http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/mie/100916/mie1009160201004-n1.htm 伊賀市沖の沖打越(うちこし)中世墓の発掘調査を進めていた県埋蔵文化財センターは15日、お経を石に書いた
鎌倉時代後期(13世紀末〜14世紀初頭)の「礫石経(れきせききょう)」が出土したと発表した。同センターによると、
県内の礫石経の出土としては最も古い時代のものという。18日午後1時半から現地説明会を行う。
中世墓は昭和20年代に発掘された大規模古墳「石山古墳」の西北約1キロに位置し、同センターが農免道路の
整備に伴い7月から調査していた。
礫石経は、古墳の上に鎌倉時代に形成された経塚の遺構から出土した。小さな川原石に「世」「阿」など1〜2文字
ずつのお経が墨書されたものが11個、無銘の石を合わせると約200個が、陶器の甕(かめ)の破片などとともに
見つかった。
県内の礫石経では、江戸時代のものしか出土例しかなく、今回の発掘が最古の出土となった。同センターによると、
鎌倉時代の礫石経の出土は全国で20例ほどという。
中世墓からは、ほかに縦8・2メートル、横3・2メートルの大きな墓穴を持った1号墳(5世紀初頭)を発掘。構築後
まもなく改葬されたとみられ、副葬品は刀子(とうす)や鉄製鎌だけだった。
土地の豪族を弔ったとみられるが、古墳の規模が大きいことから、石山古墳との関連に注目している。
9月16日 02:00 【産経新聞】
【アカヒ新聞】
http://mytown.asahi.com/mie/news.php?k_id=25000001009160004
http://mainichi.jp/area/nara/news/20100916ddlk29040507000c.html 推古天皇と息子の竹田皇子の合葬墓である可能性が高い植山古墳(橿原市五条野町)の特別見学会が、
11月13、14日に開かれる。定員は計600人で、普段は公開されていない石室内が見学できる。事前申し込みは
9月21日必着。
東西40メートル、南北27メートルの長方形墳で、6世紀末ごろの築造とみられる。00、01年の発掘調査で、
ともに全長13メートルの横穴式石室が東西に二つ並んで造られていることが判明。東石室の玄室(げんしつ)には、
真の継体天皇陵とされる今城塚古墳(大阪府高槻市)などの石棺に用いられ、「大王のひつぎ」の材とされる
阿蘇ピンク石製の家形石棺が納められていた。石棺が残っていなかった西石室でも阿蘇ピンク石の破片が多数
見つかっている。
宮内庁は現在、大阪府太子町の山田高塚古墳を推古天皇陵として管理。一方、日本書紀や古事記では、
推古天皇が先に死去した竹田皇子との合葬を望んでいたことや、大和から河内に改葬されたことが記されており、
植山古墳が改葬前の推古天皇陵との見方が有力になっている。
希望者は、往復はがきに住所、名前、電話番号、参加者全員の名前(計4人まで)、見学希望日時(13日か14日の
午前か午後かを第1〜第4希望)を記し、〒634−0075 橿原市小房町11の5 かしはら万葉ホール内 橿原市
教委文化財課「植山古墳係」へ。問い合わせは同課(0744・29・5902)。【高島博之】
9月16日 【毎日変態新聞】
http://mainichi.jp/enta/art/news/20100916dde018040074000c.html 遣唐使として大陸に渡った円仁(794〜864年)の名前が刻まれた石板と拓本が中国・河南省登封市の法王寺で
見つかり、酒寄雅志・国学院大栃木短大教授(日本古代史)が7月、唐代のものとみられると発表した。だが、この
“貴重な発見”を疑問視する意見が出され、酒寄教授は9月、制作年代は唐代よりずっと後かもしれないと軌道修正
した。捏造(ねつぞう)品の可能性も指摘されるなど、関係者の間で見解が分かれる事態となっている。【栗原俊雄】
発端は今年1月、法王寺の住職が来日して、円仁とゆかりの深い大慈寺(栃木県岩舟町)を訪れ、石板の存在を
知らせたこと。これを聞いた酒寄教授は、7月に現地を訪れた。石板は縦44センチ、横62センチで、お堂を囲む塀に
はめ込まれていた。「圓(円)仁」「大唐会昌五年」などの文字が刻まれ、文章は「寺宝の仏舎利を守るため地中に
埋めた」という内容だった。大唐会昌五年は845年で当時、唐皇帝の武宗は仏教を弾圧していた。
円仁は平安時代に活躍した天台宗の高僧で、838年から847年まで唐に滞在。その旅行記『入唐求法巡礼行記』
には法王寺にいたという記述はないが、一時的に立ち寄ったことは考えられる。
石板とそれを写したとみられる拓本の発見は7月、複数のメディアによって「高僧の姿が1000年以上の時を超え
浮かび上がってきた」「遣唐使の足跡としては、2004年に見つかった井真成の墓誌に次ぐ」などと報道された。
その後の同月16日、国学院大(東京都渋谷区)でシンポジウムが開かれ、酒寄教授は約350人の参加者の前で
「『巡礼行記』にない空白の時間を埋めるもの」と発表。石板の文字は円仁の直筆をもとにしているかもしれない、
とも指摘した。
ところが、一部メディアがその後、石板と拓本では模様と字の間隔が違うと報道。この拓本に合う石板が別に存在し、
どちらか一方、あるいは両方とも、唐代の石板を模して後世に作られた可能性が浮上した。さらに、円仁について
知った人が何らかの目的で勝手に作り上げたのかもしれないと、唐代に石板が作られたこと自体を疑う見方も示された。
>>5へ
>>4から
これを受け、酒寄教授らは8月末に法王寺を再訪。もう一つの石板を見つけ、拓本とぴったり重なることを確認した。
ただし、その石板は鐘楼の片隅に、ごみと一緒に置かれていた。
酒寄教授らの帰国後、9月2日に国学院大で報告会が開かれた。一緒に調査した中国や日本の研究者らの意見は
「唐代のもの」「明代か清代」などと分かれたという。石板の文字を囲む模様が1センチ間隔で彫られていることも公表
された。メートル法に準拠しているように見えることなどから「現代に制作されたものでは」との声もあがった。
綾部宏行・早稲田大講師(書道史)は拓本を見て、「書風は隋から中唐にかけてのものとみられる」としつつ、「後生
の人が書風をまねることもある。今の段階では時代を特定しにくい」と語った。一方、酒寄教授は軌道修正について
「さまざまな人の考えを聞いた結果」といい、「(石板が)確認されてから、まだ2カ月。今後いろいろな角度から研究を
進めたい」と話している。
9月16日 【毎日変態新聞】
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/251473.html 奈良県明日香村にある国史跡の牽牛子塚(けんごしづか)古墳が、村教委の調査により、7世紀の女帝であった
斉明天皇の墓とほぼ特定された。宮内庁が管理する天皇陵の妥当性を疑わせる調査結果といえる。宮内庁は別の
古墳を「斉明陵」と認定しているからだ。しかし宮内庁は、墓誌など明らかな証拠が出てこない限り、現在の認定を
見直さないという。歴史をみる姿勢が頑迷では困る。古代史解明のためにも、科学的な根拠に基づく判断を求めたい。
現実に、築造の推定時期と被埋葬者が没した時期が合わないとの指摘は、他の天皇陵にも少なくない。牽牛子塚
古墳も、研究者の中には以前から斉明陵との見方があった。村教委が特定した根拠は《1》7世紀後半の天皇陵に
特有の八角形《2》大規模工事で知られる斉明天皇らしく巨大岩石を使っている《3》娘と合葬されたという日本書紀の
記述通り二つの石室があった−などだ。
一方の宮内庁はどうか。斉明陵に限らず、歴代天皇陵を認定した根拠を説明していない。まずは認定した理由を
明らかにしてもらいたい。科学性に乏しい場合には、発掘や立ち入りなどの学術調査に踏み出すべきだろう。宮内庁は
歴代天皇60件陵112基を含め、900近い陵や墓、陵墓参考地を管理している。だが天皇陵であっても、誕生や没年
などの記録が残っていない時代のものほど、科学的な根拠に不安を残す。
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>>7から
天皇陵のうち20は幕末まで未認定だった。明治政府は古事記や日本書紀、地元の伝承などを参考に認定を急いだ。
1889年(明治22年)の大日本帝国憲法で「万世一系」を打ち出すためだったとされる。宮内庁は戦後、実在性に乏しい
神話上の人物の「陵墓」を含め、認定通り管理してきた。天皇家にとって祖先に祈りをささげる「静安と尊厳の場」である
という考え方に基づく。皇室宗教の聖域だから発掘調査など許されない−ということらしい。
最近は多少の変化がみられる。2008年2月、古墳時代の神功(じんぐう)皇后陵への立ち入りを、16学会の代表に
限って認めたことだ。外周部を歩いただけで、宮内庁が把握していなかった埴輪(はにわ)の列を池の中に発見している。
さすがに専門家の目というべきだろう。他の陵墓も調査すれば新発見を期待できることを意味する。
陵墓は文化財保護法の対象外とされる。今回は逆に宮内庁管理ではないから調査できた。根拠の不明な天皇陵を
調べもしないのでは、疑問は深まるばかりではないか。
9月17日 【北海道新聞】
9 :
纒向遺跡から祭祀用?桃の種2千超 邪馬台国有力候補地 奈良・桜井:2010/09/17(金) 22:54:48
10 :
日本@名無史さん:2010/09/21(火) 06:05:50
1953年(昭和28年)1月8日:中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』が、
「琉球群島人民のアメリカによる占領に反対する闘争」と題した記事を掲載。
尖閣諸島を日本名で「尖閣諸島」と表記し、琉球群島(沖縄)を構成する一部だと紹介する。
1958年(昭和33年)11月:北京の地図出版社、『世界地図集』発行。
尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。
1965年(昭和40年)10月:中華民国国防研究院、『世界地図集第1冊東亜諸国』初版出版。
尖閣諸島を日本領として扱い「尖閣群島」と日本名で表記。
1970年(昭和45年)1月:中華民国の国定教科書「国民中学地理科教科書第4冊」(1970年1月初版)
において尖閣諸島は日本領として扱われ、「尖閣群島」という日本名で表記されている。
***1969年および70年に行なわれた国連による海洋調査で、推定1095億バレルという、
イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告***
1971年12月30日:中華人民共和国が外交部声明という形で尖閣諸島の領有権を主張。
中国は1971年まで領有権を主張したことがない
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20100921ddlk28040173000c.html 江戸時代に酒造業を中心に発展した伊丹郷町遺跡(伊丹市宮ノ前)から、江戸後期の酒蔵をはじめ、酒造に
使ったかまどと、井戸の跡が発掘された。調査にあたった市教委によると、銘酒として知られる「剣菱」を明治から
昭和にかけて醸造していた酒蔵跡で、酒どころ・伊丹の歴史を物語る遺構として注目されている。【浜名晋一】
調査は図書館の建設に伴うもので、5月から実施。その結果、酒蔵があったことを示す礎石が見つかり、その
付近から半地下式のれんが製かまどと直径2メートルの井戸を発掘した。1886(明治19)年作成の文書「酒造場
絵図面届書写」に記された池上茂兵衛の酒蔵の地番と、発掘地点が一致することから、同酒蔵の跡と断定した。
市教委の説明では、かまどは醸造の過程で米を蒸すために利用。井戸の周囲には敷石が並べられており、
周辺が米の洗い場として使われていたと推定されるという。
同酒蔵は19世紀前期には建てられ、池上家が廃業する1926(昭和元)年まで存続したと考えられるといい、
1901(明治34)年から廃業までは、「剣菱」を醸造していた。
大手前大学の川口宏海教授(近世考古学)は「伊丹郷町では江戸後期に酒蔵が次々と建築された。発掘された
酒蔵もその一端を示す例として注目される」と話している。
9月21日 【毎日変態新聞】
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20100921_4 盛岡市上田字松屋敷の県立博物館(菊池慧館長)は20日、紫波町指定文化財「准胝(じゅんてい)観音坐像」の
胎内から、観音像の成立時期などが記された巻物を取り出したと発表した。観音像は八戸藩初代藩主南部直房の
次男直常の供養のため建立された沢口観音堂(同町土舘)に300年以上安置されていた。八戸藩の飛び地だった
同町志和地区とのかかわりなど地域史解明につながる資料だ。
巻物は紙幅13・3センチ、軸を含め15センチ、広げた長さ154センチ。表紙は紺紙で題はない。薄い絹の布で
包まれ、きり箱に入った状態で仏像の胎内にあった。
巻物には直常の人柄や、幼いころからの側近で直常没後に出家した成海與右衛門尉(よえもんのじょう)の様子、
観音像や観音堂成立の年代、経緯などが漢文体でつづられている。筆者は署名と印から、南部家の菩提(ぼだい)
寺の金地院(東京都港区)で住職を務めた僧の剛室と判明した。
巻物により、観音像が1682(天和2)年の制作と確認。また1925(大正14)年発行の都南村、矢巾町を含む旧紫
波郡の言い伝えや史跡などをまとめた「紫波郡誌」にもほぼ同様の内容が掲載されており、郡誌の記述を裏付けた。
佐々木勝宏学芸員は「仏教に帰依していたなど直常の人柄が分かる文章。生年月日や観音像成立時期などの
裏付けも取れ、比較資料としても貴重」と語る。
観音堂は與右衛門尉から代々成海家が守り伝えてきた。現当主の宥伊(ひろよし)さん(72)=紫波町土舘=が
2009年11月、観音像を同館に寄託。エックス線撮影で巻物の存在が判明した。今年7月上旬に取り出しを試みた
が断念。今回は2度目の挑戦だった。
成海さんは「子どもたちや若い人に土地の歴史を知ってほしいと調査を依頼した。資料をきっかけに八戸と紫波の
交流が深まればいい」と期待を込めた。
9月21日 【岩手日報】
【デーリー東北】
http://www.daily-tohoku.co.jp/news/2010/09/21/new1009210801.htm
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2010/09/20/5.html 山梨学院大考古学研究会(顧問・十菱駿武同大教授)が進めている不老園塚古墳=甲府市酒折町=の発掘調査で、
同古墳が古墳時代後期に造られた、横穴式石室を持つ円墳であることが分かった。研究会は、これまで調査記録が
なかった古墳の歴史的価値を考証し、史跡指定も視野に価値を訴えていく考えだ。
古墳は酒折御室山(通称・月見山)の中腹に位置する。「甲府市史」に古墳の存在を示す記述があるが、古墳の構造
や造られた年代などは分かっていなかった。研究会は土地を所有する酒折宮の協力で、13〜18日にメンバー約10人
で古墳を調査。十菱教授によると、石室の南側に側壁となる石積みがないことから横穴式古墳と断定した。また、墳丘
の測量によって、直径約10メートル、高さ約2メートルの円墳と判明した。
石室(縦約5メートル、横約1・5メートル、深さ約1メートル30センチ)は、棺(ひつぎ)を納める「玄室」と外部をつなぐ
部分との境界がない「無袖(むそで)」という構造で、副葬品として古墳時代後期の素焼きの土器「土師(はじ)器」と鉄
製品の破片が出土した。出土品や、無袖の横穴式古墳という特徴から、「6世紀後半から7世紀にかけて造られたと
みられる」(十菱教授)という。
円墳の東に隣接する横根・桜井積石塚古墳群(6世紀半ば〜7世紀)には、馬の骨が副葬品に納められるなど、酒折
周辺は当時、馬飼いの集団が多く居住していたとされる。円墳は盆地を見渡せる高台にあるため、こうした集団の長が
埋葬された可能性も考えられるという。十菱教授は「土盛りと積石の古墳が隣接して存在するのも興味深い。集団の
違いか、年代の違いかなど、二つの古墳の関係性も今後の研究課題だ」としている。
9月20日 【山梨日日新聞】
http://chubu.yomiuri.co.jp/kyoiku/kyo100917_2.htm 津市教委は16日、伊勢国司・北畠氏の本拠地の多気北畠氏遺跡(津市美杉町)の第33次発掘調査で、慶正寺が
あったと伝えられる場所から、室町時代後期(15世紀中頃〜16世紀後半)とみられる建物の柱跡や墓石の一部など
を確認したと発表した。同遺跡内には21の寺院があったとされるが、寺院跡の調査は今回初めて。
調査場所は、国史跡「多気北畠氏城館跡」の東側の八手俣川をはさんだ山林で、調査した11か所の広さは計161
平方メートル。直径30センチ前後の柱跡が12か所で見つかった。また、墓石「五輪塔」の一部が2点出土したほか、
土師器(はじき)の鍋や皿、中国産の青磁の皿なども見つかった。
現地説明会は23日午後1時半から行われる。現場は蚊などが多いので防虫対策が必要。問い合わせは、22日
までは津市教委生涯学習課(省略)、説明会当日は津市埋蔵文化財センター多気北畠氏遺跡調査分室(省略)。
9月17日 【読売新聞】
15 :
京都・元稲荷古墳で葺石出土 大和王権とつながりか:2010/09/22(水) 22:51:02
http://www.47news.jp/CN/201009/CN2010092201000842.html(画像あり)
3世紀後半に造られた国内最古級の前方後方墳、元稲荷古墳(京都府向日市)で、墳丘西側のくびれ部分に葺石
が敷かれているのが見つかり、向日市埋蔵文化財センターが22日、発表した。
葺石は墳丘を装飾し、盛り土が崩れないようにするためのもので、卑弥呼の墓説がある箸墓古墳(奈良県桜井市)
など大王クラスの前方後円墳でも確認されている。
同センターの梅本康広主任は、いずれも葺石が大量にあることなどから、大和王権とのつながりがうかがえると指摘。
「軍事的、経済的に大きな力を持った有力者が埋葬されたのではないか」と話している。
元稲荷古墳は全長約92メートルで、前方部2段、後方部3段の構成。同センターによると、葺石は墳丘西側にある
前方部と後方部の接続部分(約10メートル四方)で見つかった。ほとんどが10センチ未満の卵形で、土に埋め込む
ように整然と並べられていた。
現地説明会は25日午前11時から。
9月22日 18:40 【共同通信】
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100922/acd1009222124002-n1.htm 奈良県高取町の壷阪寺は22日、境内の三重塔(重要文化財)の基壇近くで80年以上前に発見された須恵器の
壺の年代が、奈良時代であることが県立橿原考古学研究所の鑑定で分かったと発表した。三重塔は平安時代末の
創建とされるが、同寺は「文献には登場しない三重塔の前身の建物があり、そこで水瓶(すいびょう)として使われた
仏具ではないか」としている。
寺伝によると、同寺は白鳳時代の703年に開かれ、三重塔は1127年の創建で室町時代の1497年に再建され
現在に至る。ただし、礎石は白鳳時代の特徴があるとされる。
壺は高さ9・3センチで、大正14年〜昭和2年に行われた三重塔の解体修理の際に出土。粘土で塔をかたどった
「泥塔(でいとう)」2点も同時に見つかり、これらは鑑定の結果、鎌倉〜室町時代と分かった。全長6・4センチと5・4
センチで、大きい泥塔には梵字(ぼんじ)が記されている。再建時に寄進、奉納されたと推測できるという。
壺と泥塔は、「壷阪寺三重塔特別開扉と秘宝公開」(10月1日〜12月18日)で初公開される。
9月22日 21:21 【産経新聞】
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/iwate/news/20100923-OYT8T00066.htm(画像あり)
盛岡市玉山区の芋田沢田4遺跡で昨年見つかった縄文時代後期初め(3500年前〜4000年前)のストーンサー
クル(環状列石)の下から今年、墓穴や副葬品が発掘され、埋葬場所だった可能性が高まった。これまでに埋葬場所
と判断されたストーンサークルとは特徴が異なり、より個人に特化しているとみられ、専門家は「ストーンサークルの
成立の起源に関係するかもしれない」と注目している。
同遺跡は、国道4号に近い約3000平方メートルに広がる。渋民バイパス建設ルートにあたり、昨年発掘を開始、
今年は5月から8月末まで作業した。ストーンサークルのほか、同時期の集落跡や、集中して見つかるのは珍しいと
される縄文時代早期中頃(8000年前)の住居跡約20軒分も発見されている。
ストーンサークルは真南に頭を向けた雪だるま形で、一部が重なった直径約8メートルと同約3メートルの二つの
円に沿って石が並んでいた。その下を掘った結果、小さい円の中心部に墓穴(縦約130センチ、横約90センチ)を
発見した。小判形で南北方向に掘られ、埋葬者の頭と足にあたる部分に副葬品と見られる石のやじりが共にあった。
更に周囲に墓穴が三つ見つかった。
最も北となる大きい円の頂点部分からは、直径約10センチの壺(つぼ)を発掘。中には小さな石と砂が詰まっていた。サークルに隣接し、6本の柱穴が等間隔の2列で並んでおり、葬送儀礼にかかわった建物跡の可能性もある。
盛岡大学文学部の熊谷常正教授(日本先史考古学)は「副葬品から判断し、埋められたのは集落の中心だった
男性の可能性が高い。壺は男性にかかわる女性の存在を示し、周囲の墓穴は男性の縁者のものでは」と指摘する。
全国的に有名な秋田県鹿角市の大湯環状列石など、墓だったと見られるストーンサークルは多いが、多くの墓穴が
二重の円状に並ぶという共通の特徴がある。一方、今回見つかったものは、墓穴を特定の有力者のために作ったと
みられる。
熊谷教授は「ストーンサークルが二重構造になる前の形かもしれないし、一つの完成型の可能性もある。今後、設立
時期や壺を研究し、もう少し詳しい状況がわかるだろう」と語った。発掘は来年も続く予定。
9月23日 【読売新聞】
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20100923000065(画像あり)
宇治市は22日、寺界道(てらかいどう)遺跡(同市五ケ庄)の発掘調査で、古墳〜奈良期の建物の掘っ立て柱跡が
新たに見つかった、と発表した。遺跡の南西端とみられるといい、市は「遺跡の範囲が予想より南西に広がっていた。
非常に大きな集落があったと思われる」としている。
寺界道遺跡は陸上自衛隊宇治駐屯地の北側にあり、同市五ケ庄の寺界道、野添、大林一帯を含む集落遺跡。これ
までに3回調査している。今回は集合住宅建設に伴い、8月30日〜今月18日に五ケ庄野添の民有地約169平方メー
トルで発掘調査した。
調査では直径約20〜50センチの掘っ立て柱や柵列の穴が見つかった。出土した土師(はじ)器や須恵器から古墳
〜奈良期の遺構と判明。掘っ立て柱は小規模な住居に用いられたと考えられ、調査範囲では少なくとも2棟は建って
いたとみられるという。また、一緒に発掘された東西に延びる流路の一部(幅約1メートル、長さ約10メートル)や井戸
の跡は江戸期の遺構だった。
寺界道遺跡北東の二子塚(ふたごづか)古墳(五ケ庄大林)では、かつて旧石器時代のナイフ型石器が見つかって
おり、市歴史まちづくり推進課は「古くから一帯に連綿と人が住んでいたと思われる」としている。現地説明会は行わない。
9月23日 12:23 【京都新聞】
http://mytown.asahi.com/areanews/fukui/OSK201009220157.html(画像あり)
美浜町教委は22日、町内を流れる耳川近くの同町興道寺の興道寺廃寺(こうどうじはいじ)から、墨で「耳」と書かれた
須恵器のふた「墨書土器(ぼくしょどき)」(直径13.2センチ、高さ1.2センチ)が出土したと発表した。若狭地域で最古級
の寺院とされる興道寺廃寺で、墨書土器が出土したのは初めて。同町教委は25日、現地説明会と歴史フォーラムを開く。
同町教委のこれまでの調査で、興道寺は7世紀後半から8世紀初頭にかけて創建され、8世紀後半に再建されたと
みられている。
墨書土器は2009年6月〜9月の調査で、8世紀後半から9世紀ごろの地層の上の地層に、伏せた形で見つかった。
寺院再建期の塔の南西の角にあたる基礎「基壇(きだん)」の上の地層からの出土だ。須恵器の形状、地層などから、
9世紀後半から10世紀前半の土器とみている。
同町教委の松葉竜司学芸員は「墨書土器はきちんと置かれており、廃寺の際に儀式で使われた可能性がある。この
ころに寺が衰退し、廃寺になったと考えられる」と分析する。
この墨書土器には、墨で「耳」(縦7.5センチ、横5センチ)と書かれた文字が、うっすらと読める。松葉学芸員は、「耳」
の文字について、(1)寺名からの引用(2)地名「若狭国三方郡弥美(みみ)郷」(3)古事記にも記載されている地元の
豪族「耳別(みみわけ)氏」――の可能性を挙げる。
今年度は5月から9月までに9カ所の約190平方メートルを調査。その結果、講堂の基壇を確認し、講堂の基壇は
東西が16.5メートル、南北が11.9メートルと分かった。
>>20へ
http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20100923/201009230859_11743.shtml 大垣市教育委員会は22日、同市昼飯町にある全長150メートルの県内最大の前方後円墳「昼飯大塚古墳」(国史跡)
について、周辺の土を何層にも積み上げて、人の足で踏み固めて築造した過程の全容が明らかになった、と発表した。
担当者は「これほど巨大な前方後円墳で築造過程が明らかになることは全国的にも珍しい」としている。
同市は、昨年度から4年間かけて保全整備に着手。昨年度は前方部、本年度からは後円部の整備を進めている。合わ
せて土の強度や密度、水分の量などを調査していた。
その結果、古墳の盛土は周辺の土を使い、砂や粘土を混ぜながら、一層が約15〜40センチの厚さでかさ上げを繰り
返し、人の足で踏み固めて築造していたことが分かった。また土は水平にかさ上げされていることも明らかになった。
古墳の盛土工法に詳しい京都大学防災研究所の三村衛准教授は「巨大な前方後円墳でどのように土を積み上げたか、
いまだに分からないことが多い。昼飯大塚古墳は、墳丘断面が広く露呈していたために調査には好都合だった」とコメント
している。
同古墳は4世紀末の築造。全長約150メートル、後円部の高さが13メートルに達する大型古墳で、2000(平成12)年
に国史跡に指定された。同市は、13年春までに墳丘を修復するなど古墳の再生と歴史公園を整備する予定。
25、26日の午前10時から、現地で一般公開が行われる。25日午後1時30分からは同市室本町の市スイトピアセンター
で整備事業の中間報告などを行う。
9月23日 08:59 【岐阜新聞】
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100924/acd1009242044002-n1.htm 蘇我稲目(そがのいなめ)により国内で最初に仏像が置かれた地とされる奈良県明日香村豊浦の向原寺(豊浦寺)で、
昭和49年に盗まれた金銅観音菩薩像が36年ぶりにオークション・カタログから見つかり、同寺が24日、発表した。仏像
は飛鳥時代にさかのぼる寺宝で、蘓我原(そがはら)敬浄住職は「長い旅でした。いつか絶対帰ってくると信じて待って
いました」と話した。
仏像は像高24・1センチ。寺伝によると、江戸時代の明和9(1772)年に境内の「難波池」から頭部(4・1センチ)のみ
が発見され、当時の京都の仏師により新たに体部が鋳造され、接合されたとされる。
仏像について蘓我原住職から聞いていた、大阪大大学院で仏教美術を研究する三田覚之さん(28)が先月9日、古美
術のインターネットオークションを開催する「古裂会(こぎれかい)」の会員制カタログから発見。同会の仲介で同寺が出品
者から買い取った。カタログでは最低落札価格は35万円だった。
一方、仏像とともに盗まれた厨子(ずし)は出品されておらず不明のまま。窃盗罪はすでに時効で、盗んだ人物の特定
は難しいという。
改めて仏像を鑑定した鈴木喜博・奈良国立博物館上席研究員は「飛鳥時代後期(7世紀末〜8世紀初め)の特徴と共
通する頭部の歴史的価値に加え、伝承の通りに補作され信仰されたことがわかる注目すべき仏像だ」と評価している。
盗難があった昭和49年は、高松塚古墳の極彩色壁画が発見された約1年半後で考古学ブームが続いており、同寺を
訪れる観光客も多かったという。当時から住職だった蘓我原住職は「この寺に立ち寄る人は本当に歴史が好きな人」との
思いから参拝者に仏像を公開しており、犯行はその心意気を裏切るものだった。
9月24日 20:36 【産経新聞】
24 :
難波宮跡:須恵器窯跡見つかる 近隣に大和政権の倉庫群? /大阪:2010/09/30(木) 02:08:42
29 :
日本@名無史さん:2010/09/30(木) 11:04:24
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100930-OYT1T00384.htm 神奈川県、高校日本史必修化を1年前倒し
神奈川県教育委員会は29日の臨時会で、全国初の全県立高校の日本史必修化について、
当初予定していた2013年度から1年前倒しし、12年度から実施することを決めた。
必修化に伴う新科目「郷土史かながわ」と「近現代と神奈川」の独自教材も正式決定した。
日本史教材を独自に作成するのも都道府県では初めて。
県教委によると、日本史必修化の前倒し実施は、来年3月までに作成予定だった
県独自教材が半年ほど早く完成したのが理由。
また、13年度に全面実施される新学習指導要領に基づいて、
数学と理科の教育課程の変更が12年度に先行実施されることから、日本史必修化も合わせることにした。
従来の日本史A、Bに、新たな2科目を加えた日本史4科目のうち1科目が必修となる。
12年度の全校での必修化を前に、来年度から、モデル校20校で先行実施される。
(2010年9月30日10時35分 読売新聞)
http://mytown.asahi.com/areanews/oita/SEB201009300022.html(画像あり)
大分市錦町3丁目の「中世大友府内町跡」発掘調査現場で、戦国時代の生活や南蛮貿易で栄えた街の様子がわかる
出土品が、次々とみつかっている。屋敷の堀とみられる場所からは多量の木製品や、ワイングラスのような薄手のガラス
器の破片が出てきた。県埋蔵文化財センターの小柳和宏主幹は「全国に戦国時代の城下町の遺跡はたくさんあるが、
これほど当時の姿が残っているところは珍しい」と話している。3日に出土品を展示する現地説明会が開かれる。
県教委は1999年度に遺跡の発掘を始め、今回の現場の88次調査区は永禄年間(1560年代)まで「称名寺」という寺
があったと伝えられている。当時、九州で最も栄えていた街のメーンストリートで、寺の移転後すぐに幅約5メートル、深さ
約2.6メートルの大規模な堀と塀を巡らせた有力者の屋敷が建ったとみられる。
多量の出土品はこの堀からで、近隣住民の「ごみ捨て場」にもなっていたらしい。9月22日には、多量の貝殻とともに
緑色で黄色い線が描かれたガラス器の破片が出てきた。過去の調査で厚手の皿などのガラス器は見つかったが、薄手
で模様が入ったものは初で、全国的にも珍しい出土品という。他に中国やベトナム製の陶磁器も見つかった。道を挟んだ
堀の向かいには、ポルトガル人宣教師や中国人らが住んでいた「唐人町」があり、彼らが壊れたものを捨てた可能性が
あるという。
茶道具の灰匙(はいさじ)のようなきらびやかな真鍮(しんちゅう)製品がある一方、げた、くし、ひしゃく、ざる、こまなど
の木製品も次々と出土した。水がたまっていた堀に投げ込まれたため、風化せず残ったらしい。屋敷の塀の跡や、周囲
の集落から堀に排水する暗渠(あんきょ)の様子も発掘調査で判明した。
>>33へ
>>32から
中世の府内町の繁栄は、1586年の島津氏の侵攻で幕を閉じた。その後、江戸時代になって北西1.5キロほどの海側
に新たに城が築かれて城下町が移動し、遺跡付近は田畑に変わったという。昭和30年代に約1.2メートルほど土を盛っ
て住宅や道路が建てられた。
現地説明会は、同センター(省略)が3日午前11時から開き、出土品をプレハブ内に展示する。近くの顕徳町3丁目に
ある大友氏館跡の発掘現場でも市教委文化財課(省略)が同日午前9時半から10時40分まで説明会を開く。(原篤司)
10月1日 【アカヒ新聞】
http://www.kfb.co.jp/news/index.cgi?n=201010018 郡山市田村町の守山小の体育館建て替え工事に伴う発掘調査で、古墳時代後期(6世紀後半ごろ)の豪族のものと
みられる前方後円墳の遺構が見つかったことが9月30日、分かった。
同市一帯の古墳時代後期の勢力は現在の阿武隈川の西側に集中していたとみられていたが、今回の遺構は東側に
位置し、従来の見方を覆す貴重な史料となりそうだ。
市教委から受託した市文化・学び振興公社文化財調査研究センターが今夏、敷地約1100平方メートルを調査。直径
約20メートルの円墳部分の溝跡を発見した。埋葬者を収める横穴式石室、埴輪(はにわ)の破片、勾玉(まがたま)、
須恵器なども出土した。
発掘調査に伴い守山小の新体育館の着工が遅れ、来春の卒業式に間に合わない可能性が出てきた。
10月1日 10:44 【福島放送】
http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20101001/news20101001333.html(画像あり)
国史跡の古代山城「永納山城跡」(西条市河原津)を発掘調査している同市教育委員会は30日までに、城内で初めて
鍛冶炉遺構を確認した。同市教委によると、古代山城で鍛冶関連の遺構が確認されたのは、岡山県総社市の鬼ノ城跡に
続き2例目。永納山城跡等調査指導委員会委員長の下條信行・愛媛大名誉教授は「城内で鉄製品の鍛造をしていたこと
を示す貴重な発見」と評価している。
同日、同市周布の市東予郷土館で開かれた同委員会の会合で報告した。炉の使用時期は特定されていないが、付近
で見つかった土製品の形状などから、同城と同時期の7世紀後半から8世紀に使用されたとみられる。
同城跡は市教委が昨年度から3カ年計画で調査。本年度は、昨年度から発掘している城内南東部斜面のトレンチを約
300平方メートル拡大。直径約20センチのくぼみ状の炉跡を発見した。鍛冶炉の送風管の先に取り付ける土製の「鞴
(ふいご)の羽口」の破片3点も出土。鉄滓(てっさい)や、たたいた鉄が飛び散った剥片(はくへん)なども多数見つかった。
10月1日 【愛媛新聞】
37 :
日本@名無史さん:2010/10/08(金) 10:22:35
ttp://www.47news.jp/CN/201010/CN2010100801000035.html 明治期の古写真デジタル化 ネット公開も検討、宮内庁
宮内庁が、主に明治期に撮影された古写真計約3万枚のデジタル化を進めている。
明治天皇の地方訪問の記録など近代化への歩みを進める国内の姿を切り取った
貴重な史料だが、撮影から100年を超えるものもあり、退色などの劣化が進む。
今後、原本の保護を進め、写真をインターネットで一般公開することも検討している。
写真は、明治天皇が全国を視察した際にお抱え写真家が撮影した各地の風景や、
福島県の磐梯山噴火(1888年)などの災害を写したものが多い。
写真を見た明治天皇が被災地に見舞金を出すこともあり、
担当者は「テレビもない時代。天皇にとって写真がメディア代わりの情報源だった」と話す。
ほかに、富岡製糸場(群馬県富岡市)や、気球を使って空撮した東京・新橋停車場周辺などをはじめ、
橋や灯台の完成を報告するために地方から献上されたとみられる写真もある。
これらの写真は天皇の側近が保管し、1937年に約1万枚が宮内省図書寮(現宮内庁書陵部)へ。
残り約2万枚は歴代天皇の手元に残されたが、昭和天皇が亡くなった後、
皇室に伝わる美術品を納めるために宮内庁が皇居内に建設した「三の丸尚蔵館」に引き渡された。
2010/10/08 08:05 【共同通信】
38 :
日本@名無史さん:2010/10/09(土) 10:12:36
ttp://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010100801027 角川源義賞歴史部門に前田勉氏=財団学芸賞は小熊英二氏
角川文化振興財団が主催する第32回角川源義賞は8日、
歴史研究部門に前田勉・愛知教育大教授の「江戸後期の思想空間」(ぺりかん社)が選ばれた。
文学研究部門は後日発表する。
また、第8回角川財団学芸賞は小熊英二慶応大教授の「1968(上・下)」(新曜社)に決まった。
賞金各100万円。授賞式は12月6日、東京都千代田区の東京会館で。
(2010/10/08-22:39)
39 :
最古級、未盗掘の粘土槨見つかる…長尾山古墳 兵庫・宝塚:2010/10/13(水) 23:29:16
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101013/acd1010132039005-n1.htm 兵庫県豊岡市立出土文化財管理センターは13日、同市出石(いずし)町の出石史料館で、江戸時代後期に出石藩が
作製したとみられる山陰海岸の古地図11枚が見つかったと発表した。今月、世界ジオパーク(地質公園)に認定された
「山陰海岸」(兵庫県、京都府、鳥取県)の東西約110キロにわたる該当エリアのうち、東側にあたる但馬・丹後地方
約60キロが描かれていた。センターは「古地図を参考にジオパークを訪ねることもできる」と話している。
古地図は最も大きいもので縦約1.8メートル、横約6メートル。つなぎ合わせると、京都府京丹後市の経ヶ岬から兵庫
県香美町の御崎地区までの約60キロの範囲になる。岩場や崖(がけ)、海沿いの集落など、とくに海岸部については墨
や岩絵の具で詳細に描かれている。
具体的な作製時期は不明だが、江戸時代後期に海防の必要性を感じた幕府の指示を受け、出石藩が丹後に領地を
持っていた宝暦13(1763)年〜天保6(1835)年の間に作ったと推定されるという。
約60キロの範囲を対象とした古地図には、荒磯のため船の出入りができない場所は描かれておらず、センターは
「海岸防御の観点から作製されたのではないか。このような史料は他に見たことがない」としている。
今年6月、同館の害虫駆除を行った際、土蔵奥の戸棚から木箱に入った古文書を発見、11枚の古地図が見つかった。
センターでは31日から11月3日までの4日間、同市大磯町の「じばさんTAJIMA」3階で古地図を一般公開する。
10月13日 20:37 【産経新聞】
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201010130022.html 幕末の鳥羽・伏見の戦いで圧勝した新政府軍の長州藩が、徳川幕府の譜代大名だった福山藩を攻めた1868(慶応4)年
1月の戦いで、両藩の和平交渉のやりとりを記した古文書が見つかった。交渉での発言内容を詳しく伝える記録が確認され
たのは初めて。
古文書は和紙7枚をつなぎ、縦23・5センチ、長さ231・9センチ。両藩の発言を「福山言」「長人言」と台本のように記し、
やりとりを生々しく伝える。福山藩が「徳川が朝廷の敵になったとは聞いていない」と訴えると、長州藩は「朝敵同然の徳川
譜代の家へは通達がなかったのだ」と応じ、正当性を互いに主張。福山藩は「戦う力はない。戦いはお断り」とし、長州藩
も「天皇は無益な戦いをしないのが国のためと申されており、長州藩と福山藩は国を思う心で同じ」と収拾する。署名はない。
鳥羽・伏見の戦いから3日後、長州藩が福山城の北側から攻め入り、現在の備後護国神社一帯で銃撃戦となった。福山
藩が朝廷への恭順を示したため、当日終結した。
福山藩士の子孫の男性が5年前に福山市の実家で古文書を発見。同市の広島県立歴史博物館が鑑定した。15日から
始まる企画展で初めて公開する。西村直城主任学芸員は「時代の波に翻弄(ほんろう)された福山藩の苦悩が読み取れる。
幕末の郷土史に光を当てる貴重な史料だ」と話している。
10月13日 【中国新聞】
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201010140053.html 三原市教委が同市本郷南の三太刀(みたち)遺跡で進める発掘調査で本年度、大量の土器や庭園だった可能性が
ある水路の跡などが見つかった。遺跡は14世紀前後に付近一帯を治めた小早川氏が拠点とした館だったとみられる。
市教委は16日に現地説明会を開く。
遺跡は区画整理事業に先立って2000年度から調査が始まった。これまでに館があったことを示す溝や支柱の穴、
青磁や白磁の輸入磁器などが見つかっている。本年度は遺跡北側の約400平方メートルを調査し、素焼きの杯や茶
わんなど数百点が出土したほか、池や蛇行した水路の遺構も見つかった。
説明会は午後1時から。市教委の学芸員が調査や出土品などについて報告する。無料。雨天中止。市教委生涯学
習課=電話(省略)。
10月13日 【中国新聞】
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101015/acd1010150146000-n1.htm 考古学で国内最大の学会、日本考古学協会(東京、菊池徹夫会長)が所蔵している遺跡発掘報告書など約5万6千冊
の蔵書について、保管コスト高などを理由に英国の研究所に一括寄贈することを決めたことが14日、分かった。弥生時
代の生活ぶりの解明につながった登呂遺跡(静岡市)の報告書など戦後60年以上にわたって蓄積された貴重な蔵書が
そろい、会員からは「海外流出は文化資産の損失」と反発する声がある。協会は急遽(きゅうきょ)、16日に兵庫県で臨時
総会を開き会員の意見を聞くが、紛糾が予想される。
考古学協会は昭和23年に設立され、大学教授や自治体の教育委員会の発掘担当者ら約4200人が会員。
蔵書は当初、都内の協会事務所で保管していたが、手狭になり、30年ほど前から千葉県市川市の市川考古博物館や
都内の倉庫で保管。現在は一括して埼玉県所沢市内の倉庫に置かれている。蔵書の利用は、市川考古博物館に保管し
ていた当時は年間数人程度で、倉庫の蔵書は段ボール箱に入れられたまま。一方、倉庫の賃貸料などに年間約100万
円かかるうえ、資料を整理して常時閲覧ができるように整備すると多額の費用がかかる。協会は「保管は限界」として、
平成19年度に蔵書の一括寄贈の方針を決定。昨年、寄贈先を公募したが、国内の研究機関などからはゼロで、唯一
応募した英国のセインズベリー日本芸術研究所に決まった。(中略)
ただ、この経緯について「理事会だけで進められ、十分な説明がない」と一部の会員が反発。会員の1割以上約500人
の反対署名が集まった。寄贈に反対する橋口定志・東京都豊島区教委学芸員は「蔵書は戦後の日本考古学の発展過程
を示す文化的財産。海外放出は学問的危機」とし、「コストや保管場所の確保で難しい面もあるが、蔵書の有効活用を考
えるべきだ」と訴える。考古学協会理事の石川日出志・明治大教授は「蔵書の活用について何十年も議論したが、具体化
する目途が立たない以上、現実的な方法を探るしかなかった。国内で保管したかったが苦渋の選択」と話す。
10月15日 01:45 【産経新聞】
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20101015000033 京都市上京区の同志社大今出川校地で、旧相国寺境内の発掘調査が行われている。すでに室町時代の建物遺構など
が見つかっており、相国寺創建とそれ以前の土地利用の実態解明が期待される。
同志社中解体工事に伴う調査で、同大学が8月から実施、現在は2千平方メートルで進めている。これまでに、調査区
域の南側で柱を据える礎石の土台となる「根固め石」の跡が見つかった。相国寺が焼失した応仁の乱後の15世紀後半
〜16世紀ごろの造営とみられ、東西に直線的に並ぶ格好で北側で4カ所、南側で2カ所が検出された。こぶし大の石を
直径約1メートルの規模でほぼ円形に敷き詰めており、この石の上に礎石を置いたと考えられる。
柱の間は4メートル余りと推定され、全容は明らかでないが大規模な建物跡とみられる。建物の名称や用途は不明だが、
同大学は「当時の相国寺の主要な塔頭や施設だったのでは」としている。
調査は約7千平方メートルを対象に来年3月まで行う予定で、調査を担当する同大学の鋤柄俊夫教授(日本考古学)は
「一帯の土地利用が始まったと考えられる奈良時代から相国寺創建ごろまでの様子が明らかになれば」と期待している。
10月15日 09:35 【京都新聞】
52 :
甲南女子大所蔵古今和歌集、鎌倉初期の最古級:2010/10/20(水) 23:14:41
http://mainichi.jp/select/today/news/20101021k0000m040067000c.html 宮城県多賀城市の国特別史跡・多賀城跡(陸奥国府跡)の発掘を進める県多賀城跡調査研究所は20日、東側の外郭
で新たな門跡を発見したと発表した。奈良時代の多賀城創建(724年)に近い時期に建設された通用門跡とみられる。
柱を立てるために掘った穴は「奈良・平城京にもない巨大さ」(同研究所)という。
多賀城跡で確認した門跡は今回で4カ所目。発見した門跡は、外郭東辺のほぼ中央部にあり、掘っ立て式の八脚門と
みられ、大きさは幅約10メートル、奥行き約6メートル。門の規模は他の門とほぼ同じだが、柱を立てる穴は方形で、
一辺2.1メートル、深さ1.7メートルもあった。直径約45センチの柱を安定して立てるため、地中で木材を連結する珍しい
「地中梁(はり)」工法が施されたとみられる。
約2キロ東には、物流拠点「国府の湊(みなと)」(現同県塩釜市内)があったことから、人や大量の物資が往来した通用
門の可能性が高いとみている。【渡辺豊】
10月20日 21:35 【毎日変態新聞】
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101020/acd1010200031000-n1.htm 大阪市西成区の天下茶屋北で、古墳時代前期(4世紀)のイイダコ漁用の蛸壷(たこつぼ)100個以上見つかったこと
が19日、分かった。調査をした市博物館協会・大阪文化財研究所などによると、これほど大量の蛸壷の出土は近畿では
珍しい。「たこ焼き文化」が浸透する大阪で、古代からタコ漁が盛んだったことを示す資料になりそうだ。
蛸壷はいずれも高さ7〜11センチ、直径4センチ前後で、ほぼ完全な状態で見つかった。上部に穴があり、ひもを通し
て蛸壷をつなぎ海に沈めたらしい。イイダコ漁は、大阪湾や播磨灘などでは弥生時代中期(紀元前3世紀ごろ)に始まっ
たとされるが、これまで蛸壷の出土は多くても数十個程度。
現在は、たこ焼き用のタコなどマダコ漁が中心だが、地元漁協などによると、イイダコ漁は底引き網漁で行われ、30年
ほど前までは蛸壷が使われていた。大阪の泉州地域などでは生後100日目に食事の格好をする「お食い初め」でイイダ
コが使われる風習が残り、森成元・大阪府教委文化財保護課主査(民俗学)は「今回の発掘は、古代からタコが大阪文化
と切っても切れない関係だったことがうかがえる」と話している。
発掘調査では、干潟に生息するエビやカニの巣穴も見つかり、調査担当の小倉徹也学芸員は「発掘現場は今は大阪の
市街地だが、当時は入り江だったのでは」と推測する。発掘現場はすでに埋め戻されている。
10月20日 00:30 【産経新聞】
http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20101020/CK2010102002000119.html 県の財政難の影響で、国宝や重要文化財に指定されている県内の歴史的建物の「手当て」が滞っている。県教育委員会は、
小規模な補修に対する補助を2008年度から休止しているため、建物を所有する寺社などに費用の負担がのしかかっている。
修繕の遅れにもつながり、維持管理の不備が「大きな破損を招く」との指摘もある。
8月にイノシシによって腰高障子4枚が破られた大津市の三井寺の国宝・光浄院客殿。破損当初は、障子を取り外して
仮設の板戸をつけ、縁側に侵入防止柵を設けた。しかし、国宝に備え付けられた板戸は2カ月たった今も、その「応急措置」
のままだ。三井寺は、修復費100万円未満の小規模な破損修理をする指定文化財管理費事業を使って修復する予定だった。
しかし、事業休止の県教委の方針を知り、断念。現在、屋根全体の修復を国に申請中のため、それに追加する形で修復する
方針に切り替えた。国の修復工事は順番待ちが長く、着工時期は未定だ。三井寺の関係者は「財源の厳しさはわかる。
でも重要文化財を多く持つところは楽ではない」とつぶやいた。
このほか、鎌倉時代に建てられ、国の重文に指定されている野洲市小篠原の日吉神社本殿で、落雷により自動火災警報器
が壊れたケースも。県教委は、警報器内部の基板修理などの費用を出せず、神社が全面負担した。
>>56へ
>>55から
指定文化財管理費事業の主な内容は、修復費100万円未満の小規模工事のほか、防災設備の点検、文化財パトロール
の3つがある。国の指定文化財の場合は小規模破損修理と防災設備の点検は国と地元の県教委が50%、残りを所有者ら
が負担する。文化財パトロールは、委託を受けた地元の委員らが文化財の状態を細かく見て回るもので、県は今まで年間
約240万円をかけて続けてきた。県教委は現在、防災設備の点検だけを続けている。
愛知、岐阜、三重、福井、静岡の5県教委は「重要な文化財。予算は確保している」と、修復に向けた財政支援をする。
しかし、長野県教委の担当者は「滋賀県と同じで、補助を出せていない。所有者に申し訳なく肩身が狭い」と話した。
滋賀県文化財保護課の担当者は「予算があれば当然続けるべきであることは分かっている」と話すものの、「復活の見通し
はわからない」とする。文化庁では、滋賀県教委が小規模な修復工事を休止したことに加えて、本年度から文化財パトロール
も休止にしたことを問題視している。「小さな修理や点検を怠ることで、大きな破損につながる。滋賀県は重要文化財が多い。
正直困っている」と話している。(木原育子)
10月20日 【中日新聞】
57 :
日本@名無史さん:2010/10/20(水) 23:38:00
徳川家茂死亡理由に新事実。
家茂が坐乗する軍艦咸臨丸が、六平級軍艦二隻を引き連れて、紀淡海峡付近の薩摩、長州艦隊と和平交渉のため、投降しようとした
ところ、大坂湾からはっせられた直径6`の巨大な光に呑まれて死亡していたことがわかった
福井の遺跡で古墳中期の記号土器 「墨書」では県内最古
福井市文化財保護センターは25日、同市森田地区の河合寄安(かわいよりやす)遺跡で大量に出土した土器に、
直線や曲線を組み合わせた記号が記された古墳時代中期の「記号土器」24点が含まれていた、と発表した。
祭祀(さいし)具として使われた記号土器は古墳初期に全国で衰退しており、同センターは「古墳中期のものは
非常に珍しく、古代祭祀の動向を解明する上で貴重な発見。記号土器を使う祭祀の最終形ではないか」としている。
24点のうち1点は、記号を墨とみられるもので書いた「墨書土器」だった。墨書土器は奈良時代以降の遺跡で
出土が多く、県内では最古。古墳時代以前のものは全国でも10例目、古墳中期に限れば全国初という。
同遺跡からは木製の祭壇「案(あん)」や加工中の木製品が出土していることから、同センターは「地域の拠点
となる重要な集落があったことが裏付けられた」としている。
出土品の整理作業を進めていた今年6月、記号土器を発見した。古墳時代以前の弥生中期から後期にかけて
主に近畿地方で流行し、水にかかわる祭祀で用いた記号土器と判明した。記号土器はすべて水場の遺構
「井泉(せいせん)」からまとまって見つかった。
記号土器は直径20センチ、高さ15センチほどの「高坏(たかつき)」が10点と大小のつぼ、かめ。大半が底部の
裏面に記号が刻まれていた。記号は直線を2〜6本組み合わせたもの、「T」やリボンのような形、一部が欠けた円
などで、近畿地方のものと似ている。これらは動物や人物、高床倉庫を描いた絵を記号化したもの、
原始的な文字などとする説がある。
59 :
58:2010/10/26(火) 16:23:48
60 :
日本@名無史さん:2010/11/22(月) 12:28:44
61 :
日本@名無史さん:2010/11/24(水) 19:11:07
なんのこっちゃ
62 :
日本@名無史さん:2010/11/27(土) 12:05:10
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2010112700120 奈良時代の写経断簡発見=光明皇后が発願、正倉院と一致−大阪大
大阪大は26日、奈良時代に仏教を広めるため、聖武天皇の妻の光明皇后が
国家事業として進めた写経の一部(断簡)が見つかったと発表した。
この時代を代表する約7000巻の写経の一部とみられる。
現存する約1000巻の大半は正倉院で保管されており、
阪大は「正倉院宝物級の文化財」としている。来年5月に一般公開する予定。
見つかった断簡は「光明皇后発願出曜経巻第四」。
26枚の紙をつないだ巻物の最後の2枚とみられ、大きさは縦27センチ、横69センチ。
経文の終わりの部分と光明皇后が写経の趣旨を述べた願文が記されており、
当時の写経生が筆写したものとみられる。保存状態は良好という。
市大樹阪大准教授らによると、断簡は仏教史研究で知られた
井上薫阪大名誉教授の遺品から家族が見つけた。
阪大や正倉院の関係者が鑑定したところ、筆跡や紙質が正倉院にある「巻第六」と一致したという。
(2010/11/27-09:41)
ttp://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=292014X ■学術文庫『続日本後紀 全現代語訳』(上巻)についてのお詫びとお知らせ
-----------------------------------------------------------------------
弊社が2010年9月に刊行しました学術文庫『続日本後紀 全現代語訳』上巻の中で、訳文の付録として掲載した原文に、一部誤りのあることが判明いたしました。読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを、お詫び申し上げます。
訂正を施した第2刷は11月26日頃にできる予定です。すでにご購入のお客様には、順次交換をさせていただきます。大変恐縮ではございますが、下記の係に御連絡をいただけましたら、速やかに訂正の第2刷の本を送らせていただきますので
、下記要領を御覧いただき、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
今後このようなことのないよう、編集部一同、鋭意努めてまいります。
<問い合わせ先>
講談社不良本交換窓口係
〒112-8001 東京都文京区音羽2-12-21
電話【03-5395-3615】
<お願い>
※ご購入された上記本を、上記あて先に着払いでお送りください。その際、お送り先ご住所・お名前を明示されたものを同封ください。
※11月26日以降となりますが、速やかに交換本を発送させていただきます。
※下巻はまったく問題ありませんので、そのままご購読ください。
64 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 15:41:16
【台湾】馬英九総統「日本には謝罪責任がある」…従軍慰安婦問題で日本は自国の「恥部」を隠すべきではない [12/27]
台湾の馬英九総統は26日、台北市文化局や台湾婦女救援基金会が主催した、台湾の
元従軍慰安婦らの対日訴訟に関する特別展に出席し、「日本政府は歴史の過ちに対して
謝罪する責任を持つ」と発言。注目を集めている。環球網が台湾の報道を受けて伝えた。
主催者となる台湾の元従軍慰安婦らが対日訴訟を求めた2000年から、同基金会の活動
は今年で10周年を迎える。展示会では、元従軍慰安婦らによる日本への賠償要求や、
従軍慰安婦問題の教科書記載などを求める運動などが紹介された。
馬総統はこれまでも元慰安婦の名誉回復活動に積極的に参与しており、同基金会が制作
した台湾人元慰安婦に関する記録映画の撮影や、元慰安婦への補償活動などに関わった。
また、2008年には、元従軍慰安婦8人と会談し、同問題への関心の高さを示している。
馬総統は、特別展開会のあいさつで「日本は歴史で犯した過ちと向き合うべき」と述べ、
日本は自国の「恥部」を隠すべきでなく、また、謝罪責任を逃れるべきではないとの見解を
示した。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1293436105/
65 :
日本@名無史さん:2011/01/12(水) 16:19:48
テスト
造山古墳築造は人口の激減期…岡山大
定説を覆す研究
全国4位の規模を誇る岡山市の造山(つくりやま)古墳(5世紀前半、全長約350メートル)が人口の激減期に
築かれていたことが、松木(まつぎ)武彦・岡山大教授(考古学)の研究で分かった。地域の人口増加が大規模な
古墳築造を可能にしたとする定説を覆す成果として注目される。
岡山県の瀬戸内海沿岸で出土した弥生時代末から古墳時代の住居跡1011戸を、約70〜100年ごとに
区切って変遷をみた。その結果、347戸と最も多かった弥生末〜古墳時代初頭(2世紀後半〜3世紀前半)から、
古墳時代前期前半(3世紀後半)には174戸に激減。同前期後半(4世紀)には47戸と最少になり、造山古墳が
築造された同中期前半(5世紀前半)も58戸と低調だった。
戸数が激減した3世紀は、ヤマト王権が纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)を拠点として、奈良盆地南東部に
大型の前方後円墳を築いた時期。だが4世紀前半に纒向遺跡は急速に衰退、5世紀にかけて岡山のほか大阪や
群馬などでも全長200メートルを超える巨大古墳の築造が始まった。
松木教授は「ヤマト王権に参加するため、全国の有力豪族たちが住民を引き連れて奈良に集まり、
地方の人口が急減した。その後、ヤマト王権の求心力が衰えると、豪族たちは地元に戻り、巨大古墳を造った
のではないか」と推測している。
(2011年1月19日 読売新聞)
ttp://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110119-OYO1T00298.htm
68 :
日本@名無史さん:2011/02/01(火) 08:56:27
奈良県は31日、昨年の平城遷都1300年祭の内容をまとめた冊子
「平城京レポート」に誤記や再確認が必要な記述が計170か所あったと
発表した。
県は配布予定だった800部を、編集を委託した業者(東京)に返品し、
刷り直すよう求めている。昨年末に約1000部を発行した後、
20か所以上のミスが判明、対応を検討していた。
発表では、誤記は1567年に焼失した東大寺大仏殿を
「1000年以上も保存されている」とするなど47か所。
誤植は法華寺(奈良市)を「法華時」とするなど37か所。
確認が必要な表現も86か所あった。同レポートはA4判、
284ページで、編集費約400万円。昨年9月から3か月間で
外部のライターら約30人が執筆した。県は「執筆期間が短く、
確認も不十分だった」としている。
*+*+ YOMIURI ONLINE 2011/02/01[07:56:27] +*+*
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110131-OYT1T01091.htm
欧米よく、中立してくれたよな、
あんときの日本、ほんとやばかった
71 :
日本@名無史さん:2011/02/07(月) 09:46:24
>両藩が北海道などの領地の譲渡を提案したが
うわあ・・・
日中韓は8000年前から交易? 韓国での出土品が証明
韓国の釜山市で8000年前のものと推測される共同墓地が発見され、韓国の専門家は、「墓地からの出土品は
8000年前にはすでに東北地区で交易が行われていたことが明らかになった」と述べた。中国の環球時報は18日、
「朝鮮半島の人びとは8000年前には日本や中国と交易していた」と報じた。
研究院は17日、紀元前6000〜5000年前後のものと見られる共同墓地が発見され、26人分の人骨が発見された
ことを明らかにした。
調査によると、人骨はそれどれ単独で埋葬されており、土器やサメの歯などが副葬され、中には長さ7センチ
メートル、直径3センチメートルという大型の玉(ぎょく)の装飾品を付けた人骨もあり、その周辺に13人分の人骨が
集中して安置されていたという。韓国文物研究院鄭義道院長は「大型の玉器を身につけた例は韓国の新石器遺跡
全体でも珍しいケースで、死者は特殊な地位にあった可能性がある」と指摘した。
報道によると、これらは韓国で発見された玉器の中でもっとも古い部類で、ほかにも墓地全体から300以上の
黒曜石が出土した。韓国東アジア大学の李東朱教授は「これらの玉は中国東北地方のもので、黒曜石は日本から
来たものと思われる。これらは8000年前には東北地区にすでに、広域での特産物交易が行われていたことの重要
な資料となる」と述べた。
韓国文物研究院の金尚賢課長は「今後の発掘で新たな発見の可能性もある。人骨の年齢や性別をDNAから
分析すれば、周囲の人骨との血縁関係も分かり、さらに正確な当時の社会状況が把握できるだろう」と述べた。
ttp://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0219&f=national_0219_097.shtml
74 :
日本@名無史さん:2011/02/24(木) 12:17:59.87
1話6000万円をかける“お笑い”大河「江」は悪評しきり
大方の予想通りの展開になってきた。上野樹里主演のNHK大河ドラマ「江」の視聴率がジリジリとダウンしている。
初回21.7%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)でスタートして3回目には22.6%を記録したが、
今月13日の6回目に初めて20%割れの19.6%になり、20日の7回目はさらにダウンして18.5%。このままどこまで下がるかという状況になっている。
理由ははっきりしている。マンガチック過ぎて視聴者がついていけないのだ。
現在の江は実際は6〜7歳だが、24歳の上野が演じていて赤い髪どめも変だ。
年齢のチグハグさは江に限らず出演者のほとんどにいえなくもなく、どうなってるの?というキャスティングだ。
描き方も極端。放送評論家の松尾羊一氏がこう言う。
「江の上野はコメディーチックに描き過ぎだし、岸谷五朗の秀吉はピエロみたいですよ。
虚構が入っていてもいいけど、江が明智光秀に会ったり、清洲城まで家康に誘導してもらうのもおかしい。
信長、秀吉、家康という3人の戦国武将に詳しい世代、視聴者には飛躍し過ぎだと思います。
前回の『龍馬伝』はリアリティーを追及していたから、今回の『江』のテイストが余計に鼻につくともいえますが……。
視聴率ダウンも、途中までは付き合うけど、ひど過ぎるというのが理由ではないか」
この“お笑い”大河1話につき6000万円くらいの受信料が使われている。これにも我慢できない人がいるだろう。
NHKはこのままでは好評だったドラマでもミソをつけることになる。
http://news.www.infoseek.co.jp/entertainment/story/23gendainet000138323/
75 :
日本@名無史さん:2011/03/17(木) 13:32:30.94
先の地震で旧仙台領宮城県大崎市岩出山の有備館が倒壊した模様。
有備館(ゆうびかん)とは、旧仙台藩の学問所。
茅葺きの書院造の建物が現存し、日本最古の学問所建築である。
庭園と合わせて国の史跡及び名勝に指定されている(登録名称「旧有備館及び庭園」)。
76 :
日本@名無史さん:2011/04/08(金) 04:40:29.12
77 :
日本@名無史さん:2011/04/08(金) 08:44:52.76
>>69譲渡っつことは、もしされていたら、北海道にはドイツ人の国ができているということ?
