謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!53

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1神奈川県民
その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。
倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。
名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。
年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。
王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。
宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

2011年(ネズミ年)お正月シーズン真っ只中ですが、
今年も古代史の謎に挑戦し、一つ一つ解明していきましょう。

前スレ http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292279077/
リンク http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
2ポキール:2010/12/31(金) 12:24:20
何度かワジンデンと言われる漢字AKIBA48を眺めてみたけど
邪馬台国や女王国が出てくる島は、三番目の島っす。
最初が對海国がある島、
二番目が、一大国のある島
三番目が、末廬国から始まる島
そう考えると、九州だ畿内だと騒がれている元凶は、末廬国が本州の一部なのか、九州の一部なのかで決定するはずっす。
末廬国が九州の一部なら、女王国や邪馬台国は九州にあったし、本州の一部なら本州にあった事になるっすね。
3ポキール:2010/12/31(金) 12:43:01
みんなあったまいいから、いろんな事考えすぎて
わけわかんなくなっちゃったんだろうな?
三つ目の島に邪馬台国はある。そう書いてあるし。
4日本@名無史さん:2010/12/31(金) 12:53:31
>>2-3

52スレがおわってから書き込んでね
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1292279077/
5ポキール:2010/12/31(金) 13:04:42
終わるまで待ってろ。って事ですか?
じゃあなんで、終わる前にスレ立てなんてするんすか?スレがあれば書き込んじゃいますって。
6日本@名無史さん:2010/12/31(金) 13:09:22
トイレットペーパーはホルダーに付けてるほうから使え。
横に予備で置いてある方から手を付けるな。
それと同じだ。
7ポキール:2010/12/31(金) 13:43:31
>>6
それはトイレットペーパーの場合でしょ
オレが言ってるのはスレっす。
8ポキール:2010/12/31(金) 13:52:43
トイレットペーパーの場合、ホルダーに付いていたほうが
利便性の観点からも、ホルダー装着したものを使用し、残量があるのにワザワザ取り替えてまで新しいものを使用するなんてめんどくさい事しないっす。
スレはホルダーに装着するなんて作業しないから
利便性云々なんて考えないっす。         だから同じじゃないっす。
9唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/31(金) 16:47:40
後漢書 志15
庶徵之恆寒。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。[一]袁山松書曰:「是時羣賊起,
天下始亂。讖曰:『寒者,小人暴虐,專權居位,無道有位,適罰無法,又殺無罪,其寒必暴殺。』」
. . . . . . . . . . . . . . . . . .
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」養奮對策曰:
「當溫而寒,刑罰慘也。」

年輪降水量
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi

新羅本紀の192年や後漢書の183,193年の冷夏凶作。
この時代は降水量が少ない、冷夏が予想される。つまり温暖化は雨量の増大、この反対の出来事である。
このグラフから、年輪年代が正しいことが解る。

太国は、中華の文書も拒否できるのか?
10太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 17:03:24
オマエは5月6月の溜池は造らないと突いてたのを忘れたのか? おかしな
野郎だな。

朝廷で最も重要物は何なのか? 天皇とか人間とかそういう生命のことでは
ない意味で、事物として具体的最重要なものは何かと聞いてるのさ?

これはオマエの言う銅鐸ではない。銅鐸は三種の神器には入っていない。
鏡を軽視して〜また物理的に不可能な千人ものやせ農民を若狭から半島
に渡海出来たなどとは妄想もはなはだしい。ならどうやって渡海出来た
のか、具体的に主張したらどうだ? もうインチキはミエミエではないか。

当時の最重要出来事は即位を除き倭笠縫に皇祖天照大御神とその象徴たる
鏡を祭祀する紀の記載内容である。だからこのためにこそ景初3年鏡が畿内
から多数出土するのだ。それだからこそ、景初3年ころが同祭祀の紀の
崇神6年あたりであることは疑うべくもない。それだからこそ

 崇神天皇即位元年=景初元年=237年

は不動であって、オマエの主張は棄却され、那珂博士、アラタメ氏、
ローガン氏、菅政友、橋本増吉、原秀三郎静岡大学名誉教授の崇神天皇没年
258年説のほぼ真は動かない。オマエのは出鱈目だ。ww
11唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/31(金) 17:14:33
書紀は鉄の流入を、崇神時代の任那建国により垂仁から鉄剣を蓄えるとする。
ホケノ山(240年頃)に大量の鉄器が副葬される。
この鉄器を任那以前で説明出来なければ、ホケノ山は垂仁以降の造築物となる。
箸墓(250年)を崇神とすると、任那建国は魏の時代になり、建国を説明出来ない。
韓国は、この時代の任那建国を否定する。当然私でさえこの時代の任那建国は否定しますよ。
つまり任那建国は、240年に鉄器を副葬できるまでの時間が想定出来る時代にせねばならない。
209年であれば、整合性がとれる。
12唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/31(金) 17:27:29
>やせ農民を若狭から半島に渡海出来たなどとは妄想もはなはだしい。

これは何処の情報ですか?
新羅本紀は倭人が飢餓のため1000余渡来した。としか主張していない。
13唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/31(金) 17:40:03
弥生後期後半、日本海側は、鉄器を使い、木工や玉造りに生業をシフトしている。
そこへ、日本を覆うような凶作が遅う。
凶作の時米を玉や木工品に変える、農民はいない。農民にさえ餓死者を出す凶作であれば
最初に餓えるのは、工業化にシフトした日本海側の民である。
大和が影響を受けないかというとそうでも無い。唐古、鍵遺跡が放棄されたように
大和でも逃散は起こっている。
日本海側各地の民がこぞって渡海すれば1000人は楽に調達できる。
そのかわり日本海に浮かぶ船は大多数が渡海し、船が不足する。
その不足を補う為に崇神は船を造る。
14日本@名無史さん:2010/12/31(金) 18:07:08
>>8

> 利便性云々なんて考えないっす。 

昔からの2chでのルールなんだよ。
書き込みが二つのスレッドに分かれてしまうとそれはそれで不便なことだ。
15ポキール:2010/12/31(金) 18:24:52
>>14
それがルールなら、スレを同時期に二つ存在させるのは
ルール違反じゃないの?

なんか納得いかない変な話。

書き込みはルール違反で、スレ立てはOKだなんて。
16唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/31(金) 18:33:01
スレ立てする、スレ主の都合で終了してから立てられないから
先に立ててくれたんだ。
感謝しこそすれブータレてもしゃあないやろ。
17日本@名無史さん:2010/12/31(金) 18:35:03
新規のスレ立てには、システムの制限があって、直ぐに立てられない時が多いんだよ。
だから、レスが950を超えると次スレを用意しておく。
そうすれば、規制時でもすみやかに新スレに引き継げる。
これも2chのルールつーか、ユーザの知恵ですな。

大まかなルールや仕組みは http://info.2ch.net/guide/ でもご覧あれ。
18日本@名無史さん:2010/12/31(金) 21:48:09
紅白歌合戦は、百済の帰化人から伝わった歌垣が由来だ。
更に元を質せば、歌垣は揚子江文明、夏王朝を起こした苗族(ミャオ族)の風習。
弥生文化は、三星堆文明が元になっていることがわかる。
蜀に朝貢するのは当然なのだ。
19:2010/12/31(金) 22:15:21
初詣にまで少し時間があるので書き込もう(ネタ投下)。

豚骨といえば、弥生中期の大分県下郡桑苗遺跡から豚顎が出土されている。
他にも佐賀県菜畑遺跡や、奈良の唐古・鍵遺跡 からも発見されており、
考古学本を開いてると、水田稲作と共にこの豚骨のことがよく書かれてる。

これらの各地で発見される豚骨は大陸からの移住民が連れてきたといわれており、
とくに顎の部分が比較的多い。
私も実際に、この大分県下郡桑苗遺跡から出土の豚顎を生でみてきたんですが、
そのときの説明によるとなんらかの祭祀用として豚顎を束ね用いられていたとかいってましたね。

日本で、人糞を豚の餌にするなんて話あったっけな?!
日本劣等ではこの弥生時代と江戸時代に豚骨は見つかるんだが、
その間は、文献のほうで「豚」ではなく豚を「猪」と書くなんて話も
昔のスレで書き込むがあったよね。
考古のほうで、この「豚骨」と「猪骨」は比較的、見分けづらいらしいんだけど、
大分県下郡桑苗遺跡なんかでみつかったのは「豚顎」部分でここの部分からは判別が可能らしい。
なんか細かい説明を聞いてきたんだが、けっこう難しいことを言ってたのでよく覚えてないゎん〜ヾ(´∇`)
20:2010/12/31(金) 22:16:03
古事記・日本書紀と考古学の一致はもちろん。
魏志倭人伝もいたるところで考古学と一致している。

風俗記事の「黥面文身」にしても考古の埴輪でその一致を見ることができるし、

「今倭水人好沈沒捕魚蛤」にしろ、山の民、海の民という古代人の食生活(出土した蛤や魚の骨)で
それを確認することができる。

「木弓短下長上」にしても考古資料として発見されてるし、

「以朱丹塗其身體」にしろ朱を顔に塗る人骨(顔の部分が赤いよね)で確認ができる。
21:2010/12/31(金) 22:17:09
先日だったか、テレビで「人豚」っていうのをやっていた(観た人おる?)。

漢書だったかな?中国の秦代の人物で后である呂雉が、別の后である戚夫人の懇望により、その息子を皇太子と立てようとする計画を恨み、
劉邦が死去して以来、戚夫人を捕らえ牢獄に監禁し、呂雉が、戚夫人に薬を飲ませて両手、両足をもぎ取り目をくり貫いて、豚の厠に投げ入れて
人豚と称して見せしめた話があった。
古代中国の厠は、穴の中に豚を飼育し、上から糞尿し人糞を豚の食事としていた。

日本では縄文時代末から水稲栽培が始まり、「米」や「アワ」等の穀物を主食としているが、
中国では、日本の穀物とは違い、「豚」を調理した料理を主食としてますよね。
22:2010/12/31(金) 22:20:28
前スレ>>118
>弥生の墓制の発展経緯を見れば集落枝分かれ=分村しても
>墓はその出身母体たる集落に築かれると言う「帰葬」が行われている
>自分達の「ルーツ」に対する思い入れがあったんだろう。

弥生の墓というのは縄文時代の末、あるいは弥生時代初頭に大陸・半島から移住した人達によって影響される。
それ以前の墓はというと、貝塚などに人骨があったりして、食用の動物骨と一緒に捨てられたりしていた。
この弥生時代の墓の経緯だが、九州では紀元前の朝鮮半島で行われていた支石墓や、九州で独自に行われた
甕や壺を棺の代わりとして、粘土でくっつけて埋葬する甕棺墓などを経緯し佐賀県神崎町にある吉野ヶ里の北墳丘墓をはじめ、
プレ古墳(弥生墳丘墓)が築かれるようになる。
帰葬に関しては、家葬からきてるのかな?とりあえず、弥生の墓制に「帰葬」が行われていた例というやつを上げてくれ。
23太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 22:30:11
>>12
とぼける下手なマネはよしたらどうだ。
オマエが言い出したことではないか? オマエの脳内にウソをつくなと
指令しろ。オマエは本当にウソつきだな。
ウソをつくということの繰り返しは、オマエの論が崖っぷちということよ。

渡海の具体的出来る説明が出来ないから、鉄がどうのこうので誤魔化して
いる。カラ手の千人も崇神6年当時、渡海させる船舶は畿内に無〜い。若狭
からどうやって渡海したんか具体的に説明してみろ。どのようにジャンボ
船舶が崇神17年手前で製造されてないのにどこでどうやって船舶の手配、
確保が出来たのか? どうやって半島までの糧食を千人分も到着日数分を
入手したのか? 離散地域から若狭湾までに着くまでに大半はのたれ死に
だ。仮に強盗をやっても千人分も半島到着までの数十日間確保して、強盗
場所から若狭湾海岸までどのように超大量のこれら糧食を運搬したのか?

こんなやばいマネをすれば逆襲されたり、当時でも糾察官僚はいたろう
から、多数の追手が行ってかなりの人数が捕まるかその場で殺されるか、
行くところはそんなところだろ!><

考古なんか当てにはならない。鉄がどうのと言ったところで、何年も経て
ば年代がエレベーターのように昇降する。そんなものに編年の基点は
置けない。そんなものは参考だ。
24日本@名無史さん:2010/12/31(金) 22:34:51
>魏志倭人伝もいたるところで考古学と一致している。
倭人伝は正確だってことだろうな。倭人伝がまちがっているなんてことを言うのは
来年はやめにしよう。
25:2010/12/31(金) 22:35:22
バイヤー野郎の正体は縦目かな(ゆるやかな連合体はたぶん)

日本書紀に崇神天皇は御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称えられてるとおり、
神武天皇と並び、最初に国を統治した者である。
この崇神天皇の活躍した年代はと言うと(年代論は唐さんが飛び付きそうだがw)
西暦に直すと三世紀のそれにあたる。
それ以前の神武天皇を始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)とあるとおり、
この三世紀を堺に近畿は「さらに」強国へとなったわけで。

鉄製品の流れは、二世紀〜三世紀を堺にソノ最大消費地が九州から近畿へとって変わる。
近畿では奈良の箸墓をはじめ、現祟神天皇稜、現景行天皇稜とかの巨大な前方後円墳の出現に
この鉄の流れが伴う形(実際には巨大前方後円墳出現より少し早く鉄製品は現れるが)になる。
九州と近畿では鉄製品が使用される開始時期がおよそ50年ぐらい違う。
かといって、上でレスしたとおり、その間に近畿では石製品・木製品が出土されるからといって
田舎とは限らず、遠方でタイムロスが生じる為であり、石製品・木製品しか出土しない近畿でも
九州より弱国とはかぎらない。

近畿の人々が朝鮮半島までソノ鉄を採りに行ったにしろ、九州に採りに行かせたにしろ、
君のいうバイヤーやブローカーという発言には当時の倭人伝に見る
地に両手をつく(土下座)「大人」や「下戸」との関係、又は、朝献に「生口」を差し出す、
そして女王が亡くなると徇葬に「奴婢」を殺す、いわば当時の格社社会において
バイヤー・ブローカー発言は不適切と思う。
26太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 22:40:24
>>13
>・・・崇神は船を造る

造ったのは紀の崇神17年で〜すなわち崇神5,6年に船舶のアリバイが無い。

離散地域から半島渡海までの糧食の確保を千人分、どのように摑まらず
入手出来たのか? 船舶が崇神17年初製造では崇神5,6年には船舶が無い。
この10年余前の無いという事は、今なら Windows 7 が使用できるが、
10年ばかり前は Windows 7 の使用は出来ないのは理の当然であり、こう
いうのと同類の大ウソを強行するのが唐松山酋長なのであ〜る。ww

だいたい糧食が容易に確保できるなら、畿内離散などする必要もない。
27:2010/12/31(金) 22:43:04
前スレ>>817 からしれんこんさん
>奈良の弥生遺跡からの出土物は縄文時代のものかと思わせるものが多いですね。
>道具類では石器や木器がほとんどですね。王墓とみられるような墳墓もありませんね。九州と比べ
>たら遥かに遅れた後進地域だったことがわかります。こんなところに邪馬台国があったとは思えませんね。

えーとですね、「鉄」にしても「貝製の飾りモノ」にしても「剣」にしても
先進国に必需品っていうんですか、これら高貴なモノは、
「朝鮮半島」や「琉球諸島」を経て、まずは九州に入る。
この九州の北部にヤマトの行政機関があり、ここから近畿へは相当遠い。
この地理的不利を考えてモノを観ていかないといけない。
ということで、一概に近畿から出土されるモノは、九州では鉄等が出土されてる同じ時期に
石器や木器が多いからといって後進国と決定することは出来ない。

>前方後円墳の存在をもって卑弥呼の時代は古墳時代の開始期だと言う人がいますが、論理回路が壊れているのでしょうね。

近畿で、いままでの弥生古墳から一気に巨大な前方後円墳が築かれるんですよ。
基本的に、各時代の区切りは、土器を使用した生活文化によってなんですが、
土器だと各地方でバラつきがある。古墳時代の開始期をこの近畿で始まる巨大な前方後円墳の開始という、分かりやすい区切りにしたダケ。
28日本@名無史さん:2010/12/31(金) 22:55:29
メって人は、どういう考えの人なの?

畿内説?
29:2010/12/31(金) 23:01:57
>会稽東冶(その道里を計るに、当に會稽の東冶の東にあるべし )

これをうましか氏は、>>810氏の

>会稽は紹興市の古名、東冶は福州市の古名と言われるのは知ってるだろうな。
>つまり、会稽という言葉は、会稽郡を表すときもあれば、今の紹興市付近を表す
>地名として使用される場合もあるということだ。東冶も東冶県を表す場合もある
>が、福州市付近を表す地名として使用される場合もある。「據會稽,屠東冶」は
>紹興を根拠として福州を攻略したということで、この場合の会稽はけして会稽郡
>全体を言っているわけではない。
>つまり、倭人伝の会稽東冶も、会稽を会稽郡と解釈する必然性はない。
>そして、倭人伝が書かれた時代には、東冶は会稽郡に属していないとなれば、陳
>寿が会稽郡の東冶などと書くことは考えられない、会稽東冶は紹興と福州という意味

に同意し、記事は陳寿ではなく帯方太守劉夏の考えだとしている。
これに対し、ローガン氏は、

>つまり、「会稽東冶之東」とは、会稽に属する東冶(=ビン越)の東である、と云う意味である。

としている。
この会稽東冶之東とは、うましか氏のいう「会稽、東冶」と
ローガン氏のいう「会稽の東冶」と分かれるがどっちが本当なのか?
30メ(畿内説):2010/12/31(金) 23:05:26
>最終消費者にその品物は集中するものです

に対するレスですが、九州で多く出土される貝製品の飾り物について考えてほしい。
以前、ここのスレに投稿した事があるんですが、貝製品というのは、ゴホウラ貝・イモ貝が多く用いられ、
これは奄美大島周辺の海底でしか採取されず、人間の素潜りの限界と言われる15〜20メートルと深い所にしか生息していない。
この奄美大島周辺で採れる貝殻は、広田遺跡のある種子島を経緯し、九州南部の高橋遺跡に入り、
佐賀県の吉野ヶ里遺跡や、大分県の吹上遺跡、福岡県の隅・西小田北区遺跡で腕輪が多く出土されてる。

これら九州で発見される貝製品に比べて近畿は、奈良県川西町の島の山古墳ぐらいで非常に少ない。
近畿ではゴホウラ貝・イモ貝の代わりに鍬形石、石釧というのが多く出土される。
これは、南の島の腕輪は非常に入手困難だったためと考えられており、
高貴な南の島の腕輪が出土しないからといって冨がアル所に品物は集中とは限らない。
現代みたいにジェット飛行機や宅急便など当時無かったわけで、道のりの険しい山々、
又、激しい流れのある海を渡り品物を受け渡せるのであって今みたいな感覚でモノを考えるべきではないと思う。
31太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 23:11:38
古代の真の年代を計測する知恵を、古代人が残して未来に指示した天下の
宝器。これが天津神算木(天津金木)である。天津金木は三輪山の山名
たる半径r=3の円(←三輪)の球化の体積=表面積の数式をいう。

大祓祝詞に曰く
「大中臣 天津金木・・・八針に取り裂きて天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

天津金木は                      (**はべき)

 4πr**3/3=113.09733552923255658」46551・・・

太祝詞事とは二十(フト)祝詞事であり、右辺先頭から20桁目に 」で
区分して20桁目を見やすくしておく。

八針とは小数桁の値が針で突く位狭小であることを意味しており、その20
桁目の8を除去して後続の桁とに風穴を造り間隙の避け目 □ を形成する。
この様子を、針にて突いて間隙穴をこさえる感じに形容しているのだ。

 113.0973355292325565□46551

既述の通り数列先頭付近には 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位 がある。
97数の前の0数を有効に使用したく、日数の一部 3 にかかって 309 が
あるが、これを年数とみなし8針の裂け目 □ にまたいで 546 が出来
るが、この数も年数とするとき

 546−309=237年=崇神天皇即位元年(実年代)=景初元年

となり、真の年代を得ることが出来た。
32メ(畿内説):2010/12/31(金) 23:21:37
>>928 からしれんこんさん
>>メ氏
>>古墳時代の開始期をこの近畿で始まる巨大な前方後円墳の開始という、分かりやすい区切りにしたダケ。
>そんなことを問題にしているのではありませんよ。卑弥呼の時代を古墳時代の開始期にあたるとする考えには科学的根拠がない
>と言っているのです。

いや、時代区分の古墳時代の始まりは「土器」なんですが、
土器だと九州・畿内、または書く地方でバラツキがあり『問題が生じるのです』。
だから、科学的根拠がないっていうのは、丸っきり話がズレており、
われわれ研究者の間で、卑弥呼の死をもって、奈良県に巨大な前方後円墳が築かれるが、
これをもって、古墳時代の始まりということにしないか?というのが事の発端です。
ですから、科学的根拠がある、ないの話ではないと思う。

>>「年輪年代・C14法という科学的な証拠が出てるではないか。
>年輪年代法もC14年代法も科学的な手法を用いる(正しく用いることが必要ですが)ものですが、我が国では未だ確立された方法
>(正確な年代が決定できる方法)とはなっておりません。年輪年代法においては7世紀以前の素性の明確な木材資料が不足してお
>り、正確な標準年輪パターンの準備ができていません(なお、標準年輪パターンは樹種毎に、また地域毎に多数必要です)。
>C14法については百年程度の幅のある数字しか得られません。

年輪年代法に関しては、とりあえずは今までなかった絶対年代という物差しができたという意味では、
かなり高い評価ができると思う。
33ひとぶた(元・うましか):2010/12/31(金) 23:30:03
>>29
> >会稽東冶(その道里を計るに、当に會稽の東冶の東にあるべし )
>
> これをうましか氏は、>>810氏の
>
> >つまり、会稽という言葉は、会稽郡を表すときもあれば、今の紹興市付近を表す
> >地名として使用される場合もあるということだ。東冶も東冶県を表す場合もある
> >が、福州市付近を表す地名として使用される場合もある。「據會稽,屠東冶」は
> >紹興を根拠として福州を攻略したということで、この場合の会稽はけして会稽郡
> >全体を言っているわけではない。
>
> に同意し、記事は陳寿ではなく帯方太守劉夏の考えだとしている。

おいおい、全然同意してないだろうw
ローガン氏の討逆傳の解釈に至っては触れたことすらいない。
他人の発言を引用するなら正確をこころがけてくれ、それが出来ないならするべきでは無い。

倭人伝の「会稽東冶金之東」が「会稽と東冶」なのか「「会稽の東冶」なのか、漢文的にはどちらとも読めるとは言ったが、
「会稽」と言う地名が今の紹興市付近だけを表す小地名として使われる、とかに同意した覚えは無いし、
そのような古例があるかのか、どうか、>>810「会稽の恥」氏に問いただしてるところなのだ。

34太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 23:31:12
バージー??
35メ(もうすぐ落ち):2010/12/31(金) 23:32:14
>>932
>いや、しかし現在のドツボと言うのは年代に理化学的測定法をもってきてくれて
>恐らくは 卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命 で その墓が最初の定型化巨大古墳の箸墓と言う分りやすい展開をしてくれる
>もっとも組みしやすい、自分が待っていた相手と言うことでw
>まあ需要と供給、ボケとツッコミ、綺麗にマッチしたんじゃないかな?www

からしれんこんさん=縄文人 かどうかは俺は知らないが、
畿内説というのは、邪馬台国はどこか?と聞かれた時に「畿内です」というだけで、
畿内説はこうで、これじゃないといけない!ていうのは無い。
私は投稿記事を読んでいるみなさんがわかり易いように、倭迹迹日百襲媛命や前方後円墳の例を
書き込んでいるのであって、君だって似たようなもんだろ。
それとも何か?ジョーカーだけ特別な「おれの畿内説」みたいなものがあるのか?
まさか考古学全体がどうたら言い出さないよな? 
ま、なんなら、ジョーカー氏の「俺だけ畿内説」とやらをここでお披露目して下さいな。
36メ(もうすぐ落ち):2010/12/31(金) 23:37:56
>>33が本物うましか氏なのかは知らんが・・・・
うましかは前スレ>>879

>> @その道里を計る、計った道里の基準点(出発点)はどこですか?
>> A貴方の「會稽」とはどこですか?
>> B貴方の「東冶」とはどこですか?
>> C貴方の「會稽の東冶」とはどこですか?     に対し、

>@文中では終点(会稽東冶之東)だけが判ればよいので出発点なんかどうでよいことかもしれませんよ。
>A当然「会稽」です。 B当然「東冶」ですね。
>C「会稽の東冶」と読むのであれば、当然Bの答えに同じですが、「会稽、東冶」と読む方もいらっしゃいます。
>ちなみに台湾中央研究院の電子テキスト版では、「会稽、東冶之東」と「、」が打たれています。
>実は、>>810氏には、もうしわけ無く思うのですが、私的にはどっちでもよいのです。
>>840氏が言うように直列、並列、どちらにも読む例はあるわけなので、そのどちらにも可能性はあります。
>私が>>810氏の考えで違うと思うところは、「会稽東冶之東」を陳寿の考えとしている点です。
>私は帯方太守劉夏の考えだと思っているからです。

と、『私が>>810氏の考えで違うと思うところは、「会稽東冶之東」を陳寿の考えとしている点です』とあるので、
それ以外は同じような考えを持ってるとみなしたんだが、違うのかな?
37メ(もうすぐ落ち):2010/12/31(金) 23:50:35
「会稽の恥」氏に問いただしてるところ といってるので、
これはご本人に任せましょう。

では、あとはみなさんで・・・・・来年も宜しくです〜そしてよいお年を
ZZZZZZZZZ
38太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 23:57:53
>>31
数列(天津菅曾)の全20桁での使用数字箇所右移動により

 11「3.0973355292325565□46」551

と、右→へ二桁分ズレる。ここで 「 から 」 迄で、ズレ(右移動)後
の「 〜 」が新たに全20桁となる。(八針 □ も20桁分内数字とみなす)

その中の左右両脇各三桁づつが 309 546 の年数であって、これから

 546−309=237年=崇神天皇即位元年(実年代)=景初元年

を得るわけだ。
39ひとぶた(元・うましか):2011/01/01(土) 00:06:46
>>36
> >>33が本物うましか氏なのかは知らんが・・・・

本物だよ。

> >C「会稽の東冶」と読むのであれば、当然Bの答えに同じですが、「会稽、東冶」と読む方もいらっしゃいます。
> >ちなみに台湾中央研究院の電子テキスト版では、「会稽、東冶之東」と「、」が打たれています。
> >実は、>>810氏には、もうしわけ無く思うのですが、私的にはどっちでもよいのです。

私は、倭人伝の「会稽東冶」を漢文的にはどちらとともとれるし、結論もどちらでもよいとは言ってます。
なぜなら、そこが論点では無いからです。

>>810氏が、「会稽東冶之東」を三国志編纂時の時制でとらえているのかと思いレスを始めところです。
氏は、「もったいぶり屋」なのか、禅問答のようなやり取りを続けるだけ、なかなか論拠を明かしてくれず、
その表現も二転三転し(見ず知らずの他人との意見交換で、意志が伝わらので表現法を変えているのか)、
魏末のことか、晋初のことかもわかりませんが、今の紹興市域だけをして「会稽」と呼ぶと言う主張を続けています。
それが証明できますか、と言うのが今のところの論点です。
また、ローガン氏との絡みは、純粋に漢文の読み方の問題なので次元が違う話ですね。
各レスを熟読の上、御理解いただければと思います。
40日本@名無史さん:2011/01/01(土) 00:22:52
>>30
>これら九州で発見される貝製品に比べて近畿は、奈良県川西町の島の山古墳ぐらいで非常に少ない。

九州と比べて非常に少ないということは、冨ではなく
需要の問題だろう。
九州には貝製品の需要、つまり貝製品のブームがあったという地域性の問題
一方畿内で一例を数えるだけというのは、
畿内では貝製品のブームが訪れなかったというだけで、輸入の困難さではない
地理的な輸入の困難さというのなら、畿内で一例存在する事に説明がつかない
一つでも発見されれば、それは単に発見された数だけの問題であって
確実に畿内に貝製品が入ってきた証にもなる。
地理的困難さを乗り越えて、その一例の貝製品は間違いなく畿内に存在したことになり
地理的条件が、貝の入手を遮断したことにはならない。
地理的条件で入手困難なのであれば、畿内では一つも発見されていないとという結果になるからだ
畿内は単に消費者に貝製品取り扱いのブームが訪れなかったということで、
興味を示さないところにバイヤーは足を頻繁に運んだりはしない。
41日本@名無史さん:2011/01/01(土) 00:55:38

奈良県桜井市から、「あけおめ!」
http://www.city.sakurai.nara.jp/himiko/index.html
42日本@名無史さん:2011/01/01(土) 01:03:37
>>41
はい、おめでとうございます。
ひみこちゃんカワイイね。w
43日本@名無史さん:2011/01/01(土) 02:59:47
三輪あたりの道路に、稲持った弥生人風女の子のプレートがうまってるよね?
あれもひみこちゃんかな?
44810:2011/01/01(土) 08:15:27
>>39
あまりに馬鹿馬鹿しい質問なのでね。表現が異なるというのは、私と似た考えの方が数人いるからだろう。
ウィキは会稽郡の説明で次のように書いている。古くから会稽という地名があることは疑う余地がない。

郡名は会稽山による。伝承では夏朝禹の時代には会稽山の名称が使用されていた。禹が死去した地である
と記されており、現在も禹を祭った禹王廟が位置する。地名は禹が死去する際、諸侯が一堂に会しその業
績を計ったことから「会稽(会計に通じる)」と称されるようになった。
『史記』によれば夏少康の庶子である無余が会稽に封じられ越の始祖になったと伝えられる。春秋時代に
は越の国都として発展していた。
45日本@名無史さん:2011/01/01(土) 09:17:39
前スレ971のローガンさん

>あなたの表現を借りれば、京都府を取った武将が、
>旧来からの中心地であり京都市に拠点を構え、府内の不平分子を掃討したと云う事。

ご自分で京都市に拠点を構えと言っているでしょ。
我々は、京都市と京都府は別物でしょと言ってるのです。
あなたも府内の不平分子を掃討するのに「京都府に拠点を構え」とは言えないでしょ。
だから「会稽郡に拠点を置いて会稽郡東冶県を撃つ」というのはおかしな文。

>東冶を討つ為に会稽を拠点とした とか思っているでしょ?
據會稽,屠東冶,
この文をそれ以外のどういう意味に解釈できるの?
971で解説している事情をいくら力説しても、この文の意味は
ローガンさんのいうような意味にはならないです。
46日本@名無史さん:2011/01/01(土) 09:18:24
おっと、挨拶がおくれました。45です。
みなさま、あけましておめでとうございます。
47日本@名無史さん:2011/01/01(土) 09:45:22
>>21
テレビで「ヒトブタ」をやっていのですか?
私は見逃してしまい残念ですけど、その事件にはとても興味を持っています。
48日本@名無史さん:2011/01/01(土) 10:12:06
東冶之東では説明出来ないから、會稽東冶之東。
それだけの事。
會稽の内にある東冶なら、東冶之東で充分で、會稽は必要ない。
49日本@名無史さん:2011/01/01(土) 11:07:24
人の両腕、両脚を切り落とし、目をくりぬいて生きて人豚として必要充分条件を満たす
奴なんていないよ
両脚を切断すれば脚の太い大動脈は切断され、そのまま放置すれば
まもなく絶命する。人豚として観賞する頃には死体であり、単なる肉の塊。
50ローガン:2011/01/01(土) 11:12:49
>>45
今年も宜しくお願いします。

>ご自分で京都市に拠点を構えと言っているでしょ。

そうですよ。王朗を駆逐したのだから会稽郡治の山陰に、居を構えたんです。

>據會稽,屠東冶,
> この文をそれ以外のどういう意味に解釈できるの?

何度も云うように其処だけ切り取っていては駄目です。孫策は父の死後、一時、長江を渡り江都を拠点としたものの 又長江を渡り丹楊の呉景に身を寄せる。
その後、袁術に謀られ、九江太守盧江太守の約束を反古にされ、故地奪還を袁術に説き、江東進軍を始める。その後は連戦連勝。
劉ヨウ、王朗を追い出し呉景を元の丹楊太守、孫フンを豫章太守などとし、自らは会稽太守になる。
父の死後今まで移動を繰り返した孫策は、ここで初めて自身の根拠地として会稽郡をした。
それが、そこまで読み進めた読者が受け止める「據會稽」の意味。
51ポキール:2011/01/01(土) 11:20:06
いろんな所を覗いてみても末廬国は九州だということなのに
なんでそれが九州や畿内に分裂するのかな?
末廬国が九州ならば、邪馬台国や女王国は必然的に九州だよね。
52日本@名無史さん:2011/01/01(土) 11:24:09
人の首を切って、それを塩漬けにしてリンゴくらいにするとお守りになるんですよね?
ツングース系の騎馬民族なら普通です。
53ローガン:2011/01/01(土) 11:33:46
続き。
この段落は、呉景らは、会稽入り…つまり、王朗駆逐の前に、厳白虎らを片付けようと計画したが、
「そんなのは後回し」と孫策が主張。そして会稽太守を追い出した(会稽郡を我が物とした)。
では、呉景が主張した厳白虎らの討伐はどうしたか?というと、商升戦、その後の張雅、センキョウの制圧の後で行われた。 これがここの段落の意味です。
つまり、「会稽という町から東冶を攻めに行った」と述べている訳では無いのです。
54ローガン:2011/01/01(土) 11:37:31
>>50
訂正
ここで初めて自身の根拠地として会稽郡をした。 …×
ここで初めて自身の根拠地を会稽郡とした。 …〇
55日本@名無史さん:2011/01/01(土) 11:44:39
メ は豚キムチ丼
56810:2011/01/01(土) 12:05:11
>>53
会稽太守を追い出した(会稽郡を我が物とした)と書いてみたところで、
東冶には王朗、その他郡内各所に厳白虎らが跋扈している、それでは郡
を根拠としてなどといえるわけはない。ここは、紹興市付近を根拠とし
て東冶を攻略したと読まなければね。

>「会稽という町から東冶を攻めに行った」と述べている訳では無いのです。
そう述べているんだよ。ただ、自ら出かけたのか配下を行かせたのかはここ
には明記されていないけど。


57日本@名無史さん:2011/01/01(土) 12:09:18
>>55
キムチに失礼だ
58日本@名無史さん:2011/01/01(土) 12:10:40
揚子江文明に関する書物が残っていないのは、秦の始皇帝によって徹底した焚書が行われたためとされています。
邪馬台国に関する書物が残っていないのも秦の始皇帝の子孫である藤原不比等によって焚書が行われたためでしょう。
藤原とは、唐腹、つまり唐(韓)からの渡来人の子孫ということです。

日本の原住民は胡(えびす)、羊(ひつじ)と呼ばれ迫害を受けていました。
胡子とは(もろこし)、羊とは羌族(ちゃんぞく)のことです。
59日本@名無史さん:2011/01/01(土) 12:16:50
>>50
文章通りに読めば、孫策が会稽太守になるのは東冶を屠って厳白虎らを攻め破ってからでしょ。
60ポキール:2011/01/01(土) 12:26:49
オレが書くと、
そんな簡単な事じゃないんだと言われそうなんだけど
簡単な事なんだよ。
簡単な事なんだけど、もう簡単な事として済ます事の
出来ない環境になっちゃたので、いまさら簡単には済ませられなくなってしまった。
そんなところっすね。
後追いしろなんて書いていないのに、みんなで行列おっかけたり、仕舞には
郡使が移動したコースだなんて馬鹿げた発想を披露する輩も出てくる始末。
旅日記じゃないんだから、上から眺めてればいいんだよ。
追い掛けないの。眺めるっす。
61日本@名無史さん:2011/01/01(土) 12:47:09
追いかけて倭国、あの人が逃げるう、残した捨て台詞に誰か、見覚えはありませんか
62メ(すぐおち):2011/01/01(土) 12:47:24
みなさん、明けましておめでとう御座います。
私が投稿した「人豚」に興味を示してる人が居るようですね。
うましかは、今まで皆さんを「馬」「鹿」と罵ってたのがバレてしまったのか、
ハンネを変えて登場ですかw

ちなみに「人豚」でぐぐったら以下の記事を見つけたので興味ある人はどうぞ。
>「人豚」というのをご存じでしょうか?
>漢の時代(?)の王が年若い寵姫に夢中になり、
>彼女との息子を次期王にと思うまでになったが、それは宰相に止められた。
>しばらくすると王は重い病に倒れた。
>王が亡くなると王妃は直ちに寵姫を監禁し、極悪囚に彼女を犯させ、酷い暴力をふるった。
>それでも飽きたらず、数々の拷問道具でいたぶり、目はつぶし、
>喉は薬を飲ませつぶさせ、両手両足は切断した。
>彼女を便壺にいれた。
>そして最後には豚小屋に彼女を置いた。
>(その当時の豚小屋というのは、豚小屋の上にひとの便所があり、
>豚はひとの排泄物を食べるという仕組みになっていたらしいです。)
>王妃は自分の息子をその豚小屋に連れていき、既にひとの姿をとどめていない寵姫を見せ、
>「ごらん。あれが人豚だよ。」と言った。
>それを見た息子はあまりの無惨さに廃人のようになった。
>と、こんな感じの話だったと思います。
63ひとぶた:2011/01/01(土) 12:49:41
皆様、あけましておめでとうございます。

>>44

> ウィキは会稽郡の説明で次のように書いている。古くから会稽という地名があることは疑う余地がない。

WIKIに書いてあることなんて誰でも知ってることでしょう。
そんなことを御披露してください、と御願しているわけではありません。

> 『史記』によれば夏少康の庶子である無余が会稽に封じられ越の始祖になったと伝えられる。

越絶記によれば「無餘都,會稽山南故越城是也。」、無餘の都は會稽山南の故越城、とあるように、
故事を根拠にするのであれば、会稽と言う地域は、紹興市側(山陰側)だけに限らず、もっと広いものでしょう。

反って、東冶は、後漢代に冶県が分割されて出来た東側だけの地域です。
なので、AとBと対置的に使う表現であれば、会稽と東冶は大小の違いでバランスの悪い組合せなのです。
単に会稽とだけ書いた方が簡便でしょう。

なので、倭人伝の「会稽」を山陰県辺りだけと解釈するなら、魏なり晋なりの時代に
そう呼ばれていたと言う例があるのですか、とお聞きした次第です。
64ひとぶた:2011/01/01(土) 12:52:37
>>62
>ハンネを変えて登場ですかw

ウン、貴方が豚ネタを振ってくれたので、今年はこれで行きます。
体型的には、私は馬より豚に近いのでね。
65メ(すぐおち):2011/01/01(土) 13:00:05
>>40
>30でも述べたが、
近畿では代わりにゴホウラ貝・イモ貝の代わりに鍬形石、石釧というのが多く出土される。
このゴホウラ・イモ貝の代わりである「鍬形石」、「石釧」の出土はかなり多いので、
弥生、古墳時代に、この貝製の飾り物が九州〜近畿にかけて流行していたことがわかる。
で、九州の国立博物館(俗にいう九博)に行ったことある人は知ってると思うが、
この南国で採れるゴホウラ・イモ貝やそれの類似品の出土について、「近畿では遠方の為」と説明してる。
まあ、40さんは、これぐらいの知識はあって

>畿内は単に消費者に貝製品取り扱いのブームが訪れなかったということで、
>興味を示さないところにバイヤーは足を頻繁に運んだりはしない。

とか言ってるんでしょうね?
66日本@名無史さん:2011/01/01(土) 13:12:21
>>63
横からだけど、ひとぶたさんは「據會稽,屠東冶,」をどう考えてるの。
67メ(すぐおち):2011/01/01(土) 13:27:32
弥生時代の人にとってこの貝製品のブームが起こり、流行していたのは各遺跡をみることができる。
弥生時代の人っていっても、九州でも弥生人(新しい文化を持った人)と縄文人(縄文文化を継続してる人)とが混ざってるんですが、
近畿にも弥生人はかなり数はいたでしょうね(どこの遺跡だったか大量の人骨が出土してるようね)。
しかし、この南国の貝で作られた装飾品が、北海道の伊達市有珠モシリ遺跡でも出土されてる。

北海道というのは、この弥生・古墳時代には続縄文時代で縄文文化を継続してるんですが
これは、西日本の文化を持った人が少人数だが、その地に入ってきたとか言われてますよね。
68日本@名無史さん:2011/01/01(土) 13:30:41
>>65
>近畿では代わりにゴホウラ貝・イモ貝の代わりに鍬形石、石釧というのが多く出土される。


「代わり」と安易に使っていいのかな?
安易に使えばそこを突っ込むよ。
69メ(すぐおち):2011/01/01(土) 13:37:01
>体型的には、私は馬より豚に近いのでね。

うましかが、豚ちゃん体系ということが判明したことで、
(ここでそういうことを言ったらあかんw)人豚、人気が爆発しそうな予感がする。
あ、私ですか?私の体系はスマートで足が長くモデルでも通用するんじゃない?w(自己申請)
顔はハンサムで女子にだってもててますよ(本当かどうかはしらんが)。

さて、そろそろ時間なのでおちますね〜
それと、皆さんにお願い。
卑弥呼の神功皇后説 、 熊襲の女酋説 、 甕依姫説、倭姫命説 、倭迹迹日百襲媛命説
宇那比姫説、 天照大神説 などなどいろいろありますが、これら女性についても語って欲しいですね。
70810:2011/01/01(土) 13:51:51
>「無餘都,會稽山南故越城是也。」、無餘の都は會稽山南の故越城、とあるように、
>故事を根拠にするのであれば、会稽と言う地域は、紹興市側(山陰側)だけに限ら
>ず、もっと広いものでしょう。
奈良時代の都は京都の南の奈良にあったんだよ。京都は奈良を含むのか?

71ローガン:2011/01/01(土) 13:54:41
>>59
> 文章通りに読めば、孫策が会稽太守になるのは東冶を屠って厳白虎らを攻め破ってからでしょ。

いいや、だから関連箇所を読まないと駄目だと再三言っているんですよ。
建安元年、孫策臨郡、察齊孝廉。時王朗奔東冶、候官長商升爲朗起兵。策遣永寧長韓晏領南部都尉、將兵討升、以齊爲永寧長。晏爲升所敗、齊又代晏領都尉事。
升畏齊威名、遣使乞盟。齊因告、爲陳禍福、升遂送上印綬、出舍求降。賊帥張雅、 彊等不願升降、反共殺升、雅稱無上將軍、彊稱會稽太守。賊盛兵少、未足以討、齊住軍息兵。雅與女壻何雄爭勢兩乖、齊令越人
因事交構、遂致疑隙、阻兵相圖。齊乃進討、一戰大破雅、彊黨震懼、率衆出降。(賀斉伝)
72日本@名無史さん:2011/01/01(土) 14:04:22
帯方郡から女王国まで一万二千餘里。帯方郡から狗邪韓国まで七千餘里。
倭が大雑把にいって南北におよそ五千里。
これが、たかだか会稽郡の東冶の東では収まらないんじゃないかという疑問がある。

ふつう史書で会稽東冶と書いてあれば、会稽郡の東冶と解すけれど、
上記の疑問が邪魔する。
史書で会稽とあるとき、会稽郡だけでなく会稽山を意味する場合も多い。
とすれば、南北が会稽山から東冶までの範囲と考えたくなる。
73日本@名無史さん:2011/01/01(土) 14:12:06
>>71
それで、どの言葉で孫策が会稽太守になった時期が分かるの?
74日本@名無史さん:2011/01/01(土) 14:19:40
>>72
そうですね。それに「道里を計るに」とあるからには、倭人伝の記載する道里と
「会稽東冶」は関連させて説明できるものでなければならないのに、会稽郡の東
冶と読んだのではまったく説明ができない。
すなわち、帯方郡から南へ万二千里(一部東へ進むところはあるが。)を一里=
435ならば赤道付近になるはずで、まったく合わない。いわゆる短里ならば、
一里=80ぐらいだが、これも郡から東冶の東では、一里を百数十メートルとする
ことになり合わない。
75ひとぶた:2011/01/01(土) 14:30:21
>>70
> >「無餘都,會稽山南故越城是也。」、無餘の都は會稽山南の故越城、とあるように、
> >故事を根拠にするのであれば、会稽と言う地域は、紹興市側(山陰側)だけに限ら
> >ず、もっと広いものでしょう。

> 奈良時代の都は京都の南の奈良にあったんだよ。京都は奈良を含むのか?

それって貴方の言う「会稽」とは、山陰だけを示す、と取ってよろしいのですか?
だとすると、貴方が引用したWSIKIの

 > 『史記』によれば夏少康の庶子である無余が会稽に封じられ越の始祖になったと伝えられる。

って、何のために御披露されたんですか?

無餘の封ぜられた地は、会稽と呼ぶが、その都は会稽とは呼ばない、そう言ってるように聞こえるのですが。
76ひとぶた:2011/01/01(土) 14:51:41
>>66
漢文に弱いのでローガン氏と>>810氏にお任せします。
77ローガン:2011/01/01(土) 14:57:52
>>73
>それで、どの言葉で孫策が会稽太守になった時期が分かるの?

わかるまでゆっくりよみなされ
78日本@名無史さん:2011/01/01(土) 17:26:44
>>75
>貴方の言う「会稽」とは、山陰だけを示す、と取ってよろしいのですか?
私は何もいった覚えはないが。

>無餘の封ぜられた地は会稽と呼ぶが、その都は会稽とは呼ばない、そう言ってるように聞こえるのですが。
都が会稽と呼ばれていたかどうか、気になるなら検討してみたら?
私はどちらとも言ってないよ。

79ひとぶた:2011/01/01(土) 20:15:30
>>78
>私は何もいった覚えはないが。
>私はどちらとも言ってないよ。

要するに「WIKIに書いてある」以外のことは何も言いたくないわけですね。
残念です。
まあ、お忙しいでしょうから無理に御願いするところではありません。
気が向いたら何時か書いてみてください。
80日本@名無史さん:2011/01/01(土) 23:19:11
年始イベント情報

九州国立博物館 文化交流展トピック展示「邪馬台国 −九州と近畿−」 -- 福岡県
http://www.kyuhaku.com/pr/exhibition/exhibition_pre73.html
81日本@名無史さん:2011/01/02(日) 10:18:56
邪馬台国とは琵琶湖周辺にあった登美彦や安日彦の国を含む共和国。
出雲族が最大勢力だったけれど、九州経由で渡来した神武の勢力に国を譲り、
関東や東北の開拓にあたった。
国譲りと行っても、結局は、大量の鉄器を持った神武の勢力との戦いに敗れて追い出されたわけで、
転封というか国替えというか、そういう感じだ。
82日本@名無史さん:2011/01/02(日) 10:55:26
>>77
ないね。単なるローガンの思い込みか。いつもの手だな。
83日本@名無史さん:2011/01/02(日) 11:01:06
邪馬台国は富士だったんだよ。
すべて地名あるし。
伝説も残ってる。
84日本@名無史さん:2011/01/02(日) 11:32:02
漢文を読んだところて、間違った日本語では
骨折り損のくたびれ儲けだwww
85日本@名無史さん:2011/01/02(日) 12:11:47
自郡至女王國萬二千餘里

このうち(韓は方可四千里だから)南北は九千余里

乐浪郡武帝置。雒阳东北五千里。(後漢書郡国志:集注後漢劉昭註)

なので、楽浪〜洛陽は南北3535里
よって、洛陽〜女王国は南北5465余里+α(α=楽浪〜帯方間)

豫章郡高帝置。雒阳南二千七百里。
长沙郡秦置。雒阳南二千八百里。
零陵郡武帝置。雒阳南三千三百里。
桂阳郡高帝置。山领山。在雒阳南三千九百里。
苍梧郡武帝置。雒阳南六千四百一十里。
郁林郡秦桂林郡,武帝更名。雒阳南六千五百里。
(後漢書郡国志:集注後漢劉昭註)

当時の中国人の地理観からすれば、女王国は南越、閩越の“まさに東方に在り”。
86ローガン:2011/01/02(日) 15:43:17
>>82
まあ、無理しなさんな。
87ローガン:2011/01/02(日) 15:50:40
>>73
ついでにこれも読んで時系列に整理してご覧なさい。
孫策渡江略地。朗功曹虞翻以爲力不能拒、不如避之。朗自以身爲漢吏、宜保城邑、遂舉兵與策戰、敗績、浮海至東冶。策又追、大破之。朗乃詣策。策以朗儒雅、詰讓而不害。(王朗伝)
88日本@名無史さん:2011/01/02(日) 19:36:17
何だ、やっぱり思い込みか。
89ローガン:2011/01/02(日) 21:16:07
>>88
> 何だ、やっぱり思い込みか。

と云う書き込みは出来ても、君が何故そう断言したか については一切言及しないね。
「否定はしたいけど、具体的な事に関しての書き込みはできない」と承知。 以後レス不要。
90日本@名無史さん:2011/01/02(日) 21:34:39
>>89
あなたもどこに書いてあるのか断言しないね。あなたには、これはこういう意味、これは
こうゆう意味などと思い込みがあるのだろうが、それを説明してもらわなければどこがど
うまちがっていると指摘することはむずかしいな。
91日本@名無史さん:2011/01/02(日) 22:29:07
>>85
>自郡至女王國萬二千餘里 このうち(韓は方可四千里だから)南北は九千余里
まあ、だいたいいいかな。

>乐浪郡武帝置。雒阳东北五千里。なので、楽浪〜洛陽は南北3535里
これはどうゆう計算かな? 後漢書郡国志の前後をみれば明らかなように、洛陽
から東北にはいろいろな国があると書かれている。してみると、東北といっても
北に近い東北もあれば、東に近い東北もある。楽浪〜洛陽は南北3535里という
答はだせないはずだよ。
それに、洛陽〜女王国は南北5465余里+αをいうのに、あなたの出した例はど
う役に立つのかな? まったく関係のない数字に見えるが。

帯方郡から南へ九千余里だと言うのならば、端的にその距離をはかってみれば
いいじゃないか。一里=435ならば約4000キロ。一里=80ならば72
0キロだ。あなたはどちらの説をとるのかな?



92日本@名無史さん:2011/01/03(月) 00:04:42
う〜ん?
年末年始だっていうのに余り盛り上がってない
正月番組ばかりみてるんだろうね。
93ローガン:2011/01/03(月) 00:34:01
>>90
>指摘することはむずかしいな。

ソースは既に提示済み。難しければ、無理しなくても良いんですよ。
94唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/03(月) 10:46:37
古墳時代
209年 伽耶(任那)建国
大和で墳墓が大きくなる(古墳時代の黎明)
239年 ホケノ山古墳 鉄器の大量副葬、半島式墳墓。
倭人伝の時代
262年 箸中山古墳 最初の大王墓 以後纒向遺跡は衰退する。
△ 鏡の時代
274年 神功渡海
308年 永嘉の乱 メスリ山の槍は、徒軍の編成 石製祭祀具副葬の時代
316年 西晋滅亡
323年 半島占拠 百済建国 鎧など武具を副葬する。
342年 百済、高句麗は前燕に属す 半島の安定 巨大古墳が造られる
この辺りから須恵器は造られ始める。
395年〜405年頃 高句麗の南下により、百済は高句麗の占領下となる
399年 大仙陵古墳は仕上げを残して終了する。
413年 倭と高句麗は東晋に朝貢 “百済、新羅は、高句麗の属国“を認める
馬具が副葬される時代。
95太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/03(月) 11:29:41
結論だけ出して、どうしてそういう編年となるのかの具体的説明は毎回
毎回放置していて、餌をつけない釣り同然であり、あっちで釣れるこっち
は釣れないなど言うことを1〜2行で言ったところで、大魚(納得者)は
全然かからない。ww

結論年表だけはいつもいつも書きこんで、その説明は口を押さえる三猿の
一匹。あとはニセ悟空の手淫の繰り返し・・・。ppp
96唐松山:2011/01/03(月) 11:52:07
>結論だけ出して、どうしてそういう編年

大和に鉄が流入するのは、任那建国後である。
それ以前の大和に鉄を分与する所として、北九州か丹後があるが、
鉄の流入量は膨大であり、九州、丹後から出土する鉄を大幅に上回る。
時代は、2世紀末に巻向に土器が流入した時代より後であり、ホケノ山(鉄器の大量副葬)
よりまえの時代である。
であるならば、ホケノ山(240年ころ)より先に任那建国がなければ鉄の流入が説明できない。
だから任那建国は、伽耶建国である。

箸墓とほとんど同じ時期の黒塚は、鉄器と三角鏡の時代である。
この鉄器を説明するためには、半島から直接鉄が大和に流入した。
古墳の全国展開には、景行時代の全国統一からであり、治世に屯倉手法導入で可能となる。

半島の歴史と同期しない日本の歴史は無い。
だから太国倍年は、おとぎ話の世界でしか成立しない。
その証拠として、太国倍年に暦を後付けできない。出来ない理論は成立しない。
97日本@名無史さん :2011/01/03(月) 12:23:48
まず、阿波に定着して、淡路を地理的な中心とし、播磨、河内、ヤマトなど画文帯神獣鏡を埋納するグループの出自はどこなのか?
98唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/03(月) 12:49:48
画文帯神獣鏡を埋納するグループの出自は何時からか?
99日本@名無史さん:2011/01/03(月) 12:56:18
>>97
おそらく半島でしょ。俺自身は阿波じゃなくて讃岐に一時的に定着したとみてるけど。
讃岐には半島由来と思われる積み石塚が存在する。
100太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/03(月) 13:15:57
出来るものを出来ないと言うのが、オマエのインチキの口癖だ。ww

鉄で1年単位の年代を特定なんか出来ない。つまりオマエこそ説明の出来
ない当体だ。ww ウソととぼけがオマエの定番。これはオマエの論の
持ち駒が無いから、ウソととぼけで補充してかっこうをつけてるだけ。
101太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/03(月) 13:23:26
鉄なんかを持ち出して、さも年代を1年単位で特定できたふりをして、
正当のインチキ仮面をかぶり通すメチャクチャ野郎が唐松山酋長の逃げ
口上! 誰も納得なんかしてもらえない。編年の具体的かつ合理性ある説明
がなけりゃぁ、鉄くらいでスレ民を誤魔化すことは出来な〜い。

つまり鉄がどうのこうのは、子供騙しの稚拙な論説。ww
102唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/03(月) 13:24:53
纒向遺跡の3世紀前半の大型建物は、垂仁の珠城宮、ホケノ山
その後に3世紀中葉の景行の日代宮、箸中山古墳。

箸中山古墳と崇神を同期するには、鉄の流入と、垂仁、景行の宮を説明出来なければならない。
103唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/03(月) 15:10:39
>さも年代を1年単位で特定できたふりをして、

太国倍年の事か?赤玉でさも年代が特定出来た振りをして、
何故崇神時代に箸墓が造れたか説明しない。
鉄の流入は垂仁初辺りからだから、木鍬、木鋤で築造したと説明するの?
ホケノ山の鉄器は後付けか?
104太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/03(月) 17:20:42
説明しないのはオマエの42年のことなんだよ。
箸墓は間接には関わるが、編年に直接は関係がな〜い。これもオマエの
ケチツケの糊塗!

