謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!63

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1神奈川県民
其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼
事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者
以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

古代史最大の謎、卑弥呼、邪馬台国とは何だったのか?
寒い日が続きますが、そんなの関係ねえとばかりに今年も大いに語りましょう。

前スレ http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1325068864/
関連サイト http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
2宇佐旅行氏:2012/01/19(木) 20:24:41.74


先日年配の女性と話をしていましたが、三輪神社の話になりました。
実は大阪中部や奈良って意外と三輪神社への御参りが多いんです。
しかもそんな人は結構リピーターが多いのも特徴。
くだんの女性は「三輪さんは怖いからな、きちんと毎年行っとかなあかん
ねんで!」

改めて三輪神社の伝承力・影響力を体感した次第です。
3日本@名無史さん:2012/01/19(木) 20:26:25.23
卑弥呼って誰なの?
4日本@名無史さん:2012/01/19(木) 20:29:34.11
俺の横で寝てるよ
5宇佐旅行氏:2012/01/19(木) 20:35:36.57
十九歳君は、三輪神社は行ったことあるかな?
近鉄だと大阪線からJR桜井線乗り換えで三輪駅下車、次の駅が巻向。
畿内説その他説に関わらず、是非おすすめ。
ついでに、桜井線から逆方向一つ目が香久山、その次が畝傍。
畝傍下りて西に歩いて15分ほどで、寺内町の今井もある。これもお勧め。

大和南部には、面白いところが一杯あるから、春休みにでも出かけてみると
いいよ。
6:2012/01/19(木) 20:55:32.25

卑弥呼に下賜されたといわれる「五尺刀」だが、
五尺と言えば、魏代の尺が約24cmなので、120cmの素環頭太刀が想像できる。
100〜120cmぐらいの素環頭太刀てどういう遺跡から出土してるのか調べてみたら

まず、福岡県の伊都国歴史博物館でも展示されてる「平原遺跡」の出土の素環頭太刀。
同じ福岡の「若八幡宮古墳」、それから奈良県の「東大寺山古墳」から出土した鉄刀などがある。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kokakuro/kodaishi/isonokami/futsu4.htm

それ以外だと、1m超えのモノが福井県の「及木山古墳」
http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/3gouhun/page763.html

鳥取県の宮内遺跡 なんかにもある
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54226997.html
7:2012/01/19(木) 20:58:21.05
正月休みはここらへんいってきた・・・

太宰府天満宮(初詣) ⇒ 九州国立博物館 ⇒ 光正寺古墳 ⇒ 宇美八幡宮
⇒ 比恵遺跡 ⇒ 板付遺跡 ⇒ 高良大社 ⇒ 高良神籠石 ⇒ 名湯 天ケ瀬温泉

太宰府天満宮 ttp://www.dazaifutenmangu.or.jp/
九州国立博物館 ttp://www.kyuhaku.jp/
光正寺古墳 ttp://www2.atpages.jp/kofuntokaare/3gouhun/page581.html
宇美八幡宮 ttp://www3.ocn.ne.jp/~umi8man/u_frame_1.htm
比恵遺跡 ttp://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/property/detail.php?ID=101102
板付遺跡 ttp://itazuke-iseki.kmtk4.net/
高良大社、神籠石 ttp://www.kourataisya.or.jp/
名湯 天ケ瀬温泉 ttp://www.jalan.net/yad372568/plan/plan01006617/
8:2012/01/19(木) 21:15:21.77
うはっ こっち人少なっ(T_T)
誰かこっち来いって〜無視すんなwwww

てことで〜誰かさん〜ネタしくw(おれ書くの面倒だし)
さて、食事でもしてこよっとwwww
9日本@名無史さん:2012/01/19(木) 21:16:43.31
>>2
大物主の神様は祟りの神様だからなあ。

崇神天皇の御世、疫病が発生し民の半数以上が死亡、反乱するものが後を立たなかった。
そのとき、倭迹迹日百襲姫が神懸りして、我を祀れば災いは収まるとのお告げがあった。
というわけで、大物主を祀ると災いは収まった。

これを境に、天照大神は都を離れ、結局、伊勢に祀られることになる。
1019歳某国立大生:2012/01/19(木) 21:17:03.74
この桂川光和とかいう爺さんは2chにはいるのか?
尾張氏系図の宇那比姫を卑弥呼に比定してるが、
この姫は結婚して子供もいるし卑弥呼とは違うんじゃなかろうか?
まだこのへんあまり詳しくないからなんとも言えんが。
しかしこっちの爺さんのほうが伊作の爺さんよりは賢そうだw

http://yamatai.sblo.jp/category/1182447-1.html
1119歳某国立大生:2012/01/19(木) 21:18:31.44
大物主は大国主のことじゃなくて二ギハヤヒのことだよ。
12日本@名無史さん:2012/01/19(木) 21:19:29.88
wwwこっちの爺さんは勝手にトンデモないとこを発掘したがな
13:2012/01/19(木) 21:22:21.24
大物主てホツマだと事代主じゃんね
ここらへんは唐さんが詳しいと思う。

ま、役職名なんでしょうが・・・ 食事いって来るんで、唐さん〜あと宜しくw
ネタは「大物主」「二ギハヤヒ」らしいですw
14唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/19(木) 21:49:49.82
二ギハヤヒは、天照大神の末裔=伊勢
大物主は、三輪大神
その大物主の配下に大和大国主がいて、唐古・鍵遺跡などがその配下であった。
後漢193年 冷夏飢饉。←ここを境に唐古・鍵遺跡は衰退する。
大物主の近江伊勢遺跡なども、ここを境に衰退する。
逆に、纒向が発展する。

15宇佐旅行氏:2012/01/19(木) 22:07:30.55
三輪さんは、蛇の神さんと言われている。今も。
古代、暴れまわる蛇・水神は、すなわち暴れ川の事。ヤマタノオロチもそう。
大和川は、奈良でも大阪でも莫大な人命と富を奪ってきた。

三輪さんは三つ鳥居などからも、日本一古い神社というのはあながち嘘でも
ないくらい古いわけだが、その途中での宗旨替え、祭神変更、合祀などは、
一度も無かったとは言えないだろう。だが、それでも大物主からの変更は
なかったというのが、ただならぬところ。
この暴れ川を沈めたのが祟神とも言われるが、そのような土木工事集団や
技術は、何処から来たのだろうか。大物主は即ち大国主とも言われるが、
あるいは斐伊川を鎮めた出雲王国の技術だろうか。

本流は三輪山のふもと、宇陀から大和盆地に出るが、氾濫原が治水工事に
より沃野に代わって行く過程で巻向、唐古などが作られていったんだろう。
ただ、唐古は前方後円墳で終焉したのが不審だね。あの巨大建造物は、
征服モニュメントという説もあるが、どうだろう。
1619歳某国立大生:2012/01/19(木) 22:12:52.47
大物主は二ギハヤヒ=ホアカリ 隠しで作られた名前だよ。
三輪山も太陽信仰のメッカで、大物主と結婚したってのは、
太陽神に遣えるミコの日女のことを指し示す。
記紀ではそれを隠ぺいしてるわけ。
17宇佐旅行氏:2012/01/19(木) 22:21:32.60
>>16
それもしかすると邪馬台国の鏡の儀式かもしれないね。
三輪の古形の太陽信仰が、縄文のレベルの古代なのか、弥生なのか。
でも、民間レベルの伝承は、大和川流域では蛇の神さんとなっている。
なかなか難しく、また面白い。
18唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/19(木) 22:25:51.71
大物主と結婚したってのは、 三輪神の斎女になったことをあらわす。
三輪と伊勢の分別ぐらいした方がよい。

>記紀ではそれを隠ぺいしてるわけ。
編年が狂っていればすべてを否定できる。

天皇家が三輪を祀るのは、孝昭からである。(旧事記)
19唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/19(木) 22:27:53.80
 『南史』倭国伝
 倭國、其先所出及所在、事詳北史。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮。

倭人伝を信用しても、南史は北史を支持している。
20日本@名無史さん:2012/01/19(木) 22:31:32.07
>>546-547 日本史板邪馬台国スレ地縛霊 サイキバ

まあ例によって九州版ウリナラ起源説、九州邪馬台国東遷説だが…

>畿内勢力のシンボルは銅鐸だ

これも馬鹿は自覚していないだろうが
そもそも銅鐸の分布範囲を一まとまりの勢力とするなら
古墳時代以前中々どうして結構な版図を持った勢力が既に畿内に存在していたことになってしまうんだが
ゴミクズレベル九州説的にそれはありなのか?と思ってしまうw
(じつわ畿内説の某先生が同じ事を言ってたりするんだが(苦笑))

まあ単に行き当たりばったりなんだろうがwwwwww

21:2012/01/19(木) 22:37:13.22
>>985
>倭国大乱。弥生時代後期の戦傷人骨の研究によれば、鏃や石製武器が残っている場合
>それは近隣に産地があるもの。つまり弥生時代の戦争は近隣同士の争いであり、ある勢力が
>長駆遠征して戦った形跡は見られない。この時代の神武遠征はなかっただろうし、ある地域が
>遠くの地域を武力で制圧し、統治するようなことはできなかった。

九州の殺傷傷で弥生後期の遺跡て何処のことをいってるんでしょうね?
たぶん、吉野ヶ里(弥生中期)のじゃないのかな?
22日本@名無史さん:2012/01/19(木) 22:43:01.12
>>20
だから、民度の低い畿内政権は長続きしないわけだよw
23日本@名無史さん:2012/01/19(木) 22:45:55.62
>>19
倭國、其先所出及所在、事詳北史。其官有伊支馬、次曰彌馬獲支、次曰奴往鞮(南史東夷傳-唐李延壽撰)
24日本@名無史さん:2012/01/19(木) 22:46:46.60
からまつわろす
25:2012/01/19(木) 22:52:06.01
>>984
>725 年に宗廟を宇佐神宮に譲る前は、高良山が宗廟だった。
>高良山には、玉垂尊=建内宿禰=武内宿禰が祀られている。
>景行天皇は高良山の木で舟を作ったと有る。
>新羅から人質が頻繁に来て居たが、大和での記述はないが、高良山では正月に人質の王子が犬の面を被って舞ったと言う記述がある。
>神功皇后の伝説愚堂訓も高良山の宮司が招かれて書いた物。

高良山が宗廟とする情報源はどこでしょうね?
西暦725 年ていうのは、宇佐神宮ホームページをみて貰えば分かる通り
小山田社から、今の宇佐神宮本殿がある亀山の地に遷宮された年であり、
ここらへん行ってることが分からないですね。

日本の、二所宗廟というのは、
神宮(伊勢神宮)と八幡(宇佐・石清水八幡宮)だったりするんです。
高良山という山が?宗廟てどういうことなんでしょうね・・・間違えたのかな。
26唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/19(木) 22:58:18.92
倭人伝
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。『難升米爲率善中郎將』
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、...倭王因使上表答謝恩詔。

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

謂之倭奴國… 其國亂...歴年無主。有女子名卑彌呼,國人共立為王。
だから、九州倭奴国に共立卑弥呼は、倭奴國王位継承。
至邪馬臺國,即倭王所都。畿内大和である。正始元年”倭王位”授与。
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

北史では、女王国と邪馬臺國を分け、その後の邪馬台国が大和であると、南史が容認している。
だから、卑弥呼を邪馬臺國で探しても該当者はいない。
逆に言えば、九州に邪馬臺國は存在しない。
27:2012/01/19(木) 23:07:17.00
>>19
>倭人伝を信用しても、南史は北史を支持している。

中国の文献では、前の歴史書から引用する箇所が多く、何かしらのシキタリを感じる。

たとえば、
後漢書、晋書は「魏志」を、南齊書、梁書、南史、北史は 「宋書」を、引用しており、
あと「隋書」なんかも人気あるんですが・・・

結局のところ〜「魏志」「宋書」「隋書」の三書があればここで議論できてしまう、
なんて思ってしまう。
28唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/19(木) 23:12:59.10
>三書があればここで議論できてしまう、

その3書のうちどれが最も正しいか?
考古学と書記の記述で理解できるか?
卑弥呼=崇神時代では、庄内式土器の九州上陸さえ説明できない。
29太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/19(木) 23:20:35.46
卑弥呼=景行時代では、考古の看板の△ 239年鏡の年代が説明出来ない。

考古の看板の239年は崇神6年近隣に位置する。
鏡作神社の文献にも 崇神6年9月3日 の鏡改良鋳造とあり、文証の
文献が在る。崇神6年には倭笠縫に鏡(アマテラスの象徴)の重要祭祀
出来事があり、考古の看板たる239年が崇神6年近隣で整合する。
景行元年では考古の看板の239年鏡の鏡の出来事が無い。
30唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/19(木) 23:28:05.73
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)(中)大倭は伊都国に1大卒を置く
纏向4類(後)箸中山(260±?)・燈籠山、布留0の指標、
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。

△鏡は、274年以降に流通する。
景初3年・正始元年は、邪馬臺國が倭国統一、大倭成立の根源としての紀年である。
31太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/19(木) 23:28:09.77
成務4年間が崩れてるから ↓ 神武元年〜景行末年までの全てが崩れる。
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
32太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/19(木) 23:29:53.51
景初3年・正始元年は、邪馬臺國が倭国不統一、大倭成立の根源としての紀年でない
33:2012/01/19(木) 23:31:45.18
宋書といえば、
倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武が記載されるんですが、

この文章内にある「世祖大明六年」ていうのは、五世紀半ばの雄略天皇と時代が一致し、
また、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に「獲加多支鹵大王(ワカタケルオホキミ)、
熊本県玉名郡の江田船山古墳から出土した太刀にも「獲加多支鹵大王(ワカタケルオホキミ)と書かれ、
これは雄略天皇が西は熊本から〜東は埼玉県まで統治していたことが判明してだろう。

この辺りに関しては、他の人はどのように考えてるんだろうね。
私は上記した通りに雄略天皇なんですが、太国さんなんかは九州王朝がどうの言ってたので
この倭の五王についてなにかコメント頂きたいですね。
もしかして九州王朝とかいうんでなかろうか?W

あと私はこの鉄とうを観る為に国わざわざ国立博物館まで足を運ばせてきましたよ。
たぶん、みなさんも観たことがあるんでしょうが・・・。
34太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/19(木) 23:32:38.16
>△鏡は、274年以降に流通する。←Windows95は1995年以降流通する。

つまり数十年後に流通というのは詭弁のデタラメ。
35唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/19(木) 23:34:11.24
>>31
ほ〜らかわいそうに。
それを記録できる”倍年”が存在しない。
36:2012/01/19(木) 23:35:52.23
>>28 唐さん
>その3書のうちどれが最も正しいか?

どれも正しいのではなかろうか。

>考古学と書記の記述で理解できるか?

考古学と書記の記述てたとえば?

>卑弥呼=崇神時代では、庄内式土器の九州上陸さえ説明できない。

はあ。。。。どうしてなんでしょうね?
37日本@名無史さん:2012/01/19(木) 23:36:07.72
からまつはぱくりのじゅんばんもかんがえられないのおたりんちゃん
38唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/19(木) 23:42:18.45
>>32
庄内式土器が九州に上陸する(景行による九州遠征)
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國。
大和は女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。

この”大倭”の説明もできない太国倍年。
39:2012/01/19(木) 23:46:53.87
>>988 唐さん
>>弥生時代の戦争は近隣同士の争いであり、ある勢力が長駆遠征して戦った形跡は見られない。
>謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,遞相攻伐,歴年無主。
>乱は九州内の出来事。庄内式土器を持ち込んだ勢力が鉄鏃を使用して平定する。

乱は九州内の出来事とする証拠は、遺跡・遺物からだと「鉄鏃」と言ってるようだが、
「鉄鏃」以外にはどういうのがあるんです?

時代的には後漢末なので弥生後期から〜弥生終末期にかけてと思うが、
ソノ時代の殺傷傷なんかは無いと思うが・・・ 
もし「鉄鏃」以外に提示できるようなものがあればだしてほしんですが。
40:2012/01/19(木) 23:50:32.36
>この”大倭”の説明もできない太国

魏志倭人伝の「大倭」というのは、私は「大いなる倭」と意味で、
大倭=大人説、大倭=ダイワと読みヤマト説なんかいろいろあると思うんだが、
これは卑弥呼や男王なる指導者が派遣した監察役ということでいいと思ってる。
41唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/19(木) 23:56:14.06
>はあ。。。。どうしてなんでしょうね?

崇神11年異俗多帰。
考古:2世紀末各地の土器が纏向に持ち込まれる。
これ以後に、異俗多帰。を説明することと同等であり。
210年加羅建国(新羅209年、三国遺事)で任那建国は説明できるが、
崇神世=240年で、魏・晋が半島を管理する時代に任那建国を主張するようなもの。
七支刀=369年で半島占拠は否定されているから、任那や新羅を属国としたと主張もできない。
まあそれでも、任那などは史実であるからどこかであった。としか主張できない。
神功49年の出来事は神功49年で説明できなくては、歴史的事実とならない。
その後遺症が
高句麗の南下した400年前後を過ぎてから、大山陵を作るという編年になる。
百済・新羅を失い、伽耶の東半分を失ってからでは、作るための原資の調達ができないだろ。
42唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 00:05:02.88
義煕九年[413]『是歳、高句麗、倭國、及西南夷銅頭大師、竝獻方物』(晉書安帝紀)
『晉安帝義熈九年[413]、遣長史高翼、奉表、獻赭白馬。以[王連]、爲使持節・都督營州諸軍事・征東將軍・高句驪王・樂浪公。

この朝貢の時、百済は高句麗国に含まれる。
その百済を独立国として扱う百済本紀。
だから、ソウル夢村土城に、未知の4世紀遺構が存在してしまう。
この50年分を引き上げれば、積み石塚は、占領高句麗軍の墳墓で説明できる。
書記400年代に百済が登場しないのは、高句麗の属国となったためである。
ブネイ王の墳墓が積み石塚でないのは、積み石塚が百済の墳墓でない証拠でもある。
43:2012/01/20(金) 00:07:04.74
>>981
>九州に後漢滅亡以降王墓はない。各地の土器や物資が集積した中心地もない。
>威信財の副葬も少なくなり、もちろんそれを分配した中心センターもない。

まあ、平原遺跡以降の王墓は、前方後円墳にとって代わられますからねえ。
以前、平原以降の王墓はどこだ?なんてテーマがあったと思うが、
光正寺にしろ豊前石塚山にしろ赤塚にしろ、吉野ヶ里の前方後方墳にしろ
あと福岡小郡市の津古古墳ですかどれも前方後円墳とか後方墳ですよねえ・・・

>3世紀代のうちから九州を通って畿内へ画文鏡を流通させるルートが通じ、
>ルート上の北部九州の首長は画文のおこぼれをもらっている。

なるほど、そういうふうに考えたわけかW

>3世紀後半に入ると北部九州、東部九州、日向にも早期の前方後円墳が発生する。
>大陸との窓口は怡土から西新に変わり、北部九州には煮炊きに効率のよい庄内式土器が流れ込む。

九州でも、あの庄内式は爆発的人気を誇ってますね。

>そして畿内から入植者が入り、環濠集落が解体し、畿内式の豪族居館ができていく。

なるW
44唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 00:16:29.46
3世紀初めの前原王墓に暦年無主をつなぐと、卑弥呼の共立は、239年朝貢の
直前となる。239年の朝貢は、倭奴國王位継承の卑弥呼を頂点とする体制である。
倭奴國王位継承を認めるのが共立である。この共立にどの程度が参加したか?
卑弥呼の朝貢団は、官伊支馬までの勢力範囲ととらえ、最遠の場所、陸行10日、海行30日。
倭奴國から畿内大和までの勢力が卑弥呼を認める。

遺跡名 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき)所在地 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、
同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成されている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は
畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水
の地であり、また平戸や生月、北松浦の半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネッ
トワークで結ばれた集団であったことが推測される。

肥前・肥後に邪馬臺國、卑弥呼を設定しても、庄内期に海上ルートを失う。
景行の諸県は玄海町諸浦。
神功田油津媛は田平姫。

つまり、景行庄内式から神功渡海の布留1式までの期間は短い。
この設定で初めて書記の記述は正しいと出来る。
45唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 00:24:44.67
>私は「大いなる倭」と意味で、
だから、大和以外の選択肢が無い。
景行時代に九州から関東・東北までを傘下とするから、前方後円墳も全国に造られる。
考古学が50年遡上したのであれば、書記の編年も50年遡上せねば整合性が得られない。
46:2012/01/20(金) 00:31:16.61
私と太国のおっさんは、卑弥呼と崇神をほぼ同時代だろうと考えてるんだが、
唐さんは、卑弥呼=崇神時代ではないと考えてる。
う〜ん 太国のおっさん何かコメントを〜

>崇神11年異俗多帰。
>考古:2世紀末各地の土器が纏向に持ち込まれる。
>これ以後に、異俗多帰。を説明することと同等であり。
>210年加羅建国(新羅209年、三国遺事)で任那建国は説明できるが、
>崇神世=240年で、魏・晋が半島を管理する時代に任那建国を主張するようなもの。

記紀と考古学の両方から考えてるんでしょうが・・・
各地の土器が纏向遺跡に持ち込まれたのは、なにも2世紀末に限るわけではないと思う。
あと朝鮮半島は三国時代の前は原三国時代なんていわれてて、
この原三国時代は弥生中期〜古墳時代ぐらいまでだったと思う。
いずれにしても、纏向遺跡の年代が2世紀末に限らないので、
唐さんの主張通りにすんなりといかないじゃないだろうか。
47:2012/01/20(金) 00:33:17.70
なんか、唐さんが異様に詳しいねW
いったい〜この人はどれだけ勉強してるんだろうW
48日本@名無史さん:2012/01/20(金) 00:37:02.82
ホツマ真理教ですからw
49:2012/01/20(金) 00:43:31.09
積み石塚の墳墓って金印の〜
志賀島周辺の独自のものではないのだろうか?朝鮮にもあるんだろうかね?
なんか唐さんが知ってそうなので聞いてみましょうかW

積み石塚ていうのは文字通り、石を積んで墓にしてるんですが、
朝鮮と言えば、家がこんなかんじでしたよね。
韓伝のどこかにもあったと思うが、探すの面倒なので各自で探してほしいW
50宇佐旅行氏:2012/01/20(金) 07:28:55.09
うん。今もそういう石造り文化残ってる。オンドルはもう少なくなってるみたい。
沖縄とか台風稠密地帯じゃないので、やっぱり北方系の文化だろうね。
水城もそうだと思うよ。正式な年代測定が遅れているけど、一部相当古いって
結果もあるそうだし、白村江どころじゃなくて。
51日本@名無史さん:2012/01/20(金) 07:36:27.59
なるほど
寒い国の文化と言いたいのか
たしかに南方系の文化とは思えない。
52宇佐旅行氏:2012/01/20(金) 07:50:18.42
天津神=弥生=北方系
国津神=縄文=南方系
etcなんていう単純なもんじゃないと思うね。
もっと錯綜していて、相互にまじりあってる。
53日本@名無史さん:2012/01/20(金) 07:50:25.51
九州の墓制では支石墓や甕をつなぎ合わせた甕棺墓や
ふつうの方形周溝墓のイメージが強いが九州の積み石塚ていうのは
ある一部分の地域に限ってるじゃないかな
54日本@名無史さん:2012/01/20(金) 08:05:54.29
なんで積み石塚の話題かっていうのは
前スレで志賀島の金印が石がごろごろした所をはぐってみると
金印がみつかったてはなしだw
卑弥呼の金印も積み石塚墳墓から発見されるんじゃない?w
55日本@名無史さん:2012/01/20(金) 08:19:43.84
風土記などで、大和朝廷が一時期、大倭と読んでいたらしいが、
小倭、あるいは倭、もあったんだろうか。
56太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 09:26:03.03
>>53
それを記録できる”倍年”が存在する。☆マークを見い。
もっと詳しくしてもいいんだぜ。

57年の空年は以下のとおり存在しない。泣き屋になってやるよ。
ほ〜ら↓下を見い。オマエは41年が出来ない。ウワハハハ・・・

皇紀 西暦 倍暦←☆
791 131 323  成務元年 成務天皇 即位
792 132
793 133
794 134 324
795 135     成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
796 136     成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
797 137 325  成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
798 138     成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
・・・・・・・
830 170 336  成務40年 神功皇后 誕生
831 171
832 172
・・・・・・・
836 176 338
837 177
838 178      成務48年 仲哀天皇 この年 立太子
・・・・・・・
848 188 342
849 189      成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
850 190      成務天皇 崩御
57日本@名無史さん:2012/01/20(金) 12:58:57.97
>>25 高良山は、高良大社の有る山。 高良大社の『高良記』に書かれている。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou59/kai05904.html
九州の宗廟の地位を天平勝宝元年(七四九)に宇佐八幡に譲ったとする記事である。
高良玉垂命が九州王朝の天子(倭の五王時代)とする論考をわたしは発表しているが(注2.)、その王朝の宗廟としての格を宇佐八幡宮が継いだとする興味深い記録だ。
58太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 13:07:46.58
八代の天皇とか清寧に”大倭”の名がつくのに〜

〜景行に”大倭”のついてない説明もできない宿主空年。

このことは景行が日本統一などしてないことを記紀が物語る。
59日本@名無史さん:2012/01/20(金) 13:10:27.19
香椎宮も日本四所宗廟の一つ。
東に伊勢、西に香推、南に石清水、北に氣飯
60日本@名無史さん:2012/01/20(金) 13:25:53.01
>>59 なお石清水には境内外社として高良神社が一番に祭られている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/石清水八幡宮

香椎宮にも高良大明神をお祭りしていた。 摂社の武内神社は武内の宿禰を祭り高良大社の高良玉垂命と同じだとされている。
61:2012/01/20(金) 16:06:44.01
>>38 :唐松山 ◆V0F34EbmQA
 初めまして、いつも興味深く拝見しております。
西新は、殆ど近畿勢と想像してます。
他地域に普及する庄内式土器の速度について勉強中なのですが、
どうも北九州勢力と近畿勢に争った形跡が感じられません。
どう、お考えですか?
平原一号の鏡の大量破砕行為が、近畿勢の制圧ではと想像しています。
時期的には可能性がありますでしょうか?
よろしく。
62唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 18:46:22.69
>>61 さん よろしく。
>平原一号の鏡の大量破砕行為が、近畿勢の制圧ではと想像しています。
破砕行為は葬送儀礼で説明されるべきであり、”乱”では説明できないと思います。
理由@ 埋葬されている。
理由A 平場王墓は、3世紀初頭で終了する=暦年無主で説明されるべき出来事。

>どうも北九州勢力と近畿勢に争った形跡が感じられません。

ホケノ山古墳3世紀第2四半期(225〜250年)=239年垂仁没。
大型壺(瀬戸内系、高さ77センチメートル・最大径65センチメートル)
中型壺(東海系、高さ26センチメートル・最大径24センチメートル)
銅鏃 約60本・鉄鏃 約60本・素環頭大刀 1口・鉄製刀剣類 10口・加飾壺
画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面
画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片
鉄製農工具 穴開き二重口縁壺20体(庄内式)≒埴輪

247年から”鉄鏃”をふんだんに使用できる大和。
240年倭王位授与から、平定の九州派兵までの7年間に、魏関与の元戦争の準備期間
とみれば、九州から出土する鉄鏃の大部分が大和の使用であると考えられる。

63唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 19:16:56.38
>794 134 324
>795 135     成務5年 安積国造神社(福島)比止禰命を国造に下命
>796 136     成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
>797 137 325  成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
>798 138     成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する

東晉明帝太寧2年 ?次:甲申 生肖:猴 西元324年2月11日(星期二)起
太陰暦であれば、新春の新月から12回の朔望で1年である。
19年7潤の“閏月”の差し込み年さえ間違えなければ、極東どこでも使用できる。
つまり、1年の基準は“月”を眺めれば、だれでも観測できる。
しかし、1年=365.25日では、すべての地方で間違えずに記録されなくては使えない。

成務4,5,6年の分け目が全国で認識できなければならない。
その“3倍年”の元となる数字が存在しない。←太国がその数字を主張したことも無い。
つまり、存在しない数字(日にち)で、成務5年・成務6年・成務7年などを説明し、
それが正しいことを検証しなくてはならない。
↑これを太国が証明する必要があるのだ。
64太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 19:40:59.99
その“空白年”の元となる数字が存在しない。←宿主がその数字を主張したことも無い。

その“3倍年”の元となる数字が存在する。←太国がその数字を主張したこともある。

勘注系図で、曲学の徒氏掲示板に成務年代の干支で解説済み。
ウソはオマエの毎回のオナニーww
65日本@名無史さん:2012/01/20(金) 19:56:56.79
>>26
北史の引用がまちがっている。其国の解釈もちがってるな。
66太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 19:59:43.44
>>63
>その“3倍年”の元となる数字が存在しない。←太国がその数字を主張したことも無い。

その“41年”の元となる数字が存在しない。←宿主がその数字を主張したことも無い。

>は主張済みだ ↓

【成務紀の日数統計表】

1日 1 11日 1 21日 0
2日 0 12日 0 22日 0
3日 0 13日 0 23日 0
4日 0 14日 0 24日 0
5日 1 15日 0 25日 0
6日 1 16日 0 26日 0
7日 1 17日 0 27日 0
8日 0 18日 0 28日 0
9日 0 19日 0 29日 0
10日 1 20日 0 30日 0


上表の11日以外は全て月の上旬の日数記事である。
11日は6/11の成務天皇崩御の日であり、これのみ
月の中旬に在る。崩御日のみは、次帝仲哀の代
の通常暦(あるいは2倍年暦)での日数記載だったと
観るのが相当なのである。

ということは、純粋に成務紀の暦法記事は、全部月の上旬に位置してると
いう事なのだ。つまり成務の代の1ヶ月は現今の30日(31日等)の
1/3の〜10日間しかなかったということなのだ。このことは、成務の当時
には3倍年暦を行使していたということを物語っているのだ。
67太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 20:10:54.03
神武元年=41年の分け目が全国で認識できなければならない。
その“空白年”の元となる数字が存在しない。←太国がその数字を主張したことも無い。
つまり、存在しない空白(どこからどこまでが空年)で、神武元年=41年などを説明し、
それが正しいことを検証しなくてはならない。
↑これを宿主が証明する必要があるのだ。
68太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 20:12:11.23
>>67 訂正
× 太国がその数字を主張したことも無い。
○ 宿主がその数字を主張したことも無い。
69唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 20:45:49.35
>>66
>【成務紀の日数統計表】

この日付は”朔”で説明されている。
だから、太陰暦から逃れることはできない。
太陰暦の月前半に記事が偏るから、満月の翌日は新月である。と言いたいのか?
70唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 20:50:02.06


71唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 20:50:34.04
古事記の崩御干支 編年考察
崇神天皇 188年〜216年 戊寅・・・?
垂仁天皇 217年〜239年 
景行天皇 240年〜261年 
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。ここで干支を合わせる。
神功皇后 275年〜343年 
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午(書き換えがある)
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・仁徳治世は空白を含み33年間(343年まで)
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申・・・帯方界への侵攻で死亡、兄王か?。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・応神死亡から120年後(311年から120年。431年死亡? 賛)。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。
安康天皇 454年〜456年 珍・済  元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。
清寧天皇 480年〜484年
顕宗天皇 485年〜487年
仁賢天皇 488年〜498年
武烈天皇 499年〜506年
継体天皇 507年〜533年 丁未・・・?
72唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 20:55:25.89
>>65

> 北史の引用がまちがっている。其国の解釈もちがってるな。

で、どのように間違っているのか?この主張が無くては・・・。

7319歳某国立大生:2012/01/20(金) 21:31:41.85
卑弥呼が倭迹迹日百襲姫命であるのはほぼ間違いないが、
箸墓の築造年代は280年〜290年の時期なのはほぼ確定のようなので
時代が合わない。築造から埋葬まですべてこの時期に行ったと
調査で出てて学会でもほぼこれがコンセンサスを得てるようなので。

このずれはどういうわけなのかと記紀をよく読んでたらわかった。
箸墓は倭迹迹日百襲姫命の墓ではなく、ちゃんと倭迹迹姫命の墓だと書いてある。
孝元天皇の娘のほうだ。なのでこの人物が台与にあたる人物だろう。
74日本@名無史さん:2012/01/20(金) 21:35:24.61
4世紀造営の箸墓を、どうやって3世紀に作るんだろうwwwww
7519歳某国立大生:2012/01/20(金) 21:39:26.77
もう馬鹿馬鹿しい不毛な作業はやめにするよ。
伊作のアホ爺さんも名無しでこそこそ人格攻撃しかできないようだし
ただの熊本市観光協会で時給600円で雇われた宣伝マンだと気付いたしw
76日本@名無史さん:2012/01/20(金) 21:39:30.62
>>73
つかお前は、記紀に出てくる人物というのは全部実在なんか?その根拠は?
ジョーカーなんかがモモソ姫と口にしないのは、記紀の登場人物の誰が実在で
誰が非実在か判定するすべがないからだ
現在の文献史学でそういう比定をしなくなったのもそういうコンセンサスができたから
まさか後代の系図と重なるから実在とかいうわけにもいかんのだよ
77:2012/01/20(金) 21:40:24.99
>>62 :唐松山氏
>九州から出土する鉄鏃の大部分が大和の使用であると考えられる。

なるほどねぇ。
いや、有り難うございました。
78日本@名無史さん:2012/01/20(金) 21:40:55.45
>時給600円で雇われた宣伝マン

自己紹介はよそでやれ>>75
79日本@名無史さん:2012/01/20(金) 21:43:55.63
>>72
順序が逆だろ。

計從帶方至倭國、循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里、始度一海。又南千餘里、
度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名末盧國。又東南陸行五百里、
至伊都國。又東南百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。
又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都。 漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。
安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無主。有女子名
卑彌呼、能以鬼道惑衆、國人共立為王。

其國は倭国だ。倭奴國ではない。


80日本@名無史さん:2012/01/20(金) 21:44:46.05
これはもう三王朝交代とか言ってた頃よりも、格段に学問の基準が厳しくなったということ 
まあ記紀内で完結する学問というならありかもしれないがけっして今後主流にはならない
今では崇神実在さえ史実としてはとられない傾向にある
学会としては古代史は考古学にまかせたということだ
ホントに19歳なら資料豊富な中世、近世でもやればいい
81日本@名無史さん:2012/01/20(金) 21:49:26.96
崇神・景行 の墓が比定地通りなら4世紀の古墳なんだし、
倭迹迹日百襲姫命は3世紀後半の人物でないと記紀と整合しないだろう。
82唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 22:06:02.67
>其國は倭国だ。倭奴國ではない。

倭人伝の主張を正しいとする。
しかし、鉄鏃の出土するのは、九州である。←乱は九州にしか設定できない。
九州島のみが倭国であれば、その説も成り立つが、伊都国から30日以上かかる場所を九州内だけでは説明できない。
だから、晋書正始元年東倭重譚納具。が有効なのである。
魏が任那建国(210年)を支援した大和を無視することはできない。
九州内に女王と倭王の2王を承認することも難しいだろうな。

暦年無主=3世紀初頭で終了する前原王墓←魏使は最低でも伊都国を訪れている。
攻伐暦年(対峙ちゅう)であれば、女王の共立が出来ない。

任那建国とできる文献は210年しか存在しない、であるならば、崇神5,6年は、新羅192,3年の文献しか存在しない。
この直後の異俗多帰は、2世紀末に纒向に持ち込まれた各地の土器である。
3世紀半ばの大型建物は、土盛りと整地(土盛りをすれば、土地は乾く=ヒ、ならす=代)
景行の日代の宮と説明できる。

この説明できる年代を無視して、「書記の記事は信じられない」と主張して
各氏の自己主張のみで卑弥呼を主張しても文献や考古学が合致することは無い。
83日本@名無史さん:2012/01/20(金) 22:09:54.76
>>80
単に学会が保守化しただけだろ。
先生の手伝いで発掘さえしてればセンセイになれるし、無理でも畿内説で
巻向やホケノ山やなんちゃら神獣鏡や土器編年言ってれば、どっかの教委に
拾ってもらえる。

結果ろくすっぽ文献も読めず知識もない、偏狭な官僚エセ学者が大量生産されて
しまったわけだ。

江戸時代までの学者はほとんどが在野で、本当に歴史の重みや大切さを自覚
して人知れず研究を残してきた。
今の古代史学会や研究者は、飯のタネとしてやってるだけで、その実態は中世
キリスト教のスコラ学派にも遥かに及ばない、ただの土掘り人足に過ぎない。
文献の知識がない点、訓個注釈すら出来ないんだよwww
84日本@名無史さん:2012/01/20(金) 22:13:40.30
>>83
教委の先生に知識がないのはそのとおりだが しかしそれが現実だ
わからないものはわからない 記紀の登場人物が本当に実在かどうかわからないのも
そのとおりだろ だったらわからないとしたほうが正しい態度だな
85日本@名無史さん:2012/01/20(金) 22:20:37.54
>九州島のみが倭国であれば、その説も成り立つが、伊都国から30日以上かかる場所
>を九州内だけでは説明できない。
30日とするのはまちがい。また、30日で途方もない距離とみるのも間違い。
倭人伝が伝えるところによれば、倭国の大きさはしょせん周旋五千里に過ぎない。
五千里というのは、狗邪韓国から末盧国までが三千里とされることからみれは、せいぜい
四百キロだ。九州、本州を合わせて四百といえば、畿内はぜったいに入らない。
まあ、広島付近までのこととなる。やっぱり南に進んで九州だけとみるほかないだろ。
86唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 22:26:11.35
>もう馬鹿馬鹿しい不毛な作業はやめにするよ。

100年議論して正解の得られないのに、同じ設定ですぐ正解が得られると思う
ような頭では、正解を得ることはできない。

これだけ議論して正解が得られないということはどこかに”決定的な誤りがある”ということだ。
それが、考古学の捨てた編年を信じて疑わないところにある。
87日本@名無史さん:2012/01/20(金) 22:28:40.74
>>84
本質を分かってないな。
わからないものをわからないとするなら、畿内説、それも巻向ベクトル以外を
きちがい扱いするのは何でだ?そんなのを俺は沢山知ってるぞw

奴らは予算が欲しいんだよ。それに、官僚の悪癖で、横並びが常態化してる
から、万世一系脳の保守層にも受けが良く、いろいろめんどくさい論争も怪しげな
記紀の存在や記述も全部スルーできる畿内説、それも学会での主流をむきたがる
のよ。一番性質が悪いのは、そういう職業発掘屋だ。税金使って人を騙し腐って。

それに、お前の言ってるのは不可知論だ。そんな事を言ってたら、シュリーマンの
発掘も「ルーツ」なんてドラマも、長岡京の発見も全部あり得なかっただろ?
世の中の事には全部理由があるし、まして国家的事業として編纂され並行して
他の記録が焚書までされた代物に、無意味な記述など基本的には皆無と考える
べきなんだよ。
それで痛い思いをしてきたからこそ、自然科学においてはあらゆる方法論が追及
される。俺だけじゃなく、理系の研究者で歴史好きな連中は、みんな古代史学者が
馬鹿にしか見えないんだとよ。禿銅だよな。違うかい?
88太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 22:29:55.47
>崇神5,6年は、新羅192,3年の文献しか存在しない。

この前も北朝鮮の3人が日本海で帰ることができず、一人死んで残り二人
も生命が危ないところ、日本側に発見されて食事を与えてもらい彼らの
生命の危機を救った。こんな具合に当時において千人も軽々と空腹飢饉で
渡海など出来るわけがない。それは少しは幸運にも渡海出来ようが、その
殆どは数日前の豪華客船より以上に命を落とすのが関の山。ww

つまり崇神5,6年は192,3年にはならない。完全なインチキだね。
89日本@名無史さん:2012/01/20(金) 22:33:09.95
>>83
>偏狭な官僚エセ学者が大量生産

そもそも 古代史分野で偏狭なエセ学者が大量生産などされてはいない
そんなシェアがあるわけがない 緊急発掘要要員の公務員が各県にいくばくかずついるだけだ
文献をやるなら変体仮名をやって古文書読めるようにすればいい

>江戸時代までの学者はほとんどが在野で、本当に歴史の重みや大切さを自覚
して人知れず研究を残してきた。

趣味で在野でやるならいくらでもやればよい 誰もとめはしない

>>87
どうやらそうとうに恨みがあるようだな 畿内説がかならずしも正しいわけではないだろう
しかし少しずつわかることを増やしていくというのが歴史だろう
わけのわからん電波に陥るよりははるかにましだ
お前が理系だとかどうとかは何の関係もない
90太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 22:35:01.64
天津神算木とは、半径r=3の円(三輪)の球化の体積=表面積 の数式をいう。
この球の数式に秘められた年代こそが、古代史の真の年代の〜古代人からの示唆たる数値である。
天津神算木(表面積では)は

 4πr**2=113.0973355292・・・ (**はべき)

右辺には先頭数列(主値)にて右がある。 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位

景行に関しては以下のとおり〜2番目数に死値として崇神世のお助け年代とする。

 A.D.130年 景行天皇 没年

大祓祝詞に曰く  大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 2≠113.097335

三輪の数 3に因んで不等式の右辺を三分数列とすれば 113 097 335 から

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけ年代 B.C.97年(先頭0を除去)
335←崇神即位の実年代への誘引ジョーカー数 335年

〜0を除去するのは、西暦0年を省くためである。
ここから真の崇神即位年代への誘引は   335−97=238年
西暦0年を除去するので1年分マイナスとなり

 238年−1年=237年=崇神天皇即位元年=景初元年

の真の年代を得る。これに違える編年はまったくのデタラメだ。
215年説は大ウソの「猿の惑星 ウソ西紀」そのものである。ww
91日本@名無史さん:2012/01/20(金) 22:40:55.24
>>89
何を興奮してる?笑わしてくれるぜw
うらみ?あるのは哄笑だってwww
わけのわからん電波だと?じゃあ、本屋に並んでる歴史書は全部ゴミだっていうのか?
それこそ百花斉放っだが。偉いのうお前は。

>趣味で在野でやるならいくらでもやればよい 誰もとめはしない
お前が学者かどうかによって話は変わるが、こんな解釈しかできない半人前の男が
なにかものを言おうというのがおこがましすぎる。もしかして幼稚園児か?

