♪邪馬台国 ドンと来い♪ 81

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450日本@名無史さん
>>449
そうだろうね。公孫氏の滅亡が大きな画期になっている可能性があるな。
その勢力が大挙して我が国に入ってきた。九州勢力はその公氏の残党を利用して
東征を行った。公氏の残党は大きな墓を造って自らが生きた証とした。
そんなところかな。
451日本@名無史さん :2011/01/19(水) 14:50:54
邪馬台国連合は魏の忠実なしもべとして、半島戦略にも狩り出されるだろうから、
公孫氏の残党は、むしろ関西へ落ち延びて行ったんじゃないか?
452ローガン:2011/01/19(水) 16:01:58
>>389
>本来楽浪は315年まで続いた筈だから楽浪土器が終わりを迎えるのは315年だ。その後に古式新羅伽耶土器が始まる。

??3世紀末頃と考えられている九政洞で共伴してるけど。

453ローガン:2011/01/19(水) 16:06:45
あ〜遡って読んだら、>>354氏が結論を書いてた。
454日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:07:58
倭国は公孫氏が力を持っていた当時は公孫氏に属していたので、公孫氏の残党を
受け入れたというのは自然の成り行きだろう。しかし、公孫氏の滅亡後、倭国は
魏に接近することとなった。その状態で、九州内に公孫氏の残党の多くを置いて
おくことは魏との関係で具合が悪い。その残党を使って東征というのはありそう
なことなんだよ。
455日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:21:43
魏のシモベだったのは九州だけやん
456日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:37:42
>>434

その嫌いな関西に、東征していったことにしたい東遷説ってのは、
愛憎入り乱れた朝鮮人気質にそっくりだな。
457日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:40:18
>>456
どっちかつーとシナ人ちゃう
458日本@名無史さん :2011/01/19(水) 16:45:52
朝鮮人気質が嫌いなら、日本からナラを除外すべきだし、日本史には関われないなあ。
459日本@名無史さん:2011/01/19(水) 16:53:16
そーそー。
だからナラは、関西広域連合にはじめからは参加せず、
旨みが出てきたらもぐりこもうとか考えるのよ。
そういう人達。
460日本@名無史さん:2011/01/19(水) 17:16:34
奈良が朝鮮人ってことは、
奈良に東征していった邪馬台国は朝鮮人の国ってことだよな。
461日本@名無史さん:2011/01/19(水) 17:26:55
>>460
と、シナ人が申しております。

邪馬台国に東征していったのは公孫氏=漢氏。
朝鮮人というよりも満洲人だね、北朝鮮にもその血は濃く残っているだろうけど。

ナラ人は伽耶国あたりからの渡来人。
たぶん済州島とかの人と近いんじゃない?
462日本@名無史さん:2011/01/19(水) 17:31:53
463日本@名無史さん:2011/01/19(水) 17:37:08
>>461

で?
九州の邪馬台国も、朝鮮人が作った国なんだろ?
464日本@名無史さん:2011/01/19(水) 17:38:52
>>463
んなわけないでしょ
しつこいな
465日本@名無史さん:2011/01/19(水) 18:21:23
>>464

証拠は?
466日本@名無史さん:2011/01/19(水) 18:27:43
は?
九州に邪馬台国が「なかった」証拠を示せ?
邪馬台国を作ったのが朝鮮人では「なかった」証拠を示せ?
さすがですね。

でも、筑紫国を作ったのは朝鮮人なんじゃなあい?
467日本@名無史さん:2011/01/19(水) 18:33:11
>>452
>??3世紀末頃と考えられている九政洞で共伴してるけど。

それもトンデモの一種だ
http://avantdoublier.blogspot.com/2009/06/blog-post_26.html
「慶州九政洞にある【新羅初期の古墳】で、円形の自然丘陵の頂上部に埋葬遺構を設けて、丘陵自体を墳丘化した特異な構造のものである。
埋葬遺構は、地面に長方形の土壙を掘り石槨を設けたのち、その内部に木棺と副葬品を設置した形式である。
この古墳は、2基の埋葬遺構が約1mの間隔をおき南北に合葬する夫婦怩ニ推定されている。
北側の遺構は、長さが8m、幅1.3mで、ここからは鉄槍や環頭大刀・鉄斧などとともに短甲が出土し、夫の墳墓と推定された。
なお、ここでは幾つもの瓦質土器と粗質な硬質土器がいっしょに出土して、この墳墓が、瓦質土器が
本格的に硬質土器へと移行する時期である3世紀末に営造されたものであることが証明された。」

新羅が三世紀末にできた事になっているぞ。
新羅が出来たのは楽浪が滅んだ後だ。楽浪に支配されたまま国が出来る事はない。
まあ、これは韓国の捏造癖としても、この年代観で言っても、畿内では庄内式土器と共伴し、九州では布留式土器と共伴する。
これを合理的に考えれば、布留式土器は九州で発祥し、4世紀はじめ、その頃、畿内はまだ庄内式の時代だったという事だ。

九州と畿内に年代差が無かったとしても、布留式土器の時代は三世紀末以前に遡る事は出来ないということだ。

つまり、箸墓はどう頑張っても寺澤の言うように卑弥呼の墓ではなく、壹與の墓でもなく、次の男王にしかなりえないのだ。
判ったかね?
468日本@名無史さん:2011/01/19(水) 18:57:26
「新羅初期の古墳」が「3世紀末」っていってるのは
韓国の国立中央博物館の図録じゃん
邪馬台国畿内説による年代遡上の陰謀って
日韓双方の研究者が協力した国際的プロジェクトなんだね
469日本@名無史さん:2011/01/19(水) 19:30:33
バカな言い争いをしているやつがいるな
確かなことは、今の韓国は、明治以降の日本が近代化を援助して出来た国だ
感謝しろよ朝鮮人め!
470日本@名無史さん:2011/01/19(水) 19:45:36
>>467

頭わるぅ〜

プゲラ

471ローガン:2011/01/19(水) 20:58:21
>>467

>判ったかね?

わかった。君が、布留0が布留式だと思っている事が。
472日本@名無史さん:2011/01/19(水) 21:07:46
だから布留0は三世紀末だ。
そしてホケノ山からは布留1が出ている。
473日本@名無史さん:2011/01/19(水) 21:18:57
>>468
日本側がとんでもない年代を振りかざすから韓国側も折れたんじゃないかな

申敬Kは古式陶質土器の現れた年代を三世紀末から四世紀中葉と幅を持たせている。
ところが日本で学位取る時には三世紀末としている。
日本の学位審査したやつがガリガリの畿内論者白石だったから、学位審査を通る為には4世紀中葉と言う所は棚上げにした。
三世紀末から四世紀中葉の間をとれば楽浪が滅んだころと一致する。
韓国側の年代観はこっちが本当だろう。
474日本@名無史さん:2011/01/19(水) 22:04:25
>>473
韓国国立中央博物館の図録の発行年は1988年だよ
年代を考えてみてね
475日本@名無史さん:2011/01/19(水) 22:30:32
>>472
畿内説は布留1や布留2はいつにするんだろう?

布留2までいくと確実に400年をまたぐよね。
馬具の副葬は400年頃からという定説を否定しない限り。

この前提に立つと、布留1は400年頃に近くなる。
それを認めると布留0は300年以前にするのが難しくなる。

そこで布留の各型式を長期間にするという手もあるけど、3なぜ布留だけ
長くできるのか、という問題がある。


ということで、大多数の学者は布留2の年代は口ごもって言わない。
白石は馬具を350年頃まで遡上させようと観測気球を上げるが誰も追随しない。


もう布留0が300年以降というのは、共通認識に近いけど、それを言い出すと
畿内説が成り立たないので、誰も口に出せない。
476日本@名無史さん:2011/01/19(水) 22:41:20

■好評受け販売実現 - 纒向遺跡“名物”木製仮面クッキー

奈良新聞 2011年1月19日 
http://www.nara-np.co.jp/20110119181039.html

 桜井市の纒向遺跡で出土した木製仮面をかたどったクッキーが、JR三輪駅前の「軽茶テラス三輪座」で今月から販売されている。逆おむすび形の輪郭や切れ長の目は出土品にそっくり。考古学ファンはもちろん、三輪山登拝の女性にも人気という。

 同クッキーの誕生は2年前。当初はコーヒーに付けるサービス品だったが、同店を運営するNPO法人「三輪座」(川端規央理事長)が客の要望に応えて販売を始めた。

 地元物産品を販売していた三輪座が喫茶コーナーをオープンした際、川端理事長の妻、稔子さん(49)が記念品として考案。来店者から好評を集め、自家製クッキーを販売している市内の福祉施設に製造委託することで販売が実現した。

 纒向遺跡は邪馬台国の有力候補地で、木製仮面は祭りに使ったと考えられており、稔子さんは「纒向遺跡を知らない人もおり、クッキーを通じて桜井をPRできたら」と話している。

 木製仮面クッキーは大3枚入り280円、小5枚入り300円。三輪座は午前10時から午後5時まで営業。水曜定休。問い合わせは、電話0744(43)5621。


記事の詳細は本紙をご覧下さい ⇒ 【 奈良新聞を購読する 】


・販売が始まった木製仮面クッキー。中央は仮面の模造品=桜井市三輪の三輪座
http://www.nara-np.co.jp/photo/ac5175b0804ca7bc24ec90fc45636092.jpg
477日本@名無史さん:2011/01/19(水) 22:47:18

■大和発掘物語:ホケノ山古墳(桜井市)/中 地味な資料「鉄鏃」に注目 /奈良

毎日新聞 2011年1月19日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20110119ddlk29070584000c.html

 県立橿原考古学研究所総括研究員の水野敏典さんは、研究所などが99年9月から1年以上にわたり実施したホケノ山古墳(桜井市箸中)の調査に加わった。「すごく地味な資料なのですが、私たちは鉄鏃(ぞく)に注目しました」

 長さ4〜5センチの鉄の矢じり。「分厚くてお尻が丸く、見たことがない変な形をしていました。類例を探すと、いくつもあったんです」。
弥生時代と古墳時代をつなぐ時期の墳墓群として著名な宮山遺跡(岡山県総社市)。京都府南丹市の園部黒田古墳や千葉県市原市の神門5号墳などでも見つかっていた。

 さらに注目したのは「『へ』の字形鉄製品」の大量出土だ。これも、最も古い段階の前方後円墳である浦間茶臼山古墳(岡山市)や、「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる三角縁神獣鏡を大量に出土した椿井大塚山古墳(京都府木津川市)などに類例があった。

 「鉄鏃は消耗品だし、『へ』の字形鉄器は用途も分からない地味な資料。しかし、各地の墳墓で副葬品として納められているのだから、偶然の一致ではありません」。
水野さんは、弥生から古墳時代への過渡期に築かれた墳墓が、墳墓祭祀(さいし)を共有するネットワークを広範囲に築いていた事実を重視した。大事なのは珍重さではなく、共通性だというのだ。

 最後に、水野さんが取り上げたのは、やはり鉄鏃。それも中央を走る稜線「鎬(しのぎ)」だった。
 「刀のような鎬がある鏃は見たことがありませんでした。『新型』の生産に取り組んでも、1回きりで終わったり、途中で『廃盤』になるものもある。鎬のあるこの鉄鏃はおそらくテスト品で、これっきり製造されなかったのでしょう」。
そう考える水野さんは、こう締めくくった。
 「人々が作り、使っていたものである遺物は、各地域や人々がどんな関係を結んでいたかを知る貴重な材料になります。だから、遺物は、目立つものより、ささいなもののほうが確実な証拠になるのです」【山成孝治】
478日本@名無史さん:2011/01/19(水) 22:54:35
>>475  につづけて
庄内を3つも4つも分けたように布留も細分化するんかな。

庄内は土器の形じゃなくて、共伴する土器の種類で細分化するから、土器の
変化はわずかなんだよね。かなり無理をして細分化している。

しかも、この細分化が成り立つ地域は、ヤマトくらいだろうに。
細分化が成り立たないほかの地域や、庄内を出土しない大多数の地域では
庄内の型式変化の期間は、時間が止まったことにでもなるのかね。


あの茶番に突っ込みを入れる勇気のある学者はいないのか?

479日本@名無史さん:2011/01/19(水) 23:47:51
現役の考古学者のいうことは信じられないんでしょ?
だったら自分自身でやるべきじゃないの?
480日本@名無史さん:2011/01/20(木) 00:49:22
九州説と違って畿内説は大人でなければつとまりません。
なにせ自分でも正しくないとわかりきっている「学説」を支持するのですからね。
そうしなければ自分の未来が拓けないというのならば、迷うことなくそうしますよ。
それが大人のやりかたというものです。青臭い九州説の人たちにはわからないでしょうが。
ええ、普通に考えれば九州だというのは誰にでもわかりきっていることです。
しかし世の中というものは不条理に満ちたものであるということですよ。
481日本@名無史さん:2011/01/20(木) 05:21:37
マキムクが4世紀なら、
唐古・鍵が邪馬台国の都ってことで、そっちのほうが人もいっぱい住んでるし歓迎するけどな。
482日本@名無史さん:2011/01/20(木) 08:20:23
どっちかと言われれば時代的にも
唐子鍵のほうが妥当だろ。
483日本@名無史さん:2011/01/20(木) 09:16:52
唐古・鍵の時代なら吉野ヶ里も候補として浮上する。
伊都の南にあるし。
484日本@名無史さん:2011/01/20(木) 09:40:06
>伊都の南にあるし。
距離を考えれば南九州だろ。それに、人口も多いし、三世紀半ばから大発展してるし。
485日本@名無史さん:2011/01/20(木) 10:20:45
”邪馬台国”を掘る
ttp://www.nhk.or.jp/special/onair/110123.html
486日本@名無史さん:2011/01/20(木) 10:45:38
>>461
楽浪系の奇妙な鏡を大量に作っているし、
墓制も邪馬台国連合とは異なり、北方系だからなあ。
487日本@名無史さん:2011/01/20(木) 12:10:17
吉野ヶ里は朝鮮人が開拓したわけだが。

あのへんは朝鮮系の遺物がとにかく多い。
488日本@名無史さん:2011/01/20(木) 12:54:29
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            | .ヽヽ ヽ "''''''''''''" ノ  /  /  |        
            |  ヽヽ  "''''''''''''"    ノ   |        
            |    ヽ         /    |
                 丶 __   

織田信成が織田信長の子孫って本当?【4代目】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/skate/1281832265
489日本@名無史さん:2011/01/20(木) 15:11:37
>>484
西都原は関西同様、公孫氏の落ち武者っぽい。
490メ(畿内説):2011/01/20(木) 18:21:52
>>443
>三国時代は支配者の巨大な墳墓、金工品の発展、陶質土器によって特徴づけられる。陶質土器は瓦質土器よりも高温での焼成が可能となったものである。
>陶質土器のうち日本列島に主に流入するのは慶尚南北道、新羅・加耶地域のものである。
>しかし、三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころのこの地域は土器の地域性が明確でない。また、地域性が発現することと、古墳などのほかの文化現象との関連性も想定されている。
>地域性発現以前の慶尚南北道の土器は「古式陶質土器」と呼ばれるが、この時点で、慶尚南北道の土器と馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、
>馬韓・百済の土器と区別するため,慶尚南北道のものについては武末純一の提唱する古式新羅加耶土器の用語を用いることとする〔武末1985:138〕。
>つまりだな、「古式陶質土器」は「三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころ」の物なんだよ。
>ところが(4) 古式新羅加耶土器―古式陶質土器
>まず、生活遺構での出土例は福岡県糸島郡志摩町・御床松原遺跡35号・37号・59号住居跡〔井上(編)1983:80,82-83,85,90-91〕など、北部九州に集中している。
>北部九州の生活遺構での畿内布留式系土器の登場と陶質土器の登場が同時期であることは、柳田康雄がすでに指摘している〔柳田1991:43〕。
>少なくとも九州に布留式土器が登場した頃、と陶質土器が九州に現れた時と同時な訳だ。
>九州は畿内より遅れていたと言う話になるのか?
>この頃まだ九州の方が鉄器の量で畿内を圧倒しているぞ。
>畿内は九州から鉄の供給を受けていたから、布留式土器は鉄を手に入れる為に畿内の産物を九州に持ってきて鉄と交換したのだろう。
>九州が畿内より遅れている事はあり得ない。
>即ち、布留式土器の時代は土器編年から言っても韓国の土器編年と比較すれば4世紀になる。
>古式新羅加耶土器は定義からして4世紀の物で、この始まりを3世紀中葉にもって行った
>いい加減にあきらめたらどうだ?

スレ違い
http://kamome.2ch.net/archeology/[考古学板]
ごちゃごちゃいうやつは、こうするにかぎるwwww
491日本@名無史さん:2011/01/20(木) 20:07:44
>>490 ドツボ

ローカルルールで「邪馬台国」は日本史板になっている。

(しかし今IEで考古学板覗いてきたが以前あったローカルルールの表示なくなってたな)

まあ邪馬台国と言うのが分類的に中途半端なんだろう。

元々は文献史学から提示された問題ではあっても
現実問題、考古学を用いなければ前進しない。

で、文献とかに比重を置くと記紀を持ち込んだり
中には九州王朝なんて与太を持ち込むおかしな奴が湧いたり、考古学を志向する人間が眉をひそめるのも判る気がするw
492太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/20(木) 20:10:19
年号があるから、九州王朝が無いと言う奴が与太脳だ!!
493日本@名無史さん:2011/01/20(木) 20:16:16
九州王朝というネーミングにこだわるから、拒否反応が出る。

要は「倭国は、はじめ九州にあった」ということ。
そういう説なんだよ。
494:2011/01/20(木) 22:57:23
こっちもあげてやろう
(邪馬台国スレはおれが仕切ってるわけではないが・・・w)

>>491
490は洒落だよw
443の内容は面白そうな記事だったんだが結構難しく・・・
うーん、何て答えようか迷い、レスとしてそうなったて事だw
495日本@名無史さん:2011/01/20(木) 23:03:19
メ は人クラゲ
496日本@名無史さん:2011/01/21(金) 09:39:56
なるほど。>>443氏の意見は、分かりやすい。
497日本@名無史さん:2011/01/21(金) 19:23:51
 邪馬台国の最有力候補地とされ「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される奈良県桜井市の
纒向(まきむく)遺跡で、昨年9月に大量のモモの種が見つかった人工の穴(土坑(どこう))
の中に、多彩な海産物や栽培植物も埋められていたことが分かり、桜井市教委が21日、
発表した。卑弥呼の時代の、大量のモモと山海の幸を集めた祭祀(さいし)の状況も浮かび、
市教委は「バリエーションに富んだ供物が並んだ祭祀が鮮明になってきた」としている。

 土坑(南北4・3メートル、東西2・2メートル、深さ80センチ)は大型建物跡(3世紀前半)の
約5メートル南で、3世紀中ごろの穴と推定される。

 市教委が土坑内の土嚢(どのう)400個分の土をふるいにかけ、動物の骨や歯と9760点
の植物の種を採取。骨や歯は宮路淳子・奈良女子大准教授(環境考古学)、種は金原正明・
奈良教育大教授(植物考古学)が分析した。

 結果、動物は魚類のマダイ、ヘダイ、アジ、サバ、コイ科、ほ乳類のニホンジカ、イノシシ、
ネズミ、鳥類のカモ科、両生類のカエルの10種で、植物は73種類を判別した。植物の
約半分は食用で、2765点のモモを筆頭にイネ、アサ、コウゾ、ウリ、ヒョウタンが多く、
果実酒原料のニワトコやサルナシもあった。

 また、金原教授による花粉の分析で、土坑周辺にモモ林が広がっていたと推定できる
という。

 分析で使われた種や骨は桜井市立埋蔵文化財センターで22日〜2月27日に展示される。

 ■和田萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)の話 「すべてが神饌(しんせん)
として供えられたのかは検討が必要だが、各地から色々な食材が集まっているのは
面白い。纒向遺跡が単なる農村ではなく都市的な場所であったことを改めて明らかに
したことが重要だ」

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110121/art11012117300064-n1.htm
498ポキール:2011/01/21(金) 19:27:23
>>493

>要は「倭国は、はじめ九州にあった」ということ。
そういう説なんだよ。

九州にあったんじゃなくて、現在の九州を倭国と認識されていたのではありませんか。
倭国というのは、外国から見たものだし
外交関係国家に対しての呼称だとおもいます。
499日本@名無史さん:2011/01/21(金) 20:28:32
今日のニュースで言ってたが、邪馬台国とは全然関係がない巻向遺跡で、魚の骨が
出土したそうだな
邪馬台国と耳にしたので、一瞬興味を持ったが、邪馬台国とは関係ないニュースだったので
がっかりした。
500日本@名無史さん:2011/01/21(金) 21:21:13
荒神谷遺跡っていつの時代なんだろうね?
倭国大乱の時代だったら邪馬台国はマキムクでいいんだろうね。
501日本@名無史さん:2011/01/21(金) 21:33:23
>>496
> 分かりやすい。

そうか? 俺はわかりにくいけどな。

「古式新羅加耶土器の始まりを3世紀中葉にもって行ったような編年は有り得ない」
という理由が
「古式新羅加耶土器は定義からして4世紀の物」
ということなんだけど、白井氏は
古式新羅加耶土器とは「地域性発現以前の慶尚南北道の土器」で
その地域性が発現される以前というのが「三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころ」
と書いているだけ。
で、その白井氏自身が古式新羅加耶土器の始まりを3世紀中葉にもっていってるじゃん。

結局、
「古式陶質土器」は「三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころ」の物
なんて定義はどこにもないんじゃねーの?
>>443が都合良く曲解してるだけってことだ。
502日本@名無史さん:2011/01/21(金) 23:05:52
とりあえず…

参考)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:gQKg18olRrUJ:www.gayasa.net/gaya/Japan/Museum/download/togi.hwp+%E7%93%A6%E8%B3%AA%E3%80%80%E9%99%B6%E8%B3%AA%E3%80%80%E9%81%95%E3%81%84&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

(1) 加耶土器の登場

前にも觸れたように、加耶土器を代表するのは陶質土器です。
しかるに、この陶質土器の登場については多樣な意見があります。

そのなかでも、陶質土器は瓦質土器の製作と同時に出現したとみる解釋,
あるいは瓦質土器から發展したとみる解釋、
または?浪郡の滅亡を契機に陶質土器が登場する四世紀初に求める見解などが代表的です。

この問題はさほど單純ではありません。現在までの加耶遺蹟の調査成果をみる限り、陶質土器は肩部に二つの耳がぶら下がった短頸壺、
すなわち?耳附圓底短頸壺の登場と密接な關聯をもつのは疑問の餘地もありません。
最初の陶質土器はすぐに?耳附短頸壺の形態と現われ、または最初の?耳附短頸壺と同時に出現するためです。

(中略)

特に陶質土器と殉葬などが韓半島の北部と中部地域を飛び越え、中國北方から遙かなる韓半島の最南端、?東江下流域で出現している点、
そのうえに北方の物質文化のみならず、精神文化もいっしょに同伴している点、
そんな北方文化の出現と共に?南地域で大きい變革が看取されている点などで、陶質土器を始めとする北方文化は,
その文化をもつ特定な北方民族の洛東江下流域への移住の所産である可能性が高いんです。

陶質土器が登場する時期は、その祖型になる中國北方の?耳附壺が西晋代のものという点や、
日本列島の考古遺物との比較によって紀元後280年代前後に當たると思います。
?耳附壺と象?される洛東江下流域の陶質土器は中國北方の土器文化の影響によるものですが、中國北方製ではなく、加耶在地の陶工によって作られたことに注意しなければなりません。
すなわち、加耶土器は始めから加耶化して生成されたことです。
503502:2011/01/21(金) 23:09:21
まあ「陶質土器の登場」が年代の指標になるのは間違いないんだろうが
それが楽浪滅亡(315)だと言うのは諸説あるうちの一つなんじゃないのか?


