1 :
日本@名無史さん:
俘囚の前に
佐伯も入れとけ
3 :
キチク山菜:2011/12/10(土) 19:06:28.50
荒らさずに、真面目に論議したいな。
4 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 19:15:01.12
アンチ東北厨が暴れてるからな。
つうかチョンだろ
6 :
日本@名無史さん:2011/12/10(土) 21:51:55.63
思うところ。
〇別所の数が多すぎる。確かに、後世僧の修行の場としての別所もできたろう。
〇初期の別所はなるほど、山河自然に院内を形成している。
〇しかし平安後期に俘囚の東北帰還事業もあった。全部が戻ったわけではなかろうが。
〇菊池は別所と「長吏曲輪」の関係を明確していない。
初期には別所がその淵源だとしていたけど、
賤視されている別所は畿内、特に和歌山だけ。
〇ただし曲輪の形質的特徴が東日本的だと、
小浜の半世紀近く前に指摘している。
いろいろ謎は多いな。
新地は?
新地は新開地ってだけでしょう。
確かに、売春地になっている新地も少なくないけど。
尼崎のカンナミ新地って一種の無法風俗地帯だけど、
たぶんかつての尼崎別所のあとかな……。
戦後は、曲輪の別所起源説をひっこめたとされている菊池だけど、
曲輪の民家が北向きで光線を避ける構造なのは、縄文以来の
伝統かもしれないなんて書いている。
別所地名は各地にあるけど、見下されているところはほぼない。
世が乱れると別所の人たちも新天地を求めて流出したろうし。
毛人谷城(えびたにじょう)
http://www.geocities.jp/kitamejirou/new_page_176.htm 毛人谷城址(大阪府全志より)
本地は古来石川郡に属し、毛人谷(ゑびたに)村と称す。字地に谷川といへるあり。
村名の毛人は蝦夷ならん、景行天皇以来蝦夷の俘となりしもの、又は其の内附を請ひし者を諸国に分ち居らしめしことあり、
地名に依りて考ふるに、此の地或は上古蝦夷人の居住せしことありて、此の地名を為せしにはあらざるか。
毛人谷城の址は西方高地にあり。城は楠正成の設けし城塞中の一にして、富田氏の兵の據りし所なり。今は雑木林となる。
いいところに気がついたね!
あと、伏尾ってのが池田にある。
「不死王」が語源なんて言うけど、俗説。
「俘囚」の古語から来ているのでは?
伏尾の南側の山はもともと「佐伯山」、現五月山。
その西側の地名が「木部」で、もともとは「きのへ」と呼んだらしい。
11 :
日本@名無史さん:2011/12/13(火) 20:33:56.80
菊池の説もいまいちまとまってない。
別所→長吏曲輪ではなさそうだけど、
別所の人たちは鎌倉期にそこを脱して、
芸能関係や雑色に落ち着いたのか?
鎌倉幕府は義経追悼の機動公安舞台としてその雑色を
使役し、それが戦国期を経て各地の警吏関係と雑役、移動工芸や
遊芸人……ともかく非農耕非常民になったってことかな。
それが時代の安定期に定着するとき、農耕地を割り当てられずに
山番川番、川原の細工師や牛馬処理、荒地での畑作などになったと
言うことなんだろうか。
西日本ではその形質などの差から後世まで賤視されたかも知れないけど、
東日本ではしだいに農化定住したろう。
実は将門の乱が、最後の原住民反乱じゃないかな。
俘囚軍が武士の淵源ってのは、喜田貞吉以来いろんな人が述べているな。
14 :
日本@名無史さん:2011/12/18(日) 09:26:24.99
東北人=白人
東北人=土人
要するにアイヌなんでしょうか?
17 :
日本@名無史さん:2011/12/19(月) 22:32:36.29
アイヌとアングロサクソンは兄弟
18 :
日本@名無史さん:2011/12/20(火) 04:57:20.01
まじめに。
縄文人→アイヌってのはそうだろうけど、
縄文人も地域性があって一枚岩じゃない。
関東と東北でもやや違いがあったかも知れない。
関東人も
東北人もアイヌも俘囚も、縄文人を共通の祖先にするだろうけど。
東日本=アイヌではないだろう。
東日本とひとくくりにすることはもちろんできない。
関東は東北にいるアイヌを征伐するための一大前線基地だった。
ここが武士の本場となり、征夷大将軍が関東に拠点をもったのはそのため。
日本武尊の東国制覇ってどの程度まで史実の反映なのか興味あるな。
時代は何時?
熊襲建や出雲建と戦った日本武尊とは別人で、初期大和朝廷の複数の人の事跡を1人の人物の事跡として統合したものだよね。
古事記では房総半島が東征の東端で、そこからのちの東山道を西に引き返しているけど、
日本書紀ではそれより遥かに北の多賀城くらいまで到達してるよね。
そうなると四道将軍・建沼河命との関係は?
また、草薙剣が活躍した地である焼津が、古事記では相模国、
日本書紀では駿河国となっているのも興味深い。
取り方によっては、昔はのちの律令制施行以降の国境とは違った国境だったものかもしれないことを示唆しているようにも見えるよね。
>関東は東北にいるアイヌを征伐するための
平安時代はまた゜「アイヌ」としての民族性は確立していなかっただろう。
東大の有名な自然人類学者の埴原和郎は、
関東農民と北東北の原住民が「別の文化」を歩みだしたの、
鎌倉以降だろうと言ってる。
古くは喜田貞吉も似たことを言ってた。
征夷大将軍についてはそうだ。
「征夷」、すなわち先住民族侵攻の「最前線」、
まさに将軍前線司令部たる「幕府」を鎌倉に置いたのは
大義名分上、そこから東が「敵地」と言う意味だし。
> 征夷大将軍についてはそうだ。
> 「征夷」、すなわち先住民族侵攻の「最前線」、
> まさに将軍前線司令部たる「幕府」を鎌倉に置いたのは
> 大義名分上、そこから東が「敵地」と言う意味だし。
奥州藤原氏は別に後白河政権に(清盛政権にもだが)反抗していたわけじゃない。
だから後白河法皇は征夷大将軍職を欲しがる頼朝にそれを許さなかった。
これには頼朝も焦ったことだろう。
勝手に奥州藤原氏を朝敵認定して攻めてしまったら、後三年役の時の先祖・源義家の二の舞になってしまうではないかと。
面白いことに頼朝は自身の先祖の中で、最も華のある武将として人口には膾炙している義家を殆んど自己の武家棟梁としての権威付けに利用していない。
その理由は、義家は後三年役に於いてやはり朝廷の覚えめでたかった清原氏を勝手に「朝敵」として攻め滅ぼし、
それが朝廷からは正当な官吏(陸奥守)としての職務を大きく逸脱したとみなされて、陸奥守を罷免され、その後の清和源氏凋落の原因を作ったことに起因しているだろう。
頼朝が自身の権威付けに専ら利用したのは義家の父・頼義の故事来歴なのだ。
23 :
日本@名無史さん:2011/12/23(金) 14:28:38.35
菊池説に戻ると、別所と長吏曲輪の関係がいまいちわからんなあ。
誰か説明してほしい。
24 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 21:06:32.02
チョンの妄想っておもしれーな
白人がチョンの捕虜になるわけねーだろ
25 :
日本@名無史さん:2011/12/24(土) 21:30:46.89
昭和二十年代に阪大が全国的に計測した結果、
西日本でも長吏曲輪だけが例外的に中・長頭だと言う結果を、
菊池は大正年間に見抜いていた。
その慧眼には恐れ入る。
たとえば、平安期に降伏した東日本の俘囚は、
一応別所や軍団に廃された。
ただ平安末の動乱期に帰るべきものは東北に戻ったろう。
しかし別所・院内には多少の俘囚が残存し、家庭を築く。
そこへ東北の戦乱や飢饉で流出した、和人化原住民が流入、
縄文色の強い集落を形成した。
その一部が濃化せず近在権力者の走り回り=雑色になった、
と考えることも出来るかな。
26 :
日本@名無史さん:2011/12/28(水) 09:39:05.02
土人が白人の捕虜になったんだから何の不思議でもないのだが
南北アメリカ大陸と同じ現象
南北アメリカ大陸と違って全員殺されなくて良かったな
28 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 14:41:51.80
縄文白人
29 :
日本@名無史さん:2011/12/29(木) 14:42:56.36
縄文土人
30 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 07:15:01.89
近畿だけが別所を卑しんでいた、特に和歌山では長吏曲輪と同一視されてたと
菊池は書くが、そんな例は知らんなあ。
「別所」にどこか差別的なニュアンスあるのはそうだろう。
386 :本当にあった怖い名無し:2009/02/24(火) 12:37:09 ID:ue2uvIga0
てかネットでしか言えんがオレが関西の部落出身だからわかるんだけど、部落じゃない人の顔は見た瞬間にすぐわかる。
関西の部落ってアイヌ並に濃い人が多いから薄い顔の人が来たらかなりかなり警戒してしまう。なぜかわからないけど
32 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 08:13:14.51
>>31 部落民じゃない奴のほうが圧倒的に多いんだから、しょっちゅう警戒しまくらなければならなくなるだろ
ホラ話なのはバカでもチョンでも分かる話だ
九州南部や沖縄から移住してきたやつのほうが濃い。
部落民の顔はまあ東北人ぐらいの感じだ。
34 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 11:26:34.72
36 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 11:42:55.44
差別を根本的に解消するためにも、別所と曲輪の関係を
あきらかにしないと。
平野小剣や、多分松本治一郎も認めていたと思う。
が……平安時代の別所と、中世以降の長吏曲輪の関係が
どうも判らん。
37 :
日本@名無史さん:2011/12/30(金) 16:22:28.47
>>35 そうか
じゃあ身分証明書付きで実名を晒せ
俘囚移配地としての別所も、南北朝頃までに一部を除いて解体されたろう。
東北へ帰還した蝦夷子孫もいたろうし、そのころは東北地方がほぼ和人化し、
俘囚子孫も東国民衆もさほど差はなかったはずだ。
まして戦国期の混乱で、五百年近く前の先祖なんてわからなくなっていたう。
ただ、現在でも地域によって短頭、中頭の差が歴然とあり、顔立ちでも
「関西顔」「関東顔」「九州の顔立ち」などと言われるぐらい地域差が残る。
戦国時代前後など、一目見ただけで出身地方が判るほど差があったと思われる。
俘囚起源説のもとになっているのは、
昭和二十年代の有名な小浜基次の頭長幅指数についての全国的な
調査だな。
早くに菊池や鳥居も指摘していたけど、
短頭が主流の近畿・瀬戸内地区で
曲輪だけが中頭=東北・裏日本型なんだ。
けれども別所=曲輪となっている例は決めて少ない。
ここんとこをどう解決するかなんだよなあ。
そして東へ、中・長頭地域へ行くほど、人権問題は少なくなってくる。
40 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 13:39:24.75
コーカサスから西へ移住した集団がギリシア文明を築き、
東へ進んだ人々が縄文文明を築いた。
蘇我に負けた物部一族が部落になったんでないのか?
当時徹底して弾圧しただろうし、仏教への帰依も遅かったはずだ
地域的に一致しそうな気がするが詳しくは知らん
負けた物部は東北に逃げたようだし、再起を図ったのも居たようだ
物部→武士(もののふ)だし軍事と神事担当だったしな
物部は畿内の先住民だが
物部氏→中臣氏→藤原氏→近衛家 復活しとるよw
藤原氏は物部系かもしれないが違う一族だろ
氏神は鹿島神宮だし
かつての物部氏の拠点は河内だが、そこと違う山城が拠点になってる
復活という感じではない
あと秋田物部文書には本家筋は秋田に逃げたと書いてあるな
44 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 18:27:05.34
東北はアングロ・サクソンかな。
橋下ってどちらかというと貧相な顔だけどね
>>44 普通にインディアンだろ
イヌイットってアイヌだよな
47 :
日本@名無史さん:2011/12/31(土) 22:52:41.21
アジアのゲルマン
アジアのアフリカン
藤原氏は中臣ってことになっているけど、
鹿島系。物部と中臣は同族と言うより、
物部技術部族の末端だろう。
けど鎌足の出自は謎。
なんで河内中臣の氏神たる牧岡神社ではなく、
春日なんかを祭っているかとか……
ただ、別所とはあんまし関係ないじゃろけ。
『物部』ってのは「鉄資源探索、製鉄、武器製造、その輸送、そしてそれらの祭祀」に関わる幾つかの部族で構成された連合部族。
物部「氏」を、ニギハヤヒだけを祖神とする1つの氏族と単純に見ていたのでは理解できない点をあまりに多く含んでいる。
「物部」は、実際には総合商社のようなもの見ておいた方が実態にかなっている(まさしく物部「連」の名が示す通りだ)。
その物部「連」を構成していた中の1つが、金屋児神(天児屋根命)を奉じる製鉄関連部族である天児屋鉄山というグループ(のちの中臣氏)。
播磨から吉備東部にかけての地がその本拠地だった。
守屋大連が滅んで以降の物部本宗筋は、しばらくは行方を眩まして雌伏の時を過ごさざるを得なかった。
その点、『大鏡』に鎌足の生地は常陸・鹿島とあるのは示唆的である。
鹿島は『物部連』を構成する氏族の内、上述した「鉄資源探索」を職掌としたシャーマン部族の地(の1つ)である。
彼らは雷神であるタケミカヅチを奉じる部族であった(雷神は鉄資源探索の神そのものである)。
物部主流筋はほとぼりが冷めるまで、この同じ「物部連」構成員である常陸鹿島の製鉄部族に匿われていたのだろう。
やがて雌伏の時を経て復活してきたのが「物部」鎌足である。
51 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 20:22:44.11
俘囚と朝廷とどうやって意思疎通したんだろう。多分、軍団で動員された
東国農民が通訳したんだと思う。
鎌倉頃までの関東は、今の沖縄と同じように、
住民同士は縄文的な日常語使い、
国司等についてはなんとか大和言葉で話していたかもしんない。
俘囚と和人とは言葉が違ったから、
別所から亡命しても故国に帰れるはずもなかった。
だかせ染ま場で定住、子孫を増やしたとも考えられる。
支配者言語の大和言葉聴いた事があるのかよw今じゃ天皇家ですら日本語だw
53 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 23:16:43.54
小沢さん今度こそ絶対に首相になってくれ
54 :
日本@名無史さん:2012/01/01(日) 23:18:06.34
正月はいいな
朝から酒飲んでも誰にも文句言われないし
最高だよ
>>51 出雲方言と東北方言が似ている
それがヒントだろうな
56 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 02:56:37.13
>>51.55
8世紀に編まれた万葉集にはすでに関東訛りで歌われた東歌が収録されている。
また、稲荷山古墳と、そこから発掘された鉄剣の銘文によって、関東は遅くとも
5世紀には大和王権に服属したことが分かっている。
その少し前の倭の五王、河内王朝の時代、大和は各地へと盛んに遠征し、
海を渡って高句麗とも戦っている。
古墳時代の5世紀と鎌倉時代の13世紀では、この間800年ほどの時間差がある。
鎌倉時代まで訳の分からぬ縄文語を喋っていたなどいうのは妄想。
57 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 05:19:18.09
五世紀段階で北関東に和人系豪族が進出したのは確かだろう。
奈良時代の万葉種は、編者の修正、翻訳がかなりはいっていると思われる。
支配階級はともかく、庶民レベルでは
多分鎌倉ぐらいまで原住民語が残っていなかったか?
または沖縄みたいな「二重言語」と言うか、
うちうちでは続縄文語的な現地語、公的には
相当なまった和人語使うなど。
>>56 では
なぜ出雲方言と東北方言が似ているのか?
妄想以外で答えてくれ
>>59 んなわけないだろ
青森弁や沖縄語なんかアクセント云々じゃなくほとんどだれも理解できないだろうが
縄文人は一番最初に駆逐されたっぽいね。
朝鮮半島から長州や北部九州経由で関東まで弥生人が入って、
そのあと支配者になった大和朝廷はどこから来たんだろう…?ムー大陸?!
62 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 12:55:00.35
>>60 日本語と大和言葉は違うぞw
本来は支配層の限られた言語が大和言葉。ギャル語みたいな囲い込み言語だ。これも朝廷から武家に権力が移行する中消えて行く。その古語を少し残した領域は一部にあるがな
>>62 日本語と縄文語の違いのほうが明らかに大きい。
優れた大和文明のほうに引っ張られてそっちに乗り換えた。
しかしアクセントだけは抜けなかったんだろう。
64 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 14:35:25.75
>日本語と大和言葉は違うぞw
ここは東北人の劣等感をガス抜きするために立てられたわけではありません。
>>64 筑紫や日向も無アクセントだけど
奈良県南部も防火壁の様に関東系アクセントが残っているし
大和言葉より今の関西弁の方がアクセントが簡単になっている
大和言葉の発祥は筑紫でも日向でもなく畿内だろう
別所の人たちのアクセントはどう?
キツメの気がするんだけど
66 :
日本@名無史さん:2012/01/02(月) 18:10:52.53
たとえば中世以降、関東や東北から畿内へ入った人々は
言葉はもちろん、その容貌から簡単に東国出身とわかったろう。
その人たちが定住出る場所は限られていたし、
通婚圏も似たような境遇の集落に限られていたはず。
こうして数百年の間、中頭と言う形質的特徴が
特定小規模集落で保たれてきた、ち考えられないか?
関東や九州なんかだとはっきりわかるのは言葉ぐらいだし、
定住していくうちに同化していっただろう。
東北の場合は食肉という風習があったから同化し得ない。
>>67-68 俘囚とは戦争捕虜みたいな物だが
俘囚の地域配置
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7880.html 俘囚は畿内を避けて配置されてるが明白だ
これは危険勢力だから当然の事
都の側に集落を作り押し込めるなんて有り得ない政策だな
この図から分かる事は、俘囚が多く移住した場所は大和朝廷に逆らう勢力が多い不安定な場所だということ
おそらく大和朝廷は戦力として使ったのだろう
俘囚と部落をつなげる妄想はなにか根拠が有るのかな?
地名の語呂合わせだけかwww
部落が一番多いのは九州じゃなかったっけ?
危険勢力を、大和朝廷に逆らう勢力が多い不安定な場所に置くのは有り得ない政策だろう。
もっと前から大和朝廷の全国制覇は始まっているので
安定した場所から順番に配置をしていったと考えるのが妥当。
山陽や畿内は◆=六国史時代の配置が多い。
大和や紀伊はそれより前から安定していたのだから
それ以前にもうすでにかなり配置が進んでいたのだろう。
あの、俘囚は帰順したエミシの戦士だぞ
女子供を奴隷用に連れて来たわけでは無い
分かってるのかなあ・・・
俘囚を畿内に連れてきて奴隷扱いしたら、せっかくの帰順が台無しだろ
俘囚は逃亡、せっかくの和平の台無しになる
アルテイは処刑されたが坂上田村麻呂は奴隷にするために連れて来たのではないはずだ
もちろん処刑にも強く反対している
>>71 >山陽や畿内は◆=六国史時代の配置が多い。
と言われても数の比較も出来ないな
75 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 04:18:04.08
プレ俘囚的な存在に「佐伯部」というものがある。
『日本書紀』の景行天皇五十一年秋条に、
日本武尊が東国平定の過程で捕虜にした蝦夷を、まず神宮(伊勢神宮)に献上したのだが、
そこで蝦夷たちは昼夜を問わず騒ぎたてるので、たまらず倭姫命はその蝦夷たちを大和の朝廷に進上してしまう。
大和では蝦夷たちは三輪山山麓に置かれたのだが、
その地でも蝦夷たちは三輪山の木々を勝手に伐採したり、近隣の住民を脅したりしたので、
景行天皇により「蝦夷たちを中央に置いてはいけない。畿外に置くべし。」との命が出て、
彼ら蝦夷は、分散されてそれぞれ播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五ヶ国に置かれることとなった。
これを「佐伯部」という。
他にも仁徳天皇条に、天皇が可愛がっていた鹿を蝦夷がそれと知らずに狩って、天皇に献上してしまう等のことがあったため、
「蝦夷を皇居の近くに住まわしてはならない」とのお達しが出たりした。
俘囚が畿内に置かれなかったのだとしたら、それは上述した「前例」のためかも知れない。
76 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 05:21:34.19
俘囚は鉱山労働のほかに、やはり軍事力としてつかったんじゃないかな。
移住は家族単位が多かったと思う。
家族を人質にして、警備任務に使う。
または使いやすい俘囚を編成して、
SSウクライナ師団みたいに使う。
別所と長吏曲輪(極力差別的な言葉を避けるためにこれを使う)の
関係で一番ひっかかってるのは
既出の、昭和二十年代の小浜基次の全国的調査。
西日本、特に畿内において曲輪の頭長幅指数は
東北・裏日本型だったことだ。曲輪のそとはすべて
畿内型と言うか短頭なのに。
最近また武士の起源が俘囚だって言う喜田以来の論が
再評価受けている。長吏曲輪と武士の関係も気にかかってる。
軍事力もあったろうし奴隷もあっただろうけど
一番の目的は一斉蜂起を防ぐためにその土地から分離すること。
逆に和人を送り込んで国としてその土地をヤマト王国の一部に組み込むと。
つか手に負えないと9世紀末頃に、俘囚を奥羽に帰還させろと命令が出てる訳だから
俘囚が住んでた場所が有ったとしても
そこに住み続けていたら命令違反が明白な訳で、役人も必死で追い出しただろうし
そんな集落が有ったとしても無人になったと考えられるのだが
なぜずっと住み続けられたと考えてるの?
79 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 12:41:15.67
全国で俘囚が争乱を起こした原因は、内国人・俘囚の両者間の文化摩擦が1つと、
奥羽で蝦夷を帰服させる際に国が約束した米などの俘囚料の支給が途中から実施されなくなり、それが俘囚たちにとっては「約束違反」と写ったから。
80 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 12:48:45.33
それと俘囚の奥羽への「帰還事業」だけど、これはたぶん実施はされていないよ。
国がそういう方針を発表したというだけで(こういうことはよくある)。
帰還にまつわる文献が全く残っていないからね。
それに上で誰かも述べていたように蝦夷を投降させて空にした地には、主に関東から柵戸や鎮兵を入植させているので、俘囚には帰る故郷なんて無くなっていた。
>>80 もしかして
朝廷のお膝元でも実施されてないと言い切ってる?
周辺国ならまだしも河内その他は宮殿からも見えそうだぞ
それに俘囚は傭兵としてどこでも行けるよ
兵の需要が激増していたからな、武士の台頭が始まった時代
まあ野党になった者も居ただろうな
83 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 18:18:56.95
>>81 >朝廷のお膝元
ってどこ?畿内のこと?
そもそも朝廷は先に述べた「佐伯部」でのかつての経験から、俘囚の畿内への移配はなかったと俺は思っている。
9世紀の蝦夷による騒擾事件の記録を見ても畿内で起こった事件などない。
延暦24(805)年の播磨国、
天安2(858)年の近江国での事件が、俘囚が畿内近国で起こした数少ない騒擾事件記録。
あとはみな上総、下総、下野、甲斐など東国で起こったものがほとんどだ。
俘囚を畿内に移配したという記録を知っているのなら、俘囚の奥羽帰還事業にまつわる記録と併せて是非教えてくれ。
84 :
日本@名無史さん:2012/01/03(火) 22:25:12.70
確かに東北に「浮浪人」を大量移住させたけど、
きちんと納税している良民を送り込むはずもない。
たぶん関東の半和人化した原住民を一種の屯田兵として
おくったんだと思う。形質的には俘囚と対してかわらなかった。
関東が比較的
早く服属し、俘囚も「将門の乱」除けば朝廷を震撼させるほどの
大争乱起こさなかったのは、一応懐柔策が成功したからでない?
他スレでもあったけど、服属した俘囚が狩猟の腕前をいかし
俘囚軍となり、やがては初期の武士になったと思う。
まあ、狩猟が本業ではないにしても
戊辰戦争の時に、ミニエー銃を運用しきれていたのは
銃をイノシシやクマに対する護身用として常用していた
山間部の住民だからな。
剣術なんかよりも、山間民の銃のほうが有効だった。
9世紀頃でも、飛び道具を使い馴れしているのは
やはり山間部に封じられた俘囚なんだろうな。
>>83 いやいや
俘囚と別所と被差別部落を関連付けてる発言が多いから
それに対して疑問を発しただけ
俘囚→移配→別所→被差別部落
この流れがこのスレの主流ぽかったし
でも畿内でそれは無いんじゃね? がオレの考え
疑問1
野蛮な敵の捕虜を、政権の重要地点の側に連れて来ないはず
これはアルカイダの捕虜をワシントンやニューヨークに連れてきたようなもんだから
疑問2
仮に畿内に俘囚の集落が有ったとしても、送還命令が出てるだから畿内には残らなかったはず
天皇の命令が有ったのに収容所が残ってるという事だから、ずでに天皇に実権が無かった事を意味する
これらは無いだろ
つまり畿内に多い被差別部落を俘囚の集落だと言う説の信憑性には
かなり疑問がある
88 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 00:20:54.64
昭和42年調査による被差別部落の状況(『被差別部落の歴史』原田伴彦著:大阪市立大学名誉教授、佐賀県出身、1983年没)
▽地区数
近畿地方27%
中国地方22%
関東地方10%
中部地方10%
▽人口数
近畿地方50%
九州地方12%
中国地方12%
四国地方12%
関東地方5%
中部地方5%
89 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 00:23:24.19
同和地区数 上位10地区
福岡615地区
愛媛463地区
広島426地区
岡山373地区
兵庫341地区
長野333地区
埼玉263地区
群馬262地区
富山233地区
三重193地区
北海道0、山形0、秋田1、青森0、岩手0、宮城0、福島8
東京20、埼玉263、神奈川31、栃木104、群馬262、茨城57、千葉39
山梨23、長野333、静岡52、愛知35、岐阜21、福井6、石川47、富山233、新潟59
三重193、和歌山111、大阪105、奈良77、滋賀67、京都147、兵庫341
岡山373、広島426、山口154、島根147、鳥取97
香川48、愛媛463、高知69、徳島86
福岡615、佐賀20、長崎62、熊本45、鹿児島54、大分71、宮崎9、沖縄0
90 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 06:26:52.11
菊池も戦後、別所起源説をなんとなくひっこめている。
ただやはり長吏曲輪多いのは、上の表でも判るように短頭&下戸地域。
畿内型古墳の多い地域でもある。
そして曲輪の人々の形質的特徴は、東北・裏日本型とされる
中・長頭なんだ。ここらが謎だ。
91 :
日本@名無史さん:2012/01/04(水) 16:29:10.85
Ainuanは東の白人
Europeanは西の白人
していないな。
9〜11世紀頃の俘囚地区=別所は、17世紀以降のそれとは立地が全然違う。
洪水で溢れて危険な低湿地には、俘囚地区が存在しない。
>>75の佐伯部が住まわされたのは、三輪山の丘陵=山之辺であって
大和川=低湿地側ではない。
当時の三輪山は、森林資源が豊富であったのだろう。
樹木伐採をするということは、鋳造・鍛冶でもやらせていたのだろうか?
それが予想外な事態になって、再配置したのであろう。
94 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 06:43:08.10
うん。とんど一致していない。菊池は和歌山に一致する「稀有な例」があると
言ってる。
だから連続性は考えられない。
しかし形質と一部風習?が一致している。
そして畿内から遠ざかるほど曲輪は少なくなる。
沖縄と東北には事実上存在しない。
東北にあるのは、江戸以降政策上で移住させられたところらしい。
別所は、谷戸の地形が多くあり
武士団の本拠地になったのであろう。
徳川氏のルーツの加茂郡も谷戸の地形。
>>87 アルカイダとは違って、少数で大量殺戮できるわけじゃないから。
上にある景行天皇五十一年秋条でも伊勢神宮や三輪山に
蝦夷がいたという記録が普通に残っている。
監視しやすいところに分散収容しておくのが最も安全。
送還命令が出たということは間違いなく居たということ。
送還命令が出たのはよほど問題を起こした連中だけじゃないかな。
清和源氏、桓武平氏
武家の棟梁はおもいっきり貴族。
だいたい俘囚なんて弱いから負けたんだし使い物にはならない。
99 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 13:34:53.67
「負けた」から「使い物にならない」っていうのは全然違うなあ。それじゃあ英軍のグルカ兵や、北米仏領のインディアン兵はどうなる?
8世紀後半から始まった38年戦争では、蝦夷は自軍の何倍もの兵を要する大和朝廷軍を相手に幾度も大勝利を飾っている。
ただ、生産力や物質の補給能力の違いにより、徐々に疲弊して最終的に大和朝廷軍に投降したというだけ。
逆に言えば物質補給能力のある大和朝廷側によって傭兵化されれば、これほど心強い戦力もなかっただろうということ。
まさにグルカと同じだよ。
本当に強かったら東北に押し込まれる前に撃退できてる。
そうすれば人員や生産力の点で追い込まれることも無かった。
降兵を先兵として使えば、クリアランスにもなるし正規軍の消耗を抑えられるというだけ。
山岳戦闘能力など生活水準の低い環境で鍛えられた特殊能力がある民族も、
生活環境が同化していく中で、その能力というか耐性も落ちていくので使い物にならない。
101 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 18:04:40.23
102 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 19:13:27.64
あんまり追求すると関西人として墓穴を掘るけど、
長吏曲輪の形成は、戦国以降に畿内に流れ込んだ
東国人に対する、洛中人の異民族蔑視が原因じゃないかなあ。
103 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 20:19:03.09
>100
↑何いってんだコイツ
104 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 22:32:23.07
俘囚のなか(女)に藤原氏の男系の血が入ったのが奥州藤原氏なの?
奥州藤原氏は、安倍や清原と血縁があるだろうな。
本家筋の藤原清衡だと、安倍頼時が外祖父、安倍宗任が伯父にあたるからな。
106 :
日本@名無史さん:2012/01/05(木) 23:53:12.63
>>104 > 俘囚のなか(女)に藤原氏の男系の血が入ったのが奥州藤原氏なの?
