なし 唐松山  (字余り)
624唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 10:01:01.34
景行28年春二月日本武尊奏平熊襲之状曰。から景行40年秋七月までは、未經幾年である。
仁徳67年から同87年までは、天下太平。廿餘年無事矣。である。

景行の時は、時が立っていないから時空の変更がある。
つまり、景行28年春と40年秋は時空で見た場合同年である。
景行元年生まれの日本武尊は、27年時点で16歳。時空で見た場合10年ほど狂いが出る。
仁徳の時は、20余年が経過している。
625唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 10:21:05.02
仁徳の時は、20余年が経過している。
しかし、仁徳87年を神功・応神の後ろにつないだのでは、百済王家の説明がつかなくなる。
だから、神功・応神と仁徳は重ねる必要が出る。
そのかさね目として、神功39年大歳があり、大歳は即位の年が基本であるから
ここを仁徳元年313年とすることができる。しかし、120年差が百済王家であるならば、
神功39年大歳=313年では、74年差しか確保できない。
626太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 10:22:05.95
>未經幾年である。

「既經幾日」であるとはどういう意味だか解かるか?

日蝕はすでに日を經ての数日間は続かない。

所詮オマエの1円玉日数計算がデタラメだということの
証である。ww
627卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/30(日) 10:24:51.18
太国が 出てきてうれしい 唐松山
628太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 10:27:42.06
後漢193年=新羅192年≠崇神5年・・・1年

>193年=崇神5年から・・・←×

書紀の記事の正しさを証明する。そして、編年の正しさとできると、110歳の応神と仁徳が逆になるのはデタラメである。

>240年景行元年←× 
>正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國
田道間守は、梯儁等を伴い弥生に大和へ帰着する。その時垂仁(伊支馬)←×

壹與≠五百野姫

五百野媛を軍隊(1大卒)付きで筑紫に派遣せず。

これで邪馬台国が大倭とならない。

403 :日本@名無史さん:2012/09/08(土) 01:32:30.42
ホツマ真理教信者に、何を質問しようと
訳の分からないことを口走るだけだ。

 同意

唐松山のひどさを垣間見た思いがする。

応神天皇 344年〜・・・
仁徳天皇 313年〜・・・

  ↑ 松沢病院特別室ご入室ww
629唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 10:42:59.13
時空を重ねて120年差を確保すると、渡海の年に生まれた応神の子供である仁徳が
応神誕生前に即位してしまう。
313年仁徳即位。320年代神功渡海。
“313年仁徳即位”は“320年代神功渡海”を否定する。
つまり、“百済王家の120年差”も否定する。
313年仁徳即位は干支を切り替えることで説明できる。だから313年を離れると説明できない。
630唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 10:45:10.50
よって、74年差で百済王家が説明できれば、百済本紀が書紀の干支を使用したことがわかる。

307年 丁卯(赤兎)九月以康世女千康妻夫余太子吉须(貴須結婚) (367年丁卯)
312年壬申(水猿)6月、基临帝崩 新羅本紀310年 (372年壬申)
奈勿王 7年癸未=323年神功49年(己巳二四九)倭臣熊彦=千熊長彦。(383年)
338年 神功六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。(384年)
百済本紀 384 枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)
339年 神功六五年(乙酉二六五)百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。(385年)
346年 応神三年辰斯王立之失禮(392年)
王子阿花は、年少(15歳以下)であっても、乳児ではない。だから失礼にあたる。
阿花が乳児であれば、叔父辰斯が王位につくのは当然である。
書紀:307年貴須結婚、その孫である王子阿花は、339年時点、31年後で年少である。
百済:367年貴須結婚、その孫である王子阿花は、385年時点、18年後で年少なのか?
631卑弥呼は朝鮮にいた:2012/09/30(日) 17:24:29.34
太国が ゐなくてさびしい 唐松山
論をする 相手のゐない 唐松山


632日本@名無史さん:2012/09/30(日) 18:09:50.91
おいおい、唐松山=太国といううわさも有るよ。
633太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/09/30(日) 18:14:52.62
コチラはこんな紀違い論を書きこまない。あいつと一緒にするな。
     ↓
応神天皇 344年〜・・・
仁徳天皇 313年〜・・・
634日本@名無史さん:2012/09/30(日) 18:22:13.86
50歩100歩だろ
635本格派左腕:2012/09/30(日) 22:45:38.05
唐変木 ほどではないと 太く言い
636唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 23:11:45.09
允恭天皇四年(乙卯四一五)九月。詔曰。上古之治。人民得所。姓名勿錯。今朕踐祚於茲
四年矣。上下相爭。百姓不安。或誤失己姓。或故認高氏。其不至於治者。蓋由是也。朕雖
不賢。豈非正其錯乎。羣臣議定奏之。群臣皆言。陛下擧失正枉而定氏姓者。臣等冒死。奏可。

故諸氏姓人等。沐浴齋戒各爲盟神探湯。則於味橿丘之辭禍戸 。坐探湯瓮而引諸人令赴曰。
得實則全。僞者必害。

書紀はクガダチで世継ぎの書き換えを認めている。
しかし、太国倍年のように、記事を無視して良いとはどこにも書いてない。
そりゃあ、記事を無視すれば、どのような編年も自由自在だ。
637唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/09/30(日) 23:31:14.26
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山。誉田御廟山までは110年。
応神天皇 344年〜384年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。

神功・応神紀の百済王家は倭の記録であり、この年代を圧縮できない。
そして、仁徳87年を神功・応神紀の後ろにつなぐこともできない。
であるならば、仁徳紀は神功39年大歳(景初3年)を渡海から40年後の313年とすることができる。
313年仁徳元年から74年前が景初3年である。
言い換えれば、神功・応神紀は、74年差であり、百済本紀の言う120年差ではない。
638唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 00:13:00.35
>コチラはこんな紀違い論を書きこまない。あいつと一緒にするな。

太タヌキ殿が神功・応神紀を解説することはない。
なぜならば、崇神垂仁3倍歴、景行2倍歴、成務3倍歴、仲哀1倍歴、神功應神仁徳3倍歴

倭国の歴史である倭に臣従する百済王家を無視しているからである。
七支刀は何時?

639唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 01:13:17.84
太国倍年とは
崇神垂仁3倍歴、景行2倍歴、成務3倍歴、仲哀1倍歴、神功應神仁徳3倍歴
皇紀     西紀
791辛未  323癸未  成務即位
850庚午  342壬寅  成務崩御
852壬申  344甲辰  仲哀即位
860庚辰  352壬子  仲哀崩御 應神誕生
861辛巳  353癸丑  神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)
863癸未  353癸丑  應神立太子    (倍歴では皇紀861年と同年)
917丁丑  371辛未  仁徳誕生
929己丑  375乙亥  神功崩御
930庚寅  376丙子  應神即位 庚寅←繼體即位丁亥を倍歴辛丑取替1倍逆算
970庚午  389己丑  應神崩御
973癸酉  391辛卯  仁徳即位
1059己亥  419己未  仁徳崩御

「神功摂政立皇太后」って何だ?説明できるのか?。
640唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 01:19:55.76
太国倍年とは
崇神垂仁3倍歴、景行2倍歴、成務3倍歴、仲哀1倍歴、神功應神仁徳3倍歴
皇紀     西紀
930庚寅  376丙子  應神即位 庚寅←繼體即位丁亥を倍歴辛丑取替1倍逆算
970庚午  389己丑  應神崩御
973癸酉  391辛卯  仁徳即位
1059己亥  419己未  仁徳崩御

好太王碑
@永楽5年(395年)王は自ら兵を率いて契丹族の稗麗を撃った。
A永楽6年(396年)王はまた軍を率いて百済を撃ち、空前の大成果をあげた。
B永楽8年(398年)王は兵を粛慎に派遣し撃ち、朝貢させた。
C永楽9年(399年)百済が倭と内通した。王は平壌に下り倭の進出に直面した新羅の救援を決定した。
D永楽10年(400年)王は新羅救援のため五万の兵を派遣し、新羅・任那加羅になどに進み倭を退却させ、
また安羅人を撃った。新羅は高句麗に朝貢するようになった。
E永楽14年(404年)倭はまた侵入してきたので王は自ら率いてこれを撃った。
F永楽17年(407年)王は五万の兵を派遣し、(百済)を撃った。(壁面の破損で読みとれないようです)

丁度太国仁徳と重なるのであるが、仁徳紀の記事とは大きく違っている。
説明してくれ。
641唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 01:25:16.92
太タヌキ殿よ
391年「百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡□破百殘、□□新羅、以爲臣民」
説明してくれ。
642唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 10:48:45.30
太タヌキ殿
太国倍年を使うと、他人の説どころか、自分の倍年も否定できると・・・
643太国:2012/10/01(月) 11:02:54.38
空服多ヌキよ
宿主空年を使うと、他人の説どころか、自分の倍年も空定できると・・・
644太国:2012/10/01(月) 11:05:30.28
応神紀仁徳記は幾度も解説済みだ。

物忘れの甚大なオマエでは脳内の収集データが空んぽか〜?

応神仁徳でのサソリ座の編年も忘れたらしいな?ww
645唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 12:37:51.59
太タヌキ殿
崇神垂仁3倍歴、景行2倍歴、成務3倍歴、仲哀1倍歴、神功應神仁徳3倍歴
1113癸巳  467丁未  安康即位 允恭崩御
1114甲午  468戊申  石上神宮七支刀銘文泰□四年(泰始四年)【安康元年】

太国倍年では、西暦467年は同468年であり、且つ 神宮52年なのか?
神功應神紀の百済王家はどうなるんだ?
646唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 12:42:15.14
訂正
×太国倍年では、西暦467年は同468年であり、且つ 神宮52年なのか?
○太国倍年では、西暦467年は同468年であり、且つ 神功52年なのか?
神功應神紀の百済王家はどうなるんだ?
七支刀を差込とするのであれば、神功52年ではない証拠が必要となる。


647唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 12:45:40.67
>応神紀仁徳記は幾度も解説済みだ。

では、仁徳は高句麗にボロ負けをしているにもかかわらず
仁徳陵築造で民に多大な迷惑をかけた、最悪の天皇で良いのか?
648唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 12:47:41.03
>物忘れの甚大なオマエでは脳内の収集データが空んぽか〜?

ああ そういうことだから再度説明を求める。
649唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 13:04:15.51
D永楽10年(400年)王は新羅救援のため五万の兵を派遣し、新羅・任那加羅になどに進み倭を退却させ、
また安羅人を撃った。新羅は高句麗に朝貢するようになった。
仁徳天皇五三年(乙丑三六五)◆五十三年。新羅不朝貢。

この前後関係は?
650太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/01(月) 14:42:44.71
空んぽじゃぁ、また忘れるだろう。
説明しても明日にでも忘れるんじゃぁ、これもまた松沢病院でなんとか
してもらえ。

それより41年の具体的説明をするのが先決だ。もう5年以上オマエは説明
が出来ない。出来ないんじゃぁ、そんな41年なんぞひっこめろ。
651唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 17:54:10.37
>そんな41年なんぞひっこめろ。

はいはい、とっくに引っ込めていますよ。

>応神仁徳でのサソリ座の編年も忘れたらしいな?ww

太タヌキ殿の勝手で記事を移せる。という主張でしたか?
七支刀も勝手に安康元年に移していますな。
百済王家はどこへ消えたの?
書記の記事をかき消せば、世継ぎが正当化できると。
652太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/01(月) 18:07:59.54
空年多ヌキ殿が松沢病院で転倒勝手で記事を移せる。という主張でしたか?
     ↓
応神天皇 344年〜384年
仁徳天皇 313年〜399年
653唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 19:02:49.58
>応神天皇 344年〜384年

神功・応神紀の百済王家をどう扱う?
この記録は倭の記録であり、百済本紀は書記の干支をそのまま使ったものだ。
だから、神功・応神紀110年を縮めることはできない。
つまり、書記の記事を捨て去って、太国倍年は書かれている。
それとも、他に入るという証拠でもあるのか?
応神・仁徳の記事を勝手に移せば整合するとか?
654太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/01(月) 19:30:07.11
そんなことより、オマエ、

応神天皇 344年〜384年←要緊急入院
仁徳天皇 313年〜399年←要緊急入院

これで ↑ オマエ自身の脳内判断がおかしいと感じねえのか?bbb・・・b

感じないなら、早急に松沢病院で診てもらえ。相当重症だ〜?

655唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 21:02:10.16
百済王家の記録は日本のものだ。だから、世継ぎはクガダチ。
だから、太国倍年は死んだも同然。
そうだろ?

記事を無視し続ける太国倍年。
656太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/01(月) 21:44:43.45
クガタチは応神と仁徳が逆即位だという意味には全然ならない。
応神が仁徳の父であり先即位であることは応神紀仁徳紀の記事にあり、
これこそ動かない。

だから、宿主空年は死んだも同然。
そうだろ?

記事を無視し続ける宿主空年→オマエは真性らしい?ww

657唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 22:05:53.99
>クガタチは応神と仁徳が逆即位だという意味には全然ならない。

逆になんかなっていないだろ。
書紀のどこに逆立ちしている?
登場する順番は、神功・応神・仁徳になっていないか?なっているだろ。
ただ、世継ぎの書き換えのため、即位する年を西暦にした場合逆に見えるだけだ。
だから、若すぎる死のイラッコが、書き換えられた応神では高句麗使を叱責するまでに成長している。
つまり、イラッコが二人登場するのであるから、その親の応神も二人になる。
658太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/01(月) 22:30:53.55
応神天皇 344年〜384年←要緊急入院
仁徳天皇 313年〜399年←要緊急入院

オマエが ↑ のように逆立ちしてるんだよ。pppppppp・・・・
書紀が逆立ちなわけがない。

オマエはアタマがおかしいからこんな転倒となるわけさ。ww・・・w
これをおかしいと思わぬか?

思わないならオマエは真性の紀違いだと第三者に言われてしまうぞ。ブハハハ・・・
659唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 22:40:36.44
太国倍年は記事を無視しているから”倍年”なんぞと言うんだ。
だから、太国倍年の示す数字は、歴史と関係がない。
歴史と関係のない数字でどうやって歴史を語れるんだ?
語れないから、他人に噛み付くだけ。

860庚辰  352壬子  仲哀崩御 應神誕生
352年といえば、前燕が百済を管理している時代だ。
ここに神功渡海は無い。
660唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 22:48:05.81
973癸酉  391辛卯  仁徳即位
391年「百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡□破百殘、□□新羅、以爲臣民」
仁徳天皇四年(丙子三一六)三月。詔曰。自今以後。至于三年。悉除課役。

391年には、倭軍は渡海して、百済を助けようとしている。
その直後にすべての課役を停止できるのか?できないだろ。
だから、太国編年は間違っている。
661唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/01(月) 22:56:50.41
730庚午  292壬子  垂仁崩御

211年任那建国。であり、纒向で王宮とできるのは、3世紀前半と中期の大型建物だけ。
纒向に王宮を構えたのは、垂仁と景行だ。
3世紀末には、纒向に王宮が存在しない。 よって、この年代には間違いがある。
662太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 08:22:33.03
>太国倍年は記事を無視しているから”倍年”なんぞと言うんだ。

記事を無視してるのはオマエが典型さ。
応神紀仁徳紀には応神が先に即位したとある。オマエはこの史実の記事を無視して

応神天皇 344年〜384年←要緊急入院
仁徳天皇 313年〜399年←要緊急入院

だと、ホ伝子組み換えでの書紀の無視をインチキ強行している。つまりオマエは書紀の敵であり、朝敵であり神社の敵でもある。

どうだ〜? 人間(天皇)が猿(官)でもなれる猿の惑星からデンパがオマエの脳内にピピピと届いているか〜?ww
663卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/02(火) 08:57:17.65
早起きして 反論を書く 太国哉
664日本@名無史さん:2012/10/02(火) 18:10:29.45
>>663
8時過ぎなんて対して早起きではないぞ?
それとも<朝鮮>の老人ホームの起床は9時ころなのか?
665卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/02(火) 18:42:31.09
対しては 大してのことだと 名無し言ひ
666太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 19:09:11.32
このごろ数ヶ月はAM6時前に起床している。
今朝は6時15分だったので、いつもより遅かったが・・・。
667唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/02(火) 22:14:42.21
>応神紀仁徳紀には応神が先に即位したとある。オマエはこの史実の記事を無視して

だから無視はしていないだろ。
古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。

崇神天皇 188年〜216年 戊寅(186年?)・垂仁天皇 217年〜239年・景行天皇 240年〜261年 
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。 
神功皇后 275年〜343年 
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申・・・404年帯方界への侵攻で死亡、兄王か?。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・428年?  413年東晋へ朝貢
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。
安康天皇 454年〜456年 珍・済  元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。

記紀共に、応神の誕生は274年である。
その死亡は、仁徳が遅い。
しかし、この編年では、世継ぎとならない。だから、クガダチによる書き換えが存在するんだよ。

神功渡海は274年であれば事実である。
しかし、西晋滅亡後では否定される。
668太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 22:20:22.98
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・ ←要緊急入院
        ↑
これをおかしいとオマエは思わんのか〜?ppppppppppppppppppppppppppppp

ハハハ・・・

オマエはアタマがおかしいんだよ。

即刻松沢病院で治療するんだな。完全に脳内がいかれてるな。
669太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/02(火) 22:24:08.77
だから、クガダチによる書き換えが存在するんだよ。←要強制入院

670唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/02(火) 23:37:58.47
いいか 出来事は世継ぎに優先する。
でなくては、世継ぎが正しいか?出来事が正しいか?の二択。
出来事を無視すれば、現在と同程度の寿命(太国倍年)になるが
出来事を優先すれば、弥生後期の年齢(考古学の言う年齢)になる。

どちらが正しいかといえば当然出来事を優先して、当時の寿命になることだ。
それが分かっていながら、
百済に助けられて倭国は発展した。などという妄想年代を認めさせ用とする
太タヌキ殿の真意は何?
671唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/02(火) 23:53:44.71
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.htm

寺沢薫 案 (畿内 大和) 弥生第W様式と第X様式の変わり目が神武即位。(神武42〜63年)
纏向新偏年

纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年=後漢193年冷夏飢饉 。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。纏向1類(後) 211年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀209年)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(庄内式穴あき壺)。
239年 邪馬台国の官伊支馬(イクメ)は都市牛利(たしうり)を派遣
晋書正始元年東倭重譚納具。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王、260±10年)・燈籠山、布留0の指標、
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。3世紀後半〜4世紀前半。
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。大量の鉄器副葬。
纏向5類(前)東殿塚・下池山  308年永嘉の乱
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 秋津遺跡3代分 
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳 纏向5類(後プレ)椿井大塚山 
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。316年晋滅亡、
旧纏向5式 旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3)
  仲津山古墳
旧纏向6式 須恵器を伴う 370年前燕滅亡 TK73石津丘古墳 ON46大仙古墳
672日本@名無史さん:2012/10/02(火) 23:56:34.04
唐松
宿主

これだけできれいになるよ
673唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 00:00:18.33
太タヌキ殿がいくら世継ぎが正しいと主張しても、
太国倍年の垂仁・景行の王宮が纒向にない。
そりゃ、記事を捨てれば関係ないと主張しているだけで
編年の指標がない。

239年 邪馬台国の官伊支馬。晋書正始元年東倭重譚納具。 この年号が刻まれたのが三角鏡である。
そして、その鏡は、神功渡海以後に作られた鏡になる。
674卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/03(水) 09:37:02.05
喋りすぎ 寝坊をしてゐる 国と松
675太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 10:18:32.37
どちらが正しいかといえば 即位の順は
応神紀仁徳紀のほうであり、允恭紀は即位の順に関係はない。

