スレ立て乙
武田氏の騎馬割合て1割未満だったってマジ?
北条以下の騎馬割合だったの?
>>2 それにはカラクリがあって、馬上本人を数えてないんだよね
不明な点は多いが、武田は15%弱くらいじゃないかな
上杉が約10%で、北条が20から30%弱くらい
武田は上杉・北条よりも鉄砲・弓の装備に力を入れていた
池田孫左衛門(相模国/元亀3)着到
馬上 20
鉄砲 ...3
弓 .5
鑓 22
旗持 ...2
指物 ...1
歩者 ...3
合計 56人
宮城泰業(武蔵国/元亀3)着到
馬上 ...8
鉄砲 ...2
弓 .1
鑓 17
旗持 ...3
指物 ...1
歩者 ...4
合計 36人
和田昌繁(上野国/天正11)着到
馬上 ...8
鉄砲 ...4
弓 .4
長柄 15
手鑓 ...1
小旗 ...4
指物 ...1
手明 ...3
合計 40人
武田家の場合は、馬上・鉄砲・弓の比率が同程度と思われる(天正4年前後の軍役)。
茨城県ひたちなか市武田(常陸国那珂郡武田郷)の
武田館がしょぼいので、なんとか盛り上げてください。
9 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 23:54:32
武田の故郷か
同じ源氏兄弟の佐竹家ですね
やはり武田勝頼に跡をつがせたのは間違いであった
甲斐人に対する神聖血脈尊崇というべく、ここは、武田氏駿河方面担当(駿河総合長)・江尻領主、穴山玄蕃入道をもって甲斐武田の跡を次がせるべきであった
武田家
北信濃長→高坂昌信(海津城)
中信濃長→武田勝頼(高遠城)
南信濃長→秋山信友(飯田城)
駿河長→山県昌景(江尻城)
西上野長→内藤昌豊(厩橋城)
武田家総合長→武田信廉
武田家理事長→穴山信君
武田家会長→武田晴信
鬼美濃は?
総信濃総主事兼信越方面参与 原虎胤
>>11 それなら弟の武田信廉にでも継がせりゃいいじゃないかw
甲斐の国の民衆の心をつかむのは大変なんだな
板垣退助の時代でもそうだったんだろ
17 :
日本@名無史さん:2010/09/30(木) 09:47:38
騎馬隊とはな
要は運用なんだよ。馬の数ではない
西の方は足軽主体の運用に変化したが東は騎馬主体の運用のまま
東西の境が織田と武田
騎馬主体の運用は、騎馬が主戦闘兵及び下士官で足軽が補助兵
足軽主体の運用は、足軽が主戦闘兵で騎馬は下士官
18 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 20:10:13
柳沢は一番近い養子でも鎌倉期の分家?
19 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 15:00:36
柳沢って竹だの分家だったと聞いておどろいた
>竹だ
って何よ? まともな日本語書けない人?
分家の意味ってわかってる?
21 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 11:10:05
海上知明 信玄の戦争
戦国期ファンは、一度読むことをお薦めします。
鉄砲や農繁期の不利とか調査もせずに武田家を貶めていたデータが専門家の調査によってひっくり返ります。
武田信玄・上杉謙信が信長ともし戦わば・・が愚問と言い切る事ができる一書。
※ 信長が信玄・謙信に直接的な戦争で勝てることはありえない
>>21 読んだこと無いからwktkしてきた
今度読んでみます
海上 知明(うなかみ・ともあき)
1960年茨城県生まれ。84年中央大学経済学部卒。企業に勤務しながら大学院に入学して博士号(経済学)を取得。
現在,国士舘大学および東京海洋大学非常勤講師。著書に「環境思想 歴史と体系」(NTT出版),「環境戦略のすすめ エコシステムとしての日本」(同)など。
どう見ても専門家じゃないだろ。
そうなのか…やっぱ読むのやめたわ
ほう、武田の苗字の地は常陸なんか
そう。
もともと源義光は常陸で勢力を持っていた。
しかし、その息子で甲斐源氏の先祖が、悪さをして常陸にいられなくなって、
甲斐に移住した。
さらにその子孫が甲斐南部の苗字を名乗って陸奥に下向と
南部タンには密かに義信が住んでいたと思っている
謀反事件で自刃したということにして信虎さまのように追放した
武田遺臣の土屋がその秘密を知っていたが誰にも明かすことはなかった
(どこかでこんな話を小耳にはさんでロマンがあるなぁと…)
その話の中で飯富虎昌が生きてるのかどうかが気になるな。
てか信玄にとって飯富虎昌はどういう存在だったのだろうか。
やはり優秀な人材であろうと、権力を持ちつつあるor謀反加担の罪は、許せなかったのか。
引き合いに出せば勝頼は長篠合戦でいち早く戦線離脱した穴山梅雪などを軍律違反として切腹させても良いのにさせなかったし。
勝頼が甘過ぎて信玄が普通だったのかな?
>>30 勝頼の権力基盤が弱くてそれ>>穴山梅雪などを軍律違反として切腹
が出来なかったって言われてるね
そして最終的に処断しなかったゆえに裏切られて滅亡する。
そう考えるとやっぱり
>>30で書いた信玄の処断は正当化だったんだろうか。
しかし高坂昌信でさえも梅雪に切腹させるべきだと言ったのになぜしなかったのかは疑問が尽きないなぁ。
もともとが対立するほど仲が良かったわけでもないし、俺なら梅雪を処断出来てラッキーな気分になるんだが。
軍律違反した梅雪を処断しても、家中分裂は起きない気もするし、やっぱ敗戦後に多くの名将失った後だから人材的に無理だったのかな?
主に駿河を任せれるような人がいなかったとか。
>>32 たぶん処罰されるとわかった時点で穴山が離反するでしょう
織田という外的を抱えた状態で内乱を乗り切るのは無理だと判断したんだろうね
そういう考え方もあるの忘れてた…お恥ずかしい。
新田次郎の勝頼読んでると御親類衆にはずっともどかしかった。
武田勝頼ってマイナスイメージしかないんだが。
いいとこってせいぜい高天神城を落とせたくらいじゃね?
>>35 攻めは強いが、守りに入ると弱いタイプなんだろうな。
正直、新府城の築城は失敗だったと思う。
なかなか躑躅から動かない家臣も多かったし。
38 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 08:21:05
そう言えば平安末期では逸見>武田で武田が最初から嫡流ではなかったという話を聞いたことがある。
穴山梅雪って暗殺されたの?
40 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 09:01:37
>>38 甲斐源氏の嫡流が逸見だからね。武田や小笠原は傍流。
でも、結果的に逸見は武田の軍門に降った。甲斐や若狭、安芸などで
武田家の内紛に絡むのは必ず逸見氏だよね。自分たちの方が格上という
意識があるのでは?その裏返しで武田への憎しみや恨みに変わったかも。
先日のテレビで土佐山内家と長宗我部家の子孫が出てたけど、長宗我部の
山内家や高知城に対する憎悪は平成の今でも消えてないのが、よく解った。
41 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 23:12:50
穴山陸奥入道は、惟任向州の警戒線に引っ掛かり、宇治川河畔で、惨殺。逢えない最期を遂げた。
暗殺ではない。
なお、旧穴山領は、家康の密命を帯びた岡部次郎左衛門正綱の調略により、徳川保護領と相成りました
>>40 >>甲斐源氏の嫡流が逸見だからね。武田や小笠原は傍流。
これはちょっと違うくね?
新羅三郎義光の子源義清が武田冠者になっていて、その嫡男の清光が逸見冠者
清光の子の信義が再び武田姓を名乗ってるから逸見氏が嫡流と言い切るのはおかしいし
むしろ、武田姓の方が嫡流という見方が強いと考えられる
43 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 22:17:52
新田と足利のようなものか
たしか清光は、若死にしているんだよね。
この時代、兄が若死にしたため残された兄の子供たちから、弟の家系に
領地とかその他が移っていくのは、よくあることだから。
45 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 16:39:29
聞ク所ニ拠ルト、コノ武田勝頼ト言フ人ハ、信玄ノ子供デハ有リマシタガ、甲斐ノ生マレデハ無ク、
母親モ、信濃生マレ側室ダッタ為ニ、甲斐軍団ヲ統率スルニハ、適当ナ人デハ無カッタ様デス。其ノ上、少々強引ナ所モ有ッタソウデス
46 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 22:50:06
太郎義信(勝頼よりは器量は上だったと言われてるらしいが)でも勝頼でもなくて優弟信繁が信玄亡き後の総大将になるのが一番能力面での人選としてはベストだったんだろうけどな。 信繁が川中島で討ち死にしなかったらではあるが。
47 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 04:53:11
東が安泰だったから織田信長は躍進できた
信玄が美濃を早々に攻め取ってれば信長は一大名で終わったはず
太郎義信に対する評伝は、「口が達者」とか「屁理屈屋」という意味らしいがな。
けんしんが不覚をとったと悔しがったほど攻め込まれたんだっけ
50 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 20:03:50
太郎義信が廃摘された理由は今川義元亡き後の弱体化して行った今川家に対する扱いを巡っての信玄との対立によるものと言われてるから、
どっちにしろ天下を取ろうとするなら今川家は倒さないと行かないのよね。
この時点で義信が反乱起こさずというifの仮説は成り立たないんだよな。
信繁の戦死も義信が上杉軍の挑発に乗ったからとも言われてるしな。
と言う事は、勝頼と言う本来分家の跡取りを継がさなきゃならず家中の分裂を生じるような状況を後々作ることになり、
信玄家臣団の最大の実力者であった信繁戦死のきっかけも作った長男・義信こそが武田家滅亡の真のA級戦犯とも言えるのかな?
謙信は義信挑発して討ち取ろうとしたが逆に切り崩されて慌てふためいた図が浮かんで
笑えるw 結構おっちょこちょいなのよね
52 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 22:18:41
義信と勝頼の仲ってのはどうだったのかは分からんが(俺的には良くも悪くもなかったのではと思ってるが)、信繁が信玄より長生きし義信が父信玄と対立せず跡継いでくれて信玄存命時同様補佐役に回ってくれてりゃ、信玄亡き後でも十分信長に対抗できたかも?
とは思うけどな。
まあ、この仮定はあまりに武田へのご都合が良すぎるが。
53 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 05:32:19
確か最初は勝頼は武田氏の家督じゃなく(後継者は彼の子)それの後見人じゃなかった?
(自身は信玄の生前に諏訪家を継いでいたので)
まあ戦国の世ではそんな悠長な事はやってられないって事か?
武田氏といえば若狭、安芸もそうだが松前氏の祖になった武田信広(若狭武田氏の出?)というのもいたな
全国に広がる武田ネットワーク
55 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 09:08:53
興味のある人は調べて検証してください
甲斐武田氏は源氏ではない。新羅三郎という朝鮮武士の子孫は南部
加賀美小笠原などで小笠原は信州深志あたりを支配。
小笠原が武田に敗れたあと浪人になったのは身分の低い筋違いの武田
の家臣になる屈辱に絶えられなかったから。
武田が戦国最強の騎馬軍団を作れたのは信州武士を取り込んだから
信長が武田を恐れたのは軍事力ではなくお互い嘘つきの名人であったから
武田が信州で勝った戦は騙まし討ちや調略がほとんどです
実際の戦国の戦の模様については宣教師などの資料を見よ
武田のルーツは高句麗武士。なぜ甲斐の国というのかがわかれば
真実が見えてくるでしょう
小笠原も甲斐源氏なんだけど
>>53 それ嘘だらけ
今更何を・・・って程度の。
wiki程度の知識くらい持ってからここで議論しようね
58 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 20:45:13
謙信どのは、西上野石倉城を攻め落とし、わが子晴信と、利根川を挟んで対陣したのでござりまする
>>46 義信が勝頼よりも器量が上?
その根拠は具体的にどういう事例があるのだろうか?
別にどちらが好きとか嫌いとかの関係ではなく
義信は家督しないで死んだため、大きな戦略や行政等の実績がない。
少なくとも(その戦績、行政等の是非はともかく)10年間は
武田家の当主であった勝頼と、能力や手腕についての比較はし辛いのでは。
ただ義信は正室の産んだ長子の男児であり、
次代の当主と周囲から当然のように目され甲斐国内で守られて育った。
その点は諏訪氏所生の勝頼より有利な点はあったかと思われるが。
>>52 だいたい勝頼は幼年時をどこで過ごしたのか、
明確に記述してある史料が無かったのでは?
正室三条氏の腹で御曹司として躑躅ヶ崎館に育った義信とは
仲が良いとか悪いとか、そんな小説ネタのような忖度するまでもなく
あまり交渉が無かったかと推測するしかない。
年齢だって、子としての立場も違いすぎる。
正月の賀の宴や法要等の場面で会う程度の面識かと。
>>53 あなたはかの歴史会の重鎮(または老害)の、
堂門センセイと同じようなレベルの知識を持っている!
「勝頼陣代説」の指示者としてファンレターでもだせば
センセイも大変に喜ばれると思うよ。
童門センセイ、ごめんなさい。
「堂門」なんて、漢字を間違えてしまいました・・・
sub?
62 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 04:20:50
勝頼の家督の件はそういう話もあるという思いつきで書いた
武田信広は甲斐武田に偏重の書き込みが多いので書いた
疑問形や”?”を付けたのはそういうわけ
まさか罵倒されるとは思って無かったよw
つまり仁科盛信が信玄の跡を継げば解決したんだな?
>>62 日本史板で思いつきで書かれても・・・
そういう話なら戦国時代板とか三戦板の方が向いてるし
そののりでこっちで書かれても罵倒されてもしょうがないわ
まっとうな盛信好きな人々が、多く口にする意見。
盛信は年齢的なこともあり、
また行政実績や戦績の記録も少ないので、検討のしようがない。
「盛信が家督を継げば勝頼よりましだったはず」
という意見には、盛信贔屓の自分でも賛同しにくい。
ただ母親が油川氏なので、諏訪氏腹の勝頼ほど
甲斐国内での風当たりはきつくなかった・・・かも、しれない。
66 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 05:48:33
甲斐武田氏(特に信虎、晴信(信玄)、勝頼の三代)を見ると戦国大名の典型的な栄枯盛衰が現れてると思う
・信虎 一族、国人を押さえ込み分国法を制定するまでにこぎつけたが支配を継続するには
新領土の獲得に走るしかなく家臣団の分裂を招き挙句の果ては追放の憂目
・信玄 基本は同じだが領国を成功りに拡げ民生、経済政策にも成果をだした
それでも家臣団の統制には苦慮、義信の話はその一角
・勝頼 もともと脆弱な基盤の家督継承だし信長などと対抗するには個人能力以前の問題で難し過ぎた
長篠の敗戦以降家臣団の離反を招き、最後は一族の裏切りで滅ぶのはそれ以前の経緯を見ると仕方が無いのかな
>>55 高句麗といえば長野だろ
古代史では結構有名だぞ
「真下家文書」の山本菅助文書、年未詳だった武田晴信文書の年代比定ができたみたいね。
平山優さんが『戦国史研究』で発表されたみたいだけど、まだ未見。
病床にあった「当家宿老小山田」に対する見舞いと信濃方面での「揺(軍事作戦)」が指示されてる内容で、
はじめは「小山田」は越中守信有とされてたけど、備中守虎満って可能性もあると考えられてきた。
で、どういう根拠になるのかはわかんないけど、小山田虎満にとするのが妥当みたいだね。
ということは文書は永禄年間のもので、川中島関係である可能性大。
もう、「山本勘助」に比定しちゃっていいだろうなぁと、個人的には思うよ。
源義光の「新羅三郎」は、円珍の請来した園城寺の新羅明神の前で元服したことによる。
兄貴の義家の「八幡太郎」とか、義綱の「賀茂次郎」と同じ事情だよね。都を守護する神様の名にあやかっている。
ただ、武田がはじめて甲斐に土着した市河荘とか韮崎あたりは巨摩郡の領域で、巨摩郡は渡来人を集住させて立評させた地域ではある。
それに、田辺史氏とか馬史氏とか古代甲斐の国司には渡来系氏族が着任していて調停への貢馬をしていたわけだけど、そういう
渡来系技術者集団を掌握するために新羅明神にあやかった名乗りをしている可能性はあるんじゃないかなぁ。
古代史の段階では、やっぱり半島との関わりはあるよ。
新羅三郎義光の元服が、白村江からいったい何年経っていると思っているんだよ…。
「古代」でくくるな。アホ。
平安時代までは「古代」だと思うけど。
まぁ、確かに甲斐において渡来系集団の消長がどこまで確認されるのかは、よくわかんない。
再移住したのか同化してしまったのか。もし渡来系集団が馬産技術とかをもって残存していたのだとしたら、
彼らを掌握する意図もあって「新羅三郎」名乗ったのかなって。
べつに、そのことを立証しようだなんて、思ってもないけどね。
>>73 「可能性はあるんじゃないかな」というアレな推論に対して、
強固な理由で「ありえない」という回答がもらえてよかったね。
考古学的に、甲斐に残存した渡来系集団の存在が確認されることは、ありえると思うけど。
義光の勢力基盤は甲斐のみではなかったであろうし、東国各地に散在する渡来系集団を支持基盤におく意図で
「新羅三郎」を名乗ったって考えはできると思う。
はっきりいって
>>55のような考え方はアレだと思うけど、でも古代甲斐において渡来系集団の
消長があることはあまり知られていないかもと思って、紹介しただけ。
なんか、この程度の推論までいちいち批判されると、やりにくいな。
いろいろ提供できる情報もあるのに。
76 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 02:22:02
諏訪のタケミナカタと大国主系が多いんだが、
出雲人が多いんだろうか? 騎馬民族と
海洋民族、縄文系がごちゃまぜのようだ。
諏訪から一山超えた松本盆地の西側の安曇野は、古代の海人族安曇氏に
由来していたりするね
そういやお家は違うが城井宇都宮氏はよく本家の下野宇都宮の問題とかに介入してたけど、甲斐武田家は若狭武田家とそういうのはないのかな?
可能性としては想像するくらいはいいと思うけど、ただ甲斐源氏が市河荘とか逸見地方にはじめに土着したのは
巨摩郡が渡来人集団が移住して空白化していたからではないだろうか。山梨・八代郡は古代豪族三枝氏の勢力がまだ残存していて
甲斐源氏の進出が遅れることは、網野善彦氏によって指摘されている。
80 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 02:01:38
三枝、これまた三つの木を支えてんだよね。
さすがにこの勢力地域には進出できないだろうな。
山県の婿養子であり奥近習六人衆の一人であり
まるで若獅子のようといわれた三枝さんの親戚?
いや違う。古代甲斐の在庁官人。国府所在地だった八代郡に勢力をもってた一族で、
八代荘停廃事件という三枝氏が没落した事件が甲斐源氏の定着前にあって、甲斐源氏が
土着できた一因でもあったのだろうね。
武田家臣三枝氏の先祖だとは到底思えないけど、由緒を求めたりはしているのかもね。
いらっしゃ〜い
84 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 20:38:26
日本史は素人だけど、八田村はやっぱりはったの子孫が
たくさん住んでたんですかね。今まで考えた事もなかった
んだけど。
86 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 13:32:34
源氏ってやっぱり縄文人に近い
勝頼陣代(名代)説は根も葉もない説でもないよ。
『甲陽軍鑑』では信玄死没の三年秘匿といっしょに信玄の遺言とされていて、
三年秘匿は文書上からも実際に確認されている。丸島和洋さんも甲陽軍鑑のこの記述には、
それなりの政治的背景があったはずだとしているしね。
>>87 >>『甲陽軍鑑』では信玄死没の三年秘匿といっしょに信玄の遺言とされていて、
>>三年秘匿は文書上からも実際に確認されている。
から
甲陽軍艦の記述は信用できる!→勝頼は陣代だった!
は幾ら何でも飛躍しすぎだろう
信玄の三年秘匿の遺言は実行されているから、勝頼名代も一定の信頼性がおける、ということだよね。
「武田勝頼のすべて」に丸島氏の一文があるんだけど、陣代(名代)とあるから、おそらく文書上で確認されるのは「名代」の用語。
なんだけど、「名代」と正式な当主を区別することはできないとうこと。
勝頼は陣代であった、だから正式な当主としての権威が無かったではなく、逆に将来的には正式な当主となる
立場にあった信勝を擁していたからこそ、勝頼の政治的立場も磐石だったのではないか、という考えもできるじゃないか
っていうのが、丸島氏の説。
で、これは武田家中内の政治的立場で、親族衆筆頭の立場にあった穴山信君も武田家中内では勝頼に対抗できなかったけど、
信長のような外部の軍事的背景を手に入れることで対抗できたのではないのか。武田滅亡時における信君の離反も、
そういう武田家中の政治的状況から考えるべきじゃないか、っていう提示だよね。
>>56 甲斐源氏の家格が
逸見>小笠原>武田
だったからでは?諸説あるので、異論はおありでしょうが。
91 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 09:53:12
常陸の国からぼーくらの為に きーたぞーわれらーの甲斐源氏武田!
源清光(逸見清光)の子が上から逸見光長、武田信義、加賀美遠光、安田義定など。
小笠原は加賀美遠光の次男くらいの小笠原長清が始祖。
治承・寿永の内乱時点で武田は甲斐源氏を率いて棟梁格になってる。
なんで小笠原が武田より上なの?
小笠原が武田の軍門に下らず諸国を流浪したのはよほど悔しかったのかw
べつに武田としては小笠原を滅亡させる気はなかったろうに 同族だし
一族ほど対抗意識が強いんじゃないかな。
穴山氏だってそうだよね。穴山は信懸(のぶとお)という信君の曾祖父の頃から
武田宗家の親族意識があるからこそ張り合っていて、信懸の父信介と宗家の武田信重は
相次いで死んでいて、信懸自身も信虎の差金と言われる実子に暗殺されている。
そういう宗家と穴山氏の関係の延長線上に信君の離反もあるんだと思うし。
95 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 19:02:02
武田信玄は元々奈良の人で、武田街道を通って信州に行った。
そこで武田を名乗った。武田信玄こそ秦。帰る場所は四国なん
です。
って誰かが言ってた。
96 :
親藩筆頭、江尻藩主。穴山陸奥入道信君(駿河探題):2010/11/08(月) 20:26:07
あげ
97 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 21:56:08
逸見太郎光長、武田太郎信義、同じ日に生まれた兄弟
太郎が二人必要だろうか?伝承者は一人でいいはずだ。
一子相伝か 武田神拳継承者
名代と陣代って言葉の定義自体が違うような気がする。
甲陽軍鑑を全否定はしていない派だけど、
取扱いに注意せねばならないものだと考えているので
「甲陽軍鑑」にあるから・・・という根拠だけでは何とも言い難い。
っていうか、89のレスの文意がつかめない。
「武田勝頼のすべて」は手に入りやすい本だから、読んでみてよ。
きちんとした論文ではないから論旨が不明瞭だったりするところもあるし、「陣代」と「名代」の区別もわからない。
文書上で「名代と正式な当主を区別することはできない」とあるから、勝頼を信勝の名代とする内容の文書はあるのかな?
文意がつかめないっていうのは、具体的に言ってくれないとわからない。
・従来の陣代説→勝頼は正式な当主でないから、武田家中において権威が低かった。
・丸島氏の陣代説→勝頼は正式な当主ではない可能性もあるが、しかし正式な当主である信勝を擁しており、磐石な権威はあった。
ということじゃないかな。丸島氏も甲陽軍鑑の記述だけを根拠に勝頼陣代説を言ってるわけではなくて、
「真意のほどは不明というしかない」とは書いているよ。
101 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 23:46:11
柳沢は鎌倉期に遡らないと、武田氏嫡流につながらない?
>>101 柳澤氏は甲斐一条氏からの分出ということになってはいるけど、ただしこれは江戸時代の柳澤系図類による。
で、柳澤家系図の成立は吉保の頃で、吉保は高家武田家を復活させたり、自家の遠祖を武田家に繋げることで
幕府内あるいは甲府藩主としての権威を確立したのではないか、と言われている。
柳沢さんって信玄公の隣に墓立ててるでしょ?
ちょっと図々しいよね…
忠臣蔵ものだと、柳沢吉保が上杉家を取潰したいがために赤穂浪士に肩入れしたりするよね。
あれって考えても見れば、江戸時代の武田対上杉みたいな。
土屋が赤穂浪士を助けたってのうれしいところだね
忠義をわかってる感じで
吉良にさんざんやられた上杉さんはご愁傷さまw
赤穂浪士は兵法的には武田流だし親近感あるよ
その上杉が武田の一族や遺臣を
家計が苦しくなっても召し放たず
多数面倒見ているんだが……
「山本菅助」文書の研究でわかったことだけど、武田遺臣ってけっこう交友関係があって、
遺臣同士で仕官できるよう斡旋したりしているんだよね。
やっぱり江戸も後期になるにつれ遺臣同士の付き合いも薄くなっちゃうんだって。
なんか、『甲陽軍鑑』って武田遺臣にとって自家の由緒が必要だから、
そういう需要があって成立したんじゃないかなって思ったよ。
武田遺臣の子孫が江戸時代をどう生きてるのかは、調べてみると面白そうだよね。
>>106 だからその上杉にさんざん迷惑かけてた吉良を討つことの手助けをした忠臣土屋は偉いんだよ
まあその後半分に減俸されるのはお気の毒ですがね
忠臣蔵期の上杉は、吉良経由で今川だの、後北条だのとかの血が色々流れ込んできてるよな。
もしかして武田もかも。
>>107 家は滅びても人は残った 優秀な人材が沢山いたから現代までその名声が残る
111 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 22:18:12
北斗(逸見)現る時、南斗(武田)現る。
武田神拳現る時 上杉拳神現る
退かぬ!媚びぬ!省みぬ!!
我が拳は南斗最強の拳法・南斗北条拳!!