けどそれもまたおもしろいね。北海道とドイツは気候がにているからね。アフリカなどと違ってすみやすいだろうから、ドイツ人の大量移民があったかもしれない。
東北大震災被災地の学芸員は既に残すべき遺構の選定に入ってるらしい
日本史に残る大惨事になったな
79 :
日本@名無史さん:2011/04/08(金) 23:43:18.65
あの民宿の屋上に乗っかった船、是非残すべきだ。
80 :
日本@名無史さん:2011/04/09(土) 10:31:15.91
81 :
忍法帖【Lv=2,xxxP】 :2011/05/07(土) 03:59:26.42
てす
82 :
日本@名無史さん:2011/05/10(火) 00:42:53.60
発掘
84 :
日本@名無史さん:2011/05/14(土) 12:10:19.39
85 :
日本@名無史さん:2011/05/20(金) 23:57:30.83
http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011052001001020.html 大分でキリシタン墓地発見 完全な姿残す、国内初
大分県臼杵市教育委員会は20日、同市の広原西遺跡から、
安土桃山時代から江戸時代初めにかけてのものとみられる、
キリシタン墓地の墓標など地表部分を発見したと発表した。
市教委によると、これまでにひつぎなど地中に埋葬されたものは見つかっているが、
地上の構造物を含め完全な姿で残っているのは国内初という。
調査した東大の五野井隆史名誉教授(日本キリシタン史)は
「迫害が厳しかった江戸時代にも墓が壊されず、そのまま見つかるのはとても珍しい」と話している。
2011/05/20 20:54 【共同通信】
86 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 09:05:29.63
「つくる会」歴史教科書が年表丸写し 市民団体が指摘
2011年6月13日23時45分
市民団体「子どもと教科書全国ネット21」(事務局・東京)は13日、横浜市で記者会見を開き、
「新しい歴史教科書をつくる会」主導で編集された自由社の中学歴史教科書2012年版の年表が、
東京書籍の02年版教科書とほぼ一致していると発表した。
同ネットによると、両教科書の年表の「日本のおもなできごと」で、「縄文時代 採集や狩りによって生活する」から
「1997 アイヌ文化振興法制定」までの約180項目すべてで出来事の選択が一致した。
9項目で「大和国家」「太平洋戦争」(東京書籍)と「大和朝廷」「大東亜戦争(太平洋戦争)」(自由社)などの
違いがあった以外は表現も一致していた。
横浜市内8区の市立中学校で自由社の10年版教科書が使われており、10年版もほぼ同様の状態だったことから、
同ネットは今回、横浜市で発表したという。
同ネットの俵義文事務局長は「丸写しで盗用した可能性が高い。他社が改良を重ねて築いた成果を
勝手に使うことは大問題だ」と指摘。他にも同様のケースがないか調べているという。
東京書籍は「初めて聞いた話で驚いている。事実関係を確認のうえ今後の対応を考えたい」としている。
自由社版教科書の代表執筆者で「つくる会」会長の藤岡信勝さんは「指摘を受けるまで気づかなかった。
年表作成の担当者は自由社を退社しており、経過を確かめようもないが、関係者に迷惑をかけ、深くおわびする。
夏にこの教科書が採択された後、来春の使用開始までに充実した年表につくり直す」と話した。
朝日新聞社
http://www.asahi.com/national/update/0613/TKY201106130528.html
87 :
日本@名無史さん:2011/06/14(火) 12:36:16.12
88 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 01:20:58.72
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110626-OYT1T00063.htm 「平泉」世界文化遺産に登録…東北では初
【パリ=三井美奈】パリで開かれている国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は
現地時間の25日、日本が推薦した「平泉」の文化遺産(岩手県平泉町)について、
中尊寺など6か所のうち、柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡を除く5か所を世界遺産に登録することを決めた。
国内の世界文化遺産としては、2007年の「石見銀山とその文化的景観」(島根県)に次いで12件目で、東北では初めて。
自然遺産を含めると、24日に決まった小笠原諸島(東京都)を含め16件となる。
「平泉」の文化遺産は、東北地方に栄えた奥州藤原氏が12世紀に造営した寺院や庭園など。
ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(ICOMOS(イコモス))は5月の勧告で、奥州藤原氏の居館跡である柳之御所遺跡については、
「浄土思想との直接的な関連性の点から、顕著な普遍的価値の一部をなすものとは認められない」などとして構成要素から除くべきとしていた。
また、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の遺産名についても、
考古学的遺跡群の部分を削除するよう求めていた。この日の世界遺産委員会では、勧告通りの登録が適当とされた。
(2011年6月26日00時51分 読売新聞)
89 :
日本@名無史さん:2011/06/26(日) 07:41:37.47
90 :
日本@名無史さん:2011/07/04(月) 03:30:11.47
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110704-OYT1T00006.htm 寛永通宝、バリ島の遺跡に…最南端での出土記録
「寛永通宝(かんえいつうほう)」など江戸時代の銅銭が、インドネシアのバリ島で出土していたことが分かった。
寛永通宝は当時、海外でも通貨や装飾品として流通し、北はアラスカから、
南はベトナムまでアジアを中心に多数見つかっているが、バリ島は最南端となる。
三宅俊彦・専修大兼任講師(考古学)が、バリ島の国立考古学研究センターなどで確認した。
見つかったのは、島内の集落跡、バドゥダワ遺跡などで出土した
寛永通宝28枚と長崎貿易銭(元豊(げんぽう)通宝)4枚の計32点。
日本の新聞が第2次大戦中、バリで寛永通宝が通貨の一部に交じって流通していると報じたことがあったが、
実際に考古学調査による出土品が確認されたのは初めて。
(2011年7月4日03時01分 読売新聞)
91 :
日本@名無史さん:2011/07/04(月) 16:04:07.50
95 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 06:31:22.96
高校の地理・歴史教育の見直しを検討していた日本学術会議は5日までに、
日本史と世界史を統合した「歴史基礎」と「地理基礎」の2科目を新設して
必修にするなどの改革案を文部科学省に提言した。
高校は2013年度から新学習指導要領が段階的に実施予定で、
同省は「その次の指導要領改訂の際の検討材料にしたい」としている。
提言は、学校週5日制の導入に伴う授業時間数の減少で、
現在の高校が「世界史」「日本史」「地理」の3科目をすべて教えることは困難になっていると指摘。
グローバル化に対応するためにも地理と歴史をバランス良く学ぶことが重要で、
2科目に統合し共に必修にすべきだとした。
当面の改革として、教え方を「知識詰め込み型」から「思考力育成型」に転換することも提唱。
関連学会で教える重要用語を限定する指針を作り、大学も入試でその範囲から出題するよう求めた。
日本学術会議は06年秋に多数の高校で必修の世界史を教えずに卒業させていたことが表面化したのを受け、
地歴教育の改革を検討してきた。
http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C93819695E2E6E2E6918DE2E7E2EAE0E2E3E39180E2E2E2E2
96 :
日本@名無史さん:2011/08/08(月) 07:32:54.73
竹島不法占拠・李ライン設定による日本漁民虐殺・朝鮮進駐軍の暴行、朝鮮人密航集団の戦後史を教科書に載せるべきだ。
仁徳陵出土の「可能性低い」 米で所蔵の鏡など宮内庁が調査
宮内庁が仁徳天皇陵に指定する大山古墳(堺市、5世紀中ごろ)で出土したと伝えられ、米国ボストン美術館が
所蔵する獣帯鏡など5点について、同庁書陵部が初の公式調査を行い、年代や購入記録から「(大山古墳出土の)
可能性は極めて低い」との見解をまとめたことが13日、分かった。
新見解は同庁発行の「書陵部紀要」に掲載しており、近く、ボストン美術館に送付する。
書陵部の徳田誠志首席研究官が2008年に渡米。大山古墳出土と伝わる獣帯鏡、環頭大刀の金箔張り柄頭、
馬具の一種の三環鈴と馬鐸2点の計5点を調べた。
http://www.47news.jp/CN/201108/CN2011081301000486.html
ボストン美術館蔵の鏡など5点 仁徳天皇陵出土の「可能性低い」
宮内庁が仁徳天皇陵に指定する大山古墳(堺市、5世紀中ごろ)で出土したと伝えられ、米国ボストン美術館が
所蔵する獣帯鏡など5点について、同庁書陵部が初の公式調査を行い、年代や購入記録から「(大山古墳出土の)
可能性は極めて低い」との見解をまとめたことが13日、分かった。
5点が米国に渡った経緯は不明だったが、同館に勤務し、仏像などの東洋美術を収集していた思想家岡倉天心が
1906年に京都、奈良へ出張した際、計1450円(米価比で現在の約580万円)で一括購入したことも判明。
大山古墳では1872年に前方部で石室が見つかり、中の石棺や甲冑などを描いた図面が残る。
学界には同館所蔵品を「この時流出した」とする説と、「墳丘や甲冑と年代が合わない」との否定説があり、
出土地をめぐる議論が再燃しそうだ。
新見解は同庁発行の「書陵部紀要」に掲載しており、近く、ボストン美術館に送付する。
書陵部の徳田誠志首席研究官が2008年に渡米。大山古墳出土と伝わる獣帯鏡、環頭大刀の金箔張り柄頭
(つかがしら)、馬具の一種の三環鈴(さんかんれい)と馬鐸(ばたく)2点の計5点を調べた。
国内外の出土例から獣帯鏡は5世紀後半〜6世紀前半、他は6世紀前半と判断。大山古墳は墳丘の須恵器
から5世紀半ばとの説が有力で、「5点をセットで埋納したなら、その古墳の築造は6世紀前半。(大山古墳とは)
年代が異なる可能性が高い」と結論づけた。
また岡倉が作った購入品リストなどに5点は「古代の墓で出土した青銅製品」とあるだけで、大山古墳を示す
記載は一切ないことも判明。徳田首席研究官は「日本では明治時代末から『仁徳陵出土』とのうわさがあったが、
遺物や同館の書類に関連をうかがわせる点はなかった」と話した。
同館に購入先の記録はなく、売り手は分かっていない。
[ 2011年8月13日 16:32 ]
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/08/13/kiji/K20110813001405690.html
99 :
日本@名無史さん:2011/09/12(月) 23:49:00.04
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110912/art11091221570002-n1.htm 琵琶湖底に水没集落の墓地か 430点の石群発見
2011.9.12 21:54
大地震で集落が水没したとの伝承が残る滋賀県長浜市沖の琵琶湖底から、
供養塔や石仏の一部など石群約430点が見つかり、
中井均・滋賀県立大准教授(中世考古学)が指導する同大の学生グループが12日、発表した。
中井准教授は、16世紀後半の地震で集落が地盤ごと地滑りして水没したとみている。
調査したのは、中井准教授が指導する県立大の学生グループ「琵琶湖水中考古学研究会」。
「西浜村」という集落が湖底に沈んだとの伝承があり、素潜りで調査した。
長浜市祇園町沖約100メートルの湖底(水深約1メートル)で、
東西38メートル、南北26メートルにわたって分布する石群を見つけた。
供養塔などに使われる五輪塔の一部や、石仏の上半身部分など、墓地に使われたとみられる石があり、
材質と形状から、16世紀前半から17世紀初頭につくられたと推定される。
文献で天正13(1586)年に岐阜県中北部を震源とする
マグニチュード7・8規模の地震が起きたことが分かっており、時期が一致した。
中井准教授は「水没集落を考察するうえで貴重な史料。科学的な調査を進めれば、
地震被害のメカニズムの解明にも役立つのでは」と話している。
100 :
日本@名無史さん:2011/09/30(金) 12:09:05.34
群馬県立歴史博物館は28日、国指定の重要文化財「上杉房定書状」(新潟県立歴史博物館所蔵)
など古文書4点に、水滴の染みが見つかったと発表した。天井の空調設備にできた結露が落下した
とみられ、修復に数カ月かかるという。
群馬県立歴史博物館によると、「上杉房定書状」は室町時代後期に書かれた原本で、縦5センチ、
横3.5センチの染みが二つできていた。また、同館所蔵の「長尾氏系図」の写しには長さ約107センチ
の染みがあり、国学院大所蔵の「太田道灌状」「香蔵院珍祐記録」にも染みが確認された。
いずれも15世紀後半ごろの戦国時代の様子が記された貴重な資料で、7月に開かれた企画展の
ために借り、館内のケース内に展示していた。
群馬県立歴史博物館は1979年のオープンから一度も改修工事が行われておらず、空調設備の
老朽化などでケース内の温度管理に不具合が生じ、結露が発生したとみられる。(2011/09/28-18:58)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2011092800852
101 :
日本@名無史さん:2011/10/02(日) 13:27:44.66
ことしの教科書採択は終了したようだが、毎年、考えるのは歴史教育が随分とゆがめられているのではないか、ということだ。
教科書を執筆している人も、採択の担当者も教師も歴史を知らないのではないか、とさえ思えてしまう。
とくに近現代史がそうで、例えば、昭和12年7月に始まったとされる日華事変(教科書では日中戦争)について、
「北京郊外での日中両軍の衝突によって日本と中国が全面戦争状態に入った」などと書かれる。が、これは正しくない。
盧溝橋事件は日本の支那駐屯軍と中国の宋哲元軍(第29軍)との衝突だが、10日後には宋が日本軍の香月清司軍司令官に
遺憾の意を表明して停戦が成立している。
しかも、日本軍の桜井徳太郎少佐が宋哲元軍の軍事顧問をしていたのである。日本軍と米軍が戦争しているときに、
日本軍人が米軍の軍事顧問になるだろうか。
その後、8月13日に第二次上海事変が起こり、日本軍と蒋介石軍との間で戦争状態となるが、日本軍が戦ったのは、
蒋介石軍と、共産軍である八路軍であり、蒋介石軍と八路軍もまた、互いに戦争状態にあった。蒋介石軍と八路軍が戦闘を
している場面に出くわした日本軍が両軍の戦闘を傍観するということもあった。さらに、日本政府は国民政府の汪兆銘と協定を結び、
その結果、日本軍は汪兆銘軍と共同して作戦を遂行したりしている。日本の将兵と汪兆銘軍の中国人将兵が一緒に行軍して、
八路軍と戦うということもあった。
また、上海のクラブでは、中国人バンドの演奏で、日本人と中国人が同じテーブルで酒を飲み、歌を歌い、踊りを踊っていた。
そこにはアメリカ人もイギリス人もいて、中国各地で繰り広げられている日本軍、蒋介石軍、汪兆銘軍、
八路軍の動向が話題に上ったりもしていた。映画「上海バンスキング」の世界である。
当時の日本は政府であれ、軍であれ、国民であれ、中国と戦争をしているという自覚はなかったのである。あえていえば、
日本の権益を守るために、それを妨害する蒋介石軍と八路軍を懲らしめているといった認識であったろう。
あくまで戦争の対象は「蒋介石」であったから、「援蒋ルート」などの言葉も生まれたのである。
(編集委員 大野敏明)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/111002/edc11100207100002-n1.htm
103 :
日本@名無史さん:2011/10/05(水) 11:55:18.28
東大寺に聖武天皇の歯か 大仏殿で遺愛品と出土
http://www.yomiuri.co.jp/shosoin/2011/news/20111005-OYT8T00302.htm 奈良市の東大寺大仏殿で、明治時代に鎮壇具(ちんだんぐ)(8世紀、国宝)と一緒に出
土した人の歯を奈良国立博物館(奈良市)が調査したところ、熟年男性のものとみられることが分かった。
鎮壇具には、正倉院から持ち出された聖武天皇(701〜756年)の遺愛品「陰寶劔(い
んのほうけん)」「陽寶劔(ようのほうけん)」が含まれていたことが昨年判明しており、50歳代半
ばで亡くなった聖武天皇の歯である可能性も指摘されている。
歯は1907〜08年、大仏殿修理に伴い、大仏を安置する須弥壇(しゅみだん)を掘った
際、敷地を清めるために地下に埋めた仏具である鎮壇具とともに発見された。
最近の分析の結果、右下あごの第1大臼歯(長さ約2センチ、幅1・2センチ)で、大きさや
摩耗の具合などから、熟年男性の歯の可能性が高いことが判明した。
105 :
日本@名無史さん:2011/10/20(木) 21:23:46.59
http://www.asahi.com/national/update/1020/SEB201110200016.html 元寇の船、長崎沖で発見 全長20m超、原形とどめる
2011年10月20日20時18分
長崎県松浦市の鷹島沖の海底に、13世紀の元寇(げんこう)の沈没船が
ほぼ原形をとどめた形で埋まっていることが分かった。
琉球大法文学部の池田栄史(よしふみ)教授(考古学)らの研究チームが20日、明らかにした。
この海域では元寇船のものとみられる船の木材や武器などがこれまでにも引き揚げられているが、
船体の構造を保った状態で確認されたのは初めてだ。
池田教授らによると、元寇船は鷹島沖合の水深20〜25メートルの海底にあり、
約1メートルの砂泥に埋まって横たわった状態で見つかった。
船の背骨にあたる重要な部材(竜骨=キール)が幅約50センチ、長さ約15メートルにわたって確認され、
キールの両側に沿って外板が2〜5メートルの範囲で並んでいた。
高麗船か南宋船のどっちなんだろうね
>>105 引き上げたらボロボロになっちゃうかな?
109 :
日本@名無史さん:2011/10/23(日) 03:56:53.50
「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見
http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html 中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、
「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年
の作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは
古代史の大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が
本物ならさらにさかのぼることになる。
中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は
吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。
祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方
形。884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されて
いる。
百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそん
こう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日
本餘●(●は口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(
日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打
開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授
は説明する。
110 :
日本@名無史さん:2011/10/24(月) 01:35:00.15
どうして日本と扶桑、別けてんだろ
扶桑(日本列島)に日本以外の国があったんだろうか
111 :
日本@名無史さん:2011/10/24(月) 13:15:56.72
112 :
日本@名無史さん:2011/11/01(火) 22:21:52.95
http://megalodon.jp/2011-1101-2219-08/www.asahi.com/national/update/1101/OSK201111010111.html 「信長平氏説」揺らぐ?墓石で先祖の没年判明 福井
2011年11月1日21時53分
戦国武将、織田信長のルーツとされる福井県越前町の剱(つるぎ)神社付近で、
信長の十数代前の先祖といわれる「親真(ちかざね)」(生没年不詳)の
没年を記した墓石の銘文が確認されたと1日、町教委が発表した。
親真を平清盛のひ孫とする説について、刻まれた没年と食い違うことから、
信長の先祖は平氏ではなく、剱神社の神官とする説が強まったとしている。
「信長平氏説」をめぐる議論に一石を投じそうだ。
町教委によると、墓石は同神社近くの法楽寺で出土した石造物233点の一部。
墓の台座とみられる破片に「喪親真阿聖霊正應三年庚刀二月十九日未尅」、
側面に「孝子七月吉日」と銘文が彫られていた。
「親真は正応3(1290)年2月19日に死去。孝行な子どもが5カ月後の7月に建造した」と読めるという。
午後1〜3時を示す「未尅(ひつじのこく)」など詳細な表記のほか、
材質が鎌倉〜南北朝時代に地元でよく使われた石材に酷似し、
銘文の文字配置も当時の特徴を示していることから、町教委は親真の死亡年を記載したものと断定した。
信長の家系図は20種類以上伝わっており、多くが親真を信長の先祖としているが、
親真を剱神社神官の忌部(いんべ)氏の直系とする説と、
壇の浦の戦い(1185年)で死んだ平資盛(すけもり)(清盛の孫)の実子で、
近江(滋賀県)から剱神社に養子に来たとする説とがあった。
113 :
日本@名無史さん:2011/11/02(水) 23:23:37.76
>>112 私見だが、それは信長の遠祖とは関係ないだろう
1.墓碑に実名は不審。(法名である筈)
2.阿聖霊という語の使用例を知らない。
3.喪親・真阿と解すべきであろう。つまり真阿弥という人物の碑である。
114 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 02:41:38.68
扶桑も倭も大和も一緒だろ?
115 :
日本@名無史さん:2011/11/03(木) 08:09:50.01
>>113 言われてみればそっちの解釈の方が普通だよな
真阿弥もしくは真阿という名の聖の墓と考えた方が明快だと思う
てか忌部氏っては周知の事実ではなかったのか
118 :
日本@名無史さん:2011/11/04(金) 14:05:54.39
★幻の「松花部隊」 資料を発見
満州事変から80年を迎えたことし、旧満州=現在の中国東北部で、終戦間際に関東軍が
民間人の保護に当たらせるために現地で召集した部隊に関する資料が新潟県で初めて
見つかり、専門家は「弱者が弱者を守った当時の状況を示す貴重な資料だ」と話しています。
見つかったのは、関東軍が編成した「松花部隊」と呼ばれる部隊に関する資料です。日本から
開拓団として送り込まれた移住者が民間人を保護するため、終戦間際に関東軍に召集され、
松花部隊が編成されたことは知られていますが、実態はほとんど分からず、幻の部隊と
呼ばれていました。
資料は、開拓団を送り出した新潟県と国が昭和20年代に部隊に所属した人から聞き取り調査
したもので、新潟県庁に保管されていました。この中では、召集がソ連が参戦した昭和20年
8月9日から始まったことや、開拓団を中心に学校の教員や役場の職員などおよそ3000人が
集められたこと、それに、戦闘を説明した図や、戦いに不慣れな部隊が次第に後退を強いられて
いった様子が詳しく記されています。
資料によりますと、「松花部隊」は、その後、武装解除され、ほとんどの人がシベリアに抑留された
ということです。旧満州の歴史に詳しい「国文学研究資料館」の加藤聖文助教は「関東軍の
『根こそぎ動員』の実態を裏付けるもので弱者が弱者を守った当時の状況を示す貴重な資料だ」と
話しています。
▽ソース:NHK 10月31日 6時14分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111031/t10013612491000.html
119 :
日本@名無史さん:2011/11/07(月) 20:54:07.54
さて、晶子の作品を評して、「当時は女性が自我や性愛を表現することはありえなかったにもかかわらず、晶子は女性の欲求や性を題材にした」といわれることがある。
だが、勘違いしてはならないのは、晶子が大胆だったのは「表現」についてだけであって、
当時の男女がセックスについて控えめで淡白だったわけではない。
こんなエピソードがある。ある学者から「これまでに、何か特異な性体験などなさいましたか?」と問われた鉄幹は、得意満面で、
「バナナを妻の膣に挿入して、翌日取り出して食べましたよ」と話した。妻とはもちろん、晶子のことである。
ところが、それを聞いた学者は、呆れた顔でこう言った。
「鉄幹先生、その程度のことだったら、誰でもやっておりますよ」
鉄幹を戒めた学者こそ、稀代の性研究者として有名な小倉清三郎であった。
http://www.menscyzo.com/2011/11/post_3185.html
120 :
日本@名無史さん:2011/11/14(月) 16:43:53.75
産経「この日本はイザナギとイザナミのセックスで生まれた」
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/111114/wlf11111413490002-n2.htm 回数が少なかったりセックスレスだったり、セックスの満足度が低かったり
しても、よく生きることとは関係ないと考える人が多いため、あまり問題にも
しないのが、日本の状況だとわかる。この調査を見る限り、日本の状況は
国際的には特異だ。
また、この現状は日本の過去と比べても違う。イザナギとイザナミが聖なる
交わりをして国を産んだ、という神話をもつ日本だ。明治の西洋化の前には、
セックスは神聖なこととして貴ばれもし、笑いの元にもされて盛んに楽しまれた。
色好みの伝統もあり、夜這(ば)いの風習、お祭りや厄落としなどさまざまな行事もあった。
かつての日本人の旺盛な生命力と、セックスへの熱意は大いに関係があると
思うし、現代日本人の生命力の萎縮と、セックスへの無関心も関係があると思う。
まずは、「セックスはよく生きることとは関係ない」という考えを変えてみてはどう
だろうか。
人 §
(__)
(___) ゴダイゴちゃんの ご冥福をお祈りしあーーーす!!!
(____)
/タカウジ ̄ \
/ /・\ /・\\
|  ̄ ̄  ̄ ̄ |
| (_人_) |
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\ \_| /
〔ノ二二,___ __,二二ヽ〕
|:::::::::::::::::::::::::::ヽ ゜ ゜ /::::::::::::::::::::::::::/
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〔:::::::::::::::::::::/ ノ~ヽ ヽ::::::::::::::::::|
ヽ:::::::::::::::::/ /::::::::::::\ ):::::::::::::::::::ゝ
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123 :
日本@名無史さん:2011/11/30(水) 07:17:54.70
124 :
日本@名無史さん:2011/12/16(金) 00:58:41.39
聖徳太子の父、用明天皇の宮殿跡など発見か
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20111215-OYT1T00959.htm 奈良県橿原市で、日本書紀や万葉集に登場する「磐余池」の堤とみられる遺構と大型建物跡(6世紀後半)などが
出土したと、市教委が15日発表した。大型建物跡は聖徳太子の父、用明天皇の宮殿との見方がある。
これまで飛鳥時代(7世紀)より古い天皇の宮殿は確認されておらず、この発見が6世紀以前の都の実態を解明す
る重要な手がかりになりそうだ。
一帯は大和三山・天香久山の北にあたる藤原京跡の一角で、地形や「池」のつく地名の多いことなどから磐余池の
候補地とされていた。10月から道路工事に伴って発掘したところ、長さ81メートル、幅8メートル、高さ2メー
トルの堤跡を確認した。
周辺の地形などから、堤は「へ」の字状に伸び、最大幅55メートル、高さ3メートル、長さ約330メートルと
推定される。複数の谷の水をせき止め、南北約600メートル、東西約700メートルの範囲に、手のひら形をした
面積8万7500平方メートルの池を形成したらしい。平安時代までは存在したとみられる。
(2011年12月15日20時38分 読売新聞)
125 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 18:42:50.53
NHK大河ドラマ「平清盛」の初回視聴率が、大河ドラマ歴代ワースト3の17.3%だったことが
ビデオリサーチの調べで分かった。前作の、評判が芳しくなかった「江」の初回よりも4.4%下回った。
ネットでこの原因について検証が行われていて、「低視聴率は始めから分かっていた」という意見が多く出ている。
初回(2012年1月8日放送)が放送されると、ネット上には「やっぱり『王家』が連呼されている!」などと騒ぎになった。
実は11年8月にNHKホームページに掲載されたドラマ「平清盛」の紹介が間違っている、などと騒ぎになり、NHKに抗議が殺到した。
ドラマに登場する鳥羽天皇、上皇、後白河天皇などの「天皇家」を「王家」と表示し、
「この国最強の王になった」などと解説していたからだ。皇室は王家ではないし、皇帝は王よりも位が上。
日本の天皇を「王」と呼ぶ韓国などの国も存在するが、それは権威を貶めたいためであり、
NHKがやってはいけないことだ、という批判だった。
NHKはこうした批判を受け、「王家」の表示を「朝廷」に変更したが、実際のドラマではそのまま「王家」が使われていた。
ネットでは、「日本の皇室を王家と辱めた番組なんて誰が見るんだよwww」などと批判が続いた。
しかしながらNHKは、「平清盛」の番組宣伝でも再び「王家」の表現を使っており、
番組開始前から、そのことに対してネットで批判の声が再燃していた。
初回視聴率が歴代ワースト3だったことがわかると、「王家」使用が大きな失点となり、
日本の歴史ドラマファンを敵に回していたのだから当然、といった意見が多く出た。
また、「江」が独自の歴史観や、登場人物の奔放な振る舞いが仇となって人気が低迷したことを反省せず、
「平清盛」でも「王家」騒動によって似たような展開になると感じた視聴者が観るのを避けたし、
大河ドラマ離れをした人が増えたはず、と発言している人もいる。
他の意見では「世相が暗い時に平家没落みたいな悲劇は見たくもないよ。太閤記みたいな華々しい話じゃないと」
「日本人は基本的に平清盛が嫌いだと思う」などという意見もある。
http://www.j-cast.com/2012/01/10118402.html?p=1
126 :
日本@名無史さん:2012/01/10(火) 20:09:45.07
128 :
日本@名無史さん:2012/01/23(月) 11:52:37.95
http://megalodon.jp/2012-0122-1321-08/www.asahi.com/culture/update/0120/TKY201201200470.html 元寇船発見の海底、国史跡に指定を諮問 文化庁
2012年1月21日23時57分
13世紀の元寇(げんこう)で沈んだ元の軍船とみられる船体が発見された
長崎県松浦市鷹島沖の海底(約38万4千平方メートル)について、
文化庁が、文化財保護法に基づく国史跡指定を文化審議会文化財分科会に諮問したことが20日、わかった。
諮問は同日付で、早ければ2月に答申が出る見込み。
諮問通り、指定の答申が出される可能性は高く、指定が決まれば海底遺跡として初めての国史跡になる。
鷹島沖海域では昨年10月、琉球大の調査チームが元の軍船とみられる船体を発見したと発表し、話題を呼んだ。
発見された船体は、船底の背骨に当たる木材の竜骨(キール)が確認されるなど、構造がはっきり分かる状態だった。
元寇は、鎌倉時代、中国を支配していたモンゴル(元)軍による日本侵攻。北部九州が主戦場だった。
130 :
日本@名無史さん:2012/01/24(火) 06:50:15.57
『平清盛』に噛みついたネットユーザーを時代考証担当者一蹴- NEWSポストセブン(2012年1月23日16時00分)
開始早々、井戸歳三・兵庫県知事から「薄汚れた画面」とのクレームがついた大河ドラマ『平清盛』(NHK)だが、今度はインターネットでさらなる物言いがついた。
劇中、白河法皇の院政体制について「王家」という呼称を使っていることに、一部のネットユーザーが猛反発したのである。
ネット上では、「皇室もしくは天皇家と呼ぶべきだ」「NHKは皇室を貶めた!」などと、批判的な書き込みがあふれている。が、時代考証を担当した東京大学史料編纂所の本郷和人・准教授は反論する。
「清盛の時代は、白河法皇、鳥羽上皇など個人の力が絶大で、天皇家全体を表わす明確な言葉はありませんでした。一方で、この時代に天皇を『王』や『王者』と書いている例は多数見つかります。
それ以外に使われるのは『主上』『帝』で、『天皇』はほとんど使われません。そのため『王家』という表現が最も当時の実情に近いと考えられるのです」
中国では「皇帝」が最も位が高く、中国各地や朝鮮など近隣諸国の「王」を従えていると考えられてきた。そのことを反発した人たちが“不敬”だと批判する根拠になっている。
「『王家』という呼び方を批判する方々は、天皇は中国の皇帝と同格だから、『王』では侮辱にあたると主張します。しかし当時の人の感覚ではそうならない。
現代よりもはるかに位や身分の上下について敏感だった貴族たちが、天皇を『王』と書いているのです。決して皇室を貶める意図はありません」
http://news.infoseek.co.jp/article/postseven_82290
131 :
日本@名無史さん:2012/01/26(木) 16:26:16.42
132 :
日本@名無史さん:2012/02/01(水) 09:51:31.75
133 :
日本@名無史さん:2012/02/03(金) 09:48:56.16
ふすま紙はがして古文書発掘 三木・旧玉置家住宅
市民グループ「旧玉置家住宅文書保存会」が、
国登録有形文化財の同住宅(三木市本町)で、ふすまの下張りから古文書を剥がして解読する作業を続けている。
江戸時代の帳簿など郷土史を物語る貴重な文書を発掘し、19日から作業で得られた新たな資料を展示する。
同住宅は1826(文政9)年に、今の小切手などに当たる切手札と金銀を交換する「切手会所」として建てられた。
江戸時代は和紙が貴重なため、不要な台帳や手紙などを骨組みに何層も貼り合わせ、その上にふすま紙を貼っていた。
高齢者大学大学院の郷土史勉強会のメンバーらは、2009年秋ごろから文化財修復家に技法を学び、
同住宅がリニューアルオープンした10年2月から、同住宅で作業を開始。同3月に保存会を発足させた。
成果として帳簿や薬の処方箋などを解説付きで展示しており、19日からは新たな文書を並べる。
剥離作業(第1、3水曜)と解読作業(同金曜)はいずれも公開しており、久斗政光代表(71)は
「いろいろな文書を発掘し、三木市の活性化につなげたい」と話した。
問い合わせは市観光協会TEL0794・83・8400 (斉藤正志)
ふすまの下張りから古文書を剥がす作業に当たるメンバー=旧玉置家住宅
http://www.kobe-np.co.jp/news/touban/Images/04785467.jpg http://www.kobe-np.co.jp/news/touban/0004785466.shtml
134 :
日本@名無史さん:2012/02/04(土) 14:34:06.13
東京近郊で行われたレセプションに参加された天皇陛下を乗せて車は皇居に向けて快走していた。
後ろの席から陛下が運転手に声をかけた。
「きみ、悪いけど少し運転を変わってくれないかな?」
「え?陛下、困りますよ」運転手は驚いて言った
「実は私は車の運転が大好きなんだけれど、皇居内でしか走ってはいけないことになっているんだ。
しかし、一度でいいから街中を自分でハンドルを握って走ってみたいんだよ。」
意外なことに、高齢の陛下は車の運転が大好きだったようだ。
「そんなことを仰せられましても・・」
「そんなことを言わずに頼むよ。この通りだから」
運転手がバックミラーで見やると、後部座席の陛下が頭を下げていらっしゃるではないか。
陛下にここまでされては、運転手もこれ以上何も言えなかった。
「陛下、ほんの少しだけですよ。本当にほんの少しだけでお願いしますよ。」
「ありがとう。本当にうれしいよ。きみには絶対に迷惑をかけないから。」
陛下と運転手は席を交代した。そして陛下の運転する車が動き出したのはいいが、
すごい急加速をして国道を疾走し始めた。陛下はかなりのスピード狂のようだ。
と、動き出して5分と経たぬうちに赤い旗を持った警察官に車を止められた。
「スピード超過ね。はい、免許書出して」警察が窓越に声をかけた。
「申し訳ない」謝りながら運転席から出てきた陛下の顔を見て、警察官は真っ青になった。
日ごろ、ニュースや新聞等で見慣れた天皇陛下だったからだ。
警察官はあわてて携帯電話を取り出し、上司へ連絡を入れた。
「大変です。とんでもない大物の車を捕まえてしまいました。どうしたらいいでしょうか?」
「大物?大物って誰のことだ?」
「わかりません。とにかくすごい大物なんです。」
「すごい大物と言われてもわからんだろ。いったい誰のことなんだ?」
「それがわからないんです。でもすごい大物であることは間違いありません」
「誰かわからないのに、なぜすごい大物だってわかるんだ?」
「すごい大物だってことはわかります。なぜなら、天皇陛下が彼の運転手を努めているくらいですから!」
135 :
日本@名無史さん:2012/02/08(水) 12:28:17.63
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012020801000960.html 仁徳天皇陵で「正辰祭」 宮内庁が初めて取材許可
2012年2月8日 11時34分
世界最大級の墳墓で、宮内庁が仁徳天皇陵に指定する
堺市の大山古墳(5世紀中ごろ)で8日、仁徳天皇の命日祭「正辰祭」が営まれた。
皇室が祖先を慰霊する私的祭祀の一つ。
全国の天皇陵や陵墓参考地など約600カ所でそれぞれ年に一度行われているが、
国民の目に触れる機会はほとんどなかった。
宮内庁は今回、共同通信にメディアとして初めて正辰祭の取材や撮影を許可した。
堺市などが大山古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録を目指し、
同庁に天皇陵の情報公開を望む声が高まる中、
陵墓での祭祀の実態を知る貴重な機会として注目されそうだ。
(共同)
137 :
日本@名無史さん:2012/02/21(火) 06:13:39.91
南京事件なかったと河村市長 訪問の中国・市常務委員に
http://www.47news.jp/CN/201202/CN2012022001001476.html 河村たかし名古屋市長は20日、同市役所を表敬訪問した中国共産党南京市委員会
の劉志偉常務委員らとの会談で、旧日本軍による「南京大虐殺」について「通常の戦闘行
為はあったが、南京事件はなかったのではないか」と発言した。
河村氏は、終戦時に父親が南京市にいたことを挙げて「事件から8年しかたってないのに、
南京の人は日本の軍隊に優しくしていたのはなぜか」と指摘。「南京で歴史に関する討論会
をしてもいい。私は南京の人に感謝している。互いに言うべきことを言って仲良くしていきたい」とも述べた。
138 :
日本@名無史さん:2012/02/22(水) 10:23:38.20
140 :
日本@名無史さん:2012/03/22(木) 14:37:47.23
大坂城跡:発掘調査中、重機で遺構の一部壊す
大坂城跡(大阪市中央区)の発掘調査で昨年10月、職員が作業員への指示を誤り、遺構の一部を
重機で壊していたことが22日、分かった。調査地は過去に豊臣期後半(17世紀初め)の武家屋敷跡が
確認された場所で、破壊により建物の全容解明ができなくなった。市教委は「連絡調整のミスなどで
担当者が立ち会っていなかったのが原因」と話している。
市教委によると、ビル建設に伴い、昨年10月から今月にかけて約1200平方メートルを調査していた。
調査地では86〜92年度の調査で、東西125メートル、南北60メートルにわたって巨大な武家屋敷跡の
一角を検出。1615年の「大坂夏の陣」で焼失したことを示す焼土層も確認していた。
今回は新たな遺構の発見を目指していた。しかし担当者が調査地の傾斜を考慮に入れずに掘削の
深さを指示したため、作業員が土を削りすぎてしまい、約約700平方メートルについて、
調査ができなくなったという。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20120322k0000e040207000c.html
141 :
日本@名無史さん:2012/03/22(木) 18:22:42.52
津波で大きな被害を受けた仙台平野では、浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って
止まっていることが確認されている。つまり、江戸時代の人々の日常には、現代より何倍かリアリティをもった
地震への対応が織り込まれていたと、作家で五感生活研究所の山下柚実氏は指摘する。
以下は、山下氏の解説だ。
東日本大震災から1年。以前には、顧みられることが少なかった古地図や土地にまつわる古い伝承。
しかし、過去の歴史の中にさまざまな防災のヒントがある、ということがわかってきて、
「歴史や過去から 謙虚に学べ」という気運も少しずつ高まってきているようです。
たとえば、歴史街道は津波に浸水しなかった、という事実。
「津波で大きな被害を受けた仙台平野で、浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まっていることが、
東北大の平川新教授(江戸時代史)の調査で確認された」(毎日新聞2011年4月19日)。報道に驚いた人も少なくないでしょう。
古い街道は、「過去の浸水域を避けて」作られていた可能性が高いことが調査で明らかになったそうです。
東北大・平川新教授は「先人は災害の歴史に極めて謙虚だった」と指摘しています。
あるいは地名。これも驚きです。『この地名が危ない』(楠原佑介著)等によれば、
「倉」の語源は「刳(く)る」。「地面がえぐられたような地形」を示し、波がえぐった土地の痕跡が地名に残っているのだとか。
あるいは「鎌倉」の「かま」。かまどや釜からきたということで、穴のようにへこんだ土地を指す。
鎌倉は、振り替えれば繰り返し大きな地震や津波に襲われてきた場所だとわかるのだとか。
こうした指摘は、噛みしめれば噛みしめるほど深い。「想定外」と簡単に言いますが、すでに「想定」されていた、という証に他なりません。
http://www.news-postseven.com/archives/20120322_96529.html
【危険企業】ベイカレント・コンサルティング【リストラ】
止まらない情報漏洩 総勢2300人分の社員情報がグローバル流出中
贈賄収賄ヤクザ みずほ証券贈賄指揮の会長江口新と執行役員阿部
新卒内定辞退強要実行犯 執行役員南部光良が居座る犯罪企業
詐欺会社ベイカレント・コンサルティングに注意!
