1 :
日本@名無史さん:
○
>>1 乙 もうお前に用はない
く|)へ
〉 ヽ○ノ
 ̄ ̄7 ヘ/
/ ノ
|
/
|
/
3 :
サガミハラハラ:2010/09/19(日) 21:09:41
邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。
いいかげん皆さんこの現実を認めて邪馬台国についてかたりましょう。
4 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 21:40:56
伊都国、奴国、不弥国のあたりの記述は道のりが全て、明確な距離の単位で
書かれているが投馬国、邪馬台国への道のりは、水行○日というふうにかな
り遠くて、大ざっぱに船で○日という風に書かれている。
よって、伊都国、奴国のあたりは、北九州のあたりだが、投馬国とか、邪馬
台国は、北九州から船で何日もかかるくらい遠い場所にあることを示してい
る。しかも、それは北九州に上陸してから南へ行くところでなければならぬ。
というわけで、邪馬台国が佐賀県小城市甘木などということはあり得ない。
6 :
日本@名無史さん:2010/09/19(日) 22:59:19
7 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 08:09:43
いかなる突っ込みにも耐えて
質問に答えるだけの気構えがあるなら、スレも過疎っているから
小城説を集中的にいじってもいいよ。
個人のトンデモ説発表会場にしよう
9 :
サガミハラハラ:2010/09/20(月) 18:08:11
魏sぢ倭人伝の行程記事が不彌国以降が日程となっているのは、そこで陳寿がみた資料がことなっているからです。
これには邪馬台国の都が吉野ケ里から小城甘木に遷都されたことがからんでいます。
初めの行程路では、吉野ケ里の都まで全て里数で記録されていました。後漢の初めのころでしょうか。
ところが、遷都したことにより、不彌国まではいいのだが、それ以降は距離を測っていなかったため、倭人の日数による
記録しかなかったのです。魏使は里数は計測していません。ただ、不彌国の南の近くに新都があることと、二十日航行すると投馬国
にたっすること。総日数は水行十日陸行一月であることがのべられているだけだったのです。
その結果、あのようなちぐはぐな文章になってしまったわけです。
10 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 18:45:26
思い込みではなく、それを証明してくださいね。
証明は無理。
後付け設定だから。
>>9 >そこで陳寿がみた資料がことなっているからです。
では、その異なった資料は何と何だったか
ご紹介して下さい。
13 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 19:44:34
邪馬台国九州説と言う恥ずかしいコント。
陳寿は日本へ来てません
魏志・呉志・蜀志を統合して宋志を編纂しただけのデスクワークの人
15 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 20:07:54
16 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/20(月) 20:27:23
倭人伝は下記の文章につきる。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、監督する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。
この文の訳し方できまる。
中国人に聞くのが一番
中国の中の人は入れ替わってしまってるから
>>16 訳したところでその訳した日本語を理解できない
それが現代の実情。
漢文を日本語に訳す以上に難解な問題だ。
20 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:18:39
早く
>>12の質問に答えてくれよ
レスが
>>20でポシャてしまう説も、ある意味最強だな。
ここで答えられないようだと
二度と小城説なんて取り上げないし、闇から闇に葬るぞ
22 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 21:55:09
23 :
日本@名無史さん:2010/09/20(月) 22:36:37
唐松山は漢文を読めない。例の文は区切り方が間違っている。何度も指摘されているのに学習しない。
國國有市 交易有無 使大倭監之
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 としなければならない。
国々にある市を大倭に監督させたのだ。大倭は大和のことではなく、一大率とも関係がない。
24 :
サガミハラハラ:2010/09/20(月) 22:47:28
証拠ですか。小城公園内の桜ケ岡(サクラオカ)ですよ。寸法ピッタシの卑弥呼の墓です。
これ以上の物証はないでしょ。
思い込みもここまで来ると、もはや芸術の領域
とても一般人が踏み込める位置に非ず。
何年経っても進歩が無いというのは
正にこの事
26 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:43:44
>>24 大きさが合う墓はいくらでもあるでしょう。なんで、卑弥呼の墓だと?
そもそも墓ですら無いのは・・・
28 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 00:56:24
29 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/09/21(火) 01:24:24
>>16 使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(市には)”大”を使わし倭はこれを監督し、女王国より北は特に一つの”大”を率いる(役職)を置き、諸国を検察し、
(諸国は)これをおそれ、(「一大率」は)常に伊都国で治めており、(”大”は)国中において刺史のごとくある。
というのはどうだろうか。
30 :
二 ◆.L.MXSPOgc :2010/09/21(火) 01:34:39
そいえば「一大率」なの?「一大卒」なの?
「一大卒」の由来が分からないのだけど、誰か教えてw
31 :
サガミハラハラ:2010/09/21(火) 02:19:47
<大きさが合う墓はいくらでもあるでしょ。>
そうですか、では具体的に3つあげてみてくれ。
<何年たっても進歩がない>
確定したらそれ以上進めんだろが。
32 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 04:03:05
大夫だとか、太白だとか、
漢字で中国の官位や歴史についての知識があったことに重要。
倭国では、漢字は広くは普及してなかったが
漢字をもった知識人はそこそこいたことになる。
というか、紀元前から、倭国は中国と公式な外交関係をもっていたことから
当然、漢字を知らないと、外交文書も書けない。
当時の日本は統一国家ではなく、したがって言語も統一はされていない
中国と交流していた国の一部の官僚クラスの人以外は漢字は使ってないはず
日本の言語統一なんて厳密には明治維新以降でまだ歴史は浅いのである
35 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 05:18:16
>>34 それは、日本に限らず、世界中どこでもな。
>>33 統一国家である時も、言語統一なんかしていない。
だから、それは理由にならない。
36 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 06:30:17
>>31 岩戸山、生目の一号、三号、一貴山、尾張の断夫山。
>>30 > そいえば「一大率」なの?「一大卒」なの?
> 「一大卒」の由来が分からないのだけど、誰か教えてw
オイオイw
そんなことも知らんで・・・
38 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 13:57:25
>>29 使大倭監之の使は使役動詞である。英語のletやmakeに相当する。大倭をして之を監(督)せしめる。
主語は省略されているが文意からすれば倭国(政府)である。
それにしてもすごいね。漢文を読めないのに二ルート論なんか書いたりして。
一言主神ってあるだろ
一大卒(おおみこともち)の神格だよ
40 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 16:05:14
>>39 そうなのか?
ということは、以前は、ヤマトは、出雲に
管理されていたことか...
その管理されていた機関が、一言主神??
41 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/21(火) 18:11:48
>国々にある市を大倭に監督させたのだ。
これでビクビクしていたら、市に人が集まらない。
つまり”市”が成立しない。
しかも国々にそれぞれ市がある。もし方々で同じ日に市を開けば、監督しきれない。
42 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 18:48:56
>これでビクビクしていたら、市に人が集まらない。
人々が大倭を畏れてビクビクしていたとは書かれていないぞよ。
>しかも国々にそれぞれ市がある。もし方々で同じ日に市を開けば、監督しきれない。
それぞれの市に監督官が居たのだ。市の監督官の職名が大倭なのだ。
43 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 19:01:06
■卑弥呼の時代語る - 東大寺山古墳の遺物一堂に
奈良新聞 2010年9月20日
http://www.nara-np.co.jp/20100920133947.html 邪馬台国の女王・卑弥呼が中国から授かったとする説もある中国の年号が入った鉄刀など、東大寺山古墳(天理市櫟本町)の出土遺物が、22日から同市守目堂町の天理大学付属天理参考館で展示される。
同古墳の遺物が一堂に公開されるのは35年ぶりで、発掘から半世紀を経て初めての里帰り展示。古代史の謎を解く鍵となる貴重な資料であり、注目を集めている。
▽卑弥呼の刀?
東大寺山古墳は全長約140メートルの前方後円墳で、4世紀中ごろの築造と推定。周辺を勢力地とした古代豪族・ワニ氏との関連性が指摘されている。
昭和36年から発掘調査が行われ、多数の鉄製武器類が出土。うち1本の刀(全長約1.1メートル)に中国・後漢の年号「中平」(184〜190年)の文字が刀身に刻まれていた。
倭国で卑弥呼が生きた時代と重なり、魏志倭人伝が記す中国皇帝から贈られた刀ではないかとする説もある。
発掘調査を担当した金関恕・天理大名誉教授(考古学)は「卑弥呼の時代の遺物で関連性も考えられる。ヤマト政権の成立期に国家を守る象徴として、武力を持つワニ氏に代々伝わったのでは」と推定する。
▽半世紀ぶり報告書
出土遺物は昭和47年に国の重要文化財に指定され、東京国立博物館が収蔵。その影響もあり、貴重な考古学成果を挙げた発掘調査だったにもかかわらず報告書が未刊行だった。
(つづく)
44 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 19:02:51
うくくく、すぐに東遷厨が中平紀年鉄刀国産説を書くから。
46 :
サガミハラハラ:2010/09/21(火) 22:34:31
ああ、あの中平年刀は国産ですよ。製造年は東大寺山古墳築造年と同じ、つまり明器だということになります。
卑弥呼の中国貢献を意識して年号を入れたことは間違いないでしょう。
つまり当時(中平年)、卑弥呼が中国に貢献したことを書いた書物があったということです。
現在うしなわれえていますが。
47 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 04:57:11
モモソ媛命。
一大卒、一橋大学卒業?
一大国の兵卒か、兵卒区分の中の一つ、大卒を一単位という意味か
49 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 05:33:43
大率=内裏
50 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 06:30:40
一大率の率は、元帥の帥と同じで長(おさ)、頭(かしら)を意味する文字です。
ということは、一大率は一人の大物の代官という意味でしょう。
51 :
謎:2010/09/22(水) 06:45:53
一大卒を置いたのは魏でしょうか?邪馬台国でしょうか?
松本清張は魏としてますが…。
52 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 06:46:31
なるほど
53 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 06:55:38
>>51 女王国ですね。魏が朝貢国に率を送り込むことはありません。
そもそも魏なんか関係ないよ
邪馬台国が使者を送ったのは帯方郡公孫氏
魏は公孫氏が残した書を見て北九州に来た
55 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 07:26:00
そうではない。景初2年6月、倭女王、大夫を遣わし郡に詣り、天子に詣りて
朝献せんことを求む。魏が公孫氏を倒したのをみて、魏の出先に使者を送り案
内を頼んだということでしょう。
魏と通じてなかったとしたら
「景初4年」の銅鏡が出土するのも辻褄が合いますが
57 :
謎:2010/09/22(水) 07:30:01
なるほどです。
しかし研究が進んだ現在では九州、畿内どちらが有力なんですか?
邪馬台国と倭朝廷は並立していたのでしょうか?
色々な見解を聞きたいです
>>55 >魏が公孫氏を倒したのをみて
どこでみたんでしょう?テレビ?ネット?
半島にも倭人がいて、鉄の交易のためのルートがあったために、半島情勢は伝わりやすかっただろうね。
倭が公孫氏に朝貢していたのは間違いないと思われるし、遼隧の戦いでは、司馬懿は戦後も徹底的な掃討を
行い、15歳以上の男子を皆殺しにして夥しい数の亡骸で当地が埋められたという話もあるから、倭にも危機感
があったろうし、タイムリーな朝貢は必然だったろう。
60 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 07:59:26
そんなタイムリーな関係なのに、
なぜか「景初4年」の銅鏡が出土?
61 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 08:02:06
景初3年のうちに景初4年の鏡を作ってしまったんだろうな。
63 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 08:15:05
商品をつくる場合に、時代を先取りするのは当然のことだよ。
4年になってから4年の銘を入れていたのでは遅いんだよ。
卑弥呼が魏に遣使したタイミングの絶妙さから見ても
邪馬台国は大陸の情勢をかなりよくつかんでいたのでしょうね
対馬海峡を渡ってわざわざ半島に出るよりも、東シナ海を横断したほうがはるかに早いのですから
卑弥呼が呉と通じていた可能性はかなり高いのではないかと思います
65 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 08:24:32
そんなにタイミングが読めるのに、
なぜか「景初4年」の銅鏡が出土?
卑弥呼の鏡については難しい議論が存在する。当時魏の官営工房である尚方が戦乱等で疲弊しており、
後漢時代の多種の鏡を混ぜて100枚として与えたという話もあるし、特鋳した同型鏡をビシッと揃えて
与えたという考え方もある。このあたりは何ともいえないのだが、景初六月に倭使が郡に詣って、詔書を報じた
のが十二月だから、特鋳するための期間はあったと見てよいかもしれない。また、倭使難升米らに聞きた
だして倭人の好む様態の鏡を作って与えたのかもしれない。
67 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 08:32:39
「公孫氏が滅んだら、すぐさま魏に頭下げにきた」
非常に疑わしいですよ。
言葉が通じたかさえ分からないのに。
景初4年鏡の存在は解釈しにくい。これで考えられるのは、まずこの鏡が魏の版図から遠い地で
作られたのではないかという可能性、そして後代に卑弥呼の朝貢を記念して作られたという、いわゆる
メモリアル・イヤー説の排除。つまり、この鏡は魏から遠い地で作られ、しかも年号は実年代ではないかと
いうことが考えられる。
>>67 半島には倭人がいたとあるが、これは韓との人種の違いではなく、おそらく北部九州と共通の言語を話して
いた人たちである可能性がある。さらに倭が半島から鉄を取っていたという記述もあり、おそらく現金海市
周辺のこの人たちの力を借りていたのだと思われる。当地には通詞に長けたものもいたであろうし。
このことと直接の関係はないが、のろし実験では北部九州から大和まで、情報は数時間で伝わっている。
69 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 08:55:43
朝鮮半島には、日本の弥生人と同じとおぼしきDNAがあるのだから
「半島に倭人がいた」に、何も矛盾はありませんよ。
>>69 だから、この倭人というのは、半島南部と北部九州を囲む共通の言語圏があったことを指すと推測している。DNAなどは普通に通婚し
ていたと考えれば、あるのは当たり前だね。何を言いたいのかわからない。
>>70 >DNAなどは普通に通婚していたと考えれば、
弥生時代に
「海を隔てて普通に通婚していた」と考えるんですか。
電波ですか?
>>71 海を隔てて普通にだよ。壱岐を交易の中心として、半島と列島は弥生後期にはほぼ毎日通行があっただろう。
当時は国境線などないから。お前のような中学生レベルを相手にしたのが間違いだった。もうレスしないでくれ。
73 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 09:23:12
>>72 ほぼ毎日!?
なぜ毎日行き来する必要があったんですか?
通学ですか?通勤ですか?
その場しのぎの屁理屈をこねる人は書き込まないでください、
真相を解明するための議論の妨げになります。
何なんだこのバカは? 倭人伝には 壱岐と対馬の章に「南北市糴 」とあり、これは半島と列島に交易して
いたということだろう。考古学的には半島南部には弥生土器の出土が多く見られるし、列島の三韓土器もまた
しかり。話にならない。
75 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 09:53:20
>>74 そうですよ、
同じ場所から朝鮮半島と日本列島に渡来したなら、
同じ文化が伝わっていて当然でしょう?
似たような人間が住んでいれば、外部の人間からみれば等しく「倭人」
それだけのことです。
毎日通って通婚してたなんて、でまかせを言う必要はありません。
で、半島の倭人と日本の倭人が言葉が通じたからって、どうだって言うんでしょうね
半島にはテレビやネットがあって、
大陸の権力争いの情報をいち早く入手できたんですか?
九州北部、朝鮮半島南部共通の文化圏というのは有ったでしょうね
地名ひとつ見てもサワラ、カフリ、セブリといった名が両者に共通して残っています
そもそも倭人というのはこの対馬海峡文化圏とでも呼ぶべき地域にいた人たちのことを指すのでしょう
んじゃ、少しちゃんと書いてやろう。まず弥生前期には半島から列島への大量の渡来があった。この裏付けは
水石里式土器の伝播状況でよいだろ。その流れは部九州駐留、山陰、有明海、南九州にまで及ぶ。
中期には、勒島での交易が盛んになる。ここで出土する弥生土器は北部九州のものがほとんどだな。ここでの
主な交易品である青銅器、金属原料などは少数は山陰や畿内にも流れているが、交易ルートを握っていたのは
北部九州で間違いないだろう。
中期後半頃には勒島から壱岐原の辻に交易の中心が移る。原の辻から出土する半島形式の土器から、ここに
韓人が住んでいたことがわかる。さらに中期末には北部九州から楽浪土器も出土し、韓人のみならず楽浪人の
居住もあったようだ。楽浪土器は弥生後期にかけて列島内に拡散していく。
弥生後期から終末には、福岡市の西新町などに交易の中心が移るが、ここは畿内勢力の影響が強く、交易ルー
トを主導する勢力の変化を見る人も多い。
78 :
77:2010/09/22(水) 10:04:41
付けたし。75はバカ。知識なし。
79 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 10:10:00
はいはいがんばって調べましたでちゅね〜〜
それで出てきた結論が
「半島と北九州はほぼ毎日行き来していて、普通に通婚してた」
ですか。あいたたたー
80 :
77:2010/09/22(水) 10:22:57
調べた?知ってるんだよ。で、この弥生終末には畿内系の土器庄内が北部九州に流入する。
これは畿内勢力が交易のルートを握ったことを意味し、このことは半島の倭人の協力なしには
不可能だな。さらに、公孫氏時代の鏡(これには異論はあるだろうが)である画文が北部九州を
経由して畿内に流れ込む。このことは邪馬台国九州説では説明しにくい。
あまり苦しいので、安本氏などは庄内を九州発祥としたが、非現実的な見解であり九州の考古
学者からも総スカンを食った。また、伊都国と考えられる糸島は、人口こそ衰退はしないものの
平原1号墓を最後に王墓級の墳墓は消える。これが、倭人伝にある「世有王皆統屬女王國」の
状況を表すのだろう。そして博多方面に前方後円墳が築かれ始める。
「一大率」というのは畿内勢力が置いたものと考えるのが妥当だと思う。ただしそれほど大きな
権力を持っていたかどうかは疑問。「率」は後代の「太宰帥」につながると考えたいところだが、
現時点ではむろんそれは言い過ぎになるだろう。
81 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 10:30:38
そんだけ詰め込んでも
「半島と北九州はほぼ毎日行き来していて、普通に通婚してた」
とか言っちゃうんだねえ・・・残念。
82 :
77:2010/09/22(水) 10:35:29
狗邪韓国とも考えられる伽耶諸国が、ここで言う半島の倭人の主だったところと思うが、この
人たちは楽浪人との交易もあったし、独自の考えで活動していただろう。固定した交易ルートの
北部九州から、東海など巨大な後背地を持つ畿内勢力への乗り換えがあったと考えても何ら
不自然はないだろう。さらに後漢の権威を背景とした伊都国に対し、いち早く畿内勢力が公孫氏
と結んだと想定すれば、これらの状況はうなずけることばかりだ。
公孫氏滅亡、卑弥呼魏朝貢にはこのような背景があったとするのが当方の理解である。
83 :
77:2010/09/22(水) 10:37:17
>>81 お前はオウムか? 通婚はあった、日常的な半島と列島の往来もあった。根拠をあげて具体的な事例で反論しろやクズ野郎。
84 :
77:2010/09/22(水) 10:38:41
>>82 交易ルート→交易レート こうでないと意味が通じないな。
>東海など巨大な後背地を持つ畿内勢力への乗り換え
なんだか主語がよく分からないが、
その乗り換えた奴らは、乗り換え後はどういうルートを使ったんだ?
86 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 10:50:10
は?レート?
より安く買い叩ける国を探したってか?
一体何を言ってるんだ
>>85 半島の倭人が主語、おそらく北部九州とでは交易のレート(鉄○ー米△ といったようなもの)が固定し、畿
内勢力のほうが儲けになりやすかったのではないかな。北部九州主導の頃は、瀬戸内経路は封鎖に近い
状況にあり、日本海ルートで越、北陸、山陰などが半島と加工玉製品の交易をしていたのが、畿内勢力の
交易ルート奪取(といっても武力によるものではない)により瀬戸内航路が開けた。(また誤解されそうだが、
これは半島とのルートという意味で、瀬戸内内での往来は昔からあった。)
88 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 10:53:33
もう、息を吐くようになんとやら
で、邪馬台国九州説なら、上で書いた ・庄内土器の北部九州への流入 ・画文帯神獣鏡の北部九州を経由
しての畿内への流入 ・これは古墳時代に入るが、前方後円墳の九州(北部・東部・南部等)での築造、九州の
古墳での三角の出土 最低この3つのことにはきちんと答えるべきだろう。
簡単なのは画文や庄内の年代を新しくすることだろうが、これらは九州の土器編年との平行関係があり、畿内
の土器を新しくすると、九州の土器も新しくなる。北部九州の土器編年は大陸の遺物との関係で決定されている
面も大きいから、それをやるとすべてがメチャクチャになってしまう。
90 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 11:56:45
土器が北部九州に流れているのは確かだが
その反対が無いんだよね。
畿内から九州に何かを運んだんだろうけど
代わりに畿内は何をもらったんだろう。
91 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 12:00:05
もらってないさ。支配されてたんだろうよ。
>>55 大夫という存在は何なんでしょうね?
日本で諸大夫階級と言えば、大名とかですかね
魏(或いは中国全般)での身分を指すなら、使者は既に中国の文人階級に列している人となるが
93 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 12:56:25
倭は、周の時代から、中国と交易がある。
そんなわけで、倭は中国の社会の知識もあったように思われる。
御門から使いするには、たにわ道の出雲崎から船出して韓の美穂津に上る
たにわの秦人らはこの地の裔なり、志羅路をたどりて一水一山を越える
韓人の舟にて川をくだり行くと孫公のもとに達せり
96 :
か:2010/09/22(水) 16:12:59
結局のところ、奈良のマキムク?古墳だかが卑弥呼の墓である可能性は何%なんだ?
有力なのか?
お前らにとって昭和64年の十円玉は偽貨なのか?
98 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/09/22(水) 16:41:43
畿内大和に数十年の争乱を設定できない以上
纒向遺跡に卑弥呼の墓はない。
ただし、邪馬台国=大倭は設定できる。
箸中山古墳(箸墓)のことなら、卑弥呼の墓かどうかはなんともいえない。C14や土器編年
による実年代論も揺れている状況だな。ただし、当時にあってはエポックメイキングな存在で
あり、それまで作られたものとは隔絶した規模の大型古墳であることは間違いない。
記紀にも「昼は人が作り、夜は神が作る」「大阪山の石を(人が大勢並んで)手渡しで運んだ」
などの記述があり、これは記紀編者に箸墓が大型古墳としてはごく初期のものであるという認
識があったということだろう。
いずれこの墓には初期の纏向遺跡を統べた重要な人物が葬られていることは間違いなく、邪馬
台国の中心が纏向遺跡なら卑弥呼の墓である可能性はあるだろうな。
>邪馬台国の中心が纏向遺跡なら卑弥呼の墓である可能性はある
こうやってミスリードを誘うんだよな
>>100 その前に、>邪馬台国の中心が纏向遺跡なら
と書いたはずだが。邪馬台国が九州だと思うなら自説を述べたらどうだ?特に卑弥呼の墳墓について。
102 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 17:41:33
残念ながら、邪馬台国の中心が纏向遺跡ということは絶対にないよ。
邪馬台国は、百パーセント九州だ。末盧国から東南五百里、伊都国は佐賀市付近。
邪馬台国は南九州だよ。それで何も疑問の余地がないじゃないか。
墓は宮崎平野あたりで探すべきだな。候補はいくつかあるが、掘らなければ分か
らん(掘っても分かるかどうか分からんが。)。
>>101 だからそれがミスリードを誘っているっていうんだよ
>邪馬台国の中心が纏向遺跡なら卑弥呼の墓である可能性はある
ってのはロジックとしては間違いじゃない
間違いではないが、逆に言えば当たり前のことでもある
この時代の大規模な遺跡の所在地に邪馬台国の中心があったとすれば
それが卑弥呼と関連を持った可能性が大きいのは当たり前のこと
それが畿内だろうと九州だろうと、他の地域だろうと変わらない
それをことさら卑弥呼との関連性がある可能性が高いかのように印象操作をすることをミスリードを誘っていると言ったまでだ
そうやって畿内説vs九州説というアフォな思考にとらわれているから、純粋な歴史探求ができなくなっているんだよ
>>102 当時の佐賀市はほとんどが有明海の中だよ
いっそ吉野ヶ里だと言った方がまだマシ
>>103 ミスリードというか、マスコミを始めとする最近の風潮が悔しいんだろう。ww
>>96の質問に対して、可能性があると答えて
何が悪いんだ? 九州説なら、まったくないと言うのだろうが、こちらはこれでも穏当な答え方をしたつもりだ。考古学を
中心に考える畿内説なら、卑弥呼の墓の特定に大きな関心を抱いてない人もけっこういるだろう。卑弥呼の墓がホケノ
であれ、箸墓であれ、西殿塚やその他であっても大勢は何も変わらないよ。
実は個人的には、邪馬台国など九州にくれてやってもいいくらいだ。世の中に倭人伝しかなければ読解からは邪馬台国
は九州にあるのが妥当だとは思うしな。こちらは別に九州説に対抗意識があるわけでもなく、邪馬台国の所在地に対する
深いこだわりもない。ただただ知りたいんだよ、ヤマト王権の始まりと成長の様子が。wwww
107 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 18:07:36
佐賀市なら大和町付近の
惣座遺跡とかなら、陸地だね。
大和町と金立町は遺跡分布としては
気に留めていた方が良いと思うよ。
>>106 可能性はどこにでもあるだろヴォケ
脳が腐ってるから、それで穏当になってるつもりなんだな
根拠を示せないから、可能性という言葉を使って印象操作
そのくせ他の可能性は無視をする
これをミスリードと呼ばずして何と呼ぶ?
ただただ知りたいだけの奴の発言じゃねえよ
>>108 じゃあ、何て答えるんだ?まったく可能性はないと言わなければ満足しないんだろう。ww どっちがこだわってるんだか。www
可能性はどこにもある?? それは、宝くじは当選番号発表前なら誰にでも当たる可能性があるといってるようなものだな。
少なくとも纏向遺跡は、ゆるやかな連合の中心遺跡であることは、畿内説のほとんどが認めていることだ。九州にある得体の
知れない群小遺跡ではない。ミスリードしてるのはそっちの方みたいだな。www
>>108 あれは、むしろ本当のことを何としてでも隠したいやつら。
近畿にはそうしなくちゃならない人種がいるのよ。
なぜかは想像つきますよね?
>>109 なんであんなアフォな質問に答えなきゃいかんの?
お前がそうあってほしいからだろ?
だからミスリードを誘ったんだろ?
ってか、なんでお前に意見する奴は九州説ってことになってるんだよw
頭悪いんじゃないか?
>>107 ああ、まあ確かに佐賀市だな
佐賀市付近どころか佐賀市内なのに
なぜか「佐賀市付近」ではないようなイメージだったw
>>111 答えたら悪いのか?ここはただの掲示板であり、スレチのことを書いてるわけでもない。しかも
>>99レスは自分としては事実に
明らかに反することは書いていないつもりだ。これでミスリードと言われるのなら、他に決めつけの主観的なレスはたくさんある
だろう。お前がミスリードと思うのは、お前の中に何かこだわりがあるからだろうよ。www
114 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 18:32:07
元寇で割と有名な、博多の櫛田神社だけど
本社は佐賀県神埼市の櫛田神社
この櫛田神社は三神を祀っているんだけど
主神が櫛稲田姫命
第二神が須佐之男命
第三神が日本武命
天皇一族が入っていない特殊な組み合わせ。
また、先ほどの総座遺跡に近いところに肥前国庁跡があり
その少し上流に與止日女神社がある。
ここの祭神の與止日女は神功皇后の妹だそうな。
115 :
素直に読んでも畿内らしい:2010/09/22(水) 18:34:52
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国
投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬国 ☆ 天
岩 ☆為吾国 邪馬国・・・旧信楽町
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
116 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 18:35:06
大和町は昨年か一昨年まで佐賀市じゃなかったからねえ。
地元民ですら、佐賀市になった気がしない。
>>113 悪いから指摘している
俺にはこだわりはない
お前のような印象操作でマトモな議論が阻害される風潮に苛ついているだけだ
>>113 実際、お前は思い込みたっぷりの畿内厨じゃねえかw
>>117 お前がこのスレ仕切ってるのかよ。お偉いことだな。ただし、2chだから誰もお前の思うとおりの行動などしないだろう。www
そんなこともわからないのか?
120 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 18:41:13
畿内厨は決め付けと印象操作しかしない
反論に対しては罵倒とレッテル貼りで対応する
議論なんかできるわけないだろw
しかし馬鹿だな。他人から何か言われてハイハイ従うようなやつが2chに来るとでも思ってるのか??お前のイラつきなど知らん。
壁でも蹴ってればいいだろ。
123 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 18:43:10
作り話かも知れないけどねえ、
怡土に神功皇后の生み石があったり
宇美国の宇美八幡宮があったり
旦那の仲哀天皇が亡くなった香椎病があって
佐賀には妹が祀られている。
北部九州の神功皇后の伝承ってけっこう生々しいんだよね
124 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 18:46:02
>>121 うん、残念ながらそうやって都市に寄生してきたクズ「も」畿内にはいる。
そういう連中がこういう場でぴーひゃらぴーひゃら印象工作しよる。
今、東京の100人に一人が中国人ってのと同じよーなことやわ
>>121 言ってる内容は全て君にも当てはまる訳だが‥
>>119 お前が改心するとは思っていない
お前の戯れ言に影響される人が出ないように配慮したまで
幸い、他のみんなはお前の印象操作をお見通しだったようだ
まあ、俺の杞憂だったわけで安心した
そもそも議論する気なんかないだろ
128 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 18:48:27
>>126 くだらんこと言ってないで、皆の知識が増えるようなレスしろや。
>>126 でもアレ、専業なんか知らんけどものすごいマメやから
自作自演で多数派のつもりかよ。www
131 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 18:52:26
>>128 なんか地図が流されていったけどアレはどうなん?
132 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 18:55:13
地図・・・これはシュメール厨の人だろうが、末盧国・・・敦賀市 伊都国・・・旧伊香郡高月町
というのは九州説でも畿内説でもまず同意する人はいないんじゃないか。
134 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 19:51:37
>>133 あそ。んじゃぜんぜん違う。少なくとも末盧、伊都は九州だろ。
少なくともここまでは〜って、ずっとそこで足踏みしてるからなあ・・・
136 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:05:58
いやいや足踏みというか、これまで出た説の中に正しいのは必ずあるだろう。
こんだけ出てるんだし。ただ決定的な物証がないから決まんないだけで。
だから新しい説を増やしたところで決まんないのはおんなじ。
>>136 意味が分からん、どうして「これまで出た説」から選ばにゃならんの?
物証がないも何も、どれも見るからに胡散臭かったよ。
マトモな大人がこんなことを言ってるのかと愕然とするような話ばかり...
138 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:20:09
>>137 だから新しい説がどうやって正しいとわかるんだよ。金印掘るのか?
実際にありそうで、よくできた話だけど
何も物証がないってのもあるんじゃない?
伊都国=出雲、投馬国=因幡という可能性も考えるべきじゃないかな。
因幡は古くは稲葉と書いたらしいし(by wiki)、投馬=稲葉=トウバ⇒(訓読み化)⇒イネバ=稲葉⇒因幡となった可能性もある。
因幡が投馬国ならば出雲が伊都国である可能性も高くなる。
気になってるのは倭文(しとり)神社の存在なんです。
倭文(しとり)=倭国の織物、という意味で、倭文神社があるところはしとりの生産地・集積地の可能性があります。
卑弥呼も魏に織物を送ってますし、しとりの生産地・集積地は邪馬台国に繋がっていて、邪馬台国は魏に繋がってます。
その倭文神社が因幡・伯耆にあるんですよね。
これは何を意味してるんでしょうか?
>>138 >これまで出た説の中に正しいのは必ずあるだろう。
これは違うな...
これまで出た説の中には正しいものはないと言う方がしっくり来る
今まで考えられて来なかった説の方が可能性がある
142 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:31:38
出雲−大陸航路がどの程度確実性があるかだな
なんだかんだ言って
松浦(唐津)−大陸航路は確実性が高い。
秀吉の唐入りの出発地は松浦の名護屋城、
江戸時代の大陸航路は唐津。
海流がかなり速いから、
出雲からの長距離だと流される危険はかなり大きい。
>>140 「南」と書いてある所を真東に進んだとする説は、どれも信用できない
不自然だと思わない?
九州北部から大陸へ渡る航路が存在したことは
議論の余地がないくらいに確実だろ
>>145 その議論をしなかったから、未だに解けないんじゃないの?
147 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:41:33
148 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:42:35
物証というなら、半島から出雲系の土器の出土がはしいね。北部九州の弥生
土器はたくさん出てるんだよ。
>>146 は?九州北部から大陸への航路に疑問を持ってるの?
そんな奴、畿内説論者でもほとんどいないと思うぞ
150 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:44:38
対馬海流が東北方向に時速2キロくらいある。
一日10時間航行するとすれば20キロだ。
古代帆船では平均速度が時速1ノット程度といわれている
海流に負けないだけでかなり大変なことになる。
出雲から半島方向だと逆流になるから
行けるとしたら、帆船の効率が上がった
かなり後世のことになるのではないかと思う。
>>147 伯耆に倭文神社は式内社、伯耆国一宮、旧国幣小社で、
>具体的な創建年代は不明であるが、平安時代初期の大同3年(808年)の医学書「大同類聚方(だいどうるいじゅほう)」には
>「川村郡倭文神主之家所傳方 原者下照姫神方也 中暑小便止 頭痛煩熱 口乾者與之」(原文)という記述があり、これが文献上の初見とされている。(参考 谷田亀寿 著 舎人村郷土史論上代篇)
ということらしいです
前のレスにある通り、
本当の事を知りたくて歴史やってる人なんていないんだな...
>>149 そこに疑問を持てば、解けるんじゃないのか?
154 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:48:06
>>152 いやいるんだけど、ここは2chだから。
>>155 じゃあ歴史は本当の事じゃなくていいのか?
あんたはそう思うんだな?
>>153 物証が大量にあるのに、そこに疑問を持つのは時間の無駄のような気がする
158 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:50:51
>>151 9世紀の文献に出てくる神社で3世紀のことを言うのは無理だろう。
>>157 古代の中国人がどんな経路を辿って来たかなんてことに物証があるの?
161 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 20:54:23
伊都国の所在に疑問をもてばすぐ解けるよ。
163 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 21:03:13
ささ、自演をどうぞ。
>建葉槌命を主祭神とし、出雲神話に登場する下照姫命・建御名方命・天稚彦命・事代主命・少彦名命・味耜高彦根命を配祀する
>>115が正しければ畿内説ががぜん有利になる。
今まで行路の面で難があったんだろ?
どうして誰も言及してないんだ?
トンデモだから
おおかた方角も合ってるように見えるが...
169 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 21:18:08
さささ、遠慮なさらずに自演を。
自演は自分との心の対話。ではまいります。
♪自演するなら〜こういう具合にしやしゃんせ。アウト、セーフ、ヨヨイノヨイ。
>>168 そりゃ先に邪馬台国の場所を決めてから、方角を基に他の国を当てていっただけだからな
因幡や伯耆で生産、集積されたしとりが魏へ運ばれるルートがあって、魏では倭文とよばれた、
これは確かなことだと思われる
>>150 北前航路でも下り(九州→北陸)より上り(北陸→九州)のほうが倍かかる
でも、海流は対馬海峡が一番きつい、そこを横切る方が度胸がいる
時間は掛かっても確実なら、少々の無寄港外洋航路くらい古代人はやってのけるよ
天の鳥船=帆船 だと思う
>>172 確かなのか
思われるだけなのか
はっきりしろよ
こまけぇ事はいいんだよ(AA略
176 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 22:21:05
卑彌呼以死大作冢、徑百餘歩
卑彌呼が死んだので大いに冢を作った。墓を巡る小径は百餘歩。
倭人伝の記すところによれば、箸中山古墳は卑弥呼の墓ではない。
大径は?
178 :
日本@名無史さん:2010/09/22(水) 22:39:04
>大径は?
そのような言葉はない。徑は小さな道のことである。小徑は意味が重複しているが、人一人が通れるほどの細い道である。
百餘歩って普通に考えたら60m程度だよね
180 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 00:12:55
>墓を巡る小径は百餘歩。
これはおかしい。径はまっすぐの道をいう。巡る道は径とは言わない。
181 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 00:21:49
>>179 今はそうだが、古代の数え方では、片足を踏み出すだけの距離は跬(き)と
言ったそうで、一歩というのは二足のことだという。だから、百歩といえば
約120メートル前後ということになる。
182 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 01:07:07
この時代は近親相姦ありそう
どうやって家族築いてたの?
183 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 01:28:09
>>171 他の国がちゃんと方角通りにあてはまってる説なんて、今まであったか?www
184 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 01:34:18
>>183 確か南九州説はちゃんと方角通りだったはずだが。
185 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 01:37:33
>>184 二度「水行」した後にわざわざ苦労して「陸行」する意味が分からん
186 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 01:48:59
二度水行した後に陸行があったからといって何も不思議な話ではないだろう。
もっとも、南九州説は、二度水行と読むわけではないが。
187 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 01:52:41
蚕で絹を得て錦を作ってたんだよね?
そういう遺跡って全国で出てるの?
189 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 01:54:55
目的地が内陸部だったら? それに、もし海岸に近いとしても、最寄りの港まで
船で行く方が陸行するよりも長い日時を要するとしたら?
190 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 01:56:05
>>189 だからどこだよそれ
南九州にあるんだろ?
191 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 02:04:48
都城だろうな。船で行くとすれば、薩摩半島をまわって錦江湾にはいり、湾の奥で
上陸しても更に何日かかかる。水行四十日陸行十日くらいかな。
八代あたりで上陸して山越えするのがもっとも速い。これならば、水行十日陸行一
月、合計四十日で着く。
192 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 02:13:47
>>191 50km程度の距離で十日かかかる?無理スンナwww
九州ならどこも、一度陸に上がって歩く必要がないんだよ
193 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 02:16:32
みなさんに質問があります。
尖閣諸島、沖縄本島を中国が制圧した後
邪馬台国九州説、魏志倭人伝、金印を根拠に九州の領有権を主張
してきたら余裕で論破できますか?
心配で夜も眠れません 天安門事件
194 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 02:23:08
わざわざ陸を歩いてまた船に乗るなんて、琵琶湖以外にあるか?
次に川用の舟に乗り継ぐだろ?
それで奈良に着くんだから、どう考えても正解じゃねーか
195 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 02:25:05
>>192 使者一行の進行速度はそんなもんだろう。年寄りも混じって大勢だ。
のんびりしたもんさ。
>>193 東夷伝に書いているということは、倭国は中国ではないということだ。
196 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 02:28:32
>>195 年寄りに長旅させんなうぜえ
本当にうぜえのはてめえのくっだらない詭弁だけどな
197 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 03:49:12
■平原遺跡発掘 在野の考古学者 原田大六の軌跡たどる
西日本新聞 2010年9月23日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/199160 福岡県糸島市の伊都国歴史博物館は、10月9日から11月23日まで、特別展「昭和を駆けた考古学者 原田大六」(糸島市教委・西日本新聞社主催)を開催する。
糸島に生まれ、伊都国の王墓とみられる平原遺跡を発掘、ベストセラー「邪馬台国論争」などの著書で大学アカデミズムに挑戦状をたたきつけ、激しい気性から「ケンカ大六」の異名をとった在野の考古学者・原田大六(1917−85)をしのぶ初の企画展となる。
特別展は、今年が原田の没後25年にあたり、西日本新聞社から「面会謝絶だぁ 孤高の考古学者原田大六」(藤田中著)が刊行されるなど、原田の業績や人物像への関心も高まっていることから、原田家や同博物館に保管されている原田ゆかりの未公開資料を公開しようと企画。
原田が発掘に参加した井田用会支石墓など糸島の支石墓群や沖ノ島(福岡県宗像市)関係の実測図や写真などの貴重な調査記録資料をはじめ、平原遺跡出土の土器や鉄器など計300点を展示する。
また、三雲遺跡出土の銅戈(どうか)の鋳型、糸島沖の海中で見つかった広形銅矛(どうほこ)(ともに九州大所蔵)のほか、原田の著作や遺品も展示。行政や学界と激しくぶつかりながらも熱く古代のロマンを追い掛けた原田の軌跡をたどる。
同館は「常設展示している平原遺跡出土の国宝の内行花文鏡など、原田さんが発掘、修復した文化財とともに見てほしい」と話している。月曜休館。入館料は大人300円、小中高生200円。
また、10月16日午後2時からは、森浩一・同志社大名誉教授による特別講演会「原田大六の考古学−町民学者と官僚学者」もある。聴講無料だが事前に電話での申し込みが必要。定員は先着順に150人。
同博物館=092(322)7083。
お題 『陸行一月』 www
まあこれだけを考えれば一番スンナリいくのは畿内説の日本海ルートとは思うが…
難点はそもそも纏向の”ウリ”の一つは大和川水系を使っての水上交通にある。
後世、遣使の裴世清も海石榴市あたりまで船でやってきたことになっている。
(九州王朝説なんてクレイジーな事を言わなければだがw)
だとすれば何でわざわざ最後(船よりはシンドイであろうし時間もかかる)陸路をとる必要があったのかだなw
>>193 朝貢だのハンコなんて日本の上面の史観の弱点突っついたおちょくりなのよw
朝鮮や他と整合性とれんだろ。
本当に来るときは、分子生物学や民俗学なんかの「血」に関わる深いとこに言いがかり付け出す。
日本と中国朝鮮はDNA的にもかけ離れてるらしい
そんなもんに言いがかりつけて占領なんて無理だろ
というかまた印象工作か?
分子生物学や民俗学を持ち出すやつは中国の手先とか、
そんな洗脳無理だぞ?
201 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 07:33:32
>>198 スンナリいく? 南とあるのに東北に行くのがスンナリかね?
伊都国を不自然な玄界灘沿岸に比定しなければならん。
それに、倭人伝の行程は放射式だよ。
どっからみても、滅茶苦茶だ。
203 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 07:49:00
>>202 君は198か? 違うんならば
>>115などださないことだ。
畿内説の日本海ルートというのは北九州から東北に水行していく
というのが基本だ。
205 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 07:54:29
そう、畿内説は頭がおかしいんだよ。
>>115で合ってるだろ
というのも、もっとおかしい。
207 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 08:01:10
狗邪韓国をどこに比定するんだ?