俘囚のなか(女)に安倍氏の男系の血が入って、
その安倍氏に婿に入ったのが藤原氏秀郷流の藤原経清と、桓武平氏繁盛流の平永衡。
同じく
俘囚のなか(女)に清原氏の男系の血が入って、
その清原氏に婿に入ったのが陸奥海道平氏(繁盛流)の平成衡。
更に前九年役で滅亡した安倍氏より、清原氏に養子入りして清原氏の一員となったのが、のちの奥州藤原氏初代となる清原清衡(藤原清衡)。
107 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 00:16:53.03
だから藤原清衡は、奥州側(安倍氏側)と出羽側(清原氏側)両方の版図を継承し得る条件を有していたと言えるんだな。
この点は、
清原家衡も清衡の同母弟、つまりは安倍頼良娘の男子なので同じこと。
但し、もし家衡が後三年役での勝者となっていたならば、その後の歴史は奥州藤原氏ではなくて、
「奥州平氏」となっていたことだろうな。
108 :
日本@名無史さん:2012/01/06(金) 02:48:21.61
黄色は白人様に勝てない
>>108 モンゴルを忘れてるな
しかもモンゴルは征服した民族を最前線で戦闘させた
大和朝廷も俘囚を最前線の消耗品として使ったと思う
記録としては最後尾に配置したみたいだけどね
ホラズムみたいな都市国家を攻撃する際に
最前列に置いたら、ドロボー行為に熱中しちまうからな。
ドロボーするようなものなんかねーだろ最前線には
113 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 08:22:03.72
>朝廷も俘囚を最前線の消耗品として
いや、決戦勢力として西国方面で使ったみたい。
平安前からはじまる東北侵攻では
主として関東の農民が動員されたけど、
彼らこそ一時代前に和人化した、いわば
植民地部隊だ。奈良時代、西国の防人に動員されたのも
彼ら和人化原住民だったろう。
東北の原住民とは言葉も通じあったかも知れない。
対東北戦争での降伏者「俘囚」が西日本に送られ、
のちに一部が俘囚軍→西国武士の原型になったのでは?
決戦勢力?
和人化っていうか和人だろ
116 :
日本@名無史さん:2012/01/07(土) 14:05:21.79
確かトイか新羅がせめて来たとき、軍団では歯がたたなくて、俘囚軍が出動したとか。
あと検非違使が俘囚兵つかって盗賊対峙したとか、そんなの読んだな。
あやふやなソースだな
118 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 03:30:25.07
被差別部落を蝦夷と定義してると、別所にいる人は蝦夷の血を引く部落民と規定したいんだろうが、
現在につながる被差別部落は、室町後期戦国時代〜江戸時代に、「天皇に直属した、もしくはそう自負する職能をもった集落」
を天皇の権威を落とすための政策の一環で、家康をはじめとする幕府が差別部落と規定したことに由来し、奈良平安の蝦夷には由来しないはずだとおもう。
あんまり説得力無いな。
根拠も無い。
技術を持った集団なら朝鮮や大陸から渡った人の可能性が高く、
天皇に隷属して集落をつくり、動物の革を扱うと血のけがれになるから忌み嫌われて言った。
121 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 19:25:29.97
河原乞食だろ?
俘囚とは立地が全然ちげうよ。
浦和の別所沼って関係あるの?
123 :
日本@名無史さん:2012/01/08(日) 20:26:04.01
いや、菊池ははじめ、「日本原住民」が
長吏曲輪の起源と考えていた。
しかし俘囚移配地の別所が曲輪とほとんど重ならないので、
のちに自説を半分ひっこめた。
別所→曲輪できはないだろう。
ただし戦後に阪大などが調査して、
曲輪民の形質が、東北・裏日本型だと言うことがわかった。
これがきわめて大陸型形質をもつ近畿の曲輪で著しい。
菊池も旧説にもう一度たちもどったみたいだ。
朝鮮や大陸から渡って来た者は、大陸型形質なのに
なぜ東北型である必要があるのか?
>>120だと長吏曲輪は大陸型形質でないと説明つかん
先住民なんじゃないの?
最初は村を守ってたつもりだけど
外の人口が増えたら逆に差別される様になったとか
別所はどうか知らないが、内地だと「俘囚郷」「夷俘郷」が東北から移配されて
きた人たちがある程度集住していたことを示すみたい。『和名類従抄』に出てくる。
>>113 俘囚は主に東国防人の代替として西国に移配されてたみたい。現地にのこした
俘囚も弘仁二年の征夷では「以夷征夷」と史料上明述される形で利用されてる。
熊田亮介『古代国家と東北』(吉川弘文館、2003年)に詳しいよ。
蝦夷の言語は東北北部にアイヌ語系地名が結構散在していることとあわせて、史料上では
「夷語」として国家側の連中とは違う言語だったことが明らかみたい。
恐らくアイヌ語系のもの。
代表的な研究は、山田秀三『アイヌ語地名の研究』(草風社、1982年)。
>>84 8世紀中葉までは百姓とか富裕の民を送り込んでる。中葉以降からが主に
犯罪人とか浮浪人などの移配になる。
これはそれまでの移民を輩出していた坂東諸国が度重なる征夷や移民政策で
疲弊したから実質百姓を移配するのが困難になって、坂東諸国の社会に影響
をそれほど与えない浮浪人などの移民政策に切り替えられたことが要因。
熊谷公男「平安初期における征夷の終焉と蝦夷支配の変質」(『東北文化研究所紀要』24号、1991年)
に詳しい。移民なんかの問題は、鈴木拓也『古代東北の支配構造』(吉川弘文館、1998年)が参考になる。
「坂東」っていう表現が大和王権時代の境界認識にもかかわるんだよね。東人は
武勇に優れているという認識を中央の人たちはもっていて、それがもとになって
わざわざ防人の徴発地が西国中心じゃなくて坂東になってる。俘囚が西国に移配
して防人の代替にすることも、その東人の認識の延長上に俘囚がいるってことがもとになってる。
武廣亮平「「東人」と王権・国家」(『歴史評論』597号、2000年)が参考になる。
>>83 俘囚はまず宮都に送られる。これは史料上明記されている以上揺るがない。
そもそも桓武天皇を中心として、大々的に征夷事業を行うわけだけど、何で
そこまで蝦夷にこだわるのかってところが一番の問題だと思う。
桓武をはじめとして天皇は平城京のときも、長岡京のときも、平安京のときも
そうだけど、都の落成式なんかの節目節目で、俘囚を都に送らせてる。
これは俘囚の語義にもかかわるんだけど、俘囚って中国にも二例ほど(だったと思う)
事例があって、そこから独自に日本で発展した用語で、戦利品・捕虜としての意味がもとになって
最終的に身分として定着した。中国では「俘」として単独で用いられることが多い。
あんまり細かいことは言わないけど、つまり征夷の戦利品としての意味があるわけで
それを都まで送るのは、蝦夷との戦争に勝ったってことを宮都で示すことになり、
蝦夷との戦争に勝ったのは、天皇の霊的な権威があったから(徳があったから)
だということになって、征夷の成功は天皇の権威を高めることになる。
だから、歴代の天皇は蝦夷にこだわると共に、その戦勝を示すものとして
俘囚の内国への連行を行う。
俘囚の内国移配もなんでそんなことしたのかいろんな考え方があるけど、
まずはそうした天皇とのかかわりがあって、防人への代替も、宮都
で戦勝を示すものとして連行したあとの二次的な利用の在り方だと思う。
・河原梓水「「俘囚」身分の成立過程」(『続日本紀研究』373号、2008年)
・伊藤循「古代国家の蝦夷支配」(『古代蝦夷の世界と交流』名著出版、1996年)
・鈴木拓也「桓武朝征夷と造都に関する試論」(『近畿大学文芸学部論集』13−2、2002年)
とか詳しいよ。
桓武天皇が征夷事業に熱意を燃やしたのは、百済難民の子孫を母に持つという母方の低い出自故に、本来なら天皇位に就く可能性も殆んど無かったところ、思わぬ行幸から天皇位が巡ってきてしまった。
そんな背景を持つが故に、臣下に侮られまいと気負った桓武は何か壮大な事業を起こす必要に迫られていた。
そこで導きだされた結果が征夷事業であった
と何かで読んだな。
どうしてもひっかかってるのが、
近畿以西の長吏曲輪の頭長幅指数が、近畿型でなく
東北・裏日本型ってことだ。
そして東北・裏日本型の多い東日本へ行くほど、
曲輪は少なくなる。
東北地方ではほぼ皆無らしい。
ただ別所→長吏曲輪
はかなり無理。なんか別の原因があると思う。
頭長幅指数だけでは難しいんじゃないかな?
やはり、CT画像で骨のアスペクト比がいろいろ取れたら情報が多いのだが
頭長幅指数だけではねー
>>130 そうだね。桓武天皇は皇位につくことの正統性を示すべく、造都と征夷を
利用して政治的演出をした一番の天皇だよね。
ところで、内地に移配された蝦夷や俘囚は差別されて苦しんだというのが
このスレの風潮では前提になってるみたいだけどそれはどうなんだろ。
もちろん、俘囚などには満足な口分田が与えられなかったことや、官人・民衆
から「夷俘」とよばれるなどの社会的差別を受けていたことは確かだけど、
内地に移配された後も興隆する者も出てくる。
それが移配俘囚の武士発生論につながるんだろうけど、近江とか播磨国では外従五位下
を受ける夷俘が出てきたりとか、郡司に任命される者が出てくる。
あとは瀬戸内海で海賊化する連中とかねww差別とは正反対に経済的な困窮者に
稲をわけあたえる夷俘も筑後国ではいる。
どちらもあくまでも一面ではあるけどね。
・鈴木拓也「蝦夷の入京超訴」(『九世紀の蝦夷社会』高志書院、2007年)
・下向井龍彦「国衙と武士」(岩波講座『日本通史』第六巻 古代5、1995年)
とか参考になるし、面白いよ。
>>129 >俘囚はまず宮都に送られる。これは史料上明記されている以上揺るがない。
いつごろ何人送られたの?
見当たらないんだが資料を頼む
>>136 宮都に俘囚を献上していたことを示すのは、たとえば
・『続日本紀』宝亀11年(780)6月辛酉条
・『続日本紀』天応1年(781)6月戊子条
・『日本後紀』弘仁2年(811)10月甲戌条
・『類聚国史』巻190、風俗部、俘囚、弘仁8年9月丙午条
がある。ほかにもあるけど。
規模なんかは征夷の度合いでそれぞれまちまち。
著名なのでいえば、アテルイ・モレの例(『日本紀略』延暦21年7月甲子条)、
遅い例では前九年合戦の安倍宗任の処分のときに、入京させるか否か議論してる
ことから(『百錬抄』康平7年3月29日条)、通常は入京させてたことを示す。
>>138 夷俘の移配の手順としては、
・奥羽→宮都→諸国に分配(王臣諸家に分配も)
・奥羽→直接諸国
の二通りの説がある。
参考までにあげた史料では、何れも宮都への「俘(囚)」の献上を前提に
述べているところに注目してほしい。逆説的にいえば征夷の戦勝を可視的に
証明する存在として、天皇は俘囚の宮都への献上を欲してることがあり、
それを献ずることが征夷の慣例とされていること。
>>83は畿内に俘囚は移配されないってことをいっていたから、こうした学説
が出されているよってことを示した。
ちなみに、「俘囚」という身分者の扱い方も時期的な変化がある。8世紀代では
移配されるんだけど、弘仁二年の征夷では当土安置されることになって、「新獲之夷」
とする身分の人が進上されている。俘囚は単純にその語義のみならず、陸奥・出羽に
とどめ置かれた人たちは、一般の百姓と比べてどういう形で支配されていたのかは問題。
身分的な観点での検討も必要なんだろうね。
38年戦争期の蝦夷の移配政策には、蝦夷の抵抗勢力を分断するためとか、蝦夷支配の
経済的負担を諸国に分担するために内国移配されたんだということもいわれている。
・今泉隆雄「律令国家とエミシ」(『新版古代の日本 東北・北海道』9巻、角川書店、1992年)
に詳しいよ。
140 :
日本@名無史さん:2012/01/09(月) 19:30:15.31
日本後紀
と
続日本後紀が穴だらけなので
確かな資料がなあ。
移配俘囚も平安末までに半分以上東北帰ったろうし、
源平争乱期に家子郎党になったものも少なくないと思う。
>>140 日本後紀の欠巻の多さと上掲史料の信憑性って何か関係がある??
移配蝦夷が平安末までに東北に帰来ってそもそも確かなの??
俘囚ってほとんどが男だよな?
傭兵以外に使い道会ったのかな
143 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 02:19:01.44
わらびんも男かな
144 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 05:09:07.74
異民族の捕虜を都に送って、征服の成果を示すのは、中国の皇帝がよくやるパフォーマンスを真似たもの。
捕虜を多数連れてきて労役につかせるよりも、天皇が謁見する行為のほうが大事だったと予想される。
平安時代の中国にあたる唐は、そんなに派手に征服しているどころか
周辺の王国に押されていて、仕方なく和平を願い出て
公主降嫁によって姻戚関係を作るのに一所懸命だ。
これは、匈奴と漢の関係からひきつがれている。
半農半牧の五胡十六国・北朝の系譜である隋唐であっても同じだ。
俘囚ではなくても、周辺王国が長安にコミュニティを作ってしまう現象があり
ソグド商人などは文化に大きな影響力を持ってしまう。
ソクドと突厥の両方に影響力を持つ安禄山など節度使が実力を持ち台頭する。
明清は冊封してやって、謁見させる形式ができているが、9世紀頃は
清朝ほどの実力が無いんだわな。
あれ唐の皇帝は
匈奴出身でなかったかな?
漢民族を自称してるけどかなり怪しい
そして漢民族の誇り高い歴史は、唐の時代から劣化し始め衰退の一途
148 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 01:47:04.51
日本人はコーカソイドに対する嫉妬心が強い
149 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 06:41:05.38
喜田貞吉以来、武士の淵源は和人化武装原住民
ってな感じだし、それでいいと思う。
が俘囚の存在はもっと見直されていい。
ゲルマン傭兵がのちの中世騎士団になったように。
移配は本当に有ったのか?
俘囚=蝦夷=縄文人=先住民
朝廷=侵略者
とすると、九州から順に侵略してきて、征服し残してきた民が居たはず。攻撃的で無ければ武力弾圧は必要ないと考えれば十分に考えられる。
順調に東に侵攻してきたが、畿内で強烈な抵抗に会い、その後東北に進むにつれて、抵抗が強烈になっていったのが8-9世紀。
ここで、俘囚という概念がうまれ、以前に残して通過してきた民も理論的に俘囚ってことになるねとなった。
表向き朝廷が支配してた場所に抵抗勢力が居たとなれば、統一できてなかったことになってしまうので、移配したことにしちゃったんだな。
>>150 あのな、縄文土人が居たと思ってんの?侵略者が上陸してくるのを口開けて眺めてる間抜けが
結局北東北は征服できずに諦めちゃうんだよね
坂上田村麻呂も、国が疲弊してるからもう止めて、と進言してる
時代はすぐに朝廷の凋落と武家の台頭に入る
結局、寝た子を起こしてしまったという感じ
>>151 神武天皇の兄は畿内で弓で射殺されているが
神武天皇が初代天皇なのも兄が死んだから
東北という痩せた土地を征服するリターンとコストが合わなかっただけだよ。
蝦夷が本当に抵抗できる力があるんだったら関東まで奪われていないはず。
神武東征の大将は当然兄
つまり河内上陸作戦で大将が討ち死にしたんだよ
>>153 東北には金と鉄があったから
それが大きな目的
リターンが会わなかったというより無謀な作戦
厳しい年貢を納めきれずに浮浪者が大量発生し、京の都に河原乞食が溢れたという
金は必需品ではない。
鉄は東北でなくても手に入る。
リターンが合えば多少の無理はしてもよいはず。
まあ遠征難易度における関東との差は雪ぐらいか。
しかしその差よりも稲作不適合地ということのほうが大きい。
べつに江戸時代じゃないんだから、ムギでもソバでもええんじゃ!
延喜式なんかみていると、アワが主力穀物だし
江戸時代後半の発想は必要ない
それではコストに見合わない
>>153 蝦夷は熊とは戦ったけど、人間と戦うという思想がなかっただけ。
日本人は昔から稲ばかり作ってきたんじゃないんだよ
発想を変えたほうがいい
>>159 いざ戦ってみたら、狩猟の経験が役立って意外と強かった!
162 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 20:29:06.12
>>148 :日本@名無史さん:2012/01/11(水) 01:47:04.51
>日本人はコーカソイドに対する嫉妬心が強い
日本人は白人に嫉妬しないだろ?別物として憧れる部分はあっても。
これを正確に書くと
『日本人はコーカソイドに対する羨望心が強い』
第二次大戦の大衆文化がまさに『欧米化』を目指すこと
だったからね。
でも最近は欧米人に対する羨望は弱まっていて
興味も薄れてきていると思う。
事実をきちんと書くなら
>韓国、朝鮮人は朝鮮民族以外の人種に対する差別意識が極端に強い
が正解だろう。あの国の中にいなくても、よその国に移民として
住んでも全く同じことをしている。
ただし中国人に対しては長年の習慣が祟って
へつらいまくっているが。
163 :
日本@名無史さん:2012/01/11(水) 21:09:53.79
わざとトンチンカンなこと書いて乱そうとする書き込みはスルーな。
やっぱ鎌倉から南北朝を経て、俘囚移配地
としての別所は崩壊したと思う。
ただ、戦国期を経て西日本を放浪した縄文系人が
農耕村に定住できず、低湿地など集まった可能性はあるな。
すまん、うまく言えないが。
低湿地なら稲作適地だから、真っ先に追い出されると思うが
おれは湧き水が大事だと思う
湧き水が有る地に住んでいるのが先住民か権力の有った奴
京だと太秦か
権力の有った奴が陣取っていたわな
166 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 05:21:47.23
南北朝、戦国期なの動乱期は
寒冷で生産技術もひくい東日本から、やはり
畿内を目指してかなり人か移動したろう。
その人々が畿内と周辺に縄文的形質をもたらした。
そして一部の畿内社会に定着できなかった人たちは、
非農耕的な……ちょうど現在の外国人労働者か
やっているような仕事についたのかもしんない。
山番、川守、牛馬の処置と解体、河原での細工や
遺体処理。そして世間が安定すると、
「ことほぎ」だとか「芝居」などの見世物。
一部は漁業や狩猟に。
これが近畿と西国における非常民の、全部ではないにせよ
基幹ではないか。
寒冷になったのは、17世紀〜18世紀だ。
小氷期とよばれる顕著なもので、地震が頻発した。
海面が下がり、江戸周辺も陸地続きになった。
新潟・山形・秋田などは豪雪地帯だった。
飢饉とかあったのも江戸時代だ。飢饉は18世紀になると頻繁に起こる。
天保年間には、仙台藩のような大きな人口を擁する藩で大飢饉が発生した。
宮城県や福島県は、人口が多かったのに、豊かな江戸時代という印象から遠い実態だった。
江戸や大阪へ無宿者が流入してくるのは、天明と天保の大飢饉が極大。
実態として、人足寄場などが作られているし、
天保の時には人返し令が出ているぐらい無宿者が増えた。
白河や勿来の関所があっても、武装していない逃散農民まで手が回らない。
168 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 13:35:23.84
関西の典型的な顔は藤山寛美、アホの坂田、谷村新司
これが弥生顔
追加
ドンデン岡田や野村克也も典型的な関西顔
170 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 16:02:10.80
更に追加
上島竜平
ちょっと変わって
島田紳助や辛坊も関西顔
171 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 16:31:10.97
埴原も推奨する千原兄で決まり
172 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 16:58:52.43
山国隊
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E9%9A%8A 山国隊(やまぐにたい)は、幕末期に丹波国桑田郡山国郷(現京都市右京区京北)で結成された農兵隊。
因幡鳥取藩に付属し官軍に加わって戊辰戦争を戦った。
京都時代祭行列における維新勤王隊列の鼓笛隊のモデルとしても知られる。
山国隊は西洋式の軍事教練を受け、銃の射撃精度は山村の猟で慣らしていたため非常に優れていた。
また関東を行軍中、彼らの熊毛の陣笠姿を見て河童隊と呼んだ人がいたというエピソードがある。
平安京造都の木材を供給した伝承をもつ山国郷は古くより皇室との関係が深く、山国一円は太閤検地まで禁裏直轄の荘園であった。
しかし幕末には禁裏御料は郷内の半分ほどで、村々の所領関係が異なることは、山国の諸村が一体となり山国神社の宮座を堅持していく上で問題も多かった。
そこで名主仲間(宮座仲間)は、かつての荘園「山国庄」の時代と同様に天皇から正式に官位を授かることなどで地域の一円禁裏御料化を目指し、
宮座の結束強化をはかっていた。
このような状況のなか、慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まった。
間もなく山陰道鎮撫総督西園寺公望から丹波に王政復古の募兵があり、前年末頃から御所警備などの勤王奉仕策を練っていた山国では、
平安時代以来の皇室との関係と郷中復古(禁裏御料回復)の願いから、直ちにこれに応じて自弁による農兵隊が結成された。
http://www.hozugawakudari.jp/wp-content/uploads/2010/10/IMG_0290.jpg 濃い顔がチラホラいるね
>>172 低顔傾向で濃いのは、近畿での人数比からいうと珍しいが
この写真の年代はいつ? 出典は何?
175 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 19:27:41.82
こんだけ人のいききのある現在でも
関西顔とか東北っぽい顔とか言う。
これが中世だったら、一目見ただけで出身がわかったろう。
俘囚子孫は西日本に居残ったとしても、
ずっと特別視されていたかもしれないる
ともかく、別所俘囚集落と、
のちの曲輪成立までに
最低でも三百から四百年の差がある。
それをどう解釈するかだなあ。
177 :
日本@名無史さん:2012/01/15(日) 23:36:08.02
天皇家は低い顔じゃないから論外だろう
朝鮮系の奴が明治天皇の写真を見たら
自国の殖民と似てると言ってた
よって、天皇=縄文系
184 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 01:08:21.88
江戸末期の欧米人は天皇家の顔立ちを白人か中東系と表現してるな
縄文的な低顔で濃いのと
イラン/タジク系のソグドなんかの高顔で濃いのを
混同させたら味噌クソだぞ
西日本て丸顔だろ
187 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 07:36:28.64
>>186 丸顔の遺伝子とは
百済氏高野氏や百済系平氏で面長
平氏系アイヌも居て面長アイヌ人も居る。
それに対して
藤原氏や藤原系源氏は、丸顔
百済系平氏と交雑繰り返した源氏は、面長出生率が5:5
古代にアイヌ人と交雑した、藤原氏や安倍氏系国津神は、掘りが深く奥二重。
これは、古代のアイヌ人が、大陸との錦織物の交易で北方ロシア人との交雑でもたらされた遺伝子。
188 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 07:40:41.11
又は、秦氏経由の北方ロシア人系遺伝子。
189 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 07:49:20.57
東北藤原氏系高橋氏には、縄文人的丸顔が多い。
さながら、ラテン系の交雑で無い南米のインディオやエクアドル人
アマゾンの少数民族の様な顔立ち丸顔。
190 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 07:51:19.95
藤原北家秀郷系に多い顔立ち。
191 :
↑:2012/01/16(月) 08:27:41.74
>>187 低脳の極地
古代にスラブ系は沿海州に皆無www
193 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 21:05:13.22
意図的に話をそらそうとしたり、あおったりするヤツは無視。
問題は、中世の別所と、
戦国以降の長吏曲輪の断絶をどう解釈するかだ。
194 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 22:31:01.42
>>184 朝廷は南方から来てると思う。
近畿北部は北に行くほど標準語アクセント。
近畿南部は南の端まで関西アクセント。
上にある千原兄なんかは丹波地方出身でちょっと標準語に近いアクセントだからな。
195 :
日本@名無史さん:2012/01/16(月) 22:37:26.68
何言ってるかわからん
196 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 06:36:45.34
>194
ちょっと何言ってんのかわかんないです。
近畿は丹後半島と、奈良南部、一部熊野が
東京式アクセント。
多分、和人が定着して原住民が山間部や僻地に
圧迫されたんだ。
ここの人たちも菊池の言う「原住民の子孫」だと思う。
197 :
日本@名無史さん:2012/01/17(火) 08:06:36.00
山間部や僻地とかいうけれど、熊野街道や鯖街道なんだぞ。
そういうところは、全く農業やらなくても食えたんだぞ。
街道の維持補修や害獣駆除といった、公共事業が行われていたので
通行税の還付みたいに、金銭が与えられており
深山域の森林伐採の許可があり、換金が許されていたので
機動性も高く、落武者集落みたいに孤立してなんかいない。
山間部や僻地に圧迫?
南丹や吉野なんか主要河川の源流だぞ、
こんな重要なところにまつろわぬ民を押し込んだりしないぞ。
鉱山開発まがいなことを勝手にやられると
鉱毒テロで平野部がぶっ殺されてしまうから
南丹や吉野を押さえるということは、畿内の人口を人質にとれる強者の立場だ。
強者は言いすぎ
派兵されたら即おしまいだ
触らぬ神にたたりなし。
権力者は吉野・熊野なんかに手出ししてないわな。
それどころか朝廷や貴族が一時的に逃げ込む場所だった。
手出しする意味が無いからね
脅威でもないから
畿内の人口を根絶やしに出来るくらいの力があるなら
真っ先に抑えないといけないはずなのに放置してるから逃げ込む場所になった
悪路王=伽耶初代王・首露王
首露王(しゅろおう、???)は、金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の伝説的な王で、
金海金氏の始祖。首露王は158年間国を治めたと伝えられている。妃はインドの阿踰陀国の王女と伝わる許黄玉。
悪毒王・百合若伝説と同じで基本の情報をもじって隠蔽・抹殺した。
スサノオのモデルの一人か?母親の出身地が天竺。
そして、日本がインドに日本式住居を輸出しようとしている。
人首丸の名前と悪路王の名前に2つに分離された残された名前。
首露王
金官伽?初代国王
王朝 金官伽?
在位期間 42年 - 199年
姓・諱 金
字 首露
廟号 太祖
生年 42年3月3日
没年 199年3月20日
母 正見母主
王后 許王后(許黄玉(ホ・ファンオク))
陵墓 首露王陵
(慶尚南道金海市に所在)
近畿に残る
「アクセントの孤島」などと言われる
東京式アクセント地域。
また西日本では出雲弁が東北弁に近いことなど。
やはり縄文の末裔、と見るべきではないかな。
子音を清音濁音で弁別しないのと
母音が本来8つある東北弁や出雲弁は
大陸のシナチベ系の特徴だぞ。
シナチベと接触した満洲や内蒙古もこの特徴を持っているぞ。
縄文なんかではなく、シナチベだろうよ。
206 :
日本@名無史さん:2012/01/18(水) 20:28:46.43
>>176 それは修正写真だぞw
天皇の顔を見たければ絵巻物を見れば分かる。
いや、これは明治初年に内田九一が撮影したもので、修正は施されてないだろ。
これは想像だが
明治天皇が写真嫌いになったのは、この写真を見て
ショックを受けたからだと思うw
>>203 チベットもY-DNAでD系統だ
しかもチベット語は日本語と同じ語順
>>209 あっちは4世紀の吐蕃、遊牧民の騎馬民族だぞ
スサノオみたいに馬の皮剥いだりしても不思議はないけどな
タングラ山が高天原とか言い出すなよw
>>210 チベット人は騎馬民族じゃ無いぞ
元は農業+牧畜民
周辺地域で遊牧したり騎馬民族と融合した
吐蕃より前の時代なんて、仰韶文化だから羊じゃなく豚の骨が出てくるわな
青海チベット高原は吐蕃に制圧されたんだよ
融合したなら、なぜシガツェやラサに奴隷制が残っていたんだ?
つまり中国はモンゴル国家ってこだな
漢民族は存在しないとw
華僑や華人に、劉さんとか陳さんとかようけいるだろう
南のほうに劉邦の一族だと名乗る方もおられるし
215 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 01:41:01.16
↑三重県か愛知岐阜あたりの方のようです。
「ようけ」
216 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 01:47:18.54
,-ー─‐‐-、
,! || |
!‐-------‐
.|:::i ./ ̄ ̄ヽi
,|:::i | (,,゚д゚)||
|::::(ノ 中濃 ||)
|::::i |..ソ ー ス||
\i `-----'/
 ̄U"U ̄
217 :
日本@名無史さん:2012/01/19(木) 01:48:35.30
ようけ掛けると塩分とりすぎじゃのう
ようけ
ぎょーさん
たんと
えっと
どっさり
221 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 07:04:34.45
>>221 近世の西日本において、俘囚地区の故地といえば
焼畑農法をやっていた。ムギ、ソバ、アワ、サトイモなどが農産物となる。
山の民は課税方式が違っていて、紀州藩などは
炭焼き労役などで徴税していた。
224 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 21:32:49.22
222 :日本@名無史さん:2012/01/23(月) 10:54:30.96
>>204 東京式アクセントは弥生系
そうやってワザとあからさまなデタラメ書いてなんのメリットがある?
じゃあ京都中心とした畿内人が縄文か?
東京式アクセントって、九州北部や山口など、畿内よりも
大陸にめちゃくちゃ近いところにまで及んでる。
これが縄文ってどう考えても無理がある。
縄文人は九州南部〜沖縄と、東北〜北海道。
226 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 02:28:48.12
東京式アクセントはどっからきたんだ?
アフリカからじゃないかな
228 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 06:19:48.85
標準語を作ったのは西周、福沢諭吉らの「明六社」の連中だ。
軍部内の意思疎通の都合のために作られた面が大きいと思う。
言語が同じだったかどうかすら怪しい頃に
アクセントもクソもないだろ
自分の国元のお国言葉喋れない江戸育ちの大名も居たのに津軽から薩摩まで今程度の訛りだと思ってる奴が多い。
方言は戦国時代から酷くなった
それ以前の方がマシだった
日本語と沖縄語が2000年前に分離したという研究も有るぐらい
津軽弁は古代大和語に近い
理由は不明
>>232 日本語と沖縄語って言ってる時点で大和言葉がどう云うもんか知らんだろw
>>234 そんな事やってるから、万葉集は朝鮮語で読めるとか朝鮮や米中につけ込まれたんだよw今更だがな
>>235 それは朝鮮語に日本祖語と考えられる縄文語が残ってるだけ
古代の半島なんて無人に近いから、そもそも言語も民族も存在しない
例外が南部の海岸近くかな
プサン、九州、南東北、北関東が無アクセントで類似してる
変なお客さんがきたようだな
風説のルル
慶尚プサンは無アクセントではない
無アクセントは京畿など北方
239 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 14:08:21.08
茨城、栃木、福島辺りのイントネーションは韓国のイントネーションに似てる
>>238 あれは口調の強弱
単語のアクセントではない
無アクセントの地域でも怒って話すとああなる
ブサン=気が荒い=漁師w
変なお客さんがきたようだな
チョンなお客様はご遠慮ください
243 :
日本@名無史さん:2012/01/28(土) 06:30:10.56
244 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 19:53:54.10
原白山信仰が縄文時代にさかのぼるかもってのも
菊池の慧眼だと思うな。
武蔵一宮氷川神社や六所神社って出雲系の神を祭ってる。
なんか「出雲族がこの地をひらいた」なんて言ってるけど信じられない。
いまでも出雲から東京出るのに一苦労なのに。
もともと関東の古い神社では関東土着の縄文神が祭られていたはず。
白山の初源的なものもあったかも。
しかし朝廷支配下で本来の祭神を隠したときに、さすがに
大和の神々をまつることに抵抗あって、
おなじく征服された地域である出雲の神をまつったのではない?