允恭紀だと言い張る→強制入院。ハハハ・・・

オマエはアタマがおかしいのさ。紀違いにホ物だな。pp
早く松沢病院で診療を受けろ。

ドウだ〜? 猿の惑星から今日もデンパがオマエの脳にピピピ・・・と届いてるのか〜?ww
676唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 12:42:49.31
>即位の順は応神紀仁徳紀のほうであり、允恭紀は即位の順に関係はない。

応神紀の紀、仁徳紀の紀、この紀は紀年の紀である。
応神紀の紀年は神武以来の太陰暦であり、仁徳紀の紀年は半島の干支を使用した紀年である。

太国倍年の示す数字は、半島に上陸することもできない。
つまり、世継ぎと記事を分離して、世継ぎのみを主張しているだけ。
しかも太国倍年に日数は関係ない。←太タヌキ殿の主張。
であるならば、主張する西暦?にも日数の主張は織り込まれていない。
つまり、太国倍年はエセ西暦なのである。
677唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 12:53:20.92
太国倍年
1158戊寅  512壬辰  武烈即位 仁賢崩御
1159乙卯  513癸巳  武烈元年
1166丙戌  520庚子  武烈崩御
1157丁亥  521辛丑  繼體即位
1169己丑  522壬寅  欽明誕生
1173癸巳  524甲辰  安閑立太子
1191辛亥  533癸丑  安閑即位 繼體崩御
1194甲寅  535乙卯  宣化即位 安閑崩御

太タヌキ殿に聞く 継体は何倍年なんだ?
678唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 13:05:23.57
太国倍年とは、
西暦元年辛酉年に神武元年辛酉年を整合させ、雄略あたりでまた数字の整合を目指したが
神功・応神・仁徳の編年に失敗する。
百済王家を無視して、神功・応神に3倍年なるものを導入したが、そのあとの仁徳87年
この長さのため、天皇紀はその後下ぶれし、最後に継体でごまかす。

つまり、記事と編年は整合しない。
だから、記事内容に言及することがない。
だろ?
679唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 13:21:43.62
>応神紀仁徳紀のほうであり、允恭紀は即位の順に関係はない。

太国倍年
1116丙申  470庚戌  雄略即位 安康崩御
1139己未  493癸酉  雄略崩御

雄略天皇五年(辛丑四六一)六月丙戌朔 孕婦果如加須利君言。於筑紫各羅嶋産兒。仍名此兒曰嶋君。
嶋王こと武寧王の誕生記録だ。だからこの数字に間違いはない。
太国倍年が編年に失敗したことは誰にでも理解できる。

太国倍年と書紀の記事は一致しない。だから、記事内容に言及しない。
日数の表記できない太国倍年は現在から過去へ事実を積み上げるしか方法がないにもかかわらず
雄略で狂っている。
雄略で狂っていることが明白である以上、それ以前に言及しても仕方ない。
どうするんだ?
680太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 14:35:53.14
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・ ←要緊急入院
        ↑
これをおかしいとオマエは思わんらしい〜?ppppppppppppppppppppppppppppp

ハハハ・・・ オマエはひどいアタマになっていて脳内が病気なんだよ。

オマエはアタマがいかれておかしいのさ。

即刻松沢病院で治療するんだなあ〜。オマエは脳内が狂ってるぞ。
681太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 14:39:33.08
オマエは do=can だな。プハハハ・・・
doはcanではないんだぜえ。オマエはこの判別が出来ない。等号好きなんだな?

マァ、松沢病院へ行くんだな。

編年は年が重要なんだぜ。

純粋暦学の場合は年も月も日も重要になるが、
暦の行使は編年の参考で使うものだ。目的は日ではなく
年を定める事だ。オマエは年と日の主客転倒の○ンマなマネがお好きらしい?ww 応神仁徳も転倒だしな。
何から何までオマエは転倒の脳内いかれをくりかえしておる。早く治療するんだな。

編年をやるときに参考で暦を考察するときに日を使うのさ。オマエは全編年に1円玉でないと駄目だと言い張っておる。全編年は万札数えだ。

かの6億円強奪犯人は万札しか興味がない。現場で1円玉数えがどうのこうの言うマヌケな泥棒はオマエがふさわしいらしい。ワハハハ・・・これではす〜ぐ警察に捕まり、ケーサツもオマエのようなのが犯人なら手間がかからないでいい。ww
682太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 14:44:21.86
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・ ←要緊急入院
       ↑
これこそ応神・仁徳の編年に失敗する。これ↑を紀違いだと応神紀仁徳紀が示している。

それが允恭紀に書かれてないのに書かれていると言い張る。

まあ松沢病院で治療が必要だ。
683諸星あたる:2012/10/03(水) 15:46:29.42
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11295636410.html
日本人の血・旧約聖書の民 バイブルランド日本
684唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 22:33:38.12
>編年をやるときに参考で暦を考察するときに日を使うのさ。

で、太国倍年では日数を数えられない。
逆に言えば、暦の後付け説の太国倍年で暦の再現ができない。
間違っている証拠だろ。

継体紀は何倍年なの?
日数が数えられない場合は、現在から過去へさから登らねばならないが、
継体でごまかしをしている太国倍年ではこれより過去へ遡ることができない。
685卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/03(水) 22:41:22.61
唐松山 ゾンビの如く 復活し
686唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/03(水) 22:41:58.28
欽明天皇二年(五四一辛酉)夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔(24代眞興王)元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代
孫仇衝王之降于當國也.
・・・己卯年置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年(210年) 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年 ミヅカキの ヰソヤホハヅキ
仇衝朝末〔欽明天皇二年541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
ホツマによれば、崇神58年にツノガアラシトの訪問を受け、兵を授ける。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。

任那建国が211年で崇神58年か翌年。
崇神は考古学の言う2世紀末の纒向近くに宮を築く。
そうすれば、邪馬台国官伊支馬には、垂仁が合致する。
庄内式土器を九州に持ち込むのは景行であり、最初に神夏磯媛(カンカシヒメ)に挨拶に行く。
687太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 22:49:36.01
で、宿主空年では日蝕の日数を計算間違いで真は数えられない。
逆に言えば、暦の前付け説の宿主空年で暦の再現ができない。
間違っている証拠だろ。

応神はどこが空年なの?
日蝕の日数が誤で数えている場合は、現在から猿の惑星へさるか上らねばならないが、
応神仁徳でごまかしをしている宿主空年ではこれより過去へ遡ることができない。
688卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/03(水) 22:50:01.62
伊支馬とは 俺のことかと 垂仁言ひ
カンカシヒメとは わっちのことかと 神夏磯媛言ひ
689太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/03(水) 22:52:19.92
ほれほれ ↓ 誤魔化してる編年よ。

>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・ ←要緊急入院
       ↑
これこそ応神・仁徳の編年に失敗する。これ↑を紀違いだと応神紀仁徳紀が示している。

それが允恭紀に書かれてないのに書かれていると言い張る。

松沢病院特別室で治療が必要だな。
オマエはアタマが狂ってるんだよ。明日でも松沢病院で治療して来い。
690唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/04(木) 12:21:55.85
取丁巳年(垂仁二六年丁巳前四)冬十月甲子。遷干伊勢國渡遇宮。是時倭太神。著穗積臣
遠祖大水口宿禰。而誨之曰。太初之時期曰。天照大神。悉治天原。皇御孫尊。専治葦原中
國之八十魂神。我親治大地官者。言已訖焉。然先皇御間城天皇。雖祭祀神祇。微細未探其
源根。以粗留於枝葉。故其天皇短命也。

ホ32202 (開化)イキシコメ たてゝウチミヤ これのさき キミめすときに
オミケヌシ いさめもふさく・・・キミいかん わがミオヤカミ はなれんや 
ケガレはまづと いゝをはり かえれどキミは これきかず  故其天皇短命也。

開化は短命であった。
691唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/04(木) 12:30:48.02
太国倍年
453癸巳  190庚午  開化誕生
563癸未  236丙辰  開化崩御

書記も開化天皇が短命であったと言っている。寿命が三十数歳の時代の短命だ。
よって、太国倍年は成立しない。
成立しない太国倍年で否定しても、否定できない。
だから、考古学の知見も使うんだよ。
692唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/04(木) 13:20:07.09
景行天皇二八年(戊戌九八)二月から景行天皇四〇年(庚戌一一〇)七月までの時空、
熊襲既平。から今更東夷叛之。までの時空は未經幾年。古事記:未經幾時。
仁徳六七年 天下太平。廿餘年無事矣。

書紀が「故其天皇短命也」と言っている天皇は他の天皇と同じ寿命を主張する太国倍年。
「時が経っていない」という景行28年〜同40年と
「時を経た」仁徳67年〜同99年。

この二つの時空は同一では無い。そのように書紀は言っている。
同一にしかできない太国倍年は不都合の極み。
693太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/04(木) 16:14:33.36
空年ヤセ多抜キよ

オマエはアタマがおかしくなってるんだよ。
そんな批判よりこれ ↓ のひどさをよく眺めるんだな。

>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・ ←要緊急入院
       ↑
これこそ応神・仁徳の編年に失敗する。これ↑を紀違いだと応神紀仁徳紀が示している。

それが允恭紀に書かれてないのに書かれていると言い張る。要強制入院。
おまけにウジノワキイラツコと応神天皇が二人ずついるだなどと、オマエは
もう松沢病院行きがふさわしい。

オマエはアタマが狂ってるのさ。

松沢病院特別室で治療せねばもうダメだ。

オマエはアタマが狂ってるんだよ。すぐにでも松沢病院で治療して来い。


694唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/04(木) 18:20:35.05
応神天皇は、渡海の年に生まれ、40年目にその子仁徳が即位する。
これが正しい歴史だ。

古事記においては、神功摂政は存在しない。つまり架空の時空だ。
架空の時空を使って書紀は何をしようとしたか?
それは、高句麗に大敗した大王の抹殺である。
つまり、太国が主張したい”高句麗に大敗した仁徳大王”は書き換えの結果でしかない。
仁徳313〜399年のうち正しい仁徳は、仁徳天皇三一年(癸卯三四三)正月丁卯 立大兄去來穂別尊爲皇太子。
この時空を超えることはない。
もっとも華やかで発展したのがこの時代である。
神功紀においては、神功39年〜同69年までの時空である。
つまり、日本の記録である百済王家を無視することはできない。

百済王家を無視することで成立しているのが太国倍年だろ?
無視した時点でもう編年の価値は皆無だ。
695太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/04(木) 18:25:42.14
神功摂政は存在しないなら、日蝕が日を経ての数日間続くと日数計算しているオマエの言う 神功摂政元年=274年 を駆除せい。

なお空年なんぞこの世に無いから安心しろ。

これが ↓ 正しい歴史か〜? ><

>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・ ←要緊急入院

オマエは史離滅裂であり至急松沢病院で診療せねばオマエは廃人同然だ。
696太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/04(木) 18:30:12.60
>ウジノワキイラッコは2名いる。同じく応神も2名いる←要精神鑑定
           ↑
オマエはアタマがいかれてるんだよう。この↑ひどいザマはなんだい〜?

オマエはオツムがおかしいわけだよ。

早くオマエ松沢病院で特別診療を受けろ。オマエはもう〜どうしようもない。
697唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/04(木) 18:30:37.99
>また空年はいくら頑張ってもこの世に存在しないから安心しろ。

百済王家を記録する、神功〜応神紀は、110年の時空が必要である。
倍年は存在しない。
太国倍年
453癸巳  190庚午  開化誕生
563癸未  236丙辰  開化崩御 ←故其天皇短命也。
書紀の主張を無視しているだろ?
なぜ無視しなければならないのか?
存在できない”太国倍年”を存在させようとした結果だろ?
698太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/04(木) 18:39:02.23
このひどさ ↓ はす〜ぐ松沢病院だ。ひどいひどい、オマエは狂ってるんだよ。

>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・ ←要緊急入院

オマエは史離滅裂であり至急松沢病院で診療せねばオマエは脳内廃人だ。

>ウジノワキイラッコは2名いる。同じく応神も2名いる←要精神鑑定
           ↑
オマエはアタマがいかれてるんだよう。この↑ひどいザマはなんだ〜?

オマエはオツムがおかしいわけだよ。

オマエは脳内が紀の狂いでメチャクチャのチャ。

なお空年なんか何処にもないから安心せい。ww
699卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/04(木) 22:34:57.12
優勢と見て 嵩にかかつて 唐を攻め
700唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/05(金) 00:31:15.72
百済王家を除外できた場合は、太タヌキ殿の言い分も通るが
百済王家を除外できない。
除外できないことを自覚しているのだから始末ができない。
701太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/05(金) 10:30:52.61
百済がどうのこうとかいまは関係ねえんだよぅ〜。

このザマ ↓ は何だこれは〜?

>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・ ←要緊急入院

オマエはアタマがおかしいわけさ。

おかしいんだよ。

それにて加えて応神が2人ウジノワキイラツコが2人いたと書きこんで
いる。だいぶオマエの脳内は紀の狂った状態でメチャクチャのチャだ。><

す〜ぐ松沢病院でオツムの検査をしてもらうんだな。
702唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/05(金) 12:38:10.13
>百済がどうのこうとかいまは関係ねえんだよぅ〜。

こう言いたいんだろ?
書紀の記事がどうのこうとかいまは関係ねえんだよぅ〜。
記事を無視すれば、太国倍年ができる。だから「書紀の記事がどうのこうとかいまは関係ねえんだよぅ〜」。
703唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/05(金) 12:41:56.10
神功皇后 275年〜343年 321〜389。46年加算すると百済王家が整合する
神功52年 七支刀 326年。+46年で372年。
応神天皇 344年〜384年 390〜430

百済王家を抜く理由が存在しない太国倍年。
理由がどうのこうとかいまは関係ねえんだよぅ〜。
704唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/05(金) 13:17:18.65
まあ、日数も数えられない太国倍年を盾に言い張っているが
「日数も数えられない太国倍年」は盾にならない。
日数の数えられない暦は存在しない=太国倍年は存在しない。

これを「のれんに腕押し」という。
861辛巳  353癸丑  神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)
930庚寅  376丙子  應神即位 庚寅←繼體即位丁亥を倍歴辛丑取替1倍逆算
973癸酉  391辛卯  仁徳即位
1059己亥  419己未  仁徳崩御

日数は何にちなんだ?
705唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/05(金) 13:37:11.42
太タヌキは2重王家を否定するが、4世紀、5世紀の状況は2重の王家でなければ説明のつかないことが多い。
それは、大和と九州ではなく、河内を含む畿内大和の範疇に2王が存在する。
ここで考えられることは、倭奴國王卑弥呼とヤマト倭王の2王体制。
女王国は、卑弥呼・男王の死により、ヤマトに吸収されるのであるが、女王卑弥呼の王位が生き残ってれば
2王体制は可能である。
九州女王卑弥呼を祀っていた、住吉は河内方面へ移住する=倭奴國王位は河内方面で生き続ける。
706太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/05(金) 14:53:45.09
空年ヤセ多抜キのいう吸収なんぞは記紀に記載の事実が無い。

つまり吸収なんぞはオマエの 479は二度死ぬ を編み出したアタマのおかしい脳内なのであ〜る。ww

軍隊つきなどはオマエが脳内で創作編み出したインチキであって、つまりオマエがつけたんだよぅ〜。bbb・・・

なおオマエは日数の計算が出来ない。

出来ないから、日蝕が数日間続く計算値をして編年しておる。ブハハハ・・・
これでは出来たことにはならない。
つまりオマエのアタマがおかしいから、日蝕が数日間も日を経て続くを今後も引き続き主張するんだと頑張るわけさ。

頑張っても日蝕は日を経ての数日間も続かない。

頑張っても空年などどこにもないから心配すんな。ハハハハ・・・
707太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/05(金) 17:05:31.95
私(←宿主) 生まれと育ちは過失加 死場又(←雄略死が471と479の二重)〜日と読んで脳天のカラ(唐)と申します。ww
708卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/05(金) 17:28:22.13
間違ひない ウジノワキイラツコ 二人ゐる
間違ひない むかしの暦 二倍暦
709太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/05(金) 17:40:41.71
朝鮮男よ
ウジノワキイラツコは一人だ。
二人もいない。オマエ頭は大丈夫か〜?

オマエは2倍暦を認めたのか? けっこうなことだな。w
710日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:11:03.32
130 庚午 婆娑05  八月  太君(解夫,鵲脱解,鵲吐解)以暑疾崩(42歳?)于日知宅(卞山)
209 己丑 逸聖18 十一月  鵲仇鄒(鵲脱解子)病劇而薨
212 壬辰 逸聖21  二月  逸聖薨 伐休(鵲仇鄒子)爲太子
214 甲午 (阿達羅02)     新羅王子天日槍(天日矛,鵲仇鄒子?)渡来 (垂仁03流し込み記事)
216 丙申 阿達羅04 四月  多婆那以迎烏カ爲君 (倭王家から婚を解消され多婆那に入り婿)
217 丁酉 崇~誕生?
225 乙巳 崇~元?                                        (16,09歳)
232 壬子 崇~15?        五月倭女王遣其弟狛比古等 獻其土物 請交易物貨(23,16歳)
238 戊午 崇~27?        景初02
247 丁卯 崇~45? 垂仁元?  正始08 太守王頎到官
258 戊寅 崇~68? 垂仁23? 「戊寅年十二月崩」壹佰陸拾捌歳(42歳 217-258)
296 丙辰 景行元? 垂仁99?
325 乙酉 景行60? 成務元
355 乙卯       成務60  「乙卯年三月十五日崩」玖拾伍歳(48歳 308-355)
356 丙辰 仲哀元
362 壬戌 仲哀09        「壬戌年六月十一日崩」伍拾貳歳(26歳 337-362)
711日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:22:18.25
はんこもろたおひとのところで4倍暦もどきのを利用してみるてすと
712卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/05(金) 18:34:58.91
太国曰く

三倍と 二倍はあるが 四倍ない
713日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:38:04.35
鵲のは「其地無牛馬虎豹羊鵲」で列島側にはおらない陳寿系の観察のくせして

鵲脱解さんは多婆那の王さまと女國の姫様のがメーカーので

鵲のは鳥類のなかでもでかい脳を持っていて、ほ乳類以外の動物では鏡を認識でける生物

鵲脱解の子のが鵲仇鄒で

その子の鵲仇鄒のむすこくさいのが天日矛

天日矛のはほんとは渡来のまえから女國の姫様のが嫁はんなんだけど

嫁はんと婿はんなら同居しておるはずだ

と考えちゃうところがもろまぬけな思惟ぱたあんなのさね
714卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/05(金) 18:41:41.38
鵲とは 詐欺ではないと 脱解言ひ
715日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:44:47.68
書紀エディターのひとのは

ご著名でご周知の「天日矛」のことあえて「天日槍」と表記してくれちゃったりしているのがまぬけでわろす
716日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:54:35.86
深ーい考えがあってのことだろう。
717太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/05(金) 18:55:01.10
4倍暦は、やってませんね。

2倍も3倍暦も干支が3巡2巡して干支の行使に好都合、便利なんですが、
4倍暦だと1巡半と〜干支が帰還しませんから不便なため、おまけに四季が
4倍に似てる点があるため、4倍暦は不要と観てたようです。
718日本@名無史さん:2012/10/05(金) 18:56:12.03
「4倍暦もどきのを」と書いてあるだろ良く嫁よ
719太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/05(金) 18:58:55.07
朝鮮男に説明してるわけ。
720日本@名無史さん:2012/10/05(金) 19:12:22.89
赫居世さんは朴のが姓だけど

