藤原貞本の官位は?
152 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 14:41:01
大蔵大輔
北家も第二世代は永手以外はあまりたいした相手と結婚してないような。
道長直径先祖の内麻呂・冬嗣親子の母親とかねえ。
内麻呂の外祖父は家柄は中程度だが曰く付きの人物。
冬嗣の母はさほどの家柄でもない渡来人百済永継。
そういえば、高野朝臣新笠のほかに百済永継も天皇家の先祖になるんだよな。
なぜかあまり話題にならないけど。
ほかにも間接的な渡来系の先祖はたくさんいるんだろうな。
百済永継さんって百済王家または百済貴族の子孫ですか
百済系渡来人ではあるが、百済王家の末裔ではない百済貴族の末裔かどうかは不明
父親の姓は「飛鳥部」
百済氏から内蔵寮の役人が出ていればな
157 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 13:53:52
広嗣のライバル、年齢、官位から見れば、客観的に見て北家永手あたり?
庶子家の惣領って言う立場も類似。
あとは聖武天皇のお気に入りの永手の同母弟八束(後真楯)とか。
真楯はともかく、内麻呂は三男だけど嫡男のような気がする。
藤原朝臣広嗣(?〜740:宇合の長男:母は石上朝臣麻呂の娘)
従六位上(737時点)→従五位下(737)→大養徳守・式部少輔(738)→大宰少弐(738)→
謀反(740)→処刑(740)
同母弟良継が716年誕生であり、715年以前の誕生だと思われる。
父宇合は694年誕生であり、常識的には710年頃以後の誕生だろう。
初見の位階従六位上は、祖父である贈正一位不比等の庶孫の蔭位に相当し、21歳で叙位
された後、1度目の考課の前、つまり24歳以下だったのだろう。いくら緊急時でも初叙
から1年そこそこ程度で昇進させるとは考えにくく、当時3年目か4年目で、23歳か24歳、つまり714年か715年の誕生ではないだろうか?
本来は翌738年に25歳で五位昇進の予定だったものの先取り、714年誕生と見るのが有
りそうだなとは思う。良継との年齢差も2年が自然?
大宰少弐転任は左遷と解されることが多く、謀反の原因と一つとされている。
没時最低でも26歳以上(おそらく27歳以上)であり、子供がいた可能性は高いが、いたと
しても父に連座して処刑されたのか、流刑先で死亡したのか、子孫は見えないようだ。
藤原朝臣宅美(託美:生没年不詳:良継の子(嫡子?))
正六位上(771時点)→従五位下(771)→右兵衛督(774時点)→丹波守(774)→従五位上
(776)→越前守(776)→従四位下?(極位?)→殺害(時期不明)
分脈に良継の子として見える託美と続紀に見える宅美は同一人物だと思われる。
分脈によると従四位下で長岡京で賊のために殺害されたとのこと。と言うことは、784年
から794年の間に殺害されたものか?
784年以後まで生きていれば、家柄から見て従四位下に昇進していても不思議ではないが、
776年の越前守就任以後は続紀に見えないのが不可解と言えば不可解?
父の年齢(716年誕生)から、735年頃以後の誕生だろうと思われる。
771年時点で21歳以上だとして、751年以前の誕生だろう。
771年の4年前の767年に正六位上に昇進したと仮定してみよう。
ちなみに、766年父良継は従三位昇進で767年も同様、宅美は嫡子と思われるので当時の
蔭位は従六位上になる。770年に正三位に昇進、この時の蔭位も同じ。
764年父良継は従五位上に復位?、その後従四位下に昇進。この時の蔭位は従七位上。
735年誕生として、21歳に到達の755年なら父良継は従五位下で、蔭位は従八位上。
このいずれでも767年までに通例の昇進で正六位上に達するのは困難だと思われる。
父も目覚ましく昇進していく時期なので、宅美にも特別昇進があったのだろう。
とは言え、いくらなんでも21歳で従五位下とは考えがたく、25歳程度以上として747年
以前の誕生ではないだろうか?
