1 :
神奈川県民:
2 :
サガミハラハラ:2010/10/18(月) 08:33:41
邪馬台国は佐賀県小城市甘木に確定しております。卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡(サクラオカ)です。
卑弥呼を記紀等の古文献の中の誰かに比定したがりますが、だれにも該当いたしません。
なんで、誰かのことだと考えたがるのでしょうか。
3 :
ローガン:2010/10/18(月) 15:32:29
スレ跨ぎなので、貼り付け。
910:taro 2010/10/16(土) 20:39:54 AA
10)
致命的に数字が合わない事に対する回答になっていませんが?
「往百日,攻百日;還百日,以六十日為休息,如此,一年足矣」・・・は「晉紀」の引用
「四千里」・・・は、魏志本文ならびに魏名臣奏の引用
異なる書物の記述の、異なる主題の記事ですよ
「往百日〜」は、司馬懿が都にいて皇帝と話してる時に「行って帰って来訊かれて答えたもの。帰って来るのは、もちろん"都に"帰って来るんです
「四千里征伐」は、文字通り「征伐」が四千里。征伐のスタートは前線基地・盧龍塞から始まる。
「道路回阻,四千餘里」は、困難な道が四千里。盧龍塞までの国内移動に「道路回阻」ってことは無い。回り道も無ければ、阻むものも無い。
本文や魏名臣奏の"四千里"を、晋紀の"百日"で割る無い。回り道も無ければ、阻むものも無い。
本文や魏名臣奏の"四千里"を、晋紀の"百日"で割るという計算式は成り立ちません
で、致命的に数字が合わない事に対する回答になっていませんが?
(洛陽〜襄平までは道のりでも2900里、、、、4000里には千里以上足りない。盧龍塞〜襄平までは道のりで300km強。短里4000里(308km)でちょうど) 以上コピー。
4 :
ローガン:2010/10/18(月) 16:00:11
地図をみました。洛陽〜遼陽 は直線で1200km位。2800里弱というところか。道中、険しく回り道が多いなら、4000里で別に不自然はありません。
又、明帝紀引用晋紀はこう『帝曰「住還幾日?」對曰「往百日、攻百日還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」』
本文はこう『初、帝議遣宣王討淵、發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多、役費難供。帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦當任力、不當稍計役費。」』
いずれも征伐に先立つ軍議であり起点は同じ洛陽と考えるのが妥当でしょう。宣王や、4万の軍勢が最前線に集結したのちに、征伐の軍議を始めたとは、考えられませんよね。
それに夏侯淵伝・・・淵曰:「我転斗千里,今復作営塹,則士衆罷弊,不可久。賊雖,易與耳」は、あなたが、起点とは前線である。とする根拠に挙げたものの一つですが,
「千里を転戦してきたので、陣地や塹壕作りをすれば疲弊し、長続きしない。(すぐに戦ったほうがよい)」と云う意味です。 この起点が前線を指すのは、「転斗」とあるから解るのであって、ここでの用例としては相応しくないと思います。
5 :
ローガン:2010/10/18(月) 18:01:43
追加。
>王基伝・・・昔子午之役,兵行數百里而霖雨,橋閣破壞,后糧腐敗,前軍縣乏。姜維深入,不待輜重,士飢餓,覆軍上。 ///230年の姜維の軍事作戦。漢中スタート。成都スタートだと、長里でも全然足らない。
曹真の出発地点は長安。宣王とは合流したように読めないので、曹真が撤退の勅を受けたのが漢中より手前。
「長安〜漢中の手前のどこか」なら、数百里で妥当でしょう。
6 :
あらため:2010/10/18(月) 19:21:26
短里?長里だって?
「里」というのは、「歩」が基準。
その「歩」は「尺」が基準ですね。
漢志
古者建歩立畝 六尺為歩 歩百為畝 畝百為丈 丈三為屋 屋三為井 井方一里
いわゆる、里は1800尺という文。
この「里は1800尺」というのは、歴代変わっていません。
漢代、魏代、晋代においてもこの定義が使われてる。
天文上における「里」ですが、太陽までの距離を知る為に
周髀算經の計算を用いて割り出す。
ここでなんらかの間違いが生じた。
短里などはじめっから存在しないのです。
7 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 19:44:07
それが正しいという保証はない。
仮に中国では正しいとしても、東夷においてもそうだという保証はない。
>>4 (予想どおり先越されましたが)
>道中、険しく回り道が多いなら、4000里で別に不自然はありません。
現代の鉄道のマイル数でいくと、洛陽〜瀋陽間が1057.7マイルだそうなので(岡田英弘「日本史の誕生」)
=1,702,203.15km=3,920里
「往百日、・・・還百日、」なら進軍速度1日40里で妥当。
後漢書郡国志劉昭註では、遼東郡雒陽東北三千六百里。玄菟郡雒陽東北四千里。
9 :
あらため:2010/10/18(月) 20:10:19
河童君、以下の単語を一つ一つ解説していってくださいな。
山海経
国志
呉志残卷
魏志残卷
版本
影印
百衲本
紹煕本
紹興本
咸平本
静嘉堂文庫
魏志
魏略
魏書
通志
太平御覧
正史
写本
通典
裴松之注
黄幢
斯道文庫論集
季刊邪馬台国
仁寿本
汲古閣本三国志
武英殿版
>>6 >この「里は1800尺」というのは、歴代変わっていません。
>漢代、魏代、晋代においてもこの定義が使われてる。
その根拠は何でしょうか。どこかの史書に典拠があるのですか?
12 :
月ひかる:2010/10/18(月) 22:16:00
>>6 あらためさん。漢字に疎い私の為に
>漢志
>古者建歩立畝 六尺為歩 歩百為畝 畝百為丈 丈三為屋 屋三為井 井方一里
これをちょっと解説していただけないでしょうか。
13 :
taro:2010/10/18(月) 22:25:19
>>4 すでに書いたことですが、河北の魏領内で「道路回阻」ってことはないです
江南と違い、この辺は乾いた平原で、しかも太古の昔から十分に道路開発が行き届いてる地域
何となく地図を眺めて「直線1200kmだな〜、回り道すれば1740km以上にはなるなあ〜」ではなく、ちゃんとシミュレーションしてみて下さい
洛陽〜鄭州・・・100km(当時の黄河は、この辺りから北東流)
鄭州〜滑県・・・200km(滑県の北、現浚県付近に当時の"白馬の渡し")
滑県〜邯鄲の南・・・300km(鄴を通過)
邯鄲の南〜臨城県の東・・・400km
臨城県の東〜新東市の北東・・・500km
新東市の北東〜徐水県・・・600km
徐水県〜北京の南・・・700km
北京の南〜宝坻区・・・800km
宝坻区〜盧龍・・・900km(盧龍塞に到着)
盧龍〜綏中の西・・・1000km
綏中の西〜錦州・・・1100km
錦州〜遼陽・・・1350km
道のりで1300km強です
"四千里"は長里で1740km
しかも、「魏名臣奏」の場合は"四千余里"なので、ここからさらに延びる。
ついでに言うと、海岸線ではなく内陸を通る道を使っても、それほど回り道になりません
なぜなら、かつて曹操が袁尚を追討するのに作った道があるからです
14 :
taro:2010/10/18(月) 22:26:47
そしてもちろん軍議を最前線でおこなったわけではありません
洛陽で、作戦行動の全体を議論しているんです
もう一度いいますが、インパール作戦を立案するのに東京からの距離を数えません。イラク戦争を計画するのにワシントンからバグダッドの距離を数えません
全軍が首都から出発したと?、、、いえいえ、洛陽に4万人の軍隊が常駐しているわけではないですし、首都防衛軍から4万人も抜き取ったら司隷の防衛戦力がスカスカになる
鄴や許や周辺の各州から少しずつ抜き取って編成するんです
そして、それら全部が一旦洛陽に集結して出発ってこともない。冀州や兗州の軍を洛陽に集結させてたら時間&物資のムダです
(関中とか豫洲の軍は抜き取れません、、、、蜀&呉との最前線ですから)
洛陽から出発するのは、全軍のごく一分です
で、前線基地に集合して、そこで準備万端整えて、そこから"征伐"スタートです
すいませんが、軍事はお詳しくないですか?
ローガンさんの作戦立案だと、ものすごい危なっかしいですが・・・
>>8 すいません、現代の鉄道じゃないんで
15 :
月ひかる:2010/10/18(月) 23:23:38
★公孫撲滅作戦
【A・洛陽】→・・・・・・・→【B・駐留基地】→・・・・・・→【C・戦場】
★フセイン撲滅作戦
【A・ワシントン】→・・・・→【B・駐留基地】→・・・→【C・バクダッド】
★フセイン撲滅作戦の場合、
作戦開始を知らせる時間は、AからBまでは実質0(無線)
作戦完了を知らせる時間も、BからAまでは実質0(無線)
★公孫撲滅作戦の場合
作戦開始をAからBまで伝達する時間(速度)と、BからCに移動する時間(速度)は
当時移動手段は徒歩のためほぼ同速度
洛陽で皇帝が作戦開始を告げても、駐留基地ではリアルタイムでその作戦開始を知るすべがない。
作戦完了も同じで、駐留基地で作戦成功を知っても
リアルタイムで皇帝はその作戦成功を知ることができない。
ようするに、フセイン撲滅作戦とは違い、皇帝が作戦開始の言葉を発してから作戦終了の知らせを聞くまでが
当時の戦行動と言う事になります。
ここが時代が下った現在の戦との違いであります。
当時の戦の作戦行動にたいし、現代社会における戦の作戦行動を引き合いに出す事の
バカバカしさと言う事になりますね。
16 :
月ひかる:2010/10/18(月) 23:33:58
仮に、仲達が皇帝に述べた三百日という日数が
駐留基地を基準に置いた日数だとした場合、皇帝はその三百日という日数に
洛陽から駐留基地までの往復の日数をプラスした日数を経過しないと
皇帝にとっての戦は終了しないという事になります。
それでは仲達の発言は、皇帝を無視した発言であったという事になります。
家臣だったら普通
皇帝の耳に成功の報告が、どのくらいの日数で届くかを報告するのが当たり前の
行動、発言ではないでしょうか。
>>6 >漢志
>古者建歩立畝 六尺為歩 歩百為畝 畝百為丈 丈三為屋 屋三為井 井方一里
もうそろそろ、正確に引用しような。
漢書 食貨志 二十四上
故必建歩立畝 六尺為歩 歩百為畝 畝百為夫 夫三為屋 屋三為井 井方一里
18 :
taro:2010/10/19(火) 00:08:00
「
>>8 「現代の鉄道とは違う」て済む話なんですけど、いちおう性分なんで調べてみました
やはり、歩きと違って、鉄道は鉄道の事情で迂回してますね
滎陽から黄河沿いを行かず、いったん鄭州市街地へ突っ込み、そこから北上。約30kmロス
鄭州からまっすぐ新郷へ向かわず、一旦西へ迂回。さらに山沿いを通って安陽へ。約60kmロス
磁県から真っすぐ邯鄲へむかわず、山沿いを迂回。約20kmロス
涿州から真っすぐ北京へ入らず、いった東へ回って、北京の南を通り、市の東側へ出てから、東から迂回して北京駅へ入線。約20kmロス
綏中から錦州の南を真っすぐ遼東平原へ行かずに、いったん錦州市街地へ突っ込んで。約30kmロス
目的地は瀋陽ではなく遼陽。瀋陽と遼陽の距離、約50km
ざっと調べただけで、すでに200km以上迂回してます。
人間なら、原っぱを真っすぐ突っ切れても、狭い道を一列で通れても、鉄道は鉄道ビジネスの事情がありますから、そうはいきません
19 :
taro:2010/10/19(火) 00:13:35
>>15 >>16 成功の報告が届くまでの日数は、ちゃんと答えていますよ
「往百日,攻百日;還百日,以六十日為休息,如此,一年足矣」
「四千里」は、これとは全く別の文脈で出てきた言葉であることをお忘れなく
「初,帝議遣宣王討淵,發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多,役費難供。帝曰:「四千里征伐,雖雲用奇,亦當任力,不當稍計役費。」遂以四萬人行。」
「補給が困難だから、四万人は多すぎるのではないか」と言う家臣たちに、「四千里の作戦をするのだから、奇策を用いるといっても兵力も必要だ」と明帝が言ってるんです
日数とは関係ない文脈で出てきた里数です。
最終補給が出来るのは前線基地ですよ。洛陽じゃない。
もう一つの「四千里」は
「今懿奉辭誅罪,步騎數萬,道路回阻,四千餘里,雖假天威,有徵無戰,寇或潛遁,消散日月,命無常期。人非金石,遠慮詳備,誠宜有副。
今北邊諸將及懿所督,皆為僚屬,名位不殊,素無定分,卒有變急,不相鎮攝。存不忘亡,聖達所戒,宜選大臣名將威重宿著者,盛其禮秩,遣詣懿軍,進同謀略,退為副佐。」
副将の毌丘儉を付ける話。これも「道路回阻」は、魏領内の話じゃなく遼東に入ってから。
しかも「今北邊諸將及懿所督」ですから、この時は司馬懿は既に北辺にいます。北辺の専門家・毌丘倹と合流したんです。
いずれにしても、「魏志本文」「晋紀」「魏名臣奏」と、異なる書物の異なる主題の記事です。四千里と百日を結び付けることは出来ません
>>17 >もうそろそろ、正確に引用しような。
そこまで正確性を求める必要性がありますか?
21 :
8:2010/10/19(火) 00:15:50
>>18 >鉄道は鉄道の事情で迂回してますね
なるほど。こちらも地図上で言われる道筋をたどってみました。
1350kmでよろしいですね。
22 :
ローガン:2010/10/19(火) 00:19:41
>>14 >全軍が首都から出発したと?
いいえ、そういう主張ではありません。本文を再掲します。
初、帝議遣宣王討淵、發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多、役費難供。帝曰「四千里征伐、雖云用奇、亦當任力、不當稍計役費。
明帝は、4万の軍を提案した。が、臣はそんなに多くではとても戦費が賄えないと、反論。
「ここから、四千里離れた地へ討伐に向かうのだから、いかに奇策を用いるといえども、結局は、軍事力勝負となる。戦費を安くあげようとするな。」と臣下を説き伏せる場面。
魏名臣奏にある何曾の上奏は、「責任者が死ぬという事態がおこれば、有能なものが代理をつとめる。先王もそうして来たし漢代の記録にもそう書かれている。
いま、司馬懿が賊を滅亡させようとしていますが、四千里以上の行程、長引く可能性もあり、司馬懿はいつ死ぬか判らない。
先々を見通して、準備を怠らないために、副官を置く事を進言します。万が一不慮の事態になっても軍の指揮に副官がいれば、心配ありません。」という毋丘険の副将選出にまつわる逸話。
いずれも四千里の起点は、帝のいる場所と考えるのが自然ではないですか?
まあ、「違う」と言われたらそれまでですが…。私は上記のように読みました。
> すいませんが、軍事はお詳しくないですか?
ええ。よくしりません。すみません。
23 :
taro:2010/10/19(火) 00:19:45
レス18の6行目、入力ミスです
「涿州から真っすぐ北京へ入らず、いった""東""へ回って、北京の南を通り、市の東側へ出てから、東から迂回して北京駅へ入線。約20kmロス」
ではなく
「涿州から真っすぐ北京へ入らず、いった""西""へ回って、北京の南を通り、市の東側へ出てから、東から迂回して北京駅へ入線。約20kmロス」
でした
>>11 >その根拠は何でしょうか。どこかの史書に典拠があるのですか?
自分で探しな
>>12 >あらためさん。漢字に疎い私の為に
>これをちょっと解説していただけないでしょうか。
人(おれw)に頼るな〜彼(河童君)に頼めw
>>17 >もうそろそろ、正確に引用しような。
>漢書 食貨志 二十四上
>故必建歩立畝 六尺為歩 歩百為畝 畝百為夫 夫三為屋 屋三為井 井方一里
おっと失礼〜!たんなるネタ出なので大目にみてね〜ヽ(≧∀≦)ノ
25 :
taro:2010/10/19(火) 00:29:13
>>21 ええ、北平を廻ってそれぐらいですね
濮陽から、当時の黄河沿いを通って、現天津を通るルートなら、さらに短くなりますが
一応、わざわざ回り道をさせました
>>22 4万人の軍隊の戦費自体は、それほどでもありません
魏は、単なる行幸に10余万人から動員出来る国力があるんですから
でも、敵地での軍事作戦となったら、話は別です
華北平原を移動してるだけの4万人に、「役費難供」ってことは無いですね
「魏名臣奏」の場合は、「"今"北邊諸將及懿所督」ですから、この話の時点で司馬懿は北辺にいます
洛陽から数えると、おかしなことになる
26 :
月ひかる:2010/10/19(火) 00:45:28
>>24 >>あらためさん。漢字に疎い私の為に
>>これをちょっと解説していただけないでしょうか。
>人(おれw)に頼るな〜彼(河童君)に頼めw
あらためさんが引用したからこそ、あらためさんに声を掛けたのであって、
河童君という方には関係ない事ではありませんか?
説明解説が出来ないのであるならば、引用などしなければいいのにと思います。
大国主一族ゎ♪北へーっ北へぇ〜〜〜 と追いやられてしまいました〜ぁ♪
蝦夷!! (><)εεεεε(⌒ε⌒)
おれも、河童くんや、ゲンコ虫くんみたいに〜
卑弥呼が一人、二人、三人・・・オッパイおるぅぅぅー とか言おうかな〜っww
あいつら、笑いを取ろうとして発言してるんじゃなくって、ホンコで言い出すから笑えるんだよな↑www
28 :
21:2010/10/19(火) 01:13:38
>>19 >「補給が困難だから、四万人は多すぎるのではないか」と言う家臣たち
“役費” 「役」は兵士・兵役・戦争、「費」は費用・財貨。
「戦費がかかりすぎるから、四万人は多すぎるのではないか」でいいのでは?
>「往百日,攻百日;還百日」
九月に公孫淵を降して正月に帰っていますから、洛陽から往復でよいかと思いますが。
>>14 洛陽から出発するのは、全軍のごく一分です
晋書宣帝紀では
「景初二年,帥牛金、胡遵等步騎四萬發自京都。車駕送出西明門。詔弟孚、子師送過溫,賜以谷帛牛酒,敕郡守典農以下皆往會焉。」
四万で出発したことになってますね。
29 :
ローガン:2010/10/19(火) 01:31:56
>>25 >「"今"北邊諸將及懿所督」ですから、この話の時点で司馬懿は北辺にいます 洛陽から数えると、おかしなことになる
いえ、「今」どこに居るか?は あまり関係ないのです。何曾の上奏は当然、本文の「帝と臣の軍議」より後です。
その軍議で帝は「(宣王は)四千里彼方へ赴く」と述べたのが この征伐に関する認識。
同様の文言が、後の上奏文に使われたと考えて、不自然ではないでしょう。 起点は洛陽です。 お休みなさい。
>>24 >自分で探しな
サンクス。
やっぱり、根拠はまったくないってことね。
>>26 ネタ出しだっていってるでしょ〜疲れるなwww
しかもコピーしたものだしw
32 :
三郎:2010/10/19(火) 09:28:27
六尺為歩 歩百為畝 畝百為夫 夫三為屋 屋三為井 井方一里
オレが説明してあげよう。
ただし、原文面には誤りがないものと前提して、かつ尺=面積の単位と仮定して
(原文面からそう判断せざるをえないので)
++++++++++++++++++++++++++
6尺の面積の土地を1歩といいます。
100歩の土地を1畝といいます。つまり1辺が10歩。
100畝の土地を1夫といいます。つまり1辺が10畝。これが農夫1人分の担当する土地。
3夫の土地を1屋といいます。
3屋の土地を1井といいます。つまり、9夫に相当する土地。1辺が3夫=300歩。
1井の土地の1辺を1里といいます。つまり1里=300歩。
+++++++++++++++++++++++++++
ところで、私の説では、6尺の土地の1辺は√6なので、1里=√6*300歩となるはずです。
従来の説では1歩を1辺6尺と解釈するので、1里=6*300歩なんですが、これは原文を正確には理解していません。
33 :
taro:2010/10/19(火) 09:29:54
>>28 「戦費がかかりすぎるから、四万人は多すぎるのではないか」でいいのでは?
そうですよ
ただ行って帰ってくるだけなら、10万人でも問題ないですが,"四千里"の"征伐"だから、荷役・費用の供給が困難だということです
>>九月に公孫淵を降して正月に帰っていますから、洛陽から往復でよいかと思いますが
もちろん「往百日」は洛陽からの往復です
「四千里」は「往百日」とは全然別の文脈で出てきた話だということです
「往百日」は、「往って帰って来るまで何日かかる」という話(「晋紀」)
「四千里」は、「征伐が四千里、補給困難」という話(「魏志」本文)
「四千余里」は、「四千里の軍事作戦の間に何が起こるか分からないから、副将を付けるべきだ」という話(「魏名臣奏」)
と、異なる書物の異なる主題の話です
何度目かになりますが、「四千里」と「百日」はつながっていません
書物も別
主題も別
いずれにしても、長里四千里は実距離に合いません
四千"余"里となったら、なおのこと合いません
34 :
taro:2010/10/19(火) 09:30:35
>>晋書宣帝紀
ああ、そう書いてありますね、すいません
しかし、それでも毋丘険と合流するのは北辺で、全軍の準備を整えるのも北辺ですよ
洛陽から襄平を突くわけではないです
長里四千里は実距離に合いません
四千"余"里となったら、なおのこと合いません
35 :
taro:2010/10/19(火) 09:41:44
>>29 おはようございます
「今懿奉辭誅罪,步騎數萬,道路回阻,四千餘里,雖假天威,有徵無戰,寇或潛遁,消散日月,命無常期。人非金石,遠慮詳備,誠宜有副。
今北邊諸將及懿所督,皆為僚屬,名位不殊,素無定分,卒有變急,不相鎮攝。存不忘亡,聖達所戒,宜選大臣名將威重宿著者,盛其禮秩,遣詣懿軍,進同謀略,退為副佐。」
「今懿奉辭誅罪,步騎數萬,道路回阻,四千餘里,雖假天威,有徵無戰,寇或潛遁,消散日月,命無常期。」
ですから、"四千余里"の主体は司馬懿です。明帝ではありません。
明帝から見て"四千余里"じゃありません、司馬懿から見て"四千余里"です
「洛陽〜北辺」はもう行ってしまってるのだから、この文脈とは関係ありません
"道路回阻"なのも、"寇或潛遁"して"消散日月"なのも、敵地に入ってからのこと
何度目かになりますが、河北で"道路回阻"ってことはないですし、河北に"寇或潛遁"することもないです
いずれにしても、長里四千里は実距離に合いません
四千"余"里となったら、なおのこと合いません
地図上で追いかけてみて下さい
36 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 10:20:31
>>32 >従来の説では1歩を1辺6尺と解釈するので、1里=6*300歩なんですが、これは原文を正確には理解していません。
原文を正確に理解していないのは、三郎さん。それは貴方かもしれません。
第一、貴方が仮説とした尺は面積の単位って、いったいどこから引っ張りだしたものでしょうか。
その仮説自体から既に誤りが発生しているかと
37 :
ローガン:2010/10/19(火) 15:59:59
いいえ、宣王が率いのは中軍です。 毋丘険伝「明年,帝遣太尉司馬宣王統中軍及儉等數萬討淵,定遼東。」
当然、明帝と臣下の軍議「四千里討伐」にむかう際、議論の対象となったのはこの中軍。洛陽出発です。
私は全ての行程が「道路回阻」と主張している訳ではありません。魏名臣奏は「道も曲がりくねっている。行程も4000里以上ある。敵が逃げたらその為に月日を要する。…先々まで見通して考えるべきである。」
これは、費やす月日を考慮すれば、宣王が死んだ時に任務が全う出来ないぞ と上奏しているのです。
それに、洛陽〜遼陽がピッタリ4000里に合致しなくても、こちらの主張としてはさほど問題はありません。
かえって0並びの数字のアバウトさが浮き彫りになり、2点間の実測値から「度を作り出す」という作業が無意味なものである、という本来の考え方と合致します。
よく調べておられる事には敬意を表しますが、「220〜250頃 中原では、極端に短い里が用いられた」事を直接示す記述はあるでしょうか?詔は出ていますか?
又、250年頃、それを撤回した記述はありますか?ありませんね。裴松之も一言も触れていません。
どう、お考えですか?
38 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 17:13:02
■邪馬台国の謎に迫る 纒向遺跡めぐりフォーラム
読売新聞 2010年10月19日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20101019-OYT8T00065.htm 女王・卑弥呼が君臨した邪馬台国(3世紀)の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡をめぐるフォーラム「邪馬台国からヤマト王権へ」(読売新聞社主催、桜井市後援)が11月20日午前10時〜午後4時、千代田区有楽町のよみうりホールで開かれる。
邪馬台国は中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場。諸国の王が共立した卑弥呼が大乱を収め、魏に使者を出して「親魏倭王」の称号を受けたという。所在地をめぐる論争は江戸時代から続き、畿内(近畿)説と九州説に大きく分かれている。
纒向遺跡は、1971年からの調査で都市的な集落だったことが判明。一帯には、卑弥呼の墓との説がある前方後円墳の箸墓古墳がある。また、最近では宮殿とみられる大型建物跡が整然と並んでいるのが見つかり、畿内説の中でも最有力候補地とされている。
フォーラムでは、桜井市教委の橋本輝彦さんが調査成果を報告。鈴木靖民・国学院大教授と白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長が基調講演する。
この後、纒向遺跡の調査に参加している俳優の苅谷俊介さんを交えて討論を行い、古代史最大の謎とされる邪馬台国の実態や所在地に迫る。
参加希望者ははがきかファクス(06・6313・1634)で代表者の郵便番号、住所、氏名、年齢、電話番号と参加人数を書き、〒530・8551(住所不要)読売新聞大阪本社企画事業部「纒向フォーラム」係(06・7732・0063)へ。10月29日必着。
定員1000人で、参加費は1500円。応募多数の場合は抽選し、当選者に参加証を発送する。
39 :
三郎:2010/10/19(火) 17:15:38
>>32 失礼、ミスがあったので訂正(^_^;
1里=√6*300歩→√6*300尺のミス
1里=6*300歩→6*300尺のミス
河童はいやだね
>>24 はいよ。(これは昨年、クリスマスイブに投稿したものだけど)
「・・建歩立畝・・六尺為歩・歩百為畝・畝百為夫・夫三為屋・屋三為井・井方一里」
(畝・夫・屋・井)これは古代中国で使われていた面積の単位であり、お題は換算表です。
最初に記されている「歩」というのは長さの単位ではなく、暫定的に作られた面積の単位
六尺(歩)×六尺(歩)=歩。 つまり、一辺が六尺の正方形の面積を、「面積単位(歩)」と言ってるのです。
そして「歩百為畝」とは、
「歩(面積単位)」が百個ある面積を「畝」という単位で表す。 という事で
歩が百個という事は、 一辺が六尺の正方形が百だから、
たて600尺(百歩)×よこ6尺(歩)の長方形ということで、この面積が「畝」だと言ってます。これで「畝」とは何かわかりました。
次に「畝百為夫」ですが、
これは、「畝」という長方形を百個集めた面積の単位は「夫」となることをのべており、たて600尺(百歩)×よこ6尺(歩)の長方形を横に百個並べると
たて600尺(百歩)×よこ600尺(百歩)の正方形が出来、この600尺(百歩)×よこ600尺(百歩)の面積を「夫」といいます。
次に「夫三為屋」ですが
「夫」という、たて600尺(百歩)×よこ600尺(百歩)の面積を3個集めた面積を「屋」といい、たて1800(600×3)尺×よこ600尺 の長方形をいいます。
そしてこの、たて1800(600×3)尺×よこ600尺=「屋」を3個集めた、たて1800(600×3)尺×よこ1800(600×3)尺の面積を「井」といい、
これが「屋三為井」です。
で、この正方形「井」たて1800(600×3)尺×よこ1800(600×3)尺
は、「方一里」といってます。 つまり、方一里とは一辺が一里という意味なのです。
一般的に「方一里」と書かれたら一辺が一里の正方形と言われる理由です。
しかし正確には、この「方」は飽くまでも応用であり、ここでいう「方」とは(一辺)という意味です。 正方形は既に「井」という面積単位で記されているから
★「方」=起点から直線的に一方向。
河童は尻馬にしか乗れない芸無し(評価)
>>41 珍しいことに、ぱっと見、ほぼ正しいようだ。
しかし、
>ここでいう「方」とは(一辺)という意味です。 正方形は既に「井」という面積単位で記されているから
>★「方」=起点から直線的に一方向。
これは、お得意の言意学だろう。
「方」は普通に正方形や長方形に使う「方」で、角型のこと。
>>41 河童君、分かり易い説明をありがとう
ついでに「建歩立畝」てやつも出来たらお願いしたい
>>45 >建歩立畝
家を建てる
家が立つ
この違いがわかれば簡単だから、あとは自主学習で
>>44 >これは、お得意の言意学だろう。
違います。
>「方」は普通に正方形や長方形に使う「方」で、角型のこと。
違います。
それだったら、「井方一里」なんて書かずに
「井為方里」と書けばいい。
48 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 21:13:52
>>47 「六尺が歩 歩百が畝 畝百が夫 夫三が屋 屋三が井」
ここまでと「井は方一里」は言ってる内容が違う。
例えば、「歩が百で一畝」と前の句で定義され、
次の句では、その定義された畝を用いて、「畝が百で一夫」
と、あらたに夫を定義する。
その書き方にのっとれば、「屋が三つで一井」と定義されたのだから、
井が幾つかで次の単位が定義されるのなら、君の言うように
「井○為方里」と書けばいいだろう。
しかし、ここでは、それまでの書き方とは違い、
一度定義された一井を再度、里という単位で言いなおしている。
だから
>それだったら、「井方一里」なんて書かずに
>「井為方里」と書けばいい。
というのは当たらない。
49 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 21:15:57
>>46 「建、立也」と注釈されるから、建=立。
「建歩建畝」「立歩立畝」じゃかっこ悪いから言葉を変えただけ。
日本語の「たつ」「たてる」の自動詞と他動詞の違いは考慮しなくていい。
50 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 21:22:56
やまたいこく ではなく やまいこく だろw
51 :
28:2010/10/19(火) 21:46:27
>>33 >長里四千里は実距離に合いません
それが当時の距離感・地理観なのでは?
洛陽〜遼陽間、1350kmが四千里ならば、1里=337.5m
たとえば、王昶伝、正始年間の記述「今屯宛,去襄陽三百餘里,」
南陽〜襄陽間100kmでも、1里=333mになります。
>>49 >「建、立也」と注釈されるから、建=立。
それはこういうことです。
説文:建=「建、立也」は 立朝律也(法律を立てる)
説文:立= 立、樹也 (留まり動かない)
会意:立= 一人正面立地之形 (人が地にたつ姿)
ここからも分かるように
建歩= 律によって定められる「歩」(数値)
立畝=「畝」は律によって定められるのではなく、最初から設定されているもの(公式)
建、立也 だけど、立、建也ではないよ。
>>52 康煕字典は立を建也と解しているようだが?
>>54 >康煕字典は立を建也と解しているようだが?
その部分をちょこっとコピペしてもらえないでしょか?
これからの参考資料としたいので
康煕字典はオンラインで見られるよ
57 :
taro:2010/10/20(水) 10:12:13
>>28 ええ、こういうズレがポツポツと点在してるだけなら、「そういう感覚」だったんだろうで済むんですが、
AD220年以前とか蜀志とかには見られないこういう"ズレ"がAD220年代〜AD240年代に集中して頻出し始めることが問題なんです
一応、一個一個の反論も相手にしてますけど、論旨はそこには無く、全体の傾向性の問題なんです
だからまあ、ローガンさんにもある程度まとまった数での反論をしてもらってるんですが
「四千里」「四千余里」にしても、「この記事が長里で合わない」&「この記事が短里で解釈可能」っていうことだけじゃなく、「こういった短里で合う記事が他にもAD220年代〜AD240年代の魏志&呉志に集中する」ってことが問題でして
「時孫権在東関,当豫州南,去江四百余里。毎出兵為寇,輒西従江夏,東従廬江。」
「盧江雖小,将動兵精,守則経時。又賊捨船二百里来,后尾空縣,尚欲誘致」
「至如滎陽左右,周數百里,歳略不收」
「呉將晉宗叛歸魏,魏以宗為蘄春太守,去江數百里,數為寇害。」
「桓分兵將赴羨溪,既發,卒得仁進軍拒濡須七十里問。桓遣使追還羨溪兵,兵未到而仁奄至。」
この辺は、具体的に地名が比定できて、かつ長里で合致せず、しかも短里でピタッピタッとはまっていきます
後半3つは、まだ反論が無いですが
58 :
taro:2010/10/20(水) 10:36:05
>>37 司馬懿が率いるのはもちろん中軍ですよ
全軍司令官が率いるのは、普通は中軍です
であっても事態は全く変わりませんが?
実距離は「四千里」はもちろん「四千余里」には全く合いません
「四千余里」である以上、最低でも四千里(1740km)以上あるってことですから
オーバーするならまだしも、そこに足りない数字は全部アウトってことです
ローガンさんの反論では、「四千里」が「征伐」とくっついて使われている数字であることと矛盾します
「征伐」は前線基地から始まりますが?洛陽から直接襄平を突くわけではありません
ローガンさんの反論では、「四千余里」が「道路回阻」「寇或潛遁,消散日月,命無常期」という文脈で使われている数字であることと矛盾します
「道路回阻」なのも、「寇或潛遁,消散日月,命無常期」なのも、敵地での話です
どちらも「四千里の彼方に」という意味合いで使われていないことを御留意ください
洛陽からの距離が問題になる文脈ではない
その状況で、「実距離と合わない」「短里なら解釈可能」なんです
しかも、(新スレになってから論点をズらされているようですが)そういう記事が一個二個ではなく大量にあり、しかもそれらが偏って存在するということが論旨です
誰かさんのように、全部「何かの間違い」の一言で片づけられますか?
別に構いませんが、この偏りを「何かの間違い」で片づけたら、客観的説得力は大幅に落ちるでしょう
59 :
taro:2010/10/20(水) 10:45:23
べつに"短里"でなくても度量衡は時代とともに変化していますが、その変化の一々について史書に記事となって出てはいませんね?
どういうつもりで、こういう偏りをそのままにしておいたのかは知りませんが、少なくとも史書のルールで「度量衡の変化は、いちいち記事にしなければならない」ってルールは無かったということです
(そういうルールがあって、いちいち全部記事にしてくれてれば楽だったんですけどね)
私は別に短里論者ってわけでもないんで、この偏りを"短里"に拠らずに説明する論理があればそれでいいんですよ
しかし難しいですね
「何かの間違い」では、偏りの説明になっていない
「面積の里」では、全部を説明できない(それで説明可能なのは、ほんの一個か二個です)
データを直接かつ素直に解釈して、「曹魏で1里80m弱の短い里が導入された。曹氏が実権を失うにつれ、その里は効力を失った」という仮説に拠ってるんですが、それ以外により以上に有効な解釈があるなら教えて下さい
あるいは、少なくとも例示した"短里記事"の、せめて過半数以上を無効にする反論とか
一個二個反論されても、どうしようもないんです
三国志でどうやら短里が使われているらしいことは、動かしがたいんだが、
それを認めた瞬間→畿内説崩壊
なので、どんな理屈をつけてでも、認めたくないわけ。これが真相。
少しは、分かってやれ。
学問の論証以前に、より大切なものがある。
それが畿内説の意地。尊厳。
63 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 14:25:40
>>19 >しかも「今北邊諸將及懿所督」ですから、この時は司馬懿は既に北辺にいます。
>北辺の専門家・毌丘倹と合流したんです。
ここは違いますよ。
北辺にもともと駐屯している諸将と司馬懿が率いている諸将は同格だから、
遠征中、司馬懿にもしものことがあれば、指導者がいなくなってしまうので、
諸将より格上の副将が必要だといっているのであって、
司馬懿が北辺にいるという話ではないです。
この魏名臣奏だけなら司馬懿がどこにいるかわからないけれど、
本文で司馬宣王に詔をさずけているし、晋紀の記述で皇帝と対話しているのだから、
明らかに司馬懿は都にいます。
64 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 14:46:21
>>33 >何度目かになりますが、「四千里」と「百日」はつながっていません
>書物も別
>主題も別
全部同じ話ですよ。
二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。
という三国志の本文に対して、この遠征が決定されるときのエピソードが、
1、晋紀の帝と司馬懿の何日かかるかという問答と、
2、魏名臣奏の副官を付けなければいけませんという話と、
3、四万人は多すぎますという議論。
太尉宣王以下に褒美をやったという記述の直後に、
【初】帝議遣宣王討淵・・・・
とあるでしょう。
初め、議臣が反対したけれど帝の意見で軍四万を送った。
途中、天候が悪くて司馬懿を呼び戻せという意見もあったが、
司馬懿に任せれば大丈夫という帝の意見で作戦が続行された。
そして、最後に帝の言った通り大成功の結果に終わった。
そういう話なので、書物は違うけれど、全部おなじ遠征についてのエピソードです。
65 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 15:06:34
同じエピソードだからこそ、晋紀と魏名臣奏が注釈として引用されているのです。
それで、結局、司馬懿は帝と都で軍議をし、四万の軍隊を率いて都から出発したのであって、
征伐が前線基地から始まるというのは違います。
>>61 それに関しては、大和説のプライドを傷付けずに、かつ史実も歪曲しないために漏れはこういう風に理解している。
1.邪馬台国に関して、
邪馬「壱」国は九州にあった。しかし邪馬「台」国は大和に(今でも)ある。
2.倭国に関して、
「い」国は九州にあった。しかし「わ」国は大和に(今でも)ある。
3.卑弥呼に関して、
「ひみか」は九州にいた。しかし「ひみこ」は大和に(今でも)いる。
4.卑弥呼の冢(墓)に関して、
卑弥呼の「冢」は九州にある。しかし卑弥呼の「墓」は箸墓である。
68 :
ローガン:2010/10/20(水) 18:42:20
>>57 >後半3つは、まだ反論が無いですが
では、しておきます。
19) 徐盛伝
文帝到廣陵,望圍愕然,瀰漫數百里,而江水盛長,便引軍退。
>長里だと、100〜300km(つまり、東京〜静岡間または東京〜名古屋間)に渡って仮設要塞が展開していることとなり、しかもこれを数カ月で作ったこととなり不可能。
敵を欺く為の、簾を使ったホントの「仮設」ですからね。期間は問題ないでしょう。 それに建業〜広陵の対岸(曲阿辺りか?)なら100km位はあるでしょう。
20)
諸葛恪伝
丹楊地勢險阻,與郡、會稽、新都、陽四郡鄰接,周旋數千里,山谷萬重,其幽邃民人,未嘗人城邑,對長吏,皆仗兵野逸,白首於林莽。
>呉郡、會稽、新都、陽の4郡に囲まれた山岳地帯となると、現宣城市から景徳鎮市へ至る地域しかない。東西200km南北100kmの範囲。
これ、会稽郡に接して居る所がミソで、新都の東側は丹楊郡である事がわかります。
西はよくわかりませんが、広昌の北の山岳地帯を含むとすれば、長江を斜辺とする三角形もしくは台形… 周囲100kmでは収まらんでしょうね。
21)諸葛恪伝
建得渡江,欲北走魏,行數千里,為追兵所逮。
>諸葛恪の子の諸葛建の亡命失敗の話。魏に行こうとして、長里1000〜3000kmも行ったら、魏についてしまう。
あなたはこの文、何で見ましたか?気になっていたんですが、ちくま本は数十里としています。通行本はどうなっているのか…?
朱恩(だったか?)がクーデター後の処理が周到だったと。逃亡が想定内なら数十里が妥当でしょう。
さておき、建が逃亡 したのは父の没後。つまり、253年を遡らない。 貴説の年代と合いませんね。
69 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 18:47:51
>>57 これらの記事が、どういうふうに短里に合うんですか?
長里で問題ないし、短里に合うとは思えないのですが。
過去スレで説明されていたら済みませんが、過去スレ読めないので、よかったら説明お願いします。
>一応、一個一個の反論も相手にしてますけど、論旨はそこには無く、全体の傾向性の問題なんです
とはいっても、一個一個がみな勘違いで短里に合うと判断していれば、
全体の傾向なんて存在しなくなるので、やはり、一個一個検討する必要があると思いますよ。
70 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 19:52:56
短里の話は三国志スレでやった方がいいんじゃないの?
ぶっちゃけ邪馬台国とはあんまり関係ないよね
71 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 20:03:00
>>70 関係ない。じゃなくて、関係ないことにしたいんだろ。
72 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 20:16:46
73 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 20:35:20
統計ができるほど漢籍を調べられるというのはたいしたものだな。
これだけ展開できれば論文に出来るから、どこかの研究者だろうが
もうどこかに出したのかな。
唐松山さん&太国さん(たしかこの二人が得意なはずw)
昭和十二年 萬朝報社発行 「皇国日本史」 では、
第一代 神武天皇
降誕:庚申年(紀元前五十一年)
即位:元年正月朔日 御年 五十二
となっているが、これってありえるの?
また、この記事についてコメント~お願いします。
古代の天皇が異常に長寿なのは「殯(もがり)」の期間が終わるまで即位出来なかったという説がある。
つまり、肉体的には朽ちているが魂は昇天していないので殯が終わってようやく「死」と認定されると。
「古事記」の「逃來猶追到黄泉比良坂之坂本時」の部分は殯の期間に霊廟に入ったイザナギが
変わり果てたイザナミの姿を目撃した描写なのではないかとも言われている。
もしこの説が正しければ、年代から卑弥呼を推定するのは難しくなる。
昭和十二年 萬朝報社発行 「皇国日本史」 64ページ
>九州地方が次第に皇化に沾ふに及び、ここに中央政府の官史が駐在することとなって、
>これを筑紫率、或いは筑紫大宰とも稱した。
>應神天皇の御代に、武内宿禰、筑紫に在って、百姓を監察すとあるは之に當るものであらう。
筑紫率って魏志倭人伝の「一大率」と関係あるんじゃないの??
終止符と言いながら、このスレだけでも49000件の書き込みがあり未だ
入り口付近をうろうろしている現状
ということで、物語は貧相な九州邪馬台国が舞台となり綴られたもので、
同時期に発生していた大和の大王家は後に九州や中部関東までも緩やかな
連合国を形成し大和朝廷の礎をなしていったが物語で言う邪馬台国ではな
かった。
ここらあたりが正解じゃないだろうか。
78 :
ローガン:2010/10/20(水) 23:35:06
>>69 >過去スレ読めないので、
どうぞ。
760:taro 2010/10/14(木) 18:46:10 AA
「短里は存在しない」という人とか、「短里は東夷伝のみに存在する」とかいう人に訊きたいんだけど、、、
三国志の以下の記事をどう解釈するんでしょうか? 長里で計算して、実際の地図に当てはめると、とんでもないことになるんですけど?
思いっきり中華中原のド真ん中に"短里"が出てくるので、「錯覚」「何かの間違い」では済まされないんですけど?
1)
杜畿伝
若二賊遊魂於疆,飛芻輓粟,千里不及。究此之術,豈在強兵乎?
東関〜合肥・荊州〜南陽・漢中〜長安。いずれも、呉&蜀の最前線拠点から魏領内攻略目標までは短里千里(77km)をやや上回る数字。
「呉や蜀が国境を狙っても、千里の彼方に兵糧を運ぶことが出来ません。この方針を貫けば、特に強兵など必要ありません」の文言に合う。 これが長里だと、呉&蜀から「疆場」ではなく「首都」を防衛する話となってしまう。
2)
文帝紀
閏月,孫權破劉備於夷陵。初,帝聞備兵東下,與權交戰,樹柵連營七百餘里,謂群臣曰:「備不曉兵,豈有七百里營可以拒敵者乎!
『苞原隰險阻而為軍者為敵所禽』,此兵忌也。孫權上事今至矣。」后七日,破備書到
300km(東京〜名古屋間)の野戦築城などありえない。 軍事に疎い人は自分で調べてほしいんだけど、近代以前の軍隊の布陣は、全長が数キロからせいぜい十数キロにしかならないから。
それ以上大きな陣容だと、指揮・統率が不可能になる。旗の見える範囲、銅鑼の音の聞こえる範囲、せいぜいが早馬がすぐに到着できる範囲。。
短里(54km)でも、たいがい兵を分散しすぎなんだよ。
79 :
ローガン:2010/10/20(水) 23:36:53
761:taro 2010/10/14(木) 18:48:09 AA
3)
夏侯尚伝
尚自上庸通道,西行七百余里,山民蛮夷多服従者,五六年間,降附数千家
長里だと、上庸から700里西は漢中(蜀の領土)まで届いてしまう。短里なら、周辺の山民を数千家降したという文句に合う
4)
済伝
船本歴適數百里中,濟更鑿地作四五道,蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水,皆引后船,一時開遏入淮中。
「船が数百里に渡って広がり収拾がつかなくなってたので、一旦水をせき止め、船を引っ張って一か所に集めておき、あらためて水を流して一気に船を進めた」という文言。
長里だと100〜300kmも船を引っ張らねばならず、現実的でない。短里なら20kmから最大でも50km。
80 :
ローガン:2010/10/20(水) 23:45:34
762:taro 2010/10/14(木) 18:50:17 AA
5)文帝紀
冬十月,行幸広陵故城,臨江観兵,戎卒十余万,旌旗数百里
10万人の兵隊が、100km〜300km(東京〜静岡間もしくは東京〜名古屋間)におよぶ行列を作って観兵に臨むなどあり得ない。
短里(20〜50km)だと、その日のうちには終わるが、長里だといつまでたっても終わらん。皇帝陛下をいつまで待たせるつもり? ・・・・・というか、何だよ!そのバラけまくった行軍は?、ダラけた修学旅行生の行列じゃなんだぞ?
6) 賈逵伝
明帝即位, 邑二百戸,并前四百戸。時孫権在東関,当豫州南,去江四百余里。毎出兵為寇,輒西従江夏,東従廬江。国家征伐,亦由淮、
東関は濡須口付近、川を挟んで濡須の対岸側。長江からちょうど短里30kmほどのところ。長里174kmでは長すぎる。
7)満寵伝
盧江雖小,将動兵精,守則経時。又賊捨船二百里来,后尾空縣,尚欲誘致
「呉軍は船を捨ててやって来た」とあるが、盧江からみて最も近い水辺は巣湖の南岸(呉の前線・東関から船で来れる。
同じく巣湖を使って、呉は合肥攻めをよく行っている)。ここから盧江へは短里で丁度。長里87kmでは、呉のどの前線からも距離があり過ぎる。
連続投稿なので此処までにしておきます。
このスレも2006年12月30日にスタートし、まもなく4年。
多くの「日本史@名無しさん」達と、スレ立て人「神奈川県民」を筆頭に
数々のコテハン達で盛り上がった
では、第一回のコテハン参加者をここで紹介しよう。
「神奈川県民」(現・改め)
「奈良県民」
「太国」
「九州出身」
「恵也」
「古代史トーシロー」
「後藤さん」
「タケル」
「九州ですが」
「橿原一派」
「プラム」 (現・河童虫)
「征東大将軍」
「ど素人」
「奴国」
「やそむ」
そして
82 :
taro:2010/10/21(木) 09:57:44
>>63 「晋紀」「魏志本文」「魏名臣奏」は別の書物です
同じ状況での話ではないですよ
「晋紀」は、出発に先立って明帝と司馬懿が話してる状況
「魏志本文」は、司馬懿に率いさせる戦力が4万人は多すぎるのでは無いかという事を、明帝と他の家臣が話し合ってる状況
「魏名臣奏」は、司馬懿が北辺に到着した頃に、やはり副将を任命しておくべきだろうということを、明帝と他の家臣が話し合ってる状況
「今北邊諸將及懿所督」
"今""督"するには、司馬懿が北辺にいなければなりません
都にいたんでは、"督"することが出来ません
>>64 全部、「景初二年の遼東遠征に関する記事」であるってだけで、それぞれの状況・主題は違います
「晋紀」は、出発に先立って明帝と司馬懿が行って帰ってくるまでの総日数について話してる状況
「魏志本文」は、司馬懿に率いさせる戦力が4万人は多すぎるのでは無いかという事を、明帝と他の家臣が話し合ってる状況
「魏名臣奏」は、司馬懿が北辺に到着した頃に、副将を任命しておくべきだろうということを明帝と他の家臣が話し合ってる状況
「遼東遠征に関する記事」は、全て同じタイミングの話だとする根拠は無いです
むしろ、書物が違い・主題が違い・司馬懿のいる場所も違うのだから、時間も違うとみる方が自然です
「晋紀」は、司馬懿は明帝の前にいる
「魏志本文」は、司馬懿はどこにいるか不明。明帝と他の家臣しか出てこない。司馬懿がそこにいるなら、まず司馬懿が反論を述べて、それを明帝が採用する形になる
「魏名臣奏」は、司馬懿は北辺にいる。でないと、司馬懿が"今""北邊諸將"を"督"することが出来ない
83 :
taro:2010/10/21(木) 09:59:19
>>65 引用が必ず時間軸が同じタイミングのものが採用される?
それはないです
遼東遠征に関わる出来事なら、違うタイミングの違う主題の話でも引用される
そして、軍事作戦は前線からスタートです
都からスタートだと、途中で補給もせず作戦の最終確認もせず隊列の整理もせず、ということになり、そんなわざわざ危なっかしい作戦立案をしません
いずれにしても、洛陽〜襄平では距離が合ってない現実があります
>>69 ですから、一応反論してます
しかし、できればまとめてやってもらわないと、一つだけ問題にされても、論旨からいって一歩も前へ進まないんですよ
>>68 あれ?
後半3つというのは、このレス57の後半三つという意味だったんですが、、、この三つです
「至如滎陽左右,周數百里,歳略不收」
「呉將晉宗叛歸魏,魏以宗為蘄春太守,去江數百里,數為寇害。」
「桓分兵將赴羨溪,既發,卒得仁進軍拒濡須七十里問。桓遣使追還羨溪兵,兵未到而仁奄至。」
まだお答えいただけてないですよね?
84 :
taro:2010/10/21(木) 10:00:22
19)
仮設だからなんでもいいというのではなく、敵から見て本物らしく見えないといけないってことをお忘れなく。仮設でも百キロも作るのは大変ですよ
広陵郡治(現江蘇省揚州市)の対岸は現鎮江市。南京〜鎮江は約50km強
「文帝到廣陵,望圍愕然,瀰漫數百里」ですから、文帝から見て数百里・・・・文帝が見渡せる範囲でないとダメです
100kmでは長すぎる(もちろん、それ以上だとなおさら)
・・・今回は"面積の里"は主張されないんですか?
この説は引込められたということで宜しいんでしょうか?
20)
「丹楊地勢險阻,與呉郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里」
新都郡の郡治を確認されました?
旧歙県・・・現在の安徽省黄山市黟県付近が通説です
AD208年に賀斉が黄山市一帯を征服し、孫権の命令で新都郡としてその太守になってます
呉郡と会稽郡と鄱陽郡と新都郡に囲まれた地域、です
東西二百キロ、南北百キロ、の範囲です
21)
これは、イレギュラーで私も気になってた記事です
「数十里」の異記事があるなら、その方が弊説にも合いますので、こちらでも再確認してみます
なんか百済ねえスレになってきたなwww
そういえばアホーにもお仲間同士で戯れる、そんなスレがあったような。
最初は仲良く幹を追い掛けていたのに、途中で行き止まりの枝葉を追い掛けて、足の引っ張り合いになるのが日本人の常w
まあそのうち、誰かをターゲットに罵倒が始まり、
その罵倒が楽しみで集まりだす輩が湧いてくる。
掲示板本来の王道だなwww
88 :
69:2010/10/21(木) 12:18:55
>>78 ローガンさん、お手数をおかけしました。ありがとうございます。
>>83 その後半3つ、長里でまったく問題ないし、短里で合うとは思えないのですが、
なにが問題で、どうやったら短里だという結論になるんですか。
89 :
taro:2010/10/21(木) 13:16:00
これまでの流れを整理しておきます
1)
「若二賊遊魂於疆埸,飛芻輓粟,千里不及。究此之術,豈在強兵乎?」
これについては、「"千里"は、象徴的表現だ」という御意見で宜しいでしょうか?
と、こちらがお尋ねしたところで止まってます
2)
「閏月,孫權破劉備於夷陵。初,帝聞備兵東下,與權交戰,樹柵連營七百餘里,謂群臣曰:「備不曉兵,豈有七百里營可以拒敵者乎!
『苞原隰險阻而為軍者為敵所禽』,此兵忌也。孫權上事今至矣。」后七日,破備書到」
これについては、「面積を表す里だ」との主張を頂き、
それに対し「面積を表す里は、三国志の他の箇所でも、他の書物でも、ずっと使われてないようですが?」
「"三国志"のAD220年以降になって急に復活したと主張されるなら、"短里説"と同様にその跡付けをしなければなりません」と反論しました
「長里」「短里」「面積里」と3種類使われていた、ということで宜しいですか?、、、という所で止まっており、
その後、「面積の里」を取り上げられることは無くなりましたが、自説を引っ込められたのか、不利なのでスルーされているのかは、御答えが無いんで分かりません
90 :
taro:2010/10/21(木) 13:16:51
3)
「尚自上庸通道,西行七百余里,山民蛮夷多服従者,五六年間,降附数千家」
これについては、「漢中まで直線でも1000km以上ある」とビックリするようなことを言われたので、「お手元の地図の再確認をお願いします」というところで止まってます
直線1000kmだと果洛蔵族自治区まで行ってしまう。(直線で300kmは漢中の西方)
道のり300kmで城固県まで行くことを具体的に示し、700"余"里なので、そこからさらに進んでしまうことを指摘しました
4)
「船本歴適數百里中,濟更鑿地作四五道,蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水,皆引后船,一時開遏入淮中」
これについては、最初は「面積の里」を主張されましたが、その後撤回されました
その上で、20mの船が4000隻で160kmと計算されましたが、
20mの船は最大級の"楼船"であること
20mの船が4000隻だと80万人も運べてしまうこと(巡幸は10余万人)
実際には大半が7m級の小さい船であり、標準的な船隊の組み方だと、全長60kmにも満たないこと
・・・を指摘して、そこで止まってます
5)
「冬十月,行幸広陵故城,臨江観兵,戎卒十余万,旌旗数百里」
これも「面積の里」を主張されましたが、
面積だと、7km四方から12km四方の範囲に10余万人(東京ドーム2個分強)の人間が散らばってることとなり、観兵式にならないことを指摘しました
また、式典の最中ではなく集まってくる軍の隊列だとすると、長江周辺で10余万人が塊を構成しての移動はムリであり、通常は軍隊の行軍は1列ではなくても縦隊を構成することを指摘しました
そこで止まってます
91 :
taro:2010/10/21(木) 13:26:38
>>88、の方の為に、12)17)18)を先に書きます
12)
「至如滎陽左右,周數百里,歳略不收」
滎陽の南北は黄河と山地で、東西は大都市の洛陽と陳留で挟まれており、長里(100〜300km)の余地は無い。短里(20〜50km)でピッタリ
ちなみに「周」は「あまねく」「すみずみまで」の意
洛陽は首都であり、陳留は(後にすぐ直近の開封が発展するまで)この辺りの中心都市であり、滎陽はその間にある小都市にすぎない
洛陽近郊や陳留近郊を、"滎陽の左右"とは言わない
(東京や横浜を、"町田の南北とは言わないのと同様)
17)
「呉將晉宗叛歸魏,魏以宗為蘄春太守,去江數百里,數為寇害。」
蘄春は長江から約20km。短里の最短でピッタリ。
長里100〜300kmは、蘄水周辺のどこでも取れない
18)
「黄武元年,魏使大司馬曹仁步騎數萬向濡須,仁欲以兵襲取州上,偽先揚聲欲東攻羨溪;
桓分兵將赴羨溪,既發,卒得仁進軍拒濡須七十里問。桓遣使追還羨溪兵,兵未到而仁奄至。」
少し詳しく書くと、曹仁の軍は步騎數萬・・・つまり水軍ではない
(水軍だと、湖上で呉に迎撃されて、呉の得意の水戦になってしまうし)
陸軍が濡須へ攻める攻め口は二つ・・・・巣湖の東岸ルートと西岸ルート
羨溪(現無為県の東方、洞口(現和県)の手前)を攻めると見せかけて、濡須を攻めた、、、、
魏軍が70里に迫ったところで気がついたので、羨溪に出した軍を呼び戻す暇が無く、手持ち戦力だけで防衛しなければならなくなった・・・という話
巣湖の西岸ルートだと、羨溪に向かう前に濡須口の呉の防衛ラインに引っかかってしまい、「羨溪を攻めるぞ」というフェイントが通用する状況にない
したがって、東岸ルート
東岸ルートで長里70里だと、、魏軍が含山県付近にいることとなり、この地点では「羨溪攻めがフェイントだ」とバレる状況に無い
まだ羨溪へ向かう道の途中だから
92 :
taro:2010/10/21(木) 13:27:36
6)
「時孫権在東関,当豫州南,去江四百余里。毎出兵為寇,輒西従江夏,東従廬江。」
これについては、東関を通説通りに濡須口に比定すると長江まで約30kmで、短里に合致・長里174kmには到底ならないことを指摘しました
また、"豫州南""西従江夏,東従廬江"を重視した異論=江夏〜廬江間のいずこかに東関を比定する説に拠った場合でも、
江夏〜廬江間のどこであっても、長江から174kmも離れたら、大別山脈のド真ん中に来てしまうこと
この辺りはどこであっても、最大でも50km程度しか場所が取れないことを指摘しました
7)
「盧江雖小,将動兵精,守則経時。又賊捨船二百里来,后尾空縣,尚欲誘致」
これ自体については、まだ回答を頂けていません
盧江から最も近い水辺は巣湖南岸になりますが、、、短里で合いますが
長里87kmでは、巣湖・長江・濡須のどこであっても合致しない
8)
「至八月,寵以為田向收熟,男女布野,其屯衛兵去城遠者數百里,可掩擊也」
江北の呉領内に100〜300kmもの土地は取れない、極最小値85kmでも困難であることを指摘し、
かつ屯田兵数千家を、最小で東京〜静岡・最大で東京〜名古屋の範囲に散らばらせることなど無い、、、と指摘しました
状況をしっかりイメージしましょう
9)
「秋七月壬寅、帝は親しく御龍舟に乗って東征した。孫権は新城を攻めるも、將軍の張穎等が力戰固守し、帝の軍が未だ數百里に至る前に遁走した。」
これは文の翻訳&解釈自体が一致していません
93 :
taro:2010/10/21(木) 13:30:10
10)
「「四千里征伐,雖雲用奇,亦當任力,不當稍計役費」
このスレになってから、この記事のみに反論が集中してますが、これ一個ひっくり返っても、論旨に影響が無い、、、ということです
そして、すでに反論した通り、この記事単独についても、論旨がひっくり返っていない
「長里では合わない」&「短里で解釈できる」という現実があり
かつ、こういう記事がAD220年以後に集中する
11)
「請假還家,陰資裝百餘里要之,因與為伴,每事佐助經營之,又少進飲食,行數百里」
これについては、こちらの反論が宙に浮いてたので、ここで書きます
「百余里先で合流した」・・・・んですか?
総行程150km程度の旅で、どうして最初の50kmをすっとばしたんでしょうか?
その間の世話は?
短里で「8km先で合流した」なら、旅の始まりですから理解できますが
数百里行ったら、洛陽についてしまいますが?
13)
14)
「今禁地廣輪且千餘里,臣下計無慮其中有虎大小六百頭,狼有五百頭,狐萬頭」
「今宫視崇侈,彫镂极妙,忘有虞之总期,思殷辛之琼室,禁地千里,举足投网,丽拟阿房,役百乾谿,臣恐民力彫尽,下不堪命也」
動物の世話は当然必要だとして、禁地が400km以上では大きすぎるのでは?
