1 :
日本@名無史さん:
種継とかだっけ?
3 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 19:21:59
4 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 19:23:37
>>3 北家は不要だろ。
摂関家をはじめ公家で数多く残っているから。
5 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 19:24:30
確か、羽林家の高倉家が藤原南家だっけ。
6 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 19:30:52
熱田神宮も藤原南家なんだよな。
7 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 19:44:20
工藤、伊東、二階堂なんかの武家も南家だな。
8 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 20:23:03
順徳天皇
9 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 20:25:26
仲麻呂の失脚後、南家は衰えたと言われているが、
種継の死から薬子の変までは、一番有力だったのは南家。
10 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 20:45:59
11 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 20:49:49
江戸時代の飫肥藩は、藤原南家だね。
12 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 21:23:04
13 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 07:51:18
14 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 09:42:21
平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇
すべて藤原南家を外戚とする天皇
この頃藤原南家が他氏を超越して権力を持っていたことは事実だろう
桓武天皇の皇后、平城天皇の贈皇后も藤原南家
15 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 17:59:08
15
>>5 一応養子ってことにはなってるみたいだけど、
最後の当主の没後半世紀くらいあとに生まれた人だし。
実質は再興の形をとった新規取り立てでしょう。
江戸時代の藪=高倉家は北家閑院流の分流と見なすべきじゃないのかな。
17 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 19:25:42
18 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 20:46:18
>>14 平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇の外戚は式家。
南家を外戚にしているのは是公の外孫にあたる伊予親王。
19 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 23:26:13
保輔は何で盗賊にまで身を落としたのか。
祖父や叔父は大納言だというに。
南家と北家、どちらが格式上なんだろ、長男と次男なのに(初代が)。
本来は不比等長男家の南家の方が格上・・・のはずなのだが
伊予親王の変で失脚したからね・・・
天平時代に東大寺を建立した聖武天皇はもちろん、京都をみやことした桓武天皇も藤原南家を一番信頼していた。いつの間にか皇室は北家に乗っ取られた。日本は奴隷制的システムになってしまったのです
・・・えー、どこからつっこんだらいいかな
まあ携帯から激情にまかせて書き込んだようだから放置が正解か
24 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 17:45:35
藤原南家
25 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 19:53:23
不比等の嫡男は武智麻呂。
少なくとも豊成までは藤原氏の嫡流は南家だった。
嫡流厨がいればこのスレは1000までもつ。
藤原(中臣)鎌子〜藤原不比等〜藤原武智麻呂〜藤原豊成〜藤原繼繩まで藤原家嫡流。
藤原(中臣)鎌子〜藤原不比等〜藤原房前〜藤原鳥飼(夭逝)〜藤原小黒麻呂まで藤原北家嫡流。
ちなみに長男・武智麻呂と次男・房前の母は、蘇我娼子(そがのまさこ・大臣蘇我馬子のひ孫に当たる)です。
南家のスレで書いても詮無い話なのだが
鳥飼は北家の「嫡子」かなぁ 母親の身分の低さから見ると長男ではあるが嫡子とは言い難いのでは
29 :
日本@名無史さん:2008/04/23(水) 21:37:28
南家が藤原氏嫡流から転落したのは豊成の失脚、
もしくは仲麻呂の敗死からじゃないかと思う
>>28 それ言うなら豊成の嫡子は縄麻呂ではあるまいか?
豊成没後は藤原氏嫡流は消滅したと考えるべきだと思う。
もちろんその時々の族長格は居るわけだが、それは嫡流ではない。
藤原氏に再び嫡流が現れるのは、良房に継承された時頃だと思う。
内麻呂から冬嗣への継承段階ではまだ嫡流形成と言うには少し早い、
と個人的には思っている。
32 :
日本@名無史さん:2008/04/24(木) 20:54:11
豊成に祖父の不比等くらいの政治手腕があれば、
藤原氏の嫡流は揺るがなかっただろう。
名門の嫡孫にそれを期待するのは無理。
そういうふうにならないように教育される。
次は
【通親・道元】村上源氏を語る【親房・具視】
だな
なんけは日本のもとい。
37 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 03:20:49
藤原南家工藤氏族です。
くどぅ氏は末流。豊成流が本家
大師仲麻呂卿は分家でつか?
正式に分家した!
・・・
と書いてある史料はないけど、
淳仁天皇即位後に「恵美」という副姓を名乗り、
名前も”次男”の意味合いがある「仲麻呂」から兄弟順の感じられない「押勝」に変えたところを見ると
分家、というより独立した一家を建てたと見ることもできるだろう。
へ〜ぇ、親元から独立したかったんだ、だから抵抗勢力も大きかったんだ。太政大臣を大師に替えちゃたりして、軟着陸でつか。
42 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 17:51:38
藤原南家も、新羅征討を行っていたら失脚していなかっただろうな。
43 :
日本@名無史さん:2008/04/25(金) 19:40:38
藤原南家は仲麻呂以外はおとなしい人物が多いな。
是公といい継縄といい朝廷の首班になったにしては、目ぼしい事跡がない。
特に是公は伊予親王の外祖父なのに。
お前んちは源なんけ?それとも藤原なんけ?
藤原南家を騙る
姓は源氏
47 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 08:47:57
蛆はハエの幼虫
氏は栄えの耀紐
やっぱ、長良と良房の母さまで、北家の大祖母従一位美都子さまでしょ。
51 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 18:23:17
種継死後に是公が伊予親王を皇太子に擁立しようとしなかったのは
是公に野心がなかったからかな。
百川のような野心家ならば何らかの行動はしただろう。
南家の場合仲麻呂が反面教師になってアレルギーがあったんじゃないのかな。
是公ってどうしても、湘南の海岸だかで
「見たまえ、木々が戦々恐々としているじゃないか」とか漱石に語ってそうなイメージある
54 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 23:59:39
是公が首班になった頃には式家、北家の有力者達は亡くなっており、是公に比肩し得る者はいなかった。
この頃が南家の全盛期かな。
傾きかけたいまの日本を建て直すためにも、南家の子孫と自覚される方々は、初代武智麻呂卿の菩提寺(五條市榮山寺国宝八角堂)に寄進しましょう!(今世紀中に、せめて北家の興福寺南圓堂並に)。
56 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 09:20:25
凡庸な継縄が右大臣になれたのは年功から
欽明天皇が受容された儒教思想を曲げたのは式家(後宮で)や北家(政治で)であるという事実は、庶民にとっては縁遠い話だが。
こっちにもデムパが流れてキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!
59 :
日本@名無史さん:2008/04/28(月) 14:53:26
>>51 早良親王が廃されたばかりでそれはできない
60 :
日本@名無史さん:2008/04/29(火) 21:41:55
巨勢麻呂は仲麻呂とともに敗死した人物なのに子孫が結構続いてるよね。
摂政になった良房は巨勢麻呂の曾孫だし。
孫娘の美都子が藤原冬嗣の正妻になったことが大きいと思われ。
また美都子の弟・三守の妻は檀林皇后・橘嘉智子の妹。
藤原伊尹・兼通・兼家らの母藤原盛子も南家出身だね。
美都子の兄弟三守の曾孫に当たる。
正一位・南家盛子さまは、御堂関白のお祖母さま、頼道と教道と彰子らの、ひいおばあさまでしたか
平安中期では大納言にまでなった藤原元方(もとかた)が南家では目立つ存在ですが、
この元方の子息の一人が出家して法名を「元方(がんぽう)」と名乗っていたようですね。
父親の諱名をそのまま音読みにして法名にしたなんて、日本史上他に例があるのかな?
65 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 10:22:11
是公の孫に「藤原道長」なる人物がいる。
もちろん御堂関白とは別人だが。
!! 北家からの苦情は、なかったのですね
御堂関白はずっと後の時代の人だからな
てことは、みど関白さまの詐称ってこと?!
69 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 21:56:25
是公の孫と御堂関白が同姓同名なのは偶然だと思う。
兼家が従五位下止まりの是公の孫にあやかりたくなるとは思えない。
そもそも是公に孫の名前なんて知っていたのだろうか?
直系先祖や近い親類、著名人でもなければ気にしないんじゃないの?
ほぼ同時期に同姓同名が居るときもあるし。
でも南家藤原是公は、眞盾の甥、内麿のいとこ。無視するほど遠縁とも言えない...まさか道長は南家から来た東三條殿の養子?
そもそも北家は兼家の子供達からにわかに道の字を使い始め、それまでは誰もいない。南家は豊成の孫などたくさんある。つまり兼家は本来、兄の伊尹や兼通の下であったが、北家主流を願い、南家にあやかったのかも知れない
因みに藤原豐成卿の孫は藤原長道です。
74 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 12:00:42
兼家は5人の息子いずれもに「道」のつく名前を付けている
そら全然別の時代の人と重なることもあるって
同時代の人と重なるなら改名もするだろうけれどね
別スレで関白藤原教通の息子信長の話をしているときに
織田信長のことと勘違いして割り込んできた奴がいたが
信長が平安時代の教通の息子の名前にあやかっているはずもなし
信西はみなみけ?
76 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 13:15:38
信西は南家巨勢麻呂の子孫。
平安以降活躍している南家出身者は巨勢麻呂系が大半。
道長の時代までに藤原氏は何千人っているもんな。
せいぜい親戚だと思ってるのは忠平子孫くらいだろうし、
考慮するのは兼家が覚えている世代の名前くらいじゃないの?
78 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 14:05:43
よほど著名な人なら考慮はするだろうけど、
南家の藤原道長さんには特筆するような事跡は何もないしね
だいたい是公(727〜789)の旧名黒麻呂と同名の従兄弟がいるんだよね。
こっちは巨勢麻呂の子で810年没。
改名後の命名だろうけどほぼ同時代人でややこしい。
藤原鎌足━藤原不比等━藤原武智麻呂━藤原巨勢麻呂━藤原貞嗣━藤原高仁━藤原保蔭━藤原道明━藤原尹文━藤原永頼━藤原能通━藤原実範━
藤原季綱━藤原実兼━藤原通憲(信西入道)
81 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 14:47:17
是公と同じ時代で北家には藤原小黒麻呂(733-794)という人物もいたな。
また!