>文献をやるなら変体仮名をやって古文書読めるようにすればいい
もうお前はこんなスレで何かを言う資格はないな。あっち行けしっしっノシノシ
92太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 22:41:28.88
>成務天皇 262年〜265年・・・(成務仲哀は同じ暦?)下表からウソ
成務6年 日御碕神社(出雲国)鳥が海藻を欄干に付加
成務7年 神皇紀 小止與命 尾羽張国造となす
成務7年 六嶽神社(福岡県)長田彦が山上に神籬を営む
成務8年 林神社(明石市)少童海神の赤石が海中に没する
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)大己貴命の分霊を祀る
成務10年 丹生神社(和歌山県)同地 栗栖の栗木に因み 建立
成務11年 与位神社(兵庫県)同年に鎮座
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年に鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)淡路島から祭神を勧請
成務13年 嶋田神社(奈良県)神八井耳命の末裔 仲子上が嶋田臣を賜る
成務13年 山梨岡神社(山梨県)麓の梨木を切り、山梨の語源となる
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から託宣あり 創祀
成務14年 庭田神社(兵庫県)同年 社殿を建てて祀る
成務17年 藤並神社(和歌山県)武内宿禰 勅により水主神を勧請し 創祀
成務19年 可美真手命神社(神戸市)同年に創建
成務20年 片平の森(郡山)この頃 阿尺を国造に任ず
成務21年 鐸比古鐸比賣神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家が国造に下命
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神を奉斎
成務40年 日本書紀等 神功皇后 誕生
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年銘の大伴久応の碑文
成務48年 日本書紀等 仲哀天皇 この年 立太子
成務48年 千如寺(福岡佐賀県境)清賀上人観音を刻す
成務48年 油山(福岡県)清賀上人 椿油を採る
成務51年 甲斐古蹟考(山梨)土本毘古が廟土を持ち向山鎮座し高屋という
成務59年 二俣神社(山口県)この年 創祀
成務60年 宮城熊野神社(千葉県)この頃 創立
成務60年 成務天皇 崩御
93日本@名無史さん:2012/01/20(金) 22:44:28.74
>>91
昔の本は昔の碩学の思考の跡がたどれるがそれだけのものだ
別に勉強を否定しているわけではない 漢文が読めたらいいだろう
現代中国語の論文が読めたらいいだろう 英語で論文が書けたらいいだろう
それは個人の勉強次第だな

>もうお前はこんなスレで何かを言う資格はないな。あっち行けしっしっノシノシ

お前が出て行けばいいだろ
94太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 22:47:47.82
>だから、退院歴から逃れることはできない。

別に逃れなくても心配はない。当時は重暦であるからして、それがあろう
と、支障にはならない。

また

神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年 退院歴を太陽暦に改め
 30日(≠29.53日)を一月とし・・・

だから、太陽暦から逃れることはできない。
95唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 22:50:31.64
>狗邪韓国から末盧国までが三千里とされることからみれは、

崇神天皇六五年(戊子前三三)七月◆六十五年秋七月。任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也。任那者。去筑紫國二千餘里。北阻海以在鷄林之西南。

筑紫から任那國(狗邪韓国)までは、2000里と考えられていた時代に3000里と説明する。
距離から正解は得られないということである。
距離が日数表記に変わるのは、聞き書きである。だから、その程度の日数で行き着く場所でなくてはならない。
景行は周防サバまでを20日で移動しているが、先遣隊が先に通った道であるからもう少し時間はかかるであろう。
96日本@名無史さん:2012/01/20(金) 22:55:57.71
>筑紫から任那國(狗邪韓国)までは、2000里と考えられていた時代
勝手なことを言うな。崇神なんぞ、邪馬台国時代とはまったく無関係。
97日本@名無史さん:2012/01/20(金) 23:03:34.40
筑紫から狗邪韓国までは、5000里でし
98太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 23:07:04.54
>満月の翌日は新月である。と言いたいのか?
日蝕の翌日は日蝕である。と言いたいのか? ww

>を言うなら、日食が数日間継続しないことが分かろうというものだ。
つまり神功元年前年の記事は日蝕にはならない。

満月の翌日は新月である。と言ってはいない。
それは観測値ではない。後付けのものよ。

>東晉明帝太寧2年
   ↑
こんなのは成務の代では大陸からの暦の伝来はなかろうというのにこれ
を使用することは、紀の記述がオマエ自ら後付けだと認めたことになり、
この使用はオマエは出来ない。後付けならば、紀の編纂時すでに暦が大陸
から伝来してるんだから、大陸年号の使用は出来ようが、オマエはこれの
採用がいまのところ出来ないね。

干支はすでに後付けであるから、空日(空年は無い)にも振られて
いるわけで、別に不合理はない。こんなことはオマエと議論した当初に
すでに説明済みだ。オマエは物忘れをしたふりをしてるわけだ。ww

そうしないとオマエはやっていけないんだろう? かわいそうに。ww
99唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 23:08:39.02
>崇神なんぞ、邪馬台国時代とはまったく無関係。

その通り、任那建国は210年あたりであるから30年も前の認識である。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)
纏向2類(中)(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨墓 楽浪鏡 庄内3式期末
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)(中)大倭は伊都国に1大卒を置く
纏向4類(後)箸中山(260±?)・燈籠山、布留0の指標、
100太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/20(金) 23:23:56.45
>>99

>>92から景行より古い上代のオマエ編年部分は総崩れである。
したがって崇神年代のオマエの主張は失敗である。ww
101唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/20(金) 23:37:14.55
>>92から景行より古い上代のオマエ編年部分は総崩れである。

>>92は、全国で使える”倍年が無い”という文献なんだろ?

私は使用しないからあしからず。
102日本@名無史さん:2012/01/21(土) 00:03:24.51
邪馬台国と大和王朝は敵対してたの?
103日本@名無史さん:2012/01/21(土) 00:19:09.79
>>102
邪馬台国の女王卑弥呼の妹の婿さんが男弟と言われている崇神天皇ですよ。
つまり、本社が邪馬台国で子会社が大和朝廷だったわけです。
104日本@名無史さん:2012/01/21(土) 03:39:31.02
邪馬台国と敵対してた狗奴国ってのは大和王朝とは別の存在?
狗奴国はその後どっかの国に滅ぼされたのでしょうか?
105日本@名無史さん:2012/01/21(土) 07:50:39.43
>>57>>60
>高良山は、高良大社の有る山。 高良大社の『高良記』に書かれている。

高良大社はだから八幡の兄弟といわれるんだな
つーか古田かよw
106日本@名無史さん:2012/01/21(土) 07:52:02.52
>>105
>王朝の宗廟としての格を宇佐八幡宮が継いだとする興味深い記録だ。

高良大社はだから八幡の兄弟といわれるんだな
つーか古田かよw
107日本@名無史さん:2012/01/21(土) 10:08:01.68
>>104
九州にあった土蜘蛛国家狗奴国は大和朝廷に追い詰められて滅亡しました。
108太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/21(土) 10:15:10.06
>>101
>>92は、全国で使える”倍年が無い”という文献なんだろ?

そのとおり、当時倍暦は全国津々浦々で使用してた資料等からの事実は
見当たらない。しかし成務当時は全国にバラバラに朝廷の全国支配の拠点
が各地に出来て地方長官、稲置等が配置されたところから、各地域の朝廷
の拠点あたりでは朝廷の倍暦行使の影響がかなり通達されてたと観て可で
あるところから、全国完全倍暦行使はないと観ていいが各拠点には倍暦での
年のふり方があったと観て当然である。

よってそうなれば朝廷と関係濃厚の神社で倍暦の使用があったことは
間違いない。となれば九州でも全部ではないが、各地域で倍暦が行われ
ていたことは当然であり、矛盾にはならない。
109日本@名無史さん:2012/01/21(土) 11:48:01.22
崇神天皇の行燈山古墳は4世紀前半であるし、
没年干支より313年没とするほうが整合するのでは?
崇神6年の疫病を鎮めるべく、
従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を
皇居の外に移した。
という二神分祀がみられるのも考古学上4世紀初頭のことだし。


110日本@名無史さん:2012/01/21(土) 12:23:32.37
倍歴とか3倍歴とかそんなわけわからんもの持ち出さなくても殯で説明付くだろうに
古代天皇の考えられない長寿は長期の殯の期間も含んでるからだよこれで説明付く
いい年こいたおっさんがコテつけてグダグダ愚にもつかん言い争い・・・見苦しいね
111日本@名無史さん:2012/01/21(土) 12:31:04.09
倍歴とか3倍歴とか想像でしかないし、答えは出ないでしょ。
考古学をベースに、それと整合する文献を見つけるやり方でいいと思う。
崇神天皇が3世紀末から4世紀初頭の人物だとしたら倭迹迹日百襲媛も
それと同時代の人物なので卑弥呼ではない。
112太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/21(土) 13:24:24.67
>>110
そのやり方で、武内宿禰のさらなる超長寿が説明出来まい?
どうだね?

彼は仁徳が当時日本一の長寿者だと詠っているのだから、世襲名では
ないぞ。
113ひとぶた:2012/01/21(土) 14:19:28.13
>>62

>240年倭王位授与から、平定の九州派兵までの7年間に、魏関与の元戦争の準備期間
>とみれば、九州から出土する鉄鏃の大部分が大和の使用であると考えられる。

えー、鉄鏃の出土って、ほとんど儀仗用の副葬品や工房跡からのもでしょう。
いくさとかで山野にばら撒かれたヤツは、溶けちゃって残らないと思いますよ。
それと、関西系の鏃は扁平茎、九州系のそれは厚茎と異なるタイプが主流だったと。
現存鏃の出土状況から、大和勢力の九州侵攻は立証できないと思います。
114日本@名無史さん:2012/01/21(土) 16:12:06.76
記紀など脚色だらけなんだし、こんなもんまともに研究して
ここから邪馬台国の位置や卑弥呼を特定しようとしてるやつは
頭悪いにもほどがある。
115日本@名無史さん:2012/01/21(土) 16:57:15.97
>>112
武内宿禰は架空の人物
複数の人間の事績をまとめた象徴みたいなもんだ
ばっさり切り捨てていいよ

で、おまえは正しい寿命とやらを説明できるのかね?
ハハハ、精々妄説を披露してくれよ糖質さん
116卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/21(土) 18:40:44.72
太国さん、武内宿禰の話は真実なのですよ。
あなたはオカルト好きなのだそうだから、そういうことはちゃんと信じなければいけない。
117太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/21(土) 18:42:37.86
>>115
説が二分だから確定ではないが、ほぼいずれかで出来るね。

架空ならば当時の公文書偽造同行使で当時の糾察官僚にとっ捕まる。
当時も政敵は多かったはずだ。そいつらに虚偽を書いたのを握られたら、
垂れこまれて身が失脚に至る。相当ドでかい利害ななけりゃぁインチキの
架空は書けない。オマエだって仮に銀行員なら虚偽に通帳にインチキは
載せられまい。当たり前だ。そんなことをすれば当然ケーサツに逮捕され、
オマエは銀行から懲戒解雇処分になるだろう。滅多にそんなことは出来
まい。そういう犯罪をするにはでかい利害があれば法を犯すうをやる訳だ。
単に紀の記述でイカサマなんか書けっかないぞ。その時代は年号が
ちゃんとあるんだからな。

オマエが架空だというなら、なぜ編者らがパクられないのか?
これでは裏が取れてまい。所詮果たして架空という当時の公文書偽造
での古代史捜査などオマエはしていまい。架空ならばその被疑者は誰なの
か、共犯はいるか、どのくらいの刑がついたのか、流罪か押し込めか
死罪か、はっきりしろい。

所詮オマエの津田妄想病からの決めこみが架空という二字だね。
118太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/21(土) 18:44:59.52
>>116
そんな長くは生きてないと観て可ですよ。
300歳近い超長寿といって
119太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/21(土) 18:48:56.70
>>116 分断ミス 失礼
そんな長くは生きてないと観て可ですよ。
300歳近い超長寿といっても、実際は百歳ちょっとですな。日本一の
超長寿だから百歳前後でしょうな。計算だと111歳か105歳が実年齢です。

当時は2倍暦等を行使していたと観て間違いありません。

貴方はサンジェルマン伯爵論だね。w
120太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/21(土) 18:59:23.28
>>115
オマエは欠歯八代も代歯脱多のひどい脳内のようだな。ww
だから武内宿禰も架空となるわけか〜?

そうならば架空のスケスケ、フガフガ、不牙不牙がオマエの体質なわけだ。

オマエはだいぶ左党を舐めてると宣言してるわけだな?
オマエは歯層(シソー)脳労の露ウソの一員か〜? だいぶ象牙質が左党を
なめて危険歯層(シソー)の状態かな? 象牙の塔の連中はかなり左党
をたっぷり舐めてるというからな。

脳内のペーハーは共産政か〜? これではリトマス史見視は赤化の脳内
だな。ブブハハハ・・・・・bububu・・・
121卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/21(土) 19:00:02.24
>>119
太国氏もそんな常識論を唱えているようでは、まだまだヒヨコだなw
たしか書紀にも、この人は超長寿だったと書かれていたはずで、たぶん真実だろうと思う。

ちなみに武内宿禰が北条義時に生まれ変わったという話がある。
122日本@名無史さん:2012/01/21(土) 19:03:29.34
昔は仙果(神仙の食物)がこの世にまだ残っていたから
数百年の寿命を保つのもできないことではなかったんだよ
123太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/21(土) 19:03:56.24
>>121
武内宿禰が300歳近い寿命という現今の暦と人寿では考えられないこの
超長寿が常識とは言えないでしょうが・・・。

違いますか〜?
124太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/21(土) 19:05:02.24
>>122
まるで西遊記の人参果そのものですね?w
125日本@名無史さん:2012/01/21(土) 19:06:29.65
武内宿禰は非時香菓の守り手だったんだよ
126唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/21(土) 19:29:08.03
>>113

弥生時代の鉄鏃出土状況
http://www.geocities.jp/mb1527/data/tetuzoku.htm

九州の鉄鏃は、弥生後期に増え始め、終末期にさらに急伸する。
終末期とは、庄内式土器が九州に上陸した時代である。
であるならば、鉄鏃は大和が持ち込んだとして思考できる。
古墳時代の主役は大和である。その大和が主役であり続けるための吸引力の源は
半島、大陸の文化吸収の最前線に大和が存在し続ける。
長崎県 長畑馬場遺跡が示すよう大和の北部九州への庄内式土器持ち込みから、布留1期
の神功渡海までは、短時間である。
九州勢力が半島から鉄を得るルートは大和の管理下である。
127:2012/01/21(土) 20:07:36.28
>>126 名前:唐松山氏
>九州勢力が半島から鉄を得るルートは大和の管理下である。

伊都国平原一号墓は、近畿系周溝墓。
鏡の大量破砕行為以前から、管理下にあったということでしょう。
近畿説はこれで決まりと思うかもしれないが、そうはいかないぞ!

時期がこれだけ早いということは、即ち公孫淵〜大和となる。

魏とは、反目である。
魏にとっては、好ましくない相手となる。


128日本@名無史さん:2012/01/21(土) 20:13:59.98
邪馬台国問題はもう畿内で決着。
いまだに邪馬台国論争してるのは畿内だとわからない
頭悪い人だけ。
129日本@名無史さん:2012/01/21(土) 20:16:36.87
邪馬台国詐欺は畿内説で決着。

本命は九州説だけどね。
130日本@名無史さん:2012/01/21(土) 20:19:35.90
>>128
畿内説は吉本の喜劇に出てくるあの人みたいだな。
散々やられたあげく、「今日はこれくらいで勘弁してやる」と言うあの人。
131日本@名無史さん:2012/01/21(土) 20:31:59.18
九州だろうが畿内だろうがどっちでもいいだろw
東遷は絶対にないんだし、九州だとしたらその後畿内大和朝廷に
吸収されただけだ。こんなもんむきになってるのはオタクだけ。
132:2012/01/21(土) 20:32:18.61
>>127
梯儁は、壱岐から伊都国へ渡った。
張政は、近畿管理下を避けて末廬國に渡り有明海から邪馬台国(八女)へ行った。
それが、陳寿の混乱を招いた。

日向峠を通い慣れた者として、末廬國から伊都国の「陸行」は絶対に認められない。
133日本@名無史さん:2012/01/21(土) 20:38:03.54
こまかいことゆうなよ
134唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/21(土) 20:50:11.26
>時期がこれだけ早いということは、即ち公孫淵〜大和となる。

210年金官伽耶(任那)建国
216年 任那より朝貢
3世紀前半の大型建物 古韓尺の使用 (珠城宮)
239年 ホケノ山古墳 楽浪鏡(公孫氏の鏡)穴あき壺=埴輪
239年 官伊支馬=イクメ=垂仁・ 都市牛利(たしうり)=田道間守

238年に魏が派遣した先遣隊は、公孫氏に従う東夷を魏に従わせるための派遣である。
この時点で、倭奴國卑弥呼から邪馬台国(伊支馬)までの遣使団が結成されたのであるから
「公孫氏に従う」とは、タテマエでしかなかったということである。
後漢へ従った場合のお土産=1号墓の鏡と剣など。
公孫氏に従った場合のお土産=楽浪鏡。
損得を考えても切り替えは早い。
135日本@名無史さん:2012/01/21(土) 21:04:13.34
>>117
お前がどれだけ吠えようともお前の御高説は定説にはならないよ
どこまで行ってもおっさんの根拠のないたわごとだよ
だってそうだろ?春秋年倍年歴説自体結構昔からあるがいまだに学界の主流になったことはない
つまりだ・・・多くの学者からの批判からの批判に耐えきれるものではないということだよ
136日本@名無史さん:2012/01/21(土) 21:16:09.09
後もう一つ言っておくがな
唐松山も太国も学界には発表したのかい?
しかるべき手段を通して仮説の検証、批判は受けてもらったのかい??
・・・まさかネットでワンワン吠えてるだけなんてことはないよね???
君の人生をかけた研究結果だ発表すればさぞかし注目を浴びるだろうね
謎の古代史に光明をもたらした大偉人として語られるだろうね
ほらほらここでグダグダやってないで御高説を高らかに発表してこいよ未来のシュリーマンよ
137日本@名無史さん:2012/01/21(土) 21:45:15.97
>>132
日向峠を日常的に使われているのですね。
何年前かな。佐賀の方へは、糸島から三瀬の方に行く道ができて
楽になりました。

糸島が実家で、佐賀在住の当方としても、
唐津から糸島への陸行は現実的ではないと思いますね。

佐賀から唐津に行く道は、いい道ですよ。
138太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/22(日) 10:42:18.39
>>135
天津神算木がピタリと古代マヤ文明元年始原日と合うことは、その道の
文献から裏づけられる。これがハツクニシラスの崇神即位年月日と1日も
違わず一致することから、いずれ誇大視研究家の各人がこの軍門に
服することとなる。ここから現今の有力説の記の崇神没年258年も確定
だ。ならば倍暦の選択が正確だったということよ。

オマエがギャァギャァいくら言おうと、暖簾に腕押しだ。ww
139太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/22(日) 10:44:18.41
>官伊支馬=イクメ=垂仁←猿の惑星からのデンパを受けてる?の噴飯節。
140:2012/01/22(日) 10:59:30.51
>>137
レス有り難うございます。
福岡在住ですが、仕事先が吉武遺跡のすぐ傍で糸島にはよく行きます。
いや〜、便利になりました。 休日はデジカメ持ってバイクでうろうろしてます。
史料に何が書いてあろうと、人の営みの道理の範囲で解釈すべきと思っています。
「東南陸行五百里」は、引けません。
141太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/22(日) 11:04:47.61
>>136
臥海から応援で要請があれば行ってもいいだろう。w

>>135
2倍年暦等はすでに古代南バビロニアから現今のパラオでも行使されて
いる。さらに典型的なのは古代マヤのルナー・シリーズでの太陰暦でも、
2倍暦は行使されている。マヤの臥海ではこれをC文字で表記する。

このマヤの暦はよく現地の遺跡の石碑にマヤ神聖文字で刻まれており、Cの
場合は

 1C 2C 3C 4C 5C 6C

で表現されている。当然これらが1月・・・6月を意味するのであり、
7月・・・12月はないわけだから、7C・・・12Cというのは存在しない。

古代南バビロニア、パラオと、古代マヤの太陰暦が2倍暦だということは、
古代日本で2倍暦等を行使していた蓋然性は〜当時の天皇のと武内宿禰の
超長寿から極めてその蓋然性は高い。オマエがギャァスカ文句を垂れよう
と、その論説無での〜反論にもならない反対文句は、猫が紀動隊に襲い
かかるのと同然の哀れな無駄な行動である。pp
なおオマエも現今で時計の12時間制と24時間制を兼用してるのであるから、
これはミニの2倍暦をオマエも使っていることを強力に意味する。
142日本@名無史さん:2012/01/22(日) 11:14:02.87
学会が素人の記紀研究ごっこなど相手にするわけないだろw
143:2012/01/22(日) 11:17:26.42
やっと書き込めたなw
なんか運営の問題が生じていたのだろうか
暇だったのでこっちに書き込んでたw
ttp://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
144日本@名無史さん:2012/01/22(日) 11:29:14.53
>>141
で、何時になったら教科書に古代の天皇や倍歴が載るんだい?
何時になったら学界のコンセンサスが得られるの??
倍歴説自体は明治時代からあるけど今までなんでまじめに検証されなかったの???

・・・要するにそういうことだ検討に値しない妄説ということだよ君の説は
145:2012/01/22(日) 11:46:58.00
婦人は被髪屈紒し、衣を作ること単被の如く、そ
の中央を穿ち、頭を貫きてこれをきる。

とあるとおり、貫頭衣ていうのはこういうのなんですが
http://monolabo.jp/files/productsphoto/11-1264845138.jpg
男子の場合は
皆露紒し、木緜を以て頭に招ぐ。
その衣は幅にして、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。

たまに肩から掛ける袈裟衣なんていわれるが
魏志倭人伝から推測すると実際はこういうのだったんじゃなかろうか。
http://kayoo.info/digi-gazou/sozai/13/jpg/13_0046k.jpg
あと、男子はハチマキをするなんていう記事もありますよね。
http://sportsman.jp/shop/images/nhat/N-765.jpg
このハチマキという考えではなく、ヘアーバンドとする考えも根強くあると思う。
146:2012/01/22(日) 11:49:09.05
お歯黒(おはぐろ)で検索すると
>山海経に黒歯国(『三国志 (歴史書)』魏志倭人伝では倭国東方)
があると記述がある。
(『源氏物語』末摘花の注では
「歯黒 山海経云東海有黒歯国其俗婦人歯志黒染 」とある。)<

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%AD%AF%E9%BB%92

とある、伊作もいってたと思うが・・・この黒歯国と結びつける考えは面白いと思う。
147太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/22(日) 12:54:26.09
>>144
そんなことくらいで盲説にはならない。

古代マヤの研究家の権威でさえ勝手な言い分で妄説を長い間頑張って
来たが〜とりわけトンプソンがこれだったが、結局彼の死後に彼の権威
で他の研究家を蹂躙していた彼の説がインチキだと判明した。その前まで
は当時の臥海がトンプソンに文句をつけられないほどだった。だから臥海
はトンプソンの説をとらざるを得なかった。
しかしいずれはひっくり返る。彼の説は今では妄説になっている。彼の
説に対峙してたクロノゾフの説が真だと判明した。それまではクロノゾフ
でさえ彼のために葬られて来てたのだからな。すべてこんなふうに臥海
のインチキは強力に民を支配する。
臥海とはそれがしの造語でアラビアンナイトの海の老人がまるで学会の
支配のごとく首に首カセをさせられてる如くで、海の老人のクグツ支配に
体をまかせねばならぬ状況を言ったものよ。

今のと同様、臥海が二倍暦説を抑圧していても、いずれは変わるに違い
ない。それはいつだとかはマヤ研究家でも言えなかったわけで、あるとき
その臥海のインチキが露呈されるだろう。
だいたい考古学なんて10年数十年後になれば毎回クルクルクルクル
説が取替えられるのはカメレオンの体色の如くだ。ww

そんなものをオマエは重宝するのか?
148太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/22(日) 13:17:16.93
>>144
妄説というならちゃんと根拠、資料等を出して論説をして言え。
た〜だ妄説だ〜だけでは論説ではないだろう。

古代史ボクシングならばそういう論説の根拠、資料、文献等がフック、
アッパー、ジャブであり、これが正当なボクシングの選手の闘いの
やり方だ〜。
オマエのはそのフック、アッパー、ジャブに当たる論説を支持すべき正当な
根拠、史料等の書きこみがまるで無く、オマエ自らが選手に偽装した
審判の審判兼選手であってオマエ自身で採点するのがオマエの両腕な
わけだ。

つまりオマエは論説のフック、アッパー等を出せないでカガンボのような
両手両足だからそれを書きこむことが出来ないもので、そのかわりに
自ら審判となるのをフック、アッパー、ジャブ代わりの武器としてる訳で、
審判を内蔵してる審判の隠れ蓑をかぶった両刀使いの選手でのオマエが
勝つようにしてるお膳立て文句なのであり、そうしなければオマエはコチラ
と正対しての闘いをすることが出来ない超細腕だということよ。ww

そんな審判の採点をフック、アッパー代わりとする偽装をやめて、正規の
根拠、史料、文献を出して論説し、反論するのが後ろ指の指されない男
というものだ。
149太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/01/22(日) 13:26:43.84
>>144
で、何時になったらここのスレに審判兼選手のオマエの有コテが載るんだい?
何時になったら論説の根拠史料文献が書かれるの??

オマエの文自体は去年年代からあるんだろうけど今までなんでまじめに
有コテされなかったの???
150日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:11:44.11
ど素人が素朴な疑問なんだけど
なんで邪馬台国尾張説ってのは無い(あっても有力ではない)のかな?
尾張氏は初期の天皇や葛城氏、継体天皇なんかに嫁を出していて
アマテラス信仰の本拠地の伊勢に近い。

記紀に書かれている歴史の古さ、火神・太陽神という属性、
初期大和朝廷に対し女系で力を持っていたということを考えると
卑弥呼と無関係とは思えないんだけど。
151唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/22(日) 14:12:39.11
>妄説というならちゃんと根拠、資料等を出して論説をして言え。

書記の”朔”は、春夏秋冬の季節の正しい”−660年”からの太陰暦で復元できる。
太国倍年では、”春夏秋冬”を否定し、かつ、”朔”も否定する。
この太陰暦の
”否定”を正しいとするための”1年”とできる日数さえ主張できていない。
152日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:22:08.82
>>150

もちろん、ヒミコは尾張出身だけど、奈良に引っ越して都にしたんだよ。
153日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:26:27.41
>>150
邪馬台国時代の土器をみると巻向遺跡に尾張周辺の土器がでており
奈良県桜井市地区と愛知県尾張地区と比べたら尾張に従っていたと想像できる。
154日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:27:29.15
トヨは、尾張の姫だしな。
155日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:28:43.57
ごめんまちがえた

>>150
邪馬台国時代の土器をみると巻向遺跡に尾張周辺の土器がでており
奈良県桜井市地区と愛知県尾張地区と比べたら尾張は奈良に従っていた事が分かる。
156日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:29:53.30
>>149
で、何時になったら教科書に古代の天皇や倍歴が載るんだい?
何時になったら学界のコンセンサスが得られるの??
倍歴説自体は明治時代からあるけど今までなんでまじめに検証されなかったの???


↑早く答えてよ
そんなに素晴らしい説ならなんで何時まで経っても定説にならないのさ
それどころか議論のテーブルに上りもしない。なんで??
157日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:34:44.12
>>148
・・・結局ろくに話題にも上らないのは議論するに値しないからだよ
罵声浴びせてないではやく学会にでも大々的に発表してくれよ
そんなに素晴らしい仮設ならさぞかし注目され称賛されるだろうよ
・・・発表したらここできちんと報告してくれよ?
158日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:36:03.08
>>155
dクス

どうやら大和朝廷(あるいは豪族連合)の方が尾張より強かったみたいってことね
159日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:42:09.37
ローガンがどっかで、
魏志倭人伝の行程記事といわれる部分は使者の道行き文ではないんだ!
主語が無いから地誌だ!使者の道行きした文というのは隋書だ!なんて言ってたと思うが、
ハッキリ180ド逆だと思う。彼は何か得体のしれない本でも読んで洗脳されてるんだろうかww
160日本@名無史さん:2012/01/22(日) 14:59:00.15
>倍歴

太国さん
古田史学の二倍年暦に影響されてますって早く言えよw
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou59/kai05904.html

>>158
河内、尾張を中心に全国各地と繋がる交流から
より尾張地方よりも国の中心地として相応しいということです。
161日本@名無史さん:2012/01/22(日) 15:29:12.62
「隋書」俀國には
夷人は里數を知らず、但だ日を以って計る。
とあるとおり、倭人は、十日、二十日、一月と言う具合に距離を日数で測る習慣があったようです。

又、
安帝の時在位期間(106年〜125年)、使を遣して朝貢す。之を俀奴國と謂う。

とあり、安帝というのは後漢の第6代皇帝でして、ここでいう朝貢とは

後漢書の
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見 の朝貢を指してるんだろう。

「隋書」俀國では、安帝の時に朝貢したのは俀奴國と謂ってるんで、
倭國王帥升等ていうのは、倭國主帥升等の誤記ていうのもまんざらではない。
帥升というのは、いわゆる官職なので、倭国の管である升等が・・という意味になってくると思うんだが・・・。
162日本@名無史さん:2012/01/22(日) 15:32:54.88
まら間違えたw

161の帥升というのは、いわゆる官職なので、
という部分は【主帥】です。
163日本@名無史さん:2012/01/22(日) 15:49:01.59
「隋書」俀國には姓は阿毎、字は多利思比孤、號はアハキミ

太子は名を利歌彌多弗利 とあるとおもうんだが、
内官に十二等有り。
一に曰く大コ、次を小コ、次を大仁、次を小仁、次を大義、次を小義、次を大禮、次を小禮、次を大智、次を小智、次を大信、次を小信。
員に定數無し。

というのは、これは聖徳太子が制定した
冠位十二階(かんいじゅうにかい)の事なので、推古天皇、聖徳太子で間違いない。
阿毎多利思比孤は天君「天 垂らし彦」は男性名だが、記事は推古天皇を指して言ってるので
推古天皇と男性天皇との混合だろうと推測できる。
164日本@名無史さん:2012/01/22(日) 15:51:08.70
テスト
165日本@名無史さん:2012/01/22(日) 16:21:44.11

尾張の嫡流アマテル・ホアカリ、高天から降臨した神の末裔を名乗る豪族。
166日本@名無史さん:2012/01/22(日) 16:39:33.02
>>163
そもそも大化の改新の「大化元年」は695年。
695年の改革を、九州人脈による大改革を、
50年前の土着畿内人の手になる改革であるかのように
偽装して書いたのも記紀の捏造部分であり、
イ妥国伝の阿毎多利思比孤は九州王。
167唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/22(日) 16:50:20.31
>>145
>貫頭衣ていうのはこういうのなんですが

前の合わせを縫っているから違うだろ。
倭人伝の記述では、幅広の広い布の中央に穴をあけ、頭をとおす。
だから、縫い目は横ではなくてはならないが、縫うことも無く、横で縛る。
つまり、裃の後ろ姿が、前から見ても同じように見える。そんな感じじゃあないのかな?


168163:2012/01/22(日) 16:58:29.38
>>166
>阿毎多利思比孤は九州王

【内官有十二等 一曰大コ次小コ次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信 員無定數】

内官に十二等有り。一に曰く大コ、次を小コ、次を大仁、次を小仁、次を大義、次を小義、次を大禮、
次を小禮、次を大智、次を小智、次を大信、次を小信。員に定數無し。

冠位十二階
>『日本書紀』では、「(推古天皇)十一年...十二月 戊辰朔壬申 始行冠位 大コ 小コ 大仁 小仁 大禮 小禮 大信 小信 大義 小義 大智 小智 并十二階
>並以當色絁縫之 頂撮總如囊 而著縁焉 唯元日著髻華 髻華 此云 (推古天皇)十二年春正月 戊戌朔 始賜冠位於諸臣 各有差」と記述されている。
>『上宮聖徳法王帝説』では、「爵十二級、大徳、少徳、大仁、少仁、大礼、□□大信、少信、大義、少義、大智、少智」とある。なお、「□□」は欠字。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A0%E4%BD%8D%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%9A%8E

【王遣小コ阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎 後十日又遣大禮哥多従二百余騎郊勞 既至彼都】

小野妹子
>『日本書紀』(巻第22[6])によれば、「十五年…秋七月 戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」とあり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%A6%B9%E5%AD%90

九州王くん一発でKOじゃ面白くないので反論たのむよ
169日本@名無史さん:2012/01/22(日) 17:08:26.82
>>168
しょきのわ けんとおしだて しらんの
170:2012/01/22(日) 17:16:12.78
>>163
>阿毎多利思比孤は天君「天 垂らし彦」は男性名だが、記事は推古天皇を指して言ってるので
推古天皇と男性天皇との混合だろうと推測できる。

日本書記によると、裴世清の時は、詳しく書かれていないが、

推古十八年秋七月、新羅・任那の使者が筑紫に来た。 冬十月都に着く。
九日、使者達は帝に拝礼した。 南門から入って御所の庭に立った。
蘇我蝦夷・阿倍鳥子・坂本糠手臣・大伴連等は席から立って中庭に伏した。

四人の大夫らは、大臣に申し上げ、大臣は席を立ち、政庁の前に立って
両国の使者の奏上を聴いた。 終わって使者らにそれぞれ賜物があった。
十七日、朝廷でもてなされた。 二十三日儀礼も終わり帰途についた。

帝に拝礼〜大臣が聴き〜儀礼が終わっている。

阿毎多利思比孤は、馬子である。
書記官の改竄ミスと推測できる。
171日本@名無史さん:2012/01/22(日) 17:19:23.36
アマタリシヒコは阿波の大君だよ。
172日本@名無史さん:2012/01/22(日) 17:19:46.61
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷俀國」

開皇二十年、
俀王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
上令所司訪其風俗。
使者言俀王以天爲兄、以日爲弟、天未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務、云委我弟。
173日本@名無史さん:2012/01/22(日) 17:23:09.72
竺紫日向之橘小門之阿波岐原 のの

阿波岐の魅 だろ
174145:2012/01/22(日) 17:24:30.09
>>167
旺文社「埋もれた邪馬台国の謎」のP132の魏志倭人伝の女子の服装ではそんな感じの写真が載っている。
ttp://books.google.co.jp/books/about/%E5%9F%8B%E3%82%82%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%AC%8E.html?id=waHTAAAAMAAJ&redir_esc=y

>前の合わせを縫っているから違うだろ。

倭人伝には「単被の如く」と記載されてるとおり、
一見、単被には見えないことが想像できる。それに、これはデザインでしょうね。

>幅広の広い布の

それ男子の服装だって〜w

>中央に穴をあけ、頭をとおす。

これは女子の服装。

>だから、縫い目は横ではなくてはならないが、縫うことも無く、横で縛る。

これは男子の服装。 唐さん〜の倭人伝読みはゴチャ2に混ざってるゎんw
175163:2012/01/22(日) 17:41:28.64
>>170
姓は阿毎、字は多利思比孤、號はアハキミ
とあり、阿毎とは「天」、多利思比孤は「たらしひこ」、オホキミ
すなわち、日本列島の「天皇(オホキミ)」を指している。
阿毎多利思比孤は、馬子のわけが無いだろうWWWWWWWWWWWWWW

埼玉県行田市「稲荷山古墳」や熊本県玉名郡「江田船山古墳」から銘文を有する鉄刀が発見され
この銘文には「獲加多支鹵大王」と記され、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、
すなわち21代雄略天皇で間違いない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%8C%AF%E9%8A%98%E9%89%84%E5%89%A3

五世紀に活躍した雄略天皇がすでに熊本県から埼玉県まで、国を治めていた事実が判明してるいる。
ま、○さんの反論に期待しよう。
176日本@名無史さん:2012/01/22(日) 17:49:48.77
>>173
阿波に通じる場所だから阿波岐原なんだよ。
177唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/22(日) 17:52:56.65
倭人伝に記された服装は、松浦方面で記録された博物誌の中の記述である。
彼らは、正歳を知らず。
海人に24節季は不要で、月齢(太陰暦のおおもと)さえ知っていれば生活に困ることは無い。
郡の市が、廿日市であれば、20日に合わせてゆくことが出来る。
178日本@名無史さん:2012/01/22(日) 17:56:18.27
多利思北孤 のは 多利思北狐 のほおが 

いなさくのの熊襲の酋長としてはおにあいかな

おいなりさん
179日本@名無史さん:2012/01/22(日) 18:05:49.21
この熊襲の酋長さんたら

阿輩雞彌 とかて

こけこっこの頭した

ぴかぴかの鳥さんとか騙っちゃってるくせに

日の出前のが常のの勤務時間にご指定いただいてちゃたりしてからに

日出便停理務、云委我弟とかって

なあんか まるで お日様が怖い お化けみたいだな
180日本@名無史さん:2012/01/22(日) 18:09:38.45
日出便停理務、云委我弟とかってさ

我弟って奴に委ねるのだからして

我弟って わんわん委奴かあ

にいちゃんは こんこん狐 だろ
181日本@名無史さん:2012/01/22(日) 18:23:20.57
これは九州王朝説なのか?韜晦しないでちゃんとハナしたらどうだ
182:2012/01/22(日) 18:36:36.36
>>175 名前:163 氏
>阿毎多利思比孤は、馬子のわけが無いだろうWWWWWWWWWWWWWW

ご指摘の意味がよくわかりません。 素人愛好家にも理解できるようにお願いします。
何故、雄略が天皇だったら、多利思北狐が馬子じゃないのでしょうか?

トピずれなので、これ以上はヤメにしますが・・・
183163:2012/01/22(日) 18:59:44.78
>>182 ○

「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、
その部分の「阿輩雞彌」は大君(オホキミ)、天君(アマキミ)と言われており、
今でこそ「天皇(テンノウ」と言ってるが、それ以前は、天皇のことをオホキミ、
と言ってたのであって、オホキミ、アマキミを馬子と考えるのには、
天皇=大君(オホキミ)、天君(アマキミ)では無いという論証が必要になってくる気がする。

多利思北狐が馬子じゃないのでしょうか? なんて言ってるのはオミャ〜サンだけじゃないだろうかw
184唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/22(日) 19:22:51.04
ホ38004 アマツヒツギを うけつぎて イムナタリヒコ オシロワケ
景行,けいこう ,大帯日子淤斯呂和気、大足彦忍代別・オオタラシヒコオシロワケ ,纏向日代宮
185:2012/01/22(日) 19:36:36.22
>>183
>気がする。

?????
「天皇」は、天智天皇辺りからでしょう。
それ以前は、大王(オオキミ)で、時間差だけでしょう。

これ以上はヤメときますが、
明治天皇は、入鹿首切り塚をご訪問されてます。
待合い所の写真も、昔本の紹介で見たことあります。

馬子をナメテはいけません、ぞな、もし!