武田家は高家武田・河窪家とかもあるけど、滅びてもいるけど再興されなかっただけじゃないかなぁ。。
穴山勝千代とか武田信吉が夭折しなければ武田遺臣もばらばらにならずに、宗家伝来の文書とかも
近世大名家として残っていれば一括して伝来してたかもしれない。
実際にはそうでないから武田宗家は滅んだ状態のままになっていて、勝頼なんか亡国の国主として評判悪いわけだ。
他の生き延びた家あるけどなんか地方に縛られてこじんまりとしてる
武田遺臣は幕府で活躍するから目立って逆によかったような気もする
滅びても伝説になった武田家は語り継がれて生きつづけた
早めに滅びたおかげで新規勢力で早めにスタートを切って勝ち組に乗れた。
まあそれを言うと今川家の方がはるかに勝ち組なんだけどね。井伊とか。
今川が生きててもだれも喜ばんだろ
今川さんディスってんじゃねーよ
119 :
日本@名無史さん:2010/11/11(木) 19:48:51
ここは甲斐源氏武田スレ 今川厨は自分のスレでもたてて勝手に盛り上げてろよ
別に、今川に触れることはまったくスレ違いではないと思うが。。
今川に触れずして武田を語れようか。
121 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 20:05:28
ジャギ現れる
122 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 23:22:15
まさかこんなところで、中央義士会の名前を聞くとはw
124 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 19:28:36
壬生義士会会長
壬生新太郎
壬生義士会副会長
福本清三
壬生義士会京都総府会長兼山陰道方面参与
岩尾正隆
甲斐国衆の特徴は、対外勢力と結んで宗家に対抗するところ。
今井だったら信濃諏訪氏、小山田は相模北条、大井・穴山は駿河今川という具合。
梅雪の裏切りも、こういう傾向の上に位置付けられるよね。
126 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 21:02:11
のちの駿河方面担当の穴山梅雀は、弟信邦を義信謀反に荷担させ、万一クーデターが成功しても穴山が残るようにしていた
>>126 >>弟信邦を義信謀反
結果論だけど、この時の処分が緩すぎたなと思う
128 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 23:28:01
なるほど逸見が北で武田がユダだったか
ヤマトタケルとはそういうことか
義信事件で穴山を粛清していればよかったっていう意味かな?
だとしたら、それはどうだろう。
穴山は今川との取次もやってるし、義信事件以前において親今川であったと思うけど、
宗家が穴山に対して粛清でもしようとしたら、その時点で穴山は今川に帰属するだろう。
もう今川との関係は険悪であったろうし、穴山は宗家に次ぐ家格をもっているわけだから、
今川との同盟を反故にしようとしている宗家に対して家中の分裂を招くだろうなぁと思う。
武田家臣団は磐石なイメージあるかもしれないけど、実態はそうでもないと思うな。
駿河併合後に穴山には江尻領を与えているし、かなり優遇していると思うし、有力国衆の扱いはデリケートであったのだろう。
義信事件においても、宗家が親今川派に対してできる対抗策は嫡男を切腹させるしかなかったっていう
信玄の苦渋の決断であったと思うなぁ。
130 :
127:2010/11/15(月) 20:19:59
>>129 >>義信事件においても、宗家が親今川派に対してできる対抗策は嫡男を切腹させるしかなかったっていう
>>信玄の苦渋の決断であったと思うなぁ。
全く同感なんだけど、だからこそ「結果論」さ
ただ、あの事件を契機に武田宗家への権力集中を図れれば勝頼は
もうちょっと変わった最後を迎えてたかな?なんて想像してしまう。
外敵が多いし、難しい所だけど信虎〜信玄期にもう少し独裁権を強めておきたかったね
『武田氏研究』39号に乗ってる秋山敬氏(武田氏研究会の現会長で国人研究を開拓している人)の論文で、
穴山信懸(のぶとお、梅雪の曽祖父で信虎の頃の人)に関する論文が興味深い。
穴山は宗家の没落後に将軍家から送り込まれた武田信元・信重の補佐として、信重の子信介が河内に土着した
一族なのだけど、信介・信重は相次いで死んでいて、秋山氏はこれを宗家と穴山の抗争と考えている。信懸は宗家の
叔父として信君の頃とすでに同じく親族衆筆頭としての立場にあったようだけど、実子によって暗殺されていて、秋山氏は
これを信虎の差し金と考えている。
つまり、穴山は親族衆といえども信玄より前の時代から宗家との諍いはあって、微妙な関係。
で、信友・信君二代で宗家と婚姻して関係強化している。
信虎追放とか義信事件における宗家と穴山の関係ってあまり言及されたことがないと思うのだけど、
個人的には信虎追放においては穴山が噛んでいたように思えるなぁ。信懸暗殺の報復もあるのかもしれないし。
義信事件のときのことを考え合わせても、信玄や宗家は穴山に対して強く出れない関係にあったのではなかろうか。
信虎と信恵の抗争期には信恵方に付きつつも今川に従属していた様子も見える
勝ち続けて勢力を強めつつある信虎との対立問題で信懸暗殺→武田へ従属になっているようだけど
結局この時代の内訌の根本的な解決をうやむやにしたままで勝頼期に再び火を噴いてるんだよな〜
信虎は殆どの有力国人勢力を制圧・処断ないしは家臣団に組み込んで無力化したけど
小山田と穴山だけはその力を維持したまま残った
その結果が裏切りって言うのもなんともまた・・・
>>132 そもそも、その結果信虎自身が追放されたわけだしね。
小山田は裏切りというよりも自己保身でしょ。
木曽や穴山のように積極的に裏切ったわけではなく
已むに已まれず最後に傍観した。
勝頼を討とうと思えば討てたのにそうしてないし。
小山田は信繁のあとにどうして再興されなかったのだろう。
信繁に遺児がいたのかわからないけど、だれでもいいから一族の中から後継を立てて、
北条に属して家康に抵抗していそうなものの、信茂で滅亡したことになってる。
小山田遺臣はその後どうなったのかなぁ。
136 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 10:04:38
末路が余りにも見苦しいため、いくら武田軍法への尊崇が篤い三河殿とて、小山田出羽守が取り立てには慎重に成らざるを得なかった
いや、小山田遺臣は鳥居家に取り立てられるんだけどね。
138 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 16:10:50
だから!直参にするには憚りがあるんだろが?
平山優さんが指摘していたと思うけど、やっぱり戦国大名の家臣団を近世的な御家意識で捉えると違うよね。
穴山・小山田のように在地支配をしていて、自己の家臣団を抱えている半自律的な国衆を国内に抱えている。
大河ドラマとかだと、どうして穴山が省略されるのかなぁ。
140 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:12:39
半独立の領主は「甲州法度はわが領内には無関係だ」という態度だったそうじゃないか
戦国後期の大名や近世大名は、国法遵守を徹底させ、家臣団に城下に住むことを強制し、領有ではなく、蔵米支給をめざしたが、土着性の強い半独立型の家臣を抱える大名は大変だったと思う
141 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:23:16
最上家の場合、関ヶ原で57萬石もの大封を得たが、半分以上が家老や一門の取り分となり、財政的に身動きがとれず、御家騒動も発生し、
あわれ江戸初期には、あぼん
徳川家の場合は、参遠駿甲信から関東に移封になった折を最大限に利用し、譜代の國人型領主を解体し、単なる藩塀への衣更えに成功しておる。
142 :
日本@名無史さん:2010/11/18(木) 03:27:47
南北朝期の武田氏の動向がわからない。
武田信武は元弘の乱で幕府方についたの?それとも討幕方?
中先代の乱で時行方についたのは確実らしいが。
また正室が足利高義の娘って記録に明示されているの?
まず、鎌倉後期から南北朝期の武田氏は、信時流で安芸守護家だった信武の系統と、
鎌倉期甲斐唯一の守護として確認される石和流政義の二系統がある。安芸守護職は
北条氏によって奪われていたらしく、信武は足利尊氏の挙兵に参加して、安芸守護を安堵される。
だから、中先代で時行に加担してることはないよ。信武の活動は西国中心であるし。
正室についてはおそらく系図類だろうけど、尊氏との親密な関係を示す閨閥ではないかなぁ。
で、石和流武田氏の政義は建武政権から南朝に属して、信武は政義を駆逐して甲斐に再土着して、
信玄にまで至る武田宗家となる。
この石和流から信時流武田氏への継承って、あんがい知られてないだろうね。
南部家の家臣団って、甲斐に出自をもつ氏族っているの?
145 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 17:22:43
例の、日蓮の弟子で有名な波木井氏の一族は南部家臣にいなかったっけ?
信虎さまと南部との関係について詳しく 京都で将軍との取次ぎとかしてなかったっけ
やっぱ同属意識あったんだろうか甲斐源氏軍団として
南北朝は甲斐源氏レベルで見ても飛躍の時期だよね。
武田宗家だけでなく小笠原や南部も南北朝期に飛躍した氏族だし。
小山田だけど、後継を立てられなかったのは信茂が信長から処断されているからであろうね。
信茂に子弟がいたかもしれないけど、よっぽど執拗に残党狩りがされたのであろうか。
北条と結ぶ手もあったかもしれないけど、武田滅亡時に武田と北条は国交がなかったわけだし、
小山田もパイプがなかったのではないかと思う。小山田は国人時代に穴山のように対外勢力と結んで
武田と張り合うようなことはしていないし、同盟関係ができてから北条との取次を務めたり、北条の家臣団に
加わってもいるようだけど、あくまで外交的な儀礼であり、有効なパイプではなかったのかもしれない。
御館の乱以降は外交関係が切れてるし、北条と結んで再興することは無理だったのだろうな。
>>147 とはいえ、真田昌幸はそんな中でも北条とやりとりしていたわけで。
昌幸の謀略で滅びる北条ワロスw
>>147 鎌倉時代は坂東平氏の印象が強いけど、南北朝期は甲斐源氏、近江源氏、藤原秀郷流みたいな連中が日本全国で勃興した
甲斐源氏の西国進出は、承久の乱や元寇での恩賞もあるみたいだね。
でも本国である甲斐のほうでは頼朝の甲斐源氏粛清以後は存在が見えにくく、甲斐守護も政義が唯一であるくらい。
網野善彦氏は鎌倉時代の甲斐守護は二階堂氏ではなかったかと指摘している。五味文彦氏は
若干異論を言ってたかな?どちらにしろ甲斐においては南北朝まで低調。
甲斐武田と若狭・安芸武田とかって同族同士の交流関係あるのかな?
勝頼陣代説だけど、『戦国遺文』月報に丸島氏の小考があるよ。
たしか、勝頼期の文書に「御隠居様」「御館様」とあって、
「御隠居様」は勝頼を指しているふしがあるらしい。
丸島氏は外交分野の人だから、長篠以降の対外関係の再構築の一環として位置づけることを
考えているんじゃないかな?信勝の元服もこの頃だし、勝頼は生前に家督交代して、陣代として
後見の立場にあったことも、十分考えられる。『甲陽軍鑑』の信玄遺言は、三年秘匿のほうもちゃんと
文書から確認されるし、勝頼は隠居しているふしもあることから、陣代のほうも信憑性あるのではないか、というところだろう。
失礼ながら童門先生は『甲陽軍鑑』しか読まないで言ってると思うけど、
勝頼陣代説は、最近の研究だと認められてきていると思うよ。
最近信玄堤の前通ったんだけどさ、釜無川の本流の位置が変わってたよ。
まえは左岸の龍王信玄堤の近接してたんだけど、堤防に囲まれた範囲の中央あたりを流れてた。
あれって砂防工事とかで人為的に遷されたのかな?それとも自然に河道が変わっちゃったのだろうか。
155 :
日本@名無史さん:2010/11/25(木) 00:53:07
源氏は内陸思考でダサイ、織田信長、上杉謙信、東郷平八郎の桓武平氏の方が
華やかで海洋国家思考。
平家の落ち武者うざい
157 :
日本@名無史さん:2010/11/25(木) 18:38:25
>>153 童門先生は『甲陽軍鑑』も読んでいないのではないかな
歴史秘話ヒストリアで信玄やってたようだけど、だれか見た?
公式HP見ると信玄のイリュージョンとか、相変わらず変な着眼点・・『軍鑑』史観だなぁ。
武田はここ10年で目に見えて研究が進んでいる分野なんだし、せっかくNHKの番組で扱うなら、
その一端を紹介していって欲しいものだけど。
番組内容はやや散漫な印象だったが おおむね良し
変幻自在の兵法をイリュージョンだと連呼してたが
家臣たちとの絆をあらわしてたのは感動しました
小和田先生のブログ(小和田先生のブログがあるのだw)見たら、出演したってあったね。
なるほど、小和田先生は『風林火山』のときに、甲陽軍鑑の呪術性とかに触れてたしな。
NHKでは小和田先生御用達だろうから、小和田先生への取材で企画ができたのだろう。
平山優も解説してたようだけど、平山さんに最初に取材してくれればなぁと思う。
信玄やろうって大まかなテーマで平山さんに取材すれば、最近はこういう発見あったこういう話があるって
いろいろ紹介してもらえるだろうから、それで番組作ればいいのに。
番組HPみると国衆を「豪族」とか書いてるし、家臣との絆を描くとか、
「人は城・・」的な甲陽軍鑑の武田家臣象のイメージを守りたいのだろうなぁ。
大河で穴山が出ないのも、そういう事情があるのかもね。
161 :
日本@名無史さん:2010/11/27(土) 23:55:48
162 :
日本@名無史さん:2010/12/01(水) 16:34:54
千葉県に侵入・定着した武田一族の一派・真里谷氏
武田研究といってもやっぱり甲斐武田が中心なんだけど、広く武田一族とか甲斐源氏のくくりで見ると
同族同士の交流とか敵対が見えて、面白い。
たとえば小笠原長時は信玄に信濃をおわれた後に京の同族や、同族を自称する三好を頼っている。
若狭武田は南部と交易してるし、松前氏は若狭武田の子孫か怪しいものだと思うけど、でも若狭武田の子孫を
称したのは東北に南部がいたから、うちも甲斐源氏なんだよと北海道に土着するにおいて由緒を言い出したのではないかと言われてる。
上総武田は、勝頼がもうほとんど滅亡寸前で、佐竹との同盟をしている。佐竹との同盟も同族の誼があったのかもしれないけど、
勝頼は佐竹だけでなく里見とか房総の諸勢力と対北条同盟もってたらしいし、上総武田とも連携をもとうとしてたのかもしれないよね。
武田氏研究会も山梨が中心で研究者も甲斐武田が専門・関東在住が多いだろうから、武田・甲斐源氏の拡散してる地方研究者との
連携ができてないかもね。武田・甲斐源氏の同族間の関係とか最近指摘されはじめてきたことだと思うし、もっと検討してみれば
いろいろ面白い話あると思うのだけどね。
164 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 12:11:56
常陸の武田地名だけでなく、
甲斐の武田地名も考慮して武田を名乗ったと解釈していいの?
常陸の武田地名は、最近ずばり「武田」と記された墨書土器が出ているみたいね。
新羅三郎義光の子義清の通称「武田冠者」の由来はこっち。
で義清・清光が甲斐へ移住して、清光の通称は「逸見冠者」で、逸見は甲斐北西部の地域呼称。
そして、清光の子信義が韮崎あたりの「武田」の地で元服し、武田姓を称すると。
甲斐の武田地名にも義光と関連付ける伝承はあるみたいだけど、怪しいみたいね。
『甲斐国氏』(近世の地誌)では「武田」の語源を日本武尊伝承と関連付けていたなぁ。
常陸の武田地名については、そういえば語源を知らない。
信義の元服に際して、祖父義清の通称を意識してたかもしれないけど、
でも信義の兄弟もそれぞれ甲斐各地の地名に由来する姓を称してるから、
いちおうは甲斐の武田地名に由来するものと考えたほうがいいと思う。
166 :
日本@名無史さん:2010/12/02(木) 20:11:33
滋賀の武田街道の由来は何なんだろう
若狭の武田氏と何か関係あるんじゃない?
地理的に。
ないんじゃないかな。。
こんばんは。
甲陽軍鑑の八巻を読んでいたら「御りやうにさま衆」という一団が出てきたのですが、これは何でしょうか?
「ん」が抜けて、御領人とか御両人でしょうか?
どなたかエロい方、教えて下さい。
追加ですみません。この一団はどれも30騎(足軽は記述無し)を課されていたらしく、
それなりの身分だと思います。
御寮人/御料人
貴人の子息・息女をいう尊敬語。室町時代以降、特に息女の意に用いる。また、人名に付いて接尾語的にも用いる。御寮。
こっちの可能性もあるでしょうか。しかしこの人たちは武田の末もいるようですが、そこまで凄いというわけでもないようですし。
普通女に使いますけど、単純に若者の幹部候補生という意味なんでしょうか……。
近習衆ってやつかな。
173 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 18:26:13
それ五味さんでしょ
五味さん二人が頭で、残り八人いたようです。
五味さんたちは松姫の落ちるのに従った……という言い伝えもありますが。
その他のことご存知ならお教えください。
今年も、もう終わり。
今年は「山本菅助」関係と「武田氏年表」の刊行が大きなニュースだったかな。
武田氏年表、いま手元にあるよー
武田氏年表だけど、
「三月、向嶽寺にて(中略)したのは、怨霊となっていた跡部鉄牛を弔って成仏を願うためであった(4・三四七)」ってのに吹いたwwww
県の正史で「怨霊となっていた」って追認しちゃっていいのかとwww
いや別に、怨霊調伏の仏事が行われたことを「史実」としているわけで、
怨霊を追認しているわけじゃないよ。
俺も県史持っているが、あそこは「このころ跡部哲牛は怨霊になっていた。晴信は成仏を願い云々」って書いてあるんだよな。
「跡部哲牛の怨霊を弔うため・・・」となぜ普通に書かないか面白かった覚えはあるww
それっていつの話?
なんとなく守護代跡部のことかと思ったけど、晴信が成仏祈願をしているとなると割と後のことなのかな?
「跡部鉄(哲牛)」が誰なのかもわかんないけど、
181 :
177:2010/12/11(土) 01:39:46
>>179さんは誤字で、「鉄牛」ですね。跡部景家だと断じて良さそうです。
1540年、天文九年、命禄(笑)元年です。
「命禄」は私年号だろうね。
晴信初期でも信昌のころに粛清された守護代跡部の記憶が残っていた記事として、
興味深いんじゃないかな。
私年号は「弥勒」とかも使われてたりして、ユートピア思想があったみたいね。
『勝山記』には凶作や飢饉、天変地異の記事も頻出するし、そういう世相のなかでの
怨霊調伏であり、信虎の追放であり、晴信の信濃侵略ということだろう。
この年は五穀全てやられた上に
A.野草の生育も悪く、餓死者で溢れた
B.野草の生育は良く、餓死者は出なかった
みたいな感じだもんな……。
この辺の私年号って誰が付けてたの?
伊豆の三嶋大社だよ。「命禄」もそうだけど、甲斐だけじゃなくて東海・関東一帯で使われてる、
地域的私年号だよね。
187 :
185:2010/12/12(日) 12:10:49
なるほど、ありがとう。
188 :
日本@名無史さん:2010/12/12(日) 19:48:14
もしかして甲斐源氏すべて秦氏?
浅井江の二番目の夫羽柴秀勝は、わずかな期間ではあるけど甲府領主だよなぁ。
あと、徳川忠長も甲府領を与えられている。あと、保科正之は信玄の娘に養育されてるわけか。
信玄も一度は肉薄した「天下」、武田の滅亡後、天下人となった織田一族でもある
江が将軍御台所になり、甲斐にも若干のゆかりがある・・のだな。
中公新書の「戦国仏教」っていう本が『勝山記』に記される富士北麓の社会史を仏教の観点から書いてるよね。
たしか信虎は徳政令出してたし、信玄も永禄年間くらいにだしてるんじゃないかって説があったはず。
やっぱり中世的な自力救済では天変地異や飢饉凶作、治水とか対処できない部分はあって、
強大な領主権力は在地側としても必要としていたから、戦国大名みたいな新興勢力が出てくるってことなのだろうね。
箱根ヶ崎諸旦那とは何でしょうか?
武田研究者の丸島氏がHPの日記で、山梨県博でこの間までやっていた「甲斐源氏」展に出展されていた
大阪の本山寺というところの小笠原長時文書が注目されると書いてた。小笠原長時は信濃から追放されたあと、
同族を自称する三好長慶のもとに身を寄せて上方にいて、本山寺文書は第四時川中島半年前のもので、
旧領復帰した際には寺領を寄進しますよと祈願したもの。
ちょうど同時期に上杉謙信が将軍義輝から長時の旧領復帰支援を命じられてることからぴたり符号するのだけど、
ようするにこれは川中島の戦いがかなり畿内情勢と関わっていたことを示すってことだろうね。元亀2年の西上作戦虚構説に関係して、
柴裕之氏が指摘しているのが、信玄後期の駿河侵攻とか「西上作戦」が畿内情勢と連動したものであるということで、
信長は室町将軍を通じた「天下人」の代役として地方大名の紛争を調停しているわけだ。
川中島では将軍義輝が仲裁してるけど、三好長慶も小笠原長時を保護して旧領復帰をおそらく支援していただろうし、
長慶も後の信長と似たポジションであったということなのだろう。
川中島はこれまで単なる地域抗争に過ぎないとも言われてたけど、こう考えてみると中央情勢と連動した出来事であったのかもしれないよね。
193 :
日本@名無史さん:2010/12/21(火) 17:31:49
武田信玄は所詮、甲府の山猿田舎者の勘違い思い込み。
坂の上の雲でも「田村怡与造」の名前が出てたね。
日露戦争直前までの参謀本部の人(軍事の役職とかわかりません)で、
対ロシア戦争の基本戦略を考えていた人。戦争直前で死去してしまう。
甲斐出身で、やっぱり「今信玄」の異名であったようだね。
まぁ、その次に「今信玄」でよばれたのは金丸信なんだけどね(笑)。
金丸信在日説ってのがあって、びっくりしてしまった。個人的に、それはぜったいにないと思う。
それは、哀しいかな193の言う通り甲斐はど田舎で閉鎖的だから。金丸家は武田家臣を先祖とする
村役人階層の出自だったと思うけど、地元の名望家で「親分」なんだよね。
この「親分」ってのは「親分子分慣行」という山梨独自の民俗的人間関係で、地縁的後見みたいなもの。
金丸家のような名士が「親分」として村内の「子分」に対して結婚とか就職の世話してあげたりして、
「子分」は親分に従属してなにかしかの奉仕をするような関係。近代になるとこれが選挙のときに強くて
かなり最近まで金丸をはじめ山梨の知事とか政治家は「親分」階層の出自であるし、ほとんど姻戚関係にあるんだよね。
戦後山梨県知事の天野家、田辺家とか中銀頭取の名取家、そして金丸家とか網野善彦の実家の広瀬家や網野家、
これら政財文化界の著名人は閨閥関係にあるし知事選の対立構図なんかは親分同士の戦いの構図でもあるんだよね。
で、なんでこんな話をするかって、実はこの親分子分の民俗って、起源は信玄の頃の「寄親寄子」にあるんじゃないかった
言われてるんだよね。寄親寄子は戦国大名家臣団の構造そのもので、信玄みたいな当主はまさにその頂点にいたと思うのだけど、
金丸信は確かに現代の信玄的親分と言えるのだよね。
田村怡与造は軍師的な意味で信玄に喩えられていたと思うけど、金丸信を信玄に喩えるのはまさに言い得て妙だけど、
前近代的であまり名誉なことではないよなぁと思うよ。まぁ、いまではさすがにこういう前近代的な地縁は廃れてきているんだけどね。
金丸の名前が出てくるとは。最近も日教組の選挙絡みで一悶着有ったしまだまだ寄親寄子残ってるみたいだね。武田と穴山の抗争みたいなのが現代でも続いてるってのは面白いな。
無知で悪いんだけど、武田信玄ってすごかったの?
やたらとあちこち敵に回したり、国力があんまり富まなかったイメージがある。
あとを継いだ勝頼も大変そうだったし。
一応川中島で知名度が高くて山梨県が町おこしに利用してるので過剰に祀り上げられている部分はある。
徳川家康を惨敗させたり多くの元武田家臣が
徳川傘下に降りたりしてるから
徳川幕府の下では悪く言いにくいし
信玄が凡人なら家康は凡人以下になってしまう
ということで武田家全体が持ち上げられ続けたという面はあると思う
個人的に思うのは、信玄は何をしたかというよりも、いろいろすることができた人物。
つまり甲斐が守護武田により統一され戦国大名になったから、大名権力によって在地支配も強化できるし
治水や普請事業もできたし外交的にも三国同盟を形成できたし対外進出できたしと、何かしたというよりは
余裕があったからできたことがたくさんあった。財政的に余裕のある時代に首相になるのと、今のような
赤字財政の時代に首相になった政治家の評価、みたいな違いかも・・と思う。
外交については、信玄の外交は確かに信用がなかったとする評価も成り立ち得るとは思うけど
でも「すべて」シリーズの各巻に収録されている丸島氏の論考を読んでみると、当時の外交がどう変転するかわからない
不確定要素多かったと思うよ武田でいえば駿河侵攻後の苦境とか御館の乱後の苦境とか。
国力については確実に富んできたといえるんじゃないかな。上記の通り、大名権力ができたから可能になったことたくさんあるんだよ。
治水ができれば新田開発できるし、商職人保護による経済の活性化、領国が拡大すれば拡大領国間で経済も廻るわけだしね。
でも、実は実証研究がいちばん信玄をこき下ろしているとも言えるんだよね。文書に基づいて実証的に検討してみると
実は治水も着手はしていたけど本格的には近世以降とか、騎馬軍団も確認されないし、金山経営もかなり小規模なものに過ぎないと。
逆に過小評価みたいなものにも反論が可能だと思うし、実証的研究が明らかにする信玄とか武田像って、実はすごくもないけど
別にけなすほどでもない、まぁフツーって、あまり面白くはない実像だと思う(笑)。
権力が及んでいるかでいえば、武田よりも近世の豊臣政権下の甲斐支配とか、
江戸時代の甲府徳川家や柳沢家の支配のほうが、よっぽど強く在地を支配してるよね。
水論とか山論、水利権や山の資源はどっちのものかって在地社会の争論を裁定するようなことは
近世になってからで、中世にはまだまだそのあたり自力救済。だからこそ治水をどの程度やってたかとかは
学術的には重要なんだよね。用水路が壊れたから修築しておけ、とだけ命じた文書もあって、ということは
小規模な治水は江戸時代のように奉行が派遣されてきて工事を指揮するのではなく、地域で勝手にやってたということになる。
だから、武田がすごかったかって考えると「すごさ」ってなんだろう、支配とか戦争をする権力であると考えると、
江戸時代のほうがよっぽど権力が強大だよって思ってしまうよね。中世っていうのはまだまだ未途上な、ほのぼのとした
時代だったのではないかなぁ。
合戦についても『甲陽軍鑑』では兵力が何千何万とか書いてある思うけど、ああいうのもたぶん実数ではなくて、
実態はかなりほのぼのとしたものだったんじゃないかな・・
皆様の説、とても勉強になりました。ありがとうございます。
頭を整理して、何度も読み返して反芻しようと思います。
持ち上げて描写されてる面とかもあるけれど、
うろ覚えですが武田の軍法?も徳川氏に受けつがられてるし、
やっぱりひとかどの人物ってことなんですね。
いろいろなことに取り組んだ、好奇心が旺盛な人だったのかな。
恥ずかしながら歴史読本系しか読んだことが無いのですが、
どういう本を読めば、ちょっとでもイメージがつかめるのでしょうか?