忌み名がかぶったところで、実生活にほとんど支障はないわけで
いちいち改名などしないでしょう。ややこしがってるのは
われわれ後世の人間だけ。
84 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 15:58:21
>>83 さすがに同時代の人とかぶると改名した例はある
当時も名は官位を受ける際、文書に署名をする際に使う大事なものだった
式部省にサインの決まりは無いの? いみなって親がつけるの、それとも後の人? 呼び名とちがうんでしょう。
86 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:13:53
>>85 貴族の子弟は元服と同時に官位を受けるから、
いみなは元服したときに付ける。
特に高貴な人から一字貰うとかいうことがなければ親がつける。
入内させる娘などには学者を呼んできて選定させることも。
貴族社会では官職(中将どの、とか右府どの、とか)
で呼ばれるから名前で呼ばれることはあまりなかった。
だけど、貴族の日記などにもいみなは登場しているから、
一般的に周囲に知られてはいたのでしょう。
ところで、四辻宮家は、南家藤原重子(修明門院)さまから出ているってのは本当ですか。
88 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:22:54
藤原重子ー順徳天皇ー善統親王(四辻宮)ー尊雅王ー善成王
四辻善成公(王?)は、左大臣になったものの親王に格上げしてもらいたかったようですね。それにしても、源氏物語古注のなかで最高の水準にある河海抄や源氏物語の秘説を集めた珊瑚秘抄って凄すぎ(超学者ですね)。
藤原季範−由良御前−坊門姫(源義朝女)−全子(一条能保女)−西園寺実氏−大宮院−後深草天皇…現皇室
91 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:41:36
藤原武智麻呂−巨勢麻呂−真作−美都子−長良−基経−穏子−村上天皇…現皇室
藤原房前−真楯−内麻呂−冬嗣−長良−基経−穏子−村上天皇…現皇室
藤原宇合−良継−乙牟漏−嵯峨天皇…現皇室
藤原麻呂−浜成−大継−河子−仲野親王−班子女王−宇多天皇…現皇室
へ〜ぇ、 凄い!三家の力は。
藤原季範−範忠−女子−足利義兼−畠山義純−泰国…(略)…政煕
−女子−万里小路房子(万里小路秀房女)−誠仁親王−後陽成天皇…現皇室
南家季綱の子孫は凄すぎだけど、兄の成季・季兼や実兼(弟)はどうだったのでしょう。北家の道長みたい。
96 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 19:20:12
足利将軍家にも女系で藤原南家の血が流れている
藤原範季ー藤原重子ー順徳天皇-善統親王-尊雅王-智泉尼-紀良子-足利義満
97 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 22:20:57
>>96 これは知らなかった。
まあ足利氏については、
>>93で見るように、
義兼流には全て藤原南家の血が入っているけどね。
そんで義満はなおさら北家摂関家に対して強く出てて、太上天皇の称号まで薦められたわけか。
北家藤原実頼(小野宮)流や中の関白家との繋がりやゆかりをご存知の方はいますか。
>>99 そうです。教科書的には聞いたことなかったので。
102 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 12:38:57
>>99 >中関白家とのつながり
道隆や道長兄弟の祖母に当たる藤原盛子は藤原南家出身。
藤原盛子は九条流の祖藤原師輔(藤原実頼の弟)の妻。
藤原盛子ー藤原兼家ー藤原道隆
影ながら北家を支えていた(いる?)のですね。お答え戴きありがとうございました。
藤原は糞
結局、御堂関白には祖母と同じ名が娘に附いたり、自身も南家の旧い世代と同名が附けられたりの、深いゆかりがあることは分かりました。
>>105 室町時代編纂の「尊卑分脈」に道長の娘として藤原盛子があるのは誤植。
当時の一次史料に道長に盛子なる娘は登場しない。
祖母の名が藤原盛子なのは間違いないけど。
(外孫が天皇になったとき叙位(没後に贈られた)の記録がある)
娘の盛子はやはり架空。でも実在説もあるのでしょうか
>>107 道長女盛子は室町時代の「尊卑分脈」にしかないからねえ。
「尊卑分脈」には、同じく道長の女子として「源高明室」の文字まである。
道長の妻に源高明女(高松殿源明子)はいたけど、
道長より52歳も年上で、道長が18歳の時に死んだ源高明の室に
道長の娘がいたとは考えられず、かなり誤植は多い。
正一位盛子さまは、大師仲麿の子孫ですか
違います。仲麻呂の弟巨勢麻呂の子孫
仲麿の子孫は堂上には二度となれなかったのですか。また廃嫡になったのですか
仲麻呂の息子は恵美押勝の乱の際にことごとく捕まえられて殺された
生き残ったのは11人いた男子のうち六男刷雄と十一男徳一だけ
当時年少だったとみられる徳一は出家して東大寺に入り子孫はなし
刷雄は遣唐使に留学生として参加した経験を惜しまれて配流、
のちに都へ戻り従五位下になったものの
刷雄自身父のような出世はしなかったし刷雄の子孫もぱっとしなかった
藤原刷雄よしおは、桓武天皇の陰陽頭になり、子孫に 藤原千世−富繼−眞行とある。
また正一位藤原恵美押勝 は、他に子孫は 藤原薩雄−朝忠−能鷹−大町−雄蔭−有聲−能幹とあるが養子で繋がれたのか。
徳一法師が仲麻呂の実子という話は確定したのかな
岸俊男氏らは年代の問題から懐疑的だったが
5月13日(旧暦)は道鏡の命日、藤原王朝確立に危機意識のあった橘や物部などの勢力の代表者、結局国賊はどちらだったのか。
仲麿の長子、藤原真従(まより)は、母は袁比良(北家祖・房前の娘)だが子供は全くいなかったのかな。
本家である豊成の子孫は永遠に堂上にあがれなかったのですか。
恵美押勝の政変のあと、称徳天皇(孝謙上皇・女帝)は、宇佐八幡宮御信託により太政大臣法王・道鏡を次の天皇にすると聖断してしまった。和気清麻呂公は藤原家滅亡を救われた。
118 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 23:46:06
>>116 豊成は仲麻呂に追い落とされた時点で嫡流ではなくなっている。
仲麻呂の弟で4男の子孫の家系は華族に列されましたが、3男はどうなったのでしょうか
藤原乙麻呂は孫の真友、雄友兄弟が公卿になってるけどそれ以降は落ちぶれた
4男は何故末流が華族になったのでしょう
結局、巨勢麻呂の子孫藤原範季の娘藤原重子(修明門院)が後鳥羽上皇に順徳天皇を儲けたことによる
鎌足の直系は南家。 但し次男房前の方が元気闊達だったらしい?
乙麻呂の子孫はどっちかって言うと武士として繁栄したな。
工藤・伊東・二階堂・天野・吉川・相良の各氏。
巨勢麻呂の子孫て今もいるの?
126 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 10:15:52
巨勢麻呂の子孫なら大道寺氏がある
127 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 13:56:56
熱田大宮司の千秋氏もいたな。近世以降はどうなっているのか知らんが。
のだめのあこがれてるセンパイですね。わかります。
大道氏は北家通憲流大道寺氏とは違いますよね。本貫はどこですか。
130 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 14:51:11
藤原通憲は北家じゃなくて南家。
では大道寺氏ですか、伊豆が本貫
藤原通憲(法号信西)妻朝子は後白河天皇の乳母になりました。彼は藤原巨勢麻呂の子孫。通憲の子孫の一つとされる大道寺一族は山城国綴喜郡大道寺荘が本貫かも。(大道→大道寺。北家通憲→南家でした。すみません。)
南家って平城京のどの辺にあったの?
左京のどこか。
135 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 14:17:04
南家の由来は武智麻呂の家が房前の家より南にあったことから。
左京て全部発掘されたの、どの辺だたんだろ
工藤しの家紋は何でしょうか、南家に共通の家紋の特徴はありますか。
>>137 木瓜モッコーの家紋など、平安時代の前期から、南家の右大臣是公や大納言の雄友、越前守の弟河など、工藤家などは庵木瓜イオリモッコー。松などもある。
大織冠藤原鎌足…不比等…武智麻呂(長男)…巨勢麻呂(4男)…貞嗣(次男)…高仁…保蔭…道明…伊文…永瀬…能通…実範…季綱(3男)…友実…能兼…範季(次男、贈左大臣)…重子(後鳥羽上皇后妃・女院、修明門院)
でいいのかな、堂上南家。高倉流
645年大化の改新、功労者中臣鎌足直系、藤原南家。
南家の歴史て本ない?
毛利元就って、毛利家も藤原南家の亜流なの?
毛利家は大江氏系統
これは戦国大名、しかも国人上がりにしてははっきりしていたかと。
>>142 の藤原氏南家5 藤原 乙麻呂(藤原南家)の12代孫、工藤維職よりの系図
に毛利もとなりが出て来るのは何故???
毛利元就は藤原南家傍流の吉川国経の娘婿になっただけ。
女系てことかW サンクス
なんけ南家
vs.法家 ほけ
新巻社家
て熱田神宮家?
五条市の栄山寺(南家菩提寺)に、南北朝の南朝の行在所が置かれいたのは、後醍醐天皇のときですか。
なんけwすご。
堂上南家高倉は男系は完全に途絶えて、補家女系だけかや…ああ
楠家と補家、どちらが政策に長けてたの、もちろん補家でok?
ようするにどちらの家が、皇室(松と守りの柏→松柏ショウハクの常盤木トキワギ)に藤の蔓ツルをたくさん絡ませたかったってことですか?
なんけ。
伊藤(伊東)家について。藤原南家(先に成立)のイトウさんと、藤原北家流のイトウさんの区別わかりますかねえ?
鎌足公初孫武智麻呂公4男乙麻呂公の7代くだり、平將門を降した藤原維幾コレチカの子、為憲を祖とする伊東家。
鎌足公の次孫房前(房繼)5男魚名卿の3男藤成のひ孫秀郷8(12)代子孫基景公から伊藤家がスタート。
頼長より強力、南家。
162 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 16:48:19
163 :
日本@名無史さん:2008/07/30(水) 19:34:33
みなみけ
>>51 そもそも桓武の意思は皇后所生の嫡流への皇位継承。
大伴親王に至っては嫡流外孫の恒世親王へ皇位継承をさせるために仕方なく皇位継承権が認められた存在に過ぎない。
165 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 13:10:11
あぁ、南家。
南家といえば修明シュメイ門院・藤原範子(重子)さま
>>168 この系図を見ると、弟の家ほど発展した家系だということがよく分かるな。
北家もそうなんだけど。
北家道長も師輔の3男、頼道も教道の弟だし、子孫五摂家筆頭と言われる近衛も弟系。南北朝の天皇家など見ても弟系に引っ張られる日本の上流階級。
どこから
>>170につっこめばよいのか・・・
つか、ここ南家のスレだったはずなのだが。
173 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 22:24:51
>>170 道長は師輔の三男の兼家の四男。
頼通も教通の兄であり、近衛家祖の近衛基実も藤原忠通の長男。
174 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 22:32:46
>>173 お前も違ってるw
道長は兼家の五男ね
頼通は道長の長男
近衛基実は忠通の長男(母は忠通に仕える女房だった)だけど
忠通が47歳の時に初めて誕生した長男
>>174 道義の存在をこんなに重視してくれる人を初めて見た。
っていうか早く南家の話題に戻そうぜ。
はやく南家にもどして、ほけはいらないよ
177 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 22:11:50
南家が藤原氏の嫡流だったのは豊成までで、
その豊成も弟の仲麻呂に実権を握られていた。
豊成の4代後の保則はかなりの能吏で人望もあったようだが、
その嫡男の清貫が道真公の怨霊に叩き殺されて以降はこの系統もぱっとしないね。
179 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 20:54:07
>>177 豊成は光明皇后の異母兄で不比等の長男武智麻呂の子
その豊成も光明皇后の異父兄諸兄の子奈良麻呂ほどは出世しなかった
仲麻呂によって武智麻呂も奈良麻呂も政界抹殺されるわけだが
180 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 23:08:19
豊成は元々大した野心は無さそうだが
そもそも本家の定義て何
現在の天皇家は皇族の中で本家だが、三種の神器がある。藤氏にとってのレガリアとは(大臣ポストの数?)
