【政治】平安貴族総合スレッド・1【生活】

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1日本@名無史さん
前スレ
平安貴族は何て幸せだったんだろうか
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1029672791/
関連スレ
平安時代にはまとも軍隊もなかったのに
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1103855145/

期間としては教科書通りの平安時代(794〜1192年)における貴族全般がテーマです。
(関連した議論でも光仁天皇即位(770年)〜承久の乱(1221年)の範疇での議論を心がけて下さい)

2日本@名無史さん:05/03/20 18:11:32
とりあえず1乙 ノシ旦 ぬる茶でも飲め
3日本@名無史さん:05/03/20 23:42:50
皇族方の御婚礼は平安時代の結婚が参考になってるらしいね。
一昨日の納采の義も平安時代から。
どうせならお二人に和歌を交わしていただきたいものだ。
4日本@名無史さん:05/03/21 01:29:48
平安時代の女性は出家のときは尼削ぎか丸坊主のどっちか。
尼削ぎ<丸坊主が定着したのはいつ頃なのだろうか?
個人的には尼削ぎベター。
5日本@名無史さん:2005/03/21(月) 04:40:56
建礼門院像は全剃りだたよ。
6日本@名無史さん:2005/03/21(月) 08:37:52
7山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/21(月) 10:34:39
>4
『栄花物語』の例を見ると分る様に、初めは尼削ぎにして、晩年になると完全
に剃髪したそうですが、これを「往生の為の男性化」と見る向きもあります。
もっとも、一般には女体のまま往生するとされる事が多かった様ですが。
無外如大像は、完全に剃髪していますね。職人歌合の律・禅宗の尼も同じ。
8日本@名無史さん:2005/03/21(月) 13:30:45
平安時代の貴族の生活が、当時の日本の一般論的に語られるのがすごくいやだ。
「平安時代の日本は通い婚でした」とかいってるのみると、腹立つ。
多くの庶民は貴族文化と違う生活してたはずだから、
平安時代の庶民文化を研究してる人が何で少ないんだろう
9日本@名無史さん:2005/03/21(月) 14:05:11
平安貴族は自分のこと「麻呂」っていいませんから!!
残念!
10山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/21(月) 19:26:19
>9
「まろ」なら、言っていましたよ。当時は女性も使用しており、『枕草子』
にも出て来ています。
11日本@名無史さん:2005/03/22(火) 01:18:38
>7
> 『栄花物語』の例を見ると分る様に、初めは尼削ぎにして、
>晩年になると完全に剃髪

東三条院や上東門院ね。読みながら「勿体無い」と思った。
尼削ぎ状態で臨終迎える人の例がもっとあればなあ・・・彰子除いた道長の娘たちみたいにさ。
そういえば平安時代に入れてもらえるか微妙なところだけど、
昨日の大河ドラマ「義経」で建春門院が尼頭巾姿で臨終迎えたシーンが気になる。
建春門院は「受戒」したという記録は当時の記録で見たことあるけれど、剃髪とか出家
という言葉は確か見当たらなかったぞ・・・。
12日本@名無史さん:2005/03/22(火) 01:29:38
>>8
今はもうサヨの時代じゃないんだよ。

それはともかく、平安時代が通い婚なのは庶民も同じだろ。
つーか、天皇家だけが嫁取りで、他は通い婚だと思うぞ。
古代日本とそっくりと言われるブータンがまさにそれだしな。
王家だけが嫁取り。
他は藤原氏に当たる総理大臣家(前国王によって誅滅されたが)
から庶民に至るまで通い婚。家に男女と子供たちがいればそれは
兄妹または姉弟で、その女の方の子供たちと一緒に暮らしている。
13日本@名無史さん:2005/03/22(火) 16:27:12
>>12
ウヨサヨ以前に史料が少ないからだろう。
なんでもそっち方向で片付けるのも痛すぎ。
14日本@名無史さん:2005/03/23(水) 10:37:26
庶民が通い婚だったという史料あるの?
説話とかにあるのかな。
15日本@名無史さん:2005/03/23(水) 13:34:36
天皇だって御所外には出歩けないけど、梅壺とか桐壺に通うってことでは
通い婚の変形だろ。
16山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/23(水) 16:26:40
>>11
>読みながら「勿体無い」と思った。
まあ、そう思わせるのが目的ですから。
>14
11世紀末までには生活単位としての「家」が成立し、家政をきりもりする
「主婦」像が説話の中にも現れて来ますね。
それ以前なら、歌集や『大和物語』では。
17日本@名無史さん:2005/03/26(土) 13:48:23
>>山野野衾さん
初めは尼削ぎにして、晩年になると完全に剃髪ですか・・・
尼削ぎ状態で臨終迎える人の具体例ってないんでしょうか?
18山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/26(土) 14:29:09
男性の例ですが、醍醐天皇も村上天皇(こちらは後世の記録による)も剃髪
して亡くなられていますが、後生を思えばその方が中世の人々には良かっ
た筈ですからね。貴族社会には臨終出家の習慣があり、源頼朝も死の直前
に出家しています。
死穢(直接的には30日、葬送に参加して49日)が出家者や往生人の死か
らは生じないという習慣や、出家者の葬儀は簡素でいいという観点から行
われた面もあり、その方が合理的であったと言えます。
また、尼削ぎの方がよく見えるのは現代的視点というもので、当時は女性
に対する髪切り・鼻削ぎといった刑罰が存在していましたから、尼削ぎの
女性は、一見すると犯罪人と変わらない存在でした。
どちらも通常の秩序外にあるという点では変わりがありませんでしたが、
出家するほど追い詰められた以上、生半可な状態でいるよりも早く剃髪し
てしまった方が楽だったと言えます。
当時ははした者ほど髪が短かったという事も、考慮するべきでしょう。
切らないまでも、身分の低い女性は髪を結んで着物の中に入れていました
が、これに似た状態で居続ける事は、なかなかつらいですよ。
まず、可能な限り完全な剃髪状態で死にたがったのが人情でしょう。
19& ◆soJ6AUTU8c :2005/03/28(月) 18:24:36
山野野衾さん、尼削ぎについて丁寧に説明していただきありがとうございます。
ところで「鼻削ぎ」なる刑罰が出てきたので驚きました。
平安時代の日本にもそんな刑罰があったんですか?
確か律令には出てこなかったと思いますので、地方で行われた私刑の一種なのでしょうか。
20山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/29(火) 00:15:55
『大鏡』の中で夏山茂樹が、「私どもの女房が密通などすれば、髪を切り鼻
を削いでやるところですが、流石に高貴な方々ではそうもいきませんな。」
といった主旨の発言をしています。
当時は中・下級貴族や民間において、男の斬首や女の外見を変える罰があ
ったと考えられています。近世初期まで慣習で続いた様ですよ。
『小右記』の中で、藤原実資は「父方も母方も兵の家出身ではないのに郎
等を殺害した者(受領クラス)がいた。以ての外である。」と述べている。
『宇津保物語』や『俊頼髄能』にも、斬首刑が出て来ますよ。
21日本@名無史さん:2005/03/29(火) 07:13:38
貴族ってあれだろ?
毎日がセックス三昧
22山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/29(火) 11:05:25
>20の事で
失礼、大宅世継の台詞で、問題となっていたのは密通ではなく夫を見捨て
て妻が去ってしまう事でした。藤原道雅の零落後、その北の方が夫のもと
を去り、大和の宣旨の名で宮仕えをしていた事に関連したもの。
しかし、夫の収入が見込めない以上、仕方が無かったとも言える。
なお当時妻から(実質的な)離縁を申し出る機会といえば、まず尼となる事
でした。世継自身も、妻が尼となるというので寂しそうにしています。
『更級日記』によれば、作者は母が尼となって後邸内にいても父とは別居し
て俗事からは遠ざかっていたので、家政の切り盛りを任されていますね。

>21
何からそう判断されたのですか。
23日本@名無史さん:2005/03/29(火) 11:59:04
>>22
とはずがたりとかからでは?
あれは平安時代じゃないけども。
あれは・・・・・エロイ。
後深草院エロイ。
あれが北朝の祖なんだよなぁ。
24山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/29(火) 15:38:28
あれは・・・ただれまくりですね。後深草院の、

さても、広く尋ね、深く学するにつきては、男女のする事こそ罪なき事に侍れ。
逃れざらん契りぞ、力なき事なり。されば昔もためし多侍。(中略)
この思ひに堪へずして、青き鬼ともなり、望夫石といふ石も恋ゆゑなれる姿なり。
もしは畜類、獣に契るも、みな前業の果たす所なり。人ばしすべきにあらず。

は名言でしょう。色とか何とかいう段階を通り越している。
25日本@名無史さん:2005/03/30(水) 12:23:59
とはずがたりねえ・・・あれは酷い。もはや二条がオトコどもに
輪姦されているようにしか見えない
(特に何とか言う生臭坊主。同じ妻帯僧でも親鸞と比べて品格で見劣りするねえ)
源氏物語にすら引いてしまい「只のポルノだ」と呆れた
津田梅子先生が見たら何と言うやら・・・

そういえば光源氏が藤壺中宮と密通して出来た子供を冷泉帝として即位させるが、
現実の平安時代でならどうなっていただろうか。
国をのっとろうとした「謀反」に、肉体関係を継母に迫ったのだから
須磨どころか沖縄あたりまで(笑)島流しか?
下手したら行く途中で船沈められると思うぞ・・・(汗)
26山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/30(水) 22:32:12
>特に何とか言う生臭坊主。
私は、逆にお気の毒にと思いましたが。彼女と関係をもった仲ではましな方
ですよ。しかし、二条の男関係を承知で出産までさせた後深草院は凄い。

>須磨どころか沖縄あたりまで(笑)島流しか?
当時の西の果ては喜界が島ですが、公にはならないでしょう。
同じ不義の子であった薫の恋が悲恋に終った事から、彼には子を設ける事が
許されなかったという意見もありますが、そうだとすれば冷泉帝の跡を継が
れた今上帝の運命も、自ずから定まって来る事となる
・・・とまあ、これは物語の方ですが。
27日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 12:29:11
藤原氏の氏長者に伝来したと言う朱器・台盤の由来について教えてください。
28日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 12:32:46
少しは自分で調べろや
29日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 12:47:34
> 朱器・台盤

そんなところに並列点を置くな。
30日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 17:50:34
慶長よりも、延喜・天暦の方がいいな
31山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :慶長410/04/01(金) 18:35:35
末法954年というのは・・・洒落になりませんか。
或いは、「武者の世となって849年」で。
32日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 18:58:42
平安じゃないが、神護景雲もイイ
33日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 19:17:59
いや、それならば悲運の元号「天平感宝」の鎮魂でも・・・
34日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 20:02:45
ここはいっそ、法興で。
35日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 21:12:59
神社仏閣板、古文漢文板、宗教板、創価公明板;-pまで
わざわざ見に行ったのに末法はありませんでした(チェッ
36日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 13:08:26
そりゃ、末法の定義に問題があるからだろう。
日本で言われた末法到来年は釈迦の死後1500年とは実際には何の関係もないわけだし…。
37日本@名無史さん:2005/04/03(日) 18:46:57
>>29
>>27はそれさえ分かっていないから質問にきたのでは?

正式には権衡(はかり)もな。
38日本@名無史さん:2005/04/04(月) 05:39:56
長者印、渡庄券文もね。
もと藤原冬嗣の所持品で勧学院にあったものと伝える
39日本@名無史さん:2005/04/10(日) 15:50:45
数十年前には典型的なゴーマン大臣として小説でけなされていた藤原道長だけど、
研究が進んだ現在では意外とまともな人物だったことが分かっているらしいですね。
逆に伊周は意外にも公卿からも一条天皇からも嫌われていたらしい。
(講談社の日本歴史大系?にある大津透の論文)
40日本@名無史さん:2005/04/10(日) 16:34:01
>>39
伊周は政治手法がリーダーシップを取ろうとする余り、露骨に強引だった点が問題視されていた。
一条天皇とは不仲ではなかったがその点を不安視されたようだ。
41日本@名無史さん:2005/04/10(日) 18:55:34
親バカ道隆にちやほやされて、他人の腹の底がわからんオボッチャマのようだったし。
42日本@名無史さん:2005/04/10(日) 22:02:37
道長のゴーマン像は実資の逆恨みでしょ
43日本@名無史さん:2005/04/15(金) 20:59:28
伊周はオボッチャマらしいが、弟の隆家は刀伊の入寇で根性据わったところ見せてくれるんだよな。
このころの貴族って、軍事の勉強はしてたのかな
44山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/15(金) 21:16:41
道長が馬術・弓術に優れていたという話、藤原道綱が弓の師をつけてもらって
いた話、藤原忠実が騎射を得意としていたという話がありますが、個人的な武
芸はかなり達者でしたね。

『古今著聞集』は当時の貴族文化を30項目に分けたものですが、武芸や弓箭も
その中に含まれています(変化などの項目もありますが)。
元々武芸も貴族社会にあったもので、それを専門的に担うのが武士だと考えら
れていたというのは、故石井進先生の弁。

ただ、「兵の家」出身でないものが兵法まで知っていたかどうかは。
大江匡房が兵法を知っていたというのも後世の記録です。もっとも、彼くらい
の学者であれば、『孫子』を読んでいても、おかしくはありませんが。

隆家は、指揮というより、迅速に対応して許可を下した功績があった様ですね。
解状の中には、自ら兵を率いて警固所に向かうといった事も書いてありますが。
抗戦命令の出る前に戦闘が終了したという理由で、公任・行成は恩賞不要論を
唱えていますが、実資が「それでは戦う者がいなくなる」と主張。
結局、意見具申者も含めて報酬が出されています。

現実無視の様にも思えますし、事実現在の目から見るとその通りですが、10
世紀以降は「王土は静謐であるべき」という観念が発達し、律令制下にあった臨
戦体制が解除された事とも関係しているのでしょう。
つまり、平時に危機を感じる意識が希薄化していたと。
45日本@名無史さん:2005/04/15(金) 21:44:39
>>44 現在の日本人は反面教師にした方がいい鴨
46日本@名無史さん:2005/04/16(土) 02:29:07
貴族の個人的武芸というと、スポーツor護身術のイメージ
やっぱり軍事には疎かったんじゃないかと、どうしても思えてしまう
隆家は伊周の全盛期には、ちょっとDQNぽいとこもあったようだが
それが刀伊の入寇の時に現地赴任の帥だったのはラッキーてか?
47日本@名無史さん:2005/04/17(日) 18:15:08
江戸時代の学者・頼山陽の日本政記の「論」の現代訳(1976年刊)が手に入った。
平安関係者を思いっきりぶった切っているのでダイジェスト。

仁明天皇…初めから本気でなかったのに恒貞親王を皇太子にしたのは自己満足のため。また、嵯峨源氏は藤原良房に媚びてばかりで藩屏としては役ただず。
文徳天皇…仁明天皇ともどもやたら大赦を出して却って世を乱れさせたのに政治に励んだ気になっていた。政治に励まず安逸に生きた報いで両帝は若死にした。
藤原基経…陽成天皇を廃した事の功は前漢の霍光に匹敵するが、専横がために名を傷つけた。
宇多天皇…新羅の賊が侵入してきた際の対応が大変よく、天智・桓武両帝に匹敵する賢主である。
菅原道真…配流には宇多天皇や道真自身の咎もあった。新帝が先帝の臣をそのまま信任するとは限らないのにそれに対する配慮がなかった。醍醐天皇に上皇や道真への不満があったからこそ時平の言を用いたのである。
三善清行…宇多天皇は道真を用いる事は知っていても彼を用いる事を知らなかったのは惜しまれるところである。
朱雀天皇…君臣ともに取るに足らない人物ばかりだから、世は乱れ平将門の乱も起きた。
村上天皇…摂関家との関係を配慮しつつ兼明・高明を用いて政治の刷新に励んだ。世は醍醐村上と併称するが、むしろ宇多村上を(名君と)併称すべきである。
藤原実頼…安和の変を起こして無実の大臣を流して官職を私した罪は大きい。
花山天皇…藤原義懐のような優れた臣がいながら、女性の事に迷って皇位を捨てたのは残念な事だ。
藤原道長…一条天皇の時代には人才が多いと言うが、道長一人を抑制出来ずに何の人才か。
一条天皇…志はあったが、伊周を用いて道長を牽制するのは的外れであった。
藤原実資…剛直でありながら、小一条院の守役は引き受けず後朱雀天皇の守役になったことで自らを貶めてしまった事は(著者としては)大変失望させられた。
源義家…後三年の役のときに朝廷が褒賞を与えず、義家に勝手に私財から褒賞を与える事を放置したことが武士に政権を譲り渡す流れを生み出した。
後三条天皇…「大日本史」の論では彼の「誠正」さを論じていないのは不十分である。彼に「誠正」さがあったからこそ政敵である藤原頼通といえども荘園整理令を阻止を出来ず却ってその死去を悼んだのである。


48日本@名無史さん:2005/04/17(日) 19:19:55
>>39
伊周の父道隆が亡くなる少し前、一条天皇が
「関白病の『間』伊周に内覧させる、」
と命令したのに、
「関白病の『替』に(以下同文)」
に書き換えろと伊周のオカンの実家が公文書の役人に強引に迫ったため
天皇に嫌われてしまった(確か藤原実資の日記)

また道隆が亡くなって間もない頃、父の牛車の護衛まわしてくれと天皇に訴えたら
前例がほとんどないことなので過去の記録を調査させ、天皇自身も東三条院に相談した。
結果要求は受け入れられたが、伊周は天皇ではなく女院のところへお礼をしに行ったのでさらに嫌われた
という記録もあった。
多分マザコン扱いされてムカついたのだろう。
49山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/17(日) 19:40:50
>46
まあ、イメージほど軟弱でも無かったという話でしたが。
花山院は馬に乗っていて、隆家に射られていますからね。
逆に、藤原頼経は帰京して供奉を命じられたものの、「馬に乗れなかった」
と分かり、中止されています。他の貴族は馬術に長けていた。

>48
どちらも『小右記』ですね。高階信順が、大外記中原致時に拒否されています。
後半は、随身(院・女院・摂関・近衛府の大中少将につけられていたSP)に
ついて述べたもの。先例は源融の例があるとして支給されましたが、実資が
後日調べたところでは、そんな例は見つからなかったと。
5047:2005/04/18(月) 21:47:13
>>47の続きで保元の乱について「貴族が私的に動かせる兵をもっと早くより多く持てたなら、200年も早く兼通対兼家か道長対伊周兄弟の時に乱が起こっていただろう。保元年間までこうした事が起こらなかったのはむしろ遅すぎるくらいだ」と斬られていました。
51日本@名無史さん:2005/04/19(火) 03:00:23
平安時代の社会やメンタリティが朝鮮臭いことに最近気づきました。
52日本@名無史さん:2005/04/20(水) 12:52:03
>>49
藤原頼経って九条ですか?
確か、九条頼経なら私的外出にはよく馬や輿を用いた話が誰の作だか覚えていませんが中世の輿利用について書かれた論文に書いてあった記憶があります。
53山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/20(水) 13:05:08
>52
そうですか。ありがとうございます。私の方は、『五代帝王物語』から。
54日本@名無史さん:2005/04/21(木) 00:11:34
>>50
その時代だと、満仲一族が道長に祇候していたから、勝負にならなくない?伊周につくやついないでしょう。
貞盛流を抱えた実資も、なんだかんだいって、道長を支持するだろうし。
55日本@名無史さん:2005/04/21(木) 12:48:17
>>53
ttp://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/122903.html
ここのサイトさんが載せている吾妻鏡安貞3年3/15の「将軍家花を覧んが為永福寺に御出で。水干・御騎馬なり。」の将軍家は頼経ですね。
56日本@名無史さん:2005/04/21(木) 16:52:07
>>47は随分曲解がありますね。
57日本@名無史さん:2005/04/21(木) 18:15:06
>>56
頼山陽といえば、勤皇の儒家として親友の大塩平八郎や幕末の志士などに賞賛された「勤皇派のカリスマ」だからな。
58山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/22(金) 12:42:30
>>55
得手では無かったのでしょうかね。案外口取が付き添っていたとか。
それとも、口実を設けてボイコットしたがったのか。
59日本@名無史さん:2005/04/26(火) 07:56:16
>>58
仮にも摂関家の一員がそんなこと出来るか!って事だったりして…。
60日本@名無史さん:2005/04/29(金) 11:37:42
>>56-57
スレ違いになるが、江戸時代の有名な歴史書(大日本史にしろ頼山陽の著書にしろ、ついでに国学者系も)基本的には反仏教だから、仏教信者が多い古代要人はみんな酷い扱いだからな。
61日本@名無史さん:2005/05/06(金) 21:08:00
藤原緒嗣の「日本後紀」の現代語版が出てたらしいが、3万は高いぞ
62日本@名無史さん:2005/05/06(金) 21:48:15
出たらしいって、出たのもう2、3年前の話じゃないか?
63日本@名無史さん:2005/05/08(日) 13:39:21
ここにいる人たちは皆博識だなぁ。まるでついていけないよ。
ところで聞きたいのだけれど。上にも少しでていたけれど、
平安末期から鎌倉初期にかけての庶民の生活を知りたいのだけれども
なにか良い資料ないかな。どうしても見たいのだけれど調べ方がわからなくて。
6461:2005/05/08(日) 18:09:10
>>62
オレは先週知ったんだよ(悪いか〜(涙))。
65山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/08(日) 22:27:54
>>61
ジュンク堂の店頭にまだ出ていますが、ブック・オフで『国歌大観』が一巻
一万円前後で買える事もありますから、案外・・・。

>>62
庶民の生活ですか。とりあえず、『梁塵秘抄』や『伴大納言絵巻』では。
どちらも後白河院絡みですが、編纂にはあらゆる階層について掌握してお
かねばならないという院の政治的意識と知的好奇心が作用していたのでは
ないか、という説もあります。
後は、やはり『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』ですね。歌論書もいい。
66日本@名無史さん:2005/05/09(月) 00:46:52
>>65
おお!ありがとう。
つまらない質問に手を煩わせてしまったようで、すまん。
早速読んでみるよ。
67日本@名無史さん:2005/05/09(月) 03:50:55
>>63
『平安遺文』『鎌倉遺文』
68日本@名無史さん:2005/05/10(火) 21:46:57
>>65
山野先生、どこのジュンク堂かヒントだけでも教えてください…。
69山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/10(火) 22:30:07
>>68
割とあちこちで見かけた気がしますが、ご購入になりたいのですか。
家に置くのなら、国史大系本で良い気もしますが。
とりあえず、先日広島駅前のジュンク堂で見かけましたよ。
70日本@名無史さん:2005/05/11(水) 02:02:58
>>山野野衾さん
大河ドラマ『義経』で建春門院滋子が臨終のとき頭巾で頭をすっぽり覆った尼姿でしたけど、
もうあの頃には尼削ぎは行われなくなっていたんでしょうか?
71山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/11(水) 02:20:50
上で述べた通り、尼削ぎ→晩年に剃髪という手順で、学習漫画でもものによ
っては池禅尼や北条政子が尼削ぎで描かれていますが、臨終時に剃髪してい
たからといって、尼削ぎが無かったとは言えませんよ。
また、有名な法金剛院にある待賢門院の肖像画では、頭巾着用とはいえ、よ
く見ると尼削ぎの髪が見えています。
72日本@名無史さん:2005/05/11(水) 03:55:45
またthe endか
7368:2005/05/11(水) 12:10:41
広島っすか…神保町の古書店を探します(涙)
74日本@名無史さん:2005/05/11(水) 18:09:16
75日本@名無史さん:2005/05/13(金) 23:21:10
>>73
「本やタウン」で相談してみ。
76日本@名無史さん:2005/05/14(土) 07:45:08
平安貴族とは俺のこと
7768=73:2005/05/14(土) 18:41:25
結局、神保町の三省堂で買いました。
神田祭の神輿行列が見れましたよ。
78日本@名無史さん:2005/05/15(日) 08:05:53
定価で買ったのか。金持ち王子うらやましい。
7968=73:2005/05/15(日) 11:26:21
サラリーマンの安月給で貯めた貯金をボーナスでの穴埋めを期待して放出しましたが何か?
80山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/15(日) 14:28:39
その覚悟やよし!しかし、そのお金で逸文系の本をお買い求めになられた方
がよろしかったのでは・・・・いやいや、今更ですが。
ボーナスが出た日の為に、今の内にお伝えしておきます。
81日本@名無史さん:2005/05/17(火) 13:00:11
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1087889438/51
51 :日本@名無史さん :04/10/26 22:27:08
平安貴族というか、皇族が子供の政所・侍所の雑事を始める(御堂関白記にて)ってどういう意味ですか?
通過儀礼なのかなんなのかよくわからなくて…。調べても出てこなくてここの力をかしてもらうことに。
誰かわかる人、教えてください
82日本@名無史さん:2005/05/21(土) 00:23:13
平安時代の美人顔=引き目鉤鼻という常識はもう古い、と指摘されてるけれど、
それじゃあ男女の体格やプロポーションではどんなものがもてはやされていたのか気になる。
体の線を見せる服はあったらしいけれど、プロポーションについて述べた文のある古典
にはまだお目にかかれないままなんだよねえ。
83山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/21(土) 00:35:45
「すらりとしていた」ぐらいの事は、『源氏物語』で見た憶えがあります。
84日本@名無史さん:2005/05/21(土) 01:01:07
貴族の男女の華麗な和歌の応酬を見る度に思うのだが...






多分俺は、この時代でももてねぇ orz
センスある歌を作れる気がしねぇ。
85日本@名無史さん:2005/05/21(土) 01:08:04
なんかちょうどいい流れ?になってる。
直立アライグマ見て、ふと思ったんですが平安時代の人と現代人を比べて、身体的な進化ってあったりすんのかな。
ニホンザルも今以上に猿だったとか。
86山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/21(土) 01:20:54
>>84
男が漢詩を詠み、女が和歌で返すといった例もありましたが。
それが駄目なら、音楽でも。乗馬・弓術でも名は知られますよ。
もっとも、橘則光は歌が理解出来ず、清少納言と別れていますが・・・。
その反面、膂力で知られた事は、当時の日記や『江談抄』に見えている。
軍事貴族が赴任する事の多かった陸奥守に任ぜられたのも、納得(?)。

>85
進化は日本史の対象外だと思いますが、千年程度では無いでしょう。
87日本@名無史さん:2005/05/21(土) 07:16:37
進化というより栄養状態の改善とかによる体格の変化とかはあったんじゃないの?
88日本@名無史さん:2005/05/21(土) 12:59:31
『源氏物語 六条院の生活』ちう本によると、
平安時代の貴族女性は立って歩くことは滅多になく膝行生活だったらすぃ。
だから長髪をくくって無くても足に絡まることもなかったし
あの長袴でもけつまづくこともなかったと。
あの重い着物を着て膝行だったら骨盤が思いの外発達していたかも知れないと想像するが
この時代の完全な人骨ってほとんど見つかってなかったような…。

後、平安時代の貴族女性は屋外に出ることがはしたないとして厳しく禁じられていたから
日光を浴びない事によるビタミン不足で”くる病”の人が多かったんじゃないかとも想像しているが。
89山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/05/21(土) 17:22:38
『枕草子』や『とはずがたり』では膝をすっている他、腹ばいに近い姿勢で
食事をとっていたのを、外泊中に山荘の主である男性に笑われている場
面も出て来ますね。

>”くる病”の人が多かったんじゃないかとも
おそらく、正しいでしょう。どうしても疫病や糖尿が先に思い立ちますが。
90日本@名無史さん:2005/05/23(月) 12:49:46
怨霊に取り殺された例も(笑)
91日本@名無史さん:2005/05/26(木) 00:46:01
やっぱりアライグマって書いてたか・・・。
1千年程度じゃ顕著な進化はないようですね。穀物を主食にした日本人は腸が長いとか聞きますけど、平安時代は今より短かったりしたかな?
「〜年後の人はアゴが細い」なんてCGを一時期よく見ましたが、進化とはいかないまでも、顔も食生活による差はでそうですね。

レッサーパンダは直立型の千葉パンダと、前のめりながらも二足歩行する横浜パンダを掛け合わせれば、数世代後には真っ直ぐ立ってスイスイ歩けてるかな。
92日本@名無史さん:2005/06/03(金) 00:35:22
平安時代の病気といえば天然痘もありますね。
貴族の厚化粧はアバタを隠すためだとよく聞きますけど、どれだけ厚く塗らないといけないんでしょうねえ・・・

それにアバタが残ると顔の見た目ってどの程度の酷くなるんでしょうか。
93日本@名無史さん:2005/06/03(金) 01:04:16
>>92
ニキビがキツかった松井秀喜が参考になるんじゃないの?
94日本@名無史さん:2005/06/03(金) 05:15:53
でも、あの白粉は鉛が入ってて、お肌に悪いって言うよね
95日本@名無史さん:2005/06/03(金) 09:53:10
>>94
お肌どころか体に悪いと思うよ。>鉛

平安時代じゃなくて恐縮だけど、江戸時代の大名、柳沢家の歴代の
子供の出生とその後について調べたお医者さんがいて、子供の死亡率が
異常に高い(庶民を上回る)のは、母親や乳母の胸まで塗りこんだ白粉に
よる鉛中毒ではないか、という見解だったよ。
96山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/06/03(金) 23:05:53
>どれだけ厚く塗らないといけないんでしょうねえ・・・
落ちない程度に薄く、破顔すれば剥落する程度には厚く。
頬紅は、周辺に行くほど薄く塗られましたが、院政期以降はただ丸く塗るものに。

>それにアバタが残ると顔の見た目ってどの程度
あればかりは、資料画像を御覧頂く他ありませんね。
97日本@名無史さん:2005/06/05(日) 12:05:00
あの白粉って今のクレンジングみたいに
寝るときは洗ったのかなあ。
塗りっぱなしだったら肌に凄い負担だよね。
98日本@名無史さん:2005/06/18(土) 00:51:53
>プロポーションについて述べた文のある古典
にはまだお目にかかれないままなんだよねえ。

このころはバストサイズはどうでも良かったのかもしれないね。
尻(腰周り)なら出産に関わるだろうから重視されたかもしれないけれども。
99日本@名無史さん:2005/06/21(火) 19:44:31
あのー、奈良時代から平安初期、中期に至る衣類の変遷を
知りたいのですが、何か良い手がかりになる書物はありませんか?
100日本@名無史さん:2005/06/22(水) 01:36:41
平安時代は仕切りに屏風が使われていたと聞きますが
どうやって使われていたんでしょうか?

いや仕切りとして使われている、とはどこでも
書かれているのですが、四方八方を囲っていたのか
それとも違うのかが気になりまして。
101日本@名無史さん:2005/06/22(水) 12:32:58
>>99
実はその頃の衣服の変遷は一番分かっていない。

参考になりそうなのは
『日本女性服飾史』
『原色 日本服飾史』
あたりかな。両方とも井筒雅風氏著で光琳社出版から販売中。
しかし高額本なので図書館にあるようなら借りた方がいい。
ttp://www.iz2.or.jp/shop.htm

>>100
『源氏物語絵巻』など見ると几帳と組み合わせて部屋の一部を仕切るように使ってるね。
平安時代の寝殿造は一つの屋敷の中の中に襖や壁がほとんどないスケルトンインフィル方式(w)なので
10299:2005/06/24(金) 11:06:30
>>101
レス、有難うございます。
うーん、やっぱりそうでしたか・・・。
本のほうは地元の図書館には無いようなので、今からコツコツ
お金を貯めて購入したいと思います。
103日本@名無史さん:2005/06/24(金) 13:08:30
>>99=>>102
他府県の図書館同志でも取り寄せサービスできるはずなので、
駄目元で一度問い合わしてみては。

ちなみに『原色 日本服飾史』のほうは、
紹介したHPに載っている「日本風俗史」のコーナーと
載っている内容はほとんど一緒です。
104100:2005/06/26(日) 04:46:14
>>101
ありがとうございます。几帳ですか。


どうでもいいですが几帳面だと出るのに几帳は変換されないなあ。
105日本@名無史さん:2005/06/29(水) 13:49:58
藤原定家の「明月記」にはかに星雲の記事が出ている事で有名ですが、
某事典サイトによると、爆発が観測されたのは1054年になっていました。
一世紀ほどずれているのでは?
106日本@名無史さん:2005/06/30(木) 00:38:19
彼女に平安時代の女性のような長い髪にしてほしいと思っています。
今は少し肩に掛かるぐらい。いったいいつになることやら。
107日本@名無史さん:2005/07/03(日) 05:56:42
>>106
一年で10cmとして、身長と同じくらいになるには
少なくとも10年〜15年はかかるな。
つーか、長い髪はシャンプーだのブラシだの手入れが大変。
おまいさんがやってやれよ、お手入れ。
108日本@名無史さん:2005/07/04(月) 10:47:20
>>107
手入れ、もちろんするつもり。でも、平安時代の女性は、
どうやって髪の手入れをしていたんだろう?忠実に再現してあげようかな。
109日本@名無史さん:2005/07/04(月) 11:42:00
平安時代に書かれた物語や諸史料から当時の洗髪方法を分析し
実演した猛者がいるらしい。
ttp://kyoto.cool.ne.jp/eva_genji/040103hair.htm
良ければご参考に

ちなみにこの時代の女性の洗髪は事前の準備も大変な一大事業であり
「洗髪」が「忌引き」などと共に休暇を取る正当な理由になった。
110日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:01:17
平安貴族の男色は、どのような方法で交わって居たのでしょうか?
まだ「男色四十八手」は成立して居なかったでしょうし。
分からない事どもが多う御座居ます。
111日本@名無史さん:2005/07/04(月) 12:06:15
>>108
当時のシャンプーに当たるのが『ゆする』と呼ばれる、米のとぎ汁。
これで洗ったり、櫛で梳かす際の整髪料にしたりしたらしい。
洗髪したら、寝転がって髪を広げて櫛を入れつつ扇などで乾かす。
数人の女房などにやってもらうんだけど、髪の毛の分量が半端じゃなく
多いから、丸一日がかりだったらしい。一人ではキツいかとw
ついでに、洗髪は月に一回程度。もちろん、洗髪に適した吉日を選んで
やるのがベターだったらしいす。
櫛入れは毎日、きっちりと。毛先にゴミが絡みついたりしてこれまた大変。
『ゆする』の容器や櫛なんかも蒔絵や「黄楊」など細工や材質が様々。
道具を揃えるのも楽しいかも。(どうやって手に入れたらいいのかは不明w)
112日本@名無史さん:2005/07/04(月) 14:16:53
>>106
髪を伸ばすのは簡単。
ほっとけば伸びる。
だけど髪を伸ばし、それを美しく維持するのはとてつもなく大変。
手入れするつもりとか言ってるけど無理な話。
手入れって言うのは、シャンプーとブラッシングだけじゃない。
第一髪は「長い」ってそれだけで大変。

美容板の髪の手入れ系スレで寝言言って叩かれて来い。
113日本@名無史さん:2005/07/05(火) 20:59:04
>>106は、どうして彼女にそんなに長く髪を伸ばしてほしいんだろ。
114日本@名無史さん:2005/07/10(日) 12:24:00
>>113
平安女性が好みなんだよきっと。
物語絵巻なんかがグラビアに見える、とかw
115日本@名無史さん:2005/07/10(日) 16:21:28
ちょっとまて、「平安時代の成人の貴族で在家の女性」とは書いてないぞ。
116日本@名無史さん:2005/07/11(月) 04:31:35
うなゐ髪でいいじゃん
117日本@名無史さん:2005/07/12(火) 10:05:53
>>115
あー、尼そぎって事かな?