203 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 19:33:03
『古代ユダヤは日本で復活する』 宇野 正美
204 :
日本@名無史さん:2010/12/27(月) 21:38:53
205 :
日本@名無史さん:2011/01/19(水) 13:36:37
最近は何か新出文書ないのかな。
206 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 04:27:21
『武田信長』発売中。
207 :
日本@名無史さん:2011/01/30(日) 13:02:10
最盛期の武田家は、甲斐、信濃、駿河、西上野、奥飛騨、越中の一部、遠江の一部、三河の一部、美濃の一部を支配下に治め、総石高165万石、動員可能兵力3万9000に及んだ
208 :
日本@名無史さん:2011/01/31(月) 20:28:06
武田領国拡大の結果、譜代家臣は領域各地に赴任して常駐せざるを得なくなり、信玄や勝頼の当主付近には
政治秘書としての側近層が台頭した。土屋昌次とか原昌胤、あるいは跡部勝資であるね。
領国各地からは当主の決裁がいる訴状やら様々な事務が上がってきて、信玄や勝頼も起きてる時間は限界まで事務に費やしていたと
思うけど限界はあるし、比較的重要度の低い案件は側近層が裁決することになる。城代としての譜代家老は人事異動があるけど
当主側近は失脚することでもなければ長らく実務に携われるし、外交取次を数多く務めることで人脈のパイプが蓄積される。
確かに文書の上からも当主側近が取次を独占的に務めていることは確認されて、こうした事情が勝頼の頃の跡部勝資の専横に至ったのではないか、
というのが丸島和洋氏の指摘。『甲陽軍鑑』における、たとえば長篠で主戦論を主張したとか具体的なことはわからないけど、『甲陽軍鑑』における
新興側近層と古参宿老層の対立構図は、確かに武田家にはあったんじゃない?という話。
これは武田家のみならず領国のでかい戦国大名なら言えるであろうし、織田政権なら森蘭丸とか豊臣政権なら石田三成、近世にも側用人政治があるわけだし、
大名家のお家騒動でも出頭人と譜代家老の対立っていうケースはある。
丸島氏の論文は非常に興味深かったけど、なんだか江戸時代になって側用人の柳沢吉保が甲斐国主になってるのは面白いなと思っちゃった。
武田の最大領域といっても、直轄支配が及んでるとこと、そうでないとこがるからね。
単に国衆が服属してるだけってとこもあるし、国衆は両属関係だったりするしなぁ。
210 :
日本@名無史さん:2011/02/05(土) 18:24:26
飛騨とか越中って言うけど、どんな豪族たちが従ったの?
211 :
日本@名無史さん:2011/02/06(日) 05:35:36
『穴山武田氏』発売中
続刊『』
飛騨は江間氏や三木氏。越中はあんま知らない、一向宗?
213 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 09:43:09
>>195 輿石みたいな人間が当選するのもそういう理由か。
でも親分階層って別に皆が武田の家臣の子孫ってわけではないんでそ?
輿石東は違うんじゃないの、あの人は山教組の支持基盤であろうし。
先の政権交代選挙で山梨は自民候補が全滅して、そういう親分層・甲州財閥系の堀内光雄までが落選した。
から、もうそういう古俗もいい加減なりを潜めてきている・・と思う。
金丸家は武田家臣子孫という「由緒」もってるけど、どうだろうなぁ。特別そういう由緒もってるってこともないんじゃないの。
215 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 00:19:32
越中の神保の一部が武田に味方した
216 :
日本@名無史さん:2011/02/08(火) 00:33:07
三枝じゃねえの?
佐竹が秋田転封になってるのは、新羅三郎義光の後三年役の歴史的由緒があるからなんだろうな。
武田も近世大名として残ってたら、おたくもご先祖の地にお移りなされよと、東北に移動させられてたかも。
上杉とは近所だったかもしれないし、その後どう展開したのか妄想すると楽しい。
南部もいるしね
219 :
日本@名無史さん:2011/02/11(金) 06:42:21
『天正壬午の乱』発売中
220 :
日本@名無史さん:2011/02/12(土) 15:17:01
『武田勝頼』発売中
なんだ笹本先生か(失礼)
222 :
日本@名無史さん:2011/02/15(火) 02:15:15
武田信繁個人を扱った本ってある?
無いね。専論すらない。
武田家臣も、個人より氏族とか親族・譜代とか、かたまりで論じられる。
信繁だったらやっぱり武田親族衆の家中における立場とか、そういう視点。
笹本先生も同じミネルヴァ評伝で「真田三代」書いてて、柴辻先生も人物叢書で「真田昌幸」書いてる。
信玄・勝頼以外の評伝というとやっぱり真田で、大名家臣から近世大名へ転身した真田は特異な位置を占めてるみたい。
武田家臣だと、高坂昌信とその一族は単著書けるんじゃないかなぁとか思うけど。
平安のころだけど
新羅三郎義光流の嫡流って武田じゃなくて佐竹なの?
御旗楯無しを受け継ぐもの
楯無鎧もたしかに平安時代の古いのが伝存していて国宝になってるけど、
果たして伝承がどこまで本当かはわかったもんじゃない。
武田氏系図類では楯無鎧の伝来経緯が示してあるんだよね。
武田系図の成立は近世初頭だけど、原本があったことは確実だろうから
室町期には楯無鎧を受け継ぐ甲斐武田が正嫡という価値観はできているのだろうね。
それが妥当か真実かはともかく、武田が戦国大名として確立している時期だから、そういう「由緒」を必要としたんだろうね。
武田は史料論が弱いといわれるけど、たしかにそうなのかもね。
柴辻先生は古文書学のほうが専門だから史料論のほうもやってるけど、武田研究者は史料論よりも論の展開のほうに熱心なのかも。
近年は武田系図を活用する前にそもそもどういう性格なのか検討してみようとか、あと武田家過去帳類とか史料論もちらほら。
『甲陽軍鑑』の再評価もそうだけど、記録資料も『勝山記』くらいじゃないのかな、専論がでてるのは。『高白斎記』ですら
柴辻先生の解題があるだけで、どうやら武田家の用務日誌を基にした編纂物であるらしいと指摘を受けてるだけで、あまり
資料としての性格を検討されないまま、利用されてる印象。
そりゃ、転封したとはいえ維新まで続いた佐竹氏に比べれば、
信長に滅ぼされるは、その後の一揆と天正壬午の乱でぐちゃぐちゃになるはの
甲斐武田氏は資料が少ない罠。
武田関係文書は確か3000点くらいのはず。これが多いか少ないか。
分限帳とかは残ってないから家臣団の実態把握が困難。
記録資料は『高白斎記』『勝山記』ほかいくつかだけど、信玄後年から勝頼期の記録はないね。
231 :
日本@名無史さん:2011/02/20(日) 22:12:31.28
しかし江戸期は武田末裔は高家として遇され、依田、初鹿野、跡部、三枝、横田ら旧臣は高級旗本として、留守居、大目付、勘定奉行、町奉行として幕政に影響を
平山さんの『天正壬午の乱』に続編あるってことは、甲斐の徳川統治時代から豊臣政権期、
ほんで関ヶ原を経て甲府藩成立まで書くのかな?柳沢吉保あたりまでターゲットにするか。
たしかに戦国史と絡められるし、甲府城は近年発掘調査とか文書調査が進んでいるから、いろいろ一般にも紹介できそう。
甲州金の成立史とかね。あと、やっぱ江の夫であった豊臣秀勝がわずかながら甲府城主だったから、今がチャンスなのだろう。
「山本菅助」子孫とか武田遺臣も扱ったりするのかな?
上杉家文書や島津家文書のように、武田宗家に伝来すべき文書はさっぱりない、てことかな。
けっきょく、残存している武田関係文書の多くは、武田遺臣とか寺社なんかが由緒を証明するために保持しているものが多いのよね。
武田系図にしてみても分析してみてわかったのは、武田宗家系図の体裁はとっているけど、系図が作成された意図は、
穴山氏や旗本川窪氏、柳沢なんかが自家の由緒を示すために武田宗家とのつながりを示そうとしたもの。
『高白斎記』も栗原氏の子孫が武田宗家の記録に先祖の事跡を加えて写本をつくったわけだし、けっきょくのところ武田宗家は滅んでるから
宗家の由緒を利用しようとして残された資料が多いよな、っていう印象。
『甲陽軍鑑』にしてもそういう意味あいが強いと思う。
高坂昌信の原本があるとしたらそれは武田家の歴史を正しく伝える意図があったかもしれないけど、現在伝わる形の甲陽軍鑑は、
軍学者や武田遺臣が武田家の由緒を必要とした意図で編纂されたものであると思うし、けっきょくのところ、武田家の歴史っていうのは
由緒あるゆえに近世において再生されたものであると思う。
237 :
日本@名無史さん:2011/02/27(日) 12:42:44.76
238 :
日本@名無史さん:2011/02/28(月) 06:39:04.49
平山さん、第三弾は川中島以降から「上洛」問題、そして武田滅亡までかな?
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< 第三十一代 三戦板自治新党党首 選考会のご案内 >
1.日時
2011年3月6日(土) 20時〜21時
2.場所
三戦板自治新党スレ(最新のスレ)
(その221)
http://yuzuru.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1298771138/ (三戦板)
http://yuzuru.2ch.net/warhis/ 3.立候補要件(以下の全てを満たすこと)
(1)党首未経験のコテ。
(2)自治新党と学徒閣下に忠誠を誓うコテ。
(3)党首就任の暁には最低でも週一は新党スレに出席できるコテ。
(4)選考日の前日までに立候補を表明し学徒閣下の立候補者名簿に記載されること。
4.選考方法
(1)選考期間に自治新党スレ(最新スレ)で一回レスを行う。
(2)その際、カンマ以下(最後の2字)が大きい方が勝者となる。
(3)同点の場合はその前の字を見て、大きい方が勝者となる。
(4)最終的に閣下からの党首任命を受けて自治新党党首となる。
(5)次点のコテが副党首となる。
5.党首に関する規定
(1)党首の任期は3カ月。
(2)党首は2期(最長6カ月)まで再任可能。
(3)党首経験者は再度党首になることは出来ない。
(4)欠格要件に該当する場合、自動的に副党首が党首に昇格する。
6.その他の規定
いずれの規定も学徒出陣閣下の勅命に限り修正可能。
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240 :
日本@名無史さん:2011/03/03(木) 12:00:17.19
天正チンコの乱
山梨県博(平山さんがいるとこ)の2011年秋季企画展が「柳沢吉保と甲府城」らしい。
甲府城は天守あったかなかったか論争が著名だけど、新出絵図もでたし発掘調査も進んだし、
あるいは豊臣・徳川政権論研究も進んだしで、再検討の時期にきているじゃろう、とうことなのかな。大河に秀勝もでるしで。
本能寺後の甲斐国の位置づけは確かに重要。豊臣政権にとっては、関東移封された徳川領国との接点になるわけだし。
そういえば甲府勤番・勤番士には武田遺臣が多いとも聞く。甲府勤番・勤番士子孫家の文書調査はあまり進んでないし、
調査が進めば意外と武田の由緒が生きてるとか、あるかもしれないね。
242 :
日本@名無史さん:2011/03/10(木) 19:04:38.58
よく信玄公が、「人は石垣、人は城」といい、生涯 城をつくらなかったといわれるが、躑躅ヶ崎館跡や武田義信館跡などってどうみても城にしかみえないよね。
単に城を館と言い換えたようにしかみえない。
城塞史には造詣がないから細かい差はあったりするのだろうが、一見した限りでは差あるようにみえない
躑躅ヶ崎館には複数の郭と堀がめぐらされていたはず。
大友氏とか大内氏の館は、室町幕府の御所を参考に作られていて、
本当にただの館だった。堀はさすがにあるけど。
躑躅ヶ崎って漢字だけみるとなんかおどろおどろしい印象うけるw
ツツジは花なんだけどね 本当武田家はブランドイメージがありすぎる
百足衆 風林火山 二四将 赤備え 諏訪法性 御旗楯無 狼煙台 乱波 影武者
甲州金 信玄堤 金山衆 戦国の巨星信玄公
ちなみに武田信虎が、躑躅ヶ崎館に本拠を移したのも今川・北条が
甲斐に侵入したときに迎撃体制を整える時間を稼げる場所ということで
ここが選ばれたそうだから、城っぽいのも当然だわな。
髑髏ヶ崎館
((((;゚д゚))))ガクガクブルブル
武田家の本拠地は魔王の城みたいだw
「人は城・・」は『甲陽軍鑑』だろうけど、『甲陽軍鑑』は江戸時代のもんだしなぁ。
そりゃ、江戸時代的な「城」ではないということではないかな。
でも、武田滅亡後も徳川・豊臣時代かな、甲府城の改修に関するものとされる文書に出てくる
「当城」は躑躅ヶ崎を指すっていう説もある。となると同時代の認識でも「城」なのだろうね。
室町風の武家居館が若干戦国城郭にアレンジされたという評価ができるんじゃないだろうか。
城の変わりに人間を盾にする思想だな。
「城造るのめんどくせえ。維持も大変。城代わりに人間を防具にしてやれ。」
城に頼らず、俺たちの団結と武勇で守りぬけたぜっという
思想じゃねえの。
つまり俺たち最強っていう思想。
どんな堅城だとしても力攻めにだけに頼ることなく謀略で落としてきた武田の武略
説得力ある言葉だね 家臣に裏切り者を出さなかった
川中島でも武田は最後まで本陣を守りきり最後は勝利した
勝沼氏の成敗事件とか義信事件とか、あるにはあるけど。
近年は信玄後期から勝頼にかけての領国拡大期には、当主側近と譜代家臣との軋轢が指摘されるし、
実態の武田家臣団はけして一枚板とは言えなかったんじゃないかな。武田滅亡後、遺臣たちは
けっこう協調して再仕官運動をしていたことが「山本菅助」の子孫調査でわかったし、
『甲陽軍鑑』においては「人は城・・」的な武田家臣団のイメージができた背景には、
そういうことがあるんじゃないかと考えてる。
横目とか監察機関とかがしっかりしてて謀反の芽は事前に摘むし
家臣にちゃんと気配りして情でもつなぎとめる 最強ですな
256 :
日本@名無史さん:2011/04/05(火) 10:36:29.97
最近は勝頼が継承したのは諏訪本家ではなく、高遠諏訪家つまり高遠頼継の後を継承したんじゃないかって新説があるんだけど、
大河「風林火山」ではどっちだった?
257 :
日本@名無史さん:2011/04/12(火) 14:34:41.77
そういや、信虎と北条早雲の争いは、明応大地震で一時休戦となったのだそうだ。
258 :
岩殿城主 浅野:2011/04/13(水) 00:07:43.79
躑躅ヶ崎館の背後には要害城なる砦があったのに使われなかった
今川勢が甲府まで侵攻した、いわゆる福嶋氏の乱?のときに使われてはいる。信玄は大井夫人が要害城に逃れている際に出生したって伝説があるしね。
あと、甲府城のある一条小山にも詰城があったらしい。
要害城は国指定の史跡のくせに、大した遺構がないようにも思えるんだよね。
甲府城はあれだけの石垣が残ってても県の史跡にすぎないし。
鉄砲の普及で山城が落ちやすくなったから、
それほど拡充されなかったんじゃないのかな。
261 :
日本@名無史さん:2011/04/16(土) 15:44:58.26
躑躅ヶ崎は武田滅亡後も改修されてるんだけど、要害城はそのまま廃城。
つまり、もう用済みになっていた。
262 :
日本@名無史さん:2011/04/17(日) 00:53:24.67
躑躅ヶ崎館は徳川氏→浅野氏が改修して引き続き使用したってこと?
265 :
日本@名無史さん:2011/04/27(水) 11:01:19.84
そういえば、東日本大震災の3.11って武田家が天目山で滅亡した日なんだぜ(もち本当は旧暦で桜の咲いてる季節なんだが)。
かえすがえすも信勝様にあらせられてはご無念であったろう…
信玄が死んだのも春。
267 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 18:19:38.96
信玄の本拠はある種、聖域視されていて下手に改修できんかったのかもね。
268 :
日本@名無史さん:2011/04/29(金) 20:57:44.30
>鉄砲の普及で山城が落ちやすくなったから、
これは大嘘
そりゃあないよ。
大友氏除国後の豊後府内でも、とりあえず新しい城(府内城)が完成するまでは、
普通に大友館を使っていた。
>>268 >鉄砲の普及で山城が落ちやすくなったから
これは本当。
実際にそういう研究もある。
271 :
日本@名無史さん:2011/05/01(日) 15:03:57.28
,ィ __
,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、 言葉の軽きこと『風』の如く
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ ( 先を見通せぬこと『林』の如し
/o O / l´ ノ 。 ヽ lo ',ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、 ,-・‐ ‐・= ハ ∧ `⌒/7へ‐´ 責任転嫁すること『火』の如く
/ ,イ レ_ .(__人_) ミl~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡、 |∀| ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、 何もせざること『山』の如し
彡:::::::::::l ト、___ヽノ /| l::::::::::::ミ {,_.イニノ
彡ソ/ノハ ト、 \ / ,イ 川ハ ヾー
カン チョクト(1946年(昭和21年)10月10日 - ?)
仙谷時代の武将。戦の天災と恐れられた。
知略をもって味方を窮地に陥れる知障でもあった。
いずれにせよ守る側は壁に鉄砲用の穴を開けたり、攻める側も竹を束ねた奴で鉄砲玉を避けながら攻めるなど、攻守ともに戦略が変わったのは事実
>>270 何の思い込みか知らないけど、別に山城だから落ちやすくなったんじゃないよ。
274 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 15:28:49.80
>>245 ある意味のプロパガンダではないだろうか
無敵の戦車として知られたティーガーだって
実は高すぎてよく使えなかったし
故障だらけで敵に破壊された数より
故障で捨てたり自ら破壊したりした数が多いと聞くぞ。
まあ武田も本当はそんなものでは?
三方ヶ原でボコボコにされた家康が
「俺が弱かったのではない。やつが強すぎたのだ」みたいな言い訳するため
武田伝説つくり傍観しとるし。
武田は最強の大名家の一つではあったが
やっぱり多少の誇張はなされているなと思う
それにしても信長の武田狩りはひどいのう。
叡山焼き討ちや長島一向一揆は理解できるが
武田狩りはよほど信玄を恐れての所業としか思えん
むしろ世間が信玄公を英雄だと認識したんだと思うが
幸村とかみたいに戦国最強武将家康を追い詰めたから 家康が自らの敗戦を糊塗するために持ち上げるとか穿ち過ぎ
276 :
日本@名無史さん:2011/05/02(月) 23:01:21.63
>>275 穿ち過ぎとは思えない。むしろ自然かと。
それは家康アンチの意見では?
278 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 08:00:49.76
なんかレベルの低い会話でいいな(笑)
279 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 16:45:41.16
>>207 そう書かれると石高ってなんかドラゴンボールの戦闘力みたいに見えてくるな
神竜さま!おらの改易された所領を回復させてくれ!とか
死んだ一門の物共を復活させてくれ!悪人は除いて!とか願うと
父親追放し息子ぶち殺した大悪人の信玄公はまず復活できんなww
信玄公を大悪人呼ばわりする不敬な輩って一体どこの大名シンパ?織田カス?上杉?
282 :
日本@名無史さん:2011/05/03(火) 23:19:08.02
伊達シンバ
283 :
日本@名無史さん:2011/05/04(水) 01:49:39.33
信玄は政治家、軍事指揮官としても事跡から見て当時でも卓越してた人物
問題は最後の上洛だが
武田家自身中央指向は伝統的にある(正妻の三条氏など身分違いもいいとこ、相当金を使っただろう)
歴史にイフをいってもしょうがないが成功したとしても安定は作り出せなくて
多分戦国状態が長引いただけでは?
>>281 架空の物語なわけだが、「影武者」によるといかにも本人なんですわい。
レベルの低い話でいいね
最近はそもそも上洛が意図されていたのかと・・いやなんでも。
織田を屠る気まんまんだと思う
意外と知られてないだろうけど、信長と決裂するのはほんとに末期だからなぁ。
三方原の時点でも信長は武田と上杉間の調停してたし。
今川を滅ぼしてしまった時点で武田・織田同盟は共通の敵を失ってたからなぁ。
上洛を喧伝していることと上洛の意図は別というのが最近、というか丸島和洋氏の見解だけど、たしかにそうとも思える。
北条との同盟が回復して、信玄は万全を期して上洛実行したかのような感もあるかもしれないけど、信長との関係を清算した代わりに、
浅井朝倉はじめ畿内勢力との関係は連携程度で、同盟にまで発展していない。
今川領への侵攻も北条・徳川への根回しが十分でないまま開始されてしまって苦境に立たされてしまったけど、
上洛、つまり畿内を本格的に掌握したいという意図があったなら、外交的同盟関係がないと無理なんじゃないの?
上洛の是非も、あくまで史実の段階の軍事行動は上洛戦ではなく長期的には上洛が構想されていたって考え方もあるけど、
信玄が存命していたら、とりあえず信長を駆逐した段階で撤兵して、畿内勢力との同盟関係の締結を先にしてたんじゃないかなぁ。
ただ、武田は本国が甲斐・信濃だし、信長のように本拠を移して畿内の掌握を試みたかどうかは疑問だなぁ。
信玄は信虎のように隠居して、在京奉公する形で影響力をもとうとしたんじゃないかとは思う。
289 :
日本@名無史さん:2011/05/08(日) 04:50:35.11
思えば400年以上も昔、信玄が山梨県知事を務めていた頃の山梨は活気があり元気だったものだ。
武蔵の江戸村なんてビンボ漁民の寒村なんぞほとんどたれにも知られていなかったのだし。
ああ・・・・我が初恋の松姫様・・・何もかもが懐かしい・・・。
お前ら田野の集落(天目山)行ったことあるか?
景徳院ってすごくイイ感じの寺だぞ。
まぁ、武田の実力では
織田にはかなわなかったろうな
不当に美化されてるだけ
現実逃避しても始まりませんよ 当時から最強な軍団として天下に轟いてましたから
名が響いてることと最強であるかは別。
みっともない武田厨の巣だなw
信玄は信長領に隣接していなかったから
田舎でちゃぷちゃぷ遊べただけ
もし中原にいれば
とっくに信長に滅ぼされただろう
295 :
日本@名無史さん:2011/05/09(月) 19:18:02.66
このアンチどもは一体どこからわいて出たのだろうか?
ボコられてる北条厨+織田カスの残党といった所か
歴史やってて
武田厨ほど恥ずかしい存在はないね
まだ伊達政宗が好き、とかいってる歴女のほうがかわいい
伊達を引き合いに出すあたりやり口がせこいな
笹本先生、また新著かい。
伊達と武田は縁がないのかな?
佐竹や蘆名は対北条・上杉で外交関係もってるけど、伊達は聞かないかな。
遠すぎる
戦国時代における遠地との友好外交は基本
余裕のある大名は手広くやってる
近攻遠交
それと伊達だが、
越後上杉氏(長尾の主筋)と縁戚関係
武田とは知らん
会津の芦名と武田は友好関係だったらしいが
政宗が小田原参陣したとき甲斐を通っていた気がする。
佐竹との交渉の際には北条がずいぶん使者を妨害していたみたい。
戦国時代の馬はポニーぐらいの大きさだとTV番組のクイズで出てた
そういうの知らない人間が多過ぎるわ
クイズ番組で仕入れた知識を唐突に披露するのもいいけど
JRAのホームページで探したら
日本の在来種の映像があるから自分の目で見てみるといいよ
305はたぶん鈴木の名前も知らない鈴木信者
308 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 09:28:16.99
武田のポニー軍団ってかっこよすぎる。
309 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 17:00:39.30
馬のサイズそのものの事実に鈴木信者も何も関係無かろう。
310 :
日本@名無史さん:2011/05/16(月) 17:30:48.57
テスト
311 :
日本@名無史さん:2011/05/17(火) 12:12:30.95
ポニー軍団どころか騎馬軍団自体が講談レベルのフィクションだからな。
限定的な騎馬戦術や追討に馬は使うにしてもそんなのどの大名でも当たり前。
かっこいい
兵制については文書で多少わかるかもしれないけど、肝心の戦国期の
馬産とか調教、馬の調達をどうしてたのかって事情がさっぱり文書に見えない。
考古学的にも、戦国期の馬産施設や馬具なんかはあまり聞かないし、
古代は牧場関係の記録や考古資料もあるのに、戦国期は古代より資料が少ないと思う。
戦中に刊行された「日本馬術史(全四巻)」ってのはやはり物足りないんだろうねぇ
武田の占領地域の生産力なんざ
北条の1/2程度だろw
しかも信玄一代のわずかな期間に過ぎん
さらにその伝説もほとんど徳川幕府の改竄によるものw
武田は弱い者に強いだけで
上杉のようにほんとうに強い者が出てくると
疾風のように逃げるw
逃亡すること風の如く
強者の前で沈黙すること林の如し
弱きをいたぶること火の如く
犯した悪行 山の如し
これぞまことの武田風林火山よw
北条厨ってアニメ史観で語るから話にならんよなw
生産力と、在地支配を及ぼして実際に徴収できた年貢は違うと思うのだけど。。
武田領国でも後期に領国化された地域ほどどうだったろうね。
「信玄の戦争」(ベスト新書)って本、面白いよ。
信玄の限界は孫子の兵法そのものにあるっていう。
その本は知らないが
孫子ってシルクロード的タクティクス指向
たぶんその辺を突いてると予想
「ベスト新書」
新書史観
‖
大河史観
‖
アニメ史観
>>320 タクティクスというよりストラテジーじゃない
甲斐武田家って天目山で2度滅んでたのは知らなかったわ
何度でも蘇る不死鳥 それが武田家
武田信満のころは幕府と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領という中央・関東の政治状況に振り回されっぱなし。
信玄の頃には自立的に動き室町将軍の意向を突っぱねたりしているのを見ると、大名権力ってのはたしかに確立したんだなと。
武田氏研究会会長の秋山敬氏が死去。
ほお
秋山氏は平山優氏などに比べると一般的知名度は薄いだろうけど、室町・上杉禅秀の乱における武田家の没落から、
信玄の頃の守護権威の再確立に到るまでの時代に関する論考が多い。
穴山氏の武田宗家に対する親族意識とか、武田信長の位置づけとか業績はいろいろあるけど、
ただ資料の少ない時期だから推論に推論を重ねる論考になりがちで、最近だと平山さんの「穴山武田氏」で
近年の論文「穴山信懸」に対する反論がなされているのだけど、再反論することもなく急逝。
あとは山梨県史の編纂とか文化財関係のお仕事が中心で郷土史の人ではあるけど、氏の研究のスタートが
甲斐の荘園に関する集成で、甲斐源氏の土着した甲斐の荘園に注目することで、古代・中世から戦国期までを
繋ぐ視点をもっている印象。
あとは、治水に関して「川除衆」が存在していたことを指摘したり、いろいろ業績はある。
前会長の磯貝正義氏もつい近年に亡くなったばかりなんだよね。
柴辻さんが生きていればいい。柴辻さんに万が一のことがあったら
笹本のおっさんが小説のネタ本みたいな雑文ばっか書いて、
武田氏研究にとっては大きなマイナス。
笹本さんは、確かに論旨や論争において若干難あるところがあるかもしれないけど、
でも職人史研究とか、戦国史だけじゃなくて近世史分野において過去に業績のある人なんだよ・・
網野史学と武田研究を橋渡ししてる人って印象もあるし。
本家の子孫の人たちって親から歴史教育受けてたりする?