鉄では1年単位の年代特定は無理の無理。赤玉というのは、オマエの
言い出したことで、この語はこちらに関係はな〜い。

昨今のTVの特番が面白い。戦国&幕末ミステリーのセリフ。

お地保の方が田沼に向かって、家基不審死に対して疑惑を持ち〜

 「よくもヌケヌケと〜〜」

田沼曰く、狡猾に

 「さ〜て、なんのことやら〜〜?」

田沼の言い草はオマエに似ているな〜!?pppwww
105唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/03(月) 17:58:41
>鉄では1年単位の年代特定は無理

とはいえ、ホケノ山に大量の鉄が副葬された事実は覆らない。
この翌年に箸墓が造られるほど人口も考えられない、直後の黒塚は、さらに大量の鉄器が副葬される。
時空は1世代分後の築造となる。

そこでだ、時空を得る為には、時空の正しい文献と整合性を取る。
中華の文献及び半島の文献だ。
250年=箸墓=崇神=任那建国、魏が管理する半島に任那建国は出来ない。
又、箸墓築造には大量の鉄器と労働力が使われる。
モモソ姫の箸墓は、民の疫病、民の死、民の離散から数年後である。
鉄も無ければ、労働力も無い時代である。

つまり考古学が50年遡上した意味は、崇神は50年前の人間なんだ。
否定したければ、崇神が250年頃である文献を出しなさいよ。
半島、中華の文献と日本の歴史は切り離せない。
106太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/03(月) 18:04:25
>〜覆らない
どこにもそんな保証はな〜い。とくにオマエの言い分はウソとおとぼけ
が入り混じり、アテにはなるまい。ww

それより〜神武が42年即位である文献を出しなさいよ。ww

>>104 訂正
× お地保の方
○ お知保の方
107メ(いま帰宅):2011/01/03(月) 18:07:09
みなさん初詣は何処へ行きましたか?
私は実家が大分県ということもあって宇佐神宮ですね(もう六、七回は行ってる)。

宇佐の地といえば、邪馬台国宇佐説などもあり、古代史関連の話でよく聞くだろう。
他の人も邪馬台国候補地へ行ってきた〜などあれば書き込み宜しく〜
私は今、忙しいので後ほど・・・
108日本@名無史さん:2011/01/03(月) 18:23:33
ふふふ、極彩色でキンキラキーンの密教寺院じゃよw
護摩木にバターを摺り込んでおいたよ。煩悩の炎はよく萌えるのう。
109日本@名無史さん:2011/01/03(月) 18:31:22
メ は人ゴキブリ。
110日本@名無史さん:2011/01/03(月) 18:32:38
『新撰姓氏録』によれば、「吉弥侯部(きみこべ)」は、上毛野朝臣同祖、豊城入彦命六世孫奈良君之後也とある。
また、福島県耶麻郡に「丈(はせつかべ)」は、上毛野陸奥公の支配地であり、
吉弥侯部とは卑弥呼の末裔。そして、福島県耶麻郡こそ邪馬台国だったのだ。
崇神天皇の命により、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)
が出会った遠征の目的地会津こそ邪馬台国だったのだ。

だんだん真相が明らかになってきましたね。
111日本@名無史さん:2011/01/03(月) 18:34:21
ドツボ(メ)は宇佐い
112唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/03(月) 18:53:47
>さも年代を1年単位で特定できたふりをして、

太国も太国倍年を主張したまではよかったが、
太国倍年に合わせる歴史が何処にもない。

太国倍年も、倍数で1年を主張している。
崇神五年 民の疫病、死
崇神六年 民の離散
崇神七年 冬には民も糧を得る

これが、西暦で表せる1年の出来事と主張する。
残念ではあるが、西暦で表せるのに、歴史の出来事と主張出来ない。
かわいそうに。
113日本@名無史さん:2011/01/03(月) 19:12:56
会稽東冶を会稽の東冶だと主張する者は何人かいたと思うが、それを前提にして
倭人伝の伝える道里との関係をどのように考えるのか、きちんと説明できる者は
いないのかな。→>>91 説明できないってことは、会稽の東冶だという主張がで
たらめだったってことにもなるぜ。ガンバれよ。
114日本@名無史さん:2011/01/03(月) 21:16:26
>>107

宇佐神宮の祭神は、宗像三女神だろ。
なんで邪馬台国が絡んでくるんだよ。

宗像三女神は、3世紀以後の成立だと言ってるつもりか?
3世紀以前には、宇佐には祭られる神も何もいなかったと思ってるのか?
神代から伝わる宗像三女神を祭る宇佐神宮の起源を、たかだか3世紀に下げる必要がどこにあるんだ?

郷土愛のないやつだな。
115:2011/01/03(月) 21:34:04
>>114
いやいや おれは候補地の宇佐へ行って来た!と言っただけで、
「宗像三女神」だとか、「3世紀以後」とかなにも言ってないじゃん。
そう、熱くなるなって〜このバカたれがw

>神代から伝わる宗像三女神を祭る宇佐神宮の起源を、たかだか3世紀に下げる必要がどこにあるんだ?

ほう、そうすると君はあれか〜
宇佐神宮の起源って三世紀より前と思ってるわけ?
116:2011/01/03(月) 21:40:17
河童さん、最近登場しなくなったね。
何をイジケてるのかしらんが、来ればいいのに。

そして、スレを進行していく上で、叩かれ役、マヌケ役と言えばいいのか…
君みたいなハチベェ役は必要だよww(励ましになっとらんなw)
117日本@名無史さん:2011/01/03(月) 21:46:14
>>97
公孫氏の残党を始めとする半島の難民が、半島内、邪馬台国連合内には入れられず、
大量に流れ込んだと見るべき。
墓制や奇妙な鏡もそれで説明がつく。
118太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/03(月) 21:50:21
>>112
ひとつも残念にはならない。崇神年代に空白年とか認められる60年の干支
年数無記載の箇所とか、30年の干支数半分の空白年箇所というのは無いよう
だ。これでは唐松山酋長の言い分は全然裏付けが出来ず、同酋長
の脳内の迷信の産物だと観てよい。仮にあったとしても空白の両端年がその
各1年内側の年と干支がトビトビになっていなければならない。所詮この
条件を唐松山ホツマ族酋長は満たすことが出来ない。つまりマシがインチキ
の迷信wwだということが自明である。

紀の崇神6年は、皇祖天照大御神とその最重要物品たる鏡の祭祀が倭笠縫
で執り行われた年代であるから、これが239年鏡(景初3年鏡)と年代が
近接していなければならない。コチラの倍年暦法の逆算では

 崇神元年=237年=景初元年

を算出したから、239年の年代が 崇神3年=紀の崇神7年 から鏡祭祀の
紀の崇神6年に近接しており、このことは唐松山の言う 崇神5〜7年 が
倍暦で現今での1年相当になるということに合理性がある。さらに冬とか
季節が違うとたとえ言い張っても、雄略4年の紀と大成経の同記事が片方
春で片方秋たることから、倍暦を感知しない紀の編者らの後突けの季節語
挿入だったと観て崇神の代も同様だと観ておかしくはない。
119太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/03(月) 22:08:59
>>118 続き
オシデ族唐松山酋長 は

>合わせる歴史が何処にもない(>>112)

と書きこんでいるがこれも大ウソであり、キチンと三種の神器の筆頭たる
鏡の〜祭祀の年代が整合している。これを大ウソをつき、合ってる歴史が
提示されてるのを、何処にもないと虚言を言うひどい有様である。ww

つまり大ウソとおとぼけと、説明済みを説明出来ないと鞍替えして撹乱
するしか自己(←唐松山酋長)の論に自信がないくらい持ち駒が無い〜との
奴の足元がミエミエにあ〜る。ww
120:2011/01/03(月) 22:15:15
画文帯神獣鏡を埋納するグループの出自?

画文帯神獣鏡にしろ、三角縁神獣鏡にしろ
これらの魏の年号が入った紀年銘鏡名鏡は卑弥呼が献上した時に
魏から貰ったものであろう。
その献上した後に造られたのは△のほうで、画文帯神獣鏡のほうは、
公孫氏の活躍したときには、すでにあったのかもしれない。
121:2011/01/03(月) 22:23:32
>宗像三女神は、3世紀以後の成立だと言ってるつもりか?

>3世紀以前には、宇佐には祭られる神も何もいなかったと思ってるのか?

>神代から伝わる宗像三女神を祭る宇佐神宮の起源を、たかだか3世紀に下げる必要がどこにあるんだ?

おれはただ、宇佐に行ってきたといっただけなのにねw
まあ、暇なので答えてみましょう。

宇佐神宮において、宗像三女神は、3世紀以後の成立です。
3世紀以前の宇佐の地に祭られていた神は、ヒメ神様でしょうね。
三女神を祭る宇佐神宮の起源は八世紀です(宇佐神宮ホームページみた?)
122:2011/01/03(月) 22:34:12
あ、ごめん

120の「その献上した後に造られた」は取り消します。

ただ、三世紀中葉の墓からされるからといって、
「その後に造られた」とは言っちゃうといかんわぁ。
三角の話をすると土器編年連中が集まってきそうだなww
123日本@名無史さん :2011/01/03(月) 23:15:08
>>120
勝手な妄想で、中国人を困らせてはいけないな。
124:2011/01/03(月) 23:49:39
「宇佐神宮の起源」を学ぶのに丁度いい本があって、

宇佐神宮の歴史が書かれた、中野幡能編纂、宇佐神宮庁発行の
「宇佐神宮史 史料篇 巻一〜巻十五」本というのがある。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4642012109/hatena-gk-22/ref=nosim

しかし、その値段が高く、
巻一 10000円   巻二 10000円   巻三 12000円   巻四 10000円
巻五 12000円   巻六 10000円   巻七 13000円   巻八 17000円
巻九 15000円   巻十 15000円   巻十一 17000円  巻十二 15000円
巻十三 16000円  巻十四 16000円  巻十五 17000円   と合計205000円もする。

20万円もあれば、原付バイクを購入出来る値段なんだけど〜
この宇佐神宮庁発行の「宇佐神宮史 史料篇」は、この神宮でしか販売しておらず、
なかなか手に入る物ではない。
てことで、それなりに古代史研究家にとっては価値ある商品だと思う。
この宇佐神宮史っていうのが凄くって、ヒメ神や、神功皇后の事はもちろん
宇佐系図、先代旧事本紀の事などなんでも書いてる。
興味有る人は購入してみては如何か。
125:2011/01/03(月) 23:56:58
"宇佐の地"は調べれば調べるほど面白いね〜奥が深いというか・・・
私は大分県育ち(大分県の高校を卒業)なので、ここを調べてるのですが、
宇佐が地元と言うワケではない(ただたんに近いから)。
近畿に住んでる人や実家がそこの人は、三輪神社を・・・東海に近い人は伊勢神宮を・・・
出雲に近い人は出雲大社を調べるのも面白いかもしれない。
でも、こういったら失礼になるかもしれないが、東北に住む人って可哀想だよね?w
だって何もないじゃないかww
126:2011/01/04(火) 00:24:42
おれは古墳や博物館めぐりもするが、どっちかというと神社めぐりのが多い。

三重県の伊勢神宮はもちろん、名古屋の熱田神宮、東京の明治神宮、奈良の三輪・ヤマト神社に石上神宮や
滋賀県の多賀大社、神奈川県の寒川神社なんかも行ってる。

あと神武天皇伝承地やヤマトタケル伝承地もまわったな〜
関係ないところでは、八百ヒメ伝説なんかも興味有ったり・・・・

倭人伝、神社、伝承ではなく、たまには考古学の話もしようか〜
時代区分についてだが、昔は「石器時代」、「金属器時代」と時代区分されていた過去があり、
古墳時代は、この金属器時代と並行すると考えられていた。
そこで明治時代に縄文模様の縄文土器とは別の種類、いわゆる弥生式土器が発見されて、
いままでの石器時代、金属器時代から新しく弥生時代というのを間に入れて
縄文・弥生・古墳時代というのが出来た。
だから〜縄文時代、弥生時代、古墳時代っていう時代区分も新しく、まだ最近の出来事なんですよね。
この弥生時代というのも、最初は紀元前三世紀ぐらいから開始されたというのが定説だったのだが、
近年では、弥生時代の開始を紀元前五世紀、又は佐原・春成氏なんかは紀元前七、八世紀とか
もっと早い時期を示してますよね。
この紀元前七、八世紀というのも考え方によれば有り得るんですが、
大体どの本にも弥生時代の開始を紀元前五世紀ぐらいにしてあると思う。
まあ、ここらへんでーーーーーーってことなんだろうかねぇ。
127:2011/01/04(火) 00:32:24
縄文「晩期」や弥生「早期」などの時代区分に関しては、
水田はあるが、まだ本格的ではなかったり、縄文文化と弥生文化の共存であったり、
又、各地によってバラツキがある為に各研究者の間でも意見が分かれるのだろう。
定義をどうするかによっても変わるし、これはしょうがない事なんだろうね。

さて、誰も来ねえしw 一人で語っても面白くないので、もう寝ょwww  zzz・・・・・・・・
128日本@名無史さん:2011/01/04(火) 00:58:23
>>124

近代になって宇佐神宮がまとめた”つくり話”になんか意味があるのかね?

129唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/04(火) 12:06:59
>合わせる歴史が何処にもない(>>112) と書きこんでいるがこれも大ウソであり、

それでは、歴史の数字を合わせて主張しなさいよ。
209年 崇神の任那建国
239年 田道間守を派遣
274年 神功渡海
323年 神功49年 半島占拠、百済建国

この数字以外で、この出来事は事実とならない。
130唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/04(火) 12:38:04
323年癸未 倭は、クダラを誘い半島を占拠する、そしてクダラに領土分与
クダラは、百済(モザ)建国。
326年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
131太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/04(火) 14:04:59
合わせる? 〜〜○ホじゃないのか?ww
半島文献と紀とが120年とか断層があるのに、合わせたところで、真に
合ってることには簡単にはならない。用心深くないオマエは、ス〜グ半島
文献がどうのこうの言う。これは現段階では非常に難しいことだぞ。
それを軽く出来て合ってるような言い回しをしても、出鱈目の域から出ら
れない。ww プハッハッハ!!

オマエのは数日間も続かない日食をゴリ押ししてる熱帯密林の蛮族酋長
さながらのいかれた脳内の様子だが、日食は1〜2時間程度であるから、
これも天文学の絶対的法則と『合わない』わけだ。
しかも臣下の伊支馬が臣下ではなく、ズット偉い臣下の上の垂仁大王と
身分が合わない。これこそ『合わない』ではないか??ww
132唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/04(火) 14:25:54
>臣下の伊支馬が臣下ではなく、ズット偉い臣下の上の垂仁大王と身分が合わない。

太国もこの時代女王は九州であると主張する。
であるならば、九州女王卑弥呼と大和垂仁の関係は?
133太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/04(火) 14:39:55
関係などないよ。何故か?
それは、垂仁の誕生した翌年あたりに卑弥呼は死んでいる。
134日本@名無史さん:2011/01/04(火) 15:17:17
>>127
お前さんが待ってるプラムはもう簡単には現れんだろ
135太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/04(火) 15:25:20
>>31 >>38 続き
天津神算木(天津金木)は  (r=3 : **はベキ)

 4πr**3/3=113.0973355』2923255658』4655161798』06

大祓祝詞に曰く

 「かく宣らば 天津神 天の磐門を押し披き 天の八重雲を厳の千別きに
  千別きて聞こし召さむ」

天の磐門というのはこの場合、小数20桁目(』表示)とその手前の数 58
を示唆し、イワトとは58戸(戸は仕切りの 』 で20桁目を区切る意)
のことである。押し披きとは以後の小数列と離間させるを強調している。
天の八重雲とは欠史八代の年代の、ぼけてハッキリしない様をいうのだ。
ここで千座があれば 右辺=0113.09733・・・ となるわけだが、
厳(イツ)の千別きとは、」10桁目の 5 を千座(整数第四位:千位)に
特別に入れこむ事をいう。5はイツと読める。即ち

 4πr**3/3≠5113.097335』2923255658』4655161798』06

上式の10桁左右の数から 352 が出来、右辺先頭は 511 となる。後者の
逆数をとれば 115 だが、これらから

 352−115=237年=崇神天皇即位元年(実年代)=景初元年

の真の年代を得る。前者も逆数をとり、また 115が -1 の114なら

皇紀253年 1/14 日本足彦国押人尊(孝安天皇)立太子
136日本@名無史さん:2011/01/04(火) 20:22:25
対馬を追われ津軽金木村に流れ着いた天津神算木(天津金木)の子孫津島修治(ペンネイム::太宰治)は、
「ただ、いっさいは過ぎていきます。自分が今まで阿鼻叫喚で生きてきた、いわゆる人間の世界において、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。」
と言って、邪馬台国論争の不毛、生きることの不条理を説いた。
137太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/04(火) 20:30:09
天津神算木から卑弥呼の即位年は、崇神即位の10年前の227年を算出してい
ます。すなわち卑弥呼即位は 太和元年 ですね。
138日本@名無史さん:2011/01/04(火) 22:06:21
>>136なんだか文学的ですね。
139日本@名無史さん:2011/01/04(火) 22:17:00
太国どんも唐松どんも相変わらずだね〜。今年は仲良くできんかね〜。
140:2011/01/04(火) 22:23:59
さて、ここの対話式で進めていきましょうかね。

まずは邪馬台国の候補地ですが、近畿の「奈良県」と九州の「福岡県」が有力地でしょうか。
九州説の方はその候補地がバラバラなので一つに絞って下さい。
ということで、九州北部の「福岡県」として考えていきます。
この福岡県と奈良県とはどっちがその候補地として相応しいのか?
他の人の意見を聞いてみたい。
141:2011/01/04(火) 22:31:10
太国さん、唐まつやまさん

この近畿奈良県と、九州北部の福岡県とでは、
どっちが相応しいだろうか?
倭人伝の記述ではどうなのか?考古学面ではどうなのか?答えて下さいな。

そして、九州では、そのほかにも吉野ヶ里のある佐賀県や、中部熊本説、
又は、中津や宇佐のある九州東部大分県や日向のある宮崎県、はたまた、南九州の鹿児島県
という説もあるだろうが、九州内では福岡県が人気あるみたい。
ここのところ、九州説では一つに絞れないんでしょうかね?
142:2011/01/04(火) 22:40:10
又、風俗記事では「皆黥面文身」というのがあるが、
九州ではこのような風俗があったようなものがあるのだろうか?

又、「男子皆露紒 以木綿招頭 其衣横幅 但結束相連 略無縫」
「婦人被髮屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之」はどこからでてる?

「其地無牛馬虎豹羊鵲」コレは本当なのか?

あと、「木弓短下長上」は近畿では見つかってるが、九州ではどこでみつかってるんでしょうね?
143:2011/01/04(火) 22:47:01
>始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒
>已葬 舉家詣水中澡浴 以如練沐

こういう習慣が日本列島に残っているって説明出来る人おりますか?

又、「持衰」について議論する必要があると思う。
この持衰ですが、古事記や日本書紀をみるかぎりでは、このような風俗は見かけない。
これの証拠となる考古学面での遺物では、銅鐸があったよね。
近畿で発見された銅鐸に「持衰」が行われていたであろう、
絵が描かれてあったが、九州説ではここをどのように説明するんだろうか。
まあ、九州説はいっぱいいるんですが、代表して太国さん〜
九州説の立場で答えて下さいよ。
144日本@名無史さん:2011/01/04(火) 23:00:34
ああ、メ がうざい。
145日本@名無史さん:2011/01/04(火) 23:08:42
持衰に似た習慣なら古来からあるよ。浅学のメが知らないだけ。

>櫛も見じ 屋内も掃かじ 草枕 旅行く君を 斎ふと思いて

これは入唐副使大伴胡麻呂への餞の歌で出典は万葉集。この歌から櫛を使って髪をすかないこと、
家を掃除しないことが、旅をしている人の無事を祈る行為として認識されていたことがわかる。
146日本@名無史さん:2011/01/04(火) 23:19:57
持衰とは、障害者や怪我をして働けない片輪者に役割を与え、
そのかわり、豊漁の時は獲物を分配する仕組みだ。
一種の社会福祉制度と見て良い。
従って、獲物が少ないときは、生贄として神に捧げることになる。

天皇家とは、もともとそういう存在だったのだ。
147太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 00:43:25
まだ福岡県のほうが奈良より確実に固いよ。が、それは畿内か九州
かとの話しであり、やはり阿蘇近隣ではあるまいか? そのへんの
盆地で外界から隔絶性のありそうな個所がクサいな。
148日本@名無史さん:2011/01/05(水) 01:43:26
九州説を福岡とするのはどうかな? 福岡では行程と合わないことが明白だ。
行程記事どおりと考えれば、南九州を外すわけにはいかないな。
149日本@名無史さん:2011/01/05(水) 01:46:42
南九州は、国道や高速がない時代なら
確かに隔絶しているのだが、隔絶し過ぎで、
関係が薄すぎるような気がしてならない。
150日本@名無史さん:2011/01/05(水) 09:39:27
>>141
考古学関連では、伊都国を始めとする邪馬台国連合と密接な関係が確認出来ること。
狗奴国との間の軍事的緊張が確認できること。
絹や珠や墓制などの情報について合致すること。
まず、この3つをクリアする所で、
まあ、本州か四国か九州かにあるだろうが、まだ有力な候補地と言えるものはない。
熊本県北部、徳島県あたりの遺跡を本気で調査しないと話が先に進まないな。
「親魏倭王」の魏への貢ぎ物は、どの程度のものだったっけ?
151日本@名無史さん:2011/01/05(水) 09:50:15
>>149
南九州だけと考えるからだろう。南九州説は北九州以外は皆南九州の勢力
範囲だったと考えるわけだ。畿内説が畿内だけではなく中国地方も畿内勢
力の範囲内と考えるのとおなじだな。だから、南九州が隔絶しすぎという
ことにはならない。
152太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 10:35:58
>>148
二つを選択しろと言われたときの決断だよ。そこには厳しく言えばなかろ
うが、畿内ならばなおさら女王国に遠い。要するに女王国には福岡のほう
が近いという意味なのさ。
153太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 14:32:55
1/16 に 〜8chだったと想ったが、はるな愛嬢の卑弥呼の番組をやるって
いう話だな。
154太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 15:00:33
>>135 続き
日本足彦国押人尊(孝安天皇)の立太子の日数が1日ズレているのは、
欠史八代の年代を前面に打ち出すことを消極化しているものであり、天津
神算木(天津金木)が前面に打ち出させている年代は崇神の代である。
中にはこういうズレがない八代間の測定的年数が出る場合があるが、その
中の一つにズレのある〜かような立太子日数の孝安の数字があるということ
は、八代間を雲内に入れこむ天の八重雲の状態にしておかせる意味である。
155太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 20:54:11
>>154 続き
大祓祝詞 に曰く

「厳の千別きに千別きて聞こしめさむ」

厳(イツ)とは数字の5を示唆しており、天津神算木(天津金木)

 4πr**3/3=113.0973355』2923・・・

の十桁目の5が手前の5とゾロ目になっており、千座(整数第四位)
へ特別に持ちこむ(>>135)のに、いずれの5でも構わないから 千別き
の語を復唱しているのであるが、重要だということで語句を強めて
いるといってもいい。ここから 崇神元年=景初元年=237年 を得る。
156算数で落ちこぼれた俺だが見てらんないw:2011/01/05(水) 21:23:40
さて与太国の電波の極めつけ『天津金木』だが

 (4πr^3)/3 …とπが入っているのがミソで

πは誰でも知っているように一定のパターンが循環する循環小数ではないので
自分の欲する3桁ぐらいの数字なら何れどこかに出てくる。
(まあ”999”みたいなゾロ目は別にしてもだが)

まあその程度のお話で、よいこのみんなはこんなよたばなし信じちゃダメだよwwww


157日本@名無史さん:2011/01/05(水) 21:27:35
任那4県のひとつ多利(口偏が付く)の王が日本足彦国押人尊(孝安天皇)だとすると、
日本の植民地の一つに過ぎない朝鮮半島の王主が天皇になった事実をどう解釈すればいいのだ?
158太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 21:28:45
古事記の 崇神没年=258年(戊寅) がほぼ正解。

即ち菅政友、那珂博士、橋本増吉、改メ氏、ローガン氏そあれから
静岡大学名誉教授 原秀三郎先生の主張がおおむね正解だったという
ことだ。ジョーカーと唐松山の言う318年説と215年説はもうお陀仏。ww
159算数で落ちこぼれた俺だが見てらんないw:2011/01/05(水) 21:32:55
ちなみに「天津金木」だが易の算木・ドミノみたいなものを組み合わせて
森羅万象を現すと言ったものらしいが(と言うか易経の影響受けているのか?)

昔行った三輪明神で境内に「天津金木」として小さな板が置かれていて
そこに自分の名前やら願い事を書くと言う風なまるで密教の護摩木のような使われ方されていたのが記憶にあるwww

一体何処をどうやったら球体の体積の公式が
その「天津金木」になるのか?

コシントウの深淵は計り知れないwwwwwwww
160太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 21:44:45
ジョーカーは急に長いコテハンを無理にでも入れたようだから、相当
精神的に参っているんだろう??ww

三輪山の山名たる半径r=3の円(←三輪)の球化の 体積=表面積 の
数式を天津神算木(天津金木)といい、古代人が未来に古代の真の年代の
節目の計測を教えてくれた天下の宝器である。天津神算木は

 4πr**3/3=113.09733552923・・・  (**はベキ)

天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335

3倍暦に因み右辺の数列を三分すれば 113 097 335 だが

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年 先頭0は西暦元年を示唆し除去
335←崇神即位の真の年代を誘うジョーカー数 335年

から -97+335=238年 だが、西暦0年を省く為、1年分年代が詰まる。

 238年−1=237年=崇神天皇即位元年(実年代)=景初元年

にて、真の年代が得られた。
161太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 21:46:46
>>160 訂正
× 西暦元年
○ 西暦0年
162日本@名無史さん:2011/01/05(水) 22:00:04
>>160

その西暦元年が定まったのは、6世紀で、実際にキリストの生まれた年=西暦元年ではないようだが、
それでもいいのか?

163太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 22:15:18
>>135 >>154 続き
大祓祝詞に曰く

「国津神は高山の末短山の末に上りまして 高山の伊穂理 短山の伊穂理
 を撥き別けて聞こしめさむ」

この場合では、天津神は朝廷側の暦を編む者、国津神は真の年代を研究
する学者、研究家側を示唆し、天津神のほうに主導権が握られている。

高山とは見かけの年代が錯覚にて実際より上古の世に位置することを
意味し、短山とは実際の年代が見かけより長くなく短いわけで真の年代
が後代に位置してることを示唆している。末とは語の判断が難しいが、
神武でいえば、即位よりもっと前の九州のころの既述ある最初の年代から
を高山の末といい、短山の末は倍暦の終焉の仏伝のころのある年代をいっ
ていると観てよい。

伊穂理とは五百理(イホリ)を示唆し五百年、538年あるいは552年の佛伝
の頃の年代が500年代のことからこういうが、神武の次帝綏靖のB.C.581年
(見かけの年代)を兼ねて、後者が高山の五百理、前者が(実年代に近接
してくる)短山の五百理と観て、前後五百歳の遠近錯覚の実年代を区分け
して定められるということが廢き別けてと言っているのである。
164太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 22:17:39
>>162
失礼、誤植でして、見かけ上にある西暦0年です。これを除去します。
謹んで訂正します。
165太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 22:26:26
>>158 訂正
× そあれから
○ それから

>>163 訂正
× 廢き別けて
○ 撥き別けて
166唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/05(水) 22:26:32
>>133
>関係などないよ。何故か?それは、垂仁の誕生した翌年あたりに卑弥呼は死んでいる。

つまり 崇神世=卑弥呼=240年頃とする。
この時代は、魏が半島を管理する時代であり、任那建国が設定出来ない。
太国倍年: 353癸丑  神功摂政立皇太后(倍歴では皇紀863年と同年)
342年以後百済は前燕に属す。これ以後に渡海や半島占拠は無い。

しかし、この三点が存在しないと、馬韓土器ひとつ説明出来ない。
馬韓土器―両耳付壺・鋸歯文土器・有孔広口小壺・鳥足文叩き土器
現在の全羅南道・栄山江流域は、原三国時代には馬韓の領域であったが、4世紀以降は百済
の領域となったと考えられてきた。近年、この地域の墓制や遺 物の独自性を評価し、全羅南
道地域の百済への服属を5世紀末ごろと捉え、… 原三国時代の馬韓の流れを汲むもの、あ
るいは『宋書』にいう「慕韓」に比定されることもある。それらは北方から百済に圧迫され
て領域を南に狭めつつも、5世紀末ごろまでは独自の古墳文化(大型成人甕棺など)を維持して
いた。前方後円形の古墳や埴輪類似の円 筒形土器が存在するほか、…。

百済本記から編年しても、整合性を得られない百済土器編年。
これに対し伽耶、新羅土器の編年は正しいとされている。新羅本紀の数字は正しい
狂っていても1年、
新羅本紀 192年冷夏。後漢 193年冷夏。

書紀が主張する任那建国、渡海、半島占拠が存在しない太国倍年は、おとぎ話創作程度にしか使えない。

167太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/05(水) 22:28:52
>>166
120年の年代断層がある半島文献なんかの幻惑にかかるオマエは、まるで
ネヅミ捕りのエサに喰らいつくネヅ公そっくりだな。ww
いつまでも撹乱編日でもやってろ!pp
168唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/05(水) 22:55:21
>年代断層がある半島文献なんか

239年以後は魏が半島を管理する時代であり、任那建国が設定出来ない。
残念ではあるが三国史は、半島の文献では無い。

百済本記を正しいとしても、馬韓は小国家群のまま存在する。
この出来事を韓国考古学は説明出来ない。
この出来事は、神功49年の半島占拠で説明出来る。
倭は、半島西部を百済に分与し、馬韓は、倭軍の渡海時の彊場として残される。
だからここに前方後円墳が存在する。

169唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/05(水) 23:28:34
>120年の年代断層がある半島文献なんかの幻惑にかかるオマエは、

太国倍年は、3倍年であるから、120年差では無い。
つまり太国倍年は誤りであると主張する。

素直に認めれば良いのに、他人を非難する事で隠そうとする。
今年も卑劣な輩を演ずるのか?
170太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/06(木) 00:23:31
マシは120年などどこにもな〜い。ww
つまり唐松山大年増は誤りであると主張する。

オマエは〜素直のイカサマだと認めれば良いのに
大ウソつきで してないことをしたと言うことと〜とぼけの天才のオマエ
は今年もインチキ卑劣な輩を演ずるのか?
171レス長たらし毘古:2011/01/06(木) 03:18:02
みなさまあけましておめでとうございます。今年こそ邪馬台国がみつかります
ように。卯年なだけに、今年は宇佐あたりに頑張ってもらいたい。
さてそれがしはあいかわらず九州東北部説ですが、お年玉になるようなネタも
架空も見つけるひまがなかったので、今宵は新年の挨拶のみとさせて頂きます。
172日本@名無史さん:2011/01/06(木) 07:31:11
宇佐学派かw
173日本@名無史さん:2011/01/06(木) 11:13:19
http://hato.2ch.net/test/read.cgi/news/1294248005/l50
からのコピペ この板もいよいよ末期的症状やね

ひろゆき氏:
そこはたぶんバランスの状態で,「ニュース速報掲示板」ていうのがあるわけですけど,最初に 「2ちゃんねる」が流行った頃は「ロビー」って掲示板が流行ってて,そこはいろんな情報をみんな
が持ち寄って流行らせていたわけです。
ところがそのうち,属人的な,要はハンドルを持っている人が会話をし始めて雑談が増え,そこにいたい人はそのままいた。でも,その場にいたい人の話って,面白くないんですよ。今日何食ったと かそんな話だから。
そうすると他人から見て面白くない情報が多いので,新しい人が入ってこなく なって,新しい情報が少なくなって,廃れていくんですよ。


おもしろい人がおもしろいことを始める
        ↓
おもしろくない人がおもしろそうなのでやってくる
        ↓
おもしろい人がつまらなくなったのでだんだんいなくなる
        ↓
つまらない人ばかりになる

174日本@名無史さん:2011/01/06(木) 12:19:22
175日本@名無史さん:2011/01/06(木) 14:31:37
■最初の弥生人として中国揚子江の河口付近から越に滅ぼされた
呉の倭人が九州に流入。(天孫降臨神話)BC470
呉人は敵の越との同盟時代に越より航海技術を得ていた。呉越同舟。
越国の航海技術は発達しており、越は南インドと交易をするほどの技術があった。
その為、中国南岸から日本列島の航海は容易だった。
北九州で東南アジア稲作民族の特徴である高床式住居を作り、稲作を始め、銅矛を祭る。
信仰は農耕民族の特徴である稲・太陽(アマテラス)信仰。(アマテラス族、蛇トーテム)
土着の縄文人と混血していく。(山幸海幸神話)
■次の弥生人として揚子江の南、越国の倭人(呉国の倭人と同じ百越人種)が楚に
滅ぼされ流入。呉の倭人がいる為九州に上陸できず淡路島に到達。(天地開闢神話)
BC330
稲作と銅鐸祭祀を、近畿を中心に広げる。(イザナギ族、蛇トーテム)
最も初期型の銅鐸が淡路島から出土し、その後の伝播も淡路島を中心としている。
越国の貴族の墓から淡路島で出土した銅鐸と同じ形の物が発見されている。
176日本@名無史さん:2011/01/06(木) 14:33:25
■ スサノウ(徐福)は秦より新羅の曽尸茂梨経由で出雲へ渡来。(国引き神話)
BC210
越族を失った秦は拙い航海技術しか持たず朝鮮半島を経由する必要があった。
蛇をトーテムとする出雲先住イザナギ族を征服する。(ヤマタノオロチ神話)
この時一部のイザナギ族は福井から新潟にかけ逃げ越前、中越、上越を作る。
蚕、五穀、鉄器を持ち込む。養蚕の北限は現代でも山形県。スサノウが南から
来た事を意味する。農耕に必要な暦をえる為、ツクヨミ(月読み)を行う
百工(師匠)と呼ばれる技術者が技術伝播しながら全国に勢力を伸ばしていく。
その時に徐福伝説が全国に残る。
出雲で日本海沿岸にかけて大王国を作る。
神社を全国に作ることで支配。祭神はスサノウ、ニギハヤヒ、オオクニヌシ。
現在、ほとんどの神社の祭神にはスサノウ・ニギハヤヒ・オオクニヌシが入っている。
スサノウ族のトーテムは牛。徐福のトーテムも牛。牛頭大王を奉った神社も多い。
後の藤原氏の謀略によって物部氏のトーテムは鹿のように見せかけられたが
物部氏の神社である石上神宮には鹿はいなく牛像があり牛の祭りがある。
177日本@名無史さん:2011/01/06(木) 14:34:45
■神生み神話でイザナミが黄泉(夜見)の国(出雲)へ行ったと言う事はイザナギ族が
出雲まで到達していた事を表わす。スサノウ族の渡来時にイザナミは殺される。
イザナミの墓は出雲山中にある。これはイザナギ族の敗北を意味する。
鉄器を持つスサノウ族に銅器しか持たないイザナギ族はかなわなかった。
黄泉からイザナギが逃げる記述はイザナギ族がスサノウ族の追撃を受けた事を
意味している。
■誓約と岩戸隠れ神話は順序が入れ替わっている。岩戸隠れが先で、出雲スサノウ族
が北九州ニニギ・アマテラス族を攻め、アマテラス族が広島に逃げた事を表わす。
呉と言う地名が現在に残る。
その後スサノウ族とアマテラス族の婚姻による和解という誓約神話につながる。
■スサノウの子孫ニギハヤヒ(物部氏)が大和まで到達。邪馬壱国(ヤマト国)建国
スサノウ族は関東地方まで支配を広げる。
全国支配の為大和に出雲政権を移動。オオクニヌシの国譲り神話。
ニギハヤヒの9世代後が卑弥呼(モモソヒメ)。(籠神社より系図発見・国宝)
魏志倭人伝の倭国大乱は大和出雲連合と筑紫連合国との戦争。
卑弥呼時代に筑紫と和解。筑紫の円墳と大和の方墳が合わさり前方後円墳発生。
大王に貢献した部族には前方後円墳を作る権利と技術をあたえた。
貢献により土器など全国各地の生産品が大和より出土し、前方後円墳が全国に残る。
大和と筑紫が人質交換(神武天皇東征伝説)。神武は物部に婿入り大王家となる。
大和朝廷成立。大和とは大連立の事。ヤマト読みは前の地名(邪馬壱)のなごり。
三つ巴の印は大和、筑紫、出雲の大連立を表わす。
大王家は祭祀のみ、政治は物部と大伴(筑紫系)。
178日本@名無史さん:2011/01/06(木) 19:33:07
スサノウ族とは邪馬台国王のこと?
179レス長たらし毘古:2011/01/06(木) 20:22:46
ドンブリではありますが、2世紀以前には、九州東北部を中心として、その影響
範囲(倭人分布域)が出雲〜近畿〜南朝鮮とし、2世紀以降、その政治重心が
次第に近畿(大和王権)に移って行き、その過程で一旦南朝鮮を失い、その
争奪戦が始まると考えると、マクロドンブリな地政学的には、カナリ自然では
ある。俺個人はこの架空想定だ。勿論強要はしないが。
180レス長たらし毘古:2011/01/06(木) 21:34:24
>>177
イザナギ出雲で処刑説(出雲側見解)VSイザナギ淡路(或は近江)に流刑説
(大和側見解)と言う歴史解釈相違が3世紀〜4世紀の日本にあり、記紀編集
時までに後者が大和王権において最終勝利したと想定すれば古事記的には
違和感は少ない。
イザナギの遺児の片翼天照がスサノウに復讐戦を開始し、その完全決着がつか
ず講和による終戦を迎えたとすると、その復讐戦後の講和内容解釈も、当然
出雲側と天照側では食い違いが生ずる可能性もある。古事記の表記は、その
天照側を代弁し、出雲より天照側(後に大和王権側)が講和勝者であると規定
したとする可能性も浮上する。だからこそ、記紀以前に出雲神話は「完全に
塗り替えられる」必要がある。これが天武の意図か、それ以前(蘇我か物部か
大伴かはここでは不問)の政治的意図かは現時点では断定はしないが、少なく
ともこの架空でも古事記的には大きな矛盾は生じない。
181レス長たらし毘古:2011/01/06(木) 21:37:25
>>177>>180続き)
>魏志倭人伝の倭国大乱は大和出雲連合と筑紫連合国との戦争。

対立図式は数種類考えられ、その可能性も否定しない。パワーバランスで考え
るとその構図も充分ありうる。但し、俺個人はそこはむしろ大和と筑紫連合が
出雲と決戦した時期と考える。当時近畿を出雲側が手中に治めていたかそれと
も筑紫側が治めていたか、という争点に成る。
むしろ近畿においても出雲側と筑紫側の「代理対立があった時期」と俺個人は
想定している。そしてその代理対立こそが、ニギハヤヒVSイワレヒコ(神
武)と想定する。
親分同士が講和による終戦を果たしたのだから、代理戦争のニギハヤヒと神武
も結果として「(憎らしくはあるが)講和による終戦をせざるを得なかった」
(※古事記:撃ちてし止まんの三首の歌を参照)と考えると自然だ。
そしてなぜ後代そのようにならざるを得なかったかと考えれば、紀伊国(出雲
の旧植民地)ゆかりの大毘古が、後に祟神と組んで近畿を完全掌握したと架空
するとスラリとつながるのである。「代理戦争は無かった」或は「スサノウ
VS天照とは関係無いよ」としたい訳になるのだから、出雲由来の先祖を持つ
大毘古としては、天孫(アマテラス由来)と物部(スサノウ由来)の両者を
納得させなければ近畿での治世が成り立たない。
そして記紀以前の蘇我の時代頃に、物部の出雲由来が不都合に成って来る。
だから天孫との婚姻を殊更に強調(表記)し、物部との関係性を薄くした。
記紀編集時点にはこれが完全になくなる。という架空筋はありうる。
182日本@名無史さん:2011/01/06(木) 21:54:23
>>179
鉄の流動に伴う形ですか?

>>180
淡路、近江が出雲に勝利した根拠は?

>>181
後漢末に黄巾の乱による影響では?
倭国のみならず、各地で戦争が起こってるようです。
183日本@名無史さん:2011/01/06(木) 21:55:28
うわ、長たらし。
184レス長たらし毘古:2011/01/06(木) 22:05:29
>>182
>淡路、近江が出雲に勝利した根拠は?

淡路(或は近江)が出雲に勝利したなぞとは全く言っていない。レスはありが
たいですが、ちゃんと文章を読んで欲しい。
「淡路(もしくは近江)にイザナギが流刑された」と解釈する側が、記紀編集
時までに最終勝利した結果と言っているだけ。淡路(或は近江)が、出雲から
見ても大和から見ても「国境」に位置するという見方は可能。紀伊の国もその
意味では「国境」と想定すると、当時以前の出雲と大和の境界線は、紀伊〜
淡路〜近江のライン辺りと考えると、古事記的には矛盾が少ないと申している
だけの事。
185レス長たらし毘古:2011/01/06(木) 22:14:59
>>182>>184続き)
>鉄の流動に伴う形ですか?

鉄資源・鉄製造所の争奪戦も関係していると考える争点は可能かと。むしろ、
それがあるからこそ、大和は、共闘か対立かの選択を迫られる政治環境になる
とも考えられる。
186レス長たらし毘古:2011/01/06(木) 22:23:31
>>182>>185続き)
>後漢末に黄巾の乱による影響では?
>倭国のみならず、各地で戦争が起こってるようです。

「乱」は国境を超えて伝染し得ると言うのは世界史・日本史では良く見られる
政治現象ではありますね。邪馬台国が魏側に立ったとする魏志倭人伝を信用
するならば、非邪馬台国(あるいは反邪馬台国)は、反魏の側に位置する可能
性は皆無とは言い切れません。もちろん、明確にその立場に立ったという証拠
も、魏志倭人伝や記紀の三書からのみだと、見出し難いですが。
187レス長たらし毘古:2011/01/06(木) 22:34:04
卑弥呼の時代を開化大王の時代と想定している俺個人としては、ここで上記を
まとめておくと、卑弥呼の時代までには大和は以下三種の解釈が可能になる。

@筑豊の属国(或は辺境国)としての大和(筑豊視点)
A出雲の属国(或は辺境国)としての大和(出雲視点)
B将来的には上記両属国である境遇をいつか覆そうとする動機(近畿視点)

この上記三視点が開化大王の時期の大和王権においては並立可能なのである。
188唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/06(木) 23:15:21
モモソ姫は、孝霊の子共である、このモモソ姫が崇神に登場するためには、
1世代を何処かで差し引かねば、数字が合わない
開化は治世3〜5年しか割り振れない。ここに卑弥呼を置く。
書紀は崇神が任那を建国してから鉄が大和に流入する、とする。
纒向遺跡は、2世紀末から3世紀中葉まで、

書紀の記事や考古学をも無視すればどんな論も成り立つが、所詮おとぎ話の
創作でしかない。
189太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/06(木) 23:20:23
>>188
オマエは書紀の記事を毎回無視する。ww
その典型が書紀が言ってはいない五重在位とかいう怪物〜ブワッハッハ!
〜だ。オマエはこういうふうに書紀に逆らいメチャクチャな盲象たる捏象
のクソ論を毎回2ちゃんに撒き散らしている。
190レス長たらし毘古:2011/01/06(木) 23:39:38
>>188
>モモソ姫は、孝霊の子共である、このモモソ姫が崇神に登場するためには、
>1世代を何処かで差し引かねば、数字が合わない

古事記において、孝霊の子=孝元、孝元の子=開化、開化の子=祟神であり、
このデータを信頼するならば、祟神世代にとって、モモソ世代は、所謂孝元
世代になる。わかりやすく言うと「おばあちゃん世代(=2世代前)」であり、
おばあちゃん大活躍も、ありえなくはない。但し、俺個人は魏志倭人伝の
卑弥呼逸話時期=開化大王の時代と想定しているが。
俺個人の争点はモモソが、記紀に書かれていない「実は誰の妃であったか?」
を重視している。モモソの婚姻を、記紀編者、或は記紀編者以前に「隠され
た」と架空すれば、この問題も解決してくる。
祟神の母にして開化の妃にイカガシコ売命(開化のママハハとの事)とあり、
この人の名前の一部「色許(シコ)」は、出雲系神話の人名でも頻繁に登場
する文字でもある。(例:大国主の別名に葦原色許男神という呼称もあり)
祟神と組んだ大毘古が出雲由来氏族の可能性が高いので、祟神&大毘古の
タッグにより、その世代(つまり卑弥呼の次世代)に大和王権が「出雲に
接近した」という架空筋も、決して可能性低い話でもない。
そして、モモソ(のご兄弟)は、その当時の寸前までは、問題無く「淡路(
或は近江)」の有力者なのである。(※古事記参照例:モモソの妹=淡路の
王の娘。モモソの弟の一人=吉備の王。(別の弟は豊の国の王))

開化とモモソの間の子が仮にいると架空し、その子がタケハニヤス王だとした
ら、その血脈存在は、祟神&大毘古グループにとっては、いの一番に邪魔に
なる筈なのです。勿論、古事記にはそんな事は全く書かれていませんが。
191唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/06(木) 23:48:23
ヤマトトヒモモソ姫は、孝元の子共では無い、孝霊の子共である。

そして、鉄を持たない崇神時代に登場する。
箸中山古墳は250年頃造られ、埴輪(特殊器台)が存在する。

ここに開化を持ってきても、おとぎ話の類にしかならない。

192唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/06(木) 23:54:51
>祟神の母にして開化の妃にイカガシコ売命(開化のママハハとの事)とあり、
崇神の母は、孝元の妾(イカガシコ売)を貰った開化がその妾(イカガシコ売)に生ませた子共である。
だから、タケハニヤスの乱は、これを嫌った旧朝廷勢力の乱である。

>開化とモモソの間の子が仮にいると架空し、

おとぎ話を創作する。となる。
193レス長たらし毘古:2011/01/07(金) 00:00:46
モモソは孝霊の子であることは、古事記も俺も、全く否定していない。但し、
孝霊の子ではあるが、その表記は、古事記においては孝霊の子の中でも、比較的
後の方(最後の方)の表記である。このことから、孝霊の子の中でも、「比較的
遅い子供」と考える事も可能。その条件なら、開化時代〜祟神時代にかけて、
モモソ毘売が、「政治的には充分現役」である可能性はむしろ高い。

充分現役であるなら、卑弥呼のような外交が可能な政治ポジションであり、
畿内説であれ、九州説であれ、いずれにせよ魏の使者(かその外注下請け)
と謁見する地理的条件もまた、可能なのだ。但し、俺個人はその謁見場所
は九州東北部(所謂女王国=九州豊の国南部)と見ているが。
194日本@名無史さん:2011/01/07(金) 00:02:04
うわ、あまり長くない。
195レス長たらし毘古:2011/01/07(金) 00:10:35
ま、「タケハニヤス王が、開化とモモソの間の子」と言うのから以降は、確か
に俺の妄想要素が強い事は否定しない。むしろ、現時点では妄想であろう。

但し、タケハニヤス王が「モモソ側」であり、祟神&大毘古が「出雲側」だと
したら、どうだろう?この構図は、別に古事記も全く否定しない。
最終勝者の祟神&大毘古グループは、まさしくその地域(つまり淡路・吉備
・豊の国)の人事を、自分の言う事を聞く所謂四道将軍の一人である、タニハ
ノヒコタタスミチノウシノ王にその後ソックリそのまま移管するのである。
196レス長たらし毘古:2011/01/07(金) 00:36:15
タケハニヤス王がモモソ毘売の子である可能性を完全否定するのは、日本書紀
だけなのである。日本書紀では、タケハニヤス王の乱の時に、モモソがむしろ
祟神&大毘古の側にいて、その反乱予兆を託宣し、その後、タケハニヤス王の
乱を鎮圧し、その後にモモソ毘売の怪死となる。
だから、モモソ毘売が卑弥呼で、モモソ毘売がタケハニヤス王の母ならツジ
ツマが合わなくなって来るのだが、その部分が日本書紀の「作った部分」だと
したら、少なくとも古事記典拠からだけでは、モモソがタケハニヤス王側に
組した可能性は否定しきれない。

モモソ逸話のほとんどが葛城逸話そのものである。従って、後に瀬戸内海を
牛耳った神功皇后血脈にとって、邪魔になる。だからこそ、宇佐信仰の発展
と日本史(神話)への組み込み作業時代に、モモソの実像は散逸すると考え
られる。旧辞・帝紀(古事記の以前の歴史書)の編纂時期までに、「モモソ」
が「壊滅的に謎の人物」になってしまったとも考えられるのである。
モモソは、祟神&大毘古グループによって隠され、神功血脈によって悪玉論
にまで成長する(代理で挿入されたのが豊玉伝説)。そしてその先ずっと後代
に、古事記編者がバラバラになったモモソの記録をかろうじて拾い出し、日本
書紀編者が悪玉と化したモモソの怪死伝説を正当化して表記するのである。
197日本@名無史さん:2011/01/07(金) 17:37:21
ううう、長たらし。
198唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/07(金) 18:39:55
>タケハニヤス王の乱を鎮圧し、その後にモモソ毘売の怪死となる。

モモソ毘売が一人であれば、怪死である。
もし双子、三つ子であれば、あり得る。
ホツマは三つ子と言っている、であれば、あるモモソ毘売は大物主に嫁いだが、
間男に妊娠させられ、堕胎に失敗し死亡する。そんな妻を大物主は葬らない。
崇神6年に大物主は崇神に身を寄せ、タタネコを跡継ぎとし、出雲に引きこもることを約束する。
こんな時に崇神世に登場したモモソ毘売が死亡する。
大物主と崇神は共同してモモソ毘売を葬る。石を沢山使ったことは否定しないが、現在の箸墓では無い。
199メ(早寝早起):2011/01/07(金) 20:47:50
徇葬についもう一度考えてみよう。

徇葬というのは、殉死の事なんだが、
この徇葬(殉死)だが、文献では日本書紀などにみれるが、
考古学では徇葬(殉死)が行われたであろう例は、いまだに無いというのが通説だろう。

しかし、吉野ヶ里遺跡などに行ッた事ある人はご存じと思うが、
王墓の古墳の周りに、一般的な土坑墓が百個ばかりあっただろう。
遣使は、それら百余りの霊園をみて、王にささげた命、
すなわち「殉死する者、百余り」と記したのである。

たとえば〜九州最古の前方後円墳とも言われる「赤塚古墳」でも
古墳にささげる土坑墓がその周りにある(数は百基も無いかもしれんが・・・)
http://zeno.web.infoseek.co.jp/09fudoki/usa.html

これらは倭人伝のいう、徇葬だろうね。。。
200日本@名無史さん:2011/01/07(金) 20:50:14
メ は 人カマドウマ
201日本@名無史さん:2011/01/07(金) 20:54:43
>前方後円墳の全国的な急速な伝播というのは単なる交易関係では
>説明がつきそうもない。これは卑弥呼の倭王冊封による影響と考えたほうがいい
>だろう。纏向を訪れた首長たちは、そこに前方後円墳と王権を見たんだな。
>瀬戸内と東海が結びついた時点が王権の出発点だったんだろうが、魏からの認証
>により、大きく地方を巻き込んで回転し始めたんだよ。

おおちゃくになにがさっぷうだw


202メ(早寝早起):2011/01/07(金) 21:10:32
魏志倭人伝には倭について1984字書かれている。
コレを主に3つに分けて

第一章
・行程記事と周辺諸国
第二章
・倭の風俗と卑弥呼について
第三章
・外交記事

↑知ってるよyで、知らない人多いんじゃない?
203メ(早寝早起):2011/01/07(金) 21:23:21
>従来有力説の@畿内大和説、A筑後山門説、B筑後御井説、C肥後山門説、D筑前甘木説、E筑前博多説、F従来の豊前宇佐説、
>のいずれもが倭人伝記事との整合性において、素人が一見して分かる矛盾を抱えております。
>江戸時代の新井白石氏、本居宣長氏、明治の那珂通世氏、吉田東伍氏、内藤虎次郎(湖南)氏、白鳥庫吉氏などの諸学者は、
>九州説・畿内大和説に分かれながらも、里程日程論は皆、旅程を順次式(直列式行程)に読む連続説に従ってきました。
>しかし、連続説は里程日程について矛盾ない説明体系を提示し得なかったのは周知の事実です。
>これに対し東京大学教授の榎一雄氏は、昭和22年の論文「魏志倭人伝の里程記事について」 で、
>伊都国以降の奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国は、すべて伊都国からの方位・距離を放射状に示すものとする新学説
>いわゆる放射説を提案しました。
>この放射説は中国史書に読み方の先例があり、最近の邪馬台国=九州説者の多くが放射説に従っています。
>一方、畿内大和説のほとんどは連続説ですが、一部には立命館大学名誉教授の山尾幸久氏のように放射説の人もいます。

どの邪馬台国本にも書いてる内容だ。
それにしても山尾幸久とかの"文献専門"は、放射式で読むのか〜
ふ〜んってかんじだよねw
204メ(早寝早起):2011/01/07(金) 21:27:22
>江戸時代から300年に及ぶ邪馬台国論争は、明治43年に京都帝国大学教授の内藤虎次郎氏が
>論文「卑弥呼考」(畿内大和説)を、また東京帝国大学教授の白鳥庫吉氏が「倭女王卑弥呼考」(九州説)を
>相次いで発表して以来、九州説と畿内大和説が対立して来ましたが、魏志倭人伝などの文献からは、
>おおむね九州説が優勢で推移してきました。
>しかし、最近の10年は奈良・黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡33面などから考古学を根拠に畿内説が大変勢いを増しています。
>さて、邪馬台国畿内説で主張されてきた三大根拠は、
>1)箸墓は卑弥呼の墓、2)三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡、3)1402年に朝鮮で作成された混一彊理図(世界地図)、
>加えて最近では4)木材の年輪年代測定法。

この人は何年前の九州説だw 最近の10年・・・
205メ(早寝早起):2011/01/07(金) 21:36:31
誰かはなそうぜぇ

おりておいで
206日本@名無史さん:2011/01/07(金) 21:39:36
>>199

>徇葬というのは、殉死の事なんだが

んなわきゃねえだろ
207メ(早寝早起):2011/01/07(金) 21:41:35
>>206
>んなわきゃねえだろ

じゃどういう事なんだい?
さ、さ、説明宜しく! 説明も出来ないのに始めっぱら言うなってはなしでw
208日本@名無史さん:2011/01/07(金) 21:48:52
>>203
倭人伝はまちがいなく放射式で書いているよ。放射式ではないなんて言う奴は、漢文を読む
力は大したことがないと思ってよい。
209日本@名無史さん:2011/01/07(金) 21:53:37
>>207

>じゃどういう事なんだい?