内定辞退強要 退職休職強要 賄賂接待 社員経歴偽造
偽装派遣 パワハラ 顧客情報流出 高卒執行役員
入社後被害者多数!絶対に入社してはいけません!
ベイカレント内定辞退強要被害者間宮理沙著「終わりがない就職活動日記」
144 :
日本@名無史さん:2012/04/05(木) 08:06:54.47
145 :
日本@名無史さん:2012/04/07(土) 17:01:20.78
奈良時代に看病で休暇願、戦後不明の文書発見
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120407-OYT1T00471.htm 奈良時代、国家事業として行われた写経の担当者が書いた「休暇願」と、写経所の食材の使用状況を
記した正倉院文書が見つかった。
明治初期までに流出し、太平洋戦争後は所在不明になっていたが、東京の個人が秘蔵していたものを
奈良国立博物館が調査して確認。ほぼ奈良時代当初の姿を保っており、同博物館は「流出した正倉院文
書が当時のまま見つかるのは珍しく、重文級の発見」と評価している。
文書は縦約29センチ、横約25センチ。表には「万昆嶋主
まこんのしまぬし
」という名前の下級役人で経文を筆写する担当者(経師)が、重病にかかった「姑(父親の姉か妹)」
の看病のために4日間の休暇を願い出た内容が墨書きされている。「天平寶字(てんぴょうほうじ)二年(758年)
七月●(にじゅう)八(28)日」の日付があった。(●は廿から下の横棒を取る)
(2012年4月7日15時41分 読売新聞)
146 :
日本@名無史さん:2012/04/12(木) 11:30:54.13
島根県竹島(韓国名・独島)を旧日本海軍が明治41(1908)年に測量した実測原図が海上保安庁に
所蔵されていることが10日、同県竹島資料室の調査で分かった。
原図は、旧日本海軍水路部が経緯度を実測した記録「本標 経緯度実測原簿」(縦30センチ、横21センチ)。
竹島資料室が今年3月、海上保安庁海洋情報部(東京都)の資料を調査し、新たに見つかった。測量時の
竹島経緯度が記された経緯度表も初めて確認された。
原図の縮尺は、1万8204分の1。旧日本海軍が明治41年8月4、5日の2日間、竹島周辺を測量し作製した。
竹島の西島を「男島」、東島を「女島」と記載。島名を含む地名9カ所が記載されており、西島南西の「南西岩」や、
西島と東島の間にある「洞岩」、東島北東の「洞湾」など6カ所は、今回初めて確認された地名だった。
ソース
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120411/trd12041107150000-n1.htm
>たとえば、歴史街道は津波に浸水しなかった、という事実。
>古い街道は、「過去の浸水域を避けて」作られていた可能性が高いことが調査で明らかになったそうです。
自然堤防の上が街道になるんだからたりめえだろ
「やまとごころ周遊記」始まる
ttp://k.rnb.co.jp/news/detail.php?recid=12621397 日本最古の歴史書「古事記」ゆかりの地を巡るドライブラリーが16日から西日本各地で始まりました。
16日から始まったドライブラリー「やまとごころ周遊記」は日本最古の歴史書「古事記」が編纂されてから1300年に
あたる今年、県内や西日本各地の古事記ゆかりの地を巡ってもらおうと、NEXCO西日本と県などがタイアップして行う
観光キャンペーンです。カードが置かれているのは、北は福井県から南は宮崎県まで西日本9県にある神社や博物館、
それに道の駅などあわせて43か所です。各地に残る伝説やエピソードが書かれたカードを集めます。カードに書かれ
た文字で、和歌を完成させて応募すると無料宿泊券があたるなどの特典もついています。愛媛県観光物産課増本勝巳
係長は「西日本各地への来訪者の増加と西日本各県間の交流人口増を通じた地域活性化を目指しています」と話しま
す。このドライブラリー、今年いっぱい続けられます。
村上水軍の古文書を発見
ttp://www.itv6.jp/catch/news_detail.php?date=20120417&no=0006 能島村上水軍の棟梁として活躍した「村上元吉」が記した古文書が新たに発見され、17日、学芸員による説明会が行わ
れました。
新たに発見されたのは、およそ400年前に記された「村上元吉」の書状で、毛利輝元の直属の家臣である堅田元慶に宛て
た手紙です。今治市村上水軍博物館によりますと、去年12月県内の歴史愛好家が東京の古書店で売られているのを
見つけ市に連絡。今年2月、今治市が29万4千円で購入しました。書状には、「我々もめでたく、大樽二つと、折二重ねを
献上する」旨の文が書かれていて、毛利輝元の長男である毛利秀就の元服を祝い、1599年10月6日に記されたものと
考えられるということです。村上水軍研究の第一人者である松山大学の山内譲教授は、「関ヶ原合戦の前年における、
毛利氏と村上氏の親密な関係をよく伝える書状として大変貴重な発見」とコメントしています。今回発見された古文書は、
今治市宮窪町の村上水軍博物館で今月21日から開かれる企画展「新発見!村上元吉の手紙」で特別公開されます。
村上水軍の書状見つかる
ttp://eat.jp/mobile/news/detail.html?date=20120417T193743&no=4 戦国時代、村上水軍の棟梁が中国地方の大名・毛利家の重臣に宛てたおよそ400年前の書状が新たに見つかり、今月
21日から今治市で公開される事になりました。こちらが発見された書状です。去年12月、東京で開かれたオークションに出品
され、今治市の村上水軍博物館がおよそ30万円で購入しました。そして分析の結果、戦国時代、村上水軍の棟梁を務め
た村上元吉が1599年10月に中国地方の大名、毛利家の重臣に宛てた書状である事が分かりました。毛利家の総帥・毛利
輝元の長男、秀就の元服を祝う内容で、当時、主従関係にあった毛利家と村上水軍の親密な関係を示す貴重な史料だ
という事です。この書状は、今月21日から6月24日まで村上水軍博物館で展示されます。
村上水軍の書状見つかる
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8004479401.html 戦国時代末期に村上水軍を率いた武将が主従関係にあった毛利氏の子息の元服を祝って側近にあてた書状が見つか
り、村上家と毛利家のつながりの深さを示す貴重な資料と注目されています。
見つかったのは村上水軍を率いた武将、村上元吉が主従関係にあった大名、毛利輝元の側近にあてた書状です。
東京の書店が所有していましたが、去年、競売にかけられたため、今治市がおよそ30万円で購入し、一般公開を前に
今治市の村上水軍博物館でお披露目されました。
書状は、縦32センチ、横50センチの和紙を二つ折りにしたもので、毛利輝元の子息である、秀就の元服を祝うことばや、
祝いの品々を贈ったことが記されています。村上水軍博物館によりますと、村上家は当時、毛利家の水軍の一翼を担っ
ていましたが、この書状によって、両家がより密接な関係にあったことが裏付けられたということです。
村上水軍博物館の田中謙学芸員は「書状は、関が原の戦いの前の年に出されたもので、両家の密接な関係が見て
とれる大変貴重な資料だ」と話しています。
村上元吉の書状は、今治市の大島にある村上水軍博物館で4月21日から6月24日まで公開されます。
清盛やってるトコは違うナ
156 :
日本@名無史さん:2012/04/28(土) 06:10:16.25
異国美女漂着「うつろ舟」奇談 日立の旧家に新史料
日付記載、1カ月後作成か
江戸時代のミステリー「うつろ舟奇談」を伝える史料が新たに日立市内の旧家で発見された。
「うつろ舟奇談」とは、1803(享和3)年に、鹿島地方の浜にUFOのような形の舟「うつろ舟」に乗って美女が漂着したという謎めいた事件。
史料は、江戸時代に海岸防御に携わった郷士(ごうし)の子孫の家の倉庫で、天保年間(1830〜44年)の「異国舩(船)渡来御届書」とともに発見された。
この奇談を長年研究する田中嘉津夫岐阜大教授は「地元の旧家に伝わってきたことは意義深い。さらに、日付が書かれた文書の発見は初めて」と指摘している。
見つかったのは、縦28・5センチ、横90センチの文書。洋風の服装の女性と箱、UFOを連想させる丼型の舟が描かれ、「△」や「○」など組み合わせた記号のような文字が書いてある。
左側の文には常陸国の浜に異国船が流れ着き、引き上げると20歳位の言葉の通じない美女がいたと記載。
田中教授は「江戸時代の滝沢馬琴の『兎園(とえん)小説』などとほぼ同じ内容」と話す。
特徴は、文末に「享和三癸亥三月廿四日」(享和3年3月24日)と文書作成日が記載。
事件が起きた年月日は「當亥二月廿二日」(当年亥の歳2月22日)とあり、田中教授は「日付が本当なら事件の約1カ月後に書かれた文書。事件のリアルさを感じる」と話す。
田中教授によると、うつろ舟奇談を伝える史料の発見はこれまで約10件。本県では2010年に水戸市内の書画収集家が京都で入手した史料が見つかった。
また、今回の史料発見後、田中教授は長野県の古書収集家が所有していた別の史料を発見。
絵に関して日立の史料と共通点が多く見られるが、事件現場の地名については従来の史料にある「常陸の国」でなく「房州の湊」と書いてあるという。
うつろ舟奇談は「兎園小説」など江戸時代の出版物に謎の事件として紹介され、事件を伝える瓦版なども見つかっている。ただ、当時の公文書には記録はない。
【写真説明】日立市内の旧家で見つかった「うつろ舟奇談」の史料の一部
http://ibarakinews.jp/photo/13351084527446_1.jpg http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13351084527446
四万十市で一條家の公家行列
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8016764601.html 室町時代に京都から四万十市に移り住んだ一條家の公家行列を再現する催しが行われました。
この公家行列は応仁の乱の戦火を逃れて、京都から移り住んだ一條教房をしのんで20年あまり前から毎年、行われ
ているものです。3日は、市民などおよそ200人が、当時の公家や女官などの華やかな衣装を身にまとい、四万十市
の一條神社を出発しました。
一行は雅楽が流れる中、左右に大きく一歩を踏み出す独特の歩き方でおよそ2.5キロのコースを練り歩きました。
行列の主役を務めたのは一條家に嫁いだ玉姫で、公募で選ばれた地元在住の猪野るみさんが登場すると沿道に
集まった市民や観光客が一斉に写真におさめていました。一行の装束やかごには一條家の家紋で四万十市の花に
もなっているふじの花も飾られ、行列に彩りを添えていました。
京都府から訪れた女性は「大きなみこしと衣装が素晴らしかったです」と話していました。
158 :
日本@名無史さん:2012/05/06(日) 07:47:29.40
日本三大捕鯨会社の一つで下関市に本社を構えていた大洋漁業(現マルハニチロホール
ディングス)の創業者、中部幾次郎氏の三男、利三郎氏(1901〜70年)が船団長を務めた
南氷洋捕鯨船団の漁場日誌が見つかった。戦前の南氷洋捕鯨の様子を詳細に記録した
貴重な資料という。
大洋漁業の前身「林兼商店」の第二日新丸船団事業部長を務めた利三郎氏が記録した
1940(昭和15)年10月10日から翌41年3月23日までの日誌(約90ページ)。鯨の
捕獲成績や氷山の位置、故障時の対応などが詳細に記され、鯨油生産に関する事項や
本社とのやり取りも書かれている。
横浜を出港する際の日誌には、旧日本海軍の軍艦が多数停泊する様子を記載。インドネシア
では給油の支払いに銀行が発行した信用保証書が使えなかったエピソードも記し、第二次
世界大戦が間近に迫った緊迫感が伝わってくる。捕獲日報には捕獲した船名と鯨の種類、
頭数を記入。氷山の状況などは絵入りで記録している。
このほかに、病死した乗組員を海に流す「水葬」を行ったり、故障した舵を潜って見に行った
乗組員があまりの水温の低さに体調を崩したことなども生々しく記載。鯨油の生産記録も
残され、外貨獲得に向けて鯨油生産が主力となっていた当時の実態も分かる。
利三郎氏のひ孫で下関市上田中町の高校1年、中部竜之介君(15)が中学校の卒業論文の
参考資料を探していた昨年5月ごろ、自宅隣の祖母方で発見。情報提供を受けた下関市立
大学鯨資料室アドバイザーの岸本充弘・市水産課総務係長は「戦前の南氷洋捕鯨の詳細な
記録は見たことがない」と驚いている。
岸本係長は中部家の了解を得た上で、旧字体や数字、英語表記などを口語体に直して
解説文を付け、日誌の三分の一を研究論文(前編)にまとめた。今後2、3年かけて中編、
後編と検証を進め、最終的に出版する予定という。
ソース 山口新聞 2012年5月5日
http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2012/0505/1p.html 戦前に行われた南氷洋捕鯨の詳細を記した中部利三郎氏の漁場日誌を手にするひ孫の中部竜之介君
http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2012/0505/photo1.jpg
「亀井戸」復元工事進む
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034739431.html 江戸時代、高松の城下町に飲み水を送るために造られ貯水池で、高松市中心部の発掘調査で見つかった「亀井戸」の
遺構を復元する工事が進められています。
「亀井戸」は、江戸時代前期、高松藩の初代藩主、松平頼重が造ったとされる貯水池で、おととし、高松市中心部の丸亀
町商店街の再開発に伴う発掘調査で遺構が見つかりました。
江戸時代後期の絵図には、同じ場所に、推定で、南北62m、東西16mのほぼ長方形で、北西の隅が斜めになった
貯水池が描かれています。
発掘調査によって、この絵図に描かれた貯水池と遺構の形が一致することが明らかになったほか、貯まった香東川の
伏流水を飲み水として高松の城下町へ引き込むための導水施設も確認されました。
高松市教育委員会では、高松の水道の歴史や当時の土木技術を伝えるため、貯水池の石垣の一部や石積みの長さ
8m、幅60cmの導水施設を新しく高松市埋蔵文化財センターが設けられる四番丁小学校の跡地に移して復元すること
になり、工事が進められています。
遺構は、新たに整備される緑地帯の直径10mの築山にはめ込むようなかたちで復元されます。工事は今月中に終わり、
夏から一般公開される予定です。
山田方谷ゆかりの人々展
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025006481.html 幕末に現在の高梁市にあった備中松山藩の財政を立て直した山田方谷ゆかりの人物を紹介する企画展が高梁市の
美術館で開かれています。
山田方谷は江戸末期から明治初期にかけて活躍した陽明学者で備中松山藩士として藩財政を建て直したことで知られ
ています。
高梁市の高梁市歴史美術館では山田方谷や方谷ゆかりの人物を紹介する企画展が開かれていておよそ書や手紙な
ど50点が展示されています。
このうち方谷が4歳の時に書いたとされる「風月」という「奉納額」は4歳の手によるものとは思えないほどの堂々とした
筆遣いで書かれています。
また、方谷の藩政改革を受け継ぎ藩の勘定奉行を務めた備中松山藩士、堀右膳の具足や陣羽織なども展示されて
います。
このほか、方谷の師で儒学者の佐藤一斉が屏風に書いた漢詩を題材にとった書の作品や方谷が愛用したすずりなど
の遺品も展示されています。この展示会は6月24日まで高梁市歴史美術館で開かれています。
県文化財保護協会賞の表彰式
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024803151.html 文化財の保護や伝統芸能の伝承に功績のあった個人や団体を表彰する「県文化財保護協会賞」の表彰式が、岡山市
北区で行われました。県立博物館で行われた表彰式では、「県文化財保護協会賞」に選ばれた個人2人と1つの団体が
表彰されました。
このうち、浅口市の山本敏夫さん(83)は旧鴨方町にある江戸時代の町家などを公園として整備するとともに、公園を
拠点に14年あまりに渡って子どもたちに伝統文化を伝える教室を開いてきたことが評価されました。
山本さんは、「何度か折れそうになったこともあったが、保存活動を軌道に乗せられた。これからも歴史を守る若い世代
を育てていきたい」と話していました。
また、長年、古文書の研究を続けてきた矢掛町の渡邉和夫さん(78)は、4年前、地元に伝わる文書から、幕末の動乱
期に将軍、徳川家定に嫁ぐため、薩摩から江戸に向かっていた天璋院篤姫が矢掛本陣に立ち寄った記録を発見したこ
となどが評価されました。
渡邉さんは、「町の歴史は、地元の人も知らないことが多い。町に残る立派な歴史を通じて活性化に役立てればいい」
と話していました。
さらに江戸時代から県北部に受け継がれてきた農村歌舞伎、「横仙歌舞伎」の保存活動を行ってきたグループは、県内
外での公演のほか、地元の小学校の授業で歌舞伎を披露するなど、伝承に力を入れてきたことが評価されました。
保存会の副会長、福永忠昭さんは、「地域の人たちがみんなで参加しようというムードがある。若手を育てて歌舞伎を
残していきたい」と話していました。
平清盛にちなんだ企画展 今治河野美術館
ttp://k.rnb.co.jp/news/detail.php?recid=12621724 今年、ドラマなどで注目を集めている平清盛にちなんだ企画展が今治市内の美術館で開かれています。
今治市の河野美術館で開かれているのは「保元物・平治物語」展です。2つの物語に登場する平清盛が今年、
ドラマなどで注目を集めていることから、美術館所蔵の写本や掛け軸など39点を展示しています。展示の中には、
物語の一節を現代の言葉に訳したものもあり、当時の文や言葉使いと比較できるよう、工夫がされています。また、
物語の名場面では挿絵の入ったページもあり、見た目にも平清盛の世界を感じることができます。この企画展は
7月16日まで開催されます。
瀬戸内の新観光ルート提言
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005164773.html 広島県内の経済団体や大学などで作る研究会のメンバーが松山市役所を訪れ、瀬戸内海で活動した水軍のゆかりの
地などを巡る新たな観光ルートを作り出すことで地域振興を図るよう提言しました。
松山市役所を訪れたのは、広島県内の経済団体や大学などで作る「瀬戸内水軍研究会」のメンバー5人です。
研究会には松山市も参加し、昨年度、観光客誘致のための観光ルートを研究していて、17日野志市長にこれまでの
研究の成果を報告しました。
この中で、平安時代から戦国時代にかけて瀬戸内海を拠点に活動した水軍のゆかりの地を巡るルートが周遊性が
あり、広域観光の旅行商品としてふさわしいと指摘しています。
そのうえで、フェリーや「しまなみ海道」を利用し、広島県の厳島神社や今治市の大山祇神社、それに瀬戸内海の島々
に残る水軍の城跡などを巡る3つの観光ルートを開発するよう提案しています。
提案を受けた野志市長は「広域的な観光ルートはこれまでなかったうえ、水軍の全国的な知名度も低いので、これから
研究会や広島県などと連携して瀬戸内を盛り上げていきたい」と答えました。
研究会のメンバーで広島大学大学院社会科学研究科の戸田常一教授は「観光による地域振興を図るには地元の盛り
上がりが必要で、地元の人たちも巻き込んだ観光ルートの開発を目指したい」と話していました。
近代岡山の基礎を築いた人展
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025128582.html ことしが明治から大正に年号が移ってちょうど100年になるのにあわせて、大正時代を中心に活躍した岡山ゆかりの
人物を紹介する展示会が岡山市北区で開かれています。
会場の岡山市北区駅元町の「岡山市デジタルミュージアム」には大正時代を中心に活躍した岡山にゆかりのある
教育者や実業家、それにスポーツ選手などの人物紹介のパネルや関連の品、およそ40点が展示されています。
このうち岡山出身の力士で唯一、横綱まで上り詰めた「常ノ花寛市」の紹介では大正15年の春場所の優勝賜杯の
レプリカが展示されています。
また明治から昭和にかけて岡山市中区にあった女子校の校長を51年間務めて女性の教育に貢献した上代淑さんの
紹介では、使えなくなるまで短くなったチョークや鉛筆が展示され、モノを大切にする教育を徹底していたことをうかが
わせます。この展示会は6月3日まで岡山市北区駅元町の「岡山市デジタルミュージアム」で開かれています。
古文書の補修作業を紹介
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/tokushima/802495935B.html 虫に食われたり破れたりした古文書の補修について知ってもらおうという展示会が、徳島県立文書館で8月5日まで
開かれています。徳島県立文書館では、文書館の講座で技術を習得したボランティアが、3年前から古文書の補修に
あたっています。
会場には補修された古文書や作業に使うはけやピンセットなどの道具、それに補修作業の様子を紹介した写真など
約65点が展示されています。
このうち手形をなくした際に差し出した江戸時代の書類「帰り手形之事」は補修前は虫食いの穴だらけでした。
これを、紙の裏側に小さくちぎった和紙を水とのりではり付けて乾燥させる「虫穴繕い」という技術を使って補修した姿が
展示されています。
文書館では現在40代から70代まで12人のボランティアが、月に2回、補修作業に取り組んでいてその活動を紹介
する写真も展示されています。
学芸員の金原祐樹さんは「穴が開いてぼろぼろになった古文書でもここまで直るのだと言うことを知って欲しいです」
と話していました。
秘密保全法を考える
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/hiroshima/4004743091.html 国の機密情報を漏らした公務員などの厳罰化を求めるいわゆる「秘密保全法」の問題点を考えるシンポジウムが広島
市で開かれ、沖縄返還をめぐる密約を追及して逮捕された元新聞記者が「国民に必要な情報を国が隠そうとするのは
おかしい」と訴えました。
「秘密保全法」は、外交や防衛、治安に関する機密情報を漏らした公務員などに対し、罰則を強化することなどを盛り
込んだ法案で、政府が法案化を検討しています。27日広島市内で開かれたシンポジウムは、この法案の問題点を
考えようと広島弁護士会が開いたもので、毎日新聞の元記者で、かつて、沖縄返還をめぐる日米の密約の存在を
スクープし、機密文書を違法に入手したとして逮捕された西山太吉さんが講演しました。
この中で、西山さんは、「沖縄返還をはじめとする日米の外交交渉などで政府は国民にとって重要な情報を隠し続け
てきた。問題なのは、国の隠ぺい体質で秘密の漏えいを防ごうというのは考える方向が全く逆だ」と述べ、「秘密保全法」に
は問題が多いと訴えました。講演を終えた西山さんは「政府に嘘をつかせないため、秘密の保全よりもむしろ情報開示
を積極的に進めなければならない。国民1人1人にとって重大な問題なので、関心を高めて欲しい」と話していました。
美作国建国1300年に向けて
ttp://www.rnc.co.jp/f/nw/news.asp?n=2012052809 奈良時代の713年に備前国から分離して設立された「美作国」が、来年で1300年を迎えます。
美作地域では今年6月から記念事業を展開することにしていて、岡山県庁などに今日、PRの懸垂幕が掲げられました。
県庁正面に下ろされた懸垂幕。来年迎える美作国建国1300年をPRするものです。
シンボルマークは、岡山県立大学のデザイン部が制作したもの。美作国のあった10の市町村の連携を表現しています。
その10の市町村でも今日は建国1300年の懸垂幕が同時に掲げられました。
「美作国」は、大和政権が備前国から英田・勝田・苫田・久米大庭・真嶋の6郡を分割し、設置したものです。
続・日本紀によりますと、その時期は奈良時代の和銅6年、西暦713年ということで、来年が1300年にあたります。
記念事業のキックオフイベントとして、美作市では今月30日に、湯郷Belleの宮間選手など、美作地域で活躍する女性を招いた
フォーラムを開く予定です。
一方、岡山県も来年の県民文化祭のメイン会場を美作地域に置くなど、事業の盛り上げに一役買うことにしています。
170 :
日本@名無史さん:2012/06/02(土) 19:53:46.74
雅子さまの講演会ご出席、直前に決定 「フグ雑学」説明の誤りを陛下がご指摘
天皇、皇后両陛下は5月26日から28日にかけて山口県を訪問された。山口市で27日に開かれた
「第63回全国植樹祭」の式典ご出席が主目的だった。両陛下は5月は12、13日に宮城県を訪問後、
16日から20日の日程で英国を訪問されており、土日の泊まりがけの公務に3週連続で臨まれたことになる。
両陛下は5月28日午前には、下関市の安徳天皇陵と、安徳天皇を祭神とする赤間神宮を参拝された。
安徳天皇は、平安時代末期の「壇ノ浦の戦い」で幼くして入水したとされる第81代天皇だ。
両陛下は地方訪問の際にその地域の天皇陵を参拝することが多いが、今回はこれまでと参拝方法が変わった。
ご負担を考慮し、安徳天皇陵と、隣接する赤間神宮に続く階段の下から、それぞれ平服で参拝されたのだ。
両陛下は安徳天皇陵を参拝後、下関市立しものせき水族館海響館を視察された。
水族館では、関門海峡付近の海中を再現した水槽や、さまざまな種類のフグをご覧に。
ハゼの研究者である陛下は、1つ1つの魚の名前を指さしながら確認された。
水族館では、豊臣秀吉がフグを食べることを禁じ、その習慣が長年続いたが、
伊藤博文が「食べないのはおかしい」と“解禁”を進めたことなど、ご当地らしい
「フグ雑学」を担当者が陛下に説明する場面があった。
陛下は楽しそうに聞いていたが、「1895年の日露講和条約の際に、公式にフグが出された…」
と説明を受け、「『日清講和条約』では?」と、鋭く指摘される場面があった。
日清講和条約は下関条約とも呼ばれる、日清戦争後の講和会議における条約だ。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120602/imp12060207010001-n1.htm
171 :
日本@名無史さん:2012/06/03(日) 09:23:26.07
172 :
日本@名無史さん:2012/06/04(月) 08:20:01.33
高梁・吹屋地区が都市景観大賞05/28 18:34
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/indexnews.asp?id=31944 ベンガラの町並みで知られる高梁市の吹屋地区が国土交通省の「都市景観大賞」を受賞しました。高梁市の吹屋は
江戸時代に銅とベンガラで栄えた地区です。1.5キロの街道沿いにベンガラ格子、ベンガラ壁の昔ながらの美しい町並み
が残されています。銅山が閉山すると町は衰退し、一時は倒壊寸前になった家屋もありましたが、1978年に地域の人た
ちが設立した町並み保存会が保存を続けてきました。現役では最古の木造校舎だった吹屋小学校は2012年3月に閉校
しましたが、今後の活用策も話し合われています。審査では町並みの美しさだけではなく地域の人たちが手作りで観光
案内を行うなど世代を超えた街づくりの活動が続いていることが高く評価されました。表彰式は6月東京で行われます。
岡山市民の日記念バスツアー
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024771942.html ふるさとへの愛着を深めてもらおうと、ことしから6月1日が「岡山市民の日」に制定されたのを記念して、岡山市で市内
の名所を詳しく知る無料のバスツアーが行われました。
このバスツアーは、ことしから6月1日が「岡山市民の日」に制定されたのを記念して、岡山市が市民にもっと岡山への
愛着を持ってもらおうと開いたもので、家族連れなどおよそ60人が市内の4つの名所を巡りました。
このうち岡山市北区丸の内の岡山城では、ふだんは観光客を相手に解説するガイドが、敵が攻めにくいよう城に向かう
道が直線ではなく蛇行していることや、本丸へと続く石段には香川県の豊島産のものが使われていることなどを紹介
していました。
市民はふだん目にする機会の多い岡山城ですが、ガイドの解説にはこれまで知らなかったことも多く参加者は岡山の
魅力について改めて理解を深めていました。
参加した女性は「岡山市内に住んでいても知らないことがたくさんあったので興味深かったです。こういう機会に知った
岡山のよさを友達にも伝えていこうと思いました」と話していました。
犬養木堂の手紙など46通見つかる
ttp://www.rsk.co.jp/i/news/news_local.cgi?id=20120604_7 五・一五事件で、青年将校の凶弾に倒れた岡山市出身の政治家・犬養木堂は、今年が没後80年に当たります。
先日、木堂の手紙など46通が、新たにみつかりました。木堂の一面を知ることができる資料として注目されています。
犬養木堂は、明治から昭和にかけて政党政治の確立に尽力しました
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20120604_7.jpg 岡山市北区の生家跡にある犬養木堂記念館では、現在、没後80年を記念した展示会が開かれており、
故郷である川入地区の住人が保管していた作品20点が展示されています。
中には木堂が還暦や新築祝いとして地区の住民に送った書もあります。
地域の人たちとの関わりを大切にしていた木堂の人柄がうかがえます。
さらに、木堂の意外な一面を知ることができる書簡が、先月、長崎県で見つかりました。
これは木堂が中国のある友人に宛てた手紙や電報46通で、そのほとんどが趣味の書道で使う墨の買い付けに
関するやりとりだということです。墨を買いたいが、650円は高すぎる。500円ぐらいにならないか?
あなたの力でなんとしてでも手に入れたいという内容で、政治家木堂の意外な一面を知ることができます。
犬養木堂記念館では、書簡を通して政治家としての一面だけでなく、庶民的な木堂を知ってもらい、
より身近に感じてもらいたいということです。新たに見つかった書簡は来年、一般公開される予定です。
吹屋地区が都市景観大賞
ttp://www.rnc.co.jp/f/nw/news.asp?n=2012060402 ベンガラの町並みで知られる岡山県高梁市の吹屋地区が全国規模の景観コンテストで大賞に選ばれました。
岡山県西部、赤褐色のベンガラ屋根が映える吹屋地区。
全国の美しい景観を表彰する今年度の「都市景観大賞」で19地区の中から大賞に選ばれました。
吹屋は江戸後期銅とベンガラ産業で栄えた山あいの地区です。
地元保存会の手で当時をしのぶ町並みが残されています。
昭和後期に産業は衰退しましたが自然と伝統が合わさった独自の景観が評価されました。
岡山では勝山、町並み保存地区倉敷市の美観地区に続き3つめの大賞受賞です。
178 :
日本@名無史さん:2012/06/08(金) 05:05:39.43
元寇船の全容解明へ 18日から再調査
松浦市鷹島町沖の国指定史跡「鷹島神崎(こうざき)遺跡」で、約730年前の元寇(げんこう)の
沈没船とみられる船の一部を発見した琉球大の池田栄史教授(考古学)の調査チームと同市は
18日から、現地で再調査に着手する。同遺跡の国指定を後押しした画期的な発見から8カ月。
ベールに包まれた元寇船の実態解明へ動きだす。
池田教授のチームは昨年10月、鷹島町神崎港沖約200メートル、水深20〜25メートルの
海域調査で、船底の背骨に当たる木材の竜骨(キール)や外板などを確認。構造が分かる状態での
軍船の発見は初めてで同遺跡の歴史的価値を高めた。
今回は東西方向に横たわるキールの東側で18日から28日までの11日間、調査し、船首または
船尾の確認を目指す。また10月にも再び調査し、船体の全長や外板の広がりなどを調べる予定。
国の史跡指定で調査は現状保存が基本とされており、両調査の出土物は引き揚げない方針。
市文化財課の中田敦之課長は「船体や船材の広がりを調べ、全容解明につなげたい」と話した。
ソース 西日本新聞 2012年6月6日
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/306179
都市景観大賞に吹屋地区
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4025680101.html 国が建物などの景観が優れた地区に贈る今年度の「都市景観大賞」に高梁市の吹屋地区が選ばれました。
都市景観大賞は、全国の建物や公共スペースなどが優れた景観を作り出している地区を国土交通省が平成3年から
毎年、表彰しているものです。
ことしは全国から応募があった19件を審査した結果、高梁市の吹屋地区が▼東京都目黒区の自由が丘地区や
▼兵庫県西宮市の甲陽園目神山地区とともに今年度の大賞に選ばれました。
吹屋地区は江戸時代から続く200棟あまりの古民家が並ぶ地区で、審査では▼顔料のベンガラを使って赤銅色に
塗られた壁や、赤褐色の瓦屋根などが独特の景観を作っていることや、▼地区の人たちと市が協力して町並みの
保存に取り組んできたことが評価されました。都市景観大賞に選ばれるのは県内では▼真庭市の勝山町並み保存
地区と▼倉敷市の美観地区に続いて3例目です。都市景観大賞の表彰式は今月15日に東京で行われます。
後楽園御舟入跡の構造がわかる
ttp://www.rnc.co.jp/f/nw/news.asp?n=2012060707 岡山後楽園で発掘調査が行われていた藩主が利用した舟着場の御舟入跡について、その構造が明らかになったとして、
今日、報道陣に公開されました。御舟入とは、藩主が岡山城と後楽園を舟で行き来する際に使った舟着場です。
現在、後楽園の月見橋の北側に御舟入跡が残っていて、ことし4月から発掘調査が行われています。
今回の発掘では、江戸時代の絵図に描かれていた御舟入の構造が明らかになりました。
なかでも、雁木と呼ばれる舟を乗り降りするための石段が幅10メートルと、県内最大規模で、また、三方から乗り降りできる
めずらしい構造ということがわかりました。
今月18日から22日まで一般に公開されることになっていて、16日と17日には現地説明会が開かれます。
今回発掘された御舟入跡について、岡山県は有識者などから意見を聞き、今後の活用方法を検討することにしています。
ご当地キャラが「時太鼓」
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8035374601.html 6月10日は、時の記念日です。これにあわせて、香川県丸亀市の丸亀城では、市の「ゆるキャラ」たちが、太鼓を打っ
て時を知らせる「時太鼓」を披露しました。
香川県丸亀市にある丸亀城の大手一の門は、国の重要文化財で、江戸時代にはここで太鼓を打って時を知らせて
いたことから太鼓門とも呼ばれています。
時の記念日にあたる10日は、丸亀市の名物料理の骨付鳥をイメージした「とり奉行骨付じゅうじゅう」など市の
「ゆるキャラ」たちが登場しイベントが開かれました。正午の時刻になると、江戸時代の時刻制度の「九ツ刻」に合わ
せて、ゆるキャラたちが、交代で太鼓を9回打ち鳴らしました。
続いて、訪れた市民たちも「時太鼓」をたたく体験をしました。
太鼓を打った人たちは、「気持ちがよかった」「すっきりした」などと話していました。
丸亀城では、普段もほぼ毎日、正午に太鼓を打っていますが、丸亀市によりますと、全国にある城のうち、年間通して、
太鼓で時を知らせているのは丸亀城だけだということです。
高知城周辺に9か所の防空壕
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8015702422.html 高知城がある県立高知公園に、少なくとも9か所の防空ごうがあったことが、高知市の平和資料館の調査でわかりました。
高知市の平和資料館、「草の家」の藤原義一研究員のグループは、ことし4月から高知城周辺の防空ごうについて
調査を進めてきました。
その結果20人以上の戦争体験者の証言などから高知城のある県立高知公園に少なくとも9か所の防空ごうがあった
ことがわかりました。
防空ごうは高知城を囲うように点在していてそれぞれの規模ははっきりと確認できませんが、9か所のうち4か所では
入り口と見られる場所に石を積み上げた跡を確認出来ます。
藤原研究員によりますと、戦争体験者の証言から9か所のうち5か所は地域住民の避難に利用されていたことがわかり
ましたがほかの4か所についてはどのように使われていたのかはっきりとわかっていません。
藤原研究員は、「高知市中心部の身近な場所に残っていた防空ごうをきっかけに多くの人たちが戦争や平和について
考えてほしい」と話していました。
高知城周辺にはもっと多くの防空ごうがあった可能性もあるということで、藤原研究員のグループでは今後も、調査を
進めることにしています。
昔は全国各地に防空壕が残ってて、そこに隠れん坊で隠れたり
肝試しで探検したりしてたな
たまーに神隠しにあった人の死体が発見されたりね
やっさ祭りへ唄や踊りの練習
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/hiroshima/4005785661.html ことし8月に三原市で開かれる夏祭り「やっさ祭り」に向けて、踊りに合わせて披露される唄や楽器の練習が14日夜、
行われました。「やっさ祭り」は、戦国時代の武将毛利元就の三男の小早川隆景が三原城を築いたのを祝う踊りが
由来とされています。
毎年8月に、はっぴや浴衣姿の人たちが三原市の中心部を「やっさ、やっさ」というかけ声に合わせて踊りながら練り
歩きます。
14日は、市内の公民館におよそ100人が集まり、まず全員で踊りの唄を歌ったあと、三味線や笛などを練習しました。
このうち三味線の練習には小学生から70代までの男女20人あまりが参加し、祭りの継承に取り組んでいる「やっさ
踊り振興協議会」のメンバーの指導を受けながら真剣な表情で練習に取り組んでいました。
中学3年生の女の子は、「やっさは途中でリズムが変わるので戸惑いますが、これから練習してもっとうまくなりたい
です」と話していました。
三味線の指導にあたった振興協議会の小林民子さんは、「2本の弦を同時に弾くところが難しいですが、基本に忠実に
楽しく弾いて欲しいと思います」と話していました。
唄や楽器の練習は8月10日から始まることしの「やっさ祭り」までにあと6回行われるということです。
岡山戦災の記録と写真展が始まる
ttp://www.rsk.co.jp/i/news/news_local.cgi?id=20120615_9 今月29日で岡山空襲から67年が経ちます。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20120615_9.jpg 岡山市のデジタルミュージアムでは、岡山空襲の様子を今に伝える貴重な資料や写真などの展示会が始まりました。
初公開の岡山市街地の戦災の写真もあります。
1945年6月29日、岡山市中心部は岡山空襲によって大きな被害を受け、1700人以上の命が犠牲になりました。
岡山市では6月29日を岡山市平和の日とし、それを前に、毎年「岡山戦災の記録と写真展」を開いています。
会場には、戦争の悲劇を伝える資料や写真など約260点が展示されています。
笠岡市で使われていた国策紙芝居は、戦時中、戦争への協力を子ども達へ啓発するために作られました。
1945年ごろの幡多国民小学校の制服は、丈夫な生地で作られていて、ボタンの桜の模様は現在の幡多小学校のものと同じです。
今回初めて公開された写真では、旧中国銀行本店の屋上から天満屋方面を写しています。
岡山戦災の記録と写真展は、岡山市デジタルミュージアムで来月16日まで開かれています。
16日は、午後2時から岡山空襲の体験者による記念講演会も予定されています。
190 :
日本@名無史さん:2012/06/18(月) 13:41:45.48
陸軍内部でも存在が秘匿された諜報ちょうほう員養成機関・陸軍中野学校の1期生に関する陸軍大臣への「卒業報告書」が見つかった。
終戦直前、関係資料は焼却されたとされ、創設時の教育内容が公文書で確認されたのは初めて。爆破実習や写真技術をはじめ、
忍術もカリキュラムに含まれていたことが明らかになった。
アジア歴史資料センターが公開した防衛省防衛研究所の資料の中から、山本武利・早稲田大名誉教授(情報史)が見つけた。
中野学校は、「後方勤務要員養成所」として設立されたと考えられてきたが、更に前身として「防諜ぼうちょう研究所」が1938年4月に、
東京・九段に設立されていたことが報告書で判明。翌年、中野に校舎を移して養成所に、40年に中野学校に改編。
45年の廃止までに約2300人が卒業したとされる。
(2012年6月18日07時34分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120617-OYT1T01022.htm?from=main8
「岡山戦災の記録と写真展」開催中
ttp://www.rnc.co.jp/f/nw/news.asp?n=2012061702 6月29日の岡山空襲の日にあわせ戦争の悲惨さと平和への思いを後世に伝えようと
いま「戦災の記録と写真展」が岡山市のデジタルミュージアムで開かれています。
昭和20年6月29日未明岡山市を襲った空襲は市街地の6割を焼け野原にし、1700人以上が亡くなりました。
会場にはその戦災の記録ともいえる写真や資料などおよそ350点が展示されています。
今回新たに展示されたのは、井原高等女学校の防空演習風景の写真、
それに岡山市の幡多国民学校の制服などで、男の子の小さな制服のボタンは金属が使えず陶器でできています。
これは新たに発見された戦時中の行政資料、軍用機の寄付金集めや防空演習などの記録で、
当時、岡山市役所も全焼したため行政文書はほとんど残っておらず、貴重な資料となっています。
「岡山戦災の記録と写真展」は来月16日まで開かれています。
行旅死亡人 (官報 平成15年11月10日付 号外第258号 公告 諸事項 地方公共団体)
本籍・住居・氏名・性別・年齢不詳の人骨、頭蓋骨、大腿骨、下顎骨の一部のみ現存
この遺体は、平成15年8月7日午後3時10分に、青森県八戸市の是川遺跡楢館調査区内の、
15世紀から19世紀の地層から発見されたものである。
死亡の日時は戦国時代から明治時代初期と推定される。所持金品は特になし。
ついては、身元不明のため火葬に付し保管しておりますので、心当たりのある方は、
八戸市福祉事務所生活福祉課までお申し出下さい。
平成15年11月10日 青森県 八戸市長
193 :
日本@名無史さん:2012/06/21(木) 12:28:20.95
http://megalodon.jp/2012-0621-1225-53/www.asahi.com/national/update/0619/OSK201206190047.html 信長に生臭いと言われ… 「本能寺の変」引き金?の膳
2012年6月21日12時5分
戦国武将の織田信長が徳川家康に振る舞った料理「安土饗応(きょうおう)膳」を、
滋賀県近江八幡市の宿泊施設「休暇村近江八幡」の料理人が再現し、19日披露された。
信長は味に不満を持ち、料理を用意した接待役の明智光秀を叱責(しっせき)し、
それが2週間後の「本能寺の変」につながったとも伝えられる。
饗応膳は1582(天正10)年、信長が武田勝頼を討った家康を安土城で3日間もてなした際に出したとされる。
江戸時代の文献「続群書類従」によると、計4回、約140品が振る舞われたといい、
今回は最初に出された「をちつき(落ち着き)膳」を再現。
タイの焼き物にホヤのひや汁、アワビの煮物、ハモの串焼き、スズキの汁物、ふなずしなど
全国の山海の幸を使った33品が並んだ。
鶴だけはキジで代用し、調味料は塩、酢、酒、みそ汁の上澄みなど和食の定番。
担当した休暇村の調理長大島康広さん(47)は「意外に現代の食材と変わらない」と話す一方、
「良くいえば食材の良さを生かした味。現代人の好みから言えば、美味とは言えない」。
当時は調味料を混ぜ合わせる技法が発達しておらず、味付けは単調でかつ、若干濃いめという。
・姫のお国入りテーマに「お駕籠まつり二千十二」
ttp://k.rnb.co.jp/news/detail.php?recid=12622273 南予いやし博2012にあわせてお姫様のお国入りといった宇和島藩の歴史をテーマにしたイベントが宇和島市で
おこなわれました。宇和島市のきさいや広場でおこなわれた「お駕籠まつり二千十二〜姫様、お国入り〜」は、
宇和島藩九代藩主伊達宗徳の妻佳姫の宇和島お国入りになぞらえておこなわれました。まず、宇和島市立明倫
小学校4年の柳村心幸さんが佳姫に扮した着物姿で入場しました。そして、南予文化会館の神應幸男館長が、
佳姫のお国入りにまつわるエピソードを紹介していました。会場では子どもたちが、普段はなかなか体験できない
竹駕籠に乗って、乗り心地を確かめていました。このあと、ステージでは宇和島を代表する民謡「宇和島さんさ」が、
市民の有志によって披露され、観客は手拍子を取りながら歌と踊りを楽しんでいました。
宇和島 伊達博物館による出前授業
ttp://eat.jp/mobile/news/detail.html?date=20120626T182819&no=4 郷土の歴史について学んでもらおうと、宇和島市の小学校で26日、伊達博物館による歴史の出前授業がありました。
歴史の出前授業は、伊達博物館が2008年から市内各地の小学校で開いていて、26日、鶴島小学校と戸島小学校の
6年生38人が参加しました。今回の授業は、「幕末の宇和島藩」がテーマで、8代藩主・伊達宗城が外国の技術を取り入れ、
日本で2番目の蒸気船を開発したことや、幕府から追われていた蘭学者の高野長英を招き、藩の近代化に取り組んだ
事などが学芸員から説明されました。そして、7代藩主・伊達宗紀が100歳の時に書いた掛け軸や蒸気船の模型など
貴重な資料が展示され児童らは、興味深そうに見入っていました。
197 :
日本@名無史さん:2012/06/30(土) 08:01:23.76
北朝鮮で、洪水の中、故・金日成(キム・イルソン、Kim Il-Sung)主席と
故・金正日(キム・ジョンイル、Kim Jong-Il)総書記の肖像画を守るために命を落とした14歳の少女に、
勲章が授与された。朝鮮労働党の機関紙、労働新聞(Rodong Sinmun)が26日、伝えた。
労働新聞は、ハン・ヒョンギョン(Han Hyon-Gyong)さんの英雄行為に勲章が授与され、
通っていた学校にはハンさんの名が冠されることになると報じた。
また、両親と担任教員、他4人にも勲章が授与されたという。
ハンさんは今月11日、北朝鮮東部の咸鏡南道(South Hamkyong)新興(Sinhung)郡の自宅を襲った洪水のさなか、
故・金日成主席と故・金正日総書記の肖像画を守ろうと、
ビニール袋に包んだ肖像画を水上に掲げながら襲いかかる洪水に飲み込まれたという。
労働新聞は、「このような子どもを育てる」教育を称賛した。
http://www.afpbb.com/article/politics/2886672/9180794?ctm_campaign=txt_topics
キムチ悪っ
郷土の人物展
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033484381.html 香川県や丸亀市にゆかりのある歴史上の人物などを紹介するパネル展が丸亀市で開かれています。
この展示会は地元ゆかりの人々のことをもっと知ってもらおうと丸亀市立中央図書館が開いたもので、香川県や
丸亀市にゆかりのある歴史上の人物などを24点のパネルで紹介しています。
このうち、「大岡越前守忠相」のパネルでは「大岡裁き」で有名な名奉行が高松藩と塩飽の島民との間の漁場争いの
裁判で判事をつとめたことを裁判の資料を写した写真とともに紹介しています。
また、京極丸亀藩の初代藩主、高和の義理の妹、「京極伊知子」のパネルでは、高和の養子となった息子とのつらい
分かれを歌集「涙草」に込めたことなどが説明され、歌集の実物もあわせて展示されています。
このほか、壺井栄など香川県にゆかりのある作家もその代表作品とともに紹介されています。
このパネル展は8月30日まで開かれています。
原爆資料館で企画展始まる
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/hiroshima/4003326221.html 明治時代から軍都・広島の中心地として発展し、戦後は復興の拠点となった広島市の基町の歩みを写真などでたどる
企画展が広島市で始まりました。
広島市の原爆資料館で13日から始まった企画展では、広島市中区の基町の明治以降の歩みを振り返る写真や文書
など145点が展示されています。このうち▼錦絵「広島県御安着之図」は広島城に入る明治天皇を描いた絵です。
日清戦争中の明治27年、大本営は大陸への出兵基地だった広島・基町に移され、基町は軍事都市・広島の中枢として
の役割を担いました。
▼また「倒壊した広島城天守閣」の写真は、原爆の投下によって広島城の天守閣が見る影もなく全壊した様子を伝え
ています。
このほか戦後から何もなかった基町に、昭和の高度成長期にかけて住宅や公園、市民球場などが次々と建設された
様子を記録した写真や映像も展示され、基町が広島の復興の拠点となったことがわかります。
原爆資料館の学芸担当の上村健さんは「戦後復興の歴史を通して広島の現在までの歩みを身近に感じとってもらい
たい」と話していました。この企画展はことし12月まで広島市中区の原爆資料館で行われています。
今治・水琴窟の魅力知って
ttp://k.rnb.co.jp/news/detail.php?recid=12622471 水滴を、伏せた瓶の中に落下させ反響した音を楽しむ「水琴窟」に親んでもらおうと今治市で展示会が開かれています。
今治市朝倉の朝倉ふるさと美術古墳館で開かれているのは「幻の音、水琴窟と華アート展」です。「水琴窟」は逆さに
した水瓶の上から水滴を落とし下に張られた水面に水滴が落ちたときの反響音を楽しむものです。この展示は、
松山市の団体が一人でも多くの人に水琴窟に興味をもってもらおうと開いたもので、会場には、
2基の水琴窟が設けられています。訪れた人はひしゃくで水を注いで音色を楽しんでいました。また、
会場には草月流爽の会による展示もあって、天の川や天体をイメージした作品が華を添えていました。このほか、
水琴窟の音色に近い音を奏でる「風の水琴」も展示されています。この展示会は今月15日まで開催されています。
203 :
日本@名無史さん:2012/07/14(土) 18:57:14.21
再び注目される山田方谷
ttp://www.rnc.co.jp/f/nw/news.asp?n=2012072508 備中松山藩士山田方谷という人をご存知でしょうか?