「辰人謂瓠爲朴 以初大卵如瓠 故以朴爲姓」とかって

正規表現してあげたら 「赫 朴 居世」さんだな

すなはち          「☀ 瓠 居世」はんだよね

「瓠」って 浮き輪つけて越海渡航してきたグル−プでありまするよね

もってまわって掻いてあるけど

てっとりばやくゆうとこれって倭人のたぐいなんでしょ
721日本@名無史さん:2012/10/05(金) 19:16:05.20
天照大見の神
722日本@名無史さん:2012/10/05(金) 19:28:21.46
高御産巢日~(高木~)之子 思金~のは

「常世思金~」だし

「取天金山之鐵而」だから

あっちに逝くとなんか金閼智のとかぶりそね
723卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/05(金) 19:49:43.09
瓠で呑む 酒はうめへと 陜父言ひ
724唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/05(金) 22:08:45.22
取丁巳年(垂仁二六年丁巳前四)冬十月甲子。遷干伊勢國渡遇宮。是時倭太神。著穗積臣
遠祖大水口宿禰。而誨之曰。太初之時期曰。天照大神。悉治天原。皇御孫尊。専治葦原中
國之八十魂神。我親治大地官者。言已訖焉。然先皇御間城天皇。雖祭祀神祇。微細未探其
源根。以粗留於枝葉。故其天皇短命也。

ホ32202 (開化)イキシコメ たてゝウチミヤ これのさき キミめすときに
オミケヌシ いさめもふさく・・・キミいかん わがミオヤカミ はなれんや 
ケガレはまづと いゝをはり かえれどキミは これきかず  故其天皇短命也。

"倍年”で開化を書紀の言う”短命”に出来たか?
短命にできないのは、間違いである。
725太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/05(金) 22:15:22.54
随分オマエの言う雄略は長命だな。ww

479は二度死ぬ だそうだな〜ppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppp

そのうち三度死ぬとでも言い出しはいないか〜?プププ・・・

オマエはアタマが狂ってるんだよう〜もう完治困難だな〜。ハハハ・・・

空年ヤセ多抜キのいう吸収なんぞは記紀に記載の事実が無い。

つまり吸収なんぞはオマエの 479は二度死ぬ を編み出したアタマのおかしい脳内なのであ〜る。ww

軍隊つきなどはオマエが脳内で創作編み出したインチキであって、つまりオマエがつけたんだよぅ〜。bbb・・・

なおオマエは日数の計算が出来ない。

出来ないから、日蝕が数日間続く計算値をして編年しておる。ブハハハ・・・
これでは出来たことにはならない。
つまりオマエのアタマがおかしいから、日蝕が数日間も日を経て続くを今後も引き続き主張するんだと頑張るわけさ。

頑張っても日蝕は日を経ての数日間も続かない。

さらに頑張っても空年などどこにもないから心配すんな。ハハハハ・・・
726太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/05(金) 22:20:44.79
おいおい〜このザマ ↓ は何だこれは〜?

>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院

オマエはアタマがおかしいわけさ。

おかしいんだよオマエは〜。

それにて加えて応神が2人ウジノワキイラツコが2人いたと書きこんで
いる。だいぶオマエの脳内は紀の狂った状態でメチャクチャのチャだ。><

す〜ぐ松沢病院でいかれたオマエのオツムの検査をしてもらえ。
727イベント情報:2012/10/05(金) 23:30:22.72
2012年12月01日(土)13時00分
新邪馬台国サミット in吉備

〜卑弥呼は出雲か、近江か、吉備か〜
728イベント情報:2012/10/05(金) 23:34:28.34
729唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/06(土) 06:59:08.09
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院
>オマエはアタマがおかしいわけさ。

おいおい、これは書紀のきじそのままだ。
書記の記事を否定して大丈夫か?気が狂っていないか?
書記の仁徳紀はこの時空の出来事を書いているんだぞ。
違うと言いたいんなら、太国編年でどこが狂っていおるか主張しな。
出来もせずに書紀をキチガイ扱いか?
730太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 09:24:32.09
オマエがオマエに言ってるわけか〜。当然だな。自認してるんだ。

紀違いはオマエさ。

応神紀と仁徳紀は父の応神が子の仁徳より先に即位したとあるのに、オマエ
のいかれた脳内は↓で逆ではないか。wwwwwwwwwww・・・w


>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院


オマエはアタマがおかしいわけだよ。プハハハ・・・

344年の応神が後の年代で313年の仁徳が先即位の年代では〜プププ・・・

オマエはアタマが狂ってるのさ。

要するにオマエの脳内は狂狂パー〜
731太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 09:25:11.10
オマエがオマエに言ってるわけか〜。当然だな。自認してるんだ。

紀違いはオマエさ。

応神紀と仁徳紀は父の応神が子の仁徳より先に即位したとあるのに、オマエ
のいかれた脳内は↓で逆ではないか。wwwwwwwwwww・・・w


>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院


オマエはアタマがおかしいわけだよ。プハハハ・・・

344年の応神が後の年代で313年の仁徳が先即位の年代では〜プププ・・・

オマエはアタマが狂ってるのさ。

要するにオマエの脳内は狂狂パー〜
732卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/06(土) 09:28:51.19
間違ひない 応神天皇 二人ゐた
間違ひない むかしの暦 三倍暦
733太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 09:36:55.80
応神天皇は一人だよ。
名前を取り替えると二人になるということにはならない。

朝鮮男よ
オマエもアタマがおかしくなったのか?w
笑われるから目を覚ませ。

3倍年暦を肯定したのか?
ならば賢明な選択だ。

隅田八幡鏡銘文の「日十大王」とは、この大王当時には1ヶ月が十日間しかなかったことの示唆である。

また日本(扶桑国)に十個の日があったという伝説もこの事実を物語る。
734太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 09:47:10.78
朝鮮男よ

唐松山は稀代の超デ○パだ。

オマエの脳内の安全制御を確実にしろ。
735太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 09:59:21.12
空腹空年ヤセ多抜キよ

随分オマエの言う雄略は長命だな。ww

471年と479年と2回死ぬわけだな。ブブブ・・・

479は二度死ぬ なわけだな〜ppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppp

そのうち三度死ぬとでも言い出しはいないか〜?プププ・・・

オマエはアタマが狂ってるんだよう〜もう完治困難だな〜。ハハハ・・・

空年ヤセ多抜キのいう2回死ぬなんぞは記紀に記載の事実が無い。

つまり二度死ぬとは〜オマエの「479は二度死ぬ」を編み出したアタマのおかしいオマエの脳内の死離滅裂からなのであ〜る。ww

軍隊つきなどはオマエが脳内で創作編み出したインチキであって、つまりオマエがつけたんだよぅ〜。bbb・・・

なおオマエは日数の計算が出来ない。

出来ないから、日蝕が数日間続く計算値をして編年しておる。ブハハハ・・・
これでは出来たことにはならない。
つまりオマエのアタマがおかしいから、日蝕が数日間も日を経て続くを今後も引き続き主張するんだと頑張るわけさ。

頑張っても日蝕は日を経ての数日間も続かない。

さらに頑張っても空年などどこにもないから心配すんな。ハハハハ・・・
736卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/06(土) 21:07:40.81
今度こそ 勝つたつもりの 太国かな

しぶとさは 超弩級なり 唐松山
737太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 21:52:12.28
前に1回、やつは白旗を揚げてるよ。w

やつは稀代の超デ○パだよ。
738www:2012/10/06(土) 21:58:30.85
唐と呼べば 太と答える 二人は若〜い
739太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 22:03:02.98
>>738
ジョーカー か〜?
740唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/06(土) 22:08:00.94
>しぶとさは 超弩級なり

太国倍年になんの事実もない。太タヌキ殿はそれを自覚している。
”倍年”なんていう暦法が存在しないことも太タヌキ殿は知っている。
とはいえ、別の方法が思いつかなかった太タヌキ殿。
つyまり、太タヌキ殿が私の”増し暦”にヤキモチを焼いているのである。
可愛いもんだろ?
で歴史的事実とは
307年 丁卯(赤兎)九月以康世女千康妻夫余太子吉须(貴須結婚) (367年丁卯)
312年壬申(水猿)6月、基临帝崩 新羅本紀310年 (372年壬申)
奈勿王 7年癸未=323年神功49年(己巳二四九)倭臣熊彦=千熊長彦。(383年)
338年 神功六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。(384年)
百済本紀 384 枕流王即位チンリュウ(近仇首王の子)
339年 神功六五年(乙酉二六五)百濟枕流王薨。王子阿花年少。叔父辰斯奪立爲王。(385年)
346年 応神三年辰斯王立之失禮(392年)
王子阿花は、年少(15歳以下)であっても、乳児ではない。だから失礼にあたる。
阿花が乳児であれば、叔父辰斯が王位につくのは当然である。
書紀:307年貴須結婚、その孫である王子阿花は、339年時点、31年後で年少である。
百済:367年貴須結婚、その孫である王子阿花は、385年時点、18年後で年少なのか?

百済王家は、書紀の干支を使用した差込記事である。
この中にしか存在しない。

741太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 22:11:52.55
空腹空年ヤセ多抜キよ

空年なんかないから安心しろ。なお畿内の当時仁王様はいない。
応神も仁徳もそれぞれ2人はいない。
オマエは脳内が狂ってるんだよ。bbb

随分オマエの言う雄略は長命だな。ww

471年と479年と2回死ぬわけだな。ブブブ・・・

479は二度死ぬ なわけだな〜ppppppppppppppppppppppppppppppppppppppppp

そのうち三度死ぬとでも言い出しはいないか〜?プププ・・・

オマエはアタマが狂ってるんだよう〜もう完治困難だな〜。ハハハ・・・

空年ヤセ多抜キのいう2回死ぬなんぞは記紀に記載の事実が無い。

つまり二度死ぬとは〜オマエの「479は二度死ぬ」を編み出したアタマのおかしいオマエの脳内の死離滅裂からなのであ〜る。ww

軍隊つきなどはオマエが脳内で創作編み出したインチキであって、つまりオマエがつけたんだよぅ〜。bbb・・・

なおオマエは日数の計算が出来ない。

出来ないから、日蝕が数日間続く計算値をして編年しておる。ブハハハ・・・
これでは出来たことにはならない。
つまりオマエのアタマがおかしいから、日蝕が数日間も日を経て続くを今後も引き続き主張するんだと頑張るわけさ。

頑張っても日蝕は日を経ての数日間も続かない。

再度言う。
さらに頑張っても空年などどこにもないから心配すんな。ハハハハ・・・
742唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/06(土) 22:15:26.95
>973癸酉  391辛卯  仁徳即位
>1059己亥  419己未  仁徳崩御
好太王碑:391年「百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡□破百殘、□□新羅、以爲臣民」

太タヌキ殿が自分の主張する年代を正しいといったためしがない。
神功・応神紀から、百済王家を抜いた理由さえ主張したことはない。
つまり、太国倍年とは歴史を語るための編年とは考えていないのが太タヌキ殿なのだ。
ただのヤキモチ焼き。
743太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/06(土) 22:15:33.12
空年ヤセ多抜キよ

オマエはアタマがおかしくなってるんだよ。
そんな批判よりこれ ↓ のひどさをよく眺めるんだな。

>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院
       ↑
これこそ応神・仁徳の編年に失敗する。これ↑を紀違いだと応神紀仁徳紀が示している。

それが允恭紀に書かれてないのに書かれていると言い張る。要強制入院。
おまけにウジノワキイラツコと応神天皇が二人ずついるだなどと、オマエは
もう松沢病院行きがふさわしい。当時の畿内に仁王様はいないんだよ。

オマエはアタマが狂ってるのさ。
どうだい〜猿の惑星からピピッと電波がオマエの脳内に到着してるか〜?

末期のオマエは松沢病院特別室で治療せねばもうダメだぞぅ〜。

オマエはアタマが狂ってるんだよ。すぐにでも松沢病院で治療するんだな。
744唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 01:17:04.66
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院
これは書記の主張だ、書記の主張を無視した太国倍年は存在しないからムキになるな。

好太王碑:391年→仁徳六七年 天下太平。廿餘年無事矣。この中の時空だぜ。
高句麗に大敗した事実を隠し、巨大墳墓作りに没頭した大王は名前をかき消され、仁徳紀に併呑される。
そして百済王家を含む神功・応神紀は短くできない。
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 軽島の明宮=秋津遺跡(3世代分)
365年 応神22年 難波大隅宮
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・難波高津宮 

軽島の明宮=秋津遺跡(3世代分)と難波大隅宮 300年から384年までで4世代。
その後ろに難波高津宮。
合計5世代は必要となる。

太タヌキ殿は太国倍年を使ってこのような書き込みをしたかったが、正しいとできる文献の整合に失敗し
ヤキモチを焼いている。
太国倍年が正しければ、この程度の書き込みはできるんだろ?
745太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 09:58:47.65
空腹空年ヤセ多抜キよ オマエは松沢病院特別室へ入院せばならぬ。

@日蝕が数日間日を経て続く日数計算を算出した。←要精神鑑定

A雄略は稲荷山鉄剣銘辛亥年471年に死に479年にも死ぬ←要強制入院

B道鏡将門武内宿禰でもなれない天皇に家来の官がなる←不合理

C空腹ヤセ農民千人が畿内から遠方の半島に渡海する←不合理

D応神とウジノワキイラツコは各々2人いた←要精神鑑定

E応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
  仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院

F当時の畿内に当時仁王さまの二王朝があった←要精神鑑定

G允恭紀に仁徳が父で応神がその子だと書かれてる←要強制入院

H臭魔伝1年265日の1.4倍暦を論じてるが1年は365日だけだ←要精神鑑定

I崇神17年に始めて畿内に船舶を造るも以前の崇神6年に船がある←不合理

J俺(←宿主)はコンビにで毎日1円玉だけで買い物をする←迷惑笑いもの
746太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 10:03:36.75
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 軽島の明宮=秋津遺跡(3世代分)
365年 応神22年 難波大隅宮
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・難波高津宮やじるし
         ↑
        要緊急入院

ハハハ・・・ オマエはアタマがおかしいのさ。

どこがおかしいかよ〜く考えろ!

オマエひどいから早く治療せねばダメだ。末期のようで一刻を争う。><
747唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 15:13:28.03
>G允恭紀に仁徳が父で応神がその子だと書かれてる←要強制入院

世継ぎが書き換えられているからな、あたりまえだ。

>F当時の畿内に当時仁王さまの二王朝があった←要精神鑑定
天皇の御陵とできる古墳は、天皇の数より多い。
古墳の作られた順番は
上石津ニサンザイ→誉田御廟山→大仙陵
この順番だ。
誉田御廟山=応神
大仙陵=仁徳
上石津ニサンザイ=履中、履中天皇とする場合は古墳の本来の位置後円部本体に埋葬することはできない。
であるならば、後方部だ。
履中天皇陵とされる上石津ミサンザイ古墳では前方部上に球状の高まりがあることをあらためて確認。
履中を前方部とした場合、後円部本体を、天皇の部下とは出来ない。
ほうら、これだけでも天皇の数は増える。


748唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 15:40:04.63
343年 仁徳天皇三一年(癸卯三四三)正月 立大兄去來穂別尊爲皇太子。
365年 応神天皇二二年春三月 難波居於大隅宮。

366年 古事記: 応神崩御 上石津ニサンザイ古墳後円部(大兄去來穂別) 
384年 応神崩御 誉田御廟山
399年 仁徳崩御 大仙陵
406年 履中崩御 上石津ニサンザイ古墳前方部

3大古墳には3人の天皇であるが、大兄去來穂別(履中天皇)が2度登場する。
749太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 15:48:03.05
う〜ん、オマエはアタマがおかしいんだよ。ハハハ・・・

オカシイと思わないからそんな論理を考えて行くわけだ〜。ww

まとも賢脳人なら、おかしいと気づいてもとに戻る構想態度になるからな。

オマエはおかしいのに気づかないわけだ。ww

じゃぁ〜松沢病院で診てもらわなけりゃこりゃダメだ。

ひどい末期のようだな。治療は名医でも困難のようだな。

オマエはアタマが狂ってるんだよぅ〜。ppp
750太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 15:55:29.35
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院
         ↑
このひどさをオマエは感づかないわけだ〜。www

即興に繕い論を発展考えて、さらに新たなデタラメ増幅盲象に暴走しておる。

オマエをこんなにおかしくダメにしたのは、他ならぬ恐ろしい〜脳内を麻痺
させる古代書の「毒紀乃古 臭魔伝」だ。これに脳内を蹂躙されると、
もうなかなか正常脳に戻れず、こんなデタラメ盲象に暴走しておかしいのに
気づかなくなる。オマエがその見本だ。

フゥ〜 ヒドイヒドイな。

オマエはアタマが狂ってしまったんだよぅ〜。
751日本@名無史さん:2012/10/07(日) 18:13:24.86
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     ,__     |   朝鮮くんが成仏しますように
    /  ./\    \_______________
  /  ./( ・ ).\       o〇      ヾ!;;;::iii|//"
/_____/ .(´ー`) ,\   ∧∧        |;;;;::iii|/゙
 ̄|| || || ||. |っ¢..|| ̄  (,,  ) ナモナモ   |;;;;::iii|
  || || || ||./,,, |ゝ iii~   ⊂ ヾwwwjjrjww!;;;;::iii|jwjjrjww〃
  | ̄ ̄ ̄|~~凸( ̄)凸 (  ,,)〜 wjwjjrj从jwwjwjjrj从jr
752唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 18:16:07.36
ゴットハンド太ちゃん
太国倍年が歴史を語るしろものでない事は自覚している。
しかし、太国倍年に違う主張は、そのゴットハンドで全て否定できると勘違いしている
太ちゃんは、スカベラになったつもりで太陽を操り、1年が120日とか180日などとわけのわからないことを
主張しているが、自分がふんころがしの クソ虫である自覚が足りない。
そうだろ?
ゴットハンドクソ虫太ちゃんよ。
753太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 18:24:19.39
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院
         ↑
このひどさをオマエは感づかないわけだねぇ〜。www

即興に繕い論を発展考えて、さらに新たなデタラメ増幅盲象を書きこみ暴走しておる。

オマエをこんなにおかしくダメにしたのは、他ならぬ世にも恐ろしい〜脳内を
麻痺させる古代書の「毒紀乃古の臭魔伝」だ。これに脳内を蹂躙されると、
もうなかなか正常脳に戻れず、こんなデタラメ盲象に暴走して、おかしいのに
気づかなくなるのだ。オマエがその見本だよ。ハハハ・・・

フゥ〜〜 ヒドイヒドイ。

恐ろしい臭魔伝でオマエはアタマが狂ってしまったんだよぅ〜。

オマエはファラオの呪いの恐ろしさに気かないようだな。
古代エジプトまでもオマエは怒らせるのか〜?

