1 :
日本@名無史さん:
テレビ局やインチキ作家が喜ぶだけだろ。
2 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 16:38:52
邪馬台国が大和盆地であるはずがない。
3 :
日本@名無史さん :2008/01/08(火) 16:42:13
邪馬台国が大和盆地であるはずがない。
4 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 17:25:03
根拠が無いから
5 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 17:31:36
大和は邪馬台国の場所として有力な候補地のひとつなのに
九州説派が連投で必死だね。
沖縄説が有力
何故なら邪馬台国の服装は薄着だからね
7 :
日本@名無史さん:2008/01/11(金) 15:33:52
布に穴をあけて縫わずに身にまとっているとあるだけで
薄着だとは書いてない
8 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 04:29:02
北九州も奈良も
ストーブがないと寒くてたまらん!
奈良盆地は夏はくそ暑くてフラフラする。。。
10 :
卑弥呼の子:2008/01/14(月) 12:43:43
6>
かなりありうる。
3世紀は今よりはるかに寒かったらしいから。
あれは日本じゃなくて南方のどこかだと思うぞ。
12 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 13:05:30
卑弥呼・・・
比屋根・・・
13 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 23:35:40
>11
日本であるのは確か。倭人伝に、黒雉ありと言う記載が有る。日本雉は日本固有の種で、
胸が黒く、大陸の赤い胸の雉とは別。で、大和だろうが九州だろうが、日本国内なのは確か。
14 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/02/01(金) 11:32:48
>>10 1世紀〜3世紀は今より暖かだった。
今より寒かったのは4〜5世紀。
15 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 02:47:21
揚げ
16 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 16:34:36
福岡の山門こそ邪馬台国。
ソースは俺。
山門郡も候補のひとつではあるが、正直きめ切れない。
あのへんなら、瀬高とか筑後市あたりに集落の痕跡があるので、その辺かねえ。
そもそも、小国連合なら、突出して巨大な国は無いんじゃなかろうか。
ほかにも、佐賀、朝倉、甘木、八女、もちろん吉野ヶ里付近
小国がいっぱいあってよくわからん。
距離をとると、宮崎、宇佐、日田、
そもそも突出した大国があれば共立しなくてもいいしね
18 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 20:19:29
アカデミズムでは、たぶん大和だろうという結論でもうコンセンサスができてる。
考古学的知見が進むにつれこれからますます大和説が正しいことが確かめられるというのが正直な見通しである。
まあ実際、吸収説叫んでるやつって、この板含めデンパがかったアマチュアばっかりじゃんw
学会がどーのこーの言うのがまたでたか。
ちったあ根拠出したら?
20 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 20:45:00
>>19 まともな学術書としての日本通史読んでみろよ。
すでに3世紀に大和王権の原型が形成されたというのがほぼ通説として記述されてるからw
根拠はいくらでものってるさ。アマチュアが全く反論できない強力な根拠でねw
あ。デンパ九州説は学術書なんて読まないのか。ゴメンゴメン。
根拠は日本通史だな。了解した。
戦前に記紀をベースに書かれて、ほとんど変化が無い古代の部分
にどんな根拠が書かれているかわからないが、読んでみることにしよう
図書館でぱらぱらっと信長のところしか見たことが無いので
書かれているという根拠についてはさすがに反論できん。
出来ればどの章の部分が根拠なのか教えてくれ。
22 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 09:00:22
大和か九州かはともかくとしても、
「邪馬台」の読みは普通に「やまと」だよな。
何で「やまたい」って読ませたがるのか。
23 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 10:37:30
>>22「 邪馬台」を素直によめばヤマダとしか読めないが。
24 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 10:52:49
九州説は作家、郷土史家、アマチュアに多い。
しかも自分の地元に引き寄せる、村おこし観光史観だったりする。
25 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 11:10:07
>>14 ちょうど中世暗黒時代の始まりと重なるんだね
26 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 17:23:14
根本的な話として、今の奈良県地域が
「大和の国」と呼ばれ始めたのはいつぐらいなんだろう
まさか卑弥呼の時代じゃぁ古すぎるでしょう
良くて風土記編纂の時期あたりじゃないのかな?
27 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 17:34:55
>>26 七世紀頃。
それまでは三輪の麓辺りを指していて
「飛鳥」「斑鳩」と言った地域名称の一つだった。
だからマキムクはピンポイントで「ヤマト」の地から出ている。
皆忘れがちだけどこれも蓋然性を担保する材料の一つ。
つーか、マキムク=邪馬台国で決まりっしょ。
従来の邪馬台国大和説の最大の弱点は、
果たして3世紀前半に近畿〜北九州にまたがる勢力圏なんてあったのかと言うこと。チト早くねと言うわけ。
でも最近の考古学の成果により弥生・縄文時代は意外に進んでいた事が明らかになった。
箸墓の築造年代も今では3世紀後半が定説。トヨの墓の可能性も充分ある。
大体邪馬台国九州説と一口で言うが、九州のどこかテンでバラバラ。烏合の衆の観がある。
ホントに邪馬台国があったとしたら、そこまでバラバラなるかね。無かったからどうとでも言えるんでないの?
29 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 12:05:50
邪馬台国の時代は烏合の衆だったんじゃねえの
30カ国共立の女王だし、クナ国にはやられるし、
卑弥呼が死んだ後はまたばらばらになるし。
ぶっちゃけ、信仰による連合は許せても、政権を他人に取られるのは
いやだという、緊張感の無い連中の集合だったわけだ。
卑弥呼の時代は個人商店の集まった、商工会程度のつながりだろう。
それぞれ独立して、何かあったら話し合う程度じゃなかろうか
それが、日の出商店街程度に発展し、それが統一されて、
株式会社日本(ひのもと)ショッピングセンターとなる。
生活と防衛に困らなければ個人商店の集まりでも良かったんだろうが、
クナ国にやられてから、クニとしての強化統一が必要になっていく。
やられたことで危機感を持って、やっと中央集権国家の構築を始めたという
流れが見えるような気がする。卑弥呼が死んだときに中国の使者を受け入れているから
そのころに中国の政治形態を勉強したのではなかろうか。
30 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 12:29:28
倭国及び倭国の首都邪馬台国は双方中円墳があるところだよ
ヤマト説だと「クナ国」の同定が難しいのではないか?
32 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 16:10:34
ヤマト説の場合「クナ国」はどこになるのですか。
33 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 04:25:20
>>32 今のところ一番人気は東海地方かな?
方角は南を東とし
ヤマトと渡り合えるだけの国力
近畿式銅鐸に対し三遠式銅鐸、前方後円墳に対し前方後方墳、と言う独自文化圏を持つ
…等の理由だったかな?
でもそのニ地域が争ったと言う物証も無ければ、蓋然性を持った理由も聞いた事が無い。
まあクナ国は畿内説の最大のネックかな?w
>>33 32です。お答、ありがとうございました。
35 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 01:09:25
今月号のムーで、超能力者が透視した結果、邪馬台国は奈良盆地にあったそうだw
トヨの墓は巣山古墳で、卑弥呼の墓は現・安徳天皇陵だという。
36 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 01:17:23
クナ国が毛野国の可能性はないですか?遠すぎる?
「漢倭奴国王」を「漢のイト国王」と読む説も結構有力らしいけど、だとすると
これって伊都国だよね?
伊都国が金印のあった北九州にあったとするなら、当時邪馬台国の勢力は近畿から
北九州にまで至る広い範囲に及んでいたと考えてよいの?
伊都国が金印のあった北九州にあった・・・これはほぼ確実
当時邪馬台国の勢力は近畿から北九州にまで至る広い範囲に及んでいた
・・・邪馬台国は北九州を中心にその周辺。近畿は含まない、と考える。
39 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 22:12:17
伊都国が前原付近で奴国が福岡市付近、末ロ国が唐津付近だとすれば
当時の一国の領域は旧郡のひとつかふたつ分でしょう
だとすれば邪馬台連合の領域が奈良盆地にまで広がっていたと考えるのは難しいですね
やはり九州島内に収まるのではないでしょうか
奈良盆地には奈良盆地であるいは邪馬台連合より進んだ文化を持つ別の小国家連合があったのではないかとも思います
高度な文明社会がより野蛮な種族によって滅ぼされるのは世界史を紐解いても珍しくありません
魏と修好したのが大陸に近かった邪馬台連合だったということなのではないでしょうか
>>38 金印が江戸時代の偽造だというのは、昨年出版された本で明らかになったじゃないか。
なんでこのスレだけ伸びないの?
「金印が江戸時代の偽造だというのは、昨年出版された本で明らかになった」
というのは本当か?そのような説があるときいたことはあるが、
学会や識者の間で定説の地位を占めるに至ったのか?
という疑問を持ちました。
43 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 02:27:01
45 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 16:23:31
狗奴国は、中古音でコノ国といった可能性が高い。
で、これは許乃国(コノ国)の可能性が高い。
ここの王は、武埴安彦命。
狗奴国王の卑弥弓呼とは、許乃国王の彦命・
普通に鹿児島とか宮崎だろ?
大和は無理があるなw
大和なる地名自体が7世紀ころに魏史を読んだ当時の人が邪馬台国にあやかって大和と命名しただけ
>>48 それはない。
もしそうならヤマトという地名だけでなく
歴史全般を魏志倭人伝と整合性のある内容にしたはずだ。
たとえば日本書紀や古事記にヒミコが登場していただろう。
だが、そうはなっていない。
50 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 19:52:23
日本の政治経済の中心は北九州だったんだけど、
新興勢力のヤマトに滅ぼされたんじゃないのか?
卑弥呼の立場を考えれば邪馬台国は大和と思ったほうがリアル。
51 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 22:13:07
邪馬台国は大和+狗奴国は熊本県(球磨〜菊池)
これでも問題ないよ。
畿内説だからって狗奴国を東海や毛野や熊野にもってく必要はない。
まー飛鳥っちゅーか奈良盆地なんてマトモな都市遺跡が出てないからね
だからマキムクで必死なんでしょw
そこもとてもじゃないけど国際都市には見えんのだけどねぇ
既成事実にするのに必死なんです。さっさと科学的資料をつけるようにしろよ
53 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 02:07:16
邪馬台国は大和、狗奴国は熊本で戦ってた? 3世紀にそんな遠い国どおしが戦うわけはないと思うけど。
邪馬台国が狗奴国と戦っていたワケじゃない。「倭国」が戦ってたんだ。
邪馬台国は倭国の「首都」にしか過ぎん。
55 :
灰神楽:2008/03/19(水) 23:16:30
初めてレスいたします。今後ともよろしく。
邪馬台国を大和と考えるから、狗奴国は熊本では遠いとなるのです。
邪馬台国は九州の北半で狗奴国は熊本とかんがえれば、両国は国境を接し相争うことでも極自然です。
56 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 01:47:14
与那国島の海底に眠る古代巨石文明
こそ邪馬台国
57 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 07:46:35
邪馬台はヤマトと読むし、位置は畿内だよ。
シナ人がヤマトの音をとりあえず漢字表記したんだね。
一大率は畿内の出先機関で九州を監察せしむつーこと。
ただ神武東征はマジであった。
ヤマトの連中はまず北九州に基盤を作ってそこから畿内まで東征したんだろう。
邪馬台はヤマトで、のちに倭(大倭)と書いてヤマトとも読ませた。
倭がなんか字がいかんということで大和になったんだな。
ソースは俺の脳内だよw
も一回言うな。狗奴国が戦ってた相手は「倭国」。
倭国の範囲は「北九州〜近畿」だから狗奴国が南九州にあったとしても、両国は国境を接し相争うことでも極自然です。
そっから解ってると思うが、卑弥呼も「倭国」の女王だ。邪馬台国は王宮所在地。
奈良時代に朝廷はクマソと激しい戦いを繰り広げるが、朝廷って北九州にあったんか?
59 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 12:37:59
狗奴国が戦っていた相手は倭国?倭人伝を読んでいませんね。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。狗奴国の男王は、大きな倭国とではなく、卑弥呼と仲が悪かったという書き方ですよ。やはり狗奴国と邪馬台国は近いとみるべきですね。
60 :
虹歩命 :2008/03/20(木) 16:21:35
倭と倭国と倭人、分けて書くところをみるとそれぞれことなるのでしょう。
問題はその領域ですね。狗奴国人は倭人でしょう。そして倭の中に存在しています。
では倭国内なのかについては、倭国の範疇をどうとらえるかにあるでしょう。
たとえば、現在の中国において、中華人民共和国は中華民国の存在は認めておりません。
台湾は中華人民共和国の一部とみています。
>>59 「倭の女王卑弥呼」って自分でも書いてんじゃん。君自分で矛盾したこと言ってるぞ。
>>60 倭人伝に出てくる「倭」というのは邪馬台国を中心とした国家(連合)を指している。
単なる地域名だと思ってる人大杉。
@「倭の奴の国王」→A「倭国王帥升」→B「倭王卑弥呼」
@の段階では倭は地域名。
Aの倭国は伊都国を中心とした北九州の国家(連合)
Bの倭は邪馬台国を中心とした「北九州〜近畿」の国家(連合)。
これ昨今の主流。つーかフツーに肩書き読めばそうなるじゃん。
>>61 「倭奴国王」を「イト国王」と読んだら論理がいっぺんに破綻するね。
現在の学会ではこの説はどういう扱いなの?
63 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 22:35:07
倭は邪馬台国を中心とした国家連合?狗奴国も倭の国では?
64 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 06:42:24
65 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 12:00:35
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
66 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 11:42:49
そもそも,大和朝廷統一>>邪馬台国の場所,のはず。しかし世間も学会も,邪馬台国の場所>>大和朝廷の統一で議論してるのが根本的に誤りなのでは。
安心汁!
今では史学会は畿内説が主流。考古学会に置いてはほぼ定説。
AD100年頃の「伊都国中心の北九州倭国」がどうやって「邪馬台国中心の西日本倭国」になったか、
その過程の議論もかなりされるようになってきた。
「対抗馬」としての邪馬台国九州説は、その役目を十二分に果たしたと思う。
九州説があったからこそ邪馬台国論争はここまで広くかつ深くなった。
あとは安らかに眠ってくれ。
けどテレ東によると徳島らしいよw
69 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 19:32:23
>>67 >あとは安らかに眠ってくれ。
この板では九州説がゾンビの如く墓穴から這い出て徘徊していますが・・・
2ちゃんはほぼ九州派に乗っ取られてるよな
専門の学者の先生方(九州大除く)が言ってくれないから、自分達で言うしかないんだろ。
>>70 2ちゃんのほうが柔軟性があって、スルドイナ〜と思う今日この頃・・
記紀の作った日本国像を維持するために、
古代史学者、古代文学研究者は、通説護持に必死だろう。
そんな学会で生き残れるような学者のみが再生産されるのだろう。
邪馬台国所在地論にほぼ決着が付いたのは、考古学(者)の成果によるところが大きいんだが・・・
文献と違い、遺跡はウソつかない(掘る人がウソつくときもあるがな)。
遺跡は嘘つかないけど遺跡を解釈する人間は嘘や誇張やごまかし何でもやるよw
それ以前に過去にいったん失われた事物は遺跡として残らないからね
その点は解ってる。文献に比べ、物言わぬ遺跡は考察の幅が大きい。
が、相次ぐ発掘と、年輪年代法に代表される年代測定の進歩がソレを十分補ってる。
今は「九州の考古学者で、邪馬台国が九州にあったと思っている人は一人もいない」(柳田 九州歴史資料館副館長)。
考古学者の援護を失った九州説。言うなればドイツ降伏後の日本・・・
そりゃ考古学では考古学最優先だからどこの地方の学者だってそう言うわな
忘れちゃいけないのは邪馬台国の存在を一次的に示すのは倭人伝だけだということだ
それを超えて考古学が先走って倭人伝がその裏づけに使われるのは本末転倒だよ
倭人伝だけだから、もはや文献的には手詰まり状態となって久しい。
だから、この状態を打開できるのは考古学にゆだねられることになる。
仁徳天皇陵が大阪にあるからってんで、史料を無視して河内政権とかを構想するのとはワケが違う。
それから前出の柳田氏は「伊都国東遷説」を唱えてる。
「伊都国を中心とする北九州倭国」がAD200年頃東遷して「邪馬台国を中心とする西日本倭国」になったという考えだ。
従来の邪馬台国東遷説を100年ほど早めたような説だ。ちょうど
>>57が似た様なこと言ってる。
少数派だがこれならまだ脈がある。乗り換えた方がいいぞ。
3世紀末の邪馬台国東遷前、2世紀前半に先遣隊的な一部勢力が邪馬台国から東遷して
それが先に畿内邪馬台国とでもいうべき分派国を作ってたという立場だけどね俺は
だから九州説と言ってもあくまで元々九州に存在していたという意味で
3世紀の大半の時期は九州と畿内の両方に邪馬台国が存在したと考えている
神話では3世紀末の東遷を象徴するのが神武東遷で
2世紀前半の東遷を象徴するのがニギハヤヒの畿内降臨ということになるだろうな
だから考古学的に畿内にさまざまな遺物が出ていても当然なんだよ
なお一大率(俺は一人の大率と読むが)は九州邪馬台国が九州北辺の諸国を監察するためのもので
畿内邪馬台国は直接は関係ないと考える
おっと、
>>79の1行目と6行目の2世紀前半は3世紀前半の間違いな
女王国の北に一大率。
南に水行。
南に狗奴国。
>>72 そう思えるのは最初だけ。
そのうちソースのない推論や幼稚な煽り合いにうんざりしてきて見ていられなくなる
ぶっちゃけ邪馬台国系スレは消化していく度にレベルが下がってる
学問板は実はあまりためにならないと悟った今日この頃・・・
83 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 04:23:03
未知なる過去は現在の発掘研究が決定する。
まだまだこれから過去は変わってくるよ
84 :
:2008/03/24(月) 09:56:41
そういやあサガミハラハラさんちかごろあまりみかけないなあ。
彼の独創的な解釈はけっこうおもしろかったのだが。
85 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 19:36:05
ジエンデスカw
86 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 21:29:06
サガミ↓新作を引っさげて登場
87 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 06:22:22
>なお一大率(俺は一人の大率と読むが)は九州邪馬台国が九州北辺の諸国を監察するためのもので
>畿内邪馬台国は直接は関係ないと考える
これがなければ、けっこう面白い説なんだけどね。
あくまで倭人伝に書かれた邪馬台国が九州邪馬台国というのが前提だからね
女王国以北に一大率を置くという記述からそう考えられる
畿内邪馬台国は女王国の海を隔てた東にある倭人の国の一つと見る
位置比定はともかく、もうヤマタイというのはやめようぜ。
ヤマトに決まってるんだから。
東遷があったもいいな?