聞きてえのはこっちだ。

>説明も出来ないのに始めっぱら言うなってはなしでw

会話の仕方もしらねえ鼻たれか?徇葬というのは、殉死の事なんだがと断言しておいて
突っ込まれるとファビョるのか。
210唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/07(金) 21:53:56
纒向遺跡を説明する為には、考古学と数字を合わせなければ説明出来ない。
考古学:纒向遺跡は2世紀末の無人の大地に人々が移り住み、3世紀半ば
の箸墓をもって衰退する。
つまり文献もここに、崇神、垂仁、景行を宛がわなければ、説明出来るのは
最初の一点のみであり、あとがまったく説明出来ていない。
例えば 箸墓=モモソ姫としても、「名前が合う」以外は全く説明出来ていない。
正しいと認められる歴史とは、書紀の記事が、考古学により裏打ちされ、他の
文献と整合性を得られた時のみである。

箸墓=250年±10年=鉄が大和に流入以後の墳墓。
鉄の流入は、崇神世の任那建国による、垂仁以降である。

箸墓=伝承のモモソ姫の墓。この一点のみを正しいとした場合、これ以外
何も説明出来ていない。
任那建国=崇神時代。魏が半島を管理する時代に任那建国の記録は無い。
または、不可能な出来事である。
211唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/07(金) 21:59:25
考古学の言い分
弥生後期後半に、各地の遺跡が捨てられる。
2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれる。まだ鉄は無い。
“辻”3世紀前半の大型建物、その後に、土盛りをし整地して3世紀中葉の大型建物。
ホケノ山古墳(箸墓以前)に半島式墳墓と鉄器の大量副葬。
この言い分を正しいと出来る文献
新羅本紀:192年 4月大雪。193年 飢餓のため倭人大量渡来。
後漢書:193年 6月寒風冬の如し。
書紀: 崇神5年 民の疫病(飢餓)、死、6年民の離散。10年 異俗多帰。
新羅本紀:209年 伽耶に援軍。金官伽耶は541年新羅に身を寄せる、この時建国330年
と言っているから、任那(伽耶)建国は209年。
倭人伝: 239年 都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
書紀:田道間守の葬儀の許可を景行が出す。ホケノ山に田道間守を殉葬。鉄流入後の墳墓。
考古学:土盛りをし整地して3世紀中葉の大型建物。
土盛りをすれば、土地は乾く、代す。日代宮。
212メ(早寝早起):2011/01/07(金) 22:02:31
>>208
>倭人伝はまちがいなく放射式で書いているよ。放射式ではないなんて言う奴は、漢文を読む
>力は大したことがないと思ってよい。

だからどう放射式に読むんだい?
ホレ、どうした?説明宜しく〜!

>>209
だから教えてやってるじゃん

213日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:11:44
>>212

>だから教えてやってるじゃん

アナタニホンゴワカリマスカ?

まっかく会話になってねぇぞゴラぁ


>徇葬というのは、殉死の事

さあ、断言したんだ。説明しろよ
214日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:12:59
>どう放射式に読むんだい?
放射式の読み方ぐらい知ってるだろ。
それに理由だってどんな本にも一通りのことは書いてある。
何が知りたいんだ? 
215メ(早寝早起):2011/01/07(金) 22:15:12
>>210
>箸墓=伝承のモモソ姫の墓。この一点のみを正しいとした場合、これ以外
>何も説明出来ていない。

箸墓=モモソ姫の墓
三陵志に書いてるではないか

>>213
こっちが説明宜しくって言ってるんだよ 面白い人だな〜ww
216メ(早寝早起):2011/01/07(金) 22:19:42
>>214
だから〜なんで「放射式」になるんだい?て聞いてる。
まさか、放射式で読んでいる人等がなんて説明してそうしてるのか知らないわけじゃないよね?
こっちはなにもかも全て「知ってて」意地悪な質問をしてるんです。
だから〜説明してくださいな
217日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:26:12
>>216
理由はどんな本にも一通りのことは書いてあると言っただろうが。
それを知りたいんならば自分で読め。その理由に文句があるというなら相手を
してやってもいいが、どこが分からんのか説明をしてくれんと話が進まんね。
218唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/07(金) 22:28:17
>箸墓=モモソ姫の墓 三陵志に書いてるではないか

墓など死んだ人の数ほどある。
大市にも墓はある。その中で何故 箸中山古墳がモモソ媛の墓となるのか?
天武朝の箸陵が箸中山古墳であり、大王の墓である。
219メ(早寝早起):2011/01/07(金) 22:29:09
>>217
ほれ、放射式くん
どうして放射式になるのか知らないのかい?w
本に書いてるじゃなくってw どの本のどのページになんて書いてるんだい?
それをここに書き込んでくれって言ってるの。
ほれ、ほれ、どうした?ww おめでたいのぉw
220日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:29:46
メ は 人ムカデ。
221日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:32:04
関東の覇権を争って蛇(出雲)とムカデ(大胡、タタール)が戦ったのが日光戦場ヶ原。
メは、タタールだな。
222唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/07(金) 22:34:55
箸墓=モモソ姫の墓=250年±10年
この数字で任那建国を正しいと出来れば、まだ望みはある。
しかしまだ誰もそこに触れない。
223太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/07(金) 22:37:03
>>163 >>164 >>165 続き
大祓祝詞に曰く

天津神算木(天津金木)

 4πr**3/3=113.097335529232556584655161798』06

「斯く聞こしめしては ・・・罪という罪は在らじと 科戸の風の
 天の八重雲を吹き放つ如く・・・」 

科戸(シナ戸:級長戸)とは小数列のいよいよもって更に長い〜ここでは
ミワ(三○)たる30桁に接近する延長桁のあたりをいう。
そこのへんの7(ナ)数がシチから略読みで シ と読めることから、
7(ナ)の音韻が4(シ)に相通じること(呼吸できること)を示唆して
おり、4と7とが音韻的に呼応していることを強調している。そこで
天津神算木の30桁近隣の ・・・179・・・ の三数は 149 と呼応する。

 179→149

天の八重雲とは30桁目とその隣数 98 を 88 のゾロ目にすることを示唆
している。8数が88と重なるわけである。

 98→88

ここから 149 と 88 によりて

 149+88=237年=崇神天皇即位元年(実年代)=景初元年

が、雲間から日が見えるように〜真の年代が煌く。
224太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/07(金) 22:39:57
大王の臣下(家来)伊支馬 ≠ 家来よりえらい 垂仁大王
225唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/07(金) 22:41:20
太国も箸墓=崇神世だろ。
早く
崇神世=任那建国
神功渡海
神功49年 半島占拠
を数字で主張しな。
226日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:43:30
>>219
君はどんな本をもっているんだ?
227太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/07(金) 22:44:23
半島史紀日法研究家 唐松山酋長殿

42年を具体的説明で主張しな。
228日本@名無史さん:2011/01/07(金) 22:50:35
>>215
オマエ真性のバカだろう。

断言した奴が説明出来ずにファビョって相手に説明を逆に求め返す。
オマエの頭の中じゃそんな会話常識のように思ってるんだろうが、そんなの世間では通用しない。
229唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/07(金) 22:52:46
>42年を具体的説明で主張しな。

非常に興味ある仕様があるが、ホツマを信用しない人に提示しても
何の意味も見いだせない。
だから書き込まないが、神武東征で畿内の政治体制は大きく変わる
弥生中期と後期を別ける1世紀半ばの出来事である。
230メ(早寝早起):2011/01/07(金) 22:56:44
ほれ、ほれ、どうした?ww おめでたいのぉw
説明できないんだろ?くやしいいのうw くやしいのうwww
231太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/07(金) 22:58:03
>>229
説明しなけりゃぁ餌をつけない釣り。ww
誰も信じてはくれないぜ。結論を書くだけでは駄目だ。
餌がなければ大魚(納得者)は喰らいつかない。><

こちらはホツマを信じないとは言っていない。ホツマに42年と
ズバリ書いてはいないだろうが? オマエの妄想年表からの出鱈目。
232唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/07(金) 23:04:46
ここは、女王卑弥呼を考えるスレである。
だから神武東征は直接関係しない。
大事なのは、崇神からの歴史であり、書紀の記事がどの年代であるかを論議するのがスジ。

>ホツマに42年とズバリ書いてはいないだろうが?
太国倍年じゃあ無いからな。
西暦を宛がうのは、書紀、考古学、文献、この三点で整合性がとれること。
233日本@名無史さん:2011/01/07(金) 23:11:02
>>230
さすが2chだな。
社会常識から脱線した奴らの溜まり場だったようだ。


いい勉強になったよ

ありがとよ。     早く社会復帰しろよ。
234太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/07(金) 23:17:04
>>232
オマエのは全然整合性が無い。
まず家来の伊支馬が大王垂仁だとは不整合極まりない。これではまるで
映画の「猿の惑星」さながらの滑稽論である。www・・・www
猿(臣下=家来)が人間(大王)より上であり人間(大王)が猿(家来)
より下であるストーリーさながらの被嘲笑論そのものである。ppp www
これではジョーカー氏よりwwwを更に長くwww更科とせねばならない。
つまり全然整合していな〜い。

次は船舶のアリバイが崇神5,6年に無く、船舶の始めて製造されたのは
崇神17年の十年後(倍暦では3年余だな)であり、とてもとてもジャンボ
千人乗りの大船舶は為しえない。これもアリバイが無いんだから、整合
しておらず、紀の供述との食い違いがあるわけで時件は解決出来ていない。

日食も日を経ての数日間も続かない。これを日食と強行しても、これも
天文学と整合しておらず、ホツマ族酋長なら現代天文学の鉄則を否定
するわけで、唐松山酋長は蛮族脳そのものである。www

こんな不整合がうんとあるんじゃ、もう出鱈目以上のメチャクチャだな。
235太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/07(金) 23:22:06
>>234 訂正
× 崇神17年の十年後
○ 崇神17年という十年後
236メ(早寝早起):2011/01/07(金) 23:30:10
>>230はおれじゃないが・・・

放射式くんは何も答えれないようで逃げて行ったようだねw
さて、ねようかな
237メ(寝る前):2011/01/07(金) 23:48:39
放射式くんへ(偉そうに「放射式」を言ったが説明もろくに出来無かった君へw)

倭人伝の行程記事には、伊都国以前は方角、距離、国名と順に記されてるのに対し、
伊都国以降は方角、国名、距離と記載がされている。
この距離と国名の順序が替わっていることに着目し、奴国以後の国々は伊都国を起点として
読むべきとしたのが、かの有名な「放射式」です。

そして、私が>>203で「放射説は中国史書に読み方の先例があり」と描いたとおり
そういう事例からも「よめなくはない」ということですな。
238日本@名無史さん:2011/01/07(金) 23:54:23
>>21
それって確か呂后ですよね。
以前に塚本史さんの『呂后』を読んだときにその記述を見てガクブル状態になったのを覚えております。
そういえば本宮ひろ志の『赤龍王』でも呂后の人物紹介で残虐なことした人だってことが書いてあったな〜
239日本@名無史さん:2011/01/07(金) 23:54:44
>この距離と国名の順序が替わっていることに着目し、
順序がかわっていることが何で放射説に結びつくの?
240日本@名無史さん:2011/01/07(金) 23:58:38
ドツボには華が無い。
何故、華が無いかわかるか。

河童とドツボの違いがわかるか。
241メ(寝る前):2011/01/08(土) 00:14:45
>>218
>日本書紀 崇神天皇
>倭迹迹日百襲姫命、大物主神 の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来す。
>倭迹迹姫命は、夫に語りて曰く、「君常に昼は見えずして、夜のみ来す。
>分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀を勤たてまつらむと欲ふ」といふ。
>大神対へて曰はく、「言理灼然なり、吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。
>願はくば吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。
>ここで、倭迹迹姫命は心の内で密かに怪しんだが、明くる朝を待って櫛笥を見れば、まことに美麗な小蛇がいた。
>その長さ太さは衣紐ぐらいであった。それに驚いて叫んだ。
>大神は恥じて、人の形とになって、其の妻に謂りて曰はく「汝、忍びずして吾に羞せつ。
>吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。よって大空をかけて、御諸山に登ってしまった。
>ここで倭迹迹姫命仰ぎ見て、悔いて座り込んでしまった。
>「則ち箸に陰を憧きて薨りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。
>故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。

上記の日本書紀、三輪山の大物主との神婚伝承からみれば、倭迹迹日百襲姫命の箸墓は、
三輪山の麓に並び立つ「箸中山古墳」が相応しいのではなかろうか?
242メ(寝る前):2011/01/08(土) 00:23:45
>>238
12月17日のテレビ「世界を揺るがせた100人の女」 残酷な女の ベスト2で
中国の王妃 の 『人豚』 をやってたんです。
怖いですよね><

>>239
一から十まで説明するの面倒なので、
邪馬台国本を購入して、ご自分で調べたらいかがかな?

>>240
>河童とドツボ

誰だそりゃw おれしらん
243日本@名無史さん:2011/01/08(土) 00:33:34
スレ53になっても1ミリも終止符に近づいていない。

厚顔無恥も甚だしい
244メ(寝る前):2011/01/08(土) 00:43:48
唐さん

「箸墓=倭迹迹日百襲姫命の墓なのか?」について

寛政3年(1791年)の大和名所図会では、現在の箸墓みたいですね。
今適当にぐぐってたらヤフーのバカのホームページに行き着いてるしw
http://blogs.yahoo.co.jp/longwestlonghigh/60418690.html
245日本@名無史さん:2011/01/08(土) 07:21:06
>>242 放射説をどこまで理解しているのかなと思って聞いてみたんだが、
やはり意味を知らないで言ってるだけか。
246唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/08(土) 08:56:53
>>244
伝承が正しければ、景行、崇神陵も正しくなる、しかし書紀は、鉄の流入を
垂仁からとする、そして埴輪も垂仁後半である。この時点で全てが間違いであると結論づけられる。
以前の設定は、崇神=250年頃、箸墓300年過ぎであった。つまり当時の考古学は文献に合わせて主張されていた。
しかし、卑弥呼以下疑問は解決されていなかった。今考古学が50年遡上したことにより、崇神=箸墓=250年となったが
そこで皆さんが文献と考古学が合致した、と喜んでいるが何も解決していない。何故か?
これを考えると、日本書紀を百済本記に合わせる、現実には合うことがないので、近い数字を宛がう
七支刀=369年。近い数字である以上の整合性は得られていない。
七支刀は369年であるが、半島占拠は無かった。書紀の主張が受け入れられない。
何処かに齟齬があるため、整合性が得られていない。では何処に齟齬の生じる原因が有るのか?
それは、半島の歴史さえ証明出来ない韓国考古学の使用する”百済本記”に起因する。
百済本記を使わなければ、
日本書紀の主張は、50年遡上した考古学と同期する。
崇神、垂仁、景行3代は、考古学の主張する2世紀末から3世紀中葉の箸墓築造をもって衰退に向かう。
247日本@名無史さん:2011/01/08(土) 10:35:15
伝承が正しければ、景行、崇神陵も正しい。そして書紀は、鉄の流入を
垂仁からとする、さらに埴輪も垂仁後半である。この時点で全て正しいと結論づけられる。
以前の設定は、崇神=250年頃、箸墓300年過ぎであった。つまり当時の考古学は文献に合わせて主張されていた。
しかし、卑弥呼以下疑問は解決されていなかった。今考古学が50年遡上したことにより、崇神=箸墓=250年となったが
そこで皆さんが文献と考古学が合致した、と喜んでいるが何も解決していない。何故か?
これを考えると、邪馬台国も卑弥呼も畿内ではなかったと結論が妥当だと気づくべきではないだろうか?。
248日本@名無史さん:2011/01/08(土) 11:02:20
>>242
ちなみに、その番組では、惨酷な女ナンバー1は誰でした??
249太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/08(土) 11:54:02
>>247
>邪馬台国も卑弥呼も畿内ではなかったと結論

オマエの〜
〜あるときは九州兼畿内説またあるときは畿内説との〜自信のない二股の
小ズルいピンボケ論の誤りの出鱈目をオマエ自身で認めたことになる。ww

やっと妄想の一つに目が覚め、誤と認めたのか〜?bbb 遅きに失したな。
250太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/08(土) 11:58:14
>>247どの
失礼! 唐松山だと思って、コチラが間違えた。スマン! 撤回だ。
貴殿のことではない。訂正します。
なにせ目が悪いもので・・・。 ご免。これは唐松山への伝言だった。

あいつはあるときは九州兼畿内説あるときは畿内説といい加減な書きこみ
ばかりでインチキだよ。
251太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/08(土) 12:00:27
>>247氏の書きこみは無コテで、唐松山と間違える内容なんだが・・・?
252日本@名無史さん:2011/01/08(土) 14:26:34
簡単に釣られちゃってかわいそう。
253太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/08(土) 14:55:53
やっぱり唐松山らしいが・・・?ww
卑弥呼とその女王国説のその自説の出鱈目に気づいて来たのか?
妄想に目覚めることはいいことだが・・・?
254唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/08(土) 15:12:49
ほんとかわいそうなキャラ。
255太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/08(土) 17:00:53
マァ自説がおかしいと少し気づき出したんだろう?ww
それでキマリが悪いから〜唐松山の奴、無コテで書きこんだみたいだな?
どうも変だと思った?

畿内兼九州説にしたり畿内説にしたり、奴は奴の自説に自信がないから
行ったり来たりの二枚舌で双方の説を時と場合により使い分けしてスレ民
を誤魔化し結局騙していたわけで、このごろこれでは不合理があるのを
気づき始めたのかもしれない? あいつはいつも間違いのほうを採ること
ばかりだった。いわばイカモノ喰いで失敗してたわけなのさ。ppp
256太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/08(土) 23:20:20
>>247
>これを考えると、邪馬台国も卑弥呼も畿内ではなかったと結論が妥当
 だと気づくべきではないだろうか?。

どうしてそういう〜畿内ではなかったとの結論が妥当と気づいたのか?

>>247の説明では、そういう結論に至ったその明確、具体的意味説明が全然
なっておらず、不十分である?
257日本@名無史さん:2011/01/09(日) 08:31:13
記紀には、女性が天皇であったとはまったく書かれていない。
女王卑弥呼は畿内の歴史には該当者がいない。
258247:2011/01/09(日) 12:08:22
「結論先にありき」で物事を推察しようとすると、
検証の過程とその結果、導きだされるべき結論がチグハグになっていることに気づかないものです。
唐松山氏の説も、編年の根拠となる史料についてはよく検討していると感心して読んでいたのですが、
突然、それと結びつかない結論を持ってこようとした。
わたしは、あっけに取られてしまいます。
それで、ちょっといじってみたのです。

本人が書いたと、誤解を与えてしまったことをお詫びいたします。m(__)m
259唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/09(日) 12:28:54
女王卑弥呼は、伊都国を傘下とする。
女王卑弥呼と男王は、戦いの最中に死ぬ。
260日本@名無史さん:2011/01/09(日) 12:59:19
>>259
>女王卑弥呼と男王は、戦いの最中に死ぬ。

卑弥呼は多分そうだろう。しかし男王については不明としか言いようがないな

>女王卑弥呼は、伊都国を傘下とする。

これは同意。
261唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/09(日) 14:24:13
>男王については不明としか言いようがないな

壹與を立てた時分まで、戦いは続く。

これを景行時代に当てはめれば、
247年? 景行12年 九州へ派兵から
同20年 壹與(五百野姫)を軍隊付きで筑紫へ派遣
同27年 日本武尊を派遣
同40年 日本武尊を関東に派遣
261年 景行死亡

大倭は、女王の伊都国に一大率を置き諸国を検査する。壹與の時代であり
諸国が背けば、この軍隊が平定にあたる。諸国は、一大率を畏れ憚る。


262日本@名無史さん:2011/01/09(日) 17:59:17

イヨタン・・・・・・・・・・
 
263太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/09(日) 23:00:00
1/16 の8ch TVの「卑弥呼」の番組っていうのは、

 「逃走中」

か〜。これは面白いが、直接古代史研究関係でもなさそうだな?
264日本@名無史さん:2011/01/10(月) 07:35:21
何か妄想ばっかりだな。畿内説からは、万二千余里をどう考えるんだっけ?
265唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/10(月) 08:56:28
魏書に従って万二千余里進んだら、海上に出てしまう。
だから晋書により訂正される。
晉書卷一 
正始元年春正月,[七]正始元年 「正始」上各本皆有「魏」字。周家祿晉書校勘記以下簡周校:
「『魏』字衍文,蓋前有『魏國既建』,『魏文帝即位』,黃初以下皆蒙上為文。」今據刪。東倭重譯納貢,

東倭とは、西の九州倭国に対する東倭であり、正始元年以降倭王と表記され伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
を都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守の次の代表とする。
266日本@名無史さん:2011/01/10(月) 09:30:13
>魏書に従って万二千余里進んだら、海上に出てしまう。
不弥国までで1万7百里だから、あとはたった千三百里だろ。
海上にはでないはずだが。
267日本@名無史さん:2011/01/10(月) 10:08:45
鹿児島に間違いないでしょう。
末盧国から南のはずれですから。
268日本@名無史さん:2011/01/10(月) 10:44:04
いい加減にしてくれよ
フミ国から、南、南なんだから九州中部より南以外考えられんだろ
畿内から当時の遺跡がどんなにたくさん出てきたとしても、それは人間が住んでいたことの
証明にしか過ぎない
邪馬台国とは全然関係ない話である
269唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/10(月) 11:02:33
不弥国から南至投馬國水行二十日、さらに南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

つまり、水行を1日10Kmとしても、300Km南下しなければならない。
南海上にでる。
女王国を鹿児島にしたら、狗奴国が無い。
女王国を九州中部にしたら、狗奴国は鹿児島、鹿児島が数年間、1000人以上の死者
を出す戦の相手か?
270終止符貼りますね:2011/01/10(月) 11:03:54
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/              ┃           /ヘ   /
〜 〜 {ヽ_ /  {_/              ┃    「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/      ★末盧国         ┃          ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~                        ┃             /
                           ┃ 「一大国」      /
          _ |ヽ■伊都国       ┃      /▲フ   /
       /ヽ/ |/ |       伊吹山  ┃      | 「 /
      |      ヽ ★奴国       ┃      | |__/
       ヽ,  水行 ヽヘ  ★不弥国  ┃     /   トヤマ
       |      ↓ /           ┃ ↓  / カナザワ
     ┌ '        ノ          ┃ ↓ /
    /        ノ           ┃ ↓|フクイ
   丿      ノ ^’            ┗━━━━━━━━━━━
  |_ 水行↓,/
  /  _/ヘ/▲投馬国
  | |    \                   末盧国・・・敦賀市
 /  >   天 \                伊都国・・・旧伊香郡高月町
/  /     安 \               奴国  ・・・長浜市
\ |        川               不弥国・・・米原市
  ∨             ☆呼邑国    投馬国・・・野洲市・守山市
                          
      邪馬台国 ★ 天         邪馬台国・・・旧信楽町
               岩 ☆為吾国    
             戸             呼邑国・・・甲賀市
                           為吾国・・・伊賀市
            ☆巴利国        巴利国・・・名張市
      ☆烏奴国               烏奴国・・・宇陀市
  ☆奴国                    奴国 ・・・奈良盆地
271唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/10(月) 11:17:05
邪馬台国酋長狸説。
272日本@名無史さん:2011/01/10(月) 12:37:50
邪馬台国は四国は土佐ではないの?
末盧国とは愛媛県松山市。
松山から陸路、南に下れば土佐にたどり着く。
坂本龍馬もこのルートで上京しているし、
坂の上の雲の秋山兄弟は村上水軍のの血を引く海洋系渡来人。
中国は呉と繋がりがあったことは間違いない。
土佐山田こそ邪馬台国だったのだ!

今の四国の人口や経済情勢から判断するのは早計だ。
273日本@名無史さん:2011/01/10(月) 12:50:58
俺、ついこのまえまで、土佐は九州だと思ってたよ。
274日本@名無史さん:2011/01/10(月) 13:12:41
薩摩藩と土佐藩は海一つ隔てたお隣同士。
275日本@名無史さん:2011/01/10(月) 15:57:27
九州東西5月、南北3月という記録がある。
常識的には東西南北が逆のような気がするが
そのまま読んでも50キロ〜100キロのあいだだとは言える。

自分は確認していないが、済州島の記録だと
一月=80キロという記載がどこかのスレで出ていた。
276九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2011/01/10(月) 16:35:51
>>275
>自分は確認していないが、済州島の記録だと
>一月=80キロという記載がどこかのスレで出ていた。

僕がどこかに書いた。九州王朝関連スレだったと思う。
一月行=80〜90km
今は、一月行≒90kmと思っている。

「東西五月行」とは東西にあるの境界線の長さが五月行の意味
「南北三月行」とは南北にあるの境界線の長さが三月行の意味
上記も済州島のところと同じ読み方したもの。

済州島を東西に長く南北に短い島であると読めば、
周辺諸島を含む九州島は東西270km南北450kmの島々である読める。


以上、数ヶ月ぶりに書き込みました。
277日本@名無史さん:2011/01/10(月) 16:46:13
>以上、数ヶ月ぶりに書き込みました。

奈良盆地湖ネタ以来ですか?W

278九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2011/01/10(月) 16:57:32
>>276の修正

>>275
>自分は確認していないが、済州島の記録だと
>一月=80キロという記載がどこかのスレで出ていた。

僕がどこかに書いた。九州王朝関連スレだったと思う。
一月行≒80km

「東西五月行」とは東西にあるの国境線の長さが五月行の意味
「南北三月行」とは南北にあるの国境線の長さが三月行の意味
上記も済州島のところと同じ読み方したもの。

済州島を東西に長く南北に短い島であると読めば、
周辺諸島を含む九州島は東西240km南北420kmの島々である読める。


以上、数ヶ月ぶりに書き込みました。

『其南海行三月 有tam[身冉]牟羅國 南北千餘里 東西數百里』隋書百濟伝
『其國境東西五月行 南北三月行 各至於海』隋書俀國伝
279日本@名無史さん:2011/01/10(月) 19:51:10
素直に考えよう

南至投馬國水行二十日、南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月

水行二十日や、水行十日陸行一月なんていろいろな解釈が出来る
日数なのか、あるいは距離に換算するのか・・
そんなことはいくら議論しても結論は出ない

しかし、確実なことがある
それは、誰がどう考えても、方角の南は南なんだよ
北や東では決してない

そして、もうひとつ絶対確実なことは、邪馬台国は陸地にあったこと
海上にあるわけがないんだから

それら確実なことのみを論拠にしたら、有る程度の範囲は絞られる
あとは遺跡の発掘が待たれるのみ
280日本@名無史さん:2011/01/10(月) 20:50:34
@ 南至投馬國水行二十日
A 南水行二十日至投馬國
A 南水行至投馬國二十日

@ 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
A 南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都

@とAの違いが解るなら、解釈はひとつ。
邪馬壹國の位置は確定する。


ヒント
@ 東行至不彌國百里
@ 東南陸行五百里到伊都國
@ 循海岸水行 到狗邪韓國七千餘里
@ 始度一海千餘里至對海國
@ 南渡一海千餘里 至一大國
@ 又渡一海千餘里至末盧國
@ 東南陸行五百里到伊都國

A 東南至奴國百里 
281日本@名無史さん:2011/01/10(月) 20:53:04
>>275

>九州東西5月、南北3月という記録がある。

もうここで間違ってるよね。
九州なんてどこにも書いていないに、九州という決めつけの元にここを読んでいる
このへんの認識を改めない限り、永遠に自己満足の世界から脱するっことはない。
九州なんて書いていないんだから、九州なんていうのとっちゃえよ
282日本@名無史さん:2011/01/10(月) 20:55:10
九州は解釈だけど合ってるよ。
283日本@名無史さん:2011/01/10(月) 20:55:22
>>280の番号打ち間違えた

@ 南至投馬國水行二十日
A 南水行二十日至投馬國
A 南水行至投馬國二十日

@ 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
A 南水行十日陸行一月至邪馬壹國女王之所都

@とAの違いが解るなら、解釈はひとつ。
邪馬壹國の位置は確定する。


ヒント
A 東行至不彌國百里
A 東南陸行五百里到伊都國
A 循海岸水行 到狗邪韓國七千餘里
A 始度一海千餘里至對海國
A 南渡一海千餘里 至一大國
A 又渡一海千餘里至末盧國
A 東南陸行五百里到伊都國

@ 東南至奴國百里 

284日本@名無史さん:2011/01/10(月) 21:00:36
陸行一月が80kmはともかくとして、
水行一月は同じ距離なのか?
水行十日は26kmくらいか?

水行と陸行の距離が同じなら、熊本当たりかな。
まあ、同じとは限らないけど。
285日本@名無史さん:2011/01/10(月) 21:08:21
地図で見たら、佐賀大和から、筑後の山門郡まで
南東方向で水行十日の26kmで到着するね。
ここから南に80kmだと、熊本だね。

宇美から南下する説もあるけど、
宇美からだと水行ができないから
この場合は宇美説が採用できない。

ううむ、前原伊都も重要だと思うのだが、
この説では入れられなくて、ちょっと悩ましい。
286日本@名無史さん:2011/01/10(月) 21:08:50
>>275
>自分は確認していないが、済州島の記録だと
>一月=80キロという記載がどこかのスレで出ていた。

一月行=1000里≒75m/里×1000里=75km
287日本@名無史さん:2011/01/10(月) 21:59:16
>>279
そのとおりだろうね。そして、陸行一月という記載からすれば邪馬台国があった
陸地はかなり大きいということだ。そのことからすれば、九州島の中以外にはあ
り得ない。
288日本@名無史さん:2011/01/10(月) 22:21:11
>>282

>九州は解釈だけど合ってるよ。

何が合ってるの? 
289日本@名無史さん:2011/01/10(月) 22:24:21
東西5月、南北3月は九州についての記載だということ。
290日本@名無史さん:2011/01/10(月) 23:07:21
二ルート氏の必死な訴え

『アナタ アナタ、ニォンゴ ワカリィマスカ?』は

皆の心に届いたのか?w
291日本@名無史さん:2011/01/10(月) 23:50:15
人間の歩くスピードがデンデンムシより遅いと信じている邪馬台国九州説の人は大馬鹿者。
292日本@名無史さん:2011/01/11(火) 00:16:11
水行陸行の速度をご存じなかったのですか? お気の毒に・・・
293日本@名無史さん:2011/01/11(火) 00:23:56
不動産業界では人間の歩くスピードは1分間80mです。九州は馬鹿だから違うようだ。
294日本@名無史さん:2011/01/11(火) 07:07:36
誰も違うとは言ってないね。
295メ(すぐオチ):2011/01/11(火) 07:29:53
余所の掲示板に書き込んだのだけど、ここにも書き込む。

魏志倭人伝というのは、外国人から日本列島を観たものであり、
まちがっても日本の歴史書ではない。

邪馬壹国や邪馬臺国というのは、深く考えることない、
ただたんに、古代日本の「ヤマト」というプレ王権を指し、漢字表記したものである。
で、三世紀当時の日本国家というのは、七世紀の政治体制よりの原始的で、
西日本一帯を統括する盟主はあったけども、九州やその他の地方は、近畿のヤマトに属しており、君の言う、九州王権などない。
絵空事を語るのもいいんだが、現実を直視して考えてみろよ。
296メ(すぐオチ):2011/01/11(火) 07:30:52
そもそも日本国家というのはその骨格である国体は天皇家であり、
この天皇家を中心として、倭の人々、すなわち古代の日本人達は協力して
日本国家というのを築いたのです。
本格的に、その日本国家ができるのは、推古天皇朝の六世紀からなんですが、律令国家を目指して、中央と地方とでの衝突も多少あっただろう。
言語虫にしろ、反骨心を語ってるが、"日本"というのは、外国の王を倒し、
次の王朝が出来るという、荒々しいモノではない。
言語虫みたいな奴には、神聖なる日本誕生を語るべからずというかだな。
邪悪な心で日本古代史を語る様子には違和感を覚える。
君も、その心を受け継いでるようで、日本古代の磯を築いた、
卑弥呼を「邪馬壹国・筑紫平野」だとか臺与(とよ)を「臺国・薩摩」だとか間違っても言ったらいけないのである。
297メ(すぐオチ):2011/01/11(火) 07:31:49
日本の国家誕生というのは、今の近畿地方にある奈良県ですね。

この事は、小・中学生では無理か、高校生ぐらいになったら、皆知ってるのではなかろうかと思う。

我々、大人は常識なんですが、この「日本」という言葉は、
七、八世紀はもちろん、推古天皇や欽明天皇にまで遡る。
古代史を追ってる人は皆御存じだろう。
まあ、研究者によっては、日本国家の祖神・饒速日尊の頃には、
すでに「日本」という小さな地名があったという人もおるぐらいですが、
その日本が誕生した奈良の大和朝廷の「前身」は日本書紀の神武東征をみるかぎりでは九州だろう。
しかし、ホツマに書かれてるのは、また違ったことが書いてるので、
必ずしも、一概に「王権の前身は九州から」とは言えないのではなかろうか。
298メ(すぐオチ):2011/01/11(火) 07:33:42
>@馬韓伝54ヶ国、書かれている国の数は55ヶ国、「莫廬國」が2回書かれている。
A辰韓伝12ヶ国、書かれている国の数は13ヶ国、「馬延國」が2回書かれている。
B倭人伝30ヶ国、書かれている国の数は31ヶ国、「奴國」が2回書かれている。これらに答えられればよい。 <

これは王朝氏の投稿かな?
299日本@名無史さん:2011/01/11(火) 09:13:30
>>西日本一帯を統括する盟主はあったけども、九州やその他の地方は、近畿のヤマトに属しており、君の言う、九州王権などない。
  絵空事を語るのもいいんだが、現実を直視して考えてみろよ。

途中までは割とマトモだったが、
ここからは何の根拠もない完全な思い込みだな


300日本@名無史さん:2011/01/11(火) 10:20:25
水行二十日、水行十日陸行一月
これを字面通りに解釈すると、九州も畿内も有り得ない
だから、この文言を捉えて、やれ九州だ、やれ畿内だと論ずるのは無意味
301日本@名無史さん:2011/01/11(火) 10:45:07
>字面通りに解釈すると、九州も畿内も有り得ない
これも完全な思い込みだ。どちらもあり得る。
302日本@名無史さん:2011/01/11(火) 10:57:39
日本書紀や古事記には、神武東征は書かれていない。
皇室専門家の八幡氏の指摘は興味深い。

神武天皇という名前は、日本書紀や古事記が編纂された数十年後に
おくられた名前であり、
原文には、イワレ彦という皇室の先祖がいたことしか書かれておらず、
彼が「神武天皇」だとは書かれていない。
303太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/11(火) 11:09:57
古代の皇族は名が長いので、神武とかの号は論説を早く書きこんだり
するときに利便性があるから、神武と書けばイワレ彦のことだと分かり
それでいい。
304日本@名無史さん:2011/01/11(火) 11:21:29
紀元前1世紀〜紀元後1世紀ぐらい、近畿王権の最初の倭王は、
本名がホアカリという名前の王であり
彼は、妃の父親である出雲王から出雲の領国を譲渡・禅譲される形で
はじめて、倭の大王になった。(播磨国風土記より)
彼は通称を天照国照彦といいい、文字通り
天津と国津の両方の支配者(=出雲国譲りを実現した王)とよばれていた。

このホアカリを初代倭王アマテルとしてカウントし
このホアカリと、天道日女命(大国主の娘)の間に産まれた
カゴヤマ命を二世大王として継承させることによって(近畿と出雲の合一)
近畿王権の大倭王としての正統性は保証されていた。

そういうふうに考えた場合、このホアカリの弟(兄という説もある)である
ニニギやその男系子孫である現皇室の正統性に疑問符がつく。
ニニギは、出雲国譲り直後、兄のホアカリの命令で、九州南部の統治を任されていた。
このニニギの子孫は、後に近畿本国で、ホアカリの御落胤(クシ玉)となのる
ニギハヤヒという人物のクーデターがあったので、それを鎮圧すべく
近畿本国に移り住み、やがて、ホアカリの子孫を助けて政治をするようになる。
それが、記紀で言う、神武〜孝昭あたりの時代だな。
305日本@名無史さん:2011/01/11(火) 11:23:24
水行一月も陸行一月と同じ80kmとすると、

水行十日が26kmだと筑後川河口の湿地帯を越える程度の距離だな。
水行二十日が52kmだと、佐賀からだと南関あたりか。

長崎島原もあるんだが、あのあたりはあんまり人口はなさそうだなあ。
306日本@名無史さん:2011/01/11(火) 11:36:10
水行陸行の速度はどこにも書かれてないのだから、先入観もたずに考えるべきだろう。
伊都国は末盧国から東南五百里、佐賀市付近であることはまちがいない。
となれば、そこから南へ水行二十日で行けるところ、しかも、戸数五万戸の国の首都が
あったところとなれば、川内平野が一番の候補地となる。
水行十日はその半分、したがって八代付近だな。そこで上陸して陸行一月となれば都城
盆地あたりがぴったりだ。それで全てが合理的に整合する。
307日本@名無史さん:2011/01/11(火) 16:02:33
女王國東渡海千餘里 復有國

方角については、この文章もある
伊勢湾を海だなんてバカげた解釈は、そろそろやめるべき
どう考えても女王国は九州東海岸沿いにあったのは間違いない
308太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/11(火) 16:09:01
まぁ〜九州の盆地だろうな・・・。
309日本@名無史さん:2011/01/11(火) 17:12:01
>>307
>方角については、この文章もある

方角じゃなくて方位だろ
310日本@名無史さん:2011/01/11(火) 17:28:17
方角には方位という意味があるね。
311日本@名無史さん:2011/01/11(火) 17:34:19
>>310

>方角には方位という意味があるね。

それは反対。
方位に内包される方角


312日本@名無史さん:2011/01/11(火) 17:37:21
メの文章に説得力が無いのはなぜかwww
メの文章に河童のような取り巻きが付かないのはなぜかwww
メの文書が何故か棒読みなのはなぜかwww
313日本@名無史さん:2011/01/11(火) 17:58:23
>>293 それは現代人が舗装・平坦地を歩く距離だろう。

 古代人が道なき道(前方を歩く人間が見えぬほど草深い)をワラジのようなものをはいて歩く距離ではない。

 陸行・水行にしても直線距離とは思えないしな。水行が海とも限らない。

314日本@名無史さん:2011/01/11(火) 18:07:50
陸行・水行が and なのかorなのかも分からん漢文では何を言っているのか分からんだろう。

 最短なら九州北部、最長なら関東あたりまで考えられる。
315日本@名無史さん:2011/01/11(火) 18:11:45
ときどき、ホアカリの話が出てくるけど、みんなの食いつきは悪いね〜。

そんなに関心無いの?
316レス長たらし毘古:2011/01/11(火) 19:01:27
>>285

個人的には宇佐の南の高天原辺りが好きだ。あそこらへんなら周辺に女王国が
あっても違和感は少ない。ニニギがひょっこり現れる場所辺りに重なる図式
だと古事記&魏志倭人伝的には違和感は少ない。(日本書紀的にはどうかは
省略するが)

>>304
>ニギハヤヒという人物のクーデターがあったので、それを鎮圧すべく近畿
>本国に移り住み、やがて、ホアカリの子孫を助けて政治をするようになる。

横からで申し訳無いが一応古事記ではニギハヤヒは、天照に対しても、ニニギ
子孫(イワレヒコ含む)に対しても、別にクーデターを起こしたなどという表
記らしき物は一切無い。「クーデター」と思われる典拠はどこになりますか?
317レス長たらし毘古:2011/01/11(火) 19:02:47
>>315訂正
あ、「高天原」じゃなくて「高千穂」ね、失礼失礼。
318レス長たらし毘古:2011/01/11(火) 19:25:57
>我々、大人は常識なんですが、この「日本」という言葉は、七、八世紀は
もちろん、推古天皇や欽明天皇にまで遡る。古代史を追ってる人は皆御存じ
だろう。

その大人の常識がわからない人が三種類いるから無駄にヤヤコシクなるケース
が発生するようです。ひとつ目は反日国の方々で、何でもかんでも、反対史料
をかきあつめたり作ったりして自国にひっぱろうとする方々。二つ目は日本の
大人の常識を身に付けずにこの手の論争に加わろうとするが故に、自論も批判
がパッチワークになってしまっている方々。三つ目日本の大人の常識を身に
付けずに、この上記二者に翻弄されている非反日諸外国の方々。

確かに「常識を疑え」と言うのもこれ学究の一つの精神ではありますが、典拠
を批判しておきながら、その批判根拠が批判している典拠そのものと言うおか
しな自己矛盾に陥っている人も少なく無いですね。批判や異論を唱えるにして
も、「まずこの批判は、現在信じ込まれている常識とやらにとって現在
どう言う位置付けになっているか?」くらいは把握してから論議参入して
もらいたい物です。日帝論に陥っている人と反日帝論に陥っている人ほど、
この自己矛盾要素が大きい。こうなると最早学究ではなく、宗教に近い。
319メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 19:38:05
>>299
当時(三世紀?)、九州最大の前方後円墳である豊前石塚山古墳がある。
ここには三角縁神獣鏡がはいってるんだが、コレと同じものが近畿にもあるというのはご存じだろう。

一般の人の墓制というのは基本、ド坑墓だったりするんだが、
各地の「王」の墓というのは、このド坑墓ではなく、もっと大きな墓。
このもっとというか、当時九州最大でもある豊前石塚山古墳の被葬者が九州の盟主として考えられてるワケだが、
それに比べて、近畿のコレと同時代の「箸墓」や「祟神天皇陵」、「景行天皇陵」は更に大きいことになる。
こうしたことから、私が上で書いたようなことは言えるんじゃないかと思う。
320レス長たらし毘古:2011/01/11(火) 19:40:47
俺の古代毘売システムがヒミコ前後に西日本に存在したと言う可能性が、箇所
箇所において、「そのひとにとって」の「想像する古代日本」と違うからと
言って、それのみで論拠無く批判や否定をして頂いても、これまた、俺の架空
同様、その人においてもあまり意味の無い話になる。

何故おれが架空をしているのか?これはイデオロギーでも宗教でもない。単純
に記紀の不確定要素を「どう解釈したら」邪馬台国やヒミコが西日本に存在
するか?を模索している作業に過ぎない。日本の大人の常識をご存知の方は、
こんなことくらいは先刻承知だとは思うが、それ以外の方にはどうもここら
変が理解され難いようであるのが少し残念だ。

1+1=2を疑われるのはそれぞれ人の自由だが、1+1=2を疑ったまま現代までの
数学のほとんどの成果を享受したり、自論発展に活用したりする事は、かなり
至難と思われる。懐疑するのも良いが、先人の叡智を懐疑・冒涜ばかりして
いても、何一つ生産的な物は作り出せないであろう。
321メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 19:44:17
>>302
そんなのここにいる大勢の人が知ってるってw
おれ達は正式名称「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と書き込むのは面倒なので、
饒速日又はニギハヤヒと呼んでるんですよ。
正式名称、「神日本磐余彦尊」を神武天皇と呼んでるんですよ。
八幡氏の指摘がナンチャラか知らないが、各自自由によべ。

>>312
じゃ説得力ある書き込みとやらを君がしたらどうかな?
322レス長たらし毘古:2011/01/11(火) 20:11:26
先述で俺は「九州は玉・出雲は刀・大和は鏡」という架空を一席持ち上げた。
今回はこの「玉」について、いよいよ掘り下げてみたいと思う。
タマを魂と考えると、日本古代の魂魄ニ元論が持ち上がってくる。ちなみに
古事記序説において、「陰陽ここに開けて」とあるので、既に古事記において
「陰陽」を重要参考の一つの支柱にしている事は編纂者自らが公表している
処でもある。この玉のつく御名前を今回ピックアップしてみる事とする。

古事記における「玉」の最初の記述は、イザナミと死別した後に地上に戻った
イザナギが、黄泉の国からの還りの禊ぎの最中に産んだ三人の子(天照・月読
・スサノウ)のうちの最初の子の天照に授けたのが、御頚球(ミクビタマ)と
書いてある。
つまりこの事から最低限判る事は、「イザナギの後継者が持っている物」と
言う最低限の要素は浮上する。従って、この要素を重要視すれば、これまた
先刻の「イザナギVSスサノウの構図」と照らし合わせて見れば、「球
(玉)」が、「イザナギの後継者の資格」にとって、後代どれだけ「重要」
であるかが浮かび上がってくるのである。
逆を言えば、後代にとってその時「玉」を持っているのが、出雲か大和かが
重要に成って来るのはそのためなのである。
そしてイザナギは御頚球を天照に授ける時にこうも言っている。「汝命は
高天原を知らせ」と。つまり、御首球は、高天原統治を保障するアイテム
なのである。これが古事記の主張なのである。
他に、月読とスサノウへは、イザナギは言葉だけでアイテムを授けていない。
ここらへんも怪しいところではある。むしろ、他のニ神(二柱)にも何か
アイテムを与えてたとも邪推できなくも無いが、逆に言えば、アイテムを全く
与えなかったので、その後、スサノウがやさくれたとしてもこれまた自然では
あるので、ここは断定を避け、玉だけを追っかけてみよう。
323太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/11(火) 20:19:59
改め殿
八幡氏という方は、曲学の徒氏掲示板に以前書きこんでいた八幡氏とは
別人ですか?
324日本@名無史さん:2011/01/11(火) 20:21:27
>>319

>一般の人の墓制というのは基本、ド坑墓だったりするんだが

その根拠は?
一般人というのは概念であり、その概念を特定するのは文字という事になる。
ド抗墓が一般人の墓とする文字の根拠を提示できなければ
ド抗墓と一般人を結び付けるものはない。

>各地の「王」の墓というのは、このド坑墓ではなく、もっと大きな墓

これもまた然りで
ド抗墓と比較する事で「王」の墓という定義は発生しないだろう

よってそれ以降に書かれた文章になんら価値を見出す事は出来ない。
325メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 20:22:29
>>八幡氏という方は、曲学の徒氏掲示板に以前書きこんでいた八幡氏とは
>別人ですか?

>302さんどうなんですか?
326メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 20:24:37
>>324
その根拠は? ってあーた、本読めよ。
それぐらい知っとけってはなしで、おれから説明するまでもないだろ。
327メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 20:28:28
>>324
>ド抗墓が一般人の墓とする文字の根拠を提示

このド素人ぶりは、さてはモン太だな?
328レス長たらし毘古:2011/01/11(火) 20:31:48
で、次に登場する「玉」は、いよいよ天照とスサノウの一触即発の時である。
先述した、「八尺の勾玉の五百筒の御統の球(ヤサカノマガタマノイホツノ
ミスマルノタマ)」である。先ほどの首飾りとは違い、これは頭に左右一対で
装備されるアイテムであることが表記されていて、この左右の両アイテムは
その後、スサノウとの間での子産みに使われる。つまり、このアイテムは、
この子産みから生まれた氏神を始祖と持つ氏族にとっては最重要アイテムと
なる筋になる。俺がなぜ先述で「天の石屋戸の件が順序的にスサノウとの子産
みの後に来るのが違和感」と言ったのかがここで再浮上するワケだが。逆読み
すれば、「これらの氏族」を「天の石屋戸登場の神々」より「高位にする
必要性」が後代生じたとしたら、この順番転倒の可能性は大いに農耕な物と
なってくる。

つまり、スサノウとの子産みで生まれた氏族神と天の石屋戸で集合した士族神
との序列倒置が図られた可能性である。俺個人は、これは古事記編纂者とは
思っていないが、少なくとも古事記編纂までに、この倒置が行なわれている
可能性は少なく無いと邪推する。

他に、ミスマルの球以外に、この時に左右の手にも球を巻いている。これは
少々「追加表記?」の可能性を邪推させるような「とってつけ感」が少し
あるが、ここを掘り下げすぎると更に余談になりそうなので、この時に生まれ
た子供(後の神々)達だけをピックアップしておこう。
329日本@名無史さん:2011/01/11(火) 20:34:52
>>326
根拠がないと言う事ですね

330メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 20:35:44
>>329

もっと勉強してから来なさいってことだね。

331日本@名無史さん:2011/01/11(火) 20:38:15
>>330
笑ってごまかすタイプのようですね。
2chって笑ってごまかせば済む世界なんですね
332日本@名無史さん:2011/01/11(火) 20:42:01
330 名前:メ(スポーツスポーツ) :2011/01/11(火) 20:35:44
>>329

もっと勉強してから来なさいってことだね。



一般教養を一番身につけなければならないのはオマエだよ。
333メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 20:52:25
びっくりちたーっ!ww 
お前、ド抗墓も知らないのか? 

いやはや・・・呆れるぜょ(笑) 古代史やってんだからw〜
誰か、彼に教えてあげて

334日本@名無史さん:2011/01/11(火) 21:12:23
メ は最高の嫌われ者、誰も話す人はいない。
誰も相手にしない。
335レス長たらし毘古:2011/01/11(火) 21:14:04
この時の、天照とスサノウの子産みと球との関係は、スサノウが球を乞い、
それを噛んでその息吹から子供が産まれる方法論である。この時産まれる子が
五柱の男の子である。以下、古事記登場順に述べる。

@スサノウ+左の御角髪のヤサカノマガタマ
=正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(水穂の国の後継者にしてニニギの父)
Aスサノウ+右の御角髪のヤサカノマガタマ
=天之菩卑能命
Bスサノウ+御鬘に纏かせる球(名称表記無し)
=天津日子根命
Cスサノウ+左手に纏かせる球(名称表記無し)
=活津日子根命
Dスサノウ+右手に纏かせる球(名称表記無し)
=熊野久須毘命

この五男と、その先にスサノウが刀(トツカノ剣)を噛んで生まれた三女
(タキリ毘売・サヨリ毘売・タキツ比売)との区分けであるが、古事記には
その最後の方にこう付されている。
「五男は俺の物から産まれたから俺の子、三女は貴女(天照)の物から産まれ
たから貴女の子」

古事記のこの話を信頼すると、玉の所有権はスサノウは放棄していないと言う
話になり、三人の女の子(つまり毘売資格も含む)は天照の管轄下、五人の男
の子はスサノウの管轄下と言う事を念押ししてこの逸話は終了するのである。
336日本@名無史さん:2011/01/11(火) 21:15:58
>>333
>誰か、彼に教えてあげて

自分でまいた種ぐらい自分で刈りとれ
今更どんなヘマ使用が、オマエの地位はこれ以上落ちない。
337レス長たらし毘古:2011/01/11(火) 21:48:31
その後、スサノウの子孫の一人の大国主とタギリ毘売の子はアジスキタカ日子
根神。また、別の子孫は天之ミカヌシ神の娘の前玉比売(サキタマヒメ)と
娶ってミカヌシ日子神を産み、その子孫(孫)は活玉前玉比売神を娶る。
(その二人の子が娶る相手が青沼馬沼押比売で、その二人の子孫は鳴海や遠津
という名前が出没する。この事が、これらの血脈の制海権を類推させる)

この上記Bの天津日子(その時の記述は天津日高ではあるが)は、山幸彦の
豊玉毘売とのラブロマンス&海幸彦への復讐劇の際に助けを求める神でも
あり、ここでもまた、玉と大和神話はあったかもしれない出雲神話とリンク
する可能性が微弱ながらも発生するのである。

神話の時代の「玉」は、ここまでである。「玉」は出雲神話においても、大和
神話においても、両神話に、当然のように「纏わりついて」来る存在なので
ある。これを彼我逆転し、「逆に出雲や大和が度々玉と縁戚関係を維持発展
させようとした」という解釈も可能なのである。むしろ、出雲と大和で「玉」
を政略的に争奪競争をしていたと考える方が自然なような気さえする。
338レス長たらし毘古:2011/01/11(火) 22:13:00
あ、申し訳無い。ニニギ神話系列における「玉」を忘れていた。

ニニギの天孫降臨に際し、サルタヒコ・アマノウズメに遅れて参加する神が
布刀玉命(フトダマノ命)や玉祖命(タマノヤノ命)等の五柱の神。そして、
彼等の集結時に三種の神器(ヤサカノマガタマ・カガミ・クサナギノツルギ)
が山と神話にて揃うのである。その際、思金が薀蓄や取り扱い説明と共に
「鏡」をニニギに授けるワケだが。この時点ではむしろニニギは「鏡しか
持たなかった」と考える邪推も生じて来る。
と言うのも、この五柱の面々のお名前である。まず、布刀玉命であるが、その
名に「刀」や「玉」があり、玉祖命も「玉」と強く関連しているのは明白。
また、五柱の一人に、「イシコリド売命」がおり、このなまえに含まれる
「シコ」を、先述の「色許」と類推すると、出雲神話体系における「色許」
との縁故の可能性を邪推する事もできる。(※但し、古事記ではその名前は
「伊斯許理度売命」となってはいるが)
また、余談ではあるが、ここで草薙剣が登場する事からも、このニニギの時代
の時点では既にスサノウのヤマタノオロチ退治は完了している古事記の順立て
は逆に信憑性は高いと言うことに成り、それが故に、逆にニニギの代に、出雲
の一部がニニギに付き従ったと言う図式も自然に成って来る。

この場合、浮いてくるのは「鏡」だけである。そして、この鏡をもたらすのが
先述した「思金神」であるが、このお方は、天の石屋戸パニックを中心に
なって鎮めた神様で、タカミムスビノ神の子供である。(※超余談だが、タカ
ミムスビ神・天照神イレカエ説とかもどっかにあったと記憶。興味のある人
は独自に調べてみると良い。但しここでは余談になるので割愛)
次回は人皇における「玉」を追ってみたいと思う。
339メ(スポーツスポーツ):2011/01/11(火) 22:37:28
考古学専門ではな〜いが、

古墳にある祭祀跡に関してはよく分かってないのが現実。
とにかく、ここで祭祀が行われていたよう・・・という具合に説明してると思う。
そして、>>528でも書いたように「神社」と「古墳」は別物。

>巨大前方後円墳は何の目的で築造されたか知らない人がいるのではないか?

