1 :
日本@名無史さん :
2008/08/09(土) 02:14:26 平安時代関係のスレでは一度は必ず巻き起こる一条天皇と定子を 巡る様々な論争。正直辟易としている方もいるのでは? そこで一条天皇とその女達と子供について徹底的に 討論してみようじゃないかという専用スレを立てました。 なお、女達というのは母親や女房も含むこととします。 政権抗争というお固い話から甘く切ないラブロマンスまで ご自由にどうぞ。 ただ、信者もアンチもほどほどに。
2 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 03:09:33
一条天皇は、定子、4の君(妹)と中関白家の娘が好みだったんでワ?
3 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 04:54:21
敦康親王と躾子内親王は定子様ににていて、修士内親王は帝に似てそう。
4 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 07:45:42
「暴れん坊少納言」でも読んでなさい マンガだけど一通り皆でてくる 主役が少納言だから定子側メインだけど 彰子も式部もバンバン出てくるぜ 和泉式部も
5 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 11:18:28
定子、彰子だけじゃなく元子ちゃんも忘れないでね。
6 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 11:49:39
義子もな
7 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 12:03:02
光源氏のモデルは道長他数名いるが、敦康親王もモデルといわれている。 美貌の定子様に似て、美青年で一条帝の秘蔵っ子だったからね。
8 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 12:30:30
家柄や血筋的には元子が一番高貴なんだけどね。
9 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 12:31:43
清少納言、性格的には西川史子女医なんか連想する。
10 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 13:33:01
>>7 皇太子になれなかったことは残念だけど父帝や義母、祖母に
凄く可愛がられて、頼道とも仲が良かったというから
定子もあの世で安心だったのではないかなと思う。
早死なのは血筋かも。
12 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 14:07:52
命を懸けて生んだ躾子内親王が早世したのはかわいそうだね。
13 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 14:16:47
>>4 私は、昔NHKであった番組を元に漫画化した枕草子がいい。
14 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 14:20:52
兄弟姉妹バラバラだったから、修子内親王なんかは 御堂関白家の悪口聞かされて育って、父の死後キレたんだろうね。
15 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 14:35:25
歴史のBEST主従関係上位に入るよね=中宮と清少納言 中大兄皇子と鎌足 信長と秀吉 明治天皇と乃木 とかに匹敵するよ。
16 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 19:51:55
一条天皇の後宮 皇后;藤原定子(一条天皇の従姉) 中宮;藤原彰子(一条天皇の従妹) 女御;藤原義子(一条天皇のまたいとこ) 女御;藤原義子(一条天皇のまたいとこ) 女御;藤原尊子(一条天皇の従姉) 近い血縁ばかりだ 定子と彰子、尊子もまた妃同士がいとこ同士 「枕草子」を根拠に定子が美人だったというなら 「紫式部日記」や「栄華物語」には彰子が美人だとあるのだから 女房日記の信憑性としては同程度だろ 彰子も美人だった
17 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 20:45:13
彰子の部下が書いてるし・・・。 枕草子は他人に見せるつもりはなかったらしいよ。
18 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 20:48:29
>>17 この時代の日記で他人に見せるつもりのないものなんて
あるはずないじゃんw
それに他人に見られないから信憑性があるとでも?
彰子が美人だったという史料は多いんだが
19 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 20:57:39
長生きしてるし、父親の栄華が長かったからだろ。
20 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 21:00:19
「紫式部日記」は中宮彰子ばかりか 周囲に仕える女房たちについてもこの人はたいへんなまめかしいだの 事細かな描写を加えて記述している 紫式部の筆舌にかかれば彰子は美人だったと言えると思う ほかにも中宮は産が近くて気分が悪いのに女房たちの 世間話を何事もないかのように聞いておられる、 こんな立派な方に仕えることができて喜びであるとか、 皇子出産で周囲がわき立つ中、 中宮さまは嬉しいという気持ちは自然にあるものの 特に得意顔なさるわけでもないとかその性格についても言及がある 紫式部は源氏物語ばかりが有名でよく研究もされているのに 紫式部日記の研究が少なく枕草子ほどには知られていないのが残念だが かなり詳細な彰子の記述があるよ
>>2 中関白家の娘
定子より美人だったという次女の原子は
三条天皇の後宮にあってもあまり寵愛を受けなかったようだし、
(原子は兄弟失脚の際にも出家をしなかったために、
失脚後も東宮時代の三条天皇に侍り続けた。
だが、勢いのある家柄でもなかった娍子が寵愛を独占していた)
三女は精神異常があったという。
枕草子などにある一条天皇と定子の仲がどこまで真実かは知らないが
中関白家の娘が皆男に寵愛されていたわけでもない。
また、定子が兄弟失脚後も一条天皇の子を産んだことをもって
寵愛されていたと主張する人が2ちゃんねるに見られるが、
出家した定子を宮中へ入れたのは東三条院と道長、
定子に皇子を産むよう促したのも東三条院と道長だということをお忘れなく。
道長が政権を担当した当時、道長の娘たちはまだ幼く、
公季や顕光の娘が次々と入内して一条天皇の寵愛を受けるのを
指をくわえて黙ってみているわけにはいかなかった。
定子ならば東三条院にとっても道長にとっても姪、
皇子が誕生すれば失脚した兄道隆一族に代わり
道長が後見人となることはこのとき筋書きにあったと思う。
彰子が成長すれば道長が実娘を後押しすることは当然だったが。
定子の宮中入りはあくまでも時の政権担当者の意向であり、
一条天皇に対して大きな権限を持つ東三条院の意向であったことをお忘れなく。
22 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 21:58:52
>>21 おらは彰子も定子も好きだけどこういう書き方って何かキモイ。
母ちゃんの意向が強かった、道長の意向が強かったというのは
+αな要素でやっぱり一条天皇にも戻ってきて欲しいという
気持ちはあったんだと思いたいな。
一条天皇が定子を凄く大事にしているのを知っていたからこそ
まわりの人もその子供達を定子死後可愛がったんだと思うよ。
23 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 22:23:32
>>22 19みたいに、彰子が美人だったという記述が残るのは父親の権威のお陰だという記述があったからさ。
それなら、定子だって父親の権威&一条天皇の母東三条院の権威のお陰があっただろうと。
嫌なんだよね、彰子が一条天皇に寵愛されたのはすべて父の権威のお陰、
だけど定子は誰の庇護も受けずに自分の努力で寵愛を勝ち取りました、って主張。
定子は関白の娘として一条天皇に最初に入内し、その後宮を5年間も独占していた。
だけど彰子は5人目の妃として一条天皇に押し込まれ、他人の子供を養子にあてがわれ、
苦労は並大抵ではなかったと思うよ。
24 :
紫式部の基礎データ :2008/08/09(土) 22:46:53
本名:不明 (「藤原香子」という説がある。女房名は「藤式部」) 生没年:不明 (973?〜1016?) 性別:♀ 身長:不明 体重:不明 父親:越後守藤原為時(歌人・漢学者) 母親:摂津守藤原為信女(官人) 職業:貴族・作家・歌人など。中宮の藤原彰子(ふじわらのしょうし)に仕える。現在では「小説家」の肩書きも追加されている。 主なエピソード ・子供のころから漢文を読みこなしたなど、子供のころから頭が冴えていた。 ・父が、彼女の弟に漢文を教えていると、そばで聞いていた彼女のほうが先に覚えてしまった。 ・父は、「そちが男だったら良かったのに」となげいたという。 当時は男社会だったため、時代が悪かったと彼女の才能を惜しんだ。 ・彼女は1001-1008年ごろの期間に「源氏物語」を作成したといわれている。 ・当時の貴族ではめずらしいいわし好きであったという伝説がある。 ・海外では「World's First Novelist」、要するに「史上初の小説家」ということになっている。 ・英語名は「murasaki Shikibu」「Lady Murasaki」など。
25 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 22:47:00
とりあえず定子も彰子も将納言も式部も美少女ってことにしといたほうが 真偽はともかく精神衛生上よろしいからそれでいいよw 歴史的な意味では彼女らの容姿なんてどうでもいいんだし 絵的に想像した時によければいい (平安時代の美的感覚とか服装とか習俗とか風呂入らんとかもとりあえず全部置いておく) それでええがな?な? 別れた夫と兄、妹でよんでる図とかは美形どうしのほがいいし
26 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 22:56:31
原子が定子より美人?ソースは? 三の君の宮妃になったひとがDQNで老けてたってのは残ってるよね。 それでも、頭は切れてたようだけど>三の君。
27 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 22:59:19
高貴な人物は周りが利用したり、いいように書くだろう。 定子などの生母高階貴子は、性格好きじゃないけど 倫子よりは才色兼備だっただろうよ。
28 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 23:08:36
>>23 彰子は敦康親王の養育で苦労したという感じはなぜかしない。
むしろ本当の息子のように可愛がって育てた印象。
引き取った2歳頃ってかわいい盛りだよ。
後宮に入って息が詰まる?ような生活の中で小さい子供が
側にいるって良い息抜きになってた部分もあると思う。
敦康親王は頼道とも親交が深かったり立太子できなかったことで
彰子は道長をずっと恨んだらしいから本当の親子みたいに
良い関係だったと思う。
29 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 23:35:07
オムツ交換とかは女官がしてたしw 立太子で父を恨んだくだりもあやしいと言う 歴史学者もいるしね。
>>26 三の君は和泉式部と恋仲になった師の宮の北の方でしたっけ。
乳丸出しで客人の前に出たり、夫と客人が漢詩かなんかの会をやってた時
部屋に黄金を投げ込んだとかのエピソードのある人?
31 :
日本@名無史さん :2008/08/10(日) 11:43:21
>>30 変な人だけど、自分も勉強会とか開いていたみたいね。
32 :
日本@名無史さん :2008/08/10(日) 12:33:53
師の宮って夜遊びしすぎて若死にした人?
33 :
日本@名無史さん :2008/08/10(日) 13:39:39
キレた修士内親王の行動が1000年後に真実を伝えてると思う。
34 :
日本@名無史さん :2008/08/10(日) 18:44:18
>>26 原子が定子より美人だったという記述
君の大好きな「枕草子」にあるよ。
君の愛読書じゃなかったの?
三の君は夫のところに客が来ている前で
胸をはだけて突っ立ってた人だね。
三の君が頭が切れたという史料はない。
あるというなら出してみ?
35 :
日本@名無史さん :2008/08/10(日) 18:47:21
>>28 夫がほかの女との間に作った子供を育てるのが苦痛じゃないって・・・
そら、彰子は他人が苦痛だと思うことでもやっただろうけれど、
為さぬ仲の子を育てるのがどんなに難しいかは源氏物語にも出てくるでしょ
彰子は敦康親王を養母として守り続けたけど
それでも実子の後一条天皇や後朱雀天皇にかける愛情ほどではなかっただろうし
36 :
日本@名無史さん :2008/08/10(日) 18:57:14
むしろ敦康親王が継母の彰子を慕っていたという 説もあるけどね 源氏と藤壺のように
>>35 現代感覚で歴史を解釈する人なのですね。わかります。
38 :
日本@名無史さん :2008/08/10(日) 23:30:49
修子内親王も一品だし、長女のプライドあるから、
父帝が死んで、キレたときもエリカ様みたいに
キレただろうな。
>>36 逆も充分ありえる。今みたいにショタコンもあっただろうし>和泉式部
39 :
日本@名無史さん :2008/08/10(日) 23:34:22
40 :
日本@名無史さん :2008/08/11(月) 13:21:54
そうだそうだ!
41 :
日本@名無史さん :2008/08/11(月) 18:13:24
枕草子をドラマ化したらキャスティングは?
42 :
日本@名無史さん :2008/08/11(月) 20:21:14
清少納言 定子 帝
43 :
日本@名無史さん :2008/08/11(月) 20:48:52
>>39 よく読みなよ。
まじ、呼んだことないの?
44 :
日本@名無史さん :2008/08/11(月) 20:54:58
>>27 高階貴子は歌詠みだという記録はあるけど
美人だという記録はどこにもないよ
倫子は左大臣の嫡腹の姫として育ち
家族以外の男性の目に触れるようなこともなかっただろうし
定子や彰子も宮中にあっても御簾から出るようなことはけしてなかっただろが、
中流階級の出で女官として宮仕えをしていた貴子は当然
取次やらなんやらで多くの男性官僚の目にさらされていた。
それなのに、美人だという記述はどこにもないんだよね。
人目を引くほどの美女ならば、小野小町のように有名になっただろうに。
中流階級の出なのに関白夫人になれたことを持って美人だとも言いきれない。
道長らの母も中流階級の出だったけど、美女だとも才媛だとも伝わってない。
平安3美人の一人と言われる才色兼備の道綱の母などの妻たちがいたのに
道綱の母は才色兼備だからと言って必ずしも兼家の愛を独占していない。
45 :
日本@名無史さん :2008/08/11(月) 20:56:56
栄華物語は倫子を美人だとほめているけれども、 主君に滅私奉公、定子にあらゆる賛美を投げかけて 忠誠を誓っている清少納言すら、 貴子を美人だとは言ってないんだよね。 清少納言は何度も貴子に会っているにもかかわらず。
46 :
日本@名無史さん :2008/08/11(月) 21:22:58
東宮に入内したばかりの原子が 同じ内裏にいる姉の定子のところに遊びに来ることになった 定子は清少納言に、妹はそれは美しい子よ、こっそり見てみなさい、 と清少納言にいった。 清少納言が言われたとおり屏風の陰からこっそり原子を見てみると、 原子は絵に描いたように本当に美しい姫だった。 姉の定子は、大人び、落ち着いた感じで座っていらっしゃった、こんな流れだったような。 美貌だけなら原子>>定子
47 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 06:53:12
>>46 短絡的だ、それ以前に定子の事は総毛立つ美しさっていってるんだから。
48 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 07:34:17
49 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 10:00:41
>>48 同じく猫大好き人間だけど一条天皇は猫好きないし猫狂いのあまり
愛誤的な人だったとも思う。
愛猫が怖がってうずくまったぐらいで犬を棒で叩きのめすって
どうよって。かみ殺されたならまだ理解できなくもないけど。
まあ、あの頃は天皇もまだ子どもだったし。 考えも幼く「大事なペットを怖がらせた!」でいっぱいいっぱいだったんでしょう。 犬はもちろん可哀想だし、猫の乳母もけしかけてしまったとは言え可哀想だよね。 あと5年経って同じ事件が起きてたら、一条天皇もまた違った対処したかもね。
52 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 11:52:48
犬事件は、定子が不遇時代だから帝は子供じゃないだろ。
>>52 スマン
また考えが浅く未熟だという意味での子どもだった。
20代になればもっと大人な対応だっただろうな、と。
54 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 20:58:32
>>47 あんたらが唯一史実と認める清少納言様の枕草子に書いてあるんだから
定子より原子のほうが美人だったのは間違いないでしょ
枕草子についてだけ語りたいなら文学板へいったほうがいいよ
史料的価値はあまりないし
55 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 21:10:19
だからー原子がはじめて登場するからほめただけで。 定子<原子って書いてないし〜。
56 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 21:14:14
定子も原子も大して美人じゃなかったんだろ 后妃とはいえお付きの女房や天皇、東宮付きの男性官僚が 身近に仕えるから結構いろんな人に顔は見られている 村上天皇の女御芳子なんかは主従関係にない男性の書いた文章にも 美人だと書かれ眼尻がやや下がっていることまで現れるが 定子の場合自分の部下以外誰も美人だと言ってないのだから
57 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 21:30:33
まあ、想像する分には美人だったろうなという前提のほうが楽しいからな。 しかし、美醜に固執してる奴はなぜにそこまでして定子を絶世の美女にしたいの? たいして美しくはなくとも、気立てや教養で人々に好かれた、愛された、という説 には我慢ならないの? 当時だったら顔が美しい=前世の功徳によって云々…とか言われて美が正義 にもなっただろうけど。現代日本の常識からすれば、それって片寄りすぎてて 逆に気味が悪いよ。 一条后はみな血が近いし、定子、彰子、尊子は従姉妹だから、顔も似通って たかもしれないよ。
58 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 21:34:38
それをいうなら 一条天皇と定子は実は顔がそっくりだったとも考えられるわな 一条天皇の母東三条院と定子の父道隆は同母兄妹だから
59 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 21:39:35
尊子は道兼が父親かどうかかなり怪しいからおいといて 一条天皇も自分の治世を安泰にするために 結局は自分の外戚を守らなければならなかったということだよ そのためには自分と外戚関係にあるおじを引きたて その娘を寵愛するしかなかった その相手が定子と彰子だった 定子厨はどうしても彰子とは不仲だったことにしたいみたいだけど 定子が産で死んだ時4歳年下だった一条天皇はまだ20歳の若さ 20代の一条天皇が寵愛した相手は彰子だったよ 一条天皇は10代の恋をいつまでも引きずって 不幸だったということにしたいみたいだけど
60 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 21:40:03
61 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 22:23:56
62 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 22:29:29
漫画家が楽なんでないの 一条天皇も定子も彰子も尊子も同じ顔でいい 元子や義子も一条天皇のまたいとこで そんなに血縁は遠くないんだね
63 :
日本@名無史さん :2008/08/12(火) 23:45:14
定子 新垣唯 帝 神木龍之介 少納言 西川史子
64 :
日本@名無史さん :2008/08/13(水) 15:10:36
道隆や栓子の兄弟が仲悪すぎ。
65 :
日本@名無史さん :2008/08/13(水) 17:24:56
彰子ってホオズキみたいな顔色って柳原加奈子やな。
66 :
日本@名無史さん :2008/08/13(水) 21:12:09
>>64 詮子と道長の姉弟は仲良かったでしょ
詮子も個性の強すぎる兄たちよりも
弟のほうがものが言いやすかったんじゃないの
67 :
日本@名無史さん :2008/08/13(水) 21:22:11
可愛がっていた源明子の婿にしたぐらいだからなあ。
68 :
日本@名無史さん :2008/08/13(水) 23:23:22
道長と栓子は5歳違い、だから明子が道長より年上ってありえんのじゃ。
69 :
日本@名無史さん :2008/08/14(木) 21:36:30
躾子内親王に長生きしてもらいたかったーー・
70 :
日本@名無史さん :2008/08/15(金) 02:54:26
道長の倫子腹の娘たちは生物学的には無茶苦茶異常な近親結婚をしていますが、 後一条天皇や後朱雀天皇の子供たちに 何か障害などはなかったんでしょうか?
71 :
日本@名無史さん :2008/08/15(金) 13:43:10
後朱雀はあったじゃん。
72 :
日本@名無史さん :2008/08/15(金) 16:18:12
後朱雀天皇いたって正常じゃん 有名な後三条天皇は後朱雀の息子だしね
73 :
日本@名無史さん :2008/08/15(金) 16:28:52
>>68 明子は道長より年上。
「大鏡」や「栄華物語」では明子は
父親の高明が安和の変で左遷された際
父に取りすがって泣いたとあり、
道長より年上であったことは明らか。
詮子と明子は年が近かったんだよ。
養女にするには養母は20歳以上離れてないとだめとか
そんな決まりはない。
源氏物語でも紫上は養女の秋好中宮と1歳しか離れていない
74 :
日本@名無史さん :2008/08/15(金) 21:52:56
後朱雀天皇の内親王だよ。
75 :
日本@名無史さん :2008/08/15(金) 22:10:38
>74 後朱雀天皇には二男五女の7人の子供がいた 詳しく見てみると 親仁親王(第一皇子;後冷泉天皇) 母は藤原嬉子で、後朱雀天皇の叔母。 後冷泉天皇に異常はなし。 良子内親王(第一皇女)、 娟子内親王(第二皇女) 、尊仁親王(第二皇子;後三条天皇) この3人の母は禎子内親王で、後朱雀天皇のいとこ。3人の子供に異常なし。 正子内親王(第五皇女) 母は藤原延子で後朱雀天皇のいとこ。この皇女にも異常はなし。 祐子内親王(第三皇女)、 禖子内親王 (第四皇女) 母は嫄子女王で、後朱雀天皇の姪。祐子内親王には異常なし、 禖子内親王のみ晩年精神を患って前後のことが分からなくなったとある もっとも禖子内親王も若いころは正常で賀茂斎院も勤めていた 後冷泉天皇の妃たちは皆血縁が近いが7人のうち異常があったのは禖子内親王だけ それも晩年に限ってだから生まれつきというより 50代ごろから痴呆が始まっただけじゃないのか 特に近親婚の影響だとは思えない
76 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 01:36:38
しかし当時の天皇家とその周辺は近親婚だらけだな。 その周囲の周囲も近親婚。 そうやって近親婚を重ねるうちに、 精神薄弱・遺伝性の病弱が増えたんだな。 平安末期になるとますます酷くなるね。 骨のない皇子が寝たきりのまま亡くなったとか。
77 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 01:59:46
日本には仏教伝来と共に猫が伝わったといいます。 884年には宇多天皇が黒猫を飼い始めたという記録がある。これに先立つ「日本霊異記」の猫は化け猫であるから、 記録に残っているうえで日本最古の猫の飼い主は宇多天皇という事になる。 日本では飼い猫の記録が初めて登場するのが宇多天皇の日記(889年2月6日)で、 天皇は先の光孝天皇より唐渡来の黒猫を賜り5年に亘って大切に育てたといいます。 日記にはその事がくわしく書かれているそうです。 それでは日本最古の記録に残る猫の名前は、といえば「枕草子」に出てくる「命婦(みょうぶ)のおもと」という名前の猫である。 この猫は999年に生まれ、一条天皇の飼い猫であったが、猫でありながら高貴な位階を持ち「五位」であったらしい。 紫式部の夫の藤原宣孝が「六位」であったというから、この「命婦のおもと」という猫は「源氏物語」作者の旦那より偉かった事になる。 そのほかにもこれによると人間と同じように産養いが行われ、乳母が付けられたことが分かります。 「産養い」とは、赤子の将来の多幸を祈念するために誕生の3・5・7・9日目に催される祝宴ですが、 それが東三条院詮子(=一条天皇の母)・左大臣藤原道長・右大臣藤原顕光といったメンバーで執り行なわれた。 それにしてもこの手の愛玩動物によくあることですが、「五位の猫」というのはヘタな人間より大事にされていますね(笑)
78 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 03:15:41
祐子内親王は、岩倉の地で今で言う精神科の療養をした記録があるよ。 一条天皇のおもとは、白猫やったな。
79 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 03:58:34
骨の無い皇子ってどの帝の?
>>79 鳥羽天皇。
骨が無い皇子は、君仁親王。同母兄の通仁親王は後天性の準盲だった。
81 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 08:40:33
>>80 鳥羽天皇と待賢門院の間には正常な子供もいたから
近親婚の影響だとはいえない
鳥羽天皇と待賢門院はいとこ同士で
当時としてはそれほど近い血縁でもない
近親婚の影響なら両親が兄妹である
聖徳太子や藤原麻呂(京家の祖)にこそ障害が出るだろ
82 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 08:44:00
>>78 ほかの後朱雀天皇の妃たちも血縁は皆近いのに
嫄子女王の子だけに異常が出た
定子の呪い
ということになるんだろうな
当時の感覚からすれば
83 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 09:15:43
>>80 別に近親婚じゃなくても異常はでるからね
藤原道隆の三女(母;高階貴子)=両親は近親婚ではないが精神異常
藤原兼家の四男(母;忠幹女)=両親は近親婚でないが精神異常&早世
2,3歳で死んでしまった貴族の子弟や
こっそり寺に入れが子供など異常があっても
記録に残らないことも多い。
特に異常の発生率が天皇家だけが極端に多いという事実もない。
84 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 14:20:42
85 :
日本@名無史さん :2008/08/17(日) 03:43:45
>>81 平安時代までの貴族は身分の高い人にあこがれていたため近親婚のしまくりだった。
その頃の倫理は「父親が同じでも腹(母親)が違えば他人」だったから。
子供は母親の実家で育てられるため、腹違いの兄弟同士で顔をあわすこともめったにない。
そんなわけで腹違いの兄弟姉妹間では「兄弟・親族という観念」が希薄だった。
反対に「近親で結婚してれば、よそものに財産が散れない」という利点もある。
その結果として体が弱い人や異様に短命な人が多かったらしい。
医学的に、血のつながりの濃い近親婚を禁じる理由はいくらでもある。
ただし、近親婚すると不良品ができる可能性が高くなるけど、逆の場合もある。 その典型的な例が競走馬。
実際、聖徳太子のような優れた人物は近親婚の産物だから
近親婚=悪い遺伝を持った子ばかり、ということもない。
だが、競走馬は優秀な形質を発現したものだけ残されるからなぁ
人の場合「身体・知的能力が劣る子供は氏ね」というわけにはいかない。
86 :
日本@名無史さん :2008/08/17(日) 06:04:10
>>83 単純に近親婚だと遺伝病に罹る確率が高いだけです。
確か、人間の遺伝子にはかなり高い確率で損傷があるとか。
でも遺伝子(=ここでは染色体の意味)は一対なので、異常な部分があっても
優性遺伝で無い限りもう片方の遺伝子が補っていて、表面には顕れません。
でも父母が近縁者だとすると、父親由来の遺伝子と母親由来の遺伝子が
同一になる可能性が高くなります。
結果、異常な遺伝子が一対揃ってしまい、病気や奇形になる確率が高くなります。
シミュレーション:劣性遺伝の場合
Aa : 父親の遺伝子。aが変異した異常な遺伝子。aは発現せず正常な人。
Ba : 母親の遺伝子。父親と血縁で、aは遺伝した異常な遺伝子。同じくaは発現せず正常な人。
生まれた子供の遺伝子:
AB : 正常な遺伝子を持った子供。
Aa : 父のAと母のaを受け継いだ子供。父と同じ、aは発現せず正常な人。
Ba : 母のBと父のaを受け継いだ子供。母と同じ、aは発現せず正常な人。
aa : 両親の異常なaを受け継いだ子供。aの以上が発現し、病気や奇形が発症。
なんと、25%の高確率で異常が出てしまいます・・・。
特に異常の発生率が天皇家だけが極端に多いという事実はない。
87 :
日本@名無史さん :2008/08/17(日) 09:40:06
>>77 日本の家庭(野良含)猫は奇形劣性猫
猫科の特徴の尻尾がない(若しくは貧弱)
88 :
日本@名無史さん :2008/08/17(日) 17:48:53
>>84 東三条院や道長が定子の子や孫を庇護したのは
呪いが怖かったからだよね。
伊周・隆家の兄弟だって、一条天皇は反対しているのに
東三条院が私を殺す気ですかと強引に天皇に願って
1年半ほどで配流先から呼び戻し
定子まで東三条院が宮中に呼び戻した
一条天皇は定子宮中復帰の大前提である
伊周・隆家兄弟の早期帰京には当初反対していたんだよね。
結局定子の怨霊から逃れるために定子の子孫は
道長・頼通の財産によって扶養され
道長の栄華の恩恵を受ける側に回った
定子にしてみりゃあ不本意だったかもしれないけど
89 :
日本@名無史さん :2008/08/17(日) 17:52:13
>>86 だから?
鳥羽天皇の2皇子が近親婚が理由での
身体障害者だったという理由になってないけど。
近親婚じゃなくても身体障害児は生まれるし(当たり前)。
結局、関係なかったってことだね。
数代前までの先祖数で近親婚度を比較すると、 この時代の人物の中で最も「血が濃い」といえるのは、 英明の誉れが高い後三条天皇(及びその同母姉たち)だったりする。 *六世の祖まで遡ると、単純計算で126人の先祖がいることになるが、 後三条天皇にはそれが46人ほどしかいない。
91 :
日本@名無史さん :2008/08/17(日) 20:57:41
これだから馨子内親王との子供が夭折したわけか
近親婚はハイリスク・ハイリターン。 未熟児や知能障害の可能性も高いが、天才の出現の可能性も高い。
93 :
日本@名無史さん :2008/08/17(日) 23:25:24
一条天皇って、藤原彰子が自宅に退出しているあいだ40日のうちに定子皇后を孕ませているのだが。
94 :
日本@名無史さん :2008/08/18(月) 03:40:18
定子の子供と言えば、別の所だけど、こんなの↓があったよ。
659 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/05/11(日) 18:50
一条院の脩子内親王について調べてたら、出生から受胎日を割り出すと
大幅に合わないんですね。
出産の経験がある方はわかると思いますが、ほぼ二月遅れるってあり得ないです
長徳2年3月2日に中宮が退出、でも4月25日前後を受胎日とすると???
えっえっえっ???
実は密かに参内してた?それとも不義の子?
誰か詳しい人教えてください
661 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/05/11(日) 19:11
>>659 最終生理日から出産まで約280日で出産。
こちらの表で計算してみた。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~suteki/yoteibi-keisan.htm 修子内親王の生誕は長徳2年12月16日。
仮に長徳2年2月半ばが定子の最終生理日とすると、それから約2週間後、
2月下旬〜退出した3月2日までの受胎で予定日は11月下旬。
約2週間の遅れでまあ、陣痛促進剤のない時代にはありうる。
662 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/05/11(日) 19:56
>>661 でもこの年って、七月が閏月じゃ・・・
663 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/05/11(日) 21:42
>>659 手許の史料だと定子の退出は長徳2年3月4日なのだけど・・・(2日しか違わないけど)
たしかにこの年は閏月で、「小右記」にも中宮定子が産み月になっても
出産しないという記事があったと思う。
だけど、修子内親王が一品に叙されるときに、一条天皇が出した勅があるでしょう?
自分が長女のことをどれだけ愛しているか、どれだけ大切にしているかを切々と述べた内容の。
あれを見ると一条天皇は自分の実娘と信じて疑った様子もないし、
東三条院が定子の残した皇子女を溺愛していたのを見ると
実は一条天皇の娘でなかったとも考えずらいしねえ・・・
667 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/05/12(月) 12:46
そういえば「源氏物語」にも、藤壺が里下がりしてる時に出来た子を、物の怪の為に
出産が遅れまして、2ヶ月後に産まれました!
なんてのもある、少し時代は違うけど「とわずがたり」でも二条が産み月を誤魔化して
奏上したと告白してる
案外、よくある事だったのかな?でもどちらも女側の言い訳?っていうか企みですが
どこまで世間的に納得してたのかはわかりませんが。
670 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/05/12(月) 15:18
http://yoteibi.aaedit.com/page_7.html 現在の病院では予定日より1週間〜10日程度の誤差は(早くても遅くても)正常の範囲内。
ただ、2週間以上遅れると母体の胎盤機能が弱ってくる可能性があるため
胎児の心音などを確認しながら必要ならば何らかの処置を行うこともあるとのこと。
三人目出産のときに産で死んでしまった定子ですが、修子内親王のときには母子ともに無事でした。
定子が正常の範囲内での出産だったとすると、
修子内親王の誕生日から逆算、中宮定子の最終月経日初日は長徳2年4月上旬。
そこから一週間程度生理が続いたと考えると、やはり受胎日は宮中退出後の4月中旬〜下旬ですかね。
仮に月数通り定子の密通だったとしたら、
兄弟の伊周や隆家に追及の手が及ぼうとし、宮中にもいられなくなって退出、
里の二条邸で身をひそめるようにして外出もしなかった定子の密通相手って?
まさか、定子が一条天皇の子を妊娠したことにすれば一条天皇もこれにいたく感激、
我が身にふりかかる災いから逃れられるだろうと思った実兄伊周が父親とか?
実妹定子と組んだ陰謀?
674 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/05/13(火) 09:50
>>673 中宮定子が退出した正確な日付は長徳2年3月4日。
これは一次史料である「小右記」にあるので間違いがない。
同じ年には中宮が産み月になっても産をしないと
これまた「小右記」にあり、当時の貴族たちも
定子の出産の遅れを認識していたことが分かる。
673の引用はウィキ並みに素人が編纂可能な概略であって、
退出の正確な日付を書いたものでもないよ。
675 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/05/15(木) 00:45
退出日と、誕生日までの間の日数をここみて単純に計算してみた
308日か…
ttp://www.wagoyomi.info/
98 :
日本@名無史さん :2008/08/18(月) 19:40:02
くだらね。
99 :
日本@名無史さん :2008/08/18(月) 20:20:53
>>93 彰子も一人目を産んで自宅療養後宮中に帰るとすぐに二人目を懐妊し
年子で2人の天皇を産んでいるよ
道長もすぐに彰子が2人目を孕んだとは思わず
彰子が体の不調を訴えて苦しむのを
伊周が彰子と新皇子敦成親王を呪詛したためと信じたぐらい
産後数か月の女性とやるのが得意だったんじゃないかな>一条天皇
100 :
日本@名無史さん :2008/08/18(月) 21:04:16
>>94 鳥羽天皇の夭折した皇子は
その病名のどれでもないよね
101 :
日本@名無史さん :2008/08/18(月) 21:05:17
>>91 この時代の乳幼児死亡率は高い
近親婚じゃなくても夭折してるんだが
>産後数か月の女性とやるのが得意だったんじゃないかな>一条天皇 奥さんの母乳が好きだったのか? もしかしてマザコン気味?
1000年も前の性交渉について緻密に計算してるのね。 おもわず感心してしまった。でも、当時「生理不順」と いうのは考えられなかったか?狂う人は大幅に狂うし、 ピッタリとその日が来る人もいる。 あと、道長は天皇家を完全に私物化してたんだなあ。 孫と娘を結婚させるなんて(しかも子供まで作って)。 まあ、聖徳太子の時代は異母兄妹で結婚してるもんなあ…。 現代人には考えられない感覚だわ。当事者は何も考えずに せっせと子作りしてたのかなあ? 究極の近親婚ラッシュだったんだね、道長の時代って。
104 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 00:07:13
出産後は、妊娠しやすいだろ。 で、定子様を汚すな。元子なんかどうしたらいいんだよ。
105 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 00:13:13
修子内親王は、一場天皇に似てたんじゃない?
106 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 01:38:26
一条の間違い。
107 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 03:34:39
定子様は愛されていたんだもん!