問題はそれがいつごろなのか?
倭人伝の卑弥呼の女王国(ヤマトのみやこ)はまだ九州にあったのか?
俺は別に3世紀ごろはすでに畿内の生産力や人口が北九州を上回っていたとしても、
女王国は北九州でもいいと思うが。
くにの重要な神事はまだ北九州でやってたが、ある時期より畿内に移ったと。
そもそも倭人伝にいう邪馬台国が
当時の日本において最大勢力でなきゃいけない理由がないからね
91 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 00:57:17
邪馬台国の血を引く天武が起こした壬申の乱で滅亡したのがヤマト。
邪馬台国は九州。
92 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 07:51:16
ヤマトに決まってはいない。古代では冒頭にヤマ〜が付く国名の国が複数
あったもので、、女王国は邪馬壹国であ〜る。
今時古田トンデモ学説かよあいつはもう終わったの
>>89 東遷は倭人伝の半世紀後で3世紀の末
政治的な実権は分派国である南九州の投馬国に移り
北九州の九州邪馬台国は宗教的な性格が濃くなっていたと考える
この両国が合流する形で東遷して先に東遷していた畿内邪馬台国と融合したと
神話での神武とニギハヤヒとのやり取りは融合の際の主導権争い
95 :
サガミハラハラ :2008/03/27(木) 09:42:37
確かに彼の学者生命はおわりました。
しかし、かれの初期の学説には見るべきものもあります。
全否定せず、ひろいあげうるものはひろいあげて評価すべきと思います。
96 :
にんとく :2008/03/27(木) 11:14:43
私は「つがる外なんとか」についてはフォローしていないので、
学者生命が終わったかどうかは即断できません(怪しげではあるが)。
しかし、その初期の学説(中国資料の解釈)に見るべきものがあり、
拾うべきものは拾って評価すべきである、との意見に同意します。
97 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 11:33:06
古田学説が終わったかどうか知らないが、完全に死んだ畿内説を論じている学者の生命は終わっています。
「世有王、皆統屬女王國」
伊都國には世(今の世)王がいる、皆(倭の三十國)は女王國(伊都國を中心した連合国)に統屬されている。
世を代々と訳したヤツはだれだ!
代々は世々だろ。世の一文字だけなら今の世だ。
皆は伊都國の王を指さない。「今使譯所通三十國」の國々のことだ。
女王國とは伊都國を中心した北部九州連合国のことだ。
九州説の皆さんに質もーん。邪馬台国って九州のどこにあるん?
1カ所に決めてくれたら、まだ相手してあげてもいいかな?
まあ考古学者に見放され、今さら倭人伝をひねくり回してるだけじゃ勝ち目はないけどね。(マキムク談)
>>98 邪馬台国は佐賀平野を中心とする筑後川流域一帯だよ
マキムクは倭人伝と関わりがあるとすれば卑弥呼よりむしろ東遷後の台与だろ
考古学者なんて借りるべき虎の威にもならんよ自分の説で戦え
トヨタン・・・・・・・・・・・・
101 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/27(木) 12:23:08
>>93 年号が出てるからもう揺るがないよ。
あとはお前さんらの、根拠も出さずに捏造だとか創作だとかマユツバだとかの
単発発言の繰り返しで信用度を故意に落す行動しか出来ないことだけさ。w
じゃあ学会で発表してこい
「邪馬台」国を「やまと」と読むとして、
倭人伝の傍国には、「いずも」「あき」「きび」「いよ」「やましろ」など
古代の国名と一致する国名が皆無だ。
(「き」の国、「はり」、については異議を認める。)
この事実は、傍国が吉野ヶ里程度の規模であったことを傍証している。
よって、邪馬台国は大和とは認められない。
出雲等の国々は「女王国の海を隔てた東の倭人の国」だからな
旁国21国は邪馬台国に近接する実質的にその支配下にあった小国群だろう
おそらく大分や長崎あたりに散在していたと考える
105 :
日本@名無史さん:2008/03/27(木) 19:50:14
「世有王、皆統屬女王國」ここに
「魏志倭人伝」には、女王國とは伊都國を中心した北部九州連合国のことだとハッキリ書いてある。
邪馬壹國は北部九州一帯。
王都は伊都國。
伊都國の位置を特定すれば邪馬壹國の場所が解ったことになる。
伊都國には世(今の世)王がいる、皆(倭の三十國)は女王國(伊都國を中心した連合国)に統屬されている。
106 :
:2008/03/27(木) 22:53:32
「世有王」を「世々王がいる」と訳すことが以前にも討論されたとおもうのであるが、
結論はいかがだったのでしょうか。
どなたかお願いいたします。
伊都国は前原市を中心とする糸島半島
邪馬台国は佐賀平野を中心とする筑後川流域
女王国は邪馬台国+大分や長崎に散在する旁国21国
伊都国には代々王がいるが他の九州北辺諸国同様みな女王国に統属している
と読むけどね、マレーシアの州王のように王であってもトップでないケースはある
当然女王国に統属する前は独立国家でありまさに王だっただろうけど
だいたい一大率の置かれる女王国より北に女王国の王都があるのはおかしい
21世紀になっても比定地すら1つに絞れない九州説カワイソス、テラカワイソス。(マキムク談)
烏合の衆ってカンジィ〜。(ハシハカ談)
そもそも九州説と一緒くたにすること自体無意味なんだけどね
あくまで畿内説と対比した場合の用語にすぎないんだし
史料が倭人伝だけだと推測が立てやすくていいねw
一次資料の倭人伝じゃ推測しようにも無理があるから
状況証拠の考古学に逃げるという言い方も出来るよね
>>109 確かにそう言う考えもあるな。
でも地区別に見たら、なおさらマキムク最強じゃん。
逆に畿内はマキムク位しか候補地が無いな
九州はありすぎて困る。
伊都、筑紫、山門、朝倉、吉野ヶ里、宇佐、日向
明日はどっちだ
その中でいえば山門、朝倉、吉野ヶ里が邪馬台国の領土内と考える
とりわけ邪馬台国の中心部(女王の都)に近いのは山門と吉野ヶ里
伊都は伊都国、筑紫は奴国、宇佐は旁国21国の一つ、日向は投馬国
>逆に畿内はマキムク位しか候補地が無いな
そりゃ真実は1つしか無いわけだからな。
>九州はありすぎて困る
九州の方が弥生文化は古いからな。古い中心地(代表が伊都国)は多いわな。
あれだ縄文遺跡は東北・関東に有名なのが多いのと同じだ。
縄文遺跡なら佐賀と熊本も忘れないでぇ
日田は無しでFA?
高天原のイメージによく合うんだけど
イメージねぇ。九州説の実態をズバリ言い表してるなぁ。
日田はせいぜい旁国21国のうちの一つ
邪馬台国との国境には近いがな
未だに「九州説」などとひとくくりに語ってるのは論外
>九州はありすぎて困る
ある意味当たり前だろう。卑弥呼を共立したということは
支配下の30国がそれほど差がないことをあらわしている。
差があれば、力のある国の王が従わない国をシメればいいだけだ
そして、利用価値があるなら卑弥呼を自分の専任にしてしまえばいい。
共立したということはそれほど力の差がなかった国が多かった
ということだ。
だから候補となるような国の痕跡がある程度ないと候補地ではない。
近隣に複数かつ似たような勢力の国が多くあったに違いない。
一国だけが十分に強ければ、共立などする必要がない。
122 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 23:10:24
>女王国は邪馬台国+大分や長崎に散在する旁国21国
考え方はいいと思うけど、投馬国はどうする?
>伊都国には代々王がいるが他の九州北辺諸国同様みな女王国に統属している
世有王は対馬国から伊都国までの国々の王では?伊都国だけ歴史まで書くとは思えないよ。
>>122 投馬国は宮崎を中心とする南九州と考える
遠方にありながら特に記事が掲載されてるのは邪馬台国にとって特別な国だからだろう
俺は狗奴国(熊本)を南北からはさむために邪馬台国が建国した分派国と考えている
それから世有王は伊都国の歴代王と考える
他の国々と違って伊都国には王がいるがやはり女王国に服しているということだろう
対馬国など他の国々にも王がいるなら伊都国の記事でいきなり王が登場しない
伊都国は王を置くことが認められまた一大率が置かれかつ郡使がここに駐留することから
邪馬台国にとっては投馬国と同様に特殊な位置づけにある国と考えられるが
女王国より北にあって一大率の検察を受ける点では他の九州北辺諸国と変わらない
やれやれ考古学の裏付けがなきゃ、ナントでも言えるな。
ナントでも言えるから候補地が雨後の竹の子のごとく出てくる。
>共立したということはそれほど力の差がなかった国が多かった
これはそうだと思う。だからこそ30カ国を束ねる「新都」はソレまでの小国の中心地とは違った規模になる。
頼朝は板東武者に「共立」されたわけだが、鎌倉は関東でダントツの規模。
口先だけでマキムク否定しようとしたって無理。
>>125はマキムク否定では無いという程度であって
九州を否定する内容ではないから、それについて異議は無い。
ただ、新都が作られたかどうかは、検討する余地が無いか?
貧相な貢物を魏へやっと送る程度の国家連合が、新都を作っても
それほど大規模なものにはなりそうも無いがどうか。
邪馬台国は大都市だったという記述があったら、よければご教授願いたい。
多少よそよりましな連合国家が、敵対する国を出し抜いて少しでも、
有利に立ちたいという涙ぐましい努力のように感じるのだが。
>>125 考古学の裏づけ「なるもの」があれば一次資料の倭人伝だって無視できる
所詮何が出てきてもご都合解釈の入り込みうる状況証拠でしかないんだよ
マキムクの根拠になっている規模の大きさや出土土器の広域性もまた然り
それが倭人伝の記した邪馬台国であると言いうるだけの説得力は持たない
倭人伝から離れて勝手に邪馬台国のあるべき姿を作り上げるのは無意味だ
128 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 20:54:14
>>126 >邪馬台国は大都市だったという記述があったら、よければご教授願いたい。
つ「七万余戸可(ばか)り」
まあこの数はとてもじゃないが誇張としか言いようが無いだろうが
倭人伝に出てくる他のクニのそれと比べてもダントツに多い。
伊都国で千余戸
奴国で二万余戸
投馬国で五万余戸…
しかも纏向は一次産業(農作)に従事する人間が殆どいない。
(つうか、かの扇状地は地形的に稲作に向かない)
つまり現実問題として、纏向に住む人間を食わせる為に食料を供給する集落があったと言う事。
自然、その人口は膨らむ事となる。
129 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 20:59:22
邪馬台国は、ヤマタイ国ではなくヤマト国と読むという説もあるわな
倭人が名乗った国名を音から漢訳したのが邪馬台なんだから可能性はあるわな
関係ないけど邪馬台幻想記はやまとって読んでるな
7万戸が信頼できなくて、気にしないというのなら、どこでもいいだろうが、一応考慮してみる。
7万戸で何人かは諸説あるだろうが、一戸4名あてで、一人当たり一反の耕作面積が必要だとすれば
28万反の耕作面積が必要となる。
この面積は、平野部でも、当時の使える土地、使えない土地、入会地、都市部などを計算すると4倍程度は必要となる。
実際にはかなり海が迫っているという話もあるから平野部はもっと必要かもしれない。
九州説寄りなので、筑後平野で換算すると、筑後川上流部の甘木朝倉方面+筑後川南東方面の久留米、筑後、山門
方面で足りないくらいだ。筑後川北西方面の佐賀側も範囲なのかもしれない。もしマキムクならば、周辺の平野地から
集積するのだろうが、かなり広大な地域からの集積になる。それらの面積中に30カ国が入っていたのかもしれない。
A. 7万戸=邪馬台国
B. 7万戸=邪馬台国+支配下30カ国
なのかで、考え方が変わってくるとおもう。
Aならば大都市であるといってもいいが、非現実的
Bならば大都市かどうかは証明できない。大都市でないともいえないが
まあ、ありえないとおもうが、もし生産量の少ないマキムク都市だけで、7万戸=28万人
存在するとすれば、28万石の食料を生産するためには、周辺に110万石=110万反の
支配地域と大量輸送が必要となる。
132 :
サガミハラハラ:2008/03/29(土) 22:22:32
奈良県の大和の語源
神武天皇は福岡県福岡市西区の室見川流域でうまれました。
ここはかつて山門庄があったところで、現代でも下大和という駅があります。
つまり、ヤマトは神武の生まれ故郷なのです。
神武兄弟は故郷にいられなくなり、奈良県に引っ越してきました。
そして引っ越し先に故郷の名であるヤマトをつけたわけです。
それいらい、勢力が拡大するにつれ奈良県はヤマトとよばれるようになったのです。
>>131 >筑後川北西方面の佐賀側も範囲なのかもしれない。
邪馬台国の中心部はむしろ佐賀平野だと思うので当然含めるべきだな
あそこの筑後川流域に広がる平野一帯が全て邪馬台国の領土と考える
134 :
サガミハラハラ:2008/03/29(土) 22:25:58
135 :
サガミハラハラ:2008/03/29(土) 22:28:09
>>133佐賀平野にいくと「日本で最初の稲作りの地」という看板がたっていました。
136 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 22:28:18
>>131 普通に考えて…
>B. 7万戸=邪馬台国+支配下30カ国
なんじゃね?
伊都国の千余戸と言うのは集落一つの事では?
九州は小国が乱立状態で、それが大陸半島に近いと言う地の利を持っているにも関らず
本州の西日本に遅れをとったのでは?
137 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 22:31:37
>>132 >そして引っ越し先に故郷の名であるヤマトをつけたわけです。
そもそも神武が入ったのは狭義と言うか古代言われていたヤマトじゃないしw
奈良盆地全体をヤマトとするのはもっと時代が下ってからwww
138 :
サガミハラハラ:2008/03/29(土) 23:04:43
>>137もっと時代がさがってからって、
あなたは神武の引っ越しがいつ頃で、奈良盆地全体をヤマトとしたのはいつ頃とおかんがえですか。
139 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 23:07:15
韓に馬韓、辰韓、弁辰があったように倭にも投馬國、邪馬壹國、狗奴国があった。
馬韓、辰韓、弁辰は邑落(都市国家)の集合体の領域国家。
投馬國、邪馬壹國、狗奴国も領域国家。
邪馬壹國を形成している邑落(都市国家)は對馬國〜不彌國、斯馬國〜奴國など計26國。
戸数は、千戸〜4千戸(奴國は二万余戸)。
魏使は、奴國以外の國は、1國平均2千戸と想定し、邪馬壹國の戸数を算出した。
2,000戸×25國+20,000戸(奴國)=70,000戸
九州では邑落(都市国家)が集まって領域国家を形成していた。
本州にも邑落(都市国家)はあったろうが領域国家まで発展していたかは不明。
>>136 前原町の平原遺跡や三雲遺跡のあたりを
GoogleMapの航空写真で見てみてください。
平原遺跡から南方面に集落が固まっているのがわかります。
そしてその周りは田んぼか荒地です。
乱暴ですが、当時からあそこにあった集落のような気が
してならんのです。
そして、その東側に位置する高祖神社も古い神社ですよ。
>そもそも神武が入ったのは狭義と言うか古代言われていたヤマトじゃないしw
>奈良盆地全体をヤマトとするのはもっと時代が下ってからwww
でも、そんなの関係ねぇ
でも、そんなの関係ねぇ
でも、そんなの関係ねぇ
おっぱぴ〜
のちに神武の故郷にあやかってもいいだろw
君、ややこしくなるから帰っていいよw
かといって別に俺が
>>132を支持してるわけではないけど、
なんか君のようなのは邪魔w
142 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 00:07:37
>>138 基本的に神武東征服はフィクションだと思うw
奈良盆地全体を大和と言うようになったのは確か7世紀頃だったと記憶しているが。
ところで九州説論者は地名の一致に拘るが九州に磐余(いわれ)って地名ある?
(奈良では磐余は飛鳥の近く)
山門出身なのにイワレビコってのはおかしいよね?w
143 :
サガミハラハラ:2008/03/30(日) 00:25:19
神武の名は古事記では若御毛沼命、亦の名は豊御毛沼命、亦の名は神倭伊波礼毘古命。
日本書紀では彦火火出見とあります。
神倭云々はかなり後世につけられた名のようです。
台与をタイヨでなく、トヨと読んでおきながら
邪馬台をヤマタイと読み、ヤマトと読まないのは何故?
邪馬台国をヤマタイコクと読んでるのは慣例みたいなもんだろ
俺も実際にはヤマトコクと読むのが正しいと思うよ
147 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 17:27:51
>>132 >奈良県の大和の語源
>神武天皇は福岡県福岡市西区の室見川流域でうまれました。
本当かよ。
室見川って本当にあの室見川か?