ただ747年以前の誕生で、784年以後に殺害されたとすれば、没時38歳以上と言うこと
になる。となると子供がいる方が自然だと思われ、男子がいれば贈従一位の祖父の蔭位を
得られ、初叙が正六位下(嫡孫)又は従六位上(庶孫)で、五位以上にはなれたと思われる。
しかも平城・嵯峨両天皇の母方の従兄弟でもあり昇進しない方が変?
しかしそれらしき人物は見あたらず、男子がなかったのか、早逝したのものか?
とにかくなんだか謎の多い人物ではある。
藤原朝臣清成(生没年不詳:宇合の子(三男か?):母は高橋笠朝臣の娘高橋阿禰娘)
無位無官?
777年没とされるが、おそらくは兄良継との混同で、誤記だと思われる。
生涯無位無官のままだったようだが、家柄から見て一定年齢に達すれば精神疾患などよほ
どの事情がない限りなんらかの官位を得るのが当然だろう。
となると若年で死亡したと考えるのが自然だと思われる。
息子種継は737年に誕生しているので、少なくとも736年までは生存していた思われる。
また種継の父として723年頃より以前の誕生だろう。
一方この当時に藤原朝臣の氏人なら、21歳に達すればほぼ自動的に蔭位を得ることがで
きたと思われるので、無位の清成は736年時点で21歳未満だったのではないか?
となると717年以後の誕生となる。これは良継の一つ下となり問題はない。
田麻呂の兄らしいので、異母兄弟として同年があり得るとして722年以前の誕生だろう。
737年の疫病で父宇合と同時期死亡ってあたりが妥当なところか?
たまたま子の種継が出世したため名前が残ったが、そうでなければ他の2人同様無名のま
ま終わったかもしれない。
藤原朝臣綱手(?〜740:宇合の子(五男?四男とも))
無位内舎人?(740時点)→謀反(740)→処刑(740)
兄広嗣の謀反に参加し、兄とともに処刑された。
内舎人であれば、都にいるのが当然だと思うが、なぜ広嗣の元にいたのか不明。
特に許されたのか、なにかの用でたまたま(あるいは計画的に)大宰府にいたのか?
没時無位らしく、蔭位をもらえる21歳には達していないと考えると20歳以下、一方謀反
際に一方の指揮官となっており、名目的なものだとしても15歳以上だろう。つまり15歳
以上20歳以下として、721〜726年誕生だろう。
子として菅継がいることを考えれば、725年以前あたりの誕生か?
田麻呂(722誕生)が四男とされるので、その弟だとすれば722年以後の誕生となる。
なお妻は秦朝臣朝元の娘。子に菅継、孫に周防守真野麻呂と、系図にはある。
藤原朝臣菅継(菅嗣:?〜791:綱手の子:母は秦朝元の娘)
従六位下(773時点)→従五位下(773:4階昇進)→常陸介(774)→兵部少輔(777)→
民部少輔(781)→従五位上(783)→主計頭(783)→右大舎人頭(783)→治部大輔(784)→
大宰少弐(784)→正五位下(786)→従四位下(789)→左京大夫(789:右京大夫とも)→
陰陽頭(790)→従四位下右京大夫(没時)
父は740年9月没で、どう考えても741年以前の誕生だろう。更に当時父は20歳以下だ
った思われるので、そんなに遡るとも思えない。740年頃の誕生か?
父は無位の謀反人だが、祖父宇合の蔭位が得られたとすれば、正三位の庶孫として正七位
上に叙されたこととなる。蔭位が与えられたかどうか不明だが、そうでなければ773年ま
で(推定年齢30代半ば)に従六位下に昇るのは困難だと思われる。
770年の称徳天皇の死亡で父が反抗した聖武天皇の系統が皇統からはずれたことで、出仕
を許されたのだろうか?もう少し早く仲麻呂失脚後あたりとも考えられるが。
790年に陰陽頭を兼ねた時は左京大夫となっており、左右どちらが正しいか不明?
