謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!52

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1神奈川県民
その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。
倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。
名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。
年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。
王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。
宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

女王卑弥呼とはいったい誰だったのか?また邪馬台国はどこにあったのか?
古代日本建国の謎も含めて議論しましょう。

規制時 http://www1.atchs.jp/most/
前スレ http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1290169246/
2唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/14(火) 20:56:14
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。後漢193年冷夏。
唐古、鍵 弥生後期後半(大和第Y−3)に大量の土器の投棄をもって、大半の環濠は埋没する。
異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲り。
209年 新羅本紀、伽耶に援軍=任那建国。
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳。半島式木郭墓は田道間守の殉葬。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に、土を盛り平す(ひ=乾く、しろ=ならす)日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。遠国をまとめる為、魏の政治手法「屯倉」導入。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。

文献を考古学と整合させた数字である。

箸墓を4世紀とするなら、4世紀となる文献の読み方を掲載してくれ。
3日本@名無史さん:2010/12/14(火) 21:01:13
箸墓は4世紀だろ。

干支から崇神は4世紀始めに死んでるし、ヲワケの祖のオオヒコも4世紀始めの人物だ。
4唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/14(火) 21:55:19
>>3
何の根拠もなくただ崇神を4世紀とする。
5太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/14(火) 21:56:35
192,3年≠崇神5,6年

右辺の年代では船舶が製造されていない。つまり千人ものやせ細った農民が漁師
でないから渡海技術などなくカラ手で持ち合わせ無く、半島に渡ることはとても
出来ない。生命を賭けて、せいぜい1〜3人くらいが、決死の渡海をやることは
現今の脱北から肯定できうるが、千人の多勢なんぞ到底若狭湾から日本海を渡れ
るはずがないのである。ここのスレ民は賢人だから、唐松山のインチキはす〜ぐ
気がつくはずだな。ww

船舶が出来たのは崇神5,6年から10年ばかり後の崇神17年である。従って唐松山の
対応は不整合のため棄却される。
6:2010/12/14(火) 23:39:51
黄泉の国の入口と伝えられてる「黄泉の穴」というのが島根県にあるらしいね。
http://furusato.sanin.jp/p/mysterious/izumo/2/

あと宮崎県高千穂峰にある「天の安の河原」とかもおすすめ。
http://www.pmiyazaki.com/takachiho/amanoyasugawara.htm
7日本@名無史さん:2010/12/14(火) 23:57:34
ドツボキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
8:2010/12/15(水) 00:13:25
>>7
いや、仕事疲れでなかなかレスする気がおきんW
出来れば皆さんでネタ書きこんでおくれよ。
9日本@名無史さん:2010/12/15(水) 00:17:59
ドツボカエッタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
10:2010/12/15(水) 00:19:30
学生が一番いいんだよねぇ。
普通の一般の社会人は仕事があるので
古代史の本を購入しても読む気になれんと言うか・・・。
ここの投稿記事を読むのが精いっぱいてかんじW


11日本@名無史さん:2010/12/15(水) 00:29:57
ドツボマタキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!
12:2010/12/15(水) 09:54:52
>>ごたくをならべる前に、3世紀の九州で、天照大神信仰があったことを証明
しなさい。 <<

>九州で天照信仰があった等とは一度も確定していないし<

前スレのレス長たらし氏と名無し氏とのやりとりだが、
このネタはおもしろい。
誰か、「3世紀の九州で、天照大神信仰があったこと」を書き込んでよ。

13:2010/12/15(水) 10:57:55
前スレ723
>文証はあるでしょうが。紀の崇神6年「天照大神を・・倭笠縫に祭り・・・」 とある。
>何処に8世紀の創作の証拠があるんだ?

太国氏いわく、天照大神信仰は「文献」だってよ。
天照大神の話は8世紀と考えてる人の〜反論がたのしみ。

前スレ791
>>高木神は縄文系の「氏神」じゃないか 高木神は縄文系の「氏神」じゃないか
>こんな話ははじめて聞いたw
>「よくある類のエピソード」以上の根拠があるのだろうから是非披露してもらいたいものだがwwwww

ジョーカーもからんでるのか・・・
これは、あれだな・・・・列島には何回かに分かれて異民族が伝来し、
形態人類学の「人種」でいう、旧モンドロイド・新モンドロイドとかの分類から、
その異民族が猿田彦系か、天照系なのか、高木系なのか、はたまた○○系なのかに分けて考えるって話だろう。
宇佐氏一族に伝わる、なんたらって本でも読んだんじゃないかな。
確かそんな話があったと思う。
14:2010/12/15(水) 11:11:47
前スレ794
>イザナギイザナミを祀ってる多賀大社の近くで縄文遺跡が出たりしてる
>諸々の神は「氏神」というくらいで出身地や血筋を現している
>だとしたら、縄文系じゃないにしろ、高木神は何がしかの 「天皇家ではない」血筋の氏神だろう
>で、思いついたのが「縄文系」なだけ

滋賀県のお多賀さんこと、多賀大社は一昨年だったかな、行って来たんだが、
そんな遺跡が周辺にあったんだね(みてこなかった・・・)。
しかし、「天照大神の話」白熱してんなwww

前スレ824
>確か神名帳には伊勢の天照以外に「アマテル」の名を冠した神は
>殆ど畿内・畿内周辺地域で九州には殆どなかったんじゃなかったかな?
>…と思って適当に今ググったら対馬にはあるらしいがw

対馬だけじゃないってw九州各地(とくに高良大社付近)にあるはず。
15日本@名無史さん:2010/12/15(水) 11:18:09
高良大社は玉垂さんだけど、
久留米市内や周辺には無数の神社があるからなあ。
アマテルさん祭っているのはどこだろ。
16:2010/12/15(水) 11:33:58
>>15
>アマテルさん祭っているのはどこだろ。

そもそも、○○神社の主神、○○命という風になったのは、
ずっと後代のことなんですよ、
六世紀、七世紀でしょうか。
前スレのこの「天照大神」をテーマとした話を聞いてると、その辺を分かって無く
レスしてるのではなかろうか。
だから八世紀に「天照大神信仰が出来た」みたいな話になってるだけな気がする。

もともとこの列島には原始信仰というのがあり、
原始信仰というのは自然の「山の神」・「海の神」を称え
穀物がゆたかなことと五穀の豊穣を祈ることからきてますよね。
原始信仰を称える偉大な巫女が現れ、その偉大な巫女を祖霊とするようになり、
祖霊信仰が始まる。

だから〜九州でアマテルさん祀ってるところという、
「神」を「人物」とする考えは六・七世紀からでしょうし、あってもなくてもあまり関係ないと思う。
以前、九州で天照を祀ってる神社を調べたことがあるのですが、
宮崎とかにも数か所あったが気がする(細かくはおぼえてませんゎ・・・)。
17唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 11:53:37
274年 神功渡海。西晋の要請による渡海。
280年 晉武帝太康元年,既平孫氏,凡搨u郡國二十有三,立梁、秦、寧、平四州,
平州初置,以慕容廆為刺史,遂屬永嘉之亂,
316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。
323年 癸未 神功49年3月 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
342年、慕容氏は、宇文氏を狩り、高句麗の丸都に攻め込み、父の墓を暴き、母を人質とする。
そしてこの方面の住民、掠男女五萬餘口を捕虜とし、自国へ入植させ、西方の後趙に備える。
これにより、句麗、百濟及宇文、段部之人は前燕に属することとなる。(晉書卷一百九)
370年 前燕が滅ぶと、百済は東晋へ朝貢する。
372年 東晋の使者が百済を訪れ、『咸安二年[372]春正月辛丑、百濟、林邑王、各遣使貢方物。
六月、遣使拝百濟王餘句、爲鎭東將軍領樂浪太守。』(晋書簡文帝紀)
《六月、使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。》
この前後に東晋の使者は、倭国を訪れる。

応神天皇廿八年秋九月。高麗王遣使朝貢。(371年)
仁徳天皇五八年冬十月。呉國。高麗國並朝貢。(370年)
応神天皇廿八年を仁徳天皇五八年と同年とした場合、1ヶ月のズレは何を意味するか?

342年に前燕に属している百済を391年(好太王碑辛卯年)に渡海して属国とは出来ない。
331年である。
280年、刺史慕容廆の下に東夷校尉があり、倭はそこに属す。半島占拠により百済建国、慕容氏に
属せば、342年に攻め込まれることもなく領土を広げられる。これを嫉む高句麗。

18日本@名無史さん:2010/12/15(水) 11:59:19
ヒミコはアマテラス
19唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 12:03:04
>アマテルさん祭っているのはどこだろ。
255年頃、景行は、天照大神祭典の為、壹與(五百野姫)を筑紫、橿日宮に送り込む。
そこには、住吉が卑弥呼を祭っていたが、神功渡海以降 神功、応神と姫大神となる。
住吉の姫大神は、卑弥呼である。
20唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 12:16:24
つまり天照大神は、当時の現人神である応神に、
壹與は、神功に、
と変化してしまうのである。
壹與と神功は1世代の違いでしか無い。
21:2010/12/15(水) 12:33:45
前スレ876
>古墳時代の祭祀形態は、記紀の記述と発掘された埴輪や石製模造品、木製祭祀具など
>から推測することができるが、地方派遣された大和の官人が行っていたものはある程度の共通性があっただろう。

>877
>ある支配者が死後神として崇拝され、神社なりにて信仰され続けるとすれば
>その支配者の後継者がそうなる様にしない事にはそうならない
>例えば、徳川家康の霊を東照宮に祭り、その後も子孫累代にわたって参詣もしくは使者を遣わすなどして崇敬を続けたからこそ、東照宮は残っているのだ
>だが、延喜式神名帳などに載っている神社は、特に皇祖に関わりのある神に限られない
>支配者たる朝廷が、特に念入りに維持してきたのは伊勢神宮だけだ
>その他の神社は、その神を崇敬する地元民(豪族)が維持してきたのだ

みなさんどうなん

889
>発生期の古墳は、寺沢氏が分類する纏向型でよいだろう。これは、纒向石塚古墳や
>纒向矢塚古墳、千葉県の神門古墳群中の神門4号墳・5号墳、福岡県の津古生掛
>古墳など。この分類には異論もあるが、メスリ山や西都原13号などの柄鏡式が、
>これらより時代の下るものであることは間違いない。

前方後円墳の発祥地論か・・・・・纏向型(箸墓・祟神陵・景行陵)からでいいんじゃないの。
すこし投げやりな言い方かなww
22:2010/12/15(水) 12:44:25
>892
>旧事本記によると、孝昭が三輪に大物主を祀る。
>同様に、大物主は、天照大神とトヨケを祀っていたらしい。(イセという)

これははじめてきくかも・・・
旧事本記のどこの文なんでしょうね?

>897
>神武東遷とか勝手に造語を使うな。東遷ではなく神武東征な。
>出発地は吉武高木遺跡。 三種の神器もあるし神武が建てたと記紀に残る巨大な宮殿跡もある。

最古の王墓といわれてる吉武高木遺跡か。
ここから出土された巨大な平型の銅剣、どこかの埋蔵センターでみてきましたゎ。
この方は、どうしてそこを神武の出発地として考えてるんだろうね。
最古の王だから?!
23日本@名無史さん:2010/12/15(水) 12:51:50
>>12

天照大神を祀る伊勢神宮の御神体は鏡だが
福岡県糸島市平原遺跡出土の、例の大型内行花文鏡が
伊勢神宮の御神体鏡と同じものではないか──という説がある。

平原遺跡を発掘した原田大六さんが提起し、
森浩一先生ほか何人かの学者も興味を示している説だ。

改め氏は知っていたかね?
24:2010/12/15(水) 12:57:02
>912
>副葬品体系として「三種の神器」なるネタを見た場合
>例えば柳田がまとめた伊都国の王墓の出土品一覧を見れば
>後期終末の平原なら一応その三種は揃っているようだが
>(それでもその三種の組み合わせを特に意識した、例えば3点セットを特別に副葬していたなんて話は聞いたことが無いが)
>後期前半の井原鑓溝には玉が無く 後期初頭の平原五号には刀剣、玉が無く
>中期後半の三雲小路二号には刀剣が無い
>…等々結構まばらで「三種の神器」なるものが、その組み合わせが特別視されてきたと言うような状況は伺えない。
>もし九州で「三種の神器」の系譜を見る事ができるものがあれば教えてくれ。

それらの「中規模な」墓には2点セットとして埋葬されてる。
それが三種の神器「特別視」されてる証拠じゃないかな。
原田大六著 実在した神話(1966年)でもそんなこと書いてあった気がスる・・・。

>921
>・・・例えば中期末頃で比べると吉武遺跡群は伊都国の三雲南小路遺跡などと比較して
>しょぼいのは明らかで、遺物を見ると三雲南小路などが前漢の影響が強いのに対して、
>吉武は半島系。出土した多紐細文鏡は半島起源のものだ。
>しかも古墳時代初期には、伊都国に変わって貿易の中心部となり前方後円墳も築かれ
>始める。ヤマト王権の九州進出の北の拠点といってよい。ここから

だんだん、天照から考古学中心の話になってきてるなw
25唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 13:01:01
>旧事本記のどこの文なんでしょうね?

有史八代

>どうしてそこを神武の出発地として考えてるんだろうね。

神武の居住地ではない筑紫が何故出発地となるか?
筑紫に背いて筑紫を出奔した長脛彦を討つ根源は、筑紫の言い分にある。
つまり、筑紫の命令又は言い分を受け入れて出発するのであるから、出発地は筑紫となる。
出発地を宮崎としたのでは、この言い分が通らない。
筑紫で命令を受け、宮崎へ戻って出発したとしても、言い分は筑紫にある。
26:2010/12/15(水) 13:01:43
>>23
>改め氏は知っていたかね?

知ってるもなにも、以前ここのスレで話したとおり、
その伊勢神宮の御神体鏡を観たっていう人がおって、「木箱」のサイズが一致している。
それ以外にも、何処の神社だったか忘れたが〜八咫鏡 を保存してるってはなしもあったよね。
27メ(チト仕事疲れ):2010/12/15(水) 13:17:42
>>25
そもそも、「筑紫」というのが現在の福岡県とされたのは五、六世紀からで、
唐さんは「筑紫」の意味をとらえ間違えてるかと思う。
昔でいう筑紫とは九州全体でいい、筑紫の日向といえば、いまの福岡県のそれではない。

御存じと思うが、古の九州は筑紫以外にも言い方があって、

・白日別(しらひわけ)
・豊日別( とよひわけ)
・建日向日豊久士比泥別〈たけひむかひとよく じひねわけ〉・
・建日別(たけひわけ)
ですよね。
28唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 13:32:07
ホ27053 ハラミヤの クニテルをつぎ アマテラス ニギハヤヒキミ モにいりて
ホ27067 フトタマの マコミカシヤを ツマとして ウマシマチうむ ナガスネは 
ヲモノトミなり ミヤコには キミむつまじく ヤオカふり ツクシのソヤオ ヨソヰヨロ 
トシへておさむアメヒツギ ゆつらんために ミコ(神武)をめす

ニギハヤヒキミがツクシを治めていた、それを継ぐために、神武が呼ばれる…
29太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 13:37:43
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と口撃していた男が〜
〜偽書といわれる書物を持ち出した〜〜
30唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 13:46:02
ホ27079 アマキミは ミハタのフミを みてつから オミコにゆづり マキサキは 
ヤタノカガミヲ さゝけもち カスガにさづく ヲヲスケは ヤヱガキノタチ さゝけもち 
コモリにあたふ キミとトミ つゝしみうくる アマキミと キサキもろとも シノミヤに 
をりゐてこゝに カミとなる

ヤタノカガミヲ さゝけもち カスガにさづく
ヲヲスケは ヤヱガキノタチ さゝけもち コモリにあたふ

もし カスガやコモリがこれらの品を副葬されれば、3種の神器が揃うことは無い。
31太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 13:51:39
欠船十代←崇神の代は崇神17ねんに始めて船舶を製造。このため同年以前
には船舶は無く 192,3年≠崇神5,6年 である。

つまり右辺の代には船舶のアリバイが崩れ、唐松山の主張は棄却される。

ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と口撃していた男が〜
〜偽書といわれる書物をもちだした〜〜>
32:2010/12/15(水) 13:52:53
チト仕事疲れでネタを書き込むの面倒なので
おっさん達で、あと宜しくですw

できれば卑弥呼の「鬼道」や邪馬台国への「行程記事」。
唐松山さんの魏志倭人伝、解析なんかもききたいですよねw
33:2010/12/15(水) 14:01:06
唐さん〜お願いしますw

男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。
今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。
諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。
計其道里、當在會稽、東冶之東。其風俗不淫、男子皆露[糸介]、以木緜招頭。
其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈[糸介]、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、[糸兼]緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。
木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與tan[偏人旁右澹]耳、朱崖同。
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。
食飮用hen[冠竹脚邊]豆、手食。其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。
已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。
若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。
出眞珠、青玉。其山有丹、其木有[木冉]、杼、豫樟、楙櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠[冠竹脚幹]、桃支。
有薑、橘、椒、zeu[冠艸脚襄]荷、不知以爲滋味。有bi[扁犬旁爾]猴、黒雉。
其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火[土斥]占兆。
其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html#wajin
34唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 14:04:20
>纏向型(箸墓・祟神陵・景行陵)からでいいんじゃないの。

すこし投げやりすぎる。
古墳を築くのは、鉄器の流入後であろう、これは、生命維持の為の環濠では無い。
鉄の大和流入は、任那建国後の垂仁時代からである。それは、纒向遺跡と重なる二代目となる。
箸墓をモモソ姫とした場合、鉄の流入と齟齬をきたす。
箸墓を掘れない以上、ホケノ山が鍵をにぎる、ここに半島式墳墓がある理由から解き明かさねばならない。

35日本@名無史さん:2010/12/15(水) 14:14:15
箸墓・祟神陵・景行陵は寺沢のいう纏向型ではないが。
前方部が低く短く墳丘全長と後円部・前方部それぞれの長さが3:2:1の比となることが特徴。
36:2010/12/15(水) 14:23:00
巨大な古墳を造るのに、その柱とする鉄が必要というのはよく本で見かけること。

纏向型といったのは、前方後円墳の起源。
巨大化する前の弥生古墳(プレ古墳)の形状がどうの〜考えるよりも
近畿を中心に各地方へ前方後円墳が広がってるんだから、
「大まかに」その起源を考えると近畿の一番古い型、すなわち巻向型とみなすのが一般的な考えじゃないかな。
37日本@名無史さん:2010/12/15(水) 14:33:58
>すなわち巻向型とみなすのが一般的な考えじゃないかな。

違います。はじめに寺沢による、と断ってるように、これは形式論です。

>巨大な古墳を造るのに、その柱とする鉄が必要

どういう意味ですか。
38:2010/12/15(水) 14:36:56
>違います。はじめに寺沢による、と断ってるように、これは形式論です。

はいはい、寺沢信者さんねw

>どういう意味ですか。

古墳ていうのは基本、土饅頭を何個も積み重ねて造る。
しかし、巨大な古墳となると鉄を足場にしてたんじゃないの?
ここのところはおれもよくわからん。
39日本@名無史さん:2010/12/15(水) 14:44:30
>>38
>その柱とする鉄が必要というのはよく本で見かけること。

足場に貴重な鉄は使わないでしょう。現代のビル工事じゃあるまいし、何の本に
ついてたんですか?
40太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 14:50:23
古代人が未来の古代史学人のために残してくれていた真の年代を教え
る古神道の宝器→天津神算木(天津金木)
天津神算木とは三輪山の山名たる半径r=3の円(三輪)の球化の
体積=表面積 をいう。すなわち (**はべき)

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ ---------------@
 4πr**2=113.09733552923・・・ ------------------A

@、Aの右辺には見かけの年代 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位 がある。

大祓祝詞 に曰く 「大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて・・・」

 3≠113.097335 ------------------------------------@’
 2≠113.097335 ------------------------------------A’

いずれでも右辺の数列の崇神即位月日数 113 を無視して右辺逆数をとれば
533 と 790 だが、年代として双方の差をとれば

 790−533=257年 -----------------------------------B

を得る。A’@’からそれぞれ左辺との和をとれば

 257+2=259年=崇神没年
 257+3=260年=垂仁元年

の実年代が得られた。このことは、1年違いで〜〜
古事記の崇神没年戊寅が 258年 であったことを物語っている。

即ち那珂博士、菅政友、橋本増吉、原秀三郎静岡大学名誉教授の258年説の
主張がほぼ真であったことを意味し、唐松山の215年説は出鱈目と判明した。
41唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 15:04:55
>>33
魏使による、呼子から伊都辺りの見聞が主体となる文章である。
訪れたのは、238年秋から翌年の夏の間。

諸國文身各異、 部族国家間で差異がある。
東冶之東。太陽位置や気候は、この辺であろう。
尊卑有差。身分制度がある。身分制度は守られているが、乱の国である。国家間の戦争がある、
又は、国家を離れた臣が新た国を造る。
貫頭衣之。其風俗不淫、古墳時代に大量の民の流入で着る物も風習も大きく変わる。
有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、全て民の博物誌である。
野生の牛馬虎豹羊鵲はいない。
薑、橘、椒、を薬味としない。
其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、 占いが有れば暦は存在する。
不知正歳とは、海士は月齢のみで漁をするから、24節季は使わない。
42唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 15:16:53
>足場に貴重な鉄は使わないでしょう。

鉄の鋤、鍬が無ければ、浅い方墳までであり、
地山を大きく削ったり、積み上げる事が出来ない。

209年伽耶(任那)建国であれば、これ以後に鉄の流入をもって古墳は造れる。
つまり纒向遺跡の最初は、”鉄のない纒向”である。
43太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 15:22:09
>>40 続き
@’A’から、これらの右辺は末数5を50としても意味は同じである。即ち

 3≠113.0973350
 2≠113.0973350

は、末数 50 で崇神の御名「五十瓊殖尊」を示唆している。
大祓祝詞 に曰く 「千座の置座の置きたらはして・・・」
 〜千座(千位)は整数第四位(千の位)のことである。上二式は

 3≠0113.0973350 --------------------------------@”
 2≠0113.0973350 --------------------------------A”

先述での月日数113を保留し@”A”の、各左辺と各右辺最末数0とを繋げ
不等号左右をも繋ぐとすれば 逆読みでの三数 790 533 030(あるいは020)
において、790と533の差は>>40 Bから 257年 であり、これと三数の
残りの数との差とは、同年と030(020)との各差となる。
030(020)は結局30と20ということで、千座は無視での二桁数となり、A”

 257−20=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

の真の年代が得られた。@”から

 257−30=227年=卑弥呼即位元年

を得る。これで 晋書 の記述がほぼ真であったことが分かったのだ。
44日本@名無史さん:2010/12/15(水) 15:26:10
>>43
ところで、太国さんは大相撲の現状をどう思いますか?
45太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 15:33:44
白鵬関の健闘を讃えたいですね。69連勝を超えれば大相撲が世界に
広がるきっかけとなり、昔ヘーシンク選手に日本の選手が柔道決勝で
敗れた如く、一見日本にとって苦いクサビでしょうがこれが柔道を
世界へ羽ばたかせる基点となったようですから、連勝超えを白鵬関に
再挑戦してもらいたいです。千代の富士の連勝を止めたのは大の国関
でした。大の国関はそれがしの名とは無関係です。

〜あの朝青龍関と今夏一度お会いしましたが、非常に物腰の低い方で、
尊敬に値する元横綱ですよ。例の事件が信じられない位いい方です。
46日本@名無史さん:2010/12/15(水) 15:36:37
>>45
ははあ、さらに国際化をめざす方向がよい、ということですか。ありがとう
ございます。
47太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 15:37:53
失礼 千代の富士関だけ「関」の号がぬけてしまいました。ご免なさい。
48:2010/12/15(水) 16:27:46
>>39
>足場に貴重な鉄は使わないでしょう。現代のビル工事じゃあるまいし、何の本に
>ついてたんですか?

鉄の使い方に関しては知りませんが、
巨大な古墳を造る際、鉄がどうたらって本で読んだ記憶がアルってことだよ。
細かくはおれも知らんって〜
49ローガン:2010/12/15(水) 16:33:51
足場=工事用通路が前方部。
50:2010/12/15(水) 16:35:20
>>42
>>足場に貴重な鉄は使わないでしょう。
>鉄の鋤、鍬が無ければ、浅い方墳までであり、地山を大きく削ったり、積み上げる事が出来ない。

あ〜思い出した それそれw
巨大な古墳を造る際には「鉄」製品が必要ってはなし。
51:2010/12/15(水) 16:53:33
ここのテーマが前方後円墳になってきてるな。
その前方後円墳の「前方部」には諸説あり、陪塚連説説や、丘尾切断説、
祭壇説や、礼拝場説、円墳部引き立て説、それから〜盾の形説なんかもある。

前方後円墳に関する本で有名なのが、江戸時代の山陵志(蒲生君平著)かな。
形に関しては、T期〜W期とかに分かれており、一番古いものが上の方で書いた
箸墓・祟神天皇陵・景行天皇陵なんかのある奈良のものか、宮崎のモノか、岡山にも古いのがアルってはなしだったね。
52:2010/12/15(水) 17:03:57
古墳の造り方に関しては、上でおれが書き込んだように、
50×50cmぐらいの土饅頭を積み重ねるように築き、まず土台を作り、
その上からさらに土を盛る。
足場はどうしてたのかは知らんw
ローガンさん〜に聞いてみようかw
53日本@名無史さん:2010/12/15(水) 17:53:47
>>52
↑ こいつ しかしバカやね〜  古墳の土を盛り上げるのに足場なんかいるわけないではないか
本職の縄文人 説明してやれ
54日本@名無史さん:2010/12/15(水) 18:19:29

しょうがくせい の ため の 「こふん なぜ なに きょうしつ」 に いって みよう ね。

おおむかし の ひとたち が いろんな くふう を して、

りっぱな こふん を つくりあげ て いった ようす が よく わかる よ。



小学生のためのこふんなぜなに教室
http://chikatsu.mediajoy.com/cs/index.html

└どのように古墳をつくったの?
  http://chikatsu.mediajoy.com/cs/cs04.html
55日本@名無史さん:2010/12/15(水) 18:58:53
>>16
>以前、九州で天照を祀ってる神社を調べたことがあるのですが、
>宮崎とかにも数か所あったが気がする(細かくはおぼえてませんゎ・・・)。


調べたけど、たいした事実は見つからなかったってことですね。

結局、天照大神信仰は、8世紀の近畿が発祥なんですよ。


56日本@名無史さん:2010/12/15(水) 19:20:20
天照大神が、7世紀以前にさかのぼれないことは、学会で通説になっている。
これを覆すことは不可能。

直木孝次郎の本が指摘したように、記紀を読んでも、大化改新以前に朝廷が天照大神を祀った記事は崇神のみ。
それもメインの記事ではなく、大物主を祭ったことのついでの記事でしかない。

よって、天皇家の皇祖神は天照大神ではありえない。
では、天皇家の皇祖神は誰かというと、高御産霊尊(高木神)だったというのが、これまた通説。

>>23

したがって、伊勢神宮の御神体が、大型内行花文鏡だったとしても、
「だからなに?」ってこと。
いつの時代からから、九州から近畿に大型内行花文鏡が持ち込まれたことはあったかもしれないし、
それが伊勢神宮の御神体になったかもしれないが、
それが3世紀とか4世紀とか、特定することはできないし、
もしも特定できて、天照大神信仰との関係が明らかになったからとしても、
天皇家とは何の縁もゆかりもない話。

わかったかい?
57:2010/12/15(水) 20:19:49
>>53-54
しるかーーーーーーー てw 

>>55
>調べたけど、たいした事実は見つからなかったってことですね。
>結局、天照大神信仰は、8世紀の近畿が発祥なんですよ。

伊勢神宮というのは現在では三重県伊勢市にあるが、
日本書紀 垂仁天皇条にあるように、
倭姫命倭姫命が天照大御神を鎮座する地を求めて旅をしたと書かれてる。
又、祟神天皇条には天照大神と倭大国魂神が、もともと宮中に祀られていたの話が載っており
天照大神を豊鍬入姫命へ、倭大国魂神を渟名城入媛命へ託したとあるはず。
太国のおっさんが言うように、この文献が証拠であり、これらの記述が八世紀の事柄とは到底思えない。
58日本@名無史さん:2010/12/15(水) 20:24:49
>>57

>倭姫命倭姫命が天照大御神を鎮座する地を求めて旅をしたと書かれてる。

それが事実だと学会で信じてる人はいません。

>これらの記述が八世紀の事柄とは到底思えない。

それは、君らが勉強不足だから。
もっと文献を読み込めば、
「なんだ、作り話か」ってことになる。
これは、もともと倭姫命が実在するという前提で、倭姫命の足跡を探ろうと文献を調べた結果としての結論なんだよ。
59:2010/12/15(水) 20:29:55
>>58
はいはい、おぬしは直木孝次郎に洗脳されてるんだろ?w
洗脳されてるていうのは分かったから、天照大神は八世紀という証拠をだしてくれw
それが出来なければ、単なる貴方の妄想と言うか、哀れな言葉としか受け取れないねぇ。
60日本@名無史さん:2010/12/15(水) 20:48:02
>>58 それが事実だと学会で信じてる人はいません。

いったい どこのガッカイや?
まさかアソコのことやないやろな

どうもこいつ 権威を背景にして上から目線でしゃべろうとするところを見ると、例の鹿島珍流みたいな気がするぞ
61唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 20:49:17
>倭姫命の足跡を探ろうと文献を調べた結果としての結論なんだよ。

倭人伝に云う
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁

これが正しければ、倭姫命も正しい事になる。
伊勢は、武淳川以降の武人の地であり、古墳を全国展開した勢力でもある。


62日本@名無史さん:2010/12/15(水) 21:00:13
>>59-61

で、天照大神が、大化改新以前から祀られてたという証拠は?
そういうことを信じてる大学教授とかいる?
古代の天照大神の存在証明の論文とか、あるの?

ないよねー。

君らが何を反論しようと、こっちは痛くも痒くも無いよ。
君らの言ってること、全部妄想じゃないか。
63日本@名無史さん:2010/12/15(水) 21:02:59
あと、なんだ>>59
直木孝次郎に洗脳されてるだあ?
戦後の文献史学を主導してきた権威ある先生を、安本とかと同列に扱わないでほしいよね。
失礼だろ。
64:2010/12/15(水) 21:09:20
ぷっ この直木孝次郎信者〜怒り出したぞw
誰かなんとかしてくれーっwwww

65日本@名無史さん:2010/12/15(水) 21:15:44
直木孝次郎を煽るって、世間から隔絶されすぎじゃね?

皇国史観から脱皮した戦後の文献史学に果たした功績はなんだと思ってる?
古代史を研究してる人は普通、直木孝次郎から真実を探る姿勢を学ぶんだよ。

66唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 21:18:58
神は、実在の存在でない以上、その存在は証明されない。
これを逆手にとっても、神の存在は否定出来ない。
だから宗教は存続できる。
67日本@名無史さん:2010/12/15(水) 21:19:17
「メ」とか言うやつが何者か俺は知らんが……
まあ、どうせ直木孝次郎の本なんて一冊も読んで無いだろうがな。
トンデモ本とは対極にあるマトモな学術本だから、君らには敷居が高すぎるか。

68日本@名無史さん:2010/12/15(水) 21:21:18
>>66

とうとう自分らのやってることは、「宗教」と認めたのか。
それならそれで、言うことはないがな。
「九州説教」
「神武東征教」
「ホツマ教」・・・

あ、畿内説は学問だから、間違えるなよ。
69:2010/12/15(水) 21:23:33
壬申の乱でぐぐれ〜バカ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

アマテラス信仰は、八世紀より前だてw
70日本@名無史さん:2010/12/15(水) 21:30:47
>>69

天武が、天照大神を祈願したとか言いたいのか?

それは、「天照大神」じゃなくて、伊勢土着信仰の「伊勢大神」ですから。


71:2010/12/15(水) 21:33:38
だから、その伊勢大神がアマテラスだっつーのw こいつバカだべw

http://www.weblio.jp/content/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%A4%A7%E7%A5%9E
72日本@名無史さん:2010/12/15(水) 21:35:19
アマテラスが8世紀の造作だというんなら、
崇神や神功や仁徳も8世紀の造作か?
そうでないという証拠はあるん?
73日本@名無史さん:2010/12/15(水) 21:49:02
>>71

伊勢の土着の太陽神である伊勢大神を、あとから天照大神という名前にしようって、8世紀に朝廷が決めたの。
まず、そこから理解しようか?

>>72
昔、仁徳天皇陵と呼ばれてた古墳は、大仙古墳に名前が変わったろ?そういうことだよ。
74唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 21:52:06
>畿内説は学問だから、間違えるなよ。

学問であれば、伊都国を傘下に置く女王卑弥呼は畿内にいない。
75太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 21:55:06
アマテラスは現今で言えば、超ミス・ユニバース級の美女です。
柳腰の細面の小柄で神々しい美人ですよ。

ホツマのいう男神というのは出鱈目です。
76唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 22:02:15
>あとから天照大神という名前にしようって、8世紀に朝廷が決めたの。

8世紀なら文献が有ってしかるべき。
出していただきましょ。
77日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:04:04
太国はアマテラスを見た事があるのか??
どこで見た?
78日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:05:50
一般人が見れるわけねぇーだろう。
79:2010/12/15(水) 22:07:05
>>73
理解力のない頭だな・・・小学生以下(河童君とか、みのもん太以下)だねぇw
その伊勢の土着神ていうのが、おれが>>57でかいたとおり、奈良の宮中に祀られていたんだよ。
だれか、直木孝次郎教に古代史教えてやれよw
80日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:07:33
太国さんは占術で、卑弥呼の顔を見たとも言ってますね。
81太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 22:09:27
>>40 >>43 続き
女王卑弥呼の即位年は227年だったということだ。だからほぼ在位は20年位
のもようである。崇神即位の10年前、九州で即位したのだ。

卑弥呼即位の 227年=太和元年 だから、魏の国号は女王国のある日本
(大和:但しここでは畿内になろう)に併せ、酷似した ・ の
入る「太和」としたのであろう。「魏」自体も倭の「委」と
鬼道の「鬼」の合成字になってるから、非常に邪馬壹国と魏とは仲が良かっ
たということだな。
82太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 22:11:46
>>77
古神道の卜事で本物を完全に熟達すれば、マクモニーグル以上に分かり
ますよ。
83日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:13:23
>太国さんは占術で、卑弥呼の顔を見たとも言ってますね。

卑弥呼は美女だったのか?
84太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 22:14:29
卑弥呼は別人でしょ。美女〜? う〜ん?w
85日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:15:10
卑弥呼は平安美人だったんだよ。
つまり現代ブスだ。
86日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:23:05
太国、
おもしれぇーよ。
もっとおもしろい話聞かせてくれ。
俺は巷の四柱推命なら知っている。
だけど、それは太国からすれば全くの出鱈目占いなのか?
ところで1年は本当に昔から365日なのか?
1年は本当に12ヶ月なのか?
87日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:25:04
>>79

根本的な話といたしましてですね、
仮に、そう、崇神が天照大神を祭ったとしても(日本書紀でも厚遇して祀ったようには書いてませんが)
それが伊勢で伊勢大神となったとしてもですね、
その後の大和朝廷から見れば、皇祖神でもなんでもない、ただの伊勢の大神にすぎなかったと、
こういうわけなんです。

たとえば、持統天皇6年5月の記述を見てみましと、
26日に伊勢、大和、住吉、紀伊の4箇所の大神に、新宮築造の祝いに幣帛を奉らせたとあります。


伊勢大神が、皇祖神の天照大神なら、朝廷に幣帛を奉らせるなんて、おかしいわけです。
ようするに、「伊勢の大神」というのは、持統の時代にあっても、大和を守護する地方神のひとつにすぎなかったと、
こういうことなんですわ。

さらには、伊勢神宮の神官が、伊勢国の税を免除してくれと懇願してる記事まであります。
これも、伊勢神宮が皇祖神を祭っていたなら、おかしな記事です。
88日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:33:55
>>87
ふむ。では、高木神と、大神神社に鎮座する大物主神との関係は?
祭祀遺跡は、4世紀後半〜6世紀頃までで、4世紀代の磐座祭祀は多量の滑石製模造品、
土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える。6世紀には子持勾玉を用いた祭祀が盛ん
に行われている。
89唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 22:34:19
>新宮築造の祝いに幣帛を奉らせたとあります。
>朝廷に幣帛を奉らせるなんて、おかしいわけです。

仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。

東晋が倭国に朝貢するなんて、おかしいわけです。

まあこの程度に書き換えはある。
90太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 22:38:04
>>81 続き
晋書
 「不知正歳四節但秋収之時以為年紀 人多寿百年或八九十 国多婦女
  不淫不好 無争訟犯軽罪者没其妻孥重者族滅其家 舊以男子為腫 漢末
  倭人乱攻伐不足乃立女子為王名曰く卑彌呼」

〜後漢の末に倭人の乱となり・・・女子を立てて国王とした。名は卑彌呼と
 いう。

このことから、後漢滅亡が220年で、227年女王即位はだいたい整合して
いるようである。
91日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:49:49

畿内説が生き残っているのは文科省が畿内説に予算を厚く配分しているから。
文科省は悪名高い「新しい歴史教科書を作る会」等のトンデモ史観を持つ連中に
害されている。
文科省は現代史も侵略を進出などと書き変えて誤魔化そうとしたし、
出鱈目な歴史を作る事に熱心だ。

畿内説は学問ではない。
旧石器ねつ造と同じ構造である事を知るべし。
92太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 22:54:32
>>86
>四柱推命
これについては、それがしの対象ではなく、おそらく古神道との関係は
聞いてないから薄いでしょう?

真物はありますが、それは易占界では利害大なる故に〜説明し始めれば、
猛反対を受けますよ。マジックのタネを公開すれば、この関係団体から
猛反対が出る如くです・・・。doontakuka氏がそれがしに易の素人だと
舐めていたことがありましたが、彼も知らないでしょうね。w

ただし通常の易占も真の一端はありますから、易者にニセ者呼ばわりは
可愛そうですね。ただそれが全部だというものでもないということです。

>昔から365日なのか
これは天文学もからんでいますな。

平成19年3/17  6ch「世界不思議発見」

「3億5千万年前は1年が約400日近くあった。地球の自転が早かったから
 である。珊瑚の年輪の中に日輪があり、その数で判明。

神武以降は、1年が現今の半年などの2倍年暦等の時代があったということ
ですね。
93日本@名無史さん:2010/12/15(水) 22:58:33
>>91
>文科省が畿内説に予算を厚く配分しているから。

この金の流れを説明してみろよ。大体教科書は両論併記だろ。
94太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 23:05:31
>>86
「真真の洛書」「西遊記」あるいは「西遊記って」でググれば、太の
コテハンでこの話の一端を読めます。
「西遊記って」(2ちゃん)の>556〜>566の箇所です。
95日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:19:38
>>88

大物主は三輪山の蛇神でしょう。
高木神とは関係ないのでは?

高木神は、葛城のの高天(高天原ではない)の神ですよ。
96:2010/12/15(水) 23:23:24
>>87
えっとですね・・・まずは「神社」というのを知らないからそんなこと言ってるんです。
昔は、伊勢・八幡の両宮を日本国家の二所宗廟とし、称えてきた過去があるんです。
これは奈良時代以降なんですが、伊勢というのは「皇祖天照大御神」を奉斎する宮で、古神道を守り続けてるが、
八幡というのは、日本全国には神社が約十一万あり、そのうちの四万をしめる最大の分社を持つ宮で「皇神応神天皇」ですよね。
その奈良時代には伊勢を抜き日本一の大きな神封を与えられてるぐらいですから、
今でこそ日本一は、伊勢神宮ですが、その昔、八幡宮が全国一といわれてた時期もある。

そして、神社には、「原始神社」、「社伝神社」とがあり、これらの伊勢・宇佐、両宮は後者の社伝神社となります。
原始神社とは、伊勢・宇佐とかよりも前の段階で、三輪山そのものを御神体とする国家神・三輪神の「大神神社」が代表的です。
八幡神は571年に現れてますから、それより以前、すなわち五世紀以前の
天皇家の祖である天つ神の代表は、三輪神というのが多いの研究者のみかたと思う。
五世紀以前の当時、三輪神がヤマト王権の奉斎する、最高の国家神という。
天照大御神はというと、私が上で書いたとおり、この三輪神を国家最高神とした中でも
アマテラス信仰は、あったでしょうね。
97日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:23:29

 高木神は高来神だろ?

98:2010/12/15(水) 23:25:45
失礼〜98を部分的に訂正

「社伝神社」・・・×
「社殿神社」・・・○
99唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 23:25:49
>この金の流れを説明してみろよ。大体教科書は両論併記だろ。

金の流れでは無いが、箸墓を250年±10年と発表する。
これは、卑弥呼を念頭に置いた思考であろう。

私は、箸墓築造262年成務元年とする。
否定されるほど誤差は無いが、気分的にしっくり来ない。
100日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:29:57
>>95
もちろん両者は違います。そういうことを聞いているのではなく、ヤマト王権内で
老舎はどのように性格付けられ、祀り分けられていたのか、ということです。
101日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:31:40
>>99
>私は、箸墓築造262年成務元年とする。

理由は?
102日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:32:15
老舎×  両者○
103:2010/12/15(水) 23:33:34
へぇ〜この「太」って太国さん?
なんか詳しく語ってるねw
http://minzocu.denpark.net/1004995377.html
104太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/15(水) 23:36:18
>>101
奴は、編年の具体的説明をしことなんか全然無いよ。餌をつけないで
釣りをしているわけ。大魚(奴の論の納得者)はこれではかかるわけ
がない。ただこうだ〜と息張っているだけで、説明しても1〜2行
程度の抽象的文言でした素振りをして誤魔化す。これが奴の毎回の
やり口。出鱈目野郎なんだよ。

zzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・
105:2010/12/15(水) 23:42:34
なんか、天照大神は八世紀以前からあるっていうのを、私がまとめてしまった感あるねw
ジョーカーよ、こうやって議論するんだぞ!ってなもんだww

さて、おれも寝ようかな あばよzzzz・・・・・・・・・・・
106唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/15(水) 23:43:10
垂仁天皇 217年〜239年 4章 ホケノ山古墳。景初3年。纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年〜261年 2章 箸墓は箸陵。鐙の登場。遠国をまとめる為「屯倉」導入
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年〜265年 3章 
仲哀天皇 266年〜274年 0章 273年日食(神功元年に注入)

3章 19年×3回=57年分の空白年の差し込み
景行は、九州から関東までを平定した、最初の大王で有る。
考古学は箸墓を最初の大王と表現する。

107日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:47:55

イヨタン・・・・・・・・・・
 
108日本@名無史さん:2010/12/15(水) 23:54:34
しかし、メ はトンチンカンだね。葛城厨が言ってることは、記紀の崇神天皇、倭姫の
記事も、記紀編纂時に創作され、挿入されたのはないかということだろう。それに対して
後代の摂社の数なんかもってきてもしょうがない。神明社なんかどこにでもある。

おそらく記紀編纂時に何らかの理由で女性の太陽神が必要になり、そこで伊勢の古く
からの地方神に目をつけて天照大神とした、というあたりだろうね。伊勢大神は遡ること
ができるが、天照大神は遡れないということ。

109唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/16(木) 00:03:15
>女性の太陽神が必要になり、

読み方が悪い、書紀には女とは書かれていない。
ただ、機屋に斑駒の皮を投げ入れられ、驚いた。としか書かれていない。
本人がいなくとも、自分家に自動車が飛び込んだと知らされれば、誰でも驚く。
驚くのは女だけなのか?
110日本@名無史さん:2010/12/16(木) 00:08:00
ヘンな理屈w
111日本@名無史さん:2010/12/16(木) 00:10:05
>>96
>天照大御神はというと、私が上で書いたとおり、この三輪神を国家最高神とした中でも
>アマテラス信仰は、あったでしょうね。

前半でもっともらしいことを書き、最後にさらっとウソをついて人を騙そうとする手法はやめなさい。
安本って言われるぞ。

112日本@名無史さん:2010/12/16(木) 00:13:53
メ は何もわかっちゃいないんだよ。だいたい八幡神というのは神仏習合だろう。
つまり後代の作為が加わったもの、ということ。

>>109
姉 という言葉は出てくるんじゃないですか?
113日本@名無史さん:2010/12/16(木) 00:15:37
メの戯言に耳を貸すやつはいないよ。

そのうち消えるだろ。

114唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/16(木) 00:17:37
太陽は男、月は女。これが世界中の昔からの伝統である。
男に月のものはない。
115唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/16(木) 00:21:02
>姉 という言葉は出てくるんじゃないですか?
姉の下に弟がいて何故おかしい?
弟(社長)の下で働く姉(社員)が存在しないのか?
116日本@名無史さん:2010/12/16(木) 00:25:20
天照大神の正体としては、↓が妥当なところだろ。


ttp://www.loops.jp/~asukaclub/hmemo/hmemo013.html

そして、そのもともとの天照大御神という男性神については、古代史研究家の原田常治氏は、
「天照国照彦火明櫛玉饒速日(あまてらすくにてらすひこひあかりくしたまにぎはやひ)命」が正確な名で、
この人物は神武東征のところに登場する「饒速日命」ではないかと述べられています。
この説の論拠の一つとして、伊勢に天照大御神が登場する以前の古社の祭神に饒速日命を祀っている社が多い事が挙げられています。


117唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/16(木) 00:29:50
社長(大神)の工場に斑駒を放り込んだスサノウに社長(大神)にあわせる顔がない。
だから姉に会ってから去ろうとしたんだ。
118日本@名無史さん:2010/12/16(木) 00:33:37
>>16 ドツボ
>原始信仰を称える偉大な巫女が現れ、その偉大な巫女を祖霊とするようになり、
>祖霊信仰が始まる。

相変わらずイタイ事を言う奴だな。

「偉大な巫女」というのは卑弥呼のことか?
それ以前には「祖霊信仰」がなかったとでも?

弥生の墓制の発展経緯を見れば集落枝分かれ=分村しても
墓はその出身母体たる集落に築かれると言う「帰葬」が行われている
自分達の「ルーツ」に対する思い入れがあったんだろう。

…と言うかこんな事例出さずとも祖霊信仰とか精霊信仰と言うのは
もっともプリミティブな部分と言うのは誰が考えても思い至ると思うのだが

ドツボの感覚はチト分りにくいなw
無論好んで分りたいとも思わないがwwwwwww


>>14 ドツボ
>対馬だけじゃないってw九州各地(とくに高良大社付近)にあるはず。

何か勘違いしていないか?
延喜式神名帳に見えるものを言っているんだが?

もしそれが九州各地にあると言うのなら具体的に挙げてくれ
119唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/16(木) 00:39:06
ホ27053 ハラミヤの クニテルをつぎ アマテラス ニギハヤヒキミ
モにいりて シラニワムラの ミカハなす

「饒速日命」も天照大神の子孫である。
饒速日の息子にウマシマヂがいて、ナガスネと共に筑紫を出奔する。

ホ29043 シホツチノ オキナすゝめて ニギハヤか いかんぞゆきて むけさらん

120日本@名無史さん:2010/12/16(木) 00:39:06
メ が何かをわかってるということはないよ。偉大な巫女が出現したのなら
なおさらその血筋は特別視されるだろう。卑弥呼の宗女台与というように。
祖霊信仰というのはもっと以前から自然発生したものだろう。
121日本@名無史さん:2010/12/16(木) 00:53:03
>>119
ウマシマヂがなんで筑紫にいるんだよ。
戯言もたいがいにしろ。
122唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/16(木) 01:07:23
名曰可美眞手命。〈可美眞手。此云于魔詩莽耐。〉故吾以饒速日命爲君而奉焉。
ホ29215 ニギハヤヒ イトミカシヤを キサキとし うむミコのナも
ウマシマチ わがキミはこの ニギハヤヒ

まさか筑紫を出奔したのをナガスネとニギハヤヒとするのか?


123日本@名無史さん:2010/12/16(木) 01:11:25
どこに、ニギハヤヒが筑紫にいたって書いてあるんだっての。
124唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/16(木) 01:11:49
ホ29229      カンオシテ ナガスネヒコに
ホ29230      しめさしむ すゝまぬイクサ
ホ29231      まもりいる ねんころをしる
ホ29232      ニギハヤヒ わがナガスネが
ホ29233      うまれつき アメツチわかぬ
ホ29234      かたくなを きりてモロひき
ホ29235      まつろえは

125日本@名無史さん:2010/12/16(木) 01:29:09
ニホンゴ、ワカリマスカ?

どこに、筑紫にいたって書いてあるんだっての。

126日本@名無史さん:2010/12/16(木) 02:16:01
天照大神の神話のからくりについて、改めてご説明いたします。
本当でしたら、学会の常識なのですが、どうもこの板は不勉強な人が多いようなので。

記紀は天武天皇が作らせ、持統天皇の代に完成しました。
この両者の天皇に都合よく書かれたのが日本神話です。神話の大部分は史実ではありません。

まず、天武天皇の皇后に持統天皇がいますが、天武には、その他にも妃がいて、子供もいます。
持統天皇は、自分の子供に皇位を継がせようとします。
天武と持統の間には草壁皇子がいますが、天武が死んだ後、すぐには草壁皇子を天皇に即位させませんでした。
草壁皇子は病弱だったからだといわれます。で、皇后の持統天皇が即位します。
そして、草壁皇子の子が、祖母・持統天皇から譲位されて天皇位に就き、文武天皇となります。
697年のことです。そしてすぐに712年、720年に記紀が編纂を終えました。

持統天皇の孫の文武が即位した構図は、
天照大神の孫のニニギが天孫降臨したのと同じ構図なのです。
つまり、日本神話とは、持統天皇を天照大神に見立てて、
8世紀の社会状況を投影したものとなっているわけです。

天照大神の神話が古代からあったわけではなく、8世紀に創作されたことは明らかなのです。
モデルとなった伊勢大神はありましたが、女神という性格付けはありませんでした。
女神にされたのは、持統天皇が女帝だったからです。ちゃんちゃん。


127日本@名無史さん:2010/12/16(木) 02:20:55
これ、もっともらしいけど証拠はないよ。
128日本@名無史さん:2010/12/16(木) 02:41:36
文武天皇の妃は藤原宮子(藤原不比等の女)で聖武天皇を生みます。
おかげで、天下は藤原氏のものになりました。
藤原氏の系譜の大中臣が渡会氏にかわり伊勢神宮を支配します。

伊勢神宮には、律令施行の前後から神職の長として祭主と大神宮司とが置かれた。
祭主には当初から中臣氏のものが似んぜられたが、
大神宮司は必ずしも中臣氏とは限らず、大朽・村山・津島・摺宜・菅生などの諸氏が任ぜられた。
 ところが藤原鎌足のいとこにあたる中臣国足の子・意美麻呂とその子清麻呂とが、
祭主および神祇伯となり、政界でもその功績が大きかったので、
神護景雲三年(769)、清麻呂の姓に大の字を加えられて、以後大中臣氏と称するようになった。
それとともに、清麻呂の子孫が、神祇官の要職と、神宮祭主および大神宮司の職とを継承するようになった。

藤原氏が朝廷の祭祀権を掌握し、伊勢神宮に赴任したことで、
伊勢の土着の神だった伊勢大神は、皇祖神・天照大神にすりかえられていったわけです。

真実は神話よりもよほど面白いですよ。
129唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/16(木) 12:45:11
>天照大神の孫のニニギが天孫降臨したのと同じ構図なのです。

この”天孫降臨”とは、九州大物主の治める国の一角、葦原中ツ国に住む事を許されただけだ。
天照大神が国を統一したわけでは無い。だから大和でも大物主は登場する。
これと文武天皇即位が同じ構図であれば、大物主の代わりに天兒屋命(藤原)が天下を治めていた。となる。

では何故、大物主が天兒屋命(藤原)になるのか?
同じ構図で良ければ、大物主だろ。

130日本@名無史さん:2010/12/16(木) 14:05:12
持統天皇が天照大神云々の話は、定説というほど固まった支持は得ていないと思われるのだが…。
131太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/16(木) 14:07:40
>>119 >>122 >>124
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と口撃していた男が〜〜
〜偽書といわれwる書物を持ち出した〜。
132日本@名無史さん:2010/12/16(木) 14:08:36
ホツマは江戸時代の著作です。作者もわかっています。
133太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/16(木) 15:22:07
>>106
>成務天皇 262年〜265年
        ↑
>>101さん、上に騙されないように。以下の通り。

成務5年 金神社(岐阜市)物部臣賀夫良が国造として赴任
成務6年 熊野神社(千葉県)同年 創立
成務6年 日御崎神社(出雲国)海藻を神社欄干にかける
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口市)大己貴神の分霊を迎え 祀る
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県内に当社の分社を作る
成務12年 静原神社(京都府)同年3月午日 鎮座
成務13年 岩屋神社(明石市)成務の勅命により淡路島岩屋神社から御祭神を勧請
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から御託宣あり
成務14年 与位神社(兵庫県)同年 2/11 鎮座
成務19年 可美真手神社(神戸市)同年 3/9 創建
成務21年 鐸比古鐸比売神社(大阪府)同年 創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)武国凝別命 天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(出雲市)須佐家が国造を命じられる
成務38年 加富神社(四日市市)産土神として采女の祖神を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)大伴久応の墳の石碑に同年4/15 の文あり
成務48年 千如寺大悲王院(福岡佐賀県境)佛教公伝前の同年 印度僧清賀上人開創
134日本@名無史さん:2010/12/16(木) 16:57:56
>>130

定説だろ。

誰か、持統=天照大神説を批判してるのか?