しかしこの話って、何処かで聞いたような話だと思ったが

「神獣鏡は呉が滅亡した後に魏に流出してその後日本にやってきた」

…ってお話と似ていると思ったのは俺だけ?wwwwwwww
504日本@名無史さん:2011/01/21(金) 23:23:12
というか加耶の陶質土器は焼成温度の違いはあるにしても製法上色濃く瓦質土器の影響を
受けているのは間違いない。狗邪韓国が加耶に移行したのは近年の発掘成果で3世紀
後半となり、ここが一つの画期となって登場したと考えるのがもっとも整合性があるだろう。
280年頃というのは妥当な見解。
505日本@名無史さん:2011/01/21(金) 23:23:27
>>496
根本的にズレてるよ、大体倭人伝の記述では
鉄自体が重視されてる訳じゃない。
邪馬台国が進んだ地域と書かれている訳でもないしな。

水銀朱、丹についての記述の方がよっぽど多いから。
506日本@名無史さん:2011/01/21(金) 23:24:16
ローガン かかってこいww
507日本@名無史さん:2011/01/21(金) 23:29:27
メ は人クソムシ
508ローガン:2011/01/22(土) 02:41:24
>>506
> ローガン かかってこいww

面倒くさいなあ。>>439氏がちゃんと、指摘してるやん。
まあ、敢えて云うと…

>>389
>本来楽浪は315年まで続いた筈だから楽浪土器が終わりを迎えるのは315年だ。
>その後に古式新羅伽耶土器が始まる。 韓国側の通説では古式新羅伽耶土器が始まるのは楽浪が滅んで、新羅伽耶に楽浪の文化が流入したためとされているんだが、
>日本の学者は半島の事情を全く無視して古式新羅伽耶土器の始まりを3世紀中葉にしている。

「朝陽洞遺跡は紀元前1世紀から約3世紀の初頭」。
九政洞古墳出土の土器は「いわゆる朝陽洞の瓦質土器と、陶質土器が一緒に出ています」
「表面に気泡がいっぱい出ている非常につくりの悪い土器です。慶州地域では古い段階の陶質土器ではないかと思っています」
この389の人は上で、異なった地域においても同じ土器なら、同時であると主張していた。これにしたがうと朝陽洞遺跡と九政洞古墳は同じ時期と判断される。
「」内はシンポジウム日韓古代史の謎、にある韓国国立中央博物館館長の言。

>韓国側の通説

私の引用したのは、1992年の本。韓国側の新しい年代観が、下がっていると云うのなら指摘してね。

>>423
勝手に韓国の土器年代を捏造しちゃいかんぜよ。

誰も捏造してないと思うけどね。3世紀中葉なら穏当。
509ローガン:2011/01/22(土) 03:13:01
追加
>>443
>三国時代は支配者の巨大な墳墓、金工品の発展、陶質土器によって特徴づけられる。
>つまりだな、「古式陶質土器」は「三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころ」の物なんだよ。

当然、間違い。「支配者の巨大な墳墓」発生以前に陶質土器はあった。理由は既出。

>>467:日本@名無史さん 2011/01/19(水) 18:33:11 AA
>>452
>>??3世紀末頃と考えられている九政洞で共伴してるけど。
>それもトンデモの一種だ
http://avantdoublier.blogspot.com/2009/06/blog-post_26.html

>まあ、これは韓国の捏造癖

「日本側が韓国土器編年を捏造」と言ったかと思ったら、今度は韓国側が捏造だと…。
きっと自説以外は全てトンデモなんでしょうね。
510日本@名無史さん:2011/01/22(土) 16:29:19
テスト
511日本@名無史さん:2011/01/22(土) 18:36:00
>>509「日本側が韓国土器編年を捏造」と言ったかと思ったら、今度は韓国側が捏造だと…。

韓国は50年くらい古い方に狂っている。
日本の学者がとんでもない年代を主張するものだから、韓国側も少し日本側にすり寄ったのだろう。
これを捏造と言っているんだが。
そして邪馬台国畿内説の中でも箸墓=卑弥呼の墓論者はさらに50年狂っている。
箸墓=卑弥呼の墓論者は確信的に嘘を言っている。これは捏造以外のなにものでもない。
512日本@名無史さん:2011/01/22(土) 18:39:35
畿内説だからといって、卑弥呼の墓=箸墓にこだわらなくてもいいと思う。
513502:2011/01/22(土) 18:44:24
加耶土器の祖型が西晋代に求められると言う点やその他
そして先に出たように九州において陶質土器と布留の出現がほぼ同時とするなら
やはり 布留0=280頃 と言うのは妥当な線なのか?

…にしても箸墓が卑弥呼の墓か否かと言うには微妙と言うかw

まあ特定の人物の没年に合わせて…とまでなると
土器編年からその絶対年代を計ること自体が精度的に無理なんだろうがwww

しかし陶質土器の出現の年代は後の須恵器の登場時期の年代にも関わってくるのかな?

今後半島で>>502のような研究が進めば日本の須恵器の登場年代をもっと早期に見ようとする動きに追い風になる?

まあそうなったら今度は
「韓国の捏造だ!」とゴミクズレベル九州説はわめき散らすんだろうがwww


514日本@名無史さん:2011/01/22(土) 18:49:46
>>512

同意。

畿内説と言うか現在九州説が絶滅危惧種にまでなっている
根本はそこにはないwww

まあゴミクズレベル九州説としては噛み付きやすいところではあるんだろうがw

そもそも徇葬百人なんて出ている時点で話に尾鰭が付きまとった伝聞の伝聞
・・・ぐらいの事は想像できるだろうにw

個人的には「卑弥呼の墓」なんて一種ファンタジーの類だと思っているwwwwww
515ローガン:2011/01/22(土) 21:25:44
>>511
>これを捏造と言っているんだが。

うふふ。ごまかしても駄目。君は423で、
>勝手に韓国の土器年代を捏造しちゃいかんぜよ。韓国では「古式新羅伽耶土器が始まるのは楽浪が滅んで、新羅伽耶に楽浪の文化が流入したためとされている」だ。
>日本は韓国の学者より韓国の考古に詳しいのか?それを無視して出鱈目な土器編年を作っているのが日本と言う事。

と言っている。韓国の考古学者が正しいにもかかわらず、日本の考古学者がそれを無視して編年を捏造しているという意味だ。
しかし、君は九政洞など知らなかった。慌てて検索したら、そこで見た韓国側の年代観は君の説とは合わないものだった。
仕方ないので、今度は韓国側も捏造だと言い出した。 どうしようもない人だね。
516日本@名無史さん:2011/01/22(土) 22:23:08
>>515

韓国の方が日本よりは少しだけまともだろう。
日本の方が、いや畿内説の方が悪質だと言っている。
韓国は日本があまりに飛んでも無い年代を振り回すので少し日本にすり寄って来たというのが実情だ。
新羅伽耶が生まれてもいない時代に、古が付くとは言え、新羅伽耶土器が生まれる筈もない。

箸墓から出土した鐙を考えても箸墓は4世紀後半より早くは出来ない。
半島で鐙が普及するのは5世紀に入ってからだからな。
高句麗壁画を見ても4世紀の壁画には鐙が無く、五世紀になってようやく一部の壁画に鐙が描かれるようになっている。
高句麗より150年も早く日本に鐙が来たらおかしかろう。
517日本@名無史さん:2011/01/22(土) 22:46:07
>>516 ヨコから
> 新羅伽耶が生まれてもいない時代に、古が付くとは言え、新羅伽耶土器が生まれる筈もない。

「古式新羅伽耶土器」ってのは「地域性発現以前の慶尚南北道の土器」を「馬韓・百済の土器と区別するため」に
便宜的につけたネーミングだろが。
新羅伽耶が生まれる生まれないとはなんの関係もないってことが読んでて解らないんだな?

曲解かと思ったが読解力がないだけだったか、無頭派クン。
518日本@名無史さん:2011/01/22(土) 23:06:33
>>517

更にヨコからwwwww

>新羅伽耶が生まれてもいない時代に、古が付くとは言え、新羅伽耶土器が生まれる筈もない。

例えで言うと「安土桃山時代」と言う時代区分があるからと言って

「伏見桃山城ができる前に安土城ができてるはずがない!」

とか言っているようなもんだろうか?wwwwwwww


519日本@名無史さん:2011/01/22(土) 23:12:07
それは言ってて苦しいというか、おかしいことがさすがに自分でもわかるんだろうな。www
なぜか鐙の話になった。ww
ただ、伽耶の建国とヤマト王権への鉄の供給を考えたとき、どうしても半島の影響というものを
考えざるを得ない。かの亀旨峯とかね。
520日本@名無史さん:2011/01/22(土) 23:37:49
鉄っていうのは山を丸焼きにしないと作れなかった。そして、朝鮮半島は土地
的に一回丸焼きにすると木が育つまで回復しにくいので全土がハゲ山みたいな状態で
もう焼く山がなかったのでたたら衆が日本に渡ってきて出雲に拠点を置いたわけ。
日本は山を丸焼きにしても30年ほどで木々が生い茂り回復するので。
521日本@名無史さん:2011/01/22(土) 23:45:32
まあ現在の北朝鮮の洪水被害なんかは
燃料不足になって農民が山で木を伐採しまくった事も原因とも言うしなあ・・・
522日本@名無史さん:2011/01/23(日) 07:24:40
>「古式新羅伽耶土器」ってのは「地域性発現以前の慶尚南北道の土器」を「馬韓・百済の土器と区別するため」に
便宜的につけたネーミングだろが。

辰韓土器や弁韓土器はちゃんとあるだろうが。なぜ弁辰韓土器でいかんのだ?
君は「古式新羅伽耶土器」と名前を付けた経緯を知らないらしいな。
4世紀の新羅・伽耶地域に発生した土器で区別がはっきりしないから、古式新羅伽耶土器と付けられたのだ。
五世紀になるとこの地域差がはっきりしてきて分けられるようになる。

523日本@名無史さん:2011/01/23(日) 09:22:08
古新羅伽耶土器と新羅土器、伽耶土器が分かれたきっかけは広開土王の南下で、高句麗が新羅を臣下にした後の事。
それ以前の土器が古新羅伽耶土器なのだ。
だから、古新羅伽耶土器は4世紀なのだ。
そして百済・新羅・伽耶が発祥したのも4世紀。
当たり前の話だな。
524日本@名無史さん:2011/01/23(日) 09:33:34
単にその名称・ネーミングで遊んでいるだけ、実に下らない。

結局は「4世紀から」と言うのは

「古式新羅伽耶土器は4世紀からのものと言うのが定義だからだ」

…と繰り返しているに過ぎない馬鹿か?

縄文土器でも弥生土器でも、あるいは布留でも庄内でも
当初想定されていた年代やその出土範囲なんて後の進展でいくらでも変わってくる。

それを根拠にするのなら、じゃあ消滅寸前の楽浪に、その加耶に繋がる土器があり
系統的にそれが証明されているのか?

そのような研究成果が韓国の学者によってなされていて

「これこれこう言う資料があるので4世紀からと言うのは動かせない」

…と言うのなら兎も角
自分達に都合の良い定義の一つにしがみ付いているだけ。

この手のゴミクズレベル九州説のアホ丸出しの展開はもう秋田。


525日本@名無史さん:2011/01/23(日) 10:32:56
526日本@名無史さん:2011/01/23(日) 10:45:36
陶質土器のうち日本列島に主に流入するのは慶尚南北道、新羅・加耶地域のものである。
しかし、【三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころ】のこの地域は土器の地域性が明確でない。また、地域性が発現することと、古墳などのほかの文化現象との関連性も想定されている。
地域性発現以前の慶尚南北道の土器は「古式陶質土器」と呼ばれるが、この時点で、慶尚南北道の土器と馬韓や百済の土器とはかなり異なっているので、馬韓・百済の土器と区別するため,
【慶尚南北道のものについては武末純一の提唱する『古式新羅加耶土器』の用語を用いることとする】〔武末1985:138〕。

『古式新羅加耶土器』の定義は『ほぼ4世紀にあたるころ』の『地域性が明確でない』時代の土器の事だ。
解ったかね?
新羅土器と伽耶土器がはっきり分かれるのは高句麗が南下して新羅を支配下に置いてからだ。
つまり五世紀初めになって地域性が出てくる。

527(>_<):2011/01/23(日) 10:53:23
>>524
ほら 2chのジョーカーは>>526氏に負けてるじゃないか(レスを比べると)

観戦者(ロムラー)が楽しめるように反論してくれw
528日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:17:13
>>527 ドツボ

「観戦者(ロムラー)が楽しめるように」じゃなくて、お前が分る様にだろう?

下らない茶々入れる前に少しはてめえの脳味噌で考えろ阿呆。
529日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:18:28
>>527

いやね、陶質土器とか、そういう問題じゃないの。

あきらかに1世紀頃から、いわゆる九州主体の青銅器文化は、九州のみならず、
四国や出雲まで広がってるし、同時期に、近畿のいわゆる銅鐸文化もまた出雲〜東海まで広がってる。
邪馬台国が九州の一地域の連合国だという考えをする時代はとっくに終わったの。

九州が、出雲や四国と交易していたのなら、
卑弥呼を共立したクニも出雲や四国を含めて考えるしかない。
すると、出雲や四国と交易していた吉備や近畿のクニも卑弥呼共立に無関係とはいえなくなる。

結果、九州〜東海の広範囲のクニから卑弥呼は共立されたと考えるしかない。
その前提で、卑弥呼の都はどこにあったかを考えるならば、
マキムクしか考えようが無いということ。


530日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:24:29
今晩、NHK9:00から邪馬台国論争だね。
531日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:34:46

■NHKスペシャル:「“邪馬台国”を掘る」 発掘調査に3カ月密着

毎日新聞 2011年1月20日
http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20110120dde012200019000c.html

 ◇古代史最大の謎に迫る

 歴史学者、白鳥庫吉と内藤湖南による邪馬台国論争から100年の昨年、邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で発掘が行われた。
NHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」では、3カ月間の発掘調査に密着。出土物の分析と取材をもとに、古代史最大の謎に迫った。【岩崎信道】

 纒向遺跡は東西2キロ、南北1・5キロの巨大遺構。09年の調査では、卑弥呼が生きていた時代にあたる3世紀前半の地層から、東西に軸をそろえる王宮跡が見つかった。
弥生時代末期の3世紀に、突如建設された日本列島の中心都市だったことが明らかになり、謎に包まれた幻の国・邪馬台国の最有力候補地とされている。

 邪馬台国論争に決着をつけるべく、昨年7〜10月、建物群の周辺で桜井市教育委員会による発掘が行われた。注目は3世紀半ばに掘られた土坑の調査。王の実像を知ることができる出土物が期待された。
その結果、纒向が連合国家であったことを示す土器や人為的に破壊された銅鐸(どうたく)などが多数出土。特徴的なのは、2000個以上のモモの種だ。
モモは古代祭祀(さいし)で供物に使われたとされ、1カ所からこれほど多数出土したのは国内初という。

 これらは何を意味するのか−−。

 番組スタッフは発掘調査に密着するとともに、中国取材や気象考古学の研究を交えて謎に迫った。その結果、魏志倭人伝に記述された、卑弥呼が用いたとされる呪術「鬼道」の姿が、浮かび上がってきたという。

 ミステリアスな展開。番組は、邪馬台国=纒向遺跡を証明し、論争を決着させる内容まで踏み込めるのか。

 増田秀樹プロデューサーは「九州説、近畿説の争いは、まだ続くでしょう」と意味深に笑う。

 「一つの穴から何千点という出土物が出てくる様子をカメラにとらえたので、発掘ドキュメントとして楽しんでいただきたい。さらに、モモの種という想像もつかなかった物が意味することを解明していくプロセスが見どころです」

 放送は23日午後9時から。
532(>_<):2011/01/23(日) 11:39:37
>>528 はジョーカーか?
きっとジョーカーはYAHOO掲示板の来襲に精神的に相当ぉ追い込まれてるなw
おれに助けを求めてないでw YAHOO掲示板の奴らなんて大したことないんだしw

>>529
多くの畿内説論者は貴方と同じような考えでいると思う。
私も畿内説でマキムクに同意なんだが・・・
なぜ機内でもマキムクになるかというと〜何といっても箸墓に代表されるような
150メートルを超す超巨大な古墳群が突如として現れる。 
この巨大古墳群はその後の長きにわたる、古墳時代として全国各地に広がるんだが、
これはどうしようもない事実であり、おおくの日本国民が納得せざるを得ない。

>>530
情報ありがとさん みなさんみましょうね。
533日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:59:06
考古学上の成果から、九州〜東海まで交易が行われていたことがわかってる。

このうえで、なおも九州説を唱えるならば、
九州の独自に卑弥呼を共立していたこと、近畿と政治的な断絶があったことを証明する必要がある。
それができないなら、九州説なんてとっとと捨てるべき。
534日本@名無史さん:2011/01/23(日) 12:04:38
今夜からしばらく邪馬台国関連スレは大荒れになるなw
九州説のファビョン祭りでw
535ローガン:2011/01/23(日) 12:53:40
>>526
念仏のように同じレスを繰り返す割には、自身が引用した文すら読めていないようだね。 君が引いたサイトに書かれているのは、

>しかし、三国時代の初め、ほぼ4世紀に当たるころのこの地域は土器の地域性が明確でない。また、地域性が発現することと、古墳などのほかの文化現象との関連性も想定されている。

つまり、三国時代の土器の地域性の発現は「巨大な墳墓、金工品の発展」との関連が考えられると云う事。
しかし「ほぼ4世紀に当たるころ」はまだ、その土器の地域性が発現していない。これは、私が先日引用した書でも、韓ビョンサム氏が触れている。
「新羅地域も加耶地域も同じ様相を見せている。同じ系統の土器の発展段階がみられる。洛東江を中心にした両側が全部同じ文化を持ったのは、原三国時代だという事ができます。」とね。
つまりね、繰り返すけど、君が引用したサイトには、4世紀ではまだ土器の地域性が発現していないと書いてあるだけ。
そして、三国時代の陶質土器を「巨大な墳墓、金工品の発展」と同期とみるならば、巨大な墳墓以前の陶質土器は、区別するために「古式陶質土器」と呼び、
さらに馬韓、百済の土器と区別するために「古式新羅加耶土器」という用語を用いますよ。と書いている訳。君が引用したサイトにはね。
だから、楽浪以後にはじめて「古式新羅加耶土器」が作られるようになったなんて書いてないんだよ。
しっかりしてね。
536日本@名無史さん:2011/01/23(日) 12:56:20
>>532 ドツボ
お前に助けを求めるようになったら終わりだな。
そこまで堕ちるならここへの書き込み止めるわw
さっさと震度計アホ。

まあ正直一度九州説に追い込まれてみたいものだww

要するにだ、問題になっている土器と言うのは

加耶土器から新羅式土器が分化した5世紀前葉よりは前で
尚且つ陶質土器が加耶に出現したよりは以降の時代と言うことだ。

以下>>502のリンク先より適当に該当箇所をコピペ
(コピペで行を埋めればドツボは喜ぶらしいがw)

(2) 陶質土器―加耶、新羅土器―の三段階
 加耶、新羅土器は前期、中期、後期の三段階に分けられます。
 すなわち、前期は加耶式土器の中心段階、中期は加耶式土器から新羅式土器が分化し,加耶式土器と新羅式土器との二大樣式土器が存在する段階、
 後期は加耶の新羅への併合―滅亡―で新羅式土器だけが存在する時期に分けられます。
 各々の段階における具体的な内容は次のようです。

  2) 陶質土器の中期

五世紀前葉より加耶が新羅に完全に吸收?併合される六世紀中葉までの時期です。
 五世紀前葉にはじめて上下に行き交った透窓を持つ二段臺脚の高杯、圓筒形の頸を持つ長頸壺で代表される典型的な新羅式土器が、
 共通樣式土器から分化しながら成立し、加耶式土器と新羅式土器の二大樣式が並存することが、この時期のもっとも大きい特徴です。

…楽浪の消滅なんていうのは、その 陶質土器の出現に近い年代で半島で起こったイベントを当てただけに過ぎない。
(まあ最初の目安としては妥当だと思うが)
537(>_<):2011/01/23(日) 12:58:54
【情報提供】
邪馬台国シンポジウム<狗奴国から邪馬台国を考える>開催

日時: 2011年2月13日(日) 10:00〜16:30 (開場09:15)
会場: 九段会館大ホール(東京都千代田区九段南1-6-5)
定員: 1100名

があるらしいよ。
東京近郊に住む人はいってくればいいのに・・・
538人豚:2011/01/23(日) 12:59:11
>>526

貴方が定義する「
古式新羅加耶土器」の出現年代は、研究成果の蓄積で多少変化していますけど、
中国南方系の影響の強い?耳附壺が含まれることから、魏代以前には(3世紀後葉)遡らないでしょうね。
539日本@名無史さん:2011/01/23(日) 13:03:42
>>538 
>中国南方系の影響の強い?耳附壺が含まれることから

その事について述べたサイトやら図書やら心当たりがあったら参考までに教えて欲しい。

「南方」と言えば神獣鏡だからなwwwwww

540「交易」はある:2011/01/23(日) 13:04:40
>>533
さて、高句麗、馬韓、弁韓の間でも「交易」はある。
当然のことながら、縄文時代以来、列島内でも広範囲な「交易」はあるが。
541(>_<):2011/01/23(日) 13:07:05
>>536 ジョーカー

そうだ、その調子。
お前さんがYAHOO掲示板の来襲にビビりまくりw
精神的に追い込まれて、部屋の隅で泣いてるんじゃないかと思ってたw

>>443 日本@名無史さん、>>535-536でローガン&ジョーカーが反論してるんですが、
これについて、貴方の見解を述べて貰おう。 宜しく〜☆

私はちとスポーツしに行くのでここまで。 See You Again〜
542「交易」はある:2011/01/23(日) 13:14:17
さて、本州説の内、関西に所在を求める場合は、東海を狗奴国に想定しているのではないだろうか?
543太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/23(日) 13:28:30
(>_<)さんは改め氏なのかな??
544日本@名無史さん:2011/01/23(日) 14:37:29
533 :日本@名無史さん:2011/01/23(日) 11:59:06
考古学上の成果から、九州〜東海まで交易が行われていたことがわかってる。

このうえで、なおも九州説を唱えるならば、
九州の独自に卑弥呼を共立していたこと、近畿と政治的な断絶があったことを証明する必要がある。
それができないなら、九州説なんてとっとと捨てるべき。

政治と交易を結び付ける根拠とはなんですか?
政治と交易は必ずしもイコールでないことは、現在の日本と北朝鮮との関係を見ても分かる
545日本@名無史さん:2011/01/23(日) 14:46:19
>>522
> 辰韓土器や弁韓土器はちゃんとあるだろうが。

そんなものはないぞ。半島南部の土器編年をまったく知らないことがばれてしまったな。無頭派クン。

> なぜ弁辰韓土器でいかんのだ?

