謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!49.5

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1神奈川県民
今だ未解決?!邪馬台国の謎を追え
その昔、三世紀頃に女王がこの国を治めていたという。
中国の文献に記載された卑弥呼とは何者だったのか?
畿内説、九州説とに分かれ議論しましょう。

規制時 http://www1.atchs.jp/most/
関連サイト 
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listtitle
2日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:17:09
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

始度一海 千餘里至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離
所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑
有千餘戸 無良田 食海物自活 乖船南北巿糴

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離
方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北巿糴

又渡一海 千餘里至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人
好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚
有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸

東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家

南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國
次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國
次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國
次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 自郡至女王國萬二千餘里
3改め ◆PWTcGEfp1s :2010/09/24(金) 22:26:16
卑奴母離がなんで九州王朝なんだよ?w

狗邪韓國は「釜山」付近
對馬國は「対馬」
一大國は「壱岐」
末盧國は「松浦半島」
伊都國は「前原」
奴國は「博多」
不彌國は「宇美」
投馬國は「中国地方」
邪馬壹國は「奈良」  こんなかんじ?意見ある人いますか?

4改め ◆PWTcGEfp1s :2010/09/24(金) 22:47:16
河童クン なんで邪馬台国井は九州なの?

相手宜しく〜!
5日本@名無史さん:2010/09/24(金) 22:51:42
木浦辺りから南に出て海流に乗れば対馬に着くのになぜ釜山に寄り道する必要がある?
6日本@名無史さん:2010/09/24(金) 23:08:10
末盧国から東南五百里が何で前原なんだい?
7改め ◆PWTcGEfp1s :2010/09/24(金) 23:30:09
>>5
アハハハッ
千餘里ってかいてるでしょうにぃ〜ww

>>6
東東南といえば前原でしよう。
8メ(畿内説):2010/09/24(金) 23:49:48
>七〇〇〇余里  帯方郡治〜狗邪韓国
>一〇〇〇里   狗邪韓国〜対海国
>八〇〇余里・・・対海国の二辺
>一〇〇〇里    対海国〜一大国
>六〇〇余里・・・一大国の二辺
>一〇〇〇里    一大国〜末廬国
> 五〇〇里    末廬国〜伊都国
> 一〇〇里    伊都国〜不弥国
>______________
>一二〇〇〇余里・・・・・合計

>これで初めて「倭人伝は信用して良い本なのだ。」 と同時に、この瞬間に実は邪馬壹国の場所は決まってしまった。 
>なぜかと言えば不弥国迄で部分部分の里程は終わっている。
>帯方郡から出発して、対馬・壱岐を通り、松浦国から東南へ向かい海岸を回って糸島郡の伊都国迄来た。
>そこから伊都国から東に行けば不弥国。不弥国へは普通の書き方で書いて有るから百里東に行くしかない。
>その不弥国から東に行かない。不弥国はどうみても博多湾岸しかない。そうすると不弥迄で部分部分の里程は終わっている。
>今までの考え方で一万六百里になるといったのは不弥国まで。博多湾岸までで一万六百里。
>ところが今のように「対海国・一大国の半周読方」を導入して千四百里を加える。そうすると不弥国迄で総里程は終わってしまった。
>一万二千里になった。総里程は博多湾岸で終わっている。不弥国は邪馬壹国の玄関である。不弥国に着いたという事は博多湾へ入った。
>邪馬壹国に着いたということです。 邪馬壹国は南側と東側は分からない。

おまぃは古田かwww
9日本@名無史さん:2010/09/24(金) 23:51:16
木浦に前方後円墳があるんじゃなかったっけ
釜山よりも木浦の方が倭国と交流があった地として相応しくないか?
10メ(畿内説):2010/09/24(金) 23:59:47
>>9
それは何を根拠に言ってるんだい?

なんかなし、釜山周辺は倭との関わりがたくさんあるようだよ。
http://www.bell.jp/pancho/travel/korea-4/mar29.htm
11日本@名無史さん:2010/09/25(土) 00:04:41
決定的な証拠はないじゃないか
前方後円墳の存在は決定的な証拠な訳だが
12メ(畿内説):2010/09/25(土) 00:06:35
ああ〜木浦周辺って前方後円墳があるんだね。
これはよくしらなかったな。

でも、釜山・金海っの方が多いんじゃなかろうか?
13メ(畿内説):2010/09/25(土) 00:12:02
>>11
ン?ココ読んでみ
http://www.saga-s.co.jp/yoshinogari3_1
14日本@名無史さん:2010/09/25(土) 00:13:17
俺は逆に釜山周辺に存在する前方後円墳は知らない
15メ(畿内説):2010/09/25(土) 00:25:47
前方後円墳の起源説に「半島から始まった」というのもあるけど
このサイトで観ると木浦周辺って前方後円墳ってどれも5〜6世紀のものだよね。

卑弥呼の時代って三世紀で~
釜山・金海っの方が多いんじゃなかったっけ?
16カ(九州説):2010/09/25(土) 00:30:58
>>4

意味解らん
17メ(畿内説):2010/09/25(土) 00:35:23
>>16
ほら、九州説なら
なぜ、邪馬台国は畿内ではなく九州なのか
長レスお願いします。
畿内説の人がきいて納得できるだけのレスが
貴方にできるだろうか。
18日本@名無史さん:2010/09/25(土) 00:39:04
天皇の一族は九州出身
邪馬台国を乗っ取った
19カ(九州説):2010/09/25(土) 00:54:12
>>17
さぁね?
納得する、しないは自分じゃないから
相手の気持ちなんてわからない。それに、相手がどう考えようがこっちには関係ない。

で、相手を納得させる事がなんなのよ?ってな感じ
20日本@名無史さん:2010/09/25(土) 06:02:41
>>7
>東東南といえば前原でしよう。
東東南とは何のことだ? 松浦半島の先端呼子からでも前原は東(厳密に
言えば僅かに北だから、東東東北かな)、通説の末盧国すなわち唐津から
みれば明らかに前原は東北だよ。
21日本@名無史さん:2010/09/25(土) 06:51:50
対馬と壱岐の位置が、実際の位置と倭人伝に書かれている
位置のズレを利用して、北東にある前原を可能にする。

これは古田が使った残り1400里の穴を埋める
辻褄合わせ技法と同じ原理だ。
22日本@名無史さん:2010/09/25(土) 07:07:23
>>18
皇室の祖先の本籍地は、神武東征以前から近畿地方。
だからこそ、九州在住の豪族でも、近畿への東征が可能だった。
23日本@名無史さん:2010/09/25(土) 07:11:14
松浦半島付近から西の複雑な海岸線は
古代、半島や大陸からの攻撃を防ぐための軍事的構え。古代の人が人工的に作った、
24日本@名無史さん:2010/09/25(土) 07:14:24
もう、世間では、邪馬台国九州説は殆ど忘れ去られ
邪馬台国ヤマト説前提で、邪馬台国(ヤマト王権)の
成立過程についての話に焦点が移っている。
25日本@名無史さん:2010/09/25(土) 07:19:56
畿内説は、畿内にあったことを論証できないので、そこを飛ばして
畿内説ムードを高めようと必死になっているということだな。
26メ(畿内説):2010/09/25(土) 07:46:03
>>19
いやいや 九州説を演説して下さいって意味だよw
なんで邪馬台国は九州なの?

>>20
狗邪韓國 → 對馬國 → 一大國 → 末盧國 という流れなんだけど
倭人伝には「南」とある。
しかし、実際は「南」ではなく「東南」
次の伊都國は東南とあるんだけど実際は「東」かな。

>>21
んじゃ実際に調べていきなよ。
行きつくところはここしかないんだから。
27メ(畿内説):2010/09/25(土) 07:53:46
>>22
>皇室の祖先の本籍地は、神武東征以前から近畿地方。

お〜よくわかってるね。
なんでどうしてって声が聞こえてきそうだが、
ざっといえば、高木の神を調べて!てところかな。

>>25
>畿内説は、畿内にあったことを論証できないので

ほう、じゃあおまえさんは九州説をかたれるのかぃ?w
28メ(畿内説):2010/09/25(土) 08:04:07
おれは【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その12の
老教授氏って人よく知らないんだけど
でも、君ら良いじゃん〜ここには河童氏がいいるんだからw
29日本@名無史さん:2010/09/25(土) 08:04:24
>>27
高天彦神社...

神武東征以前から、皇室の本籍地は、近畿地方。
しかしながら、現住所は、日向だった。

30メ(畿内説):2010/09/25(土) 08:54:44
ネタ出せ〜ネタを!!
31日本@名無史さん:2010/09/25(土) 09:05:52
>>30
アフィリエイトの作業の途中だが、ちょっと疲れたのでネタを投入。

記紀編纂以降、ヤマト王朝の初代天皇は
ワカミケヌという人物が指定され、彼は神武天皇として
日本国の崇拝の対象になりましたとさ。

しかしながら、記紀編纂以前のヤマト朝廷では
ワカミケヌは、王朝の初代天皇とはされていなかった。
また、アマテラスという女神も記紀編纂時にはまつられてなく、
かわりにアマテルという男の太陽神がまつられていた。

実は、このアマテルこそ、
実在のヤマト王朝の初代天皇(大倭王)とされる人物であった。
まあ、厳密には、このアマテルの時代のヤマト王朝は、
ヤマトといわれずに、高間王朝とよばれ、
首都は高尾張、後の葛城にあったのだが...
32日本@名無史さん:2010/09/25(土) 09:10:03
出雲国譲りとは、何だったのか?
それは、高尾張の王だったアマテル(本名はホアカリ)が、
妃の父親である出雲の大国主から、
大倭王の地位を禅譲された事件をそういったのである。

このホアカリには、ニニギという弟がいた。
ホアカリは、出雲王朝から禅譲を受け、大倭王についた後は
各地に司令官を配置したが、弟のニニギを九州南部の高千穂に派遣した。
天孫降臨である。このニニギこそ、現在の皇室の祖先である。
33日本@名無史さん:2010/09/25(土) 09:23:06
ニニギは実は坂本竜馬だった。
34メ(畿内説):2010/09/25(土) 09:24:19
>>31
>記紀編纂以降、ヤマト王朝の初代天皇は ワカミケヌという人物が指定され、
>彼は神武天皇として日本国の崇拝の対象になりましたとさ。
>しかしながら、記紀編纂以前のヤマト朝廷では
>ワカミケヌは、王朝の初代天皇とはされていなかった。

神武天皇って出雲の神から国譲り、ニギハヤヒ一族との決戦を終え
実質この国の支配者へとなった人じゃなかったけ?

>また、アマテラスという女神も記紀編纂時にはまつられてなく、
>かわりにアマテルという男の太陽神がまつられていた

これは天武天皇がそうしたってもっぱらの噂だよね。
しかし、そもそも、今でこそ何何の神は誰誰って言うけど
古代の「神」って現在で言うのとは違うって知ってるのだろうか。
たとえば五、六世紀以降〜この現象(何何の神は誰誰だ)は始まったんだけど
それまでは神イコール人という概念なんてあったのいだろうか。
たぶん現在人と古代人では思想の違いがあってだな、
この神は誰誰の神っていいだしたのは五、六世紀以降だよ。
いや、どの神様にしてもそのはず〜何言ってんだっていわれそうだが、例をあげてみると
八幡の神にしろ、そうでしょ。
もともとは「人」ではなくいずれ〜〜〜〜人物と変わっていったはず。

ていうか、邪馬台国はどうした〜?卑弥呼とは関係ない話になってきてるなww
35日本@名無史さん:2010/09/25(土) 09:31:38
>>34
記紀をちゃんと読むように。
出雲国譲りが行われたのは、ニニギの時代。
ニニギは、ワカミケヌの曾祖父。
出雲国譲りがおこなわれたあと、ニニギは
高天の原から高千穂へ降臨したとある。

ホアカリの櫛玉(形見、遺児)のニギハヤヒが
ナガスネヒコと共謀して、朝廷をのっとろうとしたので、
宗家をたすけるべく立ち上がった。
ニギハヤヒを屈服させた後、ワカミケヌは、
三輪山(大物主)の娘と称する女性と婚姻し、イワレ彦を名乗り
天下の政治をみたが、いまだ天下の混乱はやんでいなかった。
3635修正:2010/09/25(土) 09:33:45
>ホアカリの櫛玉(形見、遺児)のニギハヤヒが
>ナガスネヒコと共謀して、朝廷をのっとろうとしたので、
>宗家をたすけるべく立ち上がった。



神武東征とは...
ホアカリの櫛玉(形見、遺児)のニギハヤヒが
ナガスネヒコと共謀して、朝廷をのっとろうとしたので、
王家の九州分家の出身だったワカミケヌが
宗家をたすけるべく立ち上がった。
37日本@名無史さん:2010/09/25(土) 09:38:20
朝廷を乗っ取ろうとしたのは薩摩と長州で、ニニギは戦にならない
ように王政復古への移行を考えていた。
38メ(畿内説):2010/09/25(土) 09:38:34
>>31
>実は、このアマテルこそ、 実在のヤマト王朝の初代天皇(大倭王)とされる人物であった。
>まあ、厳密には、このアマテルの時代のヤマト王朝は、
>ヤマトといわれずに、高間王朝とよばれ、 首都は高尾張、後の葛城にあったのだが...

ほつまかな?
たしかにそのあたりを中心に行動してるよな。
しかしソノ時代と言えば紀元前の話だろう。
紀元前に本当に国家統一はあっただろうか。
ある地域の統一はすでにあったかもしれない。
しかし、初代天皇〜十代天皇、十五代天皇辺りになってから
ある程度の国の形が出来てたとみたほうがよいのではないだろうか。
十代天皇の頃には巨大な前方後円墳が出現するし、その天皇家の初代は神武さんというだけのはなし。

>>32
>アマテル(本名はホアカリ)

ホアカリは〜その子供だろ バカw

>ニニギこそ、現在の皇室の祖先である。

ニニギだけじゃなく、現在の125代今上天皇の祖先はおっぱいいるだろw
39日本@名無史さん:2010/09/25(土) 09:39:20
オオアマ(天武天皇)にとって、
アマテル(天照国照彦・火明命)の存在は邪魔。
出雲国譲りをして、
ヤマト朝廷の前身をつくった初代天皇のような人物だったから。

オオアマら神武皇統は、このアマテルの弟のニニギの後胤。
出雲国譲り直後は、日向の高千穂に地方官として派遣されていた一族。

が、その後、近畿本国で、ニギハヤヒ・ナガスネヒコのクーデーターがおこったから
宗家を助けるべく立ち上がったのが、ワカミケヌ。

とまあ、これ以上話すと長くなるので、これで失礼。
40日本@名無史さん:2010/09/25(土) 09:42:25
古田の辻褄合わせ技法を取り入れた
畿内説とは恐れ入った。
古田は距離を、畿内は方角を。
41メ(畿内説):2010/09/25(土) 09:44:16
ななしは邪馬台国イコール初代天皇以前(ホアカリとかニニギの時代)としてるのかな?
んで卑弥呼様は誰としてるんだ?
42メ(畿内説):2010/09/25(土) 09:46:41
アマテル
ニギハヤヒ・ナガスネヒコ
ワカミケヌ
の話はもういいよw
んで邪馬台国はソノ時代で〜場所は出雲の国譲りの舞台、島根か?w
43メ(畿内説):2010/09/25(土) 09:51:16
>>40
>古田は距離を、畿内は方角を。

まだそんなことを言ってる所かw
九州説は距離が足らん
畿内説は方角が違う〜〜〜〜(><) ってかぁ?w

44日本@名無史さん:2010/09/25(土) 09:55:17
>>27
九州説には、ごまかしはないよ。聞く気があればいつでも語ってやるが。
45メ(畿内説):2010/09/25(土) 09:58:04
>>44
ほう、じゃおたくの得意技の〜w
九州説を語ってもらおうじゃないか。
長い文章をレスするスキルが無くて、足がガタガタ震えてるんじゃないの?

ほら、御自慢の九州説をかたってみろw
46メ(畿内説):2010/09/25(土) 10:03:04
おまえ〜ゲンコムシ、カッパクンみたいに卑弥呼はおっぱいおるぅぅぅ
なんてバカなこと言い出すなよww

畿内説にビビって足が震えてるんじゃねぇの?wwww ((((><)
47日本@名無史さん:2010/09/25(土) 10:16:30
男の太陽神アマテルをまつる神社は
天照御霊神社とかいって、
ほぼ、天火明命を祭っている神社だよ。
この神様は、皇祖ニニギの兄とされていて、
熱田社の尾張氏の祖先でもある。

アマテルとは、天照国照彦の天照であり、
天照国照彦とは、天津と国津の両方の支配者 といういみ。
つまり、出雲国譲りで、天津と国津の両方を合一したのは、
火明命のこと。
48日本@名無史さん:2010/09/25(土) 10:18:36
つまり、天武天皇は、ニニギの兄だったアマテルの存在を薄めて
新たにニニギの祖母をアマテラスとして、まつった。

ちなみに、天智と天武と兄弟で
熱田社の尾張氏とは、もめまくっていた。
49日本@名無史さん:2010/09/25(土) 10:19:07
>>45
末盧国までは、何の問題もないな。南とあるのが東南だとか文句をつけてるようだが、
対馬から南の島と言えば壱岐(一支国)、間違える余地がないから四分法で十分だ。
末盧国からが問題。これまでの馬鹿どもは、伊都国を怡土という名前に飛びついて前原
あたりに比定しているが、それでは方角がまったく合わない。距離もおかしい。
だいたい、怡土ならば船で直行するはずで、末盧国で上陸する理由がない。怡土では
南水行もできない。末盧国(唐津だろう)からは、東南五百里、そのとおり進めば佐賀
付近になる。有明海沿岸だ。これならば、南水行もバッチリ。末盧国で上陸した理由も
明白。弥生時代は農業の時代。その時代末の中心地は、当然、広い水田を有するところで
玄界灘沿岸の貧民窟や墓場密集地ではありえないってことだな。
となれば、あとは南水行20日で薩摩。水行十日陸行一月で南九州だ。何の問題もないだろ。

50日本@名無史さん:2010/09/25(土) 10:19:28
とまあ、だらだら書いたが、これから外出するので、またね。
5147、48、50:2010/09/25(土) 10:20:32
これから、ドライブしてくる。
アフィリエイトの仕事も疲れたことだし。
5247、48、50:2010/09/25(土) 10:22:47
>>41
ああっと、そのレスだけには、答えとこう。

卑弥呼=モモソ媛命という説です。
だから、ホアカリとかニニギとかは、魏志倭人伝の時代よりも
もっと前ですよね。いつかは分らないけど
紀元前1世紀〜紀元後1世紀くらいかな??
53カ(日本説):2010/09/25(土) 10:30:31
陳壽は
倭人在帯方東南大海之中
とし、
范曄は
倭在韓東南大海中
とし、

日本であることを確定させた。


もう、これでいいじゃん。
54日本@名無史さん:2010/09/25(土) 10:33:53
×日本であることを確定させた。
○九州であることを確定させた。
55メ(畿内説):2010/09/25(土) 10:35:13
>>49
>末盧国までは、何の問題もないな。南とあるのが東南だとか文句をつけてるようだが、
>対馬から南の島と言えば壱岐(一支国)、間違える余地がないから四分法で十分だ。

だから対馬から南といえば海でww 島と言えば九州だろw

>末盧国からが問題。これまでの馬鹿どもは、伊都国を怡土という名前に飛びついて前原
>あたりに比定しているが、それでは方角がまったく合わない。距離もおかしい。

博多と言えば大陸との玄関といわれている。
邪馬台国の時代にかぎらず近代までそれは続いた。
んで博多まで大陸からのモノが運ばれてるんだよね。
そこからみるとソノおルート上にある前原が伊都とするのは必然的でしょ。

>だいたい、怡土ならば船で直行するはずで、末盧国で上陸する理由がない。怡土では

上陸してるじゃん 魏志倭人伝みてみろよ。

>南水行もできない。末盧国(唐津だろう)からは、東南五百里、そのとおり進めば佐賀
>付近になる。有明海沿岸だ。これならば、南水行もバッチリ。末盧国で上陸した理由も
>明白。弥生時代は農業の時代。その時代末の中心地は、当然、広い水田を有するところで
>玄界灘沿岸の貧民窟や墓場密集地ではありえないってことだな。

それを証明する遺跡が無いな。
伊都や博多、春日井のほうには大陸と結びつくものがよく出土されているよな。

>となれば、あとは南水行20日で薩摩。水行十日陸行一月で南九州だ。何の問題もないだろ。

邪馬台国の時代〜この列島の都は奈良県にあった。
古事記・日本書紀 しってるはずなのにな〜
56メ(畿内説):2010/09/25(土) 10:37:35
>>52
>卑弥呼=モモソ媛命という説です。

これは同意する

>だから、ホアカリとかニニギとかは、魏志倭人伝の時代よりも
>もっと前ですよね。いつかは分らないけど 紀元前1世紀〜紀元後1世紀くらいかな??

紀元前だろうね。

>>53
日本列島であることは皆知ってる事。
んで、その日本列島のどこなの?ってはなし。
57カ(日本説):2010/09/25(土) 10:39:04
古田さんはたぶん、この范曄の記事が読めなかったんだろうね
だから半島に倭人の国を作ってしまった。
確かに陳壽の記事だけでは、古田さんのような考えも完全否定できないが、范曄の記事のおかげで


ただ、東南を、東南方向なんてバカ読みしてたんじゃあ
永久に無理だけど
58カ(日本説):2010/09/25(土) 10:42:01
日本列島の何処なの?
なんて言ってるようじゃね日本は日本。竹島取られるよ
59メ(畿内説):2010/09/25(土) 10:44:51
>カ(日本説)

本当は九州説から畿内説に鞍替えしたんでしょ?w
あんたの師匠の話きいてても、なんでそうなっちゃうの (°〜°)?
て貴方もそう思うのではいだろうか。
一層のこと変えちゃえ〜w ムシ説を師匠に投げ返してやれww

>古田さんはたぶん、この范曄の記事が読めなかったんだろうね
>だから半島に倭人の国を作ってしまった。

ン?その意味は?

>ただ、東南を、東南方向なんてバカ読みしてたんじゃあ 永久に無理だけど

その心は?w
60メ(畿内説):2010/09/25(土) 10:50:18
ホレ〜河童くん 九州説に自信あるなら

カ(日本説) とかかわしてないで
九州説を語って下さいな。
九州説をだせだせw
61日本@名無史さん:2010/09/25(土) 10:52:31
>>55
>対馬から南といえば海でww 島と言えば九州
対馬へ行って南の島は何て言うんですか?って聞いてみな。誰だって、「壱岐ですよ」
って答えるぜ。

>博多と言えば大陸との玄関といわれている。
誰がいってるんだ? 3世紀当時にそう言われていたって証拠を出してみな。
使者は何で末盧国に上陸したんだ? 末盧国こそが玄関だからだろ。

>上陸してるじゃん 魏志倭人伝みてみろよ。
何を言いたいのか意味不明。私の文章を良く読んで書いてくれ。

>それを証明する遺跡が無いな。
小さい住居址や墓場がいっぱい出てるね。考古学者の本でも読んでみな。

>邪馬台国の時代〜この列島の都は奈良県にあった。
>古事記・日本書紀 しってるはずなのにな〜
列島の都が奈良県にあったなんてどこに書いてあるんだ?
それに、倭人伝には、邪馬台国が列島の都だなんて書いてないぞ。
倭国の、卑弥呼が都する所だ。









62メ(畿内説):2010/09/25(土) 11:01:36
>>61
>>対馬から南といえば海でww 島と言えば九州
>対馬へ行って南の島は何て言うんですか?って聞いてみな。誰だって、「壱岐ですよ」
>って答えるぜ。

うんうん そりゃそうだ、当たり前のことを言うでない。
しかし南ではなく東南だよね。

>>博多と言えば大陸との玄関といわれている。
>誰がいってるんだ? 3世紀当時にそう言われていたって証拠を出してみな。

おぬしは「博多」ていうのを知らないな?
うーん明治ぐらいまでそういわれてたんじゃねーの?博多は玄関口だぜw
三世紀?倭人伝は三世紀の日本が書かれてるんだよw
【王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯】

>>それを証明する遺跡が無いな。
>小さい住居址や墓場がいっぱい出てるね。考古学者の本でも読んでみな。

だからどこだよ?その小さいってww

>列島の都が奈良県にあったなんてどこに書いてあるんだ?

古事記・日本書をよみやがれww

>それに、倭人伝には、邪馬台国が列島の都だなんて書いてないぞ。
>倭国の、卑弥呼が都する所だ。

あははは、話にならん もっと上級者いねーのか かもーんww
63メ(畿内説):2010/09/25(土) 11:10:13
もうね、頭の良さ 頭の悪さ の違いと思う。

パス パス と続いたら次は パスが正解か?正解じゃないか?
ふつうはパス パス ときたら パスが正解だよ。 パス パス パス 言う事。
東大君はいないのか?w
64日本@名無史さん:2010/09/25(土) 11:12:42
>>62
ごまかすな。どれも、答えになってないぞ。
博多という地名あるいはそれに類似する地名は、8世紀の文献で初めて
出てくるんだ。3世紀に博多が玄関口などという証拠はまったくない。
65メ(畿内説):2010/09/25(土) 11:17:41
もう、疲れるな〜www
誰か64さんに「博多」おしえてやってよ。
「博多」は古代〜近代までの玄関口ってなんでおれが1から10まで教えてやらないといけないの。
自分で調べていって、そういう知識を身につけるんだよ。

>3世紀に博多が玄関口などという証拠はまったくない。

じゃあなんで三世紀らへんの時代のモノが博多から集中して出土されるんだよ?
〜ったく
66唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 11:21:32
>卑弥呼=モモソ媛命という説です。 これは同意する

残念ではあるが、崇神をこの時代と特定出来る物は何もない。
新羅本紀は、崇神を2世紀末とする。
考古学は、纒向遺跡を2世紀末とする。
67カ(日本説):2010/09/25(土) 11:25:21
方位、方角、方向
ごっちゃにしてないか?
68メ(畿内説):2010/09/25(土) 11:27:11
>>66
卑弥呼の墓は約144メートル以上のもの。
この約144メートルクラスの墓が出現するのは奈良の天皇家の墓だよね。
そうそう、ちょうど崇神ぐらいの時代からではなかろうか?
卑弥呼の墓が築造されたのは三世紀でしょ。
書記と考古学は専門の間でもソノ時代に食い違いがアル。
客観的にみて〜卑弥呼と崇神は一致しうる のではなかろうか。
69メ(畿内説):2010/09/25(土) 11:31:02
>>67
なんじゃそらぁw だから何が言いたいのかって思うw
バカ師匠がそういってこいってか?w
70カ(日本説):2010/09/25(土) 11:57:15
>>65
それは、博多から三世紀の遺物が多数出土したと
いうことは、博多には三世紀の遺物を消費必要とする消費地だったから。
玄関口という言い方はできない。
玄関口だからといって、当時の物が出土するとは限らない
そこに消費というニーズが存在しない限り、物はそこに留まらない。
留まらない限り、それは将来遺物としては存在しない。
71唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 11:58:06
新羅と書紀を重ねると

173 倭の女王卑弥呼の使者来訪。  姫大神 ツノガアラシト来邦
193 倭人が大飢饉となり避難民到来。 崇神6年
209 浦上八国が加羅を侵略、加羅王子の救援要請で援軍を送る。 任那建国

176年頃? モロスケ 多遲摩母呂須玖
187年 開化崩御 .184年 彥坐皇子命
196年頃? ヒラナギ 多遲摩比那良岐
203年 山代大筒城真若王
209年 伽耶(任那)建国
216年 崇神崩御 任那の朝貢
216年頃? 多遲麻毛理。次多遲摩比多訶。次清日子。
222年 迦爾米雷王
239年 田道間守(都市牛利 タシウリ)の渡海 
240年 田道間守殉死
240年頃? 多遲摩比多訶児、葛城 之高額比賣命
240年 息長宿禰
259年頃? 気長帯姫誕生?
273年 日食 神功元年あづないの罪 
274年 気長帯姫 応神を産む。
72唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 12:17:53
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。

この時代の伊都は、庄内式の消費地であった。
73カ(流動的日本説):2010/09/25(土) 12:24:12
博多が三世紀、玄関口とするためには
それを記す文献的な証拠。玄関口と特定できる物。
そのどれか一つはないと、博多は玄関口と特定できない。
74カ(流動的日本説):2010/09/25(土) 12:31:49
外交という政治的なもの、交易という商取引、消費という経済。そして文化。

それらを出土物で区分するのは、極めて困難であり不可能に近いものがある。
で、博多からの出土物で
それらを区別出来るものでもあるのか?

こんなこと小学生でもわかる事だよ。
75日本@名無史さん:2010/09/25(土) 12:48:57
博多 = 那の大津
76日本@名無史さん:2010/09/25(土) 13:32:53
>>49にせっかく書いてやったのに、都は奈良県にあったんだーって駄々っ子
みたいに喚くだけで、まともな反論はなしかね。
少しはまともな奴いないのかな。
77唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 13:40:47
大和が伊都に一大率を置いた時代の佐賀は熊襲の地。
78日本@名無史さん:2010/09/25(土) 13:45:19
それで反論したつもりかね。
79唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 14:04:57
>>78さん お願いします。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
80日本@名無史さん:2010/09/25(土) 14:14:32
前から引用しないとな。前にあるだろ「市」と。国々市あり、有無を交易し、大倭をして
これを監せしむ。大倭というのは、実力部隊、つまり兵隊のことだよ。
女王国以北には、特にその司令官として一人の長官を置いていた。それが北九州の国々を
刺史(中国の地方長官)のように検察していたってことだ。
81日本@名無史さん:2010/09/25(土) 14:25:38
ようするに後世の大宰府はその流れってことですよね
82日本@名無史さん:2010/09/25(土) 14:29:23
83日本@名無史さん:2010/09/25(土) 14:31:17
まあ、同じようなものだろうけど、直接つながっているかどうかは分からんね。
84日本@名無史さん:2010/09/25(土) 14:56:54
畿内説ととると、7世紀まで全く発展していないことになるな
85唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 15:21:45
>刺史(中国の地方長官)のように検察していたってことだ。

これは一大率で説明されている。
大倭と一大率を一度に刺史とは出来ない。
86唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 15:25:13
>特にその司令官として一人の長官を置いていた。

この司令官が庄内式の消費者とするんですか?
87唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 15:43:47
前に書かれた「市」を使っても良い、ひとつの文章をちぎって説明すれば、いろいろな解釈が生まれる
だから一つの文章として説明して戴きたい。

これが出来んと、脳みそが縄文人といわれる。
88日本@名無史さん:2010/09/25(土) 15:51:22
日巫女。日神子。日御子。日皇子。日皇女。全て「ひみこ」
ひ・みこは現代にもおわし坐す。
日嗣ぎの皇子/ひつぎのみこ=皇太子殿下。
89メ(畿内説):2010/09/25(土) 16:40:35
倭人伝に「銅鏡百枚」って書いてあるじゃん。
中国製の鏡が一番多く出たところが邪馬台国だよww
90メ(畿内説):2010/09/25(土) 16:47:55
>>70
>>73-74
ハイハイ 魏志倭人伝では伊都國になっている
伊都國は前原だから博多ではナイっていいたいのね。
厳密にいえばそうかもしれない
でもおれはもっと大きな目で日本列島の玄関口は近代も古代も
博多周辺だって意味でいったの。
細かい突っ込みはなしよ。

まあ、わかりやすくいえばだね。
列島の都が奈良にあった時、大阪・滋賀にあった時、京都にあった時
どの時代も博多周辺がその玄関口となってきたっていいたかったの。
91メ(畿内説):2010/09/25(土) 16:58:35
>カ(流動的日本説)

邪馬台国は流動的? バカだな〜
2がつ11にちの日本建国記念日を知らないのかい?w
卑弥呼以前の神武天皇時代にはすでに奈良県にソノ都は置かれていた。
貴方は卑弥呼時代イコール神武天皇時代にしたがってるようだけど
卑弥呼の時代と言えばすでに144メートル級の墓が出現した時期だ。
神武天皇のころではなく祟神天皇のころだね。
92カ(流動的日本説):2010/09/25(土) 16:59:08
>>90
>ハイハイ 魏志倭人伝では伊都國になっている
伊都國は前原だから博多ではナイっていいたいのね。
厳密にいえばそうかもしれない


なんかズレてないか?
誰もそんなこと一言もいってないぞ
もう少しレス読み返してみ。
93太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 17:03:04
>>91
な〜んだ、またそれがしの年代説に近づけたな。
94カ(流動的日本説):2010/09/25(土) 17:08:45
>>89
違うだろう。
鏡が沢山出土するところは、鏡の需要があった場所であって、海外から鏡を輸入した貿易商人とは
一線を引かなければならず、直接的なつながりをいきなり結論付ける事は出来ない。                      考古学勉強したんだろ?もう少し流通システムの勉強を望みます。
95メ(畿内説):2010/09/25(土) 17:24:58
>>93
貴方の説に近づけたわけではないよw

>>94
じゃあ卑弥呼の鏡はどれだよ?
どっから出土してる?
96カ(流動的日本説):2010/09/25(土) 17:33:33
>>95
少し質問が幼稚すぎないか?

品物の所有権を調べるためには何が必要かわかっていれば
そんな質問は出ないと思うがどうだろう?
製造番号とかあるのか?
97メ(畿内説):2010/09/25(土) 17:43:15
中国製の鏡

これがいわば製造番号みたいなものだが・・・
古代中国では不老長寿とされる神仙思想があり三角縁神獣鏡なんかも
これらの思想が組み込まれている。
これはどこからきたものなのか?
98メ(畿内説):2010/09/25(土) 17:48:35
>>96
卑弥呼の墓が山口県柳井市にある茶臼山古墳だと?
笑わせるなw

九州説でもっと骨のある奴はいないのだろうか
99日本@名無史さん:2010/09/25(土) 17:49:53
巍史倭人伝の時代は中国大陸はいわゆる三国志の時代。三世紀頃。

倭国大乱とされた時期に符合するように淡路島北西部の山中に秘密工廠の実在が確認されています。
同時代に近畿地方ほかから出土する大量の鉄器、武器の生産拠点が全く以て永年不明で謎とされていましたが、
近年、淡路島「伊勢の森」の西側。ヤマトや難波側からの完全な死角になる山中、淡路市室津。五斗長、『黒谷』地区から遺跡が発見され、発掘調査の結果。この時代国内最大規模の鉄器、武器工廠で数百年に渡り存在し稼働して製品を供給していたことが判明。
『垣内(かいと)遺跡』。(海運で原材料を「室津」に荷揚げ、現地に持ち込んで一貫生産のコンビナートの一大生産基地。当時としては工場と言うような小規模では無い)
一時は現状保存のため埋め戻されましたが、プチ遺跡公園として整備。公開しています。

黒谷の地名も製鉄等のさいの炭や諸々の廃棄物などから一帯が黒く染まっての符合かも



100カ(流動的日本説):2010/09/25(土) 17:58:36
>>97
もう少し経済の勉強してから古代史に挑戦した方がいい。

>古代中国では不老長寿とされる神仙思想があり三角縁神獣鏡なんかも
これらの思想が組み込まれている。
これはどこからきたものなのか?

どこからこようと構わないのだが
その製造番号が刻まれているどの商品が日本に輸出されたのか?
で、その輸出された鏡が輸入者の手から離れなかったという
まるで在庫を抱えた卑弥呼「の」鏡状態
101唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 18:10:44
淡路島は垂仁以降、タジマモリ等の任那系の鉄器製造工場が造られ、運営されたと思われる。
鉄の大量輸入は垂仁以後である。だから崇神時代に100mを越すような大型古墳は存在しない。

タジマモリが派遣の適任者とされた理由の一つに伽耶との繋がりがある。
魏使が、伽耶を倭国の北の岸と表現した時代になる。
だから魏使は、卑弥呼の朝貢団に大和が加わることを望んだ。
方向、距離が合わないのは、この時の情報を記載した為ではないか。
102カ(流動的日本説):2010/09/25(土) 18:10:50
>>98

おい。 いきなりどうしたんだ? わけワカメな書き込みして
病気か?
103メ(畿内説):2010/09/25(土) 18:11:49
製造番号が無いから三角縁神獣鏡は卑弥呼のかがみではないってか?w
○○作って書いてるじゃん その中国人が作ったものが列島から出ている。
もちろん卑弥呼の手元から離れた鏡もあるだろう。
しかし、三角縁神獣鏡は畿内を中心に各地方へ広がりを見せてるよね これはどうなの?
104日本@名無史さん:2010/09/25(土) 18:14:06
>>85
>大倭と一大率を一度に刺史とは出来ない。
当たり前だろ。誰も大倭と一大率が同じだとは言っていない。
大倭は組織、一大率はその長官だ。

105メ(畿内説):2010/09/25(土) 18:16:16
>>101
>だから崇神時代に100mを越すような大型古墳は存在しない。

箸墓があるじゃんww ありゃ祟神の時代だね。

>>102
なんで卑弥呼の墓が山口県なんだよ?www わろうたw
106日本@名無史さん:2010/09/25(土) 18:20:54
三角縁神獣鏡は中国製ですらない
107ローガン:2010/09/25(土) 18:24:35
一人で頑張っている日向厨氏を応援しよう。

>>79
>使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 について…

畿内派の言い分としてはこうだろう「一大率の職が臨津捜露ゆえ、諸韓国との航路の港にいなければいけない。一大率の治所が伊都国である以上、伊都=怡土である」
しかし、「於国中有如刺史」これが一大率を指すのではなく、「刺史のごとくがあり…刺史のような役割をする役人がいた」と解せば、
臨津捜露を行うのは、この刺史のような役人であり、一大率のいる伊都国が有明海にあって問題ないのではないか。
太康元年詔「昔自漢末四海分崩刺史親民事外領兵馬今天下為一當韜干戈刺史分職皆如漢氏故事悉去州郡兵大郡置武吏百人小郡五十人」
後漢〜魏代では刺史は、治所を持ち、周辺の行政権を握ったとされる。魏代、刺史の毋丘倹は太守王キに命じて位宮を追わせている。
この詔は、このような行政、軍事に肥大した刺史の権力を削ぐ目的を持つものではないか?
(あまり、調べていないので間違っているかもしれないが)詔の「如漢氏故事」の刺史とは、「西漢の治所を持たない州監察官」を意識したものではないだろうか?
太康元年といえば、三国志直前。編者は、三国志を読むであろう読者の「如刺史」に対するイメージとは、「治所を持たない州監察官」である。と意識したなら、
治所を持つ一大率を指して「如刺史」とは表現しない。よって、一大率と刺史とは別もの。
108メ(畿内説):2010/09/25(土) 18:27:48
>>106
三角縁神獣鏡を国産とする先生の後ろの影で
何石を投げてるんだってw

おっ ローガンさんの登場だ みな注目注目!
109唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 18:36:02
>後漢〜魏代では刺史は、治所を持ち、周辺の行政権を握ったとされる。

一大率は伊都に常駐し、庄内式を消費する。そして古墳も造る。
後ろ盾は大倭しか無い。
それは全国に屯倉の置かれた時代でもある。
魏の導入した屯倉は、土地の領有を認める代わりに、軍を出す義務を生じる。
この手法を取り入れたのが景行である。
110カ(流動的日本説):2010/09/25(土) 18:44:03
>>103
日本語の読解は大丈夫か?

>製造番号が無いから三角縁神獣鏡は卑弥呼のかがみではないってか?w

卑弥呼「の」鏡 となると、その所有者は卑弥呼と言う事になる。
当時所有権やその権利を示す登記書みたいなモノがあると
卑弥呼「の」鏡と言うものにたどり着く事が一歩前進する
しかも、その鏡の送り主側に、輸出した鏡の商品目録等の控えや所有者側にその目録と一致する
何らかの一致する材料があれば、それは一時期でも卑弥呼が所有したであろう
鏡であるという証明になるだろう。

>しかし、三角縁神獣鏡は畿内を中心に各地方へ広がりを見せてるよね これはどうなの?

だから流通システムの勉強をしなさいといっているの

畿内から各地に広がったことと、中国から鏡を輸入したことに直接的な関係を
探る事は出来ないの
輸入をする商社もあれば、その商社からブツを仕入れて販売業者に卸す
卸業者もいる。そして小売業者、そして消費者だ。
モノが出土するということは、そこで最終的にモノが留まったという事
留まったということは、出土したところは最終消費者という可能性が高いわけよ
あるいは卸問屋か小売業者の在庫商品。
大概は輸入した商社にはその在庫が残らず、他に流れないとまずいわけ
で、今回話題になっている卑弥呼とは
ここでいう商社にぞくする可能性が一番高い。
卑弥呼が商社なら、輸入した商品全部とはいわなくても、そのほとんどは
他に流れて商社は大きな利益をえている。それが流通システムから見る事ができる。
畿内に多くの鏡が出土するということは、畿内が鏡の大消費地じゃないかと
みるほうが自然だろ。

違いますか?
111日本@名無史さん:2010/09/25(土) 18:47:38
天照大神の岩戸屋隠れの一連の行は、
原ヤマト国の初代の天照大神=日巫女が敵対する強大国(素戔嗚尊の率いる国家)との交戦と停戦とのハザマで不慮の死亡(騙し討ち?)とのロジックかと。(隠れる=死亡)

世界は暗闇に包まれる。は代わりに次の大王(♂)が即位するが何処も承認せず(偽物とされる?)、コレを契機に小国家が勢力争いの内乱状態の大混乱の比喩的表現。
=倭国大乱に符合

知恵を絞って様々な祭事を行い岩戸を開かせ中に籠もる天照大神を引き出して、岩屋戸に封印。世界中に光が戻る。
・・・国内の国家が永年の内乱、混乱に疲弊し漸くに厭戦状態が広がって、様々に和平交渉を行い停戦。
善後策を様々に協議(祭事=政)の末に初代天照大神の宗女(親戚の女子)「トヨ」を全ての連合国統合の象徴で大王。二代目天照大神=日巫女として拝戴。(豊の王朝=ヤマト朝廷の成立?)
混乱の元凶と為った素戔嗚尊?率いる某勢力と拠点をヤマト連合国軍が強襲し占領。戦後処理を厳しく根こそぎ行ってめでたしめでたし・・・


*古代の天皇陛下を含め男女共に皇族の御名には「豊(トヨ)」が付された方々が数多おわします。

*「賀茂の公は神の君」と応昔に言われていたと伝わりますが、このあたりは非常に意味深長です。
*皇居の神殿に八重事代主大神を太古より御巫の筆頭にする由縁も・・・


112日本@名無史さん:2010/09/25(土) 18:49:19
>>107
応援多謝。しかし、私の理解とはちょっとちがうな。一大率の職務内容に臨津捜露があるとは
いっても職務はそれだけではない。まずは諸国を検察することだ。だから、刺史のごとくがあ
りは、その一大率について述べたものにほかならない。
しかし、一大率というのは長官のこと。長官が一人で伊都国にいるわけではなく、当然、
その配下の軍を抱えて駐留しているんだ。実際に港に赴いて臨検するのは、魏の使者のように
重要な人物については別としても、通常は配下の者が行うだろう。
港はマツロ国も伊都国の港すなわち有明海もありだ。
113メ(畿内説):2010/09/25(土) 18:52:38
>>107
>畿内派の言い分としてはこうだろう「一大率の職が臨津捜露ゆえ、諸韓国との航路の港にいなければいけない。一大率の治所が伊都国である以上、伊都=怡土である」
>しかし、「於国中有如刺史」これが一大率を指すのではなく、「刺史のごとくがあり…刺史のような役割をする役人がいた」と解せば、
>臨津捜露を行うのは、この刺史のような役人であり、一大率のいる伊都国が有明海にあって問題ないのではないか。

どの畿内派がそんなこというてるのでしょうか?w

>一大率と刺史とは別もの。

一大率とは倭独自のモノだよね。
それを刺史の如しっといってるだけ、
それに〜奈良時代の律令体制では、大和は九州諸国を治めるのに九州北部に太宰府を置いた。
この時代の邪馬台国は伊都にそれを置いた。
一大率とは奈良時代の大宰府の如しだろう。

114メ(畿内説):2010/09/25(土) 18:56:48
バカ師匠を信用してる河童のバカと
難しい単語を並べればいいと思ってるローガンはおれが相手してやろうw

君らの邪馬台国論をかきこんでくれw
115日本@名無史さん:2010/09/25(土) 18:57:44
一大率って、中古音でなんと発音するんだ?
116日本@名無史さん:2010/09/25(土) 19:01:58
一大率って、中国でそういう官職名や機関名があったのか?
それと、倭国独自の官職名や機関名だったのか?
だとしたら、倭国では漢字でそういう官職名や機関名を考え出していたのか?
117メ(畿内説):2010/09/25(土) 19:23:08
>>110
>卑弥呼「の」鏡 となると、  〜〜 何らかの一致する材料があれば、
>それは一時期でも卑弥呼が所有したであろう 鏡であるという証明になるだろう。

ん?魏志倭人伝の記事、「銅鏡百枚」が証拠じゃん 
中国製の銅鏡がこの日本から見つかるのは、ほかにないじゃん。
どの鏡が卑弥呼の鏡と思ってるの?古代中国の神仙思想が強く残る三角がそれじゃん。
だいたい、中国産の鏡なんて簡単に手に入らないもの。
古代中国でも「鏡を送る」という行為は特別な扱いをしてるんであって
製造番号がどうの〜ソノ時代に製造番号なんてないよw(笑ろうた)


>畿内から各地に広がったことと、中国から鏡を輸入したことに直接的な関係を
>探る事は出来ないの
>輸入をする商社もあれば、その商社からブツを仕入れて販売業者に卸す
>卸業者もいる。そして小売業者、そして消費者だ。
>モノが出土するということは、そこで最終的にモノが留まったという事

少しは勉強してるみたいだがw
鏡が出土する奈良県には大型な前方後円墳がある。
この前方後円墳は奈良のが一番巨大であって各地のはこれよりも小さい。
ようは奈良を中心にしていることがわかる。
三角の広がりもこれとほぼ比例して各地に広がりをみせる。
最終消費者という可能性が高いというならばその証拠でもあるのか?
製造番号みたいなのがあるのか?
まずはこれらのことが言える証拠をだしてからにしなされ。w
118唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 19:31:14
一大率とは、1個の大きな兵卒、つまり軍隊でよいのでは。
119カ(流動的日本説):2010/09/25(土) 19:35:04
>>117
おいおい!厨か?
自分のレス読み直してみなよ。

なんでそんな小学生みたいなレスするんだよ
120唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/25(土) 19:42:17
ホ38300      フソサミヱ キサラギヨカに 景行20年 如月4日に
ホ38301      ヰオノヒメ クスコウチミコ 五百野姫 内親王
ホ38302      イセノカミ まつるいわひは 伊勢の神 祀る祝いは
ホ38303      ツクシむけ ヒメコトシソヨ 筑紫向け 姫今年14才
ホ38304      ヤマトヒメ コトシモモヤツ
ホ38305      よろこびて ヨハヒいたれば
ホ38306      ワレたりぬ わがヤソモノべ  我が八十物部
ホ38307      ソフツカサ ヰオノにうつし 20司 五百野に移し
ホ38308      つかえしむ         仕えしむ

これで壹與と伊都の軍隊ができあがる。
121日本@名無史さん:2010/09/25(土) 19:49:26
第5回全日本邪馬台国論争大会(論者入場)
http://youtubedouga.net/detail/wEYX-_nI_k8

第6回全日本邪馬台国論争大会(@開会と論者入場)
http://youtubedouga.net/detail/xRcW-lTKUo0

122日本@名無史さん:2010/09/25(土) 20:39:51
>>107
>臨津捜露を行うのは、この刺史のような役人であり、
>「如漢氏故事」の刺史とは、「西漢の治所を持たない州監察官」を意識したものではないだろうか?