君以外みんな知ってるってw 
これは、どの本にも書いてると思うんだが、「当時の倭が大陸へ大見栄を張った」とか
「力の誇示」だろう。
340メ(明日休み):2011/01/11(火) 23:17:22
誰かはなそうぜ〜

「信仰」と「崇拝」というのは同じことなんだけど
以前ここでもはなしたとおり、原始信仰から祖霊信仰へと変化していく。
これは神社の話で、その大むかし、土偶や山の祭祀遺跡が語る通り
五穀豊穣を祈り、樹木や山や岩などに一つ一つのモノに神が宿ると考え
自然のモノに信仰した。これを「原始信仰」と呼んでるんだが、日本書紀でもみえるとおり
これを、八百八万(やおよろず)の神々と日本人は呼んだ。
この原始信仰を原点とする信仰を「神道」という。
「神道」という宗教は、自然の神々の代表格とする天照大神を指す場合があるんだが、
これは間違いであり、神道の場合は、一神ではなく、自然の神々である多神で構築されている。
他の仏教やキリスト教みたいに一神ではないのだけど、これら一神とする考えから、
あえてその代表格を指すと天照大神というだけだろうし、考え方が違うみたいなんだな。
341日本@名無史さん:2011/01/11(火) 23:17:52
339 名前:メ(スポーツスポーツ) :2011/01/11(火) 22:37:28
考古学専門ではな〜いが、

古墳にある祭祀跡に関してはよく分かってないのが現実。
とにかく、ここで祭祀が行われていたよう・・・という具合に説明してると思う。
そして、>>528でも書いたように「神社」と「古墳」は別物。

>巨大前方後円墳は何の目的で築造されたか知らない人がいるのではないか?

君以外みんな知ってるってw 
これは、どの本にも書いてると思うんだが、「当時の倭が大陸へ大見栄を張った」とか
「力の誇示」だろう。


意味意外と言えるなんらかの根拠でもあるのかな。
「当時の倭が大陸へ大見栄を張った」といえる具体的な例をあげ、「力の誇示」
と言える部分をなにか具体的なものを取り上げてくれ
342日本@名無史さん:2011/01/11(火) 23:21:25
>>340
>誰かはなそうぜ〜

質問に対し質問するオマエと話すもの好きな奴なんているのかwww
343メ(明日休み):2011/01/11(火) 23:24:39
で、原始信仰だが、この祭祀権をめぐって各豪族の間で衝突が起こる。
古代の祭祀権については、誰でもその神を祀る権利をもってるのではなく、
限られた上流階級の巫女や首長がこの権利を持つようで、一般人は祭祀権というのは無かったらしい。
そして、原始信仰をする巫女様が、偉大だったため祖霊祭祀として祀られるようになる。
原始信仰 → 祖霊祭祀への変化だが五世紀、六世紀ぐらいから各地で変化していったらしく、
いまだ、原始信仰の影を保ってるのは、奈良県の三輪神社とかですよね。
344日本@名無史さん:2011/01/11(火) 23:25:25
メ は地獄の嫌われ者
345レス長たらし毘古:2011/01/11(火) 23:40:00
>>343
>で、原始信仰だが、この祭祀権をめぐって各豪族の間で衝突が起こる。
(中略) そして、原始信仰をする巫女様が、偉大だったため祖霊祭祀として
祀られるようになる。

これが前大和における西日本の毘売ネットワーク、或は毘売代理倒置システム
だったとすると、巫女としての毘売は時と場合によっては王(や大王)より
上位に来る可能性も発生し得る。
346レス長たらし毘古:2011/01/11(火) 23:46:31
仮に、神宝を受け継ぎ、その祀り方を受け継ぎ、かつ神と親か子か配偶者で
(少なくとも二つ以上)つながっている巫女を仮に「毘売」であると仮定した
場合、少なくとも古事記のほとんどの「毘売」は、それにあてはまる可能性が
高い。
しかし、ヤマトトモモソ毘売だけが超例外なのである。だから、彼女が浮上
して来るワケなのだ。
347メ(明日休み):2011/01/11(火) 23:55:03
>>345
九州の「筑後風土記」や「肥前国風土記」など読まれたことはあると思うが
「神」の名で載る人物は必ず女性である「巫女」です。
大分県の国東半島・宇佐のヒメ神伝説とかも御存じでしょう?

ヤマト政権でいえば箸墓に葬られた大物主の神との神婚伝説の主人公、
倭迹迹日百襲媛命や、応神天皇母である神功皇后の神託が有名です。
348レス長たらし毘古:2011/01/12(水) 00:02:45
つまり、

A:神宝 > 現人神としての大王
B:神宝 < 現人神としての大王

このAB優劣がまだ確定しない時代においては、その神宝を管理する毘売の
出方次第では、以下のどちらも起こりうる。

A:神宝を管理する毘売 > 現人神としての大王
B:神宝を管理する毘売 < 現人神としての大王

なぜなら、ニニギ〜イワレヒコ系の、所謂始祖大和王権の権威体系としては、
先述どおり「託宣至上主義」だからである。これは記紀のどちらも否めない
事実である。つまり、最初の頃は託宣主義だったので、どうしたって神宝を
奉じる巫女には「権威上かなわない(頭が上がらない)」部分が大きくあった
筈なのである。これは記紀自身が認めている所なので、これは仕方無い。
349レス長たらし毘古:2011/01/12(水) 00:11:01
>>347
> 九州の「筑後風土記」や「肥前国風土記」など読まれたことはあると思うが
「神」の名で載る人物は必ず女性である「巫女」です。

「必ず」と言うと、魏志倭人伝の記述により、「女王」は必ずしも常設では
無かった点と違和感が発生しますので、「必ず」と言うのは納得しがたい。
但し、九州で「女神が多い」と言うのは、これはこちらも納得済みです。

常設や必ずの最高位だったか?と言う点だけを除けば、むしろ多神教的に時々
・諸所に生物学的確立で存在した(つまり50%くらい)と想定しています。
女神の立場とその果たす役割が、九州を中心に「当時から有った」と考える
方が自然に思えます。従って西日本毘売ネットワークの可能性なのです。
350メ(明日休み):2011/01/12(水) 00:31:22
必ずと言ったのは、「筑後風土記」や「肥前国風土記」での例です。

その古代人の概念として「天」は太陽である「男神」に対し、
「地」は自然のモノが生まれてることから「女神」とする考えがありました。
「カミ」というのは祖神(オヤガミ)を指し、この祖神(オヤガミ)が各氏族の祖先となるんですが、
「神」に男も女もないものなんですが、古代人は女性をどうも神の対象としていたフシがあるという話も
聞いたこともありますし、たとえば土偶なんかも女性の裸ですよね。
女性と神、なんにここらへんにキーワードがあるようです。
351メ(明日休み):2011/01/12(水) 00:44:09
>巨大な前方後円墳は、当時の倭が大陸へ大見栄を張った

何か言葉に詰まったら
だって雑誌の"サライ 古代ロマン〜"に書いてあったょ〜〜><
http://www.back-number.net/zassi/life/sarai.html

て言おうかなww   アハハハ おれ面白くない?w
352レス長たらし毘古:2011/01/12(水) 00:48:19
むしろ九州において「女神」過多になったのは、国史国書の編纂によって、
過小評価されつつある「西日本の女神達」を信奉する九州のご当地反動の要素
も少なく無いかと思われます。なぜなら、風土記もまた「中央(つまり
大和王権)」からの命令により編纂されたからです。ここにヒメガミ信仰の
ブームが生じる要因が発生します。ム−ブメントを起こさなければ中央大和に
勝手に神様解釈をされてしまいますので、そのレジスタンス的意味合いも
あったのかもしれません。
中央図書が、「我等の神でもある諸神」を「ことごとく男神である」と規定
するなら、それに対する反動として、「いや、これこれこれの地元神は実際
は女神ですよ」と殊更に強調して面目とご当地での整合性を保つ必要が生じて
来る筈だからです。
つまり、本来男神であった九州地元神は中央大和に取られ、本来女神であった
九州地元神も中央大和に男神として取られる場合、九州男神は、その中央での
ポジショニングだけが争点に成り、九州女神は、「ご当地で存在弁明」する
必要が男神よりより高くなります。
九州の女神信奉の多くは上記要因と類推します。そして、その最大矛盾が、
九州の二大女神である、天照と豊玉なのです。記紀ではイイトコドリをされ
すぎた事により、ご当地矛盾が拡大してしまったと考えると自然な気がする。
353レス長たらし毘古:2011/01/12(水) 00:52:11
>>352の続き)
そして、それらの「女神逸話」の1/4程度が、記紀に活用され、そしてそれら
の起因となった歴史的事件が「ヒミコ=ヤマトモモソの怪死」なのかもしれ
ません。大和が九州を完全吸収する際に、その逸話が一部天照神話と、一部
豊玉神話と融合させられるのです。

複数いた九州のヒメガミ様を権威付ける物は何か?俺はそれこそが「玉」の
信奉であると架空します。玉は古事記上、争乱を鎮めるアイテムでもあり、
神々を生み出すアイテムでもあります。争乱を鎮める要素は大いにヒミコ
チックですし、神々を生み出す要素は大いに大和王権における神氏族統治や
出雲との比較優位を主張する上で必要になる筈だからです。
この必要は、大和が完全に出雲や九州を凌駕したと考えられる、古事記で言え
ばヤマトノタケル以降の時期に大いに高まったと考えるとごく自然です。
なぜなら、自称とは言えヤマトタケルの時代(つまり景行の時代)にこそ、
大和が最大加速度で領土拡大をした時期でもあるからです。「他の神」をイロ
イロ組み込まなければならなくなって来てもおかしくはない忙しい時期です。
354レス長たらし毘古:2011/01/12(水) 01:13:56
そしてその延長が、その後の三輪信奉=三種の神器信仰となります。

・刀=邪まなる神を撃ち倒すアイテム=戦いによる平定→出雲から入手
・玉=迷える神を組み込むアイテム=政略による平定→九州から入手

となります。もちろん鏡も何らかの上記的役割が想像されますが、ヒミコの話
においてはこれは余談になると俺は想定していますのでここでは割愛します。
355レス長たらし毘古:2011/01/12(水) 01:21:30
すると、古事記の三輪山伝説や、日本書紀の三輪山酒宴は、どうしても「早すぎ
る」と言う話になります。

さてさて、いよいよ先述した、「三輪山神主オオタタネコがその時着任したの
は疑わしい」とする俺の架空が、ここでも一致します。むしろ、後代になって
ふりかえり、「あの時、オオタタネコが神主になったよね」とし、それと
「祟神&大毘古GPによるクーデター成功の凱旋酒宴」を「着任酒宴」と
類推させようとした、日本書紀の隠された意図が浮かび上がってくるような気
がするのです。もちろん、これらは空想の産物であり、信じるか信じないかは
貴方次第ですが。
356レス長たらし毘古:2011/01/12(水) 01:41:38
>>350
>「神」に男も女もないものなんですが、古代人は女性をどうも神の対象と
していたフシがあるという話も聞いたこともありますし、たとえば土偶なんか
も女性の裸ですよね。女性と神、なんにここらへんにキーワードがあるよう
です。

その可能性は根拠は無いですが同感です。多神教とは言え、日本人が「神
グループ」を想定する際に、例えば七福神のように、必ず女神様を参加させる
信奉慣習が少なからずあると感じます。後代の話にはなりますが、仏教の菩薩
様・如来様とかも、性質や必要に応じて、中性化や女性化したりします。
儒教思想を取り入れる以前の日本神話は、ひょっとしたらギリシャ神話のように、女神様が陰に日向に大活躍している元神話だったのかもしれませんね。
357メ(明日休み):2011/01/12(水) 02:18:26
>>341
昭和時代というのは高度成長期に伴って各メーカーから電化商品が発売されて、
そこで、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が、おなじみの品とし、「三種の神器」といわれた。
古代日本の縄文から弥生時代にかけて土偶や祭祀史跡、それから豊凶・天候・次旬の吉・凶を占う、
亀卜・骨卜が行われたりした時代。
これは倭人伝のほうにも、
「其俗舉事行來、有所云為、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆」と
あるように巫女やかんなぎの時代(祭祀時代)において三種の神器は、鏡・玉・剣ですよね。

近畿の奈良を中心に築かれる巨大な前方後円墳が出現する丁度同じ時期に、
これら祭祀用具といわれるもの何故か割られたり(破鏡)、土に埋められたりする。
これは、弥生の神が否定されたとかよく本に書いてると思うんですが、時代の流れで
武力の時代ではない「祭祀時代」から力の誇示による「古墳時代」へと変化していく。
発掘された遺物からみると、「力の誇示」 という事が言えるのではなかろうか。
358メ(明日休み):2011/01/12(水) 02:28:36
>当時の倭が大陸へ大見栄を張った

というのは、これは近畿の大阪府堺市堺区大仙町にある現仁徳天皇陵(大仙陵古墳)が、
全長約480メートルと日本最大規模であって、世界的にみてもかなり大きさである。
「世界三大陵墓」という言葉があって、この大仙陵古墳に、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵の
三つを指して言いますよね。
大仙陵古墳はこれらエジプトや中国などの「大陸」の墓と比べても引けを取りませんし、
何らかの影響があったのではなかろうか。
全長約480メートルという大きさから考えるとこれらピラミッドや始皇帝陵に対抗したであろうことが自然に想像できるのではなかろうか。
私にかぎらず、そう考えるのが一般的だと思う。
359メ(明日休み):2011/01/12(水) 02:43:48
古墳の巨大化に関しては、その近畿のヤマト王権の政治的戦略でもあったのかもしれない。
どっかの先生の本に書いてあったことなんだが(誰だっけ?!)、
古墳というのは三世紀後半から六世紀末までで比較的安定した時代区分であった。

これは徳川家康が1603年に江戸幕府を起こしてから19世紀の後半まで263年ですか?
長い政権を保ってたんだが、その政治の骨格というのは、各地に藩を設けて、これが見事に当てはまり、
安定した時代を築いたといわれており、古墳時代にしても「藩」のかわりにヤマト政権が「古墳」という、
政治的戦略をもちいて政治の骨格をなし、長い時代を支えたとかいわれてる。
古墳の大きさに関しては奈良の大きく、大阪や群馬にあるのも大きいが、
古墳の大きさによって力関係を示し、うまい具合に政治したのではなかろうか。
360日本@名無史さん:2011/01/12(水) 08:15:50
>古墳の大きさによって力関係を示し、

考古学者もよくそんなことを言うけど、
事実上は、その被葬者の一族が、墳墓築造にどれくらいの人件費をかけられるか、
一族の中で、大きさをどの程度にするかを決めたと思うけどね。
ムラ以外から労働者を集めないと作れないような巨大古墳は、
それなりの権力を被葬者の一族が持っていたと言えるだろうけども。

他のクニ(ムラ)との力比べで、大きさを決めたなんて話は、およそ信用できん。
361:2011/01/12(水) 08:34:11
>>360
各博物館や文化財センターを周って得た知識によると
地方の前方後円墳は中央からの指示というか、「形状」「規模」など
細かく記載された設計図らしきものをを渡され古墳を造ったと聞いてます。
たとえば例題をあげると、たとえば私の実家の古墳、海部一族の王の墓、
亀塚古墳では、これが当てはまると思う。
362:2011/01/12(水) 08:36:54
あ、亀山古墳というのはこういうやつですね。

http://www.rurubu.com/sight/detail.aspx?BookID=B4802470
363日本@名無史さん:2011/01/12(水) 09:47:36
>他のクニ(ムラ)との力比べで、大きさを決めたなんて話は、およそ信用できん。
ごもっとも。隣の○○より少し小さい墓を造れなんて言われて、分かりました、その
とおりにします、なんて言う奴はまずいないよな。
何で俺があいつより小さいんだ?ふざけるな、ってなるよ。
364:2011/01/12(水) 10:11:16
>>363
現在でも消費税率の引き上げやタバコ税なんかで問題になってると思うが、
紙幣、金貨などの無い、当時の弥生社会でその代わりとなったものは「米」ですよね。

米というのは年に二度あるいは三度と収穫するが、それに合わせる恰好で
民間の税(米)や農作物を集める。民間(一般人)は市の中心にそれを納める。

これは吉野ヶ里に代表されるような市の中心があり、「穀物の倉」や「クニの大倉」が
その税である米や農作物を集めていたところだろうと考えられている。
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=15

この米を納める量が多いほど、中央から信頼されるんだが、「土地の地形」や「文化」、
又は「土」により、米や農作物が収穫できないところがある。

例をあげると、九州南部の薩摩・大隅を拠点とした「隼人」一族は、
この「土の問題」で米や農作物が出来にくい土地ということもあって、
中央(ヤマト王権)の税に対する取り締まりがきつく反乱をおこしますよね。
たとえば、「隼人の乱」がそれです。
http://washimo-web.jp/Report/Mag-Usa.htm
365:2011/01/12(水) 10:43:23
>>150
>考古学関連では、伊都国を始めとする邪馬台国連合と密接な関係が確認出来ること。

土器っすか?

>狗奴国との間の軍事的緊張が確認できること。

高地性集落っすか?
それにしてもこの人は、狗奴国をどこと考えてるんでしょうかねぇ。

>絹や珠や墓制などの情報について合致すること。

吉野ヶ里のことをいってるのかな?

>まず、この3つをクリアする所で、まあ、本州か四国か九州かにあるだろうが、まだ有力な候補地と言えるものはない。
>熊本県北部、徳島県あたりの遺跡を本気で調査しないと話が先に進まないな。

ほう、徳島や熊本ですか、これらの遺跡に着いて何か分かってることがありましたら
書き込んで下さいよ。

>「親魏倭王」の魏への貢ぎ物は、どの程度のものだったっけ?

生口、倭錦、絳青縑、綿衣、帛布、丹木、短弓矢 ですよ。
366:2011/01/12(水) 10:51:47
古の日本を語る上、外国の書籍、魏志倭人伝を細かく分析・解析するのも大いにありで、
細かく細かく砕いてその事柄を追っていく姿勢は賛成である。
しかし、それと同時に少し離れて古代日本列島をみるといいうのも大切である。

あまりに細かく細かく分析するが上に、オウム真理教の浅原彰晃みたいに
見えないものが見えてくる。
宙に浮いてないのに「浮いた」ようにみえてしまうのではなかろうか。

東アジア全体からの視線で日本列島をみるというのもありだし、
考古学分野や人類学分野、はたまた、巫女やシャーマンなどからみた倭の風である民俗学とか、総合的にみていかないと駄目だろう。

古代の日本人というのは中国大陸の「豚の家畜」を主とした食生活よりも
自然との共存で生きてきた過去がある。
自然というのは、「山の幸」「海の幸」、縄文末から始まる「稲作・水田」や
アワなどの「鼻作」や「木になる実」から採れたものを料理し食してきたので、大陸は倭人のことを野蛮人と見下していますが、家畜を殺すという面からみると大陸側のが野蛮である。
もちろん、日本の古代でも家畜が行われていたのはあったんだが、
草食系なのは、倭人伝を知ってるみなさんもご存じだろう。
367:2011/01/12(水) 10:53:47
万人の人は、日本誕生は、「紀元前の660年」の
初代天皇である神武ことカンヤマトイイワレヒコが橿原宮に即位したのが起源であり、
これをもって日本誕生とする と答えるのが常識ではなかろうか。
しかし、大和朝廷発足に伴う、中国の古文献でもある「唐書」の七世紀に国号を「日本」に改めるという記事からとって、
ここから「日本」という見方をする研究者もおるだろう。
それはそれで構わないことと思うんだが(各自自由)、われわれ、
古代史を追ってる者にいわせると推古天皇の飛鳥からという見方も出来る。
368メ(さて出掛けよう):2011/01/12(水) 11:13:39
"神社"というのは、記録や事件、事柄、キーワードを隠したモノでもなく、
神聖なものであり、たぶんトピ主が考えてるようなものではない。

古代人の神に対する概念、現在願い事をかなえて貰おうとする祈りではなく、
自然への感謝というか、五穀豊穣の感謝、又は人体や家族の健康への感謝だったりすると聞いている。
山の幸・海の幸への感謝をこめて自然崇拝する。
この自然崇拝した形が神社であり、現在の祭祀施設のある(社殿がある)
社殿神社ではなく、原始的な神の宿る「磐座」や山を御神体とした神体山などで行われた。
近代の民俗学の磯を造ったといわれてるのが、柳田國男が「ハレ・ケ・ケガレ」という言葉を示しましたよね。
柳田國男以降、ハレ・ケ・ケガレの言葉を使い始めたというのはご存じと思うが、

この概念は日本神話であるイザナキの尊の禊ぎや、倭人伝にもある
「水中澡浴」でもみえるとおり、昔からあり、神に触れることで普段のケガレを晴らす、
すなわち、ハレに戻すということが繰り返し行われていた。

神社とはパスワードやキーワードではなく、
こうした神聖な社であるかぎり、邪心で古代史のそれをみつめるのはあってはならんぜょ
369日本@名無史さん:2011/01/12(水) 11:21:13
メ は人格破綻者
370日本@名無史さん:2011/01/12(水) 13:25:50
こことどんとこいスレどっちがレベル低い?
みなさんの意見を聞こう。
371日本@名無史さん:2011/01/12(水) 13:30:05
というか邪馬台国関連スレと会津関連は歴板のゴミクズの溜まり場
372日本@名無史さん:2011/01/12(水) 13:31:32
>>358
>私にかぎらず、そう考えるのが一般的だと思う。
学者の書いたものから、そのような見解を探してから言った方がいいな。
まず、大陸へ大見栄を切ったというならば、大陸の使者が入ってくる北九州に
大型古墳を造るのが普通だろう。それに使者が旅するとは思えない南九州、東
海や関東に大きな古墳を造る理由はなくなる。
373日本@名無史さん:2011/01/12(水) 13:36:56
>>371
ここよめよ
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1293615861/

>あと「泥封」とか奴婢百余人の徇葬跡を伴う墳墓の発見とかかな?

バカ、「泥封」じゃなく「ふうでい(封泥)」ていうんだよ。
向こうよりマトモなのは確かだw
374日本@名無史さん:2011/01/12(水) 13:36:58
>全長約480メートルという大きさから考えるとこれらピラミッドや始皇帝陵に対抗したであろうことが自然に想像できる

ピラミッド、始皇帝陵と河内の古墳の時代差がどんくらいあると思うわけ?
エジプトのピラミッドの噂を聞いて大仙陵を造ったとか思うのか
375日本@名無史さん:2011/01/12(水) 13:41:03
そもそも「銅鐸」というのは近畿で見つかる巨大なものではなく、
挑戦式の小さいやつが九州のどこだったかな、ていうより至る所で
挑戦式の小型銅鐸が発見されてる。
これが近畿へと姿(大きさ)を変えて入ってくるんだが、
銅鐸があるということは、その祖形である大陸側との通交を感じさせられる。
376日本@名無史さん:2011/01/12(水) 13:45:17
>>374
日本の文化というのは、真似から始まるものが多く
とにかく中国大陸という外国の文化を真似しまくった。
これは後進国が先進国に追いつくために必要な行動なのだが、
その中国大陸をお手本にしたのであるからそこにある始皇帝陵を知らなかったわけでもなさそう。
377日本@名無史さん:2011/01/12(水) 15:00:08
銅鐸の大型化は
むしろ、国内の独自進化を感じさせる。

外国と関係ないオリジナルな進化というか。
378日本@名無史さん:2011/01/12(水) 17:42:43
>>368
>"神社"というのは、記録や事件、事柄、キーワードを隠したモノでもなく、
神聖なものであり、たぶんトピ主が考えてるようなものではない。


それは違うだろう。神社を神聖(聖域)なものとしたのは神社を造った人や後世の人であり
決して神聖なものではなく、その辺にある場所と同じもの
神聖と位置付けたのも、関連した人達の思惑からきたもので
貴方が否定したものとまったく同じ性質。同じ性質なものをもって、同じものを否定すると言う
実にナンセンスなお話しだ。
379日本@名無史さん:2011/01/12(水) 17:59:26
366 :メ:2011/01/12(水) 10:51:47
古の日本を語る上、外国の書籍、魏志倭人伝を細かく分析・解析するのも大いにありで、
細かく細かく砕いてその事柄を追っていく姿勢は賛成である。
しかし、それと同時に少し離れて古代日本列島をみるといいうのも大切である。


どのように大切であるかを具体的に示さないのは何時もの事で、とるに値しない寝言。


>あまりに細かく細かく分析するが上に、オウム真理教の浅原彰晃みたいに
見えないものが見えてくる。
宙に浮いてないのに「浮いた」ようにみえてしまうのではなかろうか。

書いていて自分でわけがわからなくなったのか。だったら書くな。
浅原彰晃自信の話を持ちだしているのに、急に浅原以外の第三者が飛び出してくるあたり
支離滅裂状態になっている。
「宙に浮いていないのに」というのは第三者の発言で、この「宙に浮いたように見えてしまう」というのも浅原以外の第三者の発言である
浅原彰晃の発言であるならば、「宙に浮いたように感じる」であって、視覚的発言は第三者のものだ
浅原彰晃の性質についての意見を、どうして第三者の意見にすり替えてしまうのか。
「メ」の発言はこのように実に曖昧であり、ポイントがぜんぜん絞れていない
考えのない発言という典型的なものだ。


少しはなんとかならんのか?


380日本@名無史さん:2011/01/12(水) 18:07:08
メ は死に鯖
381メを今一度再教育:2011/01/12(水) 18:10:47
>>当時の倭が大陸へ大見栄を張った

>というのは、これは近畿の大阪府堺市堺区大仙町にある現仁徳天皇陵(大仙陵古墳)が、
全長約480メートルと日本最大規模であって、世界的にみてもかなり大きさである。
「世界三大陵墓」という言葉があって、この大仙陵古墳に、エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵の
三つを指して言いますよね。
大仙陵古墳はこれらエジプトや中国などの「大陸」の墓と比べても引けを取りませんし、
何らかの影響があったのではなかろうか。
全長約480メートルという大きさから考えるとこれらピラミッドや始皇帝陵に対抗したであろうことが自然に想像できるのではなかろうか。
私にかぎらず、そう考えるのが一般的だと思う。


ぜんぜん見栄を張っていないではないか。

日本最大の規模というのは、日本中の古墳を比較して初めて分かるもので
比較が無い段階では、関係者が見てきたもののなかでは一番大きいというぐらいの認識しか持たない
だから、そこにピラミッドや大陸墓を持ちだしたところで何の意味もないということだ
見栄を張るには、見栄を張るべき相手が存在しない限り見栄を張ることは出来ない
見栄を張ったと言うのであれば、その見栄を張るべき相手を特定しなければならない
それには
見栄を張ったとする記録の存在が必要不可欠であることはわかるだろ。


382日本@名無史さん:2011/01/12(水) 18:15:39
>全長約480メートルという大きさから考えるとこれらピラミッドや始皇帝陵に対抗したであろうことが自然に想像できるのではなかろうか。
>私にかぎらず、そう考えるのが一般的だと思う。

ふむふむ。
大仙陵古墳を造営した人は、エジプトのピラミッドや始皇帝に負けない墓を作ろうと思って、あの大きさに設計したということか。

アホ抜かせ。
383:2011/01/12(水) 18:18:27
そりゃ おぬしが歴史をしらないから言ってるんだろう

何が再教育だ〜笑わせるなってw
384メを今一度再教育:2011/01/12(水) 18:21:19
340 :メ(明日休み):2011/01/11(火) 23:17:22
誰かはなそうぜ〜

「信仰」と「崇拝」というのは同じことなんだけど


こんな単純なことも理解できていないのか
信仰は心の問題であり形にする必要はないが、崇拝は心だけではなく心の中の思いを態度で表しはじめて崇拝という形になる

こんな単純なことを最初から間違えるな。
385メを今一度再教育:2011/01/12(水) 18:24:42
383 名前:メ :2011/01/12(水) 18:18:27
そりゃ おぬしが歴史をしらないから言ってるんだろう


オマエは何時もそうやって「歴史」という漠然とした言葉で逃げようとするから
何時になってもだめなんだ。
ここまでに指摘されたことを今一度振り返ってみろ。
386唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/12(水) 18:29:27
173年 新羅 倭の女王卑弥呼の使者来訪。同年ツノガアラシト(天日矛)姫を追い
かけ渡来。
西暦192年 新羅 4月大雪、後漢書193年6月寒風冬の如し
西暦193年 新羅 倭人飢餓のため渡来
192年和国大凶作。

因幡の白兎は、青谷上寺地の当時の話である。

青谷上寺地(山陰)の住民(鮫と船団)は、渡来人(白兎、シラ、シラギ)を受け入れ
工業化を進める。これは世界的な寒冷化の中で選択された方策でもある。

日本を大凶作が襲う、人々は飢えに苦しみ、最後の手段で命を繋ごうとする。
最後の手段とは、青谷上寺地遺跡と同じ手段。青谷上寺地遺跡のバラバラに分解された
人骨の指し示すものは、食人である。近江伊勢遺跡や唐子、鍵遺跡内でも同様な出来事
が行われる。このとき吾らの身を守るはずの環濠は、吾らが逃げ出すことの出来ない施
設に変わる。数年後、生き延びた人々も、唐子、鍵遺跡を再興するための信頼関係は失
われ、衰退する。
青谷上寺地遺跡では、ワニ(鮫)が白兎に騙されたと、彼らを襲い食す。
青谷上寺地遺跡の遺骨は、その特徴から渡来人と思われ、伽耶系の土器が裏付ける。
近江の大物主は、この出来事にショックを受け、大和の崇神に位を譲り、出雲に入る。

一般に大型銅鐸は”見る銅鐸”と表現される。
しかし、 見る銅鐸では存在意義が見出せない。ではどのように使われたら意義が
見出せるか?動かねば、綾杉文も輝かない。動かせば良いのであるから、神輿とし
て担ぐ、古代祭祀の姿である。祭祀では豊穣を願う。しかし192年の凶作は、
その祭祀を終了させるほど強烈なものであった。
そこで、次なる祭祀が作り出されねばならない。それがモモソ媛の祭礼となって
あらわれる。これは、食人で命を繋いだ人々の懺悔であり、先祖への崇敬の確認でも
あった。

続く
387唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/12(水) 18:30:43
続き
モモソ媛伝説が異様なものでなければならなかった理由である。
そして皆が協力して石を積む。三途の川のケルンと同じである。
そして吉備では、楯築に”万年枯れる事のない稲穂”を石に刻み、祭礼が行われる。
出雲では、四隅突出型方墳。

打撃を受けた 天日矛(白兎)は、帰郷を考えながら、日本海側を北上する。
そして気比大神に詣でた崇神に面会する。
209年 伽耶(任那)建国。
この直後、出雲の大物主(振根)は殺される。

しかし、吉備の楯築も出雲ももう少し古い、となれば、この時代の渡来人は
孝霊時代(146年〜164年)の吉備方面への派兵で説明されるべき数字である。
388:2011/01/12(水) 18:40:11
隋書 東夷傳 倭國伝には、倭王阿毎多利思比孤が、あの有名な
「倭王は天を以って兄と爲し、日を以って弟と爲す」という言葉を記す。

これは先進国である大陸に向けて「同格だ」と言ってるのであって
勇気のある行動として今なおも語り継がれている。
それまでの倭王というのは、遣使をだし、朝貢して"安東将軍"などの称号を与えられていた歴史があり、
大陸への強い関心、ライバル心が伺える。
これはなにも宋や隋時代に限らず、巨大な前方後円墳をみるかぎりでは、
卑弥呼没後の当時でもこういった倭の思想が感じられるのではなかろうか。
389日本@名無史さん:2011/01/12(水) 18:43:26
メ は脳天ファエラー
390:2011/01/12(水) 18:49:48
>>378
何が言いたいのかさっぱりやゎ
神社は神聖な場所であり、神の宿る所。
これは我々のみならず、古代の人も同じで、違うってことは無いと思うよ。

>>379
あ〜その投稿は魏志倭人伝をトンデモ暗号解析スル人に向けて
たまには違う視点で観ろ!と教えてやったんだよ。
おぬしが熱くなる事はなぃww
391日本@名無史さん:2011/01/12(水) 18:53:17
・・・あまりにひどいので、突っ込まずにはいられない。隋書で有名なのは、
「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」の部分であって、これが高祖を
怒らせた。

>倭王は天を以って兄と爲し、日を以って弟と爲す

これは倭国の政教一致を言ってる箇所で、倭王は天が明けない時刻に政務を執り、
夜明けとともに弟である太陽に政務を任せる、と言って高祖に馬鹿にされる。
>「此太無義理」
392日本@名無史さん:2011/01/12(水) 18:57:10
ああ、隋書ではないな日本書記だ。
393:2011/01/12(水) 19:00:19
>一般に大型銅鐸は”見る銅鐸”と表現される。

小型の「聞く銅鐸」に対する巨大な「見る銅鐸」ですな。
地域と地域を結ぶ共通の祭祀用具というか、近畿を中心とした銅鐸ゾーンというのがありますな。
唐さんのいうとおり、一般的に巨大化青銅器、広形銅矛や銅鐸は
豊穣を願う祭祀道具として用いられていたといわれているよね。


394:2011/01/12(水) 19:03:28
>>391
お、ごめん そうだったね。
いまさっきまで寝とって起きて掲示板を眺めてたら君がガンガンレスしてたので
すぐ書き込んだんだよ、まあ、文の違いはあるが、同じ「隋書」にての文だよ。
すこしぐらい大目にみろょてなはなしだ。
395メを今一度再教育:2011/01/12(水) 19:23:22
>>390
>神社は神聖な場所であり、神の宿る所。
これは我々のみならず、古代の人も同じで、違うってことは無いと思うよ。


それは現代において神聖域とする人と古代に神聖域とする人が同じであって
決して「我々と古代人」が同じとは言えない。


>あ〜その投稿は魏志倭人伝をトンデモ暗号解析スル人に向けて
たまには違う視点で観ろ!と教えてやったんだよ。
おぬしが熱くなる事はなぃww


それが誰に対するものであれ関係ない。間違いは間違いで
文章そのものが滅茶苦茶だと言っているんだ。
言ってることが滅茶苦茶だと言われてることが理解できないのか


396:2011/01/12(水) 19:29:00
>決して「我々と古代人」が同じとは言えない。

ほう、どういう具合に違うんだ?
違うといったんだからそれなりの答えを用意してるんだろうね?

>言ってることが滅茶苦茶だと言われてることが理解できないのか

どのようにメチャクチャなのか書き込み宜しくー!
397唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/12(水) 19:32:48
銅矛や銅鐸の祭祀終焉の一つの見方です。
この辺の数字を250年頃に持っていったのでは何も見えない。
398メを今一度再教育:2011/01/12(水) 19:38:34
>>396

>ほう、どういう具合に違うんだ?
違うといったんだからそれなりの答えを用意してるんだろうね?


神聖という精神的なものを含むものが、対象となるすべての人間が共通すると言う事を
証明する事はできない。よって私の意見は正当化し
アナタの意見は正当な意見とはみいだされない。
もし正当な意見だと言うのであれば、精神的なものが対象となる者すべてに共通するものという
証明をしなさい。
簡単にいえば、主観は客観的になりうるかという問題だよ


>どのようにメチャクチャなのか書き込み宜しくー!

すでにどのように滅茶苦茶か書いてある。
文章読解能力もないのか。
399:2011/01/12(水) 19:44:01
>>398

いやだからおれが聞いてるんだって
ハッキリと批判はしたが、答えることはできませんと言おうね。
400太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/12(水) 19:47:34
>>386
>大物主は・・・、大和の崇神に位を譲り

崇神天皇は開化天皇から位を継いだもので、大物主から位などもらってい
な〜い。開化から位が来てるのに、重複して位などは受ける必要はな〜い。
つまりこれはデタラメの書きこみである。ww
401メを今一度再教育:2011/01/12(水) 19:51:26
>>399
もう少し一般的な教養を身につけてから書き込みする事だな。
毎回誤魔化しながら今日まで来たようだが
これからはそうはいかない。徹底的に誤魔化しを非難してあげるから

>いやだからおれが聞いてるんだって

もう少し読解能力を身につけなさい。
2ちゃん風に切り返しているようだけど、そんなごまかしは通用しない。
402メを今一度再教育:2011/01/12(水) 19:55:47
>>399
アナタは「ドツボ」と言われているようだけど、正にその通りのようだ。
書き込みが多くなればなるほど
自らドツボにはまり込む。なかなかシャレたニックネームではないか。

それもこれも一般的教養の無さだ。もう少し教養を身につけなさい。
403:2011/01/12(水) 20:00:02
>>401

いや、だから〜君のは説明になってないだろう。
ただ単におれを批判してるんであって、

>それは現代において神聖域とする人と古代に神聖域とする人が同じであって
>決して「我々と古代人」が同じとは言えない。

の説明を求めてるんだよ。
404メを今一度再教育:2011/01/12(水) 20:06:26
>>403

>>それは現代において神聖域とする人と古代に神聖域とする人が同じであって
>決して「我々と古代人」が同じとは言えない。

の説明を求めてるんだよ。

何度言えば理解できるんだ。>>398ですでに証明している。


ほれ。これだ

神聖という精神的なものを含むものが、対象となるすべての人間が共通すると言う事を
証明する事はできない。よって私の意見は正当化し
アナタの意見は正当な意見とはみいだされない。
もし正当な意見だと言うのであれば、精神的なものが対象となる者すべてに共通するものという
証明をしなさい。
簡単にいえば、主観は客観的になりうるかという問題だよ


理解できないのか?
405:2011/01/12(水) 20:32:40
そもそも「古代人」の定義だが、一般に奈良時代の人・平安時代も人をさす場合が多いが、
「神社」が多く築くようになるのもこの中世よりも以前の「古代」からですよね。
で、この古代人が「神聖域」とする現在の人と違うという説メりがハタシテ
404で為されただろうか?そんな説明で万人の人は納得・理解できるだろうか?
わたしはそうは思えないな。
406:2011/01/12(水) 20:38:49
ああ〜誤字ごめん
テレビ観ながらだから
407日本@名無史さん:2011/01/12(水) 20:52:49
BSの「BBC地球伝説」という番組を見ていたら、土器の発明は中国は桂林だったと言っているけれど、それは違うのではないだろうか?
408:2011/01/12(水) 20:53:43
>メを今一度再教育 さん

神社は古代から神聖な所だよ(爆)それにしても本当にムチだねぇw 

ここに、お仲間が待ってるんじゃね?w
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835208&tid=a1vr2bbva1a6oabfmeaa1w9tdx5adbbv2rc0o&sid=1835208&mid=1
409メを今一度再教育:2011/01/12(水) 21:27:38
>>405
>この古代人が「神聖域」とする現在の人と違うという説メりがハタシテ

この@とA違いがわかるか?

@古代人が「神聖域」とする現在の人

A神社を神聖域とする古代人と、神社を神聖域とする現代人

@の発言はアナタの発言で、Aは私の発言だ


>わたしはそうは思えないな。

私はそうは思えないという認識の人が、万人の人は納得・理解できるだろうか?
という疑問を持っても意味ない

アナタの認識というのは、

メ・・・「オマエは悪魔だろう」

私・・・「私は悪魔じゃない」

メ・・・「悪魔じゃないと言うのなら、悪魔でない証明(説明)をしろ」

この会話が成り立つとの認識
410メを今一度再教育:2011/01/12(水) 21:38:28
>>408

>神社は古代から神聖な所だよ(爆)それにしても本当にムチだねぇw

だからそれが違うと言っているんだよ。
現代ならば神聖という精神的なものを聞き取り調査する事で確認出来るが、古代の人の精神を
いったいどのように知ることが出来るんだね
それは単なる思い込みであるし、そうであってほしいと言う願望そのものだ
その思い込みや願望が、いつしか「古代の人も我々も神聖なものとしている」という
ことになってしまった。

411日本@名無史さん:2011/01/12(水) 21:53:18
河童王は長めの午睡から目覚めると、その目をしばたきしばたき、傍らに畏まる下僕に声をかけた。
夕暮れの空が茜色に染まる時刻となっていた。

河童王  「おお、よく寝たものじゃ。2chにカキコしていた頃の夢を見ておったぞ。メよ、控えておるか?」

メ(下僕) 「はは、陛下ここにおりまする。」

河童王  「お前はまだ、2chカキコしておるのか?」

メ      「御意。」

河童王 「そうか、よく飽きもせずにの。それで、皆に好かれておるのか?」

メ      「・・・・・・・・・・・。」

河童王  「なぜ答えぬのじゃ? 皆に好かれておるのかと聞いておる。」

メ      「・・・・好かれてはおりませぬ。」

河童王  「ほう、やはりな。では、なぜ好かれぬと思う。」

メ      「・・・・・・・・わかりませぬ。」
412:2011/01/12(水) 22:02:32
>>411
だろ?ここの板は日本の歴史を扱う所で、さすが「古代史に精通してる人」が集まっている。
そんな中で、このムチっぷりは「モン太」とか以外にいないんじゃないかと思ってたところょ。
413日本@名無史さん:2011/01/12(水) 22:12:26
>>412

おい、何で>>411が味方だと思っちまうわけ?
414日本@名無史さん:2011/01/12(水) 22:18:37

神社が作られるようになったのは7世紀に仏教が伝来して仏閣が作られるようになってからだ。
それ以前には神は石とか木に宿るとされたいたのだ。
415日本@名無史さん:2011/01/12(水) 22:19:41
>>412
おまえはおめでたい奴だよ
416日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:31:58
神社に神を奉っても、それを神聖な領域と認識するまでには相当な年数を要すると考えられる
それまで神は自然なものに宿るとされ、神社などの人工的なものに宿るとは
考えてもいない。
統一された教育がそこに存在しているのであれば、教育によって比較的短期間に
人の潜在的な意識に、神社崇拝という精神を宿す事が出来、神社領域を神聖なものと
認識づけることもできたであろうが、自然的な広がりを考えると
そてはとてつもなく長い時間を要したと考えても、決して過言ではないだろう

統一的な教育のない世界で
同じ認識を幅広く植え付ける方法としては、強制的という方法が存在する
支配階級が民に強制的に神聖な領域であることを力で認識させる
これなら比較的短期間に幅広く統一的な認識を植えつけられる。
417日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:40:21
どっちにしろ
神社を神聖な領域とする意識は、古代と現代ではまるで違った感覚であり
現代人の神聖という認識と古代に於いて神社を神聖とした背景は
まったく別物だったと考えられる

神聖認識が短期間に広まったという前提で話を進めれば、上記の考えから
古代においては神聖と言うよりも、力に対する「恐れ」からの侵すべからず領域
であり、現代のような心から崇拝すべき神聖ではないだろう。
418日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:51:08
現代に於いても神聖な領域というものは、その根底に教育というものが存在するからゆえに
神聖という認識や思いが生まれる
教育を受けていない人(異教徒の外人でもいい)が神社にたいして神聖という感覚を持つことは
ないだろう。日本人が神社の領域に対し神聖というイメージや感覚を覚えるのは
その根底に基本的な社会教育や学校教育があるからこその尊ぶと言う認識だ。
その根本が存在しない古代人が神社領域に対し神聖とい感じることはなかったであろう
神聖と古代人が感じ出すのは、古代人に教育を植え付けたのちの話であろう。
419日本@名無史さん:2011/01/12(水) 23:58:01
ははあ、これは難しい領域を論じてるなあ。弥生時代後期の神域観・・・確かに縄文から
山や神木などを崇敬する信仰形態はあったんだろうが、まだまだシャーマンの神託が力
を失っていない時代でもある。あとは倭人伝にも出てくる卜占のような要素。現代の神社と
比較して語るのは無理だろう。
420メ(畿内説):2011/01/12(水) 23:58:42
>>416-418

アッハハハハ よっぽど〜胸の奥に納得がいかない
なにかストレスのようなものが芽生えたのだろうか。

古代の神社も"神聖な領域"とされてるよ。
421日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:01:32
これは難しい話だね。弥生後期あたりだと、縄文から続く山や樹木信仰はあったんだろうが
シャーマンの神託がまだまだ力を失っていない時代でもある。それと倭人伝にみるような
卜占の要素・・・後代の神社と比較して何かを語ろうというのは無理だろうねえ。
422メ(畿内説):2011/01/13(木) 00:14:55
>>421
おや、もしかして縦目君かな?
古代神社に関する、君の考えも聞いてみたいな。
何が難しい話なのか知らないがw まあ、暇だったら知ってることを書き込んんで下さいな。
423日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:24:36
>>420

>古代の神社も"神聖な領域"とされてるよ。

間抜けな発言のてんけいだな。

その意見には「されている」という時間的なものが存在しない
いったい何時「されて」いたんだという最も重要な事が
それを古代という実に曖昧な言葉でごまかして過ごそうと言う考えだろうが
そうはいかない
この「古代の神社も"神聖な領域"とされてるよ。」という言葉の中に
時間的なものが含まれない限り、全く価値の無いものになる。

424日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:27:37
>>421

>これは難しい話だね

そうです。物凄く難しいことです
単純に考えられる人がうらやましいですよ。
425日本@名無史さん:2011/01/13(木) 00:30:42
>>423 補足

言葉が抜けていましたので追加します

>その意見には「されている」という時間的なものが存在しない

補足後・・・その意見には「されている」という事を表す時間的な位置づけが存在しない
426メ(畿内説):2011/01/13(木) 00:51:44
神社の古いところでは日本書紀の垂仁天皇条二年に「比賣語曾社~」について記されてるよね。
427レス長たらし毘古:2011/01/13(木) 02:03:29
神話の時代では有るが、これは「玉」ではなく「魂」ではあるが、読みが同じ
「たま」なので、これもあげておく。

・大年神の子供に大国御魂神(オオクニミタマノ神)がいる。

※ちなみに、この大年神の神裔の名前も面白いので、以下抽出列挙しておく。
・大国御魂神(オオクニミタマノ神)
・大香山戸臣神(オオカガヤマトオミノ神)
・興津日子神(オキツヒコノ神)
・興津比売命(オキツヒメノ命)(別名:大戸比売神:オオベヒメノ神)
(※竃の神様)
・香山戸臣神(カガヤマトオミノ神)
・羽山戸神(ハヤマトノ神)
428レス長たらし毘古:2011/01/13(木) 03:18:41
さて、いよいよ人皇における「玉」関係。

・師木津日子玉手見命(安寧大王のこと。モモソ毘売の母方の祖父にあたる)
・ハニヤス毘売(河内の青玉の娘。タケハニヤスビコの母)
・師木の玉垣宮(垂仁大王が坐した宮。垂仁の娘には、沙本毘売や倭比売が
いる。また垂仁の妃には先述したヒバス美人三姉妹がいる。ちなみに余談
だが、この垂仁はカグヤ比売も妃にしている)
・八尺の入日売命(景行の妃。八尺(ヤサカ)はヤサカノ勾玉を類推させる)
・玉倉部の清泉(ヤマトタケルが死の直前に立ち寄った泉)
・話が御魂を舟の上に坐せて〜(神功皇后渡海の際の託宣の一つ)
・末羅縣の玉島の里(神功皇后の帰途に立ち寄った場所)
・玉の郎女(イラツメ)(応神大王の娘)
・新羅の赤玉(天之日矛の母。天之日矛は神功の祖先にあたる)
・玉津宝(天之日矛が新羅から持ち来た二つの玉との事)
(※ちなみに、この時同時に、興津鏡・辺津鏡というニ鏡も渡来)
・押木の玉カヅラ(安康大王に献上される予定だった品)
・沼名倉太玉敷命(敏達大王の事。欽明大王の子)
429日本@名無史さん:2011/01/13(木) 03:19:33
>>427
「大年神の神裔」とかいってるけど、これも、
7〜8世紀に神道が形成された後で、地方の神をよせあつめて”***の裔”としただけなんだけどね。
なにか意味を見出そうとすること自体が無意味。
430レス長たらし毘古:2011/01/13(木) 03:53:38
これを見ると、古事記の人皇の部において、「玉」は後半に偏って登場して
いるのが明白で、その重心は垂仁の坐所から始まりヤマトタケルの時代を経て
神功伝説に至る位置に存在しているとも考えられる。
垂仁大王の宮は師木の玉垣宮であり、これは現在の奈良県磯城郡である。
つまり孝霊に始まる「磯城グループ」に纏わる血脈と深く関係するアイテム
とも類推できるのだ。

先述した「磯城血脈グループ」を再度ピックアップしてみると、以下になる。

・孝霊→祟神→垂仁→景行

上記が磯城に宮を置いた血脈であり、その先達が高城に宮を置いた人が多い
のに対し特徴的である。なぜ特徴的かを示すと次のようになる。(カッコは
大王在位順:宮の場所が磯城・葛城・高市・奈良の区別)

・孝昭(05:葛)→孝安(06:葛)→孝霊(07:磯)
→孝元(08:高)→開化(09:奈)→祟神(10:磯)
→垂仁(11:磯)→景行(12:磯)

奇しくも葛城に宮を置く大王から磯城に宮を置く大王への「過渡期」を重心に
古事記においてはこの「玉」の名前や逸話が「最も多く」出現するのである。
これを単なるブームと見るか、それとも何らかの「玉イベント」と見るかは
勿論貴方次第である。
431レス長たらし毘古:2011/01/13(木) 03:55:33
ちなみに、先述した天之日矛が日本にもたらした宝の中に、「玉」と「鏡」が
ある。つまり、玉本来は日本にあったとしても、天之日矛の血脈、つまり、
神功皇后と仲哀大王の婚姻が無ければ、大和王権に本格的な「三種の神器」
時代は到来しない理屈になるのである。
三種の神器が完全に揃うのは従って、神功皇后前後の短い期間であると推定
する事も可能に成って来る。

日本書紀において、「神宝出雲のフルネ」の逸話が必要に成って来るのも、
あながちナルホドである。この逸話が無いと、祟神の時代以前に三種の神器
を揃えるのは不可能になるからである。逆に、日本書紀によって、「三種の
神器は祟神の出雲のフルネ逸話以前には揃っている筈である」となるのだ。
432レス長たらし毘古:2011/01/13(木) 03:59:32
>>429
>よせあつめて”***の裔”としただけなんだけどね。

「よせあつめ」であるとしたらなおさら、
・よせあつめる理由
・よせあつめた素材の傾向特性
・よせあつめた意図(よせあつめて何がしたかったか、何をしたか)
の上記三つは少なくとも存在する。
433日本@名無史さん:2011/01/13(木) 04:13:50
>>432

地方の役場が集められて行政の下部組織になったのと同じだろ。
434レス長たらし毘古:2011/01/13(木) 04:16:11
さて先述の「磯城グループ」であるが先述の図によって、以下の事がわかる。

葛城→磯城→宮誘致の引っ張り合い→磯城

つまり、このように考えた場合「宮をどこに置きたい」とするグループが
開化〜祟神の時に、クッキリ判れるるのだ。この時期を境に、代々葛城に宮を
置いていた時代から、代々磯城に宮を置く時代へと変遷する(その後仲哀の
時代には更に筑紫(北九州)に宮を置く)
だが、開化〜祟神時代に、それほど大きな政争は、少なくとも記紀においては
見当たらない。だから、魏志倭人伝におけるヒミコ前後の「倭の大乱」が
どうしても記紀からは見つけ出せないのである。
従って、

タケハニヤス王の乱→モモソ(仮に開化の皇后とす)→沙本の乱

と架空筋を作ってみる。すると、モモソがヒミコなら、ピッタリ当てはまる
筋になるのである。ここからが架空であるが、モモソが開化の有力皇后で、
その息子がタケハニヤス王であるならば、この筋は、古事記・日本書紀・魏志
倭人伝の三書を鑑みてもほとんど矛盾は生じないのである。
435日本@名無史さん:2011/01/13(木) 04:16:41
>>431

「三種の神器」について、8世紀に書かれた書物を根拠にしても、
何の意味もない。

「三種の神器」そのものが、日本書紀本文には登場しない。




436日本@名無史さん:2011/01/13(木) 04:21:09
>>434
>代々葛城に宮を置いていた時代から、代々磯城に宮を置く時代へと変遷する(その後仲哀の

そもそも天皇が[代々葛城に宮を置いていた時代]ってものが、存在しない。
2.3.5.6代は葛城に宮を置いたようだが、それ以外は橿原〜磯城に宮を置いている。

「代々葛城に宮を 置いていた」とどうして言えるのか?
それなら、「代々橿原に宮を 置いていた」とも言えるし、
「代々磯城に宮を 置いていた」ともいえる。
437レス長たらし毘古:2011/01/13(木) 04:29:19
>>433
>地方の役場が集められて行政の下部組織になったのと同じだろ。

その例なら、「その時に新たに下部組織になった部署の少なからず多く」が
「元々は地方の役場であった」と言う事がわかるし、「なぜその行政再編が
必要だったか」の理由も存在する筈。
そうすると、「それらを集めた基準」や「それにもれた基準」とかも存在
している筈である。俺が言っているのは、そういう事。
438日本@名無史さん:2011/01/13(木) 04:32:22
>>437
>「元々は地方の役場であった」と言う事がわかるし

それ以上の意味はないよ。
439レス長たらし毘古:2011/01/13(木) 04:33:51
>>463
>2.3.5.6代は葛城に宮を置いたようだが、それ以外は橿原〜磯城に宮を置いて
いる。

それだけあれば「傾向」としては充分でしょう。貴方が傾向として充分では
無いと判断するのも理解できるが、俺は傾向としては充分だと判断している
だけの事。
440レス長たらし毘古:2011/01/13(木) 04:37:09
ちなみに、あくまで「古事記」によると、

2代、4代、5代は、葛城近辺の宮となる。3代は高市郡とあるが、地理的には
けして遠い場所ではない。
441レス長たらし毘古:2011/01/13(木) 04:40:03
>>438
> >「元々は地方の役場であった」と言う事がわかるし

>それ以上の意味はないよ。

そうかな?でも、下部組織に組み込まれなかった役場は地方役場としては
実在し続けますが?そうすると、何をもって、「組み込む役場」と「組み
込まない役場」を分別したのでしょうか?と言う点だけは、存在しつづけます
よ、未来永劫ね。
442日本@名無史さん:2011/01/13(木) 04:45:08
>>441

組み込むか組み込まないか、「誰が」決めたのか、わかりませんね。
中央の誰かが、決めたのか、地方の役場が中央におもねったのか、
いつの時代に、中央の誰かが地方の役場を中央の組織に組み入れることを承認したのか?