とこれで、あれって通常どの位の長さにしてたんだろうね。
118日本@名無史さん:2005/07/16(土) 11:47:15
尼そぎで思い出したことがある。
一条天皇の中宮彰子=上東門院は最初の出家で尼そぎ、数十年後息子の後一条天皇の死後に
さらに完全剃髪したと本で読んだ。
でもそれからさらに後の藤原実資の『小右記』に、「上東門院が髪を『梳かせて』いると・・・」
と言う記述があった。
どういうことだ?また伸ばし始めたのか?
119山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/07/16(土) 18:45:48
『小右記』は、長元5年(1032)まででは。後一条天皇が崩御されたのは、
長元9年(1036)。無問題です。
尼そぎの長さは、肩の辺りまでであったり、腰の辺りまであったり。
120日本@名無史さん:2005/07/18(月) 23:57:19
118です。
山野さんありがとう。
このサイト、これからも頻繁に尼削ぎ投稿が出没しそうですね(笑)
そういえば記録に残っている日本最古の尼削ぎした女性って
いつ頃の時代のどんな人なんでしょうね。
今のところ東三条院より昔の女性で尼削ぎした人の記録が見つからないので
困っているのですが。
121日本@名無史さん:2005/07/22(金) 01:46:12
尼削ぎと同様に出家者の装束も気になっていましたのでお聞き
したいのですが。

出家した人は皆墨染めの衣に袈裟とばかり思っていました。
でも大河ドラマで出家した時子や清盛は袈裟をせず、それは
きらびやかな装束を着ていました。
在家の場合はそういうものなのですか。
それとも高い身分だからでしょうか。
122日本@名無史さん:2005/07/25(月) 14:17:13
佐伯有清せんせ、亡くなったのな
123山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/07/27(水) 16:35:24
尼そぎやその衣装であれば、『当麻寺縁起(絵巻)』に出て参ります。
清盛は、病をきっかけに出家しており、明雲から正式に戒を受け、始め清蓮、
次いで浄海と名乗っていますが、妻が出家したのもこの時です。
時子の方も、相応の名があった筈ですが・・・分りません。
とにかく、在家ではなく、表向きは遁世者という事になりますが、俗人気分
でいたので、ああした衣装だった可能性はあるのでは。
どうせなら、袈裟付きで出した方が良かったとは思いますが。

入道といった場合、正式な僧尼の他に、中世には在俗のまま落飾して、仏道
修行に励む人の事を指しており、来日した外国人でも、日本人の多くは剃髪
していると記した例が、いくつか存在します。
神主も例外ではなかった訳で、やはり神仏分離以前は仏教国というのが相応
しいでしょう。
利休、西鶴、馬琴、芭蕉、一茶、義太夫なども、落飾していましたが。
124日本@名無史さん:2005/07/27(水) 21:28:01
121です。
お答えいただきありがとうごさいました。
「俗人気分」とあれば頷けます。
当時のファッションの一つとして、派手な袈裟などドラマで見せて
ほしかった気もしますが、そこまで予算が回らないのでしょうね。
『当麻寺縁起』は図書館へ行って見てみます。
125日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:38:05
小右記長元9年12月12日 範国朝臣来云(ry
126日本@名無史さん:2005/08/01(月) 00:36:34
ttp://www.mllhw.com/bbs/UploadFile/2005-7/20057516304816.jpg

この女性が平安美人になりたいそうですが。あと何をすればいいですか?
127日本@名無史さん:2005/08/01(月) 07:35:55
俺の出た大学、先生が学生に平安時代の貴族の装束を実際に着せてくれた。
女子学生でモデルになりたい子は、3年かけて髪を伸ばし、4年で晴れてモデルに。
モデルになった俺のクラスのコの話では、手入れがこんなに大変だとは思わなかったと。
それでも、めったにまとえない衣装を身に着けられてうれしそうだった。
128日本@名無史さん:2005/08/02(火) 01:42:26
【アスベスト】国の機関が986年に被害確認 19年間も石綿対策怠る
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1122906364/
129日本@名無史さん:2005/08/03(水) 04:00:36
>>126
性別を変える
130日本@名無史さん:2005/08/03(水) 11:53:11
>>127
いいなあ、その学生さん。うらやましい。
でも長髪は本当に大変だよ。
洗髪時の抜け毛はすごいし(排水溝がつまる)
かわかないし、もつれるし、切れるし。とにかく時間かかる。
普段動かない&たま〜に洗髪の平安時代人だからこそ、
あの長さに耐えられるんだろうな。
131灰色式部:2005/08/06(土) 09:34:03
平安の貴族たちの食いモンって量は相当らしいけど
あまり上手くないって話。
ホントかな・・・。
132日本@名無史さん:2005/08/06(土) 09:48:08


日本のマスコミ不人気投票やってるぞ 朝日ダントツ!
http://www.amiva.com/an/vote002/tvote.cgi?event=002&show=all

133日本@名無史さん:2005/08/06(土) 11:04:15
127です。
女子学生は現代風美女は、先生のお気に召さないのでNG。
丸顔の古典的な女の子じゃないとダメだった。
ただし男子学生はなぜかイケメンばっか(笑)。
束帯って身長が多少差があっても大体誰でも着れるのが面白い。

134日本@名無史さん:2005/08/06(土) 11:37:29
>>131
調味料も微妙に違う(醤油はこの時代無し)
調理法も今とは一寸違っていた。例えばお米も炊くのではなく蒸していた。
それと、平安時代の貴族は料理は完食するのではなく
ほとんど残すのが正しいマナーというのもどこぞの本で読んだような気がする。

現代人向けに味は改良されていますが、こちらで平安朝の料理を再現しています。
宣伝になってスマソ
ttp://www.rokusei.co.jp/oshina_outyo.html
奈良時代の宮廷料理はこちら
ttp://www.kotonara.co.jp/narapark/cuisine_utage.html
135日本@名無史さん:2005/08/15(月) 18:19:46
134さん
平安時代のお酒は濁り酒ばかりだったって本当でしょうか?
136日本@名無史さん:2005/08/15(月) 18:32:30
清酒の誕生は江戸時代といわれている。
137日本@名無史さん:2005/08/15(月) 20:41:04
あと米も白米を使うのは室町からで
平安の頃は玄米を使っていたそうだ。
138山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/08/18(木) 11:58:58
江戸時代に醤油が普及するまで、調味料は酢か酒に塩を混ぜたものでした。
刺身が肉厚になったのは室町時代ですが、これも故実では酢や酒と塩で食さ
れたと、『貞丈雑記』に出ています。
清酒の直接の起源は江戸時代ですが、原型は室町時代初期からありました。
139日本@名無史さん:2005/08/18(木) 18:48:52
>136-138
で、平安時代のお酒は濁り酒ばかりってことでよろしいのでしょうか?
140日本@名無史さん:2005/08/22(月) 15:05:55
実はあったかもしれないよ<清酒
141日本@名無史さん:2005/08/23(火) 08:41:13
かもしれない、では話にならない。
142日本@名無史さん:2005/08/30(火) 14:01:41
平安時代の菓子はどんな物だったのかな?
143日本@名無史さん:2005/08/30(火) 16:05:28
菓子=果物

今言うところのお菓子ってのは、唐菓子だね。
米粉とか小麦粉とか練って揚げたよなやつ。
他にも餅とか飴とかあったみたい。
ググったらなんか色々引っかかったから、調べてみるといいかも。
144山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/08/30(火) 23:22:56
小麦粉を練って揚げた菓子の事でしたら、『延喜式』や『口遊』などに。
注釈書も参照すれば、写真も載っている場合があります。
菓子が古くは果物を指した事については、伊勢貞丈の考察があります。
145日本@名無史さん:2005/08/31(水) 00:27:06
醍醐食いたい
146山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/08/31(水) 14:32:10
醍醐は表現には使われたものの、実際に作成されたという記録も無ければ、
乳製品の製法を記した書の中に記載がある訳でも無く、実在の食品とは考
えられなかった筈では。よくヨーグルト扱いされていますが。
仏典の中で、「最上の味」としてはよく出て来ます。
乳製品の一種を、個人的に「醍醐」と称した例が、あるかもしれませんが。
147日本@名無史さん:2005/09/02(金) 09:41:54
>>146
醍醐は架空の料理かもしれないんですか。その通りだとしたら残念ですね。
そういえばどうして醍醐天皇なんて諡号になったんでしょうね。
熱心な仏教信者だったのか、はたまた乳製品マニアなのか(笑)
148日本@名無史さん:2005/09/02(金) 09:57:20
>147
醍醐寺を御願寺とし、醍醐寺に陵がつくられたから。
葬儀が仏教式だったりと、仏教好きだったのは間違いないでしょうが。

乳製品マニアじゃなくって、乳マニアだったら醍醐天皇にあこがれる。
149山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/09/02(金) 14:01:19
『増壱阿含経』の中では、醍醐は「最尊最上」扱いですね。
醍醐天皇の葬儀は、『吏部王記』逸文などによれば、道々で夜間に念仏(尊
勝陀羅尼)が念じられたといいますが、この頃から仏教色が顕著になると思
います(天皇の葬送儀礼で)。始まりは聖武天皇でしょうが。
150日本@名無史さん:2005/09/06(火) 23:42:16
山野さんありがとうございます。
醍醐寺→醍醐天皇の順番だったんですか。
確か彼って、藤原時平の中傷真に受けて菅原道真を大宰府に流した人でしたっけ?
151山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/09/07(水) 19:50:10
一条朝の頃には、延喜・天暦の治と呼ばれる時代を実現した人物でしたが・・・。
晩年は、菅家の祟り騒動で御気が休まらなかったかもしれませんね。
臨終出家を遂げられた方ですが、宇多天皇といい、この頃から聖武・称徳朝
以来の、天皇が仏教に精神的に依存される傾向が見えて参りますね。
天神信仰自体、朝日寺の介入など、仏教的要素が無視出来ません。
少なくとも、現在いうところの「神道」から説明されるべきものでは無い。

>確か彼って、藤原時平の中傷真に受けて菅原道真を大宰府に流した人でしたっけ?
時平というより、宇多天皇色を排したかった醍醐天皇ご自身のお考えもはた
らいたものではないか、とする説があります。
『寛平御遺誡』でも存在を重視せよとされていた人物だけに、けむたい面が目
についたのでしょう。道真自身、官位の低かった頃から、何かと孤立しがち
な人物であった様です。肌の合わない人が多く、また後進の育成には積極的
であったものの、選り好みをするきらいがあったらしい。
152日本@名無史さん:2005/09/07(水) 23:53:39
>>146
『伊呂波字類抄』や『政事要略』で出てないですか。
この板で電波扱いされたことのある小林恵子氏が書いておられたのです。
しかし、いまだに事実は確認は出来ません。そして蘇の貢上が多いのは
大宰府の七十壺でしょうか?
『四教義巻』第一にも「乳使成酪蘇醍醐也」とありますが、作り方が
解りません。酪から蘇、蘇から醍醐を作ったのでしょうか?
それは加工工程から加熱醗酵方式によるものですか?
自然発酵方式は、なかった可能性が強いのでしょうか?
153山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/09/08(木) 00:21:50
『伊呂波字類抄』は、製法まで載せている様な本ではありませんよ。
発音と、ものによっては簡単な説明が一行か二行あるだけです。
『政事要略』は、調べるのが大変ですが。
「蘇」は実際に貢納された、チーズの様なものであったらしい。
製法は、乳→酪→蘇→醍醐の順ですが、やはり製造は無理です。
我が国における蘇も、10分の1に煮詰めると『延喜式』で説明さ
れていましたが、8分の1がやっと。その後の醍醐は益々無理。
154日本@名無史さん:2005/09/08(木) 01:50:37
>>153
10分の1が8分の1がやっと。というのは実験された人がいるのですか?
製造が無理といわれるのは、和牛の乳量の問題ですか?
放牧と厩舎飼いで違いはでますか。我が国では如何なる方法ですか?
155日本@名無史さん:2005/09/08(木) 02:17:58
飛鳥寺のPの売店で売ってますよね・・・。

でも、買わないほうが無難な品なのでしょうか、
あれは現代の復元土産品だしなー。
156山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/09/08(木) 21:30:30
味はまあまあですが。蘇については実験されていましたが、乳が和牛のそれ
であったかどうかは、はっきりしません。
157日本@名無しさん:2005/09/15(木) 18:33:33
>>154
ほれっ、そのことについていろいろ書いてあるぞ。
-----------
酪・酥・醍醐ってなに・・・?
http://milk.asm.ne.jp/rekishi/wakeru.htm

>わが国で、『酥』についての製法が出てくるのは『延喜式』です。
>乳大一斗煎得蘇大一升(蘇は酥と同じ)
>つまり『酥』をつくるには牛乳を煮つめて10分の1にする、と解されます・・・
>しかし、牛乳には固形分が12%もあるから、そこまで濃縮することは不可能であり・・・

>さて奥村彪生(あやお)氏はこの『酥』を実際につくってみて、「ミルクキャラメルのように
>ほのかに甘いものができたが、煮つめ具合は6分の1から7分の1がもっともよく、煮つめ
>に煮つめても8分の1であった」(『復元・万葉びとのたべもの』)と書いています。
158日本@名無史さん:2005/09/15(木) 20:51:29
凄いタイトルだがこんな本が出たよ。

『殴り合う貴族たち−平安朝裏源氏物語』繁田信著 柏書房
(2005年9月 229P 四六判  2,310円)

花山院の皇女殺人事件も出ているらしい。
もし、読んだ方がいたら感想などよろしくお願いします。
俺、田舎に住んでるんで大きい本屋がないんだ…。(泣)
159日本@名無史さん:2005/09/16(金) 00:17:17
>>157
基本的に自然発酵方式でなく加熱醗酵方式といえますね。
乳皮は、モンゴルでいうウルムですか。
牛乳をクリームとスキムミルクに分ける西洋式の加工法と違い、
西アジア・インド・チベット型あるいは加工法に複雑なモンゴル型と
あるでしょうが、日本の乳加工法はインド・チベット型ですかね。
160日本@名無史さん:2005/09/16(金) 00:39:09
>>157
その頃の牛って今の改良された牛ほど濃いミルクを出さなかったのでは?
161日本@名無史さん:2005/09/16(金) 10:05:58
>>151
近年では延喜天暦の治は基本的に宇多政治の延長と言われていますね。
162山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/09/16(金) 16:12:41
>>158
花山院の女王殺人事件は、昔の『日本歴史』の論文と、池上先生の御本以来
ですが、記録の抜き出し以上のものである事を期待。
『御堂関白記』を読んでいれば、この手のネタには不自由しませんからね。
163日本@名無史さん:2005/09/16(金) 22:10:07
昔のヤツは喜怒哀楽激しいからなー。すぐ大声で怒ったり泣いたりしたようだ。

まぁフーコーじゃないが、近代以降の人間は規律訓練されてるから、
ほとんどないが。
164日本@名無史さん:2005/09/17(土) 20:15:50
>163さんほかへ
そうそう女性も凄いんだよねえ。
蔵命婦のウワナリウチ事件だって「小右記」だったか「権記」にあったね。
あの方、頼通のおんばさんだったもんね。
165日本@名無史さん:2005/09/21(水) 01:40:27
依りましについた物の怪の退散現場とか、
怖いもの見たさで、実際が気になりまつ。

調伏の僧侶の声、まじないの音、焚かれるごまの匂い、
髪の毛振り乱してのたうちまわる依りましの女・・・・
うわぁ、怖そう。
166山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/09/21(水) 21:42:04
>>164
後妻打ちなら、『御堂関白記』と、『小右記』では。『宝物集』には、庶民
の女たちの習慣だとありますが、「蝗と后は物ねたみせぬもの」という
俚諺がありましたからね。建前であった事は、藤原安子の例を引き合いに
出すまでも無いでしょうが。

>165
ついでに、庭では陰陽師が祭文を読み上げている最中。神事の最中だと僧
を呼べないので、加持に頼れない。
『河海抄』であったか、邪気(物怪)の臭いは、芥子に似るとか。
167日本@名無史さん:2005/09/23(金) 13:06:30
>>166
源氏物語の六条の御息所が、
生き霊となって出産後の葵の上にとりついてたので、
いくら髪を洗い衣を替えても芥子の匂いがとれないー・・・
って場面がありましたね。

168日本@名無史さん:2005/09/23(金) 20:43:49
中宮安子が芳子に、土器のカケラを投げ付けた件ですが
信憑性はどのくらいなんですか?

いくら隣の殿舎とはいえ、広いだろうし、后がそんなに端に寄ってくるとも思えないし…
何かのエピソードを基にした、大鏡の作者の作り話とか?
169山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/09/23(金) 21:28:03
>>167
あれは加持に利用された時の臭いの様ですね。
当時生霊について述べたのは、『落窪物語』、『枕草子』など、案外少ない。
やや下って、『夜の寝覚』にもある。

>168
信憑性という程の事は、分りませんね。『大鏡裏書』にも出て来ません。
170日本@名無史さん:2005/09/26(月) 11:26:13
しかし、中関白家の男共は根性ないね
171日本@名無史さん:2005/09/28(水) 01:07:14
>>170

例えば隆家は一条天皇が定子腹の長男敦康親王を東宮に出来なかったのに腹立てて
「何たる腰抜け」呼ばわり・・・
元はと言えば誰のせいだ?根性なしというより卑怯。
172山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/09/28(水) 22:14:54
>「何たる腰抜け」呼ばわり・・・
ええと、何に載っていた話でしょうか。
『江談抄』には、自分を「外戚」と称して失笑をかった高階積善、中関白家
と親しく交際していた為に道長に蔵人昇進を阻まれ、秦の二世皇帝胡亥
の故事に擬えて、「鹿馬」と詠んだ大江以言が登場していますね。
この書には文人の逸話が多いですが、大江匡房の先祖を賞賛し、ライバ
ルに関しては、ことごとくろくでもない逸話ばかり伝えています。
173日本@名無史さん:2005/09/28(水) 23:00:36
道長の倫子腹の娘たちは生物学的にはとんでもない近親結婚をしていますが、後一条天皇や後朱雀天皇の子供たちに
何か障害などはなかったんでしょうか?
174日本@名無史さん:2005/09/28(水) 23:15:48
子供達も本人も短命でした。
175日本@名無史さん:2005/09/29(木) 21:49:40
>>172
隆家が一条天皇のことを「あはれの人非人や」と思ったという「大鏡」の話じゃないでしょうか。
176山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/09/29(木) 21:56:18
ああ、で道長が「老狐」でしたか。管見の限りでは、ずるい人間を狐扱いし
た一番古い例の様ですね。狐が化かす話は、『源氏物語』にもある。
177日本@名無史さん:2005/09/30(金) 13:31:42
狐話は今昔物語にもいろいろありますね。
道に迷わされる逸話が多いみたいだけど。
178日本@名無史さん:2005/10/01(土) 20:46:02
冷泉天皇は狂乱ぎみだったと聞いたことがありますが、具体的にどんな状態だったのでしょうか
179日本@名無史さん:2005/10/02(日) 03:30:28
山野氏にでも聴いてくれ
180日本@名無史さん:2005/10/02(日) 08:45:50
皇太子始悩心、非尋常、自今日及四月、
(『日本紀略』康保4年2月17日丙子条)
181山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/10/02(日) 12:47:56
>>177
『善家秘記』にも、出ていた様ですね。
>>178
突然火鉢の上に座り込まれたり、笑い出されたり、大声歌われたり。
普段は物静かな方であったそうですが。玉璽を開封されそうになったので、
慌てて関白が止めた事もあったそうですよ。
182日本@名無史さん:2005/10/02(日) 21:47:48
>>181
ありがとうございます 平安貴族に興味があるのでここはいつきても勉強になります

183日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:03:36
山野様
玉璽と言うのは勾玉か印章か、どちらのことなのか教えていただけないでしょうか。
184日本@名無史さん:2005/10/13(木) 23:59:14
冷泉天皇といえば皇太子時代に父村上天皇への手紙に男性器の絵を書いて送ったことがあったとか・・・
185山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/10/14(金) 00:31:02
>>183
玉爾と言われていた為、印章と考えられる事もありましたが、慈円が壇ノ浦
から生還した女房に聞いたところでは、偶然蓋がとれた中身は、二連になっ
て四つづつ玉のついた飾りであったそうです。勾玉でしょう。

>>184
『元享四年具注暦裏書』ですね。>181の逸話もこれがソースです。
186山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/10/14(金) 20:26:19
☆いざ☆鎌倉時代史総合スレ☆鎌倉☆
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1129289111/l50
もう少し後の時代をお話になりたいという方はどうぞ。
この板、特定の時代以外は立場が弱いので・・・。
187Nana:2005/10/14(金) 23:42:42
朝議にはどんな人が参加していていたのですか?
参議しかわかりません。もっと詳しくお願いします。
188日本@名無史さん:2005/10/14(金) 23:48:16
ひとくちに朝議といってもいろいろ種類があるからなあ。
摂関政治期には、基本的には現職の公卿(大臣・大納言・中納言・参議)限定かな。
摂関は天皇の代理なので公卿会議には原則として参加しない。
189Nana:2005/10/15(土) 00:09:31
188さん、ありがとうございます。
どの史料に載っているんですか?小右記とかそういった類で
190Nana:2005/10/15(土) 00:15:30
追加です。祭祀関係の朝議について調べたいんです
191日本@名無史さん:2005/10/16(日) 19:36:41
>>186
山野さんの偽者が現れているようなのでご注意あれ。

555 :山野野衾 :2005/10/07(金) 07:56:43
前原は民主党をぶっ壊して自民党に合流したいに違いない。
それで民主党のリベラル地盤、九条改正や、労組批判、
市民派菅グループ、横路社民グループを排除。
次々に民主党の支持基盤を壊しにかかってる。
極右の考えそうなことだ。

民主党を壊されたくない民主党支持者は前原を倒そう!

>>173
本人は彰子は長生きだろうが。
192日本@名無史さん:2005/10/16(日) 21:03:20
>>191
>本人は彰子は長生きだろうが
それは知ってます 彰子の子供の後一条天皇、後朱雀天皇は彰子の妹たちと結婚して子供ができてるから
彰子の孫(甥、姪)たちのことを聞いてるわけです
193日本@名無史さん:2005/10/16(日) 21:23:56
後一条と威子の娘の二条院は80ぐらいまで生きたと思った。
後冷泉は長生きはしなかったが、変なそぶりは聞いたこと無いな。
194日本@名無史さん:2005/10/19(水) 09:00:38
生物学的に、兄と妹で結婚して、奇形児が生まれる確率は1/4じゃなかったっけ。

確かに奇形が出る可能性は一般よりは高いだろうけど、必ず影響を与えるとは言えないんじゃないかな。
195ポテト男爵:2005/10/23(日) 01:20:31
遅レスですが、清酒の歴史。

ttp://www2.osk.3web.ne.jp/~aranishi/seishu.htm
>戦国時代の天正6年(1578年)、尼子氏の家臣山中鹿之介の長男新六幸元が
>遠縁を頼ってここ鴻池村に住みつき、酒造りを始めました。最初は濁り酒を造っていましたが、
>慶長5年(1600年)に双白澄酒(清酒)の製法を初めて発見することができました。


素行不良で解雇したDQN従業員が逆ギレして、にごり酒の樽に灰をブチ撒けたら
清酒ができたって伝説があるそうな。

おまけ
ttp://www.oita-sake.or.jp/history.html
焼酎は少なくとも1559年には言葉として存在していたみたい。
196日本@名無史さん:2005/10/27(木) 13:12:20
http://www.0105.jp/~mizuki/takabaseido1.html
>■最高権力者の象徴
>鷹狩の歴史を眺めていくと、鷹狩が最高権力者の象徴として機能していたことが理解できる。
>鷹狩を好む桓武天皇や嵯峨天皇の平安初期になると鷹狩は天皇の大権と結び付き、狩場は禁野(しめの)と呼ばれ庶民は立ち入ることができず、
>鷹狩を行える者は六衛府次官以上だったというから官位では従四位下以上となり、江戸期に置き換えると家門や有力大名以上となる。
>家康は征夷大将軍になった翌年の慶長9年(1604)、有力大名へ鷹狩禁止令を、慶長17年(1612)に公家へ鷹狩禁止令を発布し、鷹利用の権利を統制する。
>鷹狩は権力の象徴であり、それを統制できる者が最高権力者の証しであり、その権利を一部支配下の者へ分け与えたり、鷹狩による獲物を分け与えたりすることは、
>最高権力者の施しとみることができる。よくいえば、儀礼的な意味もあったわけである。
197山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/11/04(金) 00:55:37
鷹の産地として知られたのは、三善清行の『意見十二箇条』でも言及されて
いた陸奥でしたね。『古本説話集』や『今昔物語集』には、陸奥の鷹獲りが鷹
の卵を獲ろうとして難に遭い、観音に救われたという話があります。
上古の狩りは鹿や猪も対象としていたものが、中古以降は鷹で獲れる小鳥
や小動物が獲物となる。もっとも、後鳥羽院は猪狩りがお好きでしたが。
鷹の餌には、小鳥の他に犬の肉がよく用いられました。
198日本@名無史さん:2005/11/04(金) 19:15:02
山野さんはこっちのスレは最近すっかりお見限りだね
199日本@名無史さん:2005/11/13(日) 13:04:07
この時代の漢文日記に興味があるのですが、どんな書籍がいいでしょうか。
御堂関白記や小右記、御記などを読んでみたいのですが、素人にも
読めるものなのでしょうか。
200山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/11/13(日) 19:24:39
>>198
でもありません。

>>199
少なくとも、私は大学に入ってからぶっつけ本番、それまでの知識で。
『小右記』は高いですよ。お金に余裕がおありでしたら、どうぞ。
『御堂関白記』は文章が個性的ですし、『権記』はどうでしょうか。
御記は、『三代御記逸文集成』というのがありますが、いくらで買えるか。
201日本@名無史さん:2005/11/14(月) 08:59:10
>>200
有難うございます。
そうですか。お高いのですね。うーん、どうしたものでしょうか。。。
202日本@名無史さん:2005/11/14(月) 13:28:45
国立劇場で宮内庁雅楽部の公演を聞いてきたよ。

先々週は京都御所の公開にも出かけたので、
宮殿内での和琴の響きや久米舞を想像でできで楽しいひと時でおじゃった。
203日本@名無史さん:2005/11/14(月) 22:14:02
ああ、そういえば雅楽を忘れていた。
こないだ白黒映画の源氏物語のビデオをレンタルしたけど、
源氏が舞台の上で木の盾と刀を持って舞っている場面があった。
あの踊りの題って何だったっけ?
204日本@名無史さん:2005/11/18(金) 12:05:48
初歩的な質問ですが。

皇女等の名前、
たとえば定子って「ていし」と「さだこ」と
音訓どちらの読みにすべきなんですか?
205日本@名無史さん:2005/11/18(金) 12:40:31
本来は訓だが、正確な読み方が明らかではない人物が多いので、
音で読んでおくのが穏当でしょう。
206日本@名無史さん:2005/11/26(土) 15:52:40
良芸子ってなんて読むんだろう?
207日本@名無史さん:2005/11/27(日) 13:37:52
ミキコかな?
208日本@名無史さん:2005/11/27(日) 19:15:08
よきこ

>>199
御堂関白記は読み下しに注釈を付けたものが出てるので、初心者はそれがいいかと。
春記も読み下しがありますが、品切れだと思います。
209日本@名無史さん:2005/11/27(日) 22:06:55
をきこ
210山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2005/11/28(月) 18:38:27
>208
全部揃えるのが大変ですが、確かにあれをお奨めするべきでしたね。
女性名と言えば、多子(まさるこ)など、ルビが振っていなければ分かりま
せんね。角田先生は、無理の訓読みで通してらっしゃるので、読み難い。
211日本@名無史さん:2005/11/28(月) 20:31:16
通過儀礼について調べている初心者マークの大学生です。
敦成親王誕生時の産養で、勧学院学生が参賀した日付が、
権記では9月13日なのに対し、紫式部日記では17日となっています。
2日とも参賀したのか、それともどちらかが誤りなのか……
どう解釈すれば良いのでしょうか。
212日本@名無史さん:2005/11/28(月) 22:04:38
うぶやしないは3・5・7・9夜目に行われるから、両方アリなんじゃないのかね。
213山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2005/11/28(月) 22:54:27
名前の読みと言えば、「敦成」を公卿一同は「あつなり」だと思っていたら、
彰子から「あつひら」じゃなかったかと言われたという話がありましたね。
今は実名でもほいほい出していますが。
214日本@名無史さん:2005/11/29(火) 14:58:23
やんごとない方のお名前は畏れ多い、ってことなのかしら
215日本@名無史さん:2005/11/30(水) 01:22:37
平安時代の女性の名前の読み方って、濁音の使用は原則禁止だったでしょうか?
216日本@名無史さん:2005/12/03(土) 18:47:12
217日本@名無史さん:2005/12/20(火) 18:59:20
age
218日本@名無史さん:2005/12/28(水) 19:51:46
>217
いや、○ョジョ知らないから(笑)

話は変わるけど、一人称「まろ」は平安時代既に使われていたと以前ここで目にした。
では「おじゃる」はどうだったのかな?こっちはもっと後の時代(室町くらい)だと思うんだけれど・・・
219山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2005/12/28(水) 20:00:22
「まろ」は『枕草子』や『松浦宮物語』では、女性の一人称にも使われていましたね。
鎌倉時代になって、男性用になって行ったものらしい。
「おじ(ぢ)ゃる」は、天草本『伊曾保物語』や『おあむ物語』では。
口語で書かれた史料でないと、なかなか確認出来ないと思いますが、どなたか
ご高説をお聞かせ下さいませんか。
220山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2005/12/28(水) 20:01:11
221日本@名無史さん:2005/12/29(木) 20:20:21
>>218
「おじゃる」は別に貴族の言葉じゃなかったような気がする。
「おじゃる」が変化して狂言が流行った頃「ござる」になって、
江戸時代の武士に普及したというとこじゃないかな。
222日本@名無史さん:2006/01/01(日) 16:35:50
age
223日本@名無史さん:2006/01/01(日) 16:54:18
「FONY厨」とは:世間では世界的先進企業として名高い家電メーカーソニーまたはSONYを
         「FONY」と称して企業叩きを行う者達の事である。
         主に故障や対応の事で言い掛かりをつけるのが特徴で、口癖は「フォ━━━━━!!」。
         株価が下がると喜び、逆に上がると怒り狂う。 FONY厨は任天堂、Apple、松下等、
         多種多用の市場でソニーに敵対する企業のユーザーが大多数を占めている。

  /:::::::::::::::::::::::::\
/:::::::::::::FONY厨::::::::::::::::\
|:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|
;;;;;;;;;;ノ∪  \,) ,,/ ヽ
|::( 6∪ ー─◎─◎ )
|ノ  (∵∴ ( o o)∴)
 |∪< ∵∵   3 ∵ノ
 \       ⌒ ノ
   \_____/
                      
「FONYつぶれろ!フォ━━━━━!!」
224218:2006/01/19(木) 11:44:54
>山野さん&
>「おじ(ぢ)ゃる」は、天草本『伊曾保物語』や『おあむ物語』では。
>221さん
>「おじゃる」は別に貴族の言葉じゃなかったような気がする。
「おじゃる」が変化して狂言が流行った頃「ござる」になって、
江戸時代の武士に普及したというとこじゃないかな。

ありがとうございます。
天草本と言えば既に戦国時代に入ってますよね・・・
それと貴族でなくても「おじゃる」を使っていたかもしれないというのは興味がありますね。
225山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/19(木) 15:30:10
おじゃる→来る・行く・居る・あるの尊敬語。あるの丁寧語。ござりますの意。
「お出いである」の変化したものという。近世の表記は普通「おじゃる」。
ござる→用法ほぼ同じ。「ござある」の変化したものという。
近世に、おぢゃる⇒ござる説が出ていますが、おじゃる⇒ござるではどうも無
い様です。なお、どちらも成立は室町時代。
ござるは近世後期には「ございます」、「ござります」が普通に。
おぢゃるは別に貴族の専売特許ではありません。
何を参考にしたものか、漫画『子連れ狼』では僧侶や女性に使わせた例があ
りますが、これもあり得る情景です。
226日本@名無史さん:2006/01/19(木) 15:56:53
「おじゃる」なだけに、奥が深いのね〜。
227日本@名無史さん:2006/01/20(金) 02:08:17
「散位」は位階はあっても、現在職掌のある職には何も就いてない「前〜」ということ
だと思うのですが、公卿補任で「前権大納言 正二位 藤○○ 民部卿」と書いてある場合は
民部卿も現職ではないということでしょうか。