                    さようなら。
186日本@名無史さん:2012/01/22(日) 20:09:19.43
>>168

もう敗北宣言かよ。早いね君。
187日本@名無史さん:2012/01/22(日) 20:09:28.75
>伊作85 改め52くらいだろうな

なんだこりゃ 今気付いた。。。。
これって知能指数ではなく、第3者からみた古代史の知識量、精通度みたいなもん?
んで、伊作氏がNo.1なのか?
彼らだけじゃなんなので、その他の人の能力値も出してやりなよ。
188日本@名無史さん:2012/01/22(日) 20:50:21.40
じゃ、取り敢えず 無限如=58 。 ジョーカー=56 。 唐松山=54 。縄文人=50 。 太国=48 。 名古屋=46 。サイキバ=30 。 
前述の二人は 伊作=52 。 ドツボ =35 。に修正シル。
189日本@名無史さん:2012/01/22(日) 20:54:21.46
無限尿は暴言力だけ抜群で
知識量はそこそこで
判断力が全然ない。
トータルは低いと思うが。
190日本@名無史さん:2012/01/22(日) 21:49:09.42

就活中
(p)http://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/3/1/31a6f8e6.jpg

就職後
(p)http://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/2/b/2b790359.jpg

街の人(やらせ業者)募集中です

191メ(スポーツスポーツ):2012/01/22(日) 22:43:26.31
だれかこっちにも書き込めよ
エコひいきだなw
192日本@名無史さん:2012/01/22(日) 23:41:03.08
>>191 ドツボ

「誰か書き込めよ」じゃなくて自分でネタを投下する努力をしましょう。

まあ 森村伊作 と無限尿 この自惚れ屋の双璧をおちょくってこっちのスレに誘導できれば
ドンコイの書き込みの半分以上こっちに持ってこられるんじゃないかな?w

…つかおながいします orz 
193日本@名無史さん:2012/01/22(日) 23:52:54.64
>>186
>もう敗北宣言かよ。早いね君。

一発でKOされてるやつがよく言うよw
194日本@名無史さん:2012/01/23(月) 00:00:10.83
>>192

最近、おまえのクグツっぷりには脱帽するわw
いったい、どれだけ報酬を稼いでるんだろうかね?ww
195日本@名無史さん:2012/01/23(月) 00:02:07.24
傀儡の甚内
196日本@名無史さん:2012/01/23(月) 00:03:40.73
>>193

残念だったね。
197日本@名無史さん:2012/01/23(月) 00:10:52.63
三角縁神獣鏡よりも上のランクの鏡と言えばこういうのだろうね。

熊本県球磨郡あさぎり町 才園古墳出土 鍍金鏡 「リュウ金獣帯鏡」
http://www.netpia.jp/history/ryukinjutaikyo.htm

大分県日田市ダンワラ古墳から出土、金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡
http://www.netpia.jp/history/kinginsakugan_shuryumon_tekkyo-restoration_replica-Japanese.htm
198日本@名無史さん:2012/01/23(月) 00:11:37.78
クグツれカス
199日本@名無史さん:2012/01/23(月) 00:36:41.49
桃太郎伝説のモデルとなった、吉備津彦命の墓と伝えられる
岡山県の「備前車塚古墳」って古墳発生期の一つで椿井大塚山とドウハン鏡を含む
計13面(三角縁神獣鏡11、内行花文鏡1、画文帯神獣鏡1)が出土してるね。

おれ、子供のころ桃太郎伝説すきだったな。
200日本@名無史さん:2012/01/23(月) 00:41:10.40
一つ人の世の生き血をすすり
二つ不埒な(以下略
201日本@名無史さん:2012/01/23(月) 00:43:53.05
>>198
まて
いま、おれは本読んでるの・・・
旺文社「埋もれた邪馬台国の謎」てやつで、それに載ってるのを書き込んでるんだから
邪魔しないでおくれょw

178Pに「王者のシンボル」が書かれてて、
古代エジプトのファラオの杖、杖枕を飾る製品、それと3つ目に石釧が載ってある。
202日本@名無史さん:2012/01/23(月) 00:51:47.67
 ん・・・ 豊前石塚山古墳、宇佐赤塚古墳と同じ時期ではないだろうけど・・・
山梨県甲斐銚子塚古墳ていうのが全長172mとでかい規模だね。

で、四国の最古級古墳といわれてるのが、猫塚古墳らしいが、
ここは積石塚なんてあるねえ。
203日本@名無史さん:2012/01/23(月) 01:13:04.97
>>202
時代が古すぎるので「古墳」と呼ばなくなったが、
徳島鳴門市の萩原墳丘墓をわすれんといてな〜。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%8E%9F%E5%A2%B3%E5%A2%93%E7%BE%A4
204日本@名無史さん:2012/01/23(月) 01:16:17.98
お、画文帯神獣鏡がでてるやん

四国の最古級古墳、猫塚墳丘墓と萩原墳丘墓か 寝る・・・
205日本@名無史さん:2012/01/23(月) 03:04:34.69
畿内説の年代観はぐちゃぐちゃになっているような気がする。
ホケノ山古墳を最古級にしたい。だから、画文帯神獣鏡は古くなければならない。
しかし、江田船山古墳など後期の古墳からも出ている。
結局、単なる辻褄合わせではボロが出るということだろうな。
206日本@名無史さん:2012/01/23(月) 03:10:08.34
ぜんぶ卑弥呼の時代に捏造したい、畿内説。
純粋に詐欺ですねw
207志紀:2012/01/23(月) 06:59:32.39
>>193
畿内説の人はそういうのは無視なんだよね。
△鏡が、粗雑な扱い、朝鮮中国から出ない、巻向からも出ない、3世紀から出ない、
その他いくらでも素人の私にも指摘できるような矛盾があるのに、全然学者もネット上の
畿内説の人も答えてくれなせん。
ただ熱にうかされるように「まきむくまきむく」言ってるだけでw

文献史学から撤退乃至馬鹿にするのなら、邪馬台国に触れること自体やめればいいのにね。
平原や宇佐神宮や糸島半島ならともかく、巻向から「魏志倭人伝」の女王国の記述が見えたら、
それはもう余程重症の幻覚患者としか言いようがないw
遺跡は、饒舌に語ってくれる点と、何も語らない点と両方あるなんて初歩もわからなくなってる
のかな。文献もまた然り、だけど。
208日本@名無史さん:2012/01/23(月) 07:29:23.05
邪馬台国は、奈良にあったわけですよ。

これは動かせないですね。

209日本@名無史さん:2012/01/23(月) 08:13:18.21
今時九州説って(笑)
210日本@名無史さん:2012/01/23(月) 08:18:31.63
畿内説が詐欺とか言って九州説を信じてるやつは馬鹿すぎw
逆で自分が詐欺の九州説にはまってるとも気付かずにね。
実際書店にある素人が書いた邪馬台国本もほとんど九州説。
九州説はオタク向けの商業用として使われてるだけ。
畿内説じゃなんの面白みもないから。九州説はオタク体質のやつが
よくはまる説だw
211日本@名無史さん:2012/01/23(月) 08:29:44.69
絶滅危惧種
212日本@名無史さん:2012/01/23(月) 09:01:30.75
九州説は一部半島勢力が絡んでるからな。
出版物が妙に多いのはその辺が理由だな。
213日本@名無史さん:2012/01/23(月) 09:11:36.82
九州説はないわ。
梁書に台与の後に男王が立ったとあるし、
となると邪馬台国は西暦300年頃まで九州にあった計算になるので、
そうなると考古学的に整合しない部分が多すぎる。
214日本@名無史さん:2012/01/23(月) 11:33:17.65
>>210
確かに畿内説じゃロマンが無いよね(笑)
215日本@名無史さん:2012/01/23(月) 14:22:32.37
>>213
畿内説の考古学がおかしい。
畿内説の都合の良いように年代を決めようとするが、もともと間違っているから
辻褄が合わなくなる。だから、合わせるために年代も次々に変わっていく。
それに何の疑問も持たないのが、畿内説信者であるための必須条件。
216日本@名無史さん:2012/01/23(月) 14:24:33.11
纒向だのモモソヒメだの言ってるのが玄人っすか。
へー。
217日本@名無史さん:2012/01/23(月) 14:54:24.15
ヒミコがアマテラスで、神武東征で、なんて、
良い大人は考えませんね。
218日本@名無史さん:2012/01/23(月) 15:53:02.21
>>215
まあ、九州には候補になるような遺跡や古墳すらないからな

畿内は数には事欠かないが
219日本@名無史さん:2012/01/23(月) 16:00:15.38
>>218
残念ながら、奈良盆地には卑弥呼時代に届く古墳はない。
220日本@名無史さん:2012/01/23(月) 16:15:03.75
九州にも古墳は無いな。
221日本@名無史さん:2012/01/23(月) 16:25:48.94
九州は弥生時代の小さい円墳は無数にあるが、百メートル超だと、
古墳時代に入ってからだな。それもかなり後期。
222日本@名無史さん:2012/01/23(月) 16:33:00.27
親魏倭王の卑弥呼の墓が、
親分の魏皇帝の墓より大きいはずがない
223日本@名無史さん:2012/01/23(月) 16:38:10.19
魏志倭人伝に百歩て書いてあるじゃん。
224ローガン:2012/01/23(月) 16:40:05.77
>>207:志紀
>△鏡が、粗雑な扱い、

黒塚の事?だったら、その鏡、はじめから鈕に紐通すつもりが無い副葬品用に複製されたものだから。

>朝鮮中国から出ない、

だいたいが、国内での古墳出土鏡の分類を意図して定義されたもの。大陸にその分類自体が無いんだから、そう呼ばれる鏡が無くて当然。

>巻向からも出ない、

纏向からでそうなのは箸墓くらい。けど未調査。あとは古い墓ばかり。無くて当然。
それに「七万戸の邪馬台国=纏向」なんて畿内説は誰一人主張していないので、無問題。

>3世紀から出ない、

織部山、安満宮山、権現山51、備前車塚、奥3号、赤塚などなど。
いずれも庄内末(=布留0相当)。3世紀。

>その他いくらでも素人の私にも指摘できるような矛盾があるのに、

まだありますか?

>全然学者もネット上の畿内説の人も答えてくれなせん。

あなたが尋ねて答えてくれなかった学者とは誰?(笑)。
因みにここでは、そんな話、もう何年も前から繰り返し繰り返し…。
いくら返答しても1000でリセットして 又、言い出す。同じ事の繰り返し。
225日本@名無史さん:2012/01/23(月) 16:43:03.10
邪馬台国の行程に関しては、机上で1/6程度の換算をしたように思える。
思えるだけだがな。

公里435m/6 ≒ 短里72.5m

一日あたりの一般的な旅程15キロ程度。
公里一月行=15*30=450キロ ≒ 公里千里=435キロ
公里千里435キロ/6 ≒ 短里千里72.5キロ

公里一里300歩435mより公里一歩=1.45m

公里一歩145cm/6 ≒ 短里一歩24.2cm
226日本@名無史さん:2012/01/23(月) 17:01:57.25
レッツゴー・クロマティー
227日本@名無史さん:2012/01/23(月) 17:23:57.08
>>224

ローガンって、いつもいつも繰り返し
「鏡を日本独自の分類にしているから、△鏡が中国で全然出ないことになってしまう」
と断言してけど、その意味は

「畿内説の詐欺理論を使えば、△鏡は中国からもたくさん出ている中国鏡の一種だ」
ってことでしょ。

ローガンって、反論がない意見や複雑でややこしい意見に、詐欺理論をシラッと混ぜ込んで
あたかも畿内説が正しいかのような印象操作をするんだよな。まあ、詐欺だけどね。
228日本@名無史さん:2012/01/23(月) 18:14:06.67
△は畿内説でも国産説の人沢山いるだろ。
現実の見えない、視野の狭い奴だなw
229日本@名無史さん:2012/01/23(月) 19:27:24.22
>「七万戸の邪馬台国=纏向」なんて畿内説は誰一人主張していないので、無問題。

激しく同意
230唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/23(月) 19:53:17.61
>△は畿内説でも国産説の人沢山いるだろ。

△鏡をすべて国産で説明するためには、その元画像から説明できなくてはならない。
画像を国産で説明することはできない。
△鏡と同等の画像が、魏・晋の洛陽方面に持ち込まれたのが、晋泰始、咸寧となる。

斜縁神獣鏡の変遷と系譜 実盛
http://home.hiroshima-u.ac.jp/kouko/article/JITSUMORI2009.pdf

231志紀:2012/01/23(月) 19:54:27.02
>>224
やあ、やっとちゃんと答えてくれる人がやってきましたねw
私が言ってるのは、黒塚だけじゃないです。何処でも、というと言いすぎかな?
埋納?の仕方自体、別の魏鏡や後漢鏡より粗雑って事ですが。
畿内説の学者さんは、自分に都合が良かったり興味のある所ばかり強調しますよね。
鏡の件も然り、必死になって△鏡をアピールしていたのに、黒塚だけであんな大量に
でちゃったら、困った事でしょうw 既に数百枚出ちゃって、今後どれだけ出るか予想も
つかない△鏡をもって魏鏡百枚とする人は絶賛激減中ですよね。
勿論これまでの事は、畿内御用学者お得意のほっかむりですが。
てか、下っ端部下財管理役人は、未だに△=邪馬台国と密接なつながりが・・・ってマニュアル
通りにしゃべってますが。

>国内での古墳出土鏡の分類を意図して定義されたもの。
これは流石に屁理屈でしょう。分類なんて、そんな逃げを言ってる人も絶賛激減中ですw
中国の学者にも否定されちゃってますから。

巻向については、そうなんですよね。ある程度古代史をかじってる人なら分かってる話。
汚いのは、巻向からなんか出るたびに「これでますます邪馬台国に近付いた」って報道を
否定しない事です。野望の王国かつうのw
安満宮山は、母校の山ですw 最も、年代は正確には確定していません。
「安満宮山古墳の付近には、後続する古墳が見あたず、その被葬者は地域の首長ではないらしい。
したがって、個人的な能力によって邪馬台国(あるいはヤマト王権)に出仕していた役人で、製作年代が
異なる三種の中国鏡をもつことから推測すると、外交関係に深く携わった人ではないか。」
高槻の埋蔵文化財センターの人が言ってますが、学者でもない人物がまことしやかに邪馬台国とか
平気で言ってる、でもって都合が悪くなるといろんな言いわけをするんですよね。

>因みにここでは、そんな話、もう何年も前から繰り返し繰り返し…。
 いくら返答しても1000でリセットして 又、言い出す。同じ事の繰り返し。
それはそうみたいですねw 心しておきます。
学者は一人じゃないし、伏せておきます。ややこしくなると困るので。

232志紀:2012/01/23(月) 20:03:15.32
>唐松山

あんたどっかいけよ。あっちもこっちもイミフな日本語とか大量貼り付け。
誰に何をいってんの?
それと、鏡まで編年とか、もう勘弁してくださいwww
いや、立派な研究だとは思いますけど、結局結論は逃げてますよね?
それを論拠としてここに提示するには不適当。
233日本@名無史さん:2012/01/23(月) 20:10:36.75
>>232
もれにわみえない
234日本@名無史さん:2012/01/23(月) 20:11:50.97
所謂「卑弥呼の鏡」は百枚で現在出土している三角縁神獣鏡が何百枚
古代に実際に作られたのがその数十倍だったとしても
舶載として最初期に編年される物の中で数枚あったら良い方だろう。

現在の考古学も色々批判されるところは勿論あるだろうが
三角縁神獣鏡国産説も別にさして根拠が無い。

その昔殆ど無批判に魏鏡とされていたものが王の論文で一気に国産説に傾いて
その時の”ムード”を引っ張っているだけに見えるw

そもそも魏代洛陽でどのような銅鏡が作られていたのか?
それが確認されたわけでもないのに確定できる筈が無い。

>汚いのは、巻向からなんか出るたびに「これでますます邪馬台国に近付いた」って報道を
>否定しない事です。野望の王国かつうのw

考古学者が報道で「邪馬台国」の文字が躍るたび
「いえいえ違います関係ありません」と火消しせにゃならんのか?w
ヒステリックなクレーマーだなwww
235志紀:2012/01/23(月) 20:26:33.18
>ヒステリックなクレーマーだなwww

いや実際利用してるしwwwwwww

そういう官僚みたいな冷たい物の言い方はやめてくれないかな。
そのわりにしれっと
>三角縁神獣鏡国産説も別にさして根拠が無い。
なんて嘘を平気で吐ける所なんざ、まるっきし畿内説官僚学者。
>その時の”ムード”を引っ張っているだけに見えるw
都合悪くなるとこれ?

学問板なんだし、もうちょっと、ね。なんつうかw
236日本@名無史さん:2012/01/23(月) 20:42:55.81
子どものころから△ののヴァリューは低いだろなて理解していたけどな

出品数が多いのは入手しやすからな

まぬけなやつは とってつけたみたいな おすそわけのへりくつとかこくのね
237日本@名無史さん:2012/01/23(月) 20:47:48.47
>>235
>なんて嘘を平気で吐ける所なんざ、まるっきし畿内説官僚学者。

と言うのならきちんと国産説の根拠を言えば良いだけの話だな。

言っておくが俺には国産とも舶載とも分からない。
どうやったら国産だと断定できるのか是非教えてくれ。

「500:0」の連呼とか言うレベルなら結構だが
238日本@名無史さん:2012/01/23(月) 20:51:27.50
子どものころから□○のは発生期にはサイズは小さいので□□のがご先祖なんだろなて理解していたけどな
239唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/23(月) 20:56:24.35
三角縁神獣鏡の研究より
黄河流域で三角縁神獣鏡と共通点が多い画像鏡や神獣鏡が作られ始めたのは卑弥呼の
時代を下がる西晋の泰始年間になってからだということは、三角縁神獣鏡が卑弥呼が
魏朝からもらった鏡でないことを時間的に示しており、銅鏡の製造が衰退していたこ
とを考えると、特注説も物理的に難しいといえるのではないか。

△鏡は、卑弥呼の次の時代の象徴である。
そのためには、卑弥呼の時代に大和が倭国統一(大倭成立)とならなければならない。
その証拠が箸墓(260±15?年)
箸墓は、九州に邪馬臺國が存在しなかった証拠である。
240日本@名無史さん:2012/01/23(月) 20:57:03.01
子どものころから金印のは「漢のいぬ國王」って読みたかったけどな

へんな読みしちゃ駄目って叱られるとやだから

点のもらえる読み方でテストの答案は書いてきたけどさ
241日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:09:57.90
子どものころから「日下」のは「ひのもと」って読みたかったけどな

へんな読みしちゃ駄目って叱られるとやだから

しいて逆らったりとかはしなかったけどさ
242日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:16:59.10
勝手に読みたいように読んでろ
わざわざ自分の無知をひけらかすなアホ
243日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:17:30.41
>>225
画文帯神獣鏡が出てくる古墳は古い年代の古墳ていうぐあいになると思うんだが
中には伝世されたものもあるだろうし、古墳の形状、土器の形状、その他の物と
総合的に考えてホケノ山は古いと判断したんだろう。
画文帯神獣鏡という鏡の問題だけではない。
244日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:18:45.15
>>242>>240へのレス
245日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:24:56.06
>>207 志紀さん

いや、貴方は畿内説を勘違いしてる。
貴方の脳内でそう結論付けてるだけで
実際の畿内説の人はそんあこと言って無いと思いますよ。
246日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:26:25.22
東遷などない時点で九州説などありえない。
それくらい理解する頭すらないアホがいまだに九州説言ってるにすぎない。
アホにつける薬なしとはまさにこのことw
247日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:29:50.15
子どものころから「日吉大社」の「ひえたいしゃ」って読みへんかなておもたけどな

「ひえたいしゃ」って「ひ えた いしゃ」かよておもたりしたけどな

へんな読み強要されるとかやだけど

いちおう教養ってやつらしいから

しいて逆らったりとかはしなかったけどさ

もとのが「稗穢大社」のが正規表示なんだろなていまはおもていたりするけどな

これわ、稗と濊とお猿さんとかがキーワードになるのでしょうな
248唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/23(月) 21:39:20.80
年輪年代法が確立する。
その木片を使って、炭素C14の年代誤差を修正する数字を得る。

炭素C14のみで年代を判断すると、名古屋大のごとき数字となり、巻向年代よりおおよそ30年古く出る。
だから、東海の年代には注意する必要がある。

纏向の年代が、3世紀半ばが2世紀末に遡上したのであれば、文献も50年そじゅ押させる必要がある。
2世紀末各地の土器が纏向に持ち込まれる←崇神11年異俗多帰。
249日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:44:03.41
>>245

いや、ここに来る「九州説」の皆さん、大概の方は、安本さんとかのサイトで事前に刷り込まれた「畿内説」しか御存じないからw
250唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/23(月) 21:44:54.15
辻畑古墳(つじばたけこふん)は静岡県沼津市
沼津市教育委員会が2008年から行っていた発掘調査で周濠から割れた状態で発見された
高坏が古墳時代初頭の230年ころのものと見られたことから、東日本では最古級、

この数字では、古すぎて纒向とは整合しない。
251日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:49:02.62
>>249
うん ホントそう思う。

結局はそういう畿内説しか存じませんて言えばいいのにねw
252唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/23(月) 21:50:56.34
尾張の古墳時代開始前後の数値年代について
http://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/how/owariC14.htm
纏向土器編年
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁崩御]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。景行 240〜261年(38年の空白)
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行日代宮]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散 [美濃へ行幸]

上下の年代の違いに注意。
253日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:55:57.11
>>237
官僚学者さんに何をご教授さしあげましょうか?

全て分かってるのにそういう言い方がまたなんともはやw

「さして根拠がない」
例えば貴方のような知識も見識もある人が平気でそのような言辞を弄する事が
問題なんじゃないですか?文系学者は、そのような言葉や礼儀についてもっと
真摯であるべきと考えます。
残念ながら官僚学者さんと末端の埋蔵物管理役人さんは、そんな言い方すごく
多いです。悲しくなります。

学問の証明方法にも色々ありますが、複数の夫々独立した問題でAを指し示せ
ば、それは即ちAと言ってよく、その結論が多いほど弁証的解決に近づきます。
△と類似の鏡問題で言えば、
実用性、文献の記述、鋳文が定型句で誤字やその他詩文などからも魏鏡と考え
にくい、4年鏡問題、「至東海」問題、年代のずれ問題・・・その他全て、「非中国製」
との論理であるのに対して、中国説の論点は、バラバラに反証しようとして、しかも
時代につれて崩壊して行っている事、即ち「非和製」という論理構造になってはいま
せん。鋳造技術がない、などは、もうそんな事言う人いないんじゃないでしょうか?
埋蔵年代も土器編年とか古墳編年とか鏡編年とか(爆笑)でどんどん遡らせてい
る癖に、魏との時代ギャップについてはスルーですよね。

これに限らず、畿内説にこのような非論理構造が非常に多く、職業学者や埋蔵物
研究者、行政が多いとはいえ、残念なことです。「学問」を大切にしてほしい。
254日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:01:01.56
>>251

そうそう、ここの畿内説が、自分の知ってるつもりの「畿内説」とちょっと違うな、くらいの認識はあるんだろうけど、
よくわからないまま、安本や古田からコピってきたお気に入りのフレーズを貼り付けて、「さあ、ぼくちゃんに反論してみろ!」とオナるしかないw
255志紀:2012/01/23(月) 22:02:51.07
じゃあ読んだ本、突っ込んで調べた本全部書けばいいのかよ?
畿内説の陰湿な所は、すぐに安本や古田を持ちだして、罵倒する事なんだよな?

名なしのウザい一言レスはやめてくれないかな。
256日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:03:41.86
安本こそ詐欺としか言いようがない
257日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:06:28.72
>>249 >>251
畿内説は畿内説の根拠を言わないのが問題。根拠のないのが問題。
安本、古田を批判しても始まらない。個人攻撃でごまかすのが問題。
258唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/23(月) 22:07:29.70
>埋蔵年代も土器編年とか古墳編年とか鏡編年とか(爆笑)でどんどん遡らせてい
>る癖に、魏との時代ギャップについてはスルーですよね。

文献史学の怠慢でしかない。それともお上が怖いのか?
旧編年(昔の考古学の数字)
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年(今の考古学の数字)
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

旧編年で歴史を読めば、雄略以前に整合する文献は無い。これが常識。
だから、考古学はこの数字を捨てたのである。
よって、新編年で歴史を読む必要がある。

お上が怖くて発言できない文献史学であれば、我々がここで何を言おうとも勝手である。
259日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:09:02.38
>>255

判らんかなw
キミが相手にしたい「畿内説」なんて、実際には存在しないんだよ。
だから、誰からもまとも反論は、返ってこないわけなのね。
都合が悪いから反論しないのではない、反論すべき立場に居ないので反論しないだけ。
260日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:11:27.77
実態とは違うが批判しやすい像を巧妙に作り上げ
それを本の中で批判するのは安本詐欺手法の一つ
261日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:11:36.50
まあ、いわゆる畿内説は存在しないな。
あるのは奈良で発掘で飯くってる人たちの、
マスコミ向けのリップサービスだけだから。
262日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:11:55.72
九州説などどこを根拠にすればいいのか困るわ。
あれか、万二千余里くらいか?
卑弥呼ー台与ー男王 で100年以上九州連合組んで、
倭王に封じられてたのはないわw
西暦300年くらいまでは最低でも邪馬台国は九州で
命脈を保ってたことになるし、そんな痕跡どこにもないわw
むしろ九州は2世紀前半をピークに衰退してるよ。
263日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:20:11.08
つか、そもそも、畿内の弥生遺跡なんて、
九州以前に、山陰や山陽の各弥生遺跡より
見劣りするだろ。

たしか、関東にもそれ以上の弥生遺跡があったような。
264志紀:2012/01/23(月) 22:25:23.65
事あるごとに火を付けて回ってる樋口隆康センセイみたいな人がいますが、何か?
うぜーって言ってんだよ、コテもつけられない癖に。

悪いが某考古学研究所の所員を知ってんだよ。
九州説などまさにキチガイと公言してはばからないお人でね。「みんなそう言ってるよ」だと。
品格は問われないんだね。
内部で言われてる事もいろいろとな。教えてくれるわけ。

建前として邪馬台国と断定せず、報道の「邪馬台国はやはり近畿とお考ええすね」なんておバカ質問には
「はい、その可能性は高まったと言っていいでしょう」
こんなコメントする奴ばっかじゃねえかよ。講演会とかでも。なんなら俺の聞きに行ったセンセイを挙げようか?

畿内説なんてないんなら、それこそこんなとこに来てる暇があったらそういう「偉いさん」の発言を注意して
来いよな ( ゚A゚)y-・~~
265日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:25:23.79
九州なら3世紀以降の画文帯神獣鏡や△鏡が
近畿中心に分布してる説明がつかん。
庄内式土器やマキムク型古墳も近畿中心に全国に広まってるし、
明らかに3世紀からは倭国の中心は近畿になってるのがわからんほど
アホなのか?
266唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/23(月) 22:25:55.68
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁崩御]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。景行 240〜261年(38年の空白)
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行日代宮]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散 [美濃へ行幸]
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 [九州派兵]
纏向4類(前)(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 [273年日食=あづないの罪]
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、兵の引き上げ [313年仁徳元年]
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。

旧纏向5式  326年七支刀、大量の渡来人 旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3)

△鏡は神功渡海以後持ち込まれる。だから卑弥呼の鏡とはならない。
4世紀半ばから編年が出来ないのは、七支刀=369年がまだ生きている証拠である。
267日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:26:33.83
>【金銅四葉座飾金具】 知ってるか?
>邪馬台国に興味ある人は、大体知ってるが・・・

夢幻如が、北部九州出土の舶載品なんて知ってるわけがないだろう。
彼は、実力と態度がアンマッチしてるし
長い文章を書き込むが、その内容を読むとピーチクパーチク話してるダケと言うか
最近はもう飽きてきたねえ。
それに彼は、比較的に知識のあるローガン、イサクを連呼して自分の地位を確立しようとしてるだけにしか見えん。
268日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:32:10.29
>>253
言っておくが俺は官僚でもなければ学者でもない単なるド素人だが

自分がここで巨大な悪=官僚組織、その構成員の御用学者と戦っていると言うストーリーの中で遊泳したいのかもしれないが
現実と妄想の区別は付けた方が良いぞw

ズラズラと表題だけ上げた物には何のことか良く分からないものもあるが
それもこれもこれが「魏鏡」だと言う基準を示せてのもの。

じゃあその出土状況から確実に魏代で洛陽近辺から出た鏡と言うのは実際に何枚ぐらいあって
その様式はどのようなものか?

それが何百枚もあって神獣鏡が一枚も無かったと言うのなら俺も今すぐ国産説に賛同するが?

それと「魏との時代ギャップ」と言うのは「3世紀の古墳から出てこない」と言う話かな?

そもそも銅鏡の年代を古墳の年代を測る為にスタートさせたなら
古墳の年代を前提にして否定するというのは循環論法になりかねない。

と言うかじゃあその古墳の年代とやらは何処から弾き出したのか?だが
269日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:35:21.96
>>264 志紀
>なんなら俺の聞きに行ったセンセイを挙げようか?


    是  非 

270日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:36:28.99
九州の鏡は、方格規矩四神鏡や内行花文鏡だな。
邪馬台国朝貢直前の紀年鏡もいくつかあったはず。
271日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:37:47.60
>金銅四葉座飾金具

俺の頭の中にある記憶だと大陸が倭の王と認めた者に与える「葬具」だった気がする。
間違えてたらすまんが・・・国立博物館かどっかで現物観て来たゎんw
272日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:37:50.53
>>264
まあまあ、火病りなさんな。
とにかく、ここには樋口センセイも居ないし、その信奉者も居ないんだからさw
居ないヒトのことをウザがっても一人相撲だよ。
まあ、「品格」の話だったら、ここでは九州説も畿内説も似たようなもんだが。

>建前として邪馬台国と断定せず
プロなら当然の態度だね。
それでメシ食ってるんだから、ちゃんとした材料も無いのに「断定」なんてしないでしょう。
ただ、あきらかに違うことには「それは無いでしょう」とは言うだろうけど。

>報道の「邪馬台国はやはり近畿とお考ええすね」なんておバカ質問には
要するに、そう言う「おバカ質問」をするような「報道」の方に問題があるんでしょう。
相手を間違えないでね。
273志紀:2012/01/23(月) 22:40:17.22
>>263
我が八尾の福万寺遺跡をお忘れなくw
八尾は、眼前に湿地帯〜海が広がる海辺だったので、市全域が遺跡と言っていいくらいです。
物部の本貫だったのもうなずける。
それを言うと、福岡なんて掘れば遺跡状態ですけどねw
池上曽根もでかいです。
ただ、この後継の政治勢力が不明なのが不審ですね。
大仙古墳が征服のモニュメントだという説もありますが。あんな大土木工事、奴隷労働でもないと
生産に響くんで、無理杉w 被征服民を、死んでも労働させたレベルの過酷さでは?
奈良は、現在の奈良盆地の広さ肥沃さを考えれば、確かに今いちですね。

でも、見劣りって言ってるのは出土品などの事かな?
274日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:44:03.65
>>264 志紀
>建前として邪馬台国と断定せず、報道の「邪馬台国はやはり近畿とお考ええすね」なんておバカ質問には
>「はい、その可能性は高まったと言っていいでしょう」
>こんなコメントする奴ばっかじゃねえかよ

何をヒス(2ちゃんだとフォビョるかな?)ってるんだこいつ?
噛み付くような話なのか?w

>なんなら俺の聞きに行ったセンセイを挙げようか?

こっちはそれを聞くに何の支障も無い是非w

「内部で言われてる事もいろいろ」も教えてくれるとありがたいがwww

275日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:44:43.12
>>269
言うわけねえだろw
ここは  2 ち ゃ ん  だぜwww

>>272
言いたい事が伝わってないので、もういいです( ゚A゚)y-・~~
あんたが相手かどうかもコテじゃないからわかんねーよ。

あんたの意見が聞きたいね。
276志紀:2012/01/23(月) 22:46:15.62
>>274
ファビョ・・・

馬  鹿  な  の  ?


・・・・・ってこうなるんだよね、結局w
お前と話などする気ねーよ シッシッ  
277日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:47:15.40
>>275 志紀
>言うわけねえだろw

だったら最初から言うなよ馬鹿w

頭に血が上り易い体質なのかもしれないがwww
278:2012/01/23(月) 22:51:47.87
>>271
しぇーかい。
279日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:55:01.77
www 2chで何を書こうが世の中の大勢は変わらない
これは別に邪馬台国問題に限ったことではない 
ここで書くのは娯楽としての馬鹿話か、さもなきゃ愚痴か
この認識がないやつは相当に頭が悪い
280日本@名無史さん:2012/01/23(月) 22:57:39.85
まぬけが下手に基準観測点のを古くもうそうみつもりとかしちゃうと

方格規矩鳥文鏡とニワトリの津古生掛古墳のが200年頃までずれちゃったりする
281日本@名無史さん:2012/01/23(月) 23:00:34.61
>>280
なんか面白そうできれば詳しく
282272:2012/01/23(月) 23:15:55.54
>>275

>言いたい事が伝わってないので

私たちの「言いたい事」もキミには伝わらないわけだがw
283日本@名無史さん:2012/01/23(月) 23:18:19.94
>朝鮮
>こういう意見、こういうスタンスの人が最もまともある。

いや、262さんも貴方と同様に無知なだけ。
俺が思うに、朝鮮、無限、19歳の3羽烏はもっともっと邪馬台国のお勉強が必要かなぁ、と日々思う。
284日本@名無史さん:2012/01/23(月) 23:25:01.32
無限尿はただデベィートしたいだけだろ
古代史が好きとは思えない
285唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/24(火) 00:03:30.58
画紋帯神獣鏡(楽浪鏡)について、考えたんだが・・・
210年 任那建国
216年 任那より朝貢
239年 ホケノ山に副葬される。
綾部山39号墳(墳墓)は綾部山の中で39番目に発見された遺跡です。 ちなみに、
権現山51号墳よりも古い時期のものです。
鏡の種類は『画文帯神獣鏡』(がもんたいしんじゅうきょう)と思われます。直径は
10.4cmで『ホケノ山古墳』など、ほかの遺跡の出土例と比べても、かなり小型です。

とりあえず、楽浪方面からもたらされるのであるが、伽耶・新羅には分布しない。
だから、新羅の日矛では説明が難しい。
ところが、ここに一つの別の伝承がある。それが、
怡土 (釋日本紀 卷十)
五十跡手奏(まを)ししく、「高麗の國の意呂山(おろやま・蔚山)に、天より降り來し
日桙(ひぼこ)の苗裔(すゑ)、五十跡手是なり」とまをしき。

こちらが正しければ、説明しやすいのであるが・・・。
286日本@名無史さん:2012/01/24(火) 00:34:13.05
>>285
あの楽浪鏡は出土に不明なところがあった記憶だが・・・
日本で500年前後とされる古墳から出土する画文帯と同型なので、
ヤマト政権が三韓征伐で勢力を広げてから倭人がもたらしたものではないか。
287日本@名無史さん:2012/01/24(火) 00:34:13.81
>>285
高麗(こうらい)は、10〜14世紀に朝鮮半島に存在した王朝らしいので
画紋帯神獣鏡とは関係がないのでは?
288日本@名無史さん:2012/01/24(火) 00:49:50.43
>>281
塚から墳へのトランジッションのの
所謂「定型化する以前の古墳」に関してゆうと
こまかい方のが古いはずとゆうこと
289日本@名無史さん:2012/01/24(火) 00:54:02.78
>>287
釋日本紀の成立期とか考えると高麗使用のの意味がわかるはずですよ

後漢書とかでもやってるのと同パターンで

書いた時点での呼び方が混入しているのね
290ローガン:2012/01/24(火) 01:22:59.72
>>231:志紀
>私が言ってるのは、黒塚だけじゃないです。何処でも、というと言いすぎかな?埋納?の仕方自体、別の魏鏡や後漢鏡より粗雑って事ですが。

大和天神山見れば、国産舶載、扱いに違いがあるようには思えませんけどね。又、貴方も言及した安満宮山、さて「別の魏鏡や後漢鏡より粗雑」とはどの部分を捉えての話なのか…

>黒塚だけであんな大量にでちゃったら、困った事でしょうw 

黒塚のような古墳でも大量副葬しようというマインドは、複製による潤沢な供給が確立したと考えていいと思いますけどね。

>>国内での古墳出土鏡の分類を意図して定義されたもの。
>これは流石に屁理屈でしょう。分類なんて、そんな逃げを言ってる人も絶賛激減中ですw

連弧文鏡の定義に「寸法」は無いでしょうに。 10cmもあれば、46cmもありますよね。ひきかえ△鏡は定義が厳しい。(笑)
例えば大和天神山でも、5号と15号鏡は以前「三角縁」だったのが、wikiでは「斜縁」になってますよ。
まあ、そんなもんだから。もちろん「縁の断面が三角形の神獣鏡は、大陸では一切出土しない」なら話は別ですが。
291日本@名無史さん:2012/01/24(火) 03:07:52.37
分類いかんで、△鏡が国産になったり魏製になったり、ころころ変わることなんかないよw
292287:2012/01/24(火) 07:39:13.73
>>289
ソレは失礼しました。
後漢書ってたとえば帯方郡は後漢の時代には存在しないはずなんですが、
後漢書は魏の後の時代に書かれた書物で、後漢書の記述内にはこの帯方郡という行政機関が書かれている。
これと同じことが言えるのでしょうか。
293志紀:2012/01/24(火) 07:41:45.03
>>277
罵倒する言葉はやめようよ

なんてきれいごと言った俺が馬鹿だったようだな。
自分の意見も書かず、HNも作らず、そうやって煽りたてて潰す、エセ学者の手口そのものじゃないか。
おおかたどっかの埋蔵物管理人とかが酒でも飲んで人をこ馬鹿にしてるんだろう。
お前には冷静かつ真真面目に ○ ね の言葉を進呈するよ。

>>290
>黒塚のような古墳でも大量副葬しようというマインドは、複製による潤沢な供給が確立したと考えていいと
  思いますけどね。

それは否定しません。というより、同意する所です。黒塚自体はランクの低い古墳ではないと思いますが。
鏡の形式(というより、製造者・場所等)が複雑になっているのは間違いないところですよね。
ただ、同時に「日本には当時製造する技術は無かった」という説は崩壊しますが。一般に、発掘が進むほど
多く、広く、古くなっていくものですが(生物化石なども同様)、仮説を立てる段階で気を付けないといけない
ですよね。
宮山の発掘状態は、方格規矩四神鏡などと同じように棺内でしたよね?その点では、△だけ特に外へ放置
とかではないようです。また、古墳の規模が小さいから古墳前期とか、被葬者が「一地方官」などとは思いま
せん。仮説の一つに留めておくべきでしょう。「邪馬台国の地方行政官」などと責任ある立場の人が言っては
いけませんね。まあ、埋蔵品管理の人なんて所詮職業管理人ですが。
まあ、とにかくどのサイト見ても、安満宮山=邪馬台国畿内説が有力、って、うんざりしますねw
△の議論は、もういいんじゃないかな?方格規矩四神鏡の方は大事ですが。

>>291さんも言う通りですよね?鏡も細部に至るまでの研究が進んできたのは素直に凄いと思いますが、
文様の精緻さ、中国に出土例が皆無な文様、銘文や詩文の内容など、多面的に評価されるべきもので。
294志紀:2012/01/24(火) 07:45:45.34
>>279
世の中の大勢が朝日新聞とかじゃないよな?
NHKでやった大討論会の一般投票は九州説が圧倒してたけどなw

常識がどれだけひっくり返されてきたか、それが学問の歴史だよ。
295日本@名無史さん:2012/01/24(火) 07:48:46.86
>>291
ローガンさんも言ってたと思うが・・・
△鏡は埋葬用として造られたものがあり、そういうのは仿製 (ぼうせい) 鏡。
舶載鏡ていうのは海を渡ってきたかどうかなのですが、
この場合は舶載鏡、仿製 (ぼうせい) 鏡で分類するのではなく中国製、国内製とに分け
△鏡の初期の物は中国製品として扱うのはどうだろうか。
296日本@名無史さん:2012/01/24(火) 09:24:42.66
>>294
>NHKでやった大討論会の一般投票は九州説が圧倒してたけどなw

なるほど。世の中の常識は九州説か。
その常識をひっくり返すのが学問というわけだな。


297卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/24(火) 09:25:39.24
>>283
君らが、現代の学説と考古学を一生懸命勉強すればするほど、君らは真理から遠ざかる。
私のように、記紀を信じて、現代の学説や考古学に無知な人間ほど、真理に近づいている。

はっきり言って、君らは現代の学説と考古学をベースにして語っているだけである。
学者の語っていることを受け売りしているだけ。独創的な意見は一つもない。
298日本@名無史さん:2012/01/24(火) 13:37:04.69
ふと思ったんだけど、鏡百枚って旧支配下の百国に
一枚づつおあげなさいな、ってことだったんじゃないのかな?
299日本@名無史さん:2012/01/24(火) 15:32:14.52
鏡など貿易によって何枚でも輸入出来るから100枚とは限らない。
300日本@名無史さん:2012/01/24(火) 18:06:39.30
鏡オタク的にはありきたりの品では満足できないだろう
最先端の技術を駆使された精度と最先端のトレンドに沿ったデザインが
両立された逸品でないと周りのオタク仲間に自慢できない
301唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/24(火) 18:09:08.92
>私のように、記紀を信じて、

であるならば、書記と古事記は同じ長さにならねばならない。
古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。

崇神天皇 188年〜216年 戊寅(186年?)・垂仁天皇 217年〜239年・景行天皇 240年〜261年 
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。 神功皇后 275年〜343年 
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午(書き換えがある)
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・仁徳治世は空白を含み33年間(343年まで)
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申・・・帯方界への侵攻で死亡、兄王か?。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・応神死亡から120年後(311年から120年。431年死亡? 賛)。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。
安康天皇 454年〜456年 珍・済  元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。
清寧天皇 480年〜484年  顕宗天皇 485年〜487年  賢天皇 488年〜498年  武烈天皇 499年〜506年
継体天皇 507年〜533年 丁未・・・(499年?)

崇神と継体の干支が何を意味するか不明であるが、時空はほぼ同じであり、允恭4年の盟神探湯で神功から仁徳
紀には書き換えがある。

302卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/24(火) 19:27:56.57
>>301
唐松山氏よ、邪馬台国問題を解くためには、編年を細かく検証する必要がある。
しかし、古代史というものの実像を掴むためには、もっと大雑把に考えていいのだ。

たとえばウガヤフキアエズをざっと紀元前一万年以前と考える。
神武をそれ以後と考える。
神武は七人いて、その最後の神武の即位を前660年頃と考える、と。それでいいのだ。
303日本@名無史さん:2012/01/24(火) 19:28:08.63
だんだんイデオロギー色鮮明になってきたな。www 2chは娯楽ではなく恨み節を吐き散らす
場になったということか。wwwww
304日本@名無史さん:2012/01/24(火) 19:28:42.68
>>296

あー、ちゃうちゃう。
専門家の詐欺を、知性ある素人が暴いていくのが、
邪馬台国論争の学問というわけ。
305日本@名無史さん:2012/01/24(火) 19:37:03.74
一百七十九萬二千四百七十餘、これをユリウス日と考えると193年くらいの出来事になって、
なぜか歴史時代の照準にピッタリ嵌まってくるんですよ
306志紀:2012/01/24(火) 19:56:17.71
>>298
それなら鏡は魏鏡でないと困るね。
粗末な△を「これ魏からもらったお土産」なんて配ったりしたら、
視察に来た魏の官人が激怒するよw
307日本@名無史さん:2012/01/24(火) 20:56:37.11
>>297 チョーセン
>学者の語っていることを受け売りしているだけ。独創的な意見は一つもない。

「オリジナリティ」で勝負な?何か根本的に勘違いしているぞwwwwwwwwww

>>303
志紀 のような奴はイデオロギーと言うより単なる「私怨」、そう「恨み節」
自分の知り合いの学芸員だかなんだかがろくでもない奴だったので「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」

こっちにすれば「お前の私怨なんか知らねえよ」だがwwwwwwww
308唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/24(火) 20:59:28.10
>、その最後の神武の即位を前660年頃と考える、と。それでいいのだ。

人間の歴史でなければ、それで良い。
人間の歴史であれば、欠史8代=20年*8代=160年とかその程度である。
309志紀:2012/01/24(火) 21:07:19.89
>>307
コテもなしに人を馬鹿にするんだねw
別にその人に私怨なんてないよ。ご高説をはあはあ言って聞いてただけだし。
いろいろ考古学の話してくれたしね。

受け売りでもコテを名乗って自分で書いてるんだから、何も書かずに人を
小馬鹿にしてる奴よりは、遥かに立派だと思うが?
310日本@名無史さん:2012/01/24(火) 21:20:43.60
>>297
>私のように、記紀を信じて
>私のように、記紀を信じて
>私のように、記紀を信じて

あんたから言われても説得力ねえし
311日本@名無史さん:2012/01/24(火) 21:26:24.15
>>309 志紀

何か異常に「コテ」に拘るなこの私怨君はw

2ちゃんの大抵の板には名無しのデフォが用意されているこの板なら「日本@名無史さん」だ。
名無しがデフォでコテはオプション。
コテを入れるのは自由だし、名無しを相手にしないというのも自由だろうが。
コテだから名無しだからその中身がどうこう言うのは筋違いだ。

だったら強制的にハンドル入れなきゃならない掲示板にでも行け阿呆。

もっともハンドルなんていつでも変えられる。
だったらハンドルよりIP晒している奴の書き込みが偉い。
そのIPも複数使うことだって可能。
結局実名や顔を晒している学者先生が一番偉いということになってしまうだろうがw

要するに「空気嫁馬鹿」ということだなwww
312日本@名無史さん:2012/01/24(火) 21:44:45.50
邪馬台国が九州か近畿かなどいう議論はもう時代遅れ。
箸墓が卑弥呼か台与か、はたまた男王か、今はそのレベルの議論だろう。
AMSが正確なら卑弥呼の墓だが、台与のほうがやや確率は高いな。
313志紀:2012/01/24(火) 22:00:56.12
>>311
うっさい○ねやヴォケが

お前に指図されるいわれなどないわチンカスが
歴史語れやクズ
314日本@名無史さん:2012/01/24(火) 22:21:01.29
すげー

夢幻如氏がローガン説を見事に破綻させたらしいぞ
ローガン氏がボコボコに言われてるのが笑えるw
315唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/24(火) 23:17:54.36
>>302
>古代史というものの実像を掴むためには、もっと大雑把に考えていいのだ。

せっかく考古学というものがあるのだから、これで主張を検証すれば良いのだよ。
たとえば、開化のころから半島からの流入が増えたと主張したいのであれば、それをなんで証明するか?
孝霊天皇 146年〜164年 3章 吉備方面に軍を派遣。
孝元天皇 165年〜183年 2章
開化天皇 184年〜187年 ≒3章-1年 1、2年の異常 開化崇神は同じ暦
崇神天皇 188年〜216年
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
古墳出現前後における畿内型甕形土器の 西方拡散に関する研究 佐々木 憲 一

方形4本柱竪穴住居は、豊前・筑豊の東部地域で、弥生後期中段階にいち早く出現し、
続いて庄内式併行期には筑前・筑後の西部地域でも現れ、東部から西部に
豊前→筑豊→筑前→筑後と徐々に広がってゆくことを明らかにした。

弥生後期前段階 西暦40年から100年あたり
弥生後期中段階 100年から150年
弥生後期後半 150年から200年
弥生終末期 200年から260年箸墓まで
316唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/24(火) 23:23:48.83
弥生後期中段階に方形4本柱竪穴住居を持ち込んだ勢力がある。
その勢力が山陰からであれば、九州では、豊前から始まる。
その勢力を抑えるための派兵が孝霊でもよい。
九州においてこの住居が拡散してゆくということは、旧倭奴國と新勢力の反目
なのかもしれない。
317唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/24(火) 23:31:01.91
ホ32204 オミケヌシ いさめもふさく キミきくや シラウドコクミ ハハをかす

この記事は、開化時代にシラウド(新羅人)が売春をしているという記事である。
だから、そこそこの渡来は存在する。
318日本@名無史さん:2012/01/24(火) 23:33:44.93
神代文字を記した遺物は出て来てない、
したがって神代文字は後世の創作だ、ってことをいい加減認めろよ
319日本@名無史さん:2012/01/24(火) 23:34:53.81
>>316
円形の住居跡は邪馬台国以前の遺跡で方形の住居跡は東海地方発祥で邪馬台国時代の遺跡と聞きました。
320日本@名無史さん:2012/01/24(火) 23:37:58.50
>>319
土坑墓にも方形のものと円形のものが存在してることを理解した上での発言なのかな?
321日本@名無史さん:2012/01/24(火) 23:56:56.22
>>320

   o   o    
  ノi^ヽ、_,ヘ、   
   / _,,,......,,,_i    
  γノノλノ))   . 方形の住居跡は東海地方発祥で邪馬台国の時代とニュースで言ってた
  ,ヘ,ゝ゚ ー゚ノ,)    
  ,ゝ. (,_`]l[´iン    関西地方の方形貼石墓は葺石のある前方後円墳の原型になった
 ζ_./'~|鬥「|ゝ  
  £'r_,ィ_ァ┘   
322唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 00:53:26.94
>したがって神代文字は後世の創作だ、ってことをいい加減認めろよ

書記の編纂される前は文字が無い、したがってどのように切り刻んでもよい。
同じ主張ではあるが、
書記の主張を西暦に変換して考古学と同期させることが出来ている。
どう思っている?
323日本@名無史さん:2012/01/25(水) 01:05:47.71
>>322
同期は出来てない
基本的に情報量は経年に反比例すると思ってる
欠史八代の記録が神武より情報量が少ない状況は異常
後世の創作で同期させることは充分可能
したがって遺物から神代文字が出て来てないという事実のほうを重視する
324唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 01:06:30.28
>>318

ホ30033  ツクシのタネコ モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて
おさめしむ ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる

近江の遺跡は、弥生後期と共に栄え、弥生後期後半(崇神5,6年、2世紀末)に衰退する。
認めるか?
3世紀の編年は、タタネコの河内庄内式土器である。
認めざるを得ないだろ?
325日本@名無史さん:2012/01/25(水) 01:14:05.04
>>314

あはは、そりゃ逆。
無限尿があまりにも低レベルで、ローガンの水準にまったく届かないだけ。
326唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 01:17:36.04
ホ38300      フソサミヱ キサラギヨカに
ホ38301      ヰオノヒメ クスコウチミコ
ホ38302      イセノカミ まつるいわひは
ホ38303      ツクシむけ ヒメコトシソヨ
ホ38304      ヤマトヒメ コトシモモヤツ
ホ38305      よろこびて ヨハヒいたれば
ホ38306      ワレたりぬ わがヤソモノべ
ホ38307      ソフツカサ ヰオノにうつし
ホ38308      つかえしむ

壹與(五百野姫)と一大卒は大和から筑紫に派遣される。
だから、卑弥呼を大和に設定できないし、邪馬臺國を九州に設定できない。
まあ頑張って否定してくれ、ただし考古学の主張を最大限認める必要がある。
327日本@名無史さん:2012/01/25(水) 01:21:51.55
>>324
認めるかというか・・・
方形周溝墓から前方後円型周溝墓あるいは前方後方型周溝墓に変化したのは弥生後期後半だということに異論はない
>タタネコの河内庄内式土器である
何を言ってるのかわからない
纏向文化が河内庄内式の流入だけから出来上がってるわけではないから、、、
江戸時代の神代文字創作者はその状況まで考えが及ばなかったのだろう
328日本@名無史さん:2012/01/25(水) 01:30:44.05
>>324>>326
すげえ、こりゃ面白え、何ちゅう文書やねん
329唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 01:35:12.27
タタネコは大物主の初子であり、河内陶邑から見いだされ纒向の崇神に仕える。
書記でも同じであるからここは議論にならないが、
近江伊勢遺跡などの衰退は、二世紀末である。

>江戸時代の神代文字創作者はその状況まで考えが及ばなかったのだろう
だから江戸時代の創作とはできないのである。
サホコクニ=出雲である。こちらから大量の銅剣類が出土した。
当然江戸時代の話ではない。
330稗箕狐:2012/01/25(水) 01:42:34.60
331唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 01:50:30.87
>>330
タタネコが仕えた崇神が住んでいれば可能性はある。
332日本@名無史さん:2012/01/25(水) 01:52:47.86
唐松山は相変わらず何言ってるのかわからんなあ
333日本@名無史さん:2012/01/25(水) 02:04:00.05
>>328

ホツマ真理教の教祖に、エサを与えないでください。
334日本@名無史さん:2012/01/25(水) 02:32:02.45
ふーむ、これが「秀魔殿」か
めちゃくちゃな仮名遣いからみて江戸時代だな
>>314
お前も相当なアホだな
336志紀:2012/01/25(水) 07:56:27.38
>>326
そんな時代にわざわざはるか九州まで実効力を持った軍事政治機構を送り込めるほど
畿内に強大な大王が出現した

という考古学的証拠は?