「王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」

これは明らかに魏の時代のことを言ってるんだと思います。
「刺史分職、皆如漢氏故事」は『資治通鑑』にある、西晋武帝、太康元年の詔ですね。

詔曰:「昔自漢末,四海分崩,刺史內親民事,外領兵馬。今天下為一,當韜戢干戈,刺史分職,皆如漢氏故事

魏代の話に西晋太康年間の刺史が登場するんでしょうか?
123日本@名無史さん:2010/09/25(土) 20:54:20
如刺史 というのは皇帝の直属官という意味だと思うが。つまり、この場合の一大率は倭女王の直属ということを指してるんで
ないかい。
124メ(畿内説)::2010/09/25(土) 21:26:41
如刺史

刺史のごとし と読む。
刺史というのは中国の長官(監察官)
ただそれだけでしょ
125日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:36:49
>>118
率は長、頭を意味する文字だ。一大率は、一人の長官。
だから、如刺史(中国の地方長官の如し)とされる。
126ローガン:2010/09/25(土) 21:39:00
>>122
>王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」
> これは明らかに魏の時代のことを言ってるんだと思います。

勿論、そうでしょう。

>魏代の話に西晋太康年間の刺史が登場するんでしょうか?

魏代の刺史のイメージなら、例えば毋丘倹、文欽。どうみても軍人でしょ?
それと「臨津捜露伝送文書云々…」ってギャップがないですか(笑)。 監察官と云う職ならすんなり読めるのでは?
晋代読者が「如刺史」をどうイメージするか? 詔以降の刺史を頭に描くと云う事を、編者が意識したなら、
一大率と如刺史は別々のものを表現したのではないか?と云う問題提議です。議論のネタになれば…

>>113
>どの畿内派がそんなこというてるのでしょうか?w

勿論、私自身ですが。
127太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 21:51:08
>>120
ほ〜ら、偽書と言われる書物を持ち出した〜とコチラに文句を言ってた男
が偽書を持ち出した〜〜。
128日本@名無史さん:2010/09/25(土) 21:52:20
要するにお互いに偽書を持ち出したんだろ
偉そうに言うな
129太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 21:57:21
>>128
あいつがホツマをやってるのに、先にこちらにそう言い出したんだよ。
130メ(畿内説)::2010/09/25(土) 21:58:42
へえ ローガンさんは一大率のいる伊都国が有明海としてるんだ
これは面白い〜どうしてそうなるのか説明お願いします。
同じ畿内説の私から言わせれば、「伊都国が有明海」なんてありえない。
万人の人がなっとくする説明が貴方に出来るのだろうか?ローガンさん

131日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:01:10
唐松山は狂っているのですか?
132太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 22:06:22
>>131
あいつは相当アタマが要注意だ。

何でも神功〜仁徳の代は神功と應神と仁徳とワカタケルが各2代ずつ同時
に畿内に在位していたとかいう〜紀が狂ってるのかと言いたくなるひどい
妄想をあいつは信じこんで、それを主張しているのさ。あいつは支離滅裂の
状態の末期症状と想われる?
133日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:08:33
>「伊都国が有明海」なんてありえない。
しかし、「伊都国が有明海」は、倭人伝のとおりだよな。
134日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:14:31
流れを読まずにすいません
日本書紀で卑弥子や台与に比定すべき人物はこの人だという意見、論述がよくあります。
しかし日本書紀に出てくるそれらの女性が書紀内の記述では女王であったためしがありません。
女王っぽいのは、せいぜい天照大神という神様ぐらいのもんです。
魏志の、倭国に女王国があったという記述は全くの嘘っぱち、中国人の大捏造なのでしょうか。
それとも日本書紀がまとめられた、もしくはその元になった伝承が作られた当時の日本には、女が王であったことを歴史から抹消しなければならないなんらかの事情があったのでしょうか?

135メ(畿内説):2010/09/25(土) 22:14:52
メ畿内説・・・伊都は前原(玄海難)
ローガン畿内説・・・有明海にあって問題ない

この考えだと次の奴國が問題となる。
奴國は二萬餘戸だから、邪馬壹國、投馬國に続いて大きなところだが
現在では東京、大阪、福岡の関係でもわかるように
古代は奈良が首都・・・邪馬壹國は奈良に当たり、奴國は筑紫がこれにあたるのではなかろうか。
んで、三世紀、筑紫の中心といえば筑後川を佐賀よりではなく福岡よりで佐賀平野ではなく〜
地図で見ると博多からこの筑紫平野に抜ける側の方が栄えていたのではなかろうか。
ここらへん、ローガンさんはどのように考えてるのだろう・・・
136日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:17:18
神功皇后なんかも戦闘将軍みたいなもんで、日本書紀内では決して王とは言えませんね

137メ(畿内説):2010/09/25(土) 22:18:30
>>136
でも、日本書紀以前は第十五代天皇とされてるよね?
138日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:23:47
>>134
古事記や日本書紀は、倭国の歴史を書いたものではないからだよ。
倭国は九州、記紀が書いているのは畿内のお話。
139日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:24:37
邪馬台国がすでに西日本を統一していたとは考えられん
そこから平安時代までほとんど領土を拡大せずにいたとは考えられん
140太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/25(土) 22:25:56
>>134
抹消はしていませんよ。神功39年の記事を見れば明解に分かります。

当時日本には畿内の天皇(男王)国のほかに九州に卑弥呼の女王国が在り、
双方離れて関わりがなく2極で並立してたんです。

大陸は天下三分の計の諸葛亮の名言で分かるように、鼎の三分の3極支配
支配だったということです。
141日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:27:58
>>138さんの結論にならず、邪馬台国は巻向だという説の学者さんが何故平成の今、勢いづいているのでしょう?
142日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:28:20
神功皇后は非実在説をとる学者が多い。倭迹迹日百襲媛命だって実在の人物かどうかはわからない。つまりどの人物が
実在でどの人物が架空であるとする基準がない。だから卑弥呼を記紀の人物に比定する論は難しい。
143日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:33:57
結局まともに(歴史学で)研究する価値があるのは続日本記以降の史書ということになるのでしょうか
日本書紀はあくまで文学の対象とか

144日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:46:05
箸中山古墳を発掘して、倭迹迹日百襲媛命の墓誌と魏帝詔書の木簡が同時に出土するようなことがあれば別だろうが、それ
は奇跡だろう。
145日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:50:59
>>136
女王と将軍が一緒くたにされているのでは?
女王の権威を高めるためとか。
146日本@名無史さん:2010/09/25(土) 22:56:49
>>141
従来は、北九州か畿内かという形で論じられてきました。考古学的にみて、畿内
は古墳時代に発展を続けたけれど、北九州の方は衰退していった。そのイメージ
にとらわれているからでしょう。それに考古学者は、まず畿内の遺跡、遺物の勉
強から入ります。九州の遺跡、遺物にはあまり目を向けません。自分が見ている
ものの方が立派に見えてしまう。まあ、そんなところでしょう。
147日本@名無史さん:2010/09/25(土) 23:52:14
tes
148日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:04:07
>>146
あんまり適当な事言わないでね。
149日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:11:52
邪馬台国とは?最近始めた人にお薦め
http://youtubedouga.net/detail/CgVcx-xUVYo
150日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:20:02
ま、考古学を中心に考える畿内説は記紀の記述には重きを置かない人が多いんじゃないかな。これは記紀の記述の信憑性
の問題で、どうとも言えないものを根拠に話を進めることの危険性を考慮してるのだろう。一方一部の九州説は、神武東征など
記紀の記述を論拠として話を進めることも多い。
151日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:23:49
逆じゃないか?
畿内説論者というか、一部の畿内厨の方がモモソ姫だの崇神だのと、記紀を無理やり解釈して持ち出す例が多いように思うが
152日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:27:04
九州説の安本なんて思いっきり記紀を持ち出してるけど。
153日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:27:12
実際のところ、日本書紀の編纂方針自体が、「九州説(卑弥呼など認知しない)」なわけだが・・・
154ローガン:2010/09/26(日) 00:30:32
135 :メ(畿内説):2010/09/25(土) 22:14:52
メ畿内説・・・伊都は前原(玄海難)
ローガン畿内説・・・有明海にあって問題ない

いやいや 勿論私は伊都国は糸島ですよ。けど 色々考えるのが楽しい。
155日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:39:11
>>154
なぜ末盧国から伊都国までの陸行が記されているのでしょうか?壱岐から直接糸島に行かないのが当時の通常ルートなの
でしょうか。それとも他に理由があると考えますか?
156日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:45:52
ホノルルから東京に行くのに、羽田に降りずに成田に降りて電車でわざわざ東京
に行く。
157メ(寝る前):2010/09/26(日) 00:50:32
沖縄のノロを御存知だろうか
ノロは現在、本土でみられる神道の巫女にイメージされる神主の補佐役や雑務役ではなく、
司祭そのものであり、神と交信し、神を憑依させることができるのは女性に限定されている。
158日本@名無史さん:2010/09/26(日) 01:27:45
魏志倭人伝の陳寿先生♪

後漢書の范曄先生も天才 (⌒ε⌒)  
とか言ってるバカもおるしねぇww
159ローガン:2010/09/26(日) 01:28:06
>>155

>なぜ末盧国から伊都国までの陸行が記されているのでしょうか?

陸続きだから では?

>壱岐から直接糸島に行かないのが当時の通常ルートなの
でしょうか。

糸島へ直接船で着いたと思います。では もう寝ます。



160日本@名無史さん:2010/09/26(日) 02:18:29
>>142
それは彼女が半島へ軍事進攻したから。
戦後の歴史学教育では、半島関連はタブーなんだよw

あと、実在説については、継体天皇以前は
ことごとく実在説に疑問符がかけられてきた。
これは、根拠があるとかそういうのではなく
皇国史観の反動から、万世一系であるということが
はばかれてきたというのが実情。
161日本@名無史さん:2010/09/26(日) 06:17:06
>>153
そういえば、記紀は完全に九州説で書かれているという説があったな。
「邪馬台国の暗号」安田哲也がそれだ。
162日本@名無史さん:2010/09/26(日) 06:26:15
>>155
当然の疑問だと思いますね。>>159のローガンの答は逃げの答え。倭人伝は明白に
末盧国で上陸したと記している。
末盧国で下船した理由は、船では直行することが困難な所にあったからだと考える
べきでしょう。ということは、伊都国や奴国、不弥国は玄界灘沿岸ではないという
ことですよ。
163日本@名無史さん:2010/09/26(日) 08:11:51
末盧国と玄界灘の関係は
ちょうど昔の東京と横浜の関係に似ているのではないでしょうか?
すなわち軍事的な意味合いから「直には立ち入らせない」という掟みたいな
164ローガン:2010/09/26(日) 09:26:23
>>162
>倭人伝は明白に末盧国で上陸したと記している。

上陸したのは誰?どこにある?
ホレ「又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
 東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。」
例えば、隋書なら裴世清の行程。しかし倭人伝には「誰が」がない。
これは地誌。以前、河童さんが云う所の 「文字のよる地図」。詔を携えた使者の行程だと限定する根拠なし。
出掛けるので、又、後程。
165日本@名無史さん:2010/09/26(日) 09:54:52
そう。これを魏使の報告書の基付くとすることによって解釈の無理が生じてくる。そもそも魏使の報告書なるものがあったする
根拠すらない。まずこのことを一部の九州説は認めるべきだね。ローガン氏の言うように、倭人伝の地理的記述は、様々な記
録を総合した概念図というべきものだ。だから、重要な国とも見えない末蘆国についても記してある。実際にここに初上陸したと
いうようなことではない。
166日本@名無史さん:2010/09/26(日) 10:43:07
>>164 >>165
老眼でまともに読めないのかな。アホだねえ。隋書だって、裴世清の行程だなんて
どこにも書いてないよ。裴清を遣わしたとあるだけで、行程記事の主語は省略され
ている。だが、当然、誰でもそこは解釈で、裴清の行程だと読む。
倭人伝も同じだ。一方で、梯儁、張政と二回にわたり使者を派遣したことが記され
ている。そして、行程記事は、誰が書いたものかその主語は、省略されている。し
かし、始めて一海を渡る、対馬国に至る、と行動が記されている。読者は、梯儁か
張政の行程だと読む。それがまともな読み方だ。君たちのは屁理屈という。
167日本@名無史さん:2010/09/26(日) 10:51:35
>>165
>倭人伝の地理的記述は、様々な記録を総合した概念図というべきものだ。

そう。末盧国の叙述には官名がない。
官名が記録されていたのが別資料であり、その記録者は末盧国には立ち寄っていないと考えられる。
168日本@名無史さん:2010/09/26(日) 11:07:42
>>166
誰の行為か明白である場合、主語は省略される事が多い。
隋書の行程記事は、裴世清を遣わせたという文の直後なので
裴世清の行程であるのは明白。

倭人伝の場合、行程記事は倭人伝の冒頭にあって、
梯儁、張政の記事よりもかなり前に置かれているから、
誰か行程か、あるいは単に伝聞によるものか特定できないよ。
169日本@名無史さん:2010/09/26(日) 11:07:49
始度一海の始は副詞で、意味は最初に
度は動詞で、意味はすぎる
始めて一海をわたる
の意味は、最初に一海をすぎる。
で、行動には結び付かない。
170日本@名無史さん:2010/09/26(日) 11:15:46
>>168
では、伊都国までの行程が伝聞だという学説を具体的に御紹介ください。
171日本@名無史さん:2010/09/26(日) 11:22:55
最近は伊都国=糸島比定を否定するのが流行なんですか?
172日本@名無史さん:2010/09/26(日) 11:24:56
>>169
すぎるとは、何がすぎるのですか?
173日本@名無史さん:2010/09/26(日) 11:31:59
>>171
流行というより、従来の通説というべき伊都国=糸島の不合理さが意識されて
きたということでしょうね。
http://www7.ocn.ne.jp/~sui-yama/
http://www.geocities.jp/niginiginomiko/page1.htm
174日本@名無史さん:2010/09/26(日) 11:39:58
>>172
時間がすぎる。時が経過する。
つまり、千余里という距離に時間が発生するという意味です。
175日本@名無史さん:2010/09/26(日) 11:53:03
当然誰かがここを船で渡らなければ、距離もわからないし、前後の土地関係もわかりません。
だけどこの文章は、そんな事を述べているのではなく、
文章地図としての役割を果たしているにすぎません。
176日本@名無史さん:2010/09/26(日) 13:18:50
>>175
言いたいことは分かるが、単なる地図ではない。行程を説明しているんだ。
行程として、末盧国から東南陸行五百里だ。末盧国で上陸しなければ陸行
はできない。
177日本@名無史さん:2010/09/26(日) 13:27:25
>>176
陸行出来ないんじゃなくて、末廬と伊都は地続きだと。
これまでの対馬や壱岐は
単一の島として紹介したが、末廬国は単一の島ではなく、末廬国、伊都国と地続きの土地だと説明している。
だから陸行
178日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:41:45
一里は現在の約四キロでは有りません。
もっともっとずーっと短いのはご存知でつよね?
179日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:43:47
日曜の釣りですか?
180日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:46:56
何度も紹介したが、地理学者の室賀信夫は倭人伝の地理的記事は地図を参照したものと推定している。おそらく郡使などが
用いていた北部九州の概念図だ。そして、このこととは別に、陳寿ら当時の中国知識人には南に向かって伸びた列島の認識
があった可能性がある。さらに、これが倭人伝における地理観の混乱を招いたる可能性がある。

混一図を持ち出すまでもなく、それ以前の地図を見ても、南から北に 「 (蝦夷)→毛人→日本→倭奴 」という表現がされてい
るものが多い。このような地図は、特に辺境部などは前代のものを引き写す場合も多い。
毛人は関東の毛野、日本は京都近辺、倭奴は金印の奴国、つまり奴国が列島の北端ということだ。

http://pub.ne.jp/luckfield/?entry_id=2501546





181日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:53:37
はい、まっつぐな針を垂らして日向ぼっこでつ。

中国の三国時代の距離単位(里程)は言い方は同じでも実測値(メートル)は今とは全くちがいまつ。
182日本@名無史さん:2010/09/26(日) 16:01:19
地図を記す上で、地形を間違えることはありうる
しかし道程を示す上で、方位を間違えることは通常はありえない

方位を間違えるとしたら、そこは情報をもたらした者が行ったことがない場所であり
その場合、距離や日数なども信頼できる情報とは成り得ない

方位が間違っていると前提した時点で、距離や日数から場所を推定することはできない
183日本@名無史さん:2010/09/26(日) 16:05:45
>>166
しかしこのミスリードは酷いな。倭人伝の行程記事(この言い方がよくないのだろうが)は冒頭部にあり、明らかに地理的記述
の一部としての扱い。梯儁、張政らの遣使は別章の歴史的記述の部分。なぜ、隋書の裴世清の行程記事については誰も
疑わず、倭人伝についてはこのような疑義が出てくるのかの理由をよく考えてみることだ。
184日本@名無史さん:2010/09/26(日) 16:14:22
>>182
>そこは情報をもたらした者が行ったことがない場所であり、その場合、距離や日数なども信頼できる情報とは成り得ない

これは畿内説の認識に近い。梯儁、張政は邪馬台国の卑弥呼の下まで行った可能性が高いだろうが、その報告を元に倭
人伝が書かれているかどうかはわからない。倭人からの伝聞記録であったとしてもこの程度のことは書けるだろう。さらに、
邪馬台国に関する記述では、「徇葬者奴婢百余人」「以婢千人自侍」など真とは考えにくい情報が含まれる。・・・これら倭人
伝の行程記事を鵜呑みのすることは、文字どおり道を失ってしまう危険性がある。
185日本@名無史さん:2010/09/26(日) 16:34:08
なぜさして重要な国とも思えぬ末盧国についての記述があり、さらに末盧国から伊都国への陸行(伊都国を糸島と考える説に
とっては水行しないのは不合理ともいえる)が記載されているかは、地誌としての紹介と考えれば説明がつくだろう。
私見を言わせてもらえば、末盧国については、倭と界を接するとされる弁辰?盧国との関連を考えている。ただし、文献上共通
するのは「盧」の一字のみであり、笑い話と捉えられてもしかたない。
186唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/26(日) 17:08:41
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。

大倭(大和)と女王国は共存している。
187日本@名無史さん:2010/09/26(日) 17:25:48
道程を示す場合、途中にある国が重要な役割を担っているかどうかはさほど関係がない
道程を示す目印(マイルストーン)として、その国が存在することを記述すること自体が重要
188日本@名無史さん:2010/09/26(日) 17:51:08
>>186

それじゃ大倭の北の女王国になる
189日本@名無史さん:2010/09/26(日) 17:55:41
「大和」を「やまと」って読むのはどうして?
これって「煙草」を「たばこ」と読むのと同じように、当て字だよね
「やまと」って外来語なんじゃないの?
190日本@名無史さん:2010/09/26(日) 18:05:51
大和をヤマトと読むのは、ヤマトと云う日本語を大和という漢字
で表したからだよ。   大和は、大倭という漢語の音ダイワを、日本で漢字で大和としたから
191日本@名無史さん:2010/09/26(日) 18:35:02
もともと「やまと」という言葉があって、それに漢字を表音文字として合わせたのなら、別の字になると思うんだが

要は「大和」の文字と「やまと」の読みの不一致の原因は何かってことなんだけど

俺は「煙草」と同じ成り立ちで、「やまと」という音に対して「大いなる和の国」として「大和」の字を当てたように思う
「和の国」すなわち「倭国」を表わす文字に「やまと」という別の音を当てた形

それじゃ「やまと」の音はどこから来たのって話になるけど
その考えは纏まっていない
192日本@名無史さん:2010/09/26(日) 18:42:01
なんだヤマトって云う倭って漢字を
良字の和にして
風土記での、泉→和泉みたいに
発音しない良字の大を加えたのかと思ってた。
193日本@名無史さん:2010/09/26(日) 18:43:43
訂正:×漢字○当て字
194唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/26(日) 18:52:33
>それじゃ大倭の北の女王国になる

それでも良いんだよ、自分の都合に合わせ読まれているのが倭人伝なんだから、
しかし一つの文章のつまみ食いは善くない、文章全体で自説に合った読み方が出来るか?
195日本@名無史さん:2010/09/26(日) 18:56:31
漢語大倭を日本語で表現するとヤマト。
大倭の音ダイワを日本で漢字にした大和      だから、大和をヤマトと読む
196日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:07:18
大和の東に海はないし奈良は冬はそれほど温暖ではない
197日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:09:06
大和の東には、遠くアメリカまで達する太平洋がある
198日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:12:28
>>195
よくわからん

まず「大倭」「倭」を「やまと」と読むとしたら、それは日本においてのみの訓読みになるんだよね
つまり漢語の「大倭」に日本語の「やまと」の音を当てたということ
ここまでは理屈として理解できる

でもなんで次に「大倭」を「だいわ」と読み替えて、さらに別の「大和」の字を当てるの?
「やまと」の音には意味があるけど、「だいわ」の音には何の意味もないよね
別の字を当てるなら「やまと」の音を元にした漢字を当てるんじゃないの?

読み替えることで音としては意味をなさなくなった「だいわ」に「大和」の字を当てる意味が理解できない
199日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:28:14
大倭の音はダイワ。
そのダイワ音を、日本風に音借し漢字文字に表すと大和という文字でダイワという漢語音を表すことができます。
その大和と表されたところは、古くからヤマトといわれていたので、大和をヤマトと日本語音で表した。 それまでは、ヤマトの音はさまざまな漢字でヤマトと表してきたが、大和ヤマトが定着すると
ヤマトは大和という漢字で表す事が一般的となった。
200あらため:2010/09/26(日) 19:28:29
ほう、ローガンさんは玄海難ルートか。
ところで、おれとローガン氏の違いってなんだろうね?
同じ畿内説だから似たようになるのは仕方ないけど。。。

201日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:31:24
邪馬台国が畿内でも九州でもどっちでもいいが、
邪馬台国が畿内だとすると、卑弥呼は「なんとか天皇」じゃないとおかしくね?

それともヤマト王権(につながる国)のすぐ近くに、別に魏に使者を送るほどの
国として邪馬台国があったってこと?

なんか変な感じ。やっぱ卑弥呼は卑弥呼。単なる九州の女王では?
202日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:40:57
>>200
>おれとローガン氏の違いってなんだろうね?

人としての信用度だと思いま。
203日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:45:44
>>199
同じ事を繰り返してるだけで、よくわからん
「大倭」の読みは「やまと」なんじゃないの?
なんでわざわざ「だいわ」と読み替えるの?
中国でそう読まれていたから、日本での読みを捨てて「だいわ」にした?
わざわざ一旦中国読みの「だいわ」に読み替えてから「大和」の字を当てる意味は?
そして「だいわ」に「大和」の字を当てて、さらに「やまと」と読ませる?
明らかに変な作業をしてるよね

204あらため:2010/09/26(日) 19:46:28
>>201
天皇の継承に「三種の神器」というのがあり、
これを継承しなければ天皇と数えるわけにはいかない。

>>202
あれ、彼のが信用できるってか?
ていうか持説の違いを言ったんだけどな・・・・
205日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:46:38
>>201
そんなこといったら、近世、スペインの親書では、
徳川家康のことを日本国皇帝としていたんだぞw
天皇という存在を無視して。
206日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:48:50
>>201
今、注目されているのは、卑弥呼=モモソ媛命だな。
その場合、卑弥呼に使える男弟は
イニエ命(崇神天皇)の可能性が高くなる。
207日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:49:20
>>204
あなたの過去を知っています。あなたがこれまでどれだけ間違った発言をし、坂道を転がるように
してドツボに落ち続けたかを知っています。それだけのこと。
208あらため:2010/09/26(日) 19:53:02
>>207
人間、だれしも、失敗し、コケテ、泣いて、大きくなるもの。
苦労なし、泣いたことのない人間に魅力なんてないよ。
209日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:53:56
>>199
逆だろ
もともとヤマトという国があった
そのヤマト国が支那と交流を持った
支那人はヤマト国の事を倭国と呼んだ
それでヤマト国の事を倭国と表記することになった
倭国が大倭国、大和国に変わって行った
こういうことだろ
210日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:57:41
>>203
大倭の読みがヤマトではありません。
大和の読みがヤマトです。
日本には昔、漢字の音を利用して自国の音を文字に変換していました。
だから大倭と云う漢語もダイワという音を以て
大和という日本風の漢字に置き換えられた。    昔大倭と書かれた地は、日本ではヤマトといわれていた。
211日本@名無史さん:2010/09/26(日) 19:57:51
モモソ媛命は女王じゃないし
卑弥呼との共通点は巫女だったらしいということだけ
無理やりすぎる
212日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:00:01
>>209
流れはきっとそうだろう。
今同じ事書きかけてたところだった。
しかしまぁダイワって・・  笑えた。
213日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:05:38
>>211
まあ、そんなこといったら、きりがないけどな。
中世、毛利元就は、日本国王として明と交易していたぐらいだし。
近世、徳川家康が日本国皇帝としてスペインや英国ともガイコウしたり。
214日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:06:26
畿内説でも考古学の成果を重視する派は、倭迹々日百襲姫命を卑弥呼に比定することには極めて慎重だ。なぜなら、記紀の
記述を確実なものとは考えないからだ。例えば、神功皇后は創作された人物だが、百襲姫は実在の人物だ、とするのはダブル
スタンダードだ。どちらについても確実に実在したとする証明はできないわけだから。
215日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:08:36
なんだよ釣りかよ。
マジで答えてやってバカを見た。
今度は少し騙しでも入れて答えないと、とんだ釣り針にかかるわ!
216日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:10:27
>>214
>神功皇后は創作された人物だが、

断定できないよ、そんなもん。

それこそ、彼女は韓国がらみでタブーが多いから、
学会で実在説を言うのがタブーになっているだけのこと。

とにかく、戦後、多くの古代の天皇や皇族に非実在説があがった。
これは、戦前の皇国史観への反動のせい。
ただし、それ以外にも理由があり、それが、本居宣長の
邪馬台国九州説によって、日本の古代史が大混乱になってしまった一面もある。
217あらため:2010/09/26(日) 20:11:27
こんにゃろ〜ぉ おれをバカにしてるのかぁぁ (≧ヘ≦) ノ

ハイハイ ローガンさんが人気高いね よかったねぇ
ていうか、おれにレス付ける奴いねぇし =( ̄□ ̄;)⇒orz
218日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:16:01
>>216
文章の読めないやつだな。神功皇后は単なる例だ。つまり、この人物は実在で、この人物は非実在であるとする基準がない
んだな。まさか、歴代天皇のすべてが実在とは思ってないと思うが、そのように非実在の人物を想定し(つまり記紀の記述
には誤謬や創作があるとする立場)つつ、百襲姫だけは実在とするのはダブル・スタンダードになるということ。
219唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/26(日) 20:17:40
>支那人はヤマト国の事を倭国と呼んだ

その前に九州には日本を代表する国として倭国が存在した。
この倭国の下に奴国や伊都国が在った。
倭国乱で疲弊した九州倭国(女王国)を統一したのが大倭(ヤマト)である。
しかし大倭(大和)も引き続き倭国と呼ばれた。
この後が 209さんでしょ。

220日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:20:18
>>217
あなたは過去にたいへん嫌われていました。古代史全般に対する知識の少なさ。で、ありながら
初心者などを馬鹿にする人格の低さ、河童氏に対する嫉妬が露になった文章などからです。
221日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:23:34
>>218
わかった。

222日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:23:42
>>210
どうして「大和」のよみが「やまと」になったのかという疑問について話をしているのに
「大和」の読みが「やまと」だなんて言われたら、まるで話が噛み合わないんだけど

「大倭」の読みは「やまと」じゃないの?
それじゃ「大倭」の読みはなに?「だいわ」でいいの?
「大倭」は中国の読みで「だいわ」、意味としては日本では「やまと」という言葉がそれに当たるっていうことでいいんだよね
そして「大倭」については特に日本語の読みはつけられなかったと
で、「やまと」という音に漢字を当てるとき、「大倭」を「大和」に書き換えてから当てたということだよね

それじゃあそもそも「大倭」という言葉はどこから来たの?
中国が勝手に「やまと」のことを勝手に「だいわ」と読んでいたってことになるのかな?
まあ理屈は理解できたけど、やはり音読みから字を当て替えるということの意味が理解できないな

俺は「倭」を「和」に書き換えたのは同意するとして
中国においても日本においても読みは「わ」であったのではないかと考えている
そしてこの場合は逆にそれじゃ「やまと」はどこから来たの?という疑問が生じる
223日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:25:52
やまとはやまつ国(くに)
224日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:27:03
>>205
徳川は事実上の皇帝だよ。
エンペラーでもいいけど。
天皇は当時のローマ法王みたいなもんだから。
225日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:29:38
>>210
ただ単に大王国をだいわうこくみたいな感じで大倭みたいになったんでね?
226日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:31:13
もともとしとりという織物が日本にあった
それを支那に贈呈したところ、支那人はそれを倭文と呼んで尊重した
それでしとりに対応する漢字として倭文が当てられるようになった
227日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:40:12
倭っはは
やまとほど釣れる。    大漁じゃー!
228日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:50:07
夜釣りは波にさらわれやすいから
気を付けないとな
カッパだってさすがに警戒するわなw
229日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:20:20
【皇室】「パンチラが撮りたかった」…佳子さまを盗撮していたストーカー男(36)を逮捕
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/nissin/1285228112/
230日本@名無史さん:2010/09/26(日) 21:23:39
>>222
>「大倭」の読みは「やまと」じゃないの?

それは記紀においての「大倭」、平城京跡唐出土した計帳の軸の木口「大倭国」ですね
それは日本語としての大倭(おおやまと)のことです。
大倭はそれ以前から中国の歴史書で見られます
この大倭は古代中国語ですから、日本では音で表しダイワと音します。

>中国が勝手に「やまと」のことを勝手に「だいわ」と読んでいたってことになるのかな?

勝手かどうかは知りませんが、大倭と中国の人が書いたことは間違いありません
大倭を「ダイワ」と読んだのは、当時の日本人です。

>そしてこの場合は逆にそれじゃ「やまと」はどこから来たの?という疑問が生じる

日本においてのやまとことば
ヤマトと言う言葉は当時、かなのまだない時代に漢字の音を借りて色々な漢字でヤマトという音を文字に換えています。
これは万葉集とかで見つけることが出来ますから
探し出してください。
231日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:02:56
>>222>>230は敵対する立場じゃないと思う
232日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:31:35
>>231
カッパもそれは知ってるだろう
233日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:42:23
>>230
日本語としての「大倭(おおやまと)」を当時の日本人が「ダイワ」と読んだ?
234あらため:2010/09/26(日) 22:43:54
【魏志倭人伝】
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之

ここの使大倭監之の「大倭」について河童さん、ローガンさんの意見を聞こう!
まさか二人ともダイワとか言わないよね?w
235あらため:2010/09/26(日) 22:53:55
吉野ヶ里歴史公園は10月2日(土)〜11月28日(日)
「よみがえる邪馬台国」展か〜
ttp://www.yoshinogari.jp/contents4/detail.php?id=350

この時期(10月)は何かと邪馬台国が話題になるよね。
去年は九博のほうでも「古代九州の国宝〜邪馬台国もここから始まった」展があり
盛り上がりを見せてるようだ。
236日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:59:33
漢語の大倭は、ダイワ
日本語の大倭は、おおやまと
237あらため:2010/09/26(日) 23:12:55
ヤフーで倭人さんが始度一海の「度」を古田氏・安本氏が「わたる」としたとかどうの
言ってるようだが、
この「度」を私が簡単に、尚且つ、分かりやすく説明してやろう(メモ準備いいか?)。

始度一海 千餘里至對馬國
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國
又渡一海 千餘里至末盧國

一大國、末盧國へが「渡(わたる)」に対し
始めの對馬國の字が「度」と違い、この違いは何だろう?と思う人もいるんじゃなかろうか?
これはだね、渡=わたる、度=わたる という意味なんだけど、この「度」を当てたのは
この千里を基準にしたという意味を含む。
著者の字の使い分けというか、一流の筆法というか、ワザとこうしたのであ〜る
別に間違えたわけではない。
ちなみに「度」も海を渡るという意味ですし・・・・御理解頂けただろうか?
238あらため:2010/09/26(日) 23:25:22
あ〜あの人の「歴」はいいね。経過(通り過ぎる)だって!正解正解。
「其餘旁國遠絶は 其餘は遠く、その他の國とは絶している 」・・・なるほどなるほど...

彼は、まずまず勉強してるようだ〜。
しかし、あれぐらいの芸とう〜誰だってできるしw
239日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:33:39
>>236
それはそれでいいいとして、結局疑問はもとに戻るわけだ
240日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:34:57
>>238
質問します。>今使訳所通三十國  の「今」とはいつのことですか。もちろん魏志なので魏代ということはわかりますが。
241日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:38:20
>>237

>これはだね、渡=わたる、度=わたる という意味なんだけど、この「度」を当てたのは
この千里を基準にしたという意味を含む。

基準にした場合、この度は名詞だよね? 度(名詞)=ものさし(長さをはかる基準)
そのとき「始」はどういう意味になるの?
「度」が動詞の(わたる)なら、「始」を副詞として(はじめて)最初
という扱いになるんだが
この「度」を名詞とした時の「始」の 講義を願いたい。
242日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:40:20
>>240
魏が帯方郡を公孫から奪った後の魏の時代
243日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:42:55
>>242
ww 他の人が答えちゃだめだよ。 あらため氏に質問。「一大率」はどのあたりの年代から置かれたと考えますか?
244日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:47:45
>>237
御理解頂けない
「千里を基準にしたという意味」がわからない
具体的にどういう使い分けなの?
245日本@名無史さん:2010/09/26(日) 23:49:33
次の文章を「又」でつないでいるんだから
普通に考えて「始」は「まず」じゃね?
246あらため:2010/09/26(日) 23:53:39
>>240
>質問します。今使訳所通三十國  の「今」とはいつのことですか。もちろん魏志なので魏代ということはわかりますが。

貴方、答え言ってるじゃんwww

>>241
おぬしは河童だな?何で名無しなんだよw

>>243
>ww 他の人が答えちゃだめだよ。 あらため氏に質問。「一大率」はどのあたりの年代から置かれたと考えますか?

そのまえに、「一大率」はどのあたりの年代から置かれたとか書いてないじゃん。
これはもう憶測でしか答えることができぬわww
三国志でこの「一大率」という倭独自のシステムが載るんだけど〜まあこの時代は「魏代」なので
ここらへんじゃないかな。
247日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:00:26
>>246
「今」については、242さんが正解かな。

>「一大率」はどのあたりの年代から置かれたとか書いてないじゃん。

書いてないけど、ちゃんと読めばそれなりに推測できますよ。
248日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:03:03
>>246
>おぬしは河童だな?何で名無しなんだよw

誤魔化してはいけません。 質問しているのです
249日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:10:15
>>245
始を先ずとした時、次にくる言葉は

先ず〜、次に〜 となり
先ずの出来事と次の出来事は違う出来事としなければならないから
又を使うのはどうなのかな〜?
250あらため:2010/09/27(月) 00:12:44
うるさい名無しだな〜〜ww

>>241
>基準にした場合、この度は名詞だよね? 度(名詞)=ものさし(長さをはかる基準)
>そのとき「始」はどういう意味になるの?


倭人伝は続けて読むんだけど〜この場合の区切りは「始度一海 千餘里至對馬國」です。
始度一海千餘里至對馬國の始度一海は区切らずに読むんだけど〜これを分かり易くすると
「しどひとたびの海」→「はじめて」「わたる」「ひとたびの」「うみ」です。
ようは、「はじめてわたることひとたびの海」でいいと思う。

>「度」が動詞の(わたる)なら、「始」を副詞として(はじめて)最初
>という扱いになるんだが
>この「度」を名詞とした時の「始」の 講義を願いたい。

名詞、副詞いうのはご自分で考えて下さい。
251日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:20:01
>>250
「度」が「わたる」なら、「ひとたび」の「たび」はどっから出てきたんですか?w
252あらため:2010/09/27(月) 00:21:44
>>249
河童名無しは全然話にならないな〜・・・「又」の意味が分かっていない。
「始」というのは、字のごとく、「はじめて」海を渡ったという事。
次の「又」だけど〜これの意味は「繰り返す」ということ。
「行って帰ってくる」ではなく、「行って、又繰り返す」といえば分かりやすいだろうか。
行って→ 帰ってくる←。
ではなく、行って→ 又行って→ という意味で「又」の字が当てられてるのです。

貴方の言う「先ず〜、次に〜」というのは、まず「先ず〜」という訳し方から間違えてるわけで
ハナから話になってないんですよ。そして、「次に」とも書いてませんし
そう書いてない無いものを議論しても仕方ない。
253日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:22:39
>>250
基準はどこにいった?

自分でやれっていうなら、はじめからネタ落とすなよ。
254日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:23:43
邪馬台国は沖縄にあった。
沖縄諸島は細長い砂州状の陸で結ばれ、干潮の時を選べば九州から陸行1月ほどで行くことができた。
しかし、地球温暖化に伴う潮位の上昇と沈下により孤立した島になっていった。

そして、邪馬台国は、そう、ちょうど今の尖閣諸島と付近にあり、海底資源の調査をすればその遺跡が発見されてしまうことは明白。
邪馬台国の遺跡が発見されてそれで困るという点で、中国政府と日本政府は利害が一致している。
だから両国は示し合わせて茶番劇を演じたのだ。

では、どうして邪馬台国が発見されては困るのか?と疑問に思うに違いない。
しかし、これ以上の事実を明かすことはできない。すまぬ。
255日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:27:44
>>252
要するに「まずはじめに海を渡る」ってことだろ?
意味合いとしては大差ないじゃん
256あらため:2010/09/27(月) 00:28:19
>>251
おっと〜失礼!!

【250を部分的に訂正】
「しど一海」→「はじめて」「ひとたびの」「うみ」です。
257日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:33:28
あらため君
しっかりしろよ!オレは先ずなんて答えてないし、先ずに対しての意見を述べただけだぞう。
それに、その又は
いったい何が繰り返されるんだ?


基準はどうした?
258あらため:2010/09/27(月) 00:34:08
>>253>>255

君ら本当に分かってないな〜今まで何してたんだ?
むやみに、邪馬台国論争のマネゴトしてただけなんじゃないの?w

よく聞いておけっ!!

そこはだな。

千里 → 又 → 又 という文章なんだよ。
あとは自分たちで考えてくれ〜!}なんでおれが君らに一から十まで
邪馬台国問題を教えないといけないんだって!君らの先生じゃないんだから
自分で考えてな〜はあ、疲れるwwwwwww
259日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:36:14
>>256
>「しど一海」→「はじめて」「ひとたびの」「うみ」です。

こうだとしたら、↓の話はどこいったんですか。

>この「度」を当てたのはこの千里を基準にしたという意味を含む。
260日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:38:52
相変わらずダメダメだな。まったくリニューアルされてない。
261日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:38:58
勘違いしてはいけない
漢語はあくまでも外国語だ
同じ文字を使っているからと言って、文字と意味、両方の解釈を日本語と一致させることはできるとは限らない
262日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:39:22
>>256
あまりムズい日本語使わないでくれ。

ひとたびの って、どういう意味?
263日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:42:48
>>254
ネタのつもりだと思うが……。
満潮の時はどうすんだよwwwwwwwwwww

それに尖閣諸島の属する大陸棚と、琉球諸島の間には海溝が……www
264日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:43:08
河童のほうがいくらかマシだな。
265日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:43:43
>>258
だから「最初に千里」「また千里」だろ
揉めるようなことか?
細かい言い回しなんかどうでもいいんだよ
中国語を日本語に翻訳しているんだから

他の外国語だと意訳が当たり前なのに
なぜか中国語は直訳しないと気が済まない人が多いんだよな
266あらため:2010/09/27(月) 00:44:17
・はじめて渡って千里

・又繰り返す(千里)

・又繰り返す(千里)

君らの頭にぃ 分かり易〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜く説明したらこうかなww
これが半島→対馬→壱岐→列島への航海の流れ。

これぐらい人に聞くなよ〜恥ズかしィw
267日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:45:54
恥ずかしいのはだれでしょう?
268日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:48:41
>>266
>・はじめて渡って千里

な、直訳に拘って、かえって日本語として意味がわかりにくくなってるだろ
269日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:51:45
いいかげんに訳さなくても読めるようになれよ。
270日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:52:11
なんか無駄に揉めてるようだけど
ここは「始」も「又」も順次説を補強する副詞ってことで異論はないんだろ?
271日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:52:41
度を「たび」としたいなら、
たびのはじまり、単一の海を千余里對海国に至る。

これで次の又の効果は出るよ
272あらため:2010/09/27(月) 00:53:15
まだ分かりにくかったかな?