「還元焔高火度焼成」だからだろうが。無知で能無し無能派クン。

> 君は「古式新羅伽耶土器」と名前を付けた経緯を知らないらしいな。

白井氏の論文におもいっきり書いてあるだろうが。それを読んでも理解できない無脳派クン。

> 4世紀の新羅・伽耶地域に発生した土器で区別がはっきりしないから、古式新羅伽耶土器と付けられたのだ。

キミのカン違いでした。>>535でローガンさんが解りやすく説明しているから百回くらい音読してね。
(それでも理解できないだろうが、文盲のム盲派クン)

>>523
> 当たり前の話だな。

まったくのまとはずれでしたね、無当派クン。

じゅうぶん恥をさらしたようだから、心置きなくヤフーの(邪馬台国からみて)辺境トピに逃げ帰っていいぞ。
それではさいごに、「無頭派クン、全滅〜(by 三輪山)」
546日本@名無史さん:2011/01/23(日) 15:28:23
>>545
>半島南部の土器編年をまったく知らないことがばれてしまったな。無頭派クン。

土器編年を知っていることが何か大事な事かな。
他人の業績をさも自分の業績であるかのように振る舞うのは、みっともないからよしたまえ
他人が一般に公開している情報ならば
それを知っているか知らなかったかなんて、所詮情報収集能力を自慢しているようで
学問とはかけ離れたところの競走だ。 俺はババを持っているんだぞと自慢するような
547日本@名無史さん:2011/01/23(日) 15:39:12
アマチュアが2chで物知り自慢をするのは仕方がない。
情報の孕む問題を考究するのがプロ。
548日本@名無史さん:2011/01/23(日) 16:30:21
>>546
> 土器編年を知っていることが何か大事な事かな。

この場合とても重要なポイントじゃないかな?
549日本@名無史さん:2011/01/23(日) 16:43:27
今日NHK9:00からの邪馬台国討論の番組が終わったら、ここで再討論ですね。
今晩は、ほんとにワクワクです。
550日本@名無史さん:2011/01/23(日) 17:54:57
>■NHKスペシャル:「“邪馬台国”を掘る」 発掘調査に3カ月密着

正直「邪馬台国」の文字をタイトルに頂いている時点でなんつうかね…

まあこの板のゴミクズレベル九州説がファビョるのはどうでも良いが
Nスペの古代史と言えば以前「大化の改新」で甘樫丘の発掘を取り上げていたのが面白かったが
あれぐらいの内容を期待する。

ところで「“邪馬台国”を掘る」と言うのは柳田の著書を意識してんのかな?


551日本@名無史さん:2011/01/23(日) 18:02:02
>>550
本州説にも九州説にも迷惑をかけないように、本来の住み処のゴミ箱に戻るべきだ。
552日本@名無史さん:2011/01/23(日) 18:37:44
>>545
>「還元焔高火度焼成」だからだろうが。

還元焔高火度焼成した土器が新羅・伽耶の建国前にあったのなら、弁辰韓土器と名を付けたであろう。

ろくでもない屁理屈を言い続けるでない。
553日本@名無史さん:2011/01/23(日) 19:00:07

放送開始まであと2時間!!!


■日本古代史最大の謎に迫る 23日・NHK「“邪馬台国”を掘る」


 日本古代史最大の謎といわれる邪馬台国に迫るドキュメンタリー「“邪馬台国”を掘る」が23日午後9時から、NHKで放送される。

 2009年、奈良・纒向(まきむく)遺跡で巨大な建物群が発掘された。
この遺跡は東西2キロ、南北1・5キロに及び、弥生時代末期の3世紀、突如建設された都市だったことがわかり、邪馬台国の最有力候補地と目されるようになった。
さらに昨年夏、建物群周辺の発掘が行われ、人為的に壊された銅たくや2000個を超える桃の種などが出土した。

 果たして、邪馬台国所在地を巡る長年の論争に決着をつけるような証拠は発見されたのか。
 番組では発掘現場=写真=に密着し、その成果を検証しつつ、纒向の実像を描き出す。

(2011年1月20日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tnews/20110120-OYT8T00621.htm
554日本@名無史さん:2011/01/23(日) 19:23:29
>>552
> >>545
> 弁辰韓土器と名を付けたであろう。

じゃあ三韓土器ってなんだと思っているの?
555554をちょっと修正:2011/01/23(日) 19:30:21
>>552
> 弁辰韓土器と名を付けたであろう。

つけるわけないでしょ。
三韓土器ってなんだと思っているの?

それと、

> 辰韓土器や弁韓土器はちゃんとある

んじゃなかったっけ?
556日本@名無史さん:2011/01/23(日) 19:41:11
NHKスペシャル再放送は1ヶ月後かよ・・
レッドクリフも見たい・・
557人豚:2011/01/23(日) 21:56:43
>>539

> 「南方」と言えば神獣鏡だからなwwwwww

「南方」と言うキーワードに喰いつきましたか。
ソースを、ということですが、>>502で照会されたリンク先に出てますよ。

『加耶地域で発見された両耳附壺の祖型になるべきものは、西晋ごろに中國南方の越州窯磁器の影響をうけて
    中國北方で生成された両耳附壺に求められます。(by申敬K)』

 晋による南北統一により北方系土器に南方系の要素が取り込まれ、さらに伽耶の土器に伝播した。
 つまり、伽耶における両耳附壺の出現は、魏代には遡らない、と言う理屈のようです。
 両耳附壺の登場と前期陶質土器(>>526氏の言う狭義の「伽耶新羅土器」)は同時だそうですので、
 ?日本で前期陶質土器が出土したとしても、それはどんなに早くても3世紀後葉、普通に出てくるのは4世紀だということです。
 神獣鏡の場合のように楽浪経由説と言うものがあるのかどうかは存じません。
558日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:09:15

◇2ちゃん実況板【番組ch(NHK)】での実況結果

 ※実況板の各スレはどんどん落ちていきます。必要な方はファイル保存を。


Nスペ「“邪馬台国”を掘る」★1
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1295782039/

Nスペ「“邪馬台国”を掘る」★2 GHは許してやれ
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1295784456/

Nスペ「“邪馬台国”を掘る」★3
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1295785040/

Nスペ「“邪馬台国”を掘る」★4
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1295786672/


【マターリ】Nスペ「邪馬台国を掘る」【sage】
http://hayabusa.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1295783991/
559550:2011/01/23(日) 22:12:15
>■NHKスペシャル:「“邪馬台国”を掘る」 発掘調査に3カ月密着

さてさて見終わったが…

全体的にはNスペの”厚み”みたいなのは感じなかったw
以前、松平アナがやった「畿内説vs九州説」と変わらないと言うか…w

 鉄器により強大な武力を保持していた九州邪馬台国 
     VS
 宗教の力で各地のオウから共立されたヤマト卑弥呼

…基本構図はこんなところだろうか?

しかし 桃→道教 ∴卑弥呼の鬼道=道教 というのはなあ…

中国(道教)的要素を持つこととそれが道教であることは慎重に峻別したいところ
現在の日本の神道だって陰陽五行説がなければ成り立たないほどなんだから・・・

でも道教神仙思想をアピールしたいならどうして画文帯神獣鏡出さなかったのかな?

ま、とりあえず、高島センセイ、御自身の役どころをきっちりお勤めになられ乙ッスwwwwwwwwwww




560日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:17:36
NHKの番組では 卑弥呼の鬼道=道教説 を推したいようだけど、もし道教だとすれば
倭人が取り入れたのではなく、渡来人により持ち込まれたとなるだろう。
561日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:21:39
>>553>>558

Nスペ見た。なかなか面白かった。
発掘現場は想像以上に大変だなと思った。
纏向遺跡が女王卑弥呼の居た邪馬台国で間違いなかろう、という感じの放送だった。
吉野ヶ里遺跡が最初と最後の方で少し扱われ、九州の考古学者が出ていたが、
ほんの付け足し程度の軽い扱いだった。w
562日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:35:44
563日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:38:02
>>561
同じくらいの放送時間にすると、畿内説からわんさかと抗議が来るんだろう。
2000個を超える桃の種かあ…。倭人伝に桃が出て来ることは出てくるな。
焼いた骨なんかが出てくると良かったんだろうが。

銅鐸の割り方も面白かったな。
564日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:39:46
>544に同意します。
565日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:45:45
>>564
各地の土器があることは邪馬台国の根拠にはならない。
566日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:52:11
石野さんの銅鐸割りは、もはやショーになってるな
567日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:52:29
>565
>544だが。その意見に同意します。ちなみに出土している土器は東日本のものが多く九州のものは少ない。
568日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:54:53
>565
>564だが。その意見に同意します。ちなみに出土している土器は東日本のものが多く九州のものは少ない。
569日本@名無史さん:2011/01/23(日) 22:56:46
>567です。「>544」は間違いで、「<564」が正しいです。間違えてすいません。
570日本@名無史さん:2011/01/23(日) 23:28:29
邪馬台国のライバルだった狗奴国
北九州の邪馬台国と頻繁にトラブルを起こし
卑弥呼が死んでチャンスと思ったら魏から来た張政の策略で撃退
さらに追い詰められてしまい一族郎党を引き連れて蒙塵
日向の港から船に乗って東への大脱出劇を展開して奈良へ
571日本@名無史さん:2011/01/24(月) 00:25:49

NHK によると纏向と中国との繋がりはモモの種だけだそうです。
後はいくら掘っても何も出てこない。
572日本@名無史さん:2011/01/24(月) 00:39:42
ベニバナ花粉は?
573日本@名無史さん:2011/01/24(月) 01:04:31
でも崇神天皇も魏志によるとヤマトトトヒモモソヒメに従ってるような感じだよな
574日本@名無史さん:2011/01/24(月) 01:11:28
思うに、当時は取るに足らないであろう一離島の国になんで金印を授けたんだろう?
近隣の属国には銀印だったんだろう?

575日本@名無史さん:2011/01/24(月) 04:22:59
揚子江下流域勢力への抑止力を、委奴国に期待したんじゃないか?
576日本@名無史さん:2011/01/24(月) 04:54:59
>>568
当時は、歩くことだけが移動手段だったわけで、重たい土器を持って移動すると
いうのがどうにも理解できない。空の土器を持って移動するなどありえないと
思う。また、どうしても何かを入れて持っていかなくてはならないなら、
皮の袋のようなものに入れてかついだ方がはるかに楽。

まして、大量の土器が移動するというのはありえないと考える。

土器が移動したのではなく、土器を作る人が移動したのだと思う。
577日本@名無史さん:2011/01/24(月) 05:21:06
道教って黄色信仰があるんだよね。黄巾の乱も道教による乱だし。
四神にしても東西南北で青龍、朱雀、玄武、白虎とあるけれど、神道では
真ん中に黄色を置くらしい。道教に影響されてるんだよ。
578日本@名無史さん:2011/01/24(月) 06:07:04
>>577
特に黄色信仰というわけでもないと思うよ。
木=春=青=東 火=夏=赤=南 土=土用=黄=中央 金=秋=白=西 水=冬=黒=北
五行思想は、こんなふうに配当していて、火徳の漢の次は土徳の王朝だから黄色と言われてる。
ただし、五行相生と五行相克があるし、蒼天已に死すとの整合性が難しいので、異論もある。
あと天は玄(くろ)で地は黄色という考えもある。
579日本@名無史さん:2011/01/24(月) 09:02:30
学会では畿内で決まったからあきらめろw
9割は畿内支持の学者残りが九州説で頑張ってるだけ
580日本@名無史さん:2011/01/24(月) 09:56:43
畿内説を採らないと予算が貰えないから畿内説が増殖するんだろww
581日本@名無史さん:2011/01/24(月) 09:57:52
>>565
>各地の土器があることは邪馬台国の根拠にはならない。

そうはいっても、マキムクには、吉備〜関東の土器(土器を作った人)が集まってるからな。
九州には、そんなふうに各地方から物資が集まってきたような場所は無い。
吉野ヶ里は、だから朝鮮半島とのつながりを主張するしかないんだよ。

交易圏の広さは圧倒的に近畿が優勢。
なおかつ、九州説を唱えるならば「各地の土器があることは邪馬台国の根拠にはならない」などと
人的交流の広さを持つことと、王権は関係ない、と虚しい主張をするしかない。



582日本@名無史さん:2011/01/24(月) 10:28:05
九州の東までが女王国の領域だから巻向から土器が出てきたんでしょ。

そう考えればすべてつじつまが合う。女王国まで一万二千里余もその通りだし。
583日本@名無史さん:2011/01/24(月) 10:30:37
>学会では畿内で決まったからあきらめろw
考古学者なんてしょせん素人だよ。
584日本@名無史さん:2011/01/24(月) 10:39:28
>>574
>当時は取るに足らないであろう一離島の国になんで金印を授けたんだろう?
女王国はそれまで呉と通交していた。それが魏に通交を求めたので、喜んだと
いうことだろう。
585日本@名無史さん:2011/01/24(月) 10:39:51
>>580
そりゃ今は九州説のような大穴狙い、博打は誰もしないよw
有り得ないからね。
586日本@名無史さん:2011/01/24(月) 10:43:17
>>568
ちゃんとレスリンク付けてよ。
半角の「>>」な。
587日本@名無史さん:2011/01/24(月) 10:54:42
九州説なら倭国大乱が九州限定になるがさすがにそれは無理があるしな。
588日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:06:58
>>587
九州限定だから無理がないんだよ。寺沢だったかな、畿内と九州の戦いがあった
とみるのは無理だってことを言ってただろ。
589ローガン:2011/01/24(月) 11:08:27
無頭派君とやらは どうしたのかな?

>>506
ローガン かかってこいww

っていうからレス付けたのに… >>535への返信は無いのかなあ?
590日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:08:37
マキムクの場合、本丸の箸墓古墳が宮内庁管轄で調査できないからね。
591日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:14:57
>>589
> どうしたのかな?

「ローガン かかってこいww」
はドツボのカキコじゃないのかなあ?
592日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:22:51
NHK、モモの話題がでたから、ヤマトトトヒモモソヒメの話が出るかと思ったら出ないね。

ヤマトトトヒモモソヒメとか、箸墓、大物主、三輪山なんて神話の話は、
道教よりもマイナーすぎるってことか。

593日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:23:37
>>529
青銅器が本州にまで及んでいたことはそのとおりだけど、鏡は違うよ。

鏡は弥生末期までは99%以上が九州にある。
本州では鏡は出ない。

本州と同じ文化圏にありながら、レガリアは九州が独占していた。
594日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:25:28
>>593

しかし、古い漢鏡ばかりで、魏以降の鏡は九州から出ないよねってこと。
魏以降の画文帯は近畿から出てるわけで。
595日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:36:48
そういえば、きのうのNHKについて二点。

ひとつは、2世紀の年輪資料を観たこと。

いや、当ったり前だろ、と思うかもしれないが、
これまでさんざん誰かさんの放言にイラつかされた身にとっては
有難い映像だったと思う。
596日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:46:46
もうひとつは、北部九州説の論拠が鉄製武器の出土量だと言ってたこと。

それ、ホンマでっか? ってなかんじだが、
この板ではこれまで鉄については
「古墳時代初頭においても畿内の鉄器出土量は北部九州におよばない」
から
「鉄と王権誕生には関連性が認められないのでは」
という議論になっていたのでね。

高島センセイ、大丈夫でっか?
597日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:52:35
>>589
>楽浪以後にはじめて「古式新羅加耶土器」が作られるようになったなんて書いてないんだよ。
いつから造られるようになったと書いてあるの?
598日本@名無史さん:2011/01/24(月) 11:55:30
>>596

鉄器の話は、あまりにも古臭いよね。
古い九州説にしがみついてる視聴者用にNHKが編集したんじゃないかな?
599日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:17:26
やはり、弥生末期に鉄が多く出たところが
邪馬台国の可能性が高いと見てよかろう。
600日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:23:58
伊都国に一大卒を置いたのは卑弥呼だし、女王国の九州の軍事拠点とみるべきで、
鉄がでたから卑弥呼がそこにいたと考えるのは早計。
601日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:32:46
>>599
しょうもない意見をカキコして、どうすんの?
602日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:32:48
そうすると当時は
・本州勢なら列島全体を広く目配りできた
・しかし九州勢は本州よりも朝鮮半島にばかり目を向けてる
てことか?
603日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:36:16
>>587
戦国時代あるいは明治維新でも戦いは限定的なもの。
古代に日本の広い地域が戦乱状態と考える方が無理がある。

>>581
畿内説が唐古・鍵遺跡に夢中になっているときも、唐古・鍵には各地の
土器が集まっていると盛んに言っていた。
ちなみに、吉野ケ里でも方保田東原遺跡でも各地の土器は出ている。
604日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:38:25
>ちなみに、吉野ケ里でも方保田東原遺跡でも各地の土器は出ている。


何が出てるって?


605日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:42:28
>>604
各地の土器が出ている。吉野ヶ里遺跡の資料館には展示してあった。
写真も取ってきた。
方保田東原遺跡については、
http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1264126266698/index.html
606日本@名無史さん:2011/01/24(月) 12:52:58
方保田東原遺跡については、ちゃんと発掘すれば、吉野ヶ里遺跡をはるかに
しのぐと大遺跡いう声もある。
石包丁型の鉄器については、稲の刈り取りのときなどに使うもので、大量に
作られたと考えるのが普通。
このようなものに鉄器が使用されるということはいかに大量の鉄があったかを示している。
607日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:15:37
でも倭人伝には鉄の記述なんて、特に強調もされてないんだけどね。
608日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:17:45
九州説なら邪馬台国はその後どこに消えたんだよ?
609日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:19:30
http://www17.big.jp/~kamokiti/sangoku/index.cgi
ゲーム人数少ないのでお願いしますm(__)m
610日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:43:13
>>589
数日前、掲示板: 邪馬台国の〜で勝ち誇っていたけれど、その後あらわれない。
611日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:54:07
>>608
消えてないよ。九州にあって東の本州、四国を征服していったんだ。
612日本@名無史さん:2011/01/24(月) 13:56:21
>>589
以前、畿内説の考古学者は、鉄がないと困るというわけで血眼になって
畿内の鉄器を探していた。かけらが見つかると大騒ぎをした。
なかなか見つからず、いろんな奇説を立てた。畿内は廃品回収が進んでいた、
畿内の鉄は土壌の関係で溶けてしまった、など。

どうしても見つからないと諦めたとたんに、鉄は重要ではないと言い始めたの
かな?
613日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:07:39
倭人条に鉄のことが書いてあったらあったで
あんなのは資料価値はない文献だ!とわめくだけでしょう
温暖で冬でも野菜が食べられる、という記述も無視しているわけですからね

614日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:14:53
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110123/art11012302010010-n1.htm
未知の前方後円墳なのに…住宅開発で石室破壊 安閑天皇陵近く

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110123/art11012302010011-n1.htm
「開発とコスト」優先に疑問の声 未知の古墳発見・破壊


直接関係ないが未だにこんなレベルなんだな
615日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:17:45
>>613
倭地温暖の条を読んでたら、どう見たって、あれは沖縄あたりじゃないと無理だろ。
九州がそんなに温暖なわけない。
会稽東冶の東って、案外本気で沖縄辺りのことを指して言ったのかもしれんな。
616日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:20:18
畿内説に合わせて、なんでも辻褄を合わせる伝統は、変わっていないようだな。
たとえば
1:これを畿内説の証拠にしたい
2:そのためにはこれが王権の証拠だということにしたい
3:王権の証拠だから圧倒的に畿内から出るものを威信財と呼ぼう
4:この威信財が出るのは畿内だから邪馬台国は畿内である
617日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:20:30
南九州ならば温暖だよ。
618日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:27:14
南九州に素潜り漁の伝統ってあるの?
619水銀厨:2011/01/24(月) 14:34:50
>>612
畿内説の考古学者が皆同じ事を主張していた訳では無いですよ。
ここ20年位で新たな発見が続き、色々解釈が変わって行った事もあります。

>>615
私は奈良在住で嫁の実家が佐賀ですが、少なくとも
北部九州は畿内辺りと同じ、積雪はむしろ九州の方が多い位ですね。

>>617
四国の南部も結構温暖です。
620ローガン:2011/01/24(月) 14:40:03
>>591
>「ローガン かかってこいww」
はドツボのカキコじゃないのかなあ?

そうなん?けど彼となんの議論してたかなあ?

>>610
> 数日前、掲示板: 邪馬台国の〜で勝ち誇っていたけれど、その後あらわれない。

ありがとう。しかし勝ち誇ってとは…痛いなあ。
621日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:44:36
>>616
昨日のテレビを見ていて、畿内説の考古学者たちは、いろんな資料を積み重ねて
その結果、邪馬台国を決めようなんて意識が全くないことがわかった。

スタートが纏向=邪馬台国なのであり、纏向から出たものはすべて卑弥呼に
関連があり、纏向に合わないものは、たとえ倭人伝でさえ間違っていると
考える人たちだなと思った。
622日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:56:14
>>621

それは邪馬台国がマキムクであるとの確証があるからで、後は遺物が出るのを待つ
だけだからでは?
623日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:56:31
>>616
九州説の人は九州から各地の物産品の出土がないのを
どう思っているの?
九州が当時の日本の盟主国ならば各地から献上される物産、
食糧があってしかるべき。
だけど、畿内には大和で入手できない海の魚や各地の物産品が集められて
九州には集められない理由はなんだったの?