従兄弟種継とほぼ同年輩と思われ、式家としてはこの世代の数少ない人材なのだが、全然
ぱっとしない、無能だったのか、やはり父が謀反人だったのがまずかったのか?
式家は737年誕生の種継と760年誕生の縄主の間がすっぽり抜けているみたいなのが問題
だったんじゃないかって思えてきた。
高島正人の説だったかと思ったが、広嗣の乱に連座して処刑されたか配流中に死亡した可能性(当然、その際に官位は剥奪されている)もある。>清成
どちらにしても、現職の議政官の息子で自身も息子を儲けているような人物が無位無官というのはおかしな訳で
能原宿禰長枝(生没年不詳:良継の子:母は蓼原氏)
能原宿禰(806−809)→従七位上(810−823)
公卿補任の良継(宝亀8年)の記事に見える。それによると、10歳にならないうちに父が
薨去し、無姓だったが、大同年間に能原宿禰を賜姓され、弘仁年間に従七位上とある。
これに従えば769年以後778年までの誕生と言うことになるが、表現上10歳に近い年齢
とは思われ、770年前後の誕生だろう。
どういう事情かは不明だが、贈従一位内大臣の子とはとても思えない冷遇。
正式に子として認められていれば、蔭位で正六位下になれるので落差が大きい。
なお母方の蓼原氏は、東漢氏系で忌寸らしいが、せいぜい下級官人しかだしていないらし
い弱小氏族。妻や側室と言うより、女中(当時の用語じゃないが)に気まぐれに手をつけた
だけって言うイメージか?
166 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 22:42:36
綱手が史料に残っているんだから、清成が広嗣の乱に連座して死んだのなら
尚更史料に残ってないとおかしいだろう。
167 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 19:58:10
>>166 「続日本紀」編纂時の政治的な改竄ですね、わかります。
綱手の子孫は影響力発揮するほど出世してないもんな。
橘朝臣奈良麻呂の最後が不明なのも似たような理由かな。
綱手の子孫が残ったということ自体が感慨深いよね。
広嗣のそれが全く残っていなということと比較しても。
今も京都に居るの? 子孫さん
171 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 23:25:25
能原長枝って良継に認知されてなかったんじゃないの?
庶子とはいえ嵯峨天皇の外戚が従七位上なんてどう考えてもありえない。
まあ認知はされてないだろうね。
されてれば少なくとも藤原朝臣姓は名乗れるはず。
ときどき母方の姓を名乗っていたから父方に改めたいとか言う申請がある。
だいたい2、3代あとの子孫の申請だから真偽不明だけだ。
たぶん口実に使ってるんだろうな。
173 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 23:47:32
何でそこまで冷遇したんだろうな。宅美死後は良継の唯一の息子なのに。
公卿補任にしか見えないみたいだから実在してないのかも?
あるいは、良継とは無縁だとか。
補任編纂時に能原氏の子孫がどうにかして潜り込ませた嘘記事って可能性も。
どうせ大勢には影響ない部分だし。
175 :
日本@名無史さん:2010/01/25(月) 11:05:42
名前の残っていない宇合の2人の息子とか、田麻呂に子供がいない事とか
式家は謎が多いな。
ついでに種継の子(おそらく三男)の湯守は、何かの過ちがあって除籍されているが、
その際に井手宿禰を賜っている。
こっちは続紀の記事だから実在だし、親子関係も間違いないだろう。
それぞれの死没記事に、仲成が種継の長男、縵麻呂が次男、世嗣が四男とあり、
湯守は時期的に世嗣よりは年長と思われるので三男だろう。
どうも式家は変な事件に巻き込まれることが多い。
書き忘れ、時期は延暦6年(787年)。
世嗣は779年誕生なので、787年時点ではまだ数え年9歳で、
それより幼い子に罰せられるような過ちがあるとは思えない。
179 :
日本@名無史さん:2010/02/02(火) 22:40:44
式家は変な事件に巻き込まれる(って言うか巻き起こす?)は、
伝に偏屈だの狷介だの愚鈍だの書かれるは、
なんかそう言う血筋なのかなあ?