後世のような統一王権じゃなく、部族の連合体だろ、歴史段階も考古学的結果も。
お経みたいな文をだらだら張り付けるのはやめてくれないかな?
スレ汚しとしか思えない。
337日本@名無史さん:2012/01/25(水) 11:58:48.43
二ギハヤヒが降臨した時に持ってた鏡が残されてるが
1枚は前漢鏡でもう1枚は後漢鏡なので、1世紀に渡来した人物とみて間違いない。
神武も実在ならその時代の人物だ。卑弥呼は箸墓年代が250年まで
繰り上がれば確実にモモソだろう。
338卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/25(水) 12:34:28.34
>>337
爆笑。投稿したのはたぶん名古屋君だな。
ニギハヤヒの降臨は180万年前なのだから、そんなことがあるはずがないのである。
339唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 12:37:14.83
>九州まで実効力を持った軍事政治機構を送り込めるほど畿内に強大な大王が出現したという考古学的証拠は?

山ほどあるぞ。まず
庄内式土器が北部九州に持ち込まれる。持ち込んだのは景行の九州遠征である。
熊襲が再び背けば、日本武尊を送り込む。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國。
大和は女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)三月丙申《廿五》◆丙申。轉至山門縣。則誅土蜘蛛田油津媛。
景行諸県は、玄海町諸浦。 箸墓は、最初の大王墓である。
神功田油津媛は、田平津媛の間違いである。

遺跡名 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき)所在地 平戸市大島村前平1456
本遺跡は弥生時代中期中頃を中心とし、古墳時代初頭まで継続している。住居址は弥生時代中期のもので、
同時に甕棺、土坑、箱式石棺からなる墳墓群も形成されている。出土遺物は多彩であるが、特に土師器は
畿内の庄内系の土器の影響下に成立した在地甕である。 本遺跡が位置する大島村は、壱岐とは一衣帯水
の地であり、また平戸や生月、北松浦の半島は交易のルート上にあり、五島列島や対馬を含めて同じネッ
トワークで結ばれた集団であったことが推測される。
340唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 12:49:56.01
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。『難升米爲率善中郎將』
正始元年、太守弓遵遺建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、...倭王因使上表答謝恩詔。
其四年、倭王復遺使大夫伊聲耆・掖邪狗等 『掖邪狗等壹拜率善中郎將』
其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼

其六年には、戦の始まることを知っているから、黃幢下賜。倭軍創設。
其八年、詣郡、說相攻擊狀。戦は始まっている。九州における戦いであり、庄内式土器が持ち込まれる。
卑彌呼以死、...更立男王、...復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等

倭女王=難升米率善中郎將 倭奴國王位継承
倭王=掖邪狗率善中郎將 邪馬臺國王に倭王位授与
壹與=掖邪狗率善中郎將

倭女王と倭王は協力して戦争を行い、倭国を平定する。その時卑弥呼の宗女壹與は、倭王と関係がある。

其六年には、戦の始まることを知っているから、黃幢下賜。倭軍創設。
其八年、詣郡、說相攻擊狀。戦は始まっている。九州における戦いであり、庄内式土器が持ち込まれる。
卑彌呼以死、...更立男王、...復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等

倭女王と倭王は協力して戦争を行い、倭国を平定する。その時卑弥呼の宗女壹與は、倭王と関係がある。
341唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 12:55:14.60
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?]
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物[古韓尺の使用=任那より朝貢]
纏向2類(中)(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁崩御]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。景行 240〜261年(38年の空白)
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行日代宮]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散 [美濃へ行幸]
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年 [九州派兵]
纏向4類(前)(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。 [273年日食=あづないの罪]
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、兵の引き上げ [313年仁徳元年]
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。
342日本@名無史さん:2012/01/25(水) 13:47:00.98
よくトンデモを書き連ねたもんだ。気がすんだら帰ってね。
343唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 13:52:17.36
天皇   西暦     増し(1章=19年空白年の差し込み) 
神武天皇 42年〜63年  3章 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり。近江伊勢遺跡。
綏靖天皇 64年〜77年  1章
安寧天皇 78年〜82
懿徳天皇 83 〜93年  3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は異母兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年  3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章 吉備方面に軍を派遣。
孝元天皇 165年〜183年 2章
開化天皇 184年〜187年 ≒3章-1年 1、2年の異常 開化崇神は同じ暦
崇神天皇 188年〜216年 ≒2章+1年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳に田道間守の殉葬。
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵(263年)。
成務天皇 262年〜265年 ≒3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。
仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山 誉田御廟山までは110年。
応神天皇 344年〜384年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
344唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 13:54:20.71
古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。

崇神天皇 188年〜216年 戊寅(186年?)・垂仁天皇 217年〜239年・景行天皇 240年〜261年 
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。 神功皇后 275年〜343年 
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午(書き換えがある)
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・仁徳治世は空白を含み33年間(343年まで)
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申・・・帯方界への侵攻で死亡、兄王か?。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・応神死亡から120年後(311年から120年。431年死亡? 賛)。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。
安康天皇 454年〜456年 珍・済  元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。
清寧天皇 480年〜484年  顕宗天皇 485年〜487年  賢天皇 488年〜498年  武烈天皇 499年〜506年
継体天皇 507年〜533年 丁未・・・(499年?)

崇神と継体の干支が何を意味するか不明であるが、時空はほぼ同じであり、允恭4年の盟神探湯で神功から仁徳
紀には書き換えがある。
345唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 13:56:24.57
>>342
> よくトンデモを書き連ねたもんだ。気がすんだら帰ってね。

さて、どこがトンデモであるか書き込んでくれ。
346ローガン:2012/01/25(水) 15:42:02.89
>>324:唐松山◆V0F34EbmQA
>ホ30033  ツクシのタネコ モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねておさめしむ 

これの前に「ヲシクモは カハチにゆきて ヲシホより カスガをまねき ヒラヲカの ヤシロまつりて カミとなる」とあるでしょ。 
枚岡神社→春日大社→大原野神社の順だったと思うが…

>3世紀の編年は、タタネコの河内庄内式土器である。認めざるを得ないだろ?

この「ツクシのタネコ」と太田田根子は関係ないんじゃない? 
347タヌキ目の男:2012/01/25(水) 15:57:46.87
ほつまおたの あほどもえ
おまえら うそ ついたらあかんで
うそは ドロボーの はじまりや
348志紀:2012/01/25(水) 17:56:57.37
ほつまのセンセイ、普通の会話も出来るじゃんw

じゃ、だらだら貼るなよ。めんどくさい。
景行の九州遠征って、あの突然九州でスタートして九州で終わるって奴なw
書かれた事を無批判に読んでるだけって、まるっきり素人じゃん。
だから「ツクシ」なんて言ってる文章に平気なんだよ。
なんで邪馬台国=奈良の北部が伊都国なんだよ?
おっさん(じいさん?)は、自分の説をまず整理しろって。
349日本@名無史さん:2012/01/25(水) 19:14:16.79
>>339-344
以上、ホツマ真理教教祖によるホツマ劇場でした。
350日本@名無史さん:2012/01/25(水) 19:17:19.17
記紀の編年研究などナンセンスなので専門家も相手にしていないことに気づけ。
真実かどうかは証明不可能なんだし、考古学を基軸に、それと整合する
文献のみ採用するのが古代史研究の基本的ベースだと思え。
351日本@名無史さん:2012/01/25(水) 19:28:25.38
   o   o   
  ノi^ヽ、_,ヘ、 
   / _,,,......,,,_i  
  .γノノλノ))  神武天皇など日本の歴史上いなかったし欠史八代の天皇もいなかった
  ,ヘ,;ゝ゚ -゚ノ,)  
  ,ゝ.(,.」 鬥,)]つ邪馬台国の時代、朝鮮半島の三韓には統一された国家はひとつもなかった
 ζ_ U |鬥|.|ゝ  
  £'r_,ィ_ァ┘  
352ローガン:2012/01/25(水) 21:03:38.72
朝臣達の上祖を、大王家の系譜に組み入れ縦に繋ぐ事により、「奉事の根源」(稲荷山鉄剣銘文)としたんでしょう。
七観の年代観から百舌鳥三陵の大凡の年代が知れる。それから遡る神功応神は、引用魏志倭人伝から干支2運下げて大体合う。
353日本@名無史さん:2012/01/25(水) 21:59:35.15
   o   o    干支の組み合わせによって一運の60年を一元として
  ノi^ヽ、_,ヘ、  二十一元つまり21元×60年=1260年が一蔀となる
   / _,,,......,,,_i   推古9年(601年)辛酉の年を起点とし一蔀1260年を引く
  .γノノλノ)) 
  ,ヘ,ゝ^ -^ノ,)   紀元前660年辛酉の年が神武元年(紀元節の元年)となる
  ,ゝ.(,.」 鬥,)]つ これを辛酉革命説と言う。愚かにも記・紀に使用して年数を延ばした
 ζ_ U |鬥|.|ゝ  
  £'r_,ィ_ァ┘  
354唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 22:09:42.28
>七観の年代観から百舌鳥三陵の大凡の年代が知れる。それから遡る神功応神は、引用魏志倭人伝から干支2運下げて大体合う。

しかし、干支2運下げて百済本紀に整合させても、
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後。
神功49年の半島占拠は否定されている。
神功49年半島占拠を正しいとする数字は、323年である。
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

七支刀=369年では、半島占拠は否定される。つまり書記の主張と齟齬を生じている。
そして、この数字が正しいとするのは、百済本紀のみである。他の文献とは整合しない。
だから、崇神任那建国とできるのは、210年にしかない。

355唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 22:15:59.61
>>348
>書かれた事を無批判に読んでるだけって、まるっきり素人じゃん。

遺跡名 長畑馬場遺跡 (ながはたばばいせき)所在地 平戸市大島村前平1456
考古学で、庄内式土器の九州持ち込みを説明しているだろ。
景行を使わずに説明できるのか?できるならば説明してくれ。
356唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 22:23:04.88
>なんで邪馬台国=奈良の北部が伊都国なんだよ?

北史 漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。靈帝光和中、其國亂、
遞相攻伐、歴年無主。有女子名卑彌呼、
至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國、即倭王所都。

北史によれば、卑弥呼は倭奴國王位継承←景初3年。
その翌年にカテイ等が邪馬台国を訪れ、正始元年 倭王位授与。
晋書 正始元年東倭重譚納具。←晋書は、東に邪馬臺國があるとしている。
357日本@名無史さん:2012/01/25(水) 22:32:40.70
ハイハイ、ホツマ真理教はチラシの裏に書いてね。
358唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 22:33:31.79
>真実かどうかは証明不可能なんだし、考古学を基軸に、それと整合する
>文献のみ採用するのが古代史研究の基本的ベースだと思え。

書記を考古学と同期させる編年を主張しているだろ。

3世紀中期の大型建物は、景行の日代宮。
それからしばらくして、庄内式が九州に持ち込まれる。
箸墓(260±)最初の大王墓。=景行の墳墓。
推定
239年 垂仁末年 田道間守の派遣。
240年 景行元年 田道間守はカテイ等と共に帰国。
247年 同12年 九州へ派兵。卑弥呼の死亡。
248年 同13年 魏使の訪問、帰京。
249年 同17年 
250年 同18年 筑紫より、西方へ兵を進める。
250年 同18年 7月 男王死亡。
251年 同19年
252年 同20年 五百野姫を軍隊付きで筑紫に派遣。
253年 同25年 武内宿祢を関東・東北方面へ派遣。
255年 同27年 日本武尊を九州へ派遣。
256年 同40年 日本武尊を関東へ派遣。
この時点で倭国統一、大倭成立。
359卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/25(水) 22:52:55.59
>>351>>353
それがつまり現代の学説というやつで、君らは学者の説を受け売りしているだけなのだよ。
現代の学説を一生懸命勉強して、自分は物識りでえらいと勘違いしているのだよ。

君だけじゃない。ここに参加している全員がそうなのだ。
360日本@名無史さん:2012/01/25(水) 22:53:16.25
>>317
>ホ32204 オミケヌシ いさめもふさく キミきくや シラウドコクミ ハハをかす

孝元の妻のイカシコメを開化が妻にしようとしたので
昔の シラヒト、コクミ母犯す になってしまうと
オミケヌシがいさめている


>>324
タネコ 天種子
アウヱモロ (人名)
ヲヲモノヌシ クシミカタマ
ヲヲクニミヤ 多賀?
アマキミ 神武


361日本@名無史さん:2012/01/25(水) 22:54:16.91
>>326
ツクシむけ ツクシ平け
大和から伊勢 斎宮は伊勢


倭姫命世記

【五百野皇女、日本武尊】

 大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけ のすめらみこと)の二十年[庚寅]、倭姫命、「歳既に老いぬ、仕ふること能はず、

吾足りぬ」と宣ひて、斎内親王に仕奉るべき物部八十氏の人々を定め給ひて、十二司寮官等をば五百野皇女久須姫命(いほののひめ

みこ くすひめのみこと)に移し奉る。
 即ち春二月[辛巳]朔[甲申]、五百野皇女を遣して、御杖代とて、多気宮を造り奉りて、斎ひ慎しみ侍らしめ給ひき。伊勢斎宮群

行の始、是なり。ここに倭姫命、宇治の機殿の礒宮に坐し給へり。日神を祀奉ること倦きことなし。


伊勢斎宮群行の始、是なり。

362日本@名無史さん:2012/01/25(水) 22:56:27.33
かしゆか(有香)、のっち(彩乃)、あ〜ちゃん(綾香)の中で誰がお好み?
http://www.youtube.com/watch?v=E3ZrNqfIlKA

あっちのスレ、「伊作、伊作、無限如、無限如」ばかりつーかw
私的に、おっさん連中が戯れてる感じして読む気になれんしw
363メちぁん:2012/01/25(水) 23:22:52.26
ローガンさん ホツマなんて興味あったんだ?
最近は「文献」に目覚めたのだろうか・・・
364唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 23:24:18.12
ホ36002 ヤマトヒメカミしつむアヤ
タマキミヤ コホナツキソム キサキユメ ヤマトヲヲクニ カミのシテ たまえばはらみ
ツキみちて うまずにやめて ミトセのち ナヅキソムカに うむミコの ナはヤマトヒメ
あとやみて カナヅキフカに ハハまかる

垂仁天皇 217年〜239年 四章の空白年が含まれる。
景行天皇 240年〜261年 2章の空白年が含まれる。
景行20年 五百野姫 十三,四歳。
倭姫を223年生まれと見ると、256年(景行40年)日本武尊17才、関東へ出向の
ため伊勢に立ち寄る、34,4歳である。
この時大彦の孫 磐鹿六雁は、55才程度か?
365唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 23:31:21.84
>孝元の妻のイカシコメを開化が妻にしようとしたので

孝元の妾のイカガシコメ(イカシコメ)を開化が妻にしようとしたので 諌めているのであるが
開化はイカガシコメを妻として崇神を生む。だから、崇神は庶母を母とする。
366唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 23:40:32.01
>斎内親王に仕奉るべき物部八十氏の人々を定め給ひて、

倭姫はアヘタケヌガワ等と伊勢に入植している。
つまり、伊勢は、大彦以後の勢力範囲であり、物部氏の出る幕は無い。
367唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/25(水) 23:46:32.48
埼玉、稲荷山古墳の鉄剣銘は、この伊勢の大彦からの系譜が7代で書き連なっている。
その7代では、仁徳までであるが、雄略にするためには、辛亥年には雄略は死亡している必要がある。
だから、書記の編年では、雄略に設定できないが、古事記の設定であれば、容認できる。
368日本@名無史さん:2012/01/26(木) 00:53:55.50
   o   o    
  ノi^ヽ、_,ヘ、    >>359
   / _,,,......,,,_i     あは☆
  γノノλノ))   
  ,ヘ,ゝ^ヮ^ノ,)    愚鈍なチョンにお説教された
  ,ゝ. (,_`]l[´iン    朝鮮半島にはまともな歴史書が皆無だ
 ζ_./'~|鬥「|ゝ  
  £'r_,ィ_ァ┘   
369ミッドナイトの渡り鳥:2012/01/26(木) 03:25:47.33
太国よ
落葉松の暴走を止めてくれ!

やれるんは、
あんただけや。
370志紀:2012/01/26(木) 07:17:07.24
ここはどうやら隔離スレのようですね。

ほつまのお爺さん、ドン来いには来るなよ。
みんなに迷惑。
371卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/26(木) 08:47:35.15
>>368
そのまともな歴史書がない朝鮮の歴史書に合わせて編年を繰り下げているのが現代の学界なのだよ。
それを信じているのが君ら。
372日本@名無史さん:2012/01/26(木) 11:37:33.55
他掲示板の曲学の徒は、卑弥呼を尾張氏の宇那比姫だとしているが、
夫も子供もいるし賛同しない。箸墓の規模からみてモモソが
女王卑弥呼か台与である可能性が高いし。
373日本@名無史さん:2012/01/26(木) 11:46:22.14
朝鮮の歴史書だと新羅は倭人の国だな。
374日本@名無史さん:2012/01/26(木) 16:41:48.59
唐松山クン君もいい加減消えてくれないか?
君の主張にはなんの根拠もない妄想だよ
いい加減死んでもいいんじゃないかな〜
375日本@名無史さん:2012/01/26(木) 17:32:52.27
同意>>374

ホツマ真理教はオカルト板でやってくれ。
376日本@名無史さん:2012/01/26(木) 18:54:53.62
太国はアク禁か
377日本@名無史さん:2012/01/26(木) 19:25:29.72
378日本@名無史さん:2012/01/26(木) 19:51:26.39
海部氏系図(本系図・勘注系図)について九州説の意見を聞いてみたいね。
むろん「日女命」なるものが卑弥呼であるとは言えないのは大前提だ。
そのうえで史料批判してみてほしい。19歳から一方的に畿内説の証拠に
されるのは癪だろう。
379志紀:2012/01/26(木) 20:21:05.16
籠神社の前漢鏡は、貴重な資料ですよね。
先祖の饒速日は、この八尾・志紀周辺を本貫とする物部氏の始祖でもあります。
饒速日、邇邇芸の相次いでの大阪・奈良侵入は、1世紀頃ではないかと思います。
その時の鏡が前漢鏡・後漢鏡というのは、その裏付けと言っていいでしょう。
後から手に入れるにも、交易の盛んな九州でもそんなに容易に入手できたものでは
無かったはずですから、後世わざわざ小さくて古臭い鏡を入手して、誇らしげに神宝
にする理由はあまり浮かびません。本当に初代からの伝世鏡で間違いないかと。

饒速日グループは、三種ではなくもっと多くの神宝を持ってきた事がうかがえます。
その時の一部を海部氏にも分けたのでしょう。
380志紀:2012/01/26(木) 20:47:52.88
でも、だからといってそれが全部真実だとは限りません。当然ですが。

何故国宝に指定されたのでしょうか。
それは、多分、この海部系図が記紀すなわち天皇家の系図の元になったからです。
神社本庁は、その事を知っていて推薦したのかもしれません。もとより決定の詳細は
知りませんが、いくら古いとはいえ、信憑性が不明ないち系図に国宝指定は、条件の
厳しい戦後にあっては異例ではないでしょうか?

海部系図、尾張氏系図は物部系図を元にしていると思います。両者は基本的に同じ
ものですよね。
ただ、双方が饒速日の直系本流を名乗っているのは何故でしょうか?

これは、本来の宗家の物部が何故宇摩志麻遅を始祖としているのでしょうか?
尾張氏、海部氏を立てる必要があったのでしょうか?物部の畿内での本貫は、志紀・
磯城で、丹後王国や尾張よりも、位置的には権力中枢に近いのではないのか?
381日本@名無史さん:2012/01/26(木) 20:55:21.45
>大阪・奈良侵入は、1世紀頃
ど田舎に侵入することの意味は?
382稗箕狐:2012/01/26(木) 21:04:45.98
あるしゅの流民だろ こじきよむかぎりにおいてはね
383志紀:2012/01/26(木) 21:07:50.71
わかりませんw
ただ、北部九州が人口過密、他のエリアも漸次各グループが東進していく中で、文明の利器が
まだ有為に技術・文化格差を持っている奈良周辺は格好のターゲットではなかったかと。
氾濫湖が稲作に有利な大湿地帯になりつつあり、かつ鉄器や各種祭器の威力も相当見込める
事が、理由と言えないでしょうか。「田舎だからこそ」と。
384日本@名無史さん:2012/01/26(木) 21:14:54.69
つい最近、籠神社について語ってたのにもう忘れてるんだなぁ
全くつながりのない別個の事象としてしか捉えられてないのか・・・
385卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/26(木) 21:29:12.74
>饒速日、邇邇芸の相次いでの大阪・奈良侵入は、1世紀頃ではないかと思います。

失笑。君らは神代と歴史時代の区別もつかないのか。小学生に笑われるぞw
386日本@名無史さん:2012/01/26(木) 21:34:51.68
>>380
日本書紀の編纂の理由として、いろんなものが入り乱れてきて何がなんだかわからなく
なってきたので、正しいものを残しておかないと将来の禍根になる、みたいなことが
書かれていたんじゃなかったかな。

家系図の捏造は古今東西よくあることで、日本でも良く出回っている。近年でも
誰々に続くみたいな家系図はよくあるし、また作るのも簡単。

しかし、古代の家系図にしても捏造するからには手本がなくてはならない。
さかのぼった大もとが良く知られていないと意味がない。その意味ではやはり
皇室の家系図が大元だったんだろうな。

海部氏の系図については怪しげなところが大いにあると思う。
387志紀:2012/01/26(木) 21:36:15.45
神代ってなんすか?
記録ある最も古い年代といっていいだろ?
神話には、必ずなんらかの真実が伝わっているというのが俺の考え。

アフリカに、1万年遡れるんじゃないかって言う伝承があったりする。
殷も周も、かつては学者に一笑に付されてた罠
神社は、途中で宗旨替えしない限りは、その伝承に嘘を交える事は
あり得ない。まして海部氏のように始祖からずっと続く家が神主だからね。

朝鮮氏は、もしかして聖書みたく紀元前後は神様の時代って思ってる
のかい?
388卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/26(木) 21:48:58.81
>>387
ニニギやニギハヤヒは神代の話だよ。それを君が一世紀頃のことだと考えているので失笑したのだ。
ある偉い学者が卑弥呼はアマテラスだと言ったそうだ。学者というのはそれほど馬鹿なのだ。

ニニギの降臨は180万年前だと書紀に書かれているのだから、それを信じればいいのだよ。
当たらずといえども遠からずだ。神代というのは何百万年、何千万年、何億年、何十億年も前のことなのだから。
389志紀:2012/01/26(木) 21:52:14.23
何言ってんすかw

意味わっかんねーっすwwwww


俺に構わないでくれ。
390日本@名無史さん:2012/01/26(木) 21:54:58.36
>>389
最近消えたお子ちゃまがうんち。
391日本@名無史さん:2012/01/26(木) 22:05:19.79
「箸墓に眠る女王」と題して本書いて自費出版するか。
一冊くらいは本書いておきたい。
392日本@名無史さん:2012/01/26(木) 22:11:44.89
さすがに九州説だ畿内説だ、もうそんな馬鹿馬鹿しい争いする時代じゃないだろw
いつまでそんなくだらんことで言い争ってるんだ。
邪馬台国は大和のこと。これはもう揺るがないんだし、次のステップに進めよ。
393日本@名無史さん:2012/01/26(木) 22:13:02.89
正直言って情報量と年代は反比例すると思ってる
一つの流れの中に組み込めたのが歴史、組み込めなかったのが神話として残ってるだけで、年代は変わらないんじゃないかな
394志紀:2012/01/26(木) 22:21:43.37
九州にはヤマトという古地名が多数あるのに対して、畿内とりわけ奈良盆地には古地名が
希少もしくはないと言ってもいいくらい。「ヤマト」という地方も古地名もない。

それだけでも決着済みじゃないかな。
395日本@名無史さん:2012/01/26(木) 22:23:27.41
海部氏系図で重要なのは、9世孫の日女命の別名が神大市姫、日神 となってるところだ。
日神とは皇祖神天照の別名であるわけで、このようなたいそうな名前で書かれてるのに
朝廷側は何もけちつけず、この系図でよいと判断したことが解せない。
396志紀:2012/01/26(木) 22:43:19.32
>>395
逆に、朝廷側に突っ込まれたのかもね。
だからそのままになっている。

でも、アマテラスとすれば、ニニギのひいばあさんなので、これは変な事になってしまうw
397日本@名無史さん:2012/01/26(木) 22:44:07.50
   .o   o    
  .ノi^ヽ、_,ヘ、   
   ./ _,,,......,,,_i     国宝の「海部氏系図」「海部氏勘注系図」は徳川光圀も見たいと言った系図
  .γノノλノ))    
  ,ヘ,ゝ^ -^ノ,)     元々聖徳太子の時代に丹波國造本記として書かれ朝廷に危険視されて秘匿されていた
  ,ゝ. (,_`]l[´iン    
 ζ_./'~|鬥「|ゝ   
  £'r_,ィ_ァ┘     パナソニックの創業者松下幸之助氏等の尽力で公開されて即座に国宝に指定された
398日本@名無史さん:2012/01/26(木) 22:44:27.26
真実は単純な話

倭奴国の金印が出た九州→その後継国家邪馬台国も九州
399日本@名無史さん:2012/01/26(木) 23:21:12.74
    o   o    
   ノi^ヽ、_,ヘ、  「海部氏系図」は859〜876年 貞観年間に籠名神社祝部氏系図として書かれた
   ./ _,,,......,,,_i   丹後国印が押してあり4代〜17代が欠落していて朝廷の圧力で隠蔽されている
   γノノλノ))  「海部氏勘注系図」は推古天皇・聖徳太子の天皇記・国記の編纂で丹波國造本記として書かれた
   ,ヘ,ゝ゚ - ゚ノ,)  
  ,ゝ((つ旦O   その後、書き写され721年 養老5年に籠名神社祝部氏之本記となる
  ζ_./'~|鬥「|ゝ  さらに仁和885〜889年 籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記となった
   £'r_,ィ_ァ┘  
400日本@名無史さん:2012/01/26(木) 23:39:33.23
>>398
そんなにバカを晒さなくてもw
401日本@名無史さん:2012/01/26(木) 23:48:55.38
   o   o    
  ノi^ヽ、_,ヘ、   
   / _,,,......,,,_i    
  γノノλノ))   . 「海部氏勘注系図」を改竄している人がいる 先代旧事本紀の信者の「曲学の徒」氏である
  ,ヘ,ゝ゚ ー゚ノ,)    
  ,ゝ. (,_`]l[´iン    卑弥呼である9世孫・日女命と台与である11世孫・日女命を勘注系図から削除している
 ζ_./'~|鬥「|ゝ  
  £'r_,ィ_ァ┘   
402日本@名無史さん:2012/01/27(金) 00:38:40.90
>>394
無知にも程があるw
403唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/27(金) 00:56:56.40
>>401

編年に系図を重ねることはできるが、系図から編年を得ることはできない。
404日本@名無史さん:2012/01/27(金) 01:32:52.47
>>403

    o   o   
   ノi^ヽ、_,ヘ、 
   ./ _,,,......,,,_i. 
   γノノλノ)) 
   ,ヘ,ゝ゚ - ゚ノ,)   ∬ 「海部氏勘注系図」には少しですが干支が書かれています
  ,ゝ((つ旦,)`]つ旦 干支が正しいかどうかはわかりませんが 頭の漢方薬だよ はい♪  
  ζと,/_,),_!ゝ      
405唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/27(金) 01:38:00.74
書記の編年(正しいと出来る数字)に古事記の干支を重ねることはできるが
古事記の干支に書記の干支を重ねることはできない。
406日本@名無史さん:2012/01/27(金) 02:03:35.45
    o   o    
   ノi^ヽ、_,ヘ、  >>405
   ./ _,,,......,,,_i   辛酉革命説によって年数を引き延ばして書かれた
   γノノλノ))  古事記・日本書紀の干支が正しいかどうかわからない
   ,ヘ,ゝ‐ _‐ノ,)  
  ,ゝ((つ旦O   
  ζと,/_,),_!ゝ  文献だけでは検証できないので考古学的検証が必要ですね
407日本@名無史さん:2012/01/27(金) 07:14:41.57
>>380

>これは、本来の宗家の物部が何故宇摩志麻遅を始祖としているのでしょうか?
>尾張氏、海部氏を立てる必要があったのでしょうか?物部の畿内での本貫は、志紀・
>磯城で、丹後王国や尾張よりも、位置的には権力中枢に近いのではないのか?


天火明命の末裔は尾張氏・海部氏で、物部氏が尾張氏にすりよってるだけなんだけどね。
物部氏は、はっきりと宇摩志麻遅を祖としてて、天火明命を祖とはしていない。


408唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/27(金) 08:10:28.03
>>406
数日前に考古学と整合させた編年を書き込んであるのでそちらを検証していただきたい。
409日本@名無史さん:2012/01/27(金) 19:24:07.90
海部氏系図9世孫の日女命の別名日神はおそらく封印する前に
付け足されたものだろう。でなければ朝廷の検閲通らん。
なので誰にも見せるなと子孫に言い残したんだろう。

ただその日女命が卑弥呼でモモソだったとしてもだ、
箸墓がはたして卑弥呼の墓であるかどうかは微妙なとこだろう。
台与の墓の可能性のほうが上だと自分は思う。
410日本@名無史さん:2012/01/27(金) 19:48:24.94
モモソの逸話は奈良ではなく讃岐や吉備に多いよな。
411日本@名無史さん:2012/01/27(金) 19:57:06.07
邪馬台国が九州だ畿内だと、前時代的な幼稚な話はもういいから、
AMS放射性炭素14測定の精度とかもっと専門的な話をしてくれ。
412唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/27(金) 20:29:38.94
年輪年代は正しい、

気候と社会の共振現象 年輪降水量。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

上記の年輪は183年から193年まで異常気象であったことを表現できている。
であるならば、このような年代のわかっている年輪で放射性炭素14測定をすると
誤差がどれだけあるかがわかる。
その修正値を年輪のわからない炭素にも充てることが出来る。
であるから、纒向の年代は非常に正確である。
しかし、年輪年代による誤差を修正してない 名古屋大(東海の編年)の数字は30年から50年古く出ている。

413日本@名無史さん:2012/01/27(金) 22:18:01.30
>>409

   o   o      
  ノi^ヽ、_,ヘ、    
  ./ _,,,......,,,_i     「海部氏系図」は朝廷の認証を得て丹後国印が押してある公的な系図です
  γノノλノ))    「海部氏勘注系図」は海部直千足が流罪になって危機感を持った状況で書かれ
  ,ヘ,ゝ゚ - ゚ノ,)    朝廷が危険視するほど不都合なことが書いてあるので秘匿された
  ,ゝ. (,_`]l[´iン     9世孫・日女命と11世孫・日女命が書かれているのは「海部氏勘注系図」ほうです
 ζ_./'~|鬥「|ゝ   
  £'r_,ィ_ァ┘    
414日本@名無史さん:2012/01/28(土) 10:48:54.42
>「東」という方角
>このようにみてくると、「東」という語はたんなる方角を現わすことばではなく、
>「朝日」と「扶桑」をシンボルとする
>上古の太陽信仰にもつながっていることがうかがわれるのではないか。
>隋の煬帝によって南北貫通の大運河がほぼ完成されるまでに、中国の動脈ともいうべき大きな河川は、
>「大江、東に去り」の熟語にも象徴されているように、黄河にせよ、淮河にせよ、揚子江にせよ、
>すべて西の山より東の海へと流れこんでいく。
>人間の想像力はその居住空間から大きく制約をうけているとよくいわれるが、
>古代中国の神仙世界がほとんど江河の両端に想定されているという現象も、それに起因しているのであろう。
>すなわち、江河の源には崑崙山、海洋の果てには三神山があると考えられる。
>そして男神の東王父は東の三神山に、女神の西王母は西の崑崙山にそれぞれ鎮座して、
>ともに不死長寿の仙薬をにぎっていると信じられる。
>したがって、東ということばに、朝日・扶桑に象徴される太陽信仰のみならず、
>大海・神山・仙薬などのイメージも附随していることがわかる。
>現代語としての「東」はただの方角を現わすヒガシ(East)と解釈されるが、
>この語には深い文化の蓄積と多彩な神話伝説がつきまとっていることをあらためて認識するべきである
http://www.japanology.cn/japanese/book/nihonzo/01/3.htm

結構、いいこと書いてるね
415日本@名無史さん:2012/01/28(土) 10:58:29.95
「東」と言えば、我々は単純に東と言う方角を意味するものと解釈してしまうが
そこには深い意味があるらしいことが書かれている。

そして、男神の東王父は東の三神山に、女神の西王母は西の崑崙山にそれぞれ鎮座して、
ともに不死長寿の仙薬をにぎっていると信じられる。
とあるが、三角縁神獣鏡にもこの神像が描かれてってことは、その起源は中国にあるはずなので
ボウセイにしろ、その書記のモノは中国製品として考えるのが順当ではなかろうか。
416日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:11:48.86
魏志は、西「日没するする所」と東「日出る所」とを銘記している。
魏朝の偉大さを、それまでも成し得なかった東西の果てに届くところに拠点を得た、
という形で称えたのだろう。
417日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:18:09.54
中国の動脈ともいうべき大きな河川は、黄河にせよ、淮河にせよ、揚子江にせよ、
すべて西の山より東の海へと流れこんでいく。

江河の源には崑崙山、海洋の果てには三神山があると考えられるらしい。
そして男神 の東王父は東の三神山に、女神の西王母は西の崑崙山にそれぞれ鎮座して、
ともに不死 長寿の仙薬をにぎっていると・・・。

これは埋葬者が中国の中の天国といえる崑崙山へと昇っていくさまを描いた もので、
その人の死の死生観が関係してるらしいですね。
日本でいう、高天原、常世国、根の国もこれと似たようなのかもしれん
418日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:18:52.34
C14測定はあてにならん。年輪年代はかなり正確な数値が出せる。
箸墓は従来通り280〜300年頃の3世紀末の古墳が正論。
419日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:26:37.34
倭迹迹日百襲姫という名前自体が固有名詞ではなく普通名詞である
可能性が高いので、卑弥呼も台与も同じ倭迹迹日百襲姫だったと
考えればいいだろう。記紀の箸墓説話のとこだけ台与のほうになってるわけだ。
証拠として、卑弥呼の死亡推定年齢は80歳以上、そのような老婆が
大物主と結婚などするか?w
420日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:26:51.80
>416
序の部分にそんなことが書かれていたね。
まあ、倭はそれ以前にも何度か朝貢してるので、ある程度、認知してあったんだろうが・・・
421日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:28:16.96
みんな、これみて

http://www.japanology.cn/japanese/book/nihonzo/01/3.htm

結構、いいことが書いてるね
422日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:33:27.74
>>419

大物主の妻になったという話は、伊勢の斎宮と同じで
未婚の巫女が神の妻になる現れと思う。

>>418
精度がましてきてるというのはよく聞くが 
いずれにしても、箸墓=4世紀に入ってからという考えも根強くある。
鐙の問題も絡んでくると思う。
423日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:36:53.21
>>394
>九州にはヤマトという古地名が多数あるのに対して、畿内とりわけ奈良盆地には古地名が
>希少もしくはないと言ってもいいくらい。「ヤマト」という地方も古地名もない。

クロネコヤマトの宅急便とか?w
424日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:39:30.81
鐙と同じ地層から出た土器は布留1式なので300年代初頭だ。
なのでその30年前に箸墓が完成してるので、280〜300年くらいの
3世紀末の築造が最も整合するよ。周濠から出た土器も布留0式だし。
卑弥呼の墓は寿陵で、円墳の可能性が高いだろう。張政は完成した卑弥呼の墓を
みてるよ。魏志倭人伝をしっかり読めば箸墓ではないことがわかる。
425日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:43:24.53
昨晩の黄幢だが、

その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。

これは六年と八年の黄幢と一緒にすべきか、すべきではないか
意見が分かれるだろうね。
君等はどんなかんじでみてるの???
426日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:46:48.11
>>424
ただ、鐙は、卑弥呼の墓の候補でもある箸墓の主体部から出ておらず
あくまでも、その周りに溝からでたんであって、主体部の埋葬と
若干の時代的な差が生じても仕方ないと思う。
20〜40年ぐらいの誤差ぐらいみていたほうがいいとおもう。
427日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:53:13.52
箸墓は築造構造が最古の形態だし、宮内庁の内部調査で
出てきた吉備系特殊器台も椿井大塚山のものより古いようなので、
前方後円墳の始まりが箸墓とみて間違いない。4世紀以降の築造ではない。
3世紀末とみるほうが他の古墳との兼ね合いからも整合するし、
箸墓以降の全国の前方後円墳は、箸墓の規格をベースにして
2分の1、3分の1の規格で作られてるので、畿内を中心とした階層制が
あったことが裏付けられる。箸墓は台与か崇神の墓とみて間違いないのでは?
と現段階では考えてる。そのどちらかでないと、あれほど突出した規模の
古墳の被葬者としては整合しない。記紀から類推すれば女性のほうが濃厚なので
台与の墓の可能性のほうがやや高いだろう。
428日本@名無史さん:2012/01/28(土) 11:53:32.18
墓誌が出てこないかな
429日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:01:29.88
箸墓は円墳部だけ最初に作ったという説は完全に否定されたようだ。
最初から前方後円墳として作られてたことが調査で判明したらしい。
卑弥呼に死後は男王が立つも各国服従せず、戦乱に突入したようなので、
巨大古墳だと作ってる場合じゃないので、卑弥呼の墓である可能性は薄いだろう。
C14測定では240〜260年という数値が出たが、これも怪しいものだ。
430日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:04:55.87
記紀に出てくる倭迹迹日百襲姫=卑弥呼 である可能性は高いだろう。
魏志倭人伝の世界と整合する部分も多い。

狗奴国の男王との不和=武埴安彦の反乱
卑弥呼の死後の混乱=崇神の四道将軍派遣
431日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:08:05.97
前方後円墳という概念自体ごく最近のモノだよ。
大体江戸時代の絵図だと箸墓は円墳で描かれたのもあるしな。
432日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:08:11.44
>>427
>箸墓は台与か崇神の墓とみて間違いないのでは?