室見川近くの「コーポ室見川」にヒキニートのいとこが住んでいるのだが。
>>146 やまたい、と読ませるのが定着したのは戦後になってからでないの?
少なくとも、<昔からの>慣例ではない気がする。
ってか、邪馬台国を「大和」と同一視したくない人々の意図が感じられる。
岩波文庫の魏志倭人伝だと「やまと」と読む説もちゃんと有力説として説明されてる。
正確な読みは解らないから、とりあえず音読みでってのは公正だと思うぞ。
トヨの方は、タイヨだと日本人の名前らしくないからだろう。意外と単純な理由だと思う。
トヨタン・・・・・・・・・・・・・
>>150 タイヨは「日本人の名前らしくない」のに、
ヤマタイは「日本の国名らしい」のか?
何かよくわからんが
邪馬台は、呉音ではヤマダイまたはヤメダイ、
漢音ではヤバタイ。ヤマタイは慣用。
古語専門家の中国人が
昔の中国語の発音だと「タイ」じゃなくて「ト」に近かったってテレビで言ってた。
155 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 16:00:18
緊急あげ
156 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 17:16:54
×邪馬台
○邪馬壹ヤマイ
×台與
○壹與イヨ
157 :
aratame_himiko-.-18:2008/05/03(土) 17:30:43
>>156 ×邪馬台
×邪馬壹ヤマイ
×台與
×壹與イヨ はじめて書きこみ!
158 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 17:49:03
遣隋使であった小野妹子の帰国時に合わせ、隋の「裴世清」が大
和に入っている。『隋書倭国伝』の冒頭に近い個所に有名な次の記述がある。
「其の地勢は東高西下、邪靡堆に都す、則ち『魏志』に云うところの邪馬臺な
り」(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)である。
また、この内容は日本書記の推古天皇16年の条(608年)にも記載されている
ので、事実であったろう。
同年4月 裴世清ら隋使一行が筑紫に到着
6月 難波津に到着、一行のため高麗館の傍に新館を建設
8月 京に到着、大伴連が出迎えて国書を天皇に奏上
9月 裴世清が隋に帰国、小野妹子は大使として随行
159 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 18:21:26
160 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 18:48:04
ヤマト朝廷には遣隋使を送った記録がない、日本書記には遣唐使の記録しかない。
日本書記の推古天皇16年の条(608年)の記録は、他の書物からの盗用であろう。
161 :
aratame_himiko-.-18:2008/05/03(土) 18:58:26
>>158 >この内容は日本書記の推古天皇16年の条(608年)にも記載されている
>ので、事実であったろう。
邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也
これが、日本書紀のどこに記載されてるのでしょうか?
記載なんてないし、いいかげんなことは言わないほうがよい。
別人だが、
>>158は「書紀」に「邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」が記載されてるなんて言ってない。
>>158が言ってるのは裴世清が大和に来たのは「書紀」にも書いてるから事実。
使者が実際に大和に行ってる「隋書」の記述は信頼できるって事だ。・・・よな?
163 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 21:26:04
『隋書』では隋の使者「裴清」。
日本書記では唐の使者「裴世清」。
日本書記では小野妹子は唐の国書を帰路に百済において紛失した?(唐の国書を天皇が受け取る前に小野妹子が先に受け取っていた?国書は皇帝の使者の裴世清が倭王に直に渡すはずだが・・・)
日本書記では小野妹子は唐の国書を紛失する大失態をしたにも係らず又も、9月には裴世清が唐に帰国するさい、小野妹子は大使として随行?
日本書記の記事は国名も使者の名前も間違えてるし、国書もなしに手ぶらで来た事になってる。よその国の話を本で読んで日本書記に挿入したんだろう。
164 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 22:09:32
倭国王は多利思比孤で男、日本書記では推古天皇で女。
何処が一致してるんだ?
165 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 22:19:53
隋の使者「裴清」は倭国王に会っている、卑彌呼のこともあるから女王だったら倭国はやはり女王国だと書くはず。
推古天皇の事が作り話か、使者が大和に来たのが嘘か、どっちかだな。
166 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 22:30:35
>>162 ・・・よな?
じゃなく相応しい言葉しらねーのか?バカ
167 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 22:42:20
邪馬台国が大和だとしたら、どうしても納得できないことがある。
漢の書には倭国は分かれて百余国とあり、魏志には、いま魏と通じる国30余国とある。
とすると、邪馬台国は、全部で100以上あったうちの、魏と通じていた30カ国の代表にすぎないわけで、
残りの70カ国のほうがどう考えても日本における多数派であろう。
(実際、日本に古く伝わる漢字音が呉音であることからも、そのことは肯ける)
邪馬台国が大和なら、残りの、日本の多数派たちは一体どこにあったのか疑問だ。
168 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 23:09:41
>>158 隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての混乱を断定形で
正して見解している。
遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴世清ら一行の報告をもって、その
混乱も解消した。
「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
この裴世清の来日は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐とされていることに
反論されている方がほとんど。編者は隋から唐への移行を確認できていないので
この事実もまた不確実であると。
しかし、ヤマト側(日本書記編者)の認識よりも、隋国の使者が正しくヤマト側のこと
の伝承を伝えていれば、それでよいのである。
169 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 23:14:07
残りの70カ国が一まとまりとは限らない。九州に20カ国山陰に10カ国山陽に20カ国四国に6カ国
名古屋周辺に10カ国北陸に4カ国があったとみられる。
漢の時代には、本州をはじめとする
漢と外交する倭の諸国が広がったんだよ。魏の時代は30数国、つまり
せいぜい九州あたりだな。
倭人伝のほぼわかってるだけの国の広さ見てみ。大体、今の一市町村ぐらいの
大きさしかない。30数国っつーたら九州ぐらいにしかないわな。
172 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 11:12:44
>>171 倭人伝の
「國邑」は今の一市町村ぐらい。
「今使譯所通三十國」の30国は九州内ので十分収まる。
投馬國と邪馬壹國は他の「國邑」と違い、「國邑」の連合体の事だな。
記載されかたも他の「國邑」と違い、行程が日数表示だし、方向も南と大雑把。
人口も五萬餘戸、七萬餘戸と「國邑」の人口としては異常に多すぎる。
邪馬壹國が北中部九州にあり、その中身として「國邑」がある、倭人伝の國の殆どは邪馬壹國の中の説明だな。
173 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 11:39:55
>>168 >遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴世清ら一行の報告をもって、その
混乱も解消した。
ヤマトを訪れ、直に倭王に会っている裴清が推古天皇を日本の支配者だと認識しなかったのは何故?
煬帝の代理人隋使の裴清が唐の国書を持たず、小野妹子が唐の国書を天皇より先に受取り運んでいたのは何故?
隋と唐、裴清と裴世清と違っているのは何故?
「有阿蘇山」ってヤマトを訪れた筈が阿蘇山見物?
>>168じゃないが
>裴清が推古天皇を日本の支配者だと認識しなかったのは何故?
・どこにもそんなことは書かれてないが。女王って載ってないって事か?
>小野妹子が唐の国書を天皇より先に受取り・・・
・どこにもそんなことは書かれてないが。妹子の使命は使者と国書を無事に着かせる事だから
使者や国書に何かがあれば彼の責任になるだろ?社会人として普通の事と思うが。
>隋と唐、裴清と裴世清と違っているのは何故?
・ウィキにも載ってるよ。
>「有阿蘇山」ってヤマトを訪れた筈が阿蘇山見物?
・この記事は行路記事の中にあるんじゃなく、倭の風俗を羅列した記事郡の中にあるわけだろ。
見物でなく伝聞だろ。当時はフジヤマでなく阿蘇が「日本の山」だったんだろ。
>>168違ってたら補足ヨロ。
175 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 14:13:22
6世紀の大和国は、播磨国すら領有できていない、矮小国。
ヤマトヤマトと百万回唱えても、
邪馬壱国や邪馬台国、イ妥国はヤマト国じゃなくて筑紫国。
176 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:28:59
源頼朝や平清盛も日本全国を力で支配下に押さえられていない。
織田信長も播磨国を領有するのに苦しみ、豊臣秀吉の代で成し遂げられた。
6世紀の大和朝廷が畿内外を支配下に押さえられなくても
中央集権国家として機能していたからそれてOKじゃないの
177 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:41:56
九州王朝はあったけど、織田信長王朝もヤマト王朝もなかったワケです。
178 :
名無しの権瓶:2008/05/04(日) 16:42:18
倭は魏志倭人伝を読む限り、日本の名称として使われていただけで、
その証拠に倭のクヤンカンコクとか、他の国の名称も出ている。それらの国は邪馬台国を中心とした連合体。
クマソにかんしても、何々のクマソと言った表記がない所から、クマソも倭のくぐりと思われる。
邪馬台国がヤマト王朝と関係があると言った記録は古事記にも見あたらない。
卑弥呼が太陽を崇拝していたと記録はあるが、それが天照神と同じと書かれた記録は見あたらない。
何か邪馬台国=ヤマトといった記録は存在するのであろうか?
179 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:47:14
>何か邪馬台国=ヤマトといった記録は存在するのであろうか?
このスレの住民が妄想的に思い込んでます。
180 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:15:04
壱岐(イキ)た対馬(ツシマ)という地名が魏志倭人伝にそのまま出てくるように、
3世紀の卑弥呼の時代の地名が後世まで残ったと考える学者は多いよ
邪馬台国の名が地名によるもので地名が後世になっても使われた可能性はある
181 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:35:35
魏志倭人伝に載っている国はほとんど後世まで残っていないんだが、
君の周りには、奇人変人学者が多いんだねえ。
182 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:47:11
>>177 九州王朝説
現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本
史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書
においては記載されずに無視されている説であることに留意する必要がある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
183 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 17:56:33
畿内説や九州説も、無数の学者から批判されてます。
184 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 18:42:35
俺には、ジャマダイ国としか読めんが。。。
185 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 19:41:37
魏志倭人伝に書かれている「國邑」で對馬國(千餘戸)、一大國(三千許家)、末盧國(四千餘戸)、伊都國(千餘戸)はそれぞれ現在の対馬(対馬市3.6万人)、壱岐(壱岐市3万人)、松浦(唐津市13万人)、糸島(前原市6.8万人)と考えられている。
奴國(二萬餘戸)も福岡(福岡市143万人)とされている。
現在の人口を唐津市13万人が末盧國(四千餘戸)として計算し直してみると、
對馬國は千餘戸、一大國は千餘戸、末盧國は四千餘戸、伊都國は二千餘戸、奴國は四万四千餘戸となる。
對馬國は変わらない、一大國は3分の1に減少、伊都國は倍増、奴國も倍増。
奴國までは通説の地域で合っているようだ「國邑」は現在の市町村レベルの大きさと考えて間違いなさそう。
186 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 19:55:02
>>185 3世紀の一大國は現在の壱岐より栄えていたようだ。
「南北市糴」と南北に出かけ交易で潤っていたのだろう。
奴國や伊都國は現在は都市化が進んで最も栄えているのが解る。
187 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 19:58:07
>>185 奴國の二萬餘戸が多すぎるとの意見がたまに有るが、多すぎはしないのが分かる。
現在の福岡市は筑後川から取水するなど、他の地域との結びつきがあってようやく存立している。
奴国までの道順が通説通りとすると、奴国は福岡市に拠点を置きながらも、食糧確保のために現在の筑後地方の穀倉地帯を領有していたことだろう。
不弥国は東に100里だから、糟屋郡宇美町だろう。千余戸という規模の小ささは、背後に三郡山地があって、奴国のように領土を広げられないから当然といえる。
ところで倭人伝は、奴国については「東南至奴國百里」と書き、不弥国については「東行至不彌國百里」と、あえて方角のあとに「行」という動詞を加えている。
紙が貴重な当時、あえて書き加えられた1字に意味がないはずがなく、魏の使節は奴国には行けなかったことを意味していると考えられる。
とすると、次の投馬国でいきなり里程の記述が消えるのも納得できる。
不弥国の南には奴国の領有する穀倉地帯が広がっている。
奴国に行けない使節らは、そのさらに南にある投馬国に至るために、糟屋郡から博多湾を抜け松浦沿岸から長崎県を回り込んで有明海に入り、20日かけて水行する以外にない。
九州説は今だに行程記事を引っかき回してるんだよな・・・
クロスチェック出来る他の文献が無いんだから「我田引水」「甲論乙駁」「あー言えばこー言う」
100年たってもよく飽きないな。
いくら考古学からは三下り半突きつけられてるからって芸が無いぞ。
190 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 15:11:51
>189
九州説以上に引っ掻き回さない畿内説・四国説なども聞いたことがないw
191 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 15:28:52
>>189 よく畿内説支持者は考古学は畿内説だと主張しているが、考古学者は何も言ってないようだけど?
昔はな。畿内説はもう行程記事なんてあてにはしてない。
つーかただ今邪馬台国の跡発掘中。はやく卑弥呼の宮殿跡出ないかな。わくわく。
193 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 15:38:31
>>191 今やアカデミズムで発言している人はほぼ大和説。
194 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 15:50:34
<真相>
実は2千年前の中国人ニートが暇つぶしに作った物語
たまたま景初3年の鏡が日本で出土されただけ
195 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:09:41
結局九州説は倭人伝のつまみぐい解釈論でオナニーしてるだけだもんな。
その結果無数の「わたしだけの邪馬台国」を生み出しただけで、学問の進歩には何の役にも立たなかった。
196 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:11:36
>>192 畿内説はもう行程記事では九州説に完敗、行程を説明する事をあきらめちまった。
今や電波を飛ばしている人はほぼ大和説。
197 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:13:32
何が完敗だよww
じゃあ邪馬台国が何処にあったか言えよw
>>196
198 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:16:56
倭人伝の記述だと、どう見ても九州なので
「考古学」という曖昧なモノサシを以って強弁しているのが、畿内説です。
なんで、既出土品の時代が畿内説に都合の良いように、どんどん改竄されるの?
199 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:26:38
>>198 じゃあ、あんたはどこに邪馬台国にあると思ってるんだ?w
あと3世紀の紀年鏡が畿内中心に出土している現実をどう解釈するw
200 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:29:45
>>197 邪馬壹國は七萬餘戸と記されている。
馬韓は十餘萬戸。辰韓弁韓が四五萬戸。
規模から考えても九州の北半分は邪馬壹國だ。
201 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:35:52
>>200 はあ?
あんたの土俵にたっても、当麻国と意図国と邪馬台国あわせただけで17万超えますが。
北九州には収まりませんが。
つか、そんなバカみたいな議論が決め手になると思ってるの?
その場合行程記事はどう読むの?
九州説はいつもこのレベルw
202 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:39:27
弥生時代(九州説では邪馬台国は依然弥生時代なのだw)は日本列島全体で60万という人口推定がありますね。
北九州だけで人口80万は不可能です。九州全体でも無理w
203 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:46:47
204 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:50:34
九州に数百万人ぐらいは住めるだろ。
水でビシャビシャの畿内には半魚人が大勢いたのか?
金印と阿蘇山から考えても畿内は無理だな。
C14の測定で、九州の出土物がはるかに古かったことが判明して
畿内説の御用学者が、今じゃガクガクブルブルなのが笑える。
205 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:53:33
>>203 あんた九州説?
それとも皮肉?w
>なんで、既出土品の時代が畿内説に都合の良いように、どんどん改竄されるの?
まあ、都合の悪い出土物が偽作と決めつけられるんならなんでもありですけどね。
206 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:56:09
>>204 奈良時代ですら日本全体で550万といわれているのに(これはきわめて堅い数字です)、3世紀に九州に数百万もいるわけないだろ。
アホかよ。
207 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:59:08
邪馬壹國は七萬餘戸の内訳は
奴國(二萬餘戸)+對馬國、一大國、末盧國、不彌國、斯馬國〜烏奴國(25×二千戸)だ。
二千戸は『三国志魏書』の東夷伝平均的國邑の規模だ。
邪馬壹國の時代の正確な人口推定はないが九州全体では60万〜80万程度はいたであろう。
一戸を何人として計算したかで人口はかわるが35万〜50万が邪馬壹國。
208 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 16:59:54
九州説って結局、倭人伝の、それも自分に都合のいい特定の記事だけを取り上げて、
オナニーしてるだけ。
だからバカにされるんだよ。
209 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 17:01:57
>>207 邪馬台国の人口に他の国の人口を合算してよいなどと、どこに書いてありますか?
バカかよ。ご都合主義もいい加減しろよww。
210 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 17:04:22
>>206 奈良時代日本全体で550万と推定されているが、九州の人口は奈良時代も邪馬壹國の時代もそれ程変わっていないだろう。
邪馬壹國の時代から奈良時代にかけて急激な人口の増加が有った地域は畿内で、河内湖等の開発で増えたようだ。
211 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 17:06:19
>倭人伝をみると、どう見ても九州なので
ところがその実態は、こんな有様w
至る所でご都合主義と改ざんのオンパレード。
行程記事だって別段大和説より説得力がある読みかたな訳じゃない。
だから大和説はすでに考古学的史料に軸足尾移してるんだが、
九州説は考古学を出されると詰んでしまうので、必死にオナニーしている。
212 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 17:09:55
>>210 それはあり得ない。弥生時代と奈良時代では農業技術も田の面積も違う。
213 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 17:16:34
>>209 「南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸」
「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸」
これを畿内説では行程の一部として連続的に読むが、
この文章以前では行程を距離(里)で説明しているのに、ここでは急に日数で説明している。
連続的に読むと目的地までの距離も、日数も分からない。精神が普通の人はこのような訳の分からない説明はしない。
つまり、この文章は前の文の続きではない。
この文章以前では行程を距離(里)で説明したものを、再度日数で説明したものである。
投馬國は狗邪韓國の有る国、邪馬壹國は伊都國の有る国。
214 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 17:22:51
>>212 九州で稲作が始まったのが紀元前9世紀、
邪馬壹國の時代が3世紀、
奈良時代は8世紀、
邪馬壹國の時代稲作が始まって1000年以上経過し、九州では条件の良い土地は既に開発され尽くしていたと考えられる。
奈良時代までの500年で耕地が急増する条件がないので人口も変わらない。
215 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 17:23:22
>この文章以前では行程を距離(里)で説明したものを、再度日数で説明したものである。
勝手なこと言うなよ。どこに再度日程で説明したなどと書いてある?