朱器台盤
184 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 19:32:18
>>182 道長の頃にはすでに藤氏氏長者が伝承する
朱器台盤の記述があるね
由来不明、本当に中臣本家→鎌足→不比等(長男)→武智麿(長男)→豊成(長男)→仲麿(弟)→鳥飼(従兄弟。ここより北家)→小黒麿(嗣子)→葛野麿(嫡男)→冬嗣(従兄弟。ここから史実??)→良房(次男)→
基経(甥。養子)→時平(長男)→忠平(弟)→実頼(長男)→頼忠(次男)→兼家(甥)→道隆(長男)→道長(弟。4番目)って!?
天照るおほみ神から授かる三種の神器(伊勢大神宮、熱田大神宮…宮司は南家、宮中賢こ所…または主上に近侍)と比べて、一際貧弱。 今も春日大社か近衛家にあるのかな、まさか本家の看板簒奪のための架空伝説?
186 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 20:26:39
氏長者の順なら
鎌足→不比等→武智麻呂→豊成→仲麻呂→永手→良継→百川→種継→小黒麻呂→内麻呂→
冬嗣→良房→基経→時平→忠平→実頼→伊尹→兼通→頼忠→兼家→道隆→道兼→道長
>>186 ありがとう御座居ます。永手卿から小黒麿卿の渡りと以降は他スレッドに譲りましょう。
興福寺別当や春日大社神官、南家では五條榮山寺ですが、氏長者との関係は今もある様ですが…。
但し鎌足公男系の北家嫡流は、江戸初期以降にわかに絶えて久しいようですが(この件が日本の裏面的不幸の歴史に繋がっている筈です)…。
個人的には、今も以降も天皇制が存続し、奈良平安以降の文化が日本の基本文化として続く限りは、鎌足公の男系子孫の女子のみが天皇家に嫁ぐべきだと思います(安土桃山・秀吉の時代までは原則そうでした)。
江戸以降日本の真の伝統(本質)がエセになってしまったことが、日本・日本人の文化的・社会的な不幸の始まりです。
189 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 20:38:13
>>185 天皇家の三種の神器のうち剣鏡が最初に史料で確認できるのは持統天皇即位のとき。
玉はその後に付け加えられた。
剣、鏡、玉は古代祭祀に使われた神への捧げものの宝物だが、
神への捧げものだったこれらの品々が天皇の証となって伝えられるようになったのは
意外に新しい
>>188 内親王が天皇に嫁いだ例だってありますが何か?
内親王てさーや様みたいな方?
大化の改新以降。天武天皇夫人→藤原氷上娘(父は鎌足公),藤原五百重娘(父は鎌足公)、文武天皇夫人→藤原宮子(父は不比等卿)、聖武天皇皇后→藤原安宿媛(父は不比等卿)
聖武天皇夫人→藤原武智麿の娘,藤原房前の娘、光仁天皇夫人→藤原曹司(父は藤原永手卿)、桓武天皇皇后→藤原乙牟漏(父は良継),桓武天皇夫人→藤原吉子(父は是公),藤原旅子(父は百川),藤原小米(父は鷲取)
桓武天皇女御→藤原仲子(父は家依),桓武天皇女房→藤原上子(父は小黒麿),藤原平子(父は乙叡),藤原河子(父は大継),藤原東子(父は種継)
平城天皇皇后→藤原帯子(父は百川),平城天皇尚侍→藤原薬子(父は種継)、嵯峨天皇夫人→藤原緒夏(父は内麿),藤原産子、淳和天皇更衣→藤原潔子(父は長岡)
仁明天皇女御→藤原澤子(父は總繼),藤原貞子(父は三守),藤原順子(父は冬嗣),藤原息子、仁明天皇更衣→藤原賀都子(父は福当麿),藤原小童子(父は道長)
文徳天皇女御→藤原多賀幾子(父は良相),藤原古子(父は冬嗣),藤原明子(父は良房),藤原是子,藤原年子、文徳天皇女房→藤原列子(父は是雄),藤原今子(父は貞守)
清和天皇女御→藤原多美子(父は良相),藤原高子(父は長良),藤原頼子(父は基經),藤原佳珠子、清和天皇更衣→藤原諸藤の娘,藤原直宗の娘,藤原仲統の娘,藤原諸葛の娘,藤原良近の娘
>>192 つづき(日本の伝統)
陽成天皇女房→藤原遠長の娘,光孝天皇女御→藤原元子(父は門宗),藤原元善(父は山蔭),藤原佳美子(父は基経)
宇多天皇女御→藤原胤子(父は高藤),藤原温子(父は基経)、宇多天皇更衣→藤原静子,藤原保子,藤原有実の娘、宇多天皇女房→藤原褒子(父は時平),藤原継蔭の娘
醍醐天皇皇后→藤原穩子(父は基経)、醍醐天皇女御→藤原和香子(父は定國),藤原能子(定方)、醍醐天皇更衣→藤原鮮子(父は連永),藤原淑姫(父は管根),藤原伊衡の娘,藤原同子、朱雀天皇女御→藤原慶子(父は実頼)
村上天皇皇后→藤原安子(父は師輔)、女御→藤原芳子(父は師尹),藤原述子(父は実頼)、更衣→藤原佑姫(父は元方),藤原正姫(父は在衡),藤原脩子(父は朝成),藤原有相の娘
>>192 >藤原小童子(父は道長)
やはりここがこの板的には萌えるツボかね
神武天皇皇后→媛蹈鞴五十鈴媛(父は事代主)、綏靖天皇皇后→五十鈴依媛(父は事代主)、安寧天皇皇后→淳名底仲媛(父は鴨王,
祖父は事代主)、懿徳天皇皇后→天豊津媛(父は息石耳,祖父は安寧天皇)、崇神天皇皇后→御間城姫(父は大彦,祖父は孝元天皇)、垂仁天皇皇后→狭穂姫(父は彦坐王)
景行天皇皇后→播磨稲日大郎姫(父は稚武彦),景行天皇妃→八坂入媛(父は八坂入彦)、仲哀天皇皇后→気長足姫<別名神功皇后>(父は息長宿禰王),仲哀天皇妃→大中姫(父は彦人大兄)...でも内親王、父が天皇なのは
仁徳天皇皇后→八田皇女(父は應神天皇),仁徳天皇妃→莵道稚郎姫(父は應神天皇)、履中天皇皇后→草香幡梭皇女(父は應神天皇)、安康天皇皇后→中蒂姫(父は履中天皇)、雄略天皇皇后→草香幡梭「姫」
(父は仁徳天皇)、仁賢天皇皇后→春日大娘皇女(父は雄略天皇)、繼體天皇皇后→手白香皇女(父は仁賢天皇)、安閑天皇皇后→春日山田皇女→(父は仁賢天皇)、宣化天皇皇后→橘仲皇女(父は仁賢天皇)
欽明天皇皇后→石姫(父は宣化天皇),同妃→小石姫(父は宣化天皇),日影皇女(父は宣化天皇),倉稚綾姫皇女(父は宣化天皇)、敏逹天皇皇后→豐御食炊屋姫(父は欽明天皇)
用明天皇皇后→穴穂部皇女(父は欽明天皇)、舒明天皇妃→田眼皇女(父は敏逹天皇)、孝徳天皇皇后→間人皇女(父は舒明天皇) 以上は大化の改新までの内親王(皇女)皇后・妃でした。
道長って南家の道長?
>>195 いよいよ大化の改新からあと。
天武天皇皇后→う野皇女(父は天智天皇),天武天皇妃→大江皇女(父は天智天皇),大田皇女(父は天智天皇),新田部皇女(父は天智天皇)、光仁天皇皇后→いがみ内親王(父は聖武天皇)
ここから平安じだい。桓武天皇妃→酒人内親王(父は光仁天皇)、平城天皇妃→大宅内親王(父は桓武天皇),朝原内親王(父は桓武天皇)、嵯峨天皇妃→高津内親王(父は桓武天皇)
淳和天皇皇后→高志内親王(父は桓武天皇),正子内親王(父は嵯峨天皇)、陽成天皇妃→綏子内親王(父は光孝天皇)、醍醐天皇妃→為子内親王(父は光孝天皇),醍醐天皇女御→源和子<元内親王>(父は光孝天皇)
冷泉天皇皇后→昌子内親王(父は朱雀天皇)、円融天皇女御→尊子内親王(父は冷泉天皇)
後朱雀天皇皇后→禎子内親王(父は三條天皇)、後冷泉天皇皇后→章子内親王(父は後一條天皇)、後三條天皇皇后→馨子内親王(父は後一條天皇)、堀河天皇皇后→篤子内親王(父は後三條天皇)
二條天皇皇后→しゅ<女+朱>子内親王(父は鳥羽天皇)
ここから鎌倉じだい。亀山天皇女御→懌エキ子内親王(父は後嵯峨天皇)、後宇多天皇皇后<尊称>→れい<女+令 >子内親王(父は後深草天皇)
後醍醐天皇皇后→じゅん<王+旬>子内親王(父は後伏見天皇),後醍醐天皇女御→亀山天皇の内親王<名前未詳>
これは室町じだい。光厳天皇後宮→懽子内親王(父は後醍醐天皇),寿子内親王(父は花園天皇)
これは江戸じだい。光格天皇皇后→欣子内親王(父は後桃園天皇) 以後皆無(今にいたる)。
198 :
日本@名無史さん:2008/09/15(月) 22:07:49
内親王が臣下に嫁いだ例
勤子内親王(醍醐天皇皇女)→藤原師輔
雅子内親王(醍醐天皇皇女)→藤原師輔
康子内親王(醍醐天皇皇女)→藤原師輔
靖子内親王(醍醐天皇皇女)→藤原師氏
韶子内親王(醍醐天皇皇女)→源清蔭、橘惟風
保子内親王(村上天皇皇女)→藤原兼家
盛子内親王(村上天皇皇女)→藤原顕光
℃q内親王(三条天皇皇女)→藤原教通
娟子内親王(後朱雀天皇皇女)→源俊房
臣下に降籍した後ではあるが、皇女が臣下に嫁いだ例は
源潔姫(嵯峨天皇皇女)→藤原良房が最初
藤原小童子の娘(父は清和天皇)…重子内親王w
>>199 訂正清和→仁明。
小童子は、「南家乙麻呂流で、曽祖父は右大臣藤原是公(乙麻呂の子)。祖父は参議藤原真友。父は従五位下藤原道長。仁明天皇の後宮に入り、皇女重子内親王(?-865年)を産み、従五位上に叙された。」(ウィキより)
201 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 21:05:31
>>196 小童子の父の藤原道長は南家武智麻呂の玄孫
武智麻呂-乙麻呂-是公-真友-道長-小童子
202 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 21:14:36
>>198 普子内親王(醍醐天皇皇女)→源清平、藤原俊連
抜けているので追加しておく
これは平安時代限定の例なのか?