この前、イスラムを怒らせる内容を書いた米国の人がいたそうだが、
やめたほうがいいぜ。
754太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 18:27:50.52
オマエは1年が385日とか265日アススなどとわけのわからないことを
主張しているが、自分(←オマエ)の脳ミソがクソになる便所コオロギ級である自覚が足りない。
そうだろ? ww
755太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 18:33:20.48
>>753 訂正
× オマエはファラオの呪いの恐ろしさに気かないようだな

○ オマエはファラオの呪いの恐ろしさに気がつかないようだな
756卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/07(日) 18:43:43.60
律儀によく 訂正をする 太国かな
757太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 18:45:03.14
視力が歳で落ちてるからだ。
758日本@名無史さん:2012/10/07(日) 18:49:01.46
こういっちゃなんだけど、誰も無理に書き込めって言ってないじゃん
759唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 18:59:03.44
>オマエは1年が385日とか265日アススなどとわけのわからないことを
主張しているが

ほら、これがゴットハンドなのだよ。
私が主張したことのない事をさも私の主張のごとくに書き換える。
ゴットハンド太陽を操るスカベラクソ虫太ちゃん。
760太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 19:30:56.15
ファラオを恐れぬ脳内の狂う狼藉者よ。いや狸藉者のほうかい〜? ハハ・・・
オマエは古代エジプトのファラオらに泥を塗ったね。
この前は神社に対しゴミだと不敬を働いたお前が、古代エジプトを踏み躙るとは何事だ〜。><

ファラオの呪いを恐れぬ極道者よ。〜オマエはアタマがおかしいんだよ。ハハハ・・・

オカシイと思わないからそんな論理を考えて行くわけだ〜。ww

まとも賢人なら、おかしいと気づいてもとに戻る構想態度になるからなぁ。

まだオマエはおかしいのに気づかないわけだ。ww

じゃぁ〜松沢病院で診てもらわなけりゃぁ〜こりゃぁダメだ。

ひどい末期のようだねえ〜。治療は名医でも困難のようだぞぅ。

オマエはアタマが狂ってるのさ〜。ppp
761唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 20:07:28.26
>古代エジプトを踏み躙るとは何事だ〜。><

おやおや、スカベラを自由自在に操り、太国倍年なるものを作ったゴットハンド太ちゃんとも思えぬ発言
古代エジプトで作られたのが1年=365日の太陽暦。実際の活用は、365.25日
これが、エジプトのスカベラちゃんですよ。

太国倍年はスカベラを自由に操るゴットハンドがなくてはできない(褒めているんですよ)
だから尊称として、ゴットハンドクソ虫太ちゃんと。
762卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/07(日) 20:58:19.52
スカベラとは スカラベのことかと 誰か言ひ
763太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 22:12:59.12
研究未熟の幼稚な空年ヤセ多抜キよ

ケペル がどうのこうのはもう言わなくていい。

お〜やおや、オマエの研究も赤面保育園並みだな。ppppp

そうだろう〜だから空年なんぞの未熟な論を考え出すのだ。ww

空年佛は無いから安心しろ。

アスス暦のように1年265日暦法が存在してるぜ。

これの ↓ 黒太線あたりを観てみろ。

http://www5f.biglobe.ne.jp/%257Eamuran/ndfshiryuroom/egyptdata/egyptdata.html
764太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 22:17:53.05
>>762
あいつは稀代のデ○パだから、用心せい。
765唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 22:35:21.81
だから?
太国倍年じゃあないだろ?
太国倍年というのは、天皇単位でくるくる変わるんだろ?
だから太国倍年、倍歴と称して”暦”から日を引いて”倍歴”と呼ぶんだろ?
「”倍歴”であるから、日数は関係ない」が君の主張じゃないかい?
つまり、”倍歴”に太陰暦を後付したものが”書記の紀年”なんだろ?
日付のない”倍歴”に太陰暦の後付けはできない。
だから太国倍年は存在できない。という結論が得られる。

>スカベラとは スカラベのことかと 誰か言ひ
ご指摘感謝。
ついでに言うと ラジオ氏と太国倍年の主張する数字はほぼ同じ数字になる。
古代を引き下げるラジオ氏、古代を固定して百済王家を引き上げてもほとんど同じ結果が得られる。
766太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/07(日) 22:46:09.86
空派ヤセ多抜キよ

オマエは毎日コンビニで1円玉しか持ち合わせないそうだな。pp

店員も紀違いだとオマエを笑うだろう。

毎日数万枚の1円玉を持ってこれを数えをしてるらしいな。ハハハ・・・
望遠鏡を使うときに顕微鏡を使うと自慢してるオマエはアタマがおかしいわけさ。

日付の必要ない”倍年歴”に太陰暦の後付けはできる。

”倍年暦”は年代定めであ〜る。日代定めではな〜い。

コチラの解説は”倍日暦”ではな〜い。

だから宿主空年は存在できない。という結論が得られる。
767唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 23:40:42.34
取丁巳年(垂仁二六年丁巳前四)冬十月甲子。遷干伊勢國渡遇宮。是時倭太神。著穗積臣
遠祖大水口宿禰。而誨之曰。太初之時期曰。天照大神。悉治天原。皇御孫尊。専治葦原中
國之八十魂神。我親治大地官者。言已訖焉。然先皇御間城天皇。雖祭祀神祇。微細未探其
源根。以粗留於枝葉。故其天皇短命也。

ホ32202 (開化)イキシコメ たてゝウチミヤ これのさき キミめすときに
オミケヌシ いさめもふさく・・・キミいかん わがミオヤカミ はなれんや 
ケガレはまづと いゝをはり かえれどキミは これきかず  =故其天皇短命也。

開化は孝元より、妾を与えられている。だから、子作りは成立する。その上で
「故其天皇短命也」を認めると、開化の治世は短い。

開化天皇 184年〜188年 3章 暦に2年の異常?開化、崇神の暦を同じとするのが妥当。
取丁巳年(垂仁二六年丁巳前四)・・・故其天皇短命也。
崇神天皇 189年〜216年 2章 

書紀は開化を短命と言っている。これは、世継ぎの問題でもある
だから、太国倍年は成立していない。
768唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/07(日) 23:50:02.03
>コチラの解説は”倍日暦”ではな〜い。

何が言いたいんだ?
”倍日暦”ではな〜い、倍年だ、その中身は1年が120日や180日だ。
で、ここでスカラベのごとく太陽を操るのは、ゴットハンド太ちゃん。だろ?
書紀に”倍年”なんて書き込みはない。
書紀が「故其天皇短命也」と言っている天皇は他の天皇と同じ寿命を主張する太国倍年。
「時が経っていない」という景行28年春〜同40年秋と
「時を経た」仁徳67年〜同99年。「廿餘年無事矣」

なぜ同一なんだ?
説明できないんだろ?

769唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/08(月) 09:24:17.87
>”倍年暦”は年代定めであ〜る。日代定めではな〜い。

太タヌキ殿は、「書紀の暦は後付けである」とご主張なさっていた。
その「後付け」の暦を分析なさった結果「欠史8代は10日までしか存在しない」
ということで「1ヶ月が10日の12ヶ月で1年」なる“倍年”を作った。
ここからがゴットハンドの本領発揮。
“倍年”であるから“倍暦”ではない。つまり、“倍年”に暦の後付けをすると、
いい加減な日付をあとから加えたものが、「日本書紀である」とのたまう。
正しく言えば、
いい加減な日付をあとから加えた日本書紀の日付。
これを分析しても、“倍年”なる結論は得られない。元がいい加減な数字である以上
分析結果もいい加減なのである。
崇神237年を算木で割り出す、この時に1月13日を使用するが、ここで使うことも
不適当な数字なのである。
不適切な数字を最適であると作り変える手腕はまさにゴットハンド。

そういうことですよね?ゴットハンドくそ虫太ちゃん?
770太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 09:46:32.32
応神紀と仁徳紀は父の応神が子の仁徳より先に即位したとあるのに、オマエ
のいかれた脳内は↓で逆ではないか。wwwwwwwwwww・・・w


>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院


オマエはアタマがおかしいわけだよ。プハハハ・・・

344年の応神が後の年代で313年の仁徳が先即位の年代では〜プププ・・・

オマエはアタマが狂ってるのさ。

要するにオマエの脳内は狂狂パー〜

オマエのは応神が超長命の110歳だそうだな。これでは宿主空年は成立しな〜い。
771唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/08(月) 12:08:16.83
太国倍年
731辛未  293癸丑  景行即位
742壬午  298戊午  日本武尊誕生
景行27年 日本武尊九州へ
773癸丑  314甲戊  日本武尊没
790庚午  322壬午  景行崩御

ホ38016 コゾウヅキ はらみてうまず フソヒツキ へてシハスモチ ウスはたに モチハナなして
フタゴうむ ヱのナモチヒト オウスミコ トのナハナヒコ ヲウスミコ
垂仁90年4月から21ヶ月目が景行元年12月生まれ 日本武尊誕生(240年生まれ)
景行27年 日本武尊 16歳(255年)景行41年死亡(256年)
景行28年春から同40年秋までの時空は、書紀:未経幾年・古事記:未経幾時
ホ39017 ときヤマトタケ をたけびて ニシむけマなく またヒガシ 

ゴットハンド太ちゃんは、日本武尊の誕生を書き換えて、死亡年齢を整合させている。
景行27年 日本武尊 16歳は、2倍年であるから8歳と主張するのである.
書紀が「未経幾年」と時の経過時空が最小であると言っているにもかかわらず、
8歳の日本武尊が16歳になる時空をあてがっている。
この時空を「ニシむけマなく またヒガシ」の時間経過だとおっしゃる。

このように、太国倍年というものを書紀と比べた場合、大きく時空が歪んでいる。
772唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/08(月) 12:16:04.45
>オマエのは応神が超長命の110歳だそうだな。これでは宿主空年は成立しな〜い。

神功・応神紀には、百済王家が書かれている。
応神誕生(神功渡海)から崩御、誉田御廟山までが110年である。

この時空を短くしたいんだろ?であるならば、
太国倍年:860庚辰  352壬子  仲哀崩御 應神誕生

352年に渡海ができればいいんだよ。
だから、太国倍年でこの
渡海が事実とできるのか?できないんだろ?
だから、ゴットハンドを使っても不可能は不可能なんだ。
773太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 12:35:40.79
>応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午 ←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯 ←要緊急入院
         ↑
このひどさをオマエは感づかないわけさ〜。www

即興に繕い論を発展考えて、さらに新たなデタラメ増幅盲象を書きこみ暴走しておる。

オマエをこんなにおかしくダメにしたのは、他ならぬ世にも恐ろしい〜脳内を
麻痺させる古代書の「毒紀乃古の臭魔伝」だ。これに脳内を蹂躙されると、
もうなかなか正常脳に戻れず、こんなデタラメ盲象に暴走して、おかしいのに
気づかなくなるのだ。オマエがその見本だよ。ハハハ・・・

フゥ〜〜 ヒィヒィ〜ヒドイヒドイぞぅ〜。

恐ろしい臭魔伝でオマエはアタマが狂ってしまったんだよぅ〜。

オマエは盲象増幅のホツマ虫に同化しているんだよぅ〜。
いわばパソコンのウイルスに乗っ取られた如きだねエ。

つまりオマエの敵はコチラではなく、コチラはオマエの病気を真面目に教えて警告してオマエを正常に戻させたい本来はオマエの見方なわけさ。

その見方に対して口撃してるのは、オマエの恐ろしい臭魔虫がオマエの脳の核心に働きかけて抜け出したくないためにコチラをオマエに口撃させているわけさ。
つまりオマエは恐怖の盲象虫にクグツされてるわけだ。

オマエの真の敵はオマエが飯より大事にしてる恐るべきホツマ虫なんだよ。
この真の敵のホツマ虫にオマエは目が覚めないらしいな?ww
774卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/08(月) 12:46:39.46
珍しい 虫が出てくる 論争かな
775日本@名無史さん:2012/10/08(月) 13:55:11.61
それでなくとも2人で延々ツマラン漫才してるのに
同じような文章のコピペはうっとおしい
776太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 14:12:01.86
>開化天皇 184年〜188年←×3章 暦に2年の異常?開化、崇神の暦を同じとするのが妥当?。
取丁巳年(垂仁二六年丁巳前四)・・・故其天皇短命也。
>崇神天皇 189年〜216年←×2章 

書紀は開化を短命と言っていない。これは、木花咲耶姫と磐長姫の伝説でニニギ命が醜い女を蹴ったことが皇孫の短命化
となったという過去の伝説を事例で述べて垂仁紀に掲げたもので、開化自体を問題視してはいない。
つまりオマエの恣意的短絡的いい加減解釈先行のデタラメである。

だから、宿主空年は成立していない。

応神が110歳生きるだとか子が応神で父が仁徳だと主張するオマエは要緊急入院だ。><

空年佛はないから心配するな。ww あの世にて盲象で頑張れ。ハハ・・・
777日本@名無史さん:2012/10/08(月) 14:30:44.97
このころの年は今の1年を2年として書いてあるのは常識じゃないのか?
つまり、当時の110歳は今でいう55歳。
778太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 16:02:28.96
だからこいつは1年365日式で110歳そのまま生きたと言ってるそうなんですよ。

つまり奴は1年を2年と書いてあるという説を否定してるんです。

肯定ならば55歳ですがね。だから奴は55歳と観て論を張ってるんでは
ないわけです。奴は純粋に110歳で年代を組んでああだこうだ言ってるわけです。
779唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/08(月) 20:45:13.44
>書紀は開化を短命と言っていない。

取丁巳年(垂仁二六年丁巳前四)・・・著穗積臣遠祖大水口宿禰。而誨之曰。・・・故其天皇短命也。
ホ32019 孝霊3年 ミトシハル ヲヲミナクチと ヲヲヤクチ ともにスクネと

大水口宿禰は、孝霊天皇から仕える。だから、孝霊・孝元・開化・崇神の中に短命な天皇がいる。
そして、この言葉を発したのは、垂仁が伊勢に天照大神を祀るときであり、先代の崇神は良く神を祀ったといい。
開化にはその行いを叱責しても聞きいられなかった。と言っている。
つまり、先祖や神をないがしろにしたのは、開化である。よって、「故其天皇短命也」
となる。

開化は世継ぎを作れる年齢で天皇に即位している。その天皇が短命であるから治世年数は短い。

780唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/08(月) 20:58:14.05
>つまり、当時の110歳は今でいう55歳。

凡此品陀天皇。御年壹佰參拾歳。
古事記:274年壬戌、応神誕生。 
古事記:甲午・・・366年甲午 ここで、130歳
書紀:応神天皇 344年〜384年  経年でほぼ110年。
応神の崩御を誉田御廟山に設定して、渡海の年を推定する。

神功渡海が274年であれば、西晋の命令行為の実行として、9月に集兵、10月渡海
それが縁で、新羅は毎年調(税)を納める。調とは、半島に駐留させる1大卒の経費でもある。
その時代が、纒向5類(桜井茶臼山から椿井大塚)の副葬鉄器になる。
神功磐余若桜宮(桜井茶臼山)から誉田御廟山までが、110年。

781太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/08(月) 22:04:49.90
なにを寝言を云うのか。ww

伝説に火火出御尊が580歳とあるから、天皇もそうなるかと考えればそうでなく
神武から垂仁の代まで来てそんなに長くないことを木花咲耶姫と磐長姫の昔話
を考慮して相対的に短命で580歳も生きていないなということなんだぜ。

現代の目線で垂仁のころの連中が寿命を考えてるわけない。

オマエこそ現代の目線で短命を解釈してる。

オマエはおっちょこちょいだな。pp
だから妄想に暴走を繰り返しデタラメを書き殴っている。ハハ・・・
782唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/09(火) 00:45:03.28
>現代の目線で垂仁のころの連中が寿命を考えてるわけない。

取丁巳年(垂仁二六年丁巳前四)・・・著穗積臣遠祖大水口宿禰。而誨之曰。・・・故其天皇短命也。

短命なんだよ。
だから、崇神は若くして即位する。
それで、子作りが遅くなる。崇神元年から同12年まではほぼ毎年記事がある。
12年が経過したとできる。それからが崇神の子作り時代に入る。
子作りは、15歳、16歳程度からである。
つまり、崇神は3、4歳程度で即位。
そして、天皇の平均寿命は、30才ちょい。孫のいる景行天皇でも45歳は難しい。
平安時代から鎌倉時代の 翁、媼は45歳。これが当時の現実だ。
783唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/09(火) 01:04:43.17
いいですか。
成務は、日本武尊の弟分。
この天皇がそれ相応に長生きすれば、仲哀に皇位を譲らず、その子供を立てることができる。
成務の子供と日本武尊の子供である仲哀とはそれほど年が離れていない。
つまり、景行末には子作り年齢に達している。
その成務が治世20年あれば、孫がいてもおかしくない。これは、仲哀にも当てはまる。
双方に孫がいないということは、治世も短い。
考古学で言えば、箸墓(布留0)から、20年程度が布留0である。布留1式は、神功渡海まで
この20年のうち仲哀に9年を割くと、成務治世もそれを超えることができない。
景行=箸墓、神功渡海≒273年日食。箸墓から10年程度しか無い。
箸墓以前に纒向に王宮とできる建物は、3世紀前半と中期の2個だけ。
784太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/09(火) 11:08:27.80
短命とは神代の火火出身尊の580歳からの短命ということであり、
現代目線での短命ではない。

つまりオマエの脳内の現代目線での短命記述ではなく、580歳という大昔の伝説話から観れば、天皇が短命だという意味だ。

通常のそのころの天皇は現代人と大差ない寿命であって、そこの記事は
垂仁から遠い昔の580歳の長命を眺めて短命だと言ってるわけである。

オマエはそういう時と場合を考えないおっちょこちょい。ww

なお 273年の日食は神功元年前年の常夜の話と関係ない。
日食の皆既の欠けは少夜の7分余が最大であり、元年前年は日食にはならない。
785太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/09(火) 16:39:12.21
景行≠箸墓、神功渡海≠273年≠日食
786卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/09(火) 18:39:31.79
スタミナが 勝敗分ける 論争かな
ジム通ひ してゐる太国 スタミナあり
787日本@名無史さん:2012/10/09(火) 19:07:28.55
ある方が神代?の人間離れした寿命や在位期間を除いた
歴代天皇の平均在位期間(平均偏差値)を約15年と割り出し見積もってそれを基に・・・
実在が確実視されている崇神大王は
平均在位15年に×115代=1725年前の三世紀頃に生存していた事になります。
また、神武天皇が実在したとしたら、
平均在位15年×125代=1875年前の一世紀後半から二世紀頃の人

これは割と信頼度、確度の高い数字かも。

788太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/09(火) 19:24:14.17
崇神即位は

 通説 B.C.97年

 実年代 237年→3世紀
789日本@名無史さん:2012/10/09(火) 19:31:11.88
でっ崇神没年はいつなの?
790www:2012/10/09(火) 20:54:27.10
神武は2世紀末に大王
崇神は4世紀初に大王
箸墓の築造は4世紀半ば
というのが妥当だろうな。
791日本@名無史さん:2012/10/09(火) 21:13:37.83
神武は傍系だって記に書いてあるのにまぬけな読めない人大杉
792太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/09(火) 21:56:02.93
>>789

崇神没年=259年

古事記での 258年 戊寅 は1年違いでほぼ真である。
793唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/09(火) 22:03:39.55
崇神(189〜216年)
崇神5,6年 災害 凶病(えやみ、飢饉)餓死 逃散
後漢 193年 6月寒風冬の如し。飢饉
新羅 192年 4月大雪、 193年倭人大餓 後漢とは1年の齟齬。
考古学:弥生後期後半 唐古・鍵遺跡など各地の居住遺跡の放棄

崇神10年 異俗多帰
考古学:2世紀末、纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれる。

崇神58年 任那 ホ34002 ミマキのミヨ ミマナのアヤ
新羅 209年(210) 伽耶に援軍
欽明天皇二年(五四一)四月◆夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。
三國遺事卷二 降及仇衝朝末(541年),三百三十載之中←541年で建国330年

崇神元年は、後漢193年の記事から、189年以前にはならない。
崇神58年=210年であるから、崇神68年は220年を超えることはない。
794唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/09(火) 22:30:29.26
垂仁(217〜239年)
任那より鉄の流入(鉄の配分権)、埴輪の導入
239年 邪馬台国官伊支馬、田道間守の派遣
倭人伝 都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
考古学 3世紀前期の大型建物=珠城山、その跡に土盛りと整地をし中期の建物=日代宮。
考古学 ホケノ山(225〜250) 穴あき壺=埴輪、鉄の副葬。半島式墳墓 西瀬戸内の壺。

景行(240〜261年)
田道間守の葬儀を許可。
晋書 正始元年 東倭重譚納具。
倭人伝 伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
246年頃 黄旛下賜の決定。
247年? 景行12年より 九州へ派兵
景行20年 五百野姫=壹與即位 ホツマ 五百野姫を軍隊付きで派遣。
255年 景行27年 日本武尊を九州へ派遣16才。
256年 景行40年 日本武尊を関東へ派遣 倭国統一(大倭成立)。
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(大倭)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
考古学 箸墓(260±10年) 最初の大王墓、特殊器台(埴輪)、布留0式
795太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/09(火) 22:46:43.57
垂仁(×217〜239年)
・・・・・・・・・・・・・
倭人伝 ?都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守、伊支馬=イキマ≠垂仁
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
景行(×240〜261年)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

景行20年 五百野姫≠壹與即位 ホツマ 五百野姫を軍隊付きで派遣せず。
796太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/09(火) 22:47:47.21
崇神(×189〜216年)

崇神6年≠193年
797日本@名無史さん:2012/10/09(火) 22:54:03.55
あげんな。荒らしじゃないんだろ?
798太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/09(火) 22:56:48.11
11月号の雑誌「ムー」に池田仁三氏の古墳被葬者名の記事が11頁にわたって
の解説記事が出ている。
鷲崎旧板では彼の研究をインチキのように即断された方がおり、それがしも
疑念は持ってるものの、まだ決心はついていない?