幕末に大改革を行って藩の財政を立て直したことで知られているんですが、今、その行財政改革の業績に評価が高まってるんです。
今日、方谷ゆかりの地域が連携し、その功績を全国に発信する事業が立ち上がりました。
山田方谷顕彰連絡会と名づけられたこの事業。
高梁、新見、真庭方谷にゆかりの深い岡山県の3つの市の市長さんが集まって、その功績を全国に発信する事業を支援し、
後世に引き継いでいこうと立ち上げたものです。
では、山田方谷とはどんな人物だったのでしょか?江戸時代後期に現在の高梁市中井町で生まれた山田方谷。
両親を失なって16歳で家業を継ぎますが、聡明で勉学に励む姿が藩主に認められ、松山藩に取りたてられます。
そして、松山藩で行った方谷の功績が、破綻寸前だった松山藩の財政立て直しです。
倹約令を出し藩士の俸給を削減、借金の返済を延長してもらう一方。
鉱山や特産品開発などの事業を起し、現在の貨幣価値で100億ほどの借財を7年で返済し、逆に100億の蓄財を行ないました。
晩年は閑谷学校で子弟教育に努め、教育者としても功績を残し、73歳の生涯を終えました。今、改めて評価が高まる山田方谷。
国の借金が膨れ上がり混乱する日本の政治の中、人々の不安が方谷に目を向けさせているのかもしれません。
「松山空襲」の犠牲者追悼
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003358091.html 太平洋戦争末期の「松山空襲」から26日で67年です。
松山市では空襲や戦場で亡くなった人を追悼する式典が開かれました。
松山市は67年前の昭和20年7月26日にアメリカ軍の爆撃で市街地が大きな被害を受け、250人余の市民が亡く
なりました。
この「松山空襲」の犠牲者と愛媛県から戦地に赴いて亡くなった人たちを追悼するため、遺族の会などは空襲があった
日に合わせて毎年、追悼の式典を開いています。松山市道後姫塚の平和記念広場で開かれた式典には、遺族や
市役所の関係者など約90人が出席しました。
初めに全員で黙とうしたあと、海軍の兵士だった父親を亡くした原田冨美子さん(77)が、遺族を代表して当時のことを
振り返りました。
原田さんは「空襲から逃げる私たちの周りに火が迫り、死ぬかと思いました。苦しい時代の記憶は薄れていきますが、
今でも平和のありがたさをかみしめています」と述べました。
続いて出席者が1人ずつ献花台に花を手向け戦争で亡くなった人の冥福を祈りました。
式典を主催した実行委の中山淳会長は「この式典で戦争を繰り返さないという思いを、多くの市民に新たにしてもらい
たい」と話していました。
平和考える戦争資料展
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8003833411.html 平和の尊さについて改めて考えてもらおうと太平洋戦争当時の資料を集めた展示会が松山市で開かれています。
この資料展は松山市の市民団体が67年前に「松山空襲」があったこの時期に合わせて毎年、開いています。
市の総合コミュニティセンターの会場には、市民から寄せられた太平洋戦争当時の写真や生活用品などの資料約
500点が展示されています。
このうち兵士が隊列を組んで戦地に向かう様子の写真は愛媛県から出征した兵士が撮影したもので、遺族が保管
していました。
戦争末期、予備兵から召集された男性への寄せ書きには「殉国」や「神風」といった言葉が並び、送り出す側の人たち
も死を覚悟していたことが伺えます。
このほか空襲にあった直後の松山の町の様子を再現した模型も展示されています。
会場を訪れた人たちは市民団体のメンバーから説明を聞きながら資料を見て回っていました。
市民団体の畑野稔さんは「戦争の悲惨さを伝える資料を見て平和の大切さを改めて考えてもらいたい」と話していました。
この資料展は7月29日まで松山市総合コミュニティセンター1階の展示室で開かれています。
松山市で戦争犠牲者の追悼式典
ttp://eat.jp/mobile/news/detail.html?date=20120726T191200&no=3 7月26日は、67年前、松山空襲があった日です。松山市では戦争で犠牲になった人を追悼し、平和を願う式典が開かれ
ました。1945年7月26日、松山市はアメリカ軍の空襲にあい、市民らおよそ300人が犠牲となりました。26日、松山市で、
戦争で犠牲になった人を追悼し、平和を祈る式典があり、遺族などおよそ100人が出席しました。式典ではまず、
犠牲者に黙祷がささげられたあと、遺族を代表して、戦争により父親を亡くした原田冨美子さんが涙をこらえながら
「今、平和のありがたさをかみしめています。安らかに眠ってください」と追悼の意を表しました。続いて、拓南中学校1年
の丹生谷紫月さんが「ただいまと言える家族の大切さや命の尊さを発信していきたい」と平和への願いを込めた作文を
朗読しました。この後参列者らは、献花台に花を手向け、犠牲者の霊を慰めるとともに平和や命の尊さへの思いを新た
にしていました。
松山市で平和展開かれる
ttp://eat.jp/mobile/news/detail.html?date=20120726T200249&no=7 松山市の総合コミュニティセンターでは平和の大切さを考えてもらおうと、太平洋戦争当時の松山市内の写真などを展示した
資料展が開かれています。この資料展は、松山市内の市民団体が、松山空襲に合わせ毎年この時期に開いている
ものです。会場には松山空襲直後に、石手川の土手から今の県庁方面などを撮影された写真が展示されているほか、
県内各地から寄せられた戦争に関する資料およそ500点が展示されています。会場には、兵士を戦地に送り出す際の
寄せ書きや松山空襲の際に使われたと見られる焼夷弾の一部などが展示され、戦争の悲惨さを物語っています。
この資料展は、29日まで開かれているということです。
松山空襲犠牲者追悼平和展
ttp://www.itv6.jp/catch/news_detail.php?date=20120726&no=0009 松山空襲から67年を迎えます。
松山市内では戦争と平和について学ぶ犠牲者追悼平和展が開かれ松山空襲の被害状況などが紹介されています。
この平和展は戦争の遺品や資料を収集している「松山市平和資料館を作る市民の会」が毎年この時期に行って
いるものです。
会場には、市民から寄贈された兵士の遺品などおよそ500点が集められ千人針や焼夷弾頭など戦争の記憶を
今に伝える資料が紹介されています。
また、67年前の松山空襲でおよそ1万4000世帯が被害を受けた事を物語る戦災地図や写真、当時の新聞記事も
展示されています。
主催者は「こうした展示を通じ戦争の記憶を語り継ぐ事が平和について考えを深めるきっかけになれば」と話していました。
この平和展は今月29日まで松山市総合コミュニティセンターの1階展示室で開かれ、詩の朗読や戦争体験談を聞く
コーナーも設けられています。
松山空襲から67年…追悼式
ttp://www.itv6.jp/catch/news_detail.php?date=20120726&no=0008 259人の犠牲者を出した松山空襲から67年となる松山市内では戦争犠牲者を弔う追悼式が営まれました。
松山市道後姫塚の平和記念広場で開かれた追悼式には戦没者の遺族らおよそ100人が出席しました。
式典では、実行委員の中山淳会長が「長い歳月が過ぎても松山空襲をはっきりと覚えている。
過去の悲惨な記憶を風化させることなく、恒久平和の実現を願い祈りたい」と式辞を述べました。
そして、遺族を代表して原田冨美子さんが、「空襲警報が鳴るたび、いつ死ぬかと心の休まることはなかった。
今、平和のありがたさを噛みしめています」と平和への思いを語りました。
この後、参列者らは記念碑に花を手向けながら、戦争犠牲者の冥福と恒久平和を祈っていました。
松山・戦争犠牲者平和祈念追悼式
ttp://k.rnb.co.jp/news/detail.php?recid=12622600 250人を超える犠牲者を出した松山空襲から67年目を迎える26日、戦災犠牲者の追悼式が行われました。
松山市道後姫塚の平和記念公園で行われた追悼式には、戦没者の遺族などおよそ100人が出席し、まず戦災の
犠牲者に黙とうを捧げました。
この追悼式は戦後60年に合わせて平和祈念碑が建立されたのを機に松山空襲があった7月26日に犠牲者を追悼
しようと松山市が毎年行っているものです。
式では、遺族を代表し戦争で父親を亡くした原田 冨美子さんが戦争当時を振り返りながら「家族に囲まれ、いま、
平和のありがたさを実感しています」と述べました。
式では、出席者が献花し、松山空襲で亡くなった250人余りの犠牲者を追悼するとともに改めて平和を誓っていました。
212 :
日本@名無史さん:2012/07/28(土) 01:46:22.94
http://megalodon.jp/2012-0728-0144-09/www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012072702000266.html 生麦事件150年 被害者の手紙 「日本は最高の国」
2012年7月27日 夕刊
江戸時代後期の一八六二年、薩摩藩(鹿児島県)の藩士が当時の生麦村(横浜市鶴見区)で
英国人を殺傷した「生麦事件」が起きてから今年で百五十年。
殺害された英国人が、事件の十一日前に父親に送った手紙が見つかり、横浜開港資料館(横浜市中区)で初公開されている。
手紙には、日本に親しみが込められた言葉が並び、「尊大な英国人」という印象を覆す貴重な資料とされる。 (荒井六貴)
「日本はイングランド以外の場所で私が訪れた最高の国です。山や海の景色が抜群です。
江戸の官庁街ともいえるかいわいは、どの西洋列強にも引けをとらないでしょう」
生麦事件で殺害された商人のチャールズ・レノックス・リチャードソン=当時(29)=は
一八六二年九月三日付で、母国の父親に送った手紙で、このように日本を紹介している。
中国・上海から馬を連れ来日し約二カ月、江戸を訪れた様子などが記され、「あと一カ月滞在を延ばす」と、便箋につづられている。
資料館の主任調査研究員の中武香奈美さんは「リチャードソンは好奇心旺盛で、日本人に対し尊大な様子はない。
これまでの生麦事件とは違ったイメージが出てくるのでは」と話す。
手紙は、リチャードソンの姉のひ孫にあたる元編集者マイケル・ウェイスさん(83)=ロンドン在住=が保管していた。
一昨年、英国の国際文化交流機関「ブリティッシュ・カウンシル」を通じ、資料館に連絡があり、初公開につながった。
資料館を訪れた横浜市保土ケ谷区、無職臼田幸作さん(66)は「(リチャードソンが)日本人を見下しているという感じはなく、
事件は外国人と日本人のしきたりの違いがあって、起こったのだろう」と想像をめぐらした。
このほか、日本で発行され、事件を詳報した英字新聞などの資料計約三十点も展示。
資料館は九月に、ウェイスさんを招き、リチャードソンの墓がある横浜外国人墓地(横浜市中区)や、
生麦事件の現場などを見てもらう。展示は十月二十一日まで。
ジョン万次郎の貴重な新資料
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/kochi/8013885231.html 幕末、アメリカに渡ったジョン万次郎の体験を記録した書物、「漂巽紀略」の下書きとみられる貴重な資料が、
保管のため、高知県立坂本龍馬記念館に預けられました。今の高知県土佐清水市に漁師の子として生まれたジョン
万次郎は、1841年、14歳の時に遭難し、助けられてアメリカに渡りました。「漂巽紀略」は、ジョン万次郎が
約10年後に土佐に戻るまでの体験を、土佐藩の絵師の河田小龍が聞き取って絵や文章にまとめたものです。
原本は、土佐藩から幕府に贈られたあと、所在がわからなくなっていますが、複数の写本が残されています。今回、
保管のために預けられたのは、高知市の史料収集家が所蔵していたもので、写本と比べると、絵の色づけが省略さ
れている一方で、内容がより詳細に書かれていて、河田小龍が記した下書きの可能性が高いということです。「漂巽
紀略」には、アメリカの大統領は世襲ではなく、任期が限られていることなどが記されていて、坂本龍馬がその内容を
聞いて世界に目を向けるきっかけになったとされています。高知県立坂本龍馬記念館の三浦夏樹主任学芸員は、
「研究者もほとんど目にしたことがない貴重な資料だ。ほかの資料と比較することで、ジョン万次郎の研究が大幅に進む
ことが期待される」と話しています。この資料は、8月5日から高知県立坂本龍馬記念館で一般に公開される予定です。
地図の世界展
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023914192.html 子どもたちに地図を通して世界を知ってもらおうという企画展が津山市の洋学資料館で開かれています。
「地図で世界を旅しよう」というこの企画展は、夏休みの子どもたちにさまざまな地図で世界を知ってもらおうと開かれ
たものです。会場には、1674年にイエズス会の宣教師が中国で刊行した大型の世界地図、「坤輿全図」の複製を
はじめ、江戸時代末期につくられたすごろくで世界1周旅行ができる「万国渡海双六」など江戸末期から明治の初め
までの世界の雰囲気が伝わる地図や資料およそ40点が展示されています。
資料の中には吉田松陰や坂本龍馬など幕末の志士たちも読んでいたという地理書の「坤輿図識」やアメリカの地理
の本を翻訳した地理学の入門書「地学初歩和解」、それに黒船の来航を絵にした瓦版などもあります。この企画展
は津山洋学資料館で、9月23日まで開かれています。
松山市で戦争犠牲者の追悼式典
ttp://eat.jp/mobile/news/detail.html?date=20120727T114738&no=3 7月26日は、67年前、松山空襲があった日です。松山市では戦争で犠牲になった人を追悼し、平和を願う式典が開か
れました。1945年7月26日、松山市はアメリカ軍の空襲にあい、市民らおよそ300人が犠牲となりました。26日、松山市で、
戦争で犠牲になった人を追悼し、平和を祈る式典があり、遺族などおよそ100人が出席しました。式典ではまず、
犠牲者に黙祷がささげられたあと、遺族を代表して、戦争により父親を亡くした原田冨美子さんが涙をこらえながら
「今、平和のありがたさをかみしめています。安らかに眠ってください」と追悼の意を表しました。続いて、拓南中学校1年
の丹生谷紫月さんが「ただいまと言える家族の大切さや命の尊さを発信していきたい」と平和への願いを込めた作文を
朗読しました。この後参列者らは、献花台に花を手向け、犠牲者の霊を慰めるとともに平和や命の尊さへの思いを新た
にしていました。
松山市戦争犠牲者平和祈念追悼式
ttp://www.ebc.co.jp/i/snews/kiji.asp?SN=42381 67年前アメリカ軍の空襲があった松山市で、戦没者を追悼する式典が営まれました。
この追悼式は松山市と市の遺族会などで作る実行委員会が、松山市平和記念広場で営んだもので、
松山空襲の犠牲者の遺族らおよそ100人が参列しました。式ではまず黙祷が捧げられたあと、
遺族を代表して原田冨美子さんが、「戦争の悲惨さを、平和のありがたさを多くの人に語りついでいきたい」
と追悼の言葉を捧げました。そして中学生が平和の願いを込めた作文を朗読したあと、参列者
1人1人が献花を行いました。
実行委員会によると、太平洋戦争での松山空襲で、およそ500人が犠牲になったということです。
参列者は平和への思いをあらたにしていました。
松山板に貼れ
戦時中の生活用品の展示会
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033952811.html 夏休みに入った子どもたちに平和について考えてもらおうと、戦時中の生活用品などを集めた展示会が高松市で
開かれています。
この展示会は、1300人あまりが犠牲になった昭和20年7月4日未明の高松空襲から67年がたち、体験者の高齢化
が進む中、戦争を次世代に伝えようと、高松市が毎年開いているものです。
高松市役所1階の市民ホールで開かれている展示会には、高松空襲の被害を受けたころの戦時中の生活用品など
100点あまりが展示されています。
このうち、白く濁ったかたまりは、高松空襲の際にアメリカ軍が投下した焼い弾で急激な高温に熱せられ、溶けたと
される住宅の窓ガラスで、爆撃の激しさを示しています。
また、戦時中に市民が使っていた陶器の湯たんぽや水筒のほか、弾薬などの原料にするために金属製のあらゆる
日用品が集められている様子を撮影した写真も展示されています。
高松市内に住む74歳の男性は、「小学校1年生のときに高松空襲を体験したが、展示品を見てよく生き残ることが
できたと改めて思う。若い世代の人にもこの事実を知ってもらいたい」と話していました。
また小学6年生の女の子は、「私と同じ年頃の子どもが銃を持った訓練をやっているのは見て悲しかった。戦争が
2度と起きない世の中にしたいと思います」と話していました。この展示会は、8月3日まで開かれています。
平和の大切さ伝える展示会
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4024014292.html 広島・長崎の「原爆の日」や「終戦の日」を前に、原爆や戦争の悲惨さを伝え平和の大切さを訴える展示会が、
津山市で開かれています。
この展示会は、津山市の市民団体で作る実行委員会が、悲惨な戦争の記憶を風化させず、改めて平和の尊さを
考えてもらおうと毎年、原爆の日や終戦の日を前に開き、ことしで26回目です。
会場には市民から寄せられた資料、およそ150点が展示されています。
この中には広島と長崎に投下された原爆の惨状を伝えるパネルをはじめ、空襲で焼け野原になった岡山市の写真
などが展示されています。
また、戦時中の軍服や帽子、軍事教練に使われた木製の銃や、出征する兵士の「武運長久」を願った千人針など、
貴重な資料も並べられています。
この「平和のための戦争展」は今月7日まで津山市役所1階の市民ロビーで開かれています。
被爆者がインドで核廃絶訴え
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/hiroshima/4004056172.html NPT・核拡散防止条約に加盟していない事実上の核保有国であるインドで、広島の被爆者の男性が講演し、
核兵器の廃絶を訴えました。インドで講演をしたのは、福山市の磯博夫さん(71)です。
4歳の時に広島市の自宅で被爆した磯さんは、数年前からアメリカなど外国で被爆体験を証言して、
核兵器の廃絶を訴える活動を行っており、1日からNGOの招きでインドを訪問しています。
磯さんは3日、首都・ニューデリーにある私立高校でおよそ50人の高校生を前に講演し、被爆した母親ががんで
亡くなったことや、いまも多くの人が後遺症に苦しんでいることを説明し、核兵器の廃絶を訴えました。
講演を聴いた高校生の1人は「原爆による精神的な苦痛やその後の苦労を体験した方の話を聞くことができて、
貴重な経験になりました」と話していました。
インドはNPTに加盟していない事実上の核保有国で、磯さんは「いまは広島に投下されたものより大きな核兵器が
できている。そんなものは地球上からなくしてほしい」と話していました。
磯さんは今月11日までインドに滞在し、各地を回って講演を行なうことにしています。
被爆体験寄せた3人 市長訪問
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/hiroshima/4004009902.html 今月6日の平和記念式典で広島市の松井市長が読み上げる「平和宣言」の中に盛り込まれる被爆体験を寄せた
3人が、3日、松井市長を訪ね、「今回の宣言をきっかけに平和の大切さを認識して欲しい」と述べました。
広島市役所を訪れたのは広島市に住む、津江本アヤノさん(87)と、中廣富美子さん(83)それに、府中市に住む、
中村博さん(80)の3人です。
松井市長は「みなさんの体験を宣言に使わせていただきありがとうございます。それぞれに平和な生活の大事さを
共有して欲しいという思いがしっかり込められています」と感謝の言葉を述べました。これに対し、津江本さんは
「平和が大切だと口だけで言っても力が入りません。心の底からそう思うようにならないといけません」と話し、
今回の宣言をきっかけに平和の大切さを認識して欲しいという思いを述べました。
市長との会談後、中村さんは「平和のために私たちに何ができるかというと被爆体験を語ることしかない。
そこで世界から注目される平和宣言に盛り込まれることはとても光栄です」と話していました。
224 :
日本@名無史さん:2012/08/04(土) 20:37:26.55
★伊達宗重の「分骨は残った」…五重塔工事で発見 (2012年8月4日17時28分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120803-OYT1T00728.htm 宮城県涌谷町教委は2日、同町涌谷の見龍寺内にある県指定有形文化財「見龍廟
けんりゅうびょう
」の門前の石造五重塔(高さ4メートル20、基壇1メートル23四方)から、伊達騒動(寛文事件)の当事者の一人、
伊達安芸宗重の遺骨が入った香炉が見つかったと発表した。
同廟は宗重の墓所で、五重塔内に分骨したとの記録は残っておらず、建立された1673年(寛文13年)から約340年間、
人しれず眠っていたことになる。
遺骨は、塔の3層目にあった、杉材の曲げわっぱに包まれた青磁の香炉(高さ6センチ、外径5・6センチ)に入って
いた。昨年の震災で大きな被害を受けた同廟の復元工事中、一部倒壊した五重塔を分解し、初めて見つかった。
わっぱに書かれた墨書が当時の住職石水和尚の筆跡と一致することなどから、町教委は、香炉の中は宗重の遺骨にほぼ
間違いないとみている。
塔の建立日は、宗重が家老・原田甲斐に討たれて死去した1671年(寛文11年)3月27日の3回忌にあたる。当時、
見龍廟は建造中だったことから、桜井伸孝
のぶよし
・町文化財保護委員長は「五重塔前で法要を行い、分骨したものだろう」とみている。
廟や五重塔を所有する亘理伊達家18代目、亘理和彦さん(73)は「まさか分骨があったとは」と驚いていた。
■薩摩義士しのび「光の川」 2012年5月24日
http://www.youtube.com/watch?v=KVUKJIPS2KQ 宝暦治水の偉業をたたえる「薩摩義士頌徳(しょうとく)慰霊祭」の前夜祭が24日夜、鹿児島市平之町の平田公園であり、木曽、揖斐、長良の3川を紙灯籠2000個で表した「光の川」をつくって、義士たちの遺徳をしのんだ。
灯籠は、毎年慰霊祭に訪れる岐阜県の人々に対し「交流の灯」として、近くの住民らが赤、白、黄、オレンジの4色を手作りしている。
前夜祭では、治水工事の総奉行、平田靱負(ゆきえ)の9代目の子孫に当たる、平田靱久(ゆきひさ)さん(55)=大阪府吹田市=が宝暦治水の紙芝居を披露した。近くの山下小の児童や保護者らが、260年前の物語に耳を傾けた。
平田さんは、治水工事の幕命が下った際の薩摩藩の評定の様子や難工事を成功させるため人柱となった藩士の逸話などを、手作りの紙芝居を繰りながら、情感たっぷりに語った。
(BGM:やまはたヒロシ)
■泥まみれで豊作祈願 日置市でせっぺとべ 2012年6月3日
http://www.youtube.com/watch?v=PzccwogpgVw 鹿児島県日置市日吉地域に約400年前から伝わるお田植え祭、せっぺとべが3日、日置八幡、吉利鬼丸の両神社であった。白装束姿の若者らが泥の中で真っ黒になるまで跳びはね、豊作を祈った。
せっぺとべは「精いっぱい跳べ」の意味。御神田で大小の円陣を組んだ若者らは「オイヤマケチャンゲ」と歌い、「チョシ、チョシ、チョシ」の掛け声に合わせて勢いよく跳ね回った。
(BGM=「Hurt●Record」の楽曲を使用しています)
「伊勢物語」の原典を展示
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/hiroshima/4004044521.html 広島大学の図書館が所蔵する資料のうち、平安時代の歌物語、「伊勢物語」の原典など、学生にもなじみの深い、
貴重な資料の展示が東広島キャンパスの図書館で行われています。
この展示は、7日から始まった広島大学のオープンキャンパスにあわせて行われているもので、東広島キャンパス
の中央図書館では、図書館が所蔵する資料のうち、教科書にも掲載されるなどして学生にもなじみの深い貴重な
資料、あわせて19点が展示されています。このうち、平安時代に、歌人、在原業平をモデルに書かれた「伊勢物語」
の原典は、奈良絵本と呼ばれる美しい絵が入ったきわめて貴重なもので、8日は午後1時から午後4時に限って
公開されます。このほか、18世紀のフランスの啓蒙思想家、モンテスキューの「法の精神」の初版本や、作家、
三島由紀夫の署名入りの小説なども展示されています。
会場を訪れた高校2年の女子生徒は、「歴史を感じます」とか、「違うページも見てみたい」などと話していました。
この展示は、来月7日まで行われますが、とりわけ貴重な原典の資料については、8日だけの展示となります。
400年の時超えて石切り丁場跡視察
ttp://www.rnc.co.jp/f/nw/news.asp?n=2012080904 PCサイトに動画
400年の時を超えて訪問です。
大坂城築城のため採石された小豆島の丁場跡を、採石を行った黒田家の子孫が初めて訪れました。
1620年から10年の歳月をかけて築城された大坂城には、小豆島からも多くの石が提供され、中でも黒田家が採石した
石切丁場跡は全国で唯一の国指定の史跡です。
胴回りおよそ35メートルの天狗岩など1600個あまりの石がいまも残っていて、黒田家16代当主、黒田長高さんなど7人が
初めて現地を訪れました。
小豆島町では、今後、石をどうやって運んだかなど研究を続け、ことし11月に開かれる予定のシンポジウムで成果の一部
を公表できればと話しています。
戦時中の料理食べる教室
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8034245931.html 戦時中に物が不足していた時の料理を子どもたちに食べてもらおうという教室が、14日、高松市で開かれました。
この教室は、戦時中に物がないなかであり合わせて作った料理を食べてもらって物があふれた現代のありがたさを
感じてもらおうと香川県立ミュージアムが開いたものです。
教室には、小学生や保護者などおよそ40人が参加し、戦争を体験した人たちの話などを参考にして、雑炊とキュウリ
の塩もみをつくりました。
戦時中は、食材や調味料が不足していたため、雑炊は、米が少ないだけでなく、味付けは塩と煮干しのだしだけで、
今では食材とはならないサツマイモの茎が入ります。子どもたちは、大人たちと一緒に調理に取り組み、サツマイモの
茎の外側の皮をむき取って雑炊の準備をしたり、塩もみにするキュウリに塩をまぶしてころがしたりしていました。
そして、完成すると器に分けて、当時の様子を思い浮かべながら味わっていました。
高松市内の祖父母の家に来ている大津市の中学生の女の子は、「サツマイモの茎がシャキシャキしていて、
雑炊がおいしかったです」と話していました。
講師の1人で、戦時中は小学生だった高松市の78歳の男性は、「子どもたちには雑炊は好評のようですが、
戦争中に私がおいしいと感じたことは、なかったと思います」と話していました。
この手のニュースは近現代史板のほうでやれよ。板違いだ
400年の時を超え…海底残石調査
ttp://www.rnc.co.jp/f/nw/news.asp?n=2012083105 「大坂城」築城では、数多くの石垣用の石が香川県の小豆島からも運ばれました。
巨大な石をどうやって運んだのかなどを調べるため、初めての実態調査が行われています。
小豆島の岩谷石垣石切丁場跡は残された石の数が1600個を超え、石切り丁場としては唯一の国指定史跡
となっています。
しかし、大きな石をどうやって運んだのかなどは文献や絵図に残るだけで、実態がヴェールに包まれていましたが、
大学の研究調査チームが今月28日から実態調査を進めています。
機械を使って海岸の測量をしたり、実際に海に潜って積み込みの際に落ちたとされる石の分布状況などを調べています。
400年の間、海底に眠っている石の調査の研究成果は、ことし11月に開かれる「小豆島石のシンポジウム」で
中間発表される予定で、関係者は世界遺産登録に向けても準備を進めたいとしています。
↑ pcサイトに動画
讃岐特産の古文書展示会
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/takamatsu/8033708761.html 江戸時代後期ごろの讃岐の特産品の生産や流通などが記された古文書の展示会が高松市で開かれています。
展示会には、江戸時代後期ごろから明治時代の初期にかけて、讃岐の国で生産を薦められていた「讃岐三白」
として知られる「塩と砂糖、それに綿」などの生産や流通について記録された古文書36点が集められています。
「大日本物産図会讃岐国白糖製造図」は、江戸時代の砂糖の汁を搾り出す機械、砂糖車の絵が描かれています。
また、「三ヶ村御用留」には、砂糖車の扱いに不慣れな人が増えて、けが人が出るようになったため、地元の庄屋が、
高松藩に機械を改造できるように許可を求めたことが、記されています。
「讃岐国名勝図会」は、今の高松市の屋島近くにあった塩田などの風景も漢詩を添えて描かれています。
この展示会は、高松市の香川県立文書館で9月30日まで開かれています。
大阪城でモトクロス、橋下市長は乗り気だが…
国の特別史跡・大阪城公園(大阪市中央区)の西の丸庭園(6・5ヘクタール)で、
オートバイのモトクロス大会の開催計画が進んでいる。
外資系飲料メーカーが庭園を管理する大阪市に持ち込んだ企画で、
大阪城の国際的な観光拠点化を目指す橋下徹市長が後押しする。
しかし、特別史跡の現状変更に関する許可権限を持つ文化庁は
「地中の遺構に影響が出るなら許可できない」と慎重姿勢を崩しておらず、
実現は不透明だ。
こうした中、平野文部科学相は7月の記者会見で、
「大阪城でのモトクロスを本当に府民や市民が喜ぶのか」と今回の企画を疑問視。
一方、橋下市長は「都市間競争を勝つためにはこれくらいのことをやらないと。
文科相には申し訳ないが、文化遺産の観点だけではなく、
世界発信をしていく視点で判断した」と反論した。
(2012年8月29日18時00分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120829-OYT1T01039.htm
238 :
日本@名無史さん:2012/09/09(日) 09:46:03.47
○南京学会、真相解明し今月解散 “事件”実態は「プロパガンダ」
昭和12年12月に、日本軍が当時の中国の首都・南京を占領した際の真相解明を
目的に発足した「日本『南京』学会」(会長・東中野修道亜細亜大教授)が解散する
ことになった。
同学会は平成12年10月、南京虐殺などが既成事実化することに疑問をもった
東中野氏らが立ち上げ、戦前から戦後にかけての内外の膨大な資料を精査、
南京占領に関係した、元日本軍兵士ら40人弱から聞き取り調査を行うなどした。
その成果は42号に及ぶ学会報や6冊の「南京『事件』研究の最前線」(展転社)
などに結実した。
同学会によると、日本軍の南京占領に関して、学問的にほぼ解明、不法殺害は
ほとんどなく、その実態は中国国民党中央宣伝部によるプロパガンダであることが
はっきりしたという。また、南京事件の証拠として通用する写真は一枚も発見され
なかったという。
同会長によると、年齢的に、元兵士を含む新たな証言者も得にくい、などから
会としての活動は難しいと判断した。同学会は9月15日に都内で最後の大会を
開き、正式に解散する。
□ソース:産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120909/trd12090900560000-n1.htm
造山古墳、装飾古墳と判明…石棺に線刻を発見
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120909-OYT1T00652.htm 全国で4番目に大きい岡山市の 造山 ( つくりやま ) 古墳(全長350メートル、国史跡)で、墳丘上にある
石棺に線刻が見つかり、装飾古墳だったことが確認された。
装飾古墳としては国内最大となり、文化庁は19日に開かれる「古墳壁画の保存活用に関する検討会」で報告する。
造山古墳は、古墳時代中期(5世紀)に造営された前方後円墳。石棺は、江戸時代に偶然掘り出された。
1990年代の専門家の調査で、長さ約1・5メートル、幅約80センチほどのふたの破片に、長さ5〜15センチ、
深さ1〜2ミリ、間隔約1センチの平行な線などがあることが確認された。風化が激しく、もとの絵柄の復元は
困難とみられる。
文化庁は昨年、装飾古墳の全国調査を行ったのを機に、造山古墳も含めることを決めた。線刻を発見した
岡山県文化財課の宇垣匡雅・総括副参事は「装飾古墳の先駆的な資料となる貴重なもの。保全を図る必要がある」
としている。
241 :
日本@名無史さん:2012/09/12(水) 12:41:33.87
市史編集なんて、税金泥棒の最たるものだから
暇だったんだろうな
出土のガラス玉、古代ローマ帝国製か…広島 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
広島県三次市東酒屋町の松ヶ迫矢谷遺跡(3世紀前半)から出土したガラス玉3点(直径約1センチ)が、
古代ローマ帝国で作られたガラスを素材にしていた可能性の高いことがわかった。
当時の交易や交流の姿を示す貴重な資料になりそうだ。
県立歴史民俗資料館(三次市小田幸町)が発表した。ガラス玉は1977年、三次工業団地造成に伴って行われた
発掘調査で、埋葬施設から出土。コバルト色で、長さ7・3〜7・9ミリ、直径8・8〜9・9ミリ。中央に穴が空けられ、
装身具の一部に使われたと推測されている。
3月、奈良文化財研究所(奈良市)が、蛍光エックス線などで分析。その結果、ローマ帝国産ガラスの特徴である、
「ナトロン(蒸発塩)」が使われていることが確認された。ガラスの産地は地中海沿岸から中東にかけてのエリアと
考えられるが、玉形に加工したり、色づけしたりした地域は不明だという。
同資料館の下津間康夫学芸課長は「ローマ帝国産のガラスで造られたと推測されるガラス玉では、国
内最古級。1800年前の物流が確認できる貴重な資料」としている。
ガラス玉は14日から同資料館で開かれる秋の特別企画展「中国山地の原始・古代」で公開される。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20120912-OYT1T00473.htm?from=tw
244 :
日本@名無史さん:2012/09/22(土) 11:20:44.77
国政新党「日本維新の会」の代表に就任予定の橋下徹大阪市長は21日、尖閣諸島や竹島をめぐる
日本と中国、韓国との対立に関連し、「アジアの中での日本の位置付けを国民がしっかり認識するため、
近現代史の教育は国を挙げてやらなければならない」との持論を述べた。
橋下氏は「(日本が)近隣諸国に迷惑を掛けたところはどこなのか。戦後にアジア諸国(の発展)に
どれだけ貢献をしたのか。悪かったところも伝えるが、誇りに思うところもしっかり伝えるべきだ」
と力説。将来的には、国民が近現代史を学べる国立施設を整備する必要があるとの認識を示した。
▽Yahooニュース(時事通信)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120921-00000200-jij-pol
247 :
日本@名無史さん:2012/10/16(火) 23:32:13.32
249 :
日本@名無史さん:2012/11/03(土) 19:48:00.83
http://image.eiga.k-img.com/images/buzz/34887/vivian164_large_large.jpg [映画.com ニュース] 台湾の歴史大作映画「セデック・バレ」が来春、「第一部:太陽旗」と「第二部:虹の橋」の2部構成で劇場公開されることがわかった。提供はマクザム、配給は太秦が担当する。
本作は、「海角七号 君想う、国境の南」をいきなりメガヒットさせたウェイ・ダーション監督による最新作。日本統治下の台湾で起きた、台湾先住民・セデック族による抗日暴動「霧社事件」を映画化したもの。
第一部の「太陽旗」では、日本の統治下で独自の文化をないがしろにされ、苦しい生活を強いられてきたセデックの人々が、あるいさかいをきっかけに部族の誇りをかけ武装蜂起するまでを、
第二部「虹の橋」ではセデック族の人々の間で「死後に渡る」と信じられてきた虹の橋を象徴とし、蜂起した彼ら に対する日本の警察および軍部の報復、そしてそれらがもたらす多大なる犠牲と悲劇が生々しく描かれる。
ウェイ監督は、本作を撮影するために「海角七号」を製作し、自らの実力を証明して見せた経緯がある。
今回は、「レッドクリフ」のジョン・ウーを製作に迎え、前作に比べて資金は集まったものの、村ひとつまるごとオープンセットを組み上げるなどし、
全てにこだわった結果、製作費が底を突く事態となり、祖母が原住民族出身であるビビアン・スーが不足分を個人的に出資したというエピソードがある。
出演はリン・チンタイ、ダーチンなど。日本からも安藤政信、木村祐一、河原さぶが出演している。(文化通信)
http://eiga.com/news/20121031/9/
朝倉氏遺跡復原町並で戦国の市場にぎわう 福井市、町娘らが工芸品など販売
一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)の復原町並を舞台に、戦国の市場のにぎわいを演出する「戦国あさくら市」が3日始まった。
伝統工芸の事業者や、地元まちおこし団体などが町娘や武士の衣装をまとい、長い歴史に裏付けられた福井県の工芸や
食をアピールした。
同遺跡の新たな魅力づくりを目指し、県や県観光連盟、嶺北の観光地を結ぶ「ふくいやまぎわ天下一街道」
広域連携協議会、朝倉氏遺跡保存協会、東郷ふるさとおこし協議会などが9月に実行委員会をつくり、準備を進めてきた。
遺物に基づき忠実に再現された町屋前の通りが舞台。同遺跡からの出土も多い越前焼や、1500年の歴史があると
伝わる越前漆器、越前打刃物など15の露店がずらり。遺跡からは当時ソバが食べられていた痕跡も見つかっていることも
踏まえ、おろしそばなど「食」の露店も軒を連ねた。
販売は実行委の約30人が、軽快な町人姿やかわいらしい町娘姿、威厳ある武士の姿で対応。市場の“通貨”は「文」を
採用するこだわりようで、観光客は1千円で1100文分のチケットを買い、“城下町”をそれぞれに散策し品定めしていた。
静岡県掛川市から夫婦で訪れた杉山喜代志さん(55)は漆塗りのおわんを購入。「町人などの衣装が町並みと
合っていて楽しい。名産品が一堂に集まっているのもいいですね」と笑顔で話していた。
このほか、笏谷石製の茶器を使った茶席、戦国武将やお姫様に変身できる着付けコーナーも。観光バスが次々乗り付け、
終日大勢の人でにぎわっていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121104-00000302-fukui-l18
251 :
日本@名無史さん:2012/11/04(日) 19:20:13.09
68年ぶりの解読:英民家煙突から軍鳩の骨と暗号文発見
http://mainichi.jp/graph/2012/11/04/20121104k0000m030079000c/001.html http://mainichi.jp/graph/2012/11/04/20121104k0000m030079000c/image/001.jpg 【ロンドン小倉孝保】第二次世界大戦の連合軍によるノルマンディー上陸作戦(1944年6
月)の際、ナチス・ドイツ占領下のフランスから放たれたとみられる英空軍の軍鳩(ぐんきゅう)
(伝書バト)の骨が英国の民家で見つかった。ハトには暗号が付けられ、英国立暗号センター
で68年ぶりの解読作業が始まった。
英南部ブレッチングリーに住むデビッド・マーチンさん(74)宅で、改築のため暖炉を壊そうとし
たところ、煙突内側から見つかった。脚に小さな赤いカプセルが付けられ、中の薄紙に通信文
(暗号)が書かれてあった。
差出人は「W・Stot」で英空軍所属の軍曹。宛先は「XO2」とあり爆弾司令部を意味する
という。暗号は計27の文字列で構成されている。英メディアによると、仏ノルマンディー地方か
ら英バッキンガムシャーの暗号センターに向け放たれたハトが、気象条件など何らかの事情で
疲れて煙突に入った可能性が高いという。
英王立伝書バトレース協会によると、軍鳩の骨から約30の通信文が見つかっているが暗号
通信文の発見は初めて。極秘情報だった可能性が高いといい、早くも爆撃を依頼する内容
だったのではなどの観測が飛んでいる。
英軍は当時、通信用に約25万羽の軍鳩を使っていた。軍鳩は約1100キロ先までの飛行
が可能という。仏ノルマンディー地方からマーチンさん宅までは約150キロ。そこから暗号セン
ターまでは約130キロだった。
日本史じゃねぇーし
天平役人、部下に宴席強要…正倉院展文書に記述
大きなミスをした下級役人が、上司らへの償いとして宴席を設けるよう約束させられる――。
そんな現代のパワハラを想像させるような奈良時代の“念書”が、奈良市の奈良国立博物館で開催中の
第64回正倉院展に初めて出展され、来場者の関心を引いている。
出展されているのは「続修正倉院古文書別集(ぞくしゅうしょうそういんこもんじょべっしゅう) 第四十七巻」。
ミスをした役人は「角勝麻呂(ろくのかつまろ)」という人物で、経典を書写する役所・写経所に写経生として勤めていたとみられる。
文面では、748年7月28日に「罪」と書かれるほどのミスを犯した勝麻呂が、上司や同僚から約2週間後に
「宴を必ず設くべし」と迫られ、親族らしき角恵麻呂(えまろ)が“連帯保証人”として署名。
期日までに開かなければ、「堂衆皆悉(ことごと)く率い将(ゆ)き、物を取らん(みんなで押しかけて財産を没収する)」
と厳しく念を押す記述も添えられている。
同博物館によると、上司らが上級官庁などにミスを報告しない代わりに宴会を強要したと考えられるが、ミスの内容は記載がなく不明。
ただ、「勝麻呂」は後に書かれた文書にも登場しており、無事にピンチを切り抜け、写経所に残留できたという。
当時、写経生の給料は出来高払いで、用紙1枚につき7文が支払われたが、脱字や脱行には罰金が科せられていたという。
同博物館の西山厚・学芸部長は「当時、写経生たちが『たまには酒でも出してほしい』と待遇改善を要求する記述が、
別の文書にあり、苦しい生活だったことがわかる。同僚のミスにつけ込んで、皆でただ酒を飲んだのかもしれない」と話している。
◆写経所 奈良時代、仏教普及に多数の経典を複写する必要があり官立の写経所が設立された。
光明皇后の皇后宮職、造東大寺司など経営主体は変化したが国家的事業として専門の写経生が書写にあたった。
(2012年10月29日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20121029-OYO1T00380.htm
254 :
日本@名無史さん:2012/11/22(木) 14:36:20.62
竹田の山中から銅銭100キロ
竹田市教委は、市内の山中から、約100キロの銅銭が見つかったと明らかにした。鎌倉時代から江戸初期にかけて中国から
輸入された渡来銭で、唐時代の「開元通宝」や明時代の「永楽通宝」など数種類が交じっており、数万枚あるとみて、埋められ
た時期や当時の流通形態などを調べている。(阿南沙弥香)
市教委文化財課によると、9月下旬、私有地で、木材などを運ぶための作業道を作るため、重機で斜面を削った際に出てきた。
一部、穴をひもでつないだ銅銭もあったが、多くはバラバラで緑色にさびていた。また、銅銭が入っていたと見られる木おけ
の木片も見つかり、有力者が戦などの有事に備えて埋めていた可能性があるという。
県教委埋蔵文化財センターによると、県内で1か所で見つかった銅銭としては最大量という。市教委は1枚ずつ洗浄、種類ご
とに分類し、調査している。
下関市立大の桜木晋一教授(貨幣考古学)によると、1か所で見つかった銅銭の量では、九州では1919年に福岡県久山町
で見つかった約9万4000枚が最多。60年頃に同県や宮崎県で約4万枚が発見されて以降は万単位での出土はなく、約50
年ぶりの大量出土という。桜木教授は「当時の経済活動や技術水準、信仰がうかがえる貴重な史料」と話している。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/oita/news/20121122-OYT8T00126.htm
256 :
にっぽん(^ω^)ペロペロ にっぽん(^ω^)ペロペロ :2012/11/28(水) 05:45:03.73
にっぽん(^ω^)ペロペロ にっぽん(^ω^)ペロペロ にっぽん(^ω^)ペロペロ にっぽん(^ω^)ペロペロ にっぽん(^ω^)ペロペロ にっぽん(^ω^)ペロペロ にっぽん(^ω^)ペロペロ にっぽん(^ω^)ペロペロ にっぽん(^ω^)ペロペロ
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257 :
日本@名無史さん:2012/11/28(水) 22:27:40.77
259 :
日本@名無史さん:2012/12/04(火) 07:28:48.62
自民、徴兵制検討を示唆 改憲案修正へ
自民党憲法改正推進本部(本部長・保利耕輔前政調会長)は会合で
徴兵制導入の検討を示唆するなど保守色を強く打ち出した論点を公表した。
これを基に議論を進め、05年に策定した改憲草案に修正を加えて
憲法改正の手続きを定めた国民投票法が施行されるまでの成案取りまとめを目指す。
参院選を視野に、離反した保守層を呼び戻す狙いとみられる。
ただ05年草案も徴兵制には踏み込んでおらず、「右派」色を強めたと受け取られる可能性もある。
今後党内外で論議を呼ぶのは必至だ。
http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010030401000592.html
260 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 04:54:02.80
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121209-00000533-san-ent ■視聴者ニーズとの間にギャップ
関西大学の黒田勇教授(メディア文化論)は「平安末期という視聴者が見慣れない時代設定も要因のひとつ。
これまで数多く取り上げられてきた安土桃山、元禄、幕末から明治維新の時代は、
歴史的な知識があり、何度見ても面白く感じることができる」と分析する。
黒田教授は、「日本人は大河に壮大なファンタジーを期待するもの。
しかし、薄汚れた衣装や都の土埃、かすんで不鮮明な映像の今回の作品は、
王朝ものはきらびやかであってほしいという視聴者ニーズとの間にギャップがあった。
映像でのリアリティーの追求は、新しい大河の地平を切り開いた意欲作として評価できるが、
視聴者がその水準に追いついていなかったともいえる」と話す。
今作の放送に合わせ、清盛ゆかりの観光地を盛り上げようと今年1月にオープンした
神戸市の「歴史館」(神戸市兵庫区)を監修した園田学園女子大学の田辺眞人名誉教授(歴史学)は
「清盛をめぐる個々人の愛憎や怨念に終始した心理ドラマを見ているようで、
清盛の国づくりの思いや戦の成り行きなど歴史的なものが見ることができず残念だった。
しかし、かつて清盛が改修した港・大輪田泊(同)があった場所には多くの観光客が訪れ、
歴史館の入場者数も当初予想の20万人を上回った。地域振興という大河がもたらす効果はあった」と話している。
■低迷のまま最終回へ
ついに10月21日放送の清盛と後白河法皇の確執を描いた第41回「賽(さい)の目の行方」では、
関西の平均視聴率が7・5%と、記録がある平成6年以降で過去最低となってしまった。
この回までの6週間、1桁台が続いていた。
初回から第47回までの関西の平均視聴率11・7%。この数字は、
過去最低だった「春の波濤(はとう)」(昭和60年度)の13・0%からも引き離されている。
NHKとしても、次なる大河「八重の桜」に期待をかけるほかなさそうだが、
主演を務める女優の綾瀬はるかさんには、大きなプレッシャーがのしかかりそうだ。
綾瀬さんは同志社大学を創設した新島襄の妻・八重を演じ、来年1月6日から放送がスタートする。
261 :
日本@名無史さん:2012/12/11(火) 04:59:55.33
古墳時代のよろい姿の人骨発見=火砕流に遭遇し死亡か―群馬
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121210-00000141-jij-soci 群馬県渋川市の金井東裏遺跡で、6世紀初頭に噴火した榛名山二ツ岳の火山灰で埋まった溝から、よろいを着た成人男性の人骨が見つかった。
遺跡の発掘調査を行っている県埋蔵文化財調査事業団が10日、発表した。同事業団は、古墳時代の人間が火砕流に遭遇し、死亡したとみている。
古墳時代のよろいが、実際に人が着た状態で見つかるのは全国で初めて。
よろいは高さ約60センチ、幅約50センチ。人骨はほぼ全身が残っており、うつぶせの状態で見つかった。
膝をついた姿勢から前に倒れたとみられる。
着ていたものと同種のよろいは、主に大和政権と近い有力者の古墳から見つかることから、この男性も首長だった可能性が高いという。
遺跡からは他に、別のものとみられるよろいの一部、乳児の頭骨一つ、鉄製の矢尻14点が発見された。
同事業団は、人骨が火砕流が流れて来る方向に向かって倒れており、逃げようとした形跡もないことから、
男性がよろいをまとい、矢尻を並べた上で、山の怒りを鎮めようとしていたのではないかと想像している。
262 :
日本@名無史さん:2012/12/14(金) 11:05:56.56
各界の識者に日本史上最高のリーダーというテーマで「週刊ポスト」がとった緊急アンケート。
ここで、山本博文・東京大学大学院教授は主君浅野長矩の仇討ちのため、元禄15年12月15日未明に
江戸の吉良邸へ討ち入りした播磨国赤穂藩の筆頭家老、大石内蔵助をあげている。
なぜ、大石こそ史上最高なのか、山本教授が解説した。
大石内蔵助はもと赤穂藩筆頭家老である。元禄15年12月14日(実際は15日未明)、
主君浅野内匠頭の仇吉良上野介邸に討ち入りして、吉良の首を取った。
主君の切腹から1年9か月もの時間がたっていた。
大石がまず目指したのは、主君の弟浅野大学による御家再興と吉良への処分の嘆願である。
しかし、武士の面子のためには吉良を討つことこそが必要だとして、大石を激しく突き上る者も少なくなかった。
大石は、急進派を押さえるため同志を江戸に送り、自身も江戸に出て急進派をなだめ、
寓居とした京都・山科に帰ってからも、同志を江戸に送って吉良邸の様子を探らせた。
そして御家再興の望みが断たれると、上方在住の同志をまとめて江戸に下り、
吉良が在宅する日をつきとめて討ち入りに成功した。
藩の財産を処分し藩士たちに分配した残り金の使途を書き留めた『金銀請払帳』を見ると、
大石が、急進派を押さえ、浪人生活の中で困窮する旧藩士たちの生活援助を行ない、
47人もの同志を繋ぎ止めて、ついに本懐を遂げた苦労が手に取るようにわかる。
さまざまな困難を乗り越えて目的を達成した大石は、「日本史上最高のリーダー」とするにふさわしい人物である。
http://www.news-postseven.com/archives/20121214_159723.html
>各界の識者に日本史上最高のリーダーというテーマで「週刊ポスト」がとった緊急アンケート
小沢がランクインしているところで識者とやらのオサトも
編集の意図も透けて見える企画だな
大修理中の正倉院を公開…来年3月には一般にも
宮内庁が約100年ぶりの大修理を進めている奈良市の国宝・正倉院の内部が14日、報道陣に公開された。
同庁は来年3月15〜17日に予定している一般公開でも通路から内部が見えるよう、倉の扉を開ける。
南北約33メートル、東西約9メートルの建物の内部は三つに仕切られ、今回は聖武天皇の愛用品を納めた
校倉あぜくら造りの「北倉ほくそう」と、板倉造りの「中倉ちゅうそう」を公開。
かつて宝物が納められていた木箱「唐櫃からびつ」などが運び出された北倉は、広々とした空間が広がり、
壁面には、奈良時代の工具・手斧ちょうなや槍鉋やりがんなで表面を整えた跡が残る。
中倉と北倉を隔てる校倉造りの内部の壁に傷みはなく、宮内庁の担当者は「鉋で削ればきれいな白木が姿を見せるだろう」と話した。
一般公開の問い合わせは宮内庁京都事務所(0180・99・7070、平日午前8時半〜午後5時)へ。申し込み締め切りは28日。
(2012年12月14日13時23分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20121214-OYT1T00499.htm
こういうのは、身元を確認して日本人だけに限定しないと
町の文化財から、国宝級の文化財まで多数盗まれてとんでもないことになってる。
大体、韓国あたりで自国のものだと称して流通しているようだ。
亀山城多聞櫓で火災、不審火か
2012年12月16日
十四日午後九時十分ごろ、県の史跡に指定されている亀山市の亀山城多聞櫓(やぐら)から煙が出ているのを、
近くの市役所の当直職員が見つけた。消防署員が火を消し止めたが、
床の一部と江戸時代初期の創建当時から残る柱一本の計五〜六平方メートルを焼いた。
市が昨秋から多聞櫓の復元工事を進め、二十五日に完成予定だったが、火災のため完成は延期された。
多聞櫓は、県内で唯一現存する城郭建築物として知られる。工事のため入り口の建具が外されており、外部から人が簡単に侵入できる。
亀山署によると、付近に火の気はなく、不審火とみている。市は十五日、入り口を板で封鎖する再発防止策を取った。警戒を強化する。
工事の完成は、燃えた柱の修理や原因究明のため、年明け以降にずれ込む公算が大きい。
市まちなみ文化財室の嶋村明彦室長は「通報が早かったのがせめてもの救いだが、
多聞櫓は市と市民の貴重な財産。このような事態になって残念」と話す。
(久野賢太郎)
中日新聞亀山城多聞櫓で火災、不審火か三重(CHUNICHI Web)
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20121216/CK2012121602000014.html
国の重文・金山寺本堂が全焼…桃山時代の様式
2012年12月24日(月)22:07
24日午後7時35分頃、岡山市北区 金山寺 ( かなやまじ ) 、
天台宗寺院「金山寺」=松原宏澄住職(76)=から出火。国指定重要文化財の木造平屋の本堂を全焼した。
出火から約1時間後に火の勢いは収まり、同市消防局がさらに消火に当たっている。同局によると、
けが人はない模様。岡山西署と同局が出火原因を調べている。
現場はJR岡山駅の北東約6キロの山中。同局によると、近くに住む女性が火災に気付き、
「寺が燃えている」と119番したという。
金山寺は、奈良時代の創建と伝えられる寺院。
1575年(天正3年)に再建されたとされる入り母屋造りの本堂は桃山時代の豪華な様式が残る。
戦前には国宝に指定されていたが、1950年の文化財保護法制定時に重文指定された。
近くに住む主婦(57)は「突然『ボーン』と大きな音がし、外に出ると、
本堂の辺りから空に向かって大きな火柱が上がっていた」と証言。
別の60歳代の女性は「外に出た際、瓦が崩れる音が響いたので見上げると、炎が高く上がっていて驚いた。
地元で大切にしてきたお寺なので残念」と話した。
http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20121224-567-OYT1T00707.html
269 :
日本@名無史さん:2012/12/26(水) 15:26:00.25
“エル・カンターレをナメるな!!!”元ブルーハーツ・河口純之助×都知事選候補者TOKMAが吠える!