安本だって批判したくても怖くて手が出せないんだぜ。
ヤブヘビで自説が崩れてしまうからな。
135日本人2B:2010/12/16(木) 17:09:37
哈哈~
136日本@名無史さん:2010/12/16(木) 18:31:26
まあ 天照=持統 説は良くできた話で、少なくとも 天照=卑弥呼 より
いつ誰が何の為にそれを組み立てたか?を具体的に描き出せる点でも有力だとは思うが
流石に学会で定説と言うのは言いすぎだろう。

「誰が持統=天照大神説を批判してるのか?」なんて言い出したら
「じゃあ誰が天照=卑弥呼説を批判しているのか?」って話で
そもそも証明する手段なんてないだろう。

良く元々男神が女帝(持統)にあわせて女神になったと言う話にしても
俺が時々言っているアッサムに伝わる岩屋の美女をおびき出す話もあるし

また、草壁(やピンチヒッターとしての女帝)はさんで言わば”皇位の隔世継承”が
天”孫”降臨に暗示されていると言うお話にしても
モンゴルの神話の至高神サガンの ”孫” のゲゼル・ボグドゥが降臨している筋書きにその原型を見ることもできるだろう。

繰り返しになるが
確かに 天照=卑弥呼 説より随分リアリティのあるお話ではあるがwwwwwwww

137日本@名無史さん:2010/12/16(木) 20:10:14
鹿島神流のやつ、あっちの九州説剥離スレで

ボッコボッコにされてるね(いいきみだw)
少しは、スレをまわす、大変さが分かるだろうよw
138ローガン:2010/12/16(木) 20:41:52
>>137
> 鹿島神流のやつ、あっちの九州説剥離スレで ボッコボッコにされてるね(いいきみだw)

そうは、思わないが…
139日本@名無史さん:2010/12/16(木) 20:42:02
>>136
>流石に学会で定説と言うのは言いすぎだろう。

いや、定説ですよ。
異論なんて聞いたことないし。

天照大神が、大化改新以前から存在してたことを示唆するような論文は、どこにもないんです。


140日本@名無史さん:2010/12/16(木) 21:05:50
>>138
ローガンさん 箸墓周濠出土の輪鐙についてどう思いますか?
畿内説の立場としてコメント願いマス

http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=84&summary=on
141日本@名無史さん:2010/12/16(木) 21:06:05
今時「大化改新」って。
142日本@名無史さん:2010/12/16(木) 21:26:37
天照国照彦火明櫛玉饒速日
あめてらすくにてらすひこ・ほあけくしたま・にぎはやひ
天上天下あまねく照らす火の御霊たる太陽よ!
つまり太陽の単なる美称
143ローガン:2010/12/16(木) 21:55:01
>>140
>ローガンさん 箸墓周濠出土の輪鐙についてどう思いますか?
> 畿内説の立場としてコメント願いマス

ん? 前スレでやったやん。ほんこないだ。
144メ(寝る前):2010/12/16(木) 22:03:03
>>108
>おそらく記紀編纂時に何らかの理由で女性の太陽神が必要になり、そこで伊勢の古く
>からの地方神に目をつけて天照大神とした、というあたりだろうね。伊勢大神は遡ること
>ができるが、天照大神は遡れないということ。

108はイヨタンさんかな?しかし、あいかわらず馬鹿だねw
「天照大神」も「神武天皇」も当時の名ではなく、ずっと後代の送り名。
天照大神とは大日孁貴神という人物(ほつまではアマテル神)を指す。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%A4%A9%E7%85%A7%E5%A4%A7%E7%A5%9E

伊勢大神というのは、内宮の後で名づけた天照大神と同一神だってモンタでも知ってるぞ。

>>112
>だいたい八幡神というのは神仏習合だろう。
>つまり後代の作為が加わったもの、ということ。

神仏習合だからなに?話がかみ合ってないなw
145日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:04:22
メの時代は終わったんだよ。
もう来るな。

146日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:06:40
実に他人のレスの理解が不十分なことがよくわかる。
147日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:08:42
だったら、暇つぶしに、九州説スレにでも行って、馬鹿どもを、おちょくって来い。
148メ(寝る前):2010/12/16(木) 22:18:47
>>118
>>原始信仰を称える偉大な巫女が現れ、その偉大な巫女を祖霊とするようになり、
>>祖霊信仰が始まる。
>相変わらずイタイ事を言う奴だな。
>「偉大な巫女」というのは卑弥呼のことか?

何が痛いのかよくわからんが、考古学ばかりやってるんじゃなく、民俗学もみろょ。

>それ以前には「祖霊信仰」がなかったとでも?

神社の話をしてるんだよ。
考古学しかみとらんから話についていけないんだろ?

>弥生の墓制の発展経緯を見れば集落枝分かれ=分村しても
>墓はその出身母体たる集落に築かれると言う「帰葬」が行われている
>自分達の「ルーツ」に対する思い入れがあったんだろう。

弥生の墓制でかならずとも帰葬が行われてるなんて聞いたことが無い。
それに帰葬って確か奈良時代の遺跡でそれが確認されたんじゃなかった?

>…と言うかこんな事例出さずとも祖霊信仰とか精霊信仰と言うのは
>もっともプリミティブな部分と言うのは誰が考えても思い至ると思うのだが

原始信仰に対する「祖霊信仰」の話をしてるんだよ。

>何か勘違いしていないか?延喜式神名帳に見えるものを言っているんだが?
>もしそれが九州各地にあると言うのなら具体的に挙げてくれ

対馬の例は延喜式神名帳からってことね。
具体的にって、すこしは自分で調べろよ(めんどい)。
149メ(寝る前):2010/12/16(木) 22:25:46
>>120
>偉大な巫女が出現したのなら
>なおさらその血筋は特別視されるだろう。卑弥呼の宗女台与というように。
>祖霊信仰というのはもっと以前から自然発生したものだろう。

う〜ん 君ら本読んでる? なんか話がかみ合わないな・・・
150日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:31:03

トヨタン・・・・・・・・・・
 
151日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:32:24
書けば書くほどドツボにはまる。
152メ(寝る前):2010/12/16(木) 22:34:18
>143
では、もういちどお願いしますw
私的には、主体部ではなく「周濠」から出土してるので
箸墓の築造時期のものではないと思う。
おそらくは、墓がある状態で、後代に紛れ込んだモノでしょうね。
153日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:37:21
>>150
>トヨタン・・・・・・・・・・

君もロリってばかりいないで
何か書きなよ、w
台与について考えてることとか、
154メ(寝る前):2010/12/16(木) 22:39:46
>153
>トヨタン・・・・・・・・・・

そいつ馬鹿だからさw ロリコンして妄想してることしか書き込めないから
アテにしちゃ駄目なのさw

155日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:40:16
156日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:42:16
>>154
早く寝ると www が夜に来て、さんざん書き込まれますよ。
157日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:45:08
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
158日本@名無史さん:2010/12/16(木) 22:49:18
>>155
とよたんは美人だなあ、w
でもこれ成長して二十歳頃のイメージだろうな。
159ローガン:2010/12/16(木) 23:08:48
>>152
>私的には、主体部ではなく「周濠」から出土してるので
> 箸墓の築造時期のものではないと思う。

ええ。造っている最中では無い。

> おそらくは、墓がある状態で、後代に紛れ込んだモノでしょうね。

勿論、周濠が機能を終えてからね。
160日本@名無史さん:2010/12/16(木) 23:20:13
>>159
では、そのネタをここのサイトに持っていきましょう
そしてボコボコにされてきなさいw 
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=84&summary=on

もう寝るwwww
161日本@名無史さん:2010/12/16(木) 23:20:18
あの鐙は木製だから、
周濠に水がたまっているときに投げ込んでも浮いたままで、
なかなか沈んでいかないのと違うか?
162日本@名無史さん:2010/12/16(木) 23:26:54
民俗学って、学問の体裁はあるけど、
実質上、何の役にもたたないからな。

仮に、民俗学が何かを証明するのに有効だとしても、
天照大神は、民俗学的に見ても、伊勢の土着神、しかも川の神だったり蛇神だっていうわけだから。

163神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/12/17(金) 00:33:38
邪馬台国の卑弥呼=9世孫・日女命=天照大神。これが真実です。
邪馬台国の台与=11世孫・日女命=豊受大神。これも間違いない。
164日本@名無史さん:2010/12/17(金) 00:38:02
海部氏系図ですか・・・。
165日本@名無史さん:2010/12/17(金) 01:33:27
>>148 ドツボ

なんと言うか知ったかぶりで大風呂敷広げてドツボにはまっていく
いつものドツボのパターンだなwwww

>何が痛いのかよくわからんが、考古学ばかりやってるんじゃなく、民俗学もみろょ。

民俗学ねえ…岡正雄とかアマテラス信仰に母系母権的社会を見るというのはあるが

歴史上どこかで画期として「偉大な巫女の出現」に祖霊信仰の始まりを見るなんて
そんな話は”それっぽい話”ですら聞いたことがないしw

もしも、ご存知の野郎サマがいらっしゃいましたら
この無知な俺に是非ご教授お願い申しあげちゃったりいたしまするw

そもそも民俗学の範疇に入るのか?って話だがwwww

>神社の話をしてるんだよ。
>考古学しかみとらんから話についていけないんだろ?

話を神社・神道における祖霊信仰と絞ったところで
「偉大な巫女の出現」なんて話しが具体性を持つとも思えないがw

もうアタマの中で神話学・考古学・民俗学がグチャグチャになって
『 ドツボ神話体系 』とでも言うものが沸いているんだろうか?wwwwwwwwww
166日本@名無史さん:2010/12/17(金) 01:35:35
まだやってるのかこのゴミクズ
167日本@名無史さん:2010/12/17(金) 01:42:43
>>162
>天照大神は、民俗学的に見ても、伊勢の土着神、しかも川の神だったり蛇神だっていうわけだから。

まあ伊勢・東海土着の太陽神については

ニニギの天孫降臨時に水先案内人・露払いをやった「サルタヒコ」と言うのがそれっぽいw
168日本@名無史さん:2010/12/17(金) 01:53:47
まあ適当に言わんでもwwwww
169日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:01:04
>「サルタヒコ」と言うのがそれっぽいw

これは伊勢の土着神でいいでしょう。何故か天狗になってしまいましたが。ww
170唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 11:45:32
天照大神は、弥生初期を中期に変えた、辺りの神話。
神武は、弥生中期を後期に変えた、時代の人間
崇神は弥生後期終末を飾る。209年任那建国
景行は、日本を統一し、箸中山古墳に眠る。

崇神を箸中山古墳の時代とした場合、任那建国の場所が無い。
これでは、最初の大王墓、箸墓が築けない。
任那建国により、垂仁から鉄が流入するから、大和は大きくなる。
決して四道将軍の結果では無い、まだ鉄のない纒向遺跡の時代である。
古墳築造は、鉄が流入したことを表す。


171日本@名無史さん:2010/12/17(金) 14:54:16
>170
知っているかな
幅12mの直線道で国府間をつないだ古代街道は木製の鍬や鋤で造られたのを
172日本@名無史さん:2010/12/17(金) 15:06:03
青銅器しか知らなくても栄えた文明はあるよね。
173太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 15:15:11
>>170
景行が日本統一をしたというのは、真っ赤な大ウソのデタラメである。
当時のころ前後、九州には九州王権、王朝が存在しており、たとえば倭の
五王なんかがこれであるが、こういうことから景行が日本統一したとは全然
ならない。日本が統一(蝦夷は別として)されたのは、もっと後代の元明
あたりの記紀成立の手前ころである。
174唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 20:42:27
>もっと後代の元明あたりの記紀成立の手前ころである。

それまで大和が九州を越えて半島を占拠したことは無い。
としたいのね。であるならば、書紀の記事は信用出来なくなる。
当然、書紀の数字は直接2倍とか3倍に引き延ばされている。と主張する
根拠が無くなる。
175日本@名無史さん:2010/12/17(金) 20:54:30
ほら ローガンさん

縦目相手に「オレハビビッテルワケジャナイゾ」ってところ見せて下さいよw

二ルートの「ニオホンゴワカリマスカ」はもういいからw
176日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:00:08
縦目ょ
いまからローガンさんが「オレハタテメニ、ビビッテルワケジャナイゾ」
てところみせるから 待ってろよw
177太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 21:42:11
>>174
米国が沖縄を占拠したとしても、領土が恒久的に米国になってはいない。
神功が半島へ攻めこもうと、半島が朝廷の完全支配だとは言えない。
当時の朝廷が半島を占拠しても、戦力の疲弊が近づいているなら、支配を
遺棄することは充分言える。ww

九州に景行が行幸して九州の各豪族と戦って勝利を得ても、これはまだまだ
九州支配にはならない。
178日本@名無史さん:2010/12/17(金) 21:52:55
>>170
>古墳築造は、鉄が流入したことを表す。

この唐松山と言うコテの論調で引っかかるのは
この 古墳造営と鉄の流入を直結させる と言う理屈だな。

そもそも古墳時代の初期において絶対量で見れば
まだまだ九州が畿内なんか圧倒していて

それから考えれば九州にこそ巨大首長墓造りが始まっていても良さそうな話ではあるw
(まあ文化の方向性と言うか、鉄器の有用性を巨大墳墓造営以外に発揮したと言うお話もありうるが)

古墳の周濠の底から木製の土木工具が出てくる事例があって
単なる廃棄じゃなくて宗教的な意味を見る説もあるみたいだが
別に鉄器がなければ古墳が築けないと言う話でもないだろう。

鉄製だの木製だのといったツールの問題より
むしろ労力を集約するシステムこそ肝要だろうとw


179太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 21:56:44
>>174
>したいのね

 オマエは古代史研究家の頭をカルト・インチキ・ホツマ狂に洗脳
 したいのね。ww

そうはさせない。><
180日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:12:14
まあ「鹿島神流」なる縦目の荒廃君が考古資料とつき合わせて
リアルでも通用するような九州説を構築しようとする試みも
どうも上手く行かないみたいだなw

無論、殆どの人間がそれを予測していただろうし
そもそもこの「鹿島神流」自身がドコまで本気なのかも分らないがwww

恐らくコアなゴミクズレベル九州説さん達からすれば
下手すりゃ「鹿島神流なんて実質畿内説じゃないか!」と思っている奴がいると思うwwww
181日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:17:57
>>180
あなたが実質シナの工作員なんでしょシナメガネ君
182日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:19:21
つーか鹿島シナ流さんは縦目オカヤマンの別キャラクターでしたか
そうですかご苦労様です
183日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:19:37
>>180
>実質畿内説

そう。そこに本質が見える気がする。鹿島神流は、早い段階の東遷を想定した論
だろう。柳田の伊都国主導論の焼き直しといってもよい。しかし、九州説の多くは、
完全に確立された邪馬台国が力で畿内大和を制圧した、という図式でなければ
気に入らないだろう。そうでなければ、そこにカタルシスはないから。
184縦目仮面:2010/12/17(金) 22:23:20
>>182

俺とはマジ別人だよ。ただし、俺の過去レスをコピペして使ってるようだが。

俺は新しいバージョンのフォトショ を手に入れたんで、その練習で忙しい。ww
185日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:24:00
>>183
>そこにカタルシスはないから。

流石良く分ってらっしゃるwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
186日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:27:03
>>183

そうそう。
東遷説なら、武力で大和を制圧したストーリーでなければならないし、
九州説なら、その後は東遷したことにしないと、邪馬台国は大和に滅ぼされたことになるから受け入れがたい。

どんどん、九州説はトンデモに行くしかない運命なんだよな。
九州説でも、4世紀に邪馬台国は滅んで、大和が九州を経営したとか言えば、十分、論として可能性はあるのに。
自らトンデモに貶めてる九州説バカが多くて笑える。

187日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:30:48
っていって九州説をやり込める構図にしてカタルシス作らなきゃいけないんだよね
畿内説も大変だねー
188唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 22:35:05
纒向遺跡は、崇神から始まり景行をもって余所に移る。
であるならば、
この3代は、2世紀末から3世紀半ばでなければならない。
例えば
任那建国は、伽耶建国であり209年の出来事となる。209年は崇神の治世中である。
景行の崩御が最後であれば、箸中山古墳は、景行が眠る。

箸中山古墳(250年±10年ころ)を崇神世にしたら、任那建国は、魏が半島を管理する時代であり、
任那建国が出来ない。
つまり考古学が50年遡上した意味は、文献史学も50年遡上せねば整合性が得られないことを表す。

189日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:46:56
で、この唐松山ってやつは畿内説なの?九州説なの?
190太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 22:52:22
古代の真の年代を測る古代人からの贈り物→天津神算木(天津金木)
三輪山の山名たる半径r=3の円(三輪)の球化の 体積=表面積 の数式を
天津神算木(天津金木)というのだ。すなわち体積の場合は

 4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はべき)

大祓祝詞に曰く 「大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて」

 3≠113.097335 ----------------------------------@

右辺には見かけの年代

 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位  1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

がある。崇神〜仁徳の代が一個の時代の区間に相当する。これ以前が欠史
八代がその前段階の時代区間になるのである。@から右辺数列を三分して

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年の示唆で除去)
335←崇神即位の実年代を与える年数 335年

 -97+335=238年 だが、西暦0年を除くから1年分マイナスとなり

 238−1=237年=崇神即位元年(真の年代)=景初元年

が得られた。これにて倭笠縫の日神、鏡祭祀が景初3年鏡の年代と合致する。
191日本@名無史さん:2010/12/17(金) 22:56:14
体積=表面積?
192太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 22:57:38
>>189
あるときは畿内兼九州説またあるときは畿内説。
そのときの状況に応じ都合のいい悪いで行ったり来たりするインチキ
の優れもの。
193唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 22:59:20
>>190
だからその数字が歴史を語ることが出来るか?これが肝要。
纒向遺跡も語れなければ、任那建国も無い。

書紀は、任那建国により、鉄が流入するようになる。
その鉄を求めて、吉備や尾張が大和に集まる。
勿論この事実は、魏使の知るところとなり、邪馬台国と書かれる。

算数の数字で語れるのは、算数のみ。歴史を語ることは出来ない。
194太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 22:59:21
>>191
半径r=3で、体積、表面積ともに計算してみなさい。
195太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 23:06:28
>>193
歴史は 崇神即位元年=237年 だと、キチンと歴史を語っている。
半島文献は120年とか前後の断層が多数あり、それがどうのこうの言うのに
こだわることはネヅミ捕りにかかるたわけ者のネヅミ同然の関心事であり、
君子危うきに近寄らず〜そんなものは最後の最後にどうのこうの言えば
いいものである。ww

オマエはクソの役にも立たない日数算数に、猿の手淫の如く凝り固まって
いるではないか・・・。wwwww
196唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 23:14:53
>崇神即位元年=237年 だと、キチンと歴史を語っている。

では、その数字で任那建国を示して下さい。
示せなければ、即位元年=237年か崇神による任那建国、どちらか又は双方がウソとなる。
197日本@名無史さん:2010/12/17(金) 23:15:25
また与太国が『天津金木』とかデタラメをほざいているようだが

オレサマが真実を教えてやろう

御間城入彦五十瓊殖…この名の中に数字が隠されている!

 御間=三巻き=3
 五十瓊殖=50

 合計53

これを文字通り「三巻き」で3倍する

 53×3=159

更に崇神が祀った天照大神と倭大国魂の二神にそれぞれこの数字を捧げる=2倍にする。

 159×2=318

そう、崇神の没年は318年が正しかったのだ!

ちなみに「53」と聞けば東海道53次を思い出す人間も多かろうが

江戸と京を、生と死、この世とあの世を分かつ為に
「53」と言う魔の素数とでも言うべき数字に合わせて宿場を作ったのが実は天海僧正のプランだったと言うのは
知る人ぞ知らない事実だったりなかったりする!!


参考)『古代 秘数術 夏魔鳥亜の神秘!』 藁々出版 他

198太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 23:15:32
>>193
オマエのはカルト・イカサマ・ホツマ狂を語れるだけのペテン師の語り。ww
199唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 23:27:07
>半島文献は120年とか前後の断層が多数あり、

その文献を示して下さい。
示せなければ、ただの言いがかりでしかない。

先に言っときますが、百済本記は、400年頃の高句麗の南下を欠く、
つまり、神功、応神に書かれた百済王朝は正しいが、百済本記には齟齬が有る。
200ローガン:2010/12/17(金) 23:30:26
>>197>>190は同等ですな。
201唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/17(金) 23:31:08
>御間=三巻き=3 五十瓊殖=50 合計53

また男同士をがったいさせる〜。 
202日本@名無史さん:2010/12/17(金) 23:31:23
しかし、mutouha氏とやら馬鹿だねぇ・・・
太国さん&唐松山さんがうろついてる中で年代論を書き込むなんてねぇw
オオカミの目の前で肉を見せびらかしてるもんだw

>@応神天皇は390〜410年頃に活躍した人物(高句麗好太王と戦ったのは主に応神)。
>これから逆算すると崇神天皇は290〜320年頃に活躍した人物。
>A古事記干支によれば崇神没年は318年説が最有力。
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=84&summary=on

あちゃぁーーーーー↓www
203神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/12/17(金) 23:58:35
>>202
なんだ、九州観光協会の鷲崎のHPかよ。あちゃ〜〜〜〜〜っ!
204日本@名無史さん:2010/12/18(土) 00:45:50
そうそう、ミマキはモモソ姫暗殺犯。
そして半島ミマの地出身。
卑劣なテロリストが神を自称するなんて、よくもまあ
205日本@名無史さん:2010/12/18(土) 00:48:38
なんで朝鮮を絡めるんだろうね?

半島に帰れば?
206日本@名無史さん:2010/12/18(土) 00:49:50
ほんとマジ帰ってほしいね
207日本@名無史さん:2010/12/18(土) 00:52:51
V=体積 A=表面積 r =半径
V=4πr^3/3
A=4πr^2
208日本@名無史さん:2010/12/18(土) 01:31:25
巨大古墳は、集約労力システムの成果を現している
つまり奈良時代の租庸調の「庸」の部分
地方が労力を供給し、中央は都を建造する
そんな中央集権国家の片鱗が古墳時代にすでに見て取れるのという事
これは、巨大古墳が集中している大和をおいて、他の地域にはない
209太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/18(土) 10:42:43
>>197 ジョーカー 昨夜は一時規制で書きこめなかったが。今日も連続か〜?w
オマエのは単なる算数であり、天津神算木が無〜〜い。ww

>>190 続き
本末分断の天津神算木(天津金木)は>>190 @ から同右辺末尾に0を不可し

 3≠113.097335=113.0973350 -----------------------@’

 右辺には見かけの年代 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位

右辺末尾三数は ジョーカーの言う 350 となり、これでもよい。先に再掲すると

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代(先頭数0は西暦0年を示唆 これを除去)
335←崇神即位の実年代を誘引させる年代 335年

-97+335=238年 西暦0年除去で-1年にて 138−1=237年=崇神元年=景初元年

いま113を月日数でなく年数とするとき、この 113 とジョーカー数 350 から

350−113=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

の真の年代を得た。w
210太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/18(土) 14:19:27
>>209
113←崇神即位の月日数なるを、単に年数とみなす
097←崇神即位の年代 B.C.97年
3 ←三輪山の数字の3 崇神当時の3倍年暦を示唆
350←ジョーカー数(>>197

ジョーカー数から113年分、差をとる。すなわち

 350−113=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

を得る。
211唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/18(土) 16:07:11
>237年=崇神即位元年

はいはい。崇神即位年は解ったから、任那建国を教えてくれ。
それから、暗黒の日が数日続いたという、神功元年。当然渡海の後だろ?
212ローガン:2010/12/18(土) 16:23:20
>>165
>民俗学ねえ…岡正雄とかアマテラス信仰に母系母権的社会を見るというのはあるが

どうでしょう? 逆ではないですかね?
左旋右旋って、女性主導型の婚姻の否定ではないでしょうか? あまり、よく知らないのですが…
213日本@名無史さん:2010/12/18(土) 16:29:11
縄文・弥生と母系とは思えない。
214ローガン:2010/12/18(土) 17:50:43
>>213
まあ、「無い」とも言い切れず…。どちらもあったのでは。
215日本@名無史さん:2010/12/18(土) 18:02:47
まず、母系・父系の定義自体がこのような場ではあいまいになりやすい。母系「的」などの
語が用いられるのもそのためだろう。しかし、定義付けは本来非常に重要である。

人類学的には、一つの定義として、母系制(または父系制)というのは、特定の血縁のつな
がりを組織概念のシステムとしてもっている社会で、例えば子供は全て母(または父)の血縁
成員権を継承するというように、オートマチックなシステムとしてとらえられる。

この他の定義もあるだろうが、いずれ共通理解を図らないと議論がかみ合わないことになる。
216太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/18(土) 18:18:51
>>211
ハイハイ、42年は解かってないから、早くこれを教えてくれ。〜早くしろい。
これを早急に説明しなさい。こちらは半島人ではな〜い。

暗黒? オマエ何回聞くんだ?
217日本@名無史さん:2010/12/18(土) 18:20:51
本邦の考古学的には、集落の親族関係研究は「ムラ出自論」という方法によって示されること
が多い。これは、墓群や被葬者をある特徴によって二分し、一方がそのムラで生まれ育った
在来者、他方が結婚によって他所からムラに入ってきた婚入者と仮定し、そのどちらか一方、
例えば婚入者がほとんど女性であれば父系、逆ならば母系、男女ともであれば双系というよう
にして親族関係を得るというもの。

これは人類学的な定義とはやや異なるが、実際的な方法であろう。被葬者の特徴は形質人類
学的に検証されるが、その一つに歯冠計測値による分析がある。以下、田中良之氏による研究
例。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/01/000505.html
http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/01/000506.html
218:2010/12/18(土) 19:19:35
巫女さんはおれに惚れてるな・・・・
おれはまだ三十代。巫女さん何才だろうね? っていうのは冗談でww
たまには巫女さんの邪馬台国論ってやつを書き込んで下さいよw

もう、おっさんばっかでww
219:2010/12/18(土) 19:57:48
やっぱり倭人ネタが人気あるのかな?

では、一つ、諸国の二十一国でも

「斯馬国」「已百支国」「伊邪国」「都支国」「彌奴国」「好古都国」
「不呼国」「姐奴国」「對蘇国」「蘇奴国」「呼邑国」「華奴蘇奴国」
「鬼国」「為吾国」「鬼奴国」「邪馬国」「躬臣国」「巴利国」
「支惟国」「烏奴国」「奴国」

これらの小さい国をどこに当てはめようか。
220唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/18(土) 20:00:24
>暗黒? オマエ何回聞くんだ?

何度否定してもそれが正しいとする太国倍年。だから太国倍年には必要な出来事。
任那建国が無ければ、渡海も無い。

つまり、太国倍年はインチキである。
221:2010/12/18(土) 20:15:19
>>215
>人類学的には、一つの定義として、

人類学的ではなく、ふつうそうだよw

>>217
ムラ出自論=出自表示論? へぇ あんた難しいことしってんなw
222ローガン:2010/12/18(土) 21:16:05
>>215
まあ、それはそうなんだけど、私が疑問に感じたのは、「天照大神に母系社会が投影されている。」というように読めるレスがあったのでね。
ヒルコ、ヒルメの出生譚は、高砂族と同系統のものでしょう。又、第一子が出来損ないなのも南方系説話に同じ。
しかし、産み損ないの原因としたものは、「白虎通曰…天左旋地右旋猶君臣陰陽相対向也」から取ったと思える。
上記、出生譚とは出所の違う異質な話をくっつけたのは、紀編纂当時の作為でしょう。これは、中華の男尊女卑思想に基づいたものだと思います。
ソースは岩波の補注。 又、後で。
223日本@名無史さん:2010/12/18(土) 21:25:55
>>222
>中華の男尊女卑思想 

これはそうでしょうね。イザナギ・イザナミの国産みからすでに女性は陰となってるのかも。
あとは、南方系などの神話を組み込めば、その地の制度もいっしょに記述されてしまうのか
もしれませんね。
224:2010/12/18(土) 22:33:34
>>165 ジョーカー http://www.flickr.com/photos/29745871@N08/3054713370/

ん?
日光東照宮では、偉大な徳川家康公が、
太宰府天満宮では、偉大な菅原道真公が学問の神様として祀られてるじゃん。
古代の神というのは、徳川家康公や菅原道真公などの人物ではなく、自然の神(森・樹木・海)が祀られてた。
偉大な将軍ではなく巫女だって?て言われそうだが・・・

ヒミコの系譜と祭祀 日本シャーマニズムの古代
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031518226&Action_id=121&Sza_id=C0&Rec_id=1008&Rec_lg=100813

川村 邦光、たぶんこれだったような気がする・・・(間違えてたらすまそ)。

一般的に、祖霊祭祀の始まりは、地域の守護神を氏神として祀り、
血縁は無いが祖先神といして祀ってきたというふうに言われてると思う。
しかし、これだけが全てではない。
225唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/18(土) 22:45:01
明科北村遺跡は、縄文時代の墓である。
http://www.npmh.net/tayori/number/30/main3.html

ここに古代のシャーマニズムは有るのか?
226太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/18(土) 22:59:23
>>209 続き
天津神算木(天津金木)

 4πr**3/3=113.0973355292325・・・ ------------------@

@からだと、ジョーカー数 350 は 355 に還元となる。

大祓祝詞 に曰く
「天津金木を本打ち切り末打ち断ちて 千座の置座に置きたらはして」

 3≠0113.0973355 ---------------------------------------@’
                 (千座の置座とは整数第四位をいう)
「天津菅曾を本刈り断ち末打ち断ちて」
天津菅曾とは@’右辺である。

分断の@’の右辺=0 113.09733 55 -----------------------@”

@”の右辺(分断の天津菅曾)の本末(0と5)を接続、即ち0を末尾に移動
が利いて 113.09733 550 となるが、@の右辺の分断の消えた末数列を
もってくれば

 113.09733 550292325・・・・ ---------------------------A

となる。「八針に取り裂きて」→針とは狭間の少数点下数をいい、少数第
8位に針式に一マス間隙を挿し入れてAの数列とすることをいう。逆読みの
部分数列 292 055 から以下、崇神即位の真の年代

 292−055=(292−55)=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

を得る。
227:2010/12/18(土) 23:21:17
ジョーカーょ

宇佐一族といえば

雄略天皇御代:天皇不豫により、豊国の奇巫召し上げらる
AD五七一:是歳、廣幡八幡神顕現し、大神比義、之を奉祀す

とあるとおり、巫覡一族で、宇佐氏が祀ってきたのは比売神さま。
この比売神はおそらくは巫女でしょうし、巨石の祭祀遺跡が示すように
宇佐一族は天孫降臨の地である御許山を神として奉る。
しかし、比売神さまを自分達の氏神さまとして厚く崇拝するようになる。

筑後風土記や肥前風土記など読まれたことはあると思うが、
筑紫君の祖、甕依姫や川上の石神、世田ヒメなど、九州では女神や女首長が多い。
これらの「神」は全て自然の神(原始信仰)を祀ってきた巫女でしょうねぇ。
228唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/18(土) 23:27:02
>比売神はおそらくは巫女でしょうし、

巫女は、神を祀る側の人間である。
神となるには、それ相応の出来事が必要であるが、
巫女には、祈る以外の力は無い。
229:2010/12/18(土) 23:35:09
>>165 ジョーカー 
>歴史上どこかで画期として「偉大な巫女の出現」に祖霊信仰の始まりを見るなんて
>そんな話は”それっぽい話”ですら聞いたことがないしw
>もしも、ご存知の野郎サマがいらっしゃいましたら
>この無知な俺に是非ご教授お願い申しあげちゃったりいたしまするw

おまえが以下に無知だって分かるだろ?
君は考古学本をよく読んでると思うが、他人も古代史関連の本を読んでたりするんだよ。
230日本@名無史さん:2010/12/18(土) 23:35:29
唐松山さん ナイスです。
231:2010/12/18(土) 23:53:17
高地性集落は四国にもあるよね。
だから神武東征ルートていっちゃうとマズイかも。

筑紫と近畿を結ぶ、遠距離の伝達ルートでもあったんだろうねぇ。
232:2010/12/19(日) 00:05:54
スレとは関係ないはなしだが、
栃木県の「日光東照宮」へは5年ぐらい前に行ったんだけど、
あそこの階段はきついよね。
新しく購入したスーツがやぶれそうで怖かったりした。
帰りに宇都宮の餃子を食べて来たんだけど、宇都宮と言えば「餃子が有名」で
餃子専門店のメニューがあるじゃん。
全て、餃子なのが笑えた〜w
その餃子にも種類は豊富にあって、お勧めコースみたいなのもあり、
たくさんの種類の餃子を食べて帰った記憶がアル。
古代史の旅ダケじゃなく、各地のグルメ・温泉なども楽しむべきと思う。
233縦目仮面:2010/12/19(日) 00:10:04
>>232
スレチついでに、「かごめ歌、日光東照宮、徳川埋蔵金」の三題話は知ってますか?
234日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:10:24
>>229 ドツボ

こうやって自分の広げた風呂敷を畳めず
直ぐに他人のフンドシで相撲をとろうとするのが
この馬鹿の芸風だなw

一体どいつのどのレスが
「偉大な巫女の出現が祖霊信仰の始まり」なんて書いてあるんだ馬鹿がwww

日光東照宮や大宰府天満宮がどうしたって?
家康や道真が巫女として祭られているのかアホ

兎に角反論の体裁をとりたい、行を埋めたい、からと言って
何でも書きゃあ良いってモンじゃないだろうがwwwwwwwwwwwww

>>224で出してきた本『ヒミコの系譜と祭祀日本シャーマニズムの古代』にしても
「卑弥呼が祖霊信仰の始まり」なんて事が書いてあるのか?

>一般的に、祖霊祭祀の始まりは、地域の守護神を氏神として祀り、

…でその「 祖先神」がある時期に出現した「偉大なる巫女」と言うのは何によって証明されるんだ?
一般論で攪拌して誤魔化して逃げるな。

もうここまできたらなんかの図書を読んでいるかいないかの話ではなくて

祖霊信仰の開始が特定の人物の出現に求められ、当然時期もある程度は限定できる
…なんて事が可能か否か、常識の範疇って話だが

まあドツボも知識はつけて行ってるんだろうが
何なんだろう?この根本的な”ズレ”はw

多分知識の習得では矯正できないような気もするがwwwwwwww
235日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:14:50
>>233
更にスレチガイで

チベットのポータラカ宮殿→仏教でフダラク浄土
→フダラ→フタアラ→二荒→ニコウ→日光  バンザーイバンザーイ!

って話は当然知ってるよなwww
236日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:14:53
宇佐神宮の比売大神は、宗像三女神のことだと、
宇佐神宮の宮司が口をすっぱくして言ってるのに、
人の話を聞かずに妄想をたれながすやつが多いな。
237:2010/12/19(日) 00:14:55
>知ってますか?

僕は知ってるぞ!ゴッコは、おれはやらな〜いw

あ、かごめ歌は「囲メぇ~♪ 囲メぇ~♪」って怖いはなしだってゲンコ虫のおっさんが
何かレスしてたね。 カッパに聞いてみな。

238太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/19(日) 00:17:48
ww  zzzzzzzzzz・・・・・・
239:2010/12/19(日) 00:18:12
>>234
まあ、まあ そう熱くなるなょ〜ジョーカー。

で、君の「古代史の旅」について、一回きりとも、そんなはなし聞いたことないんだが、
もしかして、「足」や「腰」が弱いのかな? あ、ごめん 
240:2010/12/19(日) 00:20:43
>>234

おまえ、ジョーカーってなかなかカッコイイあだ名をつけて貰ったじゃん。
実は嬉しかったりするんだろ?w
http://www.flickr.com/photos/29745871@N08/3054713370/
241日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:21:33
>この根本的な”ズレ”はw

これ、古代史の知識だけじゃダメなんよね。中世・近世史や世界史、そしてその他の学問。
それらをある程度学んだ上で、いかに普遍的なものを抽出できるか、ということだと思う。
いわゆる、「なんとかの壁」があるんだ。
242日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:23:13
今夜も創価たちの自演が続きます
243日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:29:53
以下スレチガイだろうがw

>>222
>紀編纂当時の作為でしょう。これは、中華の男尊女卑思想に基づいたものだと思います。

うーんどうだろうねえ?初産の子が不具であるってこの南洋にも類型の見られるお話は
要するに男女が”禁忌(タブー)”を犯してその結果がその不具の子ってのが筋だからねえ
(後に第三者のアドバイスにより修正されたりする)

まあ、そこに男尊女卑思想をくっつけたとも言えなくはないと思うが…
むしろその禁忌(タブー)の説明にその語を拝借したって感じの様なwww

個人的には「母系社会」と言うものが確たる形で存在したのかは疑問を持ってる。
まあ父系社会と言うものが確立する以前の状態の総称ぐらいで良いんじゃないかとも思ってるw

244日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:38:08
>>239 ドツボ

そこら辺が ”  ズ レ て い る ”ってんだよ阿呆wwwwwwwwwww

「古代史の旅」?そんなものした事わwそれが何か?
(まあ精々余裕で日帰りできる範囲の博物館の見学程度かな?)


自分が馬鹿晒したから失地回復を旅行体験に話をふって誤魔化す気か?
みっともない奴だw

245日本@名無史さん:2010/12/19(日) 00:53:43
>>241

他人のふり見てナントヤラ…自戒いたしますwwwwwww
246:2010/12/19(日) 07:38:34
くそー>< ジョーカーを馬鹿にしとったら〜
夢の中で、彼にピストル突き付けられたぜw 熱くなるなって〜!このバカがw

http://www.flickr.com/photos/21089594@N07/2684078309/

>>241
>中世・近世史や世界史、そしてその他の学問。
>それらをある程度学んだ上で、いかに普遍的なものを抽出できるか、ということだと思う。

この幼稚な発言は縦め君かな?w
いや、世界史などの全般の知識よりも「感覚」が大切と思う。
おれの古代史の感覚は、今の時代(現在)みたいに携帯電話やパソコンが普及してないってだけで、
明治初期のソレとその社会の構築は、あまり変わりないんじゃないかと思ってる。
現在でもタテ(上下関係)社会だし、子供にしても喧嘩して勝った方が上に行ける。
これは大人の世界でもコレと同じようなもんだ。

「人」というのは、古いものに神秘的なモノを感じる。
古いものが素晴らしいというか、尊いモノは古いというか。
それが「歴史」の素晴らしさなのかもしれないがね。
247日本@名無史さん:2010/12/19(日) 08:29:39
・・・・・・・・・何が言いたいのか良く分らない
248日本@名無史さん:2010/12/19(日) 08:48:59
わけわかんないね。
249ローガン:2010/12/19(日) 09:46:41
>>243おはようございます。

>うーんどうだろうねえ?初産の子が不具であるってこの南洋にも類型の見られるお話は
> 要するに男女が”禁忌(タブー)”を犯してその結果がその不具の子ってのが筋だからねえ

洪水で、兄妹の二人だけになった。子供をもうけたら、不具だった…
この「禁忌」に近親相姦をみるなら、紀の言い分は違うでしょう。

> まあ、そこに男尊女卑思想をくっつけたとも言えなくはないと思うが…
> むしろその禁忌(タブー)の説明にその語を拝借したって感じの様なwww

そう。イザナミイザナギ神が犯した禁忌とは、女性主導型の婚姻である。と紀は言っている訳です。
250日本@名無史さん:2010/12/19(日) 10:04:46
>>249
あの記紀の冒頭に出てくるイザナギ・イザナミの神話というのは、陰陽説を受け入れた
宣言ともとれるんじゃないですか?

>我が身は、成り成りて成り余れる処一処在り という。
251ローガン:2010/12/19(日) 10:57:54
>>250
>陰陽説を受け入れた宣言ともとれるんじゃないですか?

そうかもしれませんね。ただ、既に受け入れて結構、咀嚼されていたかも…
例えば「天地、相去ること未だ遠からず。故、天柱を以て、天上におくりあおぐ。」
「淮南子」天文訓 昔者共工與爭為帝,怒而觸不周山,天柱折,地維絶。天傾西北,故日月星辰移焉;地不滿西南,故水潦塵埃歸焉。
天は地上から伸びる柱によって支えられていた。二神(イザナミイザナギ)は、この柱を昇降路としています。
中華由来の考え方を神話に取り込んだものでしょうが、よく練れているようにも思えます。
252唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 11:26:53
>天は地上から伸びる柱によって支えられていた。二神(イザナミイザナギ)は、この柱を昇降路としています。

天上界から天降った神話ならその読み方だ良いだろうが、全てを人間界の話に直すには、人間界で書かれた
ホツマしか存在しない。それによると
二神(イザナミイザナギ)辺りまでは、倭地の何処かで逼塞して暮らしている。これでは行く末が持たないと
天照大神の頃、銅划、銅矛を使って葦原中ツ国(大物主の国)へ住まわせて貰うことが出来る様になる。
大物主が何故天照に許可を出したかというと、暦を持っていたからである。
大物主もこの暦の得失に預かることが出来る。

この暦を写し取り筑紫を出奔したのがナガスネであり、九州王朝にとって許されざる事。
253太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/19(日) 11:30:14
自分勝手に、恣意的にホツマ誇張デッチ上げのペテン師話以外の何物でもな〜い。
254ローガン:2010/12/19(日) 12:19:37
>>252
>人間界で書かれた ホツマしか存在しない。

江戸期の人間の解釈。
255唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 12:36:36
>江戸期の人間の解釈。
まあそれでも、歴史は一つしか無いわけで…

崇神時代に任那建国が事実であれば、それは209年の出来事であり。
魏が半島を支配、関与した時代では無い。

つまり倭人伝の時代を崇神世とする事は出来ない。
256日本@名無史さん:2010/12/19(日) 13:17:50
結論

カッパが居なくてもスレはまわる(唐・太の両氏がおるし)Σ(д゚||)ガーン

257日本@名無史さん:2010/12/19(日) 13:22:12
回る邪馬台国スレ 一皿 百円
258日本@名無史さん:2010/12/19(日) 14:23:52
つまんねぇー事いうな、アホー。
259太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/19(日) 14:50:44
239年は崇神の代の倭笠縫のアマテラスとその象徴たる鏡を祭祀した年代に
合わせるのが当然であり、これが真なのである。

半島古文献の120年等の紀との断層を考えれば、半島文献を食べることは
薮蛇の またお脳の弱いネヅミがネヅミ捕りのエサに飛びつくのと同然の軽率
行為であって、向こうの年代を言う前にやるべきことは日本人なら日本の
古文献を軽視しないことであって、半島文献と合わなくなるから、紀の年代
を遺棄して向こうを強調するなんぞ、真から離脱する奈落落ちの愚行に
いたる。半島のことは最後の最後にやればいいことであって、そんなものは
保留にしてればいいのだ。ww

239年はこのアマテラスと鏡の崇神の記述から、崇神初期年代に当たるのが
相当であり、半島文献の甘事とは充分距離を置いて用心すべきである。
260唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 15:51:33
任那建国は、半島文献の甘事とするのか?
半島文献に任那建国は無い。有るのは、伽耶が倭国から新羅に移った時点を541年
を建国330年としている程度だ。
崇神5年は凶作であり、後漢書の192年に当たる。

>日本人なら日本の古文献を軽視しないことであって、

であるならば、崇神6年の民の離散は、弥生後期後半の出来事であり
同10年の異俗多帰は、2世紀末の纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれた時点である。

>239年はこのアマテラスと鏡の崇神の記述から、
古墳と考えねば成らない。
二つの思考に段差が出来る。

半島古文献の120年等の紀との断層を考えれば、
さて、この主張は、文献の何処と何処を比較したら得られますか?

261唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 16:17:41
神功皇后摂政五十二年(壬申二五一) 七支刀
七支刀を東晉廢帝太和4年 西元369年とすれば、118年の差
神功皇后摂政五五年(乙亥二五五)。百濟肖古王薨。
375 年 近仇首王即位キンキュウシュ即位年を百濟肖古王薨として120年

書紀の主張する年数差と整合することは無い。
また、太国の主張する“太国倍年”とも整合しない。
120年差を主張すれば、太国倍年は間違いであることを主張している事と同等である。
つまり 太国倍年の間違いを太国自身が主張している。
また、七支刀を369年賭した場合、半島占拠は無かったと考える(ローガン氏)

七支刀が半島占拠の結果の一つで説明出来なければ、数字が近いと言うだけでは、ダメである。
半島占拠を正しいとすれば、
323年 半島占拠
326年七支刀 東晉明帝太寧4年 西元326年 になる。
この数字は、神功元年(273年日食をあづないの罪として差し込み)275年から
そのままの数字で説明出来る場所である。
262唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 16:38:28
秋津遺跡
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/2010_0124.htm
4世紀前半から数代続いた秋津遺跡は、囲形埴輪で説明出来る部分が存在する。
この囲形埴輪の建物は、家文鏡の建物の次の時代の建物である。
つまり古墳が造られ始めてから100年後には囲形埴輪と同等の建物が存在しなければならない。
この文化の変容の為には、早い時期から大量の渡来人を想定しなければならない。
であるならば、323年が渡来の目安となる。

その意味でも秋津遺跡の出現は大きい。
263日本@名無史さん:2010/12/19(日) 16:40:36
ローガンさんは、どういうモチベーションで、太国、唐松山のヨタ話に付き合ってるの?

俺は暇つぶしで付き合うこともあるが、一年中は無理だわ。
264太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/19(日) 16:42:12
192,3年≠崇神5,6年

当時船舶がないのは、オマエの論が完全に失墜していることを意味する。

船舶が始めて製造されのはオマエが頑張ってもその10年余後であり、これ
では空腹農民が千人も多勢でのカラ手渡海は不可能である。つまり右辺の
年代には船舶のアリバイが無い不整合をさらけ出している。つまりオマエの
編年に重大な失敗があるということだね。

それは本音を言えば半島文献を使用したいところだが、紀の記事との120年
(120年でない年差のもある)差もある撹乱文献では即使用するのは薮蛇
だよ。だからじっと半島文献を傍観しているのが真を遺失しない安全手な
わけなのだ。オマエはす〜ぐゲテモノに手を出すから道を誤ったということ
だな。ホツマもゲテモノでオマエがよだれを流して飛びついたから妄想を
累積させたということだ。早く目を覚ましな。一からやり直しがオマエの
採る最善手だな。五重在位など累積の極の超失笑説wwだぞ。www

勿論景行ご本尊に強引に合わせたい科学よりご本尊優先だから、数日間も
続かない日食を日食だと頑張り通して非科学的インチキを平気でゴリ押し
している。オマエの脳内は蛮族の脳か?、蛮族ならば確かに科学だからだと
教えても、蛮族迷信を彼らは曲げようとはしないからな。神功元年前年の
記事は絶対に日食にはならない。科学がある限り、この教育を受けていて
カルト等の疾患がない常人ならば、オマエのこの言い分を皆棄却する。ww
265唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 18:14:26
>当時船舶がないのは、オマエの論が完全に失墜していることを意味する。

弥生後期の土器に船の絵が有ると言うことは、ここ時代に船が有ったことを表す。
その船を自分でも持ちたくて造らせたのが崇神17年になる。
つまり、天皇家で始めて船を持ったのは崇神であっても、
海に船が浮かんでいなかった証明にはならない。

>紀の記事との120年(120年でない年差のもある)差もある撹乱文献では即使用するのは薮蛇
だよ。

であるならば、120年差があるから、その程度の差で歴史を見なければならない。という主張は出来ない。

>半島文献を傍観しているのが真を遺失しない安全手なわけなのだ。
安全ではあるが、それでは、歴史にならない。
歴史にならない安全な主張が太国倍年で有るから、
歴史の数字を主張しない太国倍年である、と主張しているだけだ。

>神功元年前年の記事は絶対に日食にはならない。

であるならば、その主張を太国倍年で主張すればよい。
安全第一で、その主張も何の主張も無しか?
太国倍年は、数字の主張のみであり、書紀の記事に責任は負わないと主張しな。
266日本@名無史さん:2010/12/19(日) 18:43:22
ニホンゴワカリマスカ? の二ルートさん来ないね。

「遣使」でジョーカーがボッコボッコに言われてたのが笑えた。
267日本@名無史さん:2010/12/19(日) 18:54:12
>太国、唐松山のヨタ話に付き合ってるの?

いや、二人とも古代史に詳しいんだが、男くさいというか
『華』が無い部分がある。

てことで巫女さん(なんなら武陽隠士でもおk)書き込み、宜しくです。
268日本@名無史さん:2010/12/19(日) 18:57:04
ブヨーはこんなとこ馬鹿にしてこねえよ。w
269唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 19:07:53
ローガンさんをはじめ大部分の論者が、卑弥呼=崇神時代を主張している。
しかし、考古学が50年遡上した意味をわかっていない。だから、昔ながらの
年代感のまま、卑弥呼=崇神時代を主張している。もしここに正解が有れば
とっくの昔に、終了しているはずである、しかし、未だに議論が続く要因に
年代に齟齬が有ることに言及していない。
神功49年に倭は、半島を占拠する。この年代を366年頃とするならば、
私でも半島占拠は無い。と書紀の記事を否定する。
では、半島占拠が事実であればそれは何年になるか?そこで導き出された数字が323年である。
楽浪方面の領土保持を東晋があきらめた年代である。これにより318年高句麗は楽浪方面に攻め込むが
慕容氏に退けられる、しかし慕容氏は、西方の圧力に対抗するために東方の占拠に消極的である。
ここを倭国は渡海して占拠する。慕容氏に背いたことが無かった為、慕容氏に攻められることもなく
372年には、百済は楽浪太守となる。
だから、七支刀がもたらされた理由として、書紀の記事は否定されている。
半島占拠は366年頃では、説明出来ない。
説明出来るのは、323年であり、ここが百済建国と重なる。
百済(モザ)をクダラと読むのも、百済建国前の呼び名である。
270日本@名無史さん:2010/12/19(日) 19:33:30
ただいまニュー速板で激論中!

【話題】 美人すぎる巫女(画像あり)
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1292551807/
271太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/19(日) 22:27:18
>ここ時代に船が有ったことを表す
あったことになるのは、オマエの言う10年余後のことであり、その10年余後
の船だということだ。ww 考古じゃぁ10年ばかりの判別は困難。つまり
それはがんばってもオマエの言うりよ10年余過ぎたあとの絵。
〜おわかり?ww

>〜120年差
意味不明で支離滅裂の応答。脳内が撹乱されてるらしい?!www

>歴史にはならない
ならないのは半島史のほうだよ。日本古代史はなくても年代は定められる。

>主張
その主張は日食だと数日間も続くという蛮族迷信を言うオマエがやる事だ。

>数字の主張
紀年論は年数字の主張が重要なのさ。オマエなんか日数まで余計な数字のみ
を猿の自慰行為同然をやってばかりいるではないか。wwwww
ならば、肩書きを日本古代史紀年法研究家でなく、紀日法半島古代史研究家
とすればいいではないか?ww
272太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/19(日) 22:36:49
>とっくの昔に、終了していたはず
何がとっくの昔なのか〜? これも意味不明???? 具体性がまるで
ない。脳内の考察がグルグルとショートしてるのだろう? ホツマという
古代史麻薬のためにな・・・。><

ローガン氏も 卑弥呼年代=崇神時代? ならば正解だね。当然だな。
改め氏もそのはずだ。ならば両人ここんところは考察がgoodだという事だ。
273唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 22:42:18
>日本古代史はなくても年代は定められる。

何が言いたいの?
>日本古代史はなくても
>年代は定められる。

これを分析すれば
日本書紀は、歴史にあてはめられないが
考古学で年代は定められる。
とでも言いたいの?
その太国は、考古学の数字を正しいとしない。
だから纒向遺跡(考古学は、2世紀末から箸墓築造をもって衰退する)
さえ否定するんでしょ。

>日食だと数日間も続くという蛮族迷信を言うオマエがやる事だ。

日食は、日(1日)を別ける。日のカゲがきらめく。
これを否定するのが、太国倍年の、暗黒が数日続く。である。


274太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/19(日) 22:45:04
日の影は別に噴火でも暗雲が数日垂れこんでも起こる。妄想さん。ww
275日本@名無史さん:2010/12/19(日) 22:53:23
>>272 太国 ◆yVAs7uaYlY さん

>ローガンさんをはじめ大部分の論者が、卑弥呼=崇神時代を主張している。

おっさんはローガンの次で2番手かw
ローガンさんが先頭っていわれてるじゃん、おっさん〜頑張れよw
276太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/19(日) 22:56:55
また一時的規制がかかるかなと〜昨夜のストップの迷惑を主宰者側に文句
を言いたいところだな。w

木漏れ日の如く暗雲の隙間から煌きが起こる事があるわけで、別に日食に
限ったことではな〜い。日食は日を経て起こりうるわけはないという決定
が、科学たる天文学の堅い堅い正解であり、蛮族はそれを信ぜず低級信仰の
迷信たる「神の怒りだ」だと言って科学の主張を否定するのが通り相場
だな。オマエは低級信仰的の妄想インチキ・ホツマ狂信者だから、「景行神
の如何理に触れる」とかで科学たる天文学の堅い堅い堅い法則たる日食が
数日間継続しないことを平気で無視する。まぁオマエのも一種の蛮族教
だな。ppppp

オマエは精神病院で診てもらったほうがいい。もう末期症状だ。><
277唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/19(日) 23:03:40
>木漏れ日の如く暗雲の隙間から煌きが起こる事があるわけで、別に日食に
限ったことではな〜い。

この出来事を、近くの村の古老に聞く。
この板の古老太国は、見た事が有りますか?
若輩唐松山は、未だ無い。
278太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/19(日) 23:07:24
若輩唐松山に聞く。
若輩唐松山は、日食が数日間続くのを見た事があるか?www
こちらは、未だ無い。

当たり前だな。科学の主張が真だからだ。また規制になるか〜?
279日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:11:28
>若輩唐松山は、未だ無い

唐松山さんって古代史歴何年ぐらいやってるんでしょうね?
太国さんが一番長いのかな?