鎌倉時代だと
亀山天皇皇女→近衛家基
江戸時代は摂家へ嫁いだ内親王の例は多い
203 :
日本@名無史さん:2008/09/16(火) 22:31:35
>>202 訂正サンクス。一応平安時代に限定して挙げてみた
江戸時代なら
清子内親王(後陽成天皇皇女)→鷹司信尚
貞子内親王(後陽成天皇皇女)→二条康道
昭子内親王(後水尾天皇皇女)→近衛尚嗣
賀子内親王(後水尾天皇皇女)→二条光平
常子内親王(後水尾天皇皇女)→近衛基煕
益子内親王(後西天皇皇女)→九条輔実
憲子内親王(霊元天皇皇女)→近衛家煕
栄子内親王(霊元天皇皇女)→二条綱平
親子内親王(仁孝天皇皇女)→徳川家茂
あとは内親王じゃないけど
皇女某(亀山天皇皇女)→九条師教
皇女某(後醍醐天皇皇女)→近衛基嗣
文智女王(後水尾天皇皇女)→鷹司教平
源順子(醍醐天皇皇女)→藤原忠平
平成なら、源清子さま(旧清子内親王)→黒田さんかな?
ちなみに源(賜姓)はいつ(何時代)からなくなったの?
206 :
日本@名無史さん:2008/09/19(金) 16:00:05
江戸時代の広幡忠幸の賜姓が最後
女性(内親王)は?
208 :
日本@名無史さん:2008/09/22(月) 22:24:25
>>204 清子さんは内親王宣下を受けているから「源」にはならない
源氏を名乗ったら内親王宣下は受けないからね。
清子内親王→黒田慶樹
ちなみに明治以降、内親王は降嫁すると皇族を離脱
清子内親王は黒田清子さんになったわけだが
明治以前だと内親王は一生皇族のまま
和宮親子内親王が徳川親子にならなかったように
清子内親王は黒田氏を配偶者にしようが一生清子内親王なわけだ
209 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 01:00:14
明治以前は結婚しても姓は変わらない
平政子→源政子にはならない
今も皇籍あるの?さーやさま
麻生家は、粟田関白道兼の男系(?)子孫。道兼の祖母は、南家盛子さま(父は南家藤原経邦)。経邦(盛子さま父)は、南家乙麻呂流、巨勢麻呂流どっち?
212 :
日本@名無史さん:2008/09/24(水) 20:18:37
経邦、盛子は巨勢麻呂流
巨勢麻呂-真作-三守-有貞-経邦-盛子
>>211 道兼は氏長者を務められた。平成のみ世に、子孫から左(太政)大臣が出るとはW
214 :
日本@名無史さん:2008/09/28(日) 13:06:05
七日関白の子孫なんて何の自慢にもならない
粟田(町尻)殿道兼公は、
『雄傑で鬚が多く、狷介な性格だった。…大鏡によると、自分は父に功があったのだから〈はなやま天皇ご出家勧誘のこと〉、当然に関白を継ぐべきだと望んでいたのに道隆が後継に選ばれたことを甚だ憎み、
父の喪中であるにもかかわらず客を集めては遊興にふけったという。…道隆の政権下で、同2年(991年)内大臣、
同5年(994年)右大臣へと進む。…死後、正一位太政大臣を追贈された。後世、関東の豪族宇都宮氏〈麻生氏は豊前宇都宮氏の分家〉が道兼の後裔を称した』
〈ウィキ参照〉
>>208 逆に藤原氏などの臣下出身の后妃は一生皇族にはなれなかったけどね
217 :
日本@名無史さん:2008/09/30(火) 14:51:15
そっちのままのほうがよかったかもね。
皇女が一般庶民になって、窒素や長屋生まれの女が様付けで呼ばれるのは変だ。
>>215 何故道長の子孫は、事実上没落して、道兼の子孫が今頃再起(多分一代限り?)したのだろうか、カザン天皇の怨霊でしょうか(臣下に位を勝手に降りさせられた、または三種の神器を臣下たちが軽々しく扱った?)
219 :
日本@名無史さん:2008/10/04(土) 22:55:50
>>215 人格は誉められたものじゃないな。
後継に選ばれなくて当然。
>>218 花山天皇の母方曾祖母は南家藤原盛子さまです。
>>218 南家元方卿〔大織冠鎌足→不比等→南家祖・武智麿→4男・巨勢麿→黒麿→菅根→元方〕の怨霊か。
「藤原元方(民部卿)の孫(広平親王、元方の娘の祐姫の子)が、皇太子になると期待されていた折に村上天皇が庚申(60日毎の庚申『かのえさる』の日に天帝の罰を受けないように徹夜して祈る風習)をなさった
ところへ、元方卿も参内された。九条殿(北家・師輔)や他の公卿達も多数控えて双六をしていた。その時は安子(九条家祖、師輔の娘)が御子(次期天皇・冷泉)を孕まれていて、北家貴族たちは
男女どちらを出産されるのかと見守っていた。師輔(南家盛子様の夫)は、『今夜の双六で懐妊中の子が親王であるならば、6の目が2つ出なさい。』とサイコロを振ると一度で6の目が2つ出た。
人々は顔を見合わせて感嘆した。南家藤原元方民部卿の御機嫌はたいへんあしくなられた。…」(大鏡より意訳)
>>221 WW北家小黒おぐろ麻呂以外に、黒麻呂がいたなんて!
223 :
日本@名無史さん:2008/10/06(月) 12:59:14
>>221 元方の父菅根は逆に菅原道真の怨霊で死んだとされているな。
菅を使った名前も極めて異例、道具が名付けた訳では無いだろうが、出雲系豪族の末期(藤原北全盛期の始まり)
>>219 それでも藤原有国みたいに推挙する人がいるから最低というほど酷くはないだろう
勧学院・崇親院・延命院の三つの教育福利厚生機関は北家の貴族が創ったようですが、藤原四家なら誰でも入院資格はあったのですか。
227 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 13:59:41
>>225 素行は悪いけど伊周、道雅ほどじゃないからね
北家・粟田殿道兼さん(祖母は南家・藤原盛子さま)の話しで盛り上がってる...ローゼンがらみW
今の総理大臣なんて何時でも天皇に逢えて助言できるし(宮内庁チョーカンよりは上)、往時のセショーカンパク太政大臣と同じ。粟田殿子孫は、先祖の7日関白は超えたみたい(汚名?挽回)…七年持ったら凄い、まずは七ヶ月を…
230 :
日本@名無史さん:2008/10/17(金) 23:56:22
>>224 式家種継の孫に藤原菅雄という人物がいる
231 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 22:16:27
>>223 元方の父菅根が道真を助けようとする
宇多上皇の参内を妨害したとされるのは
醍醐天皇の命令だったから仕方がない。
菅根は道真が太宰府で死んでから5年後、
藤原時平没と前後して亡くなったために
菅原道真の祟りで死んだといわれたが
菅根は没したとき53歳、当時としてはいい年。
232 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 22:27:00
偶然だろうな。そんなんで呪い殺されてたらたまったもんじゃない
>>229 藤原北家(男系)の権力者としての政治家は、安土桃山期の藤原前久以来という事実を大多数の人々は知らない。
西園寺公望も加藤高明も伊藤博文も 養子だったり女系だったりで 鎌足の直系男系の日本国最高権力者は、400年来になる。日本は換わるだろうか
235 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 16:23:56
>>229 道兼は辞めたんじゃなくて病死だから仕方ない
麻生さんのご先祖さんですもんね。ちなみに菩提寺は京都市内でしょうか。墓参されてマスコミアピールをなされては...また逆効果にならないよう。
238 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 07:43:17
恵美串勝
ううっ、次は串かつパフォーマンスをお考えか(でもここは南家)
240 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:55:00
徳一って本当に仲麻呂の息子なのか?
241 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:01:42
仲麻呂と一緒に船で逃亡した息子たちは仲麻呂と一緒に斬られたみたいだが
仲麻呂には子が多かったみたいだし
減免された息子もいたし何ともいえん
坊さんが高貴なお方の落胤を自称するのはよくあるので
(父親がわからない子供が寺に入れられて
父親は身分が高すぎて名前を明かせないのだ、と言いふらすみたいな)
自称かもしれないんじゃ?
それはそうと仲麻呂の正室って北家藤原房前の娘なんだな
北家にとってはとんだ貧乏くじだったかもしれん
いや仲麻呂の乱までは栄えていたのだからびんぼーくじではないだろう。
しかも、その娘(袁比良)は乱の直前に死んでいる。
むしろ袁比良が死んだことで莫大な収入の一部と後宮内での権力を失い
仲麻呂失墜のきっかけになったとも言われている。
>>242 少々日本語が不自由な文章でちょっと理解に苦しんだが
徳一が藤原仲麻呂の息子としたら
藤原氏からの援助を得るのは難しかったのではないだろうか。
何しろ「徳一=仲麻呂の息子」という伝説が正しかったら、末代まで語られる大謀反人の息子と言うことになるし、
藤原仲麻呂家(恵美家)は身内だけを優遇したので、他の藤原氏からは恨まれていたからな。
245 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 00:46:53
仲麻呂に連坐して処刑された巨勢麻呂の子孫は結構繁栄してるな。
やはり仲麻呂は藤原氏から村八分にされたんだろう。
あまりこの件で盛り上げたくないのだが、仲麿と親密な後ろ盾の光明皇太后の崩御(760年旧6月)以降の孤立化。ただし淳仁天皇は仲麿派。
孝謙上皇(女帝)は未婚継続中→保良宮へ遷幸のさなか病気に→道鏡が見舞う→仲麿は淳仁に注意させる→女帝激叩、法華寺で仏道を道鏡に乞う為、法皇に。大事は法皇、小事は天皇に職掌分離の詔勅。
→実質、権力は仲麿から女帝(+道鏡)へ移行。
247 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 00:30:18
豊成-乙叡-貞雄-保則-清貫の後裔は絶えたの?
sage!
別にsage進行でもいいんだけど
ageで困る事てある?
独りよがりの書き込みに反論されたくないように思えるが?
とりあえずsage進行には同意
南家は京家式家と違って末裔多いから。
>>244 別に問題はないだろう。
もし、仲麻呂の死後に生き残った一族が本当にハブられていたが、刷雄は官界にすれ復帰できなかった筈。
ましてや僧侶である徳一が権力の座に就く可能性はないのだから、ハブする理由も無い。
252 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 10:27:18
南家の末裔は巨勢麻呂流が大半で豊成流はほとんど残ってない
253 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 12:36:53
武士なら乙麻呂流が大半。
藤原春香 藤原夏奈 藤原千秋
255 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 15:35:01
おかわり!
おかえり!
