♪邪馬台国 ドンと来い♪ 28

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1日本@名無史さん
 くまー
                r -、,, - 、
            __    ヽ/    ヽ__
  くまー     ,"- `ヽ, / ●     l )
         /  ● \__ (● ● i"
        __/   ●)      ̄ )"__ "`;
      .(_i  ●    ' __, '"  ̄`'(___/.i⌒i
        丶_ ,i⌒i,,_(_/    ● i ̄ ̄ )_|__
      __, '"   ̄ ヽ! ● ●)  ミ~ ̄_● ヽ)
くまー   (_/     ● i    ∪  / ⊂{●  | くまー
       l ●( _●) (  ̄)-    /   -'  i
     /ヽ、   |∪l   T      i     ● '")

九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!

前スレ ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 27
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1203785163/l50
2日本@名無史さん:2008/03/26(水) 22:53:26
えっえっ 2なの、、、
3日本@名無史さん:2008/03/26(水) 23:00:26
では、3。
4日本@名無史さん:2008/03/27(木) 00:27:44

トヨタン・・・・・・・・・・
5九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/27(木) 12:26:43
おはようございます。またクマの絵にもどったのね。
6日本@名無史さん:2008/03/27(木) 15:40:30
>>1

             ∩___∩
             |ノ⌒  ⌒ ヽ
             / ●)  ●) |
オツカレチャ━━━━━|   ( _●_)  ミ━━━━━ン♪
            彡、  |∪| 、`
              /  ヽノ  ヽ
             / 人    \\   彡
           ⊂´_/  )    ヽ__`⊃
                / 人 (
               (_ノ (_)
7日本@名無史さん:2008/03/27(木) 15:43:49
最近、邪馬台国徳島説が登場しているけど、ここでは新説なので、みんな
戸惑っている感じだなあ。
倭人伝の解釈で、方向が間違い、距離が曖昧ということになれば、邪馬台国は
どこにでも比定できるということか。
8日本@名無史さん:2008/03/27(木) 15:49:25
徳島説は実質的に畿内説の亜流みたいなもんだよ
9九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/27(木) 19:05:17
倭人伝の記述は方向が間違っているわけではないので
四国というのは畿内同様問題外でしょう。
当時中国人は北極星を目印にしていたといいます。
これは当時民間に浸透していた道教の影響であり
いわゆる風水の様なものだから方向を知る技術が進歩し
基本的な東西南北を誤る、なんてことはありえなかった。
いわゆる「逆さまの地図」も単に北が下になっているというだけのこと。
10日本@名無史さん:2008/03/27(木) 19:22:24
で、九州に水銀発掘遺跡は見つかったの?

徳島は、唯一水銀発掘遺跡があるんだから有力説になるのは当たり前
亜流とか問題外とかなんじゃそりゃ
11日本@名無史さん:2008/03/27(木) 19:27:05
だから水銀採掘跡と邪馬台国に何の関わりが
よそでは出ない物が出れば邪馬台国、みたいな勘違い起こしてやいないか
12九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/27(木) 19:36:29
>>10 九州に水銀発掘遺跡は見つかったの?

どうして水銀の埋蔵が問題になってるわけ?
13日本@名無史さん:2008/03/27(木) 19:55:19
徳島の水銀発掘遺跡も数十年前だろ。
九州だって発見される可能性はある。
14太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 20:30:59
>>12 九州ですがさん
1週間くらい前でしたか、TV12chのみのもんたさんの番組で四国
邪馬台国説(大杉説)をやってましたが、その四国に朱が出ることが
確か伝にあることから、四国邪馬台国説を強く主張していることを
指しています。朱とは水銀の関係を意味してるためです。そこしか
採れないということを四国説はいいたいわけです。

大杉さんの説は伝の旅程を一本糸の曲線的引き伸ばしで考え、そこ
から四国に間違いないという考えで、彼の思い違いは、女王国の
あたりは大陸の連中には未知の準ジャングルで道筋をはっきりでき
ない地域で、一本糸の伸ばし線的考えの記述は北九州の既知の場所
に限るのであり、そこからは探検のために知らぬ地域を右往左往で
一月もかかったと観られることで糸の引き伸ばしでの考えにて失敗
してるものです。
朱なども、古代で採り終わってればいまはもう採れるものでは
なく、決め手にはない難いと観ています。
15日本@名無史さん:2008/03/27(木) 20:37:38
水銀を採掘していたという事実は
方向や距離と違って、さすがに見間違えることはないでしょ
16太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 20:42:17
決め手にはならないね。
17ローガン:2008/03/27(木) 20:49:27
>>15
横から失礼。
ふと、思ったのだけど古代の赤色顔料が水銀朱に特定できますか?
ベンガラや鉛丹の可能性はいかに?
18九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/27(木) 20:49:35
水銀鉱床群は九州では佐賀県に集中している。
まさに一大率があった伊都国の地下に眠っている。

19日本@名無史さん:2008/03/27(木) 20:51:59
9
四国説見てないね。朝鮮から九州を経て南へ行きその後四国に上陸して徳島に行くので
方向と距離は満たしているよ。
20日本@名無史さん:2008/03/27(木) 20:53:04
朱は九州の多くの装飾古墳に大量に使われていますね。
21日本@名無史さん:2008/03/27(木) 20:53:30
ですがはなにが言いたいんだ?
12>どうして水銀の埋蔵が問題になってるわけ?
18>水銀鉱床群は九州では佐賀県に集中している・・
さっぱりわからん
22日本@名無史さん:2008/03/27(木) 20:54:13
27から同じ議論の繰り返し・・
23九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/27(木) 20:57:57
>>14 太国さん

説明有難う御座います。まさにその通りだと思います。
僕が>>18でレスしたように北部九州にも水銀鉱があり
真上に一大率が置かれた伊都国、マツラ国などがありました。
これは偶然ではないでしょう。
24太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 21:01:36
>>23
ああそうですか。あの番組では朱は四国の1箇所しか採掘できないと
解説していたと想ったですが、水銀ということで九州でも採れると
いうわけですね?
25日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:05:09
装飾古墳の時期は4世紀から7世紀にかけて築かれていますが、
5世紀中頃〜7世紀前半に属するものが大半です。時代が合わない。
26日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:09:25
24
太国さん違いますよ。あの番組では
邪馬台国時代の水銀鉱山跡というのは、
徳島阿南市の若杉山遺跡でしか見つかっていない。と言っていたのです。
水銀自体は九州から畿内までとれますよ。
27九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/27(木) 21:11:31
>>21
邪馬台国の場所が水銀鉱の有無で決まらない。水銀鉱は北部九州にだってある。
弥生時代の鉱かどうかを言うなら太国さんが指摘してるように
取り尽くし放棄したものもあるだろうし未発見のものもあるだろうから
あえて比定地に徳島などを持ち出すまでも無いこと。
それ以前の問題で方向が違う事を指摘したはずだ。
28太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 21:11:47
>>26
九州のほうは単体で取れるということですか??
29日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:13:50
取り尽くしたのなら掘った後など形跡が残っているはずだよ。
30九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/27(木) 21:18:02
>>24
他にも九州では佐世保にあるようです。

邪馬台国の朱
http://kamnavi.jp/ym/suigin.htm
佐世保の水銀鉱
http://www.city.sasebo.nagasaki.jp/rekisi/04/04_column_01.htm
31日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:20:38
其俗舉事行來有所云為輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆。
「そこの風習では、事を起して行動に移るときには、為す言動があり、
すなわち骨を焼いて卜占で吉凶を占う。先ず卜占を唱えるが、
その語句は令亀の法の如く、火坼(熱で生じた亀裂)を観て兆(きざし)を占う。」

九州では骨占の形跡は見つかっていない。
32太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 21:21:13
形跡が永年の時間経過により分からなくなることもあろうし、倭人が
朱を持ってたのでそういう鉱山があるだろうとの想いでの話かも
知れないから、持ってたんなら、外来で入手は可能だし、天然の猛威
が永い間にあって採掘後が不明確になることもあろう。いずれにしろ
決め手にはならず、参考だな。
33日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:26:52
太国さん。その理論だと九州で水銀鉱があっても意味がないですよ。
外来で入手は可能ということならどこでもいいわけですからね。
34太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 21:28:49
>>31
出土してないだけだろ。記の国生みの前において「布斗麻邇爾卜相」
とあって骨占の記述がある。その後九州ができたとあるから、出ない
は無いではなく、これはまた九州存在以前の問題。
35日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:30:53
だから最初から水銀鉱跡が出ようが出まいが邪馬台国とは何の関係もない
高知西端に比定する投馬国から東北の徳島に向かっている時点で
畿内説と同様に方角の問題をクリアできてないんだよ
36太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 21:32:54
>>33
外来でも入手可能だよ。だが、そこで採ればなおさらではないか。w
採れれば、あまり外来はする必要が薄れるしね。
37日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:33:05
34
出土してないだけって言うのもおかしいですね。対馬から東海まで
骨占の骨が出ているのに九州本島だけすっぽり出ないのは骨占をやっていなかったと見るべきでしょう。
38日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:36:15
35
畿内説が方向の問題なら九州説では距離の問題を解決しないとね
39太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 21:37:55
>>37
火であぶって骨がボロボロ灰になると想う、卜兆っていうものはね。
40日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:38:46
いやだから他の地方は残ってるんですってば
41九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/27(木) 21:39:50
>>31
骨占は別に北部九州だけで行われていた風習じゃないでしょう。
恐らく中国から伝わったこの風習は唐古鍵遺跡などにみえる道教の影響からみても
広範囲の倭で行われていただろうし。
間違いなく伊都国は邪馬台国連合の一であるから伊都国では骨占は行われていただろうが
後は見つかっていない。だから痕跡が無いから行われていなかったとはいえない。
42日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:41:03
もういいです・・・
43九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/27(木) 21:43:19
あきらめちゃだめ〜っ!

でも>41は正論でしょ。
44太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 21:43:24
>>40
だからそれは本格的のやつじゃないよ。もうすでに卜占の秘儀は失わ
れ、謦咳が残ったのが出るところだよ。そこだけないのは本物の亀卜
鹿卜が行われていたということとなる。他のは形骸のみだよ。
もっとも本物の本物は、これは最高権威者の所有。
45太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 21:44:37
>>44 訂正
× 謦咳    ○ 形骸
46日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:45:37
>>35
距離の問題は九州説では解決されています。
「水行二十日」とか「水行十日、陸行一月」は「自郡至女王國萬二千餘里」を移動するのにかかる時間。
距離の問題も解決しないいけないのは畿内説。
47日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:50:44
亀卜は古墳時代からだから時代が合わない。
48日本@名無史さん:2008/03/27(木) 21:51:23
>>38
距離って水行陸行の日数のこと?あれはいかようにも解釈可能だよ
だいたい順次式には読まないから常識的な距離を想定してもクリアできる
49九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/27(木) 21:56:41
>>40
太国さんが言う通りで、卑弥呼の鬼道というのは道教の影響を受けた占いの事。
倭人伝に卜占を「其俗」と書いてあるから卜占をしていたのは王に限らず
一般に行われていた事が解る。珍しいことではなかった。
また、焼いた骨の種類によっても風化するしないがあるだろう。
特定の動物がその地方には少なかったり別の生物の骨で代用していたりした為
残っていない事も考えられる。
50九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/27(木) 22:07:56
>>48
日数より方向。当時の中国の北極星を見て方向を判断するという常識からして
南北を間違えることは無い。という事はおのずと東西も決まってくる。
となると九州内から出ることはないという結論になる。
それに距離を当て嵌めると、水行十日陸行一月は帯方郡から女王国までの距離
という事になる。
51日本@名無史さん:2008/03/27(木) 22:49:16
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓の、始祖王とされる甕棺の中も朱で塗られていた。
これは、弥生中期頃で、少なくともその頃にはすでに赤系統の顔料を使っていた。
倭人伝には「丹」と書かれているが、九州では、かなり古くからその種の
顔料を調達していたのだろう。もちろん、地元で。
52日本@名無史さん:2008/03/27(木) 22:56:02
妄想はほどほどに
53 サガミハラハラ:2008/03/27(木) 22:58:49
>>50そうです。それが正論です。
それを基に倭人伝を解かなければいつまでたっても「曲がり角一つ間違えて」
堂々めぐりなのです。
邪馬台国問題解決のための第一は中国人は方角をまちがえるのかということから始める必要があります。
この板をみている中国人のかたご意見をお願いいたします。
54日本@名無史さん:2008/03/27(木) 23:01:45
昔だったら間違えるかもしれん
2000年近くも前だろ
55日本@名無史さん:2008/03/27(木) 23:03:45
邪馬台国の時代から続く1800年続く一族「阿波忌部一族」がいる。
この一族は、古代から現在まで続く天皇家の宮廷の祭祀をしていたという。
儀式の中で、(大嘗祭のことか)、麻で作る織物(アワタエ)を献上する役割である。
現在の当主は三木信夫氏であり、番組内でインタビューに答えている。
その中身は「阿波には大きな先進文化をもった部族がいたことは確かで、
その後、この部族は阿波から近畿へ移動して日本の礎を築いた」と語っていた。
56日本@名無史さん:2008/03/27(木) 23:27:21
>>50
帯方郡から女王国までの距離は別の箇所で万二千余里と明示されているが
わざわざ邪馬台国への行程においてそれを日数で言い直すだろうか
そんなことせずとも起点を伊都国に置き水行又は陸行とすれば九州北部に収まる
一連の行程は「到」の字が使われ郡使が滞在した伊都国を視点としている
まあ方角の解釈に南を東と読み替えるご都合の入る余地がないことは仰せの通り
57日本@名無史さん:2008/03/27(木) 23:38:04
太陽が昇る方向を基準として「東]を決める場合の落とし穴は、
午前中でも6時と11時ごろでは太陽の位置がかなり違うということです。
古代人が正確な時刻を把握していたとも考えられず、
方向を決める際に一日の中で今何時ごろかを正確に認識していなければ、
とんでもない方向誤認を起こす可能性があります。
太陽が昇る方向を 「東」 とすれば方向誤認は起こすはずがない、
という人はざらにいますが、これは間違いです。
季節により、また一日の中でも時刻により太陽の位置は大幅に変化します。
58日本@名無史さん:2008/03/27(木) 23:59:26
まあ倭人伝の行程記事は無限ループになるのは分かりきっているんだが…

そもそも魏使は方角を確かめる必要なんてあったのか?
邪馬台国から派遣されたガイドの道案内に任せてりゃ良いだけの話であってw

夜中北極星を観察したり、朝早く起きて東の地平線に昇る太陽を見たり…
んなもんやる必要ないんとちゃう?w

魏使「もう西も東もワカンネ。
    どうでも良いけどまだ着かないのかYo!
    今日で**日目だぞゴルァ!」

59 サガミハラハラ:2008/03/28(金) 00:00:22
>>56 旅行する場合、距離のほかに日数がわかればいろいろと準備しやすいです。
60日本@名無史さん:2008/03/28(金) 00:09:58
>方角をまちがえるのか

二つに分けて考える必要がありそう。

 @ 実際に人が移動するとき方角をまちがえずスムースに目的地へ行けるか?
 A 遠方の地について地理的な記述をするとき誤り無く書けるか?

@は古代人でも未開人でも、そんなにまちがわないと思う。
異国人が旅行にやってきても現地の人に聞いたり案内を頼むだろうし。
でもそのこととAとはなんか別次元の問題のようで、ゴッチャにせずに考えたい。

倭人伝だと入れ墨の風習のところの「会稽東冶の東」の記述がひっかかる。
「その道里を計るにまさに会稽東冶の東にあるべし」。

当時の中国人は倭が長江下流あたりと緯度が同じと考えてたんだろう。
倭の位置を九州や本州でなく沖縄本島ぐらいの南方にあるんだとね。
そのまちがった思い込みが倭人伝のほかの地理記述にも影響していると思う。
だからAは、「はい。誤り無く書けます」とは答えられない。
61日本@名無史さん:2008/03/28(金) 00:10:04
>>58
ガイドに任せて済むならわざわざ倭人伝で行程記事を書く必要もあるまいに
周辺諸国の実情を把握する戦略的意味もあったろうからそこは拘ると思うよ
62日本@名無史さん:2008/03/28(金) 00:42:34
>>60

>当時の中国人は倭が長江下流あたりと緯度が同じと考えてたんだろう。
>倭の位置を九州や本州でなく沖縄本島ぐらいの南方にあるんだとね。
>そのまちがった思い込みが倭人伝のほかの地理記述にも影響していると思う。

なるほどなと思った
63日本@名無史さん:2008/03/28(金) 00:44:44
地図で揚子江からまっすぐ東に行くと、屋久島付近に着く。
しかし、黒潮があるので、船はまっすぐ東に向かっていても、潮に流されて
九州の西岸に着く可能性が大きい。

揚子江からは、九州は見えないし、古代人はさすがに海流のことは知らなかった
ろうから。
64日本@名無史さん:2008/03/28(金) 00:47:45
伊都国は末ラ国の東にあるのに東南と書かれてるように
方角には実際の時計回り45度のズレが見られる
会稽東冶の東も実際には会稽東冶の東北と考えることもできるよ
まあ会稽東冶から直接倭国へ行ったわけじゃないから伝聞情報だろうけど
65日本@名無史さん:2008/03/28(金) 01:12:14
>>60

>二つに分けて考える必要がありそう。

賛成だ

>でもそのこととAとはなんか別次元の問題のようで、ゴッチャにせずに考えたい。

ゴッチャにしたがる厨もいるな WW
66日本@名無史さん:2008/03/28(金) 07:50:30
>>63
海流を知っていたとしても、この場合「東に進む」との表現になるのかな?

地点間での方位じゃなく、行動的な方位が正解の様な気がしてきた。
67 サガミハラハラ:2008/03/28(金) 10:13:12
魏使は、帯方郡をでてから連続的に日を過ごしてきているのです。
自分がどの方向に進んでいるのかは、大体わかるのです。
ある時南に見えていた山が、右手に移動していったら、東南に進んでいることがわかります。
寝るときの太陽の沈む位置と朝おきて太陽が昇る位置をみたら、その真ん中は南だということがわかります。(これは季節に関係ない)
68日本@名無史さん:2008/03/28(金) 10:46:41
>>65
>ゴッチャにしたがる厨もいるな WW

はは〜ん。ww ((↑)wwwww)
69九州王朝大好き:2008/03/28(金) 11:50:01
阿波は邪馬臺國説の朱丹について

『朱丹塗其身體如中國用粉也』とあるので、
朱丹が水銀丹であれば数年にして水銀中毒で健康を害し死亡に至ります。
水銀朱丹の毒性は鉛白丹の比ではありません。

朱丹は健康にも優れた鉄朱丹とみるべきです。
70日本@名無史さん:2008/03/28(金) 12:13:12
九州というアバウトなくくりで主張している時点で負けだよ、負け
そんな卑怯者は話にならない
71日本@名無史さん:2008/03/28(金) 12:37:52
朱墨
72日本@名無史さん:2008/03/28(金) 13:47:56
朱墨:赤色の墨
73九州王朝大好き:2008/03/28(金) 13:55:11
>>70
>九州というアバウトなくくりで主張

邪馬壹國は筑後南部説(女王の都は久留米広川八女付近)です。
74日本@名無史さん:2008/03/28(金) 14:09:03
俺は邪馬台国の王都は筑後川流域一帯説(王都は佐賀県旧大和町辺り)
同じ九州内に邪馬台国を比定する説でも異なる説は異なる説と考える
九州なんていうくくりに拘ってるのはむしろ畿内説の側じゃないのかね?
75日本@名無史さん:2008/03/28(金) 14:10:00
>>74
訂正
×邪馬台国の王都は筑後川流域一帯説
○邪馬台国は筑後川流域一帯説
76日本@名無史さん:2008/03/28(金) 14:37:40
朱墨:硫化第二水銀
77日本@名無史さん:2008/03/28(金) 16:53:00
ちくま学芸文庫の『古代の朱』(松田壽男)によると
水銀朱は少量なら新陳代謝を高めるので、古代から塗料として
だけでなく薬としても使われていますよ。
78九州王朝大好き:2008/03/28(金) 16:59:02
長寿薬
79日本@名無史さん:2008/03/28(金) 21:19:23
>>74
畿内説だって色々あるよ
奈良を筆頭に京都、大阪、和歌山、滋賀…
そんなこと言ってたら、お前らだって畿内説なんていうくくりに拘ってる、てことになる。
…取り合えず「九州説」「畿内説」でくくらないと分かりづらくなるんだよ。
80日本@名無史さん:2008/03/28(金) 22:25:30
そもそも畿内説、九州説という捉え方自体がよくない。
「やまと」は北九州で興り、畿内へと東征していった。
ただ「やまと」はたぶん九州で一度王朝が変わり、畿内で三度ぐらい変わっている可能性がある。
最後の王朝が、いまの天皇家につながっている。

81日本@名無史さん:2008/03/28(金) 22:31:17
山門郡というのは、有力かもしれないが、遺跡とか遺物で見た場合、
あんまりめぼしいものは出ていないんじゃないかな。
82九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/28(金) 22:51:15
>>64 [伊都国は末ラ国の東にあるのに東南と書かれてるように
方角には実際の時計回り45度のズレが見られる ]

それは何処と何処の地点を結んで言ってるの?
83ローガン:2008/03/29(土) 00:42:51
九州ですがさんは、俗に云う「平原王墓」をどうお考えでしょう?
私は伊都の王の墓だと思うのですが。怡土と伊都の音の共通性も考えたいですね。
福岡は文物流入路として、古代の先進地域で在ることは遺跡を見ても、何方も異論はないでしょうね。
さておき…
魏志倭人伝のよれば、上陸後、東南へ向かうのですね?上陸は唐津とか呼子ですか。
糸島は其処からだと東北?
方角が違いますね。
九州説では福岡の遺跡を無視するのですか?
84日本@名無史さん:2008/03/29(土) 01:21:55
前原が伊都国というのはどうも引っかかる。
まず、方向が違う。陸行する理由がわからない。末盧国を経由するのも
不可解ということで。
85日本@名無史さん:2008/03/29(土) 01:36:30
伊都国が内陸部へ一定の広がりを持っているとすれば
末盧国から東で問題ないしそこからさらに東に向かって奴国にも行ける
まず末盧国に上陸したのは単純に一支国から最寄だからだろう
末盧国から伊都国へは実際は陸行ではなくより近い水行だったんじゃなかろうか
86日本@名無史さん:2008/03/29(土) 01:47:45
いと郡
87日本@名無史さん:2008/03/29(土) 11:15:08
>>85
>伊都国が内陸部へ一定の広がりを持っているとすれば
>末盧国から東で問題ないしそこからさらに東に向かって奴国にも行ける

トンチンカンなレスだな、上の人たちがやってる議論の意味わかってるのか。
→東→東と倭人伝には書いてねえだろ、→東南→東南なんだぞ。
東南陸行五百里伊都国
東南至奴国百里
88日本@名無史さん:2008/03/29(土) 11:29:36
>>87
だから一連の行程記事は全体が時計回り45度に方角がずれてるんだよ
このズレは魏の使者が専ら玄界灘の穏やかな夏に来倭したことによるものと考えるけどね
方角を判断する材料としたのは日の出の方角だろ
89日本@名無史さん:2008/03/29(土) 11:35:01
そういう意味では>>57の指摘する落とし穴にはまって
実際とはズレた方角を認識していたということになるだろうな
行程記事の途中から南を90度ずらして東に読みかえるのとは訳が違うよ
90九州王朝大好き:2008/03/29(土) 12:09:02

魏志倭人伝は方向道のり(短里)を素直に読むべし。
されば、随書俀国伝とも一致する。

平原遺跡は倭國王の遺蹟。
倭國王は地位低下により、イト(糸・伊都)の地名を持って、帥升の出身地に転都(帰都)した。
91九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/29(土) 13:18:00
>>83 ローガンさん
前半の文は僕もそう思いますし賛成です。後半は
呼子辺りに上陸して二丈町辺りを目指したとすれば、まず南に進みついで東方面へ・・。
この辺りに広がっている伊都国を、上陸したマツラ国から見て東南と表現したのではないか。
当時は日の出の位置が農繁期など季節を知らせる暦代わりだったこともあるから
それで方向を過つ事は無いにしても、多少方向がずれていたとしても>89のいう
「行程記事の途中から南を90度ずらして東に読みかえるのとは訳が違うよ」に同意。
また、当時ムラが幾つも集まってクニを形成していたので
当然クニの広がりの範囲内で伊都国の名を出したのであって
伊都国王墓{と思われる)のある平原の狭い範囲だけを指して伊都国といったのではない
と思う。

92日本@名無史さん:2008/03/29(土) 13:46:18
>>91
>呼子辺りに上陸して二丈町辺りを目指したとすれば、まず南に進みついで東方面へ・・。

えーと、それ、陸地を歩いてですか?
93九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/29(土) 14:03:27
>>92
そうです。それがなにか?
94日本@名無史さん:2008/03/29(土) 14:42:43
>>93
えーと、呼子から、まず南に進み、というのは分かるんです。
唐津湾がありますからね。海の上をまっすぐ歩くなんてできません。
そうすると南に陸地を進んで今の唐津市街、松浦川の河口ですが、ここを通りますね。
そこまではいいんです。

えーと、ところがですね、そのあとが疑問あると思うんです。
そのあと「ついで東方面へ・・」ということですが、どうでしょうか。
もちろん唐津市街地付近で大きく東に向きを変えるのは当然です。
東を向いてたぶん今の虹の松原あたりの海岸線を行くんですよね。

でも東向きでずっと歩いて行っても駄目なんじゃないですか?
東方向のままだといくら歩いても二丈町へは行き着けませんのですよ。
地図で確認してみてください。
95九州王朝大好き:2008/03/29(土) 14:46:56
>>91
二丈に行くなら、呼子を経由しないで、直接深江の入り江に入る。
壱岐から呼子なら「渡一海千餘里」ではなく「渡一海五百餘里」になる。
96ローガン:2008/03/29(土) 15:25:41
浜玉からは北ですね。それにはたして当時海岸沿いを通れたかな?
それは置いといて…
呼子上陸では3渡海が同じ距離数とはちょっと解せませんね。
97日本@名無史さん:2008/03/29(土) 15:39:06
帯方郡から海を越えて船でやってきたのに、呼子で船を下りて「草木が生い茂り、
前を行く人が見えないように道」を、大きな荷物を持って歩いていくというのは
ありえない。
98九州王朝大好き:2008/03/29(土) 15:47:15
>>96
半島−対馬 48km・・千餘里
対馬−壱岐 44km・・千餘里
壱岐−二丈深江 40km・・(千餘里)
壱岐−呼子 22km・・(五百餘里)

私の持論
壱岐−松浦川河口 38km・・千餘里
99九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/29(土) 15:53:36
>>94東方向のままだといくら歩いても二丈町へは行き着けません

二丈町というと正確ではなく二丈町方面と言ったほうがいいでしょう。
今の二丈町の行政区は何時出来上がったのか知りませんが
「おいでませ、ここから二丈町」という立て看板があるといった正確な意味で
言っているのではありません。当時も正確な行政区割りは無かったんじゃないですか?
マツラ人がここは我々の土地だと主張すれば伊都国人がいや我々の・・といった具合に。
魏使は鵜呑みにするしかなかったでしょう。細かな土地の主権争いは邪馬台国連合内でもあったでしょうが
一大率によって監視されていたので表立った争いにはならなかったでしょうが。
100九州王朝大好き:2008/03/29(土) 15:54:41
>>97
「草木が生い茂り、前を行く人が見えないような道」は、
唐津から観音峠越えで佐賀市大和に行く道です。・・東南陸行五百里
101ローガン:2008/03/29(土) 16:01:33
>>98
理解しました。
仰る通りかと思います。九州説では、伊都=怡土=平原、奴国=那=博多なんて事を想像する事は不可能なのです。

方角が違いますね。
102九州王朝大好き:2008/03/29(土) 16:03:03
>>96
海の距離は目視できるのですよ。「おおよそ千餘里」だと。

呼子なら壱岐島沿岸から加部島を見て、「おおよそ五餘里」と思うでしょう。
103日本@名無史さん:2008/03/29(土) 16:08:19
>>100
「草木茂盛、行不見前人」は、末盧国のところに書いてあるので、
この付近の道のことだろうに。

唐津から多久市に抜ける道は、大陸や半島と有明海沿岸を結ぶ動脈だった
可能性がある。有明海沿岸が古くから大陸の交流を持っていたのは、遺物から
明らかだし。
104九州王朝大好き:2008/03/29(土) 16:09:12
>>101
九州説の立場ですが、
「伊都=怡土=平原、奴国=那=博多」説を否定しないと、
僕の九州説は成り立ちません。
105日本@名無史さん:2008/03/29(土) 16:11:51
>>101
九州説でも、伊都国=前原と思っている人はけっこういると思う。
でも、違うと思っている人もいるというだけのこと。
僕は違うと思っている一人だが。
106ローガン:2008/03/29(土) 16:27:00
>>105
そうでしょうね。ただ平原を伊都と考えたいなら、
方角に固執するのは間違った考え方であると云う事をご理解いただければ結構です。
107日本@名無史さん:2008/03/29(土) 16:33:45
>>104
>「伊都=怡土=平原、奴国=那=博多」説を否定しないと、
>僕の九州説は成り立ちません。

否定材料は倭人伝の方角だけと違う?
何かほかにあるかな。
否定するなら考古学的な否定材料が加われば強固なんだけど、どう?
108九州王朝大好き:2008/03/29(土) 16:42:32
>>107
方向距離は否定材料ではありません。
書きまちがいとするのは恣意的だと思います。
僕の場合、文献資料と考古学的資料の組み立て方が違うので合理的に矛盾なく説明できます。
109日本@名無史さん:2008/03/29(土) 19:36:50
伊都国の中枢部は、江戸期の井原・三雲の両遺跡の調査記録と、昭和の平原遺跡の発掘があり
だいたい現前原市のあの近辺であったろう、というのが永らく通説となっておった。


しかしながら小生は、昨年の福岡市今宿五郎江遺跡・大塚遺跡の発掘調査に注目し、
この福岡市西区の地域が魏志倭人伝の時代における伊都国の中枢部ではないかと考えるようになった。

無論、前原市の井原、三雲、有田(平原)の地も伊都国の重要な拠点には違いなく、
特に井原は弥生後期、平原は終末であり、卑弥呼の時代にさほど遠くはないとは思うのだが、
こちらは在地伊都国王の居住域と墓地が営まれたのではなかったかと思料する。


これに対し、今宿五郎江・大塚遺跡は今津湾岸に近く、楽浪系を含む豊富な外来遺物の出土により
港湾に臨む都市的性格が濃厚に窺われるのである。


倭人伝によれば、伊都国には一大率が置かれ、また郡使の留まる所とされるゆえ
あたかも後の時代の大宰府と鴻臚館の如き類が、すでに原型としてあったのではなかろうか。
そのように考えるなら、倭人伝記載の伊都国の中枢部としては、井原・三雲・有田の地域よりも
この今宿五郎江遺跡・大塚遺跡の営まれた区域の方がより適合すると思うのである。


なお付言する。倭人伝では距離の記載が、、
   末盧国 −(五百里)− 伊都国 −(百里)− 奴国
と図式化される。

伊都国中枢部が末盧国−奴国の丁度中間に位置するのではなく、
より奴国側に近いことを明瞭に示しているのである。

これもまた今宿五郎江・大塚遺跡を伊都国中枢部と見なすことに有利に働くであろう。
110日本@名無史さん:2008/03/30(日) 06:28:14
>>83 ローガンさん
>九州説では福岡の遺跡を無視するのですか?

そんな傾向あるよね〜。ww
上の>>109さんは無視してないから、たぶん畿内説だよん。ww

で怒られないうちに、ここで話題転換。ww
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
メッチャおもしろい地図サイト見つけたから、紹介するね〜。ww
マキムクスレにも書いたんだけど無視されちゃったんだ。うえ〜ん。(T。T)

「世界洪水地図」(海面上昇シュミレーションマップ)! ジャーン!ジャーン!
http://flood.firetree.net/?ll=33.6043,130.1887&z=5&m=1

世界のどこでも、地球温暖化で一体どのくらい水没するか、パッとわかる地図で〜す。ww
使い方はマキムクスレの304見てね。ww

いま議論になってる伊都国付近で、あ、前原付近でww、水位1メートル上昇させたのが上の図。
志摩半島は3世紀はまだ島だったか、それとももう怡土郡側とつながってたか?
これを調べるのに、なんか役に立ちそうでしょん。ww

つまり「糸島水道」が3世紀も残ってて、そこ船で行き来できたかどうか?ってことなんだよ。
古代史上、重要な点だけど両説あるみたいで、わりかし難しいんだ。
ローガンさん、>>109さん。なんか知ってたら教えてください。m( _ _ )m
111日本@名無史さん:2008/03/30(日) 09:08:04
唐津から前原の方に行ってしまったら、有明海沿岸を無視することになる。
吉野ヶ里などの大集落もあるいは阿蘇?も無視することになるわけで、
どちらが重要だろうか。
倭人伝の、「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」などは有明海沿岸の
風景だろうと思うし。

また、東南陸行だったら、普通に有明海方面だと思うが。

ただ、有明海に出てしまったら、畿内説の可能性はなくなるわけだから、
畿内説としては死活問題になるのだが。
112虹歩命:2008/03/30(日) 09:30:11
そうなんです。ですから畿内説支持者は頬かむり無視をきめこんでいるのです。
新しいことや革新的なことを考えようなどという気は全くみられませんね。
学者のほとんどが畿内説だそうですから、生活がかかっているからやむをえないでしょう。
113ローガン:2008/03/30(日) 09:55:10
>>110
おはようございます。
ご紹介のサイト、PC不調で視れません。

糸島半島は魏志が書かれた頃には一部繋がっていたと思います。
雷川と瑞梅寺川が東西に離れて行く所、志登に支石墓群がありますね。微高地になっています。
朝鮮半島に由来する墓制ですね。副葬品等から弥生中期頃迄のものでしょう。
水道になっていたのはもっと前でしょうね。
114河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/03/30(日) 10:44:28
>>111

文献記載に誤りがない限り『佐賀』には行けないよ。これは史料事実
115日本@名無史さん:2008/03/30(日) 12:37:39
素直に松浦から南東なら割と素直に佐賀に抜けるよ
自分は伊都は、現在の前原市三雲付近に考えているから
どうつじつま合わせようか考えているところ。
伊都と奴国は捨てがたいと思っている
116九州王朝大好き:2008/03/30(日) 14:55:54

素直に、東南方向の目的地に向かって唐津(末盧國)を出発しましょう。
国道323号沿いに観音峠を越えて進めば、
唐津から500里で佐賀市大和町(伊都國)に着きますよ。
大和町(伊都國)は肥前國庁も置かれた交通の要衝。
「郡使往來常所駐」及び「特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」
にピッタリの場所です。

隋使が上陸した筑紫國が唐津とすれば、
邪馬臺國(邪靡堆)へのルートは魏使も隋使も同じですよ。
117九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/30(日) 20:28:59
マツラ国に上陸して東南方向に進む延長線上にはクナ国の本拠地菊池郡市がある。
魏使はその方向に進んだのではないか。



118日本@名無史さん:2008/03/30(日) 20:52:55
>>117
意味不明。
119日本@名無史さん:2008/03/30(日) 20:53:33
結果的にはそう見えますが、偶然です。
120日本@名無史さん:2008/03/30(日) 22:19:49
狗奴国が菊地って言うのは、クナからクマを連想したのか。
それとも、狗古智卑狗から菊地彦を連想したのか知らないが、
それくらいの根拠しかないと思うが。

白村江の戦の後、天智天皇は、日本の守りを固めるために菊池市付近に
鞠智城を作った。これも、なんでこんな所に作ったのか良くわからないなあ。
121日本@名無史さん:2008/03/30(日) 22:53:57
>>112
>学者のほとんどが畿内説だそうですから、生活がかかっているからやむをえないでしょう。

まあ見方を変えれば、生活がかかっているからこそ、学者は九州説なんてドロ船に乗ることができず
好きな事言い放題の一部の素人が九州説を支持って構図かな?w

邪馬台国論争の歴史を俯瞰すれば、文献による限界を感じ、考古学に期待したのは九州説が先っぽいw

久米邦武曰く
「邪馬台の考証時代は既に通過したり、今は其地を探検すべき時期に移れり」
と言うのは有名な台詞とか。

で、それに待ったをかけ文献の再検討を迫ったのが内藤湖南とwww
122121:2008/03/30(日) 23:07:59
時々思うことは現在じゃあ九州説の方が小銭稼ぐには都合が良いんじゃないのかとw

例えば何処かで邪馬台国に関するシンポジウム開いたとして
パネラーに「畿内説」「九州説」双方から学者を呼ぼうとした時
マイナーな九州説の方がお呼びが掛かる確率が高いんじゃないだろうか?w

それに本を出すにしても九州説の方が面白おかしくストーリーが描きやすいだろうし・・・
(例えば関U2氏の畿内ヤマトのトヨによる九州山門の卑弥呼殺しとかwww)

123九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/30(日) 23:12:50
熊本でも菊池は昔から一目置かれる特別な地方。
菊池一族を絶やさない為、その子孫は全国各地に広がって今も行き続けている。
年に一度各地に散らばったの菊池氏が集まっての会合まであるらしい。
大和朝廷の出城があったのも菊池氏が特別な人々であった証左だと思う。
思えば西郷隆盛も菊池氏であった。菊池は古くは「くくち」と発音し
言い難いのか年寄りは「くこち」と発音していたのを明確に覚えている。
この音がクナ国長官狗古智卑狗の音に酷似していることが菊池クナこく説の一つの
根拠ではある。
124日本@名無史さん:2008/03/30(日) 23:19:28
畿内を前提とした過去に対し
過去にとらわれることとなく文献資料を分析し、
考古学的資料を当てはめていった結果表れたのが
九州説といったところかな。

理系の論理の構築の仕方だと、基本的にはいつかは正しいことが
表れると信じている。いま、自分が確信している論理はまじめに
やっている限り正しいはず。しかし、前提となる論理が崩れた場合
はそれが崩壊することも知っている。自分の論理は”ある前提の下で”
正しい。これが理系の論理の限界。
アインシュタインも最終的には宇宙項を破棄した。

論理を展開するには、
前提となる条件を提示する。そこから導き出される論理を説明する。結論を導く。
この流れしかない。政治的圧力をかけることが可能だとしても、長い時間の間には
間違いは容易にひっくり返されてしまう。過去の知識や技術は参考にされるべきだが
そこから表れる結果を尊重する必要はない。逆の結果が出てもかまわない。

だから別の結論を攻撃する必要があるのかどうかわからない。畿内説には畿内説の論理
があり九州説には九州説の論理があるはずだ。発展させることはしても、他人の論理の
足を引っ張る必要などどこにもない。それを見た他人は正しそうなほうを採用するだけ。

自分は畿内説の補強になる議論を邪魔しようとは思わない。また、情報を提示することは
しても、ここにあると確信できる情報はないから細かい位置については言及しないし、
する資格がないとも思っている。持っている情報を恣意的に間違った方向に誘導させる
ような話にだけ、書き込みしている。

ここに書き込んでいる畿内説の方々は、畿内説の説明を行ってほしい。論理の間違いや
情報の間違いを指摘するのは立派な態度だが、関係ないところで、悪態をつくまねは
不毛でしかない。
125日本@名無史さん:2008/03/30(日) 23:21:59
細かい考古学的データや、なんのかんの理屈を持ち出して学者が畿内説を唱えているが、
早い話、その核となるのは3世紀日本における生産力と人口の分布。
日本を代表する邪馬台国(連合)を最大の勢力であったと規定している。

そもそもこれが間違い。
まあ、畿内説を否定し九州説にくみするものではないが、
重要なのは3世紀の日本全体の構図とその後の展開をどう組み立てるか。
いまの学者はこんな全体作業はしない、というか、想像が混じりすぎて学問ではなくなる(とされる)。
その点、安本さんなんかは、おもしろいけどね。
まあ、その分、弱点も多々出てくる。
126九州王朝大好き:2008/03/30(日) 23:36:58
>>120
@狗古智卑狗は官名であるから地名の菊池(ククチ)からきていると思われる。
A菊池は菊池川ら緑川に至る肥後大平地の北端にあり、筑後平野勢力と敵対する肥後勢力には最前線になる。
B天智天皇が鞠智城を作った?もっと古いものと思う。天智は改築したと思われるが。
C3世紀には肥後は製鉄もしていたと思われ、軍事的にも強力な勢力であったと思われる。
Dこの地域の装飾古墳をする勢力が筑紫を支配していった。
127日本@名無史さん:2008/03/30(日) 23:48:19
畿内説は年代論で無理があるね。
>>111も言うように、「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」という
魏志の描写は明らかに環濠集落。

対して、マキムクには環濠がない。要するに時期が違う。
マキムクは昔は300年頃からとされていたが、それでは畿内説が成り立たないので
200年頃まで年代をずらした。こんなことやっていて恥ずかしくないのかね。
128日本@名無史さん:2008/03/30(日) 23:51:42
精密な考証も無しで先ず前提ありきな畿内説
自分も子供の頃は畿内なのか、って思ってたけど
何となくその時代の資料や出土物を見てると有り得ないな
と思わざるを得なくなった。知れば知るほどちぐはぐ
日本の史学会ていうか考古学会は良く成り立ってるなと思う
一時期はこの手の学部を目指してた時期もあったけど行かなくて良かったと今は思っている
129日本@名無史さん:2008/03/31(月) 00:11:30
>>127
>魏志の描写は明らかに環濠集落

環濠の描写が無いのに環濠集落とはこれいかに?w

まあこれが九州説の人間の未だに脱しきれない固定観念ってとこかな?
「古墳時代は4世紀から、邪馬台国は弥生時代の環濠集落!」
…みたいな?www



130日本@名無史さん:2008/03/31(月) 00:13:12
自分は土器編年ってのがまだハバをきかせてるてるって時点でもう気が狂っている
としか思えないです。正直。申し訳ないけど土器の作成時期なんて不確定要素が多いし
鋳型があるものでもない
土器で何とかして年代を特定したいって気持ちは分からなくもないけどね
子供の頃は炭素測定とかプラントオパールだっけ?スゲーってワクワクしてたんだけどなぁ
あれからもう何年も経ったけど進歩とかとは無縁の世界っぽいよね
131日本@名無史さん:2008/03/31(月) 00:14:24
草はやしすぎ>>129
バカっぽいよ。気をつけな
132日本@名無史さん:2008/03/31(月) 00:21:46
>>125
>日本を代表する邪馬台国(連合)を最大の勢力であったと規定している。
>そもそもこれが間違い。

まあ「偽僭説」なんてのもあるから100%という事は無いにしろw

じゃあその最大勢力が大陸との接触を試みなかったのか?