だいたい、同じ行程を説明するなら違う国名がでてくる訳がないじゃないか。
九州説はいつもこんなレベル。行程記事もたちの悪い推理小説にしてしまうw
こいつら頭おかしいんじゃないの?
216 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 17:32:24
>>214 あいにく弥生時代の九州が、他の地域より際だって人口密度が高いという結果がありませんので、成り立ちません。
217 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 18:24:39
邪馬台国の記述にはない、巻向と古墳だけが畿内説の根拠とは、ホントあほだなあ。
218 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 18:26:27
畿内を除いて九州を中心として東北にまで広がる装飾古墳。
九州の勢力範囲そのまんまだ。
219 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 18:51:13
>>215 連続的に読んで目的地までの距離、日数も分かりますか?
ここで区切ると分かりますよ。
狗邪韓國と伊都國は國邑、投馬國と邪馬壹國は領域国家(五萬餘戸、七萬餘戸は規模から馬韓、辰韓、弁韓に匹敵)
狗邪韓國と伊都國は到が使われ、他の國の至ると区別されている。
220 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 18:53:37
>>216 誰か科学的調査した結果の資料でも持っているの?
222 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 19:30:45
>>221 精度には問題が有りそうですね、縄文時代、弥生時代と言っても物凄く長いですから。
コンピュータを使ったシミレーション何かは、プログラムで数値を僅かに変えただけで結果は大きく違いますから。
参考にはなっても根拠としては不十分ですね、科学的調査した結果とは言い難い。
223 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 20:17:15
邪馬台国が台湾のことなのは決着ずみだろ
224 :
改めドツボ監視委員会:2008/05/05(月) 21:38:53
『 邪馬台国論争…九州説の歩き方(笑) 』
まあ俺自身は推理小説は読まないんだが推理小説に
「アームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)」なる言葉がある。
要は椅子に座ったままパイプでも吸いつつ捜査資料や新聞記事を読みつつ
時には人と話しつつ事件を推理し解決に導くと言うものらしい。
九州説を唱える歴史マニアはどちらかと言うとそれに近い。
基本的な資料は「魏志倭人伝」の2千前後の文字。
それに記紀やらを加えて推理していく楽しさ、知的興奮があったのだろう。
(まあ時には週末の休みを利用して遺跡にいくアクティブさはプラスされるだろうが)
そもそも戦後の邪馬台国ブームを作ったのが推理作家の松本清張だったのだからw
しかし考古学の発展その他で今じゃ随分状況が変わったのは周知の通り。
それでもこの板じゃあ九州説論者は昔のゲームのルールで遊んでいる。
まあそのゲームに興じている人間に違うルールを押しつけるのはある意味無粋ではあるwww
225 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 21:58:02
改めドツボ監視委員会←馬鹿の癖に自分を利口だと勘違いしている典型
227 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/05(月) 22:30:41
人間椅子 江戸川乱歩 これもすごい怪奇。
228 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:35:46
太国さん、ちょっと変態。
229 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:40:36
おまえらむこういけよ ここ荒らすな
230 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:42:38
邪馬台国は鹿児島。ソースは加治木義博氏。
卑弥呼は倭人連邦の女王。卑弥呼がいた当時の倭国は沖縄、九州、朝鮮半島。
鹿児島から朝鮮半島に渡った初代新羅王、なんとあのかぐや姫のことだった!
231 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 22:50:48
改めドツボ監視委員会←馬鹿の癖に自分を利口だと勘違いしている典型
このスレを荒らしているのは
神奈川県民(トリップ無)=三重県民=改め=ドツボ。
意図せず結果的に荒れたという体をとっているが、悪意を持って荒らしているのは明白。
その手口はいくつかあるが、
1 他説に対する罵倒、人格の攻撃。
2 スレを私物化
の二種類に大別される。
特に後者は悪質で、2ちゃんのルールを大きく逸脱した俺様ルールを強要するのが特徴。
少し2ちゃんに慣れた人間には、反論が容易であり簡単に論破できる。
だがこれこそが罠なのであって、それが証拠にドツボはいくら言っても分からない(フリをする)
人間の性質として、明らかな正論が受け入れられないことは大きなストレスだ。
説明しても説明しても、論破されても論破されても、理解しようとしない(フリをする)ドツボは人格を攻撃されることになる。
そして荒れるのだ。
考えてみればすぐ分かるが、ここまで理解力がない人間はそういない。
つまり演技と断定してよい。
なぜ故意に荒らすのか理解に苦しむ向きもあろう。
私にも真実は分からない。荒れた結果、レスが進むことを喜んでいるのかもしれないし、そもそもバトルという行為に魅力を感じているのかもしれぬ。
しかし、そんなことは理解する必要はない。
ドツボが故意にスレ荒らしを呼び込んでいる事実、この一点に注目すればよい。
監視は有効だ。上記をふまえてドツボを監視しているという意志を示すことが重要だ。
我々はドツボが故意の荒らしをやめるまで、永遠に監視する。
賛同する人は、ただ監視中と書込んでくれればい。
それが悪質な荒らしへの対処法になり得ると確信している。
233 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/05(月) 22:56:51
改めはなにくわぬ顔で神社参拝をしたらしい?
235 :
名無しの権瓶:2008/05/05(月) 23:18:35
魏志倭人伝を見ると沖縄説は辛いと思うな。
投馬国から水行10日、陸行一月とある。
いくらあの頃の沖縄でも、歩いて一月はありえない。
236 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 00:35:19
沖縄では金印も出ないし、阿蘇山もない。
237 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 09:51:40
238 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 09:52:45
大阪テレビ(関西ローカル)で本日(5/6)
19:56-20:54で「新説日本ミステリー追跡」…
邪馬台国は四国卑弥呼の正体が発覚&墓を科学調査
があるようです。大阪テレビってところが味噌ですが〜
239 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 10:08:03
>>219 >連続的に読んで目的地までの距離、日数も分かりますか?
あのさあ、行程記事は邪馬台国までの「行程」を示すために書かれた者で
目的地までの距離や日数を知るためのモノではないよ。
フミ国までは里程で示し、その先は日数で書いてあるのは、
陳寿は、フミ国までは地図など別資料で里程を測量した結果を知っていたので
それで書き、それより先は資料がないため、報告書の日程を使ったと考えるのが自然。
いずれにせよ連続的に読めば間違いなく行程が素直に読めるわけ。
同じ行程を二度説明する(しかも違う国を使って)などというばかげたことを、
それと明確に示すことなく書くわけがないじゃん。
それじゃ行程記事は「暗号」だよ(笑)
九州説はいつもこんなレベル。
240 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 11:42:26
>>239 >目的地までの距離や日数を知るためのモノではないよ。
気でも狂ったかね。
「行程」とは距離や日数で、行程記事は邪馬台国までの距離や日数を示す為のものです。
同じ行程を二度説明していることを明確に示すために、狗邪韓國と伊都國にだけ『到』を使い、投馬國と邪馬壹國のことだと分かるようにしている。
魏使は、まさか五萬餘戸や七萬餘戸もある投馬國、邪馬壹國を読み手が国邑だとは思わないと考えそのまま続けて書いたのだ。
キミの頭脳は相当混乱しているようだ。
241 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 12:44:52
>>239 行程記事は「暗号」とかパズルではない。
「暗号」とかパズルに思えるのは、行程記事を連続的に読んだ為に起きたことだ。
距離(里)から日数に変わったところで、同じ行程を二度説明している事に気づけば謎などもともと存在しない。
>陳寿は、フミ国までは地図など別資料で里程を測量した結果を知っていたので
それで書き、それより先は資料がないため、報告書の日程を使ったと考えるのが自然。
不自然な考えだな。
もし、途中から報告書の日程しか分からなかったとしても、日程から距離を算出して距離として書類上は出す。
目的地までの説明に距離と日数が混在している報告書を上司に提出したら、即やり直しを命じられます。それが宮使えの役人です。
242 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 15:08:35
>237
世界中の笑いものたる「土器編年」に支えられた畿内説のほうが
よっぽど似非科学ですが。
243 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 17:02:08
>>239 思い込みだけで「いずれにせよ連続的に読めば間違いなく行程が素直に読めるわけ」と言われても説得力が全く無い。
レベル最低。
キミの(笑)は気違いの笑いにしか見えん。
244 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 17:49:59
>>242 いや、むしろ
「年輪年代方をたてにとって年代を遡上させる畿内説ケシカラン!!」
とお怒りになっているのは九州説のお歴々なんですが・・・
245 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 17:55:15
九州説涙目
まあ、どっちの説をとるとか以前に、
>>239はもうこの件に関わらないほうがいいと思う。
頭悪そうだしw
247 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 18:07:21
248 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 19:10:44
>>244 「年輪年代方」は樹木の育った年代を推定するもので、建物の建った年代推定するものではない。
何年以降に建った建物であるとは分かっても、何年に建った建物であるとは分からない。
何か勘違いしてるんじゃないかな。
249 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 19:12:07
250 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 19:30:09
i大和説の証拠は,同時代の魏に朝貢した「大月氏」はササンス朝といっているのと
同じような気がする。実際は衰退期にあったクシャーナ朝だけど。
251 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 19:37:05
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関して
の混乱を断定形で正して見解している。
遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の
報告をもって、その混乱も解消した。
「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)
この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で
大唐とされている。
日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が確認でき
ていなかったことは事実である。
しかし、ヤマト側の中国の認識よりも、隋国の使者が正しくヤマト
側のことを伝えていれば、それでよいのである。
252 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 20:39:29
記紀は8世紀に書かれたものなので、編集には3世紀に書かれた『三国志』や7世紀に書かれた『隋書』の記事を参考にすることができた。
大和朝廷のヤマトも、朝廷の起源を古く見せかけて権威を高める為に、記紀の編者が『三国志』の邪馬壹國や『隋書』の邪靡堆から採ったのであろう。
『隋書』の記事は『日本書記』の記事と似ているようで違うのは、邪馬壹國や邪靡堆が大和朝廷の事ではないのに無理に記事を引っ付けた為である。
「倭王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌」と「推古天皇」の違い。
「名太子為利歌彌多弗利」と「聖徳太子」の違い。
「戸可十萬」と西日本を統一したはずの大和朝廷としては少なすぎる人口。
官位十二位の中身の違い。
「軍尼」「伊尼翼」等の見知らぬ制度。
突然の「阿蘇山」の紹介。
253 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 20:56:59
>>252は、記紀の編者が過去の魏志倭人伝や隋書を参考として記事を書いたと
説明しているが、
>>251は『ヤマト側の中国の認識よりも、隋国の使者が正し
くヤマト側のことを伝えていれば、それでよいのである。』とあらかじめ
その事実ありとして説明している。
阿毎字多利思比孤の謎もしかり、蘇我馬子・蝦夷・入鹿などは、動物や蔑視
する名前で記紀に記載されており、編者は蘇我本家を正史からなんとか抹殺
したかったのだろう。
蘇我馬子や蘇我の血を引き継いだ聖徳太子などは別の意味で謎多き人物であり
この邪馬台国論争から切り離していく必要があるのではと思う。
254 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 22:29:17
>248さんが正解
法隆寺が九州から移築したのを知らない
>244は恥の上塗り
255 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 23:18:10
★魏志倭人伝
「その(女王国の)南に狗奴国あり、男子が王となる。その官は狗古智卑狗がある。女王に属さず」
「女王国の東、海を渡ること千余里。また国あり、皆、倭種」
↓
↓
↓
↓
★後漢書倭伝
「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆、倭種といえども女王に属さず」
256 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 23:21:18
257 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 23:35:40
>>255 魏志の方が成立が古く、基なので正しいだろう。
3世紀には女王国の南に敵対する国が有ったのであろう。
後漢書の成立した5世紀には倭国の東に別の敵対する国が勃興し、それを前の狗奴国と誤認したのではないか。
新たな情報と古い情報が食い違い、記事の内容が乱れたのだろう。
258 :
日本@名無史さん:2008/05/07(水) 07:53:32
後漢書は、魏志の四十行ほど離れた記述を合成し、魏志では方向の異なるまったく別の国を一つにしてしまいました。これを范曄の読み間違いとするのは范曄に失礼です。
259 :
日本@名無史さん:2008/05/07(水) 11:07:09
260 :
日本@名無史さん:2008/05/07(水) 21:04:33
>240
>気でも狂ったかね。
>「行程」とは距離や日数で、行程記事は邪馬台国までの距離や日数を示す為のものです。
おやおや、俺が「行程」という言葉を使った言葉尻をとらえてそれですかw
俺が言いたいのは、原文は邪馬台国へのコースを書くのが一義的な目的っていってるのw
同じ行程を二度説明していることを明確に示すために、狗邪韓國と伊都國にだけ『到』を使い、投馬國と邪馬壹國のことだと分かるようにしている。
でたらめ言うな。中国語のどの文法書にそんなことが書いてあるw バカも休み休みいえ。
かるようにしている。
>魏使は、まさか五萬餘戸や七萬餘戸もある投馬國、邪馬壹國を読み手が国邑だとは思わないと考えそのまま続けて書いたのだ。
国有でないならなんなの?
261 :
日本@名無史さん:2008/05/07(水) 21:07:26
距離(里)から日数に変わったところで、同じ行程を二度説明している事に気づけば謎などもともと存在しない。
なんだよその「気付けば」っていうのは?
暗号化よw
中国語でそう読める根拠を説明しろよw
262 :
日本@名無史さん:2008/05/07(水) 21:12:35
>もし、途中から報告書の日程しか分からなかったとしても、日程から距離を算出して距離として書類上は出す。
>目的地までの説明に距離と日数が混在している報告書を上司に提出したら、即やり直しを命じられます。それが宮使えの役人です。
魏志倭人伝は、報告書の原文そのものではありません。
報告書の原文は、すべて日数によったと考えられます。
日数は計測器がなくても確実にわかりますから。
距離は、別資料によったものと考えるのが自然。
九州内にかぎっては、距離を計測した資料が別にあったものと推定されます。
は、
263 :
日本@名無史さん:2008/05/07(水) 21:28:57
倭人の概念に「里」がなかったので、倭人からの伝聞部は「日数」になったんでしょう。
中国人が踏破したところは当然「里」で書いているわけです。
264 :
日本@名無史さん:2008/05/07(水) 23:40:34
ヒント
漢朝〜群雄割拠〜魏呉蜀〜魏への禅譲
265 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 18:52:32
>>263 中国人が踏破したところの「里」の部分の「日数」を倭人から聞き比較すれば、
倭人からの伝聞部の「日数」も容易に「里」に変換できる。
報告書を作る際に単位を合わせるのは今も昔も、中国も日本も同じ。
「日数」と「里」が混在した原文資料が有ったとしても「日数」か「里」に単位を合わせて報告書は作成される。
単位が合ってない報告書など誰も相手にしない。
>>262も
>>263も社会人としての生活を送ったことが無いのであろう。
266 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 18:58:09
>>261 >なんだよその「気付けば」っていうのは?
魏志の書き手と同じ常識を持ち合わせていれば気付く。
『暗号化よw』と思えるのは現代人に魏志の書き手の常識がないから。
267 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 19:03:15
>>260 では何故狗邪韓國と伊都國にだけ『到』を使い、他は『至』なのでしょう。
投馬國、邪馬壹國は国邑ではなく韓での馬韓、弁韓、辰韓に相当するものです。
268 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/08(木) 20:06:22
>>267 >>260ではないが、河童虫 ◆EY2wfgakAQさんの説を引用して説明しましょう。
河童虫さんは良い説をお持ちだが、説明があまりお上手とは言えませんから。
なお僕は河童虫さんと全てが同じではありません。
『至と到』について
解字:到は「至+音符刀」。至は↓型の矢が一線に届くさま。
・刀は←↓(ななめ)型にそったかたな。まっすぐ行き届くのを「至」
・←↓(ななめ)型の曲折をへて届くのを「到」
到:道程が曲がっている場合で、L字型状のコースの時に使用。
至:道程が直線状の時に使用。
『從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里』
郡から概ねの方向として南に水行し、次いで東に水行すると狗邪韓國につく。
『東南陸行五百里、到伊都國』
末盧國から東に陸行し、次いで南に陸行して五百里で伊都國につく。
『始度一海、千餘里至對馬國』
『又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國』
『又渡一海、千餘里至末盧國』
『東南至奴國百里』
『東行至不彌國百里』
上記「至」の場合は、道程が直線状。
269 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/08(木) 20:36:42
>>267 ついでに、僕の説を追加。
『(從郡)南至投馬國水行二十日』
『(從郡)南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月』
()内は『從郡至倭』の部分の「從郡」を省略したものです。
上記の説と同じことを言われている方が、日本史スレにもう一人おられます。
270 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 20:41:53
>>268 その説が正しいなら下記の『至』は『到』でないの?