彼は自衛隊出身の方で元幹部というから、どでかい捏造など
よっぽどの利害のない限り誰でもやるわけないわけで、慎重に対応すべきを
捨てずに行けば、得るところが多いかも知れない?

巻向勝山古墳碑石の師木津日子の墓の内容等、いろいろ面白い説明がある。
この方を常根津日子の兄だとあるが、弟ではないのか?
記事にはこの常根津日子の文字が57年の金印の側面に書かれているとして、
写真入りでの解説がある。常根津日子は丙寅年に47歳で死んだとの文字が
福岡県の一貴山銚子塚古墳近くの碑石からその確認が得られているという。

これが真だとなると、誰の編年が真であったのか?
それがしのは整合しているのを確認した。
宿主こと唐松山は神武元年を41年だというが、金印は57年のもので
あるから、安寧の子の懿徳の兄の常根津日子が57年前後に生存していたこと
は堅い。こやつは次帝の綏靖の在位を63〜76年としてるから、57年は
神武在位の時代だと奴が言うことになって、この男の編年が不整合だという
ことがハッキリしたことになるわけだ。ww

つまり金印の57年を神武の代だとするろ、金印の側面に
後代たる懿徳の、その兄の常根津日子の文字があるのでは、41年はえらく
おかしい。つまり奴の主張年代が不整合だということが判明したのである。

つまり宿主の論は出鱈目であることが金印から確認されたのだ。

ちなみに曲学の徒氏の編年もここから整合しないこととなろう。
radioさんの編年だとけっこう整合が多いと想えるが?
799唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/10(水) 00:31:50.43
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

漢光武時=57年・・・謂之倭奴國。・・・遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼・・國人共立為王。
57年の朝貢は、倭奴國。後漢183年、193年の飢饉あたりから乱れ始め、闘争が続き、疲弊して大王を立てられなくなる。
それが、前原王墓。
238年 魏使の訪問を受けた倭奴國は、魏使の要請による朝貢を決めるが、単独で大王を立てることができない。
北部九州倭奴國は東畿内邪馬臺國までを共立の仲間とする。

800日本@名無史さん:2012/10/10(水) 00:33:45.82
仮に金印に『常根津日子』の文字が刻まれていたとして
誰が何時刻んだのかはわからないんだよね
あの文字も画像見る限りではちょっと怪しいんだけどw
801日本@名無史さん:2012/10/10(水) 00:47:58.85
いい年してムーを読んでますって恥ずかしくね?
802卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 09:11:10.06
常根津日子 右から左に 書いてあり
803太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 10:47:31.66
まぁ字が似てるというからな。
当人がなぞって文字を見やすいようにしたのか、池田氏の収集した全国遺跡
を大昔の誰かも全国を巡って、当時存在の情報を一人的に悉く書いて
行ったものか〜、そこらへんかも知れないが?

これが全然報道されて来なかったのは、各古代史学者、研究家らが都合悪い
ので音無しの構えで黙って今まで来てたのだろう?

朝鮮男はなかなか漢字を観察してるな。

だからといってインチキとは決められんが、右から書くのは属王だから
なのかね? それともインチキになるのか? 大陸人は側面に書く習慣が
あるとの記事だったな。

金印の常根津日子命の文字が本物だとなると、安寧の皇子だから安寧から
懿徳の代が57年となる。
すると神武元年が41年で41年〜62年の神武在位だとする○ンマな唐松山の
主張は出鱈目だったということとなるのだ。ww

こちらのは調べてみたが、キチンと整合しているな。

奴のは出鱈目だったわけだ。ppppp・・・pp
804唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/10(水) 10:59:30.45
仁徳以降の潤の廻しを変更しました。

399年 仁徳87年は、閏5月に変更。
313年は、章の7年目、315年閏3月。1ヶ月=29.530597日。
=CHOOSE(MOD((G3+10),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&CHOOSE(MOD((G3+14),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")

313年 仁徳元年春正月,丁丑朔 (306863.676)
325年 仁徳13年閏12月。(朔旦冬至の年)
326年 仁徳14年1月壬辰朔(推定)(311618.1021)
459年 雄略3年1月己巳朔 (推定)(360195.9342)
安閑天皇元年(甲寅五三四)◆閏十二月己卯朔壬午。(387925.1648)
535年 安閑二年春正月,戊申朔壬子 (387954.6954)
延暦三年(七八四)十一月戊戌朔。勅曰。十一月朔旦冬至者。是歴代之希遇。(閏9月の年)
785年 延暦4年1月丁酉朔(479263.3013)

もともとは、閏12月の年を最終年とし、翌春から新しい1章が始まる。
年が経つと、朔旦冬至自体が、離れてゆく、そして、他の年で朔旦冬至が祝われる、それが
延暦三年(閏9月の年)なのである。
つまり、経年の変化で閏9月の年に朔旦冬至自体が来た。逆算ができる。
785年から逆算して最も近いのは、326年である。
仲哀天皇元年(壬申一九二)閏十一月 暦が同一であれば、仁徳天皇八七年(己亥三九九)は、
閏年ではない。、仁徳天皇八七年は潤年であるが10月以前の閏である。
応神紀と仁徳紀では、暦が繋がらない。
仁徳紀は、延暦三年・安閑天皇元年から逆算した、閏5月の年が399年仁徳87年になる。
古記:三年閏九月、六年閏六月、九年閏三月、十一年閏十一月、十四年閏八月、十七年閏五月、十九年閏十二月
805卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 12:29:01.24
偽物が 本物になる 金印かな
806唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/10(水) 12:36:30.62
延暦三年(七八四)閏九月《巳亥朔十》 十月《戊辰朔479174.7095》
延暦三年(七八四)十一月戊戌朔。勅曰。十一月朔旦冬至者。是歴代之希遇。
唐コ宗興元元年甲子 西元784年1月27日(星期二)起 閏10己巳朔・11月戊戌朔

中国の暦法を取り入れたと言いつつ、日本独自の暦を使用している。
807唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/10(水) 13:07:07.43
墓標は、まず使えないしろものである。
279 壬申 /皇866 丙戌 香坂王/仲哀子 丙戌年12月9日30  269生 10才
280 癸酉 /皇867 丁亥 忍熊王/仲哀子 丁亥年7月15日28 272生 8才
280 癸酉 /皇867 丁亥 押別王命/景行子 癸酉年4月19日40 240生 40才
285 戊寅 /皇872 壬辰 五百木入日子命/景行子 戊寅年6月3日46 239生 46才
293 丙戌 /皇899 己未 39年
305 戊戌 /皇911 辛未 建内宿禰 辛未年7月4日106 242生 63才
308 辛丑 /皇914 甲戌 品夜和氣命/仲哀子 甲戌年5月17日64 272生 36才
312 乙巳 /皇918 戊寅 若建王命/小碓子 戊寅年11月6日55 257生 55才
323 丙辰 /皇929 己丑 息長帶比賣命/仲哀后 己丑年4月17日101 252生 71才
324 丁巳 /皇930 庚寅 応神天皇 324生
328 辛酉 /皇934 甲午 品陀和氣命/応神N 甲午年9月9日75   273生 55才
329 壬戌 /皇935 乙未 大山守命/応神皇子 乙未年6月7日50 294生 35才

274年生まれの応神は、仁徳即位前の310年ころには死亡している。
よってその子供である大山守命は、仁徳即位以前の死亡。
808太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 14:35:17.05
金印のほうは墓標じゃぁないんだよ。
そこに常根津日子命とあったと池田氏井上氏が言ってるわけだよ。

金印は墓標なのか〜?ww

応神は310年ころ死亡というのは通説であって、実年代はそこじゃぁ
ないからな。不合理は少ない。
オマケにオマエは応神は2人いたと言ってるんでは片方のほうが合わないと
は言えめえが〜?ハハハ・・・
だいたい2人いたというオマエは要精神鑑定。
オマエはアタマが狂ってるから応神が2人いたと言い出すわけだ。ppp

応神崩御の実年代は389年。
809卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 17:29:52.91
太国は 写真にころりと だまされる
810日本@名無史さん:2012/10/10(水) 17:57:39.26
>>802
kwsk
811太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 18:22:04.17
朝鮮男よ

そうならば藤村以上のインチキ野郎らだということになる。

しかしそういう大インチキをするには動機と相当の大利害がなければ
やりゃぁしない。そんなものがあるのか? 動機と利害だ。

オマエの言い分が正しい言たけりゃぁ、古代史捜査して、彼らの偽造を
立証しなければ、足利事件や村木元局長のごとき無実の罪を生む温床の
やり方となる。

最初からこのくらいでのことで根拠、証拠もないうちに騙してるとかの
言い分が先行すれば、場合によっては池田氏井上氏を怒らせて訴訟まで
行くぞ。それとも動機、利害関係、偽造の証拠があるのか? ホシは
彼らだお言い張るのか?

いい加減にせい。先行の決めこみは村木さんを思えば、えらくまずい。
812卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 18:23:46.16
813日本@名無史さん:2012/10/10(水) 18:33:55.46
朝鮮くんて親切だなあ
814太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 18:36:26.13
常根津日子の歿年は66年ではないようだ。

彼の真の没年の実年代は100年となる。
815日本@名無史さん:2012/10/10(水) 18:52:03.92
今ひとつ意味が分らんけど
昔って右から左に文章書いてたってのを聞いた気がするけど
そういう意味でなく?
816日本@名無史さん:2012/10/10(水) 19:01:40.60
常根津日子命は第3代安寧天皇皇子(第一子)で
「常根津日子命墓、丙寅年三月十六日薨、御年四十七歳」の墓碑銘が
佐賀との県境に近い福岡県糸島郡二丈町に所在する一貴山銚子塚古墳近傍碑石から得られています

          ↑これって現物見れるかな?


師木津日子玉手見命【03.安寧】坐 片鹽浮穴宮 治天下也
此天皇
娶 (師木縣主之祖)河俣毘賣♀之兄 縣主波延♂之女 阿久斗比賣♀
  1.生御子         常根津日子伊呂泥命 ★(AD43-66)(34歳)
  2.次     (大倭日子師木友命) 大倭日子鉏友命 (04.懿徳)
  3.次            師木津日子命(シキツシコメ)

(57) 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬(25歳)
817日本@名無史さん:2012/10/10(水) 19:04:22.46
×  (34歳)   (25歳)
○  (24歳)   (15歳)
818:2012/10/10(水) 19:05:51.20
×  (34歳)   (24歳)
○  (25歳)   (15歳)
819日本@名無史さん:2012/10/10(水) 19:12:09.31
「玉手見命」って

お土産もろて持ち帰って開けてみたりするのかな?

このひともはんこ貰ろたおひとっぽいお名前ですねえ

亀さん抱いて海渡ってお帰りだろ
820卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 19:53:06.31
太国よ、こんなものはインチキに決まっているではないか。
大体、普通のカメラでこんな写真を撮っても、こんな文字が現れるはずがない。
X線解析をしても現れないだろうし、そもそも素人にX線解析などできない。

それに文章を右から左に書いたのは明治〜戦前までだ。
江戸時代でも文章は左から右に書いた。中国も然り。

それにもともと墓誌は縦書きだ。太安万侶、武寧王、みな然り。
横書きで、しかも右から左に書いた墓誌があったら見せてもらいたいものだ。
821日本@名無史さん:2012/10/10(水) 20:01:43.11
鎌倉時代とか平安時代も右から左じゃないの?
巻物とかどうすんの?
822卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 20:09:32.09
それは縦書きの場合の話でござる。
823日本@名無史さん:2012/10/10(水) 20:54:44.32
もっとうまくやればエエのに
824日本@名無史さん:2012/10/10(水) 20:58:26.12
ノヘ⌒ヽフ 
  
      (  ・ω・)∩))  「あーあヒマだなぁ」
      /    ⌒ヽ
      (_人____つ_つ
825太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 21:45:07.12
朝鮮男よ
それで捜査は終結か〜? だいたいインチキするのにしては規模が大きすぎる。
相当多数全国からの碑面を集めたという。

いいか、昨今のPCからの伊勢神宮へどうのこうのするという書きこみも捜査は失敗し、どうやら誤認逮捕を2回もしたようだ。
オマエは捜査員には落第だな。w



かなり後代の文字だというから、委奴国王の
王権滅亡後も誰かが黄金の印だから大事にあっためて
隠してか保有して後代まで温存されて来てたということ
となろう。その間、金印名の国王が常根津日子命だと
いう情報が強く受け継がれて知っていたため、ある日
あるとき命が国王だよと国王が何者だか不明になるのを
恐れて後代に書きこんで国王名を教示したということ
だな。それは書いた当時の九州人のやったことだという
ことになる。
826太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 21:53:05.62
朝鮮男よ

大陸に右から左へ書く横書きの漢字列なんてうんとあるぜ。
それに金印は墓碑ではなかろうが。

横書きの例では、中国現存の道教仏教の寺院の看板なんか横書きじゃないか。
例えば西天如来の大雷音寺の「大雄宝殿」の建物正面上の看板漢字なんぞは
だいたい横書きだよ。

旧漢字で↓こうだな。

 「殿 宝 雄 大」
827卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 21:55:25.93
太国よ、そんなことはありえない。
右から左に書かれているということは、明治〜戦前までに書き込んだということになるが、
あの金印は誰でも勝手に触われるというものではない。
現在でも一般人は手で触れることもできないし、本物を見ることも難しい。
そんな小細工をできるような環境には置かれてないのだ。
828太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 21:57:06.09
>こんなものはインチキに決まっているではないか。

朝鮮男よ ↓ これが検事の村木さんへの先行妄想考察だった。オマエも二の舞か〜?w

 こんな女は犯人被疑者に決まっているではないか。

当時の検事はこんな調子 ↑ だったんだろうよ?


829太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 21:58:20.21
なにがありえないんだ?

とにかく横書きがあるんだから、オマエの経験不足だということよ。w
830太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 22:00:25.51
道教仏教の寺院で明治以前の建物なんか、現今中国にうんとあるよ。
831卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 22:01:56.46
大体その大雄宝殿の看板がいつ書かれたのかが不明だ。
昔からずっと看板類などは中国では右から左書きだったというなら話は分かるが。
832太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 22:18:17.64
中国に横書きの漢字の事例の典型が、この道教仏教寺院の看板だよ。
それに斜めに書くのもあるんだ。

実際に中国江蘇省の花果山に 水廉洞 があるが、この三漢字などは
斜め書きだよ。

四川省青城山の山門の看板の山名などは横書きだ。道教発祥の地だという話だ。
蘇州西園寺の寺院看板も「殿宝雄大」と旧文字で横書きだ。

つまり横書きはむこうにいくらでもあるのさ。

志磐「仏祖統紀」の須弥山図も横書き名称が多い。
833日本@名無史さん:2012/10/10(水) 22:33:55.82
太国は、いろいろ知ってるな〜
834太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 22:41:46.36
訂正
× 水廉洞
○ 水簾洞

河南省相国寺の寺門の 寺国相 と旧字で書かれた看板も横書きだよ。
835卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/10(水) 22:45:31.47
では人名はどうなんだ?
人名を横書きするとき、右横書き(右から左に書くこと)にしたのか?
836太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 22:49:18.46
探してみないと分からんな?

明日調べよう。

なお植物の横書きの文献はある。

先の水簾洞の磐面刻漢字の斜め下に、書いた者らしい二漢字分の中国人の
書名斜め書きである。風雨か〜自然現象で読めなくなってるようだが?
837太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 22:50:50.85
猿名ならあるな。ww

横書きで 「聖大天斉」 とある処がある。
838太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/10(水) 23:18:35.41
寝る前に早急に調べたが、人名もあるな。

「唐三蔵□」 と、右から左へ書く絵図文献がある。

明日以降に zzzzzzz・・・・・
839日本@名無史さん:2012/10/11(木) 02:09:28.58
>>827

>それに文章を右から左に書いたのは明治〜戦前までだ。
>江戸時代でも文章は左から右に書いた。中国も然り。
 勘違いではないでしょうか・・・
 中国も日本も、縦書きが基本です。
 横書きが有っても、江戸時代は勿論、日本では米軍占領まで、通常は右から左だと思います。
 以下のものが、見つかりました。

http://www.wound-treatment.jp/next/dokusho50.htm 『横書き登場 −日本語表記の近代−』 → 国粋主義者の間から「日本の伝統は右横書きである。大和魂は右横書きである」ってな横槍が入った。
(屋名池誠,岩波新書)からの抜粋のようです。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gengogakuin/gengokenkyu/nihongoron/sengoshinkanaco.htm 【日本語の横書き経緯】
http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/tojo_naikaku.html ■左横書きをリードした大新聞■
http://www.library.metro.tokyo.jp/portals/0/edo/tokyo_library/database/index.html?page=27&ky=&ca= 武蔵国多摩郡百草村松連禅寺之図
http://www7a.biglobe.ne.jp/~thaishun/zazen6.html 寺名の額
http://www.city.nishio.aichi.jp/index.cfm/8,17584,91,408,html 西尾市の文化財 木額
840radio:2012/10/11(木) 08:48:30.78
杵の Special Meaning

<杵>という字は 特別な意味が あります.
その意味は何でしょうか?

<杵>は人名に使われる時むやみにちょうど使われる字ではないです.
この字は<天皇>を意味します.