8世紀以前に遡って調べる証拠はないよ。
443レス長たらし毘古:2011/01/13(木) 04:46:23
>>435

ご指摘のとおりです。三種の神器は日本書紀の意図では無いのです。従って
その編纂時からそれ以降の概念になりますね。三種の神器は。但し、同時代の
有力臣連による「天皇権威の格付け」として、「前三種の神器」的な神宝解釈
は既にあったかもしれませんが。(例えば物部氏とか葛城氏とか)
444唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/13(木) 18:50:43
>崇神天皇は開化天皇から位を継いだもので、大物主から位などもらっていな〜い。

崇神は開化から天皇家としての遺産しか相続していない。
崇神6年に大物主は、自分の遺産を崇神に譲渡する。
その証拠として、初子タタネコを崇神に仕えさせる。

そう言うことだから太国の言い分は通らない。
445太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/13(木) 19:57:06
なにをデタラメをぬかす!!
開化は立太子してるんだよ。皇紀468年 1/14 のことだ。これは遺産相続
ではな〜い。立太子は即位する者がなるのだ。大物主だとぅ〜?
デタラメを言うな。オマエは毎回記紀の主張を白蟻群のように崩れさせ
る。そうは問屋がおろさない。><
446太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/13(木) 20:12:45
>>445 訂正
× 開化
○ 崇神

× 皇紀468年 1/14
○ 皇紀531年 1/5
447メ(早寝早起):2011/01/13(木) 21:11:17
よし、どんこいの流れ止めて来たぜw
さて、レスをしましょうか。(^-^)

前方後円墳というのは、これは明治や昭和になってから使われだしたんだが、
その起源を遡ると江戸時代末の蒲生君平が著した山陵志(さんりょうし)ですよね。
これは天皇陵を記したもので、それ以前は、前方後円墳ではなく、
「車塚」という名称でよばれていた。

証拠としては、水戸藩士である中山信名著の「墳墓考」で『確認できるはず。
448日本@名無史さん:2011/01/13(木) 22:40:09
今からでも遅くはない。
前方後円墳から、氏最上つき鉛粉に名称を改めよ。
そうすれば、古墳の真実が見えてくる。
449日本@名無史さん:2011/01/13(木) 22:52:51
こっちまで流れ止めてどーするんだよwww
450日本@名無史さん:2011/01/14(金) 00:00:50
自業自得というものさ。
邪馬台国畿内説、永遠なる迷路。
451日本@名無史さん:2011/01/14(金) 00:10:18
うちの近所の前方後円墳は
銚子塚古墳だな。

ぐぐったら、割とありふれた呼び名らしい。
452日本@名無史さん:2011/01/14(金) 00:18:02
熱カンでイッパイ、やりたくなった。
今夜は冷えるね。
453メ(早寝早起):2011/01/14(金) 00:18:58
福岡県福岡市東区志賀島から「漢委奴國王」金印が発見されたが、

後漢書の記事は、
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」となっており、

「委」と「倭」の違いが気になる人もいるだろう。
しかし、「委」は「い・ゐ」だが、漢書・臣讃注には「倭是国名、不謂用墨、故謂之委也」とあり
普通に考えて倭の古の言い方は「委」であろう。

そして、邪馬「壹」國と邪馬「臺」國の違いに関しても、
隋書で「則魏志所謂邪馬臺者也」と説明してるので、邪馬壹國と邪馬臺國は同じという事がわかる。
454メ(寝る前):2011/01/14(金) 00:37:12
「漢書」<地理志倭人条>(原文)

(本文)
 夫楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云

(注)
 如淳曰「如墨委面 在帯方東南万里」
 臣曰「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」
 師古曰「如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭国
    魏略云『倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国皆倭種』」

「漢書」<地理志倭人条>(注)の訳

 如淳の注
 (本文中の「倭人」の語句をみて)
  入れ墨をしたような変な顔をした種族が、帯方郡の南東・万里の処(非常に遠い
  所)に住んでいる。

 臣の注
 (本文中の「倭人」の語句と如淳の注をみて)
  「倭」というのは国名であって、入れ墨をしているという意味ではない。古くは
  これ(倭)を委と言った。

 師古の注
 (本文中の「倭人」の語句と如淳の注をみて)
  如淳は『入れ墨をしたような変な顔をした種族』と注をしているが、どうして、
  (倭の)音は「委(ゐ)」の字だけしかないとするのか。(倭の音は)この(委
  [ゐ]の字の)音ではない。「倭」の音は「一戈反(わ)」である。今でもなお
  「倭」という国はある。
  (史書の)魏略に次の様に載っている。
  『倭は帯方郡の東南の大海の中にあって、山の多い島々から国がなっている。
  海を渡ること千里、又国があるが皆倭種である。』
455メ(寝る前):2011/01/14(金) 00:43:14
上の投稿はここからコピーしたものだが、
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm

>倭面土国は(やまと国)ではない

とか言ってるようであるが、日本列島のヤマト政権を指し、
漢字表記したものであることは明らかであり、何を言ってもむなしく聞こえるのは私だっけだろうか。
456レス長たらし毘古:2011/01/14(金) 01:06:36
>>444-445

俺個人は「立太子概念」の制度化は、もっと後だと想定しています。そうで
ないと聖徳太子前後の「後継争い」が熾烈であった事が説明し辛い。
むしろそれがあったからこそ古事記において、ヤマトタケルノ命やホムツワケ
ノ命が殊更にヒーロー化され、タギシミミノ命やタケハニヤス王やオシクマ王
は反乱者と規定されます。
故に、立太子(皇太子・日嗣の皇子)概念は、聖徳太子以降〜古事記編纂まで
に「制度化(を目指す)」されたと当方は想定しています。更に言えば、継体
前後に、そのプレアクションがあったと架空想定すれば、かなり自然な歴史
現象に感じられます。
457レス長たらし毘古:2011/01/14(金) 01:24:41
つまり、「立太子概念が当時まだ無い」からこそ、(ま、タギシミミは古すぎ
るとしても)タケハニヤス王・サホ毘古・オシクマ王は「反乱者」と規定する
必要が生じるわけで、古事記の人脈系統を辿るだけでも、充分彼らにも「大王
就任の資格があった」と類推する事が可能な親等関係であることが容易に伺え
ます。
逆に言えば、もう古い時代の話となって、今となっては覆す理由も方法も無い
時代になるからこそ、「当時の善悪」を二元規定できるのです。従って、この
概念の正式な制度化は後代規定、つまり聖徳太子〜古事記編纂と考えると最も
自然と考えられます。或は、帝紀・本辞の頃に既にその傾向があれば、もっと
前に遡れるかもしれませんが、だとしても古事記にて反逆記述が消える雄略
大王以前に遡る事は、古事記上は想定し辛いです。
458レス長たらし毘古:2011/01/14(金) 01:45:19
逆に、日嗣の皇子(立太子・皇太子)概念が既に有れば、今度は継体大王の
着任が疑問になって来ます。古事記の記述を信じるならば、仁徳系の最終子孫
の武烈が就任される頃、カナリ皆さんアタフタして、やっと遠縁の継体を探し
出す話になり、古事記ではそこが突飛すぎるので、日本書紀ではその由縁を
殊更に写実的に描くと言う流れになってしまいます。
もし、当時までに「日嗣の皇子(立太子・皇太子)」の概念と制度が確定して
いれば、このような(傍目目線では)悲喜劇は起こり様が無いのです。しかし
起こり得るのは、現状の皇室を見れば容易に類推は可能です。「神」の現存中
に「次の神様の心配をする」なんて、信心深い人はなおさら、そうでない人も
普通に皆さん脳内には無いでしょう。むしろ平時は「考えたくない」「考え
るなんて不遜だ」と言う雰囲気になる確率のほうが日本人的には高いと思う。
459ポキール:2011/01/14(金) 18:19:39
ご無沙汰しておりました。アケオメです。


>>454さん

次の日本語訳について、ちょっと質問してよろしいですか。

>帯方郡の南東・万里の処(非常に遠い所)に住んでいる。

帯方東南と具体的に書かれたものに対して、次に来る語句「万里」は(非常に遠い)という
曖昧な言葉を使わなければならないのですか。
それに、(非常に遠い)は、次にくる言葉を修飾するものなのに、どうして「万里」の次に
言葉がないのでしょうか。

仮に(非常に遠い)と訳した場合、いったいどこから非常に遠いかもわからない。
ここに書かれている楽浪から非常に遠いのであるならば、都である長安から見た楽浪よりもはるかに遠くになければ
この言葉は使えないと思います。
そのへんの矛盾をどうか解決してお答え願えないでしょうか。

460唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/14(金) 21:58:35
>開化は立太子してるんだよ。皇紀468年 1/14 のことだ。これは遺産相続ではな〜い。

で、開化の太子、崇神は開化から何を相続したのだ?
461唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/14(金) 22:31:53
太国:>大王の臣下(家来)伊支馬 ≠ 家来よりえらい 垂仁大王
魏使が238年に伊都国まで来る。
この時点で魏使は卑弥呼を倭国の大王、倭女王卑弥呼と認定する。
この傘下に邪馬台国がありそこを伊支馬が治める。
伊支馬(垂仁)が九州を配下に置いたことはない。
だから日本全土の王を卑弥呼と認めた時点で、垂仁も女王の配下と書かれる。
魏使は、正始元年、田道間守に付き従い大和を訪れる、この時、伊支馬は墓の下である。

太国がイクメ(垂仁)が女王の配下でないと主張するのであれば、太国倍年は間違いであると
主張する事になる。
否定したければ、太国倍年を使えば良いのに、使い物にならない太国倍年。
462唐松山 ◆V0F34EbmQA :2011/01/14(金) 22:40:12
>半島文献と紀とが120年とか断層があるのに、

209年 崇神世に任那建国 新羅本紀:209年 伽耶に援軍。
金官伽耶は541年新羅に身を寄せる、この時建国330年と言っているから、
任那(金官伽耶、狗邪韓國)建国は209年。
274年 渡海 この年2月、晋は幽州を分け平州を置く。
仲哀(総司令官)の死を無視して渡海する、渡海目的が戦争であれば中止されている、
晋の要請による渡海である。
323年 神功49年 政治的空白域と成った半島の占拠、クダラ軍は百済(モザ)建国。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
342年以降 高句麗、百済等は前燕に属す。
372年 東晋の使者が百済を訪れる。応神廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢。
仁徳58年冬十月、呉國。高麗國並朝貢。
 414年 公開土王碑 辛卯年(331年)
413年 東晋への朝貢記録は、百済が高句麗の属国であることを認める。
書紀から百済の記録が消え、巨大古墳は終焉する。
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)は274年である。75年の誤差。
“120年差”と比べると45年の差。これは考古学が50年遡上した数字でもある。

太国は、歴史上の数字を太国倍年で主張しない、というより主張出来ない。なぜならば
太国倍年の数字は歴史と関係の無い数字であるからだ。
そこで太国は“神功紀は120年差”を持ち出す。この時点で太国倍年は潰える。
太国が“神功紀は120年差”を持ち出しても、その数字で書紀の言い分を正しいと出来ない。
120年差も潰える。
“神功紀は120年差”とは、考古学が50年遡上する前の古い思考でしかない。
463太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/14(金) 23:40:52
卑弥呼が倍暦をやったとしても、畿内の倍暦と内容が同一とは限らない。

オマエの言うことは畿内兼九州説と畿内説との〜時と場合の都合によって
行ったり来たりの獣か鳥だか判然としない偽バット・マンのようであり、
デタラメだからあっち行きこっち行きしてるわけであ〜る。ww

それが今度はこっそりと、無コテの匿名で九州説でないと不合理があるよう
な本音を、キマリ悪いのかコソコソと述懐している。こんなんでは、オマエ
の説のは権威がドカ落ちであり、さすがの畿内節者ジョーカーも呆れて
向こうへ行けとオマエに勧告したくなるだろう?wwwww
464日本@名無史さん:2011/01/14(金) 23:45:14

結論としては、神功皇后 = 卑弥呼
465日本@名無史さん:2011/01/15(土) 00:41:50
卑弥呼は結婚してないから神功皇后ではないよ。

卑弥呼はアマテラス。
466日本@名無史さん:2011/01/15(土) 04:30:17
アマテラスは8世紀の創作。
467太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/15(土) 08:51:32
>>461
>日本全土の王を卑弥呼と認めた時点で、垂仁も女王の配下と書かれる

そんなことは記紀にも伝にも書かれていない。書かれていないことを
書かれていると大ウソをついてデタラメを正当化してるのがオマエのやり口
であり、もうメチャクチャだということだ。ww 精神病院へ行って診療医
に脳内を診てもらえ。そうとういかれているようだぞ?

日本全土の王が卑弥呼なら、オマエの言っていた景行が日本初の日本全土
の王だという主張と矛盾する自語相違論ではないか? そうなると、
オマエの論は支離滅裂でさらなる大デタラメ吐露を意味している。ww

>太国がイクメ(垂仁)を女王の配下でないと主張するのであれば、太国
 倍年は間違いであると主張することになる

イクメというより、垂仁大王(イクメイリヒコイサチノミコト)は伊支馬
という臣下(家来)ではないと主張するのが先決であり、その上で垂仁は
女王の配下ではなく、これにより倍年暦法が間違いだというオマエの主張
は、風が吹けば桶屋が儲かる式の極めて接続性の観られない論理の飛躍が
書きこみにあり、これでは全然具体性が書かれてなく、無理にオマエが
接着させた非合理的主張だとの断が下されるのであ〜る。
468太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/15(土) 09:00:43
>>462
その年表は一見解説してるふりの各年1行程度の書きこみがあるが、
その実どうしてそういう年代になるのかという説明は全く無いわけで、
これでは餌がついてない釣り同然であり、誰も納得する者(大魚)は
かからな〜い。であるからして年表以下の批評も重ねても説得力は無く、
反対するための言い訳だけであり、正規の反論にはならない。つまり反論
しても年表の年代がどうしてそのように確定したのかとの大本が0で
あるから、暖簾に腕押しの無駄な書きこみであり、反論した気分になって
るオマエがのど元を通っている考えでも、こちらのほうはイカサマ年表と
正規の反論性の無い〜支離滅裂なオマエのたわ言だと断言する。
469日本@名無史さん:2011/01/15(土) 09:13:49
アマテラスが創作なんて、何の証拠もない
470日本@名無史さん:2011/01/15(土) 10:52:19
卑弥呼はモモソ姫。

神と結婚してるし子供もいないしな。
女性器に箸を刺してるのは子孫がいない、
つまり後から血縁を主張できないという事。
471太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/15(土) 11:03:59
唐松山は、歴史上の数字を唐松山大年増で主張しない、というより主張出来ない。
なぜならば唐松山大年増の数字は歴史と関係の無い数字であるからだ。
そこで唐松山は”神功紀は120年差を持ち出さない”この時点で唐松山大年増は
潰える。
唐松山が”神功紀は120年差”を持ち出さなくては、その数字でホツマの言い分を
正しいと出来ない。
120年差も潰えられない。
”神功紀は120年差”とは、考古学もこれに当てはまる新しい思考とせねば
ならない。
472日本@名無史さん:2011/01/15(土) 11:45:31
唐松山は大年増のおばばなのか?
473太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/15(土) 15:20:59
>>472
そうでなくて、年代の大きいマシ(増し)が恣意的に年代と年代の間に不正
に挿入されていて、これで大きい年代の増加となった事から、神武即位が
B.C.660年まで伸長されているんだという論があいつの考えだよ。

これはなるほどと言える具体的事例をあいつは出せないので、彼奴の妄想
さ。第一、動機もなるほどというものが無く、こういう考えを持った当初
から、動機なんかコヤツは考えてないほど結論の決めこみを即断でやって
たということだ。あいつはウラ取りなんかもやってないようだし、だから
諸々の箇所におかしい疑念がうんと現れ、妄想のシッポを出している。
つまりあいつのはインチキ・デタラメの増幅論だよ。
474日本@名無史さん:2011/01/15(土) 21:37:08
今テレビで邪馬台国沖縄説やってるよ
475日本@名無史さん:2011/01/16(日) 07:16:36
『俾彌呼』と、帝紀には記してあります。
どちらが、本当は正しいのでょうね。
誤記・誤写が在るという何よりの証拠ですよ。

476日本@名無史さん:2011/01/16(日) 14:32:10
>>457
固有名詞と考えるから誤記・誤写なんて発想が思い浮かぶんだ。
形容詞と考えれば何ら問題はない
477日本@名無史さん:2011/01/16(日) 14:35:25
遠くを叫ぶwwwwwwwwwww
478日本@名無史さん:2011/01/16(日) 17:30:51
卑弥呼=東南アジアの女神「ペマカ」説もあったな。
479日本@名無史さん:2011/01/16(日) 19:21:48
今、テレビで卑弥呼〜逃走中やってるね

今回の舞台は、女王・卑弥呼によって統治される「弥生時代のとある国」。
卑弥呼は魔術によって、国の問題を次々と解決し、人々に尊敬されている。
そんな平和な国に起こった、ある異変。
巻き起こる様々な出来事に、逃走者たちが翻弄されていく…。

そんな「弥生時代の国」を逃げ回るのは、アスリート、芸人、アイドルなど各界から集められた16名の逃走者たち。彼らは数々のミッションをクリアしながら最後まで逃げ切らなければならない。

http://www.fujitv.co.jp/b_hp/tosocyu/
480日本@名無史さん:2011/01/16(日) 19:23:11
舞台は吉野ヶ里遺跡らしい

本物だよ、本物!
481日本@名無史さん:2011/01/16(日) 20:20:41
相変わらずメディア使っての刷り込み好きだね。
482日本@名無史さん:2011/01/16(日) 20:27:03
>>481
それだけ知名度が高い
卑弥呼を知らない人なんて日本人じゃない
483日本@名無史さん:2011/01/16(日) 20:33:21
邪馬台国は吉野ヶ里・・・日本人の常識です!
484日本@名無史さん:2011/01/16(日) 20:41:02
韓国大好き!のフジらしいよw
485日本@名無史さん:2011/01/16(日) 20:46:38
日本一の弥生遺跡、吉野ヶ里は何て広いんだ
486日本@名無史さん:2011/01/16(日) 20:51:04
纏向はもっと広大だ
487日本@名無史さん:2011/01/16(日) 20:52:40
卑弥呼役のQちゃんこと、高橋尚子は金メダルとった人でしょ?
488日本@名無史さん:2011/01/16(日) 20:59:16
吉野ヶ里もすごく寒そうだったねw
489日本@名無史さん:2011/01/16(日) 21:01:29
>>487
> 卑弥呼役のQちゃん

コントやってる人だろ。
490日本@名無史さん:2011/01/16(日) 21:05:16
>>488
おまえんちは寒く無いの??w
491日本@名無史さん:2011/01/16(日) 21:06:40
てst
492邪馬台国スレ運営くらぶ:2011/01/16(日) 21:46:38
高く買って欲しければ

良質な書き込み、より知識を増やし
学問的な書き込みをすることだな
493日本@名無史さん:2011/01/16(日) 22:00:38
しーーーーーーーん
494メ(まだねてないw):2011/01/16(日) 23:34:00
<御託宣集 国四>
地神第五代彦波瀲武盧茲草葺不合尊、母者豊玉姫也、
取母妹玉依姫為妃、生四男有一王、人王第一日本磐余彦尊、神武天皇、母者海神之玉依姫成 伝伝

日向三代(瓊々杵尊・彦火火出見尊・彦波瀲武盧茲草葺不合尊)のウガヤフキアエズは
上記、御託宣集によると「地神」第五代とされている。
又、卑弥呼=神功皇后説とかあるが、この神功は人皇十五代とされている。

日本書紀の記述が正しいのか?
又、御託宣集の記述が正しいのか?興味深い。
495メ(まだねてないw):2011/01/16(日) 23:43:45
>女性器に箸を刺してるのは子孫がいない

箸墓の「箸」ですが、日本人は食事をする際に箸を用いて食する。
倭人伝のほうでは、風俗記事の方に「手食」とありますので、この頃は一般に普及していない。
この箸がつヵわれだしたのは、七世紀〜八世紀にかけてからなんですが、
この三輪山の神との婚姻伝説「箸を刺す」というのは470さんも言ってるように、また違った意味の可能性は高いでしょうね。
496日本@名無史さん:2011/01/16(日) 23:45:30
端を指す
497日本@名無史さん:2011/01/16(日) 23:49:19
メ は人ゲジゲジ
498メ(まだねてないw):2011/01/17(月) 00:06:29
よく〜青銅器が日本列島に入り、「聞く」から「観る」といわれるようにこの青銅器が巨大化する。
これは農作豊穣を願う祭祀道具として変わっていくんだが、銅鐸文化圏と銅矛文化圏とか聞くよね。

しかし、弥生社会の「稲」に代表するような普及は、九州、山陽、近畿のみならず
東日本にまで広がりをみせる。
東北地方の方は地域的にまだ縄文文化だったり、いち早く西日本の「稲」を使い
水田。稲作をはじめるところもあるんだが、ここからいえることは、九州と近畿とで
文化の違いを別けるのではなく、弥生の稲作時点で九州から東日本にまたがる
大きな「文化圏」があったといえるのではなかろうか。
青銅器も九州で丸っきり見つからないのならともかく〜そうではない。
九州から東日本にまたがる「倭」の中で、白組、紅組じゃないけど
それぞれの色分けとしての「シンボル」として銅鐸使うグループ、銅矛グループに
分かれたダケでしょうね。
ま、偉そうなこと言ってるが、この前読んだ本にそんなこと書いてたゎんww
499メ(まだねてないw):2011/01/17(月) 00:13:09
>陳寿がそのまま誤った記述を採用するだろうか。
>里数距離と矛盾する記述は行わないであろう。

ヤフー掲示板の邪馬台国の位置と里数による記事ですが、
倭人伝の里数は一里何キロになるのか?とかよく議論してるよね。
古田氏はこれを千里=76kmと考えてるようで、みなさんの里数はなんぼになるんだろうね?
500日本@名無史さん:2011/01/17(月) 00:16:10
メ は人ミミズ
501メ(まだねてないw):2011/01/17(月) 00:23:32
>>500
君はいつもレスが短いよね。
たまには君の邪馬台国位置論てやつを書き込んで下さいよ。

さて、ねるか zzzzzzzzzzzzzzz
502メ(まだねてないw):2011/01/17(月) 00:27:23
>>459
>次の日本語訳について、ちょっと質問してよろしいですか。


それは>>455のホームページ先の人に聞いて下さいよ
私にきかれてもねぇ(笑)

503レス長たらし毘古:2011/01/17(月) 03:54:08
>>470
>神と結婚してるし子供もいないしな。女性器に箸を刺してるのは子孫が
>いない、つまり後から血縁を主張できないという事。

その理解は納得できる。と言うのも、箸を刺す逸話は、あくまでも日本書紀
主張の伝承逸話である。恣意性がより低い古事記(無いとまでは言わないが)
においては、その逸話は無い。先行の史料(古事記)にその逸話が無く、後発
で恣意性を隠していない史料(日本書紀)にそれがあると言う事は、記紀編纂
期においてなお、「モモソの隠された子孫」なんぞが「ひょっこり現れたら
大変」ともとれる話でもあり、その可能性を封じる為の日本書紀モモソ怪死
逸話の殊更表記と想定すると、道理としては自然だ。

>>479
引田天巧 VS マリック大臣 が、とても面白かった。
さすがテレ東歴史部門魂と言う物を垣間見せてくれましたのぅ。
闘争中シリーズ中ではめずらしく「見晴らしのいい場所」だったので、逃走者
達にとって多少不利であったのぅ。(今回ハンターが少なかったのも頷ける)
504レス長たらし毘古:2011/01/17(月) 04:22:20
あくまでも古事記ベースで「立太子概念・制度」を講じるなら、血縁記録しか
ない神武〜開化期間と安康〜武烈期間を除き、「立太子制度」があるような
印象は抱き難い。(継体の継承がその最も特徴的な物であることは先述済)
むしろ、兄弟継承慣習をなんとなくやっていて、立太子慣習は当時まだ無か
ったと想定した方が、祟神〜仁徳までの殊更逸話群や、継体〜天武までの継承
権争奪騒動多発やそれに群がる有力氏族の交代台頭も、逆に理に叶っている
話になる。
この、兄弟相続慣習は、倭の五王以前も以降も、ずっと引き継がれていて、
むしろ立太子慣習は天武以降に殊更に制度化しようとした、と想定すると、
古事記の記述は至極自然なのだ。但し、日本書紀だけがこれを強烈に否定する
ワケだが。
505レス長たらし毘古:2011/01/17(月) 04:49:26
この立太子慣習は、長子相続制から演繹的に発生必要が生じる物であるので、
つまり、記紀がターゲットとした時代は「兄弟相続制」であったと架空した
ら、微妙案件は正邪反転する話にもなるのである。

つまり、「当時その継承で問題無かったケース」が記紀編纂期には大問題に
なり、「当時その継承で大問題だったケース」が逆に記紀編纂気においては
なぜ当時大問題だったかがワカラン、とも成りかねないのである。

だから、日本書紀というマニュアル本が必要に成って来るのであるが、その
マニュアル本を編纂した時代はすでに皇室も有力豪族も、舶来輸入した
「長子相続概念」と、それから演繹的に発生した「立太子(必要)概念」が
「当然である」と言う当時慣習に縛られた固定概念で、帝紀・旧辞を眺める
のである。そして、それらのニ書や(更には海外の史料)との諸所矛盾(に
当時見えた諸記載)に苦悩するワケである。
古事記は、とりあえず先行する書物と口承逸話を「拾い集めた」だけの物で
あり、かつその際に、恣意的に「ある記述」だけをスッポリ避けて拾い集めて
いるのである。従って、その際に、倭の五王以前は「長子相続制であった」と
なってしまったのである。従って、それゆえ「乱が起こった」と言う古事記
独自の解釈になり、それらの乱を後代評価をするのである。従って、庶兄の
タケハニヤス王が大王を(名乗り)脅かすなどとは「畏れ多い」となって、
古事記法則に合致する形で記述されるのであるが、むしろ当時慣習においては
タケハニヤス王が「立候補しようとする」事が、必ずしも古事記法則の規定
するような「畏れ多い」物であったかどうか?
当時兄弟相続慣習と架空すると、むしろそちらの方が当時は「より優れた継承
資格があったのではないか?」とも邪推できるのである。なぜなら、彼は崩御
なされた大王の「兄弟」なのだから。

天武と天智の表記における矛盾も、これらを一考する一助にもなるのである。
506レス長たらし毘古:2011/01/17(月) 05:08:59
五王は家系図をい見る限り、「兄弟相続制」の可能性が高い。そして、ヤマト
タケルがゴネル逸話も、当時兄弟相続制であったと仮定すれば、それなりに
理由のある抗弁でもあるし、ヤマトタケル亡き後に父の大王が悲しみに暮れる
表記もこれまた頷けるのである。
仮に、兄弟中で、甲乙つけがたい、優秀な皇子が二人いたとするならば、その
一人が御所を離れず、他の一人(つまりヤマトタケル)だけが「御所を離れて
近隣所属を屈服させて来い」という命令が下った場合、これは「後継者レース
」においては「致命的に不利」になる話でもある。ヤマトタケルがごねるのも
これは立太子概念がまだ無い、兄弟相続概念と考えるとごく自然なのである。
でも納得して遠征に旅だつのである。
つまり、ヤマトタケルは兄弟相続慣習だから「ゴネル」ワケであり、日本書紀
編集者は長子相続慣習の観点から過剰にヤマトタケルに同情するのである。
長子相続制度から考えれば、もしヤマトタケルがそれほど武略の天才である
ならば、なおのこと「良くぞ反乱を起さなかった尊い皇子」となるのである。
従って、記紀編集期において、ヤマトタケルは英雄になるのである。英雄に
しないと、「長子相続慣習」から鑑みれば、祟りをおこしてもおかしくない
ほどの「悲劇」とも見れるのであるから。

逆に、記紀編纂者は、なぜタケハニヤス王が反乱を起すのかが、長子相続概念
からは「理解が出来ない」ので、従って「童女の童歌の予言」の逸話が必要に
なって来るワケである。
507日本@名無史さん:2011/01/17(月) 07:37:36
>>470
>神と結婚してるし子供もいないしな。女性器に箸を刺してるのは子孫が
>いない、つまり後から血縁を主張できないという事。

モモソヒメは婆さんになってから死んでるので、関係ない。
女性器に何かを刺すという記述は他にも見られる。矢がささって神の子を産んだとか。


「ハシ」はもちろん箸ではなく、土器のことだというのが通説。
508日本@名無史さん:2011/01/17(月) 12:19:09
土師器のハジね。恥墓がモモソヒメのお墓。
509ポキール:2011/01/17(月) 18:17:16
>>502

>それは>>455のホームページ先の人に聞いて下さいよ
私にきかれてもねぇ(笑)


聞かれても答えられないものをコピペしないでください。
掲示板参加者の一人として大変迷惑です。
コピペした以上、聞かれたらその内容に答えられるようにしてください。


510日本@名無史さん:2011/01/17(月) 18:50:49
>>509 経験者がヨコから
> 大変迷惑です。

だからドツボにはだれもレスしない。
511日本@名無史さん:2011/01/17(月) 20:52:13
メ は人タランチュラ
512ポキール:2011/01/17(月) 20:57:29
>>510さん。ありがとうございます。

質問したオレがバカだったと言う事で処理しておきます
513日本@名無史さん:2011/01/17(月) 21:01:11
>>508
「きら☆すた」で有名になった埼玉県の鷲宮神社は土師氏の集落だったのだ。
関東の古墳も土師氏の集団が現地の労働者を雇って造らせたもの。
土師氏は、埴輪や土師器を作っていただけではなく、日本最古の技術者集団だったのだ。
土師氏の祖、野見宿禰は石工。つまり、エジプトのピラミッドや万里の長城を救ったフリーメイソンだったのだ。

ちなみに、土師氏の子孫は、現在も長谷川工務店などのゼネコンとして生き残っている。
514日本@名無史さん:2011/01/17(月) 21:32:33
メ は人ヤモリ
515日本@名無史さん:2011/01/17(月) 22:54:11
>>507
>モモソヒメは婆さんになってから死んでるので、関係ない。

全然関係なくはないよ、日本書紀という「公式ガイド」に
そう記述する事に意味あるわけで。

神代の話で矢が刺さって懐妊とか、機織女に刺さって
死ぬ等とは意味合いが全く異なる。
「神」と結婚していたが、モモソ姫は一応「人」だからね。

性器を刺して死んでるのだから間違っても子はいませんよ、
後々遠い子孫を名乗っても無駄ですと
あえて書く必要があったのだろう。

これは箸墓=土師氏の件とは全く別のはなしだ。
516日本@名無史さん:2011/01/17(月) 23:30:22
 九州説? それはゾンビですか?



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          `7:://:|    |ハ辷'r     辷r ./  iト.、|::|
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         i::/ |:::|    |、      _     イ/   ハ! |:|_
         l/  l:从   ヽ > .      イ /}  / l_r‐{_} T Tヽ __
            l    ヽ   辷==≧≦、/./ /i |` しし∪   |
           l      \トミ77777i|   |i // | | いまどき ? |
          l    __ x<〔/> ////||   ||/ヘ⊥⊥、|          |
            爪/:::i|:ヽ::V////>/||_/ヽ::::}ハヽ:ヾ::.|          |
       /  /||::||:::||::::}::::〉//////    >-、::}}:ヾ|          |
.      /  {::||::||:::||::::レ'77´ ̄` ー一 ´     ';:《::::|          |
     /   丿:リ::||:::ヾ:::{///      r‐ 、      ';:《└‐┬──┬‐┘
.    /  /:〃::::}}:::::::ヾV∧    、__人       }:}}::::》::|::||:::||::::j
    /  {:::::《:::::::{{:::::::::::》〉//>  〃 ll `     ノ:{{::《::::ト#=#=イ
517日本@名無史さん:2011/01/18(火) 00:39:09
>>505

> 立太子慣習は、長子相続制から演繹的に発生

ハァ?
「立太子」・・・太子を立てること。
王の存命中に次代の王、王位継承者を定めることだろ。
先王の死去に臨んで、継承争いなどの不要の混乱を防ぐための制度だ。
長子相続とか兄弟継承とかとは次元の違う話。
逆に長子相続制(血脈にいる継承順位制)が確立しているなら不要な制度だ。
518日本@名無史さん:2011/01/18(火) 06:01:26
>>515

>後々遠い子孫を名乗っても無駄ですと
>あえて書く必要があったのだろう。

意味わかんね。

モモソヒメの子孫を名乗る人が実際にいたというのか?
それとも、モモソヒメの子孫がいないことは周知の事実なのに、あえて、いないことを強調したのか?

519日本@名無史さん:2011/01/18(火) 09:21:01
>>518
>意味わかんね。

そうか?単純な事だろ。
書いておくと本当でもでっち上げでも後から子孫を名乗れない。

モモソ姫は墓の造営についてまで語られた程の、
三輪の大物主と婚姻した姫だからな。
血縁を利用されると厄介な事も有りうるという事。
520日本@名無史さん:2011/01/18(火) 09:46:32
シロートで悪いが、これだけ古墳が残っててヒミコの墓もそれなりに
巨大だったなら、どうしてその痕跡がないのだろう。
時代もほぼ近いし、見つかってないのか、ある中でどれかがそうなのか。
521日本@名無史さん:2011/01/18(火) 09:57:47
>>520
大きさや形状、年代については議論中で異論も多くあるが(九州説者の主張)
一応年代的には、今の所桜井巻向近くの箸中山古墳が近いとされている。

そこは巫女的とされるモモソ姫の墓(これも異論はある)なのだが
卑弥呼的な逸話がいくつかあるので、今の所可能性があるとは言われている。
522日本@名無史さん:2011/01/18(火) 12:02:41
>>519

やっかいな事ってなんだよ?
だいたい、日本書紀がかかれたのは、モモソヒメが死んでから400年以上あとだろ。

400年以上、モモソヒメの子孫を名乗るやつがそもそもいなかったんだから、
わざわざ、誰かにモモソヒメの子孫を名乗らせないという理由で日本書紀に書く理由が無いな。
523日本@名無史さん:2011/01/18(火) 12:36:40
>>521
さんきゅ。
年代的、というのは炭素法が怪しいとすると、土器とかの発掘品からってこと?
九州説で、該当の遺跡がないというのはかなり弱点とは思うけど
これから見つかる可能性があるということなのかな。
この狭い日本で該当の巨大遺跡がないということは、ある中からの
比定が重要とは思うけど、箸墓あたりが「違う」という根拠は
どういうのがあるんだろう。
524日本@名無史さん:2011/01/18(火) 13:45:22
>>522
>400年以上、モモソヒメの子孫を名乗るやつがそもそもいなかったんだから、

厄介な事の意味位わかると思うが。
記述が無いだけで、本来そんな主張をする
人物がいたかもしれないからな。

各豪族間の家系図で微妙な差があるように、
都合の良いように書き換えるなんて事はある話。

紀記以前の帝紀とかは焼かれた事になってるしな。
蘇我の記録がないと何とも言えない部分だ。

日本書記に記述するという事は藤原氏の公式見解だよ。
525日本@名無史さん:2011/01/18(火) 14:23:10
>>524

事実と仮定を混同するな。

モモソヒメの子孫が実際にいたと思ってるの?
526日本@名無史さん:2011/01/18(火) 16:10:18
モモソヒメってさ
ほんとはクマソヒメだったんじゃないかな
527日本@名無史さん:2011/01/18(火) 16:48:44
>>523
>九州説で、該当の遺跡がないというのはかなり弱点とは思うけど

該当の遺跡は吉野ヶ里だよ。
倭人伝の記述にぴったりくるのは吉野ヶ里しかない。

畿内説の学者は年代を百年以上古くしているから、吉野ヶ里は時代が古すぎて候補にならないと言っている。
しかし、九州説の学者はあの古田以外は畿内説の年代は100年以上狂っていると主張しているんだ。

古代史編年に衝撃を与えた年輪年代法も炭素年代法も反対論が多く定説たりえない。
畿内説の学者ですら年輪年代法も炭素年代法を根拠にした年代を主張する者はいないのが現状だ。
そこで大抵の学者は土器編年を根拠にしているが、土器編年は韓国の土器編年と50年以上齟齬をきたしている。

もう一つの年代決定法で漢鏡の編年と言うのがあって
漢の時代に作られた鏡を基準にして日本から出土した漢鏡で年代を決定する方法がある。
ところが、畿内説の学者の鏡編年は中国と100年の隔たりがある。
これでも畿内説の年代はおかしいわけだ。

もう一つピンポイントで年代を決められる可能性のあるのが前漢と後漢の間にあった「新」と言う国の通貨「貨泉」と言うのがある。
貨泉はAD14年からAD40年と言う短い期間しか流通しなかったから、それが出た遺跡はAD14年より前に遡る事はあり得ない。
邪馬台国には掛からないが畿内説の年代では貨泉の出た遺跡が紀元前になってしまう物もある。

このように畿内説の年代は至る所で破綻しているのだが、畿内説学者は意に介さない。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と言って頑張っている訳だ。

九州の遺跡が百年新しいものだとすれば、吉野ヶ里だけでなく九州の沢山の遺跡が候補になりうる。
528日本@名無史さん:2011/01/18(火) 17:16:28
>>527
>邪馬台国には掛からないが畿内説の年代では貨泉の出た遺跡が紀元前になってしまう物もある。

ほう、そうなんですか。
それではその遺跡の名前、所在地を教えてください。
529日本@名無史さん:2011/01/18(火) 17:19:43
>>525
事実と仮定‥

少なくとも大物主が蛇だとか、箸の無い時代に箸で刺すとかは
事実ではないなw

何でそんな話が後年わざわざ紀に書かれた理由を
考察してるだけですよ。

>>527
吉野ヶ里は九州説の人でも候補にする人はもう少ないでしょ。
530日本@名無史さん:2011/01/18(火) 17:22:46
>邪馬台国には掛からないが畿内説の年代では貨泉の出た遺跡が紀元前になってしまう物もある。

つまり古くから大陸と交流があったという事でOKですね。
531日本@名無史さん:2011/01/18(火) 17:30:49
>>527
>邪馬台国には掛からないが畿内説の年代では貨泉の出た遺跡が紀元前になってしまう物もある。

遺跡名を示せよ
532出土地不明:2011/01/18(火) 17:46:08
>>527
>しかし、九州説の学者はあの古田以外は畿内説の年代は100年以上狂っていると主張しているんだ。

誰?その学者って?
533日本@名無史さん:2011/01/18(火) 18:00:25
>>527
なるほど〜〜、ありがとうです〜〜。

吉野ヶ里の年代があえば、ということですね。あそこには卑弥呼の墓に該当する巨大な
ものは出てるのかな、広いからまだこれから見つかる可能性もあるわけですか。

編年、という観点からですといろいろ確定できないようで、ある程度幅広くとらえないと
いけないのでしょうが、文献探索とか他にはどういう方法論があるのでしょうね。

マキムクという巨大な実物がある以上はあそこをよ〜く掘ってみたいものですけど。
あそこが4c半ばで卑弥呼たちとは100年後とすると、誰のお墓とか推定されるのでしょう。
とりあえず畿内説でかまわないのでたくさん予算使って徹底的に調べてほしいですね。
卑弥呼じゃない、という否定の証明をするのは難しいでしょうが。
534奥野正男:2011/01/18(火) 18:14:38
535日本@名無史さん:2011/01/18(火) 18:26:53
>>527
>しかし、九州説の学者はあの古田以外は畿内説の年代は100年以上狂っていると主張しているんだ。

「九州の(考古)学者」じゃなくて「九州説の学者」ってところが味噌だなwwwwww

まあこの怨み節の脳内シナリオじゃ「悪の畿内説」が自説のために吉野ヶ里も含めて無理矢理年代遡上したって事になるんだろうがw

536日本@名無史さん:2011/01/18(火) 18:32:32
>>519
ちゃうがな
「オオモノヌシ」がモモソヒメとの婚姻をでっちあげてるんやがな
537日本@名無史さん:2011/01/18(火) 18:35:43
>>536
で、理由は何の為に?
538日本@名無史さん:2011/01/18(火) 18:37:53
直接的ではないが、他の遺跡との比較で齟齬をきたすものがあると言う事だな。
都出が1998年に出した編年では弥生時代後期は紀元前後になる。
貨泉が日本に来てすぐに埋められる筈もなく前漢鏡が漢で作られてから大体50年から100年遅れて埋葬されている所を見ると
少なくとも50年位は遅いと見るべきか。
http://homepage3.nifty.com/washizaki/ronbun2.html
 都出案(1998年)では、弥生後期の始まりを紀元〇年(紀元前後)とする。そうすると、池上曽根遺跡の中期第W様式―3は紀元前25〜前50年となり、
年輪年代の前52年伐採とほぼ符号する。しかし、この都出案は年輪年代法と整合性を図るため森岡案(1984年)から古墳時代・弥生後期・弥生中期の始まりを単純に30〜50年古くしただけと思われる。
そもそも森岡氏が弥生後期の始まりを佐原案より150年も古くしたのは「貨泉」の問題である。
森岡氏すら貨泉の鋳造時期(紀元14〜40年)からして弥生後期の始まりを限りなく遡らせても紀元20年頃とする(図21の年代比較表では紹介していないが 1998年の新しい森岡案ではそうしている)。
都出案では、原点の「貨泉」問題が忘れ去られている。この貨泉が中国で鋳造された同時期に日本に輸入され、さらに即刻捨てたとして弥生後期の始まりを紀元20年まで遡らせるのは、あまりに不自然である。
『卑弥呼誕生』(1999年、大阪府立弥生文化博物館編)でも、「瓜破遺跡の貨泉は、亀井遺跡のものに較べて薄い作りで、後漢初期(25〜40年)の可能性が高い」と指摘されている。
ましてや、弥生後期の始まりを「貨泉」が鋳造され始めた紀元14年より以前へ遡らせるのは無謀である。
539日本@名無史さん:2011/01/18(火) 18:44:29
>>533
ほってみなけりゃ解らん。宮内庁に交渉して掘らせて貰おう。
だが、本当の事が判ると邪馬台国研究を理由にした予算が無くなっちゃうから、
畿内説の学者はあまり喜ばないかもね。
540日本@名無史さん:2011/01/18(火) 18:46:34
そもそも年代観の見直しの切欠の一つに畿内と九州の土器の併行関係の見直しと言うのがあって
ぶっちゃけて言うと畿内が九州に比べて軽く100年以上は遅れていた。

普通なら
「え?いくらなんでもそこまでズレんの?」
と疑問を持つのが普通なんだろうが
(かつて森岡が小野忠熈からそのことの解明を期待されたなんて話も聞いたことがあるが)

そこはそれ”権威”ってやつでw

ゴミクズレベル九州説どもの脳内シナリオじゃあ「悪の畿内説」が権威を振りかざして年代遡上していると言うシナリオだが

実際はその権威に抗していった結果が今の年代観で

ゴミクズレベル九州説のシナリオは
悪役と正義の味方を取り違えてますよ〜 と言うお話wwwwwww


541日本@名無史さん:2011/01/18(火) 18:50:56
>>537
虎の威を借りるためにきまってるでしょ
そのくらい分からんかな
542日本@名無史さん:2011/01/18(火) 18:52:37
線路は続くよ、どこまでも♪
さてさて、キチガイのバカスレはいつまで続くやら??www
543日本@名無史さん:2011/01/18(火) 18:58:44
>>541

7世紀に、モモソヒメや大物主にどんな権威があったんだよ?
ないだろすでに。
544日本@名無史さん:2011/01/18(火) 19:07:20
>>543
だって物部氏は簒奪者だもん
545日本@名無史さん:2011/01/18(火) 19:08:38
どこから物部氏の話が出てきたんだよ。
546日本@名無史さん:2011/01/18(火) 19:35:03
「オオモノヌシ」
547サガミハラハラ:2011/01/18(火) 19:57:12
そうです。吉野ケ里北内郭に卑弥呼女王はお住まいになっておられたのです。
548日本@名無史さん:2011/01/18(火) 20:54:30
物部の伝承ならアマテラスは男だろ。
モモソは蘇我に縁があるんじゃないか?
549日本@名無史さん:2011/01/18(火) 21:28:11
メ は人ゴキブリ
550日本@名無史さん:2011/01/18(火) 21:45:45
メ は人ナ「メ」クジ
551日本@名無史さん:2011/01/18(火) 21:50:14
>>548
物部の伝承ってなんだよw
アマテラス=アマテルクニテル、つまり俺らの先祖が最高神マンセー
ってやつ?
552日本@名無史さん:2011/01/18(火) 21:51:30
昔は、木材の転用なんてよくあったので伐採の年が古くてもおかしくないんだよね。

中世のお城とか寺院をみても、聚楽第から移築したとか大阪城から移築したとか
ゴロゴロあるし。
553日本@名無史さん:2011/01/18(火) 22:03:38
日本書紀とか古事記とかには邪馬台国の事全く書かれてないらしいね。
地方豪族ぐらいだったんじゃないかな。
554日本@名無史さん:2011/01/18(火) 22:22:55
日本書紀も古事記も、大和朝廷が全国を支配する以前の書物ですからね。ローカル色が強かったのです。
555日本@名無史さん:2011/01/18(火) 22:37:52
物部マンセーなやつらって、在日なの?
それとも物部系の日本人?

半島由来に変わりはないが、在日が言ってるほうがまだ始末がいいなw
556日本@名無史さん:2011/01/18(火) 22:42:20
>>538さん

あなたが>>527を書いたの?違うの?
557日本@名無史さん:2011/01/18(火) 23:01:39
>>527
> 土器編年は韓国の土器編年と50年以上齟齬をきたしている。
> 畿内説の学者の鏡編年は中国と100年の隔たりがある。
> 畿内説の年代では貨泉の出た遺跡が紀元前になってしまう物もある。

ソースを出せよ。
なぜ出さない?
558日本@名無史さん:2011/01/18(火) 23:08:44
口から出まかせ厨だからでしょうw
学問を志す人間ならソース無しのあんなレスは恥ずかしくて書けない
559日本@名無史さん:2011/01/18(火) 23:09:00
> 土器編年は韓国の土器編年と50年以上齟齬をきたしている

かつてはそうだったんだが、現在は日韓で修正されてきている。加耶の建国が3世紀
後半にまで遡上するのは金海大成洞遺跡の発掘成果からほぼ確実といってよい。
これに合わせて陶質土器の出現時期も早まるとの見方が大勢を占めるようになって
きている。
560日本@名無史さん:2011/01/18(火) 23:22:22
この金官伽耶を興した精力が古墳時代初期、北部九州の介在なしにヤマト王権に
鉄を供給したものと考えられる。後に任那とも呼ばれる地である。
561日本@名無史さん:2011/01/18(火) 23:56:28
>>538
> 前漢鏡が漢で作られてから大体50年から100年遅れて埋葬されている

須玖岡本の草葉文境と三雲南小路の重圏彩画鏡・四乳羽状地文鏡のことだと思うが、
それじゃあ同じく副葬されていたその他の銘帯境と星雲文境はどうなるんだって話。
562日本@名無史さん:2011/01/19(水) 00:07:22
>>561 補訂

× どうなるんだって話

○ どうなんだって話


銘帯境と星雲文境は副葬までの時間幅を長くみれないってことね。
563日本@名無史さん:2011/01/19(水) 00:09:03
>前漢鏡が漢で作られてから大体50年から100年遅れて埋葬されている

むしろそれを出土した遺跡の年代を早める方向にはならないの?

564日本@名無史さん:2011/01/19(水) 00:31:18
>>563
> むしろそれを出土した遺跡の年代を早める方向にはならないの?

須玖岡本と三雲南小路は製作年代の異なる(漢鏡2期と3期)鏡が副葬されているんだ。
遺跡の年代はあとから製作された鏡の年代が上限になる。
だから2期の鏡には副葬されるまでの時間幅が認められる。

いずれにせよここから貨泉の遺棄までの期間を(長く)見積もろうというのは、
ましてや詳細を伏せた書き方をするのは、作為的な意図を感じるね。
565日本@名無史さん:2011/01/19(水) 00:57:05
>>560
そして物部氏の出身地でもある。
だから大伴氏が任那を百済に委ねたら、物部氏キレた。
566レス長たらし毘古:2011/01/19(水) 01:09:27
>>517
兄弟相続概念だと、立太子(後継者としての)は必ずしも必要としないん
だよ。但し、拡大期だと末子相続になりやすく、領土停滞期・縮小期だと分割
相続になりやすくなる。モンゴル帝国とかはその典型例。そして元となって
後代に中国帝国は長子相続制になって行く。(但し兄弟相続制だと、長子相続
制より王個人の権力配分がそれほど強くならない→故に絶対王政とかは、長子
相続制からの産物となり易い)
「立太子」を必ずしも必要としない制度、それが兄弟相続。逆に「立太子」が
必ず必要となる制度、それが長子相続制度。ここをまず把握した上で再度質問
を頼む。けして悪い指摘ではないが、その指摘のままだとお互いピンボケ応答
しかならないだろうし。
567レス長たらし毘古:2011/01/19(水) 01:33:16
>>522
>400年以上、モモソヒメの子孫を名乗るやつがそもそもいなかったんだから、
わざわざ、誰かにモモソヒメの子孫を名乗らせないという理由で日本書紀に
書く理由が無いな。

俺個人は疑っていないが、仮に日本書紀編集を命じた天武・持統グループの
皇位継承の正当性を、これもまた仮にだがモモソ姫の血脈のみが凌駕している
としたら?
三輪の権威を記紀にて殊更に持ち上げるのも、その血脈主張を封印する為で
ある可能性も浮上して来る。400年前と言うと、今で言えば1600年、つまり
関が原の戦いの頃である。信長の子孫でキャーキャー騒ぐ現代人を見ても、
一般感情としてはそうそう変らない処はある。もし今の日本が単数氏族が運営
する政権だったとしたら、充分現政権にとっても悩みの種にも成り得る。

三輪の酒宴とは、信長の上洛前に小田原評定をするような話でもあるのだ。
信長の上洛から本能寺の変を抜かして、いきなり小田原評定になり聚楽第の
饗宴をしている。日本書紀ではそのような錯覚を演出している可能性が少な
からず有る。徳川支配にならず、豊臣支配のままだったら、そうなっていた
可能性もあるのだ。そして、明治政府は当時豊臣とつるんだ皇室を実際に
持ち出して来た。室町の頃から考えると、皇室は実に550年ぶりの大抜擢でも
有る。400年とは長すぎるとも短いともどちらともいえない微妙な長さですな。
568レス長たらし毘古:2011/01/19(水) 02:10:53
さて、ご当地氏族が「モモソ姫」の引っ張り合いをしているようなので、ここ
でとりあえず、モモソ姫(意富(おお)氏)と物部氏と蘇我氏と中臣氏の四氏
の始祖の登場順を、古事記順で以下に表記しておこう。

@天児屋(アマノコヤネ)命:中臣氏の始祖:ニニギ天孫降臨時の主要人物。
A宇摩志麻遲(ウマシマヂ)命:物部氏の始祖:神武の近畿制圧時の恭順した
敵方のニギハヤヒとトミビコの妹のトミヤビメとの婚姻の子供。
B神八井耳(カムヤイミミ)命:意富氏の始祖:スイゼイ大王の兄。タギシ
ミミを討ち取る際に躊躇した為、それを恥じ弟のスイゼイに位を譲った皇子。
C蘇我石河麻呂:蘇我氏の始祖:建内宿禰の子。孝元大王の孫。

古事記を信じるだけでも、「意富氏の毘売」との婚姻は、該当可能性のある
諸氏にとっては、当然その自らの地位に重大に関係有る婚姻となる。(つまり
自氏を上げるも下げるもこの婚姻次第という要素が多分にある)
仮に、意富氏の最高継承者のお嬢様と他の三氏の誰か(或はもっと飛躍して
大王か皇子)と婚姻していたとしたら?
中臣氏は、天智大王のクーデターの立役者氏族だし、蘇我氏はそれによって
滅んだ氏族だし、物部氏は古代を通じて根幹とも言える皇室祭祀の氏族。
「意富氏」の格付けランキングによっては、古事記が規定しているこの氏族
ランキングの基準(ひいてはいっしの変の評価)は、その物が「覆る」可能性
が生じる由縁になる。
つまり、記紀編纂期においても、いや、その時期だからこそ「大問題」なので
ある。とも言える。なぜなら上記四氏とも、天武・持統の正当性と深く関わる
重要四氏なのだから。
569日本@名無史さん:2011/01/19(水) 06:08:05
>>567
>明治政府は当時豊臣とつるんだ皇室を実際に
>持ち出して来た。室町の頃から考えると、皇室は実に550年ぶりの大抜擢でも
>有る。400年とは長すぎるとも短いともどちらともいえない微妙な長さですな。

皇室は江戸時代も存続してたが、
モモソヒメの子孫なる一族が、存続してたという証拠はどこにもないな。

ありもしない空想から、どんな結論を得ようと、証明できなければ、ただの与太話。

570日本@名無史さん:2011/01/19(水) 06:14:00
だいたい、モモソヒメがそんなに畏れられる存在なら、
じゃあ、モモソヒメが卑弥呼だと認めるのか?ってことで。

おまえは、九州説だろ。しかも東遷説だったな?
モモソヒメの権威を畏れるなんざ、矛盾だな。

で、「祟りを畏れて」なんて話で切り返してくると予想するが、
それを言い出したら、どんな人物でも、
「古代には恐れられていたが、祟りが怖くて封印した」という説が成立つ。

そんなものは説でもなんでもない。
ただのこじつけ。
571日本@名無史さん:2011/01/19(水) 09:23:15
しかし書かれた記述は姫としては異例の扱いだからな。
>モモソ姫

大体あんな逸話を記にはなく、後年書かれた
対外向け紀に入れる意味が謎だ。
572日本@名無史さん:2011/01/19(水) 09:24:54
>>559
>かつてはそうだったんだが、現在は日韓で修正されてきている。
日韓合同で歴史捏造か?