対馬国からみれば北千里に狗邪韓国、南千里に一支国だ。
>>115の図に狗邪韓国がないのはなぜだ? 海の中だからだろ(笑)
>>207 さあ?それはシナ側の都合で書きかえられてるんじゃないか
狗邪韓国がそんなに重要なのか?海に沈めとけばwww
日本に来てからの方が重要だろ
少なくとも南が東北だとか
放射説だとか言ってる基地外は相手にしたらダメだ
209 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 08:29:47
そうか、帯方郡の位置も書きかえられてるってのか?
放射式に読むことが理解できてないようじゃ、君の読解力はしれてるな。
まず、放射式の勉強でもしたらいい。まともな学者は、ほとんど放射式だ。
210 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 08:38:01
>>209 帯方郡の位置?
邪馬台国と同時代だよな。
範囲が正確にわかってるって言うほうが不思議なんだが・・・?
三国志関係のゲームでは、沿海州まで公孫氏の領土になってたりするぞw
放射説の勉強・・・だと?
学者は基地外の代名詞なのか?
211 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 09:50:22
帯方郡や狗邪韓国のことを考えないで、行程を決めようなんてのは
トンデモの極みだな。
九州上陸は動かない。そして、東南陸行五百里が伊都国だ。それが
玄界灘沿岸のはずはない。伊都国から先は、学者先生方の言うとおり
放射式でなんら問題なし。何か異議があったら理由付きで言ってくれ。
212 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 09:54:30
>九州上陸は動かない。
理由つきでどうぞ
金印
214 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 10:01:47
>>212 帯方郡、狗邪韓国の位置は従来の通説で何ら問題はない。そこから南千里で対馬国、
更に南千里で一支国(壱岐)、となれば、同じく千里の末盧国は九州北岸しかないな。
郡から我が国に渡ってくるのに、もっとも合理的なコースだ。
215 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 10:09:41
>>214 マツラ国から先に進めないんだから問題アリアリだろ
216 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 10:15:25
進めない? 何も問題なく進めるだろうが。
東南陸行五百里、伊都国は佐賀市付近だよ。
217 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 10:21:30
>>216 なんかよく聞くのとは違う気がするけど、ハイハイそれでー?
218 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 10:24:25
それでって、何が聞きたいの? 何か問題があるかな?
219 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 10:27:19
わかったわかった。
じゃあ訂正しようね。
伊都国から先に進めないんだから、九州上陸では問題アリアリだろ?
220 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 10:31:11
伊都国から先は前に書いたとおり放射式。
先に進めないなんてことはないよ。佐賀市付近ならば、有明海沿岸だ。
有明海を南に進めばいい。それが南水行だ。何も問題ないな。
221 :
完成!:2010/09/23(木) 10:33:42
〜┌─↓─┐┏━周旋五干余里━┯━□金印━━━┓〜〜┃本州∵∵
〜│末盧国│┛∵∵∵∵∵∵∵∵│/∵/∵/∵/┗━┓┗━━━━━━
〜└┰@─┘∵∵∵∵∵∵∵∵∵│∵/謎の先進地域∵┗┓〜瀬戸内海〜
〜〜┃∵\東南∵∵∵∵∵∵∵∵│/∵/∵/∵/∵/∵┃〜〜┏━━━
凵`┃∵∵┌───┐東┌──┐│//////////┗┓豊┃∵∵∵
凵`┃∵放│伊都国B→│不弥││///二万//////┃後┃∵
〜〜┃∵射│一大率│東└──┘│///////////┃水┃∵
〜〜┃∵説│検察★A南┌───┘///奴国≪再掲≫/┏┛道┃∵
〜〜┃∵∵└C──┘\│奴国////////////┃〜〜┃∵
〜┏┛∵∵┏D━━━┓│////┌──女王国境界──┃〜〜┃四国∵
┏┛∵∵∵┃▼〜〜〜┃┴─F──阿高_┌────┐_┃⇒⇒┗━━━
┃∵長崎∵┃■〜有〜┃\\\\\蘇千_烏奴__支惟_┃〜東渡海千里
┃∵∵∵∵┃■〜明〜┃\狗奴\\]穂_巴利__躬臣_┃〜最短距離で
┗━━━━┛■〜海〜┃\\\\\★__邪馬__鬼奴_┃〜〜〜〜
〜〜島原湾〜■┏━━┛\\\\\│__為吾__鬼__┃〜日向灘
〜〜┏━━┓■┗┓∵∵\\\\\│__華奴蘇奴呼邑_┃〜波高い
〜〜┃天草┃◆■E■■∵\┌──┘__蘇奴__対蘇_┃〜〜〜〜
會〜┃∵┏┛■┏┛∵■∵△│高__姐奴__不呼__┏┛〜北の高千穂
稽〜┃∵┃八■┃∵∵■∵△│千__好古都_弥奴__┃〜〜通行不可
/〜┗━┛代■┃/∵■∵△│穂__都支__伊邪__┃〜〜〜〜〜
東〜〜〜〜海■┃/∵■∵△│Ψ__已百支_斯馬__┃〜@東南五百里
冶〜〜┏━━▼┛//▼──┘___└以北の国┘_┏┛〜A東南百里
の〜〜┃//////│____________┏┛〜〜B東行百里
間〜〜┃/投馬国//│__邪馬台国__七万__┃〜〜〜C水行二十日
の〜〜┃//////┏━━┓_______┏━┛〜〜〜D水行十日
東〜〜┗┓/五万//┃桜島┃★花弁状住居★┃〜〜〜〜〜E陸行一月
〜〜〜〜┗┓////┃〜〜┗┓_____┏┛〜〜〜〜〜F奴国の南
〜〜〜〜〜┗━━━━┛〜〜〜┃__●穀璧┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━┛〜島を左回りの順で描写
222 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 10:36:35
>>221 ご苦労さん。力作ですなあ。狗奴国の位置がちょっと問題だけど。
223 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 10:52:20
松浦半島から佐賀って、けっこう険しくないか
福岡からなら平地だが
224 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:00:46
唐津街道ってのがあるだろう。別に険しいとは思えないが。
225 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:02:56
唐津から厳木、小城に行く道と
伊万里から武雄に出る道があるね
道沿いで縄文遺跡が出てるから
険しいけど、道自体はあったんじゃないかな。
方角とか距離の記述から決着が付くことは、新たな証拠がが出てこない限り絶対にないよ
何十年同じことをやってるんだから
227 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:53:01
だが、今までの何十年は、伊都国は前原だと思い込んで議論していたからな。
倭人伝どおりに進めば、とたんに道が開けるんだと分かっただけで、大変な
ことなんだよ。
228 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 11:53:38
230 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 12:27:45
>>229 いやいや、周囲に広大な水田が開けた弥生の都市だよ。後の肥前国府が置かれた
ところだ。
そう言えば、前原あたりは、集落と墓場の密集地だそうだね。どうみても、王宮
が置かれた土地には見えない。古墳時代には衰退の一途だ。
都市(爆
232 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 14:14:27
前原は曽根と三雲、高祖の集落にわかれているね。
そして海側の周船寺の山側にも集落がある。
その間は雷山川や瑞梅寺川の河川敷になる。
いわゆる住居跡や墳墓が見つかるのは曽根と三雲
高祖は高祖神社や後に築城された高祖城がある。
王宮としてはこちらの方が可能性は高いと思う。
また、対外外交拠点としては周船寺の方だろう。
この名前の通り、周りに船がつく船付き場があったらしい。
博多湾に入る船を臨検する場所としては良い場所だ。
ちなみに糸島半島の唐津街道旧道202号線北側は当時、
海か湿地帯とされていて、志摩とつながっていなかったとされている。
233 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 14:25:33
>対外外交拠点としては周船寺の方だろう。
ところが、魏の使者らは伊都国まで来ないで、末盧国で上陸してしまった。
辻褄があわんね。
2005年調査で、三雲下西遺跡から一辺57mの方形区画溝が出土し、
溝には直角の隅が2つ発見され、王の居館か祭殿跡の可能性がある
とも考えられている。
235 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 14:41:52
祭殿跡ねえ。葬儀場かな。地殻に墓場があるようだし。
236 :
198:2010/09/23(木) 15:25:07
>>201 やれやれ「これだけを考えれば」と言うのは『陸行一月』の距離だけと言う話で
畿内説日本海ルートの検証、瀬戸内ルートじゃなくて何故最後陸路でシンドイ方がでてくるのか?
…について話を振ったつもりだったが
やっぱこう言う流れになるんだなwww
もう既視感 2万パーセントぐらいだw
>>201は伊都国は佐賀大和と言っている日向厨だよな?
もうね次に何を言うのか丸分かりなんで
畿内説に噛み付くんじゃなくて九州説同士で
先ず「すなお読みチャンピオンを」決めてくれって話だなw
べつに素直に読まなくとも、畿内にはたどり着かないから心配するな。
>>236 次に何を言うか丸わかりなのはお互いさまだと思うぞw
日本史板邪馬台国関連スレ警備員の歌
♪ さあ来たぞ、書き込みだ。また出た悪魔の畿内説。
俺は邪馬台国警備員、悪魔の畿内説許すまじ。詐欺の畿内説撲滅だ。
ああ、父が泣く、母が泣く、24時間見張ってやるぞ。俺は邪馬台国警備員。
♪ また出たぞ、書き込みだ。悪魔のwww(わはは)がやってきた。
俺は邪馬台国警備員、地獄の畿内説と戦うぞ。詐欺の畿内説天誅だ。
ああ、アスペの薬を飲み忘れるな。24時間見張ってやるぞ。俺は邪馬台国警備員。
警備員は利権側の畿内説が飼っているわけだがw
九州説 それは君が見た光 僕が見た希望
九州説 それはふれあいの心 幸せの南の国
>>240 混一疆理歴代国都之図
李朝は中国の忠実な臣下だから、
中国を真ん中に持ってきて、東夷・南蛮・北荻・西戎を配したんだろうけど
日本が南蛮に位置しているのはどう言うことだろう?
朝鮮が東夷で、日本は東夷じゃないのか?
この地図だと緯度的に南蛮になってしまう。
九州しか書いていないだけじゃねえの?
日本と朝鮮が心理的には遠く離れた国だったということがよく表れてますね
248 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 18:31:36
>>236 君の文章は、何を言いたいのか分からんね。もう少し、読む人が理解しやすい
ように書く努力をしてみたらどうだ?
249 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 18:36:08
まあ蛇紐の金印がでてる事からも相当南方と言う認識だったろうと言うのは推測できるんだろうが・・・
てか中国にとって日本の位置、地理なんかどうでもよかったっぽいwwwwwww
250 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 19:04:36
>>239 便乗してつくってみますたwwwwwww
♪せまるジョーカー 悪魔の畿内説
九州王朝守るため 日本の歴史を変えるため
Go!Go!レッツGo!!今日も頑張るぞ
サイキバキック! ピンポーンダッシュ!
自宅警備員 サイキバ隊員 サイキバ隊員〜
(ナレーション)
サイキバ隊員は改造(主に脳)人間である。
彼を改造したキナイセツは、世界征服を企む悪の秘密結社である。
サイキバ隊員は、人間の自由の為にキナイセツーと戦うのだ!
251 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 19:22:09
南北逆転した地図????
南の南蛮だから会計の東となるんだな
その点では中国と朝鮮の認識は一貫性があると言えるのかな
オイ!
倭人は東夷伝に記載されてるんだぜ・・・
「倭」がそもそもルーツ性と領域と「血統」の意味を含む言葉だろw
北方人種には使えない制限を既に持ってる。
あの見栄張り民族を信じるなんて・・・
257 :
日本@名無史さん:2010/09/23(木) 22:34:40
wikiの英語版に本光寺図が載ってるからそっちも見てみてよ
そっちの日本は普通
日本語版には載ってないんだよね
そっちは日本で複写された写本だろ
修正が入ってる可能性が高い
都合の悪い地図は貼らないんだなw
>>260 トンデモ持論を展開する前フリ
スルーしろ
262 :
日本@名無史さん:2010/09/24(金) 11:23:37
混一疆理歴代国都之図が何の役にも立たないことは決着済みだ。
今更、議論するほどのことではない。
263 :
修正!:2010/09/25(土) 13:00:36
〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜玄界灘〜〜┏┓〜┃∵本州∵┏━━━
凵`┌───┐〜┏━━━━□金印━━┛┃〜┗━━━━┛〜瀬戸内海
凵`│末盧国│━┛∵∵∵∵│/////┃〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━
刋ャ└─@─┘∵∵∵∵∵∵│/////┗┓〜┏━┓〜┏━┛∵∵
〜┃∵∵∵\東南∵∵∵∵∵└─┐////┗━┛/┃〜┗━━┓∵
〜周∵∵∵┌───┐東┌──┐│////////┃〜〜〜豊┃∵
〜旋∵∵放│伊都国B→│不弥││//二万////┗┓〜〜後┃∵
〜五∵∵射│一大率│東└──┘│/////////┗┓〜水┃∵
〜干┏┓説│検察★A南┌───┘///≪再掲≫奴国┐┃〜道┃∵∵
〜里┃┃∵└C──┘\│/////////////│┃〜〜┃四国┏┛
〜┃┗┛∵┏D━━━┓┘奴国//┌──女王国境界──┃⇒⇒┗━━┛
┏┛長崎┏┛▼有〜〜┃/////阿高///////│┃〜東渡海千里
┃∵┏┓┗┓■明〜〜┃──F──蘇千┌支惟──烏奴┘┃〜最短距離で
┗━┛┗━┛■海〜〜┃\\\\\]穂└巴利──躬臣┐┃〜〜
〜〜島原湾〜■┏━━┛\狗奴国\★/┌鬼奴──邪馬┘┃〜日向灘
〜〜┏━━┓■┗┓∵∵\\\\\│/└為吾──鬼─┐┃〜波高い
〜〜┃天草┃◆■E■■┌─山山─┘┌呼邑─華奴蘇奴┘┃〜〜
會〜┃∵┏┛■┏┛∵■人////蘇奴───対蘇┐/┏┛〜北の高千穂
稽〜┃∵┃八■┃/∵■吉/高/┌不呼───姐奴┘/┃〜〜通行不可
/〜┗━┛代■┃/∵■★/千/└好古都──弥奴┐/┃〜〜
東〜〜〜〜海■┃/∵■■■穂/┌伊邪───都支┘/┃〜_@東南五百里
冶〜〜┏━━▼┛///│■Ψ/└已百支──斯馬/┏┛〜_A東南百里
の〜〜┃//////┌┘▼/////以北の国┘┏┛〜〜_B東行百里
間〜〜┃/投馬国//│/邪馬台国/七万////┃伊〜〜_C水行二十日
の〜〜┗━┓////┏━━┓///////┏━┛↓奴┐_D水行十日
東〜〜〜〜┃/五万/┃桜島┃★花弁状住居★┃〜〜↓↓北_E陸行一月
〜〜〜〜〜┗┓///┃〜〜┗┓/////┏┛〜〜↓狗↑_F奴国の南
〜やや波高〜┗━━━┛〜〜〜┃//●穀璧┃〜〜〜投→邪 こんな感じで
〜〜〜〜〜〜四干余里↓侏儒国┗━━━━━┛〜島内を半時計周りで書いてる
264 :
日本@名無史さん:2010/09/25(土) 13:57:25
混一疆理歴代国都之図は明代の制作。
この地図は後漢書の范曄の東夷地理観をそのまま書いてみただけ。
范曄は陳寿の記述を正確に読めなかったのでこうなった。
この時代は、日本の織田信長でさえ地球儀を見ていた時代。
こんな珍しい地図だから後世の残った。
なんか必死だな。
地球儀や織田信長なんて引き合いに出して。
明代と言っても、織田信長の時代は一世紀半、
マゼランの世界一周によって地球が球形だと
証明されるのだって、一世紀以上時代が
下ってからの事だぜ。
もし混一図のような地図が常識だったなら、朝鮮は中国と並ぶ大国だ。
歴代の朝鮮王朝が中国にあれだけ卑屈だったはずがない。
朝鮮は小さな半島というのが為政者たちの当然の常識だった。
この地図はおかしな地図として後世に残っただけの話。
なんで狗邪韓國が釜山周辺に比定されてんの?
木浦には前方後円墳もあるし、倭国に縁が深いのはこっちだろ
そもそも木浦沖から親潮に乗れば対馬に着くのに、何故遠回りして釜山に寄らなきゃいけないのか?
269 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 00:59:20
>混一疆理歴代国都之図
まあ15世紀ですら南北逆なんだから、いわんや3世紀なんか…
と言うお話で
「倭人伝の方角の記述にも絶対の信を置けない」
とする傍証にはなるわな普通w
ただし倭人伝中の九州説がすがり付いている「南」の一文字が
それが絶対間違っていると言う事じゃなくて
「南かもしれないし、あるいは間違っているかもしれない」
と言うことで
「必ず間違っていた」と言う断定材料にはなら無いだろうが…
まあ九州説にしたら
「方角だけは間違いない」と言うことをドグマにしないと畿内説を否定できず
そこは譲れない所なんだろうがwww
で、魏使が朝に夕に地平線の太陽を確認し、夜は北極星を確認しつつ
卑弥呼の下に赴いた…なんてストーリーになってしまうとwwww
>まあ15世紀ですら南北逆なんだから、いわんや3世紀なんか…
と言うお話で
普通はそう解釈するよね、九州説の連中は
なんでそれすら否定するのかわからんw
混一疆理歴代国都之図って位置や大きさからして九州しか載ってないんじゃね?
李氏朝鮮で作成された地図だから朝鮮半島が
正確に大きく描かれているのは何の不思議も無いよね。
273 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 06:12:01
李氏朝鮮で作成された地図だし、我が国に来た人が作ったというわけでもない。
中国人の書いた「倭人伝」を疑う理由にはならんよ。
プッ。陳寿も我が国に来たわけじゃないし。
>268
木浦など全羅南道に前方後円墳ができるのは5世紀末から6世紀前半のかぎられた時期。
狗邪韓国は弁韓の狗邪国だろ。また狗邪国は加耶に他ならない。
よく、狗邪韓国が倭人伝に出てくるから倭人の国とか言う人がいるが、わざわざ「韓」国としているのだがw
狗邪国は金官加耶で金海。金海は、弥生後期から古墳前期は、中広銅矛、広形銅矛、弥生系小型倣製鏡、碧玉製品、巴形銅器、筒形銅器、古墳前期倭鏡、古墳前期の土師器系土器など倭との関連が深い。
こう書くと、別の椰子はやっぱり倭だろと言いそうだが、加耶の墓制(木郭墓や土器・鉄器の大量副葬、墳丘は大型化しない)や土器(瓦質土器・陶質土器の存在など)倭と違いすぎるのだが。
倭系遺物はあくまで客体的。
276 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 09:20:46
>>274 あらら、行程記事は陳寿の作文だと思ってるんだ。あきれたねえ。
277 :
らすと:2010/09/26(日) 13:15:05
〜〜〜〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜玄界灘〜〜┏┓〜┃∵本州∵┏━━━
凵`┌───┐〜┏━━━━□金印━━┛┃〜┗━━━━┛〜瀬戸内海
凵`│末盧国│━┛∵∵│///////┃〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━
刋ャ└─@─┘∵∵∵∵└─┐/二万//┗┓〜┏━┓〜┏━┛∵∵
剋∵∵∵\東南∵∵∵∵∵│//////┣━┛/┃〜┗━━┓∵
〜旋∵∵∵┌───┐東∵∵│///再掲/境///┃〜〜〜豊┃∵
〜五∵∵放│伊都国B→→不│///奴国/界///┗┓〜〜後┃∵
〜干∵∵射│一大率│東∵弥│//┏━↑━┛////┗┓〜水┃∵
〜余┏┓説│検察★A南┌─┘//境/烏奴//////┃〜道┃∵∵
〜里┃┃∵└C──┘\│////界/└─支惟─巴利┐┃〜〜┃四国┏┛
〜┃┗┛∵┏D━━━┓┘奴国//┃////////│┃⇒⇒┗━━┛
┏┛長崎┏┛▼有〜〜┃////阿高┌──邪馬─躬臣┘┃〜東渡海千里
┃∵┏┓┗┓■明〜〜┃──F─蘇千└鬼奴───為吾┐┃〜最短距離で
┗━┛┗━┛■海〜〜┃\\\\]穂┌鬼──────┘┃〜〜
〜〜島原湾〜■┏━━┛\狗奴国★┃│////////┃〜日向灘
〜〜┏━━┓■┗┓∵∵\\\\\┃└華奴蘇奴───┐┃〜波高い
〜〜┃天草┃◆■E■■┏━━━━┛/蘇奴───呼邑┘┃〜〜
會〜┃∵┏┛■┏┛∵■人/┌姐奴─対蘇┘/////┏┛〜北の高千穂
稽〜┃∵┃八■┃∵∵■吉/└───不呼──好古都┐┃〜〜通行不可
/〜┗━┛代■┃/∵■★Ψ┌弥奴────────┘┃〜〜
東〜〜〜〜海■┃/∵■■■└──都支───伊邪┐/┃〜_@東南五百里
冶〜〜┏━━▼┛///┃■///斯馬──已百支┘┏┛〜_A東南百里
の〜〜┃///////┃▼///↑//////┏┛〜〜_B東行百里
間〜〜┃/投馬国///┃///邪馬台国/七万/┃伊〜〜_C水行二十日
の〜〜┗━┓////┏┻━┓///////┏━┛↓奴┐_D水行十日
東〜〜〜〜┃/五万/┃桜島┃★花弁状住居★┃〜〜↓↓S_E陸行一月
〜〜〜〜〜┗┓///┃〜〜┗┓/////┏┛〜〜↓狗↑_F奴国の南
〜やや波高〜┗━━━┛〜〜〜┃//●穀璧┃〜〜〜投→邪_およその位置
〜〜〜〜〜〜四干余里↓侏儒国┗━━━━━┛関係を島内を反時計回りで説明
278 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:53:02
■吉野ヶ里か、纒向(奈良)か 邪馬台国“論争企画展”
佐賀新聞 2010年09月26日
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1732452.article.html 邪馬台国はどこにあったのか−。
奈良県の纒向遺跡をめぐる新たな発見が相次ぎ、畿内説が盛り上がりを見せる中、吉野ケ里公園管理センターが10月から2カ月間、「吉野ケ里VS纏向」をテーマにした企画展を行う。
畿内説の根拠とされる九州初上陸の史料と、吉野ケ里遺跡の出土品を約100点ずつ対比しながら展示。両遺跡の発掘に携わった研究者らが主張を闘わせるフォーラムも開き、邪馬台国論争を盛り上げる。
邪馬台国をめぐっては「卑弥呼の宮殿」とされる大規模な建物跡が纏向遺跡で見つかり、同遺跡の箸墓(はしはか)古墳の築造年代が卑弥呼が亡くなった時期に一致するという研究が発表されるなど、畿内説が勢いを得ている。
企画展は10月2日から11月28日まで。纒向遺跡をはじめとする畿内説関係の出土品と、九州説の出土品をそれぞれ100点ずつ展示する。
畿内関係品は、卑弥呼が魏から贈られたたとする「三角縁神獣鏡」をはじめ、高さ130センチで国内最大の銅鐸(どうたく)のレプリカ、纒向遺跡から出土して祭祀(さいし)に用いられたと考えられる「弧文円板(こもんえんばん)」のレプリカなど。
唐子(からこ)・鍵(かぎ)遺跡から出土した中国風の楼閣を描いた絵画土器も展示する。
一方の九州側は、中原遺跡から出土した方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)や鉄剣、吉野ケ里遺跡から出土し、国内最古(1世紀ごろ)の人の頭髪など。卑弥呼が魏(ぎ)から贈られたとされる金印を想像した復元品もある。
フォーラムは10月10日午前10時半から午後4時まで。桜井市埋蔵文化財センター主査で纏向遺跡の発掘調査に当たった橋本輝彦氏や、兵庫県立考古学博物館の石野博信氏ら畿内派の研究者を招く。
九州派からは県社会教育文化財課で吉野ケ里遺跡の発掘に携わってきた七田忠昭氏や、旭学園理事長の高島忠平氏らが、最新の研究成果を踏まえながら論議する。
主催の公園管理センターは「畿内説、九州説のさまざまな学説を取り上げながら、日本史最大の謎とされる邪馬台国論争に一石を投じたい」と話す。問い合わせは同公園、電話0952(55)9333。
(写真2枚)
279 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 15:54:51
※参考 吉野ヶ里歴史公園サイト
http://www.yoshinogari.jp/contents4/detail.php?id=350 ■特別企画展「よみがえる邪馬台国」展
吉野ヶ里歴史公園では10月2日(土)〜11月28日(日)まで特別企画展として「よみがえる邪馬台国」展を開催いたします。
邪馬台国は近畿説か?九州説か?
今、話題の纏向遺跡の出土資料が九州初上陸!
また、纏向遺跡をはじめ、吉野ヶ里遺跡の遺物を約200点を一堂に公開!!
期間中の10月10日(日)には著名な方々によるフォーラムを開催します。
内容は、以下のとおりです。
■会場:吉野ヶ里歴史公園 東口エントランス
■フォーラム内容
【午前】
10:00〜11:30
基調講演「日本の古代と邪馬台国」原秀三朗
【午後】
13:00〜13:30
基調講演「卑弥呼をイメージする」中山千夏
13:45〜16:00
パネルディスカッション 「吉野ヶ里VS纏向 対論!邪馬台国」
■パネリスト
石野博信 七田忠昭 高島忠平 玉城一枝
中山千夏 橋本輝彦 原秀三朗
281 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 20:51:49
>>279 >吉野ヶ里VS纏向
纏向に勝てるわけねえだろw
地域における観光的価値としては、吉野ヶ里の圧勝w
それは奈良には見るものがいっぱいあるから。大仏様やら法隆寺・・・。それしかない、というところとは力の入れ方が違う。ww
こんなくだらないことまで反論せずにはいられない畿内厨www
285 :
日本@名無史さん:2010/09/26(日) 22:17:43
■大和大王墓と造り方が相似 向日の元稲荷古墳
京都新聞 2010年09月22日
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20100922000161 向日市向日町にある3世紀後半の前方後方墳「元稲荷古墳」が、大和の大王墓級古墳と造り方が相似していることが分かった。市埋蔵文化財センターが22日、発表した。
発掘調査の結果、西側のくびれ部から出土した多数の葺(ふき)石や盛土の状況から詳細な造営方法が明らかになった。同センターは「被葬者像や同形の古墳の性格を探る上で重要な成果」としている。
2006年度に調査を始め今回で5回目。
7月から後方部南西側の発掘を進めた。くびれ部で10メートル四方にわたり葺石が多数出土した。斜面のこう配に沿って重厚に積み重ねられており、こうした技法は奈良の中山大塚古墳(天理市)などにみられるという。
また、墳丘内の盛土の状況を調べたところ、最初に高さ約0・6メートルの土手を築き、水平方向に土を盛った後、内部を埋めていく作業を繰り返し構築したと判明。
黒塚古墳(同市)なども同様の技法で造営されたことが確認されている。
さらに、土の断面を調査した結果、墳丘の基底部は旧表土を削った土に灰などを混ぜて硬くするなどの改良が施されていた。地滑りや葺石の崩落を防ぐためと考えられ、畿内にある前期古墳で初の確認例という。
センターの梅本康広主任は「大和の技術者か、地元の技術者が大和で造営法を学び造ったと推察できる。被葬者は、大和の王権に参画しながら政治経済的に自立した地元の有力首長だったのでは」と話す。
現地説明会は25日午前11時から。向日市埋蔵文化財センターTel:075(931)3841。
・多数の葺石などが出土した元稲荷古墳の発掘現場(向日市向日町)
http://www.kyoto-np.co.jp/picture/2010/09/20100922193302.jpg
ももそひめ、もも太郎、モモの種やはりつながりはあるんでしょうね。
ないと思う
桃井かおり、桃屋、もも肉ぐらいのつながりしかないと思う。
289 :
日本@名無史さん:2010/10/02(土) 22:00:38
■邪馬台国は九州?畿内? 吉野ケ里で特別展始まる
佐賀新聞 2010年10月02日
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1737258.article.html 九州か畿内かをめぐる邪馬台国論争に焦点をあて、吉野ケ里遺跡と奈良県の纒向(まきむく)遺跡の出土品を同時に並べた特別企画展が2日、佐賀県神埼市郡の吉野ケ里歴史公園で始まった。
初日から県内外の考古学ファンや観光客が訪れ、双方の精巧な銅鐸や土器などの特徴を見比べながら当時の「クニ」に思いをはせた。
九州初登場となった纒向遺跡を中心に畿内関連と九州関連の約200点を展示。
銅鐸や土器は両遺跡を対比して飾り、形や厚さの違いを示した。纒向の珍しい木製輪鐙(あぶみ)や、日本最大の銅鐸(高さ134センチ、滋賀)も関心を集めた。
東京の男性(65)は「面白い企画。奈良に住んでいた当時は畿内説に傾いていたが、今日の展示説明を見ると吉野ケ里に利がある感じ。遺跡内を歩いてじっくり考えたい」。
岐阜県から長女と一緒に来館した主婦(59)は「この時代の最先端がそろっていてすごい。出土品から見ると九州説、立地のバランスを考えると畿内説かな」と古代史最大のなぞへの興味を深めた。
特別企画展「よみがえる邪馬台国〜倭人伝の証明 吉野ケ里と纒向」は佐賀県教委と吉野ケ里公園管理センターが主催、11月28日まで。
・写真2葉(リンク略)
※参考サイト
吉野ケ里歴史公園
http://www.yoshinogari.jp/
290 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 10:12:38
黒岩重吾の本って何で書店から消えたの?
291 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:42:54
■弥生の鍛冶ほぼ解明 五斗長垣内遺跡で実証実験
神戸新聞 2010/10/02
http://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/0003499281.shtml 淡路市黒谷にある弥生時代後期の竪穴式住居跡「五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡」が、国内最大規模の鉄器製造群落と確認されてから約1年半。
具体的な鉄器の製造工程について、同市教育委員会などがこのほど、燃料となった炭の製造から鉄を溶かして加工するまでの工程を復元実験した。
当時の鍛冶(かじ)が解き明かされつつあり、兵庫県立考古博物館(播磨町)の石野博信館長(76)は「鉄器の製造方法解明は、鉄器の普及ルートを知る手がかりになる」としている。(津名支局・西尾和高)
遺跡は、出土した炉跡から鉄器工房跡と判明した。
鉄器の製造方法については、愛媛大学法文学部の村上恭通教授(東アジア考古学・冶金=やきん=考古学)が「炭を燃やし、革袋で風を送って温度を上げて鉄板を溶かし、石の工具でたたいて鉄器に仕上げていたのではないか」と推論。
具体的には不明な点が多かったため、同市教委は8月中旬、作業工程の復元実験に取り組んだ。
実験では、炭の材質の特定▽炭の温度を上げるため風を送った革袋に取り付けた送風管の材質▽たきぎを燃やしてコメを炊いた跡と鉄器を製造した炉跡の違い‐を検証した。
その結果、クヌギ、コナラなどを焼いて作った炭を燃料にして、鉄を溶かすことができた。革袋で風を送ったところ、炭の温度はわずか約20分で鍛冶が可能になる800度を超え、1100度に達した。
革袋に取り付けた送風管の材料には、ハスの茎(太さ2センチ、長さ60センチ)と竹(同1センチ、同20センチ)を使った。効率よく空気を送り込めたため、材料として使われていた可能性があるという。
実験後の炉の跡は遺跡と同様に赤く色づき、最も温度が高くなる中央部は白っぽくなるなど、普通にたきぎを焼いたときの黒ずんだ跡とは異なっていた。
(つづく)
292 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 21:44:43
(五斗長垣内遺跡 つづき)
また、遺跡で見つかった石づちや台石といった鍛冶の工具と、同じ材質の花こう岩などは遺跡の周囲に分布。工具は遺跡周辺で拾った石で作ったとみられる。
◇
今回の実験で「積み重ねた少量の炭を燃やし、革袋で空気を送り込んで鉄を溶かし、周辺で集めた石でこしらえた工具で加工していた」との作業実態をほぼ解明できた。
見学した石野館長は「鍛冶は簡単にできた。もっと高度な技術で生産していたかもしれないが、おおよそはこんな様子だったと思う」と声を弾ませた。
同市教委の伊藤宏幸さん(50)は「当時、人口密度が比較的高かった淡路島が果たした役割を解明したい」と話す。
石野館長は「淡路島が奈良などとどのように文化交流したのかが分かれば、鉄の普及ルート解明につながるかもしれない」と期待を寄せる。
◆五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡
兵庫県が約4年前、ほ場整備の際に発見した。淡路市教育委員会の調査で、12棟の鉄器製造の工房跡や、矢尻などの鉄製品120点が出土。鉄器生産に特化した約1800年前の「ハイテク工業団地」と断定された。
「倭国(わこく)大乱」によって武器が必要となった時代、その供給源だったのではないか‐との説もある。
・鍛冶の実証実験。皮袋を開閉し、炭に空気を送り込んで鉄くぎを溶かした=淡路市黒谷、五斗長垣内遺跡
tp://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/Images/03499282.jpg
293 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 22:06:04
>>290 売れないからでしょ。
それ以外にどんな理由があるんだ?
294 :
日本@名無史さん:2010/10/03(日) 22:08:28
>>240 これ、写本だろ?
紙の大きさが間に合わなくて、余白に日本書いただけだぞ。
296 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 07:17:21
当時の大陸の地図に行基図(日本のみのもの)を組み合わせて作り上げたもの。
297 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 10:09:49
298 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 14:07:37
邪馬台国の東遷説って、必ずしも黒岩氏のオリジナルではないものね。
299 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 20:03:30
■卑弥呼は東四国出身? 古代忌部氏研究家、香芝で講演 奈良
産経新聞 2010.9.24
http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/100924/nar1009240157002-n1.htm 古代の宮廷祭祀(さいし)を掌握した忌部(いんべ)氏の研究家で徳島県立高校教諭の林博章さん(45)が、大和王権誕生の謎について語る講演会「倭国創生とモモソヒメ」が23日、香芝市の市ふたかみ文化センターであり、
「大和王権や邪馬台国の基礎を築いたのは阿波を主体とする東四国勢力」
との自説を紹介した。
林さんは徳島県の吉野川流域を拠点とした後の忌部氏が、全国に農業や養蚕などを伝えた課程を古文献や民間伝承、神話などから明らかにし、『日本の建国と阿波忌部』などの著作を出版している。
考古学では、同地域の萩原2号墓(2世紀末ごろ、同県鳴門市)が前方後円墳のルーツとして注目されており、「阿波勢力は産業技術を持った海洋民で、王権のシンボルである前方後円墳や竪穴式石室も伝えた」と解説した。
また、卑弥呼が即位した2世紀末には天候不順が続き、農産物の種や高度な農業技術を掌握していた阿波勢力が力を持ったとした上で、
桜井市の箸墓(はしはか)古墳の被葬者とされ、三輪山の大物主神の妻となるヤマトトトビモモソヒメの伝承が、四国東部に集中する事実を示し、「モモソヒメは東四国出身で、卑弥呼と同一人物」と推定した。
※参考サイト
阿波歴史民族研究会
http://www3.tcn.ne.jp/~aska/
300 :
日本@名無史さん:2010/10/04(月) 20:22:13
出たな、やはり次は四国だったな、今んとこ、九州ガチ本命、畿内は私利私欲と面子の為、四国はただ目立ちたい為
301 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 08:19:14
↑グロ注意(糞画像)
邪馬台国は奈良だし
関西以外に歴史はないな屑ばっか関東(笑)九州(笑)
304 :
日本@名無史さん:2010/10/05(火) 22:04:40
↑馬鹿丸出し
305 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 00:13:10
畿内が歴史に登場したのは、ほんの1300年前くらいからだ。
それ以前は、大きな湖だったたわけだし、
海に繋がる緩やかな川がない上、水位の変動も激しかったので、
湖畔も定住には適していなかったのではないかと思われます。
平城京が歴史への登場の最初というなら、
九州はまだ歴史に登場する資格すら無い。
307 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 02:29:02
確かに、弥生時代までの畿内は、多くの人が住んでいた気配はない。
鍵・唐古が言われるが、大した遺跡ではないし、不自然な消滅のしかたをしている。
西の勢力に滅ぼされてしまったと考えるとすっきり理解できる。
308 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 14:35:20
>>307 理解なんてできないね。
というか、鍵・唐古遺跡なんて
あのあたり湿地帯で偶然、残っていただけだから。
309 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 15:09:58
西の勢力に征服され、そこにできたのが東国の産物を九州に送る物流センター
纏向だな。だから、各地の土器が纏向に集まっているし、近畿の土器が九州に
運ばれている。
>>309 西の勢力って、せいぜい葛城あたりからきた程度だよ。
311 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 17:21:56
纏向は物流センターなんかじゃないだろ。墓と祭祀関係の建物があるだけだろ。各地の土器が纏向に集まっているのは
墓作り人夫が持ち込んだものだろ。
九州ー東国の物資の移動は船(海のルート)で行われたと考えた方がよいだろ。
312 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/06(水) 18:37:22
>各地の土器が纏向に集まっているのは墓作り人夫が持ち込んだものだろ。
纒向が、各地に号令をかけると、全国から墓造り人夫が集合したんですか?
だから、箸墓は最初の大王墓と認識される。
九州からは行かなかったようですな
箸墓はモモソの墓だと、日本書紀は言ってるのに、
何故無視するんだろうか。
大王や女王の墓じゃなくて、皇女の墓。
315 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/06(水) 20:23:46
>何故無視するんだろうか。
崇神5年凶作、餓死
同6年 民の逃散
この4年後に箸墓は、造られる。まだ任那以前であるから、鉄器は少ない。
この状態で、あの箸墓は巨大すぎる。
天武天皇元年(六七二)七月壬子 當上道戰于箸陵。
媛の墳墓を陵とは、呼ばない。
316 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/06(水) 20:41:21
この4年後に箸墓は、造られる。まだ任那以前であるから、鉄器は少ない。
ところが、箸中山古墳の直後の古墳には、大量の鉄剣が副葬される。
だから何処かがおかしい。
任那建国は崇神時代である。
もし崇神5,6年が、新羅本紀192,3年であれば、209年新羅、伽耶に援軍。
まだ、崇神時代に設定できる、ここが任那建国となる。
箸墓は、250年±10年 といわれる。
任那建国から40年後であれば、鉄はそれ相応にある。
317 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 20:44:34
>纒向が、各地に号令をかけると、全国から墓造り人夫が集合したんですか?
崇神が派遣した四道将軍達が連れて来た生口を墓作りの作業に使ったんだろう。
唐松山は昭和の金太郎だな。
319 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 20:51:46
>>316 >箸墓は、250年±10年 といわれる。
ふーん。
それが正しいなら、ほぼ卑弥呼の墓じゃねえか
320 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/06(水) 21:13:34
>四道将軍達が連れて来た生口を墓作りの作業に使ったんだろう。
凶作、餓死、逃散 この状態の時に生口を連れてくる。
まず最初に取りかかるのは、食料増産。
>ほぼ卑弥呼の墓じゃねえか
たしかに卑弥呼の時代である。しかし大倭は、女王国のある、伊都に1大率を置く。
崇神は九州までは足をのばしていない。
321 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/10/06(水) 21:28:38
考古学は纒向遺跡をどう表現しているか。
2世紀末各地の土器が集まる。
3世紀前半の巨大建物の後に土を盛り、3世紀中葉の建物が建てられる。
箸墓を頂点とし、衰退に向かう。
これに天皇を重ねると、
2世紀末に崇神、3世紀前半に垂仁、中葉景行 珠城宮の後に土を盛り日代(ひ=乾く、しろ=平らにならす)宮
景行の後は近江へ宮を築くから、衰退に向かう。
322 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 21:33:07
>>311 古代人だって馬鹿じゃない。墓のような無駄なものを造ったり、いいかげんな祭祀を
それだけを目的としてやっていたわけじゃない。
東海地方の産物を九州に送るには、危険な紀州灘を回るよりも伊勢で陸揚げし、纏向
に運んで舟で下ろすのが効率的だったんだよ。物流センターが本当の目的だ。
そして、そこを基地とした軍が兵士らの訓練のために造らせたのが古墳だな。
323 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 21:45:00
>>319 卑弥呼の死亡年に合わせて箸墓の年代を決めてんだよ。
324 :
日本@名無史さん:2010/10/06(水) 22:04:44
>>322 >そこを基地とした軍が兵士らの訓練のために造らせたのが古墳だな。
何の根拠もないたわごとだ。
325 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 08:06:05
>>324 ちょっと考えれば分かることだ。古墳は誰が造ったんだ?兵士のほかに、古墳造営の
要員が集められたのか?
326 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 12:11:45
327 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 13:22:57
では、それと別に兵士を集めるのかね?
328 :
日本@名無史さん:2010/10/07(木) 16:53:41
329 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 23:37:59
奈良盆地は弥生時代の終わりの寒冷期に干上がって、突如として現れたのでしょう。
それまでは湖の底か湿地帯で人の住める場所ではなかった。
それが湖が干上がったことで広大で肥沃な盆地になった。
大阪湾方面からは、生駒山を越えないといけない桃の花の咲き誇る桃源郷のような村だった。
この村を支配するものが天下を取れるという伝説は、そのころ出来上がったのだろう。
そして、その村の女王こそ桃祖姫、つまり卑弥呼だったのだ。
330 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 10:08:04
今の天皇家は九州にあった倭の王朝を
暗殺によって乗っ取った簒奪王朝って認識でFA?
331 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 15:18:25
332 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 18:58:39
1.魏志倭人伝には邪馬【壹】国と書いてあるのに邪馬【台】国と書き換えることで大和(ヤマト)を連想させる(台≠壹=壱)。
2.神功皇后=卑弥呼 と置き換える。
3.倭を大和(ヤマト)と読ませる。
この3つの作業によって、かつて北九州にあり、(中国皇帝の冊封を受けた)列島を代表する王権であった倭国とその前身である邪馬台国の存在を抹消し、神代の時代から大和(ヤマト)王権のみが列島を代表する唯一絶対の王権であったと思わせる記紀の意図を、
解りやすく解説しているこちらのホームページを発見。倭の五王についても書いてある。
http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/prologu0.htm
マルチするなよ基地外
マルチしただけで基地外扱いとは
凄い世の中になったもんだ。
>>330>>332 列島1王権だった倭国・九州王朝を、2の大和河内朝廷が7世紀後半、天智の代で下克上したとすると、
5世紀築造の河内(百舌鳥・古市)の巨大古墳群はどう説明するんだ?
列島1王権の倭国九州王朝が、列島2王権の大和河内朝廷が東日本に勢力を広げていくのを黙って見ていたのきゃ?
ここのスレで、トンデモな書き込みが多いのは
このへんな時代感が希薄なため、
その隙間をついて、日本古代史が大混乱状態になっている。
>>335 北九州出身の紀氏河内王朝(応神・仁徳・雄略〜武烈)が倭国・九州王朝の分家だったとすれば、1と2の上下関係の説明は付く。
本家(倭国九州王朝)が、中国皇帝の冊封を受けて外交を担当する影で、分家(大和)に国内統一事業をやらせたと考えるんだ。
分家がでかくなるのを黙って見てたの?ぷっ。
339 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 11:50:51
白村江の敗戦をきっかけとして、倭国九州王朝が大和中心に変わったということだろう。
分家がでかくなって本家をないがしろにしたわけではない。
340 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:00:34
ケツに尻尾の生えた野蛮な九州人が住んでる所に文明的な王朝など存在しない。
確かに、王家発祥の地を土蜘蛛や熊襲とか言って蔑視しないよね。
342 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:20:17
単純だな。熊襲の地は聖地として描かれている。一方、大和の地は土雲八十建の地と
して描かれている。そのことに気づかないとはな。
素晴らしい土地が有ると教えられて大和を目指したんだが?
344 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:36:21
345 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:44:48
なぜ大和に都が置かれたのか?
それは地図を見れば一目瞭然
大和が勢力圏の中心で、尚且つ瀬戸内海、大和川を通じて交通の便が良く
更に、上町台地などの特殊な地形によって対中国防衛の点でも優れていたから
初期大和政権に参加した各国の王は徐福の子孫で同族であったために
朝鮮半島に勢力を伸ばしてきた中国に対して共通の危機認識を抱いた
346 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:46:26
◆特別展「昭和を駆けた考古学者 原田大六」が開幕
西日本新聞 2010年10月10日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/202662 古代「伊都国」の王墓とみられる平原遺跡を発掘した在野の考古学者・原田大六氏をしのぶ特別展「昭和を駆けた考古学者 原田大六」(福岡県糸島市教委・西日本新聞社主催)が9日、同県糸島市の伊都国歴史博物館で開幕した。11月23日まで。
ベストセラー「邪馬台国論争」などの著書で大学アカデミズムに挑戦状をたたきつけ、激しい気性から「ケンカ大六」の異名をとった原田氏(1917−85)の没後25年を機に、ゆかりの資料を公開する初の企画展。
原田氏が発掘した糸島の支石墓群や沖ノ島(福岡県宗像市)関係の調査記録資料や国宝の大鏡など平原遺跡の出土品など計約300点を展示している。
開幕式に出席した妻イトノさん(85)は「発掘を通し人々の生きざま、魂を追求した姿を理解してもらいたい」と話した。入館料は大人300円、小中高生200円。
※伊都国歴史博物館 講座・イベント情報
http://www.city.itoshima.lg.jp/soshiki/33/hakubutsukan.html
347 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 21:56:42
■九州説、畿内説で激論 邪馬台国めぐりフォーラム
佐賀新聞 2010年10月10日
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1742487.article.html 古代史最大の謎とされる邪馬台国のありかを探るフォーラムが10日、佐賀県神埼市郡の吉野ケ里歴史公園であった。
畿内説を補強する新たな発見が相次ぐ奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘担当者を招き、九州説と畿内説の研究者が、当時のクニの形や国際性などをめぐり、講演やパネル討議で議論を闘わせた。
最後にコーディネーターが九州と畿内のどちらの立場を取るかを会場の約350人に問いかけると、九州説に大きな拍手が寄せられた。
纒向遺跡からは「卑弥呼の宮殿」とされる大規模な建物跡や、祭祀(さいし)用とみられる2千個以上のモモの種や竹製のかごが見つかったばかり。
パネル討議で、発掘している桜井市立埋蔵文化財センターの橋本輝彦係長が
「発掘エリアはまだ一部に過ぎないが、魏志倭人伝に描かれている楼館や城柵があるという姿に徐々に近づいている」
と現状を報告した。
対する九州説の佐賀県社会教育・文化財課の七田忠昭参事は
「吉野ケ里は祭祀性が高い北内郭と、身分の高い人たちが住む南内郭の二つの構造を持つ。倭人伝に描かれた姿を最も見せてくれている」
と強調した。
静岡大の原秀三郎名誉教授は、古事記や日本書紀の記述を踏まえた上で
「当時は邪馬台国があった九州と、大和王権の近畿と、二つの“ヤマト”があった」
と持論を展開し、
「邪馬台国は有明海周辺で、福岡県旧山門郡(現・みやま市)」
とした。
パネル討議には、畿内説を取る兵庫県立考古学博物館の石野博信館長や、九州説の奈良芸術短期大の玉城一枝講師、作家の中山千夏さんらも登壇した。
佐賀女子短大の高島忠平理事長がコーディネーターを務め、当時のクニの成立状況や、交易の豊かさ、卑弥呼の墓など五つの観点から議論した。
写真
http://www.saga-s.co.jp/var/rev1/0124/4676/SP2010101099000023.-.-.CI0002.jpg
348 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/10(日) 22:28:02
吉野ヶ里は初夏の気候で、よく晴れていた。その写真にはそれがしは写って
いないな。冒頭から原さんが強烈に自説を展開。それがしの年代主張と
かなり合っていた。要するに 崇神没年の戊寅が258年だと強調するわけで、
これはほぼ真だということだ。これが一応正解だな。
午後4時丁度、中山さんが時間が来たので、席を外したあとは、そろそろ
終焉になった。とにかく良かったな。
>>348 古神道の金木の使い方を教えてください。
350 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/10(日) 22:39:56
>>349 天津神算木(天津金木)は三輪山の三輪(半径r=3の円)の球化の
数式で、その体積と表面積は同じ値であり
4πr**3/3=113.09733552923・・・
天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
3≠113.097335
両辺をまたいで
B.C.3113年 マヤ文明元年
また明日。zzzzzzzz・・・・・
351 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 23:07:49
>>345 妄想を語る前に、倭人伝とまったく合わないことをどう説明するかだな。
352 :
日本@名無史さん:2010/10/10(日) 23:11:29
>>350 犬国
>その体積と表面積は同じ値であり
そこ、デタラメ言わないように。
球体の体積:V=(4/3)πr^3
球体の表面積:S=4πr^2
そもそも”次元”が違う(二乗と三乗)のにその二つが常に等価なんて事はありえない。
数学じゃなくて算数で落ちこぼれた俺でも分かる話だ。
「コシントウ」とやらが聞いて呆れるwwwww
恐らくコイツのは既にオカルトですらない。
出雲(izumo)と飯縄(izuna )権現って関係があったりするのかな?
無いだろうな・・・
あったら面白い仮説が組み立てられそうだけど、、、
太国は大石凝真須美系の古神道だろう。太国というコテ名が、「太玉 大観」を意識した
ものであることは明らか。また太国のこだわる天津金木とは崇神帝の三つの「神鍵」のう
ちの一つで、大いなる秘密がある。大石凝が、この三つの「神鍵」をもって、「天の岩戸開
き」神事を行ったことは、古神道界では有名な事実。ただし、太国がそれほどの術者とは
思われない。そのレスを読む限り、心の清い者ではないからだ。
355 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/11(月) 09:24:13
>>352 ジョーカー
それじゃぁ、半径r=3 の球の体積と表面積のオマエの計算値を出して
書きこめ。><
>そもそも”次元”が違う(二乗と三乗)のにその二つが常に等価なんて
>事はありえない
フ〜ン、どこでそんな数学の証明が出来てるのか? オマエが証明でき
るのか? 証明出来なければオマエのいい加減なデタラメ論だ。デタラメ論
は唐松山だけでけっこうだぜ。><
(4/3)πr^3=4πr^2
の方程式が解ければいいんじゃまいか。
これを解いて、r=3, 0が正解。0は捨てて、3だな。
357 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/11(月) 09:49:45
昨日吉野ヶ里で、原さんはうるさく崇神没年戊寅 258年説 を解説
していたが、その説明は詳細に渡り説得力は相当のものだった。
途中、それがしは暑さで疲れていて居眠りをやってしまったのでその
全部を聞くことは出来なかったが、くれたパンフレットは極めて詳細
に渡りながらその要点が非常にコンパクトに纏められており、当時の
古代史を研究する上で、即興で役に立つえらくいい内容の物だった。
天津金木は真の年代を知る上での古代の賢人からの未来へ恒久的に
届けられたメッセージたる数式の算木であり、
>>350に書きこんで
ある。記の三輪山の話は、これを遠回しに示唆したものであろう。
分断の天津金木(天津神算木)は
3≠113.097335
からの右辺数値は3分され、113 097 335 の三数列となる。ここで
113←崇神即位の月日数 1/13
097←崇神即位の見かけの年代 B.C.97年(先頭0は西暦0年 除く)
335←崇神即位の真の年代教示の誘引数 335年
1/13 B.C.97年 崇神天皇 即位 年数と誘引数の差にて実年代へ。
-97+335=238年 だが、西暦0年を無とする為マイナス1年となる。
238−1=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年
以上
359 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/11(月) 10:15:32
>>350 >>357 続き
原先生主張の崇神崩御 258年説 がほぼ真なのである。257年が崇神即位元年
ということと、三輪山の山名と分断の天津神算木の左辺の3とが3倍年暦を
示唆していることから、3倍年暦で編年してみると
皇紀 西暦 倍暦
564 -97 237 崇神天皇 即位 景初元年
565 -96
566 -95
567 -94 238 景初2年
568 -93
569 -92 倭笠縫に日神と、その象徴1次鏡を祭祀 殿内に2次鏡
570 -91 239 景初3年←畿内多数出土の△鏡(3次鏡)
571 -90
・・・・・・
626 -35
627 -34 258
628 -33
629 -32
630 -31 259
631 -30 崇神天皇 崩御:258年説と1年違い
632 -29 260 垂仁天皇 即位
以上
360 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 12:42:50
>>355 犬国
r=3の時の値?
r=3の時 S≒113.09733552923255658465516179806
V≒113.09733552923255658465516179806
そりゃ0(原点と)3で、その2次曲線と3次曲線が交わるって話だが?
((4/3)πr^3=4πr^2で両辺を4πr^2で割ったらr=3なんて直ぐに出てくる)
2次曲戦と3次曲線が ” 常に ”ピッタリ一致しないなんて証明以前の問題。
じゃあ試しにパラメータrに適当に実数を入れてみろ
(なんか小学生相手にしている気分だw)
r=1の時 S≒ 4.1887902047863909846168578443727
V≒12.566370614359172953850573533118
r=5の時 S≒523.59877559829887307710723054658
V≒314.15926535897932384626433832795
(4/3)πr^3=4πr^2 が成り立つr=3に三輪の「3」を引っ掛けた、ただそれだけの話。
それに何の意味があるんだ?
それになんでマヤの暦に西暦が出てくるんだ?
(その西暦とて本来はキリストの誕生した年が基準のはずだが実際は4年ほどずれていると言われている)
そんな小学生も騙せないような与太、良く平気で書き込めるな。
邪馬台国おろか歴史にすら関係ない。
自宅でチラシの裏にでも書きこんどけや キ○ガイ
361 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/11(月) 13:53:53
ジョーカー
オマエの主張の計算間違いは自明だな。ppp
r=3のときは体積と表面積が同じ値になるのだ。それを反論し、証明され
てないことを頑張ってこうだああだ言っても、オマエの脳内の即興の数学に
対するデタラメ思想のドジが露呈したということなのだ。ウワッハッハ!bb
あとは繕うだけが、オマエの書きこみだな。wwwww
恥ずかしくないのか〜?www お体裁とりをしたって、
みんなが見てるんだぜ。wwwww
362 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 14:40:05
>>361 犬国
ああ
「r=3の時限定なら、数値は一致する」
それなら俺が間違っていた…これでいいかな?
で、球体の体積と表面積の値が同じになるr=3だけを取り上げて
それに殊更意味を持たせる事に何の意味があるんだ?
キチガイレベルの与太に良くある構図だなw
そもそも数字が同じになったとて次元の異なる立体と平面を同列に扱う事自体が無意味。
「113立方メートルと113平方メートルが同じです」
と言ってやればその馬鹿馬鹿しさが分るか?
ちなみに半径rじゃなくて直径dなら「6」こそがマジックナンバーになるわけだw
何故小数点以下6桁までとするのか?
何故3桁づつ区切るのか?
何故犬国の脳内の「古代賢人」が本来のキリストの生誕からズレているらしい西暦を予知しえたのか?
何故マヤの暦を(選択して)予知したのか?
所詮全てが後付のごり押し妄想電波。
いくらなんでもこんな電波リアルキ○ガイまで学問としての歴史の範囲に入るわけが無いw
家でチラシの裏に書いて満足するか愛読書の「ムー」に投稿でもしていろボケ。
363 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/11(月) 15:25:14
オマエのインチキ主張定理より、よっぽど信頼出来るww。
崇神即位元年となるB.C.97年はその真の実年代が237年だったということ
を、三輪山(r=3の円)の名で古代の賢人が未来に金甌無欠に示唆し
たもので、その球化の数式たる天津神算木なのだ。
r=3と、三分は3倍年暦をも示唆したものだな。
そこから崇神没年は原秀三郎さんの主張通り、記の崇神没年がほぼ258年で
あったことが天津神算木と3倍年暦計算(→
>>357 >>359)から確実に
伺える。
364 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/11(月) 16:12:58
10日の吉野ヶ里は夏に逆戻りしたような天気だった。蒸し暑いので着て
いたセーターを脱ぎ、会場で中身の濃い史料を5,6点頂いたが、なかなか
内容は良く、てっとり早く要点を読めるので今後も役に立つと思う。
10時からと聞いていたが10時40分からということで、まだ喰っていない朝食
を食堂で食べ会場に戻ると、すでに原先生の熱弁が伝わって来た。内容は
とたんに崇神没年の詳細の説明であり、258年説が正解であることをだいぶ
時間を使って説明していた。時間も制限を過ぎたのか正午も20分も越え
たようで、昼休みとなった。無料のお菓子付きだから、お客は結構喜んだと
思う? 古代村は有料だったが、有難いことだ。
それから公園内の施設、古代人の村落を見学し、吉永小百合が神懸りの撮影
となったらしい建物を見に行った。なかなかよかったな。あとは屋外劇場
施設の所で若者達による太鼓の催しを遠望し、そこではお子さん連れが多数
いて、露天売店で昼食を食べた。かなり暑苦しく30分〜40分居座り会場へ
戻ったが、すでに午後の部が開始されており、場内にすべりこんだ。
討論会の結果地の利もあろうところ九州説支持客が畿内論支持客をかなり
上回った。千夏さんのお帰りの後はもう話は長くなく、終焉となった。
もらった史料は今後も喜んで活用させていただく。係員に尋ねたら、来年も
今頃か、またも会をやるらしい。福岡空港離陸で、機上からの福岡の夜の
ライトの煌きは晴天の星空の如くキラキラと美しく、来年も行こうかと
それがしは想った。
パチパチパチ!
い〜話だナ
366 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 18:24:16
>>356 (4/3)πr^3の単位は立方メートル、4πr^2の単位は平方メートル。
単位が異なる数値だから、そもそも
(4/3)πr^3=4πr^2
という方程式が成り立たないんだ。
ゆうなれば、「メートル=グラム」という方程式を作ったようなもの。
二次元の美少女キャラと三次元の女性を同列に比べるようなもの。
それをあえてやるところに、いわゆる古神道なるものの特性があるんだろう。
それは数学をはじめとする自然科学とは全く別のものだから、
自然科学の理論で否定しても馬耳東風だろうね。
それこそ、自然科学と古神道を同列に比べるのは、
二次元と三次元を比べるようなものだろ。
なるへそ、その通りだが、
この数学的に、方程式を満たすr値が存在するのは事実。
3次元の情報はすべて2次元で記録できるからねえ。ホログラム宇宙論というのもあるし。
369 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 18:55:38
胡散臭さ爆発の「古神道」w
「神道」と言う語をあらためてWikiで当たってみたが
中国の「神道」についての説明で面白いものがあったw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93 >中国では、信仰は「鬼道」、「神道」、「真道」、「聖道」の4段階に進化すると考えられ、
>仏教は一番進んだ「聖道」にたっしていると信じられていた。
>一番下の段階が「鬼道」で、『魏志倭人伝』の中にもこの語が出てくる。
>次の段階が「神道」」(「神(あや)しき道」)である。
>すなわち、『易経』や『晋書』の中にみえる「神道」(「神(あや)しき道」)という語は、鬼道よりは進んでいるが、まだまだ劣っているという蔑称である。
>>367 方程式というけれど、
r=3
の両辺に 4πr^2 を掛けただけの話。
それを、世に「方程式」という。
373 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/11(月) 21:46:08
日本の古代人は真の年代が隠没するのをおそれ、朝廷で長く議論を重ね
絶対隠没されない工夫をこらしていたんだろう。未来にいい加減なデタラメ
の妄想論の蔓延するのに危機感を抱き、その長考の結果、年代を数式に入れ
こむことを最善手を定め、三輪(半径r=3の円)に即位の年月日とかを
入れこんだとか、そのへんのことなのであろう。
唐松山のような極度に紀と違う正気の沙汰でない4重在位論だとか狂気の
崇神が2重譲位を受けたとかのインチキからの編年をイカサマだと為し、
天津金木(数式)に真の年代をはめこんでいたのだという事だ。数式、公式
では未来永劫だれが転覆をも企てても出来ない相談だから、これこそ真の
年代を保護する最良の策だったということだ。ジョーカーが文句をたらふく
言って撹乱を狙っても、数式、公式では万年経とうが不変だからな。つまり
これこそ金甌無欠揺るぎなき、金剛不壊の策だったのだ。
崇神即位年=237年 が真の年代だ。
374 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 21:59:12
ひさびさに来たけど、九州説が綺麗に消えててワラタ。
みんな、やっと現実の道を歩きはじめたんだなあ。
375 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 22:17:01
>>373 与太国
人はそれを与太と言う。
リアルでそんな事を言ったらマジでキチガイ扱いされるだけ。
もし今度吉野ヶ里かどこかで一般参加者の発言機会があったら
そのトンデモを発表して、周りの人間がどう言う反応するか見てみればよい。
376 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/11(月) 22:29:00
トンデモにはならんでしょう。原さんの論を裏づけている。いくらケチを
つけても、千年万年経っても真の年代が完全に確保される。w
菅政友、橋本増吉、那珂博士と原先生の主張がほぼ正解だったということを
意味するのだ。
377 :
日本@名無史さん:2010/10/11(月) 23:38:04
> 与太国
お前に真実を教えてやろうwwww
御間城入彦五十瓊殖…この名の中に数字が隠されている!
御間=三巻き=3
五十瓊殖=50
合計53
これを文字通り「三巻き」で3倍する
53×3=159
更に崇神が祀った天照大神と倭大国魂の二神にそれぞれこの数字を捧げる=2倍にする。
159×2=318
そう、崇神の没年は318年が正しかったのだ!
378 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 00:58:59
我が国では西暦が使われていたのか。
379 :
サガミハラハラ:2010/10/12(火) 07:38:46
>>377をみるかぎりでは、そうとしか考えられない。
>>377さん、ほかの霊もあげてみてください。数例あげれればかなり信ぴょう性が高くなります。
380 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 10:27:26
佐賀伊都国説でよくでてくる惣座遺跡なんだが
具体的にどこか分かるひといます?
佐賀大和インターのちょい北が惣座の交差点と
惣座橋なんだが、具体的にどこかよく分からん。
肥前国庁跡のことか、別の発掘場所があるのか。
あの辺至る所に遺跡があってよく分からん。
春日の集落(春日小付近西)には国分寺跡があって
尼寺という地名すら残っている。
前方後円墳も小さいのまで入れると5〜6個あるし。
381 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/12(火) 10:44:25
>>377 ジョーカー
それじゃぁ、それで編年してみるんだな。まだそのウラ取りの説明がまるで
無い。こちらは編年表をちゃんと出して説明をしてるんだよ。
オマエの318年説で、いかように景初3年鏡が畿内から多出するのかを説明
してみろ。こんなに500枚以上も出てるには、それなりの重要な出来事が
あったということだな。それにこれは大陸から全然出ないから、景初の号
があっても日本で出来たことは間違い無い。つまり卑弥呼の鏡ではないと
いうことだ。318年では△鏡のうんと出る事由があるまい?
それとオマエは倍暦否定論者なのか? 編年が出来てその合理的説明が無け
れば、いくら318年を豪語しても竜頭蛇尾の不成立論だ。318年で崇神元年は
いつに編年するんかい? しかと具体的に表を出して、説明しろよ。
382 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 12:45:21
ちなみに西暦が使われるのは532年からw
384 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/12(火) 14:06:10
>>377 >御間=三巻き=3
>五十瓊殖=50
これは等号にはならない。つまりオマエ式ではm**3とm**2が水と油の如く
言ってたように右辺は数字であり、左辺は崇神名の分割で等号にならない。
なお年号で使う場合は煩雑になるので、便宜上略記するのは構わない。
天津神算木は(r=3)
4πr**3/3=113.09733552923・・・ −−−−−−−@
分断して
3≠113.097335ーーーーーーーーーーーーーーーーーーA
別の分断(右辺一桁分多い)で
3≠113.0973355ーーーーーーーーーーーーーーーーーーB
AはBの5→0としたときのことであり、結局
3≠113.0973350−−−−−−−−−−−−−−−−−−A’
つまりAとA’は同じであるが、Bから5→0としたまでのこと。
先述では見かけの崇神即位B.C.097を、0が邪魔での西暦0年を除去したが、
ここでは三分数列の末を右移動し 113 097 3 350 と為し、間の3がオマエ
の等号の3だ。西暦0年を考えずに末桁35は350とみなすから、最初と最後の
数列からの差(最初のは月日数でなく年数と考える)
350−113=237年=崇神即位元年=景初元年
385 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/12(火) 14:32:53
>>377 ジョーカー
>御間=三巻き=3
>五十殖瓊=50
オマエのその等号は、
>>384 A’右辺末尾の 350 だ。
↓
350−113=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年
以上
ウワッハッハ!wwwww
太国の高笑いが今日もむなしく響く邪馬台国スレ・・・
>>384 @からAにいく「分断して」という意味がわからんのじゃ。
もちろん、次の「別の分断で」も「右辺が一桁分多い」もわからんのじゃが。
さらにAの式。3が113.0973355ではないことは不等号≠で示さなければならんようなことかのう。
388 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/12(火) 18:09:26
>>387 >分断して
これは大祓祝詞にある
天津金木を本打ち切り末打ち断ちて
のことをいう。右辺(木)は無限小数になり、超細密桁は不使用とするから
分断するわけだが、左辺(金)も数値はあるも数式だからそのままでは
扱いにくいとかのことだろう。料理も食えない箇所は包丁で切って除去
するようにだな。
>一桁分多い
分断方法はうんとあるらしく、
>>384の分断の@は左右桁全部で10桁という
ことから、この分断が基本的だということだな。一桁分多くなると右辺だけ
がやはり全十桁のため、二次的基本の分断だということだ。5→0が末桁
350へと導き、ここの5→0と末二桁50が五十、すなわち崇神が五十殖瓊尊と
称される意味合いなのだろう。
ここから 崇神即位元年=237年 すなわち景初元年を得る。
389 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 18:14:10
>>381 与太国 ◆yVAs7uaYlY
おおっ、思った以上に効果があったみたいだな。
やってみるもんだwwwwwwww
まあ「編年」だの「ウラ取り」だの一人前の大口叩く前に自分の説の根拠をきちんと出しとけって話だなw
そんな自分の脳内の「古代賢人」の”予知能力・千里眼(西暦やマヤ暦の登場)”と言った
チ ョ ー ノ ー リ ョ ク を前提としたお話で「説」としての体裁を保っているとでも思っているのか?キチ○イw
大体そもそも何で球体なんだ?体積なんだ?表面積なんだ?半径なんだ?etc…
後世の人間に送った暗号としても記紀の何処をどう読んだらそんな着想を得る事ができるんだ?
江戸時代に和算が発達したと言うような事は良く聞く話だが
3世紀に球体の体積・面積を求めることができたと言う根拠はなんだ?それが見える最古の文献は?
少なくとも
>>377は「御間城」「五十」「天照大神・倭大国魂の二神」と言う記紀の中に出てくる文言数字でやって見せているし
二乗も三乗もあるいπも使っていないぞw
(まあπ程度なら「3」と言う実測・経験則からでも導き出せる実数に置き換えることができるだろうが
そうすると「V=(4/3)πr^3」「S=4πr^2」で得られる数字が三倍されてしまうし
小数点以下6桁の数字を取っているんだから、それ以上の精度が必要)
所詮
>>377はネタだが数字を弄るのが得意な奴ならもっとそれっぽいものを編み出せるだろうよwwwww
www 結 論 www
自称古神道の大家、与太国の言う天津金木(天津神算木)は与太国の妄想100%でできていますwwwww
390 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 18:14:59
>>384 与太国 ◆yVAs7uaYlY
>右辺は数字であり、左辺は崇神名の分割で等号にならない。
じゃあ
>三輪山の三輪(半径r=3の円)
…なんてのも導き出せる道理も無いということだな
馬鹿の体をはった自爆芸、ご苦労さんwwwwwww
391 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/12(火) 18:31:13
天津神算木(天津金木)にケチをつけようと、千年先でも万年先でも
4πr**3/3=113.09733552923・・・
は普遍であり、オマエが死んでもこれは残る。そしてオマエのインチキ妖魔
の編年と唐松山のイカサマ編年を蔓延させても、上式とその数値は金剛不壊
だということだ。オマエが318年、唐松山が215年だとぬかしても、この数式
はオマエ達の盲象脳みそが堅牢でも、これを消すことは絶対出来ない。ww
孫悟空が金兜山麓で、三蔵らを大地に円を書いて妖魔から守ろうとした物語
も、これと同様のことだな。三蔵の3が三輪の半径3の円を示唆してるか
のようだ。ww
天津金木は真の年代を完全に保護させようとした古代の賢人の所作だという
ことだ。オマエの論こそ与太話なんだよ。ww
さ〜て夕飯でも食うか〜。
太国よ、こんなところで、いやしい、下郎を、相手に、何を、している。
天津金木は、大宇宙の、根本度量衡器であり、伊勢の大神宮の、真の御柱の、
霊体で、ある。これを、古事記に、のっとり、霊置、霊配、することに、よって、神官みずからが、
造化三神と、同一となり、数々の、神秘を、産み、産ましめる、もので、ある。
この、私は、誓火の、失敗のために、片腕を、失うことと、なったが、それよりも、ひどい、
醜態では、ないか。
393 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 19:28:03
おっと与太話で流してしまうところだったなw
>>380 「惣座遺跡」ねえ、確かに伊都国=佐賀大和説の希望の星だなwww
でも今は埋め戻されてるんだっけ?
惣座遺跡
http://www.isekiwalker.com/iseki/257798/ 上記にでている 立石泰久「惣座遺跡」『大和町文化財調査報告書』3 とかを地域の図書館で当たってみては?
大体、郷土史の類は一般の歴史書のコーナーとは別の場合が多いと思う。
最近じゃあネット上でも蔵書を確認できる場合が多いし
まあ何かこれはと言うネタが見つかったら教えてくださいwwwwwwww
394 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 20:36:10
ありがとう、ふむ、佐賀県立図書館でも行ってみるかな。
前原伊都国は実家で、佐賀大和は現住所なんで、
個人的にはどっちが伊都国でもかまわないが
両方とも腐るほど遺跡が出るから、
まあ、それなりに栄えた集落があったのは間違いない。
そういえば、前原伊都国の高祖山沿いでは
結構石垣があるんだが、立派な石垣の石をよく観察してみると
文字みたいなものがある石がある。
墓石が後世に石垣として再利用されたのではないかとにらんでいるが
残念ながら、読めるほど明瞭ではなかった。
まあ、子供が適当に削った可能性も否定できないが。
395 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 20:46:00
ついでに書いておくと
大和町の地名は、五本林とか六本松とか三本杉
という字(あざな)が異様に多くて、よそ者泣かせだ。
地元の爺さん婆さんなら分かるようだが
今どきの地図にすら、ごく一部しか書いてない。
他に目印はないのかと突っ込みたくなる。
396 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 21:18:38
397 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 21:42:53
398 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/12(火) 21:54:26
>>392 こちらも失敗をやってるよ。おかげで黄泉の国の美神の怒りか、温泉で
大火傷を負ったことがある。若干ケロイドが今でもあるんだ。本当に神の
怒りは恐ろしいぞ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
10日の吉野ヶ里での討論会はいい思い出となった。それがしの横の娘さん
は史料の参照箇所を素早く見つけるので、相当勉強してるなと思ったし、
左前に座っていたお兄さんは綺麗に研究ノートのようなものを書きこんで
いたので、古代史研究に没頭してる方だと感じた。原さんは発言多く一番
印象に残ったが、高島さんはそれがしの聞いているときはあんまり発言が
少なかったように思う。途中からなので、もっとしゃべっておられたん
だろうが、もう少し早く会場にいればよかったのに、惜しいことをした。
美人短大講師の玉城さんはてきぱきと発言していたが、どんなことを解説
していたか、忘れが早いので記憶に残っていない。でも好印象だったな。
千夏さんの発言はそれがしのいるときは少なかったので、どういう古代史観
なのかは把握出来なかった。いずれにしろ畿内説の方は、話し方が地味で
消極的な感が否めなかった。吉野ヶ里が九州だからなのか・・・?
帰りの吉野ヶ里公園で乗車した電車はドス黒く外面が汚れており、あんなに
掃除してない電車に乗ったのは生まれて始めての経験だ。あっちの駅関係者
はいい加減なのか? もう少し清掃をしなければアカン。折角の旅の気分
がこれで壊れる。>< 福岡空港では出発予定時間が若干遅れていささか
心配したが、機上での気分は電車のあれと違い、最高だったな。大阪空港で
油漏れがあった航空機の問題で、遅延したらしいが?
399 :
日本@名無史さん:2010/10/12(火) 22:11:10
400 :
てすと:2010/10/13(水) 13:03:03
↓ 奴国へ ┏━━━┓ rgF1u40BS2 5.0
3000壱┓────┐┏┛#20000┃
┗岐 ↓┛ ┗┓ ┏━┓
南九州へ↓┏┓┏┓□金印┐ ┗┓ ┏┛ ┃
┏━末盧┗┫┗┛ ↓ ┏境界┻━┛ ┃ 北の20か国
┏━┛4000@\┗━━━┓奴←╂烏奴─支惟┐┏┛ 国順のみ
┗┓ \ B1000 ┃ ┌─┐巴利┃ 戸数道里省略
┃ 放射説 伊─不弥 ┃邪馬┐躬臣┘┗━━┓
┗━━┓ 1000都\★┛ ┃┏┓鬼奴───為吾┃
┏┓┃ ┏▼┫A ┏F┻┛┃┌鬼───┘ ┗┓
┃┃┃長┏┛■┣━━┛ 阿┃華奴 ┃⇒
┃┗┛崎┗┓■┗┓ 蘇×蘇奴 ┏┛東
┗┓┏━┓┃■D┃ 狗奴 ★┃└──┐ ┏┛復渡
┃┃┏┛C■ ┣━┳━━━┛蘇奴─呼邑┏┛ 国海
┗┛┗━┛■┏┛ ┃姐奴─対蘇┘ ★┃ 有千
@東南500里´┏┓◆E■■■ └─────不呼┃ 里
A東南100里´┃┃■ ┃ ■ 弥奴─好古都┘┏┛
B東行100里´┃┃■┏┛★■┓│ ┏┛
C水行20日 ┗┛■┃ 人■┃└─都支┐ ┃ 伊都国:南九州が半島
D水行10日 ┏━■┛ 吉■┗┓ ┌伊邪┃ との往来の際に利用
E陸行1月 ´┗┓▼ ■ ┃ ★│ ★┃ する小国。一大率
F奴国の南 ┃投馬 ■■■ 已百支 ┃ が奴国をけん制。
伊 ┃ #50000 ■ ↑ ┃
↓奴┐ 島内 ┗┓ ┏━┳■ 斯馬┃ 奴国:斜陽。多勢
↓↓S 左回 ┃ 桜島┛▼#70000 ┏┛ に無勢。狗奴と女王
↓狗↑ 外→内 ┃ ┏┛┃邪馬台●穀璧┃ の対立には表面上
投→邪 ┏━┛ ┃ ┃ ┏━┓┃ は不干渉の立場。
┗┓ ┗┓┗┓ ★┗┓┗┛ 別航路を使用。
★花弁状住居 ┗━━┓┃ ┃ ┏┛
屋室有父母兄弟寝所異┗┛┏┛ ┏┛
┃┏━┛
会稽/(建安郡)東冶間の東┗┛
401 :
日本@名無史さん:2010/10/13(水) 20:07:04
402 :
日本@名無史さん:2010/10/14(木) 00:13:45
>>396 「粘土槨」か…
「粘土槨」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは例の景初三年銘の鏡を出している
森浩一先生でお馴染みwwwwwww黄金塚かな?
あれも年代の推定でその上限としてネック(?)になるのは「粘土槨」じゃなかったっけ?
403 :
素朴な疑問・小ネタお蔵だしwww:2010/10/14(木) 00:35:46
今更だが昔から良く分からないのが
そもそも陳寿の「三国志」ってのは当時どのような形態だったんだ?
紙の所謂「巻子本」って事でいいのかな?
紙自体は後漢時代に発明されていたらしいが
三国時代あたりでどれくらい普及していたのか?
魏使が邪馬台国までの道中、あるいは帰国してから
見聞した様々を徒然なるがままに書き綴ることができるほど普及していたのか?
少し前に発見された魏の曹操が書いた孫子の解説本は竹簡だった
>>404 もし魏晋時の記録が木簡竹簡がメインなら
そんな遣使の旅行記レベルのものまで一々記録して残していたら
物理的に量がトンデモ無いことになりそうな気がするw
まあ
>>403の疑問は記録媒体についての考察って殆ど聞かないんで言った見たんだがwwww
紙の歴史[by wiki]
世界最古の紙は現在、1996年に中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものだとされている[4]。
この紙は、前漢時代の地図が書かれており、紀元前150年頃のものだと推定される。次いで古いのは、
紀元前140年〜87年頃のものとされる灞橋麻紙(はきょうまし)である。
灞橋麻紙は陝西省西安市灞橋鎮で出土した。
史書に残された記録では『後漢書』で、105年に蔡倫が樹皮やアサのぼろから紙を作り和帝に献上したという内容の記述がある。
こうした記述から、紙の発明者は蔡倫だとされたこともあったが、現在では蔡倫は紙の改良者であるといわれることが多い。
しかし、この「蔡侯紙」は軽くかさばらないため、記録用媒体として、従来の木簡や竹簡、絹布に代わって普及した。
西晋の時代(3世紀)には、左思の『三都賦』を写すために紙の価格が高騰したという記録が『晋書』に記載されており、
「洛陽の紙価を高からしむ」という故事成語になっている。
紙はその後も改良され、唐時代(8世紀)には樹皮を主原料とした紙や、竹や藁を原料として混ぜた紙が作られるようになった。
宋や明の時代(10世紀以降)には、出版が盛んとなったため大量の紙が必要となり、竹紙が盛んに作られた。
明末の1637年に刊行された『天工開物』には、製紙の項目で、竹紙と樹皮を原料とした紙の製法を取り上げている。
紙は、上流階級を中心に広く使われたが、安価なものではなかった。
11世紀の詩人であった蘇舜欽は、自分が勤めていた役所で出た反古紙(書き損じの使い物にならない紙)を売って、
その代金で宴会を開いたために横領で糾弾されている。
反古紙であっても高値で取引されていた様子がうかがえる。
清の第5代皇帝は質素・倹約を掲げていたので、重要なもの(公式の文書など)でない限り、紙は裏返して使うように勧めていた。
また、紙の製法は、中国から地理的に近かった日本、朝鮮、ベトナムなどには早い時期に伝播した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99#.E7.B4.99.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2
407 :
日本@名無史さん:2010/10/14(木) 01:31:03
三国志が何に書かれていたかは知るべくもないですが、
紙については洛陽の紙価を高めるという故事成語があります。
司空張華見而歎曰、班張之流也。使讀之者、盡而有餘、久而更新。於是豪貴之家、競相傳寫、洛陽爲之紙貴。
司空張華見て歎じて曰く、班長の流なり。これを読む者をして尽くして余りあり、久しくして更に新たならしむと。
ここにおいて豪貴の家、競いて相い伝写し、洛陽 これがために紙貴し。
三都賦が流行して、これを伝写するためにお金持ちたちが紙をたくさん買ったので値段が上がったという話です。
お金持ちなら賦を写すのに使えたくらい普及はしていたけれど、
一篇の賦が流行ったくらいで値が上がる程度の流通量だったということでしょう。
ちなみに読みかじりのうろ覚えですが、朝廷での文書が全て紙になったのは隋代だとか。
ほんとうろ覚えなので、責任は持てませんが。
三国時代なら、公文書も木簡、竹簡のほうが多かっただろうね。魏使の記録というなら、
正式なものは簡だろうけど、現地でのメモ書きのようなものなら綿・麻布などもあるのかも。
409 :
403 素朴な疑問・小ネタお蔵だしwww:2010/10/14(木) 02:10:16
そう言えば曹操が董卓を討つために諸侯に檄(げき=木札)を飛ばすってシーンがあったなwwww
410 :
ローガン:2010/10/14(木) 16:00:26
>>402 > あれも年代の推定でその上限としてネック(?)になるのは「粘土槨」じゃなかったっけ?
西晋の銅銭があったからでは?
411 :
日本@名無史さん:2010/10/15(金) 00:28:55
>>403 三国志が紙か木簡かっていうのは重要なことか?。
晋の官僚である陳寿が魏や呉や蜀の公文書を集めて編纂したというだけで不十分か?。
東夷伝じたいは魏の官僚が、東夷を探索もしくは国遣として赴いたさいの報告書を集め、
それを一章の伝記としてまとめたもの。
412 :
日本@名無史さん:2010/10/15(金) 01:00:56
>>411 そりゃ保管の事も考えれば記録の量も違ってくるだろうって話w
「国遣として赴いたさいの報告書」なんてものがあったなんてのは根拠の無い仮定に過ぎない。
まあ九州説の連中の言い分だと魏使は道中小まめにメモをとって
帰国後詳細なレポートを提出。
その記録がそのまま残っていた…なんて前提でお話進めているからな。
記録媒体の事も含めもう少しリアルに考えようぜ…ってお話www
>>410 老眼翁
ネットでチョコっと調べた見たが「東槨棺内」の出土か…
中央槨の鏡の被葬者が女性と見られていてその鏡の銘文が「保子宜孫」と言う
女性が所有したときの効能だけを書いてあるってのも面白いんで
これの年代も気にかかるところなんだが
てか正直言えば築造時期がリアルタイムに景初三年だったら面白いなと言うミーハー的発想ですハイw
>>412 居延漢簡や敦煌漢簡が何万点も発掘されていて、
辺境防備の兵隊の配給がいくらで誰が受け取りに来てとか、
個人名まで事細かに簡に記されている。
漢帝国が木簡による文書行政で統治されていたことがわかる。
魏晋の簡牘も発掘されているようで、魏の時代も似たようなものだったのだろう。
そもそも、古代中国は記録するということに異様な情熱を持っていたので、
帰国後詳細なレポートを提出していないとはとても考え難い。
しかし、それは帯方郡に提出されたものかもしれない。
それと、レポートがあったとしても、簡牘には錯簡はつきものだし、
転写を重ねるごとに誤記も混入することを考えれば、倭人伝の記述が全て正確とも言い難い。
414 :
日本@名無史さん:2010/10/15(金) 02:56:34
>>413 中々詳しい話サンクス。
でも、まあ、仮に帰国後のレポート提出が慣習と言うか義務であったとしても
それがそのまま残されているものなのか?と言うのが素朴な疑問。
特に官僚システムが整った中央だったらそのレポートを文官がある程度要約した形の
外交記録に編集したんじゃないかなとも思うんだが…
そんな一次資料まで保存しておくほど念入りだったのかな?
加えて、そもそもそれがあったとして、卑弥呼の居ます邪馬台国までの詳細な道程が書いてあったのか?と言う事も疑問。
里数じゃなくて日数と言うのはともかく
水行二十日だの陸行一月だのまさかノンストップで進んだわけでもあるまいに…
距離に関して不毛な議論がなされているので冷静に考えて欲しい。
「里を使わないで日を使っているから、いい加減」=「捏造」との解釈はあまりにも乱暴。
@海においては、近代に至るまで正確な距離は把握されていなかった。
A現代のようにGPSや羅針盤が無かった当時は、緯度・経度も正確には把握できなかった。
手がかりとしては、昼の太陽の位置と夜の月、星の位置で方角と位置を把握するしかすべは無かった。
B当時は正確な船の速度を把握できなかった。
C当時は正確な時間を把握できなかった。
→何ノットで何時間経過したから何マイル進んだなんて計算も無理。
D天候により太陽や星が見えない場合は、方角や位置も全く分からなくなった。
E海流で流されたりもするので、どれだけ進んでどれだけ戻ったかを把握するのは困難であった。
F羅針盤が存在していた、中世の大航海時代においても、位置を把握するためになるべく陸に近い航路を辿った。
陸が見えていれば、移動距離も把握できた。
日で表現することは、魏国の人間でもあたりまえのことかと。
逆に正確な距離や時間が記載されていたならば、それこそ近代に書かれた偽書。
416 :
日本@名無史さん:2010/10/15(金) 21:27:32
>水行二十日だの陸行一月だのまさかノンストップで進んだわけでもあるまいに…
まあ、三日進んで1日休みとか、2日進んで1日休みとか、当時なりに常識的な休憩の
取り方というのがあったんだろう。
417 :
414:2010/10/16(土) 00:58:48
>>415 これこれ、誰も「捏造」なんて一言も言って無いぞw
普通に考えて情報ソースが違ったのではないかと言うことで
むしろ一貫して魏使の記録と見る方が不自然だろうって話。
まあこんな事今まで何百何千回と繰り返されてきた事だろうから
今更ネタにする気も起こらないが…
魏晋あるいはそのやや後でもいいが中央にて
遣使の書いたと思われる一次資料・記録なんてものが出てきたって事があるんだろうか?