九州説の人って、「倭人伝にある三十国はすべて北九州の国だ。
卑弥呼は北九州のみをまとめた小規模な地方王」という説だったっけ?
624日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:59:16
>>622
その確証が何かというのが問題なのであってね。
625日本@名無史さん:2011/01/24(月) 14:59:57
>>606
鉄を大量に持っている北九州は戦争に強いはず、という固定観念もなあ。
弓矢や石投げで戦争していた時に、鉄の刀など威力は大したことなどないよ。
安土桃山時代の鉄砲のような革新的武器ではなかった
そんな北九州も実際に5世紀には完全に畿内の征服下にはいっていたわけで。
626日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:07:08
九州からは各地、もちろん畿内からと思われる土器が出るが、
畿内からは九州からの土器は殆ど出ない。
627日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:11:16
弥生後期、鉄器の殆どは福岡佐賀熊本から出土する。
いわゆる北部九州。

また、鍬や鋤などの農具鉄器は山口広島からも多少出る。

しかし、鉄器の武器は北部九州以外では非常に珍しい。

山陰で製鉄が始まるようになると、他の地方からの
鉄器の出土が増え始める。
628日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:22:25
>>626
土器とは何かというのを考える必要があるな。
土器を作るのは女だったとされるが、使うのも女だろう。

>>625
鉄器が普及すると石器は廃れる。鉄器のあるのが先進地で、石器を使って
いるのは後進地という構図はやはり正しい。
629日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:27:18
九州からは銅鐸が出ない。
銅鐸は畿内〜山陰で大量出土、弥生時代の祭祀に重きを置いた祭祀具。
九州が畿内・山陰を手中においた盟主国ならば
むしろ九州が銅鐸の中心地であってしかるべきであるのに、
九州の酋長は畿内や山陰の祭りを全く把握していなかった。
このことからも、九州の酋長が他の地域を従えていたとは言い難い。
630日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:34:23
纒向からは東海、北陸からの土器が出土する。
東海、北陸からの物資が纒向に運ばれていたことが伺える。

もちろん九州からの土器は殆ど無い。
631ローガン:2011/01/24(月) 15:41:56
>>628
>鉄器が普及すると石器は廃れる。鉄器のあるのが先進地で、石器を使って
> いるのは後進地という構図はやはり正しい。

なるほど、弥生X期に石器が減るというのは、畿内での鉄器の普及を表すという事ね。
632日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:42:48
一応吉野ケ里からわずかに小型の銅鐸と鋳型が出ているから、
まったく関係がないわけではなかろうが、
銅鐸を祭祀の中心にした形跡はないから、
九州は銅鐸文化圏ではないと思われる。

ごくわずかの自然発生的交流でたまたま流れてきただけであろう。

ただ、同様に大和朝廷も銅鐸を知らず、また
白村江以降の大和朝廷は水城や神籠石の城を知らない。
633日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:45:54
>>632
邪馬台国は畿内にあったが、大和王権とは別物。
だから銅鐸のことも女王のことも伝わらなかった。
どうしても九州説の人は
「大和王権と邪馬台国は違うから、
大和王権と邪馬台国は違う場所にあった」
という考えになるみたいだね。
政治の中心になる場所はだいたい古代から
いつも似通っているんだよ。
邪馬台国が畿内にあったからって
それがそのまま大和王権と同一王権でなくともよい。
634日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:48:01
>>631
世界的には、石器 → 青銅器 → 鉄器。
畿内X様式に石器が減るかどうかは知らないが、九州と違って間に
青銅器が入っているのかも。
635日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:48:49
北九州でも奈良よりはあったかいけどね。
奈良の寒さは半端じゃない。
潜って魚介を採る風習は松浦半島の風習だ。
しかも松浦半島では男が海士と呼ばれて魚介を採っている。
倭人伝にも男が潜って採ると書いてあるね。

倭人伝には畿内の事は何にも書いてない。
636日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:51:02
そういえば、聖徳太子の非実在説は根強く語られ続けられており、
遣隋使の記録と記紀の記録には大きい齟齬がある。
おそらくは記録がほとんど残っていなかったのだろう。

ひょっとしたら、飛鳥朝とその後の王権は、別の王権かもしれない。
637日本@名無史さん:2011/01/24(月) 15:52:29
>>635
それは邪馬台国の風習じゃなくて「倭人」の風習でしょう?
五島列島かどっかのことかもしれないよ。
魏の使者は一度しか邪馬台国に来ていないのだから、
魏の人が邪馬台国の春夏秋冬を知らないのは当たり前。
熱い時期にくれば畿内も相当熱い。
638日本@名無史さん:2011/01/24(月) 16:53:07
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と漢倭奴国王の金印について、畿内説のみなさんそれぞれ説明をどうぞ。
639日本@名無史さん:2011/01/24(月) 16:59:19
聖徳太子は、実在しないと、すでに学会で決着してますが、
情報が遅れすぎ。

そんなふうだから、いまだに邪馬台国は九州なんて100年前の珍説をいまだに信じてるんだろ。

640日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:01:34
>>638

九州のどこに卑弥呼の都があったのか、
まず特定してごらんなさい。

NHKは、吉野ヶ里以外は完全スルーだったが。
その吉野ヶ里は、邪馬台国の時代にはすっかり衰退してただろ。

641日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:08:16
>>640
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、どこから出土したのか?畿内説はこれを超える何か(出土等)があるのか?
漢倭奴国王の金印は、どこから出土したのか?畿内説はこれを超える何か(出土等)があるのか?
642日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:16:57
>>640
倭国動乱の痕跡は、畿内にあるか?
倭国動乱の痕跡は、神籠石、吉野ヶ里遺跡(亡骸に戦いの跡)など九州にはある。
643日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:23:44
>>639
私は畿内説だけど、聖徳太子が実在しないと決着したとは、
寡聞にして知りませんね。
聖徳太子は実在しないと論証した論文はどれですか?
著者はどなたですか?
644日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:29:25
>九州が畿内・山陰を手中においた盟主国ならば
九州説はそんなことを主張したことないだろ
645日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:29:54
>>641
邪馬台国の卑弥呼がもらったのは「親魏倭王」の印
一方、那国王がもらったのは「漢倭奴国王」の印

びっくりした。
九州説の人ってこの違いも分からないの?
つまり、卑弥呼は三十国の盟主として魏から「倭国王」として
認められていた、しかし、那国については
「倭」の一部である「那国」の王としか認められなかったんだよ。
那国は西暦57年頃北九州の那国を統一した地方王にすぎなかったが、
卑弥呼は倭国三十国の中央政権的王だった。
地方酋長と卑弥呼を一緒にするっていったい・・・
646日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:33:47
>>628
>鉄器が普及すると石器は廃れる。鉄器のあるのが先進地で、石器を使って
>いるのは後進地という構図はやはり正しい。

考古学はズブの素人なんだけど、出土した鉄器って武器が多いの?
武器であるなら、最前線に多く存在して不思議はないと思うんだけど。
例えば、邪馬台国が畿内にあったとして、
半島勢力や狗奴国との最前線である九州北部のほうが、
畿内より武器を大量に備えておくべきだと思うがどうだろう。
647日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:39:27
動乱期には有力なクニの長老が名目上の首長大王で
長老な大王が死ぬ度に邪馬台国の中枢がコロコロ変わるから争いが耐えなかった
妥協として神事を取り仕切る若いヒミコのいる場所を邪馬台国の都とした

そして、いつしか畿内部族によって大王職が世襲されるようになり、それがヤマト王権になった
648日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:44:23
学会でほぼ統一された意見
邪馬台国は纒向にあった
聖徳太子はいなかった
649日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:46:38
「倭奴国」=「倭国」という説あり。
「倭の奴という地方王」という読み方もたしかにありますが、
当時のシナの皇帝は、直下の王に金印を授けたのであれば、「倭奴国王」=「倭国王」

「卑弥呼」→「親魏倭王」つまり倭国王で同一地域(九州)で倭国を治めていた可能性が高い。畿内説よりも信憑性が高い
650日本@名無史さん:2011/01/24(月) 17:51:52
>>643

あれ?
聖徳太子が実在したとでも思ってるの?

いったい、この数年、何を勉強してきたんだね?
新しい知識を得ようとしないから、100年前の珍説にしがみついてるんだよ。
自分の不勉強を自覚したら?
651日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:00:20
>>649
「倭奴国」=「倭国」という説は一般的ではない。
中国では北海道と沖縄を除く日本列島全体を指してその後長らく「倭国」
と呼んでおり、「倭奴国」と呼んだことは一度もないからね。
そして、卑弥呼は「倭国」の王だった。

その説をとるのならば、日本列島全体を指して、「倭那国」と読んだ事例を
あちこちから引用してくる必要がある。
君にできるかな?
652日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:07:54
推古朝の遣隋使でも中国は「倭国」と呼んでいるもんね。
このときの日本の中心はいうまでもなく畿内。
倭国が九州なら、遣隋使も九州王になってしまう。
653日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:08:42
「中国では北海道と沖縄を除く日本列島全体を指してその後長らく「倭国」
と呼んでおり」→日本列島全体を指して「倭国」と呼んだ根拠はない。「倭国」の北端・南端の説明はない。もしかしたら「九州及びその周辺」だけだったかもしれない。
「倭奴国王」を「倭の奴の国王」と呼んだのは近頃の日本人でシナの皇帝や倭国人ではない。
この程度のものだけど、畿内説より信憑性あるでしょ?
654日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:16:43
>>650
聖徳太子が実在するのは当たり前
そして邪馬台国が関西にあったのは最近の調査で判明した
655日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:39:40
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と漢倭奴国王金印について畿内説の人々何か語ってほしい。
656日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:48:42
>>655

知りたければ関裕二に聞けば?
657日本@名無史さん:2011/01/24(月) 18:53:20
>>620
> なんの議論してたかなあ?

うしろからアオってたんでないかなあ。
658日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:04:24
聖徳太子は確実に存在したでしょう。6世紀ともなると漢字で文字を残せた
ので史料として8世紀には残っている。6世紀くらいからの年代とか天皇の
実在性は正しいと思う。記紀には実話を元にしてファンタジーに仕立てた話が
多いと思う。
659日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:09:20
650がんばれ。

聖徳太子いない説、ということは10代の坊だろう。
新しい知識、披露してくれ〜。
660日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:17:04
>聖徳太子はいなかた

これも微妙な話で確かに数々の超人伝説を遺した
聖徳太子と言う人物はいなかったと言うのはいえるが

その「中の人」とも言える「厩戸の皇子」は実在したわけでw

これは邪馬台国の問題に似ているところがある。

倭人伝に書かれたとおりの邪馬台国と
邪馬台国の元ネタの畿内ヤマト。

まあ九州説と言うのは超人聖徳太子を探し続けるロマンだなwwwwwwwww
661日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:28:37
>>596
>高島センセイ、大丈夫でっか?

中華屋ねキミ〜、高島センセイかてそんな事は百も承知やと思うでw

やっぱ番組のシナリオに乗っかったんやと思う。

そこらへんメディアへの露出に慣れてていて
以心伝心で空気読んでくれる学者センセイとして重宝される部分と言うのはあるんとちゃう?w

石野センセイの銅鐸叩き割りパフォーマンスもそれっぽいけどwwwww

662日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:52:48
お前らも頭の固い連中ばかりだな
元々は卑弥呼の時代に、邪馬台国九州本店があり、3世紀末頃に奈良支店が出来た
そして、やがて奈良支店が本店となり、九州本店がその役割を終えた
このように考えれば、すべての考古学、文献で辻褄が合うんだよ
2者択一は、もういい加減にやめたらどうだ??
663日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:54:36
聖徳太子非実在論は、学界で何の注目もされない奴が、
ただ目立ちたがりたかっただけ
あんなアホな説は、学説とは言わん
664日本@名無史さん:2011/01/24(月) 19:54:51
>>661
> 中華屋ねキミ〜、高島センセイかてそんな事は百も承知やと思うでw
> 石野センセイの銅鐸叩き割りパフォーマンスもそれっぽいけどwwwww

ほんまでっか〜。ほなら

> 鉄器により強大な武力を保持していた九州邪馬台国 
>      VS
> 宗教の力で各地のオウから共立されたヤマト卑弥呼

ちゅうのは、チュウヘイ&ヒロノブの49分ネタやったちゅうんかいな。ひえェー
もお、両センセTV出杉ちゃいまっか〜。
665日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:10:35
女王国=卑弥呼の支配力が及ぶ領域 と解釈すればすべて解決
666日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:21:00
唐子・鍵遺跡がナガスネヒコの国なのか卑弥呼の邪馬台国がナガスネヒコの
国なのかというところ。
667日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:32:03
伊都国は女王国に統属すると書いてあるだろ。

つまり今でいえば、福岡県は日本に属してるってことだ。

帯方郡から日本までが万二千余里。卑弥呼は巻向にいた。
668金銀錯嵌珠龍文鉄鏡:2011/01/24(月) 20:32:11
畿内説は、桃の種と板ぎれで終わりか……
669日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:39:38
>>668
つまりそれで決着付く訳だよ。
所詮九州説はその程度という事。
670日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:45:15
>>669
畿内説の限界か?と言っているのですわよ。
671日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:54:20
>>670


九州説を粉砕するのに、木片で十分ってことだろ。
672日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:55:06
>>650
誰がどの論文で論証したか言えないということは、何となくの印象で言ってるんでしょうね。
○○は無かった式の主張ですね。
ドラマの遠山の金さんが嘘だから、遠山景元は実在しないと主張するのと同レベルだと思うよ。
673日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:58:34
古代の戦は、王様も将軍も第一線の兵隊と一緒に戦っていた。
理由は長距離連絡手段(無線・信号)が無かったから。
当然大本営もその直後に存在しないと戦いを有利に支配できない。
その時、第一線である九州から畿内では、遠すぎて戦いを支配できない。
当時は、夜間の組織的な戦いは考えられない(暗視装置が無いから)。
よって昼間戦ってその戦況について連絡を受けて翌日の戦い方を指示できる距離
が第一線と大本営(首都機能)と考えるのが妥当であり、その距離は30〜40km
(1日の徒歩による移動距離)と仮定できる。
そうはれば、倭国騒乱を支配できる距離は……畿内説は終了


674日本@名無史さん:2011/01/24(月) 20:59:08
結論でないとわかってるもんに時間費やす時点でアホや。
675日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:03:17
>>637

伊都国には常駐していたし、壹與の時にも来ている。
それ以外にも幾度か来ただろう。
晋が建国した次の年にも壹與が遣使しているが、中国で代が変わって新しい王朝が出来た。
挨拶に来いと言う通達を持った使者が来ているだろう。

一度しか来ていないなんてアホな事を言うとはさすが畿内説だな。
676日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:07:39
>>669 >>671 は稚拙だ。議論にならない。
>>674 ここでは、邪馬台国について色々な議論で楽しむ人々が集うところだ、出ていけ。
677日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:10:34
>>673
日本武尊は、天皇の詔を受けて遠くまで遠征してるじゃない。
678日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:14:19
>>677
そうですね、日本武尊は神話上勇ましいですね。
でもね、本当に戦に勝つためには、戦略・戦術で勝てる戦をしないと
国が滅ぶわけでして現実的ではないですね。
679日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:40:06
日本武尊は親父が征服した九州をまた征服している。
一度は従ったのにまた反乱を起こしたとか言う説明も無く。
出鱈目だろう。
680日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:53:49
>>662で、結論が出ちゃったな・・・
681金銀錯嵌珠龍文鉄鏡:2011/01/24(月) 21:56:12
畿内説の人々頑張れ。君たちの説得力ある説で邪馬台国九州説を撃破されたい。
682日本@名無史さん:2011/01/24(月) 21:56:38
>>676
>>668が稚拙じゃないとでも?
それじゃマトモな議論は無理だなw
683日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:01:24
>>679
熊襲と九州を一緒にしては駄目だと思うが。
684日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:09:27
>>682
桃の種と板ぎれ以外の説得力ある説明がほしいと言っているのです。
古文書、出土品、現実的な(実行可能な)仮説、……

畿内説は、はっきり言って面白味がない。しょうもない出土品でお祭り騒ぎしたり、
九州説を馬鹿にしてみたり……

九州説には夢がある。出土物があり、古代史にない遺跡があったりして未知数の可能性がある。
多くの人が、九州説に魅せられる気持がわかる。
685日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:19:27
なぜだか知らんがここ数年で

考古学に依拠した畿内説 VS ファンタジーの九州説

という構図が固定化した気がする。
686日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:20:52
>多くの人が、九州説に魅せられる気持がわかる。

知能指数が一定より低い人は九州説だろう。
687日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:24:08
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と漢倭奴国王金印を超える考古学をわしは知らん。
畿内説は、考古学上もファンタジー上も、九州説を論破できない。
688日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:24:46
例えば、日本の政党でも数ヶ月でころっと変わるように、地方だと不満分子が
反乱をおこしたり色々あるんだよね。
朝廷が地方から富を搾取するわけだから。
689日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:28:20
>>686 
君では、議論が楽しめない。帰れ
690日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:34:59
>>687

「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」にしろ「漢倭奴国王金印」にしろ漢代のお話
邪馬台国魏代には関係はない。

考古学だのなんだの言う以前の問題だな。

もう少しものの考え方を学んできて出なおして来い。

691日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:35:24
>>675
>晋が建国した次の年にも壹與が遣使しているが

想像で語ってはいけない。
壹與が遣使したなんてどこにも書かれていない。
692日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:44:44
日田の鉄鏡は、間違いなく中国の皇帝が与えたものだと思う。
皇帝が与えたのなら、中国の歴史書に書かれていてもいいと思う。
また、与えられた者もそれなりの人物だったことは間違いない。

では、卑弥呼か、となると倭人伝の目録にない。正始四年の朝貢のときに
貰った可能性も否定出来ないが…。

それに鉄鏡や金錯鉄帯鉤が漢の時代のものの可能性が高いことを考えると、
貰ったのは倭国王・帥升ではないかと思う。帥升の後継者(数代後)が
卑弥呼だと考えるので、つながりがあることになるが。

ただ、どうして日田かということになると、ちょっと頭が痛い。
693日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:46:31
>>690
関係ないことないでしょ。畿内でこれらを超える出土品があって、シナとの深い関係が
立証できないままでは、九州邪馬壱国説を論破できないと言っているのです。

奈良時代から現代を史実で説明できるように、古代から邪馬壱国を説明するには
九州から出土した宝物をもって説明したほうが説得力があるというものです・
694日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:49:06
日田の鉄鏡は、ほぼ間違いなく太平洋戦争中に中国から持ち去られたものか、好事家が中国から
買い求めたのだと思う。不幸なことに伝出土品で身元が不確かだから重要文化財であっても国宝には
ならない。
695日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:50:47
>>618
熊本、長崎、有明海沿岸は温暖ですね
天草、松浦あたりでは戦前までは素潜り漁は結構やっていましたしね
入れ墨の習慣もありましたよ

>>623
>「倭人伝にある三十国はすべて北九州の国だ。卑弥呼は北九州のみをまとめた小規模な地方王」

肥の国、筑紫国あたりにひろがっていた小国家連合ではないですか
南方の狗奴国との戦いにさえ手こずるレベルの国ですよ
同時代に私の住む河内や大和、近江あたりに林立していたであろう小国家連合のほうが
規模的にも文化レベル的にも九州の邪馬台国よりも高度なものを持っていたのだと考えています
邪馬台国はいきなり勃興して北部九州を制圧したかと思うと、あっけなく滅びていった国ではなかったでしょうか
あたかも平家一門のように
696日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:52:35
九州から出ている興味深いものは鉄鏡だけではない。
串間の穀璧もあるし、球磨地方・免田の鍍金鏡もある。
697日本@名無史さん:2011/01/24(月) 22:58:49
>>694
それはいくらなんでも違うだろう。第二次世界大戦中から終戦後にかけて
展示していた三芳小学校から盗まれたという話だ。
再び世に出たのは梅原末治が、奈良の古美術商から購入したのがきっかけ。
しかし畿内説の大御所が再発見したというのも皮肉だな。

 
698日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:00:45
>>693

しつこい、関係ない。

邪馬台国の冊封は後漢の時代じゃないから。

そんなものに立脚した九州説(説なんてもんじゃんくて与太話だがw)なんか論破だのの対象外。

あまりにもレベルが低すぎる。

頼むから考古学とか言わないでくれ、こっちが恥ずかしくなる。
699日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:05:16
>>629
九州から銅鐸が出ない?
冗談ついでに銅鐸文化の中心地とはどこだ?加茂岩倉あたりか?
その時代の「畿内」とはどういう意味のグループなのか?
銅鐸にしろ、墳墓にしろ、鏡にしろ、受容すると極端に巨大化される傾向がある。
それは現地民の未開性と、外来の支配者の果てしない権力欲を意味するのだろう。
700日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:06:57
しかし昨日のNHKの番組、九州説にえらく気を使っていたような気がするのは俺だけか?w
(以前、松平アナの司会してた番組でも偉く気を使っていた印象があるがw)

2ちゃんで畿内説に下らないイチャモンをつけている連中と違って
かつてのブームの中でそれこそリアルに九州説に人生かけちゃた人が少なからずいるからなんだろうなwww

まあ、畿内説で収束の結果になっても別に悪い人生じゃなかったとは思うがw

701日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:09:34
>>700
無数に存在するファンタジー系九州説論者達は一切触れなかったけどな。
702日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:11:20
あの程度でもNHKに九州説の人や九州候補地の住人から電話がかかってくるんだよ。www
もはや少数だがたちの悪い圧力団体だな。
703日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:14:33
>>701
先ず、九州説が三度の飯より好きな行程記事の解釈に全くのノータッチw

今後TVで邪馬台国を取り上げることがあっても
やはり考古学的なものが取り上げられるんだろうか?

まあ反動としては(番組として盛り上げる為に)その考古資料に過大な意味づけがなされたりする
…ってところかな?

704日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:15:11
邪馬台国を議論する場で、>>701>>702のような悪意ある発言があっては、
畿内説がまともとは考えられない。悪意か、あるいは他に目的があるのか……
705日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:23:41
>>700
その時歴史は動いた「邪馬台国はどこか」の視聴者調査では、
九州説支持 35087票 (62.4%)
近畿説支持 21102票 (37.5%)

だったな。
706日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:34:31
>>705

あの番組見ると九州にありそうって素人を思わせるような内容だったし。

報道ステーションでやたら古館が民主党の悪口ばかり言って視聴者を反民主党
へ駆り立てようとしているのと似たような構図だった。
707日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:43:05
あの時以来、畿内説は宣伝に力を入れ始めた。
纏向から何か出るたびに新聞発表し、最初の文字は「邪馬台国の最有力候補地
である纏向遺跡」「卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳」になった。
708日本@名無史さん:2011/01/24(月) 23:48:01
>>703
もう行程解き推理ゲームは卒業しなきゃな。
当時の位置関係が証明されるような地図でも
発見されない限りは進展は無い話だ。

今や倭人伝の記述との一致点なら、畿内説の方が矛盾は少ないだろ。
大量の桃の種だって、卑弥呼は鬼道を用いると書かれている以上は
それだって充分な証拠材料にはなる。
少なくとも鉄器が出るよりもはるかに重要だろう。
709日本@名無史さん:2011/01/25(火) 00:41:06
>>707

で?

その「ある時」と言うのはいつなんだ?
その契機となった出来事は?
それを首謀したのは何処の誰?組織?

いくらネット弁慶やっても、現実を見れば
下らない陰謀論に逃げるしかないゴミクズレベル九州説wwwwwwwwww
710日本@名無史さん:2011/01/25(火) 01:20:50
誰も相手にしないが、利権だけのために存在している、チャウシェスク畿内説・・・
711日本@名無史さん:2011/01/25(火) 02:36:37
>>709
幼稚園児乙
712日本@名無史さん:2011/01/25(火) 04:46:39
>>711
陰謀論やる時はもっとしっかり話作っとかなきゃ…
713日本@名無史さん:2011/01/25(火) 05:29:17
>>709
新聞の記事がそうなっているのは事実だろう?
714日本@名無史さん:2011/01/25(火) 06:24:23
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡+漢倭奴国王金印
=1世紀ころの倭王または倭を代表する王は九州在住

卑弥呼=親魏倭王→倭王として政務をとった場所は?
○1世紀からの流れや魏志倭人伝では、九州説のほうが有力
○九州に多数存在する神籠石は、倭国騒乱あるいは大陸・半島
 勢力の進行阻止のためか?いずれにしても高い土木技術だ。
 九州に古墳が少ないのは戦いに必要な建築土木を優先したからでは?
●桃の種、木端程度では畿内説は不十分
715日本@名無史さん:2011/01/25(火) 06:57:22
何時代をグチャグチャにしてんだよ。神籠石はほとんどが7世紀後半の朝鮮式山城だろ。
白村江以降のものだ。
716日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:30:05
>>691壹與が遣使したなんてどこにも書かれていない。

畿内説者はほんとに無知でこまる。
晋書の帝紀「二年 十一月已卯、倭人來獻方物」だから、晋の建国の翌年だ。
日本書紀の起居注には泰始二年に倭の女王が遣使したとの記載がある。
266年だから250年辺りに就任した壹與が16,7年で死んでいると言うのも考えにくい。
そこで壹與が晋の建国の翌年に遣使したと言う解釈になるのだよ。


717日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:32:48
な、なんだってー!!