>加耶の建国が3世紀
後半にまで遡上するのは金海大成洞遺跡の発掘成果からほぼ確実といってよい。
これに合わせて陶質土器の出現時期も早まるとの見方が大勢を占めるようになって
きている。

魏志東夷伝と全く乖離した話だな。トンデモだろう。
馬韓辰韓より弁韓が進んでいた?
弁、辰韓は馬韓の支配下だぞ。
573日本@名無史さん:2011/01/19(水) 09:30:09
つまり日本の学者の多数がとんでもない年代観を振り回すので韓国側が押し切られたと言う事か。
韓国の歴史が古くなる事は韓国の学者にとっても喜ばしい事だからな。
574日本@名無史さん:2011/01/19(水) 13:29:02
モモソヒメ=トヨってのが定説ちゃうん

で、王が女の子であることに付け込んでテロったのが「オオモノヌシ」一派。
しかもそれを自分達を権威付けるエピソードに書き換えた。
とんでもない連中ですね。
575日本@名無史さん:2011/01/19(水) 13:48:40

トヨタン・・・・・・・・・・
 
576日本@名無史さん:2011/01/19(水) 14:19:45
「オオモノヌシ」一派ってなに?

まさか、”物部氏”なんて言わないだろうな?

577日本@名無史さん:2011/01/19(水) 14:20:22
そいつら。
578日本@名無史さん:2011/01/19(水) 14:31:22
物部系民族は、特に尾張と吉備に大きな勢力を持っていたもよう。
つまり、当時のヤマト国においては物部氏は「外様」だったわけです。

そして「大海人」も物部系なのでしょう、
彼らが大和朝廷に居座り牛耳っていたときに、記紀は造られました。
579日本@名無史さん:2011/01/19(水) 14:45:12
もののべが戦いにたずさわってたから、戦う人をもののふ、ものの夫というらしい
580日本@名無史さん:2011/01/19(水) 14:50:25
と、もののべの者たちは自称しますが、
他者から見れば彼らはもののけだったようです。
581日本@名無史さん:2011/01/19(水) 15:16:40
尾張・吉備のほか、大分も物部系氏族が多く住む地だったようです。
また、奈良にも移住者が多数いたでしょうね。
大分と奈良、岡山北部で共通の方言があるそうです。
http://okwave.jp/qa/q1022856.html

邪馬台国立候補地とかぶりますねw
ちなみに書籍「邪馬台国近江説」の滋賀県守山市にも物部の地名があります。
この著者(東京在住)がまたコソコソと韓国起源説を織り込んでくるんですよ。
その本、朝日新聞社がプッシュしてましてね。。
582日本@名無史さん:2011/01/19(水) 15:28:23

物部厨をなんとかしろ。
583日本@名無史さん:2011/01/19(水) 15:32:32
強い漢なら物部に憧れる 憧れろ
584日本@名無史さん:2011/01/19(水) 15:47:54
強い漢なら漢氏だろ常識で考えて
585日本@名無史さん:2011/01/19(水) 15:57:01
漢氏に関してはこっちでも話題になってる
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1293615861/450-
586日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:25:09
漢氏はむしろ痴漢、卑劣漢、無頼漢の代名詞
587日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:36:22
そんなこと言ったって
まず「漢」が「おとこ」を意味する字になってるわけやからね〜
588日本@名無史さん:2011/01/19(水) 17:55:43
あ、そうそう
今中国にいる、自称「漢」民族はほんとは漢人じゃないのよ
鮮卑、鮮人なんだってさ。
589日本@名無史さん:2011/01/19(水) 21:15:35
メ は在日
590日本@名無史さん:2011/01/20(木) 00:33:58
>>569
>皇室は江戸時代も存続してたが、モモソヒメの子孫なる一族が、存続して
たという証拠はどこにもないな。

その証拠を記紀の時代(頃)に、何者かが消した(証拠隠匿した)のでは
ないか?という推論の話をしているのだ。推論の段階で証拠を求めてもらって
も困る。こっちは古事記ベースであり、その古事記の編集者サイドが、既に
「その証拠を隠匿した側の一族」なワケだから。ま、逆に推論の段階である
からこそ、貴殿の言う「与太話」である事も否定はしないが。

>>570
>で、「祟りを畏れて」なんて話で切り返してくると予想するが、それを言い
出したら、どんな人物でも、「古代には恐れられていたが、祟りが怖くて封印
した」という説が成立つ。

俺は先述にて、当時(少なくともスイゼイ大王以前、遅くても開化より前は)
該当地区(近畿を中心とし、吉備・因幡・淡路・紀伊・近江・美濃・伊勢を
周縁とする地域)の王権が、「託宣主義」であったと説明済み。そして、その
託宣主義には巫女(のようなシステム)が重要という構想を提題している。
それが「祟り」になるのは後代の事である。もしそれが貴殿の言う「祟りを
畏れて」の封印だとしたら、なおさらモモソの封印としての埋葬は、より後代
の話にずれ込むはず。逆に当時は祟りでない(そもそも祟りという概念が
無い)なら、当時は他の大王や皇族や地元王等と似た埋葬になっている筈。
むしろ、「それが祟り概念の始まり」とも考えれる。なぜならこの架空なら、

[当時近畿架空筋] 開化大王→モモソ皇后の代理統治→クーデター→祟神大王

と言う順番になり、「祟」の字が皇室で最初に登場する人物の直前期でも
ある話になる。オオタタネコと言う名前も「タタリ」を類推させる。
あくまでも古事記をベースとして見ても、この頃の近畿王権は、モモソ以前は
「託宣を畏れる時代」で、以降に「祟りを恐れるようになる」時代、と規定
する事も可能では有る。
591日本@名無史さん:2011/01/20(木) 01:10:49
>>571
>大体あんな逸話を記にはなく、後年書かれた対外向け紀に入れる意味が謎だ。

同感です。今で言えば、博覧会パンフレットになるのがある程度予想がつく
日本書紀の方に、殊更にモモソ毘売がクローズアップダークヒロインとして
描かれている事がとても意味深ですね。むしろ、国内向けには隠しているが
国際的に隠しきれない人物をどう評価しているか?という恣意性を感じます。

>>574
>モモソヒメ=トヨってのが定説ちゃうん

モモソがトヨなら、尚更古事記からはヒミコは検証できなくなる。つまり
古事記からそれを否定する事は不可能。逆に、そうだと想定した場合、その
時期にあたる大王(安寧〜孝元あたり)は、血脈の最小限データだけの記述
であるので、モモソ=トヨの可能性は全く否定できない。古事記からだけ
なら、検証も否定もできないと言った処。
592レス長たらし毘古:2011/01/20(木) 01:13:06
(あ、>>590->>591も俺ね。名前書き忘れてたワ。スマン)

>>578
>そして「大海人」も物部系なのでしょう、彼らが大和朝廷に居座り牛耳って
いたときに、記紀は造られました。

その架空も否定する気も根拠も今のところ俺には無いが、俺個人は「大海人」
の「物部系」架空より「蘇我系」架空の方を採用しています。そうでないと
蘇我石川倉田麻呂が、天智グループに荷担した話が少し違和感が大きくなる。
また、大海人が天智の主要治世において、重要スタッフに参加していると言う
日本書紀の記述全てが「後代挿入逸話」となるので、これは矛盾が大きくなる
筈です。つまり、その頃、少なくとも天智の「参謀格」として大海人が天智
グループに参画していなければ日本書紀敵にはおかしい話になります。
(例:豊臣グループに一時期参画して後に最後の下克上を果たした家康)
天智クーデターの段階ではまだ、「蘇我外し」という性格の少ないクーデター
であった訳です。逆に、天智大王のクーデターが、むしろ「蘇我の主流&聖徳
太子の子孫」を外そうとした政争であったと架空すると、「大海人(=天武
)」が、物部系や蘇我系の亜流であった可能性は少なからずあると思います。

ゆえに、天武以降に中大兄は天智丸(紂王の懐刀)由来の送り名を後代付け
られる訳ですね。つまり、漢学的には、「天智天皇は紂王であるよ」と解る
様にしてある訳です。天智が蘇我石川麻呂を討った段階で、天智は蘇我氏亜流
にとっては「紂王」となる訳なんです(ま、ここは俺の架空筋ですが)。

※紂王・・・中国の殷末期の王。前半は善政であったが、後半は愛妃の妲妃に
たぶらかされ、悪性の限りを尽くしたと言う伝説の古代悪王。殷はこの代で
終焉する。
593レス長たらし毘古:2011/01/20(木) 01:36:23
>>581
>尾張・吉備のほか、大分も物部系氏族が多く住む地だったようです。また、
奈良にも移住者が多数いたでしょうね。大分と奈良、岡山北部で共通の方言が
あるそうです。

物部子孫の分布情報ありがとうございます。拝見させて頂きます。
594日本@名無史さん:2011/01/20(木) 10:58:46
河童さんなにしてるかな〜思って久々にヤフー覗いたんだけど
誰かタンリについて投稿してるよね

>短里の根拠-
>1里=300歩
>1歩=成人男子の踵から爪先の長さ=22.5〜24.0cm 
>時代が変りその土地を支配する人種が変ると1歩の長さが変る。
>大柄な人種の時は長くなり、小柄な人種の時は短くなる。
>「歩」は土地の長さを測る時の基準長さ。(10歩=2.25〜2.40m)
>「歩」は実用的な生活に密着した長さ単位であるから。

踵から爪先の長さ=22.5〜24.0cm てのは無いな〜w
595日本@名無史さん:2011/01/20(木) 11:19:04
>>⇒1歩=成人男子の踵から爪先の長さ=22.5〜24.0cm 

>是、足のサイズですか?で、あれば、
>出典なりの、情報源を提示してクダサイ。(⌒ε⌒)

自分「も」説を人にきいてどうするんだって話で・・・w
これに情報源はないゎなぁ。
596日本@名無史さん:2011/01/20(木) 11:48:28
>>591
やっぱり紀に書かれたモモソ媛の逸話は?ですね。
これは紀の主旨である「皇室の血統の正当性」を考えると
辱めというより、血統の断絶を強調したと推測します。
子宮を刺して死ぬという事ですからね。
597日本@名無史さん:2011/01/20(木) 12:16:00
当時(二世紀末〜三世紀前半)の畿内は田舎

といわれて畿内説連中は何て答える?
598日本@名無史さん:2011/01/20(木) 12:42:53
>>597

おまえが、邪馬台国は福岡と思ってるなら、なんとも思わん。

日向とかだと思ってるなら、同じ田舎。
599597:2011/01/20(木) 12:49:43
>>598
馬鹿だな〜おまえ

一世紀〜二世紀にかけて福岡は栄えてるが
三世紀にはすでに衰えてる
逆に畿内が栄えだすんだ
600日本@名無史さん:2011/01/20(木) 12:52:45
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            |  ヽヽ  "''''''''''''"    ノ   |        
            |    ヽ         /    |
                 丶 __   

織田信成が織田信長の子孫って本当?【4代目】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/skate/1281832265
601日本@名無史さん:2011/01/20(木) 12:53:46
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          |    /   ''  ̄  ''  .\    |/  ノ 
          (   / ,.. '''''' -- '''''' ..  .)    ノ"''"         
           (  | (ヽ;━;┬┬┬;==ア.) |    ノ            
           (  | ヽヽ ,..  ̄ ̄  ,..,( / |   /|          
            丶   ヽヽ6;┬;-;┬∩// ノ  ./ |        
            | .ヽヽ ヽ "''''''''''''" ノ  /  /  |        
            |  ヽヽ  "''''''''''''"    ノ   |        
            |    ヽ         /    |
                 丶 __   

織田信成が織田信長の子孫って本当?【4代目】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/skate/1281832265
602日本@名無史さん:2011/01/20(木) 12:54:34
>>599

そうだな。
邪馬台国は畿内で決まり。

603597:2011/01/20(木) 12:59:42
畿内の巻向ってところから、前方後円墳が一気にだ、一気に巨大化する。
古代日本の磯はこの畿内の大和を中心に始まるんだ。
国家の夜明けは九州ではなく畿内にある。
604597:2011/01/20(木) 13:04:36
おめぇ はつくにしらすすめらみことが二人いるべ
ありゃ人皇の初代が神武てだけで、周りの人が認めた実質の初代は祟神天皇だ。

神武と祟神どっちがお偉いかって?
祖先の神武に決まってんだろてはなしw
605597:2011/01/20(木) 13:15:01
一世紀〜二世紀にかけて福岡と佐賀が栄えてる。
福岡と佐賀ではどっちが栄えてるかというと、やっぱり福岡だなw

甕棺の大きないうならば佐賀が日本一だ。
しかし福岡は南小路や平原、んでスグに代表される漢鏡があるべ。
やっぱり福岡のが目立つよな

606597:2011/01/20(木) 13:17:17
602さん
畿内の前方後円墳以外では何がアルの?

銅鐸や鉄、それから鉄とうかな? あと朱てとこかな〜?
607日本@名無史さん:2011/01/20(木) 14:01:52
弥生期の大都会といえば近江
608日本@名無史さん:2011/01/20(木) 14:12:14
直径か周径かは知らんが、前方後円墳なら
その特異な形状を記録していると思う。

円墳か方墳じゃないかな。

とりあえず、経だけ記録しとけば十分だと
魏使も思ったんだろう。
609日本@名無史さん:2011/01/20(木) 14:17:44
甕棺はまあ、どこからでもやたらと出てくるが
福岡なら、板付や金隈は多いな。

今調べたら、金の隈は共同墓地だそうな。
そりゃ甕棺出るはずだわ。
610597:2011/01/20(木) 14:23:58
>>608
たとえば前方後円墳が間違いなく出来た
それより後の時代の晋時代・隋時代・唐時代の文献に
その特異な形状とやらが記録されてるかい?
ないだろうな。
ということは前方部は墓とみなされてないのであって何も問題ない
611597:2011/01/20(木) 14:37:58
>>609
でもカナグマのは小さいな
あそこへは調査しに行ったが一般庶民の墓場だからな〜
まあ数が多いのは確かだ
しかし、甕棺墓ちゅうのは佐賀県を中心になってるちゅうはなしよ
612日本@名無史さん :2011/01/20(木) 16:01:19
>>610
形が高句麗の円形家屋のようなものとしている。
高句麗でも人口3万戸だが。
613日本@名無史さん:2011/01/20(木) 16:21:20
>直径か周径かは知らんが、
径はまっすぐな道という意味だ。周径というのはないな。
前方後円墳の長さも径、幅も径だね。
614日本@名無史さん:2011/01/20(木) 16:56:04
メ は人蛔虫(カイチュウ)
615597:2011/01/20(木) 17:48:30
>>612
その記事は知ってるが、
おれが言ってるのは、なんであの独特な前方後円墳の形状が
中国史書の晋書や隋書、唐書に無いんだ、て聞いてるの
616597:2011/01/20(木) 17:52:16
>>613
そもそも前方部
ありゃ本当に墓なのか?
稀にみる大仙陵古墳はそうらしいが
617日本@名無史さん:2011/01/20(木) 18:33:46
倭人の墓は土盛作冢だから、石張作冢の前方後円墳でない事だけは確かだ。

「大いに墓を作る」と言って盛大に葬式をやった事が描かれている訳だし、前方部を除外して大いに墓を作ったなんて書く筈がない。
「径百余歩」は周濠部まで含めた大きさを書いた筈だ。
箸墓はでか過ぎる。
618日本@名無史さん:2011/01/20(木) 20:41:21
>>615
ヤマトの前方後円墳についての記載がないのは、引っかからないわけではない。
阿蘇山については叙述があるのだが。
619日本@名無史さん:2011/01/20(木) 20:46:15
メ は人蟯虫(ギョウチュウ)
620日本@名無史さん:2011/01/20(木) 20:57:48
>>610
箸墓なんて江戸時代の大和名所図会でも
円墳のように描かれてるしな。
621日本@名無史さん:2011/01/20(木) 21:09:04
江戸時代になれば、もう、こんもりとした山にしか見えないんじゃないの。
考古学者以外には。
622615:2011/01/20(木) 21:14:51
>>618
それも知ってるよw
ていうことは卑弥呼の墓は前方後円墳である てことでいいかな?

>>620-621
んだな

623日本@名無史さん:2011/01/20(木) 21:31:08
箸墓は、橋下知事の墓じゃないのか?
624615:2011/01/20(木) 21:31:48
倭人伝の里数・・・

記里鼓車?

ケサカツ本によると唐書や宋代の記録にそれらのこと書かれてるらしいね。
いずれも卑弥呼の活躍した魏代の頃にはまだ発明されてなかっただろうし、
議論しても無駄だろうな。
625615:2011/01/20(木) 21:40:50
箸墓の「箸」が土師器からきてるって話があったと思う
普通に考えて、食事する箸の事だろう。
「箸」についてウィキから引用するが

>日本では、弥生時代末期の遺跡から1本の竹を折り曲げピンセット状の形にした「折箸」が発見されているが、
>食べ物を口に運ぶためではなく、神に配膳するための祭祀・儀式用の祭器として使われたものであろうと言われる[27]。
>三国志巻30魏書30東夷伝[31]にある魏志倭人伝[32]によるいわゆる邪馬台国においては「食飲用籩豆手食」と
>手で飲食しているとあり箸の使用は記述されていない。
>2本で1膳の「唐箸」を食事に使い始めたのは、5世紀頃とも、6世紀中頃に仏教とともに百済から伝来してからとも言われるが、
>朝廷の供宴儀式で採用したのは聖徳太子とされ、607年遣隋使として派遣された
>小野妹子一行が持ち帰った箸と匙をセットにした食事作法を取り入れたものと言われる[33]。
>日本で最も古いとされている箸は7世紀後半の板蓋宮跡および藤原宮跡からの出土品とされる[34]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8

とあるな。
又中国では

>古い時代の箸が発見されにくいのは、木や竹でできた箸は腐りやすく、また単なる木切れか箸かの区別もしにくいためと考えられる。
>最古例としては、殷墟(BC14世紀ごろ - BC11世紀ごろ)からの青銅製の長さ26cm、太さ1.1〜1.3cmの箸6本の出土が報告されているが、
>食事用ではなく菜箸のような調理器具であったとされる[21][22]。  とあるぞ。
626日本@名無史さん:2011/01/20(木) 21:57:24
箸墓は、土師氏の祖、野見宿祢の墓だったのですね?
627日本@名無史さん:2011/01/20(木) 22:04:34
庶民は手食でおK。祭祀用の箸はあったかもしれん。おそらく菜箸のような使い方で
人の手で神聖な食物に触れないようにするとか。推測だけどね。
628日本@名無史さん:2011/01/20(木) 22:12:58
そうだよな。
倭人伝のは一般的な庶民の食事するときの事だろうし、
これは推測になるがもしかして女王は箸を使い食事していたのかもしれん。
展示してある「卑弥呼の食事」にしろ手食よりも箸の方が合う。
629日本@名無史さん:2011/01/20(木) 22:16:16
箸墓は箸由来じゃないと思うけどな。

土師氏も考えられるが、間(はし)の意味。
神と人の間を取り持つという意味だろう。
神と人が造ったという逸話事からの由来だな。
まあ土師の意味もそこから由来といえない事もないけど。

>>626
それは桜井の別の土地にあった。
昔土地所有者が壊してしまい大騒ぎになったが。
630日本@名無史さん:2011/01/20(木) 22:46:21
箸墓の「箸」を調べるとこんなかんじだよな

食物などを挟むのに用いる2本で一対の細い棒。
木・竹・象牙(ぞうげ)などで作る。
[下接語] (ばし)一本箸・祝い箸・移り箸・苧殻(おがら)箸・金(かな)箸・
香(こう)箸・菜(さい)箸・(せせ)り箸・雑煮 ...
http://dic.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E7%AE%B8&fr=dic&stype=prefix

日本書紀の箸墓という記事は上記のような「箸」であって土器とは関係ないんでないの
631日本@名無史さん:2011/01/20(木) 22:49:48
たとえば629氏が

土師氏も考えられるが、間(はし)の意味。

としたのだって何処から持ち出した情報なん?
おそらくは想像でいってるんであって誰かの説てことはないだろう
632日本@名無史さん:2011/01/20(木) 22:52:31
箸墓と卑弥呼はまったくの無縁。
「日本書紀」自身がそう主張しているのに、
何を根拠にして箸墓にこだわるのか?
633日本@名無史さん:2011/01/20(木) 22:52:36
箸墓←橋ノ墓 説、もある。
634日本@名無史さん:2011/01/20(木) 23:07:11
>>632
卑弥呼の活躍した年代は二世紀末〜三世紀半葉で
箸墓の築造は三世紀半葉〜後半で年代的にもかぶる。
それと径百歩余という大きさがピタリである。
そういう理由で箸墓=卑弥呼の墓説は根強くある。

>>633
出典はどこにある?
635日本@名無史さん:2011/01/20(木) 23:10:14
>>631
情報はまぁ色々ですよ、想像といえば想像です。
(一応地元なんで色んな云われとか)

そういえば厩戸の母なんてのも間人でした

土師氏は土器というより葬祭を司って
墓造りも行っていた一族でしょう。

>>633
橋も間をとりもつ物ですからね。

636太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/20(木) 23:10:31
卑弥呼と百襲媛とは同時代の人物だが、別人である。
637日本@名無史さん:2011/01/20(木) 23:22:15
>>636
卑弥呼と倭迹迹日百襲姫 だが、

その人物像を考えてみよう。
卑弥呼は魏志倭人伝にあるように皇帝から親魏倭王を授けられた女王であり
『事鬼道 能惑衆』『無夫婿』とあるようにこれは「巫女」や「神主」の事を言ってる。
そして彼女は亡くなると巨大な墓が造られた。

対する倭迹迹日百襲姫は、天皇家の人物であり
日本書紀の祟神天皇条では神懸かりする。
神懸かりというのは神託であって神主でもあった。
そして巻向遺跡に聳え立つ大王に相応しい
箸墓の被葬者として伝えられている。 この二人の人物は重なるとは思いませんか?
638太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/20(木) 23:27:01
>>637
似てますが別人ですよ。
倍暦計算から死亡年が双方数年ズレがあります。
倍暦逆算から
〜百襲媛は240年没、卑弥呼は247年あるいは248年没だから、別人ですよ。
639日本@名無史さん:2011/01/20(木) 23:27:16
>>635
それはないだろうw
橋てブリッジじゃんw
640日本@名無史さん:2011/01/20(木) 23:27:20
いやだから「箸墓」という言葉それ自体が、日本書紀が典拠だろ。
その日本書紀が箸墓はモモソの墓としてる。

卑弥呼=神功皇后といのが書紀の編者の歴史観。
神功皇后の墓を卑弥呼の墓というならまだ分かる。
641日本@名無史さん:2011/01/20(木) 23:47:58
>>638
貴方の倍歴計算がどういう物か知りませんけどw
考古学専門の土器にしろ研究者の間で意見が分かれる。
細かい計算しても無駄な部分があって大まかな感覚でいいと思いますが

>>639
箸墓の被葬者が倭迹迹日百襲姫 というのは日本書紀でのみの記載ですが
神功皇后の墓ていうのは別にありますよね
642日本@名無史さん:2011/01/20(木) 23:51:00
>>639
川を渡るという事は、違う世界へ行くという事でもある。

>>640
>卑弥呼=神功皇后といのが書紀の編者の歴史観。
でも子孫いるでしょ。
643日本@名無史さん:2011/01/21(金) 00:02:51
寺沢は箸墓の築造を280年頃としているようだけど
彼は卑弥呼を誰と考えてるんでして金?
644日本@名無史さん:2011/01/21(金) 00:18:26
豊鍬入姫命が壹與の最有力候補といわれてる人でして
ヒメは初代斎王といわれてますよね。
次代の王がかの有名な倭姫命でして、
初代 豊鍬入姫(太郎)
次代 倭姫命(次郎) といわれておる。

人皇初代の神武天皇こと神日本磐余彦尊の母は九州に伝承を残す、玉依姫命で
彼は近畿に入り大物主側のひめたたらいすずひめの命を妃にとる。

日本書紀でも確認ができると思うが倭迹迹日百襲姫までは、大物主を祀っていたが、
次の大和の巫女である初代 豊鍬入姫 は天照大神を祀る。
次代 倭姫命 も同様に天照大神を祀る。

大物主の神というのは天皇家の国家神として祀られてきたんだが、
いつのまにか天照大神が国家の祖神として変わっていくよな。
645日本@名無史さん:2011/01/21(金) 00:27:05

イヨタン・・・・・・・・・・
 
646日本@名無史さん:2011/01/21(金) 00:28:51
>>642
>川を渡るという事は、違う世界へ行くという事でもある。

仏教の三途の川思想でしょうか?
仏教の伝来は後代の事と思いますが

>でも子孫いるでしょ。

日本の神の一番人気でもある応神ですね

647日本@名無史さん:2011/01/21(金) 00:57:20
長たらしさんは古事記、日本書紀に詳しいね。
648レス長たらし毘古:2011/01/21(金) 05:06:41
>>629
>土師氏も考えられるが、間(はし)の意味。神と人の間を取り持つという
意味だろう。神と人が造ったという逸話事からの由来だな。まあ土師の意味も
そこから由来といえない事もないけど。

根拠は無いが同感。穢れ無き食べ物=穢れ無きA、穢れ無き口(体内)=穢れ
無きB、とした場合。そして、手を不浄かもしれない物とするとハシ(ハジ)
のみが穢れ無きAから穢れ無きBへと、穢れ無き物を運ぶ唯一の手段となる。

上記の要素が、まず食べ物部門で「ハシ(箸)」を生み出し。次に穢れ無きA
の端っこが「ハシ(端)」を生み出し、川端同士を結ぶ物が「ハシ(橋)」と
呼ばれるように成って行ったと邪推すると、もし仮に「恥」の由来が同一だと
仮定した場合、「ハジ(恥)」の概念の分流は箸の分流頃の話かもしれない。
その想定の場合、記紀前後に「恥」の概念の分流が始まったとも考えられる。
ちなみに古事記では既に、アマテラスとスサノウの逸話に、アマテラスの機織
女がスサノウの乱行に驚いた拍子に女陰に梭(ひ)を刺して死んでしまい、
それを畏れたアマテラスが天の石屋戸に引き篭もってしまいます。つまり、
アマテラスにとっては(今風に言えば)「身内の恥」とも見えなくは無い状況
では有ります。そして少し後代日本書紀にて、女陰に刺さってしまう女性の
逸話がまた新たに登場します。そう、ここでもお馴染みのモモソ毘売さんの
怪死です。
649レス長たらし毘古:2011/01/21(金) 05:10:11
>>648続き)
ハシとハジが、単なる濁音化でなく、意味的にもリンクすると仮定した場合、
古事記を信用すると、アマテラス&スサノウの内紛逸話が登場する時代には
すでに、「女陰を刺す(女陰に刺さる)」と言う事のオオヨソの意味合いは
ある程度固定教義化された物であったと考える方が俺には自然に思える。
つまり、俺が自然と思うのは以下の流れ。古事記の時代までには「なんとなく
それは恥ずかしい事」→日本書紀の時代「その意味合いでモモソ様の怪死を
表記している」この流れが自然に思えます。つまり、モモソの怪死には既に、
ある程度の「恥」の意味合いも込められているという見解ね。

しかし、結構お箸って万能ですね。火にも箸を使いますし、古代はオヒツの
ウンコを取り分ける時にもお箸を使ったトカの話も聞きます。穢れの有無や
神聖(日本人的に)な物の采配、物理的に不可触な物を采配する為に用いる、
当時最新鋭のツールだったのかもしれません。
650レス長たらし毘古:2011/01/21(金) 05:21:14
>>638
>〜百襲媛は240年没、卑弥呼は247年あるいは248年没だから、別人ですよ。

その可能性は否定しないが、逆にそれだけをもってして同一人物を否定する
事も弱いと思う。ましてやインターネットも無く、渡航帰航だけでも数年
かかる時代、そして事実確認に数年かけたとしたら、国内外で「その人の死」
が7年ずれるという可能性は、地理的にも、当時の政治的にも、充分ある話で
はないかとも邪推できます。(国内外で逆ならわかりますが、国内情報が早く
て国外情報が7年後ですから)
逆に対外的には240年としたくない理由が、当時の「倭人の国」サイドのお家
事情としてあったとしたらどうでしょうか?(俺はそれこそがタケハニヤス王
の乱〜沙本の乱あたりと想定)横槍で申し訳無いですが、現時点で、古事記
ベースの俺としては同一人物も非同一人物も、どちらも限定できないと考え
ています。
651レス長たらし毘古:2011/01/21(金) 05:55:29
>>644
>豊鍬入姫命が壹與の最有力候補といわれてる人でしてヒメは初代斎王と
いわれてますよね。次代の王がかの有名な倭姫命でして、
初代 豊鍬入姫(太郎)
次代 倭姫命(次郎) といわれておる。

情報ありがとうございます。モモソがヒミコで無いと仮定してみても、トヨ
が豊鍬入姫(古事記的には豊鍬入日売)の可能性を俺個人は高く感じて
います。(それ故、イヨタン説には申し訳無いが俺個人はトヨタン説w)

ちなみに、全く話は変りますが、超先述の沙依毘売(別名市寸島比売:イチキ
シマヒメ)は、かの広島安芸の宮島の厳島神社の神様だったんですねぇ。この
方もアマテラスとスサノウのウケイによって(噛み噛みして)産まれたお姫様
でもあります。先述の俺の「当時瀬戸内海利権」の話において、地理的にも
淡路〜吉備に近いお所に位置する安芸の宮島。この関係、とても意味深です。
652レス長たらし毘古:2011/01/21(金) 05:56:48
>>647
おほめの言葉と受け取って、取り敢えずありがとうと申しておきます。但し
詳しいと言うより、後代解釈を一度払拭して、素の気持ちで古事記を深読み
しているだけではあります。方法論としては以下です。
@古事記をある程度信じて見る、信じようとしてみる。
Aおかしいな?信じられないな?これはどうだろうか?と古事記を可能な範囲
で拡大解釈してみる。(不可能・あるいは不遜な解釈はできるだけ慎重に)
B上記@Aとの比較として日本書紀を参照してみる。

これだけをやってるだけです。日本書紀以降の「後代解釈」をトヤカク言う
つもりはありませんが、日本書紀ですら既に「陰陽思想」の影響や、編集前記
における「編集意図」を、隠していない話でもあり、それを信じるなら、より
史実としては古事記の方が比較的信用できると類推しています。
また、あくまでも「架空」ですので、そう言った意味では、俺のやっている
作業も、日本書紀や日本書紀以降に発生した「後代解釈」とも、それほど
変らない程度の「史実逸脱要素」がある事も全く否定しません。(従って
古事記でも日本書紀でもどちらでも担保の取れない話は、全て「あくまで架空
」としてご披露している次第です)そこを担保する為には、上記方法論以外
にも、地方誌・地方神話・外国の歴史書等も、大いに参考になる場合もある
かもしれません。但し、それらは、あくまで参考にすべきであって、けして
分裂するご都合解釈に翻弄されるべきでもないとも思います。

という方法論で気ままに深読みしているだけなのです。ああ、邪馬台国の卑弥
呼様を探し続けて、楽浪海中を漂うこの心地よさ。(ひょっとして遭難?)
653太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/21(金) 11:01:28
>>641
倍暦逆算から崇神没年は259年である。これは記の崇神没年258年説がほぼ正解だ
ということが結論付けることが出来る。259年から3倍暦で逆算すれば

 崇神即位年=237年

を得る。つまり百襲媛没年は(3倍暦に注意して)240年だ。当時の1年は現今の
4ヶ月さ。そして卑弥呼没年は247年または248年だから、ぼけてはおらず、
両女は別人であることが判明する。

これは静岡大学原名誉教授の両女ほぼ同時代説が正解だということを確認出来る。
654日本@名無史さん:2011/01/21(金) 11:11:01
>>650
>逆にそれだけをもってして同一人物を否定する事も弱いと思う。

弱いもなにも、「同一人物」という都市伝説を勝手に捏造しておいて(ry
こういうのを「盗人猛々しい」という
655日本@名無史さん:2011/01/21(金) 12:04:50
>>654
>弱いもなにも、「同一人物」という都市伝説を勝手に捏造しておいて(ry
>こういうのを「盗人猛々しい」という


卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命の同一人物説は笠井新也が大正期に提唱した説である。

 ・「卑弥呼即ち倭述述日百襲姫命」/笠井新也(『考古学雑誌』第十四巻第七号、1924.2)

肥後和男、和歌森太郎など、日本文化史や民俗学からの笠井説への賛同者は以前からあり、
また考古学者も、原田大六氏を皮切りに、近年は百襲媛説に肯定的な人たちが続々と増えてきている。

したがって、レス長たらし毘古氏が、卑弥呼=百襲媛説を「勝手に捏造」したものではない。

だがそうした事実誤認をしておきながら、>>654氏はレス長たらし毘古氏を「盗人猛々しい」などと見当外れの批判をするのである。
このようなお粗末さでは、>>654氏は歴史研究に携わる資質も能力も、まったく皆無だ、と言ってよい。
656日本@名無史さん:2011/01/21(金) 14:02:55
いや、その。
たらし殿個人にではなく、歴代の近畿説学者へ言ったつもりでした。
657日本@名無史さん:2011/01/21(金) 14:29:32
邪馬台にしろ
本格的に波紋が広がったのは明治に入ってからだな
658太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/21(金) 15:00:56
渡航して情報を流すときに、例えば5年かかって渡航したならば、当然情報を
流すものは通常5年前のことだと言うでしょう? 遠隔地に歩いて行っったもの
も、同様に5年前のことだと言うでしょうが。そして貴方の言う可能性というの
は、どんな論でも可能性を残存させる為の言い回しであり、これでは言い訳だけ
であり、その理由とは可能性を残すためには何でもありで、役には立たないね。

240年としたくない理由というのは、具体的に利害大なる事象があればそのしたく
ない理由は成る程となって来るが、そういう7年変更させる理由が何であるの
かね? 再び。利害の大きい重大な7年ばかり変更しなければならぬ理由がどこに
あるのか? まずそれを先に言って下さいよ。これではああいえばこういう〜こう
言えばああいうと同然の言い草でしょうがね。
659日本@名無史さん:2011/01/21(金) 18:08:51
>>648
恥というのは漢字で耳+心ですからね。
耳が赤くなるような本当の事を曝け出す、
余分な感情が無い心理を曝け出す、
隠しておきたい事を知られてしまうという事でしょう。

逸話ではオオモノヌシは実は小さな蛇なんだよ、
と巫女であるモモソに見透かされますからね。
モモソは箸で子宮を突くような死に方で、
(7c頃では恥ずかしいと認識されているであろう)
子孫はいないんですよ、と記述したかったのだろうと。

勿論これらはオオモノヌシの権威を下げる為に作為された
逸話だろうと思ってますが。
660日本@名無史さん:2011/01/21(金) 18:30:49
【奈良】「女王卑弥呼の宮殿」といわれている纒向遺跡から大量の山海の幸 祭祀の供物で並べられたか
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1295599247/
661日本@名無史さん:2011/01/21(金) 20:15:27
琉球の信仰施設、「御嶽(うたき)」てしってる?

>御嶽はもともと古代社会において集落があった場所と考える説が有力である。
>その証左として、御嶽の近くから遺骨が見つかる例が少なくない。
>これは、祖先崇拝であることに強く関係していると考えられる。

だそうでw
琉球の信仰では神に仕えるのは女性のみとされてたらしいね。
卑弥呼を考える時、この琉球半島のノロだとか、御嶽(うたき)とかは覚えてた方が良さそうだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD_(%E5%AE%97%E6%95%99)
662日本@名無史さん:2011/01/21(金) 20:23:32
ここの「琉球の祖霊信仰」てところみて!
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E3%81%AE%E4%BF%A1%E4%BB%B0

>亀甲墓琉球では祖先の霊は一族の守護神として敬われ、墓は「後生の家」すなわち死後の家であるとして、
>立派なものを作る傾向がある。
>葬制は風葬が一般的だった。これは明治期に禁止されたが、実際は1970年代まで行われていたことが確認されている。
>要出典]遺体はまず崖(パンタ)や洞窟(ガマ)に置かれて自然の腐敗を待ち、3年後に親族の女性が洗骨して納骨する。
>崖や洞窟は古来、現世と後生の境界の世界とされ、聖域であると同時に忌むものとされてきた。
>祖霊を崇める一方で、「死」はあくまで「穢れ」と捉えられているのである。

1970年て最近じゃんか・・・・w
最近まで有る所では風葬が行われてたなんてはじめてきいた。
663日本@名無史さん:2011/01/21(金) 20:32:05
メ は人フナムシ。
664日本@名無史さん:2011/01/21(金) 20:44:00
「ドンコイ」のやつらヨソの奴に舐められてるねww
>443 さん氏はヨソの奴らしく

「投稿をした結果、畿内説からの反論はピタッと止まりました。 」なんて言ってるwww
ジョーカー シッカリしろよwww
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=91&summary=on

私は終止符スレのほうによく書き込みには
665日本@名無史さん:2011/01/21(金) 20:46:09
私は終止符スレのほうによく書き込みむので、知〜〜〜〜らネ


666日本@名無史さん:2011/01/21(金) 21:02:47
「斎王」というのはこういう人でして、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E7%8E%8B
歴代の斎王というのは、

初代 豊鋤入姫   (とよすきいりひめ)
二代 倭姫     (やまとひめ)
三代 五百野   (いおの)
四代 伊和志真  (いわしま)
五代 稚足姫   (わかたらしひめ)
六代 荳角     (ささげ)
七代 磐隈     (いわくま)
八代 莵道     (うじ)
九代 酢香手姫  (すかてひめ)    でして・・・・

おれもゲンコムシみたいに、卑弥呼さんは一人、二人、三人・・・・
オッパイが二つで、おっぱぃおるぅぅぅぅぅぅぅ(((((((((((((⌒ε⌒)。。。。(><)

とか言おうかなぁぁぁ↑
667日本@名無史さん:2011/01/21(金) 22:44:49
メ はおっぱい星人
668日本@名無史さん:2011/01/21(金) 23:07:52
どんコイの連中は443 の土器編年に関する投稿で、

>〔武末1985:138〕
>〔井上(編)1983:80,82-83,85,90-91〕
>〔柳田1991:43〕。

この上記レスをみてビビっちゃうのかw
まあ、443さんが本をよく読んでいるというのが分かるレスだよねw
669日本@名無史さん:2011/01/21(金) 23:49:42
>>668
その武末・柳田の暦年代観によると
布留式のはじまりは3世紀中頃以後になるわけだが。

おまえさんがその辺を解説できるんなら有難いな。
670メちゃん〜(>_<):2011/01/22(土) 00:18:48
>>669
土器編年に関しては研究者の間でも諸説あり
はっきり言って私も誰の言う事が正解なのかよく分からんのが現状です。

おおかた庄内式は三世紀半葉「ぐらい」まで、布留式はその後の三世紀半葉から「ぐらい」
とみてるんであって、各地方によってもその差はあると思う。

ただ、言えることは、三世紀において、畿内は三角縁神獣鏡 や 前方後円墳で九州を圧倒してるのは確か。
九州が栄えたのはスグや三雲などに代表されるように一世紀であって、三世紀の九州では
どちらかというと九州北部ではなく豊前石塚古墳や赤塚古墳のある九州東部のが栄えてるよう。

それらの出土品をみるかぎり、一世紀から三世紀にかわる九州の衰弱は否定できないだろうね。
671日本@名無史さん:2011/01/22(土) 00:24:41
>>668 ドツボ
>〔武末1985:138〕
>〔井上(編)1983:80,82-83,85,90-91〕
>〔柳田1991:43〕。

と言うかそんなサイトのコピペで何をどうやってビビるんだ?

言っている事が分からないんだが・・・インフルエンザで脳味噌沸いているのか?

それぞれをそこで「mutouha」と名乗っている
この板じゃ「怨み節」とか「むじんくん」とか「安本な人」etcと呼ばれている奴が
自力で集めてきて自説を構築したと言うのなら兎も角。


672日本@名無史さん:2011/01/22(土) 00:27:21
メ は人フンコロガシ
673メちゃん〜(>_<):2011/01/22(土) 00:35:29
>>671
いやいや、本をよく読んでる人なら御存じだろうと思うんだけど
引用する際って〔武末1985:138〕ていう具合に、よく使われてることで、
その書き込みをみて、ピンと感じるか否かの問題。

ムカッときたんならおれを攻撃してないで、443氏に反論すればいいじゃないか。
674日本@名無史さん:2011/01/22(土) 00:37:17
まあドツボも畿内説に宗旨替えして
考古学的な事柄にアタマ突っ込むようになっているんだし

その「mutouha」=「恨み節」ともぶつかる事もあるだろうwww

「スレ違いだ」とか言って逃げないで相手してやれ
おまえならできるw
675メちゃん〜(>_<):2011/01/22(土) 00:47:22
>>671
>この板じゃ「怨み節」とか「むじんくん」とか「安本な人」etcと呼ばれている奴が
>自力で集めてきて自説を構築したと言うのなら兎も角。

いや、どんコイの443君は、 おれはコレと思うな(笑)

邪馬台国時代のツクシとヤマト/奈良県香芝市二上山博物館
http://www.tsutaya.co.jp/works/40552164.html

676メちゃん〜(>_<):2011/01/22(土) 00:50:30
>>674
あ〜 土器編年はそれがしの専門外です。
先生の呼び方は無しでお願いします(太国風)

さてネよっとzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
677レス長たらし毘古:2011/01/22(土) 00:59:53
>>654->>656及び>>658
「弱い」としたのはあくまでも「一方法論だけからの場合は確定とは感じ
ない」としている性格の俺個人の個人的感想であり、「弱い」事を根拠もって
主張している内容ではない(つまり積極的に「弱い」と言っている内容では
ない)ので、その点を誤解を与えてしまってたら、そこは申し訳無い。
あくまでも個人感想として確定と思えるためには傍証が欲しい所、と言う
言い方のほうが適切だったかもしれない。従って、現時点では同一も非同一
も、個人的には確定までは至らないとは先述のとおり。
678日本@名無史さん:2011/01/22(土) 01:16:30
>>673
>〔武末1985:138〕
>〔井上(編)1983:80,82-83,85,90-91〕
>〔柳田1991:43〕。

という記述も含めて、まるまる「考古学のおやつ」というサイトの文章のコピペだから、
443氏が本を読んでるかどうかはわからんなあ。
サイトの作者本人なら話は別だけど。
679レス長たらし毘古:2011/01/22(土) 02:09:05
>>658
>渡航して情報を流すときに、例えば5年かかって渡航したならば、当然情報
を流すものは通常5年前のことだと言うでしょう?〜(中略)〜どんな論でも
可能性を残存させる為の言い回しであり、これでは言い訳だけであり、その
理由とは可能性を残すためには何でもありで、役には立たないね。

解釈論をベースに架空しているので、その傾向が多々あるのは認めます。確か
に渡航に何年かかろうと、外交官はある程度確証を持って「何年にお亡くなり
になった」と報告している事でしょう。その報告自体がずれている可能性を
根拠無く提案されたらご立腹されるのも理解はできます。

>240年としたくない理由というのは、具体的に利害大なる事象があればその
したくない理由は成る程となって来るが、そういう7年変更させる理由が何で
あるのかね?

まさしく適確なご指摘ありがとうございます。国内(倭人分布域)理由に限定
して以下の二つの先述の架空筋を同時に敷いてみます。
@当時大王はまだ無く、あっても毘売より下位の組織図だった。(或は、比較
下位のケースも生じている事が有り得る)
A沙本(毘売・毘古)の乱の鎮圧にある程度目途がついたのが、240〜248年の
間。(沙本の乱の想定が古事記の主張する垂仁期の話で無く、祟神期)

上記@の根拠ですが、これは超長いので先述をご参照下さい。かいつまむと、
開化以前は、毘売と大王の相対的比較立場の上下は確定的である事を古事記上
からは断じ得ないと言う内容です。
上記Aの根拠ですが、沙本毘売がホムツワケの出産を行なっている点です。
680レス長たらし毘古:2011/01/22(土) 02:12:11
>>658>>679続き)

古事記を信じると、祟神はある程度長命で寿命をまっとうした可能性が高く、
また、沙本毘売は祟神の前の開化の子です。従って婚姻があった(と古事記で
はされている)垂仁とは叔母=甥の関係である訳です。沙本毘売が開化晩年の
子だとしても(古事記では真ん中くらいの子のように思われるが)垂仁大王
より年上女房の可能性が高いと思われる。(よしんば若くても年が近い)
すると出産適齢期は現在天皇〜皇太子と近い状況と想定できます。沙本毘売は
女性であるためその出産期を大きく半世代ずれる事はありえず。すると、垂仁
と沙本の子とされているホムツワケは、垂仁が皇太子(皇子)の頃の子と想定
するのが自然です。すると、先述の「沙本の乱は、ホムツワケが幼児の時の話
であるため、祟神末期の代の出来事の可能性が高い」となります。
上記@Aの架空の上に、さて、「ずらす理由」ですが、古事記主張の祟神前半
は、先述どおり「モモソの(今風に言うと)代理統治」の時代であり、祟神
の代とされている丁度真ん中くらいの男盛りの頃に大毘古と組んでクーデター
を起こして、「モモソ毘売政権」から「祟神=大毘古政権」へと転換します。
その後、皇子(後の垂仁)の妻と妻の兄が、ラブロマンスで手に手を取って、
後代で言う駆け落ちさながら、中央政権に反旗を翻すワケです。
さてここが重要ですが、例え乱自体が比較的早く鎮圧できたとしても、古事記
公表では、「ホムツワケは取り戻せたが、沙本毘売は捕まえてもいないし、殺
してもいない」つまり「行方不明、恐らく死んだんだろう(涙)」と言う表記
なのです。
681日本@名無史さん:2011/01/22(土) 02:25:44
うわわ、長たらし
682レス長たらし毘古:2011/01/22(土) 02:45:39
>>658>>680続き)

@(毘売の方が大王より偉い)の状況でA後継者候補の妻・母が行方知れず、
この状況で、垂仁の大王就任の前後あたりに、「外国の使者が来訪した」と
したらどうでしょうか?
そしてその時期、「モモソ毘売」は既に没しています。つまり「毘売は空位」
と言う事になります。「沙本毘売」は、当時か後代、「毘売」に就任している
事は、古事記上で確定ですので、もし仮に、沙本毘売が生きていて、勝手に晋
の外交官と独自外交されていたとしたら、折角祟神=大毘古がモモソ毘売から
クーデターを起こして政権を奪取した意味の半分以上が無くなってしまう話
にも成り得ます。
従って、「対外的には毘売空白はあってはならない」となるのです。もし空白
があり、晋が沙本毘売を持ち出して来て、垂仁の後継者にホムツワケを強く
後押しされては困るのです。(実際は別の皇子が景行として大王就任)

従って、その誤差240〜248は、対外的には、「後継女王は必要ないない」と
する必要が当時政権には生じるわけです。対外的には「沙本毘売」がいては
当時政権にとっては困るのです。これが魏志倭人伝では「男王を立てたが国が
治まらず」の時期の後半となります。体裁の為に、248年直前、早期にトヨスキ
を(対外上は)次の「毘売」に就任させるワケです。その就任頃に、行方不明
の先代毘売候補の沙本は「お亡くなりになった」事にして、乱の完全鎮圧後、
名前だけ「毘売」を付ける事になります。

つまり国内的には「沙本も毘売だったが乱に荷担した」とし、国外的には
「ヒミコ=モモソ」は、その間7年間はご存命だったとし、次の毘売を決め
なかったので散々でしたと言う過去形体裁でこの「空白」を埋めたのです。
この架空なら違和感は少ない。沙本の乱もほぼ落着き、乱のの残党狩りをして
いる最中に晋の使節団が来航するのです。だから魏志倭人伝は沙本毘売を知ら
ず、その間はヒミコ末期で、ご寿命で亡くなり、その亡き後少し乱があっが、
それもようやっと鎮圧したばかりなんだな、と判断してしまった訳です。
683レス長たらし毘古:2011/01/22(土) 03:16:17
つまり、「沙本毘売が確実にいた」時期こそが、この誤差なのです。行方不明
の沙本毘売を、たとえ魏晋の使節団が見つけ出してバックアップしようとして
もそれは「意味無いですよ」とする必要が当時政権にはあったのです。
だから対外的にはヒミコ様には7年間くらい長生きしてもらう必要があります。

古事記にはそれぞれ祟神・垂仁と二代に別れて描かれている、このタケハニ
ヤス王の乱(これをヒミコ=モモソから祟神が政権奪取したクーデターと想定
)と沙本毘古の乱ですが、実際は十年前後の隔たりしかなく、逆に「一つの
乱として十数年乱れた」ものを、国内外の記録上は「別の乱がそれぞれ短期」
で二回起こった、としたのです。大きな乱の開始時期がタケハニヤス王の乱で
終了時期が沙本毘古の乱、としたのです。想定の順番は以下です。

@近畿にてタケハニヤス(大)王 VS 祟神大王(当時まだ大王でない)
A九州東北部でモモソ死亡(寿命or暗殺)
B沙本の乱(沙本毘古とサワジ比売(当時まだ毘売では無い)の駆け落ち)
C乱鎮圧目途が立ってから近畿政権がトヨスキをモモソの後継者とする
D祟神から垂仁への大王継承
E魏晋の使節団再度来航

対外的にはBの沙本毘売&沙本毘沙古が存在していては次の二点で現政権に
とっては困る事になる。
・後継者問題に口出しされる可能性が高くなる。
・実際はタケハニヤス王の乱〜沙本の乱が大きな一つの大乱だったのだが、
それを実質どおりに知られると外交的につけこまれる。

従ってヒミコ様(これをモモソ様と想定)には「長生きしてもらってました
よ」としたいお家事情が近畿政権(祟神〜垂仁政権)に多分にある事になる。
対外的にはAがBより後か、いっそのことBが無い方が良くなるのです。
その方が、乱は小さくなるし、後継問題に口出しできる隙が減ります。
684レス長たらし毘古:2011/01/22(土) 03:50:08
>>659
>勿論これらはオオモノヌシの権威を下げる為に作為された逸話だろうと思ってますが。

ちなみに、古事記以前の話ですが、その前に蘇我&聖徳太子が作った国史に
おいて、既に神以外の「物(部)」の字のみを削除したという架空はどうで
しょうか?そして、これまた古事記以前の話ですが、大伴金村の後の時代に
大伴より上位に立った氏族が神以外の「意富(オオ)」の字を極力削除した
としたらどうでしょうか?
つまり、古事記成立以前に「大」の字と「物」の字は、大幅に検閲削除を
受けていると言う架空も、根拠は無いですが、興味ある可能性ではあります。

従って、大物主は、古事記以前に神代にしか登場しないワケワカランが偉い
神様になり、逆にそのワケワカラン畏ろしさを、記の三輪伝説や紀のモモソ
怪死逸話に再利用されたのかもしれませんね。モチロン根拠無しですが。
685日本@名無史さん:2011/01/22(土) 06:37:09
>>674
> その「mutouha」=「恨み節」

無糖派クンと恨み節@東遷廚は別物だよ。
ドン来いの>443>467が無当派クンで>475>478は恨み節だろう。
無頭派くんはY掲示板でおなじみの「全滅〜』の人だ。
686日本@名無史さん:2011/01/22(土) 06:56:51
>>670
なんだドツボか。・・・言っても無駄だが

「北部九州の生活遺構での畿内布留式系土器の登場と陶質土器の登場が同時期であることは、
 柳田康雄がすでに指摘している〔柳田1991:43〕。 」

その柳田さんが布留式のはじまりを3世紀中頃とみているってことだよ。
687日本@名無史さん:2011/01/22(土) 07:27:06
桃の種がいっぱい出土したのとモモソ姫という名前の関連性について。

また実在が怪しまれている考安天皇の娘というのも…。武埴安彦命の反乱
も倭国大乱?
688日本@名無史さん:2011/01/22(土) 09:26:16
桃の種がたくさん出てきたのは、奈良盆地が桃源郷だったからです。
大和とは山門、つまり、山に囲まれた盆地のことです。
矢的してもよく、つまり二重丸◎、大きな輪(和)ということです。

やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとしうるわし

大和と名のつく地形はほとんどが盆地です。
海洋性民族の襲撃を受けることのない安全な土地だったからです。
689太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/22(土) 14:55:40
>>679
貴方の書きこみは量が多いなぁ〜。w
分割して書きこんでいるからまだいいが、もう少し要点に絞っての
書きこみを願う。これはそれがしも長いことがあるから、あまり
文句は言えないが、これは要望です。

ザッと読んでみたが、貴方の言い分は即興での脳内でのうっちゃり的での
可能性を無理に創造して、可能性があることを誇張して利害大なる事由
を貴方自身で構想しただけのもの。おそらく即興だからウラなと取って
いないだろう? こちらを説得出来うる説明こそ、貴方のとるべき
行動だな。無理筋の即興ではこちらへの説得力が生まれない。
690日本@名無史さん:2011/01/22(土) 17:03:30
誰かさんに似ている。
691日本@名無史さん:2011/01/22(土) 17:29:25
話が一方通行なところもね。
692日本@名無史さん:2011/01/22(土) 17:42:11
メ は人ゲジゲジ
693(>_<):2011/01/22(土) 21:30:47
2011年1月30日(日)第8回シンポジウム「飯豊天皇を考える」が開催される。

日本で最初の女帝といえば、推古天皇であるというのが現在の一般的な認識である。

しかし、「天皇」と明記されてはいないものの推古天皇以前に実質的にその地位に登り、当時の王権の危急を救った女性がいる。
それが飯豊女王である。

飯豊女王は、葛城市と極めて密接な関係をもつ女性である。
その別名は「忍海部女王」といい、その養育にこの地域の人々がかかわっていたことは間違いない。
さらに、実質的に天皇の地位にあった時に営んだ宮は「忍海高木角刺宮」であり、
その墓も葛城市北花内に所在する「飯豊天皇埴口丘陵」である。

在位期間は極めて短いものであったと考えられるが、その果たした役割はきわめて重要なものであったと考えられる。
平安時代に編まれた『扶桑略記』においては、第23代天皇として認識されている。
694(>_<):2011/01/22(土) 21:34:26
第8回シンポジウム「飯豊天皇を考える」
場所は、葛城氏歴史博物館   暇な人はいってきな。

講師と演題のご紹介
プロフィール

水谷千秋氏 記念講演「古代史における飯豊女王」
堺女子短期大学准教授

石野博信氏 基調講演@「倭国の女王卑弥呼と台与」
香芝市二上山博物館館長

小栗 梓氏 基調講演A「古墳時代の女性首長像」
大阪府立近つ飛鳥博物館学芸員

池田貴則氏 基調講演B「飛鳥の女帝・推古天皇」
太子町立竹内街道歴史資料館学芸担当

シンポジウムコーディネーター
田中慶治(葛城市歴史博物館学芸員)
http://www.city.katsuragi.nara.jp/museo_history/8thsimpo.html
695(>_<):2011/01/22(土) 21:43:23
「扶桑略記」などでは、「 飯豊天皇、廿四代女帝」として、
彼女を「飯豊天皇」としている。