魏からすれば幾ら倭を持ち上げなければならないお家事情があったにせよ
そりゃ最大勢力を倭王に冊封するのは当たり前で・・・

蓋然性と言う事からいけば親魏倭王=倭の最大勢力と考えるのが自然だわな。

九州説の視点で欠落しているように見えるのは魏による冊封を望んだのは何も九州勢力だけでなく
当時の日本の各地の勢力もそれを望んでいたであろうと言う視点。

ぶっちゃけ九州説の人間の頭の中の三世紀の日本は関門海峡から先は綺麗に消えて無くなっているのではないかとwww

133日本@名無史さん:2008/03/31(月) 00:33:39
>>130
>土器編年
やっぱ自分達が営々と築き上げてきた学術体系を放棄するわけにはいかないんだろうか?w
そもそも「縄文」「弥生」と言う時代区分の名称が土器の様式からだし(今は違うらしいけど)

でもどうなんだろう?
土器編年を取っ払っても畿内説優位と言う状況は変わらないんじゃね?
134日本@名無史さん:2008/03/31(月) 01:59:47
>>132
女王国の東に海を渡ること千里でまた国がある、皆倭種。と倭人伝に書かれて
いるので、倭国を九州に限定して考えるのは十分に妥当性がある。
後漢書にも同じような記述があるし。
135日本@名無史さん:2008/03/31(月) 02:09:38
>>133
遺物の年代を決めるには二つの方法があるらしい。一つは、遺物の出た地層から
年代を決定する方法で、これは信頼性が高いらしい。

もう一つは、土器の編年みたいなもの。同じ種類の土器を、模様などを基準に
古い順番に並べるわけだが、人によるとこれはあまり当てにならないらしい。
実際に古い、新しいの基準があるわけではなく、研究者が基準を作り、
その基準で編年を説明するというものだからだそうだ。
136日本@名無史さん:2008/03/31(月) 02:09:42
>>133
土器編年も最近大幅に変わったよね。
「弥生時代は九州が絶対優位」という現実を無視できなくなったからね。

昔みたく古墳時代は300年以降なんて言ったら、畿内説は終わり。
それで「古墳時代を200年からにしました。」って言うのが今の畿内説。
137日本@名無史さん:2008/03/31(月) 02:12:55
今の畿内説の絶対年代を支える支柱は、三角縁舶載説。
三角縁の紀年をもとに絶対年代を決めたのが岡村の分類。

三角縁が国産で紀年が後世に付けられたとなると、この年代観はアウト。
138日本@名無史さん:2008/03/31(月) 02:40:42
まあ実際畿内説にも三角縁国産説はいるしw

逆に畿内に邪馬台国が無いとして
何で国産でわざわざ「景初三年」の銘を入れなきゃならないのか?って話でw
これももう無限ループしているお話www

139日本@名無史さん:2008/03/31(月) 02:55:03
鏡の年号については、景初や正始だけでなく、青龍や赤鳥などもある。
魏の年号だけでなく、呉や晋の年号のあることも考えなくては。
140日本@名無史さん:2008/03/31(月) 03:01:24
>>139
三角縁は「景初」と「正始」だろ?

何れにせよ三角縁が国産であっても畿内説は困らないw

141日本@名無史さん:2008/03/31(月) 03:03:32
まあ三角縁に関しては邪馬台国論争の本筋と別に争われているような印象を受ける。

詳しくは知らんが小林センセの訴訟沙汰とかwww
142日本@名無史さん:2008/03/31(月) 04:52:40
>>132
地理的な優位性というのはあると思うよ
たとえ畿内に九州の邪馬台国を上回る規模の政権があったとしても
大陸に近い九州が魏との接触において有利とも言える

まあ百歩ゆずって畿内に邪馬台国があったとしてもそれは九州の分派国だからな
倭人伝に記されたオリジナルの邪馬台国が九州であったことには変わりがないよ
143日本@名無史さん:2008/03/31(月) 12:03:49
ぱっとしかスレ読んでないんだけどさ、
九州説が文献重視で畿内説が考古学重視なんじゃなかったの?
九州説は、魏志倭人伝の行程だと九州内に留まってることとか
風土風俗が南方っぽいとか。
畿内説は古墳とかその他出土品とか。

なんかスレ読むと九州説を補強する出土品が多いっぽい感じなんだけど、本当?
144日本@名無史さん:2008/03/31(月) 12:45:35
九州説を補強する出土品って何?
145九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/31(月) 13:07:34
>>143
色々矛盾はあるでしょうよ。例えば
卑弥呼は魏王から100枚の鏡を貰うほど鏡を大切にしたが
これは各地の王などに配られ遺体とともに埋納されただろう。
畿内説では三角縁鏡が卑弥呼の鏡というが実際は破砕された鏡も多くあり
とても大切に扱われたと思えないものも多い。
北部九州のそれは信仰であり死者の旅路を助けるものであった。
鬼道で卑弥呼が支配した宗教国家とも言うべきクニの内部でこのような差があるのは変である。
少なくとも北部九州と畿内ではまったく別のクニであったと言わざるを得ない。
146日本@名無史さん:2008/03/31(月) 13:31:21
三角縁はほぼ全部が9寸(約21cm)以上という特徴がある。

道家の葛洪は、『抱朴子』で9寸以上の鏡には魔除けの効果があるとした。
それで、その後に神仙を描いた9寸以上の鏡が作られるようになった。

『抱朴子』の成立は、確実に300年以降。
それが日本に伝わったのは320〜350年位だとすると、日本で三角縁が
作られるようになったのは、それ以後と確定できる。

よって、椿井大塚山も黒塚も、確実に300年以降と断定できる。
三角縁より以前に9寸以上の神仙鏡が存在するので、穏当に考えれば
三角縁の製造開始は340〜360頃。

これを認めると、畿内説の拠り所の遡上年代が崩壊する。
畿内説の遡上年代では椿井大塚山や黒塚は290〜300頃とするが無理。
147日本@名無史さん:2008/03/31(月) 13:56:32
>>145
>畿内説では三角縁鏡が卑弥呼の鏡というが実際は破砕された鏡も多くあり
>とても大切に扱われたと思えないものも多い。
>北部九州のそれは信仰であり…(以下略)

読む人を誤認に導きやすいアブナイ文章かと。

1.畿内説はみな「三角縁鏡が卑弥呼の鏡」と言っているのですか?
  「三角縁鏡は卑弥呼の鏡ではない」とした畿内説論者は誰もいないのですか?
2.破砕された鏡は、鏡を大切に扱っていない証拠なのですか?
3.三角縁鏡を破砕する例が畿内に多いのですか?(事例の列挙望みます)
4.鏡の信仰の(篤い)北部九州では鏡を破砕した事例は皆無なのですか?

レスを一旦取り消して書き直してから再度投稿してほしいのですが。言い訳よりも。
148日本@名無史さん:2008/03/31(月) 14:24:34
>>147
とりあえずウィキペディアだと
>かつて、畿内説の根拠とされていたが、今は重要視されていないもの
として
>三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説。
が挙げられてるな。
(400枚程度見つかってる、中国側の「漢鏡ではない」発言等)
149日本@名無史さん:2008/03/31(月) 16:34:57
鏡というのは、実際に見る機会は少ないが、見る人が見れば、出来が良いとか
悪いとかは一目瞭然のものじゃないかな。
だから、中国製かどうかもすぐにわかるんじゃなかろうか。
素人目にも判るような気がする。

方格規矩四神鏡を例に取ると、これは間違いなく中国製だろう。
http://we.magma.jp/~ark/sinkyou_utyuu/honkan/g015-houkakukikusisin.html

次にこれは、唐津市の桜馬場遺跡から出たもの。出来はそれほど悪くないが、
中央の四角形がいびつで、いま一つという感じがする。
たぶん日本製だろう。
http://inoues.net/enjoy/mirror05.html

これは、京都府の大田南5号墳から出たもので、青龍三年の銘が入っている。
しかし、出来が悪いと思う。まず日本製だろう。
http://inoues.net/tango/gikyoootaminami.jpg
150日本@名無史さん:2008/03/31(月) 17:53:06
>>146
>『抱朴子』の成立は、確実に300年以降。
>それが日本に伝わったのは320〜350年位だとすると、日本で三角縁が
>作られるようになったのは、それ以後と確定できる。

『抱朴子』によって神仙思想が始まったみたいな146の捉え方はどうかと。
『抱朴子』は、それまでの中国各地にあったさまざまな道教的な民間習俗を集成して
虎の巻≠フように編んだ書物なのでは?
しかもその書物が4世紀の日本に本当に伝来していたとはとても思えない。
http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q353R100.HTM
この解説だと「道教理論の最も体系的な論述」と、まるで聖典扱いですが、
内容からすればハウ・ツーもの∞虎の巻≠ナもいいのでは?まあ上級者向きですが。
というか、四書五経にしろ仏教経典にしろ、聖書にしろコーランにしろ
教義や経典聖典のたぐいは常に「あとから」編纂されるのでは?

しかし道教的な習俗は、断片的には相当古くから倭にも伝わっていたと思いますよ。
卑弥呼の「鬼道」とは実質がよく分からないが、道教的なものもすでに何ほどかあったのでは?
渡来人がふるさとの信仰を持ち込んだり、民間人の行き来で伝わったり、とか。

21cm以上の鏡は前漢鏡にもあるので、『抱朴子』の成立前、成立後と
分けるのはおかしい。『抱朴子』が鏡式を分かつ画期とは捉えられないでしょう。
151九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/31(月) 18:35:42
>>147
全部イイエです。
それを念頭にもう一度>145レスを読み返してみてください。
何かが見えてくることでしょう。
152日本@名無史さん:2008/03/31(月) 18:56:15

>>151

>何かが見えてくることでしょう。

支離滅裂のウソつき人間・九州ですが・・・・が見えたぞ
153日本@名無史さん:2008/03/31(月) 19:13:51

>>109

>福岡市今宿五郎江遺跡・大塚遺跡

この遺跡も無視するのだな、九州説は
154日本@名無史さん:2008/03/31(月) 19:46:00
>>150  反論の趣旨は、こんなところでしょうか?
A、「9寸以上の鏡に魔除けの効果がある」という信仰が『抱朴子』以前から存在した。
B、『抱朴子』以前の時期にも9寸以上の鏡が存在する。
C、『抱朴子』が日本に伝わったのは、5C以降である。

Aは、「実証されざる仮説」の域を出ない反論ですね。
舶載説は、『抱朴子』の成立が310年前後であるため年代が合わないと反論しても、
それ以前に「9寸以上」の思想が存在したとは言わない(例:西川)でしょう。
「300年以前の中国での神獣鏡が概ね9寸以上である」という事実も存在しませんね。

Bは、日本で三角縁神獣鏡のサイズが「選択的」であることに反論できませんね。
三角縁は同時埋納された鏡とも大きさが異なり、明らかに大きさが選択されています。

Cは、日本での三角縁神獣鏡の埋納状況は、魔除けとして棺外に立てかけるという
置き方ですので、思想が伝わっていると考えるのが素直でしょう。
思想が伝わるのに、ご大層な経典や正規の使節の派遣も必要ありません。
むしろ、吉祥文の背景思想が何一つ伝わっていないという方が不自然ですね。
155九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/31(月) 20:15:05
三角縁鏡は中国で特注したと言うのなら100枚の筈が500枚も出て
しかも魔よけ程度に被葬者の足元に30枚もまとまって出てくるなどに至っては
とても魏王が「汝によいものを与える」ありがたく思うようにと謂う文とは符合しない。
156日本@名無史さん:2008/03/31(月) 20:49:48
>>155
だから「三角鏡は卑弥呼の鏡じゃない」ってのが
畿内説側でも主流なんでしょ、今は。
157日本@名無史さん:2008/03/31(月) 21:34:26
そうなんです。新井某サンにさんざんやりこめられて、三角縁が邪馬台国云々など
畿内説の学者さんもいわなくなりました。
158日本@名無史さん:2008/03/31(月) 21:40:22
>>155
魏王?
159日本@名無史さん:2008/03/31(月) 22:31:17
三角縁を国産として、製造されてすぐに流通したとすると

A、同型のものはほぼ同時期に流通した(特に同じ大きさのもの)。
B、同型の三角が埋納された古墳の年代差は、三角縁を入手してから
  亡くなるまでの期間が人により違うからと考えられる。

よって
C、三角縁は初期のものと後期のものが同時に埋納される例があるから
  (新山、佐味田宝塚)、初期〜後期までの期間がせいぜい1世代半位である。

三角縁の短期編年説はこんな根拠を述べていますが、この年代観に従えば
三角縁の製造・流通開始は340〜360頃になる。
・・・この考えも年代遡上説にかなり不利だよね。
160日本@名無史さん:2008/03/31(月) 23:21:44
三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だと誰が言い出したのか、その根拠はなんだったのか
それも問題だな。
最初に話題になった椿井大塚山古墳でも、たくさんの三角縁神獣鏡に一枚の
画文帯神獣鏡。画文帯の方が重要視されているというのはわかっていたと思うの
だが。
161九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/03/31(月) 23:35:51
椿井大塚山古墳では32枚黒塚古墳では33枚の三角縁神獣鏡が出土してる。
製作編年を考慮しても全く洛陽でこれらと同じものが鋳型さえ出ないのは
特鋳説も信じがたい。
162日本@名無史さん:2008/03/31(月) 23:58:54
あんた人の話を全く聞かないんだな。
163日本@名無史さん:2008/04/01(火) 00:14:01
>>160
椿井大塚山古墳は、以前は4世紀後半とされて、古墳形状や土器から
年代遡上が極めて困難とされてきた。
石野も年代遡上説を言い出した頃は、この古墳の遡上は困難として、
4世紀後半の古墳である言っていた。

しかし、これを遡上させないと年代遡上説が成り立たないと分かって、
石野は今では290年頃とピンポイントで年代を指定している。
土器も布留1〜2とされてきたのが、一挙に布留0にまで遡った。

理論の幼稚さでは年代遡上説と三角縁舶載説は似たようなものだね。
164日本@名無史さん:2008/04/01(火) 00:32:52
>>159
>三角縁の製造・流通開始は340〜360頃になる。

つうことは景初三年(=AD239)の紀年銘を持つ神獣鏡は
ほぼ百年前の年号を、それと知らずに作っちゃったって事?

・・・んなアホなw
165日本@名無史さん:2008/04/01(火) 00:49:57
>>159
>B、同型の三角が埋納された古墳の年代差は、三角縁を入手してから
>  亡くなるまでの期間が人により違うからと考えられる。

考えが雑だね。
鏡を入手しても、所有者が亡くなると、それはすべて墓に副葬されるものかどうか。
そこをもっと考えてみてくれ。

まあ副葬されるとしてもだ、もし遺族の間で
≪これをいますべて埋納してしまうと、もう二度とわれわれは拝めなくなる。それは惜しい≫
との意識が働けばどうなる?

埋納の前に鏡に粘土を押し当て型取りさえしておけば、あとでいくらでもコピーの鏡が制作できる。
いわゆる踏み返し鏡だ。職人に頼めば型取りはすぐにでもやってくれるだろう。
そうするとさらに1世代長く伝世される。
コピーを2枚つくれば、子と孫に渡ることも可能性としてはある。
コピーのコピー、そのまたコピーといった可能性も、頭ごなしに否定はできない。

>>161
三角縁神獣鏡は砂型(粘土型)だよ。
銅が固まって取り出すとき、鋳型はぐしゃぐしゃに取り壊される。
壊さないと取り出せない。実験で確かめられている。
俺も三角縁神獣鏡の多くは国産とする森浩一説に賛成だが、
鋳型の出土の有無をその論拠にするのは論証の方法として無理がある。
日本でも三角縁神獣鏡の鋳型は出ていないし、今後も日中双方、永久に出ないだろうね。
166日本@名無史さん:2008/04/01(火) 00:54:13
つまり△は決定的な証拠にはなり得ないってことだよ
幾らでも憶測ができるんだもの
167日本@名無史さん:2008/04/01(火) 01:02:22
>>165
>三角縁神獣鏡は砂型(粘土型)だよ。

それって、研磨をしていない、所謂 『鋳ばなし』 部分の分析とか科学的根拠あるの?

いや「三角縁」って言うのは、型から抜く時容易にする為だと思っていたからw

168日本@名無史さん:2008/04/01(火) 01:14:31
>>167
東大阪市の町工場のおじさんが、その種の鋳造実験考古学を精力的にやって
優れたレポートを出してくれている。
ホームページもあるんだが、いまちょっと見つからない。
探して明晩にでもリンクしておくから、それを参考にしてくれ。

しかし、あんな複雑微細な文様が、石製鋳型に彫りつけられるとでも思っていたのか。www
169167:2008/04/01(火) 01:17:32
>>168
ありがとう。
まあ、暇な時、気が向いたらで良いからw
170九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/01(火) 01:31:13
トイレに起きて覗けばあらら鋳型の事で反論がっ。
中国山東省で出土した紀元前2世紀後半の土製銅鏡鋳型が、
青銅を流し込む際に割れてしまうことを防止するための砂粒を含まず、
籾殻灰を混ぜることによって、ひび割れを防いでいたことがわかった。
砂粒を含まないのは、精巧な文様を彫るのに邪魔になるかららしい。
要するに三角縁が中国製なら鋳型は残っている筈で日本製なら残っていない
という事になりましょうか、
171九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/01(火) 01:35:16
172日本@名無史さん:2008/04/01(火) 01:40:29
>>170
鋳砂(いずな)って言っても粘土質の土の事だよw
本当に砂なんか使ったら表面に付着しちゃうだろ?w

籾殻灰を混ぜた鋳砂が鋳型として残る??
ワケノワカランコトヲ・・・
173172:2008/04/01(火) 01:44:29
>>171
あらら、そう言う事か。
ゴメン>>172の発言は下げるw
174九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/01(火) 01:45:59
>>172本当に砂なんか使ったら表面に付着しちゃうだろ

少なくても現代工法では砂を使うみたいよ>171のソース参照
中国・山東省で見つかった前漢時代(紀元前2世紀後半)の
土製の銅鏡鋳型78点を調べたところ、ほとんどが
現代の工法とは異なり、材質強化用の砂粒を含んでいない」
175日本@名無史さん:2008/04/01(火) 02:00:17
>>164
紀年は後世に魏志、魏略やそれの元になった文献等を参照して書かれたのでしょう。

紀年鏡は三角縁では後半期ころに製作されているけど、それを実年代とすると
  50頃(製造開始)〜239年(紀年鏡)〜400頃(終焉期)
となりますよ。

そこで、紀年鏡を原初期の鏡とする説もありますが、まあ、無理です。
出土する古墳も最古のものとは到底言えない。紀年鏡だけ伝世とかも無理です。
文様形式も図面の抽象化の点からも後期というのは動かないでしょう。

ちなみに、国産説かつ短期編年では、
  350頃(製造開始)〜370〜380頃(紀年鏡)〜400頃(終焉期)
となります。

七支刀などの半島との交流の時期に文献が来て、その時期に紀年鏡が作られたと
いう形で自然に理解できると思います。
176九州王朝大好き:2008/04/01(火) 02:05:47
>>170
日本では精巧な模様を出す為に、ガス抜き材として籾ではなく糠を使ったようだ。
鋳物関連の人物名に「糠」の字が使われている。
177九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/01(火) 12:11:25
>>176
なるほど、日本の製法は謎だもんね。
178日本@名無史さん:2008/04/01(火) 12:44:12
>>175
ちなみに舶載説の岡村は、239紀年鏡が240紀年鏡より文様の抽象化が
進んでいることを率直に認めて、超短期の超大量生産のなかでの逆転現象と
していますね。

(岡村編年)
  239年〜240年・・・・・・(ちびちびと伝世・配布)・・・・・4世紀後半(国産開始)
(魏で超大量生産、数千枚)

ネタではなく素でこれが正しいと考えるほどの知能なのか疑問に思う。
179日本@名無史さん:2008/04/01(火) 13:24:18
>>176鏡は銅を原料にしてつくられるので、鏡職人には銅の字がつかわれています。
180九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/01(火) 18:12:14
日本の銅の生産地に「呉」と言う名前が付いているのも興味深い。
181168だが:2008/04/01(火) 21:26:42
168だが、昨夜>>168でレスした町工場のおじさんがやってる実験考古学のページだ。

■古代史へのいざない 児見山 繁
http://www4.ocn.ne.jp/~komiyama/
まん中より下に児見山さんの経歴とかがある。

きのう忘れてたが、「邪馬台国大研究」サイトの井上のオヤジさんが
この「実験考古学・上田工房での鏡づくりを取材してレポートしていた。このページ。

■邪馬台国大研究 古代鏡製作
http://inoues.net/study/takaida.html
少し引用。
≫まだ熱かったが、待ちきれないので鋳型を割っていく。
≫だんだん文様が姿を現してきてワクワク。鋳型はコナゴナになる。
≫「同じ鋳型を二度使って鏡を造る、などという事は絶対ありえない。」と
≫どの職人さんも言う。

≫記念に貰ってきた鋳型のかけら(上右)。鋳型は砂がボロボロで今にも割れてしまいそうだったので、
≫帰宅してすぐ両面いっぱいにセメダインを塗りつけたら、翌日にはカチカチになっていて・・・


それから古代の冶金関係ではこのリンク集が便利。

■冶金の曙 (資料庫−Web関係 )
http://www.geocities.jp/e_kamasai/shiryou/shiryou2.html

これでみると「二上古代鋳金研究会」はサイト消滅したみたいだな。
二上古代鋳金研究会は町工場おじさんじゃなく、アカデミーな共同研究チームだったが。

児見山さんや上田さんのような方は、少々トンデモがあっても、大学人とはまた別の
得がたい技能や知識をお持ちなんだから、できるだけアカデミー側から研究協力を求め、
きちんと研究費用も出してあげたらいいのに、と思うね。
182日本@名無史さん:2008/04/01(火) 22:49:46
2番目のリンク先から進んだところにある。
<三角縁神獣鏡の謎>
http://inoues.net/mystery/3kakubuchi.html?

は結構良いと思うけれど、「これは謎かもしれない!」の部分が・・・
あれは外区文様が三角縁と違うから、「三角縁」の定義に入らないよ。
リンク先の上の方で三角縁の説明をしているのに・・・
183日本@名無史さん:2008/04/01(火) 23:25:50
>>182
あなたの言いたいことは私には解るが、
ともかく用語を勝手に縮めちゃだめだ。

>リンク先の上の方で三角縁の説明をしているのに・・・

説明がされているのは「三角縁神獣鏡」についてだね。

184九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/01(火) 23:29:26
三角縁神獣鏡って長くて面倒なのよね。隠語って無いのか知らん。
例えばブチとか。
185素人にはお勧めできない:2008/04/01(火) 23:44:43
>>184
つ△


186九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/01(火) 23:48:19
三角を出すのが面倒。
187日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:03:53
ズボラなヤシばかりだなw。

「三角」「△」だけでは神獣鏡を言ってるのか盤龍鏡、車馬鏡等も含むの
か分からんだろ。

2ちゃんは詳しいひとだけじゃなく初心者も興味を持って見に来るから、
誤解されないように用語はなるべくきちんと書こう、
188九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/02(水) 00:12:40
盤龍鏡、車馬鏡等も含むの か分からんだろ

そのくらい解るわな!三角縁神獣鏡だけが三角マークという事くらい。
その他は区別して書かないとどれを指して言ってるんだか誰も解らない。
189日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:18:12
初心者も興味を持って見に来るから、理解できるような書き込みしろだって?

ざけんなよ!
見て分からないなら、見て分かるように努力すればいいんだよ。投稿する奴が気ぃ使って書き込む必要なんて何処にもない。
変に優しくすると、今後ますます付け上がり、全然努力もせずクレクレ君を増強させる事にもなる。
190日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:18:30
ぼくはしょしんしゃでつ
いままで「△鏡」とかいてあったらそれは
ふちのだんめんがさんかくけいのかがみの
ことだとばかりおもっていましたでつ
191日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:19:11
>>175
>紀年は後世に魏志、魏略やそれの元になった文献等を参照して書かれたのでしょう。

マジっすか?

「おっ百年ぐらい前に我国の卑弥呼って女王が魏の王さんから鏡もらったらしいで〜
 んじゃあ年号入れて、それっぽいの作るべwww」
・・・みたいな?w

じゃあ画文と三角を埋葬しているのは、画文が大陸で伝世して日本に入ったか
日本国内で伝世したか、何れにせよ百年以上して、当時大量に出まわっていた三角と一緒に埋葬されたと?

それに景初四年の盤龍鏡とかリアルタイムで作ってなきゃあり得ないチョンボ(フライング)している鏡もあるしなぁ・・・

土器編年からの古墳の年代確定→埋葬されいる紀年鏡の埋葬時期を確定
・・・って言うのは順序が逆じゃね?
無論、伝世の可能性や、そもそもその鏡が後世に年号も丸ごとコピーされた物と言う可能性etc...考えなきゃならんだろうけど。。


192日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:19:27
ほら見ろW
193日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:24:35
ぼくもっとしょしんしゃだよ
△はまあるくなくて
しかくでもなくて
さんかくけいのかがみかなって・・・w
194日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:29:50
鏡は駅の階段で使う物だ
△だろうが□だろうが、中身さえ見えればいいんだ。
195日本@名無史さん:2008/04/02(水) 00:33:19
>>194
植草一秀さん深夜に乙です。
196九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/02(水) 00:41:45
>紀年は後世に魏志、魏略やそれの元になった文献等を参照して書かれたのでしょう。

確かにそれだけと決め込むのは冒険だけど色々いたんじゃないの。
陳氏は一人じゃ無く工房とすれば結構な人数いて。洛陽が荒廃して魏に渡った者もいただろうし。
倭国に来た者もいたろうし。とすれば呉の年号を記す者も魏の年号を入れるものもいたろうし。
まあ大体魏が宗主国みたいなもんだから魏の年号を書くのが普通だろうけど。
倭人には年号は関係ないから余分なものなんだし。
197日本@名無史さん:2008/04/02(水) 01:38:16
古いものが珍重されるということはたしかに古今東西あるんだが・・・・


しかしたとえば古文書でも書画でも

「文政、天保、・・・・、フム。新しいですな。ま、ウチではお引き取りできまへん」

「あ、これは元禄ですな。では、一万円ぐらいで手を打ちまひょか?」

「うおおおお!! な、なんと、貞観! 譲ってくだされ! 五千万、出しますさかい!」

みたいに、ありきたりのものがたくさんあるから古いものが尊重されるわけで・・・・

(だから贋作が行われる)


4世紀、東晋の「永和 」なり「太元」などの年号を記した紀年鏡がたくさんある中に、

古い魏代の「景初」「正始」などの紀年鏡がわずかにある、という出土状況なら

骨董的価値を付加するために鏡師が紀年を偽装(贋作)し、それを首長クラスが掴まされた、

と見る考えもあっていいかもしれないが、出土している紀年鏡の年号分布状況は

そうはなっていないんだな、そこが引っ掛かる・・・・


>>175の主張に従うと、まるで「いかにも紀年を偽装しました」みたいじゃないか・・・・

(ひょっとして>>175は、古墳の被葬者一族も偽装知った上でのこと、と考えているのだろうか)
198日本@名無史さん:2008/04/02(水) 03:31:48
>>191
逆に考えてみると分かるよ。
200〜400頃の長い期間のなかで日本で出土する紀年鏡が
特定の狭い時期の数個の年号に集中する不自然さがある。

特に紀年鏡出土の古墳は、年代遡上が出来ない4C後半以降の
狭い時期のものに集中するという点も見逃せない。

和泉黄金塚の景初三年銘画文帯は、日本でしか出土しない同向式であり
(中国の同向式は外区が異なる)、それ自体国産の可能性が高い。
神原神社の景初三年銘△は、550枚以上出土する△のなかで10数枚しか
存在しない同向式で文様は和泉黄金塚と類似し、偶然とは言えない。

同位体比では、鏡種や年号に関係なく、2グループに分けられるので、
一方又は双方がウソ年号と科学的に確定できる。
199日本@名無史さん:2008/04/02(水) 04:08:34
「Wiki」より古墳時代の紀年鏡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%8F%A1

魏の年号の銘が入った紀年鏡
 青龍三年(西暦235年)方格規矩四神鏡が2面。
 景初三年(西暦239年)三角縁神獣鏡と平縁神獣鏡、画文帯神獣鏡(大阪府和泉市黄金塚古墳)が、各1面づつ。
 景初四年(年号は正始に変わり存在しないが西暦240年を指す。)三角縁盤龍鏡2面。
 正始元年(西暦240年)三角縁神獣鏡3面。

呉の年号の銘が入った紀年鏡
 赤鳥元年(西暦238年) 平縁神獣鏡が1面。
 赤鳥七年(西暦245年) 平縁神獣鏡が1面。

晋の年号の銘が入った紀年鏡
 元康?年(291〜299年)の平縁神獣鏡が1面。
 
200日本@名無史さん:2008/04/02(水) 13:54:36
>>198
>同位体比では、鏡種や年号に関係なく、2グループに分けられるので、
>一方又は双方がウソ年号と科学的に確定できる。

意味不明
同位体比で鏡の制作年代がわかるとでも?

2グループに分けられようが5グループに分けられようが
同位体比で年代など一切わかるわけがない。

まさかと思うが、同位体比が近いと年代も近い、とか、
同位体比が異なると必ず年代も異なるとか、妄想しているのか
201日本@名無史さん:2008/04/02(水) 21:55:33
>>200
異なる年号の鏡が同時製造となれば、
どっちかか両方がウソ。
単純な話だお。  新井を読もう。
202日本@名無史さん:2008/04/02(水) 21:55:38
鏡よ鏡よ鏡さん、
邪馬台国はどこにあったの?
203日本@名無史さん:2008/04/02(水) 22:10:52
>>196
ですがさんの考えは、リアルタイムで呉の職人が日本で製作したという
紀年=製作年という説でしょうか?
王仲殊の説もそのように理解できる部分がありますね。

そうなると、以下の事実が問題になります。
1、リアルタイムの墳墓、古墳から出土していないこと。
  国産となれば伝世論は成り立たないので、その点で紀年が正しくないという
  結論が支持されます。

2、紀年鏡が△の変遷の原初に位置づけられないこと。
  紀年鏡=△の原初鏡説も一部ではありますが、かなり苦しい説です。
  紀年鏡は文様の抽象化の過程では、明白に後期以降に位置づけられます。
204九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/02(水) 22:20:45
出土物の内容から4世紀以降と判断できる古墳から
比較的早い時期の鏡が出て古墳の年代と合わない事があるが
作ってすぐ埋めたとは限らない。持ち主が権威の為に保持していて
死した後埋めたとすればそこには2〜30年ほどのズレが生じる。
205日本@名無史さん:2008/04/02(水) 23:25:21
三角縁は葬儀に際し作って埋納したのです。比較的早い時期の鏡がまじっているのは、
古い鏡(原盤みたいなもの)をコピーしたからです。
206日本@名無史さん:2008/04/02(水) 23:47:44
>>204
生前に入手して、葬儀で埋めるまで2〜30年の時間差というのは同意。
逆に言うと、それ以上に伝世される鏡は大幅に減ると思う。
207日本@名無史さん:2008/04/03(木) 00:16:06
>>198 >>200-201

てか同位体で分かるのは精々産地では?
208日本@名無史さん:2008/04/03(木) 00:56:45
>>207
同位体比の近接性が強い場合は、やっぱり同時製造と考えるべき。
例えば、砂浜でコインが2枚隣り合って落ちていたら、同時に落としたと
考えるよね。

逆に、銅の産地については、確実性が低いと思う。
製造工程で添加する鉛によって、原料の銅に含まれる鉛の同位体比とは
違う数値が出るので、確実性が低くなる。
中国出土の鏡と比較するまでは、参考程度のものだろう。
209日本@名無史さん:2008/04/03(木) 07:21:23
青銅製品において成分比(銅・鉛・錫)や鉛の同位体比などは、
鋳造時使われた原料成分のみに左右される値である。
いつ鋳造された、どこで鋳造された、などとは無関係である。

鋳造工房には青銅材料のストックがあっただろう。
地金もあったろうし、過去の不良鋳造品、持ち込まれた廃品等もあっただろう。
そこにおいてある日、午前と午後に鋳造を行い、1個ずつ製品を造ったとする。
しかし2回の鋳造で違う原材料を選んだならば、成分比も同位体比も異なってくる。

よって同位体比は、鋳造年代の指標にはならない。

またある日、少し多めに熔銅(湯)を用意し、二つの鋳型に流して
2個の青銅製品を造ったとする。(甲と乙)
これらは成分比・同位体比は完全に一致する。
100年後、その製品の1個(乙)が「不用品」となり、どこかの工房へ持ち込まれる。
それを原料として溶かし何か別の製品を造ったとする。(丙)

この新製品(丙)は100年前の製品(甲)と同成分だから、鉛同位体比は同一である。
(厳密には金属の融点の違いにより成分比は少し変化する。鉛同位体比は一緒)

同位体比が同じだと鋳造年代も同じ、制作地も同じ、などと言うのは誤謬である。
210日本@名無史さん:2008/04/03(木) 15:57:07

鏡の議論は重要なんだろうけど
難し過ぎて正直、付いて行けないす。トホホ・・・

できましたら話題転換をキボンです。
いよたんの話題とか、なんでもいいけど・・・
211日本@名無史さん:2008/04/03(木) 17:23:19

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならない。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられうる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
212日本@名無史さん:2008/04/03(木) 18:12:05

イヨタン・・・・・・・・・・・・
213日本@名無史さん:2008/04/03(木) 20:07:15
>>153
>>福岡市今宿五郎江遺跡・大塚遺跡
>この遺跡も無視するのだな

無視はよくないよ。無視されないように、リンク張っておくね〜。ww

★伊都国を支えた大型環濠集落を発見(8月1日発表) 2007年8月1日 福岡市教育委員会
http://www.city.fukuoka.lg.jp/shicho/hodo/shisei/018.html
★記者発表資料 (pdf 1,680kbyte)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/5894/1/kishahappyousiryou.pdf

★今宿五郎江遺跡(現地説明会があるというので行ってきました)だってww
http://itoitokoku.hp.infoseek.co.jp/imajilyuku.html

★大型環ごう集落を公開 08/04 20:23 RKBニュース(動画だよ〜。イヨタンみたいなアナウンサー。ww)
http://news.rkb.ne.jp/rkb_news/media/asx/7112_02.asx
214日本@名無史さん:2008/04/03(木) 20:10:11
つづき〜。ww

★伊都国初 環濠集落を確認 今宿五郎江・大塚遺跡 (糸島新聞社)
http://itoshima-np.co.jp/back/backnum/2007/backnum_0809.html

ちょっと引用させてね〜。ww
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 北側に不明確な点が残るが、 東西約200m、 南北約270m、 総面積約4・2haの大規模集落が、 だ円形の環濠で囲まれていたと推測できる。弥生時代後期には埋まり始め、 同時代終末には埋没して溝の機能を失った。

 今宿五郎江遺跡の調査では、 中国・新の貨幣 「貨泉」 や後漢鏡、 小銅鐸、 線刻文様のある木製の短甲や漆製品などが見つかっている。
 今回の大塚遺跡の調査では、 環濠の東端から内行花文鏡の破片(長さ約五a)が出土。 破断面を研磨していることから、 権威の象徴として用いられた 「破鏡」 であった可能性が高い。
 朝鮮半島の楽浪郡一帯で製作された楽浪系土器も出土し、 大陸との交流を物語っている。

 山陰、 瀬戸内、 近畿、 東海地方の土器なども見つかっていることから、 同市教委は、 大塚遺跡から今宿五郎江遺跡にまたがる弥生時代後期のこの環濠集落が、 国内外と広範に交易、 交流していたことを物語り、
倭の対外交渉の窓口としての役割を果たした伊都国を支えていた可能性が極めて強くなったとしている
215九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/03(木) 22:13:58
5月5日は「めざましテレビat熊本城」(異例の出張放送)
熊本城築城400年祭とめざましテレビ15周年のコラボ企画
熊本城特設スタジオから番組まるごと全国生放送。

これは期待している。熊本のことが全国で注目されるというのは何年ぶりだろう。
216九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/03(木) 22:15:30
あら、書き込むとこ間違っちゃった。
217九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/03(木) 23:26:03
ところで「破鏡」という風習は現代の何に残っているのだろう。
「死んだ人の茶碗を玄関で割る」それとも正月の「鏡割り」。
これは酒樽だろうが元々は弥生時代に遡るのではないか。
218日本@名無史さん:2008/04/04(金) 00:41:45
そう言えば纏向からは△1枚も出ていないんだよな。
でも景初四年なんかリアルタイムで製作されたとしなけりゃ説明つかないし。。

ところで話は変わるが三種の神器の「ヤタの鏡」ってそのデカさ
(つっても正確には分からないが)からいって国産鏡だよね?

219九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/04(金) 01:12:52
景初四年鏡は中国の当時の元号を定めるしきたりからしても絶対にありえない事らしい。
やはり間違ったとしか考えられない。なぜ間違ったかが問題で職人が倭国にいたか
はたまた中国にいて知らなかったかだが前者は正始元年の使者の帰国以前に作られていたかであり
後者は試験的に造られたものが倭国に渡った物であるかどうかだろう。
220175:2008/04/04(金) 02:31:21
紀年鏡が370〜380頃に作られたという私の考えからは、

1、当時日本に来ていた書物に景初三年に朝貢して、翌年に鏡を貰ったと書いて
 あったので、単純に足し算をして「景初四年」の鏡を作った。
2、当時日本に来ていた書物に、「景初四年」に鏡を貰ったと書いてあった。

のどっちかになります。おそらく2ではないかと考えています。

古墳出土の紀年鏡の年号は、青龍三年(235)、景初三年(239)、景初四年(240)、
正始元年(240)、赤烏元年(238)、赤烏七年(244)で古墳と年号の時代差が大きい。
これは後世に存在した書物に書かれていた年号を記したからでしょう。

これらが日本に由縁のある出来事の年号とすると、魏志、魏略に書かれていない
事柄を記した書物(現存しない)が当時は存在したと考えています。
221日本@名無史さん:2008/04/04(金) 03:07:10
>>220
うーん1にせよ2にせよ苦しいねw
あと「赤烏」年号の由来を未知の書物に求めるのもw

問題は古墳の築造時期と年号のズレかぁ・・・

4世紀中頃〜後半と言うと三輪から河内への移行時期か?

ひょっとして配布元の三輪朝の威信低下と共に△の威信財としての価値も低下。
実は過去の遺物として”廃棄”的意味があった?w
・・・なんて仮説は無理っすか?www

222ローガン:2008/04/04(金) 15:38:15
景初4年銘鏡が国産だとして…

もし明帝が景初3年末崩御なら、その知らせが倭に伝わる時間差で、「景初4年」銘が入った可能性はあると思います。
しかし死んだのは3年1月1日ですね。
一年間以上その死が倭に伝わらなかったとは考えにくいように思います。
私は倭人や倭にいた呉人がこの鏡を作ったというお話を支持できません。

勿論、3年末頃には倭だけでなく、半島や中国本土において改元は周知の事だったでしょうね。
しかしながら、「景初4年」銘鏡があると云う事は短期間とは思いますが、「景初4年」はあったのでないかなあって考えます。
短期間ゆえ、「4年」の事を知り得たのは、作鏡者がリアルタイムに魏国内にいたからではないかと思います。
223日本@名無史さん:2008/04/04(金) 16:59:11
鏡で邪馬台国の所在地が分かるのかな。
九州にあった邪馬台国が中国から鏡を輸入して征服した本州にばらまいた。
九州にあった邪馬台国が国内で作って本州にばらまいた。
どちらだって可能だね。もちろん、邪馬台国が近畿だって同じく可能だ。
224日本@名無史さん:2008/04/04(金) 22:24:28
(基礎知識)
景初4年銘鏡は、2面出土している。いずれも盤龍鏡。
縁は斜縁で外区は△と同じであるので、△の盤龍鏡とも言える。
京都府福知山市の天田広峯遺跡(15号墳)と、(伝)宮崎県出土の2面。
広峯15号墳は、400年前後のものとされる。

2面の同位体比は近似するが、同時とするには近似度が若干低い(新井)。
宮崎のものは、京都のものを踏み返す際に文様を補っているようである(西川)。

「踏み返し」は日本でのみ頻繁に見られる現象であり、両者とも国産でしょう。
225日本@名無史さん:2008/04/04(金) 22:51:03
一般的に言えば、出てくる鏡よりも、まだ出てこないものあるいはすでに
盗掘されているものの方が圧倒的に多いと思われるから、もっといろんな
年号の鏡が作られていた可能性も十分あると思う。

その意味では、出てきたものが、卑弥呼が魏に使者を送り、関連を持って
いた「景初」や「正始」のほか、景初以前の「青龍」や当時の呉の年号である
「赤鳥」があるところを見ると、当時の倭人は、中国の年号に案外詳しかった
のかもしれない。

意外に、当時の倭人は、中国の年号に慣れ親しんでいた可能性もあると思う。
年号は興味を引くものだし、採用するのはぜんぜん難しいものではないし。
226日本@名無史さん:2008/04/04(金) 23:02:02
>>225
今後出てくる可能性のある年号としては、「中平年」を予想します。

東大寺山古墳出土の中平年刀は、出土した古墳の年代と紀年との差からは、
△と同じように伝世とは考えにくく、国産の可能性が高いと言えます。
また、出土した刀が9本と多いため、全部が伝世と考えるのはまず無理です。
同時に出土した家形の環頭の刀は、佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡の
図形と類似していることから、これは確実に国産です。

「中平年」は卑弥呼の共立に関る年号として、後世の紀年鏡に書かれる
可能性はかなり高いと言えます。
227九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/04(金) 23:19:40
>>225
それはどうかな。倭人には漢字は解らない。意味も解らない。
ただ鏡の霊あらたかなるを有難がっていただけに違いない。
漢字は模様と同じ感覚で受け止められトレンディーなものだった。
228日本@名無史さん:2008/04/04(金) 23:44:00
むしろ当時の中国が大量に作ってしまった失敗作をあげただけかもしれんし、
たまたま失敗作が混じっていてそれを倭人が模倣したのかもしれん。
229ローガン:2008/04/05(土) 00:08:01
>>226
そうですね。同意します。柄はおそらく国産でしょうね。
230 サガミハラハラ:2008/04/05(土) 00:22:32
>>226
私も同意です。中平年は卑弥呼が中国に朝貢して即位の承認を求めた年で、現在うしなわれている中国の
書物にそのことがかいてあり、大和でそれをよんだ人(工人)が刀にきざんだのだとかんがえています。
231日本@名無史さん:2008/04/05(土) 07:24:00
>>226
中平年間(184年〜188年)にそのような鉄刀が日本に渡ったという記録は、後漢書
にも倭人伝にも、その他の中国の歴史書にもないようだから、その時期に日本に
来たのではなさそう。もし、あったら、奴国の王の金印や、帥升のことが書かれて
いる後漢書には載っていそうだし。

また、倭人伝の記述を見ると、卑弥呼が最初に使者を帯方郡に送ったのは、
景初三年(239年)だと思われるので、もし、本当に中国からわたったとすれば、
それ以降ということになるのかな。

しかも、その鉄刀が古墳に納められたのは、中平年間よりも200年も後。
やはり、日本製かな? としたら、やはり4世紀かな。

>>227
一貴山銚子塚古墳の三角縁神獣鏡の銘文は、鏡文字になっている。
これは、鏡を作るとき、鋳型に普通に文字を刻んだためにそうなった。
中国製でそんなことはありえないので、これは日本製。
つまり、鏡を作った人は文字を理解していた。また、他の人が文字を知らないと
入れる意味が無いので他の人も理解していた、と解釈される。
232日本@名無史さん:2008/04/05(土) 08:52:24
>>231
>鏡文字
>中国製でそんなことはありえないので

ほんとうですか?
233ローガン:2008/04/05(土) 09:18:24
左字の事でしょうか?
あったと思いますが。
234日本@名無史さん:2008/04/05(土) 10:29:21
中国でも方格規矩鏡の方格がゆがんだものや干支の省略が
あるから、それだけでは国産とはいえないとされる。
235日本@名無史さん:2008/04/05(土) 12:02:38
完成品を買うより工人を連れて来て大量生産した方がCPが良い。
236日本@名無史さん:2008/04/05(土) 15:08:33
鏡文字というのは、印鑑を想像すればわかりやすい。押印したときにちゃんと
読める文字にするためには、裏返し(鏡文字)に彫らなくてはならない。

銅鏡も同じで、鋳型の文字は裏返しの文字でないと、出来上がった銅鏡の文字は
鏡に映した文字のように逆になってしまう。
237日本@名無史さん:2008/04/05(土) 16:41:09
卑弥呼は金八両を賜ったそうだが・・・
畿内から一貴山銚子塚黄金鏡のようなものは出土してるのだろうか。
238日本@名無史さん:2008/04/05(土) 19:53:08

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が、既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならない。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられうる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
239ローガン:2008/04/05(土) 20:21:00
>>231
中平刀については金関さんの説を支持しています。
240日本@名無史さん:2008/04/06(日) 02:26:12
中平年刀か・・・

まあ燃料用のネタ投下しておくと武光誠と言うセンセイ曰く
畿内大和が九州邪馬台国を滅ぼした時、春日氏が戦利品としてガメったとかw
241日本@名無史さん:2008/04/06(日) 10:22:08
あの先生も無茶苦茶ですなあ〜。
242日本@名無史さん:2008/04/07(月) 18:53:33
>>234
5C以降の古墳からも方格規矩鏡、内向花文鏡、画文帯神獣鏡・・・etcが
出土しているけど、日本製と区別する基準はどこにあるのだろう?

基本的には、総合的な判断ということか。
A、文字が文様化している。
B、干支の位置がでたらめ、干支の一部に省略がある。
C、方格にゆがみがある。
D、銘文が日本独自のものである。韻をふんでいない。
E、湯口の位置に特徴がある。
F、踏み返しが日本でのみ多数見つかる。
G、出土した古墳の時期が新しく、中国と時期が合わない。
243九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/07(月) 20:27:15
>>242
粗悪な出来のものは踏み返し鏡や模倣鏡でしょう。
かなり出来のいいものは例外として時間差で中国からの渡来人によって
持ち込まれたものを時間差で埋めたものなど数奇な運命を辿った鏡もあるかもしれない。
歴史は人間のすることだから数学で割り切ったようにはいかないと思う。
244日本@名無史さん:2008/04/07(月) 20:31:45
>>243
具体的な例を挙げて下さい。
245九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/07(月) 21:10:15
>>244
大阪府高槻市の安満宮山古墳の青龍三年(235年)という銘文が刻まれた方角規矩鏡は、
三国時代に主に北方の魏の領域で流行した鏡で年号に記された通りの時代に作られたとしたら、
魏と倭との通交が始まる年(景初三年=239年)以前の年号である。
だから後で作られたもの、という考え方が出てくる。
246日本@名無史さん:2008/04/07(月) 22:11:22
>>245 青龍三年(235年)の紀年鏡は2枚ありますね。
A、京都府峰山、大田5号墳出土鏡
B、大阪府高槻市、安満宮古墳出土鏡

・両者とも方格規矩四神鏡
・両者の同位体比は三角縁と同じ領域で、同位体比の近似度が極めて高いので、
 新井は国産で同時製造とする。
・安満宮古墳鏡は、主文配置のずれ、銘帯のずれ、L字文の逆方向などがある。

ということで、両者とも国産ではないかと考えます。
247九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/07(月) 22:21:14
>>246
恐らくそうでしょう。
248日本@名無史さん:2008/04/08(火) 00:49:06
>>246
>青龍三年(235年)の紀年鏡は2枚ありますね。

不正確。3面ある。
もう1面は茨城県の吉川氏(コレクター)所蔵の青龍三年銘方格規矩四神鏡。
249日本@名無史さん:2008/04/08(火) 01:16:50
>>240-241
そう言えば関裕二や武光誠(両者とも九州説)って書店のPHP文庫で良く見かけるけど・・・

PHPつったら松下幸之助の創設だろ?
関西と言う事で畿内説でも良さそうなもんだがw

まあ戦後、松下幸之助は皇學館の再建に寄与したって話もあるし
もしかして本居宣長みたく皇国史観から九州説をプッシュしているとか?www

250日本@名無史さん:2008/04/08(火) 01:20:04
ここも負けずに二つだすか?w

終止符スレに押され気味じゃねーかwwwおい
251日本@名無史さん:2008/04/08(火) 02:29:07
>>250
「次スレを勝手に立てるな!」なんて怒り出す

某ネ申奈川県民みたいなキ○ガイこのスレにはいないべ?w
252日本@名無史さん:2008/04/08(火) 04:09:39
>>250
たぶん、鏡の話題が苦手な人が多いのだろうね。

方格規矩四神鏡も国産があるんだろう。
平原遺跡の方格規矩四神鏡は、以前は中国製といわれていたが、最近は
国産とも言われているらしい。

大型の内行花文鏡を作るくらいだから、技術はあっただろうし。
253日本@名無史さん:2008/04/09(水) 00:43:33
>>252
>たぶん、鏡の話題が苦手な人が多いのだろうね。

まあ正直に言うと俺みたいな初心者には分かりにくいw

ぶっちゃけ各種銅鏡のデザインが文字を見ただけで思い浮かび
自分なりにでも年代順に整理されてりゃ良いんだろうが・・・。

無論幾つかの銅鏡はカラー図版で見て大体イメージできるんだが・・・

主だった物を全て時代毎にカラー写真で網羅したような本があれば良いのだろうが
やっぱ諭吉単位の価格になっちゃうんだろうなw
254日本@名無史さん:2008/04/09(水) 09:41:48

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならない。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられうる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
255日本@名無史さん:2008/04/09(水) 21:52:13
>>253
鏡の議論は理系的な分かりやすさもあるから、入りやすい面もあるよね。
同位体比、図案の変遷、図(神、獣)の抽象化、出土分布の統計・・・
で色々検討できる。

絶対年代の詰めにはどうしても鏡の編年が必要だから避けては通れない
というのもある。
△を国産とするかどうかで見通しが全然違うので、議論としても有益だよ。
256253:2008/04/10(木) 00:47:01
しかし、まさか日本史板で「アイソトープ」なんて単語目にするとは思わなかったわwww
257日本@名無史さん:2008/04/10(木) 01:53:43
>同位体比
結局原料の銅は大陸に依存しているからなあ

ぶっちゃけ漢代の原料と魏晋代の原料を混ぜりゃ△の分布は出せるんだろ?

ぶっちゃけ鉛同位体比の△の分布の一部が魏晋代確実の領域に入っているし
それが舶載でそれ以外が国産とか言う話にもできそうだw

古墳時代の青銅器で△の鉛同位体比と完全に重なる物って無いの?

まあ△は国産だとは思うけど「同位体比」はその決め手になるのか?
素人としてはよく分からないッすw

258日本@名無史さん:2008/04/10(木) 11:32:03
>>257
△について馬渕は同位体比で中国の「徐州」の銅と主張した。
しかし、製造工程で添加する鉛が朝鮮産か国産の可能性が出てきて
それがどのように作用するのか分からない。

銅鐸の中には日本でも採れる自然銅を用いているものがあるので、
△で国内の銅を用いた可能性もある。

中国出土の遺物のデーターが存在しない現状では、原料の地域を
決めることはできないと思う。
259九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/10(木) 21:00:09
同位体比 というのはどれだけ確かなものなのかな?
鋳直した場合、他の種類と混同して鋳直した場合など色んな状況によって
変わって来るのでは。
260日本@名無史さん:2008/04/10(木) 22:33:06
同位体比の数値は複数の研究者の測定結果からは誤差の範囲内です。
よって、数値自体は信用性が高いと言えます。

原料の混ぜ合わせはあるでしょう。
△では混ぜ合わせた結果、同位体比が均一化しているようにも見えます。
均一化した同位体比からは△を国産と舶載に分けるのは難しいでしょう。

あと、画文帯に比べると三角は狭い領域に集まっています。
これは、古い画文帯は△の領域から外れていて、△の領域にある画文帯は、
△と同時期のものという推測も立ちます。

その他の鏡についても、同位体比から国産かどうか、製造時期が△と同じか
どうかについて一応の推測が出来ます。
261日本@名無史さん:2008/04/11(金) 04:58:06
例えば徐州産の銅のインゴットを使えば
中国でも朝鮮でも日本でも同じ同位体比の物が作れる。
(錫や鉛の添加物が判断の決め手か?)

結局、精々「原料産地」は分かっても「製造産地」までは分からないと。。
262日本@名無史さん:2008/04/11(金) 06:51:14
>>261
もし日本にしかない同位体比であれば、国産ということじゃないかな?
日本から中国・朝鮮へ原材料を輸出していなければ。。。
263日本@名無史さん:2008/04/11(金) 11:19:47
>>261
同位体比というのは、銅に含まれる鉛の同位体比。
添加される鉛により元の銅に含まれていた鉛の同位体比が変わる。
鉛は銅の融解度を下げるために加える。
方鉛が取引されていたことは現物の出土で確認できる。
264日本@名無史さん:2008/04/11(金) 22:27:47
日本で国産の銅を使い始めたのはいつ頃だろうか。
水銀朱は、古墳時代より以前から使われている。

古代の朱の産地は日本各地にあるが、朱を探索する過程で他の
鉱物も当然発見したはずであると思うのだが。

三角縁も国産の銅という可能性はないだろうか。
後世の国産銅との同位体比の比較はないのかな?
265日本@名無史さん:2008/04/12(土) 01:13:10
まあ、あり得ないのを百も承知で言うがw

箸墓から△がどっさりこと出てくりゃ一番スッキリするんだがなw
266日本@名無史さん:2008/04/12(土) 01:37:10
△を国産とすると、箸墓は△製造期の直前か直後なので、出るかもしれん。
箸墓をモモソヒメの墓とすると、箸墓で△が出れば、崇神稜でも出るはず。
天神山では△が出なかったことからは、箸墓には△はなさそう。

しかし、△を魔除けの鏡とすると、被葬者の居ない天神山には△をあえて
入れなかったという見方も出来る。

いずれにせよ、垂仁稜、景行稜で出るはず。△の変遷で被葬者の推測もできるので
被葬者の確定にもつながる。

とにかく発掘させてほしいね。
267日本@名無史さん:2008/04/12(土) 03:43:39
>>254
稲作は日本(アジア太平洋諸国)から大陸に伝わった可能性もあるよ

稲作と麻作と畑作は別に大陸から渡って来たって決め付けない方が良いよ

そもそも中国大陸より日本のが稲作に対する技術も文化も優れてるよ


稲作っても水路作ったり農地開拓しなきゃ無理な訳で、中国大陸はそういった面でも最近まで途上国だった国だよ
268日本@名無史さん:2008/04/12(土) 03:57:16
新しい科学や新しい発見で変わってくるから
そこを柔軟に受け入れる度量が無いとどの分野でも生き残れないと思うけど
意固地な人っているよね
269美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/12(土) 04:03:29
>>268
新しい発見っても、歴史だと「それをどう解釈するか」見たいな事になっちゃう気がするよ

例えば福岡だかで発見された「倭漢国王」とかの金印
あんなのも解釈しだいでなんとでも言えるし
270美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/12(土) 04:10:53
つかまずはちゃんと日本の古い書物を読み解く事だと思うよ

もし稲作が大陸から渡って来たのなら、いつ頃、大陸のどの氏族が伝えたかとか書いてあるだろうし

ちなみに「絹(蚕)」の伝来はちゃんと書いてあるよ
蚕は大秦(ローマ)からシルクロードを渡って来た秦氏から日本にもたらされたもの

稲作や麻作はそれ以前から日本にあったんだから大陸から来た訳じゃ無いと思うよ

あっちは稲じゃなく麦のイメージがあるし
271美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/12(土) 04:32:42
ちなみに「邪馬台国」って、単に弥烏邪馬国の事じゃないの?

弥烏邪馬国とかは神功皇后とかの命を受けた日本人(倭人)の氏族が治めてた国であり土地だしさ


当時の日本の朝廷が「屯家(みやけ)」って呼んで治めてた土地にある国だよ
272日本@名無史さん:2008/04/12(土) 05:23:24
>>266
>しかし、△を魔除けの鏡とすると、被葬者の居ない天神山には△をあえて
>入れなかったという見方も出来る。

こうした考え方は、歴史の探究では、とくに資料の乏しい古代史においては
きわめて大切な態度だと思う。
資料が乏しいから想像力が必要なのだが、歴史の想像力とは、夢想することではない。

よく、自分勝手に作り上げた古代ストーリーを信じ込んで
「これしかない」とばかりに提示する輩がいる。
それは単なる夢想であって、真正な「歴史の想像力」ではないのだ。

△鏡がなかった天神山古墳は、△鏡の流通以前の築造だと短絡に考えるのではなく
>>266さんのように別のケースも考え、用心に用心を重ね、複眼的に見ていく・・・・

歴史に対する真正な想像力とは、このように「さまざまな場合を考えてみるる」ことに尽きるのだと思う。
273訂正:2008/04/12(土) 05:25:51
「さまざまな場合を考えてみるる」
     ↓
「さまざまな場合を考えてみる」
274日本@名無史さん:2008/04/12(土) 09:32:16
うんうん
275美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/12(土) 10:22:19
質問っす

「鏡」って言うけど、この鏡は今の時代にあるような鏡と同じ鏡なの?
要は自分の顔を写して見たり光を反射させたり出来る鏡の事なの?
276改め:2008/04/12(土) 10:29:33
たまには〜どんこいへ登場...。

美濃もん太さん〜久しぶり!
貴方が「弥烏邪馬国」に拘ってる理由は何なの?
277美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/12(土) 10:35:31
>>276
拘ってる訳じゃないよ
同じ頃の時代に倭人が治めてた弥烏邪馬国って国(地域)がある訳だから、単にここの事じゃないの?
って話すよ


278日本@名無史さん:2008/04/12(土) 10:39:26
ちなみに当時の「國」ってのは、今の時代の「国、国家」って意味じゃ無いでしょ?

「國」ってのは、地域とか、宮とか、都とか、村とか、里とか言う意味で、国家の意味じゃ無いよ
279美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/12(土) 11:43:30
魏志倭人伝の邪馬台國は「邪馬台村、邪馬台地域」って解釈した方が解りやすいと思うけどな
「邪馬台国家、邪馬台王朝」見たいに解釈してる所が、まずおかしいだけな気もするよ



× 邪馬台国家の女王
○ 女王は邪馬台村地域も治めてた

見たいな事だと思うよ
280日本@名無史さん:2008/04/12(土) 11:51:57
>>278
「國」ってのは、邑落(今の日本で言えば市〜町くらいの範囲)と、
邑落が幾つか集まった「國」の2種類があった。
当時の邑落「國」は千餘戸〜二萬餘戸。
邑落が幾つか集まった「國」は三萬戸〜十萬戸。
281美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/12(土) 12:22:35
>>280
×國=国家、王国
○國=地域、邑落
でしょ?

んで、複数の國(地域、邑落)の連合体は「郡」になるよ
282日本@名無史さん:2008/04/12(土) 12:40:02
もしくは日本の朝廷が治めて統治する以前の邪馬台国の女王って意味かもね
邪馬台国があって、そこを日本の朝廷が治めて道教の卑弥呼に女王をさせて争いが無くなった

見たいな事かもだね


神功皇后の時代の時は今の韓半島周辺までは日本が統治してたんだしさ
283日本@名無史さん:2008/04/12(土) 13:46:27
>>275 美濃もん太
>要は自分の顔を写して見たり光を反射させたり出来る鏡の事なの?

勿論できる。
ただ映り込みはどれぐらいシャープな物だったかは分からんが・・・

てか銅鏡は江戸時代までは使われていた。

以下はトリビアだがw
銅鏡の表面を繰り返し研磨して行くと肉厚が薄くなり
裏の模様が反射した光の中に浮かび上がるそうで
これを「魔鏡現象」というそうな。。

>>276  改めドツボ
 
 氏ね・・

284日本@名無史さん:2008/04/12(土) 14:14:02

しかし紀年がある銅鏡の分布を見れば大阪とか京都とか
時代としては三世紀中頃以降、佐紀古墳郡や古市・百舌鳥古墳郡の時代以降って言う印象はあるw

無論、紀年のある物に搾るとサンプル数が少ないし
これでどうこう言えるもんじゃないんだろうけど。

やっぱ大和の古墳群は宮内庁が押さえているのが大きいからかかる結果になっているのかな?
285美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/12(土) 14:49:41
>>283
そかあー。本当に鏡として使える鏡なんだ

ありがとう
286日本@名無史さん:2008/04/12(土) 15:10:46
>>281
>×國=国家、王国
>○國=地域、邑落
>でしょ?

>んで、複数の國(地域、邑落)の連合体は「郡」になるよ


「郡」とは中国の支配下の地域。
地域、邑落も國、複数の國(地域、邑落)の連合体も國。
紛らわしいが
○國=国家、王国
○國=地域、邑落
287日本@名無史さん:2008/04/13(日) 00:14:05
>>280
それで考えても邪馬台国の七万ってのは凄いw

まあこれを実数として捕らえる事はできないだろうど
他国との比較でも相当な数字。

 以下戸数
伊都国・・・1000
奴国 ・・・20000
投馬国・・・50000
邪馬台国・・・70000

九州説の場合奴国より更に大きな投馬国・邪馬台国を九州内に押しこめなければならないと言う難作業があるw
その点畿内説は楽と言えば楽w
(投馬国を吉備でも出雲でも持っていけるからw)
288魏使:2008/04/13(日) 08:29:57
3世紀の九州の人口は50〜60万人。
投馬國は九州内とは限らない。
邪馬壹國の七萬戸は九州内に余裕で収まる。
289九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/13(日) 12:16:33
>>288
戸籍どころか文字も無い時代に「七萬戸」という数をどうやって数えたのか甚だ疑問を感じる。
魏使に「人口はどれくらいあるのか」と聞かれ、倭人は「とても多い」と言うので
「一万?」「もっと!」「二万?」「もっと!」と増えていき、
とうとう結局七万という凄い数になってしまったのでは。想像だけど。
290日本@名無史さん:2008/04/13(日) 13:06:59
>>288

>3世紀の九州の人口は50〜60万人。

西新遺跡級の集落が500以上存在したと言うことですね。
私も三世紀の九州は、南北合わせて、
相当数の人口を擁していたと考えますが、
数値で示すのはとても困難です。
貴方の推定値はどのように算出したものですか?
教えていただきたいところですね。
291日本@名無史さん:2008/04/13(日) 13:07:21

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
292日本@名無史さん:2008/04/13(日) 14:01:04
>>288
>投馬國は九州内とは限らない。

え?
一回九州から外れて本州か四国、或いは半島?に行って
また九州に戻ってくると?

んなアホなw
293日本@名無史さん:2008/04/13(日) 15:51:16
まあ普通に考えて奴国の二万は筑後川流域の人口を相当部分カウントしてんじゃね?

そこから更に大国の投馬国・邪馬台国を九州内に比定するのは正直しんどいわなw
294日本@名無史さん:2008/04/13(日) 16:10:25
おまい無知だな
当時の九州南部は相当数の古墳群もあるし
現在と比べるとかなり栄えていたと思われるんだな
もうちょっと勉強せい。今の感覚でものを言うと笑われるよ
295日本@名無史さん:2008/04/13(日) 16:47:14
>>294
>もうちょっと勉強せい。今の感覚でものを言うと笑われるよ

今まで弥生時代古墳時代の列島の各地域の推定人口のデータ見てきた限りでは
九州が他の地域を圧倒していたなんて事はなかったw

もっと具体的にピンポイントで奴国二万戸を凌駕する投馬国・邪馬台国の人口を養えるほどの地域が何処にあるのか言ってくれw



296日本@名無史さん:2008/04/13(日) 16:50:11
奴国の二万戸は佐賀平野。
297日本@名無史さん:2008/04/13(日) 16:56:06
考え方の一つとしては不彌国より先は情報精度が落ち戸数もいい加減になってしまった。

・・・と言うのもあるかもしれないが奴国二万ってのがあり、実数としてはともかく
比率としていきなり桁が違ったと言うのも考えにくいんだよねえ。

絶対数としては畿内説だろうが九州説だろうが、それを額面通り受け取る人は少ないと思うが
比率として考えた場合九州説の場合大国の密度が濃すぎるような気がするw
298魏使:2008/04/13(日) 18:17:14
>>289
>戸籍どころか文字も無い時代に「七萬戸」という数をどうやって数えたのか甚だ疑問を感じる。

魏使が倭人に聞いた情報での推測と計算によって導き出された値であろう。
邪馬壹國を構成する26ヶ国の内、奴國は二萬餘戸あり魏使も確認している。
奴國は他の国々の平均より10倍の大きさと聞き20000+2000×25=70000
邪馬壹國を構成する26ヶ国(對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼國、為吾國、鬼奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)

「南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸」
「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸」
この文章は他の行程等の文章とは別物。
投馬國、邪馬壹國は国家(邑落の連合体)、他の國は邑落。
水行二十日や水行十日陸行一月も他の記述と違い
帶方郡から投馬國、帶方郡から邪馬壹國へのもの。
帶方郡から投馬國(帶方郡から狗邪韓國)、帶方郡から邪馬壹國(帶方郡から奴國)
299魏使:2008/04/13(日) 18:37:54
>>298訂正
水行二十日や水行十日陸行一月も他の記述と違い
帶方郡から投馬國、投馬國から邪馬壹國へのもの。
帶方郡から投馬國の水行二十日(帶方庁から狗邪韓國の七千里に相当)、投馬國から邪馬壹國の水行十日陸行一日(狗邪韓國から奴國の五千里に相当)
                                            (陸行一月は陸行一日の誤り)   
300日本@名無史さん:2008/04/13(日) 22:48:01
>>298
>奴國は他の国々の平均より10倍の大きさと聞き20000+2000×25=70000

うまい事辻褄合わせたなw
301日本@名無史さん:2008/04/13(日) 23:24:30
このスレの流れだと紹介したくなるスレ


【新説】邪馬台国は四国徳島だった?!【浮上】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1206513695/l50
302日本@名無史さん:2008/04/13(日) 23:34:46
倭人伝の「水行二十日」「水行十日」「陸行一月」「船行一年」との日数は、
すべて倭人からの伝聞で、「倭人の短日制」で表示されております。

この「倭人の短日」は、『隋書倭国伝』『旧唐書倭国伝』『新唐書日本伝』での
倭国=日本の領域を示した「東西五月行」(九州西端〜日本アルプス:約80
0キロ)、「南北三月行」(対馬北端〜九州南端:約440キロ)と統一性を持っ
ております。

さらに、倭国=日本の領域が日本アルプスまでということは、『旧唐書日本伝』で
言う「東界北界は大山有りて限りを為し、山外は毛人の国なり」、との記述とまっ
たく一致します。

「倭人の短日」とは、後述のように陸行が1日当り4.3〜4.5キロで平均4.4キ
ロ(50短里)、また水行は静水時では1日当り5.5〜5.9キロで平均5.7キロ
(65短里)です。
そして、『隋書』『旧唐書』『新唐書』での「東西五月行=150短日」の800キロ、
および「南北三月行=90短日」の440キロは、陸行と水行の平均の1日当り約
5.1キロとの「倭人の短日制」で表示されております。
303日本@名無史さん:2008/04/13(日) 23:35:13
また倭人伝の「船行一年=六ヶ月」で至る裸国・黒歯国も日本列島内に求めるこ
とが可能となります。古代日本での1年とは、現代の半年=六ヶ月に相当し、これ
は『隋書』『旧唐書』『新唐書』での「東西五月行」にほぼ相当します。

429年、南朝劉宋の斐松之が三国志に加注した際、倭人伝中で引用した『魏略』
に次の文があります。「魏略に曰く−−−其の俗、正歳四季を知らず。但々春耕、秋
収を計りて年紀と為す」。この文章は、倭人は「春耕」と「秋収」の二点を年紀とする、つ
まり「一年に二回歳をとる」という意味です。これは、倭人伝の次の記事−−−「その人、
寿考(寿命)、或は百年、或は八・九十年」、とも対応しています。すなわち、倭人伝の
百年とは現代での50年、また八・九十年とは40〜45年に相当し、古代倭人は二倍
年暦で寿命を計算し、古代人の寿命は40〜50年ということです(人生わずかに50年)。
また、この古代日本人の二倍年暦での年齢計算は、記紀で古代天皇の寿命と在位年
数が異常に長いことにも現れています。従って、倭人伝の「船行一年」とは、現代の半年
=六ヶ月で計算すべきです。

そうすると、現実の裸国・黒歯国は近畿・中部・東海の銅鐸文明圏に比定が可能となり、
従来学説のフィリピン、インドネシア、ハワイ、はては南米大陸というような非現実的な設定
は必要が無くなります−−−裸国・黒歯国は倭人伝に登場するのですから、日本列島内とすべきです。

304日本@名無史さん:2008/04/14(月) 00:23:54
>>298-299
帯方郡を起点にした放射状コースかw

305魏使:2008/04/14(月) 07:29:01
>>300
辻褄合わせではない、三国志東夷伝では普通の邑落は2000戸で見積もられている。
魏使が奴國を見聞して他の国々の平均より10倍の大きさはあると見積もったのであろう。

>>304
「南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸」
「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸」
この文章は他の文章とは書き方が違っている事が理解出来ない?
306魏使:2008/04/14(月) 08:22:42
>>305
馬韓
「有爰襄國〜 省略 〜楚離國 凡五十餘國 大國萬餘家 小國數千家 總十餘萬戸」
一國平均二千戸。

弁辰韓
「弁辰韓合二十四國 大國四五千家 小國六七百家 總四五萬戸」
一國平均約二千戸。

邑落の規模は馬韓で一万数千〜六百。
弁辰韓で五千〜六百。

307魏使:2008/04/14(月) 10:51:52
>>305
魏使の常識として「五萬餘戸」「七萬餘戸」の邑落なんてない、国家のことに決まっている。
「水行二十日」「水行十日陸行一月」と書いているんだから、ここまでの距離を再度、日数で説明したに決まっている。
南至とダイタイの方角しか記してないんだから郡と国家と国家の位置関係を示している。

最初は距離で説明して、途中から日数で説明したら誰にも目的地が何処か理解できない。
このような説明をする人は正気ではない。
魏使は狂人ではないので、そのような説明はしない。

308九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/14(月) 14:44:10
>>307 魏使さん
その考え方が正しい。

帯方郡〜不彌国の積算距離は12,000余里である。
一方、帯方郡〜女王國の距離も12,000余里である。『自郡至女王國萬二千餘里』
ゆえに、不彌国は女王國の中の1国である。

邪馬壹國は当然女王國に含まれるから、
不彌國、投馬國と邪馬壹國は女王國の構成国とみなせる。
不彌國で女王國に到着したことになるから、距離の里数表記は不彌國までとなる。

又、不彌國、投馬國と邪馬壹國は女王國内にあるので、互いに隣接していると見なせる。
投馬國と邪馬壹國は女王國内のことなるので、距離表現の位置付けは変わる。
投馬國は郡より南へ至る水行20日(倭人の表現方法)であり、
邪馬壹國は郡より南へ至る水行十日陸行一月(倭人の表現方法)となる。

これらは、投馬國が水路のみで帯方郡行ける場所にあることを、、
邪馬壹國が水路と陸路で帯方郡に行く場所にあることを、示している。
309魏使:2008/04/14(月) 15:19:36
>>308
>帯方郡〜不彌国の積算距離は12,000余里である。

郡−−→狗邪韓國−−−→ 対馬国  −−−−−→ 一支国 −−−−→ 末盧国 −→伊都国 −→奴国
 7000余里 +1000余里+ 800里 + 1000余里+ 600里 + 1000余里  + 500里 +  100里  =12000余里
            (方400里×2)    (方300里×2)

帯方郡〜奴国の積算距離が12,000余里ではないですか?
私は邪馬壹國≒女王國と考え、奴国が女王國の中心となる都市で、
伊都国が女王國の王や役人の居る行政都市だと考えています。

310日本@名無史さん:2008/04/15(火) 00:13:49
>>305
>魏使が奴國を見聞して他の国々の平均より10倍の大きさはあると見積もったのであろう。

また根拠の無い事をw
「10倍の大きさと聞き」ってお前さんはその場にいたのかよwww

たか重複して出てくる”奴国”二万余戸と書かれたものと「女王の境界云々」の前に出てくるものは別なんじゃね?
「○奴国の誤脱か?」と岩波文庫の解説にあるけど・・・

まあ同一のものとする方が畿内説の所謂「首長連合」には合致するかな?

無論「女王の境界」の意味する所は邪馬台国ではなくて倭国だろが。。



311ローガン:2008/04/15(火) 01:14:05
議論中お邪魔します。
新井氏の「三角縁神獣鏡は魏鏡か」を読みました。
pb204 pb206 pb207 pb208を%として計算、各成分の差を相対値としてだし、その絶対値を平均したものを類似指数とした…。とあります。
私は理系ではなかったので、恥ずかしながらよく理解できません。
「類似指数」なるものを求める際、各成分の差を平均すると云う考え方で良いのでしょうか?
又、類似指数0.05%の数字の持つ意味も?です。
詳しい方、ご教示いただければ幸いです。
312日本@名無史さん:2008/04/15(火) 01:34:51
そもそも同位体で鉱物の産出地が特定できるのかどうかが良く分からないッすw
同位体なんてそれこそ太陽系・惑星のできあがる過程でできるもんじゃねえの?www

うーんブルーバックスあたりで簡単に書いているものないかしらんw
313魏使:2008/04/15(火) 06:59:29
>>310
邑落の規模は2000戸が基本で考えられている。
邑落の大きさの根拠は、基本の半分、倍、1.5倍てな具合の勘だな。
”奴国”二万余戸も一々数えたのではないだろう、見た目で判断だろ。
他にどうやって戸数を知る事が出来たと考えられる?
邪馬壹國では戸籍や住民票が既にあった?
5万とか7万戸になると勘だけでは判断できない、計算が入っている。

畿内説でも九州説でも距離と日数を連続した行程と解釈する説は100%誤りだ。
連続読みを主張する人はオラが村に邪馬壹國を強引に持ってきたいだけの人か、心を病んでいる者だ。
314日本@名無史さん:2008/04/15(火) 09:28:53

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
315日本@名無史さん:2008/04/15(火) 22:28:31
>>311
「理系の視点からみた『考古学』の論争点」の第一章ですね。
私は、類似指数が小さいほど成分が類似すると単純に考えています。

基準になる絶対値はなく、AとB、PとQ、XとY・・と比較するたびごとに
比較対照のものの数値だけで類似度を見るのというやり方で、もともと
相対的な数値なので、数字の持つ意味は、「少ないほど類似する」
というレベルの意味しかないと解釈しています。
316ローガン:2008/04/16(水) 00:52:57
>>315さん。どうもご教示ありがとう。

A+G+P+X=100%
B+H+Q+Y=100%
として、AとBの差が大きかったとしても、それ以外が近似値なら平均すると大きな違いが無くなる。
AとBの差により区別可能な二者が、なんとなく類似したように見える…似て非なる物を排除しない「類似指数」っておかしくはないですか?
初めに結論ありきでしょうか?
それとも、新井氏の結論が気に入らない私が駄々をこねてるだけかな?
317日本@名無史さん:2008/04/16(水) 01:32:44
論議の途中失礼します。
色んな邪馬台国スレをロムっていたんですが、
「結論 邪馬台国は西都原」スレに20日ほど前に下に貼付けた燃料が投下されていました。
下記のアドに飛んだんですが、宮崎に邪馬台国が在ったかどうかは別にして
時代背景を検証する貴重な遺跡が眠っている事は間違い無さそうです。
が、
何も検証せずに宅地化している行政にはらわた煮えくり返る思いです。
こういうのって此処に居るちゃねらーや見識者の方々の力でどうにか成らないもんでしょうか...


52 名前: 日本@名無史さん Mail: 投稿日: 2008/03/28(金) 00:42:06
ところが、生目古墳群は、西都原よりも遥かに重要で、大きな謎を秘めた古墳群なのだ。
生目古墳群は、西都原古墳群より時代が全体的に古いのである。
それどころか、いくつかの古墳は、日本最古と一般的に思われている箸墓古墳と同時代か、更に古い可能性もあるのだ。
しかも、生目古墳群には、畿内にある古墳の、ほとんどすべてのタイプがそろっている。
---------------------------------------------------------------------------------
ちなみに、上記の会話を交わした研究者に、笠置山墳丘墓の事を尋ねてみた。
答えは「向こうは、生目より更に古い。確実に3世紀にさかのぼる。
もし日高氏が何か見つけたのなら、それは弥生の遺跡だから古墳ではなく、ただの山だ。」と言い切った。
古墳ではない理由は、時代だけなのである。
----------------------------------------------------------------------------------
卑弥呼が死んだ時、卑弥呼と共に100人余りが殉死したとされる。
・・とすると当然、卑弥呼の墓の周辺には、100人の殉死者の墓がなければおかしい。
笠置山古墳には、これがあるのだ!鳥型の羽の部分には、穴を掘っただけの土壙墓が、整然と並んでおり、
推定でその数は100基ほどなのだ。今まで、卑弥呼の墓ではないかと言われている古墳は数多く有るが、
殉死者の墓を伴っていたと言う話は聞いた事が無い。しかし、死後の卑弥呼を守り、お世話をする為の殉死者が、
墓も無く粗末に扱われる事は考えられない。卑弥呼の墓の周辺には、必ず彼等の墓があるはずなのだ。
http://www.gondo.com/g-files/miya/miya1.htm
318日本@名無史さん:2008/04/16(水) 02:01:35
>>317
>こういうのって此処に居るちゃねらーや見識者の方々の力でどうにか成らないもんでしょうか..

少なくともちゃねらーじゃなあ・・・
「敵にまわせば恐ろしいが、味方にすれば頼りない」
・・・のがちゃねらーw

ぶっちゃけ発見当初の吉野ヶ里だって危なかったんだろ?
319日本@名無史さん:2008/04/16(水) 02:45:42
もし、当時の倭人が正直な人間だったら、つまり嘘のつけない人間だったら、
宮崎の可能性も十分にある。
倭人伝の南に(水行二十日)水行十日、陸行一月が、一番当てはまるのは
やはり宮崎平野だから。

確か、生目1号墳だったか3号墳は、箸墓と相似形となっていた。もちろん、
箸墓のほうが大きいのだが、どちらが先かはまた別問題だと思う。
320日本@名無史さん:2008/04/16(水) 02:47:00
だいたい「卑弥呼」を「ヒミコ」って呼ぶのが間違ってるんじゃないのか?
「卑弥呼」という当て字の漢字が中国側の書物にのってるんでしょ?

中国語の古語で「卑弥呼」を発音すると・・・「ぺメファ」
321日本@名無史さん:2008/04/16(水) 02:57:09
>>316
新井も「他人の空似」の可能性にも言及して、その上で、
同一古墳から出土した別種(本来は異時代)の鏡で一致する例や
紀年鏡相互間で類似性が高い例を述べて、偶然ではなかろうと
述べています。

あと、AとBの差が大きければ、全体での類似指数も大きくなるので、
類似指数が1%以下(同時製造では0.1%以下)になるためには、
AとBの差が大きければ、ほかの数値で調和されることもほとんど
ないと思います。
322317:2008/04/16(水) 03:06:01
>>318
敵がハッキリすれば皆燃えてくれるんですかね?w
しかし、どこに働きかけたら良いものやら...

ド素人の質問にレス下さりありがとうございます。
ロムに戻ります。

ps
>>320
中国の古語にお詳しい方ですか!
凄いアビリティですな!
他の名詞の発音なども俄然興味が湧きますね〜
323日本@名無史さん:2008/04/16(水) 03:12:15
>>317
生目古墳群か、、、
4世紀後半の大型前方後円墳ので言えば大和より東では東海すっ飛ばしてむしろ関東に
九州じゃあ生目三号墳だっけ?

恐らく大和の勢力拡大の最前線に集中して作られたっぽいけど・・・
(但し吉備のはそれとは関係無しっぽい)

記紀に挿入された日向神話と言い
邪馬台国云々は別にしても大和と只ならぬ関係は想像できるよなw

まあ個人的には日向神話は大和の九州における勢力拡大に貢献した論功行賞的な
言わば「ご褒美」として記紀に採り入れられたのではないかと思っているw
324美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 10:49:46
「邪馬台国」って場所を探せば良いのに

ちゃんと探せば同じ時代に倭人が治めてた「弥烏邪馬国」って國があるよ
単にここの事じゃ無いのか?

この弥烏邪馬国は九州でも機内でも無いよ

ただ魏志倭人伝にあるように
「(日本の)朝廷が治めて貢ぎ物をさせたりしてた國」
だよ
325美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 12:01:58
中国では三國志や魏志以前の書物として「封神演義」がある
封神演義の中では日本の事は「扶桑」や「東漑(海)」って呼んでる


「倭」ってのは「ニンベン+委」で
倭、倭人ってのは
「日本(扶桑)の朝廷の命を受け(国造りの為に)に大陸の領土を統治してた人」
って意味だったりしないかな?


・扶桑(日本)から来た人が倭人
・倭人が治めた土地が倭


なんかそんな気がする
「倭」って日本の意味じゃ無い気がするよ
326日本@名無史さん:2008/04/16(水) 12:08:12
>>317
前方後円墳ってそれこそ奈良時代以降に、大陸や新羅とかから入って来た古墳の形だと思うよ
朝鮮半島にも前方後円墳が発見されてる訳だしさ
機内の高松古墳とかなんて、あれまんま朝鮮や大陸文化の墓だし


けど九州は特に大陸からの文化が流入してきてる土地ではあるのかもね
327美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 14:40:46
邪馬台国や卑弥呼が何処にあろうと、どこにいようと、日本や日本の朝廷とは別に関係無いと思うよ
邪馬台国が日本になった訳でもないし、卑弥呼が日本の朝廷を作った訳でもないし

過去には琉球王朝もクマソ王朝もあった訳だから、確かに邪馬台国って國がどっかにあったとしても別に不思議じゃないし
魏志倭人伝に記述されてるだけでも邪馬台国以外に10以上の国もある訳だし


邪馬台国は日本の始まりとかじゃないよ
328日本@名無史さん:2008/04/16(水) 15:36:27
>>327

3〜4世紀には既にヤマト朝廷によって日本が略統一されていたと思いたい人がいるの。
329美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/04/16(水) 15:59:22
>>328
日本の統一は日本各地の氏族の統一だよ
国造りとして朝廷が他の土地に同族を納めさせたりとかさ
その氏族の始祖はスサノオだったりウガヤだったり、また氏族達は阿曽氏や物部氏や木曽氏や吉備氏やら同じ氏神を持ち勢力を広げたり豪族になったり


各氏族や豪族が各地にいて、最終的に大和朝廷の氏族らが蘇我氏の朝廷を倒して平城京を築いたのが今の天皇朝廷って事でしょ?

卑弥呼だ邪馬台国だなんてのは日本の氏族にも属してた無いんじゃ無いの?
330日本@名無史さん:2008/04/16(水) 16:33:40
釣りはスルーで
331日本@名無史さん:2008/04/16(水) 17:22:42
南九州の隼人が、大和朝廷の勢力下に入ったのは、西暦720年の大規模な遠征の
後といわれるなあ。
332日本@名無史さん:2008/04/17(木) 03:26:56
>>327
>邪馬台国は日本の始まりとかじゃないよ

畿内説なら邪馬台国を中心とした首長連合体がその母体と言う答えなんだろうな。
卑弥呼はあくまで倭国の女王であり邪馬台国一国だけのの女王ではない。


333日本@名無史さん:2008/04/17(木) 03:28:25
>>331
そう言えば今も宮中に残る「隼人舞い」はいつ頃から始まったんだろう?
334日本@名無史さん:2008/04/17(木) 19:14:21

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
335九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/17(木) 21:40:11
>>331
続日本紀によると和銅3年正月十六日(710年)以降からと思われる。
元明は、隼人に位を授け禄を賜っている。
これは、九州王朝天皇殺害の功に対する授禄であろう。
336唐松山:2008/04/17(木) 22:07:46
ローガンさんへ
Pbは 折れ線グラフにして読む ある鏡が作られた。
A産地 青銅30%
B産地 青銅40%
C産地 青銅10%
純銅 残り20% と仮にする
仮に1から5までの Pbが有ります
出来た鏡の鉛量を 折れ線グラフにする 各産地の鉛量を消す(産地を判らなくする為) 
この折れ線グラフに 各産地の青銅を当てはめると 最初に書き込んだ 産地と割合でないと
折れ線グラフと同じ物が出来ない。



337九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/17(木) 22:49:57
相手を間違えた。×>>331
>>333
続日本紀によると和銅3年正月十六日(710年)以降からと思われる。
元明は、隼人に位を授け禄を賜っている。
これは、九州王朝天皇殺害の功に対する授禄であろう。
338ローガン:2008/04/17(木) 23:13:22
>>336
唐松山さん!こんばんは!
貴方の仰る所の「折れ線グラフ」
縦軸と横軸の式を教えてください。
339日本@名無史さん:2008/04/18(金) 00:23:44
>>317
>生目古墳群

そう言えば垂仁天皇は活目入彦五十狭茅尊( ”いくめ” いりびこいさちのみこと)って名だったけど
何か関係あるのかな?

340日本@名無史さん:2008/04/18(金) 02:57:05
文献で言えば『太平御覧』と言う書の中で引用されていると言う「魏志倭人伝」の記事って
ネットの何処かに無いかな?

原文はちんぷんかんぷんなんでできれば読み下し文でw

行程も随分分かりやすく整理されているという。
もっとも素直に読めば畿内大和に辿り着くから九州説側からは
「後世になって畿内大和に合わせて改竄された物であるから信を置くわけにはいかない」
と言う事らしいがwww

少なくとも宋代の中国人がどのように魏志倭人伝を解したのか見てみたい。。

341日本@名無史さん:2008/04/18(金) 03:24:58
>>340
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2091/wacomp.html

ここを見ると、あんまり変わらないなあ。
たとえば、倭人伝では、「南至投馬國水行二十日」となっているところが、
太平御覧では、「又南水行二十日至投馬國」となっている。
いわゆる連続説を強調しているが、「南」が「東」になっているわけではない。
だから、これが大和を指しているものではなさそう。

伊都国について、倭人伝では、「郡使往來常所駐」となっているところが、
太平御覧では、「帶方使往來常止住」となっている。これは面白いかも。

また、ここでよく話題になる「其國本亦以男子爲王」の其国について
太平御覧では、「倭國本以男子爲王」とはっきりと倭国と書かれている。
342日本@名無史さん:2008/04/18(金) 03:39:48
>>341
さんきゅ。
パッと見魏志倭人伝のダイジェスト板って感じなのかな?

てか『太平御覧』の魏志倭人伝の中じゃあ「投馬國」は「「於投馬」だったはずだが
そのサイトの管理者の判断なのだろうか?

「於投馬」なら出雲にかなり近くなると言うw
また誤字脱字の類も考え難い。
343河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 10:40:03
>>341

>倭國


しっかりしてよ〜
倭國、本

じゃなく

倭、國本

だろうに!
344九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/18(金) 12:18:37
>>341-342
太平御覧は主として魏史の誤読だろう。

魏と宋では人種も言語も全く違う、
現代の北京官話と広東語以上の違いの比ではない。
共通しているのは漢字を使用して記録すること位だろうから。
345河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 12:41:03
>>344

>太平御覽は主に魏志の誤読


王朝さんは誤読と判断出来るほど、両者を読み切りましたか?


流石に私には判断出来ません。
346日本@名無史さん:2008/04/18(金) 13:17:15
フミってやっぱり福岡の宇美町だと思う?あそこが「ウミ」って発音するのは
「海」じゃなく、神功皇后が応神天皇を産んだ「産み」だからなんだと。

邪馬台国時代に神功皇后がもう産んでて「ウミ」になってたとは思えないし
だとしたら別の発音だったでしょ。だとしたら音の語呂合わせは意味ないよな。
同じ時代で宇美町=倭人伝のフミだったとしたらもう神功皇后=卑弥呼、か
神功皇后の倒した九州の女王=卑弥呼のどちらかしかないと思われ。

あるいはフミはまったく別のとこかもしれんよ。
347太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/18(金) 13:33:34
まぁそういう発音からの可能性はあろう。
ただ卑弥呼と神功皇后は時代が違うとしか考えられないから、双方が同一人物
だとか戦ったとかの可能性はまるでない。朝青龍が双葉山と相撲をとることが
ないごとくにだ。
348九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/18(金) 15:55:00
>>345
三国志と太平御覽は歴史書と百科事典のようなものです。
読みやすさより正確性の歴史書に対し、
読みやすさに重点がある百科事典は、
当時の現代語で書かれているため、
翻訳しにくいところは、誤読と言うより、
正確性を犠牲にした読みやすくする為の書き直しです。

両者の同じところの違いを比較してお判りのことと思いますが。
349河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 15:59:42
王朝さんが自分で誤読と言ったんでしょ
350九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/18(金) 17:15:27
>>349
すみません。
虫さんには正確な言語を使わないとだめですね。
351あらため:2008/04/18(金) 19:29:53
>>343
>倭、國本

いまだにそんなこと言ってるんですか?
ちなみに、  

倭、國本=女王の都 など考えたら駄目ですよ。
352あらため:2008/04/18(金) 19:31:17
>>350
王朝さん
あんた、終止符荒らしてないよね?

353九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/18(金) 21:04:56
>>352
終止符荒らしって何ですか?
荒らしはくだらないのでしたことがありません。
暇なときには、スレの趣旨にそった議論を吹っかけることがありますが。
354aratame_himiko:2008/04/18(金) 21:20:09
>>353
何度もすみませんw

目が悪いものでww
355河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 21:49:58
>>351

>いまだにそんなこと言ってるんですか?
ちなみに、  

つまらんヤリ入れるなよ
ヤリいれるなら、理由ぐらい書いて行きなよ


ここは『國本』   其『國本』、倭『國本』
356aratame_himiko :2008/04/18(金) 22:14:30
>>355
女王國=邪馬壹國 というのは以前、説明したとおりです。

女王の都とする処=邪馬壹國であり、
其國 というのは『倭』のことですよ。

んで、其『國本』(倭『國本』)=女王の都説 ですが、

女王の都する処は「邪馬壹國」ですよ。
それがなぜ、都を「倭『國本』」と記さねばいけないんですか?
陳儒がそんな子供みたいな書き方をするとは思えない。
以上の理由からです。
357河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 22:24:46
>>356

>陳儒がそんな子供みたいな書き方をするとは思えない


反論は、想い・想われの世界ですか?
子供見たいと判断するのは貴方の思考、感受性ですね
358日本@名無史さん:2008/04/18(金) 23:18:18
エロ河童!
「理論武装」
君は武装は天誅の真似をしてるようだが、
残念ながら、肝心の理論にかける。
ここの皆は君をどう考えているかしらないが、多分めんどくさいから反論しないのだろう。
359日本@名無史さん:2008/04/18(金) 23:27:53
めんどくさい
360aratame_himiko:2008/04/18(金) 23:39:05
>>357
じゃあ〜なぜ、倭『國本』 なのか?わたしが納得するまで説明が出来るんですか?

私が単に思い込んでるわけではない。
それは言い訳ではないか?

陳儒は「女王國」という呼び方を四度して「邪馬壹國」というのは一度しか使用してない。
陳儒の筆法とはそうゆうのです。
361日本@名無史さん:2008/04/18(金) 23:44:16
>>357
國本って言うのが何かわからない。
仮にも、其(その)をつけるならば、それ以前に「國本」というのが出てきて
いなくてはならない。

倭人伝のどこにもそのようなものか出てきていないから、要するに、文章を
自分勝手に区切って読んだにすぎないもの。
362河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/18(金) 23:49:32
>>360

>じゃあ〜なぜ、倭『國本』 なのか?わたしが納得するまで説明が出来るんですか

説明を理解できる能力があればの話
なければ、小学生に三角関数せつめいしているのと同じになるから


>陳儒は「女王國」という呼び方を四度して「邪馬壹國」というのは一度しか使用してない。
陳儒の筆法とはそうゆうのです。

何処が筆法なの?
『春秋左伝』でも読んで、もう一度筆法の勉強したらどうです。
363河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/19(土) 00:01:46
だいいち

其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。

この倭人伝の記事と、後漢書倭伝の

桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼神道、能以妖惑衆、於是共立爲王。侍婢千人、少有見者、唯有男子一人給飮食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衞。法俗嚴峻

この記事を
同じ視線で見ているようじゃ、話にもならないよ


364aratame_himiko:2008/04/19(土) 00:04:27
ほう 

同じ「卑弥呼」なる人物が書かれてますが、
あなたはどこが違うといいたいのですか?

365河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/19(土) 00:17:01
>卑弥呼なる人物が書かれていますが


書かれている事が何か問題でもありますか?
366aratame_himiko:2008/04/19(土) 00:24:13
同じ「卑弥呼」について記されてるといったんですよ。


それと関係ない話だが終止符スレ〜まじでお祓いして貰ったほうがほうがいいかな?
あいつ呆れるわ・・・一時いなくなるまで別スレでする?
367河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/19(土) 00:30:44
>>366

出入り自由は学問の自由にも通じます。
368aratame_himiko:2008/04/19(土) 00:33:50
うん そうゆう解釈もいいんだがそうゆうの通り越してるし無理。

あいつの姿みたら気持ち悪くなる・・・マジで。

今日はもう寝ますね。 〜変なレスごめん
369河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/04/19(土) 09:19:52
>>358

あら!
ZANさん来てたの?

>めんどくさい

いいんじゃないの〜
皆自由に書きこんでるし
370日本@名無史さん:2008/04/19(土) 16:18:48
倭人の“倭”は人偏に委と書く
漢字って旁の方で発音しますよね
でも現在は「ワ」と発音する
ひょっとして“倭”のもともとの発音は「イ」または「ヰ」だったのではないかと想像する
371日本@名無史さん:2008/04/19(土) 16:26:24
しかし、倭→和になったわけだから、やっぱり「わ」じゃないかな。
これに「大」をつけて「大和」。しかも呼び方は「やまと」。
このあたり何とも面白い。
372九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/19(土) 17:14:10

大倭(タイ)國(俀)→大倭(やまと)國(大和)

和(ワ)→倭(ワ)

大和本(タワら[等]モト)→田原本(タワラモト)
373日本@名無史さん:2008/04/19(土) 17:14:21
>>368
改め〜ドツボ、何度言ったら分かる?お前はスレが荒れる元凶。もうここに来るな。
ドン来いまで荒らすつもりか?
自分の問題を他スレにまで持ち込むな!出て行け!!
374日本@名無史さん:2008/04/19(土) 17:34:09
>>373

きもいよ
375日本@名無史さん:2008/04/19(土) 17:52:01

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
376日本@名無史さん:2008/04/19(土) 20:02:58
ドツボの糞野郎が来たせいで
>>374のようなウザイ糞ガキまで出てくる始末。
俺も言葉使いが悪くなってしまう。寄生虫・・いや、あいつはスレの癌だな。
377日本@名無史さん:2008/04/20(日) 00:14:52
[107]日本@名無史さん<sage>
2008/04/20(日) 00:06:20
>>nanashi=ドツボ
サガミハラハラ先生への批判(だけならまだしも中傷も)を別ハンドルで行うのは見ていて胸糞悪いですよ。
それにバレバレだし。
少し控えられては?
378日本@名無史さん:2008/04/20(日) 00:28:40
>>376

きもすぎるよ
379日本@名無史さん:2008/04/20(日) 00:30:17
↑ドツボ、他スレに現れ荒らすの図。
380日本@名無史さん:2008/04/20(日) 00:31:47
キモッ
381橿原一派:2008/04/20(日) 00:36:59
こんにちわー
382日本@名無史さん:2008/04/20(日) 01:16:12
ヤマト国の媛子が邪馬台国の卑弥呼だろ
383日本@名無史さん:2008/04/20(日) 01:23:35
三輪山、大神(神社) ←御倭
384日本@名無史さん:2008/04/20(日) 01:29:24
>>383
三輪、大神(神社)へは行かれたことはあるんですか?

三輪そうめんも有名。
http://www.miwasoumen.com/

それと、橿原一派は荒らすな!おまえがスレの癌だよ。
385日本@名無史さん:2008/04/20(日) 01:34:25
三輪山(みわやま)出掛けたとき、三輪そうめんをぜひ食べてください。

三輪そうめんには冷麺、温麺があり、自分は温麺を食べました。
次にいったときは冷麺も食べたい。
まあ、他の温麺との違いがいまいち分からなかったが。

386日本@名無史さん:2008/04/20(日) 01:38:14
三輪山(みわやま)とは、
奈良県の最北部一帯の奈良盆地の南東部も位置する奈良県桜井市の南東部の円錐形の山。

太古より神宿る山とされ、三輪山そのものが神体であるとの考えから、
常人は足を踏み入れることの出来なかった。
明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、
現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山出来るようになる。





387日本@名無史さん:2008/04/20(日) 01:48:49
三輪山は美和とか御倭山とか言われてるらしい。

九州にも似たような名前の山があり(福岡県甘木周辺)、東遷説が有名。

東遷説したという説はどうでしょうか?

388日本@名無史さん:2008/04/20(日) 04:39:36
三輪山の山腹にはところどころ注連縄を張った岩があるが
たいていは黒っぽく鉄を含んでいると言われている
一方、山肌を崩して水路に水と一緒に流し、沈殿した砂鉄を分離する採鉱法を「かんな流し」と言う
さて、大国主もうし給わく、我が御霊をヤタの鏡に憑りつけて大三輪の甘南備に坐さしめよ・・・・の出雲の神寿詞
ヤマタノオロチや三輪山の蛇信仰、そんなこんなで大和朝廷と言うよりは出雲の匂いがする場所ではある
出雲→大和朝廷 という国譲りという事かな
389ローガン:2008/04/20(日) 09:02:42
>>387
東遷説ですね。
いつ東遷したのか、支持者でも色々意見が有ったようですね。
同志社の森先生は「卑弥呼は九州、壹与は奈良」とされていますが…
東遷の規模にもよるでしょうが、九州の集団が移住した痕跡をどの遺跡に求めるのでしょうね?
390日本@名無史さん:2008/04/20(日) 09:31:57
役所で、住民表の移動を調べればわかります。
391日本@名無史さん:2008/04/20(日) 15:35:10
>>389
邪馬台国関連で出てくる考古学は、どうも東遷説を裏付けるような、あるいは
匂わせるような資料を無視するとか、過小評価する傾向があるような気がする。
たとえば、銅鐸文化の終焉、鏡文化の普及などは、重要だと思う。
墓制もかなり劇的に変化しているし。

邪馬台国関連の考古学は、特に新聞発表のようなものは、「邪馬台国の有力な
候補地である纏向遺跡では…」というのを強調するのが中心になっているように
思えるので注意しなくちゃあならない。

見つかった考古資料のうち、何を表に出すかは、出す人の考えだから、
表に出てこないものを探す努力をしなくてはならないような気がする。
392日本@名無史さん:2008/04/20(日) 16:06:49
>>389
>「卑弥呼は九州、壹与は奈良」
東遷説で壹与が長生きしたと考えると、その方向に向かいますね

私は、九州内での権力の移動を以下のように考えています。
 奴国 →伊都国 →吉野ヶ里→甘木・朝倉→豊国(豊前・豊後)
 〜80  80-150  150−180  180-250   250〜

東征の時期は、255〜280の間頃と考えているので、壹与は
東征に付いていった可能性も出てきます。
393日本@名無史さん:2008/04/20(日) 17:40:57

イヨタン・・・・・・・・・・・
394サガミハラハラ:2008/04/20(日) 23:29:14
某古代史の会に参加したら、某氏が秋公開予定の幻の邪馬台国にエキストラとして登場するそうです。折角の邪馬台国の
映画だということで記念にということで静岡の島田で行われたロケに交通費等2万円も自腹を切って参加したそうです。
葬式の場面だそうです。さあ、皆さん、映画を見ながらだれだろうと探すのもおもしろいかとおもいます。
395日本@名無史さん:2008/04/20(日) 23:33:55
>>394の名前の欄、日本@名無しさんということにしてください。
名前を消し忘れました。
396日本@名無史さん:2008/04/21(月) 00:03:51
卑弥呼女王のお葬式?
それとも例の倭人習俗記事、「喪主は哭泣するが他の者は歌舞飲食・・・」のシーン?
397ローガン:2008/04/21(月) 18:14:42
>>392
なるほど!
東征ですか。武力による大和制圧かな?
九州勢力の「東征」の根拠というか、痕跡をどこに求められますか?
398日本@名無史さん:2008/04/21(月) 20:25:00

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
399日本@名無史さん:2008/04/22(火) 00:12:24
>>397
(文献のうえでの根拠)
記紀と旧事紀に東征したと書いてある。
畿内の氏族の9割以上がもともとは九州の出身と自認していた。

(遺物の上での根拠)
弥生時代における九州の遺物がほかの地域より突出して多い。
鏡の副葬の移動。玉、ガラスも九州で始まる。
埋葬に朱を用いるのは九州からの移動。
南方産の貝を模した石製の装具の起源が九州に求められる。
銅鐸文化が最大に発展した時期に突如として途絶えた。
400 ◆.L.MXSPOgc :2008/04/22(火) 11:03:31
東征というか、後で何度も九州に遠征してるんだから、
どちらかというと追われて逃げてきたんだろ?w
401九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/22(火) 19:18:50
>九州から逃げだした。
神武 北部九州から
崇神 東部九州から

>東征
応神 仲哀の攻撃に対する反攻
欽明 継体の攻撃に対する反攻

>九州を見限った
天武
402ローガン:2008/04/22(火) 23:51:29
>>399
銅鏡副葬の移動ですね。「破鏡」って東遷説だとどう考えるのでしょう?
貴説の東征があったとして、破鏡の風習が、東征後の畿内で続かなかった事のついてどのように推測されますか?
403改めドツボ監視委員会:2008/04/23(水) 00:43:14
>太平御覧

結局、宋代の中国人にも「放射状コース」は無理ですた・・・って事だなw

もし畿内大和を想定して恣意的に書き換えたと言うのなら方角も変えなきゃおかしいわな。

それとも案外その時代まで畿内大和は相当に南方にあると思われていたのだろうか?
404改めドツボ監視委員会:2008/04/23(水) 01:00:01
>>391
>たとえば、銅鐸文化の終焉、鏡文化の普及などは、重要だと思う。
>墓制もかなり劇的に変化しているし。

うーん今日の東遷説の否定って、そう言う要素も含めた上で否定的な流れになっているんじゃないの?

まあド素人の見解だが銅鐸の衰退は社会構造の変化とリンクしていると思う。
元々銅鐸は集落の中にあって祭りの時にガンガン打ち鳴らしていた道具だったわけだが
(時代と共に鳴らすと言う機能より見た目を重視して「見る銅鐸」に変化したが・・・)

権力の増大した首長が運命共同体の集落を離れた時
もはや祭りの道具であった銅鐸に威信財としての価値を見出せなくなったんだろう。
405改めドツボ監視委員会:2008/04/23(水) 01:14:12
>>404の続きと言うか蛇足・・・

てか文化の劇的変化を王朝・権力者の交替に求めると言うロジックは
昔なつかしの「騎馬民族説」と同じ構造だよw




406日本@名無史さん:2008/04/23(水) 01:40:20
鏡、剣、玉は、九州では、弥生時代から墓の副葬品だった。
古墳時代になると、その習慣が近畿地方にも突如出現する。
時を同じくして、近畿地方などで興隆を誇った銅鐸の製造も祭祀も終息する。

鏡、剣、玉は、皇室の三種の神器としても残っている。

これをどのように考えるか。
権力の移動と考えるか、それとも単なる文化の普及と捉えるか。

権力の移動と考えるのが普通であって、イメージとしてもとらえやすい。
逆に、単なる文化の移動とか普及は、イメージしにくい。
なぜ、九州の文化が、急激に近畿地方まで普及したのか。

一般的に、急激な変化は、戦いによって引き起こされるものだから。

記紀では、神武東征が重要なモチーフとして語られているが、これなら
納得できる。
407日本@名無史さん:2008/04/23(水) 01:49:43
>>406
前方後円墳の構成要素を見れば九州だけじゃないのは一目瞭然。

むしろそう言う九州勢力による征服劇があったとするのなら
それにしちゃあ、あまりにも九州の要素が小さいとも言えるだろう。
408九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/23(水) 07:28:35
鏡を祭器とする勢力が東北部九州(豊・筑紫北部)にいた。
鏡を祭器としない肥筑紫勢力(プレ九州王朝)が九州を統一した。
統一時に支配側は敵被支配側の祭器である鏡を破壊。
鏡を祭器とする豊勢力の一部は東方に脱出した。
彼らは前方後円墳を墓式とする勢力でもあった。
409日本@名無史さん:2008/04/23(水) 21:00:40
前方後円墳という墓の形を考えたとき、
後円部では円形に丸く土を盛る、ということがあるが、
こういう円形的な要素が九州の弥生期の墓にもたくさん見られるのなら
九州勢力の東遷も考えられると思うが、
どうも九州にはそんな円形系統の弥生墓は希薄なのではないか。

九州で古い円形系統の墓ということで調べてみたら
小郡市の津古生掛や佐賀県三養基郡の姫方遺跡雌塚、武雄市の椛島山の墳墓があるらしいが
もう古墳時代初頭のものかもしれない。
これらよりもっと古い確実に弥生後期の中でつくられた円形系統の墓が九州にたくさんあればいいのだが
平原遺跡も方形だし、なかなかというかもうほとんど見当たらない。
吉野ヶ里の北墳丘墓は弥生中期までさかのぼるらしいがあれも方形だ。

しかし全国に目を転じても弥生後期の首長墳墓はやはり方形系統が多く
出雲や北陸の四隅突出型も方形、丹後半島の台状墓も方形だ。
そのほか近畿東海東国でも方形系の周溝墓が主流のようなので
なかなか前方後円墳の円形的な要素に結びつけるものがない。

そんな中、この地域は弥生の頃から円形的な要素があるな、と思うのが
瀬戸内の東部ではないだろうか。吉備、播磨、讃岐、阿波だ。
まあなんとなくの印象で不勉強でもあるし具体的な遺跡名はこんどきちんと調べて書きたいが
倉敷市の楯築などは円形丘が中心となっているし
赤穂市にも円形の有年なんとか遺跡という弥生墓が面白かった記憶がある。
よくご存知の人がいれば教えてほしいと思う。
前方後円墳の円形的な要素の源は東部瀬戸内以外に考えにくいと自分は思うがどうだろう。
410日本@名無史さん:2008/04/23(水) 23:58:33
>404
>元々銅鐸は集落の中にあって祭りの時にガンガン打ち鳴らしていた道具だったわけだが
>(時代と共に鳴らすと言う機能より見た目を重視して「見る銅鐸」に変化したが・・・)
巨大銅鐸を鋳造する技術が村落レベルで持ちえたと思うのかね?
411日本@名無史さん:2008/04/24(木) 01:38:57
>>406
>鏡、剣、玉は、九州では、弥生時代から墓の副葬品だった。

それ以外にも鏃や朱もあって、その3つ「のみ」が特別視された出土事実は一切ない。

古墳時代になると、その習慣が近畿地方にも突如出現する。

君の言う古墳時代がいつから開始されているかがまず問題だな。
通常は3世紀初頭からもう機内での副葬品は豪華になっていて(ホケノ山)
3種が特別な意味を持ち始めるのは、6世紀中頃以降なんだが。

300年もかかって「急激」とはこれ如何にw

結論を言うと、2世紀からの畿内の急激な変化は北部九州とほとんど関係ない。
ゼロではないが武力征服の痕跡など何一つない。
もちろん遺跡的にも出土品も宗教観も。
九州に限らず、どこかが攻めてきて征服したなどという価値観から早く脱却したほうがいい。
アマチュアでさえも、もうそんなことを言う人はいない。
412九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/25(金) 19:06:48
>>411 2世紀からの畿内の急激な変化は北部九州とほとんど関係ない」
 
「関係ない」ついでに畿内と邪馬台国も関係ない。
413日本@名無史さん:2008/04/25(金) 19:10:17
日本@名無史さん RM1-b遺伝子の稲作さん

にも好みのスレがあるみたいだね^^
414九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/04/25(金) 21:05:28

日本@名無史さん RM1-b遺伝子の稲作さん

は、ふざけた題名のスレは好まないようだね。
415唐松山:2008/04/26(土) 15:24:43
2世紀からの畿内の急激な変化
銅鐸文化の終焉、鏡文化の普及など

これらを 書記に求めると 崇神6年をキーワードとして 読む以外当てはめるところがない。
ここに 卑弥呼を当てはめてしまうと 全てが ”そんなもんか”程度で 流れてしまい
旧事記やほつま を偽書としなければ、つじつまが合わない読み方になる。
416日本@名無史さん:2008/04/26(土) 21:26:46
卑弥呼のシャーマニズムを斎明天皇が受け継いだぁ?はぁ?
417日本@名無史さん:2008/04/27(日) 21:13:32

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
418日本@名無史さん:2008/04/27(日) 22:34:44
弥生時代前期中葉〜中期前半ぐらいから大和地方には大きな邑が存在した。
このムラを最初に築き上げたのがイワレヒコ(神武天皇)である。
そして弥生時代中期後半、一人の男の主導の下クーデターが起こり、
新たな一族が邑長となった。
これがミマキイリヒコイニエ(崇神天皇)であり、そしてこの崇神王朝こそが邪馬台国である。
後期後半、丁度弥生時代と古墳時代の狭間ぐらいの時期、オホタラシヒメ(神功摂政=卑弥呼=台与である)の代の事だった。
朝鮮半島を経て騎馬民族(イスラエル民族が騎馬民族化したものか、中央アジア系か、朝鮮系は定かではない)
の一派が、酋長ホムタワケ(応神天皇)に率いられてやってきた。
これにより、天皇の座は一時期ホムタワケ一族の元となった。
古墳時代後期、ミマキイリヒコイニエ一族の末裔オホリ(継体天皇)によるクーデターが起こった。
以後、天皇の座は再びミマキイリヒコイニエ一族のものとなった。




419サガミハラハラ:2008/04/28(月) 12:34:31
>>411武力征服の痕跡について。
3世紀の中ごろの近畿地方の高地性集落は、膨張する大和王権に対抗する現地勢力の
防衛拠点であろう。この時代は孝安孝霊孝元開化の時代であり、神武の即位が西暦131年であるから、
時代を追うにつれ集団も拡大し、始めは数十人の集団であったころは痕跡も小さく残らなかったであろうが、大規模になるにつれその
痕跡がのこるようになったのである。
420九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/28(月) 17:22:46
>>418 弥生時代前期中葉〜中期前半ぐらいから大和地方には大きな邑が存在した」

大きな邑とは具体的にはどこをさしているのかな?
421唐松山:2008/04/28(月) 22:48:17
>>418は 古い田んぼが出土しない イラダチを反映した 半島の考え方。
422日本@名無史さん:2008/04/29(火) 00:54:31
邪馬台国=山口組説

両方とも単体がデカクナッタのではなく、連合体だからな。
423唐松山:2008/04/29(火) 09:59:21
「破鏡」 自説
鏡の効用 鏡は魂を映す物 そして魂を奮い立たせる物体
鏡は1面に対し1人しか映さない。
破鏡は、使者の魂が1人で天国へ旅立つのは寂しい ので家族等が鏡を割って
破鏡1枚1枚に各自 自分の魂を鏡に込め 使者に捧げる。
424日本@名無史さん:2008/04/29(火) 10:51:17
祭器を破砕するのは「鏡」に限ったことじゃないので・・・
425唐松山:2008/04/29(火) 12:47:33
では その他の物は 各自からの ハナムケと言うことで…
魂の共有かな?
426ローガン:2008/04/29(火) 16:00:01
>>423
「破鏡」ですね…
祇園山古墳から出土したのは、穴を開けた破片ですね。被葬者が生前身につけていたものでしょうね。
完鏡が手に入り難くなっていた状況を示唆するものではないでしょうか?
427唐松山:2008/04/29(火) 16:18:02
鉄拳は何故ちぎって放り込まなかったのだろう?
428九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/29(火) 21:16:48
破鏡は今でいう死者の使っていた茶碗を割ることなのでは。
当時も鏡は支配階級しか持っていなかったろうし。
下々では鏡を割る代わりに茶碗になった。
ところで茶碗割りの風習は全国にあるものなのだろうか。
429改め:2008/04/29(火) 21:22:54
死者が蘇らないように破鏡てか。

後でそれを見た人は怖いよねw
日本全土て聞いたような。
それに、特定の地域で行われてたとか聞いたこと無いな〜!
430改め:2008/04/29(火) 21:27:08
土偶とかも有名だよね。

土偶投げつけるし、鏡も投げつける。
女のものは全て投げつける。
死者が生き返らないようにー! 勝手だなー!w
431ドツボ撲滅委員会:2008/04/29(火) 22:04:40
荒らしはスルーで
432九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/29(火) 22:08:48
まんざら荒らしでもないようよ。>>430のような風習はあったみたい。
でもそれは縄文時代からのもので弥生系にも引き継がれたみたい。
「女のものは全て投げつける」かどうかまでは知らないけど。
433ローガン:2008/04/29(火) 23:51:37
我が方では茶碗割りの風習はありませんが、
割った茶碗の始末はどうするのでしょうね?
生き残りが分有?それとも、墓に副葬ですか?
434日本@名無史さん:2008/04/30(水) 00:37:27
>>433 
いいえ。玄関先でお椀を割ったあとは片付けて捨ててました。
ちなみに祖母の時は高級な有田焼だったのでコンクリートに何度叩きつけても
弾力があって跳ね返って割れませんでしたけど。
何故こんな風習があるのか不思議でした。というかもったいなくて・・。
日本全国にあるわけではないんですね。
435九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/04/30(水) 00:56:42

>>434は名前が消えて名無しになってました。
436ローガン:2008/04/30(水) 23:00:09
>>434
そういう返信を期待していたのではないのですが…
ま、まあ、あ、ありがとう。
437唐松山:2008/05/01(木) 01:31:25
その昔 アイヌの風習には、出産前に死亡した 母親の腹を割いて
子供を母親と別にして 弔う習慣が有ったそうです。
土偶を破壊する は現実の世界でも有ったと。

二人を一つ穴に葬るとアズナイの罪 ほつま より。
438九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/01(木) 11:00:37
>>434 九州ですが さん
茶碗割りの風習は関西でもありましたよ。
自宅で葬式をしなくなってから見なくなりました。
439日本@名無史さん:2008/05/01(木) 12:27:15
>>438
あ、どうも。そうですよね自宅で葬式をした時だけやるんだったですね。
関西から九州まで同じ風習なんだ・・。
これは奈良平安時代まで遡ってみないとなんともいえませんね。
なかなか文献が見つからなくて・・。
440九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/01(木) 12:28:39
また消えてました>>439は九州ですがです。
441日本@名無史さん:2008/05/01(木) 13:40:24
ですが氏は奴国をどこと考えてるの?

それとドン来いとは敵対してるわけやないよ?
人居ないときは一時的に終止符へ来ればいいだけ。
普段はここに住んどけばいいじゃん。拘りすぎだよ。
442日本@名無史さん:2008/05/01(木) 15:16:21
>>441 それとドン来いとは敵対してるわけやないよ?

何のこと意味不明だけど?
今あちこちのスレに入っていて自分でも収拾がつかなくなるほど広がってるので
いっぺんに頭が廻らないだけで。今はここに細々書き込んでるだけで手一杯。
443九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/01(木) 18:52:26
>>441 奴国をどこと考えてるの?

なになに?薮から棒に。
奴国の位置は北は那の津、博多湾から南は大宰府あたりまで広がっていたと見ます。
ところで>>442も私です。
444日本@名無史さん:2008/05/01(木) 21:01:21

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
445九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/01(木) 21:21:35
縄文時代には陸稲が造られていて、水稲も作られ始めているから
一箇所からだけ伝わったのではないと思う。
446日本@名無史さん:2008/05/01(木) 21:28:08
弥生文化は稲作だけでなくさまざまな文化要素の複合体である。大林太良氏が
指摘したように日本にあって朝鮮半島に存在しない南方的な要素が数多くある。

たとえば、鵜飼、割竹型木棺、げた、納豆、生魚を食べる習慣、みそ等、江南の
照葉樹林地域と同じような文化要素が存在する。

また、前回の講演会で述べたように、日本の弓は朝鮮半島とは異なり、南方に同種
の弓が分布している。朝鮮半島、高句麗の彎弓、短弓、は使用されて無い。

言語の近さ、日本語は、確率論的に、インドネシアやカンボジアなどの言語と
偶然とはいえない近い関係にある。しかし、朝鮮語とは疎遠であり、朝鮮半島
から人々が来たとは考えにくい。

日本語は、朝鮮半島南部と九州に倭人がいて、そこに南からカンボジア系などの
言語が混合して成立したクレオール言語と考えられる。
447日本@名無史さん:2008/05/01(木) 21:40:52
>>441>>443
>奴国の位置

九州ですがさんの

>北は那の津、博多湾から南は大宰府あたりまで広がっていたと見ます。

の回答で間違いないと思います

ほとんどの古代史学者、考古学研究者も、そう考えていますよね。
邪馬台国はまだ学者間でも九州か畿内かの対立あるようですが、
奴国が博多湾近辺というのはもう定説でしょうね


448唐松山:2008/05/01(木) 21:54:30
半島からの渡来人 大量に渡来していますよ。
神功摂政時代初期 半島に渡り 鉄を輸入するルートを開拓すると 日本の農業生産が飛躍的に拡大、
農業適地の量に対し 農業人口の不足が目立つようになる、 そこで渡海 新羅人等を拉致 日本に連れ帰ります
これらの囚人に先ず与えられた仕事は、 古墳作り 作り終えると 各地に 入植地へ配分 また古墳作りの予定
が出来ると渡海 …この繰り返し 
現在の我々の血液の半数は、この渡海人の血液。
449九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/01(木) 22:23:10
>>447 なんせ奴国は大国ですから広範囲に集落が点在していたと思われます。
450九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 00:25:44
>>447
>>449

奴國は佐賀平野説もあります。

奴國が福岡平野とは限りません。

それを定説とするには論証不足です。

奴國福岡平野説は邪馬台国畿内説と同類です。

伊都國糸島平野説も疑問だらけです。

広義の福岡平野が北九州の先進地域だったのは委奴國・帥升・倭國大乱の時代2世紀迄です。
倭國大乱後、広義の福岡平野の地位は低下したのです。

広義の福岡平野:福岡平野+糸島平野+粕屋+宗像の低地
451日本@名無史さん:2008/05/02(金) 07:20:30
>>450
>奴國は佐賀平野説もあります。

>奴國が福岡平野とは限りません。

>それを定説とするには論証不足です。

奴國佐賀平野説はもっと論証不足だろ。
奴國の跡と目される佐賀平野の遺跡はどこだ?

それと奴國佐賀平野説を主張した学者は誰々がいる?、数人ばかり挙げてみてくれないか。
著書名も挙げてくれたら一応図書館行って読んでみるから。
452サガミハラハラ:2008/05/02(金) 10:19:07
佐賀平野説は福岡平野節よりも方角(唐津の東南)があっているので合理的に論証できます。
遺跡はどこかとおっしゃられるが、すべての遺跡がみつかっているわけではない。
佐賀平野説を主張している研究施設勤務(元含む)の学者は存在しないと思います。
だからといって佐賀平野説がなりたたないことにはなりません。学問とはそういうものではないことはおわかりのことだと思います。
在野の研究者の間では唐津から記述どおり東南に進むという考察が次第にふえてきています。
かくいう私も東南行説で、奴国は佐賀平野の西の肥前山口であるとみています。
私の考証は「倭国歴訪」と「神功皇后は実在した」の付録メジャーで辿る邪馬台国にのべてあります。
公社は現在本屋で販売中なのでご購読なさるか、図書館でかりてお読みになるのがよろしいかとおもいます。
453九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 11:27:38
>>451
奴國佐賀平野説はもっと論証不足です。
でも矛盾点はありません。

奴國の跡と目される佐賀平野の遺跡は、
今後も発見される可能性はほとんどありません。
遺蹟は既に破壊され尽くしていると思われます。
弥生時代の住み易い場所は、
後世でも住みやすく今は都市化してしまっているからです。
遺蹟が見つかるのはその地域の辺境地の場合です。
僕の所有地(多分ご近所も)の地下にも7世紀頃の遺蹟がありますが、
今や都市化され、二度と世にでてくることはないでしょう。
その遺蹟の存在を知っている物で生きているのは今や僕だけですから。

奴國佐賀平野説を主張した奇特な学者先生はいないと思います。
そんなことを研究するようであれば、学者にはなれませんから。
454九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 11:47:58
>>451

論点がずれていますが、参考に読んで見てください。

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1207899488/320-321
455唐松山:2008/05/02(金) 12:18:21
日本書記と古事記 を合わせた 編年が出来ました。 詳しくは 古伝妄信 を見て下さい。
456九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 15:05:39
隋書と魏志 更に聖徳太子伝暦や二中歴を合わせた 編年が出来ました。詳しくは 古伝盲信 を見て下さい。
457日本@名無史さん:2008/05/02(金) 17:11:51
上の方で銅鐸の終焉を東遷説の根拠に挙げていた書き込みがあったけど…

なんかある日突然に銅鐸が破棄されたようなニュアンスだが
それだと大型も小型も、型式の古いのも新しいのも一斉に埋められた事になりそうだが
実際は型式の古い物は古い物同士、新しい物は新しい物同士で埋められていると言う発掘結果が出ている。

時代も弥生時代中期からポツポツ始まっているみたいだ。
やはり環濠集落の環濠が埋められ、首長が集落を出て「首長居館」に住むようになった時代背景と連動しているのだろう。

そもそも銅鐸の代わりに銅矛が流行ったと言うのならともかく
畿内の首長にすれば九州の埋葬文化を真似たと言うより
大陸の文化を取り入れた意識が強いだろうにw

何れにせよ銅鐸の終焉を東遷説の根拠にすると言うのは和辻哲郎の説だったと思うけど
流石に今じゃあ通用しない理屈なんじゃね?w
458日本@名無史さん:2008/05/02(金) 19:42:21
>>457
寺沢によると銅鐸の埋納は2期に分かれて、後半は
弥生末期から古墳時代の頃になる。

これと東遷とをからめるのはアリだろ。
459サガミハラハラ:2008/05/03(土) 08:45:13
卑弥呼の金印でふとおもったのであるが、中国に朝貢(楽浪郡でも可?)したら金印でなくとも銅印とかもらったのではないだろうか。
事実卑弥呼の朝貢の再は使者ももらっている。
となると相当数の印が日本にあったとかんがえられるが、いままで墓等から一個も発見されていない。
となると、卑弥呼の金印も墓から発見されることはないのではないだろうか。
460aratame_himiko ♪:2008/05/03(土) 15:30:44
さて、はじめましょうか!


461大分県民:2008/05/03(土) 15:32:31
監視中
462aratame_himiko ♪:2008/05/03(土) 15:34:09
>卑弥呼の金印でふとおもったのであるが、中国に朝貢(楽浪郡でも可?)
>したら金印でなくとも銅印とかもらったのではないだろうか。

あいかわらず豊かな、想像力ですねw

>事実卑弥呼の朝貢の再は使者ももらっている。
>となると相当数の印が日本にあったとかんがえられるが、いままで墓等から
>一個も発見されていない。
>となると、卑弥呼の金印も墓から発見されることはないのではないだろうか。

金印てそんなに貰ってたっけ?発見されないのは数がすくないからやない?
463匿名希望:2008/05/03(土) 15:34:17
このスレには来てほしくない。お願いします。
464朝吉:2008/05/03(土) 15:35:23
こんどはこっちを賑やかにするの?
仲間に入れてね



監視中
465aratame_himiko ♪:2008/05/03(土) 15:35:33
>>463
じゃあおまえも終止符くるな

466日本史板住民一同:2008/05/03(土) 15:37:25
改め=神奈川県民=三重県民=ドツボが荒らしたら出動するために
待機中
467橿原一派:2008/05/03(土) 15:37:53
こんにちわー
468大分県民:2008/05/03(土) 15:38:19
武陽隠士 さん



監視中
469日本@名無史さん:2008/05/03(土) 15:38:44
巣に帰れ
470千葉県民:2008/05/03(土) 15:39:29
監視中
471橿原一派 :2008/05/03(土) 15:40:40



監視中
472日本@名無史さん:2008/05/03(土) 15:40:41
>>465
何のこと?急に荒れたのはあなたのせい?
473千葉県民:2008/05/03(土) 15:41:37
監視中
474ドツボ撲滅委員会:2008/05/03(土) 15:41:44
監視中
475日本@名無史さん:2008/05/03(土) 15:42:09
ゴールデンウィークらしくなってきたな。
476神奈川県民 ◇sjgeZLFR/I:2008/05/03(土) 15:43:14
武陽隠士 さん(監視中)


477aratame_himiko ♪:2008/05/03(土) 15:43:24
ごめんなさい。結果的に荒らしてしまいました。
ヨソへ行きます。
478日本@名無史さん:2008/05/03(土) 15:44:51
それ女の子?
おまえら いやらしいよw
479大分県民:2008/05/03(土) 15:45:38
監視中
480日本@名無史さん:2008/05/03(土) 18:58:08
GWで宇佐神宮いってきた。
まともな食事どころもねーのか、宇佐・国東は!まともな道路もないしな。
辺鄙なとこだよ、まったく。
比売大神の降臨のところで葦原中津の宇佐嶋と断言してたが
やはり中津市あたりのこというんだろうか。


481aratame_himiko-.-18:2008/05/03(土) 19:03:20
>>480
古代史旅行お疲れサマ!

比売大神がなぜ真ん中で祀られてるのか?謎は解けたかな?

482大分県民:2008/05/03(土) 19:32:14
巣に帰れ
483日本@名無史さん:2008/05/03(土) 19:38:03
おちょくるなよ 自分が言ったことくらい守れや
484橿原一派 ◆6Zok7FAjsY :2008/05/03(土) 22:38:24
久しぶりに覗かせていただいたのですが、なぜ私のような弱小コテの成り済ましが?
どなたかお教え下さいませんか?
485日本@名無史さん:2008/05/04(日) 00:04:53
>>481
比売大神の方が、応神天皇や神功皇后よりもご先祖様だからだろう。
486日本@名無史さん:2008/05/04(日) 02:45:43
もう畿内説で決着したじゃん
487日本@名無史さん:2008/05/04(日) 03:02:20
>>486
どこをどうとっても畿内説にはなりえん。大体、畿内説でいう
考古学重視っつーのは史書だと何をとっても畿内説にありえない。

だから畿内説のやつらは魏志倭人伝や記紀を語りたがらない。不利だから。

で、板が違うけど、考古学をもってくる。考古学板じゃ論破されまくってるのに。
考古学重視じゃ年代のごまかしが痛いわな。
488日本@名無史さん:2008/05/04(日) 04:11:31
文献考証だけで決着が付くのなら百年前に終わってるって話でw

邪馬台国論争の歴史を俯瞰すれば、先に考古学に重きを置いたのは九州説なんだなww
(それに対し文献考証の見直しを迫ったのが内藤湖南と言うところか・・・)

ここまで九州説が畿内説に対し何とか対峙できたのも
弥生時代全体なら九州が先進地域であったと言う考古学的成果によっての事。

で考古学が更に進み弥生末期には九州地域の政治的優位性が無くなっており
更に古墳時代の始まりが早くなる可能性が出てくると>487みたいなのが沸いてきて
今度は考古学を曲解もしくは無視するとwww

まあ現実には文献史学者も殆ど畿内説だと聞くがwwwww


489九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/04(日) 04:55:44
畿内説が「考古学板じゃ論破されまくってるのに」ってほんとだろうか?
ロムった事も無いが。
490日本@名無史さん:2008/05/04(日) 04:56:47
嘘だろw
491日本@名無史さん:2008/05/04(日) 05:43:14
>>488
文献てのは『三国志魏書』倭人伝だよな。
邪馬壹國論争で畿内説では百年間ほとんど変わりが無く依然謎のままだが、
九州説はどんどん進化し『三国志魏書』倭人伝に書かれた内容を全て矛盾なく解釈することが出来るようになっている。
考古学的にも炭素年代測定法のおかげで九州の遺跡の年代が従来考えられてきたよりずっと古いことが分かって来て、九州の遺跡の年代の見直しが必要になっている。
492日本@名無史さん:2008/05/04(日) 06:00:31
>>491
まあ乞うご期待ってトコですか?w

あとチョット突っ込んでおくと・・・

>九州の遺跡の年代が従来考えられてきたよりずっと古いことが分かって来て
>九州の遺跡の年代の見直しが必要になっている。

少なくとも邪馬台国論争においては九州地域の隆盛を
むしろ新しい時代(弥生末期・古墳時代初頭)に持ってきた方が有利なんじゃね?wwwwww



493日本@名無史さん:2008/05/04(日) 06:20:13
畿内説の考古学って、三角縁神獣鏡魏鏡説だったっけ。
494日本@名無史さん:2008/05/04(日) 06:40:01
>>409
>なかなか前方後円墳の円形的な要素に結びつけるものがない。
カメレスだけど・・・

纏向型前方後円墳の更に初期の物はあまり綺麗な円とは言えず
殊更、円を意識して造ったんじゃないのでは?



495日本@名無史さん:2008/05/04(日) 12:57:08

角の丸い、前方後方墳

円墳を作るには高度の技術が必要だからね。
496日本@名無史さん:2008/05/04(日) 14:29:05
>>493
三角縁が魏で作られたという説は今や論外で畿内説でも舶載を認めない
学者が増えている。

ただ、今の畿内説は「魏や晋で使われていた鏡は何か」という点が弱い。
中国で魏や晋の墳墓から出土した鏡も全て漢鏡(漢式鏡)としている。
例えば、「位至三公鏡」は晋の300年前後の墳墓からの出土が多い。
この鏡は日本では画文帯神獣鏡や三角縁よりも古い時代に九州を中心に
分布する。
497日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:46:26
畿内と九州で、同じ様式の出土物が出たら、根拠もなく同じ時代と断定するのが畿内説学者の妄想。
C14の結果など一切無視しちゃって、世界中の学者から嘲笑を買いまくってます。
畿内で出土した百枚足らずの鏡こそ、卑弥呼がもらった百枚の鏡だと断定したあとで、
出土枚数が百枚を超えても卑弥呼がもらった鏡だと言い続けるのも畿内説学者の妄想。
出土するのは、存在したうちの何百分に一〜何万分の一に過ぎないってことがわからないんですね。
498ローガン:2008/05/04(日) 17:59:14
>>496
私は三角縁神獣鏡が卑彌呼の鏡ではないかなあと未だに思っている古いタイプの畿内説支持派です。
まあ、舶載云々は畿内説の中での議論なのでしょうが。

少し質問です。
「位至三公」は古くからみられる吉祥句ですね。
洛陽晋墓に多いこの銘文の入った鏡は、双頭龍紋鏡と呼ばれるものではないですか?
双頭龍紋鏡は九州の弥生土壙墓から出ていますね。
画紋帯や三角縁より古くて当然ではないですか。
499改めドツボ監視委員会:2008/05/04(日) 18:11:11
>>496
うーん、、仮に岡村秀典氏の漢鏡七期編年で漢鏡6期〜漢鏡7期の「位至三公鏡」を3世紀半ばにまで持ってきても
九州以東が優位になっていく傾向に変わりは無いんジャマイカ?
500改めドツボ監視委員会:2008/05/04(日) 18:23:15
>>497
>C14の結果など一切無視しちゃって

良く九州王朝説で見かける内容だけど
畿内と九州の出土物 双方 を”放射性炭素(C14 )年代測定”して九州の方がはるかに古いって事?

典型的な事例があれば後学の為に2・3教えてもらえないだろうか?
501日本@名無史さん:2008/05/05(月) 01:12:27
>>498 >>499
位至三公鏡は、中央に大きく「位至三公」と書いてあるあれです。
流れでは、後漢終末期〜魏の時代に双頭龍紋鏡が流行って、
その後の魏〜晋の頃に位至三公鏡が流行っている。

岡村はそれ以前の編年を大幅に変更して、魏や晋の時代の鏡も全部
「漢鏡」に分類してしまい、魏晋鏡について何も言及しない。
三角縁を魏の時代にするための編年でしかない。
502ローガン:2008/05/05(月) 20:52:11
>>501
回答をありがとう。
忙しくて返信遅れました。

仰る所の魏〜晋に流行した「位至三公鏡」そのものをもし、岡村氏が漢鏡編年に入れているとすれば、明らかに間違いですね。

岡村編年にある鏡は、九州弥生遺跡から出土している古いタイプの位至三公銘双頭龍紋鏡ではないのですか?

福岡岩屋遺跡(弥生X期)から出ていますね。これでは?(間違っているかも知れませんが…)
西川氏は、「位至三公鏡と呼ばれる双頭龍紋鏡は三国時代以降も引き続いて製作…」(三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡)と書かれていたと記憶してます。
魏晋代に初めて作られたものでは無いのではないですか?
503日本@名無史さん:2008/05/05(月) 21:22:33
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。

遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。

「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)

この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。

日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が確認できてい
なかったことは事実である。

しかし、ヤマト側の中国の認識よりも、隋国の使者が正しくヤマト側
のことを伝えていれば、それでよいのである。
504日本@名無史さん:2008/05/05(月) 21:59:39
>>500
この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている

詳しくお願いします
505日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:18:55
>>502
>魏晋代に初めて作られたものでは無いのではないですか?

双頭龍紋鏡は、後漢の末期には流通していたから、漢「式」の鏡とは言える。
しかし、その文様が発展していったのは魏以降ではないか。
とくに、位至三公鏡は晋の時代に最も流行し、この時代に多く出土する。

ただ、魏の時代の出土鏡は少ないので実態はよく分からないというのが実情か。
岡村は製作開始時期を重視して、文様の発展や流行した時期を無視している。

位至三公鏡が中国で最も流行した300年前後に日本に来たとすると、
獣帯鏡、盤龍鏡、キ鳳鏡などもその時期以降に来たことになり、
その後に画文帯が来て、三角縁の流通はさらにその後という流れになる。
506日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:37:54
>>504
自分でググれば
507日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:42:11
>>499-500
荒らすな

508日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:44:07
>>507
監視中
509日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:47:00
>>508

あらすなや(怒)





510日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:49:56
このスレを荒らしているのは
神奈川県民(トリップ無)=三重県民=改め=ドツボ。
意図せず結果的に荒れたという体をとっているが、悪意を持って荒らしているのは明白。
その手口はいくつかあるが、
1 他説に対する罵倒、人格の攻撃。
2 スレを私物化
の二種類に大別される。

特に後者は悪質で、2ちゃんのルールを大きく逸脱した俺様ルールを強要するのが特徴。
少し2ちゃんに慣れた人間には、反論が容易であり簡単に論破できる。
だがこれこそが罠なのであって、それが証拠にドツボはいくら言っても分からない(フリをする)
人間の性質として、明らかな正論が受け入れられないことは大きなストレスだ。
説明しても説明しても、論破されても論破されても、理解しようとしない(フリをする)ドツボは人格を攻撃されることになる。
そして荒れるのだ。
考えてみればすぐ分かるが、ここまで理解力がない人間はそういない。
つまり演技と断定してよい。

なぜ故意に荒らすのか理解に苦しむ向きもあろう。
私にも真実は分からない。荒れた結果、レスが進むことを喜んでいるのかもしれないし、そもそもバトルという行為に魅力を感じているのかもしれぬ。
しかし、そんなことは理解する必要はない。
ドツボが故意にスレ荒らしを呼び込んでいる事実、この一点に注目すればよい。

監視は有効だ。上記をふまえてドツボを監視しているという意志を示すことが重要だ。
我々はドツボが故意の荒らしをやめるまで、永遠に監視する。
賛同する人は、ただ監視中と書込んでくれればい。
それが悪質な荒らしへの対処法になり得ると確信している。
511太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/05(月) 22:52:29
改めは仮面をかぶって神社参拝をしたらしい?
512日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:55:52
>>510
事実と思うが、このスレを巻き込まないでくれ
改め氏もこのスレに来ないでくれ
513ローガン:2008/05/06(火) 01:10:00
>>505
なるほど。300年前後に日本に入ったとお考えなのですね。
するとそれが、墓に入る迄は「伝世」となる訳ですね。
同感です。三角縁神獣鏡についても「伝世」が考えられます。
514日本@名無史さん:2008/05/06(火) 02:52:12
監視中。
515日本@名無史さん:2008/05/06(火) 03:40:00
>>505
>位至三公鏡が中国で最も流行した300年前後に日本に来たとすると、
>獣帯鏡、盤龍鏡、キ鳳鏡などもその時期以降に来たことになり、
>その後に画文帯が来て、三角縁の流通はさらにその後という流れになる。

んじゃあ画文は早くても4世紀中頃?
流入の開始から終焉まである程度の巾はあるとしても・・・
ホケノの画文はフライングしすぎじゃね?w
516日本@名無史さん:2008/05/06(火) 12:36:22
>>515
いや、画文帯は4C初め頃から(320〜330年頃から)と考えている。
ゆえにホケノはそれ以後になる。
あれは340〜350頃ではないか
517日本@名無史さん:2008/05/06(火) 12:45:44
>>516
画文帯のベースは2世紀後半の江南・楽浪に在るでしょ。
それが100年の時を隔てて倭に移動してきたとでも言いたいわけですか?
518日本@名無史さん:2008/05/06(火) 13:04:29
その時、日本列島はアルゼンチンの横にあったから100年掛かったのさ
519日本@名無史さん:2008/05/06(火) 17:22:38
卑弥呼が金印を賜った魏の皇帝が誰だったか名前をご存知の方おられますか?
520日本@名無史さん:2008/05/06(火) 17:47:22
明帝だったら景初2年。少帝なら景初3年か正始元年。
さてどちらでしょう。
521日本@名無史さん:2008/05/06(火) 18:10:53
>>517
画文帯の開始が2C後半というのはそのとおりではある。
しかし、中国での流行をみると、220以降に呉の領域で流行する。
魏では画文帯の出土は皆無ということからは、楽浪、日本に来るように
なったのは、呉の滅亡(280以降)ということになる。

日本出土の画文帯のうち、古いとされる萩原などの同向式は中国にはない
外区文様である(王仲殊もそう断言し、中国の平縁神獣鏡と区別する)。
これは、平縁神獣鏡の内区を用いて日本で作られたものと見たほうが良い。
実際にも日本でほぼ全部(楽浪で1枚)出土する。

その年代は呉の滅亡後に楽浪、日本と画文帯が来てさらに変化した経緯からは
300年以降と見るのが穏当であろう。
522日本@名無史さん:2008/05/06(火) 18:12:59
ビートルズが世界で流行したのはイギリスが滅亡してからなのは世界の常識
523日本@名無史さん:2008/05/06(火) 18:18:04
>>520はっきりと分かってないということなんでしょうか?
524517:2008/05/06(火) 20:02:15
>>521

> 魏では画文帯の出土は皆無ということからは、楽浪、日本に来るように
> なったのは、呉の滅亡(280以降)ということになる。

2世紀前葉の楽浪は魏の「領域」でもないですよね。
魏とも呉とも通交する半独立状態の公孫氏の領域です。
実際に画文帯は貞柏里などで後漢鏡である方格規矩鏡などと並出しますし、
楽浪にあればそれを倭が輸入又は製造することは、
そんなに不自然なことではないと思いますけど。
と言うか、4世紀まで倭には入ってこないと考える方が不自然でしょう。

> 日本出土の画文帯のうち、古いとされる萩原などの同向式は中国にはない
> 外区文様である(王仲殊もそう断言し、中国の平縁神獣鏡と区別する)。
> これは、平縁神獣鏡の内区を用いて日本で作られたものと見たほうが良い。
> 実際にも日本でほぼ全部(楽浪で1枚)出土する。

その楽浪の一枚がマスターかもしれませんね。

> その年代は呉の滅亡後に楽浪、日本と画文帯が来てさらに変化した経緯からは
> 300年以降と見るのが穏当であろう。

呉滅亡後になっても画文帯は京都周辺では出ないでしょう。
ならば、楽浪・倭にも行かないはず。
つまり、呉滅亡以前に神獣鏡の文化は公孫氏政権に伝えられていたと私は考えます。
525河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/06(火) 20:04:40
>>519

明帝皇です。
假金印紫綬はすべて景初年間の中での出来事と、各倭伝に記されています。
526日本@名無史さん:2008/05/06(火) 22:08:53
>>519

>卑弥呼が金印を賜った魏の皇帝が誰だったか名前をご存知の方おられますか?


○三國志魏書明帝紀

 景初三年春正月丁亥帝崩于嘉福殿時年三十六癸丑葬高平陵

○三國志魏書東夷傳

 景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京其年十二月詔書報倭女王
 正始元年太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王

「詔」をだした時の皇帝は明帝です。
そして、詔が伝えられた時の皇帝は次代の芳です。
現存する三国史の記載ではこれが公式見解なので、
「賜った」のが「詔」を出した時か、それが伝えられた時かで答えは変わってしまいます。

※魏三代皇帝曹芳のことを「少帝」と書いている人がいますが、廃帝扱いなので芳には帝号がありません。
 三国史帝紀では、三代芳、四代髦、五代奐(元帝)の幼帝三人を四卷目として「三少帝紀」として纏めているだけ。
 「少帝」と言うのは芳固有の称号ではなく、ましてや「明帝」と対置して表現するようなものではありません。

 
527日本@名無史さん:2008/05/06(火) 22:15:33
>>525

> 景初年間の中での出来事と

芳は景初三年正月即位ですが、改暦改元は一年後です。
ですので、その表現では「明帝」時代の意味に使えません。
528河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/06(火) 22:43:54
>>527

いいえ、喪中の芳は明帝に始まった出来事は代理者
529日本@名無史さん:2008/05/06(火) 23:01:56
邪馬台国の使者が魏に到着した年については2種類あります。
景初2年説であると、その年の皇帝は明帝でその年に金印をもらったことになります。
ところが景初3年説では、使者が魏に到着したときには明帝はすでに死んで(景書3年の1月1日に崩御)おり、
金印を明帝からもらうことはできません。それでは次の少帝芳からもらうことになるのですが、
景初3年は喪中のため喪があけてからもらったことになります。
その場合、正始元年に少帝芳から貰ったということになります。
530河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/06(火) 23:05:34
>>529

明帝が死んでいようが生きていようが、改元前なら明帝だよ
531日本@名無史さん:2008/05/06(火) 23:10:24
>>528

貴方、日本語がヘンですよw
532日本@名無史さん:2008/05/06(火) 23:11:54
各倭伝がすべて明帝からもらったということになっているならば、それは(使者の魏到着)は
景初2年であったということになります。
533河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/06(火) 23:16:21
>>532

>各倭伝がすべて明帝からもらったということになっているならば、それは(使者の魏到着)は
景初2年であったということになります。


そうだよ
景初二年六月と書いてあるでしょ
534日本@名無史さん:2008/05/06(火) 23:19:17
各倭伝って何だ?
535日本@名無史さん:2008/05/06(火) 23:33:14
>>524
>その楽浪の一枚がマスターかもしれませんね。

楽浪から唯一出た画文帯同向式は、日本で約30枚出ているものと同型で
中国では同型は出土していない。
となると、日本から持ち込まれたものでしょう。

平縁神獣鏡の内区に画文帯の外区をパッチワークしたもので、出土状況からは
日本でオリジナルが作られたと見たほうが良いと思います。

その時期は日本が半島に進出した400年頃以降である可能性が高いですね。
画文帯は日本では6世紀になっても作られているので、その頃かも知れません。
百済王の墳墓から出土した鏡も日本から持ち込まれたものでしょう。
536519:2008/05/06(火) 23:40:18
>>525-533ありがとうございます!
明帝さんってことですね!
537改めドツボ監視委員会:2008/05/06(火) 23:54:52
景初二年(238)の8月に掃討戦により公孫氏は滅亡。

その前の6月に帯方群に付いたとなると戦乱の只中を突っ切って…って事になり
その遣魏使の価値も上がろうと言うものw
538日本@名無史さん:2008/05/07(水) 19:36:42
公孫氏は天皇家の先祖と言う説をどこかで見たことがあるが、
可能性はありますか?
539太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/07(水) 20:10:37
どうだかね? 公孫を皇孫と読めば一脈通じて感じはするが〜?
540河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/07(水) 20:11:30
>>538

100%無い。
と言う事は言えないけど、文献からは見つけ出す事は出来ない、という事です。
541日本@名無史さん:2008/05/07(水) 20:54:52
天皇家など、どこぞの傭兵隊長の子孫ってなだけだろw
542日本@名無史さん:2008/05/08(木) 19:43:12
>>539-540
ありがとうございました。
周王室とのつながりのようなスレもたってますが、文献にはないのですね。
まだまだ想像力と推理力の世界ですね。
でも、皇室にはそういう事を公表できないような資料が保存されているかも
知れませんね。

>583より
543日本@名無史さん:2008/05/09(金) 11:12:48

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
544日本@名無史さん:2008/05/10(土) 12:59:11
公孫氏が出雲なんだよな
545日本@名無史さん:2008/05/10(土) 17:23:32
>500
装飾古墳の年代などね。
546日本@名無史さん:2008/05/10(土) 18:17:12
>>545
装飾古墳は九州から広まったと言うのは定説だろうから

 >>497
 >畿内と九州で、同じ様式の出土物が出たら、根拠もなく同じ時代と断定するのが畿内説学者の妄想。

と言う根拠にはならないな。

つか時代としては5・6世紀だったと思うけどどれくらい遡るのかな?
”装飾”の前提として石室が無ければならないだろうけど
そうなると石室の無い墳墓はさらに時代を遡らせねばならないと思うが・・・
547日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:34:49
>>500
自分で調べる位したら
偉そうにここで聞く事じゃない。自分の考えに合うような資料にしか触れないんじゃね
548日本@名無史さん:2008/05/13(火) 17:36:34
ハイキングウォーキングのQ太郎が
長髪を両耳の所に束ねて「卑弥呼様ー!」などとやっているが、
本当に「卑弥呼様」を真似るのであれば、髪はそのままで良いと思う。
549日本@名無史さん:2008/05/14(水) 19:22:17
卑弥呼に会えるのは宦官でしょ。
550九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/14(水) 19:23:51
あそこもちょん切ってから会ってね。
551日本@名無史さん:2008/05/15(木) 00:29:36
>>516

そう言えばホケノってC14による年代測定って出てたよねえ。
(年輪年代は九州説の方々に評判良くないのでw)

以下ググって拾ってきた。毎日新聞の記事らしいが・・・


出土したのはコウヤマキ製のくりぬき式木棺(長さ5m、幅1m)。加工を容易にし、腐るのを防ぐため、棺の表面は焼かれ、黒く炭化していた。
調査委が木棺北側の炭化部分から1センチ角のサンプル5点を採取し、米国フロリダ州の専門機関に分析を依頼した。
測定の結果、サンプルの年代は
「西暦120年を中心に、75〜215年」
「120年を中心に、80〜155年」などと判明。
調査委は、欧米と日本の自然環境の違いなどからデータを補正し、木棺を加工した際に木材表面が削られていることなどを考慮、伐採年を2世紀末〜3世紀前半と推定した。
中国で2世紀末〜3世紀初めに作られた画文帯神獣鏡が副葬されていたことなどから、築造年代を3世紀前半と判断した。
552日本@名無史さん:2008/05/15(木) 09:54:23
>>551
画文帯が日本に来たのは300年以降だろうね。
280頃までは、中国の北部ではほとんど流通していないので
朝鮮、日本に来るはずがない。
553日本@名無史さん:2008/05/16(金) 01:48:23
>>552
オリジナルを華北に求めなくとも「楽浪鏡」と言うカテゴリーに属するとして楽浪郡でいいんじゃね?

大体ホケノは後からでも自由に出入りできる「横穴式石室」じゃないんだし
まさかC14の測定結果に基づく築造推定年代3世紀前半から半世紀以上して
わざわざ土を掘り返し同向式画文を副葬したなんてアホな話は無いだろうしw

もしホケノが4世紀初頭〜前半なら箸墓は4世紀中頃〜末?
昔の「古墳時代は4世紀から」の元になった伝・祟神陵古墳なんか下手すりゃ5世紀に突入か?w

まあ>>551のC14の日本で加えられた補正が正しいのかどうか?
・・・なんて話しになるとさっぱり分からないが。

しかし畿内説で言うと
半島を支配していた公孫氏と交渉を持ち画文をゲット。
公孫氏が滅ぼされたら、すかさず魏に朝貢。
・・・畿内ヤマト変わり身早ぇええwwwwww
554日本@名無史さん:2008/05/16(金) 10:13:46
ええと。
その画文帯神獣鏡というものが日本に来た時期によって、邪馬台国にどう関係あるんです?
初心者の質問ですいません。
555日本@名無史さん:2008/05/16(金) 11:01:26
>>553
朝鮮に画文帯が来たのは呉の滅亡(280年)以後だろ。

ホケノの木材は再利用だろうね。
かれらは「伐採した直後にここに持ち込まれて加工された」
という趣旨のことを述べているが、正気かwww
わざわざ高級木材をもってきて生木で使うわけねーだろwwww
556日本@名無史さん:2008/05/16(金) 11:14:51
>>554
畿内説も、昔は古墳時代は4C始め頃からとしていたのだが、古墳時代の直前まで
北部九州の方が畿内より栄えていたことが考古学的にはっきりしたので、15年位
前から畿内説は、古墳時代の開始を200年頃からと変更した。

畿内説はこれに合わせて出土物を(鏡)を古く見る必要が出てきた。
画文帯はほとんどが古墳から出土するため、以前は4C初めころから日本で流通して
いたとされていたが、中国(呉)で200年頃から流通していたので、同時に日本でも
流通していたと変更した(岡村)。

画文帯は三角縁の出る古墳より古い時期の古墳から出土するので、三角縁を
239年に魏からもらったとする考えでは、画文帯をそれ以前とする必要もあった。

まあ、泥縄式の議論だわな。
557日本@名無史さん:2008/05/16(金) 12:39:06
なんだ九州終了じゃん
558日本@名無史さん:2008/05/16(金) 19:26:23
>>555
おいおい、権力者の墓にリサイクル材かよw

全長100m弱の墳墓を作り、銅鏡を副葬し、朱を使い・・・そこまでして最期に木材をケチるのか?www

もうちょっと現実味のある内容を頼むw
559日本@名無史さん:2008/05/16(金) 19:41:30
>>555
>朝鮮に画文帯が来たのは呉の滅亡(280年)以後だろ。

つかその理屈を成り立たせようとするなら
同向式画文が280年以前の呉になければならないんじゃないのか?
でないと 呉→楽浪 と言う伝播の図式が成り立たないわけで・・・。


560日本@名無史さん:2008/05/16(金) 21:10:29
>>558

高級材と言うものは、伐採後何年も蓄蔵されることがあるんだよ。
561日本@名無史さん:2008/05/19(月) 02:39:57
他スレで「小林行雄は文学者」って話があってふと思ったんだけど
作家・文献史学者とかじゃなく考古学者で九州説を支持している人っているの?

まあ考古学者じゃなくて大きく学者と言うカテゴリーなら
やっぱ安本美典が有名なのかな?
もっともこの先生元々本職は心理学者だっけ?

で、この先生は神功皇后をなんかの本で
「解離性同一性障害(=二重人格?)」って書いてたらしいけど
本職の心理学者が言うのなら案外本当なのかもww
562日本@名無史さん:2008/05/19(月) 02:43:34
今でも寺院に使う木材って10年くらい枯らすだろ
563 サガミハラハラ:2008/05/19(月) 09:46:54
>>561佐賀の高島忠平氏がそうです。
564日本@名無史さん:2008/05/19(月) 10:20:47
箸墓周濠からでた木製輪鐙で箸墓は卑弥呼の墓でない事は確定し、
橿原考古学研究所では
「箸墓は壹與の次の男王の墓」
と言い出している。
箸墓を三世紀中庸に持っていくことは不可能と判断したのだろうね。
なんと言っても鐙が発明されたのは、晋で3世紀末と言うのが
考古学上の定説だから。

橿原考古学研究所の付属博物館の売店ではホケノ山出土の画文帯神獣鏡の
レプリカを卑弥呼の鏡として売っているそうだ。
565日本@名無史さん:2008/05/19(月) 11:12:30

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
566日本@名無史さん:2008/05/19(月) 11:36:25
考古学は遺物や遺構から昔の社会や文化を解明する学問で、
邪馬壹國等が何処かを探すものではないし、
考古学では邪馬壹國の表札か親魏倭王の金印でも出土しない限りは、
邪馬壹國の位置は特定できません。
567日本@名無史さん:2008/05/19(月) 11:40:43
>>565
ゆってる事が意味不明。東北は弥生時代なんてなかったろ?
568日本@名無史さん:2008/05/19(月) 11:43:53
>>564
鐙の普及は5世紀に入ってからだから、箸墓も5世紀築造が妥当。
569日本@名無史さん:2008/05/19(月) 14:52:49
>>563
高島さんは本気で九州説なんてやってないよ。
あれは吉野ヶ里館長としての営業スタイル。
一度でも高島さんの論文に目を通したことある?

>>564>>568
あくまでもそういう妄想を主張するのなら
一度自分で古墳編年つくってみ?
もちろん木鐙の出土状況も知ってるんだろうから
ついでに土器編年も作り直して提示してくれ。

あんたらの大好きな安本さんは何だかんだといいながら独自の編年を作っているそうじゃない。
ぜんぜん完成の見通しは立ってないようだけど、話はそれからだよ。
570名無しさん:2008/05/19(月) 15:03:17
>>569
偉そうに言ってる「あんた」は、九州説を信じる人からみたら、
単なる畿内厨の1人にすぎないという、現実を直視したら?
571日本@名無史さん:2008/05/19(月) 15:17:11
>ついでに土器編年も作り直して提示してくれ。

簡単に言うけど、専門に考古学を仕事でやっていても難しい。
地域毎の土器編年だから作業量は大変多い、グループでしないと。
現在は地域毎の土器編年がないので、個別に測定して年代を出すしかないし、
土器編年よりC14で個別に測定して年代を出すのが確実。
572ローガン:2008/05/19(月) 15:41:32
鏡編年、年輪年代、AMSのクロスチェックが今の所、ベターでしょう。
>>564の方は、おそらく輪鐙の出土状況を知らないのでしょうね。
それから、箸墓は壹与の後の男王の墓…
橿孝研の公式見解では無いのと違いますか?
確か、寺澤さんの私見でしょう。
573日本@名無史さん:2008/05/19(月) 16:45:15
九州の人も畿内の人も一度聞きたかったんだけどさ。
近年発見されてる東北の稲作とかで論の修正とか
考えないの?

>>565の人は繰り返しコピペしててちょっと変な人っぽいけど
言いたい事はわかるんだよな。

稲作が国家形成の要因だとすれば、記録にもない大量の渡来人
なんてものを仮定するよりも、東北から国家形成・郡形成されていった
と考える方が合理的だと思うんだが。

鯨って小説家が東北説を書いていたけれど
説得力があったよ。方位については俺独自の考えもあるけど。

壱岐→隠岐と替えれば、伊都国は大阪・奈良あたりになるんじゃないかな。
574日本@名無史さん:2008/05/19(月) 18:24:09
>>551
>調査委は、欧米と日本の自然環境の違いなどからデータを補正し、
木棺を加工した際に木材表面が削られていることなどを考慮、
伐採年を2世紀末〜3世紀前半と推定した。

炭素年代も当てにならないと言う事を言っているのと同じだわなwww
575日本@名無史さん:2008/05/19(月) 21:46:13
>>571

最後の一行だけは意味がわかるが、それ以外は何を言ってるのか全然わからんぞw
576日本@名無史さん:2008/05/20(火) 00:42:32
>>564
>箸墓周濠からでた木製輪鐙で箸墓は卑弥呼の墓でない事は確定し

どうどうw

それは2001年8月の旧家の新築工事に先駆けた発掘調査の事だろ?

その輪鐙が出て来た層と言うのは、6世紀の洪水で堆積した砂礫層のそのまた下の黒色泥炭層で
そこから出る土器片は4世紀始めの纏向4式(布留1式)
素直に解釈すれば4世紀の日本に馬がいたという事になるw

実際「4世紀日本に少ないながら馬がいた」と言う説もあったらしいが。

まあその場所が「上ツ道」であり輪鐙が捨てられていた事は自然だが
何れにせよ飛鳥時代と言うのが大方の見方らしいよw




577576:2008/05/20(火) 01:56:57
まあ老婆心ながらだけど・・・

『 木製輪鐙 』つっても字面だけじゃあ良く分からない人もいるかもしれないけど
要は馬に乗った時つま先を通すワッカみたいな奴ねw

てかコレ↓
http://www2.begin.or.jp/~sakura/topix10.htm
578なんか昔似たようなタイトルがwww:2008/05/20(火) 04:04:41

古代史講演会「卑(ひ)弥(み)呼(こ)と邪(や)馬(ま)壱(い)国(こく)は
消されていた〜卑弥呼の国は大分市〜」(大分合同新聞主催)が十七日、
大分市のNHK大分放送局スタジオホール・キャンバスであり、約百八十人が集まった。

 講師は埼玉県さいたま市の眼科医で「卑弥呼と邪馬壱国は消されていた」の著者、大野佑司さん。

 中国の歴史書「魏志倭人伝」には邪(や)馬(ま)台(たい)国(こく)のことを邪馬壱国と書いており、
「歴史書にある位置や方角を丁寧にたどっていくと、邪馬壱国は大分市以外にありえない」と説明。
「古事記などの編集者が歴史から消し去ったため、幻の国になってしまった」と持論を展開した。

http://www.oita-press.co.jp/localNews/2008_121117435635.html
579573:2008/05/20(火) 04:12:39
だれも答えてくれないのでおれの仮説を書いておきます。

伊都国は現在の亀岡・京都あたりにあった。
不彌国は美濃方面、奴国は名古屋方面
つまり琵琶湖を挟む二つのルートを示してる。

船行2方面は(伊勢湾は南向き)
邪馬台国:現在の伊勢湾(奴国)から宮城県の松島まで、残りは陸行で岩手八幡平
斯馬国から奴国までの列記は途中の港だろう。蘇奴国→冨士山近辺、対蘇国→双子山近辺など

投馬国は船で20日だから、沖縄。馬に投げるからってのはギャグだねwでもありそう
流刑に使われてたのかもしれないし。

とりあえず。
580日本@名無史さん:2008/05/20(火) 06:34:07
どうしてお前らは「馬」を マ って読むかな。
マって読んだら訓読みだろ。これは漢字なんだぜ、だったら高田馬場よろしく音読みでバって読まなきゃいけないだろ。
つまり邪馬台国はヤバタイ国って読むのが正解なんだよ。
だから卑弥呼のいた国はヤバタイ。
そして邪馬台、ヤバタイ、邪馬台、ヤバタイ…って何度も口に出してみろ。
似ている地名・言葉があるだろ。
ヤバタイ、ヤバタイ、ヤバタ、ヤバタ、ヤバタ、ヤハタ、ヤハタ、ん? ヤハタ?、八幡?
そうだ、今の言葉で言うと八幡。
つまり邪馬台=八幡なんだよ。
ここで頭のいい奴は思い出すよな。そう八幡といえば八幡宮だ。
こいつの祭っている奴は誰あろう、応神天皇と神功皇后だぜ。
ほらビックリしただろ。神功皇后だ。
どっかで聞いたことあるな。
そう日本書紀で卑弥呼であろうと推定されている人物だ。
もうこれで証明されたな。
邪馬台国のあった場所は邪馬台=八幡だから、つまり八幡の地こそがそれなんだよ。
581日本@名無史さん:2008/05/20(火) 07:20:03
>>572
>橿孝研の公式見解では無いのと違いますか?
>確か、寺澤さんの私見でしょう。

橿考研付属博物館の売店で、ホケノ山出土画文帯神獣鏡のレプリカを
卑弥呼の鏡として売っているのだから公式見解と思っていいのじゃないの?
箸墓が卑弥呼の墓ならその前のホケノ山に卑弥呼の鏡が埋葬されるのは変だし

>>576
>そこから出る土器片は4世紀始めの纏向4式(布留1式)
>素直に解釈すれば4世紀の日本に馬がいたという事になるw

安本は4世紀後半だと言っている
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hasihaka.htm
4世紀後半ならあっても不思議はないからね

素人畿内説支持者は箸墓から離れられないかもしれないけど
プロは寺沢氏の説に傾いているのだろうよ

たしか寺沢氏は
箸墓は巨大な前方部が付帯した前方後円墳は倭人伝の言う径100歩
という記述にあわない
勝山とか石塚なら前方部は目立たないから、径100歩という円形を
思わせる記述に反しない  槨も無いし
と言っていた
582日本@名無史さん:2008/05/20(火) 08:38:34
>>580
>どうしてお前らは「馬」を マ って読むかな。
マって読んだら訓読みだろ。

マは音読みでは?
中国ではバという発音はないはず・・
583日本@名無史さん:2008/05/20(火) 10:48:50
漢音ではバと読むんだよ
584日本@名無史さん:2008/05/20(火) 13:11:41
メという読みもある
585日本@名無史さん:2008/05/20(火) 13:54:50
漢音は長安特有の音。
呉音で読むのが正しい。
万葉仮名の読み方も考慮にいれる必要がある。

アモイ方言や台湾の一部方言には
魏志倭人伝が書かれた西晋時代の発音を
現代に伝えているものがある。
586日本@名無史さん:2008/05/20(火) 14:54:08
>>570
九州説を信じる人ってw
そりゃどんな話でも「信じる人」からすれば、現実を突きつけられるのは嫌だろうけど
仮にもここは学問板なのだから、信じるなんて情けない言葉使わないでくれ。

細木を信じる人からすれば、まわりの常識者はみな厨だろうし
アポロは月に行っていないと信じる人からすれば、NASAは厨の巣窟だろうけどね。
587ローガン:2008/05/20(火) 16:24:38
>>581
564と同じ人かな?違ったらごめんなさい。
>橿原考古学研究所では「箸墓は壹與の次の男王の墓」
>と言い出している。

お土産品販売から勝手な推測して、「橿原考古学研究所が言い出している」はおかしいでしょう。
寺澤さんが何故「壹與の次の男王の墓」と考えるか?は「王権誕生」に確か書いていたと思います。
論拠は晋書武帝紀でしたね。布留0の年代観が確定した訳ではありません。

石塚に槨もない…
本当に言っていたのですか?
588日本@名無史さん:2008/05/20(火) 17:21:06

イヨタン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
589日本@名無史さん:2008/05/20(火) 18:20:00
ヤマタイコクにはヒミコになりすましたヤマタノオロチが居て、倒すとオーブが貰えるよ!!!
590日本@名無史さん:2008/05/20(火) 18:20:45
ヤマタイコクにはヒミコになりすましたヤマタノオロチが居て、倒すとオーブが貰えるよ!!!
あ、そうそう!ヤマタノオロチは、たまにくさなぎの剣を落とす。
591日本@名無史さん:2008/05/20(火) 19:11:57
ヤマタイノオロチです。
592日本@名無史さん:2008/05/20(火) 19:28:31
臺を広東語ではトイと発音する。
ヤマトイ国
ヤマトイのおろち
593573:2008/05/20(火) 19:35:16
【帯方郡から伊都国までの経緯1/2】

船行1000余里について:
「1000余里」は外国への運行上の予算算定の最低単位ではないかと考える。
一昼夜の連続運用→1000里、として計算しているのではないか。
出港し到着するまでの乗組員給与、備蓄物資の量(価格)などををその単位で算定し「予算」とする。
したがって帯方郡から狗邪韓國までは7単位、あとは1単位であるということ。
タクシーの最低料金のようなものと考えれば現代人には理解しやすいかも。
※(北岸)狗邪韓國については、倭人伝であるから倭属領である可能性があり。蛇足

一大国について:
壱岐島とするなら対馬からの連絡地としてはあまりに中途半端なため、ガイドとして紹介した可能性がある
と考える。
対馬からの実際の連絡地で、それを北九州に求めるなら飯塚(イータイから)などの地名由来を考える。

一大国から末盧国について:
ここは重要である。
方位が示されていないのは何らかの政治的また軍事的な隠蔽があった可能性がある。
その場合、地名の特異性を考えてみるべきだろう。
盧とは丸く囲われた形状、また金属錬成のための瓶(かめ)である。
対馬、あるいは壱岐から海を渡り(沿岸ではなく)1日程度で到着する場所として松江が
それにふさわしいと考える。
宍戸湖の形状、大塚山という火山は沿岸から格好のランドマークだろうと考える。
隠岐島についてはかくれた分岐点というなかなか暗示的な名称である。
亀岡鹿谷遺跡で見つかった黒曜石は隠岐産という説もあり、なんらかの土産購入のための
寄港地だったかもしれない。いずれにせよ古来から連絡があったというのは確かだろう。
594573:2008/05/20(火) 19:37:22
【帯方郡から伊都国までの経緯2/2】

末盧国から伊都国について:
陸行500里は松江→亀岡に合致している。
なぜ船ではなく陸行なのかの意味の意味もわかりやすい。
また瀬戸内海経由ではないという理由も伊都の南、狗奴国と係争中ならば当然のこととなる。
邪馬台国(女王国連合)は瀬戸内海の制海権がとれていないためだ。

余談)狗奴国の「郡」について
大和、那古野近辺を奴国としてそこから郡(狗奴国中心)までは魏志倭人伝の狗奴国紹介文に
書かれている。
「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里」
ここでの「郡」は狗奴国の郡であろう。伊勢湾から一万二千里、船で12日である。
鹿児島近辺ということになる。熊襲→狗奴国かもしれない。

とりあえず。
595573:2008/05/20(火) 19:49:40

追考

一大国について:
狗邪韓國から放射状に対馬、一大、末盧をガイドしている可能性もある。
596573:2008/05/20(火) 20:14:26
伊都国について再掲しておく。


伊都国は現在の亀岡・京都あたりにあった。
不彌国は美濃方面、奴国は名古屋(津あたり?または志摩まで?)方面
つまり琵琶湖南岸の二つのルートを示してる。

船行2方面は(伊勢湾は南向き)
邪馬台国:現在の伊勢湾(奴国)から宮城県の松島まで、残りは陸行で岩手八幡平
斯馬国から奴国までの列記は途中の港だろう。蘇奴国→冨士山近辺、対蘇国→双子山近辺など

投馬国は船で20日だから、沖縄。馬に投げるから(縄)ってのはギャグだねwでもありそう
流刑に使われてたのかもしれないし。
597日本@名無史さん:2008/05/20(火) 21:20:29
日本の考古学っておかしい。
鐙は3世紀末に中国で発明されたと言うのが定説。
3世紀末には騎乗する時にだけ使う片足だけのものがあったらしい、
と言うのは、4世紀初めの晋の年号入り中国南部の墓の陶傭に片足だけの
鐙が表現されていた。
これが両足鐙になって普及するのはかなり時間が掛かって、5世紀頃
になる、と言うのが通説なのだ。
半島では4世紀後半かもしれない鐙が出ているのが最も古い。
これは異論もあって5世紀と言う話もある。

大陸でさえ5世紀になって普及した鐙が日本で3世紀末か4世紀初めに使われていた
と言うのは幾らなんでもおかしいだろ。
日本には馬がいなかったんだし。
598太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/20(火) 21:29:07
記紀に 天斑馬を逆剥ぎに剥ぎて とかあったな・・・。
599日本@名無史さん:2008/05/20(火) 22:14:36
>>598
スサノウが新羅に行った折に連れ帰ったのでしょう。
その後繁殖はしなかったようですが。

ともかく、箸墓の馬具は布留1式の層から出ていていますね。
昔は布留1式は400年前後にまたがるとされていたので、年代遡上説を
取らなければ、問題なく理解できる出土物ですね。

庄内式は、320頃〜360頃
布留0式は、350頃〜380頃
布留1式は、370頃〜420頃
布留2式は、410頃〜450頃

年代遡上説を採らずに、考えるとこんなところでしょうか。
600日本@名無史さん:2008/05/20(火) 22:20:07
北九州から南へ水路なら10日、陸路なら1月かけて邪馬台国、北九州から南へ水路で20日で投馬国
邪馬台国は宮崎県の「日向」、投馬国はさらに南に行った西都原のある「妻(つま)」だと考える。

10日、1月、20日は実際にかかった(かけた)日数であって、「どこにも立ち寄らず最短ならこれぐらいで行けるはず」の日数ではない。
(魏王に「憶測」を告げるのか「事実」を告げるのかということ)

魏志倭人伝の倭国の記述は、数日立ち寄った程度のものではなく、魏が呉を出し抜いて倭を引き入れるための真剣な調査記録。
これは一月はかかったはず。
つまり、福岡から行きは水路で「道中の土地の有力者」に魏の偉大さを見せ付け宿泊しながら行き、帰りは陸路で魏の威容を30ヶ国に見せ付け調査しつつ帰った。




601九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/20(火) 22:28:47
今回の、四川大地震が起こった付近の地形は
三国時代、軍事的に極秘中の極秘だったらしい。
ほぼ同時代の倭人伝の邪馬台国女王卑弥呼の居所も
あえて曖昧な記述になっている可能性もあるだろう。
602日本@名無史さん:2008/05/21(水) 01:24:07
>>597 が本当なら >>581 で出てる安本美典先生の説もハイ消えましたwww

てか5世紀以降、上ツ道を馬で通っていた誰かが破損した鐙を箸墓の周濠の中にポイ捨て。
んで、それが何らかの原因で、下の層に紛れ込んだ。
・・・ってトコじゃないの?www

そもそも鐙の出てきた層は箸墓の周濠の最下層じゃないと言う事だしw
603599:2008/05/21(水) 01:48:04
>>602
箸墓は布留0の頃に築造され、埋葬もされたというのが今の通説。
んで、馬具の出たのが布留1の層。

馬具を400年前後からとすると、
A説、たまたま最古級の馬具が箸墓から出土した。
   この説でも普通に考えれば400年の少し前頃までしか遡れない。
B説、箸墓の馬具は特に古く300年頃のものである。
    まあ、論外だろう。
C説、400年以降の馬具が重みで下の層に落ちていった。
   出土層が明確に分かれている状況で、木製の馬具が重みで下に
   行ったとは考えにくい。

となると、布留1を400年前後と考えざるを得ない。
604日本@名無史さん:2008/05/21(水) 02:31:26
>>603
流石にこの鐙一個でそこまでの結論に持って行くのは幾らなんでも無理だろうねえ。。

まあ柳本や佐紀あたりの、箸墓よりそう時代が経っていない古墳から馬具等が出てくれば・・・ってトコかな?w
605日本@名無史さん:2008/05/21(水) 03:10:41
>>602
いや、いわゆる「沈み込み」は出土状況から見て考えにくい。
ただし>>604の言うとおり鐙ひとつで「考えざるを得ない」とかは無理すぎ。

何人かは必死で箸墓「のみ」を5世紀に持って行きたい様子だけど
それこそ無理があるというか、ずれるのなら総てがずれねばならない。
それは九州の土器編年も同時にずれ込むことになり、九州説もまったく整合性を失う。
年代遡上したというより、九州と機内の編年のずれを九州主体に修正したのが、現在の編年だから
庄内式が北部九州発祥などというウルトラトンデモ発想にしないと、説明がつかなくなる。
606日本@名無史さん:2008/05/21(水) 10:24:10

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
607日本@名無史さん:2008/05/21(水) 15:46:46
1979年に武田説を安本美典が
「『邪馬壱国』は無かった」として崩壊させたが
安本説も坂田隆が「卑弥呼をコンピュータで探」って崩壊させた。
608日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:35:58
>>605
>何人かは必死で箸墓「のみ」を5世紀に持って行きたい様子だけど
>それこそ無理があるというか、ずれるのなら総てがずれねばならない。
>それは九州の土器編年も同時にずれ込むことになり、九州説もまったく整合性を失う。

九州説が圧倒的に有利になるよ。
畿内説の連中は奴国(福岡)の遺跡、吉野ヶ里遺跡は2世紀中庸が最盛期で3世紀には衰退していた。なんてぬかしているが
100年とか150年繰り下がれば 奴国(福岡)の遺跡、吉野ヶ里遺跡は邪馬台国の時代にドンピシャリになる。
吉野ヶ里が邪馬台国候補として俄然脚光を浴びてくるな。
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」がすべてそろっている。
「径百歩」の墓は見つかっていないが、吉野ヶ里で殉葬が行われていた事は確かだ。

畿内には馬鹿でかい墓しかない。
609日本@名無史さん:2008/05/21(水) 22:44:38
 畿内に中国から来たもの、半島から来たものって何かある?