・始度一海 千餘里

・又繰り返す(千里)

・又繰り返す(千里)

これが航海の流れ アッハハハ(鼻高々)
ていうか、マジでメモしといたほうがいいよ 君らw
273日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:55:04
日本語に不自由な奴が多すぎないか?
274あらため:2010/09/27(月) 00:56:45
【航海の流れ】

・始度一海 千餘里   ←これがあくまでも「基準」です。

・又繰り返す(千里)

・又繰り返す(千里)  そろそろ眠いので寝ますね、後はローガンさんにでも聞いてくれw
zzz・・・・
275日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:56:47
>>254
そうだったのですか。ちょっとびっくりしました。
ネタではないですよね。
私も、方向的にも距離的にも、邪馬台国は尖閣諸島付近にあったのではないかと考えていました。
できれば、その明かすことのできない事実とは何なのか知りたいです。
276日本@名無史さん:2010/09/27(月) 00:56:59
だから、何を繰り返すんだよ?
277日本@名無史さん:2010/09/27(月) 01:01:30
過ちを繰り返す
278日本@名無史さん:2010/09/27(月) 07:01:11
>>254
茶番があるのは、事実だな。
中国社会科学院あたりはY-DNAの扱いも苦労してるよw
279日本@名無史さん:2010/09/27(月) 07:41:47
始度一海千餘里至對海國


始度一海千餘里對海國ニ至ル


たびのはじまり千餘里對海國に至る


三回繰り返される最初、千餘里で對海國に至る。

三回繰り返されるとは、南という行為。
その始めだから始度。
280日本@名無史さん:2010/09/27(月) 07:47:34
一海が抜けてしまったが、単一の海。
単一な海を千餘里


たびのはじまり単一の海を千餘里、對海國に至る。
281日本@名無史さん:2010/09/27(月) 08:18:03
今までは沿岸水行だった、始めて渡海する。それで始めだろう。
282日本@名無史さん:2010/09/27(月) 08:27:17
桃の件で、モモソ媛命が有名になったなw
考古学者の先生、狙っているでしょうw?
283日本@名無史さん:2010/09/27(月) 08:41:11
モモソなんてそれ以前から有名だろw
284日本@名無史さん:2010/09/27(月) 08:54:59
トトヒ姫はマンコに箸が挿さってしまったことで有名
卑弥呼の死因は箸とする史料は皆無なのでやっぱり別人
285日本@名無史さん:2010/09/27(月) 09:52:25
3世紀に箸はないので逸話は創作話。
286日本@名無史さん:2010/09/27(月) 10:14:22
尖閣諸島の次は、沖縄領有に照準合わす中国
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4537
287ローガン:2010/09/27(月) 16:38:18
>>274
なんでそんなに難しく考えるのかなあ?
「始めて一海を渡る對海國まで千餘里」でいいやん。
度=渡、 度遼将軍=渡遼将軍(遼水を渡って北族を討つ将軍の意)。by wiki
288日本@名無史さん:2010/09/27(月) 16:54:37
>>287
誰が?
289日本@名無史さん:2010/09/27(月) 16:55:00
「始めて一海を渡る對海國まで千餘里」ってなんだよ
日本語おかしいぞ
訳すならちゃんと意味が通るように訳せよ
290日本@名無史さん:2010/09/27(月) 17:07:34
祭祀に使う折箸ってのは
普通に卑弥呼の時代からあったよ。
291日本@名無史さん:2010/09/27(月) 17:17:07
またそういうことを言い出すw
292日本@名無史さん:2010/09/27(月) 17:25:04
また神仙思想に結びつける前フリだな
293建中校尉:2010/09/27(月) 23:25:18
俺がその命を受けたときは、本当に寝耳に水で驚いたものだ。遼隧の戦いのため、弓遵に従って
こんな辺境の地までやってきて、激戦を生き延びて一息ついているところに、さらにまた遠く地の果て
の国へ行けというのだ。どうやらその国の名は「倭」というらしい。

それにしても、新太守になったということで弓遵の驕り高ぶった様はどうだ。長年の戦友を不愉快な任
務にさらして当然という顔だ。こんなやつ、帯方の現地人にでも殺されてしまえばいい。

翌日から、俺はすぐに手配に入った。幸い公孫氏討伐のために船はたくさん郡にまで来ている。俺は
その中から中規模、二百人ほど乗れる船を二隻選んだ。詣書・印綬ならびに魏帝の答礼品を無事に
蛮族の女王の下に届けるには、このくらいの船がどうしても必要だ。そして配下の中から選りすぐって
四百人の精鋭を揃えた。
294建中校尉:2010/09/27(月) 23:40:58
俺は作戦の絵図を考えた。そしてこう決めた、準軍事行動でいこうと。どうやら倭国は、ここ韓の地と
おっつかっつの文化程度であるらしい。とすれば、迷信や奇怪な習俗に塗れた場所、ということになる。
むろん冊封国への正使であるから略奪などはもっての外だが、厳しい軍律で旅程に臨まないと、こち
らの命が危うい場面もありそうだ。

6月波の穏やかな日を選び、2籍の船団とともに俺は出発した。これからは韓の地の海岸沿いを地形に
従って航行し、途中で補給も行うつもりだ。ここではまだ、危険なことは少ないだろう。
295建中校尉:2010/09/27(月) 23:56:16
長い時間がかかったが、それでもほぼ予定どおりに韓地の南端 狗邪韓國に行き着いた。ここの習俗は
すでに倭と同等に近いものであるらしい。船上から港で働く原住民の様子を見ても、韓の北辺とはずいぶ
ん違っている。言語もほぼ倭国のものに近いらしく、こちらの通詞には理解できない言葉も多いようだ。こ
こで最終補給を行うとともに、現地人を通詞として一人雇い入れた。

いよいよ明日からは倭地への行程に入る。まだ波の穏やかな時期であるとはいえ、危険な航海になるだ
ろう。

(これは不定期連載です。暇があればまた書きます。)




296建中校尉:2010/09/28(火) 00:18:49
対馬國というところに着いた。絶島である。もともと平地が少ない上に、暴風雨や塩の害を受けるらしく
田地はほとんどないといってよい。人々はもうすでに倭種といわれる者どもだろう。男は1年のほとんどを
半裸で過ごし、体中にある文身はそれぞれ異なっている。顔にまでびっしりと奇怪な文様が描きこまれた
者も多い。何か呪術的な意味があるらしいが、むろん俺たちにはわからない。

この人々はまるで自らが魚のように海に潜り、様々な獲物を携えて上がってくる。これを韓と倭の両地に
持ち込んで米や工芸品と換えてくるらしい。物々交換だが、鉄片を中国の貨幣のようにみなして使用する
場合もあるようだ。柱のある大きな建物ほとんど見えず、人々は地に這い蹲るようにして生活している。そ
れにしても、この丸木舟に毛の生えたような舟で、よくも海流の厳しい海を渡っていけるものだ。
297日本@名無史さん:2010/09/28(火) 08:58:31
>>296話の途中で申し訳ないが

>この人々はまるで自らが魚のように海に潜り、様々な獲物を携えて上がってくる。これを韓と倭の両地に
持ち込んで米や工芸品と換えてくるらしい。


これはたぶん南北市糴をそう解釈した上での事かと思うが
南北とは、同一のものを二つに分けて
北側と南側を区分けするから南北じゃないか?
南北朝鮮、南北アメリカ
市糴は南北に区分けすることは出来ないから、この南北は土地や地域の事。
この場合、韓国と日本を南北に置き換えられるのは、韓国と日本が同一とみなされる時だけだと思うがどうだろう。
対馬から見て北に韓国、南に九州(日本)で南北とは言わんと思う。
298日本@名無史さん:2010/09/28(火) 10:28:25
まあ、夜中の神事の時に、箸で膣をついて死んだから、
モモソ媛命の伝承の箸というのは
その祭祀の時に使う箸でしょう?
299二 ◆.L.MXSPOgc :2010/09/28(火) 12:46:55
”度”には、今は仏教用語にしか残っていないが、もともと「わたる」という意味がある。
これに水偏をつけた”渡”を、特に水をわたるという意味で使う。

ここで”度”が使われているのは、海を渡るという意味と同時に、韓と倭の国境を度るという意味があるため。


ではないだろうか。
300日本@名無史さん:2010/09/28(火) 12:53:57
国境は越えるもので、わたるものじゃないだろ
301唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 16:19:57
建中校尉縄文人どんよ
>対馬國というところに着いた。絶島である。
対馬が絶島であれば、ここから先に進めない。
対馬国、国とは名ばかりであり、ここを統率する王はいない、各部族の集合体だ。
奴国は、ここにヒナモリを官として配置した。
当然熊襲も官を配置していたであろう。

ついでに、狗邪韓国は、大和任那の時代ですよ。
302日本@名無史さん:2010/09/28(火) 16:34:48
>>298
記紀ってマンコ突いて死亡とか酷い死に方多いよなw
303日本@名無史さん:2010/09/28(火) 16:47:28
>>301

所居絶島を絶島と区切っちゃまずいよね?
ここは
居す所が絶える島で、絶えるのは島じゃなく、
人が住む所。

人の住む所が、絶える島。
304ダイワ:2010/09/28(火) 17:05:37
昔っから陸地での国境の多くは     山や河。
305日本@名無史さん:2010/09/28(火) 17:08:07
>>302
マニア本だから
私は古代史ファンで、今記紀を読んでます。
なんて、世間では相当マニアックな部類だし、一般からはハァ?という顔されて、特別な目でみられる。
そんな奴らが読む書だよ。当然書いてある内容だってマニアック
306日本@名無史さん:2010/09/28(火) 18:26:58
箸のない時代には祭祀の時に使う箸もなかった

古代の祭器というものは、基本的に実用品が用いられる
それが時代と共に祭祀専用の特別な祭器と変容していく
307唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 18:26:58
>人の住む所が、絶える島。

その島の先に、人の住む壱岐島が見える。
308日本@名無史さん:2010/09/28(火) 19:31:35
其大官曰卑狗副曰卑奴母離が居るところは
309日本@名無史さん:2010/09/28(火) 19:36:32
島か絶えるところ、つまり島のはずれ
310建中校尉:2010/09/28(火) 19:47:52
かん海と呼ばれる海を渡って、壱岐国に着いた。ここは対馬国よりはずいぶんと拓けた印象だ。戸数も多く、
韓人とおぼしき者の集落もある。韓地、倭地から人が集ってここで交易をする。海産物と米、海産物と鉄、こ
れらが三角を為して取引される場合もある。また、はるか遠くの倭地から、加工された宝玉を持ち込む者も
いる。それらの倭人はここらとはまた異なった風体をしている。加工玉の中でも翡翠は特に珍重され、その
ねっとりとした光沢は美しく、倭特有の巴形に磨き出されている。俺もついいくつか求めてしまったほどだ。

船団は島嶼部を離れ、明日にも倭の本拠地に上陸する。食料も水も十分にあり、四百人の配下は皆意気
盛んだ。

311あらため:2010/09/28(火) 21:18:46
>>287
>なんでそんなに難しく考えるのかなあ?
>「始めて一海を渡る對海國まで千餘里」でいいやん。

「度」と「渡」の違い
あ〜ローガンさんは畿内説でも〜なんでも「誤字」で片付けてしまうお方でしたね。
なんでも誤字で片付けてしまうのはよくありません。
わたしは、この對海國への「度」ですが、ワザとそうした。
ようは著者の筆法と考えています〜

わたしも畿内説ですが〜なんでも誤字にしてしまうローガンさんとは
ここが違う。
312あらため:2010/09/28(火) 21:29:54
>>299
>ここで”度”が使われているのは、海を渡るという意味と同時に、
>韓と倭の国境を度るという意味があるため。 ではないだろうか。

意味ワカメ
なんで「度」が倭の国境に入った〜意味なんだって(久々に笑えた)w

<倭人伝>
從郡至倭循海岸水行韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國

これを分かり易く訳すと(ざっと何もみらずに訳したので細かい指摘はなし)
郡より倭に至るには、海岸線を行き、韓國を過ぎ、あるいは南、あるいは東、
その国境の北岸の狗邪韓國に到着する。
国境は「度」ではなく「到」、ここだって〜三◆.L.MXSPOgcさん w
313唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 21:34:12
畿内説は、半分正しい。
邪馬台国=大和の部分だ、しかし大和に女王国は無い。
卑弥呼まで大和に持ってくることは出来ない。
314建中校尉:2010/09/28(火) 21:45:24
古より知られた伊都国の都へ入る。漢代からの冊封国であり、その名は俺も風に聞いたことがある。
良港ではあるが、俺たちの大船では陸近くまでは入れない。船を留めて、倭人の舟が近付いてくるの
を待つ。小舟上の倭人は目を丸くしている。これも俺たちの船を見ての驚きであろう。通詞を介して倭
人と話す。

倭人「魏の将軍であられるのか?」

梯儁「将軍ではない、しかし魏帝の命を受けたものだ。倭女王の進物に対し、詔書と印綬を携えてきた。
    答礼の品々もある。」

倭人「わかり申した。・・・当地の王に会われるか?それとも邪馬台の一大率に?」

梯儁「・・・どちらが実際にこの地を支配しているのだ?」

倭人「一大率なり。」

梯儁「では、一大率に会おう。」
315あらため:2010/09/28(火) 21:47:18
倭人伝の卑弥呼共立のところで、「以婢千人自侍」とか、「唯有男子一人給飲食」
「居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛」とかありますね。
これは使者が邪馬台国まで行き、卑弥呼の居る”宮殿”まで言ったことが書かれてる。
ということは、卑弥呼さんの居る場所は自然と”都”ということが分かると思う。
ということは、唐松山さんみたいに都にしてる所と、卑弥呼の居る所を離すべきではないのでは?
316唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 21:59:01
では 下記の文章を、自説に合わせて読んでください。

使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。
317日本@名無史さん:2010/09/28(火) 22:05:48
>>309

>島か絶えるところ、つまり島のはずれ

そんな漢語の読み方はないよ。

唯一考えられるのが
「絶」を形容詞とし、「島」を名詞とした時で、
この場合の「絶」は 遠く隔たるさまと解し

絶し島と読む  が、その場合
遠くとする基準が存在しないので、遠近は使用できないし、みな同じ千余里
なので、この對馬だけ「遠く」と表現する事はできない。
だからこの形容詞読みもペケ
あとは、「絶」を動詞とし

居する所が絶る島と読む以外にないと思う。


>>307で、

>その島の先に、人の住む壱岐島が見える。

島が見えても関係ないと思う。
島が見えてもそこに人が住んでいるかいないかなんて、現地確認しない限り
わからないから
318建中校尉:2010/09/28(火) 22:06:46
この伊都国の地勢は複雑なものであるようだ。古くからの王がいるが、倭女王卑弥呼共立の頃に
力を失った。それまで伊都国王とその一党がすべてを差配し、大陸の文物を融通していたのが、今は
邪馬台国の直接支配を受ける立場となり、王とは名ばかりで、その血統が細々と生かされ続けているに
過ぎない。この倭女王共立の頃の伊都国王も、また女人であり太陽を祀る者であったらしい。

一大率は邪馬台国の官名である。倭女王の直接の配下であり、被支配地を査察するという点で、中国の
刺史の職責に似ていると言えなくもないか。

二百人の兵を連れて上陸する。道路はなかなか立派なものであり、道々には高床の邸閣があり、大規模
な市が開かれているのが見える。倭人は、完全武装した俺の配下が整然と行軍するのを遠くから見ては
道端に平伏してゆく。俺はふと、凱旋将軍のような気分になった。
319あらため:2010/09/28(火) 22:10:04
>>316
いや、ここが正解だろうね。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_framepage.htm

女王國より以北には、特に一大率(yi1.da4.lu3/tae.ir.sor)を置き、諸國を検察せしむ。
(諸國)これを畏憚す。常に伊都(yi1.dou1/i.to)國に治す。國中において刺史の如きあり。

そのまま、

女王國より北には一大率を置き諸國を検察する。
これを畏憚す。常に伊都國き、刺史の如き  でいいのでは?
320日本@名無史さん:2010/09/28(火) 22:19:14
>「始めて一海を渡る對海國まで千餘里」でいいやん。

日本語になってないからダメ
321建中校尉:2010/09/28(火) 22:21:10
その居館にて、一大率と面会する。一大卒の館の前には、長柄の大きな銅矛を携えた倭兵が居並ぶ。矛は実用
とは見えず、儀仗用であるようだ。それらの者の装備も、俺の配下の軍に比すれば極めてみすぼらしい。配下の
四百の兵をもってすれば、この地など簡単に制圧できるのではないか・・・俺は頭に浮かんだ妄想を振り払う。

平伏していた一大率が俺の言に顔を上げる。俺は通詞を介していくつか質問してみることにした。
322日本@名無史さん:2010/09/28(火) 22:21:37
>>311

>この對海國への「度」ですが、ワザとそうした。
ようは著者の筆法と考えています〜

筆法なんてないよ
323日本@名無史さん:2010/09/28(火) 22:25:15
縄文人は文章がうまいな。
324日本@名無史さん:2010/09/28(火) 22:25:27
度の始まり単一の海を千余里對海国に至る。
325あらため:2010/09/28(火) 22:30:50
わっしーのホームページを勝手に宣伝
http://yamataikoku.bbs.coocan.jp/?m=listthread&t_id=80&summary=on

彼、2ちゃんとかみることあるのかな・・・・
326建中校尉:2010/09/28(火) 22:42:44
梯儁「一大率よ。倭女王はいかにしてこの地に力を及ぼすようになったのか。」

大率「この地はもともと、漢よりの冊封を受けたことにより力を持ちました。隣国の奴もまた同様です。
    しかし、その権威に頼るあまり自ら国を養うことを忘れました。耕地は少なく、兵は足らず、漢の
    庇護の下でしか所詮は生きられぬ国であったのです。
    漢の衰退と前後し、東の海の国々が密かにまとまり始めました。そして度に遣使したのであります。
    そして大陸との交渉権を収奪したのです。」

梯儁「何?度とは、公孫度のことか。・・・ふむ、聞いたことは忘れてやろう。二度とその名を口のしてはなら
    んぞ。」

大率「御意のとおりに。」
327日本@名無史さん:2010/09/28(火) 22:51:12
縄文人も遂に一線から身を引いたみたいだな。
328建中校尉:2010/09/28(火) 23:00:11
梯儁「なるほど、それで公孫氏滅亡の後、あのように素早く魏帝に貢献してきたのか。・・・まさに機をみるに敏なり。
    蕃夷の地とてあなどれぬものよ。」

梯儁「倭女王の都する邪馬台国とはどのような国か。」

大卒「邪馬台国は一つのまとまった国ではありません。いくつもの国々が盟約を持って連なり、同盟するその中心な
    のであります。」
梯儁「ふうむ、戦国の七雄が合従したようなものか。すべてはこの大陸との玄関口を収奪するためなのだな。」

大卒「然り、と一応は申し上げておきましょう。実際はそれだけでは御座いませぬが。」

梯儁「よい。このような辺地の事情など聞いても理解できないだろう。こちらは武官であるのでな。」

梯儁「最後に問う。倭女王の都まではどのくらいで着く。」

大卒「この筑紫島の外はほぼ女王の勢力圏ではありますが、都地は遠くござる。」

梯儁「どのくらいで到着するのだ?」

大卒「さよう。水行すれば一月ほどもかかりますが、あなた様の大船ならもっと速いでしょう。」
329日本@名無史さん:2010/09/28(火) 23:01:43
確かに縄文人は文章だけは上手になったな。
330唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 23:23:54
>>319
大倭をぬいちゃあお終いだ。
好きなところだけぬき取ってしか説明出来ないとなれば、何処かに齟齬がある。
331唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/28(火) 23:51:55
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之

 自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

国々に市が有り有無を交易す。
使大倭監之自 ここで”自”「自ら」を欠く。
大倭自ら使いして之を鑑みる。 国々の市を監察することは無い。
いずれの読み方でも大倭≠女王国と双方が同時に登場するから、別の地域にあり別の国
と私はかんがえるのです。

ホ38300      フソサミヱ キサラギヨカに
ホ38301      ヰオノヒメ クスコウチミコ
ホ38302      イセノカミ まつるいわひは
ホ38303      ツクシむけ ヒメコトシソヨ
ホ38304      ヤマトヒメ コトシモモヤツ
ホ38305      よろこびて ヨハヒいたれば
ホ38306      ワレたりぬ わがヤソモノべ
ホ38307      ソフツカサ ヰオノにうつし
ホ38308      つかえしむ

この壹與(五百野姫)に従って筑紫に下向した軍隊が伊都に駐留した。
”曲学の徒”氏のところでこれを書いたら、えらい剣幕で否定してきた。

332日本@名無史さん:2010/09/28(火) 23:55:44
>>330 ヨコですが
>大倭をぬいちゃあお終いだ。

「使大倭監之」
唐松さんの訳(大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。 )
だと、“監之”が抜けちゃってますけど?
333332:2010/09/29(水) 00:00:01
>>331
>之を鑑みる

あらら、こりゃ失礼。タイミングが悪かった。
334太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/29(水) 13:58:23
>>331
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と言ってたオマエさんが、偽書
といわれる書物を持ち出した〜。
335ローガン:2010/09/29(水) 14:07:37
>>311
>度」と「渡」の違い
> あ〜ローガンさんは畿内説でも〜なんでも「誤字」で片付けてしまうお方でしたね。

どこで誤字と、書いたっけ?同じだと書いた覚えがあるけど。

> なんでも誤字で片付けてしまうのはよくありません。

同意。

> わたしは、この對海國への「度」ですが、ワザとそうした。ようは著者の筆法と考えています〜

だから、何?「著者の筆法」なら、そう考えるに至った根拠を三国志の用例に基づいて論証してください。
336ローガン:2010/09/29(水) 14:50:27
「至」と「到」
ちょうどいいのが魏略西戎伝にあります。
「澤散王屬大秦,其治在海中央,北至驢分,水行半歳,風疾時一月到,最與安息安穀城相近,西南詣大秦都不知里數。」
澤散王の宮廷から北の、驢分までは、水行で半歳。風が良けりゃ一月で到着する。
区別するなら、至は「まで」。到は「到着」と訳せば良い。
337日本@名無史さん:2010/09/29(水) 19:01:22
>>331
ここでもまた、「唐松は漢文を読めない」ということが判るが、思考が論理的でないことも判る。
338日本@名無史さん:2010/09/29(水) 19:02:58
太国 ◆yVAs7uaYlY がキチガイだということもわかる
339唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/30(木) 12:06:21
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

太国にこの文章を訳す力は無い。
340日本@名無史さん:2010/09/30(木) 12:13:30
大倭がヤミで中国と交易しているかいないかを、女王国の北に配備された一大率が監視している。
この一大率は、伊都からの命令で動いている。
341太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/30(木) 13:12:48
唐松山は日本の暦法は今の今まで非常暦法を行使していたと豪語している。
まぁ景行元年の非時香果の受け取り、飽食が、神武元年から平成までと
言いたいらしい。ppp ww
訳せないは紀年編年と直接関係無い。どこかの訳文を見れば事足りる。
342日本@名無史さん:2010/09/30(木) 13:57:16
倭国大乱とは
当時の大倭王であったオシオ命の後継者争い。
カエシネ命が、自分とヨソタラシ媛命(オシオ命の王女)との間に生まれた
オシタラシ彦命を大倭王の地位につけようとした。
それに対して、オシオ命の兄のオシヒト命の後胤たちが激怒。
やがて、大戦争になった。それが倭国大乱。
343唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/30(木) 18:06:38
>どこかの訳文を見れば事足りる。

=誰かの編年を見れば事足りる。
つまり太国倍年には、歴史上の出来事に対する主張が無い。
だから、非時香果の受け取り、飽食が、←ワケのわからない文章をそのまま使う。
344太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/09/30(木) 21:28:26
>非時香果・・・
オマエは日本の暦法が全部、非常暦法だとか抜かしていたではないか。
何を言ってんだよ。><
345日本@名無史さん:2010/10/01(金) 07:58:01
四人の兄弟をヨコではなく縦に書けば、歴史は
自然と長くなる。
346日本@名無史さん:2010/10/01(金) 08:33:07
>>345
そういう説を出す人って中途半端なんだよ。
歴史を長くするためってのは、あんまり信憑性ない。
347日本@名無史さん:2010/10/01(金) 08:37:36
ようするに、神武天皇、欠史八代の頃の天皇は
政治上の倭国の最高権力者であっても
宗教上の倭国の最高権威者ではなかったということだろう?

ちょうど、モモソ媛命というのは、欠史八代の系図に登場する人物だから。

倭国大乱の結果、誕生したモモソ媛命は、神武皇統の人物だが
倭国大乱以前に宗教上の最高権威者は、
神武皇統とは別の皇統が就いており、その王が正式な倭王であった。
神武皇統は、その王統を補佐して、実際の政治を行う最高権力者の家系であった。

それが正しいところだろう?
348日本@名無史さん:2010/10/01(金) 08:38:46
卑弥呼さんは記紀の中の人じゃないからな。
記紀編纂する人も、倭人伝くらい読んだだろうが
半信半疑でお茶を濁す程度に混ぜたに過ぎない。
金印も当時見つかっているはずもないので
もらったなんて思っても見なかっただろう。
349日本@名無史さん:2010/10/01(金) 08:46:42
卑弥呼という名前を漢字のままで
記紀の中から探しても出てくるわけがない。
おそらく、ヒメミコが、卑弥呼と記述されたというのが真相でしょうね。

匈奴ってのも、当時の中国語の音韻だと
「フン」って発音していて、これは欧州を脅かしたフン族ということが
分っている。
350日本@名無史さん:2010/10/01(金) 08:56:42
大倭王の祭祀を継承していた一族は
火明命ー香語山命ー村雲命ー忍人命 という風に
直系で継承されていた。

もともと、高間山の麓の高間の原に居を構えた豪族が出発点で
出雲・大国主を倒して天下を統一後、そのやや北部の高尾張に首都をおいた。
この高尾張は、やがて葛城という名称に改名される。

火明命は、通称・天照国照彦とよばれ、天津と国津の両方を支配した人物と称された。
義父の大国主から倭王の地位を禅譲されたのは、この火明命であり。
その子の香語山命は、父方が高間、母方が出雲という出自をもつ、
天津と国津の統合の象徴で見あった。
彼ら名前は、大和三山の名称の一つとして残っている。

この火明命には、ニニギ命という弟がおり
火明命の命令で、九州高千穂に派遣される。
このニニギ命の曾孫に若御毛沼命がおり、
後世、彼のことを神武天皇と呼ぶのである。
351日本@名無史さん:2010/10/01(金) 09:52:39
兄弟をヨコで考えれば片親は同じだから
一つの兄弟の寿命は、長男が誕生してから末っ子が死亡するまでの期間だけ
これを縦に継承行為が行われたと考えれば
次男は長男の子供、三男は次男の子供と
いくらでも長くのびる。
しかも全てが実在となり、継承の視点から考えれば、親子関係も嘘ではなくなる。
352唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 10:08:22
欠史八代の兄弟継承は、安寧、懿徳である。
懿徳も孝昭をもうけて、まもなく死亡する。
そして天皇家の寿命は、弥生時代のそれと同等の40才程度になる。
だから子作りも可能な年齢に達すれば、直ぐに子作りにはいる。

神武元年は、弥生中期と後期を別ける位置であり、畿内、中国地方などの変革期にあたる。
1世紀中葉の出来事である。

353太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 10:14:27
記紀ともに安寧、懿徳は父子であって、兄弟などというのは日神が
男だと言う主張と同様に、記紀の中枢を解体させる白蟻群同然の
主張であって、これに騙されてはいけない。奴の脳内はまるで
エイリアンの卵群のようにインチキをその嚢内から生み出して
いる恐るべき記紀の敵なのである。4重在位とかもそのデタラメ主張
であり、国土防衛の如く記紀の記述をこの敵から防衛しなければ
ならない。
354唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 13:40:00
>非時香果・・・
この説明はどうした?

腹がデコポンで頭がポンカンの太国には、出来ないってか。
355唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 14:14:13
非時香菓。私が説明しようか?太国の嫌いな偽書であるホツマを使って。

ホ37202  あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ 
カクのキヨサホ カグヨサホ もちきたるマに キミまかる ミヤゲなかばを ワカミヤえ 
なかばをキミの ミササキに さゝげもふさく これゑんと はるかにゆきしトコヨとは 
カミのかくれの をよびなき フリをなじむの トトセぶり 
明くる春 弥生に帰る 田道間守 時至9ヶ月24日後
果香の木4棹 香草4棹 持ち来る間に 君まかる 土産半ばを 若宮へ
半ばを君の 陵に 献げ申さく これ得んと 遙かに行きし 常世とは
神の隠れの 及び無き 振りをなじむの 10年ぶり

カグとは香具山のカグであり穀物である。香具山とは、焼き畑である。
カクは果実、果実の木。
たたねこの言いたいことは他にもある、垂仁90年の命令から帰国の景行元年までの旅行期間が
約10ヶ月、しかし朝廷の暦はこの1年を10年と記録する。
これを知らない編纂者が漢字に直すからおかしな文章となる。

偽書で訂正されてうれしいだろ。
356太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 14:51:25
なに寝言を言ってるんだね〜?
>トキシクカグツ フソヨカゴ
これは 非時(トキジク)香果実(カグツ果具津) 二十四籠 だ。
この果実が24籠分だということだ。こうやってオマエは原文を曲解、ネジ
曲げる。
まぁ非常時暦だと言ってるから、奴の脳内はこんなデタラメ解釈になるん
だろう!?ww
357日本@名無史さん:2010/10/01(金) 14:58:01
他所でやれクズ
どこにでも顔を出して粘着するな
358日本@名無史さん:2010/10/01(金) 15:11:52
太国 ◆yVAs7uaYlY は荒らしです
みなさん、スルーしてください
359日本@名無史さん:2010/10/01(金) 16:51:51
ときじくのかぐのこのみとは、バナナのことでしょ。
360記憶喪失した男:2010/10/01(金) 17:48:32 BE:886330728-2BP(791)

出雲の国譲りについては、おれの意見をのせておく。

出雲の国の西日本支配
スサノオは、実在した人物を型にしているといわれている。
いわゆる、大和朝廷が成立する前に西日本の盟主であった出雲の国の建国の王だとされる。ヤマタノオロチと呼ばれた怪物を退治したため、西日本の盟主となった。

日本における最古のドラゴンスレイヤーであり、ドラゴンを殺す時に使った武器は十束の剣という、握りこぶし十個分の長さのある普通の剣である。倒した竜の名をヤマタノオロチという。

日本で、天皇を除く最古の家系図の書ける出雲千家の祖先であり、出雲千家は祖をスナノオの六代目大国主(オオクニヌシ)としているが、
実はさらにさかのぼれば、スサノオにたどり着く。古事記で、スサノオはアマテラスの弟と書かれたことにより、姉であるアマテラスの子孫を名のる天皇家に勝てない。

なお、出雲大社では、ちゃんとスナノオを超厳重な体制で祭っている。
361日本@名無史さん:2010/10/01(金) 18:28:15
出雲は平地が少なすぎる
それほど多くな勢力があったとは考えにくい
自国の力を誇示するために
過去に滅ぼした小国を過大評価しているのではないかと思う

出雲を滅ぼしたのが邪馬台国であったとしたら
邪馬台国の規模もまた、それほど大きくはなかったのかもしれない
362唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 18:40:06
>古事記で、スサノオはアマテラスの弟と書かれたことにより、
古事記では、アマテラスは男である。

ヤマタノオロチ オロチとは、人の心に住む邪悪な心である。
姫を次々と生け贄にする、これを正したのがスサノオであり、アマテラスの下にいたときとは
心根がちがう。
娘婿大物主は、崇神六年迄天下の大王で有る。
つまり 天皇家の書物、日本書紀だけでは、弥生中期から後期の変化を捉えきれない。

ホ30033 ツクシのタネコ モをおさめ ヨカミまつりて アウヱモロ カワチをかねて
おさめしむ ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも サホコみな タミをおさめて
しつかなり いまアマキミの クラヒなる

コシネのクニ 越。サホコ 出雲。アワウミ 近江
伊予や吉備を含むこれらの国が一度に変化した。
出雲では、サホコがこの時期埋納される。
363記憶喪失した男:2010/10/01(金) 19:13:17 BE:997120692-2BP(791)

古事記には、アマテラスは姉だと書いてあったはずだが。

大和朝廷が成立したのは、出雲の国譲りのあと。
倭の国を束ねる盟主だった可能性は高い。
盟主の交代を書いた歴史だと思われる。
364太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/01(金) 19:21:46
>>362
ほ〜ら、偽書といわれる書物を持ち出した〜と牽制していた男が、偽書と
いわれる書物を持ち出した〜。奴は自分はいいらしい。ww
365唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/01(金) 19:39:13
欠史八代の天皇紀には、それほど多くの国が登場しない。
つまり天皇の支配した国はそれほど広くは無い。
多くの国の登場は崇神紀の四道将軍を待たねば成らない、四道将軍の派遣により
崇神はハツクニシラスと呼ばれる。裏返せば、天皇はそれ程知られた人物では無かった。
ここが弥生後期後半である。
366日本@名無史さん:2010/10/01(金) 20:22:07
>>365
元は将軍だったわけだ。
徳川のようなもんだね、天下を統一した者が知られる。
367あたらめ:2010/10/01(金) 21:18:48
>>335
>どこで誤字と、書いたっけ?同じだと書いた覚えがあるけど。

「度」と「渡」・・・同じということはですよ。
字画がちがうのに同じと・・・イコール誤字ということじゃないんですか?
誤字じゃなかったら、なんなんです?

>だから、何?「著者の筆法」なら、そう考えるに至った根拠を三国志の用例に基づいて論証してください。

三国志全文から「度」と「渡」の用例を探し出す時間なんてありませんので
そちらでお願いしますよw
その前に「度と渡の違い」について、ローガンさん、
あなたは考えたことスラないんじゃないんですか?ww 
もちろん、私は調べましたけどね・・・。

>>336
>「至」と「到」

まだそんなことやってるんですか・・・ヾ(´Д`;●)
368日本@名無史さん:2010/10/01(金) 23:29:16
度と渡の違いって、河童じゃあるまいし
アンタにゃ無理だ
369日本@名無史さん:2010/10/01(金) 23:38:48
やっぱり普通に考えて、
「渡る」=海を渡る、「度る」=海ではない所を渡るだろうなあ。

「対海国」=海に対する国、の名称からしても、魏側は対馬の手前を海と
見てないのかも。つまり魏の領土内と。対馬から向こうは外国で「海」と。
370日本@名無史さん:2010/10/01(金) 23:42:21
海ではない川だって立派に渡る。
371日本@名無史さん:2010/10/02(土) 00:00:13
>>369
度でも海って書いてるけど。
372河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 00:00:56
なになに?
まだ「渡」と「度」の違いなんてやってたの?  好きだね〜

あのね
一般的に日本語の「わたる」に相当する漢字は「渡」で
「度」という漢字が日本語の(わたる)という意味をあてられたのは
漢語による熟語の意味を解する時に、日本語の(わたる)という意味に相当するから
「度」に(わたる)という言葉が含まれるんだよ
だから、一般的に(わたる)といったら「渡」文字

漢語の「度世」・「度鳥」などがそれに相当する

因みに「渡世」は日本語だし、「渡り鳥」も日本語。

そもそも最初から(わたる)に関しての「度と渡」の使い分けなんてないの。
373河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 00:08:22
ま、ついでだから言うけど

(いたる)とした場合の「至と到」の使い分けなんかもないんだよ
通常一般的に(いたる)と言ったら「至」が使われ
「到」は
漢語の「到達」「到底」なのど漢語を日本語として意味を解する時、
日本語の(いたる)に相当するから
この(いたる)が「到」という読みについてるわけよ
374河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 00:11:48
>>372訂正ね

>日本語の(わたる)という意味をあてられたのは ・・・・×

日本語の(わたる)という言葉をあてられたのは ・・・・○


>日本語の(わたる)という意味に相当するから ・・・・・×

日本語の(わたる)という言葉に相当するから ・・・・・○

375河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 00:22:31
それでもどうしても使い分けるには

「度」=わたる と解するのは
概念や観念といった抽象的なものに対して使用する。

「渡」=わたる
抽象的なものに対しての具体的かな?

だから「度」にはない(サンズイ=水関係)という具体的なモノが付加されて
「渡」という文字に
376河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 00:39:37
日本語でいう「渡り鳥」を「度鳥」としているのは
渡り鳥が観念だからじゃないかな?

鳥は渡っているわけじゃなく、飛んで移動しているだけ
それを人間が「渡っている」と考えるから「度鳥」だと思うよ
377日本@名無史さん:2010/10/02(土) 01:00:56
渡りとは何か?その疑問にお答えしましょう。
ワタリとは倭のタリ、つまり、任那にあった多利郡(実際は口片がつく)に住んでいた倭人ということです。
彼らは舟を操り、おそらく新石器時代から朝鮮半島と倭国(日本列島)を縦横に行き来していたのだと思われます。
例えば、宮城県の仙台の南に亘理郡というところがあって、ここにも渡辺氏が多く暮らしています。
378日本@名無史さん:2010/10/02(土) 01:09:02
もともと「渡り」には「目的地へ向かって移動する」という意味はなかった
もちろん目的地はあってもいいのだが
どちらかというと、自由に彷徨するように移動するという意味合いが強かった
379河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 09:24:31
>>378

>もともと「渡り」には「目的地へ向かって移動する」という意味はなかった


(わたり)のタリは助動詞で、動作の継続や完了を表すので、移動の意味も含まれます。
わ・たり

その動作の内容を表す言葉が(わ)

ここがさまざまな言葉に変化すると
            アタリ
カタリ
380日本@名無史さん:2010/10/02(土) 10:26:10
『ワタリ』『風魔』『カムイ外伝』、白土三平の描くところの忍者。
忍びの者の。
381日本@名無史さん:2010/10/02(土) 10:43:15
「度」には「のりを超える、規範を超える」のような意義があるので
(仏教的な意味もあるし)

「始めて一海を度る」で、「はじめて危険な海外へと踏み出す」という
意義をこめた表現ではないかな。
ここ以外は「渡る」となってることからも、そうじゃないかな。
382日本@名無史さん:2010/10/02(土) 10:53:35
>>379
>(わたり)のタリは助動詞で、動作の継続や完了を表すので、移動の意味も含まれます。

え?

『渡(わた)』が語幹じゃないのか?

らりりるれれ〜っとwwwww
383日本@名無史さん:2010/10/02(土) 10:58:18
海神(わたつみ)大神と言ったらもちろん海神。
アイヌ語のワッカ(水の意、稚内)、英語のWaterと起源は同じで、古モンゴロイドが伝えた世界共通の基礎語だと思われます。
384日本@名無史さん:2010/10/02(土) 11:45:29
>>360
嘘を書くなよw
出雲国造家は、ニニギの叔父のホヒの子孫だ。
つまり、天孫だ。
385河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 13:09:13
(渡る)と書くからわからなくなってしまう。
渡る。はワタルという日本語を、漢字の意味を利用して置き換えたからこその渡るという日本語
本来は、渡という漢字を度外視し、考えなければならない
渡る。の送り仮名部分のラ行の活用変化するカナは、漢字を使用しているが為に起きたもの
本来のカナ文字構成とは別物です。        ワタルのカナ構成は、ワ・タル

タルという動作の継続や完了を、具体的にワという意味で
何が動作し完了するのかを表現しているからワタル。
386日本@名無史さん:2010/10/02(土) 13:10:17
>>383
同意。満潮のときアマゾン川を逆流するポロロッカ。これも大きな水の意。
ワッカは人類共通の祖語。水の民=ワタリに間違いないでしょう。
387日本@名無史さん:2010/10/02(土) 13:33:14
>>385
すげえなw
言意学によって日本語の文法の五段活用も否定されますたw

「暗号解読ゴッコ」も突き詰めていくとオレサマ文法編み出すにまで至るのかwww

当たる、至る、語る、祟る…それぞれ「あ」「い」「か」「た」一文字に本来の意味があるとw

まあ、こいつの言いたいのは例えば「満ち・たる」と言う場合ならそれっぽいんだろうがw

単に「たる」の文字を見て語幹と言うの物も失念して(最初から無かったか?w)
”切るところ”を間違えちゃいました…ってだけのお話wwwww

冗談抜きで中学生あたりから国語を勉強した方が良いのではないか?

388日本@名無史さん:2010/10/02(土) 13:41:03
現代の日本語と古代の日本語を同じものだと思っているのか?笑った
389日本@名無史さん:2010/10/02(土) 13:47:55
馬鹿くさい。「渡りたる」だろ。
390日本@名無史さん:2010/10/02(土) 13:51:27
>>388
河童本人が姑息に名無しでケチレスつけてるのか?

じゃあ

「渡る。はワタルという日本語を、漢字の意味を利用して置き換え」る前の
「本来は、渡という漢字を度外視し、考え」た場合の古代の日本語とやらで説明してくれ。

「タル」をつける前、どのようにして未然形だの命令形だのを区別したのか?あるいは全く区別が無かったのか?


391河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 13:55:38
>>387
もう少し勉強してから反論ね!
与えられたドックフードだけじゃ古代は語れないよ。            じゃあ、なぜ渡にワタルの言葉があてられたか説明出来るか?
意味がなければ、ワタルじゃなくてメタルでもいいのか?
さあ、説明してくれ!
392河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 14:00:35
>>389

私と>>388が同一である事を証明してくれ
話はそれからだ
393日本@名無史さん:2010/10/02(土) 14:05:46
>>391
とうとう本格的に発狂したのか?w

説明しろ?

そんなもん「わたる」と言う日本語と「渡」と言う文字の概念が近似していたからなんじゃないのか?

それで何か問題でも?
394日本@名無史さん:2010/10/02(土) 14:05:46
>>391
自分のレスにつけられた十分根拠の認められる疑義に対して、まともに答えようとせず、
反問することで話題をそらそうとする。 皆さん、河童ってこんなやつなんですよ。
395河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 14:07:23
ここの馬鹿どもは、つまらん批判は出来るが、
これこれこういう理由だから、その説明は間違ってる。本来はこういう事で
ワタルじゃなくてメタルだと、こういう矛盾が生じるから、ワタルという言葉じゃないと
渡という漢字には当てる事は出来ない!

という説明も出来ないのに、否定や批判だけは一人前か?
悲しいもんやな
396河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 14:13:09
>>393
渡とワタルのどんな概念が一致したのか?
じゃあ、どうしてカタルの概念だと一致しないのか?アタルだとどうして一致しないのか?
397日本@名無史さん:2010/10/02(土) 14:20:42
>>396 言異学の大家河童センセイ

そりゃ「カタル」には別の概念があり「アタル」にも別の概念があるからなwwww

もっとマシな反論して見せろよ情け無いやつだな。

もう正直に言っちゃえよ
「タルの文字見て後先考えずに語幹として切るべきところを間違えちゃいました」ってwwww




398河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 14:22:59
言葉に概念があるということは、言葉には意味があるからだよ。
それが言葉の根幹。
渡とワタルの概念が一致したから、その言葉は渡にあてられた。
つまり、ワタルには意味があるから概念が生じた。
一言一言の言葉なんて、昔も今もたいして変わらない。アは今も昔もアだよ
399河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 14:27:28
>>397
だから別な概念があるというなら、その概念の違いをのべてから
こういう概念の違いがある。

そういうのがスジだろう。
メタルの概念は?
アタルの概念は?

400日本@名無史さん:2010/10/02(土) 14:30:40
完了の助動詞「タリ」が日本語として登場するのは中古以降だからなあ。
上代で完了の意味で使われる言葉は「つ」

この上代語「つ」の連用形「て」に「あり」が付いて「てあり」、それが短縮されて「たり」。
漢文訓読に際して重宝された表現法だが、口語では直ぐに廃れたようで、室町期の草紙物などになると登場しない。
401日本@名無史さん:2010/10/02(土) 14:32:36
日本史板はスルーカが足りない奴ばかりだな
荒らし放題じゃねーか
402日本@名無史さん:2010/10/02(土) 14:34:12
しかしこの河童ってコテは一方的に自説を垂れ流している時はまだマシだが
こうやって突っ込まれるとまるでガキみたいな返ししかできないのなwww

>そういうのがスジだろう。
>メタルの概念は?
>アタルの概念は?

あほらしいw
ここまで話のレベル落さなければならんのか?w

ガキが鼻水垂らしながら
「ボクが何月何日何時何分何秒にそんな事言ったか証明してみろ」
と吼えられているような気分だwwwww
403河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 14:38:49
>>400

>完了の助動詞「タリ」が日本語として登場するのは中古以降だからなあ。

それは助動詞としての「タリ」であって、言葉としての「タリ」は存在していたはず
じゃないか?
だから中古に「タリ」という完了の助動詞としての位置づけができた。
中古にいきなり「タリ」が出現して、位置づけされたわけじゃないだろう
あったからこそ文法と言うルールに乗ることができた。
404河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 14:45:25
>>402

>あほらしいw
ここまで話のレベル落さなければならんのか?w

ガキが鼻水垂らしながら
「ボクが何月何日何時何分何秒にそんな事言ったか証明してみろ」
と吼えられているような気分だwwwww


話のレベルを落としているなら答えることはいとも簡単だよね
その簡単なことがどうして出来ないんだ?
簡単なことなんだから、さっさと説明して

説明したのち

【ガキが鼻水垂らしながら
「ボクが何月何日何時何分何秒にそんな事言ったか証明してみろ」
と吼えられているような気分だwwwww 】

という台詞は語るもんだよ

自分で勝手に相手の位置づけをし、勝手に自分の気持ちを語っていたのでは
誰もあんたのレスにまともに答えることが出来ない。
405日本@名無史さん:2010/10/02(土) 14:56:25
>>403

> >完了の助動詞「タリ」が日本語として登場するのは中古以降だからなあ。
>
> それは助動詞としての「タリ」であって、言葉としての「タリ」は存在していたはず
> じゃないか?
> だから中古に「タリ」という完了の助動詞としての位置づけができた。
> 中古にいきなり「タリ」が出現して、位置づけされたわけじゃないだろう
> あったからこそ文法と言うルールに乗ることができた。

じゃ、万葉集なり古事記なりの中で使用されている「タリ」の用例を示してよ。
万葉の時代には存在しなければ、平安時代に出現した言葉つーことでしょw
406ローガン:2010/10/02(土) 15:03:31
>>367
>>だから、何?「著者の筆法」なら、そう考えるに至った根拠を三国志の用例に基づいて論証してください。

> 三国志全文から「度」と「渡」の用例を探し出す時間なんてありませんので

え?誰も今から探して、なんて言ってませんよ。>>331

> わたしは、この對海國への「度」ですが、ワザとそうした。ようは著者の筆法と考えています〜

「著者の筆法により、ワザとそう書いた」と述べるのであれば、根拠として著作である三国志から、既に拾ってないとおかしいでしょ?
何故、探しだす時間が無い なんて云うのだろう?

407河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 15:09:08
>>405

万葉集や古事記は言葉じゃなくて文字表現。私が言っているのは音(言語)の表現
言語がそのまま文字になっているとは限らないだろう
408日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:13:37
>>404 言異学の大家河童センセイ
>簡単なことなんだから、さっさと説明して

ハイハイハイ('A`) じゃあ…

メタル:金属、カレールウ
アタル:ぶつかる、ヒットする、一致する

コレで足りなきゃ辞書からテキトーにコピペするだけだなw

何れにせよ「わたる」とは別の概念を持つのには違いない。

で、こうやって

「なぜ渡にワタルの言葉があてられたか説明出来るか?」
「どうしてカタルの概念だと一致しないのか?アタルだとどうして一致しないのか?」

…とドンドン説明を求めて根負けするのを狙っているのか?
それとも元の話しが分からないようになるところまでもっていくつもりか?w

泣きじゃくったガキかヒステリー起こしたオバハンのパターンだなwww
409日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:15:31
ヨコからだが…

>それは助動詞としての「タリ」であって、言葉としての「タリ」は存在していたはずじゃないか?

コレは何を根拠にいえるんだ?
録音機器があったわけじゃなしwww
410日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:19:46
>>407
>
> 万葉集や古事記は言葉じゃなくて文字表現。私が言っているのは音(言語)の表現
> 言語がそのまま文字になっているとは限らないだろう

その言い方って
「ワタル」と言う表現は太古より口話としてのみ伝承していて、中世になって特定動詞の一部となって始めて文字化されたと言いたいわけ?
それとも、仮名表記が当時の原音に忠実では無いので「捜せない」と言うことか?
後者だとしたら、「原音に忠実」でなくても捜せるだろう。「ワタル」以外の中古語が上代にどのように表現されていたかはわかるんだからさ。
「音」じゃなくて、文字表記なんだからさ。

どっちなのよ?
411馬ッ鹿虫:2010/10/02(土) 15:26:29
>>385

(運ぶ)と書くからわからなくなってしまう。
運ぶ。はハコブという日本語を、漢字の意味を利用して置き換えたからこその渡るという日本語
本来は、運という漢字を度外視し、考えなければならない
運ぶ。の送り仮名部分のバ行の活用変化するカナは、漢字を使用しているが為に起きたもの
本来のカナ文字構成とは別物です。        ハコブのカナ構成は、ハ・コブ
コブという動作の継続や完了を、具体的にハという意味で
何が動作し完了するのかを表現しているからハコブ。
412河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 15:30:41
>メタル:金属、カレールウ
アタル:ぶつかる、ヒットする、一致する

適当に手を抜くなよ
別に意味なんて聞いてないよ  しかもメタルに対して 意味を出してくるとは


アタルには(ぶつかる)という意味があるから、概念が違うというのは答えになってないだろう

ワタルだって(ぶつかる)という意味があってもいいんじゃないか?
アタルだって(わたる)という意味があってもいいんじゃないか?

「ワ」にも「ア」にも意味がないというんだから

「ワ」にも「ア」にもそれぞれ違った意味があるから

「アタル」は(ぶつかる)という意味になるし、「ワタル」は(わたる)という違った意味になるんじゃないかな?
だから概念が違うと判断できる。
413河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 15:34:19
>>409

>録音機器があったわけじゃなしwww

人がいるだろう。
414日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:37:20
>>408

>メタル:金属、カレールウ

えええええええーーーーーー!
「メタル」にカレールウの意味があんのか?
マジに知りたい!
415日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:39:57
>>413

芭佳?
416日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:45:24
>>414
そんな事も知らんか?インド人もびっくりだwww

http://www.youtube.com/watch?v=95lJabW5s4s&p=8A57227DD0E47AC2&playnext=1&index=44
417日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:56:22
www 河童は自演・・・例えば「河童さん、最高だね。」のような、他のコテは恥ずかしくてとても
できないようなのを多用して、新しく2chに来た人に人気があるような印象を持たせることを画策して
たが、実際はプラム時代から古代史の知識が足りず、苦しくなると自演で荒らしまくってた人間。
418河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 15:57:50
>>411

意味もわからず「運ぶ」で説明するから尚更分からなくなる。
419日本@名無史さん:2010/10/02(土) 15:59:24
>>416

球下駄!
420日本@名無史さん:2010/10/02(土) 16:00:42
>>418

動作・完了を表すコブの意味が判らないのかw
421日本@名無史さん:2010/10/02(土) 16:00:52
古代史の知識は勉強しなければ得られることはなく、それに対し、漢文珍読は例え漢文・
漢字・日本語・などの知識がなくてもその場でそれなりに答えられるものであり、不精な
中年ニートにはふさわしい分野。河童よ、みじめだのう。

422河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 16:04:28
>>417

よく言うよ
自分でネタばらまいておいて、後で自分で刈ってるのかよ

>「河童さん、最高だね。」

これってアンタが蒔いた種じゃん。
このネタ使うのアンタしかいないもん。  自分のネタは大切にか?
423河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 16:12:28
>>420

わからないね〜

ハコブは ハコ・ブ(ハコム)

ハコバ・・ (はこ・ま・・)
ハコビ   (はこ・み)
ハコブ   (はこ・む)
ハコベ   (はこ・め)
ハコボ・・ (はこ・ぼ・・)
424日本@名無史さん:2010/10/02(土) 16:14:17
>>423
皮肉られている事に気づこうなw
425河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 16:14:24
>>423 訂正

ハコボ・・ (はこ・ぼ・・)・・・・・×

ハコボ・・ (はこ・も・・)・・・・・○
426河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 16:19:41
>>424

たとえ皮肉のこもった投稿でも、答えられるものは答えるのが
私の主義。


掲示板では、皮肉られたからといって
相手をボコったり刺したりする事ができないだろう。
だから、特に相手にレスを返し
皮肉に対して前向きに答えるのさ
427河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 16:24:15
>>421

あんたの方がよっぽど惨めだよ

そんな評価下している奴に、わざわざレスしてるんだから
自分がニートだからって、周りもみんなニートだって思いたい気持ちは
わからないわけじゃないけれど
428日本@名無史さん:2010/10/02(土) 16:29:40
で、答えられないものはスルーすうるw
429日本@名無史さん:2010/10/02(土) 16:48:34
実際、この勘十郎には困ったもんだよなあ。
430日本@名無史さん:2010/10/02(土) 17:13:34
スルーしろよ
431日本@名無史さん:2010/10/02(土) 17:18:44
河童がプラム時代どれほどのクズであったか、過去ログが残ってれば証拠歴然なのだが。答えられないことが
あれば、自演と荒らしで逃げる。ま、ほとんどの反問に答えられないのは今も同じなんだが。
432日本@名無史さん:2010/10/02(土) 17:41:28
あーー、つまらん話題だ。
433河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/02(土) 18:19:14
>>432
満足していただいたようですね。  では
434日本@名無史さん:2010/10/03(日) 12:01:55
倭とは何かというと、倭=ワッカ=みず=海の民ということです。
河川や沿岸地域を小舟で移動しながら生活していた海民。

ベトナムのハロン湾にそういう生活を送っている倭人が残っています。
435あらため:2010/10/03(日) 13:28:34
で、「度」と「渡」の違いはなんだって?ww

河童君のトンデモはもういいよw
436日本@名無史さん:2010/10/03(日) 13:42:39
河童と縄文人、
どっちが利口だと思う?
これ、凄く悩む。
ま、同点だな。
437あらため:2010/10/03(日) 14:01:43
2人とも邪馬台国に詳しい
しかし、間抜けな所があるってことだろ?