ちなみにローガン氏、ジョーカー氏は何年ぐらいやってるんでしょうね?
280日本@名無史さん:2010/12/19(日) 23:18:39
岐阜県大垣市笠縫町、琵琶湖にほど近い東山道に通じるこの地こそ、高天原ではないだろうか?
281日本@名無史さん:2010/12/20(月) 02:35:42
>>280
あれ?なんで知ってるの?
282レス長たらし毘古:2010/12/20(月) 03:43:30
あー、もしもし、わしじゃ、わし。忙しさも峠を越えて、ワニにまたがり竜宮
城から戻ってみたら、いつのまにか、板No.52。。。一気に白髪になってしま
いましたフガフガ。
ま、かと言って先述以上の発見も新架空も特に浮かばなかったのでしばらく
静観の構えなのだが。

[レス長の2010年の大架空]をまとめると以下のようになっております。

@邪馬台国は九州東北部。(一般の九州説より、少し瀬戸内海側にずれます)
A卑弥呼様は美人。トヨたん(もしくはイヨたん)も然り。
B魏志倭人伝で卑弥呼と呼ばれる女性は記紀では開化天皇と呼ばれる人物。
かつ、開化天皇はヤマトモモソ毘売と同一人物の「記録上」の分割。
C魏志倭人伝でトヨ(もしくはイヨ)と呼ばれる女性はトヨスキイリ日売と
呼ばれる人物。魏晋側は、当初沙本毘売を後継者と認定しようとしたが、その
企て(もしくは企み)は失敗に終った。
D当時は近畿勢力(後の大和王権)は九州勢力(後に大和に吸収される)の
属国であり、魏志倭人伝の曰く「卑弥呼没後の倭国の乱」に当たる時期にその
両者の立場は逆転した。
E記紀編集以前から、編集時に至るまでに、度々の「改竄(及び過失誤謬)」
により、「卑弥呼」にあたる女性は記紀からほとんど姿を消した。(特に、
蘇我時期の物部祖先記述の削除と天武時期の蘇我祖先記述の削除は大きい)

しかし、行きは亀だったが、帰りはワニだったので、浦島太郎と言うよりかは
むしろ因幡の白兎なレス長であった。先週の鳥獣戯画の番組を見て、「やはり
当時ワニはいたかも!?」と想いを新たにするレス長であった。シミジミ。
あ、もちろん上記は架空率も低くは無いので、ツッコミ所がありましたら
手加減してご指摘頂ければ助かります。
みなさま良いお年を。
283ローガン:2010/12/20(月) 16:56:23
>>269
>だから、昔ながらの年代感のまま、卑弥呼=崇神時代を主張している。
>もしここに正解が有ればとっくの昔に、終了しているはずである、しかし、未だに議論が続く

いや、あなたが勝手な主張をしているだけ。

>だから、七支刀がもたらされた理由として、書紀の記事は否定されている。

例えば、応神三年「是歳百済辰斯王立ちて、貴国の天皇のみために失礼なし」
これは本文。百済紀引用の分注ではありません。自国を貴国と書く訳もなく、テキストをそのまま写してしまったウッカリミスでしょう。
であれば、本文とはいえ、百済紀引用があると見て良いでしょう。
神功52年の記事も百済紀からの引用とすれば、実態はどうであれ、七支刀は「献上」と記載されて当然。
と云う理由で、書紀の記述を肯定している訳ではありません。

> 半島占拠は366年頃では、説明出来ない。

そんな主張はしていません(笑)。それに、あなたの話はおかしい。太寧とは決して読めない。
仮に読める可能性があったとしても その四年は二月改元。時の比流王はピンチヒッターで契王は世子でなし…
首肯できるものがなさすぎ。
284唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/20(月) 18:28:06
>太寧とは決して読めない。 四年は二月改元。
 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■

326年当時、東晋は半島の覇権をあきらめている。
つまり年号が直ぐ半島に伝わる時代では無い。
晉書卷一百九 咸康(342年)七年,皝遷都龍城。…
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
342年時点で百済は前燕の配下に入る。
たぶん この時点で半島の情勢は安定する。

七支刀が半島占拠、領土分与の謝礼であれば、342年より早い段階である。
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦美而善弁 与阿□
相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我 亦帰于麗 休礼太后生長?子勿? 始立戸口典 禁民子母相婚

この癸未年は、323年である。
理由として、故国人異反 或帰于我 亦帰于麗。 国人(平州方面の民)が我(クダラ)、麗(高句麗)
そして倭、何処に帰属しても良い。と言う状態は、東晋が半島方面の覇権をあきらめた時空である。

369年としても、十六日丙午の無い年である。存在しない日付を彫る事は無いだろう。
韓国考古学が、百済本記の数字を追認出来ていない。この事実は、百済本記に齟齬のある
事を表す。
372年の朝貢時点で、百済王映は、高句麗国の中にいる。
百済本記は、この高句麗軍の駐留時期を記さない。
百済本記の日々の干支は、書紀の日々の干支と同じである。偶然では無いだろう。
つまり百済本記編纂時に日本書紀が参考とされ、日々の干支の合う処に差し込まれた
可能性がある。

285唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/20(月) 18:50:47
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
317年 元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(東夷校尉崔から距離を置く?)
318年 崔は、高句麗等と前燕慕容氏を滅ぼそうとするが、失敗する。
この崔に従わなかった倭は、慕容氏からにらまれることもなく半島を占拠する。

377年では、従うべき朝廷が存在しない。
倭が半島を占拠出来る場所は、この時期しか存在しない。
これを可とする任那建国は、209年である。
541年 伽耶が新羅に降る。
 洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉三月日 有制曰 朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之降于當國也
所率來子世宗之子・率友公之子・
 自居登王即位己卯年置便房 降及仇衝朝 來三百三十載之中 享廟禮曲 永無違者 其乃仇衝失
位去國

伽耶建国から330年で新羅に降る、それが541年であるから、建国は210年頃になる。
新羅本紀  209 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。

魏が半島を管理する卑弥呼の時代に、任那建国は出来ない。
286日本@名無史さん:2010/12/20(月) 21:27:29
藤原朝カリ(カリの字はめんどくさい字)
大野東人
坂上田村麻呂

東北への侵略者ですね
287ローガン:2010/12/21(火) 16:45:04
>>285
>つまり百済本記編纂時に日本書紀が参考とされ、日々の干支の合う処に差し込まれた可能性がある。

違う。紀が引いた三逸史(記、新撰、本記)。例えば、継体没年についても百済本記を採用し、敢えて三年空位としている。
これら三逸史は上で書いた応神三年の記述等と合わせ、引用を明記した分注にとどまらず、
紀本文にかなり採用されていると考えて良い。
そして、「貴国」等の記述が見えるように、日本に対しへつらった、迎合した書き方がされている(勿論、紀の書き換えも考えられるが)。
これは明らかに百済自身の史書と云うより、対倭外交にまつわるものと考えて良いだろう。
まあ、任那日本府の有様が論点で無いので、これはさておき…

>倭が半島を占拠出来る場所は、この時期しか存在しない。これを可とする任那建国は、209年である。

魏は公孫淵、誅まで半島の事は知らない。位宮を追い、及び韓地の戦でようやくわかる様になる。
誅淵が238年。当然、魏書弁辰伝はそれ以降の情報。任那は無い。
国と呼ばれた領域は複数あれど、代々馬韓人に属している。
又「國出鐵、韓、、倭皆從取之。」
他国人が思うまま、勝手に鉄を取っている様子が書かれており、この時代ではまだ、外国から「任那」と呼ばれた国の誕生など、とても窺いしれない。

288唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/21(火) 16:54:44
神功皇后摂政四十九年春三月。是以自今以後。千秋萬歳。無絶無窮。常稱西蕃。
常稱西蕃 常に西蕃に構える。
342年時点で百済は前燕の配下に入る。
360年代では、構える相手がいない。
323年時点であれば、前趙が東方をうかがっている時代である。

神功49年を360年代と出来ない理由の一つである。

289ローガン:2010/12/21(火) 17:50:49
>>288
> 神功皇后摂政四十九年春三月。是以自今以後。千秋萬歳。無絶無窮。常稱西蕃。
> 常稱西蕃 常に西蕃に構える。

大丈夫かいな?
「今より以後、千秋萬歳に、絶えることなく、窮(きわま)ることなし。常に西蕃と稱し、春秋に朝貢す」
これ、千熊長彦に述べた、倭国に対する百済王の誓い。

>360年代では、構える相手がいない。

構えるって何よ?

290日本@名無史さん:2010/12/21(火) 18:26:39
卑弥呼は誰か。モモソヒメでファイナルアンサーだろ。
291唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/21(火) 19:05:24
稱=称し。
私の間違いでした。発言は撤回します。

しかし342年から前燕に属す百済を360年代に臣下とは、できない。
370年前燕が滅ぶと、百済は東晋に朝貢する。楽浪太守。
391年ころ渡海して属民とする。この為には、かなりの武力が必要となるが、
倭は、その武力を養う処が無い。

274年に渡海し、308年から石碌に対峙していれば、その程度の武力は得られる。
317年一旦任務を離れるが、
323年に再渡海し、半島占拠は、可能であろう。

292唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/21(火) 19:25:07
http://members.tripod.com/textbook_korea/3_2.html
百済の発展  百済が刮目すべき発展を遂げるに至ったのは、4世紀後半の近肖古王のとき
のことであった。このとき 百済は領土を大きく広げ、馬韓の残った領域を征服して全羅道南
海岸に達し、北では高句麗の平壊城まで攻撃した。同時に、洛東江流域の伽耶諸国に対しても
支 配権を行使した。こうして百済は今日の京畿、忠清、全羅道と洛東江中流地域、江原、黄
海道の一部を含む広い領土を確保した。また、百済は水軍を増強して中 国の遼西地方に進出し、
つづいて山東地方と日本の九州地方にまで進出するなど、活発な対外活動を展開した。

半島占拠を323年とすれば、上記の様な思考は、出来ないが、360年代であれば
この様な思考も視野に入る。
この状態では、巨大古墳は造れない。巨大古墳と、渡来人による中期の発展は、
半島占拠が323年であったことを証明している。
293ローガン:2010/12/21(火) 21:24:35
>>291
>391年ころ渡海して属民とする。この為には、かなりの武力が必要となるが、
> 倭は、その武力を養う処が無い。

そんな主張はしていませんよ。広開土王碑を読んでごらんなさい。
「以六年丙申,王躬率水軍討科殘國軍□□。」
六年の攻撃対象はあくまでも百済。倭が渡海して属民にしたのなら、倭を攻撃するはず。
百済を攻撃しているという事は、「百残□□新羅以為臣民」の欠字が、百済が新羅を攻めたとの記述だったと云う事でしょう。
294日本@名無史さん:2010/12/21(火) 21:29:28
卑弥呼=天照大御神とすると伊勢参りは卑弥呼参りになるな。
295日本@名無史さん:2010/12/21(火) 21:37:09
卑弥呼=天照大御神
とすると読み方は、「あめの・ひの・おおみこ」になるな
296唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/21(火) 22:12:07
>百済を攻撃しているという事は、「百残□□新羅以為臣民」の欠字が、百済が新羅を攻めたとの記述だったと云う事でしょう。

百残、伽耶、新羅以為臣民
これが、書紀の主張。
以六年丙申,が396年であることに異議は無いが
辛卯年。これが問題。
391年とするが、391年に倭が渡海して百済以下を属民と出来るか?
答えは、否である。
巨大古墳の一部(私は399年大仙まで)は、391年以前に造られる。
この費用は何処から生まれるか?
最終的に造られた、大仙古墳の肌は仕上げ前である。
399年であれば、説明は楽であるが、倭王讃の墓であれば、この説明が困難となる。
四百年以後の見方は、”書紀考察スレ”に書いた思考より、さらに深く探求する必要がある。
この辺は、そのうち書き直します。

で、韓国の言い分を是と出来るか? 多分答えは否であろうが、七支刀369年では否定しきれない。
つまり、任那建国から書き換えねば、書紀の主張と合致しない。であろう。
297日本@名無史さん:2010/12/21(火) 23:40:24
>倭が渡海して属民にしたのなら、倭を攻撃するはず。
倭の手先になった百済を攻めただけだろう。百済を飛び越して倭を攻めることは
できない。
298日本@名無史さん:2010/12/22(水) 07:22:56
age
299日本@名無史さん:2010/12/22(水) 10:55:34
今さら何を議論しているんだね?
倭が391年来、百済新羅を攻めて、植民地にしていたのに決まっている
それを高句麗が退治したのだ
それ以外のどんな解釈もない
300日本@名無史さん:2010/12/22(水) 11:49:20
>>299 今さら何を議論しているんだね?
議論なんぞしていない
壊れたテープレコーダが永久に同じフレーズを再生し続けているだけ
301日本@名無史さん:2010/12/22(水) 12:56:13
>ホケノ山古墳。半島式木郭墓・・・?
302ローガン:2010/12/22(水) 18:31:02
>>284
>泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■

唐さんは、これを吉祥句としない。しかし七支刀は鋳造である。もう、その時点で論が破綻している。
303日本@名無史さん:2010/12/22(水) 18:44:54
七支刀は、「鍛造だと思われてきたが、鋳造の可能性もある」
という程度ではなかったかね?
304ローガン:2010/12/22(水) 18:50:15
>>303
国学院の鈴木靖民氏が、鈴木勉氏の研究成果に基づいて、七支刀は鋳造であると、昨年5月の講演で言ってた。
305唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/22(水) 21:17:17
弥生時代における初期鉄器の舶載時期とその流通構造の解明.
PDFファイルを ダウンロードして頂きたい。
97ページのグラフから読み取れる事は、“鉄は、大和から分与される”
時代は古墳前期。
書紀で言えば、崇神による任那建国から垂仁による鉄剣の製造である。
この出来事を書紀は任那建国で説明しているから、ここに数字を与えなければならない。

つまり、卑弥呼=崇神時代=箸墓では、遅すぎるのである。
306日本@名無史さん:2010/12/22(水) 21:21:44
奨学院・淳和院・国学院別棟が源氏長者の条件ですね。
307唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/22(水) 21:22:12
>七支刀は鋳造である。もう、その時点で論が破綻している。

東夷の鋳造は320年代に手に入れられた。
この文を書き込んだハズだが?

16日丙午←この句は、吉祥句で説明出来ない。
308ローガン:2010/12/22(水) 21:54:10
>>307
>16日丙午←この句は、吉祥句で説明出来ない。

丙午正陽造百錬
鋳造なら、造百錬って何? 吉祥句でないなら現存七支刀はレプリカ?
もしそうなら、オリジナルは東晋で鍛造。入貢時点での百済への下賜なら、泰和四年でOK。
309唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/22(水) 22:03:00
丙午正陽造百錬 ←これは、吉祥句でも良いが
16日丙午は、現実の日付
>造百錬って何?
鋳造品には脱炭が必要である。この事を指して”百錬”とした。
本来の意味からは外れるが、そんなところでしょうね。

320年頃には東夷は鋳造を知っている。
由是自河以南皆懷歸附,石季龍汝南太守戴開率數千人詣翼降。又遣使東至遼東,西到涼州,要給二方,
欲同大舉。慕容皝、張駿並報使請期。翼雅有大志,欲以滅胡平蜀為己任,言論慷慨,形于辭色。
將兵都尉錢頎陳事合旨,翼拔為五品將軍,賜穀二百斛。時東土多賦役,百姓乃從海道入廣州,
刺史ケ嶽大開鼓鑄,諸夷因此知造兵器。翼表陳東境國家所資,侵擾不已,逃逸漸多,夷人常伺隙,
若知造鑄之利,將不可禁。
310唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/22(水) 22:15:18
>オリジナルは東晋で鍛造。入貢時点での百済への下賜なら、泰和四年でOK。
342年に 句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
百済は前燕に隷属する。
370年 前燕滅亡により、372年東晋に朝貢する。
369年 前燕建熙(360年-370年) 百済が前燕に隷属する時代に、東晋の年号は使わない。
311日本@名無史さん:2010/12/22(水) 23:08:39
七支刀はあの形のまま鍛造はできないから、
鍛造品なら、あとから枝部分を接合しなければならないが、
先に出た鈴木勉氏によると、接合部はないそうなので、鋳造だろうな。
312日本@名無史さん:2010/12/22(水) 23:30:39
七支刀をそのまま鍛造する優れた技術があったのはどこか?
それを考えれば、七支刀がどこで作られたものかはっきりする。
現在の技術ではできないとしても、ヒッタイトからタタール経由で伝来し、
現在のインドタタ社が引き継いだ技術を用いればそれほど困難なことではないのです。
アショーカ王の柱、タタールの技術は現在の鉄鋼技術さえ凌駕しているのです。
大田田根子とは製鉄の神です。
313唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/22(水) 23:38:09
古墳時代は、鉄器流入により始まる。と見れば
大和に”鉄”が流入し、各国に分与した。吉備は、この範疇に入るであろうが
吉備にも少しではあるが流入した。と見る方が妥当だろう。

この状況から、書紀の任那建国は真実である。
その時代は、崇神世であり、209年である。
垂仁元年(217年頃)より鉄は大和に流入する。
ホケノ山(240年頃)田道間守(伽耶の系統)の殉葬の許可を景行が出す。鉄剣の副葬

崇神=箸墓=250年±10年として、任那建国ができるか?
魏、晋に背かねば建国できない。
これが、考古学が50年遡上した意味であり、それに合わせて、文献も遡上せねば
書紀の言い分を現実と出来ない。
369年七支刀は、まだ遡上していない数字である。
これでは、渡海を300年代以降に設定しなければならないが、半島占拠と共に考えねば
書紀の主張を容認出来ない。
七支刀369年で半島占拠は、考えられない。しかし鉄剣副葬の状況から任那建国は現実である。
314太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/22(水) 23:51:35
とにかく日食は日を経て数日間も続かない。この現実こそ遺棄は出来ない。
先日の皆既月食も1時間余で終わった。こんなもんなわけだ。

従って神功元年前年の記事は日食には全然ならない。ということは274年
という主張がイカサマの出鱈目だということだ。ww
315太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/23(木) 00:19:35
唐松山という奴は基本たる年表の、どうしてそうなるのかという説明
が全く出来ない。
常に、先に「コウダ。」という結論のみをドンと出して、具体的説明
はなおざりでしない。

そして「コウダ。」を言うだけで、後の説明はその表に違えるか否か
を文献を出して不利なものは言いがかりをつけて葬り、有利な奴は
(←あんまりなさそうだがww)あれば飛びつくだろうし、こういう
結論だけしか出さないで結論の説明は放置しており、出した結論に
対していろいろ文献を持ってきてしかもたいそうもっともらしい抽象
文言で結論の年代数字を結論の如く言い訳し説明したふりをして論説
を仮装してる手口ばかりであって、結局は結論後の説明は〜〜
いくら論説をしたかっこうをつけていても、よく見極めれば全然結論
の説明など殆どやってはいない。こんなんでは騙されないぞ。

ドンと出した結論の説明はしない。
結論の年代を決めこんで、それに抽象的に各文献を付加して結論
無説明のまま、これら古文献を糊塗していろいろとああだこうだと
論説したふりだけであり、これら古文献が結論の直接の説明には
全然なってはいない。これじゃぁ餌をつけない釣り糸を水中であっち
行きこっち行き動かしてさも大魚がかかる動作だけであって、餌と
いう結論説明が無いんじゃぁ〜いつになっても目的物はかからない。
つまり正当な評価は認められない。><

崇神の代は卑弥呼の代に重なるのが真であるから、ローガン氏、
改め氏、那珂博士、菅政友、橋本増吉、原秀三郎静岡大学名誉教授
の言う258年説がほぼ正解になる。215年説は出鱈目そのもの。ww
316ローガン:2010/12/23(木) 00:45:37
>>310
>百済が前燕に隷属する時代に、東晋の年号は使わない。

いいや。広開土王南下政策前の絶頂期。独自の年号を志向しないなら、東晋入貢前夜、中華に倣う事に不自然は無い。
又、件の碑文が「属民」「臣民」、区別した記述をしているのを見ると、倭と百済が391年に同盟関係であったと考えるのが妥当。
それに先立つ七支刀…と普通に考えれば良いでしょう。
しかし、くたびれる。
317太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/23(木) 00:46:01
あっちで糸を垂れても魚はいないからこっちにしなければならないとか、半島の
あっちの岸では魚が逃げてつれないから、こっちの半島の岸で釣りをすれば多量
にかかるからこうでなければならない。・・・だとか餌を全然つけないでああだ
こうだ場所移動糸回しを主張してもなんにもならな〜い。唐松山は毎回こういう
釣りのやり方であって、結論の餌は毎度0での動作、ポーズばかり。クソの役
にも立たないぜ。
318唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/23(木) 00:46:31
崇神天皇 188年〜216年 2章 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。
209年 新羅本紀、伽耶に援軍=任那建国
274年 神功渡海、2月幽州を分け平州を置く、この下に東夷校尉あり。
323年 癸未年 神功四九年 千熊長彦 東晋が洛陽奪回を断念し半島は空白地帯となる。
 平州方面の住民が大挙して渡来。

太国もキャンキャン言う前に
任那建国、渡海、半島占拠を主張するべきだな。
この数字が説明出来なければ、その数字は無い。

319日本@名無史さん:2010/12/23(木) 02:11:37
>>312
・・・(笑)
320日本@名無史さん:2010/12/23(木) 07:44:23
大田田根子が七支刀を造ったって事?
321太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/23(木) 09:40:40
崇神五、六年≠192,3年

これは等号にはならない。何故か?当然だ。当時崇神の民が日本から半島に
千人も渡るにはジャンボの船舶が必要になるも、船舶が出来たのは崇神17年
が最初であって、その10年位前には船舶が無い。つまり唐松山の主張には
10年余という食い違いがあるわけで、あたかも ウィンドウズ7 が今から
10年前には使用出来なかった如く(去年10月に使用可能)、これを出来
た如きのこやつの言い分が不可能事であることがミエミエだ。これでは
いくら言っても、常人を納得させることは出来ない。インチキ論だという
ことだ。

おまけに大陸から船舶が来て乗れるとか言い張っても、これら千人の空腹、
飢餓のカラ手の農民が船長に乗せろと注文をつけても、何も持ち合わせが
ないんでは乗せてもらえるわけがないし、その船舶で若狭湾とやらから半島
に到達するまでの積荷の蓄えの食料を激減させて、船長の部下たる船員の
糧食が確保出来なくなることは軽く予想でき、とてもとてもこれでは船長
から断られるのは理の当然である。しかも若狭湾から半島までの船旅は
かなり長期であり、いかに同湾から半島までの到達日数が軽視出来ないほど
長いことは、これも軽く観てとれる。現今の脱北のように、生命の危険を
冒しての1〜2,3人の荒波渡海は極めて厳しいが可能なわけで、それを
著しく超える千人もの多勢の渡海なんぞ到底出来ない相談である。1〜2,3人
より3つもケタが違うんだぞ。出来っこな〜い。

こういう状況を考察するに、唐松山の主張の同年時渡海は、不合理極まり
ない無謀な言い分だということだ。奴のひどい妄想の果てが、こんな説を
形作ったのだ。ww
322日本@名無史さん:2010/12/23(木) 09:46:01
>>321
>船舶が出来たのは崇神17年が最初であって、その10年位前には船舶が無い

この人頭おかしいの?

323日本@名無史さん:2010/12/23(木) 09:47:01
いや、その人は記紀の記述が基本で、考古学的なことは一切認めないんだよ。
324太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/23(木) 09:47:45
紀の崇神17年をお読み下さい。知らないのか?
325太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/23(木) 09:50:25
>>323
そんなことは言ってないですよ。考古だっていい面はあるわけで、
完全否定ではありません。ただ1年単位の年代判断は考古ではまだ
困難と観るべきで、ここの点は文献が重要ですよ。
326日本@名無史さん:2010/12/23(木) 11:22:58
邪馬台国はなかったのではなくて、なくなったのだ。
邪馬台国は畿内にあった。
三輪山の長髄登美彦こそ邪馬台国の王。
神武に国を譲って関東に移り、稲荷山で鉄剣と作り、
東北に移っては安倍氏の祖となったのだ。
327唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/23(木) 13:15:07
鉄の分与関係
大和が任那を建国し、大和から鉄が分与される。と想定する。
山城 非常に多い。分与関係から考える必要がある。
備前 以前から大和とは、密接な関係にある。但馬とも近い
摂津、和泉、上陸地点、タタネコ。
伊賀、武淳川の入植地方、大和の軍隊 安倍氏の祖。
丹波 気比大神、又は大彦。

任那建国の大将として、彦クニフクの孫ホシノリヒコが選ばれる。
ワニ臣の祖。であり、彦クニフクがタケハニヤスの乱で山城を手に入れたとすれば
説明はできる。
328日本@名無史さん:2010/12/23(木) 13:26:09
>>324

>船舶が出来たのは崇神17年が最初であって

十七年秋七月丙午朔 詔曰 船者天下之要用也 今海邊之民 由無船以甚苦歩運 其令諸國俾造船舶
冬十月 始造船舶

まず、「初めて(最初)」じゃなくて「始めて(開始)」だからね。
次に、船が無くて困っているのは「海邊之民」で、献上品を沿岸航路で輸送しようってことだ。
つまり、貢物を集めるのには、陸上輸送より海上輸送の方が便利だから遠国は船を作れと詔を出したと言うこと。
17年条の記述は、渡海船の起源譚と言うわけではないので、それ以前に渡海能力の有る船は無かったとは言えない。
だいたい記紀の記述をもって、事物の根拠にあげるのであれば、
じゃ、神武東征は、軍団を陸路で進軍してきたわけじゃないだろうが、と言いたい。
329日本@名無史さん:2010/12/23(木) 13:35:04
しょせん、犬国の脳みその中での話w
330日本@名無史さん:2010/12/23(木) 13:53:18
船舶ができたのが崇神17年て、いったい神武はどうやって日本に渡ってきたんだよ?
331日本@名無史さん:2010/12/23(木) 13:57:49
船は縄文時代から有るだろ
332太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/23(木) 14:08:32
>>328>>330
神武が、九州から一時船使用で畿内まで来たことは神武紀の内容で確かな
ことだ。こちらはそれを否定はしていない。そんなことはコチラが書か
ずとも分かろうというものだ。

神武が畿内で即位した後頃から神武は畿内の中での小国の王だったわけで、
この時まで船舶の必要など殆ど無かったということだな。崇神の代ではまだ
畿内平定程度に勢力が留まっていたから、この時点で遠国に指令など出す
ことなどほど遠い。だから畿内四方に四道将軍を送って、畿内外周の調査
をしたにすぎない。それはすこしは将軍でも遠国に行ったわけだが、これ
でもまだ船までとことん使用したわけもなかろう。

それがそのころ、そろそろ畿内平定から勢力拡大の機運が出てきたわけで、
将軍の四方、畿内外周調べによって、それ以上の勢力拡大の為には、皇祖が
使って九州から畿内へ来られた時に役立った如き船舶が必要になったから、
崇神17年に神武の時代以来、始めて船舶製造にのりだしこれを製造したと
いうことだ。あたかも現今中国が戦力増強拡大を謀り、東シナ海南シナ海に
活動をし始めた現今のようにだ。
333日本@名無史さん:2010/12/23(木) 14:10:34
神武はユーラシア大陸を股にかけて活躍していたツングース系の騎馬民族だから、
九州に上陸した時も出雲族から船舶を借りあげて渡ったのだろう。
その時、時化にあって多くの仲間を失い、金輪際船には乗らぬと誓ったのかもしれない。
10代後の崇神の時代になって、ようやく古くからの習わしを捨てて船舶を持つことにしたのは、
大きな決断だったかもしれない。
334唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/23(木) 15:02:51
179 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/17(金) 21:56:44
>>174
>したいのね
 オマエは古代史研究家の頭をカルト・インチキ・ホツマ狂に洗脳
 したいのね。ww
そうはさせない。><

太国はこれだけのために二枚舌を使っている。
信用失墜は当然である。

それは本音を言えば半島文献を使用したいところだが、紀の記事との120年
(120年でない年差のもある)差もある撹乱文献では即使用するのは薮蛇
だよ。だからじっと半島文献を傍観しているのが真を遺失しない安全手な
わけなのだ。

120年差を支持する限り、倍年は否定される。
半島の文献と齟齬をきたしている事に目をつむる。

つまり太国倍年は、歴史からみたら、毒にも薬にもならないと主張している事となる。
335日本@名無史さん:2010/12/23(木) 19:07:16
太国氏は、なんのかんの言っても唐松山氏が好きなんですね。
でも、片想いみたいだし、第一、気色悪いです。
336日本@名無史さん:2010/12/23(木) 19:18:04
 太国は木をきる ヘイヘイホー ヘイヘイホー

 こだまは かえるよ ヘイヘイホー ヘイヘイホー

 唐松山ははたを織る トントントン トントントン

 気だてのいい娘だよ トントントン トントントン

 太国 太国 もう日が暮れる

 太国 太国 唐松山が呼んでいる ホーホー ホーホー
337太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/23(木) 22:27:40
マシなんか紀のどこにもないぜ。120年のマシがどこの空白に入ると言う
のか? 答えられないのね。
338レス長たらし毘古:2010/12/24(金) 01:08:52
>>312
気になったので、古事記から「たた」のつく人物をざっと探してみた。

@神武大王の皇后のヒメタタライスケヨリ比売
A開化大王と息長水依比売との間の子のタニハノヒコタタスミチノウシノ王
B三輪山神社開祖となったオオタタネコ

上記三名以外にもいるかもしれないがざっと探しなのでいたたらご容赦。
上記三名が製鉄と関連する人物と仮定する架空は成り立つかとは思います。
339レス長たらし毘古:2010/12/24(金) 01:44:38
>>326
気になったので古事記におけるナガスネヒコの最後の描写を再度調べてみた。

>然後将撃登美毘古之時、歌曰(然る後将にトミビコを撃たんとするこの時、
歌い曰く)

「将に〜とする」と言う表記は、撃つ直前の表記である。つまり、「これ
から撃とうと言う将にその時、歌を歌った」とあり、その歌が三首あり、

@ニラの根本と芽本を一緒にするように撃ちとってしまおう(しまいたい)。
Aショウガのように口障りがひどい者を撃ちとってしまおう(しまいたい)。
B伊勢海の大石を這い回る細螺のように撃ちとってしまおう(しまいたい)。

とある。つまり、肝心の「討ち取った」表記だけがスッポリ無いのだ。すると
勿論、「討ち取ってしまった」と言う解釈の暗喩と捉える事も可能な一方、
@はその子孫や親類の根絶やし指令。Aは本人のウワサをする者の処刑指令。
Bは逃げ回る本人の指名手配。このように想定する事も可能。
つまり、古事記ではナガスネトミビコを実際に殺せてはいないと考える事も
可能ではある。結果殺せなかったので、苦々しい思いで「指名手配」を歌と
して残したと見る事もできるのである。
すると、その上司のニギハヤヒノ命は、その後神武大王に恭順して子孫まで
残しているので、結果として、ナガスネヒコは、神武VSニギハヤヒの戦いを
生き延びた可能性も浮上してくる。むしろ、それほど憎い仇を撃ち損じたので
三首も恨み言の歌を詠んで残したと考える方が自然に思えて来る。
340レス長たらし毘古:2010/12/24(金) 01:59:26
>>331
その点は語義の統一が必要に思える。俺個人は、ワニと呼ばれる所謂当時の
和船(倭船と言うべきか)と、いわゆる少名毘古登場以降の外来船と、この
両者を区分する必要性を重く見る。
「三輪車なんて子供の乗る物」と言う先入観があった場合、三輪車を自転車と
見る解釈は蔑まれるかもしれない。ワニを「船」と見るかどうかが、争点当時
の「文明貴卑概念」と深く絡んでいたとしたら、立場によっては「船はまだ
無い事」にもなるし、反対の立場では「船はもうすでに有った筈」にもなる。

そして、ワニ氏や物部氏(ひょっとしたら葛城氏か蘇我氏)の没落と同期して
記紀上では「当時はまだ無かった」とする解釈をとりたい方の氏姓グループが
天武時代には最高権力を握ったのである。
341レス長たらし毘古:2010/12/24(金) 02:30:52
>>312>>338続き)

ちなみに、今度は「ネコ(根子)」の方にスポットを当ててみる。

・孝霊大王(第七代)(大倭根子日子賦斗邇命)
・孝元大王(第八代)(大倭根子日子國玖琉命)
・開化大王(第九代)(若倭根子日子大毘毘命)

そして、古事記時系列的にはその後にオオタタネコの三輪山伝説なのである。
上記以外の「根子」天皇(大王)は、その後、少し時代が離れて、

・清寧天皇(第二十二代)(白髪大倭根子命)

古事記では、ざっと調べてこんな感じだった。根子が一旦流行り、プッツリ
途切れ、暫くして名誉回復程度に再登場と考えれば、これも自然な解釈。
三輪山縁起のオオタタネコの存在のフューチャリングも、ひょっとしたら
清寧天皇辺りの時代くらいの再評価かもしれない。
342レス長たらし毘古:2010/12/24(金) 02:55:09
あ、そう言えば昨日は天皇誕生日でしたね。
遅ればせながら、今上天皇陛下の喜寿おめでとうございます。
( =_=)喜寿・・・スゴイネ。俺の家系は男はみんな還暦前だから、想像も
つかないや。。。みなさん、長生きして下さいませ。
343日本@名無史さん:2010/12/24(金) 12:46:22
女王卑弥呼とはいったい誰だったのか?また邪馬台国はどこにあったのか?

もう答えは出ている
卑弥呼、イヨのいずれかが天照大御神
邪馬台国は九州。で、後に畿内に東遷
あとは、のんびりと遺跡の発掘を待っていればいいだけ
344日本@名無史さん:2010/12/24(金) 12:51:46

イヨタン・・・・・・・・・・
 
345日本@名無史さん:2010/12/24(金) 13:37:16
常識的に考えても卑弥呼は卑弥呼だろう。

オマエラ馬鹿だろ?
346日本@名無史さん:2010/12/24(金) 15:02:51
邪馬台国はどこだったのかというときに、天照大御神なんぞ持ち出したって
何にもならん。伊都国はどこか、それを倭人伝に従って正しく比定すれば、
俗説は全て否定される。
347日本@名無史さん:2010/12/24(金) 15:19:58
馬鹿だな。
大人には大人の都合があって、比定は否定の始まりなんだぞ
自分の都合に合わないものは徹底的にゴネ、老人は老人で
結論に絶対結び付かないよう余生を過ごす。
348日本@名無史さん:2010/12/24(金) 15:45:40
特に邪馬台国スレで記紀ネタを扱う輩には注意が必要だ。
このネタを好むは、老人、オタクと相場が定着していて、だらだら何時までもネタをループさせたがる。
歯切れの悪さが特徴だ。
349唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/24(金) 18:02:22
古墳の築造に鉄器が使われた。
さて、この鉄器は何処から大和に入ったか、またそれは何時か?

弥生後期までの鉄は、西高東低。つまり九州方面から東方へ流れるが、絶対量が足りない。
古墳時代初期の副葬品から見て、鉄は大和に入り、そこから分与される。
箸墓を崇神時代とした場合、まだ任那は無い。
であるならば、九州方面から鉄が供給されたか?九州の鉄では絶対量が足りない。
日本海側で考えても、絶対量が足りない。
任那建国は、箸墓(250年)、ホケノ山(240年)より、前でなければ齟齬を生じる。

任那建国は、崇神世であり、垂仁元年頃より鉄が大和に流入する。
とすれば、箸墓を崇神時代に設定出来ない。
この事を自覚すれば、
>自分の都合に合わないものは徹底的にゴネ、
いくらがんばっても整合性は得られない。
350日本@名無史さん:2010/12/24(金) 19:44:28
九州にあったヤマト(邪馬壹)が畿内にあったヤマト(大和朝廷)になった・・・
この音の一致が偶然であるわけがない
もうそろそろ、邪馬台国東遷を定説として定着させるべきだな
351日本@名無史さん:2010/12/24(金) 20:24:56
邪馬台国東遷説は、とうの昔に完全否定されてる。

いまだに情弱だけが
「九州に邪馬台国があったらいいなあ〜」
「九州の邪馬台国が、東遷して大和王権になったらいいな〜」
「卑弥呼が天照大神だったらいいな〜」
なんていう、オコチャマ的空想で思い描いてるだけ。

352日本@名無史さん:2010/12/24(金) 20:47:41
出雲制圧はあったとしても、九州、畿内間の戦争の痕跡はないからな。
あえて言えば、磐井の反乱位なものだが、これを九州畿内間の全面戦争と取って良いものか?

その他には、九州で大規模な政治権力の入れ替えの痕跡もない。
もうちょっと後の白村江以降に断絶があるから、その辺りかな。
政治権力の入れ替わりは。
353唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/24(金) 20:53:15
とうの昔に完全否定されてる。 ハズなのに
否定する本人の思考が、卑弥呼は鉄を持たない崇神時代であったハズが
箸墓(250年)を得て、オコチャマ的空想で思い描いてるだけ。

鉄を持たない、纒向は誰かを言わない。
鉄を得て古墳を造った、垂仁、景行の居場所が無い。
354日本@名無史さん:2010/12/24(金) 21:01:08
あん?

唐松山って、東遷説なのか?

なんなのこの人?
355神武:2010/12/24(金) 21:04:02

♪行くあての無い奴は 俺ンとこへ来い〜

♪俺もないけど 心配すんな

♪我ら無敵の 鉄器軍団

♪そのうちなんとかなるだろう〜
356日本@名無史さん:2010/12/24(金) 21:36:55
>>337,341
357唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/24(金) 22:32:18
箸墓=モモソ姫=卑弥呼 説

畿内への鉄の流入は、崇神が任那建国し、崇神末、垂仁初から畿内に入る。
書紀の設定はその様に説明されているが、
箸墓築造に鉄器は使われる。鉄器無しで古墳築造は出来ない。
では、この鉄は何処から供給されたか?
やはり半島から大和へ供給された、としか想定出来ない。
弥生後期までの各地の鉄器の量をはるかに凌駕しているからだ。

ここで、書紀の記述と箸墓=モモソ姫(250年)は、齟齬を生じる。

358日本@名無史さん:2010/12/24(金) 23:02:34
大田田根子、大毘古道祖説。
稲荷山鉄剣を作ったのたタタールからの渡来民大田田根子の子孫大毘古だった!
そしてシュメール王、スメラミコトに国を譲ったのだ。
359日本@名無史さん:2010/12/25(土) 02:05:43
重機がなくても石垣が積めるように、鉄がなくても古墳の築造は可能だった。
今の何でも手に入る時代の人間からすれば
ありえない事でも
360日本@名無史さん:2010/12/25(土) 07:46:39
>>350
東遷させてしまうと、隋書の説明がつかなくなるよ。
361日本@名無史さん:2010/12/25(土) 08:32:40
どう説明つかないのかね?
じぶんの脳内に説明がつかないのでは?
362日本@名無史さん:2010/12/25(土) 08:57:03
東遷を否定する奴に聞きたいんだが、もしそうなら
邪馬台国はその後、どうなったのかね?
自然消滅したのか?
他国に征服されたのか?
そして、その証明根拠は?

他人の説に文句付けるんなら、自分の考えを言ってみなよ
363日本@名無史さん:2010/12/25(土) 09:03:38
邪馬台国東遷を否定する連中は、どうせ、畿内説のバカどもだろうから、
そんな連中を相手にマトモな議論は無理だったかな・・・
364日本@名無史さん:2010/12/25(土) 10:59:22
地の利の高い九州を離れて東遷しなくちゃいけない理由が無いだろうw
どうしても東遷させたいなら、「九州王朝」みたいな遠大なストーリーを構築したまえ。
365日本@名無史さん:2010/12/25(土) 11:17:30
>>364
で、362の質問だけど、邪馬台国は、最後はどうなったの??
366日本@名無史さん:2010/12/25(土) 11:27:34
何の理由もなく東遷できちゃうキミの脳みそでは、誰が説明しても理解できないだろうな。
だから、誰ともコミュニケーションができず、結局、最後は吠えるしかなくなる。
誰か、俺の話を聴いてくれよ!と。
キミの人生っていつもそうだろうw
367日本@名無史さん:2010/12/25(土) 11:33:53
卑弥呼は想像上の生き物です。 麒麟のようなものです。
368日本@名無史さん:2010/12/25(土) 12:45:16
古奈良湖のヒッシーじゃないのか?
369日本@名無史さん:2010/12/25(土) 12:50:44
しかし、それなら、鹿児島県の薩摩富士と呼ばれる開聞岳を望む池田湖のイッシーもあやしいな
370日本@名無史さん:2010/12/25(土) 12:53:00
普通に東遷というのは駄目なんだよ。九州を捨てて辺境の近畿に遷る理由がない。
しかも、遷ったら隋書の男王はいったい何者?ということになる。
倭国は、九州に朝廷を置いたまま近畿に東征の基地を置いて東を征服していったと
考えるべきだろう。そして、近畿には本州全体を押さえるに足りる有力者、例えば
次に大王となるべき人物が赴任していたと考える。そうなれば、7世紀ころになっ
て大王の跡を継ぐべき者が九州に戻らず、本州を本拠に政治を行ったというだけで
何の問題もなく東遷完了となる。
州に
371日本@名無史さん:2010/12/25(土) 13:40:45
史にコミュニケーションも糞もあるか。馬鹿が

ネット掲示板でコミュニケーションを強調するのは、ヲタかニートか独居老人ぐらい。
372日本@名無史さん:2010/12/25(土) 15:37:52
邪馬台国畿内説の連中は、それが大和朝廷になったと思ってるのか?
だとしたら、記紀との関連はどうなるんだ??
373日本@名無史さん:2010/12/25(土) 15:52:43
その大和朝廷とは一体なんなのか?
それ自体が謎じゃないの?
日本のどのへんまで支配が及んでいたわけ?
古墳を作った地域は大和朝廷の支配下にあったというけれど、
定期的に貢ぎ物を持って朝貢していただけではないのか?
それで支配していたと言えるのか?
実際、租庸調を徴収する仕組みができた奈良時代までは、ちょっと大きめな豪族に過ぎなかったと見て間違いない。
374日本@名無史さん:2010/12/25(土) 16:30:05
大和朝廷の実態など、ここではどうでもいい
要は、畿内説の連中の、邪馬台国との関連を聞きたいのだよ
375日本@名無史さん:2010/12/25(土) 17:20:01
ウィキペディアの九州王朝説の邪馬壹国(古田の説を勝手に改良)が凄い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
376日本@名無史さん:2010/12/25(土) 17:22:12
高千穂には風俗がないから都合悪いんだろ?
377日本@名無史さん:2010/12/25(土) 19:05:24
邪馬台国以前の北九州の遺跡は、朝鮮半島の影響が強く、
1世紀頃に北九州を支配していた勢力は、朝鮮半島と親密な関係をもっていた。
漢と朝貢貿易を行っていた。

しかし、3世紀はじめに公孫氏が朝鮮半島を支配すると、倭の朝貢は途絶え、
漢の後ろ盾を失った北九州は大乱となる。
かわって、公孫氏に朝貢したのが、畿内で女王となった卑弥呼だった。
混乱した九州のかわりに、畿内が外交の主導権を得ることに成功した。
漢(魏)に朝貢し続けようとし、公孫氏とのパイプを拒絶していた九州は、畿内に従うしかなかった。
公孫氏が滅びた後も、外交権を失った九州の代わりに、畿内の卑弥呼が魏と外交交渉した。
そして、魏から正式な倭の女王と認められた卑弥呼は、金印を受け取った。

これが歴史の真実です。
378日本@名無史さん:2010/12/25(土) 19:41:54
>>377
妄想は楽しいかい?
379:2010/12/25(土) 19:51:10
>秋津遺跡

唐さん〜秋津遺跡についてどういう遺跡で
どういう特徴があるのか、詳しく語って下さいよ。

しかしみんな〜詳しいね>< 
鈴木靖民氏とか〜よく本を読んでる。
よっぽど暇なのかw おれなんて仕事、仕事でなかなか本読む暇なんてないもん。
仕事おわってから時間あるけど〜疲れてるんで本開く余裕が無いっていうかw
380:2010/12/25(土) 20:00:55
今日は世間で言うクリスマスじゃん。
とりあえずは、メリークリスマス .。.:*・゚Merry X'mas:*・゚。:.*

TVでは、フィギアスケートがやってるね。
村上佳菜子(16才)に期待しよう。
浅田真央(20才)はおれてきにはNG(ぬけん)。
381日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:01:27
>大和朝廷の実態など、ここではどうでもいい
>要は、畿内説の連中の、邪馬台国との関連を聞きたいのだよ

釣りで言っているのか?
それとも単なるアホなのか?

いい加減ウンザリ…っていつものループか

そもそも畿内説と言うのはヤマトが中国側に邪馬台国と呼ばれていたにすぎないと言う立場なのだから
その設問自体に意味がない…って馬鹿でも分る道理だが

「邪馬台国のその後」と言うのは九州説にこそ突きつけられた問題で

邪馬台国東遷説と言うのは九州にその痕跡を残さず大和に引っ越した
…と言うことでストーリーを完結しようとするご都合主義

畿内説に下らないイチャモンつける暇があったら

スタートの九州邪馬台国を見つけて来い
ゴールの畿内ヤマトにおける最初の入植地を見つけて来い
(言っておくが纏向は九州の色が希薄でむしろ東遷説否定の為の根拠に使われる始末w)

で、両者を比較検証しダイレクトな移動があった事を証明して見せろ。

スタート地点は分りません。
ゴール地点も分りません。
当然それらを結ぶ線も引けません。

アホか?脳味噌腐っとるんか?wwwwww
382:2010/12/25(土) 20:05:52
倭国の始祖神話
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=86&summary=on

だってよ。
おれも行ってこようかな・・・
ローガンさんも一緒いく?彼のボッコボッコぶりもまたみたいしwww
383日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:09:52
九州に邪馬台国の痕跡が無い以上、東遷しようもないわな。

実に明快だ。
384:2010/12/25(土) 20:13:03
きゃーーー フィギアスケートの
村上佳菜子ちゃんかわいいね(‖0‖)

卑弥呼どころじゃないじゃんw

385日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:15:44
>ドツボ
ちなみに「 X'mas」の「'」は要らない。
スケートのお話とかここはお前の日記帳か?
チラシの裏にでも書いておけ阿呆
386:2010/12/25(土) 20:20:24
>>385
まああまあそう、カタイこと言うなよ。

で、君的に、なんで東遷説はNGなの??
具体的に、どの部分がっていうのを書き込んでな。
387日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:28:19
>>375
完璧、パーフェクト、感動した!
388日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:30:09
まず、九州には、邪馬台国を彷彿とさせるような連合国の存在が伺えない。

北九州の非常に狭い範囲でなら、銅矛文化とかカメ棺文化とか破砕鏡を配ったとか、
交流は認められるものの、日向や南九州とは親密な交流は認められない。
北九州の文化は、出雲や四国の伊予とのつながりの方が大きい。
この状況下で、邪馬台国連合を九州の内部だけと考えることはできない。

この時点で、魏志倭人伝は九州内部だけというような読み方は間違ってるわけで、
邪馬台国を九州の中に見出すべきという前提は成立しない。

389日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:42:05
北九州は銅矛文化などというが、
それに対する近畿の銅鐸文化の広がりは九州よりもさらに広域に広がっている。

近畿には、出雲・吉備〜東海に至るまでの文化圏が成立していた。
九州が一気に銅鐸文化を滅ぼしたなどと考えられる要素は微塵も無い。
また、近畿には、九州ほどの激しい戦闘の痕跡はみられない。
つまり、東遷説は成立しないのである。

卑弥呼の共立された時点で、九州から近畿は、吉備や出雲を通じて文化交流が行われていた。
この状況から、卑弥呼の邪馬台国連合は、九州から近畿の広大なエリア全体だったわけである。

とても、九州内部だけの話と考えることはできない。
仮に邪馬台国が、九州内部だけと仮定したところで、では、近畿のクニグニは、九州と交易しつつ、
九州の卑弥呼共立に参画しなかったのか?という疑問に九州説は答えるべきであるが、
明快な回答は誰からも得られていないのである。


390日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:45:21
>銅矛文化とかカメ棺文化とか破砕鏡を配ったとか、交流は認められる
これが北九州連合だよ。倭国の乱で敗れた勢力だ。

北九州をやぶった勢力はどこか? 銅鐸祭りしかやってなかった本州勢
力のはずはない。距離的にも遠すぎる。熊本以南、それが北九州をやぶ
った勢力だ。

>日向や南九州とは親密な交流は認められない。
当たり前だろ。北九州とは敵対していたんだから。
391日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:47:38
>近畿のクニグニは、九州と交易しつつ、九州の卑弥呼共立に参画しなかったのか?
参加していないよ。卑弥呼の共立は九州内部の話だ。本州は無関係。
392日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:47:47
銅器も鉄器もろくにない南九州が、どうやって北九州を制服できるんだよ(大笑)
393日本@名無史さん:2010/12/25(土) 20:49:43
>>391

>本州は無関係。

その根拠を誰も説明しないのが、九州説の限界。

なぜ、九州説が衰退したか?
九州と近畿の交流が活発だったことがわかってきたからだよ。
394:2010/12/25(土) 20:54:40
「東遷」この言葉にはうっとりするような響きがある。甘い匂いがして九州説なら
思わずくらくらとしてしまう。
甘美な,甘美な、九州説の宝物。この言葉を唱えれば、加齢で得た心の傷の
うずきも止まる。人生の荒波に耐えられる。
395日本@名無史さん:2010/12/25(土) 21:22:46
>>392
銅器は飾りだ。そんなものはいらんよ。鉄器は十分にあったな。
知らんのか。(笑)

>>393
弱小国ばかりだ。問題にならん。その証拠に九州勢力の東征時にまともに
抵抗した形跡すらない。
396日本@名無史さん:2010/12/25(土) 21:28:30
九州には統一された連合国家など無い。
30カ国で共立して、宗教的象徴を置くのがせいぜいのところだ。

そもそも、九州内でまとまる考えなどなくて、
それぞれが独自に中国の冊封体制に入ることを考えていたのではないか。

それ以前に小国なら、中国の冊封体制を知っていたのかすら疑問だが。
397日本@名無史さん:2010/12/25(土) 21:34:38
そもそも縄文人とは、日の出づるところを見たくて見に行った好奇心の強い猿の集団だ。
火星にも行ってみたいという宇宙飛行士の野口さん、5大陸最高峰を最年少で行ってしまった野口さん、
黄熱病の病原菌を誰よりも早く発見したかった野口さん、42.195キロを一番早く駆け抜けたかった女野口さん、
誰よりも早く知識を超整したかゃった野口さん、赤い靴履いて異国に行きたかった野口さん・・・
もし、神武が、そういう人間の根源をなる好奇心を持って東遷したといたとしたら、
それから2000年もの間、畿内に留まって居るはずがない。
関東から東北に移った伊達氏か上杉氏あたりが神武の直系のような気がする。
伊達氏は、そのあと北海道にも渡っているし、今ではアメリカやブラジルにも移住しています。
398:2010/12/25(土) 22:29:44
>東夷王度大海奉国珍

漢書 王莽伝だそうですが、これについて議論しましょう。
東夷王って事は、倭王ってこと?
太国氏は、これを神武天皇と考えてるみたい。
399日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:08:24
漢書 王莽伝の東夷王って市杵島姫神じゃね?
400:2010/12/25(土) 23:29:14
じゃ話題を変えて、奈良県の巻向遺跡で見つかった
卑弥呼の宮殿の可能性があるといわれる大型建物群についてはなすか?
401:2010/12/25(土) 23:43:35
おっさん〜 熱弁中だw

倭国の始祖神話
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=86&summary=on

おれも何か書いてこよっと〜☆
402日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:44:32
纏向は物流センター、倉庫だろ。
403日本@名無史さん:2010/12/25(土) 23:52:06
古代は、倉庫=神殿、では?
404:2010/12/26(日) 00:06:31
お、おれ専用YAHOO掲示板「邪馬台国はどこにあったのか?」トピ賑わってるな
女の子がきたら賑わうってか♪(。・ω・。)o"

おれもいってこよっと〜w
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=bcygobf9qa4oa4ia43a4ka4a2a4ca4bfa4na4aba1a9&sid=1835208&mid=3839#under-deli
405日本@名無史さん:2010/12/26(日) 00:16:05
シャーマニズムとスサノオさんですか・・・
406縦目仮面:2010/12/26(日) 00:27:05
wwwwwww↑ スラブ語講座が凄い傑作。笑う。
407日本@名無史さん:2010/12/26(日) 00:31:05
スザンヌはスサノオ一族www
スラブ語族の解釈スゲぇ
408日本@名無史さん:2010/12/26(日) 04:00:14
そら耳アワー
409唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/26(日) 08:07:12
纒向遺跡の大型建物は、
3世紀初期が垂仁(217年〜239年)の珠城宮
3世紀中葉が景行(240年〜261年)の日代の宮
古墳は、任那(209年建国)から鉄を得た垂仁時代から造られ始め
景行は、箸陵に眠る。この直後に黒塚が築かれ、鉄器が大量に副葬される。

箸墓(箸中山古墳)は崇神時代と言われるが、崇神時代には鉄はほとんど持っていない
鉄を持たない崇神に箸墓は造れない。この事は北九州のこの時代の鉄でさえ10ヶを下回る
量の出土しか無いことから推察される。

箸墓=崇神時代とすれば、任那建国が魏の時代に重なり、半島は、魏が管理する土地である。
狗邪カンコク(伽耶韓国)は、その(倭の)北岸である。
410日本@名無史さん:2010/12/26(日) 08:42:02
>>375
やはり邪馬台国は九州だったのか。
畿内説は完全に死んだな。
411唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/26(日) 09:01:08
この時代の鉄器の量
大和>肥後>筑紫 と大和が最大の鉄器保有量を誇る。
412日本@名無史さん:2010/12/26(日) 10:44:56
>>381
釣りだよ、バーカwww
それにしても、よくもまぁ、そんな下らん長文をクリスマスに書いてるもんだな
お前の生活がうかがい知れるわ
413日本@名無史さん:2010/12/26(日) 11:14:40
>畿内説と言うのはヤマトが中国側に邪馬台国と呼ばれていたにすぎないと言う立場
3世紀ころ、畿内にヤマトという地名があったのかが問題だな。
古事記によれば、畿内の古い地名として纏向、石上などは出てくるが、ヤマトは出て
こない。ヤマトという地名は、九州にあった倭国朝廷が東遷した後につけられたもの
だろう。
414日本@名無史さん:2010/12/26(日) 11:19:50
邪馬台国は畿内にあった。
そこに九州から神武が越してきた。

神武は「越」の王。呉越同舟で日本に越してきたのです

越の国からの渡来民は、福井や新潟だけではなく、
伽耶経由で渡来した越人は、越谷あたりにも住んでます。
415日本@名無史さん:2010/12/26(日) 11:20:04
自分で釣り宣言する事ほどマヌケな事はないw
416日本@名無史さん:2010/12/26(日) 11:21:00
>ヤマトという地名は、九州にあった倭国朝廷が東遷した後につけられたもの
だろう。

何を根拠にw

417日本@名無史さん:2010/12/26(日) 11:27:22
その前に3世紀にあったという根拠を示すことだ。
418日本@名無史さん:2010/12/26(日) 11:42:22
都道府県対抗高校女子駅伝を見ていると、日本全国の娘がどういう民族かわかって面白いです。
弥生人顔、縄文顔、中国の苗族系、百済系、新羅系などの扶余族、つり目のツングース、モンゴル系、
おまけにケニアなどアフリカからの渡来人まで混じっていて、正に日本は人種のるつぼだったことがわかります。
しかも、肢体や骨格まで鑑賞できるおまけ付きです。
419うましか:2010/12/26(日) 12:55:45
>>413

3世紀のこととして比定してよいのか微妙ですが、
崇神紀6年条に天照大神を「倭の笠縫の邑に祭るとあります。
この社を継承すると伝える檜原神社も、現在の大字笠縫の地も、ともに磯城郡内です。

また、綏靖紀では陵所の表記としては、珍しく「倭の桃花鳥田(現比定地は橿原市内)の丘の上」と「倭」と冠称付きです。
これは「桃花鳥田」と言う地名が、紀編纂時にはマイナーなものだったのか、はたまた、単なる編者の気まぐれか、ですがね。

更に、律令以前の大和では、西部が葛城国造、北東部が都祁国造、南東部が倭国造の根拠とされていることから、
私は、後世の高市郡、磯城郡地方が、広域地名としての「倭(ヤマト)」の地であったのだろうと思っています。

ただ、九州王朝な方々は、こう言った文献に散見される古地名「倭(ヤマト)」の存在を、
倭は九州にあったのだから全て後世の地名略奪の結果だ、とか言う理由(私には理解不能ですが)だけで否定されておられますので、
議論にならないところではありますが。
420ポキール:2010/12/26(日) 13:53:25
古代史かじるのはここでいいのかな?
無知丸出しでも参加できるのかな?
421日本@名無史さん:2010/12/26(日) 13:57:07
「メ」「唐松山」「太国」この3人にかかわらないようにすればいいです。壊れてますから。
「ローガン」「縦目仮面」という人は信用できます。
422唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/26(日) 14:07:38
纒向遺跡は、鉄を持たない崇神から始まり、
鉄を得た垂仁、
全国を統一した景行まで。
423日本@名無史さん:2010/12/26(日) 14:11:08
>>421

縦目は「信用」しちゃいかんだろうw
424日本@名無史さん:2010/12/26(日) 14:16:30
「縦目」という人は名無史で悪ふざけをしますね。コテをつけて出てきたときに
質問などすればいいです。
425唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/26(日) 14:34:12
http://www7b.biglobe.ne.jp/~shimin-kodai/newpage8.html

近畿・中国の地方政権連合が、当時鉄の輸入権・配布権を掌握していた北九州の政 権を制圧
したことから、近畿・中国の地方政権連合の中核であった初期ヤマト王権が 鉄の輸入権・配
布権を掌握した。このことが、近畿の一地方政権であった初期ヤマト 王権がやがて列島の大
部分を支配する大和政権に成長する主要因となったという説が 唱えられている

ホケノ山に副葬された鉄の量は、この時代の九州全体の遺跡の鉄器の量を上まわる。
つまりホケノ山が築かれた240年頃には、任那建国がなされており、大和は、鉄の輸入権・
配布権を掌握していた。
これは“北九州の政権を制圧した“わけでは無い。
北九州の政権を制圧したとしても、ホケノ山に副葬された鉄器を上まわれない。
426日本@名無史さん:2010/12/26(日) 14:34:35
>>424
自分で言うな!
427日本@名無史さん:2010/12/26(日) 14:46:16
wwww
428太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/26(日) 15:12:24
景行は全国統一をしていない。唐松山の景行インチキ誇張のなれの果てが
こういう出鱈目→メチャクチャ論に拡大する。

当時九州王朝が存在しており、景行が全国支配など出来てはいない。
景行が九州行幸したのは、熊襲もからんで視察しに行ったものであり、
統一どころか日本武尊のあっち行きこっち行きの反抗勢力退治で、朝廷の
勢力は疲弊していたろう。

従って景行は全国支配などほど遠く、これが成ったのは記紀成立直前の
後代なのである。
429ポキール:2010/12/26(日) 15:21:31
みなさんサンクスですね。
オレって高校中退の無知丸出しだから
このへんで少しは世間並の知識ぐらいは身につけてみようかななんて思ったりして。
そこで唯一記憶のなかに卑弥呼があったわけです。
かと言ったって、卑弥呼という名前ぐらいの知識で、ナンチャってにもならないほど無知丸出し。
この先、挫折丸見え状態ですよ
430日本@名無史さん:2010/12/26(日) 15:28:36
まあ、要するに、朝鮮半島は大和から見て鉄や銅などの鉱物資源、労働力(生口)の供給基地という役割を担っていたのです。
431日本@名無史さん:2010/12/26(日) 15:30:11
>>420
>古代史かじるのはここでいいのかな?
>無知丸出しでも参加できるのかな?

