【ご懐妊】子作りについて考察する【ご落胤】

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26日本@名無史さん:2008/10/13(月) 19:28:31
>18
家光の正室&側室は子供が一人もいないか、
産んでもせいぜい一人の女性につき一人だけ。
一人の女性長く寵愛するということがなく
次々と女の体を取り換えている感じ。
女の体に反応はしても女を愛せなかったのかも。
27日本@名無史さん:2008/10/13(月) 19:59:20
>>24
皇室典範では嫡子でないと、天皇の子でも皇族になれないから
不可能。
28日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:31:50
>>27

準正嫡出子になれば皇族だね
29日本@名無史さん:2008/10/13(月) 23:34:59
>>27

準正嫡出子になれば皇族だね
30日本@名無史さん:2008/10/16(木) 22:05:06
>>12
定子の出産に関しては「小右記」に懐妊十二箇月とある。
ちなみに定子は長徳2年3月4日以降、兄弟失脚のために里にこもって
修子内親王出産まで一度も一条天皇に会っていない。
修子内親王は2か月遅れで生まれている。
31日本@名無史さん:2008/10/18(土) 20:00:36
そりゃ天皇子じゃねーだろw
32日本@名無史さん:2008/10/18(土) 20:03:01
訂正:天皇子→天皇の子じゃない。

兄貴の子か?

この板には痛い定子厨がいるようだが、そのあたりどうなの。
33日本@名無史さん:2008/11/29(土) 11:14:55
一条天皇の子供以外考えられない。
34日本@名無史さん:2008/11/29(土) 11:51:31
>>2
実は秀吉は正しいSEXの仕方を知らなかったりして?
そして女性は秀吉を嫌っていたため前戯までしかさせてもらえなかったが
秀吉はそれに満足していただけたりして?
で、淀君は秀吉に最後まで手ほどきしてあげたと
35日本@名無史さん:2008/11/29(土) 20:34:04
>>33
なまみこ婆は本スレに帰ってね。

36日本@名無史さん:2008/11/29(土) 20:41:08
>>34
淀殿は秀吉が初婚の相手なのにどうやって手ほどきを?

淀殿より先に秀吉の側室になり、淀殿と一緒に小田原にまで呼ばれた
京極竜子などは先夫との間に子供まであり、
当たりまえだが子供の作り方は知っていただろうけどね。
それに、淀殿で子の作り方を覚えた秀吉は大勢いる側室たちに実践していっただろうし。

秀吉の出自は農民層に近い。
貧困層ほど子だくさんであることからもわかるとおり、
農民層は幼いころから家族が同じ部屋で生活しているために
当然寝ている子供の前で父母は弟妹を次々作っているわけで、
子供のころからセックスをみて育ったりしているんだよね。
出世の過程においては遊女などともたわむれただろうし、
やり方を知らなかったというのはさすがにどうも。
37日本@名無史さん:2008/11/30(日) 09:31:23
松の丸殿は、淀に負けず劣らずの寵愛を受けていたけど子供でキナカッタ!
淀の子には石田説と大野説があるけど、どっちがいい?
38日本@名無史さん:2008/11/30(日) 09:44:58
>>36
マジレスされても・・・

実際は女性側に問題がある不妊症かなんかだったんだろうけどさ。
39日本@名無史さん:2008/11/30(日) 09:49:23
> 実際は女性側に問題がある不妊症かなんかだったんだろうけどさ。

だからそんなわけないって言ってるんだろう?上のレスでは
40日本@名無史さん:2008/11/30(日) 12:54:28
秀吉可哀想(;_;)
41日本@名無史さん:2008/11/30(日) 12:54:55
秀吉はエロのために側室をたくさん持ってたわけではない。
老年の秀吉にエロのための体力などない。
実際に側室として実用性があったのは淀君くらいで、あとは数回交接したていどの
名目的な側室だろう。

秀吉は没落した名家の姫を扶養するために、自分の側室としていたのだ。
そうすれば、姫に天下人の側室という地位と十分な生活を保障できる。

いわば戦国のあしながおじさんだったのだ。
42日本@名無史さん:2008/11/30(日) 13:05:04
>>41
女体の楽しみ方わかってねー
43日本@名無史さん:2008/11/30(日) 13:16:15
>>39
じゃあなぜ北政所のおねには子が生まれなかったの?
44日本@名無史さん:2008/12/01(月) 00:55:38
>>41
秀吉をエロ猿と言わずに日本史上の誰をエロと言うのか
45日本@名無史さん:2008/12/01(月) 03:13:22
>>37 記憶が定かではないので間違ってたらスマソなんだが、
確か、淀殿が最初の子を孕んだとき、逆算すると秀吉・三成は朝鮮出兵の真っ最中で淀殿のそばにはいなかったんではなかったっけ?
46日本@名無史さん:2008/12/01(月) 19:58:09
>>41
自分の甥や家臣に娶らせて扶養させればよかっただろ。
名家の若い姫君なんぞ、秀吉でなくともいくらでも引き取り手はいる。
ちなみに、秀吉の年齢以降も、家康などは子供を作りまくっている。
たまたま秀吉には子供ができなかったからといって、
秀吉は家康とは違う、と言ってもねえ。
若い姫君を老いた自分の側室として囲い、
自分以外の男とはセックスするな、と言いながら、
当の自分は側室たちとはやらなかった、と言っても説得力皆無。
47日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:01:16
>>45
淀殿が最初の子鶴松を孕んだのは朝鮮出兵の前。
秀吉は鶴松を亡くしたあと、朝鮮出兵を行っている。
朝鮮出兵の最中に孕んだのは弟の秀頼のほうだろう。
このときも秀吉は全く側室たちのいる伏見城にいなかったというわけではなくて、
ただ出兵の指図で忙しかった、留守が多かった、という程度で
懐妊させるのが全く不可能であったというわけでもない。
(淀殿密通が事実なら、だれの子かわからんけどね)
48日本@名無史さん:2008/12/01(月) 20:26:27
つか淀殿や松の丸殿を名護屋城まで呼び寄せてなかったっけ
49日本@名無史さん:2008/12/02(火) 06:38:49
佐賀の名護屋に淀をよんでいたってのみたことあるけど。
前田利家も側室にそこで後の3代目を孕ませたんだよな。
家康の側室は母子ともに死・産だったけど。
50日本@名無史さん:2008/12/02(火) 07:20:11
当時は一般にどこまで妊娠の仕組みが理解されていたのでしょう?

馬鹿な質問でスマソ
51日本@名無史さん:2008/12/02(火) 19:06:49
秀吉は没落した名家の姫を扶養するために、自分の側室としていたのだ。
そうすれば、姫に天下人の側室という地位と十分な生活を保障できる。

いわば戦国のあしながおじさんだったのだ。
52日本@名無史さん:2008/12/24(水) 20:23:26
落胤になる子供とならない子供の差ってなに?
母親の身分?
53日本@名無史さん:2008/12/24(水) 20:39:26
一休さん
54日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:17:38
明治天皇の子供は宮内庁認定で15人いるが、実際は19名とされている。
葉室光子1名
橋本夏子1名
柳原愛子3名
千種任子2名
園 祥子8名

で、15名

あと、千種が大正天皇の数時間前に生んだ男子1名の伝説があるが
他説知ってる人いる〜?
55日本@名無史さん:2008/12/27(土) 11:37:38
何故、徳川幕府の将軍には正妻の子どもがなることが少なかったのだろうか。
56日本@名無史さん:2008/12/28(日) 00:29:10
子供の死亡率が非常に高かったし
たった一人しかいない御台所が懐妊し、安産し、
成人まで育つことが稀だったから
57":2009/01/25(日) 17:12:32
定子の子の実の父親は伊周だよ。
58日本@名無史さん:2009/01/29(木) 23:50:53
徳川の正室は京の貴族の姫が多かったから、政治的口出しを怖れて、
結婚すると同時に毒薬で孕めないようにしていたって。大奥のしきたり。
もしくは、早めにひっそり子供を殺していたり。

秀吉は、ねねの侍女に、長浜時代に手をつけて孕ませてるよ。
男の子で大切に育ててたのに、6歳くらいで夭折してしまった。

秀吉は大変悲しんで、滋賀のお寺に画像とお墓が残っていて、
最近発掘されたんだが、当時の秀吉の身分にあわない、
大名並みの破格の石組みの墓だったって。
種無しでなくて、弱かったんだよ、遺伝子が。
59日本@名無史さん:2009/02/22(日) 01:36:21
>>58
テレビの見過ぎ
60日本@名無史さん:2009/04/09(木) 01:24:01
羽柴秀吉
(37歳)・・・石松丸(1572〜1576)
(39歳)・・・女子(1574〜?)
(54歳)・・・鶴松丸(1589〜1591)
(57歳)・・・秀頼(1592〜1615)