箸墓周辺から『大市』ちゅう〜木簡が出土している。
日本書紀に倭迹迹日百襲姫命は『大市に葬り』と書いてらるので
依然として卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命説は根強くあると思う。



433日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:15:42.34
箸墓を卑弥呼の墓と仮定するとクリアーする問題が多すぎるw
鐙の問題に、殉葬の問題、張政は作りかけの箸墓の円墳部をみて径と
表したのか、ただ古墳の規模から判断して卑弥呼である可能性も
大いにあるんだが、倭迹迹日百襲姫が卑弥呼だとしたら、
崇神も同時代の人物で干支から258年に死んでるはずなので、
では崇神の墓はどこなんだという話になる。このへんが難しいところだ。
434日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:19:55.37
>>433

箸墓の形状は、綺麗な定型化された前方後円墳と言うよりも
オタマジャクシ型だからね。
いま、空から眺めてわかるんであって、空からではなく地上からあれをみて
円墳、方墳と判断できたのが疑問におもう。
435日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:20:00.54
干支から判断すれば、318年になるだろ

258年は、意図的に干支一巡引き伸ばしているだけ

436日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:21:10.96
四道将軍の一人として出てくる吉備津彦も記紀では倭迹迹日百襲姫の
弟となってるわけで、卑弥呼の死亡推定年齢は180年代に女王となった時は
30歳前後なので、90歳前後のかなり高齢の老婆だ。
吉備津彦は倭迹迹日百襲姫の死後も四道将軍として活躍してるわけで、
さすがにこのへんも不可解だ。古代とは言えそこまで長生きするもんなんだろうか。
437日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:30:51.49
>>435
卑弥呼死亡時247年頃が、崇神10年なわけでだとしたら
318死亡の崇神もどこまで長生きしたんだよww
438日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:31:03.88
まあ3世紀前後という、魏志倭人伝の時代に倭国の中心といえば、
北部九州〜瀬戸内海〜畿内という範囲を指すのはもう
否定出来ない事実なんですよ。文献解釈でも考古学的にも。
未だに九州のみに拘ってる人は、正直特殊な思想を
持つ人位でしょうな。
439日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:37:37.76
九州説などに拘泥してる人の特徴をみると、
畿内説では面白くないので、自分だけの邪馬台国を主張したいと言う
オタ心理の持ち主がほとんど。このスレでいえば、サガミハラ氏の小城や、
伊作の熊本 などがまさにこのパターン。
特に学会等の権威などには従わないと言うプライドの高さが垣間見えるので
典型的なオタ気質とみて間違いないね。こういうタイプは自分が
九州と思ったら考えを絶対に曲げない。
あとは地元が九州だから、町おこしで邪馬台国を九州にもってきたいと
考えてる人が結論ありきで九州説を叫んでるだけ。どいつもこいつも痛い奴らだよw
もう邪馬台国論争など決着してて、学者も相手にしてないってのにね。
440日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:46:57.53
学者とか発掘者は邪馬台国の話を極力避けるのはそういう事。
無駄な論争持ちかけられたりして、余計な手間はとりたくないんだよ。
殆ど言い掛かりレベルな質問とか勘弁して欲しいとか。
441卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/28(土) 12:53:36.41
あいかわらず畿内説で決まり!みたいな意見が書かれているな。
私も邪馬台国は大和だと思っているのだが、それだけでは解決したことにはならないのだよ。

なぜなら卑弥呼の比定、狗奴国の比定ができないし、何より、
大和朝廷が海を渡って外国に助けを求めに行った、などということは信じられないからだ。
九州から海を渡って助けを求めに行ったということも信じがたい。

だから朝鮮説を唱えているのだ。
442日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:53:50.71
仁徳天皇陵で古代工法で一日2000人が8時間働いて
15年かかるようなので、箸墓も10年前後は絶対にかかるはずだ。
当時の人口で2000人も墓造りに動員できたとも思えんし、
最初の前方後円墳で丘陵を利用せず、土を平地に盛った古墳なので、
卑弥呼死後の戦乱期〜女王台与の初期の民力回復期 は墓造りは
休止したとすれば箸墓の完成時期は280年頃とみてもいいかもしれない。
ただ魏志倭人伝に記述されてる卑弥呼の墓が作りかけの箸墓だと仮定しなければ
成立しないが。
443日本@名無史さん:2012/01/28(土) 12:57:11.77
自分は大きな図書館に勤務してるけど
カタカムナ文明とか古代ピラミッド山とか
オカルトに近いような古代史の分野を研究している人はたくさんいるよ
邪馬台国問題もだいぶオカルトジャンルに近づいてきてるけど
それでもまだましなほうかな
ただそういうオカルト系と研究の姿勢が近い人は多いね
444卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/28(土) 12:58:50.78
学者は(ここの人間もそうだが)、日本が海を渡って外国に助けを求めに行くということが現実的であるかどうかも考えずに、
ただ考古学で立証しようとしている。それは畿内説者も九州論者も同じだ。

具体的に、現実的に考察しようとしていない。
445日本@名無史さん:2012/01/28(土) 13:02:24.74
朝鮮馬鹿は韓伝よめよwwww
446メ(ロウリュウサービス):2012/01/28(土) 13:29:14.85
無限如は、ローガン、ジョーカーに任せて、
朝鮮バカは私が軽〜く論破してやろう。

魏志倭人伝ならぬ、魏志韓伝をみると、弁韓に十二カ国、弁辰に十二カ国、
馬韓に五十四カ国記載されてるんだが、倭人伝に載るクナ韓国というのは、その面積が少なく
朝鮮半島全体の約1/78の面積にすぎない。
ここから言えるのは、そんな狭い朝鮮半島の一部から日本列島を指揮したなんて到底考えられないことは
素人の目にもあきらかに分かる事だろう。

では、質問するが、この朝鮮半島内の78カ国を世界地から朝鮮半島を観て
それぞれどの地域にこれらの国々を比定するのだろうか?
やったことあります? ま、時間あるときでいいのでググるなりしてその
否定図でも眺めてみなさいよ。 たぶん、愕然とするんじゃない?w
447メ(ロウリュウサービス):2012/01/28(土) 13:43:25.12
>邪馬台国は大和説

いままで鏡にしろ、ヒラバル遺跡、ヒラバル遺跡、言われてきたんだが、
奈良県の桜井市茶臼山古墳から十三種類八十一面にも及ぶ銅鏡が副葬されていたことが判明している。
これは、粉々になった破鏡をフルイにかけて一つ一つ調べた成果なんだが、
この破鏡の中には、群馬県高崎市蟹沢古墳で出土した正始元年鏡とおなじ「是」字をもつものも含まれており、
大和の中枢部に魏の銘鏡があることは何を意味するんだろうか、みなさんに問いたいですね。

又、三世紀前半の方位と軸線が同じという、これまでには無かった大型建物跡が発見されている。
448メ(ロウリュウサービス):2012/01/28(土) 14:01:05.04
會稽、東冶の東だが、東治ではなく、東冶が正解だろうね。
邪馬台国は、會稽、東冶の東に存在したわけだが、これは沖縄諸島らへんになり、
たとえば、混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B7%E4%B8%80%E7%96%86%E7%90%86%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E9%83%BD%E4%B9%8B%E5%9B%B3

又は、歴代地理指掌図内の「古今華夷区域総要図」をみてもわかるとおり、
来たから、倭奴、日本、毛人、琉球、と載りこういう地理感を持っていたことが分かる。
449日本@名無史さん:2012/01/28(土) 14:17:08.83
>>441
畿内説は論争でことごとく敗北してきた。
仮説は次々に破綻して来た。
もう、聞く耳を持たず、言い張ることだけしか手段が残っていない。
念仏のようにただひたすら唱えるだけ。だから、畿内説は宗教といわれる。
450メ(ロウリュウサービス):2012/01/28(土) 14:18:25.65
あ、(ロウリュウサービス)ていうのはこんなんだよん
http://www.hanashobu.com/facilities/chimu.html

あと、釜山〜対馬〜壱岐〜松浦の三千里は、実際測定すると
魏の公認する里数よりも短いわけですが、
最近の明治時代までは〜我が日本国内においても実際の距離よりも
約4,5倍の距離と思われてたようなふしがあるわけで、現在の人工衛星を使った
ものと同じにするのは危険と判断する。
魏代にしろ、本当に三千里ぐらいの距離があると思ってたんじゃなかろうか?
451:2012/01/28(土) 14:26:48.90
>最近の明治時代までは〜我が日本国内においても実際の距離よりも
>約4,5倍の距離と思われてた

これの出典は日本国と琉球国について記述した漢文書籍の
『海東諸国紀』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%9D%B1%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E7%B4%80
らしいですお。
私は、本に載ってることを書いてるだけで、実際にこの本はみたことがない。
452唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/28(土) 14:37:28.22
>ただ魏志倭人伝に記述されてる卑弥呼の墓が作りかけの箸墓だと仮定しなければ成立しないが。

作りかけの墳墓に奴婢100人の殉葬は成立しない。
この時代に可能なのは、
ホケノ山古墳(225から250年)の大きさと
久留米祇園山古墳の全体の葬数。
453:2012/01/28(土) 14:54:02.73
鄭若曾の籌海図では伊勢湾から琵琶湖まで大きな入江があるよう描かれて
本州が二分されてるような認識だったようなことがかかれてるね。

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種   だが、伊勢湾を渡るていうのもまんざらでもないかも。
454日本@名無史さん:2012/01/28(土) 15:13:48.40
まぁ、箸墓の中に辰砂がどっさりなのは多分ガチ。
455日本@名無史さん:2012/01/28(土) 15:21:33.91
倭人伝邪馬台国の官職
イキマ=イクメ・乗仁
ミマショウ=ミマキ・崇神
ミマカキ=御間城姫
ナカテ=ヌテ・ぬてしわけのみこと
456日本@名無史さん:2012/01/28(土) 15:22:07.67
倭人伝邪馬台国の官職
イキマ=イクメ・乗仁
ミマショウ=ミマキ・崇神
ミマカキ=御間城姫
ナカテ=ヌテ・ぬてしわけのみこと

卑弥呼=モモソヒメでおk
457:2012/01/28(土) 15:24:24.76
本から引用するが

>中国では、公的使節や軍隊の陸行行程は一日四十〜五十里と定められていた。

ここから考えると陸行十日は400〜500里、陸行一月は1200〜1500里となるね。
水行と陸行はほとんど同じだから
水行二十日、水行十日・陸行一月は2400里〜3000里。
魏代の里数は「尺」の24cmかける6で「歩」の144cm、144かける300で里がでるわけだが、
これで2400里は1036km、3000里は1296kmとなり、無限如の言う東以北説もまんざらではないねw
458:2012/01/28(土) 15:29:45.17
あ、でも高速道路の料金表を観ると
東京〜福岡まで1396.3kmとなってるんで東北説はありえないか、
精々、関東までとしか考えられないんであって、東北説はなしてことでw
459卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/28(土) 15:30:45.56
>>446
メ君も浅薄な男だな。私がこれまで書いてきたことを読んでないのか。
帯方郡は遼東にあったのだよ。だから韓と倭の領土は通説よりずっと広大だったのだ。
北緯36度以南に日本的遺物や前方後円墳が発見されているから、その地が倭の領土だったかもしれないのだよ。
九州に匹敵する広さなのだ。狗邪韓国しか記載がないからといって、他に倭の国がなかったとは言えないのだ。

>朝鮮半島の一部から日本列島を指揮したなんて

こんなことは一度も書いたことはない。一体何を勘違いしているのだ?
私は日本に大和朝廷があったと言っているのだ。しかし韓半島にも倭国があったのだ。
その韓半島の倭国から卑弥呼が朝貢したと言っているのだよ。
460:2012/01/28(土) 15:36:40.02
>>459
いやいや、邪馬台国の時代の朝鮮半島は魏志韓伝をみなさいよ。
韓伝のほうに

弁韓に十二カ国、弁辰に十二カ国、 馬韓に五十四カ国、が記載されてるんだが?

朝貢物をみても朝鮮半島ではないことはあきらか(ちゃんちゃん)
461日本@名無史さん:2012/01/28(土) 15:40:05.52
遼東ってより半島東岸でしょ
その方が乍南乍東の記述にも合うし、海流の影響の少ない安全な航路
462:2012/01/28(土) 15:43:13.92
朝鮮バカは、
目をよ〜〜〜〜〜く見開いて ここをみろよ

三國志卷三十 魏書三十 東夷傳 馬韓
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/sangoku/bakan.htm

三國志卷三十 魏書三十 東夷傳 辰韓
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/sangoku/shinkan.htm

三國志卷三十 魏書三十 東夷傳 弁辰
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/sangoku/benkan.htm

お前がいかにバカかって分かるだろ?
463唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/28(土) 15:54:31.25
>>455

読みが似ていないから正しいと主張したいんだろ?
2世紀末または弥生後期後半から始まる纒向遺跡の説明も書記ではできないから
正しいと主張している。

まったく整合する部分が無いから、自己流の主張となる。
464:2012/01/28(土) 15:57:37.05
>北緯36度以南に日本的遺物や前方後円墳が発見されているから、
>その地が倭の領土だったかもしれないのだよ

朝鮮、無限如、19歳の三流士の一角でもある
朝鮮バカは、対馬や壱岐、それから北部九州や奈良県にも朝鮮系の土器が入ってる
事実を知ってるのか?知らないのか?答えておくれよ。

対馬から多くの半島系土器が出たから、「対馬は韓国の一部です!」と言ってるようなもんで
おまえさんは、朝鮮人なのだろうかw
465卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/28(土) 16:16:36.89
メ君はあいかわらず意味不明のことを書いてるな。
韓は南で倭と接す、弁辰瀆盧國は倭と界を接すと書いてあるだろ?

>弁韓に十二カ国、弁辰に十二カ国、 馬韓に五十四カ国、が記載されてるんだが?
>対馬や壱岐、それから北部九州や奈良県にも朝鮮系の土器が入ってる

それが私の論と何の関係があるのだ。なぜそれが私の説への反証となるのだ。
君らはほんとに○○だな。名古屋君が嘲笑するのも無理はない。
466志紀:2012/01/28(土) 16:28:10.96
>>440
嘘つけよ。偉いさんほど火付けて回ってる癖に。

>>439
無限如みたいに一人一説がお好きなのもいるが、もうそんな段階じゃないのは
畿内説以外分かってるよ。
お前らだけが取り残されてるんだよ。

>特に学会等の権威などには従わないと言うプライドの高さが垣間見えるので

お前は狂人だなw
ろくな権威などないから書店の店頭にもいろいろ並んでしまうんだよ。
それを回復する努力もせずに土掘りに逃避しておいて、あとは庶民=オカルター
かよ。
467:2012/01/28(土) 16:34:57.72
>韓は南で倭と接す、弁辰瀆盧國は倭と界を接すと書いてあるだろ?

弁辰と倭の間には他の国は存在しない。
北西は海と接し、南は倭と接す・・・

そして、魏略、魏志、魏書というのは、
魚豢の「魏略」、陳寿の「魏志」、王沈の「魏書」、の三書のことだが、
その三書の一つ、魏志の中にある「韓伝」といわれてる部分をみてほしい。

弁韓に十二カ国、弁辰に十二カ国、 馬韓に五十四カ国、

弁韓というのは、後の「新羅」のことで
弁辰というのは後の「加羅」のことで、 馬韓というのは後の「百済」のことを言ってるんであって
それらの国(新羅、加羅、百済)ってどこにあるの?て疑問に思う事もあると思う。
それぞれの国の範囲と言うのは、ここを観たらいいんでないの。と思う。

新羅 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85

加羅
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6

百済
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
468卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/28(土) 16:47:35.01
>>467
君が弁韓と書いているのは辰韓のまちがい。
また弁辰がのちの加羅だというのはあまり聞いたことがない。
狗邪韓国がのちの伽耶諸国というのが通説のはずだ。

いずれにしても狗邪韓国以外に倭国がなかったとは言えないわけで、
また狗邪韓国がどれほどの大きさだったのかも不明なのである。
469:2012/01/28(土) 16:51:13.67
魏略、魏志、魏書 だが、
ちなみに「魏書」ていうのは、もうこの世に現存しておらず
「魏略」は、他の中国文献でそれ引用してる部分で、部分的に観ることができる。
魏志は三世紀に作られたものだが、これも現存はしておらず、
我々が今見てるのは12世紀に発行されたものを観てるんであって、
時代的にかなりの年月がたってるので、誤字や抜け字は多少仕方ないと思う。
470唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/28(土) 16:54:49.35
>>467
上記の地図では、馬韓までが百済の領土となっているが、
馬韓に百済土器は存在しない、そして、光州方面に前方後円墳が存在する。

だから当時の状況を反映していない、妄想地図である。
471:2012/01/28(土) 16:59:13.47
>>468
>君が弁韓と書いているのは辰韓のまちがい。

弁韓は、ほぼ後漢書の弁辰と同じなので、人によっては弁韓を「弁辰」と言うんですよ。

>また弁辰がのちの加羅だというのはあまり聞いたことがない。

よく聞きますが・・・

>狗邪韓国がのちの伽耶諸国というのが通説のはずだ。

なんだそりゃw

>いずれにしても狗邪韓国以外に倭国がなかったとは言えないわけで、
>また狗邪韓国がどれほどの大きさだったのかも不明なのである。

妄想するのは簡単、文献的資料という証拠を出して下さい。
472:2012/01/28(土) 17:01:03.44
>>470
領土というのは、時代によって多少なりとも変化するんでさって
大体、上のような地図の範囲なのではなかろうか。
473日本@名無史さん:2012/01/28(土) 17:03:34.57
>>468
あなたの仮説は卑弥呼が対馬海峡を渡った先の伊都国に居たという事実を完全に無視してる
474卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/28(土) 17:07:26.59
>>471
君が弁韓はのちの新羅、と書いているから、それは辰韓のまちがいだと指摘しただけだよ。
辰韓がのちの新羅だとされているのだから。

狗邪韓国というのは魏志にしか記載がないから、あとは想像するしかないのだよ。
君だって、狗邪韓国以外に倭の領土はなかったと、文献的資料で証明できるかね?
475:2012/01/28(土) 17:15:40.01
>また狗邪韓国がどれほどの大きさだったのかも不明なのである。

弁辰伝のほうに「弁辰狗邪國」とあるんだが、ここは釜山周辺と金海市、
すなわち金海平野なんですが、ここの平野の範囲が弁辰狗邪國なので
狗邪韓国は大きくてもコレと同じか、この金海平野の一部分の大きさと言う事が分かると思う。
みんなは知ってるというか・・・・(なあ?みんな)
不明なのは君の頭の中でのことではなかろうか?
476:2012/01/28(土) 17:19:59.24
>>747
>君が弁韓はのちの新羅、と書いているから、それは辰韓のまちがいだと指摘しただけだよ。

そかそか

>狗邪韓国というのは魏志にしか記載がないから、あとは想像するしかないのだよ。
>君だって、狗邪韓国以外に倭の領土はなかったと、文献的資料で証明できるかね?

だから、書いてるじゃないか〜
世界地図を観ながら

弁韓に十二カ国、弁辰に十二カ国、 馬韓に五十四カ国、

をそれぞれ、朝鮮半島のどの部分て言うか、どの地域に比定するのか?
やってみたら分かる事じゃん。
文献的証拠として十二カ国、十二カ国、五十四カ国の合計78国が存在するわけだから・
477:2012/01/28(土) 17:23:26.50
>君だって、狗邪韓国以外に倭の領土はなかったと、文献的資料で証明できるかね?

韓伝に朝鮮半島の国々として、合計78国が存在しているので
朝鮮馬鹿以外の人は100% みんな文献的資料で証明できると思うけど?
478唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/28(土) 17:25:14.13
>>472
>大体、上のような地図の範囲なのではなかろうか。

大きな誤りだ。
高句麗に圧迫された、百済は5世紀末、6世紀初めに倭から馬韓を分与される。
つまり、百済の範疇ではない。
その6世紀初めに、倭のみとめる以上の領土を占拠する、だから、金官伽耶は541年に新羅へ降る。
つまり、馬韓は伽耶の彊場と機能していたのである。そこを、百済が占拠する=伽耶は彊場を失う=倭から離れる。

馬韓は倭の領土であり、馬韓の食料を伽耶に融通し、伽耶の鉄が倭国にもたらされる。
倭から”鉄”を見れば、無償で鉄が朝貢されるかのように見える。
だから、いくらでも副葬できる。
541年に伽耶を失った倭国は、鉄を国産する時代に入る。
479:2012/01/28(土) 17:26:52.67
>>478
そっか〜私は上の地図は適当にググっただけなので
それほど執着してるわけではない。
もっとよい地図があれば、唐さんが貼りつけて下さいよ。
480卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/28(土) 17:34:43.49
>>473
卑弥呼が伊都国にいたという説ですか?
面白いからどんどんやって下さい。反対はしません。

>>476
>弁辰伝のほうに「弁辰狗邪國」とあるんだが、ここは釜山周辺と金海市
メ君よ、そんなの一体誰が決めたんだ?
狗邪韓国と弁辰狗邪国は同じだと証明されているのか?
馬韓辰韓弁韓78国の比定地が確定していると君は思っているのか?
帯方郡がソウルに在ったことが否定されつつあるのが現状なのに。

学者だって帯方郡や78国の所在地ははっきりとは分かっていないのだよ。
(書き込み停止を食らうといけないから、これで止める。)
481:2012/01/28(土) 17:38:59.59
www
482唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/28(土) 17:40:24.78
>>479
>もっとよい地図があれば、

無い。というか韓国がそれを認めない限り、それを正しいと出来る地図さえ作成できないだろうな。
韓国にとって”未知の4世紀遺構”より、”倭は百済の属国”となる数字を好む。
百済本紀が事実と齟齬のあることまでは認めているが、
百済本紀以外の読み方はしたくない、だから、新羅本紀などとの齟齬も容認しているんだ。

旧編年(昔の考古学の数字)
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年(今の考古学の数字)
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

纏向を3代で説明できるのは新編年であり、旧編年を考古学が捨てたということは、
編年を百済本紀から新羅本紀へ切り替えたということである。

483:2012/01/28(土) 17:52:46.84
朝鮮馬鹿がバカなので疲れるぜw

朝鮮半島内の倭は、弁辰よりも「南」なので
半島内にある諸国78国よりも、日本列島側に縮みこまってることが想像できるはず。

>>459
>九州に匹敵する広さなのだ。

ていうのは、ありえないわけでwww
484:2012/01/28(土) 17:53:42.70
↑文献的証拠があるからねえ・・・
485縄嘉ー:2012/01/28(土) 18:32:01.69
>>444 :卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/28(土) 12:58:50.78
>学者は(ここの人間もそうだが)、日本が海を渡って外国に助けを求めに行くということが現実的であるかどうかも考えずに、
>ただ考古学で立証しようとしている。それは畿内説者も九州論者も同じだ。

貴殿の言われるように「卑弥呼が魏に軍事的な助けを求めた」ということが 確かであれば、列島の倭国が海を渡って外国に助けを求めに行くのは
現実的に有り得ないから卑弥呼は半島に居たと考える方が合理的だということになるでしょうな。
しかし、儂は卑弥呼の朝献は軍事支援要請ではないと思いますぞ。倭人伝の何処にもそのようなこと(匂わせるようなことさえ)は書かれておりませんからな。

486卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/28(土) 19:27:57.55
>>485
やっと私の言わんとしていることを理解してくれる人が現れた。
やはり年配者は理解がある。人生経験を積めばそういう現実的な判断が付くようになるのである。

たしかに景初二年や四年の朝貢はそうではないが、景初八年の朝貢は

倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。
倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮せしめ、檄を為りてこれを告喩す。

とあって、軍事支援とは言わなくても、とにかく調停斡旋を求めに行っているわけです。
大和朝廷が中国に助けを求めねばならないほど、それほど大和朝廷を圧迫していた勢力があった様子は記紀には微塵もなく、
九州にしても、わざわざ中国に助けを求めに行かねばならないほどの対立があったとは思えない。

とにかく、現実的に考察すればするほど、日本が海を渡って外国に助けを求めに行くなんてことは考えられないのですよ。
487日本@名無史さん:2012/01/28(土) 19:47:30.50
他の邪馬台国掲示板の曲学の徒も、自分の世界を
勝手に構築してるだけの爺さんだなこりゃ。
488唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/28(土) 20:15:50.24
>軍事支援とは言わなくても、とにかく調停斡旋を求めに行っているわけです。

逆が正解だろ
魏は、倭国を冊封体制に組み込みたい。であるならば、小国家群のままでは都合が悪い。
正始元年からその6年までが、戦争の下準備。
6年に準備が整った報告で黃幢下賜。郡付属の倭軍。
8年は、その戦いの視察。ここで、郡使は伊都国に留まり、終了までを確認する。
489日本@名無史さん:2012/01/28(土) 20:24:43.71
>>439

サガミハラハラは青森県出身だが?
490:2012/01/28(土) 20:26:38.59
>>485

縄文 よしいち君も バカだねえw
軍事支援要請というのは、なにも武力に限ってではなく
魏の後ろ盾という「権威」を借りたんですよ。

たとえば北朝鮮にロシア、中国が付いてるとしたら、
ソウルを首都に持つ韓国はどうします?ロシア、中国と対等に話せるアメリカや
近隣の日本に助けを求めるのは当然でしょう。
助けを求めるというよりは、緊張関係を報告する。

>倭人伝の何処にもそのようなこと(匂わせるようなことさえ)は書かれておりませんからな。

「相攻撃状」という、お互いが武力と武力で攻撃し合った記述があり、
武力臭い記事が載ってるでしょうに・・・・
491あらため だよん:2012/01/28(土) 20:32:02.47
軍事支援要請はいまいちかもしれんが・・・。
軍事支援要請なのか?そうではないのか?と問われると
YESなんですよね。
ただ、記述にもある通り、「報告」をしたんであって、
その結果、解決へと至る。
お互い武力と武力でやりあったわけですから、権威にしろ、武力にしろ
魏の「力」を借りたと、大げさに言うと軍事支援要請だと言えるというふうになると思う。
492稗箕狐:2012/01/28(土) 20:43:10.04
ああこっちか
493稗箕狐:2012/01/28(土) 20:48:00.91
>>467
新羅のので

伊作飡 いさくさん/イサクチャン わろす
494稗箕狐:2012/01/28(土) 21:22:48.32
半島南部戦線で押さえ込んだ結果ののが

帯方郡の直轄なのが 馬韓五拾余國及び辰韓八ヶ國

残りの韓地の諸國は 辰韓四ヶ國及び弁辰拾二ヶ國

結果は其八年(247) になってなんとかかんとか片付くのですよ

辰韓四ヶ國にはたぶんこのあたりも含まれるのか
  21.馬延國(辰韓)
  23.斯盧國(辰韓)
  24.優由國(辰韓)

弁辰與辰韓雜居 とゆうのは

弁辰と辰韓はひとつの領域にまだらめに分布とゆうことだわ

線引いてビジュアル化したいとおもうのは

近代国家像とか過去のに投影するヴューが無意識下にあったりするからだろ

国境なんていってるやつは不可つけてあげるレベルだよな
495縄嘉ー:2012/01/28(土) 21:26:03.96
>>490 :メ
あのな。卑弥呼の倭国が現在の韓国のような状態にあったわけがないだろ。
それに儂は卑弥呼の最初の朝献の目的は交易や文化、知識の入手という利益の確保と
魏の後ろ盾を国内政治の運営や外交に活かすことだと言って来ている。
そんなことまで軍事支援だと言うのは行き過ぎだよ。
496稗箕狐:2012/01/28(土) 21:40:33.69
弁辰拾二ヶ國

これは郡治の範囲外ので

有城郭 衣服居處與辰韓同
言語法俗相似 祠祭鬼~有異 施竃皆在戸西
其瀆廬國與倭接界 十二國亦有王 其人形皆大
衣服巨エ 長髮 亦作廣幅細布 法俗特嚴峻

ここのは明細とかあえて明かしたりしていないんだろうな

多少のヒントは本文に混ぜ込んであるっぽいけどさ

熊襲の女酋長のところと強力な繋がりとかがありそうかもな

てか 斯盧國のは 新盧國ので 新羅に化けると 単純に騙されてみたら

ここのの建国伝説時の王様のリモコン握っていたのは瓢箪に乗って倭国からとかだよな

まあ よくはわからんが 

わからないことはわからないこととしてハンドリングするちゅうのが

サイエンスのお約束のコアなところだからして・・・
497唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/28(土) 21:41:37.58
>帯方郡の直轄なのが 馬韓五拾余國及び辰韓八ヶ國

その通りなのだよ。
その状態のまま、4世紀に入り、永嘉の乱をへて4世紀末に高句麗が南下する。
歴史はここに繋がらなければならない。

倭国においては、3世紀中に舶載鏡、4世紀に入り倣製鏡、古墳は絶え間なく文化度が上がってゆかなければならない
498稗箕狐:2012/01/28(土) 22:03:17.65
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1327149140637

これののに一部訂正がひつようだって判明したからちょっと掻いて置くかな

正始中 (ここのは242-244でしょ)
  幽州刺史毋丘儉討句麗 遣玄菟太守王?詣夫餘
  王頎別遣追討(句麗王)宮 盡其東界

削除前  (ここのは242-244でしょ)
書換後  (ここのは242-244、及び255-257のでしょ)

「爲幽州刺史毋丘儉所破語在儉傳」 とゆう要求受け入れてみにいったら

半島北部戦線のは時期的に2段階に分かれていたのよな
499稗箕狐:2012/01/28(土) 22:05:06.14
500稗箕狐:2012/01/28(土) 22:07:14.99
なにやってんだかね

ばつ  (ここのは242-244、及び255-257のでしょ)
まる  (ここのは242-244、及び245-247のでしょ)
501稗箕狐:2012/01/28(土) 22:11:12.47
まるごとかきなおしておくわ

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1327149140/637

これののに一部訂正がひつようだって判明したからちょっと掻いて置くかな

正始中 (ここのは242-244でしょ)
  幽州刺史毋丘儉討句麗 遣玄菟太守王頎詣夫餘
  王頎別遣追討(句麗王)宮 盡其東界

削除前  (ここのは242-244でしょ)
書換後  (ここのは242-244、及び245-247のでしょ)

「爲幽州刺史毋丘儉所破語在儉傳」 とゆう要求受け入れてみにいったら

半島北部戦線のは時期的に2段階に分かれていたのよな
502稗箕狐:2012/01/28(土) 22:21:51.66
(正始)六年(245),複征之,宮遂奔買溝。
儉遣玄菟太守王頎追之,過沃沮千有餘裏,
至肅慎氏南界,刻石紀功,刊丸都之山,銘不耐之城。
諸所誅納八千餘口,論功受賞,侯者百餘人。
穿山溉灌,民ョ其利。

正始中後半のの半島北部戦線のは
丸都を捨てて扶余に走った高句麗王の位宮を追ってのので
開始時期が正始六年(245)なのね
503稗箕狐:2012/01/28(土) 22:37:32.05
従って

正始八年(247)
  (帶方)太守王頎到官のは

正始中後半のの半島北部戦線の作戦終了で

楽浪郡のフォースをもふくむところの半島中南部戦線の作戦終了をあわせて

半島での作戦が全てにおいて完了したという事象を象徴しますのですよね
504あらため だよん:2012/01/28(土) 22:49:05.10
>>495 縄嘉ー君
>それに儂は卑弥呼の最初の朝献の目的は交易や文化、知識の入手という利益の確保と
>魏の後ろ盾を国内政治の運営や外交に活かすことだと言って来ている。
>そんなことまで軍事支援だと言うのは行き過ぎだよ。

そりゃそうだw 私は始めっから軍事支援なんか言ってないしww
誰かと勘違いしてるんではなかろうか?伊作と?
505あらため だよん:2012/01/28(土) 22:58:22.09
稗箕狐氏は、なんか細かいことを書き込んでるんだが、
何が言いたいのかサッパリでつわw
それが倭人伝とどのように関わってくるのかそこが聞きたいんでつよ。

それにみんなに言いたいのは旅程記事、外交記事は興味有るみたいだが
どうして風俗記事は無視してるんだろうか?

たとえば

其木有柟、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠簳、桃支

ていう記述があるんだが、
ここらへんを調べてみると明らかに日本列島の西日本側を指している。
506稗箕狐:2012/01/28(土) 23:14:04.11
郡治に切り替えられる以前の韓地に関して

辰韓12ヶ國といい
弁辰12ヶ國といい
脳内で3つに色分けをしてハンドリングせざるをえないとゆうことは

各12ヶ國に関してなんかのかたちでのポリチックな求心力が

微弱ながらではあったにしても存在したのかなあとはおもふよ

弁辰のは単数か複数かは知らんが王が存在して直営化されずに済んではいるが

辰韓12ヶ國は8+4のかたちで分け取りと考えちゃまずいんだろうかね?

そしたら ふつうにおもいあたるのって

帯方太守の弓遵さんのこと暗に殺してくれたって書いてある「臣幘沾韓忿」さんかな

辰韓12ヶ國は内紛ぽい動きして分け取りされちゃったのかなって妄想しちゃってもんくとかいわせんからな

妄想しるのはもれの勝手だからさ
507稗箕狐:2012/01/28(土) 23:17:25.74
あちゃああ 

倭人系ののひとのの分布している領域のこととか分析してるのに

きづかないとかて

こまちゃうなあ
508縄嘉ー:2012/01/28(土) 23:19:34.66
>>504 :あらため だよん:2012/01/28(土) 22:49:05.10
>>495 縄嘉ー君

おい、君づけで呼びかけるにはお前は軽すぎるぞ。

>そりゃそうだw 私は始めっから軍事支援なんか言ってないしww

なんだとウウウ?>>490はおまえが書いたのではないのか?
509あらため だよん:2012/01/28(土) 23:30:42.11
>>508

君付けされて、それについて言及してくるなんて貴方が初めてだわ。
お前さんは何か勘違いしてるようだが、>>490のは、その八年に対しての
軍事要請の話で、誰かと間違えてるんじゃないのかい?
510稗箕狐:2012/01/28(土) 23:35:29.47
分け取りにされたっぽい辰韓ですけど

今辰韓人皆褊頭男女近倭 亦文身

住んでるひとの多数のが倭人系のDNAもってるひとだろ

形式上でも4カ国とかは郡治に編入されていなくって放置されているとゆうことは

熊襲の女酋長のところと少なくとも敵対関係にあったのでは無いとはおもふがな
511唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/28(土) 23:38:14.03
>住んでるひとの多数のが倭人系のDNAもってるひとだろ

その韓国より北方DNAが濃い現代人。
ここが終着点である。
512日本@名無史さん:2012/01/28(土) 23:39:02.51
何を主張したいのかさっぱりわからんw
513あらため だよん:2012/01/28(土) 23:45:09.32
>○
>「松本清張説」 「岡田英弘説」支持しています

馬鹿だな〜○さんは・・・
倭人伝のは、倭人に見聞きした情報ではなく、
実際に魏(郡)使が、女王のいる邪馬台国までの道のりを歩き
その旅によって万二千里という数値をはじき出したわけで、

計其道里、當在會稽、東冶之東

の記事を観る限りでは、過大とは思わんよ。
上でも書いたが・・・近代の明治時代までは、釜山〜対馬まで、実際の距離よりも
何倍かした距離と思われていたようで、実際にそうおもっていたんではなかろうか。
514稗箕狐:2012/01/28(土) 23:45:25.11
看板がもと弁韓だったのを弁辰にすり替えてくれてからに

王が存在するくせにその履歴とか正面から開示とかしないで

むにゃむにゃぼかして書いてくれちゃってる弁辰っていったいなんじゃろね
515稗箕狐:2012/01/28(土) 23:49:19.10
てかさ

今有名之爲秦韓者 始有六國 稍分爲十二國

ってはっきり書いてあるよな

ぢゃあ 弁辰のは秦王 じゃん
516日本@名無史さん:2012/01/28(土) 23:50:44.41
>>505
風俗で語るなら南方系、四国東南部しかない。
冬暖かくて丹山がある海人の里はここしかないから。
517あらため だよん:2012/01/28(土) 23:57:44.83
>>516
ま、東北説よりも四国説の方が面白いですよね。
518稗箕狐:2012/01/28(土) 23:59:02.18
まああれだわ

秦の始皇帝のゆかりのひととかから

鏡ぴかぴかのご教授とか受けたり

あまくだるシナリオ頂戴したり

子孫のDNAもってたひとたちとかが

ほんきであまくだったりしてくれたってさ

もれにはのおぷろぶれむだけどね

ふれきしぶるじゃねえとしょっくとかでかいけどさ
519日本@名無史さん:2012/01/29(日) 00:06:04.86
当時は今のインドネシアみたいに沢山の島があったけど
大地震で沈んでしまって、その沈んだ島に邪馬台国と呼ばれた建物が存在したんじゃね?
そんなに大きくない島を神聖な場所として住んでたのかもな
520日本@名無史さん:2012/01/29(日) 08:31:19.20
三国志の時代にそんな大規模近く変動があれば、
何らかの記録に残るだろうな。
521日本@名無史さん:2012/01/29(日) 08:55:55.47
日本書紀の崇神記と倭人伝の世界観がほぼ重なるから
卑弥呼はモモソでほぼ間違いないわ。
522日本@名無史さん:2012/01/29(日) 09:19:39.48
今の各種資料を見る限り、普通はそう考えるよな。

子供もいなくて三輪山の神に嫁いだ巫女で占いも行う。
桃は中国で仙果だし、弟は桃太郎のモデルの吉備津彦。
幼少のころから聡明と評判で、瀬戸内海周辺で伝承を多く残す姫だった。
倭国大乱が瀬戸内海を舞台とすれば、沿岸諸国が
モモソを倭の女王として擁立する土壌は充分ある。
523日本@名無史さん:2012/01/29(日) 09:26:14.85
となると箸墓はやはり卑弥呼の墓だな。
径百余歩の墓は箸墓以前にはないからな。
それに箸墓が全国の前方後円墳の基準規格になってるし、
卑弥呼じゃなくても台与か崇神クラスの墓でほぼ間違いないよ。
同時代にはその3人しか王はいないから、3人のうちの誰かの墓だよ。
卑弥呼が最有力。
524観客その2:2012/01/29(日) 09:52:13.36
>>523
ハナ垂れ名古屋 乙
525唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 09:54:33.15
>崇神記と倭人伝の世界観がほぼ重なるから

ここを重ねて、今の纒向を説明できるか?
誰も重ねて歴史を語らない。つまり、重ならないということである。
526日本@名無史さん:2012/01/29(日) 09:57:30.51
狗奴国の男王卑弥弓呼(彦皇子)との争い
→武埴安彦の反乱

その直後卑弥呼死亡、大いに塚を作る
→倭途途日百襲媛死亡、箸墓に葬られる

そして男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺しあった。
→崇神天皇の四道将軍派遣

また卑弥呼の宗女の台与なるもの、年十三をたてて王とした。国中はついに定まった。
→豊鍬入姫の天照祭祀

527卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/29(日) 09:58:48.84
>>515
楽浪人を阿残と呼ぶ;東方人は自分を阿と言うが、楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。

楽浪は古朝鮮のあったところ。そこが故国だといっているのだから、秦とは辰のことである。
中国の秦とは関係ない。(という説がある。)

>>521>>523
とにかく時代が一致することを証明しなければいけない。それができたらみんなが拍手してくれる。
君らが崇神は三世紀の人だと言い張ったところで、女子校生に「でも崇神天皇の崩御はBC30年となっていますよ」
と言われればそれでギャフン。返答のしようがない。
Wikiも一応、公式の編年に従っているわけで、崇神は3世紀の人というのはあくまで一部の学説。
528観客その2:2012/01/29(日) 09:59:15.82
>>521 >>523
これは、名無しのハナ垂れの名古屋の自演だね。バレバレ
529日本@名無史さん:2012/01/29(日) 10:04:32.97
C14測定で科学的データで箸墓は240〜260年代だと
証明されたしね。土器についてたおこげ以外からも植物での
C14測定でも同様の結果だったらしいし。
九州説のアホどもはそれについて烈火のごとき反論してて
笑えるけどねwそりゃそんなやつら学者も相手にしたくないんで
邪馬台国論争などから距離置きたがるわけだ。
530卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/29(日) 10:05:29.32
>>526
武埴安彦の反乱、つまり天皇家の身内争い。
そんなことでいちいち中国にまで助けを求めに行くと君は思うのか?