散位でも国司になったり移動があるようなので、よくわかりません。
228日本@名無史さん:2006/01/20(金) 06:47:49
>>227
いや、民部卿は現職と思う
引退した公卿が、八省の卿などの名目的官職を与えられて優遇されるのはよくあること
229日本@名無史さん:2006/01/20(金) 10:25:13
>散位でも国司になったり移動があるようなので、よくわかりません。

国司になった時点で散位じゃないだろ。
散位の意味をもう一回辞書で調べれ。
230日本@名無史さん:2006/01/20(金) 11:01:51
>>228
なるほど、引退した公卿の優遇策なんですね。
名誉職のような官職が多いのも頷けました。
公卿にはいろいろ特権が保証されていたんだなと
あらためて感じます。ありがとうございました。
231日本@名無史さん:2006/01/20(金) 13:59:12
>>227
>>何も就いてない「前〜」ということだと思うのですが

かならずしもそうとは限らない。
一度も官職についてない人物だって散位。
232日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:58:03
そもそも前大納言のような高官が民部卿に就任するなどということがありえるだろうか
233日本@名無史さん:2006/01/22(日) 11:19:35
>>232
寛仁四年 正二位前権大納言源俊賢 冶部卿大皇太后宮大夫 
十一月二十九日 遷任民部卿

書き込む前に、公卿補任くらいちゃんと読めよな
234日本@名無史さん:2006/01/22(日) 14:21:36
>冶部

どうやって間違う?
後白河天皇の頃にもいた気がする。前大納言で民部卿。
235日本@名無史さん:2006/01/23(月) 21:42:14
永暦元年に正二位権大納言藤原季成が民部卿・皇后宮大夫のまま
納言を辞して散位になってるよ。二条天皇の時だけど。
236日本@名無史さん:2006/01/23(月) 22:41:32
『公卿補任』の「散位」の項目は、本来の散位の意味ではなく、
現役の「議政官」ではないという意味、なのかな?
237日本@名無史さん:2006/01/26(木) 18:10:29
平安の貴族様に質問、
天皇の一夫多妻って、平安時代以後
いつまで続いたの?ほら、あの
皇后・(中宮)・定子・更衣・女御
とか言うの。
238日本@名無史さん:2006/01/26(木) 19:10:24
>>237
明治天皇まで
239山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/26(木) 19:30:38
一夫多妻はともかく、
>皇后・(中宮)・定子・更衣・女御
は室町時代には一旦途絶したでしょう。中和門院・東福門院の時代に女御・
中宮が再興されましたが。
しかし、さりげなく「定子」が混ざっているのはなんです。
240日本@名無史さん:2006/01/26(木) 19:49:50
天皇家は一夫多妻ではなく一夫一婦多妾制だっていっていたのはどの先生だっけ?
241日本@名無史さん:2006/01/26(木) 20:09:17
それは知らないが、中宮(道長の娘の彰子以降は二后並立)とか皇后だけが
本当の妻。

女御は、中国では着物を着せる女官という意味。日本の更衣と同じ役目。
それが転じて、夜伽の専門、子供たくさん作るための女官が、日本では
女御だろう。つまり女御は妻ではない。
更衣は、始めから女官。服着せる係りの女官。でも、天皇も服着せてる女官
を「あ、いいな。」と思うこともしばしば。
それで、更衣を身分低い妃と思う人もいらっしゃるだろうが、更衣は身分の低い貴族
の娘がお手つき(ほとんどは期待してないくらい後宮は女性多い。)と、収入見込ん
でなる女官という職業。

まとめると、皇后、もしくは中宮以外側室です。
明治天皇の皇后も実は女御だったのですが、維新によって、あやふやなまま
皇后になっていたらしいですよ。彼女以外は女御制度を変えた後、入ったから
側室です。

ちょっとスレ違いスマソ。
242241:2006/01/26(木) 20:38:55
あ、付け加え。

女御:天皇の子供作る役目の女官であるため、天皇以外の男性と関係
   を持つこと禁忌。

更衣:天皇に服着せたり、天皇の衣装を調えるのが役目の女官である
   ため、別に天皇のお手つきにならない限り、他の男性と関係を
   持って良い。尚侍も秘書だから、お手つきでも、他の男性と将
   来関係持って良い。


皇后や中宮になれる可能性がある女御以外、別にお手つきにならない限り
基本は自由。女官、女性公務員。
女御だけ、完全に最初から側室。




243237:2006/01/26(木) 22:51:08
>>239
ありがとうごさいました。
定子は間違いです。
人の名前でした。
244日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:34:21
・・・マジでまちがってたのか・・・
釣りだと思ってレスしなかった漏れorz
245日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:32:59
「殴り合う貴族たち」誰か読んだ?
246山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/01/27(金) 22:56:53
立ち読みで済ませました。まあ、割と有名な話が多かった気が。
ご購入されたのでしたら、ご感想をお聞かせ頂きたく。
247日本@名無史さん:2006/01/28(土) 09:07:38
トリビアと同じで、知ってる人には常識的な話だが、
一般の人には目新しくってウケるだろうなぁ、
でも研究者としての実績にはカウントされないだろうなぁ、と思った。
248日本@名無史さん:2006/02/10(金) 18:44:34
古代学協会はマヂ大丈夫か?
249日本@名無史さん:2006/02/10(金) 18:50:11
一人称「まろ」が話題になったが、当時の天皇は普段自分を何と呼んでいたのだろうか。
源氏物語や枕草子始め古典の原文を高校で習ったとき気になったのだが、
「朕」の使用例が意外と少ないのが気になっていた。
250日本@名無史さん:2006/02/10(金) 22:34:10
後白河法皇は自分のことを「まろ」と言っていた記録がある(「たまきはる」)
251山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/10(金) 22:41:45
女房たちが火事に遭った後、「まろなくて、騒がしまい(ゐ)らせたりける、
いとを(ほ)しさ」と仰せになられたというやつですか。成る程。
252日本@名無史さん:2006/02/11(土) 01:07:19
>>251
安徳天皇のあとの天皇候補を八条女院に語った際の言葉のほうが有名じゃないですか?
253日本@名無史さん:2006/02/11(土) 03:42:33
>>241
英照皇太后が准三后なのに
昭憲皇后が女御なんてあり得ないだろ
摂家の姫だぞ
254山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/11(土) 07:46:50
>>252
言われて思い出したのはそっちの方でしたが、>251がすぐ見つかったので。
やはりこのスレの住人ならすぐ出て来ますか。
255日本@名無史さん:2006/02/11(土) 08:55:45
>>253
江戸時代には皇后予定者はまず女御になるのが例です
256日本@名無史さん:2006/02/11(土) 11:07:22
この頃の下級官吏や中級官吏の身分や服装はどのようなもんでしょうか?
257日本@名無史さん:2006/02/11(土) 11:23:19
平安時代は全部どこかのぱくりだからw
258日本@名無史さん:2006/02/12(日) 16:39:05
平安貴族の酒宴の実態。
「舞妓はたおやかな体つきで舞って、腰には少しの覆いもつけていない。
娼女の柔らかい音声はなまめかしく、口を自在に開閉して歌い、耳目を
楽しませるものは、美麗爛漫として眼前にあり」---本朝文粋 都良香
259山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/12(日) 17:26:52
「早春侍宴賦陽春詞応製」ですか。
耳目を引く箇所だけ抜き出されるのも、偏ったイメージを生じ易く、どうか
と思われますが。『紫式部日記』や『亭子院賜酒記』も有名ですね。
大人しいものでは無かったのは確かですが、後世の『太平記』に登場す
る破仏講の様な乱れっぷりは珍しい。
260日本@名無史さん:2006/02/20(月) 22:54:45
皇室や貴族の「里子」について教えていただけますか。

ある本には、貴族が農家に子どもを里子に出すのは
古代からのしきたりだった、とあったのですが、
素人ですのでイメージが掴めません。
261日本@名無史さん:2006/02/23(木) 01:16:04
>>259
>『紫式部日記』や『亭子院賜酒記』も有名...
って、古文の教科書に引かれるくだりとは別世界の乱痴気例えば
酒宴の席で淫猥なダンスの記事があるって事ですか。
262山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/23(木) 20:21:09
よっぱらったおじさん達の無法地帯です。普段は生真面目であった藤原実資
は酔うと恥ずかしがる女房をつかまえて、着物の数を数え出すという変な癖
がありました。『賜酒記』の方では飲み過ぎてゲーゲー吐いています。
素面で給仕させられる方にはたまったものではない。読む方は面白いですが。
そして、『源氏物語』では対照的に無欠の貴公子光源氏が上品にお酒を飲んで
います。・・・・・実際にはまず有得ない光景でしたが。
263日本@名無史さん:2006/02/24(金) 07:28:04
裾を数えるは、奢侈禁制違反を咎めるためであって、実資らしい。
264日本@名無史さん:2006/02/26(日) 16:24:53
農家への里子は平安朝にはなかったと思うのですが・・・どうでしょう(違うかも)。
貴族は基本的に乳母をつけて父母か外戚の人が養育、しかるべき外戚を持たない皇子女の場合は他人が養育した例もあるのですが。
265日本@名無史さん:2006/02/26(日) 16:39:44
酔っ払って前後不覚になったのって、顕光タンじゃなかったっけ?
なんでも泥だらけの服着て参内したこともあるらしい・・・
266日本@名無史さん:2006/02/26(日) 17:11:14
実資が雑仕女を襲う趣味があるので、頼通だったかが、わざと美人の雑仕女を
実資邸に水汲みに行かせて、襲われたら桶を捨てて逃げてこいと命じ、
あとで「当家の桶を返してください」とイヤミを言ったら実資が恥かしがった
とかいうの読んだ希ガス

関係ないけど、これが疑問なんで教えてください。
清涼殿の「昼の御まし」のような御簾の中のゾーンには、蔵人や侍従は
入れたのでしょうか?
一般の公卿や殿上人は、御簾ごしにしか会えなかったのでしょうか?
たまには中に入れてもらえることとか無かったのでしょうか? 
天皇の命令は勾当内侍がかな文字の「内侍宣」を書いて蔵人に渡すと聞いたのですが。
御簾ごしに口頭で命令しなかったのでしょうか?
267日本@名無史さん:2006/02/26(日) 17:16:49
内侍宣は蔵人が内侍の言葉を書き取るものです。内侍が書くものではありません。
268260:2006/02/26(日) 22:53:03
>>264
そうですか。ありがとうございました。
古代というと奈良・平安だったような気がしたので
ここで聞いてみたのですが、ひょっとしたら「古い時代」という
程度の意味だったのかも知れません。
269山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/26(日) 22:59:37
>実資が雑仕女を襲う趣味があるので、頼通だったかが、わざと美人の雑仕女を
『古事談』です。引用元が逸書になっている事が多いのは残念。
応仁に馬鹿どもが暴れなければ・・・。
270日本@名無史さん:2006/03/07(火) 21:32:00
>>158,245
『殴り合う貴族たち』は今日手に入れて今ボチボチ拾い読みしてる。かなり面白い。
八重洲ブックセンターで立ち読みして買おうかと思ったが、
値段が微妙なのでそのときは見送ったが、やっぱり読みたくなったので
インターネットで購入した。多分2,310円の価値はある。

花山院というのは即位の時いろいろ話題になった人物だが、
入道後も当時の不良貴族の中でも重要人物だったみたいだな。
271日本@名無史さん:2006/03/11(土) 21:17:34
突然に失礼します。日本史版をのぞいたのは初めてです。現在、大学の日本史研究室所属ですが休学中です。平安貴族の美意識・文化について研究していらっしゃる先生をご存じでしたら、差し支えなければ大学名だけでも教えて頂けないでしょうか。どうぞよろしくお願い致します。
272日本@名無史さん:2006/03/12(日) 13:35:59
検非違使左衛門大尉になりたいのですが
273日本@名無史さん:2006/03/13(月) 01:31:50
このスレが適切かどうか分からないけれども、訃報です。

【訃報】歌人・山中智恵子さん死去・寺山修司氏らと「極」を発刊するなど現代女性歌人の第一人者
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1142155328/

こちらのスレに斎宮に興味がある方がいらっしゃるかどうか分からないけれども、
もしいらっしゃるのなら、と思いまして…。
もしスレ違いでしたら、失礼いたしました。
274日本@名無史さん:2006/03/15(水) 09:59:57
研究室に所属というのは良く分からないけど、休学中ってことは院生?
だったらそれぐらい自分で調べなさいな。
275日本@名無史さん:2006/03/24(金) 21:10:47
>>266
>美人の雑仕女・・・
平安朝の美人っていうのは、本当に眉を剃り落としたつり眼に
白粉べったり顔で、黒髪ぼってり重たげな容貌だったのかな。
仄暗い中にそんな面相が現れた日には、全身に悪寒が走りそうだ。
276日本@名無史さん:2006/03/24(金) 22:48:26
まあ、昔の美意識と今の美意識は違うから・・・。
277日本@名無史さん:2006/03/25(土) 13:08:17
お歯黒だけは耐えられん。
加護ちゃんがよく焼き海苔を歯にくっつけて笑わせてたけど。
278日本@名無史さん:2006/03/25(土) 14:06:52
277と同じような感覚で
平安時代の人は白い歯は耐えられんのだろうな
279日本@名無しさん:2006/03/26(日) 00:26:44
>>278
オシメしたままのようだったんだろうな(by 坂田靖子 『堤中納言物語』)
280日本@名無史さん:2006/03/26(日) 10:57:23
>>278
 虫愛ずる姫君なんかは当時の感覚ではどんなふうに捉えられてたんだろう?
281日本@名無史さん:2006/03/26(日) 13:22:32
>>279
>坂田靖子 『堤中納言物語』
お、その本持ってるよ。「虫愛ずる・・・」はなかなかよく描けてたね。
>>280
ものすっごい奇人変人ってかんじじゃない?
282日本@名無史さん:2006/03/27(月) 12:11:56
>>275
美人、美人というが、貴族同士の恋愛では殆ど顔を見てないとか。
「美人という噂」を聞いて最初は文通で、次には通いで夜中に訪問するが、
コトが終わって日が昇る前に帰るのが礼儀になっているから、
顔なんて全然わからんだろうな。
283日本@名無史さん:2006/03/27(月) 17:18:04
村上帝の女御が「たれ目が可愛い」て理由で寵愛されたっていうよ。
284日本@名無史さん:2006/03/27(月) 21:19:15
入内したら素顔見るでしょさすがに。
たれ目って安子のことかあー
285日本@名無史さん:2006/03/27(月) 21:49:08
藤原済時の娘じゃなかった?
名前わすれた
髪がすごく長いとか
古今集全部暗記してるとかで
安子中宮が焼きもちやいて
物なげつけたっていう
286日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:54:12
>>284 
たれ目の美人は藤原芳子。宣耀殿女御のことだよ。藤原済時の娘じゃなくて、姉ね。
眉落としたところに、小さい眉をポンと描くのは顔を全体的にぼんやり幻想的に見せる
効果があったろうね。絵に描かれた美女はあくまで理想系で、実物の姫君にはもとの
顔からくる美点に引かれる要素はあったでしょう。
287日本@名無史さん:2006/03/27(月) 22:55:54
藤原芳子。子に永平親王がいる
288山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/03/27(月) 23:32:17
>>281
諸説ありますが、特に否定も肯定もせずに書いているといったところでしょ
うか。あの時代に個人を対象に一作品描いたのは面白い。
説話文学の中には、特徴を最大限に活かしたものもありますが。

>285
投げられたのはかわらけでしたね。>『大鏡』によれば
289日本@名無史さん:2006/03/28(火) 19:50:36
下記のスレに摂政は正式な役職だが関白はそうじゃないって書いてあるんですが、本当でしょうか?
令外官という意味では摂政・関白はどっちもそうですし、かといって令外官は朝廷の正式な官職じゃないってことにはならないと思うし、よくわかりません。
どなたか教えてください。

http://www.geocities.jp/sou_nihonshi/sekkann.htm
>そのとおり。
>ただ違うのは、摂政は正式な役職、関白は正式な役職ではないのでおじゃる。
>ホホホ
>つまり摂政はちゃんと選ばれた人なのに、
>関白は選ばれてもいないのに勝手に政治をしているわけですか。
>ホホホ。
>まあハッキリ言うとそういう事でおじゃる。
290日本@名無史さん:2006/03/28(火) 20:00:51
>>289
嘘です。
摂政も関白も天皇の詔で任命される正式の職です。
291日本@名無史さん:2006/03/28(火) 22:45:10
じゃあ内覧はどうなの?
292日本@名無史さん:2006/03/29(水) 02:30:44
もちろん内覧も勅による。
正確に言うと、摂政・関白は天皇に限らず、上皇の詔勅(?)によることも多い。
293日本@名無史さん:2006/03/29(水) 14:02:33
摂関の任命って勅ではなく詔によるんじゃないの?
294日本@名無史さん:2006/03/29(水) 16:32:47
摂政・関白・内覧なんかの宣下は国家の最重要事項として位置付けられるので、
勅書ではなく詔書でなされるはず。
ちなみに将軍宣下も同様に詔書。
295日本@名無史さん:2006/03/30(木) 17:47:16
つ政所下文
296日本@名無史さん:2006/03/30(木) 18:09:08
政所下文が?
297日本@名無史さん:2006/03/30(木) 21:21:18
>>288
坂田靖子の「堤中納言」では、
「虫愛ずる姫君は現代で言うと18のねーちゃんが
ムダ毛の処理もせずに頭はスキンヘッドで
ヘアヌードのままスーパーにいくようなもん」
だとか
「それで親が注意すると『人間自然が一番!』とか
『個人の自由を守ろう』とかいわれちゃう」
とかって書いてありましたね。
そう解説されると、虫愛ずる姫君っていうのは、あの時代では
かなり個性的な人だった(控えめな表現)っていうのが
わかります。
298日本@名無史さん:2006/03/31(金) 00:39:35
詔・・・臨時の大事
勅・・・通常の小事
299日本@名無史さん:2006/03/31(金) 09:06:35
詔勅
300日本@名無史さん:2006/03/31(金) 10:39:17
>山野さん

村上天皇中宮の安子が投げた「かわらけ」ってどういう物なのでしょうか?
名前からして陶器のようなものかと思いますが・・・
もしそうならずいぶん凶暴な中宮ですね、冷泉天皇の狂気は母譲りということでしょうか。
301日本@名無史さん:2006/03/31(金) 11:16:08
>300
素焼きの杯のこと。
「かわらけ投げ」で検索してみて。
302日本@名無史さん:2006/03/31(金) 11:34:51
あれって1回使ったら使い捨ての消耗品らしいね。
まあ古代の土師器そのまんまだし、大して生産コストもかからないんだろうけど。
303山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/03/31(金) 19:33:23
>>297
心底どうでもいい話ですが、「自然に帰るのならスキンヘッドは余計だし
化繊だけ着なければいいのでは?」と思いました。
それと当時の百鬼夜行はあくまで「異形の集団」であって、器物霊が行列を
なして来るのは室町時代からだから、真珠庵本などのイメージで捉えるの
は相応しくないという田中貴子先生が口を酸っぱくして主張してらっしゃ
ったお話も思い出しましたね。
しかし、あの時代に「個性」を描いたのはやはり凄いと思いますよ。

>かわらけ
ご説明の暇がありませんで、失礼致しました。
少なくとも、客を集めた酒宴に使用したものは一度に捨てられたもので、今
でもまとめて発掘される事がありますね。
文字でも書いてくれれば良かったのに・・・とは無理な願望。
304日本@名無史さん:2006/03/32(土) 13:19:02
>>295-296
政所下文がなんなの?
305日本@名無史さん:2006/03/32(土) 18:24:07
ところで、悪霊大臣こと藤原顕光の家系は、嫡男・重家の出家後
どうなったのでしょう?
中関白家の子孫の一部は、堂上の水無瀬家などとして続いているけど、
実資の小野宮流は、鎌倉期以降、公卿に列することもなく没落してるね。
顕光の家系の場合は絶えちゃったって事なのかな?
306日本@名無史さん:2006/04/03(月) 00:00:49
小野宮流って堂上には残らなかったの?
307日本@名無史さん:2006/04/03(月) 03:19:02
で、摂関・内覧の任命は、結局、詔なの勅なの?
308日本@名無史さん:2006/04/03(月) 22:09:38
>>306
うん。いったん受領層まで落込んだ四條流、勧修寺流、日野流が堂上に
返り咲いているのに、小野宮流がフェイドアウトしたのは少し不思議な気
もするが。
309日本@名無史さん:2006/04/04(火) 00:41:20
日野流は家格が名家だから、日野流の家格向上は、朝廷内での弁官層の地位向上と
密接にリンクしているんだよね。
310日本@名無史さん:2006/04/04(火) 00:42:39
今話題のブログ
http://ameblo.jp/kiku16/
311日本@名無史さん:2006/04/04(火) 08:10:31
>>308
院政期-鎌倉初期あたりに、実務面や姻戚関係などの出世要因がたまたまなかったからじゃないですか?
そのうち家格が固まってしまって消えちゃったと。
312日本@名無史さん:2006/04/04(火) 12:06:46
羽林家と名家が対等に見なされるようになるのは室町以降。
313日本@名無史さん:2006/04/04(火) 13:57:52
>>307
「中外抄」の下巻に「内覧は宣旨、関白は詔」だと
書いてあります。
314日本@名無史さん:2006/04/04(火) 17:10:03
そりゃ言い出しっぺは天皇だが、
最終的には太政官符が出される。
315日本@名無史さん:2006/04/04(火) 22:09:32
室町時代からは名家の日野、烏丸、勧修寺あたりの極官が大臣
なのに、羽林家で大臣に昇った例は多分無いような。

四條流の家格が羽林家なのは、顕季が閑院流の猶子になってたから
だろうか。別に名家でもいいような気がするが。
316日本@名無史さん:2006/04/04(火) 22:13:49
太政官符で摂関や内覧を任命するわけねえだろ
317日本@名無史さん:2006/04/04(火) 22:47:29
>>313
じゃあ>>292は嘘を言ってたってこと?
318日本@名無史さん:2006/04/04(火) 22:56:51
>>315
それはたぶん羽林家で大臣に上れるようになった家は、大臣家というワンランク
高い家格で認識されるようになったからだろう。
むしろ、名家で大臣に手が届くようになった家が、大臣家のような家格として
認知されなかったことが不思議な気がする。
もっとも、室町期における日野流の諸家や勧修寺・万里小路あたりの公家の
隆盛は、偏に足利将軍家との関係によるものだが。
319日本@名無史さん:2006/04/05(水) 00:02:32
氣志團=貴士団
320日本@名無史さん:2006/04/05(水) 03:28:57
292・294は嘘つき
321日本@名無史さん:2006/04/05(水) 09:17:45
>>320 が真実を話してくれるそうです。

322日本@名無史さん:2006/04/05(水) 17:49:19
323日本@名無史さん:2006/04/05(水) 21:34:49
史料の裏づけがある方が勝ち。
324日本@名無史さん:2006/04/05(水) 22:56:37
情報ソースが偽文書の場合と、情報ソースが脳内妄想の場合だと、どっちが勝ち?
325日本@名無史さん:2006/04/05(水) 23:18:23
◎公式の場での発表


◎公式サイトによる運営


ソース


偽造書 2ちゃんねる 提示板


餓鬼嘘八百は だらだらコピペだけで根拠や信憑性が薄い。


「ソース出せ!」のサインに逃げ出す。


自身による思い込み等でスレッドを展開し我が儘に展開する


所謂(自作自演)
326日本@名無史さん:2006/04/05(水) 23:26:30
ネット情報をソースに論文は書けないよ。
327日本@名無史さん:2006/04/07(金) 01:20:51
>>297
その喩えは喩えに溺れてる。人間てもんをわかってないよ。
328日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:18:14
スキンヘッドだけに禿しく同意。
329日本@名無史さん:2006/04/10(月) 21:08:25
300です。

>301-303

皆さんありがとう。画像でググッたところでは「かわらけ」ってずいぶん小さくてもろそうだね。
安子中宮がやったのは、現代で言えば消しゴムの切れ端を投げられた程度のものかな?
330日本@名無史さん:2006/04/10(月) 21:12:20
>>326

当然だよW
331日本@名無史さん:2006/04/10(月) 21:14:29
332日本@名無史さん:2006/04/11(火) 02:40:31
333日本@名無史さん:2006/04/16(日) 01:40:28
>>305
遅レスだけど
一条天皇の女御だった元子は、源頼定と再婚して娘が二人出来てます
この娘たちがその後どうなったのかはよくわからない
顕光のもう一人の娘延子は、小一条院との間に、敦貞親王と栄子内親王の
二人の子供をもうけてます
白河院の時代の権大僧都寛意は敦貞親王の子供です
栄子内親王に子孫がいるかどうかはよくわからない
ざっと調べてみたところ、こんな感じです

334日本@名無史さん:2006/04/16(日) 17:50:10
女御が再婚ってなんか萌えるよぉー
一条の君ともこんなことしたのかぁーなどと責めてみたひ
335日本@名無史さん:2006/04/17(月) 20:17:18
基地外発見
336日本@名無史さん:2006/04/17(月) 21:37:01
>>333
長和2年(1013)、元子の乱脈ぶりに怒った顕光が、元子と頼定がいる
寝所に押入って、元子の髪を切ってしまい強引に出家させた っていう
オチがついてるね。政権は取れなかったがやることが大胆な親娘。
337日本@名無史さん:2006/04/18(火) 08:07:45
頼定の娘の一人は(女原)子女王の御匣殿別当のなっている
338日本@名無史さん:2006/04/18(火) 12:46:24
>>336
頼定も三条天皇の女御を寝取ってますからなあ
親娘だけでなく婿まで大胆
339日本@名無史さん:2006/04/18(火) 20:19:33
女御を寝取った? それで頼定ってヒトは無事ですんだのでしょうか?
光源氏だって須磨で謹慎したのに。
340日本@名無史さん:2006/04/18(火) 22:08:39
>339
だから三条天皇の即位後、勅勘をくらって出仕を差し止められたりした。
でも、その後返り咲いて、参議にまで出世したんじゃなかったかな。
341日本@名無史さん:2006/04/18(火) 23:07:36
女御じゃなくて尚侍じゃないかな?
三条天皇の東宮時に、尚侍として
兼家娘の綏子が寵愛を受けていたが、
頼定との噂をきいた(後の)三条帝が気にしていたら、
道長が綏子の所にいって、いきなり乳をひねり
母乳が飛び出た!…というオチ。
「尚侍」だから助かったようなもんですな。
(源氏物語の朧月夜みたく)

しかしまぁ、いきなり妹の生チチをつかむとはw。

342日本@名無史さん:2006/04/19(水) 00:46:40
萌えー! 平安時代萌えー!
343山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/04/19(水) 01:13:21
『栄花物語』や『大鏡』に細かい描写がありますね。
前者の方が迫力が感じられたのは気のせいか(女性は力が入る?)。
344日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:43:15
綏子と道長って異母兄妹だよね?
同母と違って異母だとお互いに遠慮があって
他人みたいにヨソヨソしいイメージがあるけど・・。
さすが道長。大胆だな〜。
345日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:08:39
三条帝の皇子を産めるかどうかに摂関家の命運がかかってんのに、
なに遊んでんだゴルァ!という実も蓋もない感情だったりして。
346日本@名無史さん:2006/04/20(木) 19:44:14
異母兄妹なら同じ家で暮らさんからなあ
今で言えば従兄妹くらいの感覚なんかな
347日本@名無史さん:2006/04/23(日) 19:15:11
>>346
女があまり顔を表に出さない時代だから異母姉妹なら一生顔を合わさない
って事もあったのでしょうか
348山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/04/23(日) 21:40:25
ふざけて覗き込むぐらいの事はしていますし、御簾越しでも顔は見えます。
年齢を重ねて尼になったらあまり気もつかっていない気が。

>源頼定
『枕草子』で弾正弼などは勿体無いいい男、とされていますね。
349日本@名無史さん:2006/05/06(土) 00:30:50
実頼や道隆の子孫は、摂関の候補からは外れてしまったのでしょうか?
350日本@名無史さん:2006/05/06(土) 09:07:52
外戚になれなきゃ、摂関になれない
351日本@名無史さん:2006/05/07(日) 02:09:03
閑院流は外戚になったけど摂関になれませんでしたが何か?
352日本@名無史さん:2006/05/08(月) 20:21:44
その頃から摂関家が家格として固定され、外戚になれなくとも摂関に任じる
慣例になったんざましょ。
その時の閑院家の人が摂関を望んだけど、院の判断で摂関家の摂関続投が
決まったはず。
353日本@名無史さん:2006/05/23(火) 23:29:13
その藤原公実が摂関になろうとして失敗した段階で、摂関になれる要件は外戚で
あることではなくなり、摂家という家格にあることになった。
しかしそれから600年後、松木宗忠が摂関になろうとしたことで、再びこの
問題が再燃する。
354日本@名無史さん:2006/06/03(土) 11:12:00
【仁明天皇】833〜850
表向きは百済系桓武帝王朝の時代で、女官も昔の奈良の都の名残をとどめる朝鮮美人揃いだったが、唐より季節風で来日する勢力の圧迫が酷くなったため、騎馬系の源の常や契丹系の橘氏を登用し、
大臣にして対抗させたが、藤原良房が右大臣になるや契丹系を源氏並の庶民に格下げし、嘉祥三年三月十九日に帝を坊主になし、そして三日後には崩御された。
せっかく最澄や空海が唐から来たのに入信しなかったのが、仏教を国教に統一せんと意図していた藤原氏の怒りをかったものと推理される。
355日本@名無史さん:2006/06/03(土) 12:24:49
>>354
デムパは専用スレにお帰り
356日本@名無史さん:2006/06/03(土) 23:05:38
>しかしそれから600年後、松木宗忠が摂関になろうとしたことで、再びこの
>問題が再燃する。

そのような史実はありません。
357日本@名無史さん:2006/06/04(日) 01:51:35
ないの?
358日本@名無史さん:2006/06/04(日) 09:18:56
松木宗忠ではなく、宗條が曾孫の中御門天皇の摂政になろうとしたことがあったらしい
359日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:28:24
清涼殿の俯瞰図を見ると、御手水間とか湯上御殿とかあるが、これが
トイレや風呂って事なのでしょうか?
360日本@名無史さん:2006/06/06(火) 08:22:42
松木家の極官は?
361日本@名無史さん:2006/06/06(火) 21:44:30
http://www.geocities.jp/okugesan_com/urinke3.html#matsunoki
権大納言か権中納言で終わっている香具師が多いな
たまに内大臣
362日本@名無史さん:2006/06/07(水) 00:25:51
明治維新後は伯爵だから「大納言までの宣任の例多き旧堂上」には該当しているんだね。
363日本@名無しさん:2006/06/27(火) 08:26:38
age
364日本@名無史さん:2006/07/01(土) 01:24:43
>>358
宗忠は『中右記』の記主だっけ?
365日本@名無史さん:2006/07/09(日) 23:45:21
わからない
366日本@名無史さん:2006/07/13(木) 02:44:50
なんで?
367日本@名無史さん:2006/07/18(火) 13:47:29
質問。
村上帝の皇后 藤原安子の父(名前忘れた)はどうして関白になれなかったんですか?
他の藤原氏の長はどれも摂政か関白になってるのに この人だけ摂政にも関白にも
なれなかったのが不思議です。中宮の安子は村上帝に対してもかなり影響力あったみたいなのに
368日本@名無史さん:2006/07/18(火) 13:50:58
>>367
すぐ上の兄貴が健在だったから。
369日本@名無史さん:2006/07/18(火) 13:51:38
ttp://society3.2ch.net/test/read.cgi/mass/1149992979/