257 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 11:12:58
>>247 清貫の孫の代あたりまでは続いていたけど結局途絶えてる
258 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 21:05:18
ナンケ 寺は何 興福寺?
260 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 23:27:08
藤原東子って美人だったのか?
262 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 00:49:33
>>261 訂正
×豊成-乙叡-貞雄-保則-清貫
○豊成-継縄-乙叡-貞雄-保則-清貫
指摘d
263 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 22:42:01
継縄の評価の「凡庸で人柄だけが取り柄」はあんまりだな。
仮にも右大臣にまでなったのに。
264 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 06:24:00
豊成、継縄は地位は高くても政治力が乏しい(地位に安住して支持勢力の必要性を考えて無いように見える)
結果論だが・・・
藤原乙叡→藤原平子→伊都内親王→在原業平wwwwww
>>265 南家の外戚・在原一族…北家さい大ライバルw(→伊勢斎宮物語で抑えるw)
みなみ家
南家藤原継縄→正二位・右大臣。贈従一位。桃園右大臣あるいは中山を号す。
270 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 22:45:04
>>264 仲麻呂みたいに下手に野心を出すと失脚しそうだしな
仲麻呂の正室→藤原宇比良古(うひらこ)又の名は袁比良(おひら)、正三位尚侍、房前(北家の祖)の娘、聖武天皇夫人北殿の姉、藤原眞楯(摂関家の祖)の妹
北家藤原御楯(真楯の弟)の正室→藤原児依(南家仲麻呂の長女)
>>263 いや凡庸だったから右大臣まで昇進出来たんじゃない?
なまじっかやり手だったら、魚名みたいに失脚させられたかも
平家打倒の鹿ヶ谷の陰謀の山荘は、南家藤原静賢(藤原信西の実子)の所有。
むちまろさま☆
275 :
日本@名無史さん:2009/05/27(水) 22:33:55
何故武智麻呂でななく房前が先に参議になったの?
本家のお墓があったんだ! 談山や 山の上て 最高権力者の方々にとって神聖? 皇太子さまも山登りなされてるし...
279 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 21:09:12
藤原は糞
織豊政権につづき 徳川政権下で、さらなる摂関権威に対する圧迫が巧妙化したが、 鎌足公以来連綿と続いて来た男系の、決定的な危機を迎えた北家主流派は、後陽成帝の幕府との妥協懐柔の御指導力により、徐々に天皇家に完全に吸収され、
女系藤原家=皇族藤原家になったため→1945ねん以前は、不敬ざい的あつかいもあった?
281 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 10:32:41
仲麻呂の子孫は残ってる?
仲麻呂の息子では刷雄が生き残ったが・・・
その後の子孫については全く知られず。
もう一人の生き残りといわれる徳一法師についてはびみょー。
岸俊男氏は『藤原仲麻呂』で徳一の仲麻呂息子説については否定的だったし
私も年代的にちょっと無理があると思う。
藤原なんけ iaea当選おめでとうございます!!!
284 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 00:22:07
藤原南家の話の中でも、
平安末期の活動的な時期について
何か良い書籍はないですか?
ちょうど、藤原季範、藤原信西、そのあたりの活躍に背景について
知りたいんです。
河内源氏とは、深い関係にあったんですよね?彼らは。
源頼朝の母親は、藤原季範の娘であり、
源頼朝は、藤原季範の邸宅跡で産まれたらしいですし。
一方で、平治の乱では、藤原信西と源頼朝は仲間割れしたんですよね。
でも、その信西の実子の代では、平家打倒に動いている。
このへんの動きが混乱しているのは、何故なんでしょうか?
南家は藤原の正統だからメリットが大きい。 反対勢力は主に北家摂関家など
286 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 20:35:22
平安末期の藤原南家の公家(藤原信西とか、熱田神宮宮司家とか)
の活躍について、詳しい書籍って
何か良いものはあるでしょうか?
288 :
日本@名無史さん:2009/07/14(火) 12:59:57
289 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 18:32:45
藤原信西の父親って、早死にして
暗殺疑惑があるらしいけど
たしか藤原忠実の日記かなんかにあるらしいが
そういう暗殺疑惑だったんですか?
290 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 19:34:35
藤原実兼 1085年 - 1112年4月29日
平安時代末期の廷臣、漢詩人。藤原南家貞嗣流、藤原季綱の次男。
母は若狭守藤原通宗の娘。院政期に院近臣として権勢を得た信西(藤原通憲)の実父。
鳥羽天皇の即位前よりその傍らに仕え、1103年に東宮昇殿を許される。
さらに同天皇の即位に伴い、1108年に進士の時に蔵人に進む。
若年時より博識を謳われ、
『本朝無題詩』『朝野群載』『和漢兼作集』『擲金抄』『本朝小序集』などに
漢詩・和歌が収録されている他、
帥中納言大江匡房の談話集である『江談抄』の筆録者であるともされている。
将来を嘱望されたが、1112年、28歳の若さで蔵人所において頓死。
余りに急な死であったため、殺害説も流布された。『殿暦』の記述より。
これを受け、一子通憲は高階経敏の養子となっている。
400年ぶりに宰相に復帰した男系藤原北家 九条師輔流麻生氏によて 日本はどうなるのか
天皇制は藤原家と切り離され 中古以来の日本文化伝統は 何に代わるのか
師輔の子孫なら、閑院流の西園寺や摂家の近衛もそうだろうが。
現在の近衛は女系(後陽成天皇系)、西園寺公望なども女系。住友財閥家はコロコロ代わって 一時 藤原北家が当主だったが 現在は 天皇系なので 皇室の遠縁に当たり 皇族の方々が軽視できない唯一の財界企業。 麻生家(藤原北、九条庶流)も皇室の縁戚…妹君が皇族。
294 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 03:54:22
麻生の元の宇都宮は
藤原道兼の子孫かどうかは、
異論もあるそうじゃないか?
>本姓 藤原北家道兼流? 下毛野氏? 中原氏?
家祖 藤原宗円
…ただし現在の通説では、藤原宗円の子の中原宗房の中原姓とは宗房の母方の姓で、母方の中原氏が藤原宗円の子種を育てたということであり、毛野氏説についても、毛野氏の女が藤原氏の子種を産んだとされ、
中原宗房は、母方の中原の家を継いだことから家系上は中原氏だが、藤原宗円の子ということで血筋(男子血統)は藤原氏とされている。 ウィキより
男系女系を混同し 支配層に擬装権威を信じ込ませられ 判断力も混同している 近世以降の日本人と日本社会の一例。
296 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 12:50:41
>>290 高階経敏の養子になったら「高階通憲」にならないの?
奈良期は、高階は皇族系貴族だが、平安後期にあって藤原南家より格下。
>これに失望した通憲は無力感から出家を考えるようになった。鳥羽上皇はこれを宥めようとして康治2年(1143年)に正五位下、翌天養元年(1144年)には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、更に息子・俊憲に
文章博士・大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年7月22日に出家して信西と名乗った。
ウィキより
鎌足公の嫡系子孫を常にお忘れにならない鳥羽太上天皇様は、流石名君、治天の君です。立派です。高階家も良い家柄なのに。
298 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 19:08:55
熱田神宮の藤原季範と藤原信西の一家は近いんだよな?
299 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 19:12:28
>>290 >将来を嘱望されたが、1112年、28歳の若さで蔵人所において頓死。
>余りに急な死であったため、殺害説も流布された。『殿暦』の記述より。
その『殿暦』の記述が気になる。
信西の親父は暗殺だったんだろうか?
300 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 19:34:55
仮に暗殺だとしても誰が殺したのかわからない。
301 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 20:10:46
『殿暦』って藤原忠実の日記だよな。
藤原実兼の死について、どのような記述になっているか気になる。
当時、藤原南家の藤原実範(信西の曽祖父、実兼、季範の祖父)から、
この一族が大学寮で学問の家系として大出世していたんだよな。
この一族からは、藤原信西とか、
元々の大宮司家系だった尾張氏を追い出して
熱田神宮の大宮司になった藤原季範の系譜が有名。
>>283 IAEAの方は、お顔から察するに女系南家かと。
303 :
日本@名無史さん:2009/07/24(金) 04:41:56
>>288 その熱田がどうのこうのって本
絶版でgoogleブックで閲覧が可能なんだけど
それ、どうやったら自分のPCにダウンロードできるの?
ちょさっ権があるから閲覧は可能でも それ以上はキープされているのでは アメリカの例はどうでしょう
305 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 06:06:00
googleブックスのダウンロードの裏技とか
ないのか?
PCで閲覧できるということは、
PCで一時ダウンロードしているということだろう?
だったら、方法がありそうなのだが...
鎌足正系家萬歳。
南家は不比等伝来の公正な学問哲学で人心を掌握する家系。 蘇我家が導入した人心掌握佛教は、藤原一族の努力で奈良から京都へと一新したが 藤原北家は盲目的位階システムと 空想的浄土教風思想で 人心を靡かせ掌握しようとしたが、
武力と地頭的経済力の興起には権力を均衡して対処せざるを得なくなった 結局 学理哲学文化のみで武家政権を圧倒する
鎌足公&不比等さま 萬歳!!!
310 :
日本@名無史さん:2009/10/01(木) 22:51:20
藤原信西の息子って大半が出家してるけど出家しなかった奴っている?
311 :
日本@名無史さん:2009/11/04(水) 09:46:06
藤原刷雄、準主役級でドラマに登場。これは歴史的事件ですな。
仲麻呂流(藤原恵美朝臣)
子孫はしばらくは細々と続いているが、実質的には仲麻呂親子だけで終わった一族。
仲麻呂は749年円から専権を振るい、758年藤原恵美朝臣を賜姓(同時期押勝と改名)され
たが、764年謀反を起こして誅殺され、一族の多くもそれに連座した。
六男とされる刷雄など(孫の一部など幼少者含む?)生き残った者もいるようだが、藤原朝
臣姓を奪われ流罪になり、後772年に恵美刷雄等一族21人が藤原朝臣に復姓している。
この21人は仲麻呂子孫のみか、弟である巨勢麻呂の子孫を含むのか不明。仲麻呂子孫の
みで有れば、女子や孫などはかなり助命された可能性があるが、巨勢麻呂子孫を含むので
有れば、刷雄以外はほとんど族滅に近いかもしれない。
772年4月の刷雄の復位の記事では、藤原朝臣だが、同年7月の復姓の記事では恵美刷雄
となっており混乱が見られるが、おそらく無姓の恵美氏だったのだろう。
なお藤原朝臣姓剥奪は、謀反直後なので、誅殺時点では正確には恵美のみだろう。ただし
久須麻呂はそれ以前に射殺されているので、生前は藤原恵美朝臣のままだろう。
仲麻呂は757年頃から専権を振るいだしたと思われ、それ以降息子達の昇進が異例の早さ
になってくるようだ。
なお真先と朝猟は、謀反後偽帝塩焼王の元で親王の位である三品に叙されたあり、注目さ
れる。
藤原朝臣真従(真頼・真依:生没年不詳:仲麻呂の子(長男?))