――河口さんはいつ頃からこのようなことを考えていたのですか?
河口 ブルーハーツは左だと思われているんだよね。左でも右でもないぜ。
要するに「本当のことが知りたい」ってことだよ。
渡部昇一先生の影響は大きいね。本も読むし、櫻井よしこさんの講演会も行く。
そうしたら、ブルーハーツで言ってたことの意味がわかったよ。
「見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い」(「情熱の薔薇」)ってこと。
本当にでたらめが多いんだよ! 従軍慰安婦が20万人いたとか、調子こいたこと言いやがって!
南京(大虐殺)の被害者の数だってどんどん増えていく。尖閣も竹島も全部ハッキリさせようぜ。そういう時期が来たんだよ!
――対中国、対韓国というより、日本人に対してじれったさを感じている?
河口 そう! 日本人は眠ったまんま。日本人はエル・カンターレをナメてるよ。エル・カンターレをなんだと思ってるんだよ!
みんな気づくのが遅すぎ。俺なんかレーダーが優秀だもん。国師であり、ワールドティーチャーなのがまだわからないのかなぁ。
――幸福実現党は原発推進の立場ですよね。
河口 そうだよ。エネルギーがなかったら、国が衰退しちゃうもん。国防上もまずいよな。
TOKMA 変な話だよ。YMOの坂本龍一が原発に反対してるんだから。「たかが電気」って言ったんでしょ?
彼らは電気使った音楽で成功したんだから、もっと電気に感謝したほうがいい!
河口 坂本は今後一生、電気使わずに音楽やれよ!
TOKMA そもそも誰も死人が出ていないじゃん。人が死んだのは津波なんだよ。
河口 原発から漏れた放射能で死んだ奴なんて誰もいないからね。
――福島第一原発の周囲は、危険区域に指定されましたが……。
河口 住めるよ! あんなのは風評被害、報道被害だよ! 放射能を浴びたら健康になるんだよ!
http://www.cyzo.com/2012/12/post_12197.html
【島根】出雲大社にイノシシ退散を祈願をしたことを記した古文書が見つかる
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1357167371 田畑を荒らす有害鳥獣として駆除したイノシシを地域資源として町おこしに活用している島根県美郷町で、
江戸末期に被害に悩まされた住民が、出雲大社にイノシシ退散を祈願したことを記した古文書が同町内の
民家に残っている。
昔も今と同様、イノシシ対策に知恵を絞っていた土地柄を示すユニークな史料として注目を集めている。
古文書は1864(元治元)年に記され、題名が「猪(いのしし)退参御祈祷(きとう)入用割合帳」。
中身は20ページで、最初のページに「近年、イノシシ徘徊(はいかい)いたし、作物を荒し、防ぎ方人力に
相叶(かな)わず難渋いたし、今般、組合村々評議の上、大社国造殿へイノシシ退散のご祈祷をお願いする」と
いった内容の記述がある。
祈祷料は「金十七両三分」、国造へのお礼は「金五両」などとされ、他にも船賃や宿代の記載があり、
現在の美郷町と、隣接する同県飯南町の旧16カ村の費用負担の割合も明示されている。
石見銀山資料館(大田市)の仲野義文館長が約10年前、銀山関連の史料を探そうと、江戸時代に先祖が庄屋だった
美郷町潮村、無職中原義隆さん(81)方の蔵を調べていた際に発見。同町内での講演の際に紹介するなどして、
存在が分かった。
同町では年間200〜700頭のイノシシを有害鳥獣として捕獲。「おおち山くじら」と名付けてブランド化し、肉の販売や
加工品、革製品の開発など工夫を凝らし、地域おこしにつなげている。
担当する町産業振興課の安田亮係長は「先人が、鳥獣害対策に地域一丸の気持ちで臨んでいたことが分かり、
感慨深い。対策への向き合い方の姿勢が参考になる」と話した。
ソース
山陰中央新報
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=536519004
271 :
日本@名無史さん:2013/01/08(火) 20:51:13.83
【社会】4世紀中国の「書聖」王羲之の精巧な写しが日本国内で見つかる 7−8世紀、唐時代に宮中で制作されたものか
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1357640454 4世紀の中国で活躍した書道史上最大の書家、王(おう)羲之(ぎし)の精巧な写し(模本)が8日までに
日本国内で見つかった。文面や筆遣いなどから7〜8世紀の中国・唐時代に宮中で制作されたものの
一部とみられ、真筆が見つかっていない羲之の書風の解明につながる貴重な資料になりそうだ。
写しは縦25・7センチ、横10・1センチの紙に、3行24字が書かれた手紙とみられる。国内の個人が所有し、
昨年10月、五島美術館(東京都世田谷区)の名児耶(なごや)明・学芸部長と東京国立博物館(台東区)の
富田淳(じゅん)・列品管理課長が鑑定した。冒頭の文字から「大報帖(たいほうじょう)」と命名。判断した根拠に、
羲之がよく使う言い回しが使われていることや、字姿がほかの写しの「妹至帖(まいしじょう)」(個人蔵)と
似ていることなどを挙げている。
写しには幕末・明治時代の鑑定家、古筆了仲(こひつりょうちゅう)が「小野道風(おののみちかぜ)朝臣(あそん)」筆と
鑑定した紙が付されていた。
平安時代に「三蹟(さんせき)」の一人として知られる道風は、羲之の書を研究していたため、書がよく似ているという。
「書聖」と呼ばれる羲之の真筆は戦乱などで失われたとされる。写しは世界で20点前後、精巧なものは10点前後。
日本には「妹至帖」など3点ある。富田課長は「王羲之は晩年の書の評価が高い。写しは晩年のものではないが、
極めて精巧で書風の変遷の過程を伝えるもっとも良い資料」と話している。
写しは22日から東京国立博物館で開催される特別展「書聖 王羲之」で公開される。
ソース
産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130108/art13010818530004-n1.htm
【考古】新潟・胎内市の「城の山古墳」で発見された銅鏡、中国で1〜3世紀に作られたとみられる「盤龍鏡」と判明
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1358303286/ 城の山古墳から出土した盤龍鏡
http://www.yomiuri.co.jp/photo/20130115-828517-1-L.jpg 胎内市教委は15日、古墳時代前期(4世紀前半)の「城(じょう)の山古墳」で昨年見つかった銅鏡が
中国で1〜3世紀に作られたとみられる「盤龍鏡」と判明したと発表した。発掘を指導した
新潟大の橋本博文教授(考古学)は「大和政権の影響を強く裏付ける発見」としている。
このほか国内最古の出土となる弓の金具「両頭金具」など、埋葬者の権威を伺わせる
数々の副葬品の詳細が明らかになった。
国立歴史民俗博物館(千葉県)の上野祥史准教授(考古学)によると、竜や外周のノコギリの歯のような
模様から、後漢(1世紀後半〜2世紀前半)か魏晋代(3世紀中頃)に作られて日本に渡ってきたとみられるという。
西日本では約50の出土例があるが、東日本では約20例にとどまるという。
橋本教授は「中国の鏡をまねて日本で作られた可能性もあるが、いずれにせよ大和政権から
もたらされたと考えられる」と指摘する。
両頭金具はネジのような「頭」が両端についた小さな鉄製の棒を弓に貫通させたもので、装飾具と推定される。
2点見つかり、それぞれ約2センチ。これまで、長野市の大星山3号墳(4世紀後半)から出土したものが
国内最古とされていたが、城の山古墳はさらに数十年遡る。1点は弓の漆膜のそばから出土しており、
福島大の菊地芳朗教授(考古学)は「これまで不明だった両頭金具を付ける場所や使われ方などを
解明する貴重な資料」と意義を語る。
このほかの副葬品としては、ヒスイ製の勾玉(まがたま)や鉄の斧(おの)などが出土しており、
計19点は古墳時代前期では国内最北の出土品だった。何らかの動物が彫られていると
推測される部分など、さらに調査を進める。
(一部略
274 :
日本@名無史さん:2013/01/22(火) 21:51:57.85
「金」で銘文の大刀、福岡・元岡古墳群から出土 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130122-OYT1T01324.htm?from=tw 福岡市西区の元岡古墳群で出土した干支と日付を刻んだ鉄製の大刀について、市は22日、文字に
はめこまれていた金属が金であることがわかったと発表した。
古墳時代の刀剣の銘文に金を用いたものは、国内ではほかに雄略天皇や朝鮮半島・百済王などに
ゆかりの3例しかなく、被葬者の卓越した地位を示すものとして注目される。
大刀は長さ75センチ。彫った文字に金属を埋め込む象嵌という技法で、「庚寅の年(570年)
の正月六日庚寅の日に刀を作った」と読める漢字19字が記されており、中国の暦が日本で使われて
いたことを示す最古の資料として注目された。
市が表面を覆うさびを削ったところ、一部に金色の銘文が浮かび上がり、分析の結果、金と確認さ
れた。過去の3例は、いずれも国宝か国の重要文化財となっている。
(2013年1月22日21時46分 読売新聞)
【考古】国内最古の青銅製まが玉が出土…鳥取市「松原10号墳」
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1359034402/ 鳥取市にある6世紀前半の古墳から、国内では最も古い青銅製のまが玉が見つかり、
当時の風習などを知るうえで貴重な資料になるとして、注目されています。
青銅製のまが玉が見つかったのは、鳥取市松原にある「松原10号墳」で、
道路の建設に合わせて去年、鳥取市埋蔵文化財センターが行った発掘調査で出土しました。
まが玉は、長さが1.7センチ、幅が0.5センチ、重さは1.6グラムあります。
埋蔵文化財センターによりますと、青銅製のまが玉が出土した例は全国で3例しかなく、
今回のものは、一緒に見つかった土器から6世紀前半の古墳時代後期とみられ、
国内で最も古いということです。
また、一緒に管玉やガラス製の小玉も見つかり、埋葬者の腕か足に付けられた
装飾品ではないかとみられています。
鳥取市埋蔵文化財センターでは、当時の青銅器の製作や風習などを知るうえで
貴重な資料になるとしています。
276 :
日本@名無史さん:2013/01/31(木) 02:29:53.64
大化改新の立役者「出会いの場」に精巧な石敷き
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130130-OYT1T01353.htm 大化改新の立役者、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が初めて出会った場所「飛鳥寺西の槻の樹(つきのき)の広場」
とみられている奈良県明日香村の飛鳥寺西方遺跡で、7世紀中頃〜後半の石敷きが見つかり、村教委が30日発表した。
石や砂利を隙間なく丁寧に敷き詰めており、村教委は当時の皇族、貴族らが饗宴や儀式を催した広場にふさわしい空間としている。
石敷きはこれまでも確認されていたが、今回は東西15メートル、南北24メートルの広範囲にわたって出土。このうち東西6メート
ル、南北10メートルの範囲には、15〜25センチ大の平らな石を精巧に敷き詰め、周りには3〜10センチ大の砂利を敷いていた。
過去の調査から同遺跡は東西約120メートル、南北約200メートルと確認されており、周辺にもさらに石敷きが広がっていた可能性
が高い。また、石敷きには石のない円形の部分(直径2〜3メートル)が2か所あった。日本書紀で、広場にあったとされる「槻(ケヤ
キの古名)」などの木の根や、建物の柱の痕跡は今回は見つからなかったという。
277 :
日本@名無史さん:2013/02/05(火) 04:59:02.47
沖縄県・尖閣諸島をめぐる日中両国の対立が深まるなか、約70年前の日中戦争をテーマとするテレビドラマが、中国国内で大量に制作されている。
背景には、「日本との戦争ものなら当局の厳しい検閲を通りやすい」という番組制作側の事情があるという。
中国紙、重慶晩報によると昨年、中国全土のテレビ局で「ゴールデンタイム」に放送されたテレビドラマは200本余りで、うち70本以上は日本軍との戦争や日本人スパイとの暗闘がテーマだった。
浙江省東陽市には当時の町並みを再現した抗日ドラマの撮影基地があり、13年1月末現在、9本が撮影中だという。
最近の抗日ドラマは史実を無視したものが多い。寺院の尼僧が抗日ゲリラ部隊を作ったり、抗日の英雄と日本の大物政治家の娘が恋に落ちたりする話のほか、
美女だけで組織された暗殺団が日本軍高官を狙うといった杜撰(ずさん)な内容が目立つ。
日本兵を演じるエキストラはてんてこ舞いの忙しさだ。中国紙、金華日報(電子版)によれば、エキストラ歴4年の史中鵬氏(26)は人相が悪いなどの理由で、多くのドラマで日本兵役に選ばれた。
同じ日に複数のドラマに出演し、計8回も中国軍の兵士らに“殺された”こともあった。「一度でいいから八路軍兵士を演じてみたい」というのが史氏の夢だという。
大量制作の背景に、中国政府がしく厳しい検閲制度がありそうだ。
現代の中国人の生活を描くとすれば、格差や腐敗などの社会問題は避けて通れない。発禁処分を受ければ投資が回収できなくなる危険性がある。
劇作家の高大庸氏は中国メディアの取材に、「最近審査が厳しくなり、歴史ものも引っかかるケースが増えた。抗日は最も安全なテーマだ」と話している。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130204/chn13020420170004-n1.htm
279 :
日本@名無史さん:2013/02/21(木) 20:26:32.92
鍋島家「長屋門」保存修理完了
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/5035039981.html?t=1361450111097 江戸時代に、佐賀藩の飛び地として、雲仙市にあった鍋島家屋敷の「長屋門」が、老朽化に伴う保存修理を終え、
20日、落成式が行われました。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/5035039981_m.jpg 雲仙市国見町の神代地区は、江戸時代佐賀藩の飛び地として鍋島家の分家が治めていた場所で、「神代領主」と
呼ばれた領主の、家臣の屋敷が並んでいた「神代小路」は今も古い町並みが残っています。
その神代小路にある、佐賀藩神代領主の屋敷は、平成19年に国の重要文化財に指定されましたが、老朽化のため、
雲仙市が3年前から修理を行っていました。
このうち、敷地の東側にある長屋門の復元工事が先月終わり、20日、関係者など、およそ30人が集まって落成式が
行われました。式典では、テープカットのあと、市の職員によって重厚な長屋門の扉が開けられました。
長屋門は、延べ床面積125平方メートルの木造2階建ての建物で、納屋や作業場としても使われていたということで、
今回、虫の被害があった部分に、新しい木を埋めたりして復元しました。
雲仙市教育委員会事務局田中卓郎文化財班長は「皆さんに足を運んでもらい、長屋門や鍋島邸を歴史に親しんで
もらえる場所にしていきたい」と話していました。長屋門以外の屋敷などは、ことしの夏に修理が終わる予定です。
2013.2.19 19:30道後公園活性化の学生によるワークショップ
道後公園の活性化に向け、大学生からアイデアや意見を聞くワークショップが松山市で開かれ、観光イベントを絡めた
公園の活性化策などの意見が出されました。
ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=43745 このワークショップは、道後公園を歴史ロマンあふれる道後にふさわしい都市公園とするため、若い感覚をもった
大学生からアイデアを募ろうと県が開いたものです。
ワークショップには大学で歴史や街づくりを学んでいる大学生が参加し、道後公園の好きなところや嫌いなところの
意見を出しました。
そしてこの意見をもとに道後公園の将来像を話し合い、史跡公園としての認知度を上げる取り組みや、戦国時代を
活かした観光イベントなどが提案されていました。
県はワークショップで出された意見を参考に、活性化に向けた具体的なアイデアや意見を集約する方針です。
282 :
日本@名無史さん:2013/02/23(土) 12:20:57.06
アイヌの骨、11大学で保管
文部科学省が2011〜12年にかけて、アイヌ民族の遺骨調査を行った結果、
北海道大など11大学で保管されていることが分かった。
22日の政府のアイヌ政策推進会議(座長・菅義偉官房長官)の会合で報告された。
アイヌの骨は第2次大戦前後に北海道などで、大学研究者らがアイヌの墓を掘り起こし、
埋葬品とともに収集。アイヌの子孫が遺骨の返還を求めていた。
政府は4月にも開く次回会合で遺骨数など具体的な調査結果を示す。
時事ドットコム(2013/02/22-21:17)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2013022200960
“福岡城を再現”した模型展2月19日(火) 16時49分
ttp://rkb.jp/news/news/12439/ 現在は、石垣と櫓だけが残る福岡城など、旧福岡藩主の黒田家が築いた城をかつての姿で再現した模型の展示会が、福岡市で開かれています。
福岡市天神のソラリアプラザ1階に姿を現したのは、およそ150分の1の大きさで再現された、福岡城の模型です。
江戸時代初期に、黒田如水と長政の親子が築いた当時の姿を再現した城内では、実在したかどうかをめぐって議論
が続く天守閣も、立派な五層の建物として再現されました。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/02/2013-02-195-150x84.jpg 屋根を取り払った二の丸御殿の内部は、ふすまの絵まで精巧に表現されています。
福岡城のほかに、長政の息子に与えられた直方藩の藩主の館や、国境の防衛のために築かれた若松城や黒崎城の
模型もあります。
歴史を通じたまちおこしを目指して活動する「筑前城郭研究会」が、木と厚紙を使って数年がかりで製作したものです。
この模型展は、あすまで開かれています。
284 :
日本@名無史さん:2013/02/25(月) 11:42:41.02
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130225-OYT1T00041.htm 幸村の最期に新説、越前松平家の古文書で発見
1615年の大坂夏の陣で戦死した武将・真田幸村の最期を記した覚書が、
越前松平家に伝わる古文書集「松平文庫」(福井県立図書館保管)から見つかった。
同家の家臣と戦って討ち取られたと記されており、戦わずして首を差し出したとの定説を否定する新説だ。
幸村は、大坂夏の陣で徳川軍の本陣に迫って家康を窮地に追い込み、「日本一の兵(つわもの)」と呼ばれた。
覚書は、徳川方で参戦した、のちの福井藩主・松平忠昌の戦功を記しており、
福井市立郷土歴史博物館が昨夏、文献調査で発見した。
幸村の最期は「もう戦う気はない。手柄にせよ」と、のちの福井藩士、西尾仁左衛門に
首を差し出したとする逸話が知られており、徳川幕府の史料にも残る。
だが、覚書では、仁左衛門が、相手を幸村と知らないまま槍(やり)で戦い、討ち取ったと記述。
後に、家臣が陣中見舞いに来て、幸村の首とわかったとしている。
(2013年2月25日08時52分 読売新聞)
三重塔まつりで賑わう
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/5025616981.html 福岡県みやこ町では奈良時代に栄えた豊前国分寺跡に残る三重塔周辺で俳句大会や野点が行われました。
この催しは県の文化財に指定されている三重塔を活用して地域興しを図っていこうと開かれたもので会場となった
三重塔周辺の公園には地元だけではなく北九州市などからも大勢の人たちが訪れました。
公園にある梅の木には1万点以上の応募があった小学生と中学生を対象にした俳句大会の入選作品、およそ100句
が短冊にしてかけられ、訪れた家族連れが入選した子どもの句の前で記念撮影などをしていました。
俳句大会で入選した子どもたちは「初めて出品した句が入選して嬉しいです」とか「雪の初詣の様子を句にしました。
これからも俳句を作りたいです」などと話していました。
また、公園の一角では野点も行われ、梅の香りが漂うなか訪れた人たちが和服姿の女性がたてる茶を楽しんでいました。
一服した人たちは「梅の花を眺めながらお茶を嗜むのは風情があります」とか「きょうは天気が良くて爽やかな気分に
なります」などと話していました。
地域の祭りに合わせ武者行列
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/5025617131.html 福岡県築上町で地元の人たちが武者姿や女官姿に扮し、武者行列を行いました。
この武者行列は「智恵の文殊様」と呼ばれる菩薩像を祀っている築上町の正光寺の祭りにあわせ20年以上前から
祭り初日の2月25日に行われています。
行列は来年の大河ドラマの主人公、黒田官兵衛に滅ぼされたこの地の豪族、宇都宮一族を偲んだもので鎧兜の武者
姿や女官姿に扮したおよそ50人がおよそ1点1キロの道のりを歩きました。
鎧と兜の重さは薄い鉄を使っているとはいえ20キロ前後もあるということです。
汗だくになって歩く姿に見物に訪れた沿道の人たちから激励の声がかけられていました。
沿道の人たちは「初めて見ましたが、感動しました」、「衣装が立派ですばらしいです」などと話していました。
また、初めて武者姿に扮した男性は「武者姿はかっこいいけど鎧兜が重く歩くのは大変だったです」と話していました。
「智恵の文殊大祭」はあすまで開かれ、およそ1万人の参拝者が訪れるということです。
学生が道後公園活性化に提言
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/matsuyama/8005558521.html 松山市の道後公園の来園者を増やして活性化させるためのアイデアを大学生に提案してもらう勉強会が26日、
松山市で開かれました。
道後温泉に近い道後公園は、戦国時代の「湯築城」の跡地で明治21年に整備され、11年前に国の史跡として指定を
受けましたが、来園者が伸び悩み、公園の活性化策が課題になっています。
愛媛県中予地方局で開かれた勉強会には、愛媛大学や松山大学の学生10人が参加し、3つのテーブルにわかれて
観光客や市民を呼び込むには何が必要か県の職員らと話し合いました。
学生たちは来園者が増えないのは、国の史跡に指定されているにもかかわらず、公園の知名度が低いことが原因
だとして知名度を高めるためのアイデアを出し合いました。
学生からは、「戦国時代の食や生活が体験できる料理店やイベントを設けてはどうか」とか、「公園の周囲の地名を
『湯築城』に変えて住民に愛着を持ってもらってはどうか」といったアイデアが出されました。
大学院で日本史を学ぶ女子学生は「道後公園は優れた史跡なのに知っている人が少ないので、きょう出たアイデア
が活かされて公園の活性化につながればうれしい」と話していました。
愛媛県は学生から出された意見をことし中の策定を目指す「道後公園活性化計画」に反映させたいとしています。
おおすみ歴史美術館が閉館へyab
山口市の「おおすみ歴史美術館」が、4月7日に閉館することになりました。
おおすみ歴史美術館は、タクシー事業などを手がけるおおすみグループが運営していて、1996年に開館しました。
27日は、閉館の報告と、幕末の志士たちの書など200点ほどを、山口市歴史民俗資料館に寄贈することが
発表されました。施設の老朽化などに対応しながら事業を継続することは難しいと判断したということです。
これまでに、県内外から約4万6500人が訪れたということです。
来月2日から最後の催しが行われ4月6日と7日は無料で公開されます。
細川家文書が国の重文に
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/kumamoto/5005715571.html 織田信長や徳川家康などが細川家に宛てて送った手紙を含む、「細川家文書」が、近く国の重要文化財に指定される
ことになりました。
国の重要文化財に指定されることになったのは、肥後熊本藩の藩主を務めた細川家に代々伝わり、現在は熊本大学付属
図書館などで保管されている「細川家文書」のうち、鎌倉時代から江戸時代初期に書かれた文書あわせて266点です。
熊本大学によりますと、このうち「織田信長黒印状」は長篠の戦いの前日に織田信長が書いた手紙で、「敵を追い詰め
て鉄砲を撃った」などと戦場での緊迫した様子が記されています。
また、関ヶ原の戦いの1か月ほど前に徳川家康が書いた「徳川家康書状」には、石田三成との対立の際に細川家が
徳川家の味方についたことに感謝の気持ちが記されています。
これらの「細川家文書」について国の文化審議会は、「室町時代や安土桃山時代などの歴史的な出来事の状況を
うかがうことができる」として、27日、国に対し重要文化財に指定するよう答申を行い、近く正式に指定されることが決まりました。
熊本県内で保管される古文書が国の重要文化財に指定されるのは今回が4例目で、熊本大学文学部の大熊薫学部
長は「研究者だけの宝にすることなく熊本や日本の歴史を知るための史料として活用していきたい」と話しています。
下関ゆかりの文化人講座
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/yamaguchi/4064661511.html?t=1362290255069 下関市にゆかりのある文化人を招いた講座が2日間の日程で始まり、初日の2日は直木賞作家や映画監督が地元に
ゆかりの人物をテーマに講演しました。
これは、下関の文化振興に取り組む団体が、毎年開いているもので、ことしは2日間の日程で下関にゆかりのある
文化人およそ70人が講師に招かれました。
2日は、下関市に住む直木賞作家の、古川薫さんや下関市出身の映画監督の、佐々部清さんなどが地元にゆかりの
人物をテーマに講演しました。
この中で佐々部さんは、下関出身の昭和の大女優、田中絹代がおばあさんの役を演じる際、歯を抜いて役作りをした
エピソードや日本の女性で初めて映画監督になったことなどを紹介しました。
また古川さんは、幕末の長州藩の保守派の役人で藩内の内戦に敗れて処刑された椋梨藤太について、「すべて自分
の責任だ」と言い残して処刑されたエピソードを紹介し、本当は藩を守るために悪役を引き受けたのだと説明しました。
訪れた人たちは、下関市の偉大な先人たちに思いをはせながら熱心に聞き入っていました。
安芸高田 こども歴史教室 www.nhk.or.jp/hiroshima/lnews/4005840691.html?t=
安芸高田市で、4年前に発見された貴重な古墳について、子どもたちに学んでもらおうという
「こども歴史教室」が開かれました。「こども歴史教室」は、…
中国地方最古の文書木簡
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/4045895951.html?t=1362392797692 飛鳥時代末期の役所で使われたとみられる、文字が書かれた木の板、木簡が、鳥取市の遺跡で見つかりました。
役所の間でやり取りされた木簡としては中国地方で最も古く、関係者は、当時の役所の様子を知るうえで貴重な
資料だと話しています。この木簡は、去年10月、鳥取市良田の良田平田遺跡で発掘されました。
木簡は、長さが18.7センチ、幅が2.5センチ、厚さが0.5センチで、遺跡の穴の中から見つかりました。
木簡の表面に「上司の命令を伺って」という意味の「前白」(ぜんぱく)、「寵命」(ちょうめい)という文字が残されています。
▽これらの文字は、公文書の書式などを定めた大宝令が701年に制定される以前の、7世紀末に多用されたことや、
▽遺跡から7世紀末から8世紀初頭にかけての土器が出土していることから、木簡は7世紀末から8世紀初頭のもので、
役所の間でやり取りされた公文書ではないかとみられています。
発掘調査を行った鳥取県教育文化財団によりますと、中国地方では、島根県松江市で7世紀末のものとみられる文字
が書かれた木簡が見つかっていますが、役所の間のやり取りを記した木簡としては中国地方で最も古いということです。
鳥取県教育文化財団の高尾浩司文化財主事は「当時の役所の様子を知るうえで貴重な資料になる」と話しています。
この木簡は6日から県立博物館で展示されます。
298 :
日本@名無史さん:2013/03/06(水) 07:59:39.41
土塁包囲、防御施設か 藤原基房の「別荘」・松殿跡
2013年03月05日 22時52分 京都新聞
ttp://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20130305000157 京都府宇治市は5日、平清盛が台頭した平安時代末期の関白藤原基房(1145〜1230年)の別荘跡といわれる遺跡「松殿(まつどの)跡」(同市木幡)で、敷地を囲む土手が土塁だった可能性が高いと発表した。
土塁が貴族の邸宅跡で見つかることは珍しく、市は「源平の兵乱期を反映した特別な防御施設だったのではないか」とみている。
松殿跡はJR木幡駅東の丘陵地約15ヘクタールに広がり、財団法人「松殿(しょうでん)山荘茶道会」が所有。市が遺跡の保存方法を検討するため2012年度から5年計画で発掘調査をする。
今回は敷地を囲む計約400メートルの土手で2カ所を調査した。当時の貴族の邸宅は木枠で土を固めた築地塀が一般的。しかし、松殿跡の土手は最大で高さ1・7メートル、幅2・5メートルに土を盛り上げただけの土塁だった。
基房は力を持ち始めた清盛と対立。基房が清盛の孫資盛と牛車で鉢合わせした際に無礼をとがめ、後日、平家一門から制裁を受けた平家物語の「殿下乗合」でも知られる。
調査をした市歴史まちづくり推進課の大野壽子主任は「武士が台頭する戦乱期のため外見ではなく実用性を重視し、防御施設として緊急に造ったのではないか」と話している。現地説明会は9日午後1時から。同課TEL0774(21)1602。
■予想外、調査に期待
上原真人京都大文学研究科教授(考古学)の話 別荘といわれた松殿の周囲が土塁だったのは予想外だった。軍事的施設の可能性もあり、今後の調査に期待したい。
中国地方最古「文書木簡」出土
ttp://www.nkt-tv.co.jp/pc-news/news8753152.html 飛鳥時代末の地方の役所間のやりとりを記したとみられる文書木簡が鳥取市の遺跡から見つかった。
長さ18、7センチの細長い板の両面に文字が書かれている。
去年10月に鳥取市の良田平田遺跡で出土し、書式などから飛鳥時代末にあたる7世紀末から8世紀初頭のものと
わかった。「孔王部直万呂」という人物名や役所間のやりとりをうかがわせる記述があり、中国地方最古の文書木簡という。
木簡は6日から10日まで鳥取県立博物館で一般公開される。[ 3/5 12:16 日本海テレビ]
中国地方最古の公文書2013.03.04
ttp://www.tsk-tv.com/?m=news&f=20130304&n=2 鳥取市の良田平田遺跡から去年出土した木簡が、中国地方で最も古い7世紀末の飛鳥時代末期の公文書と分かりました。
木簡は長さが約40センチ。
赤外線カメラの解析の結果、飛鳥時代末期を中心に多用された文書様式が確認されました。
役所の上司から部下への命令文書とみられ、この時代、この場所に役所の出先があったことを裏付けています。
調査にあたった鳥取県教育文化財団は6日から鳥取県立博物館で一般公開します。
体験者が見る“空襲カラー映像”3月4日(月) 20時31分
ttp://rkb.jp/news/news/12723/ 終戦直前、福岡県内の2つの駅が空襲される様子を記録したカラー映像を、大分の市民グループが発見したという
ニュースを先週、お伝えしました。
この映像がおととい、初めて一般に公開され、上映会には、この空襲の経験者など多くの人が詰めかけました。
●シンポジウムでの映像説明「こちらが3月18日の映像になります」
おととい、大分県宇佐市で開かれたシンポジウムで、最近、発見されたばかりの九州を対象とした空襲映像が
上映されました。こちらが、見つかった映像です。1945年8月8日、筑紫野市の西鉄・筑紫駅。
アメリカ軍の戦闘機が、電車や駅のホームに向けて機銃掃射を繰り返しています。
また、別の戦闘機の影も映り込んでいます。この空襲では、64人が犠牲になったとされています。
そして、もう1つがこちら、同じ日の久留米市です。旧国鉄の鹿児島線荒木駅も、アメリカ軍の空襲を受けました。
銃弾が命中した蒸気機関車は、噴き出した真っ白な蒸気に覆われています。
いずれも、音声は入っていませんが、当時としては珍しいカラー映像で、空襲の悲惨さを十分に伝えてくれます。
この映像は、宇佐市の町おこし団体「豊の国宇佐市塾」のメンバーが発見したものです。
戦闘機に搭載されていた「ガンカメラ」で撮影されたもので、フィルムが、アメリカ国立公文書館に保管されていました。
●豊の国宇佐市塾・新名悠由さん「検索のシステムはあるんですけれども、それもやはり、
具体的に『いつ』の『どこ』というのは書いてなくて、例えば、九州ですとか、そういった大まかな分類でしかないので、
その中から探していくっていうのは非常に骨の折れる作業になります」
塾のメンバーの1人、新名悠由さんです。
軍事資料を独自に取り寄せ、映像に写っている山のりょう線や建物などを当時の地図と照合し、映像が、いつ、
どこで撮影されたものか特定しました。
●新名悠由さん「動画というのは、写真ですとか、証言に比べて、実際に目に訴えるものがあると。より追体験をしやすくなると。
まずは、広くいろんな方に見ていただきたい。それで、平和に対する学習ですとか、
そういったことにも役立てていただきたい」
●シンポジウムでの映像説明「基地の北から南への空襲の映像になります」
おととい、開かれた上映会には、300人以上が詰めかけました。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/03/2013-03-047-150x84.jpg ●会場を訪れた松尾哲雄さん「一番最後のですね、荒木駅の襲撃。経験したんですよ。荒木から来たんですよ。その時、
中学1年だったからですね、はっきり覚えています」福岡市から上映会に訪れていた松尾哲雄さん。
今でも鮮明に覚えているという旧国鉄・荒木駅の空襲について話していただきました。
●説明する松尾哲雄さん「こちらに、西牟田という駅がある。その上空で(戦闘機が)旋回して再びこっちに回ってくる。そしてまた、
撃つ。これの繰り返しやった。ちょうどこっち側におった。顔を上げられないぐらい。
ボンボン、えい光弾が、真っ赤な火が、バンバン行く。ちょっとすごかったですよ、こん時は」
Qその時はどうしていたんですか?「田んぼの中に伏せとったですよ。顔を上げれんもん、危なくて」
Qこんな映像が残ってたというのは、見られてどう思いました?「信じられなかった。しかも、カラーでしょ。ちょっと信じられない」
●新名悠由さん「これだけの方に来ていただけて、本当にありがたいですね。
見ていただいて思ったところを皆さんに伝えていただきたいと、心から思っております」
終戦から間もなく68年、戦争の悲惨さを後世に語り継いでいきたい。
「豊の国宇佐市塾」は、今回の映像を1人でも多くの人に見てほしいとして、今後、福岡県内での上映会も検討しています。
※スタジオ●川上キャスターこの空襲のカラー映像が残っていたっていうのは、まず、それで驚きなんですけどね。
●島田誠さんそうですね。その当時、白黒だと思いましたからね。
●川上キャスターで、その空襲の経験者の方が見て、また、その驚きもよみがえったのかもしれませんが…。
●島田誠さんこういうところを私の親父が、もし、見たら、涙を流すでしょうね、すごく。
●池尻キャスター胸が痛くなることですが、知っておかないといけない事実ですよね。
●川上キャスター戦争の記憶が、どんどん時とともに薄れていくんですけれども、こういった映像が持つ力を、
平和に役立ててほしいなという思いがしました。
2013年03月12日まつえ若武者隊 来年度も存続へ
ttp://www1.bss.jp/hopes/nwsdsp20.asp?seq=9112&date=20130312&page=6 松江開府400年をPRするため結成された「まつえ若武者隊」は、今年度で解散の可能性がありましたが、
一転して来年度も存続することが決まりました。
「まつえ若武者隊」の本間亀二郎さんとちどり娘のメンバーは12日に松江市役所を訪れ、山陰両県とJRグループと
が連携して実施した「山陰ディスティネーションキャンペーン」の期間中、観光客の出迎えに貢献したとして、
JR松江駅の内山興駅長から感謝状が手渡されました。
「まつえ若武者隊」は2年前、松江開府400年記念博覧会PRのために結成されました。
「神話博しまね」も終わり、解散の危機を迎えましたが、松江市は来年度予算に費用を計上し、一転、存続が決まりました。
松江市は「まつえ若武者隊」を観光施策のひとつと考えていて、来年度も松江城界隈で勇ましい甲冑姿が見られそうです。
2013年03月17日武者行列のワークショップ開催
ttp://www1.bss.jp/hopes/nwsdsp20.asp?seq=9137&date=20130317&page=4 4月に城下町松江で繰り広げられる時代絵巻、松江武者行列を盛り上げようと、17日JR松江駅で武者行列にちなんだワークショップが開かれました。
「武者行列知っちょー?」と名付けられたワークショップには親子連れたちが参加し、島根大学、
京都造形芸術大学の学生たちと一緒に、塗り絵やキーホルダー作りに挑戦しました。
また、会場では松江武者応援隊によるほら貝の音の聞き比べや、槍の舞などのパフォーマンスもありました。
松江武者行列は、4月6日午後1時20分に松江市の白潟天満宮前をスタートします。
308 :
日本@名無史さん:2013/03/25(月) 12:08:28.92
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20130325-OYT1T00225.htm 政宗「密書」、被災土蔵で発見…裏切り促す
東日本大震災で損壊した茨城県ひたちなか市の土蔵から、
戦国大名・伊達政宗の起請文(きしょうもん)(誓約書)が見つかった。
対立する佐竹氏につく常陸(ひたち)(茨城県)の武士に、佐竹氏を裏切るよう促した「密書」とみられる。
関東に送られた政宗の起請文が見つかったのは初めてという。
被災した土蔵などにあった文化財が建物ごと処分されないよう活動する
ボランティア団体「茨城史料ネット」が確認した。
壁や瓦が崩れた蔵の所有者家族が、片づけ中に「政宗」と読める文書に気づき、
昨秋、ニュースで活動を知った同ネットに連絡した。
代表の高橋修・茨城大教授(日本中世史)によると、起請文は1589年(天正17年)、
常陸の大名・佐竹義宣の配下にあった小野崎昭通(あきみち)に宛てられた。
「中川北ニ江戸領之内(中略)可宛行(那珂川以北の江戸氏の所領をあてがう)」と記され、
近隣の江戸氏に打ち勝てば、その領地の一部を与えると約束している。
佐竹氏からの離反を条件としていたとも読み取れる「其元事切候以後(お前が手切れした後)」との記述もあった。
(2013年3月25日09時22分 読売新聞)
2013年03月20日二宮尊徳の子孫が講演
ttp://www1.bss.jp/hopes/nwsdsp20.asp?seq=9149&date=20130320&page=6 まきを背負って勉強する姿が有名な二宮尊徳、通称・二宮金次郎の7代目の子孫にあたる中桐万里子さんの
講演会が19日に松江市で開かれました。
中桐さんは飢饉が続いた江戸時代末期に全国600以上の村を立て直した金次郎の実践を踏まえ、
「共に豊かに」をテーマに講演しました。
この中で、中桐さんは「共に豊かになるために金次郎が提案したのが恩返しの発想だ。
私たちが何気なく暮らしている日常生活が一体どれほど多くの仲間達に支えられているかということそれを知ること
からスタートしようではないか」「与えることは自己犠牲ではなく。そこには多くの幸せが潜んでいる。
受けた恩を返していく報徳という実践モデルは未来に継続していく」と話しました。
黒田官兵衛 410回忌の法要
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130320/5595181.html 戦国時代の名軍師として知られ、福岡藩の礎を築いた黒田官兵衛の410回忌の法要が、福岡市で営まれました。
黒田官兵衛は戦国時代の名軍師として知られ、息子で福岡藩の初代藩主、長政とともに福岡の街づくりに
貢献したと言われ、来年のNHKの大河ドラマでは官兵衛の生涯が描かれます。
彼岸の中日の20日、官兵衛の墓がある福岡市博多区の崇福寺で、410回忌の法要が行われました。
福岡藩で受け継がれてきた柳生新影流の剣士たちが、会場の四隅に向かって真剣を振って、場を清めました。
会場には16代当主の黒田長高さんをはじめ、例年の3倍にあたる約200人が集まり、官兵衛の肖像画が描かれた
掛け軸の前で、寺の住職が経を読む中、次々に焼香していました。
法要のあと、参列者は寺の裏側にある官兵衛の墓前で静かに手を合わせて、官兵衛の人生に思いをはせていました。
主催した市民グループの村松伸哉さんは「多くの人が来たので黒田官兵衛は喜んでいると思います。
黒田家に始まる福岡の歴史を多くの人に知ってほしい」と話していました。
311 :
日本@名無史さん:2013/03/27(水) 13:02:44.45
頼朝、尊氏は別人? おなじみ肖像画、新学説に配慮
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130327/edc13032709230004-n1.htm 多くの歴史上の人物が登場する高校の社会科教科書では、おなじみの肖像画が「別人」
と判明して掲載されなくなったり、説明を変更したりするケースが近年相次いでいる。代表的
なのは源頼朝と足利尊氏。実教出版の日本史Bでは、2人の肖像画をめぐる話題をコラムで取り上げた。
黒い馬にまたがり、刀を担ぐ武将。かつて「足利尊氏像」とされていた肖像画だが、現在は
単に「騎馬武者像」とされ、他社の教科書にもあまり掲載されなくなった。コラムは、馬具の家
紋などから「(尊氏の重臣の)高師直(こうのもろなお)、あるいはその一族の者と理解されるようになった」としている。
源頼朝として有名だった神護寺(京都市)所蔵の肖像画も「伝源頼朝像」と記載。頼朝
像の真偽をめぐっては、冠の特徴などにより50年以上前から多くの疑問が出されていたと説明している。
また、東大寺南大門の金剛力士像はこれまで、仏師の運慶と快慶による制作とされてきた
が、現在の学説では湛慶と定覚(じょうかく)も制作に携わったとされているとして、日本史の3
冊は「運慶・快慶らの手になる」などと修正した。
5世紀前後の大和政権と朝鮮半島の関係についても、「従来の(日本が)植民地的な支
配を行っていたとしていた学説に、近年の研究で否定的な傾向が強まっている」として、日本
史3冊の「勢力をのばした」との表現が「影響力をおよぼした」に改められた。
こうした学説の新たな動向は、いつ教科書に反映されるのか。実は、国も明確な基準を定
めているわけではなく、文部科学省は「事例ごとに判断している」とだけ語る。
城下町松江を彩る 武者行列の練習会2013.03.24
ttp://www.tsk-tv.com/?m=news&f=20130324&n=1 春の城下町を舞台に、来月開催される観光イベント・松江武者行列の練習会が24日、松江市で行われました。
本番まで2週間をきるなかおこなわれた練習会では、日本舞踊の師範藤間信乃輔さんの指導の下、
公募で集まった参加者が真剣な表情で動きを確認していました。
今年で9回目となる松江武者行列は、城下町の歴史と文化を紹介する観光イベントです。
最大の見どころが松江開府の祖・堀尾吉晴公が松江城に入城する様子を武者姿に扮した200人余りが
勇壮に再現する武者行列です。
今年はコースもこれまでより延長され、練習では実際に外を歩くリハーサルも行われました。
武者行列は、4月6日に松江市中心部を舞台に開催されます。
美作1300年祭開幕 ohk
美作国建国1300年記念事業が3日から始まりました。これから1年間、110のイベントが岡山県北を中心に予定されています。
ほぼ満開の約1000本の桜が彩る津山市の鶴山公園で開かれた祝賀セレモニーには約800人が参加しました。
1300年前の奈良時代の役人や貴族の衣装をまとった参加者が開幕を祝いました。
日本書紀に続く歴史書「続日本紀」には、今から1300年前の4月3日、美作国が誕生したと記されています。
美作国は現在の津山市や真庭市など岡山県北の10の市町村にあたります。
1300年記念事業は美作地域を中心に来年3月末まで開かれ、近畿中四国のご当地グルメが集まるBー1グランプリ
のほか、歴史や文化、自然を満喫できる110のイベントが予定されています。
また奈義町出身の漫画家、岸本斉史さんの人気アニメ「ナルト」をデザインした「ナルト列車」の出発式も行われました。
始発便の定員は280人ですが、約5倍にあたる1380人の応募があったということです。
「ナルト列車」はJR津山線や姫新線因美線で運行されます。
314 :
日本@名無史さん:2013/04/04(木) 11:29:05.75
315 :
日本@名無史さん:2013/04/04(木) 18:14:14.27
美作国建国1300年記念事業始まる
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130403_2 かつて岡山県北にあった美作国は、ちょうど1300年前の4月3日誕生しました。
観光の目玉にと記念列車の出発式や、オープニングセレモニーが行われました。
岡山県北各地で、2014年3月末までさまざまなイベントが予定されています。
奈義町出身の漫画家による人気アニメ、ナルトが描かれたラッピング電車です。
3日から1年間、JR津山線などで一日最大21本運行されます。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20130403_2.jpg 岡山県北を中心に始まった美作国建国1300年記念事業の目玉のひとつです。
かつて岡山県北にあった美作国は平安時代に編集された続日本紀に「713年4月13日に備前国から分かれた」という記述が残されています。
建国1300年を記念して、さまざまなイベントが始まりました。
建国当時・平安時代の衣装に身を包んだ人々が盛り上げた、オープニングセレモニーもそのひとつです。
県北10の市町村を中心に、シールラリーや史跡ウォークなど、観光や歴史にちなんだ110余りのイベントが行われます。
津山市民美作市在住の、作家あさのあつこさんが仕掛けるミステリーツアーも、メインイベントのひとつです。
秋に出版される小説の謎は、ツアーの中で解き明かされます。
美作国建国1300年記念イベントによる、岡山県全体への波及効果も期待されています。
美作国建国1300年記念事業は、2014年3月31日まで続きます。
317 :
日本@名無史さん:2013/04/04(木) 23:21:36.86
2013.4.3 19:32ミッキーとミニーが松山市役所を訪問
ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=44019 ディズニーの人気キャラクター ミッキーマウスとミニーマウスが、今月7日の松山春まつりに出演するため、
松山市を表敬訪問しました。愛らしいパフォーマンスで松山市役所を訪れたミッキーマウスとミニーマウス。
このディズニーの人気キャラクターは、東京ディズニーリゾートの開設30周年をPRするため、
松山春まつりに出演します。3日はこれに先立ち遠藤美武副市長にあいさつし、30周年の記念品を贈呈しました。
ミッキーとミニーは、今月7日の大名行列の先頭で登場します。
2013年04月01日菅谷たたら山内 2屋敷が重文追加指定
かつてのたたら製鉄の生産拠点、雲南市にある「菅谷たたら山内」で、これまで国の重要有形民俗文化財の対象から
外れていた2つの屋敷が、このほど追加指定されました。
追加指定されたのは、村下と呼ばれるたたら製鉄の最高責任者が住んでいた屋敷など2つの屋敷です。
雲南市にある「菅谷たたら山内」では、1923年の閉山まで約130年間、鋼を作り出してきました。
ここには日本で唯一たたら製鉄の炉がある高殿などの施設が残っていて、1967年、国の重要有形民俗文化財に
指定されました。
ttp://www1.bss.jp/hopes/nwsdsp20.asp?seq=9200&date=20130401&page=5 島根県はこの時指定から外れていた2つの屋敷が、閉山前の建物であることが明確になったとして、
追加指定するよう答申していました。
かんべって歩けたん?