342 :文責・名無しさん :2006/06/11(日) 22:09:44 ID:V6ed82+O
・オウム=統一教会+創価学会+北朝鮮+中国軍部+ロシアマフィア+日本政府
・麻原=現在口封じのための薬漬けで廃人状態。父親が在日
・オウム信者=幹部の大多数が元統一教会・創価学会信者
・統一教会=北朝鮮とも太いパイプを持つ韓国の巨大カルト教団。世界185カ国以上に進出し
 日本はサタンだと教えている。岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三 、福田赳夫(福田康夫の父)中曽根康弘
 中川一郎、保岡興治、中山正暉、金丸信とは強い繋がりがあり、彼らはたびたび統一教会を賛美する発言をしている。
 レーガン元米大統領、ブッシュ元米大統領、金大中元韓大統領との関係も深い。
・野中広務=北朝鮮シンパ。部落出身。創価学会との繋がりも強い。オウム事件当時国家公安委員長
・村山富市=社会党。オウム事件当時総理大臣。ロシアでのオウムの調査を中止させた。
・麻原の出馬資金=統一教会&北朝鮮
・文鮮明=統一教会の教祖。韓国人。バリバリの反日主義者で戦中は抗日運動もしている。
・オウムのサリン製造=北朝鮮
・麻原の弁護士=弁護士資格を剥奪され、国の手先の国選弁護士に変更させられる
 これで、麻原は法廷で爆弾告白する機会を失った。自分は統一教会の傀儡だったと弁明する機会を。
・村井刺殺犯=徐裕行(在日三世)暴力団構成員で統一教会の手先。早々に出所
・徐に村井を殺せと命令した暴力団幹部=無罪放免
・石井こうき=民主党。オウムの闇と政治家の関係を追求して殺される
・オウム事件=統一教会&北朝鮮による日本壊滅計画
・結論=朝鮮人の「恨」の恐ろしさ(日本の侵略に対する「恨」)
370日本@名無史さん:2006/07/18(火) 14:14:34
>>367
早死にしたから
371日本@名無史さん:2006/07/18(火) 14:58:21
藤原安子って自分のライバルとダンナが逢瀬してる現場みて嫉妬して
女房に命じてライバルに皿か何かのかけらを投げつけさせた人だよね
372山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/07/18(火) 20:19:37
>>371
>>285-288です。直接投げている。その後の処分を巡ってもカカア天下話が。
373日本@名無史さん:2006/07/18(火) 22:25:47
山野野衾さん
藤原道長の娘(確か源明子との間の子)で天皇にも皇族にも嫁がなかった娘っているんですか?
いるという噂は聞いたことあるんですが、系図見てもそれらしい娘がいないです
374日本@名無史さん:2006/07/19(水) 09:32:04
道長と明子の間には2人の娘がいる
小一条院に嫁いだ寛子と源師房に嫁いだ尊子
賜姓源氏(源師房)は皇族とは呼べないと思うが
375日本@名無史さん:2006/07/20(木) 05:06:30
道長と明子との間の子供って道長と源倫子との間に生まれた子供達より
明らかに出世が遅れてるよね。倫子自身も従1位(だったかな?)の位を貰ってるのに
明子は無位無官だし。やはり倫子の方が正妻として扱われてたんだろうね。
おかげで明子との間にできた能信は反骨精神マンマンの貴公子になって後年活躍したけど
376日本@名無史さん:2006/07/20(木) 11:00:52
>>375
明子系の息子は言動が粗暴で道長の頭痛の種だった、という話はある。
道長が冷たかったから粗暴になったのか、
粗暴だったから道長が冷たかったのかはよくわからんが。
377日本@名無史さん:2006/07/20(木) 12:10:28
行動も粗暴だったという
腕っぷしのいい連中を供に引き連れて 
気に入らないことがあると暴力行為もしていたというから
典型的な「バカ息子」
378日本@名無史さん:2006/08/03(木) 18:35:11
>>375
倫子は最初の妻でかつ当時の現職大臣(左大臣)の娘だから格が違うよ。
明子の父は…。
379日本@名無史さん:2006/08/08(火) 01:44:33
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%83%9F%E4%BB%B2
ウィキの平惟仲の記事で太宰権帥となるとあって括弧で太宰帥だという説もあるとなっているけれど、確か惟仲が権帥だと伊周の後任の権帥になるのが嫌で正帥にしてくれと騒いだという話を聞いた事があるのですが。
380日本@名無史さん:2006/08/08(火) 04:30:01
皇族じゃねえから、正帥は無理だな。
381日本@名無史さん:2006/08/09(水) 02:08:19
>>380
うろ覚えだが、記憶違いでなければ確か黒板伸夫あたりが正帥説を採っていたような気もする。
382日本@名無史さん:2006/08/09(水) 04:33:52
京都市内通りの多くは豪族者による地域や名称からな

るものでした。

http://wolfpac.press.ne.jp/daimyo06.html


http://www.eva.hi-ho.ne.jp/iwaemon/
383日本@名無史さん:2006/08/16(水) 09:01:04
>>364
それなら「中御門」が正しいんじゃないの?
384日本@名無史さん:2006/09/01(金) 16:58:52
>>381
確か惟仲は前任の権帥が花山院への不敬で左遷された藤原伊周の後任になるのを嫌って道長に頼み込んで、当時皇族ではなれない正帥に強引に就任したはず。
385日本@名無史さん:2006/09/01(金) 21:02:58
平氏のくせに生意気な奴だな
地方官とはいえ平姓で権帥ならそうとうな出世のはず
386日本@名無史さん:2006/09/02(土) 20:22:35
>>385
そのせいで惟仲がトラぶった際には中央では誰も弁護せずにそのまま解任されたはず。
387日本@名無史さん:2006/09/04(月) 23:59:58
でも惟仲って文章生から公卿にまで上り詰めたんだな。
摂関全盛期にしてはたいした人物だと思うが。
388日本@名無史さん:2006/09/09(土) 01:28:55
結局、惟仲の正帥は先例にはならずに、例外でおわったんですね。
伊周の弟の隆家も権帥になったんだよね。
389日本@名無史さん:2006/09/09(土) 03:06:09
>>387
他にもいるよ。紀長谷雄、藤原菅根・道明・興範、橘澄清、三善清行、
藤原邦基・当幹、紀淑光、藤原元方、源清平、藤原在衡、大江維時・朝綱、
橘好古、藤原文範、源保光、藤原守義、大江斉光、菅原輔正、源扶義、
藤原忠輔、平親信、藤原廣業、大中臣輔親、藤原資業・隆佐・実政など。
390山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/09/09(土) 08:25:25
>平惟仲
宇佐八幡宮といざこざを起こしたのが解任された原因です。
そのまま現地で病没している。
『江談抄』や『北山抄』には故実を知らず、源雅信を逆恨みして恥をかいた
という話が見えていますが、『江談抄』によれば、雅信は若い頃に惟仲の祖
父にあたる時望に相を見てもらった恩があり、惟仲が肥後守時代に便宜を図
っていたそうです。
やはり文章生から公卿となった藤原有国と並んで才能を発揮しており、弟の
生昌も『枕草子』の于定国の話で有名ですね。
それなりに才能はあった様ですが、コネも否定出来ません。
なお、従兄弟の平親信は、伊周に同情的な人物でした。>『栄花物語』
有国も大宰府で強欲ぶりを発揮したそうですが、こちらは逃げています。
伊周には遺恨があったのにもてなしたそつのなさ故か。
約1世紀後、『平家物語』の黒師として有名な藤原季仲が延暦寺といざこざ
を起こし、更に大江匡房が「八幡の叔母神に逆らった」として流罪を主張し
た為に、周防→常陸と流されて現地で病没しています。
匡房も、おそらくは文章生を経たものでしょう。
391日本@名無史さん:2006/09/22(金) 22:41:52
方略試はいつごろまでおこなわれていたのですか?
392日本@名無史さん:2006/09/23(土) 16:34:22
>>388
隆家の子孫が後鳥羽の生母になってた気がする。
中関白家の悲願がここで実ったって感じだね。
393日本@名無史さん:2006/09/23(土) 20:54:48
大鏡には道長は隆家の人物を買っていたとあるから
水無瀬流が生き残れたのもわかります。
それにくらべて伊周の子孫は公家から消えてしまいましたよね。
394山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/09/24(日) 14:22:23
>>391
名目はともかく、10世紀後半には落第者を出さなくなっており、形骸化し
ていた可能性があります。寮試は15世紀に形骸化を記して「ただ読むのみ」
とした記録がありましたが、方略試はさてどうでしたか。
395日本@名無史さん:2006/09/25(月) 23:11:50
鎌倉・室町・江戸と・・、朝廷の権力は低落しているのに、公卿の数はどんどん
増えてますね・・・。
396日本@名無史さん:2006/10/20(金) 20:04:47
分家
397日本@名無史さん:2006/10/20(金) 22:48:14
糖尿貴族
398日本@名無史さん:2006/10/21(土) 01:17:36
藤原顕輔(1090-1155):平安末期の歌人
長子・藤原清輔(1104-1177)が産まれたのが14歳のとき!
14歳の母親ならぬ、14歳の父親です!!
399日本@名無史さん:2006/10/23(月) 00:14:34
数えだと15
400日本@名無史さん:2006/10/28(土) 02:36:54
アタイこそが 400へとー
401日本@名無史さん:2006/10/30(月) 00:35:39
質問です。
平安時代、女性のもとに男性が訪ねていって逢瀬していたみたいですが、
毎夜毎夜そんなことしてたとしても、
いったいいつ寝てたんですか? あくる昼間、男性にしても
女性にしても、寝ていたんでしょうか?
仕事とかが気になりますが…。教えてください。
402日本@名無史さん:2006/10/30(月) 12:15:44
ヒント:当時電気は無い
403日本@名無史さん:2006/10/30(月) 17:30:53
毎日逢瀬していたとしてもコトが6時間もかかるやつはいねぇ

404日本@名無史さん:2006/11/06(月) 00:17:12
>>401
大内裏で働く貴族の例で。
日の出を待って内裏に出勤するため、季節によって出勤時間が変わる。
夏季勤務時間は午前5時〜午前9時30分、冬季勤務時間は午前7時〜午後12時30分。
この時代は家業と両立のため、家に帰ってもなにかしら仕事をしているケースが多いけど、
日没=寝るなので、自由に動ける夜の時間は多いから、短い睡眠なら取れるのでは?
まあ最初から最後まで全力全開だったら、寝不足だろうけどw
公卿クラスになると勤務体系が異なる。
夕方に参内して夜更け(または宿直)に帰るケースが多くて、夜型勤務になる。
明るい昼間は女房とかを口説いたり、意中の姫にせっせと文を送ってアピールし、
勤務が休みの夜に女の元へ通ったりしたのでは…。
405日本@名無史さん:2006/11/16(木) 00:25:18
>>395
急速に増えたのは江戸時代の幕府による新家創設政策のせい
406日本@名無史さん:2006/11/26(日) 16:13:48
ふーん
407日本@名無史さん:2006/12/20(水) 01:35:24
『源氏と日本国王』について聞こう聞こうとしてるうちに1年経ってしまった。
あれさ、著者の論調だと平清盛・重盛・宗盛も源氏長者(王氏長者)になるんじゃないの?
408日本@名無史さん:2006/12/26(火) 23:04:24
隆家系は院政期まで受領層として生き残れたのが大きかったのでは?
409日本@名無史さん:2007/01/01(月) 11:50:14
昨日は月がよく見えた。
410日本@名無史さん:2007/01/04(木) 04:08:40
着物の合わせって、平安時代に逆になったのでしょうか?
411日本@名無史さん:2007/01/04(木) 13:12:47
どっちでもよかったんじゃね?
412日本@名無史さん:2007/01/04(木) 17:18:04
>>410
奈良時代に貴族の間で意見が分かれて、
当時の天皇の意見(確か元正天皇だったと思う)で今のようになったって
聞いたことがある。
413日本@名無史さん:2007/01/17(水) 10:53:45
平安モノの面白い時代小説はないかのー。
摂関期の貴族が主人公なのがベスト。
戦国時代とか江戸時代モノはいくらでもあるのに平安モノは少なすぎる…。

ちなみ今まで読んだ中で一番好きなのが永井路子の「この世をば」と「望みしはなんぞ」。
あとは同じく永井さんの「王朝序曲」「噂の皇子」、
田辺聖子の「新源氏物語」「不機嫌な恋人」「王朝懶夢譚」「むかしあけぼの」
杉本苑子の「散華」、瀬戸内晴美の「祇園女御」、氷室冴子の「碧の迷宮」(上)(下巻出せー)
三枝和子の小説〜シリーズも大体読んだ。
他になにかないかの。
414日本@名無史さん:2007/01/17(水) 13:55:38
見事に女性作家ばかりだな
男性の興味を引かない時代なのかね

最もこの時代を研究している学者は男性の方が多数だと思われるが
415日本@名無史さん:2007/01/18(木) 00:42:15
質問
軍事貴族が受領に任官した場合、郎党・私兵をぞろぞろ引き連れて任地に下向するんでしょうか?
416日本@名無史さん:2007/01/18(木) 01:23:45
そりゃ、美々しい装束をまとって
物見遊山に恋愛遊戯に贈答歌の掛け合い、
裏でうずまく権謀術策
女性作家の興味をひく時代だと思うけどね。

男性の学者は多いけど、物語をつむごうという
男性小説家は少ないんじゃないのか。
417日本@名無史さん:2007/01/18(木) 06:22:15
そこで夢枕獏ですよ
418日本@名無史さん:2007/01/19(金) 01:05:44
>>417
今朝日で連載してるのはしょっぱなからつまんない。挿絵も最悪。
419日本@名無史さん:2007/02/07(水) 11:01:30
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E4%BA%8B%E5%85%B8
誰かこれ持ってる?
ぐぐってみたらCD−ROM版は8万8千円、しかも既に売り切れ…。
たかっ!と思ったが手にはいらんとなると欲しくなる。
420日本@名無史さん:2007/02/10(土) 02:46:18
紫式部「顔なの!?これ、顔なの!?ねぇ!瓜!瓜に子供の顔かいたの!?」
清少納言「あぁ、かいたよ」
紫式部「本当!?可愛いの!?微妙じゃない!?」
清少納言「あぁ、うつくしきものだから大丈夫だよ」
紫式部「そうかぁ!私紫式部だから!紫式部だからうつくしきものわかんないから!」
清少納言「そうだね。わからないね」
紫式部「うん!でも可愛いんだ!そうなんだぁ!じゃぁスズメの子と同じだよね!」
清少納言「そうだよ。萌えていいんだよ」
紫式部「よかったぁ!じゃぁねず鳴きしようね!ねず鳴きしよう!」
清少納言「うん、ねず鳴きしようね」
紫式部「あぁ!ねず鳴きしたからスズメの子が踊りながらやって来るね!ね、清少納言!」
清少納言「うん。そんなうまくいく訳ないけどね」
紫式部「あぁーこんな適当な内容の文章が後々の時代まで伝わっているよー!気をつけようねぇー!」
421日本@名無史さん:2007/02/22(木) 02:13:04
清少納言はツンデレだっただけかもな。
422日本@名無史さん:2007/02/22(木) 04:41:19
>>415
軍事貴族じゃなくたってそうですよ。
藤原元命がいい例。
423日本@名無史さん:2007/03/05(月) 00:20:54
時期遅れだが森田氏の日本後紀の文庫版完結したね
424日本@名無史さん:2007/03/06(火) 03:42:00
いまネットで確認したがやっと下巻でたか。
これに続いて六国史全部が講談社学術文庫で出されたらいいが
とりあえず現代語訳は森田日本後紀で満足しておくか。

しかし続日本紀が文書の家、渡来系菅野真道らによって編纂せれ
識者式家緒嗣らが日本後紀を編纂したのは平安初期の貴族層の奈良の古風かねえ。
まあ真道の縁者である道昭伝や緒嗣の諸卿伝の辛辣な記述は面白い。
一般にイメージされる摂関全盛期とは違った奈良朝から平安前期の国史は
編纂者の性格も反映されていて面白いわな。
記紀だけじゃあなくこれら史書の研究ももっと進めばいいのにねえ・・・

余談だが永井女史の小説『王朝序曲』は日本後紀をよく読んでいるなあ、と感心した。
別に平安時代は摂関期だけでなくそれ以前の方が奈良朝の影響か政治事件が多くて
小説の題材としては面白いからなあ。
やはり時代は(政治の現実はどうであれ)殺伐とした時代の方が興味深い。
少なくとも正史で重大事件が記録されるのは記紀よりも信憑性があるだけに政治が分かる。
栄華物語や大鏡も史料的価値はあるんだろうけどどうも藤原北家の専制と正統性が鼻につく。
まだ賜姓源氏などが廟堂にいた平安中期の任官記事などが残されていたならどれだけ
藤原摂関家の堕落と武家政権への移行の必然性が(京都の公家の記述なれど)
示されていたかを実証する上で有益であったか。
六国史以降に国史編纂が為されなかったことが悔やまれるなあ。
定説に従えば朝廷はそれどころではなかったことは承知の上だが。
425日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:09:41
正確には2月に中下が揃って出た
426日本@名無史さん:2007/03/23(金) 21:45:14
質問ですが、当時の寝巻ってどのような物だったのでしょうか?
男女共に教えてください。
427日本@名無史さん:2007/03/24(土) 00:42:55
すっぽんぽん
428日本@名無史さん:2007/04/02(月) 19:45:25
〉424

まあ、日本紀略・百錬抄・續史愚抄と続いてるけど簡素だからね。
429日本@名無史さん:2007/04/07(土) 01:46:43
>>422
でも勢力の大きな軍事貴族になると1千から3千の私兵がいるじゃないですか。
430日本@名無史さん:2007/04/07(土) 14:24:34
多くて数百
431日本@名無史さん:2007/04/11(水) 00:28:25
話半分なんでしょうが、『今昔物語集』だと平維茂3千に藤原諸任1千
『陸奥話記』にも源頼義の兵が1千〜3千で出てません?
432日本@名無史さん:2007/04/20(金) 00:51:55
後三条が摂関家を外戚としたかどうかってどう思う?
祖父・伯叔父は外戚、曾祖父は外戚じゃないってのは言葉遊びじゃないか?
433日本@名無史さん:2007/04/20(金) 05:12:41
 小さな疑問。
 牛車の乗り心地ってどんなだったんだろうかなあ、と。
 道の状態はあまりよくなかっただろうし。
 サスペンションの機能は少しでも牛車にあったのかな。(このあたり全然知りません)
 牛車の内部に取っ手があって、それをつかんで体を支える、というのは知っているけど。
 個人的な感想では、牛車は実用的なものではなくて、権威の象徴としての役目だったんだろうなって思ってるけど。
434日本@名無史さん:2007/04/20(金) 14:02:24
それに関してはずばり『平家物語』に具体的な話が出ている。

京にやってきた木曽義仲は生まれて初めて牛車なる物に乗るが
乗り方が分からない上(乗り方にも作法があった)
天井からぶら下がっているひも(今のシートベルトになるのかな?)に気が付かず
牛車はガタガタ揺れて



まあ、当時の大田舎からやってきた義仲を馬鹿にするのがこの話の主眼ではあると思うのだが
それを差し引いても牛車が乗り心地の良い物でなかったのは伺えるかと。
435日本@名無史さん:2007/04/20(金) 23:55:08
>>433
サスペンションって発想は面白いな。
現行のものではあるけど、時代祭で牛車を引いた感じでは
そのような機能はとてもあるとは思えなかったなw

当時の舗装レベルはよくわからないけど
それによるんじゃないかなあ。
ただアスファルト上でもスムーズに進むわけじゃないから
上下の揺れはともかく、前後の揺れもひどいんじゃないかと思った。
436日本@名無史さん:2007/04/21(土) 02:51:39
車輪を大きくすると多少は揺れは軽くなるそうだが、気持ち程度だろうな。
437日本@名無しさん:2007/04/21(土) 16:17:10
歩行速度程度なら、路面が良ければ問題にならないと思う
438日本@名無史さん:2007/04/23(月) 21:36:16
>>432
曽祖父は基本的には生きていないから
439日本@名無史さん:2007/05/03(木) 02:41:28
現代で牛車に乗る
そうだ、葵祭りの斎王代になればいいんだ。
・・・って、これは実現不能な冗談ですが。

京都文化会館の中庭で、展示復元の牛車(固定)の中に
入ったことがありますが、わりと高さがある・・・という感じ。
440日本@名無史さん:2007/05/06(日) 14:53:34
牛車の中はセックスできるくらいは広さあるの?
対面座位くらいならOK?
441日本@名無史さん:2007/05/08(火) 03:04:53
お歯黒はいつ頃からの習慣なんですか?
442日本@名無史さん:2007/05/17(木) 12:41:38
>440
牛車は、京都府宇治市の「源氏物語ミュージアム」で実物見たこと有るけれど、
中の広さはそれほど広いものではないよ。
当時の文献を見ても、二人乗りぐらいが限界かも。
寝転がれる広さはないけれど、対面座位でおkといわれれば・・・
443日本@名無史さん:2007/05/17(木) 18:42:07
東国人は乗馬が得意でも、牛車は大の苦手
今昔物語にもある話。
444日本@名無史さん:2007/05/18(金) 00:07:42
源氏の浮舟を宇治につれてくとこで
四人乗りしてたような。
浮舟は薫にひざ抱っこされてたけど。

ときに、脇息とか几帳とか御簾とかってネットで普通に売ってるんだな…。
検索してみてびっくりした。
引き出し付きの脇息見て爆笑。
誰が使うんだ誰がw
445日本@名無史さん:2007/05/26(土) 22:40:38 BE:499008645-2BP(0)
律令制が衰退する過程、例えばある役所が衰退する過程とは具体的にはどんな感
じだったのでしょうか。次第に給料の未払い、人員削減、未出仕が続いて人影が
少なくなり、仕事もなくなり、そして最後には誰もいなくなった(名前ばかりの
官職の任命を受けた人はいるけど馬鹿らしくなって仕事をしない)という感じな
のでしょうか。それともある時点までは曲がりなりにも機能していたのが、何か
の兵乱で焼かれてそのまま胡散霧消してしまったのでしょうか。
446山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/05/29(火) 22:24:02
>>441
男子のことなら、鳥羽朝からであったかと。
室町時代以降は、京都を中心に武家にも広まりました。
後北条氏も、初代長氏に倣って行っており、小田原では普通に見られたとか。

>>442
いえ、四人は乗りましたよ。席順も決まっていた。
447日本@名無史さん:2007/05/30(水) 03:59:40
>>446
お歯黒って、日本独自なの? それとも、大陸や南方にも見られる風習なの?
448日本@名無史さん:2007/07/08(日) 13:00:41
貴族の娘って一日中、何してるの?
昼寝?
449日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:05:26
和歌、裁縫、染色じゃね?
450日本@名無史さん:2007/07/12(木) 00:16:54
初めてレスします。

日曜日に三重県多気群明和町という所に有る斎宮という
遺跡(何も残ってないけど。)にあるいつきのみや歴史体験館に
行きました。
そこで平安時代のコスプレをやっていて自分は、直衣を着ました。
(もう十一回目。)

前までは冬の直衣しかなかったのですが、今年から夏の直衣が出てきました。

冬の直衣も良いですが、夏の直衣の方が気に入りました。
451日本@名無史さん:2007/08/21(火) 02:23:12
1 :ひろゆき ◆3SHRUNYAXA @どうやら管理人 ★:2007/08/17(金) 18:30:16 ID:fhNmrpyQ
そんなわけで、気温占い機能をつけてみました。。。
名前欄に【天地川海岸山崎渉航谷気岩】と書き込めば
【40.9℃】とか【熱帯夜】とか記録が出ます。それが気温の数を表します。
数値は書いた日付とか時分秒とかレス番号で反映され0〜10000くらいまでありますです。。。
意見が割れた時の漢気判定に使ったり、お暇なら遊んでください。。。
452日本@名無史さん:2007/08/31(金) 17:08:09
貴族たちって廟堂でどんな議論をやってたんですか?
例えば平安中期になると律令制が崩れ、地方では武士が台頭し、
京の治安も悪くなり社会変動の兆しが見え始めるわけですが、
こういう時期に「構造改革」とか「地方で出来ることは地方に」とか
「公務員削減」とかそういう議論や党派なんてのは全く無かったんですか?
453日本@名無史さん:2007/09/10(月) 11:52:22
age
454日本@名無史さん:2007/09/10(月) 12:34:58
>>452
「荘園整理令」を出して私有財産を制限したりってことですか?
院政期には逆に、院などの皇族が膨大な荘園を所有して、
皇室財政の立て直しを図っていましたがね。
公務員削減は死活問題だったでしょうね。
当時、皇族や貴族に生まれると、一生公務員として国家が面倒みなけりゃならんかったため、
天皇家も貴族も次第に嫡男以外は子供のうちに寺へぶちこんで、一生不犯、
根絶やしをしていますね。
455日本@名無史さん:2007/09/10(月) 17:19:29
ところで院政って一般的に白河天皇退位と同時に始まるように今まで解釈されてきたが
最近の研究では実質、頼通の子、師実とその子師通が摂関を務めた時代までは摂関に政治の主導権があり、
師通が若くして死んでその子忠実が跡を継いだときはまだ若すぎて経験不足、しかもこのころ比叡山の僧兵の暴挙などの
問題がいろいろあって白河法皇を中心にまとまらざるをえなくなったから院政といわれる政治形態ができたと言われだしたけど実際どうなんだろ。
456日本@名無史さん:2007/09/10(月) 17:43:13
藤原師実は白河天皇の中宮賢子の養父として、藤原師通は堀河天皇の叔父として、
それなりの権限を持続できていたといわれていますね。
師通などは、堀河天皇の治世にその父白河上皇が口出しするのを、
「退位した天皇の横暴」などと言って、強く非難、政治は摂関が行うべきだとして、
口封じさせていますからね。
ただ、そのあとを継いだ忠実は、堀河天皇の外祖父にも外舅にも当たらず、
堀河天皇による親政が事実上行われていたこと、堀河天皇早世後、
幼帝後鳥羽天皇が即位するにいたっては、
後鳥羽天皇の外戚藤原公実が、忠実に代わって摂関に就任することを要求したとまで伝えられ、
この頃には摂関家は相当力を失い、白河院が庇護するしかなかったという事情があったのでしょうね。
457日本@名無史さん:2007/09/10(月) 19:06:26
後鳥羽じゃなくて鳥羽ね。
あと、忠実にとって本当の脅威だったのは後世では花山院家の祖とされている藤原家忠の方だと思うが。
458日本@名無史さん:2007/09/10(月) 20:20:17
>>456
ありがとうございました。
いろいろ勉強になります。
となると時代の分岐点としては教通、師実よりもやはり忠実時代なのかな。
459日本@名無史さん:2007/09/11(火) 20:52:07
>>456
そうなると院政というものを摂関政治に対する皇室の権力回復とは単純に言えないですね。
摂関政治も兼家、道長の頃は強引に政敵を排除し天皇の外祖父になってというのでそこに必然的に権力が集中した。
しかし摂関家も家格が安定し、外祖父というものに頼らずとも世襲できるようになっていった。
そうなると貴族たちの求心力も低下していった。
そういうところに藤原公実のような幼帝の外祖父が出現すると院政もまた外祖父によって押さえ込まれる。
白河法皇も院政権力安定のために摂関家と結びついた。それが双方の利害が一致するから。
そういう面もあったということでしょうか。
460日本@名無史さん:2007/09/11(火) 21:18:50
>>459
藤原公実は、鳥羽天皇の伯父。
公実は、白河法皇の外戚の一族(藤原閑院流)で、白河法皇の同年生まれの従兄弟に当たる。
白河法皇は、たっての望みで、自らの母方の一族である公実の妹苡子を堀河天皇の後宮に入れたほか、
公実の甥に当たる鳥羽天皇の乳母には公実の妻を当て、
さらには公実の娘を養女にして、鳥羽天皇の中宮に立てている(有名な待賢門院藤原璋子ね)。
母方の一族である閑院流を重用し、登用したのは紛れもない白河法皇だし、
摂関家の確立後で、永らく大臣すら出さなかった閑院流から摂関を擁立することは出来なかったにせよ、
それは、白河法皇が鳥羽天皇の伯父である公実を押さえ込んだという事実はないでしょうね。
(公実は鳥羽天皇の即位の同年、死去)。
白河法皇は、忠実を鳥羽天皇の摂政に任じる一方、
忠実が娘の勲子(のちの高陽院泰子)を鳥羽天皇に入内させると、
白河法皇はこれを辞めさせて忠実に隠居を命じ、若年の忠通を関白に任じている。
公実の息子が、権大納言を極官としたのを超えて太政大臣や左大臣に任じられたのは、
白河法皇が勧めた外戚政策の賜物に違いなく、
白河法皇が鳥羽天皇の外戚を重用することはあっても、押さえ込んだということはないと思う。
461日本@名無史さん:2007/09/17(月) 09:15:52
巨大な字の塊、ウザス

白河の連発しか印象に残らない。要約しろ。
462日本@名無史さん:2007/09/17(月) 13:03:16
新白河
463日本@名無史さん:2007/09/19(水) 19:31:11
小右記と権記って現代語訳ありますか?
せめて注釈付きは有りますか?
人名索引でも良いです。
464日本@名無史さん:2007/09/27(木) 02:25:51
つアマゾン
465日本@名無史さん:2007/09/27(木) 04:26:38
後白河や後醍醐でよかったね
新奈良とか新桜町だったら天皇に有難みがない
466日本@名無史さん:2007/10/03(水) 22:13:02
どーまんせーまんどーまんせーまん
ttp://jp.youtube.com/watch?v=QByawy3fUqI
陰陽師〜
467武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/04(木) 00:41:30
>>8
わかんないだけだよ。
史料がない。
今昔物語なんてのが史料になっちゃうくらい乏しいの。
468日本@名無史さん:2007/10/04(木) 02:52:41
とぼしかないよ。研究者も多い。
誰かさんが知らないだけ。
469日本@名無史さん:2007/10/07(日) 20:13:48
根本的に物語から探るのは当時の思想や風俗などであって
史実の研究については補強程度の存在
470日本@名無史さん:2007/10/07(日) 21:41:09
一口に平安時代といっても400年も続いたわけで
時期や地域によって大きな差があったからね。一般化はできないよね。
関東じゃ竪穴式住居に住んでたわけだし、白金辺りなんて狩猟に頼って
生活していたらしい。
471日本@名無史さん:2007/10/08(月) 09:07:21
400年って言うとちょうど江戸時代の始めから現代くらいまでか、
そりゃあ一般化できないよね。
472日本@名無史さん:2007/10/17(水) 10:30:17
今や電車の中で朝日を読んでると馬鹿にされる時代だからな。他の新聞なら大丈夫なのに。
473日本@名無史さん:2007/10/22(月) 02:37:44
>>427は電車の中で聖教新聞を広げている人を見たことが無いニート
474日本@名無史さん:2007/10/22(月) 09:22:15
江戸時代も現代も餓死はあるが、
江戸時代は餓死は日常茶飯事、大量餓死ならニュース、
現代は餓死はニュースどころか検証番組が出来る時代。
桓武と鳥羽、内麻呂と忠通。
475日本@名無史さん:2007/10/22(月) 14:46:23
>江戸時代は餓死は日常茶飯事
未だに、こう言う人いるんだなあ
476日本@名無史さん:2007/10/25(木) 12:34:43
◇藤原道長とその娘たち◇
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1181800682
477日本@名無史さん:2007/10/25(木) 12:40:03
>>475
お前も間違っているぞ。
「江戸時代は飢饉が日常茶飯事」と言ったら明確な間違いだが、餓死は近代農業革命以前であれば古今東西日常的だぞ。
飢饉のような集団死は実際にはそうそう起きなかったが、農業生産が常に不安定であった近代以前の社会では個人レベルの餓死は別に珍しくも無いから記録にも残らない。
478日本@名無史さん:2007/10/27(土) 14:39:39
戦国から江戸前期まで慢性的な飢饉常態だったという説を聞いたのだが
479日本@名無史さん:2007/10/29(月) 01:38:16
飢饉と言うのは餓死率が跳ね上がる状態だから常態だと飢饉とは言えないかも。
480日本@名無史さん:2007/12/06(木) 12:49:01
保守
481日本@名無史さん:2007/12/08(土) 14:01:25
嵯峨天皇が中国かぶれだとは聞いていたけど、平安京の建物
の名前を大量に中国風に改名したって本当?
482日本@名無史さん:2007/12/08(土) 16:28:21
>>481
建物つーか、門の名前
的門→郁芳門、大伴門→応天門などなど
483日本@名無史さん:2007/12/08(土) 21:52:01
>>481
元はその門を守る氏族の名前を付けてた。
大伴門→応天門
玉手門→談天門
壬生門→美福門 みたいに。
484日本@名無史さん:2007/12/09(日) 02:56:00
門を守るって保守点検ってこと?
平安京の門は飾りですよね
485日本@名無史さん:2007/12/09(日) 04:34:42
豚切りすまそ
平安の昔の化粧ってどんなもんでしょ ひびわれ説も有力ですが…
源氏物語には女君が顔を赤らめる表現がよく出てきます ひびはいるくらい白く塗ってたら見えないと思うんですが…
486日本@名無史さん:2007/12/09(日) 09:22:39
>>482
邸宅の名前も漢風にしたと思ったが。
いまで言えば桜田門をゴールデンゲートと改名するようなものか。
487日本@名無史さん:2007/12/09(日) 09:41:18
検索したらこんなのが出てきた。

http://www.saturn.dti.ne.jp/~kenpa/nisikouji101.htm
 それから、嵯峨天皇の時に、朱雀大路を真ん中にして東と西を
それぞれ四つづつに条坊で区切ってあった町、 全部に名前を付け
たのです。これは唐の名前をそのまま付けたもので、現在の小学校に、
二字の美しい名前として残っています。例えば、崇仁校(下、東七条
川端16)とか乾隆校(上、寺ノ内千本東下)というのがそれに当たります。

最後に嵯峨天皇という人は非常に唐というものが好きでしたので、唐の皇帝
の御陵が長安の北にあり、地名を嵯峨と呼んでいたのを知ると自分も京都の
付近に嵯峨(嵯峨天皇の頃には、嵯峨という名称はまだついていなかったのです。)を作ってそこに眠りたいという事で今も嵯峨天皇の御陵は嵯峨にあるわけです。
488日本@名無史さん:2007/12/09(日) 19:14:39
嵯峨上皇は嵯峨に離宮を作って実際住んでいたからね。
ちなみに嵯峨野にある天龍寺、ここのパンフレットには、昔、
天龍寺の場所には嵯峨天皇の皇后橘嘉智子創建の
壇林寺があったとかかれてあった。
嵯峨野は都の北というより西のはずれだけどね。
489日本@名無史さん:2007/12/09(日) 19:58:49
嵯峨天皇って無茶苦茶面白い人だな。
それこそ大河ドラマの主人公にしたらいいのに。
490日本@名無史さん:2007/12/09(日) 20:34:45
>>484
平たく言えば門番てとこ。古代軍事氏族がそれぞれの門を担当したみたい。

門と言えば朱雀大路に面して邸宅の門を設けてはいけない!てのが意外だった。
491日本@名無史さん:2007/12/09(日) 22:01:35
>>489
薬子の変、源氏の創設、空海との親交、中国文化の大幅な取り込みなど、
日中関係が重要視されている現在にタイムリーかも
492日本@名無史さん:2007/12/10(月) 02:35:30
興味あるので、どなたか>485の質問に答えてあげて下さい。
ポーラ美容研究所の人とか、化粧に詳しいひと、教えて。

