皇統が桓武天皇へと変わったとき、聖武天皇の皇女不破内親王とその子
氷上川継は、皇統を取り戻そうと反乱をおこそうとした。
しかし事前に潰され流刑に。
浜成の娘法壹が川継の妻だった為、京家は致命的な打撃を受けた。
しかも浜成は、他戸親王が廃されて次をどうするかの議論で、桓武の弟
稗田親王を推していたので、桓武からは敵対視されていた。
他三家のように兄弟が多ければ、一人没落しても他の系統が盛り返せるが、
京家の場合浜成の没落が即家の没落につながってしまった。
綱執と勝人は実在すら怪しいレベルだったからな。
120 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 20:31:40
夭折して史料に残らなかった浜成の兄でもいるんだろう
121 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 11:11:27
122 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 23:47:15
>>118 しかし浜成が没落しなれけば京家は栄えていたかといえばそうでもない
123 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 00:47:33
そうやな
124 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 20:15:41
藤原は糞
125 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 23:14:38
浜成の日本後紀の評は酷すぎるな
緒嗣は優秀かもしれんが主観が強すぎるじゃないか?
後から公卿になった冬嗣(嵯峨により近い)に追い抜かれたのも仕方がないな
逆に緒嗣は日本には狭すぎたんだよ
127 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 17:07:27
緒つぐの官位は?
129 :
日本@名無史さん:2009/09/27(日) 00:02:21
緒嗣の最終官位は正二位左大臣
極官w
131 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 07:02:18
冬緒(京家の極官(大納言))を調べたが公卿補任しか史料が無い
他に知ってる人がいればもっと知りたいので・・・
藤原冬緒、ぎりぎり「三代実録」時代より長生き。
もう4年ほど早く没していれば薨伝が載ったはずなのに。
長生きしすぎたもので。
もしかしたら新国史にはあったかも知れないな>薨伝
一つの可能性と言うか妄想。
父:不比等(659〜720、63歳)
姉妹:宮子(685頃以前〜754、70歳程度以上:文武天皇夫人、聖武天皇生母)
妹:光明子(701〜760、60歳:聖武天皇皇后)
女子:百能(720〜782、63歳:南家豊成の妻)
男子:浜成(724〜790、67歳)
孫:継彦(749〜828、80歳)
曾孫:貞敏(807〜867、61歳:継彦の六男)
曾孫:冬緒(808〜890、83歳:浜成の孫、豊彦の子)
同じ疫病で死去した兄武智麻呂は当時58歳、房前は同じく57歳であり、
この時点では特に健康に不安はなかったようだ。
親族全員が長生きしたわけではないので一概には言えないが、
43歳の麻呂が疫病に罹患しなければ、あと20年程度は生きられたのではないか?
そこで737年に蝦夷の大反乱が起きていたらと妄想してみる。
そのような状態では当然麻呂は帰京できないだろう。
結果的に疫病の罹患を免れたりして。
そうなると嫌でも政府首班の座が回ってくることになるだろう。
史実でも南家の嫡子だった豊成と娘百能が結婚しているわけで、
二人がくめば仲麻呂の出番はない?
なお婚姻時期は百能の年齢的にこの前後だとは思われる。
きょぅ家がんばって!!
百能はそれなりに後宮で権勢を奮ったんだろ?
案外京家で最大の傑物はこの女かも知れんな。
>>39 大織冠正統末裔・正六位上興風さまの子孫はどうなったの?藤原姓別姓?
いるよ、多分。遺伝子調査すれば
京唄子
142 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 17:18:56
藤原氏の正体・関裕二
新潮文庫・552円
投稿確認通ったはずなのにまた投稿確認が来た【もちつけ、合言葉はみーライオン】ホント何これ?
下級民主主義者の京家ジェラスィ〜?
144 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 11:35:19
>>134 >曾孫:冬緒(808〜890、83歳:浜成の孫・・・・
冬緒の子息たちは、どういう職位に就いたの?医術のない未開時代に、83歳という
長寿の理由は何だったのだろ?