322 :
日本@名無史さん:2013/04/07(日) 11:48:35.51
>>321 戸次鑑連も輿に乗ってたというけど、かんべえさんもそうだとは知らなかった……。
ぐぐると、歩くの困難だったみたいやなあ。
勇壮華麗に「大名武者行列」松山春まつり
ttp://www.rnb.co.jp/nnn/news8782957.html 松山春まつりお城まつりのフィナーレを飾る勇壮華麗な大名・武者行列が行われ市内中心部は大勢の観衆で賑わった。
大名・武者行列は江戸時代の参勤交代などを再現したもので公募による出演者などおよそ200人が松山市の
ロープウェイ街から千舟町までの約2.5キロを練り歩いた。今年のお姫様役には女優の加藤夏希さんが扮し祭りに華を添えた。
歩行者天国となった千舟町通りでは、関ケ原の合戦などが演じられ沿道に詰め掛けた大勢の観衆は勇壮華麗な
時代絵巻を楽しんでいた。
今年は、東京ディズニーリゾート開園30周年を記念して全国30都市を巡る「ザ・ハピネス・ツアー」の一環でミッキー
マウスとミニーマウスらによるスペシャルパレードが行われ親子連れらからは大きな歓声があがっていた。
[ 4/7 15:48 南海放送]
325 :
日本@名無史さん:2013/04/09(火) 06:29:42.77
福津市のガラス工房 端午の節句に向け準備着々と(2013年4月8日 16:33)
早いもので今月末はみなさん楽しみのゴールデンウィークが控えています。
端午の節句に向けた準備も着々と進んでいるようです。福津市内にある工房「マルティグラス」。
1400℃の炉の中で溶けているのはガラスです。
ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=9214 熱したガラスを職人が器用に延ばしたり切ったり,また炉で焼いたり…。
繰り返すこと20分ほどで出来てきたのはガラスの兜です。
熱いうちに形を整えますが重さで延びてしまったり、冷めると割れてしまったりするため微妙な温度管理とスピーディな作業が求められます。
形ができたら低温の窯で丸一日かけて冷まし完成。
この工房では端午の節句用におよそ1500個の兜を制作中でいま、ピークを迎えています。
3、4色のガラスが混ざり合った鮮やかな色合いが好評で贈り物として全国の百貨店などで販売されるということです。
2013.4.7 18:27松山お城まつり・大名行列
ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=44046 松山春まつりはきょう最終日を迎え、恒例の「大名・武者行列」が、松山市内中心部に繰り出しました。
この「大名・武者行列」は、松山春まつりのフィナーレを飾る恒例のイベントとして毎年行われています。
今年は特別に東京ディズニーリゾートからミッキーマウスとミニーちゃんも春まつりに訪れリムジンに乗って大名行列
を先導しました。
そして加藤嘉明をはじめ松山城の歴代城主、加藤嘉明の奥方役に扮したタレントの加藤夏希さんらが松山市の
中心部を練り歩きました。行列の途中では、関ヶ原の合戦の再現など趣向を凝らしたアトラクションを披露。
沿道を埋めた人たちは盛んな拍手や声援を送り呼び物の大名行列を楽しんでいました。
330 :
日本@名無史さん:2013/04/11(木) 09:36:59.43
「1ケタ寸前」NHK大河『八重の桜』視聴率急落11.7%! 綾瀬はるかの評価も……
NHK大河ドラマ『八重の桜』7日放送分の視聴率が11.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)だったことがわかった。
初回21.4%で好スタートを切ったものの、回を重ねるごとに数字を下げていた同作。今回は前回比で2.6ポイントを下げる“急落”ぶりだった。
「松山ケンイチが主演した昨年の『平清盛』は空前の低視聴率となったが、4月の段階ではまだ11〜12%前後をキープしていた。
『清盛』は初回17.3%のスタートだったので、下げ幅としては『八重の桜』のほうが大きいです。
今後、『清盛』を大幅に下回ってくる可能性も否定できませんよ」(テレビ誌記者)
気になるのは、主演を務める綾瀬はるかの評価だ。昨年の松山に続いて、ホリプロ所属の主演となったが……。
「放送前は『松ケンの尻拭い』なんて言われてましたが、実際、今回の大河に成功すれば女優として
宮崎あおいのポジションまでいけると目されていた。
NHK局内でも、綾瀬のために大河の後に朝ドラを用意しているという話も出ていたんですが、
このままでは立ち消えになってしまいそうですね」(NHK関係者)
とはいえ、大河は12月まで続く長丁場。巻き返しのチャンスはまだまだ残っている。
http://www.cyzo.com/2013/04/post_13024.html http://www.cyzo.com/images/yaenosakura0409.jpg
331 :
日本@名無史さん:2013/04/11(木) 13:17:24.61
下村博文文部科学相は10日午前、衆議院の予算委員会において、
現在の教科書検定制度について「現状と課題を整理して修正を検討する」と明らかにした。
これに対し韓国では、日本の極右化が進むものとして懸念の声が高まっている。複数の韓国メディアが報じた。
韓国メディアは、「日本、教科書の右翼偏向的な改正を策定」、「日本の歴史教科書の極右化が加速、検定制度まで変更して改正」、
「日本の教科書から慰安婦強制動員の事実を削除するよう推進」などの見出しで伝えた。
下村文部科学相の発言は、韓国、中国など第2次世界大戦の被害国に配慮するという内容の、
いわゆる「近隣諸国規定」を変更するという意味と解釈されると指摘。
安倍首相もこの日の国会答弁で、「残念ながら、教科書検定基準が愛国心と郷土愛を尊重するようにした
改正教育基本法の精神を生かすことができずにいる。
誇りを持つようにすること(教育の)基本だ。
教育的観点から、教科書が採択されるか調べる必要がある」と述べた。
安倍首相と下村長官の発言は、最近の検定を通過した高等学校の一部の教科書に、
日本軍が慰安婦を強制動員したという記述が含まれていることを指摘したものとみられている。
日本政府は、日本軍により強制動員された慰安婦などの内容を歴史教科書から削除するために、
教科書検定制度の変更を推進しようとしている。安倍首相と文部科学相が相次いで教科書検定問題に言及しており、
韓国や中国からの強い反発が予想されるとの見方を示した。
また、下村文部科学相は、日本軍に強制動員慰安婦の存在を否定する極右的指向の政治家だとし、自虐史観偏向教育の中断、
教科書検定制度の改編を通じた近隣諸国条項の廃止、愛国教育の強化などの内容を盛り込んだ自民党の総選挙の教育公約を
作った人物だと紹介された。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130411-00000011-scn-kr
332 :
日本@名無史さん:2013/04/13(土) 18:04:55.57
14日告示、21日投開票の滋賀県彦根市長選で、153年前に彦根藩主の井伊直弼(なおすけ)が
暗殺された「桜田門外の変」の因縁が話題になっている。桜田門外の変に参加した薩摩浪士の一族の
子孫が立候補を表明。これに対し、通算4期目を目指す現職が「井伊家のまちを守る」と批判を強めている。
市長選は、前回惜敗した無所属新顔も絡んで激戦模様だ。市民の間には「争点にふさわしくない」
と冷ややかな声もある。
4月初め、現職の獅山向洋(ししやまこうよう)氏(72)の確認団体が作成したビラ4万枚が市内で宅配された。
ビラでは立候補表明した新顔の有村国知(くにとも)氏(38)の一族が桜田門外の変に参加したとし、
「同氏の行動(立候補)は、とうてい容認できない」と批判。もう1人の新顔の大久保貴氏(49)にも
有村氏の立候補について「見解を明らかにするべきだ」と求めた。
このビラに対し、有村氏は8日会見を開き、「人の生まれは自分では決められない。市長選とは全く
次元の違う話を、自分の利益のために利用している」と現職側を強く批判した。
有村氏は、有村治子・自民党参院議員の弟で元秘書。彦根市と隣接し、母の実家がある同県愛荘町の出身で、
父は元県議長、兄も県議。「愛着がある彦根に活気を取り戻したいと考え、市長をめざしたい」との理由から
昨年10月に同市に転入した。
有村氏の祖先は薩摩藩を脱藩した有村次左衛門。水戸浪士とともに桜田門外の変に参加したが、重傷を負って自害した。
有村氏はその次左衛門の末弟の子孫にあたるといい、「(子孫であることは)代々伝えられてきた」という。
一方、獅山氏は89年の市長選で、9期36年間にわたり市長を務めてきた直弼のひ孫の故・井伊直愛(なおよし)氏
の10選を阻み、初当選。獅山氏は3月の会見で、明治維新100周年の1968年に彦根市と水戸市が親善都市となり、
交流を深めてきたとして「融和のための活動実績もなく市長になるのは許せない」と批判した。
[朝日新聞]2013年4月11日18時6分
http://www.asahi.com/politics/update/0410/OSK201304100023.html
333 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 06:17:37.04
日本が徴用被害者への賠償検討 韓日国交正常化交渉で
韓日国交正常化交渉(1951〜1965年)の過程で日本政府が韓国側の個人請求権を認め、強制徴用被害者に対する賠償を検討した事実が日本の外交文書で確認された。
強制徴用被害者への賠償問題に関する訴訟を担当している崔鳳泰(チェ・ボンテ)弁護士が11日に明らかにした。
文書では、当時の池田首相が朴正熙(パク・ジョンヒ)国家再建最高会議議長(朴正熙元大統領)に対し
「個人の請求権については日本人並みに取扱うという原則をもって支払う用意がある」と述べ、
強制徴用被害者らへの賠償を積極的に検討していた事実が確認された。
また文書には、朴議長が軍人軍属の遺族についても考えてほしいと述べたのに対し、池田首相は考慮すると答えたと記録されている。
崔弁護士は「個人請求権と関連し、両国首脳が具体的に議論した状況が明らかになったが、結局は韓日基本条約で責任ある措置が取られなかった。
朴元大統領の答弁を日本政府が公開していないが、これが公開されるべきだ」と強調した。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2013/04/11/2013041102132.html
334 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 11:00:02.67
「聖徳太子の憲法十七条でも『和を以て貴しとなす』というようにだな……」
「あー、お父さん、聖徳太子って架空の人だから」
「なぬ!?」
父と子の間で、こんな会話が交わされる日が近い将来やってくるかもしれない。
清水書院が来年度から改訂する高校の日本史教科書には、〈聖徳太子は実在したか〉との項目が掲載される。
〈『書紀』の記す憲法十七条や冠位十二階、遣隋使の派遣についても、厩戸王(うまやとのおう・聖徳太子)の事績とは断定できず、後世の偽作説もある〉
さらに、厩戸王と聖徳太子は別人とする説や、太子は架空の人物とする説があるとし、旧1万円札の肖像画も本人とする根拠がないと記している。
掲載の理由を清水書院編集部に聞いた。
「近年、『日本書紀』や法隆寺系の史料研究をもとに、聖徳太子の実像については多くの疑問が提起されています。そこで、資料にはさまざまな見方があり、
定説を疑うことを考えてもらうために掲載しました」
この記述は教科書や学校の関係者にも波紋を広げ、『教科書から消えた日本史』の著者で、文教大学付属高校講師の河合敦氏も、
「私も聖徳太子の実在を疑ってきたひとりだが、ついに教科書に掲載されたかと驚いている」という。
実は、これまでも聖徳太子の存在感は年々、薄くなっていた。
歴史教科書の最大手・山川出版社の教科書の過去と現在の記述を見比べてみれば、違いは一目瞭然だ。いまから25年前、1988年の教科書では、
〈推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子(厩戸皇子)を摂政とし、国政を担当させた〉となっていたが、今年度の教科書では、〈推古天皇の甥の厩戸王
(聖徳太子)らが協力して国家組織の形成を進めた〉(以下、教科書の引用は山川出版社より)となっている。
聖徳太子より厩戸王という呼び名が強調され、「国政の担当者」から「協力者」に格下げされている。
歴史研究によって、この時代に「摂政」という役職は存在せず、「聖徳太子」という名前も、死後100年後くらいから呼ばれたものだと判明したからだ。
長く日本史上の「理想のリーダー像」として君臨し、1万円札の顔ともなった聖徳太子の価値は、いつの間にか“暴落”していた。
http://news.livedoor.com/article/detail/7589261/
335 :
日本@名無史さん:2013/04/14(日) 20:53:01.11
いま使われている歴史の教科書では聖徳太子の事績や実在に
疑問がつけられたり、鎌倉幕府の成立が1192年ではなくなっている。
「いいくに作ろう鎌倉幕府」は今や「いいはこ(1185年)作ろう鎌倉幕府」になっているのだ。
そして、教科書の変化で目に付くのは、人物評価の「上がった人」「下がった人」の明暗である。
実在そのものにも疑問がついた聖徳太子が「下がった人」の典型だが、
聖徳太子から親書を託され、最初に隋に渡ったとされた遣隋使の小野妹子も、そのひとり。
「無礼な(607年)遣隋使・小野妹子」なんて語呂合わせを覚えている
読者は多いかもしれないが、山川出版社の教科書(以下、引用は同社のものより)では、
現在では〈600年の派遣に続けて607年には小野妹子が遣隋使として中国に渡った〉と
初の遣隋使ではなかったことが明記され、かつては太文字だったのも細字に
格下げされた。親書を託した聖徳太子も存在が疑われているから、将来の教科書では
名前そのものが消えているかもしれない。
一方、歴史研究の成果で、逆に評価が上がった人物もいる。
関ヶ原の戦いで西軍を組織した石田三成について、1988年版では
〈五奉行の一人石田三成は、小西行長らとはかって家康の排斥をくわだてて挙兵し〉と
悪役臭が漂うような表記になっていたが、現在は〈豊臣政権を存続させようとする
石田光成と家康との対立が表面化し〉と、石田側にも大義があったように改められた。
劇的に評価が上がったのが、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉である。1988年版にはこうある。
〈生類憐みの令をだして犬や鳥獣の保護を命じ、それをきびしく励行させたため、庶民の不満をつのらせた〉
〈綱吉はぜいたくな生活をするようになり、仏教への信仰から多くの寺社の造営・修理を行い、
幕府の財政を急速に悪化させた〉
みなが知る暴君の印象を強めるものだったが、現在では180度変わった。
〈犬を大切に扱ったことから、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた〉
悪法とされてきた生類憐みの令が、〈綱吉政権による慈愛の政治〉とまで褒められている。
http://www.news-postseven.com/archives/20130414_181590.html
武蔵・小次郎まつりTNC 2013/04/14 19:30:00
宮本武蔵と佐々木小次郎が戦ったと伝えられる巌流島での決闘をしのび、恒例の「武蔵・小次郎まつり」が開かれた。
会場となった北九州市小倉北区の手向山公園には大勢の人が集まり、決闘に思いをはせていた
「官兵衛」で福岡に観光客を
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130410/3619821.html 福岡藩の礎を築いた黒田官兵衛の生涯が、来年、NHKの大河ドラマで描かれることにあわせ、福岡に観光客を
呼び込もうと行政や経済界などが協議会を発足させ、官兵衛ゆかりの地を巡る新たな観光コースの開発などに
取り組んでいくことになりました。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130410/3619821_5013619821_m.jpg 黒田官兵衛は、戦国時代の名軍師として知られ、息子で福岡藩の初代藩主・長政とともに、福岡の街づくりに貢献
したと言われていて、来年のNHK大河ドラマでその生涯が描かれることになっています。
これをきっかけに、福岡に観光客を呼び込もうと、福岡県や福岡市、それに、商工会議所などが協議会を発足させ、
9日、福岡市博物館で設立総会が開かれました。
総会では、はじめに、協議会の会長に就任した福岡県の小川知事が、「県には福岡城をはじめ、官兵衛ゆかりの
地がたくさんある。一人でも多くの人に来てもらうために情報の発信に自治体や企業が一緒になって取り組みたい」
と述べ、官民一体となった取り組みに協力を呼びかけました。
協議会では、大河ドラマのロケ地を紹介する地図を作成したり、官兵衛ゆかりの地を巡る新たな観光コースを開発
するなどして、観光客の呼び込みに向けた取り組みを進めることにしています。
340 :
日本@名無史さん:2013/04/20(土) 06:31:44.01
アイヌ遺骨:11大学に1633体 管理ずさんさ浮き彫り
http://mainichi.jp/select/news/20130420k0000m040089000c.html 明治時代から戦後にかけて大学が研究目的で墓地から掘り出したアイヌの遺骨が、11大
学で1633体保管されていることが19日、政府のアイヌ政策推進会議作業部会で報告さ
れた。遺骨返還のガイドラインも示され、今年度中に速やかに手続きに入る方針が打ち出さ
れた。しかし、個人特定できたのは全体の約1%の23体。管理のずさんさが浮き彫りになった。
保管している大学は、北海道大が医学部関係の1014体を含む計1027体。ほかに札
幌医大249体▽東京大198体▽京都大94体▽大阪大39体−−など。個人が特定でき
たのは北大19体、札幌医大4体だけだった。
アイヌの遺骨収集は北海道を中心に樺太(サハリン)や千島列島でも広範囲に行われ、
1972年まで続けられた。アイヌの起源を探る人類学研究が目的で、頭骨を中心に調査された。
返還のガイドラインは、個人特定できた遺骨を子孫に返すことを原則とし、墓がある市町
村の協力を得ながら子孫を捜すとしている。だが、時間の経過で難航が予想される。
身元が特定できない背景には、研究を終えた頭骨と四肢骨をばらばらに保管するなど管理
が不十分だったうえ、身元につながる副葬品を一体的に保管しなかったことなどがある。身元
特定が不可能な遺骨は、民族共生の象徴空間として北海道白老町に建設する施設で国の主導で慰霊する。
全国の遺骨調査は、文部科学省が11年11月から国公私立大を対象に1年余りかけて行った。(ry
「大ベトナム展」開会式
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130415/3282201.html 豊臣秀吉の時代にベトナムから送られた書簡など、日本初公開の資料を含む文化財を紹介する「大ベトナム展」
が16日から九州国立博物館で始まるのを前に、開会式が行われました。
大ベトナム展は、日本とベトナムの国交40周年などを記念して16日から開かれ、15日は開会式が行われました。
式では、福岡県の小川知事が、「成長著しいベトナムの貴重な文化財を、一人でも多くの人に見てもらい、より一層の関係の発展を期待します」と挨拶しました。
また、ベトナム国立歴史博物館のグェン・ヴァン・コン館長は、「ベトナムを代表する250点の文化財を選び、展示しました。ぜひご覧ください」と話しました。
会場には、装飾品や陶磁器、それに文書や民族衣装などが展示され、このうち、豊臣秀吉が日本を治めていた1591年に、
ベトナムの権力者とみられる人物から送られた書簡は日本初公開です。
書簡には、「両国が往来し交信を通じるために書を送る」という内容が書かれていて、
古くから日本とベトナムの間に人の往来があったことを伝える貴重な書簡です。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130415/3282201_5013282201_m.jpg また、牛の皮で作られた東アジアの航海図は、長崎とベトナムの間に、コンパスで開けたとみられる小さな穴が、いくつも開いています。
大ベトナム展は4月16日から6月9日まで太宰府市の九州国立博物館で開かれます。
343 :
日本@名無史さん:2013/04/20(土) 20:51:44.69
バーチャル体験ツアー 鴻臚館や福岡城 CGで出現(2013年4月22日 19:16)
ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=9275 鴻臚館跡や福岡城跡にタブレット端末をかざすと、かつてあった建物がCGで現れるバーチャル体験を楽しめるツアーが4月22日始まりました。
参加者からは便利という声がある一方、改善を求める声も聞かれました。
ツアー初日の22日は、定員枠がほぼ予約で埋まり、午前の参加者たちはタブレット端末を手に福岡城内を周りました。
このツアーは、いる場所に応じた情報をタブレット端末で受け取り、福岡城内の当時の風景を再現したCGや、歴史の解説を見ながら散策できるのが特徴です。
参加者からは「便利ですね」「(当時の様子が)想像できるのでいいですよ」「本当にここにこういうのがあったんだなぁと目に見えてわかるのでいいと思う」という感想がありました。
一方、一部の参加者からは「タブレット端末に慣れておらず、操作が難しい」という意見や「端末で受け取った映像と実際の景色がずれている」という戸惑いの声も聞かれました。
参加者の1人は「画面が出たり出なかったりする時がある。何度かこうして画面を倒したり起こしたり。
徐々に慣れていくんじゃないか」と話していました福岡市は、福岡城跡や鴻臚館跡を観光拠点の1つとしています。
「今後は、GPSの精度向上やタブレット端末の外国語対応を進め、参加者を増やしていきたい」としています。
347 :
日本@名無史さん:2013/04/26(金) 07:42:14.73
政友会・犬養毅、久原房之助の演説レコード発見 日立・日鉱記念館収蔵庫 原盤なく貴重な資料
日立市宮田町の歴史資料館「日鉱記念館」で23日までに、五・一五事件で殺害された犬養毅首相(1855〜1932年)と
政友会幹事長として犬養政権を支えた日立鉱山の創始者、久原房之助(1869〜1965年)が選挙運動のために録音した
演説レコードが見つかった。1932年の総選挙直前の録音とみられ、制作した日本コロンビアにも原盤や資料が
全く残されていない希少なレコード。戦前最後の政党内閣で活躍した二人の肉声が記録されており、専門家は
「当時の時代背景を知る上で貴重な資料」と評価している。
レコードは、日立鉱山にまつわる資料を展示する同記念館の収蔵庫で見つかった。
12インチSP盤でA面に犬養、B面に久原の演説がそれぞれ5分ほど録音されている。
1931年12月に満州事変や経済不況で民政党内閣が総辞職し、少数与党で組閣した犬養政権の基盤を強化するため、
政友会がレコードの制作を依頼したとみられる。
犬養は「選挙に負けたならば元の通りの全ての経済政策、外交政策、一切のものが元へ返ってくる」と力説。
「第2の維新の大事業を諸君とともにする」と訴えている。
久原は「我が党内閣の出現によって、長い長い間の不景気の闇が破れて、東の空に陽気が立ち昇ってきた」と強調。
翌年2月の選挙は政友会始まって以来の大勝となったが、わずか3カ月後の五・一五事件で犬養は暗殺され、政党政治は崩壊した。
日本コロンビアによると、レコードの原盤は残されておらず、記録書類も「このレコードの部分だけ抜けている」と説明。
担当者は「言論統制で消された可能性もある」と推測する。(ry
レコード発見について、日鉱記念館の菊池博館長は「どうして収蔵庫にあったか分からないが、恐らく久原家から寄贈されたもの」
と説明している。
【写真説明】日鉱記念館で見つかったレコード
http://ibarakinews.jp/photo/13667262859580_1.jpg http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13667262859580
348 :
日本@名無史さん:2013/04/28(日) 09:00:26.46
江戸の豪商が愛したグルメを味わえる 泉佐野、須坂、袋井でメニューを再現
忙しいビジネスパーソンのつかの間の休息、ゴールデンウィーク。たまには温故知新で、
江戸時代のビジネスパーソンである豪商の足跡を訪ねながら、歴史と経済の見聞を味覚で感じてみてはどうだろうか。
まず、関西国際空港のある泉佐野市。財政難で知られる同市は、皮肉にもかつての豪商
「飯野(めしの)家」と「唐金(からかね)家」のホームグラウンドだ。
姻戚関係もある両家は廻船業で財を成し、全国の大名に資金を用立てるほどの大富豪だった。
そんな両家の食事を再現するイベントが、ホテル日航関西空港内のレストラン「和彩 花ざと」で行われている。
メニューは2品あり「長者会席(1万円)」は、岸和田城で発見された茶懐石の献立をベースに再現されたもの。
ほかには、同地在住で絶世の美女と伝承される衣通姫(そとおりひめ)をイメージした「泉州佐野姫御膳(4,800円)」がある。4月30日(火)まで。
http://cdn.shoeisha.jp/yz/static/images/article/207998/207998_01.jpg 画像出典:ホテル日航関西空港
また、長野県須坂市で、穀物や菜種油、酒造業といった多角的な商いで、北信越屈指の豪商となったのが田中家。
その屋敷は現在「豪商の館・田中本家博物館」となり、江戸から昭和にかけての田中家代々の調度品が展示されている。
同博物館では「橘弁当(4,000円/要予約)」と「やまどりのお雑煮(1,200円)」を味わうことができる。
弁当は田中家に伝わる古文書を参考に再現された三段重ねの重箱に、旬の食材をふんだんに使った一品。
また雑煮は、須坂藩の殿様に供した味であり、こちらも古文書掲載メニューの再現だ。
http://cdn.shoeisha.jp/yz/static/images/article/207998/207998_02.jpg 橘弁当
画像出典:豪商の館・田中本家博物館
349 :
日本@名無史さん:2013/04/28(日) 17:11:38.65
「番組が始まった頃の熱気はどこへやら。今はスタッフ、出演者に生気が感じられません」(プロダクションマネジャー)
綾瀬はるか(28)主演のNHK大河ドラマ『八重の桜』の視聴率低迷が止まらない。
「4月7日放送の第14話は11.7%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)。20%を超えた初回から10ポイントも数字を減らしてしまったのですから大変です。
裏番組の大江麻理子アナが“卒業”となったテレビ東京の『モヤモヤさまぁ〜ず2SP』(12.8%)より低い数字でした」(テレビ局関係者)
大河ドラマ史上ワーストとなってしまった前作『平清盛』が下降線をたどったのも、ちょうどこのあたりから。
第13回で11%台に沈み、そのまま浮上できず一桁台に低迷してしまった。
「“二の舞い”が頭をよぎります。視聴率が急落したのは、3月10日放送の第10話から。
裏で、視聴率34%をマークした『WBC日本対オランダ戦』があったからですが、
この回は“池田屋事件”を描き、新しい登場人物が一気に増えたときでした」(テレビ誌記者)
綾瀬演じる主人公の八重は会津で留守番中。出演シーンはめっきり減った。
「以降、数字が戻ってこなくなってしまいました。あれもこれもと、話が散漫になってしまったのが低迷の原因かもしれません」(ドラマ制作関係者)
当初、綾瀬は張り切っていた。
「そりゃそうです。西島秀俊、長谷川博己、綾野剛、小栗旬といったイケメン俳優たちが彼女を取り囲んだのですから。
自然に濡れてしまったのは仕方がありません」(ドラマ関係者)
スタジオ入りする際、綾瀬の目はキラキラと輝き、胸は、これでもかとばかり前に突き出していたという。
「イケメンたちは皆、目のヤリ場に困っていました。衣服を通してでも乳首の“ポッチ”がハッキリとわかり、
それがブラを突き破るくらいの勢いがあったからです。彼女のお気に入りは兄役の西島で、
休憩中は肉体美を誇る西島のカラダによく触っていました」(芸能関係者)
しかし、視聴率の低迷とともに綾瀬も元気がなくなってきたという。 「自慢のEカップ巨乳が小さくなってきたようです。
食欲もなくなって、笑顔も少なくなってきたそうです」(芸能記者)
http://wjn.jp/article/detail/5127535/
天守閣も再現 福岡城跡でガイドツアー始まる4月22日(月) 16時42分
ttp://rkb.jp/news/news/13762/ タブレット端末を利用して、福岡城の再現映像を見ながら散策するガイドツアーが、福岡市で始まりました。
きょうから始まった福岡城のガイド付きツアーでは、専用のタブレット端末を利用して、
およそ400年前の福岡城が築城された当時を、バーチャル映像で体験できます。
参加者が手にするタブレット端末に、立っている場所や向きにあわせて、当時の情景を再現したコンピューターグラフィックスが表示される仕組みです。
福岡城の天守閣については実在したかどうかの論争が続いていますが、ツアーではその天守閣の様子も再現されています。
このガイドツアーは、福岡城のほか古代の迎賓館鴻臚館を再現したコースも用意されていて、福岡市は年間1万人の利用を見込んでいます。
料金は、中学生以上が500円で、5日前までの予約が必要です。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/04/2013-04-222-150x84.jpg
福岡城の再現映像ツアー開始
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130422/4043521.html タブレット端末を使っておよそ400年前の福岡城の再現映像を見ながら現在の城跡を散策するガイドツアーが、22日から始まりました。
このツアーは、来年のNHKの大河ドラマの主人公、黒田官兵衛が設計に携わったとされる福岡城に観光客を呼び込もうと福岡市が企画しました。
最初のツアーには9人が参加し、参加者は、スタート地点の「福岡城むかし探訪館」で、縦13.5センチ、
横20センチのタブレット端末を1人1台ずつ受け取り、観光ボランティアガイドとともに福岡城を見て回りました。
福岡城は、現在、石垣や門など一部しか残っていませんが、
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130422/4043521_5014043521_m.jpg タブレット端末をその場にかざすとコンピューターグラフィックスで再現された本丸御殿や門などが現れ、およそ400年前の築城当時の姿を見ることができます。
さらに実在したかどうか諸説ある天守閣など15か所では、映像と音声による解説も聞くことができます。
韓国からツアーに参加した男子学生は、「臨場感があってよかったです。とても興味深いと思います」と話していました。
このツアーは5日前までの事前の申し込みとガイド料として500円が必要で、福岡市では年間1万人の利用を見込んでいるということです。
錦帯橋まつり04/29
岩国市では恒例の錦帯橋まつりが行われ、華やかな時代絵巻に4万人が酔いしれました。
錦帯橋一帯で行われるこのまつりは岩国の春を代表するイベントです。
呼び物は錦帯橋を舞台に江戸時代の参勤交代を再現する華やかな行列です。
着物姿の女性を先頭に、伝統的な南条踊りや奴道中など総勢230人が約1時間かけて練り歩きました。
錦帯橋一帯に、多くの見物人が訪れ、写真に収めたり、さかんに拍手を贈っていました。
近くの河原では、岩国藩鉄砲隊による火縄銃の実演も行われました。
多くの出店も出ていて訪れた人たちはゴールデンウィークのひとときを楽しんでいました。
355 :
日本@名無史さん:2013/05/02(木) 15:09:49.11
九州国立博物館(福岡県太宰府市)は1日、来年秋に計画していた特別展「百済展」の開催を断念する方針を明らかにした。
長崎県対馬市の寺から盗まれ、韓国に持ち込まれた仏像の返還問題が影響したという。
同博物館の三輪嘉六館長によると、百済展は奈良国立博物館(奈良市)や韓国側との共催で、日韓の百済関連品を集め、
九州と奈良の両博物館でそれぞれ開催、韓国でも展示する予定だった。
しかし、日本側の出品予定者から「韓国に持って行くと戻ってこない恐れがある」との懸念が出ているという。
仏像は長崎県指定有形文化財の観世音菩薩坐像(かんぜおんぼさつざぞう)で昨年10月、韓国の窃盗団が
対馬市豊玉町の観音寺から盗んだ。
今年2月、韓国の裁判所は日本への返還を当面差し止める仮処分を決定した。
ソース:西日本新聞
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/361337
しものせき海峡まつり 先帝祭05/03
ttp://www.yab.co.jp/annnews/index.html?id=0002 GW後半がスタートし下関市ではしものせき海峡まつりが開かれました。
煌びやかな歴史絵巻の世界が人々を魅了しました。
みやびな衣装に身をまとった太夫は、高さおよそ15センチ重さ4キロの高下駄で独特の足さばきを披露します。
祭りは壇ノ浦の戦いで平家が敗れ、8歳で海に身を投じた安徳天皇をしのぶ「先帝祭・上臈道中」で幕をあけました。
源氏と平家の戦いも再現甲冑姿の武者たちが勝ち鬨の声をあげて訪れた人たちを壮大な歴史絵巻の世界にいざないます。
関門海峡では紅白の旗をたなびかせたおよそ80隻のいくさ船が壇ノ浦の戦いを再現しました。
赤間神宮天橋渡りそして安徳天皇が祀られている赤間神宮への上臈参拝。
太夫は着物やかつらなど30キロ近い衣装を身にまとっていますが、袖を優雅に振りながら再び外八文字を披露し
観客を魅了します。本殿では厳かな雰囲気の中、安徳天皇の御霊を慰めました。
きょうのお祭りには38万5000人もの人が訪れたということです。
357 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 05:57:49.85
国の特別史跡・大阪城の本丸で約60年間、独占的に軽食や土産物を販売してきた売店2店のうち1店が2日、
大阪市に建物を明け渡した。
「景観上、望ましくない」とする文化庁の意向に沿った形で、残る1店も来春営業を終える。
一方、売店の代わりに市が大阪城公園内に計画した飲食施設は、業者の公募が不調に終わり、オープンのめどは立っていない。
市は「城は大阪観光の目玉。魅力を損なわないよう、何とか利便性を確保したい」としている。
この日、立ち退いたのは、1951年から天守閣正面で営業する「豊城園」。
同店は、54年開店の売店「錦秀」とともに、大阪城が55年に特別史跡に指定された後も、
それぞれ店舗を市に寄付したうえで、毎年、市に1500万〜2000万円の使用料を支払って営業を継続。
市は慣例的に使用許可を更新してきた。
これに対し、特別史跡を所管する文化庁は「本丸は史跡の中枢で、本来の形に戻すのが基本」として、
約10年前から再三、市に売店の撤去を求めていた。
豊城園に先立ち、錦秀を営んでいた業者は3月末に退去。
ただ、飲食・休憩施設ゼロの事態を避けるため、
市が錦秀の店舗を公募で選んだ別の業者に来春まで1年間限定で使用させ、営業が続いている。
明け渡しが実現したことについて、文化庁記念物課は
「なるべく城の往時の姿が分かるように、現代的な売店には撤収してもらいたかった」としている。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130503-OYT1T00620.htm
358 :
日本@名無史さん:2013/05/05(日) 06:26:55.91
伊達博 豊臣秀吉画像特別展示
ttp://eat.jp/news/index.html?date=20130506T191524&no=7 国の重要文化財で学校の教科書にも使われている「豊臣秀吉」の肖像画が、宇和島市の伊達博物館で公開されています。
教科書などでよく目にするこちらの「豊臣秀吉画像」は、秀吉が亡くなった後、その遺徳をしのんで、秀吉の側近、
富田知信が、描かせたもので、幕末に、伊達家に献上され、受け継がれてきました。
全国に数多く残る秀吉の肖像画の中でも最も大きく、教科書などにも使用されている有名なもので、
伊達博物館では、毎年この時期に特別展示しています。
この秀吉の肖像画は、愛嬌のある秀吉の風貌が感じとれる一方、威厳を正して座る姿は、
畏敬の念を持って描かれた事を伺わせ、訪れた人たちは、400年の時を超えて歴史のロマンを感じていました。
この豊臣秀吉画像は5月12日まで展示されています。
奥田家住宅特別公開
ttp://www.nkt-tv.co.jp/pc-news/news8753393.html 江戸時代に大庄屋を務めた鳥取市猪子にある奥田家住宅が鳥取県の保護文化財に指定され、6日特別公開された。
江戸末期に建てられた母屋は、質の高い建築と屋敷構えの良好さなどが評価された。
参加者は専門家の解説を受け文化財的価値について知識を深めた。
また大正初期に総理大臣など要人を招くために建てたという離れ屋敷や奥田家に伝わる江戸中期の絵師片山楊谷が
描いた掛け軸など美術品も公開され、参加者はめったに見ることのできない文化財の数々に見入っていた。
[ 5/6 19:10 日本海テレビ]
こどもの日にあわせ武者姿を体験2013.05.05
ttp://www.tsk-tv.com/?m=news&f=20130505&n=1 松江歴史館で5日のこどもの日に合わせ、子ども達が甲冑を身に着けて武士の気分を味わってもらおうというイベントがありました。
用意された甲冑は、安土・桃山時代から江戸時代にかけて松江藩の武士が使っていたとされるものをアルミニウムで復元したということです。
兜と胴、すね当てなど合わせて重さは約7キロ、当時のものに比べると4分の1の重さということですが、子ども達にとってはずっしり。
勇ましい出で立ちに変身し、奥に見える松江城などをバックに記念撮影をするなどして武士の気分を味わっていました。
365 :
日本@名無史さん:2013/05/09(木) 09:04:48.68
中国共産党の機関紙が尖閣諸島の領有権問題に関連して「琉球は中国の属国で日本に奪われた」とする異例の論文を掲載しました。
「人民日報」は8日、中国史の専門家の論文を掲載し、「琉球は明や清の時代に中国の属国だった」、
日清戦争後の下関条約で「琉球は日本に奪われた」と指摘しました。
そのうえで、「歴史的に解決していない琉球の問題を再び議論する時が来た」と沖縄の主権に踏み込む主張をしています。
党の機関紙が沖縄の歴史に関する論文を掲載するのは異例で、尖閣諸島の問題と合わせて
日本をけん制する狙いがあるとみられています。中国外務省の報道官は、政府の立場について明言を避けています。
http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000004957.html
門司港で勇壮な“甲冑武者行列”5月3日(金) 22時02分
ttp://rkb.jp/news/news/14000/ 北九州市の門司港レトロ地区では、恒例の「門司海峡フェスタ」が始まり、きょうは、甲冑武者行列が披露されました。
●出陣式「エイ、エイ」「オー!」
ttp://rkb.jp/news/files/2013/05/2013-05-034-150x84.jpg 出発地点となる門司区の甲宗八幡神社では、平安時代末期の源氏をイメージした甲冑武者およそ100人が出陣式に臨みました。
この甲冑武者行列は、関門地区の歴史を広く知ってもらおうと、去年から始まりました。
今年は、北九州市制50周年を記念して、市内在住の50歳になる市民も参加し、門司港レトロ地区を練り歩きました。
沿道には、大勢の見物客が詰めかけ、盛んにカメラのシャッターを切っていました。
●見物客「すごいですね。こどもの日にちなんで、かぶとも見れたので、子供と来て良かったなと思います」
「時代劇とか見るけど、それより迫力があって良かったと思う。すごかったです」
「門司海峡フェスタ」はあすまでで、あすはフィナーレの花火も予定されています。
玉藻公園が無料開放 “鉄砲隊”初披露05/05 17:21
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/indexnews.asp?id=33867 5日、高松市の玉藻公園が無料で開放され親子連れでにぎわいました。
玉藻公園は1955年の5月5日に一般開放されたことを記念して、毎年こどもの日に無料開放しています。
今年3月には天守台の石垣の修復工事も終わったことから、鉄砲の愛好家ら15人で作る「高松城鉄砲隊」
が初めてお披露目されました。訪れた人は鉄砲の大きな音や煙に歓声を上げていました。
他にも、刀を使った演武やクイズラリーなども行われました。
松山城二之丸「薪能」
ttp://www.rnb.co.jp/nnn/news8783073.html 昨夜、松山城二之丸で恒例の薪能が行われ観客は幽玄の世界を堪能した。
松山城二之丸史跡庭園で行われた薪能にはおよそ520人の観客が訪れた。
今回で22回目となる松山城二之丸での薪能は松山に伝わる伝統芸能や地域文化への理解を深めてもらおうと毎年、
松山市文化協会が行っているもの。
舞台では舞囃子など5つの演目が披露されその内、狂言の茶壺では、詐欺師が男の荷物を奪おうと役人に対して
自分が持ち主のように装う姿に観客から笑い声が上がっていた。
そして、日暮れとともにかがり火が灯されると、最終演目、能の船弁慶が披露された。
船弁慶は源義経が平家討伐のあと頼朝に疑いをかけられ西へと逃げる様子を描いたもの。
笛や太鼓の音色が響く幻想的な雰囲気の中、観客らは幽玄の世界を堪能していた。[ 5/10 16:07 南海放送]
「軍師官兵衛」新出演者発表
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130510/4464381.html 来年放送されるNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」の新たな出演者5人が東京で発表され、福岡藩の礎を築いた主人公、黒田官兵衛の妻の役を、女優の中谷美紀さんが演じることになりました。
「軍師官兵衛」は、戦国時代に豊臣秀吉の天下統一を支え天才軍師と言われ、福岡藩の礎を築いた黒田官兵衛の生涯を描く来年の大河ドラマで、福岡県や大分県、それに兵庫県などが舞台です。
10日は東京・渋谷のNHK放送センターで、新たな出演者5人が発表され、すでに官兵衛の役に決まっている岡田准一さんとともに記者会見しました。
このうち、官兵衛を支えた妻・光の役は、中谷美紀さんが演じます。中谷さんは大河ドラマの出演は初めてで「光は大変なおてんば娘だったと聞いているので、型やぶりなキャラクターを生き生きと演じたいです。
血なまぐさい戦国時代で、私が出演する場面は少しほっとするシーンになったらと思います」と意気込みを語りました。
また、官兵衛と並ぶ天才軍師・竹中半兵衛の役を谷原章介さんが演じます。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130510/4464381_5014464381_m.jpg このほか、官兵衛の最初の主君、小寺政職の役を片岡鶴太郎さん。秀吉の妻・おねの役を八女市出身の黒木瞳さん、それに官兵衛の父、職隆を柴田恭兵さんが演じます。
大河ドラマ「軍師官兵衛」は、8月中旬から撮影が始まる予定です。
玉藻公園に和船がお目見え ohk
高松市の観光に新たな魅力が加わります。玉藻公園の堀を遊覧する和船が高松市に贈られました。
「玉藻丸」と名付けられた和船は長さ5メートル、幅1.5メートルの木製で、江戸時代の屏風に描かれていた、
高松城の堀に浮かぶ船を参考に作られました。
式では高松松平藩に関わる文化財の修復などを行う松平公益会から高松市の大西市長に目録が贈られました。
またあわせてマダイの稚魚1000匹も贈られ、近くの園児たちが海水が引き入れられた堀に放流しました。
和船は来月3日から堀の遊覧用に使われ、船頭のガイドを楽しみながらタイにえさをやることもできます。
事故:重文の門に車衝突 扉が大破 京都
21日午前2時10分ごろ、京都市東山区林下町の知恩院塔頭(たっちゅう)・良正院(りょうしょういん)の
国重要文化財「表門」前に駐車していた普通乗用車とバイクに、
市道(神宮道)を北上してきた普通乗用車が道路をはみだして衝突、
止まっていた乗用車がはずみで表門にぶつかり、扉が割れるなど激しく破損した。
京都府警東山署によると、普通乗用車を運転していた大津市の男性会社員(38)が顔に打撲の軽傷を負った。
呼気からアルコールが検出されたため、同署が道交法違反(酒気帯び運転)容疑で事情を聴いている。
現場は変則的な三差路で、乗用車は左折しようとしたが曲がりきれなかったらしい。
観音開きの扉(幅2メートル、高さ2・5メートル)の右側の下半分が壊れ、かんぬきが変形した。
良正院は知恩院の黒門のすぐ前にある。岡山藩主の池田忠雄(ただかつ)が1631年、
母・督姫(とくひめ)を弔うために建立した。督姫は徳川家康の次女。1986年、本堂と表門が重文指定された。
細井宏俊住職(57)は「破損が大きく、修復が可能か心配だ。お金には代えられないものなのに」と困惑した様子だった。
表門の脇には「こゝはお国を何百里」と刻まれた歌碑「戦友」(1927年建立)があり、
事故で台座の一部も破損した。【森園道子、岡崎英遠】
毎日新聞 2013年05月21日 12時24分(最終更新 05月21日 12時59分)
http://mainichi.jp/select/news/20130521k0000e040182000c.html
2013年05月16日雪害で枯れた潮止め松を伐採
米子城が築かれた当時の海岸線に植えられたと言われ、2011年の大雪被害で枯れた米子市の「潮止め松」1本が
伐採されました。16日は作業員6人が枯れたマツにチェーンソーを入れ、切り倒す作業をしました。
米子市西町の県道沿いにある「潮止め松」は、約400年前に米子城が築かれたとき、当時の海岸線に植えられたと
言われ、12本が残っていました。
ttp://www1.bss.jp/hopes/nwsdsp20.asp?seq=9395&date=20130516&page=6 2011年1月の大雪で1本の幹が折れ、再生が試みられましたが、4月の調査で枯れていることが分かったため、
伐採されました。
現地には枯れた「潮止め松」の根元から育った苗木・2本が残されたほか、6本が市内の別の場所に移植され、
「潮止め松」の命を引き継ぎます。
「屋嶋城」、石垣の復元工事が完了
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130522_10 高松市の屋島にある古代の山城、「屋嶋城」で、南側城壁の復元工事が完了しました。
屋嶋城は、日本書記にも記述が残る古代の山城で、約1300年の時を経て城壁がよみがえりました。
屋嶋城は、7世紀後半、日本の大和朝廷が唐・新羅からの侵攻に備えて築いた古代山城の一つです。
高松市は、2008年度から、屋嶋城の城壁の石垣を積みなおす修復作業を始め、今年3月に、城壁南側の復元工事が完了しました。
復元された城壁は、幅35メートル、高さ6メートルに渡ります。屋嶋城は、外からの攻撃に備えて工夫が凝らされていました。
それが城門です。城門は、約2.5メートルの石垣の上に作られていて、城への出入りには、はしごが使われていたということです。
敵が攻めてきた場合、はしごを外し侵入を防ぐ仕組みになっていました。復元された城壁は今月25日、一般に公開されます。
高松市は、城門の復元を含め、さらに屋嶋城の整備を進めていくことにしています。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20130522_10.jpg
381 :
日本@名無史さん:2013/05/28(火) 06:03:39.11
愛国主義と国民精神に訴える安倍氏の取り組みは、危険な歴史修正主義の色を帯びている。
前世紀前半の朝鮮半島と中国における日本の残忍行為について問われた時、首相は言葉をぼかした。
安倍内閣のベテラン閣僚は、十数人のA級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社を参拝する。
また、戦時中に占領軍の兵士のための売春婦として朝鮮の女性を隷属させたことに対する日本の責任には
疑問符が付けられた。全体的に見ると、ここに漂うのは、謝罪することにうんざりした日本のムードだ。
すぐに現れた影響は、韓国との関係を悪化させ、米国を警戒させたこと、そして、地域の緊張を高めている
のは中国の拡張主義ではなく日本の国家主義だと主張する中国に武器を与えてしまうことだった。
東シナ海の海上でのにらみ合いが続く中、米国政府が恐れているのは、安倍氏が日米安全保障条約を、
日本が身を守りながら中国に一発食らわせることができる盾のように扱っていることだ。
日本にはいら立つ理由がある。中国の侵入は、日本の施政下にある尖閣諸島(中国名・釣魚島)を巡る
領有権紛争をエスカレートさせた。しかし、この問題に対する解決策は、臆面もない日本の国家主義を
復活させることではない。
安倍氏は東アジア全域で昔の対立関係と憎悪の残り火をあおっている。首相が日本の強さを
取り戻したいのであれば、経済を復活させることによってそうすべきだ。過去を書き換える取り組みによって
得られるものは何もなく、失うものは大きい。
By Philip Stephens
英フィナンシャル・タイムズ紙
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM2406D_U3A520C1000000/?df=3&dg=1
官兵衛最晩年の手紙を公開
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130522/4751431.html 福岡藩の礎を築いた戦国時代の武将、黒田官兵衛が死去の4か月前に療養先で書いた手紙が新たに見つかり、福岡市博物館で公開されています。
戦国時代に軍師として豊臣秀吉の天下統一を支えた黒田官兵衛は息子の長政とともに福岡藩の礎を築き、来年のNHK大河ドラマではその生涯が描かれます。
福岡市博物館で展示している手紙は、黒田官兵衛が死去の4か月前に病気療養のため滞在していた現在の兵庫県の有馬温泉で息子の長政あてに書いたものです。
手紙は、慶長8年、西暦1603年の11月18日付けで、「薬の服用や温泉で少しずつ良くなっている」と記したうえで、
「快気ニ候」(かいきにそうろう)などと、病気が快方に向かっていると伝えています。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130522/4751431_5014751431_m.jpg また「国元から見舞いに来なくて良い」とも記していて、家臣がわざわざ見舞いにこないよう気配りしていることがうかがえます。
手紙は、官兵衛の最晩年のようすを伝える貴重な資料だということで、福岡市博物館がことし3月に京都市内の古書店で購入しました。
福岡市博物館の福間裕爾学芸課長は「人を大事にする官兵衛そのものを表している」と話しています。官兵衛の手紙は、福岡市博物館でことし7月7日まで公開されています。
383 :
日本@名無史さん:2013/05/30(木) 13:05:36.86
384 :
日本@名無史さん:2013/05/31(金) 06:16:11.76
自民、教科書会社を聴取 検定見直しへ
教科書検定の見直しを検討している自民党の部会が28日、教科書出版会社の社長らから編集方針などを聴いた。
教科書の記述内容をめぐり、南京事件や慰安婦問題などの質疑が続いた。
党側は「出版社に圧力をかける考えはない」と説明している。
■慰安婦記述など問題視
「教育基本法や学習指導要領が変わり、教科書の記述が変わると期待したが、そうなっていない。
より良い教科書を作るために考えを聞かせていただきたい」
(以下会員専用)
http://www.asahi.com/edu/articles/TKY201305290534.html
奈良・纒向遺跡:バジル花粉 古代の香り、新たな謎 薬か祭祀用か