>>488 >>489
そして、杉本苑子の名作「壇林皇后私譜」にひかれて
現在たっているのは捏造壇林寺とは知らずに嵯峨野に出かけ、
門前に立ってる優しげなおじさんの呼び込みで寺に入り
寺内の怖い案内おじさんに脅迫されお守りを買ってしまう被害続出・・・
493日本@名無史さん:2007/12/10(月) 21:37:23
院政は後白河が潰したようなもんだよな。
494日本@名無史さん:2007/12/10(月) 22:02:59
嵯峨天皇がメインで出て来る文学作品ってありますか?
ちょっと想像してみたがワクワクする。

イベントとして平安遷都、薬子の変、遣唐使、蝦夷征伐などがあり、
登場人物は桓武天皇、坂上田村麻呂、空海、最澄、小野篁(日本史上最高クラスの変人)
源融(光源氏)など。
495日本@名無史さん:2007/12/12(水) 22:49:45
疑問に思うのですが、後醍醐天皇てなんで天皇親政にこだわったのですか?
白河上皇みたいな院政でも、良かった気がするのですが?
496日本@名無史さん:2007/12/13(木) 11:33:59
ヒント:両統迭立
497日本@名無史さん:2007/12/13(木) 20:24:15
>>495
生前、自分のおくり名を後醍醐天皇と決めていたことで分かるように、
平安時代の聖帝、醍醐天皇、村上天皇のときの
「天喜・延暦の治」=摂関をおかず、院政を行わず、天皇親政
を理想としていたから。
後醍醐天皇は死ぬまで帝位を去らず、よって院政も行わず、
死ぬ前日になってようやく後村上天皇を即位させた。
498日本@名無史さん:2007/12/13(木) 20:27:23
専制君主を夢見たんだろな
499497:2007/12/13(木) 20:34:57
訂正「天喜・延暦の治」→「延喜・天暦の治」
すまん。
500日本@名無史さん:2007/12/13(木) 20:41:35
藤原冬嗣が主役というのなら有りますが。
嵯峨天皇は文化には関心が高いけど政治は全然やる気がないって感じで。
501日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:17:43
>>500
だからこそ面白いと思う。ヨーロッパには文人政治家って結構いるよね。
502日本@名無史さん:2007/12/14(金) 09:40:23
文人政治家なら道真が第一だね。
503日本@名無史さん:2007/12/14(金) 09:41:13
時代が違うけどもう一人は新井白石だ。
504日本@名無史さん:2007/12/14(金) 18:59:46
時代が違うけど残る一人が田中康夫だよね?
道真のイメージが湧いてきたよ。都に残してきた何人もの妻が忘れられず
祟ったんだよねw
505日本@名無史さん:2007/12/14(金) 20:42:16
>>502
菅原道真は精錬潔癖な印象があるけど、
祟りが恐ろしくて天神にまでなった人だから。
実際には、娘を光孝天皇の皇子や宇多天皇の後宮に入れ、
藤原氏の対抗勢力となる行動をとっていた。
506日本@名無史さん:2007/12/15(土) 11:34:15
天皇を祟り殺した後、地獄に落として責立ててるしね。
507日本@名無史さん:2007/12/15(土) 17:40:52
化粧といえば、確か万葉集に、三日月を見ると一目見たあの人(女)の眉を思い出すって歌があったんだけど
いつの間に絵巻のあんな(全抜き&まろ)眉にするようになったの?
508日本@名無史さん:2007/12/16(日) 10:49:38
というかどうやって抜いてたんだろうな
毛抜きがとうじからあったんふぁろうか
509日本@名無史さん:2007/12/16(日) 15:08:43
「源氏絵巻」を見ると普通の地毛の眉のようですよね
ところが、すぐ後の物語の「虫愛ずる姫」には
(嫁に行く年になっても地毛の眉のままだ)と言うような記述があります。
510日本@名無史さん:2007/12/16(日) 15:25:58
>>509
「源氏物語絵巻」
地毛の眉ではありませんよ。
この時代の眉の書き方は「引き眉」と呼ばれるもので、
のちの天上眉とは描き方が違うだけです(下の写真参照)。
「枕草子」に「毛抜き」の表現が出てくるように、
自分の眉を毛抜きで抜き、掃墨と呼ばれる粉末墨で
引き眉をすることが、一般成人女性の化粧法でした。

http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/07/0301_genji/index.html
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-0307-1-6-01.htm
511日本@名無史さん:2007/12/16(日) 15:28:12
<<508 枕草子にうまくいかないもの、か何かの項目で、銀の毛抜きでなかなか抜けないって記述があったよ
<<509 虫愛づる姫は、世間の常識からはずれた人なので、普通は抜いてる
源氏絵巻は…というか、あの頃は、全抜きの上、元の場所の少し上に眉墨でぼってり書いてる
しかし、いつからか分からない
512日本@名無史さん:2007/12/16(日) 15:50:57
毛を抜いて眉を引く風習は、奈良時代、
唐から白粉が伝わり成人女性が化粧をするようになってから
はじまったものらしいよ
白粉を顔にこってり塗るには眉がないほうが顔全体に塗りやすい
もっとも奈良時代の化粧法では、唐風の、弧を描くような眉を描いていた
平安時代には、前髪を額で切らずに顔の両側にたらしていたから(ワンレン)、
額が目立ちすぎると言う理由で、額の中央(実際の眉の位置より上になる)に
眉を描いていた
毛抜きの風習は江戸時代末ごろまで続いていた
513日本@名無史さん:2007/12/16(日) 17:39:13
<<512 ではこってり塗ってたの…
頬を赤らめる表現が源氏にあるんだけど…見えなくない?
こってり塗っても見えるんだったらよほど透け感のあるやつなのか、すっぴんだったらおてもやん級に真っ赤なのか
514日本@名無史さん:2007/12/16(日) 19:27:12
>513
顔を赤らめる、って物語の中の擬態語じゃない?
実際に目で見えた、という表現なの?
夜は化粧を落としていたと思うけれども、
普段、女性は他人に顔を見せないし。
515日本@名無史さん:2007/12/16(日) 23:01:10
そういやあ、現代も化粧のアレな人は、ほほを赤らめるの無理だわなw
516日本@名無史さん:2007/12/17(月) 15:04:28
紫式部や清少納言の束帯は奈良時代の朝服から進化する途中だったらしいが
ttp://www.kariginu.jp/kikata/1-2.htm
十二単ってもうあったの?
平安初期の小野小町の時代はまだ奈良時代の衣装に近かったとのことだが。
ttp://www.kariginu.jp/kikata/1-2.htm
517日本@名無史さん:2007/12/17(月) 19:45:07
十二単という言葉は無かったけど、そういう衣装はあったよ。
「枕草子」を読むと、高貴な女性が紅の袴を身に着けていたこと、
「紅梅」など、単を重ねる色目が決められていたこと、
高貴な人の前に出るときは裳、唐衣を身につけ、
退出するときは裳、唐衣はとってしまったことなどが見える。
源氏物語の女性の衣装は、くどいほどに単の色目の話がでてくる。
518日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:07:19
>>514 ―女君は酔ったように顔を赤らめて、愛嬌はこぼれるばかりに匂いみち―源氏・澪標より
これは…どうかな。あと
―(まわりの女房たちが、男君と女君が幼馴染みだったことをからかうので)女君は訳もなく顔が赤くなって困っていらっしゃる。―同・藤裏葉 とか。
やっぱりぽぽっと赤らめるのは見えるんじゃないのかな…しかも当時もきっとかわいいと思ったんでは?
519日本@名無史さん:2007/12/20(木) 18:57:46
「枕草子」に涙で化粧がはがれて
みっともない顔になっていたことでしょう、とか、
(顔を見られないように)袖で顔を押さえつけていたので
化粧がはがれてみっともないことに・・・
とかいう表現が出ているから、それなりに塗ってはいたでしょう。
すっぴんに近い感じではない。
520日本@名無史さん:2007/12/21(金) 00:16:57
<顔を赤らめる>
「恥ずかしがる」と言う意味の常套句として、昔からあったのかもね。
521日本@名無史さん:2007/12/21(金) 10:25:08
はがれて…ねぇ
ま、今のファンデーションの技術でも、時間が経てばよれる、テカるのオンパレード
…ましてぐすぐす泣いたら再起不能(^◇^ ;)(マスカラが…ウォータープルーフも意味ねぇ)
あの頃も推して量るべしってか…
522日本@名無史さん:2007/12/21(金) 14:50:41
上級貴族は、寝殿造りを一人一軒は所有していたんですか?
それとも一族で一軒?

あと、貴族の男性は自分に仕える女性と結婚することはありますか?
523日本@名無史さん:2007/12/21(金) 16:03:41
>>522
貴族の収入によるでしょう
一人で何軒もの邸を所有していた人も居るし。
寝殿作りというのは寝殿(母屋)を渡り廊下でつないで
北や東にも母屋を設ける建築様式のことを言うので、
貴族の邸宅がすべて同じ棟数、同じ形であったわけではありません。
今日、寝殿作りの代表的なモデルとして教科書などに載っているのは、
道長の父親、藤原兼家が所有していた東三条第のものです。
東三条院は、関白兼家が住んだ邸で、娘の東三条院の御所にもなっていた邸ですから、
当時の貴族の邸としても相当大きなものだったようです。
524日本@名無史さん:2007/12/21(金) 19:13:59
>>522
複数の家族が同居するのはよくあったらしい
なんせ、でかい屋敷だからね
その分手入れも大変なので、売ってしまうこともあったとか
525日本@名無史さん:2007/12/21(金) 19:16:41
>>522
>貴族の男性は自分に仕える女性と結婚することはありますか

自分に仕える女性ということは、自分より身分の低い女性ということですから、
正室ということではなかったでしょうね。
正室は家柄の釣り合う家から迎えて、側女(女房)という形で
手をつけたということはあるでしょう。
526日本@名無史さん:2007/12/21(金) 19:24:07
>>523-525
ありがとうございます(´・ω・`)
527日本@名無史さん:2007/12/21(金) 19:32:07
尊卑分脈見てると、よく「母 家女房」なんて書いてあったりする
528日本@名無史さん:2007/12/21(金) 20:01:24
へえ、そうなんですか。
ところで中納言等の役職の貴族たちは、仕事ってどこでしてたんでしょう?
529日本@名無史さん:2007/12/21(金) 20:10:50
>>528
陣座じゃね?
そこで公卿が集まって会議開いてた
530日本@名無史さん:2007/12/21(金) 20:39:13
貴族の娘は毎日何してるんですか?
531日本@名無史さん:2007/12/21(金) 23:39:02
おなにー
532日本@名無史さん:2007/12/22(土) 00:26:48
平安貴族は女性に相続権があって通い婚だった訳ですが、収入はどうやって得ていたんでしょう?
その時の夫?じゃないよね。夫の世話をするのは北の方だし。仕組みがいまいち
533日本@名無史さん:2007/12/22(土) 13:16:40
平安時代、邸と荘園は娘が伝領しました。
女性が荘園領主になれたのです。
もっとも、結婚すれば、夫が邸の修理を行い、子供を扶養しました。
夫が妻に荘園の権利を譲り渡すこともありました。
土御門殿は、もともと源倫子が母親から伝領した邸でしたが、
土御門殿が焼失した際、倫子の夫道長のところへは
土御門殿を自費で再建したい、家具を一式納入したいと
受領たちが次々に立候補、道長におもねりたい受領たちによって
土御門殿は前のものよりも立派に再建されたことが見えます。

534日本@名無史さん:2007/12/22(土) 13:22:18
>>522
有る意味頼朝と政子ってそうじゃないの?
535日本@名無史さん:2007/12/22(土) 13:24:09
事実上の妻って言うのはあるみたい。とくに正妻格の死亡後とか。
身分の高い女性の相手をするのが面倒だったのかも。
536日本@名無史さん:2007/12/22(土) 17:04:44
化粧がはがれて・・・当時の化粧ははがれやすかったのですぐ隠せるように扇で覆っていた。
お香を炊くのもお風呂に一週間に一回くらいしか入らなかったから
537日本@名無史さん:2007/12/22(土) 17:22:10
平安時代の書物を読むと自分の家に仕える女房達とエッチをしまくってるよね。
だから結婚というのは別にして事実上の妻みたいな人はいたかもね。
そもそも平安時代の結婚は通い婚だったので男が女のもとに3日間通って所顕わしという披露宴をしたら結婚と認められた。
その後も男が女の家に通うのが普通だったので自然消滅することも多かった。
538日本@名無史さん:2007/12/22(土) 17:24:36
妻を自分の屋敷に引き取るということもあったようで、
源氏物語ではひげ黒の右大将が源氏の養女の元に通っていたが、源氏の屋敷に通うのは落ち着かないといって強引に自分の屋敷に連れて行ってしまう。
539日本@名無史さん:2007/12/22(土) 19:46:07
>>533
それって賄賂だろ
540日本@名無史さん:2007/12/23(日) 21:20:57
>>539
賄賂じゃなくて役得
541日本@名無史さん:2007/12/25(火) 01:42:22
質問です。
薬子の乱で、藤原仲成は禁所にて射殺されたそうですが、
鉄砲のない時代、実際にはどういうことが射殺とされていたのですか?
あと、禁所とはどこのことですか?
542日本@名無史さん:2007/12/25(火) 01:43:47
鉄砲はなくても弓矢がありますがな
禁所は具体的にどこ指すかはしらん
543日本@名無史さん:2007/12/26(水) 21:34:38
禁所=監禁されてた場所じゃないの?
544日本@名無史さん:2007/12/28(金) 14:05:48
>>541
確か右兵衛府。仲成は兵衛督兼任じゃなかったっけ?
545日本@名無史さん:2008/01/07(月) 23:41:26
貴族って女抱くことしか出来ないんだね
だから武士にのっとられるんだよ
546日本@名無史さん:2008/01/13(日) 15:30:30
>>420
この文章おもしろいね(笑)
古典にのっとりながらメタな感じがセンスある。引用なのかな?

>>541
それにしても古書にも論文にも「薬子の変以降死刑は実質廃止」とよく出てくるけど、
どんなものかね。
律令には絞斬しかなく、射殺刑などないんだから、仲成は密勅で殺されたにちがいない。
だから刑とはいえない。勅旨が律令を超越するのは、勿論だけど。
承平天慶の乱で追捕後に殺害された謀反人を死刑に含めないのと同じことだ。
個人的には、意識的に廃止したのではなく、宗教的観点からいつしか中断してしまったのだと思う。
547日本@名無史さん:2008/01/28(月) 20:43:35
>>546
それも微妙に違う
一時期格殺(撲殺)刑もあったから。
548日本@名無史さん:2008/01/29(火) 19:47:26
>>547
ほんとに?
どの書に載ってた?
549日本@名無史さん:2008/01/29(火) 20:31:03
岩波の日本思想大系新装版「律令」(井上光貞他)の注釈(487ページ)によれば、
宝亀4年8月29日と同10年10月16日の太政官符に格殺(打ち殺す)刑を放火+強盗犯に適用する事が定められているらしい。
550日本@名無史さん:2008/01/29(火) 22:08:23
>>549
そうなんだ。官符が発給されていたとは知らなかった。有難う。
律令には即していたのかな? 養老律令には見えないんだけど…
官符如きで罪刑を新立できないだろうから、格式で補正したのかな?
551日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:51:28
太政大臣、摂政・関白、征夷大将軍 4
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1203870640
552名無しさん@お腹いっぱい:2008/02/29(金) 16:57:03
質問です。当時の貴族の女性は髪がたっぷりとして長いのが美人の一つの
条件でしたが、人間の髪ってあそこまで伸びるものでしょうか。絵巻を見ると
広げてあってかもじをつけていません。そしてすそ広がりとなっています。
おたふく顔と一緒で誇張したものではないでしょうか。
553日本@名無しさん:2008/02/29(金) 17:15:20
>>552
伸ばし続けよう…というか、切らないで済ませていったらこのようになる。
ttp://www.recordchina.co.jp/group/g7857.html

とはいっても、誰でも彼でもしっかり伸びてくれるわけではないので
見栄えを良くするためにかもじを使うこともあったろう。

洗髪などはどのようにしていたのかということだが、チャレンジした人がいる。
ttp://kyoto.cool.ne.jp/eva_genji/040103hair-1.htm
554名無しさん@お腹いっぱい:2008/02/29(金) 17:36:23
>>553
ネット初心者でhのついていないホームページは見れないんです。見方を
教えてください。
555日本@名無史さん:2008/02/29(金) 21:02:48
hをつけるといいです
556日本@名無史さん:2008/03/03(月) 01:00:18
>>554
専ブラ入れろ
557名無しさん@お腹いっぱい:2008/03/03(月) 13:28:15
沖縄の辻遊郭の女性は髪が長く、たっていても引きずるほど。
洗髪は「ニービ」という油濃い土を使った。それで洗うとしっとりとして
しなやかになっており、握るとさらさら。
558日本@名無史さん:2008/03/06(木) 13:54:58
>>554
現在映し出されているアドレスのhだけ残してコピー&ペースト
559日本@名無史さん:2008/03/20(木) 02:15:27
>>553
うわっ、何これ!
この中国の人に十二単着せたら、ナマ平安美人だね。できたらメークもばっちりきめたい。
560日本@名無史さん:2008/03/20(木) 13:54:04
平安美人・・

(;´Д`)l \ァ l \ァ・・・ うっ。
561日本@名無史さん:2008/03/22(土) 13:32:53
当時の貴族社会の中では舞とか踊りは
例えば琴とか歌のように、素養というか
身だしなみ的な扱いは受けていたのでしょうか。

それとも舞は白拍子などの専売特許?
562日本@名無史さん:2008/03/22(土) 14:00:17
すみません。色々質問があります。


貴族の娘は、「出歩かないのが身だしなみ」とからしいですが
参内とかすることはありましたか。
それとも普通は一生家の中だけなのでしょうか。

女房になるのは、どんな身分の人がなるのでしょうか。家督継ぐ
大事な一人娘とかは普通ならないと思いますが、紫式部のように
親子でなる例もあるようで。どういうものなのでしょう。


当時、屋敷の警護に雇われていた侍たちはどこから雇っていたのでしょうか。


牛車で移動する距離は都の中だけ・・に思ってよいでしょうか。
今の行政区分でいう他府県に渡る移動はどうしていたのでしょう。


お願いいたします。
563日本@名無史さん:2008/03/22(土) 14:22:40
舞や踊り
『源氏物語』など当時の文献を見る限りでは平安貴族女性の必須教養ではなかったと思われる。
もっとも「五節の舞」など儀式事で舞わなければいけない場面はありましたが、あれは身分の高い貴族の女性は
舞手には任じられなかったんではなかったっけ。
ちなみに、下鴨神社で再現した「五節舞」を見たことがあるが、今の日舞とは違って動きは乏しい。

貴族の娘と外出
女官になるとか後宮の后になるとかじゃないと参内しない。
基本的には生涯家の中。但し、父親が受領になると赴任地についていく場合あり。

女房
に任じられるのは中級貴族の娘や未亡人など
受領層の娘は女房の輩出層になっていた(紫式部や清少納言がいい例)
あと元は上層貴族だったが、父親の失脚などで没落した女性など。藤原伊周の娘なんかはこの例か。
その伊周は遺言で「娘が 宮仕えなんかするような零落 した目に遭わないように」という内容を残したが
結局没落による生活苦には耐えられなかったようね。


知らないので他の人plz

牛車
京都の時代祭とか見たら分かると思うがかなり重い物なので、坂道の多い日本国内の移動には不適当。
超高級な貴族は輿、その下クラスが馬、ボンビー貴族は当然徒歩w
もちろん女性は人様に顔を見られないように「むしのたれぎぬ」という薄手の布をぶら下げた笠をかぶってました。
564日本@名無史さん:2008/03/22(土) 15:44:20
>>563
ありがとうございます。大変参考になります。
付帯&追加質問はよろしいでしょうか。


女房 

中級貴族没落貴族の娘が排出層と言う事ですが、女房装束等は、
当時でも、かなりの負担ではなかったのでしょうか。
没落といっても、それくらいは何とかなるのが貴族だったのでしょうか。




輿というのは人間が担ぐのだと思うのですが、担いでいる人は、
そんな長距離(?)に耐えられるのでしょうか

また「基本的に家にいる娘」が徒歩で旅というのは無理のようにも思うのですが、
そのあたりはどうなのでしょう。従者や護衛の者も一緒に連れ立ったのでしょうか。

また馬ですが、当時の物は現在の物と違ってかなり小型で力が無かったといいます。

家族+従者+馬などと携帯物など合わせると、移動にはどの程度の
隊列(?)とかになるものなのでしょう。


ちょっと質問が突っ込み過ぎてますか?ww
実際にタイムマシンにでも乗って、見てきたい気分ですwww

565日本@名無史さん:2008/03/22(土) 17:50:50
>>561
舞は貴族の素養に含まれてたと思う
三船の誉れって、確か和歌・漢詩・管弦(舞も含む)だったよね
源時中が管弦の船に乗って、うまく舞って参議昇進を決めた事があったような
566日本@名無史さん:2008/03/22(土) 18:01:28
>>564
>中級貴族没落貴族の娘が排出層と言う事ですが、女房装束等は、
>当時でも、かなりの負担ではなかったのでしょうか。
>没落といっても、それくらいは何とかなるのが貴族だったのでしょうか。

これはその通り
男ものの衣冠束帯でも、現在の貨幣価値で1000万を下らないと聞いたことがある
全部絹だからね
中流貴族でも受領なんかは金持ちだろうが、没落貴族はどのように調達してたんかなあ?
誰かから借りてたのか、よくわからん
567日本@名無史さん:2008/03/22(土) 18:15:46
主人の方が支給・貸与することもあったんじゃないかな。
そう言えば書で名高い佐理が道隆の依頼で屏風だったかに書を書いて女房装束を貰ってたな。
江戸時代では貸衣装屋が有ったそうだ、衣装だけじゃなくお供も貸す。
家臣の衣装を自力で調達できるのは近衛(確実)と九条(多分)だけだったとか。
568日本@名無史さん:2008/03/22(土) 19:02:57
>中級貴族没落貴族の娘が排出層と言う事ですが、女房装束等は、
>当時でも、かなりの負担ではなかったのでしょうか。

>>566-567 の補足になるが
確かに出仕すると給料はもらえるけど、服代は自己負担で大変だったらしい。
女房装束は季節毎に色合わせのルールも決まっているから、
通年で使えるような色合わせの装束だけ調達したとかいうはなしを何かの史料で読んだのだが・・・失念。

旅に関しては『土佐日記』や『更級日記』を読んだ方が具体的なイメージがわきやすいのではないかと。
569日本@名無史さん:2008/03/22(土) 19:15:58
中原俊章氏の「中世公家と地下官人」吉川弘文館によると、
10世紀の段階ではまだ身分としての侍は確立していないようだ。
舎人・令史等と同クラスの畿内有力者等が侍になったらしい。
もっとも中宮侍はかなり地位が高くて四位クラスの父を持ち、
後に自身が権少将・宮内少輔などに昇進した者もいる。
これらの肩書きは後の諸大夫層のもの。
侍と家司、侍と舎人・下級官人の区分も明確でないようだ。
これが11、12世紀になると四位級の中流貴族から脱落した層が侍となるらしい。
570日本@名無史さん:2008/03/22(土) 19:58:21
561,562,564です。
皆様、貴重なるご意見、感謝いたします。大変参考になります。

調子に乗ってさらに聞かせてもらってよろしいでしょうか?


貴族社会では饗宴のようなモノも開かれ、それなりの人も参加していた。
それなりの身分の人もお酒が入ると女房あいてに・・・な事wwをする人も
いるようなことを読みました。これらの宴会のような物は主に
宮中で開かれていたのですか?それとも貴族の屋敷で行われていたのですか。
それとも両方・・ですか。



女房というのは、宮中に仕官している物のみを指すのではなく
貴族の屋敷に入り仕える者もいる・・というか、
そっちのほうが多いかとも思うのですが、どうでしょうか。



後の侍の出自が中流貴族の脱落組みというのは、初めて知りました。
ありがとうございました。

あと、都の警察機構はどうなっていたのか、教えてもらえませんか。
またそれらの警察機構は、例えば宮中での犯罪とかにも、
捜査取締りとかの権限が及んだのでしょうか。
571日本@名無史さん:2008/03/22(土) 20:53:13
宮中で行われる宴会は儀式と一体化した公式なものと、
それに比べるやや非公式な通常の宴会があったらしい。
とは言えどちらも形式的で堅苦しいものだったようだ。
そうはいっても所詮は同じ人間酒が入ると見苦しい状態も。
屋敷でやるのは基本的に私的なものだと思うけど。
572日本@名無史さん:2008/03/22(土) 21:17:10
笹山晴生氏・元木康雄氏・高橋昌明氏あたりの本を読んで自分なりに理解しているところでは、
近衛府の警察機能は10世紀前半頃に消失してしまい、
以後警察機能を担う公的機関は9世紀初頭頃に創設されたらしい検非違使のみとなる。
10世紀後半頃から「武勇に堪ゆる輩」と称される軍事貴族としての武士が必要に応じ動員されるようになる。
しかしこの時点では臨時的なもので、平常時における治安担当の主力ではない。
一方天皇の身辺警護は滝口が担当するようになるが、これは天皇個人の私的警備隊的色彩が濃いもの。
その為退位後は院の武者所となってそのまま仕える場合が多い。
ただしこの滝口は直接武力をもって警護するようなものではないらしい。
内裏への侵入事件などがあっても滝口が責任を問われ処分された形跡はほとんど見られないそうだ。
鳴弦等呪力的な守りを期待されての存在のようだ。
573日本@名無史さん:2008/03/23(日) 12:24:59
皆様、ご回答ありがとうございます。

警察の件、最後?にひとつ。ww

そのお話しであると、実質宮中内での犯罪などには
対処しうる物は無かった・・と推測しうるのでしょうか。

また侵入者というような物でなく、参内している貴族そのものの
違法(?)行為を取り締まることは出来なかったと?

あるいは、本来は、その消失したという近衛府が、
その役目を担っていた・・ということなのでしょうか?

574本郷 義昭:2008/03/23(日) 23:42:36
 しっかりして下さいよ。
 警察は弾正台でしょ。
575日本@名無史さん:2008/03/24(月) 02:00:08
>>573
貴族の従者同士の喧嘩なら、天皇の裁定に任されるという事はあるそうです
だが、貴族自身の暴力行為ともなるとねえ・・・
そもそも五位以上の官人の自宅に踏み込むには、天皇の裁可が必要ですし
もう野放し状態ではなかったのかとw
576本郷 義昭:2008/03/24(月) 08:41:39
 それは今でも同じ。
 国会議員の不逮捕特権。
 戦後まで、この類はもっと多かった。
577本郷 義昭:2008/03/24(月) 10:02:28
 例えば親任官の起訴には勅裁が要ります。
 烈師団長の佐藤幸徳中将をご覧なさい。
 根本に立ち返って考えれば、君主制下、君公の御名で採決するのは当然です。
 これは現代でも同様。

 それにしても野放しというのは壮大な妄想です。
 律令や行事法、庁例を見れば、有位有職者の処罰に関し、詳細な規定と、膨大な判例の蓄積のあることが分ります。
 学問板ですから根拠の無い出鱈目を書いてはいけません。
578日本@名無史さん:2008/03/24(月) 12:14:17
>>577

少し前からこの一連、質問しまくっている者です。
ご意見ありがとうございます。大変参考になります。

おっしゃっている「例を見れば、・・・蓄積のあることが分ります。」
ですが、それらに関する分のそういう実質的な取り締まりや捜査は、
どこがやったとのか、推測できるのか、教えていただけませんか。


また検非違使は言わば町の取締りで宮内、貴族の事には手を出せないという
認識でただしいですか?

579日本@名無史さん:2008/03/24(月) 13:08:50
天皇の直裁が有れば大臣だって捕まえられます。
伊周の事件の時も動員されたのは検非違使です。
ただし天皇・摂関等上からの指示がなければ、
事実上は上級貴族には手を出せないでしょう。
580日本@名無史さん:2008/03/24(月) 13:09:03
>>577
花山法王の娘を殺害した道雅ですら、左京大夫への左遷だけで処罰はなし
ほとんど野放しじゃん
処罰されるのは伊周のように権力争いに負けた時だけ
平安時代の話してるのに、第二次大戦の例を出すとは、
キミこそ壮大な妄想を抱えているようだね
581本郷 義昭:2008/03/24(月) 14:52:34
 そこが根本的に間違って居ます。
 若し昔のことが後代に通用しないというなら、そもそも歴史を学ぶ理由が消滅します。
 青史をひもとくのは、そこに古今を貫く法則性を見出して現代に生かすためです。
 第二次大戦どころか現代でも、変っていないのですよ。
582日本@名無史さん:2008/03/24(月) 15:03:01
>左京大夫への左遷だけで処罰はなし

左遷って処罰じゃないの?
583日本@名無史さん:2008/03/24(月) 15:29:27
>>580
はいはい、話を拡散させるのはやめようね
いかに立派な律令があろうと、実際に遵守されてなければただの「紙切れ」
後一条天皇の時、清涼殿で刀抜いて暴れたアホがいたけど、
このアホがどんな処分を受けたかご存知?
つーか、キミの壮大な妄想には拍車がかかってるようだ

>>582
律令に基づく処罰なら、皇女を殺して左遷で済む筈は無い
584日本@名無史さん:2008/03/24(月) 15:30:59
安価ミス
>>580じゃなくて>>581宛て
585日本@名無史さん:2008/03/24(月) 15:37:06
>>583
>律令に基づく処罰なら、皇女を殺して左遷で済む筈は無い

道雅が皇女を殺しているところを現行犯逮捕されるならともかく・・・
道雅ほどの貴族ならば下の者が罪をかぶるよね。
これもどうやら道雅の仕業らしいということになったというだけの話で、
真相は闇の中。
586日本@名無史さん:2008/03/24(月) 18:30:10
>>585
ではなぜ、三位中将から右京権大夫に左遷されたの?
しかも後に左京大夫に移っただけで、死ぬまでそのまま据え置きなんだが
納得のいく理由を説明してもらいたい
587本郷 義昭:2008/03/24(月) 18:47:45
 専門知識が全然無いからそんな妄想に駆られるのです。
 ことは法制史に属しますから、法知識が必要です。

 さて、>>578 ちっとも正しくありません。
 推測しなくとも大概断定できます。
 弾正台・刑部省等の権限が時の経過と共に検非違使に移って行きます。
 そうして行事法はまだしも、検非違使庁例や先例は慣習法であり、判例法ですから、実態そのものであったといえます。
 よって>>583 は無知蒙昧。
 行事法にしても不文法です。
 当代を論ずる法制史の本を読めば大抵の事は分りますし、ここが群盲象を撫する困ったスレだと気付くでしょう。

 >>582
 処罰ではありません。
 単なる行政処分で、行政罰ですらありません。
588日本@名無史さん:2008/03/24(月) 19:09:41
>>586
道雅には官位を上げてくれるような父や祖父、
後見人がいなかったからしょうがないよね。
道雅に限らず、道長の息子が高位を独占していた
この時代、ほかの有力者の息子たちは
随分と割を食らったはずだ。
589日本@名無史さん:2008/03/24(月) 19:59:58
13世紀後半になると弾正忠から衛門志はおろか衛門府生に転じる例さえあるな。
弾正忠から衛門尉なら判官内部の昇格だからわかるけど、
判官から主典はまだしも府生になるのは凄いな。
検非違使補任より
590日本@名無史さん:2008/03/24(月) 21:26:25
>>587
>そうして行事法はまだしも、検非違使庁例や先例は慣習法であり、判例法ですから、
>実態そのものであったといえます
>よって>>583 は無知蒙昧

ん、清涼殿で刀抜いて暴れても判例では処罰されてないから、無罪ってこと?
それを「野放し」と言うのではないのかね?つーか、

>律令や行事法、庁例を見れば、有位有職者の処罰に関し、
>詳細な規定と、膨大な判例の蓄積のあることが分ります。

自分でも、成文法の律令が法源だと認めてるじゃん
そんなに簡単に自爆してどうすんのさ
だいたい、法制度が変わってるにも関わらず、第二次大戦と平安時代をごっちゃにして論じてる
そちらの方が無知蒙昧と言わざるを得ない

>>588
道雅はいったん蔵人頭→三位中将と昇進しながら、右京権大夫に左遷
この時代、蔵人頭になりながら参議に昇進しなかった例は、病死とかを除けば
かなりレアなケースだと思うが
後見人不在というだけでは、ちょっと考えづらい
591日本@名無史さん:2008/03/24(月) 22:41:43

 だーかーらー、それは行政処分
 法学の素養絶無の人に法律論争は無理
592日本@名無史さん:2008/03/24(月) 23:09:30
>577
なんか、どっかで暴れてた「法律も法制史も知らない『法制史の専門家』」と同じような論調だね。
593日本@名無史さん:2008/03/24(月) 23:12:56
そもそも、伊周や隆家にしても形式上は「左遷」であって処罰じゃないね。
そういう「行政処分」でない
> 有位有職者の処罰に関し、詳細な規定と、膨大な判例の蓄積
の例を挙げて欲しいですね。
594本郷 義昭:2008/03/24(月) 23:24:18
↑これは行政処分とゆう言葉の意味が判っていません。
 弁当出すのも行政処分。
 分ることだけ書きませう。

 庁例自体がまるまるそうです。
 自分で読んでください。
595日本@名無史さん:2008/03/24(月) 23:54:11
>594
あなたにまともな内容を書く能力がないことはわかっているんで、せめて
日本語くらいはまともに書く努力をしてください。
596日本@名無史さん:2008/03/26(水) 00:44:31
スレ違い荒し↑
597日本@名無史さん:2008/03/26(水) 09:24:13
行政処分≠行政罰
598日本@名無史さん:2008/03/26(水) 19:30:17
>>590
花山法皇皇女殺害は、公には盗賊の仕業とされていた。
もっとも、皇女殺害の主犯として逮捕された皇女に仕える僧侶が、道雅の仕業だと証言。
この証言は関白頼通や太閤道長にも報告されたが、両者はただ驚いただけだという。
僧の証言の信憑性がなかったためか、この後、通雅が取り調べられた事実もなければ、
これが原因で道雅が左遷されたという記述も一切ない。
599日本@名無史さん:2008/03/26(水) 23:03:40
法的にはそれで不都合無い。
嫌疑が一定段階に達しなければ、捜査も手控えざるを得ない。
600日本@名無史さん:2008/03/28(金) 09:57:41
598 さんの感覚で一々「取り調べられた」日にゃ、冤罪だらけになると思います
601日本@名無史さん:2008/03/28(金) 10:04:25
道雅が花山法皇皇女殺害が原因で左遷されたと言いきっている人は
根拠がないことを自覚するべき。
伊周や隆家の左遷の際には、一条天皇の勅として
花山法皇に矢を射かけたことを理由として挙げており、
これが左遷の原因であることが明確になっている。
602日本@名無史さん:2008/03/28(金) 10:06:26
有名な話だよな
もとは女論
その上誤解
更には人違い
603日本@名無史さん:2008/03/29(土) 17:12:20
へえ、勅に書いてあればそれが真実と認められるわけですか
ならば、菅原道真は斉世親王を皇位に就けようとしてたんですね
源高明は謀反を企んでたんですね
本当にありがとうございました
604日本@名無史さん:2008/03/30(日) 16:25:01
>>603
勅に書いてあれば、それが原因で左遷されたということは確実だといったんだよ。
真実かどうかではなく、それが原因で左遷されたことが事実なの。
君は通雅が花山法皇皇女殺害が原因で左遷されたと言っている。
それこそ理由がない。
誰もそれが理由で通雅を処分してないってこと。
相当頭悪い人だね。
605日本@名無史さん:2008/03/31(月) 23:27:11
勅に対し奉り疑を差挟む者は逆徒
606本郷 義昭:2008/04/02(水) 00:44:14
 律令本文は短期間に実務と乖離し、夙に行事法に移行しました。
 その実定法上の根拠が格式です。
 これらはまだしも成文法ですが、下位の法源は不文法に移りました。
 その中心が庁例です。
 そもそも検非違使庁からして令外官です。
 所謂律令法の実態は、律令自体から離れた斯る不文法で、律令法系ではあっても律令そのものからは遠いのです。
 以上の流れをよく踏まえて考察すべきところ、何も知らず群盲象を撫する現状は遺憾千万です。
607日本@名無史さん:2008/04/04(金) 09:58:52
みんな逃げ散ってしまった・・・
608日本@名無史さん:2008/04/05(土) 13:46:19
いんや。おれはいる。
おれは平安時代オタクだから
どこにも行かない。
609日本@名無史さん:2008/04/07(月) 19:29:54
正称は失念してしまったのですが、かつて読んだ(おそらく有名な)古典に
「道で出会った姉妹が可愛かったので、着ている服の袖を千切って恋文を書いて渡した」
というストーリーがありまして、これに関して二つ質問があります。
平安時代の貴族は一夫多妻だったため、当然に姉妹と結婚することもできたかと思いますが、
夫が妻の邸宅を訪ねる場合、妻の二人は同室で夫を迎えるのでしょうか。
それとも、ひとりひとり別室で待機して、夫が交互に両者の私室を行き来するのでしょうか。

また、平安時代には緊急に布が必要な時には服の袖を千切ることが広く行われていたそうですが、
外出のたびに袖をビリビリ破いていると、いくら服があっても足りないのではないでしょうか。
裕福な貴族とはいえ、その分服も高級なものを着るはずなので、しょっちゅう千切るわけにはいかないと思います。
もしかすると、一度袖を千切っただけでは服を捨てず、
腕の部分がボロボロになるまで着続けていたのでしょうか。
610日本@名無史さん:2008/04/07(月) 20:12:16
白の小袖つーか、下着でしょ。
611日本@名無史さん:2008/04/07(月) 21:18:23
私も違う質問をしに来たのですが、それは今度にして
判る範囲で答えておきますと。

袖をちぎるのは応急の場合で普段は
畳紙という懐紙のような物を持ち歩いていて、
それを使ったんだと思います。

これはテッシュでありメモ用紙でもあり
色々便利に使った物のようです。



夫が妻の家を訪れる・・ですが当然妻は各各別室です。
どちらの部屋に行くかは夫のそのときの気分次第。


・・・と思うのですが、賢者諸氏のご意見を乞う。ww
612日本@名無史さん:2008/04/10(木) 20:17:41
「なんて素敵にジャパネスク」で主人公瑠璃姫の親が「再婚」している。

瑠璃姫はその件で男なんて・・と一連を言うが、それよりも瑠璃姫が男親について
育てられているというのが、まずおかしい。普通子は女系が育てる。
それなのにあの家族は父−瑠璃姫−弟という家族構成。そのなかで
父が再婚して「新しい母」を迎えることになっている。

父は大納言という役職ゆえにそれなりの裕福さてあったろうから
子供も引き取って育てているのだろうか?
「新しい母」にしても男の家に嫁入りするというのは、女性側に財産が
よほどないか、身分が相当下と言う事しか考えられない。

しかし、逆に大納言職の貴族がそんな女性を次の妻にするだろうか?