108 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 07:32:57
生理なんて体調不良がたたれば、平気で数ヶ月なかったり 逆にひと月に二回きたりするからね。 当時も生理の周期から妊娠のタイミングを計るのは、 経験からわかっていたかもしれないが、当たり外れは それこそ運だのみだし。 一条がどの妃を一番愛したのか、ぶっちゃけ定子なのか彰子 なのかってのは、文学的な想像としてはありだけど、。 さて、女の側からすれば、彼女たちは一条を愛してたのかね。 一条に愛されて嬉しかったのかと、そこまで考えるときりが無い。 天皇妃としては愛されれば勝ちだけど、個人としては別に好きな 男でもいたかもね。それこそ源氏物語の世界みたいに。
>究極の近親婚ラッシュだったんだね、道長の時代って。 前の時代に比べて究極とは思わない。 文武とか桑田王とか称徳とか朝原内親王とか。 後に比べるとそうだろうけど。
>>109 道長は前例を知ってて、次から次に娘達を皇族に
嫁がせていたということか。自分の権力を得るために
娘達は貴重な存在だったんだな。
大分前に買った本で、田辺聖子とナントカっていう
歴史学者の対談を読んだんだけど、中関白家は定子の
兄貴がちょっとDQNだったから(弟の隆家は大分時が
経ってから活躍しているが)定子がいくら一条天皇の
寵愛を受けていても、皇子が生まれるまでは地位が
不安定だった。皇子がやっと生まれてもその直後に
道隆は病死しているし、定子自身三人目の出産で亡く
なっているから、道長は最初に彰子やその妹達を次々に
儲けて、東三条院のバックアップもあって本当に運が
良かった、みたいなことを言っていたな。おまけに
道長家(特に女性)は長寿を全うした人が多いし。
長生きは成功するもんなんですね、みたいなことが
書かれていた。
111 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 12:42:25
定子さまも妊娠中につらいことがありすぎたから、影響あっただろ。
112 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 21:26:09
>>109 近世の医学の発展により近親相姦は遺伝子的に劣性遺伝が指摘され,忌避されるようになりました。
しかし飛鳥時代のような昔では,そのような医学的な知識がなく,
皇后や妃には血統を重視して同一家系から選ばれました。
勿論、豪族の娘を娶る事も多々ありはしましたが、正妻に迎えるケースは稀でした。
殊に皇后ほどの身分となると、やはり同じ皇族から迎えるのが無難とされた様子です。
兄弟にして夫婦とか伯父と姪の結婚とかそんなのが当たり前の世界・・・。これが飛鳥・奈良時代の天皇家。
有名な例としては天智天皇(中大兄皇子)と妹の間人皇女(孝徳天皇皇后)との同父同母間の関係です。
当時は,異父母系の関係は許されていましたが,彼等の関係はその掟を破るものであり,
そのため天智天皇は間人皇女が死ぬまで天皇になれなかったという説があります。
日本書記にも生まれつき白髪だったとかとか,生まれつき声が出なかった皇子が記載されています。
しかし,平安時代以降は藤原氏との度重なる婚姻により劣性遺伝の可能性は否定できませんが,
異常性について正史には残っていません。
おそらく,歴史に記載されなかった劣性遺伝の皇子が存在したでしょう。
113 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 21:34:26
>>110 田辺聖子は、歴史学者じゃない。NHKの朝ドラのイモタコナンキンのもでるです。
で、三笠宮の娘、千容子さんに似ています。
114 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 21:42:41
>>110 その本の内容、かなり間違ってるね。
定子が皇子を産んだのは父道隆没後。
道隆生存中には定子は全く妊娠する気配がなく、
父道隆が伊周の長子(のちの道雅)を抱いて定子の前にやってきて
「中宮さまもこれくらいの子がいてもおかしくないのに」
と催促するほどだった
>>113 違う違う、田辺さんと村井康彦(←書庫に行って確認してきた)
っていう歴史学者の対談。田辺さんは作家でしょ?枕草子の
現代語訳もしてるよね。一時期ハマッて、文学部に転学部しよう
かとマジで考えてた(政治経済学部にいたんだけど)。
全然関係ない話で申し訳ないんだけど、千容子さんって漏れの
中ですごく気になる人物なんだよね。子供の頃、書庫に裏千家が
発行している「淡交」のバックナンバーがあったんだけど、
ちょうど当時の若宗匠との婚約が内定した頃で、婚約会見の写真は
まだ何とか見られたんだが(今になって思うと編集部で写真選びに
相当苦労したと思うw)、結婚式の写真を見てビックリした。
白無垢で白塗りのオバケが写っていたから。若宗匠、こんな妖怪と
本当に結婚するの?って子供心に疑問を抱いたのを覚えてるんだ。
幼稚園に通っていた頃だと思うから、ワイドショーなんて見ない
世代。だから、彼女がどんな声で、どんな性格で、どんな事喋った
のか、一挙手一投足が気になるんだよ…。話題そらしてスマソ。
116 :
110 :2008/08/19(火) 22:04:13
>>114 ご指摘ありがとう。頭が混乱して話が前後していた。
もう数年も読んでいないが、久しぶりに読み直してきた。
確か原子を囲んで中関白家一同が集まった時に、伊周が
息子を抱いて訪ねてきたんだよね?それで定子に催促と
いうか「まだなのか」と言ったんだよね?文中では道隆
ではなく清少納言の視線で「中宮さまにおめでたいことが
ないのは誠に残念」と書かれてあった。その日の午後には
一条天皇が訪れて、昼間から定子と「お手合わせ」してる。
平安時代は性に関する意識がおおらかだったと、現代語訳
した田辺聖子は述べている。 …で間違ってないかな?
117 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 22:37:48
松君のをかしう物のたまふを、誰も誰もうつくしがり聞え給ふ。 「宮の御子たちとて引出でたらんに、わろくは侍らじかし」などの給はする。 げになどか、今までさる事のとぞ心もとなき。(「枕草子」原文) 道隆といえど、さすがに娘に向かって露骨にまだなのかとは言っていない。 伊周の子松君(通雅)を引き合いに出して 「中宮様の御子だと言ってもおかしくはありますまい」 と言って婉曲に催促。 本当に今までどうしてそのようなことがなかったのか残念だ、 というのが清少納言の感想。
>>117 原文まで出してくださってどうもありがとう。
もう一度読み直してみたが、通雅を引き合いに出して
遠回しに言っているね。昼間から天皇とセクロスする
ほど仲が良いのに、どうして子供が出来ないんだという
焦りが見えるよ。同じく田辺訳の別の枕草子を読んだが、
この頃、既に酒好きの道隆の体調は悪化していた。仕える
清少納言の文章からも残念な気持ちが伝わってきたよ。
119 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 23:12:50
>>118 この日は、夜は自分の寝所に来てね!とダブルヘッダーでやりまくった天皇。
このとき天皇16歳。 この2ヵ月後に中宮の父道隆が亡くなるんだよね。
120 :
日本@名無史さん :2008/08/19(火) 23:17:23
松君って、大人になって三条天皇の内親王と通じるが怒りをかわれ その後グレて、乱行に走った人やろ。
>>119 そうそう、夜も天皇から「来てよ〜」って催促されて、
道隆から「お呼びなんだから行きなさい」って言われる
んだよね。ちょうど妹の原子にも三条天皇から手紙が来て
返事を書くように父に言われて、恥ずかしそうに筆を取る
んだよね。で、姉妹で「どうぞお先に」「いえそちらこそ」
みたいな会話をする。…枕草子の中で一番華やいだ時期だった
のかも。この場面は好きだな。でもここから中関白家の没落が
始まるんだよね…。
>>119 16歳というとやりたい盛りの年頃だから昼間からでも仕方あるまい。
蛇足だがやりまくると逆にできにくいという話もあるらしい。
123 :
日本@名無史さん :2008/08/20(水) 08:43:13
>>36 >源氏と藤壺のように
実は後一条天皇はry
これ以上は言うまい。あまりに恐ろしすぎる
満9歳で仕込んだ子供か...。たしかに恐ろしいな。
125 :
日本@名無史さん :2008/08/20(水) 13:00:12
126 :
日本@名無史さん :2008/08/20(水) 13:05:51
昔、枕草子の桃尻語訳ってのがあったのを思い出す。 例のくだりでも、帝「今晩もおいでハニー」というのに 定子「今宵はちょっと」と言ったら道隆が「もったいないことを」となり。 で、帝もタフねー。でもこのとき帝は16歳だからねー。みたいな感じだったな。
127 :
日本@名無史さん :2008/08/20(水) 13:13:10
道隆存命のうちに皇子を生んでいたら定子の人生も変わっていただろうね。
>>126 桃尻語訳は立ち読みした。「ハニー」にワロタ。
10代後半といえば、人生で一番「性」に関して興味関心を
持つ世代ではないか。現代の少年が聞いたら、羨ましくて
たまらないだろうなあ。 >一条天皇
>>127 確かに変わっていたかもしれないけど、一条天皇の母・詮子の
存在を忘れてはならない。道隆の姉(妹だっけ?)とはいえ
仲は良くなかったらしいから…(詮子は道長に肩入れしていた
んだよね)。一条天皇に内覧(だっけ?)は伊周ではなく道長
にと迫っているし。
129 :
日本@名無史さん :2008/08/20(水) 16:46:46
詮子は、道隆の妹だよ。 兄道隆とは年が離れていた。 詮子は、年の近い弟の道長を子供の頃から かわいがっていた。道長も詮子死後、姉の遺骨の一部を 肌身離さず持ってたし。
>>129 遺骨の一部を持ってたの?>道長
よっぽど仲が良かったんだね。
道長としても、自分を後押ししてくれた姉に
感謝していたんだろうね。詮子の生んだ一条帝に
彰子を入内させてるけど、嫁姑の関係も良かった
のかな?
ところで、義子か元子か尊子だか、女御が臨月を
迎えていざ出産、という時に水しか流れなかった
人がいたよね?あれは流産になるの?
育児板で聞いた方が良いのかな?
131 :
日本@名無史さん :2008/08/20(水) 17:11:47
>>130 藤原元子の場合産婦人科領域ではなく内科領域の病だと言えます。
病院板とかの内科医あたりの質問スレがあるので聞いてください。
流れたのは、腹水だと思えますが・・。
>>131 内科領域!?てっきり婦人科領域だと思ってた。
一条天皇って定子と彰子としかセクースしてない
と思い込んでいたけど、女御たちにも一応手を
付けていたのね。平等に愛して(?)あげてたんだ。
気持ちイイ思いをいっぱいしただろうけど、気苦労も
絶えなかっただろうなあ…。
一条天皇を取り巻く貴族って、 治世初期に死んじゃった長老とロートル顕光氏を別にすれば、 概ね950年代から970年代生まれ?
134 :
日本@名無史さん :2008/08/20(水) 20:29:37
>>132 定子が失脚し、彰子が入内するまでの間、右大臣顕光の娘元子と内大臣公季の娘義子は
どちらも男子を産めば第一の東宮候補、一条天皇の最有力な妃たちだったと思うよ。
実際、詮子や道長が兄弟失脚以来里に引きこもっていた姪の定子を
一条天皇の後宮に呼び戻したのだって、元子が妊娠を発表して後宮を退出、
顕光や公季が天皇の外祖父となって権力を持つのを恐れたためだし。
一条天皇の後宮に入った妃たちはいずれも大臣クラス以上の父親を持つ貴種、
(義子のみ入内時には父公季は大納言、入内後に大臣に昇進したけど)
一条天皇も妃の父親たちの顔色伺いながらどの妃も寝所に呼ばねばならず、
それなりに気遣いは大変だったと思うけど。
一条天皇がこの妃だけを特別に寵愛した、なんて主張するのはあまりに現代人の感覚。
16歳の一条天皇が定子を一晩に2度召したことだって、関白藤原道隆政権下、
当時、思春期でやりたい盛りの一条天皇は定子以外の女性とセックスすることを一切禁止されていたのだし。
135 :
日本@名無史さん :2008/08/20(水) 20:35:54
一条天皇は、元子の事件の後も元子に宮中に戻ってくるように言ってるね。 しかし、一条天皇が相手の父親のことを気にせず寵愛したのは御櫛笥殿だけか。
136 :
日本@名無史さん :2008/08/20(水) 21:00:47
定子出家後、宮中に短期間呼び戻されたときも 帝は、定子のとこに毎日のように偲んでたみたいだし。 相性いいんだと思う。
137 :
日本@名無史さん :2008/08/20(水) 21:07:43
>>135 定子の没が1000年12月、御櫛笥殿の没が1002年6月。
御櫛笥殿は定子の喪が明けた後、親王らを伴って参内、
すぐに妊娠してこっそり退出しているから
(一条天皇の正式な妃ではなかったから、相当な恥辱だった。
女官相手の子供は養子に出されてしまうし)
寵愛されたというより手をつけられてすぐに退出した感じ。
>>136 それは史料にない話だけど、出典は?
138 :
日本@名無史さん :2008/08/21(木) 05:30:16
正妃じゃない女官イ手を出してるのは帝として普通だろ。 御櫛笥殿は、光源氏の母みたいな感じ?
>一条天皇も妃の父親たちの顔色伺いながらどの妃も寝所に呼ばねばならず、 >それなりに気遣いは大変だったと思うけど。 まだ10代の少年なのに、天皇という地位は本当に大変だわ…。 英明な君主と言われているけど、人柄だけでなく時の関白とも 上手く歩調を合わせて政に取り組んでいるし、肝心の子孫も ちゃんと残している。欠点がないのが欠点だね。
140 :
日本@名無史さん :2008/08/21(木) 18:00:46
だったら定子様1人の時が一番良かったね!天皇も。
141 :
日本@名無史さん :2008/08/21(木) 20:28:02
>>138 更衣は妃の一人だろ。
一条天皇に更衣はいなかったが
源氏物語のモデルといわれている祖父さんの村上天皇には更衣がたくさんいて
更衣に産ませた子供は普通に村上天皇の皇子女として扱われている。
源氏を賜って臣籍降下するのも勿論、天皇の子であると認知されていることが大前提。
御櫛笥殿は更衣ですらないただの女官。
後冷泉天皇は一人で3人もの立后した后を所有する天皇だったが
后たちとの間に子供に恵まれず(一度死産があったのみ)お付きの女官を妊娠させてしまった。
思い余った後冷泉天皇は乳母の大弐三位(紫式部の娘)に相談、
女官と子供を認知せず、子供は受領に下げ渡して受領の子として育てた
更衣にもなれない女の子供を認知できたのは院政期までまたないといけない
摂関全盛期の天皇はいろいろ大変だったのだ。
142 :
日本@名無史さん :2008/08/21(木) 20:31:30
>>140 君の論理だとこの時代の一番の幸せ者は
生涯妃一人を貫いた後一条天皇だな
この時代の男は好色だから
一条天皇も後一条天皇も
貴族が娘を入内させたいと天皇に打診すると
大喜びで早く娘をまいらせよと催促してるのにな
143 :
日本@名無史さん :2008/08/21(木) 21:33:50
更衣も女官だよ。
144 :
日本@名無史さん :2008/08/21(木) 21:53:45
>>143 皇后、中宮、女御、更衣は妃。
君はかなり思い違いをしている。
平安時代の職員歴を見よう。
女官の地位に更衣なんてあるかな?
145 :
日本@名無史さん :2008/08/21(木) 23:36:19
ないしのかみは、女官長。 だったら、道長の次女は最初女官だったね(確か同じ御櫛笥別当兼務だったし)
146 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 12:53:39
後一条って10歳も年上の本当の叔母さんとなんてカワイソス。
後一条天皇はなんで妃を一人しか迎えなかったの? 天皇がそう望んだの?周りが道長に遠慮したの?
148 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 18:20:18
威子が名前の通り激しい正確だったんじゃ。
149 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 19:47:28
後一条天皇がボンクラじゃなければ若い女がいいだろ。 一応29まで生きてるし。
150 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 19:52:27
>>14 7
定子が父関白藤原道隆在世中一条天皇の後宮を独占していたのと同じ理由。
中関白家が摂関を独占し続けていれば他の妃たちは一条天皇に入内できず、
一条天皇は4歳年上の定子の他にもいろんな貴族たちに娘の入内を打診していたかもね。
後一条天皇の場合、教通が長女の生子を入内させようとしたことがある。
後一条天皇の内諾も得、天皇は早く娘を後宮に、と乗り気だったらしいが
威子を後見する政権担当者関白藤原頼通が反対して通らなかった。
威子は教通にとっても同母妹、兄妹で骨肉の争いになることを
上東門院も望まなかったらしい。
151 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 19:58:47
>>149 そう考えると、定子は丁度いい時期に亡くなったのかもね。
一条天皇は没したとき32歳。
彰子は24歳の若さで未亡人となった。
定子は生きていれば36歳。
定子厨は24歳の若い彰子の肉体より
36歳の定子様のたるんだ肉体のほうがいいのよ!
と言いそうだが、黙っていても若い彰子に一条天皇の寵愛が移るのは目に見えていたはず。
152 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 20:29:30
定子が壇れい で 彰子が柳原加奈子なら定子だろ。
153 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 20:34:25
>>152 定子厨はそんなむちゃくちゃな例しか出せんのかw
威子が稲森いずみや常盤貴子なら
下手な若い女より後一条天皇もよっぽど良かっただろうね。
154 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 20:37:07
美人でも1人だけだったら嫌だろ。
155 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 20:45:02
だったら、定子一人しか妃がいなかった頃の一条天皇は 本当にかわいそうだったね。 中関白家失脚後、義子に元子、尊子に彰子とたくさん入内してきて 良かっただろう。
156 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 21:56:53
定子は、高偏差値ガールだし、一条も向学心高かったから 趣味とかもあっただろう。 また、中関白家没落後も愛していたし。 威子が同様ならありえん。
157 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 22:28:48
某漫画のせいで彰子高飛車空回りロリ 定子企みお姉さんのイメージがとれん
158 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 23:00:15
マンガって暴れん坊少納言ての? 一条帝はどんな感じ?
定子のことが好きな坊ちゃん(15歳ぐらいに見える) 定子と加茂祭り行ってる自分を想像(立場上外に見に行くわけにはいかないので)していたら 定子が飼ってる犬がはしゃいで暴走してシシンデンに乱入 それを追っかけてきた少納言にとび蹴り食らいそうになった (少納言はだれだか知らなかったのであんた呼ばわりしててあとで怒られた) 宮中での不始末ゆえになんらかのけじめをつけねばならん事態なので いやいやながら少納言のかわりに犬を島流しにした結果 罪悪感から熱出して寝込んでた (最終的に少納言が丸く収めた)
160 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 23:40:13
翁丸事件を歪曲したストーリーだな。
というかまんま翁丸事件なんだけどね 犬の名前翁丸だし
162 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 00:06:01
自分としては、昔あった「マンガで読む古典」だか(NHKで放送)を 漫画化したのがいい。帝がお渡りするとこ、翁丸のこととかあるよ。 則光は、不細工に書かれてあって、歌を詠むのが嫌いなので ナゴンに「歌は詠まないで下さい」とかいってる情けないキャラ。
163 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 00:08:33
ちなみに少納言役は、鳥越なんとかっていう 後にJリーガーと噂になった女優さんだった。
164 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 00:10:00
翁丸は、定子の犬じゃないし。
165 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 12:50:10
紫式部は芸人の光浦のイメージ。
田辺聖子が訳した枕草子(文庫本。サブタイトル忘れた)を 立ち読みしたことがあるんだが、彰子の妹の妍子に「けんこ」 ってルビが入ってて、これはちょっとなあ…と萎えた覚えがある。 「きよこ」か「けんし」だよな、普通。
167 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 16:45:29
暴れん坊少納言みたい、置いてないよ。
168 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 16:58:47
>>166 この時代の女性の読み方って相変わらず統一されてないよね。
昔は音読みのみだったけど、最近訓読み、重箱読みパターンも増えてる。
実際の読みは定子=さだこ、彰子=あきこ、詮子=あきらこ
超子=とおこ、倫子=ともこ、威子=たけこ、原子=もとこ?
でいいのか?
169 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 17:41:15
珍子は、なんてよむの?
170 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 17:47:08
一般的には珍子=うずこ。
>>168 それを検証するスレあったな。
かなり荒れ気味の時もあったし(皆自分の意見を譲らないw)落ちちゃったけど。
俺は天皇の祖先
子孫ではなく祖先ということはニニギんとかですか?
175 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 20:02:11
>>168 妃のいみなを選定するにあたってその漢字は重視された
あらゆる文書、朝廷からの宣命に書かれる正式な名だからね
ただ実際にいみなで呼ばれることはなかったのだから
そもそも読み名がついてなかったんじゃないのか
176 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 20:10:14
>>156 中関白家没落後はむしろ定子への同情で召していたような気がする
全盛期には伊周の内覧を取り上げたり左遷後帰還に反対したり
一条天皇は定子や中関白家に協力的だったとは思えない行動をとっているからね
逆に他の妃たちも没落したら内裏へおいでよ、と声をかけていそう
現に異常妊娠以来里へこもりがちになった女御元子には
早く内裏へ戻っておいで、と一条天皇は催促しているし
定子程度の知識は他の妃たちも持っていただろうね
歌の暗記がお妃教育になっていた時代のことだから
彰子も紫式部に白氏文集をならっていたことが記録されているし
彰子や妹たちが愛読していた源氏物語は一条天皇も熟読していて
そんなことも話題にしていたかもしれない
177 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 21:05:16
>>156 >威子が同様ならありえん。
それは君の妄想だろ
勝手に歴史をねつ造するなよ
後一条天皇は威子との間に生まれた2人の皇女を溺愛していたし
威子のことを嫌っていたという史料は全くないのだから
178 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 21:09:22
彰子は、家庭教師をつけていたわけで 定子は、少納言同等の才気はあったと思われる。 転機が利くし、会話もウィットに富んでる。
179 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 21:19:05
>>178 定子も家庭教師を付けて教えてもらっていたよ
誰から習ったと思ってんの?
生まれつき知っていたとでも(笑
清少納言が仕え始めたのが定子18歳の時だから
それまでにお妃教育終えていただけ
もしくは清少納言は意外にあまり知識がなく
定子の教育係に選ばれなかったのか
「枕草子」は部下が自分の主人をあまりにも美化しすぎた
ものだと何度いったらw
180 :
日本@名無史さん :2008/08/23(土) 22:58:30
>>175 >そもそも読み名がついてなかったんじゃないのか
いくらなんでもそれはない。
なぜならマサルコやタカイコなど名前の読み方が記録されてるから。
181 :
日本@名無史さん :2008/08/24(日) 02:55:44
定子様の方が遥かに高偏差値ガール。
>>167 昨日(23日)に3巻が出たばかりだから中堅規模の書店では売ってると思うよ
183 :
日本@名無史さん :2008/08/24(日) 04:19:35
3巻だけ手に入った。 時代構成はめちゃくちゃだね。 道隆が死ぬ前に定子が懐妊してるし。
一巻のおまけ漫画でしっかりセルフ突っ込みいれてるよ 太刀の位置と形がおかしいとか なんで994年で16歳なんだよとか 宮中入ってるときはお前らもう結婚して子供産んで離婚してるはずだろに なに中学生の恋愛みたいなことしてるんだよとか 離婚後もしばらく兄、妹で呼び合ってるなてどんなプレイだよとか 和泉式部の服と所属がおかしいとか 髪型もおかしいとかいろいろ・・・ でも2巻になってから彰子紫式部組の変な服と髪型が出てきてからもはや誰も突っ込まなくなったw
185 :
日本@名無史さん :2008/08/24(日) 07:53:00
186 :
日本@名無史さん :2008/08/24(日) 08:04:39
彰子のファッションがすごいだろ。 定子は、普通に出家した後かと思った。
187 :
日本@名無史さん :2008/08/24(日) 08:38:43
>>180 原典に当たったことがないだろ。
「まさるこ」の名が記されてある頼長の日記「台記」には、
妃の名は呼ばれることはないけれども特に読みを定めるのである
と書かれてあって、通常は読みを定めることがなかったことが
明記されてある。
また、「たかいこ」と記した史料はなかったはず。
188 :
日本@名無史さん :2008/08/24(日) 08:39:33
>>180 日本史板なんだから
史料にないことを言うなよ
189 :
日本@名無史さん :2008/08/24(日) 15:17:21
彰子紫式部組=欧米か!
あの2人はフリフリ系の洋服に見える・・・ 髪型もショートカットだし
敦康親王や藤原実資への対応とか見てると、彰子の方が良い人っぽいように見えるんだが、 定子の方が擁護多いねえ。
192 :
日本@名無史さん :2008/08/25(月) 01:45:46
彰子は、子供で着ないときの駒として親王を手なずけていただろうから。
上東門院は道長・頼通ほどドライではなかった。
一条帝って「かねひと」なのか「やすひと」なのか分からん。どっちなの?
195 :
日本@名無史さん :2008/08/25(月) 21:26:58
やすひと!
196 :
日本@名無史さん :2008/08/26(火) 15:09:47
敦康親王が帝位についていたら。。。
197 :
日本@名無史さん :2008/08/26(火) 20:12:46
敦康親王は19歳で死去。 36歳で即位した三条天皇より先に死んだから、 たとえ彰子に皇子がなくともどのみち即位できなかったけどね。
198 :
日本@名無史さん :2008/08/27(水) 01:01:05
次の東宮にしとけば、鍾愛していた一条天皇も安心して死ねたのに。
彰子は敦康の東宮を推してたらしいが、 道長が認めるわけないなあ。
200 :
日本@名無史さん :2008/08/27(水) 02:53:53
>>199 それも怪しいという説がある。親子でグルかもよ。
201 :
日本@名無史さん :2008/08/27(水) 20:40:28
>>198 一条天皇は後ろ盾のしっかりした第二皇子敦成親王を次の東宮に据えて
安心して死んだよ
政権を安定させることが天皇の務めだし
父親である一条天皇が後ろ盾のない第一皇子敦康親王の身の上を案じて一品に叙したのは事実だが
敦成親王だって愛するわが子
当時は第一皇子が即位するという決まりもなかったのだから
後ろ盾のない皇子を無理やり東宮に押して結局廃太子となった
三条天皇がおりこうさんだったとも思えない
202 :
日本@名無史さん :2008/08/28(木) 07:43:13
三条の皇子はみんな後ろ盾無いからしょうがないじゃん。 誰を皇太子にしたところで同じ。
203 :
日本@名無史さん :2008/08/28(木) 09:06:40
第一皇子敦康親王が、一品になるのは当たり前。
204 :
日本@名無史さん :2008/08/28(木) 20:36:19
>>202 禎子内親王が男だったらよかったんだろうが
まあ、禎子内親王は藤原氏を外戚としない
後三条天皇をこの世に送り出して
父三条天皇の敵を討ったけどね
205 :
日本@名無史さん :2008/08/28(木) 22:28:58
>>204 禎子内親王は、後ろ盾あるじゃん。
母后が電波っぽくて、空気読めないから、周りと上手く
いかなかったけど、彼女は道長の孫だぞ?
後三条は藤原の血脈の上にある天皇です。
ただ、回りから望まれない皇太子、母后の立場(内親王なのに
中宮→皇后に押しやられ、養女の元王女が入内して中宮)とかで
御堂系が嫌なだけ。禎子内親王の皇后宮大夫は、源明子の子
能信だぞ?(=道長の子供)
>>205 道長健在の時は良かったのだが、
頼通、教通の代になると、上東門院、能信あたりしか支えてくれなかった。
207 :
日本@名無史さん :2008/08/28(木) 22:48:28
>>205 母后が電波ってw
禎子内親王を入内させたのは祖父の道長。
だけど道長没後、禎子内親王に後ろ盾はなし。
能信は明子腹の四男坊にして生涯実子を持たなかった
道長の後継者長兄頼通にたてついて出世もできない
道長の息子たちの中では出家した顕信を除いては
能信が一番不遇
そこで禎子内親王に目をつけたんだな
後三条天皇が摂関家を無視し親政をとったのは事実
藤原氏の血を引いていようがその藤原氏の力を削ごうとした
だいたい道長と不仲だった三条天皇だって母親は道長の実の姉
三条天皇は道長の甥で血縁はとても近かったのだから
208 :
日本@名無史さん :2008/08/28(木) 23:36:03
スレタイ見た時嫌な予感したけど案の定…ww どうしてこの頃の人物の信者とアンチってこうなんだろう
209 :
日本@名無史さん :2008/08/28(木) 23:44:11
日本史板でも屈指の気色悪いスレだなww 内容のレベルの低さも異常。ここにいるのってゆとりだよね? 意見の偏り方とか流れから察するに住人の人数もかなり少ないでしょ? ほんとに、一条天皇前後の時代が好きな人は偏屈で扱いづらい ノリも女性週刊誌みたいで吐きそうww
女房って普段何してんの? 担当の貴女と一緒に扇で口元隠して始終歌詠んでるの? それで飯を?
211 :
日本@名無史さん :2008/08/29(金) 12:42:21
212 :
日本@名無史さん :2008/08/29(金) 12:43:11
枕草子のホトトギスを探すくだりが好き!
213 :
日本@名無史さん :2008/08/29(金) 19:00:44
あれいいよねーー。
214 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 00:59:51
元輔の・・・の定子様の歌おもしろーい。
215 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 14:51:57
定子皇后が最後に残した歌が悲しい・・。
216 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 17:23:59
『源氏物語の時代〜一条天皇と后たちのものがたり〜』の中に 一条天皇の辞世の句は彰子にではなく定子に向けて詠んだという説があるけど 実際どうなんだろうね、傍で看病し続けた目下の妻を差し置いて そんなんありかと思ってしまうがw
217 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 17:35:13
隠してあった不満の歌は、御堂関白家に対してだろ。 看病って、女官がしてるしw
218 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 19:50:37
一条天皇は彰子と2人の息子(まだ小さかったけど) に看取られて死んだんだからいいんじゃない 自分の妻子に囲まれながら 10年以上も前に死んだ昔の女に対して詠んだのなら それこそ定子の怨霊にでも取りつかれていたのだろう
219 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 20:37:44
>>217 お前の言ってる不満の歌は一条天皇の辞世の歌と別物だろw
多分、史料を見たことがないんだと思うが。
一条天皇の没後、すずりの中から見つかったという不満の歌は漢詩。
「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」
一条天皇の同時代の史料ではなく、
道長の子孫である慈円の著「愚管抄」にこんな伝聞がある、程度に載せられたもの。
一条天皇の辞世の歌とは全く別もの。
220 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 20:50:47
>>316 露と露で定子皇后の歌と被る。
221 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 20:52:36
222 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 20:57:56
>>220 命のはかなさを表すために
死んでいく自分のことを露に例えるのは
この時代の流行
そんな歌は腐るほどあるんだが
223 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 21:03:05
文意を見ればよく分かる。 一条天皇の辞世の歌はこの世に残していく人(彰子)に対する 別離の念を詠んだもの。 あの世にいる定子に対して詠んだものなら もうすぐ会えるね、と再会の歌を詠むだろ。
224 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 21:08:28
一条天皇の病状がほぼ回復しかけていた時に、 儒学者大江匡衡に占わせた「死の宣告」に等しい易占いの結果を 道長が一条天皇のすぐ耳に入るような寝所の隣で騒ぎ立てたのが ワザととしか思えないw 相当ショックを受けたらしくそれから一か月もしない内に本当に死んでしまうし
225 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 21:09:07
226 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 21:17:58
定子の遺児に詠んだかもね。
227 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 21:23:03
>>216 の本によれば定子にあてた説の根拠は
藤原行成の日記『権記』に
「この歌は皇后に寄せた歌だ」と書かれており、
定子崩御以降、権記において皇后表記は定子以外にはされていない
かららしい。
ちなみに道長の日記『御堂関白記』では彰子にあてたものとして書かれている。
ようするに行成が定子派だったって事かも
228 :
日本@名無史さん :2008/08/30(土) 21:25:07
そもそも定子の辞世の歌は正確な史料に残るものではなく、 彰子側の女房(赤染衛門)が書いたと思われる「栄華物語」のみにある。 「栄華物語」は物語として読んで面白いように、年代や内容に虚構が多く含まれる。 (定子についていえば、栄華物語では伊周ら兄弟が呼び戻されたのは定子が皇子を産んだからとされているが、 実際には定子が皇子を産んだのは兄弟が呼び戻され、定子が後宮に呼び戻されたあと) つまり、実際に定子が詠んだのではなく、著者である赤染衛門が創作した可能性がある。
229 :
日本@名無史さん :2008/08/31(日) 05:11:11
御堂関白も栄華も歪曲してる。
230 :
日本@名無史さん :2008/08/31(日) 05:48:07
権力で事実を歪曲するなーー。
231 :
日本@名無史さん :2008/08/31(日) 08:45:05
>229、230 清少納言も中関白家の栄華を歪曲してるじゃん しかも君は毎回頭の悪い書き込みを続けているけど 当時の史料は何一つ読んだことがなく 円地文子の創作文学である「なまみこ物語」だけがソースなんでしょ?
貴族の話はさっぱりでないな。
233 :
日本@名無史さん :2008/08/31(日) 12:14:05
なまみこ物語最高だね!
234 :
日本@名無史さん :2008/09/01(月) 07:40:51
暴れん坊少納言スゲーーナ。
235 :
日本@名無史さん :2008/09/01(月) 13:28:05
/ __`ヾ),_ /〃 (⌒゛`ヾv"ヽミ、 i / /´ _障害者.i l| | 彳 〃_. _ヾ!/ | _ !" ´゚`冫く´゚`l (^ゝ " ,r_、_.)、 |,,.. -─‐\___ ヽ_j 、 /,.ー=-/ : : : : : : : : ::)ノ: : ヽ \_ "ヽ ^/ : : : : : : ソ⌒売春婦、 : :ヽ /⌒ - - ! : : : : : : ) ⌒ ⌒ヾ :(_, / /| | : : : : :(, _ ) __ )!:_ノ \ \|≡∨ 包茎 ヽ (aイ ´゚ i | . ゚`〈 \⊇ 池沼 \:_| " . ノ 、_)、 ゙.ノ | (_ソ人 l ー=‐;! ノ ( /⌒v⌒\ \ヽ__,ノ パンパン| 丶/⌒ - - \ / \ | |売春婦 / | / ノ\__| |・_三_・ノ| | / /パンパン| | | | /__/ | | | | ⊆ | | ⊇
236 :
日本@名無史さん :2008/09/01(月) 14:58:57
通報しろ。
237 :
日本@名無史さん :2008/09/01(月) 15:38:35
/ __`ヾ),_ /〃 (⌒゛`ヾv"ヽミ、 i / /´ _障害者.i l| | 彳 〃_. _ヾ!/ | _ !" ´゚`冫く´゚`l (^ゝ " ,r_、_.)、 |,,.. -─‐\___ ヽ_j 、 /,.ー=-/ : : : : : : : : ::)ノ: : ヽ \_ "ヽ ^/ : : : : : : ソ⌒売春婦、 : :ヽ /⌒ - - ! : : : : : : ) ⌒ ⌒ヾ :(_, / /| | : : : : :(, _ ) __ )!:_ノ \ \|≡∨ 包茎 ヽ (aイ ´゚ i | . ゚`〈 \⊇ 池沼 \:_| " . ノ 、_)、 ゙.ノ | (_ソ人 l ー=‐;! ノ ( /⌒v⌒\ \ヽ__,ノ パンパン| 丶/⌒ - - \ / \ | |売春婦 / | / ノ\__| |・_三_・ノ| | / /パンパン| | | | /__/ | | | | ⊆ | | ⊇
238 :
日本@名無史さん :2008/09/01(月) 16:45:42
暴れん坊清少納言 ワロタ
239 :
日本@名無史さん :2008/09/01(月) 16:46:44
240 :
日本@名無史さん :2008/09/01(月) 17:06:15
定子様の「いはでおもふぞ」のとこは好きだけど、暴れん坊のは少し違う。
一条帝の息子たちは「○仁」じゃなくて「敦○」と 名前がついているけど、何かこだわりでもあったの? 天皇自身が命名したものなの?教えてちゃんでスマソ。
242 :
日本@名無史さん :2008/09/01(月) 22:36:51
>>241 最初に「○仁」の名を付けられたのは清和天皇
以降、「仁」の名を持つ親王はときどき見られるようになるが
親王には必ず「仁」の字を付けるという伝統もなかった
むしろ嵯峨天皇以降兄弟で同じ一文字を付けるという習慣があった
一条天皇の皇子たちは兄弟がみな「敦」の一文字をつけられている
一条天皇の東宮だった三条天皇の皇子も「敦」(第四皇子の師明親王だけが例外)
一条天皇の祖父村上天皇の皇子は「平」が通字だった
一条天皇自身は「懐仁」の名を持つが、円融天皇の一人っ子だったため
もし兄弟がいたらどんな名をつけられていたかは不明
>親王には必ず「仁」の字を付けるという伝統もなかった >むしろ嵯峨天皇以降兄弟で同じ一文字を付けるという習慣があった 知らなかった。そうなんだ。「同じ一文字を付けるという習慣」は 結構興味あるな。 近代の宮家もそうだよね。天皇家はずっと「○仁」 だけど。
244 :
日本@名無史さん :2008/09/02(火) 07:55:45
女二宮(び子内親王)は、名前からして かわいかったのかな?
245 :
日本@名無史さん :2008/09/02(火) 11:25:48
定子様が命を懸けて生んだのに・・長生きして欲しかったー。
246 :
日本@名無史さん :2008/09/03(水) 09:31:56
定子様ーー。
247 :
日本@名無史さん :2008/09/07(日) 20:35:42
定子厨はほかのスレへ行けよ 道長の娘たちを語るんであって 道隆の娘たちを語るスレでも立てろよ うざい
248 :
日本@名無史さん :2008/09/07(日) 22:30:26
ここは、一条天皇と定子皇后の悲愛を書き込むスレだぞ。
249 :
日本@名無史さん :2008/09/07(日) 22:42:56
>248 馬鹿のせいでスレが止まってるね 定子厨はどっかに隔離スレ作って ほかのスレに来ないでくれ
250 :
日本@名無史さん :2008/09/08(月) 00:46:25
1 :日本@名無史さん:2008/08/09(土) 02:14:26 平安時代関係のスレでは一度は必ず巻き起こる一条天皇と定子を 巡る様々な論争。正直辟易としている方もいるのでは? そこで一条天皇とその女達と子供について徹底的に 討論してみようじゃないかという専用スレを立てました。 なお、女達というのは母親や女房も含むこととします。 政権抗争というお固い話から甘く切ないラブロマンスまで ご自由にどうぞ。 ただ、信者もアンチもほどほどに。
251 :
日本@名無史さん :2008/09/08(月) 05:49:29
道長、彰子に偏ってる人物もいい加減にしろ。
252 :
日本@名無史さん :2008/09/08(月) 06:30:22
史料に基づく主張、反論ならば価値がある。 ただ史料を無視して○○様、最高!みたいな書き込みはただの荒らし。 史料の裏付けがないレスを許して何のメリットがある? ここは日本史板だ。 あまりにレベルが低すぎる。
253 :
日本@名無史さん :2008/09/08(月) 06:34:39
>>251 ここはそういうことを語るスレです
史料をあげて一条天皇が政略結婚した定子を
それなりに遇していただけにすぎないことを論証されるのはいや、
定子厨専用スレにしたいなら隔離スレ立ててください
254 :
日本@名無史さん :2008/09/08(月) 11:34:36
一条天皇と定子様のスレのはずだっただろ!