うーん コテ連中でおれとローガンが比較的マトモと思われてるのかな?
実際、どーなんだろうね。
438あらため:2010/10/03(日) 14:37:57
>>406
>>>だから、何?「著者の筆法」なら、そう考えるに至った根拠を三国志の用例に基づいて論証してください。
>> 三国志全文から「度」と「渡」の用例を探し出す時間なんてありませんので
>え?誰も今から探して、なんて言ってませんよ。>>331の 「わたしは、この對海國への「度」ですが、
>ワザとそうした。ようは著者の筆法と考えています〜 」と述べるのであれば、
>根拠として著作である三国志から、既に拾ってないとおかしいでしょ?
>何故、探しだす時間が無い なんて云うのだろう?

「度」と「渡」の違いについて考えましょう ということです。
これは著者の、なにかしらの、意図的なモノがあるのではなかろうか?
そこでわたしは、「ワザトそうした」のではなかろうか?と言ってるんです。
で、「度」とは辞書でしらべると「わたる」以外にも「測る」という意味がありますよね。
そこでこの海峡を測ったのではないだろうか。
と考えてみたんです。 なにかおかしいでしょうか?
439あらため:2010/10/03(日) 14:45:58
【ヤフーの倭人さんの記事】
>中国の【 始度 】を日本語に訳せば【 最初の回 】という意味です。
>また中国語の【 度 】の意味は【 事物所達到的境界 ( 物事がその境界に達すること )】とあります。
>【 始度一海 千餘里至對馬國 】 最初の對馬國まで南へ一海を渡り千餘里

テキストで始度一海を訳せば「最初の回の1の大海」とでてきますよね。
ttp://honyaku.yahoo.co.jp/transtext  ですから【 最初の回 】とするのはわかるんですが
「度」は事物所達到的境界 とし、『倭の境界線』と持って行くのがよくわからない。
なんで「度」で、『倭の境界線』となるんでしょうか?
ヤフーのあの人物にレスつけても返ってきませんので、誰か代わりにこたえて頂戴。
440あらため:2010/10/03(日) 14:57:21
>( 南に渡り ) を加えたのは、次の 至一大國 の記述に【 又南渡 】とあることからです。
>【 又 ( 前回と同様 )】とは【 狗邪韓國から對馬國 】の間も【 南渡一海千餘里 】と理解できます。
>【 始めての對馬國 】と訳したのは【 倭に向かう郡使 】が韓國を通過して、いよいよここから倭の最初の國が始まるという意味です。

又南渡一海千餘里....至一大國
又渡一海 千餘里至末盧國    は、日本語に分かり易く訳すと

前回と同様に(一たびの)海を渡ると千餘里で○○国に至る

で問題ないんですが、

始度一海 千餘里至對馬國 ここの「度」は測るでしょう。
始度一海(はじめに一たびの海を測ると)千餘里で○○国に至る  こう考えます。
441あらため:2010/10/03(日) 15:10:33
倭人在帶方東南大海之中........................
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

倭人は帶方(ソウル付近)の東南(方向)の大いなる海の中に在り、
........................
郡(ソウル付近)より倭に至るには〜〜〜〜その国境の”北岸”狗邪韓國に到着

ですから、始度一海の「度」を国境の境界線とするのは間違えである。

馬韓の「南與倭接」からも言えるでしょうね。
442日本@名無史さん:2010/10/03(日) 15:12:12
>>437
>うーん コテ連中でおれとローガンが比較的マトモと思われてるのかな?

基地外か?お前は最低レベルだろ。・・・重訳納貢 wwww。
443日本@名無史さん:2010/10/03(日) 15:19:21
>>442
過去ログが吹っ飛んで、一番喜んでるのがこいつじゃねえの。
これまでの無知・無能ぶりが さらしに会わなくて済むからな。
あと、総叩きも。
444あらため:2010/10/03(日) 15:21:34
>基地外か?お前は最低レベルだろ。・・・重訳納貢 wwww。

へ?オレの事知ってるの?
「改め」じゃなく「あらため」なのにwwwww
お前ら、誰かと勘違いしてんじゃねえのぉ?wwwwwwwwwww

ていうか、おぬしは〜長レスして”突っ込まれる”人と
それを眺めてて、いちゃもんつける”ダケ”の達の悪い人 
どっちが「大変」で、どっちが「楽」か分からないだろうな。
うんぜんの差だぜww
445日本@名無史さん:2010/10/03(日) 15:32:55
>うんぜんの差だぜww

さあ、これどこでさらせばいいかな? wwww わざとやってるのかと思うくらいの
あほ。むろん、正しくは「雲泥の差」。wwww
446あらため:2010/10/03(日) 15:36:56
あははははは まあ大目に見てよww

訂正しとくね

うんぜん → うん‐でい【雲泥】  うそーw
447日本@名無史さん:2010/10/03(日) 15:42:04
>>446
あなたの通り名は「ドツボ2」に決定しました。おめでとうございます。
448あらため:2010/10/03(日) 15:46:24
もぉー、しらんがな〜〜っ>< ハイハイ勉強、特に国語〜苦手です(汗)。

ていうか、くだらん突っ込みはやめて、
オレが上でレスした事に対する、貴方達の意見をお願いしたい。
邪馬台国に関するレスを〜頼むわ。
449日本@名無史さん:2010/10/03(日) 16:12:21
ことわる
450日本@名無史さん:2010/10/03(日) 16:17:11
漫才スレなのか?
451神奈川県民:2010/10/03(日) 16:36:13
関係ない話は控えて下さい

http://info.2ch.net/guide/faq.html
452日本@名無史さん:2010/10/03(日) 22:25:51
なんだ
今度は自治が始まったぞ  自治自治自治自治
453日本@名無史さん:2010/10/03(日) 22:40:33
>>443
>これまでの無知・無能ぶりが

無知無能だからなんだというんですか。
無知無能だからこそ学問板で学んでいるのではないでしょうか。
無知無能だからこそここに集い、少しでも知恵を得ることを考えているのでは
ありませんか。それを無知無能と嘲り笑うのはいかがなものかと
有能であるならここに集う必要性はなく、もし集う必要性があるとするなら
ただ一つ
無能な奴を見つけての晒し上げ、晒し上げて嘲け笑い優越感を楽しむ。
454日本@名無史さん:2010/10/04(月) 10:11:18

ただいまニュース速報+板にて激論中!!!

【文化】邪馬台国はどこ? ライバルを迎え企画展 吉野ケ里公園
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1286040481/
455日本@名無史さん:2010/10/04(月) 20:02:36

■卑弥呼は東四国出身? 古代忌部氏研究家、香芝で講演 奈良

産経新聞 2010.9.24
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/100924/nar1009240157002-n1.htm

 古代の宮廷祭祀(さいし)を掌握した忌部(いんべ)氏の研究家で徳島県立高校教諭の林博章さん(45)が、大和王権誕生の謎について語る講演会「倭国創生とモモソヒメ」が23日、香芝市の市ふたかみ文化センターであり、
 「大和王権や邪馬台国の基礎を築いたのは阿波を主体とする東四国勢力」
との自説を紹介した。

 林さんは徳島県の吉野川流域を拠点とした後の忌部氏が、全国に農業や養蚕などを伝えた課程を古文献や民間伝承、神話などから明らかにし、『日本の建国と阿波忌部』などの著作を出版している。

 考古学では、同地域の萩原2号墓(2世紀末ごろ、同県鳴門市)が前方後円墳のルーツとして注目されており、「阿波勢力は産業技術を持った海洋民で、王権のシンボルである前方後円墳や竪穴式石室も伝えた」と解説した。

 また、卑弥呼が即位した2世紀末には天候不順が続き、農産物の種や高度な農業技術を掌握していた阿波勢力が力を持ったとした上で、
桜井市の箸墓(はしはか)古墳の被葬者とされ、三輪山の大物主神の妻となるヤマトトトビモモソヒメの伝承が、四国東部に集中する事実を示し、「モモソヒメは東四国出身で、卑弥呼と同一人物」と推定した。


※参考サイト

阿波歴史民族研究会
http://www3.tcn.ne.jp/~aska/
456日本@名無史さん:2010/10/04(月) 23:52:48
あらためはヤフーにおるなあ
457日本@名無史さん:2010/10/05(火) 04:58:42
>>454
できるよ。
以上。
はい、次。
458ローガン:2010/10/05(火) 16:05:00
>>438
>で、「度」とは辞書でしらべると「わたる」以外にも「測る」という意味がありますよね。
> そこでこの海峡を測ったのではないだろうか。と考えてみたんです。 なにかおかしいでしょうか?

ああ〜>>367
>その前に「度と渡の違い」について、ローガンさん、あなたは考えたことスラないんじゃないんですか?ww 
>もちろん、私は調べましたけどね・・・。

「私は調べましたけどね」 とは、辞書には「測る」という意味もある事が書いてある事を見つけたと。そういう意味ですな。
まあ、言葉としては間違いってないけど…普通、それくらいで「調べた」って云う?
459ローガン:2010/10/05(火) 17:49:48
「東明乘之得度」後漢書
「東明乘之得渡」梁書
「度」が「測る」なら、改めさんは後漢書のこの文、なんと訳すんだろう。「 魚とスッポンの並んだ距離を測った」か?(笑)
460日本@名無史さん:2010/10/05(火) 22:18:36

マキムクスレ(その12)から引用。
ここで論じ合うべき問題だと思ったので。


412氏
>ヒミコとモモソは巫女という以外の共通点はない
>想像力豊かすぎ


418氏
>いや、ある。
>ともに造墓の記事が古文献に記載された点。
>笠井新也説の重要なポイントだ。
461日本@名無史さん:2010/10/05(火) 22:30:09
第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫であるが、欠史八代と呼ばれる一人である孝霊天皇の皇女を実在と
みてよいのかどうかという議論がまずあるんじゃないか。
462メ(寝る前):2010/10/05(火) 22:36:29
>>458
まるっきり、辞書も開かずに「誤字だ」と決めつける
貴方よりマシなのではなかろうか?w

>>459
三国志と後漢書の著者は違いますよww
463日本@名無史さん:2010/10/05(火) 22:36:29
次に、記紀の箸中山古墳を倭迹迹日百襲姫の墓とした伝承が、どこに、どのように残っていたのかという点。
464日本@名無史さん:2010/10/05(火) 22:45:14
???
465ローガン:2010/10/05(火) 23:15:57
>>462
>まるっきり、辞書も開かずに「誤字だ」と決めつける
> 貴方よりマシなのではなかろうか?w

あ、図星でしたか…失礼、いい過ぎた。しかし、だからといって卓袱台ひっくり返さなくても(笑)。
それの私がいつ「誤字」だと決めつけましたか?同じ意味だとはいったがね。同じ意味だと誤字のなるの?

> 三国志と後漢書の著者は違いますよww

ほう〜。では三国志にある度と渡、その用例から「著者の筆法」を論証してご覧なさい。
466日本@名無史さん:2010/10/05(火) 23:25:17
>>463
考古学的には箸中山が、先行する纏向の初期古墳に対して隔絶した規模であること。
記紀的には、箸墓のことが初の古墳造営の様子を描いた記事として出てくるわけで、
崇神天皇時代の事跡は比較的正確である可能性があると思う。
記紀編纂時に、これらの基ネタとなった記録というのはどこから得られたのだろうと思って。

467河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/05(火) 23:47:00
>>459
の違い

内容はまったく同じ。  でも、表現方法がぜんぜん違う
だから「渡」と「度」=(ワタル)
こだわらない人にとったらどうでもいい話なんだけどね
468日本@名無史さん:2010/10/05(火) 23:55:04
渡る=ワ・タル  wwww
469日本@名無史さん:2010/10/06(水) 00:01:46
そう。至る=イ・タルだし、語る=カ・タル なんだよ古代の音声言語的には。
「たる」の部分に意味がある。これは「一方から他方に通ずる」という言意なんだよ。
語るは、その通じる対象が音声であり話の意味内容なんだ。
470日本@名無史さん:2010/10/06(水) 00:08:23
ワタリとは定住しない流浪の民のこと。
現在でも瀬戸内海には家舟で暮らすワタリが存在します。
まあ、なんと言っても1万2千年の歴史があるわけですから、
やめろといわれてもやめることはできないのです。
471メ(寝る前):2010/10/06(水) 00:32:17
>>465
>それの私がいつ「誤字」だと決めつけましたか?同じ意味だとはいったがね。
>同じ意味だと誤字のなるの?

なんでも誤字!誤字!といいたがるローガンさん!いけませんよ〜
何も考えずに「誤字」とするのは、あなたの性格でしょうか?

>ほう〜。では三国志にある度と渡、その用例から「著者の筆法」を論証してご覧なさい。

人に頼ってばかりでは進歩しませんよ。
なんでも、
私から教えて貰おうとするんじゃなくって、自力で探そうとはしないのでしょうか?
472日本@名無史さん:2010/10/06(水) 00:40:31
>>469
漢文に日本語の訳を付けているだけで、原文に送り仮名なんてないんだよ。
473日本@名無史さん:2010/10/06(水) 03:14:37
>>471
>>自力で探そうとはしないのでしょうか? 
つ鏡
474日本@名無史さん:2010/10/06(水) 07:48:23
卑弥呼って朝鮮・中国の存在をハッキリ知ってたし力関係や人脈もあったわけだからやっぱり朝鮮人なんですか?
邪馬台国では朝鮮語が喋れると位が高くて権力者に近いでしょうし、在日が既に偉かったんでしょうねえ?

その後も天皇は中国人、朝鮮人とずっと深く交流してたし、やっぱりそっち系の人なんでしょうねえ
関西人の顔を見ても朝鮮人に近いし、朝鮮から朝廷に流入した朝鮮人の子孫が今の関西人なんでしょうねえ
475日本@名無史さん:2010/10/06(水) 08:57:22
だから、「倭」は北方血統系人種には使用出来ない元々制限を持った呼称。

まあ、お前等は倭と言う事にしとけとか俺等は倭人だとかの詐欺行為も起こる
可能性はあるがなw
中国は朝鮮と違って倭系呼称で今の日本を煽って来んだろ。裏に戦略的な意図が
在るのか無いのか知らんがな連中はアフォじゃない。
476日本@名無史さん:2010/10/06(水) 14:25:13
>>474
魏志倭人伝をしっかり読めよ。
そんなこと、どこにも書いてない。
というか、魏志倭人伝を読んだら分るが
おまえみたいな珍説が入り込む余地なんてない。
477日本@名無史さん:2010/10/06(水) 14:31:26
西暦3世紀の時点で、
中国が外交していた異民族の王国では
中国から見たら、倭国と大月氏国は別格の扱いだよ。
それ以外の国々、
たとえば、三韓だとか、高句麗だとか、鮮卑は格下の扱い。

そんな別格的な扱いだったのにもかかわらず、
ヤマト朝廷が、邪馬台国とヤマト朝廷の同一性を嫌がった背景は
西暦8世紀のヤマト朝廷では、自国が中国に朝貢すること自体
よしとしなかった背景がある。
478日本@名無史さん:2010/10/06(水) 14:54:11
せっかく、卑弥呼の墓が箸墓古墳かもしれないんだから
魏志倭人伝の記述と日本書紀の崇神紀の記述を
比較してみろや。
狗奴国の乱=武埴安彦命の乱だと分るよ。
武埴安彦命の所領は、許乃国(コノ国)で
彼の母方の一族は、河内彦の家系だった。
魏略などによると、狗奴国王は、卑弥弓呼とよばれ
その官は、拘右智卑狗(こうちひこ)だそうだしw

もう、決まりだよ。
西暦240年代は、日本書紀の崇神紀の治世10年までの内容が
ほぼ、どんぴしゃ。
479ローガン:2010/10/06(水) 16:36:04
>>471
>何も考えずに「誤字」とするのは、あなたの性格でしょうか?

アホらしいので却下。

> なんでも、私から教えて貰おうとするんじゃなくって、自力で探そうとはしないのでしょうか?

まあ、逃げずに教えて下さいよ。(笑)
主張した側が根拠を示す必要がありますよ。「辞書に測るとあるから」だけでは、改めファンが泣きますよ。
480唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/06(水) 18:45:28
>西暦240年代は、日本書紀の崇神紀の治世10年までの内容がほぼ、どんぴしゃ。

であるならば、崇神5,6年の記事が有っても良さそうだが。
新羅 192,3年の記事と同等
後漢書志第十五 五行三 大寒 では、
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」
養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」

新羅本紀と後漢書には1年の齟齬が有る。
481日本@名無史さん:2010/10/06(水) 19:10:48
曲学さんとかいうのが、いろいろ
自分のサイトで書いているんだけど、
彼は、海部氏系図をうのみにして、解釈している。
そして、漢字の音韻も無視して解釈しているんだが...

よって、自分は曲学さんの説には賛成できない。
しかしながら、なぜ、海部氏系図が
あういう記述になったのかは、非常に興味があるんだよ。
482太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/06(水) 21:29:02
崇神5、6年≠新羅193年

>>478
崇神10年ころは卑弥呼の時代に入っている。モモソちゃんは卑弥呼に非ず。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
崇神17年に始めて船舶が出来る。このことから、千人の飢えで苦しむ農民
の渡海は出来っこなく、半島へ渡海する前に日本海の海岸に着く前にほぼ
全員野垂れ死に。従って上の不等式が成立する。
483日本@名無史さん:2010/10/07(木) 18:52:40
卑弥呼の正体 ・ 山形 明郷著
この本読んだひといませんか
484:2010/10/07(木) 19:23:35
>>479 ローガンさん

どうして貴方はそんなに「誤字」だと決めつけるんですか?
まず、誤字と決めつける前にどうして考えようとしないんです?
そして、根拠を示して下さい、根拠を示して下さい、ってどーして
人から教えて貰おうとばかりするんです?w
485ローガン:2010/10/07(木) 20:13:33
>>484
私がいつ「誤字」だと決めつけましたか?
486唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/07(木) 20:50:49
>千人の飢えで苦しむ農民の渡海は出来っこなく、

この文章で否定出来るのは、千人の部分だけである。
>農民の渡海、新羅本紀は倭人としか特定していない、”農民”の出所は何処ですか?
193年が凶作なら、東アジア全体が冷夏であったと思われる。
この凶作は、台風等の局地的被害では無い。
487ローガン:2010/10/07(木) 20:51:22
>>484
>どーして人から教えて貰おうとばかりするんです?w

では、再掲
>>459:>「東明乘之得度」後漢書
>「東明乘之得渡」梁書
>「度」が「測る」なら、改めさんは後漢書のこの文、なんと訳すんだろう。「 魚とスッポンの並んだ距離を測った」か?(笑)

に対するあなたの返信が
>>462:メ(寝る前) >三国志と後漢書の著者は違いますよww

言うまでもなく、度と渡は同じ意味として使用される例を提示したのが上の2文である。
しかし、それに対するあなたの反論は、それは三国志には援用出来ないものである。ですな?
じゃあ、「三国志に援用出来ない理由は何?その根拠は?」と質問されて当然でしょ?
さあ、逃げてないでしっかりしてね。
又後程。
488改め君ガンバレ!:2010/10/07(木) 21:03:10
ローガンさんの出した問題は、

・海をワタル
・海をワタル

この両者の違いがわからないと、まったく理解出来ないよ。
それが度と渡の違いだ。
489:2010/10/07(木) 21:23:03
よーし 河童くんにタッチだ!

後は宜しく〜!www
490改め君ガンバレ!:2010/10/07(木) 21:39:05
断る。
ヒント提示したんだから、後は努力次第で解決する。
491:2010/10/07(木) 22:38:02
>>487
意味分からん・・・w

梁書の成立は後漢書より後の七世紀になってから。
もちろん、 梁書の著者、姚思廉さんも後漢書は読んだことでしょう。

梁書「東明乘之得渡」の 「渡」はその後漢書「東明乘之得度」の「度」を「渡」と
同じとして扱ったのでしょうね。

で、私が聞いてるのは三国志陳寿さんの「始度一海」の「度」と「又南渡一海」の「渡」の違い。
三国志内の「度」と「渡」の違いを聞いてるんであって、後漢書の「度」と梁書の「渡」の違いを聞いてるんではないんですよ。

ローガンさん〜難しい単語を並べれば良いってもんじゃないですよ。
初心者の目は騙せても、ここを読んでいる皆さんの肥えた目は誤魔化せないでしょうね。
492:2010/10/07(木) 22:41:36
>>485
>私がいつ「誤字」だと決めつけましたか?

ローガンは、す〜ぐ〜「誤字だ!誤字、誤字!!」って言うじゃんw
なぁーんでも、かんでも、誤字にしたがるww
493:2010/10/07(木) 22:47:56
わたしも同じ畿内説ですが、恥ずかしいですww

なぁーんも考えても、調べてもなくて「南」を「東」と・・・・
誤字だ!って決めつけてしまうローガンは、本当に誤字なのか?て調べても
ないじゃないですかw
んで、本をひっぱりだし、専門的な用語を書き込むだけで・・・w
494ローガン:2010/10/07(木) 23:15:29
>>488
> ローガンさんの出した問題は、
> ・海をワタル
> ・海をワタル
> この両者の違いがわからないと、まったく理解出来ないよ。
> それが度と渡の違いだ。

海をワタルと海をワタルの違い… サッパリ解らない。
495改め君ガンバレ!:2010/10/07(木) 23:21:24
ローガンさん。
これは日本語の文です。文字面だけじゃなく、何度も音読してみて下さい。
ローガンさんなら気付きますよ。違いが
496日本@名無史さん:2010/10/07(木) 23:21:40
改メ、泣くな・・・
497日本@名無史さん:2010/10/07(木) 23:29:05
支那語の度と渡の違いが問題なのに、何故日本語の度と渡の違いにこだわっている奴がいるのか?
ひょっとしてこれが工作員なのか?
498日本@名無史さん:2010/10/08(金) 00:29:55
度と渡ねえ。

「魚鱉浮爲橋,東明得度,魚鱉乃解散,追兵不得渡。」(夫余・魏略曰)

「始度以中平六年據遼東,至淵三世,凡五十年而滅。」(公孫度)
499改め君ガンバレ!:2010/10/08(金) 06:30:47
>>497
漢語で違いがわかるんならそれにこした事はない。
ただ、ここにいる多くの人はそれでは理解出来ないから
日本語での違いを提示している

・漢語
渡・度。

・日本語
ワタル・ワタル

はい、どうぞ説明よろしく。
500日本@名無史さん:2010/10/08(金) 07:42:38
度にはサンズイがない。

渡にはサンズイがある。

これが漢語としての違いの一つ。
501日本@名無史さん:2010/10/08(金) 08:09:25
分からんの?
>>381 で正解。
始めてわたるのが「度」、あとは「渡」、そういうこと。
502日本@名無史さん:2010/10/08(金) 08:57:30
>>501
それは始じゃなくて初だろ。
初めて危険な海に挑むんだから。
503日本@名無史さん:2010/10/08(金) 09:52:55
>>483
それ、大分前に書かれた奴だろう?
別に学術書というわけでもない。
まあ、学術書と歴史読み物の境界線って曖昧だがw

それ書かれたころって、纏向遺跡の発掘の進展もなかったころで、
まだ、巷では、吉野ヶ里遺跡が騒がれていたころ。
504改め君ガンバレ!:2010/10/08(金) 11:49:19
こりゃあ

度や渡。以前に、始と初の違いか?

もうこうなると、めちゃくちゃだな
505ローガン:2010/10/08(金) 16:05:48
>>498
> 「魚浮爲橋,東明得度,魚乃解散,追兵不得渡。」(夫余・魏略曰)

度と渡は同じ意味。特に区別する必要無し。

> 「始度以中平六年據遼東,至淵三世,凡五十年而滅。」(公孫度)

この度は名前。
506改め君ガンバレ!:2010/10/08(金) 17:00:04
魚が浮上し橋となり、東明は渡る事ができる。
東明が渡り終えると魚は解散し、橋がなくなり追討兵は河を東明のように渡る事が出来なかった。


簡単に訳すとこんなとこかな?
ま、余計な文言は入っているが、意味は違わないと思うので突っ込みは無し。


渡と度に関して日本語として大意に違いは無いと思うよ
一見意味に関して違いは無いようだが

まず、漢字として
サンズイの有無の違いがあるし、
これは大きな違い。
日本語にしてみると、同じワタルで違いがないように見えるが、表現は沢山ある。同じ表現で扱っていいのかな?
文章って、字面の意味が同じならそれでいいのかな?
507改め君ガンバレ!:2010/10/08(金) 17:16:00
度と渡の関係。

度がサンズイを経るから渡になるんだよ
それが漢字の違い。この違いを利用しているのが
先程の用例文。

渡河は、河を経ているが
度河は、まだ河を経ていない。だから度。
508日本@名無史さん:2010/10/08(金) 17:27:52
>>477
>中国から見たら、倭国と大月氏国は別格の扱いだよ。
奴隷の鎖自慢かよw
朝鮮半島の国々より上の扱いってだけで自尊心満たしてる馬鹿w
中国から見ればただの辺境の蛮族ですよ

>そんな別格的な扱いだったのにもかかわらず、
>そんな別格的な扱いだったのにもかかわらず、
>そんな別格的な扱いだったのにもかかわらず、
>そんな別格的な扱いだったのにもかかわらず、

wwwwwwwwwww
509ローガン:2010/10/08(金) 18:45:22
>>506
> 魚が浮上し橋となり、東明は渡る事ができる。

東明は、渡った(渡れた)が兵は渡れなかった。という文。未然では無いので、「渡る事が出来る」と云う訳は恣意的。恐らく

>>507
>渡河は、河を経ているが 度河は、まだ河を経ていない。だから度。

これに合うように訳したんではないですか?
510日本@名無史さん:2010/10/08(金) 18:51:14
>>508
単純に国家規模が大きいからだろう?
邪馬台国と大月氏国は。
高句麗とか鮮卑とか三韓は、国家規模が
倭国よりも小国だし。
511日本@名無史さん:2010/10/08(金) 19:08:33
西暦57年の倭の奴国からして金印だしな...
512唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/08(金) 19:41:20
>朝鮮半島の国々より上の扱いってだけで自尊心満たしてる馬鹿w

利用する側と利用される側、双方に利益があれば、当然行われる。
魏志の示す時代は、弥生時代と古墳時代を別ける処に位置する。
倭国は利用された代償として、古墳時代に入れた、それが”景初3年銘”の△鏡。
さらに、魏、晋が滅ぶことにより、神功49年半島を手に入れる。
513改め君ガンバレ!:2010/10/08(金) 19:51:12
>>510
どうぞ好きなように評価してください。
514:2010/10/08(金) 19:56:04
で、始度一海と又南渡一海の「度」「渡」の違いは?
515:2010/10/08(金) 20:14:48
>>501
>381 で正解。
>始めてわたるのが「度」、あとは「渡」、そういうこと。

「魏略 逸文」
始度一海千餘里至對馬國
南度海至一支國
又度海千餘里至末廬國

ちがうじゃんwww
516日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:20:07
西暦240年代、三韓が帯方郡に謀反をおこして
魏の軍が、半島南部を鎮圧したんだが
その魏の将軍は、半島南部の海岸線まできいて、
三韓の住民に、海の向こうについて聞いた。
それが、魏における倭国の接点の始まり。

517改め君ガンバレ!:2010/10/08(金) 20:34:00
>>514
サンズイがあるかないか。
度にはサンズイがないが、渡にはサンズイがある。
518日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:37:24
>>515
後漢書の范曄がすべてを「度」にしちゃった。
范曄は細かいことは気にしないタイプ。
後代の倭伝はそれを受け継いだ。
519:2010/10/08(金) 20:37:50
>>517
そんなの誰でも知ってるよw

どういう意味があってそうなってるのかきいてる
520:2010/10/08(金) 20:52:05
>>518
魏略だっていってるだろー!!><

〜ったく こんな奴しかいねーのかwww
521日本@名無史さん:2010/10/08(金) 20:59:51
>>520
「翰苑」に所載の「魏略」は原文改定が施されているのは有名。

張楚金(唐代)が改定したかどうかは不明だが、
引用した「魏略」そのものが後代改定の手が入っていたものらしい。
例えば「狗邪韓國に到る七千餘里」を「七十余里」などと平気で改定している。
522日本@名無史さん:2010/10/08(金) 21:02:08
いずれにしても、今問題にしているのは陳寿の筆法だから、
他の書籍から例を持ってきても無意味。
523日本@名無史さん:2010/10/08(金) 21:08:50
いやいや、メの指摘はそれなりに意味があるよ。
524日本@名無史さん:2010/10/08(金) 21:16:37
魏書の一番古い写本は、西暦12世紀のものだよ。
当然、長い年月の間に原本との間に
誤写があったとみてよい。
有名な「邪馬台国」か「邪馬壱国」みたいなのもそう。
西暦12世紀の写本では「邪馬壱国」となっているが、
それ以外の史書では、西暦12世紀以前に書かれたものは、ほぼ
「邪馬台国」のほうになっているので、邪馬台国のほうが正しいのでは?
と思われる。
525改め君ガンバレ!:2010/10/08(金) 21:22:16
>>519

>どういう意味があってそうなってるのかきいてる

意味を尋ねれば恣意的なものになるよ
だから誰でも理解できる見た目の違いを提示した。

では、あなたはなぜ渡の文字にサンズイが付いているか説明できるかい?
誰でも知っているというんだから
当然説明出来るよね
526唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/08(金) 21:23:47
>>516
>三韓の住民に、海の向こうについて聞いた。それが、魏における倭国の接点の始まり。

任那建国は、新羅本紀209年 伽耶に援軍。 ここになります。
だから、從帶方(郡)至倭、 循海岸水行、歴韓國、從乍南乍東、 到其北岸拘(狗)邪韓國、

其の(倭国)北岸と拘(狗)邪韓國を表記している。
527改め君ガンバレ!:2010/10/08(金) 21:29:34
陳寿の筆法をここで取り上げるなら、こうしたどうでもいいような事から
始めないと
筆法を解読する事はできないし、語れない。
528日本@名無史さん:2010/10/08(金) 21:32:24
梁書でも、「度」「度」と続いているな。
529日本@名無史さん:2010/10/08(金) 22:53:16
もともと倭と新羅は同祖だったのでしょう。
陳寿は、倭国をとんでもない巨大な島というより大陸だとしたかったのでしょう。
それが300里の正体。

しかし、その元となっているのはスンダランド大陸の伝説だった。
邪馬台国の起源は幻の大陸スンダランドにあったのだ。
530日本@名無史さん:2010/10/08(金) 23:18:08
♪スン スン スンダラダッダ
  スラスラ スンスン ス〜ン
531日本@名無史さん:2010/10/09(土) 00:43:24
>>529
魏書東夷伝には、新羅は登場しない。
新羅のあった場所は、辰韓諸国とあり
中国の秦国の末裔たちが多く住んでいるとある。
あと、魏書東夷伝では、倭人、三韓人は、それぞれ別種族で別言語となっている。

なぜ、おまえみたいな珍説が出回ったかというと、
結局、本居宣長が邪馬台国九州説をでっちあげたから。
なんのことない、倭国の首都の邪馬台国とは、ヤマト国の当て字にすぎず
卑弥呼の正体は、孝元天皇の兄妹のモモソ媛命だっただけ。
つまり、あの魏書東夷伝の邪馬台国の記述は
記紀で言う崇神紀のことだっただけ。
532日本@名無史さん:2010/10/09(土) 12:03:41
蜀の劉備玄徳の子孫である劉暁波 (りゅう ぎょうは)氏にノーベル賞が贈られることになりました。
フリーメイソンはノーベル財団を使って中5kるの国家転覆を企てています。
中国を漢人の手から取り戻さないと、世界が滅びかねませんからね。
533日本@名無史さん:2010/10/09(土) 17:54:11
今現在解ってることって言うのは韓国の末裔が日本を作ったってことなんだろうね
あるいは韓国の実力者が日本に色々な指導をして国を発展させた
そしてその子孫達が日本にそのまま住みついた
そして日本という大きな国が生まれた
この辺りまでが大凡共通の事実
534唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/09(土) 19:06:32
>あの魏書東夷伝の邪馬台国の記述は記紀で言う崇神紀のことだっただけ。

そして、崇神紀を魏書東夷伝に併せたところ、他の天皇紀がねつ造であることが判明した。
それにより、崇神紀もねつ造と成る。

>今現在解ってることって言うのは韓国の末裔が日本を作ったってことなんだろうね

現在解ってることは、神功49年に倭国が百済国を造ったことだけ。

535DoW:2010/10/09(土) 19:57:21
太国 太観の一日

日の出とともに起床。古神道の祓詞を唱えながら、棲家としている神社の周囲を巡り、結界を張り直す。
これはむろん唐松山からの呪詛攻撃に備えるためのものである。ところどころに紙製の人形(ヒトガタ)が
落ちているのは、夜半に唐松山が放った式神が結界に打ち落とされたもの。それを見ながら、太国は満足
そうにうなずく。

朝食は山野草を中心として蟇蛙などを加えた健康によいものである。これらの養生によって、太国は百歳
を過ぎた今でも、六十台にしか見えず、また体力に至っては、水の上を歩き、天井裏を逆さになって這い回
るなど常人の域を逸している。これも深く古神道に帰依している賜物である。

朝食後は、愛犬の二匹の土佐犬「香取号、鹿島号」を連れて散歩する。これは隣近所に対する示威行動
をも兼ねている。この地獄の番犬を思わせる二匹の猛犬によって、近所の善良なる人々は深夜、太国の
棲む社から、不思議な青い火が上ったり、この世のものとは思えない絶叫が聞こえてきても、恐ろしくて
何も言えないのである。


536唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/09(土) 20:10:28
太国は、吉野ヶ里で、10日に目撃出来る可能性有り。
537DoW:2010/10/09(土) 20:19:55
この後、午前中はDVDなどを見て過ごすことが多い。意外に思われるかもしれないが、太国の棲む社は、
ハイテク機材に溢れている。これら先端機械であろうとも、器物の霊である「九十九神」が宿っていることを、
十分承知しているからである。主に視聴するものは、「原節子」や「吉永小百合」の主演作品。巨大なディス
プレイに見入って、太国は至福のよだれを流す。

そうこうしているうちに昼時になる。引退老人の一日は時の過ぎるのが早い。太国は昼食は摂らず、手紙を
書き始める。むろん、日本各地に散らばる古神道家宛てのものである。中には国際郵便もあり、マヤの神官
の末裔やアフリカのウイッチ・ドクターの名前が宛名書きに見える。インターネット全盛の時代に、メール便を
用いればよさそうなものであるが、太国は手書きの文字には言霊が宿ることを知っている。内容は、言うまでも
なく、呪術研究に関したやりとりである。


538日本@名無史さん:2010/10/09(土) 20:23:05
1.魏志倭人伝には邪馬【壹】国と書いてあるのに邪馬【台】国と書き換えることで大和(ヤマト)を連想させる(台≠壹=壱)。
2.神功皇后=卑弥呼 と置き換える。
3.倭を大和(ヤマト)と読ませる。

この3つの作業によって、かつて北九州にあり、(中国皇帝の冊封を受けた)列島を代表する王権であった倭国とその前身である邪馬台国の存在を抹消し、神代の時代から大和(ヤマト)王権のみが列島を代表する唯一絶対の王権であったと思わせる記紀の意図を、
解りやすく解説しているこちらのホームページをハッケソ!

隋の煬帝に「日出処天子…」と書いた倭王・阿毎(あめ)多利思北孤(たりしほこ)≠聖徳太子 であることについても書いてあるYO!

http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/prologu0.htm
539DoW:2010/10/09(土) 20:35:45
午後も深くなると、太国は裏山に登る。ここはちょっとした神域になっていて、古代からの禁足地の名残の土地
なのである。渓流を遡っていくと、小滝がある。その滝の裏が洞穴になっていることを知っている土地の古老は
死に絶え、今は太国一人だけの秘密である。

洞穴をしばらくいくと太陽の光は途絶え、太国は短い呪言を唱えて指先に小さな火を作り出す。・・・この程度の
まやかしは、太国ほどの修行を積んだものにとっては造作もない。洞穴はやがて大きな広場に繋がり、そこは
数十階建てのビルが納まるほどの空間である。そこには鍾乳洞の壁面に掘られた巨大な神像がある。両面宿禰
と呼ばれた者を象っている。太国はこの武人像の前に平伏し、ひとしきり呪詛を行う。唐松山の短命を祈っている
のである。
540日本@名無史さん:2010/10/09(土) 20:37:57
また基地外が出てきた
541日本@名無史さん:2010/10/09(土) 20:51:19
満足顔で山から下りた太国は、テレビのスイッチを入れる。ちょうどNHKの相撲中継が中入りを迎えたあたり
である。太国は相撲や将棋などの勝負事が大好きだ。角聖と呼ばれた双葉山にも会ったことがある。太国は
手に汗を握り、晩酌のサソリ酒(アリゾナの友人からの頂き物である)を傾けながら勝負に一喜一憂する。

さて夜の帳が落ちた。夜ともなれば星屑またたき、フングルイ・ウグルムナフー・クトゥルフ。ル・リエー・ウガ・
ナグル・フタグン!!・・・失礼、錯乱した。・・・太国は四つん這いとなって社の裏口からにじり出てくる。その姿
はすでに獣人に変化している。これからが本当の生きとし生けることの歓喜を享受する時間である。その太国
であったものは、一声大きく雄叫びを上げると闇に紛れて走り去ってゆく。獣の時間が訪れたのである。
542唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/09(土) 20:58:21
>唐松山の短命を祈っているのである。

太国よ、吉野ヶ里で卑弥呼と成って 祈れ〜。
ただ、天が聞き入れるかは、天のみぞ知る。
543太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/09(土) 21:38:39
明日は、九州はどうやら晴れるようだな?
544太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/09(土) 21:47:38
梵殊山で過去に釈迦の怪光を拝んだことはあるが・・・。

朝青龍関とこの前偶然にお会いしたが、えらく物腰が低い方で、好感度は
満点だったな。いい方だ。

吉野ヶ里に、卑弥呼の真に近い容姿の絵姿でも持参するかな・・・?
545日本@名無史さん:2010/10/09(土) 23:18:21
吉野ヶ里オフの詳細をうp希望。
546日本@名無史さん:2010/10/10(日) 18:04:27
あ、ゴーリキ ショウライ!
547メ(UP):2010/10/10(日) 23:31:09
ふんがーふんがーふんが!!
548メ(UP):2010/10/10(日) 23:33:23
過去スレ〜ここからみれるよ
http://desktop2ch.net/history/1285333636/

んで、「度」「渡」はどう決着したのかな?
ちなみに今ねカフェなので〜みな降りて来い
549漢字の達人:2010/10/10(日) 23:59:53
始度一海千餘里至對馬國。・・・・又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國・・・
上記文章に老いて度と渡は同じ意味で使われている。強いて違いを挙げれば、度は「過ぎる pass」で渡は
「横切る cross、船で渡る ferry」というところか。
550弘法も筆の誤り:2010/10/11(月) 00:02:23
誤:上記文章に老いて
正:上記文章に於いて
551日本@名無史さん:2010/10/11(月) 00:03:25
ドツボ…書き込み規制がある度にネットカフェに逝ってんのか…

その根性だけは認めるわwww
552メ(UP):2010/10/11(月) 00:05:12
>>551
ちゃうわぃ
いま、出先なのよ
出張先というか、自宅から離れてるから、自宅のPCからできないのよ
んで時間空いたので根カフェで書き込んでやろうかと・・・ありがたくおもえよww
553メ(UP):2010/10/11(月) 00:08:39
漢字博士(河童君)降りておいで
つーかはかせもどきかw
554日本@名無史さん:2010/10/11(月) 00:13:44
あ、チョーリキ ショウライ!!
555メ(UP):2010/10/11(月) 00:16:10
>>551
なむじは誰ぞよ?(`ι _´)

>>549
んで、おたくさんは始度一海の「度」、又南渡一海の「渡」は
まるっきり同じと考えてらっしゃるのか?
556イナズマン:2010/10/11(月) 00:28:50
始度一海の「度」は、その距離を推し量りつつわたる という意。ここで、時間と距離の対応関係を算出する。
つまり、3km=1時間といった具合に。又南渡一海の「渡」は単にわたるという意で、時間しか計っていない。
557メ(UP):2010/10/11(月) 00:32:38
>>556
ん、もっとわかりやすくせつめいよろ
558河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/11(月) 00:36:48
度にはサンズイがなくて、渡にはサンズイがある

これだけ違いがあれば文句ないだろう。
それでも違いが無いというやつは、すぐさま眼科に急行
559イナズマン:2010/10/11(月) 00:36:53
>>557
「度」は測りつつわたる、という意です。船上の場合はひもを流して単位時間当たり
どれだけの距離を進んだかを算出する。
「渡」は、そのようなことをせず航海の時間のみを記録するということです。
560メ(UP):2010/10/11(月) 00:38:35
>>559
同意、同意
ローガンに、なんども、なんども、それいってるんだけど〜信じてくれないのよ
教えてやって〜!
561日本@名無史さん:2010/10/11(月) 00:40:15
魏志倭人伝は魏志と呉志からの寄せ集め。
度と渡の違いは呉と魏の方言の違いに由来してるんだろうな。
562メ(UP):2010/10/11(月) 00:44:53
「度」←これ測る

「渡」←これ渡る

イナズマン〜やっと同士が現れたな

>>558
なにがサンズイだ!w 恥ずかしいww
563改め君ガンバレ。:2010/10/11(月) 00:53:52
恥ずかしいという感想なら、これ以上は差し控えよう。
好きにやってくれ。
564メ(UP):2010/10/11(月) 00:55:49
>>563
おっと〜また逃げるのかぃ?w
すーーーーーーーーーーぐ逃げるww
持説に自信あるなら〜ホンハンでコイw
565メ(UP):2010/10/11(月) 01:05:23
>>563
おめーさんの師匠ぁ

>「渡」と「度」 ←見た(⌒ε⌒)
>腹っ痛ェーーーっ!!!(>ε<)

とか、いうてるわりには、一言も自分の考えを言えないじゃないか。
「至」「到」に話〜すり替えて、話ごまかしてるしwww
男なら・・・・・・・・・だまって、フンドシだぜwwww
566改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 01:06:48
他人が恥ずかしいと表現したんだよ
それを敢えて晒せって
どんだけ悪趣味なんだよ。
私は主観や恣意的な表現を一切省いて、その違いを提示したんだ。
君らのやってる
測るや渡るを選択した根拠はいったいなんなんだね?ただの思い込みの展覧会か?
567改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 01:11:40
しかも
この度と渡は、日本語じゃなくて漢語だよ
その漢語を、日本語の渡るや測るって
まったくトンチンカンな違いの説明だな
568メ(UP):2010/10/11(月) 01:14:41
バカ ローガンは、
度=渡 「始めて一海を渡る對海國まで千餘里」でいいやん。>>287
だもんね。

河童君は、
度にはサンズイがなくて、渡にはサンズイがある >>558

で?w

んで、おれの持説、「度」←これ測る 「渡」←これ渡る >>562

ローガン、河童、あらため 三人の中で誰が支持されてるのかな?
イナズマンは、俺と同じようなの〜いってるよw
569メ(UP):2010/10/11(月) 01:25:47
あいつはぁ、な〜んでも、かんでも、「誤字だ!誤字、誤字でいいやん!いいやん!」って
片付けるからwww

ローガン、河童、あらため あともう一人〜誰だ?
君か?w
>>567
始度一海千餘里至對馬國

ほれ〜日本語文にしてみな。
わかりやすくネ
570メ(DOWN):2010/10/11(月) 01:34:41
んで、本をあさって、考古学の先生が使ってる、むずかシィー単語をレスしてw
「いいやん><、いいやん><」ってwww

>>566
>測るや渡るを選択した根拠はいったいなんなんだね?ただの思い込みの展覧会か?

だから〜そう書いてるじゃん「測る?」って。

もう、寝い>< ねるうう おやすみ〜
zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz フハハハハッ スッキリちたw
571始度一海千餘里至對馬國:2010/10/11(月) 08:53:27
たびのはじまり、単一な海を千餘里対海国に至る。
572改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 09:09:04
「たびのはじまり」とは

船首を南に向ける行為が、三度繰り返される初回。
573改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 10:03:33
>>556イナズマンの理からいわせると、渡と度の違いは「距離の計測」の有無の違いと
いうことになるが、それはありえない。
度と渡の違いは、誰が見てもわかるように
サンズイの有無の違いだ。
サンズイに距離の計測なんて意味が存在しない事は、周知の事実であり、そこに意味が無い以上
イナズマンの理は成立しない。
574日本@名無史さん:2010/10/11(月) 10:20:11
あ、ゴーリキ ショウライ!!
575サナギマン:2010/10/11(月) 10:25:48
>>573
またまたわからんことを言われる。サンズイが作られた当初の字義と、三国志時代の字義では
違っていて当然。あらたな概念が内包されているのですよ。あなたは漢字の字義は時代にかかわら
ず、ずっと変わらないと思っているのかな?
576サナギマン:2010/10/11(月) 10:42:26
サンズイというなら、確かに「度」は「谷をわたる」という場合にも用いられ、「渡」は「河川や海をわたる」
場合に用いられることが多いが、それは必ずしも厳密な区別ではない。「度」の内包する、計測という
概念をこの場合はより重要視しなくてはならない。

例えば和語の「うつくし」は古代では「かわいい」という意で用いられたし、「度」は「得度」「縁なき衆生は
度し難し」という言葉もあるとおり「人を仏の教えに従わせる」という字義もあるが、これは仏教の伝来以降
に加わった概念。

577メ(可愛い):2010/10/11(月) 10:45:21
河童くーん 反論どうぞ

あなたみたいにね、「サンズイ」があるとか、ないとか
みてるほうは(゜〜゜)?なんじゃそれ ってかんじなのよ。
もっと骨のある内容を書き込んで、説明してくれ。
578改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 10:48:32
>>575
字義にどんな新たな概念が加わったか説明願おう。
なぜその必要性があったかも。
579日本@名無史さん:2010/10/11(月) 10:49:25
あ、チヨーリキ ショウライ!!
580イナズマン:2010/10/11(月) 10:56:44
サンズイが加わったことで、字義が限定されるのだよ。漢籍の用例を見れば「度」には前漢代には
すでに、「計測する」「作曲する」「矩として従う」「越える、わたる」などの複数の字義があったことは
間違いない。

これに対しサンズイを付けることで、その字義は限定され「水をわたる」の意しかなくなる。言っている
意味がわかるかな。あえて「度」を用いることで「計測」を強調し、「渡」を用いることで「単なる渡海」を
強調しているのが、陳寿の筆法。
581改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 11:00:08
漢字の字義なんて変わらない。
変わるのは、漢字を取り巻く環境が変わるだけ
つまり、文章内容がその漢字にその文章にあった意味を持たせる過ぎない。ただし漢字一文字は、変化していない。
何時の時代であっても、漢字の根本に変化はないし、変わらない。
582イナズマン:2010/10/11(月) 11:05:20
>>581
またまた根拠のない、用例の一つもあげることのできないレスですか。こちらはきちんと言意学の
基本を押さえて例を示した。漢字で変わらないのは字体のみでしょう。これとて現代中国の簡体が
定着すれば変わったと言えないこともない。

>文章内容がその漢字にその文章にあった意味を持たせる過ぎない。

まったく違うでしょう。その漢字に新たな概念が加わる、あるいは概念が変容する。これを否定する
ことはできませんね。
583改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 11:05:33
陳寿の筆法だって?
度に計測の意味を持たせたら、始の扱いはどうなるんだね?説明がつかなくなるよ。
584イナズマン:2010/10/11(月) 11:11:47
>>583
なぜですか?初めて倭国の地にわたるために、計測を始めるという意味でしょう。むろん
「始」には、これまで沿岸航行だったものが、外洋航海に変わるという意もあります。この
ように二重三重に意味を重ねていくのが、漢文というものであり陳寿の筆法なのですよ。
585メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 11:12:17
>陳寿の筆法

イナズマンさんは、よくわかってるね。
陳寿さんの通称、魏志倭人伝ていうのは、ある独特の筆法を用いて描かれてる。
まるで、絵が浮かび上がってくるかのような〜
当時の時代の、人々の暮らし、生活が、生き生きと描かれとる。
586改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 11:17:09
漢字は見た目だよ。漢字から見た目、視覚に訴える形を取りのぞいたら
まったく文字としての存在意義はなくなる。

それに、うつくしい。が古代かわいい。という意味で
これは日本語であって、聴覚でも知ることのできるものだ、たとえにもならないんしらゃない。
587改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 11:24:08
>>584
倭国に初めて渡るんだったら、始じゃなくて初。

始には初という意味はない。あるのは最初という意味
初めて計測したのかい?
始めて計測したのかい?