『從郡至倭』
『東南至奴國百里』
『自郡至女王國萬二千餘里』
>>268 王朝さん
>『至と到』について
解字:到は「至+音符刀」。至は↓型の矢が一線に届くさま。
・刀は←↓(ななめ)型にそったかたな。まっすぐ行き届くのを「至」
・←↓(ななめ)型の曲折をへて届くのを「到」
では、『致』は? それに、『屋、室』や『臺、鵄、臹、郅、臻、臵、臶』などはどう説明しますか?
余談ですけど、一般的な認識『リ=刀』は間違いですよ(理由は内緒ですけどね)
272 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/08(木) 20:57:42
>>270 『從郡至倭』
『自郡至女王國萬二千餘里』
上記は具体的道程説明ではないので直線的に表現しています。
『(從郡)南至投馬國水行二十日』と『(從郡)南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月』も
具体的道程説明ではないので直線的に表現しています。
『東南至奴國百里』
これは道程が東南方向に直線です。
273 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/08(木) 20:59:14
>>271 今から出かけるので、又後で書き込みます。
274 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 21:13:50
角川書店、字源
○到は至也、彼より此に到着する意、至と通用す、至家を到家とも書く、されども知至・徳至などには到は用いず。
よく分からない解説だが、到の方が至より限定された範囲にしか使用されないもののようだ。
275 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 21:19:42
>到:道程が曲がっている場合で、L字型状のコースの時に使用。
>至:道程が直線状の時に使用。
これは誤り。
276 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 21:37:55
>>274 至は「彼より此に到着する」意であり、到の意は「彼より此に到着する」+「X」のようだ。
277 :
サガミハラハラ:2008/05/08(木) 21:38:13
ところで、行路記事の至ると到るについてはよく論議されるが、行の字の有無が論議されないのはなぜであろうか。
>>277 >行の字の有無が論議されないのはなぜであろうか。
『行』と言う文字が複数形であることの認識を持っているなら触れてもいいよ
279 :
日本@名無史さん:2008/05/08(木) 22:58:29
このスレは、字引を引くだけのスレ。
河童虫による漢文のお勉強スレ。
改名しても、しょせんプラム。
>>279 >このスレは、字引を引くだけのスレ。
河童虫による漢文のお勉強スレ。
改名しても、しょせんプラム。
ガハハ〜っ
ちょっと違うんだな〜 それが
281 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 01:05:05
しかし何処のスレでも言う事は同じ、
行程記事の解釈でどーたらこーたら、、、
ちったあスレが違えば切り口変える芸当見せろよ・・・
>なぜ邪馬台国を大和と認めないの?
まあぶっちゃけ完全決着はつかないだろう。
もっと言えば歴史の教科書には邪馬台国の比定地として畿内と九州が併記される状況が続くんだろうなあ。
幾ら考古学が畿内説に有利な材料を出したところで、あくまでも”状況証拠”
蓋然性・必然性の範疇のお話。
逆に言えば机上のシミュレーションと言うか理論上は九州説は成り立つんだから
それを唱える人間がいないと言うのも変な話で・・・
一定数九州説を唱える人間がいる方が健全ではあるw
282 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 01:14:06
>>281 おまえ終止符スレ荒らした奴ぅ?
もし、そうなら2ちゃんから追い出し
来れないようにしますが?
283 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 01:15:23
>なぜ邪馬台国を大和と認めないの?
事実じゃないからだね。
発掘品に「邪馬台国」という文字は出てこない。
漢籍には出てくる。
その漢籍には邪馬台国がのちにイ妥国となり、
その国には阿蘇山があることが記載されている。
284 :
281:2008/05/09(金) 01:37:36
>>282 ほう、
どうやって追い出して
どうやって来られないようにする?
アク禁にでもできるのかな?w
何か言う事が ドツボ 臭いんだがwwwwwww
285 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 01:41:40
毎日観ててやるよ
おまえ逃れられると思うなよ
286 :
281:2008/05/09(金) 01:44:50
>>285 やっぱドツボか?
ドツボなのか?w
まあ
>来れないようにしますが
・・・と言う「ら抜き」はともかく、、、
>逃れられる
日本語でおkwwwwwwwwwww
287 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 02:01:47
楽しいワケがないwwwwwwwwwwww
288 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 10:56:29
俺
金印、倭人伝の記述、邪馬台国、卑弥呼、西都の古墳、箸墓
アマテラス、神武、東征、記紀の記述、宇佐の地位、磐井、九州王朝・・・
完璧な理論を持ってるけど、
どう端折っても4000字ぐらいになるので
2ちゃんに書けないんだよ。
どこか発表できる場はある?
289 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 11:03:35
メモ帳に書いてうpすればいい
290 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 11:09:41
>>288 ・記紀に載せる近畿天皇家の皇統譜は事実か作為か
・九州王朝の終末はどのようにして迎えたか
この2点についてだけでよいので、要点を書いてくだされば、
288さんの構想が「完璧な理論」であるか否か、判断できます。
仮に完璧でなくとも、一貫性がおありなら、固定ハンドルの
使用をお勧めします。
292 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/09(金) 11:54:15
>>271 :河童虫 ◆EY2wfgakAQ さん
昨晩は帰宅が遅くなり書き込みできませんでした。
さて、書こうと思いましたが、
「虫」でない僕にとっては大変な作業になるので書くのは諦めました。
>>275 :日本@名無史さん:2008/05/08(木) 21:19:42
>>到:道程が曲がっている場合で、L字型状のコースの時に使用。
>>至:道程が直線状の時に使用。
>これは誤り。
ご指摘の通り過激に書いた部分は誤りです。
自(従)A到B:
道程が曲がっている場合。
行路の2点の位置関係に、その途中状況の含みを持たせる場合。
途中状況の含みがあるので、Bが目的地である印象を与える。
たとえばL字状のコースの時等。
自(従)A至B:
道程が直線状の時。
行路の2点の位置関係を示すだけの場合。
Aが起点でBが終点、但し、
従U至(到)V の場合は、本来の起点がTであることが隠されている。
以上の様に理解しています。
293 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/09(金) 12:42:52
>>292王朝さん
>本来の起点が隠されている。
『從〇至△』の場合、起点は当然〇より前に起点があります。
しかし、この場合
『從〇至△』が文頭、しかも倭人伝の最初に使用する事によって効果するものです。
既に、倭人伝は【倭人帯方東南…】と、帯方を基点とすると文章にて宣言していますから、魏略のような効果は得られません。
つまり、隠し起点など存在しません。
294 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/09(金) 15:09:56
>>288 >端折っても4000字
100文字を40レス、200文字を20レスに分ければいいだけ
ほんの数時間もあればこなせる量だろう。
295 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 15:23:12
河童 無視
相変わらず行程記事の「訓詁解釈」ばっか。日本は今だに儒教国家かい。
そーゆーのは哲学板でやったら?歴史学ってのは広い意味での科学だからさ。
297 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 00:33:45
この前テレビで四国説をとなえていたけど、見ていて恥ずかしかった。
298 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 00:56:37
放送局のディレクターって、底辺はあのレベルなんだね → テレビの四国説
あんなようじゃ、考古学も文献学も未来が無いや。
299 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 01:13:29
>>248 >何年以降に建った建物であるとは分かっても
厳密にはそれも間違い。
例えば、ある墳墓で築造後、百年も祭祀が行われており
その時に捨てられた伐採間も無い木材が出土した場合、
木材の年輪年代は当然、墳墓の築造年代より新しい物になる。
結局その木材の使われ方やその他のデータを突き合わせての判断になるんではないかな?
古墳時代、弥生時代の開始がどんどん古くなる傾向は続くんじゃないのかな。
まあド素人の俺にはどれくらいで止まるか分からないがw
九州説にとっては”不都合な真実”か?ww
もし仮に九州に邪馬台国があり卑弥呼がいたとしたら
畿内ヤマト(を中心にした首長連合?)の影響をひしひしと感じていただろうし
壱与に至っては、那珂八幡や津生生掛あたりの纏向型前方後円墳を、その目で見たかもしれないwww
>>299 コラ 何レスしてんだー?
おまえ2ちゃんから姿消せよ
301 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 01:21:26
>>300 神奈川県民改めドツボ
キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━!!!!!
ところでドツボちゃん。
ひょっとしてまた自宅PCから書き込みできなくなったのかい?
303 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 01:29:35
>>302 おいおい、叩き出すんじゃなかったのか?w
んで、やっぱネカフェからですか?w
>>303 スレ違い
ここ2ちゃんねるを辞めてもらえませんか?
305 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 01:34:24
>>304 てめえから突っかかってきて
ナニ言ってんだこのアホわwwwwwwwwww
>>305 スレ違い
ブツブツ言ってんじゃねーぞ?
ハ?何が言いたいんだハッキリせんかい!!
おまえ等な。ちゃんと「中身」のあるレスで応答しろや。
>>300から1画面以上ガキのケンカで埋まった。ウザイ。
邪馬台国エジプト説というのがあってだな・・・
309 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 12:25:09
>幾ら考古学が畿内説に有利な材料を出したところで
これって何のこと?
310 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 12:37:02
>伐採間も無い木材が出土した場合
どうやって伐採間も無い木材か古材か分かるんですか?
311 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 16:05:38
>248のレベルじゃ、法隆寺が九州からの移築だという視点が欠けたまま、
釈迦三尊像は「聖徳太子ゆかりのものとして造られました」なんて断定しちゃうんだろうな。
あの光背銘には、九州王朝の人間しか登場せず、畿内の人間がまったく出てこない、
なんてことは、年輪だけ百年眺めても書いてないならな。
312 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 16:38:21
九州王朝はもういいってw
次は阿蘇の書き込みw
↓
そもそも九州王朝の事を書いてある文献など百年探しても出てこない。
東北王朝でさえ「文献」に書かれてあるのに(爆)。
314 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 17:04:55
九州元号を畿内の天皇が、バンバン使ってるだろ。
「継体」「大化」「白鳳」など九州の王が制定した元号なんだが。
315 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 17:24:15
結局 『九州王朝説』 てのは皇国史観の亜流みたいなもんで
大和朝廷の「万世一系」を九州皇統に置き換えただけw
脳内に神武以来の王統譜があり、それをやはり脳内で畿内と九州で取り合っているとw
まあ邪馬台国畿内説唱える人間にもいろいろいるだろうが
大方はもっとまとも…ゴホゴホ
・・・いや、柔軟に「入り婿」や「王朝交替」の可能性も視野に入れて考えてるんじゃないかなあ?
>>311 >聖徳太子ゆかりのものとして造られました
ひょっとして財布の中の一万円は聖徳太子の肖像の時代からのカキコですか?
せめてリアル厨房の歴史教科書の内容に追いつこうよw
>>313 >東北王朝でさえ「文献」に書かれてあるのに(爆)
「日高見国」とか?
まあ結局そんな強国は無かったわけで
ありもしない国を恐れ記録にまで残したと・・・
もし九州王朝なるものがありゃそりゃ記録に残すでしょうよ。
都合が悪い部分があったとしても変えりゃ済む話で。
(強大な悪者として書けば良いw)
もし完全なる隠蔽を謀ったのなら磐井の乱も書かなきゃ良いw
318 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/10(土) 17:56:27
>>313 古史古伝にウガヤ朝70数代の記録あり。
319 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 17:57:40
邪馬台国はヤマトかそれに近い名の地域の別称。
320 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/10(土) 17:58:59
>>315 九州王朝は萬世一系にあらず。置き換え不要。
321 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 18:04:15
>>319 それを言うなら九州説は「山門」以外に無いわけでw
322 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 18:23:31
【斉】
斉(齊、せい、Qi、紀元前1046年−紀元前386年)は周代、春秋時代、
戦国時代初頭に渡って現在の山東省を中心に存在した国(諸侯)。
周建国の功臣太公望によって立てられた国である。姓は姜(あるいは羌)であるため
戦国時代の斉などと区別して姜斉(きょうせい)とも呼ばれる。
紀元前386年に家臣の田和によって滅ぼされた。首都は臨淄。
斉の滅亡後、同地に『蓋国』(カイ国)が建てられ、燕に従属する。
蓋国の南方には、『倭』と呼ばれる越国があった。現在の上海、南京の辺りである。
この『倭』も燕に朝貢していたという。
これは『山海経』海内北経(かいだいほくけい)の
「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」 という記事に書かれている話である。
『山海経』は前漢(紀元前206年−紀元前8年)初年までには形作られ、
その後改訂が加えられていった書物であり、地理誌である。
え、ウガヤ王朝って旧石器時代から大和にあったんじゃないの?神武天皇に滅ぼされたんだろ?縄文時代に。
>>317 東北王朝の載ってる文献邸ったら「あれ」しかないだろ。
324 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 18:40:08
>>323 そっかwアレかww
九州王朝説の教祖的存在の古田武彦先生のライフワーくぁwせdrftgyふじこlp
325 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 19:34:00
>317
>もし九州王朝なるものがありゃそりゃ記録に残すでしょうよ。
はあ?九州王朝を私が引き継いだって、畿内の天皇が宣言してるでしょ。
326 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 20:10:46
「九州王朝」問題なんて、そんな簡単なことも分からないのかい?
きみたちは、字面相手に睨めっこしているからダメなんだよ。
もっと想像力を働かせようよ・・・
もうすぐ裁判員制度も始まるよw
327 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 20:11:46
>>321 北部九州には大和、山門の地名が多いのは、邪馬壹國の名残りだろう。
畿内のヤマトも九州の邪馬壹國を受け継ぐものとして名前だけ真似たものだろう。
329 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 20:19:35
外三郡誌なんてどうでもいいだろ。
聖徳太子が遣隋使を送ったなんて電波説をばら撒く畿内説よりマシかもしれないがねw
電波呼ばわりする奴はだいたい電波
331 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 20:43:13
ある日突然、弥生時代開始時期を500年もずらす畿内説学会のほうが、よっぽど電波
332 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 21:16:23
古墳とか土器の年代もどんどん改竄するもんなあ・・・
333 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:32:02
>>332 今までが絶対に正しいなんて保証は無い訳だがw
年代の遡上に反対と言うのならそれに対し個別にデータを出して反論するしかないだろう。
急進派(?w)は古墳時代の始まり(つか纏向石塚の築造年代?)を2世紀末まで持って行こうとし
慎重派でも3世紀中頃・・・と言うのが今の趨勢か?
何れにせよ卑弥呼の生きた時代がかなり微妙な時代であるのはもう動かないんじゃないのかな?w
レベルの低いスレだ
ツマンネ
336 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 01:31:02
レベルが低くてツマンネのは、畿内天皇家一元史観でしょ
漢籍も考古学も、一元史観教による妄想断定ばかりw
様子見の図体のデカイセンズリ国家が2、3匹程張り付いてるからな
妙な事も出来んだろ。
>>333 今までの年代推定は、多くのサンプルの最大公約数的なものだから
絶対ではないにしても安定はしているだろう。
畿内派は、一発の発見や「画期的」「試験的」理論でそれを覆すよ。
339 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 09:50:11
このスレを読んで、九州説の信者がもはや古田武彦とその亜流しか残っていないのにワロタ
340 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 09:53:28
九州説涙目w
341 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 10:02:19
安本美点が、畿内説を論破するとか言う駄本をまた出版したな。
「3世紀の年号鏡13枚の分布」は、完全無視だしw
「年輪年代学」についても、巻向石塚の1点にだけこだわり「伐採年を表すにすぎない」でお茶を濁している。
妄すでに弥生、古墳だけで10数点の結果が出ていずれも、これまでの年代より50〜100年繰り上げるべき結論が出ているのだから、
古墳時代が3世紀にほぼ確定なのに。
要するに九州説に致命的打撃を与える論点には無視を決め込む香ばしい愚作
342 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 10:06:36
畿内の出土品は邪馬台国のものではなく「畿内国」のものなんだよ。
そんなこともわからないのか?w
九州とか大和以前に、邪馬台国が日本にあったっていう前提を誰も疑わないのが不思議。
確実な証拠なんかないくて消去法で日本って言ってるだけじゃないの?
344 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 10:11:33
>>342 くだらないね。
畿内説の場合は西日本一帯が統一されているという結論だから、
13枚の紀年鏡の分布はまさにそれを表している決定的証拠。
北九州説では、北九州説しか邪馬台国の勢力圏がないのだから、
このような分布はありえないw
なんで統一されていなきゃならんの?
それこそ大日本帝国バンザイ史観じゃよw
ちょうど、お隣も三国時代なわけだが、畿内を魏、九州を呉ぐらいと考えてみ。
似たような出土品が出たり、少々の領域の変遷があるのはあたりまえ。
それぞれ独自に特徴的なものもあれば、共通したものもある。
鏡なんて基本同じで、魏が流行ったものが呉に広まることだってあるだろ。
大和一元史観などというありもしない敵を妄想して格闘する日々
楽しいですか?しかも2ちゃんで
畿内説の場合は西日本一帯が統一されているという結論だから
畿内説の場合は西日本一帯が統一されているという結論だから
畿内説の場合は西日本一帯が統一されているという結論だから
wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
そもそも邪馬台国が最も進んでる地域でなきゃいけないとか
まして広範囲を勢力下に置いてなきゃいけないと考えるのが根拠のない決め付けだろ
そんなことはどこにも書いてないw
349 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 11:43:12
現代の世界がそのまま埋没して、2千年後に発掘されたら
アメリカと日本は同じ国という説と違う国だという説で収拾がつかないだろうな。
住宅の様式とか人の様子(風俗)は似ているようだし違うようだし。
日本から横文字がわんさか出るが、アメリカから漢字はほとんど出ない。
機械モノや、なにより武器は同じものだしね・・・w
350 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 13:18:34
>>345>>346>>347 おまえバカか?w
畿内説の場合は畿内政権が妨害されずに大陸と交流を持ち、
魏志が安全に畿内大和まで到達したわけだから、
だいたい西日本はおおむね統一されたことになる。
そうして、3世紀における前方後円墳体制の成立と3世紀年号鏡の分布はそれを示す「決定的な」証拠w
もう九州説は詰んでるんだよw
352 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 17:30:43
>>351 3世紀に西日本が統一されていたなんて本気信じてる学者はいない。
353 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 17:31:39
>>352 あんたが読んでる学術書をあげてみろよw
355 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:50:35
>346
お前の説だということに早く気づけよw
356 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:51:43
>3世紀における前方後円墳体制の成立
この成立が「3世紀」とする時代推定の根拠からして、強引過ぎるわけよ。分かる?