255 :
日本@名無史さん :2008/09/08(月) 22:18:09
び子内親王ってかわいかったの?
間をとって武人っぽい藤原隆家の話でもしようぜ? 広義ではこいつも貴族だしな
藤原隆家って「くらげの骨」の人だよね。若い頃はあんまりいい印象ないんだけど、その後は武人として活躍してるね。
258 :
日本@名無史さん :2008/09/10(水) 04:57:58
なにそれ?
259 :
日本@名無史さん :2008/09/11(木) 02:28:29
隆家は『大鏡』に面白いエピソードが多いからな。 宴席で気色ばんで白けさせたりとか。
261 :
日本@名無史さん :2008/09/11(木) 16:59:11
永井路子の定子論はいいな。
262 :
日本@名無史さん :2008/09/11(木) 17:09:01
梅原猛著『古代幻視』の枕草子考察もおもしろいよ。
>>257 の「くらげの骨」エピソードも載っていて
道長側への体制批判を暗に含んでいるという解釈をしている。
264 :
日本@名無史さん :2008/09/11(木) 21:14:11
しかし清少納言は枕草子で道長を立派だと繰り返し褒めたたえている 自分がいかに道長と仲良しだったかも書いている 清少納言の娘は彰子の女房だったし 穿った見方をすれば長いものに巻かれているんだろうが 「小右記」や「紫式部日記」とは異なり 清少納言自身の政治に対する立場は不透明に書かれているんだよね
265 :
紫式部日記 :2008/09/12(金) 12:54:06
266 :
日本@名無史さん :2008/09/14(日) 16:53:57
定子様と一条天皇。あの世で仲良くしてるんだね。
267 :
日本@名無史さん :2008/09/14(日) 18:49:02
>>1 他板で相手にされないからここでスレ立ててたか。
おまえ気持ち悪いよ。
268 :
日本@名無史さん :2008/09/15(月) 00:55:48
>>266 定子と一条天皇の胤は4代で費えた
一方
彰子と一条天皇の胤は現代の天皇家をはじめ
多くの子孫を残して繁栄した
一条天皇の血を現在にまで残しえたのは彰子のみ
物語ってるな
>>267 1ですが誰かと勘違いされていませんか?
勝手に決め付けられて不愉快です。
>>264 > しかし清少納言は枕草子で道長を立派だと繰り返し褒めたたえている
> 自分がいかに道長と仲良しだったかも書いている
何段で?
271 :
日本@名無史さん :2008/09/15(月) 10:51:00
あの世では、帝は定子様と同じはすの葉の上にいるからいいじゃーん。
>>264 「関白殿、黒戸より出でさせ給ふ」の「大夫殿のゐさせ
たまへるをかへすがへすきこゆれば」のことを言ってるなら
道長すら下座させた道隆の威勢をたたえている。
枕草子は意識的と思えるほど道長の話題に触れていない。
まして、道長との直接の親交を語る下りはない。
273 :
日本@名無史さん :2008/09/16(火) 21:50:32
>>272 続きを読んだほうがいい。
「大夫殿の居させ給へるを、かへすがえす聞ゆれば、「例の思ふ人」と笑はせ給ふ。
ましてこの後の御ありさま、見奉らせ給はましかば、理とおぼしめされなまし。」
大夫殿(中宮大夫=道長のこと)がおいでになることを何度も何度も私(清少納言)が繰り返し申し上げるので、
(中宮定子も)「いつも(清少納言が)贔屓にしている人のことね」とお笑いになる。
この後のあり様(道長が政権をとったこと)をご覧になったならば、
なるほど、全くその通りであったなあ、と思いになったことだろう。
清少納言が道長雌伏の頃から道長の資質を見抜き、
よく周囲に褒めていたことを書いている。
>>273 旧来(戦前世代まで)の解釈だね。
今日では、別の読み方があるのを知らないわけではあるまい?
中宮大夫が思わず膝をおつきになったことを、何度も何度も申し上げると、中宮様は
「そらまたいつもの関白様びいきね」とお笑いあそばしたっけ。
その後の道長公の権勢ならびないご様子を皇后様がお見受けなさったとしたら、
(その大物の道長様を膝まづかせなさった関白殿の御威勢を私があんなにお讃めした
のも)尤もなことと、お思い遊ばしたことでしょう。
清少納言は、枕草子に、道長という人物をどうとらえているか記述していない。
もちろん、「自分がいかに道長と仲良しだったか」など一言も書いていない。
275 :
日本@名無史さん :2008/09/17(水) 10:43:03
一条天皇は道長嫌いなんだよ!
276 :
日本@名無史さん :2008/09/17(水) 20:23:35
>>274 一条天皇は伊周が嫌いだったけどね。
伊周の関白を認めず、内覧も取り上げている。
277 :
日本@名無史さん :2008/09/17(水) 20:26:10
>>274 「例の思ふ人」を道隆と解釈をしているのはどの学者?
全くの初耳。
多くの解釈書でも「例の思ふ人」は道長だと解釈されているが。
278 :
日本@名無史さん :2008/09/17(水) 22:28:10
道隆はイケメンだったと記録あるが。
>>277 萩谷朴
手近なものでは、新潮日本古典集成
詳しくは、「枕草子解釈の諸問題(47) 『国文学』昭38・1
または、『枕草子解環(三)』同朋舎昭和57年
日本史の人間が国文学の論文読むのも苦だろうが
田中重太郎ぐらいは聞いたことがある名だろうか?
(この二人は、池田亀鑑の同門)
「枕冊子全注釈 三」でこの段の解説9頁のうち
4頁を割いてこの説を紹介している。
ほとんどの学者は旧来からの解釈を覆したりしない。
まして、師匠筋の国文学者の見解を批判したりしない。
(食べていくため)
280 :
日本@名無史さん :2008/09/20(土) 06:42:17
>一条天皇は伊周嫌い 歌会やったり講義受けたり、そういう付き合いは多かったんだよ お気に入りの定子の兄でもある ただ親父・叔父の死後、ものすごい調子こいた事言い始めたから みんながムカついて、天皇も気を悪くして関白位は与えず内覧も道長に。 まあボンボンらしく色々と迂闊な人ではあったみたいだな伊周。 一条天皇の残した「道長うぜー」って文書を後で道長が見つけて ブチ切れる話も有名だがな。 帝は帝で犬を島流しにしろとか言い出すおぼっちゃん。 頂点の方は人数限られた閉鎖社会だから、みんな周囲の人の欠点にはイライラしてて それでもまあ許容して付き合ってたんだろうなと思う。ほとんど藤原氏だしね。
281 :
日本@名無史さん :2008/09/20(土) 15:40:52
暴れん坊少納言凄すぎ。
282 :
日本@名無史さん :2008/09/21(日) 10:16:39
時代構成ちがうだろ。
283 :
日本@名無史さん :2008/09/22(月) 09:30:45
枕草子の「いはでおもふぞ」のとこ好きです。
284 :
日本@名無史さん :2008/09/22(月) 21:52:41
>>279 だけど後の世のことまでわざわざ書いて
結局のところその文章では道長をわざとほめているよね
清少納言は道長と仲良しだったので
定子が不遇になると居づらくなってしばらく
そばに上がれなかったという文章もある
普段から道隆を褒め称えていたというならありえない
清少納言の実娘が彰子に出仕しているというだけでも
君からすれば信じられない事実に相当するんだろうが
285 :
日本@名無史さん :2008/09/22(月) 22:00:33
>>280 道隆全盛期は一条天皇は10代半ばの子供
道隆のいいなりになるしかなかったしな
定子がお気に入りかどうかは史料がないし
道隆全盛期には一条天皇は定子以外の女とセックスできなかった以上
妄想によるしかない
一条天皇が道長がわが意のままに政治を行うという意味の漢詩を書きつけたものが
一条天皇の没後硯の中から出てきたという話だが
実は同時代の史料は一切出てこない。
道長に批判的だったという実資の「小右記」にも「大鏡」にすら出てこない。
この内容が描かれてあるのは平安末期の「愚管抄」。
慈円の著書も同時代の摂関家の出来事は特筆に値する史料だと思うが
慈円が道長時代に生きていたはずもなく
もはや先祖の伝説を集めたしろもの的な話で信憑性はない。
>>284 >だけど後の世のことまでわざわざ書いて
>結局のところその文章では道長をわざとほめているよね
この段の最後の文章は、二六二段「関白殿二月二十一日に」の
最後の文章と同じ構造。「道長をわざとほめている」のではない。
「いまの世の御ことどもに見たてまつりくらぶるに、すべて
ひとつに申すべきにもあらねば、もの憂くて、おほかりしこと
どももみなとどめつ」
一二四段は、最初から「佛になりたらむこそはこれよりまさらめ」
まで道隆礼讃の文章を展開している。
それにもかかわらず、最後の二、三行で突然、道長礼讃に論旨が
変わるとしたら、清少納言という人間は論理的に文章を組み立て
ることができない、支離滅裂な文章を書く分裂症患者になる。
>>284 >清少納言は道長と仲良しだったので
>定子が不遇になると居づらくなってしばらく
>そばに上がれなかったという文章もある
一三八段「殿などのおはしまさで後」のことだろうか。
この段の以下の箇所を読んで、清少納言は「道長と仲良し」
だから「居づらく」なったと解釈できるのだろうか。
「なにともなくうたてありしかば、ひさしう里にゐたり」
「いさ。人のにくしと思ひたりしが、またにくくおぼえ侍りしかば」
「さぶらふ人たちなどの、『左の大殿がたの人知るすぢにてあり』
とて、さしつどひ、ものなどいふも、下よりまゐる見ては、ふと
いひやみ、はなち出でたるけしきなるが見ならわずにくければ」
私には、中関白家に忠誠を尽くしてきた少納言が、道長方に内通
していると噂され、怒りに震えて後宮を飛び出したように読めるが。
その悔しさ、無念さが、定子には解っていた。
だからこそ、「いはで思ふぞ」だと思うが。
>>284 >普段から道隆を褒め称えていたというならありえない
道隆に対する記述と、道長に対する記述を読み比べてみるといい。
道隆が登場する4つの段
「小白河といふところは」「淑景舎東宮に」「関白殿黒戸より」
「関白殿二月二十一日に」
道長が登場する2つの段
「関白殿黒戸より」「関白殿二月二十一日に」
>>284 >清少納言の実娘が彰子に出仕しているというだけでも
>君からすれば信じられない事実に相当するんだろうが
小馬命婦と彰子、清少納言と道長の関係論は別だと思うが。
清少納言すら、彰子に仕えたのではと考える学者もいる。
話をすりかえても仕方あるまい。
これ以上は、スレ汚ししなるだろうから、以後レスはしない。
私が指摘したいのは以下の2点のみだ。
>しかし清少納言は枕草子で道長を立派だと繰り返し褒めたたえている
道長が膝まづいたことを繰り返し話しただけ。
>自分がいかに道長と仲良しだったかも書いている
どこにもそんな記述はない。
290 :
日本@名無史さん :2008/09/23(火) 02:49:55
いはでおもふぞ・・・定子様って手先器用だな。
>>290 「人づての仰せ書きにはあらぬ花びらただ一重をつつませ給へり
それに『いはで思ふぞ』と書かせ給へる」
「それに」を花びらととると器用な人になってしまう。
「人づての仰せ書きにはあらぬ〜つつませ給へりそれに〜書かせ給へる」
つまり、花びらを包んだ紙に書いたと解釈するなら驚くにあたらない。
292 :
日本@名無史さん :2008/09/23(火) 13:31:35
ぼたんとかひまわりなら書けるけど、山吹に書くって定子さま器用ですな。
293 :
日本@名無史さん :2008/09/23(火) 16:23:53
>>289 「例の思ふ人」が通説どおり道長を指すのであれば
通説どおり清少納言は道長を立派な人だと常々言っていたことになる
お前の意見は通らない
清少納言が道長方だと思われて定子のもとへの出仕を辞していたあたり
道長と親しかったと清少納言が主張していることにほかならない
御堂関白記には当たり前だが清少納言のことなど出てこないが
つまりはおまえの意見には賛同できないということだ
学者たちの通説でも「例の思ふ人」は道長だ
294 :
日本@名無史さん :2008/09/25(木) 08:07:08
思う人は行成じゃね。
295 :
日本@名無史さん :2008/09/25(木) 20:25:24
行成は字が上手いよね・
296 :
日本@名無史さん :2008/09/26(金) 10:40:09
定子さまーーー。
297 :
日本@名無史さん :2008/09/27(土) 04:38:01
素敵ーーーー。
日文科とヲタの対決は、ヲタが勝ったのか?w
大学時代に枕草子に思いっきりハマッて、文学部に移ろうかと 思ったくらい好きだった。でも学科が絞りきれなくて(日文か 史学科日本史専攻で迷った)結局ズルズルと政経で卒業したが。 一条天皇をめぐる世界は文学的にも歴史的にも面白いね。
枕草子スレになる悪寒・・・
301 :
日本@名無史さん :2008/09/28(日) 07:19:11
是非、定子様&帝について卒論書いてくれ。
302 :
日本@名無史さん :2008/09/28(日) 12:55:05
>>299 帝の辞世の句は定子様へのものだった!で論文書け。
299は >>政経で卒業したが。 と既に卒業しているんだが。 ついでに卒論なら自分で書けばいいだろう? まだ大学に入学していなければ自分で書けばいい、 既に大学卒業していても、大学には何度でも通えるんだから、 自分で卒論なり論文を書けばいい。
定子厨にそんなことできるわけがないw 史料や客観性から一番遠いところにいる妄想世界の住人なのに
305 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 17:34:55
大学院いって妄想論文書けよ。
306 :
299 :2008/10/02(木) 19:13:01
学部は政経で、その後大学院に進んだが、都市計画 やってたぞ、俺は。 結果的に自分の首を絞める羽目になったが、それは それでいろいろ面白かった。 文学は趣味の範囲で済ませた方が無難なのかなあと 就活してて思ったよ。
308 :
日本@名無史さん :2008/10/07(火) 08:13:38
定子さま〜
しかしひどいね、ここ。私もどちらかといえば定子派だが、恥ずかしくなる。 真面目に言えば、定子生存中はやっぱり一条天皇は定子を1番愛していたのでは?短期間しか内裏にいないのに妊娠するほどだから。ま、愛情ではなく、回数でもなく、精子と卵子の相性とタイミングなわけだが。 ただ、前にも話題になったみたいに修子内親王は一条の子でない可能性がおおいにあるわけで。 定子死後は他の妃たち、御櫛殿(この人は定子生前からかも)や彰子やその他を愛したのでは? どんなに愛しても死後2、3年もすれば立ち直れる。 生きていながら極楽浄土、という思想もあったわけだし、楽しむ、というか、楽になる(なりたい)、という思考があったと思う。 ちなみにこのテの話は卒論にはむかない。
普通にそうだろーね。 最初の妻だし、多少の思い入れはあっただろうけど 死別後自分の死の間際まで同じ重みで愛し続けたということは考えにくい。 思い出としてそれはそれであったとしても 現実に目の前にいる后妃の方を愛して当たり前だと思う。
311 :
日本@名無史さん :2008/10/08(水) 21:29:48
いはでおもふぞ・・・いいな。
312 :
日本@名無史さん :2008/10/13(月) 12:44:38
はじめまして。 私の中で、何年かおきに一条天皇ブームが来ます。 それで検索してココに来ました。 はっきり言って、ちゃんとした資料は読んでいないので ココを読んで、そうなんだ! って思うことばかりです。 勉強不足な私ですが、しばらく通わせて下さい。 私は、定子さんも嫌いではないですが、 一条天皇が亡くなる際には、彰子を想っていたと思いたいです。 道長の娘でさえなければ、もっと素直に愛情を示してもらえたかも… とか思っています。 そう思っていたいだけですが。
313 :
日本@名無史さん :2008/10/16(木) 18:16:53
道隆が亡くならなければ定子様と帝は・・・・(涙
道隆が死ななければ 道隆ー伊周の専横と摂関不在と望んだ成人した一条天皇は対立 定子も普通に政略結婚で押しつけられた年上妻にすぎなかっただろう 定子が権力者の娘から一転、不遇になったからこそ(しかも原因を作ったのは一条天皇) 一条天皇はさすがに同情、不憫に思ったんだろ
一条帝は気の毒な境遇の女性を放っておけない性格なんでは? 定子しかり、(腹水事件後の)元子もまた世間の物笑いの種で可哀想、と。
定子・・・桐壺 彰子・・・藤壷 元子・・・朧月夜 義子・・・葵上 尊子・・・花散里 当てずっぽうなイメージ。
317 :
日本@名無史さん :2008/10/19(日) 06:42:57
定子の母親である高階貴子は円融帝の時代に掌侍として仕えていた(高内侍と高階貴子が別人説もあるけど、同一人物として)、とあるけど掌侍って何? 一応ぐぐってみたけど、天皇の妃みたいな人もいれば、ただの女官、という人もいそうなんだが。 貴子はどっちの色合いが強かったんだろう? 昔、古今和歌集で道隆と付き合う以前に付き合っていた男性に宛てての歌を読んだことがあって、今更手紙をくれたって手遅れよ、的な歌だったような気がする(その歌の相手は平○○だった気がする。全然思い出せない)。 円融帝の妃の一人、と言うような立場だったのだろうか?
318 :
日本@名無史さん :2008/10/19(日) 07:56:04
高階貴子は純粋な女官だよ。 この時代、未亡人の藤原登子が尚侍として村上天皇に侍ったことはあったが 基本的に妃(皇后、中宮、女御、更衣)と女官は明確に分かれていた。 内侍や掌侍の中から天皇の愛人が出るようになったのは江戸時代。 後の解釈として高階貴子は円融天皇の思い人だったなんていうのがるが、 円融天皇より年上だった高階貴子が藤原道隆との間に第一子の伊周を生んだとき円融天皇はやっと数え16歳。 この前年には貴子はすでに道隆と結婚していただろうし、 仮に貴子が円融天皇と関係があったとすればそれ以前、円融天皇10代前半ということになり、かなり厳しい。
319 :
日本@名無史さん :2008/10/19(日) 21:03:05
思春期の帝&年上の女官にハァハァ
>>318 そうなのか。とても参考になった。ありがとう。
高階貴子が円融帝の想い人だった、という説は誰が唱えてるの?ちょっと読んでみたい。分かればぜひ教えてください。
322 :
日本@名無史さん :2008/10/21(火) 09:01:32
>>321 女官が天皇の側室として正式に認められるのは江戸時代にならないと。
この時代、天皇が稀に女官に手をつけることはあったが、
あくまでも「密通」であり本来ご法度だったこと。
妃でもない女に天皇が手をつけた例は平安時代にもある。
宇多天皇の中宮温子に仕えた女官伊勢に宇多天皇が手をつけて子を産ませたり、
一条天皇が御匣殿に手をつけたり。
後冷泉天皇も身分の低い女官に手をつけて子は認知せず受領の養子に出したという。
だけど、それらの女性は天皇の妃ではなく密通相手。
一方、三条天皇の尚侍藤原綏子以降、
夫が天皇となるまで東宮妃は女御宣下を受けることができないため、
夫が即位するまでの間、有力貴族の娘である東宮妃が
尚侍などの高級女官の称号を受けて内裏に上がった例はある。
324 :
日本@名無史さん :2008/10/22(水) 00:54:55
あーそういえば道長の娘の嬉子も尚侍として後朱雀が東宮時代に後冷泉を産んでるね。
325 :
日本@名無史さん :2008/10/22(水) 09:21:53
研子は、櫛笥時代があった。
326 :
日本@名無史さん :2008/10/22(水) 20:37:55
>>325 妍子は東宮妃となったとき、従三位尚侍だった。
櫛笥時代があったのは妹の威子じゃないか?
威子は結婚前、尚侍に任じられ、さらに櫛笥殿別当を兼任していたことがある。
威子は従三位尚侍兼櫛笥殿別当だったときに後一条天皇に入内、
翌月に女御宣下を受け、半年後立后して中宮になっている。
薬子も尚侍だったんだ。ある程度天皇との接点もあるようだし貴子と円融天皇が…ってのもマンザラ嘘ってわけでもなくもない?かも。 道隆と円融天皇は確か6才差で、貴子は道隆より少し年上な気がするけど(上にもあるように古今和歌集あたりに出てくる恋の歌からして)アリだったのかも。 源氏物語も初めは年上の女性を愛した(そしてそれはずっと続いていく)わけだし、ま、その後娘くらいの若い女性を側に置くけど。 一条と定子も年増だなんだ、という書き込みがあるけど、3、4才差なら年の差のうちに入らないのでは?
328 :
日本@名無史さん :2008/10/26(日) 06:15:15
一条天皇は若かったからちょうどいい年齢だっただろ(定子にあこがれてたし)
329 :
日本@名無史さん :2008/10/26(日) 08:52:26
9歳で皇太弟に立てられた円融天皇は 病弱な兄冷泉天皇にとって代わり藤原氏にとって期待の星だった。 円融天皇15歳の時に叔父である関白兼通の長女媓子 (円融天皇より12歳年上)が入内。 関白兼通在世中、媓子は円融天皇唯一の妃だった。 (兼通没後は関白となった頼忠の娘導子が、 さらに兼家の娘詮子などが入内) つまり、藤原氏が目を光らせている円融天皇の後宮に、 高階氏ごとき受領の娘が入りこむ余地はなかったということ。 一条天皇のときにも関白道隆が自分の娘定子以外に 一条天皇が手をつけないように目を光らせていたし、 摂関時代の帝王は自由に妃を選べない。
330 :
日本@名無史さん :2008/10/26(日) 08:59:31
この時代正室は男より年上だというのは一般的だったらしい。 (道長と倫子も倫子が2歳上) だけど、夫婦仲までは図れないよ。 特に天皇は権力者の娘を下にも置かぬ厚遇で迎える必要が生じたし。 定子が一条天皇のお気に入りだったなんて 定子から給料をもらっていた道隆一家の従業員である清少納言しか言ってない。 円融天皇も12歳年上の妃である中宮媓子を、 史料の上からは円融天皇は大変美しい媓子を大層愛していたとある。
331 :
日本@名無史さん :2008/10/26(日) 10:49:44
高階貴子て宮使えしてない女官だよ。
332 :
日本@名無史さん :2008/10/26(日) 12:11:04
>>331 高階貴子は「枕草子」に
関白夫人(貴子)が宮仕えしていたことを悪く言う人がいるが
女性が人に仕え、外に出るのはいいこと!と書いているから、それはない。
東宮妃のように名称だけの女官でじっさいにかしずかれていたわけでもなく、
多くの歌会などにも出席している貴子は清少納言や紫式部のように実際の実務を伴って「宮仕え」していたようだ。
もっとも、この時代の貴婦人は家庭に主婦として納まっているものだったけど、
貴子の場合、相当出たがりの性分だったのか、
関白夫人となった後もどこそこで歌会があると聞けばじっとしておられず
すぐに出かけて行ったために、ただの女房ならいざしらず・・・とそれなりに不評も買っていたようだが。
>>330 ここではよく定子が美人だったとか、一条と定子の仲が良かった、というのは枕草子にしか書かれていない、
と言われるけど、実際は栄華物語とか大鏡にも書かれているよね。
御堂関白記とかにはないだろうけど。読んだことはないけど、当時の貴族の日記ってあくまで記録だよね。
本人がどう思ったかではなく、何があった、という事実を記述したものだから美人だとかってのは出てこなくて普通なのでは?
334 :
日本@名無史さん :2008/10/27(月) 10:19:25
そちゃ、権力者が自分の都合のいいように書かせてるからな〜>道長
335 :
日本@名無史さん :2008/10/27(月) 19:32:51
>>333 大鏡には書かれてなかったぞ。
栄華物語はすべての天皇とその妃たちは仲が良かったと書いている。
彰子と一場天皇、妍子と三条天皇、威子と後一条天皇、
嬉子と東宮時代の後朱雀天皇、明子と小一条院、すべて仲が良かった。
枕草子と栄華物語に定子と一条天皇の仲が良かったと書かれているのだから、
ほかの妃たちとも仲が良かった、としか解釈できないよね?
ほかの妃たちとは政治上仲よくしていただけ、定子とは本当の愛で結ばれていたなんて言うのは
史料にない以上、妄想。
栄華物語を根拠にする限り、定子だけがお気に入りだったなんて、どこにも書いてないよ。
>>334 「枕草子」だって道隆一族が自分たちに都合のいいように
使用人の清少納言に書かせているから。
道長が都合よく書かせた書物って、何?(具体的に)
君の主張は枕草子が定子に都合よく書かれた書物だという主張の
裏返しにもなるしね。
あれ?大鏡にはなかったんだっけ。すまそ。美人だって話もなかったのかな。 一部の人以外一条と定子が特別に結ばれていたなんて思ってはいないと思うよ。どんな人にも欲と打算があって当たり前だし。 定子も枕草子には魅力的に書かれているけど、あなたの会社にもある人には好かれて、別のある人には嫌われている人がいるでしょ。 あなたもそうだしわたしもそう。そんなもんだよ。
337 :
日本@名無史さん :2008/10/29(水) 08:59:26
一条天皇が死ぬ間際、政治とか抜きに 一番寵愛していたのは、女一宮だろ。
338 :
日本@名無史さん :2008/10/29(水) 14:53:46
定子厨死ね
定子が一番お気に入りだったかは分からないけど、定子崩御の後に行成に「甚だ悲し」と語り、 葬送の前も「中心、忍び難き」様子だったというから、愛してはいただろうと思う
340 :
日本@名無史さん :2008/11/01(土) 03:31:56
一条天皇の辞世の句は定子様へのものだ、間違いない。
341 :
日本@名無史さん :2008/11/01(土) 13:04:53
一条天皇が、最後まで愛していた后は彰子だと思う。定子は押し付けられた 后だった。両方、押し付けられた后だが、彰子は脩子内親王や敦康親王の 面倒も見た。もっとも、脩子内親王は独立したが。
342 :
日本@名無史さん :2008/11/01(土) 17:43:41
定子様は恋人、彰子は中宮でしかなかった。
343 :
日本@名無史さん :2008/11/01(土) 20:31:27
>>339 行成は幼時に父親を亡くしたために出世が見込めず
先例に従えば落ちぶれるところを、
思いがけずときの権力者関白道隆に拾い上げられ蔵人に登用された。
行成にとって道隆は恩人であり、父親代わりのようなもの。
行成は恩人道隆全盛期には道隆が全面的に後見する娘の定子のもとに頻繁に出入りをして奉公に勤めたし、
枕草子にも出てくる(清少納言が年下の行成に恋心?をいだいていたようだし)
行成は道隆方の公家だったから、伊周や隆家、定子に対する奉公心は強かった。
行成はその後道長にも貢献して権大納言にまで昇進したが、
道隆一族への奉公心が滲むような日記の記述は多いよ。
まあ、そんな行成も、のちには愛娘を道長の子息の正室にしようと躍起になり、
娘婿長家(道長六男)の生活水準維持のために(婿の生活費を出すのは正室の一族だから)
太宰権帥に自ら志願して行ったり、娘のために何でもするのだが
その日記の箇所はまだ道隆一家の栄光を忘れ得なかった頃のもの。
行成が道長子息を娘婿にしたあたりの日記は残ってない(初めからなかったか)。
>>343 蔵人に登用されたのは源俊賢が推薦したからじゃなかった?
まあ、道隆がそれを認めなかったら推薦も通らなかっただろうし、やっぱり恩人に
代わりはないのかな
345 :
日本@名無史さん :2008/11/02(日) 05:59:25
>>342 定子は恋人だったかもしれない。それは認める。だか、実質的な皇后は
彰子と信じたい。
346 :
日本@名無史さん :2008/11/02(日) 11:22:12
最後まで定子様のこと考えていたんだと思う。
>>345 いや、まさしく事実上の皇后は彰子だろ
皇后の位にある妃にしかできない事を(良し悪しは別として)行ったのは彰子だけだから。
定子は皇后(中宮)位にはあったが、それを有効的に利用したふしは見られない。
というのもやはり父が早死して、兄貴がアホボンなのが原因か。
なにか男女の恋愛感だけを至上のものみたいに言っている人もいるようだけど、
餓鬼の頃はともかく、何年もともにいれば少女漫画みたいな恋愛以上に、
信頼や連帯感みたいなきずなで結ばれるようになし、これは男女に限らない。
好き好き愛してる(笑)だけで人生なりたたないよww
348 :
日本@名無史さん :2008/11/02(日) 13:28:21
定子は一条が二十歳そこそこの時に死んでいる。 所詮は昔の女、昔付き合っていた彼女の一人にすぎない。 子供まで出来たから恋人たちの中でもややお気に入りだった程度。 彰子は年下の可愛い恋人期間を経て妻になり 子育てや仕事や夫の補佐をしっかりこなし 一条自身もそれをすぐそばで死の間際までずっと見ていた。 ただの青春の思い出にすぎない定子と、 夫婦として苦楽をともにした彰子とでは重みが違う。 薄っぺらい思い出=定子に対して辞世の句なんか詠むわけがない。
定子は自分の中宮という地位を利用して、 夫一条天皇が発した伊周・隆家左遷の命令を覆そうとし、 里第二条第で伊周と隆家の手を握って検非違使の侵入を妨害した。 しかし、天皇の命令は中宮の命令に優先し、兄弟は勅命どおり左遷。 定子は天皇の命に逆らうという自滅行為を行って出家。 のちに定子が恥も知らずにのこのこ参内して孕んだ時には、 貴族たちは「尼が性欲丸出しにして」と非難ごうごう、 ある意味定子の失脚は定子本人が招いた結果でもある。 (ちなみに妹の原子はこのとき左遷妨害などせず、出家もせず、 道長政権になって以降も東宮妃として内裏にあり、死ぬまで内裏にあった) 彰子は「賢后」と言われたとおり、配慮に長け、 天皇と対立することなど一度もなく、反道長の実資にすら気を配り、 一条天皇も安心して国母の役割を任せることができたと思う。 定子の失脚は一人父の早世や伊周のせいだけではない。
>伊周と隆家の手を握って検非違使の侵入を妨害した。 これ改めてみると凄いな。屋敷を検非違使が取り囲んでるんだっけ? 貴族のお姫様が経験するはずのない恐ろしい状況で、正常な判断力が なくなって、精神が混乱した末の行動みたいに思える。 手を握って=皇后の御簾の内ってことだね。 いつまでも続けられるわけもないのに。 そうやって兄貴と弟をかくまってれば、一条が気を変えて許してくれると思ったのかな。 このときの隆家の諦めのよさはまだ潔いほうだけど、伊周の悪あがきっぷり はみっともないことこの上ないな。
351 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 07:30:31
>>348 男は、昔の女が忘れられないんだよ。
絶対辞世の句は定子宛だね。
352 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 14:13:42
定子宛てだという根拠とソースを出せよ、なまみこ定子婆w 馬鹿定子が一条に歯向かった話には反論しないのか?
353 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 14:28:48
定子様は帝に歯向かってないよ。
354 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 14:31:15
配役 定子様:長澤まさみ 一条天皇:三浦春馬 彰子:渡る世間でピン子と同居している「カズちゃん」役の子。
355 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 14:40:44
渡鬼なんか婆しか見てないぞなまみこ定子婆 定子は久本雅美に決まってんだろ
素朴な疑問だけど、定子が美女だの何だのよく言われているけど、 一条天皇のビジュアルってどうだったの? 円融天皇が美形だったとか、詮子が美人だったとかは一切聞かないし、 案外ブサだった可能性もあり。 一条天皇と定子のラブラブを主張している人達は、 ブサ一条と美女定子様でもお似合いとかラブラブとか言うのかね?
357 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 16:34:09
>>354 の帝をえなりかずきにしてもいいよ。
倫子:マチャミ
詮子:ピン子
358 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 16:54:49
>>356 定子が美女だというソースもないよ。
そもそも定子と一条天皇はいとこ同士。
血縁はかなり近くそっくり顔だった可能性大だとどっかで出てなかったっけ?
ちなみに彰子と一条天皇、彰子と定子もいとこ同士なのに、
これだけ血縁が近くて定子だけが美人であとは不細工っていうのもねえ・・・
359 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 17:04:02
>>350 たしか、定子の第一子修子内親王は月数が合わないんだよね?
同年、定子は3月4日に内裏を退出して以降
迫りくる兄弟左遷の逆風の中全く参内できず、一条天皇には会わなかった。
この年は閏月で、修子内親王の誕生日から数えなおすと
修子内親王の受胎日は4月下旬。
定子が兄弟の手をとって妨害した左遷日の十日ほど前のこと。
非常事態だとはいえ、いい年をした大人の中宮ともあろう人が、
兄弟の手を取っているというのは尋常ではない。
なんのためらいもなく夫以外の男性の手を長時間握り合っているということ自体。
修子内親王=迫りくる左遷の恐怖の中、兄伊周と妹定子が
何としてもお互いの身を守りあうという意識の中一線を越え、密通してできた子
というのが一番納得いくんだよね。
出家した定子が臆面もなくさっさと参内したのも
密通の事実を世間に悟られないためだったと考えれば。
密通が明るみに出て中宮位剥奪にならなかっただけでもましだったかも。
360 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 19:56:43
ストレスで予定日がおくれるなんてことあるだろ。
あまりに遅れすぎているからおかしいと言われているんじゃないかな。 小右記にも「懐妊十二箇月」と書かれているし、 一月遅れるならまだしも二月も遅れるのは異常だと思う。 それに医学の発達していない時代に二月も遅れていたら母子ともに危険だろうに、 難産だったわけでもないし、定子はこの後二人も産んでいる。 疑われるのも無理ないと思う。
362 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 20:20:03
ストレスで出産が一月も二月も遅れるわけないだろ 無知ななまみこ定子おばちゃんw そんなに遅れたら母子ともに死ぬ 医学も発達していない平安時代に妊娠50週で無事に出産できたなら 定子も脩子も化け物だろがw
363 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 20:27:21
記録したやつが間違ったんだろ。 当時は消しゴムないし。
364 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 20:29:48
遅れることくらい普通にあるけど。
365 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 20:30:48
道長が呪詛してたんちゃう?
366 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 20:35:45
兄の不幸や実家の火事とかあったら精神的に 不安定になり、心身にも影響するだろ。 それか、当初想像妊娠で火事とかの不幸にみかねた 帝がコソーリ会いに行って、我慢できずにやって実際受精したかだろうね。
367 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 20:41:11
は?消しゴム?w いい年してそんなアホなことばかり書いて恥ずかしくないのか? 仮にも天皇の后が内裏を退出した日付と 天皇の娘が生まれた日付だぞ? なまみこみたいな作り話じゃなくて公的な記録だぞ? 間違えるわけがあるかよw あの世で定子様(笑)も爆笑してるよ、なまみこ定子おばちゃん 無知なくせに自演はするんだねなまみこ定子おばちゃん バレバレで余計に恥ずかしいぞw
368 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 20:59:37
ストレスで排卵や生理予定が遅れたり、乱れることはザラだから 受胎時期が特定しづらい事実はあるよ。 ただ修子内親王の場合、定子がいつ一条とセックスしたのか つまり受胎時期が特定しやすい状態だったからねえ。 蜜月の頃と違って、そっと参内して一晩か二晩程度で、 またこそこそ退出して行ったんだよね、確か。記憶不確かだけど。 だから周囲も、出産予定がこの頃だろうと見当がつけやすかった。 生理が二ヶ月来ない(妊娠の可能性無いのに)ていうのは、 女性の体の状態からすると、よくあることだけれども、 出産が二ヶ月遅れてる、っていうのは古代でも現代でも 明らかな異常だろ。 本当に一条がコソーリ逢いに行っていたら別だけど、道長の目が あって、元子なり他の妃もいる一条がそんな無茶が可能だったろうかね。 物語じゃあるまいし。
369 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 21:33:11
修子内親王出産に関するおさらい 長徳2年正月16日 花山法皇、何者かに矢で射られる。一条天皇、犯人の徹底探索を命じる。 長徳2年2月 伊周、隆家兄弟が捜査線上に浮かぶ。一条天皇、伊周屋敷の徹底散策を命じる。 長徳2年3月4日 中宮定子、身内に捜査の手を伸ばそうとする一条天皇のもとに居づらくなり内裏を退出。 里の二条第に籠る。これが出産前一条に会いえた最後。 長徳2年4月24日 一条天皇、伊周と隆家の左遷を命じる勅命を発令。 長徳2年4月下旬 中宮定子、修子内親王を受胎(出産日から受胎可能な時期を逆算) 長徳2年5月1日 朝廷の宣旨により伊周、隆家の手を離さない中宮定子の二条第撤去が命じられ 定子は牛車に乗せられて二条第を出る。その後検非違使が二条第に突入、 弟隆家がとらえられて左遷される。 長徳2年5月11日 逃げ回っていた伊周が都にもどってきていて、 中宮定子が二条第にかくまっていることが朝廷に知れ、 兄伊周もとらえられて左遷される。 長徳2年10月11日 左遷されていた伊周がこっそり都へ舞い戻り、またもや中宮定子のもとにかくまわれていた。 そのため一条天皇は伊周を大宰府に配流している。 長徳2年12月16日 定子、修子内親王出産。予定日を2か月遅れ、「懐妊十二箇月」と記される。
370 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 22:29:35
こんだけいろいろあったら自分なら3ヶ月おくれるよ。
371 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 22:42:13
その前にお前が妊娠することは一生ないから安心しろ、なまみこ定子婆w
>>369 波乱万丈といえばそういう人生だね>定子
予定日どうの以前によく流産しなかったな。
3人目はさすがに体に負担が大きかったのか。
年子を産んだ彰子もだし、倫子や明子も健康だったみたいだな。
かたや産褥で早世する妃もいるし、差が大きいね。
なんか原因があるのかな。
373 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 22:57:49
前置胎盤かなんかかな? 今なら開腹術できるけど。
>>372 三ヶ月も遅れたらそもそも母子ともに危険で無事に出産出来ないから!!