いったいどっちなの?
588イナズマン:2010/10/11(月) 11:30:33
>>586
ありえませんね。人は生き代わり、死に代わりしています。まして長い歴史を持つ中国であり
漢字です。その人にとっては生まれた時代の漢字の字義がすべてでしょう。表意文字であって
も字義は時代によって変容するのです。

>>587
レスをきちんと読んでほしい。神経を使って使い分けをしている。むろん計測を「始める」のです。
その理由が「初めての倭国航路だから」という意味です。軍事的な理由でしょうか?むろん原文
には「初めて」の字義はありません。
589改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 11:34:09
漢字に新たな概念が加われるというのは、漢字単独でその存在が
可能になるということですよ。概念は果てしなく限りないもの、その果てしない広がりに制限がなければ
漢字一文字で事は済み、文章などは必要なくなるというもの。
それとも、それではまずいから、その概念にも制限を設け、それ以上概念が広がらないように抑制する決まりでもあるのか?
590メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 11:41:31
ほ〜らぁ 河童君、そろそろ涙目になってきたw

河童君は質問してばかりじゃなく、ちゃんと反論しろよw
591イナズマン:2010/10/11(月) 11:42:05
>>589
もはや何を言っているのかわからない。その漢字にまったく関係のない概念が加わる
わけではない。時代が進み、文明が進むことによって新たな概念が発生し(あるいは
概念の変容があり)、それを表すにふさわしい漢字が選択され、字義が加えられるの
です。

これは日本語の字訓とよく似ています。「下」の字訓は「さがる、おりる、くだる、した、しも、
もと」 これは、倭人が「下」の字義に関連させて字訓をふったもの。これと似たことが中国
の歴史上起きているのですよ。
592イナズマン:2010/10/11(月) 11:43:23
>>591
おっとと、新たな概念に対しては新たな漢字が作られることも多い。念のため。
593改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 11:46:06
>>588
こういう事。
「初」ではなく「始」を使用していのは、そこに「終」が存在するからではありませんか?これは概念でもかまわないが

終わりが存在するから始まりがある。これは物事の道理。
これは、始まりがあるから終わりがあるのではなく、終わりがあるから始まりが存在するもの。
そこが初とは違う。
初は、真っ白な紙の上に点を打つようなもの
そこに時間的な概念は存在しない。

倭人伝に書かれた始も、終わりが設定出来るからこそ始を刻む事が出来る。
594メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 11:49:37
同意同意
>>531さんが正解をいってるじゃん

>結局、本居宣長が邪馬台国九州説をでっちあげたから。
>なんのことない、倭国の首都の邪馬台国とは、ヤマト国の当て字にすぎず
>卑弥呼の正体は、孝元天皇の兄妹のモモソ媛命だっただけ。
>つまり、あの魏書東夷伝の邪馬台国の記述は 記紀で言う崇神紀のことだっただけ。

そういうこっちゃ〜ただそれだけの話。
もう、邪馬台国問題なんて、ホボ決着してるんだよ、ドーユーアンダスタントゥ?ALL
595イナズマン:2010/10/11(月) 11:51:41
>>593
「終始」「始終」という語があるように、そのことは否定しませんが、「終」があるとすれば
それは邪馬台国に行き着いたということではなく、「渡海」の終わりということではないですか?
ただし、倭人伝には「終に」の語は
596イナズマン:2010/10/11(月) 11:52:23
ないですね。スマソ 書き込み失敗。
597改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 12:01:54
概念の広がりをいうなら

「度」文字の概念の広がりは
(まだれ)の概念があり
そこに(廿)の概念が加わる。
そしてさらに(又)の概念が加わり
いまこうして見ることのできる
「度」の文字がある。
そして新に、サンズイの概念を加える事で
「渡」の文字ができあがる。

あとは、周りの文字環境(文章)で字義を発生させ、文の構成でその字義の範囲に制約を加え
漢字の意味に特徴が出てきた。
598メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 12:05:48
通称魏志倭人伝は三世紀のこと劣等のことが記載されてる。
その三世紀を境に、日本列島の出土品も、「鏡」・「玉」から大きな「剣」・「甲冑」へと変わる。
このころの日本列島では、妖術(巫女)の時代から武力の時代へと変貌したといっていいだろう。

中国史も「卑弥呼」やら「よく衆を惑わす」という記載がありますよね。
ここらへんをみても妖術(巫女)時代を思わせる。
そして倭の五王〜がでてくるんだけど、これらはすべて男王。

なんのこっちゃない〜そういうこっちゃな。
ま、巫女時代といっても、現在の「巫女」と照らし合わせてもしょーがない。
沖縄の「ノロ」さんみたいなのだろうね。
599改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 12:10:17
>>595
そう、終の文字を見いだす事は出来なくても
末廬に到着したことを以て、渡海的行為の始めと終わりが成立します。

が、そこに
先程貴方が述べた距離の有無を加えてしまうと、残り二回の時間だけという内容は成立しなくなります。
三度とも測る行為なら成立するものが
最初だけと限定すれば、それは始ではなく初です。
600イナズマン:2010/10/11(月) 12:11:06
>>597
まだわかりませんか? 「渡海」はサンズイを加えたことで、概念を広げたのではなく
意味を限定したのです。「これは単なる外洋航海であって、計測は含まないよ」と。

そもそも、船上において航行距離を測るのは極めて難しい。ゆえに、
「始度」で単位時間あたりに進む距離がわかれば、その後は航行時間だけを気に
していればいい。しかもその計測値は、千余里というたっぷりと誤差が許されるもの。
601メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 12:14:13
前方後円墳はモモソヒメの箸墓を境に超巨大になる。
墓を巨大に造って、力を誇示しようとしたのか。
それまでの墓はというと小規模ですな。
ま、各地方によって埋葬方法や、形状、副葬品〜などの違いはあるが、
巨大な前方後円墳から日本列島、ほぼ全域で同じようになる。
ここらへんから統一へ向け一気に加速したかんはある。
もちろん、奈良を中心に大きさ、形が決められ、地方のものは、そのミニチュア版だよね。
602野次馬改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 12:17:42
>>590

君が一段と情けなさを増す日になりそうだな。

自分の蒔いたネタに参加出来ずに、ただ野次を飛ばすだけ。
イヤ!野次を飛ばすのが精一杯。だからレスの経緯の把握も出来ずに
的外れのズレたレスしか返せない。

レスの内容がわからないなら、黙って指を加えてロムしていなさい。

ガキが無闇やたらと、大人の会話に首を突っ込むもんじゃない。
これは躾の問題。お里が知れるぞ
603イナズマン:2010/10/11(月) 12:27:04
まあ、真面目な話をすれば、漢字は本来一字が一形態素を表すものであるのは間違いない。
ただし説文にある本義だけではなく、引申義というものがあり、これは字形の表す本義を基に
派生してできた意味のこと。

>たとえば「長」の本義は長短の意味で距離的に「ながい」ことを表すが、引申されて長久の意味、
  時間的にながいことも意味するようになる。さらにそれは植物の生長の意味に引申され、さらに
 人間の成長を意味するようになり、長幼の区別を生じ、長老、首長へと引申されていったと考え
 られる。(Wikiより)
604メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 12:36:37
>>602
いや、イナズマンに同意の〜俺が参加してどうするのって話で・・・
それよりも、ぜんぜん話になってないの気づけよ。

ヤフーでも「くだらん○○能書きに〜」とか「もうこれ以上アドバスしない」
とかw
バカ師匠にも、「もといぃ〜、・・・・デスか?」とかエラそーに誘導尋問されて、
君のポジションはドンダケ幕下なんだよ?w
605イナズマン:2010/10/11(月) 12:40:23
>>598
>その三世紀を境に、日本列島の出土品も、「鏡」・「玉」から大きな「剣」・「甲冑」へと変わる。
  このころの日本列島では、妖術(巫女)の時代から武力の時代へと変貌したといっていいだろう。

これはどうでしょう?古墳時代の副葬武器が威信材的なものから、実用的なものに変わるのは、
四世紀も後葉に近いのではありませんか。古墳時代の前期に大きな武力衝突があったとは思え
ませんが。
606メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 12:42:14
ほ〜らぁ、ほらっ 
河童君が形相かえてレスして来るゾww

来るぞ、来るぞ♪ 

んで、怒って→いじけて→す〜ぐ逃げるんだからw
607改め君ガンバレ:2010/10/11(月) 12:44:26
>>603
だからそれは、長という文字に新たな概念が加わったのではなく、      文章が時間の長さを求めたから、本義にその文章の趣旨を加えただけでしょ
その時間の概念は、文章が時間の概念を求めていないかぎり、長は
本義を崩す事はないはずだよ。長という一文字からは、間違いなく時間の概念は発生しないから
608イナズマン:2010/10/11(月) 12:49:44
>>607
そうではありませんて。文章を書きながら、その場で新しい概念を加えたところで読む人はだれも
理解しませんよ。これは、世の中で長い時間をかけて「長」の時に時間の長さを表す概念が加わって
から、たまたまそれが文章に採用されたものが残っているだけですよ。長い時間をかけてそうなって
きたのです。
609改め君ガンバレ!:2010/10/11(月) 12:50:20
イナズマンさん。
なにやら野次馬が興奮してきたようなので、この続きは後日
野次馬が消えた後にということにしませんか?

そろそろ市況板に行きたいという事もあるし。
610メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 12:55:56
うはーっ イナズマンさんから突っ込まれたよw

なんか、こいつは、いろいろ詳しそうだなw
あ、おれは学生時代〜勉強大嫌いだったので、ムズかしい単語は勘弁ね!w

大きな「剣」はたしかにおかしいね。
弥生時代の巫女が祭祀で使ったという大きな平形銅剣とかあるし。
ようは、「鏡」・「玉」などの祭祀道具から「甲冑」とかの「力」の時代へと変貌した
ということを言いたいわけですよ。
古墳時代、前期の戦をいうてるわけではなく、その風俗といいますか、
人々の精神状態の変化のほうですな。
611イナズマン:2010/10/11(月) 13:01:56
私は言意学者であり、考古学は素人なのですが、おそらく広域の大規模な戦闘が行われる
ようになったのはかなり後代ではないかと思っています。

四世紀初頭頃までは、副葬品の鏃は青銅製、碧玉製の有稜系鏃で、これは非実用的な威信財
的性格の強いものです。四世紀中葉以前には、碧玉製有稜系鏃等の飾り矢の衰退とともに、
実用的な細根系の鉄鏃が比重を増してきます。四世紀の後葉には、ほぼ完全に朝鮮半島の鉄鏃
を祖型とする細根系鉄鏃が副葬されるようになります。

記紀の四道将軍やヤマトタケルを見ても、大規模武力衝突の話ではありません。策略による懐柔、
女装してだまし討ちにするなどという部分が、史実を象徴しているのかもしれません。例えば会津
などにできた前期古墳が、ヤマト王権の武力侵攻による結果とは考えにくいでしょう。三角縁や鉄
素材などの分与等によって、ヤマト王権は知略で勢力圏を広げていったように思われます。
612メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 13:04:54
>なにやら野次馬が興奮してきたようなので、この続きは後日
>野次馬が消えた後にということにしませんか?

ほら、す〜ぐ逃げるんだからw

>そろそろ市況板に行きたいという事もあるし。

オメーさん、もう涙目になってるのべ?
ほら、イナズマンさんに言い返せよ、男だろ〜みんな覗いてるよ。
613イナズマン:2010/10/11(月) 13:12:00
>>612
ところで、メさんは宴会の幹事をやったことがありますか?
614日本@名無史さん:2010/10/11(月) 13:14:51
末廬とは舞鶴。
帯方郡からの使者の寄港地はここ以外には考えられません。
岸壁の母で有名になったけれど、満洲開拓団や兵隊はここから出港しているし、
古代から北朝鮮の興南(フンナム)と舞鶴は古代から交流があったことは明らか。
そのくらいのことはわかるだろう?

玄界灘は潮流が激しくて素人には無理なのです。
615メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 13:25:46
>>611
>私は言意学者であり、考古学は素人なのですが、おそらく広域の大規模な戦闘が行われる
>ようになったのはかなり後代ではないかと思っています。

素人ですが・・・この列島に広域の大規模な戦闘が行われたのは、
古墳時代の前期より後の〜四世紀も後葉ではなく、前の弥生時代でしょう。

>四世紀初頭頃までは、副葬品の鏃は青銅製、碧玉製の有稜系鏃で、これは非実用的な威信財
>的性格の強いものです。四世紀中葉以前には、碧玉製有稜系鏃等の飾り矢の衰退とともに、
>実用的な細根系の鉄鏃が比重を増してきます。四世紀の後葉には、ほぼ完全に朝鮮半島の鉄鏃
>を祖型とする細根系鉄鏃が副葬されるようになります。

へえ、よく調べてらっしゃるんですね。
では、甲冑はどうでしょう。
各地に甲冑が現れ始めるのは、三世紀じゃないですよね。
四世紀はじめから、ちらほら、四世紀後半からの古墳から本格的出土されます。
この甲冑が四世紀以前の古墳から出土されないということは、
なんなんです?「力」ではなく祭祀時代だったからでしょう。
玉・鏡は、もちろん古墳時代にはいってからも使われたでしょうが、
この埋葬方法は、四世紀以前の弥生時代という印象がある。

>記紀の四道将軍やヤマトタケルを見ても、大規模武力衝突の話ではありません。策略による懐柔、
>女装してだまし討ちにするなどという部分が、史実を象徴しているのかもしれません。例えば会津
>などにできた前期古墳が、ヤマト王権の武力侵攻による結果とは考えにくいでしょう。三角縁や鉄
>素材などの分与等によって、ヤマト王権は知略で勢力圏を広げていったように思われます。

ああ、日本書紀ですね。
わたしがいう”力”とは武力だけじゃありませんよ。
力を誇示するというか、どちらかというとこっちのほうですね。
616イナズマン:2010/10/11(月) 13:32:57
>前の弥生時代でしょう。

弥生時代の大規模、といいますか遠隔地との戦争というのは考えられません。これは
おそらく「倭国大乱」のことを言っているのだと思いますが、後代の戦国時代のような、
一勢力が各地を転戦してなどということは不可能な時代であり、社会の発達段階だった
のです。

弥生時代開始期には、半島の動乱によって多数の渡来人が北部九州に流入し、南九州
や山陰にも進出します。これらの人が戦争の概念を倭の地にもたらしたと考えてもよさそう
です。おそらく人口増加による水利や耕地の争いから、近隣同士の戦争が勃発し、それが
玉突き状に本州まで広がっていったのでしょう。ただし、弥生時代の戦争は遠距離間のもの
はなかったと考えてよさそうです。戦傷人骨に残る鏃などの石器片などは、ほぼその近辺で
産出されたものであることがわかっています。

遠距離間の戦争がなかっただろうというのは、主に当時の集落規模からの推定です。まず
弥生時代に専業の兵士がいたのかどうか、遠征中、集落の水稲耕作が成り立ったのかど
うか、輜重(兵糧などの輸送)が、この馬も車輪も大船もない時代にできたのかどうかという
ようなことです。中国では早くから大きな国が成立し、少なくとも春秋戦国時代にはこれらの
ことができていたでしょうが、これに対し倭国は下手をすれば1000年規模で社会段階の発
達が遅れています。

617メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 13:44:19
ん、三世紀後半を境に〜前方後円墳が奈良を中心に巨大化するよね〜古墳時代の始まりです。
それから、その前方後円墳の副葬品の甲冑が四世紀前半から出土される。
”力の誇示”という印象がある。

それ以前はというと、広範囲にわたって大規模な戦闘が行われた、弥生時代。
この時代は、すさまじい戦闘が日本列島各地で行われてる。
そしてこの弥生時代というのは「玉」「鏡」などの祭祀の時代。

祭祀というのは、男性・女性とわずやってたんだけど、その中心となるのが女巫女の辞。
日本列島の人々の精神状態に変化があったのは、この三世紀と思ってる。
イナズマンさんは〜違うのかい?
618イナズマン:2010/10/11(月) 13:48:53
鉄製単甲の着用は四世紀初頭頃からでしょうか。これもしかしまだまだ首長層の威信財
の段階ではなかったかと推測します。古墳時代における「力の誇示」というなら、それは
あったでしょう。実際の武力制圧とは別の話ですが。
むろん弥生時代にも「すさまじい衝突」はありましたが、あくまでも近隣集落同士の争い
ですね。

あとは、さきほど宴会の幹事の話をしましたが、会の席次などは会社組織ならそうは難し
くはないでしょうが、結婚式などでは悩む場面もあるかもしれません。
私は、卑弥呼の役割は畿内「ゆるやかな連合」説における、各地首長の格付けを調整す
る機能があったのではないかと考えています。

前方後円墳の企画設計の分与があったとはいえ、各集落は宗教的に統一された状態では
なく、地元特有の習俗を残したままでした。そこで、「ゆるやかな連合」に属する首長が一同
に会し共食儀礼などを行う際、その序列を決定するなどの役割を負わされていたのではない
かと推測しています。
619ローガン:2010/10/11(月) 13:49:31
>>560まだ、やってるのかね。
>ローガンに、なんども、なんども、それいってるんだけど〜信じてくれないのよ

「なんども、なんども」って、君から559氏と同じ主張など、一度も聞いてないが。
私が先日、いくつか度と渡は同じ意味である事がわかる例を提示した。
しかし、君はそれが三国志では無いので駄目だと駄々をこねた。 そこで、何故三国志だけは特別なのか?と意味の質問を君にしたが、一向に返事が無い。
つまらん中傷レスを書く暇があるなら、簡単な質問くらい、答えたらどうかね?
620イナズマン:2010/10/11(月) 13:58:50
>>619
これはローガン翁、お初にお目にかかります。さすが「おきな」と呼ばれるだけあって、
老成したレスをなされる方ですな。

>>617
「ヒメーヒコ体制」といった言葉があって、世俗を司る男王と祭祀を司る巫女王の共同
体制というのはよく言われることです。三角縁神獣鏡に見られる西王母、東王父のモチ
ーフも、あるいはこのことを表しているのではないかと考えることもできそうです。
沖縄の「ノロ」というのは、まあ好例かもしれませんね。
621メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 14:01:36
前方後円墳がぁ〜いきなし巨大になるべ?
なぁ〜んで、三世紀後半を境に一気に「大きさ」が加速するんでしょう?
それまでは、”力の誇示”はいらんですよ〜ってことだったのでしょう。
ようは、これを境に、力の時代が来る。
みなさんも「権威」と「権力」という言葉は知ってるだろう。
権威というのは、下から上へ↑、権力というのは、上から下へ押さえつける。
三世紀で劇的にかわったんだろう。
622イナズマン:2010/10/11(月) 14:09:06
>>621
力の誇示は必要です。ただし、前方後円墳の巨大化が外部勢力に対してかとなると微妙な
部分もあります。むろん「ゆるやかな連合」の中心地である畿内が、他集落を圧した巨大古墳
を持っている必要があるのは間違いないことでしょうし、その何分の一企画のものを地方集落
に分与していくことは首長の格付けを行う上で重要でしょう。しかし、それだけではない。

前方後円墳の発生は、環濠集落の廃棄、分散居住化、豪族居館における専門化された祭祀、
さらに遡っての銅鐸祭祀の終焉、これら一連の流れの中で考えなくてはならないでしょうね。
623メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 14:18:48
>>618
>鉄製単甲の着用は四世紀初頭頃からでしょうか。これもしかしまだまだ首長層の威信財
>の段階ではなかったかと推測します。古墳時代における「力の誇示」というなら、それは
>あったでしょう。実際の武力制圧とは別の話ですが。
>むろん弥生時代にも「すさまじい衝突」はありましたが、あくまでも近隣集落同士の争い
>ですね。

各地で起こったのでしょうね、
誰も「遠距離間の戦争」なんて言っとらんしww

>あとは、さきほど宴会の幹事の話をしましたが、会の席次などは会社組織ならそうは難し
>くはないでしょうが、結婚式などでは悩む場面もあるかもしれません。
>私は、卑弥呼の役割は畿内「ゆるやかな連合」説における、各地首長の格付けを調整す
>る機能があったのではないかと考えています。

卑弥呼さんがゆるやかな連合の調整役?
アホいいなさんな〜卑弥呼サンはカリスマですよ。

>前方後円墳の企画設計の分与があったとはいえ、各集落は宗教的に統一された状態では
>なく、地元特有の習俗を残したままでした。そこで、「ゆるやかな連合」に属する首長が一同
>に会し共食儀礼などを行う際、その序列を決定するなどの役割を負わされていたのではない
>かと推測しています。

地元特有の〜はそうでしょうね、ただ、前方後円墳に関しましては、
かなり細かく、強制的にといいますか、この「設計図でヤレ」というのがあったときいてます。
624メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 14:22:47
>>619
おや、ローガンさん!

>君はそれが三国志では無いので駄目だと駄々をこねた。
> そこで、何故三国志だけは特別なのか?と意味の質問を君にしたが、一向に返事が無い。
>つまらん中傷レスを書く暇があるなら、簡単な質問くらい、答えたらどうかね?

ん?三国志だけは特別〜ってw
あのね、三国志すべては読んでませんが、倭人の条、いわゆる魏志倭人伝は、
かなり細かく、一字、一字、計算されて記載されてる。
「度」と「渡」の違いについては〜これも陳寿さんの使い分け。
そんなことにも気づいてらっしゃらないんですか?
だから三国志だけ特別なんですよ。
著者が違えはダメなのは〜当たり前でしょwww
625日本@名無史さん:2010/10/11(月) 14:25:44
>>621
>みなさんも「権威」と「権力」という言葉は知ってるだろう。
権威というのは、下から上へ↑、権力というのは、上から下へ押さえつける。


そのような言葉を知っている者はいないだろう。
権力も権威も下への力で、↑などという意味はないはず。その下への力というものが、目に見える形で作用する力が権力であって
下への力が内面的な心に作用するものを権威といった意味になるはず。
626イナズマン:2010/10/11(月) 14:27:30
>>623
>アホいいなさんな〜卑弥呼サンはカリスマですよ。

それはそう言えるでしょう。世俗にかかわりを持たない、>王と為りしより以来、見る有る者少なく 
の状態だったからこそ、世俗の男首長たちはその言葉に従ったのかもしれませんね。
627日本@名無史さん:2010/10/11(月) 14:32:19
>>624
どこが細かく、何が特別で、何が違うのか。
何も具体的な説明がないのは相変わらずチンプな脳www
628縦目仮面:2010/10/11(月) 14:34:50
だれも俺だと気付かないんだろうか?w
629日本@名無史さん:2010/10/11(月) 14:36:49
「ゆるやかな連合」だとか「共食儀礼」だとか・・・誰か見ていた者がいるのか?アホラシ。
630メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 14:38:36
>>620
>「ヒメーヒコ体制」といった言葉があって、世俗を司る男王と祭祀を司る巫女王の共同
>体制というのはよく言われることです。三角縁神獣鏡に見られる西王母、東王父のモチ
>ーフも、あるいはこのことを表しているのではないかと考えることもできそうです。
>沖縄の「ノロ」というのは、まあ好例かもしれませんね。

男巫女のことを一般では「カンナギ」といいますよね。
女巫女は、そのまま「巫女」と・・・。

で、「ヒメーヒコ体制」ですが、
重要な「事」を起す時、人々は、神に託すというか
神様のお告げ〜〜ようは、「神託」すね。
この神託は男巫女ではなく、女性である巫女が専門に行っていた。
この「辞」を伝えるのが巫女、男巫女はそれを補佐する。
これが、ヒメーヒコ体制です。

三世紀を過ぎ〜四世紀もこれをやっとたらしいですが、
巨大な前方後円墳をみるかぎりでは、巫女による「辞」よりも〜
”力の誇示”のほうが優先されたのじゃないだろうか。

三角縁神獣鏡がどうヒメーヒコ体制に関係してるのかは〜知りませんけどwww
631日本@名無史さん:2010/10/11(月) 14:40:33
過去の異物が消えればそこは楽園。人は楽園に一歩踏み込んでしまえば
過去におけるイレギュラーな歪みはやがて忘れ消え去る。
632メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 14:42:29
なんだ、縦メくんか〜 河童くん〜タッチだ!後は任せた。

おれねぇ、違うサイトから来たやつとばかり思ってて、
んで、河童が馬鹿にされてたので、2CH代表して頑張ってたんだけどなwww
633メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 14:48:11
>>625も縦メくんかな?

>そのような言葉を知っている者はいないだろう。
>権力も権威も下への力で、↑などという意味はないはず。その下への力というものが、目に見える形で作用する力が権力であって
>下への力が内面的な心に作用するものを権威といった意味になるはず。

馬鹿だな〜「権威」というのはだな。
下の人間、いわば、民衆側から指導者側へ発生する「力」の事をいう。

もう一点の「権力」というのは、
上の人間、ようは、指導者側から民衆側へと発生する「力」の事をいう。
ドーユーアンダァスタントゥ? これぐらい〜覚えとけ〜!
634縦目仮面:2010/10/11(月) 14:50:15
言意の部分は冗談です。マジに取らないで下さい。一度河童さんのようなことを
やってみたかった。w
635縦目仮面:2010/10/11(月) 14:53:59
>>633
違います。が、・・・「権威」というのは「他と比べて抜きん出ている」という意味ではないですか。
636日本@名無史さん:2010/10/11(月) 14:54:52
まあこの芸風は縦目しかないわけだが…

>これはローガン翁、お初にお目にかかります。

…なんて、なんと白々しい事かw

しかしイナズマンって石森章太郎のアレだろう?
20代の奴が知っているのか?やっぱ年齢詐称でわ・・・
637メ 可愛い(〃0〃):2010/10/11(月) 14:56:55
サテ、温泉でもいってこよ。

636は、あれだね・・・っていうやつwww

では、さらば
638ローガン:2010/10/11(月) 15:01:55
>>624
>あのね、三国志すべては読んでませんが、倭人の条、いわゆる魏志倭人伝は、 かなり細かく、一字、一字、計算されて記載されてる。

倭人伝しか読んでないのか…他を読んでないのに、なんで比較出来るのか?

> 「度」と「渡」の違いについては〜これも陳寿さんの使い分け。

だから、それを主張するためには、普通、用例を出すんだけどねえ。読んでないなら無理やなあ。

> そんなことにも気づいてらっしゃらないんですか?

気付いた。「魏志倭人伝だけを読んだところ、度と渡が出てくる。書き分けてある以上、別々の意味があるように思う。
倭人伝しか読んでないので根拠はないが、これは陳寿の筆法だ。陳寿は偉いんだ!」
という君のなんの根拠もない空想を。

> だから三国志だけ特別なんですよ。

倭人伝だけじゃないの?「特別」なのは(笑)。他は読んでないんでしょ?
639縦目仮面:2010/10/11(月) 15:06:57
>>638
> 「度」と「渡」の違いについては〜これも陳寿さんの使い分け。

これもねえ、テキストが信頼できるなら言えなくもないんでしょうが。(嘆)
640ローガン:2010/10/11(月) 15:16:44
>>639
あはは。彼は、実際に陳寿が書いたものを、我々が目にしていると思っているようですね。
641日本@名無史さん:2010/10/11(月) 15:28:27
>>640
陳寿が書いたものと思っても、それはそれでいいと思います。
陳寿が書いたオリジナルが存在していない以上。それはそれで良しなければ。
642日本@名無史さん:2010/10/11(月) 15:42:04
陳寿が書いたのではなくて監修したのです。
三国史の主要部分には力を入れていたし、自ら執筆した部分も多かったろうと思われます。
しかし、東夷伝倭人の項は別冊付録の末端の方なので、まあ、どうでもよかったのです。
陳寿自身、手抜きを悔やんで草葉の陰で臍を噛んでいるだろうけれど、すべて後の祭り。
その結果、珍寿なんてからかわれて、さぞ口惜しいことでしょう。しかし、そこまで気を配るのは、
そもそも彼程度の能力では不可能だったのです。
643河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/11(月) 15:43:14
>>633
このくらいの意味ならyahoo辞書で十分だろう。

権力=他人を強制し服従させる力。特に国家や政府などがもつ、国民に対する強制力

権威=他の者を服従させる威力

どちらも上から下に対する力。ととらえてもいいでしょう

で、区別すれば
権力=外面的
権威=内面的
644河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/11(月) 15:46:54
>>634
はっきりとは断言できなかったけど、
「言意学」という言葉を使ったところで薄々は気付いていました。

言意と言っている割には、一向に言意を使っていなかったし
645ローガン:2010/10/11(月) 15:57:35
>>641
> 陳寿が書いたものと思っても、それはそれでいいと思います。

そりゃ、誰が、どう考えようと自由ですが。しかし、オリジナルではないと云うのが事実。

> 陳寿が書いたオリジナルが存在していない以上。それはそれで良しなければ。

だから、校書というのが大切なのでしょう。
646河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/11(月) 16:04:05
横から失礼します。

>そりゃ、誰が、どう考えようと自由ですが

自由を与えるのであれば、それはそれでいいと思いますが。

647ローガン:2010/10/11(月) 16:19:07
>>646
>それはそれでいいと思いますが。

あなたがそう考えるのも勿論、自由です。
648日本@名無史さん:2010/10/11(月) 17:05:34
>>636
縦目は贋学生だろう。本物の学生だったらこんなところに入り浸りで居れるか?
649縦目仮面:2010/10/11(月) 17:57:33
>>648
失礼な。ww 今年は卒論しか取る単位ないから。ま、俺のウオッチャーなどいないだろうが、調べれば休日か
夜しか書いてないことがわかるよ。しかも来年度からは就職するんで(中東に行くw)おそらくカキコはでけません。

この間、「バベル2世」を知らなかったんでyoutubeで昔の子供番組を調べて「イナズマン」が一番気に入ったので、
マイ・キャラに。



650日本@名無史さん:2010/10/11(月) 18:04:53
誰でも、年令詐称・性別詐称ができるのが2chのイイところ。
651縦目仮面:2010/10/11(月) 18:36:42
俺は武道板で、オフ会(今は禁止)に出てたんで、会ったことある人もたくさんいるんだけどなあ・・・。
652河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/11(月) 18:44:37
バビル二世かぁ、懐かしいなぁ
リアルで見ていたよ。
653ローガン:2010/10/11(月) 19:00:49
昨日よそで書いたものを貼っておこう。ネタにでもなれば…

漢書「樂浪海中有倭人」 楽浪の海中に倭人がいる。
三国志「倭人在帶方東南大海之中」(魏略は倭在) 倭人とは帯方東南の大海の中にいる。
ニュアンスの違いがあるでしょ? 三国志、魏略では倭人の所在を列島に限定してます。が、漢書はそうではない。
つまり、「以歳時來獻見」したのが海中にいる倭人だとは言っているが、楽浪海中にいる人達のみを倭人だと限定している訳ではないのです。
半島にいた一部の人々も中華から、倭と呼ばれた可能性は高いでしょう。
魏書東夷伝序文にあるように、魏代、中華はようやく東夷を知る事となる。 時代下って、後漢書が書かれた頃は、当然 先行史書である三国志で定義付けされた「倭人とは帯方東南の大海の中にいる」という認識下なので、「倭国王帥升等云々」の記録が倭伝に記載されたのでしょう。
このように中華の東夷観の変化から「倭国王帥升等」を考えてみると、 国内に於いて金印奴国と邪馬台国の間を埋めるもの…というような決めつけは 出来ないでしょう。
654日本@名無史さん:2010/10/11(月) 19:10:39
他で書いたネタならもういいよ
655日本@名無史さん:2010/10/11(月) 19:45:45
>三国志、魏略では倭人の所在を列島に限定してます。が、漢書はそうではない。
とは言えないな。どちらも同じだ。
656あらため:2010/10/11(月) 20:43:39
>>635
>違います。が、・・・「権威」というのは「他と比べて抜きん出ている」という意味ではないですか。

貴方が言ってるのは、「秀逸」じゃない?

>>638
>倭人伝しか読んでないのか…他を読んでないのに、なんで比較出来るのか?

質問多いね、まあいいか〜ていうか三国志すべて〜調べるだけの暇ない。
ていうか〜この前「そちらでお願いします」言ったばかりでしょ、もう忘れたんですか?

>> 「度」と「渡」の違いについては〜これも陳寿さんの使い分け。
>だから、それを主張するためには、普通、用例を出すんだけどねえ。読んでないなら無理やなあ。

そりゃ〜貴方が魏志倭人伝をよく理解してないから出るコメントで、
以前も「ちゃんとよく読んで下さい」ていったはずです。
貴方だけがチンプンカンな発言をしてるって事に早く気付こうよ。

>>そんなことにも気づいてらっしゃらないんですか?
>気付いた。「魏志倭人伝だけを読んだところ、度と渡が出てくる。書き分けてある以上、別々の意味があるように思う。
>倭人伝しか読んでないので根拠はないが、これは陳寿の筆法だ。陳寿は偉いんだ!」
>という君のなんの根拠もない空想を。

ほらほら、ローガンさんのチンプンカン発言〜でたよー!倭人伝ヨメ!W

>> だから三国志だけ特別なんですよ。
>倭人伝だけじゃないの?「特別」なのは(笑)。他は読んでないんでしょ?

話がかみ合わないな〜W 誰かヘルプしてくれW
657唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/11(月) 20:47:03
從帶方(郡)至倭、 循海岸水行、歴韓國、從乍南乍東、 到其北岸拘(狗)邪韓國、
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之 自女王國以北特置一大率檢察諸國 
(諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

帯方から倭に至には、海岸沿いに水行(船で行く)、韓国を歴て、南、東と従い行く
その(倭国)北岸伽耶韓国に到着。租賦(調、税)を収める邸閣有り、国々に市ありて
有無を交易す、
大倭は自ら北の女王国に一大率を特に使い置き、(諸国を)検察する、
常に伊都国に於いて国中を刺史の如く治める、(諸国は)之を畏れ憚る。

「到其北岸拘(狗)邪韓國」から「収租賦有邸閣」の間に移動が無い。
だから、拘(狗)邪韓國は倭国の一部となる。
任那建国は崇神時代である。
大倭とは、日本統一後のヤマトである、統一は景行時代である。

各自が自分の主張で読む必要がある。
モモソ姫以前に、任那も日本統一も無い。

658あらため:2010/10/11(月) 21:05:49
>>639
>これもねえ、テキストが信頼できるなら言えなくもないんでしょうが。(嘆)

二人とも、よく読めって
http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/gi-toui.html#wajin

>>643
>どちらも上から下に対する力。ととらえてもいいでしょう
>で、区別すれば  権力=外面的  権威=内面的

ああ、民衆側から指導者側へ発生する「力」といったらマズかったね。

正しくは、民衆側から尊敬されて、指導者側から発生する「力」かな。↑↓
そうそう〜こう言いたかったの〜おれの>>633少し訂正しといてネ
659あらため:2010/10/11(月) 22:09:05
653 、ローガンが指摘してる”倭人”に関しては、おれも誰かの本で読んだ事ある(たぶん同じ本読んでるんだぜ〜W)。
もしかすると細かい、なんらかの違いはあるのかもしれないが、どちらも我々が住む
この日本列島を指してるのは間違いなさそうです。

で、倭国王帥升等というのは、倭=和
和というのはヤマト(ここは各自辞書で調べてね)、ようは奈良に居る王。

金印奴国というのは、後漢書の「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
この倭奴國が金印を授かってるんですが、これは本州の奈良ではなく、九州の一国(現在の福岡)。

今現在、首都は東京ですが、当時の首都は奈良ですね。
で、九州の都に相当するところは、今も福岡〜古代もこの福岡で変わってないという事。
たとえば、奈良時代には大宰府というモノを中央は置いてますよね。
大宰府というのは、九州の“都”と言われてきました。
そういったモノが奴國 にあったことが想像できますね。
そして、倭奴國ですが、これは倭の奴の國と読み、中央の奈良に対してソノ支配下にあったという事。
660日本@名無史さん:2010/10/11(月) 22:14:05
>>657
唐松もとうとう幻視症候を示すようになったか。
「拘邪韓國」から「收租賦」までの間にある数百字に上る文章を飛ばしてくっつけるとはどういう料簡だ?
661日本@名無史さん:2010/10/11(月) 22:21:28
>>659
>で、倭国王帥升等というのは、倭=和
>和というのはヤマト(ここは各自辞書で調べてね)、ようは奈良に居る王。

2世紀初の奈良盆地は湖沼湿地帯であるから倭国王など存在できない。帥升の本拠地は筑紫平野だ。
662あらため:2010/10/11(月) 22:22:55
>>657
>大倭とは、日本統一後のヤマトである、統一は景行時代である。
>各自が自分の主張で読む必要がある。 モモソ姫以前に、任那も日本統一も無い。

倭というのは、ヤマトのことでしょう。
これは同意なんですが、倭人伝に記述されてる「大倭」は
「おおいなる倭」と読むのが正しい。
ですから〜大倭=ヤマトとする考えには同調できない。

そして、日本統一に関してですが、これは奈良で起こるヤマト政権が、長い年月をかけて行った事であり、
いまの北海道を除く、ほぼ全域が統一されるのは六世紀以降でしょうね。
で、日本建国したのは、みなさん御存じのカムヤマトノイワレヒコ、通称神武天皇ですね。
よって、「統一」という言葉をどう扱うのか?をまず示さないといけないと思う。
663太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/11(月) 22:24:01
奴はX線検査の鑑定を無視し、日蝕が数日間も日を経て継続せずに
1〜2時間程度なのにゴリ押しの我田引水で日蝕としたり、さら
には臣下が天皇で天皇が臣下だとする下克上の無いのを強引に暴走
する〜まるで映画の「猿の惑星」さながらの論を恥も知らずに強行
している。また空腹の農民が船舶の無い時代に千人もの多勢がまるで
孫悟空、スーパーマンの如き能力で半島渡海を飛び成したなどという
超「忍者の高飛び論」の常習者である。狂気の論なのだ。
664日本@名無史さん:2010/10/11(月) 22:24:23
国を作るのに稲作に適当な広い平野を持っていないと。
665河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/11(月) 22:30:21
>>658

>正しくは、民衆側から尊敬されて、指導者側から発生する「力」かな。↑↓

いいえ
権威というのは飽くまでも偶像であり、偶像を作りだした者が
その自ら作りだした偶像に圧せられるのです。

権力は自ら作りだし行使したり抑制する事が可能だが、
権威の力は自然に発生するもので、それを意識的に行使したり抑制する事は出来ない。
666河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/11(月) 22:36:48
>>659

>和というのはヤマト(ここは各自辞書で調べてね)、ようは奈良に居る王。

漢語の「倭」と、日本語の「和」を同じ扱いですか?
「和」をヤマトとするのは飽くまで日本語用法で

倭、和也 なんて辞書は地球上どこを探しても存在しない。
667縦目仮面:2010/10/11(月) 22:52:36
あ、どうも。「政治家には権力がある」とは言っても、「政治家には権威がある」とはあまり言わない。
これは、政治家は無能であっても、議員とかになった以上は権力を持つが、権威というのは学問なり
何なりの能力がないと持てないもの、ということじゃないですかね。例えば、「日本における物理学の
権威」とかいう用い方。

逆に言えば、その人の能力以外の力(社会的圧力や武力・・・これも能力といえるかも知れないが)
で服従させるのが「権力」で、その人の能力によって自発的に相手を従わせるのが「権威」とか。
だから上で、「他と比べて抜きん出ている」と言ったんですが、どうですか言意になってますか?ww
668日本@名無史さん:2010/10/11(月) 23:01:03
国を作るには多くの民を養う為の広い土地が必要になるでしょう。
669あらため:2010/10/11(月) 23:06:12
あ〜ら 縦目さんともあろう、御方が〜「権威」を御存じでない?!

この権威というのは、古代史を追う者にしては欠かせない言葉ですよ。
古代史の本を読んでらっしゃるなら、よくお目にかかる言葉でしょうに〜

政治家ですか?たとえば総理大臣の命令、
この命令は上から下へ発生し、その「命令」に関しての責任は、総理大臣が負います。

かたや〜権威はと言いますと「天皇」がコレですね。
天皇さんは〜命令なんてしません。
しかし、民、いわゆる民衆は、天皇さんを尊く思ってますので、
天皇の考えを察知し、自然に発生する〜力をもって、おのずから行動を起こす。
もちろん、その力は〜命令ではありませんので、天皇は責任を追う事はないのですよ。
これが権威です。
670河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/11(月) 23:06:33
>>667

それはこういう事じゃないかな
「政治家」になった瞬間から権力が備わるから、権威がそこに介在する
余地がない。
だから、「権威ある政治家」が存在しないのでは

政治家=権力  権力は政治家の代名詞みたいなもんじゃないかな
671日本@名無史さん:2010/10/11(月) 23:10:59
>>667
言わんとすることは分かるつもりだが。組織がその構成員に対して持つ強制力を権力と呼べばいいのではないか。
その強制力の背景となるものは法あるいは武力(暴力)であろう。
672日本@名無史さん:2010/10/11(月) 23:15:31
>>670
政治家は権力を行使することはできるが、政治家=権力ではない。
673あらため:2010/10/11(月) 23:20:26
>>667
んで、君の好きな『ヒメーヒコ体制』をこれに当てハメてみようよw

ヒメーヒコ体制いうんは〜神託をうける、巫女ー男巫女の関係って上でおれが言ったよね。
巫女は神から直接神託をうけ、男巫女にこの「辞」を伝える。
男巫女はというと、巫女からうけた「辞」を各豪族の長に「命令」する。
いわば、

神 → 巫女 → 男巫女 → 豪族 
 (神託)       (命令)
という図式が出来上がったことになる。
ここで発生する「命令」に関しては、男巫女である人物が負うんであって、
「神」や「巫女」には責任が発生しない。

古代の政治とはこのようになってたんだね〜メデタシ、メデタシ
674縦目仮面:2010/10/11(月) 23:22:36
あとは、三国志に写本の時代があった以上、どうしても資料批判で誤写の可能性を探っていかなくて
はならない。中国西域から出土した「呉志残卷」など、晋代と思われる木簡を見るかぎり、我々が手に
する紹興本や紹煕本とは相違する点がけっこうあるんですね。

実際、メさんが貼ったリンクでも「邪馬壹國」になってるし、これを誤写と見なければ古田説になる。
このような状態にあるテキストをもとに「度」「渡」の区別を考えることは果たして・・・というような意味
なんですよ。
675あらため:2010/10/11(月) 23:25:43
神 → 巫女 → 男巫女 → 豪族 

だけど~「権威」「権力」を当てまめると、こういうことになる。

神 → 巫女(権威) → 男巫女(権力) → 豪族(指示される側)

こういうの〜本で読んだことあるだろう。
676日本@名無史さん:2010/10/11(月) 23:27:16
>>674
>晋代と思われる木簡を見るかぎり、我々が手にする紹興本や紹煕本とは相違する点がけっこうあるんです

例えば?
677縦目仮面:2010/10/11(月) 23:27:18
>>673
>神 → 巫女 → 男巫女 → 豪族 

これは当たり前であって、神のお告げだから従うんでしょう。w 男王が言っただけなら異論も出てくる
でしょうね。なんたって「ゆるやかな連合」なんだから。www
678河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/11(月) 23:29:27
>>669

>政治家ですか?たとえば総理大臣の命令、
この命令は上から下へ発生し、その「命令」に関しての責任は、総理大臣が負います。

そんな法律あったかな?
679日本@名無史さん:2010/10/11(月) 23:33:06
権威というと、何か人格的な響きがあるな。英語だとauthority。
他人が従うのは自発的な受容による。

権力は、何らかの装置による強制力である感じ。英語ならpower。
他人の意思をねじ伏せてでも従わせる力。
680あらため:2010/10/11(月) 23:38:34
>>674
>あとは、三国志に写本の時代があった以上、どうしても資料批判で誤写の可能性を探っていかなくて
>はならない。中国西域から出土した「呉志残卷」など、晋代と思われる木簡を見るかぎり、我々が手に
>する紹興本や紹煕本とは相違する点がけっこうあるんですね。

誤写の可能性は否定できませんよね。
しかし、「紹興本」に関しては、私個人の意見を言わせてもらうと〜
ほとんど無いでしょうね(あるかもしれないがごくわずか)。

>実際、メさんが貼ったリンクでも「邪馬壹國」になってるし、これを誤写と見なければ古田説になる。
>このような状態にあるテキストをもとに「度」「渡」の区別を考えることは果たして・・・というような意味
>なんですよ。

「邪馬壹國」の「壹」ですか?
これは〜〜〜「誤写」じゃありませんよW ハイ〜
681日本@名無史さん:2010/10/11(月) 23:47:40

 陳寿=歴史家としては無能

 要するにこういう結論のようですね。
 魏志倭人伝なんてほとんど史料としての価値がないということです。

 あんなもの充てに議論しているのは、相当間抜けだ。
682ローガン:2010/10/11(月) 23:52:19
>>674
>中国西域から出土した「呉志残卷」など、晋代と思われる木簡を見るかぎり、我々が手に
> する紹興本や紹煕本とは相違する点がけっこうあるんですね。

随分以前に、ドン来いで、どくだみさんと議論した記憶があります。確か、巳が以に変わっているんですよ。
683日本@名無史さん:2010/10/11(月) 23:53:23
>>681
地理に疎いのは仕方ないんじゃないか。
私も含めてこのスレの住人は場所が一番気になるところだが、
資料の本当の価値は後半の外交の部分でしょ。
684縦目仮面:2010/10/12(火) 00:08:22
>>676
すみません、見落としてました。
例えば、トルファン出土の「三国志」巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷では、姚李農の
研究によれば、1192字中、「紹煕本」と画数の同じでない字が416字で全体の三分の一以上。
また、用語から見て「紹煕本」と異なるものが40句だそうです。
一例として、「古本ー唯大農劉基」 「紹煕本ー惟大司農劉基」
685日本@名無史さん:2010/10/12(火) 00:20:43
倭人伝に信用性がないのなら、冒頭に書かれた倭人も帯方も東南も大海之中も、
すべて疑ってかかった方がいいようだな。
倭人は倭入かも知れないし、帯方も帯片かも知れない
686あらため:2010/10/12(火) 00:21:06
>>666
>漢語の「倭」と、日本語の「和」を同じ扱いですか?
>「和」をヤマトとするのは飽くまで日本語用法で
>倭、和也 なんて辞書は地球上どこを探しても存在しない。

な〜にぃ言ってるんだか〜w
日本の漢字というのは、いうまでもなく大陸からやってきたもので、
今我々が使ってる「漢字」の基礎は、こっちじゃなくってあっちだよ。

んで、「倭」、「和」ですが・・・・「倭」を漢字辞典で調べると
「倭」・・・ヤマトの意  倭=和 と載っています。

「倭」というのは、見下した字、あまりよくない字が当てられてるというのは承知だろう。
古代の大陸人が我々日本人をさし、当てられたと考えられてる。

「和」なんですが、倭→和と変わっただけの話で、和の字が初めに見えるのは、
六・七世紀からで〜、正確には六世紀後半の聖徳太子が活躍した時代の資料にみてとれる。
それ以前には「和」ではなく、すべて「倭」だったことが想像できるのではなかろうか。
687日本@名無史さん:2010/10/12(火) 00:29:24
おーい。
日本語の(ワ)を介在させてどうする気だよ
688日本@名無史さん:2010/10/12(火) 00:31:54
>>684
トルファンじゃなくて、?善出土のじゃないかな?楼蘭のとこの。
実は、今その書影本を開いているとこなんだけど。
具体的な場所が知りたかったんだが。
689日本@名無史さん:2010/10/12(火) 00:32:44
>>688
失礼、一例があったね。ちょっと調べてみる。
690日本@名無史さん:2010/10/12(火) 06:47:15
>>689
確認してみた。
紹煕本は「惟大司農劉基」となっており、文意から見ても、これは明らかに
残巻本の「唯」が正しいな。これは書写ミスに違いない。
691日本@名無史さん:2010/10/12(火) 07:05:06
卑弥呼は日本の支配者だったんだろ
692唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/12(火) 16:57:17
>倭人伝に記述されてる「大倭」は「おおいなる倭」と読むのが正しい。

倭人伝が日本の書物なら「おおいなる倭」又は「オオヤマト」もあり得るだろうが、
女王国とのかね合いもある。

693あらため:2010/10/12(火) 20:31:14
>>674
>あとは、三国志に写本の時代があった以上、どうしても資料批判で誤写の可能性を探っていかなくて
>はならない。中国西域から出土した「呉志残卷」など、晋代と思われる木簡を見るかぎり、我々が手に
>する紹興本や紹煕本とは相違する点がけっこうあるんですね。

中国西域から出土した「呉志残卷」など、晋代と思われる木簡?
へぇ〜これは知らなかったなw 縦目氏〜やるなwwwww お前ら知ってた?ALL

ハイエナのバカが〜くだらん事、書き込んでるなw
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/kohon.htm

>>682
>随分以前に、ドン来いで、どくだみさんと議論した記憶があります。確か、巳が以に変わっているんですよ。

ほう、ローガンさんもか・・・
ところで、その「呉志残卷」の木簡とやら、どこでみれるんでしょうね?
私も観てみたい〜
694河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/12(火) 20:52:25
>>693

三国志呉志巻第十二残巻だったら 確か重要文化財?
都内の博物館にあったようななかったような?