http://mainichi.jp/feature/news/20130531ddn041040006000c.html 強い香りがあるバジルは現代では料理に多く用いられるが、江戸時代には種子が薬として使われた。貝原益軒の
「大和本草」(1709年)に「メバハキ」などと紹介され、目の汚れを取る効能もあった。中国では乾燥させて薬の原料
に使われる。原産国・インドでは、バジルの一種がヒンズー教で神にささげる植物とされている。
大阪市立自然史博物館で植物を担当する横川昌史学芸員は「シソ科の植物は良い匂いがするものが多い。
古代でも、その匂いを何かに利用していた可能性がある」と言う。また金原教授は、同じ溝から花粉が出土した
ベニバナとの共通点を指摘する。「染織のためとみられるベニバナにも薬効がある。バジルも薬用として持ち込まれ
たのだろうか」
纒向遺跡を邪馬台国の最有力候補地と考える兵庫県立考古博物館の石野博信館長(考古学)は「何らかの儀式
に関係する」と考える。「邪馬台国は精神的なもので権威を持つため、卑弥呼や儀式を必要としたのだろう。
物よりも思想を大陸から取り入れたのが近畿の弥生文化ではないかと考えており、バジルの発見は裏付けになる
のではないか」と話す。
黒田官兵衞ゆかりの城跡散策
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130526/4842721.html ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130526/4842721_5014842721_m.jpg 来年のNHKの大河ドラマの主人公、「黒田官兵衛」ゆかりの城跡で、官兵衛の九州での最初の拠
点となった馬ケ岳城の遺構を訪ねる歴史散策が、福岡県行橋市で行われました。
この歴史散策は、来年の大河ドラマで「黒田官兵衛」が取り上げられるのを前に、
官兵衛ゆかりの馬ケ岳城について知ってもらおうと行橋市歴史資料館が企画し、およそ100人が参加しました。
行橋市とみやこ町にまたがる馬ケ岳にあった城は、16世紀後半、豊臣秀吉を迎えるため拡充され、
秀吉から豊前6郡を与えられた官兵衛の九州での最初の拠点となりました。
城跡には、500メートルにわたって築かれた竪堀や土塁が保存されていてツアーの参加者は
歴史資料館の担当者や市民学芸員から説明を聞きながら、戦国の世に思いをはせていました。
参加者は「秀吉や黒田官兵衛がここにいたのかと歴史を感じることができ感動しました」とか
「馬ケ岳城についてもっと深く知りたいと思います」と話していました。
大河ドラマの影響もあってか、馬ケ岳を訪れる人たちは最近、急に増えているということで、行橋市は、
臨時駐車場や見学希望者に対応する窓口の整備などを進めています。
“歴史に学び歴史の謎を解明”5月28日(火) 21時56分
ttp://rkb.jp/news/news/14481/ 長崎県の鷹島沖の海底から730年前の元寇の船が発見されたという話題は、これまでも、この時間でお伝えしてきました。
海底調査を担当しているのは、琉球大学の池田教授です。「歴史に学びながら歴史の謎を解明する」という池田教授の活動の原点を沖縄で取材しました。
●船上で話す池田栄史教授「すごい!間違いない、あれ」
ttp://rkb.jp/news/files/2013/05/2013-05-284-150x84.jpg 2011年、長崎県鷹島沖の海底から730年前に沈没した「元寇の船」が見つかりました。
●水中の今林記者「かなりの大きさの船と思われます。その船の構造が良く残されています」
この歴史的な発見の立役者は、琉球大学の池田栄史教授です。
考古学者として、池田教授は、歴史に学ぶことの重要性を訴えています。
●琉球大学・池田栄史教授「政治的な交渉が行き詰る中で、軍事的な行動としての元寇が生まれるというのがあるから、
そういう歴史的なプロセスみたいなものをちゃんと整理しておく必要があると思います。過去にこういう状況があって現在がある。じゃあ、これを解決するためのいい知恵はないのかというのは、歴史に学ぶことができると思います」
沖縄県糸満市のサトウキビ畑に囲まれた場所に建つ石碑。
その下に広がる「ガマ」と呼ばれる洞窟で、今月、池田教授は新たな発掘調査を行っていました。
●池田栄史教授「考古学という学問が何ができるのかっていう時に、戦争というものも決して関係ないことではなくて、
考古学という学問から、沖縄戦であったり、戦争であったりするものに取り組むことができるというのは間違いないことだろうと、それをちょっと実践してみたいと」
池田教授の活動の拠点である沖縄。太平洋戦争では、多くの民間人が犠牲となりました。
負傷者の治療のために動員された女子学生は、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれました。
●講演する元ひめゆり学徒隊・島袋淑子さん「もう68年経っても、やっぱりこういうお話をする時は、
友達のことが浮かんでくるんです。目の前で、ここから足がなくなって、『足がない、足がない。私の足がない』って言いながら、止血と言います、血を止めることもできないんです」
犠牲者を慰霊する「ひめゆりの塔」。そこから少し離れた場所にある洞窟でも、戦時中、負傷者の手当てが行われていました。
島袋さんら「ひめゆり学徒隊」が最後に立てこもったのが、この洞窟でした。
その1人、島袋淑子さんは、当時の体験を伝える活動を続けています。
●話す島袋淑子さん「やっぱり、ここ来ると、なんか思いがあんまりたくさんあって、ちゃんとした話ができなくなるのがつらいですね」
立てこもって数週間経った1945年6月17日の夜、洞窟の近くで大型爆弾がさく裂し、ひめゆり学徒隊にも死傷者が出ました。
●島袋淑子さん「『ねえ、大丈夫?どこにいるの?返事して』って言って、『明かりを、明かりをつけてください』と、そこで叫んだんですけど、ちょうど明かりがつけられた時は、もう私の足元に、神田さんが足とここをやられているし」
その翌日、ひめゆり学徒隊に対し、「解散命令」が出ました。
重傷者をこの洞窟の中に残したまま、砲弾が飛び交う外に出るように命じられたのです。
海岸に追い詰められ、自ら命を絶った学生もいました。洞窟を出たあと、半数の学生が死亡したということです。
●島袋淑子さん「この壕、そのものが語ってくれるっていうか、それを見ると、こんな所にいくらなんでも隠れていたのかとか。
そういうのも、わかってほしいんです。ただ、話だけじゃなくて、実際に物が残っているっていうことはとても大事なことですから、そういうために残しておきたいし」
●池田栄史教授「戦争というのは一番、そういう意味で言うと、人が人を殺しあうという現実を目の当たりにすることになるわけですね。
いろんな人間の側面というのをちゃんと資料化する作業というのは、人が何なのか、人はどうあらねばならないのか、みたいなことに関するメッセージっていうのを、考古学は発信できると思うんです」
●潜水調査「ザブン…」池田教授が今、取り組んでいるのが、伊万里湾の鷹島沖での「元寇」の調査です。
●船上の池田栄史教授「あそこか」去年秋の調査では、これまでに船を発見した海域とは別の場所を潜水士が調べました。
●話す池田教授と町村さん「幅が700(ミリ)ぐらいだと思いますけど」「70センチ?」「70センチぐらいで、石ですね」
この石も元寇の遺物なのか、これから確かめることになります。伊万里湾で沈んだとされる元寇の船は数千隻。
まだ、多くの船が眠っている可能性が高いのです。
●池田栄史教授「今まで作ってきた方法が、ある程度、ほかのところでも使えるのかどうなのかっていうのが、やっぱり試してみたいですよね。それによって、また2隻目、3隻目の船が見つかったら、これに増す喜びはないですよね」
歴史に学び、歴史の謎を解き明かすために、今年の秋、池田教授は、再び伊万里湾に潜ります。
※スタジオ●池尻キャスター
元寇の船が発見されるまでの経緯と、その偉業を成し遂げた池田教授の情熱に迫るドキュメンタリー番組、「発掘!元寇の船〜戦史に迫る考古学者〜」は、あさって・30日の午前9時55分からRKBで放送します。
ぜひ、ご覧ください。
394 :
日本@名無史さん:2013/06/05(水) 06:14:17.62
「日本の慰安婦制度は特異」 歴史学者が橋下氏批判
旧日本軍の従軍慰安婦をめぐる日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長の発言に絡み、
慰安婦問題に詳しい中央大の吉見義明教授(日本史)が4日、大阪市役所で記者会見した。
橋下氏が「他国も同じようなことをしていた」と繰り返し主張したことに対し「軍の施設として
組織的に慰安所を作った国はほかにない。日本の慰安婦制度は特異だった」と否定した。
吉見氏は「慰安婦は居住、外出の自由、拒否する自由がない性奴隷だ」と指摘。
「慰安所を軍の施設として設置し、内務省や総督府も深く関与していた。
橋下氏には国が慰安所を組織的に作ったという認識がない」と批判した。
http://www.47news.jp/CN/201306/CN2013060401002072.html
395 :
日本@名無史さん:2013/06/05(水) 15:11:41.08
件の吉見義明ってなんちゃって学者先生が
中央大学で関わっている講義のシラバス確認してみw
すんげー胡散臭いからw
高松城跡で和船「玉藻丸」運航開始
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130608_1 高松市の高松城跡「玉藻公園」で、内堀を遊覧する和船「玉藻丸」の運航が始まりました。
和船は松平公益会が高松市の観光振興につなげてもらおうと寄贈したもので、6月3日から運航が始まりました。
高松城が別名玉藻城と呼ばれることから「玉藻丸」と命名され、天守台周辺の内堀を30分かけて遊覧します。
和船は江戸時代初期の「高松城下図屏風」に描かれている高松城の堀に浮かぶ船を基に設計されており、
ヒノキやスギの木造で長さ5メートル、幅は1.5メートルです。
定員は船頭を除いて4人で、遊覧中、船頭が高松城の歴史などを解説します。
高松市では「和船を通じて高松城跡の歴史などについて情報を発信し観光PRにつなげていきたい」としています。
397 :
日本@名無史さん:2013/06/09(日) 10:03:35.54
398 :
日本@名無史さん:2013/06/10(月) 23:40:09.77
岡山市街づくり構想、素案まとまる
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130610_12 岡山市は、岡山城周辺の北区丸の内エリアについて将来歴史公園として整備する構想の素案をまとめました。
10日に開かれた岡山市議会総務委員会で、岡山市北区丸の内周辺の、新たな街づくりの素案が示されました。
素案では、現在国の史跡として保存整備されている岡山後楽園や岡山城本丸だけでなく、
かつて城があったとされるさらに広い範囲を歴史公園にしたいとしています。
岡山市は、素案でこのように4つのエリアにわけそれぞれの活用方針を示しました。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20130610_12.jpg 中でも、旧内山下小学校周辺は歴史公園の玄関口と位置づけ、敷地内にあったとされる庭園の復元などで魅力を高めたい考えです。
校舎は文化財的価値が高いとして、建物を残すことを前提としています。また、旧NHK岡山放送会館については、建物を撤去。
移転新築する岡山市民会館とともに、歴史公園のための土地としておおむね10年で、整備を完了したい考えです。
岡山市は、素案をまとめるにあたって地元町内会との協議も重ね、ほぼ賛成を得ていると説明しました。
議員からは、「ぜひ構想を前に進めて欲しい」、「何をどうアピールするか、今後慎重な議論を」などの意見が出されました。
岡山市は今後、素案についてパブリックコメントを実施し、早ければ9月にも成案をまとめたい考えです。
堀尾吉晴公の銅像完成
ttp://www.nkt-tv.co.jp/pc-news/news8753511.html 松江開府の祖、堀尾吉晴公の銅像が完成し、松江市の松江城大手前広場に設置された。
銅像は、松江城の築城を指揮している姿で、台座をふくめ6.2メートルの大きさ。
全国から4100万円余りが寄せられ完成した。堀尾吉晴公銅像建設委員会は「堀尾吉晴公の銅像がなかったので、
ついに念願がかなった」と喜んでいた。完成記念セレモニーは16日に行われる。[ 6/10 19:16 日本海テレビ]
401 :
日本@名無史さん:2013/06/13(木) 07:45:45.68
自民党教育再生実行本部の「教科書検定の在り方特別部会」(主査・萩生田光一総裁特別補佐)は12日、
一部の歴史教科書に見られる偏向的な記述を是正するため、教科書の記述や検定制度の在り方を包括的に示す
「教科書法」(仮称)の制定を検討していくことを決めた。
同部会は月内に、これまでの議論で決定した内容を「中間とりまとめ案」として安倍晋三首相に提出する。
中間とりまとめ案は「自虐史観に立つなど、多くの教科書に問題となる記述がある」と指摘。
さらに、定説がない歴史上の出来事を確定的に記述しないことや、諸説ある事項は多数説と少数説を
バランスよく扱うことなどを求めており、同日の部会で了承された。
萩生田氏は、「何を教えてほしいかを明確に教科書会社に伝達し、それにのっとった教科書を
作ってもらうようにしたい」と記者団に説明した。
同部会が教科書法の制定を検討する背景には、現行の教科書検定制度では、
出所や出典を示せば事実関係が不確かな南京事件の犠牲者数も通過させている実態がある。
これにより、中国側が主張する「30万人説」も教科書記述として独り歩きしている。
同部会は5月末に東京書籍など教科書会社3社の社長らを呼んで編集方針や歴史記述について意見聴取。
教科書記述で中国や韓国などアジア諸国に配慮するよう求める「近隣諸国条項」についても
政府に見直しを求めている。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130612/edc13061223100002-n1.htm
402 :
日本@名無史さん:2013/06/14(金) 08:50:05.96
米国:安倍政権の歴史認識に警告 日米同盟影響も示唆
http://mainichi.jp/select/news/20130613k0000e030208000c.html オバマ米政権1期目に国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長を務めたジェフリー・ベー
ダー氏は12日、日本の過去の侵略と植民地支配を謝罪した「村山談話」の見直しなどを安倍
晋三政権が行えば米国として黙認することはないと警告、日米同盟にも影響が出る可能性を示唆した。
ワシントンで開かれたシンクタンク主催のシンポジウムで述べた。近隣諸国との摩擦を生んでい
る日本の指導者の歴史認識に対する米側のいらだちをあらためて浮き彫りにした。
高松城跡で桜御門の写真見つかる
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130614_11 高松市の高松城跡でかつての「桜御門」を撮影した鮮明な写真が見つかりました。
復元整備にむけて貴重な資料になると期待されています。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20130614_11.jpg 1943年頃に撮影されたもので、門の構造や瓦の積み方などが鮮明に映っています。
写真は、文化庁の職員が戦時中に撮影したもので、今年3月、奈良国立文化財研究所に保存されていたことが分かりました。
高松市の玉藻公園にある高松城跡です。桜御門は、藩主が住む三の丸への入り口でした。
桜御門は、国宝への指定が決まっていましたが、1945年7月の高松空襲で焼け落ちました。
高松市は2005年から桜御門の復元整備へむけて、調査を行っていますが、
大正時代初めに撮影された写真は桜御門の屋根の部分が鮮明に写っていませんでした。
今回の写真は、屋根の部分が鮮明でしゃちほこの形や瓦の積み方などのが確認できたということです。
高松市では、設計図を書き直し桜御門の復元に向けて、文化庁との協議を進めたいとしています。
406 :
日本@名無史さん:2013/06/19(水) 02:06:54.12
http://www.47news.jp/CN/201306/CN2013061801002688.html 遣欧使節資料が記憶遺産に 藤原道長の自筆日記も
文部科学省に19日入った連絡によると、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、
江戸時代の鎖国直前の日欧交渉を伝える「慶長遣欧使節関係資料」(仙台市博物館所蔵)と、
藤原道長の自筆日記「御堂関白記」(京都市の陽明文庫所蔵)の国宝2件の記憶遺産登録を決めた。
18日に韓国・光州で開かれたユネスコの国際諮問委員会が
登録の可否を審査、ボコバ事務局長が最終決定した。
記憶遺産は、世界の貴重な記録や古文書を保護するユネスコ事業。
国内では、福岡県田川市などが推薦した「山本作兵衛炭坑記録画・記録文書」が
2011年に初登録されて以来となる。
2013/06/19 01:45 【共同通信】
福岡城跡の石垣に道の建築技術が確認 全国で初(2013年6月18日 16:49)
現在修復作業が進められている福岡城跡の石垣に、これまで知られていなかった建築技術が使われていたことが
分かりました。この技術が城の石垣で確認されたのは全国で初めてです。
今回見つかった技術は、福岡城跡の上之橋御門の石垣の内部に使われていました。
石垣の内側は「裏込め」と呼ばれ、通常小さな石を無数に積んで、その強度を増しています。
今回確認されたのは、この「裏込め」に小さな石を単に詰めただけではなく、規則的に大きな石が並べられていて、
揺れや振動を吸収するよう計算して積まれていたことです。
ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=9510 福岡市は、この「裏込め」も復元して修復を進めるとしており、工事は2013年3月に完了する予定です。
福岡城の石垣で“新発見”6月18日(火) 21時35分
ttp://rkb.jp/news/news/14893/ 現在、修復工事中の福岡城の石垣で、新たな発見があったと福岡市が発表しました。
石垣の強度を高めるための工夫とみられ、その構築方法を探るうえで重要な史料だとしています。
●梶井記者「こちらが、今回の発見となります。この手前側の大きな石が、石垣の表になります。
そして、その奥に小さな石が敷き詰められているんですが、中に比較的大きな石が列をなすように並んでいます。石垣の強度を増すために、恣意的に施されたものとみられるということです」
福岡城の石垣は、崩落の危険があるとして、去年7月から解体したうえで、積み直しの工事が進められています。
赤い線で囲んだ部分が、今回、見つかった比較的大きな石の列「石列(せきれつ)」です。
石垣の裏側に敷き詰める「裏込め」と呼ばれる石の中に、石列が2.4メートル間隔で規則的に並んでいました。
このような発見は、これまで全国でも例がないということです。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/06/2013-06-188-150x84.jpg
●福岡市大規模史跡整備推進課・田中寿夫課長「石垣を安定化させるための何らかの構造だろう。
そこに地震とかといった衝撃、そういったものをしっかり吸収して、もちろん、これまで言われてた水はけのためとか、そういう機能を果たすための構造ではないかというふうな結論に至ったわけですね」
江戸時代初頭に築城された福岡城ですが、石垣がいつ構築されたかは、はっきりとはわかっていません。
現在、残っている石垣について、福岡市は、これまでの調査などから、江戸時代前期のものとみています。
30年にわたって石垣を研究する第一人者の高瀬さんは、今回の発見について、こう話しています。
●名護屋城博物館元学芸課長・高瀬哲郎さん「まさかこういうことを裏込めの石の中でやってるとは、全然、わからなかったからですね。びっくりしました。
やはり、全国的にもう一度、今からの調査のやり方、解体修理のやり方、それから今後の修理のあり方、
そういうものに完全に考え直さなきゃいけないという、そういう発見でしたね」
今回の福岡城のように石垣を丁寧に解体する修復工事は、全国でもあまり行われていないため、これまで、別の城郭の石垣では、見過ごされてきた可能性もあります。
裏を返せば、この時代の石垣の多くに石列が施されているかもしれず、当時の職人たちが高度な技術を持っていたことを示す重要な史料と言えるかもしれません。
※スタジオ●坂田キャスター専門家も「まさか」と、驚きを隠せませんでしたよね。
●川上キャスター等間隔に並んでいるんですから、明らかに石垣の強度を高めるものかなとは思いますけどね。
いつ構築されたかはわからないということなんですが、歴史のロマンを感じますね。
福岡城石垣補強に新発見の技術
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130618/5240361.html 戦国時代の武将「黒田官兵衛」が築城に関わったとされる福岡城でこれまでに見つかっていない石垣を補強する
技術が用いられていたことがわかり、江戸時代の石垣の建築方法を知る貴重な手がかりとして注目されています。
来年のNHK大河ドラマの主人公、「黒田官兵衛」は築城の名手として知られ、福岡城の築城にも関わったとされています。
福岡市では福岡城の石垣を修復する工事を去年から進めています。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130618/5240361_5015240361_m.jpg 福岡城の石垣には、表面の大きな石と内部にある土の斜面との間にこぶし大の石を敷き詰める「裏込め」という工法が使われていますが、
今回の修復工事のなかで、福岡城では、「裏込め」の工法としては全国でも見つかっていない独自の技術が用いられていたことがわかりました。
この技術は、裏込めの中に通常の3倍ほど大きさの石を規則的に並べておくもので、地震などの衝撃を受けても、
間にはさまれた大きい石が振動を吸収し、石垣全体が崩れないようにする働きがあるということです。
この石垣は、江戸時代の途中で数回補修した記録があるということで、福岡市では今後、
この技法が17世紀初頭の築城当時のものかどうか、詳しく調べることにしています。
佐賀県立名護屋城博物館の元学芸課長で30年間、全国の城の石垣を調べている高瀬哲郎さんは
「黒田家は高い築城技術を持っていたので、官兵衛や息子の長政の時代のものである可能性がある。
これまで石垣の裏側の技術はあまり知られてこなかった。江戸時代の技術を知る貴重な発見だ」と話しています。
宝満山が国の史跡指定へ
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130621/5464711.html 太宰府市と筑紫野市にまたがる宝満山が、古代から近世にかけて発展した山岳信仰のあり方を考えるうえで重要だとして、
新たに国の史跡に指定されることになりました。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130621/5464711_5015464711_m.jpg 今回、新たに国の史跡に指定されることになったのは、太宰府市と筑紫野市にまたがる標高829メートルの宝満山です。
古代の九州の地方行政をつかさどる大宰府の北東に位置する宝満山は、
8世紀から11世紀にかけての土器や仏具などが大量に出土しています。
県の文化財保護課によりますと、宝満山は、遣唐使が渡航の際に安全を祈願したことや修行を行う修験の山として
宗教活動が活発に行われるなど、大宰府と密接な関係を持って古くから信仰の対象として発展してきました。
文化財の調査や審議を行う国の文化審議会は、宝満山を、祭祀の跡や坊とよばれる僧の住居の跡など、
古代から近世にかけての遺構が良い状態で保存されていることから、山岳信仰を考える上で重要だとして、
新たに国の史跡に指定するよう文部科学大臣に答申しました。
史跡への指定はことし9月の見込みで、宝満山が指定されれば、県内の史跡は、国宝や重要文化財も含めて86件となります。
旧江戸城の石垣から大洲藩主の名前
ttp://www.rnb.co.jp/nnn/news8783238.html 旧江戸城にある石垣の修復工事で大洲藩主の名前を刻んだ石が見つかり、大洲市の歴史ファンの話題となっている。
旧大洲藩主の名前が刻まれた石が見つかったのは、旧江戸城にある田安門付近の石垣。
石垣は東日本大震災で緩みが生じ、倒壊の危険があるとして復旧工事が行われていた。
570個ある石垣を積み直していたところ重さが2.5トンもある大きな石に「宝永元年」や「加藤 遠江守 泰常築」
と刻んである石が見つかった。
加藤泰常は伊予大洲藩の3代藩主で、伊予大洲藩が旧江戸城の付近で石垣などの普請をしていた証とみられる。
文部科学省によると、石垣の石には家紋などが刻まれていることはよくあるというが、名前まで刻まれているのは珍しいという。
この石は確認作業の後、石垣の元の場所に戻されるという。[ 6/29 13:23 南海放送]
417 :
日本@名無史さん:2013/07/05(金) 09:21:15.86
奈良の役人何を食べた? 平城京跡から種8万粒
平城宮跡(奈良市)で役所が集中していた「東方官衙地区」にあった8世紀の穴の跡から、ウリやキイチゴなど推定8万粒
以上に及ぶ大量の種が見つかり、奈良文化財研究所が2日発表した。平城宮でこれほど多くの種が見つかるのは初めてで、
役人の生ごみやふん便とみられる。奈良時代の役人の食生活を物語る貴重な資料となりそうだ。
穴は1辺70センチ、深さ30センチ。採取したコンテナ4箱分(乾燥状態で約12リットル)の土を調査したところ、1箱から
野菜や果物など約40種類の種実が約2万粒確認された。総数は4箱で8万粒を超えるとみられる。トイレットペーパー
代わりの木片や、丸のみしにくいカキやアケビなどの種もあった。
当時の記録にはないシソやイチジク属のイタビカズラも出土。平安時代の法令集「延喜式」に貢ぎ物として記された珍しいムベ
(アケビの一種)も見つかった。
調査した芝康次郎研究員は「当時の食材は木簡や正倉院文書などに残るが、実態はよく分かっていない。役人が実際に何を
どれだけ食べていたのか、今後の比較材料にもなる」としている。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0202Q_S3A700C1CR8000/
419 :
日本@名無史さん:2013/07/06(土) 12:26:57.33
観光PRで全国制覇をねらう 安芸ひろしま武将隊2013年 7月2日(火)
ttp://www.tss-tv.co.jp/tssnews/NN1307020150.html 戦国時代、毛利112万石の居城だった広島城。その魅力を全国にPRしようと、
熱き武士たちが現代へ復活し、きょう、広島市の松井市長をたずねました。
毛利元就を筆頭に3本の矢の逸話で有名な隆元・元春・隆景の3兄弟など現れた6人は、その名も『安芸ひろしま武将隊』です。
これは県内の自治体とJRグループが連携して今月から始めた大型観光事業『広島県デスティネーションキャンペーン』
にあわせて、広島市が城下町ひろしまの魅力を全国にPRしようと結成しました。
広島市経済観光局の森沢寿幸主査は「原爆で無くなる前は日本有数の平城として国宝だった城だった。
いたるところに城下町の歴史を感じる部分がたくさんある。それをみなさんにもう一度知ってもらいたいと思う」と話しました。
現在、こうした武将隊は全国に30ほどあるといわれていて、その先駆けともいえるのが、2009年に結成された
『名古屋おもてなし武将隊』です。
織田信長や徳川家康など名古屋ゆかりの武将で結成した武将隊は、観光客のお出迎えや演武などのパフォーマンスで
全国から注目を集め、2010年には、およそ27億円の経済波及効果があったと、名古屋市は試算しています。
『安芸ひろしま武将隊』は今月7日から週末や祝日、広島城で、殺陣やダンス・歌などのパフォーマンスを披露します。
昨年度の広島城の来場者数はおよそ22万人。直線距離でおよそ1キロしか離れていない原爆資料館の入館者数は
およそ6倍の128万人です。
広島市は市内で周遊できる観光スポットを作り、『通過型』といわれている広島観光から『宿泊型』への脱却を図っています。
歴史を彩る“動物たち”7月5日(金) 21時11分
ttp://rkb.jp/news/news/15264/ 歴史資料の中に登場するさまざまな動物にスポットをあてた展示会が、佐賀県唐津市の博物館で、きょうから始まりました。
身近な動物から想像上の生き物まで、大人も子供も探しながら楽しめるユニークな企画展です。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に拠点とした名護屋城跡のすぐ隣にある県立名護屋城博物館で、きょうから始まった企画展「歴史を彩る動物たち」。
会場には、博物館が所蔵する弥生時代から江戸時代までのさまざまな動物があしらわれた焼き物や調度品、巻物など、およそ30点が展示されています。
こちらの屏風には、戦国から江戸初期にかけての127の武将のシンボルが描かれていて、多くの動物が登場します。
●学芸員・久野哲矢さんの説明を聞く西口リポーター久野さん「鶏の兜が作ってあったりですね」
西口「あっ、本当ですね。兜の頭の上に鶏が」
ttp://rkb.jp/news/files/2013/07/2013-07-057-150x84.jpg 久野さん「そのお殿様の横には、クジャクの羽を飾った印を置いていたようでですね。
非常によく目立ったことだろうと思います。コイが滝を登っている様子を描いたものがあるんですけどね」
西口「探してみよう!あっ、本当だ。うっすらと、ありました。いやー、すごい、すごい」
久野さん「コイが滝を登ってですね、龍になるという話もあるので、そういったエピソードというか、伝説を元にしたのかなという気がします」
こちらは、枕の両脇に取り付けられていた飾りです。螺鈿(らでん)細工で表現された鶏のつがい。
よく見ると、下には7羽のヒナも描かれ、夫婦円満や子孫繁栄の意味が込められています。
また、名護屋城跡から出土した「土人形」は、安産の願いを込め、犬の形をしています。
豊臣秀吉ゆかりの場所からだけ見つかる貴重な品だそうです。
●屏風を見た人「全然、わからないです、自分では。あーって見て回っただけで」
Q結構、夢中で(探しました)?「ですね。探しましたね、必死でね」
●佐賀県立名護屋城博物館学芸員・久野哲矢さん「描いてある動物のかわいさとか、
詳しく描いてあって美術的なすばらしいところとかを見てもらいながら、じゃあ、どうしてこういう絵柄が使ってあったのかなとか、
どうしてこれを選んだのかなという思いまで感じ取ってもらえるとうれしいですね」
いろんな発見が楽しめるこの展示会は、9月1日まで開かれています。
※スタジオ※●川上キャスター資料の中に登場する動物に注目するというのは、面白い視点ですよね。
●池尻キャスターそうですよね。人の暮らしに、すごく密接にかかわっていたことがわかりますよね。
●川上キャスター戦国武将が縁起を担ぐものだとか、当時の人々の願いが込められたものとか、非常に面白い展示会ですね。
7月13日11時26分更新観光地屋島復活へ児童が芝の植え付け
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=1 観光客が減少傾向にある高松市の屋島を観光地として復活させようと地元の小学生らが山頂で芝生の植え付けを行いました。
この取り組みは高松市が行ったもので、屋島の山頂で、地元の小学校の児童や保護者など約150人が芝生の
植え付けを行いました。
屋島の観光客は1972年の約250万人をピークに年々減っていて現在では年間50万人台にまで落ち込んでいます。
取り組みは、観光地としての屋島を復活させようと今年から市が進めている活性化事業の一環で、
ホテルの跡地に芝生を敷き展望台を兼ねた公園として整備する計画です。
市では約1か月間芝生を養生させ早ければ9月から一般に開放することにしています。
九州国立博物館で「尾張徳川家の至宝」10月開催(2013年7月18日 17:09)
ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=9639 九州国立博物館は2013年10月から開催する特別展、「尾張徳川家の至宝」の概要を発表しました。
尾張徳川家は、家康の九男・義直を初代とする徳川御三家筆頭の大名で、
今回の展覧会には名古屋市の徳川美術館が所蔵する尾張徳川家ゆかりの品々、約230点が展示されます。
展覧会は、2013年1月の東京開催に続くもので期間限定で公開される国宝もあります。
その一つ、「初音の調度」は、徳川三代将軍家光の長女千代姫が尾張徳川家二代の光友に嫁いだ際に持参した
嫁入り道具で、日本の蒔絵史上、最高傑作と言われています。
「尾張徳川家の至宝」は10月12日から12月8日まで、 九州国立博物館で開催されます。
福岡市の観光アプリに 人気ゲームキャラが登場(2013年7月23日 19:25)
ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=9661 福岡市は、スマートフォンを使った、歴史や文化遺産の「まち歩き案内システム」を24日から導入します。
ガイド役は、福岡生まれのあの人気ゲームのキャラクターです。
「レイトン教授がこれから毎日、福岡の歴史に関して、観光ガイドをしてくれることになりました」(福岡市 高島宗一郎市長)
これは、「福岡歴史なび」と名付けられたスマートフォン用アプリで、福岡市の会社が開発した人気ゲームの
キャラクター 「レイトン教授」が案内役として登場します。
アプリを実行すると、おすすめの散策コースや、文化財の詳細が、画像や文章で表示されるほか、
レイトン教授からクイズが出題されるなど、楽しみながら歴史を学ぶことができます。
このアプリは、24日から、無料でダウンロードすることができます。
430 :
日本@名無史さん:2013/07/25(木) 10:01:44.61
皇太子さまが岡山後楽園など視察
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130726_10 24日から岡山を訪れている皇太子さまは26日が滞在最終日です。
ttp://www.rsk.co.jp/news/photo/20130726_10.jpg 岡山市東区の県指定史跡、倉安川吉井水門や後楽園の園内などを視察されました。皇太子さまの岡山滞在は26日が最終日です。
午前中30度を超える暑さの中岡山市東区の県指定史跡、倉安川吉井水門を視察されました。
この水門は、江戸時代岡山藩主・池田光政が津田永忠に命じて作らせたものです。
皇太子さまがライフワークにしている水の研究の一環として訪れたもので、岡山県立博物館の田村啓介館長の説明に
「すばらしい史跡を視察でき、大変嬉しく思います」と話されていました。
また、午後からは岡山後楽園を訪れました。皇太子さまの後楽園訪問は8年ぶりです。
伊原木知事から園の見所などの説明を受け、「芝生がきれいですね。管理が大変ですね」と感想を述べられました。
このあと、園内にある船着場の遺構を視察されました。
遺構は、岡山藩主が岡山城と後楽園を舟で行き来する際に使用した船着場の跡で去年行われた発掘調査でほぼ完全な形で出土しています。
岡山県古代吉備文化財センターの平井泰男所長が江戸時代の船着場の絵図などを使って説明し、皇太子さまは熱心に聞かれていました。
3日間の滞在を終え、JR岡山駅に移動した皇太子さまは、約600人の見送りに手を振って笑顔で応えホームでは
伊原木知事らと言葉を交わして、新幹線で次の滞在先の大分県へ向かわれました。
7月26日18時52分更新皇太子さま 後楽園をご視察
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=3 岡山に滞在中の皇太子さまは26日、岡山市内で後楽園などを見て回られました。
皇太子さまは午前中、岡山市東区で、江戸時代に岡山藩主池田光政が津田永忠に命じて作らせた倉安川水門を
視察されました。
建造当時のままの姿で残されている水門を御覧になった皇太子さまは、説明に深く頷かれながら御覧になっていました。
このあと日本3名園の1つ、後楽園を訪れ、集まった約100人の歓声に手を振って笑顔で応えられていました。
そして岡山県の伊原木知事から説明を受けながら園内を見て回られました。
皇太子さまは岡山での3日間の日程をすべて終えインターハイが開かれる大分県に向け出発されました。
夏休み子どもミュージアム07/24 11:39
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/indexnews.asp?id=34328 夏休み中にふるさとの事をもっと知ってもらおうと香川県立ミュージアムに子供ミュージアムのコーナーが設置されました。
古代から昭和に至るまでの香川県の歴史に関する資料が展示されている香川県立ミュージアム。
夏休みということで歴史展示室を子供ミュージアムとしてレイアウトを変え子供達にも楽しんで学んでもらるよう
工夫しています。
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/meta/jn13072402.asx フリップをめくると答えがわかるようにしたり歴史の教科書に出てくる香川ゆかりの出来事も分かりやすく解説しています。
12世紀の屋島の合戦の様子を描いた屏風は、那須与一が平家軍の扇を射落とす有名なシーンが描かれています。
また、現在の東かがわ市出身の発明家、久米通賢が発明した重りの力で動く扇風機は白い羽根がとてもおしゃれで
、同時に涼しさを感じさせてくれます。これらの作品は9月23日まで香川県立ミュージアムで展示されています。
「福岡黒田武将隊」見参!(2013年8月1日 17:26)
ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=9699 福岡市の観光を盛り上げるための新たなキャラクターがお目見えしました。
「皆の者、このお方をどなたと心得る」と突如現れた、甲冑姿の3人の武将。
現代にタイムスリップしたという設定の黒田官兵衛・長政親子たちで作る「福岡黒田武将隊」です。
福岡市が観光シーンをもりあげようと結成したもので、1日お披露目されました。
「神出鬼没」がモットーで、今後、福岡城跡や大名・天神地区などでパフォーマンスを展開する予定です。
早速、福岡市の人口150万人突破を記念して招待された30人の市民と一緒に、福岡オープントップバスに乗り込み、市内を回りました。
皇太子さま 後楽園を視察07/26 18:31
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/indexnews.asp?id=34346 24日から岡山に滞在中の皇太子さまが岡山市の後楽園を視察されました。
皇太子さまは、正午ごろ後楽園に到着されました。そして、集まった約100人の人たちに笑顔で応えられていました。
岡山県の伊原木知事が後楽園の見所などを説明すると皇太子さまは笑顔でうなずかれていました。
また、船着場の遺構では岡山県古代吉備文化財センターの平井泰男所長が江戸時代の絵図などのパネルを
使いながら説明しました。皇太子さまは「遺構が非常によく残っていますね。
絵図も残っていて比較できるんですね」などととても感心されたご様子でした。
その後、皇太子さまはJR岡山駅から全国高校総体が開かれる大分県へ向かわれました。
県歴史文化博物館 来館者200万人突破
ttp://eat.jp/news/index.html?date=20130810T170952&no=9 今年で開館19年目を迎える西予市宇和町の県歴史文化博物館が、10日、来館者200万人を達成しました。
200万人目の来館者になったのは、西予市明浜町の宇都宮未来ちゃん7歳で、記念式典では200万人目の認定証や
花束などが贈られました。県歴史文化博物館は1994年11月に開館。
愛媛の歴史や民俗などに関する様々な資料を常設展示しているほか、現在はテレビや漫画で活躍したヒーローを
テーマにした特別展や、お化け屋敷が人気を集めています。
橋本館長はこの施設を南予観光の拠点にしたいとしていて、来年は四国八十八ヶ所霊場が開かれて1200年にあたる
ことから、空海ゆかりの文化財などを展示する特別展を計画しています。
439 :
日本@名無史さん:2013/08/12(月) 10:17:28.51
11日午後2時40分頃、北海道釧路市北斗にある「北斗遺跡」の竪穴式復元住居のわらぶき屋根から出火、復元住居3
6平方メートルが全焼し、火は約1時間10分後に消し止められた。
けが人は無かった。北海道警釧路署の発表によると、釧路市立博物館の男性学芸員(40)が復元住居内で土器を焼いて
いたといい、土器を焼く火が屋根に引火したとみられる。
北斗遺跡は旧石器時代や縄文時代などの遺跡で、1977年に国の史跡に指定された。復元住居は5棟あり、全焼したの
はこのうちの1棟という。
(2013年8月11日19時54分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130811-OYT1T00572.htm
440 :
日本@名無史さん:2013/08/12(月) 16:57:56.71
市民対象に黒田官兵衛の勉強会08月07日 08時03分
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130807/3557581.html 来年の大河ドラマの主人公、黒田官兵衛と地域とのつながりについて知ってもらおうと、6日、行橋市で、市民を
対象にした勉強会が行われました。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130807/3557581_5013557581_m.jpg 行橋市では、黒田官兵衛が九州最初の拠点とした城が市内の馬ケ岳にあったことを多くの市民に知ってもらおうと、
市内11の地区ごとに市民を対象にした勉強会を開くことになり、6日夜、初めての勉強会が、馬ケ岳がある地元の
稗田地区で開かれました。勉強会にはおよそ80人の住民が参加し、市の文化課の担当者から説明を受けました。
市の担当者は、九州平定の功績で豊臣秀吉から豊前6郡12万石を与えられた官兵衛が、馬ケ岳城を九州最初の
拠点として領国を経営したことなどを説明しました。
地元の人たちも大河ドラマの放送が決まるまで黒田官兵衛が馬ケ岳城の城主だったことを知る人はほとんど
いなかったということで、興味深そうに説明に聞き入っていました。
参加した人たちは「地元にこんな歴史があったのかと驚きました」、「馬ケ岳に官兵衛がいたことを知って、
来年の大河ドラマが楽しみになりました」などと話していました。
官兵衛ゆかりの地 賑わう08月14日 19時03分
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130814/3713491.html 来年放送されるNHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」で生涯が描かれる戦国時代の武将、黒田官兵衛のゆかりの地を
訪ねようと、福岡市にある黒田家の墓や福岡城などには、お盆休みに帰省した人や観光客が多く訪れています。
来年の大河ドラマ「軍師官兵衛」は、戦国時代に豊臣秀吉の天下統一を支え後の福岡藩の礎を築いた戦国武将、
黒田官兵衛の生涯を描くもので今月下旬から撮影が始まります。
官兵衛と息子で福岡藩の初代藩主、長政などが眠る墓がある福岡市博多区の崇福寺には、お盆休みに帰省した人や
観光客が多く訪れ、官兵衛の墓に手をあわせて戦国時代に生きた偉大な人物に思いをはせていました。
また、官兵衛と長政をまつる福岡市中央区の光雲神社にも、猛烈な暑さの中にもかかわらず、多くの参拝客が訪れています。
さらに、官兵衛が築城に関わったとされる中央区の福岡城では、江戸時代の姿を残し、国の重要文化財に指定されている
「多聞櫓」が夏休み期間中特別に公開されています。
やぐらの中では、官兵衛と福岡城とのつながりなどを紹介する展示も行われていて、県内外から、家族連れなどが
次々に見学に訪れていました。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130814/3713491_5013713491_m.jpg
期間限定 「shiro cafe」って?!08/14 18:30
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/indexnews.asp?id=34456 高松城跡玉藻公園に期間限定のカフェがオープンし人気を集めています。
その名も「城カフェ」です。
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/meta/jn13081405.asx 技雲閣で16人の匠が陶芸や漆器や盆栽の香川の伝統工芸や手仕事を洒落たア-ト作品を展開142畳の大書院のカフェ
jrホテルクレメント高松の上地料理長がレアシュガ-スイ-ツを使って庵治石とかの出品匠の器に盛付
盆栽作家中西陽一コメ日本文化や伝統工芸に触れる機会が少ないのをこの機会に五感で感じたスイ-ツを召し上がって頂きたい
召し上がって頂きたいのテロは食べてほしい 18日迄の17時-21:30 陽が落ちた後は庭園がライトアップでふいんきががらりと変わる
客1コメ昔のふいんきで落ち着いた感じとすい-つが現代(イマ)の感じで素敵 客2おいしかったしお皿も楽しめた
客3建物の造りも楽しかった作家の作品もすごく楽しかった(またこんな機会があれば)ぜひぜひ来たい
日常からちょっと離れ落ち着いたふいんきでゆったりとした時間を過ごしてみませんか
広島城お堀の異変
ttp://news.rcc.jp/?i=21324#a ttp://news.rcc.jp/rccnews/data/21324.jpg 凄まじい暑さが続く中、RCCのすぐ隣、広島城のお堀が、緑のカーペットで覆われた!お堀では、過去にも驚くべきことがあった。
1976年には鯉や鮒4万尾が大量死。水を川から取り込む工事を終えると、お堀に入った大量の鮎が猛暑のため死んだ。
また蚊によく似た、ユスリカが大量発生。近隣住民から苦情が相次いだ。またこちらは視聴者が撮影したもの。群れの正体はなんとコイワシ!
そして、2013年8月。(鍵本記者)「ご覧下さい。広島城のお堀が緑の絨毯で覆われているようです」
なぜここまで大量の藻が発生したのか。検証します。[2013.8.15 18:52]
なぞに迫る 広島城で「藻」異常発生
ttp://news.rcc.jp/?i=21323#a 広島城のお堀では、これまでも色んな現象が起きていますが、いま大量発生しているのが「藻」です。
私も実物を見ましたが、確かに、巨大な緑のカーペットのようです。この猛暑が原因なのでしょうか?大発生の謎に迫りました!
(半田信司博士)「すごい、すごいすごいですね。パッチ状に増えて。こんなのは、ちょっと珍しいですね。」
ttp://news.rcc.jp/rccnews/data/21323.jpg 広島城のお堀に大量発生した藻を見て驚きの声を上げたのは、広島在住の藻類専門家半田信司博士です。
ttp://news.rcc.jp/rccnews/data/21323_L.asx 藻が発生しているのは、お堀の北側。緑の絨毯を引いたようにみえるのは、みな藻です。
広島市によると6月に一旦取り除いたそうですが先月中旬頃からまた急速に広がってきました。この藻、一般的な種類とは異なるようです。
(半田博士)「あの、こういった環境ではよくアオミドロとかアミミドロとか言った藻類がよく増えるんですけれども、今ここで増えているのはシオグサの仲間でカワシオグサと言うシオグサです」
堀端には、掃除の際に引き上げられた「カワシオグサ」がありました。別名をカモジシオグサというそうですが、確かに緑の髪の毛のようです。
顕微鏡で見ると藻の体が枝状に分かれています。これが、カワシオグサの特徴です。
半田博士によると、生物としては主に北海道や東北地方に生息するマリモに近く、安定した環境を好み通常は、河川の石に付いて成長するといいます。
では、なぜお堀の中で大量発生したのでしょうか。
(半田博士)「今年日照が強かったとか水温が高いとかいろんな要素が絡んでいるとは思うんですけれども最近面白い話がありまして、
シオグサの中に塩分にも強い系統があると言うことがわかってきまして、そういった系統のものが入ってきて一気に増えたんじゃないか、ということも一つ考えられます。」
広島城のお堀の水は本川からポンプでくみ上げたものを循環させています。
満潮時には、本川に海水が上がってくるためお堀は、薄められた海水と淡水が混ざった汽水の状態になります。
それは、汽水に適応した「スズキ」がお堀で見られることでもわかります。
(半田博士)「こういった藻(塩分に強いカワシオグサ)が増えることで流れをせき止めてそれでさらに増えやすい環境をつくって行くと言うようなことで爆発的に増えてきた可能性はありますね」
今回の異常発生は、お堀の水の循環と何らか影響があるようです。
半田博士によれば、お堀の南側は水がスムーズに流れ川に近い状態で、流れを好む水草のエビモが繁茂していますが大量発生には至っていません。
反対に、北側は水の循環が悪くいわば「池」に近い状態で、それが安定した環境を好む「カワシオグサ」にとって好都合だったようです。
(半田博士)「生き物にとっては多様な環境になるので、かえって良い条件と言えるかも知れないんですけれどもやはり景観的に良くないですし、
これだけ大量に生えた物が死んで腐敗すると悪臭を発生するというような事があるかも知れませんし除去する方が望ましいと思いますね」[2013.8.15 18:52]
クイズと迷路で高杉晋作を学ぶ08/21
ttp://www.yab.co.jp/annnews/index.html?id=0002 幕末の志士高杉晋作の墓がある東行庵で子供たちが楽しく学べるイベントが開催されています。
下関市の東行庵では子供たちに楽しみながら高杉晋作のことを知ってもらおうというイベントが行われています
近くの吉田小学校の児童らが晋作が坂本龍馬にピストルを贈ったことや奇兵隊のことをなどを学びました。
子供たちは講堂に作られた晋作クイズ9問を取り入れた迷路に挑戦、ゴールした子供たちは晋作にふんした
学芸員から記念の手づくりメダルを授与されていました。このイベントは8月いっぱいまで楽しめるということです。
戦国武将「尼子十勇士」で活性化へ
ttp://www.nkt-tv.co.jp/pc-news/news8753787.html 戦国大名・尼子氏の城下町、安来市広瀬町で23日から尼子の武将のスタンプを集めるイベントが始まった。
スタンプラリーは、町内の店舗などをめぐり「尼子十勇士」と呼ばれる武将たちのスタンプを集めるもの。
体験した子どもたちは「街の風景などが見ることができたので良かった。全部集めたい」と楽しんでいた。9
月29日まで行われ、10個のうち6個以上集めることで、プレゼントの抽選に応募することができるという。
[ 8/23 17:55 日本海テレビ]
448 :
日本@名無史さん:2013/08/25(日) 06:11:49.64
民俗学者の谷川健一さんが死去 文化功労者
「谷川民俗学」と呼ばれる独自の研究を打ち立てた民俗学者で文化功労者の谷川健一(たにがわ・けん
いち)さんが24日、死去した。92歳。熊本県出身。
東大文学部卒。柳田国男、折口信夫の影響を受けながら、精力的な現地調査を踏まえた民俗学研究を
独学で続けた。
歴史の負の情念に着目し、霊魂や死生をめぐる観念の解明を軸に、独自の視点から著作活動を展開し
た。今も残る地名の重要性を唱えて日本地名研究所を設立。業績に対して南方熊楠賞を受賞した。
ほかの著書に「南島文学発生論」「日本の地名」「白鳥伝説」など。近畿大教授を務めた。詩人の谷川雁
さんは弟。
http://www.47news.jp/CN/201308/CN2013082401002034.html
449 :
日本@名無史さん:2013/08/27(火) 00:38:22.86
亀井静香が、天皇陛下に「京都か広島にお住まいに」と進言!