医療が発達している現代だってそうなる前に強制分娩させるし、
お産そのものが死と隣り合わせだったあの時代だと、一月遅れただけでアウトだろうね。
375 :
日本@名無史さん :2008/11/03(月) 23:18:04
前置胎盤でも出産は何ヵ月も遅れたりしねーよw 聞いたことのある言葉を訳も分からずに適当に並べてるのが丸分かり 本当にアホだななまみこ婆 国のために男子を生んでくれた秋篠宮妃と せいぜいが自分と兄弟のことぐらいしか考えられなかった 馬鹿定子ごときを一緒にするな
>>375 > 国のために男子を生んでくれた秋篠宮妃と
こんなこと考えるやつって、ほんとにいるんだ・・・
377 :
日本@名無史さん :2008/11/04(火) 06:57:46
>>375 アホー最後の出産のこといっとんじゃボケ!
378 :
日本@名無史さん :2008/11/04(火) 18:35:35
アホー主語も無いような独り言はチラシの裏にでも書いとけやボケ! ついでにアホでボケななまみこ婆に教えておいてやる 定子様(笑)が好きなら第二皇女の名前ぐらい正しく覚えとけ 躾子って誰だよ馬鹿wしつけ?しつけこ?
379 :
日本@名無史さん :2008/11/04(火) 19:39:16
波乱万丈で流産や早産する可能性はあっても、 出産が遅れることは医学的にない。 2か月も出産が遅れれば体内で子供が死んでしまい、普通は死産。 これほど遅れれば死産だけでは済まずに 腐っていく子供の死体を体内に入れている母親も死んでしまう。 修子内親王が何の異常もなく生まれたのを見ても 修子内親王の出自はかなり怪しいのがわかる。 永井路子などは定子を かなり肝の据わったしたたかな女として描いている。
380 :
日本@名無史さん :2008/11/05(水) 06:16:35
382 :
日本@名無史さん :2008/11/05(水) 17:11:44
歴史は権力者によって歪められるからな。 藤原不比等、徳川家康、維新政府 当然 藤原道長。
383 :
日本@名無史さん :2008/11/05(水) 17:20:55
384 :
日本@名無史さん :2008/11/05(水) 19:27:00
道長かなりシスコンだったからありえるな。
385 :
日本@名無史さん :2008/11/06(木) 19:29:20
道長と栓子の関係の方が怪しいよ。
386 :
日本@名無史さん :2008/11/06(木) 19:58:20
>>380 一次史料を読んでから言いなよ。
修子を孕んだ頃、定子が参内した事実はないから。
二条第強制退去を命じられた時定子は出家(5月1日)。
兄弟が帰京後の2年後、定子が参内したとき
尼になった中宮が天皇の傍に侍ることが問題になったから
この間の参内はない。
387 :
日本@名無史さん :2008/11/06(木) 20:03:16
>>383 中宮定子の歴史も関白道隆によってゆがめられているからな。
道長も敦康親王を彰子の養子にしていた手前、
定子のことを貶めるような日記は残していない。
そら、修子に出生の疑問が付きまとえば、
下の2人の出生疑惑も持ち上がってしまうからな。
伊周は常に定子と共にあったし。
(定子の出産にはもちろん付き添っていて、
栄花物語には定子が胎盤を体内に残したまま
息絶えたというので出産途中のすっ裸のままの定子の
遺体にすがりついたりしている)
388 :
日本@名無史さん :2008/11/06(木) 20:18:09
>>385 おばちゃんおばちゃん
涙目で必死なところ悪いけど栓子なんていませんからw
389 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 04:58:33
一条天皇が道長と姉、東三条院の子である疑惑もな〜。
390 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 04:59:48
>出産途中のすっ裸のままの定子の 遺体にすがりついたりしている ソースは?お産に男は入れない時代だけど。
お産は素っ裸でするものじゃないし、同母兄妹が関係持つのはさすがに古代からタブーだし。
392 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 09:36:38
道長は、定子様を貶めすぎ! 一条天皇も怒ってたんだろうな。
393 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 11:12:02
道長と詮子の近親相姦!?
なんだかトンデモスレになってきてない?
395 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 18:56:11
栓子(せんし)が、皇室を私物化していたところがある。
396 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 20:22:50
>>390 ソースは「栄花物語」。
「紫式部日記」の彰子の例をみると、出産をする彰子の几帳の中に入れるのは
母の倫子と介添え役の女房2人であったようだけど、
几帳を隔てたすぐ外には、紫式部らその他の女房が膝をつめてひしめいて座っており、
さらに父の道長が女房たちの間を場を取り仕切って大声をあげながら歩き回っていたことが
記録されている(さらに御簾の向こうには大勢の読経の僧たちもいたわけだ)。
この出産風景に従えば、几帳を隔てたすぐそばで身内の男性たちが出産を待っているのは普通だったらしい。
伊周や隆家も几帳の外で定子の出産を待っていたけれども
いよいよ定子が後産がないまま息絶えたというので興奮して几帳の中に入ってきたということだろう。
周囲の人が興奮して妊婦のいる几帳の中に入ってきてしまうということはよくあったようで、
六女嬉子が出産後没したときにも几帳の外で待機していたとみられる栄花物語筆者(女房)は
嬉子の遺体を見ると乳首が尖ったままだったというようなことを記録している。
397 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 20:28:34
>>389 詮子が一条天皇を孕んだとき、道長はまだ満12〜13歳ですが?
いくら早婚の当時でも定子厨の妄想は無理がありすぎ。
しかも詮子は妊娠したとき、円融天皇と離れ離れになっていない。
明らかに妊娠時に一条天皇と離れ離れで確信犯的な定子とは全く違うよね。
398 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 20:31:13
>>391 出産時下半身素っ裸なのに上半身はしっかり着物を着こんでる、
ってそんなわけないでしょw
出産は血まみれになるから妊婦はほぼ素っ裸になるよ
男の書き込み?
399 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 20:46:46
>>391 タブーだから定子は月数が全然違う子を一条天皇の子だと偽ったんだろ。
定子は配流になった兄伊周を朝命に逆らってこっそり都にいれて匿ったり
尋常ではない執着をしていたし。
400 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 20:46:48
>>398 それはないっしょ。
ソースは?
現代の寝巻き様のものを白木綿を使い捨てにする方が、
高貴な方を長時間裸にさせておくより現実的じゃないの。
あなたの説でいくと、出産は血まみれになるから、
お産婆さんや周りで押さえている人たちも裸ってわけ?
401 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 20:51:41
>>400 子供だけ外に出し胎盤は体内にいれたまま出産途上で死んだ定子が
しっかり着物きてました、
伊周たちにけして裸は見せていません、というソースは?
そっちのほうがないでしょ。
402 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 20:53:31
>>400 陣痛の間は着物を着てるでしょうね。
だけど、子供を産むときはねえ〜
着物着てたらどっから子供を出して
どっから介添えの人たちが子供を取り上げるのw
しかも定子は子供は外、胎盤は中の状態で死んだんだよ。
言ってることはわかるよね?
403 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 21:01:30
武田信玄とか、12,3でSEXしてるし。
現代の出産時にも着物のような寝間着を着せられるよ。 下着は付けないし、脚を開いた状態で産むから、わざわざ着てるものを脱いだりはしない。 時代劇でも出産シーンでは白い着物を着てるよね。 平安時代だけ裸だったの?
405 :
日本@名無史さん :2008/11/07(金) 21:07:54
>>404 そら、テレビではセックスのシーンでも出産のシーンでも
着物をしっかり着こんでるよ。
もう、どっからも男が侵入できない、子供を出産できないくらい
しっかりとね。
そら公共放送でポルノは流せないから当たり前でしょ。
そんな話してないでしょw
定子があられもない姿で横たわってたところへ
兄弟が入ってきたのはどうしようもないわな。
>>403 >詮子は妊娠したとき、円融天皇と離れ離れになっていない。
>明らかに妊娠時に一条天皇と離れ離れで確信犯的な定子とは全く違うよね。
伊周は当時23歳ですでに息子もいた。
定子懐妊時には二条第で兄妹手を取り合っていた。
定子厨、自滅。
407 :
日本@名無史さん :2008/11/08(土) 08:22:48
定子様は、やりたい盛りの帝に1日何度も・・・だからありえね〜よ。馬鹿。
アンチ定子の書き込みが気持ち悪い。 と見せ掛けた定子厨?w
409 :
日本@名無史さん :2008/11/08(土) 16:23:45
道長と詮子こそあやしい!
410 :
日本@名無史さん :2008/11/08(土) 19:51:22
栓子が道長に性の導きをしたんだわよ、宿下がりのときに!
411 :
日本@名無史さん :2008/11/08(土) 20:50:34
>407、409、410 定子厨が一人で連投して必死なんだけど。 修子を懐妊したころ、定子が里にいて兄と手を取り合っていたことは 確実じゃん。 一条天皇の生誕日から逆算して詮子が懐妊したころ どこにいたか一次史料で調べてごらん。 詮子は懐妊したころ宮中にいて、懐妊が発覚して初めて宿下がりしている。 里にあったことが確実な定子とは根本的に違うだろが。
>>396 嬉子は実は出産後すぐに亡くなったわけではない。
記憶が曖昧で申し訳ないけど、出産後数日経ってから亡くなってる。たしか、産養いの儀?とかってのには楽しそうに出席した、という記録があるんじゃなかったっけ?
だから栄華物語にも間違いはある。
413 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 07:43:46
私は、栓子が宿下がりで少年の道長にせいの導きをした説に賛成だわ。
414 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 11:29:02
>>413 毎日同じ時間に出没して
3つのスレに同様の書き込みしてるからすぐわかる
有名なあらし「なまみこ婆」。
こてはん名乗れよ、うざったい。
「栓」の字違ってるし。
なまみこ物語以外の史料を読んでからくることだね。
415 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 11:33:46
>>412 栄花物語にも嬉子は産の3日後に亡くなったことが見えていますが?
出産は完全に終えていたことが確認できますよ。
一方、定子は後産がなかった(胎盤が体内に残されたまま)ことが
一次史料に見えており、産を終えないうちに没した。
伊周、隆家兄弟が通例に従って几帳の外で産を待っていたことも事実だよ。
416 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 12:08:25
>>412 あの時代出産後は、表にすぐでないわよ!
417 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 12:43:30
>>412 嬉子が没したのは出産の2日後。
現代でもこの時期は床で療養してるよ。
産後は生命の危険があるから療養するだろが。
産後2か月程度は宮中にも帰らず自宅で療養する。
産養いは床の中でその話を聞いていたんだよ。
産後2日目から産養いに出席して大はしゃぎって
いったいどんな経産婦なんだ。
418 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 13:46:04
>>417 そうそう、捏造&創作だわよ。
それより、栓子(せんし)と道長は只ならぬ関係ね。
淀殿と同じ臭いがするわ>栓子
419 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 13:50:08
>>378 躾子(びし)内親王。一条天皇第2皇女だけど何か?
420 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 14:00:00
一条天皇に躾子とかいう皇女はいない 藤原道長に栓子とかいう姉はいない 藤原道長に研子とかいう娘はいない なんで自分が馬鹿にされているのかも分からんのかw
421 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 14:57:22
躾子(びし)よ!
422 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 16:19:22
>>418 何を勘違いしてるのかしらんが。
「栄花物語」では嬉子が産を終えた床の中で
新皇子のための行事を聞いているということになっており、
史実と矛盾しない。
嬉子が産養いに出席したという412の記述は栄花物語の中になく
412をかいたやつが間違ってんだよ。
ところで、詮子が一条天皇を妊娠した時に里にいたという一次史料はまだ?
一条天皇が円融天皇の子ではないという証拠を出せよ。
あと、満12歳の子供だった道長の子であるという証拠もね。
いつまで妄想の連投続けてんだよ、間違った漢字のまま一人でさ。
史料なんか読んだことのないなまみこ婆には無理だろうけど。
423 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 20:49:51
424 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 21:15:14
宮内庁が調査させてくれたら あの世の定子様(笑)が一番困るんじゃねーの 脩子が一条の子ではないことが完全に証明されてしまうだろうからw
425 :
日本@名無史さん :2008/11/09(日) 22:27:08
定子様は土葬、きっと絶世の美女であることが判明。
あの時代の美女ってぽっちゃりおかめだけどいいのか?
定子はただ聡明な美女というだけではなく、一条と肝胆相照らす仲、 打てば響くような燦めく知性があり、夫婦仲は抜群によかった。 彰子やほかの女御たちもそれぞれ才色兼備だっただろうけど、 最後の出産さえ生き延びていたら、終世(道長の妨害があって) 訪れが間遠になってもそれなりに幸せな夫婦だっただろうな、と 思うと悲しい。
428 :
日本@名無史さん :2008/11/10(月) 08:13:45
定子は、今で言う才色兼備だから帝もあこがれていたんだろうね。
429 :
日本@名無史さん :2008/11/10(月) 08:21:53
430 :
日本@名無史さん :2008/11/10(月) 10:55:30
仮説として、宿下がりした詮子が道長に性の導きを その後、御所に戻り帝とまぐワルしかしその種は!!
431 :
日本@名無史さん :2008/11/10(月) 13:13:31
道長の種だった!
432 :
日本@名無史さん :2008/11/10(月) 15:44:41
でもこれってその後の道長の栄華を知っている後世の人間だからこそ出て来る発想だよな。 道長がその後に出世してなかったとしたら(ただの藤原氏の五男坊で終わるとか、早世しちゃうとか)、こんな説は生じるはずもないわけで。 言い換えれば、一条帝生誕当時に、「生まれた皇子は道長の種」などと考える奴はおそらく居なかったと思われるわけで。
433 :
日本@名無史さん :2008/11/10(月) 17:16:13
詮子は、息子の出生の秘密を隠したが 一条天皇は、ふとしたことで知り 道長を憎んだ=内覧どまり。 高倉天皇の例もあるしね!
434 :
日本@名無史さん :2008/11/10(月) 18:55:48
なまみこ婆のしょーもない妄想はどうでもいい 定子密通説を覆すだけの証拠がないから発狂してんのかw 嘘も百回書けば真実になるとでも思ってんのか? なまみこ婆の話なんぞ誰も信じねーよ 道長は自らの意志で内覧にとどまっていたんだが? 一条が憎んでいたとかアホ丸出しwwww
435 :
日本@名無史さん :2008/11/10(月) 20:09:10
高倉天皇は性の導きをしてくれた乳母の子(内親王)が最初の子供だよね。
436 :
日本@名無史さん :2008/11/10(月) 21:15:31
藤原定子は里第で密通した兄伊周の子(脩子)が最初の子供だよね。
気持ち悪い。 日本史板なのに、ここだけ鬼女板の皇室スレのようだ…
438 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 10:47:40
>>436 根拠無しです。
私は、大学時代枕草子と作者にまつわる人物を研究していましたが
中宮定子の最初のお産に関しては、記述に捏造がある可能性があります。
また、夫が産婦人科医ですが火事や身内の不幸で遅れることはあると申しております。
439 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 12:17:25
>>438 腹いてーwwwww
もうどこから突っ込んでいいやらwwwwwwww
440 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 14:53:23
なまみこ婆は道長娘スレでも教授を連呼してるぞw 脳内教授と脳内夫 やばすぎ
>>438 ご主人様は「過期産」「過熟児」「胎盤機能不全症候群」という言葉をご存知無いのかしら。
現実の産婦人科領域では、予定日から2週間超過しただけでも深刻な問題になるのですが。
442 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 18:36:25
だが、人体系については人それぞれとしか言えんな…。 現代の医学でも解決できないことや説明できないことはままあるからな。 産婦人科の領域なんてもろそれだろ
443 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 19:33:33
人それぞれw便利な言葉だな 「人それぞれ」で誤魔化せるレベルを超えているから 突っ込みが入っているんだが
444 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 20:05:52
>>441 その3つの病気で生まれた子供はいずれも明らかに健常児とは異なる。
現在では2週間以上遅れれば誘発剤や帝王切開で赤子を出す処置を検討するし、
有効な治療法のない当時は死んでしまっただろう。
修子内親王のように何の異常もなく長生きをするとは考えられない。
おたくの夫が医師ではないことだけは分かったよ。
445 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 20:16:20
私の夫は、現在某公立病院産婦人科部長ですけど何か? 夫は、私同様に道長や側近らによって史実が歪められたと思っておりますよ。
446 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 20:19:47
>>445 それで?
あなたのご主人は2か月出産が遅れることはよくある、
それでも何の処置もほどこさない、
死産でも構わない、とおっしゃっているの?
どんな馬鹿な公立病院かしら?
それが事実ならすでに新聞記事になってるでしょうね。
447 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 20:30:11
>>446 私の書き込みを理解できないのでしょうか?
私は、定子様の最初のお産に関して、なんらかの
政治圧力で事実が歪められた記述がされていると
学生時代仮説を立て論文を書きました。
この論文は、教授からも高く評価され
研究者の道へ入るようにも言われましたが
私は卒業後すぐに結婚いたしました。
結論としては、実際は、正常分娩を行なえる妊娠期間だったのです。
大学に入学したとき、図書館で「なまみこ物語」を
読んだあの頃が懐かしく思い出されます。
448 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 20:33:37
>>446 史実が歪められているのですから
話になりません。あなたクドイですわね。
449 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 20:35:15
ついになまみこ婆のニセモノでも出てきたのか 良かったな、なまみこ婆wすっかり有名になって… 口調を変えて必死で一人二役してるんならご苦労さん
450 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 20:39:45
>>447 道長に反抗的で定子の里帰りにも同行した藤原実資がなぜ
自分の日記に定子に不利な内容を書くんだい?
論文に使った一次史料をあげてごらん。
曲がりなりにも卒論書いたなら、一次史料を読み漁っただろう。
一次史料なんて読んだことがないからあげられないと思うが。
451 :
日本@名無史さん :2008/11/11(火) 23:03:44
>>450 応仁の乱で焼けて書き直したら間違えたんだろ。
452 :
日本@名無史さん :2008/11/12(水) 01:07:56
は?応仁の乱?w まさかそれが教授に絶賛された論文の仮説とやらじゃないだろうな?
453 :
日本@名無史さん :2008/11/12(水) 10:02:40
京都では、戦後といえば応仁の乱以後。
454 :
日本@名無史さん :2008/11/12(水) 12:11:29
だいたいにして、脩子内親王出産に関して記述を捏造しなきゃいけない意味がわからない。 と言うよりも、捏造しても何ら意味をなさないと思うんだけど。
455 :
日本@名無史さん :2008/11/12(水) 13:19:02
定子様を陥れるため。
456 :
日本@名無史さん :2008/11/12(水) 14:23:18
最低!道長&彰子
457 :
日本@名無史さん :2008/11/12(水) 18:21:08
なんてこった!
458 :
日本@名無史さん :2008/11/12(水) 18:34:15
応仁の乱で小右記が焼けて書き直したときに日付を改ざんした証拠を早く出せよ 論文まで書いたならすぐに出せるだろ? なまみこ婆も嘘つき定子を見習って嘘ばっかり書いてるのか?
459 :
日本@名無史さん :2008/11/12(水) 20:16:19
>>451 君の大好きな「枕草子」も応仁の乱で焼けて
嘘だらけになったんだね。
清少納言の直筆本は残ってないしね。
今に中宮定子も一条天皇もこの世に実在しなかった
と言い出しそうだ。
460 :
日本@名無史さん :2008/11/12(水) 20:35:04
>>452 −453
小右記は応仁の乱より前のものが現存していることを知らないようだ。
無知なばばあは大変だね。
461 :
日本@名無史さん :2008/11/13(木) 08:05:05
私の娘(次女)は、臨床心理士でスクールカウンセラーなどもしていますが 道長が、東三条院亡き後彼女の骨(喉仏)を肌身離さず持ち続けたのは かなりのシスコンであり、近親相姦の臭いはプンプンすると言っております。 この2人がただならぬ仲であったのは、女子大生時代の調査研究の段階で確信していました。
462 :
日本@名無史さん :2008/11/13(木) 08:18:26
脳内教授、脳内夫に続いて脳内娘ですかw 応仁の乱の話の証拠はどうなった?
463 :
日本@名無史さん :2008/11/13(木) 12:18:42
今度の日本史サスペンス 「枕草子」は、清少納言が書いたんじゃない!だって。
464 :
日本@名無史さん :2008/11/13(木) 18:30:46
多分、一条天皇が最愛の定子様を思い出して書いたんだろうね。
465 :
日本@名無史さん :2008/11/13(木) 18:53:09
実際の定子があまりにも悲惨でみすぼらしかったから 子を成すぐらい仲が良かった伊周が頑張って取り繕ったんじゃね
466 :
日本@名無史さん :2008/11/13(木) 20:00:41
荒らし一名のおばはんためのスレになっているな。 史料も読んだことのないやつは来るなよ。 ほかのやつも相手してやるなよ。 私生活で話し相手もいないおばはんなんだから。 2ちゃんねるではみんなが相手してくれるから ますます調子にのって荒らしを続けるんだよ。
467 :
日本@名無史さん :2008/11/14(金) 07:59:50
帝が書いたとしたら、定子様との愛の思い出を1000年後まで残す計画だったんだろうね。
468 :
千年新聞店 :2008/11/14(金) 10:04:49
∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧∧
-------------------------------------------------------------------------------
ウォールストリート・ジャーナル 西暦1000年(長保二年)1月1日(火曜日)〔元旦〕
-------------------------------------------------------------------------------
藤原道長にも?「不適切な関係」報道
米紙が1000年元日紙面発行
【ニューヨーク12日=山中季広】
「ききんの日本で藤原道長が不倫」「神聖ローマ皇帝の残忍さ顕著に」? 米紙ウォールストリート・ジャーナルは11日、
架空の紙面である西暦1000年1月1日付けの別刷り特集=写真、AP=を発行し、千年前の世界のニュースをこんな風に伝えた。
平安中期に権勢を誇った藤原道長の記事は一面に。クリントン米大統領が不倫問題の釈明に使った言葉を引用し、
「ききんと疫病に見舞われた日本では、支配者の道長が複数の女性と不適切な関係にあることが発覚。
農民は一揆を起こす構えだ」と伝えた。 一面トップは「オットー3世の野望」。神聖ローマ帝国の領土拡大を狙う若い皇帝が
世評とは違って性格に偏りがあると報じた。宋王朝の記事も大きく、当時の都開封発のニュースで「実用的な知識で世界の先頭を行く。
西洋も見習うべきだ」と伝えた。米国では、他のキリスト教圏と同様、紀元3000年まで続く新たな千年紀をめぐる催しや
出版が相次いでいる。同紙の特集は逆に千年をさかのぼったのがみそ。当時の世界を現在の紙面に似せた体裁でまとめた。
http://bhn.jpn.org/yamanaka/1999.html http://www.ycaster.com/diary/99jan.html http://www.daito.ac.jp/~hama/news/michinaga990113.pdf
469 :
日本@名無史さん :2008/11/14(金) 12:04:14
一条天皇が子供達に母定子様のことを残したくて書いたのかもね。
470 :
日本@名無史さん :2008/11/14(金) 14:24:20
一条天皇が日記等を書くとしたら漢文。
471 :
日本@名無史さん :2008/11/14(金) 14:27:38
こどもにわかりやすくあえて漢文にしなかったんです。
472 :
日本@名無史さん :2008/11/14(金) 21:33:58
枕草子は一条天皇が書いたなら間違いなく清少納言に気があったんだろうね 枕草子は清少納言の武勇伝でしかない 中宮定子は清少納言をほめたたえるだけの脇役だもんな このおばばは枕草子を読んだことがあるんだろうか。 清少納言のエロネタまで出てくるというのに。
473 :
日本@名無史さん :2008/11/14(金) 22:49:28
合作だ。
474 :
日本@名無史さん :2008/11/14(金) 22:51:39
一条天皇が清少納言と合作 ついでに体も合体しちゃったかもね 定子の妹四の君って定子存命中から 一条天皇に手をつけられてたんだよね?
475 :
日本@名無史さん :2008/11/15(土) 10:11:53
>>474 死んでからだよ、定子様の面影を求めていたんだろうね・・・。
四の君は大鏡でその美貌を大絶賛されているけど、定子はない。 定子の面影はそれほどなかったんでない? 定子の妹っていう馴染みと、定子とは比べものにならない美貌に惹かれて手を付けたと思う。
477 :
日本@名無史さん :2008/11/15(土) 15:22:52
面影を追い求めて愛したんだから定子様も美人。 枕草子では、総毛立つほど美しい人だったそうだからな。
478 :
日本@名無史さん :2008/11/15(土) 20:03:54
定子が亡くならなければ一条天皇は四の君には絶対手をつけなかったとは 言い切れんだろう。 四の君が一条天皇の子を懐妊したのがたまたま姉定子没の直後というだけで それ以前の関係は明らかではないし。 それにしても姉が死んだら待ってましたとばかりに 姉の夫に体を許す四の君って節操がないな。 四の君は定子付きの女房のようにして宮中に出入りし、 姉存命中から一条天皇にも会っていたのだし、 普段から天皇を狙ってたんじゃないの?
479 :
日本@名無史さん :2008/11/15(土) 20:41:52
天皇から求められたから拒めなかったんだろ。
480 :
日本@名無史さん :2008/11/15(土) 20:44:53
じゃあ、定子の存命中でも一条天皇が求めれば 四の君はいつでも体を許したんだね。 実の姉妹で穴姉妹か。
481 :
日本@名無史さん :2008/11/16(日) 09:59:20
実の息子と同腹の妹を結婚させた彰子はキモイ。
当時の感覚としては、うわ!イイ女!一発やりてぇ!くらいの感覚で、それが悪いことではなかった、ってだけの話じゃね? 姉妹に手を出したって問題なし。妹は結婚してたわけじゃないし。
483 :
日本@名無史さん :2008/11/18(火) 13:57:56
中関白家は美人家系だったんやろ。
484 :
日本@名無史さん :2008/11/18(火) 18:14:20
中関白家はデブ家系 定子がデブ伊周とセックスして作った脩子も当然デブで性格悪かった
485 :
日本@名無史さん :2008/11/18(火) 18:15:17
嬉子は池沼あった気がする。
486 :
日本@名無史さん :2008/11/18(火) 18:17:45
知障は道隆三女 千年以上密通の証拠を晒し続けてきた定子ももちろん知障 今後も永遠に晒し者
487 :
日本@名無史さん :2008/11/19(水) 05:13:40
随分書き込みが多そうだから来てみたが・・・(鬼女みたい) それはともかく道隆系が道長系に権力闘争で敗北したのは東三条院の存在が大きい この前段でも伊周よりも道兼を推してる 彼女自身の選択として自分の後ろ盾として甥よりも弟を取った 道兼の急死は伊周にとって最大のチャンスなわけだが、それなりの政治工作はしただろうけど
488 :
日本@名無史さん :2008/11/19(水) 05:56:34
道長の娘は能力平均以下だろ。 中関白のほうが三の君除いて賢い。
彰子の政治能力は定子よりも遙かに上だろうね。 あのうるさ型の実資が「賢后」と褒め称えているんだから。 文学的な素養とかは定子の方が断然上。 素質そのものの室が違いすぎるんだから優劣のつけようがないと思う。 美人度では定子・彰子よりも元子が上だろうし。
490 :
日本@名無史さん :2008/11/19(水) 13:45:29
定子は勢いで自分で髪切った。かなり衝動的・感情的で後先考えてない。 そのくせのこのこと参内して、妊娠出産2回も。 兄弟を差し出すように言われて差し出さなかったくらいなのに 天皇から「おいで」と言われてなぜ尼だからと断らなかったのか。 当時はかなり評判悪かったんじゃないの? 頭はいいけど人間的にダメ、みたいな。 清少納言が褒めてるのは、主人だし、気が合ってたから。 自分大好きの清少納言は、自分と合う人間=素晴らしい人なんだよ。
491 :
日本@名無史さん :2008/11/19(水) 17:54:40
492 :
日本@名無史さん :2008/11/20(木) 09:10:15
>>490 の事件から、一条天皇は「定子はマロが守る!!」って強く誓ったんだよ。
493 :
日本@名無史さん :2008/11/20(木) 19:54:40
一条天皇は、躾子内親王を寵愛していたね。 定子様が命をかけて生んだ皇女だもんね。
一条天皇と藤原定子の間に躾子内親王なんて娘は存在しないけど。
ついでに一条天皇が鍾愛していたのは脩子内親王じゃなくて?
>>491 、492
定子が
>>490 通りの馬鹿女だってことに異論はないわけ?
可哀想だな、実在の定子が。
495 :
日本@名無史さん :2008/11/21(金) 01:51:42
誘導されて他板から来たが、もうビックリw こんな恥ずかしいスレもそうないわ なまみこ婆とやらは結局定子アンチなんだよね? どう見ても自ら実在の定子の存在を貶めてるとしか思えないw
496 :
日本@名無史さん :2008/11/21(金) 08:46:38
定子様は、一流大学大学院修了レベルのインテリだったんだぞ。
>>495 一条朝時代は好きなんだが、マジキチなまみこ婆のせいで
まともにレスができないんだよね。
まあ、なまみこ婆に律儀につき合ってる一部が、婆と同じ
レベルで下品なレスしてるからいたちごっこにきりが無い。
たまにまともな質問と応答があっても、すぐなまみこ婆の妄想レスで流されるし。
498 :
日本@名無史さん :2008/11/21(金) 15:54:19
永井先生も定子派だろ!
499 :
日本@名無史さん :2008/11/21(金) 19:12:56
田辺聖子も定子派だろ。
500 :
日本@名無史さん :2008/11/21(金) 19:56:59
>>493 その割に媄子内親王は定子の怨霊を恐れた東三条院詮子に引き取られ、
一条天皇とは疎遠だったね。
東三条院が没した後には修子や敦康と同様に彰子に引き取られたようだけど。
特に一条天皇が寵愛していたという様子は見受けられない。
501 :
日本@名無史さん :2008/11/21(金) 21:14:30
瀬戸内ジャクチョーは、絶対定子派!
502 :
日本@名無史さん :2008/11/21(金) 21:16:29
>>500 お前は、きちんと古典を原点に返って読め。
一条天皇は、第2皇女を抱き癖がつくくらい甘やかしてかわいがったんだぞ。
多分、亡き定子皇后に似た美しい皇女だっただろう。
503 :
日本@名無史さん :2008/11/21(金) 21:31:32
>>502 原典を読んでないのはお前だろう。
抱き癖がつくほどかわいがっていたのは東三条院だ。
定子の怨霊が取り付くのが怖かったからね。
定子をそれほど寵愛していたなら一条が自分で
引き取るべきだろう。
だけど実際には東三条院や寵妃彰子に頼りっぱなしだったね。
504 :
日本@名無史さん :2008/11/22(土) 06:35:21
び子内親王は、一条天皇を探して泣き叫んだって記述がある。ボケ!
505 :
日本@名無史さん :2008/11/22(土) 08:20:09
どこに? 一体何ていう作品のどの部分にある?
506 :
日本@名無史さん :2008/11/22(土) 11:02:16
そうそう、そういえば 臨終にちかい東三条院の病床をみまった【女美】子内親王が、 幼すぎて状況がわからず、いつもみたいに女院のふところに もぐりこもうとしていたんだよね。 いつも抱っこして、寝るときもおばあちゃまと同じ床なのが多かったのだろう。 それをみて周囲が号泣したってのは、大鏡だっけか栄華だっけか。
>>498 永井先生は道長派だろうよ、どう見ても。
詔によって宮中で育てられた脩子内親王と、祖母に引き取られた媄子内親王。
一条天皇は赤ん坊に抱き癖がつくほど媄子内親王とは接していなかったよ。
と言うかあの時代の天皇が現代みたいなマイホームパパなわけないし、そこまで暇でもない。
立場が気楽な分、女院の方がよほど孫娘を可愛がっていただろうし、懐いていただろう。
509 :
日本@名無史さん :2008/11/22(土) 12:35:24
円地先生は定子派!
510 :
日本@名無史さん :2008/11/22(土) 13:58:54
>>506 何が図書館だよw
自分がでたらめなこと言ってるからソースも出せないんだろ、なまみこ婆
ソースもない話は誰も信じないぞ
それ以前になまみこ婆の話なんか誰も信じてないけどな
511 :
日本@名無史さん :2008/11/23(日) 14:24:22
一条天皇の定子様への愛情が今まで伝わっていることからも、愛は深かった。
512 :
日本@名無史さん :2008/11/23(日) 22:08:33
なまみこ婆ってさ、ほんとに婆だろ。 いつも言うのは一条は定子様を愛していた!(笑)だけど、 一条は一条はいうだけで、定子について具体的にはまったく言及してないよな。 なんにもしないでも、男がひたすら愛してくれるのが理想なんだろう。 今時そんな考え方する女も少ないから(いてもリア厨) アナクロな思想が染み付いてる年代なんだろう。五十代以上かな。 こういう考え方の女を、現代じゃ白痴っていうんだけど、意味わかる? ボケっと生きていても、愛してくれる男が現れるのを待ってたんだな、婆は。 それでマジキチか。
513 :
日本@名無史さん :2008/11/24(月) 09:06:49
一条が第2皇女に抱き癖をつけてしまったのは史実です。
514 :
日本@名無史さん :2008/11/24(月) 10:03:18
ソース出せ、なまみこ婆 ついでに応仁の乱で小右記の日付が書き換えられた証拠もまだだったな
515 :
日本@名無史さん :2008/11/24(月) 15:50:41
いろんな書物に残されています。
516 :
日本@名無史さん :2008/11/24(月) 16:27:13
具体例をあげましょう さもなければなまみこ婆は嘘つきのままです なまみこ婆のことを誰も信用しません 定子の密通や、女美子が一条に大して懐いていなかった事実は覆りません
517 :
日本@名無史さん :2008/11/24(月) 17:33:50
定子様は一条天皇一筋!侮辱罪じゃ!
518 :
日本@名無史さん :2008/11/24(月) 18:31:47
一番の侮辱罪は定子本人 密通してできた娘を天皇の子だと偽り生涯天皇を欺き続けた なにが一筋だ
極端な定子マンセーもあれだけど、定子と伊周が密通しただの、子まで為しただの言ってるのはもっと引く… ネタは学問板じゃない所でやってよ。
では519は定子の異常な妊娠期間をどう説明する? 最低でも308日=44週かかっている ネタではなく真面目に気になっているんだが
521 :
日本@名無史さん :2008/11/25(火) 09:06:36
一条天皇がやど下がりしてるときにコソーリ会いに行ったんだろ。 おしまい
>>521 定子が修子を孕んだ頃、
兄弟の伊周と隆家には左遷の勅命が出ていて、
里の二条第は検非違使に囲まれていたんだよ。
定子は中宮御所の二条第に兄弟をかくまい、
兄弟と手を握り続けていた。
一条天皇はこの間ずっと内裏から動かず
中宮を移動させてさっさと左遷しろと命じていたんだが。
一条天皇が検非違使の警護の中を強行突破、
兄弟と手を握っている定子を犯しに行くなんて非常識。
この辺りの出来事は一次史料に詳細に残っているからね。
一条天皇は定子の尼になってやる!
仏門に入ればもうあなたとはセックスしません!