どうぞ、参加は自由なので。

>古代史

太国先生、唐松山先生宜しく!
432太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/26(日) 15:32:16
先生の語は不要です。
433ポキール:2010/12/26(日) 15:37:07
正直何から手を出していいかすらわからない。
ここでの話の内容もチンプンカンだしね。
434日本@名無史さん:2010/12/26(日) 15:38:40
学校で本当の歴史を教えないからいけないのでしょうね。
435唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/26(日) 15:40:05
>出鱈目→メチャクチャ論

神功紀は倍暦である。と 紀と半島の文献には120年差が存在する。
両論は並立しない。
436日本@名無史さん:2010/12/26(日) 15:44:01
伊勢物語 東下り について 「京にはあらじ、東の方に住むべき国求め・・・」
神武物語 東遷 について  「京にはあらじ、東の方に住むべき国求め・・・」
まあ、こういう消極的な理由だったんじゃないかと思います。
437ポキール:2010/12/26(日) 15:54:04
ここで参考になるであろう魏志倭人伝というやつをサイトで覗いたけど
漢字のバーゲンセールみたいで、何時読めばさらなる値引きがあるかすらわからない。
どうしようもない馬鹿さに、自分に呆れるほどお天気。
ここに参加している人は、それなりの知識を持って参加しているみたいだから、オレみたいな無知は邪魔になるだけだろうな
438日本@名無史さん:2010/12/26(日) 16:07:34
>>437
大きい本屋に行けば、高校の日本史の教科書が置いてあると思うんだが、
その古代史のあたりを読めば、話のアウトラインがだいたいわかる。
それから、古代史関連の新書でも数冊読めば何となくわかると思うよ。
あとは読書の数を増やすだけで、そのうち詳しくなる。

魏志倭人伝というのは昔の中国で書かれた本だから、
当然、漢文で書かれてる。
漢文を勉強しないと読めないけど、岩波文庫で訳本が出てる。

まあ、気長にやってください。
439日本@名無史さん:2010/12/26(日) 16:08:08
>>473
そんな事はないぞ
馬鹿丸出しでもいいから、どんどん積極的に参加がいい。場数を踏めばやがてカッパの様になるやもしれんし。

ガンバ。
440日本@名無史さん:2010/12/26(日) 16:17:30
>場数を踏めばやがてカッパの様になるやもしれんし

それじゃ
初心者レベル1→初心者レベル2への変化ぐらいで
今と余り変わりないやんw
441日本@名無史さん:2010/12/26(日) 16:23:43
深入りし過ぎると、太国のように廃人同様になる。
442日本@名無史さん:2010/12/26(日) 16:36:46
いやいや
初心者レベル1→電波レベル−3
で今より劣化
443日本@名無史さん:2010/12/26(日) 16:54:31
河童に関しては、各人それぞれ賛否両論はあると思うが、
アンチが付くほどなんとかというやつで、どうでもいい奴にアンチはいらんしな。
444ポキール:2010/12/26(日) 17:05:44
サイトに出ている日本語で訳されものを、いまザッと眺めてみたけど
最初に出てくる倭人って、今の日本人の先祖のようなものでいいんかな?
でさ、帯方とは地名で、その倭人が住んでた位置を最初に書いたということでOK商事か?
445ポキール:2010/12/26(日) 17:12:10
そんでもって、そのカッパだかラッパだかって人は
このスレさがしてもいないけど、何処に居るの?

その人も最初馬鹿だったみたいな事書いてあるけど、オレ以下って事はないだろ
446ローガン:2010/12/26(日) 18:44:35
>>445
敢えていいますよ。
半年ロムれ。
判らないなら来るな。
ごめんなさいね。でも、ここはそういう所。是非、クソ〜っておもってね。
447唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/26(日) 18:50:45
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時
朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東
し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。

その北岸狗邪韓國 これでさえ見方は幾つかある。
狗邪韓國の建国は209年である。
もし209年が任那建国であれば、崇神は2世紀末から纒向に存在する。
“その北岸狗邪韓國”は、崇神の任那である。
しかし 箸墓を築いたのであれば、250年頃になる。
この場合“その北岸狗邪韓國”は、倭国へ渡る為の北岸であり倭地ではない。
そして、“倭人は奴卑として鉄を取る(韓国説)となる。

さらに250年頃は半島は魏が管理する土地である、この時代に任那建国は無い。
448日本@名無史さん:2010/12/26(日) 19:18:14
>半年ロムれ。
>判らないなら来るな。

いかにもドン来い風な教えだねw
ドン来いの「イヨタン・・・」って奴の教えだろうと思うが・・・
449日本@名無史さん:2010/12/26(日) 19:34:17

イヨタン・・・・・・・・・・
 
450日本@名無史さん:2010/12/26(日) 19:40:17
>>446

半年もロムる必要ないだろうw
このスレを1から流し読みしただけで、おおよそことは判るはず。
判らないはずが無いので、大いに遊んで行きなさい。
最初は、サイキバ君あたりをいじくってみるのがよいよ。
451ポキール:2010/12/26(日) 19:40:19
>>446

>半年ロムれ


お言葉を返す様で申し訳ありませんが、オレみたいな馬鹿が半年ロムったところで
意味ない事で、半年現場で右往左往した方がいいと判断からこうして顔を出したという次第で
そう馬鹿は馬鹿なりに考えた。
452日本@名無史さん:2010/12/26(日) 19:45:59
>>451
まず、参加するなら、所属チームを決めた方がよいよ。
邪馬台国の所在地をどこにするかでチームが別れる。
大きく別けて畿内大和チームと九州連合軍の二つだが、それ以外の場所でも構わない、自由に選んでみなさい。
いつでも変更可能だから、テキトーに決めちゃった方がよいよ。
453ポキール:2010/12/26(日) 20:13:39
>>452
その所属チームってなに?
ここってチームに別れて寄り合い談義で盛り上がる酒肴という事?

じゃあ、オレは九州チームでいいよ。
454日本@名無史さん:2010/12/26(日) 20:15:29
>>444
>帯方とは地名で、

中国(魏)の郡(行政区域)名

>その倭人が住んでた位置

倭人・在・帯方東南大海之中(倭人は・帯方の東南、大海の中に・在り)
だと思います。
455日本@名無史さん:2010/12/26(日) 20:15:43
ストーリー読めたw
456日本@名無史さん:2010/12/26(日) 20:20:56
邪馬台国初心者は、こんなところを読むんじゃなくて、マトモなサイトを読んだ方がいいよ
畿内説論者は、頭のおかしな奴が一杯いるからな
かかわらないほうがいいぞ
457縦目仮面:2010/12/26(日) 20:24:07
俺は何もしていないよ。マジで。
458日本@名無史さん:2010/12/26(日) 20:35:26
>最初は、サイキバ君あたりをいじくってみるのがよいよ。

サイキバ君が一番弱いってよw
サイキバ君、何クソーって来いwww
459唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/26(日) 21:21:19
>マトモなサイトを読んだ方がいいよ

マトモな主張とは、
崇神、垂仁、景行は纒向遺跡であり、崇神時代に任那建国。
それにより、垂仁以降に古墳が造られる。
460唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/26(日) 21:27:53
訂正
× それにより、垂仁以降に古墳が造られる。
こんな主張はホツマか私位しか主張していないから、考え無くて良い。
ただし、崇神=任那建国を捨てたら、
ホケノ山古墳(鉄器の大量副葬)さえ説明出来ない。
461太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/26(日) 22:17:05
>>226 続き
天津神算木(天津金木)とは、三輪山の山名の半径r=3の円(←三輪)の
球化の体積、表面積の数式をいう。

天津神算木(表面積の場合)は (**はべき)

 4πr**2=113.097335529232556584655・・・

大祓祝詞に曰く
「・・・天津祝詞の太祝詞事を宣れ」

太祝詞事とは二十祝詞事にて、右辺を採用全20桁で区切るのだ。即ち

 4πr**2=113.09733552923255658」4655・・・

左辺にある半径3のrは文字とみなすとき記号を無視し、右辺先頭数1と
等号をまたいで数字のみで 421 を得るが、これと右辺末三桁数 658 から

 658−421=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

の真の年代を得る。
462ポキール:2010/12/26(日) 22:36:14
なんかこうして投稿読んでいると、結構目茶苦茶に力関係で成り立ってる
掲示板だな〜と感じる。

>>454さんの訳文を見ると、どうやらその倭人は
帯方という行政区から見て東南エリアの大海の中にあったということでいいのかな?
463太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/26(日) 22:44:08
>>461 続き
天津神算木(天津金木)

 4πr**2=113.09733552923・・・

大祓祝詞に曰く
「天津菅曾を本刈り断ち末刈り切りて」

天津菅曾(右辺)の本末を分断すると

 右辺= 13.097335

天津金木と天津菅曾の分断を兼ねて(□部分が空白となっている)

 2≠口13.097335

不等号をまたいで、口→0とみなすとき

 2≠013.097335

から

 西暦2013年=マヤ文明新時代元年

を得る。
464日本@名無史さん:2010/12/26(日) 23:29:54
「漢書」<地理志倭人条>(原文)

(本文)
 夫楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云
(注)
 如淳曰「如墨委面 在帯方東南万里」
 臣曰「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」
 師古曰「如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭国
    魏略云『倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国皆倭種』」

         台湾商務印書館発行 「百衲本二十四史 第2巻」漢書 より

http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/xyz1106b.htm

臣曰「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」

倭は「委」也
465日本@名無史さん:2010/12/27(月) 00:09:11
>これまで筑紫・日向(ひむか)・小戸(おど)神社・橘(木花)・檍原(あはきはら)について述べてきた。
>私は、宮崎市付近を記紀の「筑紫(竺紫)の日向の小戸(小門)の橘の檍原(阿波岐原)」に比定する。
>そして、初代天照大神・卑弥呼を「筑紫(福岡県)の生まれである。」としたので、この地は2代目天照大神・台与の生誕地となる。
>なおかつ、台与は倭(わ)の強国邪馬台国(やまたいこく)女王卑弥呼の後を継ぎ、若くして新女王となるのであるから、
>卑賤の生まれではない。女王にふさわしい出自でなければ邪馬台国の重臣・近習・同盟諸国が納得しないであろう。
>台与は宮崎市付近の有力豪族の娘と考えなければならない。
>私は次のように結論する。

上のホームページからの引用だが
初代天照大神・卑弥呼、2代目天照大神・台与 説は昔から根強くあるね。
歴史とは「人」がつくる。
この人が、魏志倭人伝に記述されてる二人の女王を、伊勢郡宮の神様とかさねて考えるてやつか。
466日本@名無史さん:2010/12/27(月) 00:18:53
>>465

夢を追い、そして敗れる、勝ち組になりたくても、現実を直視する能力が無く、
貧乏くじばかり引いてるって感じだな。

邪馬台国九州説にしがみつくしか、生きがいを無くしたわけか。
悲しい爺さんだな。

こんあ人生の末路を迎えたくはないものだ。
467日本@名無史さん:2010/12/27(月) 00:21:44
>>466
あっ 上のホームページ読んだ?
たしかに、作者の彼は、邪馬台国九州説にしがみついてる感があるね。
468ポキール:2010/12/27(月) 00:26:34
たかが古代史の考え方だけで、人生の末路だなんて
どうかしてるんじゃないの?
みんな片寄った勉強ばかりして、どうかしちゃったんじゃないの?

469日本@名無史さん:2010/12/27(月) 00:29:25
どんなに一生懸命、邪馬台国について調べても、
卑弥呼を天照大神などと思い込んでる時点で、論は破綻している。

文献史学では、天照大神は8世紀の創作であると、戦後まもなく指摘されている。
まずは、天照大神は8世紀の創作であるという、文献史学の結論に対して、反論を述べることからはじめなければ、
素人の目を引くことはできても、きちんと勉強してる史学者には見向きもされない。
ネットに渦巻く駄文に埋もれて忘れられていくだけ。

いつか自分の論が脚光を浴びることを夢見てるのか知れないが、
そんな日は永遠にこないんだよ。

天照大神=卑弥呼などと低レベルな戯言を言ってるうちはね。
470日本@名無史さん:2010/12/27(月) 00:31:01
古代史はあくまでも趣味と位置付けとく。
人にはいろんな趣味があり、その一部ってだけ。
もしかして古代史以外に趣味が無いとか言わないだろうね?
471日本@名無史さん:2010/12/27(月) 00:40:10
>>470
何を甘えたことを?

趣味でも、間違ってることや低レベルなものは、誰からも相手されない。
チラシの裏に書いてるならいいが、ネットに発表した時点で批判の目にさらされるのは覚悟すること。
472日本@名無史さん:2010/12/27(月) 00:45:01
ま、仮にも天皇家の皇祖神だからね。アマテラスについての論議は盛んには
ならない。そこをうまく利用して立ち回っているのが安本。
473日本@名無史さん:2010/12/27(月) 00:46:57
とにかく、天照大神=卑弥呼だなんて言うのは、サギ師か、勉強不足で無知なのかどっちかなんだから、
まずはそこを恥じるべき。

大和朝廷は天照大神を祭ってきた歴史はなく、
本来の皇祖神は、高御産霊尊だった。
文献史学ではとっくに常識だし、現在でも、宮中八座で祭られてるのは高御産霊尊で天照大神ではない。
天照大神は、8世紀の時期に政治状況の都合で生み出されただけ。
あらゆる史学者がそのことを肯定してるのに、
いまさら天照大神が、3世紀の卑弥呼だなんて話をしだすなんて、
己の無知をさらけ出してるだけなんだよ。
474日本@名無史さん:2010/12/27(月) 00:51:57
>>472

安本は学者でもなんでもない、サギ師だよ。
彼のHPでは、盛んに考古学を批判してるが、
天照大神が8世紀の創作だという学会の常識に対しては何も反論してないし、
話題にも出して無いだろ。

こんないいかげんなヤツに多くの人が騙されてるんだよ。上の爺さんも同じ被害者なんだよ。
残り少ない人生に時間を費やして歴史を調べようというなら、
学者なら正しく公平な知識を広めなければならないはずだろ。

天照大神が8世紀の創作だということを知っていれば、邪馬台国論にも違った角度でアプローチできたはずだ。
そして、今よりも実のある論を立てることが出来ただろう。
475日本@名無史さん:2010/12/27(月) 01:02:28
というか、安本は最初から古代史において自分の地位を獲得するためにやっている
だけで、本心から自分の説を信じているわけではない。最大の根拠となっている地名
の類似は穴だらけなのだが、それに対する再反論はしない。(できない)

古田東日流などの批判は非常に熱心、あれは明らかに偽書だし、話題になるからだ。
自分が生きている間に邪馬台国の結論が出ることはない、という確信が安本にはある。
非常に頭のいい生き方をしてきた、というわけだ。
476日本@名無史さん:2010/12/27(月) 01:12:03
つまり安本は、はなからアカデミズムに迎え入れられることなど意図して
いない。九州説を唱えていれば九州からは大事にされるのは目に見えて
いるし、会を作れば人は集まる。世の中にはアマノジャクはたくさんいるからだ。

彼の九州説は彼の人生設計のためのものであり、これまでのところ成功して
いると言わざるをえない。パチパチ。
477日本@名無史さん:2010/12/27(月) 01:14:56
>>475-476
ま、安本氏が邪馬台国九州説を盛り上げてるのはわかる。
そういった意味では安本さまさまじゃないの?
478日本@名無史さん:2010/12/27(月) 01:15:39
安本がいまだに、天照大神=卑弥呼などといって、東遷説を流布してるってだけで、
いいかげん犯罪と同じだろ。

おかげで、古代史の研究がアマチュアレベルと学会レベルで大きく乖離してる。
アマチュアレベルではいまだに「天照大神=卑弥呼」「神武東征」を信じて、
邪馬台国と大和王権を語ろうとしてるやつらがほとんど。
学会では、考古学主体で研究が進み、大きな成果が上がってるのに、
九州説を信じてるやつが多いために、捏造だのなんだの言われて、
純粋に歴史に興味のある人が、きちんとした畿内説に触れる機会を阻んでるわけでしょ。

もちろん、学会の議論も100%正しいとは言えない。
反論すべきことはいくつかあるが、
学会への反論が「旧態依然の九州説」では、全くお話にならないのだよ。
479日本@名無史さん:2010/12/27(月) 01:31:37
たとえば、たまにテレビで邪馬台国特集を見ることがあっても、
大和王権のシンボルとして三角縁神獣鏡が紹介されて卑弥呼の鏡とか言われてるとかコメントされる。
しかし、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡かどうかは批判されるべきこと。

テレビでは、その先の批判として「九州説では・・・」という話になったり、
卑弥呼を天照大神とダブらせたりとかしてる。
もう、そういう低レベルな議論はウンザリなんだよ。
一般視聴者の古代史常識レベルをもっと上げないと。

まずは、「東遷説はデタラメ」てことを、きちんと認識させないとだめだろうな。
480日本@名無史さん:2010/12/27(月) 02:23:42
>>479
一般視聴者に理解させる。たしかにその通り。
そのためには、かなり平易な言葉でなきゃ駄目だろうね。
まずは、ポキール君でもわかるように説明してみようじゃないか。
東遷説はこういうもので、なんで間違いなのかと。

俺は無理w
481日本@名無史さん:2010/12/27(月) 02:29:02
ボラギノール
482日本@名無史さん:2010/12/27(月) 02:36:38
>>480

まず、天照大神は卑弥呼じゃない、という説明が必要だろうね。
天照大神は卑弥呼かもしれないと思わせてると、いつまでたっても、東遷説から抜け出せない。

それには、天照大神が天皇の皇祖神では無いこと、男神であることを説明しないといけないだろう。
神道の根幹を否定することにもなるから大変だ。
(本当は否定じゃなくて、再認識なんだが)

伊勢神宮が江戸時代に、あまりに強力に伊勢信仰を広めたせいもあって、
天照大神が高天原の最高神というイメージが根強いけど、
神道的には高御産霊尊が最高神だということからアピールする必要があるかもしれん。


483レス長たらし毘古:2010/12/27(月) 03:09:34
天照ファンには申し訳無いのだが、俺としてはあいかわらずモモソの方が気に
なるので、閑話休題程度に、古事記にて最近また気付いた事を一つ。

ヤマトトモモソ毘売の父親は孝霊天皇(コウレイ?)で、母親は先述どおり、
オオヤマトクニアレ(意富夜麻登玖邇阿礼)比売である。この方は、又の名
を蝿伊呂泥(ハエイロネ)と言い、この妹は蝿伊呂杼(ハエイロド)と言い、
この姉妹の父親は、安寧天皇の子供にして淡路(淡道)の御井宮に坐す。

淡路と言えば河内の対岸、目と鼻の先である。

また、淡路を古事記を遡って探すと、神話部分ではあるが面白い記述がある。
イザナギが、スサノウに「海原(ワタヅミ)を統治せよ」と命じたのに、スサ
ノウは一向に任地に赴かず泣いてばかりいて、ついには「海原に蝿がたかる」
始末。怒ったイザナギは(古事記では)「じゃあこの国に住むな!」と言って
つむじをまげて「近江の多賀」に篭ってしまう。日本書紀ではこれが淡路に
変っている。

天照のツムジマゲもそうなのだが、この場合、イザナギのツムジマゲも、記述
どおりに受け取っていい物か悩む所である。
仮に書紀を信じて古事記を疑い、スサノウがイザナギを「幽閉」した場合、
その後に天照の天の石屋戸の件があるので、スサノウは「天照をも続けて幽閉
した」或は「幽閉し損ねた」という筋もまた、一つありえそうな自然な架空
ではある。

そして、仮にイザナギの幽閉先が近江多賀でなく、淡路であるならば、蝿と縁
のある蝿伊呂泥(ハエイロネ)蝿伊呂杼(ハエイロド)姉妹も淡路の統治者の
娘である点が非常に趣旨深い。
淡路(近江)は、「海原の支配権」と密接にリンクし得る。この地政学的条件
もまた、非常に趣旨深い。
484レス長たらし毘古:2010/12/27(月) 03:40:48
>>483(の続き)
このオオヤマトクニアレ比売も、毘売でなく、比売なのだ。勿論、オオヤマト
クニアレ比売は、天皇とは結婚したが、天皇を産んではいない、だから、毘売
でなくても、さほど違和感は無い。(むしろその意味ではモモソ毘売の方が
違和感であるが。)
また、古事記上は、同代にはヨソタホ毘売(孝安の母、孝昭の妃)がいるし、
前代にはカワマタ毘売(安寧の母、綏靖の妃)がいるし、後代には自分の娘の
モモソ毘売がいる。
毘売が「同時代に一人だけ」と言う法則が仮にあるならば、オオヤマトクニ
アレ比売が毘売では無い点は至って自然なのである。
しかし、オオヤマトクニアレ比売が毘売でないのが自然であれば自然である程
に、その娘のモモソ毘売が「毘売である事」が逆に不自然なのである。
モモソ毘売の息子が天皇(大王)でなければ、この「毘売の法則」が、モモソ
毘売だけが成り立たないのである。だが記紀上はモモソ毘売には子供は無い。

孝霊天皇とオオヤマトクニアレ比売との間のその他の子供の任地は豊国・
吉備上道であり、孝霊天皇と蝿伊呂杼(ハエイロド:モモソの妹)との間の
子供の任地は播磨(針間)・吉備下道。
また、記紀上ではモモソ毘売は、「嫁す」事も「子孫」も無い事になって
いる。でも「毘売」なのである。怪死とは言え、記紀上は天寿をマットウして
いるのである。
485日本@名無史さん:2010/12/27(月) 04:03:28
日本書紀も古事記も8世紀の創作なんだから、
細かい記述に意味を見出そうとしても無意味だよ。

何か、意味がありそうだとしても、そうかもしれないし違うかもしれない。
そんな曖昧な話に誰が乗ってくると思うのか?
486レス長たらし毘古:2010/12/27(月) 04:14:26
ご自分の立脚点を明らかにしない「全否定」による指摘も、同様以上に曖昧な
指摘と思われますが???
487レス長たらし毘古:2010/12/27(月) 04:29:02
>>484(の続き)
そして、この古事記のミステリーに、俺と同様に悩んだ人間が日本書紀編集者
の中にもいた。だからこそ、日本書紀の編集者は、ヤマトトモモソ毘売を、
「神と契り損ねた悲劇の毘売」という神話的伝説を死因解釈暗喩させる形で
加筆するのである。こう考えると、一つの架空の筋としては自然である。
神と契ろうとした高貴な女性であれば、「毘売」と呼ばれても全く不自然は
無くなるのである。
488日本@名無史さん:2010/12/27(月) 05:23:37
俺は畿内説で、文献なんか魏志倭人伝も記紀も信用しない派だが。

日本書紀も古事記も8世紀の創作なんだから、
細かい記述に意味を見出そうとしても無意味だよ。

何か、意味がありそうだとしても、そうかもしれないし違うかもしれない。
そんな曖昧な話に誰が乗ってくると思うのか?


489日本@名無史さん:2010/12/27(月) 05:30:22
今日は、九州で雪だそうだが。

魏志倭人伝では、倭地は温暖だとか書いてあったなあ。

奈良では雪はふるかい?
490日本@名無史さん:2010/12/27(月) 07:10:30
奈良も北九州もだめだよ。海南島を思わせる温暖だ。
491日本@名無史さん:2010/12/27(月) 07:41:18
この人間のクズめが
詐欺罪で立件されてもいない人を平気で詐欺師呼ばわり。
名誉棄損に当たる言葉を平気で吐く奴が、他人を詐欺師呼ばわりとはかたはら痛いぞ
特に夜中に書き込む掲示板の歴史オタの実態を垣間見たようだな
492日本@名無史さん:2010/12/27(月) 07:48:24
冬期、極寒の大陸内陸部や朝鮮半島北部と比較すれば、たとえ冬期雪が降ることがある日本の冬は
かなり温暖に感じるだろうよ。
日本でも北海道の人間が九州に移れば、相当暖かく感じるよ
493日本@名無史さん:2010/12/27(月) 08:06:58
>極寒の大陸内陸部や朝鮮半島北部と比較すれば、
難局と比較すれば北極でも温暖だっていいたいのかね。
しかし、会稽東冶の東とか海南島を持ち出して「温暖」と言ってるんだ。
朝鮮北部などと比較した話ではない。残念でしたね。
494日本@名無史さん:2010/12/27(月) 09:31:32
史書を否定するのに、すぐ創作論を持ち出すバカが学会にはびこっているのは問題だな
あいつら、脳細胞が死にかかっている痴呆老人学者の言い分なんか、あてには出来ない
戦前は真逆のことを言ってたくせに、政治情勢によって意見をコロコロ変える連中だ


495日本@名無史さん:2010/12/27(月) 09:35:24
>>493
海南島なんてワジンデンの何処に持ち出してるんだ?それにワジンデンの基は帯方と、
しょっぱなから歌われている。
会稽東治の東と書かれていつも、当の会稽東治の植性や気候が記されていないだろ
書かれていなければくらべようがない
496日本@名無史さん:2010/12/27(月) 09:41:59
そうだよな、
自分の説に都合が悪ければ、全部、あれは創作だとか、書き間違えだとか・・・
畿内説論者の醜い言い訳にはウンザリ・・・
歴史を勉強する人間の風上にも置けないクソどもだ
497日本@名無史さん:2010/12/27(月) 09:48:05
倭地温暖と書かれてあるのだから、温暖と比較された寒地が
その基となるのは明白な史実なんだよ。

寒地が存在するから温暖な地が存在し、温暖な地が存在すれば寒地がかならず存在する。
498日本@名無史さん:2010/12/27(月) 09:52:37
>>494
>史書を否定するのに、すぐ創作論を持ち出すバカが学会にはびこっているのは問題だな

そういうのは戦後のマルクス主義全盛だったころの話じゃないの?
上のほうで出ていた直木孝次郎氏も、まさにその時代の方らしく、
ネットでちょっと調べると、共産党とも関係が深いようですね。
今は学会も、割と史書を信用する方向なんじゃないのかな。
499日本@名無史さん:2010/12/27(月) 10:21:54
南極で暮らしていた奴が、北海道に移住しても「温暖」だと記述はしないと思うけどな
温暖は、やはり普通に温暖と解釈すればいいよ
500日本@名無史さん:2010/12/27(月) 10:24:08
>>495
海南島が出ていることを知らないのか?倭人伝を読み直してみな。

>会稽東治の東と書かれていつも、当の会稽東治の植性や気候が記されていないだろ
>書かれていなければくらべようがない
帯方郡の植生や気候も記されていないじゃないか?


501日本@名無史さん:2010/12/27(月) 10:31:29
>>500
アンタが何をどう言おうとも、ワジンデンに海南島が出てこない時点で
アンタの論は破綻してるんだよ

で、アンタの脳内以外でワジンデンの何処に海南島が出てるか抜粋してみなよ。約2000文字の何処に海南島の文字が見えるんだ?
502日本@名無史さん:2010/12/27(月) 10:34:47
たとえば、欠史八代を創作だと主張している奴らだが
事績が書かれていないから創作だと言ってる癖に、事績の書かれている神武天皇らも創作だと言っている
逆に神武天皇伝説を創作するぐらいなら、八人についても物語を創作しそうなものだが、なぜそうしなかったのかの疑問について、
その点については何も説明しない
今の歴史学界の痴呆学者のレベルなんて、一事が万事、みんなその程度だろ
韓国の学者が広開土王碑をねつ造だと言っておきながら、それが否定されると
今度はアホな解釈を持ち出す・・・それとそっくり

要するに、都合のいい所だけ好き勝手な理屈をこねまわしているんだよ
南は東の間違いだと言ってる癖に、他の場所では東は東のまんまにしている
畿内説のバカと一緒でな
503日本@名無史さん:2010/12/27(月) 10:48:02
>>500

仮に一万歩譲ってアンタの言うように、海南島の記述があったとしよう。
その場合、海南島が出てくることがどのように影響するのか
その論を披露してくれ。
そしてその論は、先程譲った一万歩を穴埋めして尚有り余るほどの論なのか?
504日本@名無史さん:2010/12/27(月) 10:49:46
海南島の記述などどこにもない
505日本@名無史さん:2010/12/27(月) 11:02:19
>>504さんが言うように、オレもナイという認識なんだが、>>500はアルと言ってる以上、
ここは是が非でも提示してもらわなければならないだろう。

まさか今更ナイなんて言えないだろうし。
506日本@名無史さん:2010/12/27(月) 11:28:28
馬鹿を相手にすると疲れる。解説書ぐらい読め。

憺耳、朱崖(*34)と同じである。


(*34) 現在の広東省憺県・瓊山県の近くの地名。ともに海南島にある。

507日本@名無史さん:2010/12/27(月) 12:08:32
>>506
おじいちゃん。
そろそろショートステイのお迎えがくる時間だから、お家に帰りましょ。
お家はそっちじゃありませんよ。
508日本@名無史さん:2010/12/27(月) 13:04:35
憎まれ口しかきけないとは情けないやっちゃ。
ご教示ありがとうと言うんだよ。覚えておけ。
509日本@名無史さん:2010/12/27(月) 13:17:41
だれか九州隔離スレ もっぺん立てて。 お願い
510日本@名無史さん:2010/12/27(月) 13:19:15
ボケ老人の戯言がか?
笑いも出てきやしねえぜ。
いいからショートステイの出発に遅れるなよ。
511日本@名無史さん:2010/12/27(月) 13:29:46
ショートステイでなくてもいいんですよ
はい もう一方の足もちゃんと桶に突っ込んでね オジイチャン
すうに「ケアセンターもがり」の人が引き取りに来ますからね
512日本@名無史さん:2010/12/27(月) 13:38:56
畿内説論者のレベルが知れるなあ。
513日本@名無史さん:2010/12/27(月) 13:43:23
もしかしてこれの一文か?
其地大較、在會稽東治之東、興朱崖、 耳相近。故其法俗多同。
514日本@名無史さん:2010/12/27(月) 13:53:49
これさ會稽や朱崖と同じで温暖って書いてあるんじゃないと思う。
なぜなら行けばわかると思うが會稽、今の杭州あたりは東京と同じような気温だけど、朱崖(これが海南島なら)は暑いぞ。
つーか中間のアモイあたりでもだいぶ暑い。
會稽と朱崖の気温が違いすぎるよ。
515ポキール:2010/12/27(月) 14:49:16
半年ロムれと言われて半日ロムってみたけど
これはひど過ぎる。
オレみたいな中途半端な奴が入り浸ってるスレならわかるけど、大部分の人が最終学歴を出た博識達だろう。
なのになのに、これじゃあオレみたいな中途半端な奴と同じか、それ以下じゃないかあああああ。
516ローガン:2010/12/27(月) 14:55:18
>>506
>憺耳、朱崖(*34)と同じである。
> (*34) 現在の広東省憺県・瓊山県の近くの地名。ともに海南島にある。

「所有無與 耳・朱崖同。」 有るもの無いものが、同じだと書いてある。
517日本@名無史さん:2010/12/27(月) 15:00:32
単に文化が似ていると、書いてあるに過ぎない。 
518日本@名無史さん:2010/12/27(月) 15:01:27
>>515 ポキール

だから面白いんだよ

べつに学歴コンプレックスなんか持たなくていいから、自分が考えたことをぶつければいいだけ
このすれには たとえば自分では専門知識があるつもりの「鹿島珍流ポンスケ」とかいう基地街もいたりする。
519ポキール:2010/12/27(月) 15:51:27
>>518
ありがとサンクス。

さっそくですが、漢字のオンパレード仕様のワジンデン。これって今の中国語とは違いますよね。
520太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/27(月) 15:53:20
創作すれば、やった奴は公文書偽造同行使で、朝廷の糾察官僚にとっ捕ま
り、身の危険が切迫する。現今と同様、当時も政敵は多いわけで、そんな
創作という捏造をやってそういう敵に事実を摑まれれば失脚の運命に
至ることは小沢さんの部下でしたか、例の文書捏造で逮捕された事件同様
だ。小沢さんも道義的責任はあるだろうから、国会内で国民の多数に
分かるように説明をしてくれという要求で、身の安寧が動揺しているのは
それと似たような意味合いがある。小沢さんは実力が極めてあるからもって
いるわけで、この前の法相更迭の如くならずに頑張れるのは、小沢さんの
力がまだ上回っているわけで、これなど例外的であり、本来ならば法相の
如き以上に身分の更迭的危機になるべき状態にあるものだ。

日神は8世紀の創作ではなく、神とはいうが、実在の女性であり、卑弥呼
ではない。彼女は瓜実顔の柳腰の可憐な超美女だよ。
521日本@名無史さん:2010/12/27(月) 15:57:36
>>520
その公文書偽造同行使とやらの罪で罰せられた例を
提示願おうか。
522太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/27(月) 16:04:06
罰せられてないという意味だよ。紀の編者連が罰せられてるのか?

違う言い分なのか?
確かそのころ似た事件で罰せられた話が続日本紀だったか
それでなければ近隣文献にあるという話は聞いている。ただそれが公文書
偽造そのものだったかは忘失したが、かなり似た事案だったぞ。

さて公文書偽造同行使とやらの罪で罰せられてない例を提示願おうか。
523ローガン:2010/12/27(月) 16:04:22
>>515

> 半年ロムれと言われて半日ロムってみたけど これはひど過ぎる。

そんな日もありますよ。興味があるのなら、気長に。
一つだけ、忠告。まずは、何事も疑ってかかる事。様々なアプローチの方法があるので、その中で批判に耐えられたものを立論の根拠としましょう。
史料批判が大切。まずはそれからかと。
524日本@名無史さん:2010/12/27(月) 16:06:39
>>519
> これって今の中国語とは違いますよね。
今から1700〜1800年前の魏という時代の言葉。 今の中国人でもまともに読めない。
だから 自分の都合のよいように解釈しようとして、ドツキアイの喧嘩をしているわけ。
525縦目仮面:2010/12/27(月) 16:13:07
そうね。まず、ある説をトータルで信じないことが大切かと。古田九州王朝を読んで、これしかないとか、
安本東遷説を読んでこれがずべて正しいとか・・・むろん考古学的畿内説でも同じ。資料不足の古代史
は、どのみちある説が細部まで正しいということはないと思います。

最も悲惨な姿は、ある説をすべて信じ込んで、それに合わないものは徹底的に排除しようとする姿勢。
そこには新しい発見もないし、自分で考える楽しさもないでしょうね。
526日本@名無史さん:2010/12/27(月) 17:10:32
史料を読むにも、他人の説を読むにも、批判的精神をもって自分で納得できる
かどうかを検討することが必要だってことだろうな。
まず、第一に考えるべきは、従来の伊都国の比定が正しいかどうかだよ。
527ポキール:2010/12/27(月) 17:22:57
という事は、永遠に何かを追い求めるか、何処かで妥協し自分をそこに洗脳させるしかないわけですね。
そういう意味では、学説は妥協の最先端と言うべきものかな?
528日本@名無史さん:2010/12/27(月) 17:27:34
>ポキール

「半年ロムれ」とは2ちゃんの常套句だが
この場合
「半年ロムって最低限の知識をつけろ」と言うより
「半年ロムってこの板がどの様な場所か悟れ(基礎知識はきちんと自分で勉強しろ)」
と言う意味にとっておいたほうがいいだろうw

老婆心から一つ警告しておいてやるが
この板の場合『九州説』と言ってもその中身は「九州王朝説」や「東遷説」
及び両者の悪いところ取りの「負のハイブリッド」wとも言える様な物が主であると言うのを知っておいた方が良い。

無論、邪馬台国の比定地を九州におく以上「九州説」ではあるのだが…(苦笑

「九州王朝説」が批判対象とする「畿内説」と言うのは単に邪馬台国畿内説にとどまらず
「東遷説」が年代を述べるときには東征・東遷のスケジュールの都合から逆算されたものだったりと
まあ色々と狂劣なバイアス・フィルターがかかっていたりするからキヲツケロwwwww
529日本@名無史さん:2010/12/27(月) 17:29:06
>あいつら、脳細胞が死にかかっている痴呆老人学者の言い分なんか、あてには出来ない

このイデオロギー的情念、憎しみに満ち満ちたテイストはいつもの「怨み節東遷厨」っぽいがw

まあ戦後の一時期、戦前への反動もあってサヨクフィルターがかかっていたのは確かにあったんだろう。

しかしそれは九州説にしても同じで邪馬台国ブーム下での九州説を盛り上げた
松本清張や古田なんかも相当にヒダリで、吐いた唾が自分に戻ってくるような笑い話でしかない。

で、かつてそのマルクス史観にどっぷり浸かった『痴呆老人学者』が死に絶えたら
九州説が復権・浮上すると言うのが、この「怨み節」らのありがたい予言なわけだがw

実はこの板のゴミクズレベル九州説がしがみ付いている昔の年代観等々
かつての九州説(&畿内説)が成り立っていた前提はその御老人達によって支えてきたわけで、
世代交代が進んだとて九州説に芽が出てくるわけでもなんでもないw

むしろもっと苦しい状況に立たされるというか
そもそもリアルタイムで「邪馬台国論争」の中に身をおいた学者がいなくなると言うオチwwwww

チョット前に某コテが昔九州王朝説だった自分を
「ハシカにかかったみたいなみたいなもの」と言っていたがw

「邪馬台国論争」自体が史学上における黒歴史と言うか
それこそ「ある時期、ハシカに被れたようなもの テヘッ(ゝ∀・)」として認識されるんだろうなw
530ポキール:2010/12/27(月) 17:33:59
学説であろうと、そこにはさまざまな意見が飛びかっているだろうし
学者が同じ意見で一致したわけじゃないと思うんだ。最終的に意見を纏めた形にしたのは力関係じゃないかな?
それを考えると、いったい学説ってなんだろうか?と考えちゃうわけで
馬鹿な脳味噌が沸騰蒸発し、真っ白に。そのへんが、オレが中途半端になった原因かも知れない。
もう少し脳の沸騰点が高ければ、蒸発せずに挫折しなかったのではと、すこしおせんちに過去を振り返る年末の今日この頃。
531ポキール:2010/12/27(月) 17:49:40
先程も縦目さんという方から、現代の中国人にも読めない漢字だらけのAKIBA48状態は、もはや読み物じゃなくて、水墨画。
景色を楽しむものではないだろうか?
読もうとするから読めないのであって、その水墨画はいったい何を語ろうとしているかを感じ取る、芸術的なセンスが問われるのではと
素朴に思う。
532日本@名無史さん:2010/12/27(月) 17:53:52
墨の濃淡に五色を見るセンスがあればそれも面白かろうが

この板の邪馬台国論争にに何を期待しているか知らんが
リアルでも畿内説と九州説が丁々発止の論戦を繰り広げているなんて事を期待していたら
肩透かし食らうぞwwwww

まあ転んでも泣かないのが2ちゃんのお約束だがwwwwwwww
533日本@名無史さん:2010/12/27(月) 18:01:05
>>518
>このすれには たとえば自分では専門知識があるつもりの「鹿島珍流ポンスケ」とかいう基地街もいたりする。

鹿島ボロクソやなwwww

はてはて>>518が畿内説の人間か九州説の人間か気になるところだがw

以前、俺は鹿島がこの板の九州説連中から
「実質畿内説じゃねえか!」と糾弾されるであろう事を予言したが

それが的中したの賀茂痴れナイwwwwwwwwww
534ポキール:2010/12/27(月) 18:06:12
九州、畿内論争になんて興味ないっす。
それどころか、何を得ようとしているかすらわからないのが現状です。
スレに参加していれば、そのうち何か見えてくるんじゃないかと、ただただそれだけで
535縦目仮面:2010/12/27(月) 18:09:49
・・・マジレスすれば、文献史学はこの100年論争の帰結として、倭人伝からは
邪馬台国の所在地はわからない、という結論を出していると思う。
で、これ受け入れて勉強を進めていくのか、そうではなく「素直に読んだら所在地
はわかる」と考えるのか、ここが大きな分かれ目になると思うね。
536ローガン:2010/12/27(月) 18:16:35
>>531
> 先程も縦目さんという方から、現代の中国人にも読めない漢字だらけのAKIBA48状態は、もはや読み物じゃなくて、水墨画。

ん?現代の中国人云々…は、>>524日本の名無しさんなんだが。さては…
537ポキール:2010/12/27(月) 18:20:24
たいたいオレみたいな中途半端な奴に、論争なんて出来ないし
だいいちそんなキャラじゃないっす。それどころか妄想する事も出来ないんじゃないかな?と
はにかみながら、少し笑みを浮かべる。

昨日初めて漢字48のメンバーを眺めてみたけど、何が書いてあるかなんてわからなかったし
だけど、イメージ的にはなんとかなるかな?って感じ。           で、ワジンデンと言ってもトウイ事務所に所属する、一タレント軍団にすぎい事を初めて知った。
その過去にはオニャンコが居たりして、複雑怪奇の漢字お化け集団にビックリ
538唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/27(月) 18:21:35
倭人伝とは
魏が東夷を隷属させる過程の1小節でしかない。
そして、隷属させた時点で、倭国は東夷の中に埋没し、倭国伝が書かれることもなかった。
539ポキール:2010/12/27(月) 18:29:11
>>535
「わからない」という帰結なら、ほなら学者は黙って指くわえてなって状況ですね。
学者はスッこんでろ的な事なら
もう、一般人が右往左往自由自在なわけで、面白いんじゃないっすか。
540縦目仮面:2010/12/27(月) 18:37:42
中国の小学校に訪問したことがあるけど、古典教育は1年生からやってて
日本よりはるかに充実してる。低学年で唐詩の暗唱、高学年で三国志の
エピソードなんかも教科書に出てくる。もちろん繁体字も教える。
中学・高校だと語文(国語)の時間の半分近くが古典(文語文)の学習という
カリキュラムになってるね。
541ポキール:2010/12/27(月) 18:44:51
>>540
でも読めない。
それが実態でしょ?
なら、やっぱり読み物じゃなく、水墨画に近いんじゃないっすか?
読めても日本語とは違うから、意味がわからないのかもしれないけど
542日本@名無史さん:2010/12/27(月) 18:45:29
>>538
中国の史書って国内に向けての文書で現代でも海を見たことがないって人達がいる国ですからね。
543日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:05:04
>>533
「アマテラスについて書かれた文献は8世紀以降のものしか残っていない。
したがってそれ以前、 文書あるいは口伝などの形でどのように伝承sれてきたのかは分からない。」というごく常識的な結論を いきなり「アマテラスは8世紀に創作されただ〜 持統がアマテラスだ〜」とかわめき始めるやつはポンスケとしか言いようがないでしょう。

あのオバハンは自己顕示欲よりも、大津皇子を自殺させ、自分の子である草壁皇子 さらに珂瑠皇子(文武天皇)に後を継がせることで頭がいっぱいで、 自分が中継ぎにうぎないことは十分に自覚していたと思うよ。

>>534 ポキール
まず君がやるべき事は、入門書を買って読んでみることだと思うよ。
誰か適当な本を教えてあげて。
544日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:07:28
うーん、まあ句読点がついたのは読める人はけっこういるんじゃないかな。
ただ、漢字の音は現代中国語の音で読むしかないけどね。
日本人なら日本の変体仮名の古文書など専門教育を受けないと読むのは
無理。

いずれ中国の古典教育というのは、エピソードの中から民族精神を読み取る
ことをはっきり目的としていて、それに対して日本の古典教育は「今も昔も変わ
らぬ人間の思い」というようなことがねらいだから、今回の学習指導要領改訂で
古典重視をうたったとしても、本質的な変化はないという気がするねえ。
スレ違いスマソ。
545日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:08:19
>>543
× 自分が中継ぎにうぎないことは
○ 自分が中継ぎにすぎないことは
546日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:32:29
>>490
>海南島を思わせる温暖

海南島の気温(省都海口)
     1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高  21  22 26  30 32  33  33 32  31  28  25   22
最低  15  16 19  22 24  25  25 25  24  22  19   16
547日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:33:37
>>535
>文献史学はこの100年論争の帰結として、倭人伝からは
>邪馬台国の所在地はわからない、という結論を出していると思う。
これは、伊都国=怡土を前提としての話だな。逆にいえば、伊都国を怡土に
比定したら、絶対にその後がつながらない、話が合わないということを百年
かかって確認しているということだよ。そこを考え直せば、すぐに答は見え
てくる。
548ポキール:2010/12/27(月) 19:33:39
>>544
>まず君がやるべき事は、入門書を買って読んでみることだと思うよ。
誰か適当な本を教えてあげて。

ご厚意ありがたく思いますが、漢字だらけのAKIBA48集団だけでじゅうぶんです。
あとは自助努力でなんとかします
それが出来なければ、遅かれ早かれここから退散しなければならないでしょうから

549唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/27(月) 19:34:19
>でも読めない。それが実態でしょ?
確かな実態とは、
書紀の主張、纒向3代とは、崇神、垂仁、景行である。
考古学の主張は、2世紀末から始まり、箸墓(250年±10年)築造をもって衰退する。
大部分の 文献史学の主張は、箸墓は崇神時代に造られる。であるが、
これでは、崇神時代に任那建国を設定出来ない。

550日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:35:23
>>513
>其地大較、在會稽東治之東、興朱崖、 耳相近。故其法俗多同。

後漢書ですね。
551日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:40:31
>>543

え?鹿島って「天照=持統でFA」なんて事言ってたっけ?

俺も持統説を定説だと言う奴に
「有力な説だが定説とまで言うのは言いすぎだ」と言った記憶があるが

少なくとも鹿島神流と言うハンドルは名乗ってなかったと思うが・・・
552日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:45:38
>>514
>會稽、今の杭州あたり

會稽東治は今の福州でしょう。
553日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:52:42
>>524
>魏という時代の言葉

漢文は話し言葉とは別物でしょう。
独自の文法をもち、時代と地域を越えて通じ合うためのコミュニケーション・ツール、
だと思います。
554縦目仮面:2010/12/27(月) 19:52:47
>>551
それを言ってたのは、たしか葛城厨と思われる人じゃないか。
555日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:53:50
>>544
まあ日本人の漢籍に対する知識も
現代より明治大正の頃の方があったんじゃないのかな?

市井の人間でも「教養がある人」と言えば先ず漢籍に対する知識がデフォだったと聞くがwww

そこら辺も「放射説」やその特に戦後に出てきたような新解釈について
「胡散臭い」とさえ思う一因なのだがwwwwwwww
556日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:56:08
>>552
會稽って會稽山のあるとこ近辺じゃないんですか?
福州からだと高速ぶっ飛ばしても相当な距離ありますよ。
557日本@名無史さん:2010/12/27(月) 20:00:23
昔は福州市辺りが會稽って呼ばれてたって聞かないけどなあ。
558552:2010/12/27(月) 20:04:57
>>556
>會稽って會稽山のあるとこ近辺じゃないんですか?

會稽はそうでしょう。
「會稽」と「會稽東治」は別の地ってことです。
559日本@名無史さん:2010/12/27(月) 20:19:29
>>558
會稽東治じゃなくって東治じゃないですかね?
560唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/27(月) 20:30:19
會稽=浙江省北部
ここから東へ進めば黒潮に北へ運ばれ九州へ着く。又は琉球弧の何処かの島を発見する。
これを疑って、北東へ進んだのが、鑑真和尚であり、結果は道を失う。
561日本@名無史さん:2010/12/27(月) 20:37:21
魏書の編纂者が會稽と東治の間に倭がある事にしたかったんじゃないですかね?
アモイ対岸(つまり台湾の位置)の位置じゃ南過ぎて會稽対岸じゃばれる。
だから會稽と東治の間くらいの東に海に倭がある事にしたかったと
そんなふうに考えてみました。
562神奈川県民:2010/12/27(月) 20:38:05
邪馬壱国とはどこだったのか?

いまや、このスレも邪馬台国スレが乱立する中で、
盟主的なスレへと育ちました(皆さんのおかげ)。

九州説専用、畿内説専用なんて関係ない。
古代史全般にわたり好きなことをご自由に書きこみましょう。
ただ、邪馬台国スレは人気が高く、乱立してるのが困りますよね。
出来れば、むやみやたらに単発スレを立ち上げるのではなく、
みなさんで協力してスレを消化していくのが望ましいと思う。

ポキールさんは古代史に興味を持ってるみたいですし、頼もしいですね。
うましかさんは久々の登場。
それとカッパさんが居なくてもスレは回りますね(笑)
563558:2010/12/27(月) 20:40:52
>>559
>東治じゃないですかね?

「會稽東治」でひとつの地域名だと思います。

「會稽東冶五縣賊呂合、秦狼等為亂,權以岱為督軍校尉,與將軍蔣欽等將兵討之,
遂擒合、狼,五縣平定,拜昭信中郎將。」(呉書・呂岱)

「四年,廬陵賊李桓、路合、會稽東冶賊隨春、南海賊羅雌刪齊桾タ起。」(同上)
564神奈川県民:2010/12/27(月) 20:44:33
大漁♪大漁♪
今月は、スレの進むペースが速いです。

上から、眺めてるだけでは退屈なので
たまに登場します(笑)

卑弥呼説
神功皇后説
熊襲の女酋説
甕依姫説
倭姫命説
倭迹迹日百襲媛命説
宇那比姫説
天照大神説   卑弥呼様はいったい誰なんでしょうね?
565日本@名無史さん:2010/12/27(月) 20:45:19
>>563
たが福州市にあるのは東治城(東治城は福州市だと推測されてる)なんですよ。
566日本@名無史さん:2010/12/27(月) 20:45:22
>>562 神奈川県民=アラタメドツボ
>古代史全般にわたり好きなことをご自由に書きこみましょう。

それは既に邪馬台国スレじゃないだろうに…

567日本@名無史さん:2010/12/27(月) 20:48:07
>>564 神奈川県民=アラタメドツボ

いまだに分らないのだが…

そのダブハンと言うかキャラの使い分けに何かの意味があるのか?