意味が分からない。
334 :
日本@名無史さん:2011/05/27(金) 18:55:14.68
昔、テレビで「諏訪湖湖底に眠る武田信玄の棺 発見」みたいな番組あったよな
糸井重里の徳川埋蔵金チックなやつ
超音波とかサルベージとか駆使して引き上げたんだっけか。有耶無耶だっけか
336 :
日本@名無史さん:2011/05/30(月) 18:12:31.38
穴山信君=汚沢
338 :
日本@名無史さん:2011/05/31(火) 11:10:51.46
『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望』発売中
今年は猛烈な観光ラッシュだなぁ。大河ドラマでもないのに。
山梨のこと?
いや、刊行だ。
平山氏は小説っぽいのも書きたいのかもね。
343 :
日本@名無史さん:2011/06/06(月) 14:24:03.60
『武田信玄と快川和尚』発売中
しかし、信虎は長生きしたな
大河ドラマ「武田信玄」みたいに信玄とは合わなかったけど、勝頼とは会ってるんだよね、たしか
信虎が伊勢で軍師してたって話は聞くんだけど、典拠はなんだろね。
THEナンバー2の武田信繁の回で平山さん出とった
348 :
日本@名無史さん:2011/06/29(水) 02:19:25.16
349 :
日本@名無史さん:2011/07/08(金) 21:11:37.25
信玄が考案した勝利賽子について詳しく教えて下さい
350 :
日本@名無史さん:2011/07/21(木) 16:34:27.38
age
信玄殿死去後、武田勝頼がすみやかに織田に投降したら甲斐一国くらいは安堵してくれたでしょうか?
むしろ時をおかず上洛すればよかった 浅倉のボケがくたばる前に
ずっと疑問だったんで詳しい方に教えて貰いたいのだが、義信の最期って
病死なの? それとも自刃?
後者なら能動的になのか、受動的になのか、そのあたりも教えていただきたい
354 :
八重:2011/08/07(日) 12:51:15.44
ずっと幽閉され過ぎて日光に当たれず、衰弱。
そのほう昨日の夜はどこで夢を見た?お裏方かそれとも…
東光寺の裏山でか?
356 :
三郎兵衛:2011/08/07(日) 23:14:18.42
妖怪…この先、行かれぬ
357 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 18:29:52.41
義信の死因は不明。
358 :
日本@名無史さん:2011/08/18(木) 18:36:16.68
武田宗家嫡男という立場からしても、もし持病があったのであれば寺社への願文奉納とか、
高白斎記・勝山記等への記録資料に残っているのではないかと思う。
義信の廃嫡と死去は武田氏の外交的転機で、極めて政治的な事件。
信玄も対外的に勝頼への家督変更を喧伝しているくらいだから、やはり政治的な死=自害が妥当なんじゃないかと思う。
>>357-358 感謝!
やはり自害なんだろうか
だとしても、信玄の命で強制的になのか、それとも自発的になのか
そのあたりは不明なんだろうなあ…
南部家に預けたんだよ 追放
361 :
日本@名無史さん:2011/08/21(日) 01:04:41.61
南部家と外交があったという話は知らない。取次は誰?
義信の死因は不明だけど「政治的な死」なんだと思うよ。
信玄の命によるものか自発的かなんて、あまり意味のない問じゃないかな。
現代でも政治的緊張や圧力により重要人物が死ぬことあるし、武田家のような
戦国大名の家中っていうのは家であるんだけど組織でもあるから、信虎の追放や
義信の死も、そういう雰囲気の中で起きた事件だったのでは。
362 :
日本@名無史さん:2011/08/22(月) 00:50:20.66
ワタシ信玄デス
絵を描きたいだけなんです
殺さないでくださギャー
363 :
日本@名無史さん:2011/08/31(水) 14:24:05.78
武田氏研究会会長に小和田哲男氏。
マジで?
無難だが
思うんだけどさ
信玄はさっさと上杉と同盟でも結べば良かったんじゃねーの?
信長と家康みたいに
後で戦うとしても、さっさと二人で日本を征服してから決戦すれば天下統一も早まっただろ?
そうすりゃ日本の民は大分楽だったはずだ
366 :
日本@名無史さん:2011/09/20(火) 17:28:04.85
は?
同盟しようとして失敗してるよ
>>365 信玄に追われた信濃の豪族を上杉が受け入れた時点で、同盟は出来ないだろ。
上杉は当然、信濃の武田占領地の返還を要求せざるをえないし、武田は絶対に拒絶するしかない。
だから、一時的な停戦は出来ても同盟は絶対に無理。
まぁIFの話も面白いとは思うけど、でも歴史はある種の必然性があって
史実の通りになっていたんだと思うよ。
北条と上杉が敵対関係にあるから、信濃を挟んで遠方の同盟国を得る代償として
領国を接する相模との抗争関係だから、割りに合わない同名なのでは。
同盟しようとして失敗したわけでもない。丸島氏による見解だけど、
越相同盟後の外交状況のなかで、上杉と同盟するか北条との同盟を回復するかの
選択のなかで、北条を選んだ。
>>369 > 北条と上杉が敵対関係にあるから、信濃を挟んで遠方の同盟国を得る代償として
> 領国を接する相模との抗争関係だから、割りに合わない同名なのでは。
何度読んでも意味が伝わってこない。。
>>371 北条と上杉は敵対関係にある。だから、
(信濃攻略以前の武田にとっては)
もし信濃を挟んで遠方の同盟国(上杉)を得たとしたら、
その代償として、領国を接する相模(北条)と抗争関係に入ることになる。
だから、(上杉との同盟は)割りに合わない同盟であろう。
って意味だと思う
君ら甲越同盟しらんの?
実は武田と上杉って同盟してるよね。
信虎の頃に山内・扇谷両上杉とは同盟して、扇谷上杉家から晴信最初の正室を迎えている。
信虎が追放され晴信に代替わりすると今川・北条との三国同盟にシフトするから、
北条との同盟回復が山内上杉との同盟決裂を招き、信濃で山内上杉とは争うことになる。
その結果として上杉憲政は長尾家に亡命するわけだから。
375 :
日本@名無史さん:2011/10/03(月) 17:45:37.20
戦国ちょっと悪い話28
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1316313208/ 30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/20(火) 00:37:15.72 ID:FOKRKaW/
あくまで伝承
天正10年(1582)2月の頃、一人の山伏が殿島(現長野県伊那市)で神坂峠への道を村人熊谷弁治に訪ねた
詳細は不明だが会話の流れで口論となり…
『たった一つの単純な答えだ。テメーは俺を怒らせた』
熊谷弁治、山伏を打殺
山伏の遺体は街道脇に打ち捨てられた
その後間もなく、近隣の村で疾患で苦しむ人が続出した
原因は不明、医者もお手上げ状態
ある晩、疾患に苦しむ一人の村人の枕元に霊が立ち
「我は武田信豊。キチンと供養してくれ。(超意訳)」
と言って消えた
弁治は思い出した
ぶっ殺した山伏は武田の落武者を名乗っていた事を
自分が熊谷直実の子孫であり、武田は源氏の直系である事を
住人達が山伏の遺骨を探し出し社を造って安置すると疾患は止んだ
現在、同地にある大平神社がその社であり、御神体は‘頭蓋骨’である
史実資料では信豊は小諸で自害しており、その首は勝頼や仁科盛信の首と共に京都で晒されたとある
伝承の真偽はともかく武田一族の肖像画の裏付けやDNA採取が可能な遺物の可能性があるのだが…
医学的な調査はされていない
同神社は‘参れば頭が良くなる’とされている
信豊「供養してくれてテンキューなー」
勝頼ってよくアレだけ落ちぶれさせられたもんだよな
378 :
日本@名無史さん:2011/10/18(火) 14:13:08.06
何か質問ある?
内藤昌豊と穴山梅雪との間に権力闘争があったって聞いたんだけど詳細を知りたい。
仲が良くない話が結構ある二人だから少し気になって。
どちらが武田の副将かをめぐっての争い
>仲が良くない話が結構ある二人だから
そうなの?
内藤といえば長坂との不和を示す話は以前に目にしたけど…
382 :
日本@名無史さん:2011/10/25(火) 17:53:59.43
平山優「真田三代」発売中。
すごいね平山氏、年三冊刊行w
信綱・昌輝「三代ったって、どうせ俺たちはおまけ程度の扱いなんだろうな…」
4冊だよ。「穴山武田」「天正壬午」「天正壬午の乱後の・・」で「真田三代」。
まぁ、「穴山武田」は南部町誌の執筆分の加筆なんだけど。
385 :
日本@名無史さん:2011/10/25(火) 23:05:32.20
小山田だけど 質問ある?
越中守信有と出羽守信有、小山田弥三郎って別人?
388 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 10:05:06.75
>>386 庶流なんで わからないです。
>>387 わからないです。この一族は 芸術に 長けてるようです。
389 :
日本@名無史さん:2011/10/26(水) 12:33:57.84
そういやー小澤家は山梨だよね。何か家臣筋か何か?
『山本勘助』の改訂版を出してほしいな。
391 :
日本@名無史さん:2011/10/30(日) 10:03:54.30
信濃先方衆の名簿等はあるのでしょうか?
横山光輝の漫画で見ると
義信が相当うぜーんだが
二回やって二回とも一人の人間動かせただけの人望の無さで良く謀反なんか起こす気に成るよな
しかも頼まれた人間もこいつに家督継がせたく無いっつー
死んで清々したわ
武田信玄女性説
義信って甲陽軍鑑でも賢しげとか嫌味言われてなかったっけ?
勝頼は人柄はクールでそれでいて強すぎる大将とか評価されてるけど
「甲陽軍鑑」は義信(と勝頼にもだけど)に意趣のある書き方になってるもの
信勝に対してだけは優しいけど
でもたしか義信って謙信にも評価されるほどの器量はあったんじゃなかったか?
謙信が義信を評価している文書はないな。たしか甲陽軍鑑の川中島4の逸話で
あの見事な働きをしている侍は誰だと側近に尋ねたのが義信のことだったみたいな物語にはなってたと思うけど。
それとは別に勝頼のことだったら上杉文書か上杉年譜にあった気がする。
長篠の後の勝頼について、若造を甚振るような大人気ないことはするなと家臣を諌めたみたいな内容だったかと。
さすが謙信さんや〜
信長のように若造に勝ったくらいで信玄公に勝ったと吹聴する子供じみたことはしないな
>>395 >賢しげとか
賢いというより、口が達者とか理屈屋というニュアンスだったよね。
ただ「強すぎる大将」も肯定的というよりは、当時は否定的なニュアンスを
含むんじゃなかったかな。
独裁者とか独断専行とか。
400 :
日本@名無史さん:2011/11/28(月) 23:05:04.71
鳥居さんに 雇われた 小山田が 通ります。伏見では 勝てませんよ。
401 :
日本@名無史さん:2011/12/22(木) 23:47:35.62
ブラタモリで上野動物園をやってた,日本古来の在来馬をの保存をしているそうだ
かなり少なくなってるそうだ。
おととしに皆既日食を見られると脚光を浴びたものの
当日どしゃ降りだったトカラ列島の中之島にも数頭いる
与那国馬だねー
今川は実は上洛なんて考えてなかったってのが実情だけど武田には上洛意思あったの?
単に信長叩いて自分の領土拡大と織田の勢力をそぐたげじゃないの?
>>404 そもそも叩いたのは織田じゃなくて徳川ってオチ
どうみても火事場泥やってたようにしか見えんね
織田徳川はもはや詰んでる滅亡寸前の火事場だもんな
407 :
日本@名無史さん:2012/01/22(日) 15:27:04.00
あ
408 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 15:21:39.29
小山田備中守虎満
409 :
日本@名無史さん:2012/02/11(土) 17:27:43.27
うちに武田印判状があるのだが、どうも偽物ぽい。現存する3つの龍印と合わない。
ただ、他に確認できていない龍印はたくさんあるらしいのだが・・・どうも龍が弱々しく
つまり、手が込んでなさそう。典型的な偽龍印ってどこかで参照できませんか?
410 :
日本@名無史さん:2012/02/12(日) 01:26:08.35
所詮は甲府の山猿w
真実は信長は謙信の方が上と見ている。
またどっかでボコられた信長厨かw
412 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 14:42:48.00
基本的に鑑定は不能。明らかな書式の不備、誤字、年代間違い、紙の年代違いなら別だが
朱肉鑑定もあるけど・・・
413 :
日本@名無史さん:2012/02/14(火) 17:49:53.69
>>411 オンドレ、ドタマ、カチ割ったろか!
田舎モンの山猿w
414 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 02:41:07.11
>>409 412氏の申す通り朱肉鑑定が一番正確かと
7〜8万はかかるみたいだけど
印判は編年研究されていたと思うのでその道の方に見てもらうのもいいかも
偽の可能性が高いとはいえ、一応は中世文書の可能性もあるので無下には扱われないはず
415 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 11:57:35.00
416 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 19:14:15.16
>>414有名な高見沢文書等真贋が昔から争われてるけど朱肉鑑定しないの?
417 :
日本@名無史さん:2012/02/15(水) 22:52:07.63
>>416 信州の地元の歴博に笹本氏が公演に。付近の旧家に伝わる龍印文書に鼻も引っ掛けない先生。
「大体が偽ですよ。詳しく調べたかったら朱肉鑑定なされればいい」
先生のコメントに地元の爺さん共憤るも、誰も家宝の文書を鑑定には出さなかったなぁ
418 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 01:42:00.91
>>415 アホ、武田は滅亡しただろ。
オマエはメデタイ田舎者wwww
w
(__)
(__) <垢抜けなくて田舎臭くなるだろうw
(・∀・)
/ _ノ⌒⌒⌒`〜、_
( ̄⊂人 //⌒ ノ ヽ )
⊂ニニニニニニニニニニニニニニ⊃
419 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 01:43:43.51
山猿は謙信には敵わないw
420 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 01:46:50.06
>>415 アポン
。ρ。
ρ
m
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 )
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/ \____/
421 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 03:10:54.32
>>417信濃資料に載ってるのも全部鑑定して欲しいな。どんな感じになるんだろ?
422 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 09:11:05.51
うわぁ キチガイ信長厨が沸いてるな
本当ゴミだぜ
423 :
日本@名無史さん:2012/02/16(木) 21:44:06.75
>>421 その講演の時に偽扱いされてた数通の文書はいずれも信濃史料所載のもの
後代の写しなどもあるから無価値とは思わないとセンセーも言っていたけどね
信濃史料は便利だけれど、もうだいぶ古っぽいイメージがあるなあ
424 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 00:16:57.00
写すときって印も写すの?
425 :
日本@名無史さん:2012/02/17(金) 00:32:46.88
確かにな武田家滅亡後草刈場となった信州でそんな危ないものあったら下手したら殺されるかも
知れないからね。廃棄された可能性が高いよね
その後、どこにつくかで身の処し方も違ってくるし。。。
江戸初期において仕官のときの武田文書の真贋ってのも気になるな。
426 :
日本@名無史さん:2012/02/18(土) 00:15:54.28
そういやー天正壬午甲信諸士起請文と後に依田、仙石氏等に仕えた地元民の
整合性があんま無いので気になった記憶があるな
427 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 00:39:56.46
>>426 天正壬午甲信諸士起請文=武田氏に属する諸氏
依田、仙石氏等 =織豊及び徳川氏に属した諸氏
身替りをうまくやって生き残ってる国人も多いけど、この頃を境に消え去った氏族もあるね
寄らば大樹だけど選択間違うと滅亡
頼りの武田は滅び、替わった織田も瓦解。 北から上杉、南から徳川、東からは小田原北条がやってきた。
さあ、どれを親分と仰ぐかが運命の分かれ道
428 :
日本@名無史さん:2012/02/19(日) 00:56:57.17
同じ一族でも運命の分かれ目だね。
429 :
日本@名無史さん:2012/02/25(土) 18:19:56.84
山梨県立博物館で数年前に「甲斐道をゆく」っていう交通・交流史テーマの企画展やってたけど、
なぜか棒道の初見史料を近世の裁許絵図としていて、高見沢家文書については触れられていなかった。
この企画展では笹本氏が講演していたし、もしかしたら笹本氏に配慮していたのかもしれない。
430 :
日本@名無史さん:2012/02/26(日) 08:54:55.28
八王子市大和田町に、信玄公臣下の墓というのがあるんだけど、何か情報がありたら教えてください。
このお墓は洞窟のなかにあり、入り口には鳥居があります。
431 :
日本@名無史さん:2012/03/03(土) 13:07:53.60
津金や海ノ口の伝馬状、高見沢や相木家の文書等真贋が気になるけど全部偽物
だったら郷土史が変わっちゃうだろ。
432 :
日本@名無史さん:2012/03/04(日) 16:41:11.33
新田次郎の武田勝頼読み終えて勝頼の不運に涙した(´;ω;`)ブワッ
平山氏の「武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望」読んでるんだけど、あとがきがアツい。
現在の歴史出版海への痛烈な批判もある。
「出版不況といわれる昨今であるにもかかわらず、極めて杜撰でいい加減な「歴史書」なる
ものが書店にあふれているのは皮肉なこととしかか言いようがない。史料とまともに格闘せず、
地道な基礎研究を行うこともなく、先人の業績に注意も敬意も払わず、思いつきと勝手な想像
だけで物を書いて恥じ入ることのない作者たちの存在と、またそれが次々と出版される現実は、
歴史学にとっては決して好ましいことではない。」
434 :
日本@名無史さん:2012/03/06(火) 19:27:08.83
天正チンコの乱
>>433 あんたの「真田三代」も似たようなもんだったわ
平山さんは、武田氏の大名権力を比較的高く評価している。
対して笹本先生は低く評価していて、棒道の整備や治水もに関しても
出来なかったであろうと考えておられる。
438 :
日本@名無史さん:2012/03/10(土) 22:31:18.81
今年はやるぜ!!信玄公祭り
うちの地方にも来て欲しい!by富山
去年は震災で中止だったのよね。
441 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 13:30:21.52
>>437自分の説に固執してバイアスが掛かって無ければよいけど
ただ、面白い見方だね。大名権力が強ければ偽文書も後世に家系の装飾的な目的に
おいて作成されたものだろうが大名権力が弱ければ、当時実用的な意味での偽文書も
作られただろうし・・・伝馬状等
平山氏は大名権力を高く評価するから、『天正壬午の乱』で旧武田領域の
中小国衆も大大名や豊臣政権に翻弄されてばかりいるわけではなく、
独自の行動してるよっていう視点になる。
443 :
日本@名無史さん:2012/03/24(土) 17:27:39.86
信長公記巻八 4、長篠 三州長篠御合戦の事
このように武田勢が総軍入れ替わりで突入してきたのに対し、織田・徳川勢は一将たりとも前に出さず鉄砲のみで応じた。
そして足軽であしらいつつ徐々に敵勢を追い崩し、そのあとで人数を突入させていった。五番手には馬場美濃守信春勢が押し太鼓の音とともに攻めかかってきたが、
結果は上と同様であった。5月21日日の出の刻から始まり、織田勢が東北東をさして戦ったこの戦は未刻Nまで続いた。
その間武田勢は諸卒を突入させたが、そのたびに織田・徳川勢に討ち果たされて次第々々に無人となっていった。
それでも生き残った将兵は武田勝頼の旗の下に集まり、敗戦を悟って鳳来寺の方角へ退却をはじめた。
信長公はそのときを逃さず、陣をくずして総軍を乱進させ、これを追撃した。この戦で討ち取られた首は、
よく見知られた分だけでも山県昌景、小幡信貞、横田備中、川窪備後、真田源太左衛門信綱、土屋惣造昌次、甘利藤蔵、杉原日向、名和無理介、
仁科、高坂又八郎昌澄、奥津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、
和気善兵衛、馬場信春など多数にのぼった。なおこのうち馬場信春の働きは比類のないものであった。
この者達をはじめとして武田勢はこの一戦で数多の将兵を失い、討死した者の数は一万にも達したO。
その中には山に逃げ入って飢え死にした者や、橋から川へ落とされて水死した者も多く含まれていた。
つまり、武田騎馬軍団最強=デタラメ。
馬については近年、山梨県博の動物考古学専門の学芸員さんが研究テーマにしてるね。
山梨県の出土馬遺体は戦国期のものは少ないのだけど、平安時代のものは幾つかある。
ただ、馬に関係した馬具であるとか、飼育環境に関する考古遺物ってあんまり聞かないのよね。
文書上でも馬に関係するものってどれくらいあるのだろうか?集成された論文は見たこと無いなぁ。
武田騎馬軍団といっても、馬の飼育や調教どうしてのかって、わからないことだらけだと思う。
445 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 15:25:23.63
新出の武田勝頼書状。
446 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 11:12:23.58
409だが・・いつのまにか書状が郷土史に載ってたOrz写真入で・・・
何故???
447 :
日本@名無史さん:2012/05/10(木) 11:25:56.33
初心者質問板が見当たらないのでここで
戦国期の資料を見ていると中規模の村一つ(郷と呼ばれてる)に対して
郷代官と呼ばれる役職があって官途をもつ人物が勤めているが
彼らは武士?一村一名から江戸期の庄屋みたいなものかなと?
また、官途は自称?一応領主から貰ってるのかな?
448 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 13:18:46.85
政治形態としては、同族の家臣が多すぎて、前時代的な印象だよな。同族だけに、敵に対しては一致団結して行動するだろうが、商業やら工業を取り入れて経済発展の方向には、なかなか行けない感じがする。
進歩性が無いのは、東北の南部と似てる気がする。
江戸時代に残ってても、不器用な藩となっていそう。
商業を優遇して城下町を発展させた、伊達とは大違い。
449 :
日本@名無史さん:2012/05/17(木) 22:38:48.52
伊達は近世大名だし。同じ地平で比較しちゃいけない。
450 :
日本@名無史さん:2012/05/18(金) 03:31:46.32
回船やら街道整備され物流が巨大化・安定化してからと比べるのはおかしいよな
武田チン玄公が男に宛てたラブレターを見てみたい
清和天皇は子孫について草葉の陰でどう思われてるのだろう?
>>451 清和天皇は15歳から女を宛てがわれて
天皇1人で30人ぐらいの女御・更衣を相手にして疲れ果て
28歳で譲位・出家してからは女断ちをしたものの
それまでの疲れが出て30歳で死んでしまった御方なのだよ
好き勝手やってる子孫が羨ましかっただろ
マジかー!
454 :
日本@名無史さん:2012/05/23(水) 21:30:16.39
ラブレターじゃなくて誓詞だから。
455 :
日本@名無史さん:2012/05/24(木) 03:21:51.01
>>102それは言える。現代における信玄をはじめとした武田家の名声は明らかに柳沢吉保が定着させたもので、信玄の子孫が絶えると吉保の子孫が養子
になってそれを引き継いで、現在に至っているからね。
>>114だから水戸家は穴山家を継承したものと言ってもいいだろうね。これが水戸家と尾張・紀伊・御三卿との違いなんだよな。
信玄次女は保科正之も養育したけど、信吉が死んだのは頼房が生まれて数カ月しか後ではなかったからね。
信康が殺されたのを機に秀忠が後継者に変わったのに似ている。
456 :
日本@名無史さん:2012/05/24(木) 05:43:28.58
457 :
日本@名無史さん:2012/05/24(木) 14:32:14.38
桜田門外の変では武田遺臣同士が斬り合っている。
柳沢家中には武田遺臣いなかったのだろうか?
武田家のブランドを大事にした吉保ならば、
当然のこと武田遺臣を召抱えようとしていたと思うけど。
459 :
日本@名無史さん:2012/05/25(金) 18:54:54.01
柳沢家は旧武田家遺臣の中でも一番繁栄してんな。
460 :
日本@名無史さん:2012/05/26(土) 03:27:52.85
>>409,446続き
図書館に行って少し調べたのですが・・・郷土史には写真付きで掲載されていたのですが。
戦国遺文 武田氏編には掲載されていませんでした。(芝辻御大から見たら偽文書かな?)