という強迫もものともせず兄弟を左遷しているんだし。
性欲に負けた定子は後でのこのこ尼になってまで参内したけどね。
523 :
日本@名無史さん :2008/11/26(水) 07:54:12
なまみこ物語では、亡くなった定子様の遺体に対面してるよ。
524 :
日本@名無史さん :2008/11/26(水) 13:50:01
だよね。
525 :
日本@名無史さん :2008/11/26(水) 15:29:30
自分で自分の書き込みに「だよね」(笑) さすがはなまみこ婆 バレバレ自演ぐらい何ともないらしい
誰からも同意レスを貰えない証拠だから仕方ないよ。
>>520 一条天皇が認知している以上、種はどうであれ「一条天皇の娘」だろうjk
ただ天皇の皇妃に手を出した香具師は道長を筆頭とした公卿の日記に書かれる
(例:藤原綏子に手を出した源頼定とか)から、私も>514説に近いな。
間違えた。>103前半の説ね。
528 :
日本@名無史さん :2008/11/26(水) 20:47:15
>>523 白河天皇は寵妃賢子が亡くなったとき、賢子の遺体を抱いたまま離れず、
周囲が先例のないことと諌めると「例ハ我ヨリ始マラメ」といった。
天皇が清涼殿で崩御すると清涼殿が建て替えられるほど、
死は伝染すると考えられた不浄であり、
この時代の天皇が死体を見るなどありえない。
産で死んだ定子はそのまま鳥辺野に送られ一条天皇は遺体を見ていない。
529 :
日本@名無史さん :2008/11/26(水) 20:54:07
>>526 綏子は父の没後何年も東宮に参内しておらず、胤が違うことが明らかだったからだろう。
なお、道長の日記「御堂関白記」に異母妹綏子密通の記事はない。
綏子密通を載せているのは摂関家の裏舞台に詳しい「大鏡」ね。
「源氏物語」では里帰り中に源氏の子を懐妊した藤壺がやはり2か月遅れで子をうみ、
桐壷帝がこれを認知したために源氏の不義の子は桐壷帝の子として育つことになった。
定子もつまりはそういうことだろう。
医学的には修子が一条天皇の子であることはかなりありえない話だが、
一条天皇と東三条院が修子を一条の子として認知した、
貴族たちもこれ以上の追及を日記に残すことがなかった、それだけだろう。
530 :
日本@名無史さん :2008/11/26(水) 21:24:55
>>527 残念ながら、脩子の出産に関しては定子の生理不順は全く関係ない
脩子が本当に一条の子であるなら、各種の記録から、
定子の妊娠期間は最短でも308日であることが確定してしまう
これは異常
正常分娩が出来る範囲を越えている
一条が認めたから脩子は一条の娘、というのは詭弁に近い
531 :
日本@名無史さん :2008/11/26(水) 22:05:27
なまみこ婆は論外だが、そこまで執拗に力むのはなぜなんだろう。 皇子ならまだしも、皇位とも無縁、子孫も残さなかった一内親王の胤なんてどうでもいい
532 :
日本@名無史さん :2008/11/27(木) 01:59:05
一条天皇周辺スレで何言ってるんだ? 脩子は皇位に関係なかったから不自然な出生を追及されずに済んだんだろw まがりなりにも中宮という地位にあった定子が、天皇以外の胤を宿した よほど精神的におかしかったのか、実は計画的なものだったのか 枕草子の影響か定子にやたらと夢見ている奴が多いから こうして本当の定子の姿が見えてくるのは面白い
533 :
日本@名無史さん :2008/11/27(木) 06:06:12
定子はどっちかといえば嫌いだが、本当の定子の姿ってなんだよwwww なまみこ婆のキチガイ発言にいちいちファビョってるようにしか見えない 鬼女板とたいしてかわらないよ。
534 :
日本@名無史さん :2008/11/27(木) 07:05:04
定子様の初産の記述には捏造があります。
535 :
日本@名無史さん :2008/11/27(木) 13:40:35
鬼女板(笑)ファビョる(笑) 使いたくて仕方なかったんだなwえらいえらい 実際の定子は枕草子で語られているような素晴らしい女、 あるいは悲劇の后なんかではなかったってことだ 夫以外の男の子供を産んで平然としていられる女だったわけで それを本当の姿と言って何が悪い?
女って怖い生き物なんだな でも一条天皇も一途に定子を愛したとか言われてるけど 本当のところはどうだったかわかんないよ 定子が子供産める体だったから傍に置いときたかっただけかも
定子の件は、あえて情報を脱落させている疑いが全く無いとは言えないから何とも。 出家済みの后が再び天皇の子を宿す前代未聞の珍事を更に貶めるために、 悪意を持って定子の妊娠期間を異常にしたと考えられない事もないんだよね。 例えば有名所では、檀林皇后の祖父・橘奈良麻呂が獄死したのでは?という説があるけれど、 正史から消えているのは、孫娘が立后した時に記事を削ったのでは?と推測されているから、とかね。 でも定子の直系子孫が早々に絶えたから、定子の汚名返上する機会を逸したという気もする。
>>536 その流れでいけば定子のほうも一条を本当に愛していたのか?
という考えもできるね。ほかに本気で好きな男がいたのかもしれない。
兄貴と弟が失脚して仕える宮人が道長に遠慮して、ほとんど来なかったって
状況も、男としては哀れと思って一条の保護欲をかきたたのかもしれない。
定子については文化的な素養はあったかもだけど、現実の
貴族社会で生き抜いていく知恵みたいのは無い人て印象がある。
彰子となると道長や弟の後ろ盾もあったけど、自身も妹の立后とか
に発言したりして、一族をもりたてる意欲を感じるね。
ひたすら可愛がってアハハウフフと恋愛を楽しむのなら定子。
仕事関係の相談もして、人生いろいろ一緒に経験していく妻になら彰子かな。
元子が子を生んでいれば違ってきたろうが、でもあの親父だからなー。
539 :
日本@名無史さん :2008/11/27(木) 20:38:00
>>537 悪意をもって妊娠期間を捏造したという説は、
平安時代に現代と同等の医学・助産学があるのが大前提なんだが
現代なら妊娠44週で平産と言えばほぼ嘘だと分かってしまうが、
当時の人々にそこまでの知識があったと思うか?
おおよその産み月ぐらいは把握していただろうが
妊娠40週が予定日、42週になると著しく危険、44週はありえない
などという細かいことまで分かっていたと?
ちょっと考えられないな
540 :
日本@名無史さん :2008/11/27(木) 20:57:21
>>537 当時の一次史料を読むといいよ。
定子が修子を懐妊したころ、
里で兄弟と手を握り合っていたことや、
定子が兄弟左遷の直後、里で出家したこと、
里に兄伊周をかくまっていたことを否定するのかい?
伊周や隆家がこの年の5月初旬に左遷されたことは疑いようもない。
この時期、定子は宮中にいたとでも?
定子に悪意をもってのねつ造ならば、皇位につけない修子ではなく、
どうせなら敦康親王に出生の疑いをかけるだろう。
敦康親王に出生の疑いがかかれば、
当然、中関白家から天皇が出ることは彰子の出産を待つまでもなくあり得ない話となり、
定子を更に貶めることができるから。
しかし、実際には、当時の史料では修子や敦康に出生の疑いがかけられた記録は全くない。
539氏がいうように、現代の医学をもってすれば修子が一条の胤でないことは明らかなのだが、
当時は疑いをかけるような知識が不足していたのだろう。
541 :
日本@名無史さん :2008/11/27(木) 21:06:06
疑いを持つ者もあったんじゃない? 源氏物語は(都合のいいフィクションだから)藤壺の 出産が遅れてるのは物の怪ということで、みんな 納得してたけど、実は光源氏と藤壺が密通でしたという話でしょ。 それ読んだ当時の人間も(そりゃそうだよなー)って納得したんだろうし。 ということは、定子の異常な妊娠期間について、母体に危険か どうかの医療知識は別にしてもおかしい変だ、これは何かある と考えたのがいたっておかしかない。
542 :
日本@名無史さん :2008/11/27(木) 21:17:07
>>541 内心疑いを持つ者はいたかもしれないが、記録に「修子の父は誰それだ」と残すものはいなかった。
源氏が藤壺の出産の遅れを聞いて冷泉帝(不義の子)が自分の子であることを確信したように
定子に種付した男は定子の出産の遅れを聞いて一条の胤ではないことは確実だと思っただろうね。
だが、冷泉帝が遅れた出産で生まれた皇子でありながら桐壷帝の子として帝位につけたのと同様、
修子も一条天皇の皇女として一品にまで登ったんだな。
藤原綏子のように密通相手が発覚し、さらに記録までされる例はごくごく稀だよ(女三宮だって公にはなってない)
ましてや定子の密通相手が朝命に逆らってまで中宮御所にかくまい続けた兄伊周ならば、
出世のために絶対に名乗り出ないだろうし。
543 :
日本@名無史さん :2008/11/27(木) 21:22:06
第一皇女の誕生のときが一番ドロドロだから 定子様を貶めたかったんだろうね。
544 :
日本@名無史さん :2008/11/27(木) 21:27:58
>>541 検非違使長官として当時中宮定子や伊周が立てこもる二条第包囲の指揮をとっていた
藤原実資が詳細に記す「小右記」。
ここに中宮産み月になっても産をしない、「懐妊十二箇月」といった文字が躍っており、
定子の出産が異常であることは当時の貴族たちの共通常識だっただろう。
「小右記」のこの文面を否定するのは困難だと思うが。
545 :
日本@名無史さん :2008/11/27(木) 22:13:24
>>541 そりゃ不自然だおかしいと思う人も中にはいただろう、実資とか
それは別に問題ない
大事なのは、妊娠期間や日付が捏造なら
「妊娠期間が明らかにおかしい→これは天皇の子ではないのでは?」
と貴族社会で広く噂になるぐらいのインパクトがあったかどうか
定子の出産はそこそこ不審がられていたようだが
一条の胤かどうかまで突っ込んで疑われたりはしていない
当時そこまで追及出来るほどの知識は無かったから
つまり44週程度では捏造しても今一つパワー不足
あと実資の小右記はリアルタイムで書かれたものだし・・・ そして実資はアンチ道長。 道長サイドなら記録の捏造も有り得るけど、実資だからな。
大鏡で道長周辺に興味を持ち始めため、 どちらかと言えば定子よりは彰子の方が好きなんだけど、 何かと言えば定子マンセーな厨が多いのにも引いていたけど、 さすがに修子内親王が一条帝の娘ではないなら、かなり凹むわ・・・ 妊娠12ヶ月の正常分娩って確かにあり得ないし、 史料捏造って線も厳しいが(なにしろ小右記があるんじゃな) なんか他に考えられる理由はないのかね? 信じられないわ ファンでは全くなかったつもりだけど、やはりフィルターかかってたんだろうか、定子に対して ロムってたけど、ショックだわ
公然と定子の過期産に対して不審だと言ってる研究者っているんだっけ? 定子と一条の純愛について褒め称えてる奴が多いけど 自分も12箇月ってのにはどうしても納得がいかないんだよな あまりのストレスのせいで子供の発育が悪かったのだろう、可哀想にとか 書いてる人の非常識さには驚いたもんだよ
真偽のほどは分からないが この時代を専門にしている歴史学者は少ないと聞いたことがある。 そのうえ皇統に何も残せなかった定子の研究となると… 一条朝は枕草子・紫式部日記など国文学方面からの研究がさかんな一方、 歴史学の観点からはあまり研究されていないのでは。 だからイメージ先行で語られることが多い。
551 :
日本@名無史さん :2008/11/28(金) 08:52:09
定子様は、いろいろごたごたしていたから皇女誕生をしばらく伏せたのかもね。
>>548 待賢門院所生の崇徳院の胤について研究した人ならいたけれど、
定子の場合はそこまでインパクトが無いというか。
どうせするなら、定子の生理日とかも調べてみればいいのにと思う>定子密通説が好きな人
帝位に就く見込みが無い皇女への疑いを研究対象となるには
学者にとっては面白みが感じられないのかも?と思う。
553 :
日本@名無史さん :2008/11/28(金) 21:08:59
>>552 待賢門院についてはこれが武士の台頭にもつながった
保元の乱の原因かとも言われたから、さまざまな研究がある。
ただし、待賢門院は崇徳天皇を懐妊したころ、鳥羽天皇と別居しておらず、
月に数日間里帰りする間に孕んだとして無理に生理周期を当てはめているから、
いかにも男性が書いた本らしいなあ、という印象ではある。
月に数日以外は鳥羽天皇と同居していたのならば、排卵日が数日ずれただけで
崇徳天皇は鳥羽天皇の子だという結論になってしまうから。
生理周期を計算するまでもなく、定子は修子を産む以前の306日間、
一条天皇に一度も会っていない。
排卵日は生理周期によって変わっても、
受精してから出産するまでは2か月も遅れるものではない。
言っていることはわかるかい?
定子は数日レベルの排卵日のずれ(生理周期)の話をしているのではなく、
受精してから出産までの期間が2ヶ月間長すぎるんだ。
これは、受精してからの胎児の問題なんだ。
通常、2か月も長く母親の胎内にいると、胎児は死んでしまうからね。
確かに、修子が一条の胤でなかろうとも、
そのことが原因で政変も起こらなければ反乱も起こらなかった。
だから、学者の論文の種にはなりづらいだろうね。
554 :
日本@名無史さん :2008/11/28(金) 21:53:52
>>553 二ヶ月多いの、もうわかったから……
そう何度も繰り返されても……
今日小右記流し読みしてきたけど、10月記に定子が産み月ってあった。 だけど、「なかなか産まれない」とか「懐妊十二箇月」なんて記述は無かったな。見落としたかな? もっとも、翌年2月頭に五十日事の記事があったから、誕生日は12月ということになるんだろうけど、 小右記の12月記自体には誕生記事は無かった。 ひょっとしたら高階貴子の死が何か絡んでいるのかも、とは思った。 脩子の12月16日誕生ってのは、何の記録から来ているのだろう。 詳しい方、解説お願いします。
556 :
日本@名無史さん :2008/11/28(金) 22:18:59
定子様の場合、記述に真の要請が無いから相手にされてないんだよ。 帝と定子様は一日何度も・・・だったし。
557 :
日本@名無史さん :2008/11/28(金) 22:40:52
>>556 なまみこ婆は
「一条天皇は里にいる定子様のもとへ政務をほったらかして
何度も何度も内裏を抜け出してやってきて、それで定子様を懐妊させた。
定子様は出産なさるときには一条天皇がいつものように内裏を抜け出して遊びにきて、
定子様は一条天皇に手を握られて修子様をお産みになった!」
だもんな。逝ってよし。
559 :
日本@名無史さん :2008/11/28(金) 23:54:02
>>558 もともとここは極端な定子の美化主義者を隔離するために作られたスレでしょう?
だったらここで定子をあらゆる角度から(出産疑惑も含めてね)語ってよいと思う。
定子をほめたたえたり美化するのはいいけど、出産疑惑はここではするなと言ったら
それは定子を一方的に語ることになってしまう。
本当は定子以外の一条天皇の妃たちの話もしたいけど、
「枕草子」愛読者が多いのか、小説の影響なのか、また定子の話に戻しまうのよね。
元子や義子、尊子の話なんてあんまり続かないし。
560 :
日本@名無史さん :2008/11/29(土) 11:19:27
暴れん坊少納言もな。
561 :
日本@名無史さん :2008/11/29(土) 15:18:31
十に二を加えて捏造された説は、京都大学の教授が昔学会で唱えていた。
562 :
日本@名無史さん :2008/11/29(土) 20:05:59
十か月での出産だったらわざわざ日記に懐妊十月なんて書かないでしょう。 ほかにも10月が通常の産み月にあたっていたことが記されてあるのに。 修子の出産が12月16日であることは、日本紀略をはじめ さまざまな公式記録にのこっているので動かせない。
脩子内親王出産の記録捏造を上げる人に聞きたいけど、 定子&脩子の時代に生きていたアンチ中関白家の人間が記録を改竄するのはありかも知れないけど、 後世、それも応仁の乱の時代になってから記録改竄をするのっておかしくないか? 直系の人間もいなければ、彰子のように天皇家に深い影響を与えたわけでもない、 平安時代の一天皇の后とその娘に過ぎない定子&脩子の記録を改竄or捏造する必要がどこにある? 後世の人間にとってはどうでも良いじゃん、子孫を絶やした定子も脩子内親王も。
564 :
日本@名無史さん :2008/11/30(日) 09:27:26
本当は、10月16日生まれ説に賛成。
>>563 捏造とは言わないけれど、史料は当時の記録をそのまま残された幸運なパターンと
一部破損等によって子孫が書き写したものが残されたパターンと、
紛失したパターンに分かれるでしょう?
もし現在までに書き写された形跡がある史料なら、漢字を写し間違える場合が無いとは言えない。
ということは、史料を扱う人にとっての常識だと思っていたのだけど。
勿論写し間違いだってあると思うよ。現に多いし。
でも
>>562 が言っているとおり妊娠十ヶ月は当たり前すぎて書く必要がない。
わざわざ書いてあったのは、通常の妊娠期間とは違っていたからでしょ。
あと複数の資料で全く同じことを写し間違えるのは不自然だよ。
少なくとも脩子内親王誕生は12月から動かせない。
そもそも脩子内親王の誕生を意図的に遅らせる必要性がないんだよね。
皇位に響かない内親王の誕生なんて、道長派にも中関白家派にもメリットもデメリットもない。
特に中関白家では既に元子や義子が入内している以上、むしろ子供を盾にさっさと宮中に戻って欲しかっただろうし。
Wikipediaで、必死に道長・彰子をけなして 定子を持ち上げようとしている奴がいたみたいで笑った 定子厨ってどこにでもいるんだな
568 :
日本@名無史さん :2008/11/30(日) 17:52:59
一条天皇は、一日何度も定子様を愛したもんね〜。 枕草子のあのくだりのときに、第一皇女が受精したって確信したわ。
人間ってさ、やってから出産するまで平均266日、約9ヶ月なんだよ。
>>568 の説で計算すると、もはや二年も腹にいた脩子内親王は人間じゃなくなるんだが。
いや、定子様は人間じゃなくてエイリアンだと言うのなら、
妊娠期間が違っても良いんだけどさ。
いい加減、定子を普通の人間として扱って欲しいよ。
>>566 私は正直脩子内親王の父親が誰であろうが、どちらでも良いと思ってる。
ただ、もし定子密通説が当時も暗黙の秘密で通っていたのなら、
何故定子が廃后されなかったのか?という疑問に行き着いてしまう。
密通の噂を権力でねじ伏せるだけの力は、当時の中関白家には無かったから。
前代未聞の一帝二后を続けるより、定子を廃后にする理由が(たとえ噂レベルの
ものであっても)あるなら、廃后にするチャンスだと思うんだよね。
廃后の前例はあるのだから、道長は噂程度でも虎視眈々とチャンスをものにすると思う。
まさか密通した后を「一条帝が愛しているから廃后に出来ませんでした」
なんて理由で頓挫するとは思えないんだわな。
なので、密通説の信憑性に関しては、何故廃后にならなかったか?に対する
明確な理由をセットにしないと、根拠が薄いとしか思えないんだわ。
>>570 前の方読めよ
現代なら定子の密通は簡単かつ確実にばれるが
平安時代にそれだけの医学はなかった
それだけのこと
出産が遅れれば不審に思う人間はもちろんいたが
それを医学に基づいて理論的に説明し、
廃后にまでおいやることが出来る人間はいなかった
>>571 当時ですら産み月に不信感を持つだけの医学的知識があるならば、
そして、何故天皇と定子が接触が無いまま妊娠したのならば、
定子が密通したという噂にならなかったのだろうか?
上のほうで伊周が実父である説を唱えていた人がいたけれど。
道長は批判が強かった一帝二后を一刻も早く終わらせるためにも、
もし道長にとって定子腹の子が天皇の子とするには疑わしい
という認識を持っていたならば、相手は後付であげればいいのだから、
廃后する理由になるのでは?と思うのだけど。
道長は定子をも失脚させたかったのだから、定子にもし疑わしきことが
あるならば、放置するとは思えない。
これについてはどう思う?
571は結論が先にあって、後は結論に合う理由を探しているなーと思う。
>>572 おまえの方がよほど結論ありきなんですが
要するに定子が怪しかったり密通してたなら、道長が定子を廃后したはず
=定子は怪しくないし密通してないから道長は廃后しなかったんだ!
と言いたいんだろ?まさに結論ありきだなw
そこまで言うなら、道長が定子を失脚させたがっていた話のソースを出してくれ
伊周・隆家兄弟にしても、道長が失脚させたわけではなく
むこうが勝手に倒れてくれたんだけどな
それから当時の人間が、産み月の遅れと密通を
正確に結び付けられるぐらいの医学的知識があったというソースもくれ
>>570 =572
ていうか誰も定子の密通が噂になっていたなんて言ってないのに。
出産が遅れているのが妙に思われていたとは言ってるけど。
自分で勝手に話を飛躍させて的外れな疑問をぶち上げておいて
明確な理由だの根拠だの言われてもね。
575 :
日本@名無史さん :2008/12/02(火) 06:35:33
当時は、尼(俗世間の人で亡くなった)から、妊娠が長引いたと流布されたんだってば。 で、私の夫に過去の調査研究など探してもらったら、海外に停止を超える長期妊娠者の例が あったは、うち数名は医療機関の乏しい発展途上国の妊婦だったそうよ。
576 :
日本@名無史さん :2008/12/02(火) 18:45:33
定子様はもののけに出産を邪魔されていたのかな? 道長とか彰子の生霊に。
577 :
日本@名無史さん :2008/12/03(水) 14:30:44
道長の呪詛。
>>575 はいはい。脳内夫、乙。
いもしない夫や娘をいちいちでっち上げなくても良いよ、嘘だって分かっているから。
呪詛と言えば、定子の孫に当たる(敦康親王の娘)嫄子の早死にとか
その娘である二人の内親王の狂疾って定子の呪いとかって言われていたんだっけ。
自分の子孫に祟るなんて何を考えているんだろうねぇ。
579 :
日本@名無史さん :2008/12/03(水) 19:17:10
>>577 彰子は脩子誕生のころはまだ幼く、入内すらしてなかったというのに。
彰子や道長は敦康を養育した恩人なのにね。
彰子は入内後も20歳頃まで懐妊がなく(定子も初めて懐妊したのは20歳すぎ)
父親の道長が怨霊のせいだと思ったのか金峰山にまで懐妊祈願にいっているけど、
それってやっぱり定子の怨霊なんだよね。
580 :
日本@名無史さん :2008/12/04(木) 10:10:15
彰子が一条帝に愛されてなかったんじゃw
581 :
日本@名無史さん :2008/12/04(木) 12:05:44
定子があつかましかったんじゃw
彰子が二十過ぎまで妊娠しなかった理由が愛されていなかったというなら、 やはり二十過ぎまで妊娠しなかった定子もそれまで愛されていなかったんだね。 道隆の娘で中宮で他の女を召すことが出来なかったから、 定子で我慢して嫌々抱いていた一条天皇が可哀想だな。
583 :
日本@名無史さん :2008/12/04(木) 16:35:20
定子さまは、道長に呪詛されてたもん。
584 :
日本@名無史さん :2008/12/07(日) 11:09:43
彰子も定子の怨霊に取り付かれてたんだね、可哀そうに。 道隆全盛期、道長は定子に中宮大夫として仕えていたから むしろ道長は定子に皇子を産んでもらわなければ困ったくらいなんだが。 中宮大夫として定子の皇子に近侍していれば、皇子が即位した際、 蔵人を勤め出世は思いのままになるからね。 そもそも、道長が執政者を意識したのは道隆、道兼が死んだ995年からだろう。 これまでの間は定子には何が何でも男子を産んでもらわなければ困った。 定子は彰子に男子を産まれると困るから、怨霊にでもなっただろうね。 実際に彰子が男子を産むと、一条天皇が前代未聞の土御門殿行幸をして彰子を見舞い、 その場で彰子の母倫子に天皇の外祖母にのみ与えられる従一位の位を与えて、 彰子の新皇子は生後間もなく定子の皇子を超えて一条天皇によって天皇位を約束されてしまったから。
585 :
日本@名無史さん :2008/12/07(日) 11:15:29
>>580 一条天皇が死ぬ間際、一条天皇の子を年子で立て続けに産んだ彰子は
やっぱり一条天皇最愛の人だったんだね。
それに比べて定子が死んでも一条天皇は花山天皇のように出家するわけでもなく
それどころか一条天皇は定子が死んだ当日にも彰子を召そうとしたため
彰子のほうであえて遠慮して一条天皇に伺うのをやめたとある。
定子はそれほど愛されてなかったんじゃないの。
確かにそれじゃ愛されてなかったとしか思えないわ 何故研究者達の中には一条天皇が定子を純粋に愛してたと 見る者がいるのかしら? 何を根拠に? 普通に考えて彰子を愛してたと見るのが正しい気がする
>一条天皇は定子が死んだ当日にも彰子を召そうとしたため >彰子のほうであえて遠慮して一条天皇に伺うのをやめた ソースは?
588 :
日本@名無史さん :2008/12/09(火) 18:50:06
>>585 帝も権力者の娘だから、無視したくても出来なくてかわいそう。
一条天皇の辞世の句は定子様への句(内容をみればわかる)
>>585 >それどころか一条天皇は定子が死んだ当日にも彰子を召そうとしたため
これ初めて聞いた。どこにある記録?
>>588 >帝も権力者の娘だから、無視したくても出来なくてかわいそう。
道隆存命中の一条天皇のことですね、分かります。
道隆が早く定子に皇子を産ませろと一条天皇にせっついていたから
昼に相手をしたのにまた夜にも召さないといけなかったんですね。
権力者道隆の娘(定子)がいたから他の女を召すことも許されず、
本当に一条天皇は可哀想です。
591 :
日本@名無史さん :2008/12/10(水) 13:02:04
彰子が道長の娘で超長生きしたからブスでも本当のことかけないだろ。 多分ブスだったろうけど。
592 :
sage :2008/12/10(水) 19:28:39
593 :
日本@名無史さん :2008/12/10(水) 19:29:46
>>591 定子がブスでも一条天皇の後宮を5年も独占できたわけだ。
定子が美人だなんて使用人の清少納言以外誰も言ってないし。
可哀そうに。
594 :
日本@名無史さん :2008/12/10(水) 21:39:47
定子様は美人だった。私は、七瀬1000年前がわかるの。
あの時代における美人って柳原加奈子並のぽっちゃりおかめだけど、 定子のビジュアルがそれで良いの? 現代的な美人は平安時代だとドブス扱いされるよ。
定子は賢くなかった。道隆の手を握って一条をもっと怒らせたのが証拠。
道隆じゃなくて伊周でしょ・・・ 身の処し方が見苦しかったのは事実だけど。
身の処し方が見苦しいって烈しく同意 何故もっと賢く立ち回る事ができなかったのか 感情のままに振る舞えばいいってもんじゃないだろうに 例え美人であったとしても思慮深い振る舞いができないことには。。。
599 :
日本@名無史さん :2008/12/11(木) 16:06:38
一条天皇が定子様にどうしても!って言ったんだよ!!
一条天皇は「どうしても伊周の手を握っていろ!」なんて言っていないよ。 むしろさっさと配所に向けて出発しろと言っていただろうに。 定子が「私がいれば大丈夫」なんて思い上がり、伊周もそれに便乗したものだから、 兄妹揃って余計に見苦しいことになって一条天皇を怒らる結果になった。 おかげで伊周は詮子に請われるまで伊周が配所先から戻ってくることを認めなかった。
定子は一条天皇の発した朝命に逆らってまでも兄伊周を邸に匿い続けた。 二条第から脱走した伊周が発見され配流に処せられたときも定子の邸にいたし(5月) その後も定子はこっそり伊周を入京させてまたもや自分の邸にかくまっている(10月) 伊周が定子によって常にかくまわれていることが朝廷や道長に筒抜けだったのは 定子の中宮大進だった平生昌の密告のためだと言われているけど。 まったくこの兄妹の親密度と思いあがりは異常だわな。
602 :
日本@名無史さん :2008/12/12(金) 10:11:32
それと切り離してまで定子様を寵愛した帝。
603 :
日本@名無史さん :2008/12/12(金) 21:17:19
素敵よ!一条天皇と定子様!
>>602 >それと切り離してまで
と言たってことは、なまみこ婆も定子が思慮の無いアホだというのは認めるんだね。
若くて思慮深い彰子と出会って一条もほんとうの愛情を知ったってことですね。わかります。
605 :
日本@名無史さん :2008/12/15(月) 17:34:10
皆落ち着け!「暴れん坊少納言」でもみて気持ちを落ち着けろ。
606 :
日本@名無史さん :2008/12/16(火) 10:11:11
定子様は、不遇の中一条天皇の愛のみが後ろ盾だったのよね 少しの間内裏に行ったら、一条天皇は一番愛している定子様ばっか 毎晩呼ぶんだけど、それが短命を招いたんだよね。
607 :
日本@名無史さん :2008/12/16(火) 11:44:36
毎晩
毎晩? あの時期は普通に元子も寵愛されていたけど。 美人で有名な元子は一条天皇のお気に入りだった。
609 :
日本@名無史さん :2008/12/16(火) 20:58:56
>>606 定子は内裏へ参入しても当初いたのは大内裏の職御曹子。
内裏からは遠く、一条天皇が頻繁に通った形跡はない。
その後内裏からあまりに遠いというので別の場所に移された
(どこだったかは史料から明らかではない)
と書かれるが出家前のように正式な後宮に置かれたというわけでもなく
一条天皇とはたまに会うだけだったろう。
全盛期のように定子は一条天皇唯一の妃というわけでもなかったしね。
元子に限らず、一条天皇の後宮には大臣の娘たちがひしめいていたし、
義子などは「枕草子」にも「紫式部日記」にも登場して
定子や彰子と張り合っていたのがわかるしね。
610 :
日本@名無史さん :2008/12/17(水) 10:00:44
>>609 職御曹子に帝がコソーリ行った可能性は指摘されている。
また、他の女御などのとこには、この間一切いかなかったので
定子様独占状態。そして定子様は短期間で妊娠。
元子が水を孕んだのは、定子が職御曹子にいるころだよ。 皆が懐妊と思ったってことは、一条が元子を召していたってことになるね。 定子が独占していたわけではないよ。
612 :
日本@名無史さん :2008/12/17(水) 20:14:30
>>611 元子妊娠してなかったしwそれも内科系の病気だったみたいだしw
定子様は40日くらいしかいなかったけど、その間帝は定子様ばかりに通っていたよ。
あのね、実際に妊娠していなくても、妊娠していたと思われたのは きっちり一条天皇とやっていたからでしょ。 やってなければ誰も妊娠したとは思わないし、不義の子だと思われるだけ。 つまり、定子だけが独占していたわけじゃない。
614 :
日本@名無史さん :2008/12/17(水) 20:29:47
>>612 馬鹿だななまみこ婆
元子が内裏を出たとき、元子も一条も女房も公卿も、
みんな元子が妊娠したと信じて疑わなかった
つまり元子が一条に召されていたのは疑いなき事実
でなければ誰も妊娠だと思わないだろ
内科の病気だったことはこれとは全く関係ない
おまえこそ一条が定子以外と会わなかった証拠を出せよ
妄想と嘘は要らないからさ
615 :
日本@名無史さん :2008/12/17(水) 20:54:19
定子様がいた40日ほどの間、帝は夜がれなく定子様を・・・と、本を読めばか者。
616 :
日本@名無史さん :2008/12/17(水) 21:10:46
本のタイトルを出せばか者 嘘つきにはできないだろうがw
想像妊娠も肉体関係があってこそのものだから、
結果的に妊娠でなかったとしても、
肉体関係がなかったことの証明にはならないよね。
この頃の彰子と一条天皇は、「昼間に来て夜には帰る」だったようだから
当然肉体関係はなかっただろうけど。
>>615 ここは日本“史”板だから、創作小説ではなくてちゃんとした資料を出してね。
618 :
日本@名無史さん :2008/12/17(水) 21:39:22
>>610 右大臣藤原顕光の娘元子、内大臣藤原公季の娘義子。
大臣と仲良くやるためには大臣の娘である妃たちと仲良くやることだよ。
道隆全盛期、一条天皇は関白道隆の息女である定子以外とセックスできなかったように、
一条天皇は現役大臣の娘とセックスする義務を負っていたんだ。
それにやる回数と妊娠が必ずしもイコールではないことは
定子は一条天皇の後宮を独占していたころ全く孕まなかったことをみても立証済み。
彰子の入内後は定子もすっかり影が薄くなったけどね。
619 :
日本@名無史さん :2008/12/17(水) 22:28:07
>>617 定子が職御曹司にいる頃は彰子はまだ入内していない。
彰子と定子が一条天皇のもとに同時にいたことは一度もない。
999年2月 彰子、裳儀。一条天皇から従三位に叙せられ、入内内定。
999年7月 定子、妊娠5か月で退出。
999年11月、彰子、入内。女御宣下。定子、敦康親王出産。
1000年1月下旬 彰子、中宮宣下を受けるために里へ退出。
1000年2月 彰子、中宮宣下。定子、彰子の退出を見計らって密かに参内。
1000年3月 彰子、立后後初参内。定子、彰子の参内前に退出。
1000年12月 定子、難産で死亡。
定子が職御曹司にいたのは997年頃。
定子が職御曹司にいる頃、一条天皇の後宮にいた妃は女御だった元子、義子のみ。
彰子の入内後、定子が一条天皇と接触可能だったのは
彰子が立后宣下を受けるために里帰りしていて一条天皇のもとを不在にしていた
1000年2月〜3月のみ。
>>617 > 想像妊娠も肉体関係があってこそのものだから、
> 結果的に妊娠でなかったとしても、
> 肉体関係がなかったことの証明にはならないよね。
>
> この頃の彰子と一条天皇は、「昼間に来て夜には帰る」だったようだから
> 当然肉体関係はなかっただろうけど。
>
>
>>615 > ここは日本“史”板だから、創作小説ではなくてちゃんとした資料を出してね。
622 :
日本@名無史さん :2008/12/18(木) 09:02:21
もう何度も言われているけど、なまみこ物語は創作小説。 史料ではない。
624 :
日本@名無史さん :2008/12/19(金) 22:39:34
史料も捏造されている。
マトモな史料批判が出来るようになってから来なよ。 この板で、くだらない歴史小説を根拠に何書いても誰も相手にしてくれないよ。
626 :
日本@名無史さん :2008/12/20(土) 21:04:08
おちつけ!そして「暴れん坊少納言」を読め
627 :
日本@名無史さん :2008/12/20(土) 22:44:13
そんなもんばっかり読んでるからアホなんだよ、なまみこ婆は 昌子内親王やおよつ御寮人のことでも無知を曝け出してるんだな
628 :
日本@名無史さん :2008/12/21(日) 09:55:06
なまみこ婆=暴れん坊少納言婆 みんなにばれてるって。
629 :
日本@名無史さん :2008/12/21(日) 10:53:22
私は、暴れん坊少納言など読みませんが何か?
630 :
日本@名無史さん :2008/12/21(日) 17:37:52
>>629 なまみこ婆と文体が同じだよ。
なまみこ婆を擁護しているのも暴れん坊少納言婆だけだしね。
小説に漫画が出典ねえ。
おばはんも相当暇なんだな。
631 :
日本@名無史さん :2008/12/21(日) 23:23:11
実際は、一条天皇は定子中宮(皇后)を最後まで愛していた可能性はあるだろ。
愛されてた可能性なら彰子だって元子だってその可能性はある訳だが…
633 :
日本@名無史さん :2008/12/22(月) 20:12:11
暗部屋女御って愛されてたのか?
634 :
日本@名無史さん :2008/12/23(火) 13:43:26
尊子だっけ、影薄いよね。
635 :
日本@名無史さん :2008/12/23(火) 16:52:07
藤原尊子は一条天皇の乳母、従三位藤原繁子の娘。 通常は乳母子と一緒に育つために 一条天皇にとっては尊子は幼馴染で おそらく定子よりはるか以前から知り合いの仲。 花山天皇、後深草天皇など、乳母子に手を出し寵愛した例は多い。 藤原義子は、一条天皇の後宮に一番長くあった妃。 入内は元子よりも早く、一条天皇が没するまでその後宮にあった。 一番長く後宮にあったということは一番長く寝所に上がった妃でもある。 はっきりいって、尊子も義子も一条天皇に愛された可能性はあるよ。 それを言い出したら、どの妃だってさ。
636 :
日本@名無史さん :2008/12/24(水) 10:34:56
一番寝所に上がった回数は実は定子様がNO1だった衝撃の事実!