それに崇神天皇の四道将軍派遣は武埴安彦の反乱よりずっと以前の事。
時代の把握が無茶苦茶。
531観客その2:2012/01/29(日) 10:13:06.20
>>529 バレバレハナ垂れ名古屋
プロ固定バレてしまい名無しで自演して小遣い稼ぎ
セコいやつだ。まだ続ける気か?
532日本@名無史さん:2012/01/29(日) 10:17:26.94
>>531
プロ固定とは失敬な。おまえこそプロ固定じゃないか?
名古屋ってなんだそれ?
533唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 10:23:12.80
>狗奴国の男王卑弥弓呼(彦皇子)との争い→武埴安彦の反乱
>その直後卑弥呼死亡、大いに塚を作る→倭途途日百襲媛死亡、箸墓に葬られる

倭国乱は、攻伐暦年。暦年とは19年を1章と数えるところから発生している。

倭奴國乱は 相攻伐、暦年無主 ここで、卑弥呼共立。
534観客その2:2012/01/29(日) 10:25:02.97
>>532>>529のバレバレハナ垂れ名古屋か?
しらを切るのも下手だなお前のセコい性格が
文面に出ている。懲りないやつだそこまでして
セコく小遣い稼ぎしたいのか?
535日本@名無史さん:2012/01/29(日) 10:27:56.25
>>525
いくらでもある。
巻向なら三輪山の麓で箸墓のすぐ横。
発掘調査途中だが、大型建造物も発見され、
大量の桃の種や、近くの古墳群からは
吉備や阿波との関連性を裏付ける物も数多い。
近くには大宇陀の水銀もあるしな。
536日本@名無史さん:2012/01/29(日) 10:33:54.88
つまり現時点でも倭の中心は瀬戸内海周辺諸国という事は揺らがない。
大陸人は水銀朱を欲して、倭人は半島南部にある鉄を欲した。
という事でしょう。2〜3世紀の倭国大乱のベースは。
537卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/29(日) 10:38:59.49
メ君が、韓には78国もあるのだから倭の地域は狭小である、などと意味不明のことを書いているので、再度説明しておく。

陳寿は馬韓を馬韓国とは書いていない。馬韓の中の国々を〜国と書いている。辰韓、弁辰にしても同じ書き方である。
ということは、韓は南で倭と接すと書いてある倭とは、倭の国々を含めた総称である。

狗邪韓国が〜国と書いてあるということは、それが倭の国々の中の一国であるということである。
つまり朝鮮半島には狗邪韓国以外に倭の国々があったのである。

また弁辰の中に弁辰狗邪国があると書かれており、弁辰のトクロ国が倭と界を接すと書かれている。
だから明らかに弁辰狗邪国と狗邪韓国は別の国である。
538日本@名無史さん:2012/01/29(日) 10:40:06.09
倭国大乱のベースは気候の寒冷化が影響していると考えられます。
三国史記新羅本記に新羅192年4月大雪、後漢193年6月寒風冬の如し、
倭人が食糧難で渡海してきたと書かれてます。
2世紀末というのはちょうど倭国大乱〜卑弥呼共立の時期であるので、
寒冷化による食糧事情の悪化と後漢朝の衰退に伴う奴国伊都国の権威低下により、
倭国大乱となり、新しい政治システムが構築され、
倭国が再編されたと考えていいでしょう。
倭国の王として最もふさわしいのが、
当時太陽神を祀る鬼道に仕える卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命 だったと考えられます。
倭国大乱を九州内限定ととらえるいまだ九州説の人は頭悪い馬鹿ですw
高地性集落の分布からも倭国大乱は九州内限定で起こったことではないことを
示しています。
539唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 10:44:48.27
>>535
>発掘調査途中だが、大型建造物も発見され、

辻の3世紀前半の大型建物、古韓尺が使われている。←誰の時代でしょう。
その建物を取り壊し、土盛りと整地。土盛りをすれば、土地は乾く、均す=代
3世紀半ばの大型建物←だれの建物ですか?
540日本@名無史さん:2012/01/29(日) 10:47:41.30
「箸墓に眠る女王」という本を執筆中なので
ここでもいろいろ情報仕入れていきます。みんないろいろ教えてね。
541唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 10:54:13.45
>>540
忠告 
箸墓は、最初の大王墓である。
この時代に女性の大王は存在しない。
歴史本でなくオカルトものですか?
542稗箕狐:2012/01/29(日) 10:56:33.90
>>537
まじめもーどですねえ

ごめんなさい >>515 のは釣りです

いちど >>518 みたいなこと書いてみたかったのね
543日本@名無史さん:2012/01/29(日) 11:04:24.02
>>541
何故そんなに必死なの?
現時点では断定なんて出来ない、まだ発掘自体数%ですから。
但し倭人伝の年代、世界観に近いモノがあるのは
否定出来ないでしょ、すぐ近くの鍵・唐古遺跡と含めて。
544日本@名無史さん:2012/01/29(日) 11:07:58.46
畿内説も完全に矛盾する二つの考えが並存しているような…。

一つは、卑弥呼の時代を大和朝廷の一過程であるとする考え。
倭迹迹日百襲姫という大和朝廷の姫を卑弥呼に比定していたりする。

かと思えば、卑弥呼の共立と共に纏向が建設され、ヤマト政権という主体不明な
連合政権が出来る。だから、
大和朝廷と呼ばれるような組織が出来るのは7世紀あるいは8世紀というような考えになる。
545唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 11:09:56.48
>今有名之爲秦韓者 始有六國 稍分爲十二國

辰国の建国は、西暦42年(といわれている)
そのころ6国であったものが、238年ころには12国となっている。
自分から王を立てられず馬韓人が辰王である。
これを日本に当てはめると
天照が大王の如くに見えるが、現実は大物主が倭国の大王であり、
崇神に譲位するまで続いた。
辰国においては、正始年間の反乱が王位の転換点か?
546日本@名無史さん:2012/01/29(日) 11:11:06.49
>>541
邪馬台国本は主観的なオカルトじみた妄想ばかりなので
逆に現実的な本にするつもり。魏志倭人伝の行程解釈といった不毛なものにも
手を出しません。自費出版で出すし自由に書くつもり。
第一章は女王の都 と題し、倭国大乱の原因から卑弥呼共立までを。
第二章は卑弥呼の鏡と題し、三角縁神獣鏡 について、第3章は
箸墓に眠る女王と題し、箸墓について書く予定。
150ページくらいの薄いさくっと読める本に仕上げたいです。
547稗箕狐:2012/01/29(日) 11:23:29.46
>今有名之爲秦韓者

ここのところは

「今これを名づけて秦韓と為す者あり。」 とよむのに賛成です。

とゆうことは

「辰韓=秦韓だ、そんなことねえよ」と陳さんが言っていますのですよ。

でっ >>518 のはまじです。
548唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 11:24:09.32
>第一章は女王の都 と題し、倭国大乱の原因から卑弥呼共立まで

北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

卑弥呼共立は倭奴國の出来事である。
この卑弥呼を大和の持ってくるのは至難の業。
通常モモソ姫=卑弥呼で時代を合わせるが、纒向遺跡の説明もできない。
纏向遺跡を >>538 さんの193年冷夏飢饉から説明する必要がある。

>三角縁神獣鏡は桜井茶臼山からである。箸墓の後。
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)(中)大倭は伊都国に1大卒を置く
纏向4類(後)箸中山(260±?)・燈籠山、布留0の指標、九州UA在来土器の衰退
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。九州UB
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
549稗箕狐:2012/01/29(日) 11:28:53.67
>>545
からまつだめぽ。。。。。それって扶余・句麗ルーツので、さらにその先のが濊ののね

ないあたまで(以下略)
550日本@名無史さん:2012/01/29(日) 11:32:58.02
>>548
そう、そういうオタクじみた勝手な妄想は大嫌いなので
書きませんw
551唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 11:34:22.97
それでも 金官伽耶(狗邪韓国)の建国は崇神58年ころであり
新羅209年、三国遺事211年。
である。
552日本@名無史さん:2012/01/29(日) 11:39:56.15
>>551
それはあんたの勝手な妄想w
いい加減気持ち悪いから自分のブログでやりなよ。
誰もそんなもん相手にもしないよ。
553日本@名無史さん:2012/01/29(日) 11:51:01.14
>>548
既に自己内で説が完結している(悪く言えば硬直している)ね。
でも、もう少し別角度からの視点も必要だと思うよ、マジで。
554箸墓に眠る女王:2012/01/29(日) 11:54:49.31
自分は素人だけど、本の内容は出来る限り厚くしたいので
取材は徹底的にやる。多少独自性も出さないと本出す意味もないので
そのへんも考えないと。
555唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 11:54:59.01
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
新羅本紀より
209年 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。
ホツマ ホ34129 ミマナのアヤ 崇神58年
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は211年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)加羅に援軍を送る。
ホツマによれば、崇神58年にツノガアラシトの訪問を受け、兵を授ける。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカラ、金官伽耶、任那)は存在する。
556日本@名無史さん:2012/01/29(日) 11:59:27.09
ホツマか、否定はしないが盲信は危険だね。
古事記と同じ、文献資料の一つだよ。
557唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 12:00:13.67
>それはあんたの勝手な妄想w

勝手な妄想とは、文献もないところに、その出来事を設定すること。
つまり、崇神世=卑弥呼の設定には、それを鋳正しいと出来る文献は皆無である。
しいていえば、箸墓伝承のみ
文献を複数用意している場合は、推定となる。
558デビュー作「箸墓に眠る女王」:2012/01/29(日) 12:06:20.27
攻め方は多々ある。土器編年、C14測定、特殊器台、鐙
ここらへんから総合的に箸墓が卑弥呼の墓だと立証できれば
いいだけの話。今度自分が著書でちゃんと立証するよ。
559唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 12:12:51.13
>>556
ホツマは無視してよい。しかし、崇神末に任那より朝貢がある←無視は許されない。
つまり、崇神は、纒向遺跡のどの年代をあてがえるか?
纏向遺跡 2世紀末(弥生X様式)から箸墓(布留0)をどう説明するか?
箸墓=モモソ姫では、前半の説明が出来ない、また垂仁・景行の居場所もない。

後漢193年冷夏飢饉=崇神5,6年災害に設定すると
箸墓=最初の大王=九州から関東へ派兵。
九州の庄内式土器の説明もできる。
だから、これを推定という。
560デビュー作「箸墓に眠る女王」:2012/01/29(日) 12:17:21.36
唐松山はまじいらないわw
妄想話はもうたくさんだし、科学的見地から箸墓築造が
卑弥呼と同時代だと立証しさえすれば、そんな妄想話は全部吹き飛ぶんだよw
古代史など考古学をベースに、あとは信頼できそうな文献と
整合させるのが正しい。でないと妄想ばかりになるし。
561唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 12:19:16.76
>>558
土器編年に文献を整合させる。ここが出発点となる。
このスレを最初から読めば、それらを書き込んでありますから参考にしてください。
562日本@名無史さん:2012/01/29(日) 12:20:17.49
ま、C14はやめたほうがいいね
563唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 12:36:09.34
纏向遺跡のみでいえば、C14は非常に正しい。
なぜならば、年輪年代の木目単位で誤差を割り出しているとみてよい。
考古:2世紀末各地の土器が纏向に持ち込まれる←年輪年代。
ホケノ山(225から250年)=C14 垂仁の墳墓であれば239年築造である。
箸墓(260±年→250±10年)←卑弥呼に合わせるために曲げられているが景行墓であれば、263年
564デビュー作「箸墓に眠る女王」:2012/01/29(日) 12:53:21.41
年輪年代のほうは何年何月までピンポイントで合わせれるよ。
なので池上曽根遺跡がB.C1世紀まで遡るのは正論であり、
同時に古墳時代開始も3世紀からに遡るよ。
C14はそこまでの精度はないが、今後データをもっととっていけば
精度も高まるし、現状でもそこそこ高い精度はあるよ。
565日本@名無史さん:2012/01/29(日) 12:55:51.53
年輪年代で何月、はちょっと無理じゃね?
566唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 13:02:25.61
 沼津市教育委員会は7日、発掘調査を進める辻畑(つじばたけ)古墳(同市東熊堂)が3世紀末までには築造され、
少なくとも東日本最古級の前方後方墳と分かったと発表した。研究者の中には、卑弥呼(ひみこ)が生きていたとさ
れる時代の230年前後の築造で、日本最古級の古墳とする指摘もあり、

名古屋大は、C14であるが、誤差修正に誤りがあるため、纒向とは整合しない。
567日本@名無史さん:2012/01/29(日) 13:05:19.80
C14は、日本独自の校正曲線ができてそれが多くの考古学者に妥当と認められるまで
少なくとも10年はかかるだろうな
568日本@名無史さん:2012/01/29(日) 13:05:44.85
まぁ俺は箸墓が卑弥呼の墓だとは思ってる訳じゃない。
畿内説でモモソが卑弥呼説だが、実は墓の候補は別にもある。
まだ誰も注目してないけどな。
569日本@名無史さん:2012/01/29(日) 14:03:52.36
>>557
君の説も妄想だよね
根拠ゼロだろ
570日本@名無史さん:2012/01/29(日) 14:07:11.57
崇神没年258年とか318年などというのはとりあえずの目安にしかならない
記紀の干支が後代に適当に後付けされたものである可能性はかなりある
571日本@名無史さん:2012/01/29(日) 16:19:18.22
>>538 :日本@名無史さん:2012/01/29(日) 10:40:06.09
>倭国大乱を九州内限定ととらえるいまだ九州説の人は頭悪い馬鹿ですw
>高地性集落の分布からも倭国大乱は九州内限定で起こったことではないことを
>示しています。

この文章は小学生のレベルだから説得力が全くない。それどころか書いた目的からすれば逆効果をもたらしている。
572唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 16:34:39.95
>根拠ゼロだろ

根拠を何に求めるか?
書記の記述を正しいとした場合。
崇神は纒向のどこに整合させられるか?この数字と場所の設定からである

崇神5,6年=新羅192,3年 後漢193年 冷夏飢饉
崇神11年 考古:2世紀末各地の土器が持ち込まれる。
崇神世 任那建国 新羅209年、三国遺事。
崇神末任那より朝貢
3世紀初めの大型建物に古韓尺が使われる←珠城宮
ホケノ山古墳(225から250年)石囲い木槨 楽浪鏡 庄内3式期末
殉葬墓、穴あき壺=埴輪の始まり。

どうですか?
これは推定であり、妄想ではない、それだけの文献と考古学の数字に合わせてある。
573唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 16:50:13.57
ホケノ山古墳(225から250年)は素晴らしいことに、239年を含んでいる。
つまり、邪馬臺國の官の名と合致すれば大和説にとって大きな前進である。
都市牛利(たしうり)=田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王=景行 になる
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
574日本@名無史さん:2012/01/29(日) 17:40:11.90
ホケノ山は阿波との関連性が高いからな。
これをどう判断するかだね。
575唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 18:44:10.50
ホケノ山古墳3世紀第2四半期(225〜250年) 石囲い木槨
大型壺(瀬戸内系、高さ77センチメートル・最大径65センチメートル)
中型壺(東海系、高さ26センチメートル・最大径24センチメートル)
銅鏃 約60本・鉄鏃 約60本・素環頭大刀 1口・鉄製刀剣類 10口・加飾壺
画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面
画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片
鉄製農工具
穴開き二重口縁壺20体(庄内式)≒埴輪

埴輪は、大和と吉備・出雲が関係することをあらわす。
大和と任那の中間に、阿波・播磨・但馬を含む“日矛”系の存在がある。
しかし、この勢力は吉備とは関係が無い。
播磨 綾部山39号墳 『石囲い』 画文帯神獣鏡
葬送儀礼に讃岐地方から運ばれてきた土器が使 われていた。
播磨の墳丘墓からは吉備の土器が出土しない。
576日本@名無史さん:2012/01/29(日) 18:48:06.63
ホケノ山は阿波と縁深いでしょ。
荻原1号基との関連性だね。
577日本@名無史さん:2012/01/29(日) 19:01:25.12
宗像(伊都国)−高松(投馬国)−奈良(邪馬台国)
巫女巫女ネットワーク=女三国
578デビュー作「箸墓に眠る女王」:2012/01/29(日) 19:22:23.32
ここで取材させてくれよ。266年の台与の晋への朝貢が
起居注に書かれてるなら、なぜ台与の次の男王は梁書に
わずかに書かれてるだけなんだ?
男王が朝貢したのはいつ?300年頃から八王の乱が
起こるのでそれ以降に朝貢したのは難しいとみてるが。
579唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/29(日) 19:59:50.12
266年 泰始二年 十一月己卯,倭人來獻方物。
273年 泰始九年 夏四月戊辰朔,日有蝕之。(神功元年あづない)
274年 泰始十年二月,分幽州五郡置平州。
276年 咸寧二年二月丙戌,東夷八國歸化。秋七月,東夷十七國內附。
277年 咸寧三年是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落 內附。
278年 咸寧四年三月東夷六國 來獻。是歲,東夷九國內附。

景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵(263年)。
成務天皇 262年〜265年 ≒3章 仲哀と同じ暦の可能性がある。
仲哀天皇 266年〜274年 ≒0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜343年 磐余稚桜宮は、桜井茶臼山 誉田御廟山までは110年。
応神天皇 344年〜384年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。

神功渡海とは、伊都国に置いた1大卒の行為を半島で行う為である。
580日本@名無史さん:2012/01/29(日) 22:20:33.06
>>578

   o   o      
  ノi^ヽ、_,ヘ、    
  ./ _,,,......,,,_i     「晋書」の記述では武帝の在位中「東夷十七国内附す」というような書き方をしていて
  γノノλノ))    それが何国であるか不明であるとのことです
  ,ヘ,ゝ゚ - ゚ノ,)    276年から291年までの期間にその記事が多く書かれている
  ,ゝ. (,_`]l[´iン     この中に倭国が含まれていないという証拠はどこにもないとのことです。
 ζ_./'~|鬥「|ゝ   
  £'r_,ィ_ァ┘    
581日本@名無史さん:2012/01/29(日) 22:49:56.10
>>578
梁書には、「其後復立男王、並受中國爵命」と書かれている。
つまり、台与と男王は、中国の爵命を並び受けている。
こういう機会というのは、266年の晋への朝貢のとき以外には考えられない。
それ以外で、中国の爵命を受ける機会などない。

ということは、晋書には倭女王としか書かれていないが、その影には男王の
存在もあったことになる。

ちなみに、台与と男王は並存していることになる。
582日本@名無史さん:2012/01/29(日) 23:16:45.01
>287年 太康8年 八月,東夷二國內附。 288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。
>郡國二十四螟。 289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。
>同11月、 軍を再編する。是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。

何て読むん?
583日本@名無史さん:2012/01/29(日) 23:27:46.50
>>582
>東夷七國詣校尉内附
東夷七國が校尉内附を詣でた、と読みたいが、
「讃又遣司馬曹達」を、讃がまた司馬曹達を遣わした、と読みたい人は、
東夷七國が校尉内附を遣わして詣でた、ということになるらしい
584日本@名無史さん:2012/01/29(日) 23:29:07.66
>東夷十七国内附す

倭の可能性もあるのかもしれないが、国名までは分からない。
585日本@名無史さん:2012/01/30(月) 00:02:06.69
>>583
内附とは、降伏して服属すること。

東夷七國校尉に詣りて内附す
東夷の七カ国が校尉のところまできて服属した
もちろん、国が校尉のところに来れるわけないので、東夷の七カ国の使者が校尉のところまで来たということ。

>「讃又遣司馬曹達」を、讃がまた司馬曹達を遣わした、と読みたい人は、

読みたい人ではなくて、そうとしか読めないし、上に書いたように
>東夷七國が校尉内附を遣わして詣でた、
ということには絶対ならない
586日本@名無史さん:2012/01/30(月) 00:10:24.71
>>585
讃がまた司馬曹達”へ”遣わした、
とも読める
587日本@名無史さん:2012/01/30(月) 01:55:07.74
>>586
そんな用例見たことない
588日本@名無史さん:2012/01/30(月) 08:34:52.51
唐松山もいい加減うざい。
そんなに自分の説に自信があるなら
古代史関連の雑誌にでも投稿しろ。
採用されなきゃその程度のレベルってこったw
589箸墓に眠る女王:2012/01/30(月) 09:52:24.38
皆さん、ご意見ありがとう。
やはり晋の武帝記の東夷朝貢は知っておりましたが、
倭国が含まれているかわからなかったのでお聞きしました。
やはり台与と同時に爵命を受けたと考えるべきですか。

執筆しようとしてる本は独自性を出すのが非常に難しく、
独自性がないなら、専門家より下の価値のないものだと指摘され
その通りだと思いなおしたので、私も論文投稿に切り替えようと思います。
590日本@名無史さん:2012/01/30(月) 10:08:48.70
キチガイ
591日本@名無史さん:2012/01/30(月) 18:54:31.13
age
592日本@名無史さん:2012/01/30(月) 20:28:20.36
唐ぁ松ぅ♪(UP) 唐ぁ松ぅ♪(UP) 唐ぁ松ぅ♪(UP)

唐ぁ松ぅ♪(UP) ドンと来い♪に負けるな!
593日本@名無史さん:2012/01/30(月) 21:27:30.71
邪馬台国はもうやめとけ。唐松山みたいな痛い気違いが
妄想垂れ流すだけの世界だよ。なので専門家ほど邪馬台国などとは
距離置いてるよ。邪馬台国は畿内で間違いないし、
そんなこともわからん馬鹿でオタクがまだ九州だ四国だ東北だと
わめいてるだけだよ。そりゃそんなやつらプロは相手にしたくはない罠w
594日本@名無史さん:2012/01/30(月) 21:40:45.84
>>589
まあ、あせる必要はないわけで、興味を持ち続ければそのうち答えが
出るでしょう。本を書くのは人のためではないのだから、評判なんかは
気にする必要はないと思う。
人に認めてもらいたいために本を書こうとするのなら別だが。
595日本@名無史さん:2012/01/30(月) 21:47:09.17
邪馬台国本など素人が書くのはやめとけ。
学問からかけ離れたトンデモ説のオンパレードになるのが落ちだから。
本屋にある素人が書いた邪馬台国本も、邪馬台国は四国にあったとか
題名からしてトンデモない代物のやつや、
ほとんどは素人らしく倭人伝の行程解釈のみに拘泥して、
水行陸行を独自に解釈して、大分や宮崎あたりに邪馬台国を
もってくパターンだらけだよ。で神武とからめて東遷したと結んでおしまいw
素人が本など出せば所詮その程度のもんにしかならんしやめとけ。
596日本@名無史さん:2012/01/30(月) 21:56:25.45
>>589
論文ならC14や年輪年代みたいな科学的手法の精度検証みたいのが
やりやすいと思う。はっきり言って邪馬台国関連の文献解釈は
もうやり尽くした感があるし、うんざり感もあるのでやめたほうがいい。
597日本@名無史さん:2012/01/30(月) 21:57:43.50
行程を考えずに畿内説をいう輩よりはずっとましだろう。
598神奈川県民:2012/01/30(月) 21:58:21.92
>笑えるせーるすまん 自惚れ親父 無限尿
>その公式< 水行一日=千里 >を当て嵌める=換算するのか?
>いい加減にしろよキチガイ。

>ゴミため氏は「海路は千里単位で記されている」ということから「一航海=千里」「一日航海=千里」を導き出しているようだが、
>論理が飛躍し過ぎてると言わざるを得ないな

水行一日=千里? 
笑えるせーるすまん(別名ゴミため氏)さんが
あまりにも悲惨なので、助言して差し上げますが・・・

【出典】
隋書·流求伝「琉球国まで水行五日」

と言ってやりなさい。
ここから計算すると対馬〜壱岐間の水行一日=千里もありえるでしょうね。
599日本@名無史さん:2012/01/30(月) 22:03:06.07
行程はかれこれ300年くらいやってるのにまだ答えでないし
いい加減そこから攻めるのは不毛だと気付けよw
まだ気付かない馬鹿が延々やってるだけさ。
というより邪馬台国論争自体、もう馬鹿馬鹿しいから
賢い奴から手を引いてるよ。まだ畿内だとわからんのは
単純におつむが足りてないだけ。そういう馬鹿にはつける薬はないから
賢い奴は相手にしたくもないんで、邪馬台国は避けてるのさ。
600日本@名無史さん:2012/01/30(月) 22:09:43.25
一日の陸行距離は15キロくらい。
水行も数々の実験や記録では、
時速1ノットから2ノットがせいぜい。

8時間とか10時間航海するとすれば
やはり、陸行距離と似たようなもの。
よくて倍くらいだろう。
601日本@名無史さん:2012/01/30(月) 23:48:50.47
>>595
邪馬台国本は当たり外れがあるよねw
602日本@名無史さん:2012/01/31(火) 00:17:29.79
>琉球国まで水行五日

流求國、居海島之中、當建安郡東、水行五日而至
http://www.geocities.jp/intelljp/cn-history/zui/ryukyu.htm

流求國が台湾ならば、約100km
流求國が沖縄ならば、約500km ぐらいだろうか。

そうすると台湾ならば、水行一日は約20km、沖縄ならば、約100kmとなる。
たぶん台湾なのだろうが・・・対馬〜壱岐間は2,3日かかっただろうね。
まあ、水行一日も夢ではないと。
603日本@名無史さん:2012/01/31(火) 00:30:04.39
ただ、流求國が沖縄ならば、約500kmの距離になり、
烏丸・鮮卑・東夷などは千里が約70〜100kmで記載されてるので
水行五日が約500kmだから、水行一日は100kmとなり、
釜山〜対馬〜壱岐〜松浦間は、どこをとっても100km以内なので
水行一日=千里がピタリと一致することになる。
604日本@名無史さん:2012/01/31(火) 00:37:40.18
東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻

これは日本かい?
605日本@名無史さん:2012/01/31(火) 00:44:28.14
もし、台湾だとすると、この「水行五日而至」記事を考えると
釜山〜対馬〜壱岐〜松浦間は、2,3日ではなく、3〜5日ぐらいてことになる?
いずれにしても、仮に台湾だとしても、一日は24時間あるので
水行一日=千里 説もp夢のまた夢っていう話ではないと思う。
606唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 10:08:27.31
>東夷絕遠三十餘國、

関東、東北の可能性は大きい。
607唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 10:43:38.94
公孫氏、東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,
(東夷九種)を東夷九國にしてその他は各九國に付して治めた可能性が有る。

公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。
文俶は東夷校尉となり、290年 文俶は惠帝(290〜306)に仕える。
289年 太康十年五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。
291年 太熙元年二月辛丑,東夷七國朝貢。三月辛卯,誅太傅楊駿,駿弟衞將軍珧,太子太保濟,中護軍張劭,
散騎常侍段廣、楊邈,左將軍劉預,河南尹李斌,中書令蔣俊,東夷校尉文淑,尚書武茂,皆夷三族。
太熙元年 是歲,東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。

「皆夷三族」夷と呼ばれる地方も内国化が進む?
608日本@名無史さん:2012/01/31(火) 17:40:28.69
>>572
答えは記紀は正しい歴史を書いていない


論破終了
唐松山さんお疲れさまでした^^
609志紀:2012/01/31(火) 18:40:10.61
ほつまじじい、うっとーしすぎw
どっか逝けよ。
巻向とかに無理に合わせるとか、もういーって。
610唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 18:47:13.37
>答えは記紀は正しい歴史を書いていない

この答えを得るのは簡単である。百済本紀を正しいとした場合の結論がこれにあたる。

百済本紀が使えない歴史書であることは、広開土王の南下を最小限にしか認めないことで
明白な通り、時空に間違いがある。

神功元年 あづないの罪は273年の日食である。
323年神功49年 半島は政治的空白となる。占拠は可能
326年神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年

この様に記紀は正しい歴史書である。
611日本@名無史さん:2012/01/31(火) 19:03:10.04
>>599
そう思うならお前も邪馬台国から手を引かんかい。もう論争に加わるのはやめたと言いながらどうしてまだこの邪馬台国スレにいるんだ?。さあ早く消えろ。
612日本@名無史さん:2012/01/31(火) 19:11:36.82
>>610
でたらめ乙です寿命が100歳とか120歳とか書いてる時点で信憑性は格段に落ちる
おまけに


326年神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年

七支刀は372年か369年です間違えないようにね
613唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 19:26:37.56
>七支刀は372年か369年です間違えないようにね

この数字では、半島占拠は否定されている。
そして、夢村土城などに、未知の4世紀遺構が存在する。それが、
342年 前燕は高句麗の丸都に攻め込む。
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
この342年時点の百済である。

この説明ができなくてはならない。

614日本@名無史さん:2012/01/31(火) 19:29:19.41
>>613
半島占拠は否定していい誇張されている

>未知の4世紀遺構

日本とは関係ない

> 前燕は高句麗の丸都に攻め込む。
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
この342年時点の百済である。

これと七枝刀の間につながりなど無い

ほらよ論破
615日本@名無史さん:2012/01/31(火) 19:29:51.29
最近、太国はどうしたんだ。
アク禁か?まさか・・・・
616唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 19:38:50.60
372年に相当する記事は、下記の如くである。

《咸安二年[372]春正月辛丑、百濟、林邑王、各おの使を遣わし方物を貢ず。六月、使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。》
応神天皇二八年(丁巳二九七)九月◆廿八年秋九月。高麗王遣使朝貢。
仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月◆冬十月。呉國。高麗國並朝貢。

どうやっても半島占拠は成立しない。

>未知の4世紀遺構 日本とは関係ない
百済は、自分から倭に臣従することを誓っている。それが七支刀である」。
617唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 19:50:01.27
370年 前燕滅亡。これにより燕軍の駐留から解放された高句麗は
百済主導の元、倭国を訪れる。
百済は東晋の使者を倭国に案内する。
618日本@名無史さん:2012/01/31(火) 19:59:12.83
>>616
応神天皇二八年とか仁徳天皇五八年とか編年を信じてる時点で論外
その頃の編年はでたらめ天皇の寿命もでたらめ

>未知の4世紀遺構 日本とは関係ない
百済は、自分から倭に臣従することを誓っている。それが七支刀である

反論にすらなってないよ?わかってる?スクリプトじゃあないんだからまともに答えろ糞コテ
619唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 20:14:08.97
神功皇后 275年〜344年
応神天皇 345年〜387年
仁徳天皇 313年〜399年
350年 応神天皇七年(丙申二七六)九月。高麗人。百濟人。任那人。新羅人。並來朝。
371年 応神天皇二八年(丁巳二九七)九月。高麗王遣使朝貢。
370年 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。

高句麗が倭国を訪れる時空は、半島が安定した350年と前燕滅亡の時期のみである。

>その頃の編年はでたらめ天皇の寿命もでたらめ
でたらめは、允恭4年のクガダチで説明されている。だから世継ぎはでたらめである
しかし出来事がでたらめとはどこにも書かれていない。
620唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 20:23:16.27
古事記の崩御干支 編年考察 古事記の干支を仲哀9年(応神誕生)に合わせ検証すると。

崇神天皇 188年〜216年 戊寅(186年?)・垂仁天皇 217年〜239年・景行天皇 240年〜261年 
成務天皇 262年〜265年 乙卯・・・267年乙卯 (成務仲哀は同じ暦?)
仲哀天皇 266年〜274年 壬戌・・・274年壬戌、応神誕生。 神功皇后 275年〜343年 
応神天皇 344年〜384年 甲午・・・366年甲午(書き換えがある)
仁徳天皇 313年〜399年 丁卯・・・399年丁卯・・・仁徳治世は空白を含み33年間(343年まで)
履中天皇 400年〜405年 壬申・・・404年壬申・・・帯方界への侵攻で死亡、兄王か?。
反正天皇 406年〜411年 丁丑・・・409年丁丑
允恭天皇 412年〜453年 甲午・・・応神死亡から120年後(311年から120年。431年死亡? 賛)。
允恭天皇二四年(乙亥四三五)六月内乱。
安康天皇 454年〜456年 珍・済  元嘉二十年(443年)、倭国王の済
雄略天皇 457年〜479年 己巳・・・461年己巳 (462)済死し、世子興遣使貢献す。
清寧天皇 480年〜484年  顕宗天皇 485年〜487年  賢天皇 488年〜498年  武烈天皇 499年〜506年
継体天皇 507年〜533年 丁未・・・(499年?)

神功皇后の登場しない古事記も
仲哀の死亡から、仁徳の死亡までは同じ時空である。
つまり、この時空は世継ぎが書き換えられている。
621日本@名無史さん:2012/01/31(火) 20:24:19.51
>>619
神功皇后 275年〜344年
応神天皇 345年〜387年
仁徳天皇 313年〜399年

根拠は?・・・よもや倍年歴とか言うまいね唐松くん

>でたらめは、允恭4年のクガダチで説明されている。だから世継ぎはでたらめである
しかし出来事がでたらめとはどこにも書かれていない。

馬脚を現したな
クガタチは来歴を偽るものが多いから行ったのでは?
それと長すぎる寿命は関係ない
622日本@名無史さん:2012/01/31(火) 20:27:06.67
>>620
よくまあここまで出鱈目を書けるもんだ感心するよ
君はそうとう電波だね
623唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 20:41:34.00
神功元年 あづないの罪=273年日食
273年 泰始九年 夏四月戊辰朔,日有蝕之。(神功元年 あづないの罪)
274年 泰始十年二月,分幽州五郡置平州。
278年には東夷9種(9国)がそろう。倭国はこの一種である。

纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)(中)大倭は伊都国に1大卒を置く
纏向4類(後)箸中山(260±?)・燈籠山、布留0の指標、九州UA在来土器の衰退
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。九州UB
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。九州UC 那珂八幡古墳

半島の土器が管理されたかたちで西新町遺跡などに存在する。
神功から応神にかけては百済王朝が存在するからこの数字は動かせない。
七支刀は326年が妥当な数字として存在する。
丁度半島は政治的空白であり、占拠可能な時空である。
624唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 20:46:19.31
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。九州UC 那珂八幡古墳
纏向5類(前)東殿塚・下池山
纏向5類(中 プレ )行燈山・黒塚・メスリ山 308年永嘉の乱
纏向5類(中 後 )渋谷向山 五社神古墳
纏向5類(後プレ)椿井大塚山 316年晋滅亡、
考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。

旧纏向5式 旧編年 纏向5式(新)〜6式 (布留2〜3) 仲津山古墳
布留3=第3四半期。韓国布留3第2四半期。350年以後。 
旧纏向6式 須恵器を伴う 370年前燕滅亡 TK73石津丘古墳
TK216誉田御廟山古墳
ON46大仙古墳
最初期の須恵器は京都方面で389年の木材の近方で出土している。
 一方韓国では現在までの発掘調査の結果、最古の陶質土器窯の一つである慶南
昌寧郡余草里窯跡の操業は4世紀末と想定されている

考古:北部九州から半島の土器(居住区)が消える。ここが、316年西晋滅亡であり
仁徳4年の課役の停止であり、軍の引き上げである。
625日本@名無史さん:2012/01/31(火) 20:48:29.29
>>623
根拠は?・・・よもや倍年歴とか言うまいね唐松くん

>神功から応神にかけては百済王朝が存在するからこの数字は動かせない

これが間違いだと言ってるんだよ

>七支刀は326年が妥当な数字として存在する

妄想乙真理は369年か372年

>丁度半島は政治的空白であり、占拠可能な時空である

ソース出せ
626唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 20:56:34.91
書紀を太陰暦で読む。
書記 より19*n回(n章)の増し(空白年)を差し引く、正朔である。
天皇   西暦   増し(n章) 
神武天皇 42年〜63年 3章 手研耳による空白年を含む。X様式土器の始まり。
綏靖天皇 64年〜77年 1章
安寧天皇 78年〜(83年)
懿徳天皇 (84年)〜93年 3章 安寧天皇と同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年〜119年 3章
孝安天皇 120年〜145年 4章
孝霊天皇 146年〜164年 3章
孝元天皇 165年〜183年 2章
西暦170年頃 孝元9年 梅雨に大雨(この年は豊作)。
新羅 173年 倭の女王卑弥呼の使者来訪 姫大神 ツノガアラシト(天日矛)の来邦。
開化天皇 184年〜187年 3章 暦に1、2年の異常?開化、崇神の暦を同じとするのが妥当。
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。後漢193年冷夏。
唐古、鍵 弥生後期後半(大和第Y−3)に大量の土器の投棄をもって、大半の環濠は埋没する。異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲り、河内陶邑のタタネコ=庄内式。
209年 新羅本紀、伽耶に援軍=任那建国。3国遺事=541年時点で建国330年。
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳=楽浪鏡(公孫氏の鏡)、鉄器、半島式木郭墓に田道間守の殉葬。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に、土を盛り平す(ひ=乾く、しろ=ならす)日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。遠国をまとめる為、魏の政治手法「屯倉」導入。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國。
大和は女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜343年  ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
神功磐余稚桜宮は、桜井茶臼山の時代、誉田御廟山まで110年
627日本@名無史さん:2012/01/31(火) 21:11:56.64
>>626
全部お前の妄想だ
大体なんの根拠があって電波書き連ねてるんだ
628日本@名無史さん:2012/01/31(火) 21:20:54.65
しっかりした大学で歴史学か考古学の博士号とってから
研究しろって。素人がやるから唐松山みたいな出鱈目の妄想ばかり
垂れ流すことになるんだよ。大学の歴史学科にいれば
邪馬台国時代の古代史で記紀等の文献史学使うなど論外中の論外だと
いうことがわかるよ。誰もそんな素人マニアじみたやり方は
相手にしない。考古学からのアプローチしかないが、
もう邪馬台国は畿内だとわかってしまったんで、みんな邪馬台国に
タッチしたがらない。素人のマニアの妄想ばかりの世界だしね。
どうしても邪馬台国に関わりたいなら、C14や年輪年代の
科学的年代測定の見地からくらいしかもう進展しないよ。
なのでやりたいならそういう方面の研究に絞れよ。
文献史学など論外だし、考古学も天皇陵発掘はできないし期待できん。
629日本@名無史さん:2012/01/31(火) 21:21:44.49
ホツマ真理教の教祖=唐松山が、真実を突きとめるのは不可能。
630日本@名無史さん:2012/01/31(火) 21:24:34.76
記紀の年代をそのまま信用しないというのはわかる
新羅本記の年代をそのまま信用してるのが理解出来ない
こっちも年代が滅茶苦茶になってるのに
631日本@名無史さん:2012/01/31(火) 21:31:04.47
>>628
だから、お前がそう思うならこのスレに口を出すな。お前も畿内説のえらいえらーい先生を見習って、一切口出し手出しをしなければいいじゃないか。それでも口を出すのは自分が先生の教えを理解できないあほでございますとみとめるんやな?。
632唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 21:33:18.86
時平州刺史、東夷校尉崔自以為南州士望,意存懷集,而流亡者莫有赴之。意廆 拘
留,乃陰結高句麗及宇文、段國等,謀滅廆以分其地。太興初318,三國伐廆,廆曰:
「彼信崔 虛說,邀一時之利,烏合而來耳。既無統一,莫相歸伏,吾今破之必矣。然
彼軍初合,其 鋒甚銳,幸我速戰。若逆擊之,落其計矣。靖以待之,必懷疑貳,迭相猜
防。一則疑吾與 ・・・
石勒遣使通和,廆距之,送其使於建鄴。勒怒,遣宇文乞得龜擊廆,廆遣皝距之。

316年 西晋滅亡。仁徳4年課役の停止、
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月,
317年伽耶と倭は通じており、朝廷に従わない、これは伽耶が倭王女を妻としたためである。
平州刺史、東夷校尉崔は、高句麗及宇文、段國等と謀り、燕を滅ぼして分配しようと
するのであるが、燕に見破られ、挫折、319年に高句麗に逃げ込む。
燕は西方の石勒に対処するだけで手一杯である。

だから、半島は政治的空白となる。

新羅本紀 192,3年=後漢193年で1年の齟齬
新羅本紀209年加羅に援軍
三国遺事 541年時点で建国330年であるから、ここも誤差は1年程度である。
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月,
317年伽耶と倭は通じており、朝廷に従わない、これは伽耶が倭王女を妻としたためである。
新羅本紀  312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
認められない出来事とはできない。
633唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 21:48:54.41
>新羅本記の年代をそのまま信用してるのが理解出来ない
新羅本紀は半島で最後まで継続した王朝である。
だから半島の正史である。
対する百済本紀は、広開土王の南下を最低限にしか認めない。
そして高句麗の積み石塚を近肖古王以下にあてがうから、4世紀に未知の遺構が存在してしまう。
ブネイ王が積み石塚を墳墓としていない事実は、積み石塚が百済王朝の墳墓でないことを物語る。
634卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/31(火) 21:57:48.78
>邪馬台国時代の古代史で記紀等の文献史学使うなど論外中の論外

本末転倒。これが現代の古代史学の実態なのか。
そんな教授陣に教わっているようではだめだ。
アカデミズムは無視して、自分で記紀や契丹古伝をコツコツ読むほうがましだ。
635日本@名無史さん:2012/01/31(火) 22:07:57.23
一流大学では改新以前の古代史学など文献からアプローチするのは
気違い扱い。考古学分野でも邪馬台国は専門家はすごい嫌うネタなので
論文書いても評価低いので、スルーされてる状態。
これが実情だし、まっとうな判断だw
C14と年輪年代の整合性と精度を高めていくくらいしかもうやり方はないよ。
なので邪馬台国に関わりたいなら、化学の勉強でもしてC14の正しい補正曲線でも
考えたほうが早いが、おまえらにそこまでのおつむはないだろうなw
636唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 22:14:50.03
19才には
卑弥呼=モモソ姫=箸墓 以上の脳みそが無い。
これが正しいと書かれた文献は皆無である。
よっていやみしか書き込む能力が無い。
637日本@名無史さん:2012/01/31(火) 22:17:36.61
>>635
中学生はもう寝た方がいいな。
638日本@名無史さん:2012/01/31(火) 22:19:50.24
日本の史学で一流大学なんてあるのか?
639唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 22:29:00.80
旧編年(昔の考古学の数字)
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
新編年(今の考古学の数字)
崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。

現在の考古学の数字は、崇神を2世紀末に配する文献は存在するが
箸墓と同期する崇神の文献は存在しない。
640日本@名無史さん:2012/01/31(火) 22:29:04.57
>>635
ちなみに、C14年代測定法の場合は、補正曲線とは言わない。較正曲線という。
641卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/31(火) 22:29:19.70
>>635
君が一流と思っているその大学や大学教授が、実は一流ではないのだよ。
ちょうど君が、自分で思っているほど聡明ではないように。

上には上がいるのだ。ほんとうに頭の良い人は現代の学説より記紀を信じているのだよ。
642チョーセン:2012/01/31(火) 22:38:59.54
>>641

…おや、間違ってますよ。斧正しておきますね。

(誤)上には上がいるのだ。ほんとうに頭の良い人は現代の学説より記紀を信じているのだよ。

(正)下には下がいるのだ。ほんとうに頭の悪い人は現代の学説より記紀を信じているのだよ。
643卑弥呼は朝鮮にいた:2012/01/31(火) 23:17:16.87
>>642
東大や京大の中でもトップクラスの人間は、学説より記紀を信じている。
彼らは小さい時からずっと一番だったので、他人はみんなバカだと思っていて、
学者も自分よりはバカだと思っている。

だから学者の言うことなど信用しない。むしろ記紀を信じている。
現代の学者より、記紀を編纂した当時の知識人のほうを信じていると思う。
644日本@名無史さん:2012/01/31(火) 23:28:49.99
6世紀か7世紀あるいはもっと前の古の人が残した記録よりも、
現代の畑違いの人が勝手に想像した説を信じるということは、普通は
ありえないこと。
単に好みが合うというだけの話だろう。自分好みの説を信じたい人は
あまり賢い人とは言えない。
645唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/01/31(火) 23:37:51.29
>東大や京大の中でもトップクラスの人間は、学説より記紀を信じている。

その数字が、七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後 である。
現在の考古学の知見を当てはめられない数字となる。

646日本@名無史さん:2012/01/31(火) 23:43:30.26
>化学の勉強でもしてC14の正しい補正曲線でも

>化学の勉強でもして
>化学の勉強でもして
>化学の勉強でもして

(;´д`)
647日本@名無史さん:2012/02/01(水) 09:51:32.06
想像だらけの時点で学問でも何でもないだろうにww
プロと素人じゃ大人と子供くらいの差があるってことだ。
まずちゃんとした大学の歴史考古学科に入って教育受けてからやれ。
そしたら素人の邪馬台国研究などいかに稚拙で恥ずかしいものかがわかるよ
648日本@名無史さん:2012/02/01(水) 10:10:58.42
まったくだ。
九州説の論文などみたことも無いわ。
649唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/01(水) 10:19:27.55
炭素14年代測定による新・考古学
小林 謙一/中央大学文学部准教授 専門分野 考古学 縄紋時代の年代測定
 近年、AMS(加速器質量分析計/かそくきしつりょうぶんせきけい)を用いた14C年代(炭素14年代)による高精度編年
の手法が、ハード・ソフト両面から技術的に著しい進展を遂げ、考古学に新たな局面をもたらしている。私は、主に日本列
島における縄紋時代の土器付着物や住 居などでともに出土した炭化材などを2,000点以上測定することにより、縄紋・
弥生時代の土器編年を実年代で推定し、年代的体系化を図った(図1)。縄 紋時代の土器は、多くの型式編年研究によって、
世界的にも類をみないほどの精緻な相対順序が判明しているが、炭素14年代測定の結果は、そうした土器型式 編年と矛盾
しない。日本の細かい土器編年が相当な正確さを持って並べられていることを証明している。それとともに、関東と東北の
関係など、地域間の横の関 係についてはこれまでの土器研究でも異説のある部分などがあり、年代値によって検討していく
べき余地もあることがわかった。