九州には間違いなく中国から下賜されたものや、半島と交流していた証拠になる土器があるけど
纏向から中国から下賜されたものが見つかっていないんじゃないか?
三角縁神獣鏡はだめだよ。あれは日本製って決まっているから。
しかも三世紀の遺跡から出ているわけじゃないからね。
610日本@名無史さん:2008/05/21(水) 23:00:15
>>609
森浩一も40年前からヤマトでは中国から来たものが出ないと
言い続けてきたね。

三角縁をいまだに舶載と言っている人たちって何なんだろう。
気味が悪いね。
611河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/21(水) 23:41:05
>>608

遺跡を調べれば、殉葬かどうか分かるのか?
612日本@名無史さん:2008/05/21(水) 23:48:20
文献は間違いだで済ませられるかもしれない。

でも、考古では畿内説は殆ど成り立たない。

畿内説の考古学者って頭おかしいんだね。
613日本@名無史さん:2008/05/22(木) 00:05:52
橿考研はやる気だwwwwwww


「せんとくんに強敵!? 奈良・橿考研の「イワミン」が人気」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080520/acd0805201022007-n1.htm
614日本@名無史さん:2008/05/22(木) 00:18:45

イワミンタン・・・・・・・・・・・・・・・・・・ カワイイ
615日本@名無史さん:2008/05/22(木) 00:36:42
巫女埴輪のミコリンもキボン
616ローガン:2008/05/22(木) 00:40:01
>>610
そのモリコー先生が箸墓は壹与の墓って「記紀の考古学」で確か言っていたような…
昔は九州説として頑張っておられたが。
617日本@名無史さん:2008/05/22(木) 01:04:01
>>609

まあホケノの同向式画文とか、素環頭太刀一本、鉄製刀剣十本前後とかかな?
無いわけではないが確かに少ない印象はあるな。
(つうか金属製品全般に少ないかな?)
それを持って纏向を邪馬台国に比定するのを疑問視する先生もいるみたいだが…

>>608
>100年とか150年繰り下がれば 奴国(福岡)の遺跡、吉野ヶ里遺跡は邪馬台国の時代にドンピシャリになる。

ちょwwwおまwwwwwww
618日本@名無史さん:2008/05/22(木) 01:55:50
疑問視も何もごく普通の捉え方だろ
619日本@名無史さん:2008/05/22(木) 11:20:21
>>611

北墳丘墓
http://webmap.torikyo.ed.jp/ipa/k-yda1/k-ych1/k-ysh6/k-yhf1.jpg
縦40m横28m程度の長円形と推定される。
墳丘墓の中心に置かれた1006号甕棺を中心にしてその周囲をとり巻くように
残りの甕棺が配置されている。
1006号甕棺の被葬者は女性と推定され、その周りの甕棺墓の被葬者もかなり
身分の高い男性や女性が葬られていた。
墓は14基検出されているが、初めはもっと沢山あったと考えられている。
吉野ヶ里遺跡墳丘墓の西の弥生時代墓地の発掘調査で、
紀元前1世紀(中期後半)の甕棺墓1基から女性の人骨とともに、
中国製銅鏡1面と南海(沖縄・奄美)産貝殻で作られた腕輪が36点、
絹布片などが出土した。
出土した銅鏡は、中国前漢時代に作られた小型の青銅鏡で、
久不相見「久しく相見えず長く相忘る母らんことを」 (ひさしくあいまみえず、ながくあいわするなからん)」
という文字が鋳出しされた良質のものだ。
また、南海産貝製腕輪の出土数としては福岡県産の2遺跡の甕棺墓から出土した43個、41個、に次ぐ数だが
片腕に着けられた数としては最も多い数。
弥生時代の国際交流のありさまや、また、埋葬された人物の身分などを知るための重要な資料となる。
絹の衣をまとい、南海産の貝殻でつくった真珠のような輝きを放つ多数の腕輪を身につけ、中国製の上質の銅鏡を
持つという、弥生時代の国際交流を端的に示すこの女性は、どのような人物だったのだろう。
この墓が卑弥呼の墓とするには古すぎるが、後の卑弥呼に繋がる女王だった可能性は高い。

また、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓には環壕の外側から陸橋を経て墳丘墓の南に通じる墓道と呼ばれる通路が検出された。
その傍らには甕棺墓の列が繋がっている。
620日本@名無史さん:2008/05/22(木) 11:31:17
>>619
竪穴式住居は、もがり用だろうね。
竪穴式住居から墳丘墓にいたる道に2本の穴があるが、
あれは後の鳥居の原型だろう。平原でも同じものがある。
621日本@名無史さん:2008/05/22(木) 18:06:10
纏向には女王も居ないし、外国との交流の形跡も希薄。
箸墓は時代が違う可能性大。

恥ずかしいね。畿内説。
622九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/22(木) 20:52:49
しかし考古学では畿内説がほぼ定説になりつつあるという無茶苦茶な現実がある。
伊都国と畿内とを結ぶ広域連合などあり得ない事だ。
それは邪馬台国時代既に日本は統一国家だったことを意味するからだ。
623河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/22(木) 20:58:07
>>619

だから、どうしてそこから殉葬かどうかがわかるんだい?
遺物の中に「殉葬」と書かれた墓碑でも見つかったのかな?
624ポスト内藤湖南 ◆hROdwNtREM :2008/05/22(木) 22:14:50
>>622
そうであったらいけない、という根拠でもあるのか?

邪馬壱国論者の古田武彦の説は九州論者の安本美典によって崩壊させられたが、
その安本美典の説も畿内論者の坂田隆によって崩壊させられた。
彼の「卑弥呼をコンピュータで探る―安本美典説の崩壊」を古本屋で見かけたら、
是非買って呼んでみよう。
625日本@名無史さん:2008/05/22(木) 22:26:54
>邪馬壱国論者の古田武彦の説は九州論者の安本美典によって崩壊させられたが、

これ何のこと?教えて。
626日本@名無史さん:2008/05/22(木) 23:20:14
>>623
何が何でも殉葬だと思えない根拠は?
少なくともこれに準ずる遺跡が畿内から全くないことに
何の疑問も抱けないのかな
627日本@名無史さん:2008/05/22(木) 23:21:52
なんで黒歯国と裸国だけ「黒歯」「裸」という漢字にだけ意味を求めるの?
一大国を「でっかい国」、奴国を「ヤッコさんの国」と解釈しないでしょ?

鬼国は「オニがいる国」?姐奴国は「姐さんヤッコ」がいて烏奴国は「カラスヤッコ」でもいるとでも??
好古国にいたっては「懐古主義者」が支配してるとでも?
628日本@名無史さん:2008/05/23(金) 00:06:03
>>621
箸墓が塚だと言う時点でおかしいだろう!墳と塚の区別もできない畿内説あわれ・・・
629日本@名無史さん:2008/05/23(金) 00:30:33
>>628

塚と墳の区別など誰のも出来ないw
630日本@名無史さん:2008/05/23(金) 00:37:33
>しかし考古学では畿内説がほぼ定説になりつつあるという無茶苦茶な現実がある。

まあ、やがてひっくり返るよ。
考古学なんて明日をも知れぬ学問だから。
あまり気にする必要はないよ。
631日本@名無史さん:2008/05/23(金) 00:55:05
>>622 九州ですが ◆UEukKMcVo2

そもそも広域連合が即統一国家である必要は無い。

畿内ヤマト王権が中央集権的・強権的な物に変質するのは5世紀に入ってからだ。
(雄略あたりか…)

巨大前方後円墳に先駆ける所謂「纏向型前方後円墳」は南は福岡、北は福島県会津、関東なら千葉県にまである。

無論畿内に発生したものがそれらの地にできるまでタイムラグはあろうが
200m超の定形化された巨大前方後円墳が日本各地にできる前に既にそのような広域連合ができていた証左。


632日本@名無史さん:2008/05/23(金) 01:00:00
>ポスト内藤湖南 ◆hROdwNtREM

・・・しかし、そのハンドル、大きく出たなおいwww
633日本@名無史さん:2008/05/23(金) 01:23:46
>>619

全 く 意 味 無 し 。

時代が違うだろうが。

頭冷やして、例えば畿内説が池上曽根遺跡の話し持ち出しているトコ想像してごらんwww
634ローガン:2008/05/23(金) 01:37:11
>>628
塚と墳の違いは何ですか? まさか蜀史が根拠とか…
急ぎませんのでよろしく。 ZZZ…
635日本@名無史さん:2008/05/23(金) 01:39:47
>>632
見た目は大人・頭脳はコドモの迷探偵なんだろ
636日本@名無史さん:2008/05/23(金) 02:19:32
>>628
>箸墓が塚だと言う時点でおかしいだろう!墳と塚の区別もできない畿内説あわれ・・・

突っ込んでいい?w

そもそも奈良盆地の前方後円墳じゃあ「塚」の文字が付く物は腐るほどあるけど
(東殿塚、西殿塚、纏向石塚etc・・・)
「墓」の文字を冠するのは箸墓ぐらいじゃないかな?

「塚」と「墓」の区別なんてどうやってつけるんだい?w


637日本@名無史さん:2008/05/23(金) 02:22:05
>>632

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 29 ネーム入りで立てしていいですか?

ここ出身の荒らしに終止符スレが荒らされてるみたいなので、
ここも重複にすれば問題なし!
638日本@名無史さん:2008/05/23(金) 02:26:36
ここの住人さん ここもスレ立てていいですか?

ドンコイ系の荒らし君が全て悪い
 こいつね⇒>>632


おれを悪く思うなよ
639日本@名無史さん:2008/05/23(金) 02:36:54
ヨソのスレちょっかいだすな

おとなしくしてろ
640日本@名無史さん:2008/05/23(金) 02:49:27
>>637
>♪邪馬台国 ドンと来い♪ 29 ネーム入りで立てしていいですか?

このスレが900ぐらい逝ったらおながいします。

「ネーム入り」って某コテしか使わない言葉のように思うけどw

別に「神奈川県民」でも「三重県民」でも「改めドツボ」でもおkwwww

641九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/23(金) 07:08:33
>>624 「そうであったらいけない、という根拠でもあるのか?」

伊都国が元から畿内の同盟国だったとしたら、九州はいつから反大和朝廷になり
九州平定などという事になってしまうのだろうか。答えられるかな?
642九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/23(金) 07:38:05
>>631「そもそも広域連合が即統一国家である必要は無い」

統一国家でなければ広範囲を治める事が出来ない。
実際倭人伝には「伊都国には代々王がいる」とだけあり、王の名さえ記されていない。
卑弥呼は邪馬台国連合を統括、掌握していたのであり、それらを一大率が監視していた。
各国は一大率を「大変恐れけむたがっていた」とあるから締めつけていたのだろう。
そうでもしないとすぐに仲違いし分裂して再び争いが始まるというにわか作りの
危うい連合国群だったのだから、緩やかな広域連合などというのは
日本として統一された後の江戸時代の肥前、肥後、豊後、などの国や
現代の地方自治の県くらいしかあり得ない、時代錯誤。

643(´・ω・`):2008/05/23(金) 07:42:00
建武中元二年(57年)倭奴国が金印を授与され倭国王となる。
                                      ↑
永初元年(107年)倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。   男性を王とした七、八十年
                                      ↓
桓帝と霊帝の間(146−189年)倭国は大乱。
光和中(178−184年)卑彌呼が共立される。
景初三年(239年)卑彌呼が初めて朝貢、大夫の難升米を派遣し仮の金印を授与さる。
正始元年(240年)帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年)倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年)難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
正始八年(247年)倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援軍を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。
正始中(247−249年)卑彌呼死亡。
644河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 09:18:19
>>943

一言ヤリいれときます。


>金印を授与

金印なんて貰ってない。
単なる、皇帝の印鑑証明です。
645河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 09:39:54
>>642にもヤリ入れとこう。

>伊都国には代々王がいた

そんな事何処にも書いていないし、あの文脈で『世』に(代々)の意味を求めるのは不合理。
陳寿は文頭にて『今/(魏時に限れば)』と明言しているから、あの場面で“代々”はない。
646河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 09:57:48
『丗有王皆統屬女王國』の“丗”は

“世界”の(世)と同じ解釈。
世界は、界とするものが、範囲に重なって形成されているから『世界』

『丗有王皆統屬女王國』の(世)も、伊都国に複数の王が重なり形成されていたから、『丗有王皆統屬女王國』
つまり

伊都国には統屬された王達が集まっていた。
647日本@名無史さん:2008/05/23(金) 10:45:26
やっぱり常識的に
十=10
廿=20
丗=30
じゃない?
648日本@名無史さん:2008/05/23(金) 10:52:21

稲作が中国から直接日本に伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が既に弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から直接日本に伝来した事の証拠にはならないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
649河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 10:56:18
>>647

そんな単純じゃないよ
三十を数詞と捉えてしまうと、29や40では使用出来なくなる。
650河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 11:03:36
それに、>>643

『其國本亦男子爲王住七八十年〜』の記事は、魏時の記事を書いた
魏志倭人伝の中の一文だから
ここに書いてある女王共立も『魏時』に起きた出来事。
651河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 11:27:37
>>650は“以”が抜けてたね
『其國本亦以男子爲王…』だね


・魏時に起きたのが倭國乱
・後漢時に起きたのが倭國大乱


後漢時に起きた倭國大乱では、それを起因とし『更相攻伐歴年無主』

魏時に起きた倭國乱では、『相攻伐歴年』と、主は健在してるだわな
652九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/23(金) 12:58:02
>>645 [(魏時に限れば)』と明言している]

答えは否。[漢時有朝見者]とあり、漢代の事も書かれている。

「世有王皆統屬女王國」は「世に王あり皆女王国に統属す」だから
文の前後から「世に王あり」の「世」とは代々と訳して良い。
伊都国に代々の王がいるのはむしろ当然の事でその他の国にも
代々王が居たことは想像に難くない。元、ムラ長が王になったものだろう。
653河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 13:24:23
>>652

漢時記載は今と限定する為の必要文、先書である後漢書がない為、今を突発性にしない為の説明。
当代記録以外の別時の記録には必ず時代明記が必要なのも、紀伝体ならでは

ダメだよ
ミソクソ一緒に扱っては

別時を記載するには
必ず時間表示するもんだよ
つまり
『今』表記は、漢時から長く続く時間を、魏時に限定し記載する事の宣言文
だから以降の文中は時間表記がないかぎり魏時限定。
654河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 13:38:33
>>652

第一、文頭部分で書かれた『漢時有朝貢者』と『丗有王皆〜』を繋ぐもの、関係はなんなんだね?
主観抜きで説明出来ますか?
655河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 14:26:40
>>652

>元、ムラ長が王に

ムラ長が王になった記録でもありましたか?
656日本@名無史さん:2008/05/23(金) 14:31:14
>>646
魏書の中で、『丗有王皆統屬女王國』の丗を世界の意味で使ったとする。
訓読なら「世に王有り」だが、
魏書の中であるから、当然「世界」は魏の皇帝が支配する世界を意味する。
となると、「魏の皇帝が支配する世界には王がいて、世界中の王は皆女王国に統属する」ということになる。
甚だしい矛盾。
しかも、対馬 一大 末盧 〜 邪馬壹と順に国情を記述している中で、
突然「世界には王がいる」と記述する文脈の乱れぶり。
無理読みの誤読としか言いようがない。
ここは代々の意味で「世(よよ)王有り」としか読めない。
657河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 14:38:32
>>656

誰が『丗有王皆〜』の『丗』を世界の意味で使っているの?
勝手な解釈しないでもらいたいんですが。
658(´・ω・`):2008/05/23(金) 14:41:19
>>652
>「世有王皆統屬女王國」は「世に王あり皆女王国に統属す」だから

文の前後から『伊都国には王(女王)が居た、倭の国々は皆女王国に統属されていた』

「王達が集まっていた」とか「世々」(代々)とは書かれていない。
659河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 14:53:13
>>658

典型的な認識不足。

『丗』=範囲に全て重なる
『丗』文字は時間を表すだけではありませんよ
660日本@名無史さん:2008/05/23(金) 15:05:56
>>657
これは失礼。646の書き込みをよく読んでいなかった。

>世界は、界とするものが、範囲に重なって形成されているから『世界』

ならば、世は「範囲に重なって形成されている」という意味になるね。
つまり、伊都国に三十人の王様が重なって居住していたとでも言いたいのかね。
世にそんな意味はないと思うけどね。
661河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 15:07:36
王が代々等という
目茶苦茶解釈はいらないの。
魏書で必要な時間表示は、魏時内の記事であるなら、時間表示はいらない。
魏時内の特定された時間の記事である場合は、それが魏時の何時の出来事であるか、時間明記する。
魏時以外の過去を記載する場合も、『“漢時”有朝貢者』のように、時間明記される。

で、『丗有王皆〜』は
いつ?何時?
魏時はたかだか四十年だよ、それが代々か?
662河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 15:19:42
>>660

そう
王達は皆、肩車、或は人間ピラミッド状態で生活していたんだよ
倭地の人間はオモロイネ


意味は文字を文中に投げ入れる事によって、その義が発生するんだよ
しかし
私が言ってる
『丗』=範囲に全てが重なる
と、言うのは
義が発生する前から文字が持ってる本来の『意』
これは不変であり、意味見たいに文脈に左右されない。
663若葉:2008/05/23(金) 15:22:21
「王有りて世にす」、つまり王がいて世襲だという意味でしょう。後漢書もそのように書いてますよね。
664日本@名無史さん:2008/05/23(金) 15:22:50
       /.:.:.:.:.:.:;.:.:.;.:.:.:i.:,へ:.:.、:.、:.:.:.:゙,
     /.:.:.:.:.;.:.:.!:.:.|:.:l.:|.:{ l:ト;⊥_!:.i:.:.:i
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     l.:!/:.:.;;}:l:.:lYち::::!   ,`´,, レ⌒ヽ  , - 、  おにいちゃんたち
    >'ヌヽf ハ:.lヽ `゙´  _.. -    i   ! /   i    働かなくていいの?
    Yl::|Yヽ、キi:l  '''  l  |   イ:! |l/ /  ノ
     ノ|::| !N:.:.:.:.:>-_ ._ゝ-_ イl|::」 | |! レ/
    `l:::´j:.|z<リ〈rー―tコ' ̄ 〉‐y´    `ヽ
     'yVノ_゙ゞッ.ヽ, /Fiヽ、人l  ’    ・ }
       }  `ヽキ Y゙イ |~i,_..ィ゙ ヽ、 x _ _.ノ
       〉   ゝメーイ卅 }  , '7` ー 'ェ ヽ
       l   _\ `゙ッ゙´  /./    |三〉
ノ⌒ー-ァyヽj  ´   ̄ ヽ、_ , ュ/ .    !  l
‐  ー F  =\         ツ} 彡    !  j、
665河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 15:36:46
>>663

書いてない。

後漢書は後漢時の記事。
魏時の記事を書けば、魏時予言書(トンデモ書の出来上がり)
666(´・ω・`):2008/05/23(金) 15:50:35
>>661
王が代々等というのも目茶苦茶解釈だが、
倭に複数の王が居たというのも目茶苦茶解釈。
王は魏から与えられる魏の正式な役職で倭(女王国)には王は卑弥呼一人だけ。
倭に複数の王は居ない。
狗奴国の王は自称王。
667河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 16:03:34
>>666

目茶苦茶と捉えているのは貴方の認識だけで、

『皆』は単数じゃなく複数ですよ
668(´・ω・`):2008/05/23(金) 16:25:51
『皆』複数です 、倭の国々を指します。
669日本@名無史さん:2008/05/23(金) 16:29:18
>>649
「丗」は「30」という意味の字であって「世」とは異なる。
それに「三」は貴数であって、実際は29や31であっても魏や後漢にとって切実な問題でなければ「丗」を使うだろう。





670河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 16:49:10
>>669

最後が「〜だろう」じゃ、説得力ないねぇ
671河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 16:54:05
>>668

ようするに、人は国に統屬されないから
皆は国である。

と、言うことかな?
672(´・ω・`):2008/05/23(金) 17:00:17
だな。
673河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 17:01:05
>>668

つーか
あっちこっちにコピペして、あっちこっちで否定されてるじゃん
君のコピペは(>_<)
674(´・ω・`):2008/05/23(金) 17:07:15
否定はされていない。
皆がそれぞれ勝手な意見を言い合って、意見が一致していないだけ。
河童虫さんも否定されてるじゃん
675河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 17:35:59
>>674

俺の場合、全て完了している事だから
相手の認識不足による誤解が99%
676九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/23(金) 18:10:10
>>653 [漢時記載は今と限定する為の必要文]

「漢時有朝見者」の漢時というのはそのあとの「今時」に対応してるだけで
「昔はこうだったけれども、今は違う」と言ってるだけ。
倭人伝全体が魏代に限られなければならない事を意味するのではないでしょう。

「世」というのは例えば「君が代」の代は万世一系の代々の天皇の世を表しているし
「君」と言うのも代々の天皇の事だから「君が代」と言うのは「代々の天皇のいやさか」という意味。
「世に王あり」はそれと同じ。>>663の人の「「王有りて世にす」、つまり王がいて世襲だという意味」
という指摘は正しい。つまり世と代は同じ意味で使われている、という事。

677九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/23(金) 18:16:20
追伸
言葉足らずだったけど「世」は「世々」の略。「代」は「代々」の略であって
一世代や、魏代限定を指しているのではない。
678九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/23(金) 18:42:25
>>654
ああまだあった。「漢時有朝貢者』と『丗有王皆〜』を繋ぐもの」ね。
関係ないんじゃない?伊都国王が漢に朝貢でもしていたなら別だけど。

>>655「ムラ長が王になった記録でもありましたか? 」

「漢の倭の奴の国王」のように王という概念は中国から伝わったものだろうけど
実際は王と呼ぶに値したかどうかは知れない。倭の国情はムラからクニへと移り変わり
その中心為政者が王と呼ばれるにいたった、と考えられる。

679河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 18:44:08
>>677

>言葉足らずだったけど「世」は「世々」の略。「代」は「代々」の略であって
一世代や、魏代限定を指しているのではない。


自分で書いてること理解していますか?
魏代限定とするのは「世」という文字じゃないよ

魏書という書の内容が「今」と記載することにより魏時限定になるんですが
つまり、魏書の先史が存在しない為「今」と記載する必要があったの


「世」=範囲に全てが重なる
ここに(味)を加えることで意味(字義)が発生するのです。

>>676

>「昔はこうだったけれども、今は違う」と言ってるだけ。

魏志倭人伝・・・今使譯所通三十國從

後漢書倭伝・・・使驛通於漢者三十許國

変わらず三十国が帝国とお付き合いしていたと、後漢書で言ってるの
「今は違う」なんて記載はありませんよ

もう少し知識つけてから反論しないと、とてもじゃないけど把握することは困難です。
せめて「世」の文字ぐらいは把握してください。


680河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 18:46:07
>>678

個人的な感想書かれても・・・・トホホ
681改め ◆PWTcGEfp1s :2008/05/23(金) 18:55:20
わたしも参戦しちゃていいかな?

ずっと、風邪で寝込んでて〜今日なら少しは頑張れそうだ」!
682河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 18:55:58
>>679

>「世」は「世々」の略。「代」は「代々」の略であって

これ、面白いね
で、同書の中に「世」と「世世」を使用していることをどう説明するの?
で、この「世」が「世々」の略と歌っている場所は何処?
そして何故、「世々」を「世」と略くす理由は?
683(´・ω・`):2008/05/23(金) 19:04:29
オレの場合何処が認識不足?

倭に複数の王は居ない・・・河童虫さんの認識不足。
684日本@名無史さん:2008/05/23(金) 19:21:24
結局、「丗」は「30」という意味の字であって「世」ではない。
685河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 19:33:54
>>683

この『丗有王皆〜』の解決には、先日“改め氏”には伝えた事なんですが、
卑弥呼共立を正確に把握する事が出来ないと、解決出来ない内容なんです。

把握出来ていますか?
686改め ◆PWTcGEfp1s :2008/05/23(金) 19:37:00
まあ、観戦といこうではないか!

>>683
>オレの場合何処が認識不足?
しらんがな(笑)
687日本@名無史さん:2008/05/23(金) 19:58:30
>>675
×俺の場合、全て完了している事だから
 相手の認識不足による誤解が99%

○俺の場合、全て自分の世界で完了している事だから
 相手の理解不可能が99%
688改め ◆PWTcGEfp1s :2008/05/23(金) 20:02:34
おっと〜河童氏 VS 奈々氏 始まったかな?

ガンガンいってやれ〜!

689(´・ω・`):2008/05/23(金) 20:07:49
卑弥呼共立は倭国の国々(邑落)によって共立された。
何か変な解釈してた。
690河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 20:09:58
>>688

ガンガン行くほど、相手のレベル高くないし
相手のレベルに合わせるのもしんどいから適当にするよ
ま、プラムだったら付き合っちゃうけどね!
『今の河童は無理』
後漢書の共立と、魏書の共立を混同しているレベルだよ!底が知れてる。
691河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 20:12:57
>>689

つまり
「共」の視点は国々であり、同種という事だね
692(´・ω・`):2008/05/23(金) 20:25:38
そんなモノだな。
693河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 20:41:08
>>692

じゃあ「共」の認識に間違いがあるね

「共」の文字には活用するにあたり、活用の仕方があるんだ、
「共」は 同種には使用せず、異なる二種にもちいる。

つまり、共立を正しく認識していないという事は、それに関する倭の国内事情を把握出来ていないか、誤った認識の上に思考が積み上がっているという事。

底辺が誤認識なんだから、その上に積み上げられる戦略と言う積木は、当然崩れるよね
694(´・ω・`):2008/05/23(金) 20:51:31
>異なる二種にもちいる

例えば伊都国と奴国でいいじゃない。
695九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/23(金) 20:59:48
>>679 陳寿は文頭にて『今/(魏時に限れば)』と明言しているから、あの場面で“代々”はない

そもそも「今」という言葉を倭人伝全体を貫く「魏時に限れば」という意味に置き換えている事が間違いの大

元。
ただ{以前と違って}「今は30カ国くらいが通ってくる」と言ってるだけで倭人伝に何ら差し支えない内容


どうして以前のことを書く事が「魏時に限れば)』と明言している」に相反しているから
以前ではない、今なのだ、つまり世というのは今、魏代だと言いたい訳だろ?
世と言うのが当代だけを指す言葉ではないことは既に述べた。

696河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 20:59:51
>>694

根拠がなにもないだろう。それに、伊都と奴が異なる二種な訳?
697河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 21:13:14
>>697

「丗」=範囲に全てが重なる。

義は文中にて発生し、文脈により変化する。
698(´・ω・`):2008/05/23(金) 21:33:36
>>696
伊都国と奴国が同族であると?
倭の国々が全て同族であると?
根拠は?
699(´・ω・`):2008/05/23(金) 21:36:27
>>695
『世』とは卑弥呼の『世』。
卑弥呼の治世。
700河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 21:44:02
>>698

二種と記載したものが、同族に変わってる。

ごめん
妄想にはついていけません
701(´・ω・`):2008/05/23(金) 21:52:39
>>700
>二種と記載したものが、同族に変わってる。

2つの属する集団が違うなら2種だろ。

>妄想にはついていけません

ついに論理破綻、逃亡。
702河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 22:05:58
>>701

>ついに論理破綻、逃亡。

ほらね、勝手に解釈している。  何処に逃亡すると記載していますか?



703日本@名無史さん:2008/05/23(金) 22:48:23
>>697
>「丗」=範囲に全てが重なる。

いつもそれだな。独自の説は証明してから使え。
704日本@名無史さん:2008/05/23(金) 22:50:38
しかし、独自の説が許されないというのなら、教科書通りの歴史観を持つ以外にない。
705河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 23:12:44
>>703

>いつもそれだな。独自の説は証明してから使え。

やかまし〜
いちいち親切に説明してられっか  証明なら自分で探し出せ
めんどくせ〜
706日本@名無史さん:2008/05/23(金) 23:22:34
>>704
独自の説が許されないのではない。証明すれば、皆が納得する。
説明も証明も抜きで独自説を書き散らすのは、普通デンパというよ。

>>705
じゃあ、みんな証明無しで言いたいこと言い合って御仕舞だな。
他人のために他人の説の証明をわざわざ探すか。常識で考えよう。

証明も説明もせず、皆から叩かれバカにされ、何が面白くて書き込むのかな。
説明がめんどくさかったら、かきこまなければいいのに。どうせ理解されないんだから。
理解されたかったら、しっかり説明すればいいのに。
ほんとによくわからん人だ。
707河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 23:41:54
>>706

>証明も説明もせず、皆から叩かれバカにされ、何が面白くて書き込むのかな

掲示板で叩かれバカにされたところで、痛くもないし痒くも無い
『証明も説明もせず、皆から叩かれバカにされ』という キャラを持った香具師が居たっていいんじゃないかな〜?
いちゃまずいか?
掲示板なんて、いろんなキャラを持った香具師が集まるから面白いんじゃないのか?
708河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 23:50:45
>>706

>説明がめんどくさかったら、かきこまなければいいのに。どうせ理解されないんだから。

それは貴方個人の考え方
世の中は、貴方と全て同じ考えでは無いことを知って下さい。
709来蔵:2008/05/24(土) 00:58:22
最近ドツボ監視委員さんとかドツボ撲滅委員さんとか
トリ付きの神奈川県民さんとか千葉県民さんとか大分県民さんとか
ここのスレ主なる?
710来蔵:2008/05/24(土) 00:59:25
あ 間違えた コピーは駄目だね
711来蔵:2008/05/24(土) 01:03:47
ここはドツボ監視委員さんがスレ主

みんな最近きてないね
712改めドツボ監視委員会:2008/05/24(土) 01:23:40
>>711
2ちゃんねるにスレ主なんていらない。
スレ立てた>1はただそれだけの人。
「乙」の一字もらえれば恩の字。

ひろゆき曰く…
「ヒエラルキーの無いスーパーフラットな場」 らしいよw
713来蔵:2008/05/24(土) 02:07:10
>>712
監視ご苦労さんです。

じゃあ遠慮なくここもわしが立てますわ
もうすぐ終わるで
714日本@名無史さん:2008/05/24(土) 02:25:17
>>713  来蔵

900あたり越えてからでいいんじゃない?
715改め ◆PWTcGEfp1s :2008/05/24(土) 02:25:35
>>712-713
おまえらやめんか

荒らしは2ちゃんから出て行け
716日本@名無史さん:2008/05/24(土) 05:47:37
     ┏━┓    ┏━━━━━┓                 ┏━┳━┓
 ┏━┛  ┗━┓┃  ┏━┓  ┃                 ┃  ┃  ┃
 ┃          ┃┃  ┗━┛  ┃┏━━━━━━━━━┓ ┃  ┃  ┃
 ┣━      ━┫┃  ┏━┓  ┃┃                  ┃ ┃  ┃  ┃
 ┃          ┃┗━┛  ┃  ┃┗━━━━━━━━━┛ ┗━┻━┛
 ┗━┓  ┏━┛        ┃  ┃                 ┏━┳━┓
     ┗━┛            ┗━┛                 ┗━┻━┛
717日本@名無史さん:2008/05/24(土) 07:24:15
荒らしが来て話の腰を折られると人が減るのです。
それ以上に、荒らしを罵倒するコテハンの人、これも感じが悪い。
今まで見識のある偉い人だと思われていたのに、こんな人だったのかと呆れてしまいます。


荒らしには一切コメントしない
荒らしはスルー

2ちゃんの鉄則を守ってください。
718(´・ω・`):2008/05/24(土) 07:59:20
>>702
説明不能。
結局は河童虫さんの認識不足。
719河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/24(土) 10:13:03
>>718

>説明不能


ごめんな
貴方が理解できるように説明するのしんどいんだわ
もう少しレベル上げてくれないか?
720(´・ω・`):2008/05/24(土) 11:51:07
>>719
>貴方が理解できるように説明するのしんどいんだわ

河童虫さんを理解できる人は誰もいないだろうな( ;´∀`)。
河童虫さんによると、河童虫さんを理解できない皆さんは認識不足ですから。
河童虫さんと同じ認識をもたないとレベルが低いんですか( `∇′)∠))) ハハハハ
河童虫さんのレベルには合わせられんわ。
721日本@名無史さん:2008/05/24(土) 12:17:13
自分の考えを他人に説明できないということは、要するに、
自分の頭の中で問題が整理しきれていないということです。
平易な言葉に言い換えるには、より深い理解が必要です。
そして何より、自分の考えを知ってもらいたいという強い
意思がないとできないことです。
722河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/24(土) 12:23:43
>>721

で、自分には他人を説得するだけの余りある知識と教養があるから
まかせろと…。

回りくどく言わないで、もっとストレートに(^O^)/


じゃ! 貴方に


『お、ま、か、せ』
723日本@名無史さん:2008/05/24(土) 12:43:45
河童虫逃亡認定
724河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/24(土) 12:55:01
はいはい
逃亡、逃亡。

で、>>723
逃亡認定書は何時発行し、登録機関は何処?
有効期限は何時まで?
認定書紛失時の届け出先並びに連絡先電話番号は?

約款とかあったら提示希望。
725掛布 ◆mgGi2lHj9I :2008/05/24(土) 12:59:24
t
726日本@名無史さん:2008/05/24(土) 13:48:36
なんか河童虫の毎度毎度のパターンだなw

周りのレベルが低くて理解されないのなら
無理に2ちゃんにいる理由も無かろうにww

『「魏志倭人伝」等を読む』スレじゃあドツボと二人ほぼ隔離状態だから
他スレに乗り込んで「♪俺の話しを聞け〜」と

で結局相手にされず捨て台詞残してまた隔離スレに引き上げ…の繰り返しww

727日本@名無史さん:2008/05/24(土) 13:51:57
縄文や弥生の人達はどうやって爪を切ってたの?
728日本@名無史さん:2008/05/24(土) 14:02:13
爪切りはなかったろうし、
軽石みたいので削ってたんじゃないの?
729河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/24(土) 14:28:58
>>726

貴方は何時も評論だけだね。
それがスタイル?
730726:2008/05/24(土) 14:33:43
>>729
>それがスタイル?

♪ 俺はこの世で一番
♪ 無責任と言われた男
♪ ガキの頃から調子よく
♪ 楽して儲けるスタイル〜
731河童 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/24(土) 14:59:35
>>730

で?
楽して儲ける事出来たのか?
732日本@名無史さん:2008/05/24(土) 19:13:20
かっぱムシってゴキブリ以下の害虫だな
733日本@名無史さん:2008/05/24(土) 19:50:36
ドツボ

また キタ━━━ヽ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )メ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )メ( ゚∀゚)人(゚∀゚ )ノ━━━!!!!

734日本@名無史さん:2008/05/24(土) 19:53:11
七誌で

またまた  キタ━━(゚∀゚)⌒Y⌒(。A。)⌒Y⌒(゚∀゚)⌒Y⌒(。A。)⌒Y⌒(゚∀゚)━━!!
735日本@名無史さん:2008/05/24(土) 20:50:15
>>727
>>728
まるで旧石器時代の原始人のイメージだね

縄文や弥生の時代といえば、すでに高度な文明だよ
ちゃんと爪切の遺物も貝塚から発掘されているよ

江戸時代まで使われていたのと同じだよ
736日本@名無史さん:2008/05/24(土) 22:47:09
距離と当時の中国人の地理感覚からして、
大和説・四国説・沖縄説が可能性あり。
九州はない。

「『邪馬台国九州説』を撃破する!」坂田隆・大杉博・木村政昭共著

こんなのが出たら面白いのに。
737日本@名無史さん:2008/05/24(土) 23:18:34
ヨコだけど・・・

>>563
うーん、学術論文なんて読んだ事無いけど、一寸前に読んだ本に

なんでも奈良の文化財研究所に勤務していた若かりし頃(丁度小林の論文が発表された頃)
仲間内の定例の研究会で「邪馬台国論争」をやろうって話しになり

本人は乗り気じゃなかったんだが、誰も九州説をやらなかったんで
「九州出身のお前がやれ!」と言われて嫌々やって、案の定コテンパンにやられ

その時の悔しさが今日の自分の九州説のエネルギーになっているって書いていたw

まあ流石に吉野ヶ里=邪馬台国説なんて唱えていたわけじゃないようだったがwww
738日本@名無史さん:2008/05/24(土) 23:22:33
キチガイ重複スレ一掃の削除依頼が出てるね
いい気分だわ
739橿原一派:2008/05/24(土) 23:25:36
あぼーん あぼーん
740日本@名無史さん:2008/05/24(土) 23:34:59
>>737
仲間内・・・か
なんか狭量で香ばしいな感じがするね
まんま村社会って感じ。そういうのって井の中の蛙を地で行っていて大恥かくんだよね
741日本@名無史さん:2008/05/24(土) 23:40:44
邪馬台国と卑弥呼は日本の古代史最大の謎です。
大和説、九州説、伊予説・・・などなど、数えたら限がないくらい諸説があります。
従って話題も豊富で対立も激しく、一つのスレに統一することは必ずしも日本史
板の正常な運営に役立たない面もあります。関連すれば数個あって、それぞれ
意見の合う人同士が住み分けたほうが、スレが荒れなくていいのではないで
しょうか?
742日本@名無史さん:2008/05/24(土) 23:45:32
>>741
自治スレで持論展開して下さい。
743737:2008/05/24(土) 23:49:44
>>740
ごめん>737は>>569へのレスだった。

でも自分が読んだ感想じゃあそれほどごり押しの九州説って感じじゃなかったが・・・

ただ、「魏志倭人伝」の記述から吉野ヶ里の最盛期を3世紀半ばにすると言うのがなんともw
744573:2008/05/25(日) 03:07:35
>>741
伊都国丹波説
これが今の主流ですよ。
表面に出てくるのは先でしょうけど。
745ポスト内藤湖南 ◆hROdwNtREM :2008/05/25(日) 07:53:34
>>741
色々な考えの人間が集まって論争したほうが活気が出るんじゃ?
746日本@名無史さん:2008/05/25(日) 09:53:21
>>745

> 色々な考えの人間が集まって論争したほうが活気が出るんじゃ?

「私は赫々云々だと思います」
「詳しいことは説明しません」
「質問・批判は無視します」等々

色々な考えの人が集まって「自論を垂れ流す」だけなのがこのスレの役割。
747日本@名無史さん:2008/05/25(日) 13:17:28

稲作が中国から直接日本に伝わった事の証拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が早くも弥生前期末には
伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

つまり朝鮮半島にないRM1-b遺伝子の稲が日本にあるという事だけでは
稲作が中国から直接日本に伝わった事の証拠にはできないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
748日本@名無史さん:2008/05/25(日) 17:20:28
坂田隆は九州か大和かどっちだ?
あるいはいつどっちに転向したんだ?
あるいは2人いるのか?
749サガミハラハラ:2008/05/25(日) 22:50:25
本日都内某所でおこなわれた講演会において、「候補地がばらばらの九州説は一つにまとまるべきでは」
という悲痛な意見がとびだした。確かに一つにまとまっている畿内説に対し、バラバラではブが悪い。
そこで邪馬台国九州説支持者は一致団結して「小城甘木」説を支持すべきであると思うがいかが。
750日本@名無史さん:2008/05/25(日) 22:53:47
>>749
マルチはマナー違反だ。お引き取り願おう。
751日本@名無史さん:2008/05/25(日) 23:02:49
>>749 サガミハラハラ
意味無し。

つか「畿内説に対抗する為に・・・」と言うのは本末転倒。
まあ畿内説側から皮肉で「九州説は一つに搾ってもらえませんか?」と言われる事はあるんだろうがw

それに魏志倭人伝の行程記事からその位地を比定すると言うのなら地名の一致は欠かせないはず。
(それがいつのまにか九州だったら何処でもOKみたいな雰囲気になってしまったw)
だとすれば筑紫山門が本命になって然るべきだろうねw


752サガミハラハラ:2008/05/25(日) 23:09:55
確かに地名も重要であるがこだわりすぎてもいけません。
今まで
邪馬台国が発見されなかったのも、地名に固執しすぎたためです。
古代の地名が現代にも必ずしものこっているわけではないからです。
753改め:2008/05/25(日) 23:19:13
>>752
消えろ
754日本@名無史さん:2008/05/25(日) 23:21:09
>>622 九州ですが ◆UEukKMcVo2
>伊都国と畿内とを結ぶ広域連合などあり得ない事だ。
>それは邪馬台国時代既に日本は統一国家だったことを意味するからだ。

少し上記のレスまで戻って見る。

相変わらず九州説論者の中には「広域な首長連合」に対し拒絶反応を起こす人間がいるみたいだが
(恐らく、そんなもん認めたら今まで土俵を九州の中に限ってきたものが
いきなりその範囲を広げられてしまう事に対する反発だろうがw)

じゃあ纏向で起こった現象をどう説明する?って話しで・・・
奈良盆地の人間がある日突然、何故か纏向なんて物を健造しだし
何故か各地の埋葬文化をリサーチ、纏向型前方後円墳をデザイン
そして何故か各地から人が集まり搬入土器が多数出土し
さらに何故か九州から関東北陸に至る各地の首長が纏向型前方後円墳を造ったと・・・

殆ど生理的拒絶反応宜しく「広域な首長連合」を否定してもそれらの現実を上手く説明できる仮説を用意し
それを伺わせる傍証なりを出さないと話にならないのでは?w

まあ素人感覚だけど「広域な首長連合」はその文言は他の物になるかもしれないが
概念としては「邪馬台国畿内説」なんかよりもガチガチの鉄板じゃね?www









755改め:2008/05/25(日) 23:24:23
オレは毎回太国に負けて泣いた〜〜。
756日本@名無史さん:2008/05/25(日) 23:28:15
改め 負け犬だな。www
757754:2008/05/25(日) 23:34:38
まあ九州説論者からは「いらぬお節介」とお叱りを受けるだろうが
多分その所在地は別にしても邪馬台国と纏向との時代は重なるのはもう仕方ないんじゃね?w
(箸墓あたりはどうかしらんが・・・)

だとすればその両者の関係は嫌でも考えなきゃならんだろう。

もし仮に九州に邪馬台国があって畿内ヤマトとの関係が対立的な物であったなら
九州の候補地で三角や画文の鏡が出て来たり、卑弥呼の墓とされているものが前方後円墳だったりするものは
かなり苦しい立場になるんじゃなかろうか?w
(具体的に言うと画文が出てきたという祇園山古墳とか、前方後円墳の西都原の女狭穂塚とかetc…)
758日本@名無史さん:2008/05/25(日) 23:43:09
>>754
何故か各地の埋葬文化をリサーチ、纏向型前方後円墳をデザイン・・・(´Д`) ハァ

西都原81号古墳:後円部の長さ約33m、前方部が約19m前方部が短くばちの形に開いた纒向型前方後円墳
宮崎大学の調査で2005年5月18日までに、国内最古級と確認された。
築造は3世紀中〜後半とみられ、畿内で同じ型式の古墳築造が始まったのとほぼ同時期。
大和政権の影響下に古墳が広まったとする説に一石を投じ、古墳の成立を研究する上で貴重な発見となりそうだ。
後円部の墳丘付近から土器数点が出土。その特徴から築造時期が判明した。

纏向型前方後円墳て何のことだ?
759日本@名無史さん:2008/05/26(月) 00:02:24
>>758
>後円部の墳丘付近から土器数点が出土。その特徴から築造時期が判明した。
特殊器台の編年かな?

何れにせよ「3世紀中〜後半のほぼ同時期」ってだけの一つの記事で
さも「前方後円墳は九州発祥です」かの如くに?言われてもねえ。

学者でもそこまでは飛ばしていないんじゃない?w

むしろ畿内で発生(つか合成?w)された物と同じ物が九州にできた・・・
そのタイムラグが極めて短い物であった可能性を示唆するものと見た方が良いのでは?



760九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/26(月) 00:13:27
>>749 九州説は比定地が多い。
という事は邪馬台国は九州と考えている人が多い事の裏返しでしょう。
畿内説のようにマキムク一辺倒で、何かの一つ覚えのようにマキムクマキムクと
念仏を唱えるだけしか能の無い宗派と違い、九州は比定地が多いからこそ意味がある。
故に今までのままで良いのでは。
邪馬台国時代、今回地震があった四川地域は「三国志」の舞台であり、その地形は
軍事上、極秘だったようで、このことが邪馬台国女王卑弥呼の居所の記述と関連があるとすれば
故意に隠したと考えられるのですが、帯方郡からの距離である一万二千里は不変ですから
女王の居所は福岡県南部になるというのは確かな事だと思います。
761日本@名無史さん:2008/05/26(月) 00:31:24
>>760 九州ですが ◆UEukKMcVo2
>九州説は比定地が多い。
>という事は邪馬台国は九州と考えている人が多い事の裏返しでしょう。

でも実際どうだろうな?

過去にある学者が比定地として説を発表したと言う事実があっても
その後次代の学者がそれを受け継ぎ今も研究が成されている物とかになると
相当少ないんじゃないかな?


762九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/26(月) 00:36:24
>>754 反発だろうがw)

畿内に行くのに何で九州の伊都国に寄るのだ?何で本州に一気に行かないのだ?
本州には何故一大率が無いのだ?畿内と伊都国じゃ一大率が離れすぎだろう。
平安時代だって上関、中関、下関などが置かれていたのに伊都国にしか無いというのはおかしい。
畿内に行くのなら通過した国くらい詳しく書けっての!それを「陸行一月・水行十日」なんて
後で倭人伝を読む者にとって何の参考にもならんようなもん最初から書くな!
と思われても仕方が無い。

763九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/26(月) 00:39:01
>>761
でも帯方郡からの距離一万二千里は変わらないから。
九州に上陸した後は残る距離は僅か。
764日本史板住民一同:2008/05/26(月) 00:45:26
[301]改め ◆PWTcGEfp1s <>
2008/05/26(月) 00:43:36
太国さんもう許して下さい。
あなたには負けました。
また三日間謹慎しますので、仲良くして下さい。





765573:2008/05/26(月) 01:32:09
>>762
横レスだけど
伊都国が丹波であれば問題ないね。
それに一大国が壱岐っていうのがおかしいと思うな。
島であれば隠岐だろう。サイズが近いし黒曜石という軍事物資がある。
北九州なら飯塚あたりが一大(イータイ)だったというほうが地勢上合理的だ。
本州への関だから守るのは当たり前だし。
飯塚という地名は食料の塚という妙な暗示があると思うな。
普通、塚というのは戦士の墓や戦場跡に使う言葉でしょ。
766573:2008/05/26(月) 01:33:38
>北九州なら飯塚あたりが一大(イータイ)だったというほうが地勢上合理的だ。

これは北九州に軍事基地があったのではという意味ね。念のため。
767九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/26(月) 12:58:28
>>765 
一大国は行程的に対馬国とマツラ国の間にある島だから壱岐に決まってます。
これに異議を挟む人はまず居ません。
768573:2008/05/26(月) 13:59:47
>>767
それは末盧國を松原に持っていきたい故の理屈じゃないかな。
地理的にも対馬松原間は50kmそこそこだし中継地としての意味もないと思う。
魏志倭人伝と合わせたい以外の理由って何かあるの?
769573:2008/05/26(月) 14:01:51
×松原
○松浦
770サガミハラハラ:2008/05/26(月) 17:46:44
一大国は壱岐の石田町であるとの説があります。
一大は一支の誤写ではなく、壱岐は地名で一大は国名だとのことです。
771九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/26(月) 18:19:36
>>768
マツラ国だけではない。次の伊都国、奴国と続く一連の行程の中に
壱岐国は組み込まれていてむしろ当然なのである。
帯方郡からは長旅である為、また航海術も今のように発達していなかった為
半島では海岸沿いを航行し壱岐など、島に上陸しながら進んでいったとしても
何ら不思議ではない。
772九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/26(月) 18:20:15
>>768
マツラ国だけではない。次の伊都国、奴国と続く一連の行程の中に
壱岐国は組み込まれていてむしろ当然なのである。
帯方郡からは長旅である為、また航海術も今のように発達していなかった為
半島では海岸沿いを航行し壱岐など、島に上陸しながら進んでいったとしても
何ら不思議ではない。
773日本@名無史さん:2008/05/26(月) 18:59:35
>>766
573はただの煽り。相手にしなくてよい。
774573:2008/05/26(月) 19:02:34
>>771
当時の航海術に関しては50kmが長距離だとは思えない。ヨットにでも乗ってみれば解かるよ。
1000余里を1単位としてることでも明らかでしょ。これは標準単位なんだよ。
壱岐を中継にする必要などまるでない。地政学的に利用しているのならともかく何もない。
まして対馬から壱岐の間を瀚海と命ずるなんてナンセンスだな。韓国から対馬のほうが広いよ。

要するにきみは末盧國を松浦にしたいから話しているとしか思えないな。
なにか別の説話なり文献なり示してくれたほうが議論が楽しめるよ。
775573:2008/05/26(月) 19:11:07
>>773
きみがあおり。
九州ですがさんの擁護のつもりなら筋違い。
真面目な議論に口を挟みたいならきちんとした態度をとりたまえ。
776573:2008/05/26(月) 19:19:21
追記:
>まして対馬から壱岐の間を瀚海と命ずるなんてナンセンスだな。韓国から対馬のほうが広いよ。

一大が隠岐またはせめて飯塚なら「瀚海」というのは意味をなすと思う。
777九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/26(月) 21:12:26
>>774 「要するにきみは末盧國を松浦にしたい」

したいんじゃなく、その通でしょう。壱岐は対馬の南にある。
方向も距離のほぼ合っている。異論を挟むほうがおかしい。
第一、対馬から宿泊先の伊都国を目指しているのに急に方向を変えて
隠岐などに上陸するわけが無い。
778573:2008/05/26(月) 21:44:51
>>777
>方向も距離のほぼ合っている。異論を挟むほうがおかしい。

そこがまず間違いなんだよ。異論があって当然なんだ。
なぜならきみも言ってるように当時の航海術は今とは違う。
何が違うかといえば、経度の算出ができない。
だから沿岸のランドマークや潮流を見て航海を行なう。
だから基準速度を単位として港のネットワークを作る。
これが最大1000余里を一単位としてるのだろうと前に書いた。
魏代の1里は約430m。つまり最大430kmの範囲で港港を用意するのだろうということだ。
つまり距離が合っているなんていうのはおかしいんだよ。

次に方向だが、これも航海の手順からして直行などありえないのだから
合っているなんていうのはおかしい。
魏志倭人伝に書いてある南というのは、その国の南岸ということだ。
これは最初の文のなかに「北岸狗邪韓國」と書いてあることからわかる。
対馬の南岸から1000余里(一単位:次の港まで)ということだ。

これが当時の技術、この文書の性格を考えれば妥当な解釈になる。
779573:2008/05/26(月) 21:46:57
ちょっと文章が抜けた

>対馬の南岸から1000余里(一単位:次の港まで)ということだ。
は、「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國」のことです。
780九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/26(月) 22:32:21
>>778 「何が違うかといえば、経度の算出ができない。
だから沿岸のランドマークや潮流を見て航海を行なう」

この頃既に中国では方位磁石は使われてました。それで八方の記述がある。
それに一番大事なことが抜けている。魏使は伊都国を目指していたと言う事を。
ここに到達するのに隠岐などに寄る必要性は無い。
倭人伝に記されたクヤ韓国、対馬、壱岐、の距離の比は実測に対応しており
「ここまで7千里」などと具体的。

781573:2008/05/26(月) 22:44:37
>>780
>この頃既に中国では方位磁石は使われてました。それで八方の記述がある。

磁石では経度を算出できないんだよ。時計が必要なんだ。
砂時計とかはあったのかな。知ってたら教えて欲しい。

>距離の比は実測に対応しており
それがありえないって書いてるんだよ。海上航行でどのように実測できるのか。

>「ここまで7千里」などと具体的。
7千「余」里だよね。これは港の経由数だと考えたほうが妥当だと思う。
782九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/26(月) 23:00:41
>>781
倭から見て北岸の「狗邪韓国まで七千里余り」だから。
全体の距離1万2千里の半分以上の距離を消費している。
そこから対馬国、そこから壱岐国は南と書いてあるだろう。
当時中国では北極星の位置で方角を読んでいた。
東西南北を間違う事などあり得ない。
天文学が発達している事は海上の距離の計算をも容易にする。
783573:2008/05/26(月) 23:08:02
>>782
東西南北の話ではないよ。
天測で経度を出すのには時計が必要なんだよ。基準時の暦を作ってそこから計算する必要がある。
当時は南北の緯度はわかっても経度はわからなかったはず。
速度にしても、縄などを使っても潮流もあるから移動距離を測るのも大変だと思う。

つまり海上航行において
今の地図をみて当時の文書の距離比較するなんてのはあまり意味がないわけだよ。

そのようなニュアンスでは魏志倭人伝は書かれてないと考えた方が合理であるということ。
1000余里というのは船の規模や性能を書いていると考えた方がいい。
784日本@名無史さん:2008/05/26(月) 23:16:41
余里っつーのがどうして港の経由数とか船の規模になるんだよ
785九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/26(月) 23:28:21
>>783「経度はわからなかったはず」

そんな馬鹿なことは無い。南北だけ解って東西が解らないなど無い。
南北が解れば東西も解る。道教の風水が一般に広がっていた中国では
東南、東北など、鬼門の方角を特に重要視していた。
倭人は距離を日数でしか表す事が出来なかった為
倭人伝の距離は魏使が記したものである。中国では戦乱の三国時代に
広大な国土での距離や方向を過つ事は命取りになる。
赤壁の戦いなどで水上での方向、距離を間違えていたなど考えられない事である。
786573:2008/05/26(月) 23:43:37
>>785
東西という方位ではなく、経度のことだよ。
地図に縦線が入ってるでしょ、それが経線。
ある地点からある地点までの東西の距離と考えてもいいよ。

>赤壁の戦いなどで水上での方向、距離を間違えていたなど考えられない事である。
内海などで双方にランドマークがあれば、陸地からの地図の累算で概算することは出来るけどね。

経度についてわからないのなら、ちょっと話がしづらいので調べるなどして理解して下さい。
787日本@名無史さん:2008/05/26(月) 23:45:50
>>783 
参考までに。
(2).漢代の地理学
領土を広げた漢(202B.C.〜220A.D.)の時代になると地理学は大きく進歩します。
天文学者の張衡(2世紀ころ)は、中国地図の特色である“方格図”の創始者とされています。
これは100里(58キロ)間隔の直交する縦横線で区切られた地図ですが、
中国では西洋科学がもたらされるまで、大地が平らであると考えられていたため、
投影法が考案されることはありませんでした。
晋の司空(土木省長官)であった裴秀(はいしゅう:224〜271)は、
地理学と地図作製の手引書を著わしています。
これには地図作製の要点として「分率・準望・道里・高下・方邪・迂直」
の重要性が述べられています。

 分率 … 縮尺の比率を定めること
 準望 … 方位を正すこと
 道里 … 距離を正すこと
 高下 … 坂道では水平の距離を求めること
 方邪 … 交差の角度を正すこと
 迂直 … 曲線区間では直線距離と方位を求めること

http://atlas.cdx.jp/history/ancient.htm
788573:2008/05/26(月) 23:54:17
>>787
ありがとう。
今の話は外洋航海ではそこにある道理がとれないってことですね。
歩測か三角測量しかできないから陸地では道理がとれるだろうけれど。

そういえば魏志倭人伝でも道理がとれないというような文があったね。
789九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/27(火) 00:06:29
>>788 外洋航海ではそこにある道理がとれない」

何のことそれ?意味不明。大体対馬から壱岐まで南と言ってるのに
経度を持ち出して「ある地点からある地点までの東西の距離」などと言ってみたり。
訳の解らないやりとりが多すぎる。この文も然り。
790573:2008/05/27(火) 00:09:51
>>789
経度のことはわかったのかな?
東西の移動が計算できなければ、きみがさっきから言っている
今の地図の実測に合っているという主張はあまり意味がないでしょ。
791九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/27(火) 00:35:58
>>790
帯方郡−狗弥韓国  7000里
対馬国        1000里
一支国        1000里
末廬国        1000里

これで十分だろう。南に進んでマツラ国につけば500里で伊都国。
ここで全行程の割がてら使っている。邪馬台国はそう遠くないところにある。
経度がどうとか関係無い。
792九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/27(火) 00:36:57
割がてら 訂正9割がてら
793573:2008/05/27(火) 00:41:27
>>791
距離実測がどうという話は意味がないということは納得したんですか?
話は順序だてていきましょう。
794九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/27(火) 01:07:20
「倭人伝に記されたクヤ韓国、対馬、壱岐、の距離の比は実測に対応しており 」
と言っているのであって上陸するのは九州しかあり得ないと言っているのだ。
795日本@名無史さん:2008/05/27(火) 01:14:55
正確な時計がないと外洋航海では緯度が算出できない、
ってなことは皆わかってる。

が、晴れた日には目視できる島に航海するのに
緯度の距離計算云々の話をなんで長々いってるの?
バカじゃない?
ってのが皆の正直な感想では?
796573:2008/05/27(火) 01:21:50
>>794
それじゃ話がループだよ。
外洋で東西距離が計算できない時代に
そんな実測比較なんて概念を持ち出すのが
おかしいでしょ、って話をしてるわけ。

帯方や狗邪韓國の比定や
魏代の距離単位「里」のかってな変換をとりあえずおいておいても
それ以前に九州しかないなんて言い張るのでは話にならないでしょう。
認めるところは認めようよ。
797日本@名無史さん:2008/05/27(火) 01:23:38
>>795
今出てるのは「緯度」じゃなくて「経度」な。。

つうか経度を割り出すんだったらコンパスと(標準時に合わせた)時計
が無いと分からないのでは?

798573:2008/05/27(火) 01:25:49
>>797
天測での話。
ていうか可能性として少しでもあれば考慮しようという立場。
799九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/27(火) 01:28:29
>>795 バカじゃない? ってのが皆の正直な感想では? 」

悪いからそうはっきりとは言わないけど、正直疲れた。
「南に行って壱岐」だって言ってるのに経度がどうだの時計が無いとダメだのと
どういう感覚してるんだろう?とは思うけど。
それより壱岐などこの区間では初めて聞く内容だからと聞いていたけど
こんな説ぶちかます人は他にいないだろうね。もう寝ないと時間のムダッポ。
800573:2008/05/27(火) 01:31:01
>>799
>「南に行って壱岐」だって言ってるのに

それは南岸という意味だよと説明してるじゃない。
ちゃんと読んでくれよ。

というか、殺伐にならないように話をしてるのに
そんな返しはないんじゃないの?
801九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/27(火) 01:40:45
>>796 そんな実測比較なんて概念を持ち出すのが ・・」

だ〜か〜ら〜。韓半島を出て対馬、壱岐、マツラと同じ距離で表されてるって事は
あんたが言う「隠岐上陸」は無い、というのを遠まわしに説明してるわけよ。
あんたの説の行き着くところそこだから。それが崩れたら、成り立たないだろうっての!
「九州しかないなんて」無いだろう。伊都国の位置は九州と言う事に異論を挟む学者は
九州説も畿内説にもいない。隠岐は緯度経度どころの騒ぎじゃない。
802九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/27(火) 01:46:53
>>800 「それは南岸という意味だよと説明してるじゃない」

南を南岸というそれ自体が考えられない解釈だ。まあ誰がどう考えようと自由だが・・。
日本語解ってんの?と言いたい。どこに「岸」というのが出てくるのだ。
勝手に作って邪説甚だしい。
803573:2008/05/27(火) 01:49:08
>>801
それは「1000余里」の意味に帰着するわけで
それを等間隔とイメージすることに無理があるよ、って説明になってるのでは?
もちろん狗邪韓國の比定の問題もあるでしょ。もし等間隔だというのなら。
どこが北岸なのか。
それに学者が異論がないから正しい、なんてのは本末転倒の権威主義でしかないと思うよ。
そんな考えで研究してる学者のほうが学究の態度としておかしいでしょ。
おれが書いてる意見は、当時の技術や官の考えを考慮してるものだよ。

地図作成が関係ないなんて言ったら魏志倭人伝を読めないでしょう。違いますか。
804まあどうでも良いんだけどw:2008/05/27(火) 01:50:06
ちなみに12000余里の内

不弥国までで10700余里消費

残り1300余里

魏の1里は434.16m

∴1300*434.16m≒564km

805573:2008/05/27(火) 01:52:47
>>802
北岸狗邪韓國と書いてあるでしょう。
その国の南から渡るから「又南渡一海千餘里」でしょう。
何もおかしくないよ。
解釈で言うならここの「叉」をどう考えるかだね。「至」ではないのだから。
806573:2008/05/27(火) 01:54:25
>その国の南から渡るから「又南渡一海千餘里」でしょう。

あ、その国というのは、対馬や一大のことね。
807河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/27(火) 07:57:44
>>805

“又”南渡一海… の“又”とは


ABCという行為のBの部分に「又南…」と書く事によって、Aに記載がなくてもAはBと同じ行為をしたことになる。

つまり、
AもBも共に「南渡」だった事がわかる。
808日本@名無史さん:2008/05/27(火) 09:18:52
>>801
>韓半島
ここは学問板なので朝鮮半島でお願いしまつ
809日本@名無史さん:2008/05/27(火) 12:11:20

稲作が中国から直接日本に伝わった事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が早くも弥生前期末には
既に伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にないRM1-b遺伝子の稲が日本にあるというだけでは
稲作が中国から直接日本に伝わった事の証拠にはできないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
810573:2008/05/27(火) 17:35:38
>>807
並列であるという解釈だね。
それでいくと対馬國から
対馬國 - 一大國
対馬國 - 末盧國
の2つのルートがあると示してることになるのか。

河童虫さんは「一大」という当て字をどう考えますかね。
811九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/27(火) 19:00:16
>>805 北岸狗邪韓國と書いてあるでしょう」

これは狗邪韓國が倭の北岸に位置している、という意味。
北岸だから南岸、なんじゃそりゃ?

「又南渡一海千餘里」は帯方郡から南へ、狗邪韓國に至っており
「又」は再び南に海を渡って対馬国に至る、という意味。
812九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/27(火) 19:58:56
>>808「ここは学問板なので朝鮮半島でお願いしまつ 」

おっと!これは失礼。
813河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/27(火) 20:54:16
>>810

>並列であるという解釈だね。

直列ですよ


>河童虫さんは「一大」という当て字をどう考えますかね。

一大事の一大と同じ  最小で最大(ちっぽけなものでおおきな効果)
814573:2008/05/27(火) 21:12:09
>>811
国とというのはある土地の範囲を示している。
その端が海や川に面していればそこが岸だよ。
狗邪韓國の北側にある岸だから北岸。
狗邪韓國を倭に含めないならば、瀚海(大海)を挟んでいるのだから
それは対岸とか対北とか書かれるでしょう。
北岸狗邪韓國はどう読んでも狗邪韓國の北岸だと思うよ。
それからここで書いている意味は、北岸というような表記を最初にしている
その上で航海の項目で南渡と書いているのだから、それは南岸という意味だという事だよ。
もちろん当時の航海術が地図に定規を引いたような航路にはならないという説明と
官が考える文書として国の特徴を書いているほうが理にかなうという事も考慮しているよ。
815573:2008/05/27(火) 21:16:49
>>813
>直列ですよ

字義で言うのなら並列という事じゃないの?
直列なら AかつB
直列で時系列があるなら Aさらに(そして)B または Bさらに(そして)A
では?

>一大事の一大と同じ  最小で最大(ちっぽけなものでおおきな効果)
なるほど。そこには当て字以外の含意があると思う?
おれは駐屯とか防護とかなにか軍事的な意があると思ってるんだけど。
816河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/27(火) 21:27:01
>>813

>おれは駐屯とか防護とかなにか軍事的な意があると思ってるんだけど。

その考えは変えないほうがいいよ
私はスワット部隊と考えています。   少数の人数で、最大の力を発揮する地域 だから一大國

そして一大率とは、
その少数で最大の力を発揮する部隊を均一に配置


>字義で言うのなら並列という事じゃないの?
直列なら AかつB
直列で時系列があるなら Aさらに(そして)B または Bさらに(そして)A
では?


ここは以前から何度も説明しているので、後でカキコしておきます。
参考になる部分は参考にしてください。
817河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/27(火) 21:31:58
>>814

其は大海
大海の北に狗邪韓國の岸

818河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/27(火) 22:31:15
>>815

「又」が並列としてではなく、直列として使用されてると解釈される根源に「始度」をあげとくよ

三度「南」という行為の最初
819日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:17:31
邪馬台国の都候補一覧
畿内説
奈良県…纏向遺跡

四国説
徳島県…萩原2号墓

九州説
宮崎県…西都原古墳群
佐賀県…吉野ヶ里遺跡
大分県…宇佐神宮
福岡県…太宰府天満宮・平塚川添遺跡

他多数
820573:2008/05/27(火) 23:53:34
>>817
其は大海、ね。なるほど。
とすると瀚海は倭の海か。
それはそれで新しい考察が生まれるな。

>「始度」をあげとくよ

始に対する又、では始から又2種までが並列(置換可能)と考えることも出来るのでは。
821573:2008/05/27(火) 23:55:11
>>820
狗邪韓國 - 對馬國
狗邪韓國 - 一大國
狗邪韓國 - 末盧國
822573:2008/05/27(火) 23:59:12
釜山、蔚山あたりを狗邪韓國と考えると
3ルート並列は理にかなうね。
なぜ狗邪韓國なのかというのも鉄鉱山などを
考えれば合理的だ。
823573:2008/05/28(水) 00:03:02
>>816
>少数の人数で、最大の力を発揮する地域 だから一大國
うん。魏の官がその字を当てるというのが興味深いね。
帯方の出城と考えるのが面白い。
824日本@名無史さん:2008/05/28(水) 02:34:59
つうか「一大国」は「一支国」の誤りで現在の壱岐と言う説はとらないのか・・・

で、相当兵力を常駐させていた軍事拠点??

825573:2008/05/28(水) 03:11:20
>>824
とらない。魏志倭人伝に一大率の記述があり、それが港(津)の監察官であるという内容を
考えても誤記はありえないことだろうと思う。

>で、相当兵力を常駐させていた軍事拠点??

民間人か軍人かはわからないが3000家と書いてあり、
当時は民兵があっただろうから家主が戦闘に加わるなら
3000人以上になるか。
おれはなんとなく北九州(飯塚以北)が一大ではないかと考えている。
826日本@名無史さん:2008/05/28(水) 03:53:20
>>825
一大率という語があるからこそ、一支を一大と書き誤る可能性が出てくるんじゃないか。
827573:2008/05/28(水) 04:08:59
>>826
うーん、それは例えが下品だけどおこめをおめこって書いたんじゃね?って言ってるようなもんだと思うよ。
書いてる官をただこいつ馬鹿じゃんって言ってるようなもんで不毛。
828日本@名無史さん:2008/05/28(水) 04:29:39
>>827
近くに「おめこ」と書いてあったから、本来「おこめ」と書くべきところまで思わず「おめこ」と書いちゃったと言ってるわけやね。
誤写かどうかは、倭人伝や関連する書籍の現存する版本を全部見てからでないと、結局憶測にしかならんよね。
しかし、そんな金も暇も意欲もないよ、オレは。
829824:2008/05/28(水) 04:33:20
>>825
ぶっちゃけ個人的には畿内説の日本海コースを推しているんだがw

流石に少なくとも奴国あたりまでは従来の解釈で良いと思う。
理由は前述されているのと同じなので省くがw

「壱岐→隠岐と替える」については、まあ普通なら本州の沿岸沿いを行くだろうから
わざわざ本州から離れるような航路を取るのかが疑問。
(まあスタートが朝鮮半島の東側ならリマン海流に乗って・・・と言う話もあるかもしれんが)

それに「一大国」の描写も耕地が少なく交易で食ってるって風だし
相当な兵力が在中していたような記述ではない。

それにそれだけの兵力を離島に置く意味があるかも疑問。
元寇の時に何処かの島に大兵力を投入した記録ってあったっけ?

830573:2008/05/28(水) 04:45:12
>>829
あ、いや
おれは一大→隠岐にはこだわってないよ。
古来からの交易中継地であっただろうということを指摘して、壱岐よりも理があるかなくらい。
一大の意味を駐屯地として考えるなら、飯塚近辺の方が理があると思う。
魏の駐屯地か、女王国と敵対する狗奴國などを支配している男子王の駐屯地だろう。

>それに「一大国」の描写も耕地が少なく交易で食ってるって風だし
これについては、戸ではなく家と書いてる、島と明記してないのに方三百里と書いてるなど
おれには城をイメージさせる。

ちなみにおれは奴国は名古屋だと思っているので、そこからの発想ですわ。
つまり女王国は瀬戸内海航路を妨害されているということね。
831河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/28(水) 09:04:16

>>821

何故?そんなに狗邪韓國にこだわるの?
単なる目印的な位置付けなのに

『……到其北岸狗邪韓國七千餘里』

…水行にて大海に到る。距離は七千餘里
大海の北には狗邪韓國の岸。


浜松町駅(大海)の位置を示すために、東京タワー(狗邪韓國の岸)が西側にあると
記載しているだけ
832日本@名無史さん:2008/05/28(水) 09:19:36
「従郡至倭、循海岸水、行歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。」の記述で当時の1里は約50mぐらいだったと分かる。
「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王」の記述で、当時の中国の船の速度がわかる。
(帯方郡から黄海、黄河を通って首都までの2000キロちょっとの水路を6ヶ月かけて航行している=1日12キロ程度)
よって不彌國から投馬國までの水行二十曰の距離は240キロ。投馬國から邪馬壹國までの距離のうち水行十曰は120キロ。
不彌國のあった宇美町から南の柳川あたりに不彌國があって、そこまでの陸路が当時戦乱などの理由で使えなかったと考えれば解決する。
その場合、邪馬壹國の場所は柳川から南120キロの地点となる。
柳川からここまで陸路で1ヶ月、ということは、当時は1日4キロずつしか移動しなかったことになるが、船を引きずりながら移動したと思えば不自然ではない。
833日本@名無史さん:2008/05/28(水) 09:20:56
×不彌國のあった宇美町から南の柳川あたりに不彌國があって
○不彌國のあった宇美町から南の柳川あたりに投馬國があって
834日本@名無史さん:2008/05/28(水) 10:43:05
>>832

舟を引きずりながら移動している不思議さに気付け。
835573:2008/05/28(水) 12:45:09
>>831

>>821は並列だとしたらの3つのルートという書き方がわかり辛いかもしれないので
補足しただけ。

>何故?そんなに狗邪韓國にこだわるの?
そんなにこだわってるわけではないけど。
ただ文章を書いた人間が何を考えているか(役職として、文意として)は
解釈に重要だと思うね。伝聞や引用があるわけだから。
というかそういう推理がなければただの文字当てになってしまう。



>>832,834
こうやって見るとものすごくナンセンスだねえ。
もしこういう事をほんとに専門家が主張しているのなら
説うんぬんより、学者としての資質みたいなのに問題があるように思う。
836河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/28(水) 15:48:35
>>835
学者の大部分はそんなもんじゃないの
837河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/28(水) 15:59:14
ま、陳壽の編纂した倭人伝に矛盾した箇所はなかった。
陳壽クラスになれば、与えられた資料だけで十分だろうから
838日本@名無史さん:2008/05/28(水) 16:51:09
名称:琉球王権
範囲:沖縄県全体
民族:琉球民族
都:沖縄県読谷村木綿原遺跡

名称:南九州王権(高天原王権)
範囲:鹿児島県・宮崎県・熊本県
民族:帰化琉球民族(熊襲)
都:宮崎県西都市西都原古墳群付近

名称:北九州王権
範囲:長崎県・佐賀県・福岡県・大分県
民族:帰化朝鮮民族
都:佐賀県吉野ヶ里町吉野ヶ里遺跡

名称:阿波王権
範囲:四国地方
民族:縄文系大和民族・弥生系大和民族
都:徳島県鳴門市萩原墳墓群付近

名称:大和王権
範囲:近畿地方
民族:弥生系日本人
都:奈良県桜井市纏向遺跡

実際はこんなに詳しく分かってるわけでもないが
これらの地方のどっかに邪馬台国はあったろう

839日本@名無史さん:2008/05/28(水) 17:53:19
>>834
朝貢貿易というものを知らないのか。
船の中のものをいちいち出して陸上を何往復もする手間に気付け。
840日本@名無史さん:2008/05/28(水) 18:05:50
>>838
琉球とか阿波が候補に上がるなら、出雲とか吉備も仲間に入れてやって下さい
841日本@名無史さん:2008/05/28(水) 18:41:41
>>839
及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
ってあるじゃん。いちいち出す手間を惜しまなかったんじゃない。
842日本@名無史さん:2008/05/28(水) 20:07:41
ふつう、荷物を出すのは着いてから。
120キロも手前でいちいち荷物を出して、何度も往復して陸路を運んだりはしない。
843日本@名無史さん:2008/05/28(水) 20:18:48
引きずっていくと考えるから不自然に思える。
当時、台車ぐらい発明されてたろ。
844日本@名無史さん:2008/05/28(水) 20:18:54
臨津捜露ってあるから、港で荷物検査したんだろう。
女王国が港に面していなかったら、女王国に着く以前に検査されたことになる。
そして、前後の文脈から、この記述が一大率の業務内容である可能性も考えられる。
だとすると、なおさら女王国に到着する前に荷物検査が行われたことになる。
845573:2008/05/28(水) 21:21:14
>>836
>学者の大部分はそんなもんじゃないの
それは日本的自虐w
自虐というか必要な知識を得ない得ようとしないといういみで科学者ではないね。
オカルトとかそういうレベル。しかも不備をすぐに指摘されてしまうレベル。
学者って名のるのがおかしい。
846573:2008/05/28(水) 21:24:51
>>844
一大率は明らかに検閲を目的とした調査機関だと思うよ。
それに反すれば統一国家のペナルティがあるという意味では、現代の国連のような組織でしょ。

おれは魏志倭人伝は帯方と彼らの言う倭国すなわち宗教支配者である女王を中心とした連合との
関係を把握することが第一だと考えるよ。
その意味では伊都国の比定が何よりも大事。
847573:2008/05/28(水) 21:27:37
なぜなら伊都国は
女王国連合と帯方との特別行政地区ということが強調されているから。
それと狗奴国との関係が魏志倭人伝の伝えたいことの根幹。
848日本@名無史さん:2008/05/28(水) 22:35:09
一大率か東大卒か知らないが、
人間は門地や学歴じゃない。実力ですよ。
849日本@名無史さん:2008/05/28(水) 22:52:29
それがおもしろいとでも?
850河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/28(水) 23:03:06
>一大率か東大卒か知らないが、
人間は門地や学歴じゃない。実力ですよ。


その言葉
この低学歴者にとって涙が出るほどありがたい。
851日本@名無史さん:2008/05/28(水) 23:06:53
>>850
本当か?
実力で判断されるんだぞ?
君は本当に実力があるのか?
本気でそう思っているのか?
本当にいいのか?
852河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/28(水) 23:17:04
>>851

>本当か?
実力で判断されるんだぞ?
君は本当に実力があるのか?
本気でそう思っているのか?
本当にいいのか?


俺に学歴で勝負しろというのか? それこそ無理南大門だよ
853日本@名無史さん:2008/05/28(水) 23:54:44
学歴でも実力でも無理難題だもん
854日本@名無史さん:2008/05/28(水) 23:59:31
当時の日本は馬もいないし、人々は裸足で生活してたんだろ
今みたいに道路も舗装されてないし、1日何キロも歩けないだろ
だから今の感覚で考えたら、陸路ですぐの場所でも、水路で行ける場所であれば
船を使ったんじゃないかな。そっちの方が楽でしょう
855日本@名無史さん:2008/05/29(木) 01:16:14
おめーら毎度毎度、距離と方角だけでよく飽きないなw

つうわけで対馬国〜邪馬壱國までの”官と副”を列記して見る。
これから何が見えるか?
(まあどうせこれも死ぬほど外出だろうがw)

 対馬國 大官=卑狗 副=卑奴母離
 一大國 官=亦卑狗 副=卑奴母離
 末盧國
 伊都國 官=爾支  副=泄謨觚・柄渠觚
      
 奴國  官=シ馬觚 副=卑奴母離
 不彌國 官=多模  副=卑奴母離
 投馬國 官=彌彌  副=彌彌那利

 邪馬台国 官=伊支馬 次=彌馬升 次=彌馬獲支 次=奴佳テ

先ず目に付くのが副に卑奴母離(ひなもり)を据えている国が多い事。
これは後世の大和朝廷における夷守(ひなもり)か?

邪馬台国から派遣されて事実上監視しているのだろうか?

邪馬台国以外で卑奴母離の存在が記されていないのが伊都國、投馬國。
その2国はかなり独立性が強かった?
伊都國はその外交のノウハウにより優遇。
ただし千余戸と言う事だから領地のかなりは没収されている?
投馬國は同盟関係か?
856573:2008/05/29(木) 03:07:37
>>855

>夷守(ひなもり)か?

おれは邪馬台国を東北と考えているから
それは非常に興味深いよ。

>投馬國は同盟関係か?