*きね= 杵

現代日本語発音は [きね]です.
古語発音は [きに]です.
*きに= ki-ni
私は経験的にこの字の意味が分かったが, <古事記傳>で言います.
http://kumoi1.web.fc2.com/CCP123.html
水垣の宮の巻【崇神天皇】
○大入杵命(おおいりきのみこと)。
倭建命の段に柴野入杵(しばぬいりき)という人名も見える。
「杵」は「君」の意味だろう。
そのため, こんな関係になります.

*杵= ki-ni = kin= 君(kun, gun)= 王= 天皇

大入杵命の意味.
大は '偉い= great'を意味します.
入は '到来'を意味します.
杵は '天皇'を意味します.
そうするので, 大入杵命の意味は '渡来した偉い王'の意味します.
* 大入杵命= 孝霊天皇
* 苫麻杵命= 孝元天皇
841卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 10:16:43.40
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%A6%E6%9B%B8%E3%81%8D%E3%81%A8%E6%A8%AA%E6%9B%B8%E3%81%8D
Wikiの「縦書きと横書き」によれば、日本で横書きが生まれたのは蘭学流行の江戸期だとある。
左横書きにしたようだが、>>839のような例もあり、何とも言えない。
漢文を横書きするときは右から書いたとWikiには書いてあるが、
まったく反対のことを書いているサイトもある。

しかしなにはともあれ>>812で上げたサイトの写真を見れば、
それがインチキ臭いことは明白である。金印以外に、さまざまな古墳の碑石の写真が出ているが、
これが殆んど右横書きで、しかも書体も楷書、〜之墓と生没年しか書いてないというお粗末なものである。
842卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 10:23:03.84
もっと怪しいのは、池田、井上というこの二人の男が、それほどの発見をしていながら、
権威ある公的機関に正式な鑑定や調査を依頼した様子がないことである。

できるわけがない。なぜならそんなところに持ち込めば、インチキであることがすぐにバレるからである。
843卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 10:33:47.28
で、たぶん今、太国は漢文右横書きの例を捜しているのだろうが、
それが見つかっても池田と井上が正しいとは言えない。
次に日本に於ける江戸期以前の、文書や金石文に於ける漢文横書きの例を上げてもらわなければならない。
なにしろ池田と井上が上げている例は殆んどすべて漢文横書きの碑文だからである。
844日本@名無史さん:2012/10/11(木) 10:50:57.00
碑石はインチキだよもちろん
そんなのが読み取れる技法があるならノーベル賞とまではいかないだろうが
世間にもっと有名になってるはずだな
何もネットでちまちまやっていることはない
あの程度のものならphotoshopで俺でも作れる
845日本@名無史さん:2012/10/11(木) 11:02:40.56
これ作るのに3分もかからん

http://iup.2ch-library.com/i/i0761211-1349920927.jpg
846卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 12:23:09.11
中筒男 南解次次雄で 味噌を附け
847太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/11(木) 16:23:13.55
なるほどね。
朝鮮男の説明は一応説得力がある。最初から日本のほうを見つけろと言えよ。
無駄な労力だ。

昼過ぎまで外出してたんで、いま先、帰って日本の横書きがあるのか否か短時間
調べてみたが、いまのところ無いな。
ただ斜めのはあった。中国の文献では横書きがあるが、日本の場合はいまの
ところ見当たらんな。

こうなると捏造でないということを当人らが合理的に説明しなければ
信用はしてもらえないということだな。

カルトの染まってるとインチキでも頑張るからな。ww
宿主の論などこれの塊りだ。

ところで何故事例がないというに。朝鮮男は事例が後代に無いはずの
当時の天皇の百数十歳の高齢はそのまま信じないさいと言うんだろう?
そういう反論をするなら、奴の超高齢論もインチキだとなるぞ。
朝鮮男よ、そうでないのか?

ところで池田氏のその提示の漢字列で、それがしの編年の実年代が合うのが
確か過去に2例あった。だからまだ調べてみよう。
それに常根津日子の実年代のほうもおおむね合ってるので、
もっと調べて考える。
848太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/11(木) 16:35:48.25
とにかく足利事件、村木元局長の事件、先日のPCからの伊勢神宮どうのこう
のという事件の2人の冤罪、東電事件の爪アカDNA鑑定でのシロがあるから、
この件は結論先延ばしとしている。

いずれにせよあの字体は後代のものだというから、関係古代人の時に書いたもの
ではないことは有力だな。
だから後代何者かがいろいろな碑石等に横書きで書きこんだのだと観るべき
だろう? 年代が2例ばかり合ってることは奇異なので、その者がどこからか
情報を得て確信的に書きこんだものか? そのへんを知りたいわけだ。
849太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/11(木) 16:48:58.66
何故近畿にある古代史研究所等は、池田氏の内容がインチキならインチキだ〜
インチキでないならインチキでないと言わずに無言なのかな?

はっきり言えば解決だと思うがな?

それをしないということは、字体が各遺跡に池田氏の内容が書かれてたので
まずいと思って無言でいるのではないのか? (この場合は後代に何者かが
横書きという特殊なやり方を多く使い書きこんでいた可能性が出て来るが?)

と〜、まあそういうふうに考えてしまうわけさ。

どうなんだろう? た〜だ相手にしないだけかな? 分からん?
850太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/11(木) 16:52:03.18
言い忘れたが、神代文字群の中には横書きがけっこうあったな。
ハングル式神代文字もこれがわりとあったね。
851ローガン:2012/10/11(木) 17:03:02.11
黒塚の画文帯
「吾作明鏡自有紀〇 〇公宜子」
文字は全て鈕が上の時計回り。
右から左の横書き
852卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 18:16:27.45
試しに銘文入り鏡の銘文が、右横書きか左横書きかを全部調べてみればよい。
そしたら何か面白いことが分かるかもしれぬ。
製作地とか製作年代とか。

三角縁神獣鏡はどうなんだろう。
853太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/11(木) 18:17:51.98
とにかく実年代とそれがしが観たものと一致してたのが、池田氏の発表の中
に2個あったということと常根津日子の年代もほぼ整合してることから、
インチキに見えるがあながちにそうでもないと想う。

インチキにしては規模が莫大すぎるほど彼の碑石からの年代収集がある。

インチキならばそんなにやることもなく一般、古代史論者を騙せるだろう。
流しの犯行、愉快犯はないともいえるが、そうならば少量のインチキのはず
だな?

だからこれが彼らが収集したこととは、そういう点からはおかしくはないし、
よっぽどの利害がなくてはこんなに多量にインチキをやらかさないだろう。

そういううんとやらざるを得ない動機があるのか? 考えにくい。

となると、これらは古代の当時ではなくそれより後代の者が信念を持って
確信的に多数の碑石に書きこんだと観て可能性がある。そいつが滅多に
ない横書きででかなりを書きこんだものだろう? だから実年代が合って
る点が出てるわけだと推理する。まぁ証拠にまではならんだろうがね。w

池田氏の収集した碑文はえらく長い年月のため薄くなってるので、彼の
サイトの写真では濃くハッキリと文字の印象があり、これは池田氏または
井上氏あたりがなぞって書いて見る者らに文字が分かるようにしたん
だろう。だから文字がなんとなく共通に似てる感じがするわけだろう。
地の漢字も上述のとおりある者が各所で書いたものだから、これも
おおむね似ててもおかしくはないと思う。

地の文字では薄いに決まってるだろうから、単にその写真を出しても見る者
は判読し難い。だからなぞったんだろう。
854卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 18:24:27.76
太国はまだ信じているのかw
インチキであることは>>845を見れば分るはずだ。
それでもまだ疑問があるなら、実際に碑文のある現地に行って、
碑石を自分の目で確かめてくれば良い。
どんなに目を凝らしたところで、
池田のサイトに上がっているような文字は書かれていないことが分かるはずだ。
855卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 18:28:41.91
太国は お人好しにも ほどがあり
856太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/11(木) 18:42:39.94
そういうのは縦目仮面もやって出してたよ。

こちらも金印のイミテーションを持ってるし、ほんものそっくりだしな。w
857太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/11(木) 18:57:38.70
一つ池田氏のがそれがしのと年代があってる事例を出そう。

池田氏の墓碑銘では

 大雀命(仁徳)の墓 己未年 薨

この年は仁徳崩御の実年代(通説は399年 乙亥)の419年 己未 に一致して
いる。允恭の代までは通説年代と実年代とには14年差あるが、履中即位
たる通説400年時には実年代が420年とその差20年差が生じている。

そして仁徳没年399年とは実年代で419年乙未だ。

つまり乙未の干支は倍暦の干支なのだ。倍暦の干支の存在の証になるものだ。

これは看過できない。つまり池田氏の内容にピタリがあるんだよ。

これはインチキではない可能性があるということなのだ。
858太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/11(木) 19:04:01.50
>>857 訂正

× 仁徳崩御の実年代(通説は399年 乙亥)の419年 己未

○ 仁徳崩御の実年代(通説は399年 己亥)の419年 己未
859卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 19:18:24.63
では仁徳陵に行ってみればよい。
立ち入りはできないのだから、仁徳陵の外部のどこかにその碑石はあるのだろうが、
どんなに目を凝らしたところで、そんな文字が書かれていないのは明白だ。
860太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/11(木) 19:30:22.90
肉眼では見えないんだろう?

そうならば、もっと早く見つけられて他の学者らが調べ上げて話題に
なっているよ。
861日本@名無史さん:2012/10/11(木) 20:30:19.23
>>798
11月号の雑誌「ムー」をお買いになるのが正解でしょうね。
買いに行かない人も多いと思います。

これかなと思われるサイトを見つけました。
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/HISEKIG.html 碑石概要とコンピューター画像解析
以前は、もっと沢山の画像を見ることが出来たと思うのですが、リンク切れしているようです。

池田仁三さんのサイトです。
説明書きに「古代史/語源/恐竜化石研究家、古代大和を考える会会員」と有ります。

墓碑について、池田仁三さんは、過去に、橿原考古学研究所の主任研究員とお話をされているようです。
(以下、上記サイトの原文から一部抜粋、編集 原文をお確かめ願います)
橿原考古学研究所に赴いて主任研究員にお会いし、
「古墳時代の墳墓には墓碑や墓誌は存在しない。文字は刻まれているかもしれないが、多分江戸時代に刻まれたものではないかと思う」と言い。
「それでは藤ノ木古墳出土の石棺に墓碑銘などが刻まれていることをどう考えられますか」と質問したところ、「そこまで言うのなら君の話はもうこれ以上聞けない」と、けんもほろろであった。

主任研究員の方は、お忙しい中、時間を割き難いとは思いますが、聞く耳を持つべきと、私は思いました。

池田仁三さんの主張の内容を否定出来るだけの根拠を私は持ちませんが、現状では信用するには程遠いように思えます。
コンピュータ画像解析ですので、同一データを同一ソフトの同一手順で処理すれば、同じ結果が出なければなりません。
サイトには処理法もそれなりに記述されています。

再解析を行ってどうだったか、結果を知りたいところです。
どなたかが行った結果、再現しなかったのか、それとも、一部だけ再現できたのか、
誰も、行っていないのか、判らないところです。
862唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/11(木) 20:46:50.18
>これらは古代の当時ではなくそれより後代の者が信念を持って

よく考えろよ、太国倍年というものがある。これには日付を振れない。
墓碑には、年どころか日付まではっきり書かれている。
正しいと主張するためには、これを”倍年”に取り込む必要がある。
これだけの日付を”倍年”で取り込むことができるか?

863唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/11(木) 20:52:29.75
古 墳 名 等 陵   主   名 生 存 年 没年月日薨年 墓碑所在箇所等
纒向石塚 火照命 BC174〜120 辛酉年5月6日55 近傍民家、宮/大神神社
纒向勝山 師木津日子命/安寧皇子 AD 18〜 68 戊辰年6月15日51 近傍
纒向東田大塚 和知都美命/師木津日子命皇子 AD 55〜108 戊申年11月6日54 墳丘上、宮/斑鳩三井
箸墓 倭母母曽毘賣命/孝霊皇女 AD115〜198 戊寅年10月20日84 環濠内、宮/西側神社境内等
茶臼山 大毘古命/孝元皇子 AD133〜206 丙戌年5月26日74 周辺
メスリ山 建沼河別命/大毘古命皇子 AD160〜234 甲寅年7月26日75 八坂神社
行灯山(天理) 印惠命/崇神天皇I AD157〜198 戊寅年12月7日42 近傍、天神山古墳、磯城瑞垣宮跡
茅原大塚 大中津日子命/垂仁皇子 AD224〜296 丙辰年7月15日73  陵前民家
渋谷向山(天理) 大帶日子命/景行天皇K AD213〜298 戊午年11月7日86 近傍、日代宮/草川付近
山辺櫛山(天理) 伊那毘能大郎女命/景行妃 AD213〜253 癸酉年3月15日41 周辺
柳本黒塚(天理) 大枝王命/景行皇子 AD258〜303 癸亥年8月7日46 近傍民家、鏡作神社
山辺上の山(天理) 水歯郎女命/景行妃 AD223〜266 丙戌年8月4日44 近傍廃屋
山辺立子塚 意杼比賣命/雄略妃 AD428〜489 己巳年7月7日62 石室
珠城山1号墳 比呂比賣命/敏達妃 AD551〜594 甲寅年6月7日44 石室、石棺/橿考研

さて、いくつ取り込めるか?
たくさん取り込みたければ、
西暦(313年仁徳)=~功39年(皇暦)それと古事記の干支。
この3種類と書き換えられた”年代”
このくらい揃えんとすぐゆきづまる。
864太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/11(木) 22:11:48.67
宿主よ
日付は使ってるね。
小売では1円玉でも誤魔化せない。たまに負けるこはろうがねぇ〜。ww
個別に議論するときは日付は重要性が多いからだが、編年は年が主体なの
さ。編年での日は年代の狂いに影響が殆ど無いから、そんな方法は極めて
利口ではな〜い。

編年は万札相当だ。1円玉計算より年代だけでやれば365倍研究速度が速い。
オマエのではかたつむりならぬ かオツムり のノロさだ。ハハ・・・

犯罪現場で1円玉数えの○ヌケな強盗にはオマエだけで沢山だ。ww
同じ金額になるのに1万倍盗まねばならない。強盗は万札位しか盗って
いかない。オマエそこで1円玉を数えるんだと言い張って笑いもの。
オマエのような奴が強盗なら、ケーサツもえらく助かる。ww

美濃もん太も笑って日数計算を編年で主体的に使うのは愚で効果が
ない旨オマエに忠告しておる。コチラも美濃氏同然、○ヌケなのろ間の
方法など採用しない。いつまでものろ間のやり方をやってろ。ppp
865卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 22:29:38.07
とにかく百聞は一見に如かず。
一度仁徳陵に行ってみればよいのだ。
陵前碑に書かれているそうだから、じっくり眺めてくればいい。

池田某 太国釣れたと 高笑ひ
866卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/11(木) 23:22:13.88
文字あると 目にはさやかに 見えねども コンピュータにぞ おどろかれぬる
867唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/12(金) 00:06:25.75
墓標の干支は単一ではない。
皇歴929 己丑年4月17日101 息長帶比賣命/仲哀后
古事記:366 甲午年9月9日75   品陀和氣命/応神N
古事記:404 壬申年1月5日64 伊邪本和氣命/履中P
古事記:410 戊寅年7月5日59 水歯別命/反正Q

わかるだろ? きゃんきゃん吠えるだけじゃあ、編年は出来ない。
868唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/12(金) 00:20:46.90
墓標 290年古事記干支:五百木入日子命/景行子 戊寅年6月3日46
景行(240年〜261年)
元年日本武尊誕生、4年成務・武内。この流れのうちの誕生である。
ただし、本物とする道のりは長いぞ。
869日本@名無史さん:2012/10/12(金) 00:33:19.30
墓標の干支は単一ではない。
皇歴929 己丑年4月17日101 息長帶比賣命/仲哀后
古事記:366 甲午年9月9日75   品陀和氣命/応神N
古事記:404 壬申年1月5日64 伊邪本和氣命/履中P
古事記:410 戊寅年7月5日59 水歯別命/反正Q
古事記:290 五百木入日子命/景行子 戊寅年6月3日46
景行(240年〜261年)
元年日本武尊誕生、4年成務・武内。この流れのうちの誕生である。

これは、簡単ではないという忠告でしかない。

870太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/12(金) 14:18:55.50
朝鮮某 太国釣れぬと 苦笑ひ

天皇の超長寿をそのまま信じてはうまくない。
871卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/12(金) 17:29:19.79
太国は 仁徳陵へ 旅支度
872太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/12(金) 18:15:15.00
仁徳陵へは過去に1回行ったことがある。30数年前だ。

当時、陵の面前で衛士らしき若いのが2人で将棋を指してたな。
873卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/12(金) 18:21:30.63
そのときは 碑石の前で たこ焼き喰ひ
874太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/12(金) 18:23:54.32
曲学の徒さんの板で、ほしくず氏が右書き銅印の例を掲げているぜ。
875日本@名無史さん:2012/10/12(金) 18:35:18.53
人の寿命なんて大体わかるだろうに
なんで7世紀末から8世紀初頭の編纂者は記紀で天皇の年齢を度々100歳以上としたんだろ?
708年に都を平城京に遷都したのはなんか影響してるのだろうか?
直後といっていい712年に古事記は成立する

1.歴史を長く見せたかったので、長寿の人は偽装
  →どうせ偽装するなら、単純に倍の人数入れればそれなりの体裁は整う
2.長寿の人の頃は半年を1年で計算
  →それが解るなら、初めから単位を揃えればいいじゃん。単位を揃えるのは書物を書く上で基本中の基本
3.歴代の天皇は全て実在しており、架空の天皇を入れることに抵抗感があった
 但し、歴史を長く見せたいので長寿にした
  →本当の年数が不明だけど、記紀作成時が700年、最低でも400年はあるだろうにそ以上必要だろうか


結局よくわからないが、100歳以上としたのは何故なんだろ?
876太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/12(金) 18:41:13.74
当時は倍暦の変更をやってますから、一律同一暦法ではありません。
877日本@名無史さん:2012/10/12(金) 18:57:58.52
旧約聖書でもノア以前の人間の寿命は600歳とか800歳とかだな
これはまだ人間が神に近い存在であったことを表現してる
ノアの洪水以後、神が人間の寿命を120歳までと定めたんじゃなかったけか
詳しいことはわからんが
878卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/12(金) 19:01:15.76
神武天皇は七人いたという伝承がある。
君らはこれを笑うだろうが、これはおそらく真実である。
古代には、継承者は同じ名前を名乗るという伝統があったのだ。

古代の天皇が長寿とされているのは、一つはこういうこともあると思う。
さらに、実際長寿であったという可能性もあるのだ。
古代人は短命だったというのは何の根拠もない。
879卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/12(金) 19:13:57.15
昔は、食物そのものに、もっとパワーがあったのである。
幕末とか明治期に日本に来たヨーロッパ人が、
日本人が米の飯と沢庵一切れしか食わないのに、
きつい肉体労働に平然と耐えていることに驚いている。
それは、その頃の食物には今よりもパワーがあったのである。
現代は、昔に比べて、食物が生命力を失っているのである。
880卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/12(金) 19:24:38.64
武内宿禰の超長命も、君らはこれをまったくのデタラメと思っているだろうが、
そんなことはない。これもおそらく真実なのである。
ヨーロッパにも例があるのだから、日本にそういう人物が実在しても不思議ではない。

とにかく古代というものを、現代の理性や常識で捉えてはいけない、ということである。
881太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/12(金) 19:35:28.41
七人なんかいないよ。

それこそ朝鮮男は釣られっぱなし。ww
882卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/12(金) 21:46:50.25
太国よ、ゾロアスターは七人いたことを知っているか?