正六位下(749時点)→従五位下(749)→中務少輔(749:中宮少輔とも?)
官歴についてはこれ以外不明で、これからさほど経たないうちになくなったのだろう。
仲麻呂の子のうちもっとも五位昇進が早く、長男だと思われる。
初見の位階正六位下は、祖父武智麻呂(生前正一位)の庶孫としての蔭位に相当する。
おそらく749年の4年前の745年に規定の21歳に到達し、正六位下に叙され、749年に
通常の考課期間の4年に達して25歳で従五位下に昇進したのだろう。
当時正三位参議の仲麻呂の長男なら、この程度の早さの昇進は不思議ではない。
こう仮定すると、725年誕生、父仲麻呂の20歳の時の子となり、長男として妥当だと思
われる。まあ必ずしもここまですんなりと昇進できるわけでもないが、父の年齢からみて
も、せいぜい2年程度の年長(723年頃誕生)くらいが限界だと思われる。
生前粟田朝臣諸姉を妻としており、死別後諸姉は大炊王(淳仁天皇)と結ばれることになる。
しかしどうしたものか、そのまま仲麻呂邸で暮らしていたらしく、大炊王は仲麻呂家の入
り婿のような形になっていたらしい。このことこから大炊王は後に孝謙天皇の後嗣に押さ
れ、淳仁天皇として即位することになる。
ただし、即位と入り婿のどちらが原因でどちらが結果なのかは不明。
早逝の故か分脈に見えないが、分脈に見える従五位下真文(続紀に登場せず)と同一人物か
ともされる。真文には修範という子がいたが、父に連座して誅殺とあるようだ。
ただ2人が同一人物であった場合は、既に死亡していた(と思われる)父に連座というのも
変な表現だとは思う。
藤原恵美朝臣真先(元藤原朝臣:真前(真光とも)・執弓(弓取):?〜764)
(仲麻呂の子(次男?・嫡子?):母は藤原朝臣房前の娘袁比良)
正六位上(757時点)→従五位下(757)→従五位上(758)→兵部大輔(758)→大和守(758)→
藤原恵美朝臣(758)→従四位下(759)→従四位上(761)→鎮国衛驍騎将軍・
美濃飛騨信濃按察使(761:中衛中将相当)→参議(762)→正四位上(762)→大宰帥(762)→
三品(764:偽立)→誅殺(764)
仲麻呂の次男らしいが、母の出自から事実上は嫡子ではないかとも思われる。
少なくとも兄真従の没後はそうだろう。官位昇進の状況からもそう思われる。
初見の位階正六位上は蔭位として得られた思われる正六位下より1階高い。最初の昇進で
正六位下から正六位上に昇進し、この時従五位下に昇進したのだろう。
すると757年の8年前の749年に21歳、つまり729年誕生だったのではないだろうか?
長男との年齢差4歳なら自然(父は24歳)だろうし、29歳での五位昇進は妥当だと思う。
次男であった父仲麻呂も29歳で五位昇進なのに対して、兄豊成は21歳。このあたりが長
男と次男の差だろうか?
父仲麻呂が専権を振るいだした757年頃から急速に昇進しだしたようなので、定期叙位よ
りやや昇進が早まった可能性もあり、もう2歳程度若いとも考えられる。
なお729年誕生だった場合は、四位昇進は31歳、参議就任は34歳となり、かなり早いが
早すぎるとまでは言えないだろう。
名前は真光説もあったが、真前とも書かれるらしいので真先の方が正しいようだ。
正倉院文書で従五位上真先に「弓取」と注記があり、757年に正六位上から従五位下に昇
進した執弓と真先は同一人物だろう。
藤原恵美朝臣久須麻呂(元藤原朝臣:訓儒麻呂・浄弁(旧名か?):?〜764)
(仲麻呂の子:母は藤原朝臣房前の娘袁比良:妻は山縵女王:三岡の父)
正六位下(758時点)→東海・東山道問民苦使(758)→従五位下(758)→藤原恵美朝臣
(758)→式部少輔(758頃)→美濃守(759)→従四位下(759:4階昇進)→大和守(761)→
左右京尹(762)→参議(762)→丹波守(763)→射殺(764)
補任では、仲麻呂の長男とされるが、官位昇進の状況から見て間違いだと思われる。
760年から762年頃、大伴家持との歌の贈答で、久須麻呂が家持の娘を息子の嫁に望んだ
のに対し、家持は娘の成長を待ってほしいと婉曲に断っている。
となると、この時期少なくとも15歳程度の以上の息子がいたのではないだろうか?当然
本人は30代にはなっていたのではないか?
権臣仲麻呂(758年当時従二位太保(右大臣相当))の子として、五位昇進時は20代と思わ
れる。730年前後の誕生ではないだろうか?
初見の位階正六位下は蔭位として得られる位階そのもので、初回の考課以前、つまり21
歳から4年経っていない段階、24歳以下だったのではないだろうか?
同年中の五位昇進は、巡察使の功労による翌年あたりの昇進の先取りではないか?
この時24歳、つまり735年誕生と仮定すると、四位昇進は25歳、参議就任は28歳とな
り、やや若すぎるようにも思える。
何らかの事情で昇進が遅れており、1,2歳程度年上(733・734年頃誕生)だと考えると、
当時の最速昇進記録と思われる橘朝臣奈良麻呂と同程度になり、そのあたりが妥当か?
上記二つの考察から730年代前半誕生とは思われるが、一応間をとって732年頃と推定し
ておく。根拠薄弱だけど。
藤原恵美朝臣三岡(?〜764?:久須麻呂の子)
(母は山縵女王(舎人親王の孫、三島王の娘))
従五位下(極位?)→誅殺(764?):以上いずれも分脈による。
706年誕生で、764年当時59歳の仲麻呂に、五位の孫がいたというのは疑問が残る。
@五位は誤りであり、若年で無位のまま、あるいはせいぜい六位のまま誅殺された。
Aこの時は若年故に助命され、後に許されて後紀の記事がない頃に五位に至った。
B塩焼王を偽帝に擁立したどさくさ紛れに伯父達が三品に叙されたの記事がある。
その時にお手盛りで五位に叙されたが、直後に誅殺された。
以上の三つの可能性があると思われる。
仲麻呂の男子のうち助命されたのは刷雄だけのようだが、刷雄の子孫だけでなく、薩雄の
子孫も数世代は続いていいるようなので、若年の孫は助命された可能性はあると思う。
もっとも、刷雄と薩雄は同一人物との説もあるが。
764年時の父の年齢は最大限に見て40代前半(おそらく30代半ば以下)であり、乳幼児の
子がいても不思議ではない。
父の推定年齢からして、どう早く見ても740年代後半以後の誕生だろうと思われ、764年
の乱当時20歳未満ではあるだろう。
父の項に前出の家持の娘との縁談があった息子と同一人なら、764年当時10代後半以上、
750年頃以前の誕生だろう。
藤原恵美朝臣朝猟(元藤原朝臣:朝狩:?〜764:仲麻呂の子(三男?))
正六位上(757時点)→従五位下(757)→陸奥守(757)→藤原恵美朝臣(758)→正五位下
(759)→従四位下(760)→仁部卿・陸奥出羽按察使(761:民部卿)→東海道節度使(761)→
参議(762)→三品(764:偽立)→誅殺(764)
補任によると仲麻呂の三男。当初は久須麻呂より昇進が先行しているので兄か?
おそらく、真先・久須麻呂とは異母兄弟と思われ、母の出自はさほどでもなかったのでは
ないか?そのせいか、五位昇進は久須麻呂より早いが、四位昇進は後れをとっている。
五位昇進は真先と同年だが、定期昇進と思われる真先より2ヶ月ほど遅れ、単独で叙位さ
れており、1年程度昇進の先取りがあったのではないだろうか。
つまり真先より1歳下の730年誕生、28歳で五位昇進、31歳で四位昇進、33歳で参議就
任といったところだろうか?
兄であり実質的嫡子だった真先ともかく、どうも弟だったらしい久須麻呂に比べてやや不
遇に思われる。正妻袁比良の子である2人との扱いの違いがあったのだろう。
藤原朝臣刷雄(一時藤原恵美朝臣→恵美:生没年不詳:仲麻呂の子(六男?八男?))
(母は従四位下大伴宿禰犬養の娘)
無位→従五位下(752)→遣唐留学生(752)→藤原恵美朝臣(758)→流罪(764)→無位
(772時点)→従五位下(772:復本位)→恵美(772時点)→藤原朝臣(772)→但馬介(774)→
但馬守(774)→従五位上(778)→大判事(778)→治部大輔(779時点)→上総守(780)→
大学頭(788)→右大舎人頭(790)→陰陽頭(791)
仲麻呂の六男ともされる。上記により長男真従、次男真先、三男朝猟、四男久須麻呂と推
定されるのでおそらくもう一人兄がいるのだろう。他の兄弟中官位昇進が比較的早い小湯
麻呂か薩雄が五男と七男だと思われる。五男は早逝で名が伝わっていない可能性もあるが。
また薩雄と同一人物との説もある。この場合は小湯麻呂か五男だろう。
分脈には八男とあるようだ。この場合は、長男真従、次男真先、三男朝猟、四男久須麻呂、
五男小湯麻呂、六男薩雄、七男辛加知、八男刷雄、九男執棹となると思われる。
752年時点で無位だったのでまだ21歳には達していなかった思われるが、同年に叙位を
受けていることからあまり若年とも思えず、18〜20歳程度、733〜735年程度の誕生で
はないかと思われる。
なお五位直叙は遣唐留学生となったための特叙だろうと思われ、規定の年限、位階より有
利なものだと推定される。
帰国時期は不明だが、流罪になっている以上764年以前には帰国しているのだろう。
帰国後官職に就いた痕跡が見えないので、第一三次遣唐使とともに761年あたりに帰国し
たのか?ただしこの時目的であった、大使藤原朝臣清河の帰国は唐側から許されていない
点が気にかかるが、たかが留学生程度は別なのか?
それ以外だと、行った遣唐使の帰国にそのまま従い、754年に帰国か、はたまた貿易船に
でも便乗して帰ってきたものか?
764年には30歳以上だった思われるが、12年間1階も昇進していないのはやや不審?
後一族が誅殺された時に若い頃から禅行を修めた故に助命されており、あるいは仏道三昧
であまり政治活動を行わなかったのかもしれない?