記憶だけで語ってるんで
間違ってたらスマソ
695あらため:2010/10/12(火) 21:05:45
>>694
ほう、君ゎ〜コレ知ってたの?? おれしらんゎw

バカも言ってるけど〜 
現在、我々がみている、三国志は二十世紀前半、張元済氏が「宋紹煕刊本(1190年~1194年に刊行)」、
「宋紹興刊本(1131~1162年に刊行)」を用いて編纂したもので、これを『百衲本』と呼んでいる。

これより古い三国志となれば、李ム等による「太平御覧(977年から983年に成立)」があリ、
これより古い三国志は〜観ることができない・・・じゃなかったっけ?
696あらため:2010/10/12(火) 21:29:49
まてよ、頭がごちゃごちゃになってきたぞw
少しお勉強しようじゃないかwww

百衲本の「紹熙本」、これの影印はこれでしょ
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/page01/a003-02.html
ちなみに陳寿著(注:裴松之)

紹興本の影印はこちら。
http://www.netlaputa.ne.jp/~andreus/page01/a003-03.html

この百衲本ではない、紹興本はどっから出てきたものょ?〜河童クン
697河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/12(火) 21:33:16
>>694

知ってたところで何の役にもたたないよ  単なる雑学程度
698あらため:2010/10/12(火) 21:35:21
>>697
オメーさんさぁ
ちと質問するけど〜なんで「紹興本」より、「紹熙本」のほうが重要なの???
さ、答えてくれw
699日本@名無史さん:2010/10/12(火) 21:42:08

ニュー速+板でやってます。
ただいま6スレ目。


【考古学】邪馬台国はどこにあったのか?★6
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1286884673/
700河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/12(火) 21:49:34
>>698

「帝室図書寮蔵」というブランドが付いているからだよ
701縦目仮面:2010/10/12(火) 21:52:37
やってますね。しかし、前日からの主張はおわかりいただけたでしょう。現在目にしている「三国志」は、
陳寿が書いたものとはかなり違っている可能性がある。
有名な話では、紹興本「@対馬国 A自女三国以北」 紹熙本「@対海国 A自女王国以北」で、@は
おそらく紹興本が正しく、Aはその逆ですよね。

ところで昨日はスルーしてしまったんですが、メさんは「邪馬壹国」なんですか?
702河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/12(火) 22:03:58
>>696
最北宋咸平五年、初に刊行された「三国志」これは残念ながら現存しない。
今のところ現存する最古の版本は「紹興本」というやつで、紹興年間のものと言われる
703あらため:2010/10/12(火) 22:05:38
>>700
>「帝室図書寮蔵」というブランドが付いているからだよ

なんじゃそらぁw 師匠が「そう言って来い」ってか?w

>>701
>しかし、前日からの主張はおわかりいただけたでしょう。現在目にしている「三国志」は、
>陳寿が書いたものとはかなり違っている可能性がある。

縦目くんは〜ハイエナのバカにかなり洗脳されちまってるようだねw

>有名な話では、紹興本「@対馬国 A自女三国以北」 紹熙本「@対海国 A自女王国以北」で、@は
>おそらく紹興本が正しく、Aはその逆ですよね。

河童君にも質問したが〜「紹興本」、「紹熙本」を
他の歴史書である、後漢書、晋書、宋書、梁書、隋書等と比べた時、
「紹熙本」のほうが信憑性高いですよね。

>ところで昨日はスルーしてしまったんですが、メさんは「邪馬壹国」なんですか?

当り前でしょw 縦目くんは違うの???
704河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/12(火) 22:06:07
>>702  全文訂正

訂正したやつ

 北宋咸平五年、最初に刊行された「三国志」これは残念ながら現存しない。
今のところ現存する最古の版本は「紹興本」というやつで、紹興年間のものと言われる  
705河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/12(火) 22:07:24
>>703

>なんじゃそらぁw 師匠が「そう言って来い」ってか?w

常識だよ
706縦目仮面:2010/10/12(火) 22:17:52
>>703
www 俺は本来考古学派で、倭人伝を詳読したりはしないのでどうでもいいんですが・・・。
古本についてはこんな感じで、古くからの研究もあります。刊行されているのもあるようですね。

@1909年、吐魯番吐峪溝出土「三国志」巻六五(呉書二〇)韋曜伝・華覈伝残卷 唐代の写本か? 25行 書道博物館蔵
A1924年 吐魯番出土「三国志」巻五七(呉書一二)虞翻伝残卷 晋写本か?10行 書道博物館蔵
B1924年 吐魯番出土「三国志」巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷 晋写本か? 80行 上野淳一氏蔵
C1965年1月10日吐魯番英沙古城南仏塔遺跡出土「三国志」巻四七(呉書二)呉主(孫権)伝残卷 晋写本か? 40行 新彊吾爾自治区博物館蔵
C1965年1月10日吐魯番英沙古城南仏塔遺跡出土「三国志」巻七(魏書七)臧洪伝残卷 晋写本か? 21行 新彊吾爾自治区博物館蔵
D1931年前後敦煌某寺発見「三国志」巻五二(呉書七)歩隲(ほしつ)伝残卷 晋写本か? 25行 敦煌研究院蔵
707河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/12(火) 22:20:47
もう少し詳しく書けば

二十世紀初め頃、張元済が「百衲本」を編纂する時
宮内庁所陵部の蔵書であった「紹熙本」を用いたために、「紹興本」よりも「紹熙本」
に重きを置いていると判断されたからだよ

708あらため:2010/10/12(火) 22:24:55
君ら、二人とも〜ハイエナに洗脳されてない?w

>>702
>最北宋咸平五年、初に刊行された「三国志」これは残念ながら現存しない。

それは知ってるよ。

>今のところ現存する最古の版本は「紹興本」というやつで、紹興年間のものと言われる

ほう、それはどこに保管してるんでしょうか?
709あらため:2010/10/12(火) 22:47:58
よし、「邪馬壹国」の「壹」と「臺」でも講演してやろうか

ハイエナのバカが「壹」と「臺」について、何て言ってるのか知りませんけど〜w

魏志倭人伝には、
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

とあり、「壹」の字が当てられてる。
後漢書・・・邪馬臺國
梁書・・・邪馬臺國
北史・・・邪馬臺國
隋書・・・邪靡堆     ですが、>>531さんのいうとおり、

「なんのことない、倭国の首都の邪馬台国とは、ヤマト国の当て字にすぎない」

そして、中国は「中華思想」というのが古くからあり、
中国を中央にとらえ、周辺民族に「卑字」を当てることにより夷蛮視してきた歴史がある。
たとえば「東夷」「西戎」「南蛮」「北狄」「匈奴」「鮮卑」、
倭人伝にも「卑弥呼」「邪馬壹国」「奴国」「狗奴国」等など。

そして、「臺」の字ですが、三国志では“特別”な字として扱われている。
「臺」という一字で、ソノ意味は「洛陽の天子の居る所」「宮殿」と「宮殿周辺」を指す。
710日本@名無史さん:2010/10/12(火) 23:02:39
しかし、魏志倭人伝のなぞ解きに青春のすべてを費やして、もったいないと思わないのだろうか?
陳寿は似非歴史家だと切る捨てることができたなら、もっと有意義な人生が送れたのではないだろうか?
そう考えると、罪作りな男だと思う。
711河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/12(火) 23:02:54
>>709

>そして、中国は「中華思想」というのが古くからあり、

で、何時からあったの?
三世紀に中華思想がなかったら話にならないよ。
712あらため:2010/10/12(火) 23:05:39
「壹」と「臺」ですが、

「壹」・・・これは「ゐ」と発音し、「ト」とは発音しない。
「臺」・・・これは「ト」マタハ「ド」と発音できるらしいです。

他の歴史書では、「臺」や「堆」ですので、本来は、邪馬臺國が首都名でしょうね。
しかし、魏志倭人伝は、「邪馬壹国」。
ここでみてほしいのが、魏志倭人伝の一部分の”因詣臺”〜「臺」が使われてますよね。

これは、「かさねて洛陽の天子の居る宮殿に詣でて」とよみ、「壹」と「臺」を分けて使っている。
「臺」一字で”洛陽の天子の居る宮殿”ですから、三国志にあって、
「邪馬臺國」というのは絶対あり得ない。
「臺」→「壹」へは「卑字」を当てたということ〜いわざ上下関係が働いてるともいえる。

以上のことから、陳寿、自ずから、「臺」→「壹」へと変えた事が考えられます。
713ローガン:2010/10/12(火) 23:14:27
縦ちゃん、改め氏への教授もいいけど…
ドン来いにあったコレ!
■最大・最古級の未盗掘「粘土槨」 相当の副葬品か 兵庫
朝日新聞 2010年10月12日
http://www.asahi.com/culture/update/1012/OSK201010120070.html

興味深いですね。ただ、因みにうちの近くにある心合寺山古墳も同じ。
古墳公園を造る目的で予算がついたようで、調査はしたものの三つある粘土槨の内、開けたのは西槨だけ…
主体と思しき中央は未調査のまま、うめ戻し。隔靴掻痒という感じですかな。
714メちゃん:2010/10/13(水) 07:13:19
縦ちゃん、ローガンちゃん

中国西域出土の呉志残卷とかいう木簡〜みたことあるのかぃ?
どこでみたのさ?
715メちゃん:2010/10/13(水) 07:55:16
唐ちぁん〜

>>倭人伝に記述されてる「大倭」は「おおいなる倭」と読むのが正しい。
>倭人伝が日本の書物なら「おおいなる倭」又は「オオヤマト」もあり得るだろうが、
>女王国とのかね合いもある。

大倭がなんで女王国とのかね合いなんでしょう?
716日本@名無史さん:2010/10/13(水) 09:23:22
邪馬台国は奈良にあったと思われる。
古代朝鮮語で、奈良は首都の意味であり、古の百済王分家が日本を征服して王朝を開いた。
それが邪馬台国であり、巻向遺跡がその証拠である。

次第に分家の力が後背地である地勢の利もあって強大になり、やがて朝鮮半島を圧迫するようになっていく。
だから、韓国が日本を支配する正当性があるといわれているのはそういうことですよ。
717メちゃん:2010/10/13(水) 09:45:32
福岡の神湊の地、年毛神社から「万津浦(まつら)」と書かれた古文書(こもんじょ)が発見されてる。
永島文書といわれてるやつで、永島家代々〜大切にされてきたらしい。
http://blogz.fujitv.co.jp/simg/profile/1f533/100009091/108308_pcl.jpg

こういうところから末盧国神湊説というのができあがったんだろうね。
718日本@名無史さん:2010/10/13(水) 09:57:53
>>716
それは、トンデモ説だよ。
奈良のナラは
均す(ならす)のナラだ。
実際に奈良市の中心部には、奈良須(ならす)町ってあるわな。

日本書紀の崇神紀に、
現在の奈良市のあたりを「均した(ならした)」から
ナラとよばれたとある。
その時代は、半島では三韓時代で、半島の北半分は
中国の楽浪郡、帯方郡の時代だよ。
719日本@名無史さん:2010/10/13(水) 10:17:13
奈良って韓国語のウリナラ(我々の国)から来てるんだよね。
天皇家や藤原氏は朝鮮系だから当然といえば当然だけど。
720日本@名無史さん:2010/10/13(水) 10:34:22
在日必死過ぎwww
このウリナラをネタに、竹島の次は奈良を主張かwww
721日本@名無史さん:2010/10/13(水) 10:45:36
日本書紀の地名由来を全部信用して良いかは疑問だけどね。
722日本@名無史さん:2010/10/13(水) 12:33:42
邪馬台国、卑弥呼の謎よりさらに謎なのだが、
なんで朝鮮人がこの話に加わってくるのだろう?
半島に倭人国家があったのなんて朝鮮なんて認識が生まれるより凄く昔のことなのに。。。
今の朝鮮人とは関係ないのに。。。。って、はたと思ったのだが、
朝鮮の名も無い頃、大和の男はやさしくてはーと。。。だったんじゃね?
今の元系(モンゴル系)が嫉妬で火病が生まれたwwww



いや、煽ってみたいだけですw
723日本@名無史さん:2010/10/13(水) 13:14:02
あまりチョンを刺激するな!
あいつら主義主張が違うというだけで、ほんの数十年前まで、同じ民族虐殺する
奴らなんだから
日本で暴れられたらたまんねえよ。
724日本@名無史さん:2010/10/13(水) 13:22:16
昔ちょっと赤く染まったからといって
一度改心して許された人達に対し、一家皆殺しだって。
しかも外に連れ出し壁に手を掛けさせ、問答無用に何の罪もない幼子までも
銃殺だって。
同じ民族なのに。昔ちょっと赤く染まっただけの話でだよ。
725日本@名無史さん:2010/10/13(水) 16:22:38
魏の使者は、本当は邪馬台国まで行ってないのでは?という説がある

これに対して、私は異を唱えたい

  「伊都国から邪馬台国までの道程が不正確なことよりも、
  朝鮮半島から伊都国までの道程が、まるで測量したかのよう
  に正確であること」

に注目するべき

普通に考えて、数回往復しただけで、まるで測量したかのような正確な地理感をつかむことなどできないはずだ

朝鮮半島から伊都国までは、先人が何度も往復しているので、それをそのまま書けばよかった。

しかし、伊都国から邪馬台国までの道程は、漢人には知られていなかったので、倭人の案内に従うほかなかった。

こう考えれば、伊都国から急に道程があやふやになる理由も説明がつく。
726日本@名無史さん:2010/10/13(水) 17:05:58
伊都国から先も正確ですよ。不正確という主張は、倭人伝をそのまま読んだのでは自分が想定した目的地に
たどり着かないと思う人の勝手な言い分です。
727日本@名無史さん:2010/10/13(水) 17:28:51
>>726
では、おまえは邪馬台国は太平洋の海の底にあったとでもいうのかww
それとも、幻のムー大陸の上にあったとでもいうのかww
728メちゃん:2010/10/13(水) 18:14:46
ゲンコ蟲くんがボロンカスにやられとるな
オモロそうなのでおれもヤフー行ってこよっとw

あっちょんぷりけぇ〜 )・O・(
729日本@名無史さん:2010/10/13(水) 18:16:59
末盧国から東南に五百里、さらに東南に百里、そして東に百里、そこから南に千三百里のところに邪馬台国があると倭人伝
には書いてある。梯儁も張政も邪馬台国に来た。二人とも皇帝の詔書を携えた使者として記録されている。皇帝の使者は必
ず任務遂行の報告を行う。倭人伝はそれらの報告の記録も見たうえで書かれている。

対馬と壱岐の間を千里とすれば千三百里は70〜80kmだ。これだと邪馬台国は熊本辺りになるな。
730日本@名無史さん:2010/10/13(水) 18:22:54
邪馬台国とその南の狗奴國の間に境界があります。
境界とは南関のことです。南関の北が筑後。南が熊本。
731日本@名無史さん:2010/10/13(水) 18:35:12
筑後は投馬国ではないか。戸数五万の大国が存在できるのは筑後川流域以南の筑後平野と丘陵地域だろ。
732日本@名無史さん:2010/10/13(水) 18:55:40
筑後国には久留米の高良大社、八女の岩戸山など、
かつて強力な権力があった痕跡がある。
むちゃくちゃ怪しい。山門説はそういうものを根拠にしてたり
するのでしょうか。
733日本@名無史さん:2010/10/13(水) 19:02:08
魏志倭人伝に登場する
倭の大夫の難升米(難斗米?)とは
梨迹臣命。
藤原氏の遠い先祖。
734日本@名無史さん:2010/10/13(水) 19:16:20
高良大社を気にする場合、基山の基肄城も注意してみると良い
この二つの間に直線を引くと、多少のズレはあるが福岡県と佐賀県の
県境になる。筑後川を境にして久留米以南はまた別の国扱い。

筑紫平野であまり目立つものがない場所での
位置を決める基準点になっている。
735日本@名無史さん:2010/10/13(水) 19:27:20
>>734
結局、何が言いたいわけ?
736日本@名無史さん:2010/10/13(水) 19:44:19
>>735
筑紫平野の勢力分布が見えてこないかい?
そして久留米がどういう位置関係にあるか、もね
737日本@名無史さん:2010/10/13(水) 19:49:42
>>736
佐賀の吉野ヶ里のあたりは、筑紫の米多国(メタ国)といって
おそらく、西暦107年の帥升は
倭の面土国(メタ国)の王と中国文献に登場しているから
それが正しいんでしょう?
738日本@名無史さん:2010/10/13(水) 19:51:25
邪馬台国は、ヤマト国であり、
卑弥呼はモモソ媛命
狗奴国とは、許乃国(コノ国)であり、

狗奴国王の乱とは、武埴安彦命の乱と解釈すればよい。
739日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:04:15
高良大社には景行天皇が滞在したなんて伝承があるようだが
そもそも神社って政治施設だったのか、鎮魂施設だったのか。

まあ八百万の日本のことだから、多分、なんでも
いっしょくたに神社にしてしまった可能性も高いけど。

そんなことを考えると、吉野ヶ里と神崎櫛田神社って
なんか関係がありそうだよね。

御塚権現塚古墳の近くの大善寺玉垂宮とかも
740日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:04:51

ニュー速+板でち。7スレ目タッタヨー。(◎ο◎;) 


【考古学】邪馬台国はどこにあったのか?★7
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1286964478/
741日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:42:03
日本書紀とか古事記の研究で重要なのは
あそこに書かれている真相や意味だけじゃなくて
西暦の実年代で、だいたい
どれくらいの年代の記述なのか?ということ。

実際に、日本書紀の編纂者の最大の目的に
古事記などに記されていた記述の実年代を割り出すことだったわけだから。
なぜなら、日本書紀ってのは、編年体で書かれたもので
これは、中国との外交で、中国の外交官などに提出しないといけない。
中国の外交官は、日本書紀で大まかに予習してから、訪日していた。

しかしながら、日本書紀の編纂者たちは
ついに実年代を割り出すことができなかったと思われる。
742日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:51:39
倭人伝に出てくる伊都国は、日本書紀だと神功皇后由来で名付けられた地名となってる。
743唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/13(水) 20:59:21
>卑弥呼はモモソ媛命

崇神を240年頃に持ってくる文献は無い。
どうしてもと言うなら、百済本記を書紀の記事と同期させねば成らないが
七支刀ひとつ書紀と合わせられない、
七支刀=369年と強引に設定しても、肝心な書紀の記事がねつ造とされてしまう。
つまり 「卑弥呼はモモソ媛命 」は、ねつ造年代のはるか前方に位置する。
だから、七支刀や百済本記では、正しい崇神時代に行き着けない。
744日本@名無史さん:2010/10/13(水) 21:06:02
>>742
フミ国だったのだろう?
745日本@名無史さん:2010/10/13(水) 21:17:45
氷河期に天皇家と日本人が日本列島に辿り着いた経緯

Origin of Imperial House of Japan
http://www.cjapan.net/en/content/origin-imperial-house-japan
746日本@名無史さん:2010/10/13(水) 21:34:37
>>727
そんなトンデモ説ではありません。倭人伝は、北九州から南へ水行十日陸行一月の
ところに邪馬台国があるとしています。その1日に進む距離は書いてありません。
使者一行が1日にどの程度進めたのか、それはいろいろ考えてみる必要があります。
例えば、隋書は南北は三月行と書いています。南北で一番距離があるのは九州の北端
から南端まででしょう。ということは、古代においては直線の百キロ(実際は道は曲
がっているから百五十キロくらいか)歩くのに一月かけていたということになります。
そう考えたら、水行十日陸行一月は十分に九州内の話ですよ。
747日本@名無史さん:2010/10/13(水) 21:38:37
>>741
倭の五王のあたりから逆算していけば、おおよその年代はつきとめられる

倭の五王は5世紀の天皇であり、仁徳〜雄略あたりに比定する研究者が多い
これは考古学によって判明している古墳の建造時期とも一致する

16〜21代の仁徳〜雄略が5世紀の天皇なら
10〜15代(崇神〜応神)は4世紀の天皇である可能性が高い
神功の三韓征伐は、朝鮮の三国史記や、高句麗の広開土王碑文によっても裏付けられるので
史実性は高いと見るべきで、神功が4世紀後半の人であるなら卑弥呼ではない

よって、卑弥呼がどの年代に当たるかというと
記紀では欠史八代に相当する
一般的に言われてるのは、7代目孝霊天皇の娘である倭迹迹日百襲姫命だが
このあたりになると史実性は疑わしい
748太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/13(水) 21:39:50
崇神を240年代にもって行ける文献が日本書紀であ〜る。無いなどとは大嘘
なり。

倭笠縫に日神とその象徴たる日像鏡(ヒガタノカガミ)を祭祀したこと
から、畿内に239年鏡(景初3年鏡)が多出するのである。デマカセ野郎の
インチキに騙されてはならない。
749日本@名無史さん:2010/10/13(水) 21:44:49
邪馬台国=大和国
卑弥呼  =日巫女=天照大神

248年 卑弥呼没
318年 崇神天皇没
389年 神功皇后没
427年 仁徳天皇没 賛(讃)
432年 履中天皇没 
437年 反正天皇没 珍
454年 允恭天皇没 済
4**年 安康天皇没 興
489年 雄略天皇没 武
750日本@名無史さん:2010/10/13(水) 22:19:58
「壹」と「臺」ですが、

これをパソコンで見分けるにも目を凝らして見ないといけなかったわけだし、
当時、倭の国で使用していた目の粗い倭紙に書き分けることは事実上不可能だったと思われます。
臺の文字は、室(むろ)に置き換わったのではないでしょうか?
邪馬台国は、山室国だったのです。

和歌山県に《ムロ》という地名があります。東牟婁郡・西牟婁郡です。これはかなり古い地名で、『延喜式』「神名式」にも紀伊国牟婁郡六座とあります。
ちなみに各神社は、熊野早玉神社、熊野坐神社、海神社三座、天手力男神社。要するに熊野近辺ですね。
熊野神社はスサノオ系列の神社ですが、スサノオの別名が確か《カムロ》とか《カモロ》とか言ったと思います。
そういえば、牟婁郡は確か《牛鬼》伝説の地でもあります。土蜘蛛とか、古代のまつろわぬ人々と関係あるかもしれません。

邪馬台国は、紀伊半島にあったというのが結論なのです。

751日本@名無史さん:2010/10/13(水) 22:36:18
「会稽東冶」なのか「会稽東治」なのかの方が重要な問題だと思います!
752日本@名無史さん:2010/10/13(水) 23:03:57
そもそもそれ以前に古代中国の史書が
一体どれほどの客観性と正確性を持って書かれているのかという大問題が
まぁ一応参考程度にはなるかもしれないが
なにも始めから終わりまで無批判に妄信するというのもどうかと思う
753日本@名無史さん:2010/10/13(水) 23:34:09
尖閣諸島は中国の領土にしてしまう国だからな。
うっかりすると、冊封されてたことにされてしまいます。
実は、魏は倭国の植民地だったのではないのか?
754日本@名無史さん:2010/10/14(木) 01:34:35
>>748

わざわざ、吉野ヶ里へ行ってきたみたいだね
お疲れ様
どういう講演会だったのか旅行日記でも書いて下さいな
755太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/14(木) 10:57:05
>>754
近隣の邪馬台国スレに書きこんであります。
756日本@名無史さん:2010/10/14(木) 10:58:28
対馬島は韓国に近く、古来から韓半島の人々が暮らしてきたが、日本の侵略で奪われた韓民族固有の領土だと言われている。
金印も志賀島で見つかっており、邪馬台国は古代朝鮮と密接な関係にあったことは疑いない。
対馬ー志賀島ー邪馬台国とのちの百済は兄弟国家といっても良い。
恐らく百済人の祖先である馬韓人の王が日向の地におりたち畿内を征服して巻向の地に王権樹立した。
馬韓は養蚕や稲作が盛んであり、定住民であった歴史的事実、日本書紀にも養蚕が古来から言及されるなど強い相互関係が見られる。
私たち日本人は馬韓人が縄文人を征服して作られた韓半島の兄弟民族である。
それゆえに韓国は兄、倭は弟と言われてるのも道理であった歴史的事実を素直に認めることこそ、韓日文化と歴史的事実の相互理解への
第一歩ではないだろうか。
757日本@名無史さん:2010/10/14(木) 11:45:35
756:日本@名無史さん :2010/10/14(木) 10:58:28
対馬島は韓国に近く、古来から韓半島の人々が暮らしてきたが、日本の侵略で奪われた韓民族固有の領土だと言われている。


韓半島の人々が、対馬で暮らす事は不可能だろ。
韓半島の人々は、韓半島で暮らしているから韓半島の人。
対馬で暮らしたら、韓半島の人じゃなく、対馬の人だぞ。たとえ民族的に同族であろうと、対馬は対馬。半島の人々ではない。
758日本@名無史さん:2010/10/14(木) 13:06:09
>>756
八咫鏡・八尺瓊勾玉

七枝刀・七子鏡

どっちが弟だって?

759日本@名無史さん:2010/10/14(木) 14:06:00
>>757
そーゆー事でなくて・・・
760taro:2010/10/14(木) 18:46:10
「短里は存在しない」という人とか、「短里は東夷伝のみに存在する」とかいう人に訊きたいんだけど、、、

三国志の以下の記事をどう解釈するんでしょうか?
長里で計算して、実際の地図に当てはめると、とんでもないことになるんですけど?
思いっきり中華中原のド真ん中に"短里"が出てくるので、「錯覚」「何かの間違い」では済まされないんですけど?

1)
杜畿伝
若二賊遊魂於疆埸,飛芻輓粟,千里不及。究此之術,豈在強兵乎?

東関〜合肥・荊州〜南陽・漢中〜長安。いずれも、呉&蜀の最前線拠点から魏領内攻略目標までは短里千里(77km)をやや上回る数字。
「呉や蜀が国境を狙っても、千里の彼方に兵糧を運ぶことが出来ません。この方針を貫けば、特に強兵など必要ありません」の文言に合う。
これが長里だと、呉&蜀から「疆場」ではなく「首都」を防衛する話となってしまう。



2)
文帝紀
閏月,孫權破劉備於夷陵。初,帝聞備兵東下,與權交戰,樹柵連營七百餘里,謂群臣曰:「備不曉兵,豈有七百里營可以拒敵者乎!
『苞原隰險阻而為軍者為敵所禽』,此兵忌也。孫權上事今至矣。」后七日,破備書到

300km(東京〜名古屋間)の野戦築城などありえない。
軍事に疎い人は自分で調べてほしいんだけど、近代以前の軍隊の布陣は、全長が数キロからせいぜい十数キロにしかならないから。
それ以上大きな陣容だと、指揮・統率が不可能になる。旗の見える範囲、銅鑼の音の聞こえる範囲、せいぜいが早馬がすぐに到着できる範囲。。
短里(54km)でも、たいがい兵を分散しすぎなんだよ。
761taro:2010/10/14(木) 18:48:09
2)
文帝紀
閏月,孫權破劉備於夷陵。初,帝聞備兵東下,與權交戰,樹柵連營七百餘里,謂群臣曰:「備不曉兵,豈有七百里營可以拒敵者乎!
『苞原隰險阻而為軍者為敵所禽』,此兵忌也。孫權上事今至矣。」后七日,破備書到

300km(東京〜名古屋間)の野戦築城などありえない。
軍事に疎い人は自分で調べてほしいんだけど、近代以前の軍隊の布陣は、全長が数キロからせいぜい十数キロにしかならないから。
それ以上大きな陣容だと、指揮・統率が不可能になる。旗の見える範囲、銅鑼の音の聞こえる範囲、せいぜいが早馬がすぐに到着できる範囲。。
短里(54km)でも、たいがい兵を分散しすぎなんだよ。



3)
夏侯尚伝
尚自上庸通道,西行七百余里,山民蛮夷多服従者,五六年間,降附数千家

長里だと、上庸から700里西は漢中(蜀の領土)まで届いてしまう。短里なら、周辺の山民を数千家降したという文句に合う



4)
蔣済伝
船本歴適數百里中,濟更鑿地作四五道,蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水,皆引后船,一時開遏入淮中。

「船が数百里に渡って広がり収拾がつかなくなってたので、一旦水をせき止め、船を引っ張って一か所に集めておき、あらためて水を流して一気に船を進めた」という文言。
長里だと100〜300kmも船を引っ張らねばならず、現実的でない。短里なら20kmから最大でも50km。
762taro:2010/10/14(木) 18:50:17
5)
文帝紀
冬十月,行幸広陵故城,臨江観兵,戎卒十余万,旌旗数百里
10万人の兵隊が、100km〜300km(東京〜静岡間もしくは東京〜名古屋間)におよぶ行列を作って観兵に臨むなどあり得ない。
短里(20〜50km)だと、その日のうちには終わるが、長里だといつまでたっても終わらん。皇帝陛下をいつまで待たせるつもり?
・・・・・というか、何だよ!そのバラけまくった行軍は?、ダラけた修学旅行生の行列じゃなんだぞ?



6)
賈逵伝
明帝即位,摎W二百戸,并前四百戸。時孫権在東関,当豫州南,去江四百余里。毎出兵為寇,輒西従江夏,東従廬江。国家征伐,亦由淮、沔

東関は濡須口付近、川を挟んで濡須の対岸側。長江からちょうど短里30kmほどのところ。長里174kmでは長すぎる。


7)
満寵伝
盧江雖小,将動兵精,守則経時。又賊捨船二百里来,后尾空縣,尚欲誘致

「呉軍は船を捨ててやって来た」とあるが、盧江からみて最も近い水辺は巣湖の南岸(呉の前線・東関から船で来れる。
同じく巣湖を使って、呉は合肥攻めをよく行っている)。ここから盧江へは短里で丁度。長里87kmでは、呉のどの前線からも距離があり過ぎる。
763taro:2010/10/14(木) 18:51:41
8)
満寵伝
至八月,寵以為田向收熟,男女布野,其屯衛兵去城遠者數百里,可掩擊也。

孫権の屯田兵が刈り入れのために100km〜300kmに散らばってるのは、広がり過ぎ。江戸城攻めの兵隊が、静岡県や愛知県まで屯田してることになるんだぞ?
、、、、刈入れ以前に、日々の畑の世話が出来ねえだろうが?短里なら、東京郊外からせいぜい神奈川県くらいまでの距離。



9)
明帝紀
秋七月壬寅、帝は親しく御龍舟に乗って東征した。孫権は新城を攻めるも、將軍の張穎等が力戰固守し、帝の軍が未だ數百里に至る前に遁走した。

短里だと、敵の援軍が20〜50kmまで来て退却。長里だと100〜300kmで退却。100〜300kmあったら、もう一踏ん張りして合肥を落としてしまえばいいんじゃないの?
短里20〜50kmなら一日二日行程だから、諦めるのもわかるけど。あれほど呉が執着しまくってた合肥なのに、えらい簡単に諦めるんだね。
764taro:2010/10/14(木) 18:52:52
10)
明帝紀
初,帝議遣宣王討淵,發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多,役費難供。帝曰:「四千里征伐,雖雲用奇,亦當任力,不當稍計役費。」遂以四萬人行。
及宣王至遼東,霖雨不得時攻,群臣或以為淵未可卒破,宜詔宣王還。帝曰:「司馬懿臨危制變,擒淵可計日待也。」卒皆如所策。

安本なんちゃらさんとと古田なんちゃらさんの間で議論になってたやつ。・・・・・・あのさ、、、、そもそも長里だと数字が全く合わないんですけど?
洛陽から遼東郡治の襄平までは、直線で1100km・道のりで1300km。
長里に換算すると直線2528里・道のり2988里にしかならず、"四千里"には全く届かない。概数にするなら"三千里"でしょ。
長里で四千里だとチチハル付近まで行ってしまいますが?

だいたい遠征の距離を「首都から」数えるバカがいるか?
洛陽から北辺までは、あくまで軍の「国内移動」だろうが!
インパール作戦の総行程は「東京〜インパール間」か?
イラク戦争の総行程は「ワシントン〜バグダッド間」か?
違うだろ、、、、、軍事作戦の総行程は、利用できる「最前線基地」から「目標」までの距離だろ

これは三国志中でも一貫してるよ
以下は長里で作戦行程を書いた記事

夏侯淵伝・・・淵曰:「我転斗千里,今復作営塹,則士衆罷弊,不可久。賊雖眾,易與耳」   //// 214年の夏侯淵の転戦=長里435km。
武帝紀・・・引軍出盧龍塞,塞外道絕不通,乃塹山堙谷五百餘里 ///曹操の時の遼東遠征記事
曹仁伝・・・純曰:「今千里蹈敵,進不能克,退必喪威;且縣師深入,難以持久。彼勝而驕,我敗而懼,以懼敵驕,必可克也。」  ///南皮の戦いでの曹純の話。対袁紹戦の話なので、この時は洛陽が最前線
王基伝・・・昔子午之役,兵行數百里而值霖雨,橋閣破壞,后糧腐敗,前軍縣乏。姜維深入,不待輜重,士眾飢餓,覆軍上邽。  ///230年の姜維の軍事作戦。漢中スタート。成都スタートだと、長里でも全然足らない。

だからこの「四千里」は曹操の時と同じ、北辺の最前線基地である盧龍塞からの距離。盧龍塞から襄平までの道のりが300km強。短里308kmでジャスト。
765日本@名無史さん:2010/10/14(木) 19:22:11
九州説の 太国 

taroさんの問いに答えてやれ
766taro:2010/10/14(木) 19:24:22
ごめん、まだ続きがある、、、、長くなるけど、これだけはかんべんな

11)
胡質伝
請假還家,陰資裝百餘里要之,因與為伴,每事佐助經營之,又少進飲食,行數百里

親父を訪ねて南陽までやってきた胡質の息子が洛陽へ帰る時に、親父の部下が気を利かせて百里ごとに物資を手配しておいてくれた
、、、、、その好意に数百里行ったところで気が付いた、という話。
荊州の州都(宛)から洛陽への帰路は150kmあまり。短里なら百里(8km)ごとに補給し、数百里(20〜50km)進んだ、、、という文言に合うが、
長里だと百里(43km)を補給無しで進むこととなり、数百里(100〜300km)進んだら洛陽についてしまう。



12)
高柔伝
至如滎陽左右,周數百里,歳略不收

滎陽の南北は黄河と山地で、東西は大都市の洛陽と陳留で挟まれており、長里(100〜300km)の余地は無い。短里(20〜50km)でピッタリ。



13)
高柔伝
今禁地廣輪且千餘里,臣下計無慮其中有虎大小六百頭,狼有五百頭,狐萬頭
高堂隆伝
今宫視崇侈,彫镂极妙,忘有虞之总期,思殷辛之琼室,禁地千里,举足投网,丽拟阿房,役百乾谿,臣恐民力彫尽,下不堪命也

禁地が長里450kmに及ぶと大き過ぎる(ほぼ四川盆地全体分)。国家財政が破たんするぞ。77km(短里)で、十分。
767taro:2010/10/14(木) 19:25:08
14)
曹真伝
正始五年,爽乃西至長安,大発卒六七万人,従駱谷入.是時,関中及??羌転輸不能供,牛馬騾驢多死,民夷号泣道路.入谷行数百里,賊因山為固,兵不得進

駱谷は周至県の南から山岳地帯に入り、城固県に出てくる桟道。長里なら、ほとんど漢中平野の出口まで来てしまう。
短里なら、途中の山中で詰まる。「賊因山為固」という文言に合う。



15)
陸遜伝
諸將並曰:"攻備當在初,今乃令人五六百里,相銜持經七八月,其諸要害皆以固守,擊之必無利矣。"

長里だと、劉備の陣営が200〜250kmも続いてることとなる。一つの方面軍が100km以上に渡って野戦築城するなどあり得ない。
(ちなみに、2)で700里だったものが、こっちでは5〜600里になってるけど、これは劉備が兵の一部8000人を伏兵にしたから、、、、呉側からはその8000人が見えていない)



16)
胡綜伝
吳將晉宗叛歸魏,魏以宗為蘄春太守,去江數百里,數為寇害。權使綜與賀齊輕行掩襲,生虜得宗。加建武中郎將。魏拜權為吳王,封綜、儀、詳皆為亭侯。亭侯。

蘄春は長江から20kmの所。短里の最短でピッタリ。
768taro:2010/10/14(木) 19:26:34
17)
朱桓伝
黄武元年,魏使大司馬曹仁步騎數萬向濡須,仁欲以兵襲取州上,偽先揚聲欲東攻羨溪;桓分兵將赴羨溪,既發,卒得仁進軍拒濡須七十里問。桓遣使追還羨溪兵,兵未到而仁奄至。

羨溪は濡須(現無為県)の東、洞口(現和県)の手前。長里だと、魏軍が含山県付近にいることとなり、羨溪攻めのフェイントがバレる状況にない。
ここから蒋済を羨溪に向かわせつつ本軍は濡須へ向かったので、魏軍が濡須の郊外5km(短里の七十里)に迫るまで朱桓の対応が遅れたと見るべき。



18)
朱桓伝
今人既非智勇,加其士卒甚怯,又千里步涉,人馬罷困。桓與諸軍、共據高城,南臨大江,北背山陵,以逸待勞,為主制客,此百戰百勝之勢也。

魏の最前線・合肥から濡須までは、短里77kmで合う。長里435kmでは長すぎる。
ちなみに、例によって「洛陽から千里だろ」という言い訳は通用しないよ、、、、濡須から洛陽は長里の千里でも届かない、、、、長里千里だと中途半端なところで止まってしまう。



19)
徐盛伝
文帝到廣陵,望圍愕然,瀰漫數百里,而江水盛長,便引軍退。
長里だと、100〜300km(つまり、東京〜静岡間または東京〜名古屋間)に渡って仮設要塞が展開していることとなり、しかもこれを数カ月で作ったこととなり不可能。
短里なら20〜50kmの仮設要塞。
769日本@名無史さん:2010/10/14(木) 19:32:39
短里を研究するなら、
その先唱者である安本美典氏、古田武彦氏を尊重しないと、な。
770taro:2010/10/14(木) 19:34:07
20)
諸葛恪伝
丹楊地勢險阻,與吳郡、會稽、新都、鄱陽四郡鄰接,周旋數千里,山谷萬重,其幽邃民人,未嘗人城邑,對長吏,皆仗兵野逸,白首於林莽。

呉郡、會稽、新都、鄱陽の4郡に囲まれた山岳地帯となると、現宣城市から景徳鎮市へ至る地域しかない。東西200km南北100kmの範囲。
周旋とは「あまねく廻る」の意。となると、長里1000〜3000kmでは大き過ぎる。短里200〜500kmでちょうど。



21)
諸葛恪伝
建得渡江,欲北走魏,行數千里,為追兵所逮。

諸葛恪の子の諸葛建の亡命失敗の話。魏に行こうとして、長里1000〜3000kmも行ったら、魏についてしまう。


代表的なやつだけで、これだけある
もちろん倭人伝以外の東夷伝が全部短里でないと話が通らないのは有名な話
(高句麗とか三韓とか沃租とかが西北太平洋一帯に広がってしまう)
771taro:2010/10/14(木) 19:45:49
三国志本文中に里数記事は151個ある
"裴注"は2世紀も後でつけられたもので、しかも別の書物の引用だから除外。あくまで陳寿の「三国志」本文の話
あと、「万里」記事も除外ね。
古田なんちゃらさんは、「万里」を短里の証拠に挙げてるけど、
(そりゃ、「万里」=「一万里」と解釈したら、短里でないと通らんわな、、、4000km以上になるのに、中国の範囲は1000km四方程度しかないんだから)
でも、用例を見てると象徴表現にしか見えん(「万」の字に「たくさんの」という意味合いがあることも考えるとね)
萬里一統、懸旌萬里、萬里相赴、萬里之業、萬里之限、萬里之外・・・・・
"餃子の王将"の宣伝文句と同じだわ


三国志本文中の里数記事151個
そのうち短里記事は53個、、、確実なやつだけでも45個
全体の30〜35%に及ぶわけで、"何かの間違い"では済まされない

しかも、これがデタラメに登場するわけじゃないんだな

まず「蜀志」には一つも出てこない
魏志と呉志に集中するんだけど、これもある年代から突然頻出し始める
"その"年より以前には、これまた一つも出てこないんだな・・・

で、その境目となってる年っていうのが、、、、AD220年!!
772日本@名無史さん:2010/10/14(木) 19:49:12
唐ちゃん、河童ちゃん、ローガンちゃん、縦ちゃん

taroさんの問いに答えて下さい!!
773taro:2010/10/14(木) 19:58:23
AD220年・・・・つまり漢から魏への禅譲の年、ね
漢が滅んで魏帝国が成立した年

魏の成立と同時に短里が里数記事の大半を占めるようになる
これだけ見ると古田〜氏の「魏西晋短里説」が正しいように思えるけど、でもそうはいかない
またある年代以降、一気に短里が姿を消す
それがAD250年
短里は、AD220年代からAD240年代の、正味30年間だけ使われてる
AD240年代の終わりに何があったか・・・・・・高平陵事件だよ(AD249年)
これ以降、権力が曹氏から司馬氏に移る

曹氏が実権を失って「短里」も効力を失うんだわ

「魏西晋短里説」が間違ってるのは「三国志」だけじゃなく、「晋書」からも分かる

「晋書」は、基本長里で書かれてる。東晋時代の話だけじゃなく、西晋時代の話もね
短里とおぼしき記事が出てくるのは魏代・・・それもAD220年代〜AD240年代の記事に限られる
(それこそ司馬懿の話とか、、ね)
774taro:2010/10/14(木) 20:07:38
蜀は「漢の後継者」を自任して魏と対立し続けたから、蜀の記録に短里が無いのは当然だわな

では何で呉志に短里が使われてるのかって??
呉は魏の家臣だったからだよ

AD220年に文帝曹丕が即位すると、呉の孫権はこれに朝貢してる
でもって、魏から"呉王"に封ぜられてる
(ちょうど卑弥呼が倭王に封ぜられたように、、、、まあ、形式の話だけど)

そして、すくなくとも220年から222年までは呉は魏の年号まで使ってる
でもって、孫権が魏から完全に独立して自ら皇帝になるのはAD229年の話

呉志の里数記事は全部で29個
うち短里は10個(やはり30%)
このうち8個までが220〜229年に集中する

魏から離れてから短里をやめたわけだ
775taro:2010/10/14(木) 20:16:41
里数記事をフルチェックしたら、こういう結果が出た


一応、裴注部分の里数もチェックしたけど、1個だけ「AD220年以前の短里記事」ってのが出てきたけど、佚書の「呉録」だったし、引用が正確かどうかわからない
あとはほとんど裴注部分も短里はAD220〜AD240年代に集中してたよ

ただ今、「漢書」「史記」「後漢書」などについても、同じ分析を敢行中・・

途中なのでハッキリとは言えないけど、ちょっと面白い結果が出てきてる
776日本@名無史さん:2010/10/14(木) 20:20:49
へー
何か説得力ある
777メ(2ch専門):2010/10/14(木) 20:34:00
>>729
>末盧国から東南に五百里、さらに東南に百里、そして東に百里、そこから南に千三百里のところに邪馬台国があると倭人伝
>には書いてある。対馬と壱岐の間を千里とすれば千三百里は70〜80kmだ。
>これだと邪馬台国は熊本辺りになるな。

そかw

>>732
>筑後国には久留米の高良大社、八女の岩戸山など、かつて強力な権力があった痕跡がある。
>むちゃくちゃ怪しい。山門説はそういうものを根拠にしてたりするのでしょうか。

九州山門説の人にききなw

>>750
>「壹」と「臺」ですが、これをパソコンで見分けるにも目を凝らして見ないといけなかったわけだし、
>当時、倭の国で使用していた目の粗い倭紙に書き分けることは事実上不可能だったと思われます。
>臺の文字は、室(むろ)に置き換わったのではないでしょうか?
>邪馬台国は、山室国だったのです。
>邪馬台国は、紀伊半島にあったというのが結論なのです。

臺の字が室ってことはまずないよw
それにしても、紀伊半島説というのは新しいですね。
他にはどう根拠みたいなのがあるのでしょうね。(遺跡とか)
778メ(2ch専門):2010/10/14(木) 20:39:00
>>751
>「会稽東冶」なのか「会稽東治」なのかの方が重要な問題だと思います!

おなじ会稽東治?