>3世紀年号鏡の分布はそれを示す「決定的な」証拠
まるで意味不明。
>>351さん、ガンバレ!
357 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:51:57
「古墳が大きいから邪馬台国は畿内です」ってもう聞き飽きたよ
358 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:53:21
>>351 「統一」というより「30カ国の宗主国」だわな。邪馬台国は。
邪馬台国が畿内にあったとすれば、
通りにある中国地方ならびに北九州は邪馬台国同盟下にあったことになるが、
それ以外の地域はなんともいえない。
359 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:54:29
世界各国で、「邪馬台国は畿内です」って言ってるのは
一部の困った日本人だけだな。
360 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 19:55:41
最近は九州説のほうが下火だね。
簡単な例だが、
秀吉の九州平定以前に九州の戦国大名は、大陸や南蛮と盛んに交易を行ったが
彼らは秀吉の支配下にあったといえるのか?
墓や城の様式は似てるし、秀吉も交易は行っているぞ。
邪馬台国を大和と認めると、記紀の記述を否定することになるからね。
特に天皇家の万世一系が否定されてしまう。
だから近代日本では絶対に大和説は受け入れられなかったし、
戦後の学会もその風潮を継承しているんだ。いわば菊のタブー。
まあこれはタブー中のタブーだから表では語られることはないけど。
しかし当事者の奈良県民たちは、どう思ってるんだろう・・
邪馬台国を九州と認めると、記紀の記述を否定することになるからね。
特に天皇家の万世一系が否定されてしまう。
だから近代日本では絶対に九州説は受け入れられなかったし、
戦後の考古学会もその風潮を継承しているんだ。いわば菊のタブー。
まあこれはタブー中のタブーだから表では語られることはないけど。
365 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 21:35:04
阿蘇山や金印にビクビクして、糞レス連発の畿内説哀れ・・・
366 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:04:48
>>361 で、大陸や南蛮から当時「日本国王」と認めた存在があったと言う記録が出てきて
じゃあ九州の大名をそれに当てはめるのか?って話だな。
江戸時代で言えば長崎を日本の首都であったとするか?
南蛮渡来の日常品レベルの遺物がわんさか出て来たとして・・・
367 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:06:33
>>364 は九州説の御開祖 本居宣長すら知らない厨房w
368 :
九州説がこの先生きのこるには:2008/05/11(日) 22:12:26
まあ完全決着は無いだろうが、九州説が昔日の勢いを取り戻す為には・・・
(1)時代が一致し邪馬台国である蓋然性が高い遺跡が出てくる。
(2)弥生末期〜古墳時代初頭において、政治的力を失いつつあった九州に
例え数十年の一時的であっても勢力を盛り返したいた痕跡が出てくる。
こんなところかな?
少なくとも魏志倭人伝や記紀の文献考証で逆転劇が起こるなんてことは無いだろうwww
369 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:20:06
畿内はないから大丈夫w
★魏志倭人伝
「その(女王国の)南に狗奴国あり、男子が王となる。その官は狗古智卑狗がある。女王に属さず」
「女王国の東、海を渡ること千余里。また国あり、皆、倭種」
↓
↓
↓
↓
★後漢書倭伝
「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆、倭種といえども女王に属さず」
370 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 22:51:12
漢籍読めば、邪馬台国は九州しかありえないのに、
邪馬台国には巨大古墳などさっぱりなのに、
「古墳がデカいから畿内」
「古墳がいっぱいあるから畿内」
「鏡が出てくるから畿内」
・・・もう馬鹿かとアホかと・・・
371 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 23:00:59
>>370 × 漢籍読めば、邪馬台国は九州しかありえないのに
↓
○ 漢籍読めば、邪馬台国は九州のはるか南方、太平洋上しかありえないのに
372 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/11(日) 23:18:13
>>371 倭人伝の日程を一本の引き伸ばした糸曲線と考えるのは間違い。大陸
から半島を通り北九州上陸までは大陸人も情報が来ていてどう行く
か知悉していたから即一本線的に行けたわけで、北九州から以南は
どいう所か不明なので、遣使を兼ねて探索してみようと内陸に入って
右往左往し、疲労困憊を重ねながら準密林を薮蛇の恐怖を持ちながら
さ迷っていたところ日を重ね、ある日たまたま前方が開けて木造建築
群の国を発見した。遣使らは大喜びでその国の住民と手まね等で会話し、そこが卑弥呼の統治する邪馬壹国と知った。異国民との歓迎も
あってか長く滞在をして女王国を見聞し、卑弥呼の詳しい情報を得て
から帰途についた。もっと滞在したければ二月三月でもかまわん
わけで、陸行一月はおかしくはなく合理的数字なわけで、一本線的に
伸ばして測る愚は早急に捨てたほうがいい。
373 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 00:05:08
なんだか九州王朝スレと間違えてる人がいるお
だって、邪馬台国を大和と認めないのは、
邪馬台国が、九州王朝の王が支配していた国
だったんだもの。
邪馬台国の後身が隋の時代にも存在していて、
そのすぐ近くに、阿蘇山があったんだもの。
377 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/12(月) 01:41:24
邪馬台国は九州であることには間違いない。
隋書に書いてある。
反論できるなら反論を試みなされ。
@『其南海行三月、有tam[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里』隋書百濟伝
『明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中』隋書俀國伝
百濟の南海行三月にtam[身冉]牟羅國があり、それtam[身冉]牟羅國は齋州島である。
齋州島は横長四辺形(東西長千里、南北長数百里『南北千餘里東西數百里』)である。
A『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海』隋書俀國伝
俀國は縦長四辺形(東西長三月行、南北長五月行『國境東西五月行南北三月行』)であり、周囲は海である。
これは俀國が九州島であることを示している。
B『其地勢東高西下都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。』隋書俀國伝
東が高く西が低い地形のところに邪靡堆の都があり、邪靡堆は魏志倭人伝の邪馬臺國である。
結論
隋書「俀國の邪靡堆」も魏志「倭人の邪馬臺國」も九州であると述べているのだよ。
理解できたかね?
378 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 02:23:14
>>376 松本清張の起こした邪馬台国ブーム・・・これは市井のマニア達だったんだろうけど
吉野ヶ里ブームの時には考古学者でも九州説に転向した人がいたらしいよw
( 「邪馬台国を巡る諸問題」直木孝次郎 )
379 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 07:55:07
>>371 >漢籍読めば、邪馬台国は九州のはるか南方、太平洋上しかありえないのに
↑
アホの畿内説論者の考える邪馬台国の位置、東と南を変えて畿内説。
380 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 08:00:15
考古学者は邪馬壹國に付いては何も言っていない、
中には個人的に畿内や九州だろうとの発言もあるが、
個人的見解で考古学的調査結果に基づくものではない。
381 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 08:12:43
そら、ここが邪馬台国ですという
確実な遺物が出てこない限り無理だろう。
卑弥呼が貰ったとされる「親魏倭王」の金印が
どっかの王墓から出てくるとかね。
382 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/12(月) 10:41:44
>>381 確実な遺物が出てこなくても、
隋書に書いてあることが嘘でない限り、
邪馬臺國は九州にあったことになる。
383 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 10:48:07
九州が東西五月行な訳ねぇーだろプギャ
384 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/12(月) 11:25:25
>>383 >>377をよく読め。
百済から済州島へは南海行三月。
九州島の東西幅が三月行、南北幅が五月行。
地図で距離比較をしてみろ、概ね一致するだろう。
385 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 11:53:14
>>384 東西五月が南北五月にすり替かわってる。
wikipedia見ているのですが、旧大和国付近でヤマトに近そうな地名が全く見あたらないのですが
候補地名はなにかありますか?
山門郡大和町(現柳川市大和町)の大和町は明治に成立しているので、古地名ではありませんが
山門郡は古い地名です。
大和(だいわ)をいつ頃から”やまと”と呼ぶようになったのか興味があります。
大和表記の地名はもともと、”だいわ”に近い発音で、後に何らかの意図があって、”やまと”に
切り替えられたのではないかと考えて、調べています
考古学者にお尋ねしたいのですが(2チャンなんか見るかな?)、
考古学で、邪馬台国近畿大和説が優位だと判断する場合に、
予断はないのでしょうか。つまり、近畿説にそぐわない資料は
故意に(または無意識に)見逃すとか、九州説に都合のよさそうな
資料は、とりあえず脇に置いておく、といったようなことです。
(現在どうなっているのかフォローしてませんが、絹の出土とか、
炭素14による測定とか。・・が、個別の詳論については問いません。)
388 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/12(月) 12:59:09
>>385 >東西五月が南北五月にすり替かわってる。
だから、
>>377をよく読めと書いたんだ。
@をよく読め。特に原文をよく読め、Aをも。
済州島の形(地図で東西に長い横長四辺形)が、
南北千餘里=東西長千里、東西數百里=南北長数百里だから、
九州島の形(地図で南北に長い縦長四辺形)が、
東西五月行=南北幅五月行、南北三月行=東西幅三月行である。
理解できないか?
すでに理解できているな。
389 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 13:14:52
>>388 >>377をよ‐く読んだから言ってるんだわwww
同じ隋書東夷伝の中でtam牟羅國とtam羅國を同一済州島でつか?wwww
390 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 13:20:50
>>382 魏志をよんでも九州説だと読めないから
未だに学者すらもめてるんだろwwww
391 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 13:36:29
馬鹿のひとつ覚え
「奈良に邪馬台国があるべきだ」
近畿説の根拠って、これだけなんだよね〜
392 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 14:55:57
いや、やっぱり3世紀頃の繁栄度だろ。
日本を代表する政権つーか、最大勢力が大和なんだと。
大和朝廷とのつながりも東征東遷の「神話」なしでいけるし。
ま、もっと古い時代に東征があったとしても。
文献から正確な判断ができない限り学者としてはわりとスタンダードな態度だと思うけど。
つーか、学者ってまだ位置比定の論争やってんの?
一般向けの本とか書いてる人以外で。
位置比定をせずに、細分化された自分の仕事を黙々とやってるんじゃ?
393 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 15:41:11
学者はこんなことの論文書いても今さら学位なんかとれないから
もっと重箱の隅つついたような誰も書いてない歴史的問題や考古学的問題の
論文を書いている。
素人でもとっつきやすいオーソドックスなところはどうでもいい。
「素人でもとっつきやすいオーソドックスなところはどうでもいい。」
たぶん「どうでもいい」ではなくて、きりがないから、一旦棚上げ
しておいて、細かい問題を論じる・ほじくる、のだろう。
良心的な学者は、今の情勢では、邪馬台国の位置論には口を出さない
のが、処世術上の得策なのだろう。
395 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 16:52:16
>>392 その勢力を誇った大和も捨てられちゃったね。天皇一族に・・
396 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 17:17:25
ちくぶ島って知ってる?
397 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:51:51
>>356 >3世紀における前方後円墳体制の成立
>>この成立が「3世紀」とする時代推定の根拠からして、強引過ぎるわけよ。分かる?
じゃああんた聞くけどさあ、前方後円墳体制の成立が4世紀であるという根拠を知ってるのかよ?
398 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:52:57
それからもう一度聞く。
>>356 おまえ今までどんな学術書読んだのか?
もはや、道程の記述をどう探ったって正解は出ない。
で結局、畿内説の根拠って「七万余戸」と「径百余歩」だけだろ?
元々ある考古学的史料を無理矢理に都合の良いように当てはめたり、年代を改竄したり、
新たな発掘はなんでもも畿内説に合うように推定したり、八百長ばかりじゃないか。
風俗の記述や、倭人伝以外の文献、その他状況証拠からは、九州以外考えられない。
畿内説信者は大和朝廷の開祖は大和であるべきで、九州から発展移行したり
よもや九州勢力に占領されて居座られた末裔が大和朝廷であるとは、とうてい認めることができない
固陋な人達なんでしょ。
400 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 20:57:06
頑張って発掘しても大した遺跡が出土しない大和地方。
それでもチッポケ遺跡を過大に評価して邪馬壹國は大和地方だと強弁する畿内説の学者。
魏志倭人伝の解釈も畿内説は支離滅裂。
文献の上からも、考古学的な遺跡の研究からも邪馬壹國が北部九州に有った事は確定。
日本は、人口1億数千万人、首都は東京、代表的都市は札幌、仙台、名古屋、大阪、福岡・・・
邪馬台国連合は、人口7万余戸、中心は邪馬台国、支配域は○○国、・・国、・・・
7万余戸に拘るってことは、東京の人口が1億数千万人だと言ってるのと同じなんだぜw
なっ、ばかばかしいだろ?w
402 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 21:57:25
既に、道程の記述で回答は出ている。
邪馬壹國連合は、人口七萬餘戸、中心都市は奴國、王都は伊都國、支配域は北部九州一帯です。
403 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 22:24:56
>>398 「ガクジュツショ(笑)」ばかり読んでるから
刺青をしているとか潜水漁をしているとか野菜のこととかが分からなくなるんだよw
>>397 元々4世紀で評価が定まっていたものを、やれ「○○法」だとか言い出して
設備が整った実験施設でなければ証明できない(反論できない)のをいいことに
どんどん時代を古くさせていくのが、最新の考古学的成果ですか?
「年代測定で最も確実で安定しているのは、やっぱ地層だなw」
さて、誰の言葉でしょう。
405 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:19:44
しかし何だな・・・
ここで九州説(九州王朝説)言ってる連中って
何故、以前は「古墳時代始まりは3世期末か4世紀初頭」と言われていたのかその理由も知らず
何故、今日九州説が部が悪い状況にあるのかも知らずに喚き散らしているだけだなwww
406 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:21:35
その理由は?
407 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:42:21
>>403 ギャハハハ。カミングアウトですか。
おまえの頭じゃ学術書も論文も読めねえよな
バーカバーカ。
408 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:45:54
>405
邪馬台国の記述に出てくる古墳は、なんとたったの一つだけです。
古墳だらけの畿内で、古墳を根拠に邪馬台国が見つかる可能性はゼロですね。
409 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:46:28
>>404 あのさあ。
これ基本中の基本なんだけど、
年輪年代学が応用される前は、考古学において「絶対年代」を決めることが非常に困難だったって知ってる?
かつて言われてた(つまり20以上年の)の数字は最近の繰り上げた年代より全然信用度に劣るって知ってた?
410 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:48:07
>>406 本当はこのスレの九州説のアホどもに調べて欲しかったんだが
どうせ調べないだろうし、自分に都合がよい物だけは
>元々4世紀で評価が定まっていたものを」
なんて言うだけだろうからw一度だけ書いておく
以前は「古墳時代始まりは3世期末か4世紀初頭」と言われていた理由・・・・
もっぱら考古学者の小林行雄の説が通説になったらしいが要点は以下の2点
1)祟神の実在は信用できる。
その没年を崩年干支から318年としその古墳を4世紀初頭とする
しかしそのような定型化された古墳に至るに少しの時間がかかるだろう
よって1世代前の3世期末ぐらいとす。
2)小林が最古級と考えた椿井大塚山の三角縁神獣鏡を舶載とし240年頃とする。
またそれより新しい時期の鏡も副葬されており
三角縁神獣鏡が副葬されるまで30年ぐらいの伝世があったろうとし
280年頃を前方後円墳の成立時期とする。
さてさて九州説の連中はこの根拠を鵜呑みにできるのかな?
三角縁神獣鏡が舶載とかwww
ちなみにこの先生にかかったら九州説なんか電波扱いだからwww
全く笑える話wwwwwwwwwwwww
411 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:49:15
阿蘇山や金印無視して
「奈良こそ邪馬台国の地でなきゃ困る」なんて馬鹿どもが、
畿内の古墳やら土器やら、何でも九州より古め古めに算定してご満悦w
412 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:50:03
>>405 いやあ、おっしゃるとおりです。
ここにいる古田亜流の九州説信者の馬鹿さ加減といったら。
こいつらかつて何ゆえに古墳時代が4世紀から始まると言われてた根拠も知らず、
それがなぜ崩れていったのかも知らないくせに、
一丁前の口をたたくんだから何をかいわんや。
こいつらに緻密な思考を要する学術的思考は所詮無理なのさ。
413 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:51:57
縄文時代から米やメロンを食ってた九州と、
鉄器の普及が遅れて半島での戦争準備も出来なかった近畿。
先進地帯はどっち?