637 :
日本@名無史さん :2008/12/24(水) 19:15:37
一条天皇の辞世の句は定子様への愛だった。
愛されてたかどうか知らないが定子は一条天皇の顔に泥塗ったようなもの 兄弟揃って馬鹿げた事件起こしてくれて 賢帝と言われるミカドなのに定子の件だけは汚点といえるでしょう そこいくと彰子はミカドの評判を貶めるような事してないからね 中宮という立場に相応しいのは彰子でしょうな
639 :
日本@名無史さん :2008/12/25(木) 20:59:47
>>638 帝は定子様を愛していた。何があっても。
生きている間は間違いなく愛していただろうね、定子が死んだ時に詠んだ歌を見ても。 ただ、定子の死後に他の女性を愛していた可能性は高い。 一生定子だけを想っていなきゃいけないわけじゃないしね、少女漫画じゃあるまいし。 本当に定子への愛に殉じたければ、詮子の死後にでも三条天皇に譲位して、 自分は出家しても良かったんだよ。それこそ花山天皇みたく。 勿論定子の形見の敦康親王を東宮にしてね。一番に反対する母親の詮子がいなければ可能だろう。 でもそれをしないで帝位に居座っていたあたり、定子への愛はその程度だったってことだ。
641 :
日本@名無史さん :2008/12/26(金) 09:33:30
B‘Zの曲じゃないけど「愛のままにわがままに僕は君だけを・・・・・」状態の帝だったんだろ。
>>640 花山天皇の出家&退位だって、若気の至りと言うか一時の気の迷いでしょ。
寵愛してた女御を産で無くして落ち込んでた所に、兼家親子がうまく付け込んだだけで。
実際、法皇になってから何人もの女(母子丼もやってる)を召して複数の皇子や皇女を産ませてるし、
出家の原因になった女御を一生一途に想ってたって訳じゃない。
そもそも、思想も結婚形態も今とは全く違うんだから、現代人の感覚で愛がどうのとか言うのはおかしいね。
643 :
日本@名無史さん :2008/12/26(金) 23:54:01
>>638 汚点になっても構わないくらい 定子様を愛していた・・・・
>>643 ねえねえ、なまみこ婆。
上でさんざん言われている、馬鹿な兄貴をかばったせいで、もっと一条を怒らせたり
配慮が欠けて、先のことを考えずその場の感情で出家して、貴族達を呆れさせた
たいして賢くない定子様ー(笑)については、どう考えてるの?
定子が賢くないってのは、なまみこ婆も認めるんだろ?
それでも一条は定子様を愛してたんだよ、っていうのは書くの無しにして
ほかのこと言ってよ。
あと、史料にありました、というのももう禁止ねwwww
645 :
日本@名無史さん :2008/12/27(土) 19:32:22
>>640 一条天皇は定子の存命中に元子に優しい言葉をかけてたっけ。
定子の存命中にだって他の妃たちを愛していた可能性はあるだろ。
一条天皇の存命中に死んだ妃は唯一定子だけ。
他の妃たちはすべて一条天皇より長生きしている。
つまり、定子以外の妃が亡くなっても悲哀の歌を読んだ可能性はある。
一条天皇は生存中に唯一先に死んだ定子に歌を読んだが、
思慮の浅い定子を国母とすることには反対だったろうね。
定子が皇子を産んでもなお、後ろ盾となるべき定子の同母兄弟を政に復帰させず、
皇子は定子の一族から取り上げて彰子のもとへやってしまった。
彰子だからこそ国母の役割が果たせたのだろう。
646 :
日本@名無史さん :2008/12/27(土) 21:00:29
定子様を国母にはしただろ。
国母の意味を辞書で調べようね。 天皇や国王の生母の称号が国母であって 定子は皇后であっても国母ではない。
648 :
日本@名無史さん :2008/12/27(土) 23:27:11
>>646 定子を国母にしたかったのならば、まず伊周の朝堂復帰を認めただろう。
定子の皇子を守るためならば、道長を内覧の地位から追い、
伊周をその座につければよく、それは十分可能であったであろうが、
一条天皇には全くその気はなかった。
これは、敦康親王があのまま定子の手元で育っていても
皇位につけなかったことを意味する。
一条天皇は我が子を守るため、定子の没後、
敦康親王を定子の一族から引き放し、彰子のもとで養育させた。
いうまでもなく、彰子に次期国母としての地位を委ねたということで、
彰子に男子が誕生すると、一条天皇は瞬く間に外祖母倫子に従一位を与え、
生後まもない彰子の皇子に帝位を保証している。
649 :
日本@名無史さん :2008/12/28(日) 00:32:01
>彰子に男子が誕生すると、一条天皇は瞬く間に外祖母倫子に従一位を与え これ凄いよね 出産後すぐの行幸で
その皇子が無事に成長するかも分からないのにね。 しかも、これで位階の上では倫子は道長を越えてしまっている。
651 :
日本@名無史さん :2008/12/28(日) 10:07:24
彰子は、鍾愛する敦康親王を将来帝位につけるために必要な人間って感じだろ。 彰子が小梨だったら敦康親王は母方にいろいろあっても、養子として帝位についただろうし。
敦康親王は、道長一族にとって都合が良い手駒にはなっても、 道長の4人の娘達の誰かが親王を産めばそちらが最優先になるし、 最悪娘達が駄目でも孫娘達を入内させるだろう。 敦康親王が皇位に就くには、道隆が長生きするくらいしかないよ。 外祖父が孫親王を即位させることがあの時代の鉄板なのだから。
653 :
日本@名無史さん :2008/12/28(日) 11:01:03
>>651 道長は彰子に男子がなければ、三条天皇および
三条天皇の4人の男子に娘を入内させてでも
敦康親王の即位を阻止しただろう。
外祖父を失い、外舅も朝堂を追われた敦康親王は
祖母の詮子や、血縁のない道長の庇護によって生かされていたにすぎない。
敦康親王は道長の娘とすら結婚させてもらえなかったし、
帝位からはかなり遠い存在だったよ。
道長政権下では敦康親王即位がなかっただろうことは、
敦明親王の東宮辞退を見ていれば分かる。
結局、圧力を掛けられただろうし、仮に即位しても花山天皇のようになる可能性も高い。
>>651 彰子が敦康即位に必要なら、どうして一条天皇は倫子に従一位を与えたの?
これは道長がお願いしたのではなくて、一条が自分で決めたことだよ。
彰子とその子供への箔付けとして思えない。
655 :
日本@名無史さん :2008/12/28(日) 11:36:38
敦明親王の外舅は立太子時に失脚していない。 外祖父はすでに没していたが、妻の父は右大臣であった。 また、花山天皇の外祖父は関白藤原伊尹で、 立大子時、その外戚は並びない権勢一家だった。 つまり、敦康親王は敦明親王、花山天皇の立太子時とすら 明らかに異なっている。 外舅が配流にまでなり朝廷への出入りを禁じられている中で、 敦康親王の立太子はありえない。 敦康親王は本来、宮中へも参内できず、親王宣下を受けられるかすら危うかった 敦康親王が最終的に一品にまでなれたのは相当運が良かったほうだろう。 道長は政権を完全掌握すると協調路線に変更したからね。 一条天皇は道長を執政者に選び、伊周を選ばなかった。 その時点で、敦康親王の即位は永久にありえなかったんだよ。
>>655 まぁ、一条は始めから定子のこととは別に伊周が嫌いなだけだったんだが。
657 :
日本@名無史さん :2008/12/28(日) 15:53:58
一条天皇が敦康親王を帝位につけたかった記述はいくつもある。 天皇が秘蔵っ子のようにかわいがっていたのは事実だから。
658 :
日本@名無史さん :2008/12/28(日) 15:55:15
つーか、道隆さえ長生きしていれば歴史は大きく変わっていた。
659 :
日本@名無史さん :2008/12/28(日) 16:14:49
くだらないたらればは要らないって言ってんだろ、なまみこ婆 一条が敦康を帝位につけたがっていた記述とやらを出せよ いくつもあるなら一つぐらい出せるだろ? 後世の人間の憶測ばかりで実際に一条が「敦康を東宮にしたい」 と言った証拠なんかないんだが 敦康の成長や人格形成に定子はほとんど関わっていない 敦康を一条から愛されるような親王に育てたのは彰子 彰子の元で育たなければ脩子のようなひねた人間になっていただろうな まあ脩子は一条の子ですらないがw
いくら可愛がっていた息子でも、天皇の意思だけで その子を即位させてやれる時代ではないからね。 文徳天皇ですら、鍾愛していた惟喬親王を即位させてやれなかったというのに。 ・外祖父が現役で権力掌握中 ・母后が健在 ・自身の妃も有力貴族の娘 これが無い限り「たられば」の妄想から脱出出来ないでしょうね。
661 :
日本@名無史さん :2008/12/28(日) 18:02:15
>>656 伊周の逃亡を手助けし、伊周を何度も屋敷にかくまった定子は、
伊周とは一心同体の兄妹。
正直、一条天皇は定子の中に実兄伊周の面影を見ることは
何度もあったと思うよ。
おそらく一条天皇の妃たちの中で最年長だった定子は
一条天皇の第一皇子を産むに至ったが、
伊周と定子を切り離して考えたことなどないと思うよ。
>>661 長徳の変の時に途中から一条天皇の方がヒートアップして積極的に伊周逮捕に乗り出して道長すら置き去りにされている。
伊周に対して何らかの含むところがあったのは明らか。
663 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 01:35:37
周囲の事はあっても一条天皇が一番愛したのは定子様。
>>662 道隆存命中、一条はずっと道隆に頭を押さえつけられていたからね。
道隆が死ぬと次は伊周がのさばり出したが、苦労知らずのボンボンで
親父ほどの政治感覚がなくて、ただ威張り散らしていただけ。
一条も大人な年齢になって自我も出てきたのに、今度は伊周に
でかい顔されて腹に据えかねてたんじゃないの?
定子の身も心も奪った伊周だもの。 いくら押し付けられた権力者の娘でも妻は妻。 夫として、天皇としてのプライドが二人を許さなかったんでしょうね。 伊周は配流、定子は生き恥さらしたまま内裏に連れ戻して飼い殺し。 で産まれた子供は別の妻が養育。 一条帝よくやった!と思うよ。 何年もの間道降の一族に好き放題された恨みを返せて良かったね。
しかし、枕草子ですらそうだけど、本当に定子が尊敬されるような人柄だったら、 実母があそこまであからさまに中傷される事はないよね。 さすがに中宮を直接口撃する事は出来ないから、生まれの卑しい母親をターゲットにする事でみんな溜飲を下げたんだろうな。 ま、実際母親もかなりアレだったんだろうけど、娘を知るには母親を見ろと言うから同じ事か。
>>666 あれは定子の人柄というよりも、高階貴子が受領階級出身でありながら
后の生母面して増長したから中傷されたのではないかと。
公式の場で唐衣を着なかった件も、女官経験者なら
分からないなんてありえねー話だし、女官を引退した後も歌会と聞けば
参加したがっていたというのは、元々出しゃばりな性格であった事を表すエピだと思う。
>>667 あの袿姿っていうの悪い意味ですごいよね。
あの供養の場には詮子もいていわば公の儀式。
中宮定子さえ裳唐衣の正装だったっていうのに。
定子はまだ身ごもりもしておらず地位が安泰という
わけでもないのに。貴子はおごりすぎというか……
女官の頃は学識あるひとつ抜きん出た女で済んだ
ろうが……。
高階一族も一緒になって我が物顔だったらしいから
周囲は成り上がり者がみっともない事してるって
あざ笑ってたんだろう。
例の病替・病間書き換え事件とか、聞いただけで
こっちが赤面するぐらいの見苦しいことするし。
定子も彰子も別に好きでも嫌いでもないが、 高階貴子だけは昔から大嫌いだった。 あれが円融帝の初恋の人とかアフォな妄想語る奴とか許せなかったのだが、 皆さんの書き込み見て溜飲が下がりましたw 本当にドキュ母だよ。その点は定子にも同情する。 伊周は母の血を色濃くひいたな。 兼家の狡猾なまでの政治感覚はこの孫には微塵もなし。
670 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 12:07:25
歌会は円隔帝が要求したんじゃ? 確かに貴子はいけ好かないが定子が 立派だから尚更痛い女になったんじゃ。 あと、道隆がお茶目な分気位の高い 貴子は嫌われただろうね。
定子が詮子への礼儀を弁えて裳唐衣の正装をしていたからこそ、 余計に貴子のDQNぶりが際立つんだよね。 そもそも公の場で略装って凄いよな・・・ 自分は摂関家出身の皇太后よりも格が上!と思い上がっていたんだろうか。 受領階級出身の正三位如き、それも皇子も産んでいない中宮の母でしかないってのに。
672 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 19:27:20
>>670 貴子は、円融天皇が呼ぶから歌会に出席していたわけじゃないよ。
宮仕えしていたときならともかく、道隆と結婚して関白夫人となった後も
歌会と聞けば自分から出かけて行ったのだから。
円融天皇は貴子よりはるかに短命だったし、
貴子は円融天皇が14歳の時に結婚して宮仕えを引退したので、
もともと接点も少ないしね。
673 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 19:37:20
>>671 あの話には続きがある。
道隆は貴子の軽装なのをみて、
「あなたが主役なのだから」と娘の中宮定子の裳唐衣を脱がせているんだよね。
脱がせる道隆も道隆なら、あっさりと脱いでしまう定子も定子。
東三条院詮子の前で、嫁の定子とその母貴子が正装していないという
お馬鹿ぶりを発揮してしまった。
しかも、東三条院を差し置いて定子が主役なのだと。
DQNぶりの激しい一家だったってことだよ。
たしか、「枕草子」にも清少納言が「尊貴なことこの上ない中宮様に
私を好いてくださいなんて言えましょうか」と定子に言ったところ、
「この上なく尊貴な私だからこそ、好かれたいと思うべきでしょう」
って何事もなく答えるシーンがあるんだよね。
両親に溺愛されて育ちすぎたのか貴子の影響か、
気位の高い女性だったと思うよ、定子も。
674 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 19:57:18
まぁあれだ、中関白家=DOQが当時の朝堂のほぼ一致した見解だったのでは あそこまで急速に激しい凋落を招き、道長の台頭を許した一因は 全盛期のこの一家の傲慢、勘違いっぷりが甚だしかったためでもあるだろう
675 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 20:07:45
>>673 主役はあの場でもっとも高位である詮子だよなあ。
そう思ってなくても女院をさしおいて娘をちやほや、妻の
とんでもない無礼を笑いでごまかした道隆も浮かすぎ。
道隆本人は政治家としてはソツない感じでまともだったはずなんだが。
貴子が正装していかなかったのを、道隆は知らなかったのは
当日別行動だったからなのかね。供養の場で初めて知ったのか。
676 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 20:09:40
>>673 このときは定子>栓子 明治天皇が崩御された時に一条美子皇后は新帝、皇后に上座を譲ってる。
677 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 20:36:58
>>676 定子と詮子の席次をいったい誰が話題にしてるの?
明治帝の崩御時、貞明皇后とその一族が、皇后の方が昭憲皇太后より位が上だから、と
笑って略装で臨んだ場があったの?
678 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 20:51:11
>>676 正月、天皇は皇太子、大臣をはじめさまざまな人々から拝礼を受ける。
天皇は日本で一番偉い人だから、当然、皇太子、大臣らが天皇のもとを訪問する。
天皇は内裏で人々が挨拶に来るのを待っているだけ。
しかし、天皇が自ら正月に挨拶に訪れる相手があった。
まず、父院。
一条天皇は毎年正月、皇太子、大臣らの拝礼を受けた後、
自ら父円融上皇のもとへ行幸し、年賀の挨拶をしていた。
そして、母院。
一条天皇の母詮子は一条天皇が即位すると皇太后となり、
幼少の一条天皇とともに内裏入りして内裏に住んでいた。
しかし、病気を理由に出家し、東三条院となるに及んで内裏を退出した。
一条天皇は母院東三条院詮子のもとへも自ら行幸して、年賀の挨拶をしていた。
東三条院がどういう地位にある人かがわかるよね?
定子など、一条天皇のもとへすらよんですらもらえずに別居期間が相当長かったというのに。
679 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 20:55:46
>>676 明治時代の皇室典範とこの時代は違う。
后の地位は、
女院>太皇太后>皇太后>皇后(中宮)
だよ。
これは律令にも規定がある。
彰子が中宮→皇太后→太皇太后→女院となるにつれ
どんどん地位が低下するなどといったことはない。
>>676 昭憲皇太后は貞明皇后によりも格上だからこそ敢えて上座を譲ったんだよ。
皇太后と皇后の席次なんて誰が言うまでもなく皇太后の方が上。
皇太后の詮子と中宮の定子なら、当然皇太后の詮子が格上。
にも関わらず、道隆は強引に定子を上座にした=詮子に無理矢理譲らせた。
つまりは格下の皇后が自分より偉い皇太后に向かって
「私の方が格上なんだから、あんたが下に行きなさい」ってやったんだよ。
詮子は兄のやったことに腸煮えくりかえっていただろうね。
681 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 21:28:13
栓子は皇太后なってないだろ! 女院1号ってやつだろ。 はっきりいって、昔から中宮(皇后)>皇太后
682 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 21:37:57
>>681 そうです! 栓子とかいう人は皇太后になってません。
ちなみに藤原詮子は皇太后から史上初の女院になっていますね。
683 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 21:43:23
藤原詮子
女御→皇太后→女院
>>681 どうでもいいけど、律令の三后の規定を見ようよ。
どう斜め読みしたら皇后(中宮)が皇太后より格上になるのか。
あまりの無知っぷりにいっそ哀れになってくるね。 詮子は、寛和2年(986年)7月5日に皇太后に冊立されているよ。 と言うか、冷泉天皇后・昌子内親王、円融天皇后・藤原遵子、一条天皇皇太后詮子 この三人で三后が埋まっていたから、 道隆は定子を中宮にするという前代未聞の四后をやったんだろうが。 詮子が皇太后になっていなかったら、定子はすんなり中宮になれていたんだよ。 ついでに、昔から中宮(or皇后)<<皇太后<<太皇太后だよ。 だいたい、母(皇太后)よりも妻(皇后)を重んじるなんて礼儀知らずなことあるわけない。
685 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 21:50:58
詮子は皇太后になったのは間違いないが 例の一件(定子と貴子が詮子の前で正装しない)があったのは 詮子がすでに女院となった後の出来事だよ 一条天皇に影響力を持ち続けた父院円融院にならってのもので 皇太后よりもさらに権力をもったわけだが
院=太上天皇で、女院はそれに準ずる女性だから、 どう足掻いても子供の一人も産んでいない中宮よりも国母が格下なわけがない。
687 :
日本@名無史さん :2008/12/29(月) 22:21:25
>>686 男子2人を産んでもなお謙遜の心が強かったという彰子とは大違いだ
反道長ともいえる実資すら感嘆させたのだから
実資はフェイク。
689 :
日本@名無史さん :2008/12/30(火) 10:24:24
>>684 無知というより真性のキチガイだから始末に困る>なまみこ
たぶん
>>684 の親切で分かりやすい説明さえ読めないし
理解もできないだろうと思う
彰子はソツなく真面目すぎて面白みがない感じだが、 初めて懐妊した時、早く両親に言うよう一条天皇からせかされながら、 恥ずかしがってなかなか言い出せず、 結局天皇が自ら道長に妊娠を伝えたというエピが何か可愛くて好きだ。 第二皇子を懐妊した時には、 天皇が彰子と敦成親王の退出をなかなか許さず、退出したあと、天皇が 寂しがって数日ふさぎこんでしまったというエピも何やらほのぼのして好きだ。 波乱万丈で情熱的だった定子との関係に対し、 彰子には落ち着いた家庭的な夫というイメージがある。 いずれにせよ君主としても男としても、息子としても父としても、 柔軟である意味現実的でバランスのとれた優れた人だったと思う。
691 :
日本@名無史さん :2009/01/01(木) 10:25:38
道長の横暴で得られた平和なわけだが 彰子は真面目でもないし頭も良くないと思う。
コピペだけど、 904 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/12/12(金) 13:27 彰子の賢后と言われた具体例。 1013年、道長が彰子に一種物の宴会を催そうと発案した時、 彰子は「夫の一条天皇が亡くなったばかりで身を慎むべきであり、 また行事続きでは人々の負担が重くなります」ときっぱりと断り、 道長の意を受けた弟頼通が何度も説得して許さなかった。 この中止に至る経緯を聞いた藤原実資は「賢后というべきだな」と感嘆した。 他にも、一条天皇女御だった元子が藤原頼定と密通して堀川第より追い出され、 さらに父の顕光は堀川第の相続を元子にさせないと言い切った時、 困った元子が彰子に相談し、彰子の口添えで堀川第は元子のものとなった。 継子である敦康親王擁護のことと言い、上記に上げたことと言い、 彰子はその地位に奢ることなく、人への気配りが出来る女性だったってわけ。 彰子の真面目さと賢さ、人への気配りがよく分かる。 ちなみに藤原実資はアンチ道長で日記『小右記』はとにかく道長に批判的。 教養はあっても立ち回りが下手な定子にはこんなこと出来ないよね〜
693 :
日本@名無史さん :2009/01/01(木) 18:29:15
定子様は若くして亡くなったからね。 生きてたら賢后だったろう・・・
彰子も上の一種物の宴会のエピの時は若かった訳だが… 若くても賢い人は賢いしいくつになっても駄目な人は駄目なんじゃ
定子の享年は25歳だけど、
>>692 の1013年に彰子は26歳。
定子と一つ違いのこの時、彰子は「賢后」と実資から賞賛された。
20代の定子は何一つ功績を残していない。
女院よりも自分が格上と思い上がった母親を窘めもしなかったことといい、
罪人となった兄伊周を庇って夫一条天皇の怒りを買ったことといい、
詮子や一条天皇の感情に気付かない、人の心の機微に鈍い女性だと分かる。
賢后の素質なんてないじゃん。
定子は俗に言う「お勉強は良く出来るけど馬鹿」の典型だろ。
696 :
日本@名無史さん :2009/01/02(金) 00:16:08
仮に彰子の功績が底上げされたものだったとしても、 定子のような馬鹿な行動は取っていない。 それに定子だって父の道隆存命中は権力者の娘だろ。 押しも押されぬ権力者の娘だから中宮になれたんだろうが。
何度も言われてるけど、彰子を賢后と書いてるのが他でもない実資だからね。 対する定子は…皇太后の前で平気で略装したり(しかも母娘で)、 帝の命に逆らって犯罪者である兄を何度も匿ったり、 尼になったのにこそこそと内裏に戻って不義の子を産んだり、 当時の人達にも驕り高ぶったDQNとして認識されてたよ。
そうそう、実資は公然とアンチ道長で事実道長を批判しまくっていたし、 彰子を賢后と書いた後でも道長への批判を止めていない。 道長という権力者に阿って、その娘彰子を賢后と言ったのではないことは明らか。
>>696 分かりやすく言うなら、積善寺供養で中関白一家がどれだけ馬鹿な真似をしたかというとだね
宮中晩餐会に「アタクシ后の母ですから」と、普段着でくるような馬鹿さ加減だったんだよ。
道隆はそれを恥ともせず、定子にも「お母さんと同じように普段着に着替えなさい」とさせたわけだ。
定子は夫・一条の生母に恥をかかせて平気な顔してたわけだが、詮子は怒りをあらわには
せず、思わせぶりな和歌を送っただけだった。
あげく、一条に愛されてるから兄貴の手を握って待ってれば、一条が許してくれるだろうとか、
思い上がりもほどがあるというか。こうして書いてみると、本当に馬鹿だなとおもうよ>道隆の子女
普段の浅はかな行いからして、中関白家が後年おちぶれたのは自業自得だね。
701 :
日本@名無史さん :2009/01/02(金) 06:47:53
>>700 定子の伊周に対するかばい方は常識の域を脱しているよ
過去に朝廷によって流されたものが勅命によらずに都入りして
ゆるされるはずもない
定子はにもかかわらず伊周を自邸にかくまっていた
通常なら定子も処分されて仕方ないものの道長はこのとき全く動いてない
関白道隆の長女、摂政兼家の嫡孫として成長した定子は
おそらく父の没まで思い通りにならないことは一つもなく
誰もが定子を腫れ物に触るようにあがめてきたんだろうね
それは年下の夫一条天皇も同じこと。
天皇までが権力者の娘かつ自分より年上の正妻定子のいうがままに仕えるものだから
自分がこの世で一番偉いとでも思い込んじゃったんじゃないかな。
自分の行動がどれだけ自分たち一族の不利益となるかも考えずに行動する定子には、
蝶よ花よと誰もが定子をちやほやした全盛期の気分が最後まで抜けきらなかったんだろうね。
703 :
日本@名無史さん :2009/01/02(金) 20:29:56
>>701 父親も死んで鏡台2人がタイーホだからね〜無理に入っていったつーのもどうかと思うけど。
兄弟のタイーホは当人達の自業自得だけどな。 さらに伊周を庇って一条天皇を怒らせたのも定子の自業自得。 驕り高ぶった道隆一家&高階一族の末路に相応しいと言えば相応しいけど。
705 :
日本@名無史さん :2009/01/02(金) 21:15:25
無理に入った? 再三の警告を無視した定子の自業自得 罪人を庇うような女にはそれなりの対応がなされて当然 検非違使ひいては一条天皇からも 后にふさわしい扱いをする価値もないとみなされたんだろ
検非違使が無理に入ったのって、一条天皇が許可を出したからなんだよね。 道長ではなくて一条天皇が罪人を庇う中宮に遠慮するな、と。
確か、律令法にも兵士を20名以上動員する際には天皇の勅命が必要だった筈だから検非違使も同様では?
708 :
日本@名無史さん :2009/01/02(金) 23:33:49
道長が命令したんだよ
この事件だが、アンチ道長の実資の「小右記」によると、 捜査は一条天皇の意向が優先され、内覧の道長へは事後報告で決定が後追いしていたという。 ある意味、道長は内覧でありながら蔑ろにされていた状態であり、それだけ天皇が意欲的だった。 一条天皇は罪人を庇う定子を守る気がこれっぽちもなかったから、宣旨を降した。
>>705 自分が間に入れば帝は許してくれるとか、この期に及んで驕りがあったんだろうね。
つくづく傲慢でKYで頭の悪い女だと思う。
内裏に戻ったのだって一条の命令ではないし、
愛する后が聞いて笑える。
俺は天皇の「熱さ」を道長も定子も読み違えたと思う。 道長としても伊周の政治的失脚は望んでも、逆臣として処刑されるシナリオに展開すれば自己を含めた九条流全体がただじゃ済まされない。 ところが太上天皇に矢を射掛け、皇太后を呪ったということで天皇がキレて伊周抹殺を図ろうとした。 そこから、大胆な捕物帳になったと。
定子だけじゃなくて道長も一条天皇がここまでやるとは思ってなかっただろうね。 と言うか置き去りにされた道長こそ( ゚Д゚)ポカーンだったかと。
713 :
日本@名無史さん :2009/01/03(土) 13:09:02
つーか、矢を放った事件より東三条院呪詛の罪のほうだろ。 これって、道長の策略だと思うけど。
正確には花山法皇を射奉る不敬、東三条院呪詛、大元帥法を私に行ったことの三カ条だな。 東三条院呪詛が道長の策略だろうと、一条天皇はとにかく伊周許すまじ!だったから・・・ 長徳の変は一条天皇がとにかく乗り気。何が何でも伊周を潰したかったのは道長よりも一条天皇。
>>711 平将門や藤原純友の晒し首の後、保元の乱になるまで死刑は無いよ…。
穢れを疎む時代だったからね。
ただ上一行は同意。
一条天皇は賢帝でありたいという意識が非常に高い天皇だと思う。
これが花山天皇だったら、愛する后への情を優先してgdgd展開だったろうな。
716 :
日本@名無史さん :2009/01/03(土) 14:03:10
道隆病中の伊周の内覧宣旨の件についても中関白家と高階家が凄く強引で 実資なんて激怒してるわな。 道兼が関白に就任した時には、 道兼とそれほど仲の良くない詮子が道長の時のように動いた形跡がなく、 一条帝の意こそが強かったと考えるべきで、 それだけ伊周を一の人にはしたくなかったのだろう。 16歳となり、そろそろ自我の出始めた天皇にとって、 同世代の伊周のむちゃな強引さは、そうとうウザく、 逆鱗に触れるものだったのだろう。 后妃への愛情云々とは全く別次元の話で、天皇としての誇りが傷ついたのでは。 そして下すべき判断を当然のように下しただけ。
717 :
日本@名無史さん :2009/01/03(土) 17:42:46
>>713 史料を読めばわかることなんだけど、
長徳2年正月、一条天皇がまず徹底調査を命じたのは花山法皇に矢を射た事件。
かつての天皇である花山上皇に矢を射かけた輩を放置すれば
天皇自身の権威が失墜しかねず、これに毅然とした態度をとった一条天皇の行為により、それを免れた。
詮子呪詛の件は左遷間近の4月になって初めて出てきたもの。
詮子呪詛が明るみに出る以前にすでに、
伊周は花山法皇を射た事件により一条天皇から陣座から外されて事実上の蟄居状態にあり、
さらには検非違使別当実資による伊周邸探索も行われ、あとは処分を待つだけというくらいに
伊周は追い詰められていた。
伊周失脚の最大の原因はやはり花山法皇に矢を射たことであって、
詮子呪詛は寺が申し出たことによる後追いだよ。
伊周は詮子の歎願により都に戻されているのでこれが最大の原因だと思うかもしれないが、
その後も伊周は天皇家に弓引くものとして朝堂復帰を認められなかった。
718 :
日本@名無史さん :2009/01/03(土) 22:09:01
定子様は大変だったのね
大変なのは自業自得だけどね。 これだけ一条天皇を怒らせているって言うのに、 伊周がこっそり都に戻ってきたら、これまた匿ったりして・・・ 更に一条天皇を怒らせるって分からなかったのかね。 ま、分からなかったから、やったんだろうけど。 定子は学習能力がないつーか・・・
720 :
日本@名無史さん :2009/01/04(日) 12:58:37
定子様の責任じゃないよ。 帝も、その後定子様を愛しまくって さらに子供が出来たし。
そうだね、学習能力のない馬鹿女なのは定子の責任じゃないね。 自分がどれだけ馬鹿か自覚がないんだから、直しようがないしね! 詮子が言わなきゃ定子は内裏に戻れなかったけどな〜〜 一条天皇は自分から定子を呼び戻してないよ。
想像を広げると、長徳の変での定子と兄弟のぶざまを目の当たりにして 彰子や頼道は一歩引くことが良いと覚えたのかもね。 学や才があってもひけらかせば反感を買うし、天皇の寵愛があっても それに依存していれば、天皇も男として誇を傷つけられる。 伊周達が失脚後、道長がトップに躍り出たし二年つづけて皇子を もうけたのだから、彰子が横暴になってもおかしくなかった。 そこを地味に、おとなしい態度でいたのは自制心もあったのかな。 実資を骨抜きにした実績は、控えめにしつつ周囲をうまく自分に つなぎとめていったいい例だと思う。 それを策士とか陰険とも見えるだろうが、貴族社会なんぞ腹の探りあい で、その環境ののなかで人心をつかむ方法としては成功したんだな。 頼道はかなりお人よしというか、のんびりした性格だったみたいだが。
頼通は実資のお気に入りではなかったか ウホッ的な意味で まぁ若い頃は超ボンボンのおっとり、品みたいのがあったんだろう
>>715 さすがの花山天皇もそれはなかったと思うよ。
たとえば、花山天皇の御世、円融上皇に矢を射かけるものがいたとして、
それが祇子の兄弟だったりしたら、花山天皇は無罪釈放しただろうか?
それはないだろうね。
花山天皇は祇子のために出家した、だけど例えば祇子を愛するあまり
父の為光を関白にしちゃうとか、そんな無茶苦茶をしていない。
逆にいえば、内大臣伊周・中納言隆家の一件はそれほどに横暴かつ稀に見る事件であり、
罪を免れえるものではなかった。
>>722 上皇でもおかまいなしに弓を引く伊周・隆家兄弟と、
この兄弟の無罪釈放は当然だとして天皇に逆らった定子の行動は全く例を見ない愚かな行動で、
このときまだ幼かった彰子と頼通が徳に学ぶべき点はなかったと思うよ
普通に育てられればこの中関白一家の兄弟姉妹のようになることはまずないから
>>720 定子を一条天皇の後宮に呼び戻したのは、東三条院だということを忘れずにおこう。
このころすでに東宮(三条天皇)には多くの男子があったにもかかわらず、
一条天皇には未だ男子がなかった。
定子が去った一条天皇の後宮には、元子、義子らが入内したが、すぐには懐妊しなかった。
一条天皇は東三条院の唯一の子にして、円融院の一粒種の子。
一条天皇の子孫で皇統をつないでほしいという東三条院の願いはこのままでは絶えてしまいかねなかった。
そこで望みをつないだのが蟄居中の定子だった。
定子は996年に脩子内親王を産んでおり(父親が一条天皇である可能性は低いが)、
脩子の父が誰だろうが一条天皇に子種があるならば一番子を産んでくれそうな妃だったのだろう。
東三条院は一条天皇の反対を押し切ってまで伊周・隆家を都に戻し、
続いて定子を一条天皇の後宮に戻している。
元子の懐妊騒ぎは定子が職御曹司にまで戻った後のこと。
元子や義子に子が誕生していたり、彰子がもう少し年上で入内可能であったならば、
定子が後宮に戻れた可能性は限りなく低い。
詮子が定子を無理に戻したのは、病気の原因が定子の生霊だと思い込んでたからでしょ。 源氏物語でも、朱雀が病になって須磨にいた光を呼び戻してる。
>>726 伊周・隆家が呼び戻されたのは詮子の病が癒えないことの特別な恩赦だとあり
これは史料で確認できる。
ただ定子が生霊となり詮子を苦しめているためというのは史料で確認できない。
伊周や隆家が都へ呼び戻された理由が詮子の病であることは確認できるのだが
定子が宮中へ戻されることに対しては詮子が脩子に会いがっていることしか触れられていない。
脩子は定子が宮中へ戻った後、実に誕生から一年後に初めて内親王宣下を受けて皇女としての扱いを受けており、
詮子が定子を宮中に戻した最大の理由はやはりこの「孫」に最大の関心があったためと推測できるから。
そもそも、左遷された伊周・隆家に比べ、都にとどまり、里でひっそり「蟄居」しているだけの定子が
詮子に祟るほど詮子を憎んでいるとは考えられなかったからでは?
最も、定子は短命であったがために死後はやはり祟ると考えられたのだろうね。
定子が没すると、詮子は定子の産所に媄子内親王のための乳母を送りつけ、
媄子内親王は直接定子の産所から詮子の女院御所に引き取られている。
つまり一条天皇は脩子内親王が生まれて一年、定子が内裏退出して二年近く、 定子を呼び戻そうとしてせずにずっと放置していたってことか。 更にその間に都にこっそり舞い戻った伊周を定子は匿ったりしていたのか。
やはり脩子は一条天皇の皇女じゃないんだろうね。 けど、そういう研究や説は未見だなあ。
730 :
日本@名無史さん :2009/01/04(日) 21:32:45
それだったら、栓子も円隔帝の種じゃない子供を生んでるんじゃ・・・
裏付けのない妙な説を流すなおまいら
そうだね、栓子も円隔帝の種じゃない子供を産んでいるんだろうね。 一条天皇とは全く無関係の円隔帝と栓子のことはどうでもいいけど。
733 :
日本@名無史さん :2009/01/04(日) 21:39:45
>>731 脩子内親王については裏付けと言うか根拠はあるよ。
定子の内裏退出〜出産月の妊娠期間がおかしい。
レスを遡ればその辺りは色々考察されている。
栓子とか言う人のことは知らないけどね。一条天皇とは縁も所縁のない人だし。
734 :
日本@名無史さん :2009/01/04(日) 21:56:09
>>730 >>円隔帝 栓子
どこをどうしたら、こんな字を変換→確定できるんだろう。
なまみこ婆、どこの国の生き物なんだ?
円確定 宣氏 ここが限界だな。
もしかして名前が読めない? だから変換できないんじゃない
円遊亭とでも言えばいいのかね
738 :
日本@名無史さん :2009/01/05(月) 16:12:48
>>733 初代皇后が自力で出産日を調整した国だぞ!超賢后定子様なら可能だ!
きっと、大変な時期だったからね、火事とかで家も失ったし、それで遅れたんだよ。
739 :
日本@名無史さん :2009/01/05(月) 16:19:33
女院栓子は祟りが実家(弟の家)に及ばないように気を配ったんだろう
>>738 はて?