亀井静香金融担当相(当時)は天皇陛下との昼食会の際に
「血で血を洗うような汚らわしい武家の江戸城(跡地)にお住まいになるのは立場上ふさわしくないのではないか。
京都か広島にお住まいになってはどうかと、陛下に一方的に申し上げた」と述べた。
陛下は「京都は好きです」と応じた。
452 :
451:2013/08/28(水) 00:31:14.31
◇解説 朝鮮半島にもないタイプ
琵琶湖西側の上御殿遺跡で出土した短剣鋳型は、弥生時代の日本列島で分立していたとされる地域の小国が、
競って大陸文化を取り入れようとしていた様子をほうふつさせる。
日本列島では弥生中期ごろから中国・朝鮮半島の影響を受けて祭祀(さいし)用の青銅器が作られた。中国の歴史書
「漢書(かんじょ)地理志」に倭(わ)(古代日本)が「百余国」に分かれていたと書かれた紀元前1世紀ごろを中心に、
銅鐸、銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)などが作られた。
いずれも朝鮮半島から九州に伝わったものが波及して、それぞれの地域で独自の発展をした。政治勢力や文化の
違いによって、祭祀の在り方も異なっていたと考えられる。
これらの青銅器が姿を消すのは「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に卑弥呼(ひみこ)が女王として君臨したと書かれた
3世紀ごろ。それまで九州や日本海沿岸などの地域勢力がそれぞれ大陸、朝鮮半島と交渉し、文物を入手していた
と考えられる。
今回の鋳型の短剣は、国内はおろか朝鮮半島にも類例がない。今まであまり注目されていなかった琵琶湖西側の
弥生の「国」が、どのようにして中国北方の文物を入手したのか。
朝鮮半島南部を経由して九州北部、あるいは山陰から北陸にかけての日本海沿岸に至るルートだけでなく、
7?10世紀に外交ルートとなった朝鮮半島北方から中国にかけての地域から直接、日本海沿岸に渡るルートなども
視野に入れて弥生時代の海外交流を再考する必要が出てきた。【専門編集委員・佐々木泰造】
銅剣鋳型:国内初「双環」短剣 誰がなぜ、深い謎 大陸式と弥生、融合 文様繊細、祭祀用か
http://mainichi.jp/feature/news/20130809ddn041040013000c.html 銅剣鋳型:国内例ないタイプ出土 難波・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長の話
http://mainichi.jp/feature/news/20130809ddm041040138000c.html
長岩城跡の周辺整備へ
ttp://www.nhk.or.jp/oita/lnews/5074079711.html?t=1377815817299 ttp://www.nhk.or.jp/oita/lnews/5074079711_m.jpg 中津市は官兵衛にゆかりのある山城、「長岩城跡」を訪れる観光客が、来年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送が
決まって以降、増えていることから城跡までのルート周辺の整備を行うことになりました。
「長岩城跡」は中津市耶馬溪町の標高531メートルの扇山の山頂などに、この地方を治めた豪族、野仲氏が築いた
山城で、豊臣秀吉の命を受け九州の平定に乗り出した官兵衛の息子の長政が、1587年に野仲氏をやぶりました。
長岩城跡には去年1年間でおよそ1000人の観光客が訪れましたが、黒田官兵衛を主人公にした来年の大河ドラマ
「軍師官兵衛」の放送が決まってからは、去年の2倍を上回るペースで観光客が訪れています。
このため中津市では長岩城跡に通じる登山道の入り口に軽自動車と普通車のあわせて6台が収容できる駐車場と、
トイレを整備するほか駐車場から登山道の入り口までの長さ90メートルのあぜ道を舗装することを決め、
29日から始まった定例市議会に関連の費用として1160万円の予算案を提案しています。
中津市では長岩城跡までは険しい山道が多いことから観光客に対し、十分注意して登るよう呼びかけています。
古墳時代の腰掛け見つかる
ttp://www.nhk.or.jp/lnews/tottori/4043767631.html?t=1377817170421 鳥取市の遺跡の発掘調査で、古墳時代の木製の腰掛けが、山陰地方では初めて完全な状態で見つかり、報道陣に
公開されました。
県教育委員会では、国道9号線の改築工事に伴って、鳥取市気高町にある常松菅田遺跡でことし4月から発掘調査を
進めていて、29日は、発見された出土品が報道関係者に公開されました。
このうち、古墳時代前期の溝から見つかった木製の腰掛けは、高さが38センチ、横幅が61センチで、座面と足を別に
作って組み合わせる「指物」という技法が使われています。
これまで、部品がバラバラの状態で見つかることはありましたが、組み合わされた完全な状態で古墳時代の腰掛け
が見つかったのは、山陰地方では初めてだということです。
また、弥生時代中期の溝からは、アクセサリーとして使われた管玉を作る際に出た碧玉や石の針なども見つかり、
技法が北陸地方のものと同じことが確認されていて、山陰地方と北陸地方の間に交流があったことがうかがえるということです。
県教育委員会から調査を委託された県教育文化財団の佐伯博光副主幹は「腰掛けは当時の木工技術を知るうえで
貴重な資料で、機織りなどの作業時に使われていた可能性もある」と話しています。
県教育文化財団は31日に現地説明会を行うことにしています。
黒田武将隊が屋台で福岡PR08月24日 08時18分
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130824/3945121.html 福岡藩の礎を築いた戦国武将、黒田官兵衛にちなんで福岡市が結成した「黒田武将隊」が23日夜、福岡の夜の
名物として知られる屋台を訪れ、訪れた客たちに福岡の魅力をPRしました。
黒田官兵衛は戦国時代、天才軍師と言われ、息子で福岡藩の初代藩主、長政とともに福岡藩の礎を築きました。
官兵衛の生涯が来年、NHKの大河ドラマで描かれるのにあわせて福岡市はかっちゅう姿の官兵衛らが観光PRをする
「福岡黒田武将隊」を結成し、23日夜は隊の官兵衛と長政が福岡市中央区の屋台を訪れました。
屋台の長いすに座った2人は他のお客さんと一緒に天ぷらなどを味わいながら軍師、官兵衛を紹介したり、
福岡の魅力をPRしたりしていました。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130824/3945121_5013945121_m.jpg 屋台を訪れていた人たちは夜の街に突然現れた武将隊に驚きながらも握手をしたり、記念撮影をしたりして楽しんでいました。
客たちは「官兵衛は知らなかったけど興味がわきました」とか「格好よかった」などと話していました。
福岡市観光戦略課の真子嘉透さんは、「福岡は歴史ある町なので黒田官兵衛を通して多くの人に魅力を知ってほしいです」と話していました。
459 :
日本@名無史さん:2013/09/01(日) 08:50:03.56
昭和女子大が今春入試で出題ミス、7人追加合格
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130831-OYT1T00737.htm 昭和女子大学(東京都世田谷区)が今年1月27日に行った一般入試(A日程試験)
の選択科目・日本史で出題ミスがあり、7人を追加合格にしたことが31日分かった。
同大によると、ミスがあったのは計2問。日本の鎖国体制に関する問題文で、オランダ国
王が幕府に親書を送った西暦が間違っていた。また、文武天皇の在位中の出来事を選ぶ
問題では、選択肢に正解がなかった。
8月上旬、外部からの指摘でミスが発覚。大学は合否判定をやり直し、7人の追加合格者に謝罪したという。
企画展「殿様の時代」
この企画展は徳島藩主の蜂須賀家の歴代の当主に焦点をあて徳島の歴史を身近に感じてもらおうと徳島城博物館が
開いたものです。会場には蜂須賀家の藩祖や歴代の当主ら16人の肖像画などおよそ100点が展示されています。
蜂須賀小六こと正勝は豊臣秀吉との出会いを描いたこの錦絵では豪快な大男として描かれていますが、
鎧や死後に描かれた肖像画を見ると身長150センチ前後と小柄な上、おだやかな顔立ちだったことが伺えます。
8代藩主宗鎮の大鎧の胴を飾る獅子は江戸時代を代表する絵師、円山応挙によって描かれたもので応挙の絵が
入った鎧は全国でも他に例がありません。
ttp://www.jrt.co.jp/nnn/news8672284.html このほか13代藩主斉裕が使っていた銀の実印など初公開の展示物もあります。
ttp://www.jrt.co.jp/nnn/movie/news8672284.html この企画展「殿様の時代」は10月14日まで徳島市の徳島城博物館で開かれています。[ 8/31 14:40 四国放送]
官兵衛 妻の名は「みつ姫」か08月26日 08時13分
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130826/4001131.html 来年の大河ドラマの主人公、黒田官兵衛を支えた生涯唯一の妻について、
通説では光の姫と書いて「てる姫」と呼ばれていますが、これを「みつ姫」とする江戸時代の文書が福岡市のゆかりの
寺で見つかりました。研究者は歴史上の人物の読み仮名が変わる可能性の高い貴重な資料だとしています。
光姫(てるひめ)は来年のNHK大河ドラマの主人公黒田官兵衛の妻で、軍師として活躍する官兵衛を支えたほか、
福岡藩の初代藩主長政の母親としても知られています。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130826/4001131_5014001131_m.jpg 光姫が建て、菩提寺となっている福岡市中央区の圓應寺が今月23日、寺に残る資料を整理していたところ、
光姫について記録した江戸時代の文書の中に、光姫の字の横にかたかなで「テル」ではなく「ミツ」とよみがなが記されていました。
黒田家の歴史に詳しく、一緒に資料の整理にあたった福岡市博物館顧問の田坂大蔵さんによりますと、
光姫の読みがなを記した資料はこれまでなく、戒名にあった「照」、照らすという文字があることから、
「てる姫」という読みが広まったと考えられるということです。
今回の発見で呼び名が「みつ姫」に変わる可能性が高いということです。
田坂さんは「ほかにも「みつ」と記した資料がないか調べるが、見つかったのが本人が建立し、
その菩提寺になっているところなので信憑性が高い。
この時代の女性の呼び名がわかる資料は少なく非常に貴重な発見だ」と話しています。
【佐賀】手裏剣の腕前を競い熱戦、嬉野市で九州予選09/01 17:53 更新
ttp://www.kbc.co.jp/top/news/lbi/kbc_0020.html 佐賀県嬉野市で1日、手裏剣の腕前を競う伊賀流手裏剣打(しゅりけんうち)の九州予選が行われ、
本選出場を賭けて熱戦が繰り広げられました。
今年で5回目を迎える伊賀流手裏剣打選手権九州予選には、中学生以上のおよそ40人が参加しました。
雨の中、午前11時ごろから始まった大会では、参加者は日本一を目指して高校生以上は6メートル、
女性と中学生は5メートル離れた的をめがけ5枚の手裏剣を真剣な表情で投げていました。
この大会は全国7会場で予選が行われ、全参加者の得点上位40人が10月20日に三重県伊賀市で行われる本選に
進みます。
463 :
日本@名無史さん:2013/09/03(火) 18:31:20.87
セントラルパーク構想素案提示08月28日 07時16分
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130828/4072791.html 福岡市にある大濠公園と舞鶴公園の一体的な整備を検討している県と福岡市は、舞鶴公園の中にある福岡高等
裁判所や野球場などの施設を公園の外に移設することなどを盛り込んだ「セントラルパーク構想」の素案をまとめました。
「セントラルパーク構想」は、もともと福岡城の一部だった大濠公園と舞鶴公園を一体的に整備し、歴史・文化の発信や
市民の憩いの拠点を作ろうというもので、県と福岡市が有識者などによる委員会を設けて検討を進めています。
県と福岡市では、構想の素案をまとめ、27日に開かれた委員会で示しました。
素案には、散策ができて憩いの場となる場所や古代の歴史を学べる場所など5つのゾーンに分けて整備することや、
舞鶴公園の中にある高等裁判所や野球場などの施設を公園の外に移設することなどが盛り込まれています。
これについて委員からは、「細かくゾーン分けをすると一体感が弱まるのでないか」といった指摘や「2つの公園を
分断しないために舞鶴公園の中を通る市道を廃止したほうがよいのではないか」といった意見が出されました。
県と福岡市では、素案をもとに委員会でさらに検討を進め、来年3月までに「セントラルパーク構想」
をまとめることにしています。
ttp://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20130828/4072791_5014072791_m.jpg
琉大所蔵の文献資料の展示会
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okinawa/5094082181.html?t=1378283257589 琉球大学が所蔵する19世紀を中心とした沖縄の貴重な文献資料を紹介する展示会が4日から読谷村で始まりました。
この展示会は、琉球大学が県内の自治体と共同で毎年、開いているもので、ことしは読谷村の歴史民俗資料館で
4日から始まりました。展示されているのは、琉球大学が所蔵し、保存のために通常は一般に公開されていない
19世紀を中心とした貴重な文献資料27点で、読谷村に関係する資料も多く含まれています。
このうち「模合帳」は、家の建築などで多額のお金が必要な人に、地域の住民たちがお金を出し合って貸す習慣が
1880年には現在の読谷村で行われたことを示しています。
琉球大学の担当者によりますと、模合の歴史に関する研究はそれほど進んでいないため、この「模合帳」は今後、
貴重な資料として活用されるということです。
ttp://www3.nhk.or.jp/lnews/okinawa/5094082181_m.jpg また、戦前の沖縄で作られた織物の切れ端を貼り付けた見本集もあり、当時の豊かな色彩やデザインがうかがえます。
琉球大学附属図書館の伊澤雅子館長は「生活にかかわる資料が多く、誰でも楽しむことができると思うので、
ぜひ見に来てほしいです」と話していました。この展示会は、今月15日まで読谷村の歴史民俗資料館で開かれています。
展示会”小倉祇園太鼓の起源をたどる”8月30日(金) 12時13分
ttp://rkb.jp/news/news/16370/ 小倉の夏祭小倉祇園太鼓の起源をたどる展示会が北九州市で開かれています。
北九州市小倉城庭園で開かれている「祇園祭と八坂神社」には小倉祇園太鼓の起源とされる京都の祇園祭を描いた
絵画や史料などが展示されています。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/08/2013-08-30-150x84.jpg およそ400年前から続く小倉祇園太鼓は、小倉城を築城した細川忠興が京都の祇園社=現在の八坂神社の祇園祭を
取り入れたものです。
江戸時代初期の京都の様子が描かれた「洛中洛外図屏風」には、祇園祭の山鉾巡業が描かれ、
こうした作品を通して祇園祭は全国に広まり小倉では太鼓に特化した祭りに成長しました。
会場にはこのほか、平安時代の祇園祭=祇園御霊会を描いた巻物などの史料も展示されています。
この展示会は来月16日まで開かれています。
村上水軍博物館特別展・瀬戸内海中世沈没船の謎
ttp://eat.jp/news/index.html?date=20130905T104442&no=1 芸予諸島周辺の海底から引き揚げられた考古資料を手がかりに、沈没船や水中遺跡の謎に迫る特別展が、
今治市宮窪町の村上水軍博物館で開かれています。
この特別展は沈没船などから昔の暮らしなどを探る、水中考古学の魅力を広く伝えようと、今治市などが開きました。
会場には、芸予諸島周辺の海底から引き揚げられた壺や土器など53点が展示されています。
香川県の小豆島沖の「水の子岩海底遺跡」から発見された、室町時代の備前焼の壺やすり鉢からは、小豆島沖で、
何らかの原因で沈没した船の存在が推定され、中世の海運航路などの研究に役だてられています。
また会場には、今治市の波方港で海底から引き揚げられた、縄文時代後期の注口土器が初めて公開されているほか、
今治市の宮窪沖で見つかった碇石などの貴重な資料が展示されていて、訪れた人は興味深そうに見入っていました。
この特別展、「瀬戸内海・中世沈没船の謎」は、今治市の村上水軍博物館で9月16日まで開かれています。
470 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 20:24:07.23
【大阪】世界遺産へ「仁徳天皇陵をイルミネーションで飾ろう、中を見学できるようにしよう」・・・維新・松井氏[13/09/07]★3
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1378541397/ ○世界遺産へ「仁徳陵に電飾を」…維新・松井氏
大阪維新の会の松井幹事長(府知事)は5日、堺市長選(29日投開票)を
前に同市で開いた集会で、世界文化遺産登録へのアピール策として、
百舌鳥(もず)・古市古墳群の仁徳天皇陵古墳にふれ、「宮内庁がどう
言うかはあるけどイルミネーションで飾ってみよう、中を見学できるように
しようと色んなアイデアを出して初めて指定される」と述べた。
宮内庁が陵墓に指定・管理する古墳は尊厳を保つ目的で、原則、立ち入りが
禁止されている。
集会は、橋下代表(大阪市長)や、堺市長選への立候補を表明している
西林克敏氏らが市民に大阪都構想などの政策を説明する「タウンミーティング」。
松井幹事長は、都構想に反対し、再選を目指す現職の竹山修身市長が、
府と大阪市で進めるイルミネーション事業に参加しないことを批判した上で、
仁徳天皇陵古墳を取り上げた。
(ソース:読売新聞 9月7日07時16分)
本気で言うてんの?
471 :
日本@名無史さん:2013/09/07(土) 21:56:01.29
472 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 08:39:36.60
“最初で最後”のキトラ古墳石室一般公開に参加希望者が殺到、古墳を取り上げる
新聞・雑誌記事やテレビ・ラジオ番組を最近よく目にするようになった。
古墳を訪れる愛好者も増えていて、特に女性が急増中だという。
急激に高まる古墳熱に、巷では「新たな古墳ブームが来たのではないか?」と
言われているが、その背景には何があるのか? 古墳研究界の重鎮、
明治大学の大塚初重名誉教授に話を伺った。
私は現在、明治大学リバティアカデミーなどで公開講座を行っていますが、
旧石器時代や縄文時代に比べて、古墳時代の講座は非常に大人気なんです。
おそらく、古墳はつくられた場所にそのまま残っていて、その時代を想像しやすいところが
最大の魅力なのではないかと思います。また古墳の形も、時代や地域、
被葬者の身分などによっていろいろと違うところが面白い。棺や石室の形もいろいろあります。
それから、古墳があるのは奈良や大阪ばかりのようなイメージを
持っている方も多いと思いますが、北海道を除き日本国内の至る
ところに古墳はあるんです。東京都内にも芝公園内の「芝丸山古墳」とか、
上野公園内の「擂鉢山古墳」など、多くの古墳があります。都道府県別でいえば、
いちばん多いのは兵庫県。以下、千葉県、鳥取県、福岡県、京都府と続き、奈良県は6位です。
意外に思う方もいるかもしれませんが、
日本海側は古墳が多いんです。古墳巡りをしたいと思ったら、
誰でもすぐに始められる状況にあります。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130907-00503030-sspa-soci
473 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 09:25:34.02
>>470 橋下なら言いかねんが、松井がこのレベルだとは思わなかった。
474 :
日本@名無史さん:2013/09/08(日) 11:40:58.53
476 :
日本@名無史さん:2013/09/09(月) 23:08:31.64
http://www.asahi.com/culture/update/0909/OSK201309090040.html 古代歴史文化賞・大賞に都出比呂志氏 島根県など創設
2013年9月9日18時35分
島根、三重、奈良、宮崎4県が共同で創設した「古代歴史文化賞」
(選定委員長=金田章裕・人間文化研究機構長)の第1回大賞に9日、
都出(つで)比呂志・大阪大名誉教授の著書「古代国家はいつ成立したか」(岩波新書)が選ばれた。
副賞100万円。
同賞は最近刊行された古代史・古代文化についての一般向け書籍が対象。
受賞作は古墳〜奈良時代の国家形成過程を考古学などの研究成果から読み解いた。
選定委は「一般向けの本ながら、研究者の知的興奮をも刺激する」と評価した。
受賞を記念し、都出さんらが出席するシンポジウム
「日本の始まり 出雲・大和・日向・伊勢」が11月17日、東京・有楽町のよみうりホールで開かれる。
ほかの受賞作は以下の通り(敬称略)。
古代歴史文化みえ賞=斎藤英喜「古事記はいかに読まれてきたか 〈神話〉の変貌(へんぼう)」(吉川弘文館)
▽同なら賞=近江俊秀「道が語る日本古代史」(朝日選書)
▽同しまね賞=関和彦「古代に行った男ありけり」(今井出版)
▽同みやざき賞=三浦佑之「古事記を読みなおす」(ちくま新書)。
477 :
日本@名無史さん:2013/09/11(水) 21:25:11.55
生麦事件:犠牲の英国人商人の生前写真発見
http://mainichi.jp/select/news/20130912k0000m040068000c.html 横浜開港資料館(横浜市中区)は11日、1862年に起きた生麦事件の犠牲者で、英
国人商人、チャールズ・リチャードソンの生前の写真が初めて見つかったと発表した。これま
では、事件直後に撮影された遺体写真のみ確認されていた。
写真は名刺サイズ。立ち姿のリチャードソンが写っている。周囲に「左肩の傷が腰まで達
し……」などと、事件に関するメモもつづられている。
この写真は、幕末の6年間、横浜で暮らした英国人貿易商、J・C・フレイザーの写真帳
から発見された。フレイザーは事件の翌63年、日本で最初のクリケットの試合をした外国人チームの主将。
その5年後に設立された横浜の多国籍交流団体「横浜カントリー&アスレチッククラブ」が
クリケット関連の記念事業を準備中、米国在住の子孫、D・エバンス氏から写真帳が届い
た。資料館担当者と共に調査したところ、肖像写真85枚のうちの1枚がリチャードソンと確認された。
同館の中武香奈美主任調査研究員は「教科書にも登場する人物だけに、より身近に
感じてもらう契機になるのでは」と話している。
事件発生から151年にあたる14日から29日まで、同館で公開される。
>>476 初の古代歴史文化賞に都出さんの書籍
ttp://www.nkt-tv.co.jp/pc-news/news8753854.html 島根県など古代文化に縁の深い4県が創設した「古代歴史文化賞」の受賞作が9日、東京都内で発表された。
古代歴史文化賞は、日本の古代について国民に理解を深めてもらうため、島根県の溝口知事が、奈良、三重、
宮崎の3県に呼びかけて今年創設され、初の受賞作に大阪大学名誉教授の都出比呂志さんの
「古代国家はいつ成立したか」に決まった。
弥生時代から律令国家成立までの過程がわかりやすく書かれていたことなどが評価された。
島根県賞には、米子市の今井出版から発行された関和彦さんの「古代に行った男ありけり」が受賞した。
11月には、都内で記念イベントも予定され、コンサートやシンポジウムが行われることになっている。[ 9/10 13:22 日本海テレビ]
479 :
日本@名無史さん:2013/09/12(木) 22:32:51.41
よしあきフェスタ、参加者少ない… 山形市がボランティアの要件を緩和
山形城主・最上義光の没後400年記念事業のメーンイベント「よしあきフェスタ」(10月12、13日)で、武者に扮(ふん)して合戦、パレードに参加するボランティアを募集している山形市は、
当初見込みに比べて応募状況がいまひとつのため参加要件を緩和した。
市は先月末に募集を開始。13日を期限に100人程度を集める計画だったが、市観光物産課は「申込者数は10日までで67人。思っていたより少ない」と話す。
低調な要因について、同課は「12、13両日の参加を要件としたところ、希望者の中で『2日間通しての参加は難しい』との声が多かった」と説明。そこで、1日しか参加できない人の相談にも応じるとし、
場合によって参加を認めるよう変更した。
また、参加費は昼食代を含めて2千円としていたが、昼食の提供を取りやめて無料にし、定員を100人程度から180人程度に引き上げた。募集期間も18日まで延長する。
10月12日はJR山形駅西口駅前広場で「長谷堂合戦」の再現シーンを繰り広げ、13日は市内中心街でパレードを行う。
http://yamagata-np.jp/news/201309/12/kj_2013091200227.php
480 :
日本@名無史さん:2013/09/13(金) 23:58:08.73
松山ではよしあきクンと言えば加藤嘉明
城下町の都市構想をテーマに講演会
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130914_4 備前池田家の文化遺産を活かしたまちづくりについて考える講演が岡山市北区で開かれました。
講演は、池田家の伝えた文化遺産を守る会の神原会長が、江戸時代から城下町として発展してきた岡山市の現在と
みらいの都市構想をテーマにおこないました。
神原会長は、岡山市のまちづくりについて文化遺産を市内中心地域で集中的に管理することや、そこに暮らす市民に
とっての居住性を考えた新たな文化ゾーンを創っていくことなどを提案しました。
また、就実短期大学の芳賀教授は、岡山城を中心としたエリアの再整備案をテーマに施設を有効に活用できていない
岡山市の現在のまちづくりの課題などについて話しました。
【福岡】弥生から古墳まで出土品を紹介 八幡東区09/17 14:51 更新
ttp://www.kbc.co.jp/top/news/lbi/kbc_0023.html 日本文化の基礎がつくられたといわれる弥生時代から古墳時代を紹介した特別展が17日、北九州市の博物館で始まりました。
北九州市のいのちのたび博物館で始まった特別展「邪馬台国が見える!!古代日本の原風景」には、
九州や近畿地方などの主要遺跡から出土したおよそ150点が展示されています。
畑の掘り起しに使う鋤や穀類の脱穀に用いた杵など弥生時代の木製品も並んでいます。
機械化される前の日本の農具の原型で、現代の道具の基本を見つめ直すことができそうです。
26点の国宝や重要文化財の中には、直径46.5センチで日本最大とされる青銅の鏡・国宝「内行花文鏡」も展示されています。
訪れた人たちは、出土品から時代の息遣いをしっかり感じ取っているようでした。
この特別展は、11月4日まで開かれています。
おしい!広島城
ttp://news.rcc.jp/?i=21510#a 広島城の魅力を知ってもらおうと、ユニークな企画展が始まりました。
広島城天守閣で開催されているのは、その名も「おしい!広島城公開コレクション展」
です。毛利輝元によって築かれた広島城ですが、来場者の多くには、祖父の元就が築城したと思われていることなど、
城や収蔵品の「おしい!」をテーマにしています。こちらは、広島藩の御用絵師だった山野峻峯斎の「四季耕作図屏風」です。
農村風景を丁寧に描いてますが、農作業を知らなかったのか、種もみを直接、池に入れてしまっている不思議な光景です。
(学芸員)「広島城の博物館として集めてきた収蔵品というは約5000点あるんですけれどもこれを一堂に展示する場所が、
広島城狭いんでないんで大変おしいんですよ」この企画展は、10月下旬まで開かれています。[2013.9.15 11:57]
岡山城で「江戸の遊び心」特別展
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130921_1 からくり人形など江戸時代の遊び道具を集めた秋の特別展が岡山城天守閣で始まりました。
茶碗を運ぶからくり人形です。ぜんまい仕掛けで動いています。
岡山城天守閣には、設計図をもとに人形師が復元したからくり人形や寄せ絵など江戸時代の遊び道具約60点が集められています。
江戸時代、大人から子供まで多くの人に感動をもたらした「からくり」からは、遊び心や技術力の高さがうかがえます。
「盃(はい)運び人形」と呼ばれるからくり人形は、製作年代がわかるものの中では最も古いからくりとされています。
岡山城秋季特別展「江戸の遊び心」は11月10日まで開かれ、期間中は人形の実演も楽しめます。
488 :
日本@名無史さん:2013/09/23(月) 09:42:33.00
特定秘密保護法案:秘密文書残らぬ恐れ
http://mainichi.jp/select/news/20130923k0000m010079000c.html 安全保障に関する情報漏えい防止を目的にする「特定秘密保護法案」で、保存期間が
過ぎた秘密文書がそのまま廃棄される恐れがあることが分かった。同法案を所管する内閣
官房は、保存期間満了後の文書の取扱規定を盛り込まない方針で、「秘密にしたまま」
担当省庁の判断で廃棄される可能性がある。識者からは「国の秘密になるほど重要な情
報は歴史に残し、後世の検証の対象にするのは当然」と批判が上がっている。
◇保存期間後、取扱規定盛らず
法案は、政府が10月召集の臨時国会に提出する方針。漏えいすれば「国の安全保障
に著しく支障を与える恐れのある」防衛、外交、テロ活動防止など4分野の情報を閣僚ら
が「特定秘密」に指定し、漏らした公務員らに最長懲役10年の罰則を科す内容だ。
通常の公文書は「公文書管理法」で保管のルールが定められている。文書の廃棄は「首
相の同意が必要」と規定され、省庁は勝手に廃棄できない。内閣官房内閣情報調査室
の能化(のうけ)正樹次長は、特定秘密の文書保存・廃棄について「情報が秘密指定中
は公文書管理(のルール)に移行することはない」と説明。特定秘密情報が公文書管理法
の適用を受けず、省庁の判断で廃棄できる可能性を示唆した。
公文書管理のあり方に詳しいNPO法人「情報公開クリアリングハウス」の三木由希子理
事長は「特定秘密の保存ルールを決めないと、どのような情報を秘密にしたのかなど行政
判断の検証が将来的にできなくなる恐れがある」と指摘している。
◇解説…検証できず構造的欠陥
2011年4月に施行された公文書管理法は、主権者である国民が公文書を主体的に
利用できるようにし、行政に対しては「将来の国民に説明する責務が全うされるようにする」のが目的だ。
1972年の沖縄返還を巡り日米政府が交わした密約文書は、米国は公文書館に保管
していたが、日本政府は文書の存在も認めていない。文書開示を求めた訴訟で東京高裁
は11年、政府による文書廃棄の可能性を指摘した。返還当時、公文書管理法があれば
省庁任せのずさんな管理を避けられたかもしれない。(ry
黒田兵衛宛ての“書状”初公開TNC 2013/09/23 12:10:00
豊臣秀吉の軍師で福岡藩の礎を築いた黒田官兵衛ゆかりの武具などを集めた展示会が福岡市博物館で開かれている。
徳川家康の側近、本多忠勝が官兵衛に送った書状が初公開。書状の公開は来月14日まで。
2013.9.22 18:29伊達57騎武者行列
ttp://www.ebc.co.jp/bangumi/snews/news_kiji.asp?SirialNo=44910 1615年に伊達政宗の長男・秀宗が57人の家臣を連れて宇和島入りした様子を再現した武者行列がきょう、
行われました。
この武者行列は去年のえひめ南予いやし博の地域企画イベントとして始まったもので、今年も公募で選ばれた
22歳から68歳までの60人が鎧・兜姿で市内中心部を練り歩きました。
コースは道の駅きさいや広場を出発しアーケード商店街を抜けて南予文化会館に向かうおよそ1.2キロ、
途中の商店街では2体の牛鬼も合流し一緒に練り歩きました。
ゴール地点では、取り囲む武者の中で和霊大祭の時そのままに牛鬼が勇壮な練りを披露した他、もちまきも行われ、
見物客は3連休の中日を楽しんでいました。
“秀吉が食した料理”とは9月20日(金) 21時17分
ttp://rkb.jp/news/news/16754/ 戦国時代の武将・豊臣秀吉のゆかりの茶道具などを集めた展覧会が、きょうから佐賀県唐津市で開かれています。
展示の目玉は、「黄金の茶室」です。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/09/2013-09-207-150x84.jpg 唐津市の名護屋城博物館には、豊臣秀吉が愛した黄金の調度品や茶の湯の名品およそ60点が集められています。
こちらは、天井や壁、茶道具にまで金ぱくがあしらわれた「黄金の茶室」です。
秀吉が大阪城から名護屋城に移築し、茶会を楽しんだという記録が残っていて、史料をもとに復元され、京都市が所蔵しているものを借り受けました。
会場には、このほか、秀吉が自ら作ったとされる茶道具の「茶杓」や、功労者に与えた「茶壷」のほか、世界最大級の金貨や金ぱくが張られた陣羽織なども展示されています。
絢爛豪華な桃山文化と「茶の湯」を融合させた秀吉の美意識に触れることができるこの展示会は、11月4日まで開かれています。
※スタジオ●坂田キャスター
ところで、この展示会を盛り上げようと、朝鮮出兵の際、現在の唐津市に集まった秀吉や大名たちが食べたとされる
当時の料理を、唐津市内のホテルや飲食店が、現代風にアレンジして提供しています。
●安部リポーター「こちらが、秀吉たちが食べた料理を現代風にアレンジしたものなんです。いや〜、ぜいたくなものを食べてますね〜」
タイとアワビの「雲丹焼館盛(うにやきやかたもり)」。
唐津名産のウニの殻の中に、タイとアワビの切り身が入っていて、その上にウニが盛り付けられています。
朝鮮出兵の際に食料の補給などを担っていた博多の豪商・神屋宗湛は、当時、豊臣秀吉が食べていた料理などを「宗湛茶湯日記」に記していました。
この中の1つ、アワビとタイの焼き物を、唐津市のホテルが現代風にアレンジしました。
唐津市内10か所の宿泊施設や飲食店で、今、朝鮮出兵のため名護屋城に集まった秀吉や戦国大名の食事をもとにした創作料理が提供されています。
●説明する観光ホテル大望閣・古舘博代表取締役「ちょうど真正面、向こう岸の右手の山が黒田長政の陣跡になります。
それから、橋から左手の山ですね、こちらが伊達政宗の陣跡になります。それから、さらに左の方にいきますと、徳川家康の別陣跡というふうになります」
およそ420年前、秀吉は、出兵の拠点として、現在の唐津市鎮西町名護屋に「名護屋城」を築きました。
城の周囲には、130以上の大名の陣屋があったそうです。
「唐津上場商工会」は、意外と知られていない名護屋地区の歴史を「大名の食事」を通して改めて紹介しようと、今回の「秀吉と天下料理」という催しを企画しました。
●古舘博代表取締役「あまり知られていないんです。ですから、今回、こういったことを通しまして、
さらに皆さん方に知っていただいて、こちらに来て楽しんでいただければというふうに思っています」
「宗湛茶湯日記」には、秀吉が開いた茶会で「湯付け」という料理が提供されたことも記されています。
●料理を運んでくる国民宿舎波戸岬・古川寛泰営業課長「お待たせいたしました。『汁かけ飯』でございます」
安部「汁かけ飯?」ごはんにさ湯をかけて食べる「湯付け」を、ちょっと豪華にアレンジすると、こうなりました。
●料理を食べる安部リポーター安部「(食べて)うん!焼いた味噌とアジからいいダシが出てますよ。
これで、私も戦国一の出世頭と言われた秀吉みたいに出世できますかね」
古川課長「はい。これで天下がとれます!」安部「頑張ります!」
こちらは、美食家としても知られた伊達政宗の好物だったアワビの酒蒸しです。
ユニークな食のイベント「秀吉と天下料理」は、来年3月いっぱい開かれます。
美作国分寺の復元模型が完成
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20130928_1 津山工業高校の生徒が制作に取り組んだ美作国分寺の復元模型が完成し、来月一般公開されることになりました。
完成した美作国分寺の復元模型は、美作国建国1300年の記念事業の一環として、制作されたもので、
たて横それぞ約1.3メートルで200分の1の大きさです。
津山工業高校建築科の3年生が去年4月から資料集めなどにとりかかり、今年度の3年生に制作を引き継いで
このたび完成しました。
美作国分寺の復元模型は10月12日に津山市で開かれる全国国分寺サミットで一般公開されます。
筑前植木「大名行列」
ttp://rkb.jp/news/news/16774/ 筑前植木「大名行列」 福岡県直方市の筑前植木天満宮ではきょう放生会が開かれ、4年に1度の「...
(9月22日(日) 18時31分)
福岡県直方市の筑前植木天満宮ではきょう放生会が開かれ、4年に1度の「大名行列」も行われています。
直方市の植木地区できょう行われている「筑前植木岡分流大名行列」には、地元の氏子らおよそ130人が参加しています。
裃姿の男衆を先頭に筑前植木天満宮を出発した一行は、笛を吹いたり毛槍を振り上げたりしながら周辺およそ5キロを練り歩きました。
大名行列は五穀豊穣を願って毎年開催される筑前植木天満宮の放生会で4年に1度だけ行われるものです。
かつて宿場町として栄えた植木地区の人たちが、江戸時代の大名行列を再現しようと明治の初期に始まったとされ、市の無形民俗文化財に指定されています。
行列に続いて山笠も披露され沿道からは歓声が上がっていました。
吉野ヶ里で展示会”よみがえる邪馬台国”9月23日(月) 12時12分
ttp://rkb.jp/news/news/16777/ 弥生時代、日本列島にあったとされる「邪馬台国」の歴史の謎にせまる展示会が佐賀県の吉野ヶ里歴史公園で開かれています。
「よみがえる邪馬台国」は魏志倭人伝に記され所在地について諸説ある邪馬台国の謎にせまろうと企画されました。
5年目になる今回は「倭人伝の道」がテーマです。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/09/2013-09-23-150x84.jpg 会場には、吉野ヶ里遺跡の出土品のほか、魏志倭人伝に海洋ルートの拠点だったと記されている長崎県の壱岐と対馬、それに佐賀県唐津市の遺跡から出土した青銅の矛や鏡、土器などおよそ300点が展示されています。
当時の日本人は、これらの地域を経由して大陸に渡っていったと見られていて、各地の遺跡からは大陸から持ち込まれた品も多数出土しています。
この展示会は11月10日までで今月29日には記念フォーラムも予定されています。
小豆島“残念石”調査進む09月25日 17:11
ttp://www.ksb.co.jp/newsweb/index/19 8月の夏休み特別企画でお伝えした小豆島の残念石調査の最新情報です。
江戸時代に徳川幕府が大坂城の石垣を作り直す際、小豆島の石が大量に使われました。
誰がどのようにして運んだのかなど、詳しいことはほとんど分かっていませんが、この「石の謎」が徐々に明らかに
なってきました。
伊達博で佐賀・鍋島家の名品展
ttp://w2.rnb.co.jp/nnn/news8783531.html 江戸時代、宇和島藩伊達家に3人の姫が輿入れした佐賀藩・鍋島家の貴重な品を集めた特別展が、
宇和島市立伊達博物館で開かれている。
特別展は、婚礼という縁でつながった佐賀と宇和島の歴史や文化を伝えようと宇和島市などが開いた。
会場の市立伊達博物館には、佐賀県内の美術館などで所蔵されている78品が展示されている。
仮装舞踏服は鍋島家の最後の藩主だった鍋島直大とその妻、鍋島栄子が1887年に開かれた舞踏会で実際に
着用した洋服。
男性用は明るい緑色、そして女性用は鮮やかな赤色で作られていて、それぞれに金モールやバラの刺繍などが
施されている。
このほか、同じく鍋島栄子が愛用した鉄製の小さな「かんざし」を拡大鏡で眺ることができるコーナーでは、
訪れた女性客たちがかんざしにデザインされた小さな真珠飾りをじっくりと見学していた。
この特別展は宇和島市立伊達博物館で今月14日まで開かれている。[ 10/5 14:02 南海放送]
”尾張徳川家の至宝展”準備進むTNC 2013/10/08 19:00:00
徳川家ゆかりの品々が並ぶ尾張徳川家の至宝展の開催を前に九州国立博物館で展示準備が始まっている。
黄金の茶道具や家康の甲冑など国宝や重要文化財を含む約230点が展示される。今月12日に開幕。
500 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 07:47:09.94
青銅鏡:古墳で拾った小学生の宝物、国内最古級の重文
http://mainichi.jp/select/news/20131009k0000m040052000c.html 神戸市灘区の国指定史跡「西求女塚(にしもとめづか)古墳」の公園で小学生が4年
前に拾い、宝物として保管していた金属片が、1986年に同古墳から出土した青銅鏡(1
世紀後半)の一部と分かった。8日発表した市教委によると、青銅鏡は古墳で見つかった
中では国内最古級で国の重要文化財に指定されている。小学生は金属片を寄付し、市
から感謝状を受け取った。
市立西灘小6年、佐野翔梧君(12)。2009年1月、公園で友人らと鬼ごっこをしてい
た際、文様入りの金属片(縦3.4センチ、横5.1センチ、厚さ1ミリ)を発見。持ち帰ってビ
ニールポーチに入れ、時々眺めては由来を想像していた。
その後、社会科で習った青銅鏡に似ていると思い、今年5月に学校に持参。市教委文
化財課で分析した結果、同古墳から出土した青銅鏡「浮彫式獣帯鏡」(推定直径約
19.5センチ)の一部と判明した。
この日、市役所で記者会見した佐野君は「謎のかけらが2000年前のものと分かり、皆
に見てもらえて本当にうれしい。考古学にも興味が出てきた」と話した。
同古墳は3世紀後半の前方後方墳で国内最古級。計12枚の青銅鏡が見つかり、05
年に一括して重要文化財に指定された。
501 :
日本@名無史さん:2013/10/09(水) 08:23:13.88
日本で一番古い家系は、大御食神社の社家「高皇産霊尊裔 阿智氏族 小町谷氏」。
http://utukusinom.exblog.jp/21164439/ 大御食神社社家の小町谷氏は、日本最古の家系である。
通説では日本最古の家系は出雲の千家氏及び北島氏で、始祖はアマテルの第一子である天穂日命とされているが、
小町谷氏の始祖「思兼尊(阿智彦)」はアマテルの妹の夫であり天穂日命より一代早い。
尾張徳川家の至宝 準備進む(2013年10月8日 16:34)
ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=9979 博物館の学芸員らが慎重に運ぶのは、九州初公開となる国宝です。
徳川家光の長女・千代姫の嫁入りの際に持参したという純金の茶道具です。
九州国立博物館では、今月12日から始まる特別展「尾張徳川家の至宝」の準備が進められています。
一方こちらは、家康公が愛用した実物の甲冑です。
この特別展では、愛知県名古屋市の徳川美術館が所蔵する尾張徳川家ゆかりの品々約230点を展示。
土曜日から一般公開し、期間中10万人を超える来場を見込んでいます。
伊達博で特別展「結の華」
ttp://eat.jp/news/index.html?date=20131010T114943&no=7 宇和島伊達家と佐賀鍋島家ゆかりの貴重な品々を集めた特別展が宇和島市の伊達博物館で開かれています。
宇和島伊達家と佐賀鍋島家は江戸時代に3組の縁談が結ばれるなど縁が深く、今回の特別展には両家ゆかりの
品々78点が展示されています。
特別展では鍋島家11代鍋島直大が1887年の舞踏会で着用したとされる鮮やかな緑色を基調とした仮装舞踏服や、
鍋島家の家紋、杏葉紋があしらわれた調度品などが展示され、華やかな生活や両家の「縁」を知ることができます。
そのほか、佐賀鍋島家の親戚にあたる武雄鍋島家が1835年に日本人として初めて製造したとされる洋式大砲で、
武雄市の重要文化財、「モルチール臼砲」も展示されています。特別展「結の華」は今月14日まで開かれています。
505 :
日本@名無史さん:2013/10/13(日) 10:20:11.25
★「コザ騒動」3Dで再現 沖縄市が無料アプリ提供
2013年10月12日
沖縄市(東門美津子市長)は、県内外に同市の沖縄戦後史を発信するため、米軍統治下の
1970年に発生した「コザ騒動」の現場を、3Dの立体映像で再現したコンピューター
グラフィックス(CG)を閲覧できるアプリ「沖縄の怒りと悲しみが燃えた夜『コザ暴動』」
を作製した。修学旅行の歴史学習での活用を見込み、今月から無料アプリの提供を開始している。
コザ騒動は、米兵による人身事故をきっかけに、70年12月20日未明から明け方にかけて、
沖縄市の国道330号やゲート通りで発生した。米兵による凶悪事件や性犯罪など、
米軍統治下で続く人権抑圧に怒る住民ら数千人が、米人車両約80台を横転させて炎上させた。
アプリでは、騒動時の写真資料を参考に、米人車両が炎上した市内7カ所の現場を3D画像で表現。
当時の沖縄市の建物や看板、道路などの街並みもリアルに再現し、360度全方位を視聴することができる。
アプリの地図中に表示された現場に近づくと、騒動時に撮影された写真約20点も見られる。
スマートフォン(多機能携帯電話)やタブレットパソコンに、アプリサイトから無料で取り込む
ことができる。同市の戦後史の解説資料をまとめたページもある。
市は県や沖縄観光コンベンションビューローと連携して、修学旅行の誘致促進を図るコンテンツとして活用する。
担当する市文化観光課の與那嶺良一副主幹は「アプリを活用したボランティアガイドなども整備して、
修学旅行生や観光客に新たな戦後文化の学習体験の場を提供したい」と意気込んでいる。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-213721-storytopic-5.html http://ryukyushimpo.jp/uploads/img5258b5532c342.jpg
岡山市で宇喜多秀家フェス開催
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20131013_1 岡山城主・宇喜多秀家とその父・直家の偉業を多くの人に知ってもらおうと「宇喜多秀家フェス」が開かれています。
会場の岡山城天守閣前広場には朝から大勢の歴史ファンらが訪れました。
このイベントは、岡山の基礎を築いた宇喜多直家と秀家親子を、多くの人に知ってもらおうと岡山商工会議所などが
開いているものです。
鎧兜を身に着けた約20人の鉄砲隊が火縄銃で演武を披露すると会場は戦国ムード一色に包まれました。
午後からは秀家とその妻豪姫による時代行列が表町商店街で行われます。
宇喜多父子の偉業を称えPRイベント
ttp://www.rsk.co.jp/news/news_local.cgi?id=20131013_6 岡山城主・宇喜多秀家とその父・直家の偉業を多くの人に知ってもらおうというイベント「宇喜多秀家フェス」が開かれました。
会場の岡山城天守閣前広場には朝から大勢の歴史ファンらが訪れました。
このイベントは、岡山の基礎を築いた宇喜多直家・秀家父子を多くの人に知ってもらい、観光振興につなげようと
岡山商工会議所などが開いているものです。
鎧兜を身に着けた鉄砲隊が、火縄銃で演武を披露すると、会場は戦国ムード一色に包まれました。
訪れた人は、秋晴れの下、連休のひとときを楽しんでいました。
【沖縄】琉球王国の時代絵巻を再現、首里城から行列10/14 18:34 更新
ttp://www.kbc.co.jp/top/news/lbi/kbc_0002.html 琉球王国だった時代の行事を再現です。沖縄県那覇市では14日、「歴史絵巻行列」が行われました。
この行列は、当時の国王が首里城から城の外にある神社へ出向き、国家の安泰と無病息災を祈願したという行事を
再現したものです。
楽隊が奏でるメロディーの中、国王や王妃が城内を練り歩き、王国時代の雰囲気を漂わせていました。
10月14日19時28分更新 現代源平屋島合戦絵巻
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=2 源平の戦いが現代によみがえりました。高松市屋島の源平合戦ゆかりの地で紅白のチームが合戦を繰り広げる
催しが行われました。合戦は合戦でもスポーツを通した戦いです。
「現代源平屋島合戦絵巻」は源平の戦いが行われた古戦場を舞台に高松市屋島の歴史的価値を見直そうと去年に
引き続き瀬戸内国際芸術祭の公式イベントとして開かれたものです。
公募で選ばれた参加者が源氏と平氏の紅白のチームに分かれてサッカーや騎馬戦などで戦い、観客を含め総勢
5000人が集まりました。合戦をしめくくるのは「扇の的」です。
那須与一が扇を弓矢で射ぬいた出来事にちなみ元Jリーガーの松原良香さんが25メートル先の扇に向かって
ボールを蹴り抜きました。
去年は歴史をくつがえし紅組・平氏の勝利でしたが今年は史実の通り白組の源氏が勝利しました。
金印シンポジウム開催TNC 2013/10/19 18:00:00
福岡市の志賀島で金印に関するシンポジウムが開かれた。
これにあわせ国内にもう1つある金印「平阿侯印」も特別展示された。
平阿侯印は約2000年前の前漢末の時代のものといわれている。
10月21日11時53分更新 延養亭の特別公開
ttp://www.ohk.co.jp/news/sp/detail.php?N=3 岡山市の後楽園で岡山藩主の居間として使われた「延養亭」の特別公開が21日から始まりました。
特別公開は3年前の国民文化祭をきっかけに始まったもので今回で4回目です。
21日午前は県内外から13人が訪れ、ボランティアに案内されながら部屋の中をまわりました。
延養亭は2代目岡山藩主池田綱政が建てたもので、以来、藩主専用の「居間」として使われてきました。
岡山空襲で焼失したため現在の建物は約50年前に再建されたものですが、訪れた人は普段は見ることが
できない延養亭からの景色を堪能していました。
特別公開は事前に申し込んだ人を対象に今月27日まで1日2回行われます。
【長崎】鷹島沖の海底調査、木製碇の一部と碇石発見10/22 20:20 更新
ttp://www.kbc.co.jp/top/news/lbi/kbc_0001.html 松浦市の海中に沈んだ元寇船で、新たな発見があったようです。
およそ730年前の鎌倉時代に沈んだ元寇船が見つかった長崎県松浦市の鷹島沖で、新たに珍しい形の碇石が
見つかりました。調査をしたのは、琉球大学の池田栄史教授の研究チームです。
海底をおよそ1メートル掘り下げた場所で、長さ10メートル近いと思われる大型の木製の碇の一部と、
それに取り付ける長さおよそ2.5メートル、中央の幅と厚さがおよそ40センチの細長い碇石が見つかりました。
鷹島沖ではこれまでにも元寇船の碇石が数多く見つかっていましたが、これまでは作り方が簡単な左右2つに
分かれた形の物しかなく、碇を貫く細長い碇石が見つかったのは初めてです。
池田教授は「鷹島に持ち込んだ物は、日本攻略用に特別に緊急であつらえた物だと考えていたが、
従前から作られていた船なども当然動員されていて、多種多様な船があったのだろうと」と話していました。
また今年は、細長い棒を海底に突き刺す調査で新しい木材や石材と思われる物も確認され、
来年以降の大きな発見に期待が持たれます。
517 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 06:59:11.44
518 :
日本@名無史さん:2013/10/24(木) 19:26:27.58
スペインの「ハポン」400年経てDNA鑑定へ
スペイン南部の「ハポン(日本)」姓の人々と約400年前に渡航した
日本人のサムライらとの血縁関係をDNA鑑定で探る名古屋大学、東京大学、
国立遺伝学研究所などによる共同研究チームが24日、約600人のハポンさん
たちが住む町コリア・デル・リオで初めての血液採取を行った。
研究チームは今後、日本人の遺伝情報との比較を行う予定だ。
同町の古文書に「ハポン」姓が現れ始めるのは、慶長遣欧使節一行が
訪れて数十年後から。地元の郷土史家らは「ハポンさんたちは、
スペインに残留したサムライたちの子孫」との説を提起している。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131024-OYT1T00858.htm
”出土品でたどる古代国家の歩み”10月18日(金) 12時50分
ttp://rkb.jp/news/news/17277/ 日本の古代国家の成立までの歩みを紹介し、『邪馬台国』について理解を深めてもらおうという展示会が北九州市で開かれています。
八幡東区のいのちのたび博物館には、九州北部や近畿地方などの国宝を含む出土品150点あまりが展示されています。
弥生時代に実在したとされる『邪馬台国』の所在地は九州説と近畿説があります。
会場には、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や福岡県糸島市の平原遺跡から出土した青銅の鏡や鉄製の刀剣のほか、
卑弥呼の墓といわれる奈良県の箸墓古墳から出土した壺形埴輪なども展示されています。
いのちのたび博物館では「九州と近畿の出土品を対比して見ることで、
『邪馬台国』がどちらにあったかなど日本や郷土の成り立ちに思いを馳せてほしい」と話しています。
この展示会は来月4日まで開かれています。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/10/2013-10-18-150x84.jpg
520 :
日本@名無史さん:2013/10/26(土) 09:04:52.76
大学生が歴史を研究するとは実際のところなにをしているのか
http://newclassic.jp/archives/2072 編集部注:本論は、東京大学大学院で歴史学を修了した筆者による寄稿だ。以前アップさ
れた別の筆者による記事を受けて、歴史学についての記事を寄せてくれた。非常に長い記事に
なっているが、間違いなく一読の価値のあるものであり、ぜひじっくりと目を通していただければと思う。
「大学生が歴史を勉強するとはなにをしているのか(転載)」。
http://newclassic.jp/archives/305 先日アップされたこの記事を読んでこう思った。 確かに立派だ。
でも、同じ歴史学科の学生だった人間として思うんだけど、実際はもっと地味じゃない?
もっと地味なことをして、地味なことに頭を奪われているような…。 こう、写本の一文字をめ
ぐって東西奔走するような、地べたを這うが如き史学生の日常を伝えることはできないのか!?
そこでこの記事では、すごーく地味な、でも時にドラマティックな史学生の考証作業のプロセ
スをちまちまと追ってみたいと思います。 ここで少し趣向をこらして、かなり昔、太平洋戦争
が始まる少し前ごろの学生に登場してもらおうと 思います。
主人公のS君は、1916年生まれ。東京帝国大学の国史学科に進学し、日本中世史を専攻します。
S君が卒業論文の題材に選んだのは、鎌倉幕府の訴訟制度です。御成敗式目のように、
鎌倉幕府の法 ・裁判に関しては多くの史料が残っていますね。 卒論では、六波羅探題
(京都におかれた幕府の機関)の裁判制度の解明にもS君は手をつけます。その 一環として、
S君が証明しようとするテーマは次のようなものでした。
《六波羅探題の裁許状(判決書)の継目裏花押は、六波羅探題の引付頭人によるものである》
…耳慣れないタームばっかりで恐縮ですが、ちょっとガマンして読んでもらえると幸いです。(ry
「尾張徳川家の至宝」に来場3万人(2013年10月25日 14:23)
ttp://www.tvq.co.jp/news/news.php?did=10050 九州国立博物館で開催中の特別展、「尾張徳川家の至宝」の来場者が25日、3万人を突破しました。
3万人目の来場者は、福岡市東区から訪れた88歳の佐野惣明さんです。
福岡市の観光をPRする「福岡黒田武将隊」から愛知県の銘菓「青柳ういろう」など記念品が贈られました。
佐野さんは、「米寿で3万人目という区切り、節目を不思議に感じます」と感想を述べていました。
この特別展は、愛知県名古屋市の徳川美術館が所蔵する尾張徳川家ゆかりの品約230点を展示。
12月8日までの期間中20万人の来場を目指すとしています。
“もうひとつの金印”志賀島に10月21日(月) 20時53分
ttp://rkb.jp/news/news/17341/ 「金印」と言えば、福岡市の志賀島で江戸時代に発見されたものが有名ですが、実は、これとよく似た金印が国内にあります。
このほど、志賀島でのイベントで公開された「もうひとつの金印」、どんなものでしょうか?「漢委奴国王」と刻まれた金印。
福岡市東区の志賀島で江戸時代に発見され、現在、国宝に指定されています。
「西暦57年に後漢の光武帝が授けたもの」とされていますが、なぜ志賀島で見つかったのかなど、いまだにさまざまな謎が残されています。
●金印シンポジウム 「私ども、志賀島歴史研究会は、今回、7回のシンポジウムをやります」
金印にまつわる謎に迫り、歴史のロマンを感じてもらおうと、毎年、開かれているシンポジウムに、ことし、ある貴重な品が展示されました。
●参加者 「こういうものがあるっていうことは、きょう、初めて知ったわけですよ」 「もう本当、すごいですよね、何千年も昔に作られたものとは思えませんよね」
国宝の金印のレプリカと並んで展示されているのが、日本国内にあるもう1つの金印「平阿侯印」の実物です。
志賀島の金印よりも80年ほどさかのぼる紀元前27年、前漢時代の末期、王族の1人・平阿侯に下賜されたものとされています。
印面は、一辺が2.35センチの正方形で、国宝のものとほぼ同じ。重さは130グラムで、つまみ部分の「鈕(ちゅう)」は亀の形をしています。
シンポジウムの前に、特別に持たせてもらうことができました。
ttp://rkb.jp/news/files/2013/10/2013-10-216-150x84.jpg ●西口リポーター 「貴重なものなので、ちょっと手袋をはめさせていただいて。では、きゃー、金印を手にします。
うわー、これ、かなりずっしりくる重さがあるんですね。これが、2000年の歴史の重みなんでしょうか。はー、ちょっと、手が震えます」
この「平阿侯印」、東京在住の男性が個人で所有しているもので、二十数年前に香港の業者から購入、
科学鑑定の結果、国宝の金印と金属の組成が極めて似ていることがわかりました。
●「平阿侯印」の所有者・佐野豊進さん 「ノミ跡がすごくきれいに力強く彫ってるんですね。
国宝の金印と、その彫りがすごくよく似てるんですよ。(国宝の金印とは)80年ぐらいの差ですから、同じ工房とか、
お師匠さんと弟子の作品とか、そういうことかもしれないですね」
金印発見の地、志賀島で、今回初めて公開されたもう1つの金印「平阿侯印」。
2000年の時を超えてなお、色あせないその輝きに、訪れた人たちは見入っていました。
※スタジオ ●坂田キャスター 握りのところが、ちょっと違いましたね。●川上キャスター 亀でしたよね。
あの「漢委奴国王」っていうのは歴史の教科書にありますけど、これ、「平阿侯印」って初めて聞きました。
●島田誠さん さかのぼってみたいです、2000年前に。どうやってしたのか。
●川上キャスター どういうふうないきさつのある印なのか、知りたいと思いますよね。
ただ、はっきりわかってないんですよね。●池尻キャスター そうなんですよ。
この金印を所有する佐野さんは、書道用具の輸入を手がけている縁で、香港の知人から金印の購入を持ちかけられたんだそうです。
●川上キャスター この金印が発見された経緯などは、中国国内で見つかったということ以外、はっきりしていないんだそうです。