414 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:53:17
「卑弥呼がもらった100枚の鏡が、日本で500枚発掘されました」
こういう似非科学が近畿説w
415 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:55:02
しかし、九州説がもはや古田信者しか居ないというのは、笑えるが、
ある意味当然だな。
何しろ古田信者はすでに編年も正確でかなりしんようできる時代の日本書紀に明記してある、聖徳太子の遣隋使を否定できるほど、
デンパで自分勝手な妄想に浸れる人間じゃないとやっていけないということだから。
ここにいるアソサンを連呼するバカも同類w
416 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:55:46
「同じ様式の土器が、別な場所で出土したら、それは同じ年代の証拠です」
・・・近畿説が世界の笑いものにしかならない、一つの例ですw
417 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 00:59:10
邪馬台国の特徴である「錦」などを一切無視して、
邪馬台国記述のなかで瑣末な「古墳」と「鏡」だけを取り上げる近畿説。
世界中の笑いものです。
早く宗教界から、学問の世界に降りてきてくださいw
418 :
410の続きだよんwww:2008/05/13(火) 01:00:23
今日九州説が部が悪い状況にある理由・・・
先ず時代の背景として弥生時代の末期には九州の政治的な優位性が無くなっている事実。
・中国製銅鏡の出土状況
・九州から瀬戸内あたりの土器が出てきてその逆があまり無い
・九州北部に所謂、纏向型前方後円墳がある
・・・etc
そして>410の定説が崩れて古墳時代の始まりが早まってきた事。
ぶっちゃけ九州説を唱えている学者と言うより作家かな?の九州説はそう言った事実を押さえた上で述べられていると思うが?w
分かりやすいところで関裕二の偽僭説とか?wwwwwwwwwww
419 :
ローガン:2008/05/13(火) 01:07:12
お互い一歩も譲らず…
あ!錦ですね。倭人伝に確か倭錦ってありましたね。
あれは、三角鏡の袋ではないですか? ホラ、黒塚で見つかった…
zzzz…
土器・・・かぁ
もう進んでる所は中国青磁になってたんじゃないの
前方後円墳は中国にもあるようだしね
常に先をいってるのはどこだよ、ていう話だよな
C14も加味されれば何が定説なのかもわかるはずだと思うけどね
草はやしすぎ注意
422 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 01:27:44
>>415 >ここにいるアソサンを連呼するバカも同類w
日本の首都はフジヤマがあってゲイシャがいるところですw
423 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 01:31:53
つうかピンボケ過ぎる馬鹿が多いから言っておくけど・・・
邪馬台国の時代(=弥生末期)の話なんだから
弥生時代通しての九州の先進性とか言っても意味が無いぞw
424 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 01:42:21
その言葉、古墳だけを頼りの近畿説に、そのまま返すよ。
邪馬台国には古墳が一基しか出てこないの。
425 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 04:27:38
邪馬台国がすでに古墳時代に入ってたとかいう前提からして
文献その他のいかなるソースにも基づかない妄想だからね
古墳時代をさかのぼらせること自体何の意味もないのに
426 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 06:23:31
というか、倭人伝の邪馬台国が畿内にあったと考えること自体変だろw
だいたい貢物が生口しかない貧乏な田舎国家なんだぞw
偉大なる畿内大和国家の信奉者はそんなの関係ねぇ〜といわなきゃw
427 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 06:37:38
隋国の役人が、「即ち・・」と随書のなかで、ヤマトに関しての
混乱を断定形で正して見解している。
遣隋使の使者や返礼者としてヤマトを訪れた裴(世)清ら一行の報告
をもって、その混乱も解消した。
「即ち魏志に云うところの邪馬臺なり」
(原文=邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也)
この裴(世)清の来日の件は日本書紀では、推古天皇16年の条で大唐
とされている。
日本書記の編者らは隋から唐への革命による政権移行が確認できてい
なかったことは事実である。
しかし、ヤマト側の中国の認識よりも、隋国の使者が正しくヤマト側
のことを伝えていれば、それでよいのである。
428 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 06:46:47
>>409 考古学に年輪年代学応用は困難。
理由は建物の材料の出来た年代が分かるだけ。
建物出来た年代≠建物の材料の出来た年代だからである。
調査しても建物出来た年代と建物の材料の出来た年代にどのくらいの差があるのか知る術がない。
429 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 06:50:49
>>410 小林行雄←元々畿内説の学者で文学者、考古学者ではない。歴史学者ですらない。
430 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 06:57:13
ワラタ
431 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 07:26:53
>>429 じゃあ 小林行雄 の本業
文学者としての事績はどんなもんがあるん?
432 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/13(火) 07:32:57
>>410 1)
記の崩年干支は60年古い258年説もある。拙者は倍暦計算から259年を算出
している。この説の1年違いだから、記のここの部分に関しては相当正確性
が高いと思える。これから
崇神即位3年=景初3年=239年
だから 景初元年=崇神即位元年=237年 が決まる。
433 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 07:36:19
一応 文学者 小林行雄 の考古学に関する著書ねw
Wikiから
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E8%A1%8C%E9%9B%84 [編集] 主な著書
『弥生式土器聚成図録』正編 東京考古学会、1938-1939年
『筑前国嘉穂郡王塚装飾古墳』 京都帝国大学文学部、1940年
『大和唐古弥生式遺跡]]の研究』 桑名文星堂、1943年
『日本古代文化の諸問題』 高桐書院、1947年
『日本考古学概説』 創元社、1951年
『福岡県糸島郡一貴山村田中銚子塚古墳の研究』 便利堂、1952年
『古墳の話』 岩波書店、1959年
『埴輪』 平凡社、1960年
『古墳時代の研究』 青木書店、1961年
『古代の技術』 塙書房、1962-1964年
『古鏡』 学生社、1965年
『国民の歴史 女王国の出現』 文英堂、1967年
『民族の起源』 塙書房、1972年
『古墳文化論考』 平凡社、1976年
『小林行雄考古学選集』 真陽社、2005年-
434 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 07:47:30
文学者のアマチュア考古学。
如何にして都合の良い証拠を造るかだけの作業。
日本のアマチュア考古学は危ない。
435 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 07:49:28
>>434 だーかーらーあー
本業での業績はどんなもんがあるん?w
436 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 08:00:15
わかったw
文学博士だから文学者とか言って考古学者じゃないとか思ってるんだろw
頭がオカシイの?キミ?w
437 :
:2008/05/13(火) 08:01:09
>>429の「文学者、考古学者ではない。」は、小林氏は文学者ではないといっているのではないでしょうか。
438 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 08:04:27
文学博士で文学部名誉教授だろ、趣味で発掘調査して本書いて自分で考古学者だと言っている人。
439 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 08:47:50
>>434で「文学者のアマチュア考古学。」と、小林行雄が文学者だとして、それを前提にしているんだから
>>429の文意も同じ文脈だろ
小林行雄は畿内説の学者である。
小林行雄は文学者である。
小林行雄は考古学者ではない。
小林行雄は歴史学者ではない。
>>437 はい、終了w
440 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 09:53:20
漢の書には倭国は分かれて百余国とあり、魏志には、いま魏と通じる国30余国とある。
とすると、邪馬台国は、全部で100以上あったうちの、魏と通じていた30カ国の代表にすぎないわけで、残りの70カ国のほうがどう考えても日本における多数派であろう。
日本に古く伝わる漢字音が呉音であることから考えるに、その70カ国は、当時魏と敵対していた呉と通じていたと考えられる。
魏志倭人伝によると、
「その(?
せっかく書き込んだのに文章の途中で鯖落ちしたようだw
魏志倭人伝によると、
「その(女王国の)南に狗奴国あり、男子が王となる。その官は狗古智卑狗がある。女王に属さず」
「女王国の東、海を渡ること千余里。また国あり、皆、倭種」
となっているから、70カ国の分布は、邪馬台国の南にある狗奴国&東にある海を渡ったところにある国々、ということになる。
どう考えても、邪馬台国は九州北部で、狗奴国は南九州にあり、70カ国のうち狗奴国以外の国は本州および四国にあったといえよう。
その70カ国の分布の仕方は、日向に天孫降臨してその後奈良に入ってそこから全国に勢力を伸ばしていった大和政権の支配地の形状そのものである。
なお、邪馬台国は魏に生口10人、承継する台与は生口30人を献じている。
一方、倭国大乱以前の西暦107年(後漢永初1年)に、当時の倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じている。
邪馬台国のあった北部九州よりも、70カ国の中心地であった近畿のほうがどれだけ強大だったかがわかる。
443 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 12:41:49
>>442 >70カ国の中心地であった近畿
そんな事何処にも書いてないので、妄想ですね?
444 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/13(火) 18:30:48
>>389 [身冉]牟羅國=[身冉]羅國 発音も同じ
445 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 20:12:19
>>428 その反論はだめだな。
なぜなら、歴史時代に入ってからも、年輪年代学による年代測定をやったところ、
半分はドンぴしゃの年代をだし、残りはそれより古い年代を出している。
つまり、木造建築のおよそ半分は「新材」を使っていることがわかる。
現在、弥生、古墳時代を通じて、すでに10数例にわたって、年輪年代学による測定が出ているが、
その「いずれも」が旧説より50年から100年古い年代を出している。
これらの「すべて」が転用材である可能性はきわめて低いから、
とりもなおさず、年代繰り上げ、前方後円墳体制が3世紀に始まったことは、
決定的になったといのがう、学界のコンセンサスである。
446 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 20:14:56
3世紀はすでに前方後円墳の時代だった=九州説はほぼ絶望的
年輪より地層だろ?
地質学者の方が年代測定。
448 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 20:17:47
木造建築じゃなく木造物ね
449 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/13(火) 20:17:54
女王は畿内には推古の世まではないよ。
450 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 20:18:25
>>445 バカ過ぎて話しにならんぞな、もしw
>なぜなら、歴史時代に入ってからも、年輪年代学による年代測定をやったところ、
>半分はドンぴしゃの年代をだし、残りはそれより古い年代を出している。
半分はドンぴしゃの年代をだし、残りはそれより古い年代を出している。
半分はドンぴしゃの年代をだし、残りはそれより古い年代を出している。
半分はドンぴしゃの年代をだし、残りはそれより古い年代を出している。
半分はドンぴしゃの年代をだし、残りはそれより古い年代を出している。
アタリマエだろ・・・
452 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 20:46:36
>>451 あんたに中学生でも解ける問題な。
木造物はおよそ半分の確率で新材を使っていることがわかっています
弥生、古墳時代から発掘された13例の木造物が、「すべて」転用材を使用している
確率はいったいいくらでしょうか?
これが答えられなかったら、中学からやり直せw
453 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 20:50:42
>バカ過ぎて話しにならんぞな、もしw
カミングアウトですか?
初歩的な確率の問題も解けないバカのくせに クク
年輪年代法を決定しているサンプルの解釈が
非常に恣意的で、基準そのものが数百年ずれているという
説がある。サンプルの公開で揉めているという文献を読んだが
決着ついたのかしら。
年輪年代とその部分のC14測定すればすぐに決着する問題だと思うのだが
そんな文献知らない?
455 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:06:18
>>452 弥生、古墳時代から発掘された13例の木造物
を具体的に教えて頂けますか?
1つか2つでもいいです。
456 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 00:07:07
考古学者でもそりゃ畿内と九州の二択を迫られれば畿内と答えるだろうけど
積極的に畿内説を支持している人ってそれほど多いのかね?
まあ九州説を積極的に支持する人は更に少ない・・・と言うかいるのか?ww
文献史学と考古学の併用を良しとしない「峻別派」とそれを良しとする「総合派」なる流れがあると聞くが
今現在はどうなんだろう?
素人の俺には学会の趨勢とかは分からんが・・・
でも公平を期して書いておくと考古学が提示するのはあくまで
「2・3世紀の日本において政治的中心が何処であったか?」
であり
「邪馬台国は何処であったか?」
に対するストレートな解答じゃないんジャマイカ?w
「邪馬台国」と「2・3世紀の日本において政治的中心であった地域」がイコールでなければならない。
・・・と言う理屈も無いだろうし。
ただ両者がイコールである方ががそうでない場合より蓋然性が高いであろう事も事実。
458 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 00:18:12
つか 小林行雄は文学者! こんな美味しいネタなんで皆流すんだYo! ヽ(`Д´)ノ
>>429 文学者つっても色々あるよね?
古典とか現代とかどの時代が専門なの?
日本文学とも限らなければフランス文学?ロシア文学?
まさか文学者として著書の1冊も無いの?
論文の一つも無いの?
頼むから答えてくれwwwwwwwwwwwwwwwww
460 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 00:44:36
>>458 小林行雄は神戸工業高等専門学校の建築科を卒業して、
考古学に携わり、椿井大塚山の発掘の前後に京大の
講師になって、以後長らく教授になれず講師を続け、
最後に京大文学部教授のちに名誉教授になった。
461 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 01:30:59
>>457 >ただ両者がイコールである方ががそうでない場合より蓋然性が高いであろう事も事実。
なんでやねんw
途中まではまあ、正論だが、結論がでたらめだなw
462 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 03:12:13
>>461 うーん、まさかそう言うツッコミ方されるとは予想外w
常識の範疇で考えれば直ぐにも分かりそうなもんだと思うが・・・
ぶっちゃけ、じゃあ弱小勢力が巨大勢力をどうやって出し抜いたのか?
巨大勢力は何故それを看過してしまったのか?
「親魏倭王」として冊封する魏の方にしても、何が悲しゅうて弱小の方を冊封せねばならないのか?
事前にリサーチしなかったんですか?審査はどうなってたんですか?
・・・等々幾らでも考えられるw と言うか「親魏倭王」の名と実がどれだけ離れていても無問題なんて考える方がおかしい訳でwww
463 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 07:37:43
2・3世紀の日本に政治的中心があったのか?
464 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 11:30:01
そもそも魏が日本の最大勢力を冊封しなきゃいけない理由もないわな
当時の日本はいくつもの勢力に大きく分かれてて倭の範囲さえも曖昧なんだからな
一勢力の盟主が倭国王を自称しそれを魏が追認したって何ら不思議ではない
政治的中心が考古学で判るとは思えない。
経済的中心らしきものなら判るかもしれないが。
467 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 11:19:47
468 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 13:29:43
ジンギスカンの墓がわからないぐらいだから、考古学だけじゃ無理だよね。
邪馬台国という文字が日本で発掘されたこともないし。
469 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 19:17:38
邪馬壹國は魏に使者を送るくらいだから字を使っている。
3世紀の文字が出土しないのは全て腐ってしまったのか?
又は、出土はしているが3世紀の物と判明していないのか?
470 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 11:46:28
邪馬台国のことを知りたいなら岩手県「八幡平」を掘るべき。
九州とか畿内とか掘ってももう何もないこと分かっただろがw
471 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 11:53:05
九州なら、日田とか宇佐を掘らんといかん。
473 :
シウカラ:2008/05/16(金) 12:24:51
南朝鮮から九州、畿内までが邪馬台国連合の勢力範囲で、中心地は畿内。卑弥呼の出身地は現山口県。ただ、中心地は九州から畿内に移動した可能性あり。未確認情報として卑弥呼の瞳が灰色だった事から、古代ユダヤや物部氏との関係も指摘されとります。
474 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 12:42:42
× 中心地は畿内
○ 701年から中心地は畿内
× 卑弥呼の出身地は現山口県
○ 卑弥呼の出身地は現福岡県
× 中心地は九州から畿内に移動した可能性あり
○ 久米軍は九州から畿内に移動した可能性あり
475 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 13:20:13
洛陽とか許昌とかを掘った方がいいんじゃね?
476 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 13:29:24
>>473 それは倭の範囲、邪馬台国はその一部、
例えば南(熊本?)にも東(中国・近畿・四国)にも倭人の国があると明記している。
更に南の方に小人国、黒歯国、裸国(奄美・沖縄のことか?)
南朝鮮から九州、畿内までが倭国(複数)の勢力範囲で、
中心地は九州。卑弥呼の出身地は現福岡県。
ただ、久米軍は九州から畿内に移動した可能性あり。
未確認情報はいらない。
>>477 >九州から畿内に移動した
重大な謎があるんだが
なぜ?日本列島のほぼ中央にあたる尾張や三河じゃなくて
どう見ても列島中央軸から、ずれてる大和なんかを選地したのだろう?
天皇一族が入植する以前の、先進的な古代遺跡など大和に存在してないのに・・
479 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 14:58:32
平安時代でも、白河の関の向こう側は異世界だからのぅ
480 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 14:59:57
海外戦時代となった九州で、用無し役立たずの退役軍人集団=久米軍が
占領・簒奪出来る土地といったら、畿内のわびしい僻地しかなかっただけ。
481 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 16:02:30
なんか天皇一族とかやめろよ、そういう言い方は・・・
「なぜ?日本列島のほぼ中央にあたる尾張や三河じゃなくて
どう見ても列島中央軸から、ずれてる大和なんかを選地したのだろう?」
これは愚問。これが愚問であることを知らずに「重大な謎」と言う
ような人間は愚物。これが愚問であることを知っていて「重大な謎」
と言う人物は荒らし専門です。
戦争は首都陥落で終了だからな。なるべく朝鮮中国から遠い方がいい
大阪も海が近いから危ない。それなら奈良の奥地に作るのがベストだろうな
尾張三河あたりでは蝦夷に近く、これもまた危ない
484 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 00:24:50
畿内の中で奈良盆地東南部がどうなのか?
・・・と言う問題は色々あるが
大きく畿内という事なら何ら不思議ではないだろう?