名古屋大の年代の狂いは確かである。
しかし、巻向年代は、年輪年代と整合しており、今後動くことは無い。
その巻向年代に書記を整合させれば、
後漢193年=新羅192,3年=崇神5,6年
考古:2世紀末各地の土器が纏向に持ち込まれる。=崇神11年異俗多帰。

19才が主張したい卑弥呼=モモソ姫=箸墓 
箸墓は少し前までは、4世紀の古墳であった、この箸墓が260±年と50年古くなる=モモソ姫は50年古くなる。
つまり、崇神10年は2世紀中である。
だから、素人の19才の主張などいかに稚拙で恥ずかしいものかがわかるよ
650日本@名無史さん:2012/02/01(水) 10:21:10.41
邪馬台国の論文など書いても馬鹿にされるだけだから
学者はもうそんなもん書かんよwましてや九州説ってw
そりゃ安本とか個人商売で邪馬台国利用してるやつか
それに追随する素人マニアが支持するカルト説だろうにww
651日本@名無史さん:2012/02/01(水) 10:41:58.27
都合よく、C14を動かすのはやめようね。
動かすなら、土器編年や年輪年代だろ。
652日本@名無史さん:2012/02/01(水) 10:49:49.74
c14を使わずとも箸墓は4世紀以降までは繰り下がらん。
当時の倭国の中心地は3世紀内に畿内に移ってたし、
そんなこともわからん低能がいまだに邪馬台国論争などしてるにすぎない。
653唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/01(水) 10:52:27.52
>それに追随する素人マニアが支持するカルト説だろうにww

だからそれを編年を使って証明すれば良いだけ。
箸墓=卑弥呼=モモソ姫 を支持したいのであれば、卑弥呼共立の前提である
攻伐暦年(暦年とは20年程度の時空が必要である)をどこに設定するか?
九州であれば、3世紀初頭で終了する前原王墓は、無主暦年とできる。
であるならば、北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。

卑弥呼は倭奴國である。
654日本@名無史さん:2012/02/01(水) 10:55:53.97
どうも、C14国際較正曲線の、intcal04が気に入らないらしくて、
日本独自のC14較正曲線を勝手に捏造したがる勢力がいて困る。
655唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/01(水) 10:59:13.25
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺の使用)

ホケノ山古墳3世紀第2四半期(225〜250年) 石囲い木槨
大型壺(瀬戸内系、高さ77センチメートル・最大径65センチメートル)
中型壺(東海系、高さ26センチメートル・最大径24センチメートル)
銅鏃 約60本・鉄鏃 約60本・素環頭大刀 1口・鉄製刀剣類 10口・加飾壺
画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面
画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片
鉄製農工具
穴開き二重口縁壺20体(庄内式)≒埴輪

埴輪は、大和と吉備・出雲が関係することをあらわす。
大和と任那の中間に、阿波・播磨・但馬を含む“日矛”系の存在がある。
しかし、この勢力は吉備とは関係が無い。
播磨 綾部山39号墳 『石囲い』 画文帯神獣鏡
葬送儀礼に讃岐地方から運ばれてきた土器が使 われていた。
播磨の墳丘墓からは吉備の土器が出土しない。

ホケノ山築造時には大和は中国地方以東の盟主である。
ホケノ山以後埴輪が使われる。
この時点でモモソ姫は過去の人物となる。
656日本@名無史さん:2012/02/01(水) 11:02:47.33
C14は補正がどこまで正確かまだはっきりしないし、
ピンポイントで合わせれないからもう少し精度を高めないと使えない。
核実験の影響とかいろいろな要素を加味して補正するのは相当難しい。
657唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/01(水) 11:10:18.14
気候と社会の共振現象 年輪降水量。
http://w3serv.nagoya-u.ac.jp/envgcoe/images/events/seminar/fyh21/others/20100309/ppt/lecturer/nakatsuka.pdf

日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。
183年から193年は日本においても異常気象であった。

このグラフから年輪年代は正しいと判断できる。
この材木の炭素C14を測定すれば、年輪年代と齟齬のない比較較正ができる。
これを巻向年代は実施している。だから動くことは考えられない。
658日本@名無史さん:2012/02/01(水) 11:16:09.34
c14と年輪年代は鷲崎とかいう素人がホームページで
論文掲載してるな。九州説なので火消しにやっきのようだがww
ただc14と年輪年代くらいしか邪馬台国研究など進展する伸びしろはないので
ここに目をつけるのはいい。あとは巻向の発掘調査待ちだ。
659唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/01(水) 11:31:02.60
鷲崎さんも >>657 の年代は認めている、しかし纒向は認めないという立場である。
まあ2重基準の主張であるから、その程度に認識しておく。

ホケノ山古墳3世紀第2四半期(225〜250年)が動かない場合、ここに眠る人物は
239年の朝貢に関与した 官伊支馬=イクメ=垂仁と翌年殉死した都市牛利(たしうり)=田道間守である。
660日本@名無史さん:2012/02/01(水) 11:33:00.45
鷲崎も東大法卒のくせに、宇佐説かよw
やっぱ東大でも素人はだめだなww
こいつも宇佐説守るために論文書いて
必死でc14大崩壊を主張かよww
661唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/01(水) 12:20:10.68
まあ 考古学が50年遡上したのであれば、書記の設定も50年遡上しなければ整合しない。
自分の主張を変えないのであれば、考古学の50年遡上を認めることはできない。
だから、必死に年輪や炭素にクレームをつける。

ところがだ、19才の如く否定された年代であるにもかかわらず、モモソ姫=卑弥呼などと主張する。
そして、官伊支馬=イクメ=垂仁は似ているだけで正しくない。
ホケノ山は埴輪がある←書記の記述や年代は後世の創作である、と主張するのであるが
そもそも、モモソ姫=箸墓もここに含まれていることも認識できていない。
倭人伝では、モモソ姫=卑弥呼の主張は存在しない、かわりに
官伊支馬=イクメ=垂仁と翌年殉死した都市牛利(たしうり)=田道間守が存在する。

662卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/01(水) 12:53:55.36
唐松山さん、ムキになって19歳を叩かなくても、
まともな人はモモソ姫=卑弥呼、箸墓=卑弥呼の墓なんて信じていませんよ。

それはさておき、あなたの天敵の太国さんはどうしているのでしょうね。
663唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/01(水) 13:01:42.27
664箸墓に眠る女王:2012/02/01(水) 19:02:30.57
独自性を考えてましたが、箸墓は卑弥呼と台与の両方が
眠ってる墓と考えるのはどうでしょう?
665日本@名無史さん:2012/02/01(水) 19:04:18.75
西殿塚なら埋葬施設が二つある可能性があるが
666箸墓に眠る女王:2012/02/01(水) 19:14:47.58
竪穴式なので円墳の頂上部に埋葬施設が一つあるのは
確定的ですが、横穴式は4世紀以降に朝鮮から入ってくるので、
まずありえないんですけどね。
667箸墓に眠る女王:2012/02/01(水) 19:30:20.92
現段階でのプロットでは110ページくらいで終わってしまいますw
それくらいしかネタがない。まだ知識不足、取材不足ですね。
独自性もなく専門書なぞる個所が多すぎますし。
668日本@名無史さん:2012/02/01(水) 19:34:08.04
西殿塚古墳

>形態的特徴として後円部の墳頂に方形壇(一辺35メートル、高さ2.6メートルの正方形)が造られ、
 前方部にも同じ形(一辺22メートル、高さ2.2メートル)でやや小さい壇が営まれているという点がある。
 このため、後円部と前方部の方形壇の下にそれぞれ別人の埋葬施設が存在したという見方がある。
669日本@名無史さん:2012/02/01(水) 19:41:20.81
西殿塚古墳に関しては最初は台与の墓かと思ってましたが、
台与が箸墓なら、崇神が時代的に整合するでしょう。
埋葬施設が二つあるなら皇后も一緒に埋葬したのではないでしょうか?
670箸墓に眠る女王:2012/02/01(水) 19:48:24.46
またまたここで取材させてください。
卑弥呼の墓は殉葬した奴婢が百余人いると書かれてますが、
これは墓築造のどの段階で殉葬したのでしょうか?
卑弥呼の棺を入れるのと同時でしょうか?
詳しい方どうぞよろしくお願いします。
671志紀:2012/02/01(水) 20:15:19.05
>>658みたいなマキムクキチガイがいるから聞いても無駄だよ。
マキムク以外眼中になしって、それ学問なの?
672唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/01(水) 20:29:01.43
>独自性を考えてましたが、箸墓は卑弥呼と台与の両方が

卑弥呼を共立する条件は、大和に存在しない。
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨墓 楽浪鏡 庄内3式期末 埴輪(穴あき壺)
これ以後の殉葬は基本的に存在しない。
垂仁紀から予測できる殉葬は、葬儀の終了直後とおもわれる。
673日本@名無史さん:2012/02/01(水) 21:04:08.62
日本書記との関連性はどうなってるの?日本書記に邪馬台国の事描いてないんでしょ?
674唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/01(水) 21:46:56.53
>日本書記に邪馬台国の事描いてないんでしょ?
書かれていなくとも、同時代の時空は存在する。
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年)石囲い木槨墓 楽浪鏡 庄内3式期末
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)(中)大倭は伊都国に1大卒を置く
纏向4類(後)箸中山(260±?)・燈籠山、布留0の指標、九州UA在来土器の衰退

考古学と整合させる必要がある。
ホケノ山に埴輪が存在する限り、それを可とする時代でなくてはならない。
675sss:2012/02/01(水) 22:49:56.88
>>670
日本の殉葬の記録はあまり残っていないんじゃなかろうか。
一つ、埴輪の起源ということで、日本書紀の垂仁天皇のところにちょっと出てくる。
それによると、28年10月5日に倭彦命が亡くなった。
11月2日に葬られた。このとき、近習のものを全員生きたままで陵の周りに
埋め立てた。昼夜泣き叫び、その後死んで腐っていき、犬や鳥が集まり食べる。
あまりに残酷だということで、殉葬が中止になり、代わりに埴輪を作って並べたと
いう話。

ということで、葬られたときに殉葬がされるらしい。まあ常識ではなかろうか。
卑弥呼の場合も死んで埋葬されてから殉葬がされたということになる。

倭人伝によると、卑弥呼は正始八年に狗奴国と戦争状態にあることを説明するために
帯方郡に遣使した。太守の王頎はすぐに張政を派遣した。
で、張政がやってくると、「卑彌呼以死」ということになる。
箸墓が卑弥呼の墓とすれば、けっこう造るのに時間がかかるだろう。少なくとも5年以上
はかかると考えられる。ちなみに仁徳天皇陵は15年8ヶ月と計算されている。
いろいろ疑問な点が多いな。
676唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/01(水) 23:08:35.14
箸墓は、最初の大王墓である。
卑弥呼は最初の大王であるか?
卑弥呼は、攻伐暦年または暦年無主 の地で遅くとも239年には共立された。
では、早ければ何時共立されたか?
まあ、半島も小国家群であった事実と突き合せれば、共立せねばならない出来事としては
238年の魏使による、朝貢要請しか存在しない。
だから、卑弥呼を最初の大王にするためには、ここから10年の間に、大王となり
それから10年後が箸墓である。箸墓には埴輪が存在するから、卑弥呼の葬儀とは齟齬を生じている。
677日本@名無史さん:2012/02/01(水) 23:31:53.69
日本書記の年代の記述はいいかげんって聞いたけど。

邪馬台国と大和朝廷に繋がりないみたいな説が有力で
邪馬台国は九州の地方の長程度だったみたいな。
678志紀:2012/02/01(水) 23:47:40.63
九州と言う呼び名自体は、「天子の統べる世界全部」=九つの州 
という意味らしいですね。中国は中つ国(葦原?)

九州島一円の支配、或いは北部だとしても、半島情勢等も鑑みれば、
魏の遠交近攻政策にとっては十分な国家群であったと言っていいんじゃ
ないかな。「大和朝廷」というのは、6世紀以後の統一王権であって、
それが2世紀3世紀の畿内に突如出現するって言うのはあり得ないから、
仮に畿内説であっても依然として地方政権である事に変わりはない。
679sss:2012/02/01(水) 23:53:21.59
>>678
まあ、そういう意味もあるらしいが、九州の場合は、九つの国から来ている。
筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、薩摩、大隅の九つ。

八州といえば関東だが、これも八つの国から来ている。
武蔵、相模、常陸、安房、上総、下総、上野、下野の八つ。
680志紀:2012/02/02(木) 00:03:29.66
>>679
その呼び名がいつからあるかですよね。
前後とかに分かれる前から九州と言う呼称があったかどうかですが。
四国は普通ですが、州概念も実体もない中での「九州」呼称が不審
なんですよ。
681日本@名無史さん:2012/02/02(木) 00:14:47.15
>>670 箸墓に眠る女王

そもそもあの記事が本当かどうか疑っている。
もっと言えば伝聞の伝聞、尾鰭もつきまくった話だとwwwww

(でその話が「逆輸入」されたのが垂仁の埴輪起源のお話w)

無論、箸墓を直に調査されたわけではないが
今日知られている形で言えば百人もの殉葬を施したような特別な形はない。

そもそも当時の日本にそんな風習があったのかと言われれば
明確に殉葬の跡なんか見つかっていないのが現状だと思うが…

まあ埋葬施設が複数あったりあるいは陪塚を挙げる人間もいるだろうが
どう見ても「奴婢の殉葬」って感じじゃないわなw

682唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 00:17:19.17
>それが2世紀3世紀の畿内に突如出現するって言うのはあり得ないから、

ホケノ山古墳3世紀第2四半期(225〜250年) 石囲い木槨
大型壺(瀬戸内系、)中型壺(東海系、)・加飾壺
銅鏃 約60本・鉄鏃 約60本・素環頭大刀 1口・鉄製刀剣類 10口
画紋帯同向式神獣鏡(楽浪鏡)1面
画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片
鉄製農工具 穴開き二重口縁壺20体(庄内式)≒埴輪

埴輪は、大和と吉備・出雲が関係することをあらわす。
大和と任那の中間に、阿波・播磨・但馬を含む“日矛”系の存在がある。
しかし、この勢力は吉備とは関係が無い。
播磨 綾部山39号墳 『石囲い』 画文帯神獣鏡
葬送儀礼に讃岐地方から運ばれてきた土器が使 われていた。
播磨の墳丘墓からは吉備の土器が出土しない。

ホケノ山の時点で、大和は中国地方以東の盟主である。
箸墓(260年±10)時点で大和は倭国の盟主である。
つまり、大倭は、伊都国に1大卒を置き諸国(九州諸国・九州=女王国)を検察する。
683日本@名無史さん:2012/02/02(木) 00:31:00.34
>>678 志紀(私怨くん)
>「大和朝廷」というのは、6世紀以後の統一王権であって、
>それが2世紀3世紀の畿内に突如出現するって言うのはあり得ないから、

そもそも3世紀頃のヤマト王権が後代の中央集権構造を得た大和朝廷と同じものでなければならないのか?
…っつう話だよなw

一体何と戦っているんだこいつは?www
684日本@名無史さん:2012/02/02(木) 00:38:26.12
>>683

>一体何と戦っているんだこいつは?

そりゃ、安本さんのサイト辺りで吹き込まれた「まぼろしの畿内説」とか「悪の秘密結社学閥学会」とかが相手じゃね?
685日本@名無史さん:2012/02/02(木) 00:44:08.08
>>680
九州はもともと「筑紫島」といわれてんだが、
白日別(筑紫国)、
豊日別(豊国)、
建日向日豊久士比泥別(肥国)
建日別(熊曽国)
の4カ国に分かれ、七世紀の律令制が進むにつれて、九カ国(九州)となる。
七世紀以前は、『九州』と言う名称はないはずだよ。
686日本@名無史さん:2012/02/02(木) 00:48:09.15
>>678
>「大和朝廷」というのは、6世紀以後の統一王権であって、
>それが2世紀3世紀の畿内に突如出現するって言うのはあり得ないから、

堆に都す。則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/zuisho/frame/zuisho_frame.htm

とある。
687日本@名無史さん:2012/02/02(木) 00:54:22.17
>>683 陰湿ジジイ

しかしシツコイなw
志紀に嫌われてるんだから大人しくしとけw
688日本@名無史さん:2012/02/02(木) 01:03:41.98
肥前国風土記の時代には、すでに、
筑紫国が筑前、筑後に分かれ、
肥国が肥前、肥後に分かれている。

そして、以前は筑紫国、肥国だったと記載されている。

分かれるのはそれ以前だったのだろうが、
まだ、風土記の時代には筑紫、肥、の記憶が、
残ってた時代なんだろうな。
689日本@名無史さん:2012/02/02(木) 01:07:13.27
>>673
>日本書記との関連性はどうなってるの?
>日本書記に邪馬台国の事描いてないんでしょ?

「魏志云」とあるとおり、倭女王のことが描かれてるよ。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/09/fr.htm
690日本@名無史さん:2012/02/02(木) 01:07:40.65
>>687
ようサイキバ君。

今度は志紀とか言うキチガイの尻馬に乗るのかい?w

691箸墓に眠る女王:2012/02/02(木) 10:06:05.01
またまたご回答ありがとうございます。
私も常識通り、卑弥呼を埋葬した時に一緒に奴婢百余人も
埋葬したと考えてましたが、そうすると卑弥呼は箸墓が完成した時に
円墳の頂上部に葬られたはずなので、奴婢もその時に殉葬されたと考えられるので、
魏志倭人伝をみると張政等の魏からの使者は、奴婢百余人が殉葬されたのを
みているようなので箸墓の完成時期は250年前後くらいになってしまいますね。
そうなると鐙との兼ね合いで、箸墓は卑弥呼の墓だとするのは難しくなってしまいます。
692唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 10:19:38.59
条件
倭奴國乱、遞相攻伐,歴年無主。または倭國亂、相攻伐歷年、
其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。」
正始元年、、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、倭王因使上表答謝恩詔。
到伊都國。官曰爾支、皆統屬女王國。
又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。または女王之所都、官有伊支馬、
晋書 正始元年 東倭重譚納貢。

伊都国は女王国に含まれる。 畿内モモソ姫の時代に大和が九州を治めていた記述は存在しない。
邪馬台国を女王の居所とする場合、官伊支馬をどうするか?
邪馬台国が倭王であれば、正始元年に倭王位授与である。
倭国内の邪馬台国に、女王位と倭王位の並立は可能か? 1国(邪馬台国)2王は存在できない。
一人で、女王と倭王の二つの称号もありえない。
女王国(九州)と大和の2王体制となる。
693日本@名無史さん:2012/02/02(木) 10:25:19.02
>>692
それで論文書いて雑誌に投稿しなさい。
不採用なら話にならんっていう評価だw
694日本@名無史さん:2012/02/02(木) 10:30:54.20
唐松山の結論がさっぱりわからんな。

こいつ、九州説なのか畿内説なのか、どっちなんだ?
695唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 10:32:22.66
強引にでも奴婢100人の殉葬とできるのは、久留米祇園山古墳程度しか存在しない。
正始元年、梯儁等が大和で目にしたと出来る古墳は、ホケノ山までである。
この直後に庄内式土器が九州に上陸する。
そして、最終的に 大倭は女王国(九州)の北に1大卒を置き、諸国を検察する。
1大卒は伊都国に常駐する。
この後、西新町遺跡の時代に入る←神功渡海以後。
696唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 10:57:28.12
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。・女王之所都、官有伊支馬、

女王卑弥呼は倭奴國王位継承
その朝貢団に 邪馬臺國伊支馬(イクメ=垂仁)は田道間守を派遣する。
景行が 女王国(九州)の乱平定にのりだす。その戦いの最中に女王、男王が相次いで死亡する
景行は同20年に壹與(五百野姫)を軍隊(一大卒)付きで筑紫に派遣する。
熊襲が背けば日本武尊を派遣(諸国は一大卒を畏れ憚る)
翌年から、関東遠征。これで倭国統一=大倭成立。
この一大卒の行為を半島で行う=274年神功渡海。
帰国時に仲哀の死をめぐり内乱勃発。
697日本@名無史さん:2012/02/02(木) 11:03:53.68
だからそれを論文にまとめて雑誌に投稿してみなさい。
で、不採用ならただの自分の妄想だったと思い知りなさいw
698唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 11:21:59.09
>不採用ならただの自分の妄想だったと思い知りなさいw

悪い言い方をすれば、権力の下に事実は存在する。
権力のお墨付きをもらいなさいと・・・

権力の主張する 卑弥呼=崇神世 で現在の巻向年代を説明できているのか?
「箸墓はモモソ姫の墳墓であるから、時代は整合する」と主張しても、2世紀末に纒向に入植したのは誰?
垂仁・景行時代の遺物は何処?
何も説明できないのが、文献史学の主流である。
ここである者いわく、「記紀はあてにならない」と言いつつ「卑弥呼はモモソ姫である」と主張する。
その程度の雑誌に投稿する意味がわからん。
699日本@名無史さん:2012/02/02(木) 11:30:36.10
鷲崎氏はさすがは東大卒だな。
宇佐説は誤りだが、c14と年輪年代に関する論文は見事だ。
まさに鷲崎氏の言うとおり、c14は決定打にはならん。
ピンポイントで合わせるのは無理だから。
700唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 11:37:53.41
>c14と年輪年代に関する論文は見事だ。

誤りの宇佐説に時代を整合させるには、白を黒と言いくるめなくてはならない。
この白を黒と言いくるめ方が見事であると。
701日本@名無史さん:2012/02/02(木) 11:41:18.42
いや、畿内説の俺から見てもやはりc14の精度は甘いよ。
鷲崎氏以外のc14に関する論文見ても、補正が難しすぎて
ピンポイントでは時代絞り切れんよ。
702日本@名無史さん:2012/02/02(木) 11:43:51.82
鷲崎は宇佐の地域興しには必要な人で、でもそれだけ
703唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 11:52:08.78
巻向年代に記紀を合わせる。つまり編年の見直しをする。
編年の見直しをしない限り年代誤差は埋まらない。
開化 184〜188年(基本的に57年の空白、崇神と同じ暦)・崇神 188〜216年(基本的に38年の空白)
新羅に合わせれば188年から29年間、後漢に合わせれば189年から28年間。
纏向1類(前) 弥生X様式土器 新羅192年・後漢193年冷夏凶作 。[崇神5年]
考古:弥生後期後半、各地の遺跡で住民の移動。2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。
纏向1類(後) 210年金官伽耶の建国(三国遺事、新羅本紀)[崇神58年?]
垂仁 217〜239年(76年の空白)
纏向2類(前) 3世紀前半辻の大型建物(古韓尺)[217年垂仁元年]
纏向2類(中)・纏向2類(後)
纏向3類(前) ホケノ山(225〜250年) 楽浪鏡 庄内3式期末 [239年 垂仁99年]
廻間I式4段階≒ホケノ山古墳。
景行 240〜261年(38年の空白)
前半の建物跡を土盛り(土地は乾く=ヒ)と整地(シロ)をして中期の大型建物。[景行]
纏向3類(中) 廻間II初頭 多孔銅鏃と東海土器の分散
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年
纏向4類(前)・纏向4類(中)
纏向4類(後)箸中山(最初の大王)・燈籠山、布留0の指標、[261年 景行没]
成務 262〜265年(基本的に57年の空白)  仲哀 266〜274年
纏向5類(プレ)西殿塚・桜井茶臼山 纏向5類 (布留1)。 △鏡。[274年神功渡海]
晋書:274年 二月,分幽州五郡置平州。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
考古: 纏向5類と半島の土器(居住区)の共存。
704日本@名無史さん:2012/02/02(木) 11:52:18.61
殉葬は墓完成後に被葬者と同時に行われるのが常識なので、
箸墓完成までに10年前後はかかるので、卑弥呼の墓ではないだろう。
特殊器台埴輪も箸墓からでてきてるし。卑弥呼の墓は
寿陵の可能性もあるし。
705唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 11:59:21.72
崇神5,6年が新羅192,3年であれば、崇神11年異俗多帰は2世紀末である。
ホケノ山は239年に朝貢した垂仁の墓である。
箸墓は、九州から関東までを平定した最初の大王こと景行の墓である。

もうC14や年輪年代はピンポイントで正しい数字をはじき出している。 
706日本@名無史さん:2012/02/02(木) 11:59:50.91
モモソ姫がヒミコだね、やっぱり。
707日本@名無史さん:2012/02/02(木) 12:11:46.45
徇葬ねえ 考古学的にははっきり殉葬とわかる事例は現在までのところ発見されては
いない またあったとしても殉死対象者と同じ墓に埋葬されているとは限らないかもしれない
つまり他の場所に穴を掘って首を切り落として埋めたとか
708日本@名無史さん:2012/02/02(木) 12:16:30.59
墓を掘れない以上はどうしょうもないな。
709唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 12:18:07.34
モモソ姫が卑弥呼の場合
纏向3類(後) 九州北部に庄内式土器(纏向3類)≒250年  の説明もできない。
その前にホケノ山の説明もできていない、また纒向遺跡の説明もできない。
だから、モモソ姫が卑弥呼の場合
編年を自説に近づけるため、C14や年輪年代までをも書き換える必要がある。
しかし、大和への鉄の流入は、210年金官伽耶建国後に流入し始めていることを
ホケノ山が証明している。
710日本@名無史さん:2012/02/02(木) 12:39:50.04
説明出来ないじゃなく自分が納得出来ない訳だろw

ま、一度自説を全否定して見直す位の柔軟性も必要だな。
711唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 13:00:23.04
>>703 は考古学の年代に書記の記述を整合させた年代感である。
この年代をモモソ姫=卑弥呼に書き換えると
旧編年(昔の考古学の数字)七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後

旧編年の七支刀=369年では、神功49年の半島占拠は否定されている。
さらに、広開土王碑の文言も無視されている。(大敗後の5世紀に巨大古墳を築く)
つまり書記の主張は捻じ曲げられている。
新編年(今の考古学の数字) 崇神=2世紀末から約130年後が七支刀=326年である。
この数字であれば、神功49年の半島占拠は正しいと判断できる。

倭の領土としての任那も323年神功49年以後に存在するが
半島占拠が否定される360年代では、これを新たに考えねばならないが
記紀に記されていない任那建国を創出する必要がある。
つまり勝手な編年となる。
この勝手な編年の頭にモモソ姫=卑弥呼が来る。
712唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 13:22:17.06
七支刀=369年から崇神=卑弥呼(240年)は割り出された。約130年後
この数字で編年する場合
崇神世の任那建国は、魏・晋が半島を管理する時代に任那建国となる。
魏・晋が半島を管理する時代に任那建国は無い。であるならば、任那からの”鉄”で説明できる
垂仁はどうなる?
「記紀がでたらめである」と言い張る前に年代を見直せば、210年を任那建国とすれば
ホケノ山でも無理なく説明できる。
無理なく説明できる編年を捨ててまで、モモソ姫=卑弥呼を主張するその根拠が存在しない。
713唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 13:38:17.94
316年 西晋滅亡。仁徳4年課役の停止。兵の引き上げ。
 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
317年伽耶と倭は通じており、朝廷に従わない、これは伽耶が倭王女を妻としたためである。
318年 崔は高句麗等と前燕を襲う計画を立てるも失敗する。
319年 高句麗 冬十二月、晋の平州刺史「崔」が(慕容廆に駆逐され)奔って来た。
320年 高句麗は扶余を襲う。
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,   熊彦=千熊長彦
323年 七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
3月 扶余の流民がまた30戸来降してきた。扶余と倭は通じており、年々その民を受け入れ
都や村に散置してきた。倭臣千熊長彦は良く弁舌がたち、住民と仲がよい。
住民はその言の多くを聞き入れ、故に国に背き、千熊長彦に従う。(大量渡来)
或いは我(百済?)に帰順、また高句麗に帰順する。
714日本@名無史さん:2012/02/02(木) 15:21:27.17
ホケノ山というか、巻向周辺は阿波の影響も大だったはずだが?
715日本@名無史さん:2012/02/02(木) 17:10:58.52
>>698
つまり自分の説が妄想だと認めるわけか
いいかげんこのスレ荒らすのもやめとけよ唐松君
716唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 17:13:51.31
ホ35043 垂仁3年 よりてハリマの イテサムラ アハチシシアワ まゝにをれ ヒホコもふさぐ
すむトコロ ゆるしたまはゞ めぐりみん キミゆるされは アメヒボコ ウヂガワのぼり
アワウミの アナムラにすむ またさらに ワカサめぐりて すむタジマ

播磨・淡路島・阿波・穴太・若狭(気比)・但馬。日矛系の居住域と考えられる。
綾部山39号墳 『石囲い(石塁壁)・竪穴式石榔・木棺』 . 本墳から讃岐の土で作られた土器が出
土しました。播磨の墳丘墓からは吉備の土器が出土しないこと。

ホケノ山とは非常に関係が深い。そして、居住を垂仁が許可しているということは、
ホケノ山を垂仁で説明することができる。邪馬臺國官有伊支馬(イクメ=垂仁)
ホケノ山の穴あき壺は初期の埴輪である。播磨・出雲と関係がある。
ホケノ山と東海は関係がある。
717唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 17:26:38.77
崇神10年 モモソ姫の葬儀
崇神11年 異俗多帰

ホケノ山古墳 大型壺(瀬戸内系)・中型壺(東海系)・石囲い木槨(阿波、讃岐)
鉄(任那)・画紋帯同向式神獣鏡(楽浪)
崇神11年をホケノ山の後に持ってきて、「異俗多帰」をどう説明できるか?
718日本@名無史さん:2012/02/02(木) 17:31:57.19
妄想年号で語られてもなあ。
719日本@名無史さん:2012/02/02(木) 19:28:26.53
唐松山の書き込みは
畿内説でもなく
九州説でもなく
ホツマ真理教の布教活動です。
720日本@名無史さん:2012/02/02(木) 19:58:43.00
ていうか専門的すぎて付いていけないわ。
オレが読んだ小説に邪馬台国東北説があったんだけど
実際の所、この説はどうなの?
721日本@名無史さん:2012/02/02(木) 20:07:52.33
東北はさすがに倭人伝に書かれた気候風土と内容が違いすぎ。
722日本@名無史さん:2012/02/02(木) 20:12:22.37
まじで?
「邪馬台国はどこですか」って小説で読んだンだけど。
723日本@名無史さん:2012/02/02(木) 20:21:46.36
それ鯨統一郎か?
あいつは本屋へ行って邪馬台トンデモ本を二三冊買ってきてそれを
つぎはぎして、読者が先刻承知のことを得々と語るのだからかなわん。
独創性なし、小説家として最低。
724日本@名無史さん:2012/02/02(木) 20:28:32.75
小説なら高木彬光「邪馬台国の秘密」が面白い。
大部分は古田「邪馬台国はなかった」のパクリだが
古田の「邪馬壱=山居」のバカ話はあっさり無視してるし、
九州上陸後の行路の決め方なんかその辺の「専門家」より上出来だよ。
725日本@名無史さん:2012/02/02(木) 20:52:17.77
小説家と専門家の境目て何だろうね?
726日本@名無史さん:2012/02/02(木) 20:56:14.74
資料絶対主義か、空白を想像で埋めるか
727日本@名無史さん:2012/02/02(木) 20:56:36.38
嘘を嘘として書くのが小説家。嘘を事実のように書くのが専門家。
728日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:03:09.40
>>727
畿内説の自称考古学者も、小説家に肩書きを変えたほうがいいな。
729日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:05:51.98
ダメ。つまらない小説は要らない。
730日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:07:17.39
空白の4世紀だっけ?中国から文字が伝来するまで記録が残ってないんだよね?
日本側は。
731日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:08:15.15
畿内説の場合は、小説家というよりも単発的な妄想家だな。
桃の種から卑弥呼へ、なんてね。
732日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:10:42.69
>>730
それは、中国側の歴史書に日本の記録が残っていないということ。
建前上、記紀には4世紀の記録は残っているはず。
733日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:14:36.31
詐欺まがい九州説に対抗するには桃の種で充分だからな。
734日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:16:32.94
また出ましたゴミクズレベル畿内説。よく飽きないもんだ。
735唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 21:17:16.49
七支刀を369年にする限り4世紀の実態はわからない。
だから、この数字を考古学は捨てたのである。
考古学が50年遡上したのであれば、文献史学も50年遡上せねば
整合させることはできない。

50年遡上したモモソ姫は2世紀末である。
纏向に各地の土器が持ち込まれる1年前。
736日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:19:06.18
「変身物語」なら小説になるかも
天照大神 → 卑弥呼 → 台与 → 神宮皇后 → モモソ……
737日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:28:50.77
九州説なんてバカバカしくて、よく主張出来るな‥
小説ならありかも知れんが。
738日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:36:16.90
まあ、詐欺の畿内説より千倍マシだろう。
739日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:39:16.70
>>732
けど日本書記って平城京の時代に作られたんでしょ。
蘇我氏との争いにかった藤原一族が作ってるから真実とは限らない
って「邪馬台国はどこですか」のなかの「聖徳太子はダレですか」の
項に書いてあったけど。
740箸墓に眠る女王:2012/02/02(木) 21:44:30.41
本書く前に手始めに論文書いて投稿したいけど、
テーマが鐙くらいしか思いつかない。
鐙が4世紀のもので、箸墓築造の30年後の地層から出てきたなら
卑弥呼=モモソ=箸墓 説は完全に崩れるだろう。
741日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:46:34.86
記紀は8世紀の書物で、まさか登場人物のすべてが実在で、書かれた記事がすべて
史実と思う人は少ないだろう。特に継体天皇以前は難しい。(それ以後も難しいが)
だから、どの人物が実在でどの人物が架空かということに確固たる根拠は出せない。
非常に扱いが難しいもので、他の文献もすべて記紀以降のものであるため、比較検討
もままならない。
742日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:51:06.69
>>740
お前にいいこと教えてやろう。鎧は卑弥呼が天照大神から受け継いで
台与、神宮皇后、モモソへと伝えられたんじゃぞ。
743日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:54:05.25
論文なんてのは、テーマで決めるものなの?
何かアイデアがあって、それに沿うテーマを決めるものではないの?
744日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:57:40.20
>>740
簡単に崩れるとは思えないけど。
考古学なんて発掘物一つでコロッと評価が変わるので
鐙一つをテーマになんて危険だと思うぞ。

箸墓自体長い年月をかけて、最終的にあの形になったのかも
しれないからな。中調べなきゃ何とも言えないな。
それに個人的には現箸墓=大市を別の場所にも候補を持っている。
まだ殆ど知られてないけどな。
745箸墓に眠る女王:2012/02/02(木) 22:02:05.90
一応アイデアはあります。倭迹迹日百襲姫というのは
固有名詞ではなく、普通名詞であり、卑弥呼も台与も
倭迹迹日百襲姫と呼ばれてたと考えることができます。

日本書紀の箸墓説話の個所は台与のほうの倭迹迹日百襲姫の説話だと
考えられます。証拠の箸墓説話の個所だけ倭迹迹姫命と名前が
なぜか違ってます。それに大物主との結婚は死亡時老婆のはずの
卑弥呼とは合いません。

なので4世紀初頭の鐙と、この記紀の解釈を整合させれば、
台与の墓であると考えることが可能となります。
746箸墓に眠る女王:2012/02/02(木) 22:09:29.95
>>744
私も最初は箸墓は卑弥呼の墓で長期間かけて作られたと考えましたが、
魏志倭人伝に殉葬された奴婢の記述があるので、張政が邪馬台国に
きたときにはすでに卑弥呼の埋葬も終了していたと考えられます。
なので卑弥呼の墓は箸墓とは別の場所にあると考えざるをえなくなりました。
世界最高峰の超能力者のマクモ二ーグルによると邪馬台国は畿内で、卑弥呼は山口に
葬られたそうですw
747日本@名無史さん:2012/02/02(木) 22:12:34.04
↑キチガイ
748日本@名無史さん:2012/02/02(木) 22:12:48.90
倭迹迹日というのはともかく、百襲姫は固有名詞でしかないぞ。
倭迹迹日百襲姫=孝霊天皇の姫と記述されてるのに‥
749日本@名無史さん:2012/02/02(木) 22:14:33.51
>>746
馬鹿かお前 ここの常連の太国は古神道の秘法で卑弥呼の容貌を霊視しているんだぞ。www
最近姿を見ないのはアク禁か、残念だな。マクモニーグル以上の能力者なのに。wwwwwwww
750日本@名無史さん:2012/02/02(木) 22:15:46.31
>>739
日本書紀が編纂されたのは西暦720年。
この書物に書かれていることが本当か嘘かをどうやったら現代の我々が
判断できるんだろう。
たとえ、藤原氏が関係しているとしても4世紀や5世紀のことが、藤原氏に
どう関係するのかわからない。藤原氏にとって何が都合が良くて、何が都合が
悪いのかがわからない。

結局、記紀の真偽をどうこう言うのは、その人にとって記紀の記述が都合が良いか
悪いかで判断しているとしか思えない。
751日本@名無史さん:2012/02/02(木) 22:17:44.07
迹迹ってどういう意味なんだろ?
魏の官位に似たような音のってある?
752箸墓に眠る女王:2012/02/02(木) 22:18:30.70
孝元天皇の姫にも倭迹迹姫 という姫がいます。

彼女が台与だとは断言できませんが、卑弥呼=モモソ だとしたら
箸墓の時代が合わないんだし、どこか間違ってると考えなくてはなりません。
鐙を考えると正直3世紀末築造でも早いくらいです。
馬が普及しだすのは4世紀後半から5世紀にかけてでしょうし。
753日本@名無史さん:2012/02/02(木) 22:24:18.32
「どこか間違ってる」ってお前さん、「卑弥呼=モモソ」が間違ってるんだよ。
754日本@名無史さん:2012/02/02(木) 22:25:47.83
>>751
>名前の解釈 [編集]
>研究者によると、ヤマト(大和)のトトビ(鳥飛び)に基づく
>神祀りに仕える巫女と解釈されている。
>名の意味は、霊魂が身体から離脱して空中の鳥のように飛んでゆく、
>離魂型の巫女名と捉えられている[2]。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%AA%9B%E5%91%BD

ちなみに魏の官位に『迹迹』なんて無いと思う。
755sss:2012/02/02(木) 22:26:35.14
>>746
それが正しいな。そもそも、箸墓は大きさも形も卑弥呼の墓(径百余歩)とは異なる。
だから畿内説の人も、後円部が先に作られ、前方部はあとで追加されたなんて仮説を立てた。
しかし、それも桜井市教委の調査で一緒に作られたことがわかった。

だいたい、箸墓は宮内庁の管轄で内部の調査はされていない。それを誰の墓と特定するのは
最初から無理がある。結論が先にあるわけで、なんともおかしな説という感じがする。

さらに、倭人伝の記述を見ると、箸墓クラスの墓を作ったにしては、簡単に短期間で
出来ているように感じられる。280mクラスの古墳を造ったようには思えない。
倭人伝からの印象としては、卑弥呼の墓は、径百余歩よりももっと小さな墓なのではないかと
思われる。
756箸墓に眠る女王:2012/02/02(木) 22:28:26.86
箸墓の築造年代が台与と重なると言うことは卑弥呼ではなく台与の墓と
考えるしかないでしょう。そうすれば鐙や布留0式土器とも整合します。
卑弥呼の墓は別のどこかにある円墳でしょう。モモソ死亡時はまだ
国内混乱してるので箸墓クラスの古墳造れるだけの力はないでしょう。
国内統一した台与の時代ならありえます。
757日本@名無史さん:2012/02/02(木) 22:28:31.86
>>751
ヤマト=そのまま
トトヒ=トビ、登美、冨、外山、鳥見‥つまり場所だな。
飛ぶ火や鳥を表すという説もあるが。

ついでに
モモソ=桃なら呪術、初期道教の影響も一応考えられる。
ソも一応この漢字から呪術使いの印象だが。
百はこれまたトトとも読めるが、ホトにも関連した名前かもな。
758日本@名無史さん:2012/02/02(木) 22:29:29.65
>>755

しかし、径百余歩はメートルにすると約150メートルですな。
759唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/02(木) 22:37:57.33
>この書物に書かれていることが本当か嘘かをどうやったら現代の我々が
判断できるんだろう。

それほど難しくはないだろ。
記事が正しいと出来る場所を特定してゆけばよい。
纏向は、崇神・垂仁・景行の都である←考古学:2世紀末に纒向へ入植、260年前後の箸墓築造まで。
箸墓から土器編年が布留式に変わる=都が纏向から移る。
760箸墓に眠る女王:2012/02/02(木) 22:40:15.44
それに箸で陰を突いた倭迹迹日百襲姫は自然死ではないように感じます。
卑弥呼の死亡推定年齢は80歳以上でありむしろ自然死の可能性のほうが高い。
台与は250年〜260年頃に国内の混乱がおさまった頃に13歳で女王に擁立された
と書いてあるので、定説通り280年頃から箸墓が築造開始されたなら、
死亡推定年齢は30代。いくら古代でも自然死するような年齢ではないでしょう。
761日本@名無史さん:2012/02/02(木) 22:40:29.79
>>754
>>757
>>752のおっしゃるとおり倭迹迹姫命なんてのもいるから、迹迹日ではなくて迹迹に意味があると思う
762日本@名無史さん:2012/02/02(木) 22:44:29.65
ホトついでに
アメノウズメが何故ホトを丸出しで踊ったかというと、
それが巫女の再生の踊りだからな。ウズメの「渦」は性器の象徴だから。

よってモモソのような巫女がホトを刺して死ぬ、なんていう事は
結構重要な話だという事を理解しておこう。
763sss:2012/02/02(木) 23:05:46.68
>>758
確かに、径百余歩の冢とすれば、直径150m弱の円墳と考えるのが普通。
箸墓は墳長280mの前方後円墳だから。
764758:2012/02/02(木) 23:22:02.12
>>763
隋書 倭國伝に

魏の時、譯の中國に通ずるもの三十餘國。皆、自ら王を稱す。
邪靡堆に都す。則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/zuisho/frame/zuisho_frame.htm

とあるとおり、
直径150m弱の円墳は、九州ではなく畿内の墓で探すべきでしょうね?
765日本@名無史さん:2012/02/02(木) 23:28:14.19
邪馬・邪靡の源字は耶麻かなぁ
766758:2012/02/02(木) 23:30:55.89
>>755 sss
>卑弥呼の墓は、径百余歩よりももっと小さな墓なのではないかと思われる。