もっと言うと出雲王朝そのものが原住民系だった可能性もある。
山陰はいまでも、ズースー弁なんだし。
短頭・長頭にどんな進化的意味あるのか不明だし、
日本全体で短頭化は進行しているらしい。
しかし平成の世になってもこれだけ頭長幅指数に明確な地域差かあるのは
それ相応の意味があるに違いない。
菊池以前にいろんな民俗学者が指摘していたし、戦後の
有名な小浜基次が全国調査したように、
短頭の多い近畿以西や一部北関東において
もっとも長吏曲輪か多く、そして曲輪の人たちの形質は
中頭〜長頭。小浜が言う「東北・裏日本型」なんだ。
そして人権問題は短頭府県で激しく、
東へ行くほど希薄になる。東北にと沖縄には存在しない。
これはとても偶然とは思えない。
菊池が、後世撤回したにせよ、
曲輪の俘囚起源説を唱え、それが今もなんとなく生き残っているのも
当然だと思う。
246 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 22:42:22.68
朝鮮民族は顔がデカイ
247 :
日本@名無史さん:2012/01/29(日) 23:15:59.52
非人はどうなんだ?
こっちも西日本では差別がきつかったんだろ
>>41 高句麗から渡来帰化した巫女・白拍子-傀儡子-忍者と言う流れ。
神社の氏子が忍者の集落(後のB落)を形成。
だから、神社の氏子たる、鬼や河童が祭られてる。
本来は、八幡さまのお稲荷がメインだが・・
古代神社の名前は、倭人渡来時は、故郷の新羅や韓、百済の名前が古代神社名だった。
大陸と対立、疎遠化するに従い、時代時代に纏わる神を祭る神社名に解明していったそうだよ。
桃太郎さんは、吉備津彦が有名だが、四道将軍筆頭なだけで、桃太郎=四道将軍。
四道将軍の一人、大彦命の嫡流が安倍氏だぞっ!
>>41 西宮神社 - Wikipedia
神人として人形繰りの芸能集団「傀儡師」が境内の北隣に居住しており
全国を巡回し、えびす神の人形繰りを通してその神徳を説いたことにより、えびす信仰が全国に広まった。
境内に祀られる百太夫神は傀儡師の神である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE 将門の乱の際に、平将門と藤原純友の連絡役をしている。
傀儡子は表向き、人形繰りの芸能集団だが、真の姿は、高句麗から遣ってきた工作活動・暗殺を訓練された諜報専門の特殊工作部隊集団。
後の忍・忍者の前身。
彼等の集落がB落のはじまりです。
藤原姓が多いのは、単に、かつての藤原氏に飼われていた忍が多く、藤原の土地に住んでいた為、明治の戸籍制度の際に、土地由来の姓を名乗った事が原因。
本来の藤原氏末流には、藤原をそのまま名乗るものは居ないとされている。
253 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 21:02:28.77
地震の上に今回の豪雪被害の栄村って、
あの、秋山郷。
菊池の足跡追っておととし行ったなあ……
気の毒に。
蝦夷俘囚と現代の被差別部落とって関係有るのですか?
俘囚の別所とは地点が一致しないし
地形が違うから関係がみとめられんのです
256 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 21:34:32.81
そう、非人ってのはもともと僧侶って意味だし……
非人は長吏の支配下にあった。
しかし非人には難しいながら「足洗い」の制度があったし、
維新後はほぼ解放されている。
しかし長吏は一切身分から脱却できなかったし、不法にも
今日に至るまで完全には解放されていない。゛
ここんとこが不思議。
菊池等によると、非人は常民の落伍者、犯罪者なのでまだ
常民に戻る余地があったらしい。
>254過去レス読んで。その関係が判んないし、
無関係とも思えないから議論している。
あくまでも差別撤廃のためだからそこふまえてね。
257 :
日本@名無史さん:2012/01/30(月) 22:27:03.57
>>256 ここで議論してなぜ差別撤廃に繋がるのか?を納得いくように説明して欲しい
>>246 つソニンとか、出てくる韓流の連中派虫類系で小さいじゃんっWW
その、血統親国の秦王朝のラストエンペラー溥儀とか同じく子顔だしねW
冷血で情無しの生物は、頭が小さい単細胞化してる。
アイヌを観る限り、唇や目、鼻全てデカイのが特長。顔自体も・・
台湾のアミ族とイヌイットが子顔なのは、大陸秦族の血統受け継いでる環太平洋民族の特長。
アイヌは、古代から大陸の蒙古と錦織物との交易で、血統に蒙古人との交雑がある為、顔の造りがイヌイットと違っている。
同じく、沖縄人にも、言える話だ。
琉球王朝は、大陸へ朝貢外交を通じて、交流してきたから、大陸の蒙古支配時代もなので、一部にアイヌ的な顔やパーツのデカイ人たちがいる。
顔がデカイのは、蒙古由来です。
高句麗・百済渡来の同和は、基本、弥生人面。
>>246 先に言っとくが、デカイ顔の奴が整形で子顔は、医者が止める。
骨を削ると、簡単に折れるし、歪に成り、均整が取れなくて、気持ち悪い顔、不自然さが着くからだ。
262 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 06:03:20.29
わざと無関係なトンチンカンなこと書いて、議論をとめない。
>>178 土蜘蛛の首領だった酒天童子が歴史上の最後の熊襲の長?
265 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 14:17:59.07
>>258 お前は韓国人を生で見たことあるか?
韓国人は顔がでかいぞ。
韓国人も「日本人は(韓国人に比べ)顔が小さい」と言っていた
266 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 21:17:19.97
他国人を貶めない。
差別的なことは書かない。
ここは菊池説を真面目に検証しよう。
小浜基次に先立つこと三十数年、西日本の長吏が
中頭であることを見抜いたのは山哉翁の慧眼。彼だけではないが。
問題は、南九州除く西日本の大部分の長吏曲輪の形質が、
小浜の名付けた「東北・裏日本型」すなわち中〜長頭だってこと。
短頭府県に曲輪は集中し、東日本など中頭系では少ない。
ただ、やや短頭&下戸たる北関東ではやや多くなる。
早くから上毛野氏などヤマト系豪族が進出した地域だ。
この事実が、菊池の言うように日本民族の形成に
重大な示唆を与える。
ただ菊池の欠点は、東日本人の先祖を縄文系のアイヌ人とは
断じて認めず、ウイルタだと最後まで主張していることだ。
268 :
日本@名無史さん:2012/01/31(火) 22:05:22.21
>>266顔がでかいのは馬鹿にされることなのか?
顔が大きかろうが小さかろうが馬鹿にされる話ではないだろ。
それこそ巨顔差別だろ
アテルイの顔はどんな顔をしてたんだ?アイヌ顔だったのか?
270 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 06:27:30.46
なぜ皮革や刑罰を扱う人たちが「長吏」と言われたか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%90%8F なにを根拠に書かれているかわかんないけどね
白山神社方面の「高級神職」の別名でもあるらしい。
もともとは尊称だろう。
菊池の原住民ウイルタ説は信じがたいけど、
のちの日本人二重構造説の前触れのような、
「農化」すなわち和人化が地域によって相当時代的に
ことなることを言い出したことは評価できない?
東日本農民は「農化」した原住民で
武士などもそのたぐいだと言う。
もっとも喜田貞吉も同じようなことを唱えていたけど。
ウィルタは抱合語から膠着語に遷移した形跡がある言葉を使うから
東北に投影するのは自然な思考だと思う
日本で平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した武士を騎士と同じ「武装した封建領主」
と位置づけ、アジアで唯一「日本にも中世が存在した」ことを見出し、日本は近代化できると主張した。
武士は私営田の開発領主であり、その起源は、抵抗する配下の農奴と介入する受領に対抗するために
「武装した大農園主」とする。
この学説は広く受け容れられ、戦後も学界の主流を占めることとなった。唯物史観の影響を受け、
武士は古代支配階級である貴族や宗教勢力を排除し、中世をもたらした変革者として石母田正らに
よって位置づけられた。
----------------
戦後マルクス主義の影響だな。東北での東日流がもてはやされたのもこれのせい。
しかし、「開発領主」論では全ての武士の発生を説明できたわけではなかった。特に、武士団の
主要メンバーである源氏、平氏、藤原氏などを起源とする上級武士や朝廷、院など権門と密接に
結びついた武士の起源を説明できない。
そこで、佐藤進一、上横手雅敬、戸田芳実、高橋昌明らによってこれら在京の武士を武士の起源
とする「職能」武士起源論が提唱された。
軍事(武芸)や経理(算)、法務(明法)といった朝廷の行政機構を、律令制機構内で養成された
官人から様々な家芸を継承する実務官人の「家」にアウトソーシングしていったのが平安時代の
王朝国家体制であった。そして、軍事を担当した国家公認の「家」の者が武士であった。
----------------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB
かつて、古代的な貴族統治体制を打破したのは武装農民層に由来する武士であるとする説が有力と
されていたが、1960年代に戸田芳実や石井進らによる国衙機構に関する研究が進展すると、武士の
起源=武装農民説はもはや成立し得なくなった。
国衙軍制の可能性を指摘し、それが武士の起源に関係することを論じたものには、石井進『中世成立
期軍制研究の一視点』(「史学雑誌」78編12号所載、1969年)や戸田芳実『国衙軍制の形成過程』
(「中世の権力と民衆」所載、創元社、1970年)などがある。
その後、武士の起源に関する研究は、職能論などが議論の中心となり、国衙軍制論は半ば忘れられた
状態となったが、1970年代末から1980年代にかけて下向井龍彦らによる研究・問題提起が積極的に
進められた。下向井らの議論は、武士の成立を王朝国家論・荘園公領制論などと整合的・有機的に
結びつけるものであり、21世紀初頭において、武士成立に関する最も有力な説の一つに位置づけられている。
--------------------------
左翼が考えそうなことだ。>武装農民説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A1%99%E8%BB%8D%E5%88%B6
狩猟民なら元々武装してる
縄張りに入ってきた奴は攻撃する
276 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 14:33:02.68
アテルイは韃靼人説があるよな
東国は名馬の産地だったからねえ
これも謎だよね
馬が半島から入ってきたのなら、東国に名馬が居る訳ない
>>277 単に育成場所の適不適では?
九州、中国が海外の窓口だとしても渡来した馬の成育に良いとは限らんでしょ
刀剣とかなら資源さえ確保出来れば場所はそう選ばないだろうが
279 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 20:41:32.67
>>274 >左翼が考えそうなことだ。>武装農民説
低学歴オチコボレのネットウヨが吐きそうな妄言だ。
武装農民説は戦前どころか明治からの有力学説。自分に唾吐いてどうするんだ?
281 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 21:30:28.39
実際のとこ、蝦夷にかなり手こずったんだろうな。
都合の悪いことは記録したくないしな
282 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 21:43:41.34
>>261←コイツの必死さがキモい。
韓国人の顔はデカいと書かれるのがよほど嫌みたいだな。
不自然なキモい顔ってICONIQとかいう在日の奴だろ。捕われた宇宙人みたいな顔をしてるもんな
283 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 21:47:00.59
俘囚が移配さたとしても四六時中監視できるわけもない。
逃げようと思えば逃げられたろう。しばし反乱もおこしてる。
実はエミシって、相当厚遇されて、武力として利用されたんじゃないかなあ。
>>281 手こずったことはちゃんと記録されてるよ。
でも実際には肥沃なところは速やかに征服してるわけで。
僻地の雪深いところは攻めるのに難しかったのもあるけど
モチベーションも薄かったんだろう。
285 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 22:55:48.34
>>284 モチベーションが薄いかどうか分かるのか?
タイムマシーンで見に行ってきたのか?
で、アテルイはアイヌ人だったのか?ダッタン人だったのか?
286 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 23:00:43.81
戦争に行くのにモチベーションが低いぐらいならやめたらどうだ?
何十年やってんだよ
>>285 子供かよおまえは。
雪深い東北、つまりコストが多大でリターンが薄いところを攻めるモチベーションをどうやって見出すのよ。
雪深くない関東はあっさり征服したということはモチベーションがあったら楽勝だということ。
>>286 大部分の人間にとってはどうでもよくても
一部の低い身分の人間にとってはジャパニーズドリームのチャンスだったから。
身分が低いときに攻めたときは10年かかったものが、
中央政界を牛耳れるようになったあとに攻めたら3日で片付きました。
>>277 半島の馬って小柄で質は良くないよ
逆に近代の列島で朝鮮牛が流行したように、牛は大柄で力も強い
近畿の土壌は馬の発育には良くないが牛を育てるには良い環境だった
東北、関東甲信地方はその逆
>>282 だから、半島中心に蒙古の血が九州や沖縄に入ってるのに、東北アイヌ含む。
デカイ顔=チョンは、言いすぎっ!
家の姉貴の亭主も九州人でジャッキーチェンみたいな顔と、体系だから聞き捨てなら無いだけW
俺は、因みに、先祖代々畿内人なので中頭だ。
栗東と美浦って、通算のダービー、オークスの勝率ってどうだっけ?
293 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 23:50:03.01
294 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 23:53:30.55
>>291 何が言い過ぎなんだ?実際に韓国人の顔はデカいだろ。
新大久保に行って見てこいよ
295 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 23:59:41.80
>>287 東北=雪国なのか?
京都の日本海側や福井のほうが雪国だろ
296 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 00:00:58.70
>>292 今は栗東のほうが高いだろ。昔は美浦だったろうけど
農耕民族の倭系新羅・百済人が中頭で、秦族の騎馬民族が子顔で、蒙古騎馬民族が巨顔。
平原でモンゴルの人はで、誰だか直ぐ分かるように顔が大きく進化したと、池上彰の学べるニュースでこないだ言ってただろうにぃぃっ!
北方民族のロシア人が奥二重なのも、寒さから眼球を護る為。
蒙古と交雑したアイヌ人に奥二重が多いのも、蒙古北方民族由来だからだしね。
300 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 00:08:05.03
東北は太平洋側の県は豪雪地帯というわけではない。
日本海側は豪雪地帯。奥羽山脈が豪雪地帯の境目になってる
301 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 00:09:21.00
>>297 じゃあ今の韓国人は蒙古騎馬民族の末裔なんだな
だから、我々日本人に、直接蒙古の血が入ってないのに、蒙古班があるのは、アイヌ由来と、九州の毛人由来だからでしょう。
>>301 レイプ混血なっ!
ウヨが、なんで、チョンが別民族と言ってたか、過去スレ確認したら分かるよ。
チョンには、フビライハーン時代(日本蒙古来襲元寇時代)に、中国と半島が蒙古に侵略されたから、元寇が起きたのだよ。
その時に、半島人が、蒙古にレイプ交雑して、蒙古よりの民族で、別民族って言ってたんだよ。
朝鮮が高麗・百済人と新羅併合朝鮮民族でも、蒙古侵略時代経てるから、血統は,蒙古交雑種族だとね。
日本人の蒙古由来は、アイヌ経由なだけ。
万里の長城作る前から羊と貝の混血は進んでんだろ。形質の新モンゴロイド化はかなり古い。
だから、我々に、蒙古班がある時点で、アイヌとほぼ同化してる事の証しと成ってるから、純潔アイヌのウタリ利権を国が認めない方向なのだよ。
同和や沖縄人とは違う、本土で同化したアイヌは、日本人と=なのだとね。
だから、同じ本土の同和も、被差別とし、利権廃止していってる。
伊達に、2ちゃん暦10年以上重ねてないからね。
長文師で知られている。
msn.jp版掲示板運営を論破して、廃止させたからね。
以降msn.jpは、チャット部屋専門になった・・。
/ヽ /ヽ
/ ヽ / ヽ
______ / ヽ__/ ヽ
| ____ / :::::::::::::::\
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| | | ● ● ::::::::::::::| 何このスレ・・・
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>>276,285の話題に
| | | (__人__丿 .....:::::::::::::::::::/ 戻れよ
| |____ ヽ .....:::::::::::::::::::::::<
└___/ ̄ ̄ :::::::::::::::::::::::::|
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>>293>>300 そういうわけではないよ。
でも一山百文と言われたように、関東とは絶対的に違っていた。
江戸末期ですらこれだからな。推して知るべし。
>>295 その辺は大和から近いし、狭い範囲だ。
東北は遠いうえに、不毛の地が延々と広がる。
まんどくせ。って感じだったんだろう。
>>312 それを失敗というんだよ
事実、坂上田村麻呂の進言でエミシ成敗を中断したが
その後朝廷はひたすら凋落する
理由は単なる内部分裂で蝦夷関係ない。
田村麻呂から300年後に下克上を果たした
朝廷の庶流によって蝦夷は3日で滅ぼされた。
315 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 01:40:10.93
莫大な金をかけて東北の山奥まで蝦夷退治に行ったけど、モチベーション(笑)が低くて負けました
救いようがない馬鹿だろ
316 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 01:41:07.01
モチベーションが低いから莫大な金もかけてない。雑魚の首切って満足。
319 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 01:58:46.31
>>317 お前は見てきたことのように書いてるが、その根拠はなんだ?
田村麻呂は行こうとしたけど
勘定にあわないからモチベーションを失ってやめとこうとなった。
遷都とかのほうを優先。
田村麻呂 お、オマエら。もう反抗は止めろ。言う事聞くといっぱいいいものやるぞ
エミシ マジかよ・・
田村麻呂 オレを誰だと思う
エミシ よし、したがって見るか
天のう 蛮人は殺すのじゃ、処刑せよ
エミシ ・・・
エミシはその後、千年天皇に服従しなかった
朝廷=ウソツキ
現代も同じだよねw
歴史は勝者が飾るんだよw今で言えば、アメリカと中国な危ないぞ。
323 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 02:35:08.90
モチベーション連呼厨
アテルイは金海金氏ではないか?
金首露王は伽耶初代王。
そして、田村麻呂もまた同じ伽耶国からの渡来人という説がある。
だから、田村麻呂はアテルイ助命を嘆願したのでないか?
出身国が同じだからだ。
そして、桓武天皇の(母親の)出身国は百済だ。
325 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 06:19:05.43
>アテルイはアイヌ人
まだ民族としてのアイヌ人はなかったろう。
続縄文人とでも言うべき、クィ、またはエムチュウ。
鎌倉時代以降、北東北人とそれ以外の東日本人は
民族として別の文化を歩み始めた、
とは有名な埴原和郎の説。
平安期に関東から大規模に東北へ入植させられている。
毎年税を納める貴重な編戸の民を送ることはなかったろう。
むしろ現地の縄文系原住民と言葉も通じ、トラブルの少ない
半農民をおくったはずだ。
「朝廷に従うとこんなに豊かになれる」とデモンストレーシヨンの為に。
そして彼らが投降した原住民に農業指導をしたことだろう。
俘囚も奴隷と言うより、人質的な意味があったのでは?
また厚遇し、それなりに和人化させることも、
いまだ「まつろわぬ民」に対する宣伝になる。
もし本当に厄介なら、現地で処刑したろう。
>324
ツングース系の百済から大和朝廷へと送られた人質であった武寧王の10世孫。
十代目と言えば、ツングース系の地は2の10乗分の一だ。99パー和人。
326 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 07:07:47.74
>>324 だったら、アテルイは金海金だと記録されてるんじゃないの。
わざわざ隠す話でもない
>>321 その話も朝廷が言ってることじゃないのか?
ウソツキと言いながら、朝廷の公式記録を鵜呑みにし拠り所にしてるw
千年てw
せっせと朝貢し続け、300年後に最期は3日で滅んだじゃんw
北海道のアイヌのこと言ってるなら
まさにモチベーションが無くて放置していただけw
僻地の大名だけがしゃかりきになってた。(松前藩)
330 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 15:01:15.96
>>328 その3日はどこの記録に書いてあるんだ?
関東武士=武装農民説はオワコン。
在京武士が在地領主化したもの。
頼朝も、北条も、足利新田武田も、後北条も、徳川も、官軍も、
西から来た武士。関東最西端の神奈川を拠点として
少しずつ日本化しているということ。
よく見たら10日だったね。あんまり変わらんがw
333 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 15:18:01.33
>>332 その“10日”も何の記録に書いてるのか?
蘇我氏を滅ぼし天皇を助けた藤原は関東出身
335 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 20:36:53.08
>関東武士=武装農民説
河内源氏や関東の桓武平氏はとりまとめやく。
そして擬制的に一族となった、縄文系関東武装農民が主体だろう。
それに俘囚や、東北騒乱で流れてきたエミシ系流民がくわわったと思う。
中央軍事貴族は数パーセントだったろう。
強調していいのは、世界史でも珍しく
朝廷は東日本原住民を本気で皇民化しようとしたことだ。
>原住民を本気で皇民化
19世紀でも変わらない日本人の特異なメンタリティ。
藤原氏も東国に赴任していただけ。
常陸は対蝦夷の前線基地。
坂上田村麻呂や坂東平氏の先輩というわけですな。
武装農民説は完全に終わったコンテンツ
縄文人はせいぜい足軽や雑兵だろう。
坂東平氏はとりまとめやくではなく、在地領主。
河内源氏は彼らのとりまとめやく。
339 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:34:56.83
261 :日本@名無史さん:2011/04/04(月) 23:01:36.29
このレベルでも中央貴族系氏族にはなる
母地方
┃
母地方
┃
母地方
┃ ←婿取り
父中央、母地方
┃
母地方
┃
母地方
262 :日本@名無史さん:2011/04/05(火) 02:06:47.57
悪徳バーのジョニ黒ウイスキーよりも血が薄いぞ
265 :日本@名無史さん:2011/04/05(火) 06:21:52.50
>>261-262 それが招婿婚です。
これは奥羽に限らず坂東でもどこでもそう。
>>339 義仲さんとかだよな。
あと、関東(埼玉とか)は日本書紀にあるように高句麗遺民の移民地とかあるぞ?
下賎のものを嫁にはしないだろう。
同じく地方へ下向した仲間うちからとる。
342 :
日本@名無史さん:2012/02/02(木) 21:57:12.26
帰化人たちは、そのほとんど全部が奈良盆地、大阪平野、京都盆地と、
その周辺地域である播磨平野、紀ノ川流域、近江盆地あたりに根をおろしたといってよい。
この点はこののちずっと古代を通じてたいしてかわらない。
大化改新(六四五)以降には、未墾原野の開拓のために、計画的に帰化人の集団を東国各地に移植した例も少なくないが、
それでもめぼしいものはたいてい中央に置かれた。
したがって、近畿地方と古代の帰化人というものは、最初から最後まで、深い関係をもっていたのである。
関晃『古代の帰化人』(吉川弘文館)
>>337 古代の鹿島神宮の宮司は中臣氏だった
鹿島神宮の創建は神武元年と伝えられているからかなり古い
鹿島神宮の主祭神はタケミカズチ、戦の神とされる
京都の中臣氏と鹿島の中臣氏はかなり仲が良かったらしく
8世紀以降は京都の中臣氏が何度も鹿島神宮の宮司になっている
たぶん同族という認識が古代からあったんでないかな
>>341 ニニギは芦原中津国ですぐ現地の美人を嫁にもらった
たぶん皇室の男系重視はここから始まった
降臨したのが女だったらまた違っていただろうな
345 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 05:25:46.62
>>343 だから、神武が渡来した時に、警護していた軍属が、地方豪族と成った中臣藤原氏
346 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 05:28:17.71
347 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 07:13:18.69
348 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 07:18:12.07
そして椛(モミジ)とは鬼女紅葉ではないか?
紅葉(クレハとは)呉羽であっで日本海側の高句麗遺民のことではないか?
>>345 神武が渡来なんて捏造だな
自らずっと九州に居た、と語っている
面白いのはヤマトタケルの東征でも
茨城の海岸あたりが拠点となって北に西に攻めた
戦わずしてヤマトタケルの部下になったエミシの頭がいたようだ
なんか神武東征で部下になった物部氏を思い出す
>>341 それは一夫一婦制の発想。複数いるときの二人目以降は必ずしも同格とは限らない。
現地妻と子供を残して本人は都に帰ってしまうこともある。
物部と中臣は同祖じゃないの
>>341 婿取り婚優勢の時代に嫁も何もない
地方へ下向した都の連中は財力ない、家人ない、武芸ないのナイナイヅクシだが
血統と人脈を活かすことで地方有力者の婿に迎えられた訳だから
>>355 日本書紀って平安室町辺りの時代の編集時の支配層寄りに創作編集が、アレだと聞いた。
今のユダヤ教の聖書並みに怪しいと聞く・・
ソースが古事記ならまだ許せる。
>>349 確か、渡来の裏づけは・・
1、神武天皇が、此花咲耶姫神を産みの親と名乗った事。
神代系譜で神武は、此花咲耶姫の数代後とされている点。
2、天皇の天は、渡来の八百万の神々に代表される
天照、天穂日、天津彦根、天目1箇、天之御影、天忍穂耳、天児屋根、天石門別、天手力男、天羽槌雄、天細女、
天若日子、天日槍の神々の天から来ている。
渡来天子を古代では、天より降り立つ神々の意味で、天孫降臨伝説などに代表され由来する天津神と言う。
で・・そんな、固有種固執なお前さんは、出雲族・国津神由来かえ?
359 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 07:02:02.49
実は喜田貞吉と菊池って、かなり似たこと言ってるのね。
>>358 古事記に載る天津神渡来神は、天照スサノオ兄弟が経由した新羅系なんだけどね。
>>361 古事記のスサノオに新羅は出てこない
スサノオが新羅に寄ったと書いてあるのは日本書紀だが
新羅に寄ったが木が無い荒れた土地だったのでスルーして出雲に来た書いてある
>>358 天孫降臨を渡来とは言わないだろw
神武や天津神が朝鮮から来たと勘違いしてるバカが居るから困る
朝鮮半島に神社なんてまったく無いのに
>>364 まっ実際、その場に居た訳じゃないしね・・
便所ん孫の落書き2ちゃんなので、気にしないでね。
>>364 じゃあ・・5000年前からの縄文人天皇だね。
了解。
でも、天皇は、渡来の倭人の宗教だから悪用はやめようって言いたいの?
君は、天皇制否定派??
>>366 天皇家は続いてほしいけど
天皇による国家支配には否定的だな
中央集権型の国王世襲制は問題有り、内乱がエンドレスになる
記紀を読んでも天皇家は兄弟や親族でず〜と殺し合いをしてる
複数の王を立て、一人が増長した時に共同で倒すのが理想
あと天孫降臨は1万5000年前の縄文人かなと思う
縄文人が北方系と交わりアイヌ
縄文人が大陸系と交わり本州人
縄文人が南方系と交わり沖縄人
じゃあ縄文人がどこから来たかというと、海面上昇し沈んだ陸地のどこか
368 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 14:55:39.16
話をもとに戻そう。
移配された俘囚はその後どうなったか。
菊池が明確にしなかった
長吏曲輪と別所の関係はどうなのか。
369 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 15:38:15.78
内田遺跡:縄文時代後期の土坑2基を確認−−豊中 /大阪
豊中市教委が、同市桜の町3の内田遺跡で進めていた発掘調査で、縄文時代後期(今から4000年ほど前)の土坑2基が見つかった。
縄文時代後期にすでに集落があったことを示す資料といえ、同市地域教育振興室は「千里川周辺に散在する他の縄文期の小規模遺跡と合わせ、縄文人が短期間で集落を移転させていた生活実態が浮かび上がる」としている。
内田遺跡は古墳時代後期(600年ごろ)に千里川の河岸段丘上を中心に形成された集落で、東西400メートル、南北350メートル。遺構の発見により、同じ場所に縄文期にも集落があった可能性が高まった。
発見された土坑は、大きさや、中から出土した土器が破片だらけであることなどから、ごみを廃棄するために掘られたものとみられる。このため、一定期間縄文人が生活したと推定され、集落跡であったと考えられるいう。
370 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 16:18:32.83
>>367 それぞれ、三民族分離してるだろうがよ。明治にw中国大陸なんて今じゃ万里の北も南も無い混血大陸なんだからよ。
371 :
日本@名無史さん:2012/02/05(日) 08:54:07.50
372 :
日本@名無史さん:2012/02/05(日) 13:33:56.10
375 :
日本@名無史さん:2012/02/06(月) 20:42:29.73
日ユ同祖論の話元の百済系のユダヤって、
もし、ユダヤとしたら、温和な古代ユダヤと鬼のような金の亡者の似非ユダヤ
どっちかと考えると、百済系は、似非ユダヤのアシュケナジーユダヤだな。
日本でも、鬼だからね。
>>367 縄文人はアイヌと沖縄人だろう。
大陸系が本州人
天皇家はどこから来たのか・・・
北部九州や本州西端よりも大陸から遠い近畿と四国の、
しかも南方から関西イントネーションが広がっている。(大和は「南都」)
377 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 03:11:03.90
沖縄の雑種さは姿形を観れば一目瞭然。
それも、黒人ミクロネシア人から隼人、熊襲、蒙古に朝鮮、レイプ白人の混血系まで。
378 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 03:20:15.04
本物だろう琉球王朝の人は、太平洋戦争末期に殆ど全滅して居ない筈。
ハワイアンが天然痘で絶滅したようにね‥。
>>377 形質が金太郎飴化したのは逆に混血新モンゴロイド進行が進だ結果だよw
縄文人のうち、独自の文化をなんとか継承させたのが
アイヌ民族。
和人化したのが東日本や西南日本人だ。
381 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 13:39:44.88
アイヌって馬を乗りこなせたの?