あと、5つ位の龍印と照合したが合わず。
うーむ、これで何故郷土史に載ってるのかが不明です。
南松院という穴山梅雪が創建した河内領の寺院と水戸徳川家は、
幕末に至るまで交流があるみたい。徳川慶喜の父斉昭が死去した際には、納経を行なっている。
水戸徳川家には穴山遺臣がずいぶん召抱えられているしね。意外と交流はある。
丸島和洋氏ってTwitterしてるね。
『戦国遺文 武田氏編』の補遺が出るらしい。
件の山本菅助文書も収録かな。
新羅三郎義光
465 :
日本@名無史さん:2012/06/17(日) 05:32:21.43
勝頼の「四郎」は仮名であって幼名ではないよなぁ。
幼名すら不明の勝頼。
466 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 12:40:22.70
武田典厩信繁
467 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 13:37:23.11
>>465 武田四郎勝頼は源九郎義経みたいなもんだろ
ミドルネーム?
ちなみに親父の武田信玄は幼名が「太郎」だった
「太郎」は輩行であり幼名とは違う
469 :
日本@名無史さん:2012/07/16(月) 17:37:08.39
信玄の幼名は勝千代じゃなかったか?
んだ。「太郎」は仮名
千代に勝つか 雅な名前だ
頼朝の幼名が鬼武者っていうのはワロタw
武田家の旧臣は
@徳川家の旗本になった
A井伊の赤備えに付属して彦根藩家臣になった
B武田信吉→徳川頼房に付属して水戸藩家臣になった
という流れで良いか
「勝千代」は『甲陽軍鑑』が元ネタじゃないかな。
勝千代といえば穴山。
穴山勝千代は「勝千代」の幼名のほうが確実な名乗りなんだよね。
諱とされる「信治」のほうが確認されないくらいで。
476 :
日本@名無史さん:2012/08/05(日) 16:39:26.29
高坂弾正忠昌信
駿河の責任者にして親族筆頭、穴山信君の意向を無視したカツヨリの責めは重い
478 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 12:12:35.14
>>472一番多いのは農民じゃないのかな?半農半士だろもともと
479 :
日本@名無史さん:2012/08/13(月) 17:37:05.73
徳川は河内源氏 江戸城をつくったのは摂津源氏
480 :
日本@名無史さん:2012/08/19(日) 15:41:10.80
武田領になった地域から流通が盛んになり旅館やったりしてる武士がいたね?
篠澤氏だっけか?昔は農商士ってどういう区分けだろうね?
481 :
日本@名無史さん:2012/08/21(火) 01:06:05.46
江戸期に入ってからの宿場町の三役、本陣、脇本陣、問屋位の家は
武田氏時代には郎党をもって騎馬で出陣するくらいの地侍クラスだよね
大坂夏の陣の史料にいまだこの層が動員されている(仙石氏 小諸城)のに以外な感を持ちました
482 :
日本@名無史さん:2012/08/21(火) 10:38:12.84
大阪の陣まではあっちこっちの藩で庄屋を騎馬にして連れて行ってるよ。
また、禄も与えているが士分なのか農民なのかは意見が分かれるとこらしいけど
また、この層は幕末になってもまた、顔を出してきて、金と兵を無心されてるw
483 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 17:44:19.50
富士山は甲斐固有の領土。
484 :
日本@名無史さん:2012/08/29(水) 17:46:10.16
諏訪、佐久、小県、伊那、木曽、筑摩、安曇、川中島、西上野、駿河も甲斐固有の領土。
485 :
日本@名無史さん:2012/09/04(火) 02:26:52.16
北條バンざーイ!! ジョークジョーク。
486 :
日本@名無史さん:2012/12/15(土) 15:43:22.05
???????????????????????????
487 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 21:23:09.54
>>458 残党狩りから逃れれた奴らは多くは徳川に拾われて旗本になっている。
こぼれた奴らも水戸家や真田、八王子千人同心やらで帰農以外は大部分が拾われている
489 :
日本@名無史さん:2013/01/11(金) 20:30:38.47
明治期の自由民権家の甲州人、小田切謙明も元は甲府の庄屋だったが、千葉道場の娘さな子を
最後に引き取り、同家の墓に入れたことが、大河ドラマ竜馬伝をきっかけに改めて知られる事になった。
この庄屋小田切家は、もちろん江戸北町奉行小田切土佐守と先祖は縁続きだろうな。四奉行とも。つまり帰農組。
『戦国遺文 武田氏編』の補遺って結局出たんですか?
東京堂出版のサイト見てもないので。
どうにも疑問が解消しないのでちょっとお聞きしたいんですが、原虎胤って一体何宗を信仰していたんですか?
ネットで調べると、浄土宗説と法華宗説が半々くらいあるんですが、詳しいことはわかっていないんでしょうか?
492 :
日本@名無史さん:2013/02/27(水) 11:22:08.39
武田信玄の末裔を名乗るモデルの武田アンリが
武田旧温会から否定されたそうだ。
本人による捏造でなく従三位追贈の時に名乗り出た何人もの自称武田信玄の末裔の中の一人の子孫だったりしてw
493 :
日本@名無史さん:2013/03/11(月) 20:53:31.24
甲府で醤油作ってる武田家はどうなんだろうな?幕末に他国から流れて来たとか?
浅草の日蓮正宗妙音寺
我が家の墓の周りを取り囲む武田今川その他家臣団と思しき墓
偽物だとは思えても何のために?
魔除けの一種か?
昔から不思議だった
495 :
日本@名無史さん:2013/05/03(金) 17:01:34.39
>>490発刊するらしいぞ
>武田家臣というのはどの辺りを指すのかね?知行取りからか、地侍如く
軍役を課されるぐらいのものを云うのか
小山田氏で有名な郡内に
西原を所領とする西原武田氏がいたらしいのだが
どの系統の武田なの?
調べてもさっぱりわからん
あと宇都宮尚綱の家臣・武田信隆って
なんか関係あるんだろうか?
山県昌景て甲斐と安芸どちらの出身か分かったの?
飯富源四郎の名前が見える一次資料てないのかな?
498 :
日本@名無史さん:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN
うち、秋田の逸見です
縁者なし、いったい、由縁はいずこでおじゃろう?
499 :
日本@名無史さん:2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN
逸見稔 西村俊一
/゙ミヽ、,,___,,/゙ヽ
i ノ ノ ヽ、'
/ ` ・ . ・ i、
彡 /// ミ(_,人_)彡ミ ふふふ・・・八幡太郎の血筋だけが武家の棟梁となる源氏じゃ
ヽ, ノ
./ \,
/ , . 、 'i
./ r´ 人. ヽi
i 人_,、__ノ ヽ、_,,_ノ.|
| / ゚ ゚ .|.|
| /( .з .iノ
_.しゝ ヽ_______,ノ
_ノ_.ノ__.\.i,___, ∞ _ノ
|ヽ /_.__\ 'ヽ、 ./ |
|# |++++| . 'ヽ、,_ノ .i
ヽ|++++| ノ i
 ̄ ̄ ̄i ̄ ./. .|
i ノ ヽ i
| / .\ |、_
,/ / ヽ、__つ
.と__,,ノ
501 :
日本@名無史さん:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN
そもそも武家源氏自体が経基王から家督買っただけって噂もあんだがね
満仲の方が経基より年上ってなんじゃい
502 :
日本@名無史さん:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN
鎌倉平氏の平なんちゃらがいたろ
正体は平氏じゃねえの?
503 :
日本@名無史さん:2013/08/02(金) NY:AN:NY.AN
504 :
東京の男:2013/08/11(日) NY:AN:NY.AN
酷暑の中、今日は設楽原古戦場へ行ってきました。
505 :
日本@名無史さん:2013/08/21(水) NY:AN:NY.AN
で?
506 :
日本@名無史さん:2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN
満仲のは単純に生年月日が曖昧で混乱しているだけじゃんか?
彼のもとの出自の資料もないし。
507 :
日本@名無史さん:2013/09/15(日) 00:46:52.58
2つ質問があります。
1、武田家の譜代家老衆は10人以上いますが、家老の中に序列はなかったんでしょうか?
たとえば、信玄後期の時代なら、山県、馬場、内藤、高坂、秋山といった人たちは相備え(与力)が配属され、何千人の兵を率います。
その一方で、駒井、小宮山、今福などは特に相備えもいないし、騎馬も50騎〜80騎馬ほどです。
こういった場合、会話する時などに差はあったんでしょうか?
2、もう1つの質問は、信虎が採用した小幡、原、多田、横田といった人々は武田家から見て譜代家臣なんでしょうか?
個人的には信玄から見れば譜代家臣だったのかなと思います。少なくともこの4人の息子は譜代と言っていいと思います。
この4家も甲斐一国時代からの家臣であり、忠誠心はそれ以前から仕える人に劣るものではないと思います。
508 :
日本@名無史さん:2013/09/22(日) 13:01:27.87
509 :
日本@名無史さん:2013/09/24(火) 14:12:52.80
江戸時代初めの水戸藩士、和田平助。居合いの達人で甲州武田の流れを組む。
死後、水戸で芸者衆に有名なった。逆さに読んで、スケベイダワ、
助平避けとして拝まれた。墓が遠いので近くの寺に分祠。
更に、一説では平助はスケベ客の隠語で後にHと呼ぶようになった。
510 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 02:12:18.25
甲源一刀流
室町期に甲州から武州秩父郡に移住、後北条氏に仕えた後、武州両神に帰農した逸見氏が江戸後期に創始した剣術流派。
開祖逸見義年、流派中の達人と云われる五世長英、幕末三剣士の一に数えられる比留間与八(武州梅原)などが知られる。
旗本の逸見氏も同族という。
511 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 19:55:27.85
ある作家によると、長篠合戦は穴山信君、武田信廉、武田信豊ら御親類衆が勝頼の采配に従わず、真田昌幸、曾根晴美らの献策がフイになってしまったということだが…
512 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 20:24:52.38
若輩者の駒井の馬場山県殿に敬語を使いたりとも、その逆はいかにありなん?
真田に至りては勝頼公末期におよびても、一得斎よりわずか三代の外様也と、かの意見これしりぞかれ候。
513 :
日本@名無史さん:2013/09/27(金) 22:21:03.97
人国記を丹念に読んで分析してた武田信玄
514 :
日本@名無史さん:2013/09/28(土) 21:02:38.79
武田家の現当主って甲府市役所で
一職員として働いてるのには笑った
515 :
日本@名無史さん:2013/09/28(土) 22:42:42.38
彦根の井伊市長みたいに将来化ける可能性がある
516 :
日本@名無史さん:2013/10/02(水) 17:26:46.50
518 :
日本@名無史さん:2013/10/03(木) 15:12:41.92
秋田県は佐竹知事
519 :
日本@名無史さん:2013/10/06(日) 18:50:29.14
愛知県安城市今池町3丁目7-32 サニーグレープU
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは
家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。
同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、
息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。
ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。
そして実質的な支配をして税をネコババしていた
守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。
晴信が武田家で傀儡として擁立されたころ
甲斐国は武田の支配した国中
小山田が支配した郡内
穴山の支配した河内
でほぼ三分されてる(少し国中が大きい程度)
この両者は独自に外交権を有して戦国領主として対等な立場にあったが、
天文末期に武田による介入が進み、介入からさらに国衆存続のための武田による保護へ変質した。
これは信玄による法整備と公正な裁判によるところが大きい。
たとえば郡内での領民の裁判などで、小山田一族の暴虐の裁きはまったく進まず
訴訟を信玄の元へ訴え、それを信玄が裁き、小山田の妨害を排したりと
介入し、さらに穴山などは信玄の発給文書様式と特徴を学ぶことで、
武田へ従属し領内権力基盤を安定させる方向性へ志向したのである。
つまり天文末期の晴信時代に武田氏はその内治裁判の先進的整備を通じて甲斐国での民意の支持を得て求心力を高め
国衆への介入と知識提供を通じて、甲斐国の統一権力への進化と臣従を進めていき、
その内治による国力伸張を背景に他の国衆を凌駕し、武田による安全保障体制を構築提供するに至った。
しかも国中には専横重臣ばかりで晴信政権はその家臣団によって擁立された。
これは斉藤道三や長尾為景などと同様に一国の主の資格なしとして否定された事例と同様である。
このような国家ビジョンを信玄は持っており、これを全国レベルで広めることこそが使命であったといえるだろう。
また信玄が作った分国法による法治国家構想は、源流を辿れば、戦国時代の秦国が韓非子の意見を容れて導入したものであり、
法治の最も重要なことは信賞必罰を君主がしっかり行使することであると述べており
信玄も出陣する際に、かならず多くの褒美用の準備を欠かさず用意していた。
秦国が全国統一できたのも法治に照らした信賞必罰であり、それに基づく富国政策である。
しかし秦帝国はすぐ滅んでしまった。中国史観ではその理由を人治ではなく、冷酷な法治のせいであるとした。
しかし、それが原因ではない。韓非子は始皇帝に皇帝であっても法に従わないとならないと強く説いたが受け入れられなかった。
そして二代皇帝は超法規的存在である皇帝であるがゆえに、法を守らず、皇帝の寵愛を受けた宦官もまた、皇帝の保護を受け
信賞必罰の原則も崩壊したからこそ秦帝国は滅亡したのである。
信玄は自分もまた法に従い、法によって罰せられる存在であることを明示したのである。
まさに立憲君主による法治国家を新国家構想に掲げたのである。
これは今川家の分国法にも見られない画期的先進性として高く評価されている。
まさに国家とは何かを知りつくしたのが信玄だろう。
無用に長い同じレスをアチコチに貼らないでくれる。
524 :
日本@名無史さん:2013/10/20(日) 15:36:41.60
525 :
日本@名無史さん:2013/10/23(水) 07:44:03.62
●菅沼速い!殺人コピペ連投に歴ゲー仰天
●菅沼豪弾15発!歴ゲー住民コピペ停止指令
●ド迫力の新助っ人菅沼、信長罵倒任せろ
●秀吉罵倒任せろ!菅沼、甲斐の虎の魔よけや!!
●誹謗中傷も合格点!菅沼、織田厨叩きイケるやん
●自演で安心「コピペ・中傷」菅沼“一発合格"
●死角なし!菅沼遼太、戦国板でも25発
●巨体菅沼が大連投!ド迫力コピペで一気dat落ち
●運営・削除人、菅沼の活躍に太鼓判!
●ドドドドドッ怒・菅沼、走る荒らしや
●運営唸った!“連投"菅沼が歴ゲー殺した
●運営不敵!特定歓迎、菅沼の流出情報探して
526 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 05:18:10.91
天正チンポの乱
527 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 13:49:52.82
中世武士選書『郡内小山田氏』もうすぐ発売。
個人的には遺臣の動向が気になっている。
528 :
日本@名無史さん:2013/11/21(木) 17:43:21.32
武田義信が当主になってたら武田家はどうなった?というIF話をたまにみかける。
どうも勝頼よりも義信のほうが器量があったんじゃないかとか人物論の話みたいだけど、
義信が当主になるということは三国同盟維持の外交路線でいくわけで、史実通り中央で信長が台頭したとなると、
今川家の当敵である織田とは対決路線を歩むことになるのか。
そもそも信玄自身が反今川・三国同盟破棄派だったろうから義信が当主になってたらっていう
IFは想定しにくいのだけど、信玄が信虎みたいに国外追放され、武田家でも内訌状態が起こっちゃうのかもしれない。
529 :
日本@名無史さん:2013/11/23(土) 21:05:42.55
武田義信が家督したとしても、さらに、駿河盟約を破棄するかしないか
という問題もある。
530 :
日本@名無史さん:2013/11/24(日) 18:20:12.75
正室が義元の娘で、取り巻きの家臣も親今川派で固められていたら、同盟破棄には傾きにくいと思うけど。
結局、今川を守るために家康と開戦するんだから
織田と徳川を相手に遠江や三河に武田軍が出陣する結果を呼ぶ。
史実よりも今川が足を引っ張るだけ不利になると思うが。
だいたい代替わりで当主権力の後退が起きるし、
勝頼より義信がうまくやれるとも思えない。
理由は、実際、信玄と対立した際に義信に呼応した者がほとんどいなかったから人心を得てなかったのがわかる。
松平信康や織田信忠もそうだが、早世した人物を高く評価するきらいがあるが、
史実で下手を打ってる程度の器量でしかなく過大評価だよ。
532 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 13:19:52.98
『郡内小山田氏』買ったよ。
2/14 浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
2/16 五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた
(陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
3/2 織田軍が甲州之衆と戦い100討ち取る(織田の武田攻めの戦果はたったこれだけ。のちに信忠は高遠城に勝頼もいて苦戦したと大ウソを吐く)
3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
3/12 多聞院が天候不良と先頃の光物の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
3/15 正親町天皇が庭上之作法をやってたらなぜか雨が止んだ。天道之感応奇特だわ〜と公家達か感嘆した(濃尾之暦者って馬鹿じゃんw最近の天皇力すげぇな!)
3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!などと多聞院が記録する(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
また最近の大風霰飛火逆雨の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたからだ(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
まぁ戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(もうキチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。
晴豊記 2/14 浅間山噴火し、空が真っ赤になり、京の空から雪とは異なるものが降って来て、大気圧変化のためか和仁親王が体調を壊す。
兼見卿記 2/14 この日の夜に和仁親王が体調を崩す。
立入左京亮入道隆佐記 天正十年二月十四日夜。従北方赤雲天下を覆い、その色の光明は朱の如し。信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬。
晴豊記 2/16 五の宮やひめ宮も相次いで体調を崩されていたことから、この日の夜に病退散のために方違が行われた。
(陰陽道における方忌みのこと。浅間山噴火方面からの忌の流入を避けるため)
フロイス日本史 3/8 豊後からの報告とも照らし合わせて、信長出陣前に起きた浅間山噴火をデウスの示し給うた現象だったのだろうと書く。
フロイスが使ってるのはユリウス暦だから、日本の暦で言うと2月14日。
ttp://maechan.net/kanreki/ 兼見卿記 3/11 村井が吉田へ御運によって武田侵攻がうまくいったと主張した(織田の実力といわないのは噴火によるラッキーだから。
信長公記でも信長が死んだ天意を棚に上げてw武田の悪政とか因果とか書いて勝頼が天意の罰で滅びたように書くなど、
天意の報復は悪政が呼び込んだ惨事のように他力本願的勝利を匂わす)
しかし吉田は二条御所で俺や公家たちが信長のために千返之御楽で祈祷したからだと対立(噴火は祈祷力!!!天皇すげぇー!)
多聞院 3/12 多聞院が天候不良と先頃の「光物」の影響で不安感を募らせる(浅間山噴火とその影響で穀物の不作など先行き不安がる)
多聞院 3/23 穴山信君が裏切った理由って金子2000枚で買収されたんだってよ!(噴火で甲斐はどんだけ貧乏な生活に堕ちてるんだよw)
最近の「大風霰飛火逆雨」の天候状況は天皇の祈祷力で信長の敵国の神を吹っ飛ばしたから(浅間山噴火による飛火や粉塵で日照も良くないようだ。こりゃ甲斐一揆くるな!)
戦後にはまたその神々も勧請してやろうが、まぁこれできるのは神力だけで、人の力じゃできない技だと書く(キチガイ信長と天皇どっち選ぶか決意しろや!)
多聞院の記述には断片的に浅間山噴火後の被害が書かれていて、その被害の大きさから先行きを不安がっている。
傍証としてさらに二次資料の信長公記から補填してさらに自説の追加補強
織田軍は遠陣だから兵糧が足りなくならないように わざわざ兵力調整してたのに すぐ軍を解体して逃げるようにして
速攻で甲斐から領国へ帰ったの? なんで甲斐で一揆がおきたの?
当時の甲斐はあきらかに食料不足だよね。これ火山の被害じゃないの?
3/20に木曽や穴山に会い、23日に滝川に関東行きを命じた信長だったが、
兵糧に困窮した織田軍は占領した深志城(松本)の兵糧を
3/24に分配するほど追い詰められてる。
3/26には馬の飼料を北条から貰うほど困窮。
3/28には信忠も甲斐から諏訪へ逃亡。
それですら、人があまりにも寒くて多く死んでいったから、
29日には開陣して諸将はいそいで帰国。 なんで大量に死んでるのかなぁ?
噴火被害で荒廃した甲斐で馬の飼料どころか一切の食料が手に入らず、よって体の熱量不足になり、
おまけに噴煙の影響で天候はボロボロ(3月末なんて5月上旬だし)
もう甲斐から逃亡するしかなくなったからだよね。 そして荒廃した甲斐ではついに一揆が起きて川尻が殺される。
木曾から援軍要請が来ても武田領へ侵入出来なかった織田軍の噴火日から侵攻開始。
北条氏政が16日付け書状で八王子城へ向けて、甲斐の情報が全く入ってこなくなったと情報途絶を報じ、さらに様子見で軍を出すのを延期。
19日に勝頼夫人が武田八幡宮に対して、 勝頼に罪がないのにと天意に対して抗議しているが、天意とはまさに天変地異のこと。
織田軍を迎撃すべく出陣してきた武田軍が、全く戦わず撤退したどころか謎の瓦解(高遠城で百人討ち取られただけ)
援軍を出し始めた同盟国越後上杉氏にも逃げられる浅間山のある真田領へ勝頼は逃げず、なぜか小山田領に逃げる謎。
甲斐で一番浅間山に近い場所にわざわざ集まり僧たちが人身御供とも言われる観音様に祈りを執行する。
浅間山噴火について丸島和洋氏は、晴豊公記の東方に厚い雲が垂れ込め、空が赤く染まる様子や、
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね
公記は天罰・朝廷は神威・教会はデウスの力 奈良興福寺は甲斐信濃滅亡の怪異・大風霰飛火逆雨
恐ろしいまでの天変地異が甲斐を襲ったんだろうね。
火焔が飛び散ってきたからこそ一の宮が流されたのかもな・・・・
そりゃあ勝頼も真田領から同盟国上杉へ逃げるのを断念して、
敵である北条を頼って小山田領へ行かざるを得ないよな。
フロイスがなんで神の起こした災害の場所へ恐れを抱かず
信長が進んで行くのか疑問に思っていたが・・・
立入左京亮入道道隆佐記には浅間山噴火を見た信長について書いている。
信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬
はい、信長が火事場泥棒をしようと他国の災害を大喜びしていたのが確定w
先日の東北大震災でみんなが避難した後に、外国人盗難集団が鉄パイプ装備で家々を荒らしまわって
略奪して回った事件を思い出したわ。
北条早雲が駿河大地震で崩壊した伊豆国を襲撃して
組織的抵抗できない堀越公方から国を奪った時と同様に
武田もほとんど組織的抵抗もできずに災害便乗型強盗武力団に領国を荒らされたのだろう
538 :
日本@名無史さん:2013/11/27(水) 16:05:01.69
読む気すら起こらん。
多聞院の浅間山噴火が甲斐信濃敗北の怪異という話を列挙し、 武田勢の士気に大きな影響を与えたことは想像に難くないと評している。
信長の敵国の神を流したって甲斐市一ノ宮を指し、山梨県笛吹市に溶岩が飛び散り宮が流されたって解釈しか出来ないね
塩山向獄禅庵小年代記 天正10年3月
開山徳和之観音堂へ各僧衆御伴申三日三夜奉移と書かれている。
徳和之観音堂とは三富村(旧山梨県東山梨郡)の観音堂で三日三晩の御祈祷をして下山したそうだ。
これは重大な意味を持つ。この村の位置はまさに甲斐・信濃・上野との県境にある。
そして浅間山からも近い。なぜこのタイミングでここに各々の僧が衆を伴って
3日間の山篭りをして祈祷しているのか(山梨県笛吹市の北に位置する事実)
察するに2月中は噴火の影響で近づくことができず、噴火被害者を弔うことができなかったが、
ようやく混乱が落ち着いてきた3月になり、浅間山を望むことができる山上へ登った
各地から僧に伴われた遺族達が被害者を観音様に見立てて鎮魂し、浅間山の荒ぶる神を沈める祈祷をしているのだ。
浅間の獄の焼けるは東国の物怪とまで、
興福寺の僧侶は古人の言葉を引用してまで、
物の怪の怒り暴れる姿に恐れを抱いた。
中世における地球の活動から来る天変地異は、
物の怪と解釈されパニックとなったのである。
しかし凶悪極悪犯罪者にとっては、
そこは略奪虐殺三昧の治安崩壊地となるのであった。
天変地異を世界の滅亡と捉え恐れる良民とは実に哀れなものである。
実際に反社会的性向の札付きのワルの織田軍がこの世の終わりを現出させるべく、
考えられる限りの悪逆無道な行為をして回ったのだから。
大日本地震史料 増訂を読めば
文部省と大森氏・今村氏・石本氏・田山氏・武者氏おいう錚々たるメンバーが
天正10年浅間山噴火を支持してるのは確定的じゃねぇかw
江戸時代以前で噴火の記述で一次史料ソースがあるのは
1108年の上野国壊滅報告もあった公家による記述である中右記
そして同じく公家と宣教師の記述がある武田滅亡の噴火
そして江戸幕府の記録にある1783天明浅間山噴火(この時は京からは視認されてないので小規模噴火だろう)
この3つしかないから。
武田勝頼名将論も、何なんだろうね。
再評価されるのはいいとしても、過大評価に傾いてしまうのは如何なものか。
柴辻俊六氏なんかは、はっきり「無策」と評していたけど。
@信玄の神聖化に対する反動(県民非主流派&周辺県民)
A武田家滅亡が悲惨すぎたことへの後ろめたさ(県民主流派)
(従来は勝頼無能論で対処してきたが対処しきれなくなり構造的要因に転化)
柴辻さんはこういう山梨県特有の責任転嫁の流れが読めない守旧派だなw
柴辻さんは山梨出身ではあるけれど、ずっと都内在住。
武田氏研究家で冷静沈着に武田氏を分析評価してるのは柴辻さんだけ。
あとは妄信的な教徒ばっか。特に柴辻さんに絡んでる笹本が一番酷い。
笹本はわざわざ善光寺以北の飯山あたりまで行って武田啓蒙活動をしている。
武田を称える手段として、上杉が小菅に火を放ちそれを武田が守ったなどという
荒唐無稽の持論まで展開している。はずかしいのでやめろと云いたい。
最早研究家ではないだろw
笹本ってそんなにヤバイ奴なのか
あいつの本一冊買っちゃったよ。
笹本さんは、職人史研究とか網野史学を武田研究に応用したような部分の研究は
それなりに評価できるかと思うのだけど、近年の一般向け著作で展開しているような
新見解はちょっとね。なんか現代の抹殺博士というか、色んな文書をこれは偽文書であると
言っては否定している。
柴辻さんとの「棒道論争」も文書の真贋を巡る論争だったんだけど。
そういえば、M島氏がツイッターで暗に笹本氏批判をしていたような。
平山さんが今度「信玄がもし長生きしてたら」なんてテーマで講演するとか言ってたな。
専門研究者がそういう通俗的なテーマで話をする機会なんてめったにないことだし、
どこかで文章化されて欲しいな。
笹本氏は、戦国大名の権力というものを比較的低く評価している。
だから棒道のような街道整備とか、治水も大名権力ではできなかったのではないか?