もっと小さな墓?どうして?
考古学者の高島氏の影響を受けて、方形周溝墓でも良いとする考え方でしょうか?
それとも、径百余歩=150メートルじゃなくても構わないという考えですか?
767日本@名無史さん:2012/02/03(金) 00:05:56.04
>>750
中国の歴史書と示し合わせて判断できるんじゃない。
小野妹子の遣唐使とか中国側にも記録あるからちゃんとした事実なんでしょ。

卑弥呼とされてた女帝が当時の朝鮮と戦争したみたいな記述もあるらしいけど
それは史実あつかいされてないんじゃない。

ていうか日本書記って読みたいけどどこにも売ってないよね。
768唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/03(金) 00:22:02.27
http://www.j-texts.com/sheet/shoki.html
日本書紀(朝日新聞社本)

769日本@名無史さん:2012/02/03(金) 01:03:54.12
>>767
売ってるよ。岩波文庫
770志紀:2012/02/03(金) 05:37:16.16
>>683
おまえなあ、マジで訴えるぞ
犬はあっち行けよクズが
771日本@名無史さん:2012/02/03(金) 10:07:21.04
古代史を語るのは大変だね。
中国・朝鮮の歴史や語学、地理にも精通して
神話や民族学の知識も必要だし。
これ全てに長けてる人は、ざっとスレ見ても少ないね。
772日本@名無史さん:2012/02/03(金) 10:19:00.27
邪馬台国よりクイズでも極めたほうがいいと言ってるだろうがw
素人がしゃしゃりでるような世界じゃないよ。
773日本@名無史さん:2012/02/03(金) 10:29:09.71
偏った知識で語ると、他の分野で精通した人から疑問が出る。
それを強引に押し通して勝手に勝利宣言。
これの繰り返しだからね。
774日本@名無史さん:2012/02/03(金) 12:32:55.61
日本書紀には大唐の使者が来たとあるだけで、隋使が来たとは書いてない。
それを勝手に隋使のことだろうと思い込んで読んでいるだけだ。
日本書紀は大切なところでは嘘はついていない。馬鹿な読者が勝手に誤解して
いるだけのことだ。ま、わざと誤解するように書いているとは言えるが・・・
775箸墓に眠る女王:2012/02/03(金) 13:30:24.39
卑弥呼の墓は丹波にある可能性を考え中です。
まだ情報が足りませんが、卑弥呼の出身地に葬ったと考えれば
畿内以外にある可能性も考慮しなくてはなりません。
776日本@名無史さん:2012/02/03(金) 13:31:49.57
痴呆
777日本@名無史さん:2012/02/03(金) 13:33:02.85
学問板です。痴呆の方はご遠慮ください。
778箸墓に眠る女王:2012/02/03(金) 13:34:55.74
偏った知識しかないのではいけません。
あくまでピラミッドの頂点が古代史にして、
下の部分は多様なジャンルの本も読んだ方がいいです。
779日本@名無史さん:2012/02/03(金) 13:36:56.67
780箸墓に眠る女王:2012/02/03(金) 13:38:17.48
781唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/03(金) 16:00:13.72
>卑弥呼=モモソ姫

到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。

伊都国は女王国の傘下にある。
モモソ姫が伊都国を傘下とする。その証明が先決である。
崇神10年は、4道将軍派遣以前である。
4道将軍派遣の結果出雲あたりまでは、崇神の範疇となるが、
それ以前にモモソ姫は伊都国までも傘下としていなくてはならない。
782日本@名無史さん:2012/02/03(金) 16:16:35.13
君の年代設定が間違ってる事だな。
783日本@名無史さん:2012/02/03(金) 17:09:44.44
ま、伊都が女王の傘下といっても、同盟国辺りの感じかも
しれないだろう。
それにモモソの母、倭国香姫(アレヒメ)が、南方系の巫女の名を
もってる事から、九州方面から出てる可能性は充分ある。
784日本@名無史さん:2012/02/03(金) 18:53:33.47
でもアソコを刺してしぬって何の意味があるんだろうね
自殺でわざわざそんなトコ刺さないだろうし。
他殺だと何で敢えてしかも箸なのか…
785日本@名無史さん:2012/02/03(金) 19:04:04.07
「箸」は「はし」=土器のことだよ。

伝承が間違って伝わっただけ。

箸墓とは、「土器(埴輪)で飾られた墓」という意味。

だから、箸で陰部を突いたというのも、丹塗りやと同じで跡付けの神話にすぎない。
786日本@名無史さん:2012/02/03(金) 19:07:00.16
上にも書いたが、女性、巫女のホトは霊力のシンボル。
生物を産み出す神聖な場所で、鬼を喰ってしまう畏怖の場所でもある。
巫女がホトを突いて死ぬのは致命的な事なのと、
大物主との子孫がいない事を表したかったのだろう。
787日本@名無史さん:2012/02/03(金) 19:24:33.49
>>786

違うって。>>785をよく読め。
788日本@名無史さん:2012/02/03(金) 19:34:59.52
>>787
それは只の通説の一つにすぎないからw
問題は何故紀にそんな逸話を書く必要性があったか?という事。
もっと色々調査した方がいいですよ。
風土記や記紀をよく読み比べてみる事を勧める。
789日本@名無史さん:2012/02/03(金) 19:42:34.98
>>788

よく研究したほうがいいのは、君のほう。

箸で女性器を突いて死んだって日本書紀に書いてあることそのまま信じてどうする。
790日本@名無史さん:2012/02/03(金) 19:45:50.43
そもそも、箸墓の作られた時代に「箸」は無い。

手づかみで食べ物を食べてたと魏志倭人伝にあるだろう。
791日本@名無史さん:2012/02/03(金) 19:52:05.83
俺は >>788 の肩を持つ。
その時代に箸があったかなかったかが重要なのではなく、
その伝承内容が奇怪であることに注意すべきだ。
その伝承は、葬られた人物がなにやら挫折のうちに死んだことを暗示しているように思える。
792日本@名無史さん:2012/02/03(金) 19:52:12.22
>>789
言ってる意味すら理解出来ないのかよw
問題は箸で突いて死んだか?なんていう点じゃないだろ?
大体大物主が蛇だった、なんて話だぞw
その逸話を書く意図を言ってるのだよ。
793日本@名無史さん:2012/02/03(金) 19:59:33.55
>>791=792

逸話を書く意図は、あっただろうけど、推測の域を出るものじゃない。
どんな結論を導きたいのか、先に言えよ。
頭の中には結論を用意してるんだろ?


794日本@名無史さん:2012/02/03(金) 20:16:40.16
>>793
まず別人だと断っておく。
結論なんて既に言ってるよ、モモソに
子供がいないのを念押ししている事だと言う点を。
それにモモソがやはり相当知名度と影響力のあった姫であり、
巫女だったという点だな。
ホトに関する記述をされている女性は皆重要だ。
795日本@名無史さん:2012/02/03(金) 20:21:11.82
伝承だけみれば、すぐに卑弥呼が思い浮かぶが、
被葬者とは直接には関係ないかもなー。
卑弥呼が死に、トヨかあるいは男王へと政権が移っていったことを、それとなくその時代の重要人物の
墓の伝承に託したのかな、
という印象を持っているけどね、俺は。
その伝承きいたとき、誰でもすぐ卑弥呼の死が浮かぶんじゃないか?
796日本@名無史さん:2012/02/03(金) 20:21:42.03
>>794

>モモソに 子供がいないのを念押ししている事だと言う点を。
>それにモモソがやはり相当知名度と影響力のあった姫であり、
>巫女だったという点だな。

そんなのは、アホでもわかることだろ。
だからその後の結論は無いのか?ってことだよ。
797日本@名無史さん:2012/02/03(金) 20:24:25.79
>>795

ああ、そうか、モモソヒメの伝承が卑弥呼に結びつくという話か。

それは思いつかなかったけど、モモソヒメが卑弥呼ってことは、十分考えられるな。


798日本@名無史さん:2012/02/03(金) 20:35:23.73
>>796
ま、別に結論という程ではないが、普通に考えると
紀ではやはりモモソを卑弥呼に暗示させたかったのでは?
という事だろう。年代は別にして、倭人伝の記述と伝承上の
一致では、モモソがやはり卑弥呼像に一番近い位置にある。

一応神功期の注釈に卑弥呼の事を書いてはいるが、
神功皇后は子を産んでるしな。
対外的な歴史書である記に、卑弥呼の名が無いのも
変だろうし。
799日本@名無史さん:2012/02/03(金) 20:57:42.60
どうでもいいけど、皆、自説を立証できるのか?立証できなければ意味が無いぞ。
800日本@名無史さん:2012/02/03(金) 21:04:18.01
自説を立証できなくても他説を全て否定できればオケ
801日本@名無史さん:2012/02/03(金) 21:04:49.75
記紀はホントに面白いんだよ、一見何の事かわからん事でも
意外な所にヒントがあったりする。
古事記の稗田阿礼なんて名前自体、フェイクの塊みたいなもんだ。
銅鐸が何に使うのか判らない?ちゃんとヒントは書いてあるよ。
稗田阿礼は知ってて書いてると思う。

802日本@名無史さん:2012/02/03(金) 21:20:55.78
キチガイども
803日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:13:15.48
記紀よりも魏志倭人伝のほうが真実を伝えてるから、
箸墓は台与の墓だろうよ。考古学的にも3世紀末築造が定説だし、
魏志倭人伝からも卑弥呼の墓は250年前後ですでに完成してるので
箸墓ではない。記紀に騙されてはいかんわ。やっぱ記紀など
歴史研究では使えんわ。
804日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:29:10.00
日本の公式資料を無視して何処の歴史を語るつもりだよw
805日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:30:50.78
>>803
誰も箸墓が卑弥呼の墓などと主張しとらんよ。
箸墓の伝承は卑弥呼の死の暗示ではないかと言ってるだけで、被葬者とは直接の関係はない。
ああ、卑弥呼からそれとは直接繋がりのない人たちの時代になっんだな、
と慨嘆しているのでは、という話なんだから。
トヨの墓かどうか知らんが、トヨの墓としてもなにも不都合はあるまい。
卑弥呼は九州にいたのかもしれない。
いまは卑弥呼とは違う人々が支配する世になってしまったよ。それが伝承の内容なんだから。
806日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:34:44.50
台与は卑弥呼の宗女と書かれてるし
同じ一族の者だろう。石塚やホケノ山からも
3世紀半ばですでに中心は畿内だし、卑弥呼が
九州にいた可能性はほとんどない。
807日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:36:52.67
そもそも日本国内で決定なの?
台湾とか別の島って可能性ないの?

ジパングはジャパンじゃなくてフィリピンだったらしいし。
そんなに詳しく書かないと思うんだが。
808日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:42:40.73
>そもそも日本国内で決定なの?
>台湾とか別の島って可能性ないの?

どこをどうみても日本列島です
809日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:43:03.88
モモソの母の名は南方出身を匂わせるけどな。
又の名がハヘイロネだよ?これは久米島の大巫女の名だ。
しかも「オオヤマトクニ」アレヒメだし。
最初は卑弥呼はこっちか?とも思ったが、子がいるしな。
810日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:47:00.48
因みに「アレヒメ」のアレは稗田阿礼にも通じる。
811日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:48:35.77
なんか解りやすい解説書みたいのないの?

図説 邪馬台国

みたいのって出てるっけ? 図説 日本書記 古事記はあったんだけど。
812日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:53:39.37
>>811
その手の本は沢山出てるよ。でも基本的な事しか
参考には出来ない。情報も古いし。
813日本@名無史さん:2012/02/03(金) 22:54:16.17
>>806
はっきり言えば、俺は崇神天皇の墓かもと思っている。
そして、江戸時代の天皇と将軍のような感じで、
九州と大和にある程度連係をもって二王朝並立状態だった可能があるのでは、と思う。
トヨが九州がら大和へ移行しようとして失敗したのが、因幡の白兎かもな…。いや、知らんけど。
俺も別段そう信じているわけではないが、二王朝並立はもっと考えてもいいのでは、といつも思っている。
814邪馬台国質問コーナー:2012/02/03(金) 23:10:31.45
質問する人はジャンジャン質問しましょう

解答する人は、丁寧に答えて下さい。
815日本@名無史さん:2012/02/04(土) 00:23:17.97
図説 邪馬台国なんて、なんぼでもあるでしょう
816813:2012/02/04(土) 00:35:44.56
まー、俺もなにを
知ってるわけでもないけど、
箸墓の伝承の内容はとても奇怪だ。
なせそんな奇怪な内容をそこに書いたのか。
そのことをよく考えるべきだと想うんだ。
俺が思うに、その伝承が伝える核心部分は、
「いまこの時点で政権を担うことになった人たちは、卑弥呼とは直接の関係はない人たちです」
ということだと思う。
それ以外に、そこに当てはまる事柄はないように思う。
817日本@名無史さん:2012/02/04(土) 00:47:18.84
>>808
「台湾島」には別の名称がある
三国時代の『臨海水土志』に書かれた、孫権が軍勢を送って人狩りに行かせた「夷州」がそれとみられる
818日本@名無史さん:2012/02/04(土) 01:14:31.33
>>817
台湾?ないないw
819日本@名無史さん:2012/02/04(土) 01:20:37.39
>>818
「どうやら(中原から見て)南方に島があるらしいぜ」ってのはすでに知られてて、
明らかに南方と認識されるそれと「東夷」である邪馬台国は峻別されるでしょ、って言いたかったの
820日本@名無史さん:2012/02/04(土) 01:33:28.04
>>816
まあモモソが卑弥呼かどうかはともかく、大和政権
成立の重要な位置にいた事は間違いない。
それに箸墓の伝承は記の中でも不思議な逸話の一つには
違いない事もな。

でもモモソに関しては紀以外の伝承だと、瀬戸内海での方も
多い事は見逃してはいけない点だろう。
821日本@名無史さん:2012/02/04(土) 08:28:24.78
>>806
立証はできまい。
邪馬台国とヤマト王権を同じ勢力が担ったと考えたいから畿内だと思っているに過ぎない。しかし同じ勢力だという確証はまったく無く、邪馬台国は九州勢力だったという証拠の方がずーっと多い。単なる主張をするだけのレスをするのは自分の学究としての恥をさらすだけだぞ。
822日本@名無史さん:2012/02/04(土) 08:50:39.17
>>821

>邪馬台国は九州勢力だったという証拠の方がずーっと多い。

へー。聞いたこと無いな。

823日本@名無史さん:2012/02/04(土) 08:53:55.03
>邪馬台国は九州勢力だったという証拠
それも思い込みだね、九州説も主張ばかりで
証拠は全然多くないですよ。
824日本@名無史さん:2012/02/04(土) 08:55:11.39
>>822
じゃ、もっと勉強しろ。無学者。
825日本@名無史さん:2012/02/04(土) 08:58:38.84
レッテル貼りするマスコミ批判や、立証の不足等
安本をはじめ、九州説がよく口にする畿内説への批判は
そのまま自分達へのブーメランだと気付かないのかな?

安本なんて確信犯的な気もするが‥
826日本@名無史さん:2012/02/04(土) 09:00:56.90
中国側の記録だと大和朝廷の記録がないんだよね。

邪馬台国がヤマト朝廷になったのか、別の勢力がヤマト朝廷になったのかが
良く解らないわ。
827日本@名無史さん:2012/02/04(土) 09:17:24.72
日本の考古、歴史、民俗、分子生物学学者は中国と上手くいってんのか?東シナ海に腹黒い中国がマトモな対応してるとは思えん。
828日本@名無史さん:2012/02/04(土) 09:21:10.66
>>826
>中国側の記録だと大和朝廷の記録がないんだよね。

推古や聖徳太子云々の話は別にして隋書倭国伝が一応そうだろう。
それを信用するなら、邪馬台国の主導権を別の勢力がとったとしか。

イヨ以降は暫く公式な交流が途切れるからね。
この間不安定な部分があったのは確実だろう。
紀は当然その時点での支配者側の視点だし。
829日本@名無史さん:2012/02/04(土) 09:25:45.57
トマト朝廷てよめた
830日本@名無史さん:2012/02/04(土) 09:31:21.91
>>828
隋からでしょ。
邪馬台国は中国の三国時代の歴史書に書かれてるらしいけど
その歴史書には大和朝廷がまったくかかれてないらしいじゃん。

日本書記にはあるのに。
831日本@名無史さん:2012/02/04(土) 09:31:46.65
よく分からん人たちだな。
そもそも、どうして大和か九州の一方だけが政権を担っていたと考えるんだ?
大和と九州の間で、いろいろ綱引きがあったろうと考えるのが、むしろ普通だろう。
卑弥呼は共立されたという。その話合いに参加したのは、どのあたりを想定するのか。
俺は、九州、瀬戸内海、大和といったあたりになると思う。
争いを収めるためなんだから、古い権威を持つ勢力のものである可能性が高い。
大和に中心が移りつつあるなか、あえて九州の地の巫女が権力の象徴の地位についた可能性があると思う。
しかし、また乱れて大和が力を握ろうとする。
そこでまた、旧勢力からトヨが担ぎ出される。
また乱れ、大和が力をえて…。

巫女と男王は、セットなんじゃないか、という気がする。
女、旧勢力代表、宗教的、九州。
男、新勢力代表、軍事的、大和。

トヨは俺は九州のように思える。
因幡の白兎って、トヨが平和裏に大和に移ろうとして失敗した話かもな、という気がしてるから。
出雲大社には縁結びの神がいるそうな。
九州の巫女と大和の軍事的王の縁結びじゃないの? ていう気さえしてる。
そのように考えてはじめて、九州色がきわめて薄い纏向に端を発する大和なのに、
三種の神器やその類いの宝具が重要視された理由が納得いくように思えるんだが。
そして、箸墓の伝承。
あの奇怪な伝承の内容は、今では卑弥呼とは直接の関係のない人たちが、政権を担うことになったなぁ、
という慨嘆だと俺は思う。
その箸墓に葬られているのは、崇神天皇。ついに権力は移行した…。
832稗箕狐:2012/02/04(土) 09:34:41.34
伊都郡の南に高野山がセットアップされたり

天神様の憂さ晴らしで復権があったりしたあたりでようやく

なんとかかんとかやっとのことでもちついたりしたんだよね
833日本@名無史さん:2012/02/04(土) 09:35:56.87
>>828
>推古や聖徳太子云々の話は別にして隋書倭国伝が一応そうだろう。
隋書が書いているのは、大和とはちがう王朝だ。大和のことはまったく書いていない。

834日本@名無史さん:2012/02/04(土) 09:36:17.91


巫女と男王は、セット。

女、旧勢力代表、宗教的、九州。
男、新勢力代表、軍事的、大和。

九州と大和の縁結びをしたのが出雲。

そして、箸墓に葬られているのは、崇神天皇。

>>831

どうだい、他人に書かれると「それは違うだろ」と思えてくるだろう。不思議だね。

835日本@名無史さん:2012/02/04(土) 09:45:05.73
そして、神武東征神話。
別に東征自体があったわけじゃないだろう。
でもそれを書いた。なぜ?
九州から大和へ権力は移りました、という意味だよ。
男王はもともと大和にいた。
九州の巫女から権力を受け継いだ。
そういうことだと思う。
神武天皇は崇神天皇と同一とも言われるが、
いずれにせよ、最初からそこを拠点としていた男王だろう。
九州が大和へ移ったのは、人がではなくて権力なんだよ。
836これ発掘しました:2012/02/04(土) 09:47:29.62
♪♪♪♪(諸韓)國(及)郡使(倭國)往來常所駐♪♪♪♪
837稗箕狐:2012/02/04(土) 09:54:50.51
>>836
「魏率善邑君 歸義侯 中郎將 都尉 伯長」のところからもお使いとか来てたんだろうね

「辰王」さんのリモコン操作しているなぞの大物さんたちなんでしょうがね

あと 弁辰にいるっぽいの「秦王」さんのところとかからとかさ
838日本@名無史さん:2012/02/04(土) 09:58:05.38
どちらにしても重要なのは瀬戸内海、淡路島だよ。
それに邪馬台国はやはりヤマト。ここで統一政権を持ったのが大和朝廷。
巫女が九州南方系出身なのは同意だね。
839日本@名無史さん:2012/02/04(土) 10:02:03.84
九州か畿内かなどいまだに言ってるのは幼稚な素人オタクくらいw
840日本@名無史さん:2012/02/04(土) 10:04:30.65
語る知識の無い奴はロム専しようなw
841稗箕狐:2012/02/04(土) 10:07:59.72
帶方郡【公孫度置 統縣七 戸四千九百】
 帶方縣
 列口縣
 南新縣
 長岑縣
 提奚縣
 含資縣
 海冥縣

まめだけど

この南に韓地があるのな その南の沿岸域とか島とかは倭地で良いだろ

沿岸域の倭地にあるののなかみ明細とかはいろいろ酋長さんとかいても書いていないのな

五島列島なんかのも明細とか無いけどな
842稗箕狐:2012/02/04(土) 10:13:47.34
>>836 これの件に関しては これみてちょ

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1328113252/317
843日本@名無史さん:2012/02/04(土) 10:31:49.58
さすがにもう新しい発見でもないかぎり進展はないので
やるだけ無駄だろうwかれこれ300年邪馬台国論争やってるが
文献からじゃもう決着はつかんよ。
844稗箕狐:2012/02/04(土) 10:43:03.85
「邪馬臺」が「邪馬大委」だって気付けば

  もとから論争とかおきっこないのにさ
845稗箕狐:2012/02/04(土) 10:52:00.54
そんなに「やまと」のこと気に入ってるんだったら

ここら辺捜すと いよたんらしいひととかいるのにさ

http://maps.google.co.jp/maps?q=佐賀県佐賀市大和町大字川上
846日本@名無史さん:2012/02/04(土) 10:56:31.24
ほんと古代史は妄想のオンパレードだなww
オタが好きそうなネタだらけだ。
847稗箕狐:2012/02/04(土) 11:03:02.68
>>845
いよたんでないかもしれんけどさ

與止日女 たら 良姫 で なが姫 って読むんなら 石長姫の分身なのかもな

石長姫は 「いしながひめ」のがもともとのだろ
848卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/04(土) 11:23:30.18
>トヨが九州がら大和へ移行しようとして失敗したのが、因幡の白兎かもな…。いや、知らんけど。

爆笑w 抱腹絶倒w さすがは2chの住人ww ユーモア大賞贈呈w

さて倭姫命世記を読んでいるのだが、佐見都日女とか、苗草を取る老女宇遅都日女という女が出てくる。
いずれも皇族でもなく巫女でもない普通の女。それが〜日女と書かれている。

つまり名古屋の少年の言うような、日女と書かれているから特別の女性だ!という想定は崩れるのである。

ちなみに大田命という38万歳の老人なども登場する。
849日本@名無史さん:2012/02/04(土) 11:29:22.26
モモソは日女命、又は神大市姫と書かれた文献は無視出来ないぞ。
これは記紀以外の資料だからな。
850日本@名無史さん:2012/02/04(土) 11:37:40.79
モモソは卑弥呼の可能性高いが
箸墓は卑弥呼の墓ではないだろう。
記紀の箸墓説話の部分のみなぜか台与になってる。
851日本@名無史さん:2012/02/04(土) 11:40:39.82
>>848
あれをよく読むと、登場人物やワニさえも、有力氏族の名称の暗喩になっている。
852日本@名無史さん:2012/02/04(土) 11:42:30.96
熊ワニ というのは、古代の王族だから。
853日本@名無史さん:2012/02/04(土) 11:45:09.52
俺もモモソ=卑弥呼説だが箸墓は確かに怪しいと思う。
仮にそうだとしたら、後年移設した可能性はあるかもな。
854日本@名無史さん:2012/02/04(土) 11:53:51.29
おまえら日本書紀をよく読め。
箸墓説話のとこだけ倭途途日百襲姫命ではなく、
倭途途姫命になってるから。これにはおそらく
理由があるはずだ。それにもう80歳すぎたババアの卑弥呼が
いきなり大物主と結婚すると思うか?
855日本@名無史さん:2012/02/04(土) 12:20:10.05
記は紀の改訂版でもあるから。
当然よく読めば逸話には意味を込めてあるよ。
大巫女のホトを突いてる部分ばかり目に行くが、
大物主の権威を落とす目的もあるからな。
856日本@名無史さん:2012/02/04(土) 12:40:29.26
みんな騒がしてごめん、
実は俺が卑弥呼なんだ
857日本@名無史さん:2012/02/04(土) 14:33:23.19
>さすがにもう新しい発見でもないかぎり進展はないのでやるだけ無駄だろうw
>かれこれ300年邪馬台国論争やってるが文献からじゃもう決着はつかんよ。
これまでずっと伊都国は怡土だと思い込んで論争していたからなあ。
倭人伝どおり東南に進んで、伊都国を佐賀あたりに比定したら、あと三百年くらい
論争できるんじゃないかな。

858日本@名無史さん:2012/02/04(土) 16:39:26.69
江戸時代とかさ、皇室の権威が落ちてた時期に古墳とか発掘調査できなかったのかね。

859日本@名無史さん:2012/02/04(土) 16:48:38.21
今だって権威が落ちてると思うが……
860日本@名無史さん:2012/02/04(土) 16:56:15.99
戦国時代以降は荒らされてる場所が多いだろう。
861卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/04(土) 17:34:30.24
倭姫命世記によると倭姫の薨去は雄略23年(478年)となっている。
倭姫は垂仁天皇の皇女で垂仁はBC69〜AD70。倭姫はざっと五百年生きていたことになる。

そうするとモモソ姫を卑弥呼に当てるより、倭姫を卑弥呼に当てるほうが理に適っている。
尤も、倭国大乱や卑弥呼共立が畿内の話であることは絶対にありえないが。

なぜありえないかといえば、記紀にそんな記述がないからである。

では九州か。一見いかにも九州のように思える。なにしろ狗奴国に狗古智卑狗という官があるのだから。
しかし九州から海を越えて中国に助けを求めに行くはずがないのである。
ゆえに倭国大乱や卑弥呼共立は朝鮮を舞台とした物語なのである。
862日本@名無史さん:2012/02/04(土) 18:00:01.89
>>861
半島に倭人の国があったのは、恐らく事実と思うし、百済はもともと倭人の国では、
と考えている人も少なくないとは思うけど、しかし、
邪馬台国が半島はないでしょ。
伊都国が九州北部まではっきりしてるわけだから、
その先の邪馬台国が半島はありえないよ。
863日本@名無史さん:2012/02/04(土) 18:06:08.26
>九州から海を越えて中国に助けを求めに行くはずがないのである。
助けを求めたと思うことが浅はかだな。檄文や旗はたいして役にはたたない。
864日本@名無史さん:2012/02/04(土) 18:11:26.56
>記紀にそんな記述がないからである。

朝鮮になんてそれ以上に影も形もないw
大体記述にある倭国の気候風土や産物を無視するなよ。

865日本@名無史さん:2012/02/04(土) 18:15:14.76
>>862
倭人系のピープルに濊貊ルーツの夫餘・高句麗系の支配者層が乗っかっているってふいんき

漢字使いの旧楽浪系の移民とかのDNAも混ざってる

倭人系のピープルのベースには没落した辰王がいるんじゃないの つうかんじ
866日本@名無史さん:2012/02/04(土) 18:28:44.52
朝鮮にいたののひとは

楽浪郡の下に朝鮮縣とかあったのとかご存知無いのでしょうね

”卑弥呼は韓にいた” なら、まだしも

”朝鮮にいた” とかなら 

不耐濊王さんのとこと同じで「軍征賦調 供給役使」 とかされちゃうけどな
867日本@名無史さん:2012/02/04(土) 18:34:39.63
「魏率善邑君 歸義侯 中郎將 都尉 伯長」の官の名前で出てくる

「月支國の辰王」さんのことリモコン操作しているぽい謎の大物さんたちって

どうも九州に基地もってるぽくて怖いな。。。。
868日本@名無史さん:2012/02/04(土) 18:47:14.92
>>865
百済のこと?
百済はそんな感じと思うけど。
百済とか新羅とか、建国神話の抜粋みたいの読んだことあるが、
ほとんど倭人の国だもんな。
途中で支配層が高句麗系に変わったのかな?
いまはエベンキ人なんだっけ? www
869日本@名無史さん:2012/02/04(土) 18:55:33.82
高句麗と列島とので数詞のが近いって聞いてるけど

モロ直で支配している層とかが高句麗のとリンクしているのでは無くって

濊貊ルーツのところで出雲の酋長のほうとか媒介にして

なかば下のほうからので数詞共有みたいに考えてみたいところ
870日本@名無史さん:2012/02/04(土) 19:07:07.02
>>868
ああ 3世紀のこの時点においては 

伯濟國とかはまだ小さいから

高句麗色とかはまだ希薄なんだよな
871卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/04(土) 19:10:50.10
>>862
邪馬台国は大和、邪馬台国に都す女王とは神功皇后のことですよ。
卑弥呼は邪馬台国とは何の関係もない。
陳寿は朝鮮の倭国の卑弥呼と日本の大和朝廷の神功皇后を混同したのですよ。それだけ。

>>864
倭人伝の風俗記事と卑弥呼は何の関係も有馬温泉。
風俗記事と朝貢記事はまったく別の資料に依拠しているのですよ。
872日本@名無史さん:2012/02/04(土) 19:19:53.08
>>869
百済はおっしゃる通りかなと思うけど、同じ倭人ベースの国でも、
半島と列島では違うよ。
広開土大王碑があるからね。
あれには、倭国への親近感は微塵も感じられない。
列島と百済、それから初期の新羅はいずれも倭人の国かと思うけど、
やはりカラーが違うと思う。
ああ、なんの話なんだっけ?
邪馬台国が半島にあったか、だったか。
いや、それはないでしょ。狗邪韓国は倭人の国とかいうなら、そうかもとか思うけど、
だって、伊都国まで辿れるんだから、それをくつがえせないなら、邪馬台国は半島説はありえないよ。
列島、百済、初期の新羅は倭人文化圏というなら、それは認めるけど。
873日本@名無史さん:2012/02/04(土) 20:10:21.87
>>871
勘違いとか、全く根拠の無い妄想は沢山です。
874卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/04(土) 21:10:57.29
>>873
勘違いではない、という証拠はどこにもないよ。なぜ妄想と決めつけるのかな?
陳寿が勘違いしている可能性があるんだよ。

史料を深く読むとはそういうことだ。いろんな可能性を分析し、想定することだ。
陳寿が勘違いするはずがない、と決めつけることではないよ。

いろんな人が邪馬台国をいろんな場所に比定するのも、各人が史料を分析し、いろんな可能性を想定した結果だ。
妄想ではない。想定だ。想定を妄想だと否定されたら、何も発言できない。
875日本@名無史さん:2012/02/04(土) 21:16:43.06
まあ、新唐書の日本伝の書き方は、
記紀をかなり適当に引用しているような印象を受けるな。
876日本@名無史さん:2012/02/04(土) 21:44:29.84
>>874
論を主張するならそれを立証する手段がないとな。
それは単なる想像であり妄想でしかないですよ。
877唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/04(土) 21:47:54.52
北史 倭國
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中其國亂,
遞相攻伐,歴年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,國人共立為王。…
至奴國。... 又南水行十日,陸行一月,至邪馬臺國,即倭王所都。(女王之所都、官有伊支馬、)

邪馬台国は伊支馬の時代に卑弥呼の朝貢団に加わり
その直後の庄内式土器の時代に九州へ進出する。
878志紀:2012/02/04(土) 22:01:05.86
モモソヒメがそれっぽいとか、完全に素人ですよね。
箸墓ちょっと掘ってみたとか、そんなんで被葬者がモモソ=ヒミコとか
なんの根拠もない。

モモソヒメじゃない一番の根拠は、彼女が中国に使いしたとか共立女王だとか
中華の皇帝に金印を貰ったとか、そういう最重要な記述が無いって事だろ。
記紀の編纂当時は、対中国でヤマト政権の正統性を述べつつ朝貢するという
時期。そのための正史編纂で、なぜ正統王朝に列せられる魏王朝の叙任が
スルーされるのか。ありえないな。
879日本@名無史さん:2012/02/04(土) 22:03:26.07
百女国の女王=モモソヒメ
880日本@名無史さん:2012/02/04(土) 22:06:49.26
Dick
881日本@名無史さん:2012/02/04(土) 22:12:27.93
>>878
君は結局卑弥呼を誰だと思うのかな?
その理屈では未来永劫不明のままだろうな。
882日本@名無史さん:2012/02/04(土) 22:19:31.22
日本の記録上の中で、卑弥呼像に一番近いのが
モモソなのは間違いないと思うけど。
これは畿内説や箸墓とか記紀とか別にしてね。
883志紀:2012/02/04(土) 22:34:16.08
いや誰かって卑弥呼は卑弥呼じゃんwwwww

記紀にいないだけ
884日本@名無史さん:2012/02/04(土) 22:36:29.67
>>878
おいおい、紀記編集当時って、聖徳太子の後の時代だぞ。
朝貢を誇らしく書くはずって、あるわけないだろ。
東の天皇が敬いて西の皇帝に白す、の国書の後なんだから。
885卑弥呼は朝鮮にいた:2012/02/04(土) 22:41:50.79
>>876
私はいろいろ根拠を挙げて書いている、いろんなスレで。君がそれを知らないだけ。
あまりしつこく自説を主張するのも嫌われるだけだと思って控えているだけですよ。
お望みなら、たとえばこういう根拠です。

桓霊の末に朝鮮で動乱が起こり、同じ桓霊の末に倭国でも大乱があり、
公孫氏に倭が服属し、公孫氏が平定されると倭の女王が帯方郡に朝見してきた。

これは明らかに朝鮮半島に関する記述であり、この倭を日本と見なすこと自体、無理であり、非常識ですよ。
886志紀:2012/02/04(土) 22:57:34.91
>>884
それ言ったの、誰か知ってるの?
その遣隋使は記紀にないし、アメタリシホコ=聖徳太子って、本気で
言ってるのかよ。馬鹿なの?
伝説化が早すぎて本当の本人の事績すら分からないほどカリスマ
イメージの人物なのに、大中国に対してそんな尊大な国書を送りつ
けるって、あり得ない事も分からないのかよ。
返礼使が来日した時に、推古天皇が女帝ってことくらいすぐばれるだろ。
厩戸皇子が王を僭称したなんて、非道徳的かつこの上なく無礼な事を、
この上ない尊大な国書と共に送りつけたって事か?ああ?
最低限の勉強位しろよ。
887唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/04(土) 22:57:59.44
>魏王朝の叙任がスルーされるのか。ありえないな。

この直後に庄内式が九州に登場する。
つまり、卑弥呼共立だけでは、女王国(九州)が一体となったわけではない。
ということは、邪馬臺國王が倭王位授与のうらに、女王国の反対分子掃討までが視野に入っている。
戦争突入前提の倭王位である。戦争準備は極秘裏に行われる。よって、倭王位までもが秘匿されたと思われる。
全ての戦争が終結して、大和の王権が倭国を統一。その最後の平定に日本武尊が登場する。
888志紀:2012/02/04(土) 22:59:42.69
糞ジジイ、小難しいコピペばかり貼ってるけど実は
脳内は単純なんだなw

馬鹿なの?
889日本@名無史さん:2012/02/04(土) 23:05:40.82
>>883
馬鹿か?スレタイすら読めないなら来るなよw
890太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/04(土) 23:10:22.50
大和の王権が倭国を統一せず。その最後でない平定に日本武尊が登場する。

それは九州王朝が厳然と存在しておるからだ。
891日本@名無史さん:2012/02/04(土) 23:17:02.78
>>885
倭は半島南部に領地をもっていたはずですが。
892唐松山 ◆V0F34EbmQA :2012/02/04(土) 23:17:18.29
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。遠国をまとめる為、魏の政治手法「屯倉」導入。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國。
大和は女王国(九州)の北に置いた1大卒を監督し諸国を検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。

大倭とは、倭国統一後の大和の呼称である。
893太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/04(土) 23:18:07.92
景行在位年代間に 宿主の主張の 2章=38年 の空年は無い

【景行在位年代年表】

景行元年 景行天皇 即位
景行2年 播磨稲日大郎姫 立后
景行3年 紀伊行幸
景行4年 美濃行幸
景行5年 藤白神社(和歌山県)この年 創建
景行6年 織田神社(福井県)この年 創建
景行7年 九鬼文書 国々の神社に奉幣
景行10年 赤神神社(秋田県)赤神山 近江竹生島と同じく発現
景行12年 熊襲叛く 筑紫行幸 日本武尊 誕生
景行13年 熊襲平定
景行14年 伊奈波神社 鎮斎 成務天皇誕生 武内宿禰誕生
景行17年 宮崎県 子湯 行幸
景行18年 筑紫諸国 行幸
景行19年 筑紫から還幸
景行20年 五百野姫に日神を祭祀せしむ
景行21年 石部神社(滋賀県)同年4月 鎮座
景行22年 武穀王 土佐の大魚を討つ
景行23年 神櫛王に悪魚を討伐の下命
景行24年 大鳥美波比神社(大阪府)同年 社殿造立
景行25年 武内宿禰 北陸巡察
景行26年 高寺縁起 景行天皇 軍議を開く
景行27年 武内宿禰 帰還 日本武尊 熊襲平定
景行28年 日本武尊 凱旋復奏
景行29年 河堀稲生神社(大阪府)この年 祭祀         【続く】
894太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/04(土) 23:20:10.90
【続 景行在位年代年表】

景行31年 伊豆山縁起 久地良山の杉の大木 香を放つ
景行36年 胆咋宿禰 五十鈴姫を妃とし五十功彦命を生む
景行39年 歴史徴 始めて熊野新宮を建つ
景行40年 東夷叛く 日本武尊 東夷を征す
景行41年 大国魂神社(東京 府中)この年 創立
景行42年 麻賀多神社(千葉県)この年 創建
景行43年 日本武尊 死
景行44年 阿佐ヶ谷神明宮(東京)この年 建つ
景行46年 建部神社(滋賀県)この年 日本武尊を祀る
景行51年 若帯日子 立太子
景行52年 播磨稲日大郎姫 死
景行53年 東国 行幸
景行54年 東国から還幸
景行55年 彦狭島王 死
景行56年 御諸別王を東国領に命ず
景行57年 坂手池を造る
景行58年 近江巡幸
景行59年 熊野年代記 熊野行幸
景行60年 景行天皇 崩御
895太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/04(土) 23:25:48.99
大倭とは、倭国統一後の大和の呼称でない。

欠史八代の天皇に 大倭 の御名がすでに付いている。

しかし景行にはこの御名は付加されてない。ww

896太国 ◆yVAs7uaYlY :2012/02/04(土) 23:27:55.22
>景行天皇 240年〜261年 2章
       ↑
これがデタラメであるのは、>>893 >>894から歴然としている。
897日本@名無史さん:2012/02/04(土) 23:53:59.82
>>886
やれやれ、卑弥呼は誰かの前に、聖徳太子は誰かの話になってしまった。
それはね、みんな薄々気付いてるけど、ショックが大きいから口にしないんだよ。
天皇記・国記がどこにあったか考えればすぐ分かる。
つまり、蘇我蝦夷が聖徳太子。父は用明天皇こと蘇我馬子。
用明天皇が早くに死んだことにされたのは、
実は天皇ではなかった崇峻天皇を遡って天皇だったことにしたため。
蘇我蝦夷には、蘇我氏に敵対するものさえ感服する度量があったんだろう。
大陸に対する対等外交は、馬子と聖徳太子こと蝦夷の最大の成果だろうな。
以上。
898日本@名無史さん:2012/02/05(日) 00:48:23.49
>>885
いずれにせよ、張政は伊都国までは行ってるんですよね?
伊都国が九州北部なら、邪馬台国が半島というのは無理があると言わざるを得ないのでは?
半島にも倭人の国があったのは確実と思います。
しかし、この伊都国の問題がある以上、邪馬台国が半島というのは無理です。
899日本@名無史さん:2012/02/05(日) 01:31:29.30
卑弥呼は女王になってから、滅多に人前には姿を現せないんだしな。
テンペストのように御簾の向こうで取り次ぎが指示するだけで。
外交なんて当然伊都でするだろ、戦地に赴くような事はしないよ。

卑弥呼は多くの巫女を抱えて篭ってるんだよ。
その巫女は何するかというと、酒造りだな。
酒は若い処女の巫女が噛んで造るもの、桃を使った可能性もある。
となると三輪周辺がやっぱり候補になるっだろう。

900日本@名無史さん:2012/02/05(日) 02:33:59.30
>>899
まるで論証になってない。これでも見てみろ → ドンと来い102
( http://logsoku.com/thread/awabi.2ch.net/history/1324085363/ )
>>674
901日本@名無史さん:2012/02/05(日) 03:15:35.27
やはりモモソは卑弥呼像に近い事がわかるな。
902日本@名無史さん:2012/02/05(日) 03:23:27.14
↑アホ
903日本@名無史さん:2012/02/05(日) 03:36:46.50
まぁ卑弥呼に関する記述は他でもない、倭人伝に書かれた事だからな。
前線に立ってあれこれ指示する人物ではない。
これで神功皇后や女酋長の類は候補から外れるな。
904日本@名無史さん:2012/02/05(日) 03:48:55.14
卑弥呼は諸国に共立された女王だという。
つまり、当時の有力諸国に名前を残している事が条件になるだろう。
もしくは名前の多さもヒントになるかもしれない。

実はモモソの名前は文献上でも複数有るのは有名なのだが、
以外な人物もモモソの可能性もあるのである。
この事に気がついてる人はどれだけいるかな?
905日本@名無史さん:2012/02/05(日) 04:16:11.97
↑アホ
906日本@名無史さん:2012/02/05(日) 07:31:00.21
>>904

>以外な人物もモモソの可能性もあるのである。

卑弥呼=モモソだろ。
知ってるよ。
907志紀:2012/02/05(日) 08:37:02.63
むしろモモソ=桃なんて言ってるクソ歴史学者こそ
問題なんだよね
学問とは到底言えない
908日本@名無史さん:2012/02/05(日) 08:54:02.53
レベルの低いレスばかりで驚いたね。
やはり誰も日本の文献をまともに読んでないな。
記紀の逸話にもある橘が決して蜜柑だけを指してる訳ではないように、
モモソ=桃は別に間違いではないが、当然他の意味もある。
909日本@名無史さん:2012/02/05(日) 09:00:14.76
そもそも魏志倭人伝ってのは伝聞なの?実際に中国の人が来たの_?
910日本@名無史さん:2012/02/05(日) 09:01:43.77
>>907

桃の種が出てきた以上、モモソ=桃だよ。
911日本@名無史さん:2012/02/05(日) 09:11:56.59
>>909
東夷伝とかまじめに読み込んでるひととか少ないのかね
「訪問することが実現したから詳細を書くことができますよ」
こうゆうふうにちゃんと書いてありますね。
912志紀
じゃあ箸墓=モモソの証明は?
桃=モモソも証明は?