なにかにだけ夢中で出世に興味がないとか書かれた人もいたような?
まあ主流になれなかったから、よく書いてもらえないだけかも?
180 :
日本@名無史さん:2010/02/04(木) 21:54:51
北家では魚名、南家では仲麻呂、雄友と
式家だけが殊更に事件を起こしやすいわけでもない。
式家初期ははかなり武張った家系のようだ。
まず初代宇合からして征夷に活躍して勲二等(たぶん勲二等第1号)。
宇合没後長男広嗣がいきなり謀反、実際に武力行使して敗北処刑。弟綱手も兄に従い同じ運命。
末子蔵下麻呂は、藤原仲麻呂の乱の際に武将として活躍し、五位から一気に従三位に昇進。
さらに勲二等に叙される。親子での勲二等は他は坂上大宿禰苅田麻呂・田村麻呂親子だけだろう。
次男良継も同じ時に勲四等となっている。
曾孫の仲成も謀反人として処刑。ただしこっちは実際には武力行使はしていない。
182 :
日本@名無史さん:2010/03/03(水) 20:34:57
蔵下麻呂は武人の鑑
良継も仲麻呂の乱の時に別働隊を指揮して、美濃で仲麻呂の家来を血祭りに挙げんだよな
良継の変で、一切知らぬ存ぜぬでしらを切り通したのもカッコいいね
恐らく尋問の際に拷問も受けたんだろう
そーいう人間が後に権力握ったりするわけで、奈良時代はやっぱ平安時代とは一味違うw
184 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 18:25:05
奈良時代の公家は平安時代と違ってちゃんと武力を持ってるからな。
185 :
日本@名無史さん:2010/03/14(日) 00:56:08
式家の子孫って中世にはいたの?公家・武家問わず。
蔵下麻呂の子孫が儒家として中世まで続いてます
>>186 ありがとうございました。
>>143にもある新田義重の生母も出た、藤原明衡の系統ですね。
188 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 11:45:53
なんていう苗字?
189 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 23:38:04
直江家は京家末裔を名乗っていたが、式家末裔を名乗った家ってあんまり聞かないな。
真備に指図されてた武将の中の中の一人が一応倉下麻呂?
191 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 23:12:54
蔵下麻呂どころか豊成も永手も出てきてない
192 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 10:09:25
広嗣は一応出たけどフェードアウトだったな。
式家ファンからすればその死くらいまではちゃんと描いてほしかった。。
193 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 00:07:51
百川は出てほしかった
194 :
日本@名無史さん:2010/06/05(土) 16:13:28
>>181 >式家初期ははかなり武張った家系・・・・
式家の家風でなくて、その時代の特徴だね。貴族階級の文武が未分化だった。
貴族階級でも戦闘指揮者に必須の乗馬術を会得していた。それが、顔に白粉を
塗り、牛車に乗る文弱貴族に変質していったのは、平安期の何年頃からなのか?
195 :
日本@名無史さん:2010/06/19(土) 11:40:17
平安中期の式家出身の藤原忠文も武将。
196 :
日本@名無史さん:2010/06/26(土) 20:07:49
>>196 藤原良継の変
天平宝字7年(763年)に藤原良継が佐伯今毛人、石上宅嗣、大伴家持の3名と共謀して藤原仲麻呂(恵美押勝)の暗殺を企てたとされる事件のこと。
198 :
日本@名無史さん:2010/07/16(金) 23:14:37
>>197 そんな事件があったのか。式家って血の気の多い奴揃いだな
199 :
日本@名無史さん: