謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!50

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879日本@名無史さん:2010/11/18(木) 03:55:58
その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。
鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せ
しむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。

これを見るとヒミコは嫁さずか、寡婦かの、どちらかという事になるだろう。
男子一人ありは、これは子供かもしれない。
880日本@名無史さん:2010/11/18(木) 04:09:00
女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、
またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。

女王国からさらに東南に4000里に、倭人(?)の国があるのか。東北から西南
に細長い日本をベースで考えると、ここら変が悩ましくも苦しい所だねぇ。
ただし「海を渡る」でなく、「水行」だから、これは沿岸航海と見るのが自然
かもね。具体表記も無いから、伝聞の可能性のほうが高そうだね。そうすると
この先の方位と距離は、実際は多少ズレがあるかもしれない。歯黒国なら、
「シコク?」って思ってしまうが、それには逆だし。音が近い国を探して
みるしか無いのかなぁ。
881日本@名無史さん:2010/11/18(木) 04:14:16
>倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連
なり、周施五千余里ばかりなり。

これだけ見ると「九州の大きさ」っぽいんだよなぁ。観測者の判断する「倭人
分布域」は、これによると九州を出ない話になるんだよな。でも裸国と黒歯国
でしょ?このふたつは倭人に含まれるか含まれないか不明だし、観測者も
あえて具体確認作業もしていないんだよね。そうすると確定はできないけど
「これも倭人」と考える方が少しだけ有利かなぁ。
882日本@名無史さん:2010/11/18(木) 04:19:52
以降は外交史

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その
年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所
の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を
以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。

金印外交キター♪
883日本@名無史さん:2010/11/18(木) 06:51:21
國國と諸國の違い。
884日本@名無史さん:2010/11/18(木) 07:28:31
>>873
>一方で海に潜る民があり、一方でそれをさげすむ民がいる。

さげすむ民なんていたかな?



885日本@名無史さん:2010/11/18(木) 07:33:13
>>875
>沐浴の風習があるらしい。

これは禊ぎでしょうか
886日本@名無史さん:2010/11/18(木) 07:35:18
>男子一人ありは、これは子供かもしれない。

いや違うでしょうw
887日本@名無史さん:2010/11/18(木) 09:47:17
>>880
>女王国からさらに東南に4000里に、倭人(?)の国があるのか。
これは倭人の国ではない。こびとの国だ。
888日本@名無史さん:2010/11/18(木) 19:34:13
>裸国と黒歯国でしょ?このふたつは倭人に含まれるか含まれないか不明だし
これも倭人の国ではないよ。南方の島々だろう。
889日本@名無史さん:2010/11/18(木) 21:19:58
日本では九州でも裸は無理だな。
やはり、邪馬台国はボルネオ島辺りにあったのではないのか?
890日本@名無史さん:2010/11/18(木) 21:57:30
倭国と魏国の接点は何?

なぜ魏なの?
891唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/18(木) 22:00:24
>>855
>従って沙本の乱を境に、「それまでの倭国は分国的」→「それからの倭国
(大和王権)は中央集権的」と成っていく流れも、
>ヒミコ時代は共和連邦的→神功の頃は対外戦争可能

「中央集権的」これは、崇神が4道将軍を派遣して、各地を傘下に置いた。
出雲、吉備、尾張などが、地方の窓口として機能する。
垂仁は、鉄を手にし、鉄の配分権で各地をまとめる。
末年に田道間守を派遣する事により、魏に認められ、魏使と共に帰洛する。
その魏使と共に、又洛陽を訪れた“使い”がいたから、
晋書に240年 正始元年春正月, 東倭重譯納貢,と書かれる。

景行は魏の政治手法「屯倉経営」を取り入れる。
この手法は、領土経営を認める代わりに軍役の義務を負う。
領土経営を認められた、領主は、その地方の「まつろわぬ人々」をその傘下として行く。
その貢献度に応じ、畿内より“鉄”を配分される。

この軍事力とまとまりで、神功渡海となるが、元々が、景行、成務に従属した親族等である。
時代が下れば、従属意識に変化も出る。
とりあえず神功渡海は、274年 晋が東北経営に力を入れる「幽州を別け平州を置く」
280〜90年代は毎年の如く洛陽を訪れる東夷。

892唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/11/18(木) 22:31:04
魏使が田道間守と共に大和を訪れそこで見たものは、
作られたばかりのホケノ山古墳である。
この墳墓に北方の東夷の風習である百人の殉葬を重ねて卑弥呼の墓となる。
だから、卑弥呼の傘下である伊都国周辺を探しても、相当する墳墓は見つからない。
893日本@名無史さん:2010/11/18(木) 23:52:28
田道間守なんて伝説上の架空の人物を持ち出してる時点でカルトだな。
記紀の説話を安易に利用するから、アマチュアは電波だとか笑われるんだ。

神話や伝説と史実をないまぜにして、自己流の歴史物語を創作するのは、
アマチュアの一番よくないところだw
894日本@名無史さん:2010/11/18(木) 23:57:13
何を偉そうに。本人が楽しけりゃいんだよ。どうせ2chなど便所の落書き。
895日本@名無史さん:2010/11/18(木) 23:57:55
やはり邪馬台国は関東にあったということですね。
それを隠すために、古事記は富士山の存在を完全に無視している。
896日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:28:15
古事記は富士山はどうでもいいから書いてないだけだよ。
邪馬台国は九州、だから九州に目を向けて書いているんだ。
東は対象外。
897日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:52:06
898日本@名無史さん:2010/11/19(金) 00:55:03
古墳として残っている場所が全てではないと。
899日本@名無史さん:2010/11/19(金) 01:08:11
>>891
俺は当時における「四道将軍」そのものの登場はまだ疑っている。但しその
時期(自論においては)沙本の乱が、四道将軍(のような物)の必要性を多大
に発生させると考える。(四道将軍は後代(2〜3世代後)導入された可能性)
>>896
古事記前半の「重心」を大和よりやや西、つまり瀬戸内海そのものと考えれば
東の果てにある「富士山」の重要度はまだ低いかもしれない。
ヤマトタケル伝説の「東征」に関する違和感や神話要素の高さからも、ヤマト
タケル以前の祟神時代の「四道の一つとしての東海道」が、充分に大和に恭順
であったかどうかは、疑わしいと思う。むしろ、ヤマトタケルの東征そのもの
を「恭順させる過程」と考えた方が、ヤマトタケルの「苦戦」も、その後の
大和王権の当方への影響力の拡大も自然なような気がする。
だから「富士山はまだ登場しない」となる。この筋が自然だと想定している。

つまり、古事記によると、景行時代には「西のクマソ」も「東方十二道の
あらぶる神」も、どちらも大和の神を「祀ろわない」という同じ理由で、
ヤマトタケルを派遣しているワケだが、実際には西は「祀ろわせる最終過程」
で東は「祀るも何も、原住民を全く知らないので調査して来い」だったと考え
ると、合点が行く部分は非常に多い。
ヤマトタケル以前に東海道には「四道将軍」などは派遣されていないのでは?
900日本@名無史さん:2010/11/19(金) 01:36:31
西は「祀ろわせる最終過程」ではない。実家に戻ったヤマトタケルだ。
東は普通に「祀ろわせる最終過程」
901日本@名無史さん:2010/11/19(金) 01:49:48
終止符も貼っておきますね

〜 〜 〜 〜 ,ヘ、〜/              ┃           /ヘ   /
〜 〜 {ヽ_ /  {_/              ┃    「対馬国」 ▲/ /
〜 ヘ/      ★末盧国         ┃          ∠ノ / ニイガタ
/ヘ~                        ┃             /
                           ┃ 「一大国」      /
          _ |ヽ■伊都国       ┃      /▲フ   /
       /ヽ/ |/ |       伊吹山  ┃      | 「 /
      |      ヽ ★奴国       ┃      | |__/
       ヽ,  水行 ヽヘ  ★不弥国  ┃     /   トヤマ
       |      ↓ /           ┃ ↓  / カナザワ
     ┌ '        ノ          ┃ ↓ /
    /        ノ           ┃ ↓|フクイ
   丿      ノ ^’            ┗━━━━━━━━━━━
  |_ 水行↓,/
  /  _/ヘ/▲投馬国
  | |    \                   末盧国・・・敦賀市
 /  >   天 \                伊都国・・・旧伊香郡高月町
/  /     安 \               奴国  ・・・長浜市
\ |        川               不弥国・・・米原市
  ∨             ☆呼邑国    投馬国・・・野洲市・守山市
                          
      邪馬台国 ★ 天         邪馬台国・・・旧信楽町
               岩 ☆為吾国    
             戸             呼邑国・・・甲賀市
                           為吾国・・・伊賀市
            ☆巴利国        巴利国・・・名張市
      ☆烏奴国               烏奴国・・・宇陀市
  ☆奴国                    奴国 ・・・奈良盆地
902日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:23:22
最近、近江説とかいうのが書店にあったが、それがこれかい?
903日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:31:25
>>900
イクサがあろうがなかろうが「祀る神」は近似かどうかだよ。ヤマトタケルの、
→西征は近い神を祀るクマソと戦った可能性
→東征は違う神を祀る東国諸国と戦った(戦うと言うよりかは現地調査)可能性
904日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:43:17
>>903続き

根拠@:クマソタケルは宴会にのこのこやって来ている(先述、女装の件等)
根拠A:記紀クマソに多分に配慮してる。これは対出雲・対ニギハヤヒと同質
根拠B:書紀クマソタケルの名受けの扱いは、イズモタケルに対する物と同質
根拠C:上記の配慮や関係性は、対東国諸国に対しては一切無い。

だが、これだけ配慮や事前関係性を匂わせる逸話でありながら、クマソは
東国諸国と「似たような蛮族」のような扱いなのだ。
上記の配慮が事実なら、これは矛盾になる。クマソを「単なる蛮族」にする
必要が、古事記編者にはあったという事だ。
905日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:48:09
>>902
>>901の「投馬国」にあたる守山市に
「伊勢遺跡」なる大規模な弥生遺跡がありまして
http://www2.city.moriyama.shiga.jp/iseiseki/ise5.htm
2冊出ている「邪馬台国近江説」は共にこれを根拠としています。

邪馬台国の「宮」がここかどうかは疑問ですが
「野洲川」流域であることから、
日本神話の舞台である可能性は非常に高いのではないでしょうか
http://www.youtube.com/watch?v=zKD9WWFkQWU
906日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:52:07
>クマソは東国諸国と「似たような蛮族」のような扱いなのだ。
まったくちがうな。東国の方は、ヤマトタケルを殺そうとした。つまり、実際に
攻撃をしてきたのだから悪だ。しかし、クマソはまったくそれはない。
クマソは何も悪いことはしていない、悪ではないってことだ。それが古事記の描
き方だ。
907日本@名無史さん:2010/11/19(金) 02:52:34
>>904続き
つまり、熊襲の制圧過程は、対出雲や対エウカシと「似たようなやりかた」
で、行なわれている。「似た神話権威体系」を逆手にとってのだまし討ちだ。
これは「一旦大激戦をしてある程度両者に優劣が決して」いる「似た神を信じ
る者同士」でないと、起こり得ない。
クマソが、古事記の景行天皇の言うとおり「西の方の祀ろわない者」なら、
対東国や対蝦夷と同じようなヤリカタ(つまり配慮無くただ制圧)でいい筈。
908日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:00:28
>>906
それは、東征は「実際に勢力同士の軍事衝突になる事があった」と言う話を
裏打ちしている。逆に、西征は「リーダー暗殺」だけで事が終っている。

反抗勢力が、リーダー殺されただけで納まるか?場合によってはもっと
こじれて、むしろ戦闘は拡大するぞ?だが拡大していない。その説明が
つかない。
909日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:07:40
>>902
日本神話に、アマテラスが天岩戸に隠れたというエピソードがありますが
滋賀県南部には、湖南アルプスと呼ばれる巨岩地帯があります。
ttp://dondonko.sakura.ne.jp/hiking-climbing1/konanalps.htm

そしてその隣接地域である信楽の「内裏野(だいりの)」には、
奈良時代ごろの遺跡があり、長らく「紫香楽宮」跡とされていました
しかし、近隣の宮町遺跡から木簡が大量に出土したため、
この遺跡は甲賀寺(大仏が建立される予定だった)跡と目されるようになりました。

しかし「内裏野」という地名は、そこが宮跡であることを示しているように思えます
910日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:15:30
従って、日本の文芸の中に「富士山」が登場するのが平安時代頃というのは、
あまり違和感が無い。
富士山を以西から見ても、それほど感動は大きくないかもしれないが、東国
(つまり関東)を、ある程度「手中に収めて」からでないとその感動は薄い。
後代更級日記の主人公の少女が、父が東国に赴任する辞令を受けて着任して、
初めて「富士山の(関東から見た)美しさ」が、日本の文芸に鮮やかに登場
するのである。ごく自然である。
911日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:24:15
>>902
大和(やまと)には、群山(むらやま)あれど、とりよろふ、
天(あめ)の香具山(かぐやま)、登り立ち、
国見(くにみ)をすれば、国原(くにはら)は、煙(けぶり)立ち立つ、
海原(うなはら)は、鴎(かまめ)立ち立つ、
うまし国ぞ、蜻蛉島(あきづしま)、大和の国は

万葉集に収められた舒明天皇の「国見の歌」ですが、
2度出てくる“やまと”は、「山常」「八間跡」と書き分けられています。
そしてこの“やまと”が単純に現在の大和=奈良、“香具山”が現在の香具山なら
香具山から「海原」が見えるというのはおかしいのです。

湖南アルプスの岩山からは、琵琶湖が近くに見えます。
また、信楽の高原地帯は現在、陶器の産地です。
「煙立ち立つ」・・・、舒明天皇が歌を詠んだ当時から、
信楽は陶器の生産地だったのではないでしょうか?
912日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:26:16
>>907
>だまし討ちだ
だまし討ちは正義の行うべきことではない。そこが問題だ。
913日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:38:47
やまとは 国のまほろば 
 たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし

ヤマトタケルが東国平定の帰路、伊吹山付近で詠んだとされる歌です。
そして伊吹山からの眺望がこれ。
ttp://www.photo.zekkei.com/archives/245.html
これほどに詠まれた場所と対象が一致する歌であるにも関わらず
これが長い間離れていた奈良を想う歌だというのは、無理があるのではないでしょうか?
914日本@名無史さん:2010/11/19(金) 03:54:25
>>902
>>897>>901>>905>>909>>911>>913
こういった事から、邪馬台国はおおかた滋賀県であり、
女王の「宮」は信楽にあったのだろう、と考えられます。

弥生末期に栄えた国があった場所を想定するというのに、
米作りに有利な近江盆地が、候補に挙げられない方が不思議なことです。
915日本@名無史さん:2010/11/19(金) 04:02:21
>>912
そうですね。実際記紀では「正義かどうか?」の優位性はそれほど高くないと
思われます。もちろん無くはないけど、「正義」より優先する「方法論」が
あると考えた方がいいでしょう。
もし、正義がある程度優先されるなら、記紀には「だまし討ち」が多すぎ。
それに「正義」という概念は、もっと後の時代ですしね。
「最も高位のモラル」があればだまし討ちにしてもあまり問題無い。そういう
最高位のモラルが、記紀に描かれている本分と考えれます。
916日本@名無史さん:2010/11/19(金) 04:14:12
>>913
風光明媚な画像を感謝。
えと、多分誤解はないと思いますが、誤解があったらいけないので、念のため
補足すると、俺個人はヤマトタケル東征の偉業そのものが大きくおかしいと
言ってるワケではないのね。ただその「意義」が記紀どおりの物ではなかった
可能性を言ってる。
当時でも、海軍力だけなら、おそらく余裕で瀬戸内海諸国>東国なのは、これ
おそらくあまり異論も無いし、記録的にも矛盾は無いので、少なくともそう
なると、東海道沖〜関東南部沖の制海権は大和が手中(もしくは影響範囲)と
している可能性が高い。だとすると、ヤマトタケルの東征ルートに大きな矛盾
は感じない。陸行や陸戦が難しいケースが万一あっても、海が活用できるワケ
ですしね。
逆にヤマトタケルが、「クネクネ」と進行しているのも、むしろリアルです。
比較的安全・比較的同盟関係の地域を進むと、自然にそうなりますね。
917914:2010/11/19(金) 04:19:24
>>867-869さんの言うように、
日本書紀・古事記のアヤを解くには「蘇我氏」は大きなカギです。

蘇我馬子。変な名前です。しかし日本史には似た名前が登場しますね。
「小野妹子」。小野氏の本拠地は滋賀県大津市です。
〜『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。
日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を
携えた使者は小野妹子とされる。〜wikiより引用
小野妹子の子が毛人。孫が毛野。
なんだか蘇我馬子−蝦夷−入鹿とかぶってませんか?

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
この文書を中国に突きつけた外交官こそが、蘇我馬子だったのではないでしょうか?
ならば、その一族を退けようとした人達は、一体何が目的だったでしょう?
宗教上の争い?本当にそうでしょうか?
918日本@名無史さん:2010/11/19(金) 04:27:01
つまり、記紀では西も東も「祀ろわない蛮族を戦って祀ろわせた」のがヤマト
タケルの西征・東征、と同列同質扱い(の指令を景行天皇がヤマトタケルに
発した)とされているが、実際は、
西は:神話権威が同じだが、反乱(沙本の乱)を継続しているクマソタケルを
恭順させろ、という指令。
東は:神話権威を共有しない(あらぶる神々)を調査して、恭順させれる者は
恭順させろ、という指令。
実際はこの差異があったと考えた方が自然だ。
これだと西で「大戦争」どころか目立った局地戦もなかった理由も、東で
「時々激しい抵抗戦争」に見舞われた理由も、ある程度説明がつく。
919日本@名無史さん:2010/11/19(金) 04:37:20
>>917
情報ありがとうございます。小野妹子三代ですか。そちらもいつか調べて
みます。蘇我氏と共に消されたのが、毘売システムじゃないとしたらそれは
何か?そちらの筋も興味深いものではありますね。
しかし、そこらへんまでツッコンで書くという事は蘇我馬子〜小野妹子をほぼ
同一(もしくは近親)とする話になりますが、それはどのような理由でしょう
か?詳説できるようでしたらレスいただければ暗愚な私としては幸いです。
920914:2010/11/19(金) 04:45:42
うまこ、いもこ。
似たような名前が、魏史倭人伝にも登場します。
「伊都国」の副官、泄謨觚(せもこ?) 柄渠觚(へごこ?)。
ここは帯方郡からの使者が留まる所と記されており、
住人の名前や表記も他の国とは違うニュアンスがあります。

>>901の地図の「伊都国」、旧伊香郡高月町(現在は長浜市)は
全国有数の古墳群と、国宝も含む仏像を持つ町です。
グーグルマップで地形か航空写真を見ていただくと分かりやすいですが
「関所」「入国管理局」を置くのに適した場所だと言えます。

そして、(私は実際に聞いたことはありませんが)
高月の方言は、湖北方言の中でもさらに異なるとされています。
(湖北方言自体も特殊な関西弁です)
921日本@名無史さん:2010/11/19(金) 05:00:48
脱線が少し大きくなってしまいましたので、とりあえずヤマトタケル東国征伐
の俺が架空している実像とその意義をまとめておきます。
これは、「東国はどう恭順させたか?」が、記紀編者にとって空白(もしくは
政治的理由で書けない)であった可能性です。でも「その時期に東国が大和に
なっていない」と後々のツジツマもあわないし、そこにはオオビコの子供の
子孫も「既に定住している」という事実にも反する。
そこで、ヤマトタケルに大活躍してもらったり、オオビコの子のタケヌナカハ
ワケを「四道将軍の一人」にする必要が、古事記→日本書紀あたりに生じて
しまった、と考えられる。だから、古事記では「タケヌナカハワケを東の方
十二道につかわした」というだけの表記になっていて、日本書紀では「四道
将軍の一人として東海道(=東の方)に派遣した」となるワケです。
実際、「それ以前にタケヌナカハワケの派遣がある」ワケですので、ヤマト
タケルは、「それでも祀ろわない人々(=東国人の一部)」を恭順させに
行くとなり、記紀ストーリーとしての自然さを出すわけです。
ですがその「タケヌナカハワケの派遣」などは古事記編集者の想像で、実際は
その派遣は無く、ヤマトタケルの東国征伐が大和王権としての最初の東国征伐
で、ヤマトタケルが往復した地方に、後にタケヌナカハワケの子孫が「住み
着いただけ」かもしれない。つまり、古事記編集者は、まんまと大毘古命(の
子孫)に騙されたのである。(或いは、積極的に子孫を古事記ストーリーを
自然に見せるために活用されたのかもしれない)この可能性を架空しておく。
922914:2010/11/19(金) 05:23:24
蘇我氏、小野氏、そして魏志倭人伝の伊都国
これらは同じ一族だったのではないか、と。

そしてさらに、日本神話の登場人物。
アマテラス、スサノオ、ツクヨミ。
この「スサノオ」ですが、この名前は出雲神話と共通です。
しかし同一人物とは思えないフシがある・・・そもそも場所が離れてます。
「スサノオ」は出雲神話から名前を借りただけではないでしょうか?
ならば、その下に消された名前があるはずです。

日本書紀・古事記の編集者が、隠さなければならなかった名前。
それは、蘇我氏=小野氏=伊都国の、始祖のものだったのでしょう。
その名前は?
さらに奈良時代以降冷遇されていった氏族の名前をさがすと、
めぼしい名前があります。忌部(いんべ)氏。
日本神話の「フトダマ(アメノフトダマノミコト・天太玉命)」が先祖です。

アマテラス、フトダマ、ツクヨミ。
これが本来の高天原の三神ではないか・・・と思います
923914:2010/11/19(金) 06:04:50
「フトダマ」は、古事記では「布刀玉命」と書かれています。
神話に詳しい方なら、連想するアイテムがあるのではないでしょうか?
布都御魂(ふつみたま)。
神武東征の折、助太刀に差し出された刀です。

なぜ「布都御魂」を持つ一派は、突然西から来た神武天皇に加勢したのか・・・
彼らは元々「神武天皇」と同じ言葉を話す民族だったのではないでしょうか。
そして、帯方郡への窓口だった伊都国人で、外交官であった蘇我氏・小野氏でもあり、
「古語拾遺」を漢文で記した忌部氏であるなら・・・?

帯方郡。中国か韓国の一部のように言われてますが、満洲ですね。
彼らはそこから来たのではないでしょうか。
高天原の「スサノオ」=フトダマ、蘇我氏、そして神武天皇は
満洲人だったのではないか。・・・そう仮定すると、辻褄が合うことがたくさんあります
(中国人でも韓国人でもない、ということは強調しなくてはなりませんが)
924日本@名無史さん:2010/11/19(金) 06:17:11
>>920
なるほど「〜〜こ」という名前ですね。確かに当時の豪族のお名前の中では、
異質で特徴的かもしれませんね。ふむ。
ちなみに、妹子の子孫の毛人・毛野は、音読みだとどのように読む(読むと
思われる)のでしょうか?参考の為におうかがいできれば。ただ、魏志倭人伝
の時代と馬子の時代は少し離れすぎているような気もしますが。

あと、出雲神話体系及び出雲解体にも結びつくようなアプローチでもあります
ね。非常に興味深いです。以前、アマテラスとタカミムスビの関係で、興味
深い関係性、すりかえをも思わせるような架空を聞いた事があるます。もし
そうなるとスサノウ・アマテラス・タカミムスビの関係性なども再構築する
架空なども架空としては想起されて来るかもしれません。(テーマから離れ
すぎるかと心配しますので、浅学の俺的にはこの程度までしか言えませんが)
925日本@名無史さん:2010/11/19(金) 06:27:07
>>923
古事記では布都の刀、日本書紀ではフツノミタマですね。アマテラスが
タケミカヅチに神武への加勢を命じた時に「私が行かなくても変りに」と
して神武に送ってやった、あの伝説のえくすかりぱぁですな。
ちなみに、タケミカヅチは、今回の争点に(俺的には)かなり謎を握っている
神様の一人と見ています。(先述参照)
926914:2010/11/19(金) 06:47:22
>>924
毛人・毛野の読み方は分かりませんが、北関東の古い国に「毛野国」がありますね。
「蝦夷」もまた東国の人々ですから、なにか関係があるのではと思います。

高天原の「スサノオ」=フトダマが元満洲人なら、
アマテラスとツクヨミ、そしてタカミムスビ(オモイカネ?)は
どこから来たのか。と、考えてみます。

ツクヨミは、そのまま「月読み」の意味でしょう。
月の満ち欠けを観察してどうするのか?
稲作の種まき〜収穫の計画を立てる。つまり稲作をする人々、
いわゆる弥生人だろうと思います。
>>901の地図の中でも「投馬国」にあたる野洲川下流は、
弥生遺跡が多く見つかります(銅鐸も)。現在も田んぼが多いです。
ちなみに野洲の子供はこんな子ばっかりです。
ttp://www.youtube.com/watch?v=Pazt_7nnMDg
927914:2010/11/19(金) 07:08:35
>>925
「タケミカヅチ」
〜別名 建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)。
また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。〜
やはりフトダマ一族と北関東は関係が大きそうですね。

私は関東方面には全く土地勘がないのですが
源氏の関東武士というのは北関東からも出ていますよね?
源氏の発祥は河内です。
神武の軍勢が居を構えたのも、おそらく河内(葦原中国)だったでしょう。
古墳時代には、河内に都が置かれました。
天皇家の分家だなんて通説がありますが、源氏とは、神武の一族なのだと思います。
928日本@名無史さん
>>927
古事記によると、イザナギ(イザナミとの別離後)に、天照・月読・スサノウ
の三神を生む直前に産んだ三神(ソコツツノオ・ナカツツノオ・ウワツツノ
オ)は摂津住吉の三神になっています。
また後代の神武の近畿での進軍ルートは難波→河内→紀伊の国となっています
なにかしらの因縁を感じますね。
また、摂津・河内と言えば、後代の天皇も度々遷都先として選ぶ土地柄でも
あります。