ここが古代史の面白いところで、ほかにも託宣集などで
神功皇后を「神功天皇」(代十五代天皇)としているので・・・実際と歴史とでは
違いがあるのかもしれません。
上で投稿したシンポジウム「飯豊天皇」をテーマとした説明会を聞いて来ればすこしは内容が分かるだろう。
696(>_<):2011/01/22(土) 22:20:43
無党派だか、武藤派だか知らねえが、
名無しじゃなくコテつけて来やがれ てんだ。

by ニルート
697日本@名無史さん:2011/01/22(土) 22:25:23
メ は人ゴキブリ
698日本@名無史さん:2011/01/22(土) 22:31:47
現代でもここらで一度女帝にしたらいいんじゃないか

もちろん眞子内親王で。
699日本@名無史さん:2011/01/23(日) 00:00:35
ゴーマニズムのバカが女帝とか主張してるけどバカバカしいね。
彼の論拠は、男系は中国の模倣だからという極めて低次元のものだし。
700レス長たらし毘古:2011/01/23(日) 00:11:03
>>689
>こちらを説得出来うる説明こそ、貴方のとるべき行動だな。無理筋の即興で
はこちらへの説得力が生まれない。

一方法論にだけ根ざして「非同一人物論」を説明する貴殿も架空筋の解釈論
のみの俺の「同一人物可能性」も、「弱い・説得力が無い」と言う点は同様で
お互い変りませんね。お互い新たな「証拠」を待つ事にしましょう。

非同一人物を確定する為には、Aとは違うBであるという、そのBなる人物
を充分に証明して、その人がAではありえないと説明して初めて成り立つ話
なんですよ、そもそも。そうでなければ冤罪産みまくりです。現時点では
俺も貴殿もお互い冤罪産みまくりですな。(ま、俺は断定は避けてるけど)

「ありえない」とする論拠が、一方法論からのみでなく、傍証のある話なら
別ですが。
701レス長たらし毘古:2011/01/23(日) 00:41:45
>>698->>699
具体的想定や女系論は論外ですが、少なくとも古代における女帝論(女大王と
よぶべきか)の可能性は、古事記からだけでは完全否定は出来ない。なぜな
ら、古事記が既に「陰陽思想」と言う、通説で考えれば儒学の後の発祥の思想
をベースに描かれていると言う事は、自身の前書きで公表済みだからです。

男尊女卑概念は、これも通説を信じれば儒学にその由来の主流要素があるとも
言われれます。つまり、記紀を作成・編集する研究者達が、既に儒教的男尊
女卑をベースにした上で記紀編集をしている可能性が高い。従って古代(つま
り記紀以前)において、有意識・無意識かかわらず、「女大王」が「男大王」
と表記されていたり、「女大王がいなかった」とされたりしている可能性が
古事記だけでは否定しきれないのです。
もしそうなら、それ故生じている不自然や矛盾もあるかもしれません。記紀は
推古大王は「ツナギの女帝のつもり」として描かれており、神功皇后は「伝説
的な皇后」と描かれておりますが、はたしてそれぞれの同代において、記紀
以降のような「男女観」があったかどうか?は甚だ疑問です。むしろ、男王で
あろうが女王であろうが、記紀以前は「女大王が就任する可能性と条件」は
むしろ確定的な日本独自の方法論があったと考える方が自然です。
「女大王」と確定している人は、推古(33代)〜称徳(48代)まで、実に6人
8代(二人は重祚)しています。つまり確率的には6/16、つまり3/8くらいは
「当時方法論的」に「女大王」が発生していると言う確率になります。
従って、後は、儒教思想が入った日本で男王限定的になって行くのを除くと、
「推古大王以前はこの確率で女帝(女大王)が立った可能性は無いのか?」
だけが、とても不自然として浮上して来るワケです。
「推古大王以前に女大王が立っている可能性も」0〜3/8程度の確率、つまり
0%以上37.5%程度の可能性であると考える方が自然ではあります。
そう考えると、記紀におけるその頃の「女傑(女大王・女帝・皇后・女性
伝説)」は少々少なすぎる気もします。記紀によると「女大王は皆無」です。
702レス長たらし毘古:2011/01/23(日) 00:55:43
つまり、記紀によると、推古より前は「女大王は皆無」なのです。推古以降は
3割打者で女王を出しているのに。これを不自然と感じるなら、記紀の
「女大王」に関する記載(そして「男大王」と記載されている人物は本当に男
だったか?)の信憑性はかなり低くなり。逆に、これを自然とするならば、
「何故推古の代から女大王が増えたか?」が逆に記紀から充分説明できるよう
なエポックメイク(画期)のイベントを抽出できるはず、となり、これらの
どちらかしかありえない話になります。

先述の兄弟相続制のみならず、この女大王継承方法論についても、記紀は
記紀のみではそれらを充分説明できないのであります。従って、少なくとも
記紀ベースからは、この二点は、「どちらかだったと断定」はできない代物
なのです。推古以前は、とってもミステリアス。
703ローガン:2011/01/23(日) 01:04:01
>>694
> 第8回シンポジウム「飯豊天皇を考える」
> 場所は、葛城氏歴史博物館   暇な人はいってきな。

へえ〜。行ってみる。面白そう。
704ローガン:2011/01/23(日) 01:24:31
既に締切だったか…
705日本@名無史さん:2011/01/23(日) 01:29:31
>飯豊天皇

「やるこたあやってみたが別に大した事なかったぜ!」
・・・と言い放ったあの人かw

もう肉食系通り越しているよなwwwwww

以前典範改正問題に絡み
「女帝は男系を繋ぐ為のワンポイントリリーフみたいなもん」と言う論調があったが

この飯豊や推古や持統みると女の方が余程パワフルだなw
勿論畿内説にすれば日本の初代の王は女王と言う事になるわけだしw

今の日本にカンフル剤投与する意味でも女帝は良い鴨wwwwwwwwwww
706レス長たらし毘古:2011/01/23(日) 01:37:43
さて、記紀を疑いこの「兄弟相続制」と「女大王継承方法論」が当時はそっち
が「慣習(制度)」だった場合、改めて「魏志倭人伝」を見て見るとどうで
しょうか?魏志倭人伝には、「国が乱れた」とはあっても、「ヒミコの王権が
絶えた」とは一言も書いていません。「子無し」と言う所が記紀ベースだと悩ましいところですが、そこが「兄弟相続制」なら、立派な弟さん(らしき人)
がいるので、いくら国が乱れようと、国がある限り「継承的」には全く問題
無かったと言う話になります。すると、以下の二つの可能性しかありません。

@ヒミコが大和王権内の人物であるならば、ヒミコの権威はヒミコ前後の継承
者に順当に引き継がれた。
Aヒミコが大和王権外の人物であるならば、ヒミコの権威が引き継がれた王権
が、その後大和王権とどのような関係性に成って行ったか。

古事記が「この時期をも含む史書」であるなら、この上記二つのどちらかは
「隠し切れない話」となります。
もしヒミコに、「子」がいたが、魏晋の使節団と謁見する前に「死に絶えて」
いたなら、後代概念ですら「幼帝の際のみその生母が代理皇帝として即位」
していた状況で、「その頼みの子が無くなった直後」という状況が想定でき
るのです。(子を無くした母が鬼道に走り。。うーん、もののあわれ(泣))

その想定に一番近いのが、先述俺が架空した上での「モモソ毘売」なのです。
子をなくし、弟も劣勢で頼りにならない。。。晩年のこの女性、必ずや後代
モノノケになるかもしれませんねぇ。。。懇ろに葬らないと。。。ナム。

勿論、信じるか信じないかは、貴方次第です。
707日本@名無史さん:2011/01/23(日) 01:50:16
数々の逸話上のみでみれば、卑弥呼像はモモソにあまりにダブり過ぎだよね。

後の推古天皇にも近い部分はあるが(意図的かどうかは知らんが)
708レス長たらし毘古:2011/01/23(日) 01:58:05
閑話休題。

兄弟相続制の場合、家系図を見てもらえばわかりますが、推古大王がお亡く
なりになった場合、山背大兄王(聖徳太子の子)とジョメイ大王(即位前)
(天智の父)は、兄弟相続慣習上、お互い紙一重なライバル(競争者)となり
ます。蘇我のエミシ・イルカは、聖徳太子系をバックアップしています。

山背大兄王を殺す動機は、動機だけなら、蘇我氏より中大兄皇子(後の天智)
の方が圧倒的に大きいのです。。。これもナム。さすが天智丸、よく切れる。
709(>_<):2011/01/23(日) 02:01:03
>>700-702
古事記は上・中・下の全3巻で構成されており、712年に成立。
日本書紀は日本の最古の歴史書とされ、全30巻で構成されており720年に成立。
この二つの国史は上宮記・帝紀・旧辞・国記・天皇記を主とし
各地方の風土記や海外の文献からも引用し編纂された。

「八幡愚童記」、「託宣集」、「扶桑略記」、「東大寺要録」、「神皇正統記」にみえる
欽明天皇三十二年(AD571年)の大神比義の託宣、

我是日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡磨也

は、聞いたことがあると思うが、これは八幡大神の出現をあらわしてるのであり、
欽明天皇三十二年、AD571年といえば六世紀後半で八世紀初頭の記紀編纂よりも100年以上早い事柄。

ここからいえることは、記紀編纂までは、代十五代天皇を神功天皇とされていたことが分かると思う。
ですから、神功天皇は後代に摂政とされていたことが分かると思う。
710(>_<):2011/01/23(日) 02:11:35
>>686
>布留式のはじまりを3世紀中頃

だからそれがどうしたんだい?
上でも書いたが土器編年というのは研究者の間でも若干その年代に違いがあり、
私は「およそ」その辺りとみてるんであって土器編年だけでは確実な年代はわりだせない。
まあ、君のいってるぐらいの布留式は3世紀中頃からぐらいでいいんじゃないの。
わたしは別に布留式の年代に関しては、あまり文句ないよ。

>>703-704
ローガンさん 割り込んで下さいww

>>705
飯豊天皇のその話は有名だね。
その相手である男のテクニックに問題あり ってことで・・・
711レス長たらし毘古:2011/01/23(日) 02:15:56
>>707
>数々の逸話上のみでみれば、卑弥呼像はモモソにあまりにダブり過ぎだよね。

記紀上で「女傑」の分母が少ないので、その感想は共感できます。日本書紀を
仮に「子供向け」「解釈書」「対外向けパンフレット」とした場合、何故、
モモソ毘売だけが(善悪清濁は兎も角として)殊更にボリュームアップされ
たのかが、一見不可思議ですが、深読みや架空を駆使した場合のみ浮かび上
がって来るような気もします。
俺個人はこれは古代日本人が言葉以上に言霊を信じたと解釈している。言葉は
時に嘘をつく事をも想定して「記録を残した」と考えると自然な流れになる。
そして言葉は変転もすれば風化もする。

だから一見、完全一致も、完全否定も、どちらもできない表記で描かれた。
何故ならそれは、当時敵対した側の子孫としては「畏れ多い」事だから。
712(>_<):2011/01/23(日) 02:18:00
私は、託宣集とか宇佐神宮史 史料篇を所持してるので、誉田天皇だとか、神功天皇だとか
このへんはすこし強い部分があるが、他の人も「扶桑略記」、「神皇正統記」、「続日本書紀」とか
所持してる人はいないのだろうか?

大体、出雲や伊勢に関する資料を持ってる人っておるのかな?
このへんって誰に聞けばいいんだろうねぇ。
713レス長たらし毘古:2011/01/23(日) 02:21:42
>>709
>ここからいえることは、記紀編纂までは、代十五代天皇を神功天皇とされて
いたことが分かると思う。

貴重なデータをありがとうございます。やはり、入り口近くでウロウロして
いる俺なんかより、ずっと先を歩いている先人たちは、沢山ずっと先にこの
程度までは到達していたんだなぁ、とシロウト安心しました。ホッ。
714(>_<):2011/01/23(日) 02:39:41
「託宣集」とか「宇佐神宮史 史料篇」ていうのは結構な値段するんですが(高ぃ)、
その金額が高い分、非常ぉ〜〜〜〜に面白い。

他の人も、自慢できるような古文献を所持してる人いましたら教えて下さいてばぁ。
誰がどの本を持ってるか、いまいち把握できてないっていうか・・・・

>>713
長たらしさんゎ、古事記・日本書紀をよく研究してるし、
他の人もいろいろと〜詳しいですよ><
715(>_<):2011/01/23(日) 02:59:34
琉球半島の祖霊信仰 ていうのを少し勉強したいんだが、
これは民俗学になるねぇ。

柳田国男「巫女考」とか読んだことある人っておるのかな?
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480024114/
716(>_<):2011/01/23(日) 03:05:25
>古代の祭政一致社会において兄の帝を守護し助けた巫祝的性格をもつオナリ神をはじめ、
>玉依姫、御霊信仰、姥神伝説などをとりあげ、目に見えぬ精霊の力によって女性が歴史の舞台の影ではたしてきた役割を掘り起こし、
>さらに口承文芸の伝播に関わった遊行の女婦について考証する『妹の力』。
>わが国のシャマニズム研究の先駆をなす「巫女考」。
>ともに、かつて女性がもっていた大いなる力「さかしさ」と「けだかさ」の回復を願って書かれたものである。
>ほかに毛坊主や聖など中世の民間宗教者たちについての諸論考を収録。

卑弥呼=玉依姫 説ていうのもあるらしいので、「玉依姫考」をテーマに
その謎について考えるっていうのもありかも。

され、寝ようっと zzzzzzz・・・・・・・
717太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 09:04:32
>>700
>同様でお互い変わりませんね 
こんなことを同様とかで誤魔化すのかね? 違うところがあるだろう。
あんたのは即興で考えた抗弁ではないか。こちらは以前から長々と考え
て検討した上での主張だよ。即興では表見的な言い訳にすぎず、即興と
分かれば中身の薄い上っ面の繕いと見破られて、説得力0なんていう以上
に程度の低い〜論説未満の長いだけの書きこみ。
718太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 09:24:35
>>700
>Aとは違うB・・・
これはこちらの言うセリフですよ。
あんたのは足利事件の犯人が菅谷さんと同一だといって
719太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 09:49:44
>>700
>Aとは違うB・・・

これはこちらの言うセリフですよ。

あんたのは足利事件の犯人が菅谷さんと同一だと言ってるようなこと
なんだよ。ただ卑弥呼とモモソヒメの関係とは事件でないがね。

あなたこそ菅谷さんを犯人と同一だと言ってた別の第三者のやり方と、
古代史論説ではこの件では似た者同士だぜ。
〜こちらは別人だと言ってるんだよ。

同一人物を確定するためには、Aとは同じBであるという、そのBなる人物
を充分に証明して、その人がAであると説明して初めて成り立つ話なんで
すよ。そもそも。そうでなければ冤罪産みまくりです。
現時点では別人だと(菅谷さんと犯人とは別人だと)コチラは言ってるん
だからお互いではなくあなたが冤罪産みまくりなんだよ。w

ここの冤罪云々の貴方の言ったお互いというのも、貴方の詭弁なんですよ。
お互いではなく、貴方のみが同一人物論で妄想してるわけなのさ。
それがしを巻きこんでお互いなどと言い、ケムにまくのはやめなさいよ。
720太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 09:51:13
>>718
失礼! これは書きこみの失敗です。無として下さい。
721ポキール:2011/01/23(日) 10:50:27
中国の書物に書かれた3世紀の人物を、500年の時を経た書物で探し出そうと
する事がそもそも無謀な行為
500年前の人物を誰が覚えているのかと

722(>_<):2011/01/23(日) 11:03:04
モン太さん・・・じゃなかった! ポキールさん
貴方がみてる魏志倭人伝の「原文」は11世紀のモノなのです。
日本書紀というのは「魏志」から引用されてる部分があり、
それらの事例から書記の編纂者は「魏志を観てた」ことが分かる。
11世紀からだと800年前でして・・・
500年の時を経た書物から探し出すのも面白いという見方もある。
まあ、人それぞれですよ
723(>_<):2011/01/23(日) 11:09:13
なぁんか〜ポキールさんって

美濃のモン太だとか、あとそれから〜カッパ君やゲンツキムシ君と「共通」してる部分があるのか
どことなく似てるんだよねw
なにをどう共通してるのかはよく分からないんですけど、同一人物てことは無いよね?w
724(>_<):2011/01/23(日) 11:23:37
うぅ 今日もぉ外が寒〜い><
こうも毎日、毎日、寒いと外出て遊びに行くってよりも
家の中にいてインターネットの画面を観入ってしまうよねw

それはそうと〜ポキールさんとカッパ君を戦わせてみたいよね。
いつだったか・・・モン太vsカッパ君でカッパ君の圧勝という下馬評を覆して
美濃のモン太にボッコボッコに言われまくってたのが笑えたよねww
725日本@名無史さん:2011/01/23(日) 12:35:35
1/23今夜、テレビで21:00から邪馬台国論争があるらしい。
http://tv.yahoo.co.jp/program/6059/?date=20110123&stime=2100&ch=8200

NHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」

古代史最大の謎である邪馬台国の所在地。
その謎に迫る発掘調査が近畿説で最も有力視されている奈良・纒向遺跡で行われた。
女王卑弥呼の都を探す3ヶ月の発掘に密着した。
「邪馬台国」は、どこにあったのか。幻の王国を探して、奈良・纒向(まきむく)遺跡で発掘が行われた。
邪馬台国は、3世紀の日本列島にあったといわれる連合国家の都。
近畿で最も有力視される纒向から、王宮にあたる大型建物の跡が見つかり、発掘に拍車がかかった。
現場からは土器・祭祀(し)道具などと共に、2000個を超える桃の種が見つかった。
浮かび上がる王国の姿。邪馬台国なのか。
古代史最大の謎に挑む発掘調査に密着。
726日本@名無史さん:2011/01/23(日) 12:53:39
【情報提供】
邪馬台国シンポジウム<狗奴国から邪馬台国を考える>開催

日時: 2011年2月13日(日) 10:00〜16:30 (開場09:15)
会場: 九段会館大ホール(東京都千代田区九段南1-6-5)
定員: 1100名
資料代: 1600円(事前払い)  当日払い 1800円
事前振込み払い制となっております。2月8日までにのお支払い。

 考古学・古代史ファンの心をとらえてやまない邪馬台国をめぐる諸問題。邪馬台国の所在地論を二分する九州説と近畿説。
邪馬台国の問題は、もちろんその所在地論だけではない。
そこで視点を変えて邪馬台国と敵対関係にあった狗奴国の問題を真正面から取り上げ、
邪馬台国の全体像に少しでも接近したいものである。(西谷正)

第1部 10:00〜15:30主催者挨拶
講演: 「狗奴国から毛野国へ」
 西谷 正 先生 (九州歴史資料館館長・九州大学名誉教授)「女王と男王―王号の系譜を考える」
 仁藤 敦史 先生 (国立歴史民俗博物館教授)「二・三世紀の列島東部、東海・狗奴国の風景」
 赤塚 次郎 先生 (愛知県埋蔵文化財センター副所長兼調査課長)
ゲスト講演: 「考古学上想定できる狗奴国と敵対の条件」 大塚 初重 先生 (明治大学名誉教授)
講演: 「<新生>倭国・王権からみた<狗奴国>」 寺沢 薫 先生 (奈良県立橿原考古学研究所調査研究部長)
「ヤマト政権は邪馬台国連合と狗奴国連合の合体で成立した」
 白石 太一郎 先生 (近つ飛鳥博物館館長・国立歴史民俗博物館名誉教授)
第2部 15:30〜17:00
パネルディスカッション「狗奴国から邪馬台国を考える」司会: 西谷 正 先生
パネラー: 大塚 初重 先生・白石 太一郎 先生・赤塚 次郎 先生・寺沢 薫 先生・仁藤 敦史 先生
http://www.tonbonome.net/index.php?page=event_ev1102130
727日本@名無史さん:2011/01/23(日) 13:43:51
 メ は早く歴板からいなくなれ
728太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 13:47:39
>>700
それがしの編年は、誤差は1〜2年位ですよ。7年も狂いませんね。
考古ならそんな正確精度は現今では無理でしょう? しかし伝と記紀とで、
5年以上の誤差は生まれなくてすみますね。

年代の特定でもっとも重要なブツを考古から考えるとすれば、それは
朝廷の最重要物の【鏡】だと観て可ですな。とりわけ畿内から多数出土
してる239年銘文鏡は、年代の特定を文献と照らしながらえらく卑弥呼、
百襲媛の年代特定に結びつきます。

これが崇神の代の倭笠縫に皇祖アマテラスとその象徴の【鏡】を祭祀
した紀の記事が有効なわけであり、239年ころが祭祀の紀の崇神6年
近隣に位置するということが最も堅実たる脳内判断だということです。
さらに朝廷は当時2倍暦、3倍暦を行使していたことを把握すれば、
この鏡の祭祀の紀の崇神6年が239年あたりのことから

 237年=景初元年=崇神即位元年

は不動となります。
崇神の代は3倍暦行使の時代ですから、これから後代に年代を当てて行く
と、 259年=崇神没年 との算出を得られます。これは古事記の崇神没年
での258年説がほぼ正確だったことを裏づけます。ここでは1年の誤差
ですよ。従って 百襲媛没年=240年 も237年から3倍暦で下降すれば
これを得られ、247年あるいは248年の卑弥呼没年とあh7年も違う事から、
両女は同一人物にはなりえませんね。
729日本@名無史さん:2011/01/23(日) 13:48:08
メくじら立てて騒がなくてもいいじゃないか。
730太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 14:04:53
>>728 続き
>>700
申し送れましたが、考古でもそのブツに銘文があるのは精度は固いです。

2倍暦はいいとして、3倍暦なんか信じられないとお考えになるとは想い
ますが、3倍でないと武内宿禰の寿命の合理性は出てきません。彼は2倍
でも150歳近くの寿命になるはずで、2倍暦だけではこれの説明は出来
ないものです。

じゃぁ4倍暦でないのかとの考えが出ましょうが、これは現今の1年が当時
3ヶ月だったということになり、別にこれを行使しなくても同月くらいでの
期間の各四季があるわけで、4倍暦の設定はあまり必要性が見出せま
せんし、干支の日数は60日、120日で一巡するところ、4倍暦では90日
あたりであり、干支が折半で中途切れになることから利便性は薄くなるわけ
で、これの使用はないと観ています。

3倍暦は奇異で一見してそんなことをやっていないように見えましょうが、
これでの1年は120日ばかりでおおむね干支が2巡することから、節目が
よく、これの使用をしていたとの考えが正解だということですよ。
731太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 14:37:33
>>730 続き

皇紀 西暦倍暦
564 -97 237  崇神即位元年 景初元年
565 -96
566 -95
567 -94 238
568 -93
569 -92      紀の崇神6年 倭笠縫に鏡祭祀
570 -91 239  景初3年
571 -90
572 -89
573 -88 240  百襲媛 没  紀の崇神10年
574 -87
575 -86

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

594 -67 247  この頃 卑弥呼 没
595 -66
596 -65
595 -64 248

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

627 -34 258
628 -33
629 -32
630 -31 259
631 -30      崇神崩御

732ポキール:2011/01/23(日) 14:49:44
>>722

>貴方がみてる魏志倭人伝の「原文」は11世紀のモノなのです
>日本書紀というのは「魏志」から引用されてる部分があり、
それらの事例から書記の編纂者は「魏志を観てた」ことが分かる。
>11世紀からだと800年前でして・・・
500年の時を経た書物から探し出すのも面白いという見方もある。
まあ、人それぞれですよ

まったく意味不明なないようで、何を言っているのかさっぱりです。
貴方の投稿から読み取れる内容は
11世紀の原文が8世紀の書記からも引用によって読み取れるので
魏志倭人伝は8世紀以前にすでに完成されていたと言う内容になりますが
、そのこととなにか関係があるのでしょうか。
733日本@名無史さん:2011/01/23(日) 18:59:21

放送開始まであと2時間!!!


■日本古代史最大の謎に迫る 23日・NHK「“邪馬台国”を掘る」


 日本古代史最大の謎といわれる邪馬台国に迫るドキュメンタリー「“邪馬台国”を掘る」が23日午後9時から、NHKで放送される。

 2009年、奈良・纒向(まきむく)遺跡で巨大な建物群が発掘された。
この遺跡は東西2キロ、南北1・5キロに及び、弥生時代末期の3世紀、突如建設された都市だったことがわかり、邪馬台国の最有力候補地と目されるようになった。
さらに昨年夏、建物群周辺の発掘が行われ、人為的に壊された銅たくや2000個を超える桃の種などが出土した。

 果たして、邪馬台国所在地を巡る長年の論争に決着をつけるような証拠は発見されたのか。
 番組では発掘現場=写真=に密着し、その成果を検証しつつ、纒向の実像を描き出す。

(2011年1月20日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tnews/20110120-OYT8T00621.htm
734(>_<):2011/01/23(日) 19:04:49
うは ポキールさんから〜突っ込まれてるw

え−とですね・・・貴方の>>721
>中国の書物に書かれた3世紀の人物を、500年の時を経た書物で探し出そうと
>する事がそもそも無謀な行為

というレスがあったので、「倭人伝の原文も11世紀に成立したモノ」と説明したのです。

で、11世紀だと3世紀の事件から800〜900年と月日が経ってるのであって
日本書紀から三世紀に活躍した人物を特定するのは500年前の事柄になるので
11世紀成立の魏志倭人伝 原文を観て、三世紀に活躍した人物を特定するポキールさんと
八世紀成立の日本書紀を観て、三世紀に活躍した人物を特定する太国氏、長たらし氏と余り変わらないじゃないか。
と感じ、722のようなレスをしたのです。

もう一点、日本書紀の編纂者は我々の観てる11世紀成立の魏志倭人伝の原文を
観て引用文を書いてるのではなくw
それより前(11世紀成立より前)の魏志倭人伝原文を観て引用文を書いてるのであり、
我々の観ている11世紀成立の魏志倭人伝は8世紀以前にすでに完成されてるワケが無いw

ちと、難しかったかな?(°〜°)
735(>_<):2011/01/23(日) 19:53:46
ポキールさんは、まだ始めたばかりという事もあって
少し、私がサポートしましょうか。

まず、「魏志倭人伝」という本は無く、晋代の史官である陳寿が書き下ろした
三国志 魏書 東夷伝倭人の条の部分を、私達は通称で「魏志倭人伝」と言ってるんであって
この三国志の成立は280〜290年頃に陳寿によって編纂されたといわれている。
この280〜290年頃成立の「三国志」は現存しておらず、私達は本当の「原文」を目のあたりにすることは出来ない。

で、280〜290年頃成立の「陳寿編纂 三国志」に宋の裴 松之が、陳寿の文章の簡略すぎる所をおぎなう為に
特「注」を付けた「裴松之注」というモノがある。
この「三国志 裴松之注」の成立は479年でして、この書籍も現存してない。

その後では977〜983年頃の成立の「太平御覧」や 1002〜1003年頃の成立の「咸平本」というのがあるが
その後の私達が「魏志倭人伝の原文」と呼んでいるモノは1131〜62頃に刊行された「紹興本」や
1190〜94頃に刊行された百衲本(紹熙本)を「原文」と言っておる。
736日本@名無史さん:2011/01/23(日) 19:59:41
メ は腐れた人、姿を変えても腐臭がするんよ。
737神奈川県民:2011/01/23(日) 20:26:27
>>736 読め

・注意事項  
必要以上の馴れ合いは慎しんでください
暴言や第3者を不快にさせるような発言はやめましょう
悪質な削除要請や自己中心的な発言はひかえましょう
人間的モラルやルール・ネットマナーに反した発言はやめましょう

http://info.2ch.net/before.html
738日本@名無史さん:2011/01/23(日) 21:09:23
いまTVで邪馬台国やってるね
739日本@名無史さん:2011/01/23(日) 21:11:58
やはり高島がでてきたか・・・w
740日本@名無史さん:2011/01/23(日) 21:14:07
九州説に対する配慮、バランスをとるためだな。
741日本@名無史さん:2011/01/23(日) 21:25:44
畿内は、邪馬台国は全然関係ないけど、「邪馬台国」って文字を入れないと
視聴率取れないから、仕方ないな
742日本@名無史さん:2011/01/23(日) 21:40:44
おーモモが鬼道(道教)につながるっていってるね
743日本@名無史さん:2011/01/23(日) 21:50:28
メディアは近畿巻向遺跡 対 九州吉野ヶ里遺跡というような図式があるようだ
744日本@名無史さん:2011/01/23(日) 21:54:45
テレビ見たけど考古学的にはほぼ畿内で決まりだね。
ただ決定的な証拠がでないかぎり不毛な議論になるから、
深く関わらないほうがいい問題だ。
745日本@名無史さん :2011/01/23(日) 22:00:35
当時も北九州や近畿は勿論繁栄してただろうけど
邪馬台国って東部九州で確定だと思ってた
宇佐神宮の発掘を楽しみに待ってたのに。

なんだ異端扱いなのか。彬光(´・ω・`) カワウソス
746日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:03:53
東部九州は早くからのヤマト王権への協力者で、宇佐神宮に権威があるのも
そのことと繋がってる。
747太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 22:09:10
何を言おうと、記紀にある相当年代に女王(女天皇)の即位事実が無いん
だから、畿内に卑弥呼の国は無い。となれば、九州に彼女の国があっ
たと観るのが正解だ。卑弥呼とモモちゃんとは別人の女性だが、ほぼ
同時代に彼女らは生きていたということだ。これが真である。

倍暦計算からモモちゃんは240年死亡で卑弥呼の死亡は247年か248年
の死亡だから両者は一致せず、当然別人であることが分かる。
748日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:31:21
NHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」 で話してたのは
発掘調査の責任者、橋本輝彦氏、寺沢、石野、高島にあと誰だっけ?!
俳優の苅谷俊介は映ってただけかw

どうも考古学者には力関係があって九州説の学者は高島しかいないのかな。
奥野もいるが畿内に比べると少ないような気がする。
高島・奥野以外にいないんだろうかね・・





749日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:45:41
いつまでたっても「邪馬台」を「やまと」と呼ばないのは
九州説に対する配慮なのかな。
750日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:48:31
いや、本を購入する側の一般読者連中が許さないんじゃない?
751日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:57:30
「やまと」と呼べば、九州でも山門が有利になっちゃうなあ。
752日本@名無史さん:2011/01/23(日) 23:11:10
隋書の「邪靡堆」、後漢書の「邪馬臺」 
あるいは万葉の「夜麻登」、古事記の「夜麻登」登母母曾毘売命は
はすべて畿内のモノだからなぁ
753(>_<):2011/01/23(日) 23:28:38
>@ 「鬼道」は、「道教」の先型
>という扱いがなされていた。
>既知のことかもしれないが、三国志には、卑弥呼以外に鬼道を行って
>いる指導者がいたことが記録されている。
>で、桃は、道教の西王母の必須アイテムであり、ということは、巻向
>の政権は、かなり正確に、桃祭祀をやっていたことになる。桃林が近くにあったという。

>A 倭人伝と記紀の接点となった「桃」、「三角縁神獣鏡」
>「ヤマトトトビモモソ姫」の、「モモ」は、「桃」ではないか。
>三角縁鏡の文様の主題は、道教思想である。初期の鏡には、モロ、西王母が鋳出されている。

>ちなみに、吉備津彦と、モモソ姫は血縁であり、吉備津彦は、桃太郎である。
>桃太郎は、桃に乗って流れてきた。卑弥呼もモモソ姫も独身だった
>ようだが、モモソ姫は白蛇と交わっている。

NHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」 観てたけど、鬼道と桃については考えされられるね。
754日本@名無史さん:2011/01/23(日) 23:31:14
ヒミコもイヨ(トヨ)も大和王権とはまったく関係ない一地方の豪族で
魏志倭人伝以降に滅んだ
755日本@名無史さん:2011/01/23(日) 23:32:37

イヨタン・・・・・・・・・・
 
756(>_<):2011/01/23(日) 23:32:52
中国の学者らしき人が巻向遺跡の桃の種出土で
その当時の三世紀の事柄が想像できるような話をしてたと思うが、
マキムクと大陸を結ぶ一つの繋がりでもあるってことだよね。
757日本@名無史さん:2011/01/23(日) 23:33:49
武内宿禰は個人名じゃなく家系名や役職名だという説もありますよね

758日本@名無史さん:2011/01/23(日) 23:35:19
>>748

この人↓だったよな
http://www.youtube.com/watch?v=vINfCHknPIQ

辰巳和弘同志社大学教授
759(>_<):2011/01/23(日) 23:40:01
>>754
倭人伝の記述で「五尺刀二口」、「銅鏡百枚」、
「以婢千人自侍」、「徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」ていう記事があるんだけど
そこから言えることは、『一地方の豪族』なんて想像すら出来ない。
760日本@名無史さん:2011/01/23(日) 23:40:34
邪馬台国≠大和朝廷だとすれば古事記や日本書記にヒミコやイヨがいないのは当然
そして邪馬台国と大和朝廷は同時代に並存しているので
もしも邪馬台国が近畿にあったとしたら大和朝廷との間で戦が発生し
それは当然ながら古事記や日本書記に記事がでてくるはず
それが無いと言うことは邪馬台国は近畿以外のエリアに存在していたと桃割れ
今回掘ってるマキムクも邪馬台国の遺跡ではなく古代大和朝廷の遺跡でしょう
761日本@名無史さん:2011/01/23(日) 23:44:22
九州の北1/2〜2/3を支配していた『一地方の豪族』
南半分は狗奴国の領地
762(>_<):2011/01/23(日) 23:44:51
NHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」 の桃のタネ出土のやつも良かったが、
あの封でいの場面での、倭人伝の記述「皆装封付」に対する木製の包みが紹介されてたのもよかったね。
それに封でいを付けると・・・ 責任者、橋本輝彦氏が必死に探していたようで。
763日本@名無史さん:2011/01/23(日) 23:48:45
だいたい魏志倭人伝にでてくる国は九州にあるのに
その親分の邪馬台国だけ近畿とか不自然でしょ
近畿説を言い出した人は大和朝廷と無理やり繋げたかっただけじゃん
でも当の大和朝廷編纂の歴史書には邪馬台国に言及した記事が存在しない
誰なんだ、最初に近畿説を唱えた妄想野郎は?
764太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 23:49:01
>>760
ほぼ同意。ご賢察。
765日本@名無史さん:2011/01/23(日) 23:52:45
仮にマキムクから金印等が出土しても邪馬台国=マキムクの証拠にはならない
邪馬台国を滅ぼした時に戦利品として持ち帰った可能性もあるからね
>「五尺刀二口」、「銅鏡百枚」この辺についても同様で戦利品として盗ってきた可能性もある
766(>_<):2011/01/23(日) 23:53:47
名古屋大学の教授でヒノキ材の年輪からみる倭国大乱の時期に降水量が激動し
銅鐸の神が否定され、卑弥呼の鬼道が用いられたとか言ってた名古屋大学の教授は〜なんて言う人?
テレビで説明するぐらいだから有名なんでしょうね?
767日本@名無史さん:2011/01/23(日) 23:54:17
>>763
逆だろ。最初はずっと大和だと思われてたんだろ。ところが本居宣長が
皇室の祖が中国に朝貢してたわけがない大和朝廷の前身と邪馬台国は別だって
言い出して邪馬台国は九州にあったはずだって言い出したのが九州説の始まりだろ。
768(>_<):2011/01/23(日) 23:59:51
>>763
基本的には、江戸時代の歴史家 新井 白石 といわれているが、
もっと古くは日本書紀の編纂者 舎人親王かな?
769(>_<):2011/01/24(月) 00:03:34
>>765
ソレを言う前に古(いにしえ)の日本で戦利品として持ち帰った例をあげて下さい。
そういう事例ってとにかくないんだから〜

もしそういう例を示す事が出来ないのであれば、それは貴方の憶測でモノを語ってるんであって
「妄想」と言われても仕方無いかと思う・・・・
770水銀厨:2011/01/24(月) 00:07:33
桃と鏡と丹(水銀朱)といえば、
神仙思想、初期道教=広義の鬼道の
必須アイテムですから。
巻向、というか水銀朱産出地であるこの周辺の土地に
宮を求めるのは、必然でもある訳です。

△は鍵で国産、銅鐸は潰して材料の一部だな。
771(>_<):2011/01/24(月) 00:15:16
お 水銀厨さんがひさびさに姿を現したようですが、銅鐸をぶっ壊すというのは
今夜放送されたテレビの石野氏の場面でもあったようだが、なかなか壊れにくいようですな。
これは銅鐸で祀る神が否定されたとかいってますが、その次の鏡にしろ破鏡という具合でみつかるわけですし、
この神も銅鐸で祀る神と同様に、人々から否定されたのでしょうかねえ。

772神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/01/24(月) 00:20:43
邪馬台国九州説の高島とか言う教授は銅鐸で頭を「ゴ〜〜〜ン!」しないと脳ミソが正気に戻らないらしい。
あんなのが邪馬台国九州説の代表ですか?熊襲の遺跡を発掘して邪馬台国と偽装する恥ずかしい人ですね。
773日本@名無史さん:2011/01/24(月) 00:21:53
邪馬台国の遺跡が出て無いのに文献だけでどこにあるとか言われてもなあ
774日本@名無史さん:2011/01/24(月) 00:26:36
>>767
日本書紀の神功皇后記に卑弥呼(倭女王)のことが出て来ていることからも、
特に疑問を持つ必要はなかったということだろう。
本居宣長以降は、ほとんど九州説だった。
畿内説の登場も邪馬台国論争の始まりも内藤湖南だと思う。
775水銀厨:2011/01/24(月) 00:28:11
>>771
どうも、放送は見ていたが危なっかしくて石野氏の腰を心配してしまった‥
(一応面識はあります)

新たな宗教を迎える時は(形式上は)やはり象徴を
破壊するんじゃないですかね。
その後の処置はそれぞれローカルルールがあるのでは?
776日本@名無史さん:2011/01/24(月) 00:29:06
>>772
逆じゃないかな。畿内説の人は纏向が邪馬台国だと信じ込んでしまって
いるという感じで、何が出てきても邪馬台国や卑弥呼に結び付けてしまうと
いう印象を持った。
777日本@名無史さん:2011/01/24(月) 00:29:18
>邪馬台国九州説の代表ですか?

寺沢,石野等と肩を並べれる考古学者が居ないという現状・・・
778日本@名無史さん:2011/01/24(月) 01:40:41
女王国=卑弥呼の支配圏 で東は南も含有する。

ただそれだけの話。それで文献とも矛盾しない。
779日本@名無史さん:2011/01/24(月) 01:42:51
これってまだ論争になり得るのかなぁ
780日本@名無史さん:2011/01/24(月) 01:51:25
論争してるやつはアホだけ(笑)無駄なことに時間費やしてるんだし。
781レス長たらし毘古:2011/01/24(月) 05:10:43
>>772
>邪馬台国九州説の高島とか言う教授は銅鐸で頭を「ゴ〜〜〜ン!」しないと

そう言えば、古い知識で止まっている俺としては、最近の「銅鐸の使われ方」
についての研究がどうなっているのかワカラン。俺が覚えている範囲では、
神器説トカ楽器説トカ農耕生活器具説トカあたりがあったかと記憶している
が。撲殺道具(通商鈍器?)説だとしたら面白いですね。
俺個人としては「警鐘」として想定しています。
782レス長たらし毘古:2011/01/24(月) 05:18:33
金属製の共鳴道具は、「ある一定の変動し難い周波数」で音を伝えます。
音は毎秒360m進みますので、大災害の発生・敵の出現・害獣の出現・異変の
報告に、もしこの半鐘があれば、声や伝令より遠く早く。又、狼煙が見えない
夜間においてもいち早くその「異変」を伝える事ができるツールと成り得る。
また、単なるON・OFFの合図だけでなく、組み合わせによってはモールス
信号に近いテキストレベルの文脈交信すら可能かもしれません。
783レス長たらし毘古:2011/01/24(月) 05:29:29
また、この「変動し難い一定の周波数」が結構大事で、もし仮に敵が真似して
別の銅鐸(半鐘としての)を用いて、ニセ情報・にせ交信を図ろうとしても、
「聞きなれている仲間」にとっては、「真偽はすぐに判別できる」という利点
もあるのです。
ヒミコの話からは、九州東北部説の俺としては少々外れる話ではありますが、
この銅鐸の分布域は、先述した「前大和王権」の影響範囲や、まだ九州や中国
地方を確実に入手する以前の「初期大和王権」の影響範囲に、綺麗に符号する
のであります。そしてこの「初期大和王権」は比類無き「軍事大国」へと成長
して行くワケです。
784ポキール:2011/01/24(月) 22:18:48
>>734

それはへんです。貴方のその意見をそのまま適用すれば、日本書紀以降に刊行された書籍に登場する卑弥呼を、卑弥呼の登場しない
それら中国の書籍刊行以前の日本書紀に登場する人物にあてはめようなんて行為は。
それだったら
日本の書籍には登場しない人物が、それ以降に書かれた書籍に書かれていると言う事は
その中国の書籍に書かれている卑弥呼という人物はフィクションである可能性が
高いと言う事になり
ここで論じられていることはやっぱりバカバカしい事になるのではないっすか

日本書紀に書かれている魏志の引用文ではないかというものも、本当は日本書紀がオリジナルであって
そのオリジナルを見た中国の役人が、後にその文章を見て倭人伝というフィクションを完成させた。
フィクションだから
当然卑弥呼なんて人物は日本書紀から見つかるわけはないつうことっすよ
785(>_<):2011/01/24(月) 22:46:09
>>794
>それはへんです。
>日本書紀以降に刊行された書籍に登場する卑弥呼を、
>卑弥呼の登場しない 日本書紀に登場する人物にあてはめようなんて行為は。

分かり易く説明すると、

魏志←これをみて日本書紀の編纂者は、書記に引用した。
魏志←これをみて11世紀の魏志が刊行された(私達はこれを観てる)

で、太国さんと長たらしさんは、記紀やほつま、先代旧事本紀、等、いろいろある古代の文献の中から
とりあえずは「日本書紀」から卑弥呼なる人物を探してるのでしょう。

>日本の書籍には登場しない人物が、

登場するのか?登場しないのか?それを調べてるのです。

>その中国の書籍に書かれている卑弥呼という人物はフィクションである可能性が高い

日本書紀も、三国志も「正史」ですのでフィクションの可能性は低い。

>日本書紀に書かれている魏志の引用文ではないかというものも、本当は日本書紀がオリジナルであって
>そのオリジナルを見た中国の役人が、後にその文章を見て倭人伝というフィクションを完成させた。

美濃のモン太君も同じことを言ってましたが、それは考えられない。

>当然卑弥呼なんて人物は日本書紀から見つかるわけはないつうことっすよ

見つかるのか、見つからないのか、それを調べるのは君です。
786ポキール:2011/01/24(月) 23:14:07
>>785

>魏志←これをみて日本書紀の編纂者は、書記に引用した。

日本書紀にそうかいてあるっすか?

>登場するのか?登場しないのか?それを調べてるのです。

卑弥呼で検索すればすぐわかるでしょ

>日本書紀も、三国志も「正史」ですのでフィクションの可能性は低い。

いや、可能性の問題じゃなくて、貴方の先ほどの意見を総合するとそうなるってことっすよ

>美濃のモン太君も同じことを言ってましたが、それは考えられない。

考えられないと思いたいのはわかるけど、考えられるからオレ以外にもそう考える人がいるんでしょ

>見つかるのか、見つからないのか、それを調べるのは君です。

検索しても引っかからなかった、だからいない。
787日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:16:57
メ は人肥だめ ちなみに もん太は卑弥呼=善徳女王説 この人は7世紀新羅の女王
788日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:21:04
>>786
>日本書紀にそうかいてあるっすか?

書いてありますよ
789ポキール:2011/01/24(月) 23:58:42
>>788

>書いてありますよ

そうすっか。
そうすると、8世紀にはまだ魏志の原文は存在していたと言う事になるか、または
その原文を下地とした写本が存在したと言う事になりますね。
そしてそこに書いてあったであろう卑弥呼という名詞も見ているわけで
にもかかわらず、その卑弥呼は日本書紀では行方不明になっている。
それどころか、牛利も難升米も壹與も液邪狗も、み〜んな行方不明になっている

これってどういうこと?
790ポキール:2011/01/25(火) 00:06:28
そうなると、日本書紀以降に書かれた中国の刊本に登場する牛利も難升米も壹與も液邪狗も、
み〜んなフィクションということになって、やっぱり
刊本に出てくるそれらの人物を日本書紀から探し出すと言うのはバカげたことだという
論がなりたつっすよ。

日本の事を書いた記事を見て、それを一部引用までしているのに、そこに出てくる人物は
日本書紀には一切出てこないんだから、
魏志には初めからそんな人物なんて書いていなかったか、日本書紀では抹殺されたかのどちらかという事になるっすね
791日本@名無史さん:2011/01/25(火) 03:17:10
よし ポキールさんを皆で鍛えてやろうジェイ
何年か真面目にやれば、アホーの原付ムシクラスぐらいならす〜ぐ追いつけるしww
792日本@名無史さん:2011/01/25(火) 06:58:44
メ は人ナメクジ
793太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/25(火) 09:07:31
>>785
卑弥呼らしい人物は見られないと思います。ただし紀の神功39年とかは
別ですが、これは伝からの借り物ですし、本来の文からでは見当たらな
いんではありませんか? 具体的にあれば、見つけた誰かがすでに論説を
してると考えます。
794日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:44:57
>>786
日本書紀は、倭人伝の卑弥呼の記録を神功皇后のところに引用している。
つまり、日本書記的には、卑弥呼の時代を神功皇后の時代と考えている。
まあ、日本書紀の年代観では神功皇后は201年〜269年ということなので
年代的には重なるということになるわけだが。

しかし、好太王の碑に刻まれている出来事と神功皇后の三韓征伐を同一視
すれば、神功皇后が実在したとしたときの年代は、4世紀末頃と考えるのが
妥当ということになる。

日本書紀の年代観は古すぎると考えられるわけで、もっと全体的に繰り下げる
必要がある。繰り下げた場合は、卑弥呼の時代である3世紀前半は、崇神天皇
よりもずっと前。さらに神武天皇よりも前という可能性もでてくる。

神武天皇よりも前ということになれば、一人の有名な人物が浮かび上がると
いうことになるな。
795日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:54:41
その名はイザナミである。
796日本@名無史さん:2011/01/25(火) 10:57:01
http://www.ohira-kodaishi.com/diary_090210.html

『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅はその神話時代(前一世紀)も含め倭国と
何十回も戦火を交え、弁韓、弁辰、伽那、加羅とも、任那ともいわれる地域を巡って
争奪戦を繰り返してきました。
 その新羅の王都金城に、倭国の軍勢がなんと7回も侵攻しているのです。これも
「新羅本紀」によりますが、


232年夏4月 倭人が突然侵入して金城を包囲した。
346年 倭軍が突然風島?よりさらに進んで金城を包囲し、激しく攻めた。
364年夏4月 倭兵が大挙して侵入してきた。吐含山(慶州市東南)と斧●(慶州市東北)に
伏兵を置きこれを撃退した。
393年夏5月 倭軍が侵入して金城を包囲した。
405年夏4月 倭兵が侵入して明活城を攻めたが勝つことは出来なかった。
431年夏4月 倭兵が侵入して明活城を包囲したが、得るところなく退却した。
444年夏4月 倭兵が10日間も金城を包囲し、食料が尽きたので、ひきあげようとした。
王はこれを追撃し、独山の東で合戦したが敗北した。
459年春2月 倭人が兵船百余艘をつらねて東海岸を襲撃し、さらに進んで月城を包囲した。

と生々しく侵攻を伝えています。この間『日本書紀』は、神功皇后による新羅征討
(362年又は363年)のみしか伝えていませんが、相手国の首都への侵攻が毎年起きる
わけはないので、上記の364年の倭兵の大挙侵入が神功皇后による侵攻ではないかと
考えられます。詳細は本編に書き記した通りです。
797太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/25(火) 13:00:26
倍暦計算では、神功三韓征伐 352年 だな。通説では200年だが・・・。

232年 金城包囲 は干支の倍数120年を追加すると

 232+120=352年

で、倍暦逆算が1年の狂いもなく整合している。
798日本@名無史さん:2011/01/25(火) 13:19:38
>>764

天照大神のことなら、男神だから、卑弥呼じゃないよ。
799太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/25(火) 13:21:47
>>794
神武天皇より前となると、その当時が239年ころに相当するわけで、
これだと後代の天皇の在位がスシ詰めとなるから不合理となり、
卑弥呼が神武より古い時代とは言い難い。

卑弥呼の活躍時代は崇神のころである。
800日本@名無史さん:2011/01/25(火) 14:46:20
>>797
好太王の碑によると、「倭兵が海を渡りやってきて、新羅・百済を破り臣民と
する」というのは西暦391年だから、三韓征伐はこの頃と考えられる。
また、倭の五王の讃は応神天皇あるいは仁徳天皇と考えられ、これが5世紀に
入ってからなのも妥当性がある。

太国さんは、九州王朝の系統だったと思うから、倭の五王については違う
見解を持っているだろうが。
801日本@名無史さん:2011/01/25(火) 14:51:00
神功皇后も三韓征伐なんてものは作り話。
そんなもの皇国史観が作り出した幻想に過ぎない。
編年なんて馬鹿げている。
802太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/25(火) 15:50:57
幻想ではないね。年月日がキチンとあるんだから、これはインチキとは
言えない。インチキを書くには、それなりの利害大なる事由がなければ
ならない。それが神功紀に見出せてるとは言えない。インチキなら年まで
で間に合うだろう? こまかく月日まで書いておかしい点が精度が上がっ
て見破られる可能性が出やすくなるんだから、インチキならその手前の年
あたりに留めて殆ど詳しくすぎにて書かず、精度を上げすぎないと想う。

そういうことで創作してインチキを書きたいならば、雄略武烈の大悪残虐
ぶりを創作することもあるまいが。当時でも創作すれば、当時での
公文書偽造同行使相当の罪で、朝廷の糾察官僚に捕縛される。当時でさえ
政敵は多いんだから、イカサマが発覚して政敵に捕まれれば、身の失脚に
繋がる危険が出てくるんだから、おいそれと創作なんかできっこない。
803日本@名無史さん:2011/01/25(火) 15:52:45
>>802
>公文書偽造同行使相当の罪で、朝廷の糾察官僚に捕縛される。

朝廷が偽造を指示してたとは思わんのか。
804太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/25(火) 16:39:44
偽造をしたければ、まず雄略、武烈の残虐たる大悪事を削除するのが
先決だろう。おまけに皇族同士の殺戮、浮気等スキャンダルが記紀には
結構あるぞ。

これで創作だと言えるのか? 当然こういう記事は消すだろうが?

小沢さんの部下も帳簿を不実記載したとかだったか、小沢さんも失脚寸前。
あの人の実力が強力なので失速せず座を護っておられるが、こういうこと
は例外的であり、先だって法相が失脚してるのに小沢さんが失脚しないで
頑張れるのはそのすごい実力が地位を護っているわけで、これで刑事裁判
で有罪とかなれば、もうお陀仏だぞ。通例はもう失脚しちゃうのがツネ
だよ。こんなことから、神功紀がイカサマだとかは考えにくい。それを
やれば、当時の政敵の想うツボ。
805日本@名無史さん:2011/01/25(火) 17:02:49
>>801
皇国史観なんて言葉、マルクス主義の手垢がついた前世紀の遺物。
戦後から80年代くらいは、記紀は捏造・聖徳太子は実在しなかったと、
なんでも疑い、否定して見せることがかっこよかったんだろう。
お手軽に否定するには皇国史観というレッテルは便利だったわけだ。
戦前の全体主義的な思想はいただけないが、
戦後のこれも、反動の結果とはいえ、学問をゆがめるだろ。
806日本@名無史さん:2011/01/25(火) 17:32:14
>>803
普通はそう考えるよなw
807太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/25(火) 17:48:46
>>800
391年は倍暦計算で、仁徳元年だよ。
即位の年、戦争をしないとは言えないが、率先して即位祝いを行って
いる当年、そういうことはよっぽどの事がない限り攻めはやらないと
想うが? ということから、この年の倭兵は九州王朝王権の兵だと考える。
記紀に仁徳元年に半島攻撃は書かれてなかったと想うが?