朝廷は蝦夷の騎馬戦術に手を焼いたみたいだが
>>381 アイヌは、アパッチ族やディネじゃないんだから、家畜を飼ってなんかいなかった。
当然のことだが、アパッチ族のように馬を使いこなせなかった。
アイヌはモヒカン族やイロコイのように家畜は飼わず、徒歩戦術のみ。
さらに金属製品は和人から得ていて、エミシの長槍や蕨手刀などは保有していない。
自前で発展させていたのは、狩猟用の強弓。
383 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 16:31:11.18
狩猟用の弓は命中精度と飛距離が抜群だが、その分連射性能は犠牲になっているため
ランチェスター戦略的には、人数が減ったら弱者スパイラルに陥る。
アイヌは北海道全体で数万人しか居なかったので
倭人と戦争にならないほど弱小勢力だった
東北エミシは数千人を動員できたので、すでに水田農業が導入されていたと思われる
東北のエミシが水田を覚えたアイヌかどうかはハッキリしない
もしかすると西日本の人も昔はアイヌっぽい風貌だったも知れない
じゃあ弥生系が縄文人を支配したのかというと、どうも逆っぽい
弥生系の人骨に戦傷痕が多いから、最前線に渡来系がいた可能性が高い
北方人種が稲つくるかよw
386 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 18:09:39.18
>>384 元慶の乱以降、秋田北部や津軽の蝦夷占領地に相次いで製鉄炉が作られる。
蝦夷も一応は、製鉄技術を手に入れたわけだ。後が続かないけどね。
津軽から北海能南部の蝦夷の長である安東氏が普通の大名になり、どちらかというと
日本文化に染まってしまうし。
>>385 全く記録に残っていない、914年の十和田湖火山の大噴火で火山灰に埋もれた木造
施設に、「米○合」などの文字が書かれた木札があった。米を運んで配給したのか、
それともその土地で自作したのか…。
大和政権側に記録が全く残っていないコトを考えると、蝦夷が作ったと俺は思う。
>>387 北方人種ってそれじゃなくて新モンゴロイドが米作るかよっつう話。痕跡は北海道まで在るだろ。
>>386 安東氏が安倍貞任の次男で、アテルイか恵美氏に育てられて、蝦夷の長って流れで良いの?
日本史版で、安東氏の話すると、誰も口を噤むのは何で?
安東氏が長髄彦を祖先としてる事と土蜘蛛が長髄彦と共通の祖を唱えてる事と何か関わってるからか?
嵯峨源氏渡辺綱の家に入った安倍宗任末裔としては、気に成る訳で・・土蜘蛛退治をした側の家に同じ安倍の血筋が入った訳だからね。
安倍清明の下で働いてたのが土蜘蛛だから、やはり安東氏が安倍清明末裔の家に仕えてたのか、気に成るね。
393 :
日本@名無史さん:2012/02/07(火) 19:46:08.55
津軽弁がなぜか東北の中で大和っぽい
謎
395 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 00:32:02.79
>>382 じゃあ蝦夷とは誰よ?
アイヌとは違う縄文人の一派?それとも弥生人?
物部説もあるし、ウィルタ説やダッタン人説もある。
土偶の模様は騎馬民族の服装説もある
396 :
世界市民:2012/02/08(水) 00:39:25.99
最近、在日がアイヌ人を自称し始めてるらしい
目的は賠償と利権
398 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 06:26:21.79
まあ普通に考えて、
東日本の続・縄文人が
カイとかエミシと呼ばれ、その一部が俘囚として
西日本に移配された。
そのエミシがしだいに和人に同化して、
東日本人になった。
最後まで独自文化を伝え、和人化を拒否したのが
アイヌの人たちだろう。
もう大正頃から喜田貞吉ほかが主張していた。
399 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 08:09:17.19
>>398 東北アイヌと北海道アイヌは違うということか?
蝦夷は馬を乗りこなしてるんだが
400 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 10:18:56.65
>>390 津軽安東(安藤)氏が陸奥安倍氏の末裔だなんて主張してるのは安東氏自身だけだから。
またその陸奥安倍氏が大和河内の豪族であるナガスネヒコ・アビヒコの末裔等と主張してるのも安東氏だけ。
それらは大方、『曽我物語』からの転用なんだろう。
鎌倉期に入ると、曽我氏本宗筋の工藤氏が津軽には多く進出しているからね。
>>387 都加留は、蝦夷と分けられて考えられていた。
おそらくそれより南は知識が遅れてたんだろう。
>>398 俘囚として西日本に移配された蝦夷の何倍もの和人が東日本に移配された。
多賀城のあたりまでは和人化ではなく和人だろう。
403 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 18:15:38.42
>>400 他の選択肢もあるなか、それを自ら選択しているのだから、蝦夷の出自にアイデンティティが
あるなによりの証拠。転用だろうが、何だろうが。
平家の落人と信じ込んでる輩と同じだな。
405 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:03:48.83
んなこと言ったら他の大名の家系なんかw
406 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 19:29:07.20
407 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 20:30:01.05
>>403 今の学会で安倍氏(もちろん清原氏も)を蝦夷とみなしてる学者はいないよ。
408 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:13:56.27
安東氏は?それから、ソース出せよw
409 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:24:09.34
>>408 ソースって安倍氏非蝦夷説(=中央貴族説)か?
戸川点、樋口知志、井出将人、川尻秋生、工藤雅樹あたりでググるなり、出版物勝って読むなりしろよ。
ヒントは『範国記』な。
410 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:25:22.89
てか、学問板なんだからアホっぽいレスさらす前にある程度調べとけよw
411 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:40:10.36
ヒットしねーぞw
ヒントではなく、きちんとしたソース出せよ。おまけに
>>410で学問板とは思えないような
形で煽るしw
>>411 【安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏】
安倍氏は孝元天皇の皇子大彦命の子建沼河別命の裔孫と伝えられ、
大和国十市郡発祥説が有力である。
同族の大臣命は景行朝に那須国造となり、
後世家系は藤原に改姓して源平合戦では那須与一宗隆が活躍する。
他に皇子大彦命孫の磐鹿六雁命は、
景行天皇東国巡幸に際して大蛤を御膳に供献して膳臣を賜姓される。
平安朝の安倍晴明は、陰陽道、天文道、暦道に通じて朝廷に仕え、
土御門家、倉橋家の2家は堂上家に列する。
武家安倍氏は、中世に蝦夷管領の秋田城介職となり、江戸時代は秋田氏(岩城三春藩主)、阿部氏(3家)、
井上氏(3家)、安藤氏で明治に至る。 安倍氏の裔は、安部、阿倍、
阿部とも表記する。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm
>>400一同の方々、サンクス
疑念が晴れた。
>>408 土御門氏の系譜で、既に、証明されてるだろう。
そもそもが、桃太郎の四道将軍の大彦命の嫡流だしね。
>>408 気に喰わんなら、安倍清明の末裔の土御門氏や安倍宗任の末裔の嵯峨源氏源融・・綱・久の渡辺・松浦党に言えよ。
415 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:52:29.23
>>411 検索キーワードの絡め方もロクに知らね〜で
>ヒットしね〜
ww!
それに『範国記』に関してはヒントどころか本当はズバリの決定打なのだ。
他には「安大夫」「散位為元」このあたりがヒント。
ここまで出してやっても駄目かww?
安倍元総理は、駄目だぞ・・
あの人の家は<平家落ち武者が岸氏を頼って生き永らえただけの人だから、安倍氏嫡流背負ってないからね。
417 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:56:36.23
どうせ捏造家系なんじゃないの?
子孫の秋田氏が捏造家系よりも、自ら蝦夷の出自を自称したんだからさー。
>>403 アイデンティティがあるというより、単に都合が良かったからだろう。
安東の領地には結構蝦夷の残党が住んでたんじゃないかな。
419 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 21:59:25.60
いずれにせよ、捏造家系が横行してて、選択の幅があった。
結局モノをいうのは、当人の所属意識とかアイデンティティとかじゃないのか?
420 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:00:49.61
>>418 そのアイデンティティを明確に表明したのは明治に入ってからなんだけど。
都合も何も、天皇家の支配する代になったのだから、都合からすると全く都合が悪い選択だよな。
安倍公家は、土御門氏で・・
安倍武家は、松浦氏だけど、光源氏の融流源家なので公家・侯爵家の元華族の家柄になるので、格式言葉遣いに注意されたし・・。
422 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:03:47.74
関東、東北で「蝦夷」だ「東夷」だなんていうのは古代末期〜中世にかけては多分に辺民論的要素がつよいんだよ。
「辺民論」とは簡単に言うと、
関東、東北に住んでれば、アイヌだろうが和人だろうがその他どんなエスニックグループだろうが関係無しに一様に「蝦夷」、「東夷」とくくってしまうこと。
>>422 まぁ・・和人としてる時点で、百済人和氏の俗称になるがね。
神道を齎した、倭人系は、新羅経由渡来の天皇家と秦氏。
424 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:08:48.66
蝦夷の更に北にいた異民族を、粛慎と明確に分けて記述していたのに?
425 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:16:07.32
粛慎(ミシハセ)記載のある欽明‐持統期を、「古代末期〜中世」と認識するとは恐れ入る。
426 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:23:32.36
427 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 22:31:06.36
>>426 Wiki・・・
山川の詳説Bほか学会の主流学説では院政期からが中世だよ。
中世とかで揉めないで欲しいな
どうでもいいんだよそんな言葉
上古とかで揉めるなら別だが
429 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 23:27:43.77
「蝦夷」「東夷」の意味の変遷を、時代を区分して書いてんのに、いちいち難癖つけてくる奴に言ってくれ。
日本書紀(景行天皇)
廿七年春二月辛丑朔壬子、武內宿禰自東國還之奏言、東夷之中、有日高見國。
其國人、男女並椎結文身、爲人勇悍。是總曰蝦夷。
これを見ると東夷の日高見國(常陸)でも文身(入れ墨)だった事が割る
東夷は場所、蝦夷は人
エミシは耶馬臺國と同民族の可能性が高い
伽対
耶馬臺國
___.岐
432 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 01:43:21.02
アテルイはアイヌ人だろ。いや、ウィルタ人かな。いやいや、ニヴフ人かも
433 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 01:46:11.44
粛慎だろ
434 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 02:17:06.63
ということはオロチョン族か。
悪路王とアテルイは違う人物なんだろうか
436 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 02:37:59.30
北東北に一緒に住んでたアイヌの真似したんじゃね
437 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 03:20:37.88
アテルイはコロボックルだろ
>>428 まあね。
中世とかの言い回しは、西欧の中世の言い回しで、俺が学生時代には言ってなかったな。
中世とか言い出したのは、確か、1990年代前後。
もう少し、前だったかな・・
源平合戦を神話とか言い出したのが90年代だったからゴッチャになった。
悪りっ!
440 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 07:00:13.42
蝦夷、エビスとそんなにきっちり分かれるものではないだろう。
畿内人から見て、違う形質と文化をもった民族。
区別はつかなかったろう。
俘囚の移配と並行して関東農民の東北移住があったけど、
それらは一時代前に農化、和人化した縄文系農民だったと思う。
おそらく、東北在の降伏した蝦夷とある程度言葉が通じ合うぐらいの。
和人を入植させたのではまたトラブルになる。
皇民化した蝦夷を入植させることによって、
現地部族を懐柔も出来る。なかなか巧妙な政策だ。
首露王が本当の悪路王ではないか?
悪毒王と百合若大臣の話にみられるように、
実在したとされる人物の名前が悪し様に改変されることはよくあることだ。
金海金氏首露王。母親は天竺から来た許皇后。
443 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 07:18:44.02
>>443 日本には古来から渡来人が多いですよ?
例)南朝鮮伽耶国からの渡来帰化人坂上田村麻呂(民族:漢)
坂上田村麻呂は同じ伽耶国からの渡来人だった東夷地域在住の悪路王だからこそ助命嘆願したのかもしれません。
同じクニからの帰化人どおし通じるものがあったのかもしれません。
445 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 07:27:24.78
446 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 07:29:00.93
モレは赤頭という説があるが、じゃあ赤頭とはどういう意味だ?
これもウリナラ語で解明出来るのか?
>>446 きっとインディアン(ネイティブ・アメリカン)だったのでしょう。
東夷とは東の鄙という地域の呼称ですから、他民族地域であっても不思議はありませんね。
448 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 07:34:15.72
449 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 07:43:23.12
悪路王と首露王を同一人物にする前に、エベンキ語のアリランと韓国を代表する民謡のアリランが何故一緒なのかを研究してろ
>>449 アイヌ人の13%も北方アジア系エベンキ民族と同じY染色体ハプロタイプ-C3だ。
451 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 07:47:11.26
452 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 07:51:35.20
>>450 もしかしてアレか?
首露王=悪路王がアイヌ人だったといいたいのか?
首露王=悪路王がアイヌ人だったのではなく、
アイヌ人がエベンキ民族と同じ北方アジア系人種だったんだ。
454 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 07:59:01.72
>>453 で、アリランは?
悪路王と首露王は同一人物だが、アリランとアリランが同じなのはたまたまということか?
455 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 08:39:45.71
ウリ民族とエベンキ民族は全く関係ないニダ!
しかし、悪路王は首露王ニダ!
ついでに、日本のワッショイの語源はウリナラ語のワッソからきてるニダ!
456 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 11:30:28.91
別所に連れてかれたのはミシハセなのか?縄文人なのか?それとも半島棄民なのか?
>>440 いや、普通にちゃんとした和人を入れたんだろう。
縄文人を入れるとすぐまた固まって反抗してくるだろうからね。
言語も人種もちゃんと和人と呼べる人間を移植した。
だいたい、縄文人の人数は少ないから。
458 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 12:32:22.25
>>457 和人を大量に東北へ送りこんだのに、なんで東北で部落が出来なかったのか?
送りこまれた和人は縄文人に対して理解のある和人だったのか?
東北ぐらいになると全国からどんどん追いやられていった縄文人が溜まっていて、その数も多かったからじゃないかな。
460 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 12:48:31.82
縄文人の数が少ないと書いてみたり多いと書いてみたり、どっちよ?
数が多いなら、同胞の縄文人からも嫌われてるような手頃な奴らもいただろ。
その手の連中を囲って別所をつくればよかったのに
463 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 14:46:39.58
>>441 お前は何回同じことを書けば気が済むんだ?
英雄はウリナラ同胞かよ、カス
>>460 多い・・・もう逃げ場がなくなった僻地である東北における、入植和人との比較数
少ない・・・日本全体における、和人との比較数
>>459 数が多くても別所ぐらい作れるだろ。支配してたわけだから
466 :
日本@名無史さん:2012/02/09(木) 22:27:17.88
鎌倉頃まで、支配階級をのぞく大多数は
菊池の言う「農化した原住民」だったと思う。
そいつらのうち、租税納められない連中を東北に入植させたんじゃなんいのかなあ。
467 :
日本@名無史さん:2012/02/10(金) 06:51:14.16
きちんと編戸の民となって租税納める良民は
温存したいと思う。むしろいまだ農化せず、しかも一応
新来の良民である連中なら、
種もみ支給するなどして入植に便利と思う。
いわば満蒙開拓団。あの場合も富裕な農民より
食い詰めた連中が多かった。
>>465 無理じゃないかな
土地の条件も悪いから入植させる和人の人数も
関東までに比べて少なかっただろうし
>>466の言うように
支配階級をのぞく大多数が濃化した原住民という状態にな\ったんだろう。東北ではね。
ただし、東北以外はそういう状態にならなかったと思う。
生産力の違いから原住民は和人に比べてもともとの絶対数が少なかったと思うから。
469 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 06:03:25.07
日本人二重構造説で有名な故・埴原和郎によると、
支配階層をのぞく関東の「庶民」が、アイヌ人と別の文化を
歩み出したのは、鎌倉以降と言ってたな。
関東といっても北関東と南関東ではかなり断絶がありそうだ。
なぜなら言葉が全然ちがう。
471 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 06:30:56.77
北関東:「だべ?」
南関東:「じゃん?」
472 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 06:36:38.53
473 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 11:58:22.38
じゃん、は三河弁だ。
はあさんがよく使ってる。
じゃ→じゃん。
三河って言うと奥三河のアラハバキ神ですか。
アラハバキ信仰は武蔵七党小野姓横山党小野氏の古来からの信仰ってことであってます?
475 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 16:24:08.71
「じゃん」の発祥の地は、以前NHKでやってたな。
とりあえず、大阪ではなかったような…。
476 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 17:35:12.20
>>475 調べたら、山梨や静岡から神奈川に入ってきたものらしい
478 :
日本@名無史さん:2012/02/13(月) 06:01:05.12
>アラハバキ信仰は
うん。武蔵一宮「氷川神社」のもともとの祭神は
アラハバキ。
ゆえに東京の守護神はアキハバラ……じゃない!アラハバキ。
479 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 17:33:24.59
>>469 語弊のある言い方だと思うが
アイヌの成立自体鎌倉以降だろう
480 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 19:16:02.92
483 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 20:57:02.20
西光の本名は清原一隆
清原(笑)
西という文字の中に四が隠れている。
486 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 16:10:08.83
>>479 イヨマンタなどの文化面での成立を持って「アイヌ人」を定義するとそうなるかも知れないなw
だが、アイヌ人は直接的に縄文人の子孫だろ。
487 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 16:20:10.52
それを言うなら我々も縄文人の直接の子孫だよ
488 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 16:26:46.01
そりゃそうだが、より混血が少ない方がアイヌだろうってコト。
489 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 17:42:05.26
埴原によると鎌倉以前は関東の庶民はアイヌと同じ文化という事になるのか?
バカ馬鹿しい
だいたい今だ擦文文化からアイヌ文化への移行は謎だらけだろ
>>489 イヨマンテなどの文化とかじゃなくて、「アイヌ文化」ってのの定義を変えて考えているんじゃないの?
491 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 18:09:19.26
北海道と東北は人種的には縄文人の特徴を色濃く残している事は共通
しているが、北海道は擦文時代以前より既に文化、人種の面でアムール川流域などの
北アジアの影響を強く受けており、紀元前後でも縄文をうけついでいた関東・東北の文化と
プロトアイヌ文化はこの頃既に言語面でも別物になっていたと思われる。
よって埴原はウソッパチ
北海道は粛慎の支配地域ニダ<ヽ`∀´>
493 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 19:09:39.04
53 名無しの権兵衛さん sage 2012/01/24(火) 00:35:19.14 ID:Fd1QC25b
>>45 何か江戸時代までは三陸と北海道をアイヌは自由に往き来できたけど、明治政府になって勝手に渡るのを禁止されたみたいよ。
だから、その前に仲間が沢山いる北海道に渡ったアイヌも多い。
こんなにアワビや昆布が採れる土地を離れるのは残念だよって、それまで仲良くしてた地元民と別れを惜しんだアイヌの一族の話が田老に残ってるし、
祖先は三陸に住んでいたとか言う北海道のアイヌも結構いる。
494 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 20:08:37.22
三陸海岸周辺のアイヌ語の地名
気仙沼、田老、和井内、女遊戸(オナツペ)、宇霊羅(ウレイラ)、タイマグラ
495 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 21:23:11.43
2001年俘囚の旅
496 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 22:02:24.55
東北でかつてアイヌ語なるものが話されていた過去があるのだろうか?
二千年前にしてもだ
地名や単語としてはあるが実際に使われいたことはなかったように思うが
497 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 19:29:18.92
>>496 アイヌ語や和人語の地名はあっても蝦夷語の地名は全くない。
蝦夷語とはどんな言語だったのだろうか?
やはり、蝦夷語=アイヌ語だったのだろうか
江戸期の蝦夷は明確にアイヌ人だから、問題は平安鎌倉の蝦夷だ。
さて、阿部比羅夫は奥尻島で蝦夷語が通じない謎の民族と交戦する。最近の発掘からこの民族はギリヤーク人だろう。
そうなると、蝦夷語とは?アイヌ語に他ならない。
499 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 22:25:05.95
なぜに東北弁はズーズー弁なのか?いつからズーズーになったのか?
>>499 出雲の方言→国譲りに反対した一派が諏訪地方に移住→諏訪・甲斐地方に方言が広がる→この地方の武士が
東北に移住して方言を広げる→諏訪・甲斐地方の方言は別の方言で駆逐される。
501 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 22:49:22.33
それは南部藩?南部藩は岩手や青森だよね?
北東北のズーズー弁が茨城辺りにまで普及したということ?
諏訪・甲斐地方の武士団+農民が中心になって移民したんじゃないの?
503 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 23:13:03.50
ふぐすま弁の「〜ンダ」は韓国語の「〜ニダ」が由来
朝鮮人は九州や大阪や関東どまりだ
そういえば新羅の王の昔氏は倭国の東北が出身だな
新羅の王はふぐすま出身かw
新羅の王は古い方から
朴氏 倭人
昔氏 倭の東北出身
金氏 中国出身
つまり古代の新羅は倭の一部
506 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 12:15:14.08
>>498 縄文語とプレアイヌ語は別だとして
たとえば当時三内丸山や亀ケ岡で話されていた言葉は何であった考える?
せやな
508 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 13:00:25.50
>>500 おまえそれどっかのスレでも否定されてただろw
>>506 大体、地名「サンナイ」にアイヌ語が明確に入っているな。
>>508 ちょい、異論が提示されただけ。
510 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 18:45:11.80
青森、岩手に移住してきた南部のオッサンが、無駄に広い東北全体にズーズー弁を浸透させたとは考えづらい
方言やアクセントは地域によってかなり差があるのに、ズーズー弁だけは浸透したというのが不思議
方言の差なんか、それこそ集落毎に微妙に違う。時代の流れによって、特定の言葉や言い回しが
流行っていく中で方言が変質するのだろう。それは当たり前のコトだと思うが…
>>511 なら、なぜズーズー弁だけが東北全域、北関東の一部まで拡散し定着したのか?
ズーズー弁の浸透度はセシウムの浸透度より凄まじい。
東北全域がズーズー弁のホットスポットになっている
513 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 09:24:48.48
怪しい訛り・ズーズーさん
怪しい派遣先・別所さん
放射能みたいなこと言うなw
単に、最先端で戦っていた武士が移動して広めたんじゃないの?
>>512 日本の原住民は皆ズーズー弁だった。古来の日本語はズーズー弁だったんだよ。
ところが、渡って来た朝鮮人達はズーズー弁を話せなかった。
やがて朝鮮人の子孫は原日本人を西日本から追い出した。
だから朝鮮人である西日本人は、日本語を話せず、関西弁という朝鮮語と日本語のチャンポンの醜悪な言葉しか話せない。
ズーズーの特徴は、清音と濁音と發音の区別が、標準語と違うことにある。
実はズーズーの有気音と無気音の対立の北京語話者の話す日本語と似ている。
シナチベット語族はだいたい有気音と無気音の対立。
北京語にはY/I/Uの介音があって、シがスィに聞こえる。
モンゴル諸語でも、北部のハルハ語は、有気音と無気音の対立ではなく
日本語の清音と濁音の対立。ウランバートル出身の力士の日本語は
北京人の日本語と違い聞き取りやすいはず。
また北京語には、高低アクセントが4つだけある。北方漢語は2〜4の声調だけ。
いっぽう南方漢語は、7〜9の声調がある。
北部中国は、江南・嶺南,ミャオヤオ、客家、タイやベトナムに比べるとアクセントの種類が乏しい。
ズーズーは、大陸の特徴だというのが妥当かな?
>>515 砂の器みたいな話だな。古来の日本語がズーズー弁だという根拠ある?
518 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 13:42:21.35
ない
古日本語はズーズー弁とは対極のネシア系の強弱アクセントのことばだったらしぃ
今のオーストロネシア語族の東方群と近かったということだ
子音の音韻だけみると、東北や出雲石見が大陸のシナチベット系っぽいズーズー。
紀州和歌山では、「ぞうきん」を「どうきん」と区別がつきにくく
DとZの中間音がある。方言には中間音がつきもの。
東北や出雲石見は、母音が8つあった時期が近現代まであったといわれる。これはトルコ語などアルタイ系の特徴らしい。
越後を「いちこ」だが「えちご」だかわからない中間の発音にするのは
「い」と「え」の中間音があった名残り。「いぇちご」と二重母音になったり、介音化している地方もある。
アイヌ語は、むしろネシア系のほうに近い面がある。
東北や出雲石見とは違う系統。
朝鮮は15世紀以降しか正しい発音がわからないが
その時点では、シナチベット化していて有気音と無気音の対立になっている。
現代韓国人でソウルマル遣いが、日本語を話すと清音と濁音の区別が、
日本の標準語とは違うのはこれが原因。
ソウルは、南の慶尚や全羅と全然言葉が違い平板な無アクセント。
よって水戸や宇都宮も平板な無アクセントだから、お互い似ているといえる。
520 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 15:46:36.86
そういえば、グリコ森永事件の脅迫テープの男の子が「市民カイカン」を「市民カイガン」と言ってたので、韓国人の男の子説を主張してた奴がいたな
えーっとね
寒いから口を大きく開けない、動きが悪くなる
そうして話すとズーズー弁になるって
20年以上前に仏語の先生(爆)が言ってた
>>515 出雲は西日本ではないとでも?
むしろ立地的には関西よりも朝鮮半島に近いぐらいだ。
>>521 そいや、秋田の仙北地方のズーズー弁が言い方・聴き方によっては
フランス語に似ているという話があったなw
一時期、そのコンセプトで歌った「おじいちゃんの古時計」の秋田弁
バージョンで何やらフランス語に聞こえるカンジの曲が流行ったコト
あったっけw
>>521 それは、青森のコメディアンの「いなかっぺい」の持ちネタの一つ。
それを出して、ちょい笑いを取る。
>>515 天皇って何もの?
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1284055065/685 685 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 20:48:24.99 ID:99KKU3Py0
>>684 天皇は、新羅経由渡来の倭人神道法王。
秦氏と同様の・・
渡来した倭人系和氏の高句麗・百済人は、朝鮮と同様の民族。
紀元前に、桃太郎の四道将軍等に打たれた鬼族とは・・
古代吉備地方に居た、百済の王子と称する温羅「うら」
百済の第3王子筋を称する、多々良豪族の多々良氏の大内氏。
百済王敬福 百済王 敬福 (くだらのこにきし の きょうふ く、文武天皇 元年( 697年) -天平神護 2年6月28 日(766年8月8日 ))は
奈良時代 の貴族。摂津 亮・百済王郎虞 の三男。 官位は従三位 ・刑部 卿。
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元 年)、陸奥守 在任時に 陸奥国 小田郡から 黄金が
発見されたことで知られる。
また橘奈良麻呂 の 乱や藤原仲麻呂 の乱の鎮圧にも功績があった。
-Wikipedia
こう言った百済渡来人たちでした。
688 自分:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 21:11:11.72 ID:99KKU3Py0 [3/6]
そして、今の朝鮮の成り立ちは、最後に、日本に亡命した、百済人豪族の後の倭人系に無い新羅王族が百済を制圧し
後に、元寇を経て、高句麗が、高麗に成り、倭寇で疲弊した、新羅を高麗が吸収併合して、朝鮮国となり、秀吉の朝鮮攻め、大戦を経て、南北分断したのが、今の半島。
なので、朝鮮に近いのは、高句麗・百済系の渡来人系統ですね。
因みに、高句麗・百済は、百済王の父が治めていたのが高句麗で、子が百済と言う関係なので同族国家でした。
688 自分:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 21:11:11.72 ID:99KKU3Py0 [3/6]
そして、今の朝鮮の成り立ちは、最後に、日本に亡命した、百済人豪族の後の倭人系に無い新羅大族が百済を制圧し
後に、元寇を経て、高句麗が、高麗に成り、倭寇で疲弊した、新羅を高麗が吸収併合して、朝鮮国となり、秀吉の朝鮮攻め、大戦を経て、南北分断したのが、今の半島。
なので、朝鮮に近いのは、高句麗・百済系の渡来人系統ですね。
因みに、高句麗・百済は、百済王の父が治めていたのが高句麗で、子が百済と言う関係なので同族国家でした。
689 自分:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 21:16:43.46 ID:99KKU3Py0 [4/6]
水田耕作を持ってきたのは、倭人なので、農民は、倭人系の小作人農民でしょうね。
690 自分:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 21:20:10.75 ID:99KKU3Py0 [5/6]
高句麗・百済人のルーツのシベリア北方騎馬民族が南下したものなので、騎馬民族由来の民人。
691 自分:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 21:32:25.86 ID:99KKU3Py0 [6/6]
なので、源氏方は、神社名名乗り冠して、呼ばれていた。
八幡太郎義家、賀茂二郎義綱、新羅三郎義光
天皇って何もの?
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1284055065/685-691
528 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 21:51:33.92
河内源氏を語る
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1296386336/477 477 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/14(火) 22:27:21.82
清和天皇-貞純親王-六孫王・経基王は、継系實元平親王男始而賜姓源朝臣?
清和天皇-陽成天皇-元平親王-六孫王・経基王は、貞純親王継系?
六孫王・経基王-多田新発意満仲-源頼光・頼親・頼信・頼平・頼範
多田氏は源経基嫡子満仲に出づ。
満仲が摂津國河邉郡多田院(現 兵庫県川西市多田)を貫して氏と為す。
満仲長男頼光の子頼國が彼地に下向し一族繁榮す。
源頼光-多田頼國-頼綱-仲政-頼政-大河内氏・下間氏・太田氏
【清和源氏頼光流】
源満仲の長子、頼光にはじまる清和源氏諸流の正嫡の流れである。
摂津国多田荘に本拠を置いたことから摂津源氏、多田源氏とも称する。
ほかに摂津国太田荘、越後国小国保などにも支流が広がる。 (頼光流分流略系)
頼光流の中で永く続いたのは美濃国土岐郡を本領とした国房の流れで、美濃源氏、土岐源氏とも称する。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01004.htm 源頼信-源伊豫入道頼義-八幡太郎義家−源義親-源為義-源義朝-源義平・朝長・頼朝・希義・範頼・全成・義円・義経
源頼信-源伊豫入道頼義-賀茂二郎義綱
源頼信-源伊豫入道頼義-新羅三郎義光-佐竹、逸見、武田氏等武門一流の祖。・・河内五郎義長
-八幡太郎義家-源義親・義國-新田義重・足利義康
512 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 23:24:39.22
頼朝三代で断絶するとか・・
やはり、百済崇拝は・・
吉備津彦命 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E6%B4%A5%E5%BD%A6%E5%91%BD 鬼ノ城 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E3%83%8E%E5%9F%8E 温羅伝説 [編集]温羅伝説とは、吉備地方に残る、桃太郎話のモチーフとなったといわれる伝説である。
古代吉備地方には百済の王子と称する温羅(「うら」または「おんら」)という鬼が住んでおり、鬼ノ城を拠点にこの地方を支配し悪行を行っていた。
当時の百済人は、やはり、鬼の一族ですね。
桓武天皇の母:高野氏の百済王族
古代吉備地方に居た、百済の王子と称する温羅「うら」
百済の第3王子筋を称する、多々良豪族の多々良氏の大内氏。
百済王敬福 百済王 敬福 (くだらのこにきし の きょうふ く、文武天皇 元年( 697年) -天平神護 2年6月28 日(766年8月8日 ))は
奈良時代 の貴族。摂津 亮・百済王郎虞 の三男。 官位は従三位 ・刑部 卿。
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元 年)、陸奥守 在任時に 陸奥国 小田郡から 黄金が
発見されたことで知られる。
また橘奈良麻呂 の 乱や藤原仲麻呂 の乱の鎮圧にも功績があった。
-Wikipedia
513 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 23:34:14.25
北条政子は、我が子でも、敵対する血を受け継ぐゆえに毒殺する鬼・夜叉だったとね・・
頼朝は、使い捨てにされたのだね。
義経を使い捨てるよう命じたのも、政子だろうしね。
源氏が血肉の争いが好きなのではなく
この、エイリアン的百済人・百済信仰・血が新羅由来の倭人を殺させてるのだろうね。
正に、百済信者政子は、黄喫に落ちたイザナミだね。
515 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 23:41:35.13
平氏出身者は、百済絡みの渡来説で和人だの、日ユ同祖とか言うなよ。
政子な思想家と疑うぞ。
516 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 23:47:41.09
平氏が滅んだのは、蘇我入鹿の徹を学ばなかったからだろうね。
大彦3男筋の武内宿禰の裔、蘇我氏は、代々、百済人の女を娶ったばかりに、在日扱いされた挙句に、入鹿が暗殺された。
517 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 23:54:44.82
百済人は、虎視眈々となのは、これを見れば分かる・・。
古代吉備地方に居た、百済の王子と称する温羅「うら」
百済の第3王子筋を称する、多々良豪族の多々良氏の大内氏。
百済王敬福 百済王 敬福 (くだらのこにきし の きょうふ く、文武天皇 元年( 697年) -天平神護 2年6月28 日(766年8月8日 ))は
奈良時代 の貴族。摂津 亮・百済王郎虞 の三男。 官位は従三位 ・刑部 卿。
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元 年)、陸奥守 在任時に 陸奥国 小田郡から 黄金が
発見されたことで知られる。
また橘奈良麻呂 の 乱や藤原仲麻呂 の乱の鎮圧にも功績があった。
-Wikipedia
恵美氏って人も居るね。
藤原仲麻呂(仲麿)=恵美押勝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82 吉備真備との戦い破れ、自ら、恵美氏と改名。
藤原南家の祖である左大臣の父・藤原武智麻呂の次男。
母:阿倍貞媛 - 阿倍貞吉または阿倍真虎の娘、阿倍御主人の孫
安倍氏は、大彦嫡流筋。
桓武天皇の母:高野氏の百済王族
高野氏が皇族に入ってからの源氏平氏の時代の清和源氏が、奥州安倍氏を滅亡させた。
518 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/16(木) 23:58:49.73
四道将軍筆頭の吉備氏側に就いて、桃太郎時代の恨みを永いスパンで晴らして入ってるのが分かる。
519 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 00:01:31.10
百済族の恨みを晴らしてってるのが行く様子が分かね。
520 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 00:05:11.88
今の、在日が日本に留まる思考も、これだとすると、かなり、腹を食い破るエイリアンを飼う事になるね。
521 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 00:09:30.42
カッコウと言う鳥の生き方様が似てる。
河内源氏を語る
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1296386336/
源頼光 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%85%89 時代 平安時代中期
生誕 天暦2年(948年[1])
死没 治安元年7月19日(1021年8月29日)
改名 文殊丸、頼光
墓所 兵庫県川西市多田神社
官位 正四位下、春宮権大進、春宮亮、内蔵頭、昇殿
備前守、美濃守、但馬守、伊予守、摂津守、伊豆守、信濃守・下野守、上総介・上野介、尾張守・讃岐守・伯耆守・淡路守、大内守護、左馬権頭、冷泉院判官代、中宮進、左兵衛尉、兵部丞
主君 藤原兼家、藤原道長、藤原頼通
氏族 清和源氏、摂津源氏、多田源氏
父母 父:源満仲、母:源俊女
兄弟 頼光、頼親、頼信、頼平、頼明、頼貞
頼範、孝道、頼尋、源賢
妻 藤原元平女、平惟仲女、慶滋保章女など
子 頼国、頼家、頼基、永壽、頼昭、源資通室
藤原道綱室
源済政室、孝道、頼平、頼範、相模
日本と日王はウリナラ起源ニダ
源頼信 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E4%BF%A1 源 頼信(みなもと の よりのぶ)は、平安時代中期の武将。摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)を本拠地とする河内源氏の祖。
時代 平安時代中期
生誕 安和元年11月29日(968年12月21日)
死没 永承3年4月17日(1048年6月1日)
墓所 羽曳野市 通法寺
官位 従四位上、昇殿、鎮守府将軍、検非違使、常陸介、伊勢守、河内守、甲斐守、信濃守、美濃守、相模守、陸奥守、左馬権頭、冷泉院判官代、治部少輔、皇后宮亮、左衛門少尉、兵部丞、贈従二位
主君 藤原道兼、藤原道長
氏族 清和源氏経基流
父母 父:源満仲
母:藤原元方女もしくは藤原致忠女
兄弟 頼光、頼親、頼信、頼平、頼範
頼明、頼貞、頼尋、源賢
妻 修理命婦
子 頼義、頼清、頼季、頼任、義政、源為満室
どのレスが都合が悪いからコピペで流すんだろう?
>>524 いいじゃないかw
アクセント系じゃないから歌になじむな
関西弁だと歌とケンカしそう
>>535 嘲笑
>>537 多分、安倍氏・奥州藤原氏スレで松浦バカと呼ばれたガイキチさんだよ
最近河内源氏スレでもガイキチぶりを発揮してる
>>540 そんじゃあ、お前らは、15000年だか、25000年前の九州に居た縄文人が我々のルーツとか言ってるバカウヨを信じるのかぁW
散々、
>>515のように、何百年も九州・・近年、関西をチョンだのと蔑視して置いて・・
んな、トンデモぶりが明確なレスをわざわざ指定して、悪意を剥き出しにされても…w
ここには、東北罵倒スレの方が林立している気がするのだが。
都合良く源氏嫡流も、そうやって、北朝方藤原公家は、蔑視風評をして、都合の良い分流筋と結託利用してきたのだよね。
関東人も、そんな、調子の良い、京都の公家衆が今でも嫌いで、関西チョンとか京都人腹黒いとか散々、言ってきといて、遣ってる事かわらんのなぁ・・
>>524>>539 これ歌い方の問題じゃね?w
韓国ドラマの男性俳優の喋り方にも似てる。
あとまったく日本語には聞こえないってだけw
>>544 歌い方の問題でもあるが、単なる方言だからしっかりと理解できる。
さわりの部分だと
「でっけぇ」と「やすまれねど?」以外はお手上げ状態で全く理解不能だわ。
韓流ソングを聞いてる気分になるw
ソウル・ミュージック?
>>541 縄文人が最初に九州に来たか青森に来たかは不明だが
縄文人が日本人のルーツになっているのは間違いない
縄文人というと海と山だが、これらへの信仰は今でも深く根付いている
日本最古の土器は1万6500年前で、青森の大平山元I遺跡から発見されている
最近1万8000年前の土器が中国湖南省から発見されたらしいので
世界最古の土器ではなくなったが
世界最古級の土器の分布は面白いよ、日本列島と日本海沿岸、そして長江に分布してる
=縄文人だべ(日本風に言うと)
北部九州と関東はアクセントも同じだし同じ民族だろう。
それに駆逐されて僻地にたまったのが南部九州の隼人と、東北の蝦夷。
問題は四国や関西がどこから来たか、だ。
そんじゃあ、アイヌぽい顔の縄文顔安倍氏→源氏ルーツの俺は、縄文杉に御参りに行けば、嫁さん出来るのかぁ・・?
>>549 朝鮮は無アクセントだから違う
中国南部に近い気もする
あとは関西風アクセントが出来たのは割と最近(畿内移住後)の可能性
兄貴が嫌いな親父の家系断絶させようと、後継がないし、結婚、子供も作らないで、定年まで行きそうだから
俺が、子供作らないと、本家なのに、断絶して、分家に迷惑掛かるんだけど・・
もしかすると、○○ひとみの本家かもしれんのに・・W
このままだと・・俺の嫁が2次元で終わるじゃまいかぁっ!!
>>548 湖南といえば、洞庭湖の竜宮伝説があるんだわな
有史時代になると、覇王項羽の本拠地
>>552 朝鮮→北部九州→日本列島を順次東へ→関東
だろう。問題ない。
558 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 13:48:38.45
中国南部はアクセントの種類が多すぎ
関西人は、やはり高低2〜4種のチベット系かな
>>559 他と一緒で混血だよ。蒙古もチベット仏教とは関わりが深い。
純粋な羊領域は在るんだろうが、その対局領域はなかなか探してもwない事も無いだろがな
562 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 14:06:19.38
純粋な貝領域といえば、カンボジアがあるじゃろ
古代の東南アジアはクメール語全盛だったんだし
>>562 中国が何考えてるか疑問なんですよ。嘘臭さ満載で。
564 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 20:31:22.44
話をもとにもどす。
蝦夷俘囚が関東においては武士となり、西国では松浦党となったろう。
問題は近畿周辺。
平安→鎌倉の大混乱期に半数近くは故国東北へ還るか、
もともとルーツょ同じくする関東にとけこんだか。
しかし帰る故国を失った俘囚子孫は、あるいは山間部で漁師となり、
あるいは非農耕地で定住して、編戸の民とは違う生活をおこなったろう。
その後、畿内の常民とどう融合していったか、あるいは融合を拒否したかだ。
>>564 ネットで地図とか見ていると西日本にもアイヌ語地名が多数存在するぞ。
「〜内」は明確にアイヌ語地名。アイヌ人は基本的に漁労が得意だったからな。
そこの地名を現在ググってみて、その地区の写真を見たり近所の様子を見ても、単なる田舎町
で何の変哲もない。
要するに溶け込んだのだろう。
おっと、「〜内」というのは沢を意味する。北海道や北東北の「〜内」はその沢の状況を明確に
示した地名が多いから、アイヌ語に違いない。
で、アイヌ人は漁労をもとに移動していたんだよな。
567 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 21:16:48.64
>>564 岩手県の沿岸部に三陸町(現在は大船渡市と合併)に首崎(こうべざき)、脚崎(すねざき)、死骨崎という地名がある。
蝦夷の酋長が朝廷軍に殺されて、酋長の首が流れついたとこが首崎、脚が流れついたとこが脚崎、胴体が流れ着いたとこが死骨崎という言い伝えがある。
他には越喜来(おきらい)という地名がある。昔は鬼喜来と書いたらしい。
この周辺には“鬼”と名がつく地名が結構あるらしい。
ちなみにこの三陸町には吉浜漁港がある。ここの干しアワビは江戸時代から中国でキッピン鮑として珍重されて干しアワビの中で最高級品
>>564 蝦夷俘囚は戦利品として朝廷に献上され、
畿内や、朝廷の傘下に入って王化した各地へ分散配地された。
朝廷の敵国はおなじ蝦夷であり、まだ王化しきっておらず
いつ寝返るかわからない俘囚を対蝦夷の最前線に送ることは危険。
兵として使うならば、大陸からの侵攻にそなえて九州に送られただろう。
関東の武士とは畿内から派遣されたあと現地で在地領主化したもの。
>>567 鬼で一番有名なのは岡山の鬼ノ城
山の名前の鬼ノ城、血吸川など地名への影響も大きい
ただしこの鬼は百済から来たと伝えられている
鬼・蝦夷説はキビシイ
>>568 戦利品じゃなくて戦功だな
あと移配に関してはその通りだと思うが
東北の武士にそれは当てはまるのか
安倍氏、俘囚長清原氏、その子孫の奥州藤原氏、安東氏、謎の多い十三氏など
それに藤原の語源は富士山が見える土地だと思う
竹取物語には藤原氏に対する恨みがこもったストーリーだ
その中でも、帝が永遠の命(藤原の繁栄)を富士山の火(出身地?)で焼いて欲しい
という願いがこもっていると考えられる。藤原と富士山には関連がある
東北を支配した鎌倉幕府は完全に朝廷をしのぐ勢力を持つに至ったから
蝦夷成敗に苦労したという事は、当時の朝廷の東国支配が貧弱で穴だらけだった事を意味してる
東国では、俘囚=武士である
>>569 その蝦夷地・東北に百済王敬福がいたわけだが?
今の高句麗・百済渡来の傀儡子の末裔のBと平安時代の俘囚とは、かなり地位も意味合いも違うね。
俘囚長とかって、元々は、古代朝廷側だった部門な訳だから、戦国時代、江戸の世では、武家、明治以降は、華族でもあったわけだしね。
今のB代表は、伊勢平氏出の松本龍だったね。
俘囚長の真似になん?
俘囚の意味は、囚人と言うより代々の反朝廷側の捕虜とかだが、今のBは、この時代からの最底辺の傀儡子〜忍者の末裔。
同列に語られるのは、迷惑だね。
四道将軍一人だった大彦の末裔の安倍氏からすると、百済の王子の温羅と同じ、高句麗・百済渡来の末裔は桃太郎と鬼の関係。
源平に置いても、嵯峨源氏松浦氏と平家は、源平で敵対する関係で、勝者側。
これが、史実な訳だがね。
>>572 きのじょう→いのじょう→井上→安倍姓井上氏
>>574 高橋崇著「蝦夷」(中央公論社)には”冠位を得た蝦夷”がいたと書いてある。
>>577 俘囚の安東とか白鳥の事か?
鬼側の高麗帰化人の服部とか吉川も居るな・・。
>>576 その井上って、清和源氏流に入ってる源氏方だろ。
【安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏】
安倍氏は孝元天皇の皇子大彦命の子建沼河別命の裔孫と伝えられ、大和国十市郡発祥説が有力である。
同族の大臣命は景行朝に那須国造となり、後世家系は藤原に改姓して源平合戦では那須与一宗隆が活躍する。
他に皇子大彦命孫の磐鹿六雁命は、景行天皇東国巡幸に際して大蛤を御膳に供献して膳臣を賜姓される。
平安朝の安倍晴明は、陰陽道、天文道、暦道に通じて朝廷に仕え、土御門家、倉橋家の2家は堂上家に列する。
武家安倍氏は、中世に蝦夷管領の秋田城介職となり、江戸時代は秋田氏(岩城三春藩主)、阿部氏(3家)、
井上氏(3家)、安藤氏で明治に至る。 安倍氏の裔は、安部、阿倍、阿部とも表記する。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm
>>580 那須氏筋の武藤氏の少弐水軍で松浦党と合流してるじゃん
嫡流の始祖攝津出身の渡辺氏が東北で繁栄してる時点で、松浦・安倍ではなく渡辺氏が多いのが、安倍宗任の末裔で繁栄した良い証しだろうね。
当の摂津で留まってた家柄の渡辺氏は、俘囚であることを否定したいのか、倭寇の松浦とは、別と言い張ってるようだけどね。
摂津に留まってる渡辺氏は、公家だから藤原公家衆のお仲間なのだろうけどね。
582 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 06:19:33.21
摂津渡辺党は東国と言うか蝦夷の出自、つうのは近畿でよくきくなあ。
そんな事を幾ら流布しても、北朝時代ならまだしも、南朝時代以降の今、ネット社会の現代では、通用しないわなぁ・・
親筋は、同じ、源久なのだからね。
その久の家に、安倍宗任の血が入ったのが渡辺氏を含む松浦党なのだから・・
源綱(渡辺綱)、鬼切安綱の宝刀も、渡辺氏が案外、藤原公家衆を介して何かの取引(清和嫡流隠蔽の為)で、清和に貸し出した可能性は大だな。
満仲が大原安綱に造らせた源頼光の愛刀、童子切安綱と源綱(渡辺綱)、鬼切安綱。
対の二振りが、綱から源頼光へ戻されても、無関係の弟筋に、手渡されるとは、考え難い。
源頼光没後に、何かあったのだと思われる。
源綱(渡辺綱)、鬼切安綱を、手にして、野心を抱いた頼義が、安倍氏を朝敵に仕立て上げ、征夷の肩書きの為に、奥州安倍・藤原氏がターゲットにされたのなら、鬼切安綱を手にしなければ、時代が大きく違ってたのかもね。
平家に負けてたりとか・・元寇で負けてたりとか・・・考えたくないね。
そんで、久が気の毒に成って、孫位の代の宗任の裔を婿養子にして、安倍氏再興の為に、姓も松浦に改名し、松浦党を創り、安倍氏の子、宗任に、松浦党、旗頭に任命したんだろうね。
>>586 まずったw
松浦党を創り、安倍氏の子、高俊に、松浦党旗頭に任命したんだろうね。
588 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 07:30:05.87
わたなべ姓は秦氏系じゃないの?
松浦党最後の領主・波多三河守親は茨城県に流刑にされました。
『隋書』倭国伝
明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。
又東至一支國、又至竹斯國、「又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲」、疑不能明也。
又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。
倭王が畿内に居るのと思うが秦王国てのが気になる
中華と同じ人種とあるが丹後の事か?
古代の漢民族は縄文人のような濃い顔だったからこれが別所でね?
591 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 19:22:31.41
秦王国はふつーに広島じゃん?
または日本海側なら島根
592 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 20:55:23.41
>>590 旧唐書の倭人伝で倭の奴の国が現在の倭国であるとかかれてるお
>>589 それ松浦波多有浦に、有馬氏が婿入りして党首の最後の時だな。
秀吉の朝鮮攻めで、有馬氏に疑問を持ちながら出兵し、案の定統率が取れず不手際を起して、お家断絶、党首は流罪
にされた。
元々の土地の領主筋の日高氏が、有馬氏の婿入りで、クーデター騒ぎに成ったから、松浦党内がギクシャクしていて、あの秀吉も知らない筈も無かったようだね。
有馬氏は、海賊王の藤原純友の末裔です。
>>588 秦氏との関係は、後の島津と松浦出身で島津の右腕だった江戸初期の家の関係。
島津の前の惟宗氏が秦氏末流だからだ。
島津の氏族の古い家には、秦氏を名乗る家もある。
後は、嵯峨天皇・孝元天皇と言った、天皇皇氏の嫡流筋だから、天皇家繋がりで秦氏。
天皇家由来の伏見稲荷大社に秦神社が合祀されてる関係。
山口県には、愛新覚羅神社も祭られてます。
家の氏姓の神社もあります。
>>596 訂正
家の氏姓の御祭神が祭られた、河内神社があります。
598 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 21:42:52.02
熊野信仰と蝦夷はなんか関係あるの?
>>598 高野山なら和歌山だから、大彦の3男筋の武内宿禰の紀氏が居住地で、大彦嫡流の安倍氏と嵯峨源氏由来の内の氏姓の氏族の所縁の地が泉州で、渡辺氏が摂津。
見事な位置関係だろう。
>>572 岡山県民の俺がマジレスすると
3世紀から4世紀初めの人物だとされる崇神天皇の時代、
百済はまだ建国されてないと思うぞ。
高句麗が楽浪郡を滅ぼしたのが4世紀、313年のことだし。
鬼ノ城に至っては7世紀、白村江の戦い以後に建てられたと考えられてるし。
ぶっちゃけ、温羅伝説は雄略天皇と吉備氏の戦いがモデルで
後世、そこに朝鮮式山城の鬼ノ城が加わって成立した作り話だと考えてる。
>>570 戦功の証としての戦利品だな。
安倍氏は蝦夷で問題ないだろう。
清原氏は中央貴族の出という説もあり微妙だな。
奥州藤原氏は中央貴族由来の関東武士藤原氏と安倍氏の混血。
語源が富士というのは単なる妄想だと思うが、
春日神との関係から関東に派遣されていた氏族であることは確かだろう。
鎌倉幕府が朝廷を凌ぐ勢力をもったのは平家を滅ぼしてからだから、東北を滅ぼす前から。
坂上田村麻呂以降は国としてはほとんど放置状態であり、
久しぶりに反乱を起こした蝦夷の成敗にしゃかりきになっていたのは源氏だけ。
当時の生産力からみて、東国とはほとんど関東のことでありその他はおまけにしかすぎない。
在地領主から起こった関東武士が、東北に進出したあと領地を与えられて東北の武士となったのがほとんど。
>>570 竹取物語には藤原氏に対する恨みがこもったストーリーだ
奥州にも藤原が居るんだから、京の都の藤原公家と言ってやってくれ。
藤原氏と言っても、各地の豪族を纏めて呼称した複数の豪族筋だからね・・
それぞれに、家柄、一族の属性がある。
頼義の奥州遠征時には,安倍氏に辿りつくまで、沢山の藤原北家の人間が、囚われ俘囚となり、瀬戸内へ流罪にされ流され、漁師となった。
京の公家衆の厳しい取立てに弱り、海賊化し、阿波海賊を代表する初代の海賊は、皆、全て、同じ藤原に気付いた、藤原純友は、自ら、海賊を束ね、海賊王と成った。
>>573 平安時代の俘囚はかなりの優遇を受けていたらしいし、
習俗ふくめ、今のBと非常に良く似ている。
俘囚長から鎮守府将軍になった清原氏も中央貴族出という説もあり、
松本龍も同じようなものだろうね。
>>574 習俗も同じなので結局たぶん同じだろう。
平安の源平で、源氏安倍氏と俘囚長を交代したのかね
だから、平氏出自の安倍元総理が、安倍氏を名乗ってる訳か・・?
安倍氏の松浦氏が抜けた繋ぎで・・
>>601 安倍氏も蝦夷かどうか微妙じゃね?
安倍は中央の姓だし、9世紀頃、陸奥守や鎮守府将軍に任官してる
安倍氏が何人かいるからな。
真人姓を名乗って皇別氏族だと自称してる出羽清原氏よりも
ご先祖候補は豊富なくらいだ。
607 :
日本@名無史さん:2012/02/20(月) 22:48:03.20
蝦夷、俘囚の話題ってアテルイとか平泉とかいつも岩手の話題中心なんだよな。
多賀城以南の宮城、福島ってなぜか古代の話題だと地味だよな
>>607 蝦夷、俘囚の話題となると、宮城はともかく福島は難しいだろな。
ヤマト王権が成立した4世紀からヤマト王権の同盟勢力だし。
多賀城以南はほとんど朝廷支配下になっていたんだからあたりまえ。
>>608 >>609 自分は宮城中南部(熊野3社がある某市)の人間だけど、ヤマトと戦う岩手の蝦夷たちについては盛んに語られるのに、
アテルイの時代の前後にヤマトの最前線だった多賀城、仙台の歴史が語られないのは不公平な感じがしてたもんでねw
>>598 熊野信仰はニギハヤヒ信仰だろう
秋田も津軽もニギハヤヒに繋がりが有る
>>600 それは分かってるが
白村江の戦い以後に作られた可能性はまったく無い
日本最大級の大きさの城だから建造期間も相当な物
敵が攻めてきそうな時に造る城じゃあ無い
鬼ノ城は古代に安定した豪族が居てそいつが作ったと考えられる
で放置されたのを盗賊が住み着いたって感じだろう
>>603 じゃあ、安倍元繋がりで小泉元総理も立ち位置俘囚長に近い存在に成るね。
>>606 まぁ・・近縁には、土御門氏や藤原氏の那須氏、清和源氏の井上氏だもんね。
>>612 あっ・・そう言う事かぁ・・
>>591 古代出雲とも関係する?
別で、安倍氏が、古代出雲の国津神にされたのも関係ありかな?
土着と古い渡来人は、国津神だからね。
615 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 06:40:11.68
系図とか先祖伝承はほとんど信用でないだろう。
関東ですら朝廷の完全支配下にはいったの、平安時代ではないかな。
多分将門の乱以降。
九州の防人派遣だって、対東北戦争での動員だって、
自国民と言うより植民地原住民に対する過酷な政策と思える。
そのころ、武蔵一宮と言うか関東各地で熱心な信仰を集めていた
氷川神社の祭神を、本来のアラハバキから
出雲系に置き換えたのではないなあ。
>>613 吉備氏は5世紀には没落してるから、
鬼ノ城を建てられるような勢力はヤマト王権だけだと思うぞ。
まぁ、記録もまともに残ってない城だし
ヤマト王権が放棄した後に盗賊が住み着いた可能性はあるけどさ。
617 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 09:44:08.05
そうだよ。
「うら」を鬼よばわりしてんのは、あくまで吉備族視点の話。
福井あたりでは「うら」って一人称残ってるでしょ。
鬼ノ城にいたのはヤマトの人。
百済人と同系だけど、百済人じゃない。
ヤマトと百済が同系?
なんだ、まともに話を聞いて損した。
百済は支配層が扶余、被支配層が韓族の
征服王朝、あるいは浸透王朝ってやつだろ。
しかも魏書を信じるなら扶余はモンゴル系の民族だ。
ヤマトと同系のわけがない。
619 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 11:58:49.14
魏書を信じる??プゲラしちゃっていい?
620 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 13:03:23.72
渡来人は日本に下戸遺伝子を大量に持ち込んだはずなんだが、現在の韓国人には下戸遺伝子が少ない。
これが解せない
紀ノ城
622 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 16:03:19.28
反論しないと、心落ち着かないよね。
どう、心保てた?
>>623 との書き込みに対して書いてるんだ?
アンカーも振らずに自分だけで納得してるのか?
>>616 白村江に負けたのは663年8月
防衛のための城を建てたのはこれ以降
ところが672年に天智天皇が没、すぐ壬申の乱が始まっている
勝ったのは東国勢力を味方にした大海人皇子
つまり築城は7年以内のはず、出来ると思うか?
それでなくとも内政不安定になっているのに、超巨大な山城建造とか命令www
それにあれだけデカい城なのその後全く利用されていないのは異常過ぎる
オレは大和政権以前の王が建造したと思う
まあ吉備王国だったかもしれんが
白村江の敗戦の後
唐の侵攻を恐れて大津に遷都してるので
鬼ノ城に匹敵する山城が大津付近に無いのは変だと言える
守りの要のはずの京都付近に神籠石山城は無い
627 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 01:35:52.69
吉備族はヤマト朝廷にとって異民族だったのよ
だから基地が必要だった
>>625 >東国勢力を味方にした大海人皇子
この東国ってのは尾張。吉備と同族。
壬申の乱って、ようするに異民族によるクーデターですよね
岡山弁と名古屋弁、そっくりでしょ?
「でーれえれー」とか
都を遷都したぐらいだから
危険と思われた渡来系一族は収容所に入れられたはず
これが別所の始まりじゃないかな
渡来系が多い地域に別所が多い気がするが
629 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 01:52:36.23
その渡来系ってどんな容姿?
630 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:03:27.52
631 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:05:45.00
別所哲也みたいなのじゃなくて?
632 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:09:06.76
別所には渡来人が一緒に連れてきた奴隷なんかもいそうだな。あとは蝦夷征伐で連れてこられた俘囚か
>>629 新羅が有った古代の朝鮮半島南東部だから
縄文人や蝦夷みたいのが多かったと思う
>>630 それは男を皆殺しにしてレイプしまくったモンゴル兵が原因かw
高句麗系じゃないかな
白村江の前に新羅は唐に使いに出したが、これが美女過ぎて唐は新羅びいきになったw
唐の皇帝バカすぎるw
634 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:17:09.15
むちゃくちゃ言うなw
背が高く顔も縦長の、いわゆる今まで「弥生人」とされてたタイプだよね。
それ「渡来人」か?
636 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:26:25.83
大和民族って尾張弁(名古屋弁?)みたいな感じじゃないすか?
637 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:26:55.26
>>635 全然縦長じゃねえじゃん横に広いじゃん
てか岡山にいないか、そういう「弥生人」
>>636 前に2chで、
「韓流アイドルのコンサートの客は日本人と思えない顔だらけ」
って名古屋の客が晒されてたんだけどさ
みんなフツウに名古屋顔だった。
639 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:38:39.93
>>638 名古屋、仙台、茨城はブスの産地といわれている
愛知の美人は加藤あい。芸能界でもこのクラスの美人はそうはいない。
しかし加藤さんの出自は変わっている
640 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:45:36.97
>>639 真言宗の寺があるんでしょ?
そして空海は「俘囚」の出身とされてる。
んで蝦夷って何かっつったら
大和から来たナガスネヒコ・アビヒコの末裔じゃん?
だから加藤あいもヤマト系。
スタイルよくて美形。
641 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:52:25.11
まあまあとりあえず 加藤あい とかは置いといてさ
642 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:55:54.64
論より証拠やん?
別所哲也もよい例
643 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:58:02.34
別所哲也もガタイ良いけど、野球の別所というおじいちゃんもガタイが良かった。
生前、相撲部屋にもスカウトされたと言っていた
644 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 02:59:49.40
彼らが正当な「大和民族」なら、
彼らを百済の鬼呼ばわりする岡山人とは?
でかいツラしていびってきた名古屋人とは?
もうほとんどホラーですネ
>>640 ナガスネヒコは神武天皇に反抗して殺された方で
ニギハヤヒに使えた先住民系
当時の畿内はヤマトじゃないから大和系ではないw
天皇系じゃない天孫系がニギハヤヒで秋田とも縁が深い
秋田が美人で有名だけど古代新羅の地も美人で有名じゃないのかな
縄文繋がりだな
ホントか嘘か分からないが
縄文系はウインクが出来て、弥生系は必ず両目が閉じてウインクが出来ないらしい
これで見分けられるとか???
理由は弥生系が寒冷地対応だからだそうだ
647 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 03:09:05.05
>>645 先住民って何?縄文人?
当時の畿内がヤマトでないなら何なんだい?w
畿内はいつからヤマトになったと言うんだい?
秋田美人は平氏系じゃないんかい
648 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 03:11:50.82
秋田に限らず北東北は美人の産地
茨城に限らず北関東はブスの産地
650 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 05:46:48.87
先住民=今はもういないシトたち。
先住民族=原住民、は今も生きている。
敢えて言うと縄文人が先住民。
東日本や西南日本の縄文系の人たちが原住民。
「えみし」が単純に縄文人じゃないなんて常識レベルだと思ってた
だから渡来人云々言ってたんでしょ?