プロレスラーの武藤が顔にペイント施したらグレート・ムタとか言うノリなのか?



568日本@名無史さん:2010/12/27(月) 20:58:27
会稽東冶は、会稽と東冶、二つの地名だろう。
569ポキール:2010/12/27(月) 21:00:10
夜になるとまた一段と賑やかに、
もうオレなんて邪魔なだけかも
570神奈川県民:2010/12/27(月) 21:03:31
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴

南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
又度海千余里 至末廬國 人善捕魚 能浮没水取之
 東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓 柄渠 其國王皆属女王也

女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
自帯方至女國万二千余里

其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
倭國大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視占吉凶也

其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀

倭南有侏儒國 其人長三四尺 去女王國四千余里

魏志倭人伝より成立が早いといわれてる魏略の(逸文)です。
はじめの「倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種」は、
前漢書 地理志からなんですが、
読み下しが、

「倭は帯方東南大海の中に在り。山島に依て國を爲す。渡海千里にしてまた國有り。皆、倭種。

魏志倭人伝の「倭種」に関してもここの魏略からの引用と主思われ、
その引用文をむりやりに繋げるのでわけのわからない文になる。
571神奈川県民:2010/12/27(月) 21:09:52
>会稽東冶は、会稽と東冶、二つの地名だろう。

いえ、会稽というのは
この場合、会稽山そのものを言ってるのではなく、
会稽の東冶が正解でしょうね。
二つの地名ではなく東冶の所から東に倭があるということ。
572神奈川県民:2010/12/27(月) 21:17:33
>>548 ポキールさん

まずは辞書を何冊か購入するんですよ。
漢字源や漢和辞典を揃えて、通称魏志倭人伝といわれてる行程記事を自己流に解析する。
まずはじめの一歩ということで「魏志倭人伝解析」からでしょうね。
そして『邪馬台国関連の本』「考古学の本」を揃えたらそれなりに考えが纏まると思う。
573日本@名無史さん:2010/12/27(月) 21:18:33
>二つの地名ではなく東冶の所から東に倭があるということ。
倭は対馬国から始まるんだよ。どうしてそれが東冶の東になるのかな?


574神奈川県民:2010/12/27(月) 21:21:30
>>573
いえ、会稽東冶というのは『倭の行程記事』や『倭の領土のはじまり』を指したのではなく
「別」です。
575日本@名無史さん:2010/12/27(月) 21:25:10
>>572
>漢字源や漢和辞典を揃えて、通称魏志倭人伝といわれてる行程記事を自己流に解析する。

これが間違いの元なんだろうなw

他の外国語、例えば英語で、単語一つ一つで逐次訳して
元の意味と全く違った文章になってしまったって経験ないのかな?

漢字というなまじ日常接している文字と言うのが一つの罠か?w


576日本@名無史さん:2010/12/27(月) 21:29:13
>>574
それが自己流の解釈なんだね。(笑)
577神奈川県民:2010/12/27(月) 21:34:18
ん〜どうでしょうね。
やっぱり古代のミステリーを追う上で楽しむべきではないでしょうか。
真実を探し出すのもいいんですけど、また先の話で・・・・
初めは「魏志倭人伝解析」なんかやって楽しんで、さらに先のステップに進むやり方でもいいわけですし。
578日本@名無史さん:2010/12/27(月) 21:36:50
>>572
それは河童だからこそ可能な事で、普通の人が真似しちゃならねえことだ
579日本@名無史さん:2010/12/27(月) 21:37:57
>>571
そうですね
越故都東治之地置治縣
漢の武帝が會稽から兵をだして越王を追い払った地を會稽郡に編入したみたいですね。
580日本@名無史さん:2010/12/27(月) 21:39:26
>>578
河童さんってすごいんですね
581日本@名無史さん:2010/12/27(月) 21:43:08
>>580
あいつは変わり者だから
582日本@名無史さん:2010/12/27(月) 21:44:27
>>580
確かにある意味すごい
ドツボが妬むほどにw
583神奈川県民:2010/12/27(月) 21:45:30
>>534 ポキールさん
>それどころか、何を得ようとしているかすらわからないのが現状です。
>スレに参加していれば、そのうち何か見えてくるんじゃないかと

邪馬台国スレに参加する多くの人は、古代のミステリーというか、
どうやって日本国家は誕生したのか?日本建国の謎にまつわる話とか、
日本建国前夜はどうなってたのか?とか、誰がどう読んでも不可解な魏志倭人伝の行程記事に関係する話とか、
古代日本は女王が君臨していたとか話が多いです。
また、現実的な見方としてその証拠となる物的証拠、すなわち考古学方面からアプローチするという
やり方もありますし、ポキールさん はその内の何に興味あるんですか?ってことですよ。

>>578
彼も彼なりに楽しんでいるんだから、それでいいんじゃない?
ただ、オウム真理教的なやつかたというか、教祖(師匠)から騙されてるのに気付いてないだけで・・・w
584唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/27(月) 21:45:33
>真実を探し出すのもいいんですけど、また先の話で・・・・

書紀の記述を、考古学の言い分と合わせる。
可能です。
585神奈川県民:2010/12/27(月) 21:51:26
うーん あとはなんだろうね・・・・

女王クレオパトラと卑弥呼とを比較検証してみるっていうのもアリだし、
『日本のあけぼの』とかでググると、それなりに楽しめる記事が見つかるのでは・・・と思います。
586日本@名無史さん:2010/12/27(月) 21:55:41
>>579
呉志によれば、永安三年(260)の条に「以会稽南部為建安郡」とある。
陳寿が倭人伝をまとめたときは、東冶は建安郡に入っており、会稽郡には属していない。

587日本@名無史さん:2010/12/27(月) 21:56:12
>>583

>彼も彼なりに楽しんでいるんだから、それでいいんじゃない?
ただ、オウム真理教的なやつかたというか、教祖(師匠)から騙されてるのに気付いてないだけで・・・w

それはあり得ないことだ
588ポキール:2010/12/27(月) 22:00:26
>>583

まったく何も考えていないっす。
考えたくてもその考える知恵が俺には無いっすよ

というか、なんでそんな目的持って出来るのかと
589日本@名無史さん:2010/12/27(月) 22:04:46
>>586
そうなると會稽と東治って解釈した方がしっくり来ますね。
590神奈川県民:2010/12/27(月) 22:25:47
さて、私はそろそろ戻りましょうかね。
あとは皆さんで・・・・・

591ポキール:2010/12/27(月) 22:32:32
いま話題になっているのは、ワジンデンの計其道里、當在會稽、東冶之東
この部分でしょうか?
漢字48集団をざっと眺めてみたのですが、計其道里、當在會稽、東冶之東
と書いてあるのは
なにやらワジンが住んでると言われている文化というか風俗が書かれている部分という
ことで間違いわないっすか?

もしオレの見立てが間違いでなければ、あまり邪馬台国の場所探しには関係ない書き込みでは
ないかというのが私の単純な意見です。
592レス長たらし毘古:2010/12/27(月) 22:36:52
>>488
>俺は畿内説で、文献なんか魏志倭人伝も記紀も信用しない派だが。
>(中略)
>何か、意味がありそうだとしても、そうかもしれないし違うかもしれない。
>そんな曖昧な話に誰が乗ってくると思うのか?
>>1
>女王卑弥呼とはいったい誰だったのか?また邪馬台国はどこにあったのか?
>古代日本建国の謎も含めて議論しましょう。
>>488
> 日本書紀も古事記も8世紀の創作なんだから、
>細かい記述に意味を見出そうとしても無意味だよ。

板主題から大きく外れているのは貴殿の方になると言う話ですね?また記紀も
魏志倭人伝も完全否定した上で、卑弥呼や邪馬台国をどうやって探るのかも
これも架空以上に曖昧で無意味で自己矛盾な批判であるという自己矛盾に陥っ
てしまいますがそれでもよろしいか?

文献否定派だとしても、考古学にしたって、文献を完全否定してヤマカンや
利権だけを頼りにムヤミに掘りまくっているワケでもあるまい。つまり考古学
のトッカカリにしても、何らかの文献の「一部だけでも」ある程度尊重した上
で、全て今までの「発見」とあいなっている筈だが。それが、貴殿によると、
「魏志倭人伝も記紀も信用しない」で「畿内説」になるのだから、この自己
矛盾は趣旨深い。立脚点無しとはこの事になる。おわかりか?「畿内説」に
成る為には、立論のどこかに、パーツとして、記紀信者か、魏志倭人伝信者の
「解釈成果」が入っている筈なのだよ。

この板においては「立脚点無き指摘」と呼ばせてもらったのは、貴殿の指摘は
あまりに自己矛盾に満ちた批判だからです。批判の為の立論だけならそれこそ
あまり意味が無い。まだ、実像に迫る為の架空の方が、なんぼか建設的。
593日本@名無史さん:2010/12/27(月) 22:43:44
>>591
君のいう文化、風俗は、女王国について書かれているんだ。そして、会稽と東冶の
東にあるのは女王国だ。その意味では、確かに直接に邪馬台国の位置を示したもの
ではない。しかし、女王国の中に邪馬台国があるから、まったく役に立たないわけ
ではない。
594唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/27(月) 22:48:15
>「畿内説」に成る為には、立論のどこかに、パーツとして、記紀信者か、魏志倭人伝信者の
「解釈成果」が入っている筈なのだよ。

ある意味正解である。全てを取り入れたら邪馬台国は、太平洋の真ん中辺りでなくては成立しない。
つまり、方向や距離は各自の解釈で良い。
だから、九州から関東まで、邪馬台国は成立する。
しかし、現在の考古学の主張は、ほとんど採用されていない。
595ポキール:2010/12/27(月) 23:00:11
>>593
単純に考えても、それは違うと思います。
最初のスタートが、女王国在帯方ならば、後の文章も女王国が中心で書かれるかと思いますが、
スタートは女王国ではなく、ワジンです。
だったらここはワジンの文化や風俗と考えるのが、イの一番。
馬鹿な私にだって、そのくらいの事はわかりますって。
596ポキール:2010/12/27(月) 23:08:54
オレ、ワジンデンの前に書いてあったカンデンっうのも
さっき眺めて見たんだけど、ここもワジンデンと同じ人を最初にもってきてるんだよね。
韓って、三つに区別されていて
その区別の方法が、種とする人です。
そこから考えても、国が全面でメインポジションをとってるとは考えがたいですよ。

詳しい中身なんてわかるわけないんだけど、漢字見てると
漢字の方から声をかけてくれるから、なんとなく見える。
597レス長たらし毘古:2010/12/27(月) 23:10:46
>>502
うん、それもあるから俺は少なくとも神武以降の記紀の記述は、史料価値が
散在していると考えた方がいいと言う立場。但しそれ以前の所謂「神話の部」
については、史料価値とするのは難しい。だが、史料価値とはできなくても、
全てが全くのゼロサムの後代創作とするのも無理がある。
@元ネタとなる事実があった可能性
A元ネタとなる前代までの原作があり、そのコピーやパロディーである可能性
B元ネタとなった事実を反対側に押し曲げた可能性・入れ替えた可能性。
この上記三つの「タネ」が、実像としてあり、その上での「創作」として
「神話の部が存在する」と考えた方が、ごく自然だ。
「神話にしてまでも、記述しなければならなかった理由」がそこには有ると
考えた方が、自然なのである。だが、そこには先祖に対する不遜や大嘘や
子孫にとっての不都合な真実は書けない筈なのだ。その微妙な「記述違い」
「記述間違いと後代思われた」差異こそが争点と成り得ると思うのだ。

ここは分けて考えたいのだが、記紀否定論の半分以上は、上記を取り違えて
いる。何でもかんでも否定した場合は、その否定論者の足場すら失う。そして
足場がとうに失われても、批判だけは永遠に繰り返すと言う、ご自身にとって
も自己矛盾に満ちた記紀否定論者に陥ってしまう悲しい人が多いのも、その為
でしょう。
こうなってくると、もはや「有意義で適確な批判指摘」と言うよりかは、
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の禅問答にしか成り得ません。
従って、古事記も日本書紀も魏志倭人伝も否定した上で「卑弥呼は誰?邪馬台
国は何処?」を語るのほど、自己矛盾に陥った立脚点はありえないのです。
598日本@名無史さん:2010/12/27(月) 23:17:12
>>595
倭人の文化や風俗といったところで、北の倭人と南の倭人ではだいぶちがうんだよ。
対馬国や一支国、末盧国については、それぞれに風俗が書かれている。
また、倭人全体の風俗を書くとしたら重複だ。
「自郡至女王国万二千余里」以下は、主として女王国について書いたものだ。
倭人全体について書いているわけではない。
599唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/27(月) 23:18:55
>記紀否定論の半分以上は、上記を取り違えて
いる。何でもかんでも否定した場合は、その否定論者の足場すら失う。

けだし名言、その通り。
崇神が任那建国した、と書かれていても、これに年代を与え、それ以後(垂仁初)に
大和へ鉄が流入する、とする者はほとんどいない。
600日本@名無史さん:2010/12/27(月) 23:25:22
>>592
>「畿内説」に成る為には、立論のどこかに、パーツとして、記紀信者か、魏志倭人伝信者の
「解釈成果」が入っている筈なのだよ。

倭人伝で、唯一参考にできる項目は、
「倭の女王に金印を贈った」これだけ。

後は、考古学上の成果から、3世紀に優勢だったのは畿内ということがわかっているので、
魏が金印を贈ったのは、畿内のクニに対してのものだと理解できる。
イコール、3世紀の畿内には女王がいて、魏から卑弥呼と呼ばれていた。

何の問題もないだろ。


601ポキール:2010/12/27(月) 23:26:29
>>598
>倭人の文化や風俗といったところで、北の倭人と南の倭人ではだいぶちがうんだよ。

オレがざっと眺めたところ、北のワジン、南のワジンなんて区別はなかった
どこに北のワジン南のワジンが出てきて
南北のワジンはどのように違うと書いてあるんですか?
ご参考までに教えてください
でね、メインポジションに位置したいじょう、何度登場してもそれはありですよ
AKIBA48だって、メインポジションを獲得すれば、なんどもテレビ画面中央に映ることが事が出来る
それがメインポジションというもんだよ
女王国だって、所詮はワジンが経営する国じゃない
602日本@名無史さん:2010/12/27(月) 23:28:53
畿内説を否定するなら、考古学上の成果を否定しなければならない。

考古学上、畿内が優位にあったことを、どのように否定するつもりなのか?
九州説を唱えるなら、考古学への反論が先であって、
倭人伝の解釈をあれこれ操作したところで、何の結果も生まれないのだよ。

いいか?
何の結果も生まれないのだよ?
603太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/27(月) 23:29:15
>>502
まさに適正な意見。
要するに村木元局長への検察の事件の強引構図同然で、無罪なのに変えよう
としない〜始めに事件の有罪ありきで絶対変えようとしない検察方針の貫徹
のやり口そっくりなのが、臥海の神武創作八代架空というインチキ構図を
ずーっと曲げずに続けて行くやり口そのもののようなもの。

事件の構図が当初に「コウダ。」と決めたら最後、最後の最後まで貫徹強行
の如くで、紀の編者らを公文書偽造(捏造、創作)の有罪にしてしまう。
604レス長たらし毘古:2010/12/27(月) 23:30:23
俺個人は、記紀は「非常に日本人的な歴史書」と解釈している。(勿論、それ
に対する否定や批判は受け付けますが)
と言うのは。所謂、大陸方法論で言う「歴史書」は前代の王朝を、後代の王朝
が批判する事によって表記するだけの歴史書を歴史書とは認めない不文律が
あるために「前々代」の歴史書しか書かないと言う方法論であるが、日本の
方法論とは、全く別個ではあるが、記紀にはそれに似た「歴史書としての方法
論」が随所に垣間見られるからだ。
だからこそ、記紀は、三段構成になっている。

A神話→B人皇(本史書)→C当代(編集時代)に至るまでの簡素データ

つまり、編集当代から見て「歴史解釈を揺るぎ得ない確実な歴史書」として
まとめれる範囲を、上記B人皇部分として、まとめたのが記紀の主目的では
あるが、それだと、Bに至る過程と、Bから今(編集当代)に至る過程が
「勝手解釈される可能性」が生じる。
だから「導入部分が神話」で「今に至る部分は基礎データだけ」なのである。

至って「和的」な「歴史書」と考えた方がごく自然である。歴史書要素として
本当にまとめたかったのこそが「人皇の部」であり、その前後は「緩やかに
回避」しているのである。
勿論、だからとは言え人皇の部の歴史的価値も100%それを担保するワケでも
無く、神話の部がゼロサムの創作だけとも考えにくく、当代に繋がる部分も
全く編集意図の無い基礎データだけとも考えにくい。
重要なのは、「日本人が日本人なりの方法論」で「自己の歴史をまとめようと
した努力・目論見」こそが、記紀なのである。俺はそのように解釈している。
605日本@名無史さん:2010/12/27(月) 23:34:59
天照大神は8世紀の創作。

それ以前から、口伝でなんらかの伝承があったかどうかなんて、
証拠がない以上、あったともないとも言える。
しかし、「あった」と主張したからといって、
卑弥呼が天照大神のモデルなんてことは、全くいえない。
とてつもない論理の飛躍がそこにある。
しかし、素人は、安易に卑弥呼=天照大神説にとびつくわけだが、
そこから論を構築することは出来ないし、何かの結果を出すことは永遠に出来ない。
606太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/27(月) 23:41:16
卑弥呼と日神は別人。日神のほうがより古い時代の女性。
なお日神は創作ではない。創作すれば、捏造で垂れこまれたらもう
お陀仏の身の失脚が待っている。利害大なる事由は認め難く、創作
に非ず。当時も各人に敵は大なり小なり居るわけで、そいつらに
摑まれたら身の危険が切迫する。創作をやる動機が無い。
607レス長たらし毘古:2010/12/27(月) 23:42:31
>>520
それもあるので俺は記紀での「ゼロサムでの創作」は「むしろありえない」と
考える。むしろ、創作があるならそれは「編集当代における最高権力者」の
「お墨付き」が無いとそれらの「不遜」や「(今風で言う所の)公文書偽造」
は成し得ない筈だからである。
だからこそ、古事記では皆無で日本書紀では神話的に創作されている、モモソ
毘売の怪死が「なぜ後代挿入が可能であったか?」「なぜ後代挿入したか?」
が重要になって来るワケである。

俺が記紀の違いをつついているのは、何も不遜がしたいワケでも批判だけの為
に重箱の隅をツツイテいるだけでもない。卑弥呼が誰か?邪馬台国は何処か?
に迫る為の、最低限の「可能性」を追求しているだけなのだ。
608日本@名無史さん:2010/12/27(月) 23:45:02
>>601
対馬国、一支国などは北の倭人といえるだろう。北九州に上陸してからまた南へ水行
二十日、あるいは水行十日陸行一月行った先にいるのは南の倭人だ。
皆鯨面文身するというのは、北の倭人もそうだということかな?朝鮮半島に近い所に
住む倭人が皆そのような習慣があっただろうか?
それに倭人全部の話だとすれば、会稽東冶の東にあるのは対馬国も含むと言わざるを
得ない。しかし、対馬国が会稽東冶の東? 違うだろうね。その行来渡海には持衰が
いたという。北九州の連中も持衰を置いていたのかな?北九州から一支国、一支国か
ら対馬国、対馬国から朝鮮半島はそれぞれ見える範囲だ。そんなところで、持衰をお
くわけはない。これも北の倭人の話ではないってことだよ。
609日本@名無史さん:2010/12/27(月) 23:46:10
>>607

>だからこそ、古事記では皆無で日本書紀では神話的に創作されている、モモソ
>毘売の怪死が「なぜ後代挿入が可能であったか?」「なぜ後代挿入したか?」
>が重要になって来るワケである。

物の見方が逆。

古事記のほうが、むしろ元の伝承に近いものであり、
日本書紀はズタズタに改ざんされたものだ。

なぜなら、日本書紀のほうが、多くの編纂者の手にかかってることがわかってる。

610唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/27(月) 23:56:04
>古事記では皆無で日本書紀では神話的に創作されている、モモソ
>毘売の怪死が「なぜ後代挿入が可能であったか?」

モモソ姫は、鉄を持たない崇神時代に死んで葬られた。(200年頃)
ここに箸中山古墳は持ってこられない。(250年頃)

鉄の大和流入は、垂仁元年を目標とする。
ホケノ山(240年頃)に鉄器が大量副葬されているから、垂仁元年はこれ以前になる。
611レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 00:03:46
>>564
貴殿のカテゴライズの方法論に即して回答するならば俺個人の架空想定は、

・開化大王=ヤマトトモモソ毘売=豊玉毘売(全て同一人物説)

という内容です。で、この同一人物が魏志倭人伝で言われる処の卑弥呼。
つまり、九州王権から見て開化大王。大和王権から見てモモソ毘売。出雲王権
から見て豊玉毘売。
大陸との不平等条約に納得が行かないグループが、しばらく政権に就いた期間
は「モモソ毘売」として、口伝禁忌の風習をもってその存在史は封印された。
神功皇后と仲哀大王の婚姻をもって、卑弥呼は開化大王として大王位に正式に
後代復帰規定される。そう規定するからこそ、朝鮮半島南部を「倭人域」と
認識すると、大陸(当時の中国)との関係を担保したまま「神功の朝鮮への
出征」が外交政治上可能になるのである。
神功皇后が出征賛成派で仲哀大王が出征躊躇派だったのもこれで説明がつく。
612唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 00:04:51
>>609 日本書紀はズタズタに改ざんされたものだ。

君が時代を合わせられずに、日本書紀を否定しているだけ。
書紀は、任那建国(209年伽耶建国)から
神功渡海(2674年)あづないの罪とは、273年の日食
半島占拠 神功49年(323年 癸未)まで
正しく主張している。
これを、韓国考古学でさえ追認出来ない百済本記、を信じるから、
書紀は信じられない書物となる。
613太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 00:05:56
ppp
>>461でも読むんだな。ww

zzzzzzzzzz・・・・・・・・・・
614太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 00:07:43
>>461の件は唐松山用。ZZZZZZZZ・・・・・・・
615日本@名無史さん:2010/12/28(火) 00:08:03
>>612

おまえは、太国にきちんと反論しろよ。
反論できなきゃ、おまえの論は間違ってるってことだよ。
616太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 00:09:16
また起きなきゃならん。やれやれ!

神功元年前年の記事は日食が
617日本@名無史さん:2010/12/28(火) 00:09:59
>>611
>・開化大王=ヤマトトモモソ毘売=豊玉毘売(全て同一人物説)

ぜんぜんだめ。

なんで、同一人物にしないといけないのか、論に何の中身も無い。
全員、空想上の人物かもしれないのにだ。
まず、存在証明をしてからだな。
618太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 00:11:34
>>616
〜日食が数日間も日を経て継続しないことから日食にはならん。
天文学上の完全に間違いない法則であり、奴の蛮族脳の論は棄却だ。www

zuzuzuzuzu・・・・・
619唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 00:14:36
日本書紀と百済本記を今の数字のまま整合性を取ろうとすると、
七支刀=369年となるが、この数字は、妥協の産物であり、書紀、百済本記
と合うことは無い。ただ近い数字以上の主張は出来ない。
日本書紀が合わせられるのは、新羅本紀である。
勿論、日本書紀には、空白年の差し込みによる、伸長はある。
神武から成務までで空白年=19年×33回程度の空白年差し込みはある。
620ローガン:2010/12/28(火) 00:21:23
>>586
> 呉志によれば、永安三年(260)の条に「以会稽南部為建安郡」とある。

そうですね。

> 陳寿が倭人伝をまとめたときは、東冶は建安郡に入っており、会稽郡には属していない。

太康年間なら晋安郡。さておき、
「倭人伝をまとめたとき」だったら東冶県もないでしょ?
621レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 00:41:27
>>609
>古事記のほうが、むしろ元の伝承に近いものであり、
>日本書紀はズタズタに改ざんされたものだ。

貴殿の仰る主張と全く差異は無いが?ズタズタに改ざんされたからこそ、その
改ざんには「当時の政権の都合」が色濃く出て来ると言うだが。総論は。
但し、指摘個所においてのみは、「日本書紀がわざわざその話を持って来た」
その「意図」を、より重要視しているだけの話なのだが。
本書を古事記、その解説書を日本書紀、とした場合、本書では触れもしない
事柄が、解説書では「神話的に挿入」されて、「古事記」を「解釈誘導」し易
くしている。それが日本書紀編集サイド(及びその時の政権)の主目的の一つ
と考えたら、それはごく自然な編集現象ではある。
この「解説書=日本書紀」込みにて下記二つの「古事記ミステリー」は解消。
@モモソ毘売は、なぜ「比売」では無いのか?
Aモモソ毘売は、どういう最後を遂げたのか?
上記二つは、古事記だけでは(矛盾が多すぎて)解釈できない。だからこそ、
日本書紀でも説明できない筈なのだが、それを「神話的伝説」を挿入する事に
より、「ある解釈を暗喩」するのである。これが「不遜を行なわずに、解釈
誘導をする」と言う表記テクニックなのである。
622レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 00:42:42
>>621(の続き)
モモソの母親オオヤマトクニアレ比売の又の名は「蝿伊呂泥(ハエイロネ)」
つまり、蝿にまつわる名前である。タケハニヤスヒコを類推させるハニヤス
ヒコは糞の神。糞に群がるのは蝿である。古事記の段階で、既にそこまで
「卑下」されているのが、モモソであり、タケハニヤスヒコである。「なら、
なぜにそこまで卑下されねばならないのか?」これが、「日本書紀にて解釈を
必要」とされる理由でもある。だが、ウッカリ嘘も書けないし、不遜も書け
ない。でも、モモソは比売でもなく毘売だし、古事記自身においても「毘売
だとしてもおかしくない程の政治行動に関与」している。でも天武・持統の
「お墨付き」が出る範囲での矛盾解消しか加筆できない。
その絶妙な表記こそ、日本書紀におけるモモソ毘売名誉復活の為の怪死の伝説
なのである。三輪の神と契り損ねての怪死であるならば、「なぜ当時毘売と
呼ばれていたのか?」の古事記ミステリーは解消できるのである。
そして日本書紀はそこを「確定要素」としては表記せず、「神話要素」とし
て「読む人の解釈誘導を図る」のである。読む人が勝手に解釈するのならそれ
は、当時の政権のせいでも、編集者のせいでもないから、三方丸く収まる。
623日本@名無史さん:2010/12/28(火) 00:43:13
>>621
>改ざんには「当時の政権の都合」が色濃く出て来ると言うだが。総論は。


そんなのは、勝手な思い込みだろ。

実際は、数百年前から口伝されてきたものを、たまたまその部分を書き残したのかもしれない。
どういう基準で、取捨選択できるんだね?
624日本@名無史さん:2010/12/28(火) 00:47:23
>>622
>「卑下」されているのが、

考え方がまったく間違ってる。
君は「蝿」が卑下するものと思ってるようだが、
古代人がどういう意味で「蝿」と呼んだのか、考察が足りてない。
もしかしたら、「蝿」は神聖な生物と見られていたかもしれない。

古代人の蝿に対する認識が考察可能かどうかも疑わしいが、
考察なしに「卑下した」なんて解釈が出来るわけがないだろ。
625日本@名無史さん:2010/12/28(火) 00:53:24
糞というのは、昔は田畑の肥やしにしてたもので、
農民にとっては必要不可欠なものだ。
肥料として売買されてたくらいだからな。

朝鮮人が病気になったとき糞を食うというのも有名なウワサだ。
626レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 01:02:11
>>610
>モモソ姫は、鉄を持たない崇神時代に死んで葬られた。(200年頃)
>ここに箸中山古墳は持ってこられない。(250年頃)

モモソ毘売の没年が200年頃とするのは考えにくい。
むしろ、モモソ毘売の「途中」に、すでに祟神が「立位した」と祟神の子孫が
記録したと考える方が、解釈としては自然。つまり、下記の時系列。

@モモソ毘売の治世前半→A祟神の立位(実際は反乱革命)→Bモモソ毘売の
治世と祟神の治世が並存する時代→Cモモソ寿命で死亡→D祟神グループが
最終勝利して並存時代が終了する。

※ちなみに上記Aがタケハニヤスヒコの乱と記紀では規定される。
※ちなみに上記Bの並存は、九州はモモソの治世。大和は祟神の治世。
※ちなみに上記Dの決着は沙本の乱の終了をもって最終決着する。

上記想定なら、モモソの実没年が、卑弥呼の没年と一致しても問題無い。
ちなみに、古事記ではモモソの死因と死亡時期表記は皆無。日本書紀では、
祟神の時代に怪死となっているので、これら記紀のモモソ表記も、上記架空
の仮定した実像を大きくは損わない。
627日本@名無史さん:2010/12/28(火) 01:02:24
>>620
東冶県はどこかに出てきますか? 県名とは考えませんが。
628レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 01:10:53
>>624
>君は「蝿」が卑下するものと思ってるようだが、
>古代人がどういう意味で「蝿」と呼んだのか、考察が足りてない。

言わんとする骨子は理解する。但し、神話部分ではあるが、古事記ではその
ずっと昔に、(先述したように)、イザナギイザナミの神話やイザナギとスサ
ノウの神話で、すでに蛆や蝿に関する「忌み嫌い」は表記されている。よって
神武の時代〜記紀編集の時代の間の時点では、すでに蝿は「忌み嫌われる存在
」であった可能性が高いと俺個人は考える。ま、解釈を強要はせんけど。
つまり、理解はするけど納得はできない。
「すでにその頃蝿は卑下の対象であった」とする前提条件は別に揺るがない。
629神無月巫女 ◆Nd2zKeMg.E :2010/12/28(火) 01:18:40
>>624
蝿は天皇家の御先祖である磯城県主葉江のことです。ちなみに卑弥呼の御先祖は海人族ですから別系統です。
630レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 01:20:11
>>625>>624
糞が確実に卑下の対象になるのはもっと後代であると言う見解は理解は
できる。糞は肥やしになるわけだし、農業目線では「重要アイテム」である
のは、農業社会以降であれば、それも間違いないであろう。
但し、たとえ卑下の対象ではなかったと仮定しても、糞と蝿の「その取り扱い
」は衛生上、それほど(つまり、神とするほど)当時上げ奉ったかかどうかも
」これも同程度怪しい。むしろ、「だからそこで神(の一つ)と定義した」
時期こそが、記紀編集の時代においてかもしれない。
631日本@名無史さん:2010/12/28(火) 01:28:24
麻呂とか丸というのはもとも「おまる」のことで、不浄のもの。それが名前(幼名)などに
付けられるのは、鬼や病魔も不浄を嫌うから、と聞いたことがある。つまり子供を呪術的に
守るためのもの。これは後代の話だけど、古代人の考えを知るのは難しい、思い込みはよく
ないだろうね。
632レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 01:35:24
>>629(別人に対するレスですいが、一考までにあえて)
> 蝿は天皇家の御先祖である磯城県主葉江のことです。ちなみに卑弥呼の
御先祖は海人族ですから別系統です。

ええ、本来別系統の神話体系です。それを記紀代(まで)に、入れ替えた
(あるいは取り込んだ)可能性を俺は架空提題しているのです。
ちなみに、重複再記述になりますが、ここで「磯城」が出てきましたので、
古事記上で磯城に宮を置いた歴代天皇を再び下記に列挙。

・孝霊大王(7)・祟神大王(10)・垂仁大王(11)・景行大王(12)
※ちなみに三輪山も磯城郡にあるそうです。

ここからが架空ですが、仮に磯城の蝿の神と海原(ワタツミ)の神を記紀編集
の時代までに「ソックリ入れ替えた」としたらどうでしょうか?ナントナク
自然につながって来るような気もして来ます。
633レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 01:43:17
>>631
まあ、「それをもって卑下か?」という論点は理解はできますが、逆にケガレ
の視点から見れば、その例題は、「不浄」と言う点だけはその時代(平安時代
になりましょうか)では担保されているワケです。
逆に、ケガレ思想が農業信奉より強ければ、糞(や、それに関連する蝿)が、
けして「上位の神」には成り得ないという俺の基本発想も、あながち「思い
込み」だけとはしづらいのでは?
634日本@名無史さん:2010/12/28(火) 01:53:32
>>633
記紀にはスサノオと屎の話もあったはずだから、そこから考えてみればいい。
635日本@名無史さん:2010/12/28(火) 01:53:36
>>628

>>629から反論が来たぞ?
蝿は天皇家の御先祖である磯城県主葉江のことだとさ。

それもひとつの合理的解釈だろ。
自分の意見を押し通すなら、反論してみろよ。
636日本@名無史さん:2010/12/28(火) 01:58:37
「ハエ」が蝿(不浄)なのか、古代人の名前(葉江)なのか、
合理的に考えれば、ただのハエという名前であって、「蝿」は当て字にすぎないだろう。

ハエが何を意味するかは考察が必要だが、
「生える=生命の活力」という意味にもとれるから、必ずしも不浄とは言えない。
637レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 02:03:28
>>617
> >・開化大王=ヤマトトモモソ毘売=豊玉毘売(全て同一人物説)
>ぜんぜんだめ。
>なんで、同一人物にしないといけないのか、論に何の中身も無い。

俺の提題する主張には、架空要素と仮定要素が多いので、その主張は理解でき
ます。
むしろ、それらの三者を「同一人物と認知する事ができなかった」過失と理由
こそが、古事記編集メンバーの研究限界と政治的理由と俺は想定しています。

あくまでも、古事記からの文献解釈上と文献上の不整合部分の懐疑だけで成り
立つ一つの仮定上の結論ですから、別にそれを覆す発見だけがあればいいワケ
です。俺としても「それがある事の証明」はできませんが、逆に「それがあり
えない証明」も又、見つからないワケです。見つからない以上、可能性の一つ
としては残存し続けます。現時点ではそれ以上でもそれ以下でもありません。
638日本@名無史さん:2010/12/28(火) 02:07:19
>>637

話にならん。

その論法なら、オオヒコとモモソヒメが同一人物でもいいわけだな?
639レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 02:32:32
>>635
>>629から反論が来たぞ?
>蝿は天皇家の御先祖である磯城県主葉江のことだとさ。それもひとつの合理
的解釈だろ。自分の意見を押し通すなら、反論してみろよ。

>>632にて説明済みだが、貴殿はそれをまだ読まれていない時点での書き込み
だと解釈します。
天皇家の内部にも磯城グループと葛城グループの二系統以上が想定されます
ので、「〜〜は〜〜の神である」と言う解釈は、グループ解釈によっては
可動性がある(あった)と見る見方も可能です。
つまり、それによって、蝿の神は、当時から記紀編纂期の間までに、「移し
変えが成された」と考える事も可能なんですよ。多神教ですからね。
出雲大社の今の神様を、大和政権への恭順前の出雲の住人達が祀っていたと
考える方がムシロ不自然なワケですし。つまりはそう言う事です。だから、
全ての「記紀解釈の可変要素の元は違った可能性」に関しては、俺は必ず毎回
「長レス」とそしりをうけながらも、時系列的に順序だてて説明しているの
だが。。。
この場合、糞の神・蝿の神が、記紀によって、どのような順番で、どのような
因果関係で「出現・活躍」しているのかが、重要なんです。
[糞の神]@ハニヤスヒコがイザナギイザナミの神産みの末期に生まれる。直前
に火の神を産んで、産褥にて病に陥るイザナミが最後の力をふりしぼって産ん
だのがハニヤスヒコ・ハニヤスビメ(糞の神)とミツハノメ(尿の神)とワク
ムスヒ(若々しい生産の神)
A糞にまつわる逸話:神武の皇后ホトタタライスケヨリ比売が産まれる理由と
なったのが、母(美人らしい)が用を足している時に、美和の大物主が川上
からながれて性交した時に産まれたのがこの方。
B糞にまつわる逸話:タケハニヤス王の反乱時、タケハニヤス王軍が敗走する
時に、糞を垂れながら敗走した地名が、後にクスバ(クソバカマ)と成る。
640レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 02:48:47
>>639(の続き)
[蝿の逸話]@イザナギとスサノウの対立時に、蝿が満ちる。
Aアマテラスとスサノウの対立時に、蝿が満ちる。
Bワチツミノ命(和知都美命:安寧の孫にして、シキツヒコの子)は淡道の宮
に坐す。そしてその二人の娘がハエイロネとハエイロド。

※ちなみに蝿の前身とも言える蛆は、イザナミの黄泉の国で見受けられる。

Bの「ワチツミ」は「ワダツミ」と音が似ている。これはワダツミをワチツミ
と後代に改ざんした残滓かもしれない。(勿論記紀編集以前の可能性が高い
が)

う〜ん。淡路版のトリカエバヤ物語。ワダツミがワチズミにされ、海原の神が
いつのまにか蝿の神にトリカエバヤ?
確かに邪推と言われれば邪推だが、まったくゼロサムで作り上げた邪推のみの
架空でも無い。
641レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 02:52:07
あ、でそのハエイロネが、モモソヒメの母のオオヤマトクニアレ比売の別名ね。
642レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 02:58:10
>>638
いや、オオヒコ=モモソヒメなら、モモソヒメが記紀でもっと比較良で
ピックアップフューチャリングされていないとおかしい。
オオヒコは、少なくとも当時の政権抗争においては、短期的には「最終勝者」
なのだから。
(必ずしも記紀編集時期までにおける最終勝者と呼べるかは別だが)
643日本@名無史さん:2010/12/28(火) 03:03:54
>>642

>いや、オオヒコ=モモソヒメなら、モモソヒメが記紀でもっと比較良で
>ピックアップフューチャリングされていないとおかしい。

そんなもの、君のただの感想でしょ。
その程度の思い込みで他人と対話が出来ると思ってるわけ?
644レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 03:14:30
>>642
そろそろ寝るので手短に回答します。(勿論解答ではなく回答ですが)

古事記ではモモソヒメに関しては、物語性は皆無で、ただの血縁データとして
しか表記されていません。日本書紀ではそれに対し、ものすごい物語性の高い
逸話が付加されるワケです。オオビコがモモソであるならば、このような後代
の研究迷走は全くアリエナイ訳なんです。研究迷走がなぜあるかと言えば、
「記紀編集時期においては記録が失われかけていた」と考える方が自然です。
当時の政局の採集勝利者の記録が失われかける方がよっぽどアリエナイ。

この事実を、単なる「俺の思い込み」だけとする貴殿のご指摘も趣旨深いです
ね。先述どおり、批判の為だけの立論はお互いあまり意味がないですよ。
645日本@名無史さん:2010/12/28(火) 03:15:56
>>644

その論法でいくなら、モモソヒメと開化が同一人物とかありえないだろ。
ばかじゃないの?
646レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 03:30:22
>>645
途中参加の方ですね?開化大王同一人物説も先述にて架空としての筋は示して
おりますので、そちらをご参照下さい。
よしんばさすがに同一でなかったと仮定しても、モモソ毘売が孝霊大王とオオ
ヤマトクニアレ比売の娘である事までは古事記上の事実ですし、開化大王に
したって、その別名:若倭根子日子大毘毘命のそのお名前が、以前の大王の
名前の方法論からも、以降の大王の名前の方法論からも、どちらからも、違和
が大きい事もこれも古事記上の事実。
そして、古事記には、モモソの結婚以降の血縁は皆無で、古事記どおりの血縁
を辿ると、ミマツ比売・オオビコ・祟神の関係性が少なからず「矛盾」が発生
するのも、これまた先述どおりの古事記上の事実です。

それらの古事記上の事実と、古事記上の諸矛盾を、どう説明するのか?と考え
た場合の一つの筋が、同一人物説なのですよ。俺が比較によってはバカなのは
認めますが、かと言ってありえないとする根拠が示せない方はどのくらい賢い
のでしょうか?
647日本@名無史さん:2010/12/28(火) 03:33:46

「A=B、A≠C」という論で、掲示板で他人と話をするなら、
なぜそうなりうるのかをきちんと説明出きる様になってからにしたほうがいい。

自分だけそう思ってても、他人は絶対同意しないぜ。
同意されなくてもかまわないというスタンスもありだが、
掲示板じゃくて、自分のブログでやれって話。


648日本@名無史さん:2010/12/28(火) 03:39:10
だいたい血縁関係の矛盾なんて、記紀にはくさるほどあるわ。
それらを全部同一人物とか言うならまだ話として整合性はあるが、
そこまでは言わないわけだろ。
649レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 03:43:21
>>647 :日本@名無史さん

フリースタンスで、他者の論を揚げ足取ったあり、矛盾個所だけを時にはA論
時にはB論に即して批判するのだけなら、中学生でもできる簡単な作業ダネ。
ま、実際そう言う輩が多いからこそ、今のような学閥利権が好き勝手できて
いる状況なんだろうねぇ。
再三言っているように、俺は自分の空論仮説が間違いなく正しいとはその時々
の架空要素の多さによっては手控えている。確定要素と仮定筋要素はちゃんと
分けている、こちとら。
「こういう解釈もあるよ」を組み立てているだけだから、気に入らなければ
読まなければいいのに。情報の取捨選択が読む個人個人に委ねられている掲示
板で、なぜそこで熱くなるのか?そっちの方が理解不能だ。
650日本@名無史さん:2010/12/28(火) 03:46:09
自分のブログでやれって言ってるんですよ。

なぜ、他人と話をする気も無いのに、掲示板に書き込みするわけ?
651レス長たらし毘古:2010/12/28(火) 03:49:26
>>648
発言の純粋理念は同感だ。矛盾要素をいっさいがっさい「同一人物とする」と
したら、たしかにそこは乱暴な立論だ。
従って乱暴な立論にならないように、可能な限り記紀から拾える可能性を先述
し、そこからの一つの合理推測により、「同一である可能性もあるよ」と
しているに留めているにすぎない、こちとら。

第一、魏志倭人伝なかりせば、又は、卑弥呼や邪馬台国を記紀上から探し出す
必要性そのものが無ければ、別に「同一人物説」の作業は、全く無くても
なんら問題は無い。俺個人はそこはどっちでもいい。非日本人じゃないしな。
652日本@名無史さん:2010/12/28(火) 08:01:29
ハエって、はじめに重なるからハエって言うんだろ。
653日本@名無史さん:2010/12/28(火) 08:56:00
>>459
情報の取捨選択が個人に委ねられてあると言っても
そこが難しいんだなぁ。
ここを日常の生活の場としている人達にとったら、すべてのレスが生活の一部だから、なかなかそれを切るわけにはいかない。
取捨選択するということは、時価を間引きするようなものだからね
654日本@名無史さん:2010/12/28(火) 09:19:16
しかし、唐松山さんもいよいよやばいなあ。ずっと張り付いて畿内説より
はるかい過激な年代遡上論をやってんだから。
655日本@名無史さん:2010/12/28(火) 09:36:15
上の方で、考古学上の優位は畿内にあると言って、だから邪馬台国畿内説を
持ち出している奴がいるが、まったくもってバカバカしい
だからこそ、九州にあった邪馬台国が、3世紀後半に畿内にその勢力を伸ばしたのだ
そう考えれば何の矛盾もない
九州、畿内の2者択一でしか物事を考えられない頭の固さには、ウンザリだな
656日本@名無史さん:2010/12/28(火) 09:59:07
>>655
畿内のプレヤマト王権と九州邪馬台国の並存を認めると言うのなら
まだマシなお話だが

じゃあその畿内に手を伸ばしたと言うのは何を根拠にするのか?

それ以前に手を伸ばしたと言う勢力は何処にあった勢力なのかを
考古資料をもって説明できなければ話にならない。


その考えは何のことはない。

東遷説が模様替えした奠都説ってやつだなwww





657ポキール:2010/12/28(火) 10:22:16
文献見てて素朴に感じたことなんだけど
帯方東南って書いてあるけど、これって北東、東南、南西、北西って四分割された一つの東南ゾーンでいいよね?
658日本@名無史さん:2010/12/28(火) 10:31:40
>>656
邪馬台国が畿内だとする考古資料は何も存在しない
今発掘されている遺跡は、九州邪馬台国とは何の関係もない、
別の国の遺跡が畿内にあったというだけのことを説明できるに過ぎない

考古資料を言うのなら、邪馬台国畿内説を証明することは未来永劫
絶対に不可能である
659日本@名無史さん:2010/12/28(火) 10:35:30
魏志倭人伝を読めば、卑弥呼がいた邪馬台国は、九州にあったことは絶対に
間違いはないのだから、これから発掘調査の進展を待っていればいいだけ
考古学の成果なんぞ、10年20年もすればどんどん変わっていく

660日本@名無史さん:2010/12/28(火) 10:37:39
>>657
東南ってことは、方角を8つにわける感覚があるということだろ
もし真南なら、南と書くんじゃないかな
オレは8分割だと思っているんだがね
661太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 10:51:16
>>619 唐松山の言う、成務の代が4年だというのは大ウソなり。
>・・・成務までで・・・空白年差し込みはある

成務5年 金神社(岐阜県)物部臣 賀夫良命 国造として赴任
成務5年 安積国造神社(福島県)比止禰命 安積国造に赴任
成務5年 姉崎神社(上総)塞三柱神を合祀
成務5年 会所宮(日田)鳥羽宿禰を日田の国造に下命
成務6年 熊野神社(千葉県)創立
成務6年 日御碕神社(出雲)1/5 ウミネコが海藻を欄干にかけるを見る
成務9年 林神社(明石市)少童海神を祀る
成務9年 赤田神社(山口県)杵築大社から分霊を迎え 先に近隣に祀る
成務11年 生石神社(兵庫県)山形県に分社を造る
成務12年 静原神社(京都府)3月 鎮座する
成務13年 岩屋神社(兵庫県明石市)6/15 淡路島から御祭神勧請して創建
成務14年 与位神社(兵庫県)2/11 鎮座する
成務14年 伊和神社(兵庫県)大神から御託宣 創祀
成務19年 可美真手神社(神戸市)3/9 創建
成務20年 片平の森(郡山)比止禰命の子孫が土着
成務21年 鐸比古鐸比売神社(大阪府)創建
成務28年 伊曾乃神社(愛媛県)武国凝別命 天照大神を祀る
成務30年 須佐大宮(島根県)須佐家 国造を命じられる
成務38年 加富神社(四日市市)采女の祖神 火宮明神 を奉斎
成務45年 宝秀寺(神奈川県)同年4/15 の大伴久応の墳の石碑文
成務48年 千如寺大悲王院(福岡佐賀県境)清賀上人 十一面千手観音を刻す
662ポキール:2010/12/28(火) 10:55:29
>>660
オレも最初はそう思ったの。
でもよーく考えてみると、方角じゃ変なのよ。
ワジンって人じゃない。人なら地域に住んでるわけだし、ましてや大海って書いてあるから
尚更方角で示せるような性質じゃないと思うわけ。
東って書いてあれば、東の方向や方角じゃなくて、単純に東側。南は南側。
その対象になる性質によって、言い方も変わってくるんじゃないかと。
山を指すなら、山は頂上を点でみなす事ができるから、方向や方角でいいけど
点に出来ない広さなんかは、エリアやゾーンで表すんじゃないかと思ったっすよ。
663美濃もん太:2010/12/28(火) 11:06:46
ここのスレまだあったんだ。てか唐松山さんも長生きだね。

邪馬台国なんてとっくの昔に結論が出てることだけど、皆さんがんばるなーとしか
言いようがないよ、こりゃ。

日本書紀なの古事記なのは明治時代になってからできた書物だから信用してもしょうがない
ってか、みんな作り物だよ、天照大神も。

尾張に来れば、天照大神発祥の地というか生まれ出たといわれてる場所があって
これは本当だよ。古代は尾張美濃が日本の中心だったってば。

卑弥呼というのは七世紀頃の韓国の女王のことだよ。善徳女王ってんだけど、日本はその頃

にはすでに韓国も中国も支配してたんだな。

文献なんてものは同じ話がくり返し出てくるようになってて、倭人伝とかいう書物もその七世紀の
お話を翻案して書いてるだけなんだってば。

だからそんなものいくら研究したって正解にはたどり着かないよ。
それより人間と恐竜の共存とかのが面白いだろ。
664ポキール:2010/12/28(火) 11:07:27
そうそう山といえば
山脈なんかは側で、山脈のなかの一つの山は方角
で言うんじゃないかな?

赤石山脈は、飯田市の東側。赤石山脈の白根岳は、飯田市の東の方角。って
でも漢字AKIBA48で書けば、全部「東」だけで書かれてる。


でもさぁ、オレって途中までしか習わなかったから
この後どんな事を学校で教えているかわからないわけよ
だから話半分以下で聞いて下さいね。
メッチャ言葉のボキャブラもないし
665日本@名無史さん:2010/12/28(火) 11:14:49
>>663
>日本書紀なの古事記なのは明治時代になってからできた書物だから信用してもしょうがない


明治時代と断定する以上、明治時代に編纂された確証や編纂メンバーぐらいは知っているんだろうな。
666美濃もん太:2010/12/28(火) 11:19:23
このスレの人たちは日本史とか世間離れしたことをやってるからわからないんだろうけど、

たくさんの土偶が出てる。恐竜を象ったものが南米やなんか世界各地から出てるんだ。
ホントの恐竜だよ。エリマキトカゲとかじゃなく。

これは見た者しか作れないものだし、中には恐竜の背中に人間が乗ったものまで
あるんだよ。すごいだろ。

それどころか、地層から恐竜と人間の足跡がいっしょに出てきたものまである。な、
卑弥呼とか邪馬台国とかいってる場合じゃないだろ。

いまに日本からもたくさん恐竜の骨が出てくるよ。化石じゃなくって骨だよ骨、もしかしたら
肉片とかついてるかもしれないし、そしたら何とか鑑定ってできるだろ。

できるんじゃないかな。そういうふうに世の中というのは大局的見地から見なくちゃダメだと
思うんだ。

ちまちま年代がどうしたとかって、失礼だけどホントにばかじゃね〜って笑っちゃうよ。
667日本@名無史さん:2010/12/28(火) 11:31:32
その、ばかじゃね。って笑ってるスレに、ワザワザ投稿するもん太は、その
バカさ以上に滑稽だぞ。


668唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 12:07:31
>これは見た者しか作れないものだし、

現代人で恐竜を見た者はいない。であるならば、現代の恐竜レプリカは
全て否現実である。

恐竜骨格が出土すれば、想像で肉付けをして、レプリカが出来る。
であるならば、時代は問われない。
669日本@名無史さん:2010/12/28(火) 12:37:23
別に骨格なんか見なくても、鳥や爬虫類を見て似たような土偶をいくらでも作れるよ
670日本@名無史さん:2010/12/28(火) 12:40:21
wwwww
671日本@名無史さん:2010/12/28(火) 12:40:29
男女のまぐわい土偶が出てこない。
672唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 12:51:22
首長竜の骨格から龍を想像する。
しかし、龍骨が存在しない倭国の神獣は、イモリかヤモリ程度である。

673日本@名無史さん:2010/12/28(火) 13:12:16
>>658-659

そもそも「邪馬台国」なんて国は存在しない。
中国史書に「邪馬台国」と記されたクニが存在しただけ。

それとも九州の何処かには「邪馬台国」と書かれた看板が埋まっているのか?w

「ホレホレサギ」「デルデルサギ」はもういいから
威勢のいい事をほざく前にせめてその「候補地」を出してからにしろ

卑弥呼に仕える奴婢だけで千人を擁したことが伺え
七万戸の中心に相応しい超々々巨大集落で
墳墓からは百人の徇葬跡がある

「すなおに読んで」倭人伝に記されたそのままの姿の物を出してこいと言う話だなw
674日本@名無史さん:2010/12/28(火) 13:24:22
>>673
徇葬跡って、葬議場のことか?
675日本@名無史さん:2010/12/28(火) 13:28:07
徇葬者って、葬議場職員?奴俾百人が葬議場の職員と
676日本@名無史さん:2010/12/28(火) 14:09:23
馬鹿だねえ、七万戸の中心に相応しい超々々巨大集落なんてものを
信じているんだ。
677日本@名無史さん:2010/12/28(火) 14:14:21
>>657 ポキール

まず「帶方郡」で検索するんだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%AF%E6%96%B9%E9%83%A1
678日本@名無史さん:2010/12/28(火) 14:18:15
>>676
ええっ?

それらの数字は嘘っぱちで方角の表記は正しいと言うことなのか?

679日本@名無史さん:2010/12/28(火) 14:21:29
嘘っぱちなんて誰が言った?
中心に超々々巨大集落があるってどこに書いてあるんだ?
680ポキール:2010/12/28(火) 14:27:08
>>677
ありがトンクス。

昨晩、当面必要なことは調べてみますた。
これで少しは話についていけるか納豆。
帯方郡は、今のピョンヤン付近ということで
まあ、オレにはどうでもいいことなんだけど、話が噛み合わなくなると不便だから、取り敢えずこんなところを
で、当時は帯方郡を置いた事自体が驚きで、それを置いたことによって
魏の守備範囲が格段にひろがった。
でも依然公孫の亡霊は根強く、魏と言えども半島には油断ならなかった。

こんなもんでOKですか?
681日本@名無史さん:2010/12/28(火) 14:31:12
>>679
では卑弥呼に仕えた千人の奴婢は?
近隣の集落の一次産業に従事していたような人間もカウントしたと言う事か?

まあ集落の規模を不問にするというのは良いが
じゃあ何をもって卑弥呼の居した集落とするのか?

九州説とて>>659のように最後には考古的発見で決着をつけるしかないと考えていると思うがw

一体、具体的にどんなものが出てくればそれに相応しいものとするんだ?