教えてチャンで申し訳ないが誰かご教示願えるならありがたい。
かりそめにも印綬を与えて冊封した国だし、時事のリポートとは訳が違う
倭国の情報は、第一級の公文書だったと思うよ
420 :
日本@名無史さん:2010/10/17(日) 23:08:26
>>418 サンクス。
まあ「蔡候紙」は流石に直ぐに出てくるんで知っていたが…
しかし魏晋時は木簡が記録媒体としては主流だった感じだな。
倭国とだけ通じていたわけじゃなし外交記録もそんな一次資料から全て保管していたら
書庫の中グチャグチャにならんのな?w
当時の官僚機構と言うか記録の保存等についての考察って殆ど聞いた事が無い。
「魏使による詳細な報告書があった」が何故か自明の理としてそこからスタートしているのには
昔から今に至るまで不思議でたまらないw
421 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 00:06:14
>>420 わけのわからんぽっと出の国に金印紫綬はやらんよ。
金印紫綬をやったのは、魏の朝廷が倭国について良く知っていて、
金印紫綬に価する国だと判断したから。
だとするとどうやって知ったんだということになる。
報告書が無い方がおかしいでしょ。
422 :
サガミハラハラ:2010/10/18(月) 00:09:38
明の使者が秀吉のもとに来た時も、金印をもってきたそうです。
つまり、倭国の支配者におくる印は金印なのです。
423 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 00:14:51
>>421 「情報の報告があった」と「報告書を残していた」とは全然別の話。
もう少し良く考えてから書いて欲しい。
例えばこのことは最近某スレの某ニルート厨にも言ったんだがw
張政の報告書には当然、狗奴国とのすったもんだの事の顛末が書いてあったと思うが
結局それはどうなったんだ?
それが分らない為色々な憶測が昔から飛び交う羽目になっているわけでw
ついでに言うと次に「以って死す」なんて一見意味深な語が見えるものだから
更に拍車がかかった…なんて話は今更言うまでも無いと思うがwww
>>423 狭い日本のマンションじゃない。
大陸の主の宮殿なんだから、木簡の保存スペースなんて悩まないでいいよ。
しかも、金印紫綬を与えたほどの国に関する書類を破棄する理由がない。
魏から晋に禅譲されたから、戦乱で焼けたとも思えない。
報告書が残されていなかったと主張をするのなら、
報告書が破棄されるようなどんな状況があったと考えているのだろう。
425 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 00:44:43
>>424 つうだな、そもそも倭人伝の肯定記事そのものが
先に言った狗奴国との顛末や、表記が里数から日数に変わり
最初は季節感すら伺わせる描写も最後は淡白になり
水行二十日だの陸行一月だのの間に寄ったクニグニはなかったのか?etc、etc…
もう言い出したらきりが無いし今更そんな事を書き連ねるのも面倒。
同一記録者の一貫した報告書とは考えにくいとするのが真っ当だと思うがwwww
もう無限ループネタはうんざりなんで、こっち側として欲しい情報をリクしておくとw
魏朝や晋朝のあるいはややそれより後でもいいが
中央においてそのような一次資料が保存されていたと推測するに足る考古資料でも欲しいところだなw
426 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 01:07:58
>>425 >同一記録者の一貫した報告書とは考えにくいとするのが真っ当だと思うがwwww
郡使往來常所駐というんだから、報告書がたった一人の一回きりのものとは考えにくいな。
複数の者が複数の報告書を出していたんだろう。
先人の文書の切り貼りで文章を書くのは、明清の時代になっても普通のことだから
陳寿もそうやって書いたんだろう。
中国考古学には疎いので、考古資料は知らない。
しかし、史書を読んでいると、たとえば蕭何が咸陽に入ったとき、
他の将軍は財宝の略奪に励んだが、蕭何だけは行政文書の保全を行って、
そのおかげで劉邦は統治ができたとか、そんな例は散見される。
中国人の文書記録とその保存にかける情熱はかなりのものだったらしい。
左史・右史とか起居注とか実録とか、そういうのを調べて勉強してくれ。
それから、まじめに議論している相手に草を植えるのは失礼とは思わないか?
427 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 01:32:33
>>426 なんか勘違いされているかもしれないので言っておくが
何も記録を残さなかったとか言っているわけじゃない。
遣使の報告書(一次資料)を文官尚書が纏めて記録したと思うのだが
「中国人の文書記録とその保存にかける情熱」と
そんな雑多な一次資料を保存したのかどうかって話は別だ。
手っ取り早く言えば「報告書」は「外交記録」の為の材料。
「文書記録とその保存にかける情熱」と言うのなら
きちんと纏めて整理・整頓してこそだと思うがwwww
428 :
426:2010/10/18(月) 01:43:01
こちらも、どうも、誤解がありそうなので断っておくけれど、
オレは、倭人伝原理主義の九州説じゃないよ。
邪馬台国は畿内だろうと思うし、倭人伝は恐らく方角が間違っていると考えている。
さらにもう一つ、誤解があった。
オレは、一次資料が都に存在しているなんて話をしてるつもりは全くなかった。
一次資料は帯方郡にあったのかもしれないし、都に送られたのかもしれない。
そんなことは知りようがない。
無意味な議論だった。
草を植えることに抵抗がある人がいるようだけど
これは一種のネット表現で、如何に簡潔に感情の機微を表すかを追求して考え出された手法に過ぎないので、過敏になる必要はないと思うよ。
ここは学問板と銘打ってはいるが、論文として耐えうるだけのものを投稿できる量はユーザーには許されては居らず
(連続投稿規制やレス内文字制限など)
ある程度、表現的な簡素化やネットスラングには目をつぶり
相手の真意を読み取ることに留意すべきだと思う。
まあ草に嫌悪感を示した
>>426は、
>>428でそういう性急な思い込みに毒されている人物ではないと推測されたが
揚げ足を取るのが目的だったり、平気で嘘を書き込む人も多数いるのは悲しいかな事実なので
>>426の人格を信じて、あれは一種の芸風であると割り切ったほうがいいと思うよ。
www氏のレスは、自ら初心者が齧ったものと謙遜しながら、なかなか鋭いものがあるし。
ただ万年ループのネタに必ず噛み付くのは、あれはwww氏の虫の居所でも悪いのかと、ちと心配にもなるけど。
430 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 02:41:21
>>429 万年ループネタをウザがるのは虫の居所とかは関係ないんでwwwww
まあ景初三(ニ)年の朝貢以後の魏朝と邪馬台国の交渉は「魏書」「魏略」にもなかったであろうし
それとは別に官府の資料に拠ったと思うしそれが定説だとも思うが
実際のところ文献史学の世界でそんな魏使の報告書があったなんて想定が普通になされているのかな?
仮にそうならたとえば森浩一の倭人伝の女王国とは壱与の(時代の)事で
卑弥呼の事は言わば「回想シーン」みたいに挿入されているw
…なんて読み方は噴飯ものって話だと思うがwwwww
>>430 >実際のところ文献史学の世界でそんな魏使の報告書があったなんて想定が普通になされているのかな?
かつてはそういった元ネタ探しが真剣に行われていたというところかも。
www氏もご存知だろうけど、邪馬台国基本論文集などを読むと、白鳥・内藤時代だと
新たに中国でそういった文書が新発見されるのを期待していた節があるよね。
ところが現実はそう甘いものではなく、魏使の元報告どころか、帯方郡の郡使が正式な報告書を残していたのかすら疑わしいという
まあ当たり前といえば当たり前の状況だったとせざるを得なくなった。
しかし魏志と魏略逸文に類似の表現があるということは、彼らの編集以前に何者かが
一次資料から二次資料をまとめ、それが陳寿らの元ネタになっているという『推測』は出来うるかもしれない。
つまり魏志倭人伝は『三次資料』のひとつであるということだね。
モリコーさんのは・・・見逃してやってくれw
あれは先の例えに沿うなら、NASAの研究者が火星の人面岩(っぽい)写真を
「こういうのが火星にはあるんです。もしかしたら火星には先史文明があったかも知れません」といった調子で
一般への興味喚起や予算獲得の宣伝行為などで言ってる様なものだから。
それの度が過ぎると、与那国島の海底遺跡の木村センセイみたいになっちゃうのだけどね。
>>431 魚豢「魏略」陳寿「魏志」自体が参考とした資料と言うのなら王沈「魏書」って事なんだろうけど…
問題になる倭(人)伝の事を言っているんだよね?
まあ、モリコーセンセイの話は結構、理があるようにも思うw
今日、王沈「魏書」には倭(人)伝がなかったと言うのが定説っぽいが
もしそうなら九州説が魏使の報告書により作成されたとしている邪馬台国までの道程の情報は
王沈「魏書」より後、魚豢「魏略」陳寿「魏志」より前に得られた知見とする方が合理的だと思うんだが。
どうだらう?wwwww
433 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 08:19:04
魏略の前は東夷伝を書く習慣がなかったという考え方もあるな。
434 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 21:51:57
>>433 そのへんは著者の編纂方針とか色々理由付けはできるだろうな。
まあ「魏使の報告書」なるものがあったとすれば
王沈の「魏書」にしろそれが書かれた時には既に何処かの書庫にあったって話だからなw
しかし別に卑弥呼の下にまで赴いた使者の報告書でなくても
大月氏へでも他の周辺諸国へでもいいからその遣使の報告書があって
そこに詳細な地理や道程が書かれたいた…なんて実例があれば
「魏使の報告書はあった(中央に保管されていて陳寿が見ることができた)に違いない」
と言う想定も説得力を持つと思うんだがそんな事例があるのかな?
>>434 基本的に遣使の報告書があったにせよ、それが実地調査したものかどうかは疑わしいよ。
大月氏についての記述がある西域伝にしても、どうやら現地人からの伝聞をまとめただけだし
東夷伝ももちろん同じ扱いだろう。倭国だけ特別に調査する正当な理由がない。
逆に例外なのが韓伝で、これは実際に半島北半分を魏が所有した為
現地人からの情報だけでなく、実地調査もあったと見られている。
436 :
434:2010/10/18(月) 22:06:31
>>435 サンクス。
まあ、そんなところなんだろうな。
九州説と言うか昔の畿内説も含んだ行程記事の読み解きに重きを置いた邪馬台国論争と言うのは
兎に角
「卑弥呼の下にまで赴いた本人が書いた旅程なのだからそれを解読すれば邪馬台国に至る事ができる!」
と言うのがお約束みたいだからなあwww
無論、伝聞の寄せ集めだからその情報が間違っていると言う事に必ずしもならないが・・・
>>436 まあ自分は放射説支持ではないが、ひとつだけあの一連の論争に利があるとすれば
どうやら伊都国までが郡使らの行き来する範囲であって
それより先は郡としては公式には行ってない様だということが、大方の理解となったってことだね。
これによって倭人伝の旅程記事をどうにか読めば、邪馬台国にたどり着くといった論調はアカデミズムにおいては聞かれなくなった。
それからは今に到るまで、アマチュアの遊び場としか機能していない。
438 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 23:08:59
伊都国から先に行っていないという考え方は、放射説からでてきたものではなく、
どうしても行程記事をうまく読めないと連中が、郡使往来常所駐に飛びついたも
のだろう。放射説をとりながら、郡使が邪馬台国を訪ねたとする説も少なくない。
>>438 いや、あれは到と至の使い分けや、記述順序などを分析した榎氏の功績だよ。
放射説は実質受け入れられず、アマチュアご用達になってしまったが
この点だけは評価していいと思う。
ちなみに『放射説をとりながら、郡使が邪馬台国を訪ねたとする説も少なくない』というが
それもやはり数あるアマチュア説のひとつであって、文献史学では採用されていないよね。
どう読むのが正しいかは別にして、一緒くたにして並列化するというのはあまり褒められたことではない。
440 :
日本@名無史さん:2010/10/18(月) 23:22:59
ふーん、文献史学ってどんな学者の説を言っているのかな? 四、五人
あげてみてくれるかな?
>>440 三品彰英でも佐伯有清でも、お好きなのをどうぞ。
ちなみに故・鳥越憲三郎とか例に出してはダメだよ、彼は文献学者ではなく、正式な論文はないから。
そして「えらくメンツが古いな」と思った人は、大正解。
平成になる前から、魏志倭人伝の解読なんて作業はすでに誰もやっていないから。
公孫氏を滅ぼして直轄経営をはじめた魏が、そのすぐ先の倭について詳細に知らなかったなんで可笑しい
倭王と認めたうえ、率善中郎将や率善校尉にも任じて、魏の被官として機能させようとしている
>>442 その魏はすでになく、三国志の書かれた時期はすでに晋だからねー
晋もトヨに少し言及するのみで、あとはまったく出てこなくなるってことは
機能しなかったということなんじゃね
444 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 00:07:34
なるほど、で、その正式な論文で三品彰英でも佐伯有清は郡使が邪馬台国を
訪ねていないと発表しているわけかな?
445 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 00:11:24
つまり、神武・皇国派は、卑弥呼=倭王を認めたくないんだろう。
神功皇后まで登場させた日本書紀の信憑性に傷がつくからな。
アマテラスに昇格させたり、系図の某姫に偽装したところで
歴史上の卑弥呼は大和朝廷の「創作史書」と矛盾するばかり。
>>444 正確には「魏志倭人伝の行程記事からは、郡使が往来したのは伊都国までと読むのが妥当」とし
これが真実かどうかは、比較対象となる他の文献が存在しないので判断不可能というもの。
要するに文法上どう読む、どう読めるなどの些細な問題ではなく
そこに書かれていることが事実かどうかを、他文献によってすり合わせられないので
邪馬台国については、現存する文献情報に信憑性は求められないということ。
これが常識となっているので、文献史学者は邪馬台国についての考察は終わったと見ているわけ。
447 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 00:35:37
>>446 妙な言い回しだな。「行程記事からは、郡使が往来したのは伊都国までと読むのが妥当」
というのはどこに出ている見解なんだ? 私が持っている三品や佐伯の本にはそこまで
書いてないんでね。例えば、三品は、総覧の解説で「郡使が邪馬台国へ往来するにあたっ
ては、常に伊都国に駐在するのを原則とした当時の外交慣例を伝えた一句」としている。
邪馬台国への往来という以上、郡使が邪馬台国へ赴いたという説にみえるがどうかな?
>443
たしかに機能しなかったようだな
魏との交渉は、日本の記録にも記されていない
魏や晋としても、倭との外交は不作に終わり、
日本もその権威を利用せずに国内支配を進めたという流れなんだろうな
449 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 00:59:57
>>448 邪馬台国がヤマト王権にならなきゃ、日本に記録が残るはずが無い。
まあ記紀編纂の頃って日本式律令と中央集権を推し進めていた頃だから、
意図的に削除されたと、疑うことも出来なくは無いが。
聖徳太子のアレは中華の冊封枠からの決別とも見れるなあ。
>>447 自分も総覧を読み返してみたが、確かに1970年の時点では三品氏は
「邪馬台国への往来があった」と考えていたようだね。
その文だけでなく、他の記述からも読み取れる。
氏の三国志研究の集大成として『三国遺事考証』全5冊 (塙書房)というのがあるから
図書館あたりで一度読んでみて欲しい。
最晩年になって、特にライバルだった佐伯氏の考察に触れて
伊都国から先には通常は行っていないのではないかと、自説の撤回とも取れる文章を残している。
ただその後に、しょせん文献が事実かどうか確認できないという、ある意味自身の全否定というか負け惜しみというか
複雑な心境を吐露している。
451 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 01:29:42
>>442 「中郎将」も「校尉」も前漢時代なら値打ちがあったんだがなw
三国時代ともなると形骸化している。
>>449 >>中華の冊封枠からの決別
律令と都城造営
大極殿の高御座って、北極星(太一)を背にして天子は南面して政を見る、という中華のアレだから
冊封を脱却してからじゃないと、やらない事
453 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 06:41:16
>>450 機会があったら読んでみよう。で、佐伯の方は何かあるかな?
>>453 横からだが、佐伯有清は一般書でもある「魏志倭人伝を読む」でも、伊都国どまり説を
主張しているから、どれを読んでも同じじゃないか
455 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 17:13:46
■邪馬台国の謎に迫る 纒向遺跡めぐりフォーラム
読売新聞 2010年10月19日
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20101019-OYT8T00065.htm 女王・卑弥呼が君臨した邪馬台国(3世紀)の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡をめぐるフォーラム「邪馬台国からヤマト王権へ」(読売新聞社主催、桜井市後援)が11月20日午前10時〜午後4時、千代田区有楽町のよみうりホールで開かれる。
邪馬台国は中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場。諸国の王が共立した卑弥呼が大乱を収め、魏に使者を出して「親魏倭王」の称号を受けたという。所在地をめぐる論争は江戸時代から続き、畿内(近畿)説と九州説に大きく分かれている。
纒向遺跡は、1971年からの調査で都市的な集落だったことが判明。一帯には、卑弥呼の墓との説がある前方後円墳の箸墓古墳がある。また、最近では宮殿とみられる大型建物跡が整然と並んでいるのが見つかり、畿内説の中でも最有力候補地とされている。
フォーラムでは、桜井市教委の橋本輝彦さんが調査成果を報告。鈴木靖民・国学院大教授と白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長が基調講演する。
この後、纒向遺跡の調査に参加している俳優の苅谷俊介さんを交えて討論を行い、古代史最大の謎とされる邪馬台国の実態や所在地に迫る。
参加希望者ははがきかファクス(06・6313・1634)で代表者の郵便番号、住所、氏名、年齢、電話番号と参加人数を書き、〒530・8551(住所不要)読売新聞大阪本社企画事業部「纒向フォーラム」係(06・7732・0063)へ。10月29日必着。
定員1000人で、参加費は1500円。応募多数の場合は抽選し、当選者に参加証を発送する。
卑弥呼が天照大神で、宇佐神宮が建っている場所が古墳がだという言い伝えが
昔からあるものの、隠蔽してきた、というのは本当でしょうか?
卑弥呼は、鬼道を用いて人心を惑わしたと悪口を書かれてしまったので、
天照大神が卑弥呼だということを公にするのをはばかった人々が、
卑弥呼の時代より千年古い神代と神話を捏造。
卑弥呼の時代より百年新しい時代に神功皇后を捏造。
卑弥呼の霊廟後に建てた宇佐神宮には、
卑弥呼や天照大神の名を大っぴらに出すことができないので、
大姫や神功皇后の名を持ち出して隠蔽してある、
という説には、どの程度の信憑性があるんでしょうか?
>>456 それ、何十年も前のトンデモ説でしょう。
458 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 19:33:50
>>456 立て替えかなんかのとき地下に石棺のような物をみたとか言う話があって
実際現地で聞いて回ったが当事者を特定できなかった
(結局は出所の分らない噂話)
・・・って話は昔何かの本で読んだ記憶があるが(原田だったかな?)www
459 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 19:40:19
しかし邪馬台国論争なんて、もはや良く言っても「学説史」を勉強する為だけの物って感じだなwww
昭和の思い出、ノスタルジー、兵どもが夢の跡、栄枯盛衰 南無南無 藁藁
>>456 古墳の計測方法にもよるが、
魏志倭人伝の卑弥呼の墓とサイズなどがほぼ完全に一致。
魏志倭人伝に書かれた殉死者の塚も近くにある。
石棺の存在は神職が非公式の席で認めているため、古墳と考えてよい。
したがって、これを物証と見れないわけではない。
皇室が代々伊勢神宮より宇佐神宮を格上扱いしてきたのは事実。
なぜ、皇祖神天照大神を祭る神社よりも格上の神社が九州に存在するのか、
理由が公式発表されていないため、何か重要な事柄が隠蔽されてきた可能性は高い。
皇祖神天照大神の古墳跡に建っている霊廟というなら納得がいくが、
決め手となる証拠は出てきていない。
神功皇后の事跡が怪しく実在の人物でないことは、ほぼ確定。
神代が存在しないことも確定。
中国との対等外交の邪魔になるから、卑弥呼が天照大神だと悟られないように
記紀の編纂をめぐって情報操作が行なわれている、という見方は有力視されている。
>457
トンデモ説とされた根拠は?
>>461 >>460を例にとれば
>魏志倭人伝の卑弥呼の墓とサイズなどがほぼ完全に一致。
誰が測ったのか不明。というより測量した事実が無い。
>魏志倭人伝に書かれた殉死者の塚も近くにある。
全く無い。
>石棺の存在は神職が非公式の席で認めているため
その神職が現実世界には実在しない。
要するに、ただのホラ話。
このホラ話を広めた(あるいは作った)のは、推理作家の高木彬光。
氏の『小説』である「邪馬台国の秘密」を参照の事。
宇佐神宮はとても3世紀にまで歴史をたどれないだろう。
まあ宇佐神宮ネタはアレだがwww
九州東部大分は宇佐赤塚古墳なんかを見ても
首長連合に早くから参加した形跡があり色々と興味深いw
あと最古の豪族居館があるところも
首長層が集落を出て完全に住み分をしたその最古の物が九州にあると言うのも興味深い
465 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 22:28:07
偽史佞人伝の話はいい加減にしてくれないか?!
倭人だと思っていたら、あれは、佞人(口先巧みにへつらうもの)の意だというじゃないか。
そんな馬鹿にした話はないだろう?
まあ、今の中国政府の要人の対応を見れば、他国をバカにする態度が見え見えだし、
国際社会のはみ出し者が描いた書物だということははっきりしている。
466 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 22:33:22
はいはい仙石仙石
467 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 22:53:50
>>467 これ「書評」とあるけど、書いているのは本の発行元の社長じゃん。
しかし右翼傾向の強い産経に、左翼急先鋒のミネルヴァの社長が書くって、なんか笑えるな。
469 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 23:07:48
>>467 >「邪馬台国」はなかった
前々から思ってたんだが…
ベストセラーの条件の一つとして「キャッチーなタイトル」をあげる者がいるが
その「「邪馬台国」はなかった」ってのは古田本人が考えたのかな?
出版社の人間が考えたのならブームの仕掛け人功労者としてその名を残しておくべきwwwwww
まあ結局のところ邪馬台国ブームと言うのは出版会のバブル現象みたいな物だったんだろうか?
(「邪馬台国」の文字をつけておけばとりあえず売れる…みたいな?w)
そのバブル時の高揚感が忘れられずにいまだにしがみ付いているのが
この板のゴミクズ九州説の爺さん達なのかな?w
470 :
日本@名無史さん:2010/10/19(火) 23:08:02
こりゃ「PR]じゃね。ww
出版社の社長が、自社の本の「書評」を書いたりしちゃ、いかんわな。www
「邪馬台国はなかった」は朝日から出された本で、長く朝日文庫に入っていたはず。
これを特殊な形とはいえ産経が取り上げるのは、何か政治的なものを感じるね。
皇室が代々伊勢神宮より宇佐神宮を格上扱いしてきた事実はない
皇室の氏神は伊勢神宮
祭主は天皇のみ
まあ穿った見方をすれば
皇室のご先祖様が中国の王朝に頭を下げたという
現在の右翼には到底容認できない屈辱的な歴史を
古田説ならば九州王朝のことにできるからな
実態としては東日流以降古田信者のカルト化が明かとなって
再刊したはいいが全く世間には受け入れられずに不良在庫化し
背に腹は替えられなくなって出版者側が泣きついたというところか
産経内部に信者がいるかのどちらかだろう
まぁでも飽くまで古代中国の史書なるものにそう記されているだけですからね
当然ながら少なからず
自分たち中心の“中華思想”に基づいて書かれているということは頭に入れておくべきですし
どこまでの客観性があるのかも正直少々疑問
ぶっちゃけ言ってしまうと
私自身は正確には「邪馬台国」に興味があるのではなく
日本国 = 古代ヤマト国家の成立過程に興味があるだけといった方が正解です
まぁそんなことはないと思いますが
もし万が一「邪馬台国」なるものが現代日本国とまったくなんの繋がりもないとしたら
少なくとも私にとっては全く興味が失せ果ててしまう対象ではありますね
当時の日本が巫術政治で、中国には奇異に映ったというニュアンスは伝わる
男系の大王や天皇が治めてた訳ではない点が面白い
日本書紀を読んでみても
モモソ媛命、活躍しまくりだからな。
477 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 01:55:38
>日本国 = 古代ヤマト国家の成立過程に興味があるだけといった方が正解です
まあ今日「邪馬台国」はそう言った古代日本の国家形成の途中で派生した問題という位置づけでいいんじゃないのかな?
良く九州説の連中がキレたか皮肉を言っているつもりか
「そこまで倭人伝を疑うなら邪馬台国の存在自体疑えよ!」と言う事があるが
ぶっちゃけ畿内説というかコアな九州説信者以外の人間にとって
邪馬台国なる物が嘘八百全くのでっち上げであっても
現在考えられている国家形成のプロセスに些かの影響も無いわけでw
中国側から見た「邪馬台国」なる呼称が消えるだけの話wwww
最近のマスコミのニュースだと
卑弥呼=モモソ媛命で動いている感がある。
この前の桃の種の発見なんかもそうだし。
畿内説でも色々割れているが、卑弥呼=モモソ媛命説で
大きく動くんだなと思う。
479 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 06:38:04
>>450 >>454 佐伯ははっきりした意見をもっていないようだとみて「倭人伝を読む」は読んでいなかった。
そのうち読んでみよう。
いずれにしろ、伊都国止まりという説があるというだけで、『放射説をとりながら、郡使が邪馬台国を訪ねたとする説』が
文献史学では採用されていない、などと言える話ではないな。
山尾は文献史学者だろうが、明確に放射説をとり、しかも邪馬台国を訪ねたとする説をとっている。中国の文献史学者も私
が読んだものは当然のごとく邪馬台国訪問説をとっているね。
伊都国止まり説というのは、行程記事を誤りとしたいがための苦し紛れの説というべきだろう。
481 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 12:50:10
中華思想って、日本人がつくりあげた創作思想だろう?
>>462 >>誰が測ったのか不明。というより測量した事実が無い。
つまり、あなたの、測量もしないでトンデモと決め付けるコメントには、
まるで根拠がないわけですね?
さらに、
測量して正確に割り出せるようなことが、魏志倭人伝に書かれているとでも?
元から正確な数値などないにもかかわらず、
あたかも、測量すれば真偽が確認できるかのように書くのは、
騙しの手口の一種ですよね?
どうして、そんな理屈に合わないことをするんですか?
もちろん私は、嘘か本当か、5人で行って測量して、
ちょっと見渡しただけでは、魏志倭人伝と話が合わないものの、
解釈の仕方によっては、一致すると見ることもできることを実際に確認してきました。
棒を立てて写真を撮りながら三角測量なんて、簡単に出来ることです。
根拠なく、確かめもせずに、
あまりにも不自然な理屈を振り回して、トンデモ呼ばわりしてますよね?
こんなことをしていると、情報操作を担当している国家公務員と間違われませんか?
>>462 >>全く無い。
私は確認しましたよ。自分の目で。発掘された遺骨も。
ちょっと調べれば、嘘か本当か分かることなのに、
どうして見え透いた嘘を書くんですか?
>>その神職が現実世界には実在しない。
神職の名前すら書かれていないのに、
そんな神職はいないと断言するあたり、怪しすぎますね。
つまり、かん口令を敷いているから絶対に口外する人間などいないと確信して、
言い切っているのでしょう?
こんな発想が出来るのは、その筋の関係者しかいませんよね?
最初は渋ってましたが、最後には石棺の存在を認めてましたよ。
当時の写真を4枚見せて頂きました。
ただし、公表できないとも言われました。
日本書紀が作られた当時から、長年国の体面に関わることだからと、
国家の最高機密とされてきたのだから、当然でしょう?
>>462 >>このホラ話を広めた(あるいは作った)のは、推理作家の高木彬光。
残念。この説を採っているのは彼だけではないにもかかわらず、
あきらかに、事実に反することを書き並べてますよね?
推理作家ならホラを創作しても当たり前だと、みんな思うだろうなんて、
計算高い情報操作を試みて、誤った認識に誘導しようとしているあなたは、
本当は国家公務員なんでしょう?
日本書紀が嘘だらけってことや、
当時の皇室の祖先達?は、中国に対して臣下の礼を取っていたことぐらい、
もうバレちゃってるのですから、いい加減隠蔽するのはやめましょうよ。
万世一系も、本当は途中で切れちゃってますよね?
世界を騙して皇室は凄いなんて言い張っても、もはや無意味でしょう?
日本書紀の編纂者達が、卑弥呼その他中国に対して臣下の礼をとった王の存在を知りながら、
一切触れないように注意して避けて通った事情は、みんなもうよく承知している事柄です。
日本書紀の書き手は、卑弥呼イコール天照大神と分かっていながら、触れることをタブーとし、
神代の時代まで千年遡れる、嘘のトンデモない歴代天皇の歴史を捏造したんでしょう?
神代なんて時代、本当はないんですよね?
神功皇后がとんでもない妊娠期間、朝鮮半島で活躍していたなんてエピソードも、
読めば誰にだって分かるような、恥ずかしい真っ赤な嘘のお話ですよね?
見え透いた嘘の話を正当化して、真実を隠蔽するために、
あの推理作家はほら吹きだ、なんて言い広める情報操作は、そろそろ終わりにしませんか?
485 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 13:51:03
大和国家は国津神系が天津神系を受け入れてできた専制的性格の政権だと理解している。
大王族や渡来豪族たちの出自、政権成立までの経緯について
なにか隠すべきことでもあるのだろうか、とは思うね。
>>463 3世紀当時は卑弥呼と壱与の古墳が作られただけでしょう?
その後、霊廟のようなものが建てられて、廃れていった記録を見つけてあります。
ただ、うちの故老の記録だけで、突き合わせられるものがないようなので、真偽不明です。
宇佐神宮の建物が建ったのは、
伊勢神宮の内宮に斎宮が立ち入れない、困った事態が発生した後のことですよね?
まともに機能しない伊勢神宮の代わりになるものが必要だったのと、
応神王朝の正当化を狙って建てられたもの、と故老から聞いていますが、
今となっては、真相を確かめることは無理でしょう。
>>472 >>皇室が代々伊勢神宮より宇佐神宮を格上扱いしてきた事実はない
あらあら? これも真っ赤な嘘ですよね?
道鏡の皇位継承を巡る、宇佐八幡宮神託事件はどうしましょう?
伊勢神宮が蚊帳の外に置かれていた状況は、全部嘘の作り話?
伊勢神宮の内宮は立ち上げに失敗して、斎宮制度がきちんと機能していません。
だから、天照大神の託宣は、伊勢神宮の内宮が建ってから一つも記録がないでしょう?
そして、形骸化したままの斎宮制度は途中で廃止になっています。
正常に祭祀が行なわれず、機能しなかった現実を無視して、
あたかも伊勢神宮が皇室から厚遇されていたかのような、
間違ったことを書いてはいけないと思いませんか?
それに対して宇佐神宮は、皇室から皇位継承のたびに報告していたり、
もちろん、託宣があったことも、記録に残っているし。
道鏡事件はフィクションの可能性があるとしても、
それなりに巫女が活躍して、皇室から厚遇されていたことは事実のようですよ。
488 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 14:10:15
>それに対して宇佐神宮は、皇室から皇位継承のたびに報告していたり、
>もちろん、託宣があったことも、記録に残っているし。
そうなの?
>>472 >>皇室の氏神は伊勢神宮
これが建前だけでなく、実のあるものなら良かったんですけどね。
斎宮制度、廃止されちゃってますよ?
それに、歴代天皇のご位牌はどうして仏式なんですか?
伊勢神宮の氏子としてちゃんとしたことをやってないでしょう?
だから、伊勢神宮を天武天皇の個人的な施設なんて言う歴史学者まで出てくるんですよね。
>>祭主は天皇のみ
これって本当の意味では、明治になってからのことでしょう?
それまで誰一人として、歴代天皇は伊勢神宮を参拝してないでしょう?
天皇の代わりを務める斎宮の制度までなくしちゃって、
長期間氏子としてちゃんとお参りしてないのに、
形だけ祭主でした、なんて言い張っても、誰も信じないと思いますよ。
実際には冷遇されちゃってたのです。
現実からかけ離れたことを強弁しても、信じるのは素人だけでしょう?
どうして事実に反する、間違った認識に誘導するような変なことが、
こうも大量に書き並べられるのか、とっても不思議です。
古田学会がどうのこうのと、変なコメントまで並べてあるみたいですが、
いまさらバイアスを掛けようとしても、とても隠蔽工作は無理だと思います。
宇佐神宮は、伊勢神宮の内宮立ち上げ失敗の穴埋めのために建てられた。
内宮の立ち上げ失敗とは、斎宮を内宮に移す作業のこと。
成功していれば、天照大神の託宣が、伊勢神宮の内宮で行なわれる筈だった。
斎宮の移転が失敗した理由は、持統天皇がときの斎王の最愛の弟を自害に追い込んだから。
斎王が直接次の代の斎王に伝授する必要がある知識や所作が引き継がれないまま、
天照大神に関する重要な伝承が絶えてしまい、形骸化した斎宮制度は廃止に追い込まれている。
宇佐神宮が伊勢神宮の代わりに選ばれたのは、
皇室に、天照大神(卑弥呼)の古墳という伝承が伝わっていたからと思われる。
全体を見回すと魏志倭人伝と一致しないように見えるが、
古墳の整地された部分のサイズだけ見ると、記述と一致する。
また、殉死者の塚は、別の名前が付けられているものの、いちおう存在する。
なによりも、長年皇室が、あたかも皇祖神の墓所に対するかのような、
態度を取ってきた歴史的経緯がある。
日本書紀などでは触れるのを避けているが、
邪馬台国と卑弥呼と天照大神を結ぶ、何らかの情報を持っていながら、
卑弥呼が中国側からさんざん悪く書かれてしまっているため、
国の体面を気にして、事実関係を長年隠蔽してきた可能性が高い。
>>456の内容は、魏志倭人伝の記述、一部の研究者、一部の神道関係者の間で見解が一致する。
これにプラス、邪馬台国がある陸地までの日程の記述方法を見直すと、北九州説で落ち着く。
むしろ落ち着かないのは、天照大神の実像や祭祀がうやむやになって久しい神道界のほうだろう。
大和説の尊厳・意地を傷付けずに、かつ史実も歪曲しないために漏れはこういう風に理解している。
1.邪馬台国に関して、
邪馬「壱」国は九州にあった。しかし邪馬「台」国は大和に(今でも)ある。
2.倭国に関して、
「い」国は九州にあった。しかし「わ」国は大和に(今でも)ある。
3.卑弥呼に関して、
「ひみか」は九州にいた。しかし「ひみこ」は大和に(今でも)いる。
4.卑弥呼の冢(墓)に関して、
卑弥呼の「冢」は九州にある。しかし卑弥呼の「墓」は箸墓である。
494 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 17:22:30
>>483 >最初は渋ってましたが、最後には石棺の存在を認めてましたよ。
>当時の写真を4枚見せて頂きました。
>ただし、公表できないとも言われました。
「自分は全て見た、全て知っている。
しかしそれは秘中の秘であって世間に公表する事はできない」
与太話の典型的パターンだよなw
そんなモンどうやって第三者が知りうるのか?
「私は○月×日宇宙人に招かれ金星や太陽系外の彼らの母星にも連れて行ってもらった
政治家や有名人の中にも宇宙人と交信している人間がいてそのリストも見せてもらったが
それは明かすことができない」
…なんてのと同じ類w
まあ暇人の釣りか、現実と妄想の区別のつかないリアル・キチ○イだろうがw
ただ、こういった「自分こそが隠された秘密を知っている、解き明かした」なんてタイプの電波は
九州説の「邪馬台国東遷説」あたりの根っ子にも共通しているようにも思えるがwwwww
495 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 17:35:06
>>494 隠蔽体質があることを、自分の体験から指摘してるだけですよ。
分かります?
その写真が本物か、その石棺が卑弥呼のものかは確認不能。
したがって、
「私は他人が知らない証拠を持っている」などと言うつもりはないのです。
読解力がなさ杉。
>>496 その体験こそが、全くの嘘か妄想でない証拠が無いないからねー
読解力がある人は、そういう矛盾だらけのヨタ話は信じないんだよ
>>492-493 なるほどね。こうしてみると、
古い学会の定説は、どうしてなの?って思うくらい勉強不足で間違いだらけ?
分かりやすいように邪馬台国と書いてるけど、
本当は邪馬壱国と思ってます。
倭国は(いこく)って読むんですか?
私は中国人って相手が「自分の国」と話してる言葉を勘違いして、
その国の呼び名として使っちゃうケースを他にも見つけているので、
われのくにと言っているのをヒアリングして
倭国(わこく)になったのかなーなんて思ってました。
卑弥呼はピミヲだと思ってました。
すくなくとも当時の日本にはヒの音はなくて、ピだったのでは?
魏志倭人伝に使われている文字を50音配列してみたけど、ヲが抜けてそうだから、
日御王でいいのかなーとも思ってました。
卑弥呼の冢、宇佐以外にも候補地が幾つかあるみたいですね。
箸塚はどう見ても、勘違いでしょう。
499 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 18:31:17
>>496 悪いんだが一応はここ学問系の板なんだよなw
考古資料にしろ文献にしろ第三者が検証しうる物の上に立って論じてもらわないと
「自分だけが知っている秘密のお話」なんて意味が無い。
よしんば神社の関係者が何かを秘匿していても
(宗教上からの理由ならありうる話、高野山に空海のミイラがあるかどうかなんて誰も分らないw)
だからと言って
「こういうことも隠しているに違いない」
「日本の歴史そのものに関わる一大事を隠しているに違いない」
と引っ張るのは別のお話。
頼むから与太電波飛ばすのは他所でやってくれこのキ○ガイ
>>498 なんで邪馬「壱」国という説が出てきたのか、その根拠知ってる?
それに対しどのような議論が行われてきて、結局「壱」説がカルトだけでしか通用しなくなったkのいきさつも知ってますか?
>>497 矛盾はどこですか?
証拠はない、故老の昔話で突き合せる史料がないから確かめようがない、
といったことを正直に書きましたが、
矛盾を書いたつもりはないですよ。
どこの誰だか知りませんが、
今日は嘘と間違いだらけのことを書きまくって、このスレッドを混乱させてますよね?
私が矛盾だらけ、と本気で主張したいなら、ちゃんと指摘しましょう。
でないと、あなたが、
根拠のない嘘デタラメをこの場に書いて、
他人の書き込みの信用をイタズラに貶めていることになりませんか?
やっぱり、国家の体面、権威の体面を気にして、真実を隠蔽したい人達の情報操作?
中2の時の同級生に山口一郎という香具師がいた。
通称は、読売新聞&巨人軍のオーナー「ナベツネ」ならぬ、ヤマイチ。そいつの弟が山口泰造でヤマタイw
ヤマイチ(九州説)VSヤマタイ(大和説)の兄弟論争は、何を以って決着の日を迎えるのか?興味は尽きないw
>やっぱり、国家の体面、権威の体面を気にして、真実を隠蔽したい人達の情報操作?
そんなことをマジで考えているんだから、やっぱ狂ってるんだろうな
>>499 >キ〇ガイ
たとえフセ字であろうが、意志は完全にキチガイですよね?
よくもそう簡単に相手に対してキチガイなんていえますね?
>>501 >証拠はない、故老の昔話で突き合せる史料がないから確かめようがない、
>といったことを正直に書きましたが、
そんなのチラシの裏にでも書いとけってwww
確かめようのない話なら、俺だって山ほど書けるぞ
俺は青森で卑弥呼の墓と石棺をこの眼で見たんだ
証拠は無いがw
じじいの昔話だって聞いている。じじいも間違いなく卑弥呼の墓だと断言していた。
突き合せる資料がないから確かめようがないがw
>>504 キマガイ=生真面目野郎 の可能性は?
フセ字=布施字 の可能性は?
それを検証するのがこの便所の落書きに於ける学問板というもんだ。
>>504 そりゃあキチガイにキチガイといって何が悪いんだという話だな
それとも「精神異常者」とか「心に病を抱える人」と言い換えて表現すればいいのかな
508 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 19:09:46
>>483 >>>その神職が現実世界には実在しない。
>神職の名前すら書かれていないのに、
>そんな神職はいないと断言するあたり、怪しすぎますね。
このキチガ○は一体何を言ってるんだ?って話で
「実在しない」としている神職の名を書けとでも言うのか?
もうニホンゴワカリマスカ?のレベルだなwwwwww
ちなみに宇佐神宮の禰宜 佐藤四五氏なる人物の証言によると
>石棺云々は私も良く知らない。大正十年前後このようなことがあったとかいう
>噂程度の事は聞いているが、その当時の職員は既にこの世にいないので確かめる訳にもいかない。
…とまあ「聞いた噂」と実に曖昧w
それにこのお話の発端は皇紀2600年(昭和15年、西暦1940年)を記念して
社殿造営時に件の石棺を見た人間がいる云々からであり
大正十年(1921)とは20年も離れていて如何に曖昧な記憶かが分るwwwwwww
>>504 ネット生活者に一般人の常識は通用しません。
>>505 >そんなのチラシの裏にでも書いとけってwww
チラ裏投稿なら黙ってスルーしれ
512 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 19:54:12
>何年か、十何年か、何十年か後に、宇佐神宮の造営が行われることになったら、
>この大石棺はまたしても地上に姿をあらわすに違いない。
>そしてその厚い巨石の蓋が開かれるとしたらーー1700年の大秘密を秘めた「親魏倭王」の金印は
>ふたたび日本人の眼の前に、まばゆいまでの黄金の光を放つかも知れないのだ。
まあ見果てぬ「ロマン」だなw
とりあえず話は「出てきてから」と言うことでwwwww
514 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 21:09:16
>>513 んー、今地図で確認してみたけど
ペルシャとアレクサンドリア以外は
いい具合の距離じゃないかな?
長里でだけど。
515 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 23:29:11
しかしこの電波さんのカキコを見てふと思ったが…
>>484 >計算高い情報操作を試みて、誤った認識に誘導しようとしているあなたは、
>本当は国家公務員なんでしょう?
この「国家公務員」ってUFOの目撃者のもとを訪れてそれを口外しないよう釘を刺す(恫喝する?)