あれは単なるフィクションとみておくべき・・なんでしょうね。
613日本@名無史さん:2008/04/10(木) 23:03:36
史版でまんがについて聞かれても、ねぇ。。。
614日本@名無史さん:2008/04/11(金) 01:43:18
>>609
伊勢物語の初段と思われます。姉妹に文は送ってますが
別に姉妹の両方と結婚しようと思ったわけではないかもしれません。
源氏物語にも匂宮が宇治の姉妹に文を送り、姉妹のどちらとも指定がなかったのか
父宮が妹姫に返事をするように言いつける場面があります。

>>612
日本史板で真面目に答えますが瑠璃の母と母方の祖母は亡くなってます。
母の親戚がいなかったら父に引き取られるのはそんなにおかしいことでもないかと。
父親がすぐに再婚したのは確かにちょっとおかしいかもしれません。
母親が亡くなり喪があけてすぐに別の女性に通い婚で正式に結婚し、
何らかの事情で通うのが面倒なので半年くらいで引き取った、と脳内保管すれば
そんなにおかしくない可能性もあります。
個人的には男なんて…とかいう瑠璃姫が一番おかしいと思います。
615日本@名無史さん:2008/04/11(金) 08:10:54
まんがにマジレスするけど、瑠璃姫の母親が生存中から今の北の方に通っていたのよ。
で、死ぬときに今北の方に瑠璃姫と融をよろしくって手紙を書いてる
616日本@名無史さん:2008/04/11(金) 13:40:50
>>613 漫画板では、その辺の考証は歴史板で・・と、タライまわしされましたwww


>>614
>>615

 脳内補完ありがとうございます。そういう経緯も考えられるというわけですか。
 当方これから精進します。今回のお答え、ありがとうございました。
617日本@名無史さん:2008/04/11(金) 14:34:39
初歩的な質問かもしれないが、平安時代は通い婚で子は普通女親の家で育てるみたいだが
藤原男が橘女の下に通い子を儲けた場合、育てるのは女側ってのは解るが、子の姓も女親の方になるの?
それとも姓は男系継承で男親のを受け継ぎ、財産だけ女親の方のを受け継ぐのか?
どうもそこら辺が解りません。
皇室の場合は女を後宮に入れ、子を宿したら女実家で産み、女実家で育てるみたいだが。
618日本@名無史さん:2008/04/11(金) 16:47:38
>>612
「ジャパネスク」の設定内容は614氏の言う通りだが、
事情によっては離婚後娘が父親方に引き取られることはあったようだ。
「源氏物語」の雲居雁は両親が離婚、母親は生きているが
父親の頭中将に引き取られている。(というか育てたのは父方の祖母大宮だが)。

史実でも、藤原朝光の娘で花山天皇の女御となった藤原姫子は
両親離婚後、父親に引き取られ父親の後妻と暮らしている。
大事な天皇の後宮へ入れるための持ち駒となる娘をうかうか妻方へ渡せないという
事情もあったようだが。
619日本@名無史さん:2008/04/11(金) 18:36:12
>>618
ありがとうございました。
そういう史実もあるのだと言う事、
教えて下さったこと、感謝いたします。
620日本@名無史さん:2008/04/12(土) 16:32:41
質問なんですが
天皇は中宮とか女御とか更衣と夜の生活をするときって、清涼殿に呼ぶのが正式なの?
それとも各女君の殿舎にいくのが正式なの?
621日本@名無史さん:2008/04/12(土) 21:30:57
殿舎に行ってイく
622日本@名無史さん:2008/04/13(日) 17:11:24
>>620
平安時代は通い婚で男が女のもとへ通っていたが、天皇だけは別だった。
天皇の住まいである内裏の中に妃たちを住まわせ、
天皇の寝所である清涼殿のほぼ中央に位置する夜御殿に指名した妃を呼んだ。
清涼殿の夜御殿の北側には「弘徽殿上御局」「藤壺上御局」と呼ばれる部屋があり、
ここが天皇に呼ばれ夜御殿に侍る妃たちの控えの間になっていた。
例えば後朱雀天皇の妃だった藤原教通の娘生子は「常に上御局にあった」という文章が
栄華物語にあり、つまり常に天皇の寝所に呼ばれていたことを指している。
本来は、妃たちが天皇A呼ばれてやってきた。

ただ、天皇と妃たちの殿舎は同じ内裏内にあり、廊下で結ばれており、
天皇が妃の殿舎へ遊びに行ったり、妃たちの殿舎で行われる遊びに参加したりして、
そのまま「大殿ごもる」ことは勿論あった。

623日本@名無史さん:2008/04/13(日) 20:26:10
荘園について、質問があります。

奈良時代の初期荘園は主に近畿地方を中心に分布していたようですが、
平安時代になると更に広範囲に広がったようです。
その分布はどのような物だったのでしょうか。
それらが判る書籍などありますか?

また国司・受領になった貴族は、次第に現地へ行かなくなって
いくようにも聞きましたが、その統治はどのようにやっていたのでしょうか。
都にいる貴族は、任せている(?)荘園現地へ出向くことはありましたか?

またそれらと「知行国」という制度とは影響していますか?

624日本@名無史さん:2008/04/19(土) 00:37:05
袖って簡単に千切れるんですか
625日本@名無史さん:2008/04/19(土) 13:17:15
小袖の袖なら千切りやすいと思うよ。

狩衣とかの袖も、そうだろうけどww
あれはきらんだろう、流石に。ww

626日本@名無史さん:2008/04/19(土) 18:28:26
袖って簡単に千切れます。
思いっきり強い力で引っ張れば。
(普通の着物の場合)
627日本@名無しさん:2008/04/19(土) 22:49:41
立体縫製ならさ、どういうベクトルで力を掛けようとも途中でとまるもんだが、着物のような平面縫製ならそうではないのさ。
また(貴族の衣のような超貴重品は特にそうだが)リサイクルを前提にしていることもあるからさ、ガッチガチに縫製する理由がない。
628日本@名無史さん:2008/04/20(日) 13:36:38
今の装束はそんなに簡単に切れないけど
自宅縫製、手作りですからね。
(源氏物語浮舟が自分の法要の着物を縫っている)
629日本@名無史さん:2008/04/24(木) 00:52:55

   茜さす紫野行きしめの行き野守は見ずや君が袖振る
630日本@名無史さん:2008/04/24(木) 13:01:34
「むかし、おとこ、うゐかうぶりして、ならの京、かすがのさとに、しるよしゝて、かりにいにけり。
そのさとに、いとなまめいたるをむなはらからすみけり。このおとこかいまみてけり。
おもほえずふるさとにいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。
おとこのきたりけるかりぎぬのすそをきりて、うたをかきてやる。
そのおとこ、しのぶずりのかりぎぬをなむきたりける(伊勢物語 原文)」

男は自分が着ていたしのぶずり狩衣の裾を切って歌を書いて(姉妹に)贈ったとある。
袖ではなく狩衣の裾ね。
切ったとは書いてあるけれども、手でちぎったとも書いてないので
所持していた懐刀かなんかで切ったのかも知れんし、なんともいえん。
631日本@名無史さん:2008/04/25(金) 19:25:09
>>629
紫の 匂ほへる妹を 憎くあらば
       人妻ゆゑに われ恋ひめやも
632日本@名無史さん:2008/04/26(土) 09:14:45
此処の人は教養があってイイ!
武家装束でも袖は千切れますね
633日本@名無史さん:2008/04/26(土) 22:53:05
              , ‐ ' ´  ̄ ̄ ` 丶、
            /              丶
              , ' r、'´    _ _      ヽ
           /  /ヽヽ__ ' ´   _____,, イ ヽ
          ,'  ,'  {_r'‐'',ニ二、ー===-‐'|l 、`、
           iヽ i //  '´  ̄`ヽヽ       l| l  i
        ,' ヽ l /  、>‐=、、      =ニヽ ! l  l
        ,' /⌒ l |  ´ /(__,!゛       `、! |  !    大日本帝國は最高よ!
       ,' ! '^> |!   i。_oソ     , ニ、,  ノ 丿        
       ,'  ヽ ヽ     ` ─       '⌒Y, ' /       
        /   |`T 、            j     /}´       ,'^!
     /   l l i iヽ     i` ーァ   /ノ      / /
      /    | | i i ! \   l_/    ノ |   {ヽ  / /
     ,'    | | i iノ   丶、 __  , イ | |   l } 〃 二ヽ
    ,'    r| | '´\_  / ,' ,′  | |   |└'{_/ ,─`、
   ,' , --─/ l | ─ 、 `X´ト、 ,′  | |  |  '-イ_ィ、 〉
634日本@名無史さん:2008/04/28(月) 19:05:35
武家の殿中装束は初めから千切り易く作ってある
635日本@名無史さん:2008/04/30(水) 00:16:39
>>577
そう言えば華族の処罰にも勅裁が必要ですね。
松方内閣の有名な選挙干渉の時に自由党の党首の板垣退助を逮捕しようとして、上奏権限を持つ司法大臣があまりの無茶振りに同意しなかったために勅裁を仰ぐ事すら出来なかった。
636日本@名無史さん:2008/05/01(木) 19:30:17
話は分りましたが、逮捕は処罰ではありません。
捜査の一手段。
637日本@名無史さん:2008/05/03(土) 11:45:43
もうじき海軍記念日
638日本@名無史さん:2008/05/03(土) 20:03:38
ちょっと高すぎだろ。

唐衣(からぎぬ)と、表着(うわぎ)、裳(も)だけで550万円。

http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20080503p401.htm?from=iphoto

当時としては相対対価として、ここまで高くないはず。




639日本@名無史さん:2008/05/03(土) 20:53:59
>>690あたりの道雅の話。

道雅は花山法王皇女殺害以前、(まともな頃)三条天皇皇女当子内親王に通っていて、それが三条天皇にバレて激怒した三条天皇に左遷されたのでは?

そのとき読まれた歌が百人一首にあって、「今はただ 思いたえなむ とばかりを 人づてならで 言うよしもがな」 だったかと。

その後当子内親王は失意のまま亡くなり、道雅は荒三位ていわれるくらい荒れたた、と言われているのは、いつ頃なのか?
手元に歴史関連のものが一切ないのだが、この話だと、道雅は確か26才だったと思う。

花山法王皇后女殺害はいつ頃?左遷は?分かるかた、よろしくです。
640日本@名無史さん:2008/05/03(土) 20:59:40
ごめん、最後の方、三条天皇皇后女、になってるが、三条天皇皇女の間違い。
641日本@名無史さん:2008/05/04(日) 11:35:20
>>639
道雅と当子内親王の密通が発覚したのは長和五年(1016年)。
当時、通雅25歳、当子内親王16歳。
これは復数の史料に書かれてあり事実と確認できる。
道雅は当子内親王の父三条天皇の逆鱗に触れ参内を止められたが、左遷はされていない。
当子内親王はその6年後、1022年に没。
一方、花山天皇皇女が殺害されたのは万寿2年(1024年)。
主犯として捕らえられた僧が通雅の仕業だと証言したというが、事実関係は分からず、
道雅は取り調べられることもなくうやむやに。
万寿4年、道雅は左近衛中将を罷免され右京権大夫とされたが、
なぜ通雅が官職を下げられたのか明確な理由を書いている史料はないが、
道雅が「荒三位」と呼ばれたのはほかにも博打を売ったり、喧嘩をしたりしたためらしい。
左遷とはいっても配流されたわけではなく、通雅は生涯都に住んでいる。
道雅が荒れまくっていたのは概ね従三位に任じられた1016年から右京権大夫に落とされた
1026年ぐらいまでの出来事であるらしい。
それ以降は、祖母の高階貴子譲りの和歌の才能を開花させ、
出世は望めないながらも風流人として生きている。
642日本@名無史さん:2008/05/04(日) 15:16:50
>>641

どうもありがとう。そうだったんだ。参考になった。荒三位とよばれたその後、風流人として生きたなんて、面白い人生だね。いや、本人としては苦しかったのかもしれないが。

じつは2ch初カキコだったから不安だったんだけど、よかった。ありがとう。
643日本@名無史さん:2008/05/07(水) 00:57:35
自分は平安コスプレが好きでちょくちょくしに行くんだが、
夏の直衣の二藍て本だと若いほど紅が濃くて歳をとるごとに、
青くなっていくて書いてあるけど自分は29歳だけど、
青色の直衣て年齢的にはおかしいのかな?
本だと青は40歳てなっていた。
でも、前に某博物館の学芸員の人が平安時代は、まだ有職故実も
流動的ではっきり決まっていないと言っていたし
徳川美術館で見た復元模写の国宝源氏物語絵巻だと年齢に関係なく
夏は青の直衣だったし気にする必要無いのかな。
まあ、どうでもいいことなんだけど気になってしまいます。
644643:2008/05/07(水) 01:01:41
それと冬の直衣に蝙蝠扇もおかしいかな?
ちょくちょく行く所が冬の直衣に蝙蝠扇だから気になってしまう。
それとそこの直衣は裾が長いんだが、京都のコスプレ屋の直衣は、
裾が短かったんだけどどっちが正しいんだろう?
645日本@名無史さん:2008/05/09(金) 04:14:52
>>643、644

ごめん、まったく分からない。…が、29才でコスプレ、いいね。いや、ひやかしでも何でもなく、我が道を行ける、かっことした趣味があるって羨ましいよ。
646日本@名無史さん:2008/05/09(金) 16:31:36
>>643
京都の「風俗博物館」に源氏物語のシーンを人形で再現したものがあるが、
20代前半の柏木は紅色の直衣を着ています。
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/cos-e6-1.htm

こちらは野宮にいる六条御息所に会いに行く21歳の光源氏。
やはり紅色の直衣です。
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-0407-04.htm

内大臣の邸へ雲居の雁との結婚の許しを得に行く夕霧のもの。
18歳の夕霧は、本来、紅の直衣を着るべきところ、
父親である源氏はその直衣は軽々しいといって自分の直衣に着替えさせる。
下の写真は父親の源氏(このとき39歳)の縹色(薄い青)の直衣を着た夕霧。
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co200501news1-1.htm#2

こちらは晩年(40代後半)の光源氏
http://evagenji.hp.infoseek.co.jp/co-2002-6-2-15.htm


647643:2008/05/10(土) 01:46:42
>>646

そのホームページは前に見た。
でも、風俗博物館の研究て江戸時代前半に成立した事を、基本にしている
みたいだから実際の平安時代についてはどうかな?と思ってしまう。

前に風俗博物館にメールをした時にそう感じたな。
648日本@名無史さん:2008/05/10(土) 04:11:17
手間をかけてくれたことに対してお礼くらい言えよ。

>>647はここに質問するまでに、どういう資料を見てきたのかかいてくれるといいと思うよ
そうしないと、せっかく親切でコメントしてくれた人も無駄骨おらせたことになるじゃないか

手持ちの本に二藍の衣装についての記述があるけれども、引っ張り出して書き込んでもどうもな…
二度手間もやなので。


また、夏以外の季節に蝙蝠扇は…というものだけど、その人の楽しみ方があるのじゃないか?
平安コスプレをわざわざする人だぞ?知らないなんてこと、ないと思う。
それをあえてするのだから、何か当人なりのコンセプトがあるのじゃないかと思う。
後、衵扇が手に入らないのか、気に入ったのがみつかるまで雰囲気だけ楽しむのか……あとは、その蝙蝠、実は結構な代物なのじゃないかとか

…まさかヒカルの碁に出てきた平安時代の幽霊のコスプレという可能s(ry……
649日本@名無史さん:2008/05/10(土) 20:57:14
>>647
643はテレビで放映され博物館でも展示されていた
よみがえる源氏物語絵巻は見たのかな?
現在見ている絵巻と実際の着色はかなり違っていたという。

しかし、研究者が衣装を考案した風俗博物館は否定するが
徳川美術館で見た復元模写の国宝源氏物語絵巻を
根拠にしているのが全くの初心者だね。

あの源氏物語絵巻がいつ作られたか知っているの?
まさか、平安時代だとでも思っているの?
650643:2008/05/10(土) 23:24:04
>>648

確かにそうでした。
>>646わざさわざありがとうございます。

自分が見たのは、素晴らしい装束の世界という本です。
651643:2008/05/11(日) 00:50:13
国宝の源氏物語絵巻は院政期の制作らしいが。
それを科学的に調べて復元模写したのが復元絵巻だろ。

風俗博物館については以前、御帳台の畳の向きと浜床、獅子、狛犬について
質問をメールでしたら浜床、獅子、狛犬の御帳台は天皇、皇后専用です。
あとは類聚雑要抄を見て調べてください。とメールが来た。
同じ質問を斎宮歴史博物館と言う所にメールでしたら返事に

お返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。
>  御帳台の中の畳の向きは、実はわからないのです。
>  厳密にいいますと、現在、御帳台の参考資料となる図面は、
平安時代末期(1150年頃)の編といわれる『類聚雑要抄』のみですが、
ここでは、帳の中の畳の向きについて、二つの書き方をしています。一つは巻四で、
南に継ぎ目を持ってくるとしているものです。ただ、この場合、
もしも「南に継ぎ目」という規定があったとすれば、
南面する紫宸殿なら縦置き、東面する清涼殿なら縦置きになってしまい、
理解に苦しむ所です。
>  次に、巻二の調度指図にも御帳台が描かれていますが、
帳の中の畳までは描かれません。しかしここでは、
帳なしで畳を二枚並べる場合は、正面は長い面、
つまり横置きにする原則で描かれています。そのためか、
江戸時代に描かれた総彩色の『類聚雑要抄指図巻』ではよく見ると
御帳台の畳は横置きにしているようです。
>  しかし、現在の御帳台(京都御所にあるもの、
これは大正天皇の即位に合わせて再興されたものです)では、
畳は縦置きになっているのはおっしゃるとおりです。
これが何を根拠にしているのかはよくわかりません。
>  つまり本館では『類聚雑要抄』から推定して横置きとしているわけです。



652643:2008/05/11(日) 00:52:13
>>651の続き

 それから獅子と狛犬の件ですが、天皇・皇后専用としている本とはどういう本ですか?
これについても基本資料となる『類聚雑要抄』には使用者の規制はありません。
御帳台のおそらく最古の文献は、『延喜式』に見られる「斗帳」ですが、
この木工式などにある斗帳の資材こには、天皇用も斎王用も、
獅子・狛犬についての規定は一切出てきません。つまり、
九〜十世紀頃の斗帳には獅子・狛犬はなかった可能性があります。
>  更に獅子・狛犬については、神用帳台の鎮子(つまり重し)に破邪の意味を持たせたという見解もあるようです。これは、賀茂に神用に帳台があり、春日若宮の神宝に平安時代の銅製狛犬があることからの発想と思われます。
>
> また、「斎宮百話」第75に、
>  
>  一方、同じ『枕草子』でも、第259段(岩波・新古典文学大系本290ページ)には、清少納言が、
法興院の積善寺の一切経供養に参加する定子中宮のお供で、
一条天皇の母、藤原詮子の二条宮に行き、調度品の獅子・狛犬を見るというくだりがあります。
この獅子と狛犬はおそらく斗帳の重しでしょう。
>
>  と書きましたように、十世紀の末には皇太后も獅子・狛犬付きの斗帳を使っていた可能性が高く、
獅子・狛犬の使用は、天皇家関係では、割合にリーズナブルではなかったかとも考えられます。
>
> このように、割合にわかりにくいのです。
>
> あまりお答えにならなくてすいません。
> とりあえず以上です。
>
>
>    斎宮歴史博物館 学芸普及課

と着た。
斎宮歴史博物館の回答と風俗博物館の回答を比較したら、
風俗博物館が近世の有職故実を基にしていそうだと思うが。
653日本@名無史さん:2008/05/11(日) 00:58:30
もう一言添えてもいいと思うのだけど…
本当に29?



直衣の色目に関しましても44ページの直衣の色彩という図
40という年が出てきたのはたぶん「若いときは二藍、40を超えれば縹」という記述からだと思います
「若い人ほど色を濃く、年をとるごとに薄く」とも


そのホームページは前に見たと>643は言ったが、>646さんは若年でも縹を着用したという例を挙げてくれているんだよ。
年齢でどうかというのを悩まれているようだったから、源氏物語での例を文章の引用ではなく、
目に見える形で出してくれていたのじゃないかと思う。
20代前半の光や柏木は二藍の紅の配合の多い物を着ていたけど、18歳の夕霧でも縹を着たときが、そういう演出があったと。
それぞれのキャラクターの行動なども考えての紫式部の演出かもしれないが、こういう遊びの部分もあるのだよって。

29歳と言うことでしたので数えで30。

そうなると、30歳を壮室といい30代〜50代前半のことを壮年をさすようですから、あとは自己の解釈じゃないか?
(壮年:血気盛んで、人生で一番働き盛りのころ。 「人生まれて三十年を壮という」(「礼記・曲礼上」)より。30歳くらいの年齢の、最も壮(さか)んなころ。30代から50代半ばを指し、主に40代から50代を指すことが多い。広くは、成年に達してから老年になるまで。)

ある程度、ポイント抑えて自分なりにアレンジすればいいのじゃないか?
まあ、自分でこうと決めたのなら普通聞かないし、こうやって聞くときと言うのは誰かに反対してもらいたい、止めてもらいたいときなのだろうが…


あと、扇の件。
お持ちの本の関係のウェブページで
「かつての宮中での蔵人などの活動的廷臣は冬の束帯でも檜扇でなくこれを用いた」
というような記述があります。
書物に関してしか記入がありませんでしたが、その御本をお持ちと言うことは
そのホームページにも目を通されていることと思いますので失礼に当たるのかもしれませんが。
654643:2008/05/11(日) 01:01:38
それと繧繝縁の畳については、風俗博物館の本『六條院へ出かけよう』には、
天皇、上皇専用と書いてあったが、斎宮歴史博物館にメールで質問したら

さて、お問い合わせの繧繝縁の畳の件につき回答いたします。
> ご指摘の繧繝縁の使用制限はしばしば俗説的に言われますが、
少なくとも中世以前にはそうした制限はありません。
当たりやすい例を挙げると、『古事類苑』器物部の繧繝縁畳の項目を見れば、
上級貴族の婚礼や親王の元服などに使われた例もありますし、
絵画では佐竹本三十六歌仙の斎宮女御を見ても繧繝縁の畳に座っています。
天皇のみ云々はおそらく近世の有職故実と思われます。

と返事が来た。

この例でも風俗博物館が近世の有職故実を基にしていて、
平安時代とずれがあるのじゃないのか?と思ってしまう。

655日本@名無史さん:2008/05/11(日) 01:21:11
青一つでも、いろいろあると思うが…


直衣にしたって、平安時代のなかでも初期と後期では移り変わって言っている。
有名どころで枕草子と源氏物語とっても、流行(もしくは好み?)が違うのだろうなと思えるくらい、直衣色ののイメージが違う。


あと、この手の質問メールに真摯に答えてくださったているの風俗博物館の人、乙。

風俗博物館にいるからといって、その資料などを調べた当人でもないのにな…
大学の事務員さんに大学の学部の学科のなかのゼミに関しての過去の研究内容の一部を教えろと言うような物じゃないか。

風俗博物館は平安時代の日本の衣服を中心に、考証により復元しているんだよ。
絵巻物は結構、作者のイメージが強いからそういったものも含めて一つ一つ検証しているということも忘れないでほしい。


それでも不満なら
満佐須計装束抄とか、自分で読んだらどうだ?
656643:2008/05/11(日) 01:41:33
>>653

確かにそうでした。
何度もすいません。
>>649へのレスを考えていて余裕が無かったです。

あのホームページを見て確かに三十前でも縹の直衣の
着用例挙げていてくれたので個人的には、納得したのですが
他の資料はどうなっているのか気になりました。

個人的に凝り性なのでできるだけ平安時代に忠実な物が、
いいと思ってしまい年齢と二藍の直衣について考え込んでしまいました。
なので三十前でも縹の直衣の着用例を調べて肯定したかったです。

まあ、ただのコスプレなんですが完璧を追い求めると、考え込んでしまいます。

ですが縹の直衣の着用例があったので納得しました。

色々ありがとうございます。

扇の事もホームページを見ました。
蝙蝠扇も冬でも藤原道長や白河院も使うことがあっただろうと、思うことにします。

本当にありがとうございました。


657日本@名無史さん:2008/05/11(日) 09:59:29
大学の事務員さん....だって
658日本@名無史さん:2008/05/11(日) 16:46:20
>>蝙蝠扇も冬でも藤原道長や白河院も使うことがあっただろうと、思うことにします。 

全然納得していないな、こいつw

完璧追い求めるなら、絶滅した蚕から始めるなり、その蚕の吐き出す糸の太さと同じ物で織った布入手とかするのだろうな。
659日本@名無史さん:2008/05/11(日) 18:50:15
一条院の脩子内親王について調べてたら、出生から受胎日を割り出すと
大幅に合わないんですね。
出産の経験がある方はわかると思いますが、ほぼ二月遅れるってあり得ないです

長徳2年3月2日に中宮が退出、でも4月25日前後を受胎日とすると???
えっえっえっ???

実は密かに参内してた?それとも不義の子?
誰か詳しい人教えてください
660日本@名無史さん:2008/05/11(日) 18:51:04
長楽寺に平安末期建礼門院が出家した際に寺に納めたとされる
安徳天皇の肌着が残っているよ
言い伝え通りほぼ約800年前の絹で間違いないらしい
こんな感じであちこちから史料を集めてくることだね
661日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:11:01
>>659
最終生理日から出産まで約280日で出産。
こちらの表で計算してみた。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~suteki/yoteibi-keisan.htm

修子内親王の生誕は長徳2年12月16日。
仮に長徳2年2月半ばが定子の最終生理日とすると、それから約2週間後、
2月下旬〜退出した3月2日までの受胎で予定日は11月下旬。
約2週間の遅れでまあ、陣痛促進剤のない時代にはありうる。
662日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:56:08
>>661
でもこの年って、七月が閏月じゃ・・・
663日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:42:29
>>659
手許の史料だと定子の退出は長徳2年3月4日なのだけど・・・(2日しか違わないけど)
たしかにこの年は閏月で、「小右記」にも中宮定子が産み月になっても
出産しないという記事があったと思う。
だけど、修子内親王が一品に叙されるときに、一条天皇が出した勅があるでしょう?
自分が長女のことをどれだけ愛しているか、どれだけ大切にしているかを切々と述べた内容の。
あれを見ると一条天皇は自分の実娘と信じて疑った様子もないし、
東三条院が定子の残した皇子女を溺愛していたのを見ると
実は一条天皇の娘でなかったとも考えずらいしねえ・・・
664日本@名無史さん:2008/05/12(月) 07:40:33
不敬罪↑
665日本@名無史さん:2008/05/12(月) 09:24:53
穿って考えてみると、いろいろとなくなってしまっている資料が多い中で
溺愛ぶりがわざわざ今に残るくらいだと残っている。
残るくらいどうしてこれに力を入れたのかと不自然に感じる。
なにかがあったのかな?と…
666日本@名無史さん:2008/05/12(月) 09:41:47
だけど、他の男と密通した中宮が里の力を失っても尚、
一条天皇の側に上がれるものだろうか?
三条天皇の東宮時代の妃綏子は密通をしたために
以後東宮のもとへ上がれなくなってしまった。
修子内親王と敦康親王は道長や東三条院の意向で
為さぬ仲の中宮彰子によって養育されている。
一条天皇の皇女でないのならば彰子が引き取る必要もないわけで。
すでに中宮定子は亡くなり、里方も勢力を失っているのに
一条天皇がわが子ではない修子内親王を一品に叙すのもねえ・・・
667日本@名無史さん:2008/05/12(月) 12:46:57
そういえば「源氏物語」にも、藤壺が里下がりしてる時に出来た子を、物の怪の為に
出産が遅れまして、2ヶ月後に産まれました!
なんてのもある、少し時代は違うけど「とわずがたり」でも二条が産み月を誤魔化して
奏上したと告白してる
案外、よくある事だったのかな?でもどちらも女側の言い訳?っていうか企みですが
どこまで世間的に納得してたのかはわかりませんが。

私ごとでなんですが長男出産時、予定日2週間過ぎたら「促進剤」使おうと言われた
私は「促進剤って色々子供に影響でるから嫌だ」と言ったら、先生に「37週過ぎたら
肺機能も完成してるから、予定日過ぎて長く羊水にいると胎児は苦しいんだよ、
子供死んでもいいの?」と怒られた経験アリマス。
お産の本には3週間過ぎたら、母子共に致死のリスクが高いので、緊急帝王切開の人の話がありました

でも、いったい予定日何日過ぎまで、母子ともに無事に出産できるんだろう?
今度の検診の時に聞いてみますね。

668日本@名無史さん:2008/05/12(月) 13:39:48
>>667
肺の中には羊水しかはいっとらんから関係ない。>その医者アフォ
きっと自分の予定計算であんたに怒ったんだよ。

ただし胎児が成長すると肺から某物質が分泌されて、
それが陣痛のきっかけになる。
それに対して母体側が鈍感になっていると・・の可能性はある。


669日本@名無史さん:2008/05/12(月) 14:15:21
羊水が腐ってるんですよ
670日本@名無史さん:2008/05/12(月) 15:18:44
http://yoteibi.aaedit.com/page_7.html
現在の病院では予定日より1週間〜10日程度の誤差は(早くても遅くても)正常の範囲内。
ただ、2週間以上遅れると母体の胎盤機能が弱ってくる可能性があるため
胎児の心音などを確認しながら必要ならば何らかの処置を行うこともあるとのこと。
三人目出産のときに産で死んでしまった定子ですが、修子内親王のときには母子ともに無事でした。

定子が正常の範囲内での出産だったとすると、
修子内親王の誕生日から逆算、中宮定子の最終月経日初日は長徳2年4月上旬。
そこから一週間程度生理が続いたと考えると、やはり受胎日は宮中退出後の4月中旬〜下旬ですかね。
仮に月数通り定子の密通だったとしたら、
兄弟の伊周や隆家に追及の手が及ぼうとし、宮中にもいられなくなって退出、
里の二条邸で身をひそめるようにして外出もしなかった定子の密通相手って?
まさか、定子が一条天皇の子を妊娠したことにすれば一条天皇もこれにいたく感激、
我が身にふりかかる災いから逃れられるだろうと思った実兄伊周が父親とか?
実妹定子と組んだ陰謀?