という論になる。
棒道の高見沢文書だっけ?今でも真贋て分からんもんなの?
確か宛名も擦り消されてるとかって話だったと思うけどX線とかでとっても
だめなのかね?
高見沢文書は未だに所蔵家が表に出さないみたい。
551 :
日本@名無史さん:2013/12/01(日) 17:46:27.29
ここんとこで急に代替わりが相次いだらしいんで期待できるかね?
ただ、前のレスであったけど偽書だと分かると田舎での旧家の立場上辛いのかね?
結構鑑定に出さない家が多いとか
笹本氏は信玄堤にも否定的だったよな
偽文書の持つ由緒にも歴史的背景があるわけで、文書に価値があることに変わりは無い。
ただ、おたくの文書は偽文書ですよと率直に言ってしまうと捨てられかねないわけで、
文書に接する研究者には子孫家に対する丁寧な説明が求められる。だから、色んな
文書を偽文書と決めつけてかかる笹本氏の研究姿勢はいかがなものか、というのがM島氏の指摘。
恣意的価値観で他家の記録や古手紙にいちいちケチつけるS本の器の小ささが話をややこしくしている印象。
武功夜話も原本公表しないで、いい加減な翻訳本が出ただけで、
偽本扱いされている現状だしな。
家に不利・悪印象をもたれるような内容が書かれているとか、
偽文書だと本家争いで著しく黒になっちゃうとか
いろいろ問題をはらむもんな。
長野も広いし山間部だし、資料調査は長野在住の笹本氏の独壇場なのかも。
山梨くらいなら都内在住の研究者も、日帰りで調査に行けるのだろうけど。
柴辻氏と言えば領域支配論だけど、専門論文はけっこう難しくて読むのに骨が折れる。
まぁ専門論文はどれも難しいんだけど。柴辻氏は早稲田図書館退職後も精力的に調査・研究を
していて、例の「山本菅助」文書も発見前から存在を指摘していたりする。
笹本氏はなんか、最近はすっかり一般書しか書かなくなってしまった。
柴辻氏と較べると、読みやすいだろうし親しみやすいのかも。
>>556もう、無い旧家も多いよ。基本的にかつて教育県だったせいと云われてるが
旧家ほど都会に出て行ってしまって傍流しか残っていない。資料が一族のとこに
残ってればいいけどね。
信濃の中小国衆はまだ、基礎研究すらできてないと聞く。系譜関係もあやふや。
まだまだ史料大量発掘の夢を諦めちゃアカン
最近だと滋賀県甲賀市で水口加藤家の蔵から大量の書状が発見され
国庫補助金を受けて、平成18(2006)年度から4年をかけ調査されたくらいだ。
それに先祖代々、世間に公表するなと言われて続けて隠し持ってる書状もある。
今後はそういう性格のものを発掘説得していく流れになるだろう。
高野山はまだまだ史料を隠し持っているらしい。
というか、寺のほうでも把握しきれていないのだとか。
『郡内小山田氏』を読んでるけど、小山田氏の子孫家も系図や史料を表に出してないらしい。
563 :
日本@名無史さん:2013/12/05(木) 04:05:25.17
古文書を読む暇も気力も無いんじゃないの?
又、学者に預けると返って来ないといわれてるから、余計出したくないと思われ
あと上杉藩士市河家のように、北海道に渡った遺臣の子孫家の調査もまだできてないらしい。
平山さんの勝頼長篠も1月発売。
566 :
日本@名無史さん:2014/02/10(月) 08:17:25.57
自著の宣伝だけに夢中な
バカッター兄弟の
戦国大名織田信長の研究に期待
>>561信濃国供養帳で某旧家の名前が官途付きで出ていた地元じゃ胡散臭い家系図
といっていた爺がいたが・・・伝承もまんざら嘘とも言えんのだな
568 :
横田備中守尹松:2014/02/10(月) 23:03:17.67
畏れ多くも武田氏末裔を称していたビッチ女が、ホームセンターで盗みをし、併せて年齢詐称もばれましたので、ご報告致します。
569 :
日本@名無史さん:2014/02/27(木) 17:32:59.21
天正チンポの乱
571 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 18:27:33.59
武田家臣団の実名も、高坂昌信→春日虎綱とか秋山信友→虎繁とかけっこう定着してきたけど、
穴山信君の読みが「信君(のぶただ)」なんて、なかなか定着しそうにない。
572 :
日本@名無史さん:2014/03/08(土) 18:30:24.52
お前馬鹿だろ?
穴山しんくんて読むんだが?馬鹿すぎて話にならん
573 :
日本@名無史さん:2014/03/09(日) 17:05:01.97
信玄公祭りでは当分「のぶぎみ」のままかも。
「信君」の読みもそうだけど、戦国時代は毎年山のように論文やら一般書が出てるから、
情報の更新が追いつかない。ちょっと前の本でも、古い部分は出てきてしまう。
平山さんも『川中島の戦い』は将来的に増補版を出したいって言ってた。
>正しい実名が判明した武田家臣の例。
>板垣信形→信方、馬場信房→信春、高坂昌信→香坂(春日)虎綱、
>内藤昌豊→昌秀、秋山信友→虎繁、小山田昌辰→虎満、小山田昌行→昌成、
>三枝守友→昌貞、諸角虎定→室住虎光、真田幸隆→幸綱、
>加津野信昌→昌春、笠原政堯→政晴、山本勘助→菅助…他にもいるかな。
>返信 RT お気に入り kurmacf 2012-03-14 01:57:15
http://togetter.com/li/272725
平山さんがツイッターで書いてたけど、大河『武田信玄』では川中島で
宍戸錠の原虎胤と上條恒彦の村上義清が一騎打ちする台本だったとか。
当時、時代考証のアルバイトしていた平山さんは、さすがにそれはまずいと
止めたらしい。
577 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 23:17:53.36
止めれてないよ。
まんまジョー虎胤の刀が上条義清の腹を貫いてた。
ただ、あのシーンはよかったと思う。
579 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 23:28:23.16
そいつはすげえな。(笑)
ただ、負傷した虎胤を平瀬城に置いてきた『風林火山』
よりは格段に面白かったのは確か。
高坂弾正の甲州弁が完璧だったのもよかったな
580 :
日本@名無史さん:2014/03/14(金) 23:59:26.55
巨来石家復興を
581 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 00:19:08.79
個人的には、土橋治重の『甲州武田家臣団』(1984)が
古い割に名著だったと思う。甲陽軍鑑を隅々まで読んで、
自分の言葉で丁寧にまとめてた。
作者は元々詩人
だけど、本業である彼の詩の方は…ちょっとぶっ飛んでいすぎて
ついていけない
脚本家が暴走したり、役者さんがわがまま言って出番増やせとか言い出したりとか、
あるのだろうな。考証家はそれを抑える立場。
583 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 15:15:32.01
上野晴朗さんとか、ああいう古い世代の作家に近い武田研究者は『甲陽軍鑑』とか、
『甲斐国志』をベースにした研究。まだ実証主義歴史学というよりは、作家の歴史評論とか
郷土研究の範疇という印象。まぁ、当時は史料集もまだ無かったんだし、いたし方ない。
新田次郎は作家だけど、当時の『甲陽軍鑑』の扱われ方が見えるようで興味深い。
脱・甲陽軍鑑史観みたいな意識がおありだったのではないか?
山本勘助を思い切って忍者にしてしまったわけだし。
新田次郎は脱軍鑑というよりは江戸時代からの講談史観からの脱出を目指したというべきだろ。
「武田勝頼」で信康切腹事件で信長の示唆ではないとする記述をするなど通俗的な歴史から
脱却する姿勢がみられる。
585 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 20:22:09.63
上野晴郎は、昭和の中期に山梨県の各種文書が廃棄されそうになった時、
積み込み作業中のトラックの荷台に飛び乗り、
文書の廃棄に「待った」をかけたという逸話を持つ人。
(この話はその筋では有名な話。)現在山梨の県博に保存されている大多数の文書は、
彼の力で残存していると言っても過言ではない。
彼ほど文書史料を大切にした「碩学」は他には、なかなかいない。
このことはあまり知られていないから、ここに書いとく。
平山優も自ら上野の門下を自認している。
ソースは『甲斐』131号、上野の追悼特集。
586 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 21:04:29.56
>>491 まず「日蓮宗」でいいんじゃないだろうか。「浄土宗」としているのは
坂本徳一の『武田二十四将伝』が元だろう。この本は8割方フィクションだ。
一方で「日蓮宗」である根拠は、甲陽軍鑑や信濃の原立寺、蓮乗寺などの
記録(といっても説話なんだが…)に残っている。
結局のところ原虎胤自体、あまり史料の残っていない人だから、
何とも言えないのだけどね。
587 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 21:13:01.84
>>585 『甲斐』131号の中で、上野氏の研究はその後アカデミズムの中で「抹殺」されたって指摘があるね。
588 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 21:58:57.06
やっぱり勝気ではあったんだろうね。
実力のある人は敵も作りやすい。
笹本さんも、『中世の鐘』とか、すごく良かったけど
言葉が強すぎてああなっちゃうんだろうな。
最近の著書の終わりを読むと結構ホロリとする。
亡くなった奥さんのことが、本当に大好きだったんだな…
武田から話がずれるけど、山梨県博の「道祖神」展の図録で参考文献一覧のなかに
上野氏の著作が一切ない。
山梨県博では上野氏の収集資料を収蔵しているし、山梨の民俗研究において上野氏の
先行研究を参照しないことはまずないと思うのだけど、そういうわけで上野氏の
業績が黙殺されているのではないか、という指摘が『甲斐』の追悼号であった。
平山さんはまだ高校生くらいの歴史マニアの頃に上野氏の著作を読んで電話をかけてみて、
上野氏もはじめは君は歴史研究者になりたいのか作家になりたいのかと厳しかったけど、
相手が高校生だと知ると温和な態度でいろいろ質問に答えてくれたとか。
590 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 22:16:29.00
>>589 なんで無いのかは、ちょっとわからないが、「一切ない」
というのは尋常じゃないな。あるいは悪意があったのかもしれんね。
もっとも道祖神に関しては「中沢厚」がメインだったのかもしれないけど。
後世研究する者が、上野や、植松や秋山といった凄まじい先人がいたことを
忘れなければ、それでいいんじゃないかな。
591 :
日本@名無史さん:2014/03/15(土) 22:23:35.04
原虎胤の実在史料として一番説得力があるのが、
彼の腰刀だった「原美濃入道」の名の入った豪刀(静岡県三島市佐野美術館蔵)
だってのが、いかにも彼らしくていいね。
上野氏の訃報って、確か『山梨日日新聞』にも載らなかったんじゃなかったかな・・
自分も某所でお別れの会があったってことを耳にして、訃報を知ったのだけど。
593 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 19:16:24.96
上野氏といえば『定本武田勝頼』で、平山さんに至る勝頼の再評価をはじめて行った人。
あと、山本勘助実在説を早くから唱えていた。
真下家文書の発見を認知されていたのかは、わからないけど。
594 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 21:49:13.18
黒駒勝蔵が、小宮山勝蔵と名乗ったのは、勝頼に殉じた「小宮山友晴」
を意識してのこと。
祐天仙之助が、自らを「山本勘助末流」と称していたのは有名な話。
三井卯吉は、二十四将にも数えられる「米倉丹後守」の後裔。
西保周太郎は、まんま武田家の子孫を名乗り「武田秋太郎」と自称した。
いわゆる甲州博徒たちにも、武田時代からの血筋を誇る者が多い。
595 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 22:40:24.74
>>594 三井卯吉が二十四将末裔を称してるってのは初耳。典拠何?
596 :
日本@名無史さん:2014/03/16(日) 22:55:51.46
なんか、穴山信君の読みについて新説を知らない馬鹿もいれば、まだどこにも
発表されてないような情報を寄せてくれる関係者らしき人もいる。
このバラバラさがいいなw
597 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 07:01:50.67
>> 595
目ざといね。
典拠は「甲府牢番由緒書上」
598 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 15:18:52.56
山梨の郷土史は、何調べても武田の面影が出てくる気がする・・
599 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 20:39:53.74
甲府駅の発着ベルを大河ドラマ風林火山のOP曲にしてだな
街の電柱や街灯全てに孫子旗か武田菱の幟旗を掲げるべき
600 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 21:22:40.39
去年の信玄公祭りはどしゃ降りだった。松平健も雨の中たいへんだったろうに。今年もやるらしいけど。
甲府CATVの中継で、県博学芸員の武田二十四将の解説を聞いてた。
601 :
日本@名無史さん:2014/03/17(月) 23:57:09.15
信濃の国は十州に♪
長野県歌『信濃の国』の五番に歌われているのは「仁科の五郎信盛」。
これはまぁ、仁科盛信の誤植なんだろうけど、世の中間違いが実は
正解だったって椿事は起こるもので、丸島さんによれば仁科盛信は
晩年に「信盛」に改名しているらしい。
602 :
日本@名無史さん:2014/03/18(火) 22:32:10.18
仁科盛信が称賛されたのは、個人の資質・性格もあったのだろうけど
「五郎(御霊)信仰」によるところが大きい
603 :
日本@名無史さん:2014/03/18(火) 22:37:23.19
ちなみに自分は盛信→信盛の改名は、不覚にも今はじめて知ったのだけど、
だったら「信濃の国」の信盛は誤植じゃなくて
本当に「信盛」使用の好例になるんじゃないの?
>>603 上下を入れ替える改名の例って他にあるん?
605 :
日本@名無史さん:2014/03/19(水) 11:13:09.88
誤植なんだろうけど、たまたま正解だった珍しい例w
606 :
日本@名無史さん:2014/03/20(木) 23:18:00.82
黒駒勝蔵が赤報隊に入るとき「小宮山勝蔵」を名乗った件だけど、
高橋敏『清水次郎長』を読むと勝蔵の生家近くに元甲府勤番士であった
小宮山嘉兵衛という人物がいて、勝蔵はこの人から剣術を習っていたとある。
勝蔵はこの小宮山嘉兵衛にあやかり「小宮山」の変名を使ったとのことだけど、
この甲府勤番士小宮山家の祖先が小宮山友晴ってことになってるのかな?
そのあたり、史料が活字化されてるのか不明なので、今のとこわからない。
甲府勤番や勤番士にも、けっこう武田遺臣の系譜を引く人物が多く登用されているらしいとは聞きます。
607 :
日本@名無史さん:2014/03/21(金) 10:35:20.50
勝蔵に関しては、堀内良平が著わした『勤王侠客・黒駒勝蔵』(昭和18年)
が、研究(?)の嚆矢なのだけど、その中で「勤王侠客」という言葉について
かなりの頁を使って説明を試みてる。
そこに勝頼を天皇に見立て、勝頼に殉じた小宮山にあやかるために、
勤皇の勝蔵が小宮山姓を使う話が出てくる。
小宮山嘉兵衛から剣を学んだ逸話もこの本が元になってる。
すまないけど、今手元に本がないから、確かなことは言えんのだけど…
勤皇学者・山県大弐と山県昌景、勝蔵と小宮山友晴の関係について、
けっこう書かれていたことは確かだと記憶してる。
県立図書館には書蔵があったと思うよ。
608 :
日本@名無史さん:2014/03/21(金) 10:53:48.40
高橋敏さんは、侠客・博徒に世間の目を向けさせたという点では、
たいへん評価されるべき学者さんだとは思うのだけど、
いわゆる稗史、里伝を使うに当って、ソースを出さないのはちょっと失礼だと思う。
吃安が、人切り長兵衛の元で修業したり、大場の久八と兄弟分だったり、
勝蔵に武藤外記の影響があったり、といった話は、
全部松尾四朗の『武居吃安正伝』(昭和43)から取ってる。
松尾は足で稼いだ民俗学者。なぜか評価が低いが、彼の集めた里伝の類、
文書史料の類は非常に貴重で、また正確なものだ。
609 :
日本@名無史さん:2014/03/21(金) 11:19:36.28
>>598 サンリオの社長も山県昌景の子孫だしな…
八王子同心の現役引退した爺が、
甲陽軍鑑をさっそく購入して
信玄時代を理想として
幕府の政治を批判してたって本を見かけて
おもしろそうだなぁ後で買おうと思ってたら書店からなくなってた・・・・
その爺の名前なんて書いてたっけなぁ。。タイトルわからんし検索もできん。
611 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 11:07:19.58
塩野適斎か?
612 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 12:29:07.28
>>611 違う気がする。ひょっとしたら加賀藩に関係する本だったのかも知れない。。
614 :
日本@名無史さん:2014/03/22(土) 15:41:46.24
柴辻さんは偉大な仕事をなさっているとは思うけど、でも武田を戦国大名論のなかに位置づけ、
武田研究を山梨の郷土研究の域から実証主義歴史学に高めたという意味では、平山・丸島世代に
なるだろうと思う。平山氏は村落論、丸島氏は取次論という観点だけど。
615 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 05:40:21.85
甲斐武田で最近のイメージだと子孫のモデルの女がどうこうだな。
なぜか名字が鈴木だったかな、何で鈴木なのか疑問だったけど。
子孫なら武田か甲斐か穴山か諏訪か真田なんじゃないの?
616 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 06:46:16.09
617 :
日本@名無史さん:2014/03/23(日) 08:19:22.85
>>616 へえーおもしろいな。
山城って本当ロマンあるよね。眺めも空気も良さそう。
小山田氏で有名な郡内に
西原を所領とする西原武田氏がいたらしいのだが
どの系統の武田なの?
調べてもさっぱりわからん
あと宇都宮尚綱の家臣・武田信隆って
なんか関係あるんだろうか?
619 :
日本@名無史さん:2014/03/24(月) 09:31:10.75
>>618 西原武田とか、武田信隆とか、はじめて聞いた。
全くわからんね。(西原付近の寺々へ行って聞き込みをすれば、何かわかるかもしれんね。)
自分的には逆バージョンだけど、国中の「小山田備中守」がどういう位置づけ
なのかが知りたい。確か信濃の上原氏が改姓したものだと聞いてるけど、
なんで「小山田」で、しかも宿老級に身分が高いのか、これが前から不思議。
620 :
日本@名無史さん:2014/03/24(月) 14:23:59.92
備中守虎満は黒田さんとかの論考で割と近年、動向がわかった人物。
例の真下家所蔵「山本菅助」文書に見える「小山田」も当初は信有のことと
思われてたけど、後に備中守に訂正された。
621 :
日本@名無史さん:2014/03/24(月) 20:25:30.40
西原武田はわからんけど、甲斐の国人研究は前武田氏研究会会長の
故・秋山敬が独力で進めていたけど、秋山氏の急逝で、手がける人が
いなくなっちゃったのではないかな?少なくとも山梨県内ではいなさそう。
秋山氏の一連の論考を読むと、けっこう系譜関係でごちゃごちゃしていて
推論に頼らざるをえないから、あまり手がけようとする人が少ないのかも。
622 :
日本@名無史さん:2014/03/24(月) 21:26:47.63
其疾如風
其徐如林
侵掠如火
不動如山
623 :
日本@名無史さん:2014/03/24(月) 23:16:05.44
>>621 そうなんだよね。秋山敬先生
すごいよね。地道で、論がしっかりしてて、目のつけどころが
マイナーだけど、一番重要なところで。
網野善彦も秋山さんのことは一目も二目も置いてた。
発掘作業の現場監督した時は、なによりも作業員の弁当のこと
を考えてくれる優しい人柄だった。
624 :
日本@名無史さん:2014/03/24(月) 23:27:25.90
国中の小山田は、「石田の備中」っていうぐらいだから
甲府の上石田あたりに領地があったのだろうけど、あの辺で
館跡らしいものが出た形跡は無い。
光福寺の山門脇に「六地蔵石幢」があるから、土地が古いことは
間違いないのだろうけど。結局、郡内の小山田とは無関係なのかな。
625 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 19:43:27.74
備中守虎光は子孫いないのかな。
626 :
日本@名無史さん:2014/03/25(火) 19:54:45.48 BE:4981922069-2BP(123)
627 :
日本@名無史さん:2014/03/26(水) 12:54:31.90
記して後考を待ちたい
628 :
日本@名無史さん:2014/03/27(木) 23:29:29.78
武田が甲斐国内を統一して、戦国大名として成長した根源的な理由ってなんなのだろう?
甲斐源氏・武田は古くは頼朝の粛清を受けたり、室町時代には上杉禅秀の乱に連座して
討伐されたり、甲斐乱国時代には国衆や守護代・跡部氏の台頭があった。
いくら甲斐守護としての権威があるといっても、戦国期には没落してもおかしくなかったんじゃないかな。
それが一体どういう理由で、国内統一を達成し、なおかつあれだけの領国拡大をできたのか。
そういう根源的な理由って、歴史学では追求できているのかな?
629 :
日本@名無史さん:2014/03/28(金) 13:18:23.90
「なかざわ・しんきち」って中沢一族の人?なんで平仮名なの?
小山田了三氏は小山田氏の子孫らしい。系図をはじめ家には史料も伝存しているらしく
丸島氏の『郡内小山田氏』でも使われているけど、表に出してない史料もあるとか。
631 :
日本@名無史さん:2014/03/30(日) 19:00:37.39
武田氏座談会とか、本出してくれないから。
柴辻さん、笹本さん、平山さん、黒田さん、丸島氏などなど。
武田についてしゃべるだけ。どっかの出版社で企画してください。
633 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 10:41:14.10
正確な実名って、なかなか伝わりにくいものなんだな。
いまさら春日虎綱なんて言われても、誰それ?って感じだな。
634 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 12:02:56.25
正確っていうか、文書で確認できる確実な諱を使いましょうっていう流れになってるみたい。
秋山信友って名乗ったことがあったかもしれないけど、あくまで文書から確認できるのは
「虎繁」ってことなんじゃないの?
真田幸隆ではなくて幸綱になるのか
636 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 17:13:48.06
>>575 名だたる武将のほとんどが、誤った名前で伝えられてたというのも凄いな。
638 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 19:16:10.60
古文書だと板垣駿河信方や甘利備前虎泰、原美濃虎胤を略して
「板駿」、「甘備」、「原美」とか書いてる時があるけど、
この場合、読むときにどう発音してたんだろう。
イタスン、アマビ、ハラミとかいう風に読むんだろうか?
>>638 真田伊豆守信幸の場合、三成からの書状では「さいづ」と書かれていた模様。
640 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 19:34:24.22
>>639 サンクス、
そうするとやっぱり山本勘助は「ヤマカン」なわけだな。
641 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 19:43:06.24
近世で言う片名字、諸名字ってやつかな。片名字の表記は薄礼なのかしら。
642 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 19:52:43.56
山での合戦、山での合戦、おらん党は 強ええぞ 小池の一党
小池のおらん党は 山の武士
エイエイエイエイエイ オウ げにやミタ照覧だ ミタ照覧♪
佐久口ちや津金で 諏訪口ちや小尾よ 小池の一党 固めた山を
ねろう奴ばら ズンズリバッチョロ突っころがせ デンボーロ
エイエイエイエイエイ オウ げにやミタ照覧だ ミタ照覧♪
↑北巨摩の郷氏に伝えられた有名な武田時代の古歌らしいけど、曲調は不明
だれか曲つけてくりょう!
>>628 土着の甲斐源氏の一族が多かったからじゃね?
だから本家は影響力を維持し続けた。
武田家が謀反で滅亡したら一族間で熾烈な抗争が起きただろうけどw
644 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 19:54:33.24
645 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 20:21:09.17
厚礼・薄礼の薄礼ね。
646 :
日本@名無史さん:2014/04/04(金) 20:25:46.11
薄礼なんですね。札(フダ)だと思ってました。
知識が無くて恥ずかしい。勉強になりました。
647 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 17:32:13.85
文書において実名を伏せるようになるのは近世に入ってからで、
戦国期には実名は平気で使われて、むしろ名誉なことだったとか。
648 :
日本@名無史さん:2014/04/06(日) 19:24:05.99
名前に関して、これは中世でもそうなのかと疑問なのだけど…
例えば近世なら、「栄五郎」はしばしば「栄次郎」になったり「栄蔵」
になったりするよな。〜五郎⇔〜次郎⇔〜蔵は、けっこう流用が効くように
思うし、事実そうだと思う。中世はどうなのだろう?
有名な高坂昌信かもしれないと言われる「源助」と「源五郎」とは同一と
考える訳にはいかんのか?
649 :
日本@名無史さん:2014/04/07(月) 14:03:49.03
例の文書の「源助」は後筆
650 :
日本@名無史さん:2014/04/07(月) 14:10:07.47
通名詐欺とかやってるやつらがいうことじゃねえな
元ネタとかあるんだろうが悪用しすぎ
逸見氏はどうなったの
652 :
日本@名無史さん:2014/04/07(月) 14:10:55.61
だれに聞いてるの?
ウィキペディア編集者ジャムリンによる自作自演が酷すぎる件
以下が問題の爆笑自演投稿
日本史板住人がWikipediaを弄るスレ PART20
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1372047431/l50 569 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:39:28.23
ジャムリンって何者なんだ?
そんな悪い奴なのか?