それだけの土地を禁地にすると、国家財政が破たんする・・・という所で止まってます
94 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 13:34:45
>>82 taroさん
>「今北邊諸將及懿所督」
>"今""督"するには、司馬懿が北辺にいなければなりません
>都にいたんでは、"督"することが出来ません
これ、完全に誤読です。
「北辺諸将 【及】 懿所督」(北辺の諸将 および 懿 督する所)
であって
「懿所督北辺諸将」(懿 督する所の北辺の諸将)
ではないでしょう。
「北辺諸将」 と 「懿が督する所(の諸将)」 は別の集団だから
こういう書き方をしているのです。
それで、【今】の状況は、この両者が同格であり、
もし司馬懿が戦死すれば、司馬懿が監督する諸将では、
北辺の諸将に命令できない。
だから北辺の諸将よりも格上の副官が必要だと言っているのです。
つまり司馬懿は北辺の諸将を"督"していません。
「北邊諸將」と「懿所督」がまったく別の集団であることは理解できたでしょうか。
>>91 taroさん、レスありがとうございます。
12)
「至如滎陽左右,周數百里,歳略不收」
周數百里というのは周囲が数百里という意味です。
滎陽とその周辺、周囲数百里ですので、短里では全く意味をなしません。
禁猟区の鹿を殺した者は死刑・財産没収という法律に関して、
農業に従事する者は少なくなっているのに鹿の食害は多く、
滎陽とその周辺、周囲数百里の地域は不作で生活が立ち行かない。
戦争や災害が起こるとすぐ食糧難になってしまう。
だから鹿を駆除することを許してほしいという願いです。
周囲50kmの地域で食糧難なんて小さすぎるでしょう。
>>91 >17)
>「呉將晉宗叛歸魏,魏以宗為蘄春太守,去江數百里,數為寇害。」
>蘄春は長江から約20km。短里の最短でピッタリ。
>長里100〜300kmは、蘄水周辺のどこでも取れない
引用の二行ほど前を読んでください。
孫権が車騎将軍になり京に都をおき、胡綜を書部にするとあります。
京はおそらく長江(江水)の河口ちかくの京城でしょう。建業より東にあります。
それで、江を去ること数百里で寇害をなす蘄春太守晉宗を討伐するのに、
孫権が胡綜を派遣して晉宗を生け捕りにしたわけです。
だから去江數百里の江は江水のことで、蘄水ではありません。
京城も蘄春も同じ長江流域の都市と言えますが、
胡綜伝で京城にキを置いた記述の二行あとなんだから、
これは京城周辺の長江のことと考えた方がいいでしょうね。
>蘄春は長江から約20km。短里の最短でピッタリ。
だったら、わざわざ京城から胡綜が討伐に出てきたりしません。
97 :
taro:2010/10/21(木) 15:34:13
15)
「正始五年,爽乃西至長安,大発卒六七万人,従駱谷入.是時,関中及??羌転輸不能供,牛馬騾驢多死,民夷号泣道路.
入谷行数百里,賊因山為固,兵不得進.爽参軍楊偉為爽陳形勢,宜急還,不然将敗」
駱谷の谷を100〜300kmも入ったら、漢中盆地の中まで来てしまう。
そこまで魏軍に攻め込まれたら、その時点で蜀の負けです
これもまだ回答が頂けてない分です
16)
「諸將並曰:"攻備當在初,今乃令人五六百里,相銜持經七八月,其諸要害皆以固守,擊之必無利矣。」
これは2)と同じことですね
少なくとも、こちらが例示した20個からの"短里記事"の過半数くらいはひっくり返して頂かないと、こちらの論旨・・・「"三国志"のAD220年代〜AD240年代(曹氏が実権を握っていた魏の時代)に短里が集中する」がひっくり返りません
単に、「短里の記事がありますよ」という指摘でないことを御留意ください
98 :
taro:2010/10/21(木) 16:05:44
>>94 ああ、そう読みましたか
「今北邊諸將及懿所督」=「今、北辺の諸将、司馬懿の督する所に及ぶ」と読みました
つまり北辺の諸将が司馬懿の指揮下に入った
で、全員が同格では、司馬懿にもしものことがあった時に、命令するものがいない・・・・で、副将の任命です
しかし、"及"を並列の接続詞と読んでも、「晋紀」「魏志本文」「魏名臣奏」が別々の書物で、書かれてる記事の主題も別である事実には変わりはありませんよ?
「四千里」「四千余里」を「百日」と結びつけることはできないですし、実距離と合わない事実も変わらない・・・
>>95 「周」が「周囲」の意味になるのは「囲」とくっつく場合。
「周」自体の意味は「あまねく」「すみずみまで」
「周囲」=「囲に沿ってすみずみまで」「周回=回に沿ってすみずみまで」「円周=円に沿ってすみずみまで」
「滎陽の周囲」では、それこそ意味を成しません
径何キロの範囲の周囲???
50km半径の"周囲"なのか、100km半径の"周囲なのか、いずれにせよその解釈では範囲が設定できない、、、、数値記事の意味を成しません
それに「滎陽、周數百里」ではなく「滎陽"左右",周數百里」であることに御注意を
「左右」とは「東西」の意味であることをお忘れなく
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D 「滎陽の東西数百里にわたって隅々まで」ということです
東100km以上先は陳留市民の、西100km以上先は洛陽市民の土地です
滎陽を中心に口出しする領域ではないです
99 :
taro:2010/10/21(木) 16:06:30
>>96 「去江數百里」は、もちろん長江から数百里ですよ
中国古典で、前後に何の説明もなく"江"といったら、普通は長江のとです
"蘄水"の名前を出したのは、「蘄水から数百里」という意味ではありません
蘄春は現在も存在する都市なんです
そして、「蘄春が現蘄春と違う場所であったとしても、蘄水沿いのどこをとっても、長江から100kmも行ったら大別山脈のド真ん中に入ってしまい、郡治が置けるような比定地候補が無い」ってことです
↓建安のころより、蘄春郡治は現蘄春ですけどね
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B2%A1%E5%B8%82 孫権が、胡綜を派遣して晉宗を捕えたのだから、江東〜蘄春の遠征でおかしくありません
京城の周辺に蘄春が存在しなければならない必然が無い
司馬懿が、洛陽を出て、北辺に集結し、襄平を攻撃してるんです
であれば、
胡綜が、京城を出て、濡須を経て弋陽に集結して、蘄春を攻撃、、、、何か違和感でも?
100 :
taro:2010/10/21(木) 16:20:25
>>94〜96
こちらの書き方に誤解を招く点があったことは謝罪しますし、途中から入った人には錯覚も仕方ないことなんでしょうけど
反射的に反論されるのは控えられた方が宜しいかと・・
「そんなことあるはずがない」というバイアスから入るのではなく、まずじっくり確認されてからでも遅くは無いのでは?
蘄春の位置や「周」「左右」の字義などは、調べれば簡単にわかることなので
101 :
ローガン:2010/10/21(木) 16:31:24
>>89 では、返信しときます。
1)「こんな状態では(有事の際)千里彼方への食糧輸送などままならない。呂昭では駄目だ。」という杜恕の上表。
あなたの誤読を指摘しました。
2)「樹柵連營七百里」 營は取り囲むと訳すのです。 「高原湿原険阻な地を包んだ軍は撃たれる。これは戦での禁忌である」とは、まさに劉備軍を喩えたもの。
よって、「七百里」を面積(もしくは外周)とも読めると指摘しました。
3)これは私の勘違い(笑)。上庸は房陵の西。現在の州境辺り。漢中を目指した訳で無し。西方はずっと山岳地帯です。漢中は北西。
4)軍船について知らないので前言は撤回しましたよ(笑)。
しかし、この数百里、1里が何mか なんて決めようが無い以上、何を言っても空論ですね。
5)では10万が観兵に臨む様子が書かれた史書を教えて戴きませんか?
6)濡須に居て、「孫権は北方に懸念が無い」と言えますか?
7)だから、合肥城移転は西方三十里なんですよ。これは三百里来と同じ段落の文。
一方が長里、もう一方が短里なんて主張はされませんよね。なら、三十里は24km。
たった24km移転させて上陸後、背後を取れる訳で無し。ナンセンス。
8)だからこれも、「数百里」1里=80mと決める根拠ないでしょう。 導けるとしたら それはあなたの主観ですね。
9)到着する頃には賊は逃亡するだろう。と予想したが、おもわぬ早くに決着したと云うだけ。
あなたの誤読を指摘しておきました。
102 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 16:39:22
>>100 まず、周から。
師古曰:「此?非也.?圖云長陵城周七里百八十?,因為殿垣,門四出,及便殿掖庭諸官寺皆在中.
文穎曰:「介山在河東皮氏縣東南.其山特立,周七十里,高三十里.」
こんな例はいくらでもあるでしょう。
三輔黄図によると、長陵の周囲は七里八十歩。次のは、その山は独立峰で周囲が七十里高さが三十里。
どちらも漢書の注釈です。別に何でも良いのですが、検索しやすいのを引っ張ってきました。
このように、周囲や周回でなくとも、周だけで周囲の意味をもちます。
周數百里とは直線にすると数百里の紐を輪にしたとき、
その輪の中に収まる範囲ということです。
それから、左右。
左右が東西の意味を持つことは当たり前です。
滎陽を中心にその東側と西側、周囲数百里の範囲と言っているのですよ。
それと、
>「今北邊諸將及懿所督」=「今、北辺の諸将、司馬懿の督する所に及ぶ」と読みました
これは、無茶読みですよ。
>しかし、"及"を並列の接続詞と読んでも、「晋紀」「魏志本文」「魏名臣奏」が別々の書物で、
>書かれてる記事の主題も別である事実には変わりはありませんよ?
主題が別って、全く別の遠征についての記事だと思ってるんですか?
103 :
102:2010/10/21(木) 16:42:15
引用の師古注、化けてしまいましたが、検索すればすぐ出るので、
ご自分で確かめてください。
それと、ローガンさんがおいでのようなので、ややこしくないように
名前欄に102と入れます。
来客で中断していたので、三つ目の例文を次でレスします。
104 :
102:2010/10/21(木) 16:55:41
>>91 18)
「黄武元年,魏使大司馬曹仁步騎數萬向濡須,仁欲以兵襲取州上,偽先揚聲欲東攻羨溪;
桓分兵將赴羨溪,既發,卒得仁進軍拒濡須七十里問。桓遣使追還羨溪兵,兵未到而仁奄至。」
この数行後に「仁自將萬人留タク皋」とありますよ。
タク皋は含山の西、巣湖の北です。
>東岸ルートで長里70里だと、、魏軍が含山県付近にいることとなり、
まさに仰る通り含山付近にいたのです。短里じゃ説明できません。
>この地点では「羨溪攻めがフェイントだ」とバレる状況に無い
というのは思い込みということになりますか。
それと、「卒得仁進軍拒濡須七十里問」
七十里【閨zではなく七十里【問】です。「卒得○○問」
つまり濡須から七十里のところで仁の軍とぶつかっているという【問】=報せを卒得(にわかに得た)わけです。
短里で七十里だったら、近すぎて報せどころじゃないでしょう。
105 :
102:2010/10/21(木) 18:42:45
>>99 taroさん
>京城の周辺に蘄春が存在しなければならない必然が無い
蘄春が京城の周辺にあるなんて一言も言ってないんだけど。
ボクも説明が上手くないかもしれませんが、君も落ち着いてレスを読んでほしい。
蘄春は地図に載っている通りの場所ですよ。
ボクが言っているのは、江という言葉が、長江のどの流域を指しているかです。
長江というのは大変長い河です。
だから江を去ること数百里といったって、
長江のどこの流域を指しているのかがわからないと、
場所の特定には全くならないのです。
君は蘄春周辺を考えているようですが、これは胡綜伝で、
直前に孫権が京に都を置いて、胡綜もそこで任官したとあるでしょう。
そのうえで胡綜が討伐に成功して、さらに出世したという話です。
だから、胡綜が任官した京が存在する流域だと推定できるわけです。
106 :
ローガン:2010/10/21(木) 19:09:46
>>93 ではこれも返信しときます。
11)
> 「請假還家,陰資裝百餘里要之,因與為伴,事佐助經營之,又少進飲食,行數百里」
> これについては、こちらの反論が宙に浮いてたので、ここで書きます
> 「百余里先で合流した」・・・・んですか? 総行程150km程度の旅で、どうして最初の50kmをすっとばしたんでしょうか?
> その間の世話は?
親子共、清貧がモットー。部下の都督は「帰路の世話をする為」とは云わず、実家に帰る為、と嘘をついて休みを取っています。
勿論、世話など無用と断られるからです。その証拠に後でバレて罰を受けています。
すぐに合流しては、人目に付くので思惑としては当然でしょう。
> 14)
> 「今禁地廣輪且千餘里,臣下計無慮其中有虎大小六百頭,狼有五百頭,狐萬頭」
> 「今視崇侈,彫妙,忘有虞之期,思殷辛之室,禁地千里,足投网,阿房,役百乾谿,臣恐民力彫尽,下不堪命也」
> 動物の世話は当然必要だとして、禁地が400km以上では大きすぎるのでは?
> それだけの土地を禁地にすると、国家財政が破たんする・・・という所で止まってます
何故?狩猟を禁じただけですよ。御猟場で狩をすれば死刑 と前にあるでしょう?まさか?立入禁止とお考えですか?
107 :
ローガン:2010/10/21(木) 21:05:13
おっと、抜けてましたね。
高堂隆伝
今視崇侈,彫妙,忘有虞之期,思殷辛之室,禁地千里,足投网,阿房,役百乾谿,臣恐民力彫尽,下不堪命也
少し前に「甸服」とあるでしょう?
王城から半径五百里。千里でピッタリ。
108 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 21:19:30
名前: 太国 ◆ yVAs7uaYlY 2010/10/20(水) 22:38:23 ID:uwVbFP7E
2ちゃん 日本史板 終止符50スレ >74 メ殿
規制中で書きこめませんので、こちらに書きこみます。
倍年暦法等からの逆算では
神武天皇 誕生 B.C.51年
で、ピタリです。なおA.D.0年は無としてです。
誕生年の干支は庚申ではなく、庚午です。
次に同逆算で
神武天皇 即位 A.D.元年
です。だれかメさんに教示してくれれば感謝します。
110 :
102:2010/10/21(木) 23:18:55
>>89 taroさん
>1)「若二賊遊魂於疆埸,飛芻輓粟,千里不及。究此之術,豈在強兵乎?」
ローガンさんの説に賛成します。現実の千里ではないでしょう。
>2)
「閏月,孫權破劉備於夷陵。初,帝聞備兵東下,與權交戰,樹柵連營七百餘里,謂群臣曰:「備不曉兵,豈有七百里營可以拒敵者乎!
『苞原隰險阻而為軍者為敵所禽』,此兵忌也。孫權上事今至矣。」后七日,破備書到」
面積をあらわす里は、他の書物でも使われていると思いますが、ここは面積ではありません。
樹柵連營七百餘里というのは、柵を延々七百里もつなげたということじゃないですよ。
蜀から夷陵の戦いの最前線まで、補給線を確保するために、点々と陣営を置いたということです。
つまり、陣営をつないだ補給線が七百餘里です。
ウィキペディアでもいいので夷陵の戦いを見たら早いと思いますが、
蜀軍は、まず巫城、?帰城を攻め、夷陵→夷道と進みます。
巫城から江陵まで直線距離で、およそ250kmくらいでしょうか。
補給線は、まさか成都からじゃないと思いますが、蜀の領内から始まるでしょうし、
曲がりくねった河沿いに進むので、その分を250kmに足せば、300km以上にはなるでしょう。
七百餘里は長里でないといけません。短里では話が合いません。
111 :
102:2010/10/22(金) 00:16:15
>>90 >3)「尚自上庸通道,西行七百余里,山民蛮夷多服従者,五六年間,降附数千家」
上庸は現在の竹山県のあたりです。グーグルマップで航空写真を見てください。
上庸から西は、かなりの山間部です。こんなところ直線で道を通せるわけないです。
さらに山民蛮夷服従する者多しとあります。
山間部に住む山民蛮夷の集落をつなぎながら道を通すのだから、
ますます直線距離より長くなります。
短里(76m)とすると700里はおよそ53km。
山間部でそんな道のりだと、となりの部族の集落までしか行けないんじゃないですか。
それじゃあ服従する者多しとはなりません。
4)「船本歴適數百里中,濟更鑿地作四五道,蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水,皆引后船,一時開遏入淮中」
歴適というのは、「まばらに進む」という意味です。歴が「まばら」で、適が「すすむ」です。
もともと水道通り難しという忠告を無視して行幸して、案の定立ち往生して、
蒋済に船がまかされました。蒋済は船の道4,5本を開鑿して船を集めたという話です。
つまりビッチリ船列が数百里続いたのではなくて、船団がバラバラになって数百里の間に点在していたのです。
112 :
ローガン:2010/10/22(金) 00:22:52
>>110 なるほど、Wikipediaにありますね。[この時、劉備は補給線と退路を確保するために、後方に50近くの陣営を築き連ねていたが、魏帝曹丕はこれを聞いて「劉備は戦の仕方を知らない。必ず敗北する」と側近に語ったという。]
> 「樹柵連營七百餘里」
樹柵を、例えば樹海とか樹色 のように読んで、連營を連行とか連呼のように読めば 「中の様子が見えないような柵が連なり囲んでいる」かなあ?なんて考えたんですが…間違い。
やはり、柵を建て、營 連なること七百餘里 なんですね。
ふーん・・・
ところで、みなさんは弥生時代後晩期の柵らしき痕跡のある遺跡については
どれだけご存知なんですかね?
>>113 畿内には柵らしき痕跡がな〜〜〜いって発言してるのが、かの有名な高島センセーで
九州の遺跡で真っ先に出てくるのが吉野ヶ里、三世紀頃の城柵ぅ。
あとは、後期か晩期か知らんけど
伊都国と考えられてる〜前原にもそんなのがあったな・・・
こんな感じで良いかな?(又寝る)zzz
115 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 05:15:36
夷稜の戦いの、一般的に認識されている概要を知らずに話をしているとは思わなかった。
が、夷稜の戦いの七百里の解釈としてはtaroさんのでも102さんのでも可能。
劉備軍は常識はずれな長く伸びた陣で、前後の連携がとれず
陸遜はその陣を分断して勝っているから。
その陣が点在させた補給線ともとれるし、単純に薄く延ばした陣営とも解釈できる。
116 :
taro:2010/10/22(金) 11:05:29
1)
いや、最終的にこの「千里」は長里435kmでも短里77kmでもなく、「遠方に」の意味と解釈されたのかどうか、ということです
エン州からなら前線まで長里千里で解釈可能ですが、キ州から前線に千里ってことはないですから
2)
ですから、取り囲んでいようが延びていようが、700里(300km)にわたって陣が続くことはない、ということです
外周でもムリなんですよ。300kmの外周の陣地を、どう想定するんでしょうか?
ローガンさんの解釈・・・周囲300kmの囲陣であった、と。あるいは"面積の里"での解釈だが、"面積の里"の裏付けはしない、ということですね?
3)
道を通すことができる「西」は「漢中方面しかありませんが?(それを言うなら合肥新城址も「西」ではなく「北西」です)
ローガンさんの解釈・・・地形に反して上庸から"真西”に突っ込んで、南江県方面に向かった、ということですね(その辺も蜀の領土ですが?)
4)
100〜300kmにわたらない、最長でとっても60km以下だと数字は動かせません
ローガンさんの解釈・・・反論放棄、ということですね?
5)
つまり「三国志」の記述を解釈して、1里435mで解釈することがローガンさんには出来なかった、と
ローガンさんの解釈・・・反論放棄、ということですね?
6)
こちらの論旨をスリ変えてらっしゃる
東関が「濡須」であっても、「江夏〜廬江間」であっても、「去江4百余里」を長里でとることは出来ない、ということです
自説と数字が決定的に合わないものを、ボヤかして逃げる戦略はあまり得策は無いですね
ローガンさんの解釈・・・これも反論放棄、ということですね?
117 :
taro:2010/10/22(金) 11:07:09
7)
合肥新城の話ではなく、廬江の話は??
合肥新城については、短里だと主張はしてませんよ
AD220年以後が「全部」短里だという主張ではなく、「大半が」短里でないと解釈できないっていうデータだということをお忘れなく
で、廬江の話は?
8)
「主観」ではなく、不自然な事実の指摘ですよ
江北の呉領に100〜300kmの屯田地は取れない
数千家を、100〜300kmに散らばらせると、極度の過疎地となる(この辺は砂漠でもなければ山岳地帯でもない)
ローガンさんの解釈・・・孫権が、江北の呉領に存在しない土地を創り出し、1kmに1軒または数kmに数軒の極過疎地を作った、ということですね?
9)
これが、単に現場の奮戦で、予想より早く敵が撤退した、、、のなら「数百里」は必要ないのでは?
短里20〜50kmなら、ほぼ1日行程ですので、撤退の限界値・・・「まだ限界まで来てないのに、撤退した」で合いますが
長里100〜300kmだと、その数字自体に意味は無い
単に、援軍が到着する前に撤退した、で済む話では?
11)
「実家に帰るため」と嘘をついてるなら、50kmも先で合流する必要はないですよ
全行程の1/3を捨てる必要が無いです
14)
禁猟区が400kmでも大きすぎるでしょう
400km・・・・一つの州がまろごとですよ
118 :
taro:2010/10/22(金) 11:10:12
>>102 「周」の字義を当たってくださいね
「あまねく」「すみずみまで」
「周囲」の意味は派生したものです
>>滎陽を中心にその東側と西側、周囲数百里の範囲と言っているのですよ。
これは成り立ちません
「周数百里」を「周囲数百里」と取ると、"東西"の文言が必要ない
これは「滎陽を中心にその東側と西側、周く数百里」と言っているのですよ
>>これは、無茶読みですよ。
無茶ではありません
「及」の字義は、まず第一が「およぶ」、派生して「および」です。「〜が・・・する所に及ぶ」で、普通の読み方です。
>>主題が別って、全く別の遠征についての記事だと思ってるんですか?
すでに書いたことですが、、同じ遠征の別の主題の記事です
「晋紀」・・・往復日数の話
「魏志本文」・・・兵員数の話
「魏名臣奏」・・・副将を付ける話
別の書物の別の主題の話を、くっつけることは出来ません。遠征に関わる諸問題が1個しかないとでも?
いずれにしろ、長里四千里は実数に合いません
>>104
「仁果遣其子泰攻濡須城」を見落とされてますよ
曹仁が直接に濡須を攻撃したのではなく、曹泰にやらせたんです
朱桓が戦ったのは、この先鋒
曹仁軍の先鋒と遭遇したのが七十里
長里七十里の所(含山付近)で遭遇戦をしたのなら、それは羨溪攻めの部隊と区別がつかないってことです
羨溪を攻めると思っていたから、七十里に接近されるまで気が付かなかったんですよ
119 :
taro:2010/10/22(金) 11:12:13
>>102 「呉將晉宗叛歸魏,魏以宗為蘄春太守,去江數百里,數為寇害。」
この文の中で「去江數百里」と言っているんですよ
"胡綜のいる場所から"数百里じゃないですよ
文脈上、明らかに"最寄りの長江沿岸から"です
これは読み方に説得力が無さ過ぎます
>>110 「樹柵連營七百餘里」
"連"ですから連なってるとは思いますが、もちろん完全にくっついてるとは思ってません(ついでに言うと、ウィキペディアも確認してます)
遠征途上途上に、補給拠点を築くのは当たりまえの事で、それを「樹柵連營七百餘里」とは言いませんよ
武帝紀「八月,紹連營稍前,依沙塠為屯,東西數十里」
"連營"の例です。明らかに長里ですね。これが、袁紹の本国なりからの補給線の長さだと?
明らかに足りませんよ
劉備の場合、「豈有七百里營可以拒敵者乎」なので、これは戦場にいる劉備軍の野戦陣地の長さです
"樹柵連營"って言ってるのに、どうして途中の補給拠点のことだと思うんでしょう?
前線まで築いた補給線の長さなら、単に700里でいいんです
"長里のはずだ"という思い込みにハマってませんか?
120 :
taro:2010/10/22(金) 11:13:04
>>111 3)
見てますよ、グーグルアースは
>>上庸から西は、かなりの山間部です。こんなところ直線で道を通せるわけないです
だから「真西は無理」という話をしてるんです。谷沿いに漢中方向へ行くか、蜀方向へ行くか、、です
どっちに行っても、道のり700里は蜀の領土です(「700"余"里ですから、そこからさらに進みます)
それに山民は単に「多」じゃなく、具体的に数字が出てます「数千家」
上庸から西53kmの山間部で「数千家」を下す、、、、別におかしくないですが?
沃租は、「其地形東北狹,西南長,可千里」で「五千」
壱岐は「方三百里」で「三千」
対馬は「方四百里」で「千余」
で、「七百里」で「数千」・・・全く違和感ないですね
(壱岐が130km四方で、対馬が174km四方で、沃租が北朝鮮日本海側に400kmもあった、と?)
4)
独自の読み方の好きな方ですね
「歴」の字義は「順番につらなる」
「適」の字義は「まさに」
数千隻を真っ直ぐに連ねても60km
実際は1列じゃないから、よこに3〜4隻いても20km
これが、おっしゃるようにさらにまばらになっても50kmそこそこです
100〜300kmも広がる話じゃない
実際の地図を見て考えて下さい
淮河沿いに100〜300kmの範囲に散らばったら、それはもう土木工事をしてどうこうする話じゃないです
121 :
102:2010/10/22(金) 15:42:22
>>120 昨夜、偶然ここの過去ログを見つけました。
アドレス貼っていいのかわかんないんで、貼りませんが。
それで、おおよその流れは飲み込みました。
今日はちょっと無理ですが、追々提示された例文を全部検討していきます。
反論を頂いてますが、きりがないので、とりあえず最後の例文の検討が終わるまで、
何日かかるかわかりませんが、再反論はいたしません。
ぱっと見ただけですが、taroさんの誤読を沢山指摘していくことになりそうで、
気が引けるのですが、(ボクは、リアルでは、こういう場面はなるべく避けるタイプです。)
こうした検証ができるのも、taroさんが地道なリストアップ作業を
根気よくやってくださったおかげだと思い、
厚く敬意を表し、そのうえで敢えて指摘させていただこうと思っています。
検証・議論のベースを作る基礎研究が一番大変で目立たなく、
誰もやりたがらないので、taroさんには感謝しております。
122 :
102:2010/10/22(金) 15:44:29
つづき
ついでに1)の件ですが、ローガンさんに賛成だけでは足りないと思うので補足しておきます。
>「呉や蜀が国境を狙っても、千里の彼方に兵糧を運ぶことが出来ません。
>この方針を貫けば、特に強兵など必要ありません」
ざっくりした訳なので推測ですが、おそらくtaroさん誤訳してます。
これは、将軍の呂昭に冀州を領ぜしめたことを問題にして、
「軍事に傾いて農業経営がおろそかになる。
?蜀が国境に攻めてきたとき、防衛部隊に馬草や粟を急いで送ろうとしても間に合わない。
この問題を解決する術は、兵を強くすることにありますか?いいえ違いますよ。
農業振興こそ大切ですよ。」
と言っているのです。だから外敵を防ぐ兵のために魏の国内から糧食を運ぶ話なのです。
taroさんは、呉軍や蜀軍が外から糧食を運ぶ話と思ったのでしょう。
だから、?蜀の最前線拠点から魏領内の攻略目標までの距離を問題にしているのでしょうが、
それは関係ありません。
123 :
ローガン:2010/10/22(金) 15:56:43
>>116まあまあ、落ち着いてください。
1)
>「遠方に」の意味と解釈されたのかどうか、ということです
そうです。それにこれは、あなたが云う「呉軍の食糧輸送」ではありません。
2)
これは102氏に同意して、稚説は引っ込めましょう。
3)
>上庸から"真西”に突っ込んで、
うふふ、直線道路を作ったとは一度も、言っていないのですが。極論化して否定ですか。
4)
5)
そうですね。あなたの期待する反論…つまり、記述を計算して435mを割り出すのは無理というか無意味なので放棄ですね。
記述は数百里、しかも両端がどこか確定しない。誰にも計算出来る訳無いでしょう。 第一、当方から公定里の存在を証明する必要は無し。
史料に無い短里を主張するなら、まず、これらの両端がどこかを確定させてから、史書に書かれた数百里とは具体的に何里を指すか?を確定させた上で計算し、80mを求められたらいかがですか?
6)> こちらの論旨をスリ変えてらっしゃる
何故?「去江4百余里」を長江からの直線最短距離と捉えなけれはならないんですか?出来るだけ短く読みたい気持ちはわかりますが。
汝南 よく陽は国境しか守備してないんですよ。だから孫権は北方に懸念が無いのです。まあ、東関の位置が論点では無いと言われるかもしれませんが。
124 :
102:2010/10/22(金) 16:19:03
ちょっと、ローガンさんとtaroさんのお手伝い。
>時孫権在東関,当豫州南去江四百余里。・・・(1)
このようの句読を切っていたらどう読みますか。
「時に孫権東関に在り、豫州の南江を去ること四百餘里に当たる」
とよみます。これが普通の読みです。
ところが標點本の功罪の罪の方がここで出てしまいます。
標點を打つ人は、ちゃんと理解しているのですが、
字数のバランスから、南と去の間に点を打ちたくなります。
「時孫権在東関,当豫州南,去江四百余里。」・・・(2)
それは、景印本に自分で点を打ちながら読んでると、
意味の取り違いはせずとも、だれでもなるべく短く句読をきります。
ところが、さいしょから(2)を読んだ人は、点が一個あるだけで、
当豫州南と去江四百余里が繋がっていることに、全く気が行かなくなるのです。
こういうことが標點本では、たまに起こります。
だから、古い先生方は、標點本なんか読むなとお怒りになります。
もし、時孫権在東関,去江四百余里,当豫州南。
なら東関と長江の距離の問題ですが、そうではないということです。
125 :
ローガン:2010/10/22(金) 16:28:31
>>117 7)
> 合肥新城の話ではなく、廬江の話は??
満寵伝
盧江雖小,将動兵精,守則経時。又賊捨船二百里来,后尾空縣,尚欲誘致
いや、だからこの記事は231年。件の上表は233年。同じ懸案の軍議に全く違う度が使われたとする主張が信じられないのです。
こちらの主張は、僅か24km城を江湖から離すという計略などナンセンスだと言うものです。この三十里と前述の二百里は当然同じ尺度。短里などではありません。
8)
収穫の為に散らばって遠い者が数百里離れている。だから攻めやすいと。何の問題も無い記述です。(勿論200里だ、なんて言いませんよ。200〜900まで、エリアの確定なんて不可能。)
9)
> これが、単に現場の奮戦で、予想より早く敵が撤退した、、、のなら「数百里」は必要ないのでは?
必要、不要は関係ないでしょう。書いてあるのが史料実態。どこにも帝の接近を察知して逃亡と読める記述はありません。記述の必要性とか言い出すと、始めに結論ありき、ですよ。
11)
> 「実家に帰るため」と嘘をついてるなら、50kmも先で合流する必要はないですよ
胡質伝
請假還家,陰資裝百餘里要之,因與為伴,事佐助經營之,又少進飲食,行數百里
では、何故、彼が罰を受けたか考えてみてください。それに「百里ごとに、物資を手配しておいてくれた」は誤読だと指摘したんですが?
14)
高堂隆伝
今視崇侈,彫妙,忘有虞之期,思殷辛之室,禁地千里,足投网,阿房,役百乾谿,臣恐民力彫尽,下不堪命也
禁地がそんなに広いと「国家の財政が破たんするぞ」と書いておられましたが、何故ですか?
再度尋ねますが。立入禁止とか耕作禁止とか考えたのですか?
126 :
ローガン:2010/10/22(金) 16:50:03
127 :
外野:2010/10/22(金) 18:42:40
なるほど「from〜to〜」みたいな1セットとして捉えるべきと言う話か・・・
128 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 00:35:58
129 :
102:2010/10/23(土) 02:41:18
>>126 >ひょっとして、どくだみさん?
そうです。ご無沙汰してました。
それでは続き。昨夜見つけた過去ログから
>4)
>?済伝
>船本歴適數百里中,濟更鑿地作四五道,蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水,皆引后船,一時開遏入淮中。
>「船が数百里に渡って広がり収拾がつかなくなってたので、一旦水をせき止め、船を引っ張って一か所に集めておき、あらためて水を流して一気に船を進めた」という文言。
>長里だと100?300kmも船を引っ張らねばならず、現実的でない。短里なら20kmから最大でも50km。
4)は説明しましたが、昨夜過去ログを見つけましたのであらためて。
まず、数百里船を引っ張ったというのは誤読です。
蒋済は、地を開鑿して四五道を作り、船を蹴(おっ)て集めさせています。
渇水期で淮水まで船が通れないので豫め土嚢を積み、湖に水をためておき、そこに船を集めたのです。
それから後の船を引きながら、一気に土嚢を崩して水を流し、勢いに乗って淮水に侵入したのです。
後の船を引いていないと前の船だけ流されて、後の船は水の勢いに乗れず取り残されます。
こういう事情ですので、皆引后船というのは蹴船令聚の後で、数百里も船を引いたのではありません。
ついでながら、歴適が「まばらにすすむ」というのは、独自の読み方ではないです。
大漢和でも「歴彊 まばらでかたい」「歴歯 まばらな歯」というのが見えます。
適の意味の第一番目には「ゆく」があがっています。
130 :
102:2010/10/23(土) 03:29:39
5)
文帝紀
冬十月,行幸広陵故城,臨江観兵,戎卒十余万,旌旗数百里
これ、おそらく水軍も含んでの観兵でしょうね。この文の前後ですが、
曹丕は八月に舟師を率いて出発し?から渦水をとおり淮水に入り、
そこから陸を通って徐州に行き、九月に東巡臺を築き、
十月に広陵故城に行き、それから長江のほとりで観兵です。
その間、船団は追ってきてます。
その後、水道が凍って江に入れず引き返します。
しかし、注に引用されているその時の曹丕の詩に、
「兵を観て江水に臨む、水流 何ぞ湯湯たる」とあるのをみると、
その辺は凍ってなかったわけで、建業まで遡上出来なかったということでしょう。
さて、皇帝が船団を率いて三カ月の旅ですので、戎卒十餘萬の他にも
沢山の人員・輜重があったでしょうね。
まあ、それをどの程度と見積もるかは主観の問題で決め手にはなりません。
131 :
102:2010/10/23(土) 03:36:02
つづき
ところで、曹丕は三回南征していますが、これは三回目の南征です。
それで、4)でみた蒋済伝での舟の立ち往生は、この三回目の南征の模様ではないかと思っています。
一回目、二回目の遠征の引き挙げ方は、蒋済伝の内容にそぐわないからです。
そうすると、戎卒十余万,旌旗数百里なんて威勢のいいことを書いていますが、
内実はお寒いものだったことになります。
曹丕は船団をおいて陸行し、船団は通りにくい水路に難渋しながら何とか長江を目指す。
船本歴適數百里中ですね。
それを広陵付近で再結集しようというのが観兵だったのかもしれません。
蒋済伝では、ここで屯田しようかという意見も出ますが、
東に湖があり北は淮水で、水が増えると敵に簡単に攻められて危ないということで、
引き返すことになります。
こんな状況ですので、ドームの広さとか一列でとかの議論はあまり意味がないでしょう。
蒋済伝
車駕幸廣陵,濟表水道難通,又上三州論以諷帝.帝不從,於是戰船數千皆滯不得行.
議者欲就留兵屯田,濟以為東近湖,北臨淮,若水盛時,賊易為寇,不可安屯.帝從之,車駕即發.
還到精湖,水稍盡,盡留船付濟.
船本歴適數百里中,濟更鑿地作四五道,蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水,皆引後船,一時開遏入淮中.
132 :
102:2010/10/23(土) 04:00:24
6)は
>>124で書きましたので省略。
7)
満寵伝
盧江雖小,将動兵精,守則経時。又賊捨船二百里来,后尾空縣,尚欲誘致
現在、巣湖の南に盧江がありますが、三国時代の盧江はそこではありません。
中国歴史地図集によりますと、現在の六安のあたりに魏の盧江があり、
その南の潜山のあたりに呉の盧江があります。
これは後漢の時に大きな盧江郡があったのが、魏と呉によって南北に分断された結果でしょう。
三国志本文で確認はしてませんが、地図を信じればそうなのでしょう。
そして、現在の盧江だと、短里の二百里にピタリなので、
taroさんは、ここのことを想定して論じているのかなと思いました。
魏の側の盧江だと、巣湖から長里二百里で問題ないです。
ちなみに、中国歴史地図集で、薄茶色の文字で書かれた地名は現在のもので、
当時の地名は黒い文字で書かれています。
それと標點本では、舍船で捨船ではないです。
両字通用するのですが、ニュアンスとして舍は途中で捨てたというより、
最初から置いてきたという感じがします。
永遠繼續下去
這種細緻的工作,但我認為最終無用功
「終止符」の意味分かってるのかねぇ
FINALと謳っておきながら、延々と続く某ゲームみたいに
延々と続くのか?このスレ
135 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 12:55:12
スレに孤独な老人が居つけば、スレは終わらないし
終わらせようとしない
136 :
102:2010/10/23(土) 14:58:47
長里短里問題に終止符
とかスレ立てしてくれたら、そっちでやってもいいけど。
taroさんがリストアップに飽きたら、すぐdat落ちしそうだなあ。
在此期間、做的事情一直遵循了這一趨勢。
138 :
102:2010/10/23(土) 15:36:09
>8)
>満寵伝
>至八月,寵以為田向收熟,男女布野,其屯衛兵去城遠者數百里,可掩?也。
>孫権の屯田兵が刈り入れのために100km?300kmに散らばってるのは、広がり過ぎ。
>江戸城攻めの兵隊が、静岡県や愛知県まで屯田してることになるんだぞ?
>、、、、刈入れ以前に、日々の畑の世話が出来ねえだろうが?短里なら、東京郊外からせいぜい神奈川県くらいまでの距離。
まず、引用の冒頭部分を補足します。「三年春,權遣兵數千家佃於江北.」 佃は開墾のことです。
建業は長江の南岸ですから、孫権が長江の北に屯田したのでは攻めてません。
江戸城攻めの兵隊が屯田しているのではなく、江戸城守備の兵隊が屯田しているのです。
それから、孫権は、兵数千家を屯田させています。一家が5人とすれば、数万の男女です。
地図によれば、長江の北岸から40kmもせずに魏の領域となります。
危なくて、そんなに北には広げられません。南はもちろん長江なので、東西方向、長江沿いに細長くなります。
数万人の人口を養い、兵糧まで備蓄するとなると、当時の収量でどれほど東西に延ばせばいいのでしょう。
僕は、その方面の知識は全くありませんが、とても短里でおさまるとは思えないのですが。
短里だと千里で76km。北方向に仮に20kmとすると、76km×20kmの範囲で収まるんでしょうか。山もあるでしょうし。
それと、屯田の家族は、城を離れてそれぞれの与えられた家に住んでいるのでしょう。
日々の世話ができないってことはないでしょう。
まあ、これは当時の農業に詳しい人の指摘を待ちましょう。
139 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 15:59:34
>9)
>明帝紀
>秋七月壬寅、帝は親しく御龍舟に乗って東征した。孫権は新城を攻めるも、
>將軍の張穎等が力戰固守し、帝の軍が未だ數百里に至る前に遁走した。
>短里だと、敵の援軍が20?50kmまで来て退却。長里だと100?300kmで退却。
>100?300kmあったら、もう一踏ん張りして合肥を落としてしまえばいいんじゃないの?
>短里20?50kmなら一日二日行程だから、諦めるのもわかるけど。
>あれほど呉が執着しまくってた合肥なのに、えらい簡単に諦めるんだね。
このときの様子が、8)で引用された文のすぐ直前にあります。
明年,權自將號十萬,至合肥新城.寵馳往赴,募壯士數十人,折松為炬,
灌以麻油,從上風放火,燒賊攻具,射殺權弟子孫泰.賊於是引退.
孫権が合肥新城に攻めてくると、満寵が壮士数十人を募って夜に焼き討ちをしかけます。
それで呉は攻城兵器を焼かれ、孫権の弟の子供孫泰が殺されます。
孫権の身内が殺されて、動揺も大きかったでしょう。
攻城兵器があれば弔い合戦したかもしれませんが、焼けてしまって無いので攻めようがありません。
作ってると援軍が来てしまいます。
昔から一舍三十里や吉行五十里といいますから、漢代の里405mで考えて、行軍は一日に12kmくらい。
いそげば20kmくらい。短里だと2,3日で援軍が来てしまいます。
退却戦はとても難しいと聞きます。城も攻められないのに、
援軍がそんなに近くに来るまでうろうろしてるはずはないです。
140 :
102:2010/10/23(土) 16:28:58
10)は、司馬懿が都にいるかどうかのからみでやってるので省略。
>11)
>胡質伝
>請假還家,陰資裝百餘里要之,因與為伴,?事佐助經營之,又少進飲食,行數百里
>親父を訪ねて南陽までやってきた胡質の息子が洛陽へ帰る時に、
>親父の部下が気を利かせて百里ごとに物資を手配しておいてくれた
>、、、、、その好意に数百里行ったところで気が付いた、という話。
>荊州の州都(宛)から洛陽への帰路は150kmあまり。
>短里なら百里(8km)ごとに補給し、数百里(20?50km)進んだ、、、という文言に合うが、
>長里だと百里(43km)を補給無しで進むこととなり、数百里(100?300km)進んだら洛陽についてしまう。
ローガンさんのレスと重なる部分もありますが、確認していると大変なので勘弁して下さい。
まず、ネットで見ただけで裏は取ってませんが、荊州の州都は、劉表のときに南の襄陽に移ってるらしいです。
洛陽から襄陽まで300km以上。300kmは長里で690里くらいです。長里で問題ありません。
次に、翻訳の件。
胡質の部下は休暇願をだして(請假還家),ひそかに(陰)旅支度をして(資裝)
胡質の家から百餘里の場所で胡質の息子胡威を待った(要之)。
それで旅の道連れになって(因與為伴)事あるごとに手助けをして(?事佐助經營之)
ちょっと飲食をおごったりもした(又少進飲食)。そうして數百里行くうちにおかしいなと気付いた胡威が
誘導尋問したら、胡質の部下だと打ち明けた。胡威は公人であるべき父の部下からそのような
私的便宜を受けることを潔しとせず、なけなしの絹を送って、あわせて父に報告した。
父の胡質は、部下が身内に私的便宜をはかったことに激怒し、その部下を百叩きの刑に処し、クビにした。
胡質胡威の親子は、それほど清廉だったというお話です。
百里ごとに補給を手配したというのは読み間違いなので、長里だと43km無補給ということもありません。
さらに短里だと部下が待ち伏せしたのは、胡質のところから10kmたらず。
そんな近くだと住民に顔が割れてるから、息子と連れだって歩いてたらすぐばれるでしょ。
だから長里で43km以上離れてないと、この話はおかしいんですよ。
141 :
102:2010/10/23(土) 16:40:24
なんだか体調が悪いので、きょうはこれでやめます。
明日、体調がよければ、最後までやれるかなあ。
以後の結論を先に言っておくと、13)の例だけが言葉の厳密な意味が不明なので保留。
あとは、みな短里の証明にはなりませんでした。
142 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 16:51:07
1里(6町)55.64894m
百里 55.6489km
これで良いのでは?
143 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 16:53:33
>>138 日本で人間一人当たりの耕作面積基準は反ですが
300坪で、990u
360坪で、1188u
だいたい一人当たり1000uとして計算しますと
76km×20km=1520ku=1520000000u
一反当たり1000uとすると、152万反=152万人
この計算は、100%の場合なので実際には数分の1に減るとは思いますが、
当時の中国の土地の利用効率がかなり悪くても
これで数万人は無理な人口ではないでしょう。
兵5000家とすれば25000人ですかね。
まあ、延々と砂漠で何も生えない土地もありますが、
普通はわざわざそんなところに屯田させないと思います。
144 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 16:55:21
もともと航海上の測量技術が発展していたら 倭尺単位としてみても
良いのでわ。
一里 55.64メートルで割り出してみたら。
145 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 16:59:46
九州に邪馬台国あり 邪馬壱国はその後の政権。
関西には邪馬台国はない。
関西に在ったといったら あほや
146 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 17:03:07
関西に在ったもの 邪馬台国の以前に存在した国だろうな。
147 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 17:07:34
>>140は反論の論拠が不確定ですね。
>百里ごとに補給を手配したというのは読み間違いなので、
なぜ読み間違いなのかの根拠が必要なのでは
>そんな近くだと住民に顔が割れてるから、息子と連れだって歩いてたらすぐばれるでしょ。
これを根拠にするのにはちと弱いのでは
>>143 なるほど。耕地面積からすると、これは、まだ短里の可能性が残るということですね。
>>147 逆に、どこから百里ごとに補給を手配したという解釈が出てきたのですか。
想像するに「陰資裝百餘里要之」をそのような意味にとったのかなあ。
他に近い言葉はないし。
ひそかに旅支度をして、百余里のところで息子が来るのを待ってたという意味だから、
どこからも百里ごとに補給を手配したという意味が出てきようがないですよ。
149 :
ローガン:2010/10/23(土) 17:36:20
>>132 > 三国志本文で確認はしてませんが、地図を信じればそうなのでしょう。
こんにちは。朱桓伝 赤烏四年に「魏盧江太守文欽が六安を本営に定めた。」とありますが これなんかどうでしょう?
又、曹洪伝には、盧江郡で兵二千を手に入れ、東方丹楊へ行き更に数千人を得る。とあります。六安からなら東ですが、もし巣湖からなら、南と記述するのでは? まあ、アバウトですが。
150 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:20:19
@縄文人
A河童虫
Bサガミハラハラ
C二 ◆.L.MXSPOgc
4人エントリー中、九州説のボスは誰?正解は......................?!
151 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:28:29
対する畿内説は
@改め
Aうましか
Bローガン
C縦目仮面
他いたっけ?Taroさんはどっちだろう? あ、太国&唐松山は放置って事で(笑)
152 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:40:10
やっぱり、九州説論者のがひ弱なイメージがあるね(笑)
しいて打たれ強そうなイメージがあるのが縄文人だろうか?
よし、縄文人さんよ 誰か畿内説論者に噛みつけw
153 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:43:10
そう言うのはチャンポンでやれ。
いや、コテハン以外の名無史が実質的なボスじゃないのかな。
九州説は「東遷厨」だと思うし、畿内説は「よく正確な考古レスをする人」だよな。
155 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:47:28
九州説の東遷厨さん 誰だろうね。
畿内説のよく正確な考古レスをする人 誰だろう・・・もしかしてwww氏か?w
九州説のボス東遷厨さん
畿内説のボス正確な考古レスをする人 おふたりさん いらっしゃい。
いや、www の人じゃなくて、「今でこそ邪馬台国九州説を救え」のスレを立てた人じゃないかな。「トヨタン・・・」
の人かもしれない??
157 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:51:30
あのー、そのー・・・・、コテハン連中や謎の名無しなんかはどうでもいいんで・・・・
は、早く卑弥呼さまの正体に迫って、終止符を打ってくれないかと・・・・
158 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 00:21:46
>いや、www の人じゃなくて
wwwwwwwww おいジョーカーさん
ソノ人じゃないって言われてるよw
>「トヨタン・・・」 の人かもしれない??
おい トヨタンさん お前いつから畿内説のボスなになったん?ww
159 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 00:33:09
>畿内説のよく正確な考古レスをする人
と言うかここの畿内説の場合名無しで
「その道の学者か学者崩れ?w」と思わせるレスが時々ある。
実際、上限が無い感じ。
(対して九州説は下限が無いけどなwww)
俺が書いていることなんか古代史の一般書籍数冊読めば仕込める程度だからなw
てか九州説のトップが「東遷厨」って…
「無人都市」だの「まばら理論」だのその他数々でおなじみ、” あ の”怨み節の東遷厨のことか?
ええんか?ベースが安本流邪馬台国東遷説でさらに先鋭化させたような奴だぞ?wwww
つうか何でこんな流れになっているんだ?
どうせ横に逸れるなら・・・
このスレじゃあ距離(里)は一大テーマ定番メニューだが
そもそもそれが最終的に位置論争にどの様に資するのか?
誰か俺にかいつまんで教えてくれwwwwwwww
160 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 00:34:35
要注意人物としては、通称「 www」 名無史がいます。別名を「ジョーカー」などとも呼ばれる彼は畿内説です。
能力的には、考古学はよく勉強していますが、所詮は素人の域を出ませんし、それは自分でも認めているようです。
文献はやや暗いものの、総体的な教養はあるようです。彼は九州説のレスを常に待ち、
捏造や欺瞞、誤謬や不勉強を見かけるとそこを突いて嫌味に反論するという、いわば待ち伏せ方の論者です。
自説を主張することはあまりありませんが、よく考古学者の唱えるような一般的な畿内説であると自分で語っています。
次に注意すべき人物としては「太国」と名乗るコテハンがいます。
彼はおそらく九州説なのでしょうが、邪馬台国論争についての関心はほとんどありません。
彼の目的は古代日本で採用されていたという倍暦(三倍暦含む)を用いて、記紀の年代を加工することです。
吉永小百合や原節子の好きな人のいい老人なのですが、一たび倍暦や記紀の信憑性への疑義がレスされるや、
超絶罵倒マシーンに変身します。下ネタもまったく厭いません。
彼は古神道の大家であり、天津金木を用いた卜占術に習熟していると自分で述べています。
また、唐松山(後述)とのエンドレス論争でも有名ですが、多くの場合これはスレ違いであり話の流れを分断します。
続いて紹介するのは「唐松山」です。彼は卑弥呼と邪馬台国が別々の地に存したというアクロバチックな説のようですが、
やはり「太国」 同様スレタイの論争には関心がないようです。
彼は記紀の干支を西暦に直すことを主目的として活動していますが、その手段の一つとして
一般的には偽書とされる「秀真伝」を援用します。
もはやスレの古株であるので、彼の歴史に対する見解の多くは無視されますが、ほとんどめげる様子はありません。
彼は穏やかな人格であり、質問にはたいがい答えてくれますが、まったく役にはたちません。
「太国」との論争ははた迷惑のかぎりです。
さらに最も注意すべき人物として「美濃もん太」を取りあげます。
彼は邪馬台国は7世紀頃に存在した国としていたようでしたが、きちんと理解できているかの自信はありません。
いずれまともな論争に関心がないのは前述の二人と同様です。
彼のレスの内容の特徴 として、時代・場所の混乱、美濃に対する郷土?愛、
恐竜ー人類同時生存説などのムー的事象への強い興味などがあげられるでしょう。
また携帯からの異常な速度と量の書き込みを矢継ぎ早に繰り返すため、
それまでの話の流れは完全におシャカになり、その後の十数時間が彼のレスで埋め尽くされる。
「縄文人」・・・彼は弥生時代の大和盆地水没説というセンセーショナルな論題で
デビューを飾りましたが、今では見る影もなく、他の九州説にも相手にされる様子はありません。
説としては伊都国を前原としない、古いタイプの九州説のようです。
これまで「卑狗模古」をはじめとする複数コテを用いてさまざまな奇異の説を唱えてきましたが、
その手法に憤慨したスレ住人(おそらく「縦目仮面」(後述)) により、
「初老教授」などの捨コテを文体模写で乗っ取られるという逆襲を受けていますが、
同情されることもないようです。レスの特徴としては、非常識かつ無根拠の大風呂敷なものが多く、
当然穴だらけであるため厳しい反論を受けます。
また、用いる語彙は歴史用語としては違和感のあるものが多く、歴史的事実に対する明らかな間違いも散見されます。
これは彼が無学・無教養と揶揄されるゆえんです。また、一時期「伊作」氏との同一人物説も流布しましたが、違うようです。
「縦目仮面」・・・現役大学生・剣道部と自称していますが、この経歴に疑念を呈する向きもあります。
ただし筆者が「オカルト」や「伝統武術」板を調査した限りでは、この自称は一貫しています。
はじめは真面目学生風のレス内容でしたが、実はたいへん人が悪く、数回「改め」氏に対する総叩きを計画・実行しています。
また最近では、名無史や捨コテを用いての「縄文人」攻撃を主眼としてレスしているようです。
説自体はごく一般的な畿内説です。コピペ系も多いのですが、マジレスの内容は根拠があります。
「サイキバ」・・・最近登場した九州王朝説のようです。
畿内説およびこのスレの畿内説各氏に強い恨みを抱いているところを見る限りはそうなのかもしれません。
5月の大型連休前に現れたのですが、ほぼ 一日中レスを続けることのできる。
泣いている家族がいるかどうかはわかりませんが、「畿内説詐欺」を繰り返す様は、
精神障害または、少なくともある種の発達障害が疑われています。彼は他の九州説と連携することも
なく、常に孤独な心の叫びを繰り返しています。
レス内容は稚拙で、残念ながら有用な示唆や新しい論点はまったくありません。
「東遷厨」・・・これは複数いるようです。安本本を元ネタにした東遷論争を繰り返す「恨み節」、
南九州にこだわる、いわゆる「日向東遷厨」他。
この人たちの元ネタは銅鐸廃棄、三種の神器など限られているため、またそれ以上の説の進展がないため、
スレのループの主要因となっているというむきもあります。いずれにしても古色蒼然とした印象を振り撒きます。
この他「ローガン」畿内説、「サガミ」九州説、「二」九州説、「水銀厨」畿内説など、レス量の少ない、あるいは主張の穏健な比較的無害な
コテ連もおります。
165 :
102:2010/10/24(日) 09:56:57
おはようございます。まず、簡単な21)から。
>21)
>諸葛恪伝
>建得渡江,欲北走魏,行數千里,為追兵所逮。
>諸葛恪の子の諸葛建の亡命失敗の話。魏に行こうとして、長里1000?3000kmも行ったら、魏についてしまう。
標点本では「行數十里」になってます。
早稲田大学図書館の古典籍総合データベースで三国志の
同治九年金陵書局と順治13年汲古閣の線装本の画像を見られるので確認したら、
両方「行數十里」でした。
taroさんの見たテキストは千里だったかもしれませんが、どうも誤写・誤植ではないでしょうか。
166 :
102:2010/10/24(日) 10:19:41
>>149 ローガンさん、調べてくれてありがとうございます。
ご指摘の文章は、朱異が赤烏四年(241年)に偏将軍に拝され、
その後、六安を本営に定めている魏盧江太守文欽を攻めたということで、
盧江がいつから六安付近に定められたかについてはちょっとわかりません。
7)の文は太和五年(231年)のことですので、
241年以降の記事は直接の証拠とは言いづらいですが、
傍証にはなりますね。
鷲崎氏ホームページに投稿したネタだが、ここにもコピーする(議論のネタ)。
>卑弥呼の墓の大きさですが、
>【倭人伝】
>卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
>とあり、「徑百餘歩」という単位が記載されています。
>この大きさですが、約150メートルぐらいの規模と
>倭人伝に明記されてるんです。
>まず、土地の面積の基本単位はこの「歩」ですが、
>小爾雅に一足を「跬」、これを倍にしたものを「歩」とある。
>ようは、歩は二足で複歩(日本的には二歩)で二足四方といえば分かり易いか。
>次に、
>【漢書 食貨志 二十四上】
>故必建歩立畝 六尺為歩 歩百為畝 畝百為夫 夫三為屋 屋三為井 井方一里
>これは、1800尺四方=里と言ってて、里は井による、井は屋、屋は夫、夫は畝、畝は歩、歩は尺に〜という事で、あくまでも基準は「尺」という事。
>で、当時、魏代の尺はといいますと、
>甘粛省嘉峪関市、新城2号墓から長さ23.8cm骨製物差が出土してますよね。
>当時の1尺は23.8cmですから、ここから計算すると、
>142.8メートルで約150メートルクラスというのが分かりました。
>里が六分の一だから歩も六分の一になる?なりませんよ。
>貴方の考えだと、歩の基準は里と考えてるみたいですが、180度逆です。
>次に、「冢」と「墳」ですが、諸葛孔明伝の記事で倭人伝の「冢」の大きさまで分かりません。
>倭人伝のそれは、約150メートルクラスの冢と書いてあるんであって、諸葛孔明伝の冢は「棺が入る程度の冢」というダケの話で・・・。
>という事で、三十〜三十五メートルというのは無いというのが
>御理解いただけましたでしょうか? ちゃんちゃん(おしまい)
河童さん居る?
河童君の九州説では、卑弥呼の墓は三十メートルとか言ってなかったかな?
この>167のおれの考えに意見あるかい? まあ〜観てるんなら降りておいでよ
169 :
102:2010/10/24(日) 10:41:36
12)はもうやってあるので省略。
>13)
>高柔伝
>今禁地廣輪且千餘里,臣下計無慮其中有虎大小六百頭,狼有五百頭,狐萬頭
>高堂隆伝
>今?視崇侈,彫??妙,忘有虞之?期,思殷辛之?室,禁地千里,?足投网,??阿房,役百乾谿,臣恐民力彫尽,下不堪命也
>禁地が長里450kmに及ぶと大き過ぎる(ほぼ四川盆地全体分)。国家財政が破たんするぞ。77km(短里)で、十分。
高柔伝の廣輪ですが、周礼地官大司徒の注に「東西為廣、南北為輪」とあり、廣輪の意味は広さであるとされます。
僕は、これは東西南北つまり全周の距離だと思うのですが、東西南北の一辺が千餘里だと主張されると、
否定する根拠を持ちません。あるいはまた、面積である可能性も否定しきれません。
ということで、これは判断できず誰かが廣輪の意味を教えてくれるまで保留です。
高堂隆伝の千里は、これは実数ではないです。
それに、禁地千里は、秦の阿房宮や楚の霊王の乾谿臺に例えているので、単純に禁猟区ということでもないでしょう。
いや〜taroさん ローガンさん どくだみさん 三国志をよく調べてらっしゃる。
全然、話しについていけませんゎw ><
で、議論の結果は、どんなかんじなのでしょうか。
読んでいてもサッパリでつゎww
172 :
102:2010/10/24(日) 11:34:11
>14)
>曹真伝
>正始五年,爽乃西至長安,大発卒六七万人,従駱谷入.是時,関中及テイ羌転輸不能供,牛馬騾驢多死,民夷号泣道路.
>入谷行数百里,賊因山為固,兵不得進
>駱谷は周至県の南から山岳地帯に入り、城固県に出てくる桟道。長里なら、ほとんど漢中平野の出口まで来てしまう。
>短里なら、途中の山中で詰まる。「賊因山為固」という文言に合う。
Google中文で駱谷を検索すると、いろいろ出てきます。
現代のサイトで「谷長200余公里」とあります。長里でだいたい460里以上。
また、駱谷道は、北口を駱、南口を儻と言い、それで儻駱道ともいうそうですが、
谷長四百二十里というのが幾つかヒットしました。(原典に当たって確認はしてません。)
短里だと、千里でも、まだ半分も行ってません。
直線距離で100kmちょいが、山道では200余kmになるということなので、
山道を短く見積もりすぎです。
ところで、山塞は桟道沿いに作るかなあ。
よく知らないけど、桟道から山奥に入って作った方が防御にはよさそう。
疲れたので、休憩します。
173 :
102:2010/10/24(日) 11:35:20
>>171 僕の感想ですが、不明が1、水かけ論が2,3、あとは却下です。
最後まで行ったら、結果だけまとめます。それまで軒先を借りてますので、そっとしておいてくださいw
174 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 12:23:38
祟神天皇の即位前の名前=御真木入日印恵命
よって卑弥呼は、祟神天皇のお妃でその子供が次の天皇になった御真津比売が
最も怪しい。
そうすると、景行天皇の同母兄弟の倭比売とか、同じく同母兄弟の印色入日子命
とかが、台与っぽい。
175 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 12:37:59
ちなみに景行天皇の即位前の名前=オオタラシヒコオシロワケノ命。
オオタラシ(大帯)という部分は、神功皇后の即位前の名前オキナガタラシ(息
長帯)という名前と、何かしらの縁を感じる。(神功自体は少し後の世代だが)
あと、オシロワケという部分は、「お城分け」とも呼べる。
お城分け?=分都(遷都のテスト版?)とも想像してしまうお名前である。
176 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 12:48:50
ちなみに御真津比売(ミマツヒメ)の、お父さんは大毘古命(オオヒコノ命)
であり、その子(つまりミマツヒメの兄弟)の建沼河別命(タケヌナカハワケ
ノ命)は、後に有力氏族の一角を成す阿部氏。
177 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 12:59:44
ちなみに、このオオビコ〜タケヌナカハワケ親子は、祟神天皇の時代(天皇の
指示で)越の国(北陸?)征伐に向うが、その遠征先で童女の歌う小唄を
怪しみ、遠征から一度都に立ち戻り、この小唄が、「天皇暗殺陰謀計画」で
あると判じた倭モモソ比売の指示どおり、タケハニヤス王を陰謀者と討ち取って
しまうのである。(倭モモソ比売も後に怪死)
178 :
ローガン:2010/10/24(日) 14:24:39
>>169 >高堂隆伝 今?視崇侈,彫??妙,忘有虞之?期,思殷辛之?室,禁地千里,?足投网,??阿房,役百乾谿,臣恐民力彫尽,下不堪命也
>高堂隆伝の千里は、これは実数ではないです。
> それに、禁地千里は、秦の阿房宮や楚の霊王の乾谿臺に例えているので、単純に禁猟区ということでもないでしょう。
生意気ですが、ちょっと反論…
この禁地千里、少し前にある甸服と同じ意味を指すのではないでしょうか? 王城を中心に千里四方です。
その内の人々は作物を供出すれば良いだけの筈なのに、今や狩猟場であり、人民の暮らしは破滅的だと。
そもそも周の文王の都は…として「詩経」大雅霊臺編の「詩云、經始靈臺、經之營之、庶民攻之、不日成之、經始勿亟、庶民子來、王有靈囿、」から引いています。
靈囿は狩猟場でしょう? 「王と民は狩猟場を共有」ですね?
まあ、ざっくばらんに言えば、甸服の内を禁猟とするから、農作物に被害が及び、荒れ地が増える。文王の都は民が自主的に集まった為、急いでもいないのに早くでき、王は民と、沼と狩場を共有した。
それに引き換え、現在は… と、この「禁地千里云々」は甸服の有り様を憂いた上奏でしょう。
勿論、全体の主旨は贅沢の戒めかと思いますが
179 :
102:2010/10/24(日) 14:40:41
>>178 甸服のところは考慮してなかったので、検討が必要かもしれませんね。
残りのが終わったらtaroさんからの反論もあるでしょうし、
そのときに合わせて検討しましょう。
しかし、風邪気味のせいか、反証レスを書いてるとえらく疲れます。
今日中に最後まで行けるかどうか。
180 :
ローガン:2010/10/24(日) 14:43:37
>>171 > で、議論の結果は、どんなかんじなのでしょうか。
結果って…短里も長里も無い。そんな事あなたが、一番よくご存知でしょう?
私には、 どくだみさん降臨なので、只で勉強出来るチャンス。 taro氏に感謝。
181 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 15:25:13
さて、この謎の女性、御真津比売(ミマツヒメ)であるが、古事記によると、
二つの矛盾した記述が同一書物に書かれている。
@ミマツヒメは、開化天皇の娘である。
Aミマツヒメは、大毘古命(開化天皇の同母兄弟)の娘である。
この上記二つが同時に成り立つというのは、いかがな話であろうか?うーん、
ミステリアス。
182 :
102:2010/10/24(日) 15:34:19
>15)陸遜伝
>諸將並曰:"攻備當在初,今乃令入五六百里,相銜持經七八月,其諸要害皆以固守,?之必無利矣。"
>長里だと、劉備の陣営が200?250kmも続いてることとなる。
>一つの方面軍が100km以上に渡って野戦築城するなどあり得ない。
>(ちなみに、2)で700里だったものが、こっちでは5?600里になってるけど、
>これは劉備が兵の一部8000人を伏兵にしたから、、、、呉側からはその8000人が見えていない)
「今乃令入五六百里」は五六百里も侵入を許したということで、五六百里の野戦築城ということではないです。
夷陵の戦いで、陸遜は最初、諸将に反撃を許しませんでした。
それで劉備は簡単に夷陵まで侵攻します。それを踏まえて、引用文を訳すと
「劉備を攻撃するのは、ことの初めにやるべきだった。
今はもう五六百里も領内に入られて、対峙して七八カ月もたつ。
劉備の諸々の要害はみな固守している。これを攻めてもきっと勝ち目はない」
劉備が全長五六百里にも渡る陣地を構築してるとは書いてません。
この段落の最初のほうの文。
「備從巫峽?建平連圍至夷陵界,立數十屯,・・・」
(備は巫峽?建平より圍を連ねて夷陵の界に到り,數十屯を立て,)
劉備は、巫峽・建平から夷陵まで数重の屯営を作って連ねたのです。
2)の引用文の樹柵連営と同じことを言ってます。連営は一個の屯営がなが〜くあるのではなく、
複数の屯営が連携して存在しているということです。
夷陵の戦いは七月に始まりましたが、それから七八カ月というと翌年の正月か二月です。
この時点で五六百里と言ってますが、劉備は二月に夷陵から夷道に軍をすすめます。
長里で百里ほどです。だから2)では七百里になっているのです。
というわけで、ここで短里が介在する余地は全くありません。
余談ですが、巫峽から夷陵まで四百里くらいで、五六百里は言いすぎじゃないかという気もします。
>>180 ローガンさん、勉強とは恐縮です。
なんだか風邪で余裕がなくてすみません。
183 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 15:35:39
上記の事から祟神天皇を中心点として「二つの勢力」が浮かび上がってくる。
Aグループ:ヤマトモモソヒメ&タケハニヤス王
Bグループ:オオビコ命&ミマツヒメ
このうち、Aグループは怪死と謀反者と、散々な死に方だが、Bグループは
有力一族阿部の租と次の天皇の母と、非常に誉れで対照的だ。
184 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 15:51:31
これは、祟神の命令で越の征伐に向ったオオビコ&タケヌナカハワケ親子が、
大王の都に戻った時に、「何が起こっていたか?」が大事である。
もし「卑弥呼」の時期が、祟神天皇のモガリの時期と一致するとするなら、
その時に「魏の使者」と外交を行なうのは、果たして誰になるか?
倭モモソ姫は孝霊天皇の娘で孝元天皇の異母兄弟。また、同姫は、その兄弟に
大吉備津日子命(吉備の租)と日子刺肩別命(豊の国:今の大分)となる。
つまり、瀬戸内海を牛耳る派閥と考えても可能だろう。
185 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 16:01:20
また同時に、開化天皇の異母兄弟である、タケハニヤス王が、この時期謀反を
起こす(謀反を謀ったとして討たれる)のであるが、このタケハニヤス王は、
母方を河内の国に持つ、ここも瀬戸内海と面している。つまり、タケハニヤス王
と倭モモソ姫とは、瀬戸内海を挟んで「競合している」という図式でもある。
安本美典氏の東遷説(卑弥呼=天照大神)に同意。
187 :
ローガン:2010/10/24(日) 21:42:15
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!50 か。
約150000レスが 「スレ主」の血肉となったと言う事ですな。
188 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 22:58:02
/:|. /:|
/ .:::| / :::|
| ...:::::| /u ::::|
i ノ (  ̄ ̄⌒゙゙^――/ ::::::::|
/_,, ⌒ u . _ ::::::::::::\
/ \\゙.l | / ::// ̄● ̄ ̄/ ::::::::\
|● ::::::| . | | / :::: / :::::::::://u :::::::\
/i,.\_:::::::| u::::: / :::::::::// :::::::::\
/ \( (\|. ::::::. // ̄) ) :::::::::\
/ u ) )_ ^ ^  ̄ ̄ ,,、( ( i し./ :::::::::::::\
/ / /__,,____,/ ̄ \ ))u ノ ( ::::::::::::::::::::\
/ ヽ |.. | /└└└└\../\((\ '~ヽ :::::::::::::::::/
\ ) し ∨.|llllllllllllllllllllllllllllllll∨lllll| ) / / :::::::::::::::::/
\⌒ | |.|llllllllllll;/⌒/⌒ 〕 ::u::::::::::::::::/
| | |.|lllllllll; ./ . . | ::::::::::::::::::::/
.| | |.|llllll|′ / . | u .| :::::::::::/
.| | |.|llll| | .∧〔 / u:::::::::::::|
ヽ}.∧lll | ../ / / :::::::::::::::::\
i/| \┌┌┌┌┌ /. / /::: :::::::::::::::::i
( ゙゙^^¨^¨゙゙¨  ̄ ̄ ̄| i/::::::::::: u i
ヽー─¬ー〜ー――i | :::::::::::::
>>186 安本の卑弥呼=天照大神説は論理破綻しているがなw
「倭国・九州伊奈王朝・物部系(夏)孝徳天皇」の前身は、
明帝と司馬懿(→ 晋・中国南朝)が支持した、
周の古公亶父・太公望の長子・(傍流)太伯後の、
【▲矛圏】卑弥呼の「邪馬壹(やまい)国」。卑弥呼は、倭国の祖神。
倭国は、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で滅亡。
倭王・多利思比孤(高句麗の大臣・淵蓋蘇文=大海人皇子)
卑弥呼(日巫女)・物部氏(夏)より、一段格上が、天照大神・蘇我氏(秋)。
『隋書』の「イ妥国伝」の「(倭皇)小野妹子」
=「臺国・九州近江王朝・蘇我系(秋)推古天皇」の前身は、
台与(とよ)の「邪馬台(やまと)国」。
斉王 芳(魏の少帝・中国北朝)が支持した、
周の古公亶父・太公望の三子・(本流)季歴後の、
【●鏡圏】台与(とよ)=天照大神(天皇家・蘇我氏の皇祖神)。
大倭国・蘇我大王家(秋)大和朝廷
&日本国(蘇我大王家が藤原北家と改氏)大和朝廷は、こちら側。
トヨタン・・・・・・・・・・
192 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 07:02:46
この時期にはあと一人古事記には物語的には面白い人物がいる。三輪山伝説を
持ち出す、意富多多泥古(オオタタネコ)であり、この人は、祟神時代に、
巷に疫病が流行った際に、天皇の夢の中に大物主大神があらわれて、天皇に
推挙する子孫だ。天皇はオオタタネコを探させ河内の美濃に彼を見出し、確認
の後取り立てて三輪山の神主にし、よって疫病はおさまった。(古事記に
ヨル)とある。
これは祟神存命時期になり、卑弥呼記載の記述とは四半世紀ほど遡る辺りと
推測されよう。つまり、卑弥呼女王時期の25年〜50年前の出来事である。
なぜ俺が、面白い人物かと言うと、大物主と言うと、これが大国主と同様、
大和政権が「頭が上がらない」神話体系の神様だからだ。勿論古事記の
日本神話の中では、それらの租神は巧妙に天皇家の租神のアマテラスの下部
構造に組み込まれている。つまり、古事記神話部門においては、これはかなり
「重要部分」なのである。
193 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 07:11:53
さて、河内の出身と聞いて、先述のタケハニヤス王も(本人は山代の国だが)
母方は河内に縁のある人物であることが思い出される。また、タケハニヤスの
乱にて王死後の残党兵はクスバの渡りをくそまみれで敗走し、ハフリソノで
「はふられた(討伐された)」とあるが、古事記の表記を疑心暗鬼で読めば、
これは、むしろ真実隠しで、クスバにて散々てこづらかせられ、やっとこさ、
ハフリソノにて、「恭順させた」とも読み取れる。つまり、タケハニヤス王
(もしくはその子孫)が、その乱を生き延びている可能性である。
さて、この古事記のタケハニヤス王の乱は、先述の三輪山伝説の後に書かれ
ているが、仮にタケハニヤス王の乱をきっかけに「乱の因果(原因)は何?」
と考えた古事記編纂プロジェクトが調べて三輪山伝説にぶち当たったと考える
事もできるのである。
194 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 07:25:13
上記の仮定の上に立てばオオタタネコ=タケハニヤス王(もしくはその子孫)
という想定が可能になって来る。オオタタネコが天皇の夢枕に立ったという
理由でもない限り、そうそう「三輪山の神主」に据え豪華な社を建てるという
のも説明が難しい。
さて、仮定に仮定を重ねて申し訳無いが、もし上記のとおりだとすると、
「河内の有力者」=「祟神(存命)時代に三輪山の神主」と言う構図が、
「ヒミコ時代」=「祟神モガリ時代」の四半世紀前に成り立っていたと考え
られるのである。
ちなみに、タケハニヤス王の両親であるが、父は孝元天皇、母は河内の青玉
と言う女性である。「玉」と言うと、何やら、ヒミコ的な古代シャーマニズム
を感じざるを得ない。
195 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 07:37:10
さて、ここで改めて、前ヒミコ時代に比定される先述のグループ分けを出そう。
Aグループ:ヤマトモモソヒメ&タケハニヤス王 ← Now
Bグループ:オオビコ命&ミマツヒメ
タケハニヤス王=オオタタネコ(孝元と青玉の子)の仮定の場合、Aグループ
のシャーマニズム的性格は更に強まるのである。(ま、ここからは空想200%
になりそうなので割愛しますが)
そしてその状態で、もし当代の今上天皇である祟神天皇が没し「モガリ期間」
に突入し、そんな時期に、運悪く大陸の強国の魏から外交団が来日したと
すれば?それは、四道将軍のオオビコノ命が北陸(東北まで?)遠征から、
急遽戻らざるを得ない事態かもしれない。
196 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/25(月) 12:14:11
>>192 祟神時代に、巷に疫病が流行った際に、
この「疫病」をどの様なものと説明しているか?
五年。國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。
六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。
七年。於是疫病始息。國内漸謐五穀既成。百姓饒之。
疾疫で被害を被るのは、民であり死亡者。且大半矣。その翌年、百姓流離。
3年目の五穀既成を以て疫病始息となる。
この疾疫とは、凶作である。穀物を蓄えた朝廷には及ばない出来事である。
大凶作は、農民の飢餓、餓死を生み、翌年春には、逃散が起こる。この事実は、
江戸時代まで変わることは無い。
だから、時代が卑弥呼の時代とは重ならない。
197 :
102:2010/10/25(月) 19:09:30
>16)
>胡綜伝
>?將晉宗叛歸魏,魏以宗為?春太守,去江數百里,數為寇害。
>權使綜與賀齊輕行掩襲,生虜得宗。加建武中郎將。魏拜權為?王,封綜、儀、詳皆為亭侯。亭侯。
>?春は長江から20kmの所。短里の最短でピッタリ。
16)は既にやってますが補足。
taroさんは去江數百里を?春の地理的説明と考えているようですが、
去江數百里を前に掛けようとすると、受ける言葉は?春太守です。
太守という人物に対して去江數百里という地理的説明を加えていることになって矛盾します。
太守を無視して?春だけ説明しようとするのはご都合主義でしょう。
數為寇害の主語はもちろん晉宗ですが、省略されています。
省略された主語を補うと、この文は、
「?將晉宗叛歸魏,魏以宗為?春太守。」
「晉宗去江數百里,數為寇害。」
となるのです。そして、江の場所はどこだとなると、孫権や胡綜のいる呉の根拠地周辺です。
漢籍で「江」と言えば長江ですが、どうも三国志で「江」というとき、
建業周辺の長江を指しているように思えます。まだ裏は取ってませんが。
198 :
102:2010/10/25(月) 19:18:12
文字化けしてました。
「呉將晉宗叛歸魏,魏以宗為キ春太守。」
「晉宗去江數百里,數為寇害。」
キ春太守のキは、草冠に單に斤です。
199 :
102:2010/10/25(月) 19:25:59
17)はすでにやってるので省略
>18)
>朱桓伝
>今人既非智勇,加其士卒甚怯,又千里??,人馬罷困。
>桓與諸軍、共據高城,南臨大江,北背山陵,以逸待勞,為主制客,此百戰百勝之勢也。
>魏の最前線・合肥から濡須までは、短里77kmで合う。長里435kmでは長すぎる。
>ちなみに、例によって「洛陽から千里だろ」という言い訳は通用しないよ、、、、
>濡須から洛陽は長里の千里でも届かない、、、、長里千里だと中途半端なところで止まってしまう。
以逸待勞は決まり文句で、長い行軍の末に疲労困憊した敵軍を休養十分の軍隊が迎え撃つことです。
千里??が短里だと76km。4日から7日で行軍は終わってしまいます。
曹丕の南征は3か月、夷陵の戦いは1年1カ月に及びます。
そんな戦いをする軍隊や馬は、76kmの行軍で疲労困憊はしません。
この千里は前に出てきた「千里不及」と同じく実際の距離ではないのです。
不遠千里(千里を遠しとせず)というのは決まり文句ですが、実際に千里を行くわけじゃありません。
適千里者三月聚糧「千里に適(ゆ)く者は三月(みつき)糧をあつむ」というのが荘子にあります。
実際に千里を行くのでも、準備に三カ月かけるのでもありません。
遠くへ行く者は、長い期間をかけて準備をするという意味です。
ちなみにこの言葉は、松尾芭蕉の野ざらし紀行の冒頭の下敷きにもなっているよく知られた言葉です。
適を「ゆく・すすむ」と訓ずるのは特殊な読みではありません。
200 :
102:2010/10/25(月) 19:30:59
また化けてしまいました。千里??は千里歩渉です。
連投になってしまうので、ここで少し休憩します。
201 :
日本@名無史さん::2010/10/25(月) 19:47:11
Aグループ 畿内説:宮内庁、参詣新聞、ウヨ、ネットウヨ、自民・民主(安く人指示派)、還流ドラマ嫌悪派
万世一系崇拝学者連中、典のが好きな人、現体制用語派(自民が好きな人)、強いものに
ヨワイ人、古事記・日本書記大好きな人、小沢は政治と金に汚いと洗脳されている人
Bグループ 九州説:貴社クラブに属さないジャナリズム、自民・民主(A先般靖国より排除派)、還流ドラマファン
「戦争を知らない子供たち」が大人になった人、とにかく九州が好きな人、古田・安本に影響された人
荒い白石・本居宣長(ともに九州説だが、万世一系に遠慮した人1名)、典のが嫌いな人
自民が嫌いな人、弱者の味方、古事記・日本書記は疑っている人、小沢は正しい検察がおかしいと思っている人
202 :
102:2010/10/25(月) 20:57:13
>19) 徐盛伝
> 後魏文帝大出,有渡江之志,盛建計從建業築圍,作薄落,圍上設假樓,江中浮船.
> 諸將以為無益,盛不聽,固立之.
> 文帝到廣陵,望圍愕然,彌漫數百里,而江水盛長,便引軍退.諸將乃伏.
>長里だと、100?300km(つまり、東京?静岡間または東京?名古屋間)に渡って仮設要塞が展開していることとなり、しかもこれを数カ月で作ったこととなり不可能。
>短里なら20?50kmの仮設要塞。
引用文の前半を補足しときました。ここでは、taroさんの論点が二つあるので、二レスに分けます。
徐盛は建業から圍を作り、文帝は広陵まできて驚いたとあるので、
範囲は建業から広陵までであることがわかります。
taroさんが「南京〜鎮江は約50km強」と書いてあったので、
グーグルマップを拡大して紐を長江沿いにあてながら測りました。
(オレ何やってんだと、一瞬虚しくなりました。)
二地点間の距離は80kmほど。長里で二百里くらいです。
短里だと千里を越えてしまいます。短里説はだいぶ苦しい。
長里にしても、これで数百里は、ちょっとサバ読んでます。
この圍は、ローガンさんの言うように、かなり簡便なものだったのでしょう。
薄落という字面からして性格が推測できます。
それから、「圍」は「囲い」のことで、柵が80km続くのでは囲いになりません。
○ ○ ○ ○ ( ○一個が一つの圍 )
――――――――――――
長 江
――――――――――――
このように、長江沿いに無数の薄落圍が並んでいたのでしょう。
>仮設だからなんでもいいというのではなく、敵から見て本物らしく見えないといけないってことをお忘れなく。
>仮設でも百キロも作るのは大変ですよ
建業から広陵まで作ったことも、文帝が見てびっくりしたことも確定しているので、その大変なことをやってのけたのです。80kmですが。
203 :
102:2010/10/25(月) 21:00:30
>「文帝到廣陵,望圍愕然,瀰漫數百里」ですから、文帝から見て数百里・・・・文帝が見渡せる範囲でないとダメです
>100kmでは長すぎる(もちろん、それ以上だとなおさら)
さて、論点の二つ目。文帝が見渡せるかという点。
地球が球形であるため、遠くを見渡すには高い所に登らなければなりません。
100km見渡すには900mの高さが必要だそうです。
広陵付近にそんな山は無いようなので、文帝は長里数百里を見渡せません。
これは物理法則なのでひっくり返しようがなく、やっと短里の証拠だなと思いました。
ところが、そうではないようです。
この文を最初に読んだとき、愕然の位置に違和感がありました。
普通、「望圍彌漫數百里愕然」(圍が数百里にわたって瀰漫しているのを望んで愕然として)じゃないのか。
「望圍愕然,彌漫數百里」だと、愕然で切れるから、句作りとして望が圍にしか掛からず、内容に合わないぞと。
理由がわからないまま放置していましたが、taroさんのお蔭で疑問氷解しました。
100km見渡すのに必要な高さを調べて、「山がないし、数百里は見渡せんわな」と思いながらこの文を眺めていたら、
「文帝が数百里を見渡したって書いてないやん」と気付いたわけです。
平地で百キロ先は見渡せないのは常識だから、「望圍彌漫數百里愕然」とは書けなかったのでしょう。
つまり、文帝は圍を見て愕然とした。その圍は数百里も連なっているから、その果てが見えない。
だからこそ文帝は驚いたわけです。いやしくも皇帝で、自身も戦慣れしていて、
しかも敵の根拠地建業を攻める気満々できたのに、
短里の一望できる範囲の陣備えにビビって逃げ帰るのは不自然だと思うのです。
圍が果てしなく並んでいて終わりが見えないとなると、どれだけ防備をしているのか
底が見えないとなって、警戒するのもうなずけます。
とはいえ、これは二点間の距離など客観的な問題と違い、漢文のセンスの問題なので、
俺は違和感などないという意見もあるでしょう。
だから決めつけはしませんが、短里でしか解釈できないものではありません。
むしろ短里だと建業〜広陵が千里を越えるし、文帝がえらく小心者になって変でしょう。
204 :
ローガン:2010/10/25(月) 21:28:14
>>197 >「?將晉宗叛歸魏,魏以宗為?春太守。」
> 「晉宗去江數百里,數為寇害。」 となるのです。
>そして、江の場所はどこだとなると、孫権や胡綜のいる呉の根拠地周辺です。
そうですね。キ春太守に任ぜられた晋宗の根拠地が、江から数百里にあって そこから、数回 呉に攻め込んでいたと。
その晋宗は、胡綜、賀斉の少人数部隊に生け捕りにされた…
場所の特定は無理としても、京城からあまり離れて居ない所ですね。
205 :
102:2010/10/25(月) 22:06:45
>>204 >キ春太守に任ぜられた晋宗の根拠地が、江から数百里にあって そこから、数回 呉に攻め込んでいたと。
いえ、そうではなくて、
晋宗が江を去ること数百里の場所で寇害をなしていたということです。
去江数百里は、都市や根拠地の説明ではなく、武力衝突が起こっていた場所の説明です。
晋宗がキ春太守に任じられたとは書いてますが、
その根拠地がどこかということは触れてないのです。
建業や京城辺りの長江から数百里の地点で晋宗が暴れていたので胡綜が討伐に出たという話です。
ひみこ、ひみこ、ひみこ、ひみこ
かっぱ、かっぱ、かっぱ、かっぱ
207 :
102:2010/10/25(月) 23:29:48
>20)
>諸葛恪伝
>丹楊地勢險阻,與呉郡、會稽、新都、?陽四郡鄰接,周旋數千里,山谷萬重,
>其幽邃民人,未嘗人城邑,對長吏,皆仗兵野逸,白首於林莽。
>呉郡、會稽、新都、?陽の4郡に囲まれた山岳地帯となると、現宣城市から景徳鎮市へ至る地域しかない。
>東西200km南北100kmの範囲。
>周旋とは「あまねく廻る」の意。となると、長里1000?3000kmでは大き過ぎる。短里200?500kmでちょうど。
まず、丹楊ですが、呉郡・会稽・新都・?陽に囲まれた地域というと丹陽のことでしょう。
中国歴史地図集によれば、丹陽郡は、北は建業の辺りまであるけれど、南は景徳鎮は含みません。
taroさんが、どうやって東西200km南北100kmの範囲と判断したのか不明です。
次に周旋の意味ですが、taroさんが「あまねく廻る」で具体的にどういうことをイメージしているのか、
もうひとつ、よくわかりません。ですから、
>長里1000?3000kmでは大き過ぎる。短里200?500kmでちょうど。
の意味もわかりません。
周旋を丹陽郡の境界線を一周するという意味だとすると、
地図で丹陽の境界線に定規を当てて大雑把にはかると、だいたい840kmくらいです。
長里で1935里ですが、境界線の凹凸を考慮すればもっと伸びます。
もし短里だと一万里でも760kmで、一萬餘里でないと足りません。
結局、これは短里の記事ではないことになります。
『周髀算経』は周の時代(西周はBC一〇五〇年〜BC七七一年)に行なわれた天文観測の方法を記載する中国最古の天文算術書である。
中国の古代の算術書は、いわゆる算経十書として版本が伝わっており、その中でも、
『周髀算経』『九章算術』『海島算経』などは漢から三国時代(二〜三世紀)にかけて整理され、教科書として使用され、
中国古代の算術知識を知る上で興味深いと言えよう。
『周髀算経』は、周公(周の武王の弟)と商高(当時の賢大夫)の問答から始まる。
ここでは天文観測の方法の基礎が、勾股弦(こうこげん)の法、用矩(ようく)の法として述べられており、
内容的には原始的な三角測量の原理と簡単なピタゴラスの定理の応用である。
周の地で夏至の日(南中時)に、地面に垂直に立てた八尺の周解の影の長さは一尺六寸である。
南に千里の地においては影は一尺五寸、北に千里の地においては影は一尺七寸である。
よって、八尺の股(周髀)に対する勾(影)の差一寸は、地上の距離にして千里に当たる。
これが「一寸千里の法」である。現代の我々の知識からすれば何とも幼稚極まりないし、
その方法の誤りも明らかであるが、ともかく、古代の中国人は、この一寸千里の法により天地の大きさを具体的に知ろうとしたのである。
夏至の日には、八尺の周髀の影は一尺六寸であり、冬至の日には、影は一丈三尺五寸である(一丈=十尺、一尺=十寸)。
よって、夏至の日に太陽は観測地より南一万六千里の地の真上にあり、冬至の日には、太陽は南十三万五千里の地の真上にあることになる。
影の長さは南中時に測定し、地面は平坦であると考えている訳である。
夏至以後、影は段々長くなり、丁度六尺となる時がある。この時、穴の直径一寸長さ八尺の竹筒をとって太陽を見れば、
その穴と太陽がほぼ一致する。
よって太陽の直径は、八尺先にある一寸の穴径の率から求められる。
今、股八尺勾六尺であるから弦は十尺である。したがって一寸千里の法により、観測地から太陽の真下の地まで六万里、
太陽の高さは八万里、観測地から斜めに十万里のかなたに太陽がある。
太陽の直径は、十万里に八十分の一の率を乗ずることにより、千二百五十里と求められる。
わかったか?w
210 :
102:2010/10/25(月) 23:46:41
以上で検討は終わりました。
簡単にまとめると、明確に短里の証拠と言えるものは一つもありませんでした。
5) 8) 19)は水かけ論が続きそうです。
13)の高柔伝は、「廣輪」という言葉の意味が不明で保留。
同じく13)の高堂隆伝は、ローガンさんの異論も出て、再検討待ち。
残りは、誤読であったり、短く見積もりすぎたりなどによる判断の誤りでした。
211 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 00:06:59
>>196 ご指摘ありがとう。古事記には「此天皇之御世、疫病多起、人民死為我盡」と
あったので、単純に疫病と解釈してました。詳解ありがとうございます。
但し、俺もヒミコ時代の確定のために「疫病」を出したワケでなく、オオタタ
ネコがキニナルよという観点で、そのオオタタネコ登場の顛末を梗概した
だけですので。凶作・飢饉・疫病とかは、大なり小なり多いときは多いです
ので、それだけを時代の確定に用いる気は俺も無いです。(それに、オオタタ
ネコ登場のキッカケになった「疫病」は記紀によるとおおよそ祟神存命の間
であるという見解は、俺も矛盾を感じない。だとすると魏志倭人伝のヒミコ
の時代より四半世紀前になるので、先述どおりそっちもないという見解)
以下、ご指摘を受ける前に書こうとして書けなかった内容を。(時期の絞込
みは、俺はまだ先延ばしにしています)
先述の仮定には、しかしながら、次の六つの「時期」の前後が、記紀や魏志
倭人伝からは、正確には確定できない所である。この時期の前後のパターン
分だけ、可能性は存続し続けるのである。(ここでは記紀順を優先して表記)
@三輪山縁起の時期(三輪山神主にオオタタネコを据える時期)以前
A祟神天皇の三輪での酒宴(後に童女になぞらえ歌に歌われる切っ掛け時期)
Bタケハニヤス王の反乱時期(四道将軍派遣時期)
Cヤマトモモソヒメ怪死時期
Dオオビコノ命親子の北陸(会津)征伐完了時期
※イズモノフルネの筑紫神宝
E祟神天皇没する時期(実際死亡時期とモガリを終えて墓に葬った時期)以降
この上記のどのタイミングで魏の外交団が来日したかで「ヒミコと呼ばれる」
女性は、変って来る。もちろん「@〜Eをどういう順番にしたら最も自然か」
は、俺個人にもいくつか試案はある。だが、今回は割愛しよう。長くなるし。
212 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 00:27:58
>>196 >3年目の五穀既成を以て疫病始息となる。
疾疫を凶作の意味で使うことがあるかどうかは知りませんが、
この文の解釈は、順序が逆です。
ここに於いて疫病はじめて息(や)み、国内ようやく謐(やすん)じ五穀既に成り、百姓 之を饒(たのし)む。
疫病が流行っていれば労働力が足りなくなるので不作になるでしょう。
疫病がやんで国内が静まって、それで五穀が実り、国民が豊かになったということです。
213 :
ローガン:2010/10/26(火) 00:28:25
>>205 >いえ、そうではなくて、 晋宗が江を去ること数百里の場所で寇害をなしていたということです。
すみません。呑んでて遅くなりました。呉志賀斉伝に晋宗の本願地は、戯口だと読める記述があるんですが。これはどのあたりでしょう?
又、晋宗が襲ったのは、安楽だと。これもどこかわからないのですが。教えて戴けないでしょうか。
それと伝の末尾に晋宗を捕まえたのは キ春とあります…。
>ひみこ、ひみこ、ひみこ、ひみこ
>かっぱ、かっぱ、かっぱ、かっぱ
アハハハハッ〜 ↑これうけるねw
102氏、ローガン氏、taro氏がマジメに長しレスしてる時に(笑)
215 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 01:08:29
>>213 >呉志賀斉伝に晋宗の本願地は、戯口だと読める記述があるんですが。
ありますね。
戯口も安楽も歴史地図集に載ってませんでした。すみません。
北京の北に安楽ってあるんですけど、場所が違いすぎるし。
安楽の位置がわかると、わりと傍証になるかもしれないんで残念です。
戯口については、グーグルマップでみると、
中国湖北恩施土家族苗族自治州利川市戲口坪
というのがありました。
もしかすると、ここかもしれませんね。
216 :
102:2010/10/26(火) 18:16:41
ローガンさん
呉主権伝に以下のような記述がありました。
「先是戲口守將晉宗殺將王直,以衆叛如魏,魏以為キ春太守,數犯邊境.六月,權令將軍賀齊督糜芳、劉邵等襲キ春,邵等生虜宗.」
胡綜伝の「呉將晉宗叛歸魏,魏以宗為キ春太守,去江數百里,數為寇害。」と比べると、
「數犯邊境」が「去江數百里,數為寇害」のことだろうと推察できます。
晋宗は、しばしば江を去ること数百里の呉の辺境を襲って、
そのために本拠地のキ春に逆襲をくらい生け捕りにされたということだと思います。
>>202 >(オレ何やってんだと、一瞬虚しくなりました。)
「百度」の地図を使えば、“測距”というのがあって地図上で距離が自在に測れます。
便利だし、むしろ楽しくなりますよ。
218 :
102:2010/10/26(火) 19:11:51
>>217 ありがとうございます。これ凄いですねw
ちょんちょんと点を打っていけば、曲線に沿った距離も出せるし、便利だ。
219 :
ローガン:2010/10/26(火) 20:58:00
>>216 確認しました。なるほど、おっしゃる通りかと。
ありがとうございました。
220 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/26(火) 21:07:08
>疫病が流行っていれば労働力が足りなくなるので不作になるでしょう。
民のみが罹る疫病は無い、餓えの病とするのが妥当である。
民の離散、病の親族を見捨てて、流浪する病は無い、飢餓による逃散とするのが妥当である。
この病は、五穀既に成りて終息する。
221 :
102:2010/10/26(火) 21:22:24
>>219 ローガンさん、こんばんは。
禁地千里の件、ローガンさんの説が正しそうですね。
天候不順による病気と作物の発育不良
223 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 21:53:51
>>220 1、日本書紀に、民の大半に近い数が死んだと書いてるが、民のみが罹ったとは書いていない。
2、疫病が流行れば、栄養状態・衛生環境が悪い庶民のほうが罹りやすく死亡率も高い。
3、疫病が流行れば、まだ罹患していない者はその土地から逃れる。
4、日本書紀の記述の順番
大物主大神その他の神を祭る → 疫病がやむ → 国内が静まる → 五穀が実る → 国民がにぎわう
五穀が実って疫病がやんだのではない。
おーし ゲンコ虫に喧嘩売ってきたぜwww
K君はま〜〜〜〜〜だ、彼の「下」でやってるんかぃ(笑) 恥ズww
どうみても、初心者から「みたら」凄いってダケだろうょw 彼の下って〜笑えるw
あ〜〜〜〜ずっと思ってた事、言ったらスッキリちたーwww
さて、寝ようかなw スッキリ(^-^)
226 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 10:31:15
さて、一部のみなさん的には関心の高い、ヤマトトモモソヒメの命(長い
ので、ここではモモソ姫と略称)の出自と当時の環境を、ここで一旦、古事記
ベースで追ってみよう。
まずモモソ姫のご両親だが、父は孝霊天皇、母はオオヤマトクニアレ姫だ。
孝霊天皇は磯城に拠点を構えている。また、母のオオヤマトクニアレ姫は、
淡路をベースにしていた皇族のワチツミノ命(この人は安寧天皇の孫)
つまり、争点としている時代においては、「孝霊天皇」派閥の人であり、
かつ、淡路のベースを置いている皇族分家の娘という、お立場なのだ。
あと、古事記にモモソ姫の婚姻関係の記述が無い事も、不可思議が広がる点
でもある。それを補う為か、日本書紀には三輪山の神との契り損ねた失敗談
が描かれている所も意味深だ。
これは、古事記の時代には、モモソ姫(の結婚歴及びその子孫)を語り表記
されるのが憚られ、日本書紀の時代には、モモソ姫の最低限の名誉回復が必要
になった、と考える事も可能である。
227 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 11:17:19
次にモモソ姫の同母兄弟であるが、古事記記載には、長女がモモソ姫とあり、
弟2人で、末の妹が一人いる。弟二人は、後に豊の国(豊前豊後)縁の人と
なったヒコサシカタワケノ命と、上吉備の国(吉備の京都寄りか)縁の人と
なったオオキビツヒコノ命である。末妹のヤマトトビハヤワカヤ姫も、これ
また婚姻の記述も子孫の記述も無い。
後の世の「巫女の概念」や「斎宮の概念」から類推して、モモセ姫は、@人間
と結婚しなかったと考えるべきか、それともA結婚する機会が無かったか、
(B或いはあまりに若くして死んだか:末妹の場合)、この三つの可能性が
ある。(記紀によるとモモソ姫は後に大人の政治に関与する記載もあるので、
若死には考えにくい)
古事記の@Aの疑問と、モモソ姫の死因の謎を解消するために、日本書紀に
おいて、三輪の神との契り損いの話が挿入されたとしたら、流れとしては筋が
シックリ来る。ましてや、その妹のヤマトトビハヤワカヤ姫に関しても、
「推して知るべし」とさせるのが、記紀(特に日本書紀)の狙いだったのかも
しれない。
つまり、古事記においては、編纂目的は帝紀・本辞の「誤りの修正と集大成」
であり、日本書紀の編纂目的が「その解説・編纂所見(こじつけ含む)」で
あるならば、当然@Aは、古事記においては「書かなくていい事」として省く
事が出来、日本書紀においては「解説のため」神話化する必要が高くなる。
さて、本書においては「省く事が出来」、その解説書においては「神話と
して書かれている」という内容は、はたしてどのような事実からそのように
なるのだろうか?
228 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 11:46:55
この疑問を朝鮮外交史と結びつける方も時々いらっしゃいますが、話はそれほ
ど後代的で単純な話では無いと思われます。なぜならその近い時代の天之日矛
という人物(新羅の国主の子供)が、好きになった女を追いかけて但馬の国に
流れ着きそこで子孫を設けて定住し、その子孫の一人が神功皇后になった経緯
は、別に隠していないからです。記紀編纂当時の新羅と言えば、憎くて憎くて
余りある当時の敵国ですので、隠すなら、むしろそちらでしょう。確実に
血脈が、しかも「国主」の血脈という、比較的高くない地位でもあります、
この血脈が、皇室に入っているのですから。だが、そちらは隠していない。
また、三輪の神と言えば、最低見積もりでも、当時としても名のある神なの
で、よしんば朝鮮民族の血脈である事を隠したという仮定であるならば、当時
の名の知れた神様を、これを敵国の所為になぞらえて引き合いに出すと言う
のも、いささか乱暴な話になってしまいます。
以上の理由で、俺は、この記紀のパラドックスが隠そうとした内容は、少なく
ともそちら方面では無いと推測します。では、どちら方面か?
229 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 12:10:30
オオタタネコ=三輪山の神主←祟神天皇(おそらく存命時)による人事
ヤマトモモソヒメ=三輪山の神(大物主)の妻←(タケハニヤス王の乱以降:
日本書記によると)
タケハニヤス王の乱発覚の理由に、謎の予言少女を登場させ、その予言の内容
自体に「祟神(当時天皇かは保留)の三輪山での神事と宴」に関しても出て
来るので、オオタタネコの人事(=三輪山酒宴)→タケハニヤス王の乱、この
順番であると、記紀は表記しているのであるが、はたしてそれは字義どおり
とれるだろうか?この辺りの記紀の時系列表記をそのまま信用しても、いくつ
か謎が生じてくるのである。ところが、次のように仮定すると、ある程度の
細かい疑問符は大きく片付くのである。
モモソ姫三輪山に嫁入り→モモソ姫謎の死→オオタタネコ三輪山神主に着任
さてそこで、いよいよ、オオタタネコ着任の理由にもなった「疫病」であるが
(ご指摘ありがとうございました)時間が来たので、それは、また今度。
230 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 19:20:30
モモソ姫の実弟
ヒコサシカタワケノ命、
なったオオキビツヒコノ命 を調べるって新しい発想ですね。
タケハニヤス王には飽き飽きしてたところです。
231 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/27(水) 19:24:27
>ヤマトモモソヒメ=三輪山の神(大物主)の妻←(タケハニヤス王の乱以降:
日本書記によると)
この時点でモモソ姫の年齢は、35才を超しているだろう、そして当時の媛の出産年齢は
江戸の大奥と同じく30才までだ。
だから謎解きならば、ここを追求せねばならない。
>タケハニヤス王の乱。とは、庶母を母とする崇神に対する旧朝廷の反乱である。
232 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 19:41:49
おっ 久々に唐松山さんにアンカーが付いてたので
御本人張り切ってるねww
>この時点でモモソ姫の年齢は、35才を超しているだろう、
たぶん”年已長大”からきてるんだと思うが、
どうしてこれを”35才超え”と考えたんでしょうか?
ちゃんとした説明をお願いします。
233 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 19:45:18
ごめん 卑弥呼の話ではなく
タケハニヤス王の乱以降のモモソ姫の年齢みたいだね。
はやとちりすまそ。
234 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/27(水) 21:12:01
内緒話
じつは、モモソ姫は、三つ子であった。
235 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/27(水) 21:20:43
訂正
誤、モモソ姫の年齢は、35才を超しているだろう、
正、モモソ姫の年齢は、50才前後だろう。
236 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 00:55:06
237 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 08:46:31
>>230 ご指摘ありがとうございます。今俺が悩んでいるのが、そのあたりです。
日本書紀「四道将軍」の人事模様です。四道将軍にキビツヒコがいますが、
古事記でのキビツヒコ及び、四道将軍の確定人事(あるいは古事記認識として
は四道将軍ポストは実在せず、日本書紀であえて後代付加した役職なのか)
現時点では、俺の資料が足りないのが明らかなので、日本書紀四道将軍の
キビツヒコは、モモソ姫の同母弟のオオキビツヒコ命か、異母兄弟のワカヒコ
タケキビツヒコ命のどちらかあたり(特に前者?)と仮定しています。
また、四道将軍という役職が当時すでにあったのか、あるいはハニヤスヒコの
乱をキッカケにできたのか、あるいはもっと後代なのか?もキニナル所です。
238 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 09:10:06
日本書紀四道将軍に、俺が少し疑問があるのは、これは単純に「感想」です。
念のため、日本書紀の四道将軍人事を以下参考までに。
北陸道:オオビコノミコト
東海道:タケヌナカハワケ
西海道:キビツヒコ
丹波 :タニハノミチヌシノミコト
古事記で、これにあたる人物を探してみた所、オオビコ命とタケヌナカハワケ
は親子として問題なく表記されていますし、タニハノミチヌシノミコトは
開花の孫のタニハノヒコタタスミチノウシノ王が、名前としてはほぼ近似で、
キビツヒコに関しては、俺としては先述のとおり候補二者で保留しています。
さてなぜ、俺が違和感を感じるかと言えば、北陸道と東海道が、「親子」が
占めている点です。血族子孫が、ツタが絡まるがごとくに、多岐に存在する
皇室人事において、軍事重要ポストの四つのうちの二つを、いかにその氏族
が名実共に優れていた、勝っていたとしても、そんなに偏った人事をする
でしょうか?他氏から嫉妬の争点になりやすいでしょう。こう思うからです。
これらの多様の他氏他孫の中で、あえてそのような人事をするという事は、
少なくとも平時ではなく有事で、穏やかな決め方ではなく切羽詰った(あるい
は脅された?)人事では無かったかと類推するのですが、そうすると日本書紀
に始めて四道将軍が現れた、三輪の(平和で穏やかな)酒宴→淡々と「その後
四道将軍を四方に遠征させました」という、有事というよりかは、平時感をも
思わせる日本書紀の表記が、かなり不自然です。
ですので、その不自然をなくすために、あの謎の予言少女が現れるとしたら、
その不自然さは、解消されます。つまり、「平時と思っていたら」実は、
「裏でとんでもないこと(ハニヤスヒコの陰謀?)が」となるのです。
こう考えると、四道将軍の役職は後付けではないか?とも俺には思えて来る
ワケで。もし後付けであるなら、親子で二章軍を占めていても、これも説明も
合点も来る気がしてくるのです。
239 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 09:27:24
>>231 ご指摘有難うございます。先述どおり俺としては現段階ではモモソ姫の「没時
の年齢」はあえて回避して、「没時がいつか?」のみを争点にしています。
但し、モモソ姫の記紀における政治的役割を考えるならば、(幅広くて申し訳
無いが)16〜40前後の「働き盛り」のような漠然とした感想を抱いています。
兄弟が多い時代ですし、叔母さんと甥っ子とが結婚しても全然おかしくない
年齢差の時代ですしね。(ちなみに、当時の近親婚等に関しても長くなりそう
なので今回は割愛)下手をすれば、叔母さんが甥っ子よりも年下という可能性
すら、当時はあるご時世ですし。
俺が何故没時だけがキニナルかと言うと、是はあくまでも「ヒミコの死(魏志
倭人伝では248年くらい?)と比定できるか?」が、この話題での争点だから
です。
>>234 モモソ姫三つ子説。ユニークですね。面白いので頭の端に残させて頂きます。
240 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 10:17:52
魏志倭人伝前後の、外来外交団が、「王は誰か?」という概念をどのように、
当時の日本(倭?邪馬台国?)人に尋ねたか?という点が、俺の争点です。
現代日本に例えるならば、
@例えば、聞き手が「行政の長」を王と考える場合。
A例えば、聞き手が「立法の長」を王と考える場合。
B例えば、聞き手が「司法の長」を王と考える場合。
C例えば、聞き手が「祭祀権威の長」を王と考える場合。
D例えば、聞き手が「この地の(行政区分の)長」を王と考える場合。
答える方としては、@なら今の総理大臣を答え、Aなら今の議長が最大党の
党首あたりを答え、Bなら今の最高裁判長を答え、Cなら今の今上天皇を答え
Dなら県知事か市町村長を答えるでしょう。これら、どのケースでも、「尋問
者と応対者の想定する王」の違いによっては、どれも「正解」たりえます。
もっと簡単な例にすると、外国人に「日本の一番偉い人は誰か?」と尋ねられ
たら、「今の総理大臣」と答える人もいれば、「今の天皇陛下」と答える人も
おりましょう。
魏志倭人伝の指す「女王国の女王」とは、いかなる物だったのか?ここが
問われるべきだと思います。漢以降、中国は比較的男尊女卑の儒教国家です
ので、これは「女」王?と聞いただけで、首をかしげるはずです。
「あれ?一番偉いやつ誰や?って聞いたのに」と、多分、いくつかの方向で
「本当にそいつが一番偉いの?」と確認したに違いありません。でその結果、
「ああ、それなら、確かに一番偉いや」という結論に至ったからこそ、魏志
倭人伝に「女王国」の「女王」という表記になった筈です。
つまり、この時点で、「ヒミコ」なる女性は、少なくとも邪馬台国共栄圏・
倭人生息分布地域における、NO.1かNo.2、どんだけ差っぴいてもNo.3以上の
人物でなければならない筈です。
これが、モモソ姫に比定できるか否かの一つの重要要素ではありましょう。
241 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 11:40:30
>>240 争点にもならねえよ。
誰かが倭人に尋ねたなんて想像したってしゃあねえ話で
個人の想像に争点なんて存在しねえ
242 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 19:44:38
なんか詳しい人が来たね
ここの九州説jはやばいんじゃないの?
今、河童君は非常に悩んでいる・・・
このまま師匠に付いて行っても、意味ないんじゃなかろうか?
いっそう師匠を裏切ってしまおうか、俺の最終目的は、師匠を議論で負かす事だし・・・
などなど・・・・・・・
早く気付こう〜!今の君のスキルは師匠から得たものではなく、
全部2ちゃんねるで得たものだってねwww
>>243 >今、河童君は非常に悩んでいる・・・
よくわかるね
一昨日買った【323fonfunが】今日、ストップ高なんだよ
今夜のPTS でも既に+24円だし
今夜利益確定しちゃうか、明日ザラ場で利益確定しようか?
悩んでる。
245 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 20:56:33
今、メ は非常に悩んでいる・・・
どうやって河童の信用を失墜させ、師匠の権威をも貶めるか?
どうせ河童など無知識、無教養なのだが、みょうな人気があるのが気に食わない・・・
などなど・・・・・
早く気付こう〜!河童に人気があるのではなく、自分にないということを。
2ちゃんねるの住人は甘くないんだからね。www
>>244 >「尺」の基準
>「尺」は人体の一部が長さの単位になってイル訳だが約、三○センチという長さは間違っても“親指の先から人差し指”の先までの間隔ではナイ。
>答えは「尺」の字意にアル。「尺」は「□」と「人」で構成されてイル。「□」は「限定された範囲」を表し、「人」は「両足」。詰まり「尺」の字意は「歩幅」だ。
>「長里」は秦の始皇帝が中国全土の地理測量を合理化スル為に制定シタ時間で距離を測る単位でアルが、地理測量の基本はあくまでも「短里」。
>通説「長里」の単位でアル一歩、六尺(1.75〜1.80メートル)の三○○歩が一里という里値は「短里」のように歩幅にヨル計測とは違い、
>距離の算出が“時間”計測の単位だから、当然ながら、一歩はあくまでも“単位の基準”であり、“歩幅”ではナイという事。コレが“六倍尺”の秘密でアル。
>付け加えて置くが、現在使用されている漢字の基字は文字の統一を図る為に字形に法則的な“記号”が使用されており、甲骨文字や金文などとの連続性はナイ。
>念のため一応、一日の移動距離を「短里」と「長里」で表示するが、里値と歩数が違うのは、里表示の基本的な目的の相違からでアル。
よくこんなバカなこと言えるなw
>>245 メと河童
太国と唐松山
ローガンとどくだみ
ペアっていうかそれぞれのポジションていうかだな・・・
おれは河童君にいちゃもん(文句)をつけて成り立っているwww
ようは、自分のポジションってあるだろ〜お前さんには相手がいないwwwww
248 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/28(木) 21:21:54
4道将軍は、何故編成されたか?
導民之本。在於教化也。今既禮神祇。災害皆耗。然遠荒人等。猶不受正朔。是未習王化耳。其選郡卿。遣于四方。令知朕意。
4年の凶作で、民も朝廷も疲弊した。
然し、遠方には、未だ朝廷に従わない荒人等が居り、朝廷の民と成っていない(不受正朔)。
今こそ、我が意を伝え、民をまとめ、教化すべきである。
今返者悉伏誅。畿内無事。唯海外荒俗。騷動未止。其四道將軍等今急發之。
今、反乱を起こした者は、悉く伏誅した。畿内無事である。然し遠方には苆ぶる族民が居る。
騒動と成る前に、教化導民すべく、急いで出発せよ。
十一年夏四月壬子朔己卯。四道將軍以平戎夷之状奏焉。
異俗多歸。國内安寧。
四月に4道将軍は、戎夷を平定した様を奏上する。
これにより、遠方の異俗が多く帰順した。國内安寧である。
何処にも大乱は無い。
>>244 >「里」と「歩」
>『魏志倭人伝』の里数値は古代史学界“用語”でいうトコロの「短里」。
>一里は三○○歩。一歩の歩幅は平均して二五〜三○センチメ−トル。
>概算スルと一里は約、七五〜九○メ−トルの範囲にナル。
>「歩」文字は象形文字だというのが通説になってイルが、文字の構成を見れば、明らかに象形文字ではナイという事が解る。
>「歩」の基字は“足跡”的に「止」と逆「止」だったが改正後、左足に相当する逆「止」が「少」に組み換えられた文字で
>「歩」の字意は「小刻みに止まる」。
>これは両足が一方方向に交互運動スル状況がそのまま文字になったモノ。
>動作は左右の足が前後して“瞬間的に静止”してイル訳だから「歩」は基字同様、
>正に“意に適った”文字だと言える。
>「歩幅」を二五〜三○センチメ−トルとしたのは人体のバランスが常に最適な状態を維持できる両足の間隔。
>詰まり、歩行スル場合もコノ間隔が適応してイルという事。
>計測の基準とナル「歩幅」は左右の足が“静止”した状態の爪先から爪先までの間をいう。
>要スルに歩幅の基準は第一歩目という事。
ガハハハッハ 河童君説明よろw
250 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 07:41:22
一大率ってのは、一人の司令官というような意味だよ。一大率が何人もいるわけはない。
伊都国に一人いただけだ。それが対馬国から不弥国までを検察していた。各国の王以下は
その一大率を畏れ憚っていたということ。それが読み取れなくては、倭人伝の書いてると
ころは到底理解不可能だろうな。
251 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 07:57:09
>>250:日本@名無史さん :2010/10/29(金) 07:41:22
一大率ってのは、一人の司令官というような意味だよ。一大率が何人もいるわけはない。
それは逆。
一人と訳するのは、他に何人か存在するから一人という数が存在できる
世の中単一の存在ならば、そこに数は生まれない。
ここでは他に同じ存在を確認出来ないので、一人と訳す事は出来ない。
252 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 11:16:10
「一大率」は「一支率」の筆写まちがい。
「一大率」は、一大國(イキ国)に由来する組織。
253 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 11:38:33
>>241 >誰かが倭人に尋ねたなんて想像したってしゃあねえ話で
貴殿からしてカンチガイを発生しているワケで、当時の人もそれなりに個人差
で「カンチガイ」は発生しうる訳なんだな。
疑心倭人伝で、他に「女」王の記述があるかどうかの例を出せば済む話だ。
また、魏志倭人伝で、他の(倭人以外の)「王」の認識例も出せる筈。そう
いう対案を出さずして「だから君のはしゃあねえ話」という論法は、それこそ
君だけの個人の感想に過ぎない。
ちなみに、先述の俺の類推仮定は、今のところまだ、モモソ姫が畿内にいよう
と、九州の何処かにいようと、どちらでも成り立つ。モモソ姫が畿内で生まれ
育っていて、成人後記紀に登場活躍をする事も可能だし、瀬戸内海のどこかで
生まれ育って、記紀に登場する時期だけ中央政治に関与した、という事もこれ
も問題なく可能性残存する。
こっちは可能性が残存する話だけを列挙してスムーズに繋がる類推空間を構築
しているだけなんだから、気に入らないなら、可能性残存しない理由だけを
出して否定すればいいだけの話。
254 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 11:57:16
さて、モモソ姫を記紀で言う「どこにどのように仮設すれば」スムーズに話が
つながるか。(ま、つながらなくても別に構わないが)を上げる為に、まず、
記紀に置ける「印象的な事件郡」が時系列的に並べ替えは可能か?可能とした
場合、その時、モモソ姫没時が、上記の時系列順番のどこに位置するか?
これが確定して、それが、魏志倭人伝における「ヒミコ没」の時期と大差無い
ならば、モモソ姫=ヒミコの仮定、あるいは、モモソ姫と近隣世代の誰か=
ヒミコの仮定も、仮設候補とする資格のある人物であるとなってくる。
祟神天皇の即位年を、開化天皇モガリ期間の中の245年前後と仮定すると、
(参照:
http://www.eonet.ne.jp/~organism/yamato-2_1.html)
魏志倭人伝における、ヒミコ没年とされる248年と極めて近い年である点も
想像を掻き立てるには充分な訴求力があるように思える。開化天皇女性説
なども空想してしまう所ではあるが、とりあえず現時点では、そこまで話を
拡大飛躍させる必要も根拠もないので、そちらは保留。
今日は時間が無いので、ここで終わりますが、そのうち、これらの事件郡の
時系列序列の中に、モモソ姫没年を狭めて行く作業によってモモソ姫=ヒミコ
の比定(もしくは否定)に寄与できれば幸いだ。
255 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 12:41:23
小卒涙目www
256 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 13:06:21
自分の考えを述べるのは自由だけど、誤字を少なくしてくれ。254には「事件郡」が2回も出ているが、どこにある郡なのだ?
257 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 15:13:37
>>240 >漢以降、中国は比較的男尊女卑の儒教国家です
>ので、これは「女」王?と聞いただけで、首をかしげるはずです。
>「あれ?一番偉いやつ誰や?って聞いたのに」と、多分、いくつかの方向で
>「本当にそいつが一番偉いの?」と確認したに違いありません。
後漢の初めのほうに、交阯いまのベトナムのあたりの徴側・徴弐という姉妹が反乱をおこし、
姉の徴側は王を称しました。光武帝に派遣された馬援は、かなりの苦戦の後に平定しています。
中原に女王を立てる習慣はありませんが、
中原の人は周辺諸国では女が王になりうることは承知していたわけです。
258 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 15:29:45
自由な意見を自分なりに組み立てて
満足してんだから、そっとしといてやれよ。
それが優しさだ。
彼にもの申すのは、それは大変彼にとって不幸な事であり、災難だ。
最初のちょっとした間違いを指摘してあげた方が良いだろ。
言語虫や河童虫のように、引き返せなところまで迷い込んでしまう前に。
260 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 19:56:58
>>257 ご指摘ありがとうございます。漢文明が周辺蛮族に「王を称する女性」を確認
表記する事例ありがとうございます。
魏側の認識は、倭人にて「勝手に王を名乗る女性」も恭順者ならその地位処遇
も魏の(晋側の)「蛮族把握体系」の中で勝手に位置付ける事も可能です。
問題は、当時の倭の連合体(がいかようにあったかは保留)があったとした
場合、「王を称する」事が許される人物が、どのような候補者が有り得るか
という点だと思います。
魏志倭人伝にあえて「女王」としているのですから、少なくとも女性そのもの
か、その国の王権を行使していると外交官が判断する女性でなければなりま
せん。漢領内においても、周辺蛮族においても、「王」は有り得ますが、
それは漢(文明の部分継承者である晋)からして見れば、帝の下部構造と成り
ます。
そうなると、倭の連合体にとってはどうなるか?邪馬台国の強弱関係によって
は、当然近隣倭国(倭人の国)にとっては、好都合・不都合と立場が二分され
てくるでしょう。もし仮に邪馬台国(の首長族)が強権で有った場合、「俺が
結んだ外交にケチつけるんじゃない」と力で反対派をねじふせる事も可能かも
しれませんが、魏志倭人伝の表記では邪馬台国はそれほど磐石ではなく、近隣
脅威にある程度さいなまされているという表記です。ですのでこれは違和感。
魏志倭人伝どおりの「比較的緩やかな連合体」と考える方が、魏志倭人伝側
からのアプローチにおいてはこれが自然でしょう。
261 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 20:08:26
さて、そうすると、仮にこの邪馬台国=大和国で、仮にヒミコ=大和国の有力
者とした場合、この「緩やかな連合体」と言うのは条件にピッタリではあり
ます。記紀においては、地方への支配を確固たるものにしたのは、ヤマト
タケル前後の話になりますので、そうなると大和=確固とした日本国全土
(但し蝦夷と東北は除く)となるのは、当時の大和国にとっては、少なくとも
記紀上は3〜5世代後となるので、この時期大和を含み邪馬台国を含む「倭人」
の生息分布域が「緩やかな連合体」であった点だけは、ある程度確実性の高い
話と見てとれるのです。
さて、「緩やかな連合体」において、他国に対し、「王」を称する事が可能
なのは、はたして大和の首長だけでしょうか?たとえば、ヤマトタケルまで
恭順しなかったクマソタケルの勢力範囲の首長は、名乗る事は可能ですし、
その他の、非大和でかつ倭人の首長ももし自分の勢力に自信があれば(大和
にケチをつけられてもへっちゃらなら)同じ程度可能性が有ります。残念
な事に、この時代の大和の首長は、「ヒミコのような女性」も、その少し後の
「イヨ(トヨ?)のような女性」も、記紀上はどちらも見当たりません。
これはどういう事なのだろうか。
262 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/29(金) 20:19:40
乱の中で共立された女王卑弥呼は、「比較的緩やかな連合体」の長である。
しかし、倭国の冊封を目論む魏国にとって、「比較的緩やかな連合体」では、冊封の意味が無い。
つまり魏国は、倭国統一を目論むのである。その為に黄旛が下賜される。
黄旛の授与は、女王にでは無い、何故ならば、女王は共立された「比較的緩やかな連合体」の長でしか無いからである。
では誰が倭国統一の旗頭となったか?それは、倭王と記された人物である。
263 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 20:24:25
「王」を称する事が可能だった人が、同時代の書物に登場しないという要件は
何か?
@いたけど、記録上は隠した(消した)
A倭人の国だが、大和の首長ではない(もしくは大和の影響内外の別の諸王)
B魏志倭人伝自体が、嘘、もしくは大いなる勘違い
この三つしか無い話になります。
再三確認しますが「緩やかな連合体」ですので、この@ABの可能性しか無い
のです。
魏志倭人伝と記紀を、可能な限り信用しようとするアプローチであるので、
Bはとりあえず外国資料ですので、無闇に疑わず、少なくとも「倭人生息分布
域」においては、ヤマタイ国(邪馬台国?大和国?)は存在し、ヒミコは存在
したと言う論考なので、除外して考えます。
上記@の場合は、「王を名乗って(勝手に外交して)特に問題無い人物」を
記紀から探し、そして、それが「何故隠された(消された?)のか」が争点
になって来るでしょう。
上記Aの場合は、現存国内資料でそれに当たる人物を探し出すと同時に、当時
記紀の主人公である大和国はヤマタイ国より比較的同等以下だった可能性を
無視する事はできません。なぜなら、もし同等より少し優越していたなら、
魏志倭人伝は、記述上も外交上も「大和国」を無視して「ヤマタイ国」と
おつきあいするという構図が説明つかなくなるからです。つまり、同一か
同等以下しか、ありえないとなるのです。(但し、利害の絡む外国の記録
ですので、わざと卑下矮小している可能性もありますが、その場合でも
「その他の国」扱いするというのも不自然です。何故なら、記紀上、この時代
を祟神天皇前後の時代とすると、大和は出雲にも匹敵し、確実な所では西は
兵庫岡山淡路辺りまでは直接的影響力を保有し、可能性の話では四国・北九州
まで影響圏と表記しているからです。自己過大表記だとしても、仮に九州説
でもこれは無視できない程度の隣接巨大勢力と言えましょう)
264 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 21:10:34
問題は倭の地の範囲だろう。それまでの歴史をみても、中国に接触してきた
倭人は倭の地の者だけで、それより東の倭人はまったく接触してきたことが
ない。だから、中国はそんな連中は問題にしていないわけで、そこに強国が
あるかどうかなんてことはどうでもいいんだよ。
倭人伝が書く倭の地は、帯方郡の東南大海の中の山島だ。周旋五千余里、東
に倭人の国がある。倭の地にあるのは、卑弥呼に従う国々が29。従わない
国として狗奴国。その倭の地がどこか、簡単なことだろうが。
265 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 21:29:28
以上の理由から上記@Aのみをさらに掘り下げます。ところが@とするとヤマ
タイ・ヤマト同一説となりますがこれには表面上記紀には先述どおりヒミコ・
イヨに相当する人物が見当たらないので、探し出しなぜ隠されたかを論考する
作業になりましょう。Aの場合、ヤマタイに卑属(もしくは競合)するヤマト
説かヤマタイ・ヤマト別個説かのどちらかないので、記紀のその後に「西方の
当時異国にヤマタイと呼ばれた国」をなぜ征服(管理下に置く)した?どう
やってやったか?が表記されてない矛盾を解消する必要があります。
266 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 21:33:14
さて本論に近づきましたが思い出してみて下さい。なぜに(ずっと後代だが)
推古天皇が女王として天皇(当時大王)に着任し、持統天皇も着任し得たか?
当然「先帝」がお亡くなりに成り、次世代の有力天皇候補がまだ「幼い」と
言う条件を満たしていたからです。古代大和王朝に関しては、基本この慣習法
が推古以前からも(推古から新たにではなく)あり続けていた、と仮定する
ならどうでしょう?開化没時点で、最有力立太子(天皇候補:祟神とは限ら
ない)が幼帝の場合「女帝」が立った可能性は充分にあります。但しこの場合
記紀表記に開化→「ヒミコと呼ばれた女帝」→祟神となるはずですが、記紀は
そうでなく開化→祟神となってます。つまり記紀表記上開化(男)→祟神
(男)でも、開化死没後(モガリ期間)次帝が就任するまでの間に「女帝」が
立つ事が慣習上可能だったらその時に着任した女帝は当然魏晋の外交団からは
「女王」と言う認識になりましょう。(しかしその場合も「イヨは?」と言う
問題は残存する)つまり、開化死没後祟神以外の皇太子が立太子としていたが
それがまだ幼かったらどうか?と言う話。当然、後見的にその立太子の生母が
「自分の子供に継がせたい」と思うのが古今東西変らぬ人情でしょう。これが
ヒミコと呼ばれた女性である可能性を私は感じます。
>>256 ご指摘の通りです、誤字を減らすよう尽力します。
>>258 お察しいただき感謝です。俺は自由に可能性構築するあまり時々空想要素も
あるのでどうしても気に入らない場合は、できの悪い想像とお考え下さい。
矛盾指摘や俺の誤解の指摘は善処します。
>>262 俺も魏(晋)の倭人地区への下心も考慮に入れるべき要素だと思います。
267 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/29(金) 22:00:49
268 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 22:36:48
>>266 一部訂正。開化→祟神の間で確定かのように書いてしまいましたが祟神→垂仁
の間も候補として上げておきます。(祟神前後に関してって意味ね)
で、つまりいよいよ、ミマツ姫VSモモソ姫の背景が出来上がって来たワケ
です。ミマツ姫は先述どおり、垂仁の母。
そこで仮にモモソ姫〜タケハニヤス〜オオタタネコのラインが繋がる場合、
そこでもし(仮定が二つ続いて申し訳無い)、祟神が不遇の早死(戦死等)
した場合、タケハニヤス(&オオタタネコ)擁するモモソ姫と、垂仁擁する
ミマツ姫は、余裕で二大並立女王となりえます。
タケハニヤスは孝元の息子で開化の異母兄弟。母は先述のとおりハニヤス姫で
それは「河内の青玉の娘」とされていますが、この玉とは、当時も宝玉(を
司る)という代物ですので、なんとなくモモソチックで、ヒミコチックでも
あります。(こちらは後日、女権社会の可能性について詳説するので保留)
モモソ姫の子供がもし(三度目の「もし」で非情に申し訳無い)タケハニヤス
(か、その母)の場合、モモソ姫はタケハニヤスを何としても次期天皇に
したいと願うでしょうし、ミマツ姫は垂仁を同じく次期天皇に願うでしょう。
女権社会だとしたら、この「二大女王」は高度で策略に満ちた政治の火花を
散らすかもしれません。
269 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 22:42:23
>>267 ご指摘ありがとうございます。「影の女帝」の防止機能があるという事は、影の
女帝の弊害に対する畏れや禁忌の概念は、当時も存在したという事ですね。
参考になります。
ならばそれに背く人が現れた場合は、どうなるのでしょうか?ひょっとしたら
恥ずかしい殺され方(もしくは刑罰)を受ける事になるのではないでしょう
か?もしそうだとしたら、モモソ姫の怪死は、充分に懲罰的な表記となって
いますね。
270 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 22:59:13
魏志倭人伝サイドの認識:
→倭人は男王だと乱れ、女王だと安泰する、不思議な(野蛮な)国
当時倭人連合体の一雄大和の認識:
→慣習に背いて、女王が立っちゃったけど、とんでもなかった
こういう感覚だったのかもしれませんね。で、その女王が魏(晋)の外交団
と接した。(倭人にとっては)勝手な外交をやっちまった。としたら。。。
少なくとも、後代に実権を握った者はそういう構図で「あの忌まわしき外交
史」を認識共有したかったのかもしれません。
271 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 23:26:29
晋が倭人地区に野心がある場合、その表記は当然下心の分だけ色眼鏡がかかる
事になるでしょう。
実際に当事国が「内乱状態か安泰状態か?」も、当然「こっちのいう事を聞く
政権か否か」によっても大きく左右されるでしょう。
つまり、ヒミコ政権が恭順であれば、実際の当時の倭国連合体が、ある程度の
騒乱状態でも、ヒミコの顔を立てる自国の利をとって、「野蛮ながらにも、
まあまあ安泰に治世している」と甘くなるでしょうし、ヒミコ没した後の男王
が、実際はご当地で名君と呼ばれるほどの王でも、晋の言う事を聞かない政権
なら、ちょっとした騒動ですら「大いに乱れた」と表記するかもしれません。
魏志倭人伝の筆者にとってヒミコは、野蛮だけど倭人の中では話のわかる、
まだマシな奴、と言う認識だったのかもしれません。対岸から見ると。
「東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)」自体がフィクションくさい。
距離、方角、風俗、どれもまともでは無い。
証拠も無い。
いくら当時の日本人が遅れていたとはいえ「邪」や「卑」の意味くらい普通にわかるし
朝貢してるくらいなら通訳もいるし。
徐福の「蓬莱」やマルコポーロの「東方見聞録ジパング」や「ガリヴァー旅行記」の日本と同レベルな気がする。
フィクションを探しても答えは永久に見つからない。
273 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/30(土) 16:37:45
>倭人は男王だと乱れ、女王だと安泰する、不思議な(野蛮な)国
魏は、卑弥呼生存中に黄旛を下賜しようとしたが、大陸の都合で遅れる。
つまり、247年?卑弥呼生存中に、乱を平定するための戦いが開始される。
248年?、卑弥呼の死は、戦いの最中である。だから、男王の時代は、この戦いの
中にある。間もなく男王も死亡するが、戦いは中止されない。つまり男王以外にも、この
戦いを進めた人物が存在する。それが正始元年以降の倭王である。
この戦いで、倭王は、各国の再編成を行い、またこれらの国々が背かないよう監視するために
伊都国へ一大率を置く。
ここに大倭が一大率を置いたのであれば、大倭=大和である。
274 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/30(土) 22:00:32
卑弥呼と壱与と崇神天皇は同時代に生きていた。これが正解なのである。
しかして古事記の没年干支からの 崇神没年=258年 がほぼ正解となる。
倍暦の逆算にては、同没年=259年を算出している。
ここから3倍年暦で時代を遡れば
崇神即位元年=237年=景初元年
を得る。
このことの把握から 日本書紀の崇神6年=景初2年 を得る。そしてこの年
に倭笠縫に皇祖天照大御神とその象徴である日像鏡(ヒガタノカガミ)を
祭祀し、これが1次鏡としてその2次鏡が同床共殿での別鏡であり、翌年の
景初3年=239年 に3次鏡として朝廷とその取り巻き等が、多数製造されて
る△ 景初3年鏡を使用したもので、これで畿内からうんと出土するのである。
このことなどから原秀三郎名誉教授の258年説主張はおおむね正解だと観て
よい。また258年説を主張した他の菅政友、橋本増吉、那珂博士の言い分が
この件に関してほぼ真であることが言えるのである。崇神没年=215年 は
デタラメであるのだ。
275 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/30(土) 22:39:46
崇神の代、卑弥呼は畿内の崇神に対して九州にて女王となって君臨して
いたということだ。当時は大陸でも蜀、魏、呉と諸葛亮の天下三分の計の
名言の如くで日本もこちらは天下二分の局面にあり、男王国(天皇国)は
畿内に在り卑弥呼の女王国は九州に位置していた、畿内朝廷と九州の女王国
とは殆ど関係を持たず、このため記紀の崇神の条に卑弥呼の記事がないので
ある。
276 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 01:38:10
784 名前: メ組の人(畿内説) [sage] 投稿日: 2010/10/31(日) 01:22:36
>ならいっぱいいるよね
ほんとぉ ここは馬鹿な奴が多いのぉ
類は類を呼ぶ みんなジョーカー君(ここを専門にしてる、あの人)のモトに集まってるんだよwww
さいならw zzz・・・・・・・・
>>784 ドツボ
で、おれがその「ジョーカー」とか「www」とか言われてる人間だが
文句があったら直接言えやクズが。
質問を一方的に投げつけて満足行く回答がなかったらヒステリーおこす。
スレを荒らしたい意思が見え見えだな。
相変わらず馬鹿の勘違いが止まらないみたいだが
俺の元に誰が集まるんだアホwこっちが御免だし、向こうだって御免だろうにwww
277 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/31(日) 10:35:47
>>275 続き
朝廷が日本を統一したのは景行の代ではない。崇神の代始めて畿内の支配を
ものにした小国が、とたんに2代後で全国支配出来るほど朝廷の軍事力は
ないと観てよい。全国支配(北海道あたりを除いて)が成ったのは記紀の
成立直前の年代であり、日本統一にはこれだけの時間、年代の経過が存
する。景行の代だとか抜かす論はデタラメのインチキなのだ。それは熊襲
の台頭で日本武尊が奴らを屈服させたろうが、この点でもう朝廷の勢力は
疲弊してただろう。景行の九州行幸は九州の視察にあったわけであり、これ
で九州支配を完全にしたんだとは全然言えない。
景行の代には九州に卑弥呼の女王国の後釜が在り、この時代に九州王朝、
同王権の勢力は風前の灯であったが、これが神功、應神の代のころに
比売大神の女王たる九州王朝あるいは王権の勢力が向上し、王朝の勢力は
立ち消えとはならず、もっと後代まで継続した。だいたい繼體の頃の九州
王朝の年号が多数残っていることからも、景行の代で日本統一したなどと
言う主張が全くのデタラメであることが分かるのであ〜る。
278 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 10:58:33
たとえば、歴史の本には、徳川家康は関ヶ原の戦いで天下を取ったように書かれているけれど、
実際のところ、関ヶ原の戦いとは豊臣家臣団の中のボス争いにすぎなかったのだ。
その戦いに勝利した後も、徳川家は豊臣家臣団の筆頭にすぎず、豊臣の世が続いていた。
家康が大阪冬の陣で豊臣家を滅ぼすまでに15年もかかっている。
それどころか、家康が征夷大将軍になった後も、日本を支配していたのは諸大名であり、
まあ、江戸時代までの日本は、邪馬台国の時代と同じ緩やかな連合国家だったといってよい。
豊臣家は邪馬台国の豊与で、家康がハツクニ=祟神だと考えればわかりやすい。
>>278 >たとえば、歴史の本には、徳川家康は関ヶ原の戦いで天下を取ったように書かれているけれど、
実際のところ、関ヶ原の戦いとは豊臣家臣団の中のボス争いにすぎなかったのだ。
ところでそのことを
貴方は何で知りました?
>家康が征夷大将軍になった後も、日本を支配していたのは諸大名であり
諸大名が日本を支配していたとする事実が存在しますか?
280 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/31(日) 12:12:43
>「東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)」自体がフィクションくさい。
距離、方角、風俗、どれもまともでは無い。証拠も無い。
@從郡至倭循海岸水行韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國
A東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰謨柄渠 有千戸 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐
B南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳 可七萬戸
C自女王國以北其戸道里可得略載其旁國遠絶不可得詳
@群より倭に至には、韓國の海岸を乍南乍東し水行すれば、其北岸(倭国の領土)狗邪韓國に至。
A東南へ陸を行けば500里で、伊都国に至。官は、爾支(ネギ)、副えは、謨柄渠。約千戸。
世代をつなぐ王有り、皆女王国に属し統率される。郡使が往来し常にとどまるところ。
B南へ(行けば)邪馬台国へ至、女王の都である。水行十日と陸行一月。官にイクメ、次ヤマ、
次ヤマワケ、次ヌカテ。7万戸ほど。
C女王国より北の旁國は、戸数、道程、里数、とも遠絶に付き詳らかに出来ないが、…。
解釈
@其北岸(倭国の領土)狗邪韓國であれば、崇神末以後である。
A伊都国は、積極的に卑弥呼を推薦した。
B官にイクメ、と読めば、垂仁と遣使田道間守である。
B南へ(行けば)邪馬台国へ至、とC女王国より北の旁國は、 ここで方角に齟齬を生じている。
281 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/31(日) 12:13:52
続き
この齟齬は、晋書により訂正される。「正始元年春正月,東倭重譯納貢,」この東倭とは、邪馬台国
と表記された大和であり、方角が「南」から「東」へ変更されている。
つまり魏書を変更するところは、方角、距離と「女王之所都」までを変更せねば、その後の記事
との整合性が得られない。
正始元年の朝貢で、大和は、「官にイクメ」から「倭王」へ重要さが増す。
女王の遣使「難升米=率善中郎将」と倭王の遣使「伊聲耆掖邪狗=率善中郎将」と肩を並べる。
つまり伊都国を配下とする女王国と東の倭(邪馬台国=大和)の2国体勢となり。
247年頃から、「其南有狗奴國 男子王 其官有狗古智狗 不屬女王」等の国々と交戦し、倭国統一
をはかる。最終的には、
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之 自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津捜露傳送文書賜遣之物詣女王不得差錯
この記事で終了する。
266年の朝貢は、晋建国による、晋の呼び出しに応じたもの。
282 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/31(日) 12:31:18
>景行の代で日本統一したなどと 言う主張が全くのデタラメであることが分かるのであ〜る。
神功渡海時、仲哀は、香椎の宮に入り、熊襲討伐を行う。
つまり、この時点で「香椎の宮」は、畿内大和に属している。
熊襲討伐が必須条件であれば、熊襲は、海を中心にした国であり、日向は、何の意味も持たない。
神功が熊襲にかまわず渡海すれば、熊襲は、朝廷に従わざるを得なくなる。
だからこの時代を特定せねば、卑弥呼に近づけない。
神功元年を、273年の日食で説明する場合軍事力はさほど必要でない。50年の後では、軍事力が必要となる。
この軍事力を説明出来ないのが、神功渡海4世紀である。
283 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 13:39:53
神功皇后、武内宿禰、聖徳太子・・・尊王派の明治政府が編み出した人物像にまんまと乗せられているとしか思えませんね。
聖徳太子はカリスマ的存在なので
貶めるには抵抗があるワ
285 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/31(日) 13:53:07
274年 神功皇后渡海
275年 神功元年
323年 神功49年 千熊長彦、半島の占拠、領土を百済に分与。
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦(千熊長彦)美而善弁
与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我(百済) 亦帰于麗(高句麗) 休礼太后生長?子勿?
始立戸口典 禁民子母相婚
326年 神功51年 七支刀 326年泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■である。17日が丙午
この場合百済本記の肖古王に繋がらない、何故か?
286 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/31(日) 13:59:08
私が百済本記を編年に使わないわけ。
百済本記には、肖古王が2名登場する、そして数字を無視しても、書紀の肖古王とは記事が合わない。
そこで肖古王を調べたのが下記の数字です
百済本記 肖古王
東漢桓帝延熹9年 :丙午年1月辛卯朔166年2月18日 この年肖古王即位
東漢獻帝建安19年 :甲午年1月癸未朔214年1月29日 この年肖古王崩御
百済本記 近肖古王
東晉穆帝永和2年 :丙午年1月丙寅朔346年2月8日 この年近肖古王即位
東晉孝武帝寧康2年 :甲戌年1月癸未朔374年1月29日 の年近肖古王崩御
書紀の肖古王
西暦273年日食、西暦275年を神功元年として、
西暦301年?皇暦888年、神功28年戊申1月辛卯朔 この年肖古王即位か?
西暦328年◆皇暦915年、神功55年乙亥1月癸丑朔? この年、百濟肖古王薨。
30日の誤差(閏1ヶ月)で癸未朔が成立
百済本記 肖古王即位年の1月朔と書紀肖古王即位年の1月朔は同じである。
百済本記肖古王崩御年の1月朔は、百済本記近肖古王崩御年の1月朔は同じである。
この事実から、書紀の干支で書かれた百済記があり、それが3国誌に使われた可能性を
否定出来ない。
神功紀の説明出来ない卑弥呼には、時代錯誤がある。
百済本記は、高句麗の侵攻、占拠、属国化を欠く。
287 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 14:27:52
自分の描くシナリオに合わない史料は証拠として採用しないのは勝手なんだけれど、
日付を改ざんしたり、それを隠匿する体質は何とかならんのか?
288 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/31(日) 14:32:38
>自分の描くシナリオに合わない史料は証拠として採用しないのは勝手なんだけれど、
どんな資料がありますか?
289 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/31(日) 14:40:59
神功元年前年と日蝕とは全然関係がない。日蝕は日を経てという数日間も
継続しない。この点で273年の日蝕にゴリ押しするのは妄想の我田引水だ。
つまりインチキだということである。
重ねて言うが、神功元年前年の暗黒は日蝕にはならない。もしこれを
頑張って日蝕だと言うのは、ニガクリタケをクリタケだと頑張っているのと
同然であり、妄想毒が脳内に蔓延する助長論でこれを断固棄却せねば
ならない。
290 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/31(日) 15:00:23
>神功元年前年と日蝕とは全然関係がない。日蝕は日を経てという数日間も
継続しない。
この”あづないの罪”の対案が無い。さらに神功紀も説明出来ない。
例えば”箸墓”はモモソ姫の墓である。
この場合崇神5,6年の出来事、そして疲弊した朝廷や民の世を変えるための4道将軍の派遣。
あの巨大古墳は、この状態では造れない。
だから、考古学は、箸墓を最初の大王と表現する。
モモソ姫の墓であれば、天武紀の”箸陵”では無い。纒向遺跡の最後の大事業が箸陵築造である。
卑弥呼の墓とした場合、書紀の記述は合わない。女王国は伊都国を隷属する。
伊都国が九州にある以上、卑弥呼の墓に設定できない。
唐松山と太国にはVIPスレが用意されているんだからそっちでやれよ
292 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/31(日) 15:11:34
日蝕も暗黒になるし、黒雲も大量あれば暗黒になる。日蝕であるか、
大量の黒雲かあるいは火山噴火の大噴煙の継続かは、紀の記述を
詳細に徹底的に調べて行けば判別出来うる。
この場合は紀に日を経てという数日間も継続した説明があるから、
これは日蝕ではない。これを日蝕だと強行主張することは、まるで
ニガクリタケをクリタケと言い張っているのと同然であり、他の
スレ民に妄想毒を食べさせることとなるため、断固この論を拒絶
しなければならぬ。専門家によるとニガクリタケは噛むと苦いと
言う。これで判別するのであろう。同様に日蝕は単に1〜2時間の暗黒
であって、日を経てという数日間も継続はせず、これで判別出来る。
293 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/31(日) 15:16:42
唐松山の強行に言う神功元年前年の記事が日蝕だとの主張はニガクリタケを
クリタケだとか頑張り言い張ってるインチキ論であり、ニガクリタケは
日害(ニガイ)からクリタケにはならない。つまりこの主張はデタラメ
なのである。この妄想毒を食べないよう、各々方は厳しく用心されたい。
294 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/31(日) 15:25:42
>ニガクリタケは日害(ニガイ)からクリタケにはならない。
太国の”あづないの罪”はこの程度のもの。
だから、七支刀はノギヘンと主張しても、太国倍年で主張仕切れていない。
金石文を無視する主張は誰も受け入れない。
295 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/31(日) 15:43:25
日蝕も大噴煙も大黒雲群も人間でない物理、化学、天文現象であるから、
罪は犯すことはなく、これを人に鞍替えするのは精神科へ行けと言われ
る〜支離滅裂であ〜る。ppp
296 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/31(日) 15:48:58
別に金石文など無視してない。してないことをしたと言うなよ。><
むしろニガクリタケをクリタケと偽って食わせたら、これこそ
過失傷害〜場合によっては過失致死の刑法犯にならざるを得ない。
あづない罪がどうのより、これこそ真の犯罪行為であ〜る。><
唐松山よ。もうそろそろインチキ毒をばら撒くのを止めたらどうだ。
いい加減、記紀の説話上の架空の人物と、
自己流のトンデモな紀年で妄想歴史を垂れ流すのはやめろよ。
本職の研究者連中から、あんたら全然相手にされてないぞw
デタラメなインチキばらまいて悦に入ってるのは、カラマツもフトクニも同じ。
別スレで門外漢やアマチュアを蔑視してる連中にとっては、最初から眼中にない。
いい加減、普通の歴史の本読んで、頭冷やそうな、二人とも。
299 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/31(日) 17:27:49
>いい加減、記紀の説話上の架空の人物と、
応神の名前入れ替え
神功、275〜343年
応神、344〜386年
仁徳、313〜399年
応神が神功の子共であれば、274年誕生、312年崩御程度である。しかし書紀は
344年から治世41年間とする。
では、何故この様なことになったのか?
これは、仲哀が死んだことで、畿内は、渡海派と残留組に別れるのであるが、佐紀に古墳の
作られた時代を、書紀は表記していない。つまりこの時代は一人の大王を中心として纏まっている
時代では無いのである。
時代が下り、半島が倭国の領土と成ると、渡海派は、その根源を、神功、応神に求める様になる。
しかし、400年前後の高句麗の南下は、その時代に仕えていた大王を否定したくなる。
その為に、神功時代を引き延ばし、その後に応神を配置する。
これでは、領土を得た時代(323年)の大王を否定してしまう。
その為に、仁徳を神功、応神に重ねて表記するのである。
300 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 17:41:59
297:日本@名無史さん :2010/10/31(日) 16:44:18 [sage]
いい加減、記紀の説話上の架空の人物と、
自己流のトンデモな紀年で妄想歴史を垂れ流すのはやめろよ。
本職の研究者連中から、あんたら全然相手にされてないぞw
本職の研究家連中って誰?
具体的にあげてみ。
どうせ口から出たデマカセだから、具体的なものなんてねえよなWWW
301 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 17:44:53
幸か不幸か知らんけど
こんな歴史オタを本職にしてるって、世間から見れば変り者。
そんな連中から相手にされないって、世間でいう普通な奴ら
303 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 20:40:24
>>302 >主として奴隷制を土台とする社会です。
なんじゃこれ、どこの国の話だ?ローマか?www
304 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 20:50:12
>>283 いまだに戦後の進歩的文化人にまんまと乗せられているのか。
305 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 21:25:28
質問ですが
ヤマトがいわゆるヤマト王権かどうかはともかく
ヤマタイ国=ヤマト国って認識でいいのでしょうか?
307 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/31(日) 21:44:48
古代史の真の年代を知れる天の宝器→天津神算木(天津金木)
三輪山の三輪とは、半径r=3の円を示唆する。これは西遊記の金兜山麓
で三蔵を妖魔から守るために孫悟空が画いた金箍棒による円が、三輪を
中国式物語化にて示唆、重視している。
三輪の球化の 体積=表面積 の算式を天津神算木(金木)というのだ。即ち
4πr**3/3=113.09733552923・・・
大祓祝詞に曰く。天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
3≠113.097335
113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は、西暦0年の示唆で除去)
335←崇神即位の真の年代への誘引年数
から 1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位 にて、真の年代は、まず
335−97=238年
西暦0年を無視のため、これを除去するからマイナス1年となることで
238−1=237年=崇神即位元年(真の実年代)=景初元年
以上
あっはっはっは うけるぅぅぅー(笑)
2ch日本史板の邪馬台国論争の盟主といえば
【謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!】だよなww
ピース、ピースwww
310 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 23:44:14
>>309 ドツボ本人かな?
もう自分でHPでも立てた方が良いんじゃないのかな?
「このボクが立てた終止符スレこそネットに数多ある邪馬台国関連の掲示板の中で最高峰」
とか思っているのか?
aratameは河童虫の下というラベルが剥がれない限り、何をどうしようとも
掲示板では浮かばれることはないかと思います。
312 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 00:40:03
313 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 00:47:38
ドはドツボのド
316 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 13:36:59
ヤマタイ国はフィリピンにあったと云う説もあるな。
317 :
日本@名無史さん:2010/11/01(月) 17:28:56
邪馬台国はシリアのダマスカス周辺という説もあるな。
邪馬台国はドツボの頭の中に描いたものしか認めない。
という説もある
319 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/01(月) 18:04:55
>>296 >別に金石文など無視してない。してないことをしたと言うなよ。><
では、七支刀をノギヘンと主張するからには、神功51年をノギヘンの年で説明して下さい。
神功49年には、半島の占拠がある。このお礼として、倭国にもたらされる。
ついでに、肖古王誕生記録は倭国のものです。此方の説明もしてもらいたい。
出来なければ、太国倍年は成立しない。
320 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/01(月) 19:47:27
訂正
×肖古王誕生記録は倭国のものです。此方の説明もしてもらいたい。
○武寧王誕生記録は倭国のものです。此方の説明もしてもらいたい。
322 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/01(月) 21:53:04
>>319 では、神武元年が42年であることを説明して下さい。ww
それもその場限りの抽象的上っ面の繕い誤魔化しではなく、具体的に
言ってご覧!
マシはインチキであ〜る。
323 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/01(月) 22:00:50
>>319 追加
ついでに 崇神の代のどこがマシなのか、具体的に根拠、史料を掲げて
説明してご覧!
324 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/01(月) 22:18:09
>>319 武寧王はオマエがネヅミのエサとして食べてればいい。ww
半島の関係者はオマエがたらふく脳内で巡らして、せいぜい4重在位から
n重在位論←ww(n→∞)の盲象論をオマエの脳内で踊らせていれば
いいことだぜ。ppp
325 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/01(月) 22:39:12
>神武元年が42年であること
神武元年は、弥生中期と後期をわける。
>崇神の代のどこがマシなのか、
3年の記事で太陽暦の3年になる。ところが崇神五,六,七年を1年では説明出来ない。
>武寧王はオマエがネヅミのエサ
書紀の雄略は動かない。
>n重在位論
応神、仁徳は、名前を入れ替えている。
さてと 七支刀はどうすんの?
ノギヘンなんでしょ、その3年前に半島を占拠しなければならない。
326 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/01(月) 22:48:04
全然説明になってな〜い。たかが1〜2行で説明した素振りで誤魔化すの
が、オマエのやり口だな。ww もっともっと説明を具体的、分かりやすく
するんだな。
オマエ、唐松山は止めて、いずれ唐栗山と名前を変えるんか?bbb ww
ニガクリタケ=クリタケ→(臣下 伊支馬=天皇 イクメイリヒコ)などと、
インチキの妄想毒をいい加減営業するなよ。
327 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/01(月) 23:01:58
空白年は(西暦0年以外)どこにも存在しない。
なにが景行28年〜同40年の間が空白で、両端年で1年だ〜〜。いい加減
イカサマは止めるんだな。つまりだ、皇紀758年〜皇紀770年までがカランポ
で、動機もないのにマシをしたなどと、公文書偽造同行使が重罪なのに、
こんな不正の付け足し年を入れるわけが無い。だいたい逮捕されて身分が
失脚するのに、大した利害も無しにそんな危ないマネに手を染めるバカ野郎
は当時の古代、朝廷にいるわけがな〜い。つまりオマエの極めてひどい妄想
が生み出した〜これこそ架空のオマエの浅薄なる創作なのさ。ww
328 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/01(月) 23:03:14
>全然説明になってな〜い。
それなら、太国倍年で
神武元年を説明してみて下さい。
七支刀も宜しく。
329 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/01(月) 23:10:55
早くマシで崇神の代のどこに空白があったのか、具体的に2〜3行とかで
終わるイカサマ論で誤魔化すことなく、長々と説明してご覧!
ついでに29年の分割年がいかようになされるのか、いまだ記紀のどこからも
分割事例を出してないので、ね、早く出してご覧!
もうニガクリタケをクリタケだなどと、一杯食わせようとするいい加減
なインチキ論を止めるんだな。ww
明日読んでやろう〜〜zzzzzzz・・・・・
330 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/01(月) 23:12:47
訂正
ははぁ19年の分割か〜。ww それを説明してご覧! zzzzzzzzz・・・・・
331 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 02:11:44
>>321 ドツボ
>「二」と「ジョーカー」 がやり合ってたのでちと書き込んできてやった〜☆
ほう、ひどくお気に入りのようだなw
もしあの話しが例のスレが終わっても続きそうで
尚且つ俺の気が向いたなら
このドツボちゃんが仕切っている
この「終止符スレ」で継続させてもらうとするからよろしくなwwwwww
>>331 ジョーカー
おっけ、おっけ、いつでも来なさい。
君は、いろいろと詳しく調べてるようで、それ相当の知識はあるようだ。
でも、認識がおかしい点については、ハっきり言わせて貰う。
二氏から倭人伝ちゃんと読んだのか?言われてた件〜だよ。
333 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 21:47:53
倭人伝はなかった。
魏志東夷伝は存在したが、倭人の条はのちの時代に後付けされたもの。
そういう話はよくあることだ。
335 :
ローガン:2010/11/02(火) 22:32:13
>>334 あかん。我らが2ちゃん代表として、よそのヤツなんて キッチリ始末してきなさい。
その間は唐松氏に任せて 君は行け。鷲か鷹か知らんが、行け。2ちゃん代表た。
336 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 22:37:02
おっぱーいキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!
>>334
337 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/02(火) 22:53:07
338 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/02(火) 22:55:46
稀代のデ○○は、近隣スレを徘徊中です。
339 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 23:09:29
倭人伝も写し取ったときには既に虫食い、○○ばかりだったのを
後世の人が勝手に埋めてしまった。
それが混乱の原因。
340 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 01:02:11
もうじき中国と戦争状態になるかも
しれないというのに、おまえらはノホホーンと歴史談義かい
まったく呑気なもんだぜ
中国と何処が戦争するのwktk
342 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 10:16:32
ロシアのメドベージェフ大統領は北方領土視察の次に狙うものは、北海道視察ですよ。
ロシアにとって南下政策は長年の懸案。日本の国力の弱体化に乗じて領土拡大を狙ってくるのは確実です。
それを黙ってみているほど中国政府はお人よしではありません。
尖閣諸島で領土拡大の先鞭をつけたのは中国のほうだし、
まずは、九州電撃訪問てところでどうでしょうね。
となれば韓国も指をくわえてみているわけにはいかない。
対馬や隠岐の島は日本より韓国との繋がりが強いとか言って強硬訪問するかも。
まあ、こんな感じで日本はいずれ本州だけになってしまうかもしれませんね。
それも危うくなれば、竜馬の地、四国に臨時政府を樹立して辛うじて独立を保つという未来図が見えてきます。
青二才のベージェフが〜
青二才のオバマが〜
青二才の習近平が〜
そうだ、前原さんがんがれ 青二才対決だ
344 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 10:38:41
日本は自衛隊から日本軍に名称を変更するだけで、
各国からの侵略を防げる 先ずは手始めに、中国とロシアからの大使館撤退。
日本人の総引き上げを急ぐべき
同時に核の早期開発
345 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 10:47:03
かつて、日本は、日本海沿岸の新羅や渤海あたりまで支配していたにもかかわらず、
唐や高句麗によってその領土を奪われた過去がある。
それを取り戻す戦いが太平洋戦争だったのです。
しかし、その戦いに敗れたうえ、新たに封冊安堵を受けていたアメリカの国力低下によって、
本土まで危うくなったことに危機感を覚えないとしたら、あなたは日本人ではなく渡来人の子孫だということです。
>>344 その前に国内の露助、支那人を追放(現役風俗嬢は除く)しろよ。
さっき、NHKでロボコンを見ていたのだけれど中国チームが断トツ、4年連続で優勝。
日本の金沢工業大学は1勝もできずにはいたい。
しかし、中国は四川省成都にある科学技術大学チームの選手は、日本人のようにも見える。
成都といえば、三国時代の蜀の都。たぶん、邪馬台国と対立関係にあった狗奴国と交流があったのだろう。
むしろ、金沢工業大チームのほうが朝鮮人のヤンキー風だったのには笑えた。
日本の工業を陰で支えているのは、実は中国からの渡来人集団の末裔ではないかと思うし、
縄文時代どころか、もっと以前から渡来人は続々日本に来ている。
これからも、日本は、そういう人たちを受け入れていかなければヤンキーばかりの国になってしまう。
しかし、ロシア人やシナ人の血を引くものを、どうやって見分け、追放しようというのだろう?
>>347 成都は遺伝子レベルで、Y-O3a3c1-M117, mt-D4という組み合わせが多い
日本人にも多い組み合わせであるといわれる。
彼等のルーツは、半農半牧の胡族なのである。
胡族は4世紀の五胡十六国時代に東へ移動している。
渡来人と縁があって当然である。
重慶は湖南や貴州と似ている。彼等のルーツは焼畑農民の三苗なのである。
6000〜7000年前の仰韶文化の担い手だといわれている。
こちらは有史以前なので、歴史学というより考古学の範疇である。
349 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/03(水) 16:30:11
372年 咸安二年 使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。
413年 義熈九年 高句驪王[王連]を以って、樂浪公と爲す。
この記事から、好太王碑の記述は正しいと考えられる。
372年には、百済が楽浪を支配していた、
当然323年神功49年に倭国が百済に与えた領土である。
大量の渡来人は、323年の出来事に由来する。
>>335 >その間は唐松氏に任せて
「その間はオレに任せてオケ」なら
ローガンさん、かっこよかったのになぁぁぁぁぁwww 空気(笑いネタの)読んでよローガンさんw
352 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 22:03:56
唐松氏もメ氏も天才じゃないか?レスが群を抜いている。国民栄誉賞候補だ。
毎晩毎晩おつかれさまです
354 :
352:2010/11/03(水) 22:26:44
訂正
天才は天災の間違いだった。国民栄誉賞は削除。
355 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 23:11:30
群を抜いて胡散臭い二人。(−−;)これでいいのだろうか?と思うときがある。
ドツボ
河童の居ない今がチャンス。
357 :
ローガン:2010/11/04(木) 00:48:54
どくだみさんはじめ、漢文に詳しい方へ質問。
広開土王碑文「百殘新羅舊是屬民由来朝貢。而倭以辛卯年來渡□破百殘□□新羅以爲臣民」と。これは、碑文の一面なんですが、
同碑文の四面の終わりの方に 「又制守墓人自今以後不得更相転賣…」とあります。
意味は「又制して、墓を守る人は(を)今より以後、更に相転売するを得ず」と訳す以外にないと思うんですが。
するとこの文、文法的に漢文に合わない? なら、翻って一面の文、「倭は辛卯年以来渡って、(これを=倭を)破った」と、倭を目的語と読めるのではないか?
と云うのが、チョンドウヒ教授と云う人の説だそうです。
「壬申誓石記」見ても漢文の構造では無いので、上記の読み方もありかなあと。
ご教授いただければ…。
358 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 00:56:24
ちなみに、俺個人は、かなりイヨチックだと思っているミマツヒメ。これが
同一書物古事記において、同名で「二通りの書かれ方をしている」と言う話を
先日させていただいたと思う。簡単に書くと以下二人のミマツ姫がいる。
@祟神の妃にして、オオビコ命の娘の、そのミマツ姫
A開化の娘にして、イカガシコメ命を母に持つ、そのミマツ姫
これが、非常に紛らわしいのだが、実際に図にしてみると、この不思議な矛盾
が浮き彫りになって来る。
┬内色許男命→イカガシコ売命→ミマツ姫A(イカガシコメ命と開化の子)
└内色許売命→オオビコ→ミマツ姫B(オオビコの娘、母は古事記に不記載)
つまり、古事記どおりだとすると、AB二人のミマツ姫が、同時代に二人いる
かのような書かれ方なのだ。同一書物だけに、想像力がふくらむ。
ちなみに、この内色許男命は、穂積氏の先祖であり、物部氏や采女氏と同族とされ、一族から百済への使者の任那駐在員も出している。
つまり、仮に、ミマツ姫派とモモソ姫派が大激突をし、その結果、戦争か政争
かによって、決着がついたとしたら、そのあとに「新しい女王」を排出した
一族は、物部氏と縁があり、百済・任那(朝鮮及び中国外交)とも縁のある
陣営となって行くのである。
さて、そのわかれめになる、重要なキーパーソンにして、祟神の妃(の一人)
でかつ垂仁(その次の天皇)の母である、ミマツ姫だが、なぜ、上記@Aの
ような、ややこしく、矛盾を匂わせ、一人?それとも二人?とも思わせるよう
な表記になっているのだろうか?
例えば、例として出して恐れ多いが、今の皇后陛下がミチコ様で、万が一、
皇太子妃のお名前もミチコ様であった場合、何かしら「区別するような」表記
になるだろうし、そうしていくのが自然なような気もする。
しかし、そのような「区別するための付記なども無く」、どちらも淡々と、
「御真津比売(ミマツヒメ)」と全く同じ漢字で書かれていて、その縁戚表記
は上記@Aの如しなのだ。これはどうも腑に落ちない。
古事記に仮に、「同じ名前の人」が、同時に「二人として」同時代か違う持代
に存在すると言う事もほとんど見受けられないので、その事からも同名の二人
とも考えにくい。
359 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 01:14:17
なぜ、この「ミマツヒメの両親の矛盾」が、キニナルかと言うと、ミマツヒメ
は、Aによると、祟神の「兄弟姉妹」と言う事になるからで、兄弟姉妹婚に
ついては、当時の世相から違和感や疑問を生じないとしても、だとしたら、
祟神が、Aを前提にした場合、ミマツヒメ(姉妹と同名の別人)と子を成した
話になる。つまり姉妹もミマツヒメ、妃もミマツヒメとなり、なおさら、別の
呼び方で呼び分けるような気がして来てならないのだ。
つまり、「別人説」でも違和感満載なのだ。しかしながら、「同一説」だと
両親の表記がチグハグ。なので、キニナッテしまうのだ。
残念ながら、この縁故関係は、古事記からしか拾えないので、上記の矛盾や
違和感を100%解消する方法は、古事記からは得られない。
360 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 01:36:23
>>359続き
あ、Aがベースだと祟神とミマツヒメAは「同母兄弟姉妹」なのね。これを
言っておかないとこの違和感や矛盾を共感いだたけなかったかも。失礼した。
で、ここからは類推200%なので、歴史としてはつっこまれる事承知ですが、
祟神とオオビコ(内色許男の甥)とミマツ姫の三者にとって、先の女王モモソ
姫は、存命中はケムタイ存在だったのではないか?という可能性を想像して
しまうワケですな。で、「女王が如く振舞う(振舞える)権威権力」に、
もし、モモソ姫の頃、モモソ姫が着任していたら、その職位は、モモソ姫の
怪死と共に、空席になるわけです。
忌み嫌って、空席にしたとしても、その後しばらくして、魏(晋)の外交官が
再来した際に、「あれ?女王は?」「そう、おなくなりになったの?」「じゃ
あその後どうなりました?」「私は誰と外交したら良いでしょう?」となる
可能性が高い。
だが、もうその時はモモソ姫外交を良しとしなかった陣営の王権だとしたら、
この外交官に、誰が接し、誰が次の外交を行なうのが筋であり、相手に違和感
を持たれないか?祟神の妃のミマツ姫も、充分にその候補である。
そう言う次第で、類推を補助として、次の構図も架空できるのである。
・モモソ姫(ヒミコ)→祟神or垂仁(男王・乱れた?)→ミマツ姫(イヨ)
これなら、魏志倭人伝的には「ある程度の整合性」は取れるような気がする。
モモソ姫没後、ちょっととっちらかっちゃったので、先の条約を100%継承する
のは難しいですよ、とういう言い訳にもなるかもしれない。勿論、国内的に
ミマツ姫が「女王になったか?」は疑問であるが、「モモソ姫の後継者」と
称するのは、その職域や皇位序列によっては可能かもしれない。この架空だと
魏(晋)の外交官は、それをもって、「次の女王にイヨが立った」と表記する
事も可能になって来る。
イヨタン・・・・・・・・・・
>>357 >又制して、墓を守る人は(を)今より以後、更に相転売するを得ず
ふつうに漢文と思いますが。
363 :
ローガン:2010/11/04(木) 14:54:29
>>362 >ふつうに漢文と思いますが。
そうですか…普通ですか?
守墓人の売買を禁じたと云う文で、守墓人は主語では無く、目的語なのですが。
よくある文章構造なのですかね? 未確認なんですが、「孟子」で僅かに見られる程度と聞いた事がありますが。
しかし、「ふつうの漢文」なら、一面の倭も目的語と読んで構わない事に なりそうですが、いかがでしょう。
364 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 14:56:57
あ、豊年万作よ〜いとな。
>>363 横から失礼。
守墓人を転売の目的語に読んでしまうと、おかしな漢文になりますが、
>>362さんは、わざわざそのように読まなくとも、普通の漢文として解釈できるということを仰っているのだと思います。
守墓人を制の目的語と解釈するとか、制が「守墓人自今以後不得更相転賣」全体にかかるとか。
守墓人というものの性格がよくわからないので、はっきりしたことは言えません。
言えることは、守墓人を転売の目的語と解釈する必要はない。
普通の漢文では、一面の倭を目的語と読むことはできない、です。
もし目的語に読むなら、和臭のように半島独特の漢文のなまりがあったことになるんじゃないでしょうか。
366 :
ローガン:2010/11/04(木) 16:45:06
>>365 ありがとうございます。すみません。まだ納得出来ないので …
「又制守墓人自今以後不得更相転賣雖有富足之者亦得壇買其有違令賣者刑之買人制令守墓之」(ネットで拾え無いので手打ちです。転は旧字、壇は手へんです。)
碑文の大まかな意味としては、広開土王の支配した地域の人々に墓守をさせているのだから、この人々を売買してはいけない。という法令でしょう。
守墓人は目的語になるように思うのですが…。
又制す。守墓人は今より以後、・・・するを得ず。以下略。
369 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/04(木) 21:39:32
改め殿
貴殿とは説が違うわけですが、仲良く鷲崎さんと研鑽しましょう。
370 :
日本@名無史さん:2010/11/04(木) 23:10:12
呉越同床。一緒に寝ててください。
371 :
ローガン:2010/11/04(木) 23:13:39
>>367 そう読んだ時、転賣の対象が無いのでは?
372 :
102のどくだみ:2010/11/05(金) 00:38:20
>>371 >なら、翻って一面の文、「倭は辛卯年以来渡って、(これを=倭を)破った」と、倭を目的語と読めるのではないか?
この場合、倭を破った主語は広開土王と考えているんでしょうか。
広開土王は石碑にその名が残っていて、邪馬台国には石碑がなく卑弥呼の名も残っていない。
この違いがどうしても納得いかない。
多胡碑、多賀城碑、那須国造り碑のような石碑が存在したはずなのです。
邪馬台国は魏とも交流のあった先進国。
邪馬台国の石碑がどこかに必ず、眠っているはずなのです。
その石碑を掘り当てる神は、いつ現れるのでしょうか?
ん?ウチの先祖が安山岩の石碑を作って
8世紀に埋めておいた筈なんだけどな・・・
ローガンさん
それともう一つ。來渡海の主語は倭か広開土王か、
チョンドウヒ教授と云う人もしくはローガンさんはどうお考えなんでしょう。
ちなみに
>>365は私ですが、よくよく考えると、
>>367さんのように
>又制す。守墓人は今より以後、・・・するを得ず。
と読むのは、ご存知「其戸数道里可得略載」と同じ形で、
目的語が前に出た、普通の漢文です。
しかし、一面の文をこの形だと主張するのは、かなり無理がありそうです。
それで、主語をどう考えているのかお聞きした次第です。
376 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 02:48:32
さて、古事記のモモソ姫に焦点を当てた場合ここでもう一つ気になる表記上の
特徴が浮上してくる。それは女性の名前の末尾だ。古事記に登場する女性は、
大きく分けて、次の四種類に大別される。
@毘売(ヒメ)A比売(ヒメ)B日売(ヒメ)Cその他
ここで、面白い事に、神功皇后(息長帯日売命:上記Bのケース)以前は、
度々登場する毘売(@)であるが、これが、神功以降、ほとんど登場しない。
これは単純に、古い呼び方・新しい呼び方以上の意味合いがあるかのように
思える。モモソ姫は上記の@に当たる。その前後、「毘」を持つ女性は、一世代に1〜数人程度しか存在してなく、神功世代ころには、「毘」を持つ女性が
これが一度一気に増え(数人〜10人近く)そして、神功の世代に、一気に
皆無になるのだ。(そして、変るかのように、それまでもほんの少しいるが
「日売」が増えていく)
つまり、古事記においては、神功までは「毘売」>「比売」という階級配分、
神功の頃からは「日売」>「比売」という階級配分になって行ったのではない
だろうかと推測されるような気がする。試しに、上記の@〜Bの例を下記に
列挙しておく。
@モモソ毘売、ハニヤス毘売、沙本毘売、河俣稲依毘売、活玉依毘売、etc
Aクニアレ比売、ミマツ比売、サワジ比売(沙本毘売の別名)、倭比売、etc
Bトヨスキイリ日売、息長帯日売(皇后になる前は息長帯比売)、黒日売、etc
この、@〜Bのグルーピングによって、当時の「女性の階級や職域」が浮き
彫りになって来るかもしれない。もしそれが浮き彫りになれば当時「ヒミコ」
或いは「イヨ」と呼ばれた女性が、どのような立場の人かも狭められて来る
かもしれない。
377 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 03:04:18
これは単に「女性の尊称の変遷」だけの意味合いではなく、女権統治システム
から男権統治システムへの変遷をも、物語っている可能性がある。
つまり古代において毘売>比売>その他、の、女性階級社会があり、神功以降
は、これが日売>比売>その他、と成りかわり、毘売はシャーマニズム神学
体系における権威を象徴し、日売は「古代入日信仰」と「海外(特に中国)
から委任された」権威の象徴へと、よりパワーアップし、かつ男権とのカテゴ
リー分けの再調整・再編成をし、よりシステマティックにした物ではない
だろうか。
つまり、毘売→日売への進化であり、神功の時に、それが決定的になった
(つまり、この時点で「毘売」は皆無と成る)、とこうは考えられない
だろうか?
こう考えると、毘売がなぜ、少数からやがて増えていき、神功の時を境に
パッタリいなくなるか?も説明できるような気もして来る。
378 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 03:19:54
毘売が女権システムに置ける最高の長であり、後に発生する「大王システム」
と言う男権システムにそれらの名残が組み込まれ、大王・王と住み分けを新た
にした、女性社会の最高権威が日売だとしたら、この名前の変遷は、とても
説明がつきやすい。
そして、記紀が編集されたのは、それからしばらくして、大王システムすら
一回集大成され、そろそろ「天皇システム」になろうかという時代だ。彼ら
編纂者にとって「毘売」と「日売」の違いなど、さしたる疑問もなくすんなり
と「前の記録どおり」書き写しただけだとしたら、よりここには、後の男権
思考ではフィルターをかける必要も、またその違いに気付くセンサーすら、
彼らには無かったに違いない。なぜなら、彼らにとっては、毘売と日売の違い
は、もはやさしたる重要性も無くなった時代の子供達なのだから。彼等は、
神代期→人皇期の変遷により、「毘売」が「日売」になり代わったのであろう
という程度でしかとらえていなかったに違いない。
さて、そこで「毘売」が単に「日売の古い呼び方」では無いと仮定した場合、
或いは、なぜ「毘売」が「日売」に取って代わられなければならなかったか?
と考えた場合、そのエポックメイキング的な出来事の一つは、紛れも無く、
モモソ姫の怪死なのである。
379 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 03:31:15
モモソ姫以前
→毘売>王(の最も偉い者、毘売システムの中に王が位置付けられていた)
モモソ姫以降
→大王≧毘売(のインフレ、ゆえに反乱に組する・関係する毘売も多い)
神功皇后以降
→大王>日売(権威権力の住み分け完了、大王システムに編入された日売)
上記のように考えれば、モモソ姫→神功皇后の間に、女権(母権)システム
から男権システムへの変遷が行なわれたとも考えられてくる。
モモソ姫が瀬戸内海ネットワークの長であった事も、神功皇后が何故不自然な
ほど「懐胎天皇」にこだわったかも、ここらへんから見えて来る気がする。
380 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 04:31:11
さて、何故に俺が「毘売」という尊称に拘るか?と言うと。ヤマタイ国は問題
無く倭人分布区域に存在するという魏志倭人伝の表記から察するに、同時代の
倭人分布域の最重力証拠書類である記紀では「どのように書かれているか?」
という点が大事だからだ。
倭人分布域のうち、当時の大和王権そのものかその影響下の国であるならば、
大和の男王をさしおいて、魏(晋)と外交が出来る(外交相手と目される)
のは誰か?
それは「毘売」という、比売よりも格上で、場合によっては男王よりも格上
の存在出なければ成らない。つまり、もし、大和王権そのものか、大和王権に
恭順な地域の倭人分布域にヒミコと呼ばれた女王がいたとするならば、それが
女王=毘売であるならば、魏志倭人伝的にも、記紀的にも、何一つ矛盾は無い
のである。(その他の可能性としては、非恭順のクマソか、同盟初期の出雲)
そして、毘売という女性は、大和王権範囲内でも、同時に複数いても可能で
ある。緩やかな連合体だし、先述の仮定では、そんじょの男王より「偉い」
可能性もあるからだ。
もし、北九州や近畿や出雲や四国などに、それぞれ「毘売」と呼ばれる女性
がおり、それらが、場合や相続環境や政治状況によっては、近隣男王より
比較的大きな権威権力を保有していた場合、その毘売は、問題無く魏(晋)の
外交官と「わらわは、この倭人たちの中で一番偉い者じゃ」と外交できる
のである。
もちろん、毘売が間違いなく恒常的に、男王より偉かったとまでは言う気は
全く無い。しかし、並立的に毘売と呼ばれる女王が、(比較の結果として)
近隣男王より「偉い」という事は充分起こりうる。そして、北九州にて最大の
権威権力を保有していた「当時の瀬戸内海の毘売」が、魏(晋)の外交団と
国交を行なった場合、その会合場所は、瀬戸内海の西端になる可能性が高い。
381 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 06:14:12
卑弥呼=アマテラスでいいんですか?
382 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 11:36:45
謎多き秘巫女
383 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 13:39:45
邪馬台国→邪馬臺国→邪馬壱国→対馬・壱岐って面白いね
384 :
ローガン:2010/11/05(金) 15:47:22
>>375どくだみさん。
>>367さんありがとうございます。
守墓人の件、よく理解出来ました。で、1面の文「百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡□破百殘、□□新羅、以爲臣民」についてなんですが…。
碑文2面「九年己亥百残違誓與倭和通…」は、翌十年出兵の経緯説明(前置文)でしょう。
碑文3面「十四年甲辰而倭不軌侵入帯方界…」も広開土王自ら出陣の前置文。
とすれば、1面の文も後に続く「六年丙申王[身弓]率□軍討伐残国軍□□南攻取寧八城…」の前置文ではないか?
そして、高句麗が六年に攻めたのは百済。 仮に「倭が海を渡って百済を破り、□□新羅を臣民とした。」と読むなら、攻める相手は倭の筈。ところが、1面に件の記述以降、倭は登場しない。
「而倭以辛卯年來渡□破」までで一文。「百殘□□新羅以爲臣民」は、前を受けず百済が新羅を侵したと解し、翌年百済攻めの前置文である…。と云う主張です。
すると、その前の倭は目的語になり、「高句麗が渡海して来た倭を破った」と。
又、李基白と云う韓国の教授曰わく、王健群著「好太王碑の研究」には、
広開土王碑拓本の技術者だった初均徳が「碑文抄本」という記録を残していたそうです。
それによると、件の記述は「百残東□新羅以為臣民」だそうです。欠字のひとつが東で有れば、百済が東の新羅を侵した事の傍証になりはしないかなあと。
まあ、未確認なんで、眉唾かもしれませんが。
385 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 20:32:32
>>380続き
北九州の古都から、近畿に完全に遷都されたのが、後代の(オオタラシ)
オシロワケノ天皇(景行天皇)だとしたら、これもシックリ筋が通る話に
なってくる。つまり、
@ヒミコの頃(北九州が首都/近畿が最東端の前線基地)
⇔ゆえに四道将軍逸話とかは、日本書紀編纂者の後代の後付け。
A景行天皇の頃(統治の拡大につき、政治重心を東に移す必要が増加)
⇔ゆえにその時に完全に近畿神話(政治)体系と九州神話(政治)体系を合併
この上記の@⇒Aの変遷期に、「毘売システム」が主軸にあり、これが次第に
「大王システム」に取って代わられ、結果として
B神功皇后の時代には、毘売の形骸化した部分を再編成して「日売」として、
大王システムに組み込んだ。
という仮設も、ある程度筋がつながる話になってくる気がする。
386 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 20:54:44
か〜らまつ♪ か〜らまつ♪ か〜らまつ♪ ↑
太国♪ 太国♪ 太国 ♪ ↑
反論お願いします。
387 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 20:59:47
つまり、シャーマニズム女権(母権)統治システム=「毘売」が、モモソ以前
から臨機応変に存在し、モモソ姫で集大成され、その後モモソ姫の怪死と共に
「毘売」がインフレを起こし、各地や各要職に「毘売」が乱立して、かつての
王(オオキミ)と毘売の関係に、混乱が生じた。と仮定するとここら一帯が
シックリ来るのである。
毘売の職域が、以下の条件であるならば。
@「国(地方一国以上、地方数カ国以内、の統治範囲)」における政治事項・
外交事項・人事事項における最終決定権の保有。
A「国」における軍事機能の行使に関しては、大きくは影響力は保有しない。
但し、交戦の可否は上記の如しなので、交戦・停戦・各種条約・支配地処分に
関してその時々大小の政治的影響力を持つ。
B有事に関しては上記の如しで、平時においては祭祀と人事に限定された行事
を取り仕切る。
この役職が「毘売」の場合、各地の行政区分に必要に応じて、祭祀宣託の長と
して首都とその周辺に1〜数人の「毘売」がいてもおかしくない。
日本は慣習的に合議制である事も、このことからも自然に類推できるような気
もしてくる。
そして、上記のように「毘売」システムがある程度の実績を果たし、インフレ
を起こし、神功皇后の時代に「最大の矛盾」を引き起こした。仲哀天皇と
神功皇后の「外交方針」の衝突である。(外交以外にも国内政治や後継人事上
も大きな食い違いが生じていたのかもしれない)
よって、仲哀天皇は「神の怒りに触れた」という名目の怪死を遂げ、神功皇后
は「懐胎天皇」を腹に抱えたまま、海外遠征を強行し、(その戦可に疑問は
残るにせよ)戦勝し、その後、国内平定に向かい、国内の反神功勢力を
「謀反心有リ」として、一掃するのである。そして「日売」を称し「毘売」と
永遠に決別するのである。
さて、この新しい「日売」は、上記の「毘売」と、どのような違いがあるので
あろうか?そこらへんを説明する為には、この「懐胎天皇」のカラクリの説明
が必要になって来る。そして、この新たな「日売」をより確実な物にするため
に、「王」は単なる「王」であっては足らず、従って同時に「大王」と言う物
の必要性が増大して来るのである。
388 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 21:11:30
うあ、すげえ長文。
わっしーの奴
おれや、唐さん、太国さんを相手に
立ち技[文献]では分が悪いとふみ、寝ワザ[考古]勝負できたねw
唐さん、太国さん〜望み通り、寝ワザ[考古]で行って下さいなwww
おれもいってこよっとww Bye Bye
391 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/05(金) 21:37:39
卑弥呼を立てるとは、
すさぶる男達を無力にするには、なかに女を置く。
ただこれだけの話だ。
392 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 21:51:57
神功という後世代の大巫女にとって、モモセ姫という前世代の大巫女の失敗と
その後の惨劇は可能な限り勉強し回避しようとしただろうと思う。巫女にして
みれば宣託がいかに正しく宣託以外の怠惰や嫉妬等の要素で失敗した或いは、
失敗したと評価された案件のせいで殺されてしまうというのも、巫女からして
見れば忸怩たる思いも有った事かと思う。
「毘売」はそういったリスクに対する担保が全く無い。宣託により交戦を選ん
で万が一敗北したり不利益な状態で国交関係が着地した場合、責任を取らされ
て殺されるのは巫女(つまり神功にとっては自分)だ。宣託以降の全ての軍事
行事が一任された上でそれでの敗北で殺されるのが宣託者であるならばそれは
まだある程度の納得が行くかもしれないが、宣託はうまく行った。宣託どおり
に万民が一致して事を成したならば、宣託どおりに行ったかもしれない「微妙
案件」は、その結果に左右され、しかしながら巫女はそれこそ神功のように、
自ら出軍でもしない限りイクサの大戦略や外交の妙を、充分に宣託どおりに
取り計らう事はできない。だがしかしその結果責任を取らされるのは自分。
この「毘売」というシステムは、神功皇后にとっては非常に困ったシステムで
あり、ましてや仲哀天皇死没後の「自分の弱くて微妙な立場」にとっては後々
モモソ姫のように引責の怪死を迫られるリスクばかりが日増しに増して来る。
神功皇后でなくても、これは「何とかしなければならない」システム障害と
思うかもしれない。
393 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 21:56:53
そこで「毘売」を廃し「日売」にしたらどうか?という逃げ道が発生して来る
。つまり、従来の「毘売⇔王(大王)」の関係から一歩システム変更を加えた
「日売⇔王(大王)」の関係。神功皇后がモモソ姫から学び、自分(の宣託)
を確実に正統な物であったとする為にこの変更を行なったとしたら?
毘売よりも軍政における影響力を縮小し、その代わりにその結果責任の引責
リスクを最大限回避するような祭祀宣託機能だけに特化した役職、それが新し
い「日売」だとしたら?これなら「宣託の実行仮定」を、後に検証する事も
出来るので、その検証結果によって断罪引責されるならそれならば「巫女の
本分」として自分(及びその後の代々の巫女達)も納得が行くかもしれない。
「巫女の本分」としては託宣が正しかったか?正しくなかったか?だけが重要
要素なのであるから、もし宣託は問題無く100%正しい場合、それでも「不利益
的決着」を喫した案件に関しては、「その後の検証」を経た上で、自分の責任
なら引責、自分以外の要素での「不利益決着」であるならば、その要因と成っ
た者の処罰や、その要因になったシステム障害の是正と、「同様案件」への
より良い改善策が組めるようになる。
素朴な疑問だが、
何曾「これは司馬懿が公孫淵征伐の途中で死ぬかもわからんね」
「副官は母丘険でよくね?」
なぜこの結論に至ったかわからん。
母丘険は司馬懿と遜色ないほど能力高いのかなと。
誤爆?
誰でもいいから長文さんにアンカーつけろってw
長文さんはもう少し区切って書き込んで
長文さん
長レスもいいが、その半分ぐらいでいいと思う。
又、文章は区切ると読みやすくなる。
又、最後に『これについてみなさんどう思いますか?』とか
『○○さん どうおもいます?』とかを入力すると返事が返ってくるかもしれない。
文章は短くても駄目だし、長すぎても読みずらくなる。
5行〜10行ぐらいがベストかな?
2chの長いような人の文章をみて真似するといいよ。
398 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 00:31:53
あ、
平野 邦雄、榎 一雄は畿内説ではないので間違えないように・・・
さて、ねよう。
ねるぼ
402 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 01:46:05
403 :
どくだみ:2010/11/06(土) 02:14:09
>>384 ローガンさん。
朝鮮半島の風俗制度を知らないので、広開土王碑の読解は難しいですが、わかる範囲で。
「守墓人自今以後不得更相転賣」・・・(1)
守墓人を目的語として解釈できるのは、倒置された守墓人を元に戻した
「自今以後不得更相転賣守墓人」という文が成立するからです。
「其戸数道里可得略載」も「可得略載其戸数道里」が成立します。(主語は省略されています)
問題の文「而倭以辛卯年來渡□破」・・・(2)。
「倭」は「以辛卯年來渡」の部分の主語になってますので、
「而以辛卯年來渡□破倭」とすると文として成立しません。
(1)の文は、名詞だけが倒置されていて、(2)の文とはタイプが違うことがわかります。
だから(1)の文を引き合いに出して(2)の文の倭は目的語だとは言えません。
ところで「倭は辛卯年以来渡って、(これを=倭を)破った」という説では、
「倭以辛卯年來渡□破」の「来」や「渡」をどういう意味で訳しているのでしょう。
「以辛卯年來」は「辛卯年以来」と訳せるのでしょうか。
「渡って」とは具体的に海を渡るのではなく、時間経過を指しているのでしょうか。
こういう文字をなんとなくで解釈すると誤読の原因になりますので、
できたら正確なところをお願いします。
404 :
ローガン:2010/11/06(土) 15:43:56
>>403 >「倭以辛卯年來渡□破」の「来」や「渡」をどういう意味で訳しているのでしょう。
「來渡」と熟語で訳せないでしょうか?というのはこの文は永楽五年の末尾です。しかし、辛卯年ならその四年前になります。
そして、永楽六年以降、広開土王は百済戦、新羅救援戦、倭百済戦、東夫余戦と戦を繰り返します。
時系列で記述されていますが、件の記事のみ、四年前の干支であると云う事は、その後永楽十七年まで続く戦の、そもそもの経緯説明だと考える訳です。
この文より前に百済、新羅、倭は登場しません。よってこれは後に書かれた戦に先立つ、高句麗と3者の関係を経緯説明した、前置きの文であろうと云う解釈です。
405 :
ローガン:2010/11/06(土) 16:16:03
>「以辛卯年來」は「辛卯年以来」と訳せるのでしょうか。
「百殘新羅舊是屬民、由来朝貢」半島南部は高句麗の屬民の土地であると言っています。そこへ倭が、辛卯年に渡って来たと。
その八年後に百済が誓いを破り、倭と通じ戦になります。その前置き文とすれば、そもそも辛卯年が始まりな訳ですから、以来又は以降と訳して良いのではないですか?
> 「渡って」とは具体的に海を渡るのではなく、時間経過を指しているのでしょうか。
時間経過では無いでしょう。「杜契者,字廣平,京兆杜陵人。建安之初,來渡江東」これはネットで拾ったものですが、
同じ使い方ではないでしょうか?
> こういう文字をなんとなくで解釈すると誤読の原因になりますので、できたら正確なところをお願いします。
き、厳しい…。 叱られた。
406 :
どくだみ:2010/11/06(土) 19:09:08
>>405 いや叱ったわけではw
>そもそも辛卯年が始まりな訳ですから、以来又は以降と訳して良いのではないですか?
エピソードの流れとしてはそうなんですが、単に字の解釈なんです。
「以辛卯年來」を「辛卯年以来」と訳すのなら、「來」は時間的経過を意味し、
「倭がやって来た」という空間の移動を意味しないということになります。
そういう取り方が可能かということです。
普通は「辛卯の年を以て来る」と読むでしょう。
この場合その教授の説に従って「倭以辛卯年來渡□破」で切ると、
(□は海だとする釈文が多いので、それに従います)
「倭は辛卯の年に来て、海を渡って、(王が)破った」になりますが、
違和感を感じるんです。
順番として、「海を渡って」から「来る」でしょう。「来て」から「海を渡る」は変だなと。
この「來」を空間移動ではなく時間経過だと主張するなら、この順番の問題は生じないのですが。
いずれにせよ、
「倭は辛卯の年を以てきたり、海を渡って百殘□□新羅を破り、以て臣民と為した」
と來と渡の間で一旦切った方が自然ではないでしょうか。
407 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 19:28:46
>>396 ご指摘ありがとう。アンカーつけるともっと長文になります。区切るともっと
長文になります。
「アンカーつけろって言ってやって」「区切って書き込んだほうがいい(もし
くは区切って書き込まないと誰も読まないぞ)」と、書くと、だれに対して何
を言いたいかがハッキリしてきましょう。俺は単に誤読されて違訳されてこち
らの意図とは全くアサッテな反応をされたくないので詳細省略していない。
>>397 ご指摘ありがとう。長文短縮は仰るとおりですが、新概念をあえて説明する
為には、抽象表現と具体表現を重ねて表記する必要性が高まります。その二回
分が、片方邪魔だと言う貴殿の読解力はありがたいですが、ここに来られる方
みなみなさまが、貴殿並みの読解力があるとも期待できません。ご忠告は参考
にし、更なる短文章化には務めます。あ、俺はレス不足で困っているワケでは
無いので、その点は無用の心配です。
>>398 空想部分は誰しも半分程度はオナニーでしょう。具体指摘や反証を出さない
批判揶揄もまた等しくオナニー的要素もあります。俺の明らかな誤解や間違い
を、その個所を明確にして、具体例や証拠を出しながら反駁されれば済む事。
証拠A→「空白部分」→証拠Bの状態の場合、証拠Aと証拠Bの両方共が検証
可能な証拠Cと、そしてその方法論で「空白部分」を類推でつなげる思考が
全て「オナニー完結」と考えるならば、その思考は、前科学的で前近代的と
言わざるを得ません。同時代資料の魏志倭人伝と日本書紀と古事記を、都合
によって、その時々に「その証拠能力の可否」を勝手に決め付けるオナニー
に比べたら、俺のはまだ方法論的思索オナニーではないでしょうか?
さて、みなみなさまに多少のご迷惑や嫌悪感やご心配をおかけしている俺の
長文架空推察ですが、ま、峠も越して8割方言い終わりましたので、そろそろ
沈静短絡化するかと思います。あと数回だけご寛容な気持ちで読み飛ばして
頂ければ幸いです。
408 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 19:47:37
おげ、長文だ。
409 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 20:06:37
>>407 ここは2チャンです。空気読んでください。
410 :
ローガン:2010/11/06(土) 21:16:27
>>406 > 普通は「辛卯の年を以て来る」と読むでしょう。
ええ。鈴木靖民氏の釈文では「辛卯の年より以来(このかた)、海を渡りて百残を破り」です。
>「倭は辛卯の年に来て、海を渡って、(王が)破った」になりますが、違和感を感じるんです。
それは私の素人考えに拠るものでw、チョン氏の論文を紹介した李基白(翰林大学教授)によれば
「倭を主語に見ないで目的語に見る。『倭は辛卯年以来渡って破った』と読みまして、倭は目的語になり、それを破ったのが高句麗だというわけです。」(シンポジウム日韓古代史の謎p.106)
>來と渡の間で一旦切った方が自然ではないでしょうか。
確かにその通りかと。ただ後の方によく似た文があって
「廿年庚戌東夫余旧是?牟王属民中叛不貢…」が東夫余討伐の原因です。
同様に考えて、永楽六年、倭ではなく百済が攻められているという事は
「百残□□新羅以為臣民」とは、百済攻撃の原因を著したものではないでしょうか?
なら、破で文が終わり、百済が文頭ではないかなあと。接続詞もないし…。
411 :
どくだみ:2010/11/06(土) 21:40:49
>>410 ローガンさんに質問攻めをするのも何ですので、ちょっと話題をもどして
「攻める相手は倭の筈。」ということについて。
これは違うと思います。
百殘・新羅は旧来高句麗の属民だったのに、4年前に倭が攻めてきて服属させてしまった。
これは高句麗から見れば、百殘・新羅が高句麗を裏切って倭に付いたことになります。
高句麗は、反逆した百殘・新羅を懲らしめて、また服属させなければなりません。
実際、そうしました。六年に百殘王は「自誓従今以後永爲奴客」と服属を誓います。
ところが九年に「百残は誓に違い、倭と和通」します。
倭と和通するのは、六年の誓いに違うことです。
つまり六年の誓いは、倭とは縁を切って高句麗に服属しますという誓いだったわけです。
チョン氏のように読めば、この戦いに倭は無関係です。
なのに突然倭と和通すると出てきます。しかも、それは誓いに違う行為とされるのですが、理由がはっきりしません。
チョン氏のように読まず、普通に解釈すれば、なんの渋滞もなく、すっきり意味が通ります。
ボクはこのように読みますが、いかがですか。
412 :
どくだみ:2010/11/06(土) 22:00:57
>>410 連投すみません。
>鈴木靖民氏の釈文では「辛卯の年より以来(このかた)、海を渡りて百残を破り」です。
これは「辛卯の年を以て来る」とは違います。
鈴木氏の読みだと、「辛卯の年からずっと海を渡って百残を破り・・・」ですが、
ボクは「倭は辛卯の年に来た。海を渡って百残新羅を破り、臣民とした」だと思うのです。
「有生民以来(生民ありてより以来)」や「自是以来(是より以来)」などはよく見るのですが、
以と來の間に辛卯年を挟んだ形で「以来」と同じ意味、つまり
「辛卯の年より以来(このかた)」
と解釈できるのか疑問です。全否定する自信はありませんが。
まあ、こんなふうに來や渡にこだわっているので、
>『倭は辛卯年以来渡って破った』と読みまして
というのは、來と渡をどのように解釈しているんだと不思議で仕方ないんです。
漢文は文字の順番が重要なのに、順番は無視して、原文にある文字を適当に並べ替えて
解釈しているように思えます。
それとも、ハングルから日本語に訳す過程で何か齟齬があったのでしょうか。
一字一字、しっかり意味を詰めているのではなく、漠然とフィーリングで解釈しているような印象をうけます。
413 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 22:11:27
>漢文は文字の順番が重要
五胡十六国期からは介詞や助詞が多用されるので
語順は重要でなくなります。
明朝の八股文や清朝の四書文で規範文例が示されるまで
文法の混乱時期がかなり長く続きマス。
414 :
どくだみ:2010/11/06(土) 22:25:33
>>413 >文法の混乱時期がかなり長く続きマス。
だから全否定する自信は無いのですが、
それでも「以辛卯年來」と「辛卯年以来」が同じ意味というのは
乱暴じゃないですか。
415 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 22:42:49
ですから、以辛卯年の「以」は介詞的な位置にあり
違う意味にとる解釈もOKです。
4世紀〜14世紀の漢文は自分の好きなように解釈してください(爆)
416 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 22:54:46
>>409 ご自分が読解力も無く、また行間を読む努力もされないのに、他人に「空気を
読め」と言うのもいささか甘えが過ぎましょう。貴方自身の甘えは貴方自身の
問題の域を出ません。よって正式な抗議や批判とは到底受け入れられません。
さて、この「毘売」の具体例を古事記上の時系列順に列挙していきます。
[上巻(神代)]
タキリ毘売(アマテラスとスサノウの子、オオクニヌシの妻)
サヨリ毘売(アマテラスとスサノウの子)
スセリ毘売(スサノウの娘にしてオオクニヌシの妻)
ヒナラシ毘売(オオクニヌシの子孫のミカヌシヒコ神の妻)
アキ毘売(大年神の子孫のハヤマトノ神の娘)
コノハナノサクヤ毘売(大山津見神の娘にしてニニギノ命の妻)
トヨタマ毘売(ワタ(海)ノ神の娘にしてホオリノ命(山幸彦)の妻)
タマヨリ毘売(トヨタマ毘売の妹にして、イワレビコ命(神武天皇)の母)
417 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 23:00:47
[中巻(人皇)]
トミヤ毘売(神武の妻、神武東征先の王トミビコの妹、物部臣の祖)
カワマタ毘売(綏靖天皇の妻。姪の子が次の天皇)
ヨソタホ毘売(孝昭天皇の妻、次の天皇の母)
ヤマトトモモソ毘売(孝霊天皇の娘)
ハニヤス毘売(河内青玉の娘。孝元天皇との間にタケハニヤスビコ命を産む)
タカチナ毘売(孝元天皇の妻。山代の内臣の祖)
サホ毘売(開化天皇の娘にして垂仁天皇の妻、サホビコの乱のサホビコの妹)
(ホムツワケ命の母でもある)
イクタマヨリ毘売(オオタタネコ(三輪山(大物主の山)の神主)の母)
ヌバタノイリ毘売(垂仁天皇の妻にしてヒバス比売の妹)
(※ヒバス比売は垂仁天皇との間に次の天皇(景行天皇)と倭比売を産む)
アザミノイリ毘売(垂仁天皇の妻にしてヌバタイリ毘売の妹)
イワツク毘売(垂仁天皇の娘にしてヤマトタケル命の妻。仲哀天皇の母)
(※イワツク毘売は別名フタヂノイリ毘売)
ミハカシ毘売(日向出身。景行天皇の妻)
[※中巻の仲哀・応神天皇以降]
→毘売:ほとんど無し。
→日売:オキナガタラシ日売以降、毘売の呼称は激減、代わりに日売と郎女
(イラツメ)の呼称は増える。比売の呼称は継続して使用されている。
>>415 >4世紀〜14世紀の漢文は自分の好きなように解釈してください(爆)
なぜ三世紀はその範囲に含まれないのでしょう?
419 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/06(土) 23:03:52
晉書卷一百九 載記第九 慕容皝慕容翰 陽裕 より
咸康(335年-342年)七年,皝遷都龍城。率勁卒四萬,入自南陝,以伐宇文、高句麗,又使翰及子垂為前鋒,
句麗、百濟及宇文、段部之人,皆兵勢所徙,非如中國慕義而至,咸有思歸之心。
340年頃、百済は大国として存在する。
「百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。而倭、以辛卯年來、渡□破百殘、□□新羅、以爲臣民」
倭が「辛卯年」(391年)に海を渡って朝鮮半島にやってきて…
340年代に大国である百済を390年頃 屬民とする…不可能です。
331年に、百済に倭国が強力して、楽浪を百済の領土とする。だから340年代に百済は、大国として存在する。
400年前後、百済は高句麗に敗退する。その原因は、「皆兵勢所徙」つまり歩行軍である。
高句麗が騎馬軍を手に入れていたら、ひとたまりもない。
5世紀の古墳に馬具が副葬される。
420 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 23:06:42
>>418 まだ晋という国が洛陽など中原を実行支配していたからです
421 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 23:42:32
さて、このように列挙してみると古代における「毘売」の特徴(「比売」との
差別化)が浮き彫りになって来る。一見、神としての天皇の妻や神そのものの
妻や次代の天皇の母が単に「毘売」と呼称されていると錯覚しがちだが、その
条件に相当してなお「毘売」と表記されない女性もいる。例えば上記のヒバス
比売とかだ。つまり単に神や天皇の妻という事だけや次の天皇の母という事だ
けが「毘売」の条件とは必ずしも言えない。なら何が「毘売」の前提条件か?
それは神の妻(あるいは天皇の妻)でかつ何か付帯する条件があると考える
べきだ。
次の天皇の母が「毘売」と呼ばれている事例は、タマヨリ毘売からイワツク
毘売の間に集約されている。つまりモモソ姫を中心とするこの前後の期間に
おいて「毘売」が最大発生しているのだ。この傾向が物語る物は何か?
そこで思い出されるのが、先述した後代の「懐胎天皇」と言う概念だ。今の
人間天皇の時代には些か神話的すぎる話だが、当時の天皇と言えば例え母親の
お腹の中にいたとしても神は神である。そしてその「懐胎天皇(つまり懐胎
神)」の新概念を、神功皇后が、一代の奇抜発想のみで、故習や並み居る皇位
継承ライバルを尻目に勝手に遂行できるであろうか?答えは否だと思う。だが
それ(懐胎天皇)が故習に半分のっとった改訂版だとしたらどうか?それは
可能そうだ。
「次世代天皇の後見としての母が天皇の如く振舞う」必要が大いにある場合
(に限り)「毘売」と言う呼称で比売と差別化を図り必要が、女社会的には
存在したならばこれは一つ筋が通る話ではある。毘売にも天皇に匹敵する程度
の「権威権力(及びその結果責任)」を保有していた古代(少なくとも神功
皇后未然は)という図式が浮き上がって来る。この仮説の上に立てば、天皇が
幼帝の場合か耄碌し過ぎている場合は「毘売」が天皇に代行して政務や外交を
一手に担当する可能性も大いに生じてくる。
もし「ヒミコと外国から言われる女性が倭人分布域で大和王権の影響範囲内に
存在する」ならそれは記紀にて「毘売」と呼称されている女性である可能性が
高い。そして「毘売」に与えられている「国」が当時「女王国(国内国家、或
いは近隣恭順国家として)」と呼ばれていた可能性が高いと俺は思う。
422 :
ローガン:2010/11/07(日) 00:05:15
>>411 >ボクはこのように読みますが、いかがですか。
付け焼き刃というか、もとより底が浅いので、 いかがですかと言われても 返す言葉が…
もっと勉強してからにします。 ありがとうございました。又色々教えてください。
423 :
どくだみ:2010/11/07(日) 00:41:24
>>422 > ありがとうございました。又色々教えてください。
こちらこそ。お題を与えてもらうと勉強になるので、また何かあったらお願いします。
ついでに、チョン氏説の残りの疑問点を書いておきます。
永楽五年乙未の年に高句麗が倭を破ったのなら、辛卯の年から四年たっています。
それが百済新羅と無関係なら、倭は半島の百済新羅以外のどこかに四年間居座ったことになります。
その地名が書いてないのはおかしいです。好太王はどこで倭と戦ったのでしょう。
それから、この碑文は、好太王が制圧した城をしつこいくらい列挙しているのに、
四年間も居座り続けた倭を追い出すという大戦果を「破」一字で片づけるのも納得できません。
むしろ「倭が辛卯の年に襲ってきたので、王が海を渡って逆襲して倭を破った」という方が
文法・文脈的には、まだしも説得力があるように感じます。
424 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/11/07(日) 09:47:03
>>421 毘売とか日売とか比売とか、「ひめ」という発音に”記紀を書くとき”にあてた漢字だから、
書くときの意図が反映されてはいるのだろうが、その人物が生きていた時に毘売とか日売とかを当ててた訳ではなく、
当然、それらの使い分けが、当時の人にあったなどと考えるのは、妄想の域を出ないと考えます。
425 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 10:08:03
>>415 普通に読んで倭が破ったで意味が通るんだから、そんなにして無理くり倭を破ったと読むことないと思うよ。
426 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 11:33:43
来駕=馬車に乗って来る。来渡海=海を渡って来る。それだけのことじゃないか?
もし本当に広開土王が海を渡って倭を破ったのなら、
他の部分に倭を服属させたと堂々と書いてるだろうな。
なにせ高句麗側の資料なんだし。
帯方界への倭の侵入記事も意味不明じゃね?
>>426 来航は使うが来航海は無いからなあ。来渡海=海を渡って来るには不自然さを感じる。
429 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/07(日) 19:01:59
>帯方界への倭の侵入記事も意味不明じゃね?
391年とするから意味不明となる。
『咸安二年[372]春正月辛丑、百濟、林邑王、各遣使貢方物。六月、遣使拝百濟王餘句、爲鎭東將軍
領樂浪太守。』(晋書簡文帝紀)
六月、使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。》
これによると、咸安二年[372]に東晋から百済へ册封使が派遣されています。
372年の時点で、楽浪は百済の領土である。
だから、辛卯の年とは、これ以前でなければ成立しない。
神功49年は、323年になります。であるならば、313年辛卯の年 百済と倭は、帯方楽浪を領土とする。
396年にこの方面を高句麗に奪われる。400年には倭は伽耶に追い詰められる。
これを跳ね返すため、帯方方面へ船団を組んで攻め込むが、倭は敗退する。
そして407年には、百済に高句麗軍が駐留する。この時代にソウル夢村洞城に高句麗型墳墓が作られる。
413年、高句麗と倭国は、共に東晋へ朝貢する。
(宋書高句麗伝) [王連]を以って、使持節・都督營州諸軍事・征東將軍・高句驪王・樂浪公と爲す。
『義熈起居注曰「倭國、獻貂皮・人參等。詔賜細笙麝香。」』(太平御覧麝条)
倭國、獻貂皮・人參等。倭国のお土産虎皮、人参。
434 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 00:16:55
壱岐→(千里)→佐賀県北岸→(東南に陸行五百里)→佐賀県南岸→(水行二十
日)→島原天草あたり→(水行十日)→熊本と鹿児島の境あたりに上陸→(陸行
一月)→宮崎か鹿児島のどこか
と考えれば南九州だろう。距離が間違ってるとか方向が間違ってるなどと言う必
要はない。そのまま素直に解釈すればこうなる。時間がかかるのは、悪天候や山
道や重い荷物のため。土佐日記みたいに悪天候でなかなか進めなかったのだろう。
卑弥呼は多分隼人、熊襲。邪馬台国の後に書いてある国々は南西諸島。
末盧国から東南に陸行と書いてあるのに福岡方面(北東)に進んだなどと考える
から、畿内だとか北九州だなどというおかしな結論に至る。「糸島」という地名
や福岡の金印に惑わされすぎ。
435 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 00:23:40
邪馬台国と「ヤマト」も関係ない。
中国人から見れば隼人や熊襲も畿内王朝も全部同じに見える。
だから、邪馬台国が衰退して畿内王朝が九州を支配したときも邪馬台国と混同し
て「ヤマト」と読んだ。日本人も中国人に「ヤマト」と言われるのでいつのまに
か自ら「ヤマト」と言うようになった。
436 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 00:52:33
>>424 >その人物が生きていた時に毘売とか日売とかを当ててた訳ではなく、それら
の使い分けが、当時の人にあったなどと考えるのは、妄想の域を出ないと考え
ます。
ご指摘は正鵠そのとおりです。鋭い指摘ありがとう。古事記編纂においては
7世紀前半、日本書紀においては7世紀後半の「役職・政治概念」を中心に
編集や概念構成をしていると考えるのが普通ですね。そこは否定しません。
その意味では勿論「生きていた当時の上下関係」をそのまま記紀が100%再現
したノンフィクションだとも思いません。
但し、もう一方考えてもらいたいのは、例えば記録上から過去のご先祖様の
お名前や役職を現代において探す時、取り合えず現代概念からはチンプンカン
プンであろうとも最初は「文字通り」拾うしかありません。例えば、ご先祖様
が「ABC将軍」でその戒名が「DEF居士」だった場合取り合えず「将軍
って何?居士って何?」がわからなくとも、一旦書かれているとおりに「〜〜
将軍」「〜〜居士」と伝達表記するしかありません。然る後に当時の政治環境
を机上で再構築するわけですが、その際には当然「編集時の政治環境概念」の
フィルターがかかってしまいます。つまり「とりあえず拾う作業」をした
のが失われた旧辞・帝紀で、拾ってみたけど7世紀の人にはチンプンカンプン
だったので記紀の編集の必要が生じたという通説に俺個人も全く疑問を抱き
ません。が但し、
> それらの使い分けが、当時の人にあったなどと考えるのは
という貴方のご指摘の部分には100%賛同は出来ません。なぜなら後代とは言
え、いや後代だからこそ先祖代々の「当時名称」は可能な限り当時のままで
表記しよう・表記したいと考えるのが自然な道理や感情ではないかと思われる
からです。
437 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 00:56:40
>>436続き
ご先祖様やその当時の偉人(と貴方が考える人)の当時の正式名称
や当時の正式な最高役職を、後代の編纂者の一存で変えられる範囲は非常に
限られてきます。例え「当て字」をしたのが後代であっても、少なくとも
「彼らをご先祖」としているその子孫(真偽は不問ですが)や、その関係者
が多数支配者層に現存する7世紀の大和王権の記紀編集プロジェクトチームに
とってその「当て字」の方法論は、大きく間違えたら当代の氏族達にとっては
「大問題」と成りかねません。例えばAの先祖は甲という尊称が用いられBの
先祖は乙という尊称が用いられている場合、甲>乙が確定すれば、A甲>B乙
となりますが、もし当時は甲<乙だとすればA甲<B乙となり階位序列は真逆
になります。従ってこの正確さは後代(つまり記紀編集当代)と言えども、
慎重を期した筈です。
貴方のご指摘の部分の「音による後代の当て字」という部分はこれは通説どお
りであるし私もそれ自体に疑問は抱きませんが、その中で音としては同じ
「ヒメ」にあえて「比売」「毘売」「日売」と表記し分けているという古事記
の事実もこれまたまったく別の方法論でも構築しない限り無視はしにくい
でしょう。無視できない以上この表記違いにはある程度の「音」以外の「訓」
的な区別論が編集当代に既にある程度あったと考える方が自然でしょう。
(つまり音をランダムに当てた以上の意味があるって事)
438 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 01:03:18
>>437続き
なぜなら音さえ同じなら何でもいいならば@全て同じ文字になっても構わない
ワケだしA逆に全くランダムに「比」「毘」「日」を配してもこれまた構わ
ないワケです。しかし先日列挙したように古事記において「比」「毘」「日」
は、ある程度のカテゴライズできるような使われ方記され方をされているのが
実情です。つまり上記@ともAとも考えにくい。表音文字の域を出て表意文字
(になろうとしている事)の証左にもなろうかと思われます。主人公時代の
当時に記紀が記すような「ヒメ」の違いが全く無かったとしたら逆に「敢えて
その表記文字を書き分ける」方が、後代意図的だし不遜だし編集時代の氏族関
係にわざわざ記紀起因にて「大問題」を引き起こしかねません。後代編集と
言えども編集当時の大和王権も謀反や乱が適度に起こる時代でもあり、わざ
わざ国書でそこまでのリスクを呼び込む道理も必要も無い筈です。
以上、「妄想の域」を出るかどうか?は以上の文章と、先日の「毘売」列挙に
て替えさせて頂きます。勿論信じるか信じないかは貴方次第ですが。;^^A
439 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 11:49:41
>>434 佐賀県南岸まで行ったら、そこは海岸。伊都国から南へ水行できる。奴国や
不弥国を訪ねる必要はない。
ということは、伊都国から先を放射式に読むべきことは明らかでしょう。
440 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 15:50:23
441 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 18:24:11
つーかね、三国志の他の記述はどうなの。
そもそも距離とか方向とか信用できるわけ?
442 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 18:57:28
信用できるよ。
倭人伝をまだ紀行文のように扱ってるのがいるんだな
444 :
102:2010/11/08(月) 19:45:19
>>441 先日のtaro氏の説を検証していてわかったんですが、
夷陵の戦いでは実測およそ400里くらいのところを五、六百里
500里くらいのところを七百里。
駱谷道や僞塞のところでは、
実質200〜300里の数値を数百里と書いてあります。
地図上で測った値と、当時の人の歩測?の違いがあるだろうから、
これを即誇大表記と言っていいかはわかりませんが、
その程度のずれはありそうです。
東夷伝と他の部分では、元にした史料が全然違うでしょうから、
同列には評価できないと思いますが。
445 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/08(月) 21:10:36
辛卯年を391年としては、碑文の文意に合わない。
朴:倭は朝鮮に一旦来て、また海を渡ったとなるから、これはすなわち自分の国に帰っていったと
しかなりようがない。
朴氏の主張は正しい。だから辛卯年を391年と出来ない。現在、韓国にある文献。
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年。
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦(千熊長彦)美而善弁
与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我(百済) 亦帰于麗(高句麗)。
3月 また扶余の流民30戸が来降した、扶余は倭と相通じている。(倭は)年年その民を受け入れ都や村に散置した。千熊長彦は、良く弁舌がたつ、民(扶余)と相通じ、(彼らは)その言葉を聞
き入れた。故に国人(楽浪、帯方の民)はその多くが倭に従う、或いは百済、または高句麗に帰属
する。
この癸未年は、323年癸未年、神功49年である。
326年 七支刀。
323年に渡海し、半島を占拠した倭は、一旦帰国するが、331辛卯年また渡海し、百済と共同で
楽浪、帯方を領土とする。
河内の巨大古墳は、この朝貢を原資として作られる。
446 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 21:10:40
「音あて漢字」で、気になっていた事をこの際調べてみた。
「邪馬台」と言う漢字であるが、外堀を埋めるつもりで、古事記中巻にて検証
したところ、当たり前ではあるが、音比較だけなら、全く違う結果になった。
まず、「台」という漢字が古事記中巻では一切使用されていない。そして、そ
の他の漢字を音あて比較だけであてこむと、その音は「ザマ○」もしくは
「ザウマ○」としか読めない事が判明。古事記中巻の当て字方法論だけで
あてこむなら、ヤマトなら夜麻(or真or馬)登となる可能性が高く、ヤマタイ
なら夜麻(or真or馬)多伊となる可能性が高い。
つまり、ま当然と言えば当然ですが、「邪馬台」という音読みのあてこみは、
古事記の漢字あてこみ方法論では、間違いなく説明できない事を外堀にて埋め
てみました。これに関しては魏志倭人伝の音読みアプローチ(つまり、当時
中国人が作った外来造語)として検証するしか他方法が無いと言えましょう。
447 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 00:29:05
■大阪府立弥生文化博物館
◆考古学セミナー
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/lecturer/index.html 考古学セミナー 第3回 2010年11月 6日(土)
『九州の邪馬台国事情』
坂元雄紀氏(九州国立博物館)
考古学セミナー 追加 2010年11月19日(金)午後2時〜3時30分
『邪馬台国大和説の盲点』
財団法人大阪府文化財センター 藤田憲司
考古学セミナー 第4回 2010年11月28日(日)
『東アジアの巨大墳と卑弥呼の「大冢」』
菅谷文則氏(奈良県立橿原考古学研究所所長)
--------------------------------------------------------------------------------
場 所:大阪府立弥生文化博物館1階ホール
時 間:午後2時〜4時
定 員:170名(当日先着順 午後0時30分から整理券配布・午後1時30分から受付)
448 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 07:04:46
449 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 07:18:16
448:日本@名無史さん :2010/11/09(火) 07:04:46
>>440 「南・・水行」と書いてあるね。
日本語ならそれでよかったのに
でも、日本語じゃないから
450 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 08:12:42
あなたのレスは日本語になってないようだ。
451 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/09(火) 11:01:40
南へ(行けば)邪馬台国へ至、と女王国より北の旁國は、 ここで方角に齟齬を生じている。
この齟齬は、晋書により訂正される。「正始元年春正月,東倭重譯納貢,」この東倭とは、邪馬台国
と表記された大和であり、方角が「南」から「東」へ変更されている。
452 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/09(火) 11:11:43
狂っているらしい?w
東倭とは大陸から観て東方に在る倭という意味で、日本の中で観ての
九州から東方所在の畿内、大和のことではな〜い。このへんが唐松山という
野郎の妄想菌が爆発発生する奴の脳内シャーレだということだ。ww
453 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 11:11:58
>>451 東は東、南は南
魏志と晋書を比較しても意味ないし、晋書には晋書の意図で読みましょう
魏志倭人伝に書かれている、正始元年の記事は
朝貢外交に対する返礼記事。一方、晋書の記事は
ただの納貢行為
朝貢と納貢を、同じレベルで扱ってはいけません。
しかも、ちゃんと東倭と書いてあるでしょ。東と書けば、必ず対的な西が存在する。
455 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/09(火) 11:28:01
こういう判断を毎回やって基点をズラす唐松山は、紀の神功元年前年の天空
暗黒の記事を日食だと、矛盾を踏み倒してゴリ押しの最中である。
日を経てという数日間の暗黒が続いた文面が日食には到底ならない。日食は
たかが1〜2時間の暗黒現象であるから、一見似ているようで数日間では非の
ものである。こういうデタラメを奴は平気で頑張り、主張を繰り返している。
これはニガクリタけをクリタケだとか主張して言い張っているのと同然の
唐松山の極めて重大な過失であって、これは奴の脳内にカルト・ホツマ教
という狂信のエイリアンが寄生同化していうためであり、奴はその指令
たる景行重視の妄想に従って脳内がこの寄生虫の操作によって傀儡されて
いるのだ。ww
かようなニガクリタケをクリタケだとか言うのと同然の主張に各々方は
騙されてはならず、唐松山は食中毒論を各々方に薦める(食べさせようと
の)行為をしている男であり、いわば奴は日食中毒野郎だということで
あるのだ。
456 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/09(火) 11:53:41
>紀の神功元年前年の天空
暗黒の記事を日食だと、矛盾を踏み倒してゴリ押しの最中である。
日食でなければ「あづないの罪」をどう解釈し、その出来事を神功元年に持ってくる。
ここで初めて、反論したことになる。
だから太国の主張は、主張になっていない。ただのイヤガラセ。
457 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/09(火) 11:55:19
>東倭とは大陸から観て東方に在る倭という意味で、
であるならば、「倭国」は何処にある?
>>452 >東倭とは大陸から観て東方に在る倭という意味で
それはありえません。
晋書には四夷伝東夷条として紹介されているので、改めて
大陸からの視線で東とする事はありません。
この場合、倭を東西に二分した東側という意味です
459 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/09(火) 12:20:55
>東倭と書いてあるでしょ。東と書けば、必ず対的な西が存在する。
西は、九州倭国の後の姿である 女王国である。
女王国が伊都国を傘下とする時代である。
女王、男王と相次いで死亡した時代は、まだ倭国は分立し乱は平定されていない。
壹與の時代に大倭は、伊都国へ1大率を置き、平定した国々ににらみをきかす。
諸国が畏れ憚る軍隊である。
この時代から、全国各地に前方後円墳が作られる。
前方後円墳は、大倭により各地にばらまかれる。日本は、大倭に統一され、神功の渡海へつながる。
274年 神功渡海 翌年が神功元年
323年 神功49年 半島占拠
326年 神功51年 七支刀
331年 好太王碑辛卯年 而倭以二辛卯年一来[二高句麗一],渡レ海レ破[倭],百残聯二侵新羅一[太王]以為,臣民・・・
百済と倭は、楽浪郡まで領土を広げる。遼西もこの時?
372年 咸安二年 使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。
413年 義熈九年 高句驪王[王連]を以って、樂浪公と爲す。
『咸安二年[372]春正月辛丑、百濟、林邑王、各遣使貢方物。六月、遣使拝百濟王餘句、爲鎭東將軍
領樂浪太守。』(晋書簡文帝紀)
『義熈起居注曰「倭國、獻貂皮・人參等。詔賜細笙麝香。」』(太平御覧麝条)
六月、使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。》
これによると、咸安二年[372]に東晋から百済へ册封使が派遣されています。
東晋から倭国へ册封使がへ派遣されたであろうと考えます。
仁徳天皇紀には次の記事があります。仁徳天皇五八年(庚午三七〇)十月。呉國。高麗國並朝貢。
仁徳紀は、313年から399年である、この数字は縮められない、
413年 允恭2年 高句麗と倭は 東晋へ朝貢する。
この時百済は、高句麗国の中に百済王映として存在。
460 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/11/09(火) 12:59:50
>>459 司馬懿の時代、東倭と書かれていれば
西倭が存在したというだけの話で、そこに尾鰭は必要ありません。
その東倭が正始元年に、納貢したという記録です。
461 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/11/09(火) 13:08:20
因みに、この東倭の納貢行為は
魏志倭人伝には一切記録されていません。当然と言ったら当然なんですが
魏志倭人伝の記事とは全く別物です
462 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 14:57:33
倭に東も西もあるものか。「東、倭が重譯納貢」と読むんだよ。
463 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 15:08:39
>>451 晋書には以下のように書かれている。東倭という文字はない。君の見た本は一体何なのだ?
宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絶。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
464 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 15:28:27
465 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 15:35:15
466 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 17:02:04
織田信長と徳川家康の間に生涯の同盟があったように、西倭と東倭にも大敵や
同一神話体系を共有した隔世代同盟があったとしたら?そして、その東西同盟
は、後代吸収合併が叶った為に、その東西のそれまでの差異は記録表記の必要性
があまりない(あるいは意図的に薄い意識にさせられて行った)としたら?
という筋は、筋としては面白い。
467 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 17:38:25
古事記で、東西を匂わせるような、所謂九州と近畿の葛藤は数回見られる。
@タケミカヅチノ神小浜上陸(コトシロヌシノ神とタケミナカタノ神の制圧)
Aイワレヒコ(神武)による所謂東征プロジェクト
Bヤマトタケルのクマソ征伐
C景行天皇と日向のミハカシ毘売との婚姻
D神功皇后(&仲哀天皇)時代のオシクマ王(忍熊王)の乱
勿論古い時代の地理に関して、古事記の記述を100%信じる事は難しいが、少な
くとも、大きくずれていたりよっぽど周到にイレカエでもしない限り、古事記
内で複数表記などで傍証される地域地名はある程度は信憑性があると思う。
その信憑性を元に、確実に「東西の葛藤」と類推できる案件は、古事記中巻に
て代表的な物は上記5件だ。
468 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/09(火) 17:45:13
改めて書くことはあると思う。東倭は大陸から観てのことだな。大陸の東に
ある倭という意味だよ。
469 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 17:59:18
例えばあくまでも例として出すが、ご年配の方には記憶の端にあるだろうが、
ベトナム戦争時に確実にあった、「北ベトナム」と「南ベトナム」であるが、
これが、ベトナム戦争も終り、ある程度の一国となった今となっては、この
差異が無いどころか、「あれ?結局今のベトナムって、元北だっけ?元南?」
というのすらわからない一般認識となる。
つまり、例えば同盟国視点から見て、「北(南)を強調する」としたら、そこ
にはある程度の政治的意図が当時あったと考えてみることも可能だ。つまり、
「東倭」の名称が残り、「西倭」の名称が残存しなかった可能性ね。
470 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/09(火) 18:00:26
>>456 あづないでチョロまかすな。w
あづないがあると日食が数日間になるわけがな〜い。それがあろうがなか
ろうが、数日間の日食はな〜い。
オマエは食中毒の毒キノコを軽視しており、日食中毒の妄想だ。
471 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 18:15:58
東倭にはある程度一目おける強国があり、倭人分布域西半分には、小国乱立で
しかも攻防を繰り返している、という状況なら、そして「晋視点」では、とり
あえず東倭と結びこの西倭人分布域を晋と東倭で左右から治めて行こうという
思惑なら、そのような表記(つまり東倭の表記)も至極自然ではある。
ま、だからと言って、所謂東夷西絨的な呼び分け区分としての「東倭」名称
もそれ以上に自然である事は否定はしないが。
だがそれなら倭人では無く夷人と呼称してもいいと言う理屈も生じてくるが。
(つまり、なぜ東夷ではなく、東倭なのか?という小理窟ではあるが)
>>468 >東倭は大陸から観てのことだな。大陸の東に
ある倭という意味だよ。
それなら「倭在京師之東」でしょ
473 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/09(火) 18:36:06
まぁそういう書き方もあるでしょう。
ですが最初 東夷条 とあるなら、この東のこと、つまり大陸から東にある倭
の意味でしょうが。河童さんの言い分なら東夷の題名は紛らわしくてつけ
ず、別の東の無い倭の題名とするでしょう。
北と書けば、必ず対的な南が存在する。
この場合、京を南北に二分した北側という意味です
北京原人と書かれていれば
南京原人が存在したというだけの話で、そこに尾鰭は必要ありません。
475 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/09(火) 20:28:54
倭国(九州)
倭女王=大乱の国に立てられた女王 神夏磯姫(カンカシヒメ)か?男王の斎王?
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下 斗は書紀
東倭=邪馬台国=大和
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
倭王←タリヒコ =景行
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
狗奴國=女王国の南にある。狗古智卑狗?
イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
倭人伝登場人物は、2グループに分けられる。
この2グループが協力して”大乱”を終息させる。
476 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 20:50:24
だいたい春分秋分に太陽に向かって股をおっぴろげてオナってたわけでしょ?
遠隔透視では卑弥呼は山口県長門市の出身なんだとさ。
で邪馬台国の首都は奈良の桜井市で夏はここで政治を行ったが
冬は山口県下関市の豊田湖畔で政治を行ったらしい。
で墓はその豊田湖畔の安徳天皇陵参考地なんだとさ。
佐賀県涙目w
478 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 21:02:32
天橋立は神の国からの架け橋。
まあ、現実は半島からの渡来人は若狭湾に上陸した。
対馬海峡、玄界灘は潮流は速くて小船では渡れません。
479 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/09(火) 21:33:53
>>475 臣下 伊支馬≠天皇 イクメイリヒコ
まるでカキシメジがシメジだとか言ってるインチキ論であり、あるいは
ニガクリタケがクリタケだと主張しているデタラメ論であり、唐松山の
【極めて重大なる過失】の判断からのイカサマ論であ〜る。
映画の「猿の惑星」を地に行く空想小説的盲象論はなはだしく、猿が人間
を支配し人間が猿に支配される的のいい加減な精神科行きの妄想なの
であ〜る。wwwww
>>478 おめえさんが渡れようが渡れまいが、知ったこっちゃねえってことで
東倭だってwwwwwwwwwwwwww
ここは、いつヵら初心者専門スレになったんだぃ?(笑)
二人(唐さん、もん太君)とも勘弁してょ〜恥ズかちぃ(‖0‖)
>太国 ◆yVAs7uaYlY
太国のおっさんも大変だね アハハッ(笑)
おれは鷲崎さんとこ行ってくるので〜後はおっさん一人で頑張ってwww
483 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 00:42:51
さて、先述の古事記における、九州と近畿との関係であるが、@〜Dを見比べて
みると、一つの面白い構造が浮かび上がってくる。
@Aはアマテラスによる近畿制圧プログラムとして見て取れる。
Bは九州と近畿の対立の九州(において)版であり、@Aの総括とも見て取れる。
CDは九州勢力と近畿勢力の吸収融合(どちらが主体かは不問)とも見て取れる。
古事記に准じた流れを信用するなら、近畿王朝は、九州王朝の派遣した軍閥
王朝であり、後にこの軍閥王朝が、北九州(この場合は本国)を吸収包括した
という筋が自然になる。(対出雲の大国主の子孫との関係もあるし)
また、古事記が後代編集である事から考え、必ずしも信用できない場合、何故
に古事記は上記のような筋にしたのか?という問題が発生する。もし100%空想
であるならば、@Aが二回に分けて描かれる必要性も薄く、CDのような中央
と地方の婚跡(政略結婚)に関してもこれも細かくは描く必要も薄い。
実際、@Aは実にリアリスティックな描かれ方でありCDはむしろかなり簡素
な表現であるので、ここらへんが古事記編纂の意図と邪推してしまう。
(C:神功皇后に関しては、戦果や皇后政務に関しては丁寧な描写にはなって
いるが、神功皇后の出自や親類関係に関しては、むしろ数代先代に付記し、
「神話時代」の記載部分近くにわざわざ持ってきている)
つまり、古事記編集者は(うがった見方をすれば)「大和王権が九州勢力と
政略結婚を積極的に繰り返した」CDの時代に関しては、上記のように多少の
記述トリックを用いて印象薄にしているとも思えて来るのだ。
東征はリアリスティックに余す事無く描ききろうとしているのに、近畿の九州
への政略結婚は、かなり簡素なのだ。Bでヤマトタケルの大活躍を神話的に
描くのなら、当然その後のCDも、それ相応のダイナミックなリアリズムを
もって描いても良さそうなものなのに、と素人読者としては少し憤懣が残る。
>>472 > >東倭は大陸から観てのことだな。大陸の東に
> ある倭という意味だよ。
>
>
> それなら「倭在京師之東」でしょ
またまた、陳腐な嘘を書く、つーか日本語も満足に読めていない。
京師之東と大陸の東じゃ、意味が違うだろう。
大陸は東の端っこまで「京師」なのかw
485 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 00:55:36
この傾向から古事記編纂者の意図を想像してみると、東征計画(@A)はより
重篤に、九州豪族の政略結婚吸収はより簡素に、それぞれ意図的に表記配分し
たのではないかと思われてくる。
だが勿論「国家の記録」であるから、(意図せぬ)大間違いや、(意図せぬ)
記載漏れは、可能な限り避けなければならない。(それぞれの登場人物の子孫
氏族のために)よって、Cにおいては神功皇后の戦果を強調し皇后自体の出自
や縁戚背後関係を可能な限り「別の場所」に分散記載し、Dにおいては婚姻が
あって誰々が生まれたよとさらっとだけ表記した、とも考えられる。
さて、ここからが「もし」だが、この政略結婚プロジェクトこそ、大和(軍閥
)王権の九州(本国)乗っ取り計画だったとしたら、どうだろうか?(ちなみ
に俺がヒミコの時代と現段階で仮定している時期はこの上記の@〜Dにおいて
はAとBの間に当たる)
486 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 01:17:43
もし、上記の仮定(大和により九州のっとり政略結婚)だとしたら、@A時代に
おいて、まだまだ九州の権威が(権威上は)大和より強かったとも考えられるし
事実、@とBの時代において、イワレヒコ(神武)は宇佐(神宮)に東征の前に
立ち寄っているし(日本書紀ではウサツ姫を部下と婚姻させている)Bは直接
宇佐とは関係無いが、当時の伊勢(神宮)の女王のヤマト姫(タケルの大叔母
)から借りた「女物の着物(巫女着?)」を、九州にて、クマソタケル討伐の
為に「着」ている。
これらの例から、@〜Bの時代、近畿と北九州との少なくとも「権威上」の
上下関係は推察されて来る。Bのように、(元)本国のお膝元で軍事行動を
とる場合には、「神のご加護」が名実共に必要だったヤマトタケルの奇策も
これも、この筋だとある程度自然にも思えて来る。
さて、そうであるならある程、ましてや後のCDが全く解せぬ、と言う話に
なって来るのである。Bでヤマトタケルという神話的な英雄に「女装」まで
させた奇策を用いて、近畿が北九州に「配慮している」とも思える表記なのに
比べて、先述どおり、CDにおけるそういった「配慮」は、一切無い。
これは、CDの時代には、「配慮する必要があまり無くなった」と考える方が
自然に思える。では、C(D)の時期に何があったか?そう、当然神功皇后の
権力掌握そのものである。神功皇后が、もし九州王権の「権威と権力の象徴で
あり、権化」であるならば、D以降の時代の大和の天皇の子孫は全て神功皇后
の子孫なワケだから、もう「九州に気を使う」必要は全く無くなるのである。
487 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 01:21:56
もん太波のやつがきているな。
488 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 01:27:50
さて、そうこう類推してみると、何か、この頃の古代日本には、中世の日本に
存在する「禅僧ネットワーク」にも似た、「巫女ネットワーク」のような見え
ない網の目が存在していたかのようにも思えて来る。
例え武力で制圧しても、出雲のように大社殿を建築したりクマソのように名受
けをして敗者に礼をつくしたりと、何かと「キレイゴト」が多い記紀表記では
あるが、勿論、その方が征服氏族を後々支配しやすいという実の面も大きい
だろうが、「目に見えないものへの畏怖」も同様に大きい事も無視できない。
つまり、古代日本においては、敵の人間と戦う以上に、敵の神からのタタリを
どう抑制するか?もこれまた大きな当時の政治課題であったと考えれば、この
「禅僧」が如く機能していたかもしれない「巫女ネットワーク」という架空も
あながち単なる夢物語とも考えにくい。
489 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/11/10(水) 06:41:01
>>484 そうだよ
当時大陸なんて概念ないからね
つーか、太国さんもそういう意味で言ってるし
>>489 >つーか、
おう もん太君。
一つ質問していいかい?(深刻な悩みなんだw)
もん太君の師匠さんって、みんなの目には大した奴に写んなくて
自分より目下か、同じレベルにしか写ってないと思うんだけど・・・(だよな?)。
しかし君の瞳には「うぉ凄い」ってかんじで凄い人に写ってw 自分より目上に見えるの?w
おれ?おれは〜皆さんと同じだよwww
もん太の師匠って誰?イミフ
492 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 10:05:10
もん太というのは、河童虫氏の別名、或いはSubハンドルネーム。
河童虫氏の師匠とは、YAHHO掲示板におる方ですよ。
ネームまではプライバシー保護の為、ここでは言えませんので
ご自身で見つけて下さい。
493 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 10:24:51
魏志を英文にした奴っているのか?
たとえば・・・ Sub HINAMORI だとか。
誰かやってみせてよ。
>>492 河童ともん太は別人だろう。
あの二人のレスが同じタイプに見える事は100%ない。
メの河童虫に対する嫉妬心は、そんじょそこらの女よりも濃いwww
当の河童虫が相手にしていない分救われるものがあるがwww
>>490 それは、努力ではどうする事も出来ない
生まれ持った感性の違い。
誰か鷲崎氏「年輪年代・炭素14年代法の年代遡上論」を否定出来る奴おる?
http://homepage3.nifty.com/washizaki/ronbun4.html おれ?無理ぃ無理ぃww
年輪年代・炭素14年代法なんて本で読んだ事はあるが、
たぶん彼のスキルにかかったらボロボロだろうな(彼、くわしいね)www
それに彼の得意の分野みたいだし・・・
まあ、誰か自信ある人おれば、食ってかかっていいんじゃねーの?
で、おれのアキレスけんは、やはり考古学か。
ローガンさんも参加したが、おれの考古学って頼りなかったかなw
考古学分野の「鉄鏃」で、彼から突っ込まれてしまったじゃんw
おれも投稿した後「しまったぁぁぁ」とおもったんだよね アハハ。
でも、彼の卑弥呼=比売大神説って結構ボロボロになってきてる思う。
あきらかにおかしいよね(笑)
499 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/10(水) 19:59:05
>年代遡上論」を否定出来る奴おる?
だから〜 年輪降水量のグラフを出したんですよ。
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/20100814-OYO8T00180.htm?from=ichioshi この年輪降水量も年輪年代法に同期している。
このグラフから読み取れること。
1世紀初頭、弥生中期後半、唐古、鍵遺跡の環濠を埋めた洪水。西暦20年代は、神武以前の出来事。
2世紀後半、後漢 183年、193年、冷夏
新羅本紀 192年冷夏、193年凶作のため倭人の渡海。
弥生末期、唐古、鍵遺跡や近江伊勢遺跡は、捨てられる。
特に2世紀後半の凶作は、書紀に書かれた時代に含まれる。
人々が土地を離れた記事は崇神6年しかない。
さらにほしければ、孝元9年には、大量の雨が降る梅雨であった。西暦なら170年頃の出来事。
240年頃に崇神5,6年を設定出来ない。それで宜しければ使えますヨ。
本日、河童氏 共著『私の邪馬台国論 VOL.2』を購入した。
実は、サガミハラハラ氏著 『倭国歴訪』も持ってるんですよね。
皆さんは読んだことある?
501 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 20:45:15
やはり邪馬台国とは山田国だという確信を強めました。
日本全国80万の山田氏は邪馬台国の子孫ではないだろうか?
山田姓の著名人はほとんどいないのだけれど、それがかえって縄文系である証拠ではないでしょうか?
502 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 21:54:24
自分が邪馬台国の血を引いているとも気付かずに邪馬台国にのめり込んでしまうのも、これも生まれ持った定めというものでございましょう。
山田の本性を辿っていけば、必ずや、邪馬台国にたどり着けるものと確信しておりまする。
503 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 21:55:32
>>475 >イヨ=五百野姫←伊勢神宮より筑紫へ下向
気になりましたので古事記の祟神・垂仁・景行あたりの人物を探してみたら、
開化天皇(と淡路の神官の家系の息長水依比売との間)の娘に、「水穂五百
依比売(ミズホノイホヨリヒメ)」という、音的には近似の名前を見つけ
ましたが、この人(もしくはこの人と縁のある人)でしょうか?
もし、関係がある人なら、二グループになる直前の、数グループの構成が
ある程度見えて来そうな気もします。
イヨタン・・・・・・・・・・
ぐえあああ、♪イヨはまだ13だっから〜〜、ぎゃははは、だれかにさっそわれて〜
卑弥呼にさっそわれて〜、センチメンタル・ジャーニ〜。ぎゃはははははあああああああ。
506 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 22:14:58
大彦の別名である登美彦とは十三彦のこと。
十三とはこの国においては神聖な数だったのです。
豊穣を祭る十三夜祭りとは新暦では10月10日ころ。
東京オリンピックの開幕日(=体育の日)と同じ晴れの特異日にあたります。
十三湊の安東将軍こそ、邪馬台国の正統でしょう。
507 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/10(水) 22:28:50
真の年代を計る古代人からの贈り物 天津神算木(天津金木) とは、三輪
(半径r=3)の円の球化の 体積=表面積 の数式をいう。
大中臣 天津金木
4πr**3/3=113.09733552923・・・ (**はベキ)
を本打ち切り末打ち断ちて
3≠113.097335
1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位(見かけの年代)
から、不等式の右辺は3倍年暦に象って三分数列と為し
113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年を示唆し、除去)
335←崇神即位の実年代への誘引年数 335年
-97+335=238年
西暦0年を除くから1年分年数が引かれ
238−1=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年
を得る。景初3年鏡が畿内から多出されるのは、紀の崇神6年=崇神2年
倭笠縫にアマテラスと象徴の鏡を祭祀した3次鏡群がこれである。
>>499 唐さん
木の年輪分析で2世紀から3世紀にかけ、日本では、干ばつと大雨の時期を数十年ごとに繰り返すなど
降水量が大きく変動していた という事が分かっただけでしょ。
それと彼の年輪批判とどう結び付くのでしょうか?
ローガンさんが彼と議論したがってるようなので
こっちで大人しく、11/18で1か月経つ、このスレを進めて行きましょうかね。
私は向こうで、卑弥呼=比売大神説批判してるんですが、
これについて他の人はどう思ってるんだろうね。
比売大神説って九州説の中にはまだ根強く人気があるというか。
興味有る人もいるかもしれない。
宇佐神宮に参拝したことある人なら知ってると思うが、
本殿には、真ん中に比売大神が祭られてる。
これはなぜか?とか〜
又、二拝四柏一拝〜この拝礼作法があるのは、
出雲大社と、宇佐神宮だけでこの謎について興味有る人とか居ないのかな?
509で私が書いたことはここのサイトでも言ってる。
http://www.h3.dion.ne.jp/~abesan/jingu.html >宇佐神宮の本殿には、一之御殿には応神天皇、二之御殿には比売大神、三之御殿には神功皇后が祀られ、
>一番偉いのは応神天皇ということになっている。
>ところが、実際本殿に行ってみると、その配置がおかしいことに気付く。
>本殿左から、応神天皇、比売大神、神功皇后の順番で並んでいるのだ。
>常識的には、本殿に向かい合ったとき、一番格上のものが中央に配置されているはずである。
>これでは比売大神が一番格上となってしまうが、実は、この中央に配置された
>比売大神が何者なのかも、よく分かっていないのである。
>日本書紀に宇佐嶋に降り立った三女神のことが記述してあり、「宇佐嶋とは宇佐のことであり、
>よって比売大神とは三女神のことである」という解釈はあるが、比売大神が三女神であるという根拠はない。
太国さん、唐さん ↑これなんでなの?
511 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/10(水) 23:01:35
>>507 続き
このことから
紀の崇神6年=崇神2年=238年
であることが分かる。従って(紀の)崇神6年を2年差で240年頃に設定
出来たことになる。
天津神算木の計測からの
>>507 の崇神即位年は、以下のことからこのこと
を補強する。
>>507 天津金木(右辺)から
973−1130=-157年(B.C.157年)=開化即位元年(見かけの年代)
【宇佐の謎】
>宇佐神宮は宇佐で最も有名な観光場所なので、今更紹介することもないだろうと思うが、
>地元の人でも案外知らないことが多いので、ここでは宇佐神宮の持つ謎をいくつか紹介しておく。
>宇佐神宮が、全国4万あまりの八幡宮の総本山であり、伊勢神宮に次ぐ我が国第二の総廟であることは、
>広く知られている。地元の人には、その広大さが分かりづらいが、鎌倉の鶴岡八幡宮にしろ、明治神宮にしろ、
>宇佐神宮を見なれた目には案外小さなものに思える。
>では、なぜこんな田舎に、これほどの規模のものがあるのか。
>また、全国八幡宮の総本山となった理由は何か。これは考えてみれば不思議なことであって、
>なぜこれほどの影響力を持ち得たのか、ということを説明したものには、未だお目にかかったことはない。
↑これもついでにお願いします。 というか誰か踏んでw
513 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/10(水) 23:07:02
>>510 改め殿
神功皇后と應神天皇と揃って祭祀してることから、比売大神は神功、應神の
ころに実在した人物だということですね。つまり九州王朝の一女王が
比売大神だと観ています。また明日に・・・
zzzzzzzzz・・・・・・・
514 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 23:18:17
>>512 神式方法論でアプローチされてる方は、ここは1/3くらいしかいないようです。
俺個人は、該当時代前後は宇佐・出雲・大和の三権鼎立状態(かその名残)が
残存していた時代かと仮設してますが。
記紀のうちの1/3を疑って見るなら記紀が描くより「実質の日本統一」は実は
前後している可能性もあるかもしれません。俺個人は、都市国家群としての
瀬戸内海倭人文明圏という捉え方で卑弥呼当時の時代を捉えようとしています
がどうもこの板の常連さんにはあまり理解いただけていないようです。
四柏手というのは古式の作法で、もともと多くの神社がそうだったろう。
それが、明治の「神社祭式」によって二拝二柏手一礼とするよう正式に定められた。
ただし、格式が高いと自負する出雲大社や宇佐神宮はこれに従わなかった。
その程度のことだろうね。ちなみに伊勢神宮は「八度拝、八開手」が正式。
516 :
日本@名無史さん:2010/11/10(水) 23:42:02
邪馬台国は山田国。伊勢斎宮のある宇治山田も邪馬台国の子孫が移り住んだ土地の1つ。
蘇我倉山田石川麻呂こそ、邪馬台国の直系。
亀山に現在につながる宇佐神宮が建造されたのは8世紀の話。
比売大神というのは、元々地元で信仰されていた女神に、宇佐の司祭である
辛島氏の女神が習したものだろうね。
辛島氏は元々は渡来系で、香春神社周辺を本拠地として「辛国息長大姫大目命」
を祀っていた。この神が氏族の宇佐侵攻とあいまって、地元の女神と結びついた
程度のことだろう。
ちなみに「辛国息長大姫大目命」は神功皇后(息長帯比売命)の元ネタでもあるのが
ややこしいところ。神功・応神天皇は記紀成立を機に、その伝承地が数多く後付けで
作られた。宇佐もその一つであり、しかも仏教との習合によって、
さらに八幡神の概念が創作されたという流れ。
ヤマト王権の渡来人に創作された八幡神の前身というか
神仏習合される前の純粋な信仰を知りたいな
意外と邪馬台国と身近な関係にあったのかも知れない
519 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 00:12:44
記紀において、出雲の国譲りは神話時代でもあるし大きな流れとしては記紀で
の相違を感じさせる所は少ないので、出雲の国譲り自体は保留しますが、祟神
前後の時代においては記紀の違いがとても大きい個所があります。
それは、出雲の神宝をめぐる(日本書紀)、或いは出雲建の話(古事記)に
関してだ。簡単にまとめると、以下のようになる。
[日本書紀]祟神天皇の60年(多分晩年であろう)「出雲の神殿にあると言う
神宝を見てみたい」と部下に語ったので、部下はその神宝を出雲から取寄せ
た。当の出雲の神殿では、イズモフルネ(兄)とイヒイリネ(弟)がいたが、
兄不在時に弟が「勝手に神宝を大和にやった」事を恨みに思い、また弟の方も
兄の恨みを悟り、お互いに険悪になった。そして、兄弟で沐浴をしてから決闘
をする。剣を木刀に取り替えられ、兄にだまされた弟は殺される。
(この時の歌)八雲立つ出雲建がはける太刀つづらさわ巻きさ身無しにあはれ
[古事記](祟神のひ孫にあたる)ヤマトタケルが、クマソ征伐の帰りに、恭順
しない勢力を征伐しながら大和へ帰還する際に、出雲を経由する。そこで、
イズモタケルと見せかけの仲良しになり一緒に沐浴するが、沐浴から出ると、
剣を木刀に取り替えられ、ヤマトタケルに騙されたイズモタケルは殺される。
(この時の歌)やつめさす出雲建がはける刀つづらさわ巻きさ身無しにあはれ
(※)やつめさすは八雲立つの訛りとの事。
つまり古事記ではひ孫の時代の「大和建VS出雲建の事件」が、日本書紀では
曽祖父の時代の「出雲の兄弟闘争」の話になっている。これはどういう事か。
>510「田舎で暮らす」さんのホームページに書かれてる4つの謎。
・これ程の規模の神社の謎
・本殿の配置がおかしい点
・清麻呂は伊勢神宮を無視し、何故まっすぐ宇佐へ向かったのか
う〜ん この上記の3つはスラスラと答えれるんですが、
・拝礼の作法
これはおれも分かんないな〜 いろんな意見は聞いてるけど自信ないゎーんw
521 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 00:25:54
イニシャルを教えましょう。
H.W.です。
>・拝礼の作法
だから、古くからの由来を持つと自負する神社は、明治になって定められた
「二拝二柏手一礼」を無視しただけのこと。江戸時代中期頃までは、多くの神社で
四拍手が行われていたと考えられ、これは古神道の「荒魂・和魂・幸魂・奇魂」に
対する拝礼とも考えられている。
ほら、レスしてっ! 一気に1000までもっていくよーん。
で、比売大神さまの正体とはいろんな説があり、
太国なんかは、応神天皇と同時代、すなわち「応神妃」といっていますね。
この応神妃説も根強くあるようで・・・
また、託宣にもありますが、玉依ヒメ(神武母)説も根強いです。
玉依ヒメと考えてる人はこの中にもいるのかな?
>イニシャルを教えましょう。
>H.W.です。
ムシ、ムシ・・・w
さて、宇佐説に関してですが、私的には万二千里を重く受けとめ
どうしてもここを重要視している気がする。
水行十日・陸行一月記事はどうしたの?って思うんだけどな〜
>>514 >どうもこの板の常連さんにはあまり理解いただけていないようです。
ん?なんか不満なりそうだね〜きみw
もっと詳しく書き込みしてくれれば、分かりやすいんですが・・・
>>515 四柏手は、さらに丁寧に拝むという意味でしょうね。
伊勢神宮は八度拝、八開手ですか。
去年とその前の正月に参拝してきましたが、
何かややこしかったのをお覚えています。
>>516 >邪馬台国は山田国
山田国ってたまに聞きますよね。
もともとは誰が言い出したのでしょうか?高橋さん?
527 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 01:14:41
これは出雲の実権の委譲は「大国主の国譲り」の(神話の)時期だとの記紀の
表記を信じたとしても拭えない矛盾として残存する記紀の矛盾だ。しかもこの
出来事(大和建と出雲建or出雲の兄弟喧嘩)が意味する所はどちらも「出雲の
権威」が大和に移った(簒奪された)という事変なので、時系列や人物関係で
わざわざここまで大きな表記違いがあるとしたらそれは後代書類である日本
書紀の意図が大きく働いていると見る方が自然だ。出雲権威の委譲の時期と
人物関係を書紀編纂者は「変える必要があった」と考えた方が自然だろう。
さてではその事変はどっちの出来事か?古事記を信じるならば大和建の時代
(つまり神功天皇の直前)であるし、日本書紀を信じれば祟神の時代。そして
その間にあるのは「大和建の東征」なのだ。そして、その後神功皇后の話と
なるのだが、不思議な事に忍熊王の乱の場所で、再び読者はデジャヴを感じる
ような「違和感」を見出してしまう。古事記では神功帰還を待ち伏せする兄弟
として、香坂王(兄)と忍熊王(弟)が潜むが、そこで兄は神の猪に襲われ
戦わずして怪死してしまう。そして神功皇后崩御と騙して油断させ、忍熊王を
攻略する。ところが日本書紀では、この兄は一切登場せず、神功皇后側の指揮
官である武内宿根の奇策により「兵士に剣の代わりに木刀を持たせ」これを
敵前で河に沈めさせ、忍熊王を油断させて騙し討ちにする。
これもとても不思議なレトリックと考えてしまうのも邪念だろうか?
このように意図満載なので出雲の(大和への)権威の最終委譲は少なくとも
日本書紀が言う時代に書紀が言うような形で起こったか?はあまり信用でき
そうにない。この関連に関してはまだ古事記ベースで考えるべきだと思う。
つまり出雲権威が最終的に大和に恭順させられたのは祟神(モガリ時期含む)
時代より少し後となり、大和建伝説のど真ん中神功皇后伝説の少し前となる。
>>527 おっ 長文さん 長いレスお疲れw
あと472 そんな調子で頑張れ〜☆
おおくにぬし一族は、北ェー北ェーで、「ヤ」「マ」「タ」「ヒ」。(⌒ε⌒)
アマテラス一族は「ヤ」「マ」「タ」「ホ」 。(⌒ε⌒)
らしいぞw
完璧に(おつむ)行ってるなwwwwww さて 寝ようww
529 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 02:08:07
これは日本書紀の編集者が「四道将軍」を無理して「祟神天皇時代にあった」
としなければならないために、「大和王権の東国征服を前代にずらした」と
仮定するとつじつまが合って来る。つまり、四道将軍(東海道方将軍:タケヌ
ナカハワケ)がいなければ「あれ?じゃあ東海道はいつ征服したの?」という
話になってしまうからだ。そうするとヤマトタケルの東征はあくまでも「二度
目」なので「一旦屈服させた筈の東国で再度一部の反乱があったので大和建
出征」となり矛盾が少なくなるからだ。勿論、タケヌナカハワケの実在まで
は疑っていないが、四道将軍の存在とその着任だけは疑わしい。日本東部の
実際の制圧が大和建の時代の実績で、その後タケヌナカハワケの子孫が東海道
に着任したと考えたほうが自然である。(で、後に四道将軍伝説を信じると)
さてさて、上記のように架空すると、祟神天皇時代の大和王権の「直轄地」は
以下のように考えると記紀の信じられる部分と対応して来る。
@中国地方方面は吉備・播磨・因幡辺り。そこで出雲と接する。(属国化中)
A四国方面はほぼ全土。瀬戸内海制海権保有。制海権の為北九州と南中国に
拠点あり。(そこで西瀬戸内海の毘売権威との友好的同盟)
B北陸方面は上信越。(東北蝦夷は赴任将軍の解釈次第。恭順or対立は不問)
C東海道は美濃尾張駿河。(幻の関東王国が実在なら友好同盟か属国化中)
まだまだ「前代神話的権威」の「前アマテラス」が必要な状況と想定できる。
元アマテラスの命を受けたの軍閥国家の一つにすぎない大和王権が、アマテラ
スの子の国(九州)も、アマテラスの弟の国(出雲)もある状態、国内外的に
も「アマテラス無しの安泰」は保障できず、そういう状況と考えるとごく自然
な気がする。武威権力では日本最有力だがまだ権威には依存しているのだ。
530 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/11(木) 10:36:17
>>524 改め殿
比売大神は應神妃とは主張しておりません。比売大神は九州王朝の卑弥呼、
壱与の後釜的あるいは準後釜的女王だと言っているんです。だって應神は
即位後九州行幸はしていないと思いますが? とにかく比売大神は畿内とは
関係は殆どないと観ています。
あっちのサイトはローガンさんに任せて(ローガン氏なら安心)、
私はココのスレを進めていきましょうかね。
>>530 太国 ◆yVAs7uaYlY さん
>比売大神は應神妃とは主張しておりません。
>比売大神は九州王朝の卑弥呼、壱与の後釜的あるいは準後釜的女王。
>とにかく比売大神は畿内とは関係は殆どないと観ています。
宇佐神宮庁発行の宇佐神宮由緒記には
比売大神について以下のことが書かれています。
『二之御殿の比淘蜷_は、天平三年(七三一)、神託によって祭られているが、
この宇佐の中心氏族であった宇佐の国造の祭事を考えねばならない。
宇佐の地主の神ともいうが、新たにあらわれた八幡さまに対して、昔からおいでになった神、
つまり宇佐の国造が祭つて来た神とのいわれです。』
そして、宇佐氏系図をみると「天三降命」が宇佐明神ですよね。
又、先代旧事本紀では、「神代 宇佐國造祖天三降命、天孫降臨に供奉す」、
また、「天三降命 豊國宇佐國造等祖」とあります。
日本書紀神代上には「神代 市杵嶋姫命・湍津姫命・田霧姫命の三女神、宇佐嶋に降り坐す」。
日本古代の文献をみると、あきらかに比淘蜷_は三女神を示してるのですが、
「九州王朝の後釜」「畿内とは関係無い」という情報源はどこでしょう?
これらの説明をお願いします。
533 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 21:23:59
>>532 >日本書紀神代上には「神代 市杵嶋姫命・湍津姫命・田霧姫命の三女神、宇
佐嶋に降り坐す」。
>宇佐神宮庁発行の宇佐神宮由緒記には
>宇佐氏系図をみると「天三降命」が宇佐明神ですよね。
日本書紀編纂も(古事記編纂も)も宇佐神宮由来発祥も現在の宇佐氏の着任
も、どれも全部、ヒミコの時代から数世紀後だが?
後の資料をもってして、ヒミコの時代を語るの?
完璧に(おつむ)行ってるなwwwwww
534 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 21:29:25
逆に、後の資料がそれぞれ、当時北九州にそれなりの、神権威と土豪勢力が
あった事を、どれも証明しているようなもの。
その土豪勢力や土地神話を、後々後代の権力者の国書記紀で塗り替えた、或いは
いいように組み込んだとは全く考えられないというのは、発展思考力が少なすぎ
るな。
535 :
メ(寝る前):2010/11/11(木) 21:43:24
>>533 ヒミコの時代なんて誰も語ってないし、
君の早とちり
536 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/11(木) 22:00:53
三女神が天降りして、何故一神だけがそこに祭祀してるわけ? 神功、應神
の代わりに残り二人の女神もともに祭祀するはずなのにおかしくない?
宇佐の近くに日女嶋があるというから、ここで生まれたとか因縁の深い
女性が比売大神なんでないの?
それで神功、應神の次は仁徳の代だが、仁徳の代に九州で王朝の中興を
した女王がこの女性ではないかと思うな。仁徳紀に日女嶋の記事もあるし、
もしくは若いころに神功、應神の代に相応してるとも言えるね。
神功皇后が卑弥呼だと思い宇佐神宮に比売大神を神功と隣り合わせ式に祭祀
したと考えるなら、両者は同一人物と見立ててるわけだから卑弥呼と神功
の同じ女を祭祀したことになり、片方祭祀すれば同じ女のため一個の神殿
で間に合うはずだから、同一の考えは祭祀者(被祭祀者でない)にはない
と観てよい。だから紀の編者らのように神功39年に卑弥呼の記事を書いて
神功が卑弥呼ではないのかという考えを持ってたのと一寸違うということ
だな。となると年代の無知、不整合での卑弥呼と神功を一緒にしたのでは
ないな。だから神功〜應神〜仁徳の代、九州で生きていた女王ということが
妥当だね。
537 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 22:06:55
天の安の河三姉妹(タキリ毘売・イチキシマ比売・タキツ比売)ですが、これ
はアマテラスとスサノウの仲直りのウケイにて産まれる三女神。つまり、記紀
編集時代においては、「昔、出雲とアマテラスの国(今は仮に九州と規定)の
間に大戦争があって、その仲直りの約定そのもの」を象徴する三女神という
意味合いしかありません。そして、それを証拠保障するのが、宇佐氏族であり
宇佐由来と言うだけの意味でしょう。これらはあくまで記紀・旧事本紀サイド
だけの自己主張。傍証の取れる話とまでは言い切れない。
「宇佐の国造が祭つて来た神」は、「天三降命」としたのは、あくまでも大和
王権サイドからの歴史規定にすぎません。第一「国造」と言う役職はいつから
なんだい?
ちなみに古事記での「国造」の役職名の表記の開始は「この地方の国造は神武
の子孫」という表記の大量発行で始まり、後は孝昭天皇の子孫に一件開化天皇
の子孫に三件、景行天皇の時はまた今度は増えすぎて「七十七王は、悉く国造
・和気・稲置・県主に分けたまう」(つまり多くてメンドクサイので分けた)
とあるので、これはその頃には「国造」はむしろインフレ気味の多さと言う
話。つまり、記紀の代までに、地方豪族を「神武の子孫」・「その後の天皇の
子孫」とした地方恭順過程にしか他ならず、しかも「きっちり、王・国造・
和気・稲置・県主を分けた」のは古事記を信じて早く見積もっても「景行
天皇」以後となる。
で、とりあえず、これは俺だけじゃないが、「ヒミコの時代や場所」を仮に
日本のどこかだとしている人で、その時代は「景行以降」としている人は、
あまりお見受けされないようではあるが?ほぼ同時代か、それ以降の単語
である可能性が高い「国造」という単語を用いている書類を、ヒミコ時代に
そっくりそのまま適用しようと考えるのも、いかがなものかと?
538 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 22:15:02
げw景行以降にヒミコを持って行っている人いたw誤爆スマソw
539 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/11(木) 22:16:39
ムー誌の12月号の卑弥呼と神武の記事の内容は、両者を同一時代に設定して
の内容であり、これは間違いだと分かる。しかしまだ最後まで読んだわけ
でないので、また明日以降に残りを読んでみよう。妄想度が大きいと思う?
神武をムイジンとやらの人物だとあるが、これも何かテムジン(成吉思汗)
に何かしら似た名前だ。w
テムジンは神武天皇(ジンム テンノウ)のンノウを除くとテムジンになる。
540 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/11(木) 22:18:58
>>538 妄想キングの唐松山が景行だとのインチキを言ってるよ。w
541 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 22:19:16
ま、かいつまむと、「ヒミコの時代」を仮に祟神天皇前後数代とした場合、まだ
その頃の「北九州」の「国造」の単語の「確定性」は、それ程高くないよと、
そういう発言意図です。
記紀と倭人伝を混ぜて読んではいけないよ。これは全く異質なもの。
w
544 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 22:33:07
>>540 そうですか、いろんな方がいらっしゃるのですね。俺個人は景行天皇はあく
までも「遷都をした可能性のある(ヒミコ時代より)後代の人」という想定
ですが。ま、ヤマトタケルの時代でもあるし、記紀的日本史として考えれば
激動の時代ではありますね、確かに。
ちなみに、記紀の神代から景行くらいまでの間の「天皇(トカ神トカ)」を
マップタツに分断して、A系神話とB系神話を、「神功の時代頃」に「合併」
させたかも?という荒療治な可能性架空は、俺もまだ捨ててはいませんので、
貴殿が仰る「唐松山さん」の提言を軽視もできませんが。。。
仮に、二つの神話(二つの国史)を、「神功の時代に組み込んだ」としたら、
天皇の数代は、アッサリずれるって事も、皆無とまでは言い切れません。
545 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/11(木) 22:36:48
あいつは超S級の妄想人間で、評価は日本史板関連スレで最低だから、絶対
信じてはならない。
546 :
メ(寝る前):2010/11/11(木) 22:39:51
>>536 >三女神が天降りして、何故一神だけがそこに祭祀してるわけ?
宇佐神宮史巻一には、
天平五年(A・D七三三)是歳、是より前、託宣により、是歳二御殿を造る、とあり、
比売大神(天三降命)を託宣により御招きした事が記載されてる。
天三降命というのは、一神ではなく宗像三女神の事であり、一神にみえるが三神です。
>神功、應神の代わりに残り二人の女神もともに祭祀するはずなのにおかしくない?
おかしいのは解釈の仕方と思う。
>宇佐の近くに日女嶋があるというから、ここで生まれたとか因縁の深い
>女性が比売大神なんでないの?
何をチンプンカンプンな事を言ってるのやら・・・
日本書紀神代上には、
「神代 市杵嶋姫命・湍津姫命・田霧姫命の三女神、宇佐嶋に降り坐す」
とあるとおり、宇佐が天孫降臨の舞台となった場所であって、
市杵嶋姫命・湍津姫命・田霧姫命の三女神は宇佐で誕生した。
その因縁深い女性というのが、この三女神。
>仁徳の代に九州で王朝の中興をした女王がこの女性ではないかと思うな。
その仁徳紀に日女嶋とある人物が、比売大神という証拠は?たんなる妄想でしょ。
>だから神功〜應神〜仁徳の代、九州で生きていた女王ということが妥当だね。
その前に、古代の宇佐神宮では「八幡大神」、「比売大神」の二神を
祀ってたのであり、「神功皇后」は祀られていなかった時期がある。
だから、「八幡大神」、「比売大神」、「神功皇后」の三神で考えるべきではないと思う。
三神で考えるから太国さんみたいな「同時期」という考えが発するのではなかろうか?
547 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/11(木) 22:45:27
とにかくローガン氏、縄文人氏、ジョーカー氏、縦目仮面氏、
改め氏、ニ氏、美濃もん太氏、サガミハラハラ氏等等有コテハン氏
が多数いるが、みな欠点はあれど点数が付けられる。唐松山のは
0点以下のマイナス1000点でもまだ甘い。こやつだけは最低論者の
それ以下。やつはカルト・景行・ホツマ教の狂信者で、言う事為す事
が悉くがイカサマで、将棋でいえば生角をヨコに動かすのは日常
茶飯事のクソよりひどい論の内容。参考にするなどってほか!
548 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/11(木) 22:50:08
改めどの
天三降命で三人分なら、神功、應神の祭祀神殿をのこり二女神に与えて、
三神殿で三女神の三人を祭祀したほうが適切、妥当ではないの?
神殿一個で三人では窮屈この上ないと思うが・・・? 墓ならそんなの多数
あるようだけどね?
549 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 22:50:33
>>536 トヨタマ神話体系もあったと架空したら、あながちあながち。日女嶋付近に
竜宮城があるとしたら、架空ストーリーとしては非常に面白い。(と影ながら
後頭部に支援射撃を打ち込んでみる)
ホデリノ命ホオリノ命(世に言う海幸山幸)の話は、北九州神話として、ある
程度考慮から外せない話ではありますな。そして、この弟山幸(ホオリノ命)
のお孫さんが神武天皇。妻が豊玉毘売。息子の嫁が玉依毘売。これらも毘売
システムを考慮している俺としてみれば、重要人物ではあります。
550 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/11(木) 23:07:41
古事記の国産みの条の 女嶋 というのも、この日女嶋のことでしょう。
別名を 天一根 というそうです。国産みに入るくらいの嶋だから、小島
だとしても重要な島ですよ。一とあるんだから神殿一個で間に合うで
しょう。この島で育ったかした女性が、比売大神だと考えますね。
551 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 23:09:44
ちなみにこの豊玉依玉時代と空間であるがこれも確かに記紀的には悩ましい。
古事記では勝者(生存者)の理窟で一つの筋でアッサリ描かれているのに対し
日本書紀では筋がいくつかある話となってしまっていて、その解釈の通り数
まで入れたら、煩わしいくらいに「いろいろな解釈」を可能としてしまう。
これは日本書紀編纂者の思惑や、記紀をまた掘り返した国学者の思惑、そして
明治政府学閥の思惑が入り乱れ、当時当代の実像を掘り出すにはかなり難しい
要素を多分に孕んでしまったといわざるを得ない。
ま、俺個人は、国学者や明治学閥が、「圧倒的後代の儒教思想上」からねじ曲
げて解釈してしまった可能性を高く見ているが。彼等は、ホオリノ命の息子の
ウガヤフキアエズノ命が叔母と子を成した事が大層ご都合が悪かった(儒教
観点から)と言う要素が大きいのだと考えている。儒教思想で「叔母との
結婚」に関して、どのような感情感覚であるかを察すれば、ここらへんは説明
がつきやすいかと思う。明治近代憲法において、叔母との結婚は確か禁止な
筈。そして、それとは裏腹に、日本書紀編纂期の代表の女性天皇は、叔母と
甥との結婚によって天皇血脈と権威を維持しようとした。
つまり、叔母=甥の婚姻を是とするか、非とするかで、日本書紀編者と国学者
以降の記紀研究者との間で、壮絶な葛藤があるのである。
552 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/11(木) 23:13:31
まぁ現代では刀をさしてれば銃刀法違反ですが、江戸時代以前では武士とか
ならさして合法的ですから、時代によっていい、いけないがあることを念頭
に考えるべきでしょう。
zzzzzzzzzz・・・・・・・・・
553 :
メ(寝る前):2010/11/11(木) 23:18:56
>>548 >天三降命で三人分なら、神功、應神の祭祀神殿をのこり二女神に与えて、
>三神殿で三女神の三人を祭祀したほうが適切、妥当ではないの?
おっさんは〜何ワケ分らん事を・・・w
宇佐神宮史巻一からですが、
和同五年(A・D七一二)是歳、豊前國宇佐郡に鷹居社を造り、八幡大神を祀る、
靈亀二年(A・D七一六)是歳、八幡神を小山田社に移祀する、
神亀二年(A・D七二五)正月二十七 小椋山に大神を鎮座す
そして、上記した、
天平五年(A・D七三三)是歳、是より前、託宣により、是歳二御殿を造る、
とあるとおり、八幡大神の社であって、比売大神が主という考えは忘れた方が良い。
>神殿一個で三人では窮屈この上ないと思うが・・・? 墓ならそんなの多数
>あるようだけどね?
はあ、どこにです?
554 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 23:22:02
明治学閥にとって皇統史の三大禁忌があると俺は想定する。
@叔母=甥婚姻の是非→記紀の婚姻例の一部の解釈を自ら難しくしている。
A父=息子嫁婚姻の是非→中世前後の院政等の解釈を自ら難しくしている。
B長子相続固定概念→記紀の前半の兄弟相続的解釈を自ら難しくしている。
豊玉伝説の解釈を自ら難しくしているのは、ひょっとしたら上記@のような
自己フィルターのせいかもしれない。
555 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 23:37:54
多少脱線してしまったが、この豊玉伝説の「解釈の多岐ぶり」こそ、日本書紀
編集者が「意図」を施し、その「意図」があまりにあまりにだったので北九州
関係の氏族や地元の氏族にとっては「何言ってるんだ?」と言われるまでの
矛盾を生じてしまった。こういう仮定もある程度生じてしまうワケだ。
つまり「日本書紀編集者」が「無理をして豊玉伝説を組み入れた」可能性ね。
勿論、俺個人は豊玉伝説が無かった、あるいは大和王朝の記紀編纂サイドの
全くの架空とまでは言わない。しかし、ここまでしつこく、後代に「いや
これが改訂版だ、いやこれが改訂版だ」と何度も改訂版が出てしまうという
のは、日本書紀編集サイドが「かなり無理をしたんじゃないか?」と疑念を
生じざるを得ない。では、その無理とは何か?一つの可能性として「組み込
み」という要素も少なくは無いかもしれない。
556 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 00:30:40
俺個人は、豊玉伝説はこう考えている。海上戦略のルネッサンスだと。
豊玉伝説の孫の神武天皇が、その後東征を成す軍事行動は、陸軍行動として
捉えがちだが、むしろ、豊玉伝説により、「優れた海軍」を得たニニギ〜
神武の一族が、「当時としては破格の技術革新の海軍」によって、瀬戸内海を
渡り、淡路島を隠れるように進み(淡路勢力を抱き込み)、回り込んで熊野に
上陸する事ができたと、このように考えることも可能だ。
戦略の重要な一つである「思ってもいない奇策」は常套手段である。つまり、
禁忌の前奈良王朝に対する奇襲のために、豊玉海軍が必要であり、活用できた
と、こうも考えられるのだ。勿論陸軍も進めていただろう、同盟国の出雲の国
からの援軍もあったかもしれない。守るサイドの前奈良王朝は、「九州(&
出雲)とイクサになるぞ」となったら、どのように前線を想定するか?恐らく
第一次防衛ラインが播磨あたりで、第二次防衛ラインを淀川辺りに敷くのが
常套だろう。大阪湾も警戒するかもしれない。当時淡路が同盟国なら「警戒
せよ」とか「どっちにつくんだお前は?」の使者を送ったかもしれない。
勿論、後衛も多少手薄になる。そしてその後衛の一つ、熊野から吉野・奈良に
至るルートを熊野上陸した神武が攻め上るのである。(これも記紀どおり)
こう考えると「天の磐船伝説」が、日本書紀の東征にことさら神話的に登場
するのも頷ける。実際に、後代研究者(記紀直前の頃)が調べて見て「東征
はなぜ成就したか?」を客観的に冷静分析した場合、「海軍技術の向上」が
当時あったとすれば、この要素は無視できないからだ。つまり、「当時優れ
た海軍を持った」だから「東征は成就した」と言うのが、日本書紀編纂者の
分析結論なのだと。それを象徴するのが天の磐船なのである。古事記だけで
は説明しきれない勝因と本隊の進軍ルートを、日本書紀編集者は具体的に
解説してみようと試みたのである。
557 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 00:33:56
そして、もし仮にそうだとすると「豊玉伝説」は、日本書紀においては当然
「ある程度大和王朝発生時に貢献してくれた氏族の伝説」として、尊重しなけ
ればならなくなるのである。だから、最も淡々と描いたのが古事記であり、
必要以上に豊玉伝説を過剰にそして強引に上げて組み入れなければならない
のが日本書紀なのであると。このように考える。
これ、「豊玉伝説」を、古事記より日本書紀にて破格待遇で組み入れている
「意図」を感じないか?
558 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 01:26:28
簡単に対比すると、以下のようになる。
[古事記]@豊玉伝説は一系統の解釈のみで順列的に淡々と「関係血脈」の逸話
を書き連ねているA神武の東征において宇佐(付近)逗留は1年、ウサツヒコ・
ウサツヒメ主催で饗宴を行なわれた事だけを淡々と表記B浪速での壮絶な海上
死闘。その際「日を背にして戦うのは信心的にも戦略的にも不利」として、
回り込んで東(日の方)から攻める戦法に切り替えてやっと勝つ。
[日本書紀]@豊玉伝説は諸説伝わっている現状、大筋は一致しているものの
いくつかのストーリーが並存する。A宇佐(辺り)逗留の話が、これでもか
と描写満載。ウサツヒメに部下を婚姻させる話も入る。B浪速の激戦にて、
神武の同母兄が「母タマヨリ姫叔母トヨタマ姫!どうして!」と恨み言を
言って戦死してしまうというストーリーも追加。
上記のように、帝紀・旧辞の書き起こし版と考える事の出来る古事記の表記
の「豊玉伝説に対する淡白さ」に比べて、日本書紀のそれは「極めて濃厚」
とも言える。記紀編集時期の大和王権にとって、豊玉伝説を研究してを本筋に
組み入れる必要性が高かったと考える可能性も、この為に生じざるを得ない。
そして、その後「諸家版・改訂版」が発生したのも、「その組み入れが強引
すぎた」と仮定すると推理としては自然である。
つまり、帝紀・旧辞の頃は「どうでもいい話」が、日本書紀の頃は「避けて
通れない話」と成って来ているという事実が、そこには浮かび上がってくる。
559 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/12(金) 19:15:42
崇神5年 民の疫病で多数の死者が出る
崇神6年 民は居住地を捨てる。
この出来事は、弥生後期末、192年か193年の冷夏。凶作で、民は餓えの病に悩まされる。
翌年 逃散 民は居住地を捨てる。
唐古、鍵遺跡や近江伊勢遺跡など各地で居住地を、民が離れる。
朝廷は、この出来事を受け、「騒動未止」つまり乱に発展する前に、この「流浪の民」を新たな土地へ配置する。
依って、畿内安穏となる。
卑弥呼の時代直後から、古墳時代に突入し、全国に古墳が作られる。
ここに崇神5,6年を持ってきても、この凶作を確認出来ない。また崇神の領地は西で出雲、東で尾張程度だ、
これでは、古墳時代に突入できない。
古墳の分散は、景行、日本武尊で説明されるべきである。
560 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/12(金) 19:44:18
比売大神(ヒメソゴ)、神功、応神。
比売大神は、天日矛が倭国へ来た象徴である。
神功は、渡海の象徴。
応神は、半島を属国として、有り余る朝貢の象徴。
173年 天日矛来邦
209年 任那建国 崇神時代。
274年 神功渡海
323年 神功49年 半島占拠
326年 七支刀
331年 楽浪が百済領と成る
345〜384年 応神。 新羅344 倭国が花嫁を求めたが辞退。
313〜399年 仁徳。 新羅312 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず。
神功、応神には百済王家があり、短く出来ない。
神功、応神が正しい位置を主張するなら、275〜312年迄である。
書紀は書き換えられ、古墳時代の最良の位置を与えられた。
この数字は、新羅本紀、好太王碑の記述に合致する。
つまり、百済本記には50年ほど狂いが有る、とする。
世継ぎは、男19才程度である。
561 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 19:49:00
>>559 全くの思いつきですが、
・前アマテラス(ヒミコ?いずれかの毘売?)=円墳
・それまでの(大和軍閥含む)各国諸氏の墓 =方墳
で、その結合がヤマトタケル以降の前方後円墳ブームではなかろうか?それな
ら元円墳や元方墳を、それ以降古墳時代までに「前方後円墳に増改築」する
だけだし、これなら人情的にも先祖や前権力者への不遜は軽減するので、地方
にとっても先祖への不遜無く今の権力者に恭順という事が両立可能する。
562 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 20:01:41
>>560 垂仁天皇の嫁の一人にカグヤ比売がいる。もし仮にこれが竹取物語カグヤ伝説
の主人公だとしたら、日本以外への「カグヤ比売(もしくはその所領)」の
簒奪等も可能性浮上して来るワケで、このカグヤ比売世代は古事記上はヤマト
タケル世代と重なるので、その後の神功世代の「朝鮮外交での欲求」も裏打ち
されて来そうな気もします。
563 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/12(金) 22:24:31
船舶が始めて製造されたのは崇神17年である。その10年余前の崇神5,6年
には船舶が無い。これでは千人も財力も無くメシもありつけない農民が
半島へと渡海は出来ない。せいぜい日本海の岸辺に行き着く途中で、ほぼ
全員野垂れ死にだ。ww
したがって 新羅192,3年≠崇神5,6年 は当選確実である。奴のインチキは
すぐ見破られる。崇神6年に倭笠縫にアマテラスとその象徴たる日像鏡
(ヒガタノカガミ)を祭祀したのは農民の困窮にあるのが一因。それで
天照大神宮を設立し1次鏡を祭祀したわけで、これが紀の崇神6年で
あるわけで、2次鏡はこのことからの崇神の策の同床共殿での鏡、3次鏡
の畿内からうんと出る景初3年△鏡(239年鏡)のことから、紀の崇神6年は
1次鏡ということにて239年の少し手前の年代になるのである。
以上から3倍年暦にて
崇神元年=景初元年=237年
が真であることが△から裏づけられた。
564 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/12(金) 22:43:14
>>507 >>511 続き
大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
3≠113.097335 (
>>511)
千座の置座に置きたらはして (整数第4位が千の位)
3≠0113.097335・・・・・・・・・・・・・・@
(復習)
>>511 973−1130=-157年(B.C.157年)=開化即位元年(見かけの年代)
@の973と1130の手前の数は、不等号にまたがって 30 である。
これを 崇神元年=景初元年=237年 の右辺にマイナスすると
237−30=207年=開化即位元年(実年代)
を得る。
開化の代は見かけでは開化元年から開化60年〜〜つまり60年であるが、
2倍年暦の代のために実際は 60/2=30年 の半分になるのである。
565 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 01:03:47
>>563 「船」で気になったので、古事記開化天皇までで「船」に類する物を古事記の
記述順に拾ってみた。
@因幡の白兎のワニ(隠岐から出雲近隣の気多へ渡る時に使用)
A大国主の時代の出雲に、天の羅摩船(カガミブネ)に乗って来た少名毘古と
会談。
Bアマテラスがタケミカヅチを葦原中国に送り込む時に副官に添えた神の名が
天鳥船神。
Cホオリノ命(山幸彦)が兄の釣り針を無くし困って宣託した時に現れた藍椎
神がワタツミノ神の宮へ渡る為ホオリノ命にあげた船:マナシカツマの小船。
Dワタツミノ神の部下:ワニ
E豊玉毘売(ワタツミノ神の部下)が山幸彦との子を産む時にばれてしまった
正体:八尋ワニ
F神武が、難波の渡を渡り、青雲白肩津にてナガスネビコと激戦した時に、
御船の表記あり。
神武前後の時期に、ワニと称される操船技術が、既に瀬戸内海西部・北九州・
山陰地方にあったと考えることも可能。その意味では「船(つまり当時大陸
水準の高性能船舶)」があったかどうかは確かに疑問。仰るとおりに、大陸的
な「船」の登場は祟神前後に想定するのが妥当でしょう。
ただ俺は、この「ワニ」をも「船」と考えています。但し因幡の白兎の災難や
豊玉毘売出産時の災難などに象徴されるように、「災難には弱い船」だったの
かもしれませんね。
つまり、当時の倭国の海上交通手段の主流は「ワニ」で、天孫一族(大和一族
の祖)が、豊玉伝説にて「新型船を手に入れる」と言う筋です。
ちなみにBはオオタタネコの三輪山神主就任の「理由」となった事でもありま
すので、これは後代(祟神〜古事記編纂時)の挿入の可能性が有ります。
566 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 01:25:15
>>565続き
つまり上記において、
@まだ倭人海上交通はワニ→A海外船来航→(Bは後代何らかの意図で挿入)
→C国産でやっと造れたのが小船→DEワニ技術では先進していた宇佐を合併
→Fその先進技術を神武東征にて活用→祟神の時期にやっと大陸並みの船建造
が、リアルな姿だと仮定すると。記紀的にも全く矛盾が生じない。祟神の時代
と言えば、先述のオオタタネコが三輪山神主になった時期の前後でもあるので
「それ以降」の大和王権にとっては、「国産船発祥の可能性」がAとCの間
くらいに「あって然るべきだろう」と意図的に挿入する可能性は高いと思う。
「当時大陸水準の高性能船舶」
具体的に言うとどんな船なのかね?
568 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/13(土) 10:02:10
>>565>>566 非常に合理的考察を踏んでの石橋を渡る式の論説で、まことにけっこう
です。ワニが船ならば船と書けばいいのに、動物種名になってますから、
果たして船なのか疑問を持ちますが〜? 当時ワニが船のニック・ネーム
だとかなってくれば、それは肯定的にはなりますがね?
神武一行が九州から本州に渡るときは船を使ったに違いないから、日本に
神武のころ船があったことは確かでしょう。朝廷は神武から崇神17年ころ
まで畿内の中での政権を保持してたわけで、その間勢力が畿内から沿岸まで
達してなかったため船舶の使用はする必要がなかったもので、崇神17年
あたりで勢力拡大が出来て畿内内周から海辺あたりまで発展してきたため、
ようやく神武以来朝廷とその関係者が船舶保持の必要が出て来たということ
です。当然農民は漁師でもないし、おまけに飢饉で喰うものもないで財力も
ない連中が千人もの多勢で、半島になど渡れっこないわけで、ここに唐松山
のインチキが見え隠れしているということです。殆どは畿内、中国地方の
岸辺に着く手前で、全員といっていいくらい飢餓で野垂れ死にですよ。
だから奴の主張は電波星人とかが持っているのかその人間電送機とか彼ら
の乗るUFOとかでない限り半島への到達はできっこないわけで、そういう事
はカルト・ホツマ狂の脳内だとゴリ押しで言い出す妄想者の言うことです。
というわけで、始めて船舶の出来た崇神17年直前の崇神5,6年という10年余
前に、農民がメシも喰えずに千人も半島に渡ったといくら言っても、これは
ミエミエの大ウソだということです。
569 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 11:05:15
祟神は海族系ではなかったということですね。
それでは朝鮮半島を渡って魏へ朝貢するのは無理。
やはり、邪馬台国は畿内ではないことがわかります。
570 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/13(土) 11:40:17
>>569 香川県大内町に伝承の「大水主大名神倭讃」によれば、百襲姫が7歳にしてか
四国へ渡海したらしい記事があり、本当か否か分かりませんが、崇神当時
数人くらい短い渡海の出来えた小舟くらいは少々存在していたことは否め
ません? 畿内から淡路島を渡り四国に近い海域を渡れるくらいはやれたと
観てもおかしくはないでしょう? ただこの文献は15世紀の作のようで
すから、参考までだということになります。水主神社の伝承もこのような
ようです?
しかし千人といえば、現今でも大船舶であり、こんなクラスの大木造船が
崇神17年直前に製造されてたとはとてもとても考えられないことですよ。
つまり唐松山の主張は成立しないのです。漁師でもない農民が操縦能力も
あろうはずもなく。無一文的飢饉で空腹の胃をかかえて長距離の大陸渡海
など千人もできっこないことは、合理性ある脳内なら容易に感づきますよ。
>>565 >
>>563 > 「船」で気になったので、古事記開化天皇までで「船」に類する物を古事記の
> 記述順に拾ってみた。
> @因幡の白兎のワニ(隠岐から出雲近隣の気多へ渡る時に使用)
因幡の白兎の話は、アジア各国に伝わる話であることは有名。
日本の話として捉えるほうが無理がある。
中国、朝鮮、日本しか見ていないと陥る罠。
572 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 12:57:43
摂関政治みたいな感じで、一族から巫女を出して
その権威を背景に大和南部に定着→畿内統一→日本統一
となっていったんだろうな
勢力拡大後は大王自体の権威が上がって
形骸化していったんだろう
外国人からするとその特異な政治形態は女王が統治してるように見えたかも
573 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 13:38:26
大彦が織田信長で、大彦を討ってニニギに寝返ったのが明智光秀がニギハヤヒ。
全国を統一した秀吉がニニギで、結局は土着民である徳川家康こと吉備勢力が支配したということでは?
倭国大乱というのは、戦国時代より混沌としていたわけで、たぶん、もっともっといろいろな民族が複雑なに動いていて、
それを一時的に制した卑弥呼も3日天下だったのかもしれません。
昨日夢を見ました。
結構リアルな夢で、四国中央部の河川に囲まれた地域が、前方後円墳発祥の地であることを示唆していました。
実際、その様な古墳は存在するんでしょうか?
詳しい方がおられましたら、お教え頂きたいのですが…
不特定多数に自分の見た夢の内容を話すことは
古代宗教的にタブーです。
消化しきれていないうちに口外すれば災いを招きこむでしょう。
576 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/13(土) 18:37:34
>白兎のワニ
白ウサギ=しらぎ
ワニ=ワニ船
>崇神17年直前の崇神5,6年という10年余前に、
丁度唐古、鍵遺跡を人々が捨てたとき、崇神6年の民の離散である。
この様な出来事は、238年辺りでは見られない。つまり崇神世はこの辺ではない。
弥生後期の土器に準構造船がある。
そして崇神は、4道将軍派遣前は、大和の片隅に住んでいた。この時点で船を持たないことは明白である。
その他の船
カメ、キギス
天照大神の頃の墳墓は、「洞に入る」と表記される。
つまり、甕棺時代に墓穴を横へ少し掘りこんだ墳墓。
上から眺めてるのは退屈で、退屈で、しょうがない(笑)
たまには書き込みをしましょうかね...。
ところで何について語りましょうか?
魏志倭人伝の全文について?
古代日本の国家誕生について?
又、弥生・古墳時代区分について?
さあ〜〜〜選べ(笑)
>>574 詳しいわけではありませんが、
実質、四国中央付近にそのような古墳は存在していません。
夢は夢だけに、夢のような話ですねw
>>573 大彦が織田信長? 明智光秀がニギハヤヒ? 秀吉がニニギ? 徳川家康が吉備?
何故そうなるの?って真っ先に思いました。
みなさん古代史に詳しいですね><
参った、参った、降参(こうさん)です。
あまりイジメないでね〜〜〜〜〜〜〜〜〜><
581 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/13(土) 20:28:59
ホツマ
ホ32205 キミきくや シラウドコクミ ハハをかす 母を貸す
孝元時代に売春が存在する。
それはさておき
シラウド=しら人
「ど」が濁らなければ、白兎になる。
話題は「船」の航海技術ですか?
伊耶那岐命は三貴子にそれぞれ、
天照大御神は高天原を、月読 尊は夜之食国を、素盞嗚 尊は海原を
治めるように委任する。
素盞嗚 尊は海原ですが、この海原は朝鮮半島ともいわれてる。
是が本当なら航海技術は昔から長けてた事になる。
高天原神話には、乗馬とか機織りとか言う話がフツーに出てくるのだから、船だって有ってしかるべし。
584 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 21:30:30
ムー今月号が面白い
585 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 21:49:10
586 :
メ(明日休み):2010/11/13(土) 22:04:32
>とりあえずメ氏の考えを聞こうか。
唐松山さん・ローガンんさんに任せます。
トヨだろ
イヨタン・・・・
589 :
メ(明日休み):2010/11/13(土) 22:20:19
>トヨだろ
君、それだけ?あいかわらず単純というか、バカだなw
なぜそうなるのかを>585さんに説明してやれってw
「伊都」(国名)「伊支馬」(官名)「伊声耆」(おそらく人名)・・・「イヨ」なら「伊」の字を使わない
理由がわからない。音韻の違いはあったのかもしれないが、中国人に区別できたとも思えない。
壹・臺を比べると臺が画数多く複雑で壹は簡単だよな
写本を作る筆写のときに間違ったとすれば複雑→簡単となるはず
592 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 22:26:38
母犯す
母(サシミメ、コクミの妹、クラキネの妻)
娘(クラコ姫、シラヒトの妻)
(ホツマツタエ 7アヤ)
延喜式祝詞 六月晦大祓
国津罪、生膚断・死膚断・白人・胡久美・己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜犯せる罪・昆虫の災・高津神の災・高津鳥の災・畜倒し、蠱物為る罪、許許太久の罪出でむ。
593 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 22:32:07
594 :
メ(明日休み):2010/11/13(土) 22:34:21
ホツマの唐さん
孝元時代とサシミメ、コクミ、クラキネとでは時代が違う。
反論お願いしますw
>>590-591 河童君よりヒドイ説明だなwww
>>593 いやあいつだろw
595 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/13(土) 22:54:48
母犯す、母を貸す。
似て否なるもの。
孝元のヶ所は「母を貸す」になる。この部分は、崇神の母(庶母)を説明する部分になる。
596 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/13(土) 22:56:20
>>576 そんなことは関係無〜い。
239年鏡の畿内から多出するのは、天皇と朝廷の信仰の古神道による倭笠縫
にアマテラスオオミカミとその象徴の日像鏡(ヒガタノカガミ)を祭祀
した年代に極力接近隣接せねばならぬのが古神道から当然のことである。
すなわち2年前の
237年=景初元年=崇神即位元年
は当選確実なり。朝廷にオマエの言う銅鐸は関係無〜い。
畿内農民が飢饉で苦しんでるために倭笠縫に皇祖天照大御神と1次鏡を
祭祀したのであり、空腹で無財力の千人もの農民が半島に到達する前に
畿内あたりで野垂れ死になのも当選確実だ。www
597 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/13(土) 22:56:26
245年 詔賜倭難升米黄幢
この時点で、魏は、倭国内で戦争に成ることを知っているから、黄旛を下賜する。
247年には、戦争が開始され、その報告を郡に行って説明する。
その中で、卑弥呼、男王が相次いで死亡する。
戦争が終結する頃、壹與が立てられる。
そして
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。
壹與=五百野姫
伊聲耆、掖邪狗、書紀では伊聲者掖耶約等である。
耆を年齢に直せば65才以上。洛陽までたどり着けない。
伊聲耆=伊聲者で、伊勢の(もの)掖邪狗。
598 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/13(土) 23:01:17
壹與≠五百野姫←これもインチキww
ならば少なくとも右辺は 一野姫 にならねばおかしい。またそうなって
ても、必ずしも等号になるとは言えない。
イヨタン・・・・・・・・・・
600 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 00:07:40
>>568 イカダに毛が生えた近洋航海術の場合、「陸地が見えなくなる」場所での航海
は死に匹敵する場合があります。海流の早い対馬海峡間の航行より先に、南華
〜台湾〜沖縄〜諸島〜九州のラインで、前代的操船術「ワニ」が既に先に伝来
していたと架空する筋です。これなら、「ワニ」という動物になぞらえられて
もおかしくありません。ワニは古代日本ではサメを指すと言う話も聞きます。
>>571、
>>579 当方浅学につき、あまり広いカテゴリーだとついていけないのでご容赦を。
アフリカは兎も角、インドネシアの鹿VSワニに関しては興味深いですね。
いつか調べてみます。
>>587、
>>588 俺個人は、イヨなら水穂五百依比売(ミズホイホヨリヒメ:開化の娘)あたり
を、トヨなら豊?(金且)入日売命(トヨスキイリヒメノミコト:祟神の娘)
あたりを想定している。但しどちらも現在は根拠薄だけど。あと先述のように
御眞津比売(ミマツヒメ:開化の娘?大毘古命の娘?)や、沙本毘売(サホ
ビメ:開化の娘)や倭比売(ヤマトヒメ:垂仁の娘、倭建命の叔母)も世代的
には怪しい。
>>600 エチゼンクラゲにしがみつくのかよ
ありえない
602 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 00:24:55
>>601 別に人や物が大量に輸送できるレベルの船として「ワニ」を想定していま
せん。但し、洋上で目視50キロ前後くらいまでなら天気のいい日なら目視でき
そうですし、無理をすればイカダでも渡る事は可能かと。(目的地がハッキリ
している航行ですから)その意味で「島伝い」に「操船技術」は、これは別に
統一国家レベルの技術力が無くても十分伝播可能かと。越前の上プカプカ。
604 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 00:30:10
たまにはお勉強タイムだ
京都産業大学の森博達教授の三角縁神獣鏡の銘文についての研究らしいよ
http://pub.ne.jp/luckfield/?cat_id=122854 >そもそも「文筆」の「文」とは韻文をさし、「筆」は散文をいう。詩や銘は韻文であり韻を踏むのが原則だ。
>これは前漢末年に起こり、互換に流行した方格規矩四神鏡(ほうかくきくしじんきょう)の代表的な銘文である。
>各句末の押韻字(◎の字)を日本の音読みで読んでみると、コウ・ロウ・ソウ・カイ・ホウ。この中で「海」だけが例外のように見えるが、
>音符(漢字の音を表す部分)の「母」は、音読みでポウと読める。「海」はもとは「母」に似た発音であり、漢代では「好」や「老」と押韻できた。
>この銘文は、従来の中国語学や中国文学の通説よりも早い時期に、近代詩と同様の韻律ができていたことを示す意味でも注目されているという。
>○と●の配置に注目すると、○は平声(ひょうしょう)、●は仄声(そくせい)で、両者は主に高低アクセントの相違である。
>この銘文は唐代の近体詩と同様の韻律が、早くも漢代に起こっていたことを示している。
>どの句も、2字目と4字目の平仄(ひょうそく)が異なっており「二四不同」のルールが守られている。
>また、2字目、4字目に平声、仄声のどちらを配置しているかをみると「反法」(第1句と第2句、
>第3句と第4句の平仄の配列が異なる)や「粘法」(第2句と第3句、第4句と第5句の平仄の配列が一致)などが守られている。
>同じ方格規矩四神鏡に「七言」鏡がある。
>この各句末の字は上古音(先秦時代を中心とする音韻)ではすぺて同じ韻で、きっちりと押韻している。
>しかし、この三角縁神獣鏡は、方格規矩四神鏡の後に現れたのに、
>魏では押韻しなくなった字を押韻字とする銘文が多く、魏の明帝の鏡の銘文としては悲惨だ。
605 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 00:31:07
>第3句の「述」と第5句の「出」が隔句韻を踏むだけで、他はまったく押韻していない。
>平仄の韻律も無視されている。
>そもそも魏の時代は、曹操父子を中心として詩壇が形成され、「建安詩」「正始詩」の時代として文学史上高く評価されている。
>詩は銘と同じく韻文であり、音韻の知識も深まっていた。
>卑弥呼を親魏倭王に任命した景初三年は、まさにこのような詩文隆盛の時代である。
>そのようなとき明帝(曹操の孫)は卑弥呼に銅鏡百枚などを賜わり、次のように詔した。
>「これらすべてを汝の国内の者たちに示し、わが国家が汝をいとおしく思っていることを知らしめよ。
>それゆえに鄭重に汝に良き物を賜与するのである」。
>三角縁神獣鏡の銘文はこの背景にはそぐわないものとしか言いようがない。
分かったか?
606 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 00:37:54
>>603 なんとなく流浪海中を漂ってみたくて。ま、それは兎も角。古代神話の時代に
おけるアミニズムにおいて人・物・技術をそれほどクッキリ分けていなかった
と想定しています。「サメのように巧みにイカダを操る人間たちの集団」を
「ワニ」と称したかもしれません。そしてそう仮定すると「ワジン」も「ワニ
」も、どちらも音読みで「ワ」で始まる妙な一致も少し触手をそそられます。
「和船」のような意味で「倭ニ(ニはイカダ?)」と後に総称されたのかも。
607 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 00:41:07
おべんきょ、おべんきょ、おべんきょ た〜いむ〜(>_<)
>韻(いん)とは、
>古代中国語において音節内の主母音・尾音、声調の部分。韻母を参照。
>漢詩や賦で押韻される字のこと。句末で押韻されるものは特に韻脚という。押韻を参照。
>詩文で、一定の間隔あるいは一定の位置で並べられる同一もしくは類似の響きをもつ語。
>押韻(おういん)とは、
>同一または類似の韻をもった語を一定の箇所に用いることをいう。
>圧韻ともいう。リズムを作って響きの心地よさや美しさを作り出す。
>中国文学で、押韻される文を韻文という。中国文学における韻文には詩・詞・曲・賦などがある。
>転じて他言語の文芸作品で押韻するものにもこの語を用いる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E9%9F%BB
608 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 00:45:40
おべんきょ、おべんきょ、おべんきょた〜いむ〜だょ(>_<)
>韻文(いんぶん)とは、
>聴覚に一定の定まった形象を感覚させる一定の規則(韻律)に則って書き表された文。
>散文に対していう。多く詩において用いられる。
>一定のリズムを持ち、暗誦されるのに適しているため、古代から神話や歴史の叙述に用いられてきた。
>俳句、和歌、漢詩、連歌、連句、四行詩、脚韻詩などの韻文詩なども韻文に含まれる。
>韻律の要素は言語、文化的背景、あるいは韻文の形式により異なる。
>日本語やフランス語では時間的単位であるモーラ(拍)もしくは音節が一定数反復されて韻文を構成する。
>さらに多くの言語では、音節の長短(古典ギリシャ語、ラテン語)、
>アクセント(英語、ドイツ語)、声調(中国語の平仄)などに関して一定のパターンが定められている。
>韻文を構成するもう一つの要素が押韻である。
>日本語の韻文では押韻はほとんど意味を持たないが、西欧や中国をはじめとして世界の多くの韻文では、
>押韻、特に脚韻が重要な要素であって、韻律との組み合わせによって韻文を構成する。
>古英語などゲルマン語の古い韻文では、頭韻も重視された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%BB%E6%96%87
609 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 00:52:47
自前の船でなくても、海洋民族の力を借りて大陸に渡れば良いのではないかな?
現に日本に渡来した騎馬民族は、宗像氏や海部氏などの海洋民族に金を払って運んでもらっている。
祟神は、自前の舟を持ちたいという野望を実現させたということだ。
そんなことは、指摘するまでのことでもないですが・・>太国氏
610 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 00:58:04
611 :
お勉強(>_<):2010/11/14(日) 01:29:49
なるほど・・・詩文、銘文にはある一定の規則があり、
後漢代までの方格規矩四神鏡では韻が踏まれ(押韻)、
各旬ごとにこの一定ルールが守られてる。
んで、三角縁神獣鏡はというと韻が踏まれておらず、バラバラなわけだ。
また、旬末とはかぎらず、各旬内でもかまわないんだね。
母音、子音に関してくわしくないのですが、音読みでないといけないみたいだぞ。
612 :
お勉強(>_<):2010/11/14(日) 02:01:48
後漢代までの方格規矩四神鏡は銘文にはある一定の規則
(「二四不同」や「反法」や「粘法」など)が守られる。
第1句○△○▲○○●
第2句○▲○△○○●
第3句○▲○△○○●
第4句○△○▲○○●
第5句○△○▲○○● こうなってて、韻が踏まれてる(押韻)
>三角縁神獣鏡は、方格規矩四神鏡の後に現れたのに、
>魏では押韻しなくなった字を押韻字とする銘文が多く、魏の明帝の鏡の銘文としては悲惨だ。
といあるとおり三角縁神獣鏡はバラバラってわけか。
613 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 02:04:53
>>612 ふふふ、魏は漢語じゃないんだよ。匈奴か何かだよww
614 :
お勉強(>_<):2010/11/14(日) 02:11:31
>魏は漢語じゃないんだよ。匈奴か何かだよww
ん?どういう事?意味は?
615 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 02:18:12
匈奴言語を音写した「万葉仮名」である疑いを持ってもいいんじゃね?
616 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 02:23:49
魏なんて「諸戎群狄」の地に立地してんだぞ。
まともな漢文なんか作れないだろ。
・・・といいたいところなのだが、そういう乱れた漢文になるのは200年以上後の北魏なのだ。
617 :
お勉強(>_<):2010/11/14(日) 02:35:16
へえ 魏は匈奴語なんてはじめてきいたかもしれん。
魏は、漢の後を継いだので漢語とおもってたんだけどね。
どこで仕入れたんだい?
618 :
お勉強(>_<):2010/11/14(日) 02:49:43
619 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 02:57:30
>>617 唐叔虞の来歴で、漢民族詐称している狄族という記事があったから。
漢語と書かれていないため、五胡族の言語であり、晋語とか秦語と記述している可能性がある。
『晋書』辰韓伝
辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、韓割東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓
"言語有類秦人"は、漢人ではないのだということ。五胡族の言語であることを疑う余地がある。
620 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 08:18:28
九州と関西の人間はここでも喧嘩をしていた。
どうしてもうまが合わない同士なのだろうね。
zuru.2ch.net/ovalball/index.html#1
621 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 08:22:46
622 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 09:43:11
中津と耶馬溪にまたがる山国川ってあるだろう?
記紀にもでてくる川。
上流にいっても深くて大きく、流れは静かだが何か迫力を感じさせる川なんだよ。
あの辺は山国町ということから、多分、あの辺は古代も「山国」(やまくに)だったと思われる。
倭人伝にも「耶馬国」と記述があるからそこに間違いないと思うよ。
そのあとに大分中部の玖珠「くす」と思われる場所も音読みが近いところが
国としてあるから(躬臣國)単位は大体みえてくるよ。
623 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 09:45:52
シンポジウム邪馬台国が見えた平野邦雄の文章によると、
時代を下るごとに邪馬台国が東に移動するように読めるとする。
順に
1、魏略(270〜280頃)・・・倭は帯方郡の東南海中にあり、山島によりて国をなす。
海を渡る千里、また国あり、皆倭種なり。
2、魏志倭人伝(280年代頃)・・・女王国の東海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。
3、後漢書倭伝(5C)・・・女王国より東海を渡ること千余里、狗奴国に至る、皆倭種なりと
いえども、女王に屈せず。
4、隋書倭国伝・・・その地勢は東高くして西下り、邪摩堆に都す。
竹斯国より以東、皆倭種に附傭す。
624 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/14(日) 09:48:17
>>609 それは借りられればそういうことは可能だが、千人もの収容可能船が日本の
日本海沿岸にたまたま来ていて船舶側と千人もの農民との利害が一致して
始めて渡海が出来うるという事だよ。果たしてそんなにうまくいくと貴殿
はお考えなのカネ? 世の中金がなければ相手はウンとは言ってくれないの
が相場だぜ。そんなうまくはいかないと考えるのが合理的考察だと想うが。
当時カネが無い時代だと言うなら、なにか物々交換的商品価値あるものを
船長らに与えることが出来えて、そうだと乗せてもらえることは相当程度
言える。しかし農民ら千人は明日の生活にも困窮するくらいの空腹集団で
あり、そんなものは持ち合わせはないだろう。それは千人が若い美女で
あるならば、コビついて無一文でも船員らの女になるというとかなら喜んで
船舶側はウンとは言うだろう。w
それに千人といえば今でも大型船舶だろう? そんな船が唐松山の言う
若狭湾あたりに運よく停泊していたなどとは条件がうまく合いすぎないかね
ぇ〜? そう考えたとき、千人のカラ手の農民が半島渡海出来るなどとは
到底成立し難い話だろうが? 如何かね?
まぁ、若狭湾に行き着く手前でほぼ全員が野垂れ死にだよ。ということは、
あいつの主張が貴殿でもインチキだと知れて、君の脳内は賢察だという
ことになるのだ。
625 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 09:48:25
『ニホンゴワカリマスカ?』
〜の二氏ちゃんはどこへ行った?wwwwwwww
どっかのスレであいつすんげえ怒ってたねwwwwwwwwwww
626 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 11:20:28
呉のの海族は、遠くローマ帝国からオホーツク海まで世界を股にかけ、交易をおこなっていたと思われます。
三国史で有名な赤壁の戦いで呉の孫健は、この海族の所有する数千隻の艦船を集めて、魏の曹操軍を打ち破ります。
ちなみに、中国でも主な水軍による戦いで使用された艦船の数はこのように推測されます。
о赤壁(烏林)の戦い⇔16万、数千隻の艦船
о白村江の戦い⇔3万、1千隻の艦船
о元寇⇔14万、数千隻の艦船
騎馬民族である元が日本に攻めてこられたのも、金を出して呉の海族を雇ったからです。
そんなことは常識中の常識なのに・・・
627 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/14(日) 11:58:36
そういうことは日御崎神社社記にも孝靈の代、月支の軍船が多数出雲に
現われたとあり、そういう大型船舶は朝廷には当時無くても他国には
あっただろう。しかしあっても、そうやすやすとは乗せてくれまい。
だいたい畿内の朝廷の中枢地域あたりの農民の住処から若狭湾まで歩いて
行ったら、当時では非常に遠方だぞ。航空機も新幹線も鈍行でも電車のない
自動車もチャリンコも無い時代に、ここまででも大変な長距離だ。
中途で飢餓で千人の農民は悉くが野垂れ死にだよ。←これが真相だね。
畿内から若狭なんてすぐですよ。
琵琶湖を船で渡れますから。
こっちは外洋船ではなく、筏のようなものでも安全ですよ。
>>617 曹操が山西や河北の匈奴鮮卑軍団を使っていたのは有名な話です。
その時代は匈奴の部族のほうが鮮卑よりも多数です。
記録上では漢名(劉ナニガシ、石ナンチャラなど)を名乗っています。
赤壁で出てくるのは川船だよ。
船は、川船、沿岸用、外洋航海用とそれぞれ構造が異なる。
貴方の言う「呉の海族」と言うのは、旧百越系の人たちのことだと思うが、
赤壁での主役は、喫水の浅い川船にあるので、元寇等(文永の時は高麗水軍ですが)の時とは主体が違います。
631 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 12:41:41
11世紀以降のチャムパ(占城)と呉人を混同してるんじゃろね
632 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 12:54:53
>>630 赤壁は川船だったという指摘はその通りですが、
まあ、要するに千人どころか数万人を運ぶ仕事を請け負う海族はいくらでもいたいうことを言いたいがための引用です。
633 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 12:58:48
呉の海族でなく、粛慎でいいよ
《日本書紀》
越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人。
乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食。
彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。
634 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 13:02:12
今だって、海を渡るにはフェリー会社、飛行機を使うなら航空会社。
専門業者でもできないときは、三宅島から避難には自衛隊の駆逐艦も使います。
要するに、海のことは航海術に詳しい海の専門家に任せるしかないのです。
635 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 13:07:42
祟神は奈良盆地の勢力だから外洋船がないのは当たり前で、
自前の海軍を持つのが夢だったみたいですが、
それも伊豆の狩野あたりで作らせたわけで、
河内で作ったわけではないのです。
636 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 13:21:45
瀬戸内海専門の勢力が、遣唐使遣隋使やったら
1/4が遭難するのも仕方がないな。
黄海に乗り入れられなくなったから遭難するようになった。
新羅の海賊が通行料をとるようになり、それに応じなかったら海賊が乱暴狼藉。
そのため杭州付近に上陸するように航路変更して、遭難による死者多数。
638 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/14(日) 13:34:59
>>628 現今ではそのとおりすぐだよ。当時もすぐにはならない。農民は船を持って
るとは言い難い。連中は若狭湾まで来る前に野垂れ死にか山賊、強盗とかに
居直りで、腹が減って半島まで行く体力は0に近い。
639 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 13:47:42
最初は数千人だったのだけれど、最終的にたどり着いたのは千人しか残っていなかった。
モーゼのエジプト脱出もそうだったのです。
640 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/14(日) 13:52:34
紅海が真っ二つに裂けて海底の地面が露呈しモーゼ 一行が海を渡った伝説
が、この日本海で当時起きたというのかね?
もっと真の地についた考えをしたほうがいいぜ。
641 :
AV女優 卑弥呼:2010/11/14(日) 14:03:44
AV女優 卑弥呼
642 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 14:38:48
西高東低の冬型の気圧配置のときは、大陸から日本海沿岸に風が吹き、
夏の間は日本側から大陸へ風は吹く。この風を利用すれば、夏の間は小さな帆船でも日本から大陸へ渡れたのです。
この風を利用して、半島や沿海州の新羅や渤海と日本は古代から交易をおこなっていた。
ですから、潮流の速い玄界灘をわたるより、若狭湾ルートのほうが比較的高確率で朝鮮半島へ渡れたのです。
卑弥呼は、九州からではなく、若狭湾から魏に使いを送ったことは、まず間違いありません。
643 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/14(日) 14:58:40
@ 記紀に卑弥呼と壱与が即位した事実の記事はない。
A △は五百枚全部が日本製と観てよい。
B 「女王国渡海千餘里復有国皆倭種」
から、卑弥呼の女王国は畿内とは言い難い。ということは、女王国は九州
にあったと観るのが正解、妥当である。
陸行一月は神武が九州から畿内到達まで、途中3年とか8年だとかの記述
(倍年暦法でも1年以上になる)があったことから、大陸からの一行は
九州到達後停泊したり道間違い、病人、前方に危険な人種の存在、女王国
での見物、あるいは地理的に険しく道変更等等にて一ヶ月もかかったと
観てよく、不合理はありえない。
つまり九州に卑弥呼の国があったと考えるのが賢察の頭脳である。
644 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 15:07:15
>>643 昔の中国の使節って、ものすごくゆっくり進んだって中国人の学者が言ってるんだってね。
645 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/14(日) 15:13:17
>>644 金属製の錆びない精巧なスーパー・ロボットなら、それは南九州から
海底を歩いて沖縄か、ジャワ、タイへ行く時間には合うだろうが、人間一行
は疲労するし、病気にもなるし山賊海賊に襲われたら命がないから一時停止
で後退もするはずだろう。女王国への旅はTVの「世界弾丸トラベラー」の
ようなわけにはいかんだろうが。人間は過去評判になった漫画のエイトマン
にはなりえないよ。w
646 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 15:29:51
三蔵法師やマルコポーロの大冒険みたいな話じゃないか。
しかし、実際は若狭湾から畿内までの交通は整備されており、治安も安定していたので山賊が出ることはありません。
647 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 15:29:59
魏志倭人伝の松浦
奈良平安の唐津
元寇の糸島半島や博多
秀吉の松浦名護屋城
よくも悪くも大陸への行き来はこのあたりが
一番適しているということさ。
648 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/14(日) 15:37:42
交通は現今のほうが整備されてるんでないの?
そこは現今、警察署はいらないくらいなのかね?
>>646 治安の維持は当時どうやってたの? ただで無法でない地帯が保持でき
たのかね?
いいかい。崇神5,6年ころは飢饉で暴動が起きても仕方がない世相だった筈
だがね? これで治安が安定してたと貴殿は言うのかね?w
孫悟空は若狭湾と畿内の間にいないよ。
649 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 15:46:27
伊万里・志摩・博多湾上陸説なんて馬鹿げてるよな
650 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 16:22:16
ぺりー来日記録じゃないんだから、誰も上陸なんて設定になっていない。
使節の来日なんて実に馬鹿げた考えだ。
651 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 17:33:49
>>648 太国 ◆yVAs7uaYlYさん
>>1をみてごらん
あと四日しかないよ(11/18で1か月経過)。
頑張って〜
652 :
お勉強(>_<):2010/11/14(日) 17:43:29
三角縁神獣鏡を考えてたら上の方(
>>611-618)で
魏国の言語は漢語ではないとか言う人がおったね。
言語学専門の知識が有る人います?
これについて詳しく知ってる方いましたら書き込んで下され。
ていうか『言語学』専門のひとなんてぃたかな?
653 :
お勉強(>_<):2010/11/14(日) 17:57:20
確か、魏国では、夏王朝〜後漢まで続く「漢民族」と「○○族(なんだっけ?)」とに二分されており
言語に関しても大まかに二つにわかれてたんじゃかった?
武帝 曹操 216年 - 220年、曹操は、後漢に封ぜられた魏王であった。文帝により武帝と追号された
文帝 曹丕 220年 - 226年 黄初 220年-226年 武帝の子
明帝 曹叡 226年 - 239年 太和(227年-233年)青龍 233年-237年 景初 237年-240年 文帝の子
廃帝(斉王) 曹芳 239年 - 254年 正始 240年-249年 嘉平 249年-254年 済南王・曹楷(武帝の孫)の子?
廃帝(高貴郷公) 曹髦 254年 - 260年 正元 254年-256年 甘露 256年-259年 文帝の孫
元帝 曹奐 260年 - 265年 景元 260年-264年 咸熙 264年-265年 武帝の孫、高貴郷公の父の従兄弟
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_(%E4%B8%89%E5%9B%BD)
この時代の民族はどうなってたのか知ってる人おる?
>>652 言語学専門では無いが、与太だろう。
まず、公用文が漢文なんだから、漢語ベースで考えるしかない。
ただし、発音、文法双方について、北方で隣接するアルタイ諸語の影響を受け続けている。
また、南部諸方言は、オーストロアジア諸語を基層に持つことから、現実には北部方言とは別の「言語」。
漢文自体は、北部方言(官話)の正書法であるので、漢文から当時の音声を復元すると、基本的には北部方言のものとなる。
656 :
お勉強ターイム(>_<):2010/11/14(日) 18:16:30
音韻が乱れていても
異民族の影響があるということで
あんまり気にしなくてもいいと思うよ
>>656 > 魏国の人々の間では「漢語」、「北方民族語」とに分かれてたんですか?
異民族でも漢語が使えなければ出世は出来ない。
現代でもそうだが、大概の人は公用語と土着語のバイリンガルだ。
公用語が使えなければ他のエスニック出身者とのコミュニケーションが取れない。
中国では漢語文化の蓄積が他の文化を圧倒しているため、
異民族が支配者となっても、公用語としては漢語が採用され続けてきた。
母語が使えるのは、同一エスニック集団内だけの話。
日本における「標準語」と地域方言や特定集団(家庭とか学校、職場などの)内の口話の使い分けも
広義では「バイリンガル」だよ。
当時の魏朝でも同じこと。
659 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/14(日) 18:49:18
>治安が安定してたと貴殿は言うのかね?w
この状況では、船が有っても、河内から千人が新羅に行くことは出来ない。
九州まで陸路、海路共に通行できるのは、日本武尊が熊襲征伐の帰りに、吉備穴戸や河内を平定してからである。
だから、船は日本海側や九州から出る。
崇神が日本海に船を浮かべても、年貢の徴収の役にはほとんど役立たない。
660 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/14(日) 19:31:38
崇神時代 (188〜216年)
崇神は庶母の子共であったため、多くの臣下が朝廷をさる。
そのなかで、開化のワガママを引き受けた、ウツシコオは、それまでの朝廷と関係の薄い
磯城に宮を造り、崇神を迎え入れる。
崇神自体も先の朝廷から三種の神器を与えられなかったため、4年に自ら鏡を作らせる。
崇神5年(192年か3年)それまで10年ほど続いた冷夏が極まり、未曾有の大冷害が極東を
襲う。民は飢餓に苦しみ、餓死して行く。
翌春には、食料を求めに民が住居を捨て、山野にさまよい始める。朝廷が引き留めても、民は
聞き入れない。(唐古、鍵や近江伊勢遺跡の民はその居住区を捨てる)
6年秋には、近江に居住する,大物主や伊勢(トヨケ)が崇神の元へ身を寄せる。
崇神は大彦を指名して、この流浪の民の南下を押さえるべく、越に派遣する。
この時崇神を快く思わない旧朝廷はハニヤスヒコを担ぎ出し、崇神朝の転覆を謀るが、先に露見し
失敗に帰する。
7年秋には、多少の実りを得たとはいえ、山野に放浪の民が溢れている。
十年秋七月。詔群卿曰。導民之本。在於教化也。今既禮神祇。災害皆耗。然遠荒人等。猶不受正朔。
是未習王化耳。其選郡卿。遣于四方。令知朕意。
10年秋、崇神は臣を集め、まだ大王の臣下と成っていない地方を収める決意を語る。
つまり当時の朝廷のシノギは、種貸し屋である。この飢饉により、朝廷から種を借りていなかった人々
(未習王化)にも、「種貸し」を始める良い機会である。
そこで、四道将軍を各地に派遣し、種籾までを食べ尽くした、未習王化や遠荒人等を新たな臣民とする。
この治世方法として、各地に拠点を設け、そこへ籾が集まるようにする。
例えば、吉備や尾張がその地である。
米をたくさん集めても、腐らしては元も子もない。そこで、
始校人民。更科調役。此謂男之弭調。女之手末調也。
通行を良くするために、17年始めて造船と続く。
この状態だから、モモソ姫の墓は現箸墓とはならない。
661 :
age:2010/11/14(日) 19:36:29
>>992 九州スレより
>>畿内説の人って三角は銘文が韻を踏んでいないから中国で作られたものでは有り得ないって
>>指摘にはどう答えるの?
>その質問に根本的な間違いがあるなw
>銘文の韻の問題はあくまで魏朝からの下賜品として相応しいか否かの問題であって
>中国で作られたか否かとは別の問題。
君は、魏朝からの下賜品は△とは思ってないみたいだな。
大陸で製造したもの以外の鏡で銘文の韻が踏まれてない例を出してもらおう。
こういう対偶命題はあかんよ
663 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 19:42:36
おっ「悪魔の証明」じゃん
665 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 20:29:28
>>661 >その質問に根本的な間違いがあるなw
>銘文の韻の問題はあくまで魏朝からの下賜品として相応しいか否かの問題であって
>中国で作られたか否かとは別の問題。
これが反論なら、中国製でないのはほぼ決定ってことだと思うな。
△って中国製なのか、日本製なのか実際どうなの?
魏朝からの下賜品として相応しいか鏡なんてあったかな
河童さん
なぜ、魏志倭人伝の記述は『行程記事』ではなく、『地理記事』なんでしょうか?
みていたら説明してくださいな。
メ は腐った生き物
669 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 22:21:05
神奈川県民氏とメ氏は同一人物なのか?
イエス
671 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/14(日) 22:23:59
>>507 >>511 >>564 続き
各位の論説が真の年代か否かを知れる古代人からの影の神器 天津神算木。
天津金木(天津神算木)は三輪(半径r=3)の円の球化の表面積(=体積)
をいう。天津金木は
4πr**2=113.09733552923・・・ (**はべき)
大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
2≠113.097335
千座の置座に置きたらはして(千座=千位 とは整数第4位の千の位をいう)
2≠0113.097335
113数を無視するとき、数字の逆読みでの790と533の差は
790−533=257年
不等号をまたいでの20数との差をとれば
257−20=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年
の、崇神即位年の真の年代 237年 が得られた。
>>667 >なぜ、魏志倭人伝の記述は『行程記事』ではなく、『地理記事』なんでしょうか?
みていたら説明してくださいな。
簡単に言えば
文章地図だから
673 :
ローガン:2010/11/14(日) 22:45:18
>>664 >もう1度行って来いよ
はいはい、君が泣きながら帰ってきたから 代わりにあっかんべえって、しに行っただけなんだけど。
行けと云うなら、又、行くけど。眠たい。
674 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/14(日) 22:52:31
イッヨ 赤玉乗りピエロ万歳〜。
魏志倭人伝に書かれた内容を、帯方郡から順次辿って行けば
邪馬台国や女王の都に辿り着ける
な〜んて
編纂した人は述べていますか?
答えはNOです。
誰もそんなこと書いていません。
それは後世の人(読み手)が、そう解釈しているに過ぎないだけのこと
行きつけるか行きつけないかという答えのない
読み手の勝手な解釈の落し物にしかすぎません。
地図はいつの時代のものでも、読み手の想像を膨らませるものです。
或る者は、その地図を利用して
宝物探しをする人もいるでしょう
また或る者はその地図を利用して、地図の上の世界一周旅行を夢見るものもいるでしょう
魏志倭人伝に
この記事は、郡使が往来した時の記録を書き記す。な〜んて書いてありますか?
読者が、そこに書かれた文章地図に
勝手な自分の解釈や思いを、文章地図に乗せたに過ぎないという事です
なんていうか、ラリーのナビゲーターみたいなもので、分岐点などの目印だけが載ったコース図を渡されて、ナビゲーターがそれを見ながらドライバーに指示を出す。
どこか一か所でもチェックポイントを見失うとゴールできないどころか、とんでもないところに行ってしまう。
パリダカラリーでも、地図に誤りがあったため、ほとんどの車が道に迷ったという話があった。
出発地点に誤りがあると、その地図は使えん。
>>676 この文章地図は
あくまでも地図だから、地図の上を移動するのは目線だけ
だ〜れも移動していない
決してゴールを目指す為の、宝探しの意図には作成されていません。
これを何らかの目的に使うのは
読み手の想像と言う自由意思(解釈)
678 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/14(日) 23:16:37
>>671から
天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
2≠113.097335
天津金木で最重要年代(年月日)は右辺先頭からの
1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位
である。次に重要なのは右辺二桁目からの
1/3 皇紀973年 仁徳天皇 即位
であるのだ。いずれも見かけの年代である。これから実年代を求める計算
は過去に解説した。
この二つの年代は何を教示するものなのか? それは崇神〜仁徳朝までが
三輪皇朝が継続している区間を示唆している。上の天津金木での右辺第3桁
からの(小数点をまたいで)30を逆に03と置換すれば、逆読みで
皇紀930年 1/1 應神天皇 即位
が得られる。03が逆ということは、應神朝で年代の区分を切ってはなら
ない〜仁徳朝まで継続しろとの示唆なのである。よって開化以前は先皇朝、
崇神〜仁徳朝が三輪皇朝、そして履中以後が後三輪皇朝となるのである。
679 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/14(日) 23:33:00
>>678 30 と ミワ(三輪)
02⇔20 と ワニ(鰐)
右辺と左辺 ウサギ(右左義)宇佐木
680 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 00:43:33
13
十三湊
土佐、富山、
トヨ13歳で即位
13が如何に神聖な数字であるかがよくわかります。
トヨタン・・・・・・・・・・・・・
682 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 01:19:46
あくまでも感想だが、祟神天皇が内陸性の人で、海上請負業の氏族の末裔の
神功皇后がと結婚したと考えても、記紀的には違和感は少ないんだよね。
神功皇后の結婚の目的が「何とか祟神を外洋に引っ張り出」して「(神功の)
先祖(天の日矛)の国への影響力を復活」させようとする意図があったと
なる。
で、渡航前に祟神がゴネるってのも、違和感無く繋がる。明治生まれの死んだ
バアチャンも、飛行機に乗るの嫌いだったしな。海馴れしている神功皇后に
してみれば「何をガキみたいな事を言っとるんじゃ。。。」って感想だった
かもしれないね。でも「あんなに荒れた外洋」を見たこと無かった人なら対馬
海峡を渡るなんて、それこそ拒否反応でしょうね。
683 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 01:23:18
>>682訂正
あ、ごめん、祟神でなく仲哀だった。スマン。
すごい訂正だw
685 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 02:20:55
訂正ついでに、もうひとつ発見した記紀のワニ絡みの話。
ハニヤスヒコ討伐の祟神軍の編成であるが、長官は大毘古命、副官は日子国
夫玖(ヒコクニフク)命である。この副官は、ワニ坂にてハニヤスヒコを討ち
取り、その後ワニ氏の始祖とされている。またしても、ワニ発見♪
ヒコクニフクの出身背景に瀬戸内海海賊やその他の海洋由来等の関連は全く
見出せ無いので推測の域は出ないが、ワニとハニヤスヒコとの対立はここで
見出せるのである。先述の架空と併せると、これはワニ氏とモモソ毘売との
対立という構図にも類推できる。これは海運利権の対立をも孕んでいたの
かもしれない。
祟神が、技術の粋を集めた「高性能船舶」をこの時代持ちえたとしても、勿論
量産型の旧式船舶の二大利権の片方は入手しておきたい筈である。その一つが
ワニ氏の祖先かもである。もしこの架空がリアルに近い物であったとしたら、
その後の祟神天皇の子孫が、「ワニ」を天皇家の先祖神話に組み込む必要も
増して来る道理になって来る。つまり
@ワニ氏の始祖ヒコクニフクを褒章
Aワニ氏(ヒコクニフク自体が海運に長けた氏族かは不問)に、ハニヤスヒコ
=モモソ毘売系統から収奪した「海運権益」を委任。
Bモモソ毘売の「毘売権益」はその後乱発される。(毘売権益の抑制に失敗)
Cワニは「神話上の登場動物となる。(何かの理由で天孫族には入れれず)
Dワニ海運権益と瀬戸内海海運権益が融合(もしくは平和的共存・住み分け)
が完了した頃、その一派閥息長氏から神功皇后(別名:息長帯日売)が仲哀
天皇と婚姻。(神功も権力の完全掌握までは毘売を名乗ったかもしれない)
E古事記編纂までに、神功皇后の出自を確認検証→朝鮮半島の天の日矛を始祖
とする事が判明。(なので天の日矛神話は神功の朝鮮征伐以降に表記される)
この解釈でも記紀的にはそれ程大きな違和感は生じない。(推測多くスマン)
__,.--、
__,,,.-t┬.t.┬ー-.、_ _,.- ';~;___ <.!>;. "''ー--='‘〉
,.,._,.,,..,、.、.--tーt''''TT~lニl__l_ニ|ニ|ニ|ニlニ!-|=l_;_~!T´_;:゚。;{‘、ー-ー-=ェェェ=-ー=〈
,..-'`'~l-.lー;ーl〜l |-|-,。;-ーー-、。;゚v。:。;l゚。;o・。;;。;/ニゝ; i=}`ー-:-;ー''''''''"""" ̄´
{Xぐ||_l={ 。ニ}ニ|ニ|ニ}ニl {/ミ;ミミ/_;ー;-;-;ー;-;-;-;-;-;-{_=:┴;<"~´ ̄
{メ、メヽ、 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄‘ー--ニミ;, ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ "'ー-、v`=;、
` :./,_メ`Z^ーz.、,、
 ̄ ̄ ̄ ~"`
687 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 03:06:58
つまり、簡単に言うと、次の可能性である。
ワニ船(従来和船)→毘売権威が独占→AB
A→ハニヤスヒコの乱にて祟神系(大王)が収奪→ワニ船はヒコクニフクに
委任→ヒコクニフクの子孫はワニ氏となる→ワニ神話(但し天孫には含めず)
B→ハニヤスヒコの乱にて祟神系(大王)が収奪→毘売乱発→毘売がらみの
反乱多発(モモソ姫を真似て我も我も毘売)→毘売の一人で、かつ遠洋航海
技術に長けた(天の日矛の子孫である)神功が皇后になる
上記のように考えると、祟神辺りの世代に「外国船並みの試作船初号機」が
無いと、「船は天の日矛がもたらした」となり、記紀編集者には不都合だった
とも考えられる。つまり、国産船初号機を祟神にしておかないと、神功皇后の
朝鮮征伐には「間に合わなく」なるのである。
「神功の朝鮮征伐に間に合い、しかも天の日矛が外国船(及びその操業技術)
をもたらせたのではない」とするために、「祟神天皇時代に(外国並の)船が
造られた」とする必要が記紀(特に日本書紀)においては強かった。
その必要性こそが、先述のように古事記編纂から日本書紀編纂の直前までに
おける「豊玉伝説」の重要性増加かもしれない。
つまり、あくまでも「国産」を強調するために、天の日矛伝説は軽視され、
「豊玉伝説→大和人は古来から海運に長けていた→祟神の頃は造船技術も
追いついた」という説を強調したのでは無かろうか?また、豊玉伝説を強調
する事で、もし毘売システムをも(そんな物は無かった物として)「大和王権
に自然に組み込みたい」と仮定したら、豊玉伝説偏重は、一挙両得という話に
もなる。(実際は不自然になってしまったようだが)
688 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 03:17:13
>>686(ナイスタイミングなAAをありがとう)
つまり(つまってばかりで申し訳無いが)
@毘売システム権力を無かった物にする為に
A祟神頃に外国船並みの高性能国産船が建造されたとする為に
豊玉伝説(の内の極論説)を殊更に日本書紀で「強調」したという可能性。
上記@Aが無ければ、古事記のように、ワニだけいれば済んだ話かもしれない
ワニ。旧型量産船をワニにしなければならなくなったワニ。
689 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 03:37:51
さらに言えば、日本書紀にてフツヌシノカミとタケミカヅチノカミが乗ったと
言う天の鳩船もニギハヤヒが乗ったと言う天の磐船も、記紀以前は本当は颯爽と
ワニに跨った彼らだったかもしれない。うー、ワニが、ワニが攻めて来る。
ニギハヤヒって、天火明命と
同一ではないだろう?
天火明櫛玉ニギハヤヒって名称だから
天火明命の形見のニギハヤヒって意味。
つまり、ニギハヤヒは、「自分は天火明命の形見だ」とかいって
妻の兄のナガスネヒコと共にクーデターをおこして
天火明命の弟のニニギの曾孫のワカミケヌ(神武)に討たれたのが
神武東征だろう?
691 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 10:42:01
>>686 おいおい、爬虫類クロコダイルじゃないぜよ、日本神話のワニは。
こっち↓ぜよ。サメぜよ。
-−_─..-..─_−_─..-. . ─− ̄─..-..─_−_─..-.._−-
. . . . ..∧..∧. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .|ヽ. . /l
. . ..((((..・Д・))). . . . . . . . . . . . . . . . . . . |. .ヽ/|
. . . . ..と. .と..ヽ. . . . ../⌒`ヽ. . . . . . ../l. . ..\∧../
. . . . . . ヽ. . . .つ. ./. .`´. . ..\. . . ./. .|. . . . |. . ヽ
. . . . . . . .し´. . ..|..,-----、. .◎、/. .|. . ..|. . . . ヽ
. . . . . . . . . . . . .||WWWWヽ. . . . . .ノ_、/. . . . . .|
. . . . . . . . . . . . .||. . . . . . . .>. . . . . . . . . . . . . ./
. . . . . . . . . . . . . .ヽヽMMM/. . ../. . ..|. . . . . . ../
. . . . . . . . . . . . . . ..ヽニニニ__|. . ..|____/
. . . . . . . . . . . . . . . . |. ./. . . . \. . |
. . . . . . . . . . . . . . . . . .ヽl. . . . . . . .\l
ここ読むぜよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A1#.E7.A5.9E.E8.A9.B1.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E3.82.B5.E3.83.A1
692 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/15(月) 11:24:15
173年 天日矛来邦
209年 任那建国 崇神時代。
274年 神功渡海
世継ぎは、男19才程度である。
神功の渡海時、神功軍は渡海ルート確認の為斥候を派遣する。
その前に 仲哀の死亡がある。つまり天皇が死亡しても(殺してでも)渡海せねば成らない事情が、隠されている。
渡海が274年であれば、晋が東北方面の経営を強化した時代に当てはめられ
280〜290年代の東夷の朝貢群に参加出来る。
そればかりか倭国が250年代に冊封されていれば、東夷の中では最初の国である。
この最初という処に重要な意味がある。つまり身分制度が有れば、長兄は(多少出来が悪くとも)弟等の上に立つ。
308年永嘉の乱、当然東夷軍が編成される(されている)。この時東夷の長は、倭国と成る。
つまり、神功49年の下敷きが出来る。
初期古墳に武器が副葬される。
時代と思考に齟齬は生じて居ない。
693 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/15(月) 12:32:01
西殿塚古墳は、箸墓(最初の大王、景行)の次に作られた王墓である。
西殿塚古墳(成務265年崩御)と黒塚古墳は同年代である。
黒塚には、△鏡と共に黄旛が、副葬される。
桜井茶臼山も黒塚とほぼ同じであるが
メスリ山古墳には、鉄槍が多数副葬される。
鉄槍は歩行軍の主力武器である。
桜井茶臼山、メスリ山が、神功の稚桜宮を表すなら、メスリ山の時代には、半島に於いて
軍が結成されている。
694 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/15(月) 13:42:29
× (最初の大王、景行)←デタラメの大ウソ 嘲笑ppppp せせら笑うww
○ (最初の大王、神武)←これが真。
695 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 14:37:18
どちらも事実ではない。つまりは、似たり寄ったり。
696 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/15(月) 15:01:16
>>695 オマエは津田インチキ病に冒されて脳内が象牙の塔の左党を大舐めに舐めて
るから、オマエは神武以下欠歯八代が代歯脱多のフガフガに洗脳され、
紀見な歯層(シソー)脳労の状態になってるんだよ。ww
オマエの脳内は左糖の取りすぎでそのペーハーがリトマス史見視を赤化して
おり、欠歯八代となるその餌舐メル質と象牙質はすでにイカレテ破壊の
状態にある。オマエは古代史の紀見な歯層(シソー)の持ち主であり、
もう歯科医糖、強酸糖で歯の神敬質がもうオシマイだ。>< それとも
歯病ミン(シャミン)糖か〜?w
697 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/15(月) 15:20:54
>(最初の大王、神武)←これが真。
では、どんな大王なんだ?
ただ、畿内大和へ入植しただけで、領国は、大和南部程度だろ。
崇神でハツクニシラス、やっと吉備から尾張程度。
景行が九州から関東までを領国とする。つまり熊襲が背けば、軍を派遣してそれを討つ。
日本武尊が関東を平定すれば、自ら出張し、治世を定める。
この時代以後、各地に古墳が造られる様に成る。
まあそう言うことだから、モモソ姫があの巨大な箸墓に眠ることは無い。
まして崇神さえ知られていない南九州日向で前方後円墳が古墳が作られることも出来ない。
時代を崇神世にしたければ、古墳の説明からしなさい。
公道での玉乗りは、他人の迷惑以外何も説明出来ない。
698 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 15:45:04
>>696 左だとか右だとか、主義思想を持ち出すなら
違う板へ逝けよ。
700 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 17:31:22
唐松と太国、とくに太国は自説以外認めない神がかりの狂信者だから、
隔離スレから出てこないでほしい。
いっそ自分でブログでも開設しろよ。
701 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/15(月) 17:54:38
>>698 大なり小なり左糖を舐めてる奴とかオマエのような奴が、欠歯八代がフガ
フガの代歯脱多の妄想にかかるわけだ。オマエより紀の編者らのほうが
よっぽど信用できる。左糖をたらふく舐めてるならここから消えろ!
702 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 18:01:15
703 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/15(月) 18:03:06
オマエはDQNか〜?pp
704 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 18:43:27
思想に洗脳された危ない人がいますね。
こういう奴に限って
天皇陛下万歳と叫びながら、赤旗新聞の愛読者。
太国は隠れ赤旗。
708 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 19:38:47
ドツボ乙
709 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 19:55:25
太国は他人とのコミュニケーションが取れないタイプ。
自分に同調する意見には丁寧に接するが、自分と少しでも異なる意見には罵詈雑言w
常に自分が絶対正しいという根拠のない自信、自分に逆らう者は認めない非寛容さは、
まるでヒトラーや毛沢東みたいだ。
710 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 20:57:27
>>709 >まるでヒトラーや毛沢東みたいだ。
とは言うが、二人とも国家の指導者にまで登り詰めた歴史上の人物だぞ。
太●なにがしと比較できるか?
711 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 21:18:47
>>690 ニギハヤヒに関しては確かに諸説あり、確か昔読んだ日本書紀解釈本の一つに
もニギハヤヒ以前にさらに(正式名称は忘れたが)ニギニギハヤとかもいた
とかいないとかと言う話もあったのも思い出した。神話期でもありますが、
但し俺は神話期と言えども1%の真実も無いとまでは思いませんし、何かの事実
のベースがあった上での架空や、ある事実の誤認や、あえて嘘を入れなければ
ならなかった理由があると考えるほうですので、多少の解釈違い等ありました
らご高説いただければ幸いです。
取り合えずここは、定説どおりのニギハヤヒは天孫神武と天孫比べ(天から
命令を受けて天下った事の正しさ比べ)をして、それを受け入れて神武に恭順
し、その後物部氏の始祖となったという話をベースに論理構成しております。
713 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 22:00:47
>>691(JAWSなAAをありがとう)
一応文面はワニで統一していますが、頭で想定している日本古代史のワニは、
俺も基本的にはサメです。
あと、ここからは架空120%ですが、この時期以前において野生のサメを飼い
ならし(その方面に関しては)超高度な文明が世界各地にあり、その一つが
日本の九州沿岸を中心とした地域であった可能性も考えています。もし野生の
オオカミを飼いならして飼い犬にしたみたいにサメを飼いならして、イヌゾリ
ならぬサメサーフィンのように乗りこなせたら、少なくともイカダ戦争や低い
甲板の船舶に対してはある程度充分な戦力にもなるかもしれません。(その
意味ではイルカやクジラも候補に入るかもしれません)
そういった野生のワニやイルカやクジラをも活用した海洋民族がトヨタマと
いう想定も(架空上は)可能かもしれません。
>>675>>677 河童さん
わたし?もちろん、君の師匠さんと同じ『行程記事』ですよ。
『地理記事』?あんたアホかいww
※あと関係ない話だが、インターネットばかりしてる人は
少し運動(スポーツ)したほうが良い。
できれば週2は運動(スポーツ)したいよね。
おれは週2はスポーツしてる~みなさんも寝てばかりじゃなく気をつけた方が良いよ。
715 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 22:20:42
>>692 >173年 天日矛来邦 209年 任那建国 崇神時代。
詳しい設定感謝します。俺個人はその三点がほぼ同時期に想定していましたが
違和感は無い年代設定だとも思います。貴殿は天の日矛の設定173年として
おるようですが、これは何の資料(または論説)をベースに設定された年数
でしょうか?説明できる範囲内でありましたらご教示頂ければ幸いです。
天の日矛は、古事記では新羅の国王(国主:コニキシ)であると書かれている
ので、これを最高権力者以下、地方豪族以上(例えば皇太子とか近い外戚親族
とか)、と考えても、新羅の地方に都道府県程度の所領や直轄領、あるいは
その権利を保有(あくまでも当時)していてもこれもこれで違和感は無い話
でもあります。
天の日矛は、今で言う所の「第一〜第三権力者」の「政治亡命」と言う可能性
もありますので(それを記紀時代は新羅に配慮して、亡命と言うような書き
方はしなかったと言う可能性もある)天の日矛の朝鮮における政治力と影響力
がある程度(当時は)あったとすると、当然その子孫としては「奪還戦」は
必要行動になって来るかもしれません。
716 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 23:10:26
>>694 気になったので、(大王は神武か景行か)どっちも調べてみた。
@古事記で「大」を訓読み的(多義的)に表記しているのはイザナギイザナミ
伝説から大国主の時代にかけてが主流と思われます。大国主が少名毘古と遭遇
する件もありますので、概念上は少なくともこの頃くらいまでに量の大小概念
は発生しているとも考慮できます。大年神の話もこれくらい。次のニニギの
時代には木花佐久夜毘売の時代にその姉:石長(イハナガ)比売との対比で、
人の子の寿命の「有言」が規定されますので、この頃には数(年数)の大小
概念は発生しているとも考慮できます。その意味では神武時代には、既に、
「量数に関する大小(比較)という概念」は既に必要条件としては満たして
いる事は確かなようです。
A「大王」に対する「王」という物に関して、同じく古事記の人物名を調べて
みた。神世七代から神武までの、所謂神話時代に関して、「王」と言う名前は
(おそらく)一切無し、王という使われ方も、王の字を用いた地名人名もこれ
又一切無し。(「主」や「玉」は、随所数名に見られるのに、「王がほとんど
見られない」のも、これも多少違和感)さらに、下って神武天皇以降の人名や
地名、その他で「王」という文字を探すと、古事記で最初に「王」が現れる
のは、開化天皇の子孫に関する人名が最初。(日子坐王:ヒコイマスノミコ
が一番最初。以降ミコとして「王」を記述している)(開化は子沢山のよう
で、開化時代に、タケノコのように「王」という子供や子孫が発生していく)
開化以降に、「王」と「大きい王」を区分する必要性が発生してくると考える
事も出来る。
※ちなみに、「大王」という表記そのものは、古事記には一切登場しない、
もし仮にあったとしたら、「削除されたのか?」と思えるくらいに全く無い
のである。これもまた、「大王尊称がいつからあったか?」を考える上で
違和感が非常に大きい。
717 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 23:20:20
ま、しかしこれは、古事記編纂を命じた天武天皇自体が「大王」を「天皇」に
したワケだから、ある意味当然と言えば当然ではあるが。
しかし、「大王」を削除して全て「天皇」に書き換えるとしても、先述のよう
に「王」の表記は残らざるを得ないのである。(ま、よって、構成に皇太子・
立太子・日嗣のミコなどの概念が必要になって来るわけだが)従って俺は
「王」に焦点を当て古事記を探してみたが、先述上記のような結果になった。
少なくとも古事記ベースとした場合、「尊称名称としての大王確定」は、開化
前後と考えたほうが自然なような気もする。早く見積もっても、出雲王権との
対立・対比が必要な頃くらいまでしか遡れないと感ずる。
>>717 あんた、ここへ常駐して常時レスし、ドツボを蹴散らしてくれ。
719 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 23:34:30
>>698-701 俺個人はイデオロギーと学究は相反しないとも思うが、同時にお互いを論考
以外で無為に邪魔する必要もないと思っている。イデオロギーで大切なのは
信念と熱情だし、学究で大事なのは論の整合性だけなのだから。但し、深い
イデオロギーや学究に至ると、説明作業や証明作業が大仕事となる。場合に
よってはそれに労を省く時間と手間が不可能にもなる。だから「乖離」が生じ
てしまうし、その意味で「区分」が必要になるだけだと思う。
目的地が同じだとしても、ルートが違うと言う事は多々ある。ま、気長に行き
ましょう。どうせ邪馬台国への道のりは、どっちにしても遠いと思われ。
アーーハッハッハ(高笑)
>718君、人に頼るな!ってか君じゃ話にならん、馬鹿ジョーカーを呼べww
おーいジョーカ君、君の邪馬台国論を聞いてヤルから書き込んでみ。
え?人の書いたレスにしか興味ない(突っ込めない)って?おめーは持論ってナイのかwww
721 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 23:40:26
>>718 あ、気紛れで最近いついてご迷惑をおかけしています。邪馬台国(及びその時
代前後の大和)に関しては、俺も可能な限り、「こんな感じ?」と言うのを自
分なりに感じたいので、ここでお邪魔しております。一応八割方言いたい事は
言ってしまったので、多少ウザイナと思われた場合は、都度ご指摘ください。
以降は、それによって、場合によっては控えます。
とりあえず今の目標は、「2010/11/18(月) 07:29:21」までに1000達成あたり
へと、俺の目的が変ってきております;^^A
おーい 河童さん〜以下について説明してくれませんか。
「倭」と「大倭」
「帯方郡」から東南へ七○○○餘里の位置
「南」と「東南」
「草木茂盛行不見前人」と「東南陸行五百里」
「始度」
「複」と「副」
「丗有王」
「一大率」と「一大國」
>>721 いや、あなたの長文は読んでないんだけど、どんどん長文を書き込んで、
目障りなドツボの書き込みが目立たなくなればいいと思ってね。
724 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 23:53:04
さて、ご指摘のあった、ニギハヤヒであるが、俺なりに記紀から拾ってみた。
記紀において、ニギハヤヒと神武は(後代によると)最終的にはお互いに気を
使い、神武は東征を無事達成し、ニギハヤヒの子孫は物部氏の子孫となった、
というオチで大団円を迎える。
しかしながら、これはあまりに記紀を信頼しすぎる傾向がある。「先住」や
「先の約束(命令)」の方が、強いという発想は古今東西一方であるからだ。
後代記紀編者が、キレイゴトで締めくくっているからといって、100%これを
鵜呑みにするのもこれも整合性と言う意味では危険だろう。(ま、だからと言
って何でも疑うのも非生産的だが)
俺個人は、仁徳五王時代か継体時代のどちらか以降に「物部」の台頭があった
事と、それを倒す為に、蘇我と聖徳太子の軍事行動があった事からも、太子
クーデター以前に「物部の台頭を確実にした時期」がどこかにはあると思う。
ただしそれが、ニギハヤヒまで遡れるかどうかは甚だ疑問だ。
>>714 >あんたアホかい
そんな事聞いて何になる?たとえ私がアホだとしても、君には関係ない事。
それとも何か関係するのか?
何時までも池沼みたいなレスして、自分で立てたスレの品位を自ら落とすなよ
まぁ人に意見求めといて
、それに応えた善意の第三者に対し「アホ」と平気でレス出来る大人では仕方ないかも知れないが
「お里が知れる」とはよく言ったもんだ。
人の持って生まれた根本的な資質がよく表れたレスだったよ。
河童さん〜以下のもお願いします。
「戸」と「家」
「許家」
「皆倭種」
「到」と「至」
「壹拜」
「黄幢」
「假授」
「邪馬壹國」と「邪馬臺國」
「百里」
>>725 まあ、まあ そう怒らないで答えて下さいよw
『行程記事』ではなく、な〜ぜ『地理記事』になるのか?
ここのスレを読んでる人はサッパリと思う。
なぜ、そうなるのか?貴方の考えはどうで、根拠はこれでっていうのが見えてこない。
その辺を分かり易く書き込んでくれるとありがたい。
728 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 00:07:13
>>723 なるほど、その立場も一興ではありますな。残念ながら、いつもいつも長文と
いう労力は裂けない俺ではありますが、その意味ではたまたま利害が一致する
事はあるかもしれません。その時はよろしく。
話はニギハヤヒ〜物部氏に戻りますが、俺は、古事記における天武天皇の下心
として、@天智への皮肉A「天皇」概念の創出B蘇我氏の封印とそのための
物部氏の名誉復活、という三大要素を大きく感じます。
その意味で、その中のBという要素に、ニギハヤヒは大きく関与する重要人物
なのです。
そして、それ以降、天皇教の祭祀において、物部氏が中心になって行く事から
も、この記紀の時の臣連氏族マジックは、かなり大胆に、確実に、冷血に、
詳細に至るまで施された可能性を感じます。
考えても見てください。大化の改新までに、最大勢力とまでなった「蘇我氏」
が、なぜ、その後歴史上から「忽然と消える」のか?この最大のタタリは、
歴史解釈どおりに「飛鳥の石舞台」によって、完全に封印されたのか?俺は
これに、とてつもない、そして日本においてはこれまであまり想定されて
来なかったような「焚書坑儒」的な、強大な政治力を感じます。
あ、簡単に言うと、蘇我氏を抹消し、物部氏の名誉回復を図った資料証拠と
しての(或いは反証としての)記紀ね。
河童さんは剣道仲間ですよ。(お手合わせしたことはないけど。)
730 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 00:14:28
しかしながら、ここは、蘇我を語る場所でも、天皇教を語る場所でもないので、
ここらへんは必要最低限に留めますが、毘売システムを語る上で「蘇我氏」と
言う要素が、記紀から拾えない現実を、あくまでも、反証と架空にて少しでも
埋めていければ幸いです。
ここらへんが誤解されがちなのですが、継体時代を中心にその前後には、物部
氏が最も有力紙族になる過程があり、そしてそれを覆す蘇我氏の時代があった
事も確実なので、物部時代にも、記紀が表記する以上に「蘇我氏の表記」が
本来的にはあって然るべきなのですが、それが天武天皇の編集方針によって
「消されている」という可能性ね。俺としては、そこが重要なの。
でたー (≧∀≦)
おれと河童さんはスレまわすのに忙しいゎんw
ゎん、ゎん、わんwww
732 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 00:19:03
つまり超簡単に言えば、記紀において「あれ?ここ重要な筈なのにウヤムヤ」
とか、「ここくっつく筈なのにくっつかないや」とかって場所があったとした
ら、それは先述上記の「天武の三大下心」が大きく関わっている可能性が高い
と思うのね。何たって、最高権力者が自ら編纂を命じた国書だからね。
つまり、ウヤムヤやくっつかない矛盾にこそ「蘇我氏」が消されている、隠さ
れている、置換されている。このどれかと考える事もできるという可能性。
>>729縦目さん。
今年から中学剣道部の渉外顧問を引き受けました。
734 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 00:25:51
上記のように(あくまでも架空として)仮定した場合。当時は無視できる筈の
無い「毘売システム」が例えあっても、それが後に「蘇我氏の氏族歴史」と密着
した絡まった物であったとしたら、それは天武天皇によって、「ええい!毘売
なんぞは、いっその事、蘇我氏と一緒に文字狩りだ!」って事も、これ権力者
思考からしてみれば、当然ありうる話かもしれない。
もし、その編集理念なら、「毘売システム」も、それにまつわる人名や事件
(例えそれが重要人物・重要事件であったとしても)は、可能な限り消し、
可能でない部分は曲げ、どうでもいい部分は多少矛盾しても放置。と、この
ような編纂実態になる可能性もある。
太国のおっさんが珍しく、自分の邪馬台国論を語ってるね。
おっさん、記紀年代論、倍歴とかばかりだし 滅多にないこと。
どうせならこっちにも書き込んでく入れたらいいのにな。
河童さん
貴方は△三角縁神獣鏡の銘文について興味ないのかい?
漢文が好きならこの銘文についても何かコメント出してほしい。
剣道の昇格の話で張り合うのはもういいからw
古代史の話をしてくだされw
737 :
ローガン:2010/11/16(火) 00:35:09
あっちはつまらん
738 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 00:36:06
5世紀の有力豪族は、取り合えず挙げると、著名な所で以下のようになる。
・物部氏・大伴氏・蘇我氏・和珥氏・葛城氏・羽田氏・巨勢氏・平群氏
これら全てが平等に(ま、階級制度でもあるから、それは無いが)扱われると
しても、最低1/8程度は記紀に登場する筈である。蘇我氏が上位五強の氏族だと
仮定すると、それは1/5にもなろう。だが、それが一切「天武の都合」で、記紀
(特に古事記)から「消された」(必要最小限にされた)なら記紀全体の内、
1/3程度は矛盾に満ちた物になったであろう事は、これ想像するに難くない。
(当時の編集者さんのご苦労に同情と同時に少し憤懣w)
ああ、剣道の話で張り合ってばかりと思ってたけど
ライバル視してるのかな?二人とも
じゃあライバル同士で頑張って下さい(笑)
さあ、お二人とも、おれの
>>722 >>726を答えて下さいな。
よくわからんけど、崇峻天皇弑逆以後、日本書紀から馬子の名前が消えるね。単なる「大臣」表記になる。
こおあたりを読み解くには、「任那」問題と「仏教」あたりがキーになるのかな。
>>733 剣道人口減少を食い止めるために、俺も地元でできることはやりたいと思ってます。
おっ、ローガンさんの凱旋だぁw
じゃぁ、あとは3人に任せた〜w(1000まで)
頑張って下さいね。
おれは寝よっと zzz・・・・ Good nightw
あ、長文さん忘れてたw 彼も仲間に入れて4人で頑張ってw
では、また・・・・・・・・・・・・・zzzz
743 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 00:55:19
そう考えると、蘇我氏がいて、何が一番困るのか?
これを考えていけば、古事記の編纂理念が浮き上がって来るような気ガス。
そこであえて蘇我氏の「興隆期に行なった実際の政治」これを考えてみる。
@聖徳太子と組んで物部氏を滅ぼす。
A聖徳・推古体制を作る
B仏教伝来の推進(但し是は記紀では太子主導色が強い)
C新羅(の植民地加羅)と戦う(任那奪還戦争)
D冠位十二階・十七条憲法の制定(但し是は記紀では太子主導色が強い)
E遣隋使覇権(太子と蘇我氏共同でないと無理、なぜなら、太子没後、隋が
唐になっても遣唐使として基本政策は継続している)
F「天皇記」「国記」の編纂
G百済に人質や朝貢を出させている(ま、これは古代王権継承とも考えれる)
H高句麗にも同じ。
これらは連座制とは言え、最高権力者の一角である蘇我氏の意向が6〜7割無い
とどれも実現不可能である。なぜなら最高権力者の強権をもってすれば、
どれも拒否権発動(今的な言い方をして申し訳無いが)でもすれば一発で原案
レベルで廃案にできるからだ。でも、わざわざやっている、許可している。
そう、これらは蘇我氏の思惑からけして遠くは無いのだ。(むしろ近いと
見るべき)
※でも、後に蘇我氏は、聖徳太子の子孫を暗殺してしまうのである???ここ
が非常に記紀の理解不能部分の一つだ。(ま、それは置いておいて)
744 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 01:09:07
上記@ABに関しては、物部(と古代神道)の排除とまとめれるし、CEGH
は、蘇我氏の外交政策としてまとめる事も出来る。ADFこれらは、蘇我=
推古(&太子)での共同国家体制の確立と布武と庶民教化ともまとめれる。
記紀の、この点がいまいち信用できないのは、記紀体制においては、最大の
ライバルの一つでもある、蘇我氏(及び聖徳太子)に関して、こうして見ると
とても一貫性があり、政治理念すら垣間見られるこれらの事象が、記紀では
ただただ「蘇我氏の氏族的私心のみによって成された」という表記になって
いる点だ。普通に考えてこれは、「蘇我氏悪玉論」で統一すると、当然の
結果にはなるかと思う。その点自体には矛盾は感じない。
しかし、だとするとなおさら、A:聖徳太子の子孫を根絶やしにしたのは本当
に蘇我氏か?という点がカナリ怪しくなり、B:蘇我氏が単に「物部氏とそれ
にまつわる天皇教だけをターゲットにしてこれらを除外した」に留まる程度の
「行政刷新」を目指していたか?という点も、これまた違和感は大きい。
Aは、それこそ板違いなので、ここれは割愛しますが、Bの点は、毘売シス
テムとも少なからず関与しかねない話なので、こちらは省く事は出来なく
なってくる。
745 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 01:28:21
逆の立場で考えよう。つまり、記紀の表記してあるとおり、蘇我氏が、本当に
私心だけで、国よりも自分の氏族だけの事を考え、国家理念も無く、ただただ
自分の氏族の影響力の拡大を図るなら、同時代は、ライバル豪族氏族も多い。
天皇家を始祖と称する地方豪族も多い。この環境下で、貴方なら、
@物部氏(や、他の有力豪族)を放っておくだろうか?
A上記のような(所謂聖徳太子主導の内省外交・制度改革)を放っておく
だろうか?
B都合が悪いからと言って、共同参画者の太子の一族を根絶やしにする
だろうか?(根絶やしより、言う事の聞く一人を手元に残すのでは?)
だが、@ABは、記紀に寄ればどれもそのとおりになっている。そう、つまり
これは明らかに記紀編纂者、しいては天武天皇の意図だ。
746 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 01:30:22
つまり前体制は程度見直したいけど、聖徳太子は悪者にしたくない。と言う
意図なら、下の構図になる。
[実際]
・聖徳太子を評価する所7割、否定したい所3割
・蘇我氏を否定したい所7割、評価できる所3割
↓
[記紀]
・聖徳太子は100%正しい
・蘇我氏は100%悪い
ちなみに、「仏教伝来」と「古代(国産)宗教の部分改訂」に関しては、
むしろ聖徳太子と蘇我氏は、利害共通なのだ。だから、上記の意図が強ければ
強すぎるほど、記紀の「記録としての矛盾」は大きくならざるを得ない。
だから、「現政権の観点」で、「これはまだいい、むしろ当時なら立派」と
言う内政外交は全て聖徳太子に集約され、「これは悪いだろう、やんなきゃ
良かった」と言う内政外交は全て蘇我氏におっつけるのである。
さて、記紀ですら蘇我氏は「物部氏」を根絶やしにしていない。これは後代
(記紀を信用すると)太子の子孫を根絶やしにした「所謂悪逆な」蘇我氏に
しては、カナリ甘々だ。仮に、蘇我氏と言えどもそこまでの権力をまだ持てな
かったとするなら、上記Bはむしろ「まだまだ太子の威光をご利用する」筈。
747 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 01:39:02
従って、記紀には次の点が強かった可能性が浮き彫りになる。
聖徳太子(そして蘇我氏も納得できる)の目指す、古代日本宗教(及び物部氏
の祭祀及び氏族自体の処遇)の仏教・儒教的見地からにおける改革を、一旦
全てご破算にし、そしてその「古事記時代に悪と規定した物」を全て蘇我氏の
血脈表記と共に、古事記から「抹消」「改ざん」「場合によっては作り直し」
した可能性が高い。
こうして物部(とその氏族宗教神話)は程度名誉回復され、蘇我氏(とその氏
族宗教神話)は、できる所まで完全抹消した。という架空も浮上してくる。
748 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 03:12:33
さて、古事記で登場する「有力臣連氏族」であるが、以下記述順に。
・中臣氏始祖:天児屋。これは天の石屋戸に参加。ニニギの天孫降臨に随行。
・大伴氏始祖:天忍日命。同上。(天児屋に少し送れて随行参加)
・物部氏始祖:ウマシマジ(ニギハヤヒの子)これは、神武東征時に恭順
・穂積氏始祖:同上
・阿部氏始祖:孝元天皇の子孫
・波多氏始祖:同上
・許勢氏始祖:同上
・蘇我氏始祖:同上
・高向氏始祖:同上
・平群氏始祖:同上
・ワニ氏始祖:ヒコクニオケツノ命。妹が開化の皇后。子供は日子坐王
・葛城氏始祖:古事記からの直接表記は無し。とりあえず「葛城」の文字自体
は、開化の子孫で神功皇后の母の高額比売の表記の際初登場。。。と思ったら
その前に、スイゼイ天皇の時に既に地名は出ていた。。。
蘇我氏・葛城氏・ワニ氏に関して、少なくとも記紀編纂時期の1〜2世代前の
勢力からすればかなり低位置とも考えられなくない。あくまでも感想だが、
中臣氏を外して、大伴・物部を繰り上げ、その空いた三着に蘇我を入れ、そこ
に葛城・ワニを連ねるくらいの方が、むしろ蘇我氏の台頭以前の臣連豪族優劣
図には近づくような気もする。
749 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 03:31:29
さて、いよいよ革新に近づいてきましたが、この古事記によって、多少過小評価
されてしまった可能性の少なくない三氏。「蘇我・葛城・ワニ」は先述の
大空想の仮定を前提とした場合、記紀にて消された神話群や偉人群と関係が
深い氏族である可能性がけして低くは無い。もちろん、これらを天武一代で
一層したとは俺も考えていない。順序や段階もあったかもしれない。
しかし、蘇我は先述の天武の下心仮想論からすでば当然だが、神功皇后と縁が
深い葛城、豊玉伝説や旧型和船と縁が深いワニ氏はどうだろうか?そして、
豊玉伝説にも象徴される「玉」の逸話に関係するモモソ毘売とハニヤスヒコ。
記紀上の「不思議現象」が、この「空白」と一致する部分もカナリ大きい。
750 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 04:02:46
古事記編纂の指示出しをした天武天皇、そして日本書紀編纂の指示を出した
持統天皇。この二人の思惑は、微妙に一致し、そして微妙にパラレルである。
天武が上記のように、古代の総括と蘇我の怨霊封じに争点を当てたのに対し、
持統は母権理論からの旧国書解釈、天智天皇(天智系)の名誉復活。そして
その教唆上の簡略化。ここらへんが主目的だったと想定する。従って、天武が
一部ないがしろにした神功等が再度スポットが当たる事になる。女帝から孫
への飛び越え継承なども理論的に裏支えしたかったのかもしれない。モモソ
毘売等もスポットを当てたかったのかもしれないが、これには後代に付加され
た「モモソ姫悪玉論」が強すぎたのかもしれない。しかも、先述の俺の架空を
ある程度前提とすれば、その子孫も「名目上は」既にいない事になっている。
従って残存伝説やその他の残存資料も乏しい。結果、むしろダークヒーロー
(ヒロイン)として強調する方法論をとったのかもしれない。
そして、この編集理念の違いが、豊玉伝説と神武の宇佐滞在に関して少なから
ぬ「齟齬」を生じさせるのである。豊玉伝説で無理をやりすぎた為に、豊玉
伝説は諸家本多発の「整合性としては」混乱を生じてしまい、宇佐滞在解釈
は、古事記の行き過ぎを当時の最新研究にて一部反動的に付加される。これは
筋としては自然である。
勿論、前提そのものを多々・大胆に仮想している話なので、「それを自然と
言われても」というご批判ご指摘が生じるのも当然だろう。
信じるか信じないかは、貴方次第でつw
751 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/11/16(火) 07:25:52
>>736 興味があるのは鏡に刻まれた銘文ではなく、鏡の流通経緯と
そのシステム構造。
私から言わせれば、鏡は単なる商品としてしかみていない。
マオより村上佳菜子だな
>>751 △鏡の「朕はアホなり」という銘文
おれは興味有るけだな
訂正
有るけだな ・・・×
有るけどな ・・・○
この板程度低すぎ、社会に出たら通用しない連中の集まりだな!下品極まりない。
756 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 12:58:55
罵倒はやめれ
何でこんなに幼稚なんだ?この板に書き込みする人の顔がみたい!
鏡を見れ
馬子=厩戸 同一人物説というのは成り立たないのかな?
馬子は天皇を弑逆し、皇統をないがしろにした悪逆者として描かれ、一方
仏教受容者としての聖なる面が強調されているのが聖徳太子であるという説。
761 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/16(火) 18:52:08
>>715 さんへ
日本書紀考察スレに細かい編年を載せておりますので、其方を見て下さい。
反論もお待ちしています。
762 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 21:32:36
>>760 同一人物説でアプローチしてみた事はありませんが、もし機会があったら
そっちもアプローチしてみたいテーマではありますね。ただ、馬子も聖徳太子
も、日本書紀だけの登場人物では無かったかと思っていましたので、その
可能性は全く考慮していませんでした。日本書紀を元にしていない記録で
馬子・聖徳太子の並存が薄ければ、そっちの可能性も濃くなって来るかもしれ
ませんね。
>>761 ありがとうございます。拝見させて頂きます。反論等(や意見所感があれば)
そちらで書き込んでいきます。こちらはあくまでも邪馬台国スレですしね。
えと、誤解は無いと思いますが、俺がここで記紀を出しているのは、あく
までも「邪馬台国が日本にあった場合」での、「その時期の日本の記録」で
どこまでどう説明し得るか?というポイントだけです。無駄に広げたワケでは
無いんですが、それでも「無駄に広いよ」と思われる方がいらっしゃったら
ご容赦下さい。
763 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 21:33:44
>>720 ドツボ
>え?人の書いたレスにしか興味ない(突っ込めない)って?おめーは持論ってナイのかwww
自論ねえ…
「持論が無い」と言うのは
このドツボ以外にも良くゴミクズレベル九州説も言われる事だがwww
要するにボロカスに叩かれたから
”分りやすい噛み付きどころ”が欲しいって話なんだろう?w
畿内説というのは例えば
(舶載であれ国産であれ)畿内を中心に分布する神獣鏡の登場
それまでの弥生土器には見られないほど広範囲に斉一性を もった土器の登場
前方後円墳と言う各地の埋葬文化の特色を拾い集めたかの様な埋葬文化・施設の登場
纏向の特異性…etc etc
それらを総合してのお話で
「箸墓が卑弥呼の墓だから」とか「三角は卑弥呼の鏡」と言うような一つのネタで成り立つお話じゃないんだよアホw
無論各項目について膨大な議論検証がなされてきたんだろうが
その一つ一つについても初心者ながら俺も自分の考えを述べているし
項目ごとに箇条書きで何回かまとめて言った事もある。
が、馬鹿は分りやすい(噛み付きやすい)ワンセンテンスを求めるもんだから
もともとそんなものを理解しようって考えは無いw
でこっちはウンザリと言うパターンだなw
恐らく他の畿内説の人間も多かれ少なかれ似たようなパターンだと思うがw
・・・まあ、なんと言うかドツボの畿内説って言うのは
この板のゴミクズレベル九州説が考える畿内説に最も近いんじゃないだろうかと思う今日この頃wwwwww
764 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 21:44:34
同一人物説で思い出しましたが、先述の「矛盾のある不思議な人たち」に関し
て、もし不思議な人AとBがいたとして、そのAとBが、表記上は別人のよう
に描かれているが、実は同一人物の可能性、とかも無くは無いと思います。
例えば、先述したミマツ比売とか、先述したヤマトモモソ毘売とか、先述した
沙本毘売とか、、、etc。
「国」自体が、まだ国内国家として並立共存している状態ですから、ま、正式
名称はある程度近い物になりましょうが、たとえば、あだ名とか呼ばれ方は、
同一人物でも複数ある場合はありうると思います。
娘・妻・母・聖女・魔女、これらは、全く同じ女性でも、見る人によっては、
五通りの呼ばれ方をします。しかし、先述のミマツ毘売はこの解釈をもって
してもあきらかに「起こり得ない」矛盾なのです。ここがポイントです。
(※但し、倭ヒメに関して、俺がターゲットにしている年代のずっと後代にも
同姓同名の女性が登場します。そちらは一旦保留します。)
765 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 22:07:18
再度、古事記におけるこの矛盾争点を抽出しておきます。(表記順)
@開化天皇と庶母(ままはは)イカガシコ売命との娘→ミマツ比売A
A大毘古命の娘にして祟神天皇の妻→ミマツ比売B
(※但し、倭ヒメに関して、俺がターゲットにしている年代のずっと後代にも
同姓同名の女性が登場します)
逆に、あきらかに同一人物で二つの名前がある近い時代の女性が沙本毘売
@沙本毘売(サホビメ):沙本毘売の乱の時の表記時はこちら
A佐波ヂ比売(サワジヒメ);開化の娘の表記時と垂仁の妻の表記時はこちら
サホ毘売とミマツ比売を比較してわかる事は、「天皇と結婚する事」が必ず
しも「毘売の必要条件ではない」と言う事です。もしそうなら、ミマツ比売
が毘売となってもおかしくない。(※但し、祟神の妻の一人、アザミのイリ
毘売だけは毘売を名乗っているので、後代概念による所謂「本妻」だけ
「毘売」を名乗る事が可能だったという解釈も可能ではあるが)
766 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 22:21:52
さてここで、先述した「毘売システム」の概念を再度想起しつつ、また、これ
また先述した「大和王権は当時まだ、アマテラスの威光に依存し必要とした」
と言う事実も想起した上で、新たな角度から見直してみよう。
[記紀100%信頼の同時代解釈]→王 王 [大王] 王 王
[上記架空による同時代解釈]→王 王 [毘売] 王 王←(大和王も単に王)
実は開化時代(ヤマトモモソ毘売の全盛期)の頃、上記構造だったかも知れ
ないという世界観で、この時代を見ることも可能になって来るのだ。
(これをここでは仮に「毘売国」と定義しよう。すると、近隣「王国」を包括
する範囲が「毘売国」という話も可能になって来る)
767 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 22:27:20
そこで、上記の図に、こう当てはめてみよう。
[上記架空で古事記再構築]→王 王 [モモソ毘売] 王 王←(大和王も単に
王の一人)
表記からは違和感はあるが、個々の要素の先述の古事記の違和感は、逆に
「解消して来る」部分も大きい。
768 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 22:34:26
この解釈で解釈した場合、古事記の基本構造は、以下のような物である可能性
が高くなって来る。
古事記上巻は(神代〜出雲神話〜ニニギ神話〜豊玉神話)は毘売の歴史(の
残滓)で、古事記中巻は(神武〜応神天皇)は大和王の地方豪族史で、古事記
下巻は大和王が名実共に「日本のナンバーワン」が確定となった後の日本史。
誰かアンカーつけろってw
770 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/16(火) 22:49:20
モモソ姫の年齢
孝霊 146年〜164年
149年 孝霊3年 モモソ姫誕生
崇神 188年〜216年
193年 崇神6年 45才である。50才直前での死亡は妥当な年齢だろう。
箸でホトを突いて死ぬなら、孝霊末から孝元の時代になる。
この時の大物主がタタネコの親族なら、タタネコの祖父さんか?
771 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 22:50:41
この場合、祟神〜神功の間の出来事は、当初地方豪族の大和王権の「毘売シス
テム」からの権威権力の「収奪期」とする事もできる。
だから、古事記は、大きな部分ではウソは言っていないし、それぞれの地方神
はけして軽んじずそれなりに配慮はしているのだが、「毘売」だけは「収奪
した元」であるので、うまく組み込まないといけない。うまく抹消して成り
変らないといけない。その過程が、開化以降、神功以前と考えれるのだ。
さて、その場合「毘売国」(つまりこれなら「女王国」と比定できる)は、
どこになるか?「毘売国の女王」は誰に成るか?
俺個人は瀬戸内海のどこかである可能性が高いと思う。(広すぎてゴメンw)
それが、瀬戸内海の東端だと、淡路〜大和近隣となり、瀬戸内海の西端だと
北九州〜東九州と言う事になって来る。この位置関係なら、西に「祀らわ
ない氏族」がいても、問題無いし、以東にたいした国も無いと言うのも成り
立つし、北(出雲か上越にあたる)は「毘売に恭順している国」と言うのも、
全て全く「矛盾が無い」。「毘売」を中心点にして当時日本世界を「再構築」
した上でのコペルニクス的転換なのであ〜る。(エッヘン)
772 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 22:52:39
「帯方郡」から東南へ七○○○餘里の位置
7,000里と言えば28,000km
南米ペルー辺りに達するのではないかと思うのですよ。
マチュピチュこそ幻の邪馬台国。
アンデス山脈の急激な造山活動によって滅んだ幻の都。
魏志倭人伝に描かれている邪馬台国の風俗は、インカ文明の風俗と一致します。
773 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/16(火) 22:54:54
193年≠崇神6年
大型船舶がこの時代には製造されてないから、もやしのようにやせた農民が
千人も操縦未経験の素人にして、到底渡海は出来ない。等号ではインチキを
意味する。詰まりデタラメの妄想であ〜る。ww
船舶が始めて製造されたのは崇神17年であり、崇神6年は倭笠縫に日神と
その象徴の鏡を祭祀した年であり、同6年は船より鏡が重視されていた時代
なのであ〜る。
774 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 23:11:47
さてそこで、記紀の基本構造を思い出してみよう。「アマテラス」さんから
見て(あえて、さんと言いましたが、これは様とすると、学究的観測者では
なく主義者的観測者としての発言と採られたくないので、あえてここでは
親しみを込めてそう言いました)九州はニニギの国、山陰(及び山陽)は
スサノウの国、大和はジンムの国(あるいはニギハヤヒ)と言うのが基本構造
であると言う点を。
この基本構造を踏襲する事によって、後に拡大しすぎて結果として日本統一を
してしまった大和王権が、自己弁護をするには、どうしたらいいか?