歴史上知られているゾロアスターは最初あるいは最後のゾロアスターである。
初代がゾロアスターを名乗り、後継者も代々ゾロアスターを名乗ったのである。
883太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/12(金) 22:04:52.50
朝鮮男よ
いいか、宿主は○ンマにも応神が2人ウジノワキイラツコが2人いたとか
5重在位だとか気がふれた主張をして来たんだぞ。
あいつは強制入院だよ。

オマエはその2の舞ならぬ7の舞をするのか〜?pp

松沢病院行きにならないようしっかりと脳内を制御しろ。
884卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/12(金) 23:00:14.21
七人説 冗談だと 思ってる その心こそ 哀れなりけれ
885日本@名無史さん:2012/10/12(金) 23:06:26.07
本でも書けばいいじゃん「七人の神武」とか
886卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/12(金) 23:30:49.01
神武天皇が七人いた、というのは、確かどこかの神社の記録に書かれているはずで、
口承による伝承ではないはずだ。
神社の記録だから、池田某のサイトのようなインチキなものではないことは確かである。
神社の記録というのは古代史を研究する上での重要な資料である。
もちろんすべてが信用できるというわけではないが、
神武天皇が七人いた、と書いたところで利害損得とは関係ないはずだから、
なにがしかの真実を含んでいると見るべきである。
ついでにいうとゾロアスターの話は正真正銘の真実である。
こんなところに書いてはいけないほどの高度な秘密に属する真実である。
887ローガン:2012/10/13(土) 00:27:23.13
>>886
おろかにぞ 【どこか】の神社は 拠に成らず
888日本@名無史さん:2012/10/13(土) 03:03:39.13
神社でも色々あるから
ホツマ関連の神社もあるし・・・
889日本@名無史さん:2012/10/13(土) 10:00:25.73
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/higo.htm

>肥後チプサン古墳
>この古墳の玄室に天照大御神の墓碑銘が確認された。
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/higo.files/image002.png

http://pds.exblog.jp/pds/1/200903/20/81/d0077681_21483148.jpg

確認できない件
890卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/13(土) 10:10:34.62
>>887
神武天皇が七人いた、というのが、どこかの神社の記録に書かれている、
というのは、ここの参加者なら常識ではないのか。
調べれば、どの神社か分かるはずである。
君らなら、いちいち説明しなくても知っているはずだと思っていたのだが。

仮にそういう記録がなく、単に口承によって伝えられているのだとしても、
それはそれで大いに参考にしなければいけないのである。
単に文字に書かれた記録だけが信ずるに足るというわけではない。
891太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/13(土) 16:30:28.36
日本書紀は多々多数、書庫の原書巻、冊を調べ上げて成立させたもので
あり、7人もいた記載などない。あるなら紀に落とさず記載するよ。

つまり神社人でも妄想徒がいるから、そんなものがあるんだろう?

だいたい7人もいたなら、畿内に神武陵が7基なければならないが、
そんなものがそんなにうんと在ったためしは無く、到底言えない。
1基だけだ。

つまり7人とは宿主級の出鱈目が後代の当時神社のどこかに残っていて、
宿主のような応神が2人ウジノワキイラツコが2人いたなどという
デタラメ言と同クラスの松沢病院行き盲象である。

朝鮮男よ

オマエはオツムは確かか〜?w
892太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/13(土) 16:48:18.95
ほれっ 朝鮮男よ ↓ こうなったらもうオツムがオシマイ。
稀代のデ○パ説 ↓ www・・・・・ww

応神天皇 344年〜384年←松沢病院緊急入院
仁徳天皇 313年〜399年←松沢病院緊急入院

かつ応神が2人いてウジノワキイラツコが2人いた←要特別精神鑑定
893卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/13(土) 16:48:58.97
わはは、太国は、首は太いが知恵は細いw

大和にやって来たのは最後の神武だよ。七人目の神武。
先代の神武は九州や山口や岡山にいたのだよ。

大体、神武陵などと謂われているものが真の神武陵なのかは誰も知らないのだ。
そんなものが大和に実在しているかどうかすら不明だろう。

宮崎県にあると謂われる瓊瓊杵尊陵などは完全な嘘っぱちで、
そんなものが在るわけがない。
894太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/13(土) 16:57:01.92
ならば7人の陵墓を出し示してみい。

オマエも病院行きだぞぅ〜。ww

嘘の証明がないんじゃぁ、暖簾に腕押しだ〜。
895卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/13(土) 16:59:50.95
お前もパカだな。
陵墓そのものがあるかどうか不明だと言っているのだ。

それに、あったとしても、どこにあるかなんて分かるはずがない。
896太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/13(土) 17:58:54.81
そんなんじゃぁ、7人いた根拠が0。

それはウガヤ朝とかの末代のほうの尊に名がちょっと似てるとか共通性が
あるような尊を7人集めて7人いたと妄想を働かした奴が古代にいたん
だろう? そしか考えられない。

所詮盲象であり、皇宗は一人しかいない。

オマエ、オマエのオツムの点検をしろ。
897太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/13(土) 18:12:47.36
『七つの顔の男』 東映映画 片岡知恵蔵 主演

 七つの顔の男だぜぇ〜。

 あるときは片目の運転手、あるときは奇術師、そしてあるときは大道芸人

 またあるときは易者・・・・・・・


 そしてその実体は〜

  正義と真実の人

     藤村大造〜〜〜〜

こっちはいいが、古代史の藤村某になるなよ。w

 多羅尾伴内 じゃぁないが、7人も皇宗がいやしな〜い。


朝鮮男よ

 オマエ、オツムが大丈夫か〜〜?? ハハハ・・・
898卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/13(土) 19:24:06.35
太国よ、伝承というものは、一個人が勝手に作り上げたというようなものではないのである。
民族の神話、伝説はもちろん、風土記に記録されたような話や、
柳田国男が採取した伝承などというものは、一個人が創作したものではない。
神武天皇が七人いたという伝承も然りだ。
そんな伝承を一個人や一神社が捏造しても何の得にもならないのである。

もちろんその伝承が真実であるかどうかは不明だ。
大和に来たのが最初の神武なのか最後の神武なのか、
それとも何人目の神武なのかも分らない。
ただそういう伝承がある以上、これを軽視してはならないのである。

ハッキリ言えば、邪馬台国論争なんてどうでもいいのである。
むしろ神武天皇が七人いたというような伝承の方が、古代とは何かを考える上で重要なのである。
邪馬台国の位置を知ることより、アトランティスから逃れてきた人々が世界中に散らばった、
ということを知ることの方が、大切なのである。
古代の系図が、なぜアマテラス−ニニギ−ウガヤ−神武しか書かれていないのか、
その真相を知ることの方が、大切なのである。
899日本@名無史さん:2012/10/13(土) 19:25:03.90
あるときゃ片目の運転手
900太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/13(土) 19:31:03.80
そんなものは7人分の陵があったとか裏を取ってから言え。ww

これがなんじゃぁ、盲象そのもの。

皇宗は一名だけだ。
901あらため だよん:2012/10/13(土) 19:37:22.77
神武天皇が七人いた?

イワレヒコを7人継承したんじゃないの?
みなさんも御存じと思いますが、「世襲」ていうのがある。
902太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/13(土) 19:40:22.94
神武が7人もいたら、畿内か九州にそれらしき7つの陵があるだろう?

そんなことは聞いたことがない。所詮 出多羅目 だ。ww
903卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/13(土) 19:42:42.02
だから、イワレヒコという名前を、七人が継承した、という意味で、
七人いた、と言っているのである。

同時代に七人いた、と言っているのではない。
904あらため だよん:2012/10/13(土) 19:56:32.95
>同時代に七人いた、と言っているのではない。

まあ、それなら有り得るねえ

905日本@名無史さん:2012/10/13(土) 20:01:10.81
とくにどうとゆう実績もだせなかったかすのひとのは同じお名前で済まされちゃうんだよな
906あらため だよん:2012/10/13(土) 20:08:09.20
>墓碑について、池田仁三さんは、過去に、橿原考古学研究所の主任研究員とお話をされているようです。

そのまえに 主任研究員てどれほど偉いの?
普通の研究生よりワンランク上ぐらい? 
907日本@名無史さん:2012/10/13(土) 20:14:58.23
釣魚島は中国の
釣魚島是中国的
Diaoyu Island must belong to China
908あらため だよん:2012/10/13(土) 21:01:36.35
明日、やまと郡山城ホール 小ホール(入場無料)で
『女王卑弥呼コンテスト』があるみたい。

2012年10月14日 (日)  開場13:30

近くの人いってくれば?
http://www.yk-kankou.jp/31th%20himiko/himiko31thbosyuyoukou.htm
909日本@名無史さん:2012/10/13(土) 21:24:13.68
これ受験してみ


http://kentei.cc/k/1435993/
910太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/13(土) 21:38:26.14
朝鮮男よ

その神武が7人って言い出した奴は、神武の137歳という年齢を在位の気分
で考えたもので、えらく寿命が長いのは寿命ではなく在位期間の総計だと
思ってしまったんだよ。

 137÷7=19.57年余≒ 20年

つまりその奴は在位とは平均20年位と観ると合理的だと考えて、神武を
7人いたとすれば合うんではないかとして7人いたと言い出したん
だろう? そのへんだよ。奴は倍暦の考えは出て来なかったんだろう?

だからこの考えは、寿命の意味と書いてある記紀のこの年齢を在位年として
代え、正解だとして伝承したんだろう? これは間違いだ。
911日本@名無史さん:2012/10/13(土) 21:43:42.49
琉球王国 Wikipedia

歴史

琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、12世紀

、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。
912日本@名無史さん:2012/10/13(土) 22:01:40.03
>>911
そんな朝鮮並の思考じゃぁ中国社会科学院の基地外ども相手出来ねぇぞw
913日本@名無史さん:2012/10/13(土) 23:07:47.77
尖閣諸島問題 - Wikipedia

ここも見ればいい
914名無しさん@お腹いっぱい:2012/10/13(土) 23:44:03.12
謎の女王卑弥呼は誰か?

高天原の卑弥呼=天照大神
3世紀の神話と史実が一致する。

近畿説は在りえない。
915卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/14(日) 09:17:48.48
太国は 七人嫌いで 二倍好き
年なので やたらお墓に 興味持ち

あなあはれ あらためだよんに 返事無し
あらためは ちゃらちゃらちゃらと 何か書き
916卑弥呼は朝鮮にいた:2012/10/14(日) 09:32:29.99
あらためは 忘れた頃に やつて来る
あらためは 用も無いのに 顔を出し
あらためて あらためだよんと 顔を出し

やな野郎 また出てきたと 誰か言ひ
917日本@名無史さん:2012/10/14(日) 09:40:29.92
>>916
単なる興味で聞くんだが
あんたは年金生活者か生活保護か?
918日本@名無史さん:2012/10/14(日) 09:42:35.85
太国氏は一生あのままだろう。
倍歴だの編年だのを唱えたまま、
何も得られずに死んでいく。

あるアホの一生。
こんなタイトルが似つかわしい。
919日本@名無史さん:2012/10/14(日) 10:04:10.64
朝鮮クンは、数打ちゃ当るで、中には秀逸な川柳もあるな♪
920太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/14(日) 11:02:46.19
嫌われ松山の一生〜?ww
921卑弥呼は満州にいた:2012/10/15(月) 09:24:42.45
謹告

皆様に愛され親しまれ好評サクサクだった「卑弥呼は朝鮮にいた」を、
「卑弥呼は満州にいた」と改名することに致しました。
永年のご愛顧感謝いたします。今後とも宜しく願い申し上げます。
922日本@名無史さん:2012/10/15(月) 09:39:11.47
これからは「満州ちゃん」か
923卑弥呼は満州にいた:2012/10/15(月) 12:44:33.25
この世をば 我が世とぞ思ふ 満州説の 欠けたることも なしと思へば
924日本@名無史さん:2012/10/15(月) 14:11:00.60
マン臭事変
925川柳の達人:2012/10/15(月) 17:59:27.23
>>923 激痛書呆老人朝鮮
>皆様に愛され親しまれ好評サクサクだった「卑弥呼は朝鮮にいた」
よーい・う・わ、すげ〜顔の面の厚さやな〜

「満州の 皮被れども 中朝鮮」

朝鮮でいいじゃないか
926日本@名無史さん:2012/10/15(月) 18:05:59.51
また糞コテが秦だ
927日本@名無史さん:2012/10/15(月) 18:25:12.14
つーか朝鮮工作員は
古朝鮮の歴史を古い方にもっていくとともに
北東の中国側に領域も広げようとするのが常套手段だからな
これもその一環じゃろて
928日本@名無史さん:2012/10/15(月) 18:29:55.19
あ、北西だわ
929日本@名無史さん:2012/10/15(月) 18:39:55.61
「卑弥呼は韓でも愛され親しまれご好評」とかだたらまだしも受容可なのにさ
930卑弥呼は満州にいた:2012/10/15(月) 18:41:13.58
冗談も 理解できない 達人かな
じゃろてとは JALのことかと 誰か言ひ
931日本@名無史さん:2012/10/15(月) 19:45:00.95
>>925
バカ擁護する訳じゃないけど
さすがにオレも冗談だと受け止めたよ
932名無しさん@恐縮です:2012/10/16(火) 14:11:28.26
近畿説が存在することが不思議。
倭人伝には唐津(末廬国)から東南陸行五百里至伊都国、東南至奴国百里、
東行至不彌国百里記されてるのだから、現在の地図を参考にすれば
佐賀熊本宮崎方面に一行が向かったことになる。
また、その当時の中国の暦学、天文学、地理学等は今と遜色ないレベルである。
それを近畿説学者は方角、距離を勝手に都合良く解釈し近畿説を説いている。
また。前方後円墳が卑弥呼の墓だと何故決め付けられるのかも不思議。
倭人伝には墓の大きさが<径百余歩>としか記述されてないのに。
933日本@名無史さん:2012/10/16(火) 14:49:27.16
すじん天皇が奈良拠点に天下統一したっぽいから
934日本@名無史さん:2012/10/16(火) 17:39:38.97
>>932
なぜ魏志倭人伝の方角だけは絶対的に正しくて、距離は絶対的に間違いなの?

九州説を取るには距離は絶対的に出鱈目なことにしないと困るんだよね?
935太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/16(火) 18:03:08.19
別に間違いではない。

途中停泊、休憩、道間違いでの迂回、一行一員の病気、台風とかの悪季候での居留まり、各場所地域の調査等で時間を使ってるわけで、陸行一月は妥当な記述だ。
936日本@名無史さん:2012/10/16(火) 18:14:58.63
バカには違和感感じないんだな
もっともボクの邪馬台国からしたら些細なことか
937日本@名無史さん:2012/10/16(火) 18:17:33.07
単純に、公里では、畿内にも九州にも行き着かないから、
公里は間違い。

それで、実地距離と場所がわかる松浦までの逆算から、
短里が出てきた。

それだけでは、正しいかどうかわからないので、補強できる文献を探すと、
韓地、方四千里や、周髀算経など、断片的ながら、
短里を使用していると思われる例が見つかった。
938日本@名無史さん:2012/10/16(火) 18:19:54.44
ちなみに畿内説を取るには、
距離も方角も出鱈目なことにしないと行き着かない。
939日本@名無史さん:2012/10/16(火) 18:21:57.31
文献なんて一部出鱈目なら
確実に間違いないといえる資料なり証拠なりが出ない限り
全て嘘と思うのが常識
940日本@名無史さん:2012/10/16(火) 18:23:36.70
だから畿内説では、邪馬台国も卑弥呼も
存在しないという態度が正しい。
941日本@名無史さん:2012/10/16(火) 18:33:28.37
www
942日本@名無史さん:2012/10/16(火) 18:34:37.01
終了
943卑弥呼は満州にいた:2012/10/16(火) 18:54:45.48
短里とは 何のことだと 陳寿言ひ
944日本@名無史さん:2012/10/16(火) 19:06:19.36
宮崎も方位をちょろまかさんといかんだろw
945名無しさん@お腹いっぱい:2012/10/16(火) 19:44:06.42
倭国への旅行記は三世紀において、魏志倭人伝しか存在しない。
また、その時代に倭国(日本)には文字の存在なし、日本側には
倭人伝の真贋を裏付ける情報は口述伝承によるものしかなく、
三世紀における、口述伝承の情報存在は高天原神話しかない。
そこで、史実と神話が交差するただ一つの事象と推察できるのではないか。
946日本@名無史さん:2012/10/16(火) 19:51:00.25
>>945
で高天原が宮崎?
947日本@名無史さん:2012/10/16(火) 20:59:55.21
九州説では現代のどの遺跡を邪馬台国にあててるの?
吉野ヶ里、西都原は時代が合わないし平原は伊都国だろうし
948卑弥呼は満州にいた:2012/10/16(火) 21:25:53.72
そんなこと 真面目に訊くなと 九州説言ひ
949太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/16(火) 22:05:29.61
九鬼文書

 崇神65年7月(皇紀628年 実年代 258年戊寅)
任那漢字を携え来り、是を献る。
 此事ありてより我国に漢字を伝る。
950日本@名無史さん:2012/10/17(水) 04:04:47.92
住宅街の下になってんでしょ
御都合主義だから
951日本@名無史さん:2012/10/17(水) 06:10:23.72
三角縁神獣鏡だ纒向遺跡だと適当なことぶちあげて予算ふんだくろうとする自称学者さん達より
いまのところどこか分かりませんと素直に言う方が人として正しい
952日本@名無史さん:2012/10/17(水) 12:12:01.79
解らないから調べるんだろ
953日本@名無史さん:2012/10/17(水) 13:56:11.57
>九州説では現代のどの遺跡を邪馬台国にあててるの?
日向の遺跡全部だよ。
954日本@名無史さん:2012/10/17(水) 16:21:40.73
卑弥呼って複数いたんだ
すげぇーなwww
955日本@名無史さん:2012/10/17(水) 23:08:24.39
倭人伝の読み方だとイロイロ逞しい九州説だが物証となると脆弱で歯切れ悪くなる
西都原遺跡はまだ全体の数%しか発掘されていないから或は始まりを食い下げることもあるかも

まあ近畿説にせよ邪馬台国の確定は『ここが邪馬台国です』って立て看板でも見付からない限り無理だろう
発掘調査を行って3、4世紀の日本を浮かび上がらせる事の方が重要
956サガミハラハラ:2012/10/17(水) 23:26:02.10
>>947 佐賀県小城市甘木で〜す。
けどここは邪馬台国最後の都です。
243年までは吉野ケ里に都がありました。その後(卑弥呼の時代)に小城に遷都したわけです。
ちなみに、卑弥呼の即位年は183年です。桓霊の間ですから、霊帝の時代にはいります。
957日本@名無史さん:2012/10/17(水) 23:57:10.90
土生遺跡か?
あれは農業地区だろう。朝鮮人の流入も多かったみたいだが
958日本@名無史さん:2012/10/18(木) 00:22:00.46
吉野ヶ里は言わずもがな
959日本@名無史さん :2012/10/18(木) 09:45:06.80
歴史から抹消するくらいだから、徹底的に壊して、その上に太宰府を建てたんだろう。
960日本@名無史さん:2012/10/18(木) 10:30:41.95
>倭人伝の読み方だとイロイロ逞しい九州説だが物証となると脆弱で歯切れ悪くなる
そんなことはないよ。
邪馬台国は、使者が訪問した時、男王の時代から考えれば100年程度は続いていた国だ。
だからその所在地は弥生時代からかなり発展していたところでなければならん。
しかも、他国から征服された形跡のないところ。となれば、唐古、鍵などの集落が消え、銅
鐸が消滅した畿内や女王国に統属する北九州ではないということだ。
弥生時代から続いていたところ、それは南九州しかないんだよ。