570 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:54:41.47
>>569 ジャムリンは偉大な天才歴史学者です。
イケメンで長身、髪はフサフサの美形青年です。
フェラーリ・ベンツに乗って美女に大人気、誰もが羨む男の鏡、神の化身のような大英雄です。
654 :
日本@名無史さん:2014/04/07(月) 18:23:43.04
>>648 明治以前の人は、意外と名前に無頓着で、平気で誤字や当て字で手紙を書いたりしてるよね。
書かれた本人も当て字には寛容というか、あまり気にしてないようだし。
655 :
日本@名無史さん:2014/04/07(月) 20:16:18.94
「山本菅助」の子孫は、再仕官するとき『甲陽軍鑑』に出てくる山本勘助と、
「菅」の字が違ってるようだがと聞かれている。
656 :
日本@名無史さん:2014/04/07(月) 23:08:36.37
>>654 今日竜馬の手紙が発見されたニュースやってたけど
三岡八郎のことを三八て書いてたな
658 :
日本@名無史さん:2014/04/07(月) 23:31:27.15
>>651 間違ってたら申し訳ないのだけど…
逸見氏が治めていた逸見庄という場所は、未だに地域が特定されていない
のではなかったかと思う。八ヶ岳山麓一帯にあったとはされ、「逸見路」
という言葉も残っているにも関わらず、確実な場所は不明ではなかっただろうか。
ただ、韮崎の「穂見神社」あたりがそうではないかと言われていたように思う。
ちょっと外れるけど、甲斐国志の中で「逸見」は「ハミ」の音に通じ、元は「蛇」を示した
のではないか、と論じている点は、言語学的に秀逸な見解であり、こんなところが甲斐国志の
地誌中の白眉と言われる由縁だとか…なんとか、そんなことが言われていたような記憶がある。
659 :
日本@名無史さん:2014/04/07(月) 23:36:24.89
とは言え、スレッドの上の方でも言ってるように、秩父口で
「甲源一刀流逸見道場」っていうのが栄えていたのは事実だから、
そっちの方に逃げてったって考えるのが妥当な線ではないだろうか。
660 :
日本@名無史さん:2014/04/07(月) 23:49:00.10
>>655 知らなかった。
やっぱり中世に近い程、一文字の正確さが要求されるようになるのかな。
661 :
日本@名無史さん:2014/04/08(火) 10:05:31.86
丸島氏が指摘していることだけど、二十四将の一人「三枝守友」は、
文書で確認できる確実な諱は「昌貞」。三枝氏は甲斐の古代豪族三枝氏の
子孫という由緒があったんだけど、昌貞は山県昌景の寄子で、「昌」字は
昌景に由来するらしい。
なんだけど、これが近世になると古代豪族三枝氏との由緒が強調されて、
三枝氏の始祖「三枝守国」にあやかって「守友」の諱に変化したんじゃないかって
丸島氏は推測していた。
なんて具合に、武田家臣でも子孫がいる家は、江戸時代になってからの由緒の変化で
諱が変わっちゃったなんてケースは他にもあるのではないだろうか?
ウィキペディア編集者ジャムリンによる自演が酷すぎる件
以下が問題の爆笑自演投稿
日本史板住人がWikipediaを弄るスレ PART20
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1372047431/l50 569 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:39:28.23
ジャムリンって何者なんだ?
そんな悪い奴なのか?
570 名前:日本@名無史さん :2014/04/06(日) 12:54:41.47
>>569 ジャムリンは偉大な天才歴史学者です。
イケメンで長身、髪はフサフサの美形青年です。
フェラーリ・ベンツに乗って美女に大人気、誰もが羨む男の鏡、神の化身のような大英雄です。
663 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 17:51:52.75
武田晴信(信玄)の偏諱って、信の字?玄の字?
穴山信君の信って晴信の偏諱?
664 :
日本@名無史さん:2014/04/10(木) 21:58:32.74
臣下や親族にあげるのは「信」の方。
ただ、武田一門(穴山など)の信は、
武田信義(1128〜1186)に由来するものだと思うよ。
信玄が信の字を与えた家臣っているのかな。むしろ聞きたい。
親父の虎のついてる家臣は多いけど
信玄の代だと昌が多いような
>>664 真田信綱はそうじゃないの
666 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 10:36:30.53
信縄の「縄」字をもらってる家臣はなぜか少ない。
667 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 15:56:18.84
秋山さんの「穴山信懸」っていう論文が興味深いよといったら、
そんなマニアックな人物知らないって言われたことあったなぁ。
668 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 21:48:46.43
>>665 なるほど、真田信綱がいたか。
信綱ってあんまり印象が無いんだけど、武田軍の中でもかなり特殊な存在だった
ことになるのかね。
669 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 21:54:54.37
ちなみに何の証拠もないけど、
出自地の関係で言えば、須玉に端を発する穴山氏は
逸見庄と隣接(あるいは重なった)地域に出現した一族ということに
なるから、あるいは逸見氏、穴山氏の間には何らかの因縁があったの
かもしれない。河内入りする前の穴山氏の動向は、あまりわかっていない
ともいうし。
勿論、憶測にすぎないけど。
670 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 22:08:36.17
攻めには強いか知らないが、
守りに関しては定評があり、攻め取った城には、まず
必ずこの人が在城させられたという小山田備中守昌辰(虎満?)
この人の子で、若いころはただのDQNだったが、
後年は親父を越える名将になった昌行(昌成?)
の親子二人が
個人的には物語があって好き。
671 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 23:13:56.38
まあ武田っつっても国中勢力だしねえ。
小山田は今の町田くらいから郡内までの勢力だから、
立場の弱い同盟者ってくらいだったんでしょ?
672 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 23:43:44.30
>>671 「北条家分限帳」にある小山田氏の「町田領」「伊豆領」の
受領は、「取次領」(つまり仲介者への手数料)との考え方もある。
むしろこう考えた方が現実的じゃないだろうか。
673 :
日本@名無史さん:2014/04/11(金) 23:59:04.96
同盟者っていうのが正しいかはわからんが、
最後の行動は「裏切り」ではないと思う。
本当かどうかは知らないが、郡内勢は常に先陣に置かれて
死傷者も多かったとかいわれてるし。
信有も信茂も優秀であることは間違いない。
674 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 10:47:37.15
武田・小山田が和睦した甲州乱国時代っていうのは、武田もまだ国中すら
満足に支配できていなかった弱小勢力のはずで、武田優位ではあるにしろ
武田・小山田間の和睦っていうのは対等に近いものだったんじゃないかな?
675 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 11:11:42.84
小山田って(一応っていったほうが良いかもしれんけど)横山党系列だよね。
戦国期に元々の所にいた横山党って成田と小山田だけだっけ
676 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 11:30:15.86
丸島氏は鎌倉時代の秩父平氏小山田氏と、戦国の郡内小山田氏は
系譜的に繋がってないんじゃないかとか指摘していた。
677 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 12:26:28.71
>>675 平安末から鎌倉期の武州の武士団は、大きく分けると
北の「秩父氏系」と南の「武蔵七党系」に分かれる。
小山田氏は畠山端流の秩父氏系。
対して横山党は武蔵七党の代表格。両者は別物だと考えといた方がいい。
ちなみに在地から動いてないのは横山、平山、高麗、村山の四氏。
678 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 13:59:21.55
小山田は秩父平氏なんだけど保元・平治の乱くらいまでは在京していて、
治承・寿永の乱あたりで東国に下国したんじゃなかったっけ?
679 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 14:21:48.83
小山田氏の祖・有重は寿永二年に兄の畠山重能と共に都から
東国に下向したという。二人はかなりの老齢で、心のうちでは
平家贔屓であったらしく、平宗盛から暇を出された時、号泣したという
描写が『平家物語』にある。
甥の畠山重忠が源氏の大将となっただけに、
二人は都で人質のような立場にいたようだ。
680 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 15:16:11.75
>>677 あいや、小山田は町田に入ったときに横山の縁戚になってるしょ。
いったのはそのことよ
681 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 15:30:06.27
有重の母親が横山氏だったというのは知らなかった。
すまねえっす。
682 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 17:19:26.25
小山田は三代続けて「信有」を襲名しているけど、信茂はどうして
「信有」を名乗らなかったんだろ?
683 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 19:44:35.09
よく三代続けて同じ名を名乗ってるのに別人だとわかったものだと、関心する。
684 :
日本@名無史さん:2014/04/12(土) 19:58:17.65
不思議よね
685 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 10:52:58.33
甲斐の金山が戦国になって採掘されはじめるのはなんで?技術的な問題?
どうして奥州藤原氏みたいに平安後期・鎌倉時代に甲斐源氏は黄金文化を
築かなかったんだろ?
686 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 12:52:11.16
安田義定がすでに金掘をしていたという話もある。
687 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 13:05:45.11
685
奥州は砂金文化^_^
川の底を探るだけで取れたの
688 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 13:29:29.79
金山開発だのはもっと後世になってからだ
そういや佐竹といい南部といい在地は金山ごあるな
689 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 13:31:11.30
大内、毛利、尼子の争いも石見銀山をめぐる争いの面も大きいからな
690 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 13:33:18.79
この武田の金山開発の技術って江戸幕府のときに生きてるだろ
勝頼はなんで信を名乗らなかったんだろう・・・
というか武田家にとって「信」とは通字なんだろうか。
なんかそれも違う気がする。。
>>691 信勝までのつなぎの当主代行説を推したい
そもそも信を名乗らなければならないルールはない。
694 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 16:49:08.10
信玄死去の三年秘匿と勝頼の隠居は文書からも確認されることであって、
『甲陽軍鑑』の伝える信玄死去から勝頼陣代説のあたりは信頼できるのではないか、
ということらしい。
695 :
日本@名無史さん:2014/04/13(日) 21:29:51.98
府中都市整備
新田開発
金山採掘
治水整備
696 :
日本@名無史さん:2014/04/14(月) 23:11:05.99
柴辻さんの論文って、研究史をかなり古い文献からきちんと丹念に調べて、
問題がどこにあるか、柴辻さんの論文で何をどう検討したのか、残された課題はなにかって
研究史の位置づけがしっかりしてる印象もってたんだけど、平山さんに言わせれば、
柴辻さんはぜんぜん研究史が読めてないらしい。
平山さんはそうおっしゃるのだけど、このへんはアマチュアにはよくわからない感覚です。
697 :
名無し:2014/04/15(火) 11:27:47.10
奈良慎太郎(日大豊山高校、大東文化大学)は在日朝鮮人
698 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 15:11:03.37
第四次川中島で武田・上杉双方に大量に死者が出ているなら、
高野山の過去帳には大量に供養が記載されてるんじゃないの?
あまり、そのことに触れた研究を見ないけど、どうなんだろ?
699 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 16:42:49.75
当時は死因検案無いし戸籍も無い
有力者の手紙、日記だけだからな
700 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 17:18:36.78
神社や寺院に奉納された文ばかりよ
系図なんかだってそれを頼りにしてんだからさ
宗教的な檀家の役割りだわね
701 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 17:21:19.16
寺院消失とかそういう証拠隠滅的な面もあったろw
702 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 17:40:29.28
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Naitou1980
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Freetrashbox
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>海獺
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Colocolo
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>氷鷺
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Holic 629W
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ぱたごん
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Ks aka 98
ジャムリンX>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>謎の魔人X
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>篠岡
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Blue-comet
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>馬屋橋
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>cpro
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>Akatsuki444
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>アイザール
ジャムリン>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>朝彦
703 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 18:57:25.60
長篠合戦では武田側の将兵の供養が大量に記載されてるらしいけど、
川中島は知らない。
704 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 22:21:25.49
死んだのは武田の有力武将数人以外は名無し
当時の先手は双方とも地元信州勢
つまり大量死傷したのも地元勢
各種アミノ酸、リン、窒素、カルシュウムを含んだ土は
あくる年の豊穣を約束した
705 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 22:46:05.28
今手元に史料がないから何とも言えないのだけど…
「高野山過去帳」(甲斐国供養帳)には諸角虎光の死亡年が銘記されているというから
四次川中島の将死の死亡に関して、他にもいくつか書かれているんじゃないか
とは思う。
過去帳は武田氏研究34号(2006)に載ってるから。
自分は近世に興味があったから、武田時代のものは完全にスル―だったけど。
706 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 23:09:01.72
甲斐乱国時代の戦死者なんかは、地元の『一蓮寺過去帳』に入ってるよね。
707 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 23:40:24.56
まあほとんど信濃の国人衆だもんな
708 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 23:44:36.79
川中島は宇佐美本記からの引用が多いから創作も多くなかったか?
謙信の妻女山登頂もなかったらしいし
709 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 23:45:15.32
川中島は宇佐美本記からの引用が多いから創作も多くなかったか?
謙信の妻女山登頂もなかったらしいし
710 :
日本@名無史さん:2014/04/15(火) 23:46:40.21
ダブったo(^▽^)o
すまん^_^
711 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 01:28:35.37
>>696 批判されることを承知で敢えて言うけど
90年代くらいまでは、柴辻氏は「嘘つき柴辻」
平山氏は毒にも薬にもならない程度、
笹本氏はアクは強かったけど紛れもない実力者、
重鎮は磯貝正義。
地味に注目されていたのが秋山敬氏、な感じだった。
正直、個人の資質は今もそんなに変わらないと思う。秋山的な人物がでないと
この分野の研究は滞る。
712 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 21:15:10.90
第四次川中島は、むかしは単なる局地戦にすぎないという理解もあったけど、
最近は上方に逃れていた小笠原親子の動向とか、畿内情勢と連動した合戦でも
あったことが指摘されている。ただ、相変わらず合戦の実相については不明。
713 :
日本@名無史さん:2014/04/16(水) 23:44:13.87
武田研究者の諸氏も、学会とかで出会ったら何話すんだろw
丸島氏と平山さんなんかは仲良いみたいだけど、柴辻さんと笹本さんとか、
顔合わせたら案外普通に世間話するのかなw
714 :
日本@名無史さん:2014/04/17(木) 18:51:57.86
甲府城って一般には武田と関係ある城だろうと勘違いされてる気がするけど、
でも甲府城主であった柳沢が武田家後裔を称してることからいっても、
まんざら武田と関係のないというわけではない。
715 :
日本@名無史さん:2014/04/21(月) 21:43:33.77
信義の庶長子に米倉太郎忠義という人物がいたと昔何かで読んだけど詳しい人いますかね?
そうすると忠頼、兼信、信光らの名乗りが兄弟順と一致するんだけど。
716 :
日本@名無史さん:2014/04/21(月) 23:28:31.03
武川町の宮脇(宮ノ脇)の百姓蔵の系図に「米倉太郎兼信」という人が出てくる。
別に「米倉弥太郎信継」ともいうらしい。(『甲斐国志』四巻p.347)
ただ、この人が信義の子であったとかいう言及はないので、詳しい本が
他にあるのかもしれないね。
ちなみにソースは忘れてしまったけど、信義の長男は「有義」だという説が有力だと
聞いたことがある。有義は「太郎」と名乗った文献もあるようだ。
717 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 00:36:23.33
さすがに武田軍団と、古代甲斐の高麗人とを関連付けようとは考えないけど、
「飯富氏」は、案外「大生部多」に端を発する秦氏の一族と考えてもいいんじゃないだろうか、
と批判を承知で書きこんでみる。
718 :
日本@名無史さん:2014/04/30(水) 22:30:38.94
飯富は河内で、いちおう古代には渡来系住民が集住してた巨摩郡に含まれるのかな。
719 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 00:08:00.19
秦氏は波多氏とも書くように、多・大・海の意味を持つ一族で、
系列としては新羅系渡来人に入る。
大生、多、飯富は共に代表的秦氏姓で、九州や上総の海沿いに残存する苗字だ。
甲斐の飯富氏は歴史的に富士川を押さえていた点からも、この川と共に
共生してきた秦の一族じゃないか、と思うわけだ。
720 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 00:10:02.23
昔氏といった方が分かりやすいだろ
神武天皇の兄の系列
721 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 08:00:12.35
甲斐の飯富兵部少輸虎昌一族と秦氏の関係は
民俗学者谷川健一の『青銅の神の足跡』(1979)の中でちょっとだけ
触れられてる。
722 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 16:07:07.34
山梨って銅鐸の出土がまったくないのよね。
縄文時代以来の祭祀が強かった地域だなんて言われてるけど。
723 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 16:18:11.32
東日本は翡翠文化圏だろw
724 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 16:20:40.46
縄文なら翡翠ですよと
装身具
725 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 16:24:16.12
銅鐸だの何だのは西日本の方
726 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 16:28:31.00
>>725 静岡や長野では出てるのよね。山梨だけぽっかりと空いてる。
翡翠は山梨で国内最古と呼ばれてるのが出土してるけど、これも
縄文系の文化が濃かった証左といえるかな?
727 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 16:34:31.61
反対の証左もないよね
古代の装身具ってなにかな?
貝殻や骨を纏ってるのはよく見るよね
石などを使うのは原始時代から見える風景
728 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 16:38:41.13
銅鐸とか鋳物は溶鉱炉の技術が伝わらなきゃそりゃ無理だw
どっちにしろ西からの伝播になるのは仕方ない
729 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 17:25:04.30
まぁ、山梨は弥生期の遺跡自体が少ないのだけど。
山梨出身の網野さんはアンチ弥生だよね
731 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 17:34:39.74
山梨の弥生期の研究は、県博の学芸課長で今は「栽培農耕の起源」の研究をしている
中山誠ニさんが第一人者。山梨は縄文時代の遺跡は「縄文王国」なんて自称してるくらい
豊富なんだけど、弥生になるとぽっかり遺跡が少なくなる。
弥生後期になると盆地南部の曽根丘陵に方形周溝墓がたくさん造られるようになって、
古墳時代になると同じ地域に大規模古墳が出現する、という流れ。
732 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 19:28:12.84
繰り返すけど、静岡で銅鐸は出土している。曽根丘陵の古墳文化は
富士西麓ルートで甲斐に入ったと見られてるんだけど、同じルートで
銅鐸を伴う弥生文化が入ってきてもいいものを、どういうわけか静岡で止まってる。
なので、山梨は縄文系文化が濃い地域だったんじゃないかと言われているわけだ。
733 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 23:15:06.22
734 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 23:38:12.57
山梨でも深草観音とか昇仙峡、亀沢の天沢寺とか行くと、
住職なんかは中世以降の歴史なんか「後の時代」あつかいして話をする。
甲府盆地が湖水だったころ、山麓部が政治中心地だったことを
昨日のことのように話す姿勢にびっくりさせられるものだ。
こういう場所では、不思議と人の心に古代が生きてる。甲州には
そういう一面も確かに存在しているんだ。
735 :
日本@名無史さん:2014/05/01(木) 23:44:12.95
だから翡翠文化圏だっていうのw
寺院なんかに関しては唐と宋のときにきてるから参考にならない
736 :
日本@名無史さん:2014/05/02(金) 11:41:51.36
山梨にいまも数多く残っている道祖神は縄文以来の
祭祀形態だなんて言う人もいるけど、どうなんだろうな。
737 :
日本@名無史さん:2014/05/02(金) 23:34:48.38
元亀年間の三河・遠江出兵なかった説とか、西上作戦で信玄は本当に
上洛するつもりだったのか問題って、その後どうなったの?
平山さんの長篠本はまだ読んでないけど(失礼ながら)、従来の文書が
長篠前夜の状況だったとわかったわけだから、平山さんの私見が展開されてるであろう。
738 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 15:55:16.17
対外的に上洛を喧伝していても、実際の意図は別っていうのは、なかなか卓見じゃないかな。
現代の外交でも、例えば北朝鮮の対外的宣伝を全部本気に取ってたら、歴史を見誤るしw
多分に政治的出兵じゃないの?
武田が織田・徳川を圧迫することで包囲網の中で織田政権が崩壊してくれれば
勢いで上洛することもありえただろうし、そこまで無理でも徳川を潰して今川旧領を併合する。
そうすりゃあの時点では対織田戦でもさほど不利にはならんかっただろうし。
740 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 19:42:59.27
上洛ってのは室町将軍の要請があって行うもので、信虎時代にも上洛要請があったけど、
信虎はやんわりと異なっている。戦国大名は室町将軍には従うものの、必ずしも室町将軍の
意向に沿わない距離を取った態度を示すこともあって、信玄は将軍義輝の停戦を振りきって、
信濃侵攻をしている。
武田がけっきょく最後まで上洛をしなかったのは、そういう「戦国大名」的な性格の現れじゃなかったのかな。
741 :
日本@名無史さん:2014/05/07(水) 19:43:58.65
まぁ、そういう意味で戦国大名っていうのは別に「天下」を狙っていたわけじゃなくて、
自分の領国経営を再優先に考えたった説に説得力ある気がする。
742 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 11:01:05.84
天正チムポの乱
743 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 11:21:43.99
守護大名の管轄は軍事権と警察権
土地や領国の経営は地頭職の方
>>743 そんなのとっくに曖昧になって
横領だらけだろ。
>>731 甲州人ならばこそ、特に触れたがらない、あまりにも深刻な真正の黒歴史なんだけど、
弥生以降の山梨の歴史を考えるなら、日本住血吸虫症(いわゆる地方病)の問題は、
どうしても避けて通れないと思う。
小幡昌盛が最初の患者?というのは、あくまで記録上の話であって、
日本住血吸虫は、釜無川流域に、人類が来るずっと前から生息していたはずの寄生虫だから、
ほぼ確実に、「弥生人が、甲府盆地に最初の水田を開いたその夏」から、
日本住血吸虫症は、猛威を振るったはずだ。
縄文人は、ずばり釜無川水系上流域に集中しながら、
高台に住んで狩猟採集生活を送り、低地や谷筋の水辺に近づかなかったからこそ、
高い人口密度を維持できたのだろうと思う。
弥生人は、縄文人が避けた谷底や盆地にのこのこと水田を開き、水腫脹満に苦しんで死んでいった。
>>730 網野はただの「東京信者」だよ。甲州視点というより、
近畿を敵視し、関東地方の絶対至高性にこだわる、「典型的な昭和の東日本系上京人」であるだけ。
山梨視点ならは、甲府盆地は出口が3ルートあるので、もっと発想法は柔軟のはず。
746 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 22:35:20.75
>>745 それだけの気概と知識があるのなら、
こんなとこに書きこまないで、論文にして発表しなよ。
網野とか日本分人断工作員にしか見えないww
748 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 22:44:08.01
網野さんも晩年には県博の設立構想や、山梨県史の編纂に関わった。
武田関係の論考では、鎌倉時代の甲斐守護が武田ではなかったことを指摘したのが
大きいのだろうけど、講演でしゃべっただけかもしれないけど、新府城に関する
シンポジウムだったか、武田は越後・駿河の南北の海を結んで交易を企図してたとか
発言していた。
大河「風林火山」では新府城本をタネ本にしていたらしく、この説を取り入れていた。
網野さんも専門は戦国ではないし、この辺の話は実証性に欠けてるし、話半分に聞いていた
ほうがいいと思うけど。
749 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 22:49:25.94
地方病が弥生以来っていうのは、そうかもしれないけどどうかな?
弥生期やそれ以降の低湿地遺跡からミヤイリガイの殻が出土していたら確実なんだろうけど。
そういえば山梨はリニア通ること決まったので、甲府盆地南部を通る沿線上で
発掘調査が行われることになるだろうね。何が出てくるか楽しみ。
750 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 23:27:33.77
>>747 お前さんが論文書いて持論を表明したのならともかく、
そうでなきゃ、ただの酔っ払いの中傷みたいで…みじめだぞ
751 :
日本@名無史さん:2014/05/11(日) 23:35:46.89
甲斐源氏の「安田義定」が「武蔵坊弁慶」のモデルだって、
どっかの本にかいてあったんだが、誰かその辺に詳しい人いない?
752 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 13:16:44.33
ここで真田の話はOK?
753 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 21:53:49.69
甲州は甲斐源氏や武田勝頼や山県大弐や黒駒勝蔵など、悲運の人物が多い。
754 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 22:05:29.41
755 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 22:09:49.40
勝蔵は因果応報なんじゃないだろうか。
756 :
日本@名無史さん:2014/05/12(月) 23:02:40.27
網野善彦という人は、常民研究所で先人たちが延滞していた膨大な古文書を頭を下げて、
持ち主に返却することから歴史界に入り、頭より手や足を動かすことで業を成してきた人。
よく「網野史学」とか言われるが、そういう派閥や体系とは無縁の人だと思う。
とにかく文書に向き合い、それに語らせ、あるいは村落を尋ね歩き、
紙の上で示す時は極めて実証的に論を組み立てた。研究と共に自らも成長していくような学者だった。
亡くなった際に、自分から望んで遺体を検体に回したという点も印象深い。
別に信者じゃないけれど、真に尊敬できる学者だと思う。
天皇いらないとか日本という国の名前変えろとか言ってる人だねw
758 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 00:45:47.42
笹本正治氏の研究は問題あるのはわかるけど、網野的民俗学エッセンスが
入ってる点はなんか魅力を感じてしまう。ああいう路線って、誰か引き継がれて
欲しいものだけど。
759 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 10:57:13.65
760 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 13:22:02.04
網野氏はもっと甲斐源氏のなかでも武田以外を、あるいは甲斐源氏以外の
甲斐の諸族にも注目すべきと指摘して、じゃあ私がということで加藤氏の
系図を探してきた。
山梨在住の研究者には難しいかもしれないけど、まだまだ他地域に眠っている
史料はあるのではなかろうか。
761 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 13:44:18.23
扶桑国と名前を変えればいい^o^
762 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 13:47:35.95
半島のやつらは仕方ないから大漢国って名前くれてやるよ
仲よ〜く喧嘩しな!^ ^
763 :
日本@名無史さん:2014/05/13(火) 13:58:00.07
日本には古来、馬はいないが鹿はいる
鹿と共に生活してたなら日本でも可能
こちらにも奥地にいけば野生の鹿はいる
764 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 15:42:47.16
真田大河決定で、武田研究者が大喜びしてる。
さっそく本の依頼が来たとか。
765 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 15:59:03.34
学問の季節ですね
766 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 22:02:08.18
>>764 平山さんって一応教員なんだろ。
本書くような暇があるんか。
767 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 22:38:30.26
平山さんは年四冊も刊行するほどのワーカホリック。
768 :
日本@名無史さん:2014/05/14(水) 22:55:02.56
>>751 安田義定は猛将・平教経を討ちとったりしている何気に
強キャラなんで、その辺から生まれた説なんだろうかな。
769 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 19:51:26.10
真田氏の論文や著作はそれこそ戦前からあるらしいけど、
「幸村」に関する学術的な専著ってはじめてなんじゃない?
770 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 21:53:04.27
安彦義和さんの漫画『三河物語』に出てくる幸村は、チョイ役だが
かっこいいぞ
771 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 22:50:36.72
平山氏は一般書もいいけど、そろそろ論文がたくさん溜まってるから、本にして欲しいなぁ。
一般書に比べて手に入りにくいと思うけど、『戦国大名領国の基礎構造』がいいと思うよ。
村落論からの視点での戦国大名論研究で、取次論から戦国大名論へアプローチした丸島氏と
平山さんはひと世代くらい違うのだけど、自分の中ではセットになってる扱い。
武田研究者のなかで、はじめて武田をサンプルに戦国大名論の本筋を論じてみましたって感じの本。
平山さん、穴山な真田も書いてるけど、正直国衆論のほうはちょっと手薄っていうのか、
もう少し国衆論に踏み込んで書いて欲しいっていう印象もったんだけど。
772 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 23:04:02.37
武田が絡む漫画だと「ムカデ戦旗」はけっこう面白かった。
773 :
日本@名無史さん:2014/05/17(土) 23:14:22.92
新田次郎の『武田勝頼』は歴史小説の中でも一、ニを争う名作だと思う。
774 :
日本@名無史さん:2014/05/19(月) 18:43:40.18
>>760 >あるいは甲斐源氏以外の 甲斐の諸族にも注目すべき
河内源氏の武田のことはあんまり認めたくなかったんだろうなw
775 :
日本@名無史さん:2014/05/21(水) 23:40:56.26
「三枝」ってやっぱり勝沼に多い姓なんやろか。
776 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 20:08:44.97
わからないけど、昌貞(守友)の子孫で旗本だった三枝氏は江戸時代に分かれて、
県博には三枝家資料って収蔵されてるから、甲斐に残った子孫はいたのかな?
分かれたほうの子孫は滋賀県に移っていて、文書が残っている。
丸島氏が見つけて、論文にした。
777 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 22:02:15.03
ありがとう。ちょっとずれるかもしれないけど「矢崎」ってのは、
三枝の一族?
778 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 22:09:36.69
ccc
779 :
日本@名無史さん:2014/05/22(木) 23:55:20.64
それもわからん。矢崎といえば南アルプス市在住で、御勅使川治水に関する
史料を残している矢崎家があるけど、その矢崎家が、
どういう由緒を称しているのかわからない。
ここは詳しい人もいるみたいだし、そのうち情報集まるのでは。
780 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 17:03:05.00
甲斐源氏が東へ勢力を強めるなか、古代豪族の三枝氏を傘下に入れたとも言われる。
でも、武田家臣の三枝氏が古代豪族とつながるかどうかなんて、検証できない。
781 :
日本@名無史さん:2014/05/26(月) 17:30:48.75
「古代氏族系譜集成」中巻に、古代豪族の三枝氏と三枝虎吉、守友までつながる系譜が載ってる。
同本収録の甲斐一宮浅間神社神主古屋家系図には平安時代に三枝守明、鎌倉時代に三枝守泰の娘が古屋氏に嫁いだとあって世代数は両氏の系図で整合する。
なので信憑性はある方じゃないかな
782 :
日本@名無史さん:2014/05/28(水) 20:24:02.60
代数はあってても、通字が「守」なのは怪しいというか、
近世に作られた系図って気もするが。
守明と守泰が偶然守なだけで、別に通字なわけではない
守明━寛覚━寛海━守長━守泰━盛忠
784 :
日本@名無史さん:2014/05/29(木) 00:15:50.54
三枝と矢崎について質問した者ですが、
こんな詳しい人に親切に回答いただき誠に恐縮です。
785 :
日本@名無史さん:2014/05/29(木) 02:09:44.10
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786 :
日本@名無史さん:2014/05/29(木) 17:26:42.50
勝頼が継いだのは諏訪宗家でなく高遠諏訪家(頼継の系統)らしいけど、
勝頼が宗家を継いだあとの高遠家ってどうなったの?
787 :
786:2014/05/29(木) 20:25:29.15
勝頼が宗家を継いだあとの高遠家
↓
勝頼が武田宗家を継いだあとの高遠家
に訂正
788 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 23:08:19.20
なんかwikipediaに山梨県の記事ばかり多いのだが、
これは県博の回し者がやってるの?
あからさま過ぎて少なからず異様なんだが。
なんで山梨の記事が多いと県博が書いたことになるんだ。
ウィキペディアなんてその分野についてちょっと知った一般人だってもっともらしくかけるだろ。
790 :
日本@名無史さん:2014/05/31(土) 23:38:15.50
いや、あきらかに県博の展示や研究が
過剰に引かれておるのだが…
素人目に見ても、これは関係者か、信奉者がやったようにしか見えん
791 :
日本@名無史さん:2014/06/01(日) 04:41:07.32
:::::::: ┌────────────────── ┐
:::::::: |ジャムリンが氷鷺に殺られたようだな… |
::::: ┌───└───────────v──────┬┘
::::: |フフフ…奴はWikipedia編集者四天王の中でも最弱 … .|
┌──└────────v──┬──────────┘
| 氷鷺ごときに殺られるとは .│
| Wikipedia編集者の面汚しよ… |
└────v─────────┘
|ミ, / `ヽ /! ,.──、
|彡/二Oニニ|ノ /三三三!, |!
`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡 ●
T 爪| / / ̄|/´__,ャ |`三三‐/ |`=、|,='| _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-, 、 _!_ / ( ゚ω゚ )
/ `ー─'" |_,.イ、 | |/、 Y /| | | j / ミ`┴'彡\ ' `
海獺 Ks aka 98 池脱兎 ビゴロース
792 :
日本@名無史さん:2014/06/01(日) 11:34:19.74
県博は県史研究の中心機関だから。県史研究の最新動向を啓蒙したいと思うと、
県博の研究を引用することが多くなるのは仕方ない。
793 :
日本@名無史さん:2014/06/01(日) 19:34:36.67
勝頼が高遠家を継いでたってのは、高野山の過去帳に頼継を初代として
勝頼の名が記載されてたって話だから、勝頼の次代の人物がいるとしたら、
同じ過去帳に名前があるんじゃないの?
794 :
日本@名無史さん:2014/06/03(火) 22:31:34.20
ツイッター見てると、平山氏ってのはけっこう古典的教養が根っこにある人なんかね。
研究史的な流れで自分の中では平山・丸島両氏ってセットになっちゃってるんだけど、
ツイッターでサブカルの話してる丸島氏とは、世代が違うのだなと思う。
795 :
日本@名無史さん:2014/06/03(火) 23:39:45.46
原隼人佐昌胤は、原美濃守虎胤とは別系統だというけど、
だったらなぜ「胤」の字が入るんだろう。詳しい人、教えてください。
796 :
日本@名無史さん:2014/06/04(水) 17:44:28.16
偶然。
797 :
日本@名無史さん:2014/06/06(金) 17:22:49.62
長篠本はまだ読んでないんだけど、平山氏の本は質はいいと思うんけど、
天正壬午二部作はかなり細かい話が続くので、正直読んでてしんどかった。
川中島も似たような感じ。
原氏って甲斐源氏と桓武平氏の出があるけどどっちも通字が胤だな。
もともと同じ桓武平氏千葉氏流と称していたのが虎胤の祖先の系統は武田氏あたりから養子が入り甲斐源氏を称することになったんだろう。
799 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 00:58:37.79
静岡県沼津市の大平地区・桃源院は「原加賀守の弟が一時期住職をしており、その縁故で、
武田滅亡後に加賀守系の原氏が逃げてきて住み着いた」という伝説が伝わっている。
付近の住人の先祖もその時逃げてきた人たちで、何代か前までは各家に武具が残っていたと言う。
この話は桃源院の先代住職がまとめた本に書いてあって、墓もあったりするし、どうも本当っぽい。
また原加賀守系統は、信濃にも縁故を持っていたらしいことが軍鑑には書いてあるから、この系統は
結構手広に交友を持ってたのかもしれない。
800 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 04:14:58.74
虎胤の子孫て佐久平駅の近くで酒造家やってるけど、他にはいるのか?
801 :
日本@名無史さん:2014/06/09(月) 23:53:58.88
本当かどうかは怪しいとしても、
・長野市の原立寺
・神奈川県川崎市の中原地区の関神社
・埼玉県吉見町の膳椀淵
・新潟県長岡市の竹之高地集落
等に虎胤に由来する伝説や子孫を名乗る家等が存在する。
802 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 00:13:08.50
人物叢書の『武田勝頼』って出るの?堀内亨氏だけど、適任なのかどうか。
ミネルヴァのほうは笹本先生だし、もうちょっとまともな評伝が欲しい。失礼だけど。
803 :
日本@名無史さん:2014/06/16(月) 23:39:54.65
武田信長の相棒の加藤梵玄って、鉄棒を杖のように用いて都の人を驚かしたとかいう
逸話は伝わっているけど、実際(といってもフィクションだろうが)戦場で活躍
した描写は伝わっているのだろうかな。
ちなみにアイメッセの少し北あたりが梵玄の領地だと言われてる。
804 :
日本@名無史さん:2014/06/17(火) 16:18:57.71
小瀬の天津司舞って、確実な記録にあるわけじゃないけど、起源はそうとう古いらしいね。
805 :
日本@名無史さん:2014/06/17(火) 16:49:46.81
なにそのカラス天狗?
朱色の天狗の面を被っていなかった?
806 :
日本@名無史さん:2014/06/17(火) 16:51:46.89
修験道ですわ
鉄の杖を持ち歩いていたのは
807 :
日本@名無史さん:2014/06/18(水) 22:36:02.54
武田家臣、栗原詮冬は侍大将の割に事跡のほとんど伝わらぬ人なのだが
ホモホモしいエピソードだけが残っていて気の毒な人物だな
808 :
リュカ:2014/06/19(木) 16:36:24.56
MOTHER2って何か良いですよね?私はそう思います!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
809 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 17:13:17.74
>>803 上野原加藤氏は郡内の国人だけど、国中に領地があったの?
810 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 17:22:29.14
テスト
811 :
日本@名無史さん:2014/06/20(金) 23:11:35.36
>>809 中央道?になるのかな。甲府から西條とか、田富方面に伸びて行く
あの道な。あれ沿いに下の道路を南へと進んで行くと、西條だったか、
紙漉阿原だったかに八幡神社がある。そこの看板に「加藤梵玄領」との
由来が書いてある。
言われて初めて気づいたけど、郡内の人だもんな。ちょっと不思議だね。
812 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 10:33:19.05
上野原加藤氏はもともと武田の被官だったけど、戦国期に至ると
小山田氏の麾下に入ってる。この事実は、郡内における小山田の
勢力浸透にも関係してないかな?
良く言われるように、室町後期の段階では郡内には武田の影響力が
強かったけど、戦国になると小山田の一円支配が成立すると。一円支配と
いっても小山田も武田の従属下には入ってるのだろうけど。
813 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 10:58:37.73
加藤氏は頼朝時代からの「客将」だったとか、どっかで聞いた気がするぞ
私の記憶違いかもしれんけど
国衆上野原加藤氏の天正期の当主加藤信景は完全に武田の直臣だよ
小山田とは無関係に天正5年に徳川との境目である駿河の「徳谷」で在番・出陣してる
信景の父景忠も信玄の命で北条氏の使者になったり各地に出陣してる
永禄5年に北条氏の援軍で関東に在陣した時は小山田信有と行動をともにしているけど
あるいはそういう場合は寄子的に小山田氏の指揮下に入ることがあったかもしれない
いずれにせよ加藤氏は一貫して武田氏の直臣なんじゃないかね
このスレとの関連でいえば加藤信景は実は武田一族の勝沼信元の子だ、って話もあるね
815 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 12:45:23.87
東京の瑞穂町に加藤神社とか言うのがあり、
近くの寺には「カトウサマ」という手のひら大武者の木像と
「鍋割り」という刀が伝わってるが、あれは誰の墓なのだ?
816 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 18:46:57.36
>>814 甲陽軍監の「品第35」の永禄12年の条に
「郡内の小山田兵衛尉、武蔵堺上野原に、相備加藤丹後を指置…」
というのがあるから、なるほど小山田軍の寄子的に活動したという見解は
妥当かもしれない。
817 :
日本@名無史さん:2014/06/21(土) 19:02:48.15
上野原加藤氏が小山田の麾下にいたって話は、
確か平山氏の『正伝武田二十四将』で読んだ話。
818 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 00:06:25.11
甲陽軍鑑自体信用がおけないからな…
819 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 07:53:17.07
甲陽軍鑑はどういう派閥のだれべえが書いたものだから信用がおけないというなら
分かるが
>>818では文章が不足。
それでは、都議会の野次とかわんねぇ。
820 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 08:53:21.46
821 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 10:56:29.18
最近、山梨郷土研究会で『甲斐国志』シンポが開かれて、甲斐国志って
当たり前のように武田研究や山梨郷土研究で利用されていたけど、そもそもの
史料としての性格はって研究がなされてないんじゃないのと、指摘されてたとか。
甲陽軍鑑も、最近亡くなった国語学者の酒井憲ニ氏による再評価があって、
歴史学ではこれを追認する形勢になってるけど、歴史学のほうから本格的な
甲陽軍鑑そのものに対する研究って、いまだに少ない気がする。
822 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 11:09:19.40
信玄堤の築造で、竜王とか甲府方面は水害が減ったけど、釜無川の流れを
南流させたので、流れの向かい先である現在の中央市方面では逆に
水害が増えたのだとか。
823 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 20:25:27.29
戦国時代に興隆
↑
そも、武田って日本の武士の名家だが、甲斐の武田は本当に日本人か?
騎馬の集中運用は日本では武田だけだし、
824 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 20:36:00.49
盗人猛々しいの語源は
武田家らしい…から来てるんだってな。
納得。
825 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 20:43:33.36
そもそも武士が名門だった訳じゃないからな
盗人武田けしい奴が力つけて権力を我が物にしたのがのちの武士の名門語ってルだけで
826 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 21:09:04.94
盗人武田家らしい
う・・・ん、わかったような、わからんような。
広島の武田は甲斐の武田の親戚らしいが、
「熊谷の仇」と元就を単騎で追いかけていって渡辺に矢ぶすまにされた
おおたわけだからな。
827 :
日本@名無史さん:2014/06/22(日) 23:33:29.35
軍鑑はさ、例えば曲淵正左衛門が公事訴訟に負けてばっかいるときに
「次は奉行への賄賂にウチんとこの吊るし柿をどっさり持って来てやる!」とか
言っちゃうところに、妙なリアリティがあって、一概に嘘と思えないんだよな。
曲淵の出自である同苗地が、甲州一の干柿の産地であるとか、そういう些細な
ことが、同郷人だと妙に生々しく感じられるわけだ。
828 :
日本@名無史さん:2014/06/23(月) 20:16:34.02
南部氏が奥州に引き上げたあとも河内に残留したという、河内南部氏の存在が
気になるのだけど、史料残ってないのかな。残ってないということは、それほど
強大ではなかったのだろうけど。
829 :
日本@名無史さん:2014/06/24(火) 01:44:12.92
今までノーマークだったが、村松蘆洲の存在は甲州の歴史を調べる上では
無視できんな。
830 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 11:34:08.41
故・秋山敬氏って、素人目には史料の少ない甲斐乱国時代の国人研究をしていて、
けっこう推測の上に推測を重ねて、それってどうなのかなって研究をしていたようにも
思えるのだけど、業界的には評価されてるってのは、ちょっと意外だな。柴辻さんが
ぜんぜん研究史をわかっていないってのも、意外だけど。
いや、秋山氏が慕われていたってのはまぁ置いておくとして
ネット上での発信力の強い人たちの発言を一方的に真に受けるのはいかがなものかな
学者が反対説に立つ人や違う学派の人を悪くいうときは7,8割くらい割り引いて聞いておくべきだと思う
史料蒐集とその分析研究に関してその人たちが一流であることに恐らく誰も異存ないだろうけど
論の組み立てに関しては結構アレな感じなところも多いように思う
秋山氏の国人研究は、栗原氏の系譜関係に関する論文を読んでいて
服部治則氏の先行研究に全然触れてなくてどう理解したものやらと途方に暮れたことが
832 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 20:29:22.59
>>831 いや、秋山氏が「悪く」言われてるんじゃなくて、逆に評価されてるのがわからんっていう意味だったんだけど。
平山さんなんか最近の「穴山武田氏」では、秋山氏の推測の上に推測を重ねるような論を
ちゃんと批判してるんだけど、ツイッターでは秋山氏の業績を褒めている。それが意外っていう話。
833 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 20:34:00.72
秋山氏といえば、新出の高野山過去帳を積極的に利用してる人でもあった。
山梨でも、高野山の過去帳なんか信頼できるわけがないって思われてたらしいけど。
834 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 22:30:32.09
秋山敬さんは人柄がいいってのもデカい。
>>832 言ってることはちゃんと理解してるよ
831はおもに柴辻氏に関する発言についてなんで
婉曲な表現にしたからわかりにくくてすまない
要はどこの学術分野でも絶対真実な研究史なんてものは存在せず
自分の学説にとって「正しい」研究史があるだけで
ある学説をとる学者にとって非常に重要な論議が別の学説をとる学者には
全く無意味な議論であるということが当然ありうる
研究史理解の相違は結局学者としての立場の違いと同じことなのに
そういう学術上の相違にすぎないことについてネットで偏った発信がなされて
一方的に変な評判が広まるのはフェアじゃないなぁと思う
ま、本当に研究史を理解できてないのかもしれないけどw
>>833 高野山の過去帳って最近すごい勢いで翻刻が進んでいて史料価値が高いものと扱われてるけど
逆に秋山氏が利用していたころはなんで信頼できるわけない、って思われてたのかね
837 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 23:02:25.27
>>833 実際「過去帳」ってのはどれくらい信用できるものなんだろう?
「位牌」とではどっちが正確なんだろう。
武田時代じゃないけど、黒駒勝蔵なんかは、小池家の「紙位牌」に随えば、いちおう戒名が「有る」ことになるけど、
称願寺の「過去帳」によれば、その戒名は勝蔵の親父のもので、勝蔵自身には戒名が「無い」ことになっている。
もちろん亡くなった日付なんかも存在しない。
838 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 23:34:44.61
高野山過去帳でわかったことと言えば
・飯富虎昌の処刑日
・武田勝頼は諏訪宗家でなく高遠諏訪家を継いでいた
の二点から。ほかにも報告あると思うけど、把握していない。
そういえば、三河関係の過去帳に「山本菅助」の
記載あるんじゃないかっていう話もあるね。
839 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 23:45:51.18
>>837 勝蔵の戒名の話は初めて聞くなぁ。まだ報告されてない情報なのでは。
亡くなった日付(処刑日)は、位牌と勝蔵の供述書で日付が違うけど、
高橋さんは、たぶん入牢した段階で、もう生きてはいまいと判断されて
日付書いたんじゃないかと推測していた。
『甲斐』の最新号に乗った有泉貞夫氏は、高橋氏にの論には根拠がないって
指摘しているのだけど、ちゃんと論文を読むと根拠が書いてある(笑)。
840 :
日本@名無史さん:2014/06/25(水) 23:57:16.91
>>839 あんた大分色々読んでるな。恐れいった。
勝蔵の話はスレ違いだから、大概でやめとくけど、県博のパンフで見て
わかるように位牌の「勝蔵」の字は後書きでしょ。
称願寺の過去帳は新情報どころか、四十年も前に書籍で発表されてること。
こういう分野に関してはアカデミックな研究者だと先行研究を探す時点でつまづく
という好例ですな。
しかし、それにしても高橋さんの研究が本当どれも素晴らしいというのは疑いようがないこと。
有泉じいさんも、妬み半分にあれを書いたのだろう。実力者はやはり実力者に突っかかる
というものなんだろう。
841 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 00:45:22.73
ところで、武田の将士はよく
「鬼美濃」とか「鬼虎」とか「甲山の猛虎」、「槍弾正」
「逃げ弾正」etc…色々アダ名を持ってる人物が多いけど、
こういう表記って「軍鑑」にはでてこないよね?
一体何を由来(典拠)にしているのかな。『甲斐国誌』?
842 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 10:56:49.69
「武田四天王」とかも典拠がわからない。
843 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 10:59:46.24
有泉氏がそうだってわけじゃないのだけど、他県出身者に地元の研究をされると、
自分たちの土地を荒らされたかのような嫌悪感を抱く郷土研究者は、一般としてだけど、
けっこういるのではあるまいか。
844 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 12:45:54.43
平山さんの『穴山武田氏』で、穴山信友が今川義元から駿河に所領を与えられた
理由は不明ってある。丸島氏は武田・北条間の取次を務めた小山田氏について
「取次給」であろうと推測してるのだけど、信友も武田・今川間の取次をしていたわけだから、
同じように「取次給」と解釈していいのだろうか?
845 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 14:26:17.65
もう、山梨県郷土史総合スレでいいんじゃないの?
846 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 15:46:02.26
諏訪頼重、武田義信終焉の地とされる東光寺に行ってきました。
意外と小ぢんまりとしていた。あたり一面ブドウ畑で静寂であった
847 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 19:46:02.68
有泉氏は独力で山梨県の近代史研究をしてきた人で、山梨県史編纂の仕事のため、
職を辞して地元に帰ってきて県史編纂に専念したという話もある。他県出身者に
自分のフィールドに入ってこられて、煙たがった感情はあるのではなかろうか。
848 :
日本@名無史さん:2014/06/26(木) 23:38:13.21
ごめん、「高坂弾正、逃げ弾正」は当然軍鑑由来だったわな。
849 :
日本@名無史さん:2014/06/27(金) 00:22:23.74
>>828 うろ覚えなんだが、南部氏の甲斐残留組は
信玄時代に淘汰された、というようなことが軍鑑に書いてあったように
思うのだが。
ちなみに南部光行は、甲斐の直臣23人を引き連れて、鎌倉から太平洋側を
海路運航し、八戸へ上陸したとの逸話が残っとる。
850 :
日本@名無史さん:2014/06/27(金) 12:35:08.58
大河ドラマにも出てきた南部下野守だったか。あれは甲陽軍鑑?
851 :
日本@名無史さん:2014/06/29(日) 00:09:43.48
南北朝時代に、南朝についた南部氏に対し
武田は信武を中心に北朝についた。大雑把だけど
それ以来、両者はあまりそりが合わないのではないかと思うんだが
どうだろうか。
もう一個気になるのは青森の櫛引八幡に収められてる数点の具足は
甲斐の楯無鎧と関係があるのかということだ。
852 :
日本@名無史さん:2014/06/29(日) 00:19:31.53
>>821 当時(文化年間)名主の家は、一種の図書館の役割も果たし、貴重書にあふれていた。
甲斐国誌を編集した実動部隊の人間は、清右衛門をはじめ
ほぼこの層からでているわけだから、当時の名主の本蔵に、
どんな本があり、世間一般(江戸大都市)にどんな著作が受け入れられて
いたかも考察する必要があるわけだよな。
853 :
日本@名無史さん:2014/06/29(日) 11:44:45.08
甲斐近世期の学芸とか思想史については、ほとんど未着手といっていいくらい。
研究者がいないから。石川先生くらい。
854 :
日本@名無史さん:2014/06/29(日) 15:46:59.55
平賀泥水氏の山県大弐研究を俺は支持してる。
855 :
日本@名無史さん:2014/06/29(日) 22:38:49.71
大弐は武田について言及したりしてるのかな。
856 :
日本@名無史さん:2014/06/30(月) 23:43:56.45
石川先生は、紹介してくれる史料や着眼点はいつも
面白いのだが、論文がどれも短いのと、結論に意外性がないのが
もどかしい。
近世は学芸、思想史よりも、まずは芸能・風俗史が欲しい。
人形や春駒のように、高尚なやつじゃなくていいから。もっと雑多なところに
手をつけたい。
857 :
日本@名無史さん:2014/06/30(月) 23:51:40.35
大弐が信玄に言及しているかは、不覚ながら知らない。
しかし、信玄が「蘇我五郎」という反幕府の暗喩と共に語られることは
注目に価する。丸谷才一言うところの忠臣蔵=反幕府説に随うなら、
近世語り物中の信玄は幕府転覆の起動になりうる、ことになる。
858 :
日本@名無史さん:2014/07/01(火) 16:02:56.47
最近、平山さんの貫高制論の論文読んでるけど、難しいな・・
859 :
日本@名無史さん:2014/07/08(火) 21:28:45.64
武田信繫っていうのはどれくらい軍事的な実力があったんだろう?
馬場や山県、内藤、飯富なんかは『軍鑑』の中にも戦闘描写があって、
それぞれ指揮官として優れていたことを匂わせるエピソードなんか
があるけど、信繫のはあんまり聞いたことが無い。
彼はやっぱり政務家肌の人間なんだろうか。
860 :
日本@名無史さん:2014/07/08(火) 21:36:38.70
一方で長坂長閑斎は、たしかに「佞臣」として書かれているんだが、
同時に『軍鑑』のなかでも「腕っ節」が強かったという点だけは否定されていない。
個人的な戦闘力に関してだけ言えば、合格点が貰えるほどの人だったようだ。
>>859 いや軍務については立場が高すぎて具体的な描写ができないだけだろう。
大将として武将を指揮する立場だから。
862 :
日本@名無史さん:2014/07/08(火) 23:49:27.88
しかし、同じ「副将」と呼ばれた内藤サンには、城の中の兵隊を
外へつり出して鉄砲の波状攻撃を喰らわせた、とかいう目立ったエピソードが
あるんだぜ。
863 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 19:35:20.44
信玄は本当に上洛しようとしてたのか論争って、その後どうなったの?
864 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 20:03:29.00
病死した。
865 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 20:05:29.22
於:信濃國駒場
866 :
日本@名無史さん:2014/07/10(木) 20:06:21.68
平山さんが歴史読本でやってる「武田家滅亡」完結後に、残された
第四次川中島以降から信玄死去までを書くらしいから、そこでなにかしかの
見解が示されるんじゃないかな?
867 :
日本@名無史さん:
『検証長篠合戦』発売中。