「あっしらも、(みなさんと同じで)アマテラスさんの子孫ですよ」となる。
ただし、これだと、スサノウノ国やニニギの国やその他のアマテラスの子孫
だけど大和にはまだ恭順していない諸勢力にたいして、差別化して自己の日本
統一が優先された理由が説明しきれない。そこで「但し、(みなさんと違う点
は)一番正しくアマテラスさんに指令されたんですよ」と強調するのである。
これがイワレビコ(神武)へのニギハヤヒの恭順にて象徴されるのである。
従って、先述の「オオタタネコ〜ハニヤスヒコ」の件は、この権威権力の
正当性の裏打ちを揺るがしかねない「大事件」なのである。大和神話に組み
込まれつつあった「毘売システム」の最後の抵抗が、ハニヤスヒコの乱・沙本
毘古の乱なのであ〜る。(かもしれない)
775 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/16(火) 23:21:20
>「毘売システム」からの権威権力の「収奪期」とする事もできる。
崇神5年の凶作で困った人々をまとめて、ハツクニシラスと呼ばれた。
垂仁は、鉄を武器に、領地を広げる。
景行は、九州女王国も傘下に収め、全国統一。
成務は治世をさらに固める。
仲哀末、晋から軍を連れての渡海を命じられる。
むずがる仲哀は死ぬ。
それでも渡海した神功軍ではあったが、スムーズな帰洛は許されず、内戦となる。
ここからの歴史を書紀は語らない。
つまり、神功元年から応神末年までの間に、本当の神功、応神が登場するのは、神功前紀の1年のみである。
応神にいたっては、応神の孫かひ孫の時代である。
776 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 23:21:42
祟神は、太平洋を渡れるような大型船を必要としたのでしょうね。
そうでないと、アンデスにあった邪馬台国にいけなかったのです。
777 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 23:21:44
ゆえに、ハニヤスヒコの乱は、応仁の乱や、関が原の戦いに、匹敵する程度の
規模と意味合いがあった可能性が高いと俺個人は感じる。つまり、記紀では
「触れられたくないアキレス腱」であるので「簡素表現で小さい乱」という
印象にしようとしたが、実際は、魏志倭人伝が表記するような「殿!隣国が
乱れてまっせー」と報告されかねないような規模の戦いではあったかも
しれない。先述したように、「その国(の影響範囲)に下心のある国」に
とっては、その国の内乱は、人によっては好ましいであろうからだ。
幸か不幸か、乱は短期に解決され、他国の干渉を受ける事も無かった。
778 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/16(火) 23:26:09
>ハニヤスヒコの乱は、応仁の乱や、関が原の戦いに、匹敵する程度の
規模と意味合いがあった可能性が高いと俺個人は感じる。
ハニヤスヒコの乱は、規模は小さいが、天下分け目の戦いではあった。
庶母を母親とする崇神に対し、それを認めたく無い旧勢力。
779 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/16(火) 23:26:55
景行を日本統一したなどという奴は、古代史妄想ガン
たる「精神的盲象悪性○ンパ種」にしてやられているインチキ脳。ww
日本統一は九州王朝の存在から、同王朝滅亡の直後の文武、元明の
ころである。そのさらに直後、記紀が成ったのであ〜る。
780 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 23:33:58
>>775 古事記を読んでいると、似たようなジレンマを発生させるような、表現上の
レトリックと思える物も見出されました。同感確定はできませんが共感はでき
ます。それは、神功とその皇子とのウタゲ等ですが、ここで、「個人名」が
特定されていません。つまり、「どの子?」と言うのが皆無なのです。
仲哀天皇との子は、ホムヤワケ命とホムダワケ命(これが応神)の二人いま
して、それ前後に、ホムヤワケが戦死したとかの表記も一切ありません。
なのに、ウタゲでは「個人名の特定無し」に、「その御子の為に歌うには」と
誰に対してかを無言で確定し、読者に「察しろよ」と言うようなレトリック
表記なのです。ま、そう言われたら、読む側としては、「ああ、これはホムダ
ワケの方だな」と察するしかありませんが、事実がそうだったかどうかは、
逆に疑わしくなってきますね、このようなレトリックを使われてしまうと。
781 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/16(火) 23:39:28
>>775の二段目を読むと、奴のお脳の程度が知れる。
奴はもやしのように痩せた農民らが初代大王にでもなったと遠回し
に言っている。妄想的悪性○ンパ種に罹っているなら、これくらいの
イカサマ、デタラメは平気で言うようだな?ww
景行が初代大王だとか言う奴は妄想、インチキの極。
景行は第12代の大王であ〜る。
その通り。
事実上、日本(と言っても白河以南)まで初めて統一したのは欽明天皇。
783 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/16(火) 23:45:52
>>780 これは、「継体は応神5世孫」を説明するためのトリックなのですよ。
なぜこの様なトリックを必要するかというと、允恭4年のクガダチにより、先祖が決められた部分が在る。
つまり、高句麗に負けた親を否定した世継ぎと成る。
だから、書紀はこの部分を空白にし、5世紀の部分は、何事も無かった、と知らぬ振りをする。
784 :
日本@名無史さん:2010/11/16(火) 23:47:05
>>772 >マチュピチュこそ幻の邪馬台国。
最高に興味あります。今度そのアプローチで一回少し考えてみます。
>>773 鏡と船と祟神の三点は、確かにきになりますね。これらの順番や関係性に
よってはガラっといろいろ変ってきますね。たしかにたしかに。
>>776 アンデスに行く為の、天の磐船かもしれませんね。ま、これは架空200%超えて
しまいますが、先史時代に、凧や気球やハングライダー等を駆使した
「大航空時代」があった可能性は、俺はまだまだ捨ててはいません。
785 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/16(火) 23:56:28
前方後円墳は、畿内大和に従属のしるしである。
787 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:05:05
>>783 俺が古事記において「無かった事(少なかった事)」の仮定を挙げた以上。
貴殿が書紀において「無かった事にされた」可能性を挙げられるのを直接否定
することは差し控えますが、俺個人は、その前後の「継体」の血脈的データの
相関性には今のところ大きな矛盾はまだ感じてはいません。また違う機会まで
に、ある程度調べてみます。
>>782 俺個人は、大和が出雲から権威と権力を収奪し、九州から権威を収奪した時点
で「日本を統一した」と称しても全く問題無いと考えます。従って、それは
神功以降〜五王前後となるワケではありますが、「より確実にした(なった
)」と言った意味ではもっと後にずれ込み、おっしゃるとおりに、継体〜欽明
天皇くらいになる可能性は否定しません。
788 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:07:43
○ = 毘売の墓
□ = 大王の墓
○ + □ = 前方後円墳♪ うほほ、大王と毘売の合体。
789 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:08:44
この時代、アメリカに代わって、ドバイタワーのあるアラブ首長国連邦が世界を支配してたのだ!
と言っているくらいおかしな推論。
もう、笑うしかないです。
790 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:10:25
明治天皇以前の天皇は、明治時期に創り出された
架空の天皇です。
記紀は専門外でよくわかんないんだけど、蘇我氏ねえ。・・・系図上の始祖である武内宿禰というのは、大和の有力
豪族の共通の祖先として創作されたものだろう。で、系図に出てくる満智は百済人の木満致に似ているし、その後の
韓子、高麗というのも渡来人系を連想させる。このあたりはどうなんだろう?
あとは葛城氏と結んで勢力を伸ばし、仏教の受容に際して特別な地位を得た、ということなのかな。しかし、記紀編纂
時には、蘇我氏の歴史というのは大きく改変されて書かれていると思うけどねえ・・・。
>>784 ナスカの地上絵は、当時熱気球に乗って眺めていた、という説もあることはあるね。ww
792 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/17(水) 00:16:22
>今のところ大きな矛盾はまだ感じてはいません。
継体を応神5世孫とするためには、二俣王の誕生を400年頃に設定しなければ成らない。
ここに応神を設定すると、400年前後の高句麗の南下、つまり好太王碑を否定することになる。
領土を大幅に奪われて、巨大古墳は造れない。
ここに矛盾が生まれる。
793 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:21:09
>>791 >あとは葛城氏と結んで勢力を伸ばし、仏教の受容に際して特別な地位を
得た、ということなのかな。
一応そこは、俺も確定的には表現していないので、そう取っていただく筋も
まだ問題無いです。そこらへんに関しては、俺個人は、記紀編集期頃の、国内
の「親新羅派」と「親百済・高句麗派(百済復興派と高句麗復興派ね)」と
「親唐派」の国内の勢力バランスが関係してくると思います。
で、記紀(特に書紀)は、その国内での「最終勝者」の国書であるという事
です。
レプリカ鏡は欲しいな〜
ただ、蘇我氏にしても一方向から考えるだけではなかなか見えてこないものがあると思う。例えば、当時の仏教寺院
にしても、馬子が開いたとされる飛鳥寺なんかは渡来人僧侶集団による新知識、新技術の結集があったんじゃない
かな。
796 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/17(水) 00:28:08
好太王碑の辛卯年を391年としたら、
『咸安二年[372]春正月辛丑、百濟、林邑王、各遣使貢方物。六月、遣使拝百濟王餘句、爲鎭東將軍
領樂浪太守。』(晋書簡文帝紀)
六月、使を遣わし百濟王餘句を拝して、鎭東將軍領樂浪太守と爲す。》
370年代に楽浪も領土とする百済を属国と出来ない。
ここは、331辛卯年 百済と倭は楽浪を領土とする。
この事実は高句麗の念願の地が百済領と成ったことをあらわす、高句麗には根に持つ出来事。
この時代を送らせる、七支刀369年だと、書紀の数字と合わない。
そして、神功の渡海の機会も失われる。
縦目さんおひさ〜
797 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:31:10
AV女優卑弥呼
798 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:34:03
>>790 田舎の大名や豪族の私家歴史書とかにも、とりあえず随所「天皇の傍証」は
取れると思いますので、全くの架空と言うのも考えにくいと思う。ま、程度
上げ底されているとか、血脈筋を入れ替えられてるという可能性までは否定
しませんが。
799 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:47:11
>>792 >継体を応神5世孫とするためには、
俺個人は、そこは「兄弟相続」概念で問題はクリアしていると考える。
例えば、継体の子供の安閑天皇(在:531〜35)から→弟(宣化)→弟(欽明)
→子(敏達)→弟(用明:在:585〜587)→弟(祟峻:在:587〜592)の例。
五代が50年程度で経過している。
「五代=五世代」と想定したのは、あくまでも長子相続制からの解釈で、
そうすると「五世代だから125年くらい?」となる。実際は兄弟相続だった
なら「五代=2〜3世代」に納まるので兄弟大家族なら早ければ数十年で済む。
800 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 00:55:59
>>795 ま、その方面ではタレラバの域を出ませんが。蘇我氏が記紀に描かれている
ような「ただのすげー悪いやつで、自分と自分の一族の利益しか考えて
いなかった」と考えても矛盾は大きいんだよね。それだけは確か。
単純にジョ明天皇の血脈の子孫から見たら「大悪人だった」ってのだけは確か
だろうケド。
801 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 01:58:48
おや、みなさんみまかれたようなので、ここでトンデモ架空説をもうひとつ
残して明日に備えるか。
開化天皇、実は女性説。
[根拠]お名前、ワカヤマトネコヒコオオビビノ命(若倭根子日子大毘毘命)
これは、当時は「毘売命」だったのが、故意か過失かで「毘毘命」になった?
うーん、でもこれはカナリ薄いなぁ。。これには資料が少なすぎる。。
802 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 02:23:22
もし、以下の仮定なら、これまた空白が埋まる。ただ、架空要素満載なので、
気に入らない人は読まないように。
モモソヒメ→毘売就任(後に死後開化天皇と称号される)→孝元天皇死後、
自分の息子ハニヤスビコを幼帝とし、女帝として君臨→君臨時魏晋の使者来訪
(接見場所は東九州)→外交締結(後に屈辱外交と定義される)
→モモソヒメ死亡(日蝕伝説)→大毘古命グループが祟神を祀り上げ挙兵
(これが後にハニヤスヒコの乱に摩り替えられる)→どうにも決着がつかない
ままハニヤスヒコ戦死→祟神を大王とし、沙本毘売を毘売とし、ハニヤスヒコ
の子(の一人)をオオタタネコとして三輪山神主に据える(変りに大王継承権
や毘売継承権は放棄させられる)ことでようやく乱平定→三輪山のウタゲ
(乱終了のお祝い)
そして後代
大毘古グループがモモソヒメ悪玉説を定着させ、オオタタネコ←ハニヤスヒコ
←モモソヒメ血縁関係を「口承皇室記録から」隠匿(但し開化号は隠せない)
古事記編集グループが蘇我氏の関連事項を削除改ざん隠匿。
日本書紀編集グループがモモソヒメをダークヒロインとして反動復活。
803 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 02:38:23
こうして、モモソヒメ伝説、オオタタネコ伝説、ハニヤスヒコの乱(本当は
暗殺され)の、三つの逸話は、記紀までにおいて、それぞれ個別の別個の話と
してちりばめられた。
古事記編集者は、蘇我氏と共に毘売システム(豊玉伝説)も超軽視したので、
結果として、日本書紀の編纂の頃には、これらの三要素は、全くバラバラに
なった。(豊玉伝説は書紀にて名誉回復がはかられたが、それも無理が
強かったので後々論争の種になる)
804 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 02:54:45
記紀編纂上は、記紀のルールとして天皇が即位中に(意味無く或いは謀反心
で)暗殺されてはいけないので、ハニヤスヒコの即位は「無かった事」に
される。
だが、古事記編纂の間に、「実像」に迫った古事記編纂サイドは、この畏れ
多さにおののいた。だから、表記上はオオタタネコを「神主の祖」に据える
のである。これなら、「消された元大王」の子孫の待遇としては悪くは無い。
ハニヤスヒコのタタリを畏れたのだろう。また、古事記→日本書紀の間に、
先ほどのワニ船や豊玉伝説の「名誉復活」の圧力も強まった。古事記にて
蘇我関連を削除しすぎてしまったからの関連氏族の不満だ。そこで、宇佐神宮
を建て、豊玉伝説を再度「組み入れる」事になった。船の解釈は、より後代
研究が進んだので、その成果も併せたのかもしれない。
805 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 03:15:43
て事で、浅学で不遜で頭の悪い俺的には、今現在は、
・モモソ毘売(生前のお名前)=開化大王(後代の贈り名)=ヒミコ
・イヨ(トヨ)=沙本毘売(もしくは同世代の毘売・比売の誰か)
・魏晋との接見場所は日向と宇佐の間くらい。(当時はそこが「女王国」)
と言う架空想定。
イヨタン(トヨタン)・・・・・・・・・・
コスプレか?
808 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 03:53:16
さて、このトヨ(イヨ)であるが、先述のように俺はまだここはぼやけて
いる。なぜなら、この時期から「毘売」のインフレが始まるからである。
なので、確定は避けたい。しかし、あえて批判を覚悟で架空するなら次の
ように思っている。
[毘売の正式継承(大和版)]
@モモソ毘売→A空位(乱の為)→B沙本毘売(乱の途中)→C空位
→Dアザミノイリ毘売→Eイワツク毘売
[魏晋の判断(誰がヒミコの後継者か?)]
@モモソ毘売がヒミコ→ABC空位(乱の為)→Dトヨスキイリヒ比売がトヨ
(但し、大和王権的には同時代にDを毘売とは認定しない)
つまり魏晋の外交団は、「ヒミコの後継者はトヨ」(後々大和王権の有力者と
なった陣営からは毘売と認定されない女性を、ヒミコ=モモソ毘売の後継者と
認識)としたのである。(外交上の野心により)
記紀では、「二つの乱」として分割された、ハニヤスヒコの乱とサホビコ(
サホビメの兄)の乱は、実際は長期戦の「夏の陣〜冬の陣」のような物(
実際年数は少し離れているとは思うが)だったのかもしれない。
トヨスキイリ比売は伊勢の巫女になるので、外交上も全く問題無い。つまり、
権威上は、「毘売のようなもの」とも取れなくはないお立場だからだ。しかも
もうその時の「毘売」には政治的実権をあまり持たせたくない内情でもある
ので、その時の大和王権にとって「屈辱外交の継承者」が、むしろ「毘売」で
あったら困るのだ。なぜなら「モモソ毘売外交の是非」を今まさしく「非」で
あるとしたばかりの「祟神&大毘古」政権なのだから。
809 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 11:02:54
最近のここは、何のスレだかわからなくなってきた。
最近閲覧する様になったが、とにかく程度が低い、下品だ!
811 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 13:15:56
原点に戻ろう
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
812 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 13:25:15
, ´__ ` - 、 `丶、
. / / / ` - 、 丶
/ / ' / ` - 、 \ /
/, ' / / /!l | ` 、 \ /
. // / / /__∠. 斗‐ | l、 | l ` 、 ` く::\
/イ /| ′ ///二ヽ! | | \ | | ,| \ \:ヽ
| / l| l/ ,イ:'〈 f!ハ '|l l! !__ メ、' / ! .:l:\ ヽ冫
l'′l| l //::,′ |l:::} l l|´ ,二ヽ \/ / .:;'::::::::\ /
{ | 'l..:/:::,' 、ゝ'′ l | 〃「「`ヽ/ X .:::/:::::::::::::::`Y
! l:::l::{ "" ` l| | !::::::i}/ .::/::::::::::::::::::::,′女王は、突厥人です。
. l |:ハ ! ゝtzノ' .:/:::::::::::::::::::;/ とーぜんモンゴロイドです。
l|::∧ _ """ `ー/ .:/:::::/::::::::〃
|:':/::>、 ヽ __ - ´::::::;::::::'::::::/::::::://
}/l:/ ヽ.__/ ̄ ー=<彡::;:::イ/::::::://
/ /′ /イ/ イ::/:/::;:イ '
′ .イ l//:/::ハ ヽ
また、河童さんの悪口になってしまうが・・・w
「私の邪馬台国」本
↑このレベルの本を読んで「ぐはっ!」って来た河童さんって有る意味凄いよなw
普通〜来るか?w どうやったら来るのか教えて下さいwww
815 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 19:06:50
「ぐはっ!」って来たって呆れたってことじゃないの?
>>815 ん?「やられた〜><」って方じゃない?
河童さん〜どっちなんですか?wwwwwww 真相を語って下さい。
817 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 19:15:52
>>811 先述で東北九州説を出した者として多少オカド違いな俺ではあるが、あえて
畿内説方向からアプローチしてみるとしても、少し違和感がある点を数点。
@日本海経由の場合、隠岐→因幡(或いは小浜・天橋立)→琵琶湖(もしくは
湖西)辺りを経由で機内を目指すルートの方が自然なような気もしますが、
当時それができなかったのは、やっぱり出雲のせい?だとすると、出雲が魏志
倭人伝に登場しない理由が見つからない。上陸地点が能都辺りという考えは
全面否定はしてないけど、俺個人は、隠岐経由の方がまだ自然に感じる。
A「奴国」が南北に二つありますが、それは記録上問題無いのですか?
>>812 俺もモンゴロイドだと思う。根拠は無いけど。
>>763 おっ?ジョーカ来たか。
最近のジョーカーは、相当勉強してて、オーラが漂ってるかんじする。
よーし、彼(河童君)が相手してやる!!
覚悟してろよ〜ジョーカーめwww 河童君宜しく〜!w
ローガンさんのレス
>東夷伝序文には、公孫氏の存在により東夷の事は何もわからなかった。
>しかし淵を斬り、位宮を追ってようやく東夷の事がわかるようになった。
金関 恕氏の本かな?
これをみると「卑弥呼がなぜ朝献したのか?」が分かると思う。
しかし、志賀島の金印が発見されてるので、何も分からなかったのかは疑問。
この一帯を治めていた公孫氏が倒れ、現在の倭国の状況が分かるようになったという事でしょうね。
唐さんって東北人だったのか。
東北といえば弥生遺跡ではなく、縄文遺跡というイメージがある。
最近、彼は考古学を摘まんでるようだが、邪馬台国時代の考古学を調べる時はどうするんでしょうねw
たとえば、講演会でも関東よりの西でやってるような気がする。
東北は住んだことないので分かりませ〜んゎw
821 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 20:21:44
さて、魏志倭人伝を再度確認しながら、所見を
倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。
百余国のうち、30ヶ国が使訳が通用する所とあるので、倭人分布域のうち、
1/3が「通訳を介して対話可能」、2/3が「通訳を介しての対話不可」と言う
事になりますね。
楽浪郡からのスタートで韓国海岸線沿いに南行。そこから東或いは南に7000余
里で、倭人分布域の「楽浪郡から最も近いところ」に入り、その国の名は、
狗邪韓國。「その北岸」は何の「北岸」か?。これは倭人分布域の北岸と見る
べきだろう。また、狗邪韓國も「倭人分布域」の可能性が高い。
822 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/17(水) 20:23:07
>東北人だったのか。
はずれ〜。
>>822 あれ、唐さんって何処なの???
向こうの掲示板で鮭の産卵地とか言ってたからてっきりそう思ったんだけどな〜
みなさん、どんどんレスしてね。
最低でも900までもって行こう。
ただでさえ低レベルのスレなのに
ドツボ(=メ)が仕切ろうとするから
もっとレベルが下がる
825 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 20:35:07
始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。その大官を卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。
ここの解釈は「さて、その具体旅程であるが・・・」と解釈すべきだろう。
水行ではなく海を渡るので、これは「沿岸航海ではない」と解釈するのが自然
だ。だとすると、対馬国=対馬付近という考え方が自然になる。で、その
「渡った距離」が千余里。つまり、全旅程の、1/7という事になる。
朝鮮半島沿いの水行旅程もあるので、対馬国が対馬なら、すでにここで7000余
里のほとんどを過ぎていると言う話になる。対馬は倭人分布域である可能性が
高く、通訳可能領域である可能性も高いが、倭国であるかどうかは半々だ。
先述によれば、この辺りに「狗邪韓國」がある筈だが、先述以外の表記にその
名は無い。
唐さん
低レベルって言われてるよ~
なめんじゃねぇ っていう所みせて下さいw
827 :
ローガン:2010/11/17(水) 20:41:53
>>819 >金関 恕氏の本かな?
いや、ここの大まかな意味なんだけど。
「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏。景初中、大興師旅、誅淵、又濳軍浮海、收樂浪、帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。
其後高句麗背叛、又遣偏師致討、窮追極遠、踰烏丸、骨都、過沃沮、踐肅愼之庭、東臨大海。長老説有異面之人、近日之所出、遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。
雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。」
828 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 20:42:12
又南に一海を渡ること千余里、命けてかん海と日う。一大國に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。
もし仮に、対馬国を対馬でなく、海流加速にて隠岐とした場合、隠岐と後に
呼ばれた当時の対馬国から、更に「同じ距離」を海で渡って、一大国に付く。
対馬国が対馬なら、これは九州北岸になる。対馬国が隠岐なら、これは若狭湾
から敦賀・加賀・能登あたりと推定される。
830 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 20:55:49
又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、
皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属
す。郡の使の往来して常に駐る所なり。
又、ほとんど同じ距離の海を渡った先が末盧国なわけだから、
北九州上陸だと、そこから時計回りに海を行くか反時計回りに海を行くしか
ない。時計回りなら大分に至る、反時計回りなら長崎に至る。
若狭湾上陸だと、南に琵琶湖があるので、これを縦に渡ると、丁度朝鮮半島と
対馬の間くらいの距離なので、これも自然。
831 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 21:07:04
掲示板なんかで仕切ろうとする人が理解できん
832 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 21:07:20
>好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。
とあるので、素もぐり漁を思わせる。記紀なら豊玉伝説を思わせる表記だ。
>東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属
す。郡の使の往来して常に駐る所なり。
上陸した末盧国から500里で伊都国であるので、末盧から東南方向の伊都まで、
朝鮮半島から対馬までの「半分くらい」は「陸続き」でなければならない。
よって、先述の「末盧=長崎」は、消える。北九州だと北東か内陸部になる
し、近畿の琵琶湖南岸からの東南なら、奈良〜伊勢〜美濃のライン沿い辺りが
伊都に当たる計算になる。
>世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。
また、この表記からも、「末盧から東南方向の伊都まで」周辺が、「女王国」
の影響範囲内と言う事にもなる。
前方後円墳の形は骨壷から来ているとの説があるのですが
この信憑性はどうなんでしょうか?
当時の倭国は火葬などないし、骨壺も何も。
835 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 21:24:06
東南のかた奴國に至ること百里。官をシ馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。 東行して不彌國に至ること百里。官を多模と日い、副を卑奴母離
と日う。千余の家有り。 南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬余戸ばかり有り。
>東南のかた
とあるが、「伊都」からなら「更に」と言ったような前置詞が来るのが自然。
なぜなら、「海を渡る」今までの旅程は、「又」とかを使い、その方法論なの
で、ここでもその一貫性法則を出さないのは不自然。
前置詞がないので、よってむしろ前文の「末盧→伊都」の旅程の途上を、具体
的に説明している個所と考える方が自然。
つまり「末盧(100里)→奴(100里)→不彌(不彌の南)→投馬(水行20日)→伊都
=邪馬台国国境」
500里計算はこれでピッタリである。そして、全旅程、つまり楽浪郡から7000里
もピッタリである。
北九州説だと、東九州が妥当。畿内説だと伊勢湾周辺が妥当、となる。
836 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 21:27:06
殯(もがり)ですね。
古モンゴロイドの末裔であるインディアンの鳥葬と起源は一緒なのではないでしょうか?
モンゴルは燃料の木材が得られないので鳥葬です
838 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 21:34:33
南のかた投馬國に至る。水行二十日。官を彌彌と日い、副を彌彌那利と日う。五萬南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行
一月。官に伊支馬有り。次を彌馬升と日い、次を彌馬獲支と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。
ここは、女王国の直轄領の、国境から首都までの道のりと考える方が自然
だろう。水行20日は、不彌→投馬の倍の海上交通である。九州説だと、日向・愛媛・南山口・辺りが自然。畿内説だと伊勢・志摩・名古屋辺りが自然。
弥生式土器に埋葬された人骨はたくさん発見されています。
それもかなり大きい石を抱えた状態で発見されています。
石が入れてあるのは死体が黄泉の国から現世へ戻ることを恐れた為とも言われています。
840 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 21:39:19
次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇
國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。
次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。
これらは、全て前置詞「次に」があるので並列表記であり、普通に「女王国」
の周縁従属国と考えて、旅程とは考えない方が妥当だろう。
841 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 21:43:41
その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。
楽浪郡から倭人域までが7000里、そこからの旅程が数千里で邪馬台国そのもの
に辿り着くので、これらの解釈がごく自然だ。
そして、この文以降は、「女王国」の風習と外交になる。
842 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 21:56:09
(中略)その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を
説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に
拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。
東北九州の場合、狗奴國は、クマソの方角に成り、近畿説の場合、伊勢・
奈良・河内ラインの以南にある男王の国と言う事になる。
843 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:00:58
> 東北九州の場合、狗奴國は、クマソの方角に成り、近畿説の場合、伊勢・
奈良・河内ラインの以南にある男王の国と言う事になる。
さて、これは問題ではあるが、ヒミコの時代をモモソ毘売前後とした場合、
大和王権の直轄地の少し南に、「まだ大和に恭順していない」男王の勢力は
考えうるだろうか?
それに、一大卒という軍事機能を、女王国以北に置いているのに、なぜ、最も
危ない南の狗奴国に関しては、全く無防備だったのだろうか?
軍略面だけでは、これは全くの解釈不能になる。
844 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:06:38
もし、大毘古&祟神の、幼帝ハニヤスヒコへの反乱軍が、「吉野」や「熊野」か
らの出兵ならどうだろうか?これだと矛盾は少なくなる。
そして、後の大毘古&祟神グループ王権が、ことさらに「神武東征伝説」を、
上げ底吹聴したなら、この筋も自然だ。
大毘古グループは、「女王国」を、乗っ取ったのだ。
845 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/17(水) 22:12:48
その北岸狗邪韓國に至る
伊都國に至る。世王有るも皆女王國に統属
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。官に伊支馬有り。
邪馬台国の王(官)が伊支馬(イクメ)の時、狗邪韓國は任那と呼ばれていた。
晋書により、「南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る」が「東倭」と訂正されている。
「東倭」とは、倭国(伊都国を統属する女王国)に対する東の倭である。
328年 つまり魏使が、狗邪韓國で集めた情報と伊都まで来たときの博物誌から成る。
翌年垂仁は田道間守を派遣する。
朝貢団の団長は、女王国の難升米。副長は、大和の都市牛利である。
846 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:22:35
ハニヤスヒコの乱が、畿内の戦い(幼帝ハニヤスヒコ暗殺直後の畿内の権力
争い)そして、沙本毘売の乱が、いよいよ、九州の「元祖女王国」の攻防戦争。
つまり、ハニヤスヒコの乱〜沙本毘古の乱までの間全部を、「魏志倭人伝」は
「倭国大乱」としたのである。この場合クマソは、この時は、大和王権の同盟
者だったと考えた方が自然だ。なぜなら、そうでないと、後にヤマトタケル
が、巫女に扮してクマソタケルを討つ時、「クマソタケルがわざわざワナに
引っ掛かる理由」が無さ過ぎるからだ。
クマソタケルが完全にアマテラス権力や大和権力に対して距離のある自立を
して対抗してたなら「アマテラスの祭祀」なんかに参加しなければならない
理由は、クマソタケルには全く無いのだ。
847 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:33:30
東北九州(当時の首都)を最終拠点とした、沙本毘古が、壮絶に大和の祟神&
大毘古に倒される際に、クマソは、中立を保つだけでも、「アマテラスへの
反逆」になる。だが、ヤマトタケル世代まで勢力が存続している事から考え
て、むしろ積極的に大毘古と組んで沙本毘古を倒し、九州での己が勢力を確保
発展ささえようとするのが地元権力者としては自然に思える。
沙本毘売=沙本毘古の乱の鎮圧により、東北九州の「女王国」は急激にその
求心力を失う。だから、直後の景行天皇(オオタラシヒコオシロワケ)が、
東北九州から畿内へと、「遷都」するのであ〜る。この遷都は、都をお引越し
したと言う意味ではなく、「政治権力機能・宗教権力機能」のお引越しだ。
848 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/17(水) 22:42:02
ハニヤスヒコの乱〜沙本毘古の乱までの間全部を、「魏志倭人伝」は
「倭国大乱」としたのである。
畿内安穏。
この齟齬を説明出来なければ、書紀も倭人伝も参考にならない。
849 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:49:54
>>848 イクサとしては、記紀どおり、ハニヤスヒコの乱はハニヤスヒコの乱で、沙本
毘古の乱は沙本毘古の乱で、それぞれ、「終っている」からなんですよ。
ただ、その間も、「祟神大王」を「次の大王と認めるか否か」や「どの毘売を
次の毘売と確定するか」は、両方とも「空位」だった。
記紀は最終勝者グループの、祟神&大毘古命の立場見解を述べているだけ。
で、魏志倭人伝は、「祟神&大毘古命の新体制が確実なものと成るまで」を、
他国視点として「まだ乱れ続けている」としただけ。
850 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:53:54
魏晋は、自分にとって都合のいい「毘売」「大王」に、立って欲しく、また
そのように画策しただろう。沙本毘古・沙本毘売も、魏晋にとっては、一時は
「倭王」「毘売」だったかもしれない。
だが、そっちサイドが、最終的に敗北してしまったのだ。
851 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:59:17
景行天皇(の時代)は、面白い政略結婚をしている。日向のミカハシ毘売と
結婚しているのだ。日向の有力氏族から、嫁を迎える大王は、景行が初めて。
852 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:03:32
>>851訂正
失敬、ミハカシ毘売(美波迦斯毘売)ね、景行天皇の妻の一人。日向(四国
中国以西)から妃を迎えるのは、おそらく彼(景行)が始めて。
853 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:15:44
この婚姻は、景行時代がヤマトタケルの時代でもあるので、一見自然なように
思えるが、軍略的には全然自然じゃない。もし、記紀どおり、「沙本の乱は
大和VS九州とは、全くの無関係」ならば、ヤマトタケルは、いきなり「同じ
神を祀ろわない他国」の最高権力者に会い、しかもだまし討ちにするのだ。
これはどう考えても不自然。
むしろ、それ以前に、一回大戦争で雌雄を決し、その後政治力でからめとって
行った。その仮定の一つがヤマトタケル伝説、もう一つが景行天皇とミハカシ
毘売の婚姻と考える方が自然だ。
では、九州VS大和を決定付ける大戦争とは何か?それが記紀では小さく
されている。それが沙本の乱。
例えて言うなら、大阪の陣を「木下の乱」とするような、国書レトリック。
豊臣の乱にするためには、豊臣が徳川の「臣下(もしくは目下)でなければ
ならない」(徳川は集権できなかったので、そこまでの歴史捏造はできな
かったが)
854 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/17(水) 23:26:12
>ヤマトタケルは、いきなり「同じ
神を祀ろわない他国」の最高権力者に会い、しかもだまし討ちにするのだ。
日本武尊の熊襲征伐は、景行に服属した熊襲が背いたために、日本武尊が登場した。
倭人伝では、大倭が伊都に置いた1大率。
纒向遺跡 3世紀中葉の建物
http://www.city.sakurai.nara.jp/bunkazai/index.html SB‐101の西側約10.5mの位置に他の柱列と軸線を揃えた柱列の存在も明らかとなりました。
そのため、大規模な整地を行なった微高地上を東西に3棟 の建物と柵などが強い規格性のも
とに構築されており、これらの遺構群が纒向遺跡の中でも何らかの特別な施設の一部となる
可能性があります。
古墳時代前期初頭において、このように複雑かつ整然とした規格に基づいて構築された建
物群の存在は全国的にも珍しいもので、今後は更に周辺地区の調査を推進し、その構造や性
格を明らかにしていきたいと考えています。
土盛りをし、大規模な整地を行なった。土盛り=乾く=ひ 整地=しろ 日代の宮
855 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:28:11
従って沙本の乱を境に、「それまでの倭国は分国的」→「それからの倭国
(大和王権)は中央集権的」と成っていく流れも、これも自然になって来る。
ヒミコ時代は共和連邦的→神功の頃は対外戦争可能→五王の時代は中央集権的
となっても、全く違和感は無い。そして、神功時代までに「瀬戸内海の東西」
は、「権威も権力も融合している」と言う前提要素も、これで兼ね備える事
が可能になる。
856 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:30:47
>景行に服属した熊襲が背いたために、
「背いた」のが記紀どおりなら、背く前の昔に「恭順した」過程があって然る
べきだが、それは記紀のどこにも見当たらない。
>要注意人物としては、通称「 www」 名無史がいます。別名を「ジョーカー」などとも呼ばれる彼は畿内説です。
>能力的には、考古学はよく勉強していますが、所詮は素人の域を出ませんし、それは自分でも認めているようです。
>文献はやや暗いものの、総体的な教養はあるようです。彼は九州説のレスを常に待ち、
>捏造や欺瞞、誤謬や不勉強を見かけるとそこを突いて嫌味に反論するという、いわば待ち伏せ方の論者です。
>自説を主張することはあまりありませんが、よく考古学者の唱えるような一般的な畿内説であると自分で語っています。
おい、ジョーカーさん、当たってるじゃねーかw
文献はやや暗いって言われてますよww
858 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:37:54
クマソがもし(というか、記紀はその見解をとっているのだが)「アマテラス
を祀ろわない民族(で、東夷などと同じ)」だから、「背く前の話が無くても
征伐して問題無いのだ」と言う歴史解釈どおりでの事実進行ならば、
余計、なぜヤマトタケルが女装までして巫女に化ける必要があるのか?という
話にもなる。勿論、記紀では「巫女に化けた」と言う書き方はしていない。
淡々と「女装をした」「その衣装は倭比売にもらった」と、しているだけ。
だが、どう読んでも、「巫女に化け」て、クマソタケルがアマテラスの祭祀に
のこのこやってきて、そこでだまし討ちにされている。
のこのこやって来る?関係の無い他国の神様の祭祀に?
859 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:47:45
なので、むしろ沙本の乱前後までに、「クマソ、大和に恭順するのかよ?それ
とも敵対する(し続ける)のかよ?」と言う段階があったと考える方が自然。
だが、その記述も記紀には無い。つまり、次の矛盾だ。
@クマソがアマテラス権威と無関係なら、記紀による「蛮族指定」はOK
だが、ヤマトタケル伝説が異様に不自然。
Aクマソが当時はアマテラス権威を無視できない関係なら、ヤマトタケル伝説
は(上記一部を除いて)自然だが、記紀による「蛮族指定」はおかしく、プチ
出雲や、プチニギハヤヒのような表記にならなければおかしい。
860 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 23:55:40
この矛盾を解消する可能性があるのが、沙本の乱(等の、倒大和反乱軍)に
て、クマソがどっちかに荷担したかも、という仮定だ。
これなら、味方側に荷担しても、戦乱後、一回大和にあいさつに行かなければ
ならないし、敵方側に荷担していても、戦乱後、一回大和に謝りに行かなけ
ればならなくなる。
つまりこの仮定なら、クマソタケルが「のこのこ大和の祭祀」にやって来ても
全くおかしくないのだ。
861 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:06:35
以上の理由で、クマソタケルは、「背いたので討伐された、その際だまし討ち
にされたのは、アマテラスとは関係無い蛮族だから仕方無い」とするのは、
記紀トリックで、実際は「和解交渉・恭順交渉(の為の祭祀饗宴)の為のこ
のこやってきた無防備なクマソタケルをヤマトタケルが女装で騙し討った」と
いう筋の方が自然に思えて来る。
862 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:18:14
ところが、これを正確に書くと、「毘売システム」は表記せざるをえない。
だが、先述したように、俺の架空によれば「記紀では毘売システムはタブー」
となっている。ましてや、卑怯なだまし討ちを、伝説(のヒーローとしたい
人)が、アマテラスの威光(衣装)を借りて行なった、という構図は、天皇
血脈子孫にとっては、あまり好ましくも無い。
863 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 00:21:57
だが、「背いた蛮族」ならその討伐方法が「多少卑怯」であって、あまり問題
無くなる。「先に背いた奴」が悪いのだから。ただ記紀編纂者は「以前にどう
やって恭順させたの?」と「何から背いたの?」を書き加え忘れただけだ。
ほら、ほら、補足説明までしてるよ(笑)
ローガンさん、もう一ぺん行ってらっしゃい。
2ちゃんが舐められたまま、ノコノコと帰ってきたらあかんって(笑)
866 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 01:11:52
>>516 今更ながらにそれが浮上してきますね。更につっこんで、もっと面白い事を
俺は考えています。
ヤマタイコク=山田国= 蘇我倉山田石川麻呂
そして、それは。。。
867 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 01:17:01
蘇我氏と共に、記紀から消された物。
・蘇我氏(の善政)
・蘇我氏の先祖神
・邪馬台国
・毘売ネットワークシステム
・豊玉伝説
・葛城勢力が最も活躍した時のモモソ姫の執政
・クロコダーイル
868 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 01:24:24
蘇我氏と共に、記紀から消された物。
・蘇我氏(の善政) ・蘇我氏の先祖神 ・邪馬台国 ・ヒミコ ・トヨ
・毘売ネットワークシステム ・豊玉伝説 ・ハニヤスヒコ天皇
・葛城勢力が最も活躍した時のモモソ姫の執政 ・開化天皇の女性表記
・クロコダイル(ワニ船)シャーク ・倭国大乱 ・クマソの先祖神
869 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 01:26:48
そして、ジックリ記紀を読み解けば。。。蘇我氏が蘇えると。。。
こういうレトリックなのだ。うーん、記紀ミステリー。
信じるか信じないかは、貴方次第♪
トヨタン・・・・・・・・・・
871 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 01:28:41
倭国大乱については議論しないの?
872 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 01:31:47
>>871 俺個人は、倭国大乱は、「解釈論(解釈違い)」という先述の感想。
873 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 03:14:53
さて、いよいよ邪馬台国の風習だが
男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使の中國に詣るや、皆自ら大夫と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て
蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。文身は亦以て大魚・水禽を厭う。後やや以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは
左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、尊卑差あり。その道里を計るに、当に会稽の東治の東にあるべし。
この表記からわかることは、国によって多少の慣習の違いも大きく、国内政治
はそれぞれ身分差があるという事。一方で海に潜る民があり、一方でそれを
さげすむ民がいる。これは通説どおり、中央集権ではなく、緩やかな連合体
すら構築できていない国家群かもしれない。
あるいは、観測者が、ひろいきれない共通要素があるか、ないか、まだ浮き
上がって来ない。
874 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 03:18:44
その風俗は淫らならず。男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作る
こと単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・
鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、タン耳・朱崖と同じ。
衣服に縫製を施す事なく、女性の服装は単純な布地に穴をあけただけ(観測
者はそう見る)武器は竹・鉄・骨からなる盾矛にて軽武装。
875 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 03:23:14
倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣なり。 屋室有り。父母兄弟の臥息処を異にす。朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるごとし。食飲
にはヘン豆を用い、手もて食う。 その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る。始めて死するや、停喪すること十余日なり。時に当たりて肉を
食わず。喪主コツ泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如くす。
冬を通して野菜が食べれる。(漬け物技術?乾燥技術?)わざわざ「冬を」と
入れているので、少なくとも夏冬区別がつく程度の寒暖の差は楽浪郡よりかは
あるらしい。中国製の朱丹を体に塗る風習あり。墓を作ってとむらう風習
あり。沐浴の風習があるらしい。
876 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 03:27:57
その行来して海を渡り、中國にいたるには、恒に一人をして頭をくしけらせず、キシツを去らせず、衣服コ汚し、肉を食わせず、婦人を近づけず、喪人
の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。もし行く者吉善なれば、共にその生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭わば便ち之を殺さんと欲す。その
持衰謹まずといえばなり。 真珠・青玉を出す。その山には丹あり。その木にはダン杼・豫樟・ホウ・櫪・投・僵・烏号・楓香あり。その竹には篠・カン・
桃支。薑・橘・椒・ジョウ荷あるも、以て滋味となすを知らず。ジ猿・黒雉あり。
生産物の紹介か?
877 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 03:33:11
その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。
その会同・坐起には、父子男女別なし。人性酒を嗜む。大人の敬する所を見れば、ただ手を摶ち以て跪拝に当つ。その人寿考、あるいは百年、あるいは八、
九十年。その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を
没し、重き者はその門戸および宗族を没す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、國國市あり。有無を交易し、大倭をしてこれを
監せしむ。
当時も長寿国家だったようだ。重婚社会ですな。ある程度の法治の傾向が見ら
れる事から、観測者が言うほどには文明は低くない可能性もある。観測者が
当時の倭の法的方法論・宗教方法論がいまひとつ理解できなかっただけかも
しれない。そうでないと、イサカイが少なかった事や、寿命が長かった事も
説明しきれない。
878 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 03:52:31
女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の 如きあり。王、使を遣わして
京都・帯方郡・諸韓國に詣り、おろび郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。 下戸、大人
と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲りあるいは跪き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫という、
比するに然諾の如し。
女王国以北に都護府のような軍事衛所を持ったようだ。ただし、以北だけか
どうかは、観測者は確認しきれていない。四方八方に複数あった可能性も
皆無では無さそうだ。道路交通時に身分差での譲りがある事から、典型的
身分社会であったようだ。女王国の権威権力は、結構強かったのかもしれ
ない。
879 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 03:55:58
その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。
鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せ
しむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。
これを見るとヒミコは嫁さずか、寡婦かの、どちらかという事になるだろう。
男子一人ありは、これは子供かもしれない。
880 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 04:09:00
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、
またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。
女王国からさらに東南に4000里に、倭人(?)の国があるのか。東北から西南
に細長い日本をベースで考えると、ここら変が悩ましくも苦しい所だねぇ。
ただし「海を渡る」でなく、「水行」だから、これは沿岸航海と見るのが自然
かもね。具体表記も無いから、伝聞の可能性のほうが高そうだね。そうすると
この先の方位と距離は、実際は多少ズレがあるかもしれない。歯黒国なら、
「シコク?」って思ってしまうが、それには逆だし。音が近い国を探して
みるしか無いのかなぁ。
881 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 04:14:16
>倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連
なり、周施五千余里ばかりなり。
これだけ見ると「九州の大きさ」っぽいんだよなぁ。観測者の判断する「倭人
分布域」は、これによると九州を出ない話になるんだよな。でも裸国と黒歯国
でしょ?このふたつは倭人に含まれるか含まれないか不明だし、観測者も
あえて具体確認作業もしていないんだよね。そうすると確定はできないけど
「これも倭人」と考える方が少しだけ有利かなぁ。
882 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 04:19:52
以降は外交史
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その
年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所
の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を
以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。
金印外交キター♪
883 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 06:51:21
國國と諸國の違い。
884 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 07:28:31
>>873 >一方で海に潜る民があり、一方でそれをさげすむ民がいる。
さげすむ民なんていたかな?
885 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 07:33:13
>>875 >沐浴の風習があるらしい。
これは禊ぎでしょうか
886 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 07:35:18
>男子一人ありは、これは子供かもしれない。
いや違うでしょうw
887 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 09:47:17
>>880 >女王国からさらに東南に4000里に、倭人(?)の国があるのか。
これは倭人の国ではない。こびとの国だ。
888 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 19:34:13
>裸国と黒歯国でしょ?このふたつは倭人に含まれるか含まれないか不明だし
これも倭人の国ではないよ。南方の島々だろう。
889 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 21:19:58
日本では九州でも裸は無理だな。
やはり、邪馬台国はボルネオ島辺りにあったのではないのか?
倭国と魏国の接点は何?
なぜ魏なの?
891 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/18(木) 22:00:24
>>855 >従って沙本の乱を境に、「それまでの倭国は分国的」→「それからの倭国
(大和王権)は中央集権的」と成っていく流れも、
>ヒミコ時代は共和連邦的→神功の頃は対外戦争可能
「中央集権的」これは、崇神が4道将軍を派遣して、各地を傘下に置いた。
出雲、吉備、尾張などが、地方の窓口として機能する。
垂仁は、鉄を手にし、鉄の配分権で各地をまとめる。
末年に田道間守を派遣する事により、魏に認められ、魏使と共に帰洛する。
その魏使と共に、又洛陽を訪れた“使い”がいたから、
晋書に240年 正始元年春正月, 東倭重譯納貢,と書かれる。
景行は魏の政治手法「屯倉経営」を取り入れる。
この手法は、領土経営を認める代わりに軍役の義務を負う。
領土経営を認められた、領主は、その地方の「まつろわぬ人々」をその傘下として行く。
その貢献度に応じ、畿内より“鉄”を配分される。
この軍事力とまとまりで、神功渡海となるが、元々が、景行、成務に従属した親族等である。
時代が下れば、従属意識に変化も出る。
とりあえず神功渡海は、274年 晋が東北経営に力を入れる「幽州を別け平州を置く」
280〜90年代は毎年の如く洛陽を訪れる東夷。
892 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/18(木) 22:31:04
魏使が田道間守と共に大和を訪れそこで見たものは、
作られたばかりのホケノ山古墳である。
この墳墓に北方の東夷の風習である百人の殉葬を重ねて卑弥呼の墓となる。
だから、卑弥呼の傘下である伊都国周辺を探しても、相当する墳墓は見つからない。
893 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 23:52:28
田道間守なんて伝説上の架空の人物を持ち出してる時点でカルトだな。
記紀の説話を安易に利用するから、アマチュアは電波だとか笑われるんだ。
神話や伝説と史実をないまぜにして、自己流の歴史物語を創作するのは、
アマチュアの一番よくないところだw
何を偉そうに。本人が楽しけりゃいんだよ。どうせ2chなど便所の落書き。
895 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 23:57:55
やはり邪馬台国は関東にあったということですね。
それを隠すために、古事記は富士山の存在を完全に無視している。
896 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:28:15
古事記は富士山はどうでもいいから書いてないだけだよ。
邪馬台国は九州、だから九州に目を向けて書いているんだ。
東は対象外。
897 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:52:06
古墳として残っている場所が全てではないと。
899 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 01:08:11
>>891 俺は当時における「四道将軍」そのものの登場はまだ疑っている。但しその
時期(自論においては)沙本の乱が、四道将軍(のような物)の必要性を多大
に発生させると考える。(四道将軍は後代(2〜3世代後)導入された可能性)
>>896 古事記前半の「重心」を大和よりやや西、つまり瀬戸内海そのものと考えれば
東の果てにある「富士山」の重要度はまだ低いかもしれない。
ヤマトタケル伝説の「東征」に関する違和感や神話要素の高さからも、ヤマト
タケル以前の祟神時代の「四道の一つとしての東海道」が、充分に大和に恭順
であったかどうかは、疑わしいと思う。むしろ、ヤマトタケルの東征そのもの
を「恭順させる過程」と考えた方が、ヤマトタケルの「苦戦」も、その後の
大和王権の当方への影響力の拡大も自然なような気がする。
だから「富士山はまだ登場しない」となる。この筋が自然だと想定している。
つまり、古事記によると、景行時代には「西のクマソ」も「東方十二道の
あらぶる神」も、どちらも大和の神を「祀ろわない」という同じ理由で、
ヤマトタケルを派遣しているワケだが、実際には西は「祀ろわせる最終過程」
で東は「祀るも何も、原住民を全く知らないので調査して来い」だったと考え
ると、合点が行く部分は非常に多い。
ヤマトタケル以前に東海道には「四道将軍」などは派遣されていないのでは?
900 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 01:36:31
西は「祀ろわせる最終過程」ではない。実家に戻ったヤマトタケルだ。
東は普通に「祀ろわせる最終過程」
901 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 01:49:48
終止符も貼っておきますね
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
902 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:23:22
最近、近江説とかいうのが書店にあったが、それがこれかい?
903 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:31:25
>>900 イクサがあろうがなかろうが「祀る神」は近似かどうかだよ。ヤマトタケルの、
→西征は近い神を祀るクマソと戦った可能性
→東征は違う神を祀る東国諸国と戦った(戦うと言うよりかは現地調査)可能性
904 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:43:17
>>903続き
根拠@:クマソタケルは宴会にのこのこやって来ている(先述、女装の件等)
根拠A:記紀クマソに多分に配慮してる。これは対出雲・対ニギハヤヒと同質
根拠B:書紀クマソタケルの名受けの扱いは、イズモタケルに対する物と同質
根拠C:上記の配慮や関係性は、対東国諸国に対しては一切無い。
だが、これだけ配慮や事前関係性を匂わせる逸話でありながら、クマソは
東国諸国と「似たような蛮族」のような扱いなのだ。
上記の配慮が事実なら、これは矛盾になる。クマソを「単なる蛮族」にする
必要が、古事記編者にはあったという事だ。
905 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:48:09
906 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:52:07
>クマソは東国諸国と「似たような蛮族」のような扱いなのだ。
まったくちがうな。東国の方は、ヤマトタケルを殺そうとした。つまり、実際に
攻撃をしてきたのだから悪だ。しかし、クマソはまったくそれはない。
クマソは何も悪いことはしていない、悪ではないってことだ。それが古事記の描
き方だ。
907 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:52:34
>>904続き
つまり、熊襲の制圧過程は、対出雲や対エウカシと「似たようなやりかた」
で、行なわれている。「似た神話権威体系」を逆手にとってのだまし討ちだ。
これは「一旦大激戦をしてある程度両者に優劣が決して」いる「似た神を信じ
る者同士」でないと、起こり得ない。
クマソが、古事記の景行天皇の言うとおり「西の方の祀ろわない者」なら、
対東国や対蝦夷と同じようなヤリカタ(つまり配慮無くただ制圧)でいい筈。
908 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:00:28
>>906 それは、東征は「実際に勢力同士の軍事衝突になる事があった」と言う話を
裏打ちしている。逆に、西征は「リーダー暗殺」だけで事が終っている。
反抗勢力が、リーダー殺されただけで納まるか?場合によってはもっと
こじれて、むしろ戦闘は拡大するぞ?だが拡大していない。その説明が
つかない。
909 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:07:40
910 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:15:30
従って、日本の文芸の中に「富士山」が登場するのが平安時代頃というのは、
あまり違和感が無い。
富士山を以西から見ても、それほど感動は大きくないかもしれないが、東国
(つまり関東)を、ある程度「手中に収めて」からでないとその感動は薄い。
後代更級日記の主人公の少女が、父が東国に赴任する辞令を受けて着任して、
初めて「富士山の(関東から見た)美しさ」が、日本の文芸に鮮やかに登場
するのである。ごく自然である。
911 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:24:15
>>902 大和(やまと)には、群山(むらやま)あれど、とりよろふ、
天(あめ)の香具山(かぐやま)、登り立ち、
国見(くにみ)をすれば、国原(くにはら)は、煙(けぶり)立ち立つ、
海原(うなはら)は、鴎(かまめ)立ち立つ、
うまし国ぞ、蜻蛉島(あきづしま)、大和の国は
万葉集に収められた舒明天皇の「国見の歌」ですが、
2度出てくる“やまと”は、「山常」「八間跡」と書き分けられています。
そしてこの“やまと”が単純に現在の大和=奈良、“香具山”が現在の香具山なら
香具山から「海原」が見えるというのはおかしいのです。
湖南アルプスの岩山からは、琵琶湖が近くに見えます。
また、信楽の高原地帯は現在、陶器の産地です。
「煙立ち立つ」・・・、舒明天皇が歌を詠んだ当時から、
信楽は陶器の生産地だったのではないでしょうか?
912 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:26:16
>>907 >だまし討ちだ
だまし討ちは正義の行うべきことではない。そこが問題だ。
913 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:38:47
914 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:54:25
915 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 04:02:21
>>912 そうですね。実際記紀では「正義かどうか?」の優位性はそれほど高くないと
思われます。もちろん無くはないけど、「正義」より優先する「方法論」が
あると考えた方がいいでしょう。
もし、正義がある程度優先されるなら、記紀には「だまし討ち」が多すぎ。
それに「正義」という概念は、もっと後の時代ですしね。
「最も高位のモラル」があればだまし討ちにしてもあまり問題無い。そういう
最高位のモラルが、記紀に描かれている本分と考えれます。
916 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 04:14:12
>>913 風光明媚な画像を感謝。
えと、多分誤解はないと思いますが、誤解があったらいけないので、念のため
補足すると、俺個人はヤマトタケル東征の偉業そのものが大きくおかしいと
言ってるワケではないのね。ただその「意義」が記紀どおりの物ではなかった
可能性を言ってる。
当時でも、海軍力だけなら、おそらく余裕で瀬戸内海諸国>東国なのは、これ
おそらくあまり異論も無いし、記録的にも矛盾は無いので、少なくともそう
なると、東海道沖〜関東南部沖の制海権は大和が手中(もしくは影響範囲)と
している可能性が高い。だとすると、ヤマトタケルの東征ルートに大きな矛盾
は感じない。陸行や陸戦が難しいケースが万一あっても、海が活用できるワケ
ですしね。
逆にヤマトタケルが、「クネクネ」と進行しているのも、むしろリアルです。
比較的安全・比較的同盟関係の地域を進むと、自然にそうなりますね。
917 :
914:2010/11/19(金) 04:19:24
>>867-869さんの言うように、
日本書紀・古事記のアヤを解くには「蘇我氏」は大きなカギです。
蘇我馬子。変な名前です。しかし日本史には似た名前が登場しますね。
「小野妹子」。小野氏の本拠地は滋賀県大津市です。
〜『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。
日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を
携えた使者は小野妹子とされる。〜wikiより引用
小野妹子の子が毛人。孫が毛野。
なんだか蘇我馬子−蝦夷−入鹿とかぶってませんか?
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
この文書を中国に突きつけた外交官こそが、蘇我馬子だったのではないでしょうか?
ならば、その一族を退けようとした人達は、一体何が目的だったでしょう?
宗教上の争い?本当にそうでしょうか?
918 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 04:27:01
つまり、記紀では西も東も「祀ろわない蛮族を戦って祀ろわせた」のがヤマト
タケルの西征・東征、と同列同質扱い(の指令を景行天皇がヤマトタケルに
発した)とされているが、実際は、
西は:神話権威が同じだが、反乱(沙本の乱)を継続しているクマソタケルを
恭順させろ、という指令。
東は:神話権威を共有しない(あらぶる神々)を調査して、恭順させれる者は
恭順させろ、という指令。
実際はこの差異があったと考えた方が自然だ。
これだと西で「大戦争」どころか目立った局地戦もなかった理由も、東で
「時々激しい抵抗戦争」に見舞われた理由も、ある程度説明がつく。
919 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 04:37:20
>>917 情報ありがとうございます。小野妹子三代ですか。そちらもいつか調べて
みます。蘇我氏と共に消されたのが、毘売システムじゃないとしたらそれは
何か?そちらの筋も興味深いものではありますね。
しかし、そこらへんまでツッコンで書くという事は蘇我馬子〜小野妹子をほぼ
同一(もしくは近親)とする話になりますが、それはどのような理由でしょう
か?詳説できるようでしたらレスいただければ暗愚な私としては幸いです。
920 :
914:2010/11/19(金) 04:45:42
うまこ、いもこ。
似たような名前が、魏史倭人伝にも登場します。
「伊都国」の副官、泄謨觚(せもこ?) 柄渠觚(へごこ?)。
ここは帯方郡からの使者が留まる所と記されており、
住人の名前や表記も他の国とは違うニュアンスがあります。
>>901の地図の「伊都国」、旧伊香郡高月町(現在は長浜市)は
全国有数の古墳群と、国宝も含む仏像を持つ町です。
グーグルマップで地形か航空写真を見ていただくと分かりやすいですが
「関所」「入国管理局」を置くのに適した場所だと言えます。
そして、(私は実際に聞いたことはありませんが)
高月の方言は、湖北方言の中でもさらに異なるとされています。
(湖北方言自体も特殊な関西弁です)
921 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 05:00:48
脱線が少し大きくなってしまいましたので、とりあえずヤマトタケル東国征伐
の俺が架空している実像とその意義をまとめておきます。
これは、「東国はどう恭順させたか?」が、記紀編者にとって空白(もしくは
政治的理由で書けない)であった可能性です。でも「その時期に東国が大和に
なっていない」と後々のツジツマもあわないし、そこにはオオビコの子供の
子孫も「既に定住している」という事実にも反する。
そこで、ヤマトタケルに大活躍してもらったり、オオビコの子のタケヌナカハ
ワケを「四道将軍の一人」にする必要が、古事記→日本書紀あたりに生じて
しまった、と考えられる。だから、古事記では「タケヌナカハワケを東の方
十二道につかわした」というだけの表記になっていて、日本書紀では「四道
将軍の一人として東海道(=東の方)に派遣した」となるワケです。
実際、「それ以前にタケヌナカハワケの派遣がある」ワケですので、ヤマト
タケルは、「それでも祀ろわない人々(=東国人の一部)」を恭順させに
行くとなり、記紀ストーリーとしての自然さを出すわけです。
ですがその「タケヌナカハワケの派遣」などは古事記編集者の想像で、実際は
その派遣は無く、ヤマトタケルの東国征伐が大和王権としての最初の東国征伐
で、ヤマトタケルが往復した地方に、後にタケヌナカハワケの子孫が「住み
着いただけ」かもしれない。つまり、古事記編集者は、まんまと大毘古命(の
子孫)に騙されたのである。(或いは、積極的に子孫を古事記ストーリーを
自然に見せるために活用されたのかもしれない)この可能性を架空しておく。
922 :
914:2010/11/19(金) 05:23:24
蘇我氏、小野氏、そして魏志倭人伝の伊都国
これらは同じ一族だったのではないか、と。
そしてさらに、日本神話の登場人物。
アマテラス、スサノオ、ツクヨミ。
この「スサノオ」ですが、この名前は出雲神話と共通です。
しかし同一人物とは思えないフシがある・・・そもそも場所が離れてます。
「スサノオ」は出雲神話から名前を借りただけではないでしょうか?
ならば、その下に消された名前があるはずです。
日本書紀・古事記の編集者が、隠さなければならなかった名前。
それは、蘇我氏=小野氏=伊都国の、始祖のものだったのでしょう。
その名前は?
さらに奈良時代以降冷遇されていった氏族の名前をさがすと、
めぼしい名前があります。忌部(いんべ)氏。
日本神話の「フトダマ(アメノフトダマノミコト・天太玉命)」が先祖です。
アマテラス、フトダマ、ツクヨミ。
これが本来の高天原の三神ではないか・・・と思います
923 :
914:2010/11/19(金) 06:04:50
「フトダマ」は、古事記では「布刀玉命」と書かれています。
神話に詳しい方なら、連想するアイテムがあるのではないでしょうか?
布都御魂(ふつみたま)。
神武東征の折、助太刀に差し出された刀です。
なぜ「布都御魂」を持つ一派は、突然西から来た神武天皇に加勢したのか・・・
彼らは元々「神武天皇」と同じ言葉を話す民族だったのではないでしょうか。
そして、帯方郡への窓口だった伊都国人で、外交官であった蘇我氏・小野氏でもあり、
「古語拾遺」を漢文で記した忌部氏であるなら・・・?
帯方郡。中国か韓国の一部のように言われてますが、満洲ですね。
彼らはそこから来たのではないでしょうか。
高天原の「スサノオ」=フトダマ、蘇我氏、そして神武天皇は
満洲人だったのではないか。・・・そう仮定すると、辻褄が合うことがたくさんあります
(中国人でも韓国人でもない、ということは強調しなくてはなりませんが)
924 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 06:17:11
>>920 なるほど「〜〜こ」という名前ですね。確かに当時の豪族のお名前の中では、
異質で特徴的かもしれませんね。ふむ。
ちなみに、妹子の子孫の毛人・毛野は、音読みだとどのように読む(読むと
思われる)のでしょうか?参考の為におうかがいできれば。ただ、魏志倭人伝
の時代と馬子の時代は少し離れすぎているような気もしますが。
あと、出雲神話体系及び出雲解体にも結びつくようなアプローチでもあります
ね。非常に興味深いです。以前、アマテラスとタカミムスビの関係で、興味
深い関係性、すりかえをも思わせるような架空を聞いた事があるます。もし
そうなるとスサノウ・アマテラス・タカミムスビの関係性なども再構築する
架空なども架空としては想起されて来るかもしれません。(テーマから離れ
すぎるかと心配しますので、浅学の俺的にはこの程度までしか言えませんが)
925 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 06:27:07
>>923 古事記では布都の刀、日本書紀ではフツノミタマですね。アマテラスが
タケミカヅチに神武への加勢を命じた時に「私が行かなくても変りに」と
して神武に送ってやった、あの伝説のえくすかりぱぁですな。
ちなみに、タケミカヅチは、今回の争点に(俺的には)かなり謎を握っている
神様の一人と見ています。(先述参照)
926 :
914:2010/11/19(金) 06:47:22
>>924 毛人・毛野の読み方は分かりませんが、北関東の古い国に「毛野国」がありますね。
「蝦夷」もまた東国の人々ですから、なにか関係があるのではと思います。
高天原の「スサノオ」=フトダマが元満洲人なら、
アマテラスとツクヨミ、そしてタカミムスビ(オモイカネ?)は
どこから来たのか。と、考えてみます。
ツクヨミは、そのまま「月読み」の意味でしょう。
月の満ち欠けを観察してどうするのか?
稲作の種まき〜収穫の計画を立てる。つまり稲作をする人々、
いわゆる弥生人だろうと思います。
>>901の地図の中でも「投馬国」にあたる野洲川下流は、
弥生遺跡が多く見つかります(銅鐸も)。現在も田んぼが多いです。
ちなみに野洲の子供はこんな子ばっかりです。
ttp://www.youtube.com/watch?v=Pazt_7nnMDg
927 :
914:2010/11/19(金) 07:08:35
>>925 「タケミカヅチ」
〜別名 建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)。
また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。〜
やはりフトダマ一族と北関東は関係が大きそうですね。
私は関東方面には全く土地勘がないのですが
源氏の関東武士というのは北関東からも出ていますよね?
源氏の発祥は河内です。
神武の軍勢が居を構えたのも、おそらく河内(葦原中国)だったでしょう。
古墳時代には、河内に都が置かれました。
天皇家の分家だなんて通説がありますが、源氏とは、神武の一族なのだと思います。
928 :
日本@名無史さん:
>>927 古事記によると、イザナギ(イザナミとの別離後)に、天照・月読・スサノウ
の三神を生む直前に産んだ三神(ソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノ
オ)は摂津住吉の三神になっています。
また後代の神武の近畿での進軍ルートは難波→河内→紀伊の国となっています
なにかしらの因縁を感じますね。
また、摂津・河内と言えば、後代の天皇も度々遷都先として選ぶ土地柄でも
あります。