分脈に正五位下越前守・図書頭とあり、後紀が欠けている792年以後に昇進した可能性は
あると思われる。
子に従五位下千世、孫に諸陵助富継、曾孫に大蔵丞真行の名が見えるが以後不明。
藤原恵美朝臣小湯麻呂(元藤原朝臣:小弓麻呂・湯麻呂:生没年不詳:仲麻呂の子)
丹波介(758時点)→藤原恵美朝臣(758)→正六位上(759時点)→従五位下(759)→
従五位上(764)
官職としては衛府や関国国司に任じたらしいが詳細不明。
なお分脈では極位従四位上とするがこれは従五位上の誤りだろう。
764年時点で、参議になった真先ら3人以外の兄弟では唯一従五位上に昇進しているので、
それに次ぐ年長者、つまり五男ではないかと思われる。
初見の位階正六位上は、蔭位で得られると思われる正六位下より1階上であり、五位昇進
は二度目の考課後(4年+6年)の31歳ではないだろうか?ただしそうとなると729年誕
生ということになり、三男とされる朝猟、四男かと思われる久須麻呂より年長となってし
まう可能性がある。小湯麻呂はもう少し年少だった可能性もある。
この頃には仲麻呂の権勢も高まっており、叙位が多少早まった可能性も高い。2、3年程
度早いとして、731、732年頃の誕生かもしれない。
年齢的に子がいたとは思われるが、誅殺されたのか子孫は不明。
藤原恵美朝臣薩雄(元藤原朝臣:生没年不詳:仲麻呂の子(六男?))
内舎人(757時点)→藤原恵美朝臣(758)→正六位上(759時点)→従五位下(759)→越前守
(759)→右虎賁率(764:右兵衛督)→誅殺?(764)
推定年齢は小湯麻呂と同様で731、732年頃の誕生だろう。
小湯麻呂と異なり従五位下のままであり、1歳程度年少かもしれない?
刷雄と同一人物説がある。分脈では従五位下越前守。
分脈によると子に従五位下朝忠、以下孫が従五位下散位参能鷹、曾孫従五位下但馬守大町
(大野とも)、以後従五位下中宮大進雄蔭(雄薩とも)ー従四位上式部大輔有声ー従五位下能
幹ー美濃掾清幹と続く。
藤原恵美朝臣辛加知(元藤原朝臣:生没年不詳:仲麻呂の子(七男?))
藤原恵美朝臣(758)→正六位上(761時点)→従五位下(761)→左虎賁督(761:左兵衛督)
→越前守(764)→誅殺(764)
仲麻呂は760年に従一位に昇進しており、その時点で正六位下から一位の庶子の蔭位であ
る正六位上に昇進したのではないだろうか?
761年がたまたま1度目の昇進の年なら、この時27歳(当時の考課は6年)で735年誕生
となる。もう少し年長かもしれないし、逆に仲麻呂の権勢で早い昇進があり若年かも?
謀反の際には現職の越前守として現地におり、追討軍に殺害された。
分脈では七男となっている。
藤原恵美朝臣執棹(元藤原朝臣:生没年不詳:仲麻呂の子)
藤原恵美朝臣(758)→正六位上(763時点)→従五位下(763)→美濃守(764)→誅殺(764)
五位昇進が辛加知より2年遅いので2歳程度年少として730年代後半の誕生だろう。
藤原恵美朝臣児従(生没年不詳:仲麻呂の娘:参議藤原御楯の妻)
無位女孺→従五位下(752)→藤原恵美朝臣(758)→従四位下(759:4階昇進)→正四位下
(761:2階昇進)
名前から真従の同母姉妹ではないかと思われ、720年代後半頃の誕生ではないだろうか?
夫御楯は722年頃の誕生だと思われるので、その年回りからも自然だと思われる。
752年に叙位を受けており、その点からも730年前後以前の誕生だと思われる。
父の従弟である御楯との婚姻で絆を深めるとともに、女官として勤めていたようだ。
父の手駒として大いに働いたことになるのだろう。
藤原恵美朝臣東子(生没年不詳:仲麻呂の娘?)
藤原恵美朝臣(758)→無位(761時点)→従五位上(761)
藤原恵美朝臣を名乗るので、仲麻呂の子孫だと思われる。仲麻呂の年齢(当時56歳)から
みて、当時叙位を受けるような年長の孫娘がいたとは思いにくいので、やはり娘だろう。
次の額と同時の叙位だが、位階が1階高いので、姉だと思われる。
特に根拠はないが児従よりかなり叙位が遅れるので、叙位時20代半ば程度、730年後半
の誕生ではないだろうか?
藤原恵美朝臣額(比多比:生没年不詳:仲麻呂の娘?)
藤原恵美朝臣(758)→無位(761時点)→従五位下(761)
藤原恵美朝臣を名乗るので、仲麻呂の子孫だと思われる。仲麻呂の年齢(当時56歳)から
みて、当時叙位を受けるような年長の孫娘がいたとは思いにくいので、やはり娘だろう。
前の東子と同時の叙位だが、位階が1階低いので、妹だと思われる。
特に根拠はないが位階に差を付けられていることから、東子と多少年齢差があるものとし
て叙位時21〜23最程度、740年前後の誕生ではないだろうか?
仲麻呂の妻達
判明するのは2人だけだが、子供の数からも他にもいたと思われる。
陽侯女王を妻とする説もあるが、陽侯女王は四位直叙であり二世女王(新田部親王の娘と
の説が有力のようだ)と思われ、臣下との結婚は考えがたいと思う。
もっとも仲麻呂が権勢を確立した頃なら特例として認められたかもしれないが、その場合
は陽侯女王の年齢がネックになると思われる。
陽侯女王は、739年に叙位を受けており、当時21歳以上として719年以前の誕生と思わ
れる。仲麻呂との年回りは悪くないが、仲麻呂に特例が認められそうなのは、もっとも早
く見て752年の紫微内相就任以後ではないだろうか、とすると陽侯女王は当時34歳以上
結婚年齢として遅すぎないだろうか?
陽侯女王が氷上真人陽侯と同一人物だとした場合、賜姓・臣籍降下後は皇族ではないので
臣下との結婚可能と思われるが、陽侯女王は761年まで見えるのに対し、氷上真人陽侯は
762年が初見、当然賜姓はこの間と思われ、当時陽侯女王は43歳以上ということになる。
さすがにその年齢での結婚はまずありないと思う。
まあ別の角度から見れば、760年には仲麻呂は従一位太師と言う空前の地位についている
ので、もはややりたい放題で誰も止められなかったかもしれないが
可能性として、かなり以前から事実婚(って言えるかな?)状態だったが、752年以後なり、
761年以後に公認されたと言う可能性もなくはないと思うが、それまで子供がいなかった
んだろうか?いた場合どうしていたんだろうと気になる。
陽侯女王と氷上真人陽侯が別人だった場合、陽侯女王は系譜不明の二世女王、氷上真人陽
侯は氷上真人塩焼(元塩焼王:新田部親王の子で二世王)の娘ではないかと推定される。
この場合、三世女王から臣下になった氷上真人陽侯との結婚ならあり得なくもないだろう。
塩焼は広く見て700年頃から715年まで(多分710年前後)の誕生と推定されるので、氷上
真人陽侯は、720年頃以後の誕生となるだろう。
また初見の762年時点で既に従四位上と言う高位にあること、それから764年までに3度
の昇進を受け従三位までに昇ることを考えれば、当時あまり若年だったとは思えない。
もっとも淳仁天皇の妃ででもあれば、あり得る昇進かもしれないが?
まあとにかく、そうでもなければ730年頃までに誕生していたのは間違いないだろう。
このように氷上真人陽侯は752年当時に20代だった可能性はあり、結婚もあり得た?
藤原朝臣袁比良(袁比良売・袁比良女・宇比良古:?〜762:参議房前の娘)
(仲麻呂の正妻:真先・久須麻呂の母)
従五位上(749時点)→正五位下(749)→従四位下(749:2階昇進)→従三位(760時点)→
正三位(760)→正三位尚蔵・尚侍(没時)
補任では真先らの母として表比良姫(表は袁の転記ミスか?)と注されている。
所生の長子と思われる真先は730年前後の誕生と思われるので、710年前後の誕生ではな
いだろうか?706年誕生の仲麻呂との年回りも自然。
房前の長男鳥養は700年代前半の誕生と思われ、次男永手は714年誕生(当時房前34歳)、
間の年頃の子供がいる方が自然だと思われ、袁比良がそうではないだろうか?
従兄弟である仲麻呂結婚するとともに、高級女官として勤務し、その面でも夫を支えたよ
うだ。
大伴宿禰?(生没年不明:従四位下犬養(762年没)の娘:刷新雄の母)
子とされる刷雄は730年代誕生(個人的には733〜735頃だと思う)なのはほぼ間違いな
く、その点では690年代後半から720年代前半までの生まれだと思われる。
仲麻呂より5歳以上年上とは思いにくいので、700年代以後の誕生だろう。
父である犬養は740年に外従五位下昇進、遣渤海大使就任。任務上あまり若年とも高齢と
も考えがたく当時40〜60代、つまり670〜690年代の誕生だと思われる。なお762年の
死去時まで現役官僚として活動しており、当時80歳程度までとすると680年代以後の誕
生と言うことになる。つまり680〜690年代の誕生だろう。この意味でも700年代以後の
誕生とは思われるが、大して限定できてない。
刷雄以外の子がいたかどうかよくわからないので、あまり限定のしようがないが、仮に刷
雄が長子ないし、唯一の子だとすれば、通常母はその頃18〜25歳程度と思われる。
刷雄を上記の733〜735年誕生と仮定すれば、計算上は709〜718年誕生となる。
705〜720年程度の誕生って言うのが有りそうなところかな?
326 :
日本@名無史さん:2009/11/06(金) 01:39:27
如宝と藤原刷雄がお友だちってのはいいな。
藤原朝臣仲麻呂と孝謙(称徳)天皇の愛人関係って説はあるけど、
むしろ相手は叔母の光明皇后の方じゃないのかな?
年齢差も光明皇后の方が5歳上って程度だからあり得なくはない。
仲麻呂が孝謙or光明の愛人という話は梅原猛が唱え始めた説だと思うが
後世の文献にもそういう話は出てこないし、それを証明するのはまさしく「悪魔の証明」かと
※ちなみに道鏡が孝謙(称徳)の愛人というのは平安時代に書かれた『水鏡』が初出
329 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 20:38:20
>>321 辛加知は(wiki等で見掛けるシカチではなく)カラカチと読んで
新羅討伐の気運が一気に高まった737年の初頭に付けられた
名前ではないか、という学者さんがいたな。
根拠としては甚だ正確性に欠けるが、面白い推論だと思う。
これだと25歳で授爵となるが、当時の仲麻呂の権勢を考えると
むしろ妥当な推理といえるかもしれない。
男系か女系かは存じ上げませんが IAEA局長お目出たく存じます ゆくゆくはEUとのバランスの上で UN事務局長として インターナショナルユダヤサイド方とのご協調のあとおしにて、ワンワールドにご貢献あそばされたく。
331 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 22:37:25
武智麻呂の嫡男は豊成なのになぜ袁比良を仲麻呂に嫁がせたの?
名前は残ってないけど、4男ながらに嫡男らしい縄麻呂の母は房前の娘。
どっちが姉か、嫡出かどうかはわからないけどね。
縄麻呂が729年生まれだから705年から710年頃の生まれじゃないかな?
袁比良も似たような年か、やや若いくらいでは?
豊成妻は女官勤めをばりばりやるタイプじゃなくて名が残らなかったとか?