古墳時代には民族の移動があるんだよな。
オホーツク人が樺太から北海道へ南下して、
続縄文人が北海道から本州へ南下してる。
蝦夷とアイヌでは製鉄技術に差があるから
東北にいた弥生人も蝦夷に合流してる可能性が高い。
北海道と違って東北には普通に弥生時代が存在したからね。
>>647 縄文人と弥生人の混ざったものだろう
弥生系は大和朝廷と無関係に、それ以前に日本全土に拡散したと考えられる
弥生系の分布が広すぎるし均一すぎる
また水田も紀元前には本州最北で大規模に作られている
大和朝廷の勢力拡大と弥生人の拡散を結びつけるにはかなり無理が有る
畿内は神武東征が成功してからヤマトになった
九州北部に有ったヤマトが引っ越して畿内にもヤマトを作って
倭を乗っ取り「大倭」を名乗ったと思うぞ
東征は考古学的な証拠がゼロだからなぁ
ぶっちゃけ、初期のヤマト王権は筑紫や出雲、吉備や毛野
といった地方豪族連合の名目的な代表でしかないでしょ
吉備氏の乱、磐井の乱、武蔵国造の乱とかで
有力な地方豪族が没落していったのに加えて
唐からの外圧もあり、ようやく天智、天武時代になって
中央集権化した感じだし。
655 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 18:04:02.83
日向の生目古墳群をスルーしちゃうのかい?
>>652 弥生人は北東北には殆どいなかったと思うな。
むしろかなーりの少数派だったと思う。だいたい、俺のトコには弥生遺跡はないからな。
津軽平野で米作りが行われ、弥生遺跡だという話もあるが、縄文時代のかなーり気温が暖かく
なった頃の話で、その後気温が低下すると、その生活様式じゃ生活できんから、戻っていったり
縄文人「に」吸収されたと思う。
そこで弥生人とは何かって話です。
水田耕作してたのが弥生人?
私のトコには田んぼと弥生遺跡があほほどある。
そしてその周辺に住んでるのは、主に、小柄でおたまじゃくし目の関西人。
従来の弥生人のイメージ図(背が高く顔も細長い)とは違う。
でも、米農家とは別に関西には、
背が高く顔も細長い切れ長の目のタイプがいる。
で、たぶん青森にもいるでしょ?
>>656 縄文時代末期の縄文人の人口は列島全域で数万人程度と言われているから
東北地方における弥生人の割合が多いか少ないかは分からんぞ。
縄文人の方が多いことはほぼ確実だろうけど。
あと、弥生人は東北全域に定住したのではなく、日本海側を北上して
庄内平野や本荘平野、秋田平野や能代平野、津軽平野といった日本海側の
平野に集団で住み着いたと考えられるから、その辺も考慮が必要かと。
最終的には縄文人と融合して蝦夷になったんだろうけどね。
659 :
657:2012/02/22(水) 19:14:06.85
おたまじゃくし目ってどんなんかと言うと、
サッカー日本代表の
香川選手、岡崎選手、なでしこの澤選手などなどみたいな目。
すばしっこさでは群を抜いてるんじゃないかなー
でも、津軽に行った「ナガスネヒコ・アビヒコ」は別の系統。
(香川選手はそっちも入ってそうだけど)
660 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 19:31:44.14
661 :
657:2012/02/22(水) 19:35:46.85
>>660 よく言われるのは秋田だね。
坂上田村麻呂も青い目だったと言われてる。
ゲルマン人やアングロサクソンの遺伝子は、以外に東まで来てるしね。
でも津軽の背が高い一派は別だろうね
ゲルマンとか、アングロサクソンとか、マジで言ってるのか……?
古代日本に渡来した可能性のあるコーカソイドなんて
せいぜいインド人とか、ペルシャ人とか、ソグド人くらいだろ?
663 :
657:2012/02/22(水) 19:55:47.46
664 :
657:2012/02/22(水) 19:57:52.15
あ、黄色はアングロサクソンじゃなくてスラブ系やんゴメン
665 :
657:2012/02/22(水) 20:20:00.33
666 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 20:42:29.34
先祖代々、昆布を朝廷に贈り続けてた蝦夷の有力者の須賀君古麻比留
>>661 坂上田村麻呂は、劉備氏で、劉備元徳の兄弟筋出自だから
劉備元徳って白人だったのか・・
668 :
日本@名無史さん:2012/02/23(木) 07:37:07.00
302 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 15:40:59.10
”武内宿禰は100年ころに東北地方を偵察して
「東のひなに日高見国あり、其のくにの人勇みてこわし。えみしという。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」
と景行天皇に奏言している(書紀)。”
▼ 315 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2012/02/22(水) 21:28:22.69
>>302 「遣武内宿禰令察北陸及東方諸国之地形且百姓之消息也」
それは大和より東の国を指しており東北のこととは限らない。
米の改良が進んだ現在、東北は米所になっているが、古代は米作には適さない土地だった。
武内宿禰が探索したのは、おそらく北陸から関東辺りと思われる。
>>669 重大ミス! 銅鐸、長野県です
青森じゃなかったw
日高見は特定の地域の名称というより、朝廷側が占領してない東日本の地域のことを指すんじゃないの?
一度占領してしまえば日高見とは呼ばなくなり、まだ占領してない北の地域を日高見と呼ぶようなるんじゃないのかな
>>660 >北東北には稀にこの子と同じ目の色をした人がいる
なんかナショジオかなんかで
「俺のルーツはイタリアだ」
とか言ってたけど結局違った中国人思い出した。
ソースは?w
>>672 工場で、働いてた時、目の青白い宋って中国人の人が居たな・・
あれが、劉備氏のルーツかなぁ?
中国の北の方の出身らしく、地域的にブリヤード人の血による関係みたいだったけど・・
日高見は多分「アジア」と同じく、太陽の上る方向の「最果て」違うかな。
また北関東を昔「ヒタ」と言って、関西に近いほうを「ひたカミ」、
遠いほうを「ひたシモ」→「ひたし」→「ひたち」と言ったとかなんとか。
675 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 08:44:46.39
>>672 北東北に稀にいるソースということ?
自分が小学生の時の同級生に青い目の人がいた。ソースなんかない。
>>660の子より色白で髪は茶色だった
>>675 近親相姦の子だな。
遺伝子の先祖帰りつー奴・・
関西でも、下町のには、先祖帰りのア口の人をチラホラ見かける・・
678 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 10:41:23.66
>>676 近親相姦でそうなるなら、韓国人は青い目の人がゴロゴロいるのか?
680 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 12:05:10.32
>>679 じゃあ青い目の韓国人はコンタクトしてるのか?
子供の頃から髪も黒く染めて
682 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 14:44:22.60
>>681 ホントだ
本人は「外人」と言われのを凄く嫌がってた
683 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 15:03:57.97
知能指数が低い白人と混じってるのが嬉しいのかよ。
>>682 ソースが出ないうちは東日流と同じ病気がまた出たと思わせて頂く
ww
北東北の奴がアイヌと混血してるってのはガチだろうけどね
津軽藩がアイヌの同化政策とかしてるし
でも白人と混血してるってのはトンデモだよなぁw
ロシア極東なんてスラブ人が東征してくるまでモンゴロイドばっかりだぞw
山浦玄嗣ってケセン語とか、ケセン語の聖書とか、胡散臭すぎるだろ……
もっと最近実施された大規模な調査はないのかよ……
東北に目の青い奴がいるとか言われても、実際には見たことがない。
以前、テレビの番組(特ホウ王国だっけ?)で本当に目の青い日本人がいたが
あれは遺伝ではなくて単なるメラニンの異常だろう。
>>689 あのねぇ、ウイルスと遺伝子は違うぞ。
しかも感染は経口ないし、経気道によって起こると書いてるじゃん。
そりゃ朝鮮でもインドでも見つかるわ。
遺伝子はどうなってるんだ、遺伝子は。
>>690 あのねえ、JCウイルスはほぼ全人類が母子感染してるものなのよ
>>691 母子感染してるかどうかなんて聞いてないのよ。
本当にヨーロピアンと混血してるなら遺伝的な繋がりもあるだろと聞いてるの。
例えばY染色体にRとかIがあるとかさ。
東北では日本人から日本人にEU型が感染してるんだろ?
とどのつまりはモンゴロイド同士でもEU型が広がる場合もあるってことじゃん。
>>693 あのねえ、無い所からは広がらないんだがw
秋田からアイヌ・東シベリア先住民と地域の連続性もある、信頼性は高いよ
あとmtDNA、YDNA、JCウイルス、HTLVウイルスなんかは、性質も違うし影響も違う
どれも完全じゃないし同じ結果にならない
面白いのは日本のMY型がスウェーデン南部でも発見されていることかな
これは古代に相互交流が有った可能性を示している
日本のEU型が1.9%で母子感染が多いだろうから、比較はmtDNAの方が適当だろうな
日本とヨーロッパで共通の物が有ると思うよ、未確認だが
>>694 君は実に馬鹿だな。
ウイルスなんだから混血しなくても感染するし、
ウイルスに感染したモンゴロイドと混血した場合でも
EU型に感染するだろ?
東北人ってやってることが朝鮮人と似てるな
なんか寒い地域で貧しくて中央から抑圧された歴史しか無いと
そういう風になるんだろうな。
697 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 00:33:30.23
>>696 西日本人はそのままんま朝鮮人だろ。
一重、短気、自己中、無駄に声がでかい、無駄に顔もでかい
北関東辺りはアクセントが半島のアクセントにそっくりだし
698 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 00:39:28.12
『日本語の特質』(NHKブックス)
東北の方言はシとスが一緒になったり言葉の途中の音が濁ったり発音があまりきれいな言葉とは言えない。
関東地方は言葉が荒く「ツッぱねる」とか「ブッたぎる」とか盛んに使う。
そしてベエベエ言葉を使う。
この中で東京はちょっと違いベエベエ言葉は使いませんで言葉が丁寧です。
これは西日本的要素が入ったものです。
たとえば「します」とか「しません」とかいう言い方が東京にありますが「ません」などという打消しは西日本的なものです。
関西方言は言葉がやわらかい。
中部地方の言葉は前の関東地方の言葉と近畿地方の言葉の中間のようなものですが
東海道・東山道の言葉は大体関東に近く
北陸の言葉は反対に近畿寄りだと言えます。
中国地方は言い方は関西地方と大体同じなのでありますが
アクセントの面ではこれらはむしろ東日本的で愛知県以東とよく似ています。
四国の言葉は近畿の言葉とよく似ています。
九州地方は語気が強いところがあって関東地方とちょっと似てきます。
九州のうちでも鹿児島と五島列島の言葉は違っています。
これはちょうど奥州地方のように発音の変化が激しい地方です。
もっと南の方の奄美・沖縄へ行きますとさらに違っていて
昔は一般の人は沖縄の言葉は外国語だと思っておりました。
>>697 ↑
短気なの自分じゃんw
歴史を捏造するとか超自己中だし
西日本にいる東北人末裔部落民と朝鮮人もそうだもんねw
700 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 01:57:55.03
>>699 図星つかれたからといってファビョんなよ
韓西人がファビョる時は「アイゴ〜」と叫ぶんだろ
>>695 君は確実に心底バカだなw
EU型に感染したモンゴロイドが何故存在してるのか
その最初の感染源はどこに居たのか、どの程度の規模と予想されるのか
少しは頭使ったらどうだ
>>692 これを見て分かるのはアイヌEU型の方が古く分岐してる
おそらく数万年前に大陸経由でコーカソイド系が北海道に移住し
1万年?ぐらい前に別のヨーロッパ系が東北日本海側に移住したのかも
はっきり分かれてるから、アイヌとエミシはずっと別で混血は少ない
>>702 蝦夷の須賀君古麻比留はアイヌ人だったんじゃないの?
>>700 おちつけよ。
図星つかれてファビョったのはキミだろう。→
>>697 アイゴーってアイヌ語っぽいね。
708 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 12:59:55.22
西日本土人は相変わらずバカチョン
>>689 JCウイルスってぇっ!!
まさかぁのぉっ!
あの・・JC?WW
幼児体系未発達つウイルスだったのかぁぁぁ・・
>>696 おまぁもだが・・
>>699 ドサクサに紛れて、西日本にいる東北人末裔部落民とか捏造すなっ!
奥州人流民の生業は、漁民が大半で、水軍であっても、漁村が部落なんて聞いた事ねぇわっ!
関西のは、>>482で話してる通りだっ!
西宮神社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE 神人として人形繰りの芸能集団「傀儡師」が境内の北隣に居住しており、全国を巡回し、えびす神の人形繰りを通してその神徳を説いたことにより、えびす信仰が全国に広まった。
境内に祀られる百太夫神は傀儡師の神である。中世に商業機構が発展すると、海・漁業の神としてだけでなく、商売の神としても信仰されるようになった。
江戸時代には、徳川家綱の寄進により本殿を再建し、また、全国に頒布していたえびす神の神像札の版権を幕府から得、隆盛した。
何故、部落が城下町の下町にばかり集中しているのか・・
街中が一番情報収集と風評流布の情報発信工作に適しているから。
また、時には、忍以外に、足軽傭兵として、重宝だから、武家が城下町に待機させて住まわせていたからだ。
その中心には、何らかの鬼やかっぱの伝承のある神社が多いのは、高句麗・百済渡来であった為である。
>>696 実際、先頃の東北地震で判明済みだが、東北にも、朝鮮部落は、存在してる。
無論、戦時中、炭鉱での強制労働の労働者に従事が大半だったから、東北・北関東・北海道に集中的にいた筈だぞ。
東西日本共に、俘囚と古代部落民は、全く別もの、
武門海賊=水軍、傀儡子=忍者部落で別物。
武門海賊=水軍←藤原海賊に始まり、源氏方平氏方のルーツはその時々の朝廷の天皇皇子の子孫が自ら水軍長と成っている。
傀儡子=忍者部落←半島でも、最下層民。
出自が天地ほど違うぞっ!
俘囚→海賊=水軍財閥系。
傀儡子→部落=同和。
>>699 関西の漁村が部落なら、関東は、農家農民が部落とでも言いたいのか?
傀儡子を現代の韓国・香港で例えると・・フィリピン人家政婦・お手伝いさん。
日本では、犯罪者として悪名高いので、最下層の在日朝鮮人は、家政婦・お手伝いさんには、適用されてませんね。
だから、裏の鉄砲玉・右翼動員・創価動員・電通動員・ピットクルー動員として利用されてきた訳だ。
朝鮮代表:帰化人の柳代表
同和部落代表:伊勢平氏と自称する松本代表(平家落人か北条氏系統か不明。)
722 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 20:15:06.03
マジキチ曝しage
723 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 20:49:38.40
>北東北の奴がアイヌと混血してるってのはガチ
根本的に間違っている。
アイヌ民族が東日本庶民と別の文化を歩み出したのは
埴原和郎や古くは喜田貞吉が唱えたように、鎌倉時代以降だろう。
北東北人はのちのアイヌ人と混血したのではなく、
東日本では比較的後世まで縄文的な特徴を残していた。
平安以降関東は急速に和人化したけど
それは文化的なものであり、民族的なものではなかったことは、
平成の現代でも畿内と関東では体質、形質に相当な差があることが
証明している。
724 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 23:40:23.21
>>723 鎌倉以前は北海道のプレアイヌと関東以北が同じ文化だったというの?言語も?
根本的に間違ってるのアナタじゃないの?
東北はアイヌじゃないからなw
誤解の無い様に
アイヌの土地に本州人やオホーツク人は行ったが
アイヌは本州に来なかった
微妙だけど大きい差がある
じゃあ東北や関東の奴らは何だというと、これがエミシ
本州倭人だけど、反大和朝廷
西日本の土蜘蛛の仲間だ
726 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 00:07:39.59
>>725 アイヌは江戸時代まで北海道と三陸海岸を行き来してたよ。
そのまま本州に定住した人もいただろうし
>>726 それは数の問題
交流が有ったとしても
本州に来たアイヌ人と、北海道に行った本州人、数の差は明白
アイヌ人が移住したとしても本州に強い影響を残せず埋もれて消えた
逆に本州人は北海道で増えまくった
アイヌの歴史とアメリカインディアンと重ねる人も居るけど
インディアンは数千万人から数十万人まで人口が減った、悲惨だ
しかしアイヌ人は減っていない
>>686が言ってる津軽藩がやったアイヌの同化政策とは何なのだろう?
730 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 00:54:33.87
723,725は同?
732 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 01:07:19.80
>>727 アイヌ人は成人T細胞白血病のキャリア持ちが多い。成人T細胞白血病のキャリアは三陸地方にも多いよ。
インディアンが死んだ原因の多くは伝染病でしょ
>>732 成人T細胞白血病のキャリアが一番多いのは九州南部
アイヌとの繋がりを語ってください
その伝染病は、奈良平安時代ごろに日本に伝わったけど、日本は人口が回復したぞ
インディアンの人口が回復しなかったのは何故かな?
弥生人が持ち込んだ伝染病で縄文人は沢山死ななかったんだろうか?
735 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 01:18:00.17
>>733 南九州も縄文人との混血でしょ。沖縄にも多い。逆に少ないのは京都
736 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 01:18:58.20
738 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 01:59:41.56
>>733 母系のM系群集団の一部に在った可能性が在る。中国、インド、東南アジア存在するが政治的に隠してる可能性も在る。
>>673だが・・
青白い目って隻眼って言うんだね。
アクエリオンEVOLの次回予告で知ったわぁ・・
740 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 07:14:32.77
>>739 人を軽蔑の眼差しで見ることを白眼視するという。
学校義務教育で習うレベルの話だぞ?
>>739 隻眼(せきがん)は伊達政宗のような片目のことだぞ?
お前は日本人じゃない?
743 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 12:38:25.65
無知な基地外です
744 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 14:35:41.59
>>740 鎌倉時代まで、言語や文化は違っていても、
関東「庶民」と北東北の「まつろわぬ人々」とは・・・
よくわからんのだが「まつろわぬ人々」とアイヌは同じ言語・文化
だったってこと?
>>740 明治以降の北海道ではアイヌ差別があったんだよね?
形質的にはほとんど同じ連中同士で差別してたのかな。
鎌倉ぐらいの関東の農民でも、文化や言語がどうだったかが大事だと思う。
747 :
日本@名無史さん:2012/02/27(月) 20:53:23.02
刑質が同じだったわけない
縄文の遺骨やDNAでも関東と北海道のでは違いが認められる
>>741 今、残業帰りで乙。
今北産業・・??
なんですかぁ・・
朝、慌しく書き込んだ書き間違いに
揚げ足取りで、好き放題言いたい放題の無職ニートネラー君ですか?
また、疲れる書き込みしてますね。
>>742 ・・・さておいて
>>741 下三泊の事ですね。
で・・
>>742 碧眼ですね。
以上。
休み明けで、忙しかったので、この位で勘弁です。
乙。
>形質的にはほとんど同じ連中同士で差別してたのかな。
差別とはそう言うものだ。
早くに和人化した連中が、子為のかわらない非和人化を
差別することによって、あたかも自分が和人であるかのごとくふるまう。
クソ田舎から上京して俄か東京人
なったやつほど、地方人を馬鹿にするだろ。
江戸っ子で地方人見下すやつは見たことねえし。
京都はねちねちを地方の人を見下すけどな。
いや、京都は「市内」も見下すえ。
「伏見なんて京都ちゃうやん」はまだしも、
七条以南、人によっては四条以南も。
鴨川から東っかわもあきませんな
753 :
日本@名無史さん:2012/02/28(火) 21:38:20.41
意見を要約すると、京都府の中心地はウトロ地区
>>750 見下すっちゅうか言いがかりつける
なぜなら彼らは鮮人だから
ツマンネ
>>754 言いがかりつけてるのはおまえだろどうみてもw
758 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 04:43:42.63
話を戻して。
喜田貞吉なんかも、もともと農業に定着できなかった
先住民族、つまり縄文系のエミシや旧俘囚が
柵戸の民の嫌がる仕事、特に屠畜関係に従事し、
それが賎民の淵源になったようなことを書いている。
平安以降はその階級に零落民がどんどん流入して行った。
759 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 08:29:24.70
支配層の渡来人が渡来して来る際に被支配層の連中も連れてきたただろう。
日本に渡来してきても“汚れ役”の人員をこっちで確保出来る保証はないわけだし。
連れて来られた被支配層は、エラが張ってて目が釣り上がってて頬骨が出てて放火を好む連中だろう
多分この連中や蝦夷が部落の起源だろう
762 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 12:53:47.17
喜田って最近デンパぶりが白日のもとにさらけ出されてるよな
>>759 汚れ役が必要だったという前提に疑義あり
764 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 13:21:16.74
汚れ役を押し付けられたというより、
北方民族(アイヌ、モンゴル、エベンキ)には元から動物を堵殺する生活習慣がある件。
>>758 蝦夷が部落民の起源だというのが事実なら、まあ仕方ないだろうな。
俺自身は蝦夷の血がかなーり入っているけど、別に部落差別の意識は全くないし。
で、証拠はあるの?たとえば、蝦夷の住んでいた地区ってのは、アイヌ語で理解できる
ような独特の地名を持っているのだけど、そういうコトってある?
>>766 部落民が呼んでる地名を周りの奴らが真似して同じ呼び方をするとは思えない
あと、エミシ=アイヌではない。
勿論、後のアイヌ人も蝦夷と呼ばれていたが、中央での権力争いに敗れて東北に逃げ込んだ連中も蝦夷と呼ばれていた。
蝦夷の中には他にも沿海州から渡来してきた連中もいたと思う。
ついでに書くと、東北だけでなく他の地域にも先住民はいただろうから、その連中も汚れ役をやらされたんだろう。
あとは、エラが張って目がつり上がってて頬骨が出ててて放火好きの半島の被支配者層の渡来人も汚れ役をやらされただろう
>>767 中部地方にもアイヌ語地名はわずかだが厳然として存在しているから、その説明は弱いと思う。
蝦夷≠アイヌは文化的な面を強調して言っているのだろ?そう解釈できるようにねじ曲げているように
しか思えない。血の繋がりがあるのだし「≒」で良いと思うぞ。
沿海州から来たのは、しゅくしんだろ。明確に分けられていたと思うが…。阿倍比羅夫の記録でも、
「蝦夷語を理解しない」と書かれているから、蝦夷語=アイヌ語と解釈するのが自然。
>>768 沿海州からいつ渡来してきたのかにもよるでしょ。
中には沿海州から縄文時代のうちに渡来してきてた可能性もある。
アイヌ語の地名は中部にあるのかね?
かなりこじつけで解釈してるんじゃないの?
「ワッショイは朝鮮語のワッソが由来」みたいに
771 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 22:10:53.26
なんか時折差別的な書き込みがあるが、自粛してほしい。
>エミシ=アイヌではない
まあイコールとは言えない。
金田一によると「エムチュウ」と自称していた東日本の
縄文系先住民族も一枚岩ではなかったし、
鎌倉以降に関東・南東北人と別の文化を築きだした頃でも、
相当和人化かしていかもしれない。
自然人類学のほうでは遺伝子的に
弥生的要素:縄文的要素が
近畿で9:1
関東で7:3
アイヌ民族ですら3:7らしい。
縄文民族の自称がエムチュウまたはクイであり、
かれらが弥生人の血を一定程度受け入れつつ北方影響の
独自文化をつくつたのが、アイヌのそとたちだと思う。
772 :
日本@名無史さん:2012/02/29(水) 22:33:22.74
>>770 チベットもそっくりだぞ
アイヌ人はチベット人ですね
>>773 嘘はよくない
アイヌは新モンゴロイドになってしまい
渡来系彌生人起源になってしまう
776 :
日本@名無史さん:2012/03/01(木) 04:09:40.95
>>770 アイヌ語地名は昔はかなり荒っぽい方法もあったから、眉唾な事例も多いのだが、
山田秀三氏の研究による地名研究はかなり評価されている。
東北地方中部までアイヌ語地名が密集している。多分そこが、蝦夷と大和政権の
境目だったのだろう。で、その地名そっくりなモノが中部地方などにも点々とあるわ
けだ。
ツガルってアイヌ語?
779 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 06:34:05.41
エドもアイヌ語の「エトゥ」って説があるなあ。
780 :
日本@名無史さん:2012/03/02(金) 17:20:04.00
奈良はウリナラのナラ
>>778-779 そこいらへんは、完全に不明。アイヌ語語源説はかなーり怪しい説が蔓延しているから、
慎重に調べないといけない。(初期のアイヌ語辞書も犯罪的だった)
北海道と東北で似たようなパターンで頻発するような地名の例はかなり信頼できると
思うけどね。
782 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 02:34:52.65
>>728 乳井貢が行った政策のことだろう。
藩内のアイヌは和人として扱いますよって政策だ。
この政策の結果、津軽のアイヌは文化的に和人化した。
まぁ、せいぜい数百人の話だけどね。
783 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 03:42:14.74
>>740 これ、2005年の古い情報だな。
今では北海道・東北集団の縄文人と関東集団の縄文人では
遺伝的にかなり差異が存在したことが分かってるよ。
それにアイヌが縄文人と現代関東人の中間ってのも意味分からんな。
関東の縄文人が混血した相手は弥生人。
アイヌが混血してるのはオホーツク人。
混血の割合どころか、混血相手がそもそも違うのに中間も糞もない。
784 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 04:10:43.20
>>783 >今では北海道・東北集団の縄文人と関東集団の縄文人では
>遺伝的にかなり差異が存在したことが分かってる
おまえソース付きにレスに反論するのに根拠なしかよw
真に受けるわけにはいかないねぇ
785 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 04:52:21.17
関東縄文人と北海道縄文人がかなり違う……
菊池の言う、関東原住民ウイルタ説も、あながち否定できないかもな。
>>785 ただそれはハプログループでの結果だ
縄文人は女は地域差が大きく、男は地域差が小さいという研究結果がある
http://kaken.nii.ac.jp/ja/p/16770183 >、北海道縄文人の脳頭蓋と眼窩のサイズが縄文人集団の中でも大きいことが示された。
>また、縄文人男性では有意差のある項目は少なくほとんどの項目で縄文人の方が現代日本人より
>地域間分散が小さくなるのに対し、縄文人女性では脳頭蓋の項目に有意な地域差が多く
>地域間分散も現代日本人より大きい項目が目立った。
北海道縄文人は、本州よりも更に彫りが深かったようだが、
つまり縄文人は、女は定住し、男が日本中を旅して交流していたと考えられる。
ハプログループでの結論は早急すぎると言わざるを得ない
耳あかとは
血液型よりしょぼい分析だなw
>>789 お金の掛からん沖縄ん生活保護地域の同族分析方・・乙W
恋人は、サンタクロースのサビに
同族は、耳臭ぁー本当は、耳臭ぁーと聞こえて着そうの分析法乙。
/' ! ━━┓┃┃
-‐'―ニ二二二二ニ>ヽ、 ┃ ━━━━━━━━
ァ /,,ィ=-;;,,, , ,,_ ト-、 ) ┃ ┃┃┃
' Y ー==j 〈,,二,゙ ! ) 。 ┛
ゝ. {、 - ,. ヾ "^ } } ゚ 。
) ,. ‘-,,' ≦ 三
ゞ, ∧ヾ ゝ'゚ ≦ 三 ゚。 ゚
'=-/ ヽ゚ 。≧ 三 ==-
/ |ヽ \-ァ, ≧=- 。
! \ イレ,、 >三 。゚ ・ ゚
| >≦`Vヾ ヾ ≧
〉 ,く 。゚ /。・イハ 、、 `ミ 。 ゚ 。 ・
793 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 06:55:53.84
多分みんなが気にしているのは、
移配後の俘囚がどうなったかってことだろうけど、
混乱の時代に一部は東北に戻ったり、関東の民に溶け込んだりしたろうけど、
そのまま中部や近畿の山にはいっ狩猟の民に戻ったり、
まれに都郊外の河原、その他無住の地に住み着いた者も多かったろう。
近畿以西でこそ「異族」と見られたろうけど、
富士山以東では、それほど違和感を感じられなかったろうから
鎌倉期に武士の郎党となつた「俘囚子孫」も少なくなかったと思う。
794 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 09:28:17.40
ここって朝鮮人のことを少し茶化しただけでファビョる奴がいるよな
>>794 沖縄を三別沙と言うと、沖縄人がムキに成るだろう・・それと同じ事だよ。
古代渡来の天津神の豪族を朝鮮と言う国すら無かった頃の話を今の朝鮮半島渡来と言うだけで
朝鮮呼ばわりしてたら、嫌われて当然だろうよW
>>788が、本土人に嫌われたい様な、分析表だすから、揶揄されるんだよ。
お互い様。
どちらにしても、本土のアイヌにも、沖縄琉球時代にも、半島の流民は居たから、全く、別民族と言うのは語弊がある。
半島で、秦の血を共有してるのが答え。
新モンゴロイドには、秦民族の末端の民族として、環太平洋の民族に語り継がれてる訳で、環太平洋民族の新モンゴロイドたる、沖縄人が必死に否定すればするほど、滑稽で矛盾を指摘せざろう得なくなる訳。
南亜の人たちは、そんな、秦の血を受け継ぐ日本人に親近感を持ってるって言うのに・・
同じ島国の環太平洋の新モンゴロイドの癖に、了見がウヨ過ぎる。
中道もしかり・・。
朝鮮以前渡来しなかった半島に居残った連中は、倭でも和でもない、秦民族内の連合体。
だから、蒙古に中国が支配された祭、日本に援軍要請も無かったのだろう。
百済件で、敵対国家だったからね・・新羅・高句麗はね・・。
>>795 自分等が何時も上流に立とうとするなよwたまには下流じゃ無いだろか?と頭巡らせよ。
満州族の長が、秦の始皇帝、秦氏族宗家だね、愛新覚羅家は・・。
そんな、秦の分流の島津氏に従わずの戦い負けて薩摩藩領化した沖縄人は、不満で、秦氏宗家たる清王朝に朝貢してたってのも、滑稽。
今の、共産主義中国に救いを求める捏ね繰り曲がった思想もしかり・・
かつて、朝貢してきた、愛新覚羅家の子孫も、中国から逃れて、日本に住んでたりするのに・・
まー俺の先祖は、ルーツを奥州にも辿れる、そんな島津氏の右腕の氏族だった訳だがね。
>>798 東シナ海のアメリカと中国追っ払ってくれや。その高貴な血で。
そんな、愛新覚羅や東インド会社帰化の乾氏やらの高貴な帰化な方々が日本を新天地に選んだのも、古代渡来に、秦氏で同祖が居ればこそで・・
今も、中国富裕層は、新天地に日本を選択する人は、少なくない。
そんな、彼等左翼を嫌う、沖縄人ウヨって、歴史をどう解釈してるのか?
目先のご都合だけで、反日てし、世界を・・日本を・・沖縄の歴史を、全く理解していない。
戦艦ヤマトが、沖縄奪還の為に、最後の激戦に向かった事実も無視。
>>800訂正。
目先のご都合だけで、反日して、世界を・・日本を・・沖縄の歴史を、全く理解していない。
戦艦ヤマトが、沖縄奪還の為に、最後の激戦に向かった事実も無視。
>>799 そんじゃあ・・君は、耳垢論で
東シナ海のアメリカと中国追っ払ってくれるんだぁWW
803 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 11:37:40.72
「このスレに朝鮮人のことを茶化したことを書くとファビョる奴がいるよな」と書いたら、なぜか沖縄ウヨの話になってたでござる
804 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 12:08:28.33
マジキチが書き込んでるからな
805 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 12:38:04.75
>>793 富士山以東でも違和感があるに決まってるだろ。
関東人は農耕民、蝦夷は狩猟採集民だぞ。
朝廷は関東人には租庸調を課せたが
蝦夷や俘囚には租庸調を課せないどころか
俘囚料って生活保護費を支給してたんだ。
蝦夷と関東人では生活習慣がまるで違う。
朝廷が俘囚を奥羽に送り返したのも
俘囚が何時までたっても農民化せず、俘囚料を貰い続けたからさ。
>>805 エミシが狩猟民なら農民であるヤマトの進出に対して激しく対立しないはずだが
農民と狩猟魚民は生活基盤が違うので、割りと仲がいい
その証拠にアイヌと倭人は長期間共存している
俘囚は農民ではなく武装集団、捕虜扱いだが最前線へ移配
武装狩猟集団が大勢いたって事は、東北に農民が居たと考えるべき
その証拠に東北には弥生時代の水田跡があちこちに存在してる
>>795 秦氏は、全部根こそぎ日本に渡ってきて、新羅や百済には一切留まっていない。
古文書に迎えにいく話が載っている
秦の民は南海郡などに殖民され、秦滅亡後に南越王国を建設している。
儂智高が、南越王国の末裔だと自称して趙宋の時に政権を立てたりもした。
しかし、今も秦と関係があるとしたらタイやベトナムであって、
インドやスリランカ、マレーシアやインドネシアには全く関係ない。
808 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 13:45:31.62
>>805 帰れと言われて喜んで帰った蝦夷
帰れと言われてもグダグダ理由をつけて居座り続ける朝鮮人
これはガチの強制連行とエセの強制連行の違いだろうな
809 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 14:32:50.50
篠田の母は葛葉。安倍晴明生母。キツネであり茨城イバンキ出身。アルタイ・ツングース系エベンキ民族。
蝦夷=エミシ=エベンキ
イバラキという地名は大阪にもある。
茨城にヤンキー(エベンキー族)が多いのも彼らの先祖がエミシ=エベンキ族だったからでは。
エミシは北方系であって南方海洋漁業民=D2とは違う。
エミシ=エベンキはC3.アイヌ人の13パーセントも同じくC3.
アイヌのD2は近代になって越後、越中から齎された。
越後大工がアイヌ娘をレイープ!
>>807 台湾・沖縄は関係してんだろう?
そこから、後世が
環太平洋に広がったのだろう。
今のハワイアンが、沖縄人やマレーシアやインドネシア・ポリネシアンのように・・。
>>809 借り腹の母方遺伝子なんて、どうでも良いよ。
大事なのは、男系・Y染色体・・
平氏みたいに母方崇拝しなければ、害なし。
>>809 それに、奥州安倍氏と安倍清明は、大彦繋がりで、奥州安倍氏が安倍清明の子でも有るまいし・・つつつ
>>811 沖縄や台湾は、南越国の屠睢・趙佗の末裔を自称していない
>>812 安倍晴明の霊能力の由来は父親ではなく母親。
本を読め。
>>815 それはオカルト本だろw
正確には母不詳だから母由来とは言えない
>>810 大工の源さんならモテるから、合意のうえでしょうw
越後大工の「源さん」の血をひくアイヌ民族だけが
和人のもちらした病原菌に耐性があり生き残った。
《銃・病原菌・鉄》的な歴史観ならば、こんな感じだ。
越後男って、「南方海洋漁業民」とは容貌が全然違うんですけど
兵馬俑の秦人も、「南方海洋漁業民」とは容貌が全然違うんですけど
越後男って兵馬俑と似ているw
>>806 土地を奪われるんだから激しく対立するに決まってるだろ。
和人とアイヌが長期間共存してるとは言っても
コシャマインの戦い、シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦いと
松前藩はガンガン支配地を広げて従属させていってるじゃん。
北海道は農耕に適さず、松前藩はアイヌとの交易を牛耳る事で
利益を得ていたから、共存というか支配してたんだよ。
あと東北で水耕が行われていたのは弥生時代だけで
弥生時代以降は古墳寒冷期に入るから水耕は行われなくなったよ。
平安時代頃になると再び温暖になるから、朝廷は奥六郡(北上盆地)や
仙北三郡(横手盆地)に価値を見出して蝦夷征討を強化したんだろう。
824 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 20:47:16.55
>>809 茨城にヤンキーが多いか少ないかはお前の主観だろ
漁船にヤンマーが多いのは事実だよ
ちばらぎは三菱重工も多いけどね
>>823 松前藩は狩猟民ではなく、狩猟民のアイヌから搾取してただけだよ。
稲作に関しては4世紀のヤマト王権の勢力が新潟、福島にまで及んでいた事から
分かるとおり、南東北では古墳寒冷期でも水耕が行えただろうが、北東北では無理でしょ。
江戸時代の南部藩も表高、実高、共に20万石程度だったしね。
稲は熱帯原産の植物、品種改良が進まなきゃ寒冷地での栽培には向かない。
古墳寒冷期ってのはヨーロッパで民族大移動が起こってる時代と重なるが
日本でもヨーロッパのように民族の移動が起こっていて、樺太のオホーツク人が
北海道へ南下し、北海道の続縄文人が本州へと南下している。
東北蝦夷と渡島蝦夷の言語が異なるという記述は見当たらないから
個人的には古墳寒冷期に北海道から南下してきた続縄文人こそ
蝦夷の主体だと考えている。
古墳に関しては被葬者のことがさっぱり分からないから何とも言えないな。
>>827 人口が増えなくても戦う事は可能さ。
モンゴル人はたった200万人でユーラシア大陸を征服したんだし。
弓の扱いに慣れていれば農民から徴兵された兵を倒すことは出来るよ。
職業軍人の武士相手はそうもいかないだろうけどね。
朝廷の蝦夷征討の結果もショボイしな
斬首457級、捕虜150人、捕馬85匹、焼落75処
アテルイが投降した時に従ってのは500人
蝦夷の人口は相当少ないだろう。
よーく、改めて自分の顔を観察してたら、明治天皇にそっくりと気がついたわWWW
散髪して来て,マジマジ観たら、吹いた
明治天皇が生きてたら、影武者に成れそう・・俺。
832 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 23:12:34.59
>>831 お前は大正天皇だろ
外見から頭の中身から
>>829 それ岩手側だけ
秋田側は攻略できずに善政によって従えたと、首謀者すらうやむやw
アテルイ戦も1度目は4000の兵で朝廷側壊滅敵打撃で敗走
朝廷の負担が大きいと3度目は無し。朝廷もしょぼすぎwww
エミシの地は支配した事になってるけど
実質的に何も支配できていなかった
ちなみに惨敗した1次朝廷軍は約5万人の兵力
それを退けたアテルイ軍はその数分の一
いかに朝廷軍が軟弱だった事が分かる
アテルイを降伏させた2次朝廷軍は、1次失敗を反省して10万人以上を動員
それでもアテルイを降伏させるのがやっとだった
秋田側は数万の兵でも全く征圧できなかった
実際に戦った坂上田村麻呂はエミシとの講話を進言したが聞き入れられなかった
このへんの戦況無知ぶりは天皇や側近たちの伝統だろう
朝廷の軍は兵隊とは名ばかりで、
実際には農民から徴兵されただけの兵だからね。
ただ、アテルイが処刑されても反乱が起こらなかったことを考えると
田村麻呂の統治がよほど巧みだったか、
あるいは田村麻呂が徹底的に蝦夷を殲滅したのかもしれない。
実際問題、前九年の頃に奥六郡を支配してた安倍氏は
完全に和人化しちゃってる。
蝦夷は1人で100人と言われるくらい強いのに、
我が軍には刃向かいもしねぇw
って歌があるけど、実際には刃向かいまくりだよな。
まぁ、最終的に蝦夷は滅亡させたから、結果オーライか。
>>836 それ神武東征時の歌だから
そこで唄われたエミシは岡山や畿内の民だぞw
夷(えびす)の種(ともがら)は衆多くして、逓(たがい)に相合従す。賊徒数万、窮寇死戦せば、一もて百に当りて、与(とも)に鋒(ほこのさき)を争ひがたし。
(『藤原保則伝』)
戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんや。
(『吉田定房奏状』)
>>837 神武東征なんて作り話なんだから岡山や畿内の住民なわけねーだろ。
大体、倭王武の上表文を見れば分かるが、畿内以西の奴の蔑称は
毛人(蝦夷)じゃなくて衆夷だよ。
>>835 変だな、朝廷系は自分たちを和人とは呼ばない
倭が嫌で日本に改名したくらいだし、朝廷系は倭と書いてヤマトと呼ばせたがる
和人や倭人は出雲系と考えられる
沖縄はヤマトンチュ、アイヌは倭人と呼んでるから同じのようで微妙に違う
>>832 はいはい・・明治天皇にです。
だって・・同じ、松浦の血繋がってるから当然似てる訳で・・島津の血が入ってる可能性も高いので
似てて不思議でない。
>>838 それは引用だろう、元は記紀
日本書紀 神武天皇紀
>愛濔詩烏、毗儾利、毛々那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毗毛勢儒。
えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった
エミシという言葉が歴史上最初に出るのも
日本書紀の「神武天皇紀」
>>840 アイヌが倭人なんて呼ぶわけねーだろ。
シサモかシャモだ。
大体、「わ」自体は和人の一人称に由来するって説が有力だろ。
嫌いなのは矮小とかの意味がある倭って漢字の方だ。
>>844 じゃなんで「倭」を「やまと」と読むんだい?
846 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 03:27:30.66
もともと「小柄で醜い」言った意味で
漢民族が弥生人を「倭」と名付けた。
のちに初期朝廷は感じの意味も知らずに自ら「倭」と称した。
ただし国家(つう概念もなかったろうけど)としては
「ひのもと」か「やまと」
当時カナはなかったから「倭」の字を「やまと」と読んだ・
のちに漢字の意味を知って「倭の字を憎み」
「ひのもと」の漢字「日本」(唐音で「にぇぽん」?)を
国号として、そのまま「やまと」と呼んだ。
一方「倭」を「和」に改めて、地域名称「大和」を
「やまと」「おおやまと」とよみならわした。
てなところじゃない?
>>846 倭、奥、羽
わ、お、う、これらは一人称にも二人称にも使われるので。国名が先でそれが呼び名になった感じだ
倭は元々日本人が名乗っていたと思うよ
魏志倭人伝にも国の名前が沢山でてるしな、奴国が有るのに倭国が無いとか、ちと信じられん
古代日本は大きめの地域を1文字で呼び合ってた気がする
紀の国、肥の国もあるぞ
まあつまり、中国側で勝手にワと名付けたのなら
「ワ」という国や地名が日本のどこかに無いとおかしい
しかし無いと思う、多分無い
だから古代日本人は「ワ」いう国名を自覚していたと考えられる
849 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 05:48:56.76
>>848 お前馬鹿だろ
ここはマスター以上のレベルの日本史プロがチェックしている板・スレッドだ
いい加減なことをしたり顔で書くなよ
>>849 おまえ自分が馬鹿だという自覚無いだろ
ちゃんと理由をつけて反論しな
851 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 15:38:02.16
>>826 大方は同意できるんだが
蝦夷語=先行アイヌ語という事だろうか?
それが成立したのはいつごろとお考えか?
東北は縄文の名残が色濃いとすると、
それは弥生文化が根付かなかったからではなく、
北海道より続縄文文化=先行アイヌ文化が南下してきた事により
そう見えるだけに過ぎないという事なのだろうか?
エミシっていう言葉はもともと武力にたけた人をさす美称なんだよね。
蘇我蝦夷とかもいるように。
高橋崇とか高橋富雄なんかの著作でも触れられてるよ。
>>386 胡桃館遺跡のことあげてくる人がいるとは思わなかったよww
因みに蝦夷という語句対象となった人々は時期ごとの変化はあるし、大雑把には
庄内以北〜仙台平野以北をさすけど、胆沢周辺の蝦夷が稲作をやっていたことは
文献でも出てくるし、田夷っていうのも出てくる。
よく蝦夷像を語る上であげられるのが景行天皇紀で出てくる史料だけど、これは
中国の夷狄観をストレートに受けていて事実とは考えられない。上であげた
田夷なんかは、直接日本書紀の夷狄観を否定しちゃってるわけだしねww
>>386 胡桃館遺跡は、堂風の建物が検出されたことや、「寺」とする墨書土器なんか
が出てきてその性格については諸説ある。
堂風の建物なんかは明らかに律令国家側の影響を受けてるし、出納帳とも思える
木簡なんかも国家側の行政文書と遜色ない内容だから、国家側の関与が全くないか
といえばそれもあり得ないと思う。9世紀前後の能代付近だから、秋田城下といえる
地域でもあるしね。この付近の国家側の施設だと能代営なんかが出てくる。
胡桃館遺跡の木簡からも同遺跡の構成員と思われる人名に和尓部とか建部とかみえる点からもね。
この遺跡から出た木簡は近年奈良文化財研究所の再調査でかなり釈読が明らかに
なってるから『木簡研究』っていう雑誌みてみてよ。
近年の学説では郡制未施行地においた国家側の出先機関という見方が主流みたい。
胡桃館は10世紀前後か^^
>>826 北海道でもこの時期は雑穀の栽培はしていたみたいだよ。米はさすがに作って
なかったみたいだけど。
因みに北海道の蝦夷は渡島蝦夷とよばれていたけど、彼らは定期的に秋田城に朝貢しに
きていたのは米とか鉄とか日常的な用品を手に入れることが大きな目的だったみたい。
日本海側って今は米どころ多いけど、古代の話だと秋田以北はあまり環境には
適さなかったみたいね。だから国家の支配も8世紀の初頭に秋田までは一気に北上して、
8世紀の中葉ぐらいには郡もしいていたみたいだけど、それ以北に郡制がしけるのは
十一世紀ぐらいの話になるでしょ。延久二年の蝦夷合戦が画期になったとか議論される。
つまり、日本海側の東北北部を支配するには、郡をしいて支配する面的な支配
よりも、朝貢なんかを通した点的な支配の方がより実態にあっていたみたい。
自生的にも大陸からサハリン・北海道と連関する交流をもってる連中もいた
みたいだし。
>>854 能代営は、元慶の乱の蝦夷の反乱以降放棄されたと思っている。その根拠は、915年の能代平野が
まるっきり土砂で埋まってしまうほどの大災害が全く大和政権側に記録されていないから。
胡桃館遺跡が国家側の出先機関だとすると、その施設も同様に使用不能になったわけで、同じ疑問
点が浮かびあがる。
蝦夷の反乱である元慶の乱では、蝦夷側の要求を文書で明確にして提出した人がいた。伝説では、
当時既に天台宗の僧侶がその地区に入り込んでいることになるのだが、その僧侶か、あるいはその
名前が書いている人が、蝦夷側につき反乱に荷担したのではないかと想像している。
>>855 十和田湖火山の噴火は、915年。胡桃舘遺跡は915年に埋まった。ちなみに、さらに新しい遺跡が
調査によって明らかになっている。数年後それらの遺跡が掘られるのだが、また新しい文書などが
発見されるかも知れないな。
>>856 その秋田城での「朝貢」が経済的にきつくなった…って記録の後に元慶の乱が起きている。
で、元慶の乱の後にいきなり蝦夷占領地区に、釜が数カ所作られる。で、対北海道蝦夷貿易
が秋田城から彼らの手に取って変わる…。
>>857 『扶桑略記』に十和田火山の記事は出てくる。この時期に国家側の記録に
ないってのは国史の編纂がそもそも終わってる。
因みに国史は全てのできごとを網羅したわけではないよ。例えば文献で出てくる
城柵の数は25前後だったと思うけど、遺跡としての検出数はその上をいっている。
大崎平野の城柵数の例なんかが一番はっきりしてるかな。つまり、文献で出てくる
のは主な施設だけってこと。
胡桃館遺跡の構成員の中に蝦夷系身分者がいたことは確かだと思うよ。玉作だったかな、
そういった人名もみえるんだけど、その玉作ってのは元慶の乱の際に国家側にくみした
俘囚の人名として出てくる。
胡桃館遺跡の年代観は元慶の乱までさかのぼるかどうかは議論があるところだけど、
十和田火山でパックされちゃった遺跡だから、そこまでさかのぼってみることは
難しいだろうね。。。つまり、元慶の乱後の処置による国家側の政治的な施設という見方もできると思う。
元慶の乱のときに蝦夷側の要求を文書でってそんなこと史料にでてくるっけ?
秋田河以北を自分たちの土地として認めてくれって口頭で要求したことは
あったけど。。。
そりゃ蝦夷身分者が次第に文字文化を受容していったのは城柵の出土文字資料からも明らかだから、
文書かける蝦夷もいただろうけど。
>>858 朝貢っていうか略奪的な交易とか、秋田城司の苛政にたえられなくなって
蝦夷がどんぱちやりだしたってことは『藤原保則伝』に出てくるね。渡島蝦夷は
国家側と交易したかったみたいで、反乱蝦夷側には入らない。
結局鹿角方面の蝦夷が国家側に寝返っちゃったのを端緒に治まっちゃう。
窯っていうのは五所川原の須恵器窯群のこといってるんだろうけど、これも
誰がその担い手なのかは議論がある。技術的には国家側のものらしいけどね。
>>859 その『扶桑略記』の記録は単に、「空が暗くなった」という表現だけだ。噴火や火砕流・土石流は
全く記録にない。
逆にこのことが、蝦夷がその地区を占領してしまい大和政権が手を出せなくなったことを
あらわしていると思う。この天災はその表現の程度ではないからな。
元慶の乱の時の蝦夷側の要求は口頭ではなく、文書だよ。まあ、「元慶の乱・私記」からの
情報だけどね。この本の論拠の一つだから嘘ではないと思うが、まあ調べて見る。
>>860 大和政権が財政的に交易が難しいというなら、本州の蝦夷と交易するしか無いわな。
鹿角の蝦夷は本当に寝返ったのかは?疑問だ。単に、矛を収めたんじゃないの?
そもそも、そのちょっと後に、鹿角盆地は殆ど全部火山灰の下になっちゃうのに、大和政権
側になんで記録が全く残らないの?火砕流で焼き殺された人も多数いたろうにね。
五所川原の他に俺の説だと、秋田十二林窯も能代付近だから蝦夷のモノになるな。
いずれにせよ、文字を含めて蝦夷が技術を少しずつ得ていったんじゃないの?
>>835 田村麻呂の後に、文屋綿麻呂などの武将がいたからな。
ちなみに、文屋綿麻呂は蝦夷中心部まで進軍したけど、これ以上は無理と判断して
そこに碑を作り、さっさと本拠地に帰った。
その碑の名は「日本中央の碑」だw
864 :
日本@名無史さん:2012/03/05(月) 18:25:14.05
>>861 史料でもどこまで詳細に述べるかは書き手によるだろww
国史が編纂されてない時期に史料がないこと指摘されてもどうしようもないじゃんw
北方風土によくかいてる人のか…w
いくら何でも、あれほどの大災害を「書き手による」ので「ほぼ全く書かない」というのはちょっとw
>>862 蝦夷系身分者も国家側と接触するにつれ南の文化を吸収していくのは
自然なことだけど、津軽の事情はちょっと違う。
元慶の乱の中で、出羽国の百姓の三分の一が奥地に逃亡するっていうのが
出てくるけど、他の記事との兼ね合い含めてこの奥地は津軽のことをさしているから、
多く非蝦夷系身分者が当該期に流入してきたみたい。
つまり、五所川原の須恵器窯の窯業技術の担い手なんかはこの辺りにも求められるかも。
でも五所川原の須恵器窯の規模とか技術的な観点からみても国家が関与していなかった
とは考えづらいんだよな。。。
鹿角の件は史料にそう出てくるからね。勿論史料批判も必要だけど、
信憑性云々いうならそれ以上の根拠を示したうえで批判してもらえないと
返しようがない。。。
>>865 何度もいうけど国史の編纂が終わってるのに史料に明確にでてこないことを指摘してもどうしようもないじゃんww
>>867 鳥海山なんか、十和田湖火山よりも遙かに小さな噴火で、従四位下勳五等に叙勲したりやたら大騒ぎ
しているのにw えらく差があるんですけど。
要するに、支配していた地か、いなかった地かの差だろ。
>>866 もし五所川原まで国家(大和政権)が関与していたら、何らかの文書的裏付けあるんじゃないの?
蝦夷が支配していたなら別だけどさ。
それに、奥地に逃亡って…津軽だけじゃなくて、手前にもいくらでもあるだろうに。
>信憑性云々いうならそれ以上の根拠を示したうえで批判してもらえないと
>返しようがない
これってどういう意味?「文書」の記録で反論しろってコトw?もしそうなら、かなーり
厳しいんですけど。そもそも、そんなもの期待できない地区だからな。
>>867 扶桑略記の記録が当然、支配地なら変わっていただろうに。
>>868 鳥海山は『日本三代実録』が存在した時代だから。10世紀代に国史は存在
しないから史料が圧倒的に乏しくなる。
つまり、史料の有無を尺度として考えることはきわめて危険。
>>869 鹿角云々は『日本三代実録』の記載の中で実際に出てくるの。もしかして
史料をもとにレスしてないの。。。
国史が編纂されてない時代っていうことの意味わからない?
>>871 だから、日本三代実録の元慶の乱のトコだろw
俺はモロにその記述に「おかしい」と言って、発掘とか考古学とか火山噴火の状況とかの根拠を
提示しているだけだが?どうしろと?
文書で反論しろってかw
>>871 記録はあるけど、表現があまりにも不自然…ってのはありだろ。
>>872 915年の噴火と880年前後の元慶の乱のできごとを混同して考えてない?
日本三代実録の記載の信憑性を問題にする根拠ってなに?
「直ぐ後」の出来事じゃないかw
おまえ35年のひらきを直ぐ後ってwwwwwwwwwwwwwwwww
自分の感覚で考えてみろよ。一世代後だぞww
俺の問題提起に関して、それは問題ないと思うが。
>>877 ちょっと待ってよ。915年の十和田火山の噴火と元慶の乱を結びつけて
何をいいたいわけ??w
過去ログ見てくれ。
何を言いたいかさっぱりわからないな。。。
あれか史料に鹿角とか津軽を含めた地域に関する史料が少ないことを
もとに国家側の支配がそれほど浸透していなかったといいたいわけ??
米代川流域が秋田城下として国家側に支配されていたのは史料読んでいけば
わかると思うんだけど、田牧久穂じゃなくて熊田亮介とかもっと学術的に
信憑性のある人の読んだ方がいいよ。もっともどういう形の支配していたのか
はよくわからないんだけどね。
元来古代の史料なんざ、国家側の記録なんだから東北史主体に編まれたものでもないし、
史料的に乏しいのはあたりまえなんだけどね。それをつついてどうこういわれてもね。
噴火と胡桃館・五所川原の窯がどうつながるのかわからないなwwようは郡制なんかが
しかれていない地域にこういうのがあるから、担い手は蝦夷でこうしたことを
主体的にやりはじめたっていいたいの?
>>880 だから、その資料に嘘が混じっていると言っているだけw
地質学的な事実と合わないからな。
>米代川流域が秋田城下として国家側に支配されていた
能代は確かに一時期大和政権に支配されていたのは事実だ。
だが、他も同じという証拠はないな。
文書に書いていることだけが事実とか、誰が言っているからどうとか
そんなコトではなく、他の学問と合わせて総合的に判断すべきだと
思うけどね。
>>881 嘘だと思う史料の個所の典拠とその理由を明確に述べられない限り、
感覚的にいってるだけとしか受け取れないだろ。
単純に国家側の史料だから信憑性がないってのは学問的な立場として
一番やっちゃだめだろ。それは史料批判といわない。戦前の研究よりもひどい。
米代川周辺が元慶の乱勃発以前に秋田城下として支配されていたといわれるのは以下の個所から。
『日本三代実録』元慶二年(八七八)七月十日条
(前略)又秋田城下賊地者、上津野・火内・椙淵・野代・河北・腋本・方口・大河・堤・姉刀
・方上・焼岡十二村也。向化俘地者、添河・覇別・助川三村也。(後略)
前後の史料含めて、詳しくは自分で史料あたってね。
>噴火と胡桃館・五所川原の窯がどうつながるの
→総合的に考えるのもいいんだけど、ここ明確に答えてくれないと。考古学の
安易な引用としか受け取れない。
>>882 >単純に国家側の史料だから信憑性がないってのは
藁人形攻撃ですか。最もやってはいけないことですね。
要するに元慶の乱は実は蝦夷側の勝利に終わり、大和政権は雄物川以北の実権を失ったということ。
根拠は、過去ログにある。他にも、乱の指導者の名前がそもそも分かっていない。
大和政権が乱の指導者を処分できたら、アテルイのように必ず明記されるだろうということ。
また、この地区の大規模な大和政権の施設であった、払田の柵が中央の記録に全く残っておらず、
この地区が中央と離れ、ある程度勝手に行動していた何よりの証拠だということ。などもあるな。
>又秋田城下賊地者、上津野・火内・椙淵・野代・河北・腋本・方口・大河・堤・姉刀
>・方上・焼岡十二村也。向化俘地者、添河・覇別・助川三村也。
これは、鹿角や比内、能代、脇本などの地区が賊地(反乱蝦夷支配地区)だって記述だろw
で、添川や助川などが大和政権側についたって話だけだろw
何を言っているんだw
五所川原の窯は、元慶の乱の直後に作られる。元慶の乱の前は秋田城が独占してた北海道蝦夷交易が
秋田城以北の地区に移っていったのだろう。
だから、十和田湖火山噴火とはあまり関係無いよ。十和田湖火山が噴火したのは915年の夏。
この年は、やませが吹いていたから、それ以前は三本木平野に流れる十和田湖火山の火山灰は、
西側の米代川に流れてその流域がもの凄いことになる…。
>>883 一番ゆがめてんのはおまえだろうがww
その史料は前後の史料よまないと意味取れないだろうが。。。おまえが
元慶の乱よくしらないことはよくわかったよww秋田城下の支配に
入っていた中で反乱を起こした蝦夷村が賊地として表現されてるの。
史料読めないっていうレベルの話じゃないなおまえさんは。。。
つか大和政権っていう表現やめろよww7世紀代以前の話してるみたいじゃないか。
名無しでレスしてるのに根拠は過去ログって示されてもわからん。
>他にも、乱の指導者の名前がそもそも分かっていない。大和政権が乱の指導者を処分できたら、
>アテルイのように必ず明記されるだろうということ。
→これが蝦夷側の勝利に終わったっていう根拠になるの??なんで??一般に
いわれるのは日本海側の蝦夷は太平洋側の蝦夷に比べて社会組織が進んでいなかった
ってことだけど、ここまで言い切るにはもうワンクッションもツークッションも必要だろ。
アテルイの事例を抜かせばこれ以前の征夷は全て政府側の惨敗とみるの?
> 払田柵が中央の記録に全く残っておらず
→これもおまえさん勉強不足だろ。第二次雄勝城説に対してどういう反論起こすの??
ちなみに払田柵は遺跡としての存続期いつまで続くか知ってるか??おまえさんが
退転したっていう10世紀の前半が最盛期になることについてどう理解するの??
現実の考古学的な調査が示す見解とは真逆の理解になっちゃうわけだけど。
>>885 >秋田城下の支配に入っていた中で反乱を起こした蝦夷村が賊地として表現されてるの。
ふむ。確かにそうだな。では表現を変えよう。秋田城になにやら朝貢みたいなコトしてた蝦夷が反乱して
元慶の乱以降、完全独立したと。
>日本海側の蝦夷は太平洋側の蝦夷に比べて社会組織が進んでいなかった
あれだけの広大な地区の蝦夷の意志を統一させて、要求を文書で提出したのだから凄いモンだよ。
払田の柵について。
第二雄勝城説でも良いけど、なんで文書で一切残っていないんだろうな。元慶の乱ではこの地区の記述が
やたら詳しいのにさ。それから、オレは別に秋田城から退転したなんて書いていないぞ。単に中央の支配か
ら自由に行動できたってコトを言っているだけだが?
>>886 ころころ解釈かえるなよwwそれだけ自分の考えが曖昧であるってことの
証明になっちゃうよ。
第二次雄勝城説でもいいなら延暦末年以降に文献上でみえる雄勝城が払田柵
ってことになっちゃうんだが…ww
>オレは別に秋田城から退転したなんて書いていないぞ。単に中央の支配か
ら自由に行動できたってコトを言っているだけだが?