「デルデルサギ」どころか
どんなものが出てくるのかすら想定していないなんてことはないよな?wwww













682日本@名無史さん:2010/12/28(火) 14:40:17
>>680
> こんなもんでOKですか?

それでOK
あとは その「帶方郡」からどのような道筋をたどれば 邪馬台国へたどり着けるのか? とか、その邪馬台国はどこにあったのか? とかいうのがこのスレの争点。
683ポキール:2010/12/28(火) 14:45:24
ででで
半島や日本も、魏の時代以前の後漢と交流があったみたいだけど
当時半島の付け根を支配していたのは公孫で、公孫を間にはさまないと、半島より東の者は内陸に入る事が出来なかっただろうね。
そう考えると、後漢と交流していた日本の者は、実は公孫の倍臣のようなもんじゃなかったのかと、想像します。
志賀の島から発見された金印とやらも、漢と彫られていても、
それはあくまで建前の、事実上は、公孫からの下賜品と考えても過言じゃないような。後漢の皇帝には公孫から適当に説明すればいいだけの話でね。
684ポキール:2010/12/28(火) 14:54:01
>>682
でもその道筋って、おかしくないっすか?
道筋辿って行ける場所なら、もう少し事細かに書くんじゃないのかな?
これをざっと眺めてもわかるように、かなり大雑把に書かれていて、ただただ
ここにはこれがあり、ここにはこれ、ほんでもってそれはここ。
そんな程度の書かれ方だよ。
そんなの一つ一つ丁寧に順番に追い掛けていっても、見つかるわけないよ。
685日本@名無史さん:2010/12/28(火) 14:57:06
追いかけてから言え。
686日本@名無史さん:2010/12/28(火) 15:01:39
>>684
しかもそれが目的地に近づくほど更に大雑把になるというのだから
おかしさに輪がかかるとwww

普通に考えれば逆w
687日本@名無史さん:2010/12/28(火) 15:03:39
わかりやすいからだろ。北九州から水行十日陸行一月も行ったところといえば、
そう候補地があるわけではない。
688ポキール:2010/12/28(火) 15:12:26
>>685
追い掛ける必要なんてないっす。
追い掛けろなんて、オレが見たかぎり書いてなかったっすよ。書いてないんだから、上から目線で眺めればいいんですよ
勝手に追いかけるから、相手はにげちゃう。ストーカーだって、おっかけだって、目的は近づいてこないだろ。
無理矢理近づくと逮捕されちゃう。
だから追い掛けないで、うえからAKIBAは眺めればOK。
追い掛けるような旅日記じゃないでしょ
オレみたいなバカだってわかりますよ。
689日本@名無史さん:2010/12/28(火) 15:20:07
>>681
僅か千人の奴婢がいたくらいで、超々々巨大集落というのか?
墓造りの飯場をみつけただけで大喜びをしている畿内説信者らしいな。
690日本@名無史さん:2010/12/28(火) 15:21:20
>>684 ボラギノール
>そんなの一つ一つ丁寧に順番に追い掛けていっても、見つかるわけないよ。

じゃあそこからどうする?
現実的な選択肢として…

(1)元々無理だったとして全て投げてあきらめる

(2)ある程度の範囲までを絞り込んで(例えば九州南部とか)そこでストップする

(3)行程記事の読み解きがダメなら他の資料(考古資料等)に当たり
  別方面からアプローチを試みる

691ポキール:2010/12/28(火) 15:24:06
>>687
だから、追い掛けちゃ駄目だってば。
追い掛けちゃうと逮捕されますって。ただただ上から眺めるだけ。


今でいうと、時刻表みたいなもんですね。
書いてある数字は追い掛けないで、上から眺めるだけ。追い掛けるのは、実際旅行に出た時のリアルだけで
時刻表をどんなに追い掛けても、新幹線なんて走っていないよ。
走ってもいない新幹線追い掛けるなんて、バカもいいところ。幼稚園児にオジチャンバカじゃない?っていわれそう。
大人だったら黙って腕組んで、眺めようね
692日本@名無史さん:2010/12/28(火) 15:29:12
>>689
まあ吉野ヶ里の最盛期で千人チョットだからなあ
それも外郭内部には畑の跡がある。

卑弥呼に仕えたその千人を祭祀の専従者と考え
卑弥呼がいたのを九州説の大好きな環濠集落とすれば
少なくとも今まで見たことも無いような規模になるだろうw

まあ、ゴミクズレベル九州説の遠吠えは良いから

「僅か千人の奴婢がいたくらい」の集落
「墓造りの飯場」なんか問題にならない建造物

を見つけてきてからほざいてくれw
693ボラギノールじゃないよポキール:2010/12/28(火) 15:37:44
>>690
ざっと眺めただけだから、詳しい内容まではわからないんだけど、
文化風俗が沢山書いてある文に辿り着くまでに
少なくとも三つの島が出てくるよね。
一つは對海國、もう一つは一大國、そしてもう一つが末廬國から狗奴國
そこまで書いてから、文化風俗に場面はかわるよね 
ここまで間違いないよね
694日本@名無史さん:2010/12/28(火) 15:40:41
>>693
まあ、そうだけど >今使早譯所通三十國  この「今」っていつのことかな?
695ポキール:2010/12/28(火) 15:48:30
>>694
魏の時代じゃないの。
この書物が完成した晋や、版画写しの宋ではないと思う。

あんまり細かいこと聞かれても、わからないっす。
696日本@名無史さん:2010/12/28(火) 15:55:19
>>695
これけっこう重要じゃないのかな?口語訳を使うけど、

>もとは百余りの国があって漢の時代には朝貢する者もいたが、今は使者や通訳など通ってくるのは30カ国である。

漢の時代に100国あまり、次の公孫氏時代には中国への朝貢は途絶え、公孫氏への朝貢が
あったかもしれない。で、238か239年に公孫氏の滅亡を受けて卑弥呼が魏に朝貢する。
その後、他の倭の国々も魏に使者を送るようになる。つまり、この冒頭の部分というのは、卑弥呼朝貢から
かなり時間がたってからの状況じゃないのかな、ということだよ。
697ポキール:2010/12/28(火) 16:04:21
>>696
オレは細かい事わからないけど、最初に書かれたもので、時間がわかるのは、
旧、漢、今。これだけだし。
698日本@名無史さん:2010/12/28(火) 16:13:00
魏志に今とあるからには魏時代ということだろうな。
699日本@名無史さん:2010/12/28(火) 16:18:04
でも、卑弥呼以前に魏へ朝貢した国というのはなかったと思うんだよ。ところが
それが30カ国が使訳を通じるようになってる。ということは、かなり魏末に近い
ところから書き始めてるんじゃないかな。

そう考えれば、伊都国などの部分も魏使ではなく、もっと後の郡使からの報告
がもとになってると考えてもよいのではないか、ということ。
700日本@名無史さん:2010/12/28(火) 16:31:01
いや、30国というのは、ばらばらに朝貢したというのではなく、卑弥呼が朝貢
する際に名前を連ねたというようなことと解釈されているんだよ。
卑弥呼は倭国の王として朝貢したわけだからね。
701日本@名無史さん:2010/12/28(火) 16:35:45
ま、そのように考えられることが多いようだけど、郡までだったら30カ国もそれぞれ
行けたんじゃないかという気がするんだ。
702ローガン:2010/12/28(火) 16:40:20
>>627
>東冶県はどこかに出てきますか? 県名とは考えませんが。

西漢の冶県のことですよ。ご承知の通り、魏代に東冶と云う行政区分はありません。
「三国志が書かれた頃、東冶は会稽郡に属さない。よって、会稽の東冶ではない」 というような主張が上に見えたのでね。それは違うぞと。
西晋初の行政区分に基づいて書かれたものなら、そもそも、東冶は登場しませんからね(笑)。
●呉書孫策伝…会稽に根拠地を置いた孫策は厳白虎らの東冶城を落とし、会稽太守を兼務する。
●呉書賀斉伝…東冶に逃げ込んだ前会稽太守王朗に味方した候官の長、商升が挙兵したものの、賀斉に降伏。
それを不満とする張雅、センキョウらが商升を殺し、自ら張雅が無上将軍、センキョウが会稽太守を名乗る。
他にもあるかもしれないが、上記の例からみて三国志において、明らかに東冶は会稽に属している。
又、魏書王朗伝には、孫策に敗れた会稽太守王朗は東冶へ逃げる。追撃した孫策はそこでも勝利し、王朗を捉えた。とある。
そして、同伝引用献帝春秋に「孫策は軍を率いて、ビン越に赴き、王朗を討伐した」と書いてある。
つまり、「会稽東冶之東」とは、会稽に属する東冶(=ビン越)の東である、と云う意味である。
703ポキール:2010/12/28(火) 17:17:05
>>699
魏時代を通しての事で、最初も終わりもないと思います。時間を特定するなら、この後何やら交際記録が書かれているので、そこで時間を特定しなければならない事は書けばいいわけで
冒頭を根掘り葉掘りする必要はないというのが
オレの単純な見立てっす。

記録って、終わった後じゃないと書けないし。
704日本@名無史さん:2010/12/28(火) 17:21:29
>>702
あなたの論理が分からないな。魏時代に東冶が会稽郡に属していたと言うのは結構でしょう。
しかし、だからと言って、直ちに魏志の会稽東冶を「会稽に属する東冶」と解釈すべきこと
にはならないと思うがね。
705日本@名無史さん:2010/12/28(火) 17:29:13
会稽東冶が会稽に属する東冶なら、会稽に属さない東冶が
影に存在するという事だろ。
じゃなければわざわざ会稽なんて冠いらないわけだし、ただ東冶の東と書くだけで済む。
会稽に属する東冶と位置付けるなら、セットで会稽に属さない東冶を、記さないとね。
706唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 17:37:23
>>699
倭人伝は時空を追って書かれていない。
正しい思考である。
707ローガン:2010/12/28(火) 18:26:45
>>704
>しかし、だからと言って、直ちに魏志の会稽東冶を「会稽に属する東冶」と解釈すべきこと
> にはならないと思うがね。

「属する」が気に入らないなら、「会稽の東冶」でいいですよ。
反対意見があるなら、どうぞ。聴きますよ。
708日本@名無史さん:2010/12/28(火) 18:51:00
>>707
会稽の東冶でも同じです。東冶が唯一なら、会稽は必要ないし、
709563:2010/12/28(火) 18:58:41
>>565
>福州市にあるのは東治城(東治城は福州市だと推測されてる)なんですよ。

少し考えてみました。

東冶は武帝に滅ぼされた閩越の都で、前漢のとき会稽郡東冶県として属していました。
また閩越王の祖は会稽に封ぜられた“夏后少康之子”無余です。

魏代当時は会稽郡でも東冶県でもなかったわけですが、行政区域名とは別に
歴史的慣用地名として閩越の故知を会稽東冶と呼んでいたのではないでしょうか。
710日本@名無史さん:2010/12/28(火) 19:12:47
>計其道里當在曾稽東冶之東
>夏后少康之子封於曾稽斷髪文身以避蛟龍之害

この二つの文は対関係を意識して書かれているとは思うよ。「呉書」には、会稽の東
の県人は海に出て風に流され、徐福の子孫のいる亶洲にたどり着くという記述もあるし。
711日本@名無史さん:2010/12/28(火) 19:21:14
>>689
>墓造りの飯場をみつけただけで

ふと思ったんだが…

そもそも九州・その他に「墓造りの飯場」ないしは「ワークマンズ・ビレッジ」みたいな物が
出てきたこと事があるのか?

墓造りの為の労力を一定期間留め置くにしても
その痕跡が後世まで残る大型建物を作るのは
それなりの権力に直結すると思うのだが?

ちなみにこの「墓造りの飯場」と言うのは縄文人とか言う馬鹿が好んで使っていた記憶があるwwwwww
712日本@名無史さん:2010/12/28(火) 19:27:28
お、もん太くんが来たか。

あと河童君がそろえば「もん太と河童」で完璧なのにな〜(なにが?!)
久々にもん太 VS 河童がみたいところだが・・・
(いつか河童君の圧勝と言う下馬評を覆して、河童君がボッコボッコにされてたのには笑えたw)

とりあえずは、美濃もん太さん
ポキール氏相手に先輩の貫禄ってやつを見せてやって下さい(笑)
713日本@名無史さん:2010/12/28(火) 19:27:56
>>683
>公孫を間にはさまないと、半島より東の者は内陸に入る事が出来なかっただろうね。

公孫氏が「半島の付け根を支配」するようになったのは初平元年(190)以降でしょう。
714日本@名無史さん:2010/12/28(火) 19:27:59
>>703
ボキール君には先入観が無いかもしれないので、一応書いておく。

魏志倭人伝は、伝言ゲームのようなもの。
最終回答者の陳寿は、蜀の臣下だった。
魏があったころは蜀の山の中にいたのだから、
魏の文書なんか見られるわけない。
蜀も魏も滅んで、そのあと陳寿は晋に仕官した。
それで、ようやく倭に関する報告書を見たのだろう。
そういう経緯だから正確さは伝言ゲーム程度。

それで何とか邪馬台国にたどり着こうとするから、
ヘンテコな漢文解釈が考え出される。

「漢文は読めないもの」じゃなくて、書いてある情報が間違ってる。
715ポキール:2010/12/28(火) 19:35:44
>>714
で、その間違いとする判断は間違いなく正しいの?
そのへん大事なことだと思うわけっす。
陳寿さんという人は、間違いなく間違った情報を書いたんですね?

で、その間違いと判断出来る正しい情報って、どこでしらべられるの?
オレ、調べてみたいから教えてよ。
716日本@名無史さん:2010/12/28(火) 19:40:07
>>707
何か勘違いをしているようだな。私は、会稽を会稽郡の意味ではなく、単に会稽
という地名と解釈する。また、東冶はこれまた東冶という単なる地名だ。
>>708氏は私と同じ考え方かと思うが、要するに会稽と東冶二つの地名が書かれ
ていると言うことだ。
倭の女王国は広大な領域をもっている。女王国の始まりは万二千余里、そこから
陸行一月でも突き抜けることがないほどの広さだ。その女王国が中国のどのあた
りに相当するか、それを語るのに、会稽郡の東冶などとピンポイントで語ること
はできない。会稽から東冶(この間約四百キロだ)、その東の方に女王国の領域
が広がっているというのが倭人伝の趣旨だよ。
717唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 19:43:42
邪馬台国に卑弥呼が住んでいる。

これが間違いであるから、邪馬台国が見つからない。
当時、鉄を持っていたのは、畿内大和である。
女王は伊都国を傘下に置く。
718日本@名無史さん:2010/12/28(火) 19:49:19
キチガイが一匹www

>>それとも九州の何処かには「邪馬台国」と書かれた看板が埋まっているのか?w

こういう奴を徹底的にからかってやるのは面白いwww
719日本@名無史さん:2010/12/28(火) 19:55:50
>>714
君はひとつ大きな勘違いと言うか、思い込みをしている
もちろん、記述が100ぱー絶対正しいなんて言うつもりはないが、
伝言ゲームなどとする例えは間違っている

アイヌだったか、正確には覚えておらんが、
文字がないかわりに、自分らの口承を伝えるために、それはそれは驚くほど何回も繰り返し口述し
言い伝えるため、文字以上に正確に伝わっていることがあるそうだ

少なくとも、オレたちの感覚で考えてはいけないな
720日本@名無史さん:2010/12/28(火) 19:56:37
>>715
漢文読みが倭人伝を読むと、九州の遙か南の海上にたどり着く。
それは、よほど偏屈な人でなければ、みな認めること。

だから近畿説は方角が間違ってると主張し、
九州説は普通の里ではなく短里で書かれていると主張する。
放射説なんかもある。
みんな、倭人伝を普通に読むと海の上に行ってしまうがために、
なんとか日本の陸地の何処かに持っていこうとして特殊な解釈や読み方を考え出し、
「俺こそが正しい倭人伝の読み方を発見した」と言い出す。
その繰り返し。
721日本@名無史さん:2010/12/28(火) 20:02:05
>>714ですが、>>720に書いたことは、>>719さんへの答えにもなっていると思う。
722日本@名無史さん:2010/12/28(火) 20:02:50
>>715

そういうことは、こんなとこじゃなくて、マトモなサイトを調べたらいいと思うよ
偏りなく、それぞれの説の解釈、欠点を書いているようなとこ、検索したらいくつか出てくるから
723あらため:2010/12/28(火) 20:06:09
>會稽

會稽というのは、今の浙江省から江蘇省にかけて會稽郡があった。
治所は奏・漢では 江蘇の呉県、後漢以後は浙江の紹興県(魏志倭人伝 現代語訳 岩波文庫45ページより)。

江蘇省 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%98%87%E7%9C%81

浙江省 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%99%E6%B1%9F%E7%9C%81

>東冶

県の名、今の福建省閩侯県付近(魏志倭人伝 現代語訳 岩波文庫46ページより)。

福建省福州市 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B7%9E%E5%B8%82

『計其道里 當在會稽 東冶之東』

その道里を計るに、当に會稽の東冶の東にあるべし(魏志倭人伝 現代語訳 岩波文庫45ページより)。
724唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 20:20:11
>文字以上に正確に伝わっていることがあるそうだ

名言であり正しい、そこで文字を持つ者が1字間違えただけでも
文章は一人歩きする。
725ポキール。:2010/12/28(火) 20:23:51
なにかが違うんだなぁ
うまく言えないけど、何かしっくりこないんだなぁ
726ポキール。:2010/12/28(火) 20:27:46
>>724
で、誰がどの文字をどのように間違えたの?
で、正しい情報はなに?
727唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 20:34:43
>誰がどの文字をどのように間違えたの?

その前に、書紀は鉄を持つのは垂仁からである。と云う
しかし、大半の論者は、卑弥呼を崇神時代に置く。
だから
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁

垂仁以降であれば、名前が特定出来る。

728日本@名無史さん:2010/12/28(火) 20:35:12
>>709
四文字地名ってのに違和感があるんですよね。
ただおそらく東治を呼ぶ時は都市名としてさす事が多く地域名としてはあまり使わないんじゃないかと思います。
會稽は地域名として使うと思いますが。
729日本@名無史さん:2010/12/28(火) 20:53:01
関東最古といわれる鷲宮神社。
鷲神社とは倭氏神社。
邪馬台国が関東にあった証拠の一つです。
730日本@名無史さん:2010/12/28(火) 20:55:59
>>723
活字に弱いみたいだな。しかし、現代語訳は一つじゃないぜ。

ちくま学芸文庫の三国志(今鷹真、小南一郎訳)によると次のようにある。

倭までの道のりを計ってみるに、会稽や東冶の東方に位置するのであろう。
731ローガン:2010/12/28(火) 21:04:48
>>716
>それを語るのに、会稽郡の東冶などとピンポイントで語ることはできない。

ピンポイント?「会稽の東冶」で南部都尉が担当したエリアをイメージしているんだけど…
後で来ます。
732日本@名無史さん:2010/12/28(火) 21:09:36
>>730
>>723>>730は同じ意味じゃね?
733いかしゅうまい:2010/12/28(火) 21:21:50
僕は倭人伝を素直に読むのが大好きなんだな。ごはんはおにぎりおかずは倭人伝だな。
北部九州から南に千数百里(100km前後)のところに女王の都が置かれた邪馬台国がある。

鉄器の話をするとwww氏が額に青筋立てるだろうが、
弥生期の九州中南部には鉄器が多く出土する。製鉄も行われていたと見られる。

九州北部の帥升系の王が君臨していた頃、恐らくその王族に連なる首長が治めていた邪馬台国は王に忠実な
部下として鉄器などを供給していたのかも知れない。しかし、2世紀後半に入ると、大陸や半島は戦国状態
となり、九州へ逃れてくる半島の倭人の増加などで食糧問題や治安問題が生じ、帥升系王はその対策に追わ
れる状態となる。

当然、倭国構成国への目配りがおろそかになる。邪馬台国は表向きは帥升系王に協力しながら、裏では国力
の充実に努めた。伊支馬かその父親が主導したのであろうが、ひそかに南方の島やことによると中国江南地
方との交易を行い、鉄製農具を餌にして版図を拡大していったのである。

邪馬台国がその版図を熊本県中北部から宮崎県中北部まで広げて戸数7万ほどの大国としての体制を整えた
頃、九州北部の帥升系王の跡目争いが勃発した。倭国乱である。
734唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 21:28:40
>弥生期の九州中南部には鉄器が多く出土する。

弥生時代における初期鉄器の舶載時期とその流通構造の解明
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kaken/17520520.pdf
97ページのグラフ

それが何故古墳時代へ持ち越せなかったのか?

735日本@名無史さん:2010/12/28(火) 21:36:39
>>733

銅矛文化は四国まで広がってるのに、
邪馬台国の範囲を九州だけとしようとしてるだけで、


             バ        カ



決定。
736日本@名無史さん:2010/12/28(火) 21:41:53
縄文時代、弥生時代という区分はもう辞めるべきです。
青銅器時代、鉄器時代と区分すべきではないのでしょうか?
737日本@名無史さん:2010/12/28(火) 21:50:07
>>735
恥ずかしいからやめてくれ。畿内説をいう者がみんな馬鹿にみられる。
738日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:02:57
>>731
あなたがイメージするのはかまわんが、一般の読者はどうかな?

で、道里を計るとどうして会稽郡の東冶がでてくるの?
どんな計算になるのかな。
739日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:08:30
>>737

だって事実だろ。wwwwwwwwwwwww

740唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 22:12:34
>>720 漢文読みが倭人伝を読むと、九州の遙か南の海上にたどり着く。

>>738 道里を計るとどうして会稽郡の東冶がでてくるの?

>>739 だって事実だろ。

言うことはない。
741あらため:2010/12/28(火) 22:15:50
そういえば河童さん、こっち来なくなったね。
たぶんタイミングを伺ってるんだろうが(笑)
遠慮せずに来ればいいのにね。

ローガンさんやジョーカー氏を相手に議論するのきつくなったんだろう。
それならば、いまここにいるよう人らを標的に変えて参戦すればいいのにね。
742日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:18:31
河童だあ?

過去に数々のコテハンを撃沈させてきた俺が相手してやるよ。
出てきやがれ。
743709:2010/12/28(火) 22:21:27
>>728
>東治を呼ぶ時は都市名としてさす事が多く地域名としてはあまり使わないんじゃないか

「三国志」中、東冶の記述は以下の通り。判断はどうぞ自分で。

遂舉兵與策戰,敗績,浮海至東冶。(王朗)
計其道里,當在會稽東冶之東。(倭人伝)
遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等。(孫策)
時王朗奔東冶,侯官長商升為朗起兵。(賀齊)
會稽東冶五縣賊呂合、秦狼等為亂,(呂岱)
廬陵賊李桓、路合、會稽東冶賊隨春、南海賊羅雌刪齊桾タ起。(蔣欽)

皓以諸父與和相連及者,家屬皆徙東冶,(孫皓 吳錄曰)
輔恐權不能保守江東,因權出行東冶(孫輔 典略曰)
744日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:23:18
>>720
>だから近畿説は方角が間違ってると主張し、

しかし現在の畿内説はどうだろうか?

畿内大和説がガチの本命となっている現在でもそこに至る道
例えば日本海ルート、瀬戸内ルートどちらのルートであったのか?なんて事について活発な論争があるとも思えない。

「南を東に」なんて一律的な解釈も大昔の話で
行程記事に拘泥する事自体を止めていると言うか…

まあこんな事を書けばここのゴミクズレベル九州説からは
「畿内説は行程記事から逃げている」とか言われるのだろうがwww

じゃあ仮に九州の何処かに決定的な遺跡遺物が出てきて
位置論争に決着がついたとて

九州の大抵の場所ならいくつものルートが過去提唱されていて
どれが正しかったなんて結局のところ分らないだろう。

そう考えれば行程記事の解釈自体が凡そ意味のない作業のように思えるwww
745日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:29:24
考古学のほうが、先をいってるから、
もう魏志倭人伝から学ぶことは何もないのが現実。

魏志倭人伝を軽視してると受け取る人もいるかもしれないが、
魏志倭人伝から参考になるような古代の様相よりも、
考古学が明らかにした古代の様相のほうがはるかに大きくなった。
だからもう歴史を語る上で魏志倭人伝自体が不要。

746日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:41:13
確かに。
魏志倭人伝に惑わされて人生棒に振った人は何人も見ています。
アホだね。
747唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 22:41:35
>だから近畿説は方角が間違ってると主張し、

晋書により訂正される。「正始元年春正月,東倭重譯納貢,」この東倭とは、邪馬台国
と表記された大和であり、方角が「南」から「東」へ変更されている。

だから邪馬台国を大和とする事は出来るが、伊都国を傘下に持つ女王国が説明出来ない。
ここで大和説は、無理をして卑弥呼=モモソ姫とか言い出す。
崇神は鉄を持たない時代に設定する書紀と齟齬をきたす。

748日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:46:15
>>734 から松くん
>それが何故古墳時代へ持ち越せなかったのか?

その紹介された資料もざっと目を通しての感想(と言うより印象)でもあるが…

古墳時代に持ち越す前に流通ルートの変化が起きていると言うか
(紹介資料のp69「鋳造鉄斧とその破片の流通変遷」とかが分りやすいか?)

ザックリと言えば
「古墳時代になってヤマトが九州の鉄を掻っ攫った」なんて単純な話ではなくて
その前に流通経路の再編成が起きていると・・・

まあこの辺を利用して九州説を組み立てたら面白いのかもしれないが
(日本国内にあっては鉄資源の供給側=玄界灘周辺地域による流通のコントロールとか)
勿論ゴミクズレベル九州説には期待していないwwwwwww

ちなみに

>>733
>邪馬台国がその版図を熊本県中北部から宮崎県中北部まで広げて戸数7万ほどの大国としての体制を整えた

熊本〜宮崎にまたがる一大帝国と言うのも「弥生時代の奈良盆地湖」などと言う電波を飛ばしまくっていた
今は亡き狂人「縄文人」のネタだったような飢餓駿河wwwwwwwwww
749日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:48:08
>方角が「南」から「東」へ変更されている。
東倭とあるからかい? 倭人伝だって会稽東冶の東と書いていただろ。
中国からみれば東に倭があるんだよ。何も変更はされていない。

750日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:50:02
>>741
長期悪禁で、しかも最近知恵袋に入り浸りでは
もうここには来ないかもしれません。

大変淋しい限りです。  以前河童さんに知恵袋紹介したの、あらためさんですよね。
751748:2010/12/28(火) 22:50:40
あとMr吉野ヶ里こと高島センセイが何処かで
「鋳型の出土を見れば玄界灘より有明周辺の方に古いものが多い」
と言う旨の事を書いていた事を付け足しておく。
752太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 22:52:21
>>727
大王の臣下 伊支馬≠ 臣下より偉い大王(天皇)垂仁
753日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:52:31
>>747
>だから邪馬台国を大和とする事は出来るが、伊都国を傘下に持つ女王国が説明出来ない。

何が説明できないわけ?

君が聞く耳もたないだけだろ。
754あらため:2010/12/28(火) 22:57:25
>会稽の東冶

会稽というのは、私が上で書いたように非常にその範囲は広い。
この場合、会稽や東冶 と読むのは邪道であり、会稽の東冶と読むのが正しい。
会稽山がどうたら言ってるのは鷲崎氏ダケだろう。
ようは、東冶の東に倭があるということですね。
東冶の場所は、上で書きましたので各自調べて下さい。
まあ、その場所というのは、台湾付近なのですが、後漢書には、「東冶之東」とあり

會稽海外有東鯷人 分為二十餘國 又有夷洲及澶洲
傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海 求蓬萊神仙不得 徐福畏誅不敢還 遂止此洲 世世相承 有數萬家
人民時至會稽市 會稽東冶縣人有入海行遭風 流移至澶洲者 所在絶遠 不可往來   ともある。

この「夷洲」及「澶洲」というのが、現在の台湾やその周辺島々といわれてるので、
会稽山がどうたらいうたらいけないんですよね。
755唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 22:59:22
大和が鉄の輸入、配分権を得たのは、崇神による任那建国である。
任那建国とは、伽耶建国(209年)である。
だから垂仁元年(217年)ころより、大和に鉄が流入する。

卑弥呼=崇神時代としたのでは、書紀の主張と齟齬を生じるから、100年議論しても
正解は得られていない。
考古学が50年遡上した、であれば、文献も50年遡上せねば、纒向遺跡一つ説明出来ない。
756あらため:2010/12/28(火) 23:14:49
>>750
ああ、河童さんに知恵袋紹介したのは、私でしたね(笑)

彼は、日本書紀の暗号文を待ってるとか。
師匠のド素人丸出しの暗号解析の文をいわゆる”待ち”の状態のようで、暇なんでしょう。
ソノ暇つぶしには丁度よかったのかもしれません。

又、長期悪禁ならば代行スレもありますし、
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/accuse/1293324962/

又、アク禁用のスレ>>1もあるわけですので問題は無いと思う。
757太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 23:25:48
>>461
三輪山の山名の半径r=3の円(三輪)の球化の体積、表面積の数式を
天津神算木(天津金木)といい、古代人が古代史の真の年代を教えてくれ
る天下の計測宝器である。天津神算木は

4πr**3/3=113.097335529232556584655161798」06  :Windows 7 電卓

ここで右辺 」 は先頭から30桁目の区分である。ミワ(三輪)とは三○と
数字的に読んでもいい。[輪]には○即ち0を隠しているのである。

崇神天皇の御名は 五十瓊殖尊 と申し上げる。御名には数字の五十が
あるわけだが、五十は漢字的に逆読みすると 十五 となる。

今、30桁目の手前にある○数字は50でなく51 ↓ だが

 4πr**3/3=113.09733552923255658465D@61798」06

これを逆にすると○数字の 51 は 15 となる。すると○数字 1と5 を置き
換えれば

 4πr**3/3≠113.09733552923255658465@D61798」06

となる。30桁手前四桁は 1798 、その手前二桁分ずらした四桁は○数字の
ある 1561 であるが、年数と観てこの差をとれば

 1798−1561=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

と、真の年代を得る。
758唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/28(火) 23:26:25
>>753

大和が九州を傘下とするのは、景行時代である。
この書紀の主張を無視して崇神が伊都国を傘下とした事実は無い。
つまり、壹與(五百野姫)が大和から派遣されるまで不可能な思考である。
759日本@名無史さん:2010/12/28(火) 23:31:04
なんで三輪山にキリスト教が制定した西暦が暗号化されてるの?
760日本@名無史さん:2010/12/28(火) 23:31:25
>>754
「会稽の東冶」ではなく「会稽から東冶」だろうなあ。
会稽郡が広かったのは後漢までで、
三国・呉の時代には大部分が臨海郡と建安郡になってしまい、
会稽郡はずっと北の長江河口付近になってしまう。

>>743さんが引いている
「遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等。(孫策)」
を見ると、「会稽に拠り、東冶をほふる」と書いてある。
会稽を拠点として東冶を攻め落としているのだから、
「会稽の東冶」では矛盾する。
761日本@名無史さん:2010/12/28(火) 23:32:15
この「唐松」なるコテの言う事でワケワカランのは
鉄の流入こそが古墳築造を可能にしたとか言うお話w

なんか根拠があるのか?

先ず古墳時代初期において
いくら”当社比”で鉄の量が増えたといっても
絶対量では北部九州には遠く及ばず

その北部九州でその鉄器の出土量に比例するような
他地域を圧倒するような墳墓以外でも土木工事の跡があるかと言えば
凡そ聞いたことすらない。

奈良で大量の鉄の出土と言えば例えば佐紀のウワナベ古墳の倍塚から
加耶で作られたと考えられている鉄テイが大量800枚から出てたりするが
これも既に河内で巨大古墳が出現している5世紀のお話。

盆地南部の古墳からの鉄の出土となるとイマイチ、スケールがダウンするのは否めないだろうw
(無論、陵墓参考地としてのガードがかかっている問題もあるだろうが)

要するに巨大古墳の出現と鉄の大量流入とはタイムラグがあるのは否定できないと言うお話.

まあそんな事を知らなくともそもそも海外に目を向ければ
鉄を持たない巨石文明なんてのもいくらでもあったわけでwwwwwww


762日本@名無史さん:2010/12/28(火) 23:33:05
>>756
>ああ、河童さんに知恵袋紹介したのは、私でしたね(笑)

余計なことを。でたらめなことを回答しているのを一度見かけた。
あれを見て、自分の中で知恵袋の信用度ががた落ちした。
763日本@名無史さん:2010/12/28(火) 23:34:14
>>756
河童さんならこの不毛の世界に一石を投じてくれるのではと思いましてね
ここではなかなかのピエロを演じているようですが
764日本@名無史さん:2010/12/28(火) 23:35:05
マヤやアステカは鉄器もないのに巨大神殿建ててたな。
765あらため:2010/12/28(火) 23:36:31
なんか「鉄」の話題がでてるね。

韓伝に「國出鐵 韓、濊、倭、皆從取之」とあるとおり、
鉄は朝鮮半島のモノを九州を経て、畿内に入ります。
国内生産はずっと後のことで、当時は全て、大陸・半島からの輸出に頼っていた。

畿内からは三世紀になって木製品に代わり、鉄製品が使われるんですが、
これは当時、九州から畿内にかけてかなり強力な国家が誕生していたことを物語っている。
766太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 23:37:20
>>759
表向きはそうなってるがね。w

神武の兄弟が海原を越えて、常夜国たる外国へ行ってるよ。
エジプトの某所には菊花御文章も出てるし、日本の某外国文明展でこれが
展示されていた。

 神武即位元年=西暦元年

が真なのだ。右辺の年代の干支は辛酉なのだ。これはB.C.660年のと
同じ干支だよ。
767太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 23:42:36
>>757 訂正
× 手前二桁分ずらした
○ 手前三桁分ずらした
768日本@名無史さん:2010/12/28(火) 23:43:06
神武即位とキリスト誕生は運命的に年代一致してるってこと?
769日本@名無史さん:2010/12/28(火) 23:43:39
まあ唐松の「鉄の流入が古墳築造を可能にした」なんて話は
与太国の「崇神朝以前の畿内には船がなかった」と言うのと同じレベルの与太w

>>766 与太国
ああ、そうだ菊紋ならインドのヨガでチャクラのビジョンもネタに加えておけwww
770太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 23:45:58
ジョーカー
余計な能書きを垂れるんじゃない。
771太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 23:47:25
>>768
表見上はそうなるがねぇ・・・?
772日本@名無史さん:2010/12/28(火) 23:50:46
>>765

>韓伝に「國出鐵 韓、濊、倭、皆從取之」とあるとおり、
鉄は朝鮮半島のモノを九州を経て、畿内に入ります。
国内生産はずっと後のことで、当時は全て、大陸・半島からの輸出に頼っていた。

畿内からは三世紀になって木製品に代わり、鉄製品が使われるんですが、
これは当時、九州から畿内にかけてかなり強力な国家が誕生していたことを物語っている。


それは違いますね
物品というものは最終的に需要が存在するところに流れるもの
その流れが一つの組織で構成されているという片寄ったものではありません。

品物を取り寄せる貿易商もいれば、その商品を捌くブローカーやバイヤーもいます。
特にものが集中すると言う事は
それは貿易商でもバイヤーでもなく、最終消費者にその品物は集中するものです。
その最終消費者は、必ずしもバイヤーや貿易商と同じ組織であるとは限らないのが
流通です。

それを強力な国家に結び付けるのは、実にナンセンスな行動ではないでしょうか?
773日本@名無史さん:2010/12/28(火) 23:51:07
>>771

西暦も倍暦だったんですか?
774太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/28(火) 23:54:20
>>773
西暦は倍暦をやってないようです。通常通りでしょうね。
倍暦をやってたのは、例えば古代南バビロニアがそれで、これは2倍年暦
です。
775日本@名無史さん:2010/12/28(火) 23:59:02
倍暦をしてた日本の三輪山の大きさから、
倍暦をしてない西暦が導かれるの?
776あらため:2010/12/29(水) 00:01:00
>>772
アホだな・・・・畿内に鉄が流れてるということは、対馬・壱岐はもちろん
玄関口である唐津や博多を抑えとかないといけない。
その九州から畿内に持ち運ぶにしても、どのルートを通るかは知らないが、
一般的な見方として、当時に西日本一帯を管轄する国家が誕生していたとみていいと思う。
畿内は対馬・壱岐・唐津・博多を抑えないといけないわけだし、そのルートも同じこと。
777日本@名無史さん:2010/12/29(水) 00:03:35
>>762

>余計なことを。でたらめなことを回答しているのを一度見かけた。
あれを見て、自分の中で知恵袋の信用度ががた落ちした。


それは災難でしたねwww
でもあの数字は伊達や酔狂で積み上がるものではないでしょう。
778日本@名無史さん:2010/12/29(水) 00:09:29
>>777
>でもあの数字は伊達や酔狂で積み上がるものではないでしょう。

あの数字って何ですか。
知恵袋のシステムにあまり詳しくないもので。
779日本@名無史さん:2010/12/29(水) 00:11:11
畿内に大量に鉄が流れ始めるのは
山陰で製鉄が始まってから。
780太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/29(水) 00:12:33
>>775
三輪の「三」は3倍年暦の示唆。崇神の代3倍年暦を行使していたのだ。
倍暦の基点から逆算すると、西暦での実年代が分かる。

zzzzzzz・・・・・・・・
781日本@名無史さん:2010/12/29(水) 00:17:11
>>776

>アホだな・・・・畿内に鉄が流れてるということは、対馬・壱岐はもちろん
玄関口である唐津や博多を抑えとかないといけない。

政治の力で物欲の流れを止めることが出来ないのは、現在の麻薬密売で充分証明されていますよ

それに、壱岐や対馬や唐津といった玄関口を押さえるのは
消費者ではなく、貿易商やバイヤー・ブローカーで充分です。消費者がそこに絡む必要はありません。
流通経路が九州から畿内に流れているのは、最終消費地が畿内と言うだけの事
バイヤーは金になれば消費者に届けますよ
そこには巨大国家組織なんて必要ありません。

もし、どうしても巨大国家を必要とするのであれば、その巨大国家と物流経済の関係を
ここに書いて説明してみてください。

782日本@名無史さん:2010/12/29(水) 00:21:11
>>777
質問者が複数の回答の中からベストアンサーを選び、ベストアンサー解答者に
ポイントを与えるシステムです。
783日本@名無史さん:2010/12/29(水) 00:26:16
>>782

河童教の信者を増やしてるってことかな?
784日本@名無史さん:2010/12/29(水) 00:29:39
何時の時代もそうだけど、冨があれば自分の手を汚すことなく
欲しいものが手に入るのが物流経済です。
冨があり物が欲しいと言えば、必ずこれは商売になると感づいた人が
苦労して、その商品を見つけ消費者の元に届けます
その商品と引き換えに、バイヤーやブローカーは、消費者から富を分けてもらいます

畿内に鉄や鏡が集中しているとすれば、畿内は当時、日本最大の消費地だったと言う
予想の方が、遥かに的を射た考えではないでしょうか?
なにも無理し危険を冒してまで海を渡る必要なんてありません。
冨さえあればバイヤーが、冨欲しさに必死に物を探してきますよ
785日本@名無史さん:2010/12/29(水) 00:36:59
>>783
私にはそこまではわかりません。
786日本@名無史さん:2010/12/29(水) 00:39:54
改め瞬殺wwwwwwww
787ローガン:2010/12/29(水) 00:43:30
>>738

>>731
> あなたがイメージするのはかまわんが、一般の読者はどうかな?

嘉禾四年、廬陵賊李桓路合、會稽東冶賊隨春、南海賊羅レイ等一時並起。(呉志呂岱傳)
この時代、東冶は会稽郡太守の管轄下。なら、「廬陵賊李桓路合」「南海賊羅レイ」と同様に「会稽賊随春」と記述すれば良い。
「會稽東冶賊隨春」で、会稽郡ではあるが、南部都尉の担当エリアである事が読者にわかる。

> で、道里を計るとどうして会稽郡の東冶がでてくるの? どんな計算になるのかな。

基点は洛陽。ハノイまで南11000里。楽浪まで東北5000里。
帯方から12000里なら、台湾の辺りと編者が考えたとしても無理は無い。
788日本@名無史さん:2010/12/29(水) 02:11:14
>「會稽東冶賊隨春」で、会稽郡ではあるが、南部都尉の担当エリアである事が読者にわかる。
それを表現したいならば、「東冶賊隨春」で十分だろう。会稽と東冶を勢力圏としていたから
こそ「會稽東冶賊隨春」と書いたんだよ。

>帯方から12000里なら、台湾の辺りと編者が考えたとしても無理は無い。
到底無理だろう。帯方郡から南へ万二千里ならば、赤道付近に至る。台湾あたりになるわけがない。





789日本@名無史さん:2010/12/29(水) 02:22:12
>>787
>>760で次のように指摘されている。

「遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等。(孫策)」
を見ると、「会稽に拠り、東冶をほふる」と書いてある。
会稽を拠点として東冶を攻め落としているのだから、
「会稽の東冶」では矛盾する。

これについては、どう考えるのかな?
790ローガン:2010/12/29(水) 03:39:36
>>789
既に、>>702に記述済み。全く疲れる…
791レス長たらし毘古:2010/12/29(水) 04:16:34
>>650
ブログと言う物がまだこの世に存在しない時代からネットをやってるから
のぅ。それにブログというツールを今の子ほどは過信も信頼もしとらんの
じゃ。唯の好みの問題じゃ。
ま、しかし、こちらも有限の時間の中の住人の一人だし。言うべきは言ったの
で、特にこれ以上は雄弁である必要性も無い。批判者も批判だけでなく、可能
な限りでの自論を打ち立てれば良い。幻の邪馬台国は遠い。。。

>なぜ、他人と話をする気も無いのに、掲示板に書き込みするわけ?

この掲示板の趣向とは直接関係無いが、貴殿の他に不思議に思われている方も
少なく無いと思われるので、半分適確で半分的外れなこの質問にも回答して
おく。
話(ここでは対話と解釈する)が成り立つ要件は、ある程度個人を限定できる
者同士の間の方が成り立ちやすい。逆に提案するが、もし俺と対話がなさり
たいのであるなら、そちらも匿名ネームであるべきではない。だが、それこそ
貴殿の都合と投稿スタイルの問題だから、俺からどうこう言うべき話でも、
俺が希望する話でもない。そちらが匿名を維持しながら、俺との対話をも期待
するのが少々的外れが大きい。
また、俺は掲示板を貴殿が規定するように、対話をするだけのツールとは考え
てはいない。自説公表と軽い対話と単なる気分が1/3づつほどまざった、現時点
においては他者にとっても自者にとっても能動の責任追及のいい加減な媒介
ツールの一つでしかない。これは残念な事だが。
貴殿が「対話」がなさりたいなら、それこそ、今のインターネットツールでは
テレビ会話などが可能なツールやチャットもあるので、そちらを活用頂くと
言う手もある。(これも俺の問題ではないが)
だがしかしここは半分以上「公な場」でもあるので、俺の問題ではない件に
ついては、最低限の提案と最低限の逆指摘にとどめさせてもらった。
792レス長たらし毘古:2010/12/29(水) 04:24:40
>>791(の続き)

貴殿の規定する「掲示板」と言う物が、俺の規定する「掲示板」と言う物と
大きくかけ離れている事だけはなんとなく判断できる。俺は君には先述の
ように、駄目元で提案はするが、何も期待する気もない。何故、貴殿が俺に
提案だけでなく、掲示板への書き込み方法までをも期待・強制しようとする
のかが甚だ疑問だ。それも、この掲示板の規定する範囲を超えてまでもだ。

最後に、「ブログを自説公表の場としては掲示板より比較的適している」と
貴殿は考えられているようだが、半分は当たっているが、半分はあたっていな
い。ブログで不幸になった人やブログで本来目的からどんどん離れていく人も
山ほど見て来た。ただ、自説公表だけで全く対話の意志がないのなら、確かに
この掲示板でなくても良いという貴殿の主張も半分は正鵠を射ている。だが、
俺は可能な限り、また必要に応じて「回答」しているので、その問題も対処
していると考える。
但し、ある程度立論を講じておかないと(おいてすら貴殿のようにアサッテな
指示を質問の形でなさる方もいるようだが)俺に対して対話や質問をふっかけ
ようとする人にとってもトッカカリの無い話にもなる。それこそ「対話」のた
すら成り立たない話になるのである。

また、時間的都合もある。俺は、比較的イレギュラーで、場合によっては、
リアルで人がいない時間にアクセスする事も少なく無い。そのたびごとに100
%本気の対話をするテンションを、俺や対話者のどちらにも期待するのも之も
扱くだし、お互い負担の少なく無い話ともなる。匿名の方とそこまでツッコン
だ対話ができる前提条件も無いのに、負担だけが自他に発生すると言うのも、
これも些か珍妙な話である。

「対話」が成立する前提条件として、哲学者プラトンの解説本一冊でも読んで
来てから他者に対話を期待しなさい。ペチャクチャ話だけがしたいなら、
チャットとか、それに適したツールはいくらでも他にあるがな。「対話」を
期待したいなら、貴殿の態度はあまりにも傲慢で無礼すぎるよ。気をつけた方
が良いと思います。
793レス長たらし毘古:2010/12/29(水) 04:59:21
>>792(の続き)
ただ、架空の立論だけでこの掲示板を埋められたくないと言うのも理解はでき
る。俺もそう言うのはどうかなと思う。だが「トッカカリ」がないとそれこそ
今の史料だけで邪馬台国が見つかるかどうかも、これもまだまだ難しい話だ。
だから、架空は架空として断定はできるだけ控えているし、自説は自説として
断定はしているが、それを信じる信じないはあくまでも読み手に任せている。
「ここはどうなる?」という自他の疑問に対しては可能な限り一般知識と自説
の定規からの説明に応じている。

さて、態度立場表明ばかりしてるワケにもいかないので、ここで先述のオオヤ
マトクニアレ比売だが。なぜここで出したかと言うと大和王権にとってそれが
「比売」だからである。
卑弥呼がモモソ毘売だがその母のオオヤマトクニアレは比売なのである。ここ
が「毘売ネットワーク」を理解する上で重要なのであると俺は感じる。
大和王権目線の規定では「卑弥呼より前」の「モモソの祖先親族」は「比売」
階級なのである。ここが重要なのである。しかし「オオヤマトクニアレ」と言
う名前そのものは、むしろ「オオヤマトの始祖をも思わせる」仰々しい御名前
で、このギャップは何を意味するか。そう、モモソ血脈において、オオヤマト
クニアレとヤマトトモモソの間に、大和王権とモモソ血脈との間に大きな転換
点があった事そのものを示唆していると考えた方が自然だ。
794レス長たらし毘古:2010/12/29(水) 05:01:39
>>793(の続き)
簡単に考えれば「単に大和王権とモモソ血脈がその時結びついた」単なる婚姻
外交とも考えられる。だがしかし、そう考えてもなお矛盾は残る。なぜなら、
婚姻したのはクニアレの方だが、逆にそっちは「比売」で、婚姻を持たない
モモソの方が「毘売」なのだ。どちらも「子供は天皇になっていない」から、
その意味では、どちらも「比売」でなければおかしい。そう、古事記では、
「モモソが毘売である理由」も「クニアレが比売である理由」もどちらも説明
しきれない。
現代人にとっては「日本書紀」があるので「ああ、毘売は神との婚姻」の関係
ある「今で言う所の巫女みたいなものだな」と勝手解釈で日本書紀の誘導に
まんまとひっかかるのである。だが、古事記は「毘売」が「巫女のような物」
であることも担保はされてはいない。その理由は、ヤマトタケルの叔母のヤマ
ト比売が「毘売」ではなく「比売」である事で説明できる。つまり、「毘売」
=「巫女」と言う現代人(日本書紀以降人)が陥っている概念からも説明が
つかない。だが、古事記ではそうなっているのである。
つまり、毘売は「単なる天皇との婚姻外交(だけ)」でもないし、「単なる
当時の巫女のような者(なだけ)」でもない。なら「毘売」の有資格者となる
べき「条件」とは何か?そこが重要なのだと思う。
795レス長たらし毘古:2010/12/29(水) 06:10:56
さて、ここで再度「毘売」の具体例を古事記上の時系列順に列挙します。
● [上巻(神代)]
タキリ毘売(アマテラスとスサノウの子、オオクニヌシの妻)
サヨリ毘売(アマテラスとスサノウの子)
スセリ毘売(スサノウの娘にしてオオクニヌシの妻)
ヒナラシ毘売(オオクニヌシの子孫のミカヌシヒコ神の妻)
アキ毘売(大年神の子孫のハヤマトノ神の娘)
コノハナノサクヤ毘売(大山津見神の娘にしてニニギノ命の妻)
トヨタマ毘売(ワタ(海)ノ神の娘にしてホオリノ命(山幸彦)の妻)
タマヨリ毘売(トヨタマ毘売の妹にして、イワレビコ命(神武天皇)の母)
● [中巻(人皇)]
トミヤ毘売(神武大王の妻、神武東征先の王トミビコの妹、物部臣の祖)
カワマタ毘売(綏靖大王の妻。間の子が次の安寧大王)
ヨソタホ毘売(孝昭大王の妻、間の子が次の孝安大王)
ヤマトトモモソ毘売(孝霊大王の娘)
ハニヤス毘売(河内青玉の娘。孝元大王との間にタケハニヤスビコ命を産む)
タカチナ毘売(孝元大王の妻。山代の内臣の祖。出自は「葛城の」とある)
サホ毘売(開化天皇の娘にして垂仁天皇の妻、サホビコの乱のサホビコの妹)
(ホムツワケ命の母でもある。別名はサハヂ比売)
イクタマヨリ毘売(オオタタネコ(三輪山(大物主の山)の神主)の母)
ヌバタノイリ日売(垂仁天皇の妻にしてヒバス比売の妹)
(※ヒバス比売は垂仁天皇との間に次の天皇(景行天皇)と倭比売を産む)
アザミノイリ毘売(垂仁天皇の妻にしてヌバタイリ毘売の妹)
イワツク毘売(垂仁天皇の娘にしてヤマトタケル命の妻。仲哀天皇の母)
(※イワツク毘売は別名フタヂノイリ毘売)
ミハカシ毘売(日向出身。景行天皇の妻。間の子が豊国別王)
●[※中巻の仲哀・応神天皇以降]
→毘売:ほとんど無し。
→日売:オキナガタラシ日売以降、毘売の呼称は激減、代わりに日売と郎女
(イラツメ)の呼称は増える。比売の呼称は継続して使用されている。
796日本@名無史さん:2010/12/29(水) 06:43:13
レス長たらし毘古・・・


自己顕示欲は強いようだが、他人から認めて欲しいなら、自分も相応の努力をすべきだと思うぞ。
797日本@名無史さん:2010/12/29(水) 06:57:10
こんな長いの絶対に読まれないから
798日本@名無史さん:2010/12/29(水) 06:57:35
毘売、比売、などの区別に着目するのは良いが、
まず、発音が違うということから理解しようか。

「毘」は、甲音の「び」
「比」は、甲音の「ひ」

古代において、「ヒメ」は「ビメ」と発音されていたらしいことが伺えるが、
しかし、それだけだ。

ヒメグループ、ビメグループに、なんらかの区別をつけて考える根拠はどこにもない。
考えるべきだというなら、相応の根拠を示す必要がある。
しかし、君は、「架空」とかいって、根拠を提示する責任を逃れてる。
それが、議論の場では、対話を放棄しているということなのだよ。

ある仮説を「架空」とか定義するのは勝手だが、その仮説を土台に論を構築して、他人に公表したところで、
他人が聞いても面白くもないし、なんの知見も得られない。
君がみっともないだけだから、自分のブログで恥をさらせというわけだ。
799レス長たらし毘古:2010/12/29(水) 07:13:40
>>796
どうだろう?自己顕示欲が強ければ、それこそ提案どおりにブログの方が適し
ていると思われるが?
>>797
ま、それは読む人の方の問題だから俺からはナントモ。
>>798
ヒメとビメが、発音上、前の音を受けての濁音化と言う可能性は日本語の場合
は大いにありうる。もしそうなら、逆にその語法法則を見つける為にも毘比の
区別化はその観点からしたとしても無意味とは言えまい。
どの文字音列ならヒ(比)になり、どの文字音烈なら(毘)になるかの法則性
がある話になる。(俺個人はそっちでは無いと見ているが)
800レス長たらし毘古:2010/12/29(水) 07:22:19
>>798
>古代において、「ヒメ」は「ビメ」と発音されていたらしいことが伺える
>が、しかし、それだけだ。

例として出したのが「毘」だけだが、神代においても人皇においても、「比」
も多く出て来る。「比」の出現頻度は、古事記のどの時代においても、それ
ほど大きな偏りは無く、満遍なく出て来ている。
801日本@名無史さん:2010/12/29(水) 07:23:14
>>799

ヒメ、ビメの区別は、音韻学の問題で、歴史解釈の話ではない。

なんらかの歴史的解釈ができるとするなら、
「ビメ」グループには、畿内のモモソビメや九州のトヨタマビメもいるということから、
九州〜畿内にかけて女性を「ビメ」と呼ぶ共通言語があったということだろう。
3世紀の西日本(九州〜畿内)には、共通言語圏があったことが認められると、
そこまでだな。いえる事は。

802日本@名無史さん:2010/12/29(水) 07:38:17
毘売と描いてビメとは読まず ヒメと読む

ウィキペディアが間違ってる。

803レス長たらし毘古:2010/12/29(水) 07:45:30
>>801
その理解でのご指摘は正しい。血縁関係から、毘比の違いを更にその上に論じ
るのは、従ってそこからより形而上は俺個人の架空となる。そこが境い目で
あるので、貴殿のご理解以上の俺の構築概念は、空想架空として読んで頂いて
勿論構いません。そこから先は根拠がある話ではないので。

今日は時間が無いので、後日にしますが、俺の架空のヒントだけを残して今日
は去ります。「毘」が付く条件の大きな一つが、「神の子」でありかつ「神の
妻」でありかつ「神の母」ならどうであろうか?
この場合の「神」は、いわゆる西洋の絶対神でもなく、いわゆる、日本の近代
未前における「神」ではありますが。
実は、この条件に当てはまる女性が、上記例にて1/3、そして当てはまるに欠け
る女性が、上記例にて1/3、そして全く当てはまらない女性が1/3ほどいます。
次回はそのカテゴライズあたりからアプローチしてみたいと思います。
804日本@名無史さん:2010/12/29(水) 08:00:10
>実は、この条件に当てはまる女性が、上記例にて1/3、そして当てはまるに欠け
>る女性が、上記例にて1/3、そして全く当てはまらない女性が1/3ほどいます。