『メン・イン・ブラック』と呼ばれる男達のイメージなんだろうか?wwwww
無茶苦茶な展開になってるけど、本物の学者はどのぐらい目を通してるんでしょうね。
高木彬光著『邪馬台国推理行』(角川書店)を否定する見解にもいろいろあります。
凄い論客は、
航空写真を見て「これが前方後円の古墳でなくて何だろう」と書いてあるから、
「卑弥呼の墓なら、前方後円墳ってことは考えられません」と指摘して終わり。
と、あまりにも短絡的。
本人は一刀両断したつもりでしょうが、読みが甘すぎますよね。
亀山はどう見ても、前方後円墳に見えません。ただの塚です。
だから、高木彬光が前方後円墳と指摘している話はおかしいんだけど、
亀山が卑弥呼の墓の可能性は、これだけではまだ残っていると考えるべき。
宇佐神宮の石棺を巡る情報も、このスレッドでは滅茶苦茶。
たとえデタラメでも、強弁すれば通用すると思っている人がいるようだから、
はっきり書いておきます。
石棺は二度目撃されています。
はじめは、明治のこと。
県の史跡名所天然記念物調査委員をしていた山本聴治氏が目撃しています。
その言葉を信じる信じないと議論してどうなるんでしょうね?
石棺は埋め戻されていて、今は見ることはできませんが、
山本氏が指差した場所の地面の下を超音波で探査してみたところ、
石棺の形が浮かび上がったそうです。
新聞などで報道があり有名に。
この話を否定している人は、
近年の新聞報道などもトンデモだと、次々と論破できる稀有の才能を持ってるんでしょうね。
「亀山が自然丘陵であっても卑弥呼の墓である可能性はゼロでは無い」
と言うのは理屈ではそうだが
じゃあ
「うちの裏の山が卑弥呼の墓の可能性もある」
と言われても同様に認めなければならないレベルの話ww
まあ「謎の石棺」が公表され中から金印や卑弥呼の骨でも出てきてからだな、お話はwwww
高木彬光の取材には口を割らなかった神職者も
この電波さんには口を割って石棺や骨まで見せてくれたと言うのだから
ガードも甘くなってきているのかもしれないw
(てかこの電波さんナニモンなん?w)
宇佐神宮の石棺が二度目に目撃されたのは、昭和の大造営のとき。
この造営のときの宮司さんは、内務省から派遣された横山秀雄氏で、
厳重なかん口令をしいたらしいです。
国家レベルのトップシークレットのつもりだったのでしょうか?
しかし、目撃談を語ったお一人は、後に、宇佐神宮権宮司となられた元永正豊氏です。
銅剣等の副葬品があり、持ち去った人物がいたなんて証言も飛び出してます。
誰なんでしょうねー。私もチラッとその人の名前を聞いたような、聞いてないような。
もちろん「そんな神職はいない」と、石棺の存在を否定する書き込みがあったようですが、
大嘘ってことになりますよね?
調べもしないでデタラメを書いても通用すると、甘い幻想を抱いている人がいるようですが、
この板は学者さんもいっぱい見てる筈で、書き込まなくても分かっているギャラリー多数。
面白いのは、じつはここから。
二つの石棺は位置や見た目が異なります。
したがって、宇佐神宮の亀山には石棺が2つあることになります。
もしも卑弥呼の塚だとすると、壱与も同じ場所に葬られた可能性が出てきませんか?
520 :
ローガン:2010/10/21(木) 00:10:11
ん〜 石「棺」自体が目撃されたという事は、取り敢えず、「箱式石棺」ではない訳ですな。
宇佐神宮が卑弥呼の墓って説に対して、
推理小説作家の名前を真っ先に挙げるあたり、不勉強なのか、混乱を狙っているのか。
それなりの学者先生の、昔から有名な説では、
古いものだと、東大教授の市村其三郎氏が書いた「卑弥呼は神功皇后である」とかね。
菱形山古墳は神功皇后廟だとか、応神天皇は人皇第一代と指摘なさってますが、
どう見ても神功皇后って創作上のキャラで、卑弥呼と時代が百年合いませんよね?
古い研究で、今となっては100%信じるのは無理ですが、
それなりに核心を突いてると感じる部分もあると思っています。
人様を得意気に電波呼ばわりしても、指摘が滅茶苦茶でザル状態にしか見えません。
東大の先生より自分は賢い、とか言い出しかねない雰囲気ですねー。笑止。
>>517 君も日向厨と同じく、重大な事実を省略して書くんだね。
ここの住民をなめちゃあいかんぞw
>県の史跡名所天然記念物調査委員をしていた山本聴治氏が目撃しています。
>その言葉を信じる信じないと議論してどうなるんでしょうね?
山本聴治氏が『10歳の時に』目撃しているんだよな。
その重要な判断材料を何故省く?
なおかつ山本氏が後年、「表面がぴかぴかに磨かれていて、今思えば朝鮮か中国からの渡来人の作だ」と主張したのも省略している。
>山本氏が指差した場所の地面の下を超音波で探査してみたところ、
>石棺の形が浮かび上がったそうです。
>新聞などで報道があり有名に。
どこの新聞のいつごろの記事か明確に書くこと。また探索したのはいったい誰か。
ちなみに「これはUFO?」というヨタ記事でも4大紙に普通に載っている。
少し前に「日本人のクローン人間の作成に成功した」という記事が紙面を踊ったの覚えてる?
あのネタを流したのは、ラエリアンというUFOカルト宗教の日本支部。
だから言葉だけ科学的に見えても、中身を見ないと信用できないのよ。
最後に、自分は簡単に次々と論破したけど、稀有な(の、は間違い)才能などない、ごく普通のおっさんだよ。
524 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 00:21:32
>>521 まあこれを見れば亀山が古墳と言うのは荒唐無稽と言うのが分かるって話だなw
菱形池をかっさらった土じゃあ到底少ない。
「いや昔は周りに巨大な周濠があった」
と言っても東や南東に山がありそれも難しい。
無論、亀山自体の形も前方後円墳には程遠い
(何処かに円弧を残した部分があるか?)
525 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 00:22:20
宇佐神宮の本殿の建物って、万一、都でなんかおこった場合に、
天皇が逃げてきて御所に利用するためのものだったのかな?
まあなんいせよ、この宇佐厨が根拠とする話には
すべて「〜らしいです」「〜だそうです」がつくんだなw
自分自身でさえ確認していない話を根拠に出すなよw
527 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 00:27:13
>山本氏が指差した場所の地面の下を超音波で探査してみたところ、
>石棺の形が浮かび上がったそうです。
そもそもそんな事が分るのか?w
無論、地中に空間があることや大きな石があることぐらいは分るんだろうがwww
第一これまでのお話だと神社側は必死に隠そうとしているはずでw
そんな調査を許すもんかねえ?
>>521 これが古墳やら墳墓に見えるってwwwwwwwww
529 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 00:30:17
>>526 いやいやコイツはモノが違うwwww
>>483を見れw
>私は確認しましたよ。自分の目で。発掘された遺骨も。
>最初は渋ってましたが、最後には石棺の存在を認めてましたよ。
>当時の写真を4枚見せて頂きました。
>ただし、公表できないとも言われました。
石棺の写真や骨まで見せてもらってるぞw
>>521 そう、もちろん自然地形です。
ところが、ここの土を実際に30メートルほど下まで掘ったことがある、
地質に詳しい人達が、上のほうだけ手が加えられてるって言うんですよね。
部分的には30メートル掘っても、人が盛った土になってるとか。
魏の国のお墓も簡素なものだったから、卑弥呼の墓が簡素でもいいような気もします。
つまり、もともとあった丘をちょっと加工してお墓にしたんじゃないかなーという説。
地元の人達は、ここが邪馬台国の中心地って主張したい気持ちがどうしてもあるらしくて、
いろいろ熱心に調べてるみたいですよ。
で、やっぱり可能性あるねーって言ってます。
ただ、宇佐が邪馬台国中心地だとすると不自然なことが幾つかあるんです。
「弥生後期の遺構が、九州北部に比べ少ない。」
これはオカシイって、強調したい人がかなりいるみたいです。
でも、当時の宗教施設が人口密度の高いところになければならない必然性って、あるの?
宇佐神宮のある菱形山は古墳でしょう?
地元の老人から石棺が埋まっていると聞いたことがありますよ
それが卑弥呼であるかどうかはわかりませんが、誰かが埋葬されているのは確実です
その誰かは比売大神である可能性がもっとも高いでしょう
比売大神は比売大神であり卑弥呼とは無関係である可能性も充分にあります
>>527 断言していいけど、100%判らないよ
立方体の墓石を地中に埋めて、そこを超音波探査してもその形など「絶対に」浮かび上がらない。
超音波探査というものはそういうものではない。
「空間」があることは判るが。
あと超音波探査ではなくレーダー探査だと地層の違いなどは判ることもある。
しかし石棺の形が浮かび上がるなんて安いCGは出てこない。
データを突き合せて、そこに何か異質なものがあるかもしれないということは判るが
それが石棺のような立方体だと判ることなどありえない。
鉛の箱の中の猫が生きているのか死んでいるのか判ると言ってるようなもの。
>>529 >石棺の写真や骨まで見せてもらってるぞw
wwwwwwwwwwwww
>>530 >ところが、ここの土を実際に30メートルほど下まで掘ったことがある、
>地質に詳しい人達が、上のほうだけ手が加えられてるって言うんですよね。
あんたが掘ったんかいw
それ犯罪だってw
冗談はさておき、誰が掘ったんだ?地質に詳しい人達って誰なの?
534 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 00:40:21
卑弥呼の「冢」がいつから「前方後円墳」だということにされているのか。
自然地形を利用した墳墓というものが日本古代においては全く存在しないものなのか。
そのへん詳しく。
535 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 00:40:33
そもそも、相当に怪しい「石棺」の目撃談にしても石(板?)を見たって話で
掘り下げて箱の形を確認したってワケでもなく
まして蓋を開けたって話でも無かったと記憶しているがwww
この電波さんが見せてもらった骨って
いつ石棺からとり出された物なのだろう?wwwwwww
536 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 00:46:25
キチガイ与太を叩くだけじゃあまりにもアレなんでw
少しまじめに「宇佐説」について言えば
宇佐周辺が早くから広域首長連合に参加していたのは間違いないと思うが
その連合体の中の九州の一勢力が邪馬台国だった…と言うのなら随分マシな話になると思うのだがw
無論「大九州主義」に囚われているここのゴミクズ九州説論者には受けない話だろうがw
まあ宇佐説=宇佐神宮 と言うのはいくらなんでもネタだわなw
というか、この宇佐説の研究は本道から外れている。だからトンデモとしての評価しかされない。怪しいものが
埋まっているとこなど、日本各地いたるところにある。
まず調べなくてはならないのは、亀山自体の歴史だろうね。宇佐神宮の社殿築造は8世紀代で、大隅八幡宮
を拠点とする同族辛島氏への対抗措置としてのものと考えられるが、それ以前はどうだったのかということ。
>>536 宇佐周辺は北部九州や中南部九州より
瀬戸内をはさんだ周防や伊予との結びつきが、弥生後期だと強いから
宇佐に邪馬台国を置かずに、伊予あたりを候補地にしたほうがいいように思う。
このばあい広域首長連合に参加していながら、独自に朝貢したとかで。
まあ九州説にはウケない話だろうけど、きちんとした考古事実を踏まえて空想してみると
いろんなことが考えられるんだけどなー。
九州説のヒトは考古学が大嫌いみたいだから。。。
>>532 たぶん超音波探査やレーダー探査を
レントゲン写真
と勘違いしているんじゃないかな
現在の三次元精密測定ソナーなら石室内にソナーヘッドを入れれば、その中の石棺の形状は
おそらくわかると思う。しかし石棺直葬ならこれは無理だろうね。
541 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 01:23:46
>きちんとした考古事実を踏まえて空想してみると
銅鐸の埋納については、どんな空想をしてんのかな?
>>539 それだwwwwwwwwwwwwww
超音波探査で、像に四角い影があるとかイメージしたんだなwwwwwwwwwww
>>523 ここに、全部書けるわけがないでしょう。
手短に書いてあるものに対して、
身勝手な理屈をなすりつけて、揚げ足を取ってるとしか見えません。
10歳のとき見たものだろうと、鮮明に記憶に残っていて、
重要なポイントは拾えてる人の証言でしょう?
朱が見えたことなども、非常に貴重な情報。
それから、
「表面がぴかぴかに磨かれていて、今思えば朝鮮か中国からの渡来人の作だ」
という証言に何か問題でも?
問題点があるならはっきり書かないと、自分だけ分かったつもり、では何も通じませんよ。
これって、大陸式山城を築くための、大きな石を加工する技術が使われてるってことでしょう。
私は肯定的に受け取りましたよ。
日本の神道は、卑弥呼の鬼道を継承していて、そのルーツは高句麗道教、という説をとるなら、
大陸から伝来した、ピカピカの石棺でもかまわないんじゃないんですか?
邪馬台国のお隣の国の同時代の王が、
自分は高句麗国の王家の血筋を引いているって、自慢してるみたいですよ?
だから、邪馬台国にだって、渡来系の技術が入ってて不思議ではないのでは?
卑弥呼の棺なら、ピカピカの最高級仕上げになってても不思議じゃないですよね?
>>523 >>どこの新聞のいつごろの記事か明確に書くこと。
あちこちの新聞に書かれたみたいだから、特定の名前を出さなかっただけ。
記事を切り抜くぐらい、自分で出来るでしょ?
>>また探索したのはいったい誰か。
あ、この調査は父がやりました。手短に書いたから混同してる?
超音波で地下を調べるのって、デジカメ程度の携帯できる装置で十分なんですよ。
こんな画像が出たよ、という話。
興味がある人は、同じように自分の手で調べてみればいいだけのこと。
それが学者でしょう?
>>最後に、自分は簡単に次々と論破したけど、
論破? 何にも出来てないでしょう。
少しでもスキあらば、
UFOカルトと混同した歪んだ認識を擦り付けて攻撃的したい欲求を持って絡んで来ている、
問題性を抱えた人物らしい、ということは理解しました。
いずれにしろ、あなたが書いていることには、情報としての価値がほとんどありません。
>>527 >>第一これまでのお話だと神社側は必死に隠そうとしているはずでw
あらら、人が書いた文章が致命的に読みとれない人なんですか?
内務省のかん口令を破ったのは誰でしょう?
筋道を立ててまともに考えることができていないように見えます。
>>532 よく知ってるつもりになって、得意気に憶測の大風呂敷を広げて、
とんでもない間違ったゴミ情報を書いてませんか?
空間があることしか分からないなんて、突飛なことを書いても意味がありません。
音の速度が石棺と土では違うことを忘れてませんか?
伝わる速度が違えば、音が返ってくる位置や時間が違うから、
簡単に地下にあるものの材質と形が分かるでしょう?
もちろん、得られるのは断面のデータで、それを3次元に合成する必要はあるけど、
それは計算させれば済むこと。
最終的に色をつけて表示すれば、分かりやすいですよね?
人工地震を起こして地層の状態を調べることなら、何十年も前から行なわれているのに、
音波を使っても地下に空洞があることしか分かりませんって、いつの時代の科学なの?
板違いの機械のことを、デタラメに書き並べて、ここで話題にしても無意味でしょう。
久々に盛り上がってるねw
織り上げてくれる人は大事にせんといかんよ?
SはMがいないと成り立たない、っていうか実質依存してるんだし
>>544 新聞を切り抜こうにも紙名と発行年月日が分からねば探しようがない
それを明示するのが議論を進める上での最低限のルールなのだが
考古学でも奈文研を中心に地下の探査方法の研究が行われて
近年はその成果も各地であがっているが
>デジカメ程度の携帯できる装置で十分なんですよ
なんて方法は聞いたことがない
その方法を詳しく知りたいので理論が解説されている書籍なり論文なり
教えて欲しい
549 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 03:56:40
とりあえず地中探査機のメーカー?のHP適当にググってみたwwwww
http://www.chichu-eng.co.jp/chichutansa.html これなら大体、石の材質で中が空洞ぐらいまでは分るのかな?
…にしても流石にここまでくると最近の技術なんだろうが
一体この宇佐厨が見た新聞記事ってのはいつの事なんだ?
それにしても秘匿しようとしているはずの神社側が良く許したなwwwww
高木彬光や恐らくは他の多くの人間にも口を割らなかった神職者が
このキジルシ宇佐厨には石棺の写真や骨まで見せてくれて
(お前一体ナニモンやねんw
その骨って棺をあけて見せてくれたのか?それとも座敷で骨壷に入ったものを見せてくれたのか?w)
挙句、こうやって2ちゃんなんかでその事を暴露されているwwww
…もうなんと言うかお前ら本当に隠す気があるのかと問い詰めたい、小一時間問い詰め(ry
550 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 04:10:57
>>545 キジルシ宇佐厨
>内務省のかん口令を破ったのは誰でしょう?
そんな謎賭けをして反論したつもりになっているのか?馬鹿じゃないのか?w
先ず神社側が全面的に情報を公開するつもりなら
宇佐神宮の禰宜 佐藤四五氏の証言
>石棺云々は私も良く知らない。大正十年前後このようなことがあったとかいう
>噂程度の事は聞いているが、その当時の職員は既にこの世にいないので確かめる訳にもいかない。
なんて発言はしないわなw
お前の会った神職者も「公表できない」と言っているんだろう?
じゃあ神社の一部に「このことは世間に知らしめるべきだ」と考えている連中がいたとしても
神社側の協力がなければ探査機を持ち込んでの調査なんかできるはずが無い。
仮に夜忍び込んでこっそりやったとしてもwそんなもん新聞発表したら即タイホだろうなwwww
矛盾だらけだなwwww
与太を飛ばして喜ぶ愉快犯かもしれんが、もう少し腕と知能を磨きなさいwwwwwwww
>>538 山口県側との密接な関係は、地名にも残っていると見ている人がいますね。
邪馬台国という、間違った漢字表記の名前を信じて調べている限り、
浮かび上がってきませんけどね。
卑弥呼の古墳が宇佐にあるからといって、
邪馬台国の中心があったと考える必要はないようですね。
非常に明瞭な話なのに、こうも無軌道に混乱するとは、
読解力がない人や、正常に思考できない人が、大量に集まってるってことでしょうか?
それとも、故意に曲解を書きなぐって荒らしてるんでしょうか?
古い時代の事柄なので、必要なパーツが揃いきらないのは当たり前のこと。
それをいちいち騒ぎ立てるほうが、どうかしています。
前方後円墳ではなく塚ですよと書いたのに、それすらまともに理解できてなくて、
あらぬ方向に不自然に話が捩れてますよね。
報道されて分かっている範囲での石棺の目撃者は二人。
行政機関に所属する人物が、かん口令をしいてきたため、
多くの人が、知っていても、表向き話したがらない状況です。
もちろん、個人的な話としては、さまざまなことをお聞きして、
ひととおり裏が取れています。
書かれていることが正しく読みこなせずに、
まったく無関係な板違いの方向にすら暴走していく人もいるようなので、
非論理的だったり非常識と受け取れるコメントは、今後一切無視します。
宇佐説のポイントは、今盛り上がっている点とはまったく別のところにあります。
1.皇祖を祭る宗廟が伊勢と宇佐の二箇所にあるのはなぜ?
2.伊勢神宮を軽視して宇佐神宮の託宣を重んじてきたのはなぜ?
3.応神天皇が神として一番多く祭られているのはなぜ?
4.八幡と比売神という相容れない神を祭って、それぞれの勢力が抗争してきたのはなぜ?
5.応神天皇と神功皇后よりも、地元の神とされる比売神が格上の扱いを受けているのはなぜ?
私は全てすらすらと答えられます。
皇祖神がどこで生まれ、どのように祭られてきたかは、
卑弥呼がいた場所を特定する一つの重要な手がかりになるんですよね。
この切り口からの考察が、今まで甘かったように見えます。
554 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 07:07:28
適当な大きさの古墳があるとか言ってみたところで、古墳など全国にあるんだから、それが邪馬台国の
証拠になるわけではない。応神天皇云々も、後世の作り話、信仰であることを否定できない。
倭人伝の行程をしっかり考えないことには、始まらない話だ。
有名神社の祭神は、記紀神話に合わせて、かなり改変されているからね。
宇佐八幡宮の祭神は応神天皇だが、元々の祭神はスサノオだったらしい。
>>554 わが国の正式な書物である記紀神話を鼻から軽視し
その反動のように魏志倭人伝東夷伝ばかり妄信するのもどうかと思いますが
稲荷山鉄剣の例からも
応神天皇ことワカタケル大王の時にヤマトの勢力が拡大
もしくは絶大な権勢を保持していたことは多分間違いないと思う
あと、こういった宗教的な見地から考察することもとても大事なことです
たとえばなぜ
シザナギ・イザナミ神よりもアマテラス神の方が重要視されているのか?
なぜイザナギ神は初代ではなくアメノミナカヌシなのか?
宇佐と伊勢が東を向いているのは本当に太陽信仰と関係があるのか?
など、こういった疑問も含め
あらゆる多角的な視野から真相の究明をしなければならないのは当然です
557 :
556:2010/10/21(木) 07:31:27
訂正 ×シザナギ ○イザナギ の間違いです、大変失礼いたしました
全国有名神社(祭神)配置を物語化したのが、記紀神話。
559 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 08:16:37
記紀が軽視されるのには理由があります。邪馬台国について明記していない、倭の5王
についても、まったく書かない。隋使についても大唐の使者として、隋使とは書かない。
多くのごまかしがあるということです。ましてや、神話から事実を導きだそうとしても、
こじつけになってしまいます。
中国史書には玉石混淆ありますが、魏志は良書といえます。3世紀に書かれたものです
から同時代書といえます。しかも、後の後漢書、梁書、宋書、隋書などはその魏志を基
本的に踏襲し、邪馬台国への行程を訂正しようとはしません。ということは、各時代の
知識をもって検証しても問題がなかったということでしょう。
その魏志を無視して邪馬台国を探しても無駄ですね。
何を勘違いしているのか知らないが
宇佐=八幡はいわゆる皇祖神ではない
561 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 08:53:13
そんなことは君以外解ってるよw
宇佐神宮の石棺が土の中で、遺骨の遺伝子を確認できない以上
(もし掘れるならDNAの解析などは私の専門)、
誰の墓かといった話は進められないので、事実上ストップするのは仕方ないでしょう。
地上から超音波で見れる画像なんてたかが知れてて、
どんな形とサイズのものがどこに埋まっているか、程度のことしかわかりません。
塚のサイズうんぬんより、やっぱり皇祖を祭る場所としての意味が大きいですよね。
卑弥呼の邪馬台国から大和王権(大和朝廷)の大王(天皇)家の誕生へと至る、
一連の流れを把握していくうえで、
皇祖が祭られている宇佐八幡宮の場所は、最も重要な鍵を握っていると思っています。
もちろん、たとえ卑弥呼の墓でなかったとしてもです。
古墳に神社が建っているなんて、珍しいことなので、ハズレの可能性もあるでしょう。
そうだとしても、応神天皇と神功皇后よりも格が上の扱いを受けている日女神の比売大神は、
皇祖神としての、卑弥呼・または天照大神の可能性が高いと思います。
応神天皇は出生のエピソードからして怪しいところがありますが、
実在した最初の大王(天皇)ではないかと見る学者も多いのではないでしょうか?
しかも、宇佐八幡宮って、最初は渡来系の秦氏の軍神を祭る神社だったみたいですから、
応神天皇の時代に、弓月の君が秦氏の民を引き連れて渡ってきたことと、
まったく無関係には見えないんですよね。
秦氏の神社なら、本来は弓月の君を祭ってあってもおかしくないのに、
応神天皇になっているのは、じつは弓月の君と同一人物だから(どちらも伝説的w)
って説もあるようです。
別名誉田天皇の誉田は、弓を射る時に使う鞆(ほんだ)に由来するらしく、
弓月の君に繋がっている線は、細くはないですよね。
一つのストーリーを描いてみると、卑弥呼の子孫と弓月の君が北九州で出会った結果、
応神王朝が誕生して、皇祖を祭る宇佐神宮が出来上がった、というのは、
話の筋としてどうなんでしょう?
応神天皇と神功皇后は、弓月の君と卑弥呼の子孫の女性で、
格が上の扱いを受けている日女神は、皇祖神の卑弥呼・または天照大神というなら、
いちおうの辻褄が合うかと思います。
もしも邪馬台国が宇佐神宮付近にも勢力を持っていたとすると、
瀬戸内海を挟んだ北側との繋がりのほうが強かった可能性があると思います。
邪馬台国はじつは誤字らしくて、正確には邪馬壹(ヤマイ)国とする説もありますよね。
当時の国(こく)という概念は、防御が施された「囲われた町」のことですから、
現代の日本語でヤマイに該当する言葉を探索していくと、
山を囲って守りを固めた国という意味で、
山囗(ヤマイ 山圍)という表記が浮かび上がってきます。
つまり、邪馬臺国は間違いで、じつは邪馬壹国で、
山口県という地名になって、今も残っている可能性があるわけです。
もし宇佐神宮が卑弥呼の塚だとすると、
邪馬台国は山口県も含む地域だった可能性が高いと考えるのが妥当でしょう。
この点は、
>>538 >瀬戸内をはさんだ周防や伊予との結びつきが、弥生後期だと強いから
と、私と同じ見解をもった方もおられるようです。
>>563 応神天皇は半島から渡来してきた神功皇后が日本で産んだ子供(神功は多羅の王族で今の朝鮮人とは無関係)
それが北部九州を制圧しつつ宇佐に細々と続いていた邪馬台の末裔(神夏磯姫かその血縁)と姻戚関係を結んだうえで
東進を開始したのでしょう、邪馬台=宇佐とは考えません
狗奴国に破れ、その末裔が山国川、駅館川から下り宇佐にたどりついたものでしょう
>>道鏡の皇位継承を巡る、宇佐八幡宮神託事件はどうしましょう?
>>伊勢神宮が蚊帳の外に置かれていた状況は、全部嘘の作り話?
蚊帳の外も何も、宇佐神宮が出した「道鏡を天皇に・・・」の神託を確認することと、伊勢神宮は全く関係ないですね。
宇佐神宮は称徳の父聖武天皇が、国家的大事業の東大寺大仏建立をしたときに大活躍をした託宣神です。
大仏に貼る金箔が不足しているとき、「必ず国内より黄金を出す」と神託を降し、その通り黄金が見つかりました。
工事の進捗が危ぶまれるや「必ず成功させる」神託を出すだけでなく、神輿に乗り、はるばる奈良までやってきて、都大路を練り、人民を鼓舞したのです。
その功績で、宇佐神宮は伊勢神宮と並ぶ官位を授かり、奈良朝に信頼されたのです。
これは道鏡事件が起こるわずか17年前のことで、宇佐の神の力は、都人の多くが現実に見知っていました。
伊勢神宮は頼まれて神託を降す託宣神ではありませんから関知しません。また伊勢の斎宮は皇女ですから、直接神託の取次ぎなどしません。
伊勢の皇祖の場合には、必要があれば直接天皇の夢枕に立ちますから、近かろうと尋ねる必要は無いのです。
でもそれだと、お告げを受けた天皇本人にしか分らない話で信憑性がありません。
だからこそ、道鏡一派は前の成功例に倣い、宇佐神宮の神託が大成功をする筋書きで、神託を出させたのです。
でも今回はさすがに藤原一族の猛反発により、宇佐神宮の神職も寝返らざるえを得なかったわけです。
道鏡事件で伊勢神宮を蚊帳の外にしたわけではありません。
むしろ陰謀のでっち上げ神託に巻き込むのは避けたのでしょう。
567 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 17:25:38
>>552-553 キジルシ宇佐厨
>ひととおり裏が取れています。
「自分は知っている」「自分は見た」を金切り声上げて叫んでも説得力ゼロ
先ずあっちこっちの新聞で紹介されたと言う、その地中の石棺調査のソースを出せ。
こんな九州説・宇佐説にとって美味しそうなネタ今までに聞いた事が無いんだが…
仮にそのような事があったのなら機材を持ち込んでの調査を神社側が了承したって事で
なんで今更、石棺の存在等を隠さねばならないんだ?って話になるw
この時点で二律背反、矛盾しまくりで胡散臭さ爆発なわけだがwww
更に言えばもし本当に宇佐の地下に石棺があったとしても中もしくは周辺から
邪馬台国の時代にかかりそうなものが出てきてはじめてお話がスタートする。
中から「仏舎利」でも出てきたらどうすんだ?って話wwwwww
先に誰かも言っていたが
地下に怪しいものが埋まっているなんて話なら日本中にあるだろうと言うお話だわなw
568 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 17:26:42
以下、些か板違いで自分がそれを語るほど宗教に詳しいとも思わないが
あえて指摘しておく
この キ●ガイ宇佐厨 が必死に訴えている例の道鏡事件に絡んで
「宇佐神宮の託宣をとったと言う事は、伊勢より宇佐を重用した証拠」
と言うような話だが…
そもそも伊勢神宮が実際の歴史上神託を下したと言うような話は聞いた事が無い。
もしそのような事があって神託を得るに伊勢と宇佐の二択であったというのならともかく
元々そんな機能?のない伊勢と比べる事自体が無意味。
私見だが
むしろ伊勢神宮と言うのは天皇すら怖れた畏怖の対象で
それこそ「触らぬ神に祟りなし」で浮世現世から隔離された感が強い
(故に明治まで天皇の行幸もなかった、例外は例の持統だがw)
神託云々のお話は 神→守護神 と言う先入観で考えているだけ
現実問題、宇佐神宮は豊前一宮だが
伊勢神宮はそう言った「格付け」からも外された別格であると言う事実は返せない。
(ちなみに宇佐が神宮になったのも明治から)
宇佐が伊勢に並ぶ二大宗廟の一つなんてはじめて聞いた。
まあ道鏡事件の託宣は宇佐の”特殊性”みたいな話ならともかく
(無論その”特殊性”が邪馬台国に繋がるかは別のお話)
伊勢より宇佐が重用された、格上だった…みたいな話は普通に考えておかしいだろうとw
断っておくが俺は伊勢神宮の回し者でも無いし
ぁゃιぃ「国家公務員」でも無いからなwww
569 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 18:39:18
ただ単に皇室の氏神だから特別扱いされただけじゃないの?
伊勢神宮
起源
『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、
更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女倭姫命が
天照大御神を鎮座する地を求め旅をしたと記されている。内宮起源説話である。
この話は崇神天皇6年の条から続いており、『古事記』には崇神天皇記と垂仁天皇記の
分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。移動中に一時的に鎮座された場所は
元伊勢と呼ばれている。
なお、外宮は平安初期の『止由気神宮儀式帳』(とゆけじんぐうぎしきちょう)[3]によれば、
雄略天皇22年7月に丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井原(まないはら)から、
伊勢山田原へ遷座したことが起源であると伝える。
以外と素っ気ない。畏怖の対象とか余り関係がない感じ。
570 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 18:54:14
宇佐神宮の社殿は、中央で戦乱とかがおこって天皇が九州に落ちのびた際、
臨時の皇居にあてるつもりだったんだろ。
571 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 19:04:01
宇佐神宮は、周防灘を押さえて、
下関から瀬戸内海に向かうルートを
掌握してると見てよさそう。
畿内から中国交易ルートを結ぶときには
押さえていなければならない場所。
572 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 19:21:46
>>571 >571:日本@名無史さん :2010/10/21(木) 19:04:01
宇佐神宮は、周防灘を押さえて、
下関から瀬戸内海に向かうルートを
掌握してると見てよさそう。
関係ないでしょ
宇佐はかなり灘から奥まっている。灘を抑えるなら、本州側とか、それこそ関門海峡沿いでは
お、宇佐説で盛り上がってる〜♪
しかし、どいつも〜議論のレベルが低すぎて
笑えたwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
お前らに〜コテハンに「ケチ」つける資格ネエつーのwww 河童君、観においでよww
>>573 >しかし、どいつも〜議論のレベルが低すぎて
笑えたwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
だったら他所に行けよ
>>574 あ、ごめん
>>566さんは比較的マシ?かな・・・
ジョーカー君らしき人はひどいねw
いつから、初心者専門、邪馬台国スレになったんだい?て言いたくなるww
576 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 21:15:34
天皇家の宇宙印を造ったのが宇佐だろう?
宇佐とは、宇宙=天皇を補佐するという意味。
藤=富士=地王を補佐する佐藤と表裏一体の関係にあったようです。
東北には遊佐氏もいるけれど、佐藤氏とは相当仲が悪いようです。
577 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 21:22:27
日本の咲いた性は佐藤氏に鈴木氏。
藤原氏の末裔と、熊野のニギハヤヒ(まあ、要するに物部だな)が日本を仕切っていて、
宇佐の子孫はほとんど途絶えた現実を知るといい。
名前: 太国 ◆ yVAs7uaYlY 2010/10/20(水) 15:23:25 ID:uwVbFP7E
いま規制中で、むこうに書きこめない。
当時の天皇が伊勢行幸するのは禁であったということ。
2ちゃんの ドンと来い80.5 で伊勢神宮より宇佐神宮が格下で
ない事由を道鏡での託宣伺いで否定してたような書きこみが
あったが、当時の天皇は以下孝明まで伊勢参宮とかの伊勢神宮と
直接関わりを持つことが禁となっていたために伊勢に行けず、
宇佐にしたということであり、これで宇佐が格上だと言うのは
間違いだな。禁が解かれたのは明治天皇からだよ。
579 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 22:22:30
チョット念を押して聞いておきたいんだが…
>>517 >山本氏が指差した場所の地面の下を超音波で探査してみたところ、
>石棺の形が浮かび上がったそうです。
>新聞などで報道があり有名に。
このネタ誰も知らないのかな?
これだけ古代史邪馬台国オタクがいてw
ふう・・・
>>579は、おぬしジョーカーだべ?
おめー実際、宇佐に調査しにいったことないべ?
規制とか言って逃げるのは楽でいいですね。
俺もその手を使いたいけれど、そこまで卑怯者ではないし、
ふつうは、規制にかかりにくいプロバに替えますよ。
582 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 22:56:37
>>580 ドツボ
無いが?それがどうかしたか?
言いたい事あったらさっさと言えカッタルイやつだな。
そう言えばこういった神社や神道ネタお前好きそうだもんなw
ここでイッパツ株を上げるようなネタ披露してくれやwww
私は終止符スレ(卑弥呼スレ)専門、
ジョーカーは、ここのドン来い(考古学スレ)専門で、書き込んでいる。
なんだ、ジョーカーさんは、実際に宇佐に調査しにいったことないのに
「ここの住民を舐めるな」とか偉そうな事いってるのかな?
私は、五、六度、自分の足で調査してきている。
終止符スレ専門にしてる人のが信用できるって、人気奪われてしまうゾょww
584 :
日本@名無史さん:2010/10/21(木) 23:08:23
>>583 ドツボ
>ここの住民を舐めるな
おい馬鹿、それ俺の台詞じゃないぞw
まあ名無しでやっているんだから勘違いするのはそっちの自由だが
内容だけで書き込み者の区別なんてお前にできるはずも無いかw
で宇佐に現地調査wしたドツボ君のご意見を拝聴させてもらえないのかな?w
キャンキャン吼えるだけだなホントw
>>582 >無いが?それがどうかしたか?
>ここでイッパツ株を上げるようなネタ披露してくれやwww
トロ臭いやっちゃのぅ〜
おめー話にならんわwww
誰かジョーカーさんに邪馬台国宇佐説教えてやってよ〜おれヤダネwww
宇佐神宮 探査 石棺
をキーワードに具具ってみても
ネット上に邪馬台国関連ページがあまたあるにも関わらず
「宇佐神宮で探査が行われて石棺の存在が推定された」
なんて書き込みはヒットせず
いわんや新聞記事をや
嘘はいかんよねぇ嘘は
ジョーカーさん
ここの住民を舐めるな!って一人でギャーギャー騒いでなさい
ここ邪馬台国専門のトロ臭い「ジョーカー」から
言われても、誰もそう感じないんだよw
今日は遅いので・・・あばょ zzz
>>584 >で宇佐に現地調査wしたドツボ君のご意見を拝聴させてもらえないのかな?w
ただ宇佐に行ったことがある。が、いつの間にか調査と思いこんでるだけだろう。
>>583 >私は終止符スレ(卑弥呼スレ)専門、
>ジョーカーは、ここのドン来い(考古学スレ)専門で
そんな区別はないよ。
宇佐説が学問たりえないのは、社殿下の石棺などという非常にあやふやなものを
その根拠としているところだな。それがもし実際にあるのだとしても、怪しげなもの
が埋まっているところなど日本各地どこにでもある。
本来は3世紀の宇佐がどうなっていたのか、を示すことが大切なのだが、鷲崎某
の説などを見ても、それはまったくできていない。亀山に社殿が建ったのは8世紀、
日本書紀の成立以降のことだが、それ以前の亀山やその周辺がどうなっていたか
をたどることは難しい。
通常の解釈としては、宇佐神宮の創設は、書紀の内容を裏付けるための神功皇后、
応神天皇伝説の強化と神仏習合、大隅の辛島氏への対抗措置としてのものと考え
られており、それを裏付ける根拠はいくらもある。
宇佐には、新邪馬台国建国を標榜するグループがあり活発な活動を行っているが、
村おこし、町おこしの域を出るものではない。
大仏建立は仏事だから宇佐に聞いた
元来、皇尊(スメラミコト)がその霊力によって死者の魂を須弥山へ送り届けるとされていた
また、死人の霊魂や先祖霊を招魂したり、生き人の魂を奮い起こす力もあるとされていた
一方、釈迦は修行により自らの霊魂を須弥山の頂に至らしめた、と信じられた
また、そう信じたうえ、釈迦の修行を踏襲し、釈迦を崇拝対象として祭り、さらに釈迦を先達として死者の魂を須弥山に導いて貰おうとするのが仏教
前者は小乗仏教、後者は大乗仏教
国内に仏教が入り、多くの人が帰依する様になると、天皇は釈迦の霊を揺り動かして衆生を救済すべく働きかけよと求められる様になった
その魂振りの霊力が依然信じられたため、天皇は仏教の上に立つ事ができた
つまり死後世界の事は黄泉の方角、日の没する西の問題、だから宇佐神宮の信託を求めた
日嗣の御子である天皇は、日の出ずる東の伊勢神宮に氏神を祭る、そっちには聞けない
592 :
日本@名無史さん:2010/10/22(金) 16:00:29
なんか必死だなw
>>590 素人目には宇佐赤塚古墳の方がよほど説得力のある材料のようにも思うが
やはりヴィジュアル的にも訴える物が違うと言う事なんだろうか?w
で見た目のインパクトのみならずここまで出てきているように
道鏡事件までお話を引っ張り、あるいは稲荷と社の数のシェアの1・2を争う八幡信仰まで話を繋げられる。
お話を膨らませる「シロ」の大きさも魅力とか?wwwww
594 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 08:28:16
宇佐説は、伊都国を怡土に比定するところから始まるんだろう。しかし、怡土は
まちがいだ。伊都国=佐賀となれば、宇佐説など成立する余地はない。
595 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 10:49:16
そもそも畿内派の学者は
なにを根拠に「邪馬台国」なるものが存在すると言い張ってるんだか分からない
彼等にとって魏志倭人伝は偽書で
日本書紀は正典なんでしょ
じゃあ「邪馬台国」なる王朝は我が国の有史上、存在しない
でいいじゃん
596 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 11:20:01
魏志倭人伝は信用できない、日本書紀は正史と言いながら、実際には日本書紀には
問題がある、倭人伝は基本的に正しいと思っているからだよ。
597 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 11:35:20
>>596 それはただたんに貴方の個人的な判断。
信じられないと言ってるわりには、魏志倭人伝なんて言ってる。
598 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 21:30:01
599 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:21:47
>>598
これで邪馬台国が土佐にあったことがはっきりしましたね。
坂本竜馬は卑弥呼の子孫。
日本を変えるぜよ!
600 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:40:36
>>598 正直土佐と言うのは意外な気がした。
交易交流ルートを考えた場合、室戸岬を回る海上ルートか
物部川沿いの山間部を縫うようなルートかどっちなんだろう?
学者のコメントなら港町と言うことなので海上ルートと言うことなんだろうな。
まあ竜馬が卑弥呼の末裔かはおいといても
太平洋の海上ルートはもっと注目されても良いかもw
日向方面へは太平洋ルートもあったんじゃないの。
602 :
日本@名無史さん:2010/10/23(土) 23:59:19
あのー、
卑弥呼の子孫が坂本竜馬って、それホント???
603 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 00:29:55
>>602 卑弥呼さんの子孫はPerfumeのあ〜ちゃんですよ。
604 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 02:44:04
>>602 卑弥呼 = アマテラスor皇族の誰かと仮定すれば
とくに武士とかなら
広い意味でそう言えないこともないんじゃね
606 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 05:59:54
>>594 宇佐説は、伊都国を怡土に比定するところから始まるんだろう。
レポート不合格。勉強し直し。
607 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 07:45:37
宇佐説にもいろいろあるんだよ。一番まともな考え方が久保田穣だろう。
彼は伊都国は怡土説だ。
ほかの説にしろ玄界灘沿岸であることは同じ。伊都国が佐賀であることには
気づいていない。
ま、君の方こそ勉強し直しだ。
>>607 宇佐八幡宮説は「豊国」を支配拠点とした伝承がある壹與の時代かな?
宇佐神宮の神体山自体がこの時代の遺跡(古墳)とも考えられるし、
山門(高良山の南部麓)から宇佐八幡宮の地に支配拠点を移したとも考えられる。
もっとも、ヤマト王権の大神氏(帰化人)により神仏習合される以前を知りたいよね。
あと、三国志の邪馬壹国、後漢書の邪馬臺国の所在地については、
山門(高良山の南部麓)〜糸島半島(伊都国最有力地)でほぼ確定じゃなかろか?
この地域の遺跡からは、後漢時代の豪華な装飾品ばかり発掘されてるし。
>>602 周りの者が自分の藩の利益しか考えていない時に、竜馬だけは、
日本人が世界の列強と伍して生き残るにはどうしたらよいかを考えていた。
倭大乱のあとに共立された卑弥呼も広い視野の持ち主だったのででしょう。
列島の小国が三国時代の魏・蜀・呉や朝鮮半島の勢力と渡り合っていくには、
魏と結ぶのが最良の策だと考えてのことでしょう。
卑弥呼は国際感覚を持った政治家でした。卑弥呼、恐るべし。
邪馬台国土佐説。あり得ない話ではないような気がします。
魏と倭は、「委」っていう同じ部首がつかわれてるよね
だから発音も近い
北京語で発音すれば魏(ウィ)と倭(ウォ)だけども
それに鬼が付いたのが魏で、人が付いたのが倭
同族っぽい匂いがするな、だから国交があった
611 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 14:32:24
>>610その通り。
鬼が委ねた国が魏、
人に委ねられた国が倭なのだ。
魏と輪は表裏一体の兄弟国だったことが分かる。
魏つながりで【卑弥呼】と【姫嘉】で何か関係はないですかね?