8世紀以前の謎が大幅に解ける日が来るのかー?
718日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:42:59
>>699
畿内説の連中は九州に銅鐸がないと言っているのか?

畿内説の連中はそろいもそろって無知。

吉野ヶ里から銅鐸の鋳型が出ているし、その鋳型で作られた銅鐸が出雲から出土した。
つまり、銅鐸は九州が発祥であり、それが出雲に伝わり、出雲から四国や近畿、東海に順次伝わって行った事を示している。
伝わったスピードは解釈だが、近畿には100年位遅れて伝わったと解釈される。
近畿の弥生時代は九州より100年は遅れているのだ。
719日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:47:54
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡って興味あるなあ。
これこそ卑弥呼の鏡じゃなかろうか?
三角縁神獣鏡のような贋作、コピーがいくらでもできる安っぽい鏡を魏の皇帝がくれる訳がない。
銅鏡て書いてあるけど鉄鏡の間違いだった可能性もあるだろ。
720日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:53:00
どうなんだろうね、銅鐸の出土量は出雲畿内が圧倒的に多いけど、
九州の銅鐸は小型。

中国大陸から九州を通って出雲、畿内に伝わってきている、
と仮定してみると

九州はそれほど銅鐸に祭祀的な必要性を感じておらず
スタンダードなまま伝わり、出雲、畿内で
重要な祭祀具となって、だんだん魔改造化が始まり
大型化して行ったと考えることができる。

鏡も中国では手で持つことができる、いわゆる
スタンダードサイズが基本だが、平原のように
日本に来ると倣製鏡で大型化したものが作られる。
これも鏡を重要視しているがゆえの魔改造だろう。
721日本@名無史さん:2011/01/25(火) 08:54:35
>>708

漢末、つまり188年頃に発生した中国の道教に桃が使われていたからって、
同じ頃邪馬台国の女王になった卑弥呼がその桃を祭祀に使ったと言うのは
いかにも早すぎはしないか?
722日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:00:00
>銅鏡て書いてあるけど鉄鏡の間違いだった可能性もあるだろ。

これはない。倭人伝のこの部分は魏帝詔書の引用であり、最も間違いの可能性の少ない部分。
723日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:04:00
教団道教は2世紀頃かもしれないが、神仙思想は紀元前からあり桃が神聖視された
起源も古い。
724日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:30:42
>>684

夢があるなし、ってのは、所詮、科学よりオカルトのほうが夢があるというレベル。

夢と現実を混同しちゃいかんな。
725日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:34:20
「夢がある」で済んでいればいいけどねえ。九州王朝なんかも遊びとわかって
やってるんならいいけど、本気で信じてる人は気の毒。
726日本@名無史さん:2011/01/25(火) 09:52:27
九州王朝説は畿内説よりはましだと思う。
九州王朝説には、時々、なるほどと思うことがあるが、畿内説にはそれが
全くない。
727日本@名無史さん:2011/01/25(火) 10:11:35
>これはない。倭人伝のこの部分は魏帝詔書の引用であり、最も間違いの可能性の少ない部分。

そうかなあ。
じゃあ、たしか金メッキした鏡もあったと思うが。これも九州。
日本で真似できない鏡じゃないと魏の皇帝がわざわざ好い物と言ってくれるはずがないと思う。
728日本@名無史さん:2011/01/25(火) 10:19:36
>>720

九州は畿内よりずーっと文化文明が先行し続けていたのよ。
突然逆転した理由を畿内説は何と考えるのかねえ。
729日本@名無史さん:2011/01/25(火) 10:22:33
>>726
>九州王朝説は畿内説よりはましだと思う。
畿内説には捏造を疑われている奈良文研とか歴博とか、胡散臭い連中が沢山いるからね。
730日本@名無史さん:2011/01/25(火) 11:01:31
出雲畿内が銅鐸の魔改造頑張ってたときに
九州は銅鏡導入合戦と魔改造やってたんだな。

畿内から鏡が出始めるときは、画文帯と三角縁の大量生産で、
文化的には枯れてるような気がするね。
魔改造や種類より数を競っているような感じ。

九州でひと通り鏡開発競争が終わって枯れた後に、
量産鏡文化が、銅鐸文化圏にかぶさったように見える。
731日本@名無史さん:2011/01/25(火) 12:12:06
なんかTVの後だけにニワカが多いな
732日本@名無史さん:2011/01/25(火) 12:22:29
膠を糊として使用することで機密性の高い木棺が作れるようになり、石棺は廃れていったのです。
エジプトのツタンカーメン王の木官や宝石箱にも膠が使用されています。
733日本@名無史さん:2011/01/25(火) 13:17:34
うっぷんがたまった九州説信者が沸いてるのか?

邪馬台国の会にでも入ってお布施してればいいんだよ。
734日本@名無史さん:2011/01/25(火) 13:42:22
>>728
後進のぶんだけ、タガが外れたときの植民地支配は酷い。
アフリカや南米に渡った白人帝国のようなものだ。
735日本@名無史さん:2011/01/25(火) 14:56:07
九州説論者の断末魔が酷いな。
いい加減現実世界に戻った方がいい。
736日本@名無史さん:2011/01/25(火) 15:36:41
2世紀後半〜3世紀に北部九州が衰退する(人口は増加している)のは、これは倭国内部の
動きというよりも半島からの影響が大きい。おそらく半島で倭に文物を移出していた勢力が
畿内を中心とする連合体の渡来人層と手を結んだからだろう。
737日本@名無史さん:2011/01/25(火) 15:36:52
歴博みたいなのが出てきて
炭素年代なんて振り回し始めた事が畿内説の断末魔だろ。
畿内説の学者からさえ非難されている。
歴博と打とうとしてhが打ちそこなったら歴悪とでた。
738日本@名無史さん:2011/01/25(火) 15:48:03
>>737

涙拭けよ。

739日本@名無史さん:2011/01/25(火) 15:48:07
吉野ヶ里は4世紀の遺跡だよね?
九州論者はこれが邪馬台国だって言ってるの?
卑弥呼が生きた3世紀の遺構は九州で見つかってないんだよ?

畿内からは卑弥呼が生きた3世紀の遺構が見つかっている。
だからって邪馬台国じゃないだろうと決めつけすぎる
立派な根拠を誰も出してきていない。

九州論者はまず、九州内で3世紀の遺構を探し出してきてから
書き込んだら?
740日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:00:46
>吉野ヶ里は4世紀の遺跡だよね?

違います。4世紀にはほぼ途絶えてしまいますね。最盛期は卑弥呼の少し前あたりでしょうか。
741日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:14:02
>>739
倭人伝に登場する国に比定される遺跡で、一つだけ間違いないとされる遺跡が
ある。それは壱岐の原の辻遺跡。これは一支国に当たる。
原の辻遺跡は環濠集落になっている。
つまり、卑弥呼時代の遺跡は環濠集落だったと思われる。

倭人伝の「城柵を厳かに設け、常に人がいて守衛す」からもそれが窺える。
九州の主だった遺跡も吉野ケ里、平塚川添などは皆、環濠集落。
しかも、吉野ヶ里遺跡からは、「宮室、樓觀、城柵」といった倭人伝の
記述に当てはまる遺構が出ている。

吉野ケ里を卑弥呼時代とすることで、整合性が見られる。

一方で、纏向は環濠集落ではない。「宮室、樓觀、城柵」といったものの
痕跡も見えない。卑弥呼時代と考える根拠がない。
これは時代が違うと考えるのが普通。少なくとも考古学的にはそう考える
のが妥当ではないかと思われる。
742日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:17:39
吉野ヶ里の環濠が埋められてその上に前方後方墳が作られている。
古墳時代が始まった頃に吉野ヶ里が滅んだのではないかな。

だから九州説の立場では吉野ヶ里が滅んだのは4世紀中葉でなければならない。
畿内説が古墳時代の開始を繰り上げるのは許せない訳だ。
743日本@名無史さん :2011/01/25(火) 16:22:22
吉野ヶ里が4世紀の遺跡とすると、纏向は何世紀?
5世紀くらい?
本州説も場所によっては、まだ十分魅力的だが、特定の地域の観光案内はいただけない。
744日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:22:22
>>741
>原の辻遺跡は環濠集落になっている。
>つまり、卑弥呼時代の遺跡は環濠集落だったと思われる。

この部分は説得力がないな。畿内説からすれば壱岐から遠く離れた畿内が同じ環濠
という集落形態をとっている必然性は何もない。

>>742
>だから九州説の立場では吉野ヶ里が滅んだのは4世紀中葉でなければならない。

北部九州にある3世紀代とされる初期前方後円墳も年代ミスになるのかな。
745日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:24:45
>>743
纏向が5世紀とすれば、河内の巨大古墳群は7世紀か?
746日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:33:06
>>739
吉野ヶ里は弥生中期から後期。

むしろ吉野ヶ里は卑弥呼の時代よりも古いから、
時代に合わないと畿内説論者が批判してきた経緯がある。
747日本@名無史さん:2011/01/25(火) 16:42:23
>>746
それは違う。吉野ヶ里遺跡が話題になった頃、畿内説の石野博信氏は森浩一氏
との対談で「吉野ケ里は、少なくとも卑弥呼が死んだ西暦250年頃は間違い
なく含む」と言っている。

纏向の時代が遡ったのは1995年頃で年輪年代法が根拠になった。
年輪年代法がいろいろ疑問をもたれても、纏向の時代が遡ったことだけは
生き残っているという経緯がある。
748日本@名無史さん:2011/01/25(火) 17:09:01
>>743
>吉野ヶ里が4世紀の遺跡とすると、纏向は何世紀?
5世紀くらい?

その通り。箸墓から鐙が出ている。
大陸で鐙が普及するのが5世紀だ。
大陸で鐙が普及する前に日本に鐙が来たらおかしい。
749日本@名無史さん:2011/01/25(火) 17:36:37
>>741
纏向の発掘はまだ3%しか進んでないんだよ。

>纏向には「宮室、樓觀、城柵」といったものの痕跡が見えない
というのは、いつ、誰が発表した正式見解なの???

纏向は今年の春からも隣の部分が掘られるし、
吉野ヶ里を超える国内最大級の建物(王宮跡)が発掘されただけで
まだ全容が分かってないんだが。
750日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:00:21
纏向が5世紀で吉野ヶ里が4世紀‥

本当に大丈夫か、このスレの連中w
751日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:07:35
ひとり安本一派のおかしい人がいるのは確かなんだが・・・
752日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:09:07
安本系の信者は、たいてい一人や二人常駐してる。

一匹ずつ潰していくのが俺の楽しみ。
753日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:54:44
安本の主張なんか、今では矛盾だらけでさっぱり
辻褄合わなくなるのにな。
754日本@名無史さん:2011/01/25(火) 18:59:37
単純に女王国=邪馬台国と勘違いしたのが誤りの元でしょ。
日本=東京と思ってるようなもんで。
755日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:04:06
というか安本本人は、金儲けの手段としてあの世界を構築していった確信犯。
自分が生きてる間は邪馬台国が発見されることはないという展望があったんだろう。
頭のいい人だから、倭人伝では答えが出ないこともわかっていた。
のせられた人は哀れだが、自己責任というしかないな。
756日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:26:17
>纏向が5世紀で吉野ヶ里が4世紀‥
>本当に大丈夫か、このスレの連中w

まあ オレサマ邪馬台国九州説 が成り立てば後は野となれ山となれ…なんだろうなwwwwww
あるいは「知らない」って強いと言うかw

お笑いネタに付き合えば
そうすると5世紀に、盆地の南部=三輪朝、盆地北部=佐紀朝(仮)、河内朝 で一斉のドンで巨大古墳の造営が始まる。

もはや「王権輪番制」すら間に合わない
先に挙げた3つの 「三朝並立説」 ぐらいもってこないと間に合わないwwwwwwww

もう「サヨク憎し」の怨み節なんか発狂しそうなネタだがw

『鐙』の件でも本来なら「布留1=5世紀」と言えばいいものを何故そう言わないか?

恐らく一つには5世紀までの古墳その他、編年されるものを詰め込むスペースがいるからなんだろうが
アホのゴミクズレベル九州説はそれすら気づかないw

757日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:32:19
>>615
倭地温暖の条を読んでたら、どう見たって、あれは沖縄あたりじゃないと無理だろ。
九州がそんなに温暖なわけない。

現在の感覚で当時を語るのは危険でっせ。当時の九州北部は海岸線がもっと内陸部まで
侵食していて有明海の干満も大きかった模様。気候も現在とは違うと思われ。
又刺青に関しても、最近(明治頃)まで風習としていた地方あったとの事ですよ。
話は違うが沖縄、特に離島に行くと邪馬台国の匂いがする。
758日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:35:35
しかしもう九州説は吉野ヶ里説で統一してくれよ…って話だなw

九州説の大衆人気と言うかそのイメージの源泉は吉野ヶ里なんだろうからww

で、ミスター吉野ヶ里こと高島センセイは確かに(タイトルに邪馬台国の文字を冠するような)市販一般向け図書の中では
倭人伝の「宮室・楼観・城柵」は吉野ヶ里のような環濠集落のそれとして
邪馬台国の時代はまだ吉野ヶ里全盛イケイケ時代だった・・・みたいなことは言っているがw

じゃあ、弥生の前期・中期・後期(終末期)を実年代のいつ頃に当てはめるのか?
編年モデルって何処かで出しているのか?

まさか70年代佐原のものに丸投げってワケにもいかんだろうしwwww

知っている人がいたら是非教えて欲しいw
759日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:38:30
みんな金儲けのために邪馬台国を利用してるだけでしょ。
真実などわからないほうがいいのさ
760日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:39:47
>>699
>銅鐸にしろ、墳墓にしろ、鏡にしろ、受容すると極端に巨大化される傾向がある。

それらが巨大化したのはいずれも後期後半ですね。

>その時代の「畿内」とはどういう意味のグループなのか?

「畿内」は後世つけられた地域区分でしょう。
その時代ならば、近畿式銅鐸を使用したグループとしてまとめられるでしょう。

>銅鐸文化の中心地とはどこだ?

それが実はわからないんです。加茂岩倉でないことは確かです。
761日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:49:02
当時の倭国なんて、卑弥呼共立でかろうじてまとめ、
卑弥呼が死去すると、男王がいても戦乱に戻ってしまうくらいだから、
軍事的に他国を圧倒するほどの動員能力は持っていない。

持っていれば、男王でも国家をまとめて統一できる。

つまり、巨大な墳墓を多数の動員で造築できるような国家ならば、
それは邪馬台国ではない根拠になる。
762日本@名無史さん:2011/01/25(火) 19:57:19
>>760
あなたなりの考えを確認しました。
銅鐸にしろ、墳墓にしろ、鏡にしろ後期後半(弥生?)の同時期に巨大化した。
近畿式銅鐸の分布域は畿内と新たに定義された。
文化の中心地がわからないが、近畿式としておくことは仕方がないことでしょう。
763日本@名無史さん:2011/01/25(火) 20:23:26
>>747
>纏向の時代が遡ったのは1995年頃で年輪年代法が根拠になった。

息を吐くように嘘を吐く ゴミクズレベル九州説 

都出が82年に佐原編年を100年遡上させる編年表を発表。

83年の橿原考古学研究所でのシンポジウム『三世紀の九州と近畿』で
近畿の都出・寺澤と九州の柳田の編年表が並べられる。

…と言う風に年輪年代法の登場に関係なく年代の見直しは進んでいたのが現実。

じゃあその95年以前で九大あたりから
古墳時代の始まり、庄内併行期を4世紀に置くような年代観が発表されているのか?

あるなら是非出してくれ。

畿内説に噛み付くのにその年代観を畿内説の総本山京大のラスボスクラスの佐原のそれに寄っていたんじゃ笑い話にしかならない。


まあ馬鹿は自分が自爆芸をやっているのすら気がつかないから馬鹿なんだろうがwwwwwwwww
764日本@名無史さん:2011/01/25(火) 20:23:58
>>762
> 近畿式銅鐸の分布域は畿内と新たに定義された。

うーん、そうではないです。

>その時代の「畿内」

というグループはない。「畿内」というのは「後世つけられた地域区分」の名称でしょう。
その時代には「近畿式銅鐸を使用した」地域が同じグループと言える。

ということです。なんかうまく説明できないけど。

そういえば銅鐸の分布が載ってるサイトがありますよ。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku08.html#dotaku08

近畿式銅鐸の解説もあります。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku02a.html#dotaku02a

「後期後半」はもちろん「弥生時代後期後半」です。
765日本@名無史さん:2011/01/25(火) 21:48:24
>>763
編年の歴史についてあまり知らないらしいな。
自分でもう少し調べてみたらいい。
庄内期を遡らせようとする人は30年以上前からいた。
当時は異端児と呼ばれたが。
766758:2011/01/25(火) 21:54:41
>>758の続き、あるいは自己レス

一応今手元にある本で高島の年代観に関する部分を引用しておく

引用元:「古代を考える 邪馬台国」 平野邦雄編 吉川弘文社
      環濠集落 吉野ヶ里遺跡とクニの成立 高島忠平

>4 環濠集落の展開ト解体 ー弥生時代後期(一〜三世紀)
>吉野ヶ里環濠集落機能の充実
>吉野ヶ里遺跡の環濠集落は弥生後期に最盛期を迎えるが、
>同時にそれは環濠集落の解体の過程でもあり、
>三世紀末には突如として姿を消してしまう。

まあ最盛期と衰退期を無理矢理詰め込んで無理をしたような印象を受けるがw

>>758で求めた高島センセイによる編年モデルと言うか年代観を示した年表と言うのは
もう少し突っ込んで庄内に併行する西新式や土師器が一体いつの時代なのかをきちんと示して
ゴマカシがきかないレベルのものって意味でwwww


767日本@名無史さん:2011/01/25(火) 21:54:50
>>763 「ゴミクズレベル九州説」とは、人間の議論の段階ではない。
同じ日本人として淋しい。
768日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:07:00
>>765

小林佐原の年代観が全盛期にあっても
それにに異を唱える人間もそりゃいただろうさw

それがどうかしたか?下らない。

悔し紛れのケチレスは良いから
その年輪年代法で一気に年代遡上が目論まれるまえの

古墳時代の始まりを4世紀に置く”正しい”編年とやらを
畿内説の総本山に頼らずに立証したものを出せって話だよw

それが九州の考古学において常識的に知られていたものなら
そんなものすら知らなかった俺は

「編年の歴史についてあまり知らないらしいな」

と言われても仕方がないだろうなw

さあグダグダ言わずに出せよw
769日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:11:53
小林行雄が60年前に出した「日本考古学概説」では、古墳時代の始まりが3世紀半ばすぎ
とされていて、これは崇神天皇没年258を採用したから。しかしその後、35年前に出版された
「古墳時代論考」では、開始の時期が4世紀からと変わっている。これは崇神没年を干支一巡り
60年遅らせた318年を採用したためで、文献史学の研究に引きずられた結果と考えられる。
このために有名な伝世理論も生まれた。

しかし当時でも、それこそ纏向を含むヤマトの早期古墳の数などから、もっと古墳時代開始の
年代を古くに考えていた人もいて、現在の年代観は小林の初期の論考に戻ってきているといえる。
ただしこれは土器形式の変化に基づいた編年ではないが。
770日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:18:57
>>768 よくわかりません。ちゃんと日本語でわかりやすく説明してください。
771日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:23:02
>>768
こちらが説明してもケチをつけるだけだろう。自分で調べた方がいい。

ここにこんなことが書かれている。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai03.html

いよいよ弥生時代の遺跡から木材が出土するのは、研究を始めて十数年が
過ぎた1995年の秋です。
滋賀県の二の畦・横枕(にのあぜ・よこまくら)遺跡というところから
弥生中期の井戸が発見され、そこに残っていた井戸材の年代を測定しました。

結果は思いがけないものでした。年輪年代法で得られた年代は、考古学者が
考えていた年代よりもなんと、100年以上古かったのです。
紀元後1世紀ごろの遺跡と見られていたのが、年輪年代法では紀元前1世紀の
前半と出ました。
当時、定説とされていた年代観とは、大きく違います。
(中略)
考古学関係者はここで、年代論にまで踏み込んだ徹底的な検証を開始しました。
じつは、年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が主張していた
年代観にかなり近いものでした。「近畿の年代はもっと古いはずだ」という
主張です。権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが、もはや、
彼らの主張を無視することも、年輪年代法の結果を無視することも
できませんでした。定説を根本から再検討する必要があったのです。
そして、出された結論は、まさに衝撃的でした。

これまでの定説を覆し、近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、
先進の北部九州と並行する時間軸で捉えたのです。弥生時代の近畿と九州が、
同じ年表に並んだ瞬間でした。
772日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:25:18
何のために古墳を作ったの?
古墳はだれの指揮で誰に作らせたの?
古墳の規模・数がなぜ国力に比例するの?
古墳を作らなかった地方で何かあったの?
だいたい、大山古墳で3周り目のほりを作ったのはいつの時代の何人?
773日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:26:37
>>769
その文献史学に引っ張られた話は都出によると

例えば普通に見て西方鏡群より古い東方鏡群が先に配られた・・・なんて無理な説明を小林がしたのは
文献史学の上田正昭の記紀に於ける県主の研究に配慮した結果…なんて話も聞くがw
どうも文献史学の方に色気を出しすぎた結果なんだろうか?www


要は畿内説に噛み付いているこの板のゴミクズレベル九州説どもから
小林だの佐原だの畿内説の宗家みたいな人間のものじゃなくて

年輪年代法が登場する前に既にあったはずの
自分達の年代観を示す根拠が一向に出てこない。

結論から言えば近畿関西の考古学が九州の考古学にやっと追いついた形になっているだけw

この基本の基本を分っていない馬鹿どもに

「編年の歴史についてあまり知らないらしいな」

…とか言われてもな(まあ実際詳しくは知らないんだが)wwwwwww
774日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:30:34
古墳なんて証拠にならない。日本の存亡をかけて
シナや半島勢力と死闘をかけていた時、丘作って濠作って
石並べて埴輪並べて……
775日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:32:32
>>771

何が言いたいんだ?意味が分らないがw

要は

>これまでの定説を覆し、近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、

って部分で年輪年代によって100年遡上されたって言いたいのか?w

それは理化学的年代測定法”でも”確認されたって話で

俺がこれまで散々言ってきた動きはそれとは別にあるんだよ阿呆w

…ったく古代史云々言う前に文章や話の流れを理解する基本的な能力が欠如しているなw



776日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:33:47
畿内説…古墳・記紀
九州説…出土類・海外史

777日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:34:12
そうね・・・実は記紀の生没年干支などは定点たり得ないと考えるむきは強くあったし、
定点となる大陸系遺物の多く出土する九州編年のほうが正しいだろうという予測も
胸の中にはあったんだよ。
778775:2011/01/25(火) 22:38:17
>>771
もう一つ

要するにそれまでの(お前らに都合の良い)年代観に異を唱えた

当時の” 異分子 ”どもはケシカランと言うお話なのか?