縄麻呂の同母兄弟の存在は不明なので、割と早く亡くなったのかもしれない。
豊成の妻では京家の百能が女官として活躍してるな。
かなり年下になるけど。
>>332 だな。豊成に嫁いだ房前の娘は袁比良よりいくつか年上で、
おそらく天然痘の流行の頃(735年・737年)に亡くなったのではなかろうか。
その後に麻呂の娘百能(720年生まれ)が豊成に嫁いで正室になったとか。
まあ推測だけども。
Noguchi宇宙飛行士さま もし南家ならご活躍おめでとうございます
南家・式家・京家は独立スレがあるのだから、
北家の各傍流家も夫々あってもよくないか?
閑院流と日野流はあるようだが。
昔、勧修寺流のスレを立てたら即死しました。
737年の時は四兄弟が全滅したくらいの大流行だから、
ほかの一族に犠牲者がない方がおかしい。
北家長男鳥養とか、式家の名前が残らなかった息子二人とか、
その辺がこの時の死亡かも?
あと京家も一人二人は死んでるかもしれない。
勧修寺+善勝寺+水無瀬+世尊寺+小野宮+花山院…など北家傍流各家を語るスレ
とか
340 :
日本@名無史さん:2010/02/04(木) 23:47:05
>>337 式家種継の親父も恐らく天然痘だろうな。
341 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 19:59:10
上杉頼重の子に千秋頼成っているんだけど、熱田大宮司家の千秋氏と
関係あるのかな?
南北共通姉・藤原光明子さまゆかりの北家TODAIてら『南無観!』⇒「南(家)無冠(無官)」の呪詛。鎌足嫡流傍流の日本支配をめぐる熾烈な心理戦。 南朝貴族は南家(御所・行在所も)。
343 :
日本@名無史さん:2010/03/08(月) 00:38:14
>>343 石原さとみの称徳女帝…期待できるかも…。
345 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 22:16:49
>>344 主演が吉備真備(吉岡秀隆)だからどうもなあ。
吉岡はどうでもいいんだが真備が強烈な人物が多かったあの時代に
あまりにも地味な主人公過ぎて。
石原さとみ演じる皇太子安倍内親王との子弟愛を描くらしい。
南家藤原仲麻呂はその通りの悪役になりそう。
タイトルだけ見ると主人公は聖武天皇のはずなんだけどなあ
吉備真備が主人公かーしかも配役が「北の国から」の純なのかー
347 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 22:12:35
ドラマには巨勢麻呂も登場するようですね
奈良時代の陰湿な権力闘争ドラマが見たい
取り敢えずニダーが出て来なけりゃいいんだが、犬HKだから出すんだろうな・・・
石原さとみは綺麗だとは思うが、演技力がどこまで成長したかだな。
「義経」時代は酷かったし。
あとは聖武帝、玄ボウ、行基、諸兄、広嗣といったところに、誰を配してくるのか見物やね。
350 :
日本@名無史さん:2010/03/15(月) 08:21:31
>>348 高麗朝臣福信とかならいいんじゃないの?
百済王氏はちょっと違うだろうけど。
聖武天皇主役だと、
側近の藤原八束、佐伯今毛人、高麗福信、坂上犬養とか抜擢組が、
ってことになるんだけど、ちょっと地味か。
ボダイセンナ役のインド人が気になる
353 :
日本@名無史さん:2010/03/16(火) 00:22:56
>>349 聖武天皇=國村準、安宿媛=浅野温子、橘諸兄=草刈正男
行基=笈田ヨシ、藤原広嗣=波岡一喜、玄ぼう=カピバラ亀治郎
マジで?諸兄悪役なの?
花の乱では日野勝光役の草刈正男が暴れまくってたしなw
老中阿部正弘、鼓判官知康も悪役っぽかったし。
藤原巨勢麻呂=南圭介
若手俳優さんのようですな。
361 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 00:36:40
ほー
藤原氏の長である仲麻呂って、豊成の立場なし。
363 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 00:00:41
豊成は最初から期待されてなかったんだろう。
光明皇后は仲麻呂を優遇してるし。
なぞの豊成さま御子孫
中臣鎌足→藤原不比等→藤原武智麿→藤原豊成→藤原良因(伯耆の国司、正5位下)→藤原長道(右衛門府の権の佐、従5位上)→藤原継雄(陰陽寮の次官、正6位上)→藤原道成(蔭位?従5位下)→藤原清瀬(備中国司、従5位上)→藤原慈茂(左京職の亮、従5位下)
→藤原連実(尾張国司、従5位上)→藤原為章(伊豆国司、従5位下)→藤原生行(蔭位?従5位下)→藤原章行(出羽国司、遥任?、従5位下)→以下下野?(南家桃園流)…??ミッシング・リング??…藤原良国(周防国司、従5位下)→藤原時常(右衛門府大尉、従6位下)
→藤原常弘(備前国司、従5位下)→藤原定冬(従4位下?)→藤原嘉通(越前国司、従5位下)→藤原常久(右馬寮の権の頭、従5位上)→藤原常文(美作国司、正5位下)→ここから清和源氏安田氏が継ぐ!?藤原(安田)久継(蔭位?、従5位下)
→安田(藤原)定次(大蔵少輔、従5位上)→安田(藤原)定愛(正4位下)→ここから南家藤原常定(聖剣熱田大神宮宮司藤原季明さまの御子が御相続(^O^)/…新井白石老中の御陰?、左京亮、従4位下)→藤原定規(内蔵寮権頭、従5位上)
→藤原定直(雅楽寮の頭、正5位下)→藤原定倫(内蔵寮の助、正5位下)→藤原愛敬(従3位!?)→藤原常成(伊予守、正5位下)→藤原有常(美作守、従5位下)→藤原常敬(越後守、従五位上)…
>>364 ホッケ(平城京「法華」寺近辺発祥)ではなく南家が正統と言いたかっただけなので他意はありません
366 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 04:10:48
豊成は失脚するまで仲麻呂に官位を越えられたことは無いよ
政治的実力では劣ってたにしても
大河ドラマなら豊成も出番有るんだろうけどな。
3時間ほどじゃあ人を出し過ぎると話が破綻するし。
枝葉(あくまでも物語的に)の人物は、カットせざる得ないのかねえ。
巨勢麻呂は仲麻呂と一緒に殺されたくらいだから完全与党として、
乙麻呂はどうだろう?特異な官位昇進とかみると独自の動きをしたようにも思える。
少なくとも息子の是公は仲麻呂と距離を置いていたのだろう。
368 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 17:50:57
まあ乙麻呂と巨勢麻呂もいい加減泡沫キャラ扱いだったけどな。
今日の放送で巨勢麻呂は多少は出番あるのかな。
369 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 17:54:57
ナンケ自体が活躍するドラマもそうないんだし
豊成ぐらいは許してやれw
>乙麻呂と巨勢麻呂もいい加減泡沫キャラ
そういう扱いだからこそ出せたんだろうな。
とりあえず兄仲麻呂と行動をともにする弟ってしておけば面倒な説明不要だし。
豊成を出すと、仲麻呂との関係をどういうふに設定したとしても、
一応立場を説明しなくちゃならなくなる。
あとこれはスレの趣旨から外れるんだけど、
広嗣は出演、京家浜成は系図に名前だけは映っていたけど、
北家2世組の出番はあるのかねえ。
吉備真備が大将の軍に敗れるほど弱体化していたのか>仲麻呂
真備は兵学の知識はあったんだろ。
先手必勝
374 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 20:36:20
真備って仲麻呂の乱の時点で
かなりの老齢だよね
70歳ぐらいじゃないか?
吉備朝臣真備(元下道朝臣、元の名は真吉備(入唐時改名):694?〜775、82歳?)
(右衛士少尉下道朝臣圀勝(系譜生没年不詳)の子:母は738年没楊貴(八木?)氏)
従八位下(716当時、23歳?)→遣唐留学生(716)→正六位下(735、42歳?:帰国後)→大学助(735)→外従五位下
(736、43歳?:四階昇進)→従五位下(737、44歳?)→従五位上(737、44歳?)→右衛士督(738時点、45歳?)
→正五位下(740、47歳?)→東宮学士(741、48歳?)→従四位下(743、50歳?)→春宮大夫(743)→吉備朝臣
(746、53歳?)→従四位上(749、56歳)→筑前守(750、57歳?:左遷)→肥前守(時期不明)→遣唐副使
(751、58歳?)→大宰大弐(754、61歳?)→正四位下(754:遣唐使関係)→西海道節度使(761、68歳?)→
造東大寺長官(764、71歳?)→従三位(764)→中衛大将(764)→勲二等(765、72歳?)→正三位参議
(766時点、73歳?:補任によると参議は764?正三位は765?)→中納言(766、73歳?)→大納言(766)→
従二位右大臣(766)→正二位(769、76歳?)→正二位勲二等右大臣・中衛大将(極官)→致仕(770、77歳?)
年齢については続紀薨伝に見える没年83歳で逆算すると693生となる。
同じ記事の716年22歳で遣唐留学生となるを採用すれば695年生れ、没時81歳となる。
公卿補任では694生れとあり、736年43歳、739年46歳ともあるが、764年70歳とか、766年72歳ともあり、後者だと695年生まれということになる。
つまり同じ資料の中でも記事によって年齢に矛盾があり、正確な年齢は不明。
当たらずと言えども遠からずということで、中をとって694年生まれとしておく。
従二位は続紀に叙位が見えないが、続紀薨伝・補任によると右大臣と同時のようだ。
確証はないが経歴から見て大学出身なのだろう。またおそらくは父の嫡子で資格は位子。
693年誕生なら764年時点で72歳、694年なら71歳、695年なら70歳。
つまり満年齢で70歳前後程度ってところか。
>>376 大学から従八位下に叙されるには進士科の甲第(全問正解)しかないから、真備は相当の頭が良かったと言われている。
(進士科自体はレベルとしては当時の最下位であったが、論文+文選か爾雅の空白穴埋めを暗唱で答えるという無茶苦茶な出題なのでそれより上の秀才や明経よりも合格困難とされ、人気が無くて貞観年間に廃止された)
宇合・麻呂とほぼ同年配で、武智麻呂・房前より10歳程度年少、
仲麻呂(706年誕生)よりは10歳以上年長。
孝謙天皇(称徳天皇:718年誕生)とはほぼ親子の年齢差。
逆に行基は30歳程度上と言うことになる。
ちなみに聖武天皇・光明皇后はともに701年なの弟妹程度の年令。
「大仏開眼」のイメージだと10〜15歳程度若く見える。
玄ムは生年不詳だが、まあ真備とそんなに年は変わらないだろう。
どなた・か 国母南家修明門院様の御廟をおさがしくださいませ(┬┬_┬┬)
北家六条家と、北家四条家(羽林七分家)の御祖先は、藤原南家雄友さまの娘。だれか実名しらべて。
382 :
日本@名無史さん:
>>376 宇合・麻呂と同年代か。かなり長生きだな