姫(き)は中国の姓の一つである。中国史では、周王朝の国姓及びそこから分家した晋(諸説あり)・魏・韓(晋の分岐国)などの国姓である。
漢の武帝が封禅を行おうとした際に、周の末裔を探したところ庶子筋の【姫嘉】という人物を発見し、子南君に封じて、周の祭祀を奉じさせたと記載されている。
この一家は、衛の公家筋で、以後時代の変遷と共に何度か転封を繰り返しながら、西晋期間中まで存続し、少なくとも成康2年(336年)までに戦乱の為に
断絶したと記録されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB_(%E5%A7%93)
>>612 卑弥呼が周の末裔なら周の祭祀を行ってるでしょ?
もっとも周の末裔なら姓を大切にするはず
周の末裔と云われる倭の五王にしても姫姓ではないよ
614 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 18:37:35
>>583 ジョーカーって何年も粘着してるというキモい関西人のこと?
こいつサイキックバカ(笑)くらい酷い粘着だよね
ジョーカーは、他人を批判させたら一流だが、
自分の理論はぼろぼろなんだな、これが。
ま、邪馬台国論に関しては、常に批判する方が楽なのは確か。
論証は難しい。絶対的に資料が足りないので。
コテの馬鹿度を比べてみるのも面白いな。なあ、みんな メ はどのくらいだ?
>>610 おいおい、後漢時代から倭とは通商があったんだぞ? 金印が残ってるじゃねーか。
倭人伝のしょぱなにも「漢時有朝見者」とあるだろ。単に実力者と国交を結んだだけだろ。
今日、大分の宇佐であった寺沢薫氏の講演を聴いてきたが
三国時代に遼東半島に割拠していた公孫氏が倭国内乱をまとめるために
卑弥呼を大王にして巻向の地にヤマト王朝を作らせたのではないか、的なことを言ってたな。
公孫氏は楽浪郡、帯方郡を支配下におき、韓や倭は帯方郡に属するとされていたわけだからな。影響力が無いわけがない。
まぁ卑弥呼が使いを送った238年には、もう公孫氏は司馬懿に滅ぼされてたわけだけど。
619 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 19:10:41
>>618 なるほどね。
すると卑弥呼は半島・大陸の情況を機敏に察知して
新たに魏へ使いを送ったわけだね。
あり得ると思うよ。
古代史研究家にとって
羨ましいと思われる県民は
奈良、京都、大阪、福岡、大分 こんなもんかな?
で、>618さんは大分県民ぽいが、
寺沢薫氏の講演以外に〜なにかいいもの観れたかな?
死げい!
>>617 >コテの馬鹿度を比べてみるのも面白いな。なあ、みんな メ はどのくらいだ?
そのまえに、おメーさんのレスは何番と何番だ?全て教えてくれ。
君のバカ度を全員で検証してあげるから(笑)
こっちはコテはん。
一字、一字、過去レスの残る、つまり君ら「名無し」よりも大変なんだよ。
>君ら「名無し」よりも大変
つまりだな、俺らコテは変なこと言えないし「難しい」条件下において投稿してる。
んで、君ら名無しどもは、比較的「楽な」条件下で投稿してるってこっちゃ〜!
俺らコテに話しかける時は、その辺を考えながら、レスしてくれたまえ。
寺沢氏の講演は、実は邪馬台国の場所云々はおまけの話で
卑弥呼が住んでいた住居はどんなものだったのか、というのがメインだった。
倭人伝や漢書の中の「宮室」「楼観」「屋室」などの意味を色々説明してた。
特に楼観は単に高い建物や見張り台ではなく、魂を象徴する鳥が降り立つ場所、という意味があって
祭祀の場所には必要なものだったはずだ、とかそんな話。
奈良県の唐古遺跡から出た土器にも、鳥が止まっている高い建物とおぼしきものが刻まれていたりとか。
「発掘された日本列島」展はもちろん見てきた。
巻向で出た木製仮面のレプリカって、祭祀に使う物なんだろうけど
どうみても壊れたクワを改造しましたって物で笑えたよ。
水鳥の形をした埴輪は、子供を四匹をくっつけてやたら可愛かった。
>>624 ほう、面白そうですな。
大分県立歴史博物館「発掘された日本列島2010」展のイベントは、
関連講座 『天子の贈りもの』
講師:鈴木一郎(前中津市長) 平成22年10月30日(土)
午後1時30分〜 当館講堂
関連講座 『特別展の見所「邪馬台国」』
講師:高橋 徹 平成22年11月7日(日)
午後1時00分〜 当館講堂
http://rekisihakubutukan-b.oita-ed.jp/ 近くに住む人は、行ってくればいいのに〜!
626 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 19:38:02
>>616 アラタメドツボ
「持論」ねえ…
少なくとも行程記事の読み解きによるものでは無いし
蓋然性の積み上げで一つ二つでこれが根拠ですって話じゃないからなあw
そりゃ「箸墓が卑弥呼の墓です、それが根拠です」とでも言えば分かりやすいんだろうがゴメンなwwwww
まあ過去にも何回か説明したが暫くすれば直ぐにリセットで同じことの繰り返し
多分他の畿内説の人間も多かれ少なかれ同じような経験があるんだろうと思うが
そもそも「お前なんかエライ学者センセイの受け売りだ」と言うのなら
そのセンセイの本読んでくれよ('A`) と言う話www
で、こっちは与太トンデモ理論は記憶してやって
「ああ、いつものコイツか、次に言い出すのは、あのネタだな」と
大体先が読めてしまうw
こんなもの記憶していても絶対に役に立つ事は無いあろうのにだw
随分間尺にあわないというか不公平だなwwwwwwwww
つうか一応は畿内説論者としてのあらためドツボの自論って何なんだ?
だれかその骨子をかいつまんで教えてくれないか?w
ジョーカーとサイキックバカは程度の低い書き込みから推測して同一人物か?
まあ「持論」を持たない程度の低い関西人はスルーするに越したことはないわな
>>626 いやいや、おれの持論っていつも終止符スレでいってるじゃん。
「卑弥呼の墓=箸墓」これについて〜なぜそうなるのかを説明してるでしょ。
それに引き換え、君のレスには「○○だからこうなる!」ていう持論がないじゃん。
ようは、説明が無いというか・・・ 他人の批判しかないじゃねーかwww
629 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 19:47:19
>>623 ゴミクズドツボ
これ邪馬台国論争とか古代史とか関係ない話でね・・・
おいゴミクズ、2ちゃんでコテだからどうの名無しだからどうのって事は無いんだよド阿呆。
いまだにこのゴミは終止符スレのスレヌシ気取りか?
で、自分はコテでやっているから名無しよりえらいとか何とか勘違いしているのか?
お前はこっちのスレを考古学スレとか認識していたが(無論そんな区別は無い)
だったら自分の畿内説を考古資料をもって語って、名無しに
「さすがコテのドツボさんだ、俺達にできない論証をしてみせるう、そこにあこがれるうううっ!」
とか言わせて見ろよw
はっきり言ってお前のコテハンはイタイ香具師の認識票がわりにしかなってないぞw
メは道化師というか、狂言廻しだろ。レスは猿回しのようだが。
>>629 ジョーカー君
君の周りからの評価は、
>ジョーカーって何年も粘着してるというキモい関西人のこと?
>こいつサイキックバカ(笑)くらい酷い粘着だよね
てよwwwwwwwwwwwwww もう引っこんでろよwww
632 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 20:02:06
>>628 あらためドツボ
>「卑弥呼の墓=箸墓」これについて〜なぜそうなるのかを説明してるでしょ。
え?ひょっとしてこれか?(「終止符49.5」より)
>601 名前: メ 可愛い(〃0〃) [a] 投稿日: 2010/10/11(月) 12:14:13
>前方後円墳はモモソヒメの箸墓を境に超巨大になる。
>墓を巨大に造って、力を誇示しようとしたのか。
>それまでの墓はというと小規模ですな。
>ま、各地方によって埋葬方法や、形状、副葬品〜などの違いはあるが、
>巨大な前方後円墳から日本列島、ほぼ全域で同じようになる。
>ここらへんから統一へ向け一気に加速したかんはある。
>もちろん、奈良を中心に大きさ、形が決められ、地方のものは、そのミニチュア版だよね。
まあ確かに卑弥呼が親魏倭王に冊封されそれを画期に…なんてお話は良くあるが
それは畿内説を前提にした場合に成り立つストーリーで
ストーリーを先に…と言うのは普通に考えて因果が逆だろうって話だがw
>ゴミクズ九州説の皆さん江
「卑弥呼の墓=箸墓」を根拠にする皆さんにも噛み付きやすい
非常に分りやすい畿内説がいますよw
以後皆さんはドツボセンセイと遊んでもらってくださいwwwwww
633 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 20:02:46
抜け毛がひどいときは頭を剣山でこするといいよ
634 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 20:03:37
あ、すみません誤爆した
ま、みんな仲良くやろうや。
同じ邪馬台国研究者なんだし、な。
畿内説の人間にも叩かれるドツボって…
637 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 20:56:58
ジョーカーとかいう関西人のオサーンのせいで畿内説のイメージまで悪くなる
638 :
↑:2010/10/24(日) 20:59:16
実は私は箸墓に登ったことがあります。何か法に触れるのかもしれませんが、終戦直後の頃の話で
もう時効になってるでしょう。当時は私だけではなく、箸中などの集落の人の多くは近道をするために
登っていたのですよ。その道の痕跡は前方部に今も残っています。道がついた部分を少しでも外れる
と大型の礫だらけであることがはっきりとわかりました。礫を割って木が生えているような状態です。
後円部にも行ってみましたよ。かなりの勾配に感じたのは、当時私が子供だったからでしょうか。
古墳の中は実に不気味な雰囲気でしたね。
641 :
日本@名無史さん:2010/10/24(日) 21:24:10
>古墳の中は実に不気味な雰囲気でしたね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
殉葬者100人のうめき声が・・・・・・・・・
>>640 で、何かめぼしいものでも発見されましたか?
確か森浩一さんも、子どものころ大仙陵だかに入ったとか、どこかに書かれてました。
古墳への立ち入りが厳しくなったのは、ここ最近なんですよね。
昔は子どもの遊び場、戦争時は防空壕・・・
>>642 いや何も。後円部に行くにしたがって礫が大きくなっていった(あるいは土中からの露出が大きい)
ような記憶があります。土器片などを見つけたことはありません、なにぶん草が生い茂っていて。
当時存命だった父からは、後円部頂は土壇のようになっているという話を聞いたことがあるくらい
ですね。
>>627 関西人をあまり馬鹿にしないでください
関西人で邪馬台国が畿内にあったなどと考えているのは少数派ですよ
あんな弱小野蛮国に、あの畿内に散在する雄大な遺跡群を遺せるわけがありません
忽然と消え去った偉大なる銅鐸国家を、たかが狗奴国との戦争さえ自力で戦えず
魏に泣きついたような小国といっしょにしないでもらいたいですね
>>642 >古墳への立ち入りが厳しくなったのは、ここ最近なんですよね
60年代以降学界が赤色にそまったために厳しくしないと
入り込んで何しでかすか分からなくなったためなんだよ
高松塚の失敗で懲りてるんでしょ
648 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 01:42:31
>>607 キミは「宇佐説は、伊都国を怡土に比定するところから始まるんだろう」
と最初に決めつけて書きながら、
あとで
「宇佐説にもいろいろあるんだよ」といいつつ、何一つ根拠も挙げず、
「一番まともな考え方が久保田穣だろう」と言い切り、宇佐説を全否定する。
持論は勝手だが、これでは書き直しだろうな。
「ほかの説にしろ玄界灘沿岸であることは同じ」
同じでないのがあるよ。
649 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 05:14:01
>>648 >同じでないのがあるよ。
もったいぶらずに、こう考えるべきだと言えばいいものを・・・
650 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 06:56:21
寺沢の考え方というのは分かりにくいな。伊都国東遷説と吉備邪馬台国説を合わせて
結論だけヤマトにしがみついた説というべきか・・・
651 :
日本@名無史さん:2010/10/25(月) 08:17:40
( ・ω・) でもね。太陽信仰あって、温泉があって、絶景があって、女が
強い九州の方が、なんとなく邪馬台チック。初期大和王朝が、完全な中欧集権
でなく分権的で、宗教的権威に関しては九州王朝にまだ依存していた可能性は
あると思うのだよ。(後に吸収合併するにせよ)
だって、初期大和王朝は、近畿以外はまだまだ外様要素が強いし。地方反乱は
良くおきたし。
記紀を、その九州の宗教権威への依存からの脱却期・下克上期の書物として
解釈するという手法もありえると思う。
もう、スレタイを♪サイキックバカ(笑)ドンと来い♪ に変えたら
キモい関西人のオサーン隔離スレになってるじゃん
オサーンの粘着ってしつこいよね(笑)
>>652 はたから見ての公平な判断だが、サイキック・バカはお前より知識が広く頭がよいと思うぞ。
>>651 いや「宗教的権威」なんて物より、「長年培ってきた外交のノウハウ」みたいな物の方がより現実的だと思うなwww
ただその場合どうしても玄界灘周辺地域あたり(前原・福岡平野)になってしまうと思うが
655 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 00:13:26
卑弥呼や邪馬台国のことを隠すようにしておいて、
あとづけで大和にいたとか、東征したとか、
素人目にも無理があるワナ。
素直に、邪馬台国は滅んだ、滅ぼしました、と言えぬものか。
656 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 00:39:15
657 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 00:45:11
658 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 01:12:42
660 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 03:23:33
ひさびさに邪馬台国スレ見てみたら九州説が全滅しててワラタ。
>>658 だいたい講演会ってのは、研究者の資金集めのためであって、
「邪馬台国論争」を煽って客を呼んでるだけ。
情弱な客は、いまでも邪馬台国論争が続いてると思ってるんだな。
そう思わせておかないと研究者も金が集められないからな。
実際はとっくに畿内で決着してるというのに。
661 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 06:52:58
文献史学者は九州、考古学者は畿内って構図かな。しかし、考古学者はしょせん
アマチュアにすぎない。文献史学的に説明がつかない限り決着はない。
それに考古学者の大物で九州説もいるようだ。
>>660 研究者はスポンサーに喋らされているだけ
親方は県だったりするのだよ
663 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 12:13:55
文献史学って、証拠も無いのに「俺はこう思う」って言いっぱなしなだけだしな。
考古学は、証拠しか扱わないから、考古学に勝るものは無いし。
664 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 15:12:49
考古学は科学的な見せかけで「証拠」を作り出す輩もいるしなw
マジックハンドもどきが跋扈している世界ですか?
666 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 18:33:15
安○みたいな詐欺師にくらべたらかわいいものだろ。
黒幕は奈良県そのものだよ
ここは陰謀スレかいなw
669 :
日本@名無史さん:2010/10/26(火) 21:12:34
歴史なんていくらでも書き換えられる。
国民をだまして尖閣諸島は中国固有の領土で、日本に侵略されたと教えればいいだけだ。
異議を申し立てるものは、反社会的勢力として厳しく取り締まれば、
権威主義の老先生が反論することなどあり得ない。
そういう状況で国史編纂がおこなわれれば、どんな歴史でも造りかえられる。
_ vイ.‐'''"´ ̄``'‐、
_〉 i´ ヾ
∠ ゝ ミ ,ト、 __________
7 >、 .ノノ .ミ /
7 _/~ ∨ソ'`ヽ.l |
{. 〆ヽ トヽ、} .| ドンと来いというから来ましたが
.r´ヽ イ.◎j {◎ ト〈ゝ ..| お呼び出ない?
│6 彡 ゝ-' ゝ-' l . |
.ト-イ ● .i .\
l、 .二 __,、_ノ二 .}  ̄ノノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\. r"└' ノ
. `>- ニ -‐<
.,r´ ノ ノ 、ヽ
/ ト----<○/--┤.!
i' / ┌-- ̄--┐.| 'l
ヽ、__ー―`‐-:、__
__,ィ'´:::::::,ィ:::::::::::::::::::`'\
/::::::,ィ/ l::::|::ト:::::::::::::::::::!i
./,::::/ { !:::lヾヽl、::::::::::::::'ト、
_,、-::'´ ̄`゙'ヽ、 ノ'´{i'、._.! ヽ_,.-=<lハ、:::::::::::}i
/, 〃 〃 ,, \_ λi' ・゙i ´' ・ } i::::::::::,l
/ ' ./ .ヽ`':=_-<. `==='ィ レ'~ヽ,!
/ i' | { i }. `':-=、''´._シ /κ/
{ l ヽ !, j_ ノ `´=ヽ'<´
.!、 ヽ ヽ ヽ 'ノ:'´ }.} .'、
ヽ ヽ .,ゝ、_〉ァ=ニニ......,,,,,___ // j'i
`‐t‐‐'''t‐'j ) // ̄\ .|O`''-<_ ノ 'i
┌‐――‐、 \_,ニイ´ / -、ヽソノ /┤0R \彡 .l
| \ /´ ̄`ヽl ̄ ̄ヽ l ̄ T ./==,.ィ/ ̄.7 l
.| | `ヽ ヽ __ ヽ .ヽ l .|/ll_/./ / l
.| | i } γ ヽ } ヽl | ̄__ ./ / ,!
| | / .l !、 ノ ll ヽ、 .|‐-、./ ./‐、ヽ /
| |/ /  ̄ /| |、 |==/=./-、_ヽヽ ./
| / .\___ / ,ィ|___|ヽ___|ニ/ / \.ヾ〉
| / // { ヽ、- ̄l.l o }}-〈
:‐‐'´ // / \ ヽ ヽヽ // .}
672 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 11:43:18
考古学者は、一般に土器編年に絶対年代をあてるときに、畿内説を前提にして
あてているようだな。
673 :
日本@名無史さん:2010/10/27(水) 12:48:56
>畿内説を前提にして
それが、いつの間にか既知のものとされていく様は奇怪だな。
674 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 20:24:28
ここの多くの九州説がしがみ付いている昔の年代観ってのが
その「畿内説を前提としたモノ」なんだがなwww
>>660 >実際はとっくに畿内で決着してるというのに。
まあそう言っても間違いでは無いだろうが
現在の畿内説も昔の畿内説とは別物のわけで
土俵と言うかその競技・種目自体が消え去った感じだなw
675 :
日本@名無史さん:2010/10/28(木) 21:58:16
だから、考古学なんて気にせず邪馬台国を探せばいいんだよ。
676 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 13:38:31
>>290 未亡人が回想録出してたけど全然売れてなかった。
豪邸も売り払っているだろう。
>>674 >現在の畿内説も昔の畿内説とは別物のわけで
それを理解していない(したくないのか?)人が、このスレ大杉なんだよな。
ふつう自分の興味あるジャンルや話題については自然と詳しくなり、マニアとかヲタと呼ばれるようになるってのが普通なのに。
だから彼らは俺や君のような歴史ヲタと全く話が噛み合わない。
前提として持っている知識の量が雲泥の差なわけだ。
念のため、知識があるから偉いとか言ってんじゃなく、会話にならないほどレベル差があるってこと。
ガンダムが好きな奴はガンダムに詳しくなり、サッカーが好きな奴はリフティングが出来なくともやっぱサッカーには詳しくなる。これって普通のことだと思うんだけど。
>土俵と言うかその競技・種目自体が消え去った感じだなw
個人的には、その現実を認めたくなくて悪あがきをあいているように見えてならない。
判っててやってるのか、それとも未だに本気でやってるのか。
このあたりを是非とも九州説の人に聞いてみたいものだ。
いらん一行レスの脊髄反射レスは要らんから、一度真面目に答えてくれはしないか。
>>677 一口に九州説と言っても一人一説の世界だから色々あるんじゃないか
昔の栄光を追い求める人
倭人伝の暗号解読ごっこだけをしたい人
地元びいきの人
イデオロギーや陰謀論にはまってしまった人
劣等感が昂じてアカデミズムを敵視する人
各々の事情というかその人だけの世界を守りたいという精神状態の現れだろう
それを学問板でやられるのは迷惑この上ないというのなら、そこには同意する
679 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 18:52:25
笑
680 :
日本@名無史さん:2010/10/29(金) 19:17:24
>>678 >一人一説
ウケタwwwww「一人一殺」じゃないんだからwwwwwwww
一人一殺なら生き残るのは畿内たな
682 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 02:09:34
ところで、
「現在の畿内説」と「昔の畿内説」のちがいを
わかりやすく解説できるものはいないか。
>>682 昔の畿内説
・南は東の誤写である
・卑弥呼の墓は箸墓である
・西日本一帯を邪馬台国と三十ヵ国が統治していた
・魏から貰った銅鏡百枚は三角縁神獣鏡である
・邪馬台国が後の大和朝廷に直結している
現在の畿内説
・比較検討の出来ない文献の細かい記述に依存しない
・内部調査も行われていない古墳の被葬者など判らない
・日本各地に地域王権があり、それらの交易連合のうち最大のものが畿内ヤマト
・三角縁よりもむしろ画文帯のほうが整合性はあるが、重要視はしていない
・王権の礎ではあるかもしれないが、同一主体かどうかははなはだ疑問
要するに、文献の記述をどう解釈するかが昔からある邪馬台国論争であって
それに確たる真が置けないという当たり前の結論からスタートしなおしたのが、考古学主体の現在の畿内説
684 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 04:18:31
>>683 早々にありがとう。
とすると、白石氏なんかは「昔の畿内説」学者という理解でよろしいのかな。
>>684 横からだが
>>683のいう昔の畿内説とは、まさに大昔の畿内説で内藤湖南などの時代のものだね
そして白石は、一昔前の畿内説かな。鉄の重要性に拘っている時代のもの
また二昔前の畿内説が樋口などの三角縁や前方後円墳体制に固執したもの
学説だから漸次進歩しているわけだな
ここの九州説というのは、すでに学説としては消えてしまったものにいつまでも固執している特殊な連中だから論外だが
アカデミズムにも、現在の九州説というのはやはりあって、それも倭人伝解釈などには一切準拠していない
686 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 06:09:19
てゆうか畿内説を本気で信じている学者なんていないだろ。
政治的スタンスとして参加しているだけ。
だから都合の悪いことは、全員で無視するというていたらく。
687 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 06:10:09
現在の畿内説というのはこんなところだな。
・倭人伝とはどうしても整合しない。
・箸墓を卑弥呼の墓というのも無理だ。
・魏から貰った銅鏡百枚を三角縁神獣鏡というのも無理だ。
・銅鏡百枚は画文帯だと主張してみたが、これも無理だったな。
・従来の畿内説の根拠はすべて崩壊してしまった。
・仕方がない。墓が大きいことと纏向に外来土器があることで何とかこじつけよう。
畿内説というのは末期症状を呈した珍説です
老人たちがいなくなればあっけなく崩壊するでしょう
690 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 08:51:18
中国12億人の人民解放軍が一人一殺で日本に攻めてきたら、
日本は瞬く間に中国固有の領土になってしまう。
今の中国の漢民族というのは、そうやってツングース系の女真族の国、清を滅ぼし、
満州族もミャオ族もウイグル族もチベット族も朝鮮族も辺地へ追いやって領土を拡大してきた。
漢民族が、その旺盛な繁殖力で他の民族を追いやり、
アメーバーのように地球全体を覆い尽くす日も、そう遠くない気がする。
691 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 12:27:03
>>685 >アカデミズムにも、現在の九州説というのはやはりあって、それも倭人伝解釈などには
>一切準拠していない
まったくのまちがいだな。九州説の学者は、当然のことながら倭人伝の行程記事を十分に
考えている。門脇の「邪馬台国と地域王国」や最近出た「邪馬台国、魏使が歩いた道」丸
山雍成でも読んでみろ。
丸山雍成 まるやま-やすなり
昭和8年2月27日生まれ。
九大教授となり,同大九州文化史研究施設長をつとめる。
のち西南学院大教授。日本近世史,とくに交通史,幕藩制史を専攻する。
平成6年「日本近世交通史の研究」で学士院賞。
熊本県出身。東北大卒。編著に「日本近世の地域社会論」など。
近世の交通史,幕藩制史の専攻だったら、思いっきり門外漢じゃんwww
門脇禎二さんは基本的に文献学者だしなあ。
しかも3年前に鬼籍にお入りになっている。
そして現在、門脇さんの持説というか転向した九州説を支持する学者はいないわけだし、参考にならないなあ。
>>683 >むしろ画文帯のほうが整合性はあるが、
ここんとこ、理由を聞きたい。説明してもらえますか?
695 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 14:20:04
>>692 >>693 ああ、アカデミズムというのは、考古学者のことかね。
いやぁ、考古学者こそまったくのアマチュアだと思っていた。
696 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 14:26:07
>>695 横から失礼。
>>685は
>アカデミズムにも、現在の九州説というのはやはりあって、それも倭人伝解釈などには一切準拠していない
と言っているのだから考古学だろ。
倭人伝解釈に一切準拠しない文献学による現代の九州説なんてのが存在しうるのか?
697 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 14:43:47
あぁ、それなら考古学者は文献の勉強はしませんので・・・と言うだけの話だな。
倭人伝解釈に一切準拠しないのではなくて、準拠できないというべきだな。
で、現在存命中で古代史日本史を専攻する学者による九州説というのはあるのかね。
故人や門外漢の研究を引き合いに出さずに、現役で専門の学者のものを頼むよ。
699 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 15:22:57
存命中で古代史日本史を専攻する学者かどうかなんてことにこだわる気はないんでね。
気になるなら、自分で調べてみることだ。
ところで、現役で専門の文献史学者で畿内説っているのかね?
700 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 15:26:29
>>692 そういう発想って、思い切りタテワリ主義のガチガチ石頭だな。
専攻の時代が違うからって同じ日本史の学者まで排除するなんて、アホかいな。
どうせ院生か史学科生だろうけど、たかだか前近代の文献史学で思い上がるなよ。
701 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 15:51:16
医学とか建築学みたいな理系の、人の生き死にや安全性に関わる学問ならともかく、
書物の上の学問に終始してる文系(前近代の歴史)で、専門外だから口出すなとか言うのは、
単なるセクショナリズムや縄張り根性にしか思えないな。
真面目な考察なら、いろんな立場からの発言があっていいだろうに。
>>699 予想通りの答えだな、つまらんプライドのため知らないと言えないから誤魔化そうとしているわけだ。
ではこちらがきっちり答えてやろう。
>現役で専門の文献史学者で畿内説っているのかね?
居ない。同様に九州説を唱える者も居ない。
古代史の文献史学者は、すでに邪馬台国問題など扱っていない。
そんな時代遅れのお遊びをする馬鹿など居ないという当たり前のことだ。
>>700 専攻の時代が違うってのは、例えば内科医が外科手術をするようなものなんだぜ。
一般論でなんかかっこいいことを言ったつもりだろうが、とんだ見当違いで未熟な意見だ。
こいつはトンデモの見分け方の基本中の基本で、博士だとか教授だとかの肩書きに目を眩まされ
全く専門外の分野の本を書いているものにころっと騙されないようにするためのものだよ。
まあ一度トンデモ本の世界シリーズでも読んでみ。
703 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 16:26:19
>内科医が外科手術をするようなものなんだぜ。
医学では、人の生死にかかわる問題になるが、
日本史学で近世史の研究者が古代史に発言したからといって何の実害があるんだ?
一般人は、そんなこと誰も気にしない。
だから、院生とか史学科生は近視眼で視野狭窄なんだよ。
大体、学生向けの講義やゼミでは、自分の専攻以外の時代や分野も指導してる先生いっぱいいるぞ。
705 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 16:32:26
>>703 >日本史学で近世史の研究者が古代史に発言したからといって何の実害があるんだ?
間違ったことを言うという実害がある。
そんなこと気にしない一般人が真に受けて、
間違った認識が一般に蔓延するという実害がある。
史学は歴史上の真実を解明する学問。
史学に於いて事実認識を過つ行為は、
人命を救うべき医学に於いて命を軽んずる行いと同等。
706 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 16:42:27
>>705 >間違ったことを言うという実害がある。
考古学者に聞かせてやれ。でたらめばかり書くのは公害だってね。
707 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 16:44:17
>>704 聞いた話では、講義する側からすると、だから概論の講義が一番難しいらしい。
概論は大抵ベテランの教授が受け持ってるはず。
それに学部学生への講義・ゼミくらいのレベルなら専攻以外の分野の指導もできるだろう。
しかし、専門家同士が激論を交わすようなホットなテーマにしゃしゃり出るようなことは、
慎み深い人はしない。
708 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 17:21:00
>>702 平野 邦雄、奥野 正男、鈴木 靖民、高島 忠平。この連中は、九州説だと思うが、
みんな死んでたかなあ。
邪馬台国など創作で、あったのは九州の邪馬一国だろ。
日本歴史をいつまでもうやむやにし混乱させた状態の
ままにしておきたい輩がいるらしい。懲りない奴らだ。
710 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 17:58:07
>>705 それは実害にはならんだろう。
一般人にとって歴史(それも古代史)など、趣味や娯楽のひとつにすぎない。
その程度のものと、人間の生命や健康に関わる医学を同列に論じるのはおかしい。
だから、史学科は視野狭窄なんだよ。
むろん、デタラメな説が横行するのは反対だが、
そういうのは観光、町おこしが目的の自治体やお国自慢のアマチュアの連中や、
面白かったらなんでもいいエンタメ系の作家連中だろ。
近世や中世といった前近代専門の日本史研究者が古代史に発言しても、
世間の大多数の一般人にとっては何の問題もない。
>>708 4人とも古代史専攻の文献学者と違うやんw
>>710 それはやっぱ単なる一般論だなあ。それと
>世間の大多数の一般人にとっては何の問題もない。
こんなこと言い出したらそれこそなんでもありだぞw
専門分野というのは、やはりそれなりの知識の蓄積が必要不可欠なわけで
歴史学の場合は、古代、中世、近代ともなればもう別の学問と言ってもよい。
近代専攻が古代を語るなんて、それこそ物理学者が生物学を語るようなものだ。
つまり素人に毛が生えた程度のものでしかない。
上にもあるように、それは君の反対するデタラメな説の温床であり、それをトンデモと呼ぶわけだ。
712 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 18:54:44
>>711 古代史専攻にこだわるのか。ならば安本大先生だな。
713 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 18:59:28
>>711 だ・か・ら・
日本史学と医学や生物学や物理学みたいな自然科学を同列に論じるなってw
古代史、中世史、近世史に、それぞれの専門性があるとはいっても、
内科と外科、物理学と生物学ほどの差はないわw
専門性にこだわるのもけっこうだが、歴史学くらいであんまり垣根を高くしたり、
縄張り主義にこだわるのは、一般世間から見たら滑稽でしかない。
そういう学者の保守的で閉鎖的な姿勢こそが、世間からはトンデモな姿勢だよ。
しかし過去に他分野から古代史について発言した人って、ことごとくトンデモだったってのが実情だしなー
>>710 >一般人にとって歴史(それも古代史)など、趣味や娯楽のひとつにすぎない。
それを医療とくらべるなら、国家資格のない整体師が、腰痛とか肩こりとか治療してるようなもんでしょ。
そんなもんは医学じゃないし、そんなレベルの歴史談義も歴史学じゃない。
比べるレベルがめちゃくちゃだな。
てか問題がズレてないかw
どうやら元々は
>>691に対しての
>>692の切り返しみたいだが
こと魏志倭人伝の解釈を「日本近世交通史の研究」や「日本近世の地域社会論」を専門とする学者が行ったところで
そりゃあどう考えてもまともなものではないだろうw
718 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:12:47
>>713 古代史・中世史・近世史で扱う史料が違うから、全然違うよ。
そりゃあ学会誌などで違う専門分野の論文なんかも目を通すし、
知り合いもいたりすれば、ズブの素人よりは知識はあるだろうけど、
本当のギリギリのところの判断はできないだろう。
内科や外科の経験がないので、どの程度違うかは比べられないけれどね。
>>717 そうだね。
せめて東洋史の学者なら、専門の時代や分野が違っても、
漢籍の扱いには慣れているだろうけど、
「日本近世交通史の研究」や「日本近世の地域社会論」じゃあ
素人と変わらないだろう。
720 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:17:45
>しかし過去に他分野から古代史について発言した人って、ことごとくトンデモだったってのが実情だしなー
いや、待ってほしい。
それを言うなら昔の畿内説だって今から見れば結構トンデモだったるするんじゃないだろうか?w
なんつうかね、その学者の本来のジャンル云々と言うより
「倭人伝を読み解いて比定地を明らかにしよう」なんて手法自体が間違っていて
そりゃ玄人だろうが素人だろうがマトモな結果が出るわけが無いだろうとwww
721 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:24:21
>>720 >「倭人伝を読み解いて比定地を明らかにしよう」なんて手法自体が間違っていて
まさにその通りだと思う。だから、ちゃんとした学者が漢文のゲシュタルト崩壊を起こす。
722 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:42:00
>>719 なるほど。やっぱり榎あたりに戻らなければどうしようもないってわけだ。
723 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:44:12
昔から疑問なのは
「考古学的には畿内説、文献的には九州説」
なんてのは確かにこんなネット以外でも活字で目にすることはあるが
あれって一体誰がいつ言い出したのか?
むしろ元々考古学の恩恵・追い風を受けていたのが九州説だろう。
神籠石、江田船山、トンカラリンに最後は吉野ヶ里と、出てきては廃れの繰り返しw
そもそも昔の九州説の大前提
「弥生時代の九州は飛びぬけた先進地域!」
なんてイメージはそれこそ考古学の賜物だろうにwww
ぶっちゃけここのゴミレベル九州説は考古学が憎くて堪らないのが
カキコの行間からも滲み出ているがw
お前ら散々その恩恵を受けてきて今更ナニを言ってるんだとw
仮に” 現在の ”考古学と前置きつけて限定するなら
かつて九州説がイケイケだった頃からこっち、一体ナニが考古学の世界に起きたんだ?w
>>686(サイキバっぽいがw)みたいに政治に絡めたお話なら
政治闘争に敗れた結果が現在の九州説の状況を招いているのか?www
724 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 19:51:39
>元々考古学の恩恵・追い風を受けていたのが九州説だろう。
考古学に頼り切ったとは書けないところがつらそうだな。
>>720 >「倭人伝を読み解いて比定地を明らかにしよう」なんて手法自体が間違っていて
まあそういうことなんだけど、それを死んでも認めないのがここの九州説って訳だ
文献史学の世界では専門家がすでに邪馬台国論争など誰もしていないというのは
手法自体が間違っているという結論に達したからなのだろうし
それでも自分こそが過去の誰もが読み解けなかった謎の暗号『魏志倭人伝』の解読に成功したと言うのが、ここの九州説の言い分だよな
それならそうと胸を張ってトンデモを貫けばいいのに
何故かどっかの学者の説を一部だけ切り取って、さも権威ある学者も認めているとでも言いたげに虚勢を張るんだよな
実は権威に弱いのかねぇ、このひとたちは
それともよくある詐欺の手口と同じで、さも権威があるように見せかけてるだけかいな
詐欺なんだよ。この板の九州説は。
>>723 裏切られたとでも思ってんじゃねw
かつて私(九州説)のことを愛してくれたカレ(考古学)が
今ではこともあろうに大嫌いな女(畿内説)の彼氏になってしまい
世間もそれを祝福しているみたいなw
だから元カレ(考古学)が憎い、あの女(畿内説)が憎い!ってことで
でもそれは私(九州説)の単なる思い込みによる勘違いで
カレ(考古学)が愛しているのは、あの女(畿内説)とも違う別の女性なんだし
元々カレ(考古学)自身も、私(九州説)を愛していたわけじゃなく、利用していただけだったという側面もあるから
♪ 無敵九州精鋭軍団、鉄の刀でばっさばっさと畿内土人を斬り従える。
無敵九州精鋭軍団、鉄の掟の強権支配、大船連ねて行軍だ。
あそれ、無敵九州精鋭軍団。銅鐸なんぞはやめちまえ、時代遅れは打ち壊せ。
阿蘇山火を噴く大九州の、親魏倭王の卑弥呼様。絹の衣装で飾り立て、
畿内を征せと御命令。畿内は田舎の木器・土器。
こんなやつらばっさばっさと、鉄の威力で討ち従えて、三種の神器をさあ拝め。
729 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 20:52:25
とすると、
最新畿内説考古学派の重鎮または、新鋭の学者は誰なのか、
知っている者はいないか?
730 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 21:01:08
>>729 つーかそんな事も知らんとこのスレに常駐しているのかよ
ニュースとか見ないのか、本は読まないのか、ネットで調べないのか?
732 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 21:43:54
史学科原理主義の石頭どもは、本当に狭い世界の価値観でしか、ものを考えてないな。
理系を引き合いに出して、専門性を強調してるのは滑稽でしかないわ。
あんたらがどう強弁しようが、古代史と中世史・近世史の違いなんて、天と地ほどの違いはない。
それぞれの専門性を認めることはやぶさかではないし、専門的に研究して実績のある人は尊敬するが、
同じ日本史の学者にすら、時代がちがうと口出しを認めないような排他性、縄張り根性は唾棄に値する。
一般人から見れば前近代の文献史学なんて、理系の学問とは比較にもならないんだってことをわきまえて、
もっと専門外の人間におおらかになれよ。
狭い世界で自分の専門ばっかりやってると、
「専門バカ」というか「井の中の蛙」になるよね。
>>723 なんか必死に問題をすり替えようとしているな
>同じ日本史の学者にすら、時代がちがうと口出しを認めないような排他性、縄張り根性は唾棄に値する。
口出ししてきた内容が、どう読んでもトンデモだったというだけのシンプルな話だよ
まともに学んできちんと整合性があるものならば、他分野でも何でもおk
松本清張の九州説などは、今でこそ否定されているものの
当時は単なる推理作家の考察のレベルをはるかに超えていて
彼の「古代史疑」は正式な論文と同レベルでアカデミズムに迎えられていたしね。
安本美典も古田敦彦にしても、最初の論文はきちんとしたもので
当時は他分野の気鋭が参入したと好意的に受け入れられていた。
その後が変な方向にそれぞれ走っていって、自ら色物に成り下がったけど。
古田敦彦じゃねえ、武彦だw
まあまともなものは門外漢でも評価され
トンデモは同じ歴史学者でも不可というだけの話だな
737 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 22:16:14
>>735 流石に当時の雰囲気はしらんがw
市井の歴史愛好家にしたら快哉を叫びたくなるような現象だったんだろうなw
門外漢であるはずの清張がプロの史学者を相手に互角以上の論戦を展開したと言うのはwwwww
さぞや勇気百倍で、もしかしたら自分の手でこの国の歴史を大きく書き換えることができるかもしれない。
…そう考えたらそりゃテンションも上がるってもんだったんだろうなw
まあこの板のゴミレベル九州説は実際のところそんな気概も無いだろう。
こんなネットでしかお目にかかれないような
リアルじゃあ何処に出しても恥ずかしい与太話
仮に世間に広く発表する機会があっても恥ずかしくて言えないんじゃないのか?w
738 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 22:16:25
>>731 さしつかえなければ教えてもらえないだろうか。
ついでに著作とかあれば教えて欲しい。
739 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 22:18:04
>>732 >同じ日本史の学者にすら、時代がちがうと口出しを認めないような排他性、縄張り根性は唾棄に値する。
そんな排他性や縄張り根性は無い。
分野が違うと、基本の資料が全然違い、それぞれ膨大な量を読みこまなければならない。
それをやらずに迂闊に何か言っても、見当違いになってしまう。
自分の専門分野を持ってる人は、そのことが骨身にしみてわかってるから、
他の分野には軽々しく口をはさまなくなるというだけ。
存在しな排他性や縄張り根性に、どうやって唾を吐きかけるのか。
専門の学者は論文が勝負でトンデモは書けない、一般向けの本で
多少のリップ・サービスはままあること。
松本清張レベルの大家なら古代史で何を書こうと本業に響くわけではないし、
それでもうけようと思ってるわけでもないだろう。
ヤバイのは、一般信者を巻き込んで「○○の会」などを作るようなやりかた
だろうな。
741 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 22:20:46
742 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 22:21:39
>>683 >・日本各地に地域王権があり、それらの交易連合のうち最大のものが畿内ヤマト
上記文章では「地域王権」は「交易連合」であると受けとれる。すなわち「地域王権」=「交易連合」。
で、「畿内ヤマト」も「交易連合」なのだな。訳が分からん話だな。
>>738 そう下手に出られると、ちょっと大人気なかったかなと反省
重鎮といった類ではないだろうが、代表的なのは
石野博信、寺澤薫、柳田康雄らが、現在の畿内説の主流的存在
代表的な著書はそれぞれ
「纏向遺跡」「王権誕生」「伊都国を掘る」など
また若手に近いレベルでは、北条芳隆、村上恭通、溝口孝司:など
三人の共著に「古墳時代像を見なおす」がある
またシンポジウムのまとめだが「三国志がみた倭人たち」という本が
考古学者たちの代表的な見解を知るには一番手ごろで入手しやすい
こんなもので宜しいでしょうか
744 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 22:33:08
>>742 それが理解できないと、現在の畿内説を理解するのは難しいんじゃないか
どこの地方王権も、その正体は地方交易連合しかも面ではなく点と線のね
それらが相互に、またも点と線で緩やかに結ばれていたのが、広域交易連合
さらにその物流と交流の中心となったのが、西と東の中間にあるヤマト交易連合
>>737 自分もリアルタイムでは知らないけど、当時の考古学成果を踏まえて古代史疑を読むと
かなりいい線いってると思う
また短編小説の形で出した「陸行水行」なども、おそらくは自説としては捨てた部分を小説化したものだろうから
いかに多岐にわたって可能性を探っていたかという、研究者としての矜持もかいまみられるとも思う
「或る小倉日記伝」などにもそれは現れているね
>>740 特に古代史はリップサービスが必要不可欠な学問だからね。
発掘で得をするのは学者だけで、自治体も地権者も周辺住民も実は迷惑以外の何者でもない。
この不況だとよけいにその傾向には拍車がかかるだろう。
まあ、その、なんだ・・・NASAが自ら火星の人面岩の写真を発表して
「火星には宇宙古代文明があったかもしれません」などと
自分たちが欠片も信じていないような話で一般の興味を引くのと同じだな。
>松本清張レベル
>また若手に近いレベルでは、北条芳隆、村上恭通、溝口孝司:など
お前は何様だっつーのww
748 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 22:54:03
>>745 なんだ、商行為があった(物資の行き来があった)というだけで交易連合などと、しかも点と線のなどと、さらには
緩やかに結ばれていたなどと、おかしな幻想を膨らませているだけじゃないか。アホラシ。
749 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 23:04:26
で、現在の畿内説は瀬戸内海航路をとるのかな、それとも日本海航路をとるのかな?