だがそのかつての定説を造っていた権威と言うのはバリバリの畿内説だったと言うオチにまだ気づかないのかな?w

「考えオチ」と言うほど難しい話でもないはずなんだがwww
779日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:40:01
発言者を罵倒してはいけません。議論になりませんから……
特に畿内説に無用で乱暴な言葉が数多く見られます。
冷静に、根拠に基づいて、皆にわかるように発言しないと、
これを見ている皆さんに予期せぬ審判をもらいますよ。
780773 訂正:2011/01/25(火) 22:41:01
誤)例えば普通に見て西方鏡群より古い東方鏡群が先に配られた・・・なんて無理な説明を小林がしたのは

正) 例えば普通に見て西方鏡群より古い東方鏡群が後に配られた・・・なんて無理な説明を小林がしたのは

781日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:41:31
>>775
もうちょっとちゃんと読めよ。

C14による年代測定法にも問題は多々ある。C14では弥生時代の開始時期が
紀元前10世紀と出た。弥生時代がこんなに早く始まっては、困ることが出て
くる。鉄器の普及が中国より早くなってしまうわけだ。

歴博の説明では、鉄器が古い地層に紛れ込んだということらしいが、それに
しても、定説より古すぎる。C14は年代が古くなる傾向にあると考えられる。
782日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:45:30
なぜ、古代史にこだわるのか→自分(日本人)の根拠が知りたい。
古事記・日本書紀は→信用できるところと信用できないところがある。
783日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:46:50
>>776
それは間違っている。畿内説は記紀の全面否定のようなところがある。
特に、最近のヤマト政権に関するものは、豪族の連合などというものが
登場し、いったい記紀の記述をどう考えているのかと思う。
784日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:48:09
>>781

話 を 逸 ら す な 。

俺が要求しているのは一点。

その90年代の年輪年代法登場以前の年代観で畿内説じゃなく

九州で地道に発掘調査していた考古学者らによって
編み出された年表で

「古墳時代の始まりは4世紀からだ」

とするものだ。

何故出せない?

それが考古学者らの間で普通に認識されているようなものがあれば
俺が無知だったで終わる話だぞ?wwwwwww

785日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:48:20
歴博の弥生年代観も箸墓についてのも、これは邪馬台国問題に関係なく総スカン
だろう。このスレでもそれを根拠に畿内説を説いているものはいないんじゃないか。
786日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:49:54
>>785
ぶっちゃけ俺個人はそもそも「卑弥呼の墓」というネタ自体に興味がないwwwwwwwww
787日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:55:13
>>783 とは、冷静で楽しい畿内・九州論争ができそうです。
日本人の精神のよりどころを論争するのは刺激があてよい。
788日本@名無史さん:2011/01/25(火) 22:56:06
いずれ年代観については、高島氏以外地元九州の考古学者で九州説の味方に
ついてくれる人が少ないのは何故かを考えてみるべきだろうね。
789日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:00:33
九州説では困る理由→今の歴史教育と政治ををひっくり返すな。
畿内説では困る理由→特に困る人はいない。九州説の人々は歯がゆい気分
790日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:01:05
いや、畿内説を証明せんがための「三角縁神獣鏡無理矢理舶載説」やら
畿内説を証明せんがための「箸墓無理矢理卑弥呼墓同定説」やら、
大阪の漫才並みに可笑しくて可笑しくて、これはオカルトだと思って聞いていました。
791日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:03:57
邪馬台国の卑弥呼→親魏倭王→日本の王→日本をまとめていた王→どこで政務をとっていたのか?→九州説=九州王朝
792日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:06:21
>>788

と言うか連中の言う「畿内説」は九州の考古学者も含むんだろうw

京大に並んで九大も悪の総本山とか?wwwww

793日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:12:17
あと記紀でいえば、纏向日代宮、室秋津島宮、・・・珠城宮もそれらしいものがあって、考古学者の
多くは舌を巻いてるんだけどね。
794日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:13:45
「九州王朝」… 名前はよくない。今の政治に反目するような態度は一考を要します。

「古代、九州を中心として外国と対峙した時代がありました。
その頃は九州人は勇敢に戦っていました。」この精神をそっくりそのまま
大和に引き継ぎました。その時期は不明なので皆で一緒に探しましょう。

これこそが「和」ですよ。

795日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:14:21
>>788
何かあるんだろうな。
三角縁神獣鏡魏鏡説を否定しておきながら、なぜか畿内説の擁護をする王氏。
鉄について九州の圧倒的優位を認めながら、なぜか鉄器の重要性を否定し、
畿内説寄りの意見を出す村上教授。

表立って反対するのはまずいという雰囲気があるのかも。
門脇禎二氏も九州説を唱えるのはかなりの勇気と覚悟が必要みたいなことを
言っていたな。
796日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:20:11
現代の国境と、古代の国境は違う。むしろ、古代は国境の概念が無いから……
797日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:21:21
倭国とは、何処から何処まで?特に西はどこまでだったの?
798日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:27:07
日本の古代史(外国との交流)が始まったのは紛れもなく九州。しかし、歴史な流れ
バトンタッチして行き、ある時期大和がバトンをキャッチして現代に至る。
このバトンタッチの瞬間を議論しませんか?彼我の中傷をせずに
799日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:31:46
>>798
記紀でそれは明確に示されている。つまり神武東征。
800日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:38:08
バトンタッチを外から記録したのが旧唐書
801日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:38:44
>>799 神話としては知っている。それで、外国の史料と出土物で考察すると
…… 高千穂これ以前(地理的・文化的)の繋がりが無い。神武天皇が何故
東征したのか目的がわからない。
802日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:42:21
>古代、九州を中心として外国と対峙した時代がありました。

この認識は間違いではないが、半島内にある倭勢力のことを考慮すべきだろうね。いわゆる
任那の地。ここは単に守られるだけの存在ではないよ。

>ある時期大和がバトンをキャッチして現代に至る。

これは、北部九州を経由して画文鏡が畿内に流れ、逆に庄内が九州に流れ込む時期だろう。
そして早期前方後円墳が「広範囲に展開する。・・・しかし九州王朝説ならこの答えには絶対
満足できないだろう。
803日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:46:58
まあこの

「90年代に登場した年輪年代法によって一気に100年の年代遡上が企てられた!」

と言うゴミクズレベル九州説の陰謀論も
暫くしたらローテーションで出てくるんだろうなw


804日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:47:20
そういや、畿内説なら、画文帯が卑弥呼の鏡じゃないの?
805日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:52:31
>>803
実際ここの九州説というのは、スレを活気づかせるためのプロ固定(コテハンではないが)
ではないかと思うときがある。銅鐸廃棄、三種の神器・・・繰り返しのローテーションもいいとこ
なんだが、このあいだのNHKのような番組があれば新規参入の人も来るようだし。
806日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:52:45
年代遡上といえば、C14のintcal04で比定すると
九州では100年どころか200年以上遡上する例があるが、

C14絶対主義で編年してみると、
どんな年表になるか見てみたいものだ。

編年された年代じゃなくて、
純粋なC14同位体比そのもののデータがほしい。
いくつかは手元の資料にあるが、
網羅した表みたいなのがあるといいなあ。
807日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:52:58
>>任那(加羅)は、倭が攻めてとったのではなく、元から倭の土地であって大和の土地ではない。
>>796で述べたとおり現代の国境は古代に通用しない。だから倭(九州含む。)は半島に戦力を
送り続け、任那(「加羅」で、倭の一部。)を300年も守り続けた。
808日本@名無史さん:2011/01/25(火) 23:57:27
>>803 「ごみくずレベル九州説」の表現、いい加減にやめろ。
畿内説のレベルを低下させている。日本人の発言とは考え難し
809日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:00:06
>>803
コチコチの畿内説信者が何を言っても認めないのはわかっている。
ロムっている冷静な人に分かってもらえればそれで良いというわけだ。
810日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:00:35
おやすみ。明日0600以降開店
811日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:03:02
>>807
そう。半島の倭だね。そして加耶なくしては半島勢力、あるいは中国王朝とも関係をつける
のが難しい一時期があったと考えている。半島の倭勢力と渡来人系の倭人のネットワークが、
北部九州から初期ヤマト王権へと倭国の中心をシフトさせた。もちろん現段階では仮説でしか
ないが、武力による交易ルート奪取よりは現実味があると思ってる。
812日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:21:32
>>808

うん?やめないぞぉ〜wwww

言っておくが当然
九州説がゴミクズじゃないんだ

理論的に九州説はおそらく何処まで行っても成り立つ。
畿内説には当然限界がある。

そう言った理論的なものならまだ議論ゴッコもできるw

が、「90年代に登場した年輪年代法によって一気に100年の年代遡上が企てられた!」等々

陰謀論に逃げ込むようなクズ連中はそもそも九州説を名乗る事自体おこがましい。

まあまともな九州説と峻別する為の良心の表れだなwwwwwwww


813日本@名無史さん:2011/01/26(水) 00:32:33
>>812
>>771をちゃんと読んだのか?
814日本@名無史さん:2011/01/26(水) 01:30:33
>>813

あん?何が言いたいんだ?

きちんと自分の主張を言葉にしてみようねボクwww

ちなみに

>かねて少数の若手研究者が主張していた年代観にかなり近いものでした。

…で年輪年代法が登場する以前にその動きがあったことが分り、そもそも

>権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが

…で

権威ある「定説」 と言うのは昔の畿内説で
「異分子」     と言うのが今の畿内説(と言うか常識)

なわけだがwwwwwwww
815日本@名無史さん:2011/01/26(水) 01:47:58
>>813>>771

おせっかいですが、横からです。

倉橋日出夫が書いたものを信用して、後生大事に有難がるようでは、ちっとも学問的議論になりませんよ。
彼がどんな媒体に書いてきたライターか、分かっているのですか?
816日本@名無史さん:2011/01/26(水) 01:48:29
>>811

鹿島神流か?wwwwwww
817日本@名無史さん:2011/01/26(水) 01:54:56
>>815
倉橋日出夫のバックグラウンドは兎も角

リンク先の引用している内容で何かあからさまな間違いがあるのかい?

818日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:05:07
>>815
いや、特に間違ったことは書いてない。吉野ヶ里遺跡が発表された頃、畿内説
の考古学者も含め、纏向は4世紀ころからというのが定説だった。
例えば、石野博信氏も吉野ヶ里遺跡の時代を卑弥呼時代と重ねていたし、
金関恕氏、もちろん佐原真氏もそうだった。

吉野ヶ里遺跡は邪馬台国時代と重なるからこそ邪馬台国だといわれた。
それを当たり前のように思っていたのに、ある日突然のように吉野ケ里が
卑弥呼時代の前ということになり、纏向が卑弥呼時代になった。
けっこう混乱したのを覚えている。

あの頃は、年輪年代がかなりもてはやされていた。
ジョーカーはその経緯を知らないからゴネているだけ。
819日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:24:01
・・・このサイトは光谷氏の業績を持ち上げる意図もあって大業に書いてる面もあるんだ
けど、実際はこの池上曽根の年輪年代以前から若手の間で年代遡上の気運が高まって
いたのも確かで、・・・1989年の小林行雄氏の逝去もそのきっかけの一つ。

やはり考古学界は学閥もあるし、徒弟制度のような面もなくはなくて、先人の説に反を翻す
のは難しい面もあるんだ。一方で九州の考古学界は早くから正確な年代観を出していた。
歯切れの悪いレスになったが、年輪年代が一つのきっかけであるのも事実だし、まあそんな
こともあって・・・。
820日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:25:10
>>818
>吉野ヶ里遺跡は邪馬台国時代と重なるからこそ邪馬台国だといわれた。

そりゃそれこそ大衆レベルだろうってお話だよ爺さん。

マスコミの仕掛けに振り回されたてめえ自身の自己責任だな。
当時の情報弱者だった自分を呪えばよろしいw

吉野ヶ里ブームの頃には吉野ヶ里こそが邪馬台国のように巷間では言われていた
…と言う話ならまあ分るが、じゃあ学術レベルでどうだったんだ?って話で

その年代観を保証するような学説が当時あったのか?って事を聞いている。

それに合致するようなものはかつての畿内説の小林や佐原説に基づくものしか知らんのだが
他にあったのか?

結局、過去自分の味わった「時代の雰囲気」程度がその根拠w

個人の思い出は大切にして頂いて結構だが
それを基準に学説史まで歪めるのはいい加減にしろ

単なる老害以外の何物でもないwww
821日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:35:32
古墳を造ってきたのは土師部(はじべ)という人々。彼らは古墳を作らなくなって舞人
になった。
822日本@名無史さん:2011/01/26(水) 02:47:18
しかし >>818 のようなレスを見ると如何に人間が簡単に刷り込みをなされるかが良く分かるなw

まあ「時代の雰囲気」と言ったようなあやふやな物じゃなくて
昔の教科書に載っていたような列島の東西に二つの円を描いて
「銅矛文化圏」「銅鐸文化圏」と書いていたようなものも今じゃ通用しないだろうし

(まあ圏と言う概念はOKなんだろうが東西に二大中心地があったような構図は現実に即さないと…)

現実には教科書で習ったものすらリセットしていかなければならないw

そこら辺の書換えできない奴は論者としての資格はない。

他人のふり見て我がふり直せ、気をつけたいものですハイwwwww


823日本@名無史さん:2011/01/26(水) 03:10:36
年代遡上については、畿内説はマスコミや出版社を総動員して大キャンペーン
を張ったといわれる。

>>822
あの時代がどういう時代だったか分かるかな。考古学的には畿内説の看板を
背負ってきた三角縁神獣鏡魏鏡説が破綻。一方で、吉野ヶ里遺跡は邪馬台国と
持ち上げられる。畿内説にとっては冬の時代だな。

都合のいい本ばかり読むんじゃないぞ。
824日本@名無史さん:2011/01/26(水) 03:25:29
>>823
>年代遡上については、畿内説はマスコミや出版社を総動員して大キャンペーン
>を張ったといわれる。

ソースは?
一体何処から仕入れたネタかな?

まあ吉野ヶ里は一過性のブームだったがw

それまで無条件に舶載とされてきた三角縁神獣鏡に国産説がかなり有力な形で出てきた
…そもそもこれが無ければ今の畿内説への進展は無かっただろうw

冬の時代?何を言っているのかな?ノスタルジーに浸っている年寄りはw

学問が漸進して旧説が切り捨てられていくのが「冬」なのか? ド阿呆wwww

むしろ昔の年代観を支えていた小林説の説得力が無くなった事は
実は九州説にとって大ダメージだったわけでw

825日本@名無史さん:2011/01/26(水) 03:27:10
ジョーカーは厨房か…。
826日本@名無史さん:2011/01/26(水) 03:47:13
しかし変な話だよなwwwww

その昔教科書にも採用されたような京大の偉いセンセイのロジックを使えば
確かに吉野ヶ里はなんとか邪馬台国の時代に合わせることができるかもしれないが

そもそも畿内説前提の理論なんだから同時代の遺跡ではあっても
邪馬台国ではありえないはずでw

なんと言うか邪馬台国ブームは色々カオスだよなwww

827日本@名無史さん:2011/01/26(水) 06:23:44
おはよう。
828日本@名無史さん:2011/01/26(水) 09:07:13
ジョーカーはゴミクズ発言止めちゃったのか?
つまんね。根性ないな
829日本@名無史さん:2011/01/26(水) 10:37:34
九州王朝説を取る人でも3世紀に畿内で
山陰〜関東までを配下に納める大規模王朝があったことは認めるんだよな?

その上でなぜ卑弥呼が九州の地方王でなければ困るのか。
畿内の王が朝貢したでは困るのか?

日本書記や古事記には畿内の王が初期の段階から
朝鮮や中国とかかわりを持つ記述がある。
しかし、九州に畿内に屈服しない三十国連合国家があった
という形跡が全くない。
強大な勢力が九州にあり、中国との同盟関係を結び、
日本を統一しようと常に畿内を脅かしていたのならば、
何らかの痕跡が残るはずだ。
830日本@名無史さん:2011/01/26(水) 10:50:35
マスコミ、出版媒体でのキャンペーンなら
九州説の方がはるかに強烈だっただろw
831日本@名無史さん:2011/01/26(水) 11:02:42
どちらが、メインをはっていたとしても、
3世紀くらいでは、完全に支配するという関係ではないでしょう。
魏志にも共立と書かれているし。
832日本@名無史さん:2011/01/26(水) 11:04:57
>>829
そもそも、日本を統一しようとしてないんじゃないかね?

畿内は兵庫、大阪、奈良、京都、すこし遅れて東海地方でひとかたまり
九州は福岡佐賀、少し遅れて熊本でひとかたまりだが、どうも3世紀には固まってなさそう。
そして、山陰出雲が発展していたが後に畿内に征服されると。

あとは遠すぎて、兵が送れるわけでもなく、
無理に送っても長距離遠征は消耗が激しく、下手したら返り討ち。

やるとしたら、ゆっくり、支配領域を広げていくしか無い。
833日本@名無史さん:2011/01/26(水) 11:14:28
大体、土地と気候がよければ、あまり外には出て行かないもんだ。
特にその地域での有力者は、その一番良いところを占領して落ち着く。

地勢的に山や川などの壁があれば、攻めにくく守りやすい。
だから、よそを攻めるためには余程の理由が必要だ。
それで自然に氏族が別れて占拠することになる。

出ていくのは、そこに納まれない弱小氏族だろ。

834日本@名無史さん:2011/01/26(水) 11:17:02
畿内の勢力が出雲を落とすには、正直言って遠すぎる。
この動機付けとしては、スサノオの草薙の剣にあるように
鉄の入手を理由としたい。

それがなければ、わざわざ出雲を取りに行かなかったかもしれない。
835太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 12:43:18
>>829
別に困るわけではない。
記紀は畿内(仮称)という国の文だというわけだ。それで九州は畿内から
は遠方のが外国であったわけで、特別の事情がない限り九州という外国の
ことを書く必要などない。特別とは戦争とか遣使の関係とかのそういう
場合だ。あとはとりわけ畿内あたりのことを書けばいいだけだ。それは
屯倉とかは遠方に作っているわけで、ここらへんはちょっと関係があるの
で書くだろう。四道将軍関係でもちょっとはあるようだな。

九州王朝は記紀成立の直前滅亡してるわけで、考古のブツも王朝関係の文
は壊滅し、少々年号とかが残ったまでだ。危うく九州王朝の証拠品が全部
無に帰すところ、免れたということだ。倭の五王も九州の王だな。
836日本@名無史さん:2011/01/26(水) 12:44:13
須佐は韓国語で「鉄」を意味するそうだ。
出雲は日本で一番早く製鉄が行われるようになった。
タタラ製鉄といって砂鉄を使った製鉄だ。それは5世紀の事だ。
畿内王権は出雲の鉄を手に入れる為に出雲を攻略したのではないか?
5世紀に入ってからだ。鉄をスサと言う所から、その話がスサノオ伝承になるのだろう。
古墳時代初期にはお粗末だった鉄器が中期に入ると畿内の鉄も豊富になってくる。
837太国 ◆yVAs7uaYlY :2011/01/26(水) 12:47:36
>>829
言いい忘れたが、天皇の外国視察は重要なので景行行幸は書かれているな。
おそらく開化も外国行幸はしてたようだ? 神皇紀に開化行幸の記述が
ある。
838日本@名無史さん:2011/01/26(水) 12:58:14
>>829
>日本書記や古事記には畿内の王が初期の段階から
朝鮮や中国とかかわりを持つ記述がある。

だけど畿内王朝が中国に遣使をしたと言う記録も無い。
倭の五王の記述がないのだよ。

>しかし、九州に畿内に屈服しない三十国連合国家があった
という形跡が全くない。

畿内に九州が服属していたと言う証拠も無い。
九州には豊富に中国や韓国と交流していた様子の判る遺物が出土しているが、畿内からは出ない。

>強大な勢力が九州にあり、中国との同盟関係を結び、
日本を統一しようと常に畿内を脅かしていたのならば、
何らかの痕跡が残るはずだ。 <

畿内を脅かす必要もないだろう。畿内は九州に服属していたのだから。
鉄でも銅でも九州を経由しなければ手に入らない。
九州にお願いして恵んで貰っていたのだろうから。
自前で鉄が入手可能にならなければ自立なんて有り得ない。
バカでかい墓作って鬱憤を晴らしていたんではないかな。
839日本@名無史さん:2011/01/26(水) 14:24:25
>>829
九州では古くから大陸との交流がうかがえる。
漢鏡もたくさん出ているし、西暦57年に奴国の王が貰ったと思われる金印も出ている。
西暦107年に後漢に朝貢した倭国王・帥升も九州の王と考えるのが普通。
こういう伝統の上に、西暦239年の卑弥呼の使者派遣がある。
それまで大陸との交流のない近畿地方ではあまりに唐突な印象があるということ。
840日本@名無史さん:2011/01/26(水) 15:11:37
>>838
記紀を読んだことがない人?
記紀に倭の五王の記述(応神〜雄略が中国に使者を送る記述)
ははっきり書いてあるじゃん。
嘘かいちゃだめだよ。

3世紀に畿内が九州に服属していた可能性はないし。
(九州から畿内産の土器は出ない)
中国や朝鮮の遺物ならば九州に限らず、
山陰や北陸など日本海側では大量に出る。
しかしこれらは山陰や北陸、九州の巨大王権が
中国や朝鮮と正式に国交を開き手に入れたというよりも
これらは民間レベルでの物々交換によるところが大きい。
魏志倭人伝には国家戦略として魏が邪馬台国に
鉄を与えたという記述はなく、与えたのは金印と旗だけ。
邪馬台国が畿内にあってもおかしくないということだ。
841日本@名無史さん:2011/01/26(水) 15:14:43
>>839
日本の先端(朝鮮寄り)にある奴国の王と
三十国連合国家の邪馬台国を一緒にしちゃダメだよ。
事実、5世紀には畿内に国内最大の王権があったのは間違いないのだし、
1世紀の日本には朝鮮よりの北九州の地方王しか
中国に使者を送る技術がなかったからって
3世紀になっても九州の王しかその技術を持たなかったと見るのは早計。
3世紀→5世紀に巨大九州王が畿内王に降伏した経緯が何かに見てとれるの?
842日本@名無史さん:2011/01/26(水) 15:35:01
>>841
>3世紀→5世紀に巨大九州王が畿内王に降伏した経緯が何かに見てとれるの?

屈服も何もしてないから、経緯も痕跡もない。
だいたい全時代において、九州畿内大戦争の痕跡がない。

文化的物流的交流はあったかもしれないが、支配、被支配の関係ではない。
遠距離で互いに利益の衝突がなければ、特に何かする必要もない。
843日本@名無史さん:2011/01/26(水) 15:44:07
>事実、5世紀には畿内に国内最大の王権があったのは間違いないのだし、
その思い込みがまちがいのもと。
844日本@名無史さん:2011/01/26(水) 15:49:14
巨大九州王wwwwww
845日本@名無史さん:2011/01/26(水) 16:01:11
九州王朝は危機成立の直前に滅亡している、というよりは、
九州王朝が滅亡したから、
やっと、畿内オリジナル正史が書けるようになったといったところかな。
846日本@名無史さん:2011/01/26(水) 19:20:53
>>829

>3世紀に畿内で山陰〜関東までを配下に納める大規模王朝があったことは認めるんだよな?