それは、関連性が無いという結果じゃないのか?
805日本@名無史さん:2010/12/29(水) 08:51:20
>>790
残念ながら>>702を読んでも、あなたの論理が理解できないのだよ。
「遂引兵渡浙江,據會稽,屠東冶,乃攻破虎等。(孫策)」について、「会稽に根拠地
を置いた孫策は厳白虎らの東冶城を落とし、会稽太守を兼務する。」という。
しかし、会稽を根拠地としたという以上、それは東冶とは別だということだ。会稽に東
冶を含むならば、自らの根拠地の内を攻撃したことになる。こんな矛盾した話はない。
806日本@名無史さん:2010/12/29(水) 09:06:44
>>805
用例を解析し検討する必要なんてないよ。>>790が、「会稽の」と、助詞を入れなければならない理由を説明すれば済むことなんだ。会稽のと冠を付けなければ東冶を説明出来ない環境とはなんなんだと。
807日本@名無史さん:2010/12/29(水) 09:08:07
「江戸に攻め上り江戸城を落とした」

…で矛盾はないと思うが
808日本@名無史さん:2010/12/29(水) 09:20:15
>>807
何が言いたいんだ?
809日本@名無史さん:2010/12/29(水) 10:19:37
>>782
ヤフー知恵袋覗いてみたけど、どこみたら河童のポイントがどうたらを見れるのかわからんかった。
810日本@名無史さん:2010/12/29(水) 11:25:05
稽(かいけい)
>>805の続き
会稽は紹興市の古名、東冶は福州市の古名と言われるのは知ってるだろうな。
つまり、会稽という言葉は、会稽郡を表すときもあれば、今の紹興市付近を表す
地名として使用される場合もあるということだ。東冶も東冶県を表す場合もある
が、福州市付近を表す地名として使用される場合もある。「據會稽,屠東冶」は
紹興を根拠として福州を攻略したということで、この場合の会稽はけして会稽郡
全体を言っているわけではない。
つまり、倭人伝の会稽東冶も、会稽を会稽郡と解釈する必然性はない。
そして、倭人伝が書かれた時代には、東冶は会稽郡に属していないとなれば、陳
寿が会稽郡の東冶などと書くことは考えられない、会稽東冶は紹興と福州という意
味に理解すべきことになる。
811日本@名無史さん:2010/12/29(水) 11:45:40
>>809
河童さんは「nebbia_18」というIDで投稿しています。
「nebbia_18」でググれば検索できるので、出てきた画面のID部分を
クリックすれば河童さんの過去の投稿が見られます。
812日本@名無史さん:2010/12/29(水) 12:07:15
>>811
わざわざありがとう。
いまぐぐってみたら、1739件ってw
813縦目仮面:2010/12/29(水) 12:10:57
河童さんすごいな。これ向いてんでしょうね。
814ローガン:2010/12/29(水) 15:43:51
>>805
>残念ながら>>702を読んでも、あなたの論理が理解できないのだよ。

それは残念。

>しかし、会稽を根拠地としたという以上、それは東冶とは別だということだ。会稽に東
> 冶を含むならば、自らの根拠地の内を攻撃したことになる。こんな矛盾した話はない。

ひょっとして、三国志を読んで無いでしょ?何故、会稽を根拠地としてから東冶を攻めたか 知らないの?
まあ、読んでなければ、理解出来ないのは仕方ないけど…違ったらごめんなさいね。
じゃあこれは?
「賀齊字公苗、會稽山陰人也。」 賀斉は会稽から山陰までの人?(笑)
815日本@名無史さん:2010/12/29(水) 16:20:25
>>814
「之」がありませんね。

816うましか:2010/12/29(水) 16:28:03
>>810

横から失礼します。

> つまり、倭人伝の会稽東冶も、会稽を会稽郡と解釈する必然性はない。
> そして、倭人伝が書かれた時代には、東冶は会稽郡に属していないとなれば、陳
> 寿が会稽郡の東冶などと書くことは考えられない、会稽東冶は紹興と福州という意
> 味に理解すべきことになる。

貴方がおっしゃるとおり、「会稽」も「東冶」も時代によって変遷のある地名ですし、
行政区画の表記としても汎用的な地域名としても使われ得るところだと思います。

同じ三国志に次のような使われかたもしております。

『會稽東冶五縣賊呂合秦狼等為亂、權以岱為督軍校尉與將軍?欽等將兵討之』(呉書巻15呂岱伝)

この例は建安年間の出来事についてですが、地名表記法が陳寿の編纂時(晋代)のものだけでは無いことが判ります。
倭人伝の「会稽東冶の東」と言う文字列が何時出来たか(私は朝獻を取継いだ帯方郡の報告と思います)は不明ですが、
永安以前の報告に基づくものであれば、「會稽の東冶」と言う解釈は、自然なことだと考えます。
817からしれんこん:2010/12/29(水) 16:38:25
考古学的には畿内説で決まりだ!などと言う人は脳の回路がショートしているのでしょうね。奈良の弥生遺跡からの出土物は縄文時代の
ものかと思わせるものが多いですね。道具類では石器や木器がほとんどですね。王墓とみられるような墳墓もありませんね。九州と比べ
たら遥かに遅れた後進地域だったことがわかります。こんなところに邪馬台国があったとは思えませんね。

前方後円墳の存在をもって卑弥呼の時代は古墳時代の開始期だと言う人がいますが、論理回路が壊れているのでしょうね。
箸中山古墳やホケノ山古墳の築造時期を3世紀前半とする考えには科学的な証拠がありません。卑弥呼の邪馬台国時代に前方後円墳が
築造されたとは言えないのです。卑弥呼の時代と古墳時代を結びつける根拠はないのです。

遺跡や出土物のような考古学資料は貴重な知見を与えてくれますが、絶対年代の確定は極めて難しいものです。同じ場所の土中であれば
下の地層にあるほど古いという相対年代は分かりますが、絶対年代の判定は簡単ではありません。弥生時代および古墳時代のものとされ
る遺跡や出土物の絶対年代については再検討が必要で、現在の諸説は恐らく後世には改められるものが多いでしょう。
818日本@名無史さん:2010/12/29(水) 16:43:06
>>817
会稽東冶の話をしてるのに、流れをぶった切るんじゃない。
加われないなら引っ込んでろ、ゴミクズ。
819日本@名無史さん:2010/12/29(水) 17:03:08
>>818
>会稽東冶の話をしてるのに、流れをぶった切るんじゃない。

ぶった切ってはいないと思う。
ここは誰でも自由な書き込みができる掲示板だ

>加われないなら引っ込んでろ、ゴミクズ。

オマエがな
820日本@名無史さん:2010/12/29(水) 17:04:11
>>817
ドン来いでやれww
821日本@名無史さん:2010/12/29(水) 17:23:14
縄文人は漢文が読めないし、三国志も読んでないからここの話には加われないだろう。
822日本@名無史さん:2010/12/29(水) 17:29:05
>>820
ドン来い立ってないんじゃない?
だれか立てたらどう?
823日本@名無史さん:2010/12/29(水) 17:55:59
>>816
>地名表記法が陳寿の編纂時(晋代)のものだけでは無いことが判ります。
どこが晋代のものではないのかな?
824唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/29(水) 18:09:00
>>817
>箸中山古墳やホケノ山古墳の築造時期を3世紀前半とする考えには科学的な証拠がありません。

崇神5年 民の疫病、死は,翌年の民の離散、で凶作、餓死そして逃散とすれば、
新羅本紀の192,3年の記事と整合性を得られる。
後漢書は、193年6月 寒風冬の如しと表記する。
弥生後期後半、各地の居住地が放棄される。
崇神10年 異俗多帰は、2世紀末纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれる。
崇神時代に任那建国。新羅本紀209年伽耶に援軍
伽耶は541年に新羅へ身を寄せる、この時建国330年と言っている。
垂仁(217〜239年)元年頃任那より朝貢。
239年 ホケノ山古墳、田道間守の殉葬。
箸中山古墳は、景行の墳墓であり、考古学は最初の大王と表記する。

これをひっくり返す科学的な証拠がありません。
825日本@名無史さん:2010/12/29(水) 18:14:54
>>814
横から失礼

>何故、会稽を根拠地としてから東冶を攻めたか 知らないの?

それがどのように貴説の根拠になるんだろう。
ひとつ解説をお願いします。
826とんこつらーめん:2010/12/29(水) 18:18:54
>>818
君は物事の道理に疎いようだな。会稽東冶の話などは枝葉末節ではないか。倭人伝の中にある記事だと言っても本筋のものでは
ないだろが。くだらんことを言うな!!
827日本@名無史さん:2010/12/29(水) 18:32:13
>>826
そうではなく、きちんと文献を読んだ人間同士で議論が白熱している場に、突然何の関わりもない
話題を長文で投下する、そちらの身勝手さ、幼稚さ、自己中心さに対して注意を促しているのだ。

「枝葉末節」などという古葉を用いること自体、さも自分が本筋であるかのような勘違いが見受けられ
る。2chといえど、ここは多くのものが利用する掲示板である。恥を知るべきであり、猛省を促したい。
828日本@名無史さん:2010/12/29(水) 18:46:43
2chの妖精A (きゃははは、縄文人怒ってるよ!きゃはは、怒りで口もきけないくらい怒ってるよ。)
2chの妖精B (きゃははは、単純だからね、怒らせるのは簡単なんだって、あれほど心を読むのが
          簡単な生き物はないって。)
829ローガン:2010/12/29(水) 19:00:38
>>825
>>何故、会稽を根拠地としてから東冶を攻めたか 知らないの?
> それがどのように貴説の根拠になるんだろう。

あはは。それはね>>805
>しかし、会稽を根拠地としたという以上、それは東冶とは別だということだ。会稽に東冶を含むならば、自らの根拠地の内を攻撃したことになる。こんな矛盾した話はない。
という書き込みが、あまりにもおかしいので、尋ねてみたんですよ。 勿論「何故、会稽を根拠地としてから東冶を攻めたか 」その理由は、三国志に書いてある。
「何故、会稽を根拠地としてから東冶を攻めたか 知らないの? 」が、私の主張の根拠と直接の関係がある訳では無いのですよ。
830馬刺:2010/12/29(水) 19:08:15
>>827
きちんと文献を読んだ人間同士で議論が白熱している と言っても枝葉末節の議論ではないか。会稽東冶の東などという
大雑把な表現から倭国の位置が確定できる筈もなかろう。くだらん。

>>828
私は縄文人ではない。私は釈迦の生まれ変わりであるから怒るなどという俗人の感情は持たないのである。

831日本@名無史さん:2010/12/29(水) 19:12:58
>>827

>2chといえど、ここは多くのものが利用する掲示板である。恥を知るべきであり、猛省を促したい

掲示板に投稿して恥を知るって、どんだけ掲示板に依存してんだよ
832日本@名無史さん:2010/12/29(水) 19:15:18
河童さんのハイペースにワロタwww
833日本@名無史さん:2010/12/29(水) 20:49:40
奈良とは古代朝鮮語で国のことだ。
しかし、当時の国とは集落のと同じであり、邑や群を大きくした程度のものだ。
奈良と対をなす言葉に室がある。
室、牟婁は神の依代。御諸山も起源は同じだ。
奈良盆地以外にも、奈良と室(むろ、もろ)の両方が隣り合わせになった地名の残る地域が幾つかある。
例えば、唐国からの渡来人が多く移住したと言われる北関東。
栃木県鹿沼市には、下奈良部、上奈良部の地名が並ぶ。

御諸山(三輪山)の大物主も、唐国からの渡来人だったのだろうか?
834:2010/12/29(水) 20:56:21
ドンコイが立った?

そんなの関係ねぇ♪ ヾ(≧ー≦)ゞ そんなの関係ねぇ♪ ヾ(≧ー≦)ゞ

ほら、河童くん、隠れてないで出てこいよ。
な〜にメソメソしてんダッつーのぉ!
みんなについて行けないだって?
おれだって、ここんとこ仕事忙しくって全然ついていけねえっつーのwww
835日本@名無史さん:2010/12/29(水) 21:14:23
>>829
正にどうでもいい質問だね。いつまでたってもあなたは何を言われているのか
理解できていないようだ。それでは会稽東冶をまともに読めるはずはない。
836:2010/12/29(水) 21:19:26
>>781
>政治の力で物欲の流れを止めることが出来ないのは、現在の麻薬密売で充分証明されていますよ
>それに、壱岐や対馬や唐津といった玄関口を押さえるのは
>消費者ではなく、貿易商やバイヤー・ブローカーで充分です。消費者がそこに絡む必要はありません。

意味不明です。
「鉄」というのは、ダイヤモンドというか、当時は貴重なモノだった。
朝鮮半島で出土する貴重な「鉄」を、周辺諸国で争うようにとり採り争うのです。
上でレスしたでしょう。
貿易商やバイヤー・ブローカーって笑えたw そんな生易しいモノではないですよ。
もちろん見返りのモノはあるでしょうが、この見返りの品物が「塩」でどうの〜って
どこかの本でみたな・・・・。

>流通経路が九州から畿内に流れているのは、最終消費地が畿内と言うだけの事
>バイヤーは金になれば消費者に届けますよ そこには巨大国家組織なんて必要ありません。

あのね、最終消費地とか、あんたおめでたいやっちゃなw
貴重な「鉄」を、争うようにとり採り争うのですよ。

>もし、どうしても巨大国家を必要とするのであれば、その巨大国家と物流経済の関係を
>ここに書いて説明してみてください。

これも倭人伝に書いてあることなんですが・・・・
「伊都」で一旦その品々を止めて、調べる機関があり
そこを通った品をヤマトである近畿まで運ぶシステムとなってるんです。
又、伊都は一大率を設けてますので、巨大な国家ではなく、軟弱な国家とは言えませんよね?
ていうか、私の話に着いていけるかな?
837唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/29(水) 21:40:19
>伊都は一大率を設けてますので、巨大な国家ではなく、軟弱な国家とは言えませんよね?

だから〜、倭人伝は時空を追って書かれていない。
伊都国に1大率を置くのは、壹與の時代であり、大倭が伊都国に1大率を置いたの。
これだけの力が、奴国にあれば、乱は起きない。
そして、大和が任那建国(209年)以後の出来事である。

つまり、倭人伝とは、東夷の1国を統一して冊封国とした出来事を書いたもの。
だからその最後が266年の朝貢であり、その後は東夷の1国であり倭国としては登場しない。
838:2010/12/29(水) 21:57:07
>>817 からしれんこんさん
>奈良の弥生遺跡からの出土物は縄文時代のものかと思わせるものが多いですね。
>道具類では石器や木器がほとんどですね。王墓とみられるような墳墓もありませんね。九州と比べ
>たら遥かに遅れた後進地域だったことがわかります。こんなところに邪馬台国があったとは思えませんね。

えーとですね、「鉄」にしても「貝製の飾りモノ」にしても「剣」にしても
先進国に必需品っていうんですか、これら高貴なモノは、
「朝鮮半島」や「琉球諸島」を経て、まずは九州に入る。
この九州の北部にヤマトの行政機関があり、ここから近畿へは相当遠い。
この地理的不利を考えてモノを観ていかないといけない。
ということで、一概に近畿から出土されるモノは、九州では鉄等が出土されてる同じ時期に
石器や木器が多いからといって後進国と決定することは出来ない。

>前方後円墳の存在をもって卑弥呼の時代は古墳時代の開始期だと言う人がいますが、論理回路が壊れているのでしょうね。

近畿で、いままでの弥生古墳から一気に巨大な前方後円墳が築かれるんですよ。
基本的に、各時代の区切りは、土器を使用した生活文化によってなんですが、
土器だと各地方でバラつきがある。古墳時代の開始期をこの近畿で始まる巨大な前方後円墳の開始という、分かりやすい区切りにしたダケ。
839:2010/12/29(水) 21:58:08
>>817 からしれんこんさん
>箸中山古墳やホケノ山古墳の築造時期を3世紀前半とする考えには科学的な証拠がありません。

「年輪年代・C14法という科学的な証拠が出てるではないか。

>卑弥呼の邪馬台国時代に前方後円墳が築造されたとは言えないのです。卑弥呼の時代と古墳時代を結びつける根拠はないのです。

卑弥呼の墓は超が付くほど巨大で、近畿で巨大な古墳がありますね。

>遺跡や出土物のような考古学資料は貴重な知見を与えてくれますが、絶対年代の確定は極めて難しいものです。同じ場所の土中であれば
>下の地層にあるほど古いという相対年代は分かりますが、絶対年代の判定は簡単ではありません。弥生時代および古墳時代のものとされ
>る遺跡や出土物の絶対年代については再検討が必要で、現在の諸説は恐らく後世には改められるものが多いでしょう。

いままで、その「絶対年代」というのが無かったんですが、
これを新しく作ろうという事で年輪年代法というのが出来、この年輪年代法の再検討が必要ということですか?それは何故?
840日本@名無史さん:2010/12/29(水) 22:00:15
結局のところ「会稽と東冶」厨はヘタれだったな。
ちゃんと用例を出して議論をするのかと思ったが、切羽詰まったようなはぐらかししか出来ないようだ。
もともと、漢文的にはどちらとも読める事例なんだから逃げる必要もないのになw
841:2010/12/29(水) 22:11:25
>>837
>だから〜、倭人伝は時空を追って書かれていない。
>伊都国に1大率を置くのは、壹與の時代であり、大倭が伊都国に1大率を置いたの。
>これだけの力が、奴国にあれば、乱は起きない。

倭人伝は当時の「倭」についてかいてます。
遣使が倭に訪れた時代は卑弥呼の時代であり、壹與の時代ではない。
したがって、唐さんの考えは間違っておる。

>そして、大和が任那建国(209年)以後の出来事である。
>つまり、倭人伝とは、東夷の1国を統一して冊封国とした出来事を書いたもの。
>だからその最後が266年の朝貢であり、その後は東夷の1国であり倭国としては登場しない。

ん?その意味は?説明よろしくです。
842唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/29(水) 22:28:21
>そして、大和が任那建国(209年)以後の出来事である。
任那建国は、崇神時代です。
崇神時代を説明出来る出来事は
崇神5,6年=新羅192,3年
民の離散=弥生末各地の遺跡が放棄される(唐古、鍵遺跡も含む)
崇神10年 異俗多帰=2世紀末纒向遺跡に各地の土器

これだけ揃えば、任那建国もこの後に続く。
新羅本紀 209年 伽耶に援軍。
541年 伽耶が新羅に降る。
 洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉三月日 有制曰 朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之降于當國也
所率來子世宗之子・率友公之子・
 自居登王即位己卯年置便房 降及仇衝朝 來三百三十載之中 享廟禮曲 永無違者 其乃仇衝失
位去國

伽耶建国から330年で新羅に降る、それが541年であるから、建国は210年頃になる。
伽耶建国は任那建国であり、垂仁時代から剣を作成貯め込む。
240年頃 ホケノ山古墳 大量の鉄器が副葬される。
つまり、大和に鉄が流入して 古墳時代が始まる。
最初の石塚古墳あたりでは、鉄を副葬するほど余裕が無い。

ここまでが理解出来なければ、この後の説明も無駄になる。
843太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/29(水) 22:33:36
>>824
全然整合性が無〜い。

192,3年≠崇神5,6年

右辺の年代には船舶が無い。千人という多勢の農民がカラ手でやせ細って
渡海など出来っこな〜い。それは1〜3人程度の渡海なら可能性が厳しい
までもあるわけで、現今の脱北の如く、この場合は日本海の荒波を命がけ
で渡るのだ。船舶が製造されたのは右辺の年代の10年余後であり、この
ことは右辺の年代に船舶のアリバイがない。10余年後とは崇神17年である。

1〜3人と違って、千人ということは、桁が3個も違うんだぞ。到底整合
なんかしていな〜い。つまり論はインチキ、出鱈目である。
844日本@名無史さん:2010/12/29(水) 22:35:03
やっぱり畿内説が優勢なんだな。
安心した。

845レス長たらし毘古:2010/12/29(水) 22:35:15
さて、ここで予告どおり「毘売」の種類を分類した物を古事記上の時系列順に
列挙します。(まず神代から)

A類 [父が大王か或は神で、かつ大王の妃で、かつ大王の母親となった人]

・タキリ毘売(天照とスサノウの子。大国主の妃。カモノオオミ神を産む)
・スセリ毘売(スサノウの子。大国主の妃キノマタノ神を産む)
・ヒナラシ毘売(オカミノ神の子。大国の子孫のミカヌシヒコノ神の妃。
タヒリキシマルミノ神を産む)
・コノハナノサクヤ毘売(大山津見神の子。ニニギノ命の妃。ホオリノ命を産
む)※ホオリノ命とは、いわゆる山幸であり、神武大王の男系の祖父。
・トヨタマ毘売(ワタ(海)ノ神の子。ホオリノ命(山幸彦)の妃。ウガヤ
フキアエズノ命の母)※ウガヤフキアエズノ命とは、神武大王の父。
・タマヨリ毘売(ワタ(海)ノ神の子。トヨタマ毘売の妹。ウガヤフキアエズ
ノ命の妃。神武大王の母)

B類 [上記三条件のうち、一つが欠けている人]

※神代には皆無

C類 [上記三条件のうち、二つが欠けている人]

・サヨリ毘売(天照とスサノウの子)
・アキ毘売(大国の子孫のハヤマトノ神の子)

D類 [上記三条件のうち、三つとも欠けている人]

※神代には皆無
846:2010/12/29(水) 22:36:06
う〜ん 唐さんの書き込みは、
その主張がどういう経緯でそうなるのか理解しずらい所があるので
あとは、太国のおっさんに任せようかなww
847太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/29(水) 22:44:50
>>846
奴は餌をつけない釣り同然。それで半島のあっち行きこっち行きで大魚を
釣れるとか釣れないとか深い浅い流れが急だ緩だとかの話ばかりして
いて、餌は全然ついて無い(具体的説明しない)んだよ。ww
848:2010/12/29(水) 22:48:38
>>847
そか じゃ後は、おっさんにバトンタッチw
だって〜唐さんの説明は分かりずらいんだもん><
849太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/29(水) 23:02:52
>>848
要するに、唐松山という野郎は、先に結論だけドーンと出すわけで、それ
がどうしてそうなるのかという論述は今の今までしたことがなく、ド〜ン
と出した後は各部分部分の抽象的書きこみにて論に都合の悪いものが外廓
にあると論のようでそうではない何かを糊塗してこれは駄目、都合のいい
のが外廓にあればネヅミ捕りの餌に飛びつくネヅ公のように喰らいつき、
ここで脳内で都合のいい悪いを論でないもので理由付けして取捨し、一見
解説してるようで、根源は全然説明をせず、スレ民らを騙すのだ。

で、こういう奴は古代から時代が降下する途中で大なり小なりイカサマを
曲げない極めて堅い固い妄想論野郎が続出することはもう避けられず、これ
への防壁がもっと堅牢、金城鉄壁たる〜古代からの真の年代を教えてくれ
る計測機器たる天津神算木なのである。これがある限り、完全に未来永劫
こやつのようなインチキ編年家から真の年代を護れるのであるのだ。
850唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/29(水) 23:07:02
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王←タリヒコ =景行
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向

田道間守の登場は垂仁の崩御と重なるから、239年の朝貢である。
晋書 帝紀第一
正始元年春正月,東倭重譯納貢,東倭とは、西の奴国に対する大和である。
正始4年にも朝貢する。何故頻繁に洛陽を訪れたか?
倭王(景行)の派遣した人物は伊聲耆掖邪狗である。
この記事から伺えることは、魏は、景行に対し倭国統一を持ちかける。その為には
戦の仕方から、治世方法(屯倉)までを伝授する。
魏の屯倉手法とは、領地の領有を認める代わりに、軍隊を出す義務が生じる。
これらが揃うのが247年頃であり、奴国と共同で九州平定に入る。
それを魏は支持し、黄旛を賜う。この最中に女王、男王が相次ぎ死亡するを受けて
五百野姫を軍隊付きで筑紫に派遣する。
景行は、九州ばかりでなく、関東、東北も治めるべく日本武尊を派遣する。
ここで一応倭国統一は成り、大倭の称号が付けられる。

大倭は、伊都国に一大率を置き諸国を検察する。
成務は屯倉を各地に置く。
266年朝貢
274年 神功渡海は、晋の要請による軍隊派遣であるから、仲哀の死亡に優先する。
851日本@名無史さん:2010/12/29(水) 23:08:51
>>836
坊やには、小学生でもわかる経済の仕組みでも難しかったかな。
秒殺される前に良い子だからお下がり。
852太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/29(水) 23:11:29
大王の臣下 伊支馬≠臣下より偉い 大王(天皇)イクメイリヒコ(垂仁)
853日本@名無史さん:2010/12/29(水) 23:13:41
>>840
>漢文的にはどちらとも読める事例なんだから
それが分かっているならいいんだよ。理由もなく「会稽の東冶だ」と主張する連中に
ちがうと言ったまでのことだ。


854日本@名無史さん:2010/12/29(水) 23:17:51
大国が儲かるところを放っておく必然性こそ無いけどな
855太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/29(水) 23:19:37
天津金木は金の成る木ではないよ。
856日本@名無史さん:2010/12/29(水) 23:24:18
太国はそんなに儲かってるのか?ちょっと羨ましい。
857レス長たらし毘古:2010/12/29(水) 23:31:10
さて、次に「毘売」の種類を分類した物を古事記上の時系列順に列挙します。
(今度は人皇から)

A類 [父が大王か或は神で、かつ大王の妃で、かつ大王の母親となった人]

※人皇には皆無

B類 [上記三条件のうち、一つが欠けている人]

・カワマタ毘売(綏靖大王の妃。安寧大王の母)
・ヨソタホ毘売(孝昭大王の妃、孝安大王の母)
・サホ毘売(開化天皇の子。垂仁天皇の妃)
・イワツク毘売(垂仁天皇の子。仲哀天皇の母)
※ヤマトタケルの妃でもある。

C類 [上記三条件のうち、二つが欠けている人]

・トミヤ毘売(神武大王の妃)
※神武東征先の王トミビコの妹。神武との子がウマシマヂノ命(是は物部祖)
・ヤマトトモモソ毘売(孝霊大王の子)
・ハニヤス毘売(孝元大王の妃)
※河内青玉の娘で孝元大王との間にタケハニヤスビコ命を産む。
・タカチナ毘売(孝元大王の妃)
※山代の内臣の祖で出自は「葛城の」とある。
・イクタマヨリ毘売(大物主神の妃)
※その子オオタタネコ(三輪神主)を神と分類する場合は、B類になる。
・アザミノイリ毘売(垂仁天皇の妃)
・ミハカシ毘売(景行天皇の妃)

D類 [上記三条件のうち、三つとも欠けている人]

※人皇には皆無
858唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/29(水) 23:35:37
274年 神功渡海以後3世紀中は東夷の1国として頻繁に朝貢、洛陽を訪れる。
倭は最初に冊封国として軍隊を組織した国であるから、東夷軍の頭として存在する。
308年から石碌の乱 倭は持ち出しの時代であり、軍隊として活躍した時代である。
316年 晋が滅ぶと 317年任務を離れる。
318年 高句麗は遼東を襲うも慕容氏に駆逐される。
323年 空白域となった半島に軍隊を送り込み占拠、百済立国。大量の渡来人。
331年 辛卯年 広開土王碑
342年 高句麗、百済等は前燕に属す。この方面は一応平静を保つ。
350年 応神7年 高句麗等が、倭国を訪れる。
370年 前燕滅亡
372年 百済が東晋に朝貢 東晋から使者が訪れる、楽浪太守
370年 仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月◆冬十月。呉國。高麗國並朝貢。
この記事に日々の干支が記載されていないから、372年の出来事と思われる。
859:2010/12/29(水) 23:36:23
>>851
誰が誰を秒殺するって?w
その「鉄」がどうかしたのかね?
860太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/29(水) 23:37:31
>>850
景行は九州平定をしていな〜い。景行が九州行幸したのは熊襲の関係
もあるのだろうが、視察のためのものであり、途中逆賊等いてスッタ
モンダの末やっつけたことは確かだが、これ位で九州平定をしたこと
には全然ならない。

九州にはまだまだ九州王朝、王権が存続しており、これを景行が平定
などしていな〜い。九州行幸で付き人らはかなり疲弊してるはずで
あり、これだけでも朝廷の連中はまいっていただろう。
861ローガン:2010/12/29(水) 23:39:30
>>835
あ〜卓袱台ひっくり返しちゃった。

> 正にどうでもいい質問だね。

という訳でもなかったんだけど… 答え辛い質問して悪かった。
862太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/29(水) 23:51:53
天津神算木(天津金木)とは金の成る木のことではなく、三輪山の山名の
半径r=3の円(三輪)の球化の 体積=表面積 の数式のことである。
天津神算木 (**はべき)

 4πr**3/3=113.09733552923・・・

大祓祝詞に曰く 「大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて」

 3≠113.097335

右辺には見かけの年代

 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位
 1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位

があり、崇神〜仁徳の年代間が第一次的三輪王朝の時代である。ここで
右辺数列を3倍年暦に因み三分すれば 113 097 335 となる。このとき

113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年数 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し、除去)
335←崇神即位の真の年代へと誘導するジョーカー数

 -97+335=238年 だが、西暦0年を除くため1年分マイナスとなる。故に

 238−1=237年=崇神即位元年(真の年代)=景初元年

を得る。
863レス長たらし毘古:2010/12/29(水) 23:54:40
そして、この人皇の毘カテゴリーに、ある架空を加えて「※印」のように、
拡大解釈可能要素を加味し、毘売の条件が「仮に一つ加算されるなら?」C類
は以下のように再分類できる

C’類 [上記三条件のうち、二つが欠けている人]

・トミヤ毘売(神武大王の妃)
※ウマシマヂノ命(物部祖)を仮に神と規定する場合は、B類になる。
・ヤマトトモモソ毘売(孝霊大王の子)
・ハニヤス毘売(孝元大王の妃)
※タケハニヤスビコ命を仮に神と規定する場合は、B類になる。
・タカチナ毘売(孝元大王の妃)
※葛城出自を仮に神と規定する場合は、B類になる。
・イクタマヨリ毘売(大物主神の妃)
※その子オオタタネコ(三輪神主)を神と規定する場合は、B類になる。
・アザミノイリ毘売(垂仁天皇の妃)
・ミハカシ毘売(景行天皇の妃)
※豊国王の母親でもあるので豊国王を仮に神と規定する場合は、B類になる。

この、ある架空とは、それこそ失われた「物部・葛城・蘇我・ワニ」諸氏の
氏族神話の可能性である。
つまり、記紀編集時代までに「没落した氏族」の関係血脈を、全て「減じた」
場合C類が増えたとする架空も筋としては成り立つ。不自然な「削除」を
行なったために、本来A類・B類であった毘売が、C類になっている可能性
は皆無では無いだろうと推測する事も可能ではある。
864唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/30(木) 00:04:32
>景行は九州平定をしていな〜い。

いくら主張しても鉄を持たない九州王朝は、前方後円墳を大和により
各地に造られ、仲哀に樫日の宮を勝手に使われ、渡海を許す。ってかあ。
865日本@名無史さん:2010/12/30(木) 00:09:13
>>853
>>840
> >漢文的にはどちらとも読める事例なんだから
> それが分かっているならいいんだよ。理由もなく「会稽の東冶だ」と主張する連中に
> ちがうと言ったまでのことだ。

「理由」は、いろいろ つけられるだろう。
例えば「会稽と東冶」じゃ「関東地方と山梨県」みたいなバランスの悪い表現になる。
それにキミが出した

 「倭人伝が書かれた時代には、東冶は会稽郡に属していないとなれば、
              陳 寿が会稽郡の東冶などと書くことは考えられない」

 と言う理屈は成立しないことが明らかなようにキミの言い分にも理由は無いよ。
866レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 00:21:04
さて、上記架空フィルターを通した後に、C類に残る、人皇の毘売は誰か?
抽出すると、以下のようになる。

C”[上記三条件のうち二つが欠け、かつ拡大解釈でもB類にできない人]

・ヤマトトモモソ毘売(孝霊大王の子)
・アザミノイリ毘売(垂仁天皇の妃)

この二人だけがC類に残るのである。この二人が、「比・毘・日」の類別法則
を解く鍵となるのである。ちなみに、ヤマトトモモソは孝元〜開化時代の人で
あり、アザミノイリは垂仁時代の人と、古事記には記載されている。奇しくも
二人共、争点とすべき時期にとても近い人物でもある。

アザミノイリ毘売とは古事記上どう言う血縁環境の人物かを、以下に説明。

タニハノヒコタタスミチノウシノ王(日本書紀で四道将軍の一人:丹波方面)
には三人の娘がいる。ヒバス比売・ヌバタノイリ毘売・アザミノイリ毘売の
美人三姉妹である。何故美人かと言うと、これら三姉妹は三人とも、垂仁大王
と結婚し、それぞれ数人の子をもうけている。(ヒバス比売に至っては、次の
大王である、景行大王を産んでいる)
この美人三姉妹は「毘・日・比」を語る上で、とても貴重なサンプルなのだ。
なぜなら、先述のとおりヒバス比売と垂仁大王との間の子の一人が景行大王
なのにかかわらず、彼女は「比売」で、妹二人が両方とも「毘売」なのだ。
それだけではない。もっと重要なのは、次女のヌバタノイリ毘売である。

この人の表記だけ、古事記では最も珍しい表記なのだ。つまり、この人だけ、
「沼羽田入毘売」と書かれた直後に「沼羽田入日売」とも表記されている。
つまり、。この人だけ、古事記上唯一、毘売でありかつ日売でもあるのだ。
(長女ヒバス比売はその名前だけで別名なし。三女アザミノイリ毘売もその
名前だけで別名なし)
リアルタイムで、「毘」が「日」に変る瞬間を垣間見る心境である。
867太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/30(木) 00:25:08
>>864
意味不明???

zzzz・・・・・
868日本@名無史さん:2010/12/30(木) 00:32:06
>「会稽と東冶」じゃ「関東地方と山梨県」みたいなバランスの悪い表現になる。
会稽ときくと会稽郡しか浮かばないみたいだな。今の地名に言い換えれば、紹興
と福州だ。何も問題はないさ。

>「倭人伝が書かれた時代には、東冶は会稽郡に属していないとなれば、
>陳 寿が会稽郡の東冶などと書くことは考えられない」と言う理屈は成立しない
この理屈が分からんとは驚いたな。
869唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/30(木) 00:33:11
まあ海外の史書と全く整合性が得られない事を自慢する太国じゃあ
渡海を説明出来ないのも当然である。
神功の迎えに、旗ふって恭順した伊都の御仁も説明出来ないだろう。
870レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 00:38:42
この美人三姉妹を、時間を追って考えると更に筋としてはわかりやすくなる。

@長女はなぜ「比売」なのか? → 当時はまだ、先の毘売がご健在だった。
A次女はなぜ「毘売」でかつ「日売」なのか? → 毘売になりその後没す。
B三女もなぜ「毘売」なのか? → 次女が先に無くなり有資格なので毘売。

このような順序と考えると、さて、三女が毘売となった時、没したとは言え
次女はどうなるか?この方法論だけが、当時はまだ確定していなかったので
ある。しかも、それ前後「毘売」のインフレ乱立時代も到来してきている
ので、これはかなり当時政権としても頭を痛めた問題ではあろう。

そこで、次女を、後代「日売でもある」としたのである。そう考えると、この
美人三姉妹のお名前の経緯は、架空の筋としては一つ、成り立つ。
そして、それと同時に、「毘売の有資格条件」が、上記の「神との血縁関係」
以外にも、あと一つある事も浮き上がって来るのである。

それは「大王を権威付ける(権威を保障する)存在でもある」と言う要素で
ある。垂仁大王が、大王でいられるために、次女毘売が死んだ後も、三女を
毘売にし、再度娶る必要があったと仮定すると、筋としては全てがつながって
来るような気がする。
871日本@名無史さん:2010/12/30(木) 01:13:37
>>743さんが引いた文の前後だけど、ちょっと面白い。

呉人嚴白虎等衆各萬餘人,處處屯聚。呉景等欲先撃破虎等,乃至 會稽 。
策曰:「虎等羣盜,非有大志,此成禽耳。」遂引兵渡浙江,據 會稽 ,屠東冶,乃攻破虎等。

呉景らが厳白虎らを撃破しようと会稽に至った。
そして孫策が遂に浙江を渡って会稽に據り東冶を屠る。
最初の会稽は郡で、孫策が拠ったのは都市の会稽と考えるべきだろう。
872:2010/12/30(木) 01:15:19
>>861 ローガンさん

その道里を計るに、当に會稽の東冶の東にあるべし

@その道里を計る、計った道里の基準点(出発点)はどこですか?
A貴方の「會稽」とはどこですか?
B貴方の「東冶」とはどこですか?
C貴方の「會稽の東冶」とはどこですか?

以上の@〜Cを答えて下さい。 宜しくお願いします。
873:2010/12/30(木) 01:18:06
>>816 うましかさん

うましかさんにもローガン氏と同じ質問をしてみましょう(笑)

その道里を計るに、当に會稽の東冶の東にあるべし

@その道里を計る、計った道里の基準点(出発点)はどこですか?
A貴方の「會稽」とはどこですか?
B貴方の「東冶」とはどこですか?
C貴方の「會稽の東冶」とはどこですか?

以上の@〜Cを答えて下さい。 宜しくお願いします(笑)
874日本@名無史さん:2010/12/30(木) 01:24:50
会稽東冶についての確認

「三国志」に出てくる“会稽東冶”は3ヵ所

計其道里,當在會稽東冶之東。(倭人伝)
會稽東冶五縣賊呂合、秦狼等為亂,權以岱為督軍校尉,與將軍蔣欽等將兵討之,遂擒合、狼,五縣平定,拜昭信中郎將。(呂岱)
(嘉禾)四年(235),廬陵賊李桓、路合、會稽東冶賊隨春、南海賊羅雌刪齊桾タ起。(呂岱)

建安郡が置かれたのは永安3年(260)

三年春三月,西陵言赤烏見。秋,用都尉嚴密議,作浦裡塘。會稽郡謠言王亮當還為天子,而亮宮人告亮使巫禱祠,有惡言。
有司以聞,黜為候官侯,遣之國。道自殺,衛送者伏罪。以會稽南部為建安郡,分宜都置建平郡。(孫休)

<参考>
建安郡故秦閩中郡,漢高帝五年以立閩越王。及武帝滅之,徙其人,名為東冶,又更名東城。後漢改為候官都尉,
及吳置建安郡。統縣七,戶四千三百。(晋書地理志)

さて、会稽東冶五県の賊呂合・秦狼等、 会稽東冶の賊隨春、がどこで乱を起こしていたのか?
875日本@名無史さん:2010/12/30(木) 01:31:15
>>868
> >「会稽と東冶」じゃ「関東地方と山梨県」みたいなバランスの悪い表現になる。
> 会稽ときくと会稽郡しか浮かばないみたいだな。今の地名に言い換えれば、紹興
> と福州だ。何も問題はないさ。

郡名じゃないよ、広域名と狭域名の例だよ。
自分以外の人は「郡名」とか「県名」とかにこだわり過ぎてるとか思いこんでないかな?
それに「今」に置き換えちゃダメだよ。
今の紹興市域だけを「会稽」と呼び、「東冶」と区別していた例がどこまで遡れるか、用例をだせないなら「問題ない」とは言えない。

> >「倭人伝が書かれた時代には、東冶は会稽郡に属していないとなれば、
> >陳 寿が会稽郡の東冶などと書くことは考えられない」と言う理屈は成立しない
> この理屈が分からんとは驚いたな。

自分の感覚が他人に通用しないからと言って、いちいち驚いてると身体にも精神にもよくないと思う。
まあ、「倭人伝が書かれた時点」では東冶県自体が存在しないわけだけどねw
876:2010/12/30(木) 01:31:53
【皆、注目!!】

ローガンさん、うましかさん
「その道里を計るに当に」ってどういう事なんですか?
さ、さ、お答えください(笑)

皆、注目してますよ、バシッと決めて下さい(笑)
877:2010/12/30(木) 01:47:15
>>874-875
>會稽東冶

プライドの高い彼等二人のコテが答えてくれるので何も問題ナイw
まったく、頼もしい限りだww

さて、おれはぐっすり寝ましょうかね〜(逃げ)
878日本@名無史さん:2010/12/30(木) 01:55:19
ブローカー野郎 あっちに逃げやがったね。

まったく、つかえないなww
879うましか:2010/12/30(木) 03:27:55
>>873

> その道里を計るに、当に會稽の東冶の東にあるべし
>
> @その道里を計る、計った道里の基準点(出発点)はどこですか?
> A貴方の「會稽」とはどこですか?
> B貴方の「東冶」とはどこですか?
> C貴方の「會稽の東冶」とはどこですか?
>
> 以上の@〜Cを答えて下さい。 宜しくお願いします(笑)

それに答えるだけで善いの?それだけじゃツマラナイと思うのですが。
せめて、何でそんなことを訊ねるのか、理由くらい書いてくれれば、
ホントは、何が訊きたかったのが分かるんですけど。

@文中では終点(会稽東冶之東)だけが判ればよいので出発点なんかどうでよいことかもしれませんよ。
A当然「会稽」です。
B当然「東冶」ですね。
C「会稽の東冶」と読むのであれば、当然Bの答えに同じですが、「会稽、東冶」と読む方もいらっしゃいます。
 ちなみに台湾中央研究院の電子テキスト版では、「会稽、東冶之東」と「、」が打たれています。
 実は、>>810氏には、もうしわけ無く思うのですが、私的にはどっちでもよいのです。
 >>840氏が言うように直列、並列、どちらにも読む例はあるわけなので、そのどちらにも可能性はあります。
 私が>>810氏の考えで違うと思うところは、「会稽東冶之東」を陳寿の考えとしている点です。
 私は帯方太守劉夏の考えだと思っているからです。
880:2010/12/30(木) 05:05:28
お、さすがは、うましかさん。
私の質問に対する回答がすぐに出て来ましたね。

しかし、>>702のローガンは

>上記の例からみて三国志において、明らかに東冶は会稽に属している

と言ってる。
ローガン・うましか、両氏の対決が楽しみ(みなさん注目!)w
881:2010/12/30(木) 05:23:48
あ、うましかさん返事ありがとう。

うましかさん的には「会稽東冶之東」を帯方太守劉夏の考えだと・・・
しかし、>>810氏は「会稽東冶之東」を陳寿の考えとしている。

それにしても、うましかさんは敵を作るのがお丈夫ですねw
「vsローガン氏」「vs>>810氏」と今夜は豪華二本立てのようですww
私はぐっすり寝て、彼(うましか氏)の戦いぶりを観戦しましょうかねw
882日本@名無史さん:2010/12/30(木) 08:05:47
>>880 >>881
>>810氏は「会稽東冶之東」を陳寿の考えとしている。
会稽東冶の東と最初に作文したのは、使者の梯儁だろう。ただ、倭人伝に採用する際に表現が
妥当かどうかは当然検討するわけだから、陳寿が書いたと言ったまでのことだ。
883ローガン:2010/12/30(木) 08:33:01
>>871
>呉景らが厳白虎らを撃破しようと会稽に至った。
> そして孫策が遂に浙江を渡って会稽に據り東冶を屠る。

誤訳でしょう。

> 最初の会稽は郡で、孫策が拠ったのは都市の会稽と考えるべきだろう。

故に間違い。
884ローガン:2010/12/30(木) 08:47:36
>>872
>@その道里を計る、計った道里の基準点(出発点)はどこですか?

帯方郡

> A貴方の「會稽」とはどこですか?

会稽郡治なら、山陰。

> B貴方の「東冶」とはどこですか?

ビン、越、辺り

> C貴方の「會稽の東冶」とはどこですか?

南部都尉管轄エリア。

さて、仕事っと…
885太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/30(木) 10:13:57
>>869
説明出来たというのがおかしいわけだよ。ww
半島文献と紀とでは120年ばかりの断層があるし、さらに120年でない断層
のものがあり、これで合ったというほうがおかしくインチキなわけだ。

まずその断層の出来る原因と具体的根拠、説明を掲げて、なるほどこれは
そうかも知れないとの客観的うなづける内容を出さないで、どうして説明
など出来るんだ? 今の段階で出来っこな〜い。

オマエも百済文献では説明出来時ず、片半分的には出来ないわけで自語相違
ではないか。つまりオマエもこちらと同じ穴の狢だということだ。百済文献
で説明出来ないがオマエの言い分であり、こちらは「百済」んところを
「半島」と言ってるだけの相違同然だろうが。ww
886唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/30(木) 11:34:59
>>885
>半島文献と紀とでは120年ばかりの断層があるし、さらに120年でない断層のものがあり、

まず、この思考は考古学が50年遡上したことにより、大幅見直しを余儀なくされている。
例として
纒向遺跡は、崇神、垂仁、景行の3代と数字を合わせていた、考古学と文献史学の時代は、120年差と捉えられていた。
考古学が50年遡上したことにより、これまでの文献史学の数字は、崇神=箸墓の時代となる。
これで、文献史学は、書紀の箸墓と時代は同期したと喜ぶが、書紀は、鉄の流入を任那建国後の垂仁初期からと説明する。
考古学は、240年頃築造のホケノ山に大量の鉄器が副葬される。
そして、大和に鉄を分与する余裕のない九州と丹後である。であるならば、240年以前に任那建国が無くては、大和の
鉄さえ説明出来ない。

それでも、崇神=箸墓を主張するなら、崇神末までに任那建国の位置を文献で証明すれば良いだろう。
任那建国が209年であれば、文献で説明出来ている。
神功渡海、半島占拠を120年差と主張しても、360年代の半島占拠は否定しているのが
文献史学である。これでは、書紀の記述に大幅なウソの記述を認める事になる。
大幅なウソの記述を認めると、書紀の数字も大幅なウソの主張となり、
残念ではあるが、太国倍年の数字の根本がウソの表記であるから、太国倍年は成立しない。
だから太国は、120年誤差説を主張出来るんだろ?
文献で年代を設定してない太国倍年は、それ自体が歴史と全く関係の無い数字の羅列でしかない。
887唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/30(木) 11:59:28
神功時代の120年差とは、
七支刀を近肖古王死亡に近い369年と主張する事による。
しかし369年には16日丙午が存在しない年であり、
韓国史学はこの直前の半島占拠を否定する。
その韓国考古学は、百済本記の数字を追認出来ていない。ここに50年の誤差がある。

誤差のある百済本記に書紀の主張を貼り付けても、書紀の記事が否定されるだけであり
何の解決にもならない。
だから百済本記を無視して新羅本紀に数字を合わせると、半島占拠は323年という
数字が得られる。ここは百済(モザ)建国であり、百済(モザ)をクダラと呼ぶ時代
が在った事をあらわす。
つまり書紀の主張は正しい、正しければ書紀の数字もそれなりの正しい主張となる。
888:2010/12/30(木) 12:08:25
>>772>>781>>784>>786
おれはバイヤー野郎の相手しなくちゃいけないんだったね。
日本最大の消費地か〜彼、結構手ごわいかもね・・・

日本書紀に崇神天皇は御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)と称えられてるとおり、
神武天皇と並び、最初に国を統治した者である。
この崇神天皇の活躍した年代はと言うと(年代論は唐さんが飛び付きそうだがw)
西暦に直すと三世紀のそれにあたる。
それ以前の神武天皇を始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)とあるとおり、
この三世紀を堺に近畿は「さらに」強国へとなったわけで。

鉄製品の流れは、二世紀〜三世紀を堺にソノ最大消費地が九州から近畿へとって変わる。
近畿では奈良の箸墓をはじめ、現祟神天皇稜、現景行天皇稜とかの巨大な前方後円墳の出現に
この鉄の流れが伴う形(実際には巨大前方後円墳出現より少し早く鉄製品は現れるが)になる。
九州と近畿では鉄製品が使用される開始時期がおよそ50年ぐらい違う。
かといって、上でレスしたとおり、その間に近畿では石製品・木製品が出土されるからといって
田舎とは限らず、遠方でタイムロスが生じる為であり、石製品・木製品しか出土しない近畿でも
九州より弱国とはかぎらない。

近畿の人々が朝鮮半島までソノ鉄を採りに行ったにしろ、九州に採りに行かせたにしろ、
君のいうバイヤーやブローカーという発言には当時の倭人伝に見る
地に両手をつく(土下座)「大人」や「下戸」との関係、又は、朝献に「生口」を差し出す、
そして女王が亡くなると徇葬に「奴婢」を殺す、いわば当時の格社社会において
バイヤー・ブローカー発言は不適切と思う。
889日本@名無史さん:2010/12/30(木) 12:19:07
メ はブロイラー、バーカー
890日本@名無史さん:2010/12/30(木) 12:33:44
なんだか話しが全然かみ合っていないような…
891:2010/12/30(木) 12:42:10
>>772>>781>>784>>786 バイヤー・ブローカー野郎

>最終消費者にその品物は集中するものです

に対するレスですが、九州で多く出土される貝製品の飾り物について考えてほしい。
以前、ここのスレに投稿した事があるんですが、貝製品というのは、ゴホウラ貝・イモ貝が多く用いられ、
これは奄美大島周辺の海底でしか採取されず、人間の素潜りの限界と言われる15〜20メートルと深い所にしか生息していない。
この奄美大島周辺で採れる貝殻は、広田遺跡のある種子島を経緯し、九州南部の高橋遺跡に入り、
佐賀県の吉野ヶ里遺跡や、大分県の吹上遺跡、福岡県の隅・西小田北区遺跡で腕輪が多く出土されてる。

これら九州で発見される貝製品に比べて近畿は、奈良県川西町の島の山古墳ぐらいで非常に少ない。
近畿ではゴホウラ貝・イモ貝の代わりに鍬形石、石釧というのが多く出土される。
これは、南の島の腕輪は非常に入手困難だったためと考えられており、
高貴な南の島の腕輪が出土しないからといって冨がアル所に品物は集中とは限らない。
現代みたいにジェット飛行機や宅急便など当時無かったわけで、道のりの険しい山々、
又、激しい流れのある海を渡り品物を受け渡せるのであって今みたいな感覚でモノを考えるべきではないと思う。
892:2010/12/30(木) 12:53:48
>>890
九州から畿内にかけてかなり強力な国家。
しかし、物を運搬する際は、重く遠い為に近畿は九州に遅れることを説明してる。

近畿・山陽それから九州や四国の遺跡で高い丘に集落を作る(高地性集落)。
この高地性集落は、戦いの為でもあるんだが、それ以外にも九州から東の方への電波・相図を送る
ある一定の信号を届けるルートのようなモノはあったのではなかろうかと考えられてる。
物資を運ぶのは相当の労力を必要とするが、信号を送るのは出来た。
この九州から畿内にかけてかなり強力な国家があった事実をブローカー野郎は、
「それは違いますね 、ブローカーやバイヤーだよ」なんて言ってるんだよ。
893日本@名無史さん:2010/12/30(木) 12:56:51
メ はブロークン、ババタレ
894:2010/12/30(木) 12:59:00
>>890
私は西日本一帯の強国という結果を説明する為に、その前にハツクニシラススメラミコトの例をあげたり
貝製品の例をあげてるんであって、丸っきり話がかみ合ってないわけではない。

読みにくいところがあったらどうぞ、指摘してくれたら答えますよ。
895レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 13:07:54
多少くどくなって申し訳無いが、このヌバタノイリ毘売(&日売)がいる
以上、「毘売」や「日売」は「単なる当て字のランダム性だ」と言う立論は
不可能になって来る。ランダムであり、ランダムであって良いなら、このよう
な言い換えは不必要だし、していい筈も無いからである。
だが古事記上では、必要で、する事が可能なのであったのである。

必要とは何か?即ち、ヌバタノイリを「毘売」とする後代立場と、「日売」と
する後代立場の、両立場が、それぞれ無視できない勢力として存在するので
ある。こうなると、片方が「あの方は毘売だ」としたら反対側が文句を言い、
もう一方が「あの方は日売だ」としたらまた反対側が文句を言う。
古事記編集者としては、両論併記する以外に他、方法は無い。つまり、逆に
ランダムで、「どっちかで呼べばいい」と言ういい加減な解釈表記を許すと
する、所謂「毘売・日売あいまい論」は成り立たなくなるのである。

古代人だからと言って、全く無法則で先祖に対し勝手解釈や都合解釈ばかり
をやれると考えるのは、これはあまりに現代視点が大きいのである。むしろ、
数代さかのぼれば「神(多神教ではあるが)」と信じている連中である。そん
ないい加減な不遜を、お互いが共同体ルールとして放任すると考える方が、
不自然すぎるのである。
896:2010/12/30(木) 13:11:28
うるさーい 
当時は西日本という九州から近畿にかけてかなりの広範囲にわたる
統一国家(強国)が誕生してたんだ〜 o(*≧д≦)o″))
897:2010/12/30(木) 13:15:55
>>895
「毘売」にしろビメとも読めるけど、これをビメとは読まず、
ヒメと読むんですよ(王様に対する、ヒメ様です)。

さて、少し出掛けてこようかな・・・また後ほど・・・。
898日本@名無史さん:2010/12/30(木) 13:18:19
899唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/30(木) 13:26:50
>二世紀〜三世紀を堺にソノ最大消費地が九州から近畿へとって変わる。

2世紀末、纒向遺跡に各地の土器が持ち込まれる(考古学)
この時代を九州論者は、鉄のない纒向と笑う。
ホケノ山古墳(240年頃)鉄器の大量副葬。

この3世紀前半に大量の鉄器が大和に流入する、その量は九州に流入する量を一桁か二桁
上まわる。
この段違いの差は、鉄の輸入、分与権の移動だけでは説明出来ない。
つまり、ここに任那建国が来る。
大和が鉄を輸入すれば、鉄の分与を求めて大和に従う近方の国々。
垂仁時代の野見宿禰なども、この鉄分与を求めて大和に集まった人々のひとりと捉えられる。
大和も対価として米を徴集しても消費仕切れなければ、埴輪なども対価の対象となる。
古墳作りもその対象か?
900レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 13:29:05
さて、そうすると、例外中の例外のヤマトトモモソ毘売を除いて、他のほとん
どの「毘売」について、次の法則性があったと架空仮定できる。