みなさんよく本を読んでるね。
すこし、話に加わらせてもらうよ。
>昔の畿内説
>・南は東の誤写である
>・卑弥呼の墓は箸墓である
>・西日本一帯を邪馬台国と三十ヵ国が統治していた
>・魏から貰った銅鏡百枚は三角縁神獣鏡である
>・邪馬台国が後の大和朝廷に直結している
>現在の畿内説
>・比較検討の出来ない文献の細かい記述に依存しない
>・内部調査も行われていない古墳の被葬者など判らない
>・日本各地に地域王権があり、それらの交易連合のうち最大のものが畿内ヤマト
>・三角縁よりもむしろ画文帯のほうが整合性はあるが、重要視はしていない
>・王権の礎ではあるかもしれないが、同一主体かどうかははなはだ疑問
これらは誰の説だって?w畿内説と言えど〜人それぞれ考え方は違うはず。
>>747 いやあ、そう言うしか簡潔に書く方法が思いつかなかったのよ
不遜なのは認める、ごめんしてちょw
>>748 ところがどっこいwww
そう考えざるを得ないというのが、各地の遺物状況や遺跡調査からもっとも蓋然性が高いわけで
少なくとも強大な王が地域を支配していたとかのありえない話よりは現実的だろ
中国にしても魏、呉、蜀が面的支配をしていたわけでもなく
後漢王朝にしても強力な専制政治を敷いていたわけではないというのは、もはや常識
三国志演義やローマ遠征のお話に釣られてない、キミwww
752 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 23:09:54
>>750 ドツボ
いやだからそれ全部が一人の論者の説ってワケじゃないから・・・
>現役で専門の文献史学者で畿内説っているのかね?
これは聞いたことないね。
探せば居るのかな? 100人に1人ぐらい、馬鹿が居るかもしれんけどww
754 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 23:17:45
要するに今日の畿内説の根拠と言うのは
言い換えれば3世紀邪馬台国の時代の前後の日本の姿をどう描くかで
その姿を描く膨大なプログラムの最後に
「邪馬台国?ああ3世紀に魏に冊封されたって言うアレね
まあ順当に考えれば首長連合の中心だった畿内ヤマトなんじゃない?
九州を考えようにしてもこれと言ったブロックを形成した痕跡は無いしwww」
と数行加えただけwwww
>>748のような「首長連合アレルギー」な連中は文句言うだけなら良いが
じゃあ代わって日本の古代国家形成のプロセスをきちんと説明できるのかと言う話で
まあ現実的に「緩やかな首長連合などありえない」なんていう学者がいない
(少なくとも俺は知らないし、ゴミクズレベル九州説に聞いても具体的に名が挙がる事は無いw)
のはつまりそう言うことだとwwwww
>>750 誰の説というより、おおまかに考古学者の説が現代の畿内説
今の畿内説の中で各論があるのは、ヤマト交易連合の主体はいったいどこなんだろうという話で
これは寺澤の吉備主導、柳田の北部九州主導、石野の河内中心の阿讃関与
また広瀬の英雄的イデオローグ出現の大和・河内説や、北条らの交易圏から王権発生といった商業的プロセス重視
更には赤塚らの東海地方積極関与説など、細かい部分では異論続出
このあたりはマキムクスレで語ったほうがより詳細な答えが返ってくるのでは
>ヤマト交易連合の主体はいったいどこなんだろうという話で
邪馬台国は何処か?よりさらに細かい所まで話してらっしゃるようですね。
「交易」に関してはよく調べてないんですが、現段階ではどこが有力説なんでしょう?
>マキムクスレ
私はもともと九州説だったので、マキムクについて、あまり関心が無かったんですよ。
だから〜あそこのスレには行ったこと無いしw(一、二度はあるが・・・)
文献史学者で畿内説・・・誰か知ってる人おらんの?
うーん 一人ぐらい居てもおかしくないんだけどね。
>>690 確かに、今回の中国の首脳会談拒否も、日本にケンカを売っているとしか思えません。
いずれ一戦交えないとだめだと思いましね。
その時、日本は負けるでしょう。
勝ちたいのなら、今から軍事ロボットの量産体制に入るべきです。
日本国民に国民の体に偽造困難なIDチップを埋め込む。
そして、そのチップのない人間は無条件に抹殺する攻撃型ロボット。
それを日本海側を中心に配備し暗視カメラで海岸を監視する。
大陸間弾道ミサイルに転換可能なロケット技術はすでにあるので、
核兵器の開発が急がれます。
倭人の生き残りをかけた最終戦争が迫ってきていますね。
だいたい、「文献史学」というのが出来たのが〜
確か・・・明治からだったと思う(記憶なので間違えてたらごめん)。
枝分かれする前の段階では居たのかも知れないね。
誰か調べろよってはなしww
760 :
日本@名無史さん:2010/10/30(土) 23:53:47
>>743 『纒向遺跡』・・・古代都市マキムクとかいう電波の章もあるが、読む価値あり。高いが。
『王権誕生』・・・文庫で読む分には損した気にはならない。
年代遡上に特化した畿内説の先鋭とは少し距離を置きながらも、年代遡上に
追従するという後進的な畿内説。
『伊都国を掘る』・・・正統派畿内説とはちょっと一線を画しているが、畿内説の年代遡上を
受け入れて、平原遺跡を3世紀初頭としたことだけが、畿内説から評価されている。
平原は4世紀初頭で良いのいにねえ。
761 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:00:21
>>743 「古墳時代像を見なおす」
3人とも、文章をむやみに抽象化して必要以上に難解な文章に仕立てているね。
その割には、アルゴリズムは貧弱なんだよねえ。
歴史家が変に格好つけてみっともない文章を書いているという感がある。
古代史学界の改革をもくろむ体裁になってはいるけど、北條、溝口は年代遡上に
盲目的に追従するところが結構あって、守旧派が改革を偽装しているようにも
見えるんだよねえ。村上も今ひとつなんだな。
北條は、歴博のC14には激怒したりする良心はあるから、それなりに評価はしている
けど、無意味に論理に欠けた抽象的な文章が気に入らない。
森浩一のような必要最低限のアルゴリズムと事実の摘出をするのが、歴史家の文章だろ。
762 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:05:37
>>760 >『伊都国を掘る』
>畿内説の年代遡上を受け入れて
いや実際は畿内説に年代遡上を”受け入れさせた”だなwwwwww
アホーの奴らも調べてるみたいですな。
史学の津田左右吉、井上光貞がどうの・・・
>「文献からの畿内説」を主張される方が殆どおられませんので
やっぱり、居ないか。
論文を書いていると、文章を水増しする癖がつくのと、曖昧な部分をぼかす癖がつくのはあるなあ。
>>743 > 「纏向遺跡」「王権誕生」「伊都国を掘る」「古墳時代像を見なおす」「三国志がみた倭人たち」
>>755 > ヤマト交易連合
“交易連合”って、どこに出てたっけ?
766 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:17:52
やはり、卑弥呼が魏に朝貢していたという過去は、日本人にとって屈辱的なことだと思いますね。
記紀にそういった過去を一切載せず、歴史から抹消した藤原不比等の判断は正しかったと思いますね。
菅直人も仙谷も、中国政府に対してもっと毅然とした態度をとるべきです。
そうでないと、邪馬台国のように、中国様に封柵していただかないと生き残れなくなってしまいますよ。
767 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:20:36
>>763 文献史学の畿内説論者の有無も知らんで畿内説を主張しているとはお笑いだな。
確かおれの記憶では、史学から歴史学、文献史学に枝分かれした(間違えたらごめん)。
文献史学になってからは、畿内説を唱えてる学者は一人も居ないってことだよね?
で、枝分かれする前の史学では、誰か居るの毛? 誰か調べてよww
769 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:24:16
>>767 ん?お前さん知ってるの???
文献史学となってからは居ないが、その前はどうなん?ってはなし。
いや、いや 俺がなんでも知ってると思われたら困るよ(笑)
知らないことだって多くあるょ。
772 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:32:55
>>769 そこの常連たちは神話と現実の区別ができない記紀絶対主義で凝り固まってる上、
怪しげな年代論をふりまわしてるから、もうカルトの域だな。
んで、「考古学」というのは「古学」から、明治時代の、たしか帝国大(現在の東大)かなんかで
出来て、枝分かれし、それと同時期にこれら文献史学もできたはず。
文献史学の学者が全て何人いるのか!?も重要なんですが(たぶんすくないでしょ)。
枝分かれする前にも文献専門としていた学者もいただろう。
それらの中に畿内説はおるんかい? 誰か知ってる人おらんのぉ?
775 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 00:45:18
>>770 「文字に書かれた歴史資料」を手がかりとして歴史を解明しようとするのが「文献史学」だ。
だから、いつから文献史学ができたとかいう問題ではない。本居宣長だって文献史学的に邪
馬台国の位置を考えているんだ。
今の文献史学者で畿内説をいうのは山尾だ。井上某もいたな。
で、文献で邪馬台国を決める根拠になるのが、一級資料の魏志倭人伝で、
その記述が不正確故に文献からの邪馬台国探索は行き詰まった。
しかるに考古学からの検証で畿内説が有力視されている。
こうですかわかりません><
>>775 本居宣長は九州説だろ〜
山尾幸久は歴史学者だろ〜 バカだなwww
井上某?!誰だそれ?!ww
778 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 01:02:40
馬鹿はお前だ。九州説だ、歴史学者だといったところで、文献史学と相反する
ものではない。井上は名前は忘れたが、ちょっとうまい考え方をしていた。
しょせん間違った説だが・・
>>778 なんだそりゃwww
あのね 俺が聞いてるのは、文献史学者の中に畿内説論者はがおるのか?だって言ってるだろ。
ここのスレは、こんな馬鹿な奴しか居ないのか?!wwwwwwwwwwww
780 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 01:08:01
畿内説論者がいることは答えているだろ。宣長の名前は、文献史学の
意味を説明するために出しただけだ。誰も宣長が畿内説だなんて言っ
てはおらん。
駄目だこりゃwww
さすがジョーカー君(ドンコイスレ専門にしてる人)のお友達だゎwwwwwwwwww
話にならんので〜もう寝よっとw(逃げ)
>>780 メ にレスするのはやめた方がいいよ。
記紀から畿内説を語る人は、文献史学といってもいいだろう。ならいっぱいいるよね。
783 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 01:16:46
そう言えば、お前は人の文章を理解する力がなかったなあ。
はよ、寝な。
>ならいっぱいいるよね
ほんとぉ ここは馬鹿な奴が多いのぉ
類は類を呼ぶ みんなジョーカー君(ここを専門にしてる、あの人)のモトに集まってるんだよwww
さいならw zzz・・・・・・・・
国は百済・新羅の東南に在り、都は邪靡堆、魏志のいう邪馬台がそれで、阿蘇山という火山がある。(『隋書』倭国伝)
後漢の安帝の時朝貢した遣使は倭奴国の者である。(『隋書』倭国伝)
倭国は古の倭奴国で、新羅東南の大海の中にあり、四方に小島が五十余国ある。(『旧唐書』東夷伝・倭国)
後漢の桓帝と霊帝の時代、倭国は大いに乱れ、卑彌呼という女性を王に共立して、卑弥呼の弟が国政を補佐した。(『隋書』倭国伝)
魏の時代、三十余国が中国と通じ、皆が王を自称した。(『隋書』倭国伝)
倭国は魏から斉・梁にいたるまで代々中国と相通じた。(『隋書』倭国伝)
開皇二十年、倭王(姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩鶏弥。妻は鶏弥と号し、太子は利歌弥多弗利という)が遣使をよこした。(『隋書』倭国伝)
倭国王の姓は阿毎氏なり。(『旧唐書』東夷伝・倭国)
大業三年、倭国王多利思比孤が朝貢す、国書に曰く「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」云々。(『隋書』倭国伝)
大業四年、隋の煬帝が倭国に使者を派遣した。倭国は百済・竹島を渡り、南に□羅国(済州島)を望み、都斯麻国を経て、遥か大海中にある。
東は一支国、竹斯国に至り、さらに東に秦王国(秦王国人は華夏と同じ、以て夷洲となす)があるというが真疑は不明である。(『隋書』倭国伝)
倭国王は小徳の阿輩台を遣わして隋の使者・裴世清を来迎し、十日後には大礼の哥多〓[田比]を遣わし慰労した。(『隋書』倭国伝)
日本国と倭国は別種。日本国は日辺にあるため日本を以て名とす。(『旧唐書』東夷伝・日本)
あるいは、日本は元は小国で倭国の地を併合したともいう。(『旧唐書』東夷伝・日本)
日本国は東西南北に各々数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は毛人の国なり。(『旧唐書』東夷伝・日本)
倭国=九州=邪馬台国、日本国=本州(秦王国)=大和朝廷、毛人の国=東北=夷としか読めないんですが
>>785 漢文ひとつまともに読めないどころか
日本語そのものの読解力さえあやしい者たちが何だかんだわめいているだけですから
倭国=九州=邪馬台国、日本国=本州(秦王国)=大和朝廷、毛人の国=東北=夷
というあまりにも当然すぎるといえば当然すぎる事実さえ理解せよと言うのは、まあ無理でしょうね、酷でしょう
>>786 文献にどう書いてあるのかではなく
その内容が正しいのかが問題なのだが、それは理解できていないようだね
788 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 08:21:26
>>787 隋書は基本的に正しいとみているんだろう。何か問題がありますか?
>>788 わざととぼけてるのかなあ
隋書は嘘を書いている自覚などないだろうが
そこに書かれていることは本当なのかということが問題だろ
つまり中国史書における諸外国記事の信頼性を問うているわけだ
念のため、記紀と記述が合わないから信頼度が低いなんて馬鹿な考え方は当方はしていないからね
790 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 08:58:18
>>789 隋使は倭国の都を訪ねて倭王に会っている。内容も行程は大ざっぱに書かれているが、倭国の様子は倭人伝
よりはかなり詳しく記されている。書かれていることにそう不自然なところは
ないだろう。中国史書における諸外国記事の信頼性というが、史書はそれぞれ作成の経過も資料も同じでは
ない。中国史書を十把一絡にして論じ得る問題ではない。
791 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 11:57:00
まあ要するに
「砂鬼四荼羅経」の行き着くところは「九州王朝説」と言ういつものパターンか?
かつてのブームの頃のような勢いなんて遠い昔の記憶になった現代でも
九州の何処かで邪馬台国を看板に掲げたシンポジウムに足を運ぶような
市井の古代史マニアで九州説を持論とする人達(多くはご老人だろうが)も
ここみたいに「九州王朝説」や「邪馬台国東遷説」の信奉者が多いのだろうか?
792 :
本田:2010/10/31(日) 14:48:16
>>788 隋書』倭国伝
倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
×倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。
○倭国は、百済に在り、新羅の東南、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。
>>792 >隋書』倭国伝
倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
×倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。
○倭国は、百済に在り、新羅の東南、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。
倭國在百濟新羅東南を「倭國在百濟」「新羅東南」と分けて和訳するなら
新羅東南は新羅の東南じゃなく、東南の新羅となってしまいます。
794 :
本田:2010/10/31(日) 15:14:54
>>793 >新羅東南は新羅の東南じゃなく、東南の新羅となってしまいます。
九州東岸は、新羅の東南三千里でいいと思います。
>>794 >九州東岸は、新羅の東南三千里でいいと思います。
いいと思いますじゃなく、そうならないと言っているんだよ
796 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 15:29:32
みんな玄米食、干物ばかりの固い食事で健康かな?
3世紀は粥だよ
炊飯して玄米なんか食ってもゲロマズじゃん
赤飯は?
799 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/10/31(日) 15:40:12
崇神当時、畿内には崇神の朝廷があり、同じころ九州には九州王朝
の始めに相当する卑弥呼の女王国があった。つまり卑弥呼も崇神も
壱与、百襲媛らは同じ時代の人物だったということなのだ。これは
同論を主張する原秀三郎名誉教授の言い分がほぼ真であることを
意味している。
そして記の没年干支 崇神没年戊寅 は258年であることは堅い。これ
を3倍年暦で遡ると、崇神即位は青龍、景初年間に至る。それがし
の倍暦逆算では崇神没年=259年、崇神即位元年=237年=景初元年
をハジキ出しており、紀の崇神6年が景初2年に当たり、同年倭笠縫に
皇祖アマテラスとその象徴たる日像鏡(ヒガタノカガミ)を祭祀
してこれを1次鏡となし、2次鏡は同床共殿の鏡、3次鏡は翌年の
239年=景初3年ころになる畿内からうんと出土する同年銘文ある△鏡
の所在事由である。
当時ころから畿内には崇神,垂仁・・・の朝廷があり、九州には
卑弥呼、壱与らによる九州王朝が存在したのだ。これは大陸に当時
魏、呉、蜀の諸葛亮の言った天下三分の計たる3国があり、同様に
日本には畿内朝廷と九州王朝の二極の天下二分の体制が存したと
いうことだ。日本1極というのはトンデモになることは当選確実だ。
玄米に味噌とかを合わせると美味いよ。
801 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 15:44:45
風俗街は無かったの?
804 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 15:52:53
人の住む所、風俗あり
805 :
本田:2010/10/31(日) 15:55:57
>>792 『隋書』倭国伝
開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩?彌、遣使詣闕。
開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩?彌、遣使を王宮に詣でさせる。
倭王の姓の阿毎(アマ)を百済の王族姓の余(アマ)と仮定すると、
「倭国は、百済に在り」は倭国は百済の植民地と考えることができる。
>>801 風俗街は無いよ。
特別な施設は必要無い、貧乏一族の子弟は、食い扶持替わりに奴隷として売っ払られている。
男なら労役や兵役など、女なら雑役か性奴隷だよ。
特に床上手の女が居たら、高く売り買いされたんじゃないかな。
807 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 16:09:47
いやー、おまえらって本当アフォだったんだな
誰も突っ込まない時点で低学歴ばかりなのが丸解りだなw
808 :
本田:2010/10/31(日) 16:10:58
>>805 天智天皇
天命開別尊
(あめみことひらかすわけのみこと/あまつみことさきわけのみこと)
天智天皇は日本の天皇ではなく倭王だと考えられてるから、
「あまつみことさきわけのみこと」の「あま」も余(アマ)と考えることができる。
809 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 16:19:38
あービックリしたwアフォが多くて
810 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 16:24:28
>>807 バーカ。おまえが突っ込めよノーナシが
ノーナシが他人を評価している時点で愚か者のレッテルを
自ら貼りつけた事に対する自爆行為www
811 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 16:27:56
何処に出しても恥ずかしいレスが繰り返されてるのに
誰も気付かなかったんだねw
つまり参加者全員低脳だって言う事w
>>807 カタワの在日が、偉そうにほざいてる。
保護費減らすぞゴラァ
813 :
本田:2010/10/31(日) 16:32:28
>>808 光仁天皇
「天宗高紹天皇」(あめむねたかつぎのすめらみこと)
光仁天皇は天智天皇の孫なので、
天宗高紹天皇も余宗高紹天皇と置き換えてもよさそうです。
つまり余氏出身です。
814 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 17:22:26
カタワの在日が、保護費減らされて
こんな所で憂さ晴らしかwww
>>811さんよ
815 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 17:22:49
>>807 私の性奴隷床上手説には、突っこまれるような矛盾点は無い。
カンペキな説には誰も口出しできないのです。
816 :
本田:2010/10/31(日) 17:26:13
>>813 桓武天皇
諱は山部(やまべ)[1]。崩御の後に和風諡号として日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらすのみこと)が、
漢風諡号として桓武天皇が贈られた。
また柏原(かしわばら)天皇(帝)、
天国押撥御宇(あめくにおしひらきあめのしたしらす)柏原天皇とも呼ばれた。
桓武天皇は光仁天皇の子なので、
天国押撥御宇を余国押撥御宇と置き換えられます。
つまり余氏出身です。
817 :
本田:2010/10/31(日) 17:45:37
>>816 江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説は、つまり扶余族征服王朝説だろう。
818 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 17:51:05
高学歴者が低学歴者に玩具にされる。
それが古代史
819 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 18:52:15
トンデモ相手にいちいち文句つけるのも大人げないからなあ。
論争は戦争だ!相手を病院あるいは自殺に追い込む。それが
論争の勝利也
821 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:18:42
(・∀・) 通報しますよ
822 :
日本@名無史さん:2010/10/31(日) 19:44:47
>>792 >○倭国は、百済に在り、新羅の東南、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。
「倭國、在百濟。」で切って、「倭国は百済に在り」と読めば、
「新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。」の主語は「新羅東南」になる。
「新羅東南」が大海の中に於いて山島によって居住するというヘンテコなはなしになるよ。
また飛び抜けておかしいのが2,3日ほど前から居つき始めたな
邪馬台国ってのば、キチガイホイホイなのかもしれない
「本田」は河童虫が、まだプラムだったころからいる奴だよ。
自分なりの結論だけをただコピペのように貼り着けるだけで、コミニュケーションの取りようもない。
なので、太国や河童相手のように弄って遊べるわけでもないので、アボーンnameにして放置するしかない。
まあ、数日で消えるでしょう。
825 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 00:19:49
■『孤高の天才 原田大六』原田イトノ監修、荒木重人編述 不世出の考古学者、初の評伝
共同通信 2010/11/01
http://www.47news.jp/EN/201011/EN2010110101000254.html おそらく空前絶後の考古学者だろう。なにしろ在野の研究者として2つの国宝遺跡4240件発掘調査を主導し、うち1つは日本国家の起源にかかわる自説を裏付ける大発見だったのだから。
大胆な仮説と強烈な個性で学界を撹乱し、昭和という時代を沸騰させた原田大六、その実像に迫る初の本格的評伝である。
少年期より古代史に心奪われた原田は戦後、生まれ故郷の福岡県・糸島の地を拠点に、丹念な調査と卓越した技術で考古学上の業績を打ち立てていく。真理のためには学界の権威にも臆せず噛みつく姿勢から、付いたあだ名が「ケンカ大六」。
中でも国内最大最多の白銅鏡が出土した平原遺跡4240件は、古代史を塗り替える大発見だった。
自著『実在した神話』で原田は、記紀の日本神話は歴史的事実であり、平原遺跡の被葬者は天照大神だとする衝撃の仮説を打ち出す。
当然それは学界の大論争を招き、松本清張や梅原猛を巻き込みながら世に邪馬台国論争をはじめとする古代史ブームを巻き起こすのだ。
評伝は資料を縦横に駆使して原田の業績と思想を略述する一方、官界アカデミズムによる不当な圧力や行政の無策ぶりを跡づける。妻イトノの証言は、この猛虎のごとき反逆児の純真一途、涙もろい横顔を映し出す。
古代史に不案内な筆者にも一気に読み通せたのは、原田学説の気宇壮大ぶりに加え、一事に全生命を賭して生きる魅力的な人物像ゆえだ。こんな日本人がいた。その事実に勇気づけられる。
(歴史新報社 3800円+税)=片岡義博
☆歴史新報社の連絡先=電話・ファクス092(861)0869〒814−0143 福岡市城南区南片江2−7−17
・表紙
http://img.47news.jp/PN/201011/PN2010110101000268.-.-.CI0003.jpg ※伊都国歴史博物館では原田大六の特別展が11月23日まで開催中。
http://www.city.itoshima.lg.jp/soshiki/33/dairokuharada.html
826 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 00:25:40
卑弥呼様のコスプレとか、伊予様のコスプレとかで
楽しんで性欲処理した奴等もいたんだろうなwww
西太后のコスプレやって、憎たらしいやつを
井戸に突き落として蓋してやりたいわ(^o^)
829 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 00:52:25
■発掘展:五斗長垣内遺跡への道 弥生鍛冶工房に注目−−北淡震災記念公園 /兵庫
毎日新聞 2010年10月31日
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20101031ddlk28040227000c.html 弥生時代後期の鉄器工房跡が確認された淡路市黒谷の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡の発掘成果と、
淡路島や周辺地域の遺跡などからの出土品などを紹介する、県立考古博物館ふるさと発掘展「弥生の鍛冶(かじ)工房・五斗長垣内遺跡への道」(同博物館・淡路市・淡路市教委主催)が30日、淡路市小倉の北淡震災記念公園セミナーハウスで始まった。
12月5日まで、入場無料。
会場は鉄の歴史▽石器のくらし▽鉄器の普及と社会の緊張▽五斗長垣内遺跡と鉄器生産▽水銀朱の精製と鉄器作り−−などの6コーナーに分かれ、解説パネル40点と遺物約200点を展示している。
五斗長垣内遺跡と鉄器生産のコーナーでは、鉄器工房の炉跡が見つかった竪穴建物や炉跡の写真、出土した鉄製のやじりなどを展示。朝鮮半島から伝わった板状鉄斧(てっぷ)などの遺物も紹介している。
また淡路島や周辺の遺跡で出土した石包丁や石斧(せきふ)などの石製品、鉄器とともに出土した水銀朱関係の遺物なども展示。弥生時代の暮らしの移り変わりや他地域と交流を通じ、道具の材質が石から鉄へ変遷する様子を解き明かす内容になっている。
31日と11月7、14日には講演会も行われる。【登口修】
※シンポジウムもあります。
11月21日(日) 13:00〜16:00
「五斗長垣内遺跡の謎にせまる」
※パンフレット
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000001l60-att/p6krdf0000001l72.pdf
>五斗長垣内(ごっさかいと)
これってほんとに日本語か?
831 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 01:27:56
>>830 何て読むのかな? この地名
榎列 都志 茶間 神見 掃守 中条中筋 下司 戒旦寺
土器屋 鈩 小路谷 安乎 中邑 幡多 福良 払川 土生 河内
五斗長 国衙 倭文 御手洗 賀集 伊毘 檪田 中持 小山田
城方 鮎原 郡家 炬口 葛尾 塔下 佐礼尾 苅藻 蟇の浦 沼島
赤堂 万歳 阿万 鳥飼 志筑 古津路 雨乞 塩尾 栢野 養宜
三野畑 久野々 八畑 円実 雁来 社家 神代 喜来 倭文委文 来川
五斗長(ごっさ) 淡路市北淡地区
現淡路市育波の育波川上流の南東部、県道福良江井岩屋線から2q位離れた山間部に開けた集落で五斗長地域は曲折した急坂の高所に民家が点在します。
明治時代は黒谷南組といわれていました。
集落の長(おさ)の給料の高によって等級が決められて地名になったともいわれています。
一斗長(ひとさ)、二斗長(ふたさ)、三斗長(みとさ)、四斗長(しとさ)といい、現在も四斗長の地名は残っている。
五斗長地域では、村おこしの「ひまわりまつり」も開催されています。
『ポケットあわじ』vol.44 2006年1月号 (発行)淡路生活創造応援隊/県立淡路文化会館・県立淡路生活科学センター
http://www.hyogo-intercampus.ne.jp/gallery/pocket/poketto44.pdf
ゲイラカイト
833 :
日本@名無史さん:2010/11/02(火) 13:06:15
■第29回橿原考古学研究所公開講演会 〜『東アジア王墓フォーラム』開催のお知らせ〜
http://www.kashikoken.jp/ 当研究所では、2ヶ年わたって行われた桜井茶臼山古墳の再発掘調査が完了し大きな成果をあげてきました。
そこで今年度の公開講演会では、桜井茶臼山古墳の成果を広く一般に公開するとともに、中国と韓国から研究者をお呼びし、最近の三〜四世紀の中国、韓国の王墓の調査研究成果も合わせて紹介し、比較検討してみたいと思います。
とくに魏の曹操高陵の発見についての報告は、本邦初のご披露となります。ふるって御参集下さいますようご案内申し上げます。
日 時:2010年11月3日(水・祝日/文化の日) 9:30開場 10:00開演
会 場:奈良県橿原文化会館 大ホール
(近鉄橿原線「大和八木駅」下車 北東へ徒歩3分)
テーマ:『東アジアの王墓と桜井茶臼山古墳』
☆入場先着 1280名【入場無料・資料無料配布】
プログラム
10:10〜11:10 講 演 @ 「桜井茶臼山古墳の調査成果と意義」
豊岡卓之【奈良県教育委員会文化財保存課調整員・橿原考古学研究所研究員】
11:10〜12:30 講 演 A 「伽耶における三・四世紀の墳丘墓と王墓」
李 恩碩【伽耶文化財研究所学芸研究室長】
13:50〜15:10 講 演 B 「曹操高陵の発見と中国の墳丘墓・王墓形成」
王 巍【中国社会科学院考古研究所所長】
15:20〜16:40 フォーラム (コーディネーター:菅谷文則【橿原考古学研究所所長】)
司 会 寺沢 薫【橿原考古学研究所総務企画部長】
ポスターはこちら
http://www.kashikoken.jp/event/koukaikouenkai/2010/%E5%85%AC%E9%96%8B%E8%AC%9B%E6%BC%94%E4%BC%9A%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC.pdf
「曹操高陵の発見と中国の墳丘墓・王墓形成」
王 巍【中国社会科学院考古研究所所長】
また胡散臭いのを呼んだもんだ。
つーか橿原考古学研究所は大方の意見として、曹操高陵には否定的なはずだが、晒し者にする気かなw
835 :
本田:2010/11/03(水) 08:52:58
>>822 >「倭國、在百濟。」で切って、「倭国は百済に在り」と読めば、
私は、
「倭国は、百済に在り、新羅の東南、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。」
で区切ってます。
836 :
本田:2010/11/03(水) 08:54:06
>>835 >>822で指摘されているように漢文の文法上
「倭国は、百済に在り、新羅の東南、…」
とは読めない
838 :
本田:2010/11/03(水) 14:51:51
>>837 「倭国は、百済に在り、倭国は、新羅の東南、倭国は、水陸を越えること三千里、倭国は、大海中の山島に依って居する。」
839 :
日本@名無史さん:2010/11/03(水) 15:01:15
>>838 そう読むということは、
倭國、在百濟。
倭國、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
の二文が一文に結合されているということなんだけど、
二つ目の文が動詞もないし、動詞が無くても解釈できるような形でもない不完全な文になってる。
だからあなたの訳文も「新羅の東南」が浮いてる。
それを水陸を「越えること」と原文にない言葉を補うことで日本語にしている。
つまり、あなたの言うようには読めませんということです。
840 :
839:2010/11/03(水) 15:12:29
>>838をちゃんと読んでなかったので、レスしなおし。
本田さんのように読むということは、
1 倭國、在百濟。
2 倭國、新羅東南。
3 倭國、水陸三千里。
4 倭國、於大海之中依山島而居。
これが一文に結合されているということ。
このなかで、文として成り立っているのは、1と4だけ。
2,3が不完全な分なので、元の文をこのように分解できない。
つまり本田さんの言うようには読めませんということ。
百済はなんで「百済」と書くんだろ?
新羅とちがって、音を借りて漢字で表している訳ではない
漢字の“意味”に当てているんだと思う
江南の百越は、「越」地域に多民族の混在している様から「百」を冠したのだろう
では百済も、多民族の地域?
だから倭も入るのかもしれないな
日本全国300万人の斉藤さん、安斉さん、斉さんは百済からの渡来人が多いようです。
日本でも一大勢力をなしていますね。
斉藤とか「藤」がつくのは藤原氏の諸流だろ
斎人の藤原氏の家臣は斎藤を
佐伯の藤原氏の家臣は佐藤を
安倍の藤原氏の家臣は安藤を
加茂の藤原氏の家臣は加藤を
遠山村の藤原氏の家臣は遠藤をそれぞれたまわった。
その数百万に達する藤原家臣団ということです。
東北では「藤」性の人が人口の3分の1を占めるという事実に驚かされます。
845 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 00:33:53
■江原道華川郡で百済の巨大遺跡発見
朝鮮日報(日本語版) 2010/11/04
http://www.chosunonline.com/news/20101104000048 3世紀に北漢江上流まで勢力を拡大か
4大河川(漢江・洛東江・錦江・栄山江)再生事業が行われている江原道華川郡下南面原川里の北漢江上流地域で、3−4世紀頃のものとみられる百済の巨大遺跡が発見された。
埋蔵文化財専門調査機関であるイェメク文化財研究院は3日、原川里周辺の発掘現場で説明会を開催し、
今年5月からの発掘調査で青銅器時代の住居地23カ所や、鉄器時代から三国時代(漢城百済)の住居地120カ所など、計265の遺構があることを確認したことと、その中心となっているのは漢城百済期の集落の遺跡であると発表した。
漢城百済期の巨大な集落の遺跡が北漢江上流で確認されたのは今回が初めてで、これは百済が3世紀頃にはすでに今の華川郡周辺にまで進出していたことを示している。
百済時代の住居地は「凸」の字と「呂」の字に似た形のものが多く、一部はぎっしりと壁に覆われ、壁に突き刺さった木や板材、屋根の垂木なども発見されたが、これらは火に燃えた後のようだった。
また遺構からは土器類、金属類、ガラス製品、穀物、武器、馬具なども数多く出土した。馬具類や甲冑などが出土したことから、この地域は外部に進出する際の拠点だった可能性もあるという。
発掘現場は蓮の栽培が予定されている地域だが、文化財庁発掘製図課のシム・ヨンソプ課長は、「文化財委員会の決定を考慮した上で、保存するかどうかも含め、適切な対応をしていきたい」とコメントした。
許允僖(ホ・ユンヒ)記者
地図
http://file.chosunonline.com//article/2010/11/04/474420811161224446.jpg
846 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 11:34:21
847 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 19:16:11
ねえ纒向ってニギハヤヒの都なんではないの?
ちがうよ。
849 :
日本@名無史さん:2010/11/05(金) 21:09:20
都ではない。工事現場だ。
平安京以前の都は、天皇が変わるたびに遷都していた。
それどころか、疫病が流行ったりしただけで何度も遷都した。
ところは桓武の作った平安京だけは千年以上に渡って都を固定することになる。
桓武は旧来の伊勢系の天皇とは別系統の天皇であり、渡来人だったことがわかります。
日本の繁栄の礎は、扶余系の騎馬民族出身の王、桓武が築いたことがはっきりしています。
藤原氏が天皇を推戴する都=藤原京・平成京
平氏が天皇を推戴する都=平安京
852 :
日本@名無史さん:2010/11/06(土) 15:53:13
平成京というのが最近作られたらしい。
東京-成田スカイアクセスみたいだ
平成天皇陵、つまり東京スカイツリーが完成間近ですね。
しかし、昭和天皇陵=東京タワーの方が様式美を感じます。
>>850 代替わりごとに都が変わったのは藤原京の前だ。
藤原京は持統、文武、元明三代の都だ。
宮城と都城のちがいですな
857 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 01:57:20
>>683 何を馬鹿なことを言っているんだ?
>>・比較検討の出来ない文献の細かい記述に依存しない
当たり前だろう。
考古学というのは、全く何も分からない状況からスタートするものだ。
それで出てきた結論が、なんらかの文献と一致するようなら儲け物という程度。
文献の否定からスタートするなど、考古学のなんたるかを全く分かっていないものの言うことだ。
こんなことだから、「畿内説は詐欺だ」と言われて何も反論できないんだろ。
実際に考古学的には、邪馬台国が機内にあったかどうかなど分かりません、というのが正しい。
違うというなら、邪馬台国が機内にあった証拠というのを教えてくれ。
858 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 02:27:01
>>841 >>百済はなんで「百済」と書くんだろ?
これは、クダラをなんで「百済」と書くんだろ? という質問か?
まず、「百済」の読みはヒャクサイだ。当時の百済人も中華人もそう読んでいた。
若干の発音の違いなどもあるだろうが、大きな違いはないはずだ。
また「新羅」もシンラだ。
これら百済(ヒャクサイ)や新羅(シンラ)が、クダラやシラギとよばれるようになったのかは諸説あるが、
面倒なのでググれ。
ともかく、これでお前がどれだけアホな質問をしたのかは分かったか?
859 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 04:51:46
>>735 > 安本美典も古田敦彦にしても、最初の論文はきちんとしたもので
> 当時は他分野の気鋭が参入したと好意的に受け入れられていた。
> その後が変な方向にそれぞれ走っていって、自ら色物に成り下がったけど。
安本はどのように色物になったですか?
860 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 07:14:38
宇佐神宮
USA!!USA!!USA!!USA!!
,.、 .,r.、
,! ヽ ,:' ゙;.
! ゙, | }.
゙; i_i ,/ ,.、 .,r.、
,r' `ヽ、 ,! ヽ,:' ゙;.
,i" _, ._ ゙; ! ゙;; }
!. ・ ・ ,!. ゙; ii ,/
ゝ_ x ,::'' ,r' `ヽ、
(^ン''`'''''''''''''' 0∞o。 i" _, _ ゙; ←
>>860 `"! ( ::) ∧ !. ・ ・ ,!
゙'ンーr-‐-'") / < >ゝ_= x _::'
(__ノ (_,ノ ∨ /`''''''''(⌒';’∵∴;;゙
(⌒ヾ;;, `ソ :‘
゙゙`ヽ、、、__,,ノ゙
(,,,ノ'
862 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 18:39:22
863 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 19:09:53
>>860 宇佐で作られたものに「MADE IN USA」と言うラベルを貼っていたのは
ネタでもなんでもないお話なわけだがwww
864 :
本田:2010/11/07(日) 20:17:37
>>841 百済(ひゃくさい)の植民地の多羅(たら)で、
本国を旧多羅(くたら)と呼んだからという説があります
865 :
本田:2010/11/07(日) 20:18:18
>>864 木屋の資料館3.2C
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya32_c.htm ★ 「桓檀古記〜高句麗国本紀」
陝父せんぷは、南韓に奔走して、馬韓の山中に隠り住居する。
将、革を知り、貝#水(鴨緑江)を下り海に出て狗邪韓国に至り、加羅海の北岸に住居する。
転じて阿蘇山に移住して多婆羅国の始祖となった。
後に任那を併せて聯政とし、治めた。
そのうちの三国は海にあり、七国は陸に在る。
★ 「桓檀古記〜高句麗国本紀」
多婆羅国には、もと弁辰狗邪国人が先住して、狗邪韓国といった。
多婆羅国は多羅韓国ともいう。忽本より来たり、高句麗と早くから親交を結び、烈帝(廣開土境好太皇)が制した。
多羅国は安羅国と同隣して同姓である。
旧、熊襲城を有す。今、九州の熊本城がこれである。
※ 広開土王391-412(好太王)
加藤清正が築城する前から別の場所に熊本城があったそうだ。
866 :
本田:2010/11/07(日) 20:20:01
867 :
日本@名無史さん:2010/11/07(日) 21:36:25
「本田」の話って、ただのトンデモだよな
近代の偽書を真に受けるなってw
因幡の白ウサギの話は、出雲の大国主が、宇佐を和邇氏の手から救った話だ。
その功績により出雲は大和朝廷の中で一定の地位を得ることができた。
869 :
本田:2010/11/08(月) 06:21:28
>>841 >では百済も、多民族の地域?
王族と貴族は扶余族で庶民は地元の民族。
870 :
本田:2010/11/08(月) 06:27:18
>>867 日本書紀も黒坂勝美の編集が入った偽書です。
日本紀は焚書されたらしい。
871 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 09:45:00
違いの分かる男になろう。
872 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/11/08(月) 10:55:48
>>870 まぁこれも、S E N K A □ U 38 の件で、X国某人が日本側が俳優を使っ
て造ったビデオの偽作だと言ってたらしいのと同様の言い草だな。
こんな程度か?w
873 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 20:45:39
トンデモ鹿島史観に毒された本田(笑)
874 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 21:43:24
SENKAKU38か?SENGOKU38か?