誰も認めないだろ。そんな事実は一切ない。
847日本@名無史さん:2011/01/26(水) 19:25:25
>>795
> 三角縁神獣鏡魏鏡説を否定しておきながら、なぜか畿内説の擁護をする王氏。

王氏の見解は、呉から渡来した鏡工人が畿内で三角縁神獣鏡をつくった、ですね。

> 鉄について九州の圧倒的優位を認めながら、なぜか鉄器の重要性を否定(する)村上教授。

鉄が少ないにも関わらず、畿内で王権が誕生したからですね。
848日本@名無史さん:2011/01/26(水) 19:34:57
>>818
> それを当たり前のように思っていたのに、ある日突然のように吉野ケ里が・・・

生々しい証言ですね。

> 纏向は4世紀ころからというのが定説だった

のに、それを論拠にしていた人々がいきなり梯子をはずされたわけですか。
で、なぜだかわからず

> けっこう混乱した

のだが、

> 年輪年代がかなりもてはやされていた

ので、これは年輪年代法のせいだ、と思い込んでしまった。
だけどその後、どうも年輪年代法は怪しい、という話が出てきたので
やっぱり以前の定説が正しかったんだ、と思い直した。

ということでいいでしょうか?

ところで当時、「纏向は4世紀ころから」の根拠はなんだったのですか?
849日本@名無史さん:2011/01/26(水) 20:05:43
関東を東海と勝手に読み替えてしまってた。
大規模王朝があったとしても、さすがに当時関東まで、は無いな。
850日本@名無史さん:2011/01/26(水) 20:59:03
現実を見てくれ。
巻向や唐子鍵遺跡付近も畑の中だし、斑鳩も奈良市内も寂れている。
都市が栄える条件は時代とともに変わってゆくものです。
851日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:34:15
年輪年代?桃の種?板ぎれ、全国のどうでもよい土器大集合、
そして肝心要のお宝物・鉄製品の無さ……
そこまでして畿内説に立つ理由はなんなのだろう?
852日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:34:59
九州には邪馬台国はないから。
853日本@名無史さん:2011/01/26(水) 21:47:12
畿内説の連中は、本当に日本人なのか?
無理なこだわり方が異邦人を感じさせる。
854日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:10:37
古代、倭国人は朝鮮半島の南端を含み九州地方を中心として生活していた。
だから、朝鮮半島に有事が起こるたびに九州の倭人達は朝鮮半島に出征しました。
九州地方にも乱はありました。熊襲と倭の戦いです。6世紀近くまで約300年間
ひたすら戦い続けました。
古代の人(九州人:倭国人)が何を思って戦っていたのかは、現代ではもうわかりません。
ただ、現在の九州人(近傍含む。)にその時のDNAは残っていそうです。大東亜戦争時の
菊兵団・龍兵団は北部九州人を主力として編成した兵団です。
古代のご先祖様の意志は受け継がれていると思います。
855日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:21:49
貴国(かしこき国)の民は誇り高く立ち向かっていけ
856日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:33:53
>>848
>>771を読んだ?
857日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:36:17
>>856
> >>771を読んだ?

読みましたよ。
858日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:41:27
>>857
纏向の年代が100年ほど遡ったのは1995年頃というのはわかった?
859日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:51:17
吉野ヶ里遺跡が卑弥呼の時代と重なり、纏向はその後というのが定説で、
みんなそういう年代観でこの問題を考えていた。
だから、畿内説の邪馬台国候補地は唐古・鍵遺跡だった。

それなのに、いきなり年代が100年遡り、纏向が卑弥呼の時代と重なり、
吉野ケ里が卑弥呼時代の前と言われれば戸惑うのが当たり前だと思うが。
860日本@名無史さん:2011/01/26(水) 22:58:17
いつも一点突破で詐欺を働く、畿内説
861日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:02:21
いきなり遡ったわけではなく、科学的に検証した結果。
人の思惑や願望が一切排除された科学分析の結果100年遡った。
それに人の感情が追いついていないだけ。特に九州説の人が。
862日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:02:39

「100年ほど遡った」というのは、弥生時代中期のある時点が、
従来の説よりも100年古く考えられるようになった、ということですよ

古代が何でもかんでも、どの時点でも、100年遡るわけではないですよ
そんなことしたら奈良時代はは610年開始?、平安時代は694年開始?
おかしいでしょw
863日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:04:58
>>858
> 纏向の年代が100年ほど遡ったのは1995年頃というのはわかった?

わかりました。
二の畦・横枕(にのあぜ・よこまくら)遺跡の井戸材の年代が年輪年代法で得られた年ですね。

また、池上曽根遺跡の柱材の年代が年輪年代法で得られ、報道されたのは1996年4月だったということですよね。
864日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:21:39
下らない、要するに学問の漸進についていけない情弱老人=ゴミクズレベル九州説どもの恨み節かwwww

 あの頃九州説は輝いていた。
 吉野ヶ里は邪馬台国だと言われていた。
 でも、ある日突然、空気が変わった。
 そうだ、あいつ、あいつが出てきてからだ。
 年輪年代法!
 年代遡上を目論む連中の陰謀だ。
 九州説は負けないぞ。
 絶対吉野ヶ里は邪馬台国!!

まあその旧説を支えていたのが他ならぬバリバリの畿内説だったというオチwwwwwww



865日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:23:21
>>863
年輪年代が重要な要素になっているのがわかるでしょう。
866日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:41:12
最近、ヤマト政権という言葉をよく耳にする。要するに、豪族の連合政権と
いうことらしい。これは明らかに、最近の邪馬台国畿内説に基づいている。
以前の大和朝廷とは異なる概念で、皇室の誕生にも影響してくることになる。
一部、教科書にも載っているらしい。
まだ邪馬台国論争に決着が付いていない段階で、早計と思えてしょうがない。
867日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:44:12
>>865
> 年輪年代が重要な要素になっているのがわかるでしょう。

それはわかります。

私的には95・96年のことはリアルタイムで知りませんが、
いろいろ調べた結果、遡上の理由は年輪年代法だけではないということです。
ほかにも当時の定説がおかしいという理由はあり、

(例えば、田辺・佐原編年の撤回、貨泉と第X様式の共伴、
 弥生後期の土器の発掘の進展により、絶対量の多さ・変化の過程ともに
 3世紀の中に押し込めるには無理があると思われるようになったこと、
 高三潴式(原の辻上層式)と第四様式の併行関係の再検討とW様式の大部分は須玖U式に併行するとの修正)

総合的に判断されて現在の年代観に修正されたのだということですよ。

それでは休みます。おつきあいいただいてありがとうございました。
868日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:48:30
年輪年代法?「遺跡から出た木片の年輪数と幅で○○年ころと思われる。」程度の
掻き乱し戦法ですか。所詮木片ですよ。そんなものに頼らずにお宝見せてくださいよ。
「ほら、親魏倭王金印出てきたよ。」とか、「卑弥呼と魏が連絡しあった木簡みっけ。」
とか。倭国動乱の痕跡でもいいですよ。
869日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:53:33
九州説ってインテリジェントデザインとかそのレベルだな
870日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:54:16
神籠石はなぜ九州にいっぱいあるの?
歴史書にない神籠石、何の証拠になるのか?
串間出土の玉壁とは?
871日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:54:23
要するに年輪年代法の登場なんていうのは単なる切欠。

膨らみに膨らんだ風船に最後破裂させる為刺した言うか…

その登場がタイムリーであり分りやすいから
(旧説の根拠、それがいかに見直されてきたか…なんて新聞程度の限られた紙面では説明できないだろう)

マスコミがこぞって報道したと言う感じだなw

つまり吉野ヶ里ブームにのかって梯子を外されて
今度は年輪年代法についてもマスコミの喧伝センセーショナルな報道に振り回されていると言う

何処まで逝っても救われない情弱ぶりwwww



872日本@名無史さん:2011/01/26(水) 23:58:16
おやすみ。またあした。
873日本@名無史さん:2011/01/27(木) 00:09:57
九州ファビョリすぎwwwww
874日本@名無史さん:2011/01/27(木) 06:19:40
おはようございます。

875日本@名無史さん:2011/01/27(木) 06:32:35
1980年頃に畿内説の学者が会合を持った。
そこで「箸墓を卑弥呼の墓に比定出来ないものだろうか?」と言う提案がなされた。
「それがいい。」と学者たちは一斉に箸墓を卑弥呼の墓にする為の年代変更に取りかかった。
それまで畿内は九州より50〜100年ほど年代が遅れていると言うのが通説だった弥生時代を
九州と同じで良いではないかと言いだした。
これは解釈の問題だから捏造には当たらないが、畿内説の中の一部はこれだけでは不十分として
年輪年代法で何とか100年ほど年代を繰り上げようと動いた。
年輪年代法と言うが、過去に数多の学者が取り組んでは日本の木材の複雑な様相に困難を極めて、
ついには挫折し、標準年代グラフの作成をあきらめていたものであった。
同じ木でも
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7d/Tree.ring.arp.jpg/800px-Tree.ring.arp.jpg
のように年輪は複雑な様相をしている。とても板切れ程度では年代を測定出来ない事は間違いないだろう。
同じ年でも、ある部分では幅がせまくなったり、広くなったりする。
丸太一本全てを測って平均を出すならともかく、勝山古墳出土の板材でその板材が切られた年は何年なんて
決して決める事は出来ない。
であるから年輪年代法は限りなくインチキなのである。

876日本@名無史さん:2011/01/27(木) 07:32:53
>>388
転用ならいくらでもあるよ。信長や秀吉の時代でもよくあった。
877日本@名無史さん:2011/01/27(木) 10:04:54

NHKの「邪馬台国を掘る」では畿内説の学者さえ信用していない
年輪年代法や炭素年代法を取り上げて、畿内説が信憑性がありそうな
解説をするのはどう言う訳だろう。
878日本@名無史さん:2011/01/27(木) 10:16:20
>>877

九州説の高島は九州説を信じてると思ってるの?
879日本@名無史さん:2011/01/27(木) 11:29:09
>>878
信じているから孤軍奮闘しているんだろ。
880日本@名無史さん:2011/01/27(木) 11:56:50
>>771
おたくの示したHPに変な図が載っているね。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/nennrinn04.jpg
弥生時代後期初めを紀元前後にしているが、弥生時代後期初めは貨泉で特定される筈だ。
貨泉が作られたのはAD14年からAD40年の間。
これ以上にはどんなにあがいても繰り上げようがない。
なお、日本にこの新の時代に作られた貨幣以外には漢の貨幣など出てこない。
貨幣経済が出来ていなかったからだ。
すると貨幣が日本に来たのは、光武帝がこの貨幣の流通を禁止して新しい貨幣を作って以降の事と解釈されるべきだ。
つまり、AD40年以降になる。
日本に渡って来て、廃棄されるまでの時間差を考えれば弥生時代後期は旧来のAD100年頃と考えなければならない。

ここでも弥生時代繰り上げの矛盾が現れてしまったね。
881日本@名無史さん:2011/01/27(木) 12:03:17
>>875
なるほど説得力あるな。
882日本@名無史さん:2011/01/27(木) 12:36:47
>>880
>日本に渡って来て、廃棄されるまでの時間差を考えれば弥生時代後期は旧来のAD100年頃と考えなければならない。


おまえの主観などどうでもいい。
883日本@名無史さん:2011/01/27(木) 12:45:36
>>882
だから貨泉の出土した弥生時代後期遺跡はどうするのよ。
弥生時代後期はAD40年以前には遡れないと言う意味だろ。

解らん奴が畿内説には多いな。
884日本@名無史さん:2011/01/27(木) 13:14:40
>>875
へえ、そんな会合があったんだ。
それは何処で誰が参加していたの?
まさかそれは分らないけど会議があったことだけは分っているなんて言わないよね?

一体何処から漏れ伝わった話なのかな?

きちんとソースを出してもらえるかな?
885日本@名無史さん:2011/01/27(木) 13:39:08
>>836
>須佐は韓国語で「鉄」を意味するそうだ。

またまたトンデモで人を笑わそうと思って。
朝鮮語は15世紀までしかさかのぼれなく
古朝鮮語はほんの断片しか資料がない。
現代韓国語だと鉄はチェオルかなんかだったと思うけど
須佐ってどっから出てきたの?
886日本@名無史さん:2011/01/27(木) 13:45:26
纏向から何か出てくるたびに新聞報道がされ、「邪馬台国の最有力候補地」と
宣伝が繰り返されているが、その根拠は非常に乏しい。

桃の種が出たとか、魚の骨が出たとか、大きな建物の跡が出たとか、各地の
土器が出たとか大騒ぎしているが、何一つ邪馬台国の根拠にはならない。

そのような纏向を邪馬台国の候補地にしなくてはならないところに畿内説の
弱さがある。しかも、年代が繰り上がったことでかろうじて候補地に
入っているというような状況にある。

もし、纏向の年代が繰り上がらなかったら、畿内説はどうなっていたか。
このように考えれば、纏向の年代繰り上げは畿内説にとって絶体絶命の
ピンチを免れる最後の手段だったといえる。

九州説の高島氏や奥野氏あるいは橿原考古学研究所の関川氏などは年代
繰上げに反対の立場だし、布留期の年代の持論から斉藤氏、田辺氏など
かなり多くの学者が異論を持っていると思われるが、議論をすることもなく
半ば強引に年代繰り上げに走ったのはそういう事情があるからだと思う。
887日本@名無史さん:2011/01/27(木) 13:52:14
いくら年代を繰り上げてみても、実質が伴わない。
それに南が東に変わることもない。
掘れば掘るだけ恥を重ねる。
888日本@名無史さん:2011/01/27(木) 14:02:51
>>885
韓国語で鉄は「すえ」だね。
日本の古代陶器を「須恵器」と言うのは韓国語の「すえ」から鉄のように硬いと言う意味だろう。
「須佐」がこれから来たかどうかは解らない。「す」しかあっているところがない。
韓国ではスサノオは韓国出身だから須佐も韓国語だと言う意見があるようだ。
蛇韓鋤之劒を持って日本に来た訳だから。
889日本@名無史さん:2011/01/27(木) 14:04:47
スサノヲ=帥升王
890日本@名無史さん:2011/01/27(木) 17:40:04
>>884
『空白の4世紀とヤマト王権』参照のこと
891日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:24:31
>>886
九州だって説が割れていて吉野ヶ里は有力候補地ではない。
じゃあ、邪馬台国はどこか?と言われれば
九州説の連中はそのうちどっかから出てくるとしかいわない。

畿内以上に可能性は低いじゃないか。
纏向以上に邪馬台国にふさわしい遺構が
九州から何か出ているの?
892日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:35:44
>>890

>『空白の4世紀とヤマト王権』

…で、その ゴミクズレベル九州説 どもによる同人誌はいつ出るんだ?w




893日本@名無史さん:2011/01/27(木) 18:46:55
>>891
倭人伝の記述通りに、30ヶ国に分かれていて、
統一政権でなく各国共立と書かれるくらいに、国力の差がなければ、
国の痕跡は複数出てくるのは当然のことだろ。

そして、卑弥呼が住んでいたのは、その30ヶ国のどれかの首都の一角か、
あるいは別に卑弥呼専用の住居があったんだろうが、
現実問題として区別つくのかね?
何が出てくれば区別がつくのかね?

桃の種や魚の骨が出てくればいいのかね?


894日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:03:31
>>893
へえ〜
九州説の人って邪馬台国がどこかわからないんだ。
三十国が日本のどっかにあって、
どのうちのどれかが邪馬台国なんだって、その程度。
つまり、九州にあるって根拠は一つも持ってないわけだ。

邪馬台国が畿内でも全く問題ないわけなんだね。
895日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:21:36
>>880
>変な図が載っているね。
http://ime.nu/www2.odn.ne.jp/~cic04500/nennrinn04.jpg

たしかに変だ。
1983年のものは後期の開始がAD100になっていて古墳時代の開始がAD300。
その間の5小様式を等分すると庄内式の開始がAD220になる。
これではマキムクが3世紀になってしまう。

というか、古墳時代の開始がAD300の時点でマキムクは3世紀。

896日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:31:31
>>883
> だから貨泉の出土した弥生時代後期遺跡はどうするのよ。

X様式のはじまりが西暦前後になると、
例えば、岡山市の高塚遺跡や東大阪市巨摩廃寺遺跡の、
「X様式-0」期の遺構や面から見つかっている後漢代初期(西暦25年〜)に鋳造された貨泉が
鋳造されてすぐ持ち込まれたと考えても、時代が合わない。

と寺沢薫さんが言っておられます。
1996年の10月頃の話かな、これは。
897日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:47:04
>>891
>九州だって説が割れていて吉野ヶ里は有力候補地ではない。

とは言っても先のNHKでも九州説といえばやはり吉野ヶ里だったわけでw

吉野ヶ里から見えるはずの邪馬台国が待てど暮らせど現れず
こうやって畿内説にイチャモンをつけることでしか自説を主張できないのが九州説www

898日本@名無史さん:2011/01/27(木) 19:54:00
纒向は大型前方後円墳が出てくる時点で、可能性なしだろ。
大国すぎる。
899日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:03:55
「今一つの議論は、第W様式がさかのぼるなら、古墳時代もさかのぼるのではないか、といったトコロテン方式だ。
 邪馬台国畿内論者は「予想通り」と、箸墓古墳の年代を3世紀前半から中ごろに繰り上げ、「卑弥呼の墓」説の補強を図った。

 しかし、古墳時代の始まりは第W様式の年代からひいてきたわけではないことは、考古学では常識ではないか。
 それは、後漢末の鏡の流入や須恵器の生産開始の年代観などから割り出したものなのだ。」

と、これも寺沢薫さんが言っておられます。1996年に。
900日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:21:53
日本史全般スレ(終止符)vs考古学全般スレ(ドン来い)

良い勝負してますねw
901日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:22:46

…と寺澤の言を引っ張ってきたとて
寺澤自身が庄内の始まりを4世紀に置くなんて年代観じゃないからなw

どの道、(畿内説のw)旧説になんとかして引き戻したいゴミクズレベル九州説は
蚊帳の外である事は間違いないわけでwwwwww

902日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:23:22
【次回予告】

この寺澤薫の語った
“「卑弥呼の墓」説の補強を図った邪馬台国畿内論者”こそが
我らが恨み節@東遷廚が復讐を誓った
悪の秘密結社「キナイセツ」なのだろうか?

来週もみんなで観よう。

903日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:26:42
日本史全般スレ(終止符)vs考古学全般スレ(ドン来い)

2chの『二大』邪馬台国スレ
好きな方に書き込んで下さい ロムするのも書き込むのも、各自自由なので。
904日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:29:01
>>901
> 寺澤自身が庄内の始まりを4世紀に置くなんて年代観じゃないからなw

中華屋ね〜、注目すべきなのは
「古墳時代の始まりは第W様式の年代からひいてきたわけではない」
だからね。

ここの前ページにある寺澤自身の「編年と実年代案」表では
後期の開始は1世紀の前半、庄内式の開始は3世紀初頭。
905日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:39:22
ただいま
906日本@名無史さん:2011/01/27(木) 20:56:41
畿内説の中でも寺澤は若干まともと言う事だが、

間違っている事には違いない。
907日本@名無史さん:2011/01/27(木) 21:00:08
>>906

一部で自分たちの溜飲を下げる言動をしてくれても

根本的に自分達の説を支持してくれるような学者はいないって話だなw


908日本@名無史さん:2011/01/27(木) 21:13:38
畿内説ってのは▲舶載説と同じレベルのトンデモにしか見えない。
これが普通の感覚では?
909日本@名無史さん:2011/01/27(木) 21:22:16
九州説なら九州のことを書けよ
910日本@名無史さん:2011/01/27(木) 21:39:13
>>908
君が異常なんだよ。
911日本@名無史さん:2011/01/27(木) 21:42:42
しかし >>818 は例の「怨み節@東遷厨」だろうか?

だとしたらコイツの怨みつらみの原点は吉野ヶ里だったんだなw



912日本@名無史さん:2011/01/27(木) 22:06:26
たしかに、吉野ヶ里が発掘されたころは、九州説全盛だったかな。

でも、持続しなかったのは、それなりの理由があるわけで。
別に年輪だけが原因じゃないし。

それより前に出雲から出た銅剣もかなり九州説には痛かったな。

913日本@名無史さん:2011/01/27(木) 22:09:26
>>904

後期(「弥生後期」と漠然と表現しても人によって定義が違うと思いますが)開始の実年代について言えば、
炭素年代での「遡り」なんか生じていない(逆に旧説より遅くなったくらい)ですよね。

また「終期」が早くなったのは「弥生終末期/古墳草創期」の時代区分の問題なので炭素は無関係。
炭素で遡ってしまったのは、前期、中期の開始年代。

さらに昭和の時代に義務教育を受けたような世代の方だと「弥生早期(旧説の縄文晩期後半)」なんて概念にも馴染んでいないので、
今の「弥生時代」が異常に引き延ばされているように感じるんでしょう。

ついでに言うと、光谷年輪の方は、貸泉マーカーとの矛盾が顕著に見られます。
914日本@名無史さん:2011/01/27(木) 22:32:53
>>892
>…で、その ゴミクズレベル九州説 どもによる同人誌はいつ出るんだ?w
アホだね。1986年に発行された畿内説のシンポの資料だよ。
915日本@名無史さん:2011/01/27(木) 22:33:50
>>913
> 炭素年代での「遡り」なんか生じていない(逆に旧説より遅くなったくらい)ですよね。

炭素って詳しくないのでそれは知らないです。後期開始についても発表があったんですか?

> また「終期」が早くなったのは「弥生終末期/古墳草創期」の時代区分の問題なので

私的には布留式期からが古墳時代ですね。

> ついでに言うと、光谷年輪の方は、貸泉マーカーとの矛盾が顕著に見られます。

ついでじゃなくて具体的に言うとどんなことですか?
916日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:05:35
>>914

で、その資料の何処にそんな陰謀の為の密会が開かれたなんて書いてるんだ?

そもそも

「丸太でないと板切れじゃ測定は無理」

なんてお話で否定できるんなら
とっくの大昔に専門家からツッコミ入ってるわwww

917日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:07:18
年輪年代は飛鳥時代を境に百年狂っているが、炭素年代は全体的に20%狂っている。
だから、ある所で交差一致する年代がある。
それが240年くらいの所になると言う事だ。
炭素年代は時代が遡れば登るほど狂いが大きくなる。
年輪年代はずーっと百年狂ったままだ。
918日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:14:25
>>916
密会なんて書いてないだろ。会合だ。
畿内説者しか集まっていないシンポジュームだ。

>「丸太でないと板切れじゃ測定は無理」
なんてお話で否定できるんなら
とっくの大昔に専門家からツッコミ入ってるわwww

年輪年代の専門家なんているのかよ。
919日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:14:41
>>912
>それより前に出雲から出た銅剣もかなり九州説には痛かったな。

それは具体的に言うと?

大昔の「銅矛文化圏vs銅鐸文化圏」が東西にあった…なんて構図が崩れ去ったと言うのは分るが…

やっぱり倭国の範囲と言うか3世紀頃の日本を実情を考えるにも
日本全体で考えなければならないと言う気運みたいなものが出てきたことが大きいのかな?