おれは投馬を沖縄と考えている。
山間の国であろう伊都の風俗が海人であるというのはなにか事情があったのかもね。
会稽の東治の東という記述やミミツ岩など興味深い点もある。
857日本@名無史さん:2008/05/29(木) 03:07:50
文武官をそなえる制は律令制の影響がみられるな
858573:2008/05/29(木) 03:11:18
×ミミツ岩
○ミミシ
859573:2008/05/29(木) 03:23:57
>会稽の東治の東という記述やミミツ岩など興味深い点もある。

もっとも海人の風俗を狗奴國のものと考えれば不思議ではないな。
魏と呉の位置関係を考えると、そのほうが解釈の理にあってるのかもしれない。
860日本@名無史さん:2008/05/29(木) 09:07:27
名目上の独立国を、副官派遣という形で実質的に支配することは古今よくあること。
近代においても、いわゆる「保護国」というのは、いちおうの独立国の体裁をとりながら、宗主国から顧問を派遣して、顧問の相談なしには君主は何もできない状態にして支配していく、という、植民地支配の1形態だ。
そういう意味で、「ひなもり」というのは、これら属国を邪馬台国が支配する手段だったと考えてもいいと思う。

ただ、だからといって邪馬台国が後世の大和朝廷だとは必ずしもいえまい。
大和朝廷の夷守というのは役職名ではなく、たんに辺境を守っている兵士という意味でしかない。
日本書紀には、筑紫の国で夷守という土地に行った景行天皇が、兄夷守(エヒナモリ)弟夷守(オトヒナモリ)を偵察に出す、という話がある。
筑紫の国を牛耳っていた夷守たちを偵察するために、かつて筑紫の国の側で夷守をしていて大和朝廷側に寝返ったと思われる2名を偵察に利用した、ということだろう。
つまり、大和朝廷から見ると、夷守というのはかつて筑紫の国を支配していた敵国の制度である、という点に注意しなければなるまい。
861日本@名無史さん:2008/05/29(木) 11:46:27

稲作が中国から直接日本に伝わった事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が早くも弥生前期末には
既に伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にないRM1-b遺伝子の稲が日本にあるというだけでは
稲作が中国から直接日本に伝わった事の証拠にはできないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
862日本@名無史さん:2008/05/29(木) 12:43:50
>>860
景行天皇は大和朝廷の天皇に在らず、
景行天皇は九州王朝の天皇である。
日本書紀の記述は九州王朝からの盗用。
863日本@名無史さん:2008/05/29(木) 13:18:09
>>862
もしそうだとすると、その敵が邪馬台国だという以上は、大和朝廷が邪馬台国だということになりますね。
864太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/29(木) 13:22:06
卑弥呼は崇神の時代に活躍して死亡してることで彼女は九州王朝の始祖的人物
だから、景行が九州行幸したとしても別であり、王朝を継ぐべき王子王女は九州
にいたろうし、九州王朝とは直接の関係はないと観てよく、同王朝の天皇では
ないな。
865855:2008/05/30(金) 00:33:05
うーん九州王朝説のレスは予想の範疇の内容だなw

>>855の続きだが・・・

邪馬台国の伊支馬(いきま)彌馬獲支(みまかき)はそれぞれ
 ・垂仁の活目(いくめ)
 ・祟神の御間城(みまき)
にもとづく御名代と考えられるとか・・・

まあこれは内藤湖南の説らしいけどw

そう言えばポスト内藤湖南ってコテはどうした?
もう芯だのかな?wwwwww

866美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/05/30(金) 01:32:56
>>864
九州王朝って何ですか?
神巧皇后の時代に、九州のクマソ王退治の為に、仲哀天皇は九州に宮を置いてたよ


・クマソ王朝
・仲哀の住んでた宮

どっちを九州王朝と呼んでるんすか?

ちなみに仲哀の死後、神巧皇后は乾半島(韓半島)に兵を送り、漢城をも制圧して、日本の氏族に統治させ、百済と新羅を建国したよ
この時に韓半島に渡って百済と新羅を建国した人の話が日向三代の話だよ
だから百済や新羅の建国神話でもある

日本書記もちゃんと読めば、日向三代がサイシュウ島を経由して、乾半島(韓半島)に渡り高千穂のソウルに渡った事が書かれてるよ

朝鮮に高千穂とか乗鞍岳とか日本と同じ地名があるのも日本人が付けた地名だからだよ
「ソウル」って名前も朝鮮語じゃなく「蘇誉里」って言う日本語だよ
ソウルは漢王朝の城があった都で漢字では「漢城」って字が当てられるよ


日本→韓半島→九州→東征→橿原に遷都
天孫降臨の日向三代からイワレビコの話はこの流れすよ


朝鮮から九州に渡って来た神武民族が、日本を侵略して統治した訳じゃないよ
867河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/30(金) 10:11:44
>>866

中国だって
太古の昔は日本語だった。
今、列島内で使われている言葉は、唯一生き残った太古の言語。
島国と言う特殊環境が、他の民族の流入を最小限に留めたが故に
868日本@名無史さん:2008/05/30(金) 10:50:59
869九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/05/30(金) 23:22:45
>>814
もう意味不明。
870日本@名無史さん:2008/05/30(金) 23:57:45
>>867河童虫 ◆EY2wfgakAQ
>中国だって
>太古の昔は日本語だった。

マ ジ で す か ?

俺は今の今まで日本語はウラルアルタイル語族で
中国語はインドヨーロッパ言語族であり別物とばっかり思っていたw

(まあ昔学校の授業で聞いたかナンダかもう忘れたんだけどw)

それって普通に常識なのかい?

できれば後学の為根拠等を示してもらえないだろうか?

871日本@名無史さん:2008/05/31(土) 00:01:43
>>870
なぜスルーしないのだ?
872870:2008/05/31(土) 00:12:08
>>871
えー?

そりゃ河童虫先生、過去に「距離は四次元」なんて電波ブチかました事はあったけどw

言語学とか記号学とかは専門でしょ?
これが間違ってたらもう救い様ないやんw

まあ俺が無学で知らなかっただけなんだろうから
「聞くは一時の恥」つう事でwww



873日本@名無史さん:2008/05/31(土) 00:45:37
ttp://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index.html

邪馬台国夜須説を推しているが・・・
874日本@名無史さん:2008/05/31(土) 00:57:24
>>873
リンク先・・・「シュメール」なんて文字が出てくる時点でなんだかなあ。。
875日本@名無史さん:2008/05/31(土) 01:45:58
しかし美濃もん太のスレ破壊力は凄いなw

で「美濃もん太」でふと思ったんだが
南はジャワスマトラから北は関東北陸までにある邪馬台国の比定地だが
濃尾平野をそれとした説ってあったっけ?

個人的には聞いた記憶が無いが・・・




876かきつばた ◆O1SdlnknBs :2008/05/31(土) 02:31:31
布目潮風のジャワ説は、このスレ的にはどんな評価?
877かきつばた ◆O1SdlnknBs :2008/05/31(土) 02:32:09
直近で言及されてるOTL
878日本@名無史さん:2008/05/31(土) 03:12:14
879573:2008/05/31(土) 03:44:43
>>875
まず伊都を丹波と仮定してみてください。
他の説がどれだけバカバカしいかがわかります
880日本@名無史さん:2008/05/31(土) 09:05:31
>>872
プラムは、とてつもなく低レベルの○鹿なの。
奴をデビュー当時から知ってる連中は、実態を知ってるだけに誰も相手にしていない。
暇つぶしでときたまオモチャにするときは有るけどさw
881河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/31(土) 09:28:17
>>880

相手にして潰されるのを嫌う人もいると『思う。』

特に、あ・な・た

だから
何時も間接的に絡むと言う構造。既にプラムのコテが存在しないのに、未だ過去のプラムにこだわっているのがなによりの心理的な証拠

つまり

『脳に焼き付いたオ・ビ・エ』
そんなに恐いの?プラムが。


大丈夫だよ、もうプラムは現れないから
882日本@名無史さん:2008/05/31(土) 09:55:07
>>881 河童虫 ◆EY2wfgakAQ

で、、、

>>870のことに付いては御教示願えないのでせうか?w

>中国だって
>太古の昔は日本語だった。

自分にとっては衝撃の事実だったモンでww
883河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/31(土) 10:05:29
>>882

現在使用されている中国語(おおざっぱな意味で)は日本語からの変化形と言う意味ではなく
太古からの言葉の形態が、日本や太平洋の各島に残ったと言う意味だよ。
884日本@名無史さん:2008/05/31(土) 10:53:26
>>883 河童虫 ◆EY2wfgakAQ

まあその程度だろうな、予想の範疇内の答えw

じゃあ古代中国でその「太古からの言葉」が使われていたと言う事実は何によって分かるんだい?

それに汎太平洋地域に残った日本語と共通する言語って具体的に何んだろうな?

例えばポリネシア語なんかは別系統っぽいw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%AB%B8%E8%AA%9E


上手く拡大解釈的にぼやかしているつもりかもしれんがwww

885日本@名無史さん:2008/05/31(土) 11:07:54
そもそも日本語自体が特殊っぽいw

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E#.E7.B3.BB.E7.B5.B1

まあ河童虫先生の脳内じゃあその系統に関する問題もクリアされているんだろうがwww
886日本@名無史さん:2008/05/31(土) 11:31:40
>>884-885
止めてやれよ
みんな分かってスルーしてんだから ('A`)
887河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/31(土) 11:34:02
>>884

貴方と私に共通的な認識があればの話しだが、言葉と文字の方向性でつかめるよ
と、述べたところで
ちんぷんかん、だろが
888改め ◆PWTcGEfp1s :2008/05/31(土) 11:39:29
おっと河童さんこっちか

なにかいいあってるね
やりあうなら観てますよww
889日本@名無史さん:2008/05/31(土) 11:45:42
あま はま きたー
890日本@名無史さん:2008/05/31(土) 11:58:59
>>887 河童虫 ◆EY2wfgakAQ
>ちんぷんかん、だろが

・・・だろうな。
どうせその御高説は河童虫先生からしか聞けないんだろ?w

日本語の系統に関して今だ完全決着していないみたいだが
(「○○言語族」なんて言葉久しぶりに見たw)

そこに新たに加わった新説として一般に認知されたら
例え自分の手に余る難解な理論でも拝聴もしてみようが

まあそれまでは「河童虫のトンデモ」と言う事でおkwwww

>>889
>あま はま きたー
やっぱりこのネタも使い古しなん?w


891日本@名無史さん:2008/05/31(土) 11:59:10
改めサン、河童蟲さん。
太平洋諸島に伝わる日本語類言語について思い切り議論してください。
期待しています。
892890:2008/05/31(土) 12:01:57
>>890
>新たに加わった新説として

すまん頭痛が痛くなってきた。。
893改め ◆PWTcGEfp1s :2008/05/31(土) 12:07:22
>>891
わたしは言語学専門ではありませんよ

貴方は議論をしないんですか?
894日本@名無史さん:2008/05/31(土) 12:14:30
>>893
改めサン。
2ちゃんねる日本史板におけるスレの私物化について思い切り議論してください。
期待しています。
895日本@名無史さん:2008/05/31(土) 12:15:21
日本語は、ウラルアルタイ語の文法でツングース語系の単語を
話しているという感じだそうです。今の日本語も外来語を巧みに
取り入れて、みんなでディスカッションしようなんて使い方をする
わけだから、新しい文化や民族と出会うたびにその単語や文化
を取り入れて日本語は常に進化してきたのだと思う。
896河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/31(土) 12:29:26
>>895

〇〇語と〇〇語の比較や、〇〇語は〜語系だ。 な〜んて話しは無意味じゃないかな?

各言語から 経過時間と生活環境過程を、差し引いた変化の少ない状態での比較なら別だが
大局で言語を見るなら
当然、西より東の地域言葉の方が、より単純であり変化の度合いが小さいよ
897日本@名無史さん:2008/05/31(土) 12:35:45
>>896

はい、河童によって『比較言語学』そのジャンルごと吹っ飛びますたw

898日本@名無史さん:2008/05/31(土) 13:45:12
>>890
>どうせその御高説は河童虫先生からしか聞けないんだろ?w

・・・だからスルーしろって言われただろ ('A`)
899九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 14:23:08

河童虫説がとんでも説とは言い切れない。

傾聴すべき部分がかなりある。

ただ彼は説明下手。
900日本@名無史さん:2008/05/31(土) 14:43:47
>>899
しかしなあ、、各言語の比較やその系統の分類無しに
如何にして古代中国で使われた言語が、日本や太平洋地域に残っている事を証明するのやらw

つか言語を取り扱うのを売りにしている人間が「説明下手」じゃあなあwww
901日本@名無史さん:2008/05/31(土) 15:56:22

稲作が中国から直接日本に伝わった事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら九州・西日本に伝わった最初の稲作が早くも弥生前期末には
既に伝わってきていた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にないRM1-b遺伝子の稲が日本にあるというだけでは
稲作が中国から直接日本に伝わった事の証拠にはできないのである。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
902日本@名無史さん:2008/05/31(土) 17:00:14
比較言語学なら、黴が生えたような古典がある。
ただし、その頃、理系の分厚い専門書も読んでいたから、どっちがどっちかわからない
内容はよく覚えているけど、作者まではわからないというやつ
泉井久之助か服部四郎、漢字は違っているかもな
どちらかが、東南アジアの言語とかと日本の言語を比較しながら、日本人のルーツを探していた言語学の権威
903日本@名無史さん:2008/05/31(土) 17:04:22
大伴氏・佐伯氏の謎に迫る言語学の書籍なら、それだと思うよ
服部四郎みたいだね
904日本@名無史さん:2008/05/31(土) 17:11:38
902、903だけど、連投タンが指摘した大伴氏、佐伯氏説を言語学的に検証するなら、服部四郎と泉井久之助を体系立てて読むことだと思う。
905日本@名無史さん:2008/05/31(土) 17:50:15
>>899
あなたがムー大陸の存在を信じる人なら、彼の説も傾聴すべき部分があるんだろうね。
906日本@名無史さん:2008/05/31(土) 17:57:34
>>873
ちょwww電波wwwww
907573:2008/05/31(土) 19:40:49
>>895
>日本語は、ウラルアルタイ語の文法でツングース語系の単語を

スレチ入ってるかもしれないけど
ウラルアルタイっていうからイメージが湧かないんで
フンヌ(匈奴)、アイヌと言うとわかりやすいのかもね。
匈奴がスキタイ文化と混じってから発展したことを考えると
神話要素にギリシャ神話が入ってるという説も現実味を帯びる。
また日ユ疎嘘論者は大喜び。
908573:2008/05/31(土) 19:42:19
×日ユ疎嘘論者
○日ユ同祖論者

失礼
909573:2008/05/31(土) 20:40:24
ドンデモ系つながtがりでついでに書くと
邪馬台国のヤマとはリグ・ヴェーダのヤーマすなわち閻魔から
来ているのかもしれない。
本来、同一尊であるyamaから夜摩・焔摩(光明世界)と閻魔(地底界)
と分かれたとされている。

まあ、ただ世界的な神話の普遍性というだけなのかもしれないが
ヤマを邪馬と字当てしているのは興味深い。
中国経由ではない宗教・呪法の伝達があったと考えることもできる。
910改めドツボ監視委員会:2008/05/31(土) 23:46:06
>>907-909
天孫降臨神話そのものや、神武東征の中に出てくるヤタガラスや金鵄と言った、霊鳥の助力と言ったモチーフ等々・・・
アルタイ系騎馬遊牧民の文化を介して日本には入って来たって話だな。

日本神話とギリシャ神話と言えば
誰もがイザナギとオルフェウスの亡き妻を追っての冥界巡りを思い出すだろうが

その二つの神話で主人公が妻を現世に連れ戻すのを失敗する原因が
共に「妻の変わり果てた姿を見てはならない」と言うタブーを破ったと言う点が共通しており

更にイザナミが黄泉の国の食物を口にしていた為、地上に戻れないと言う点は
ギリシャ神話で地母神デメテルが冥界の王ハデスにさらわれた愛娘=ペルセポネを取り戻そうとするが
ペルセポネが既に冥界の食物=石榴(ざくろ)を口にしていた為(半分?)失敗すると言う点に共通する。

まあ確かにスレ違いっぽいがwww



911910:2008/05/31(土) 23:49:59
>>909
>邪馬台国のヤマとはリグ・ヴェーダのヤーマすなわち閻魔から
>来ているのかもしれない。

ただ、流石にこれはねーだろwww
912573:2008/06/01(日) 01:23:14
>>911
スキタイの発祥はアラル海北岸とされていて
ここはアーリア人がインドに移るときの経由地とされているんだよ。
なんらかの原始神話がそこにあったと考えてもいいわけさ。
913573:2008/06/01(日) 01:26:23
ゾロアスター教 → バラモン教 ね。
すれちなんでこれくらいで
914日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:50:55
>>910のイザナミが黄泉国の食べ物を口にしたためぬけられなくなったというのは、
現代の一宿一飯の恩義という形でのこっている。
915日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:52:00
実は終止符20はここのオーナーが立てました



916日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:53:21
住民さん
ネーム入りで♪邪馬台国 ドンと来い♪ 29立てても良いでしょうか?


917日本@名無史さん:2008/06/01(日) 02:57:05
>>916
>ネーム入りで

ネームって
上着じゃないんだから・・・
まあそんな言葉使うのはドツボぐらいだがw

このスレも既に900超えている。
テンプレを遵守したのなら>1の名前が「改めドツボ」でも問題無いんじゃないか?w
918日本@名無史さん:2008/06/01(日) 03:03:41
>>1

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 29 (918)
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!19(967)

終止符に追い抜かされてるよ
919日本@名無史さん:2008/06/01(日) 03:07:34
>>916
どうした?
まだ立てないのかドツボw

大方の2ちゃん住人にとってスレタイ・テンプレ・スレ立てのタイミング等が問題無ければ
スレを誰が立てたなんかどうでも良いんだよw

一回「改めドツボ」って名前でスレ立ててみ?www
920日本@名無史さん:2008/06/01(日) 03:23:58
>>916
タイミングさえ良ければ、問題ないです。
むしろ全部埋まったのに、まだ次が立たないという方が問題なので
よろしくお願いします。
921日本@名無史さん:2008/06/01(日) 03:35:06
>>918あんなスレに追い抜かされているからどうだというのだ。
あんなスレ相手にするのも馬鹿らしい。
922日本@名無史さん:2008/06/01(日) 03:38:24
つうかスレの伸びを競う事に意味があるのか?w

>>918は如何にもドツボの発想っぽいなwww
923¬895:2008/06/01(日) 10:39:06
>>896

> 〇〇語と〇〇語の比較や、〇〇語は〜語系だ。 な〜んて話しは無意味じゃないかな?
> 各言語から 経過時間と生活環境過程を、差し引いた変化の少ない状態での比較なら別だが

「別だが」って、
もともと「比較」つーのは、そういう作業を経てから行うjもんだよ。
その大前提を最初から除外しちゃいけません。

> 大局で言語を見るなら

要は検証とか補正とかの面倒な作業はせずにつーことだね。

> 当然、西より東の地域言葉の方が、

ホントに説明(日本語)がヘタだなw
いきなり「西」とか「東」とか書いてもアンタ以外の人間には解からない。
「西」と言うのが、いわゆる「西洋」の略なのか、はたまた日本列島の西部地域のことなのかとか、

> より単純であり変化の度合いが小さいよ

「西」「東」の定義が無いままの文章なので解からないところでもあるが、
こういうところで、1〜2の類例を呈示しておけば、読者の理解も得やすいと思うよ。
そういうところが抜けてるから「説明ベタ」なわけなんだよな。

そして、こういう助言には、いつものお決まりのフレーズで返してくると思うけど、
貴方は他の人との会話を求めてここに来ているわけでしょう。
それが善意であろうと悪意であろうと「相手に解かるように書く」は、掲示板では基本ルールだから、
まともな文章が書けるように、少しは努力してみなよ。
924日本@名無史さん:2008/06/01(日) 10:43:12
>>919

オマエさんもシツコイ奴だねw
ドツボ君の行状なんて、どうでもいいだろう。
大半の人は、もう興味も無いこと。
今はオマエさんの方がウザイと思われてるのがワカランのかな。
925日本@名無史さん:2008/06/01(日) 11:13:47
>>923
「説明下手」と言うか最初から説明する気が無いんじゃないかな?
恐らく本人が望んでいるのは自説をワンサイドゲームで垂れ流す事でw

それとも矮小なプライドを守る為の自己防衛本能が働いているか?

この 河童虫 と言う固定の芸風を見ているとそう思うわw

傍から見れば「それで掲示板に書き込んで何が面白いの?」とも思うが
まあ本人にすれば何某かの面白みがあるんだろうが・・・


926日本@名無史さん:2008/06/01(日) 11:35:39
言語でよくあるトンデモと言えばある二つの言語の内いくつかの単語、文字の形の類似だけを以って
「○○語と○○語とは同じルーツを持つ!」とか言う奴だなw

「だったら日本語の「そう」と英語の「SO」両者の音・意味が同じを以って同祖を持つと言うのか?(笑)」
・・・と言うのは学生時代の国語の先生のお言葉だったがww

(あの先生神代文字についてボロクソに言ってたなあ・・・。
こうやって古代史関連の掲示板に書き込みするのが分かってりゃ もっと色々聞いておくんだったw)
927日本@名無史さん:2008/06/01(日) 11:53:13
 河童虫(元・プラム)

 茨城県在住 40代の妻子持ち&犬(こいつの名前が元ハンの由来)
 「固定資産税は払っている」らしい。

 言葉遣いは、迎合する相手には気持ち悪い程丁寧、それ以外には汚い。
 その二種しか使い分けない、中庸というところは無いようなので本性は「汚い」だと思われる。

 学歴は高卒だと思われるが、その正規の教育課程で得られるべき知識はほとんど備わっていない。
 一般的社会常識については、中学レベルにも達していないように見受けられる。

 職業は墓石のセールス
 仕事柄からか、喫茶店にしけ込み、携帯で2chにベッタリの生活。

 こんなプロフの奴なんだよね。
928日本@名無史さん:2008/06/01(日) 12:22:50
しかし、話の長い人も嫌われるよ。読んでもらえない。
自分は常識人みたいなことを書いている人に限って話が長い。くどい。
こういう掲示板では、くどくど説明するよりも、短い文章で、
テニスのラリーのような緊張感のあるやり取りをしたほうが楽しいんだよ。
自説垂れるなら、ホームページでも立てたほうがいい。
だらだら書くならブログがお似合い。
929日本@名無史さん:2008/06/01(日) 13:52:50
>>927
それって何か意味あるのか? それをネタに笑いの材料にしろとでも言うのか
見損なうな。世の中アンタみたいな卑怯者ばかりではない事をそろそろ悟れ。 クズ野郎ゴミ野郎。
930日本@名無史さん:2008/06/01(日) 14:12:32
>>929
まあ悪趣味だとは思うが、そこまで過剰に反応するほどの事でもない。
不快で仕方が無いと言うのなら2ちゃんなんて止めた方が良いだろうw

ぶっちゃけ>>927を読んで「ああ、なるほどね」と得心する事があったり無かったりwww
931日本@名無史さん:2008/06/01(日) 15:16:51
>>929

927程度のことは、ここの古参なら知ってること。

ヤツは正真正銘のDQNだから、あれ以外にも自分の姓や誕生日も曝している。
有ろうことかトリップキーまで曝して、大恥をかいたこともある。
こんなところとは、さっさと縁を切った方がご本人の為だと思うよ。
932日本@名無史さん:2008/06/01(日) 17:05:30
>>931
正真正銘のDQNだからなんなんだ?
DQNと判断されたら参加する資格無しと言うルールか?
933日本@名無史さん:2008/06/01(日) 17:10:13
いつの間にか閉鎖的なスレになったなwwwwww
934日本@名無史さん:2008/06/01(日) 17:42:42
>>933
本来それが狙いだからいいんじゃない。
935日本@名無史さん:2008/06/01(日) 18:04:04
>>932

〉正真正銘のDQNだからなんなんだ?

「だから」の後にちゃんと書いてあるだろう。
フリガナが無いと読めないのか?

〉DQNと判断されたら参加する資格無しと言うルールか?

ここには向いていないから身を引くように教え諭してるだけだろう。
それも読めないのかw
936日本@名無史さん:2008/06/01(日) 18:28:35
>>932
DQNでも何でも良いんだけど、正直まったく議論にならないのがね。
937日本@名無史さん:2008/06/01(日) 18:38:16
プっ覗いているか?
お前の為だそうだから「去れ」と言う内容だ。
今度来る時は固定棄ててから来な、と言うのは俺の判断だけど最終的にはお前が決めればいいと思う。
お前以上のDQNの「去れ」の判断には逆らわない方が大人だぞ。
938日本@名無史さん:2008/06/01(日) 18:46:57
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
通説の江戸期伝来よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
939日本@名無史さん:2008/06/01(日) 19:13:11
>>936
>DQNでも何でも良いんだけど、正直まったく議論にならないのがね。

俺個人の意見なんだが、会話にならなくてもプの書き込みは楽しいぞ
予想外の内容がぽんぽん飛び出してくるからな
2chの掲示板ていうのは、議論しなければならないのか?という疑問も持っているんだ
誰かが書き込みをして、その書き込みに対し誰かがレスを入れるがそれに対して答えようが答えまいが、当人の自由じゃないかと思うよ
それが本来の掲示板のありかたじゃないか?とも俺は考える。
940九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/01(日) 19:31:05
>>927  
その内容がほんとかどうか別として失礼じゃないの?しかもコテハン攻撃だし。
だったら自分もコテハンにして個人攻撃される醍醐味を味わってみたらいかが。
941日本@名無史さん:2008/06/01(日) 19:34:06
>>939

>予想外の内容がぽんぽん飛び出してくるからな

まさに「便所の落書き」的楽しみ方だなw
942唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/01(日) 19:53:35
>939
自説をどんどん書き込んで 冷たい目と無言の 注目。
それでも一人くらい 注目してくれる 目が有ると思うから 書き込む。

出来るか?
943河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/01(日) 20:21:13
なんだか
私の事で昼間盛り上がったようだけど、前レスにあった台詞だが、自分の事は自分で決めるし
此処が私にとって必要ない場所になったら
黙って去って行く

私がドキュンだと思う奴は絡まなくていいし、黙ってスルーしてくれよ
私も貴方を必要とはしてないから。
944日本@名無史さん:2008/06/01(日) 20:22:23
>>939
>2chの掲示板ていうのは、議論しなければならないのか?という疑問も持っているんだ
vipとか慣れ合いとか、そんな板ならそれでも良いかもしれんね。
でも、一応、ここは学問板だから議論するもんじゃないの?
だって、例えば九州説の人が畿内説の人に向って、邪馬台国は九州だ。
根拠は自分で探せ。わからないのはお前らのレベルが低いんじゃ。
これって意味あるとおもう。彼の書いてることは、これじゃん。
945日本@名無史さん:2008/06/01(日) 21:19:37
俺もコテハンで書こうかなぁ…
946九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/01(日) 21:22:10
>>942「それでも一人くらい 注目してくれる 目が有ると思うから 書き込む」

暗っらー! 何というわびしく薄ら寒い表現。
僕なんて人の目を気にしない過ぎで失敗ばっかり。
でも暗くなるよりマシと思ってこれからは明るくいきましょうね。
947日本@名無史さん:2008/06/01(日) 21:38:16
【ブラック職員リスト】
公図改ざんの名人           →美也坂 見ず野
不正融資と風俗好き妻は淫乱      →井伊打流二(人格難あり)
暴君(パワハラ&セクハラ&不正融資) →K各 (タイホレベルか?)
ブタ風俗               →西の大喜多 (今頃は低級ソープ?)
経理の糞野郎(嫌われ者)       →違和意 (キモイ)
中小大学校行って勘違い        →来○ (変な奴。キモイ)
ハズレ&バカ&勘違い         →鱸 (バカに多い名前)
部下をパワハラ退職 →O沢  (土建屋のオヤジ風。客にも態度大)
          →M本(岡山)   
           →F原(一見おとなしそうだが怒ると・・・) 
コンプラ会議で宿泊旅費の不正受給   →某自重
航空運賃の不正受給          →某復調
名言「痴漢させろ」           →綿木(新聞沙汰になった人)
真正モーホー&パワハラ        →某自重
948日本@名無史さん:2008/06/01(日) 21:44:23
>>944
後は本人に直接「去れ」と言ってやることだな

>例えば九州説の人が畿内説の人に向って、邪馬台国は九州だ。
根拠は自分で探せ。わからないのはお前らのレベルが低いんじゃ。
これって意味あるとおもう。彼の書いてることは、これじゃん。

意味があるかないかではなく、ようは学問であるかないかではないのか?

俺は>>927のレスより、プっの根拠は自分で探せ。わからないのはお前らのレベルが低いんじゃ。
というレスの方がよっぽど学問的に感じるんだが
949唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/01(日) 21:59:06
古伝妄信を見て下さい。

たった一人で 書き込み続ける 私が居ます。
950日本@名無史さん:2008/06/01(日) 22:13:27
>>948
2chは自由だから、去れとか来いとか他人が指図できることじゃないと思う。
>>927と比べて学問的って、かなりきつい皮肉だなあ。

>意味があるかないかではなく、ようは学問であるかないかではないのか?

論証抜きの結論のみは、学問じゃない。
「オレの言うことは正しい。証明はお前がしろ。」が学問とはとうてい思えない。
それは、ある意味宗教だよね。
951九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/01(日) 22:15:24
>>949
よーするにナルシストなわけ?
952改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/01(日) 22:25:33
皆さん一日中、暇してるみたいだねw
おれさっき帰ってきたよ。
ここは学問的なレスが必要。

それと終止符は新しいスレ金曜日までに立てるとかいってたな。
今日は規制で立てれないらしい。
953日本@名無史さん:2008/06/01(日) 22:44:37
>>948
>俺は>>927のレスより、プっの根拠は自分で探せ。わからないのはお前らのレベルが低いんじゃ。
>というレスの方がよっぽど学問的に感じるんだが

プの説がアカデミズムでも認められているようなものであれば
「後はお前が調べろ」でも良いかもしれんが

電波・トンデモ、そこまで逝かなくてもネット上でしか散見されないマイナーな説
もしくはオリジナルな説なら手の内を出し惜しみしても全く意味が無いw

むしろ聞くのを嫌がる相手を捕まえて
「♪俺の話を聞け〜」とばかりに手のうち全部曝け出さないと始まらないww

そりゃ探せば、プがその理論構築に使った材料は探せば見つかるかもしれんが
プと同じ結論に至るかどうかは分からない。
無論プにすればその結論に至るのは自明の理なんだろうが(←トンデモサンによくある思いこみ?)


まあプの芸風がそう言う物だと知った上で絡まないと馬鹿を見るだけって話では?www


954日本@名無史さん:2008/06/01(日) 22:53:11
>>953

>>俺は>>927のレスより、プっの根拠は自分で探せ。わからないのはお前らのレベルが低いんじゃ。
>>というレスの方がよっぽど学問的に感じるんだが

>プの説がアカデミズムでも認められているようなものであれば
「後はお前が調べろ」でも良いかもしれんが


なぜ>>927のレスに対するコメントは無く、プっに対するコメントだけなんだ?
これでは印象的にプっだけが間違ったことをしているという印象を与えかねない偏ったものではないのか?

それが狙いのレスなら頷けるが
955日本@名無史さん:2008/06/01(日) 23:05:48
>>954
>>927のようなレスはスルーするもんだろう。わざわざレスつけるようなことか?

>これでは印象的にプっだけが間違ったことをしているという印象を与えかねない偏ったものではないのか?

残念ながら、あんなレスひとつで印象が左右されるようなレベルではないんだ。
956改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/01(日) 23:16:15
う〜ん >>927のようなのは本人に一言あってからじゃない?
わざわざアンカーつけることではないし、おまえら礼儀ちゅーもんをしらない。

個人への攻撃ならスレ違いだし、おまえらモラルなさすぎだよ。
ちゃんと2ちゃんルール知ってるか?ALL
相手の気持ち、考えろよ ALL

それと、
>>945
>俺もコテハンで書こうかなぁ…

コテハンはメリットもあるがデメリットもあるよ。
まあ、安っぽい扱いされたくなければコテハン。
ただ、バカな名無しの荒らしてくるかも。

957日本@名無史さん:2008/06/01(日) 23:25:10
>>956 改め ◆PWTcGEfp1s
お前みたいな馬鹿がルールだのモラルだの言っても無駄

でいつ「神奈川県民」の名で重複スレ立てるんだ?

958日本@名無史さん:2008/06/01(日) 23:29:57
21時のNHK教育放送で奈良大の水野先生が邪馬台国は山口県の南部から
近畿地方あたりまでの地域だったであろう、福岡や宮崎には大宰府を置いた
と思われるとの自説を述べておられました。
あいにく、うつらうつらとしていましてよく思い出せません。
スレ汚しでごめんなさい。
959日本@名無史さん:2008/06/01(日) 23:41:48
>>958
所謂「広域な首長連合」ってやつ?

再放送無いのかな?
960日本@名無史さん:2008/06/02(月) 00:17:26
>>959
再放送があればいいんですがね。
水野先生は流暢なしゃべりで楽しい講義でしたよ。
浅い眠りで所々耳を済まして聞いたりしてましたが、睡魔に負けました。
ザンネン


961日本@名無史さん:2008/06/02(月) 00:41:50
>>956
>う〜ん >>927のようなのは本人に一言あってからじゃない?
>わざわざアンカーつけることではないし、おまえら礼儀ちゅーもんをしらない。

あなたの情報を晒しあげて良いですかって、一言ことわるの?
アンカーつけることではないしと言いながら、自分でアンカーつけてるのはどういう料簡?
962日本@名無史さん:2008/06/02(月) 00:50:33
21時のNHK教育放送と書き込みましたが、ラジオ第二の誤りです。
テレビではありません。ごめんなさい。
まだ頭がぼっーとしてます。
皆様おやすみなさい。>958より


963959:2008/06/02(月) 00:53:30
>>962
ドンマイ。
おやすみなさいノシ
964日本@名無史さん:2008/06/02(月) 00:56:13
これだね。
ラジオか・・・ノーチェックだったw

NHK第2
21:00 文化講演会「倭国女王卑弥呼と崇神天皇と」水野正好
965日本@名無史さん:2008/06/02(月) 00:58:26
ついでに・・・
どうやら再放送の予定も無い模様

http://www.nhk.or.jp/r2bunka/bunka/
966日本@名無史さん:2008/06/02(月) 01:35:01

ヤマトに決まってるのに…
(*^o^)乂(^-^*)
(・_・)エッ....?
967日本@名無史さん:2008/06/02(月) 03:18:47
>>964
「邪馬台国女王」じゃなくて「倭国女王卑弥呼」なのね。。

畿内説じゃあ、もう主流なのかな??
968九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/02(月) 19:11:16
>>960 「睡魔に負けました」

睡魔に負けて正解でしょう。
一大率は伊都国に置いている。これは記述が有るのに、
どうして畿内に近い本州には一大率の記述が無いのか。
まさか一つもなかったわけでもあるまいに。
倭人伝にも女王国より北には一大率が置かれているとなっているではないか。
969河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/02(月) 20:26:08
>>968

>一大率は伊都国に置いている。これは記述が有るのに

特置された一大率が伊都国にはないからこそ「常治伊都國」という文が成立するのでは
一大率を常に治めるところが伊都國で、特置された場所は伊都ではない地
970唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/02(月) 21:58:41
伊都国とは、伊(勢)の都の国
九州の伊勢
971サガミハラハラ:2008/06/02(月) 22:08:57
伊都国とは佐賀県多久盆地にあった国です。
972日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:14:58
伊都国とは伊東
出雲は伊豆
973唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/02(月) 22:21:17
>972さん
ホ24089 イトウケステメ アカガクニ
って知ってます?
974日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:25:52
すげぇw
減反に文句ばっか言ってたのに
あっというまに手のひら返しやがったwwwww
975日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:26:56
すいません、場所間違えました。
976唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/06/02(月) 22:28:47
伊東さんは、赤国で〜す。
977日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:42:48
ったく サガミさんの トンデモ説には、付いていけない。

伊東さんは、赤国
978サガミハラハラ:2008/06/02(月) 23:13:31
なんでわたしの伊都国多久市説がトンデモなのでしょうか?
きわめて真っ当な説のはずですが。
東南陸行500里伊都国に到る。東南と明記しているではないか。
979九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/02(月) 23:39:45
>>969「一大率を常に治めるところが伊都國で」

その読みは逆さまだと思います。「常治伊都国」はそのまま読めば
「伊都国を常に治む」となります。治められるところの国土が伊都国です。
980日本@名無史さん:2008/06/03(火) 00:23:07
そろそろ次スレかな?

>1用のAA
なんか適当なのあったら貼っといてくれなかな?
981河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/03(火) 00:25:51
>>979

「常」と言う文字を使用する場合、その裏に必ず「臨」が存在します。
それが言葉です。

何時も伊都を治めている場合、「伊都を治める」であり「常に」と言う言葉は必要ありません。
982どくだみ:2008/06/03(火) 01:00:13
>>979
ですがさん
私は以前、河童さんの読み方をアナグラムだと批判したことがあります。
文字の順序を入れ替えると、別の単語や文章になるというやつです。
漢文は格変化や助詞がないので、文字の順序で意味が確定します。
例えば、
「常に伊都国を治む」⇔「常治伊都国」
「一大率を常に治める」⇔「常治一大率」
私も、その読み方では、語順が違うと何度も書き込みました。でも、平行線のままです。
河童さんは、漢文における文字の順序の重要性を認識する前に言語虫説に出会ってしまったらしく、
今後もこのままでしょう。
なぜなら、文字の順序の重要性を認めると言語虫説が間違っていることになるから仕方ありません。
それに、自女王国以北が21ヶ国なのかそうでないのか、ですがさんは河童さんと同意見でしたっけ?
意見が違うなら一大率を議論するのは、どうかなあと思いますよ。
983日本@名無史さん:2008/06/03(火) 01:03:48
>>980

    i  ________    ゚             i
     /________ヽ           ゚    。
  ;    || i |./||。  !  ||  。i    。  i   ゜
    ;  ||// .. ||  。 / ||       i             。
 i ; ; ゚ ||/ 。  ||  // ||  。       ゜    ゜     ;
  .     || ∧,,∧ ||/ 。   ||     ゚    。
  。   . ||(´・ω・) ||/   。 ||  i        ;     i  ゚
    ゜  ||/  |。.||       ||   i     。     ;
゜    | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|;               ゜    。
 i ゜   ̄ ̄ ̄゜ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄     ;    ゜  i
       i      i      i
984日本@名無史さん:2008/06/03(火) 01:05:59
窓枠そろわずスマソ
985サガミハラハラ:2008/06/03(火) 01:22:32
それより私の伊都国多久市説はどうした。
986日本@名無史さん:2008/06/03(火) 01:23:46
>>983-984
スマン、スレ立て規制にかかった。
誰か立ててくれないかな?
以下にテンプレ貼っておく・・
――――――――――――――――――――――――――
スレタイ:♪邪馬台国 ドンと来い♪ 29
――――――――――――――――――――――――――


    i  ________    ゚             i
     /________ヽ           ゚    。
  ;    || i |./||。  !  ||  。i    。  i   ゜
    ;  ||// .. ||  。 / ||       i             。
 i ; ; ゚ ||/ 。  ||  // ||  。       ゜    ゜     ;
  .     || ∧,,∧ ||/ 。   ||     ゚    。
  。   . ||(´・ω・) ||/   。 ||  i        ;     i  ゚
    ゜  ||/  |。.||       ||   i     。     ;
゜    | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|;               ゜    。
 i ゜   ̄ ̄ ̄゜ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄     ;    ゜  i
       i      i      i
九州も畿内も四国も朝鮮もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!

前スレ ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 28
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1206538053/l50
――――――――――――――――――――――――――
987サガミハラハラ:2008/06/03(火) 01:38:06
誰も私の多久説に反対できないのか。
ここがおかしいと指摘できないのか。
となると、多久説は正解であるということになる。
988サガミハラハラ:2008/06/03(火) 01:39:34
今後2ちゃんねるらーは伊都国多久説を信奉することとなった。
989サガミハラハラ:2008/06/03(火) 01:45:05
しかし考えてみれば、伊都国前原説をもって論じている人たちは、伊都国の場所など所詮邪馬台国への道すがらであって、たいして意味をもっていないようだ。
だからこそ、みんなのおっしゃるところでよい。話はさらにその先の邪馬台国とか、一大率のこととか、糸島に
たちならぶ壮観なる王墓の話題にふけりたいのである。
990サガミハラハラ:2008/06/03(火) 01:47:25
が、現代、伊都国が多久市であると承認されたいま、邪馬台国研究は一個人を
はなれて、多くの研究者の頭脳をもって再構築されることとなった。
991日本@名無史さん:2008/06/03(火) 01:54:02
>サガミハラハラ
おい、コラ。
自説専用のスレまで立てておきながら
他所のスレで好き放題暴れやがって・・・

罪滅ぼしに >>986 のテンプレでこのスレの次スレ立てていけや!
992サガミハラハラ:2008/06/03(火) 02:28:43
思えば長い道のりであった。今ようやく皆にみとめられ、まさに感涙にむせぶありさまである。(私涙もろいのです)
しかし、努力のし甲斐があったというものである。


私もスレ立て規制にかかっております。
993日本@名無史さん:2008/06/03(火) 06:00:09
伊都国は、ずばり、和歌山県伊都郡にあった。
ずばり、地名として残っているのに、今まで話題に
上らなかったのか不思議なくらいです。
邪馬台国が大和説をとれば、邪馬台国への入口は
紀ノ川。伊都国は紀氏の国だった。
これですべての謎が解けた。
994日本@名無史さん:2008/06/03(火) 08:23:53
多久市も和歌山県伊都郡も遺跡が少なすぎ。
伊都国には長い間、王がいた。
王が居た痕跡が残っていないとおかしい。
和歌山県伊都郡は行程の記事からも在りえない。
995日本@名無史さん:2008/06/03(火) 09:52:31
 
996日本@名無史さん:2008/06/03(火) 09:53:37
 
997サガミハラハラ:2008/06/03(火) 09:54:41
なにをおっしゃる>>993 さん。
カテゴリーの地図で多久市を探し、中央下よりのJR東多久駅の南、庄集落のあたりを開き、航空写真にしてごらんなさい。
その集落から北東部にかけてが伊都国の都だったところです。
発掘は全くの手つかずです。
よくごらんなさい。遺跡が早く掘ってとといっているのがわかるでしょう。
998日本@名無史さん:2008/06/03(火) 09:55:40
 
999日本@名無史さん:2008/06/03(火) 09:56:19
 
1000サガミハラハラ:2008/06/03(火) 10:17:45
そして今、掘りもせずに何もないといわれていた多久が伊都国であると承認された結果、
さすがの考古学者も腰をあげざるをえず、やがて国家的プロジェクトとして大発掘がおこなわれるであろうことは確実である。
さすれば、発掘によりトラック数十台分の貴重な遺物が発掘され、倭国研究に大きな進展をみせるものであると確信するものであります。
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