671日本@名無史さん:2008/05/12(月) 16:00:39
近親相姦説キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

そうそう、高校の時(古文かな?)に先生が「この時の皇后の子供は一条の子ではないです」
って言ってた。そうか、この事だったんだ!20年前の疑問が晴れたよ
672日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:17:05
夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき
673日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:33:32
ところで、退出した月は本当に長徳2年3月2日でいいのだろうか?
ほかのでは4月とか見つかるが…

さっとぐぐったのでもこういうのが
ttp://www.weblio.jp/content/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E5%AD%90
674日本@名無史さん:2008/05/13(火) 09:50:26
>>673
中宮定子が退出した正確な日付は長徳2年3月4日。
これは一次史料である「小右記」にあるので間違いがない。
同じ年には中宮が産み月になっても産をしないと
これまた「小右記」にあり、当時の貴族たちも
定子の出産の遅れを認識していたことが分かる。
673の引用はウィキ並みに素人が編纂可能な概略であって、
退出の正確な日付を書いたものでもないよ。
675日本@名無史さん:2008/05/15(木) 00:45:50
退出日と、誕生日までの間の日数をここみて単純に計算してみた
308日か…

ttp://www.wagoyomi.info/
676日本@名無史さん:2008/05/15(木) 14:15:33
>>666
実は道長の子なんじゃねーの?
677日本@名無史さん:2008/05/15(木) 15:49:35
なる。。。源氏物語を

光源氏=道長
桐壺=藤壺の女御=定子
桐壺院=一条天皇

で脳内変換して読むと何とはなしに辻褄も合うしおもしろいね。
678日本@名無史さん:2008/05/15(木) 20:14:57
>>676
たくましい想像だが、この時期政権担当者の道長は
政敵伊周・隆家の追い落としに忙しくてそれどころじゃなかったと思うよ。
道長に限らず、定子の受胎時期と思われる長徳2年4月頃は、
誰も伊周・隆家の味方だと思われたくなくて二条邸には近づかなかったと思う。
検非違使が伊周・隆家を逮捕するために二条邸を包囲したとき、
定子は兄伊周、弟隆家と邸内で手を取り合って逮捕を妨害しているから、
兄弟が二条邸にいたのは間違いないけどね。
679日本@名無史さん:2008/05/15(木) 23:23:01
どんなに忙しくてもチンポ入れて種出す時間もなかったとは
とても思えないけどなw
680日本@名無史さん:2008/05/15(木) 23:49:39
>>679
だよな
俺なんか、入れて出すまでの時間なんか、大してかからんぜorz
681日本@名無史さん:2008/05/16(金) 00:30:39
変な話、入れて出すだけならお早め5分、遅め20分あたりだろうな。
これに口吸い、乳揉み、貝吸いといった+αオプションを
付けたとしても一時間といったとこか。
682日本@名無史さん:2008/05/16(金) 00:36:38
てか、いくら忙しくたって、やるこたやんよ
683日本@名無史さん:2008/05/16(金) 13:53:05
角田文衛センセが往生なさいました
684日本@名無史さん:2008/05/16(金) 17:54:26
>>683
まじで?
・・・いつお亡くなりになられてもおかしくないお年ではあったが・・・
685日本@名無史さん:2008/05/16(金) 18:15:18
まじやった〜
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2008051501263
ご冥福をお祈りいたします(-人-)
686日本@名無史さん:2008/05/16(金) 18:56:15
三になったらアホっぽくなります。









一条家 二条家 三条家





おもろい
687日本@名無史さん:2008/05/16(金) 19:43:45
平安末期=今の自民
688日本@名無史さん:2008/05/16(金) 19:57:08
>>681
5分とはまたご謙遜をw
私なら三擦り半ですけど何か?
689日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:34:31
せっかく興味深い考察がされているんだからあまり話を逸らさないでくれー。

敦康親王、び子内親王は一条の子供じゃない可能性全くないの?定子がどこかに退出したりはしてない?

私としては彰子の産んだ子供たちも怪しい気がするのだが。一条の晩年(といっても若いが、一条死去の2年前と3年前だよね)に2人も。しかも年子。うまく行きすぎてる気がする。
690日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:46:44
江戸時代の大奥でもないかがりなんでも怪しくなっちゃうよ
691日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:51:50
↑ごめん。角田文衛さんのことではなく、下ネタのこと。

『待賢門院璋子の生涯』他多数、歴史学に多大な功績を残された偉大な角田さんに、御冥福をお祈りいたします。
692日本@名無史さん:2008/05/16(金) 22:26:27
>>691
君はシモの話を抜きにして、平安貴族について十全に語れるとでも?
693日本@名無史さん:2008/05/16(金) 22:41:29
そんなところをいくら詮索したところで、小説ネタにしかならんよ。
確たる証拠などあろうはずもない。
年子だから怪しいとか、語るに落ちる。
694日本@名無史さん:2008/05/16(金) 22:44:45
>>689
坊や、その耳をかっぽじってよくお聞き

子供と言うのはね、いくらがんばってもできない時はできないし

できる時はそれが例え三擦り半程度のたった一回でもできるのよ。

そして出産後しばらくはできやすいのよ。

後学のために覚えておくといいわよ。
695日本@名無史さん:2008/05/18(日) 03:08:46
不倫中宮、畜生道に逝く
696日本@名無史さん:2008/05/19(月) 02:39:10
六条天皇の退位後の居所ってどこですか?
697日本@名無史さん:2008/05/20(火) 19:04:01
無法者↑
698日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:38:39
>>694
一条天皇の皇子女よりも、一条天皇の出生のほうが怪しいと思う。
一条天皇って、円融天皇の一粒種の子なんだよな。
円融天皇には中宮女皇子、中宮導子、女御尊子内親王、女御詮子ら
四人の妃がいて、円融天皇自身33歳まで生きているのだけれども、
子供は詮子がたった一度だけ出産して生まれた一条天皇だけ。
怪しくないかい?
円融天皇は胤無しで一条天皇は他の子とかさ・・・
一条天皇が存在しなかったら、道長が政権につけるはずもなかったわけで。
699日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:42:13
>>679
そうじゃなくて、当時、伊周・隆家兄弟は逮捕まじかで
兄弟の実家である二条邸は検非違使が目を光らせていた。
そんな中で、定子と密通しようと外部から男が侵入しようとすれば
ましてやときの政権担当者道長であれば簡単に見つかるだろう?
そんなへまをやるような貴族はいないだろうってこと。
二条邸への侵入が見つかれば共謀者とみられて
伊周・隆家と一緒に流罪になっちゃうじゃん。
700日本@名無史さん:2008/05/21(水) 23:21:09
じゃあ、やっぱり父親は兄弟のどちらか?
701日本@名無史さん:2008/05/22(木) 00:03:18
>>699
政権を握っていたからこそできるとも言えるがな。

>>698
目から鱗。
702日本@名無史さん:2008/05/22(木) 16:05:19
>>698
詮子の産んだ子供が女子だったらどうするつもりだったの?
あるいは成長しないで幼年期に死んじゃうとかした場合。
それと三条天皇の方は疑わなくてもいいわけ?
兼家は一条天皇の生まれる980年頃からすでに、
花山天皇降ろしを企図していたというお考えですか?

媓子は円融天皇より12歳年上で、天皇が数え21歳の時に亡くなってるし、
尊子内親王も982年(天皇24歳)には自ら落飾。
そして円融院自身、26歳の若さで譲位、翌年には出家している。

これらを考慮すると、安易にその説には乗っかれませんね。
703日本@名無史さん:2008/05/22(木) 19:24:56
定子密通説から話題を逸らしたいだけじゃない?
想像の域での話だけど、医学的にも定子の出産に疑問の余地はあるからね

もし修子の父親が兄弟のどちらかなら、彼女の発作的な出家も納得。
妊娠時期もその頃だから、近親相姦の後悔から出家したのかも知れない

それに母親が伊周の配流先に付いていったという不可解な行動も納得。
普通、娘が初めての出産を控えてるのに見捨てていくだろうか?
お腹の子供が男なら一族の巻き返しも十分あるのに。
貴子も父親が誰か解っていたからじゃないだろうか?
704日本@名無史さん:2008/05/22(木) 19:48:15
つうか>>702-3を読むとかつての濃姫スレの流れを思いだすw

ぶっちゃけさ、この時代は疑いだしたらキリがない。
秀頼と同じで実父が誰であれ天皇が自分の子と言い張れば
その子は天皇の子。そういう時代だからそれでいいんじゃねーの?
705日本@名無史さん:2008/05/22(木) 20:32:13
>>704
勿論それでいい、別に不義の子供だとしても
しかし折角、行動が各資料に残っている貴重な人物だし、
その行動から当時を読み解くのが歴史の醍醐味だしね

まあ不毛な学問なんだけど史学自体が自己満足な学問だし
それでも歴史学って日本人に人気があるしね


706武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/22(木) 21:56:43
>>705
君のは史学じゃない
あと歴史学は日本人に人気ない
人気があるのは歴史読み物テレビだ
君みたいなバカに史学をああだこうだあげつらわれてもらっては困るよ
707日本@名無史さん:2008/05/22(木) 22:30:43
遂にこのスレにもぶよーが登場したか・・・
708武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/23(金) 21:53:21
>>707
前にも書いたことあるよ。
709日本@名無史さん:2008/05/24(土) 11:11:52
そういえば一条天皇って伊周にはやけに厳しい態度だよね。寵妃の兄なのに。
左遷後に復位するときも、一条は反対したんじゃなかった?
定子を愛していたのは間違いないと思うけど、その反動だったのかな。

どこかのスレ(ここだっけ?)で、定子生前から妹のみくしげ殿と関係があったのでは?って書かれていたのも、邪推だけど、そんなことが原因なのかもね。
710日本@名無史さん:2008/05/25(日) 00:10:21
低次元↑
711日本@名無史さん:2008/05/25(日) 00:56:10
ブヨは論文でも書いてろって
こんな低俗なとこ来ちゃいかんよ
学界で相手にしてもらえんわけでも無かろう
712武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/25(日) 01:15:25
>>711
専門外のことを気軽に言えるのってここくらいなんだもん。
友人知人の前でなんか絶対言えない。
個人個人の専門ってのは、人ん家みたいなもんでさ。
みんな縄張り意識と自負がある。
ま、ぶっちゃけ、
ずっと掛かりっきりだから専門外の人間よりか詳しいに決まってるんだよね。
あとね、罵倒混じりで議論出来るのもここくらいなんだな。
生身では出来ないよ(猫かぶりー(^O^)/)
私、優しくて大人しい人だと思われたいんだもん。
713日本@名無史さん:2008/05/25(日) 01:20:38
>>712
逃亡中か? 隠阿弥w
714日本@名無史さん:2008/05/25(日) 03:47:01
いくらブヨみたいな一流研究者が本書いたって
誰も読まない。
売れるのはイザワ、司馬。
715日本@名無史さん:2008/06/02(月) 19:30:38
もうじきミッドウェイ海戦記念日
716日本@名無史さん:2008/06/10(火) 19:06:00
令外官が増え、知行国化が進み、律令制はとみに変質した。
これが封建制の濫觴へつながった。
717日本@名無史さん:2008/06/16(月) 09:06:52
軍団の廃止、不入、死刑廃止に因る刑政の弛緩は治安の悪化をもたらし、百姓の武装を促進した。
封建の胎動、すなわち律令国家の「終りの始り」、律令制崩壊である。
718日本@名無史さん:2008/06/16(月) 09:35:01
崩壊って言うより律令制度って本当に機能してたのか?
719日本@名無史さん:2008/06/18(水) 10:26:02
でわ自説の根拠を
720タイムレンジャーinA.D.950 予告編:2008/06/21(土) 01:43:50

西暦2950年の未来から、時を越えて平安時代にやって来た

究極のフューチャーヒーロー、未来戦隊タイムレンジャー!


タイムマシンの発達した世界・30世紀。
自分たちの住み良い世界に変えるため、
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新番組、『未来戦隊タイムレンジャー』!!
721山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/06/21(土) 01:50:13
>>718
律令制度という言い方自体疑問だという声も出ていますね。

>>720
どちらかといえばガオレンジャーでは。面白そうですが。
722日本@名無史さん:2008/06/22(日) 01:40:52
>>720
タイムレンジャーが脂肪しても10世紀人だけで倒せるかも・・・。


爆弾魔ジェッカーが平安貴族の家(この時代に巨大な建造物といえばこれ)に片っ端から爆弾を仕掛けて脅迫する。
だが・・・。 平安時代の陰陽師として名高い安倍晴明が乗り出してきて、彼が操る鬼や式神によってボコボコ・・・。
723日本@名無史さん:2008/06/22(日) 01:57:35
>>720
タイムレンジャーが脂肪しても10世紀人だけで倒せるかも・・・。



爆弾魔ジェッカーがデモンストレーションで平安宮内裏を爆破!!
その後、平安貴族の家(この時代に巨大な建造物といえばこれ)に
片っ端から爆弾を仕掛けて脅迫する。
要求は「家一つにつき米俵1個、織物10本もって一条戻橋に持ってこい」とジェッカー。
しかし米や織物の代わりに用心棒がやってきたが、すぐに銃撃を受けてけちらされる。
だが・・・。 平安時代の陰陽師として名高い安倍晴明が乗り出してきて、
彼が操る式神によってボコボコ・・・。リバウンドで巨大化するものの、
彼も術の力で鬼を巨大化させて対抗する・・・。
724日本@名無史さん:2008/06/24(火) 00:34:18
馬鹿は学問板から出て行ってね
725日本@名無史さん:2008/06/27(金) 10:29:37
律令法継受の時に科挙を採用していれば・・・・
726日本@名無史さん:2008/06/28(土) 04:43:40
>>725

宦官も導入されていたら日本の歴史も変わっていだろうね。

藤原氏と宦官が権力闘争したかもの。
それとも藤原氏だったら宦官すらも藤原氏で固めたかも。
727日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:02:03
いささか板ちネタだが朝鮮半島の王朝では宦官導入したのか?
当然ながらw『チャソグム』あたりでは登場してないようだが・・・
728日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:25:53
>>727

板違いだけど李氏朝鮮では宦官はいたらしい。
チャングムでも緑色の官服きたヒゲがないネシブの役人は宦官だよ。

高麗以前は知らないな。

宦官がもし日本にいたら紫式部みたいな女房も活躍、出来なくて源氏物語も無かったかもね。
729日本@名無史さん:2008/06/28(土) 13:00:35
>>728
d楠

宦官のいた宮廷は世界にあちこちあるが、宦官が後宮文学を作ったとかwという話は聞かないねぇ
紙を発明したという蔡倫とかアフリカまで探検した鄭和みたいなのが突然変異的に登場することはあるが。
あとは現代腐女子に萌えネタを提供していることぐらいか・・・w
730日本@名無史さん:2008/06/29(日) 22:58:59

中国では刑罰として宮刑と呼ばれる去勢を施す刑があり、受刑者が皇帝や後宮に仕えるようになったのが宦官の始まり。
しかし、宦官が重用されると自発的に去勢して宦官となるケースも出てくるようになった。
このように自ら宦官となる行為を自宮と呼び、宦官が隆盛を誇った明代には自宮が中心であった。

日本でも刑罰や宗教的動機で、男性を去勢した例がある。
だが、女官たちを取り仕切る宦官に近い存在はあったらしい。
731日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:02:09
歴史学の議論で「らしい」なんて言葉使ってるとゼミで指導教官にいじめられるよ。
732日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:43:32
ここでやってるのは議論なんて立派なものじゃないですし。
733日本@名無史さん:2008/06/29(日) 23:45:01
明の太祖なんかは宦官が字を覚えること自体を禁止してたな。
曾孫あたりでは事実上の宰相になっちゃったけど。
一方唐は内教博士とか言う宦官学校の教官が居た。
734日本@名無史さん:2008/07/02(水) 17:59:58
平安時代の貴族は近親相姦しまくってたからなあ
735日本@名無史さん:2008/07/02(水) 18:26:07
それを言うなら飛鳥時代以前の方がすごいでしょ
異母兄弟婚は普通だし
736日本@名無史さん:2008/07/02(水) 19:09:14
現代だと近親相姦は超がつくほどの大問題だが、鎌倉時代以前の常識なら問題ゼロwwww


時代背景を考えると、当時の日本では血統や血縁こそが優先される世界であり、政略結婚が全盛だったのだ。
権力者と関係がある女と一発ヤルことは、その女の家族の富や権力を後ろ盾として得ることに等しかったのだ。
そして、重要なのは近親相姦によって天皇家が125代続いてきたという事実だ。
近親相姦によって血統が常に保存されてきたというわけだ。
つまり、かつての日本はフリーセックスの国だったというわけだ。


だが、近親相姦をやるとメンデルの法則により、次に生まれてくる子どもが遺伝が原因の病気にかかりやすくなるという諸刃の剣。素人にはおすすめできない。


天皇家も血が濃くなりすぎてガンとかアル中とか精神障害者とかの病気にかかる確率が無茶苦茶高いといわれているが、
この近親相姦で世界一悲惨な状態なのは中近東諸国。中近東(特にサウジアラビアやヨルダン)じゃ砂漠生活と一族の財産を守るため
伝統的に近親婚が多く、今現在本当にうじゃうじゃ奇形の子や知的障害の子が生まれて施設送りになってて、
こういう一族の中には必ず精神を患って黄色い救急車みたいな何かのお世話になってる奴もいるとか。
一回兄妹が交わったぐらいじゃ問題がおこらなくても、その後その子孫たちが交わったら目も当てられないような奇形児が生まれる可能性がある。


737日本@名無史さん:2008/07/02(水) 19:25:49
>>736
厨房やっと期末試験終わって夏気分か?夏場は妄言者増える。





文末、必ず⇒(WWWW)欠かせない。




書き癖⇒ (つまり)貴方は糞詰まりか?


主張を通すほどのソースが無く出ない。


夏厨は基地害でしかない。
738日本@名無史さん:2008/07/02(水) 19:49:38
皇族の近親結婚ていつ頃から無くなったのかな?
桓武天皇は異母妹と結婚していたね。
739日本@名無しさん:2008/07/02(水) 23:28:50
平安時代からかなぁ。
叔父姪くらいならまた普通にあったけど。
740日本@名無史さん:2008/07/02(水) 23:50:21
近親をどの範囲まで指すかに寄るけど

異母兄弟婚は桓武天皇の3人の息子(平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇)で最後だったかな。
この3人の内、平城と嵯峨はその異母妹とは後に離婚している。
741日本@名無史さん:2008/07/04(金) 12:54:41
この頃って処女とかそういう概念どうなってんだろな
妻が、夫が通ってない間は浮気しまくりと聞いたが

742日本@名無史さん:2008/07/09(水) 08:03:39
天皇家なんか近親婚しまくりだし
743日本@名無史さん:2008/07/09(水) 12:12:11
「妹」が愛する人を意味していた時代だからな
744日本@名無史さん:2008/07/10(木) 00:29:46
奈良・平安時代の貴族は身分の高い人にあこがれていたため近親婚のしまくりだった。 

その頃の倫理は「父親が同じでも腹(母親)が違えば他人」だったから。 
子供は母親の実家で育てられるため、腹違いの兄弟同士で顔をあわすこともめったにない。 

そんなわけで腹違いの兄弟姉妹間では「兄弟・親族という観念」が希薄だった。 
反対に「近親で結婚してれば、よそものに財産が散れない」という利点もある。 
その結果体が弱い人が多かったらしい。医学的に、血のつながりの濃い近親婚を禁じる理由はいくらでもある。

ただし、近親婚すると不良品ができる可能性が高くなるけど、逆の場合もある。 


実際、聖徳太子のような優れた人物は近親婚の産物だから 
近親婚=悪い遺伝を持った子ばかり、ということもない。
【聖徳太子の親について】
聖徳太子の父親=用明天皇(欽明天皇と蘇我稲目の娘・堅塩媛の子供。)
聖徳太子の母親=穴穂部間人皇女(欽明天皇と蘇我稲目の娘・小姉君の子供。)

どう見ても近親相姦です。本当に(略
745日本@名無史さん:2008/07/12(土) 16:28:56
稲目
┣━━━━━━┓
堅塩┳欽明┳小姉
 用明┳穴穂部間人
   聖徳

こうか
746日本@名無史さん:2008/07/13(日) 20:19:24
>740
平城が異母妹2人と離婚したのは自主的な離婚じゃない。
平城が薬子の変で女官と逃げて嵯峨天皇軍に敗れちゃったもんだから
妃のほうが愛想つかしちゃったんだな
妃のほうから嵯峨天皇に妃の返上を願い出て嵯峨天皇に許され、
妻のほうから三下半で離婚。
でも平城はこの後やっぱり別の異母妹と再婚している。
嵯峨妃であった異母妹が妃をはく奪されたのは事実だが
理由もなく妃の位のはく奪というのは尋常ではない
正史にはく奪の理由は描かれないが
妃が密通したなどが理由としては一般的
747日本@名無史さん:2008/07/13(日) 20:42:52
嵯峨天皇の異母妹が妃号を剥奪されたのは
当人に知的障害があった(それを嵯峨天皇がたえかねた)
・・・とか言う説をなにかの本で見たような
748日本@名無史さん:2008/07/13(日) 20:47:36
嵯峨天皇には異母妹が大勢いた
なにも知的障害がある女性を選ばなくてもよかっただろうにね
しかも嵯峨天皇と異母妹との間には子供までいたはず
しかもそのあと別の異母妹を皇后に据えれば良いものを
皇后にしたのは夫人の一人にすぎなかった橘嘉智子だし
嵯峨天皇の意図を感じ取りますね
749日本@名無史さん:2008/07/15(火) 21:40:30
>>745
何を今更 
その用命が別の女に生ませた息子と、
穴穂部間人は再婚して佐富女王を産んでるぞ 
夫の息子との間に娘を生んだ親子どんぶり 
実子じゃないとはいえ、当時でさえ驚愕された再婚だった 

更に厩戸の息子と娘も異母兄妹だから結婚してる 
750日本@名無史さん:2008/07/17(木) 00:31:00
 平安時代の延喜式では「国つ罪」として 
・おのが母犯せる罪 - 実母との相姦 
・おのが子犯す罪 - 実子との相姦 
・母と子と犯せる罪 - ある女と相姦し、その後その娘と相姦すること 
・子と母と犯せる罪 - ある女と相姦し、その後その母と相姦すること 

の近親相姦を罪としているが、兄弟姉妹の場合はなにも触れられていない。 
もともと古代日本は母系社会で子供は母親の元で育てられるため、母親が異なれば 
「家」も異なると考えていたようだ。また同父同母兄妹婚らしきものも見られる。 
参考 
「兄妹結婚」 
ttp://www.infonet.co.jp/nobk/other-folk/incest.htm

でもやっぱ、スゴイのはエジプト王家だわな。 
有名なツタンカーメン少年王の嫁は姉で母で祖母なんだから、もう、なにがなんだか。 
史実はエロゲーより奇なりですか。 
「ツタンカーメン夫妻を取り巻く第18王朝末期のエジプト王家の系図」 
ttp://homepage2.nifty.com/chasukekun/nk-608.htm
751日本@名無史さん:2008/07/18(金) 20:45:08
>>750
平安時代、花山法皇は親子丼(母と娘を共に寵愛)したけど
何にも処罰されなかたけどね
後深草天皇も二条をものにした後
「お前の母親が私の初枕の相手だったのだよ」と告白、
こちらも親子丼、当たり前だが処分なし
752日本@名無史さん:2008/07/18(金) 21:05:57
>>750
王族の偉大な血を守るためにむしろ兄弟姉妹婚は奨励されていたんだよ。
日本の古代大王家も例外ではない
皇族しか皇后にたてない時期があったが
そら庶民の血が入ったら王族の偉大さも失われるしね
昭和、平成の世になったって皇族のお妃候補には
旧皇族だの旧五摂家だのの昔だったらお姫様な女性が候補に挙がるくらいだから
王族が力を持っていた時期には尚更
753日本@名無史さん:2008/07/18(金) 21:30:41
王の仕事はSeXッッ
754日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:22:43
>>751
親子丼と近親相姦はまったく別ものでは?
花山法皇の相手って、確か自分の乳母とその娘(という事は乳きょうだい)だけど
血のつながりはない赤の他人だし。
後深草天皇と二条もしかり。

例えば三谷幸喜が、三國連太郎と佐藤浩市父子の両人と寝ても
近親相姦とは言わないだろうw(例に深い意味はない)

ちなみに花山法皇は「出家したはずなのに
愛人二人(先述の乳母とその娘)の両人に子供を産ませた」という理由で
当時の人たちに非難された。
755日本@名無史さん:2008/07/19(土) 17:32:20
>>754
750にある令の規定によれば親子丼は犯罪。

花山法皇が母娘と同衾したことは当時の人々にも非難されたよ。
「栄華物語」にも好色な話として女房たちの口に上ったようだし、
「小右記」などの当時の史料にも出てきている。

出家後に女を寵愛した法皇は花山法皇に始まった話じゃない。
仁和寺を創建し、「御室」と称していた宇多法皇も
出家した後、親子ほどに年の離れた寵妃藤原褒子を熱愛、
(褒子は本当は宇多の息子醍醐の妃候補だったという・・・)
次々と皇子を産ませていたけど、
宇多法皇の評判が悪かったという史料はないしね。
756日本@名無史さん:2008/07/21(月) 02:27:51
藤原道長にも?「不適切な関係」報道 
米紙が1000年元日紙面発行 

【ニューヨーク12日=山中季広】 
「ききんの日本で藤原道長が不倫」「神聖ローマ皇帝の残忍さ顕著に」? 米紙ウォールストリート・ジャーナルは11日、
架空の紙面である西暦1000年1月1日付けの別刷り特集=写真、AP=を発行し、千年前の世界のニュースを
こんな風に伝えた。平安中期に権勢を誇った藤原道長の記事は一面に。 
クリントン米大統領が不倫問題の釈明に使った言葉を引用し、「ききんと疫病に見舞われた日本では、支配者の道長が
複数の女性と不適切な関係にあることが発覚。農民は一揆を起こす構えだ」と伝えた。 
一面トップは「オットー3世の野望」。神聖ローマ帝国の領土拡大を狙う若い皇帝が世評とは違って性格に偏りがあると
報じた。宋王朝の記事も大きく、当時の都開封発のニュースで「実用的な知識で世界の先頭を行く。西洋も見習うべきだ」
と伝えた。米国では、他のキリスト教圏と同様、紀元3000年まで続く新たな千年紀をめぐる催しや出版が相次いでいる。
同紙の特集は逆に千年をさかのぼったのがみそ。当時の世界を現在の紙面に似せた体裁でまとめた。 
朝日新聞 1999/01/13 から

http://bhn.jpn.org/yamanaka/1999.html
757日本@名無史さん:2008/07/21(月) 11:19:50
平安のマイケル後白河
758日本@名無史さん:2008/07/23(水) 17:52:20
平安時代の貴族の資料がのった良い本ないですか。
写真がいっぱいで
博物館とかが出してるやつがいいんですけど。
風俗博物館の「六條院へ出かけよう」っていうのは持ってます
759日本@名無史さん:2008/07/23(水) 21:59:34
中学校の授業で使う日本史の資料集。
760日本@名無史さん:2008/07/23(水) 23:47:47
>>759を見て思ったけど図書館にある子供向けの本は、
写真が多くてわかりやすいな。
多分、大人向けでも図書館に行ったらあるんじゃないかな。
閲覧室に出ていなくても検索したら書庫にあると思うよ。
図書館は書庫にある本も貸してくれるし。

そういえば中学、高校の古典の資料集にも平安時代の事が、載っていたね。
761日本@名無史さん:2008/07/24(木) 01:24:55
田舎だから図書館が学級文庫並みです
762日本@名無史さん:2008/07/29(火) 04:51:23
県立図書館は?
763日本@名無史さん:2008/07/30(水) 05:51:35
ガムで連載してる「暴れん坊少納言」が面白いよ
メインキャラ以外は平安顔だから現代風の顔と性格の清少納言とか定子、紫式部他が目立つ目立つ
なんかもう地球によく似たよその星の話みたいになってるけど
展開は微妙に史実被ってる(無視してるところも多いけど)
764日本@名無史さん:2008/08/08(金) 08:44:44
もっとましなことを書いたらどうか
765日本@名無史さん:2008/08/08(金) 12:53:05
紫式部についてだけ語るスレが無いから
紫式部のスレ立てたいんだが…
766日本@名無史さん:2008/08/08(金) 13:46:17
つ 文学板
767日本@名無史さん:2008/08/08(金) 20:53:54
史学的に紫式部を語るなら日本史板でおk
源氏物語について語るなら文学板
768日本@名無史さん:2008/08/09(土) 02:36:09
>>765
紫式部専用スレではないけどこういうスレが立ってたよ。

☆☆☆一条天皇と取り巻く女と子供と貴族達☆☆☆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1218215666
769日本@名無史さん:2008/08/10(日) 18:45:22
日本は歴史の古い国だからテントも防水リュックサックも携帯コンロも登山靴も酸素ボンベも乾燥食料も存在していない遠い過去から登山が行われていた。

だいたいにおいて日本の山は,ご近所の裏山と同じく、気がついたら大昔からどっかの誰かが登っていて(←ってだれが気がつくんだ?)
最初に登ったのはだれかというのは不明なことが多い。あの日本一高い山の富士山だって、平安時代の文章に頂上のカルデラを
正確に描写した記述があるので,それ以前に人が登っているんだろうな,という程度のことしかわかっていない。
ところが,富山県にある剣岳は無茶苦茶危ない難攻不落の岩山なので,明治時代まで誰も登ったことがないと考えられていた。
だが、明治時代に初登頂のつもりで登った剣岳の山頂から人工的な物体(錆び付いた錫杖の頭部、槍の穂、古い焚き火跡)が発見されたのは有名な話である。


藤原道長、西暦1007年に山上ヶ岳の山頂に出没する。
http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/data/kouko/88kiniro.html
http://www.kyohaku.go.jp/jp/tokubetsu/070424/tokubetsu.html
http://www.yoshimisports.co.jp/blog/2007/06/post_26.html
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1027
http://kansaiart.hp.infoseek.co.jp/michinaga.htm

藤原道長は、奈良県天川村山上ヶ岳の金峯山(きんぷせん)に登山し、自ら書写した紺紙金字の経巻を金銅製の経筒に納め、経筒を埋納した。
これには、一条天皇に入内した彰子の皇子出産への願いもあった。この経筒は、弥勒が現れる56億7千万年後の未来に向けて埋納されたもので56億7千万年後に経筒が出現するであろうと思われていました。
しかし、江戸時代元禄年間に道長が埋納した経筒が発見されてしまったとのこと。
770日本@名無史さん:2008/08/30(土) 14:09:42
古人も多く山に登るあり
771日本@名無史さん:2008/09/15(月) 11:11:59
>>419
神保町とかヤフオクとか
772日本@名無史さん:2008/09/22(月) 23:29:34
>>770
よく考えろ?近代登山に必要な防水テントも防水リュックサックも携帯コンロも登山靴も酸素ボンベも乾燥食料も存在しない時代だぞ??
773日本@名無史さん:2008/09/23(火) 17:40:16
平安末期の白河上皇なんかやたらと熊野詣に出かけている
花山法皇なんかも行ってるな
今熊野古道なんかを見ると細く険しい道だが
権力者は馬に乗ったり輿で運んでもらったりして行ったんだろう
白河上皇はかなり高齢になっても熊野行きを続行しており
途中では社で休息をとっては毎晩歌会や酒盛を楽しみ
楽しい物見遊山だったようだ

道長が彰子の懐妊祈願のために息子の頼通をひきつれて金峯山へ上った際にも
都から多くの供を引き連れて行ったばかりではなく
現地でも国司やなんかが道長一行の世話や接待に追われている
774日本@名無史さん:2008/09/23(火) 22:18:16
>>772
日本には酸素が急激に薄くなって低酸素症になる危険がある3000m以上の山なんて限られているんだから、こんなのなくても充分。

