※ 九州王朝はなかったのか? ※ 16

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320九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y
今までに九州王朝スレに書いてきた事の極一部を簡単にまとめてみました。

@『其南海行三月、有タン[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里』隋書百濟伝
斉州島(タン[身冉]牟羅國)は、東西方向長さ千余里、南北方向長さ数百里。
斉州島の形は横長四辺形であると書かれている。

A『俀國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居』隋書俀国伝
俀國は、百濟と新羅の東南方向で、水陸三千里離れた大海中の島国である。

B『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海』隋書俀国伝
俀國は、南北方向長さは五月行、東西方向長さは三月行で、
俀國の形は縦長四辺形であり、周りは海である。
即ち俀國は大海中の島である九州島であると述べているのである。

C『其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀国伝
俀國の地勢は、海に取り囲まれているが、東が高く西が低い傾斜地である。
邪靡堆に都があり、その邪靡堆は魏志の邪馬臺である。
九州島において、そのような東が高く西が低い傾斜地は、
有明海東岸の筑紫平野と熊本平野である。
即ち、多利思北孤の都と卑弥呼の都は、筑紫平野か熊本平野の同じ場所にある。
321九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/02(金) 11:44:19

D『從郡至倭・・・・・・・自郡至女王國萬二千餘里』魏志倭人伝
まず、Cの結論により、邪馬壹國は筑紫平野か熊本平野に存在しなければならない。
女王國の南には女王國に匹敵する狗奴國が存在する。
女王國内の邪馬壹國と狗奴國を九州島内に置くには、
邪馬壹國を筑紫平野に狗奴國を熊本平野に置くしかない。
邪馬壹國を熊本平野に置くと狗奴國を置く平野がなくなるからである。

E『魏志倭人伝』と『隋書俀國』の地理的整合性
以下とすれば整合する。説明は長くなるので省略。
*魏使と隋使の九州上陸地点「末羅國」と「竹斯國」は唐津である。
*魏志伊都國は佐賀市大和であり、隋書秦王國は唐津市浜玉であり、
隋書十餘國は嘉瀬川中流域から三養基郡に並ぶミニ国家群である。
*邪馬壹國と邪靡堆は久留米である。

F『此地帝都近気於今在一百餘歳一百年竟遷京北方在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年)
多利思北孤上宮法皇のいる都のこの地は、都が建設されてから100年余り続き、
元号をも持つ正都として丁度100年目であり、北方への遷都が近づいている。
これは、この地が最初に都となってから300年後のことになる。
*上記記事は倭京(大宰府)へ遷都618年の前年である。
*多利思北孤上宮法皇は大宰府の南方の都(帝都)にいることになる。
*この都(此地帝都)は九州元号継体元年517年から丁度100年になる。
*多利思北孤と卑弥呼は同じ場所(邪靡堆と邪馬臺)の都にいたことから、
300年前から続くこの都(此地帝都)は久留米となる。