初代皇后は初代天皇神武天皇の妻である媛蹈鞴五十鈴媛命だし、
大宝律令制定後に皇后が明文されての初の皇后は藤原光明子です。
この二人が尻苦で出産日を調整したという話は聞いたことがありません。
普通に考えて人為的に遅らせれば中の胎児が危険です、有り得ません。
その辺りはレスを遡れば書いてありますが? 読み返していないのですか?
>>739 道長には栓子なんて姉はいませんが?
そして歴代女院に栓子と言う名の女性も存在しません。
どなたかと間違えていませんか?
741 :
日本@名無史さん :2009/01/05(月) 17:50:00
>>738 定子が賢后なんて初耳だ。どの史料に書いてあるの?
彰子は賢后だと実資が日記に記しているけど。
743 :
日本@名無史さん :2009/01/05(月) 19:27:42
栓子だけではなく、研子とか躾子とか円隔とかもありますけど
744 :
日本@名無史さん :2009/01/06(火) 08:22:55
なまみこ婆の言う一条天皇と定子は、日本ではない国に存在した一条天皇と定子なのでしょう。 なまみこ婆曰く、 一条天皇は円隔帝と栓子の間に産まれた天皇のようですし、 定子の子供は修子・敦康・躾子と史実とは違いますし、 定子自身も超賢后のようです。 全くの別人なのだからスレ違いですね。
745 :
日本@名無史さん :2009/01/06(火) 13:15:30
定子皇后は、一条天皇の心を一番捉えていた恋人なんだよ
妻としては失格だったからね。 何しろ一条天皇の顔に泥を塗ってばかり。
747 :
日本@名無史さん :2009/01/06(火) 19:11:15
それでも帝は定子様を最後まで愛し続けたんだから〜
最後まで? 長徳の変では伊周共々見捨てていたじゃないか。 詮子が懇願しなきゃ呼び戻そうともしなかったじゃないか。
749 :
日本@名無史さん :2009/01/06(火) 19:39:38
定子は皇后としても国母としても全く失格だった 一条天皇や詮子にとってはただの借腹だったのだろう 定子のもとで育っていれば敦康も脩子も落ちぶれて 誰にも見返られない存在となることは目に見えていた ある意味定子が死去したことによって 皇子女たちの未来は開けたのだろうね 定子が一条天皇の愛情を受けていたかどうかなんて図りようがない ただの政略結婚だったしね
750 :
日本@名無史さん :2009/01/06(火) 19:43:35
>>731 詮子は一条天皇を孕んだ頃、円融天皇のいる内裏にいた。
梅壺女御と呼ばれていた詮子が
華やかに妊娠を発表してその後里帰りする様子が一次史料に残っている。
一方、定子は?
脩子を孕んだ頃は里にあり、兄伊周の左遷を覆そうと
伊周と御簾の中で手を握り合ってた頃なんですけど。
(逆算すると長徳2年4月下旬ごろの懐妊)
定子が三月に里下がりしたのって身籠もったからじゃなかったっけ? 流石に一月やそこらで懐妊が分かるはずないから、 一月辺りに種が仕込まれて、三月に里下がりだとすれば自然。 一月に仕込まれて十二ヶ月後に出産だと明らかにあやしい。この年は閏七月で一月多いしね。 長徳の変で流産or想像妊娠発覚だったかで、慌てて種を仕込んで十二月出産って流れじゃないのかな。
>>751 ある意味、確信犯的だったとか。
1月に兄弟が花山法皇を射たことが発覚、
定子が関白になることを熱望していた兄伊周が陣座を外され、
追い詰められた定子が、一条天皇が兄弟を見放すことがないよう、
一条天皇を喜ばせようと実際は懐妊してないが「懐妊した」と口を滑らせた。
この時代だから、後で流産したとでも発表すればいいと思って。
しかし、一条天皇はそれでも定子をすくってはくれず、
定子も里で兄弟とともにこもりきり。憔悴した定子は里で兄と密通。
思いがけず脩子を妊娠してしまったので
そのまま流産話はなしで12月に安産した、と。
3月上旬に懐妊で退出、3月中旬以降に流産で
4月下旬に再度懐妊はかなり厳しいから。
>>753 なまみこ婆が立てたスレ?
歴史上の人物に「様」って狂ってるな。
多分、立てたのはなまみこ婆じゃないと思う。 様付けは嫌がらせだろ、どう見てもw いいじゃん、そっちに行って貰えれば。 誰にも邪魔されず思う存分語れるんだし、良いことずくめ。
756 :
日本@名無史さん :2009/01/07(水) 03:50:49
詮子は妊娠した時期に誰かさんと違って里帰りしていません。 逆算しても内裏にいたことは確かです。 お馬鹿定子なんかと一緒にするなよ。
758 :
日本@名無史さん :2009/01/07(水) 19:28:52
>>755 なまみこ婆が出入りするスレが増えるだけだよ。
従来通り、なまみこ婆は今日もこのスレに出入りしてるじゃん。
一日に4つも5つもかけもちでスレに出入りすることなど当たり前の
暇人主婦婆なんだから、無駄にスレ立てすれば
そこらじゅうになまみこ婆が書き込みするだけだ。
760 :
日本@名無史さん :2009/01/07(水) 20:01:00
>>756 >>758 今日もなまみこ婆は家事もせずに2ちゃんねる三昧だったのか。
詮子が一条天皇を懐妊したとき、道長はまだ満13歳。
欲求不満のなまみこ婆ならば満13歳の男にでも欲情して襲ってそうだが
発育の悪い当時満13歳の男が女性を懐妊させることは稀だったろうね。
そもそも、一条天皇の誕生日から逆算して懐妊時は詮子は内裏にいたことで間違いない。
しかも、道長はこのとき元服前で官位を受けておらず、内裏に出入りしていたとは思えないね。
定子が脩子を懐妊したときは、明かに里にいたんだね。
兄伊周と御簾の中で一日中手を握り合ってた。
しかもこのとき一条天皇は満15歳の若さ。
月数が合わないから一条の子でないことは確実だし、
当時23歳ですでに子供もいた伊周の子だと考えたほうが道理だよね。
伊周と定子は母親同じだったっけ?
762 :
日本@名無史さん :2009/01/08(木) 13:11:45
そうだよ。 定子様は総毛立つほど美しかった・・
763 :
日本@名無史さん :2009/01/09(金) 00:16:10
yes!
764 :
日本@名無史さん :2009/01/09(金) 13:21:49
まぁ平安美女は、現代人から見るとデブスなんだが・・・ つまり定子は現代人が見ると鳥肌立つほどのデブスなんだな。
765 :
日本@名無史さん :2009/01/09(金) 20:00:12
なまみこ婆はいい加減、自分しかいない専用隔離スレ
>>753 へ行っとけよ。
ここもなまみこ婆が毎日書き込むせいで随分過疎ったな。
766 :
日本@名無史さん :2009/01/10(土) 10:21:33
定子様は一条天皇の心を最後までつかんでいた。
767 :
日本@名無史さん :2009/01/10(土) 10:32:45
はいw >748 :日本@名無史さん:2009/01/06(火) 19:19:44 >最後まで? >長徳の変では伊周共々見捨てていたじゃないか。 >詮子が懇願しなきゃ呼び戻そうともしなかったじゃないか 心を掴んでいたくせに、助けて貰えなかったんだw
768 :
日本@名無史さん :2009/01/10(土) 23:45:52
辞世の句は定子様へのものだった。 ここで知った知識をテーマに 卒論を書きました。 教授は、新しい説だと高評価してくれています。
卒論に限らず論文には史料が必要だよ? このスレに書かれていたことだけで書いた論文なんて、 普通に突き返されるだけだと思うけど。卒業出来ねぇよ! あ、脳内大学の、脳内教授の、なんちゃって卒論ですか。 そりゃ史料要らないねw
史学科じゃなくて国文学科なんじゃないの? それも、えらく程度の低い短大辺りの。 …それにしたって、参考文献には挙げられないかw
国文の論文でも史料は勧められると思うけれど、大学によりけりなんだろうね。 史学部の卒論で新説を書いたらアウトだと私も思うw
それ以前に新しい説でもないよね。 誰とは言わないけど、そう言う説を書いている研究家とか小説家とかいるし。 勿論その人達はちゃんと史料に当たって自説を書いているんだけどさ。 どれだけ無知な教授なんだろうねw まさか参考文献になまみこ物語をあげていたりしてw
773 :
日本@名無史さん :2009/01/11(日) 15:02:43
私は修論に「なまみこ物語」引用した国立大卒ですが何か?
ああ、なるほど。 実在した定子と一条天皇についての論文ではなくて、小説について論じただけか。 だよな、歴史を論じるのに小説を使う馬鹿なんていないし。
775 :
日本@名無史さん :2009/01/11(日) 17:41:24
その研究の第一人者となる場合は、そういったものを引用することもあります。
史学の教授が相手なら,例え話であっても小説名を出しただけで 生徒の出来の程度を教授から見抜かれてbgrされる事実を知らないとは。 そろそろ脳内設定で語るのは止めたほうが良いのでは? この板には史学部の現役生や史学部卒がゴロゴロ転がっているから ROM住人からも非現実的な設定を見抜かれているよ?
いくらネットでも、嘘をつき通すには分が悪いよ。
>>768 もしも昨年末に卒論を提出したばかりなら、まだ評価を学生に伝えられる時期ではないよ。
卒論を書けばOKではなく、もう一段階手続きしないとならないからね。
…と現在、史学部がある大学で働いている私が書いてみるw
>>775 自分で自分のことを第一人者と言えるその面の皮の厚さがすげぇ!!
小説を研究に引用されても作者が困るだけだよ。
作者は“作り話”として書いたんだから、それをさも事実のように言われてもねぇ・・・
円地文子もこんなのに粘着されてお気の毒に。
779 :
日本@名無史さん :2009/01/11(日) 18:19:04
てか、日本語もまともに使えないじゃないか、なまみこは。 たった一行のレスでさえ妙にてにをはが違っていて、なんだか気味が悪いし。 (栓子あたりは問題にする以前のハナシ) なまみこ物語自体読んでないんじゃないか? ネットに転がってる別の定子厨が書いた感想文見ただけかもね。
>>777 前のほうのスレを読んで御覧。
なまみこ婆は女子大生がまだ珍しかったころに
某女子大を卒業した還暦すぎたばばあだよ。
まあ、女子大だといったり国立大修士卒だといったり、
夫は公立病院に勤務する医師だといったり、
口から出まかせばっかりの嘘つきだから大学を出ているとも思わないが。
>>780 下1行強く同意
嘘を更に嘘で上塗りしようと無駄なことをするから、
「ありえねーよwww」と書いてみたかったの。
多分、「定子様をテーマに専門的な勉強をした人」が憧れなんだろうね。
私には女子大のレベルは分からないけれど、国立大卒どころか
私立四大卒でも無いだろうなと推測している。
まぁ還暦過ぎても本気で学ぶ気がある人ならば、史学部がある
通信大に入学して、卒業出来るまで頑張るだろうね。
史学部とか言ってる人も大卒ではないよね。 歴史学を修めた人の学位は文学学士だよ。
783 :
日本@名無史さん :2009/01/12(月) 14:30:58
別になまみこ婆の学歴なんかどうでも良いけどね。 スレに関係ないし。
>>782 そうなの?大学によると思うけど。
正確には○○学部史学専攻でも、内部の人間なら史学部と平気で言ってるし
学内でならそれが通称として通っている。
一々文学学士です♪なんて言わないけど、それも大学によるんだろうね。
>>783 奈良女子にも京都女子にも残念ながら
「なまみこ物語」を参考文献に挙げてよいという教授はいない。
残念だったな、なまみこ婆本人。
いやいや、奈良女子・京都女子に限らず、 史料ではなく創作小説の「なまみこ物語」を参考文献に挙げて OKを出すような大学教授はいないから。 「なまみこ物語」は作者本人が作り物の小説と言っているし。
>>787 そりゃそうだ、ただなまみこ婆が勝手に名前を挙げた大学だったからな。
なまみこ婆は関西在住なんだろうか。
関西では名門だとされてる女子大だから名前を挙げたんだろう。
奈良女子の文学部は日本史、東洋史、西洋史全般を学ばねばならず、
(3回生以降初めて専攻に分かれる)
京都女子大も仏教系だけあってあるのは東洋史学科なんだよな
(こちらも3回生以降日本史と東洋史に専攻が分かれる)
なまみこ婆の狭い知識を見ていると日本史はおろか
東洋史の知識があるとは到底思えないということだよ
790 :
日本@名無史さん :2009/01/13(火) 11:00:17
>>786 全学連時代より前の人みたいだから、学生運動の喧騒にまぎれてOKだったとかああるよ。
あのさ、学生運動時代にはまだ2chないんだが? 768 :日本@名無史さん:2009/01/10(土) 23:45:52 辞世の句は定子様へのものだった。 ここで知った知識をテーマに 卒論を書きました。 教授は、新しい説だと高評価してくれています。 ってのは嘘そのもの。 ついでに安保理の学生運動の頃でさえ「なまみこ物語」はまだ出版されていない。 未来に出版された小説で論文を書くなんて凄いねぇw
792 :
日本@名無史さん :2009/01/13(火) 20:24:06
>>790 はいはいw
大学というところに所属したことのない
なまみこ婆のお馬鹿な妄想は
もういい加減ここまでね。
自演ごくろうさん。
793 :
日本@名無史さん :2009/01/14(水) 19:29:47
学部の卒論なんて作文レベルジャン 文系なんて最たるモンダロ
違う
どこの底辺大学の話なのかな?
796 :
日本@名無史さん :2009/01/15(木) 13:04:26
先駆者となるものは、様々なものからの批判を受けます。 私は研究者になるはずだったのですが、卒業後医師だった 夫と結婚しました。そのため家庭に入り今に至ります。
で、
>>795 の卒論時には「なまみこ物語」は出版されていないし、
当然2chもなかった。このスレもない。
どうやって論文を書いたの?
未来の〜なんてデムパなこと言ってりゃそりゃ研究者にはなれんわな。
>>790 キチガイなまみこ婆がいきなり全学連なんて単語出してきたのは、
このあいだテレビでドラマ仕立ての特番やってたからか。
婆がまた新しい言葉を覚えたよ(笑)意味は理解できないくせに。
799 :
日本@名無史さん :2009/01/15(木) 19:41:25
わたくしは、関西なのでそんなドラマ観ておりません。 NHK主義ですから。
別に
>>799 がどこに住んで何を見てようとどうでも良いよ。
それが一条天皇やその周辺人物となんの関係があるんだ?
自分語りがしたけりゃチラシの裏にでも書けよ。
ここは「なまみこ婆」専用スレとして立てられたものだからw
802 :
日本@名無史さん :2009/01/15(木) 21:08:09
定子様は素晴らしいお后様でした。
一条天皇と会えない時期にほかの男の子供を産んじゃったり、 朝命に逆らって兄を何度も自分の屋敷に匿ったり、 尼になった身で恥をさらしてでも参内したりと たしかに定子は自由奔放、ある意味素晴らしい人生をおくった后かもな。
804 :
日本@名無史さん :2009/01/16(金) 14:28:40
>>803 お前、彰子マンセーだな帝の愛情は 元子>>>>彰子 だったかもしれんぞw
一条天皇は元子に荘園を与えるほど寵愛していたからね。 里に籠もった後も何度も戻っておいでって一条天皇自ら誘っているし。
一夫多妻で夫婦や結婚の定義が現代とまるでちがう時代なうえ 皇族貴族階級という特殊な環境を語るのに、一番愛されたなんて たいした意味ないんじゃないか? 恋愛至上主義のスイーツ(笑)でもあるまいに
>>804 彰子マンセーとか定子マンセーとか馬鹿かw
ただ一つ言えるのは、彰子の皇子が即位したことで、
道長ー彰子が政権に当たるのが最も良い選択だったということ。
一条天皇が歿すると一年もたたないうちに源頼定にはまってしまった元子は
天皇の没後は再婚可能な女御だったから良かったようなものの、
后に立てられてたりすると廃后ものの密通事件だものね。
808 :
日本@名無史さん :2009/01/16(金) 23:01:18
元子も中宮になってたら密通とかしてないよ。
仕切り直して行きましょう そういえば、一条亡きあと暫くして、一条の遺産を 彰子が他の女御達にお分けになって、女御達は中宮の気遣いに 感じ入ったエピソード 予め一条に彰子は相談されて公平に分配したんでしょうね それでも元子の再婚に賛成したり、元子も彰子に相談事を していたり、なかなか女友達な感じで人間的なお妃達を 垣間見る感じです それに紫式部達が義子の女房にいたずらするのに、扇を決めて居るとこに なにも知らない彰子がきて「女御様に恥ずかしく無いものを選んでね」 と言って過ぎ去っていく 式部達に意地悪な企みも知らされてなくて、知ったあとどうしたんでしょうね?
>>807 位取りの考え方自体は日本で生まれたものだよ
表記が簡単な算用数字はインドから伝わったものだが当初0という記号は無かった
いっぽう近代まで数の概念が無かったのが朝鮮人
朝鮮人の身近にいる人が最も困っている事といえば金と時間に対するルーズさが上げられるが
これは彼らが長い間数を数える文化を持たなかった事による所が大きい
811 :
日本@名無史さん :2009/01/18(日) 09:09:53
彰子は一条天皇と同じ蓮の葉に乗りたかったから元子の再婚に協力したんでしょ。残念!もう定子様と一緒にのってました。
812 :
日本@名無史さん :2009/01/18(日) 10:54:26
残念!密通してガキまで生んだ定子が蓮の上なわけがない
813 :
日本@名無史さん :2009/01/18(日) 11:18:44
>>811 彰子は一条天皇が元子に配分した遺産を
父とは言え顕光が勝手に取り上げて妹の延子に与えるというのは
いけないと元子の訴えを認めただけ。
彰子が頼定と元子の橋渡しをしたわけではなし、
一条天皇没後の女御たちの人生など本人たちの自由であって
彰子が口出しした事実もない。
事実、母繁子の助言で藤原通任と再婚した尊子、
自分の意思で源頼定に走った元子、
一条天皇没後は再婚しなかった義子と女御たちの人生は様々。
809も彰子が元子の再婚に賛成したというのはおかしいね。
遺産の配分については筋を通した彰子だが、
一条天皇没後の女御たちの恋愛に口出ししたことは一度もないよ。
814 :
日本@名無史さん :2009/01/18(日) 12:07:26
>>811 彰子は何で義子の再婚には協力しなかったの?
彰子が女御たちの再婚に口出しできるなら
一条天皇の女御たちは一人残らず再婚しただろうに。
再婚しなかった義子も一緒に蓮の上なわけ(笑?
間違えてたら訂正お願い 今手元に資料無いんで 元子が顕光ともめたのは堀川第の相続ではなかった? それはもともと粟田殿が顕光に相続させたので 顕光が元子のスキャンダルを嫌って、妹の延子に相続させたのを 元子が怒って大宮(彰子)に相談した と記憶 確か一条の相続分ではなかったと思うんだけど だれか分かる人お願いします
>>815 一次資料が手元に皆無なので、その点はごめん。
角田氏の承香殿女御によると、
堀川第が焼失→一条が命じて再建させ元子の所有にした(土地も元子名義)
→元子と頼定の関係に怒った顕光が権利書を取り上げる→
所有を主張する元子が彰子に相談→彰子「土地建物は元子のもの」と発言
という感じになっている。ただ註釈を見ると、根拠は栄華物語だそうなので。
817 :
日本@名無史さん :2009/01/18(日) 20:54:26
>>812 不敬罪。定子様と帝は同じ蓮の葉で(はあと)
それを言うなら彰子を悪く言うのも不敬罪だろ。 定子と違って彰子は今上帝まで続く皇統に繋がる皇后なんだから。
>>816 ありがとう、すっきりしました
当時は火事が多かったから、維持も大変だったろうね
思うに一条が元子名義にしたのも愚鈍な顕光はあてには出来ないので
早いうちに所有を元子に決めさせたという愛情かもしれませんね
なにせ堀川屋敷は広大だったようだし
この時代高貴な姫君でも後見となる親達が亡くなると零落して
みじめな末路で、他にも同じような争いで高貴な姫が共も連れずに
道長の所に訴えてきた事もあったみたいで
所領争いで、特に女所帯になると付け込まれてしまう事も多かったようですね
優雅に見える平安人も結構ガメツイというか感心しますね
でも直情的な顕光の血を元子はちゃんと引いてて、自分的には人間的で
とても好きな元子のエピです
>>816 角田氏の本は読んだことがないのだが、原典の栄華物語には
一条天皇が堀河第の所有者を元子に決めたという記述はない。
もともと堀河第は藤原基経が所有していたものを顕光の父関白兼通が大規模に改築し、
円融天皇の里内裏や中宮媓子の中宮御所にもなった広大なもの。
兼通から長男の顕光が受け継ぎ、一条天皇の女御元子の里になっていたほか、
元子の妹の延子はここに敦明親王(のちの小一条院)を婿として迎え、
敦明親王は延子に入り婿して住んでいたことでも知られる。
元子の密通を知った顕光は激怒して堀河第を妹の延子のみに相続させるとしたが、
彰子の計らいでそのうち一条天皇が元子のために修理を行った一角については
元子に相続権を認めたというもの。
そもそも顕光が所有する堀河第の所有権を帝とはいえ一条天皇が勝手に取り上げて
元子の所有にするということはできない。
父母の所有する土地と建物はその娘たちが相続することになっていたために、
元子は自分の取り分がなくすべて妹の延子の相続となるのはおかしいと訴えたにすぎず、
現に、彰子の裁量が降りた後も、父の顕光は堀河第に住み、
妹の延子も婿の敦明親王や2人の間に生まれた王子女とともに堀河第に住んでおり、
堀河第の所有権そのものが元子に渡ったわけではない。
また、元子が認められたのは堀河第の相続権(妹の延子と分割相続)であったために
父顕光の在世中には当面顕光に所有権があるわけで、
父顕光に勘当を受けた元子は相続権のある堀河第に入ることができず
乳母の家に滞在していたとあり(栄華物語)、頼定との間に娘が生まれた後
ようやく父顕光の勘当が解けたため里の堀河第に帰ることができたとある。
821 :
日本@名無史さん :2009/01/21(水) 10:49:01
一条天皇が定子様を思い出して涙を流すところ・・・深い愛を感じる。
822 :
日本@名無史さん :2009/02/01(日) 22:18:59
生巫女婆は今年で1600歳だとか……
823 :
日本@名無史さん :2009/02/05(木) 15:42:31
感動した
824 :
日本@名無史さん :2009/02/15(日) 15:25:35
>>804 案外、帝の本命は弘徽殿女御(義子)だったかも
彰子の女房・紫式部が「源氏物語」で弘徽殿を悪く書いたのは嫉妬からか??
825 :
日本@名無史さん :2009/02/15(日) 15:49:55
>>824 紫式部は中宮方の女房達が弘徽殿女御方の女房達をからかっている様子が描かれているだけで
弘徽殿女御本人のことは何とも書いてないよ
(紫式部とは身分が違うわけだし)
義子は枕草子にも出てくるよね
このときも女房同士がやりあっている
定子、彰子と一条天皇の后は替わっているけれども
一番長く一条天皇の後宮にあったのは義子だもんね
826 :
日本@名無史さん :2009/02/15(日) 16:30:30
そのワリには義子が一度も懐妊しなかったのは不思議だ
827 :
日本@名無史さん :2009/02/15(日) 16:50:39
寵愛では元子>義子だったみたい(彰子は親の力があるから圏外)
828 :
日本@名無史さん :2009/02/15(日) 17:12:38
やはり元子のあの件は流産だったに違いない
829 :
日本@名無史さん :2009/02/15(日) 18:24:19
流産ではないらしい。その後内裏から消えたし。
830 :
日本@名無史さん :2009/02/15(日) 18:50:58
いずれにしても定子が一条帝の「最愛の妻」でないことだけは確か。
831 :
日本@名無史さん :2009/02/15(日) 20:13:13
>>824 源氏物語に出てくる藤壺は3人とも不幸。彰子は藤壺。
紫式部が源氏物語を書いたのではないという説もある。
根拠は紫式部日記の一言だし。
832 :
日本@名無史さん :2009/02/15(日) 20:43:45
>>831 藤壺という殿舎が格式高いからだよ。
現実に、藤壺の位置は帝の寝所がある清涼殿夜御殿に一番近く、
他の女御方の殿舎を渡らなくとも天皇の寝所へすぐに行ける。
藤壺を住まいとしていると言えば、帝の有力な女御ということが一目でわかるから。
史実では中宮彰子のほか、中宮威子も藤壺に入っている。
833 :
日本@名無史さん :2009/02/16(月) 09:30:36
>>832 すべて同意する。
だからこそ彰子や威子が藤壺だったのに物語とはいえ、藤壺を3人も不幸な人生を
歩んだ女性として描くことは紫式部にはできないと思う。(継子との関係も含む)
道長だってそんなことは決して許さない。
自分が言いたいのは「源氏物語」を紫式部が書いたとは思えないということ。
834 :
日本@名無史さん :2009/02/16(月) 11:55:14
源氏なんて反藤原氏で天皇家のスキャンダルも書いてる作品でしょ。 藤壺を理由に道長が許さないなら源氏自体が現代に残ってないよ。
835 :
日本@名無史さん :2009/02/16(月) 15:37:05
>>834 一行め そのとおりです。
二行め 実際に書き続けたのは権力を失った源氏たち。
836 :
日本@名無史さん :2009/02/17(火) 18:43:37
紫式部が物語を書いたはじめは宮仕えしてない時期。 宮中のことが余りわかってない主婦が書いたような部分もある。 うつほ物語は宮中を知る男性貴族だと思う。 超ファンタジーかと思いきや現実的でドロドロだったりするし。
837 :
日本@名無史さん :2009/02/19(木) 10:11:42
>>833 「源氏物語」は菅原孝標女が読んでおり、
このときまでに成立していたことが確実。
つまり、誰が描こうが摂関全盛期なんだよな。
しかも、受領の娘が「世間でもてはやされている源氏の物語」
と心待ちにする大ヒットを遂げたのは、
やはりヒットする流通経路があったからだろ。
それには紫式部が書き、中宮彰子のサロンで読まれていたことが
一番ありうる話。
どこぞの名も知れない源氏の娘が書いたところで、
いったい誰がその文学を世に広めるんだい?
ましてや、藤原氏が面白く思わないという君の主張の通りならば、
どこぞの娘が広めた源氏の物語は
「藤原氏の栄華を書かないと許さない」
という藤原道長によって握りつぶされ、世間に広まることなく終わっただろ。
838 :
日本@名無史さん :2009/02/19(木) 13:21:26
定子様と帝の純愛記録のいくつかは道長によって葬り去られてるよ
839 :
日本@名無史さん :2009/02/19(木) 14:14:25
>>838 道長が焚書坑儒してたら記録に残るだろ。
少なくとも失脚した中関白家の使用人清少納言による
枕草子なんて残るはずもない。
枕草子がなければ円地がなまみこ物語を書くこともなかっただろう。
840 :
日本@名無史さん :2009/02/19(木) 15:58:33
>>837 源氏物語は源氏が勝って藤原氏が負け続ける話。
彰子は藤壺で中宮だった。源氏物語の桐壷の妃、藤壺中宮は光源氏との間に
冷泉帝を産む。ここまで反藤原氏の物語を彰子に仕えた紫式部が書けるだろうか。
ただ更級日記のことはわからない。
源氏物語は源氏の男性たちが書きついでいったのではないか。
蜻蛉日記にしても本当に道綱の母が書いたのだろうか。現代でも赤裸々な
内容だと思うが。
841 :
日本@名無史さん :2009/02/19(木) 18:28:00
>>840 なぜ源氏の「男性」が書いたのかが意味不明。
女房装束の色目の話や、女房達の噂を長々書くなど
源氏物語は女性にしか書けないものだと思うが。
作者が男性だという根拠は?
物語だから、実話と違っていて当然かまわない。
それで、摂関全盛期に成立した源氏物語を、
誰が書こうがなぜ藤原道長が葬り去らなかったかの理由づけがなされていない。
源氏ではない菅原孝標女がなぜ
菅原氏が発展する話でもない源氏物語を読みたがったのかもね。
室町時代には、二条家出身の元関白が日野富子相手に
源氏物語の講義までやっていたと思うが、これも謎だよね?
なぜ藤原道長の子孫である二条家当主が
源氏物語を愛読して講義までしてるのか。
源氏物語の注釈書に至っては天皇までが書いているし。
なお、源氏物語に出てくる藤原氏はそんなに悲惨でもない。
そもそも道長は源氏の後ろ盾があったから四男か五男でも権力の座に就けたという事情がある。
>>842 あほか、それだけで権力握れるわけないだろ。
そもそれ以上に、まず親父と兄貴ども……
……やめた。なまみこ相手にばかばかしくなってきた
>>842 源倫子=父の源雅信は彰子の着袴を見届けたくらいに死没。
このころ道長の兄たちは生きており道長の天下人への展望は開けていない。
雅信は彰子が入内し立后するなど知らなかった。
源明子=父の源高明は安和の変で左遷されて失脚。
道長が4歳の時。
道長が明子と結婚する以前に高明は失意のまま都で死亡。
道長はどうやって源氏の後ろ盾を得たんだね?
>>843 なまみこが道長よいしょしてどうするんだよ
どこをもって後ろ盾とするかという問題はあるが、 道長が賜姓源氏との関係を維持したことが政権安定につながったというのは山中裕以来の道長論の基本ではあるけどな。
847 :
日本@名無史さん :2009/02/21(土) 11:45:33
>>846 むしろ賜姓源氏を庇護したのは息子の頼通だろう。
源師房が頼通の養子であったことがその後長きにわたる
村上源氏の興隆のもととなった。
しかしこの場合、頼通の側が一方的に村上源氏を庇護しているわけで
村上源氏の側から特に恩恵を受けていたわけでもない。
道長は別段源氏を庇護してないけどな。
たしかに2人の妻は源氏だったが、
妻の一族を高位高官に取り立てるといったことはしていないから。
>>845 なまみこ婆は毎日古文板で雲居雁叩きにせいを出しているよ
こっちのほうが先妻だったのに定子とは逆のことをしてる
最近ではあさきスレにまで行って朧月夜を叩いているよ、なまみこ婆。 その前は紫上、女三宮。
>>849 落葉宮を持ち上げ雲居雁を下品だと叩く
紫上を持ち上げ女三宮は劣っていると叩く
なまみこ婆は紫上のことはむしろ擁護してるんじゃ?
朧月夜は誰にでもホイホイ抱かれると叩いてるね
あさきの掲示板で
「春はあけぼの殺人事件」なんて他の漫画ネタを振っているのも
なまみこ婆の仕業だろう
源氏物語も生巫女婆の盗作
852 :
日本@名無史さん :2009/02/22(日) 14:12:54
このスレはもうぬるぽ
一条天皇だって定子死後誰かを愛して幸せだった、と考えたほうがいいじゃないか。 定子は寵愛を受けた。これは間違いないだろう。けど、四の君も彰子も寵愛を受けた。元子だって新しい恋を掴んだじゃないか。それと同じように。 なまみこさんだって、自分が死んでも旦那には幸せでいてほしいでしょ。 どう見ても真実は分からないんだし。
854 :
K大生 :2009/02/23(月) 12:55:57
そんな事より
>>853 よ、ちょいと聞いてくれよ。スレとあんま関係ないけどさ。
半年前に、勉強の間の休憩に近所の公園行ったんです。公園。
そしたらなんだか人がめちゃくちゃいっぱい詰め掛けてて休めないんです。
で、よく見たらなんか立派な看板が建ってて、源氏物語ゆかりの地、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。お前らな、源氏物語ゆかりの地如きで普段来てない公園に来てんじゃねーよ、ボケが。
ゆかりの地だよ、ゆかりの地。
なんか毛唐の親子連れとかもいるし。一家4人で遠路はるばる京都観光か。おめでてーな。
よーしママ記念写真撮っちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、道くらい教えてやるからここから失せろと。
公園ってのはな、もっと穏やかな雰囲気であるべきなんだよ。
子供たちがいつ鬼ごっこやドロ警を始まってもおかしくない、
鬼になるか捕まるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。ウザイ観光客は、すっこんでろ。
で、やっと空いたベンチに座れたかと思ったら、隣の奴が、瀬戸内寂聴訳の源氏物語がいい、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。あのな、瀬戸内源氏なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、瀬戸内寂聴訳の源氏物語がいい、だ。
お前は本当に瀬戸内寂聴訳の源氏物語を読みたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。お前、瀬戸内寂聴って言いたいだけちゃうんかと。
現役K大生の俺から言わせてもらえば、今、K大生の源氏物語の通たちの間での源氏物語を知るための最新流行は、原文を読む。これだね。
「写本」「青表紙本」「河内本・別本」「影印本 」これが通の言い方。原文というのはオリジナルに近い文章が書いてある。そん代わり古臭い。これ。
それを岩波の新日本古典文学大系や小学館の新編日本古典文学全集みたいな古語辞典を片手に読む。これ最強。
ただし、原文で全部読めるやつは、国文卒でもかなりの少数派だという諸刃の剣。素人にはオススメできない。
まあ、
>>851 みたいなド素人は漫画のあさきゆめみしでも読んで満足していなさいってこった。
>>853 なまみこ婆は自分が死んでも夫に再婚はしてほしくないそうだ。
そう言う奴に限って自分は夫が死んだら再婚するんだよな・・・ と言うかなまみこ婆の旦那って脳内旦那じゃなかったっけ?
>>840 主人公が源氏なのは別に式部の独創と言うわけではない。
当時の物語で主人公が王族の血を引くのは当時の「お約束」なのだ。
「源氏」に先行する「落窪」も主人公は源氏。「宇津保」も序盤の主人公は清原。
「源氏」に後続する「浜松」「「狭衣」の主人公も源氏で、「寝覚」の主人公も源氏は確実。
別に作者が源氏ファンだったからというより、お約束に従ったまで。
「源氏」が反藤原だというなら「寝覚」なんて皇室不敬罪モンだ。
江戸時代の読み本とかに対するお上の審査基準と一緒に考えない方がよい。
不倫の子が帝位につく、というのは1回限りで(源氏の子)、 朧月夜は妊娠しなかったし(紛らわしい子を)、確かに、 皇室の近くに使えた人間が途中から遠慮しながら書いた感じはするな。
スレ違いになるが、崇光天皇の皇太子だった直仁親王って系譜上は花園天皇の皇子になっているけど、光厳天皇が花園天皇の后との不倫の子で少なくても光厳天皇はそう信じていたっぽいね。
860 :
日本@名無史さん :2009/02/26(木) 08:29:51
源氏物語について書いたものです。皆さんのご意見を読んで自分なりに 藤壺について納得できたような気がします。 ところで平安朝にいわゆる女流文学が多く発表されたことについてはどう 思われますか。なぜ中国やペルシャなどでそれが発達しなかったのかという 疑問があります。 平安朝は女性の力(出産、女官)が発揮された時代だと思いますが。
861 :
日本@名無史さん :2009/02/26(木) 09:55:36
>>860 漢学や和歌など女子でも学問を受ける環境があった。
受領の娘でも本や紙を得れる経済力があった。
宮中という作品を世に出せる環境があった。
そしてなにより、戦争が少なかったので作品が残りやすかったってところでは?
862 :
日本@名無史さん :2009/02/26(木) 10:17:25
>>861 わかりやすく説明してくれてありがとうございます。おっしゃるとおりですね。
中国やペルシャの後宮に比べて日本は残忍さがなかったので文化に心を
配る余裕があったかもしれません。
863 :
2ch戦隊コピペマン :2009/02/26(木) 12:42:32
>>860 『源氏物語』はいかに訳されたか
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/fangtan/200606.htm >紫式部の名著『源氏物語』は、だいたい1004年から1009年の間に書かれた世界で最初の長編小説である。
>これは、ダンテの『神曲』より300年早く、ボッカチオの『デカメロン』より350年も早い。
>『紅楼夢』が出版されるのは、『源氏物語』より700年も後のことである。
>魯迅の弟の周作人は1906年から1911年まで、日本に留学した。彼は梁実秋に宛てた手紙の中で、
>日本文学について語っているが、この手紙は1937年3月に出版された『瓜豆集』に収められている。
>その中で『源氏物語』に関して彼はこう書いている。
>「『源氏物語』が完成したのは、中国ではちょうど宋の太宗のころであり、中国で長編小説が発達するまでにはなお500年を要した。
>……これは実に、唐の時代の『紅楼夢』と言うこともできる。唐朝の文化の豊かさをもってすれば、
>このような大作が生まれて然るべきだと感じる。
>しかしどうしてこの栄光が藤原家の女性(紫式部は藤原為時の次女――本誌注)に奪われてしまったのか」
欧州は無論、中国より早い
あの素直じゃねえ支那人も認めている
864 :
日本@名無史さん :2009/02/26(木) 23:23:15
>>859 直仁親王の母正親町実子は中宮や女御といったいわゆる天皇の妃ではなく
花園天皇に仕える女官だったからね。
他の男の妻だった者を天皇や院が寵愛した例もあるし、
逆に天皇や院が寵愛した女官が別の男と結婚した例もある。
女官の場合、天皇に対して貞操の義務がなかったからね。
当然、光厳上皇の院宣を花園法皇も聞いたと思うが、
光厳上皇自体堂々と花園天皇の女官と通じたことを宣言しているあたり
問題性は全くなかったのだろう。
実子は最終的に女院にまでなっているけれども
たしか実子の2人の姉も実子と同様に複数の天皇の子を生んでいる。
865 :
日本@名無史さん :2009/02/28(土) 12:19:20
定子様最高!