→政府の支配が及ばなくなるのを退転っていうんだよww恐らく清原氏の登場
のことを含んでいってるんんだろうけどね。。。
アテルイ、元慶の乱をもって武士の始まりとすべきでないかな
これは農民の反乱でも無いし狩猟民の反乱でも無い
東北の俘囚も税を免除され実質的に独立国になり、安倍氏や清原氏、奥州藤原氏に繋がる訳だし
そこに独立した領地、馬、刀が揃ってる
奥州藤原氏は完全に武士だし
平将門の乱も東北のエミシを見て影響された可能性がある
弓、馬、反りの付いた刀。武士の戦い方がエミシに有る
朝廷軍が負けたのも当然だろう
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/毛抜形蕨手刀 >、胆沢地方の蝦夷が弘仁年間(9世紀初め)以降に開発したものと考えられている。
>蝦夷の刀である蕨手刀を改良したもので、後々、太刀(日本刀の原型・基盤)へと発展していく。
>この毛抜形蕨手刀は岩手県と北海道にだけ出土しており、関東以西の出土例はない。
>律令軍が用いた直刀と違い、蝦夷の戦術は馬を駆けさせながら斬りつける疾駆斬撃戦であり、
>それを可能としたのが、蕨手刀であった。それをさらに使いやすく、かつ強力にしたのが、毛抜形蕨手刀である。
蕨手刀の伝播
(発生期)関東・信濃→東北南部→(最盛期)東北北部
>>887 別に。違っていたら素直に修正するだけ。
ただ、鹿角は単に朝貢みたいなコトしてただけだと思うけどね。その証拠に、元慶の乱で小野春風らと
兵士が盛岡から鹿角に陸路奥羽山脈を越えて行ったんだけど、これが始めてだという話があるんだよな。
支配していたなら、もっと頻繁に道路が使われていたはず。
蕨手刀の伝播
(蕨手刀子)朝鮮半島・九州→中国・関西→(蕨手刀)→関東・信濃→東北南部→東北北部
蕨手刀の初期はごく短い刀身しかなくおよそ騎馬戦用のものとは思えない代物で、しかも鉄の質も悪いことが判明している・・・。
戟や槍をもつ律令軍に追いまくられたのは当然か。
蝦夷が勝ったのは補給の難しい雪国でのゲリラ戦だけ。
893 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 03:19:44.75
>>892 なんで東北が雪国という設定になってるんだ?
>>892 西日本で発見される蕨手刀は移配された俘囚が持ち込んだもの
基本知識無さ過ぎw
あと勝利の原因はゲリラ戦じゃなくて奇襲戦法な。補給が難しいってw
元慶の乱、5月
>朝廷は藤原梶長を押領使に任じて陸奥国より騎兵1000、歩兵2000を派遣して鎮圧に向かわせた。
>出羽掾藤原宗行、文室有房、小野春泉の出羽兵2000もこれに合流する。
元慶の乱、5月(雪なんか無いぞ)
>夷俘の軍勢が大挙して再度秋田城を襲い、官軍は大敗!!!を喫して、藤原梶長も陸奥国へ逃げ帰ってしまう。
>城中の甲冑300領、米700石、衾(寝具)100条、馬1500匹が夷俘の有に帰した。
補給有り過ぎだろw
あ、ミス
正>元慶の乱、6月(雪なんか無いぞ)
城(柵)に居た5千の兵が完敗して敗走するってのは中々無い
もはや大人と子供の戦いと言って良い
897 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 06:31:00.54
勇猛果敢な狩猟民である蝦夷、多分「続縄文文化人」の投降兵士を
中部以西の山間僻地、自然院内地に封じ込めたのが別所たとしても、
なぜ彼ら俘囚は逃亡しなかったんだろう。
やはり俘囚料その他で優遇、懐柔しつつ
軍役などにつかせたんじゃないかな。まれに俘囚反乱ってのもあるけど。
白人がアメリカン・ネイティブを同化させたみたいに。
朝鮮人犯罪があまり報道されない理由
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>>897 俘囚が死に絶えたって記述があちこち有るから
最前線で俘囚が戦っていて、消耗品だったと考えられる
村を作るとか考えにくい
村を作るとか、それは脱走兵だから強制送還か死刑
蝦夷の村?中部地方とかの海岸線とかを丹念に5万分の1の地図で調べていくと、
アイヌ語地名があるぞ。これって、蝦夷の村だったんだろ。
今でもあるから、別になくなった訳じゃないな。「〜内」とかね。
桃太郎ってヤマトタケルの事じゃないの
アイヌ語でナイは川や沢の意味だな
キ・ナイは、キの川?
904 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 01:28:49.09
ナイだからといって必ずしもアイヌ語ではないでしょ。
庄内はアイヌ語とは関係ないし
それはどうかな
アイヌ語で「ソー:ショー」は滝、ショーナイは滝川
庄内川と滝って結構関係深く無いか?
霧島に庄内川がある、なんでだ
江戸はエトゥって有力な説がある。
朝廷が江戸時代になっても関東の幕府を
「エビス」と呼んでいたのも、実は関東武士の淵源が
俘囚とか、原住民系武装農民だった名残ではないかなあ。
薩摩武士を隼人と呼んだように。
>>906 薩摩武士を隼人とは呼んでねぇよ。
薩摩隼人は連中の自称だ。古代ハヤトからのパクリ。
>>888 将門の乱が蝦夷の影響受けてるわけないじゃん。
実は将門って新皇を名乗ったこと以外に殆ど知られてないのか?
将門の反乱は一族の内紛が激化したものでしかないよ。
それに蝦夷や俘囚が武士の起源ってのもどうかなぁ。
個人的には源氏や平家、小野や秀郷流藤原なんかの
軍事貴族こそ武士の起源だと思うけど。
>>910 東北の俘囚長はエミシの反乱を押さえる名目で、朝廷への税を免除されたんだよ
つまり独立した広大な領土を持った事になる
これは関東の豪族や貴族にとって面白く無いはず
オレたちも朝廷に反乱すればいいんでね? とか思ったかもしれんw
新皇を名乗ったから内紛じゃなくて朝敵になった
後世の武士に有ってエミシの俘囚長に無い物は源氏の血筋ぐらいだろ
源氏の血は武士の絶対条件でないと思うが
>>911 俘囚が税を免除されてたのは知ってるけど
俘囚長も税を免除されてたっけ?
前九年の役に至る原因は安倍氏が朝廷に
税を納めなくなったからだったと思うけど
それと、将門は藤原玄明を庇った結果、
常陸国府と対立して朝敵となってしまい、
仕方なく新皇を名乗って自立したのであって、
新皇を名乗ったから朝敵になったのではないよ
>>912 俘囚長は集めた税を朝廷に治めず治安維持に使って良い事になっていた
決められた額の税というより貢ぎ物はしてた
解釈が微妙になる部分だなw
前九年の役も後三年の役も、朝廷というより陸奥国守との私怨のような戦い
朝廷は恩赦をしたり、何度も止めようとしている
源頼義、源義家が最悪だった。朝廷の戦後処理はこの親子の左遷してる
源頼義も清原氏に参戦を頼む際に、家臣なる約束をしたと伝えられている
後三年の役後に誕生した奥州藤原も、朝廷に対して全く税を納めていない
たっぷり貢ぎ物はしたようだけど
でも、前九年、後三年の役も京都まで色々噂が広がって、早くなんとかして欲しい
なんて京都で噂になっていたのでは?
源頼義、義家は鎌倉幕府の始祖と言われてる存在なので
この二人が一時的に俘囚長の配下だった事は重大だ
鎌倉幕府は先祖の汚名を晴らすために
絶対に奥州を滅ぼさなければならなかったのだろう
でもこの二人、性格が凶悪過ぎ
将棋のことわざにあるな。「入王は前九年ほど手間がとれ」
前九年の役が、一般大衆レベルまで広がっていた証拠なんじゃ?
将門は新皇を名乗るに相応しい血筋であった事は間違いない
>>917 おいおいW
清和源氏並みに、後々に、桓武平氏とか名乗っといて・・それはねぇ・・
陽成天皇後継問題の際の嵯峨源氏(源氏始祖)源融の皇位継承権の一悶着に感化されてとしか思えない
清和源氏・桓武平氏の名乗りって皇位継承権絡みだったんかねぇ・・?
武力を末代が付けて、頼朝・清盛・・足利・・徳川家康の幕府だったのかねぇ・・
清盛のは、神戸への都遷都だったがね・・
「アイヌ語地名の南限は?」のスレは落ちているけど、このスレで数多くのアイヌ語地名らしきトコが指摘されている。
ログが検索できるので、読んでいると、オレも数回書き込んでいたw
で、西日本の例を挙げると…
三重県藤原町日内 pi nay (石が多い川)
三重県松阪市 乙部
京都府八木町 多国山 tapkop(たんこぶ山・tapkopは北海道から東北まで多数存在する)
兵庫県美方郡余部(余部鉄橋で有名)
この近くには市牛というアイヌ語地名独特の地名がある。
このスレ、一度提示されても読み方が地元では違うとか、アイヌ語解釈と一致しないとか
の批評が行われており、凄いスレだと思った…
こういうトコに蝦夷が移住させられたんじゃないのかな?
そう考えると・・現況は
藤原基経と成るね。
>>921訂正。
戦国時代から江戸時代末期までの朝廷の存在感無くした、そもそもの
現況×
元凶○
924 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 23:13:20.24
280 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:26:01.31 ID:sGoAT50E
三年前ごみんすに投票した連中、今どんな気持ち?
287 名前:名無しさん@12周年[sage] 投稿日:2012/01/13(金) 12:27:00.18 ID:P8V2Yy+50
>>280 橋下様なら何とかしてくれるとお経上げてるよ。
09年の選挙では 民主なら誰でもよかった
今度の選挙では 維新なら誰でもよかった
このまま行けばB層はこうなる
927 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 23:43:30.53
日本語に不自由していることは察したよw
>>926 機械は好きなんだけど・・幼少の頃から、本が嫌いでねぇ・・
歴史に興味持ったのも、最近でしてね。
お恥ずかしい限りです。はい。
929 :
日本@名無史さん:2012/03/07(水) 23:51:01.76
なんで自分にレスつけてるの?
中学の頃に、初めて、パソコンを買ってもらって・・
11年後に、Windows95が発売され、翌々年の春にWindowsモデルのパソコンに買い換えてから
ネット嵌り始めて、2ちゃんに出会ったんですよねぇ・・
おじさん・・歳なので、この時間眠くてねぇ・・でも、仕事忙しくて、この時間しかこれないんだよねぇ・・
乱視が、人より少しひどいから、本が嫌いになじめなかったんだけどね・・
人より、眼が疲れやすいから、返信レスが、大ざっぱに成っちゃって、ごめんなさいねぇ・・
小野氏は文人が多いからね。
でも、埼玉あたりの武士団である猪俣党や横山党は小野篁の後裔とされているね。
小野篁の息子は出羽郡司・小野良真で、その娘が小野小町だ。今の横手市あたりの出身だという伝説が残っているが、
怪しいという話もある。オレは正しいと思っているな。なぜなら、小野一族の小野春風は子どもの頃に蝦夷地にいたから
蝦夷語を理解したとされているからだ。
この、小野永見(征夷副将軍)→小野石雄(鎮守将軍)→小野春風(小野春風) は完全に武官だな。
ちなみに、小野篁の父である小野岑守も征夷副将軍で、さらにその父が小野永見だ。
小野氏は軍事官僚かつ文章能力も高いって人が多いね。
京都に連れてこられた安倍氏の息子たちは日本語を話しているぞ
外来語として日本語を使った訳でもなさそうだ、自分の国でウメと言ってるし
>前九年の役の後、都へ連行された安倍宗任に対し、都人は辺境の者と嘲け笑い、
梅をかざしてその名を問うたところ、
「我が国の梅の花とは見たれども大宮人はいかが言ふらん」(私の国の梅の花だとお見受けましたが、都ではなんというのでしょうか)
と即座に歌で答え、その教養に驚いて白けてしまったという記述がある。
その後は九州で松浦党の一員になったのも居たらしい
つー事で安倍晋三はエミシの俘囚長の子孫かよ
こりゃ驚いた
>>936 古代東ヨーロッパにダキアって国が存在したけど
ローマ帝国のトラヤヌスに征服された際、
住民を総入替えされたから、周りはスラブ語圏なのに
かつてのダキアであるルーマニアとモルドバの言語は
今もラテン系なんだよね。
古代日本でも移配という俘囚を強制移住させる政策が
実行されているのだから、言語が変わってしまうほどの
住民入れ替えが起こっていても不思議ではない。
安倍氏が俘囚か、和人化は諸説あって分からないが
日本語が喋れないと統治出来ないほど奥六郡の住民は
和人化してたんじゃね?
奥州合戦が終わって鎌倉時代に入ると
蝦夷って言葉が廃れてしまうくらいだし。
阿部、安部が「アピ」に由来するってのは説得力あるな。
【安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏】
安倍氏は孝元天皇の皇子大彦命の子建沼河別命の裔孫と伝えられ、大和国十市郡発祥説が有力である。
同族の大臣命は景行朝に那須国造となり、後世家系は藤原に改姓して源平合戦では那須与一宗隆が活躍する。
他に皇子大彦命孫の磐鹿六雁命は、景行天皇東国巡幸に際して大蛤を御膳に供献して膳臣を賜姓される。
平安朝の安倍晴明は、陰陽道、天文道、暦道に通じて朝廷に仕え、土御門家、倉橋家の2家は堂上家に列する。
武家安倍氏は、中世に蝦夷管領の秋田城介職となり、江戸時代は秋田氏(岩城三春藩主)、
阿部氏(3家)、井上氏(3家)、安藤氏で明治に至る。 安倍氏の裔は、安部、阿倍、阿部とも表記する。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm アイヌ人のY染色体ハプロタイプは元来的にC3であってD2ではなかった。
------
10 :名無しさん@12周年:2012/01/28(土) 16:42:47.09 ID:udmCTrHt0
644 :出土地不明:2011/09/19(月) 15:09:53.83 ID:q9o0HeeF
>>640 アイヌなど本州からの病原菌の持ち込みで絶滅で2万人しかいない。
北海道の多数派である越後人や越中人と混血した者しか生き残っておらんだろう。
新潟県のD2とアイヌのD2は同じマーカーM55とP37.1陽性なのだよ。
アイヌの父系は、ほぼ越後人・越中人なのだ。
------
↑アイヌ人の異常なほどのD2頻度はD2による一方的な婚姻がなければありえない。
アイヌと同じ北アジア系人種にはC3が多い。エベンキ民俗も同じC3民俗である。
新潟の男は、渡辺謙みたいに有能でかっこいいからアイヌ女にもモテたんだよw
天皇と繋がり合ったらああも蔑視はされてないなw
安倍ってもとはアマベぽい
先住天孫の末裔だろうな
日本じゃ差別するのに特に理由はいらんだろw
集団圧力が高い分、ほんの少しの違いや経緯で延々差別するのだから。
天皇家との繋がりだろうと関係ないな。
>>940 本間雅晴中将とか有能でかっこいいもんな。
山本五十六は?北一輝は?
田中角栄は?
阿部がアピに由来するってのはトンデモ説だわな
阿部は元々中央の姓だ。
アイヌ語由来論者の主張はエロマンガ島は日本語由来だ
っていうくらい、荒唐無稽な場合が殆ど。
言葉の響きが似てる以上の理由を殆ど見たことがない。
948 :
日本@名無史さん:2012/03/08(木) 23:10:41.37
奈良はウリナラのナラ
ワッショイは朝鮮語のワッソ
>>948 「下らない」は「百済ない」って主張もあったな……
どうやら上方の存在を知らなかったようだ
言葉の響きだけで由来を主張するってのは
つまり、そのレベルってこった
駄目な例をことさらに持ち出して、全部駄目っては乱暴すぎるなw
対馬にアビルって大勢居たよな
あまべ、あんべ、あまの、あまつ
なんか繋がりあるんでねーの?
神武以前の古代統一王朝の名残とか
アイヌ語地名は、北海道と北東北の事例が完全に一致していて、しかもアイヌ語の意味で土地の状態が
説明できるからな。この事例は否定できない。
後は、それを足がかりに、怪しいトコをさぐって行くのが吉。
まあ、最初のアイヌ語辞書がチョイあれだったりして、しかもその人に協力したアイヌの長老がちょいあれ
だったりするから、色々問題が出てきていたり、ワイオミングを「ワイを見んぐ」なんて程度の例も実際に
あったのは否定できないけどね。
>>951 平田実篤のアビル文字ですかw
そいや新撰組にもアビルさんっていたなあ。
阿比留文字は主に熊本で使われてたらしい
エミシじゃなくてクマソの字だったw
分布としては全国の神社に刻まれてるそうだ
>>953-955 阿比留文字だとか阿比留草文字だとかって名前つけたのは平田篤胤だが
もともとそういう名前だったのではない。
ハングルに似てるほうの阿比留文字は「肥人書(くまびとのて)」といって
九州西部で使われていた。
それとはまったく別の文字で阿比留「草」文字のほうは
「薩人書(はやとのて)」といって九州南部で使われていた。
対馬の阿比留家にも伝わってたから篤胤がそう名付けたんだけど
別に対馬が起源ってわけでも阿比留家が起源なわけでも何でもない。
>>952 縄文人は多様な集団から成り立っていたそうだけど
北海道と東北の集団は遺伝子的に近縁で、
しかも古墳時代、北東北には北海道から続縄文人が南下してるんだよね
で、中央政権によって完全征服されるのは頼朝の奥州合戦以降だから
北東北にアイヌ語地名が残ってるのは当然だといえる
ところがアイヌ語由来論者はヤマト王権が成立した4世紀から既に
ヤマト王権の構成地域だった福島以南の地名も
当たり前のようにアイヌ語由来だと主張するからトンデモ説になる
アイヌ語地名が残っている地域には残っていて当たり前の理由が存在するもんだ
古墳時代にアイヌが南下したと言ってるが
その前に本州倭人(縄文人)が北海道に北上してるはずなんだがなあ
南下ばっかり注目するのはおかしい
神 カムイ(カミ)
日本語とアイヌ語に共通点があるんだし、アイヌ語風地名は日本中にあっておかしく無い
>>956 全然阿比留文字じゃないなw
まあ阿比留氏は対馬に移配されたエミシだと思うが
記紀に出てくるような、すげー昔風の名字だよな
つまり、アイヌ風地名をアイヌ系だというのは間違ってる
単に古来の地名が残っているだけかも
ヤマトが地名を改変し過ぎ
だいたい気温の影響を受けるのは、農民、採取民であって
アイヌが狩猟民であれば対して影響を受けない
動物は津軽海峡を渡れないし、あの程度じゃあ植生も大して変化しない
弥生時代は北海道でも農業をしていた
水田が無理だっただけだ
アイヌ文化だって永続的だった訳ではない、今のアイヌ文化はオホーツク文化が入って成立した
縄文や弥生時代は別の文化だった可能性が高い
>>910 坂東の軍事貴族の連中が陸奥守・鎮守将軍として赴任してくるようになり、
それを媒介として力を蓄えて行くから全く無関係じゃないでしょ。
将門が奥羽の掌握を目指したことも指摘されるようになってきてるし。
俘囚長っていわれる安倍とか清原氏も蝦夷系身分者がそのまま発展した
ものかどうかも怪しいしね。
アイヌ語系地名とか何でもかんでも結びつける人が出始めるからなぁww
>>958 何故に北上するんだ?
北海道の続縄文人が東北へ南下したのは
地球の寒冷化による影響や、樺太のオホーツク人が
北海道へ南下し、道北や道東に定住し始めたのが理由だが
本州倭人とやらが北海道へ北上した理由はなんだ?
それと、日本語とアイヌ語は完全に別系統の言語だから
似てる単語が存在したとしても、それは単なる偶然か
借用語でしかないよ。
>>961 寒冷化の前に温暖化があるから、その時代は北上してるでしょ
縄文時代だと青森で見つかる土器と北海道南部で見つかる土器は同じだよ
南下ばっかりしてるバカは居ない
>それと、日本語とアイヌ語は完全に別系統の言語だから
これはヒドイ
無知もここまで来るとどうしようもない
>>962 どうして温暖化したら縄文人が北上するの?
縄文時代中期以降、縄文人は地球の寒冷化による
植生の変化によって、ガンガン人口を減らしていたんだよ?
せっかく暖かくなったのに、寒冷な地域へ移住するの?
粛慎(オホーツク人)と戦争していた渡島蝦夷(続縄文人)が
南下するなら分かるけど、弥生人と戦争していなかった
縄文人が北上するかな?
っていうか、君は日本語とアイヌ語が同系統だと思っているの?
膠着語である日本語と、抱合語であるアイヌ語が?
基礎的な語彙も全然違うのに、本気で同系統の言語だと主張しているの?
>>935 小野小町の伝承なんて嘘に決まってるんだけど、なんで雄勝郡と結び付けられて
理解されるようになったのか、その火種は気になるね。
何人か出羽国司として赴任してるのが確認できるからその辺なんだろうけど
>>963 粛慎は沿海州方面だと思うが
佐渡にも来たという記録がある
人は余裕ができたら拡散するもんなんだよ、江戸時代の倭人が北海道に行った様にね
アイヌ語と日本語は同系統です
語順が同じで近隣地域で話されている
そして朝鮮語よりも近い
アイヌ語に一番近い言語は日本語
膠着語と抱合語で世界の言語を分類して発表してくださいね
笑われるだけだ
なんでこの時期に粛慎が南下してくるのかは外的要因があるんだけどね
ともかくアイヌ文化が古代から変化してないとか
そんな幻想は辞めてくれ
アイヌは北海道の先住民じゃない可能性が高い
アイヌが北海道に定住したのは10世紀頃でないのかな
つまり古墳時代に北海道から倭人が減少し
来たから移住して来て融合したのが今のアイヌだろう
>>965 SOV型なんて世界中で最もありふれてる語順じゃないか。
世界の言語の約半分はSOV型だよ。
朝鮮語も、ツングース諸語もSOV型で、近隣地域で話されているけど別系統で
アイヌ語だけは基礎語彙が違って抱合語でも同系統って、なんつー理屈だ。
朝鮮語より近いって、何がどう近いんだよ。
アイヌ語も朝鮮語も日本語とは系統が違うんだよ。
同系統ってのは琉球語みたいな明らかに基礎語彙が共通の言語を指すんだ。
アイヌ文化は10世紀ごろから
古墳時代までは、本州と北海道の文化は明らかにリンクしてる
古墳期にアイヌが南下したとか
そんな時系列を無視した話しは勘弁してくれ
古墳時代にアイヌは北海道に存在していない
>>968 今だと、琉球語とアイヌ語は日本語族なってるぞw
アルタイ諸語には入ってるけどツングース諸語からは分離
アイヌ語は、語彙も文法も日本語族の特徴を備えておらず
アパッチ族やケットやニブフの言語に近い。
>>969で結論でたなww
アイヌ文化は一番単純化した話をすれば、北のオホーツクと南の律令国家側の
文化の影響を受けて道南を中心に成立した文化だろ。北の要素と南の要素。
成立期は13世紀の擦文文化の終焉が通説的理解だけど、10世紀代にそれ以上の
画期を見出す見解も出されている。
つまり、エミシはアイヌですか?とか、古墳時代にアイヌがいたとかはちょっとねww
まあエミシがアイヌ文化に繋がる要素をもっていたとする位ならいいだろうけど。
イヨマンテ(熊祭り)は、アイヌで最も重要な儀式だけど
10世紀まで北海道で全く行われた形跡がない
それ以降に知床半島あたりから広まっている
定着したのは300〜500年ぐらい前だろうから割と最近
8世紀頃の道央には都北と共通したエミシ塚があり蕨手刀も発見されている。
蕨手刀の発見は道東でも発見されている
これはアイヌ文化が始まる前
もちろんそれ以前も本州の文化に極めて近い
熊祭りはオホーツク人の伝統であり、これは移住があったと考えられる
遺伝子的に見てもアイヌ人は、オホーツクやシベリアとの混血が多い
つまり今のアイヌは、一部地域にいた先住民だが
北海道の先住民という理解は間違っている
本州と北海道は縄文時代から深い交流があり、ずっと途切れていない。
アイヌが先で倭人が後ではない、むしろ逆だ。アイヌの方が遅い
アボリジニやインディアンとは根本的に異なる
いい加減、目覚めなさい
日本という国は、そういう特権階級の人たちが、楽しく、幸せに暮らせるように、
あなたたち凡人が、安い給料で働き、高い税金を払うことで、成り立っているんです。
そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか知ってる?
今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。
世の中のしくみや、不公平なんかに気づかず、
テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら、上司の言うことを大人しく聞いて、
戦争が始まったら、真っ先に危険な所に行って戦ってくれればいいの。
アイヌがオホーツク文化人と混血していたのは事実らしが、率にして大したモンじゃないのでは?
アイヌ文化の成立でアイヌ人ができたと定義するなら、まあここの書き込みみたいなことは
言えるだろうが、文化とか連続しているんじゃないの?
だいたい、本州アイヌもいたんだし。
言われッパですか
>>975のガキに・・
華族制度無き今は、天皇と皇族以外、皆、平民なのに・・上から目線とか、ガキそのもの
そんなモノ言いの勝ち組も、民主党時代の今では、日本脱出してる筈だったよねw
>>975 >戦争が始まったら、真っ先に危険な所に行って戦ってくれればいいの。
今時、徴兵だと、年齢制限掛かる。
訓練に耐えられない中年は、用が無い。
俺含む、ここの住民は、大半、中高年だろう・・。
つ 囮部隊
わーわー騒いでやっつけられるのが仕事
302 日本@名無史さん[] 投稿日:2012/01/27(金) 15:40:59.10
”武内宿禰は100年ころに東北地方を偵察して
「東のひなに日高見国あり、其のくにの人勇みてこわし。えみしという。土地肥えてひろし、撃ちて取るべし」
と景行天皇に奏言している(書紀)。”
315 日本@名無史さん[] 投稿日:2012/02/22(水) 21:28:22.69
>>302 「遣武内宿禰令察北陸及東方諸国之地形且百姓之消息也」
それは大和より東の国を指しており東北のこととは限らない。
米の改良が進んだ現在、東北は米所になっているが、古代は米作には適さない土地だった。
武内宿禰が探索したのは、おそらく北陸から関東辺りと思われる。
982 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 05:27:36.28
武内宿禰はモデルになった人物いたろう。
ヤマトタケルに対するオグナノミコトみたいな。
ただ、初期大和朝廷の人間がはるばる東北へ
偵察に行くのはちょっと無理。やはの東東海、関東ぐらいかなあ。
日
福島の会津大塚山古墳では
ヤマト王権から贈られたと思われる神獣鏡が出土しているので
少なくとも4世紀中にヤマト王権の影響力は福島にまで及んでいたようだ。
なので、東北まで偵察に行ってたとしても不思議ではないよ。
福島も陸奥国の一部だしね。
984 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 08:15:39.61
ヤマト王権から下賜されたのか、あるいは交易または
一種の平和条約の「あかし」として贈られたか。
大和朝廷の成立が三世紀頃としても、四世紀には
まず東海ぐらいまでじゃないすな、勢力圏。
>>984 鏡はおそらく同盟の証だろう。
4世紀の関東はヤマト大君を名目的な頂点としながらも
豪族合議制政権の一員って感じだろう。
5世紀中頃には有名な金錯銘鉄剣が作られてるから
北九州から関東までがヤマト王権に従属的な立場になってる。
クニノミヤツコやアガタヌシの時代ですか?
987 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 12:34:12.56
朝鮮人犯罪があまり報道されない理由
韓国文化放送(MBC) 〒135-0091 東京都港区台場2-4-8 18F
フジテレビジョン 、、 〒137-8088 東京都港区台場2-4-8
韓国聯合TVNEWS(YTN) 〒105-0000 東京都港区赤坂5-3-6
TBSテレビ 、 、、 .〒107-8006 東京都港区赤坂5-3-6 ←オウムに坂本弁護士の自宅の住所を教えて殺させた犯罪幇助のテレビ局
大韓毎日 、、、、、、、、、、、、 〒108-0075 東京都港区港南2-3-13 4F
東京新聞(中日新聞社東京本社) 〒108-8010 東京都港区港南2-3-13
京郷新聞 、、、、、、〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-2
産経新聞東京本社 〒100-8077 東京都千代田区大手町1-7-2
(サンケイスポーツ、夕刊フジ、日本工業新聞社)
朝鮮日報 、、、 〒100-0003 東京都千代田区一ツ橋1-1 4F
毎日新聞東京本社 〒100-8051 東京都千代田区一ツ橋1-1-1
韓国日報 、、、、 〒100-0004 東京都千代田区大手町1-7-1 8F
読売新聞東京本社 〒100-8055 東京都千代田区大手町1-7-1
東亜日報 、、、 〒104-0045 東京都中央区築地5-3-2
朝日新聞東京本社 〒104-8011 東京都中央区築地5-3-2(AFP、NYT)
日本放送協会 、、 〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1
韓国放送公社(KBS) 〒150-0041 東京都渋谷区神南2-2-1NHK東館710-C
崇神天皇の時代、四道将軍を派遣し
北陸道に大彦命、東海地方に建沼河別命を派遣し
各地を平定し合流したのが相津(会津?)と書いてあるから
福島まで行ったと思われる
ただこのあとにヤマトタケルが出てくるので
四道将軍の遠征は面を征圧するというより、点を征圧して家来認定し
すぐ移動するという感じのようだ
各地で子種を巻いた可能瀬も否定できないw
鏡っていうか、前方後円墳に代表される古墳祭祀を受け入れていることで
畿内を中心とする豪族連合体制に加わったものと考えられているよ
991 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 20:11:48.89
胆沢の角塚古墳とかどう理解するんだよww
992 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 20:50:17.95
崇神天皇つうかミマキイリヒコは実在したと思うし、
三世紀頃の初期朝廷の王とはおもう。しかし
創世記のややこしい時に多方面に遠征軍派遣したなんて大嘘。
多分初期朝廷が各地の在地勢力と交流しはじめたことを
大げさに伝えている。
993 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 20:55:58.26
派遣しようにもまともな軍隊がないから絵空事よ
ヤマトタケルの遠征とかは何らかの史実をもとにしてるのとかは確かなんだけどね。
『続日本紀』神護景雲三年(七六九)十一月己丑条
陸奥国牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。伝聞。押人等本是紀伊国名草郡片岡人也。
昔者先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。其後。子孫為夷被虜。歴代為俘。幸頼聖朝撫運神武威辺。
抜彼虜庭久為化民。望請。除俘囚名。為調庸民。許之。
996 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 22:25:57.75
文化の優位性に魅力を感じて従属していったんだろう
武力闘争を想定するほうが難しい
稲作が可能にならなければ、優位性はなかった。
アイヌ語地名が山形−宮城の線で明確にできたり、秋田−盛岡の線でかなーりの間、
戦線が膠着していて押したり押し戻されたりしていたのはそのせい。
まあ、稲作は何人もの子どもを養えるから、非常に魅力的なんだけどな。
998 :
日本@名無史さん:2012/03/11(日) 07:26:08.94
四道将軍派遣にしてもヤマトタケルにしても
よく言われているように、複数の開拓者による
何代もの話がまとまって物語化してんだろう。
あと縄文農耕論から言うと、
蝦夷も畑作なんか相当大規模でやってなかったかなあ。
稲作の優位性なんて江戸時代の話だろwww
時空が歪むぅーーーー
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。