源頼義(『水左記』の没年に『源威集』の没年齢を逆算)
(48歳)・・・義家(1039〜1106)
(??歳)・・・義綱(?〜1132)
(54歳)・・・義光(1145?〜1127)
以下略

上杉憲房
(57歳)・・・憲政(1523〜1579)

で、清和源氏の義家・義綱・義光は誰の子?(>>2の真似)
61日本@名無史さん:2009/04/09(木) 01:49:16
羽柴秀吉
(37歳)・・・石松丸(1572〜1576)
(39歳)・・・女子(1574〜?)
(54歳)・・・鶴松丸(1589〜1591)
(57歳)・・・秀頼(1592〜1615)

源頼義(『水左記』の没年に『源威集』の没年齢を逆算)
(48歳)・・・義家(1039〜1106)
(??歳)・・・義綱(?〜1132)
(54歳)・・・義光(1145?〜1127)
以下略

上杉憲房
(57歳)・・・憲政(1523〜1579)

で、清和源氏の義家・義綱・義光は誰の子?(>>2の真似)
62日本@名無史さん:2009/04/10(金) 20:23:55
>>58
15代将軍徳川慶喜の母は都から来た公家の姫宮。
慶喜の同母兄も同じく育っている。
何でこっちは暗殺されなかったんだい?
公家の姫は大名家に嫁いだ者も多いが、
勿論藩主の母となった姫もいる。
毒薬なんか使ったら当の姫君が死んでしまう。
たとえすぐではなくとも確実に早死にする。
でも、都から来た将軍御台所って大部分は健康で
夫将軍より長生きしてるんだよね。
63日本@名無史さん:2009/04/10(金) 20:33:05
慶喜は生まれながらの将軍ではないだろ?
64日本@名無史さん:2009/04/10(金) 20:43:41
>>63
江戸幕府が子供を暗殺してまで公家の力を排除していたのならば
慶喜など将軍候補にもならなかっただろう。
将軍をぜひ出したい水戸家がみすみす公家の姫君を正室に迎えて
男子を次々産ますこともなかっただろうな。

暗殺などせんでも将軍が公家の姫君には手をつけなきゃいいだけだし。
だけど、出産経験のある御台所は結構いるんだよな。
それに、御台所について京から来た公家の姫君を
側室にしていた将軍も結構いる。
65日本@名無史さん:2009/07/11(土) 10:26:53
だれのこと?
66日本@名無史さん:2009/11/01(日) 02:06:50
とりあえずあげます
67日本@名無史さん:2009/11/01(日) 04:06:26
>>65
>>64の言う御台所に付いてきた公家の姫君を側室にした将軍は、
九代将軍・徳川家重のことだよ。
その側室から生まれた子が十代将軍・徳川家治だよ。
68日本@名無史さん:2009/11/01(日) 11:49:35
家重の御台所は伏見宮出身だったっけ?
流産か死産して亡くなってるよね。
家慶の御台所も子供二人生んでたはず。
他の側室に子供がいるのに、御台所に子供ができなかったのは
家光と綱吉の二人(もしかすると家綱も)だけだよね。
69日本@名無史さん:2009/12/20(日) 17:01:07
子は宝
70日本@名無史さん:2010/01/15(金) 00:58:23
Wiki見てたら近衛前子が後陽成天皇との間に12人子どもがいたってなってるんだけど、
これは別の妻の子供を養子扱いにしたとかではなくて本当に12人産んだの?
多すぎじゃね?
71日本@名無史さん:2010/01/15(金) 01:09:28
慶喜は序列が悪くても将軍候補には一応挙がるだろ
「家康の再来」と呼ばれるぐらい頭がよくて、
しかも、この時代は内憂外患で幕府も財政難で雲行きが怪しいから
天才的な救世主にすがろうとするだろうから需要もある
72日本@名無史さん:2010/01/16(土) 22:53:02
>>70
本朝皇胤紹運録ではそうなっている
魅力的な女性だったんだろうか
73日本@名無史さん:2010/03/09(火) 16:10:26
がんばったね
74日本@名無史さん:2010/03/09(火) 17:15:19
昔は普通の家でも7〜8人子供を産んでた
相性よければ12人くらいいくんじゃね?
75日本@名無史さん
12人はそうそういないだろ。