145 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 22:30:22
冬緒は京家の出世頭だが、京家で最後に公卿になった人物でもある
竹田千継(757〜857、101歳:系譜不明)
典薬寮医生(773、17歳)→典薬允(855、99歳)→左馬允・蔵人所当直(757以前、101歳)
延命に効用のある薬草を栽培し服用していたところ、70歳をすぎても髪も黒く元気だった。
文徳天皇に召し出され99歳だと告げて典薬允に抜擢、その後左馬允となり蔵人所に直し、忙しくて薬草を服用で
きなくなって老化で101歳で死亡とのこと。
当然位階をもっていたと思われるが、六位以下だったのだろう。
なんて人もいるけど、普通は単に丈夫に生まれついただけだろうな。
それはまあ当然節制もしたんだろうけど。
147 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 00:18:42
どうだろうな、最下級の公家って官位につけなくて、
つまり収入がないから結婚できなくて
子孫を残せなかったというのが本当のところじゃないの。
ちょうど現代のヒキニートみたいに。
>>147 >つまり収入がないから結婚できなくて・・・
現代感覚で、推量してどうする。史学の門外漢だな。
当時は妻問い婚だから、富貴家の子女と懇ろになって入り婿になれば、
困窮もしないし、姻戚の引きで官位にもつけるよ。
子女を誘引する魅力が、当人に必要だがね。
149 :
日本@名無史さん:2009/12/29(火) 23:43:01
>>148 で貧乏貴族が富貴家の子女と懇ろになるってのはよくあるケースなのかね。
ごく稀なケースを例にだされても納得感ないんだけどな。
冬緒の子ならせいぜい870年代以前の生まれ。
結婚するのは遅くとも10世紀初め、せいぜい910年代あたりか。
その頃なら結婚できないってこともないんじゃないのか?
京家の五位官人は道長時代、つまり11世紀初頭あたりまではいたらしい。
偽京家も横行していたみたいだけど。
151 :
日本@名無史さん:2009/12/30(水) 13:03:10
!
> 京家の五位官人は道長時代、つまり11世紀初頭あたりまではいたらしい。
偽京家も横行していたみたい
ソースは想像力ですか
まさかあのコンジヤク物語?
図書館で読んだ本。
題名も著者も覚えてないけど、吉川弘文館歴史文化ライブラリーの1冊。
藤原氏の各家長者について書かれた本だったと思う。
大本のソースなんて覚えてないけど、日記かなんかでしょう、この時期なら。
この時期まではまだ一応は京家にも氏爵の割り当てがあって、
他氏の六位が偽京家になって五位に成ろうとして発覚しただか、
成ったあとで告発があったとかそう言う話だった。
これでソースになるとか思ってないから、信じる信じないはそっちの勝手。
京家の件は聞いたことはある気はするけど、思い出せない。
ただ、偽者が氏爵にありつこうとした事件は平安時代中期には何件か起きている。
王氏だと、長元4年に宇多天皇の子孫と言うことで叙位された良国王が実は九州の大蔵種材の息子(当然、皇胤でもない)判明して大騒ぎになっている件がある。
154 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 18:48:59
百人一首にも出てくる藤原興風も京家出身。
古きん集にも きれいな和歌がはいってますね 浜成さまのひ孫でいらしゃり、権大掾、権大丞なんかで正六位なのに、歌合にも参加されてがんばりました(・_・)
156 :
日本@名無史さん:2010/02/05(金) 07:54:51
157 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 20:32:59
?
158 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 15:03:03
京家藤原忠房(右京大夫従四位上)の子の藤原千兼、親公、親衛三名の御子孫は京中に消えた?
もしか 地方に今も居る藤原さんて 下向した京家の子孫も混ざってるw(*_*)
161 :
岡秀雄:2010/03/09(火) 11:54:39
犬山南高校ブラスバンド 8 名の生徒と先生 4 名が小牧幼稚園の夏祭りのオープニングに. 演奏させていただきました。幼稚園の園児の皆さんに喜んで ... 岡秀雄先生. 園児たちが笑顔で聞いている様子を見て、幸せな気持ちになれました。楽器の運搬をして ...
162 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 15:50:34
なんの話?
163 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 21:24:31
>>147 収入がないから結婚できないというより収入がないから子供は出家させられる。
没落貴族の家では子供に良い官職を用意させてやれず、
それならば仏法界で出世させるのが子供の幸せと割り切って
食いぶちを減らす意味もあり男子をどんどん寺へ入れる。
尊卑分脈をみると没落していった貴族の家では
男子がすべて僧侶にさせられていてやがて消滅していく。
天のー家の法しんのう様方も 大量に同じく(えど期そのた)。
「大仏開眼」麻呂死亡は話題にもならず、存在感薄すぎ。
エンドロールには名前があったけどな。
ウマ会で止めるなや。
167 :
日本@名無史さん:
ええやろ