868 :
日本@名無史さん :2009/03/25(水) 17:59:12
はっはっはっ ついに教科書記述改定決定! 紫式部→源高明 になるってよw 以前トンデモだとわめいたアホども ざまぁwww
あいつら全員飛ばされるんじゃないの 担当者が内容なんか決められるわけないだろ
870 :
日本@名無史さん :2009/05/05(火) 22:58:27
ho-
871 :
日本@名無史さん :2009/05/06(水) 01:07:47
武陽陰士っていうコテが文学板を荒らして困ってます。 どうにかして下さい。ちなみにあだ名は芋姉ちゃんw
872 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 14:29:58
ヤリチン天皇あげ
873 :
日本@名無史さん :2009/06/04(木) 22:45:08
このスレの有名人なまみこ婆は漫画板(あさきゆめみしスレ) で相変わらず暴れてるね
874 :
日本@名無史さん :2009/06/21(日) 23:45:01
>>872 子孫を多く残すことは天皇の義務ですが、なにか?
875 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 16:47:50
>>874 一条天皇が政略結婚した5人の妃たちとやるのは義務だったかもしれんが
女官にまで手をつけたのは失敗だったね
ヤリチンといわれても仕方がない
876 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 19:26:32
御櫛笥殿に定子様の面影をみたんだよ!
877 :
日本@名無史さん :2009/08/09(日) 19:39:27
定子と姉妹丼か・・・ かつても関白息女も落ちたもんだな。
878 :
日本@名無史さん :2009/08/11(火) 23:09:01
齋藤雅子著の『たまゆらの宴』 を図書館で借りてきて読めやボケ!
別に定子に興味ないから『たまゆらの宴』とやらはどうでもいい 他の一条天皇妃のことが詳しく知りたい
880 :
日本@名無史さん :2009/08/12(水) 19:55:18
なまみこ婆がたまゆら婆になったのか。 絶版になってるね、その本。
881 :
日本@名無史さん :2009/08/13(木) 01:03:34
「たまゆら〜」は少年、少女の愛が成就し、幸福の絶頂を極めるものの 定子が没落していく過程で、一条が男として成長して、他の女御たちへの 愛と結びつきを深めていき、定子が実家の運と一条の寵愛を失いつつも プライドを必死に保っていく様子が絶望的に描かれていて 「なまみこ〜」みたいなドロドロの妖しい小説とちがって、 美しい小説だったと記憶しております。
883 :
日本@名無史さん :2009/08/13(木) 16:26:50
齋藤雅子著の『たまゆらの宴』 を図書館で借りてきて読めやボケ!
884 :
日本@名無史さん :2009/08/13(木) 20:58:20
なまみこ=たまゆら婆は漫画板にでも行っていてください
885 :
日本@名無史さん :2009/08/14(金) 13:29:51
一条天皇は、定子様の実家が没落した後も ほんの数十日宮中にいる間だけでも 毎日定子様とまぐわっていたそうですわ!
一条天皇は定子が死んだ晩に彰子を召そうとしたけど、 流石に彰子の方から辞退されたんだよね
887 :
日本@名無史さん :2009/08/14(金) 18:50:39
888 :
日本@名無史さん :2009/08/15(土) 17:13:47
常に妄想の創作を垂れ流しているなまみこ婆が何を言ってるんだw 小右記が捏造された証拠は見つかったのか? お前の論文はどこの学会に提出されて何ていう学者に評価されたって? 初産婦が妊娠44週で正常分娩できるとか言った脳内夫はどこ病院の何ていう医者だ?
889 :
日本@名無史さん :2009/08/15(土) 19:15:56
それは道長一派の捏造だろ!
道長一派(笑)
誰憚ることなく堂々と道長アンチだった藤原実資が道長一派(笑)
892 :
日本@名無史さん :2009/08/16(日) 01:03:36
道長一派の脅しを恐れて捏造文を書いたに100000ペソかける!
小右記を読めばそんな考えは出てこないよ・・・ 無知をさらけ出して恥ずかしくない? せめてwikkの藤原実資のところくらい読んでみようねw
でも小右記には脩子が12月に産まれたという確実な記述は無いんでしょ? 産み月になってもなかなか産まれないとかいう記述も無いんでしょ?
藤原実資は跡で右大臣に昇進してるのだから道長一派だろ! 三条天皇は道長の娘を皇后にしてるから道長一派だろ! 小一条院も道長の娘を妃にしてるから道長一派だろ!
じゃ、道長の息子の頼通と相婿になった敦康親王も道長一派だし、 その娘の嫄子女王で頼通の養女となった嫄子女王も道長一派になるな
伊周の娘も道長の息子の正妻になっているから、伊周も道長一派?
898 :
日本@名無史さん :2009/08/16(日) 11:23:27
なまみこマンセーってなんですかあ? マンセーって古すぎませんかあ?
899 :
日本@名無史さん :2009/08/16(日) 11:31:11
一条天皇は、道長と姉の東三条院の間の不義近親相姦の子供かもね!
ネタにマジレスw 一条天皇が不義の子なら、定子の血筋が皇統から排除されたのも納得 彰子、元子、義子は母方の皇族だから、そっちに息子を産ませて皇統を戻さないといけない 賢帝一条は彰子が男児を産んだときに心底ほっとして、倫子に従一位を与えたんだね
そうだよ、平安時代の旧帝は道長一派が独占してたんだよ! だが、定子さまだけは違う 定子さまは邪悪な道長に毅然と立ち向かわれたんだよ! お前らそのことに気づけボケ!
902 :
日本@名無史さん :2009/08/16(日) 14:30:31
平安時代は、もともと詳しくないんでこの間、岩波ジュニア新書の本で読んだんだが、 宮廷関係は人間関係が錯綜しててよくわからんな。 このスレの時代前後の人間関係なんて、読んでる途中からゴチャゴチャになってきて、 読み終わったら、ゴチャゴチャの印象しか残らなかった。
903 :
日本@名無史さん :2009/08/16(日) 17:19:05
>>894 どんだけ史料に疎いんだw
小右記には定子の出産の遅れをかいた記事も、
懐妊十二箇月と書いた記事もあるよ。
どっかの適当な人が俺はそんな記事気づかなかった〜と
書きこんだのをうのみにしてやがる。
小右記に書いてあるっての。
904 :
日本@名無史さん :2009/08/16(日) 17:21:01
>>899 一条天皇を懐妊したころ宮中にいた詮子と、
(弟道長は元服前の少年で参内しておらず)
明らかに兄弟左遷の辺り、里にいる間に懐妊している定子を
比較してみろよ・・・
小右記は実資自筆の原本は残ってないんでしょ きっと道長一派が跡で改竄したんだよ そうに決まってる
906 :
日本@名無史さん :2009/08/16(日) 19:16:23
うめ
907 :
日本@名無史さん :2009/08/16(日) 19:21:47
>>905 ふうん・・・
じゃあ、原本が残ってないから定子が敦康親王を産んだのは嘘なんだ?
御堂関白記は道長の自筆原本が残っているから、彰子が後一条天皇と後朱雀天皇産んだのは間違いないけどね。
御堂関白記は、同日の彰子入内の記事は書いてあるけど、
定子の出産記事って一切ないんだよね。
嘘なんだね。
>>903 いつまでもウザいから、小右記の原文載っけて引導を渡してやれw
どうせ奴さんは道長によって改ざんされたとかケチをつけるに決まっているだろう
それ以前に原文引っ張ってきてもどうせ読みゃしないw
911 :
日本@名無史さん :2009/08/17(月) 23:45:45
ここはせっかくの日本史板なんだからさ、 史料掲載はどんどんやって、それをもとにみんなで議論したらいいさ。 そういう解釈もあるのかとか、読み方が間違ってたとか、 これまで史料がまるで読めてなかった連中にとっても、 良い勉強、良い経験になるだろし。
912 :
日本@名無史さん :2009/08/19(水) 00:30:12
>>911 こういう事書く奴に限って自分で史料提示をしないんだよな・・・
このレスをはじめから読み返してみるとわかるが、
誰も史料を読んでいないし、完全に史料無視なんだよな。
自分の説が否定されそうになると、その史料は信ぴょう性がないだの、
改竄されただの言う。
そして、新たな史料を提示しないまま自分の妄想を語る。
今ここで、小右記の原文を提示して、まともな議論などできるはずもない。
小右記改竄説、
脩子が誕生したのは実は10月だったけど、誰にも知らせず、
朝廷も知らず、一条天皇も知らず、実資も知らなかったとか、
とんでも説を繰り返すだけだろ。
原文は図書館へ行けば誰でも見ることができるのだから、
まともに史料に基づいた話をしたい奴はとっくにそうしている。
史料を掲載してまともに読もうとする土壌が
このスレの参加者には全くない。
定子さまに不利な試料は全て改竄されたもの これは定説です
914 :
日本@名無史さん :2009/08/19(水) 22:59:51
一条天皇が定子様を愛して作った2人のお子は3名です!
試料を改竄ねぇ・・・w
916 :
日本@名無史さん :2009/08/21(金) 06:49:34
一条天皇は、定子様を本当に愛しておられたのだ!
で、定子は一条天皇を愛していたの? 自分の家族が凋落しても助けようともしなかった男だよ、一条天皇は 美形でもないし、優しくもない、好きでもない男から愛されても女としては嬉しくないよね・・・
その通り! 行成みたいな裏切り者を蔵人頭にするだけで、一条天皇のDQNっぷりがよく分かる 定子様が、定子様だけが、最高のお方 跡は全部クズ
919 :
日本@名無史さん :2009/08/21(金) 20:27:43
>>918 行成を登用したのは一条天皇。
定子が左遷はいやあ!と泣き叫んでも大好きな兄伊周を左遷したのも一条天皇。
実は、一条天皇は全然定子を愛してなかったんじゃないかと思うけど。
年増の定子に色仕掛けでこられちゃあ、何発かはやっちゃったかと思うけど。
そりゃあ、定子はその道にかけては鍛えてたんじゃないの?
まあ、文学板でもないのにこう書くと叩かれるの承知だけどね。 「なまみこ」とか「たまゆらの」とか叫んでるどっかのおばさんは、 「悲愁中宮」は読んだの? 創作文学はよく読んでるらしいから、 これも目を通してるんじゃないの? 悲愁中宮は、定子の心理なんてこっちのほうが的を射てる 感じを受けたけどね。
921 :
日本@名無史さん :2009/08/21(金) 21:59:12
凋落しても自分の立場を理解せず 誰の目にも明らかな兄伊周の左遷妨害や 入京後自邸に匿ったり無駄なあがきをしている定子は 酒井法子のようだね
922 :
日本@名無史さん :2009/08/22(土) 00:13:11
NHKのマンガで読む古典いいよ〜
923 :
日本@名無史さん :2009/08/22(土) 14:11:25
>>920 三冊読んでる自分にとっては、
たまゆら>>悲愁中宮>>>>>>>>>>なまみこ、だな。
924 :
日本@名無史さん :2009/08/29(土) 20:18:09
定子様を最後まで愛し続けた一条天皇
925 :
日本@名無史さん :2009/08/29(土) 21:01:17
漫画板で相手にされなくなるとこっちへくるんだな なまみこ婆はw
926 :
日本@名無史さん :2009/09/05(土) 23:33:03
定子様と一条天皇は深く深く愛し合っていた〜
兄弟や母方の一族を蔑ろにしまくった冷酷男を深く深く愛した定子ってマゾ?
928 :
日本@名無史さん :2009/09/06(日) 15:18:11
定子は花山法皇に矢を射かけた殺人未遂犯の兄弟をかばい、 逮捕を妨げ、逃亡を助け、自宅に匿った犯罪者だよ〜 現在だったら立件されるでしょ、定子ぐらいのことやったら。 今の皇后がこんなことやったら離婚間違いないでしょうに それで宮中へ乗り込んで肉欲振りまくんだから 昔の皇后はすごいわ〜
929 :
日本@名無史さん :2009/09/07(月) 21:39:37
一条天皇の子供を一番多く産んだのは定子様
一条天皇の子孫を現代まで残したのは彰子
931 :
日本@名無史さん :2009/09/08(火) 20:05:59
>>929 うち一人は一条天皇の胤じゃないけどねw
なんかこのスレ最初期から定子が嫌いなババアが粘着してるなw きっと顔はものすごい不細工なんだろう
すげえ…なまみこ婆が口癖の奴粘着しすぎw
934 :
soopllofeiv :2009/09/29(火) 22:55:30
宮内庁のキチガイ万歳
935 :
日本@名無史さん :2009/09/30(水) 21:12:28
>>932 >>933 なまみこ婆本人だね。
すぐわかるよ。
史料を読めずに恥ずかしい書き込みばかりだね。
最近はなんとか読める漫画板ばかりに行っていたのにw
936 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 14:16:02
>>935 来たwww
お前が婆だろww
今いくつだよwww
どうせマンコが乾涸びて子宮が縮んでる歳だろwwwww
キメェwwwwww
つーかやたら気に入ってるのか
なまみこ婆連呼してるがお前がなまみこ婆にぴったりだよwwwww
937 :
日本@名無史さん :2009/10/02(金) 14:19:34
>>936 暇な主婦は怖いね。
漫画板で相手にされなくなったらこっちかよ。
自己紹介、乙。
>>937 暇な主婦はお前だろ?マンコ乾涸び婆さんよ
自分がそうだから相手もそうに違いないと思ってんだな〜
墓穴掘りすぎ
自己紹介、乙。
939 :
日本@名無史さん :2009/10/14(水) 17:25:58
>>929 でも男の子は一人だけ(笑)
彰子は男の子を二人も生んで二人とも天皇になってますが何か?
お互いスゲー低次元な争いしてるよな。 こんなアホスレ日本史板に必要なのか?
941 :
日本@名無史さん :2009/10/14(水) 20:43:39
>>938 平日の真昼間に書き込む暇人チュプ、乙wwww
暇だからスレを最初から最後まで読んでみたけど、 戦時中の日本人並に「定子様万歳!」って盲目ぶりがすごい人達に吹いた。 史料を丁寧に読めば読むほど、そんな風には思えないから滑稽だよ。 確かに、初期は定子しか妃がいないせいもあって結構愛情を感じていたみたいだが、 兄・伊周の馬鹿な振舞いや、それを必死に庇おうとする様子がきっかけで一気に冷めたように感じる。 実際、上でも散々言われてるように東三条院詮子が呼び返すまで本当に何っにもしなかったし、 率先して伊周や隆家を処罰する姿勢を示したのは他ならぬ一条天皇だからね。 やんわり罰する方法も取れない事はなかっただろうにそうしなかったのは、 この一族(定子含む)は安心して一緒に治世をしてような人達じゃないと呆れたからかと。 事実、定子が嘆いている間何をしていたかっていうと、美女として有名な元子をさかんに寵愛していただけ。 はっきり言って、長徳四年頃には優美な元子や日々大人になりつつある彰子で もう満たされつつあり、定子は既に過去の人になっていたように思える。 もちろん、戻ったら戻ったでそれなりに愛は感じたろうが、特に愛する妃とまで言うのはどうだろう。 そして晩年は晩年で、定子が亡くなった晩にけろりとして彰子を召そうとしたり、 皇子と里帰りしていった彰子を惜しんで数日間すねたり、 自室に下がったばかりの彰子の元に先例を破って訪れたり、 道長に妊娠を告げようとする一条天皇と照れて邪魔しようとする彰子のかけあいなど、 これでもかってくらい彰子との温かでこまやかな愛情関係が明らかになっている。 定子をちょっとでも否定すると、自分の初恋を汚されたみたいに怒る人がいるけど、 一回冷静に史料を見直してから真実を判断して欲しい。 もっとも、できないから妄想書き散らして鬱憤晴らししてるんだろうけどね。
きもい
>>943 このスレに来て書き込んでいる時点で同類だよ。
まあ、それを言うなら私もそうなんだけどね。
思えば、定子って結構学者から庇われてるよなー。 あからさまに妊娠期間があわないのに、誰も突っ込まないんだから。 それに対して、彰子へのよそよそしさったら。 ここまで虚飾で美化された平安時代の女性も、そうはいまい。
946 :
日本@名無史さん :2009/12/17(木) 17:24:02
定子さんのことについて色々怪しい話は出てきましたが お后のサロン についてはどう? 紫式部日記にも 「中宮彰子のサロンの女房達は、気位高くて気の利いた会話のやりとりできる 子が全然いない。昔が懐かしいな」みたいなことを貴族達に言われてる という記述が出てくるんだけど おきさきの取り巻きの面白さでいえば 定子が一番、というのはこちらの方々も認めておられるのでしょうか
気の利いた会話? そんな気が利く女房が本当にいれば、 晩年の定子があんな醜態を晒すこともなかったのに…
教養方面で気が利くのであって政治方面ではからっきし気が回らない女房だったんだろ 定子のところは明るく社交的、彰子のところは知的だけどちょっとお堅い そんなイメージがあるな
949 :
日本@名無史さん :2010/01/09(土) 21:26:19
>>946 枕草子読むと、定子のサロンは結構男関係ゆるゆるだったみたいだからね・・・
集まってくる男たちも、ちょっと会話が盛り上がると簡単に女房が寝てくれるので
律義な彰子のところは物足りないとか(おごれば女が寝てくれたバブルの頃が懐かしいみたいな)。
源倫子が厳しくしきっていたんでは?
>>945 角田先生が生きておられたら、何とかしてくれたのにな
>>949 式部日記で彰子サロンの女房を取り上げた後に殿上人の手のついてないやつほぼいねぇ、
とあるから、状況は似たようなもんじゃね?
952 :
日本@名無史さん :2010/01/11(月) 19:54:35
>>946 「紫式部日記」では中宮彰子が好色めいたことが大嫌いな律義な人柄なので、
男が引っかけ(ナンパ)したくなるような出たがりな女房はおらず、
総じて女房たちは引っ込み思案である、
そのことをとやかくいう男たちもいる、とあるが、
男たちが彰子と定子のサロンを比較して定子のサロンが良かった、
と言っているシーンはないよ。
紫式部日記の書かれた彰子出産の場面は1008年のことで、定子が死んでからすでに8年、
定子のもとに大勢の人が出入りしていた道隆存命中より14年以上が経過している。
そんな前の妃のことを若い男たちは知りはしないだろうし、
比較をするはずもない。
90近くまで生きたババアより薄幸の定子さまのほうが人気あるのはしょうがないね
954 :
日本@名無史さん :2010/01/17(日) 20:18:14
彰子は後一条天皇、後朱雀天皇の国母として崇拝された 何をどうしたら世間から白い目で見られながらセックス三昧 産で死んだ定子に人気があったことになる? しかも自分の死後は夫に裏切られ姉妹丼された 定子の妹が17歳ぐらいで死んだのはよくもこの姉を裏切って〜っていう 定子の怨霊だったのかも
>>947 >晩年の定子があんな醜態を晒すこともなかったのに…
晩年の醜態って、何のこと?たしか定子は、夫との3人目の子の出産時に
若くして産褥死したはずだが?
道隆というよりも、道隆の嫁とその子供を嫌っていたのだろう 高階の連中は道隆の威光を傘にきて、でかい態度取ってたらしい
保守
959 :
日本@名無史さん :2010/04/10(土) 19:25:10
点検
960 :
日本@名無史さん :2010/04/13(火) 19:37:48
その点、明子は詮子のお気に入りだった
961 :
日本@名無史さん :2010/08/03(火) 22:05:49
>>960 明子は詮子のお気に入りというか
詮子が養女にしていて(明子の母は詮子の父藤原兼家の妹)
詮子の発案で道長に嫁いだんだよね。
明子が養女っていうのは本当? 昔はは二人正妻っていわれてたけど、最近の研究によれば、 正妻は倫子一人で、あくまでも明子は側室みたいだね。
道長の正室2人説の方が説としては新しい筈。 倫子が正室だと言うのは、『御堂関白記』でも確認できる話だし。
964 :
日本@名無史さん :2010/08/04(水) 10:23:47
>>962 明子が東三条院の養女だというのは彰子に仕える女房(赤染衛門?)
が書いたと思われる「栄華物語」でも確認ができる。
「日本紀略」でも養女だという記述が見られる。
>>963 大鏡などでは複数の妻を妻妾の区別つけずに並べる事があり
倫子と明子はいずれも妻。
天皇ですら正室が複数いる時代だから
貴族は正室ひとり出なければ法令違反とかいう次元の問題でもない。
道長の御堂関白記では倫子を「女房」と表現。
これに正室と言う意味があるのかは確認できていない。
「御堂関白日記」の「女房」は正妻ととっていいんじゃない。 「玉葉」でも兼実は正妻の季行女を「女房」と書いてるし。 というか道長の行動をみれば正妻は倫子だろう。子どもも明らかに差別されてるし。 実資も明子のことは妾妻と書いてるよ。
「女房」は「嫁さん」ぐらいの意味だね。 それ以上ではない。 実資が明子を妾妻と書いているのは 倫子がのちの後一条天皇誕生により新皇子の外祖母として従一位を受け、 臣下として最高の地位についた後(このとき夫の道長より上の官位を受けた)。 東三条院存命中に両者の間に差がついていた記録はない。
じゃあ、東三条院崩御によって庇護者を失い、正妻から格落ちされたっていうこと? 崩御翌年に元服した頼通は正五位下なのに、頼宗は従五位上。 中宮彰子の同母兄弟というのもあるのかもしれないが。 あと、道長は土御門殿に住んでたんじゃないの。
頼通は中宮彰子の同母弟というのが大きいだろうね。 頼通は頼宗の1歳兄で、兄弟順から言っても道長の長男。 姉の彰子は12歳の若さで入内したが頼通も12歳で元服させており、 両方とも他の同母異母の妹弟たちより入内や元服の年齢が早く、 道長が政権を安定させるために、 彰子、頼通、といった年長の子供たちの出世を特に急いでいたことが分かる。 一条天皇も執政者道長を安心させ、政治を安定させるために、 道長の長女彰子、長男頼通の出世を後押しした。 ちなみに藤原道長は元服した時、従五位下だった。 道長の長兄の藤原道隆も元服時には従五位下だったから、 これからみれば頼通も頼宗も破格だった。
969 :
日本@名無史さん :2010/08/05(木) 11:09:39
>>968 道長や道隆が元服した時点じゃ、父の兼家は「一の人」じゃなかったんじゃ?
父親が日の当らない時代では、その息子が元服しても並みの扱いにしかならないでしょ
>>967 正妻、側室とかはっきり区別していた時代かどうかは??じゃないかな
経済的な後ろ盾があって、通ってくる婿の世話をできる女性は皆、同格ではないかと
ただし、自家に仕えてる女房(侍女)に手をつけたのは妾扱いのようだけど
道長の父兼家はどの妻とも同居していないで、通いで済ませてるようだし
「女房」(侍女という意味の)に手をつけた女性は「権妻」と明らかに他の夫人と区別してるようだし
道長の時代から院政期にかけてが、婚姻の形態に関しての移行期なのかも
970 :
日本@名無史さん :2010/08/05(木) 13:11:08
倫子は源雅信の女。 明子は安和の変で失脚した源高明の女。 単純に考えて、倫子が正室だろ。
971 :
日本@名無史さん :2010/08/05(木) 13:44:49
>>970 源明子は父高明が左遷された際、まだ幼かったので、
父の弟である盛明親王が引き取って養女にした。
明子を「明子女王」としている史料があり、
盛明親王の王女として扱われたためだと思われる。
また、高齢となった盛明親王が新たに明子をたくせる
人物を探したところ、皇太后藤原詮子がこれに応じた(詮子は明子のいとこ)。
明子は皇太后の養女として引き取られた際に、
詮子の兄弟である道隆・道兼・道長に求婚されたことが「栄華物語」に見える。
この中から詮子が末弟の道長を選んだのは、
道長にまだ正式な妻がおらず、詮子が妻として選んだためと考える学者もいる。
明子が東三条院詮子の養女であったこともほぼ事実として認められる。
仮にも親王や皇太后の養女であった明子が
むやみに妾であったとは判断しがたい。
高松殿という自邸を持ち、道長を婿どっているのだしね。
雅信が出家するまで現役の一上だった事実はスル―かよwww 摂政の兼家だって、太政官で雅信の下にいるのが嫌で「摂政は大臣を兼ねる必要はない」という新たな慣例を創出した訳なのだが。
>>971 「栄華物語」では、倫子が懐妊中に道長が明子の元に通うようになり、
倫子は恥ずかしく思ったが、そっとしておいた、って話じゃなかったけ?うろ覚えだわ
でも盛明親王の薨去が寛和2年(986年)だから、
詮子の養子になった時に同時に三兄弟の中から未婚の道長が婿に選ばれたというのは自然な展開のように思えるね
これは服藤氏の説ですか?(未読です)
かたや親王の養女で詮子の養女、かたや左大臣の娘、それと相前後して結婚したから、
並び立つ「二人妻」っていうイメージが強いのかな
ただ御堂関白記見てると、やっぱり道長の意識の上では、結局人生の伴侶は倫子だったような気がする
公的外出の機会の多さとか、里内裏の関係とか諸事情あるし、
先に子供に恵まれたことに起因するのはもちろんだが、それにしてもあの二人三脚っぷりは凄い
しかし道長と明子っていとこだったんだね、知ったのつい最近だったw
あらためてホントに狭い世界で代々婚姻関係くり返してるんだねぇ、この人たち
974 :
日本@名無史さん :2010/08/06(金) 20:18:59
>>972 兼家は従兄の藤原頼忠が太政大臣としていたので
大臣より摂政のほうが上だと言って右大臣を辞したんだよ。
頼忠が死んだあと、兼家は一条天皇の外祖父として雅信など飛び越えて
太政大臣に就任。
摂政太政大臣として外孫一条天皇の加冠を勤めている。
兼家は太政大臣として雅信の上位に立ったことを知らなかったの?
>>972 国母である東三条院より源雅信のほうが上なんだ・・・
ふとどきな臣下だね。
平安時代の太政大臣が太政官においてどういう地位を占めていたかも理解できないでこのスレに来ていること自体が驚きなのだが。 まさか、絶滅したと思われた政所政治論者なのか?
977 :
日本@名無史さん :2010/08/07(土) 01:17:30
>>973 高明の妻が師輔の娘だったね
一条天皇以後の皇室と摂関家もめちゃくちゃ近親係数高そう
道長以後の後宮政策がうまくいかなくなるのもそのせいかな
近親婚続きで子供ができにくくなるとか
スペインハプスプルグの断絶も末期にはとんでもない近親係数になってたらしい
978 :
日本@名無史さん :2010/08/07(土) 13:14:00
>>977 閑院流の血が入った白河法皇になると急に寿命が延びるよな
平安中期の天皇の寿命の短さは、やはり近親結婚が一因になってると考えざるを得ない
980 :
日本@名無史さん :2010/08/07(土) 21:22:35
そう言えば、円融天皇って一条天皇以外に子供がいなかったけれど、あれってなんか裏があるのか?
981 :
日本@名無史さん :2010/08/07(土) 22:06:22
>>976 太政官制で太政大臣は左大臣の下だと思っている人が
このスレに書きこんでいることが驚きだね。
天皇と姻戚関係のない左大臣が
天皇の実の外祖父である兼家の下で何ができたの?
源雅信は兼家のことあまりよく思ってなかったらしいが 道長を婿に取って兼家に手なずけられちゃったのかね
983 :
日本@名無史さん :2010/08/08(日) 17:04:30
>>982 個人的に好きな相手でなくても、政治的に手を結んだ方が有利なことってあるんじゃないの?
どの道、倫子を入内させたくても天皇皇太子とは年回りが悪いし
他にもっといい相手に心当たりがあるともいえなかったんじゃ?
雅信本人より妻というか母親の穆子が道長を気に入ったというのもあるらしいけど
兼家としてはむしろ同族内との争いの方が多くなるから、源氏の筆頭と手を組むのは悪い話じゃない
984 :
日本@名無史さん :2010/08/08(日) 17:37:33
>>983 しかし道長は五男坊で、普通に考えれば摂関は回ってこない。
道長が執政者になれたのも2人の同母兄が偶然早死にしたことによる
偶発的なものだった。
2人の兄の存命中、道長はやっと権大納言だったし、
道隆の長男伊周にすら官位を越されて、大臣になれるかも危ういところだった。
そう考えると左大臣の嫡腹の長女の婿としては不満だったろうな。
もっと将来を約束された男のほうが良かっただろう。
986 :
日本@名無史さん :2010/08/08(日) 18:08:25
>>984 もっと将来を約束された男って具体的に誰?
いればそっちの方の縁談が進まなかったのはなぜ?
道長の兄たちにすでに妻子がいるなら、そこへ割り込むのも考え物だし
それに娘の結婚には母親の意見が大きかった時代だったのかもしれない
そうなると穆子が気に入った時点で話は半分決まったようなものかも
道長を婿にする代わり、出世を心がける密約のようなもんがあったかも
永井路子説だけど
道長の場合は父親の不遇時代が長かったため、逆に末子であったことが有利だったとも言われてるね
父親が政権獲った時、兄たちはすでに年だったからあまり時間がなかった
兄の道隆が死んだ時、道長ってまだ三十前だったんだね
おいの行周とそんなに年が違ってなかったとに驚き
987 :
986 :2010/08/08(日) 18:23:00
想像だけど 倫子の結婚が24、当時としてはあるいは遅めだったかもしれない あるいは雅信が考えていたのは、入内だとして相手は花山天皇だった? 倫子の方が二つ年上だけど、年回りとしてはまあまあ 機会をうかがっていたが、たった二年で出家騒動を起こして退位 (無分別のようだけど、二十前だったのね) 雅信も内心面白くなかったかもしれないが、天皇が子供の一条帝じゃどうしようもないし 皇太子(三条天皇)も娘よりかなり年下になり、しかもいつ即位できるかわからない 慌てて娘の縁談を考え直したってことかな
988 :
日本@名無史さん :2010/08/08(日) 18:33:13
>>985 道長が倫子と結婚した当時、二十一、二で相前後して従三位になってる
従三位なら悪い結婚相手とは思えないな、左大臣の娘の相手と考えても
989 :
日本@名無史さん :2010/08/08(日) 21:29:18
左大臣の長女なら入内目的で何の問題もない。
それか年は多少離れても現役の参議以上か。
>>986 永井路子説を取るなら藤原朝光を倫子の候補に挙げていたね。
実は倫子の母穆子も雅信の後妻で
倫子の両親は親子ほど年齢が離れており、雅信には穆子と同年代の息子がいた。
道長は倫子の先に明子を妻としていた可能性があり、
「未婚だから」という理由だけで穆子に選ばれたかどうかは疑問の残るところ。
990 :
日本@名無史さん :2010/08/08(日) 21:33:24
>>986 倫子の夫になぜ道長が選ばれたのかは「栄華物語」ぐらいしか描かれず
真相は分からない。
ただし、当初雅信が反対していたことが「大鏡」などに見えることなどから
親の許可を得た結婚ではなかったことを総合的に考えると、
道長が女房に賄賂でもおくって左大臣邸に忍び込んで
倫子と実力行使でやっちゃったのがアタリだと思う。
倫子はすぐに妊娠、彰子が産まれちゃったもんだから、雅信もやむなく道長を認知。
今で言うデキ婚に近い状態だったんじゃないの。
991 :
日本@名無史さん :2010/08/09(月) 00:21:36
>左大臣の長女なら入内目的で何の問題もない。 現実に入内する相手が子供じゃしょうがないでしょ、と言ってるんだが それは何度も言ってるのに無視かよ >それか年は多少離れても現役の参議以上か。 で、具体的にはだれ?その朝光? >道長は倫子の先に明子を妻としていた可能性があり、 子供の出来た順序からいって、倫子の方が先だと思うけど
992 :
日本@名無史さん :2010/08/09(月) 13:25:29
>>991 「道長は、雅信が選んだ最適、最上の倫子の結婚相手だった」
と言いたいがためにやたら必死すぎて怖いんだけど。
最適な結婚相手がいなければ独身をえらばせることだってできた。
公任の次女は入内を目指したが機会が無く、生涯両親の元でくらしたし、
藤原公能の娘は長女が後白河中宮、三女が近衛・二条の后で
間に挟まれた次女には「姉妹の顔をつぶすような結婚しか出来ないのなら
尼になれ」と父に言われてその通り若くして尼になった。
左大臣の娘なら生活に困る事はまずないのだし
雅信が何が何でも娘を結婚させなければ、と男を物色していたようにも思えない。
それなら倫子はなにも24歳まで独身じゃなかっただろうしね。
993 :
日本@名無史さん :2010/08/09(月) 15:18:35
>>992 24まで独身だったのは花山天皇相手の入内をもくろんでたから、でしょ
すでに
>>987 でその可能性を書いてるのに、そっちを無視してるのはどうよ?
そのくせこっちを必死呼ばわりですかそうですか
最良だとは言ってないけど、反対するほど悪い相手でもないってそれだけのことでしょ
まさかベスト以外は意味なしとか考えてるわけ?
それじゃあんた人生渡っていけないよ
>左大臣の娘なら生活に困る事はまずないのだし
甘い、父親が死んで零落した姫君の話なんざ腐るほどあるわな
結婚してても相手がスカならそういうリスクがあるだろうけど
994 :
日本@名無史さん :2010/08/09(月) 17:23:44
>>993 じゃあ、なぜ花山天皇に入内しなかったの?
花山天皇は大勢の女たちに求婚したのに
候補にも挙がってなかった。
>それじゃあんた人生渡っていけないよ
ほらほら、超必死じゃんw
レスしてるだけの赤の他人になんか人生関係あった?
ろくな人生歩いてないんだろうね。
その言葉、そっくりあんたにお返しするよ。
995 :
日本@名無史さん :2010/08/09(月) 18:17:03
>じゃあ、なぜ花山天皇に入内しなかったの?
>>994 =
>>989 ?
>989 名前:日本@名無史さん :2010/08/08(日) 21:29:18
>左大臣の長女なら入内目的で何の問題もない。
じゃあこの書き込みは?
もし989と別人なら失礼したってとこだが
想像だけど、在位たったの一年半だったじゃん
特定のお妃に耽溺したりって言行(年齢考えると無理もないか)に逡巡したかも
>公任の次女は入内を目指したが機会が無く、生涯両親の元でくらしたし
当時は通い婚だったから、結婚してもそれは同じだが?
大体、最初から親の合意で始まった結婚ばかりじゃない時代に
最初は夜這いなんて普通だろ、内親王ですら夜這い→既成事実で事後承認ってのがありなのに
既成事実からでき婚をさも特別みたいにいいたてるあんたにドン引き
996 :
日本@名無史さん :2010/08/09(月) 21:49:41
>公任の次女は入内を目指したが機会が無く、生涯両親の元でくらしたし 当時は通い婚だったから、結婚してもそれは同じだが? 独身で暮らすことも可能だったってだけの説明じゃん。 どこまで頭が悪いんだか。
997 :
日本@名無史さん :2010/08/09(月) 21:57:57
花山天皇は即位したとき17歳で幼帝ではなくすでに女性に興味のある大人。 しかも、すでに外祖父や生母をなくしていたから 外戚をはばかることなく比較的自由に好みの女性を後宮に呼ぶことができた。 そこで、ほうぼうの貴族の姫たちに入内を働きかけた。 藤原℃q(関白藤原頼忠の三女) 藤原姫子(権大納言藤原朝光の長女) 藤原祇子(大納言藤原為光の長女) 婉子女王(為平親王の王女) 花山天皇即位から半年たたないうちに先の3人が入内し、 その後婉子女王も入内。 花山天皇が誰を一番に寵愛しようが入内はどんどん受け入れていたのだから 倫子が求婚されていれば十分入内する暇はあった。 しかし、倫子の入内はなかった。
1000
千石
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。