961日本@名無史さん:2012/10/18(木) 10:38:06.22
そういえば、大宰府にも条坊制都市を整備しようとしたが、
遺構からは完成には至ってない可能性が高い。

かなり古くからの都市なので、すでに有力豪族が居座ってたりすれば、
それを壊してまで都市を整備するのは難しい。

ほとんど何もなかった藤原京は、立派に完成している。
もっとも標高と排水の問題で、汚水、汚染に悩まされたらしい。

そういうノウハウも蓄積されて行って、最終的には平安京にたどり着く。
962サガミハラハラ:2012/10/18(木) 10:39:08.08
魏使が239年に倭国(邪馬台国)を訪れた時邪馬台国の都は吉野ケ里だったのです。
唐津に上陸後、東南に進み多久盆地に入り、東行して、脊振山地の山裾沿いに吉野ケ里に到着したのです。
その後都は小城甘木に移されました。魏志倭人伝の邪馬台国の都までの行程記事は 、新都までの記事なのです。
それはそうですね、一番新しい情報をのせるものですから。
963日本@名無史さん:2012/10/18(木) 12:44:10.54
>>960
比定地は?
964サガミハラハラ:2012/10/18(木) 13:14:54.90
残念ながら、弥生後期の高地性集落の分布から、邪馬台国南九州説は否定されております。
弥生後期から終末期にかけて、北部九州の大分県の山岳地帯から、熊本県の中部へと高地性集落の帯がつらなっています。
つまり、ここを境として、北と南は常に交戦状態であったわけです。
伊都国は北部九州ですから、それと親密である邪馬台国は当然同じ領域、すなわち高地性集落群の北側にあったわけです。
965日本@名無史さん:2012/10/18(木) 17:15:36.33
倭国の乱は、北九州と南九州の戦いだったんだよ。邪馬台国と伊都国が親密
だったのならば、共に女王国に属していたはずだ。伊都国は負けたから女王
国に従った国であり、女王国には属していない。
北九州と高地性集落の境を隔てた所に邪馬台国はあったんだよ。
966サガミハラハラ:2012/10/18(木) 17:21:05.65
ということは、邪馬台国は九州を統一していなかったということですか。
境を隔てたところとはそういう意味ですか。
それからわたしは女王国とは邪馬台国の事と解釈しております。
967日本@名無史さん:2012/10/18(木) 19:10:57.59
倭国の乱が終わるまでは統一していないね。だから委奴国と書かれているんだろう。
統一されていたら単に倭国と書かれるはずだ。
女王国は邪馬台国+邪馬台国側で北九州と戦った国々だろう。
邪馬台国と同じならば女王国と言い換えるのは無意味。
968唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/18(木) 20:56:37.49
http://8628.teacup.com/toraijin/bbs/3270

古記 令集解では、古代日本において太陰暦が使われていた。
その暦では、閏12月の年に朔旦冬至がくる。
景初暦の使用の痕跡は、古墳時代初期の古墳から出土するなどした「景初元年鏡」・「景初四年鏡」・「正始元年鏡」などの魏の年号を持つ紀年鏡であろう。そして、「元康元年八月廿五日鏡」(伝京都府山城町上狛古墳出土)は、西暦二九一年の西晋の紀年を鋳出している。


BC153年 朔旦冬至の翌春正月元旦(102243.557)
313年 仁徳元年春正月,丁丑朔 (272104.5402)
326年 仁徳14年1月壬辰朔(推定)(276829.4362)
安閑天皇元年(甲寅五三四)◆閏十二月己卯朔壬午。
535年 安閑二年春正月,戊申朔壬子 (353166.0372)
延暦三年(七八四)十一月戊戌朔。勅曰。十一月朔旦冬至者。是歴代之希遇。(閏9月の年)
785年 延暦4年1月丁酉朔(444475.1384)

BC153年 102243.557日  0ケ月  0年
AD313年 272104.5402日 5752.03315月 465.06396年
AD326年 276829.4362日 5912.03352月 478.00029年
AD535年 353166.0372日 8497.03378月 687.00298年
AD785年 444475.1384日 11589.0505月 936.9990年

BC153年から29.530597日事に月初めを置く。平朔である。
その日数から、365.2422日事に1年を置く。狭義の朔旦冬至を得るため。
BC153年から数え、月数と年数が整合するのが、AD326年とAD785年になる。

つまり、313年仁徳即位で使われた暦は、仁徳13年閏12月の年の朔旦冬至を取り入れた暦である。
「景初元年鏡」をはじめとする△鏡は、「西暦二九一年」銘と同時代の作である。
3世紀後半に舶載△鏡の時代がある。これは、神功渡海から始まる。
桜井茶臼山(神功磐余若桜宮の指標)から、メスリ山(秋津遺跡の指標)黒塚・椿井大塚へと続く。
これらの古墳には、大量の鉄器副葬がある。その鉄器は、新羅から調として納められたものである。
969サガミハラハラ:2012/10/18(木) 21:17:20.69
倭国乱の前は統一されていたように思われますが。
委任奴国は西暦57年です。卑弥呼の即位すなわち倭国乱の終了は183年です。
女王国とは国名ではないのです
イギリスのことを女王国というのと同じことです。
倭人伝の記事から、伊都国と邪馬台国は相当長い間の付き合いがあったようです。
また、郡使の往来常にとどまるところという表現から、伊都国と邪馬台国は
仲がわるいとはよみとれませんが。
970唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/18(木) 21:47:26.41
>委任奴国は西暦57年です。卑弥呼の即位すなわち倭国乱の終了は183年です。
>女王国とは国名ではないのです

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

239年に女王卑弥呼は倭奴国王位継承を魏から認められる。
240年にカテイ等はまっすぐ邪馬台国に向かい、そこの王に倭王位を授与する。
邪馬台国=東倭。
つまり、女王卑弥呼は239年の朝貢のために共立されたのであり、その立場は弱い。
だから、邪馬台国王に倭王位を授与するのである。
邪馬台国=東倭。邪馬台国は畿内大和であり、女王は筑紫。

971日本@名無史さん:2012/10/18(木) 22:11:02.61
>>969
>女王国とは国名ではないのです、イギリスのことを女王国というのと同じことです。
邪馬台国+旁国。それに名前がなかったから使者が女王国と表現したんだろう。
もちろん、本来の国名ではない。

>倭人伝の記事から、伊都国と邪馬台国は相当長い間の付き合いがあったようです。
読み方がまちがっているんだよ。倭人伝は歴史を書いているわけではない。

>また、郡使の往来常にとどまるところという表現から、伊都国と邪馬台国は
>仲がわるいとはよみとれませんが。
使者が来たころは伊都国は女王国に統属する立場だ。従属していたわけだから仲が
悪いとは言えない。倭国の乱の当時は敵対していたんだよ。だから、従属してから
も一大率に厳しく検察されていたわけだ。
972唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/18(木) 22:14:14.03
倭国が統一されたのは
庄内式土器が九州に上陸してからである。
九州の土器は、在地性を残しながら庄内式土器に似てくる。
これは、女王、男王の死亡後になる。
973太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/18(木) 22:32:48.29
無用の長物

こんな ↓ ものを計算して何になるのか? 説明した事なく、数字羅列のみ。

>102243.557日
>272104.5402日
>276829.4362日
>353166.0372日
>444475.1384日 
974卑弥呼は満州にいた:2012/10/18(木) 22:38:12.42
唐松山 3.1415 よく覚え
975サガミハラハラ:2012/10/18(木) 22:43:49.12
女王とは壱与のことですね。男王とは?
976唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/18(木) 23:24:47.95
>>973
この数字は、”朔”とできる日数を割り出したもの。
古代日本では、閏12月の年に朔旦冬至を置いた暦が使われていた。
これは、日本の文献がそのように言っているから、正しいことである。

安閑天皇元年(甲寅五三四)◆閏十二月己卯朔壬午。
この年の朔旦冬至は、”1年を365.2422日”で数えた場合どのくらいくるっているかを
”朔”から割り出す。
正しい”朔”は、中国でBC154年。
日本では、延暦三年(七八四)十一月戊戌朔
これが正しいかどうかは、”朔”で数える必要がある。
結果は先の書き込みのごとくであり、だれでも追試できる。
そして、安閑天皇元年(甲寅五三四)◆閏十二月の元は、仁徳13年の朔旦冬至になる。

どこにも、太国倍年なるものは存在しないから安心しなさいよ。
977唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/18(木) 23:28:54.89
奈勿大圣神帝纪
317年 奈勿元年 丁丑
十一月加耶君守克殂慕诃立以宣失为太后时加耶与倭相通不遵朝廷之令
至是以倭王女为妻而不听宣失之言遣使责之
(伽耶と倭は通じて、朝廷の命令に従わなかった)
316年 仁徳4年 課役の停止(半島に駐留する軍の引き揚げ)
322年 奈勿六年 玄馬 神功48年
與倭和親互市交婚稱其國曰野  その国をヤマト(野)と言った。
323年 奈勿7年 水羊 癸羊 みずのとひつじ
三月夫余流民三十戶又來降 夫余與倭相通 年年受其民 散置都鄙
倭臣熊彦美而善辯 與阿尒相通多 聽其言 故國人異反或歸于我亦歸于麗
神功49年3月 再渡海 倭臣熊彦=千熊長彦

奈勿8年 木神 甲申 夫余謹須殂枕流立 其母阿尒執政 遣千世吊之 ←差し込み記事
338年 神功皇后摂政六四年(甲申二六四)百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王。
978唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/18(木) 23:37:04.83
崇神58年=新羅209年=三国遺事211年任那建国。
垂仁天皇 217年〜239年 4章 邪馬台国官伊支馬=垂仁・都市牛利(たしうり)=田島守
ホケノ山 楽浪鏡・埴輪(穴あき壺)石囲い木槨、殉葬墓。
景行天皇 240年〜261年 2章 
3世紀初めの大型建物を取り壊し、土盛りと整地をして、中期の大型建物
250年ころ 庄内式土器(纒向3類)が北部九州へ持ち込まれる(九州遠征)
倭人伝 使大倭監之、 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國、於國中有如刺史。
大和は伊都国に勅使の如きを置き、女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(大倭)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
箸墓(260±10年)最初の大王墓=景行墓
成務天皇 262年〜265年 ≒3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。
仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)一大率を渡海させる。
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山。誉田御廟山までは110年。
応神天皇 344年〜384年  百済本紀とは、46年の誤差がある。
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。

「景初元年鏡」・「景初四年鏡」・「正始元年鏡」などの魏の年号を持つ紀年鏡であろう。
そして、「元康元年八月廿五日鏡」(伝京都府山城町上狛古墳出土)は、西暦二九一年の
西晋の紀年を鋳出している。

神功渡海とは、桜井茶臼山(磐余若桜宮の指標)あたりからの△鏡と鉄器。
これらが大量に流入した時代である。
その根源に
239年 景初3年 邪馬台国官イクメと
240年 晋書 正始元年 東倭重譚納貢。
があるということである。

979日本@名無史さん:2012/10/19(金) 00:10:21.54
北九州説は倭人伝の道程的にかなり厳しくないか?
やはり比定地は九州では難しそうだな
980日本@名無史さん:2012/10/19(金) 00:46:16.17
次スレ


謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!69

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1350575102/
981サガミハラハラ:2012/10/19(金) 07:15:40.52
通説では、フミ国のつぎが投馬国でそこから水行10日陸行1月で邪馬台国と解釈されていますが、
この水行10日陸行1月は、郡からの総日数と解釈するならば、道程的にむずかしくはありません。に
982日本@名無史さん:2012/10/19(金) 08:04:04.55
陸行一月をどれくらいの距離と考えるか。
現代の常識である4km/hならば、最低でも一日20kmにはなる。
一月ならば600km以上。こんなに陸行しなくてはならない場所が日本にあるのか。

とすれば、何かが間違っていることになる。
983日本@名無史さん:2012/10/19(金) 09:35:23.95
>郡からの総日数と解釈するならば、
そんな恥ずかしい読み方はやめな。100パーセントないね。

>現代の常識である4km/hならば、最低でも一日20kmにはなる。
それを常識と考えるのが常識外れなんだよ。
自分がこの1か月で何キロ歩いたかを考えるべきだ。

984太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/19(金) 10:45:39.84
日食が数日間続く計算値がある計算なんぞ正しくはない。
オマエは松沢病院に行くんだな。bbb

暦の日数が絶対だと言い張っても年代の誤差はたかが知れており、そんな数列なんか役にも立たぬ労して功無しかつ皆既日食は最大でも7分余で数日間続く計算を自慢している野郎の数列なんぞ全くもってデタラメ
と観てよい。ww

 邪馬台国官伊支馬≠垂仁

なお空年なんぞどこにも無いから心配すんな。

あるのは倍暦だ。臭魔伝もアスス暦1年265日の倍暦法を認めて
おり、空年なんぞ無いから安心してろ。pp


985サガミハラハラ:2012/10/19(金) 14:39:08.36
郡からであるから、半島内陸行説をとります。
海岸に循いて水行し、群山に上陸、陸を南下し、求礼に到着、そこから東に進み、
固城という港町に付きます。陸行ざっと、260kmです。唐津に上陸し、東南に松浦川沿に進み、多久市中小路の伊都国の館に到着。
そこから東に進み小城市不二町に到着。邪馬台国卑弥呼都城址はその南1kmです。
唐津からここまで陸行ざっと41kmです。
陸行合計301kmとなります。これを1月すなわち30日で割ると、約10kmとなります。1日10kmとなります。
986太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/19(金) 15:19:01.73
オマエはアタマが ↓ 狂狂パー計算になってしまたんだよ。ww・・・w

>応神天皇 344年〜384年 ・・・・・←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 ・・・・・←要緊急入院
        ↑
これの事の重大性に鈍感にも察知出来てないひどい奴の脳内らしい。bbbbbbbb

987唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/19(金) 16:52:27.29
”倭”と書いてヤマトと読む
大倭を”大和”と書き換えてヤマトと読む
東倭は”日本”と書き換えてヤマトと読む

日本語で読む場合は、これしかない。

> 狂狂パー計算になってしまたんだよ。ww・・・w

1年を3年と数える太国倍年。
”1年”という単位も知らない太たぬき殿。
988日本@名無史さん:2012/10/19(金) 16:54:43.16
>>985
相模原々さん、投馬国はどこに比定されていマツか?
989唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/19(金) 17:01:58.07
>これの事の重大性に鈍感にも察知出来てないひどい奴

巨大古墳の築造順位は
石津ミサンザイ=履中
誉田御山廟山=応神
大山陵=仁徳

仁徳の後ろに履中が来るが、古墳の順番は逆である。
石津ミサンザイの前方部に葬れば、順番は正しくなる。
しかし、石津ミサンザイの後円部を誰にするか?
太たぬき殿のように書記に書かれた人物しか認めない場合
諸氏の石津ミサンザイに大王たる履中が葬られたとなる。

鈍感にもほどがある。
990日本@名無史さん:2012/10/19(金) 17:14:35.82
【記紀】 N応神天皇→O仁徳天皇→P履中天皇
【考古学】石津ミサンザイ→誉田御廟山→大仙陵

この矛盾をどう解くかだな。
991唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/19(金) 17:15:43.11
宮内庁が応神天皇陵に指定する「誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳」(5世紀前半、大阪府羽曳野市)と、
履中天皇陵に指定する「上石津ミサンザイ古墳」(4世紀末、堺市)の両大型前方後円墳の前方部から埋葬施設
とみられる土壇(どだん)(盛り土)が確認され、大阪府教委などが18日、発表した。後円部とは別の埋葬施設
で、府教委は「主たる被葬者と血縁関係にあった人を埋葬した可能性がある」としている。 府教委などがヘリ
コプターに搭載した3次元航空レーザー計測システムで、両古墳を含む「百舌鳥(もず)・古市古墳群」計82基を調...
992唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/10/19(金) 17:25:49.80
誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳」(5世紀前半、大阪府羽曳野市)と、履中天皇陵に
指定する「上石津ミサンザイ古墳」(4世紀末、堺市)の両大型前方後円墳の前方部から埋
葬施設 とみられる土壇(どだん)(盛り土)が確認され

この意味が分かるか?
誉田御廟山と上石津ミサンザイ古墳には存在するが、大山陵には存在しない。
もう少し詳しくなれば、多分これで決定。
大山陵になぜ存在しないのか?
大山陵の主は399年に葬られた“高句麗に大敗した大王”である。
つまり、歴史から抹殺された大王なのである。
そして、この古墳に他の埋葬施設が無いということは、この大王に連なる系図を拒否した
ということである。
993卑弥呼は満州にいた:2012/10/19(金) 17:30:15.02
記紀よりも 古墳を拝む 唐松山
994サガミハラハラ:2012/10/19(金) 17:32:51.47
投馬国は宮崎県を中心として、鹿児島県も含みます。
ト―は遠いという意味で、マは場所(居間、客間、板の間、床の間)と同じ意味です。
つまり、倭国の中心(邪馬=屋間)から遠いところという意味です。
995日本@名無史さん:2012/10/19(金) 17:36:22.37
@上石津ミサンザイ古墳(履中陵)…前方部に円形祭壇
http://www.bell.jp/pancho/travel/furuiti-mozu%20kofungun/images/mozu-02.jpg
http://www.sakai-tcb.or.jp/imgdir/news/456.jpg

A誉田御廟山古墳(応神陵)…前方部に方形祭壇
http://www.pref.osaka.jp/attach/2824/00107114/oujinsokuryouzu.jpg

B堺大仙古墳(仁徳陵)…前方部に方形祭壇
http://www.pref.osaka.jp/attach/2824/00107114/nintokusokuryouzu.jpg
996太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/19(金) 18:16:34.37
>>993
奴はクルクルパーになってるらしい。w
見てみな、考察のブレーキがいかれたこのひどい脳内文を〜。

      ↓

>応神天皇 344年〜384年 ・・・・・←要緊急入院
>仁徳天皇 313年〜399年 ・・・・・←要緊急入院

やつはこれをおかしいと想わないんだよ。ww
普通の正常脳なら、すぐ感づいてまずいをひっこめるさ。

だがこいつはこのひどさでもこれをおかしいを全然思わず、さらに〜

 応神が2人 仁徳が2人いたと即興か〜さらに紀を狂わす書きこみを
して平然として、先の2行をさらさら不審に想わない感じのようだ。

これは宿主という人物が狂狂パーだということを確認できる。

奴は気が狂っているんだと観ていい。

まさに宿主は松沢病院の診療が必要だな。末期らしいぞ?
997太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/10/19(金) 18:20:14.27
>>996 訂正
× 普通の正常脳なら、すぐ感づいてまずいをひっこめるさ。

○ 普通の正常脳ならすぐ感づいてまずいと分かり、ひっこめるさ。
998卑弥呼は満州にいた:2012/10/19(金) 18:36:03.70
魏使一行 固城に着くころ へとへと也
なんでこんな 遠回りをするのだと 不平言ひ
999日本@名無史さん:2012/10/19(金) 19:18:19.05
あと1
1000日本@名無史さん:2012/10/19(金) 19:18:51.41
1000ならイチノイデ
10011001
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。