>>755
>近隣の邪馬台国スレに書きこんであります。

こっちにも書き込んで下さいよ〜おれ向こうはあまり見てないのでw

>>756
>金印も志賀島で見つかっており、邪馬台国は古代朝鮮と密接な関係にあったことは疑いない。

なぜ金印で、倭と朝鮮と密接な関係が分かるの??

>対馬ー志賀島ー邪馬台国とのちの百済は兄弟国家といっても良い。
>恐らく百済人の祖先である馬韓人の王が日向の地におりたち畿内を征服して巻向の地に王権樹立した。
>馬韓は養蚕や稲作が盛んであり、定住民であった歴史的事実、日本書紀にも養蚕が古来から言及されるなど強い相互関係が見られる。
>私たち日本人は馬韓人が縄文人を征服して作られた韓半島の兄弟民族である。
>それゆえに韓国は兄、倭は弟と言われてるのも道理であった歴史的事実を素直に認めることこそ、韓日文化と歴史的事実の相互理解への
>第一歩ではないだろうか。

へぇ〜そかw
779日本@名無史さん:2010/10/14(木) 20:41:25
その説からすると、何故陳寿は短里を使うんだろうか?
倭人伝は報告書が短里だから、いいとして、

韓半島を方四千里というのは(報告書とは無関係な事実)、
長里にすべきじゃなかろか。陳寿は晋朝の家来なんだから
780日本@名無史さん:2010/10/14(木) 20:59:34
>>773-775
すげえ説得力ある
学会で発表してもいけるんじゃないか?
781日本@名無史さん:2010/10/14(木) 21:07:13
>>779
陳寿はもともと蜀の人だから、朝鮮半島なんて当然行ったこともないし
当時の中央官僚の感覚だと、楽浪郡だの帯方郡だのなんて外界って感覚じゃないの?
事実、あの一帯の話は全部「東夷伝」にまとめてあるわけだし
782メ(2ch専門):2010/10/14(木) 21:19:06
>>760-770 taroさん
>「短里は存在しない」という人とか、「短里は東夷伝のみに存在する」とかいう人に訊きたいんだけど、、、
>三国志の以下の記事をどう解釈するんでしょうか? 長里で計算して、実際の地図に当てはめると、とんでもないことになるんですけど?
>思いっきり中華中原のド真ん中に"短里"が出てくるので、「錯覚」「何かの間違い」では済まされないんですけど?
>1) 杜畿伝 2) 文帝紀 3) 夏侯尚伝 4)蔣済伝 5) 文帝紀 6)賈逵伝 7) 満寵伝 8) 満寵伝 9) 明帝紀
>10) 明帝紀 11) 胡質伝 12) 高柔伝 13)高柔伝 14) 曹真伝 15)陸遜伝 16) 胡綜伝 17)朱桓伝
>18) 朱桓伝 19)徐盛伝 20) 諸葛恪伝 21)諸葛恪伝

河童君じゃ〜荷が重いw taroさんの問いにわたしが答えてやろうwww

まず始めに言っておきたいのが、「里」は「里」であって、「長里」「短里」という言葉はない。
古代中国の「里」ですが、もともとは面積をあらわすものであったが、便利上、面積の一辺を距離の単位として用いる習慣が出来た。

しかし、当時、この「里」というのは、公式の距離単位ではなく、あくまでも便利上用いていた距離なので、
中央、地方とで単位の差があり、バラバラな状態であった。

また、里を測るときは、間竿、間縄で測る(実測)というのがあったんだけど、
ほとんどの史書でみえる里数は、こういった実測のものではなく、歩数や旅行日数、

又は、夏至における周髀の陰の長さを使って距離を測る天文学的な方法でその距離をもとめたりした。
この場合、測定位置や太陽の緯度(日にち)によって違うからによってバラつきが生じる。

というわけで、里が"短くみえたり""長くみえたり"してるだけであって、
ようは、なにかの間違いというか、当時中国では、短里、長里なんてありません。
短里、長里言ってるのは古田信者とかw 安本信者ってやつじゃないんですかね・・・

ハイ〜短里なんて存在しません(笑)
783taro:2010/10/14(木) 21:19:11
>>779

それは私への質問??
私への質問だという前提で話をするけど、、、

あくまで、フルチェックしたらこういう結果が出たってだけのことなので、解釈はまだ想像の域を出ないけどね

「史記」「漢書」「三国志」「後漢書」「晋書」、、、を分析して分かってきたのは、「史家は、元の資料に書かれている里数をそのまま記述する。自分の時代の里数に換算しない」ということ
どの書物であれ、魏のAD220〜AD240年代の出来事を書く場合は短里になってる
「この時代の事を書く場合は短里」っていうより、「元の資料が短里だったから、改定せずにそのまま書く」っていうスタイルのようで

この、「元の資料が短里だったら(あるいは、長里だったら)、改定せずにそのまま書く」っていうのは、別の側面からも浮かんできてるのよ
784taro:2010/10/14(木) 21:21:54
他の史書の分析結果(まだ途中)を先に言ってしまうと、ね
「史記」「漢書」「三国志」「後漢書」・・・・
ここまで通して、夷蛮伝の書き方にも「換算はしない」「元の数値をそのまま書く」ルールがある様なのよ


「後漢書」の東夷伝も短里なんだよね
「三国志」と違って、「後漢書」の場合は中華中原に関わる部分は全部長里なんだわ(漢代なんだから当然)
でもって東夷伝のみ短里で、しかも「三国志」と文面がそっくりだったから、「范曄のやつ、三国志をまんまパクりやがったな、、、短里と長里の区別も分からないで。いい加減な奴」とか思ったんだけど、、、、
でも、これはこっちの勘違い
「漢書」「史記」を分析して分かった

いずれの史書も「東夷伝」は短里だった

もっと言うと、どの時代の史書も「東夷」と「南蛮」の記事は短里、「北狄」と「西戎」の記事は長里で書かれてる
785メ(2ch専門):2010/10/14(木) 21:22:32
>>776
>へー 何か説得力ある

>>780
>すげえ説得力ある 学会で発表してもいけるんじゃないか?

笑ろうたwww おめーどこが説得力あんだよ?wwwwwwww
786taro:2010/10/14(木) 21:22:47
「漢書」西南夷伝
蹻至滇池,方三百里,旁平地肥饒數千里,以兵威定屬楚。
滇池は、約20km四方。

道西北牂柯江,江廣數里,出番禺城下。
牂柯江は現北盤江。山岳地帯を流れる川であり、川幅は最大でも200m程度。短里の最小でとって合致。
長里では、最小でも1kmにもなり、合わない(川幅1km)だと、夷陵付近の長江に匹敵する)。

南粵王黃屋左纛,地東西萬餘里,名爲外臣,實一州主。
南粵の領域。長里だとインドのベンガル湾まで達してしまう。短里だと、ちょうど広西〜広東の領域に収まる。
「萬余里」だから、「萬里」記事じゃないよ。端数があるので具体的数字

且番禺負山險阻,南北東西數千里,頗有中國人相輔,此亦一州之主,可爲國。
番禺は現広州市。長里だと最小でも1000km四方となり、広西〜広東の全てを覆う事になる。
番禺の面積とは言えない(むしろこの時点よりずっと後年の、趙佗の最大版図に匹敵してしまう)。短里だと、200〜500kmとなり、現在の広州・澳門・香港周辺の平野部に合致する。

佗因此以兵威財物賂遺閩粵、西甌駱,役屬焉。東西萬餘里。
趙佗の最大版図。長里だとインドのベンガル湾まで達してしまう。短里だと、ちょうど広西〜広東の領域に収まる。

「漢書」東夷伝
以聞,上許之,以故滿得以兵威財物侵降其旁小邑,真番、臨屯皆來服屬,方數千里。
真番郡、臨屯郡の範囲。長里だと、最小でとっても朝鮮半島全部と遼東郡まで覆ってしまい、成り立たない。
短里だと200〜500kmで、真番郡・臨屯郡の比定地である朝鮮半島北部に収まる。

「史記」も「漢書」と全く同じ記述



「後漢書」は。。。。めんどくさい、、、↓ここで自分で確認して(--;;;;;;;;;;;;
787日本@名無史さん:2010/10/14(木) 21:26:21
>>780
いい加減な事言うなよ、期待したら残念な結果だよ、どうするんだよ
788日本@名無史さん:2010/10/14(木) 21:29:53
>>787
笑えばいいさ
789taro:2010/10/14(木) 21:33:17
>>782
>>中央、地方とで単位の差があり、バラバラな状態であった

バラバラじゃないから、意味を考えなきゃならんのよ
里数記事のフルチェックすれば分かること

「三国志」本文中の里数記事は全て長里435mか短里77mで合致する
全くバラバラだったら、その中間とかどっちも無理とかいうものが出てくる

それは無い


あと、「古代中国の測量では正確な里数は存在しえなかった」というなら、その根拠を示さないとね

東夷伝の記事が実数値と合わないので、勝手に「誤差が大きかったのでこうなったんだろう」って推測しただけでしょ
短里概念一個導入するだけで、全部の里数がピッタリはまるなら、それは何がしかの意味を感じ取らないと、鈍感すぎるよね

あと、もし単なる誤差・錯誤によるものなら、「AD220〜AD240の魏志&呉志に短里集中」「それ以外の記事には全くゼロ」というような偶然の偏りにはならない
790河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/14(木) 21:34:07
>>785

>もっと言うと、どの時代の史書も「東夷」と「南蛮」の記事は短里、「北狄」と「西戎」の記事は長里で書かれてる

それは・・・
簡単に言えば、海があるかないかの違い。
791taro:2010/10/14(木) 21:36:02
あ、「後漢書」のURLが消えてる

ttp://zh.wikisource.org/zh-hant/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E6%9B%B8/%E5%8D%B785


あと、反論も(笑)も結構ですけど、ちゃんと自分で確認してからやった方がいいですよ

私も、古田信者でもなければ安本信者でもないので、自分で確認したうえで言ってることなんで
792taro:2010/10/14(木) 21:42:48
>>790

なんか、そんな説がありましたね
「海里」とかだっけ?

自分の分析では、全然別の可能性が出てるけど、まあまだ途中何で

それより、「三国志」の里数記事について、正面きって反論できる人っています?

151個の里数について、「短里」と「長里」以外に筋の通った説明ができる人


どう考えても、夷陵の劉備陣営が700里とか、夏侯尚の上庸より700里西とか、孫権の数百里の屯田とか、説明のしようもないと思いますが
しかも、東関〜長江とか蘄春〜長江とか、具体的な2点間距離もピッタリ合ってるし

概論で逃げないで、正面突破してくれたら、納得しますよ
793太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/14(木) 21:48:46
>>765
どういう問いなんだろう? 彼のは長くて読んで把握するのが手間が
かかる。
794范陳遷:2010/10/14(木) 21:51:03
taro氏はよいところに着眼した。ええ仕事や。メなんかにゃ価値がわからんようだが、いいぞ〜。
795taro:2010/10/14(木) 21:56:06
>>793

「問い」は、1発目の書き込み=760の冒頭に書いてます


まとめると
1)「三国志」全体の里数記事のうち30%以上が短里でないと解釈できないこと
2)それらはデタラメに出てくるのではなく、魏帝国の成立と同時に出現し、曹氏の失権とともに消えていくこと
3)魏の家臣となった呉には、その期間だけ短里が出てくるのに、一度も魏の下に入ったことのない蜀には短里が一切出てこないこと

これだけハッキリとした傾向性がある以上、53個もの短里記事を「錯誤」「何かの間違い」の一言で片づけるのは科学的・学問的に正しい態度とは言えない

796河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/14(木) 21:58:37
>>792

>自分の分析では、全然別の可能性が出てるけど、まあまだ途中何で

もっと簡単に言えば、歩測と機械測(六尺)の違い

もともと「里」って陸地面積の単位であって、その面積の一辺の長さを
「里」として距離の単位に
面積1里って、一辺の長さも1だろう?  そこから「里」という長さが誕生したわけ
これが(建歩立畝)というやつ
797メ(2ch専門):2010/10/14(木) 21:59:55
うーん まいったなw どう説明すればいいんだろうか・・・
たぶん、分からないのは、taroさん一人だけって話でw

彼の頭の中だけでゴチャゴチャになってるような気がする。
taroさん以外の人は知ってて、taroさん一人だけが逃げないで、正面突破できないんだろうねwwww
798メ(2ch専門):2010/10/14(木) 22:03:47
>>792
>概論で逃げないで、正面突破してくれたら、納得しますよ

ここにいる全員出来ますw


799太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/14(木) 22:07:00
>>795
これはそれがしの研究方法ではないな。
まぁそういうやり方で考えるのも一方法だろう。
それで長短がどう畿内説か九州説あるいは他説と関わってくるのだろう?
800日本@名無史さん:2010/10/14(木) 22:09:13
>>783
方四千里と書いたのは陳寿がはじめて。

あと、聞いた話だと周代は短里らしいよ。
曹操が周制に戻したとからしい。
801taro:2010/10/14(木) 22:19:03
>>798
>>ここにいる全員出来ます

やってみせて


最初から「短里など存在するわけがない」という決めつけで凝り固まってるように見えますけどね
ろくに検討もしないで、即反対してるところとか見ても

結構長い書き込みだったし、ちゃんと裏を取ってたら、こんなに早く結論が出るとも思えんが?
こっちもすぐに意見が出るとは期待してなかったし


とりあえず、寝ながら待ってみるわ
こっちの論説は、だいたい全部書いたし
802日本@名無史さん:2010/10/14(木) 22:19:45
短里だと1里=300歩とすれば1歩は25cmくらいかな?
803日本@名無史さん:2010/10/14(木) 22:24:04
1歩が25cmならば卑弥呼の冢は徑25m余だな。
804メ(2ch専門):2010/10/14(木) 22:30:14
>>801
>やってみせて

まずそのまえに、私が言ってることを理解できる程の基礎知識を
taroさんが身につけることかな・・・。

>最初から「短里など存在するわけがない」という決めつけで凝り固まってるように見えますけどね
>ろくに検討もしないで、即反対してるところとか見ても
>結構長い書き込みだったし、ちゃんと裏を取ってたら、こんなに早く結論が出るとも思えんが?

あのぅ〜俺らは、こういう議論をさんざんしてきてるんですよ。
始めたばかりなのは〜taroさんダケって話で・・・・理解できたかな?

>>794
>taro氏はよいところに着眼した。ええ仕事や。メなんかにゃ価値がわからんようだが、いいぞ〜。

レベル低っwww

>>800
>あと、聞いた話だと周代は短里らしいよ。 曹操が周制に戻したとからしい。

おめード素人丸出しだなwwww
805范陳遷:2010/10/14(木) 22:37:14
>>804
そんな逃げ口上ではだメ〜。キミらがさんざんやってきた議論の結論で反論してみなよ。
806メ(2ch専門):2010/10/14(木) 22:57:39
う〜ん おれは眠いんで〜
あとはローガンさんにでも教えて貰いなよ。

あと、おれのレス〜ノートに控えるぐらいの努力が無いと
一生分からないと思うよ。 てことで・・・・・
807日本@名無史さん:2010/10/14(木) 22:58:45
短里、長里というのは、相対尺度だと思われます。
100里くらいまでは、1里=80mだけれど、
1000里は300里くらいに、万里は千数百里くらいに縮小しないと実際の距離と一致しない。
絶対尺度というのは、実は、科学常識を教え込まれた現代人だけが持つ特殊な常識なのではないだろうか?
808范陳遷:2010/10/14(木) 23:09:49
出来ないなら正直に出来ませんと謝ればいいのに。だメだね〜。メッ!!
809日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:11:09
>>807同意。地震の大きさを示すマグニチュードのようなものでしょう。
810日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:11:21
なんだ、taroとかいう面白い奴が来たかと思ったら、
メとか言うウジ虫に追い払われたのか・・・
悪貨は良貨を駆逐(ry
811日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:13:49
>>806
老眼に出来るわけね〜だろ。公定里の話しかしないんだから。
812日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:15:31
>>803
そうゆう考え方は、駄目だろうね。直木は、「問題はこのような短小な里が、魏代では
一般に使用されていたのか、東夷伝にだけ見える特別な里か、である。一尺24センチ
として360倍すると、86.4メートルになる。360尺=1里という特別な里制が
あったのであろうか。」と書いている。その考え方が説得力があるね。
813日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:22:06
里が相対的な概念であるのは常識。年代により、地域により当然異なる。
短里・長里なる概念が存在しないのも常識だが、仮に相称しているだけ。

里の概念が相対的であるからこそ、
事実の統計的調査からその時代の長さを帰納する必要がある。

あと大切なのは、
@寸→尺→丈
A歩→里
の二つの体系は異なる体系だということ。両者を混在して使うことはない。
Aが変動して@が変動しないということがありうる。
814日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:22:08
>>812
直木の説だと1歩はいくらになるのかね。
815日本@名無史さん:2010/10/14(木) 23:32:18
>>814
6尺=一歩を動かすわけではない。だから、一歩は1.4メートルぐらい
ということだな。
816ローガン:2010/10/15(金) 00:03:47
>>792taroさん。素晴らしい。よく調べられましたね。全てに反論するのは時間がかかりそうです。取り敢えず最初のやつ

>1) 杜畿伝 若二賊遊魂於疆,飛芻輓粟,千里不及。究此之術,豈在強兵乎?
>東関〜合肥・荊州〜南陽・漢中〜長安。いずれも、呉&蜀の最前線拠点から魏領内攻略目標までは短里千里(77km)をやや上回る数字。
>「呉や蜀が国境を狙っても、千里の彼方に兵糧を運ぶことが出来ません。この方針を貫けば、特に強兵など必要ありません」の文言に合う。

誤読では無いでしょうか?杜恕の上表文ですね。大魏の領域は十州、その中で国庫が豊かなのは四州。その内のキ州は特に天下の台所。
この地に軍事を任せるべきではない。呂昭は適任ではない。(軍事より農業の充実を図るべきだ)
先年、牛の死亡。収穫は半分。作付けも済んでいない。(このような状況では) 千里の彼方へ食糧補給などままならない。
この千里が実際の二点間の距離を述べたものとは思われませんが。如何に?
又、明日にでも…
817taro:2010/10/15(金) 00:10:23

>>804

便利ですね
そうやってすかしておけば、あたかも自分が優位にいるように錯覚できますから
しかし学問の基本を御存じないようなので教えて差し上げますが、自説と矛盾するデータを冷笑して無視したり、反対意見をろくに検証もせずに否定したりしても、自論を補強することにはなりませんよ
逆に、自説の立場が脆くなるだけです

正しいのであれば、何度でもその正しさを主張し続けるべきですね


で?
「三国志」の里数が、1里80m弱と1里400m強に集中して偏ってる事実の解釈は?
1里80m弱の記事が、AD220年代からAD240年代の魏志&呉志のみに集中している、この偏りの解釈は?
短里と長里の概念を導入せずに、どうやって説明するんでしょうか

818taro:2010/10/15(金) 00:11:34
>>813
>>事実の統計的調査からその時代の長さを帰納する必要がある

まさにその通りで、実際に史書の記述から長さを帰納してみたんですよ
その結果がこれです

「三国志」本文に関して言えば、1里400m強か1里80m弱で解釈できない記事はありませんでした

もし、1里の長さが不定なもので、里数記事を正確に現代のm法に直せないほど誤差が大きいのだとしたら、この2点に集約している事実の説明がつかないんです

それも1里80m弱(「いわゆる"短里"」って言い方をすれば良いですか?)の記事が、AD220年代からAD240年代に集中するという事実が加わるとなったらなおさらです
819taro:2010/10/15(金) 00:12:38
>>807

そういう風になってないんですよね、実際の記事は
百里以下の記事でも、AD220年以前の記事では長里でないと解釈出来ない

典韋伝
太祖討呂布於濮陽。布有別屯在濮陽西四五十里,太祖夜襲,比明破之。未及還,會布救兵至,三面掉戰。
短里(3km)だと、夜襲の最中に呂布の援軍がやって来るはず。すぐ目と鼻の先だから。

武帝紀
公與荀ケ書曰:「賊来追吾,雖日行數里,吾策之,到安衆,破綉必矣。」
いくら作戦でも、1日の行軍が数百mは短すぎる。却って疲れる。止まってた方がマシ。

袁紹伝
尚聞鄴急,將兵萬餘人還救之,依西山來,東至陽平亭,去鄴十七里,臨滏水,舉火以示城中,城中亦舉火相應。配出兵城北,欲與尚對決圍。
鄴が曹操に囲まれているのを聞いた袁尚が救援に来た話。
包囲軍のさらに外側から城内に火で合図したのだから、鄴城から1.3km(短里)では近過ぎる(包囲軍とすでに衝突している)。長里7.4kmは離れていないとおかしい。
820日本@名無史さん:2010/10/15(金) 00:19:58
>>819
メ は相手にしないほうがいい。有名なダメコテだから。
821taro:2010/10/15(金) 00:28:15
>>816

ああ、こういう反論を待ってたんですよ
とりあえず、全部検証してからでないと、一個二個反論してもどうなるものでもないのは分かってますんで、ローガンさんが解釈し終わるまで待ってますよ
822日本@名無史さん:2010/10/15(金) 04:28:11
>>807
古代人は不可解な奴らだった
っていうのは現代人の悪い癖だ
823日本@名無史さん:2010/10/15(金) 06:30:50
220年以前と以降の差は
「非足跡車軌所及」この東夷の一文で判断できる。
824河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/15(金) 06:53:30
六尺一歩は、面積単位「歩」に実質的な数値を組み入れた
その組み入れた数値が六尺。
始皇帝がこの数値を統一するまでは、さまざまな数値があてられていたわけで
時代、地域によって様々だった。         所謂、建歩。

面積単位「歩」には、一辺を六尺とした、36尺面積と、一辺が歩幅一歩による
文字どおりの面積「歩」のふた通り存在する。   
これが俗に云う、短里と長里の原点。
825河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/15(金) 07:09:25
この六尺一歩が基となり導きだされる
面積の単位が、
畝、夫、屋、井
この井の一辺の長さを里としたのが
六尺一歩からの1800尺一里。
これが現在いわれている長里
826河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/15(金) 07:46:26
そしてもう一つ、面積歩に対して
六尺一歩で建歩していない、歩幅一歩を一辺とする面積単位「歩」
この場合、建歩立畝していないのだから、面積単位畝、夫、屋の存在はない。
存在するのは、一歩の歩幅による面積単位歩と、その一辺の長さを360倍した、360歩を一里とした面積単位「里」だけ。
これが短里といわれる長さの単位。
827taro:2010/10/15(金) 09:34:39
>>824〜826

短里の起源までは首を突っ込んではいないんだけど、その説で行くと"短里""長里"の成立時期はだいたいいつごろだと想定しているんでしょうか?
(from 仕事中にサボって書き込んでるやつ)
828河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/15(金) 09:51:04
>>827

基準を明確にしたのは、始皇帝の時代からかと
それ以前にも存在していたけど、基準はマチマチ
だから統一が必要だったと思いますよ。

829日本@名無史さん:2010/10/15(金) 13:23:17
taroさん素晴らしいわw
今までの自称文献派がまるでゴミのようだw
830日本@名無史さん:2010/10/15(金) 14:56:17
>>783
>どの書物であれ、魏のAD220〜AD240年代の出来事を書く場合は短里になってる

反例:建安十三年(2008年)九月の記述
?書九/周瑜魯肅呂蒙傳第九
將軍以神武雄才,兼仗父兄之烈,割據江東,地方數千里,兵精足用,英雄樂業

この数千里は明らかに短里。史記とかでは方千里としている場所。
831日本@名無史さん:2010/10/15(金) 14:59:39
>>830
失礼、ミスがあった。正しくは以下。
呉書九/周瑜魯肅呂蒙傳第九
建安十三年(208年)九月
將軍以神武雄才,兼仗父兄之烈,割據江東,地方數千里,兵精足用,英雄樂業
832taro:2010/10/15(金) 15:31:00
>>831

ああそれ
有名なやつね
俺も最初はそう思ったけどね

史記の場合は「江東雖小,地方千里」
「江東は、小さいと云っても千里四方はあります」
"江東"を主語として、江東そのものの大きさを述べている

三国志の場合は「將軍以神武雄才,兼仗父兄之烈,割據江東,地方數千里」
「将軍(=孫権)は、すごい才能を持ってて、しかも父や兄の激しさも兼ね備え、江東に割拠して、土地は数千里にもなる」
だから、"将軍"を守護として、孫権の支配地の話をしてる。。。。江東が数千里じゃないよ

赤壁直前の孫呉の領土は、江蘇省から福建省まで1000kmに及ぶ
長里の最短で取って合致

古田さんの勘違いですね
833taro:2010/10/15(金) 15:33:47
10行目、

「守護」じゃなく「主語」だ

834日本@名無史さん:2010/10/15(金) 15:38:19
じゃ、こっちは?
時代は「漢末」
魏書十七/張樂于張徐傳第十七
中有天柱山,高峻二十餘里,道險狹,?徑裁通,蘭等壁其上
835taro:2010/10/15(金) 15:47:23
>>834

それも有名なやつだ(^^))))))
それを見て最初に思ったのは、「山の高さを"里"で表すか〜???」って疑問だったんだけど・・・・これは、少数だけど実例が無いことも無いんだよな

でもね・・・・
「潜中有天柱山,高二十餘里」だったら、問答無用で山の高さだけどね
「潜中有天柱山,高"峻"二十餘里」なんだよな。「峻」は「険しい」の意味。
でもってその後に「道険狹,歩径裁通」と続くから、これは山道が20余里続くって話だね

実際に潜水の渓谷の入り口から潜水を遡り、石牛古洞を経て山道へ入り天柱峰へ至る総行程が約10kmで、ちょうど長里の20余里に合致してしまうんだよ
これで長里に合致しなければ、「短里だっ」って主張できたんだけど・・・(公孫淵征伐の"四千里"の時みたいに)
836日本@名無史さん:2010/10/15(金) 15:55:38
ということは「曹魏短里説」ですな。
837taro:2010/10/15(金) 15:58:59
「曹魏短里説」??

ハイ、昨日からその話をしてるんですが?

「三国志」の里数記事を分析すると「曹魏」によって短里が導入されてる可能性が高いんじゃないかって話なんですが・・・
838ローガン:2010/10/15(金) 16:43:06
ちょっと調べてみました。
2)文帝紀
閏月,孫權破劉備於夷陵。初,帝聞備兵東下,與權交戰,樹柵連營七百餘里,謂群臣曰:「備不曉兵,豈有七百里營可以拒敵者乎!
『苞原隰險阻而為軍者為敵所禽』,此兵忌也。孫權上事今至矣。」后七日,破備書到

連營…連なって取り囲む これ柵の事でしょう。その内が七百餘里。一辺約11km四方では?「高原、湿地 険阻な地を包んで…」に合います。

3)夏侯尚伝
尚自上庸通道,西行七百余里,山民蛮夷多服従者,五六年間,降附数千家
>長里だと、上庸から700里西は漢中(蜀の領土)まで届いてしまう。

上庸県がどこか?湖北省竹山県(by wiki)だとしたら、漢中まで直線でも1000km以上ありますよ。

4) 済伝
船本歴適數百里中,濟更鑿地作四五道,蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水,皆引后船,一時開遏入淮中。
>「船が数百里に渡って広がり収拾がつかなくなってたので、一旦水をせき止め、船を引っ張って一か所に集めておき、あらためて水を流して一気に船を進めた」という文言。

数千艘の船が縦一列に並んだ訳では無い。湖に広がった状態を書いたもの。
数百里…仮に四百里だとしたら 約9km四方か?

5)文帝紀
冬十月,行幸広陵故城,臨江観兵,戎卒十余万,旌旗数百里
>10万人の兵隊が、100km〜300km(東京〜静岡間もしくは東京〜名古屋間)におよぶ行列を作って観兵に臨むなどあり得ない

これも上と同様。面積と考えて どうですか? 総員横一列では無いでしょう。

6) 賈逵伝
明帝即位, 邑二百戸,并前四百戸。時孫権在東関,当豫州南,去江四百余里。毎出兵為寇,輒西従江夏,東従廬江。国家征伐,亦由淮、
>東関は濡須口付近、川を挟んで濡須の対岸側。長江からちょうど短里30kmほどのところ。長里174kmでは長すぎる。

東関の所在、どこか知らないのですが、西に江夏、東へ盧江…漢代の江夏、長江の北約100km位ですね。
其のあたりから長江は南に流れるので、江夏の東側は更に長江からは離れている。
839taro:2010/10/15(金) 17:17:37
>>838

とりあえず6)まででしょうか?

お互いの反論がゴチャまぜになるとややこしいので、どこかで切られるならそこからこちらの意見を書き込みたいんですが
840ローガン:2010/10/15(金) 17:57:33
>>839
では、取り敢えず ここまでにします。 お願いします。
又後程、来てみます。
841taro:2010/10/15(金) 18:14:37
分かりました

こちらも仕事中ですので、また後ほど
842日本@名無史さん:2010/10/15(金) 18:33:28
ずいぶんと、学問板らしくなってきたじゃねーのよ
843日本@名無史さん:2010/10/15(金) 18:43:51
taroサマ、
>どの書物であれ、魏のAD220〜AD240年代の出来事を書く場合は短里になってる

景初三年(239年)卑弥呼が魏に使いを送り銅鏡100枚を受け取る
正始元年(240年)帯方郡から魏の使者が倭国を訪れた

正始元年(240年)に訪れた使者は記録はどちらの単位で記録してたのでしょうか?
844日本@名無史さん:2010/10/15(金) 19:06:10
魏志によると

帯方群→狗邪韓国 7000余里
狗邪韓国→対馬国 1000余里
対馬国→  一大国 1000余里
一大国→  末盧国 1000余里
末盧国→  伊都国  500  里
---------------------------
帯方群→  伊都国 10500余余余余里

帯方群→  女王国 12000余里


今までは、女王国=邪馬台国だと無条件に信じられてきたけど
実は、女王国=伊都国(or奴国)なんじゃないの?
845taro:2010/10/15(金) 19:23:41
>>843

「AD220〜AD240年」じゃないんですよ
「AD220〜AD240年代」なんですよ

境目は249年と250年


いずれにしろ、倭人伝は東夷伝ですけどね
だから240年は、まだまだ曹氏が元気だったころです
846唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/15(金) 20:53:56
>>844
>今までは、女王国=邪馬台国だと無条件に信じられてきたけど実は、女王国=伊都国(or奴国)なんじゃないの?

これが、正しい歴史のみかたでしょうね。
倭人伝には、難升米(難斗米)=率善中郎将と伊聲耆(者)掖邪狗=率善中郎将が登場する。
率善中郎将を軍の大将と考えると、大将が2名では、1国を統率できない。
つまり 難(奴国)と伊勢(ヤマト)の2国体勢である。

倭国乱の終了は、狗奴國との戦いの終了。つまりイヨの時代である。
そこで下記の文章が登場する。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。

この文章を自説に合わせて読む必要がある。
847日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:10:25
>>844
女王国=邪馬台国という見方はまちがい。まともな史家が断りもなしに国名をあれこれ
ちがえて書くはずはない。
したがって、女王国=伊都国というのもありえない。それに、伊都国が統属する相手国
が女王国だということを忘れてはならない。
女王国というのは、邪馬台国を中心とする国々の総称、ただし、以北の国々を含まない。
848日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:12:05
>大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。

ぎゃはは! 唐松は漢文を読めないのだから口出ししないほ〜がよかよ。
849ローガン:2010/10/15(金) 21:20:25
少し時間があったので、上のに追加しときます。

7)満寵伝
盧江雖小,将動兵精,守則経時。又賊捨船二百里来,后尾空縣,尚欲誘致
>「呉軍は船を捨ててやって来た」とあるが、盧江からみて最も近い水辺は巣湖の南岸(呉の前線・東関から船で来れる。

この話のすぐ後にある合肥城移転の計略、「西方三十里」。
同じ話の流れなんで、これも短里にしますか? たった24kmになりますが… 権は水から遠くなったと云う理由で20日間も上陸を躊躇ったように書いているですが。

8) 満寵伝
至八月,寵以為田向收熟,男女布野,其屯衛兵去城遠者數百里,可掩也。
>孫権の屯田兵が刈り入れのために100km〜300kmに散らばってるのは、広がり過ぎ。江戸城攻めの兵隊が、静岡県や愛知県まで屯田してることになるんだぞ?

別に朝晩、城と田を往復する訳でなし。居ないので襲撃のチャンスでしょう。

9)明帝紀
>秋七月壬寅、帝は親しく御龍舟に乗って東征した。孫権は新城を攻めるも、將軍の張穎等が力戰固守し、帝の軍が未だ數百里に至る前に遁走した。
>短里だと、敵の援軍が20〜50kmまで来て退却。長里だと100〜300kmで退却。100〜300kmあったら、もう一踏ん張りして合肥を落としてしまえばいいんじゃないの?

いや、明帝が近づいたから敗走したとは書いてありません。
「到着する頃には、権は逃走しているだろう。」と予想したものの、将軍張穎の働きにより、まだ数百里彼方の時点で、権は逃走した と書いているのです。
ではまた。
850日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:31:00
倭人伝に対馬國と一大國の島のサイズが書かれてあるが
数字的に大した差がない。一大國が壱岐なら、実際の対馬と
対比して妙ではありませんか。
まだ一大國が五島の方がちょうど良い。
851メ(寝る前):2010/10/15(金) 21:32:42
お、がんばれローガンさん
taroさんに負けんじゃねーぞw

852日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:39:37
寝てる場合か?起きて反論しろ こんにゃろメ!
853taro:2010/10/15(金) 21:48:25
寝てない

仕事中
854日本@名無史さん:2010/10/15(金) 22:14:38
>>847
ごめんなさい
女王国=伊都国(or奴国)「までの距離」なんじゃないの?っていうつもりで書いたのであって
伊都国(or奴国)が単独で女王国だというつもりはありませんでした
つまり、帯方郡から女王国の入口である伊都国までって意味ですね
そう考えないと、不弥国から投馬国ならびに邪馬台国までの距離が短すぎて
どう考えても「水行20日」+「水行10日+陸行1月」も、かかるはずがないですからね
855日本@名無史さん:2010/10/15(金) 22:26:33
>>854
なるほど。しかし、伊都国までは万五百里です。それに伊都国や奴国は「女王国以北」
の国々です。女王国には入りません。
万二千里は女王国の入り口までの距離だということはそのとおりでしょう。
女王国とは邪馬台国と投馬国、それに旁国を合わせた概念だと思います。
856日本@名無史さん:2010/10/15(金) 22:29:16
この「メ」というコテは、日本史板邪馬台国関連スレの汚物というか最低の
恥さらしだから、相手にしないほうがいい。あとは河童というのも同様に、
トンデモしか言わない類。
857日本@名無史さん:2010/10/15(金) 22:34:48
>>856
そうやって人を貶めようと発言する人は大嫌いだ

その前にお前は
まともな発言したことすらないじゃんw うすらハゲめ
858唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/15(金) 23:02:01
>伊都国や奴国は「女王国以北」

「女王国ヲ以ッテ北トス」
「女王国以北」を「女王国より北」と訳す。
以(モッテ)を「より」とは訳せない。
859日本@名無史さん:2010/10/15(金) 23:02:30
同感。メさんは学識あふれる良コテだよ。これまでもつねに
邪馬台スレをリードしてきたじゃないか。
考古学も文献も漢文もなんだってできるスーパーマンさ。
860日本@名無史さん:2010/10/15(金) 23:14:42
>>855
>>844にも書いたけど「10500里」ではないんですね
余里×4のオマケがつく
オマケがどの程度なのかわからないけど
足せば12000くらいになるんじゃないかなあ・・・と
861日本@名無史さん:2010/10/15(金) 23:26:06
余里×4のオマケがつくとは言えるかも知れないが、それを足して1500里と
いうのは無理じゃないかな。せいぜい五百里程度か。
とにかく、伊都国は以北の国であり、女王国ではない。
862日本@名無史さん:2010/10/15(金) 23:26:44
太国よ、紳士たれ!と言いたいね。
863日本@名無史さん:2010/10/15(金) 23:36:01
>>807
里が相対尺度だったという説、斬新ですね。
現代の常識に捉われているとそういう発想はできません。
私もその考え方に賛成です。
864日本@名無史さん:2010/10/16(土) 00:17:23
km、m、cm、mm
865日本@名無史さん:2010/10/16(土) 01:15:35
邪馬台国が畿内になければならない理由はない。
天皇が二条城から江戸城に移ったように九州から
血族が場所を移ったとすればよい。
松浦に上陸し東南の伊万里へ上り、佐賀の地を経て
有明海を南上。大川、柳川、大牟田、玉名、八代のあたりで
船を下りて陸行一月で行ける範囲だろう。
866ローガン:2010/10/16(土) 01:15:43
11)胡質伝
請假還家,陰資裝百餘里要之,因與為伴,事佐助經營之,又少進飲食,行數百里
>親父を訪ねて南陽までやってきた胡質の息子が洛陽へ帰る時に、親父の部下が気を利かせて百里ごとに物資を手配しておいてくれた
>、、、、、その好意に数百里行ったところで気が付いた、という話。

誤読では? 百里帰った所で、道連れになったんですよ。数百里の所で、彼が都督だとわかった。
そして、その事を刺史である父に知らせた所、その都督は罰 を受けた…という親子の清廉さを述べたものです。

13) 高柔伝
今禁地廣輪且千餘里,臣下計無慮其中有虎大小六百頭,狼有五百頭,狐萬頭

千餘里の中に、トラが600匹、狼が50匹、狐が10000匹。更にそれらが一年間に食べる鹿が120000匹。
更に生き残った鹿による作物の被害が甚大…。80km四方におさまらんのでは?

もう、これ位にしときます。お休みなさい。
867日本@名無史さん:2010/10/16(土) 02:17:31
>>865
邪馬台国の勢力が東へ行ってヤマト王権になったと考えなくてもよい。
邪馬台国は邪馬台国で九州に根ざした勢力。
ヤマト王権はヤマト王権で同じ時代に巻向にあった。

こう考えたほうがすっきりする。
868日本@名無史さん:2010/10/16(土) 02:48:13
>>867
たしか唐書だったか
この国の王は元々筑紫にいた、みたいな記述があったはず
それに
記紀神話を鼻っから無視するのも逆に不自然
869日本@名無史さん:2010/10/16(土) 03:47:19
>>795長里の部分と、短里の部分を書いてる人間が違う?
中国では、この違いの解釈はどうなってるんだろう?
870taro:2010/10/16(土) 04:19:01
1)
もちろん、いたずらに軍事ばかりを優先せずに、内政を充実させるべきだという趣旨ですね
農業を充実させて兵糧を蓄えておけば、敵が攻めて来ても自ずと兵糧切れで引き上げる・・・・
なぜなら、敵がいくら頑張って食料を運んでも千里も運搬するのは難しいから(若二賊遊魂於疆埸,飛芻輓粟,千里不及・・・"二賊"を「飛芻輓粟」の主語としての解釈です)
この方法(=国力を充実させて、相手にちょっかいだされてもビクともしない態勢を作る)を充実させておけば、どうして強大な兵力がいりましょうか

これを「魏が、前線へ食料を運べない(飛芻輓粟,千里不及)」という風に捉えたら、献言通り内政を優先して国力を充実させても"疆場"がヤバい状況に変わりが無いので、文意が通らない・・・



2)
面積を表わす"里"ですか?
この計算式?・・・(1里四方面積 x 里数)=面積

そりゃ短里でないと解釈できないものを、面積の里で解釈したら都合よく合致していくでしょうけど、
それだと、魏短里復活説の代わりに面積里復活説を証明しなくてはならなくなるだけですが

面積は、「漢書」「史記」「三国志」を通して「方〜里」又は「東西(南北)〜里」という言い方になってますが、
「史記」「漢書」「三国志(AD220年以前&蜀志)」に、面積を単に"里"で表したとおぼしき記事は無いようですが
(あったら、それこそ「短里でないと解釈できない!」とかいう事態になりますから)
「史記」「漢書」で、「短里でないと解釈できない」っていう記事は、No.786に書いた分だけです
「東西南北」とか「方」と言ってしまってる以上、面積の里は使えません(というか、面積の里を使ったら滇池の面積が全く合わない)

魏志と呉志のAD220年以降に面積の里が集中する理由、それ以外には無い理由を教えて下さい
871taro:2010/10/16(土) 04:24:17
3)
>>上庸県がどこか?湖北省竹山県(by wiki)だとしたら、漢中まで直線でも1000km以上ありますよ

お手元の地図は大丈夫ですか???
竹山県から西へ直線1000kmといったら、現在の果洛蔵族自治州の甘徳県付近まで行ってしまいますよ

長里で700余里は最短でも300km以上。直線で300kmだと、現漢中市のさらに西です

道のりの300kmを、実際の地図上で確認していくと・・・(Google Earthででも確認してみて下さい)
湖北省竹山県南西部・渚水北岸地域から西へ50km、竹渓県の西部に到着
そこからさらに50km(トータル100km)で、安康市の南方に到着
そこからさらに50km(トータル150km)で、漢陽県の東部に到着
そこからさらに50km(トータル200km)で、石泉県の西部に到着(この辺はもう子午谷の出口付近)
そこからさらに50km(トータル250km)で、西郷県の西部に到着
そこからさらに50km(トータル300km)で、城固県に到着(駱谷街道の終着点。完全に蜀の領土)
これが700里ジャストです、、、、"余"なので、こっからさらに進みます
ちなみに、短里で700余里なら54km以上なので、竹渓県西部の山岳一帯を下したということ

これは地図の再検討をお願いします

4)
面積里は、2)と同じことになりますが、、、、あともう1点

「船本歴適數百里中」ですから、面で捉える事は無理です
「歴」の字義は、「整然とつらなる」「順序よく巡る」(by 漢語林 & ウィクショナリー)
船が、まさに"數百里中"に"歴"しているんですから、この数百里は面でなく線です

直線でなくても、前の船に次の船が続いてる様子ですね
872taro:2010/10/16(土) 04:35:48
5)
同じく、2)と同じ課題がある、、、、、あともう1点

>>総員横一列では無いでしょう
移動中は、一列でなくても縦隊を構成しますよ
モンゴル高原じゃないんだから、長江近辺で固まりでの移動は無理です

固まるのは式典場所に到着してから
それを面積の「旌旗数百里」で捉えても無理です
なぜなら、「数百里」を面で捉えると、1辺が7km〜12kmにもなる
10余万人といえば、東京ドーム2個分余りの人数、、、、、これが例えば京都盆地一帯ぐらいの範囲に広がってることとなる。式典になりません
(ちなみに、有名な学徒動員壮行会は、出陣学徒25,000人+見送りの女学生50,000が明治神宮外苑競技場に集まって式典を行ったようですよ)

皇帝の前に次々に集まって来る軍の総延長が数百里(短里数十キロ)なら通ります
873taro:2010/10/16(土) 04:36:28
6)
>>東関の所在、どこか知らないのですが、
東関の比定は普通は2種類ですね

普通は、現在の安徽省巢湖市含山県東関鎮付近を採るようです・・・つまり濡須口付近
http://tieba.baidu.com/f?kz=115083323
この場合「予州の南」とは「東南」も含んでの大方向と取るようです
これを採って「東関鎮〜長江」は30kmと言ったんです

もう一つは、「予州の南」を文字通りに受け取って、もっと西に比定するパターン
http://www.frelax.com/scdb/mulu/7/ZGGD294817c1.html
でも、これで言っても長里での400余里は無理ですよ
長里で400余里は最低でも174km
この周辺では長江のどこから174kmをとっても、山岳地帯のど真ん中に入ってしまいます

>>西に江夏、東へ盧江…漢代の江夏、長江の北約100km位ですね。
>>其のあたりから長江は南に流れるので、江夏の東側は更に長江からは離れている
現安陸市から東の方のどこかに東関を比定されているようですが、どこであろうと長江から長里400余里も行ったら大別山脈のど真ん中です
山賊じゃないんだから、呉王たる者がそんな所に拠点を築きません
この辺は、どこであろうと短里400余里(=30km+)しか取れないんです
874日本@名無史さん:2010/10/16(土) 05:13:15
>>868
みたいな、じゃなくて
ちゃんとソースを出して、議論を深めましょう
875日本@名無史さん:2010/10/16(土) 05:14:38
>>860
もちろんそうですが、いくら魏志の記述が正確とはいえ
厳密に測量して計算しているわけではないので
1/10程度は誤差の範囲だと見て構わないんじゃないでしょうかね
876日本@名無史さん:2010/10/16(土) 05:14:55
>>861でした
877日本@名無史さん:2010/10/16(土) 05:27:46
名将の采配を見ましたが
戦争の時、凄い距離を行ったり来たりしてましたよね
作戦で
中国は広いから、もうすんごい移動するんですよね?
878日本@名無史さん:2010/10/16(土) 05:38:32
>>875
書かれた距離と実際の距離の誤差の話ではない。
区切って書いた者が、その合計を書くときに区分距離の合計とちがった数字を
書くか?という問題だ。
879日本@名無史さん:2010/10/16(土) 05:41:01
>>868
記紀神話って神武東征のこと?
別に否定はしてないよ。

巻向をヤマト王権って言ってしまったのが間違いかもしれないが、
神武が東征する前の大物主の国かもしれないし、
神武が東征した後の初期ヤマト王権かもしれない。
なにしろ3世紀に巻向に都市があったことだけしかわからないんだもん。
まだ文字が無いから仕方ないけど。
880taro:2010/10/16(土) 05:41:57
7)
え〜、、、盧江と水辺の距離に関する言及が見当たりませんが、これは反論不能ということでいいですか?

>>たった24kmになりますが
2.4kmでも、イヤでしょうねえ、、、孫権は
さらに言えば、合肥から西へ2.4km移動すると蜀山湖のほとりになります
ここに新城を築くと、西は湖で南は川でそれぞれ遮断されます。
旧合肥城より、はるかに攻めにくくなりますから

蜀山湖の西岸には、「合肥新城址」という遺跡があって、観光地になってますが、これが本物の合肥新城と考えるのは無理があると思います
何といっても小さいですから
東西200m南北300mくらいしかないので、旧城の住民はおろか兵力を全部移動させることも出来ないです
高平陵と同じで、観光地にまでなってるものが実際は違ってたという例だと思います

とはいえ、もちろんこれを短里の証拠として挙げるつもりはありません

合肥新城を短里で説明出来ない
賊捨船二百里来を長里で説明できない
痛み分けということで宜しいでしょうか?
881taro:2010/10/16(土) 05:42:57
8)
もう一度よく御考えを

數千家の兵を100km〜300kmに渡ってバラ撒いて屯田させた、と?
100kmなら東京から静岡
300kmなら東京から名古屋
この間に数千家??
そんな過疎の屯田をする必要がどこにあるんでしょうか?

いずれにしても、地図をよく見れば無理だということが分かります

満寵がいるのが合肥
この周辺の国境線は・・・・
魏が広陵〜合肥〜盧江
呉が建業〜羨溪〜濡須口
この地域の江北で、100〜300kmもの遠方までいったら、魏の領域に入ってしまいます
20〜50kmなら、江北の呉領内にすっきり収まります


9)
敵が奮戦するのは分かってることで、えらい諦めが早いな、というだけのことです
まだ戦えますよね
882taro:2010/10/16(土) 05:43:46
10)
・・・は、とりあえず保留ですか?



11)

「陰資裝百餘里要之」の訓読をお願いします
「都督は密かに百餘里ごとに必要な資材を手配し、胡威のお供をして、事あるごとに胡威を助けた」と読みました
道連れになる前の文のようですが?

いずれにせよ、総行程150kmで100〜300kmも行ったら、ほとんど到着してますよね?
「又少進飲食,行數百里」だから、旅の終わりの話とも思えませんが?



12)
13)
当然、保護と世話は必要でしょうね
いわば人為的に動物保護区を作ってるんだから

いずれにせよ、400km以上の土地、、、、どこに作りましょう???
883日本@名無史さん:2010/10/16(土) 05:51:45
>>878
だって「余里」だから、単純に足し算なんかしないでしょ
884日本@名無史さん:2010/10/16(土) 06:01:52
卑弥呼は関西弁
885日本@名無史さん:2010/10/16(土) 06:22:02
>>883
その理屈を主張するなら >>875の理由付けは不要のはずだ。
それに郡から伊都国までの距離を表示しようというならば、単純に足し算して何もおかしくない。
万二千里にも余がついている。

あくまでも女王国=伊都国だというならば、何で表記をちがえたのかとか女王国に統属するという
点をどう解釈するのかなど、総合的に説明してほしいな。
886日本@名無史さん:2010/10/16(土) 06:49:17
>>885
いや、1000里程度なら誤差の範囲だということ

「余」がついてるもの同士を足し算しても解に意味がないってのは
小学校の算数で習ったはずだけどねえ

最後の2行は意味がよく分かりません
そもそも表記を間違ったなんて私は言ってないし
伊都国は女王国の一部であり、女王国の玄関口にあたる国でしょう
女王国の首都が邪馬台国
887日本@名無史さん:2010/10/16(土) 06:55:22
なんで異なる表記を用いたのかだよ。あなたの考え方ならば、郡より伊都国まで
万二千余里と書いた方がずっと分かりやすいだろう?
888日本@名無史さん:2010/10/16(土) 07:05:06
伊都国は小国で、軍事的には重要であっただろうが政治的には重要な国ではないし
そもそも倭の女王に会いに行くのが旅の目的でしょ
それに、女王国が邪馬台国のことだとしても、なぜ邪馬台国と書かずに女王国と表記を換えたのかって問題が出てくるよ

もしかしたら、伊都国でも奴国でもなくて、単に卑弥呼と面会した場所が
帯方郡から12000余里だったのかもしれないね
卑弥呼は狗奴国と戦争してたんだろ?
だったらヤマトを出て九州に遠征してたと考えたほうが自然かも
889日本@名無史さん:2010/10/16(土) 07:32:12
女王国というのは、邪馬台国と同じではない。邪馬台国が中心だが、投馬国や旁国も
合わせた概念だ。その入り口までが万二千里。
890日本@名無史さん:2010/10/16(土) 09:17:07
邪馬台国は10000里くらいの広い地域を支配していたんじゃないのか?
たぶん、支配地は、南はニューギニアから北は満洲国、西はビルマから東はマーシャル諸島に至るまで、
あまりにも広い領域を支配していたために、女王卑弥呼はいつも神輿に乗って巡幸していたはず。
↓(参考)邪馬台国の支配地域

http://www.avis.ne.jp/~ammonite/syokuminchi2.jpg
891日本@名無史さん:2010/10/16(土) 09:52:17
>>1
892日本@名無史さん:2010/10/16(土) 10:34:16
古代の日本は、百済国と高句麗国の二手に分かれて戦っていたことがわかります。
三国遺事の延烏郎・細烏女の説話は、新羅に滅ぼされた馬韓遺民の倭列島移住を示し、この細烏女がまさに卑弥呼であり、その娘が神功皇后である。

http://nippon-senmon.tripod.com/hantou/rekishi/daejusin04.jpg
893日本@名無史さん:2010/10/16(土) 10:42:41
>>882 ヨコ失礼
>荊州の州都(宛)から洛陽への帰路は150kmあまり。

後漢書郡国志には「南陽郡秦置。?陽南七百里。」とあります。
これ、長里でも短里でも計算が合いません。

当時の地理認識を現代の情報で考えるから齟齬をきたすのではないでしょうか?
894852:2010/10/16(土) 11:24:55
>>853
852のレスはメに向けたもの。taro氏に言ったものではない。しかし、あれを書いたあと自分が寝てしまった。酒を飲んでいた
とは言え不覚であった。taro氏はなかなかやるな。
895日本@名無史さん:2010/10/16(土) 12:18:37
素朴な疑問だが、邪馬台国が西日本と九州を統べるくらい
広大で、なおかつ入り口までしか記載していないとなれば、
宇美国までの割と詳細な記述は意味が無くなってしまうのではないだろうか。

それとも邪馬台国の入り口=卑弥呼の居住区だったのか。

広大であれば、邪馬台国に入っても、詳細な記述が
続くのが普通ではないだろうか
896日本@名無史さん:2010/10/16(土) 16:11:18
宇美国とはなんぞ?

近畿〜九州程度の版図が、それほど広大とは思えない
中国ではそれより400年以上前に秦や前漢を成立させているのだから
その版図に比べれば女王国の版図など小さい小さい
897ローガン:2010/10/16(土) 16:18:01
>>870
1)いや、そうではなく 「牛もいない。作況も悪い…千里彼方へ食糧補給などとても不可能な状態なのに、何故、呂昭などにキ州を任せるのか?」という意味の上表です。

2)>>760の貴レス「300km(東京〜名古屋間)の野戦築城などありえない。軍事に疎い人は自分で調べてほしいんだけど、近代以前の軍隊の布陣は、全長が数キロからせいぜい十数キロにしかならないから。」
どうやら、あなたは營を軍隊としているようですね。私は「樹柵連營七百餘里」この營を、周囲をとりまくという動詞に訳しました。
「柵が連なって取り囲んでいる」という文意から、里が面積だと考えました。(外周の全長かなとも思いましたが)
いずれにせよ、七百里の柵が一直線にあるとは読めないと思います。

4)これは私の誤読でした。「船本歴適數百里中,濟更鑿地作四五道,蹴船令聚;豫作土豚遏斷湖水,皆引后船,一時開遏入淮中」
船は元々、数百里にわたり、次々と並んでいた ですね。 それを4、5本の水路の分けて川に入れたと。
軍船って何mあるんですかね?20m位かな?それに船間が仮に20mだとして 計40mで 4000艘あれば、全長160km 360里ぐらいですね。
898ローガン:2010/10/16(土) 16:42:22
続き。
6)「東関は濡須口付近」なら「東従盧江」に合わないのでは? (大きな地図しかないので、すみません。後日、調べてみます。)

8)記述は数百里。九百なら、そうかもしれませんが、二百里なら85km位。目くじら立てる程では無いでしょう。

9)帝の死守せよと云う命に発奮した将軍が、短期間で敵を退けたと云う意味。
「援軍が近づいたから逃げた」のではなく、退けるまでにかかった時間が帝の予想より早かった事を述べているのでしょう。

10)これは他の方が書くと思ったので…
引用晋紀に「往きに百日戻りに百日」で1日 40里。 唐六典に「歩及驢日五十里」
短里では無いでしょう。

11)請假還家,陰資裝百餘里要之,
(都督は)家に帰りたいと休暇を請い、密かに身仕度をして、百里の所でこれ(湖威)を待った。
899日本@名無史さん:2010/10/16(土) 18:20:23
複数の書物でAD220年に一斉に短里に変えられ、AD249 年に一斉に長里に戻された。
不自然さを感じませんか?
中央政府の命令が瞬時に徹底されるほど統制が取れてたのでしょうか?

その記述が事実だとしたら私は、その時期に中華思想的にマズイ事があって後世に書き換えられた、に一票を投じます。
900日本@名無史さん:2010/10/16(土) 19:04:00
てか、

>>832
>三国志の場合は「將軍以神武雄才,兼仗父兄之烈,割據江東,地方數千里」
>「将軍(=孫権)は、すごい才能を持ってて、しかも父や兄の激しさも兼ね備え、江東に割拠して、土地は数千里にもなる」
>だから、"将軍"を守護として、孫権の支配地の話をしてる。。。。江東が数千里じゃないよ

だったら、文面に「江東」を入れる必然性がないだろ。解釈がおかしい。
901メ(2ch専門):2010/10/16(土) 19:10:45
なんだローガン負けてるじゃんかwww


taro 10)が抜けてんぞ o(`・з´・)p

rogan 私の誤読でした 。゜゜(´□`。)°゜。 wwwwwwwwwww
902日本@名無史さん:2010/10/16(土) 19:42:07
>>901
野次でしか参加出来ないなら、黙って半年ROMってろ。ボケ
903日本@名無史さん:2010/10/16(土) 19:44:19
【judge】唐松山

【judge】河童虫

【judge】あらため

以上の3名です。
904日本@名無史さん:2010/10/16(土) 20:14:53
メ も勉強しているのはわかるのだが、やはり基礎的な素養が足りない。
わからないことは黙っていればいいのに。
905:メ(2ch専門)::2010/10/16(土) 20:27:48
taroさん「一人」を相手に「大勢」で寄って集(たか)るなよ〜恥ずかしいw
おれは、みんなからスルーされてる河童君を相手してようかなw

>>824-826
>六尺一歩は、面積単位「歩」に実質的な数値を組み入れた
>その組み入れた数値が六尺。
>始皇帝がこの数値を統一するまでは、さまざまな数値があてられていたわけで
>時代、地域によって様々だった。         所謂、建歩。

もともとは「寸」にしろ、「尺」にしろ、「歩」にしろ、身体を用いていたんです。
身体の大きさが変わらないのならば、わずかな差でしょうね(2倍も3倍もないよw)。

>面積単位「歩」には、一辺を六尺とした、36尺面積と、一辺が歩幅一歩による
>文字どおりの面積「歩」のふた通り存在する。 これが俗に云う、短里と長里の原点。

いい加減なことをいいなさんな!
「歩」というのは、もともと身体を用いていました、
制定後は「六尺平行」で、貴方の言ってることはデタラメ。

>この六尺一歩が基となり導きだされる 面積の単位が、 畝、夫、屋、井
>この井の一辺の長さを里としたのが 六尺一歩からの1800尺一里。
>これが現在いわれている長里

だから「長里」ってなんですか?幻でもみてるんですか?www

>そしてもう一つ、面積歩に対して 六尺一歩で建歩していない、歩幅一歩を一辺とする面積単位「歩」
>この場合、建歩立畝していないのだから、面積単位畝、夫、屋の存在はない。
>存在するのは、一歩の歩幅による面積単位歩と、その一辺の長さを360倍した、360歩を一里とした面積単位「里」だけ。
>これが短里といわれる長さの単位。

古代「里」というのは、「長さ」ではなくあくまでも「面積」。 
便利上、面積の一辺の長さをこれに当てはめて使用するようになっただけの話と聞いてます。
906taro:2010/10/16(土) 20:34:02
1)
つまり「千里」は「遠い所」という象徴的表現だと?
それだと、長里否定にもならないかわりに短里否定にもなりませんが、「万里」記事と同じようなものだということですか?

2)
「營」は「軍営」「陣営」とかの「営」でしょう
もちろん、野戦築城700里ってことです

囲陣であろうと長陣であろうと、300kmは無い・・・ということです

で、「面積」を表わす意味の「里」を使うというなら、その証拠づけをしないとダメっていう話です

これだと「長里」「短里」「面積の里」・・・と、3種類存在することとなる
3種類の里があるという説で宜しいですか?

ずっと使ってなかったのに、「三国志」の魏志と呉志、それもAD220年以降になって急に使い始めた、、と?
(それはそれで面白い説ですが、論証が必要ですね)
907taro:2010/10/16(土) 20:35:28
4)
のちのジャンク船が、全長30m・乗員300人くらいというのが標準ですから、20mの船だと200人は乗れます
20m船が4000もあれば、80万人も運べてしまいます。広陵への行幸は10余万人でしたよね
小さい船を大量に含んでるってことです。
全部が全部20mじゃない。

例えば第二次元寇は、4400隻で14万人・・・平均30人ですね
↓最も小さい7mくらいの船が普通だったということです
http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse053.html

4000隻をシミュレーションしてみると・・・
700人乗りが10隻として、10 x (70m + 70m)=1.4km
200人乗りが100隻として、100 x (20m + 20m)=4km
100人乗りが300隻として、300 x (10m + 10m)=6km
最も平凡な30人乗りが3600隻として、2400 x (7m + 7m)=50km

総延長61km。この陣容で16万人も運べてしまいます
船の数は4000も無いんじゃないですか

連なってると言っても完全に1直線じゃないから、これよりさらに寸詰まりになります
小さい船は並んで進めますしね

いずれにせよ、100〜300kmも展開する話じゃない
短里20〜50kmでジャスト
908メ(2ch専門):2010/10/16(土) 20:35:58
>>904
>わからないことは黙っていればいいのに。

おれの>>804レス、もう1度読みやがれ〜ヾ(*′∇`)ノ ハハッ
909taro:2010/10/16(土) 20:36:15
6)
ええ、それがあるから2説に分かれているんです
「輒西従江夏,東従廬江」は、"従"の字が使われてることから、魏領への攻め口が東は廬江・西は江夏だという解釈。東関の東に廬江があるわけじゃないということのようです
ずっと東関といえば濡須と伝えられてきたことによるもののようですね

でもすでに書いたとおり、例え江夏・廬江間のどこをとっても長里174kmも長江から離れたら山岳地帯です
呉王が大別山脈の中に常駐していると?


8)
最小値しかとれず、誤差許容範囲が無いのはいかにも苦しいですが、、、85kmでも広すぎますよ
数千家といえば、(まだ御答えが頂けてない)夏侯尚の上庸で下した山民がそれぐらい
超過疎の山の中で、54km(有効な反論が無いんで、ここは短里でいかせてもらいます)の範囲で"数千家"です
倭人伝の一大国で三千家。壱岐は南北東西15〜17kmで、現在の人口3万人・それでも田舎です。

何故、江北で埼玉県全体分くらいの範囲に数千家を散らばらせる??・・・耕作可能地はもっと近場にいくらでもあるでしょうに
それも、御説の極最小値85kmをとっての話です(85kmでも江北の呉領内に収めるのは難しいですけどね)

短里20〜50km離れてても、十分散らばり過ぎで火急の際の戦力になりえない
だから、その隙を突かれたわけですよね
910taro:2010/10/16(土) 20:39:54
10)
致命的に数字が合わない事に対する回答になっていませんが?


「往百日,攻百日;還百日,以六十日為休息,如此,一年足矣」・・・は「晉紀」の引用
「四千里」・・・は、魏志本文ならびに魏名臣奏の引用

異なる書物の記述の、異なる主題の記事ですよ

「往百日〜」は、司馬懿が都にいて皇帝と話してる時に「行って帰って来るまで何日かかる?」と訊かれて答えたもの。帰って来るのは、もちろん"都に"帰って来るんです
「四千里征伐」は、文字通り「征伐」が四千里。征伐のスタートは前線基地・盧龍塞から始まる。
「道路回阻,四千餘里」は、困難な道が四千里。盧龍塞までの国内移動に「道路回阻」ってことは無い。回り道も無ければ、阻むものも無い。

本文や魏名臣奏の"四千里"を、晋紀の"百日"で割るという計算式は成り立ちません

で、致命的に数字が合わない事に対する回答になっていませんが?
(洛陽〜襄平までは道のりでも2900里、、、、4000里には千里以上足りない。盧龍塞〜襄平までは道のりで300km強。短里4000里(308km)でちょうど)
911taro:2010/10/16(土) 20:47:39
>>900
>>だったら、文面に「江東」を入れる必然性がないだろ。解釈がおかしい。

"江東"の文字を"地方数千里"と結び付けて考えることで固まってしまってるから、そう感じてしまう
"割據江東"の意味は支配地面積じゃなく、別に意味がある

呉が、どうして魏に対抗できた?
孫呉の最大のアドバンテージは?

「長江」でしょうが
長江の要害があったから、孫呉が国を保つことが出来たんでしょうが

何よりも"割據"してるのが"江東"だということが重要なんだよ

だから、この一文は
「孫権は優秀」
「一家そろって実績あり」
「江東にいるので、地の利もある」
「でもって、支配地は数千里にもおよぶ」
・・・と、孫呉の有利な点を列挙していったもの

そして、「降伏するな、魏と戦え」という話になる
912河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2010/10/16(土) 21:07:24
>>905

別にスルーでもいいんだよ。

それに、君のレス滅茶苦茶だし
913taro:2010/10/16(土) 21:32:14
>>899
">>複数の書物でAD220年に一斉に短里に変えられ、AD249 年に一斉に長里に戻された。
不自然さを感じませんか?"
>>中央政府の命令が瞬時に徹底されるほど統制が取れてたのでしょうか?

完全には徹底されていません
あくまで、1里80m弱でないと解釈出来ない記事が、「魏志」と「呉志」のAD220年代〜AD240年代に集中してるっていうことで、この間も長里くさい記事は少数ですが存在します
また、AD220年以前に短里記事は全く無いですが、AD250年以降にポツンと1個くらいあったりします
914taro:2010/10/16(土) 21:33:55
分布を一覧表にすると以下の通り

魏志AD220年以前・・・里数記事41個
   長里34個
   短里0個
   どっちでも可能4個
   判別不能3個

魏志AD220年〜AD249年・・・里数記事42個
   長里3個
   短里34個
   どっちでも可能3個
   判別不能2個

魏志AD250年以後・・・里数記事10個
   長里10個
   短里0個
   どっちでも可能0個
   判別不能0個
915taro:2010/10/16(土) 21:34:54
呉志220年以前・・・里数記事9個
   長里8個
   短里0個
   どっちでも可能1個
   判別不能0個

呉志AD220年〜AD229年・・・里数記事8個
   長里0個
   短里8個
   どっちでも可能0個
   判別不能0個

呉志AD229年以後・・・里数記事12個
   長里8個
   短里2個(このうち1個がAD253年、もう一つはAD234年以前であることは分かってる、、、だからAD229年以前に収まる可能性もある)
   どっちでも可能1個
   判別不能1個


蜀志・・・・・里数記事20個
   長里19個
   短里0個
   どっちでも可能1個
   判別不能0個
916taro:2010/10/16(土) 21:35:55
「どっちでも可能」ってやつは、例えばこういうの

武帝紀(AD207年)
経白檀,歴平岡,渉鮮卑庭,東指柳城。未至二百里,虜乃知之
何百キロもの遠征で、敵が曹操軍の存在に気付いたのが87km先でも15km先でも、どっちでも違和感は無い

鍾繇伝(AD227年)
明帝欲西征,毓上疏曰:“夫策貴廟勝,功尚帷幄,不下殿堂之上,而决勝千里之外。
昔からの決まり文句。「千里の外に勝を決する」、劉邦が張良を評した言葉やね。例え話なので77km先でも435km先でも、どっちでもいい



「判別不能」ってのは、例えばこういうの

賈逵伝(AD228年)
太和二年,帝使逵督前将軍満寵、東莞太守胡質等四軍,従西陽直向東関,曹休従皖,司馬宣王従江陵。
逵至五将山,休更表賊有請降者,求深入應之。詔宣王駐軍,逵東与休合進。逵度賊無東関之備,必併軍於皖;休深入与賊戦,必敗。
乃部署諸将,水陸併進,行二百里,得生賊,言休戦敗,権遣兵断挟石
「五将山」の位置が分からないので、何とも言いようが無い。いくら調べても分からんのよ(他の地名は大体比定出来たんだけど)。
917メ(2ch専門):2010/10/16(土) 21:42:38
>>>914-915 taroさん

ヨシ、そこまで計算する所までいったか〜

じゃあ私のレス782をもう1度見てみよう!

>しかし、当時、この「里」というのは、公式の距離単位ではなく、あくまでも便利上用いていた距離なので、
>中央、地方とで単位の差があり、バラバラな状態であった。

ほら、バラバラで〜おれが言ったとおりでしょwwwwwwwwwww
918taro:2010/10/16(土) 21:47:05
>>917

そっちこそレス789をもう一度見てみよう

実際にはバラバラじゃないから問題なんだよ
明確な偏りが見られるんだということ

この分布を見て、何も感じられないorただの何かの間違いだって言うなら、あまりにも鈍感すぎるわな
919日本@名無史さん:2010/10/16(土) 21:47:54
セイラー・ホワイトだな。メは。
920メ(2ch専門):2010/10/16(土) 21:48:11
taroさんお問いに対しての答えは、
実は〜すでに、おれが>>782で答えちゃてるんだね。

ただ、答えを言ってるのに〜〜〜〜taroさんが、それに気付いてないだけだったって話でw
こっちは、もう唖然とぴうか、目がキョトンっってするしかないていうかwww

俺のレス>>804でもいってるんだけどな・・・w
921taro:2010/10/16(土) 21:57:13
「里」というのは、公式の距離単位ではなく、あくまでも便利上用いていた距離なので、
中央、地方とで単位の差があり、バラバラな状態であった。
→バラバラでなく、1里80m弱と1里400m強に集中する。どっちでも合わないとか中間値とかは無い

又は、夏至における周髀の陰の長さを使って距離を測る天文学的な方法でその距離をもとめたりした。
この場合、測定位置や太陽の緯度(日にち)によって違うからによってバラつきが生じる。
→バラバラでなく、1里80m弱と1里400m強に集中する。どっちでも合わないとか中間値とかは無い

というわけで、里が"短くみえたり""長くみえたり"してるだけであって、
ようは、なにかの間違いというか、当時中国では、短里、長里なんてありません
→バラバラでなく、1里80m弱と1里400m強に集中する。どっちでも合わないとか中間値とかは無い


全部、答えになってない
これで説明できるという方が、考え方が雑すぎるわ


あと、もうちょっと丁寧に文章書いた方がいいよ
説得力ってものが無い

中身のないレスを、いちいち相手にしてられんから
922日本@名無史さん:2010/10/16(土) 21:59:12
>>921
>中身のないレスを、いちいち相手にしてられんから

正解です。そのコテを相手にしているのは同類の河童だけです。
923taro:2010/10/16(土) 22:00:36
>>922

承知してます

相手にしてるんでなく、見てる人が引っ張られて錯覚を起こさないように、一応回答しておいただけです
924メ(2ch専門):2010/10/16(土) 22:03:30
>>789>>918
>>>中央、地方とで単位の差があり、バラバラな状態であった
>バラバラじゃないから、意味を考えなきゃならんのよ
>里数記事のフルチェックすれば分かること

あのねぇ、・・・・taroさんにもう1度言うけど〜
俺らは、こういう議論をさんざんしてきてるんですよ。
始めたばかりなのは〜taroさんダケって話で・・・・そこのところ理解してほしい。

>「三国志」本文中の里数記事は全て長里435mか短里77mで合致する
>全くバラバラだったら、その中間とかどっちも無理とかいうものが出てくる
>それは無い

>>782で、これもすでに〜答えちゃってるんだけど〜
もう1度読もうよ

「ほとんどの史書でみえる里数は、こういった実測のものではなく、歩数や旅行日数、
又は、夏至における周髀の陰の長さを使って距離を測る天文学的な方法でその距離をもとめたりした。
この場合、測定位置や太陽の緯度(日にち)によって違うからによってバラつきが生じる。 」

一貫した測定方法ではなく、人によって、また地方によって、測定方法に違いがあるんです。

>あと、「古代中国の測量では正確な里数は存在しえなかった」というなら、その根拠を示さないとね

あのね、・・・もう1度、私の>>782をよく読んで下さいよ

「里を測るときは、間竿、間縄で測る(実測)というのがあったんだけど、
ほとんどの史書でみえる里数は、こういった実測のものではなく、歩数や旅行日数」

三国志にある海の里、陸の里〜全て 間竿、間縄で測ったわけではないんですよw

あとは、taroさんが理解力を身につけることかと・・・
925メ(2ch専門):2010/10/16(土) 22:15:34
>>921
>→バラバラでなく、1里80m弱と1里400m強に集中する。どっちでも合わないとか中間値とかは無い

だから〜>>782で答えてるしょって〜1から10まで教えないと分からない人だなwww

「ほとんどの史書でみえる里数は、こういった実測のものではなく、歩数や旅行日数、
又は、夏至における周髀の陰の長さを使って距離を測る天文学的な方法でその距離をもとめたりした。
この場合、測定位置や太陽の緯度(日にち)によって違うからによってバラつきが生じる。 」

前者は、天文学的な方法、後者は歩数でしょうね。

>全部、答えになってない
>これで説明できるという方が、考え方が雑すぎるわ

うーん 一から十まで説明するの面倒なので、あとはご自身で調べて下さいよ。

>あと、もうちょっと丁寧に文章書いた方がいいよ 説得力ってものが無い
>中身のないレスを、いちいち相手にしてられんから

ごめん、こっちは笑い転げながら書き込みしてるので、字が変になったかなww
926taro:2010/10/16(土) 22:16:25
理解力が無いのはどっちなんだか
同じことの繰り返しになるから、これで最後ね


>>ほとんどの史書でみえる里数は、こういった実測のものではなく、歩数や旅行日数、
>>又は、夏至における周髀の陰の長さを使って距離を測る天文学的な方法でその距離をもとめたりした。
>>この場合、測定位置や太陽の緯度(日にち)によって違うからによってバラつきが生じる。 」
>>一貫した測定方法ではなく、人によって、また地方によって、測定方法に違いがあるんです
>>「里を測るときは、間竿、間縄で測る(実測)というのがあったんだけど、
>>ほとんどの史書でみえる里数は、こういった実測のものではなく、歩数や旅行日数」


こういう理由で里数記事と実際の距離に違いが生じる、それが「短里」「長里」といわれてるものの実態だ、、、というなら
1里が80m弱で合致する記事と、1里が400m強で合致する記事の、この2種類に集約したりしない
割り返した時に、「1里が250mくらい」とか「1里が600mくらい」とか「1里が30mくらい」とかいった記事も出てくる

特に中間値が無いのが致命的

それと、その考えだと、歴代の史書で「AD220年代〜AD240年代の記事」並びに「東夷伝&西南夷伝」に1里80m弱の記事が集中してることの説明がつかない

ただ「1里80弱でないと解釈出来ない記事がいっぱいある」ってことじゃなく、そういう記事が偏りをみせて登場すること&中間値が無いことが問題なんだよ


以下、何度レスしても回答しないから

全部、「このレスを見ろ」ってことで
927taro:2010/10/16(土) 22:29:11
>>893

失礼、見落としてました


それは知ってます
あと「晋書」にもそういう記事があります

「ちゃんと場所比定が出来るにも関わらず短里でも長里でも無理」っていう記事は、「三国志」本文には一切出てきませんが、他の書物には2〜3個出てくるんです

ただし、100も200もある里数記事のなかで僅かに数個です
何がしかの錯誤が起こる確率は、そんなものでしょう

にも関わらず、「三国志」だけ大量に30%もの錯誤があると解釈する方が不自然なんです

しかも、それがハッキリとした偏りをみせているとなったら、なおさらです


よく、「昔の人のやることだから、里数記事も額面通りに受け取れない」という人はいますが、そういう人で本当に里数記事をフルにチェックした人を私は知りません
いくつかおかしな記事を見つけて、全体が信用できないと言ってる例が多い

実際にチェックすると、史書の里数は9割以上の確率で実地と合います

その中で、「三国志」のAD220年〜AD250年の魏志&呉志だけが集中的に極度に短い里数を使ってるとなれば、そこを考察しないのは横着でしょうね
928メ(2ch専門):2010/10/16(土) 22:37:51
>>926
>理解力が無いのはどっちなんだか 同じことの繰り返しになるから、これで最後ね

そか、俺も若葉マークくんを相手するの「疲れる」ので最後ねw

>こういう理由で里数記事と実際の距離に違いが生じる、それが「短里」「長里」といわれてるものの実態だ、、、というなら

誰が言うてるのですか?貴方〜ぐらいなもんでしょw

>1里が80m弱で合致する記事と、1里が400m強で合致する記事の、この2種類に集約したりしない
>割り返した時に、「1里が250mくらい」とか「1里が600mくらい」とか「1里が30mくらい」とかいった記事も出てくる
>特に中間値が無いのが致命的

あのね、貴方は、一人でパニックに陥ってるダケって話で・・・
まずは「里」というのを勉強してほしいです。
この「里」というのが分かってないから、そんなチンプンカンプンな発言をするんですよ。

>それと、その考えだと、歴代の史書で「AD220年代〜AD240年代の記事」並びに「東夷伝&西南夷伝」に1里80m弱の記事が集中してることの説明がつかない
>ただ「1里80弱でないと解釈出来ない記事がいっぱいある」ってことじゃなく、そういう記事が偏りをみせて登場すること&中間値が無いことが問題なんだよ

まずは、「里」の「測定方法」から勉強だね。
じゃないと、私の言ってることも理解できないし、私も返答しようがない。
話はそれからだ・・・・(−_−)ノシ・
929日本@名無史さん:2010/10/16(土) 22:38:37
>>926
>歴代の史書で「AD220年代〜AD240年代の記事」並びに「東夷伝&西南夷伝」に1里80m弱の記事が集中してることの説明がつかない

説明がつかないという言う事ですが、いったいどんな説明を待っているのでしょうか。
仮に誰かがその説明をして、その説明に対する理解度がどのくらい貴殿に備わっているのか
理解度が備わっていない人に
どんな説明をしても、それは無駄な作業と言う結果しか得られないのではないでしょうか。
もしかしたら貴殿の疑問に対する説明が、既に説明が済んでいるのかもしれません。
ただ貴殿がその説明を理解できずに経過したという可能性もあるわけです。
自分が理解できなければ説明では無いというのは、ちょっとした貴殿のエゴではないでしょうか。


> そういう記事が偏りをみせて登場すること&中間値が無いことが問題なんだよ

貴殿にとっては問題なのかもしれないが、貴殿以外の人には問題とならないという
事態もありえるわけで。

930jiro:2010/10/16(土) 23:54:20
>>929
>説明がつかないという言う事ですが、いったいどんな説明を待っているのでしょうか。

taro氏は
メが言うような「ほとんどの史書でみえる里数は、こういった実測のものではなく、歩数や旅行日数」だと言うことでは
「歴代の史書で「AD220年代〜AD240年代の記事」並びに「東夷伝&西南夷伝」に1里80m弱の記事が集中してることの説明がつかない 」
と言っているのだよ。そんなことも分からんのか?
931ローガン:2010/10/16(土) 23:55:16
>>907
いや〜参った。素晴らしいですね。今後、幼稚な反論はなるべく控えます。
付け焼き刃では失礼。取り敢えず貴レスは保存して、色々考えてみます。
さておき、貴説では 三国志の東夷伝はどうなりますか? 曹爽の時代ですが…。
932893:2010/10/16(土) 23:55:59
>>927
レスどうも。とてもおもしろい考察だと思ってます。
でも、「里数記事をフルにチェック」は時間がかかるし、とりあえずこの件(11 胡質伝)限定の話です。
(曹魏短里説そのものについてはなにも言いませんよ。こちらには裏付けがないですから。)

>893は(わかりにくかったですかね)、
当時の地理認識では「荊州の州都(宛)から洛陽」まで七百里だった。
だから胡質伝の<百餘里><行數百里>は別におかしく(「数百里進んだら洛陽についてしまう」)ないだろう。
ってことです。

“陰資裝百餘里要之” は “陰かに装いを資り百餘里之を要える” って読みました。
漢文はよくわからないけど。

>それは知ってます
>何がしかの錯誤が起こる確率は、そんなものでしょう

つまり、例外ということでいいんですかね?
933日本@名無史さん:2010/10/16(土) 23:56:28
>>929
ROMしてたが横レスすまんです。

>説明がつかないという言う事ですが、いったいどんな説明を待っているのでしょうか。

いちいち調べた上で統計取ったらこうなったと言うことでしょう?
説明が付かないと言う日本語わからない人?
934jiro:2010/10/16(土) 23:57:55
>>928
>そか、俺も若葉マークくんを相手するの「疲れる」ので最後ねw

ぎゃはは。キミは落ち葉マークだったね。
935saburou:2010/10/17(日) 00:10:09
>>930

>メが言うような「ほとんどの史書でみえる里数は、こういった実測のものではなく、歩数や旅行日数」だと言うことでは

歩数も立派な実測と思うのだがね
936jiro:2010/10/17(日) 00:16:23
>>935
>歩数も立派な実測と思うのだがね

まあ、普通に歩けば歩幅はほぼ一定となるだろうからね。だが、それが問題なのか?
937日本@名無史さん:2010/10/17(日) 00:38:50
taro氏は常識的な総論ではなく、個々の文例にあたって論破できるならしてみてくれ、と言ってるんだろう。
しかし悲しいかな メ は漢文が読めないし、古代中国の地理感もない上に軍制などの制度史も知らない。
むろん文献も考古学も上っ面しか知らないのに、どこでも突っかかっていくドンキホーテ。
迷惑してる人は多いんだよ。
938saburou:2010/10/17(日) 00:45:59
統計の結果、二通りの偏った数値が導き出されたということは
当時の里には二通りの使い分けがあったという史料的証明でしょう。
史料を目の前にして、そんな二通りの使い分けなんか存在しない
なんて言う人はいないでしょうから。

時間的に制限された使い分けが見られるという疑問ですが、
その答えが史料から求めることが出来ないなら、今後その疑問は推理の世界。

現在は魏晋朝里として一里・四百数十メートルが公に認められているが
このような史料事実から見ても、もうひとつ公の値を加えなければならないと考えます。
939日本@名無史さん:2010/10/17(日) 00:54:15
>>937
>迷惑してる人は多いんだよ。

それが正常な社会だと思います。
迷惑をかける人がいれば、迷惑を被る人もいる。色々の人が参加するから
掲示板って面白いし、そこが魅力。と思いますが
940日本@名無史さん:2010/10/17(日) 01:08:21
一里約420mは、公が認めた国家的な裏付けを要する値。
これに異論をとなえる者は、国家に対する冒涜行為であり、反社会的な考え方だ 錦の御旗に叛く行為は即ち朝敵。
941ローガン:2010/10/17(日) 01:28:27
>>938
>このような史料事実から見ても、もうひとつ公の値を加えなければならないと考えます。

その考え方って 欠史八代の崩御が月の前半に偏っているから、倍暦があった!
という主張とよく似ているような気が…。
942日本@名無史さん:2010/10/17(日) 02:51:43
曹魏が短里を使用しているかどうかなんて、
記事の距離数の合理性を論ずるよりも、
魏書と蜀書で、同じ事柄を書いているので見比べてみれば一発じゃないの?。

夷稜の布陣の記事とか、諸葛亮の北伐の記事とかで比較できるような箇所は無いの?。
943日本@名無史さん:2010/10/17(日) 07:49:09
三国志でどうやら短里が使われているらしいことは、動かしがたいんだが、
それを認めた瞬間→畿内説崩壊

なので、どんな理屈をつけてでも、認めたくないわけ。これが真相。
少しは、分かってやれ。
944日本@名無史さん:2010/10/17(日) 09:44:03
>>943
> 三国志でどうやら短里が使われているらしいことは、動かしがたいんだが、
> それを認めた瞬間→畿内説崩壊

しませんが?
帯方郡から女王国までの距離=12000余里とは書かれてるが
帯方郡から邪馬台国までの距離=12000余里とは書かれてない

九州説の人は、女王国=邪馬台国と解釈してるだけでしょ?
だけど、女王国=邪馬台国なら、同じ国を指すのに2つの単語を使うのはおかしい
945日本@名無史さん:2010/10/17(日) 10:06:53
短里って中国人が認めてないじゃん。
946日本@名無史さん:2010/10/17(日) 10:44:11
944が943の言う「どんな理屈」のサンプル
947日本@名無史さん:2010/10/17(日) 10:49:25
どんな論拠も、「どんな理屈」にしてしまえば
論争に負ける事は無い!すごい!天才!
948日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:03:11
中国の反日デモを見れば魏・蜀・呉は元々野蛮人の住む土地で、
この時代から日本に反抗的だったことが分かる。
949日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:11:51
太古はひげ自慢の徳のある人種もいたんだがDNAの強烈な劣化だな
必然とも言うべきか。
950日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:40:50
三国演義は俺も好きだけど
あれを実話だと思ってる>>949は痛すぎる
951日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:50:42
>>949
いやーワシャー昼休みに剃らないと髭はえちゃうんだよ
すぐにこんなになっちゃう
http://www.ne.jp/asahi/overland/japan/P9100025_1.jpg
952唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/17(日) 12:54:30
>女王国=邪馬台国なら、同じ国を指すのに2つの単語を使うのはおかしい

正論である。
だから邪馬台国を特定しても、そこに女王はいない。
女王国を特定しても、そこは邪馬台では無い。
この同道巡りを繰り返す。
953日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:57:42
中国の三国史は実史で、倭人伝は架空の世界というのは解せない。
954日本@名無史さん:2010/10/17(日) 12:57:50
ひげも剃らなければ、みんな敦煌の爺々みたいになれるのさ
955日本@名無史さん:2010/10/17(日) 13:03:45
唐松山に同意されたら、一巻のオシマイ。
956日本@名無史さん:2010/10/17(日) 13:34:00
>>952
邪馬台国は女王国の一部
女王国は邪馬台国以外の国も含む
957日本@名無史さん:2010/10/17(日) 15:53:54
>>942
陳寿の「三国志」は地理関係は全然詳しく書いていない。
必要のない記事はばっさり切るのが陳寿の編纂スタイル。
倭人伝は検証できないから、他人が書いた文章をそのまま載っけただけだと思う。
958日本@名無史さん:2010/10/17(日) 20:52:21
4行でも以上書き込めよ

長い文章を書き込む能力なくても
人の悪口だけは一人前だからなぁ やってられん
959日本@名無史さん:2010/10/17(日) 21:02:32
>>944
うん、その点はあなたのいうとおり。だが、周旋五千余里はうまく説明できないね。
960日本@名無史さん:2010/10/17(日) 21:21:05
>>959

>周旋五千余里はうまく説明できないね。

周は五千餘里で旋る。  簡単に言えば、一周一万里。
961日本@名無史さん:2010/10/17(日) 21:55:40
となると、一周800キロ前後か、どこになるかな?
962日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:19:40
>>961
大きさからいえば、北海道くらいの大きさかな?
963日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:41:51
964日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:43:18
島の多い九州もそんなものだろう。
965日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:49:05
>>963
結局、何も得るものはなかったといった風の文章ですね。
それなら高い航空運賃払ってまで行くべきではなかったででは?と思います。
しかし、人生には無駄もまた必要なものです。
966日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:53:42
taro氏の調査結果発表が出たとたんに畿内説がしょぼくれているね。
967日本@名無史さん:2010/10/17(日) 22:58:00
>>962
北海道は二千キロ以上あるよ。正解は九州だ。八百から千キロぐらいのものだろう。
968日本@名無史さん:2010/10/17(日) 23:00:49
水行にしろ陸行にしろ1日に移動する距離は決まっていないだろう。場所にも依るだろうし、移動する人数や目的にも依るだろう。
水行二十日や水行十日陸行一月もそのような条件を勘案して論じるべきだな。
969963:2010/10/17(日) 23:05:13
>>965
>結局、何も得るものはなかったといった風の文章ですね。

おぬし、まだまだ若いのぅ
吉野ヶ里・先生方の討論会 このキーワードで十分、
得るものはあったはずだよ
970963:2010/10/18(月) 00:06:08
>>965
貴方は
長い文章を書き込む能力なくても
人の悪口だけは一人前だからなぁ
ノーガキたれてる君の仲間と思ったのか?w
971日本@名無史さん:2010/10/18(月) 00:20:19
邪馬台国と女王国が異なるという人は、
「南至邪馬壹國女王之所都」
をどう解釈するの?
972日本@名無史さん:2010/10/18(月) 00:23:29
唐の時代の漢文だと、都を「〜も」に解釈
邪馬壹國も女王であった
他にも女王の国があったという話に持っていけるのだが
973日本@名無史さん:2010/10/18(月) 00:27:24
卑弥呼とは人名ではなく女王という役職名

紀元後180年に、倭国の女王に、卑弥呼がなり、また紀元後239年に、卑弥呼は中国の三国時代の魏(ぎ)に使いを送っている。

この間、59年ある。仮に、卑弥呼が15歳前後で、女王に即位したとしても、74歳まで生きたことになる。
が、当時の日本人の寿命は、50歳に、はるかに満たなかったはずなので卑弥呼とは、女性の王さまの「役職名」
と考えるのが妥当ではないか?・・と思う。

もっと言えば、卑弥呼は、さらに、266年に、再び中国の西晋に、使いを送っている。
卑弥呼が一人の人物だったとすると、この時の年齢は、なんと101歳

と、いうわけで、卑弥呼が役職名であったことはほぼ確実であろう。

974日本@名無史さん:2010/10/18(月) 00:39:51
>>971
個人的にナントカ説に加担する立場にはないんだけど、
その質問には答えられるよ。
「南に行くとヤマタイ国、女王様のいる都」ってことだろ?

「東京、天皇がいる首都(日本の)」
つまり「日本≠東京」ってだけの話。

単純に現代感覚で見ると、クニと国が混乱してる点に注意しような。
975日本@名無史さん:2010/10/18(月) 00:43:23
みんなtaro氏ぐらい書こうよ
良く調べてる証拠だわ
976日本@名無史さん:2010/10/18(月) 01:00:35
>>973
>が、当時の日本人の寿命は、50歳に、はるかに満たなかったはずなので

根拠を書いてくれ。
977日本@名無史さん:2010/10/18(月) 01:02:44
>>973何言ってるの?普通で100歳まで生きる、長寿国って書かれてるでしょう?
この頃から長寿なんだよ
978日本@名無史さん:2010/10/18(月) 01:30:01
>>971
女王国が広いんですよ。邪馬台国だけでなく、いろいろな国が含まれる。
その中の女王が都を置いている国が邪馬台国。
979日本@名無史さん:2010/10/18(月) 02:40:11
>>957
いや、だからこそ魏の官僚が記録した一次資料からも
蜀の官僚が記録した一次資料からも、そのまま里数を書き写しているってことでしょ。
三国志を編纂するのに、それぞれの一次資料から陳寿の主観で手直しせずにそのままで。

そんで、戦いの記録とかは魏書、蜀書どちらも記事としてあるだろうから、
里数を比べられる記事があれば比較できるでしょってこと。
taro氏の主張は曹魏の記録は短里ってことなんだから。
蜀漢は漢の正統を主張しているんだから曹魏の使用していた単位で記録するはず無いんだし。
980日本@名無史さん:2010/10/18(月) 03:00:03
で、
女王国まで12000里だけど、
邪馬台国までは何里なの?
981日本@名無史さん:2010/10/18(月) 06:22:42
>>980
書いてないからわからない
982日本@名無史さん:2010/10/18(月) 06:52:06
やはり常識で考えて、邪馬台国=女王国。同じ国を言いかえてるだけ。
中国人にとって「女王の国」は珍しいため、特に強調したんだろう。

もし、邪馬台国を含む全体を「女王国」と言うと、「男王国」たる伊都国もその中に含まれてしまう。
女王国の中に更に王国がある、という矛盾が生ずることに。
983日本@名無史さん:2010/10/18(月) 06:58:14
昔の中国では、それは矛盾でもなんでもないよ
王の下に王がいるなんて普通だったからな
984日本@名無史さん:2010/10/18(月) 07:07:35
女王国は邪馬台国の中にあり、女王が君臨している時だけ女王国。
邪馬台国は総称
985日本@名無史さん:2010/10/18(月) 07:11:20
>>980
正確な里数が分からなかったから、日数で表示したんだ。
倭の地は周旋五千余里だから、その中に収まることはまちがいない。
まあ、郡から邪馬台国まではだいたい1万四千里になるだろう。
986日本@名無史さん:2010/10/18(月) 07:16:09
>>982
倭人伝によれば、女王国は万二千余里から始まり南の奴国までを含む。女王の境界の尽きる
ところは奴国だからね。
邪馬台国以外の国々の多くは男王だろう。女王国の中に男王国が含まれることはなんら矛盾
ではない。伊都国は、女王国以北の国だ。女王国には含まれない。
987日本@名無史さん:2010/10/18(月) 07:31:06
次スレ(ここが終わってから)

謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!50
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1287354561/
988日本@名無史さん:2010/10/18(月) 07:33:56
議論は
女王国と邪馬台国の違い?なんだろうね
989日本@名無史さん:2010/10/18(月) 09:22:27
じゃ、「女王国」は卑弥呼以前は、なんと言ったんだ?
990taro:2010/10/18(月) 10:15:00
>>931
どうでしょうね
魏と卑弥呼のやりとりがあったのは主としてAD238〜AD240年代末に卑弥呼が死ぬまでですから、まあ統計上見られる「短里の時代」に入ると思いますが
壹与の貢献に年代がついていたら、そのら辺の境界の判断をどうしていたかわかりやすかったと思いますが
いずれにしても、東夷伝は歴代の史書を通じて短里が使われてるようなので、短里だったかもしれませんね
991taro:2010/10/18(月) 10:16:47
>>932
「700里」だったら「行数百里」とは矛盾しませんね
ただ700里だと、長里でも短里でも実際の距離と合わない・・・しかし、そういう「長里でも短里でも実際の距離と合わない」って記事は、どの史書も数個しかなく、「三国志」本文には皆無だということです
で、数個なら「何かの間違い」で解釈してもいいけど、、、、しかし「三国志」だけが里数記事150個中50個も錯誤すると解釈するのは無理がありすぎるんじゃないか、、、と、そういう意見です

その「三国志」の「錯誤」ってやつが、一部記事に集中するとなったら、なおさら・・・


>>941
その「欠史八代の崩御が月の前半に偏っているから、倍暦があった」っていう説は、統計処理が可能なほどの(最低でも百個以上)記事数があるんでしょうか?
そっち方面はあまり詳しくないんで教えて頂きたいんですが


>>942
>>夷稜の布陣の記事とか、諸葛亮の北伐の記事とかで比較できるような箇所は無いの?。

残念ですが、無いんですね
そういう都合のいい記事があればいいんですが
陳寿は省エネ記述の傾向が強いんで、同じ内容の裏表ダブリ記事は少ない
992日本@名無史さん:2010/10/18(月) 10:24:06
エェェェェー 西晋の高級官僚で
明や清の時代なら、状元と呼ばれたはずの陳寿が
そんなズルっコしてたの〜
993日本@名無史さん:2010/10/18(月) 11:13:51
989:日本@名無史さん :2010/10/18(月) 09:22:27 [sage]
>じゃ、「女王国」は卑弥呼以前は、なんと言ったんだ?


国名を書いた記録がなければ誰もわからない。
つーか、中国人がわかればいいだけの話であって、正式な国名が存在していたかも定かではない。
ただ、どうしても便宜上わかりやすくするために色分けされた
とみなす方が、しぜんだろうね。
自分の国を女王国なんて言う奴はいないだろうし。
994日本@名無史さん:2010/10/18(月) 11:22:22
>>991taroさん。

まさかオチは用意してあるよね?
995日本@名無史さん:2010/10/18(月) 12:40:30
本気で「女王国」なんて名前の国家が存在してたと思ってたんだね。
ああ驚いた。
996日本@名無史さん:2010/10/18(月) 13:37:44
だって唐書に「東女国」がでてくるんだもん!
カイラスのシャンシュン王国のことらしい
997日本@名無史さん:2010/10/18(月) 13:59:23
日本人はトルコ人の一派だろう。
998日本@名無史さん:2010/10/18(月) 15:58:34
特異な国だけ女王国とすれば、それ以外の国は男王が支配している
国だと言うことがわかるから、女王国は書に登場した。
999日本@名無史さん:2010/10/18(月) 18:41:48
1000なら
卑弥呼はモモソヒメ、
台与はトヨスキイリヒメ
1000日本@名無史さん:2010/10/18(月) 18:44:49
突厥
10011001
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