写本になったり、引用されて逸文となった段階で、オリジナルが正しく継承されているという保証はなくなります。
その点、石碑は一次資料がそのまま残りから証拠能力gは極めて高いです。
鉄剣記銘も保存状態にもよりますが、一次資料として重要視されます。
魏志倭人伝は、もっとも古い資料でも何回書き写されたものかわからず、史料としては信ぴょう性が低いと思われます。
何度も言いますが、邪馬台国や卑弥呼を伝える石碑が必ずあると思います。
それさえ発見されれば…
875 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 22:26:34
876 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 22:46:03
877 :
日本@名無史さん:2010/11/08(月) 22:52:01
宮本武蔵の小倉碑を見ればそれがよくわかるな。
879 :
日本@名無史さん:2010/11/09(火) 00:27:27
■大阪府立弥生文化博物館
◆考古学セミナー
http://www.kanku-city.or.jp/yayoi/lecturer/index.html 考古学セミナー 第3回 2010年11月 6日(土)
『九州の邪馬台国事情』
坂元雄紀氏(九州国立博物館)
考古学セミナー 追加 2010年11月19日(金)午後2時〜3時30分
『邪馬台国大和説の盲点』
財団法人大阪府文化財センター 藤田憲司
考古学セミナー 第4回 2010年11月28日(日)
『東アジアの巨大墳と卑弥呼の「大冢」』
菅谷文則氏(奈良県立橿原考古学研究所所長)
--------------------------------------------------------------------------------
場 所:大阪府立弥生文化博物館1階ホール
時 間:午後2時〜4時
定 員:170名(当日先着順 午後0時30分から整理券配布・午後1時30分から受付)
880 :
本田:2010/11/12(金) 22:10:54
>>879 結局、九州だろうと近畿だろうと考古学の催しにおいては
「邪馬台国」「卑弥呼」が今も昔も最高の客寄せパンダって話だなwww
まあそれも悪いって話じゃなくて
戦国時代の入り口に信長、幕末の入り口に竜馬と言うのは普通にある話だが
882 :
日本@名無史さん:2010/11/12(金) 22:44:33
パンダを生まれ故郷に返すときが来たようですよ
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
883 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 23:05:36
884 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 23:31:36
885 :
日本@名無史さん:2010/11/13(土) 23:56:24
886 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 21:28:28
■宮内庁と町教委が同時発掘へ 広陵の新木山古墳
朝日新聞 2010年11月13日
http://mytown.asahi.com/areanews/nara/OSK201011120166.html 宮内庁と広陵町教育委員会は12日、同町にある大型前方後円墳・新木山(にきやま)古墳(5世紀前半、全長約200メートル)の発掘現場を歴史・考古系の研究者38人と報道陣に公開した。
天皇や皇族の墓の可能性がある陵墓参考地の古墳を宮内庁と地元自治体が同時に調査するのは、2008年の百舌鳥(もず)御廟山(ごびょうやま)古墳(堺市北区)に次ぎ2例目。
宮内庁の発掘は陵墓などの維持・管理が主目的で、その宮内庁と自治体の同時発掘がさきがけとなり、学術調査のための共同発掘に進めば、古代史の解明は大いに進むだろう。
この日、発掘現場を見学した研究者は歴史・考古系15学会の38人。宮内庁の担当者から12カ所のトレンチごとに説明を受けた。このうち3カ所の延長上の周濠部を同町教委がトレンチ調査した。
新木山古墳は大小の古墳が密集している北葛城地方の馬見古墳群の中でも、近くの巣山古墳(全長約220メートル)とともに中心的な大古墳。これまでは研究の対象外におかれてきたが、やっとデータが得られた。
岸本直文・大阪市大准教授(考古学)は「墳丘はかなり改変されていたが、中段のすそや平らな面が確認でき、全体の姿が推定できる。巣山古墳のすぐ次の段階の大古墳だろう」と話した。
(つづく)
887 :
日本@名無史さん:2010/11/14(日) 21:30:13
(新木山古墳つづき)
卑弥呼の墓説がある箸墓古墳(桜井市)をはじめ、県内には研究者も立ち入れない陵墓や陵墓参考地の古墳が多数ある。
宮内庁が、陵墓や陵墓参考地の発掘現場を研究者と報道陣にだけ限定公開するようになったのは1979年から。当初は写真撮影が許されないほど制限が厳しかったが、次第に柔軟になった。
2008年の百舌鳥御廟山古墳(堺市)で初めて、地元自治体との同時発掘に応じた。
広陵町文化財保存センターの河上邦彦所長は「新木山古墳を調査すると聞いて、堺市の例があるので、広陵町でも同時発掘しようとなった」と話す。宮内庁と町教委の担当者同士が打ち合わせて、トレンチの場所などを決めた。
だが、双方のトレンチは連続せず、墳丘と周濠の境目は発掘できなかった。
文化財保存全国協議会の宮川徙(すすむ)・常任委員は「古墳の基底部がわかる場所。基底部が発掘できれば、全体の形や大きさもわかる。もう少しでホームランだったのに」と残念がった。
河上さんは県立橿原考古学研究所(橿考研)調査研究部長だった98年に、明日香村の「猿石」など県内3カ所の陵墓にある石造物を宮内庁と共同調査した経験がある。だが、天皇陵古墳そのものの共同発掘となると、壁は高い。
陵墓問題に詳しい今尾文昭・橿考研総括研究員は「宮内庁は『共同発掘』と言われるのを嫌がっているが、同時発掘も事実上の共同発掘で、一歩前進だ」と評価する。(沖真治)
墳丘に樹木が茂る新木山古墳。手前は復元された三吉石塚古墳の埴輪(はにわ)列=広陵町三吉
http://www.asahi.com/areanews/images/OSK201011120165.jpg
888 :
日本@名無史さん:2010/11/15(月) 21:27:59
真相あげ
>>889 自分で題も提供できないやつが、スレ維持のための無意味なageはするな。
891 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 21:53:23
892 :
日本@名無史さん:2010/11/17(水) 22:20:51
■特別展:交通関連の遺物を展示−−唐古・鍵考古学ミュージアム /奈良
毎日新聞 2010年11月17日
http://mainichi.jp/area/nara/news/20101117ddlk29040471000c.html ◇舟のかいや木製車輪
古代の交通をテーマにした「秋季特別展 道の考古学」が、田原本町阪手の唐古・鍵考古学ミュージアムで開かれている。発掘調査で出土した土器や埴輪(はにわ)など輸送にかかわる遺物を展示している。28日まで。【高島博之】
同町の弥生時代の大型環濠集落「唐古・鍵遺跡」は、大阪湾から大和川を経由して奈良盆地に至る水運の要所だったとされる。
古墳時代後期には、奈良盆地で道路交通網の整備が始まった。町内には、聖徳太子が斑鳩から飛鳥に通ったとされる「太子道(筋違道)」が現在も残る。
別の古道「保津・阪手道」と交差する付近では、飛鳥時代の倉庫群跡や奈良時代の大型建物跡が見つかっており、交通の要所としてにぎわったとみられる。
同展では、唐古・鍵遺跡で出土した木製の舟のかい、人の顔が描かれた奈良時代の墨書人面土器のほか、天理市の東殿塚古墳(4世紀前半)から出土した3隻の舟が彫られた円筒埴輪、桜井市で見つかった国内最古級(7世紀後半)の木製車輪などを展示している。
※秋季企画展「道の考古学」 (唐古・鍵考古学ミュージアムサイト)
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/event.html ◆関西文化の日◆
11月20日(土)・11月21日(日)の2日間は、関西文化の日で常設展・企画展ともに無料でご観覧いただけます。
893 :
日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:47:31
〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/ ┃ /ヘ /
〜 〜 {ヽ_ / {_/ ┃ 「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/ ★末盧国 ┃ ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~ ┃ /
┃ 「一大国」 /
_ |ヽ■伊都国 ┃ /▲フ /
/ヽ/ |/ | 伊吹山 ┃ | 「 /
| ヽ ★奴国 ┃ | |__/
ヽ, 水行 ヽヘ ★不弥国 ┃ / トヤマ
| ↓ / ┃ ↓ / カナザワ
┌ ' ノ ┃ ↓ /
/ ノ ┃ ↓|フクイ
丿 ノ ^’ ┗━━━━━━━━━━━
|_ 水行↓,/
/ _/ヘ/▲投馬国
| | \ 末盧国・・・敦賀市
/ > 天 \ 伊都国・・・旧伊香郡高月町
/ / 安 \ 奴国 ・・・長浜市
\ | 川 不弥国・・・米原市
∨ ☆呼邑国 投馬国・・・野洲市・守山市
邪馬台国 ★ 天 邪馬台国・・・旧信楽町
岩 ☆為吾国
戸 呼邑国・・・甲賀市
為吾国・・・伊賀市
☆巴利国 巴利国・・・名張市
☆烏奴国 烏奴国・・・宇陀市
☆奴国 奴国 ・・・奈良盆地
有人嗎?
♪子供の味方だ、大暴れ、それゆけがっちりやっつけろ。
896 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 22:27:37
■奈良・秋津遺跡 大和政権の重要施設か? (動画あり)
毎日放送 11/24
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE101124180700409274.shtml 奈良県御所市で、今年1月に発掘された古墳時代の「秋津遺跡」で新たな発見です。
遺跡内の柱の跡などから大和政権に関わる大規模な重要施設だった可能性が出てきました。
秋津遺跡は和歌山から奈良盆地に入る交通の要所にあたり、御所市で建設中の京奈和自動車道の工事現場で今年1月に見つかりました。
奈良県立橿原考古学研究所のその後の発掘調査で、幅20センチほどの溝に立てられた板塀の中に一辺が7メートルから13メートルの建物が立ち並んでいたとみられる跡が見つかりました。
建物群は古墳時代前期に計画的に造られたとみられ、区画は最大で一辺が50メートル以上あるものもあり、全体では南北が400メートル、東西が700メートルにも及ぶ巨大な施設だったとみられています。
研究所では、大和政権に関わる重要な施設の可能性があるとして調査を進めています。
897 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 22:39:06
898 :
日本@名無史さん:2010/11/25(木) 11:08:48
不動産分野では、1分80m。1時間で4.8km。1日8時間で38.4km。
1月30日で1152km。九州南北約300km、福岡ー奈良約500km。
東に陸行でも奈良通り越して太平洋の海の中。
近畿説は、距離の面で合わない。
『東京大学(元)助手が邪馬台国の謎解きに挑む』
月210円 第2,4金曜発行
バックナンバーも買えます(有料)
1月無料です。是非読んでください。
http://www.mag2.com/m/0001138570.html 1号 7月9日 Q&A 40問
2号 7月23日 白珠について他
3号 8月13日 何故、論争になったか他
4号 8月27日 陸行1月他
5号 9月10日 難升米について、南端他
6号 9月24日 放射式、五王他
7号 10月8日 位置論他
8号 10月22日 天文図他
9号 11月12日 金印
10号 11月26日 and、or式
899 :
日本@名無史さん:2010/11/25(木) 11:25:26
くだらない計算をしてるようじゃ、役に立たない説だろうな。
900 :
日本@名無史さん:2010/11/25(木) 16:32:29
東大助手と言うのはahoだね。
魏志によれば洛陽から瀋陽まで4000里、約1600kmを
休みなしに歩いて100日掛かると計算している。
であれば、一日に16kmくらい歩くと言うのが妥当だ。
江戸時代のように道路が整備されてからなら健脚であれば
倍くらいはあるいただろうが三世紀では草木が道を塞いで
前を行く人間が見えない位という。
20kmも無理。
北朝鮮の暴走を止めるには、中国様が北朝鮮を冊封して、金正日に換えて郡司を送り込むしかない。
しかしそれは、南朝鮮も、アメリカも受け入れることはできないだろう.
しかし、日本が出兵すれば、白村江の戦いの二の舞になるだろう。
902 :
日本@名無史さん:2010/11/27(土) 01:47:49
女
王國東渡海千餘里,復有國,皆倭種。又有"侏儒國"在其南。人長三四尺,去女王四千餘里(侏儒國=愛奴人地界,由此反推邪馬壹方位)
903 :
日本@名無史さん:2010/11/27(土) 02:46:24
他人のことをばかなの?とかすぐ言う人がいるけれど、あれはなんで言っているのだろう?
もしかしてあなたの全く及ばないような深謀遠慮の持ち主かもしれないのに、
まあ、本人に直接、聞いてみるのもひとつの手だけれど・・・
そんな恥ずかしい真似は俺にはできない。
905 :
日本@名無史さん:2010/11/27(土) 21:31:16
■秋津遺跡 現地説明会のご案内 (PDF)(地図あり)
京奈和自動車道御所道路第7工区
奈良県立橿原考古学研究所>秋津遺跡現地説明会(2010年11月28日)のご案内
http://www.kashikoken.jp/event/gensetu/2010/akitsu-gensetsu.pdf 秋津遺跡(御所市條地区)で、古墳時代前期の大型方形区画施設と竪穴住居跡群を検出いたしました。
実施日時:平成22 年11 月28 日(日)10 時から15 時 (説明は,随時行います。)
※小雨の時は決行いたしますが、悪天候の場合は中止といたします。
実施場所:御所市條地区 (秋津小学校より東200m付近) JR 玉手駅より南西に徒歩約40分。
※駐車場に限りがありますので、なるべく公共交通機関をご利用下さい。
実施機関:奈良県立橿原考古学研究所 電 話 :0744-24-1101
調査現場受付:090-1717-6614(当日のみ問い合わせ可)
----------------------------------------------------------------------
※参考 昨年度発掘調査の現地説明会資料(PDF)
・秋津遺跡 現地説明会資料(2010年1月24日)
http://www.kashikoken.jp/from-site/2009/akitsu2.pdf ----------------------------------------------------------------------
906 :
日本@名無史さん:2010/11/27(土) 22:21:09
■象鼻山古墳群:計画的遺跡 2世紀ごろ、一斉に築造 「実力者の共同墓地か」 /岐阜
毎日新聞 2010年11月25日
http://mainichi.jp/area/gifu/news/20101125ddlk21040045000c.html ◇養老町教委
養老町教育委員会は24日、同町橋爪の象鼻山(ぞうびさん)古墳群が、2世紀中ごろから後半に大規模な造成をした上で、計画的に一斉に造られた遺跡であることが分かったと発表した。
地域の有力集団が代々の統率者を葬る一般的な古墳群とは異なり、濃尾平野を中心とする広範な地域の複数の集団が、実力者を埋葬する共同墓地として利用した可能性が高いという。
同古墳群は、濃尾平野の西端にある象鼻山(標高142メートル)の山頂周辺に70基の古墳が確認されている。
今回の調査は、山頂から直線で約200メートル離れ、標高の低い二つの古墳を発掘。16メートル四方の方墳と20メートル×17メートルの方墳が見つかり、出土した土器から2世紀中ごろから後半にかけての築造と分かった。
いずれも大規模な整地をした後に盛り土して墳丘を造っていた。
山頂周辺では、この2基とほぼ同時期に造られた5基の古墳が確認されており、最も北に位置する1号墳(3世紀後半)を例外として、同時期に同じ方法で築造されていた。
同町教委は「一つの地区だけで、これほどの古墳を同時に造ることはできない。濃尾平野全体の古墳ではないか。まだ内容が明らかになっていない墳墓が中腹にあり、これらの性格も明らかにしたい」と話している。
同古墳群調査整備委員長の宇野隆夫・国際日本文化研究センター教授は
「一斉に計画的な造墓を始めた稀有(けう)な事例であることが明らかになった。水陸交通・景観の結節点にあたる象鼻山とその周辺地域を聖地として、濃尾平野を中心とする広範な地域の複数の集団の有力者が葬られたものと推察される」
とコメントした。
同教委は27日午後1時から現地説明会を開く。小雨決行。来年2月11日には象鼻山古墳群シンポジウムも養老町民会館で開催する予定。
※岐阜新聞写真
象鼻山古墳群の20号墳
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20101125/201011250945_12254.jpg ※記事
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20101125/201011250945_12254.shtml
>>898 未だにこんなパズルごっこか、東大の名が泣くよw
908 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 20:37:29
■畿内か九州か、いや山陰だ 古代史サミット
日本海新聞2010年11月28日
http://www.nnn.co.jp/news/101128/20101128038.html 古代日本の邪馬台国の位置を論じ合う「古代史(邪馬台国)サミット」(山陰古代史研究会設立準備委員会主催)が27日、鳥取県境港市上道町の市民会館で開かれた。
山陰説、畿内説、九州説をそれぞれ唱える3人の研究者がパネル討論などで自説を熱く主張し、論争に火花を散らした。
2012年の「古事記編さん1300年」やパワースポットブームを踏まえ、古代の歴史資源を観光振興に生かしたい鳥取、島根両県の行政や経済界などもサミットを後押し。
地元で「神在(かみあり)月」と呼ぶ11月(旧暦10月)に開かれ、全国から約350人の古代史ファンが集まった。
山陰説のパネリストは、昨年末に「新説・邪馬台国山陰説−論点整理」を著した古代史研究家の田中文也氏=境港市渡町=。九州説では「邪馬台国を考える会」の奥野正男会長を、畿内説では岡山大学の松木武彦教授をパネリストに迎えた。
田中氏は
「山陰は世界でもまれな自然環境に恵まれ、稲作文化の弥生時代には西日本の先進地だった可能性が高い。古事記、日本書紀のほぼ100%は山陰地方の話であることもそれを裏付ける。古代日本の中心地は山陰だった」
と主張。松木氏から
「政治か、経済か、どんな中心地だったのか」
と質問を受けると
「政治ではなく産業技術を伝える役割を果たしたのではないか」
と答えた。
松木氏は、前方後円墳の規模から畿内が政治的中心だったとしながらも
「宗教的な中心が出雲にあったと思っている」
と説明。奥野氏は魏志倭人伝の検証を基に
「甕棺(かめかん)の中から遺体とともに後漢鏡が数多く見つかった」
として吉野ケ里遺跡(佐賀県)こそ邪馬台国と主張した。
邪馬台国の位置をめぐり、熱く論じ合う(左から)奥野、松木、田中の各氏=27日、境港市上道町の市民会館
http://www.nnn.co.jp/news/101128/images/IP101127TAN000127000.jpg
>>901 武力衝突になったら北朝鮮軍には勝てませんよw
1000年経っても力関係は変わりませんw
910 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 21:40:55
■神崎遺跡:弥生後期、移民が作った環濠集落 年明けにも国史跡指定−−綾瀬 /神奈川
毎日新聞 2010年11月29日
http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20101129ddlk14040123000c.html ◇土器の95%「東海」と特徴一致
綾瀬市吉岡にある弥生時代の環濠(かんごう)集落「神崎遺跡」が今月、国の文化審議会の答申を受け、年明けにも国史跡として指定される見込みとなった。
環濠集落全体が残る全国的にも数少ない遺跡で、住民が東海地方から集団移住したことを示す土器も出土し、当時の社会変動を知る貴重な資料として注目されている。
神崎遺跡は相模川の支流・目久尻川に面した標高24メートルの台地にあり、面積約5000平方メートルで1800年ほど前の弥生時代後期の環濠集落。
周囲に防御のためにめぐらされた濠(ほり)の幅と深さは約1・8メートルで、断面はV字形になっている。これまでの調査で竪穴建物が9棟確認され、全体で15棟前後あると推定されている。
特徴は、縦穴建物の様式が関東地方ではあまり見られず、出土した土器=写真・綾瀬市教委提供=の95%以上の形状が、愛知県東部から静岡県西部周辺の地域で見られる特色を持つこと。
土器の材料となった土の成分を分析した結果、遺跡周辺の土で作られていることが分かり、東海地方から人々が集団で移動してきたことを裏付けた。
弥生時代は稲作と金属器の使用が始まり、国家の成立へと向かった時代。水田となる耕地や輸入品であった鉄器の獲得のため、国内各地の集団は緊張関係にあったとみられ、防御拠点の性格を持つ環濠集落が全国に出現したとみられる。
市教委の文化財担当者は「揺れ動く社会情勢を背景にして、東海地方から関東地方への集団移動につながったと推測できる」と話している。【長真一】
※参考 文化庁報道発表
■史跡等の指定等について(11月19日)
http://www.bunka.go.jp/oshirase_other/2010/pdf/shiseki_shitei_101119.pdf 3 神崎遺跡 【神奈川県綾瀬市】
神奈川県の中央部付近を流れる相模川の支流目久尻川に面した標高24m,沖積地との
比高差約11mの台地上に立地する,南北103m,東西65m,面積5,000 uほどの弥生時
代後期の環濠集落。環濠は,幅・深さともに1.8m前後で断面V字形を…(以下略)
911 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 22:42:22
今の若手学者は、身の振り方をどうするかは、悩ましいだろうな。
畿内説を本気で信じている学者が1人もいないことは、公知の事実だが、
畿内説を支持するのが政治的に正しい振る舞いであることも公知の事実。
畿内説の偽装があと10年でおわるのか、40年もつのか見極めは大変。
10年の冷遇と読んで畿内説と距離を取るべきか、転向含みで畿内説に乗っかるか。
912 :
日本@名無史さん:2010/11/29(月) 23:31:48
九州説の考古学者はほとんどいないんだけどね。いてもごくわずか。
今、問題なのは、邪馬台国=初期ヤマト政権が、奈良盆地自生なのか、東遷説を含む外来勢力主体なのかという点。
文献史の古代史学者、九州説が多かったが、最近は畿内説が増えているのが現状。
別に政治的とかそんなのないよ。
913 :
日本@名無史さん:2010/11/30(火) 00:00:14
まあ
>>911は同じような事を何年か後も何十年か後も
恐らく死ぬまで言っているんだろうなwww
40年後の若い学者にしたら
「邪馬台国論争?昔はそんな事があったらしいですねえ・・・」
…てな感じなんだろうなあwwwww
914 :
日本@名無史さん:2010/11/30(火) 00:05:54
まあついでに訊いておくとするかw
>>911 >畿内説の偽装があと10年でおわるのか、40年もつのか
で、畿内説の偽装がバレと言うのは具体的にどんなシナリオなんかな?
香ばしいのを一つ二つ聞かせてくれwwwww
915 :
日本@名無史さん:2010/11/30(火) 00:21:46
伊都国=怡土が否定されるというのがその一つかな。
916 :
日本@名無史さん:2010/11/30(火) 01:43:09
>>908 >古代の歴史資源を観光振興に生かしたい鳥取、島根両県の行政や経済界などもサミットを後押し。
何と言うか今更「邪馬台国山陰説」になんぞ走らないでも
魏使日本海ルートをとった場合の戸数「五万戸」と記された投馬国と言う宣伝の方が良いと思うが…
そっちの方が俄然リアリティがあると思うがwww
917 :
日本@名無史さん:2010/11/30(火) 07:09:45
勢力と古墳の大小は比例すると考えるんだろ? 大した古墳がない山陰に
戸数五万の投馬国を比定するのは無理だな。
今時、史学科をでたら、中高校で歴史の師匠になるか、民間企業に入るかしかないし、
助手の職や学芸員の口は殆ど無いんじゃないの?
使えねえ。
919 :
日本@名無史さん:2010/11/30(火) 23:59:50
大学では教授は絶対だからなあ。
「カラスは白い」と普通に言えるだけじゃあダメで、「青いカラスと赤いカラスが
交尾をして金色のカラスが生まれた」と平気でいえないと生きていけないよ。
「畿内説に栄光あれ〜」なんて基本中の基本だろ。
ゼミの同期にバカにされようが、生きるためには仕方ない。
学者商売も大変な世界なんだな
921 :
日本@名無史さん:2010/12/01(水) 00:47:58
922 :
日本@名無史さん:2010/12/01(水) 01:13:29
923 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 20:35:45
>>919 >大学では教授は絶対だからなあ。
ふと思ったんだが…
高島センセイとかは教鞭をとっていた時、学生に九州説を教えていたんだろうか?wwwww
まあ九州説が過去の遺物になってしまっている現状は学説として敗北したのではなく
”政治的に”敗北したからだと脳内変換して自分を慰めているんだろうがwwwwwwwww
じゃあ東大は京大にいつ政治的に敗北したのか?
邪馬台国ブーム時はイケイケだった九州説はいつ期に畿内説に政治的敗北を喫したのか?
その辺のゴミクズレベル九州説さんによる闘争史を一度聞かせてもらえないかな?w
924 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 21:21:38
畿内説の程度が低すぎるので、九州説はいちいち相手にしていないだけだろ。
学会としての公式見解が絶対だった時代なら、学会に論文を提出する権限のある教授は絶対だったろうけれど、
今は、一会の研究者でもマスコミやインターネットを通じて世論をリードできる時代だからな。
研究者としてそこそこの地位を得たいのなら、教授にごまをするのもいいけれど、
歴史を変えたいと思うのなら、有名教授につきのはかえって障害になります。
まあ、楽書というより、自分自身の価値観を問われていると思ったほうがいい。
926 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:15:05
けどさあ三角縁神獣鏡舶載説すら、まともに批判できないような異常な
空気のなかで学問なんて成り立たないよなあ。
その連中の総本山の畿内説批判なんて、若手にできるわけがない。
>>925 査読ナシ論文ならいくらでも学会発表はokですよ。
テーマが合っているか座長が判断したら登壇して発表できます。
そもそもたいがいの学会の会員加盟の資格審査は本当に緩いです。
ぶっちゃけ未成年でも親の承諾があればokです。
929 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 22:27:55
ひとつ出たホイの出たホイのホイ♪
一人娘とやるときは 親の承諾えにゃならぬ♪
930 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 23:07:15
>>926 >けどさあ三角縁神獣鏡舶載説すら、まともに批判できないような異常な
>空気のなかで学問なんて成り立たないよなあ。
ゴミクズレベル九州説の脳内陰謀説乙www
小林の椿井大塚を最古とするような説に対し
吉島や車塚の鏡の構成がより古いものになる可能性を78年に示唆したのが
他でもない京大の都出だったわけでw
森岡秀人だったか年代観のシフトに関して
「京大の都出が口火を切ったから自分達も言って良いのかと言う雰囲気になったw」
と言うような事をどこかで言ってたがwwwwwww
サイキバ君か怨み節か知らんが舶載説が完全に否定されて無い状況にご不満なんだろうwwwww
恐らく王の論文が黒船のようなインパクトがあって一気に国産説が優勢になったものの
時間が立って冷静になって結局、現在は確定材料が無いという当たり前のところに落ち着いた…って事なんだろうなw
まあ今じゃ過去のものとなってしまった小林説等によって成り立っていた昔のその年代観に
必死にすがり付いているのがこの板のゴミクズレベル九州説と言うのは
一体どう言う自爆芸なのかとw
小林先生の死去は、ある意味日本考古学の画期だった。
932 :
日本@名無史さん:2010/12/03(金) 23:15:58
>>930 王仲殊が、呉で鏡作りをしていた職人が呉から日本に来て鏡を制作と主張しているが
呉以外の銘を持つ鏡は存在した。
(魏) 陝西 河南 山東
(蜀) 四川 甘粛
>>932 考古学的な編年もそうだが、崇神没年問題など記紀の呪縛から解き放たれた
のも大きい。
935 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 00:37:42
>>930 こういう基地外が学会にいるから学問ができないんだろうね。
中学二年生は親の承諾がいるのだが
937 :
930:2010/12/04(土) 00:45:42
>>935 …いや学会になんか縁の無い、全くのド素人なわけだがwww
こういう馬鹿は、もうなんかネットだけが世界の全てなんだろうなwwwwww
938 :
日本@名無史さん:2010/12/04(土) 00:49:16
学会の基地外はジョーカーより格段に暴力的だよ。
知的暴力だがな。対話が一切通用しない。
まあ、学者の世界はある意味徒弟制度のような面はあるからねえ。自然科学だって
弟子の発見を師が自分の名前で論文に書くというのは普通にあったわけだし。
個人的には、考古学(学者)が文献史学(学者)への従属から、独立できたというのは
大きな意味があると思うけどね。そして九州説にとっては苛立つ時代が始まった。w
あとは、われわれ趣味でやってる2chねらとは違って、プロは生活がかかってるわけだし、
学者に限らず、地域興しで食ってる地元の古代史家なんかもおんなじ。対話が通用しない
部分はある。
>>918 外語大は、外国語教員と社会科教員の両面待ちが可能
民間企業も史学科よりも有利
歴史好きが進学するならば、東京外大がいいんじゃないかな?
後期日程は科目数が少ないので
努力しても無理な人いるかもしれんな>東京外大
特務機関養成所みたい・・・
特務機関卍の隊長だった藤堂某の息子ではないかと言われているゴルゴ
九州説が定着した現在、狭い世界で「畿内説の圧勝」を信じている、チャウシェスク畿内説って不気味だなあ。
>>945 >チャウシェスク畿内説
いつの話だよチャウシェスク政権って。クソが。
世界史板は、外語大系特務の住人が多そうだ。
948 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 04:15:08
>>945 お爺ちゃん、戦争(邪馬台国論争)はとっくに終わったんだよ。
もうジャングル(妄想)から出て来て良いんだよ。。
949 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 08:28:15
邪馬台国論争が終わったという妄想の中にいるらしい。
最近の本を読んでないんだな。
レオ!
ジャングルの秩序をあらす畿内系渡来人を駆除するがじゃ!
951 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 16:05:12
>>949 >最近の本を読んでないんだな。
最近と言うのなら少なくとも今世紀wに出たもので
お勧めの本を2〜3教えて頂けないだろうか?wwwwww
まあジャングルと言うのなら
こういった匿名の掲示板・ネットがジャングルだよなw
アカデミズムの場から追われそ、れでも邪馬台国ブーム時はまだ活字の土俵で
そのアカデミズムに挑戦もしていたが
いまやネットと言うジャングルに引き篭もって先の無い戦いをするしかないというw
今時なに言ってんだ?
954 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 21:58:25
イマドキ本気で畿内説を信じている学者なんていないだろ。
石野のように虚構な、もとい強硬な畿内説論者ですら、歴博のC14を批判して、
三角縁舶載説を無視して、年代の根拠がない状況で「ハイハイ、畿内、畿内」と
いう感じで、結論だけイヤイヤ主流派に合わせているに過ぎない。
まあ、それで著書が売れれば文句はないだろうが・・・
特務系(現代ではBiz系かな?)住人は、三角縁舶載説を積極的肯定しないで
王仲殊論文を懐疑の目で見ているであろう。胡散臭いもん。
歴博の弥生繰上げにも懐疑的。
世界史板では、それほど畿内説を支持してないようだ。
956 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:15:09
>>954 >イマドキ本気で畿内説を信じている学者なんていないだろ。
いつものゴミクズレベル九州説サイキバ君の真言(マントラ)だなw
現実は九州説なんてと言うより邪馬台国論争なんて終わっている。
石野にしろ寺沢にしろ理化学的年代測定に批判的な意見を述べたところで
じゃあ当人達が「庄内は4世紀から」なんて年代観を持っているのかって話www
石野や寺沢の年代観をゆうてみ?アホがw
つうかお前自体九州説なんて信じていないんだろう?wwww
意気軒昂に乗り込んできたこの板で馬鹿にされコケにされて
引っ込みつかなくなって九州説マンセーしているだけと・・・ 哀れw
畿内説批判に終始してるからからかわれるんだと思うけどね。九州王朝なら
それはそれで堂々と自説を語ればいいんだよ。
958 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 22:37:18
>>956 畿内説を強要する勢力はこんな感じなんだろうなあ。
暴力的な態度で畿内説に従わせているだけ。
北朝鮮と同じ
959 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 23:42:06
>それで著書が売れれば文句はないだろうが・・・
まあ実際には金を儲けようとするのなら九州説だなw
それは今も昔も変わらないwww
漫画や小説にいたるまで面白おかしく書けるのは九州説だんだからwwww
今だったらやはり文庫やムックで
コンビにでもその本が置いてある関が代表かな?w
邪馬台国ブーム時における九州説の隆盛と言うのは
一種の出版会のバブルだったんじゃないかと思う。
チョット筆が立って古代史に一家言もっていりゃ
タイトルに邪馬台国つけておけば、そこそこ本が売れたと言うw
無論その時流に乗って成功した双璧が古田であり安本であったと・・・
勿論バブルは何れはじけるからバブルなワケでwww
960 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 23:51:08
>石野や寺沢の年代観をゆうてみ?
考古学者ってかってに「俺はこう考える」っていいかげんな年代観を吹きまくる。
ほかの奴は、他人の説なんぞ詳しく読む気はないから、そいつがどんなことを言
ってるのか良く理解できない。したがって批判もしない。皆かってに言いたい放題。
まったく困ったもんだ。
961 :
日本@名無史さん:2010/12/05(日) 23:57:29
まあ話の味噌なのは
ゴミクズレベル九州説が良く理化学的年代測定の批判者として
名を挙げる寺沢や石野にしても連中の年代観とはかけ離れたものであると言うオチw
まあ要するにアホの自爆芸と言うわけですなwwww
同様に三角についても国産説の学者の名を挙げても
年代に関してゴミクズレベル九州説をプッシュするような説は無いわけでwwwww
まあネットですら、ある意味浮世離れした古代史のお話ですら思うようにはいかない
現実の厳しさと言うわけやねwwwww
>>960 では君は誰の年代観を支持しているんだ?
まさかボクが考えましたとかいうオチか?
ちなみに九州説の年代観の大元にいる人は、小林行雄という
君が大嫌いな畿内説の重鎮だった人なのだが、なぜこれを信じるんだい?
現在の畿内説は、小林の年代観も間違いだったというところが出発点のひとつなわけで
つまり旧来の畿内説をも否定しているんだよ。
この時点でもう邪馬台国論争は終わったんだ。
963 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 00:31:06
他所のスレでした質問だがここでも尋ねてみようw
>70年代80年代に九州の考古学(九大あたり?)で弥生後期の始まりを3世紀におくような年代観を持った
>編年モデルと言うのがあったのかな?
>それは九州の考古学で一般的に認知されていたものなのか?
>あったと言うのなら教えて欲しいのだが・・・
ゴミクズレベル九州説さんのご高説では
近畿関西の学者によって年代観が歪められ無茶な年代遡上で
吉野ヶ里や北部九州の遺跡の年代が軒並み古くされてしまったと言う筋書きなんだろうから
その元もとの正しい年代観を持った編年モデルとやらを教えて欲しいのだが・・・
ひょっとして年代観と言うのは関西だろうが九州だろうが昔から統一されていたとか思っているのか?w
965 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 01:29:05
>>964 そこに橋口達也氏の甕棺編年に基く年代が書いてあるな。
>古墳時代 甕棺形式KXf AD240
そう、240には既に古墳時代に突入しちゃってたと言うお話w
…で
>後期後半 AD60 後漢
と言うのがあるがこれがAD57の光武帝からの印綬の事で
九州の考古学の場合、これが基準の一つになっている。
「畿内説による年代遡上の陰謀」とか寝言は寝て言えドアホウの世界wwwwwwwww
九州説をとなえる奴が九州の考古学の事をまるで知ら無いというのだから
もう馬鹿の自爆芸もきわまれリと言うお話wwwwwwwwwww
これに庄内が対応してくると、もう逃れようがない。w
967 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 22:58:40
ジョーカーは畿内説の悪評を高めるためにわざと、畿内説の学者の
ような無能さと凶暴さを演じているのか?
968 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/12/06(月) 23:06:45
ww
ジョーカーには、たった一つでいいから、
「邪馬台国畿内説が成立する根拠」
をあげてもらいたいもんだ。
>>969 ジョーカーは九州説を馬鹿にして叩くのが趣味なのさ。
お前もそうならないように、畿内説詐欺捏造を言うだけでなく、
自説を披露しろよ。
971 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 23:13:09
まあついでに
>>964のリンク先の「邪馬台国の○」に出ている編年表で
” 佐原真(1968) ”と言うのがあり
それだと庄内の始まりがAD300からになっている。
そう、これこそがこの板のゴミクズレベル九州説の必死にすがり付いている年代観で
>>962でも言っている小林説と並んで昔の年代観を支えていた柱の一つ・。
無論その根拠
(と言っても佐原自身はそれを絶対的なものに考えていたわけではなく
故に結果として自分の年代観をぶち壊す年輪年代を育てたわけだがw)
…はゴミクズレベル九州説がとてもじゃないが受け入れられるものじゃないw
九州でも畿内でもないとなると、やはり日本ではないという結論になるかな。
973 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 23:22:45
>>970 残念ながら状況証拠の場合一つでは決定的なものにならない。
そして状況証拠の数々は今までにも散々挙げている。
と言うか少し脳味噌を使えば
俺が九州説を叩いているネタをひっくり返せば
そのままその状況証拠にもなる。
要するに
「コケにされて悔しいのでどうか馬鹿な私めに噛み付きやすいように噛んで砕いて1・2行程度にしてください」
と言う事なのだろうがそこまでサービスしてやる義理は無いぞ馬鹿www
今言っている九州の考古学の元々の年代観だの
昔の年代観が小林や佐原と言ったゴミクズレベル九州説にすれば悪の総権化ラスボスみたいな人間の説に基く
…なんてお話も、こんなもの畿内説を叩こうとするゴミクズレベル九州説が知らなければならない基礎の基礎。
それをこっち側から教えてやっているんだから大サービスwwwww
974 :
日本@名無史さん:2010/12/06(月) 23:27:47
>>970 >ジョーカーは九州説を馬鹿にして叩くのが趣味なのさ。
まあ馬鹿にきっちり馬鹿と言えるのが2ちゃんねるのいいところではあるがwwwwww
これでも一応は3・4世紀までの日本の姿についての興味があって
邪馬台国のスレも読んでいる。
あくまでそっちが基本のつもりなんでwwww
975 :
ローガン:2010/12/06(月) 23:42:01
>>971 > まあついでに
>>964のリンク先の「邪馬台国の○」に出ている編年表で
> ” 佐原真(1968) ”と言うのがあり
> それだと庄内の始まりがAD300からになっている。
> そう、これこそがこの板のゴミクズレベル九州説の必死にすがり付いている年代観で
田辺佐原編年は、提唱者の佐原氏自身が1975年に撤回しています。
KXf(祇園山)ー画文帯ー庄内ー西新 だろ。これだけでもうアウトなんだ。
畿内年代引き上げをするなら、営々築いたこの甕棺編年はじめ青銅器など
九州考古学の全否定になる。
で、安本といえば画文2280〜を言い出して必死。矛盾が矛盾を生み泥縄。
○280〜
>>975 老眼翁
まあ先にも言ったように佐原自身がその年代観については厳密な根拠に基づくものではないと言ってたらしいからねえ・・・
ただこの「庄内が4世紀から」と言う年代観は一人歩きしてしまった・・・って事なんだろうなあ。
無論多くの学者達はそれが新しすぎる、もっと古くなるものだと内心では分っていたが
「ネコに鈴」じゃないが中々誰も先頭きって異を唱えなかった
…と言うのが実際のところなんだろうか?w
こう言うところをゴミクズレベル九州説も批判すれば良いと思うんだが
悉くあさっての方向に噛み付いているというかwwwww
今、すごくくだらないことを思いついた。倭人伝の「以婢千人自侍」から、
ここは墓所にして巨大「吉原」だった。千人の婢は、むろん前方後円墳の
工人のためのもので、高床の「飾り窓」に住んでた。
むろん「遣り手婆」が卑弥呼。
>>979 当たらずとも遠からずかもしんないwwwww
誰だったか、纏向に各地の有力者の血縁の女性が集められて祭祀が行われていた
…なんて説もあったなw
畿内だ!ヤマトだ!纏向だ!
女だらけの纏向! ポ■リもあるよ
まあ千人はオーバーだとしてもな相当数の祭祀の専従者が集まるような場所
=祭祀に特化した空間…と言うことで考えれば
纏向が一番相応しいかもしれないwww
981 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 00:30:13
ジョーカーは自分の年代観の根拠は決して言わないんだよね。
石野みたいだな。
982 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 00:30:54
そもそも邪馬台国は本当にあったのかからry
本当にレベルの低い人間の集まりだな!閲覧するだけでも情けなくなる。
985 :
日本@名無史さん:2010/12/07(火) 23:06:40
■起承転々:2世紀の古墳群 /岐阜
毎日新聞 2010年12月7日
http://mainichi.jp/area/gifu/tenten/news/20101207ddlk21070092000c.html 先月27日、養老町橋爪の象鼻山(標高142メートル)に登ってきました。象鼻山古墳群の現地説明会があったのです。好天に恵まれ、多くの参加者がありました。
この古墳群の築造時期は「2世紀中ごろから後半」とされています。古墳時代より前の弥生時代で、日本に邪馬台国があったとされる時期です。
実は私は、この2世紀の時代にはあまり詳しくありません。前任地は京都だったので遺跡取材の機会はあったのですが、かかわったのは古墳時代や飛鳥時代、奈良時代といったものが多かったからです。
「象鼻山古墳群って古いなあ」と思うと同時に、その時代のイメージがすぐにはわいてこなかったので「現地を見たい」と思い立ちました。
□ □
この古墳群は、山頂から中腹にかけて70基の古墳があります。いずれも築造時期がほぼ同じで、町教委は「分譲地のように大規模に造成し、その後に一斉に墳丘の築造を始めた」とみています。
一般的な古墳群は、一つの地域の有力者が代々葬られていってできるものですが、それとは性格が違いますね。より広範な地域での複数の有力者の共同墓地だった可能性も指摘されています。
今回の現地説明会では、山の中腹の急な斜面に造られた古墳を見て回りました。途中、眺望の素晴らしさに見とれました。
濃尾平野が遠くまで見渡せ、「当時の人たちにとって特別な地だったのかもしれない」と、ここに古墳群を造った意味が分かるような気がしました。
もう一つ印象に残ったことは、今回の発掘調査が、古墳の中心である棺の部分をあえて掘っておらず、周辺のトレンチ(溝)にとどめていたことです。
1800年以上も残った遺跡をできるだけ破壊せずに調査して、将来に残していこうという気持ちが伝わってきました。
古墳の中には内容が不明なものもあり、全容をつかむのはまだ先のようですが、地道な調査を積み重ねて、歴史ロマンを“発掘”していってほしいものです。【岐阜支局長・三野雅弘】
「ゴミクズ」と連呼するだけで、自分が勝ち誇ったようになっている畿内説。
あたまが単純な人は幸せだなあ〜w
ニートは氏ね。
邪馬台国は名古屋の東山にあった。
卑弥呼は名古屋人だよ。
今となってはよほど
>>988のほうが九州説より可能性があるから困るw
990 :
日本@名無史さん:2010/12/08(水) 22:26:01
>卑弥呼は名古屋人だよ。
まあ邪馬台国が畿内ヤマトのことであり
卑弥呼がヤマトにいたとしても
その生まれ、ヤマト出身でなければならない道理はないわけでwwwww
纏向の例の桃の祭祀跡?から出たミニチュア土器は東海系のものだよ。
992 :
日本@名無史さん:2010/12/09(木) 22:22:10
993 :
日本@名無史さん:2010/12/09(木) 23:21:23
■とっとり倭人伝 鉄のみち 明石海峡と日本海【1月30日】
鳥取県観光情報 10/12/09
http://yokoso.pref.tottori.jp/dd.aspx?itemid=45458 鳥取県の青谷上寺地遺跡や妻木晩田遺跡、兵庫県の五斗垣内遺跡等の弥生時代の鉄器文化の歴史、弥生時代の新素材「鉄」の流通の実態に迫るシンポジウムを行います。
兵庫県で開催されます。鳥取県内、また関西地区の方、ぜひお越しください。
■日時:平成23年1月30日(日) 午後13時から16時50分
■会場:明石市生涯学習センター(アスピア明石北館)9階ホール 住所:兵庫県明石市東仲ノ町6番1号
■プログラム
記念講演「倭人伝を紐解く」 講師:西谷 正(九州歴史資料館)
パネルディスカッション「鉄のみち 明石海峡と日本海」
コーディネーター: 村上 恭通(愛媛大学)
パネリスト:
高尾 浩司(鳥取県教育委員会) 玉木 秀幸(鳥取県立むきばんだ史跡公園)
種定 淳介(兵庫県立考古博物館 伊藤 宏幸(淡路市教育委員会)
総評:石野 博信(兵庫県立考古博物館)
■申し込み方法
@住所A氏名B電話番号C参加人数を明記の上、往復はがき、またはファクシミリにて下記まで申し込みください。
■申し込み・問い合わせ先:
〒675-0142 兵庫県加古郡播磨町大中1-1-1 兵庫県立考古博物館 弥生文化シンポジウム係
電話:079-437-5589 FAX:079-437-5599
■定員:280名(先着順)
■参加費:無料 ※事前申し込みが必要です。
詳しくはこちらから→添付PDF(2522kb)
http://yokoso.pref.tottori.jp/secure/45458/tetunomiti.pdf
>>992 >ただいまニュー速+板で↓激論中!
あんな厨房板で激論も糞もあるか。
前から徐々にレベルダウンしていたけど、特にここ数年はひどいな>ν速+
てす