@実の親か、配偶者か、産んだ子か、その三方の二つ以上が「神(多神教)」
である。(その神は多神教定義であるので、神そのものの他、大王や中央有力
王始祖や中央有力豪族始祖も含まれ得る)
A後代において、大王(もしくはそれに類する神)になった者の大王権威を
保障する存在である。

ヤマトトモモソ毘売以外は、全て、上記の@Aを同時に満たしている可能性が
極めて高い。すると、それを完全に満たしているアマテラスオオミ神を仮に
「毘売」のあらまほしき「正」と規定すれば、ヤマトトモモソ毘売は毘売の
中では、完全に対極にある「邪」と規定できるのである。(※但し是は、後の
陰陽道概念で解釈した場合ではある)
少なくとも古事記では、そう規定されてもおかしくない「異端な毘売」である
し、日本書紀ではパワーアップ逸話も加味され、更に「独特な毘売」にと進化
までさせられるのである。

古事記:ヤマトトモモソ毘売は、親が神(大王)なだけの、超異例なお方。
日本書紀:その理由として「怪逸話・怪死」が必要。(当時研究限界と政権
方針とに拠る)書紀にて「神と契り損ねた」とすれば、古事記の不明要素は
解消され、古事記にてモモソが毘売となっていても「おかしくはない」のだ。
901日本@名無史さん:2010/12/30(木) 13:31:26
>>897
そのバイヤーバカ野郎が、まだ誰かわからねえのか?
902レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 13:39:46
さて、魏志倭人伝だけを探している方や、記紀嫌いの方にとっては、「何を
関係無い話を延々としているんだ?レス長は?」と思われても仕方が無いほど
遠回りをしましたが、ここでいよいよ「卑弥呼」である。

魏志倭人伝によると「卑弥呼」は「嫁す事も無く」「神に仕え」「子供なし」
そして、かつ「女王国の女王」なのである。
卑弥呼の必要条件である、この上記四要素を満たすのは、少なくとも毘売の
中では、この超異例のヤマトトモモソ毘売は、カナリ有力候補と言わざるを
得ない。

魏志倭人伝にも、古事記にも、日本書紀にも、どれにも「符号」するのだ。

但し、魏志倭人伝は後継者イヨ(トヨ)を都合解釈している。
但し、古事記はヤマトトモモソ毘売を必要最小限の表記にとどめている。
但し、日本書紀は編集代の政権都合と研究限界のために別人に仕上げた。

このそれぞれの書物の限界と都合の為に、「卑弥呼」は楽浪海中を彷徨うの
である。プカプカ。
903レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 14:04:59
>>896
>当時は西日本という九州から近畿にかけてかなりの広範囲にわたる統一国家
>(強国)が誕生してたんだ〜 o(*≧д≦)o″))

上記架空仮定は、その可能性を別に否定はしない。毘売が大王権威の一部に
すぎないとするのはあくまで後代の記紀の自己申告公表にすぎないから。
俺の架空仮定は、その頃ヤマト王国は、西日本毘売権威からすればむしろ
「定義されていた」側の立場の一地方(同祖神)有力王族に過ぎない。

そして、その立場反転期がモモソ〜沙本の乱〜景行の時期と架空する。
904太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/30(木) 14:45:11
>>886
>考古が50年遡上
そうなると今迄の考古は50年分出鱈目だったということとなり、信用度
はドカ落ちそのものである。今後数年後、十数年後には逆に下降するかも
知れない? かような上がったり下がったりするということは、考古が編年
に何の威力もないことを物語っている。だから信用性に疑問が充分ある考古
を持ち出しても説得力はあんまりない。ただの参考にしかない。もっとも
全部信用出来ないというものでもなく、たとえば鏡に景初3年の明確な
銘文があるんなら、これは編年に確実に有効となることは充分言えて説得力
はこの点にては落ちはしない。

百済文献がオマエのように拒絶不使用ならば、半島文献を現今で拒絶して
いるコチラとでは同じ穴の狢であり、コチラにつついたことはオマエの
論の首を絞めてることと同然となる。ww
905唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/30(木) 14:55:31
>今迄の考古は50年分出鱈目だったということとなり、信用度
はドカ落ちそのものである。

その通り、だから今でも書紀と整合性がとれていない主張がまかり通る。
考古学は、纒向遺跡を2世紀末に始まり、箸墓築造をもって衰退する。
文献史学は、箸墓(250年)を崇神時代とする。
両者で纒向遺跡の時代が違う。

>半島文献を現今で拒絶しているコチラとでは同じ穴の狢であり、

違いがあるだろう。
百済本記は否定するが、その代わり新羅本紀を推薦する。

つまり百済本記と新羅本紀には50年の誤差があり、これまでは
百済本記に合わせ、新羅本紀は無視されていた。

百済本記に日本の歴史を合わせられなかったから、新羅本紀に歴史を合わせる。
それが考古学が50年遡上した意味である。
906レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 15:24:36
女王国=邪馬台国が、仮に魏志倭人伝が争点としている時期には、その直轄領
を九州北東部とし、その時期淡路島が「イザナギ(つまり天照の父が幽閉され
た島=国)」と考えると準直轄地のようなある程度の聖地でもある事になる。

つまり、もし仮に「イザナギ神話部分」を、邪馬台国と当時大和王権が共有
していたと仮定し、天照=卑弥呼を後代大和王権が始祖モデルにした存在と
仮定するならば、当時の女王国の影響範囲に淡路島が入っている可能性は
少なくは無い。
そうだとすると、大和はそれ以前に「淡路のオオヤマトクニアレ比売を娶って
いるぞ」と、淡路支配が九州北東部より優れている事をあえて古事記で主張
する道理も、カナリ納得行くのである。つまり、モモソの母である。
淡路の統括権を「大和が持っている」か、「九州北東部が持っている」かは、
争点時代においては、少なくとも大和王権側にとっては「重要問題」なので
ある。

つまり、元神話の「イザナギ神話」までは確実に両王権にとって共有神話だと
仮定すると、九州にとっては淡路は「父イザナギの幽閉された先」となるし、
近畿にとっては淡路は「父イワレヒコ(神武)の東征通過した場所」となり、
どちらにとっても、淡路は重要な聖地なのである。
(後代同じ論法で、北九州宇佐地方も、この管理権問題のターゲットになる)
907レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 15:36:04
奇しくも(記録は希少ではあるが)タケハニヤス王の乱も、サホビコの乱も、
二つとも、大阪湾付近(淡路島付近)の戦乱である可能性が高い。

古事記沙本の乱の最終部分で、先述した丹波の美人三姉妹が(沙本の乱の時点
ではニ姉妹となっているので、三女の誕生前と想定できる)沙本側から「この
二柱(二人)を使うべし」とワザワザご指名した美談になっているが、これは
古事記の主張をソックリ信じるのもあまりにも出来すぎである。

タケハニヤス王の乱〜沙本の乱の時期を、「淡路争奪戦」と考える架空筋の方
が、流れとしては自然に思えるのは俺だけだろうか。
908唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/30(木) 15:46:59
太国さんも解っているでしょう、ラジオ氏(韓国人)が百済本記に
新羅、高句麗の歴史をあわせ様としていたのが。
ここには埋めなければならない50年の誤差存在している。
彼は、百済本記に合わせようとしていたが、書紀が合わせられない百済本記を
認めない私。
新羅本紀に合わせれば埋まる、考古学との誤差。
ここで誤差が埋まると言うことは、ここが正しい歴史の合わせ目となる。
だから、今後考古学の主張する数字は動かない。
この数字を認めたく無い韓国文献史学。
百済本記の数字を追認出来ない韓国考古学。

韓国文献史学の数字に合わせたら、書紀の記事はウソとなる。
新羅本紀に合わせれば、容認出来る、書紀の記事。

ウソの記事で埋まる書紀を容認するか?
書紀の記事が正しいと認められる数字を支持するか?
二者択一。
909日本@名無史さん:2010/12/30(木) 16:04:57
>>875
>郡名じゃないよ、広域名と狭域名の例だよ。
じゃ、あなたの指摘は見当違いだな。私が言うのはどちらも単なる都市名だ。
広域名を出した覚えはない。

>自分の感覚が他人に通用しないからと言って、
通常人の感覚があなたにだけは通用しないようだということさ。

>「倭人伝が書かれた時点」では東冶県自体が存在しないわけだけどねw
ふーん、それが何か意味があるのかね?
910レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 16:07:00
そこで、あえてここで天照様におかくれ遊ばして、そして勿論出雲系のスサ
ノウ様にも大蛇退治に行っていただくとして、それ以外の部分で「近畿と九州
東北部の共有神話がありうるか?」を架空してみる。

まず、古事記神代の冒頭「あめつちひらけし時」から「イザナギイザナミ」を
経て、「天照とスサノウの対立」までは共有と成り得るがそれ以降は怪しい。
天の石屋戸が無くても、大和血脈筋は切れない。つまり、そこから「ニニギの
登場」までは、この間が無くても大和血脈筋としては全く「問題無い」のだ。
そして、ニニギの活躍の途中あたりから、近畿神話と九州神話が分化すると
考える架空が一番自然だ。ニニギに「葦原中(近畿)を何とか完全支配しろ」
と言う宣託はもう降りているので、前半までは両方共有の神話で無いと矛盾が
生じてしまうからだ。
但し、ニニギ本人は近畿の完全支配は成し遂げていない。完全に成し遂げた
のは、早くてそれから数代後の子孫の神武であり、神武の支配がもし怪しい
なら、遅くて更にスイゼイ大王(2代)以降となる。実際古事記においても、
神武は九州にも近畿にもそれぞれ「ご家庭(妻と子)がある」話であるので、
神武の存命時にギリギリ成し遂げたか、成し遂げきれなかったか、そのくらい
と想定するのが自然な推測でもある。

この架空筋だと、近畿王権と九州東北部王権はモモソの時代前後に淡路の支配
権を巡って対立したとしても、時系列的にも地政学的にも神話体系的にも、
全く問題無くスムーズに対立する流れなる。
911日本@名無史さん:2010/12/30(木) 16:17:42
>>883
ほう、誤訳ですか。
ちなみに、ローガンさんはこの文をどう訳されますか。

呉人嚴白虎等衆各萬餘人,處處屯聚。呉景等欲先撃破虎等,乃至 會稽 。
策曰:「虎等羣盜,非有大志,此成禽耳。」遂引兵渡浙江,據 會稽 ,屠東冶,乃攻破虎等
912レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 16:40:34
古事記では天照の日嗣の皇子のカツハヤヒアマノオシホノミミノ命に「葦原中
を何とかせい」と言う宣託を出しているが、本人はその宣託を回避し「我が子
のニニギを代理で行かせましょう」となる。

後のニギハヤヒにも「葦原中平定の宣託」が降りている事もあるので、ここら
辺からの、所謂「古事記主張の葦原中国平定の正統性」は怪しい話と成って
来るのである。勿論、俺個人は古事記を信頼するが、そうだとしても「宣託が
乱発された可能性」は古事記自体にすら残存している話でもある。

又一方、「当時はまだ、長子相続制ではなく、兄弟相続制だった」と仮定した
ならば、むしろ、どこかで「次男や三男やそれ以降」である「神武の祖先」が
「九州での領土」を「貰い受ける事が出来な」くて、「葦原中をとって来い」
と宣託にて命じられたと考える架空も、ありえなくは無い。

「カツハヤヒアマノオシホノミミが天照の日嗣の立太子である」と言うのを
担保する物は、あくまで古事記しか無いのだ。九州神話を後に大和神話が吸収
してしまったなら、圧倒的後代の我々としては「まあ、神話の時代はそうだっ
たのですね」としか言い様が無い話ではあるが。
但し、先述の架空で「ニニギの登場辺りから神話が分化した」と架空すると、
上記の、担保も否定もできない架空も、実像想定としてはアリエナクモナイ
話となって来る。
913レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 16:42:34
さて、九州と対立することを選択した、祟神以降の大和王権でその後、思って
も見なかった「神話矛盾」に遭遇する事になる。
九州に「女神」が二人もいらっしゃるのである。一人は前大和神話でも
おなじみの天照様だが、もう一人は出雲を権威付ける「ワタツミ(海神)の
娘」様なのである。出雲との関係性が、これにて揺らぐ可能性も生じて来る
のである。
従って、祟神以降から記紀編纂時までの間に「豊玉伝説」の組み入れが必要と
成って来るのである。海幸山幸の血脈はそのとおりとしても、そこに豊玉伝説
の逸話部分を挿入しなければならなくなるのである。と、架空できる。
914太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/30(木) 16:47:19
>>905
>その通り

その通りならば、50年遡上なんてどこまで真か疑惑だらけだ。諦めろ!

>百済本記は否定するが、その代わり新羅本紀を推薦する

〜それは違いがあって、当然だ。オマエと一緒の妄想はしないのだ。

こちらは(但し現今では〜)

〜半島文献は否定するが、その代わり日本書紀を推薦する。
915太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/30(木) 16:56:15
>>908
オマエの都合によって取捨し、都合のいいほうを採って新羅本紀と言って
るだけで、そこには当初から編年の説明も全然無く、そんなことをおいそれ
とは信じやしないぜ。50年も誤差があるんじゃ半島文献を諦めて、紀を
推薦して研究すればいいことだ。
916ローガン:2010/12/30(木) 17:03:21
>>911
『厳白虎らが所々に屯している。孫策の伯父の呉景等は、先にこれらを制圧してから、会稽に進軍する策をたてた。
孫策が言うには、「厳白虎らはただの盗賊に過ぎず、いつでも虜に出来る。」
その主張により、兵を率いて会稽に拠を置いてから東冶を攻め、その後、厳白虎らを破った。』
よって>>871
>呉景らが厳白虎らを撃破しようと会稽に至った。そして孫策が遂に浙江を渡って会稽に據り東冶を屠る。

は、誤訳。そして

>最初の会稽は郡で、孫策が拠ったのは都市の会稽と考えるべきだろう。

は、呉景の策と、孫策の行動の手順が違うだけだから、間違い。孫策達は厳白虎らを倒しに会稽を訪れた訳ではありません。
王朗を倒し、会稽郡を取る為だから。
917日本@名無史さん:2010/12/30(木) 17:10:25
あー尊:あー尊いことだ 水掛け歓えても 太陽掛け誇られて
神の生まれ立ちは 大和のへその御嶽 沖縄だけになっても
「よかる」になっても 霊統の元を立てて 親の神におつかえしましょう
大和から下った赤碗の世直し 中盛らして御酌しましょう
山城から下った黒碗の世直し 端盛らして御酌しましょう


「水と太陽の霊も寄りつく私たちの崇める神は、ヤマトの中心の国のお生まれである。
この神を崇めるのは今や沖縄だけになってしまったが、スジを曲げないでこの神にお仕えし、
ご御招請しょう。大和・山城から伝わった赤椀の世直し(椀)に、神酒を溢れるほどに注いで捧げます。」
918レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 17:10:35
そして、大和が充分に九州を逆支配した景行大王の時代、九州の実力者の娘の
ミハカシ毘売が政略結婚にて降嫁なさる頃、最終的に九州神話体系と大和神話
体系は融合し始める。
血脈上の矛盾ではなかったが、「天照の石屋戸」の件が大和神話に導入され、
今まで祖先神のうちの一女神にすぎず、スサノウと喧嘩判れしただけの女神様
に、天の岩戸の神話的なシーンが挿入されて神話のボリュームアップが図られ
る。そして、その時のメンバーに「神を集合」させることによって、その他の
日本の沢山の国ツ神をも、「大和神話=原始日本神話」に登場させ、中央や
地方の有力者も神話体系に同時に取り組む(あるいは既に取り込んでいた者は
そこで再編集する)のである。
この作業の基本が、すでに大伴金村〜物部守屋の時代頃までに完了したと俺は
推測する、日本神話の神話部分の骨格となる。そして、聖徳太子&蘇我氏に
よって体系化され、天武持統によって部分削除されるのである。
919ローガン:2010/12/30(木) 17:20:11
だから、>>805

>しかし、会稽を根拠地としたという以上、それは東冶とは別だということだ。会稽に東冶を含むならば、自らの根拠地の内を攻撃したことになる。こんな矛盾した話はない。

はトンチンカン。三国志の関係箇所を読みもしないで、参加しているんじゃないかなあ?と思った訳です。
920レス長たらし毘古:2010/12/30(木) 17:36:14
天照の石屋戸のシーンこそが、融合する以前の九州の「卑弥呼にまつわる逸話」
なのである。したがって、モモソ様(か、それ以降)の話が、記紀では、なぜか
しら、ずっと以前の神話の話となってしまったのである。
大和が九州を逆吸収するために必要な神話融合作業が、この神話時空を飛び越え
させたのである。
921日本@名無史さん:2010/12/30(木) 19:12:10
>>919
それで、孫策が拠ったのは都市の会稽なの郡の会稽なの?
922日本@名無史さん:2010/12/30(木) 19:45:10
>>916
なるほど、それはローガンさんの読みが正しいかな。
923日本@名無史さん:2010/12/30(木) 20:03:17
ローガンさんの解説はわかりやすいな。
924日本@名無史さん:2010/12/30(木) 20:35:16
>>919

>三国志の関係箇所を読みもしないで、参加しているんじゃないかなあ?と思った訳です。

要するに、三国志の関係個所を読めば、自分と同じ考えになると言いたいのか?
自分は関係個所を読み判断したんだ、自分と違う考えをする奴は
つまり、関係個所を読んでいないからそんなトンチンカンな答えを導き出してしまう
三国志の関係個所を読んだ自分に黙って従ってれば良いんだと。
925ローガン:2010/12/30(木) 21:20:59
>>924
> 要するに、三国志の関係個所を読めば、自分と同じ考えになると言いたいのか?

いいや。

> 自分は関係個所を読み判断したんだ、自分と違う考えをする奴は
> つまり、関係個所を読んでいないからそんなトンチンカンな答えを導き出してしまう

いいや。別の方の貼った文だけを読んで、論じていると判断したから。
あなたにしても、主張があるなら持説の裏をとっておく期間はあった筈。主張があるなら、ある程度、詰めとかないと。

> 三国志の関係個所を読んだ自分に黙って従ってれば良いんだと。

しっかりしてね。ここは掲示板。議論するために書いているんだから。
私だって、いつもどくだみさんに叱られてるし…
926日本@名無史さん:2010/12/30(木) 21:29:49
>>925
>しっかりしてね
しっかりしているからこそ>>924の投稿が出来るんだが

>ここは掲示板。議論するために書いているんだから。

俺は言いたいことがあったから書いている

>私だって、いつもどくだみさんに叱られてるし…

それは関係ないと思う
927日本@名無史さん:2010/12/30(木) 21:34:07
三国志の時代は、戦乱の時代。
戦いに次ぐ戦い、そんな暮らしに嫌気が刺して、
日の出る処の王の住む大和の国に亡命したものも少なくない。
928からしれんこん:2010/12/30(木) 21:43:55
>>838,>>839  メ氏
>古墳時代の開始期をこの近畿で始まる巨大な前方後円墳の開始という、分かりやすい区切りにしたダケ。

そんなことを問題にしているのではありませんよ。卑弥呼の時代を古墳時代の開始期にあたるとする考えには科学的根拠がない
と言っているのです。

>「年輪年代・C14法という科学的な証拠が出てるではないか。

年輪年代法もC14年代法も科学的な手法を用いる(正しく用いることが必要ですが)ものですが、我が国では未だ確立された方法
(正確な年代が決定できる方法)とはなっておりません。年輪年代法においては7世紀以前の素性の明確な木材資料が不足してお
り、正確な標準年輪パターンの準備ができていません(なお、標準年輪パターンは樹種毎に、また地域毎に多数必要です)。
C14法については百年程度の幅のある数字しか得られません。


929日本@名無史さん:2010/12/30(木) 22:26:36
縄文人は帰れ。
930日本@名無史さん:2010/12/30(木) 22:36:44
ていうか、弥生陣屋、それ以降の渡来人は国へ帰れ!
931太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/30(木) 22:38:06
>>908
半島史紀日法研究家 唐松山の大ウソww

>今後考古学の主張する数字は動かない

この数字はエレベーターの昇降のように動く。動かない保証はどこにも
な〜い。ww

>ウソの記事で埋まる書紀
年代の不合理は片面的にウソと言えないとまでは言い難いが、これの合わ
ない不合理を説明出来ないオマエだから、ウソに見えるだけ。
それより

 ウソの紀日で埋まるマシ

とでもしておけ。ww
932日本@名無史さん:2010/12/30(木) 22:40:54
いや、しかし現在のドツボと言うのは
この縄文人とか言うおっさんが意気軒昂にこの板に乗り込んできた時
想定していた畿内説の人間 に最も近いんじゃないだろうか?www

年代に理化学的測定法をもってきてくれて
恐らくは 卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命 で
その墓が最初の定型化巨大古墳の箸墓と言う分りやすい展開をしてくれる
もっとも組みしやすい、自分が待っていた相手と言うことでw

まあ需要と供給、ボケとツッコミ、綺麗にマッチしたんじゃないかな?www
933日本@名無史さん:2010/12/30(木) 22:48:56
>>929>>932

きみたち〜
他人の批評や悪態だけのレスは見苦しいよ。懐が寂しいのかね。貧しかったらせめて心だけでも豊かにしなさい。
934日本@名無史さん:2010/12/30(木) 22:53:45
邪馬台国を乗っ取り、登美彦や安日彦を東国に追いやった憎っくき弥生人。
お前らさえこなければ、今でも日本は縄文時代だったのに。
935W:2010/12/30(木) 22:57:30
>>932
現在の畿内説は「ゆるやかな首長連合」だとか「交易連合」だとかという訳の分からんものに依拠しているのだね。
936ローガン:2010/12/30(木) 23:01:53
>>926
元気なら、良い
937日本@名無史さん:2010/12/30(木) 23:28:12
>>932
いえてるいえてる M−1グランプリ候補
938日本@名無史さん:2010/12/31(金) 00:01:26
>>937
M1は今年で終わったぞw

で、「与太国・唐松」が「いとしこいし」ぐらいのベテランさんとwww


939日本@名無史さん:2010/12/31(金) 00:19:57
>>916
>兵を率いて会稽に拠を置いてから東冶を攻め、その後、厳白虎らを破った
その会稽って結局どこのことなんだ?
940日本@名無史さん:2010/12/31(金) 00:48:57
>>909
> >>875
> >郡名じゃないよ、広域名と狭域名の例だよ。
> じゃ、あなたの指摘は見当違いだな。私が言うのはどちらも単なる都市名だ。
> 広域名を出した覚えはない。

じゃ、「陳寿が三国志を書いた時代」に「会稽」と「東冶」と言う名前の「都市」が有ったって言ったのかい?
それとも意味も無く現代の都市名を出したことを言ってるのかい?

> >自分の感覚が他人に通用しないからと言って、
> 通常人の感覚があなたにだけは通用しないようだということさ。

その「通常人」さんてのは、アナタ以外の誰?
三国志の時代に「会稽」と「東冶」が連呼されうるような等質のレベルを持った地名かどうか、
そうだと言うなら、その当時の用例を出してね、と言ってるんだよ。
アナタが論拠として出したのは、現在、紹興市、福州市と呼ばれる地域だってのだけだろう。
それで納得するような感覚が通常人なのかw
941日本@名無史さん:2010/12/31(金) 01:03:11
実にいいコンビじゃないの?

一目会ったその日から、恋の花咲く事もある。

942日本@名無史さん:2010/12/31(金) 02:50:04
呉景等欲先撃破虎等,乃至會稽 。(呉景等先に破虎等を撃破し、乃ち会稽に至らんと欲す。)
策曰:「虎等羣盜,非有大志,此成禽耳。」(策曰く「虎等は羣盜、大志有るに非ざる、此れ禽(とりこ)に成るのみ。」)
遂引兵渡浙江,(遂に兵を引きて浙江を渡り、)

呉景らはまず(呉の)厳白虎らを撃ち破り、それから会稽(の王朗)を攻めようと考えた。
孫策は「厳白虎らは群盗で大志があるわけではなく、捕らえるなど当然のことです」と言い、
遂に兵を率いて浙江を渡り、(王朗を攻めた)

なので、<據會稽>,屠東冶,乃攻破虎等。は、

<会稽を占拠し>、東冶を屠り、そののち厳白虎等を攻め破った。

だと思うけどなあ、・・・東冶まで王朗を追っかけたんだから。
どうだろう?
943日本@名無史さん:2010/12/31(金) 02:54:21
>>942
うっ、改行失敗。逝ってきまつ・・・。
944唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/31(金) 08:32:22
>>915
>紀を推薦して研究すればいいことだ。
そうですよ、その通りですよ。書紀が正朔と主張するから、日々の朔と季節を
違えないように空白日を差し引く。
これが私の第一段階。この段階で神功元年まで、
ここで時空を得ようとすると、新羅本紀の192,3年の記事に倭人が登場する。
神功元年は、あづないの罪。これを日食の記事とすれば、日付を特定出来る。
この二つが世継ぎと共に、記事が同等になれば、その思考は一応成り立つ。
この結果
1,崇神世の任那建国は209年であり、“鉄のない纒向”といわれる時代である。
2,神功渡海は、274年であり、晋の要請による渡海。
3,半島占拠は、323年であり、この方面が空白と成った時代。
これは、七支刀を326年とすれば、書紀の主張と符合する。
崇神を箸墓(250年)とした場合、任那建国、渡海、占拠、は整合性がとれる時代を
失い、全てが否定される(韓国の主張)。
しかし任那の文字が記録されているから、時代は解らないが、最低限の出来事程度。
任那とは、倭人を奴卑として鉄を生産する(韓国の主張)
七支刀は、百済が倭に下賜した(同上)

強引に百済本記に合わせようとすれば、この程度の出来事としか認識されない。
百済本記と新羅本紀、両書には、歴史を合わせられない、書紀の主張を尊重すれば
新羅本紀になら合わせられる。この数字は、現在の考古学の主張する数字でもある。

考古学は、年輪年代法を使って、2世紀末纒向遺跡に各地の土器が集まる。と割り出した。
この年代は、崇神5,6年の出来事を新羅192,3年の記事と同等とした場合の
崇神10年 異俗多帰、に該当する。

つまりここで、書紀と考古学と史書の言い分が合致する。だから簡単には動かない。
945唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/31(金) 08:50:26
209年 伽耶建国=任那建国。つまり伽耶=任那 この言い分が通る文章。
 ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通
不遵朝廷之令 至是以倭王女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之

ここに書かれた伽耶は、任那であり、”不遵朝廷之令”この言葉から317年であり、晋が滅んだ翌年の
出来事である。

946唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/31(金) 09:31:33
317年 ”不遵朝廷之令”(朝廷の命令をきかない)
では何故朝廷の命令を無視したか?それは、永嘉の乱に出兵した倭が疲弊したためである。
316年 仁徳天皇四年(丙子三一六)二月甲子《六》◆四年春二月己未朔甲子。
烟氣不起於域中。以爲百姓既貧。而家無炊者。

冊封国として、永嘉の乱への出兵は、義務である。兵を出せば、国内に於ける米作りの
人口が減る、乱の中で食料調達が出来ない、食料を送らねばならない。
第2次大戦の時の状況と似ている。
西晋の滅亡と共に連絡部隊を残し軍を引き上げる。
323年に空白域と成った半島を占拠し、百済立国。大量の渡来人。

古墳時代の文化の発展は、晋、半島へ軍を派遣し、その見聞と、渡来人の力無くしては、
考えられないスピードである。
947ローガン:2010/12/31(金) 09:37:09
>>939

> >兵を率いて会稽に拠を置いてから東冶を攻め、その後、厳白虎らを破った

> その会稽って結局どこのことなんだ?

山陰でしょうね。王朗破って会稽太守になるんだから。
又、上で4文字の地名はおかしい というようなレスがあったけど、
魯肅字子敬、臨淮東城人也。
周瑜字公瑾、廬江舒人也。
澤字 潤、會稽山陰人也。
程秉字 樞、汝南南頓人也。
前の二文字は郡名。
948日本@名無史さん:2010/12/31(金) 10:56:03
會稽は山陰の人なり。
會稽の東冶の東。

まったく意味が違う。
949日本@名無史さん:2010/12/31(金) 11:27:43
>>947
>> その会稽って結局どこのことなんだ?
>山陰でしょうね。
文句をつけるからには何か特別な解釈を示すのかと思ったが、な〜んも面白くないな。
私が>>810で書いた「「據會稽,屠東冶」は紹興を根拠として福州を攻略したとい
うことで、この場合の会稽はけして会稽郡全体を言っているわけではない。」という
のと同じことじゃないかな?
950日本@名無史さん:2010/12/31(金) 11:31:15
そりゃ、訓読の問題じゃんw
951日本@名無史さん:2010/12/31(金) 11:34:09
きっとローガンさんは考古学の先生方が
会稽や東冶と分けて発言してることに気づき焦ってるんだろうw
952日本@名無史さん:2010/12/31(金) 11:45:46
少し早いが次スレ

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!53
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1293763476/

52スレが終わってから書き込みましょう。
953日本@名無史さん:2010/12/31(金) 11:53:01
>>949

>会稽という言葉は、会稽郡を表すときもあれば、今の紹興市付近を表す地名として使用される場合もある

全然違うでしょう。
会稽郡治たる山陰を押さえたことが郡の支配権を奪ったことになるので「據會稽」。
現在の紹興市付近だけを特別に「会稽」と表現しているわけではない。
貴方の主張は「現在の紹興市付近だけ指して昔は会稽と呼んだに違いない」と言ってるんだと思うが、そう言う位置づけで「会稽」が使用されている例が有るのか。
倭人伝での「会稽」と「東冶」を同じレベルの地名であると言うのであれば、
それは、せいぜい広げてみても「東冶」を中核とする一地方くらいにしか解釈できない地名と対置され得る意味で「会稽」が使用されている例を出してみないと。
954太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 12:01:22
>>944
オマエの正体は紀日法研究家であって、以前は年の空白を主張してたのに、
ここぞにおよんで空白日のほうに鞍替えとはいよいよもってインチキ性を
暴露して来たとおいうことだ。ww
崇神5,6年が192,3年の仮定は成立せず、神功元年前年の日食も天文学上から
ありえぬ〜日を経て数日間の日食は生起することなど絶対的にありえず、
この仮定も成立しないのは自明であ〜る。
955日本@名無史さん:2010/12/31(金) 12:03:31
>>953
あなたは「会稽の恥」という言葉を知ってるかな?
956:2010/12/31(金) 12:12:23
ちょっと話をぶり返すようだが、アマテラス信仰は八世紀からというのはよく本で見かける。
しかし、七世紀の壬申の乱など、実際にはそれより以前からある。
何をもって八世紀としてるのかは知らんが、おそらくは古事記、日本書紀が編纂されたので
ここからとって、そういう八世紀という考えがあるのだろう。
それに古事記・日本書紀がデタラメというのならそれは間違い。
倭人伝&考古学もそうだが、古事記・日本書紀&考古学もいたるところで一致しており
すぐに偽書と決め付けるのは如何な事かと思う。
957日本@名無史さん:2010/12/31(金) 12:14:39
>>955
 知っているが、それがどうした。
 何が言いたいのかな?
 まさか、その故事が都市名会稽説の根拠になるとでも思ってるのか?
 扶差と勾践に笑われるぞ。
958日本@名無史さん:2010/12/31(金) 12:22:28
>>957
横からだけど、先秦時代から会稽の地名はあって、郡の名前はそれが元になった。
つまり、京都市と京都府の関係。
だから、東冶が会稽郡に属していることは全く否定していない。
京都に拠って福知山を撃つという場合、京都は京都府のことじゃなくて、京都市のことだろうと。
そういう主張。
ローガンさんの主張は東冶は会稽郡に属しているということだけで、
京都府と京都市の違いに相当する会稽の違いに明確な反論がないように思うけど、どうだろう。
959日本@名無史さん:2010/12/31(金) 12:30:01
>>957
知っているのに>>953のような質問をするとは情けないな。せっかくの知識は
もっと役に立てないといかん。
「会稽の恥」の故事は今の紹興市付近の話だ。「據會稽,屠東冶」も会稽を紹
興付近の意味で使っている。その付近の地名として会稽が使われていたという
ことは明らかだ。
960日本@名無史さん:2010/12/31(金) 12:30:32
>>958 ヨコから
>先秦時代から会稽の地名はあって

会稽という名前の“都市”はあったんですか?
961:2010/12/31(金) 12:32:06
>>92
>doontakuka氏がそれがしに

ああ、おっさん、向こうの掲示板でがんばってるみたいだね。
それにしても虫教徒、彼らの
「九州島」発言はどうかと思う。

古代の九州において、筑紫、豊、肥、熊襲国の4か国から分裂し、
筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、の9カ国の総称として
「九州」という。
これは七世紀からで、それまでは「筑紫」とか「筑紫嶋」であって、それ以前には
この「九州島」なんて言葉はいわれてない。

上でもレスしたが、筑紫を白日別(しらひわけ)、豊を豊日別( とよひわけ)、
肥を建日向日豊久士比泥別〈たけひむかひとよく じひねわけ〉、熊曽国を建日別(たけひわけ)ともいい。
「九州島」なんて発言は、古事記や日本書紀をろくに読んだ事がないって丸わかりだよな。
962日本@名無史さん:2010/12/31(金) 12:38:36
>>960
都市か地名かよく知らないけれど、
京都府福知山市を撃つのに京都府に拠るっておかしいからなあ。
会稽に據って東冶を撃つを合理的に説明するなり、誤訳だと証明するなりしないと、
この会稽を郡とは捉えられないよ。
963日本@名無史さん:2010/12/31(金) 12:44:18
>>960
歴史学でいう都市はやっかいな定義があるそうだけど、私が都市名といったのは
単なる町の名という程度の意味だ。
964:2010/12/31(金) 13:09:54
>>118
>弥生の墓制の発展経緯を見れば集落枝分かれ=分村しても
>墓はその出身母体たる集落に築かれると言う「帰葬」が行われている
>自分達の「ルーツ」に対する思い入れがあったんだろう。

弥生の墓というのは縄文時代の末、あるいは弥生時代初頭に大陸・半島から移住した人達によって影響される。
それ以前の墓はというと、貝塚などに人骨があったりして、食用の動物骨と一緒に捨てられたりしていた。
この弥生時代の墓の経緯だが、九州では紀元前の朝鮮半島で行われていた支石墓や、九州で独自に行われた
甕や壺を棺の代わりとして、粘土でくっつけて埋葬する甕棺墓などを経緯し佐賀県神崎町にある吉野ヶ里の北墳丘墓をはじめ、
プレ古墳(弥生墳丘墓)が築かれるようになる。
帰葬に関しては、家葬からきてるのかな?とりあえず、弥生の墓制に「帰葬」が行われていた例というやつを上げてくれ。
965960:2010/12/31(金) 13:34:00
>>962
「據會稽,屠東冶,」は孫策が王朗を攻めたときの話ですよね。

会稽大守の王朗は破れて海路、東冶に逃れます。
孫策は追っかけていってそこで王朗は降伏します。

(王朗の勢力範囲だった)会稽を拠さえ、東冶(に逃れた王朗)を屠った。ということでは?

つまり、京都守護の○○を破り、京都府を押さえた。
そして福知山市に逃げた○○を滅ぼした、みたいな。
という説明はどうでしょう。

「據(拠)」は占拠するという意味もあるので。
966日本@名無史さん:2010/12/31(金) 13:34:13
>>959

「句踐請為臣,妻為妾。」と敗北した自らは敵将の臣下に、妻は妾にしたと言う会稽の恥。

「越王乃以餘兵五千人保棲於會稽王追而圍之」と「会稽」に追い込まれて降伏したときのことだが、
この場合の「会稽」とは、集解に「会稽山也」と有るように降伏地である会稽山のことで地域名会稽とは直接関係ない。
なので、「会稽の恥」を持って、都市名・会稽若しくは小地域名・会稽使用の類例だと言う話はトンデモなことw

会稽山がそう呼ばれ始めたのは>>958氏の言うように古く会稽の地の名山と称せられているから。
その頃の会稽はと言うと広大なもので、郡治は呉(現在の蘇州市付近)にあった。
山陰(現在の紹興市付近)が郡治になったのは、後漢代の呉郡分郡以降のことなのである。

967うましか:2010/12/31(金) 13:41:17
あー、気づかないうちに名無し化してました。
>>953以降は私(>>810)です。
968:2010/12/31(金) 13:49:54
>>234
>まあドツボも知識はつけて行ってるんだろうが
>何なんだろう?この根本的な”ズレ”はw

おれはいろんな本を読んで言ってる。
君は、考古学本を読んで言ってる、この差では?(おまえ考古学しかみとらんもんw)

>>339 レス長たらし毘古さん
>>348氏も言ってるが、たまには、記紀(古事記・日本書紀)以外の書き込みもみてみたい
969唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/31(金) 13:51:21
>>954
>以前は年の空白を主張してたのに,ここぞにおよんで空白日のほうに鞍替えとは

以前からこの空白年にまで日数を付与して主張していますよ。
例えば 垂仁治世99年には、4章の空白年が差し込まれている。
4章の空白年とは、19×4=76年、1章=6940日であるから
6940日×4回=27760−1=27759日、−1日は、4章に付き1日を減ずる
太陰暦の暦法に基づく。
99年―76年=垂仁の治世23年間、
36175日〔99年〕―27759日〔76年〕=8416日〔23年〕
この主張をねじ曲げるために、違った解釈をする太国。
日を夜が別ける。この文章に数日間を宛がう太国、
日々を夜が別けると解釈しても、“日”の文字が1つであるから、数日とはならない。
こういうねじ曲げた解釈は、太国倍年上で主張すれば良いこと。
970:2010/12/31(金) 13:51:44
625〜630で糞は肥料に〜というネタがでてるが、
先日だったか、テレビで「人豚」っていうのをやっていた(観た人おる?)。

漢書だったかな?中国の秦代の人物で后である呂雉が、別の后である戚夫人の懇望により、その息子を皇太子と立てようとする計画を恨み、
劉邦が死去して以来、戚夫人を捕らえ牢獄に監禁し、呂雉が、戚夫人に薬を飲ませて両手、両足をもぎ取り目をくり貫いて、豚の厠に投げ入れて
人豚と称して見せしめた話があった。
古代中国の厠は、穴の中に豚を飼育し、上から糞尿し人糞を豚の食事としていた。

日本では縄文時代末から水稲栽培が始まり、「米」や「アワ」等の穀物を主食としているが、
中国では、日本の穀物とは違い、「豚」を調理した料理を主食としてますよね。

うましかさん、「人豚」についてどう思われますか?
971ローガン:2010/12/31(金) 14:01:36
>>962
>会稽に據って東冶を撃つを合理的に説明するなり、誤訳だと証明するなりしないと、この会稽を郡とは捉えられないよ。

ほら、わかって無い。東冶を討つ為に会稽を拠点とした とか思っているでしょ?
孫策は会稽郡を取りに行った。時の太守王朗は破れ、郡境の東冶まで逃げた。 孫策は会稽太守になり、郡を治める事になる。
東冶に逃げた王朗を味方したのが、侯官の長の商升。しかし商升は賀斉に恐れをなし、降伏しようとする。
それに反対した張雅、センキョウらは商升を殺し賀斉と交戦するものの敗れる。
これが侯官平定の顛末。「会稽を拠点として東冶を討つ」とはこれを端的に表現したもの。
あなたの表現を借りれば、京都府を取った武将が、旧来からの中心地であり京都市に拠点を構え、府内の不平分子を掃討したと云う事。
972日本@名無史さん:2010/12/31(金) 14:02:12
>>970

いや、年の瀬押し迫ったときに
そのようなSMネタを振られても返答に困ります。
来年は馬から豚へハン変えでもしなさい、と言うことですか。
973うましか:2010/12/31(金) 14:03:05
あー、また名無し化しちゃった。
974日本@名無史さん:2010/12/31(金) 14:04:32
247(正始8年)年3月24日の日食ですが、
この日の日食は、食が最大97%ほどにもなる日蝕ですが、時間が夕方の6時半です。
つまりこの日蝕は欠けながら沈んでしまう日蝕になります。
食のときの太陽の高度が低いので、天気や地形にもよりますが、全く気づかずに終わった可能性もあります。
したがって、この時の日食が卑弥呼が殺された原因になったとは考えにくいのです。
そもそも、日食というものは結構頻繁に起こる天文現象で、それを持って政権は崩壊するなどということは考えられません。

それより、異常気象によって作物が実らない凶作が何年も続き、
飢饉や疫病の流行によって人心が荒れたことが原因ではないでしょうか?
975日本@名無史さん:2010/12/31(金) 14:12:44
人豚=ドツボに落ちた人。昔はよくあったけどね、ドツボ。
976:2010/12/31(金) 14:21:56
>>972
いえ、SMネタではなく、考古ネタですよ。
"豚骨"ラーメンといえば九州の久留米がその発祥地なんですが、
これは豚の骨や身で豚骨スープを作る(豚骨ラーメンはうまいですね)。

豚骨といえば、弥生中期の大分県下郡桑苗遺跡から豚顎が出土されている。
他にも佐賀県菜畑遺跡や、奈良の唐古・鍵遺跡 からも発見されており、
考古学本を開いてると、水田稲作と共にこの豚骨のことがよく書かれてる。

これらの各地で発見される豚骨は大陸からの移住民が連れてきたといわれており、
とくに顎の部分が比較的多い。
私も実際に、この大分県下郡桑苗遺跡から出土の豚顎を生でみてきたんですが、
そのときの説明によるとなんらかの祭祀用として豚顎を束ね用いられていたとかいってましたね。

「馬」と「鹿」にしても古代人の重要な食事として食べられてきたみたいですし、
豚のがおいしいからといってハンネを変える必要はありませんよ。
977:2010/12/31(金) 14:25:33
>>975
>人豚=ドツボに落ちた人。昔はよくあったけどね、ドツボ。

中国という海外での話しだよね?
日本では、この豚小屋をトイレとした過去なんて聞いたことがないし、
古代人は、べらでそれを拾って、ふつうに野外トイレで用をたしてたんだろう。
978日本@名無史さん:2010/12/31(金) 14:31:10
ドツボも河童の呪縛から抜け出せない限りなあ
979日本@名無史さん:2010/12/31(金) 14:37:15
>東冶を討つ為に会稽を拠点とした とか思っているでしょ?
あれこれ余計やことを考えないで、まずは素直に「会稽を拠点として東冶を討つ」という
言葉を解釈すべきだろうな。単にこうこう書いてあるけど、賀斉伝等を合わせて考えれば
こうこうだというのはよいが、あなたのは他の資料に引きずられて元々の孫策伝の文章を
素直に理解することができなくなっているように見える。
980:2010/12/31(金) 14:39:44
また、テレビでやってたことなんだけど、数ヶ月前だったかな・・・
縄文時代の人糞の化石が残っていて、司会者が「これはなんでしょう?」って言って
ゲストにそれを答えさせるってのがあったね。

日本で、人糞を豚の餌にするなんて話あったっけな?!
日本劣等ではこの弥生時代と江戸時代に豚骨は見つかるんだが、
その間は、文献のほうで「豚」ではなく豚を「猪」と書くなんて話も
昔のスレで書き込むがあったよね。
考古のほうで、この「豚骨」と「猪骨」は比較的、見分けづらいらしいんだけど、
大分県下郡桑苗遺跡なんかでみつかったのは「豚顎」部分でここの部分からは判別が可能らしい。
なんか細かい説明を聞いてきたんだが、けっこう難しいことを言ってたのでよく覚えてないゎん〜ヾ(´∇`)
981唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/31(金) 14:46:03
>>954

則日暉炳。日夜有別。書紀はこの出来事を“あづないの罪”と説明する。
太国解釈によれば、日夜有別=日を経て数日間。と説明する。つまり
あづないの罪=日夜有別=日を経て数日間。
あづないの罪=日暉炳=雲間からの太陽の光。
となる 神功一行はこの出来事を古老から聞く。
神功一行は、宇宙人か?日を経て数日間という出来事を知らないからな。
則日暉炳。これを太国は雲間からの太陽の光と説明する。
これも同じく知らないから、地球上の人間とは思えない。

これじゃあ宇宙人に申し訳ない、太国倍年は、おとぎの国の出来事。
歴史上の出来事の説明では無い。
982:2010/12/31(金) 14:56:03
>>689
>僅か千人の奴婢がいたくらいで、超々々巨大集落というのか?
>墓造りの飯場をみつけただけで大喜びをしている畿内説信者らしいな。

江戸の大奥二千人に次ぐモノがあると思う。
徳川家康の時代でも五、六百人がどうのって話があったよね。
それに比べれば、列島の主として卑弥呼はふさわしいのではなかろうか。
983太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 14:58:02
>>956 下段
ほぼ同意。ほぼ一致しており、このことは記紀の編者らが捏造したんで
ないことを意味している。つまり各々が独立していると観るべきで創作と
いう公文書偽造同行使の共犯説は成立し難い。だから紀の内容は誤を含ん
でいるとはいえ、故意に創作捏造の代物ではない。さらに全国各地の神社
伝承、由緒を見ても独立的であり、到底朝廷か記紀の編者らから指示を受け
ての従犯書きではないということだ。従って神武より古い代の日神の話は、
8世紀の創作にはなりえない。
984日本@名無史さん:2010/12/31(金) 15:01:01
>>982
江戸城の中に巨大集落があったとは言い難いな。
985:2010/12/31(金) 15:08:06
>ほぼ同意。ほぼ一致しており

古事記・日本書紀と考古学の一致はもちろん。
魏志倭人伝もいたるところで考古学と一致している。

風俗記事の「黥面文身」にしても考古の埴輪でその一致を見ることができるし、

「今倭水人好沈沒捕魚蛤」にしろ、山の民、海の民という古代人の食生活(出土した蛤や魚の骨)で
それを確認することができる。

「木弓短下長上」にしても考古資料として発見されてるし、

「以朱丹塗其身體」にしろ朱を顔に塗る人骨(顔の部分が赤いよね)で確認ができる。
986太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 15:11:40
>>974
ほぼその通り。非常に堅実な考察であって、神功元年前年の記事は日食では
ないと観て正解である。
唐松山は同前年のあづないとかいう文章を持ち出してこちらがそれで論を
張っているように偽装を組み立てているが、こちらの言ってることはそこ
の文ではなくその近隣の文に「日を経て」という数日間継続していたという
内容があり、このことは天文学上日食が続くのは1〜2時間程度であって、
数日間の日食は電波星ではありうるかも知れないが、現今及び1500年前〜
2000年前ころでも1〜2時間程度ということで不動の最大日食時間で
あるから、これは全然日食にはならない。

これを熱帯ジャングルとかの蛮族ならば、いま日食が始まったとして、これ
を天文学的に説明し、1〜2時間で終わるから騒ぐなと言って教えても、
蛮族は唐松山のように絶対的に否定し、これを神(景行神)の怒り(如何
理)に触れるからこうなったのだという反論で天文学の絶対的法則を双方
否定する。唐松山の脳内は蛮族カルト景行狂に麻薬的に蹂躙されてるから
絶対否定するわけなのだ。ww 嘲笑して目を覚まさせねばならない。
987:2010/12/31(金) 15:20:56
今頃だけど・・・・
うましか氏の「馬」「鹿」ってそのまま読むと「馬鹿」じゃん!!
おっさん、おっさん(太国氏)、うましか氏から馬鹿っていわれてるじゃんw
ていうか、その名前の由来はなんなんだろうね?ご本人に聞いてみないとわからない。
(この人、プライドが高そうなので、僕は馬鹿です・・・ってのはないだろうが・・・w)

>>735
>銅矛文化は四国まで広がってるの

10〜20年前までは、九州を銅矛文化、近畿を銅鐸文化と呼んでいたんだが、
出雲の大量の銅鐸が出土されて以来、その言葉が言われなくなってきてるよね。
988:2010/12/31(金) 15:23:09
さあ、残り12レスでこのスレは終了だ。
私は少し疲れたんで、外出してくる。

あとはみなさんで頑張ってくれ。
では・・・・・・・・・・・・・・・・・・
989日本@名無史さん:2010/12/31(金) 15:26:43
「會稽東冶」は原文改竄
原文を見ろ、「會稽東治」になっている。

「會稽東治」は、會稽地方東部の新開地の意味だ。
「會稽」の東部を開発したので、その地を「東治」としたのだ。

では「會稽」とは何処か?
残存地名から推測すると、會稽の中心地は現在の紹興市と推定される。
「東治」の位置は、紹興市の東部であり、
倭に対して『之東』となる會稽の東部の海に面した場所であるから、
現在の寧波市と推定される。
990日本@名無史さん:2010/12/31(金) 15:30:02
「會稽東治」は、

「會稽、東治」なの?
「會稽の東治」なの?
991日本@名無史さん:2010/12/31(金) 15:38:08
會稽東治?

ローガン、うましか、名無しでもいい
食らいつけっていうか噛みつけwww
のこり9
992ローガン:2010/12/31(金) 15:39:44
>>979
>あれこれ余計やことを考えないで、まずは素直に「会稽を拠点として東冶を討つ」という言葉を解釈すべきだろうな。

え?話の前後も知らず、何が解釈できる?「余計なこと」と平気で言える神経を疑う。

>あなたのは他の資料に引きずられて元々の孫策伝の文章を 素直に理解することができなくなっているように見える。

他の資料?同一人の同一書における関係箇所なんだけど。

>「会稽を拠点として東冶を討つ」という言葉

前後の流れも考えず、ぶつ切りの字句だけをどう解釈すると云うのかな?
993ローガン:2010/12/31(金) 15:47:00
>>989
> 「會稽東冶」は原文改竄 原文を見ろ

原文は無理!

>「會稽東治」になっている。

治當作冶

994太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 15:59:54
>>969
いずれにしろ今の今まで、日本書紀の内容から空白年の存在を具体的に出し
えたオマエの提示はただの2回であるが、1回目は確か3年間だったか、
日が大分経っている過去のことなので忘れかけてはいるが、たかが3年位
では空白年との主張の文証としては稚拙に過ぎ、大した説得力はない。

2回目のは景行年代の某所を出してどこにもその年代の中の記載がないから
空白年だと言っては来たが、これでさえ先代旧事本紀大成経に具体的に何
があったかの記載とともにその中たる年代が見受けられるわけで、これでも
在る以上空白年とは言えないもので、いずれも空白年の文証にはなりえ
ないものだと判断出来る。

そうだとすれば今の今まで1個も成程と是認できうるモノの提示は出来て
ないわけで、唐松山蛮族酋長の脳内の空回りのウラ付けのない空想論だと
いうことと観るほかはない。つまり出鱈目の暴走論だと結論するのが相当
である。
995唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/12/31(金) 16:17:20
>>904 :太国 百済文献がオマエのように拒絶不使用ならば、半島文献を現今で拒絶して
いるコチラ

百済文献否定と百済本記否定では、大きく違う。
ラジオ氏の書き込みは、百済文献であっても、百済本記ではない。
太国の如く、半島文献を否定し、今の考古学の数字とも合わない太国倍年が歴史となることは無い。

後漢書193年 6月寒風冬の如し。←この文を崇神5年の出来事とすれば、
6年の逃散が説明出来る。崇神は、2世紀末である。これは、考古学の主張と同じ時空を得られる。
晋書 卷一百九  載記第九  慕容皝慕容翰 陽裕
咸康(342年)七年,皝遷都龍城。率勁卒四萬,入自南陝,以伐宇文、高句麗,…
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
342年以降百済は高句麗等と共に前燕に属す。
これ以後に倭が半島を占拠出来る状態にない。だから神功49年をこれ以降に設定しても
韓国に拒否されるだけである。
つまり神功49年はこれ以前でなければ整合性は得られない。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
331年 辛卯年(広開土王碑)。
七支刀を326年とすれば、323年 神功49年の半島占拠は肯定出来る。
ここは、クダラが百済(モザ)建国をした年であり、百済(モザ)をクダラと呼ぶ謂われが
説明出来る。
神功元年は275年であり、273年の日食が目安となる。
274年 晋が幽州を分け平州を置く、280年代東夷は洛陽を頻繁に訪れる。
東夷軍が編成されたとすれば、渡海は274年で説明出来る。

百済本記、新羅本紀を使わずとも整合性がとれなければ、歴史とは呼べない。
996太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 16:31:42
>193年 6月寒風冬の如し←この文を崇神5年の出来事とすれば
6月が冬だったのか??ww
オマエも6月に冬の状況があったことを認めるわけだな。プワッハッハww
その文で、崇神5年の出来事との仮定は成立しない。
同5年当時千人もの多勢を半島に渡海させるジャンボ船舶があったとは到底
認められない。そういう船舶製造の可能性が出て来るのは紀の崇神17年以後
であり、崇神5年にはジャンボ船舶製造のアリバイが無い。つまり整合して
いない。このことはオマエの論がいかに強行な無理を含み、合理性
ある説得力は全然見られない。つまりメチャクチャだということだ。ww

273年の日食は紀の神功元年前年には対応出来ない。そこには日を経てという
記載があり、こちらは天文学の鉄則を支持するから、唐松山酋長の言い分
たる否定を強行しても、こちらも天文学の鉄則を金剛不壊に護ることから、
この主張は軽く棄却する。つまりこれも数日間継続しない日食のことから、
不整合、不合理はミエミエのインチキであ〜る。ppp
997日本@名無史さん:2010/12/31(金) 16:34:34


今年の汚れ今年のうちに
998日本@名無史さん:2010/12/31(金) 16:36:28
ドツボ埋め
999日本@名無史さん:2010/12/31(金) 16:38:07
こいつが今年一番の馬鹿
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
1000太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/31(金) 16:40:55
>考古学の数字とも合わない
考古学の年代数字はクルクル遡上したり下降したりの上下の昇降を
やりっ放しである。これでは参考にはなるが役には立たない。
但し△の銘文のようなものは、これは説得力がある。
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