920日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:26:57
>>918 恨み節東遷厨

>>875を読む限り年輪年代法が「箸墓=卑弥呼の墓」を追認する為に
予定調和的に作り出されたとしか読めないからなw

実名挙がって無くても年輪年代の研究者と言えば光谷だろうに

一体考古学者から光谷にどんな働きかけがあったんだ?w


>年輪年代の専門家なんているのかよ。

いや、だからだな。
ごく近年のものならその樹木の年輪から伐採の年代を割り出す事は
ある種の知識を持つ人間なら可能なんだろうって話だがw

そんなサンプルの選定の時点で間違っているのならツッコミがあるだろうって話だがw

それとも年輪年代法と言うのは光谷が発明した完全ブラックボックスと言うのか?w


921日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:31:52
>>875
酷い話だよなあ。
年輪のグラフが公式に公開されていない状態で、結論を宣告するだけ。

寺沢は、これを批判して、石野も一切年輪年代には言及しなくなった。
良心的な学者はこれを無視し続けているという面があるね。

C14にあれほど批判的な安本があれを無視しないのは不思議だ。
922日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:35:37
>>895
庄内期はもともと弥生時代に含められていたんだろう。

その後、卑弥呼の墓と箸墓との関係上、庄内期を古墳時代にする必要が出て
来て、庄内期を古墳時代のように見るようになったとか。
923日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:36:14
C14でも海外のサンプルで、樹木の年輪からサンプルとって
補正曲線出したりしてるのに、なんで日本だけ
こんなにずれるの?

C14国際校正曲線intcal04をそのまま使っちゃいけないの?
都合が悪い値が出るのは分かるけど。
924日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:37:21
要するにゴミクズレベル九州説どもとしては…

年代観が変更されたのは、ひとえに 年輪年代法 のせいで
年輪年代法がコケたら皆コケる…と言う構図にしたいわけだなwww

仮にそうなっても、もはや70年代佐原のモデルの時代には戻らないだろうにw
925日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:39:39
>>924
年輪年代で年代を遡らせて、年輪年代がこけても年代はそのままというのが
おかしいんじゃないか。
926日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:43:53
>>925

だから、ここまで散々理化学的年代測定以外にも

もはや年代の見直しが必然だったって出てるわけだが

都合の悪いものは目にしても脳が拒絶反応でも起こすのか?







927日本@名無史さん:2011/01/27(木) 23:50:00
むしろ、独自の補正や見直しをまったく行わず、
完全に国際較正曲線で照合した結果を見てみたい。

紀元前なんて結果がゴロゴロ出てくるらしいが、
奈良時代以降の物や記録が残っているものでは
ぴったりの結果が出るらしい。

だから、それはそれで今までとはぜんぜん違う
年代観が得られるかもしれない。
928日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:03:45
>>922
>その後、卑弥呼の墓と箸墓との関係上、庄内期を古墳時代にする必要が出て
>来て、庄内期を古墳時代のように見るようになったとか。

陰謀論と言うか本末転倒だろうにw

考古学者が土器の研究をしていて古墳時代の初め頃に
底の丸い小型の土器が現れるようになったことに気づく。

それまであった地域ごとの特色を塗りつぶすように
似たようなものが広範囲に出てくるようになる。

これが「土師器」と言われるものだったわけだが

この動きは古墳が全国に出現する一種「前触れ」みたいなもので
これを古墳時代から切り離すのは
ある曲のイントロ部分を切り離して前に演奏されていた曲の後にくっつける様なもんだwwww

929日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:12:36
>>926
その年代の見直しというのが、何を根拠にどこから出てきたのかが問題。
そして、その年代の見直しの結果どういうことになるのかが重要。
930日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:12:52
テラサワですか?
あの人、本気で畿内説を信じているわけではないでしょう?
というより老人は別として今どきゴミクズ畿内説を本気で信じている「考古学者」など誰もいませんよ
931日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:19:33
>>929
少なくとも昔の年代観を支えていたのは

紛れも無く 邪馬台国畿内説 だったわけだがwwwww

>>930
>畿内説を本気で信じている

ゴミクズレベル九州説ってこの「信じている/いない」ってフレーズ好きだよなw

つまり
「口ではああ言っているけど内心は…」
と自分を慰めるしかないわけだw

「あの人も本当は私のことが好きなのよ」
とか言っている未練タラタラの女を連想してしまうのは俺だけかな?w

それかもしくは本当に人のココロが読める
えすぱー さんか れーのーりょくしゃ さんとか?w
932日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:24:48
>>930
昔の雑誌を見ていたら、森浩一氏と石野博信氏の対談があって、その中に
面白いことが書かれていた。

森…やはり、九州の大勢力が、ある段階で大和を中心とした地域に大きな
影響を与えたのはまず動かないと思います。

石野…研究所の寺澤薫君は盛んにそう言いますね。

寺澤薫は、ひょっとして東遷説(だったの)かな?

近畿地方は、ある時期、過酷な運命を辿ったと言っていたのを聞いたことが
あるし。
933日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:31:32
>>931
例えば、箸墓の年代がどんどんさかのぼっていった時期があった。
なにを根拠にしていたのかは良くわからないが、卑弥呼時代を古墳時代に
することによって、東遷説を阻止できることは確か。
なんとなく、結論の方が先にあり、理由を後付しているようにも見える。
934日本@名無史さん:2011/01/28(金) 00:43:10
>>933 恨み節東遷厨
>東遷説を阻止できることは確か。

ビョーキだなwwww





935日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:06:27
神武天皇の東征って、卑弥呼時代よりずっと前でしょ。
よって、東征話は九州説にはあってはならないことになると思う。
936日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:22:24
神武の東征はないと思うよ。応神の東征をモチーフにしたのだと思う。

ナガスネヒコの国が邪馬台国。応神が邪馬台国を制定して大和王権を作った。
937日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:23:00
>>936
根拠は?
938日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:27:04
だが、記紀には神武が日向から東征するとそれなりに
つじつまが合うようには書かれてるんだな。

筆者がうまいだけかもしないが。
939日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:27:36
>>937

日向の前方後円墳はマキムクよりも遅く始まるし、神武を祀っている神社も
あまりないでしょ。なぜ、アマテラスやらトヨやら祀られてるのに神武が
盛大に祀られないのか不思議。
これは昔の人も実在したとは思ってないからでは?
940日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:36:10
神武東征は紀元前にあったわけであって、それ自体はなかったとはいえないと思う。
ただこの問題と、卑弥呼の問題を変に絡めるから話がややこしくなる。

卑弥呼が神武の子孫なら、邪馬台国は畿内。そうでない別の王権なら九州にいたが正しいのでは。
941日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:37:29
逆に言うと、応神が日向の人で神武のコースで邪馬台国を乗っ取ったのかも
しれない。
また、日向は元は邪馬台国の属国だったのだと思う。

だから、卑弥呼は大和から離れた伊勢に祀られた。
942日本@名無史さん:2011/01/28(金) 01:56:34
>>939
宮崎に神武天皇が祀られている神社はあるよ。
宮崎神宮
http://www.kumaya.jp/atikoti7.html
狭野神社
http://www.pmiyazaki.com/sano_j/
943日本@名無史さん:2011/01/28(金) 02:00:06
>>940
神武東征が紀元前にあったらその証拠がない。
やはり、古墳文化、鏡文化の誕生や銅鐸の消滅といったものがその証拠になるわけで。
944日本@名無史さん:2011/01/28(金) 02:35:51
>>933

1.古墳時代の開始時期が遡上したこと



2.箸墓古墳自身の相対年代が古くなったこと

とは、とりあえず分けて考えた方がよいと思います。
945日本@名無史さん:2011/01/28(金) 07:34:04
>>943
>古墳文化、鏡文化の誕生や銅鐸の消滅

これは東征の証拠ではないでしょ。

都合良く年代を変える日本書紀のつまみ食いはよくない。
946日本@名無史さん:2011/01/28(金) 07:37:03
神武東征の原因は、霧島の噴火。
都城こそ神武の旧都とだったことがはっきりした。
947日本@名無史さん:2011/01/28(金) 08:12:28
今日のニュースでもう一つ、神武東征のなぞを解くヒントを得た。
それはJAXAの打ち上げた国際宇宙ステーションに結合機こうのとり2号だ。
神武の時代、多くの人民を宮崎から畿内に移住させるのは、宇宙ステーションに荷物を運ぶよりはるかに困難な巨大プロジェクトだったはず。
それを指揮していた一人が今もJAXAの三輪田さんの祖先だったのではないだろうか?
948日本@名無史さん:2011/01/28(金) 09:03:40
>>946
お〜、俺と同じ考えだ
あと考えられるのは、環境汚染だな
一か所に長いこといると、ウンコの処理が出来なくなり、臭くなる
そして、新天地を求めて、東征したのだろう
949日本@名無史さん:2011/01/28(金) 09:31:24
神武は、卑弥呼一族の子孫だよ
書紀に東征したって書いてるんだから、それを素直に読めばいいんだよ
ただ、年代については、3世紀末以降だろうけどね
950日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:08:49
神武と応神は同一人物だ。5世紀前後じゃないか?
951日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:09:58
ふたりともハツクニシラススメラミコトだな。
952日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:12:41
神武のいた場所は、壱岐→筑紫の糸島がもともとだろう。
宮崎県ではない。
953日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:14:05
伊都の日向峠説か。
954日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:19:16
伊都国の中心だと、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のさざれ石神社と
高礒比売神(たかすひめのかみ)の高祖神社だが、

神武をどういう位置づけにするか考えないといけないかもな。
955日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:25:48
伊都の日向峠説なんぞ、しょせんトンデモたよ。
956日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:37:45
全面的に肯定する気は毛頭ないが、

さざれ石神社には、美女の木花咲耶姫と、醜女の磐長姫がふたりとも祀られている。
これは結構珍しい。

日向峠から東に降りると、飯盛神社がある。
ここはイザナミ、そして隣の山にはイザナギが祭ってある。

神武より前の神話の時代を祭っている感じだね。
957日本@名無史さん:2011/01/28(金) 10:48:25
>>949
逆だろ逆。神武は卑弥呼一族の祖先。
神武以前に出雲神話が出てきたり、神武が吉備から大和入りしたり、
その大和入りが武力を伴ったものであったり、出雲や吉備が元気だったのが2世紀だったりを考えれば、
神武(に仮託された天皇家の祖)は2世紀倭国大乱の頃の人物なんだよ。
欠史八代は伝わっていた祖先をタテに繋いだだけ。
卑弥呼は神武から3世代目くらいの人。記紀のいうモモソ姫。
その甥の子が箸墓築造を契機に古墳時代を開いた崇神。崇神の娘がトヨ(豊鍬入姫)。
最近、弥生〜古墳の端境期に吉備の人口が減少してるって話が出たね。
私は神武がその「出吉備」のリーダーだったとは思わないが、
一員だったのではないかと考えている。それを後世記紀の編纂時に建国の英雄として脚色した。
しかし実際に天皇家の祖が「大王」になるのは、一族からヒミコ・トヨが出たことによって
ヤマト内での影響力が強くなった崇神の代から。これが真のハツクニシラス。
いわば、崇神が徳川家康だとすると、神武は松平親氏といったところ。
958日本@名無史さん:2011/01/28(金) 11:05:33
飯盛神社には子供の時から行ったことがあるが、
イザナギの太祖神社には行ったことがなかったので
機会があったら行ってみようと思い、ググッてみたら……隣の山じゃねえ。

篠栗の方だった。

由緒書きで隣の山のように書いてんじゃねえよ、飯盛神社……と神社のせいにしてみる。
30年近く隣の山だとばかり思ってたぜ。


で、西の糸島側が高祖山のイザナミ、
東の篠栗側が太祖山のイザナギ、

これは福岡平野を国生みしたと解釈せよということだろうか。
合体したのはどのあたりだろう(笑)

高祖太祖もそのままの意味なんだろうかね。


959日本@名無史さん:2011/01/28(金) 11:25:26
ほんとおまえらも毎日妄想してばかりだな(笑)
邪馬台国はヲタの恰好のネタだな。

答なんか出ないんだしいい加減不毛だとわからんか?神武が卑弥呼の末裔とかもうオカルトじゃん(笑)

単純に邪馬台=大和で近畿で正解なんだよ。女王国ってのは卑弥呼の勢力圏のこと。

これだけのことなのに延々毎日妄想ぶつけ合う馬鹿さ加減に呆れ返るわ
960日本@名無史さん:2011/01/28(金) 11:31:10
邪馬台=大和で決まりなんだが、
それじゃあ、夢やロマンが無いとか思ってるんだろ。

しかし、どうして邪馬台(ヤマト)国が2世紀から存在し、女王が統治してたことに、
ロマンを感じにくいのかが不明だな。

4世紀になるまで九州〜近畿を束ねた王権なんか存在しなかった!と、
どうして思いたがるのだろう?

2世紀から九州〜近畿を束ねた女王がいたという歴史観をどうして嫌がるんだろう?

きっとそいつらは日本の歴史文化に誇りを持てない在日朝鮮人なんじゃないのかな?

961日本@名無史さん:2011/01/28(金) 11:44:05
まあ、妄想ついでに、

イザナミが高祖山の東側の飯盛神社だとすると
高祖山の西側の高祖神社は黄泉の国かな。

伊都国が黄泉の国として、イザナギが日向峠を通ってイザナミに会いに行く。
そして、まあ神話のようなことになって、また日向峠を逃げ帰る。


ここで祓詞の例のやつの一部

つくしのひむかのたちばなのをとのあわぎはらに
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に


日向峠を降りて、立花山から姪浜の小戸港に出る。
阿波岐原はわからんが、姪浜から今宿にかけての海岸という説もある。

いろいろとつながってて、妄想するには面白い。
962日本@名無史さん:2011/01/28(金) 12:30:25
>>959 答え出てるんよ
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/                ┃           /ヘ    /
〜 〜 {ヽ_ /  {_/                ┃    「対海国」 ▲/  /
〜 ヘ/      ★末盧国            ┃          ∠ノ  / ニイガタ
/ヘ~                        ┃              /
                             ┃ 「一大国」      /
          _ |ヽ■伊都国       ┃      /▲フ  /
       /ヽ/ |/ |       伊吹山   ┃      | 「 /
      |      ヽ ★奴国        ┃      | |__/
       ヽ,   水行 ヽ,ヘ  ★不弥国  ┃     /   トヤマ
       |      ↓ /             ┃ ↓  / カナザワ
     ┌ '        ノ               ┃ ↓ /
    /        ノ              ┃ ↓|フクイ
   丿      ノ ^’              ┗━━━━━━━━━━━
  |_ 水行↓,/
  /  _/ヘ/▲投馬国
  | |    \                    末盧国・・・敦賀市
 /  >   天 \                    伊都国・・・旧伊香郡高月町
/  /     安 \                   奴国  ・・・長浜市
\ |        川                  不弥国・・・米原市
  ∨                ☆呼邑国     投馬国・・・野洲市・守山市
                          
      邪馬台国 ★ 天             邪馬台国・・・旧信楽町
                 岩 ☆為吾国    
             戸            呼邑国・・・甲賀市
                           為吾国・・・伊賀市
              ☆巴利国           巴利国・・・名張市
      ☆烏奴国                   烏奴国・・・宇陀市
  ☆奴国                         奴国 ・・・奈良盆地
963日本@名無史さん:2011/01/28(金) 15:19:28
卑弥呼を共立した国は東九州〜近畿までの国だろうよ。

伊都国とかは別で、女王国に服従した国。
964日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:31:32
畿内説は何の証拠も無く畿内に有ったと信じているらしいな。

それは信仰の類に過ぎない。
965日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:33:08
そう。
信仰には議論なんか無用。
畿内に有った。それで決まり。
そう連呼するのが畿内説だ。
966日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:36:40
>>964
九州説のほうが根拠はないよ。

邪馬台国の遺構はどこ?
と聞いても九州説の人は妄想を述べるだけで
何一つ考古学的成果に結びついていない。
967日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:38:27
特に根拠もなく
纒向箸墓と連呼しているよりはましだ
968日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:41:11
じゃあ根拠のある近江説で決まりじゃないですか>>962
969日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:48:13
>>967
纒向で3世紀と見られる大規模な王宮跡が発掘されたのは事実だけど?

もし九州でこの規模の3世紀の遺跡が見つかったらすぐ飛びつくくせに。
九州には考古学的成果がないのでひがんでるの?
970日本@名無史さん:2011/01/28(金) 17:57:21
なんか、マキムクって半年前くらいには
3世紀後半って言われてた気がするんだけど
971日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:12:17
>>969
>大規模な王宮跡

へ?、掘っ立て柱の穴とゴミ捨て場があったのは聞いてるが?
それがなにか?
それともどっか別のとこ?
972日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:20:07
伊勢遺跡の方が王宮っぽいよ
ttp://www2.city.moriyama.shiga.jp/iseiseki/ise1top.htm

ちょっと古いみたいけど
973日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:31:52
>>971
吉野ヶ里も掘立柱とゴミ捨て場だけだろ。
出てきたのって。
974日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:33:43
>>971
3世紀の王宮がそのままの形で出てくるわけないだろう。
どこの遺跡だって柱跡しか出てこないよ。
木は腐るからね。
真面目に考古学を語る気がないみたいだな。
というか、九州説は不利なのでわざと目をつぶってるんだろう。
975日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:36:35
まあ九州にあったなら古事記に記述もなく、突然消えて卑弥呼の伝説も残ってないってことだし、
違和感ありまくりだわな
976日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:37:24
出雲から銅剣が300本以上でてるのに、
吉野ヶ里とかしょぼすぎる。



977日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:37:59
>>974
その掘っ立て柱とゴミ捨て場の
何を根拠にして王宮と認定されたのかな?
978日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:38:21
マキムクの掘立柱の建物の規模、そんなに大きいですか?
隣の民家と同じくらいじゃないですか?
ところで、環濠見つかったのですか?
武器類は?装飾品は?
979日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:40:48
玉壁
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
漢倭奴国王金印
980日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:41:37
伊勢遺跡カッコイイ!

〜遺跡の東半部では、弥生時代後期の大型掘立柱建物が合計12棟も発見されています。
現伊勢町集落のすぐ東側は、方形の柵で囲まれた中に大型建物3棟と小型の倉庫が
L字状に配置された特殊な区画が存在することがわかりました。
SB−1(平成4年発見)、SB−2、SB−3、小型の倉庫(平成7年発見)から成る
政治の場であったと推定されています。

また、その東側30mの地点には3間×3間の楼観、
そしてこの楼観を中心にして半径110mの円周状に配置された6棟の独立棟持柱付建物と
屋内に棟持柱を持つ大型建物が発見されています。
さらに平成13年には、円周状の建物群の外側で床面積が185uを測る大型竪穴建物が発見されました。
この建物の壁にはレンガ状の焼物が置かれ、床が赤く焼かれており、特殊な建築技術がみられました。

佐賀県吉野ヶ里遺跡、栗東市下鈎遺跡で数棟ずつの発見例はありますが、
伊勢遺跡では多種多様な大型建物が12棟も集中しており、国内に類例を見ません。
981日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:41:46
出雲大社の敷地から出てきた、大型掘立柱跡はすごかったな。
982日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:42:37
>>978
発掘されたのはまだ3%ぐらいだろ。
今後も発掘が続けられる。
983日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:43:28
984日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:43:58
>>977
規模だろ。
国内最大級の建物跡であることから。
これまでの遺跡でも王宮跡とされている建物と
全く遜色ない規模であることから。

まあ、周囲も掘ればもっと大きな建物跡があるかもしれないじゃん!
と言いたいのかな?
985日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:44:32
>>982
今までに168回発掘して3%か。
400年くらいかかりそうだな。
986日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:46:47
上に出てきた伊勢遺跡と纒向はどっちが大きいのかな?
吉野ヶ里はだいたい全貌がわかってるしな。

出雲にも吉野ヶ里以上の遺跡があったようだが。
987日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:48:14
邪馬台国のちょっと前に、
滋賀県に政治の中枢があったことは確かなんだから
そこからどう奈良に移ったか考えてみればいいのに(´・ω・`)
988日本@名無史さん:2011/01/28(金) 18:50:24
もちろん、甲賀、伊賀、名張、宇陀を通るのは間違いない(´・ω・`)
989日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:04:16
記紀に記述がないから畿内ではないな。
女性天皇に無理にこじつけようという空気もあるようだが。
990日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:05:30
つまり忍者こそ正当なヤマトの民(´・ω・`)

じゃあ彼らをいじめてた人らってなんなん!?( ̄△ ̄;)

ってことになるから、
畿内説の人はマキムクマキムクって言ってそこばっかり掘ってはるねん、
税 金 で な。
991日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:09:16
>>985
>纒向遺跡はこれまでに160回を超える調査を40年近く実施してきましたが、
>未だ遺跡全体の数パーセントしか調査は進んでいません。
>そのため、纒向遺跡の居住域や集落の中心がどこにあるかなど、
>まだまだわからないことが多い状況でした。
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/bunkazai13.html

今まで纒向は集落の中心がどこにあるかもわからず、
休眠田畑や学校の跡地など発掘許可が下りるところを適当に探索したからだろ。
今回の発掘でだいたい集落の中心地がつかめたのだから、
今後の発掘はもっと早く進むはず。
992日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:10:51
>>989
文字の形跡のない九州であるほうがおかしいが。
7世紀まで九州が日本一の文明国家であったならば
当然日本書記に代わる歴史書が編纂されていたであろう。
しかし、九州はかなり文化が遅れていたらしい。
993日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:11:40
遺跡全体の数%って、分母はどうやって決めてるんやろ(´・ω・`)

えっ、ただの関係者の期待値!?( ̄△ ̄;)
994日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:18:38
3世紀の遺跡がない九州の連中って辛いよな・・・
遺跡の豊富な畿内を羨望して煽ることしか知らない。
奈良は九州と違って民家が多いんだよ。
田畑もある。
自由に掘れるわけないだろうがw

まあ、数パーセントというのは公式発表だからね。
遺構貧乏の九州説にはつらい現実だ。
995日本@名無史さん:2011/01/28(金) 19:23:32
なんや公式って
まあ奈良は県をあげてタカリを推奨してるような県やからね
関西広域連合の件でも分かる通り(上手く行ってるのを見たら参加するらしいw)

それにそぐわない人は世界まで出ていかはる
ttp://www.youtube.com/watch?v=pZO47QxV-iY
996日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:16:08

           ,..-─‐-..、
            /.: : : : : : : .ヽ
          R: : : :. : pq: :i}
           |:.i} : : : :_{: :.レ′  <ソースを出しなさい!
          ノr┴-<」: :j|
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!           _
          /:/ = /: :/ }!        |〕)  ))
       {;ハ__,イ: :f  |       /´
       /     }rヘ ├--r─y/   シュッ
     /     r'‐-| ├-┴〆シュッ  ハ,,ハ  シュッ
      仁二ニ_‐-イ  | |     ハ彡( ゚ω゚ ),ハ
      | l i  厂  ̄ニニ¬    ( ゚ω゚ )ミ( ゚ω゚ ) お断りします
     ,ゝ、 \ \   __厂`ヽ..    と ミ     つ
     / /\_i⌒ト、_   ノrr- }     ⊂ 、 /
   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ       ..し'


これで次スレ立てようとしたら、規制でダメだった・・・
997日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:19:09
ちゃれんじするよ
998997:2011/01/28(金) 20:23:32
ダメだったすまん
999日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:24:17
>>995
九州には三世紀の遺跡がないような年代設定を、
畿内説で飯食っている連中がねつ造したんだから、
あるわけないだろ。
1000日本@名無史さん:2011/01/28(金) 20:25:50
1000なら畿内説は詐欺
10011001
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