倭の五王は九州王朝王権の王だな。
808日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:01:59
九州王朝ww
まだそんな寝言いう奴が居るとは!
809太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/25(火) 18:34:57
九州年号は寝言ではないぜ。
810神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2011/01/25(火) 19:05:59
九州年号は戯言。「金光〜!金光〜!金光教〜〜〜!」生臭坊主が考えたアホな九州年号。
811日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:08:51
めずらしく基地外巫女さんがでてきたな
812日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:34:12
>>809
最近、唐松さんを見かけませんケド、アク禁なんでしょうかね?
813太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/25(火) 19:55:58
>>811
あれは半玉といって、唐松山ほどではないが、かなり妄想度は激しい。
>>810
戯言だけでは論説にはならない。
814日本@名無史さん:2011/01/25(火) 21:42:49
あれ・・・アホーの原付ムシクラスじゃあ不満だったかな?
おめぇ あの程度のアホを「詳しい人」なんて思ったら恥ずかシィぞww
815(>_<):2011/01/25(火) 22:29:22
どうやら、
"あらため" vs "ローガン" vs "ジョーカー" らしいな・・・

〜ったく、二人とも、けっこう手強いので面倒なんだが、出る杭は打つというか
大勢の人らが観戦してる中で、おれだけ逃げるわけにはいかんでしょw

観客が望むのならおれは戦ってもいいと思ってるんだが、どうも御二人さんが逃げ腰というかw
816日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:38:22
あらため は人ゴキブリ
817日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:01:37
夜になるとごそごそ這い出してきて悪さするという点ではそうかも知れない。
しかし、そこまで言ってしまうのはあんまりだ?
818日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:31:11
井上 赳夫、池田 仁三 が神武天皇陵を発見したってw
本当かどうかは知らんが、神武天皇陵は中世には所在地不明になってたらしく
近年でもあっちこっちと神武天皇稜が変更してる。

http://www11.ocn.ne.jp/~jin/HIMIKOK.html
819日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:43:22
池田 仁三 氏とは実際にしゃべったりしたことがあるんですが、
とにかく古代史の話になると熱く語る人で・・・

そして彼の解析結果によると熊本のチブサン古墳を天照大神の墓にしてる。
これも本当かどうかは知りませんけどw 天照大神の墓は謎とされており、
考古学者の原田 大六 氏は平原遺跡の被葬者を玉依姫とし、大日孁貴尊=天照大神であると推測しています。

この天照大神の墓ですが、伝承では丹後で没したトヨケ(豊受大神)とともに眠っているとも言われてます。
820日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:52:41
天照大神・豊受大神の墓ですが、籠神社奥宮真名井神社でも調べてくれ

http://kammuri.com/s1/motoise2/manai/index.htm

終止符スレは日本史全般を扱ってるイメージがあるが、
どんこいスレは考古学専門のようで、各自好きな方に書き込む事をお薦めする。
821日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:56:19
あ、私ですが、どんこいスレは考古学専門ばかりで
とくに土器編年の話はややっこしいので(>_<) こっちに書き込みますゎん♪
さて、寒いし寝るかw zzz・・・
822ローガン:2011/01/26(水) 18:18:57
>>804
> 偽造をしたければ、まず雄略、武烈の残虐たる大悪事を削除するのが
> 先決だろう。おまけに皇族同士の殺戮、浮気等スキャンダルが記紀には結構あるぞ。

大悪事だろうか?
「日常生活に背反しこれを脅かすようなものを負うて、しかもこれを祓いのけるような可能性を持つ。そういう性質が王権の神性となるのだ」
(和歌森太郎著 天皇制の歴史心理に引用の「王権の象徴性」山口昌男)
823太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 18:20:46
これが悪事でないとは、ローガンさんよ、現代だったら失言だぞ。
非難轟々来るぞ。よしてくれよ、そんな書きこみは・・・。><
824日本@名無史さん:2011/01/26(水) 18:36:07
>>823
>現代だったら失言だぞ。

古代を考えるとき、太国はどうしても現代人の感覚が出てしまうわけだ
これが曇った眼鏡となってしまい、恐らく古代の真実からは遠のくだろう
825日本@名無史さん:2011/01/26(水) 18:43:43
中国と日本の歴史書の感覚が違うからなあ。
皇帝の意に沿わない歴史書を記録したとして、編纂者が死刑になったが、
その後継の編纂者も記録を残したとか。
826太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 19:34:17
オマエの言ってることは抽象的で悪事をカモフラージュしようと
している。それは江戸時代なら刀をさしても銃刀法違反には
ならないで正当視されてたことは当然だが、それは古代には謀反人を
刀などで殺害するのも当然視されてたろうが、雄略武烈の残虐非道と同視
するのは危険な主張だと観るべきだ。
827茨木童子:2011/01/26(水) 19:36:23
お久しぶり。相変わらずのメンバーでやってるようだが、唐松山という人は
逝去されたのかな?
828太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 19:36:47
この前のロシアの空港の爆破殺人と、重罪を犯しての死刑執行での
執行官の物理的殺人とはわけが違うぞ。
829太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 19:39:18
>>827
あいつはアクセス規制にかかっているらしい。
倉西裕子女史の板へ「逃走中」だ。それがしがハンター。
830太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 19:44:42
>>828 訂正
× 物理的殺人
○ 法執行での正当行為での殺人
831ローガン:2011/01/26(水) 19:55:33
そりゃ悪事ですよ。現代はいうに及ばず、編纂時も同様でしょう。
でも、「天皇」なのでね。 だから引用してみたんですよ。面白そうな所を。
832太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 19:58:03
ローガンさんよ
あんたの今回の書きこみは本当にうまくないぞ。
こんな書きこみで自説を強行するのはやめてくれ。
833茨木童子:2011/01/26(水) 20:07:08
>>829
ははあ、それはお気の毒に。しかし記紀を読むかぎりでは日本の天皇の悪逆度は
それほど高くないでしょう。武烈帝を除けば。
834日本@名無史さん:2011/01/26(水) 20:19:28
ヤフー掲示板も2chも古代史関係は基地外固定ばかりになるな
835日本@名無史さん:2011/01/26(水) 20:35:31
神武東征伝説に何か秘密がありそうな気がする
大和朝廷の先祖は神様のお告げで南九州から奈良に移住した事になってるけど
神様なんていないので、あんなのはウソです
そして古今東西を問わず移住や移民というのは故郷に住んでいられなくなった人達がやる事なんだ
アメリカやオーストラリア、日本でも満州やブラジルへ移民した人達は食い詰めた貧乏人とか犯罪者ばかり
或いは南米に蒙塵したスペイン国王とかだ

古代でもこうした状況は変わらないので、神武一族は何がしかの理由で南九州に住んでいられなくなったから
家族や友人知人を引き連れて脱出したのです
その理由はなんだろうと考えてみるわけですが南九州一帯というのは桜島が噴火したり台風の通り道になっているとはいえ気候温暖だし
自然環境的には住みにくい地域ではない、また2000年前に天変地異あったような地質学的な痕跡も無いわけです

つまり南九州を出て行かなければならなかったのは何者かに追われたと考えるのが自然
そして、その追う者が邪馬台国だったのではないだろうか
知っての通り邪馬台国は宗教国家なわけで周辺一帯を片っ端から折伏して勢力下に収めていったのは倭人伝に記述された通りだけど
どうにも言う事を聞かない、折伏されない連中も少なからずいる、創価学会やエホバの商人が何回訪ねてきても入信しない俺のように
そうなると先方からは神に従わぬ不届き者という事で宗教戦争やら聖戦、インティファーダぽい事を吹っ掛けられるでしょう
倭人伝にも邪馬台国の南方にある狗奴国とかいう悪い奴らがでてくるよね
836日本@名無史さん:2011/01/26(水) 20:47:13
>>835
大和王権が九州から移ってきた政権ならば、
九州の土器や武器、風習を大量に奈良に持ち込んでいたはず。
しかし、奈良の3世紀の遺跡から九州の痕跡が全くない。
その説は成り立たないよ。

それに、奈良からは、それに先行する2世紀、3世紀の遺構が
大量に見つかっている。
それは九州の遺構に全く劣らない大規模さだ。
邪馬台国に追われた弱小王が畿内の先行する大王に勝てたとでも?
837太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 20:49:02
>>835
どうしていないと断言できるんか不明??

この人は初詣もしないんだろうな?
838日本@名無史さん:2011/01/26(水) 20:55:43
>>836

神武一族が数十名程度のごく小さい集団なら、
そんなに九州のものを持ち込むことはない。

そして、戦争で勝つのではなく、ただ単に移住者として
現地に溶け込んだのなら、なにも問題ではない。
なにか溶け込みやすい特技か技術を持っていたのかもしれない。

たまたま賢くて、その一族が現地の政権の一部に混ざることができて、
そのうち権力を握るように出世したところで、
「じつはうちの一族は日向から来たんだ」とカミングアウトする程度なら
それほど無理はない。

大軍を率いて畿内まで遠征するということそのものが、かなり無理のある話だし、
それなら、どこかで激しい戦闘が行われて、なにかが痕跡として残っているはずだ。

残っていないのだから、戦闘にはならない程度のごく小さな移住に過ぎないと考えるべきだろう。
それがあったかさえ、定かではないが。
839日本@名無史さん:2011/01/26(水) 20:59:03
神武東征伝説そのものを否定されると痛いな
そして奈良の3世紀の遺跡から九州の痕跡が全くないというのは間違いだと思う
そもそも九州の痕跡となる遺物というのが何を指すかだけどね

>邪馬台国に追われた弱小王が畿内の先行する大王に勝てたとでも?
これは勝てると思う
九州から移動してくる最中にあちこちで募兵してるし
金属の剣に金属の鎧を装備した神武一族vsヒノキの棒に皮の鎧土着の畿内の豪族となれば
勝負にならないと思う
840日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:00:23
>>839

奈良から銅矛が出てこない限り、九州から移住者が来たなんて話にはならないな。
841日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:01:13
>>837
えー、神様なんていないじゃん
と思ったけど立川に住んでるようですねw
842日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:03:19
奴国=神武一族とまでは言わないけど
とりあえず神武東征というのは勇ましい過去の栄光ではなく
逃亡、逃走という恥ずべき出来事だったのではないだろうか

古代においてしばしば九州へ乗り込んで熊襲なる野蛮人を退治する記事が無数にある
でも九州という地域は後漢、魏、晋なんかと交流する文化先進国であって野蛮人の住む場所ではない
にもかかわらず執拗に攻め込んでは大暴れしているのはもしかして仕返し、復讐、敵討ち?
843日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:05:26
金属の剣と言ってもな、銅剣なら、出雲畿内からも出てくるし
鉄剣、鉄鏃は北部九州が主で、日向では殆ど無かったはず。

そして、北部九州は残っている痕跡を見る限りでは、
あまり本州側に興味を示していない。
興味を示しているのは朝鮮半島の方向である。
844太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 21:08:46
>>841
誰が立川に住んでるというのかね?
845日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:10:23
>>844
「聖おにいさん」て漫画しらない?
この漫画の中で釈迦とキリストが立川に住んでるの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E2%98%86%E3%81%8A%E3%81%AB%E3%81%84%E3%81%95%E3%82%93
846太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 21:22:35
>>845
オマエ頭は確かか〜? 漫画をやってるんじゃぁないんだよ。

こちらは立川の土地鑑など持ち合わせてないよ。あそこは1回
だけ行ったことがあるが、殆ど知らんね?
847日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:25:57
だって>>837
>どうしていないと断言できるんか不明??
とか書いてあったからさw
これ>>835
>神様なんていないので、あんなのはウソです
これへのコメントでしょ?

848太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 21:29:15
>>847
オマエのは支離滅裂であり、意味不明だ。
わけのわからぬ書きこみであり、何が何だか〜??

今日は早く寝て頭を冷やせ。
849日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:34:17
さて、近畿に九州文化の痕跡が出土していないとの事ですが
まず九州文化とは何かというと、元々は北九州(邪馬台国と周辺国家)の文化であって
折伏されていない神武一族が住んでいたエリアでは忌避していて存在しなかった
そして移住・移民に出発して空地になってから
空地になったので周囲からやってきて新たに住み着いた連中が北九州(邪馬台国と周辺国家)の文化を持ち込んで定着させた

こう考えたら奈良に九州文化の痕跡が乏しい理由にならんかね
850日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:35:26
>>848
では風呂入って寝ます
ノシ
851日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:36:09
九州文化とは、まず、カメ棺ですな。
それすら、奈良から出てませんな。
852日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:04:12
>カメ棺

あれほど隆盛を誇った北部九州の甕棺葬がなくなってしまう、
屈葬が廃れてしまう・・・・・・・・
そこに何か列島の社会情勢にまつわる大きな変動があったのではないだろうか
853日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:10:09
>>851
甕棺とか思い切り宗教系アイテムなので邪馬台国に折伏されていない神武一族は最初から使っていなかった
という考え方はダメですか?
854日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:28:40
九州文化の痕跡というなら、けっこう残っていると思う。
例えば記紀。記紀には近畿地方で栄えた銅鐸が全く登場せず、代わりに矛が
よく登場する。一番最初に天沼矛が出てきて、イザナギ・イザナミはこれで
海原をかき回し、地表を固める。

皇室の先祖は、銅鐸の文化圏とは関係ないところ、矛に関係の深いところで
育ったと考えられる。
855日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:54:04
応神天皇陵とか仁徳天皇陵とか発掘してみたいものだ
宮内庁が絶対に許可しないだろうけど
856日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:07:47
記紀の神武東征のくだりは、まあ、筆者が軍のことを知らずに
書いている可能性も高いのだが、それでも記紀を信じるとすれば、

神武軍は今の陸軍で言うところの中隊クラスのような感じだな。
200人以下くらいの感じ。

それ以上の大隊クラスだと1000人とかのオーダーだが
そこまではいかなさそう。

中隊クラスなら東征も何とかできるかもしれない。
ただ、200人というのも補給は結構大変で、現地の村々からの徴発となれば、
小さい村なら枯渇して餓えかねないレベル。
つまり、通過する村々の住人は、神武軍の徴発を全力で阻止するだろう。

だから、本国から太い補給体勢を敷くか、人数が少なくないと
神武軍を成立させるのは難しい。

また、やはり記紀の記述を信じるなら、その程度の人数で倒せる程度の勢力しか
畿内にはいなかったということでもある。
つまり、神武の時代には大国などなかったということになる。

857日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:17:34
>>855
>宮内庁が絶対に許可しないだろうけど

日本は一応民主主義なのですから
もし国民の大半が望めば許可しないわけにはいかないでしょう

一省庁の官僚が反対ても、大臣は彼らを移動させることができます
858日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:57:13
神武の伝説なんか真に受けてるの時代遅れの九州説の世界だけでしょ
859日本@名無史さん:2011/01/27(木) 00:12:51
>>856
200人というのは妥当だと思う。

祟神の三輪王権が3世紀だから、
神武東征は1世紀くらいと思われる。
当時の日本列島の人口は60万。
今の人口比で考えると、大和の人口は1万人くらい。

武器の優位性があれば200人くらいで制圧できる。
現地調達を考えると多すぎでもない。
860日本@名無史さん:2011/01/27(木) 00:19:40
>>818
そのリンク先で紹介されてる「墓碑銘」はインチキです
861日本@名無史さん:2011/01/27(木) 00:43:39
卑弥呼を共立したことこそが女性の地位が高かった華南からの移住者である九州の豪族の痕跡ってことで良いじゃん
862日本@名無史さん:2011/01/27(木) 01:39:58
在日スパイの墓荒らしとか国民が許すわけ無いだろw
863水銀厨:2011/01/27(木) 02:00:58
>>854
>>856
神武の伝説と言っても、武力衝突では
河内湾でボロ負けしてるんだけどな。

それに記紀を基本に語るなら、国産みは淡路島からだよ、
九州からではないです。

864日本@名無史さん:2011/01/27(木) 02:55:26
>>857
国民の大半は、そんなことに興味ないだろう。
景気や年金や外交で問題山積なのに、
古墳を掘ろう!なんていう国民的議論が起こるはずがない。
865日本@名無史さん:2011/01/27(木) 07:37:20
神武軍がせいぜい200人は同意だな
それでも当時の国というか集落の規模としては多い方だろうけど
それくらいの人数なら食い詰めた流浪の集団がチンケな船数隻での脱出行も十分ありうる
しかしわからんのは
@.吾平津姫と手研耳命/岐須美美命を連れて行かなかったのか
A.東征といいつつ、なんで初っ端に北上して筑紫の宇佐へ行ったのか

これを想像すると吾平津姫と手研耳命/岐須美美命を連れて行かなかったのは本人が嫌がった
あるいは手研耳命/岐須美美命が幼くて長征に耐えられないので置いていき
東征が成功したら迎えにくるつもりだった(実際迎えにきてるわけだが)のだろうか
そしてリーダー級の人物ですら妻子を残してきてとなれば部下も一族郎党全員を引き連れていたわけではなかったと思われる
つまり元々は移民団ではなく探検隊やバイキングみたいな一族だったのではないか
そうなると>>835のような邪馬台国(?)に圧迫されて逃げ出したというのは少し苦しい
女子供や年寄りだけ残して2度と戻らぬ旅なんかしないはず
戦える青年、壮年がいなくなってるところに攻め込まれたら皆殺しは必至だからね
だいたい思いつきで200人も乗れる船なんか作れないだろう

Aは最初は当時の航海技術が未熟で潮流に流されちゃったのかなと思ったが
やはり明確な意思、襲撃目的で筑紫方面へ向かったのだろう
記紀だと1回だけの襲撃だが、以前から反復継続的に北上して村を襲い略奪して帰ってくる武装海賊団だったと
866865:2011/01/27(木) 07:42:47
これと同じような事例が欧州の歴史にある
北欧のノルマン人のバイキングでロロとかいうリーダー率いる連中が西征してブリテン島の住民を虐殺して占領
最初は前線基地として使っていたが、やがて国になってノルマン王朝を建てた事件
867日本@名無史さん:2011/01/27(木) 07:46:41
200人程度の神武東征を実証するなんてことは不可能。

いくら空想してても定説にはならない。

人生を無駄にするだけ。
868日本@名無史さん:2011/01/27(木) 08:25:08
実際に実証されていないわけだから、
これくらいの規模なら妥当ということだろう。
869日本@名無史さん:2011/01/27(木) 08:40:57
戦国時代でさえ、兵に駆り出せる人数は一万石あたり200人〜400人だからな。
それでさえ、戦死したりして消耗すると国力は落ちた。

だから、武田信玄は勝つというよりは、兵を消耗しない指揮官として、
領民に信頼されていた。

30人に一人くらいしか兵を出せない。つまりそれくらいしか余剰生産力がなかったということ。
当時はもっと余剰生産力は小さかっただろうから、200人でもかなり大規模な遠征と言えるだろう。
870日本@名無史さん:2011/01/27(木) 09:48:07
NHKスペシャルひどかったね。
決定的証拠なんて何も無かったじゃん。
871日本@名無史さん:2011/01/27(木) 10:34:15
霧島山が畿内説暴走に怒ったらしいです。
872日本@名無史さん:2011/01/27(木) 11:26:57
>>870

九州に邪馬台国があった証拠はもっと無いけどね。
873日本@名無史さん:2011/01/27(木) 14:08:22
>>865
言葉から考えると、九州は実は3つの文化圏に分かれている。
一般的に九州の言葉と思われているのは、福岡の大部分、佐賀県、長崎県
そして熊本県。これらは古くから同じ文化圏だったと考えられる。

それと全く異なる言葉が鹿児島県などの南九州。

そして、福岡県の北部から大分県にかけての瀬戸内海沿岸も言葉が異なる。
ここは古代、違う文化圏だった可能性がある。

神武東征で九州北西部が全く問題にならず、宇佐や筑紫の岡水門を経由した
のはそれなりに意味があるような気がする。
つまり、九州の西側→日向→宇佐→岡水門→安芸→吉備→大和というような
流れがあったのではないかと思う。
874日本@名無史さん:2011/01/27(木) 14:17:21
神武伝説に何か見るべき点があるとすれば、半島南部、後代に任那と呼ばれる地から
北部九州を経由して渡来人が畿内入りしたことを表している可能性だろうな。
とすればこれは弥生中期以前の話であり、南九州は関係ない。
875日本@名無史さん:2011/01/27(木) 14:28:43
現金海市には「伽耶国」建国神話で有名な亀旨峰(クジボン)があるが、これが久士布流多気(クジフルタケ)に
転訛したという考え方はありだろう。とすれば、日向は現福岡の日向であり、南九州は記紀成立時に反乱化して
いた隼人対策として挿入されたという考え方もできるのではないか。
876日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:01:45
日向からスタートするなら、瀬戸内海文化圏としてみれば
宇佐に寄るのは自然に見える。
877日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:03:06
>>839
九州東征説の人は畿内から九州の武具が一切出土しないことに対して
無視を貫いてるねw

絶対にありえないから〜
878日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:04:39
>>839
>金属の剣に金属の鎧を装備した神武一族

だから、神武一族は金属の剣と金属の鎧をどうしたの?
九州からはるばるやってきて、畿内のどこに捨てたの?
九州説、つらいね。
879日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:18:08
東征せずに、九州と畿内が関係がないほうが九州説には都合が良い。
東征が200人以下の小規模なら、そう簡単には九州の武具は見つからないだろうな。

関係がなければ、魏使が畿内に行く可能性もなくなるわけで、
それはそれで好都合。
7世紀まで九州王朝が存在したという傍証になる。
880日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:50:37
>>879
おいおいw
5世紀には倭の五王(ヤマト王権)が中国に使いを出しているんだよ。
そのルートは北九州を経由するもので、当然、
この地域は畿内王の支配下にはいっていなければならない。
雄略朝に磐井なんていう九州の地方豪族が反乱を起こしているけど
すぐに鎮圧されている。
ちなみに7世紀にはヤマト王権による推古朝の遣隋使もある。
これも北九州経由だが、まさかこのときまだ九州王朝があったとか
無茶を言うのかい?

>東征が200人以下の小規模なら、そう簡単には九州の武具は見つからないだろうな
また、自分に都合のよい論理をw
九州王が畿内王になったのならば、九州王のために壮大な墓が築かれ、
大古墳からがんがん副葬品として九州の武具が見つかるはず。
それに九州の武器がそんなに優れていたのならば九州王は自分の地位を挙げるべく
畿内で大量生産を命じるはずだからね。
やっぱり、九州王東征はなかったってこと。
881日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:58:55
>>874の説が俺的にドンピシャリなんだよ
日向というと宮崎県日向市をイメージするけど実は任那にも日向という場所があって
そこが神武東征の出発地だと考えると移動コースのつじつまがあうんだよね
任那が出発点だとしたら当時の半島は高句麗百済新羅で常にドンパチしてる不穏な世界だし
そこから脱出しようと思うのは当然だしね

歴代天皇家が執拗に任那に拘るあたりで元々天皇家の故地なんじゃないのかみたいな妄想も膨らむんだよな
882日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:03:21
>>878
>だから、神武一族は金属の剣と金属の鎧をどうしたの?
ボロボロになるまで使いました

>九州からはるばるやってきて、畿内のどこに捨てたの?
現代の金やプラチナに匹敵する金属を捨てるわけないだろ、
883日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:05:39
>>882
捨てずにどうしたの?
まさか、金属はボロボロになるまで使えば
土や石に変化して出土しないなんて馬鹿なこと言わないでね?
鉄器はいっぱい出土してるんだから。

無理な理論が多すぎ。
鉄器が土にかえるとか無理無理w
884日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:07:09
>>881
日向は5世紀に畿内王に側室を献上してるね。
南九州王なんて無理だってw
885日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:07:15
4世紀くらいには四道将軍とか大和タケルやチュウアイ天皇の熊襲征伐で
九州の土着豪族は服属するか皆殺しになってるんじゃないの
雄略天皇の鉄拳が九州の江田船山古墳からでてるよね
886日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:09:58
>>883
金属はボロボロになったら溶かして作りなおすでそ
887日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:11:19
>>880
>5世紀には倭の五王(ヤマト王権)が中国に使いを出しているんだよ。

はて、これは大和朝廷なんだろうか?
過去に何度か議論されていたようだが、
九州の王という説はいくつもあるね。

>雄略朝に磐井なんていう九州の地方豪族が反乱を起こしているけど
これも九州王朝と磐井の戦いという説があるね。

>ちなみに7世紀にはヤマト王権による推古朝の遣隋使もある。
遣隋使も聖徳太子かどうか確たる記録はないね。
記紀との矛盾が多すぎるのは有名だね。

>九州王が畿内王になったのならば、九州王のために壮大な墓が築かれ、

だいたい一気に制圧できるほどの大軍を九州から一気に運べるわけ無いじゃん。
そんな痕跡も残っていないし、補給の観点からも無理。
途中の村々を全部虐殺して進むつもりかい。そんな事でもしないと
食糧確保できないよ。そんな派手なことやらかしてたら、絶対なにか残ってるだろ?

残ってないのはそんな大軍などなかったということ。そして、東征しなくてもいいが、
やったとしても、まず現地に溶けこんでひとつの氏族として成立するところからはじめなきゃ。

だから、最低でも数世代はかかったんじゃないかな。

そしてその頃は、九州にも勢力があり、畿内にも勢力がある。そして、遠いから
互いにどうでもいいんだよ。

特産品の物々交換による交易くらいはしてたかもしれんけどね。
888日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:13:41
しかし、神武東征を否定するとなると大和朝廷は昔から奈良近辺にあったということだよね
そうなると邪馬台国近畿説が苦しくなるぞ
邪馬台国と大和朝廷は同時代に並存してるんだから絶対に戦になるか併呑するかになる
だがそんな記録は記紀には存在しないんだぜ
889日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:14:55
>>886
4〜5世紀の古墳から鉄器が出土するのはなぜ?
副葬品に武具を入れないなんてありえない。
また、3世紀の九州からはなぜ鉄器が出土するの?


一つ残らず再生したから3世紀の畿内には鉄器があったにもかかわらず
出土しませんなんて
いい加減な説を描くのはやめたら?
890日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:16:13
神武の頃に壮大な畿内王として成立してたんなら
卑弥呼共立なんてヌルイことする必要はないね。
891日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:16:47
>>888

>王朝交代説
畿内では王朝が2〜3回交代
それを全部つなげて一つの王朝であったかのようにして日本書記を作った
892日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:20:08
>>887
5世紀の九州王が畿内王を退けて五王続けて使者を送るくらいの文明地ならば、
日本書記に代わる文献が九州に残されていておかしくない。
当然、文字は伝わってるわけだからね。
(倭国王は中国皇帝に手紙を送っている)
しかし、その形跡が全くない。
おかしいと思わんかね?

しかも、5世紀には河内に巨大な古墳が造られ、
畿内に巨大王権があったことは周知の事実。
九州の古墳は小規模な群古墳ばかりで
たいした力を持った王はおらず、
畿内ほどの古墳はどこにもない。
893日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:21:47
倭の五王が大和朝廷か否か、これは確かにそうなんだよね
天皇家は現行王朝なので下手な事いえない雰囲気があっただろうし
ワカタケル=倭王武とした根拠は何なんだろうか
894日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:24:26
>>887
おいおい・・・
推古朝の遣隋使まで九州説かよw
九州の地方豪族は5世紀には畿内王に側室を差し出し
子息を畿内まで勉強に行かせ
7世紀には奴隷まで差し出していたというのに。
天皇の喪に服すときの「もがり」で
南九州から献上された隼人が犬の泣き真似をして悲しむ
行事があったらしいね。

九州の豪族がヤマト王権から側室を献上されたとか、
あったわけ?
895日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:25:57
>>892
北部九州は古墳に興味なかったからじゃない?
ごく一部には古いのも見つかるから、共立王のうち
だれかは前方後円墳にはまった王もいたかもしれないけど。

それより、同じ九州でも宮崎日向では大量の古墳が見つかる。
同時期の、あるいは最古かもしれないといわれる前方後円墳もある。
そして数が多いのは、畿内と共通する。
神武とは限らんし、どっちがどっちに影響を与えたのかもわからんが、
日向と畿内で関係が深いという傍証にはなるだろう。

断定はしないが、これが神武の証拠かもしれない。
896日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:26:30
>>891
王朝が交代したとして、新生王朝がわざわざ捏造して繋がってるようにみせかける理由がないだろ
悪いやつらを滅ぼして正義の新政権を樹立したんだと誇らしげに書くんじゃね?
なんで征服者、勝利者が自分の出自を脚色するかね
897日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:34:12
>>896
天皇は神の子孫であるとしたからだよ。
天照大神の孫が地上に降り立つと皆が平伏して従ったと。
当然、その前に大王がいたなんて書くわけにはいかない。

日本書記に天皇が百何歳まで生きたとかあるのを信じてる人?
実在が確実視されるのは5世紀の仁徳天皇ぐらいからが定説。
898日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:35:03
>>894
九州王朝であるとは断定しないが、記紀と中国側の記録が矛盾し、
当時、推古天皇だったのだが、男王の扱いになってるね。

それは聖徳太子が実質王扱いだったとか
いろいろ解釈がある。

また、記録の矛盾が多いことから、明日香朝と大和朝には
断絶があるのではないかとも言われている。
899日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:36:15
>>895
北部九州には強い王がいなかったんだよ。
古墳も小さければ大きな遺跡もない。

大きな遺跡が集落がないのだから、
それまでとしか言いようがない。
古墳が小さいだけでなく
少ない人口をまとめる酋長しかいなかった。
900日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:41:59
すくなくとも共立王の時代には圧倒的な勢力を持つ勢力は
いなかったのは間違いない。
卑弥呼が死んだ後に、国が乱れるのは、制圧できる
圧倒的な軍事力をもった国がなかった証拠と言えるだろう。

圧倒的な勢力があるなら、共立などする必要がない。

901日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:44:08
>>898
有力なのは最初の遣隋使が用明天皇(厩戸の父)だとする説だよ。
中国の少し後の文献で、何皇帝のときに遣隋使したのが倭国王の誰、
と比定しているのがあって、その順に当てはめると用明天皇になる。
なぜ日本側の記録がずれたかについては史料の年号の誤りや
蘇我馬子の功績をすべて聖徳太子に置き換える際に
用明天皇の功績まで聖徳太子に置き換えてしまったなどと言われている。
尚、2度目の遣隋使のときには男王といった倭国王についての記述がないので
これは推古天皇であっても問題ないとされている。
とにかく九州王とは関係がまるでないだろうね。
902日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:52:26
>>901
この手の切り張り解釈は昔からどっさりあるので
どれが正しいかわからん。それくらいいろんな解釈が多い。

とりあえず今はどんな説が主力なんだろうかね?
聖徳太子の存在はあり、が主力なの?
903日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:05:50
>>なんで征服者、勝利者が自分の出自を脚色するかね

脚色しないとしたら、やはり神武は日向出身で正しいのだろうか。
べつに箔をつけるための創作でもいいけど。
904日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:19:28
日本史全般スレ(終止符)vs考古学全般スレ(ドン来い)

良い勝負してますねw
905日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:21:39
メ は人ミミズ
906日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:27:28
日本史全般スレ(終止符)vs考古学全般スレ(ドン来い)

2chの『二大』邪馬台国スレ
好きな方に書き込んで下さい ロムするのも書き込むのも、各自自由なので。
907日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:39:04
聖徳太子が実在って、いつの話だよ?

とっくに架空だって結論でてるのに。
908日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:41:19
巨大な前方後円墳を構築する超大国、邪馬台国

それは畿内説の求めてやまない幻影www
909日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:45:14
聖徳太子は、九州説から見れば、いてもいなくてもどうでもいい。
小野妹子のご一行様程度、九州を通してあげても問題はない。

そんな通過記録があるかどうかは知らんが。
910日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:49:45
そんなに、九州のほうが畿内より優位なら、
どうして今の九州は極貧なんだね?
王様が東征していったら、九州は残りクズになったのかね?

911日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:52:41
>なんで征服者、勝利者が自分の出自を脚色するかね

逆だろうw

勝利者・勝ち組だからこそその出自を脚色できるんであって(「系図買い」)

確か秀吉の母親は天皇のそばに仕えていたんだっけ?wwww

912日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:53:20
九州から畿内に東征していった王様も、ちっとも九州にやさしくないよな。
何度も九州制圧に行ったりして。

九州の人間も見捨てられたものだ。
913日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:53:27
>>910
その恨みつらみは関東の方に向いて言ってくれないか?
九州はマイペースの田舎者でいいから。

正直言って福岡の混雑具合もウザイ。
もうちょっと田舎でいい。
914日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:55:11
>>912
宇佐とか妙に優遇してるしな。やはり神武は日向からの人間で、
北部九州とは関係ないか、むしろ敵だったのかもしれない。
915レス長たらし毘古:2011/01/27(木) 22:37:22

「女王国」を東北九州〜厳島〜淡路島の三角形と想定すると「全てが繋がる」

と、個人的には思う。
916日本@名無史さん:2011/01/27(木) 22:43:36
うわ、短い
917日本@名無史さん:2011/01/27(木) 22:50:07
神武
多賀(近江)→宮崎→大和

(ホツマツタエ)
918日本@名無史さん:2011/01/27(木) 22:57:31
>>910
それは単なるイメージだろう。
人口にしても東海地方と同じくらい。
近畿で言えば、大阪と兵庫と京都を合わせたくらいで、滋賀と奈良と和歌山の
分だけ近畿の方が多い。
総生産もオランダと同じくらいだし。
919日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:06:12
>>912
景行天皇や日本武尊などの遠征は熊襲の征伐。熊襲は南九州。
むしろ、鹿児島付近まで九州を素通りというのが問題。
かなり勢力があったと思われる中、北部の九州との衝突がない。
6世紀の磐井でさえ、大和朝廷と五部の戦いをしているのに。
920日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:07:29
このスレの人で、三輪山に登ったことのある人はいますか?
山頂の奥宮には、たくさんの石があるのですtが、全ての石に、「×」や「米」印が刻まれています。
それは何か?
実は、それは鬼の目なのです。災いから人々を守るために家の戸口に置かれた鬼の目、
つまり、鳥越憲三郎の言うところの倭族(アカ族)の風習と一致するものであり、
三輪山こそ倭族の国である邪馬台国だったことは間違いないと思われます。
921レス長たらし毘古:2011/01/27(木) 23:12:14
火の国┬→日の国
   └→肥の国
ちなみに、日(向)の国・肥の国となったのは、意外に古く700年代の行政区分
では既にそうなっている。これは記紀の編集のすぐ後くらいである。

ちなみに、ハニヤス毘古という神様はウンコの神様であるが、どう言ったワケ
か、古事記においては、日の神天照より前に、イザナギイザナミの子として、
お生まれになっている。そして、このウンコは、農業上「肥やし」として使う
物として古来から有名である。

仮に「天照系の神話」が、後代あえて挿入された部分も有ると仮定する(先述
参照)なら、「日(向)の国」の周縁西方に「肥の国」が存在している構図
は、とても興味深いものである。仮に「九州に存在する巨大な火の国」を
「日(向)の国」と「肥の国」とに、行政区分上「分けた」と想定するならば
少なくとも記紀の時代には、日の国と肥の国を「規定する必要が高かった」と
考えた方が自然だ。

モモソ&タケハニヤス治世が、祟神達に「塗り替えられた」事により。
@天照神話に「エピソードが加筆」された
A九州南部の行政区分が「日(向)の国」「肥の国」と規定されるようになる

このように考えて見ると、三書ともシックリ来るような気がするのだ。

この想定の場合、宇佐のヒメサマを母に持つ、淡路界隈の神武が紀伊の国から
上陸し、中国地方と四国地方の支援補給ルートを確保したまま、奈良盆地に
攻め込む事も、地政学的にはけして無茶でも無謀でもなく、可能な範囲の有り
得る軍事行動ともなるのである。少なくとも宇佐〜淡路〜紀伊の進軍は担保
できる話になるのである。(但しこの場合、高千穂〜宇佐は必ずしも担保しな
い。但し、当時の首都が、宇佐〜高千穂の間のどこかであれば、神武の旅程は
全旅程を担保できる)
922太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/27(木) 23:26:42
真の年代を測る古代人からの贈り物たる天下の宝器を天津神算木という。
天津神算木(天津金木)とは三輪山の山名たる三輪(半径r=3の円)
の球化の 体積=表面積 の数式をいう。
天津神算木は

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はベキ)

大祓祝詞に曰く 「大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて」

 3≠113.097335

1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけの年代)

右辺数列を三分すれば

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位見かけ年代B.C.97年(0数西暦0年)
335←崇神即位実年代誘引のジョーカー数 335年

 -97+335=238年  のところ、西暦0年を除くため1年マイナスとなり

 238年−1=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年
923レス長たらし毘古:2011/01/27(木) 23:32:13
先述のとおり、「淡路島」は、「イザナギがスサノウによって流刑された島」
の有力候補地の一つである。すると、古事記上イザナギを引き継いだとされる
天照の「国」にとっては、「国境付近」と考える事ができる。しかも、イチキ
ヒメの祭られている島が、厳島神社で有名な安芸(広島)の宮島である。
ここで残念なのは、古事記にて「この時期の四国の表記がほとんど無い事」で
ある。しかし、考えるに、出雲や九州以上の勢力を四国に保有すると言うのも
これまたパワーバランスとして想定しがたい。当時の大和王権も、紀伊を出雲
の影響力を多い場所としているので、そこを超えて四国まで手を出せたとも
考え難い。
従って、四国は、当時九州勢力か出雲勢力のどちらかに、(少なくとも名目上
は)従っていると考えるのが妥当。
そして、九州側に従っているなら、神武の進軍にも補給にも「助成しなければ
ならない」と言う位置関係にもなるのである。

九州「火の国=女王の国&属国(=魏志倭人伝の言う倭国)」が厳島を抑えて
いる以上、出雲でなく九州が四国を統治していると考えた方が自然と成る。

従って、九州東北部〜安芸の一部〜淡路島〜四国の北半分、最低でもこれが
「女王国」の範囲になる。
そして、神武〜開化の時代までは、大和王権は、この「女王国」を宗主国と
する殖民国家・属国なのである。
三書ともに全く矛盾を生じない。
924レス長たらし毘古:2011/01/27(木) 23:49:23
従って、神武東征は西暦100年前後である、と架空する。豊玉の子孫であり、
天照の子孫でもある。

但し、豊玉は後代古事記までに単なる神の妻の要素が強められ出雲の神でも
あった要素は消されてしまう、天照は後代古事記までに「ヒミコと外国人に
呼ばれた女性」の逸話・要素と融合してしまう。

ヒミコと呼ばれた時代に女王国の東に位置していた黒歯国が、開化大王の頃の
大和王権である可能性が高い。
925日本@名無史さん:2011/01/28(金) 07:23:38
>>897
その前に住んでた連中は在地の大王ではなく悪魔の子孫やDQN野蛮人で
それを神の子孫である天皇が退治したとかくのが普通じゃないの?

926日本@名無史さん:2011/01/28(金) 07:24:53
皆は

1.邪馬台国=大和朝廷
2.邪馬台国≠大和朝廷

どっち?
927日本@名無史さん:2011/01/28(金) 07:35:13
>>926
多くの人が1と思う
928日本@名無史さん:2011/01/28(金) 07:44:36
多くの人が2と思う
929日本@名無史さん:2011/01/28(金) 07:45:48
ヒミコ参上!
       {    !      _,, -ェェュ、   |
ィ彡三ミヽ  `ヽ     ,ィハミミミミミミミミミヽ、|
彡'⌒ヾミヽ   `ー  /ililハilミilミliliミliliミミヾ|
     ヾ、        /iiiiイ!ヾヾミ、ミニ=ー-ミii|
  _    `ー―' i!ハ:.:.\\_::::::::::::::/:.|
彡三ミミヽ        i! ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠|
彡'   ヾ、    _ノ i!::: ̄二ー:: : ::::ソ ・ ,|
      `ー '    {ヘラ' ・_>シ;テツ"''''"|
 ,ィ彡三ニミヽ  __ノ ヽヘ`" 彡' 〈     |
彡'      ` ̄       `\   ー-=ェっ |
      _  __ ノ  {ミ;ヽ、   ⌒   |
   ,ィ彡'   ̄        ヾミミミミト-- '  |
ミ三彡'        /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|
       ィニニ=- '     / i   `ー-(二つ
     ,ィ彡'         { ミi      (二⊃
   //        /  l ミii       ト、二)
 彡'       __,ノ   | ミソ     :..`ト-'
        /          | ミ{     :.:.:..:|
            ノ / ヾ\i、   :.:.:.:.:|
      ィニ=-- '"  /  ヾヾiiヽ、 :.:.:.:.::::|
    /     /  `/ ̄ ̄7ハヾヾ : .:.:.|
   ノ     _/   /   /  |:. :.:.:.:.:.:.:|
      /     /   /   |::.:.:.:.:.:.:.:|
930日本@名無史さん:2011/01/28(金) 07:59:53
     / ̄ ̄\
   /  ー  ‐\ ←ニギハヤヒ(モノノベさん)
   |   ( ●) ( ●)___
   |     (__人__)´ ー  ー\
   |      `i  i´ノ( ●) ( ●)
   |   .   `⌒ }   (__人__) ヽ ←サノ(ジンムサン)
   ヽ       .}    `i  i´  |
    ヽ     ノ、_    `⌒_/
    /⌒ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ⌒ `i
    /    r―――――――‐‐'
    l      ( ̄レワ   /  |
    |       \ \/ /  |
    |       | \_/   
931日本@名無史さん:2011/01/28(金) 09:01:26
>>926
1だろ
九州にあった邪馬台国が東遷、そして、それが大和朝廷へと発展していった
こう考えれば何の矛盾もない
新燃岳が噴火しているが、南九州にあった邪馬台国が東遷を決意した主原因として
噴火の被害を避けるためだったのかもしれん
932日本@名無史さん:2011/01/28(金) 09:23:07
遣隋使の謎について、なぜ600年の派遣が書紀に記載されていないのか?
その答えはこうである。

つまり、600年の遣隋使は、正式に派遣したものではなく、様子見だったのである
それまでの長期間、中国への使者が途絶えていた
さらに、久々に出来た超大国、隋へ使者を派遣するに当たり、どのように礼を尽くして
皇帝に会見すればいいのか、さっぱりわからなかった
そのため、使者が失態を犯しても、あとで知らんぷりを決め込み、あれは九州かどこかの豪族が勝手に使いを
出したのだと弁明する気でいたのだ
隋に記載されている内容が、兄弟がどうとか、奇妙なことである。
まともな使者の接見の内容とは到底思えない
様子見なのだから、男王とされていても不自然ではない
正直に話す必要がないからである
だから、書紀編者は、その事実を抹消し記載しなかったのである

そして、一応様子がわかったので、607年に正式に使いを出したのである
933日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:12:46
聖徳太子や遣隋使について、これだけいろんな解釈が
溢れかえっていることから見ても、いかに謎なのかがわかるな。

正直言ってお腹いっぱいだ。

邪馬台国の諸説より多いかもしれん。
934日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:23:59
>様子見なのだから、男王とされていても不自然ではない
>正直に話す必要がないからである
隋使が倭王に会ったことを知らないな。ちゃんと隋書を読め。
935日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:46:51
聖徳太子そのものが、日本史における大きな謎だから、
あまり、ほかの歴史解釈の材料にできないんだよね。
936日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:47:30
>隋使が倭王に会ったことを知らないな。

600年の派遣で、どこにそんなことが書いてあるんだ?

>ちゃんと隋書を読め
そんなことを言う前に、まずは自らが、人の文章をちゃんと読め。
937日本@名無史さん:2011/01/28(金) 12:29:51
というかそもそも男王とされてないんだが…
938日本@名無史さん:2011/01/28(金) 12:53:56
聖徳太子は小野妹子その人だよ
それで問題なくない?
939日本@名無史さん:2011/01/28(金) 12:57:40
そして蘇我馬子も。
つまり小野妹子の業績を、君子役・聖徳太子と悪役・蘇我馬子に振り分けたのね
940日本@名無史さん:2011/01/28(金) 14:12:40
>>936
>600年の派遣で、どこにそんなことが書いてあるんだ?
600年は倭王が使者を派遣した年だから会うわけがないが、608年に隋使が同じ倭王に
会ったことが明記されているよ。
開皇二十年(600年)、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。〜 大業三年
(607年)、其王多利思比孤遣使朝貢。〜明年、上遣文林郎裴清使於倭國。〜既至彼都、其
王與清相見
941日本@名無史さん:2011/01/28(金) 16:03:10
>>931
畿内で九州の遺物が発見されていない
つまり畿内王は九州王が東征したものではない

5世紀頃南九州の豪族が畿内王に服属するまで
畿内と九州の文化は別物
ただし北九州は朝鮮や中国への通り道となっていたため
3世紀には畿内に服属していた模様
942日本@名無史さん:2011/01/28(金) 16:48:27
九州からは畿内土器は見つかるから、畿内の人間が大陸に渡るときは、
船賃代わりにいくらか置いていったんだろう。
943日本@名無史さん:2011/01/28(金) 16:58:33
船についても、古くから大陸と往来している九州の方が進歩していただろう。
というか、近畿地方に船があったんだろうか。
「なみはや」は形だけの船だったらしいし。
944日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:03:51
>>943
違う、違う。
古代から朝鮮や中国の船が難破して出雲や北陸に流れ着いたんだよ。
当時の日本人は当然船を解体して構造を調べたり、
乗組員を保護して状況を聴くなどして船の構造を熟知しただろう。
出雲や北陸には今も朝鮮の地名が多く残る。
九州の人だけが船を所有していたという事実はない。

そもそも、弥生時代には日本列島はすでに大陸から離れていた。
稲作を伝えた今本州の大部分に住む弥生系の人々は
皆船に乗って大陸からやってきたんだ。
残念だが、九州人も畿内人も、皆弥生時代に船に乗ってやってきた。
よって、船の技術などあるにきまっている。
945日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:10:14
九州の遺跡から鉄が出る出るってさ
それむしろ、九州の人は鉄を加工できなかったってことよね
加工技術持ってたら、くず鉄でも拾って再利用するでしょ
946日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:13:55
瀬戸内海の船と、玄界灘の船では、想定される環境が違う。

遣唐使船で成功率75%、つまり4回に1回は沈んでいることになる。

しかし、それ以前の白村江では5万人近くを運んでいる。(公称)
玄界灘では船舶構造と航海術が違うということである。
947日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:16:43
>>943

舟形木棺というのがあってだな。

948日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:26:11
四世紀?の天皇崇神天皇の時にはじめて船を作ったと言う記録があるし。
三世紀には畿内には船はなかったんだろう。
949日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:26:23
日本海流の影響で朝鮮や中国を出発した船は
そのまま進むと出雲や北陸に流れつくらしいね
つまり、九州などよりも出雲や北陸の方が
朝鮮や中国と古くからつながりがあった
九州に行こうとすると島づたいに行くしかなかったらしい

今でも北朝鮮の船が九州などではなくむしろ
新潟や福井の日本海岸に漂流していることからも
この意味がわかるだろう
950日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:28:28
>>941
九州に豊富にある中国の物品が畿内には一つも無い。
九州が畿内に服属していたなんて事は考えられない。ww
951日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:31:56
九州が本州を征服したんだよ。銅鐸の一斉埋納がその証拠だ。
952日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:34:00
自分達は中国の犬だと高らかに宣言しちゃう九州人って一体・・・
953日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:35:04
>>948
崇神天皇の記事は、各地の征服地から税をかき集めるために船が必要になったので、
各地に納税のための船を置くことにしたというだけだよ。
それ以前に船がなかったなんて書いてない。

そもそもその記事以前から天の磐舟だの
舟の記載はたくさんある。
神武が難波入りするときもでかい船で瀬戸内海を渡っている。
954日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:35:45
>>949
>九州などよりも出雲や北陸の方が
>朝鮮や中国と古くからつながりがあった

スサノオ伝説も、その流れだろ。
なにせ、日本の神様が新羅から来たことになってるんだから。
955日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:38:19
>>951
なんで九州の人は畿内に来るにあたって鉄製の武器を九州においてきたの?
3世紀の畿内から鉄製の武器が出ていないんだから九州征服説はもうやめたら?
956日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:39:04
>>952
>自分達は中国の犬だと高らかに宣言しちゃう九州人って一体・・・

何言ってんだ、日本自体が「中国の犬」だよ、間違いなく。
なにせ『一大率』の駐留認めてるんだから。
紛れもなく当時の倭国は、事実上魏の属国じゃないか(´・ω・`)。
957日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:41:52
魏じゃなくて帯方郡だよね(´・ω・`)
958日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:42:15
>>950
例えば、当時の最先端技術で卑弥呼が魏からもらったという記述もある銅鏡は、
むしろ九州ではなく畿内から大量の出土がある。
九州にしかない中国の物品って何?
それが魏からもらったリストに入ってるの?
959日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:42:42
一大卒は、中国の派遣した役人なのか、
邪馬台国が派遣した役人なのかよくわからない。

まあ、漢倭奴国王や親魏倭王、遣隋使、遣唐使
ぶっちゃけ中国にしっぽを振ったといえなくもないやね
960日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:43:38
ていうか公孫氏が滅んだらすぐさま魏に頭下げて来ました
っておかしくない?(´・ω・`)
961日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:45:50
そういや足利義満も、日本国王で中国皇帝に冊封
されていることになってるんだっけ。
962日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:49:13
そんなのどう見ても中国お得意の伝統芸のアレですよね(´・ω・`)
963日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:09:11
そういや、今上天皇陛下にも金印を渡そうとしてなかったか?
964日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:35:47
スサノオが朝鮮からきたって、どんなトンデモで¥だよ。

朝鮮人が最近になって言い出したデマだろうが。
965日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:48:35
九州人のジレンマだな
邪馬台国は九州にあったことにしたいが、もし邪馬台国が九州なら
その後近畿に征服された事を認める事になっちまう
九州王朝とやらも存在したとしたら、これも大和に叩き潰された事になるわけで
自分達が敗残者、弱者の子孫だという意味になるw
966日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:50:54
邪馬台国の東遷説とかプライドを維持したいがために作られた話だったんだなw
諦めろ、認めろ、甘受しろ
オメーラは敗残者、弱者の子孫なんだyo
967日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:53:54
>>966

白村江で壊滅的打撃を受けて、九州王朝崩壊。
それで主力軍を失って、わりと穏やかに併合されたことは認めるよ。

それでも、壬申の乱や、大化の改新は起こったようだけど。
968日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:03:45
>>967
5世紀に磐井の乱によってすでに畿内王朝に
こてんぱにやられてるのはどうするの?

考古学的にも九州の地方豪族磐井が築いたとされる
石製の置物なんかがこのときに
畿内王権の兵士たちによって破壊された跡が確認されているんだけど。
969日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:15:41
>>967
自称・天皇の弟のクーデターと「韓人」のテロか

あいつらほんま厄介やな
970日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:16:14
「筑後国風土記」に官軍(ヤマト王権)によって
筑紫の王(豪族)であった磐井が殺された記事があり、
九州側の伝承とも一致しているみたいだね。

九州王は畿内王に滅ぼされた。
ちなみに、磐井は若いころにヤマト王権に出仕し、
大和にいた時期があったらしい。
971日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:17:28
>>970
なんか知らんけど新羅の肩持った磐井さんか
972日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:18:50
>>968
磐井の乱で、磐井を倒した物部麁鹿火と大伴金村の経歴を調べてみては?
主に百済任那などの朝鮮半島向けの仕事をした人間だ。
そして九州での磐井征伐の実績。

本州での実績はない。

このあたりは景行天皇(筑後から熊本)や仲哀天皇(北九州)、
神功皇后(福岡佐賀)の事跡にもつながる。


973日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:20:43
>>971
筑紫はこの頃には大和王権の支配下にあった。
九州説が頑張ってる南九州邪馬台国が
筑紫を通らずに朝貢するのは無理だよね。
魏志倭人伝でもルートは北九州経由だし。
974日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:25:30
>>972
どちらも畿内豪族だよ。
本拠地も分かっている(畿内)。
大伴や物部が九州の奴だと言っている奴の頭を疑った方が良い。
この時代の九州はすでに後進国。
975日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:26:54
>>972
大伴さんが、任那を百済に譲ったら、物部激怒。でしょ

大体こんな感じやわな
大伴→百済
物部→任那
磐井→新羅
976日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:27:57
>>968
実際こてんぱんにやられているのは事実だろうよ。

のちの九州王朝の併合で大戦争が起きなかったことから考えても、
九州と畿内でそんなに敵対関係はなかったんだろう。

だが、白村江はほとんどが九州勢で占められ、
磐井の乱では百済任那の関係者。

九州王朝が招集したとしても矛盾はない。
977日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:29:48
九州王朝て。
筑紫やろ筑紫
978日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:31:52
>>975
おお、それを見てすっきりした。関係がよくわかる。
その関係があの戦いになったのか。
979日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:32:29
九州王朝なんて言ってる奴は日本史板来るな。オカルト板逝け
980日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:33:53
そういや韓国人は、天皇は百済王家の次男だか三男で本当は朝鮮人なんだと力説してるけど
それって日本と朝鮮が合体したのは当然だったと認める事になるんだよな
連中はそういうの理解してるのかね
ジレンマを感じないのかな
981日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:36:08
>>967
なんだ。
九州王朝説を唱えてる人って本当に町おこしが命の
九州人だったんだ。

そうだよね。
遺跡でも遺物でも文献でも圧倒的に不利な九州説を
それでも唱え続けるのって、
とても利害関係がないとやれない。

982日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:36:39
>>978
で、大海人皇子っていうのもたぶん物部系。
壬申の乱の後しばらくは好き放題やってた、今の民主党みたいなもん。

でもそのころに日本書紀・古事記が編集されてるから・・・
983日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:38:20
筑紫っていっても、どこの筑紫かね?
九州筑紫島
筑前筑後の筑紫
太宰府近辺、筑紫野市の筑紫。

いわゆる九州王朝は、博多太宰府あたりの筑前
磐井は筑後。

で、筑後を潰したと。

でも良く解らんのが、糟屋の屯倉は磐井の弟が守っていたらしい。
そして、真っ先に潰されるはずなのに、戦いが終わってから
返すという形になっている。なんで先に潰さないのかよくわからない。

磐井の乱は、一時的なクーデターだったのかね。
984日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:39:26
>>956
>>959
於國中有如刺史とある。国内の刺史のようなものだと説明している。
魏が置いた役人ではないから、中国の官制でいえば刺史に当たると説明しているのだろう。
985日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:40:06
>>983 えらい小さいな九州おうちょうw
986日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:07:51
>>958
その鏡って中国のじゃなかったって話じゃなかったっけ
987日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:12:24
>>986
ありえない年号が入ってたりするからね

でも、だからなおさら、邪馬台国と通じてたのは魏ではないのでは、
ということになるわけ。
年号が変わったのを知らないはずないんだから。
988日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:17:52
畿内の中国鏡は画文帯で決まりじゃないのかな。
989日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:55:37
次スレ


謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!54
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1296215383/
990日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:11:36
大宰府ってのは元々古代九州の首都かなんかで
それを大和軍が征服して大宰府になったのかな
991日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:50:57
>>967
白村江って・・・
例えば、畿内には日本書紀にも記述がある
法隆寺、四天王寺、飛鳥寺が現存する。
法隆寺は国内最古の木造建築で、法隆寺、四天王寺、飛鳥寺とも
現在の地層の下から飛鳥時代の伽藍跡も発見され、裏付けられている。

九州説の人はこれらの寺も九州にあったことにしなければならないから大変ね?
どこに法隆寺、四天王寺、飛鳥寺があったの?
畿内の大規模寺院を建造したのは一体だれ?
992日本@名無史さん:2011/01/28(金) 21:51:52
>河童虫さん

いま、彼の心は非常に揺れ動いてる(揺れるはあと)んだよ
もう、師匠ムシに三行半突き付けてやろうか・・・どうしよう。
993日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:03:02
逃げてばっかだからこうなる。

ま、彼の心を取り戻したければ、
ローガンと戦ってw どこまでやれるのかみせつけるべきだね。

994日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:14:03
>>992
今日も河童さんの投稿見ましたが、揺れ動いてるどころか生き生きしてました。
995日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:16:56
>>994
ん?URL貼りつけて頂戴。
996日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:30:37
ようし マッチメークを決めてやろう

あらため vs 人豚(うましか)
太国 vs ローガン

でいいや。
ローガンさんってうましかさんを敬ってたんだが、
うましかさんが「人豚」にハンネを変えた途端
手の平を返すように、突き放したのには笑えたよねww
997日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:32:49
誰か〜日本@名無史さん の中で勇気ある人

固定に変える人いないのかな?
998日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:39:38
>>995
投稿といっても邪馬台国や古代史関連じゃありません。
999日本@名無史さん:2011/01/28(金) 22:46:37
低能も嫌だけど、高学歴も嫌だね・・・w

うましかのやつ、みんなのこと「馬(うま)」「鹿(しか)」で
「馬 鹿」って罵ってたんだぜ〜ぇw
1000日本@名無史さん:2011/01/28(金) 23:14:35
10011001
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