日本には3000m以上の高さがある山といえば富士山があるが、これも奈良時代には誰かが登ったという記録がある。

スイスのマルセル・クルツという山岳史の研究家の「世界登山記録年代記」によると、
富士山の初登頂は633年に役ノ小角が登ったという伝説があるが、一番妥当な記録は663年ごろに匿名の僧侶が登ったらしい。
その記録は、1522年ポポカテペトル山が登られるまで、約900年間破れなかったという
小角の登山は「流刑地の伊津大島より、夜な夜な、空を飛び山頂へ」というからかなり胡散臭い話である。
だがしかし、平安朝に出た都良香の「富士山記」には頂上の噴火口の模様が書いてあるから、
もうその頃には誰かが登っていたに違いない。これでも世界的には充分早い。
http://doraku.asahi.com/earth/mountain/080117_02.html
http://www.kashmir3d.com/eos/F100Mts072.htm
http://blog.sankouki.com/archive/1068/2007-11
775日本@名無史さん:2008/09/26(金) 01:47:05
>>773
当時は「登山」という概念自体が全く「無い」時代に権力者が登山をしたという事実だけでもすごい。
776日本@名無史さん:2008/09/27(土) 01:32:07
なんで平安貴族の生活は異様なまでに庶民の生活が見えないの?
政治はしてたんだよね?貧困とかどうも思わなかったの?
777日本@名無史さん:2008/10/01(水) 12:58:46
>>776
これが当時の常識
778日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:54:30
>>770
>>773

かつて、欧州では山は悪魔の住みかとして人間が近寄ろうとしなかった。

こんなヨーロッパアルプスが近代登山を迎えるのは18世紀になってからである。


それににたいし、日本では7、8世紀頃から―今から1200年前に、多くの高山が誰かによって登られており、わが国に登山の黄金時代があった。
日本の名の通った山は、信仰登山によって登頂されており、あらかた徳川時代までに登られたとみていいという。
御嶽山や白山や石鎚山や男体山など、わが国の名山は大てい坊さんによって開かれたが、北アルプスの名だたる山もその例外でない。
スイスのマルセル・クルツという山岳誌の研究家の「世界登山記録年代記」によると、富士山の初登頂は633年になっていて、
世界最初の登山とされていることが紹介されている。その記録は、1522年ポポカテペトル山が登られるまで、約900年間破れなかったという・・・・。
近代登山に必要な防水テントも防水リュックサックも携帯コンロも登山靴も酸素ボンベも乾燥食料も存在しない時代によくやったと言える。
779日本@名無史さん:2008/10/02(木) 00:56:15
フランスとかも貴族社会だったわけ
780山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/10/03(金) 21:20:14
>>773
>権力者は馬に乗ったり輿で運んでもらったりして行ったんだろう
巡礼は徒歩を用いるべきだ、という観念があったような。
また調べてみないと分かりませんが。
ご高齢だと流石にきつかったでしょうしね。

>>776
何を参照された上でのご発言か存じませんが、儒教思想に基づく賑給や文殊
思想に基づく布施などの概念はありましたし、日記が子孫に儀礼について伝
える手段であったとすれば、出て来ないのも無理はないかと。
時代が下ると庶民関係の記事も増えて来ますが、それはそれだけ庶民層が力
を増して来た、貴族層の力が落ちて来て接触の機会が増えた、などの理由に
基づくもの。
常識と言ってしまえばそれまでですが、関心は皆無ではなかったとはいえ、
少なくとも記録にする必要性が薄いとみなされたということでしょう。
藤原実頼などは庶民層との接触が多かったようですが、彼の日記は現存して
いませんし、現存していても書いてあったかどうか分かりません。
日記に書くべきこと、とみなされたかどうか疑問ですから。
変化が大きいのは院政期で、庶民層へ関心を示す側とそれを批判する側に分
かれましたね。なんでそうなったか、はここでは言い切れませんが。

>>778
>富士山の初登頂は633年
役行者のことでしょうかね。『富士山記』も実見によるものではない筈。
院政期には登頂していたようですが(勿論僧侶が)。
781日本@名無史さん:2008/10/06(月) 00:11:11
>>780
>役行者のことでしょうかね。『富士山記』も実見によるものではない筈。 

実際に頂上まで登った人からの聞き伝えによる記述らしい。
山頂火口内に沸湯池があることを富士山記に記録している。
なお、海外では富士山の初登頂はこんな表記になっている。

>It is thought that the first ascent was in 663 by an anonymous monk.

http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_Fuji
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_first_ascents
http://canpan.info/open/news/0000003126/news_detail.html
782日本@名無史さん:2008/10/06(月) 06:59:55
>>776
権力者に庶民の生活が見えないのは、古今東西いずこも同じ。
今だってそうでしょ。

嵯峨は815年に山中越えで唐崎まで行っている。勿論輿で。しかも夏4月に。
去年同じルートを歩いたが、手ぶらですら死にそうになった。
当時輿を担いでいた人たちの辛苦は半端ねえものだったに違いない。まさに辛崎。
783日本@名無史さん:2008/10/06(月) 07:42:17
>>755
750で引用されてるのは祝詞だが、律(令は刑法じゃない)ではどうなってた?
784日本@名無史さん:2008/10/06(月) 08:32:06
若外姻有服属。而尊卑共為婚姻。及娶同母異父姉妹。若妻前夫之女者。
謂。妻所生者。余条称前夫之女者準此。亦各以姦論。
785日本@名無史さん:2008/10/06(月) 09:46:46
>>776
【佐藤亜紀】日本古典は庶民を描けない【曰く】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1187514913/
786日本@名無史さん:2008/10/06(月) 12:26:35
>>779
フランスに限らず、7〜13世紀の欧州は中世暗黒時代の真っ只中で文明圏として極めて後進的だった。


当時の欧州は神聖ローマ帝国時代末期に沢山の異民族の侵入・略奪などにより、それまで蓄積された文化、技術、知識が欠落してしまい、
さらに、都市の崩壊、交通の遮断などによる貨幣経済が衰退し、自給自足経済へ移行してしまった。
衛生環境も遅れていて、糞尿とゴミに埋め尽くされた“におう大陸”だった。そんでもって国民も地位や階級に一切関係なく
コレラやペストなどでガンガン死んでいた。宗教権力は、王家や王族などの世俗権力を確保する事に積極的に関与し、片っ端から権力闘争をおこしていた。
当時のヨーロッパにおいて、宗教は、カトリックしかありえず、カトリックを信仰しないと、生活自体が成り立たないため、
一種の独占企業のような存在でしたから、だれも堕落を止めらない状態だった。
だから西暦999年の大晦日には「来年で世界の終末がやってくる!!」と欧州の至るところで大騒ぎになっていたし、
そんでもって11世紀頃からは「十字軍」を結成して「聖地エルサレム奪還」を口実に当時の先進国だった中東諸国へ喧嘩を売るものの、
逆に中東諸国によってボッコボコの袋叩きにされる始末・・・。


ヨーロッパが文明圏として急激に復権するのは、ルネッサンスとプロテスタントの誕生まで待たされることになる。
787西暦1000年(First Millenium)の世界:2008/10/09(木) 02:34:25
西暦1000年頃の全世界の人口は2億5000万人であったという。
当時の世界最大の都市は、スペインのコルドバであり、コルドバには45万人が居住していた。
世界人口の増加率は0.1%で、5歳未満の子供の死亡率は5割にも達したという。

文化は世界各地にばらばらに存在していた。西暦1000年頃の世界一の超大国は中国であった。

中国の統一王朝である宋が世界の3分の1近い人口を占めていたのである。地球上の最も豊かな場所で最も文明化されていたのは
中国であった。中国の広大な領土で戦いが繰り広げられたり、画期的な新技術が考案され、その影響が遠くの地域にまで及んだという。
中国では火薬や紙幣、活字、鋳鉄を製造する溶鉱炉などの様々な発明が相次いでいて、「開宝本草」などの書物が記されている。
また、イスラム圏はイベリア半島から北インドまで広がっていた。一方、欧州は暗黒時代の真っ只中であった。
西暦1000年頃は世界はまだあまり交流をしていなかった。欧州の多くの知識人は地球が平らでないことを知っていたが、
あえて外洋に乗り出そうとはしなかったという。例外的に古代スカンジナビア人が現在のカナダ北東部に上陸している。
一方、ポリネシア人たちはフィジー諸島やクック諸島に入植し、ニュージーランドに進出したのも西暦1000年頃のことである。
中国人は世界一周も可能な船を建造できるほどの科学力を手に入れたが、遠洋航海には乗り出さなかったという。
まだ世界的な文化は育っていなかった。貿易は次第に人々の考えに新風を吹き込んだ。例えば、スカンジナビア人は、
現在のロシアに議会制度を伝えた。しかし、これは長くは続かなかったという。
西暦1000年頃は日本は平安時代であった。日本では宮廷文学が花開き「源氏物語」や「枕草子」が記された。
一方、北アメリカでは豆の栽培が広まり、ヨーロッパなどでは奴隷貿易が行われていた。
インドが9個の数字と”ゼロ”を意味する記号を使った数学体系を創造したのも西暦1000年頃のことである。
また、アラビア語の書物がラテン語に翻訳され、アスロラーベ(天体観測機)などの機器類の普及に貢献している。
中国では地震計が登場し、イスラムの数学者で天文学者のイブン・アル・ヘイサムは大気による光屈折と天体との関係を研究していたという。
788日本@名無史さん:2008/10/17(金) 06:35:41
789日本@名無史さん:2008/10/20(月) 20:03:57
平安時代の帝との結婚について知りたいです。
普通結婚したら、正妻の実家がお婿さんの衣食住の世話をして後見しますよね。
じゃぁ、帝と結婚した女性の場合はどうなるんでしょうか。やはり帝を後見してお世話するの?
それとも、後見のない女性のように、夫(帝)に庇護される立場になるんですか??
790日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:09:30
>>789
平安時代の貴族は婿入り婚でした。
ただ、天皇や東宮の場合、内裏を抜け出して妃の家に住むわけにいかないので、
妃のほうが内裏へやってきていました。
妃は藤壺や梅壺といった内裏内の建物を割り当てられてすみましたが、
建物内の家具や調度類、妃の衣装、
妃に仕える使用人や女房はすべて妃たちの実家が自前で用意しました。
また、妃たちが儲けた皇子女を養育し後見するのは妃の実家でした。
天皇の生活費は基本的に国家が用意していましたが、
有力貴族は天皇に衣装を自前で提供したり、
内裏が焼けたときには天皇に自邸を里内裏として提供し、
ほかの妃は遠ざけて天皇に入内している自分の娘と2人きりで住ませたりして
点数をかせいだりしていました。
791日本@名無史さん:2008/10/21(火) 20:12:32
アイツらって、鶴とか食ってたんですか?
792日本@名無しさん:2008/10/22(水) 11:54:05
>>791
中世ではごく当たり前の食肉でしたが、それが何か。
(どちらかといえば高級料理)
尤も、鶴を家紋に持つ武家では食わなかったそうで。

793日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:17:55
>>791
むしろ、鶏の方が食忌の対象だった筈
794日本@名無史さん:2008/11/02(日) 04:05:41
>>696
うろ覚えだが、山内益次郎氏の『今鏡の周辺』では後院の1つの七条院となっていた筈。
795794:2008/11/02(日) 23:13:09
確か覚えている限りだと法住寺殿の北側にあるとも書いてあった。
796日本@名無史さん:2008/11/28(金) 01:16:18
☆☆☆一条天皇と取り巻く女と子供と貴族達☆☆☆
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1218215666/
797日本@名無史さん:2008/12/21(日) 05:17:55
798日本@名無史さん:2009/01/22(木) 22:50:29
平安時代の貴族社会に、まったく男色がなかったわけではないのですが、寺院の稚児を別にすれば、それほど目立つものではありませんでした。
それが突如、華々しく流行りはじめたのは、72代白河帝のころからです。
もちろん、この白河帝もバイセクシャルでして、年をとってからはロリの気もあり、孫ほども年のちがう女の子に手をつけたあげく、孫の鳥羽帝の正妃にしてしまい、「叔父子」を産ませるんですね。
つまり、鳥羽帝にとっては自分の正妃が産んだ子ですが、実は祖父の種なので叔父。この叔父子が崇徳帝となったことから、確執が尾を引き、やがて保元の乱が起こります。
保元の乱といえば、このとき、崇徳帝と組んで敗死した左大臣藤原頼長というお公家さんが、「台記」という、すさまじいばかりの男色日記を残しています。
なにしろ、帝をはじめとして、上皇、摂政関白、大臣、ほとんどすべての貴族がバイセクシャルでして、しかもたっぷりと私情をまじえて、
えこひいきの人事を行いますから、当然といえば当然のことなのです。「夜の関白」とか「男のおぼえ」とか「君臣の交わり」とか、やっかみとともに、皮肉がとびかったりもします。
ところで、一般に、貴族と武士は対立しているもの、というイメージがあると思うのですが、武士の中でも、源平の中心にいる武家の頭領は、いわゆる受領層、つまり中下級の貴族なのです。
 それで、つまるところは、上流貴族のお相手を務めておりまして、木曽義仲のお父さんが左大臣頼長と関係しましたことは、はっきり日記に出てきますし、
源頼朝も少年のころ、後白河帝(崇徳帝の弟)の相手をした可能性が高いと、五味先生はおっしゃっておられます。
799日本@名無史さん:2009/02/01(日) 10:18:51
>>751
法皇を含む「太上天皇」は天皇と同格で前近代の天皇は法を制定する側にあってもその法に拘束されることは無い(律令法にも天皇個人を直接規制する条項はない)。
「禁中並び公家諸法度」の歴史上の最大の意義は世間で言われている江戸幕府による朝廷統制(そもそも、家康の生前は豊臣氏対策などに追われて朝廷を押さえ込む政治的余裕自体がなかった)ではなく、天皇をはじめて法の枠にはめ込んだこと。
800日本@名無史さん:2009/02/11(水) 17:31:31
>>786
いくら板違いの話題だからって中世ヨーロッパ=暗黒時代説の廃れた旧説を信じている奴がいたんだ……。
ぶっちゃけ、ここで言えば政所政治説支持者みたいなもんだぞ。
801日本@名無史さん:2009/03/05(木) 17:52:22
平安好きの素人ですが、失礼させてください。
平安美人が目が線で鼻が鉤、とか、下脹れが美しいとかというのは、源氏物語の絵で貴族がそのように描かれていたから、そう判断しているということなのでしょうか?
おたふく風邪になるとよろこんだという話も見掛けますが、具体的にこういう文献にこういうに書いてあるとか分かる方いらっしゃいませんか?
802日本@名無史さん:2009/03/07(土) 19:44:48
顔が大きいのが、目立っていいのだと聞いたことがあります。
宮廷内は暗くて、白塗りしたり、おでこの毛を剃り込みしたりして
顔を大きく目立たせていたとか。

おたふく風邪も、顔が大きくなるからではないかな。
803日本@名無史さん:2009/03/08(日) 01:23:27
今の時代の、漫画とかも目が大きく書かれていて、時代の流行を表してると思う。
たぶん漫画も千年後、昔の人って顔半分の面積が目だったんですか?みたいな質問が出そうな気がする。

それと似た感覚なんだろうね。大げさに書かれてるんだと思う。あれ?質問の答えになってないか。ごめん。
804日本@名無史さん:2009/03/11(水) 07:55:41
平安時代の高貴な色っていったら紫と朱色?
それとも紅色?
女房とか普通に朱色の服着てるイメージあったけど…
805日本@名無史さん:2009/03/11(水) 09:41:49
青(今の緑)きくじんもこれにふくまれるか?
あとこうろぜん
806日本@名無史さん:2009/03/12(木) 08:16:32
禁色ですね
807日本@名無史さん:2009/03/12(木) 09:31:38
今年初めにTBSでやっていた源氏物語の装束や髪型って結構忠実なんじゃない?
と思ったんだけど。
808日本@名無史さん:2009/03/14(土) 19:11:49
藤原道長・頼道の時代の束帯は今のお雛様に見られるような形でなくて
まだまだ奈良時代の朝服に近いデザインだったってのは本当か?
809日本@名無史さん:2009/04/03(金) 00:50:53
2chを見てるとこいつらほんとに日本人かと思うときがある。
特に派遣、DQN、貧困層、不細工などの底辺をことごとく貶す方向にあること。
これを客観的に見てると大昔の貴族主義を思い出す。
すべての人間との共存へとシフトしている近代社会を否定している。
力あるものだけが生き残る。日本人が結婚しない問題にもこれが根底にあるのかもしれない。
810日本@名無史さん:2009/04/08(水) 20:48:17
>>808
源氏物語には衣装についての詳細な記述が出てくるから
さすがにそれはないよ・・・
日本最古の源氏物語絵巻は平安時代末期の作だが
ちゃんと束帯・十二単だ。

むしろ、現在のお雛様は公家の正装に忠実ではないから注意が必要。
お雛様の歴史を見ればわかることだけど。
8今一般的に店で売られているお雛様は明治時代に東京で誕生した雛人形の系統で、
必ずしも公家の装束の忠実な復元を目的にしたものではない)
811日本@名無史さん:2009/04/08(水) 20:55:29
>>801
文献ではっきり、こういう顔のつくりが美人!というのは書かれてないけど・・・
源氏物語には、末摘花が大変痩せていて鼻が赤いことをもって不美人だと書いている個所があるので、
その逆、ふっくらして色白が美人だということじゃないかな。
「横笛」でも雲居雁が若君に乳をやるシーンを
「(雲居雁は)つぶつぶとよく肥えて、大層ふくよかな胸を開けて乳をおあげなさる。
若君も大層美しくいらっしゃって、色白で・・・」
とあり、よく肥えて色白、は美男・美女の条件だったみたい。
美男の主人公光源氏は「女にしたい美しさ」「女だったらあやまちをおかすだろう」
などと周囲の男たちに思わせているところから女性的で色白な男が好まれたみたい。
812日本@名無史さん:2009/04/10(金) 06:04:57
>>810

自分もとある本で、道長の時代はまだ奈良時代風だと見た。

源氏物語も紫式部のオリジナル原稿は無いし。
写本の書き手が、忠実に書き写したのかどうか分からないみたいだし。

源氏物語絵巻も院政期に描かれた物だから、道長の時代から100年近く後の物だし。

結局のところ、不明なのかな?

聞きかじった内容だから、間違っていたら教えてください。


それと揚げ足とりになるけど源氏物語絵巻の男性は、束帯ではなくて直衣ではないんですか。
813日本@名無史さん:2009/04/10(金) 12:37:53
このCMの検非違使、衣装が間違ってない?

http://r25.jp/ad/special_02/r25univ/visual_index.html
814日本@名無史さん:2009/04/10(金) 12:59:13
>>812
>源氏物語も紫式部のオリジナル原稿は無いし

「源氏物語の原作者自筆原稿」なんてモノがサザビーズとかクリスティーズのオークションに出たら超高層ビルが建つくらいの値段がつくぞ
815日本@名無史さん:2009/04/10(金) 16:59:43
源氏物語には束帯や直衣などの記述はあるけど実際のデザインはよくわからない。
まだ唐風の影響のある衣装だったと思う
816日本@名無史さん:2009/04/10(金) 17:46:24
時代祭りで小野小町が着てる奈良時代風の衣装から
十二単、桂袴への変化ってわずか100年程で凄い変化だよな。
817日本@名無史さん:2009/04/10(金) 19:34:50
>>816
むしろ、女性が男性の衣装を身につけるようになったと考えれば
合点がいくかも。
男性の着る束帯・直衣は聖徳太子の頃から劇的な変化は遂げていない。
それに対して女性の衣装だけが平安中期からがらっと趣が変わっている。
奈良時代、女性が下半身につけていた裳はスカートだが、
十二単は袴。これが最大の劇的な変化。
しかし、男性が身につけていた袴を女性がはくようになったと考えれば
大したことはない。
男性が直衣を脱いで衣をたらし、何枚も重ねれば十二単のようになる。
最初は動きやすいとかなんとかの理由で女性が男性の衣装をまねたんじゃないか。
のちには単衣を重ねすぎて逆に動きづらくなったが。
818日本@名無史さん:2009/04/10(金) 19:38:34
>>812
道長の時代に書かれた「栄華物語」に
道長次女の女房が装束を二十枚も重ね着して動けなくなったとか
書かれてあるよ。
奈良時代の装束で二十枚も衣を重ねるなんてありえない。

紫式部の自筆本がないのだし、後世の人が源氏物語を改作したに違いない、
というのも根拠が薄い。なんで改作するの?
奈良時代にも平安初期にも自筆のものなんて何一つ残ってない、
だから奈良時代の衣装もまた分からない、っていうのが君の論?
819日本@名無史さん:2009/04/12(日) 16:59:23
>>818

束帯の話だったのに十二単の話を持ち出すのは、議論のすり替えでは。

とりあえず束帯の記述がある、サイトのアドレスを貼るよ。

ttp://www.kariginu.jp/kikata/1-2.htm

源氏物語については、ウィキを見てください。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E

それとこのサイトも見てみてください。

ttp://www.nijl.ac.jp/events/exhibits/genji/


奈良時代の装束については個人的な、考えだけど正倉院宝物に太刀や牙笏、
石帯、身分の低い人間の衣服もぼろぼろだけど残っているし養老律令の中の
衣服令があるから資料に乏しい摂関期の装束よりは分かると思うが。
今、現在の一般に平安装束といわれる物は、院政期に確立した物らしいし。
院政期になると装束などの資料もまとめられるようになってくるらしい。


なお、自分は素人なのでこれ以上突っ込まれても知りません。
820日本@名無史さん:2009/04/12(日) 18:50:03
院政期になると、直衣とかもパリパリにのり付けしてる方のが流行ったんだっけ。
それまでは、のりが落ちてしなっとしてるのが好まれてたのに。
821日本@名無史さん:2009/04/12(日) 20:45:42
流れをぶった切ってすいませんが、
平安時代のフリーゲームってありませんか。
822日本@名無史さん:2009/04/12(日) 20:50:30
>>821

フリーゲームて何?

ゲームソフトの事?
823日本@名無史さん:2009/04/12(日) 22:39:53
ttp://ayanokuni.com/
ttp://www.geocities.jp/xxxanachronismxxx/
とかに置いてるやつみたいなので他にないかなーと思って。
824日本@名無史さん:2009/04/15(水) 22:40:38
武陽陰士の文学板でのあだ名は「芋姉ちゃん」です。
825日本@名無史さん:2009/05/03(日) 01:30:57
826日本@名無史さん:2009/05/03(日) 20:59:38
武陽陰士っていうコテが文学板を荒らして困ってます。
どうにかして下さい。ちなみにあだ名は芋姉ちゃんw
827日本@名無史さん:2009/05/03(日) 23:47:27
828日本@名無史さん:2009/05/09(土) 21:41:57
829日本@名無史さん:2009/05/16(土) 00:21:06
マンガ「陰陽師」」で安倍晴明が狩衣を着てるんですけど、
後ろの裾を長く描いているんです。
狩衣の裾って地面に着かないくらい短いはずじゃないんですか?
ただの演出ですか?
それとも晴明は位が結構高いとこまでいったので
束帯の裾みたいに長くしているんですか?

830日本@名無史さん:2009/05/18(月) 18:26:58
自己解決しますた
831日本@名無史さん:2009/05/20(水) 00:06:58
丈長の結び方を誰か
教えてください
832日本@名無史さん:2009/05/31(日) 18:19:26
しかし、あまり人気がないというか
TVドラマにもならないしね
833日本@名無史さん:2009/06/01(月) 07:50:31
戦国、江戸時代よか予算やら手間がかかりそうだもんなぁ。
時代考証の二木謙一さんもその著作で言っておられたけど、必要なだけの衣装が
足らないらしい。
だから、その役柄の身分や立場にそぐわない狩衣なんかを着せざるを得なかったそうだよ。

834日本@名無史さん:2009/06/02(火) 00:18:56
>>833
是非というのはカンタンだが、
大道具小道具衣装その他諸々 
全部最初から作るハメになるのでは?  
戦国時代とはワケが違うぞ。
室町や鎌倉ともあれこれ微妙に違うぞ。
おまけにカネかかるぞ。 

脚本には寂聴がしゃしゃり出てきそうな悪寒。 
835日本@名無史さん:2009/06/02(火) 05:33:08
>>834

映画『千年の恋』が製作費10億だったはず。
10億で大作とか宣伝していたけど、バブル全盛期だと製作費50億ぐらいの映画とかあったのに。
バブル全盛期だったら可能だったかも。
836日本@名無史さん:2009/06/02(火) 05:35:45
それと日本映画も調子良いしハリウッドみたいな、大作作れば良いと思う。
837日本@名無史さん:2009/06/02(火) 18:24:52
パート2、3といけるものなら衣装セット代ペイできるだろうけどねぇ
838日本@名無史さん:2009/06/02(火) 19:57:31
>>837

じゃあ、源氏物語三部作とか。
映画会社がその気になったら、出来そうだけどな。
せめて、陰陽師の続編してくれないかな。
冬の直衣に蝙蝠扇とかは、スルーするから。


アニメだとGenjiは、時代考証が酷かったな。
少年陰陽師ももう少しどうにかして欲しかった。
839日本@名無史さん:2009/06/04(木) 12:49:42
>>838
源氏物語については光源氏役を一体どこの誰がやるかが大問題

光源氏は幼少の頃からありえねえくらいの超イケメンで、見るだけで「寿命が伸びる」とまで言われてたという設定です
光源氏役にはイケメンだけでなく高度な演技力が要求される。
そういうわけで、ドラマ・映画に出た声優・俳優で「光源氏」の役のみピックアップした。
こういうのは経験がある奴をみつけるほうが効率的。 いちいち挙げていくときりがないから最近の映画・ドラマ等だけ・・・。

沢田研二_  資生堂スペシャル 源氏物語 [1980年]
風間杜夫◎  紫式部 源氏物語 [1987年]
東山紀之_  橋田寿賀子スペシャル 源氏物語(上の巻) [1991年]
片岡孝夫○  橋田寿賀子スペシャル 源氏物語(下の巻) [1991年]
愛華みれ●  源氏物語 あさきゆめみし Lived in A Dream [2000年]
天海祐希_  千年の恋 ひかる源氏物語 [2001年]
保坂尚輝_  怪談百物語第10話 怪談源氏物語 [2002年]
櫻井孝宏◎  源氏物語千年紀 Genji [2009年]

備考:
◎=「源氏物語」のアニメ化
○=前名“十五代目片岡仁左衛門”
●=漫画「あさきゆめみし」の実写映像化はここから


ここから光源氏役を1人上げるならてめえらならどうする?
840日本@名無史さん:2009/06/04(木) 21:18:51
>>838
Genjiは出崎監督の芸術観の中で再構成されたあとの源氏物語だからな。
ベルばらはそれで成功したけれど、源氏物語は……大和さんは手を引いて正解だったと思う。
841日本@名無史さん:2009/06/05(金) 01:31:29
>>839 順調に成長してくれてれば、中村俊介あたりがハマるんじゃないかと思っていたけど、ちょっと違うかな。
いつだかの新選組での沖田総司はハマってたな。少し影がある感じで。

片岡仁左衛門?はよかったね。

イメージとしては若い頃のエドワード・ファーロングなんだよなwww光り輝くような、泣く子も黙るような美しさなんだけど、影がある感じで。
842日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:02:07
俺が小学生のときに、生活科っていう総合学習の走り見たいのがあって、長屋王だか天皇だかが食べた牛乳の煮詰めたものを造ったことがあった。
牛乳の臭みと後味の悪さを濃縮しただけで食えたものでなかった。
ただ煮詰めるだけではだめだったんだろうか。
843日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:48:36
>>842

長屋王だか天皇だかが食べた牛乳の煮詰めたものを造ったことがあった。


長屋王て奈良時代の人物なんだけど…
その食べ物は、蘇(そ)という名前だよ。
平安貴族も食べていたらしいね。
多分、ちゃんと作ると美味しいよ。
蘇は『飛鳥の蘇』という商品名で、飛鳥の人気のお土産になっているし。
自分も食べた事あるけど、美味しかった。

ネット通販でも買えるけど、たしか40グラムで1000円だったと思う。
高いけど7、8時間牛乳を焦げない様に煮詰めないといけないから、手間がかかるらしい。
844日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:25:26
牛乳を長時間煮詰めるっていうと、生キャラメルみたいな感じ?
845日本@名無史さん:2009/06/06(土) 22:39:10
牛乳を1/10まで煮詰める
846日本@名無史さん:2009/06/07(日) 16:50:01
>>844
蘇はチーズに近いらしい。
ちゃんとした固形だよ。
写真で見るとこんな感じ↓。
http://www.kotonara.co.jp/narapark/plan/yamato0803.html
847日本@名無史さん:2009/06/07(日) 23:54:11
>>846
ありがとう。
チーズに近いって事は醗酵させてるのかな。

いずれにしても高カロリーなのは間違いなさそうだね。
藤原道長も好んで食べていたらしいけど、食べ過ぎて「飲水病」になったのかもw
848日本@名無史さん:2009/06/08(月) 18:16:41
>>847

> チーズに近いって事は醗酵させてるのかな。

発酵はさせないよ。
煮詰めて固めただけ。
849日本@名無史さん:2009/06/08(月) 19:53:24
>>847
現代にも発酵させないチーズ=フレッシュチーズがあるよ。
蘇はフレッシュチーズに分類されている。
さらに蘇に何らかの手を加えて醍醐(醍醐味に使われる当時極上とされた食べ物)
ができるが、醍醐の製法は中国でも日本でもわからなくなってしまっている。
850日本@名無史さん:2009/08/24(月) 18:12:53
>>840
確かにそうかもしれないし、声優も普通(アニメ声)すぎてコケたし
時代考証については制作者に歴史を知ってる奴がいないからしょうがない…。
だけど、尺がかなり長いから「源氏物語の映像化」として見ればかなりよくできていたとは思うよ。
脚本や演出もやっつけ仕事じゃなかったし。


「千年の恋 ひかる源氏物語」は濡れ場も脚本も演出もヽ( ・∀・)ノ ●●●●●ウンコー
851日本@名無史さん:2009/08/26(水) 16:32:16
>>850

時代考証とかに学者とか付かないのかな?
大河だと一応、いるみたいだけど。
少年陰陽師も酷かったけどGenjiは、更に酷かったのがな。
852日本@名無史さん:2009/08/26(水) 19:28:06
>>851
少年陰陽師はあくまでも原作つきだから、原作世界の尊重が優先されるのは理解できる。
だが、genjiはもうオリジナルみたいなもんだろう。
853日本@名無史さん:2009/08/26(水) 23:06:22
>>851>>852
genjiは学者の監修ゼロ。

だから時代考証が手抜きバリバリだけど、
脚本や演出についてはマトモだった。
ここらへんがいい加減な作品がかなり多いから困る。


あっ、genjiの制作者はちゃんと原作は読んだぞ。ただし、現代日本語訳だけど・・・・・。
http://www.p-tina.net/interview/283
854日本@名無史さん:2009/08/27(木) 19:48:00
>>852

少年陰陽師は、作者に問題があったのかな。
855日本@名無史さん:2009/09/07(月) 15:47:54
土曜日に京都の浄瑠璃寺に行って、浄土式庭園と九体阿弥陀如来像を見てきた。
平安貴族の気分でした。
856感想キボンヌ:2009/09/09(水) 23:53:21
セントルイス・オペラ「源氏物語」

2000年夏、アメリカ・セントルイスで世界初演され、 好評を博した三木稔作曲のオペラ「源氏物語」。
千年の時を越え、朝倉摂の舞台美術と衣装、日本舞踏家・尾上菊紫郎の振り付けのもと、
アメリカ人キャストやスタッフが「世界の古典」に挑みました。
ttp://www.bcamusic.com/topic/genji.html
ttp://operajaponica.org/libretti/taleofgenjilib.htm
ttp://www.lookinthelens.com/Opera3.html
ttp://www.opera-stl.org/Archives_ProductionDetail.aspx?ProductionId=27
ttp://www.andante.com/article/article.cfm?id=15495
ttp://www.riverfronttimes.com/2000-06-21/culture/the-tale-of-genji/
↓がワンシーン。
ttp://www.bcamusic.com/img/genji.jpg
ttp://www.andante.com/images/Articles/GenjiWhitePeople315.jpg
ttp://www.andante.com/images/Articles/GenjiTop226.jpg
ttp://www.m-miki.com/en/work/images/operas/images/2001genji-1.jpg
ttp://www.m-miki.com/en/work/images/operas/images/2001genji-2.jpg
ttp://www.m-miki.com/en/work/images/operas/images/2001genji-3.jpg
ttp://media.riverfronttimes.com/138355.0.jpeg


・・・・・・・でも、似合わないwwww
857日本@名無史さん:2009/11/14(土) 00:59:27
ん?
858日本@名無史さん:2009/11/18(水) 20:10:21
平安時代に出家した女性は袿に五條袈裟?姿で描かれてることが多いですけど、
そういう出家した女性の第一礼装ってどんな感じだったんでしょうか。
たとえば帝の前に出るとか、そういう場合は袿姿って訳にはいきませんよね?
女房装束に九條袈裟とかだったんでしょうか。
同じ尼でも内親王と受領の妻では普段着も礼装も違いますよね?
859日本@名無史さん:2009/11/19(木) 14:27:34
どこにも書いてなかった…よ
860日本@名無史さん:2009/11/19(木) 14:31:29
でもたぶん袈裟が裳の役割してたような気がする。
861日本@名無史さん:2010/02/13(土) 09:41:01
ho-
862日本@名無史さん:2010/02/15(月) 18:52:56
平安時代の采女に特別な装束ってありますか?
ただの唐衣裳ですか?
863日本@名無史さん:2010/03/13(土) 11:35:59
どうですか
864日本@名無史さん:2010/03/22(月) 19:43:00
どうもこうも
865日本@名無史さん:2010/04/17(土) 18:12:44
ごく少しだけ麻呂(狩衣)がでてくる時代劇を見て平安装束はいい、と思ったけど、
平安装束をたっぷり堪能できる時代劇でオススメなの何かある?
866日本@名無史さん:2010/04/17(土) 23:50:35
>>885
時代劇板がふっとんだからな・・・
源氏物語や陰陽師で時々制作されているよ

だけど、自分でググれよ・・・
867日本@名無史さん:2010/04/19(月) 23:55:11
やっぱ陰陽師
陰陽師3出てくれータノム
はやくしないと萬斎タソおじいちゃんになっちゃうよ
868日本@名無史さん