瀬戸内と言う海上輸送の大動脈を有する西日本。
そしてどうしても陸上交通の比重が大きくならざるを得ない東日本。
双方に睨みを効かせて、かつ多くの人口を養える平野を直轄地にできる。
仮に尾張や三河に都を置いても畿内に瀬戸内の海上輸送を牛耳る勢力が現われ
かつ『三関』(不破関(美濃国)、鈴鹿関(伊勢国)、愛発関(越前国))を閉められ
「おまえらこっちに入ってくんな」と言われればお手上げじゃん?w
参考Wiki『三関』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%96%A2 余談だがヤマトタケルの軌跡と重ねると面白いかもですwww
マキムクぐらいが邪馬台国だったら、
どんなにスッキリすることだろう。
でもどう考えても、日本書紀の編者たちにすら、
邪馬台国やらヒミコがなんのことか、
判らなかったんだよな。
486 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 08:48:07
纏向遺跡は小規模過ぎて問題になりません。
487 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 13:03:20
近畿説涙目
488 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 14:47:24
中国山地は宝の山だからな。
489 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 15:09:45
>>481 神武天皇と呼ばれた人、一人じゃあ現実的に無理な作業だろうから
>478「なぜ?日本列島のほぼ中央にあたる尾張や三河じゃなくて
どう見ても列島中央軸から、ずれてる大和なんかを選地したのだろう?」
これは愚問。これが愚問であることを知っていて「重大な謎」と言う
人物は荒らし専門の卑劣漢。
491 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 17:41:13
九州から畿内に移動したのが果たして邪馬台国なのか、南で抗戦していた狗奴国だったのかというのも重要な問題だと思う。
狗奴国だと考える人の根拠は
>>442だとして、一方、邪馬台国だと考える人は何を根拠にしているのか?
>>492 違うんだな。
詳しくは夜中に書くよ。
今から野球を見に行ってくるわ。
494 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 17:58:18
495 :
蘇文:2008/05/18(日) 18:21:30
卑弥呼の墓は山口県豊田湖畔安徳天皇陵だよ。そこは実は前方後円墳で、卑弥呼は後円部中央に埋葬されています。埋葬室の4隅にはそれぞれ、高さ80cm程の陶像武人と刀、卑弥呼の横にも刀が2本安置されています♪
496 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 18:32:12
卑弥呼の墓は福岡県か佐賀県だろう。
ひょっとして、地形を利用した塚かもしれない。
笑
498 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 19:08:48
西都原81号古墳:後円部の長さ約33m、前方部が約19m前方部が短くばちの形に開いた纒向型前方後円墳
宮崎大学の調査で2005年5月18日までに、国内最古級と確認された。
築造は3世紀中〜後半とみられ、畿内で同じ型式の古墳築造が始まったのとほぼ同時期。
大和政権の影響下に古墳が広まったとする説に一石を投じ、古墳の成立を研究する上で貴重な発見となりそうだ。
後円部の墳丘付近から土器数点が出土。その特徴から築造時期が判明した。
499 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 19:17:14
邪馬台国の記述に、古墳はたった一つしか出てこない。
古墳だらけの西都原や畿内には、邪馬台国がなかっただろう。
500 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 19:40:59
>>498 まあ纒向型前方後円墳は福岡の那珂八幡とかあるんだが
もし畿内のそれと殆どタイムラグが無く作られたとするのなら
九州説にとっては不都合な真実か?www
恐らく今後九州説を唱えるにしても邪馬台国の時代
既に九州が畿内大和の強い影響下にあった事を前提にしなければならないだろうな。
つうか一応リアルの作家らの九州説はそう言う考慮もあるんだが
この板の九州説は
「邪馬台国は弥生時代の真っ只中」
「邪馬台国は環濠集落」
・・・etc
だからなあwww
501 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 19:47:10
『卑彌呼以死 大作家 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人』
卑彌呼の墓は前方後円墳でなく徑百餘歩の円墳。
奴婢百餘人は何処に埋葬されたのか?卑彌呼の墓の中、それとも別?
502 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 19:53:10
>>500 頭の変なのが出てきた。
3世紀中〜後半九州でも前方後円墳が造られていたと言うことは、
前方後円墳は畿内から発祥したものではなく、
前方後円墳の広がりをもって畿内勢力の拡大とする考え方が誤まっていた事を示すものです。
畿内説にとって致命的な問題です。
503 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 20:08:34
そもそも畿内説と魏志倭人伝とが符合する部分なし。
504 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 20:55:30
505 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 21:03:25
頭大丈夫か?>504
魏志倭人伝のどこに「前方後円墳」が出てくるんだ?
506 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 21:06:51
けんかしなーいwww
507 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 21:33:26
>>504 また頭の変なヤツが出てきた。
>>500は支離滅裂、文章に論理性や説得性が無い、自分勝手な思い込みの屁理屈、知性の欠片も無い。
リアル九州説VSファンタジー畿内説。
畿内説はファンタジーをどうして好むのか?
508 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 22:44:07
畿内説って、柳田國男自身が晩年否定した文化周圏論を、
古代王権に適応しただけの妄想でしょ。
畿内王権が、徐々に全国を支配していきましたっていう単純論。
邪馬台国には卑弥呼の円墳が一つ出てくるだけなのに、
「巨大古墳がたくさんあるのは畿内に邪馬台国があった証拠」
・・・ぜんぜん証拠になってないんだが。西都原厨が笑ってるよ。
509 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 23:12:33
510 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 23:41:03
511 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 23:47:50
僕、卑弥呼の子孫だよ。
by奈良県民
前方後円墳は、韓国、九州、畿内の順に発生した、という説が、
ずいぶん前に(30年以上前?)登場していたのと思うが、
ワシの記憶違いか?
513 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 01:01:15
>>512 韓国のは5・6世紀だったと思うが…
まあ韓国発祥なら畿内よりは九州の方が先だろうねw
>>508 >「巨大古墳がたくさんあるのは畿内に邪馬台国があった証拠」
流石に今そんな事を言ってる奴はいないw
514 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 01:10:49
>>「巨大古墳がたくさんあるのは畿内に邪馬台国があった証拠」
>流石に今そんな事を言ってる奴はいないw
・・・口に出して言わなくても、
こんな図式で主観的に根拠にしてる畿内説論者は無数にいる
[邪馬台国の国力] = [巨大古墳を造営できる畿内の国力]
ゆえに 邪馬台国 = 畿内ヤマト という妄想
邪馬台国の前身国ゆかりの志賀島の金印と、後継国ゆかりの
阿蘇山はぜんぜん目に入らないらしい。
西都原と纒向がほぼ同時代だからな
516 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 01:31:23
まあマジな話し九州説の今の劣勢を跳ね返すには余程の事が無いと無理だろうねえw
一時期ブームを起こした吉野ヶ里も最盛期は弥生中期で末期には衰微していたってんだから。
もし卑弥呼を共立した国々に参画したのならもっと栄えていただろうって話しでw
517 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 01:34:36
>九州説の今の劣勢
負け犬の遠吠えかぁ〜
もうどんどん現実性が遠のく畿内説は涙目
九州の先進性 > 畿内の後進性
518 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 01:47:40
>>517 ほら動き出した電車の中から外を見てると、電車に乗っている自分じゃなくて
外の景色が動いているように錯覚する事ってあるだろう?w
早く目を覚ませよw
> 九州の先進性>畿内の後進性
少なくとも2・3世紀にはその図式が逆転してるんだよねえw
519 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 02:21:26
>少なくとも2・3世紀には
C14で九州の遺跡がドンドン時代を遡ってるって知ってた?
畿内よりはるかに古いことがわかっちゃったんだよ。
>>519 ソースは?
畿内と九州で同じ様式の土器等の遺物を測定した結果が無ければそれは言えないんだぞ?
まあ、どうせいつものように”言い逃げ”だろうがw
それにだ、九州説の場合、むしろ遺跡を新しい年代に持ってきて
2・3世紀頃にも九州が栄えていたとした方が邪馬台国論争においては有利なんだが?
何か根本的に勘違いしてるぞwwwwww
522 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 07:51:09
523 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 08:02:40
>>520 畿内と九州で同じ様式の土器に付着した遺物をC14で測定した結果、九州の物の方が数百年古い事が分かってきた。
従来は畿内で出土した土器で作成した土器の編年を使って九州の遺跡の年代も決定していたので、
新たに年代を見直してみると数百年古くなってきていると言う事。
九州説って全部妄想なんだよね
525 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 11:10:56
>>522 >>441-442を何度も読み返してみたがどこが冗談なのか分からん。
具体的にどこが冗談なのか指摘してほしい。それとも、論破できないから冗談扱いして逃げただけか?
527 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 13:15:08
「魏と通じていた30カ国の代表にすぎないわけで、残りの70カ国のほうがどう・・・」とか冗談じゃなかったの( `∇′)∠))) キャハハハハ
>>527 漢書地理誌には倭国は「分かれて百余国となす」と明記されているんだが、おまえは単純な引き算もできないのか?
そういえば旧唐書には、倭国伝と日本国伝とがそれぞれ独立して書かれてるな。
日本国はもと小国だったが、倭国の地を徐々に併合して大きくなったらしい。
530 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 15:01:20
>>528 100国から30国へ統合が進んで国の数が減ったもの(・3・)
チミの考えは変
>>530 統合が進んだなどと記された歴史書は存在しない。
桓帝・霊帝の間、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も王がいない状態が続いていた、とは書かれているが、西暦にして178〜184年の間。
たった6年の戦乱で、100以上あった国が30まで減るものか?
古代、日本にヒトラーのような暴君現れ、わずか6年にして70ヶ国を侵略・併合した。
かの暴君の名を神武と称する。
533 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 15:25:17
桓帝・霊帝の間は、西暦にして146〜189年の間。 43年間。
529=532か?
それこそ冗談だろw
>>533 「桓帝・霊帝の間ずっと」とは書かれてない。
その43年の治世のうち具体的にいつ倭国の大乱があったかは、梁書東夷伝その他多くの資料に明記されている。
それによると、西暦にして178〜184年の間だそうだ。
536 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 15:36:14
梁書によると、光和中(178−184年)に卑弥呼が共立され倭国の大乱が収束に向かったと書かれている。
光和中は霊帝の統治の年号。
修正しよう40年ほど倭国の大乱が続いたと。
仮に40年だとして、たったそれだけの期間で100余国が30余国に減るとは思えないな。
その1000年以上時代を経た戦国時代においてすら、鉄砲伝来により織田信長が急伸するまでまるで国の数は減らなかったというのに、
弥生時代の武器で、移動手段も限られる時代に、たった40年でそんなに統合できるわけがない。
538 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 15:41:36
書いた人の頭の中にあるのが、自国内の
宦官の横暴〜黄巾の乱〜戦乱〜
なんだから、そのイメージで書いちゃうんだよ。
臣下の身としては、皇帝が代わる代わる軍閥のおもちゃにされ続けてているんだから面白くないわな。
539 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 15:54:39
>仮に40年だとして
40年ほどなんですけど(^^;)
>100余国が30余国に減るとは思えないな。
日本の戦国時代を例にするなら、戦国時代が始まる以前の守護大名で最後まで生き残った大名は殆どいない。
薩摩の島津氏ですら生き残ったのは本家ではない。
40年も戦乱が続けば勢力図は大きく変わりますよ。
>>536 倭国の大乱の終息が光和中だとして、始期がいつか分からなければ40年ほどとは言えまい。
魏志倭人伝は、男子王の系統が70〜80年経過した後に争乱が起こったとしている。
倭国が初めて中国の歴史書に登場するのは後漢書東夷伝、「安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」」というもの。
永初元年は西暦107年。もちろん即位したのはそれより前だが、西暦100年だとして、その70〜80年後は西暦170〜180年。
長く見積もっても、倭国大乱は西暦170年に始まり、西暦184年までの14年間の乱だったにすぎないのではないか?
ミスった。
×倭国が初めて中国の歴史書に登場するのは
○倭国の王なる者が初めて中国の歴史書に登場するのは
源平合戦は何年続いた?
30や100どころか、全部代わったぞw
543 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 16:04:51
『桓帝・霊帝の間、倭国は大いに乱れ』と書いているんだから
桓帝の在位146年〜167年には倭国大乱始まっているんですよ。
短くとも30年は続いたでしょう。
>>542 もともと平氏によって統一されていた知行国の統一者が代わったのであって、統合したわけではない。
>>543 計算が合うためには少なくとも70年前に男王の統治が始まっていなければならない。
167年とすると、その70年前は西暦97年だから、かろうじて計算が合う。
よって、倭国大乱は西暦167年に始まり、最大で西暦184年まで続いたことになり、17年間か。
>>544 じゃあ、100というのも全部が100通りの独立国ではなく
A系30、B系50、C系10、完全自律10とかかもしれん。
C系がB系を討てば、一気にまとまるだろ。
>>543 >>545 勝手に決めるなよ。
「桓帝・霊帝の間、倭国は大いに乱れ」→「相攻伐して歴年主なし」
「桓帝・霊帝の間、倭国は大いに乱れ」のうち、事態が進んで「相攻伐して歴年主なし」に至ったのは後半の限られた時期であって、
その「相攻伐して歴年主なし」に至った時期というのが、梁書東夷伝によると後漢の霊帝の光和年中、つまり178〜184年の間なんだが。
結局、戦乱はこの6年間だけだというのが歴史書の明記するところだ。
548 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 16:20:01
なんだか大乱の期間を和解交渉してるみたいでワロタ
549 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 16:20:03
建武中元二年(57年)に光武帝から印綬を受け男王の統治が始まっている、80年間男王の統治が続いたとして足して137年。
『桓帝・霊帝の間、倭国は大いに乱れ』と書いてあるが、それ以前より乱が始まっていた可能性も高い。
>>549 それは倭の王ではなく、倭のうちの奴国の王。
むしろその記事は、少なくとも西暦57年にはまだ男王の統治が始まっていないことの決定的証拠。
551 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 16:23:34
552 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 16:25:19
>男王の統治が始まっていないことの決定的証拠。
( ^ω^) 何で?
>>552 倭の王が存在しているのであれば、その倭の一部分である奴の王が勝手に中国に独自外交できるわけがない。
554 :
(´・ω・`):2008/05/19(月) 16:32:14
倭奴國が金印を貰って倭奴王國となった。
倭奴王國=倭の王。
>>554 もしそうだとして、じゃ、倭全体には主はないことになるね。
「暦年主なし」に先立つ男王の時代のはずなのに同じ状態だってことになって矛盾してね?
>倭の王が存在しているのであれば、その倭の一部分である奴の王が勝手に中国に独自外交できるわけがない。
↑
全く根拠がない妄想
>>556 とうとうファビョったかw
こんなに早く勝負がつくとは思わなかったw
558 :
(´-ω-) :2008/05/19(月) 16:40:15
倭全体の主は倭奴國王。
お隣の中国でさえ、漢の皇帝がいて形式上統一王朝だけど
魏呉蜀が独自に外交していただろ?
日本だって後の時代だが、「九州王朝?」と思わせるような
九州の誰かが交流していた痕跡もある。
なんで、当時の九州が、「(統一w)倭王」の命令がなければ、なにもできない強固な中央集権なんだ?
560 :
(´-ω-) :2008/05/19(月) 16:49:25
>>553 倭奴國が金印を貰って倭奴國王となり、倭全体の主となる。
倭奴國王が倭國王のこと。
奴の王は始めから存在しない。
奴国が中国に勝手に朝貢するのは構わんだろうが、
別に倭国王がいたら、中国は倭の奴の国王などには冊封せんということだ。
最初の「倭国王」はAD107の帥升じゃんフツー。伊都国中心の北九州国家だな。これもフツー。
で70〜80年後の倭国大乱を経て、大和の邪馬台国中心の広域倭国ができた。中学生でも知ってる常識じゃん。
562 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 18:23:43
目茶苦茶言ってる
563 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/19(月) 18:25:58
ww
564 :
(´-ω-) :2008/05/19(月) 18:37:35
建武中元二年に、倭奴國が印綬されている。
印綬とは漢から王に任命され冊封されたことを指す。
倭の奴の国など、博多湾の小国を王とは言わない。
倭で王に冊封されることは全ての倭の統治者、倭国王に冊封されたことを意味する。
倭奴國王が倭国の王なのだ(57年)。
で70〜80年男王の時代が続く。
そして最初に名前が出てくる「倭国王」が帥升(107年)。
で倭国大乱を経て、卑彌呼が共立され伊都国中心の北九州国家の邪馬台国ができた(180年ごろ)。
(250年頃)卑彌呼死亡。老衰だろうな。
チミは中学生も出てないの( ´H`)y-~~
565 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 18:51:11
目茶苦茶言ってる
倭王に冊封されたのなら、金印の盤面にも「親魏倭王」ならぬ「親漢倭王」と彫られてるはずだわな。
倭王ではなく倭奴国王として冊封されたからこそ、そう彫られているわけだ。
567 :
(´-ω-) :2008/05/19(月) 19:24:23
倭奴=倭、倭奴国=倭国、倭奴国王=倭国王。
「親」は無理にはいらん。
『漢委奴國王』で「漢の倭国王」の意味。
奴国のような小国が冊封をうけることができたのは、ちょうど武帝が衛氏朝鮮と南越国を滅ぼして一旦冊封体制が消滅したあと、改めて復活させようと試行錯誤していた時期だったからだろうな。
569 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 19:29:59
無茶苦茶だな
570 :
(´-ω-) :2008/05/19(月) 19:52:13
571 :
(´-ω-) :2008/05/19(月) 20:25:09
>>567 (´_`)y〜〜史書には倭奴国と倭国王しか書かれていない、奴国王なんて何処にも書かれていない空想の産物。
『漢委奴國王』は倭奴国か倭国王の事を指すとしか考えれないが、
倭奴国が金印を貰って倭国王になったこ考えると『漢委奴國王』の文面は理解できる。
572 :
日本@名無史さん:2008/05/19(月) 20:51:39
金印なんて江戸時代に作られた偽物!
それだって矛盾は解消できるよなw
573 :
(´-ω-) :2008/05/19(月) 21:14:12
( ^ω^)見苦しい金印偽物説。
須玖岡本などの奴国の遺跡の様相を見れば、小国などと侮ることはできないと思うが
須玖岡本D地点の内容や青銅器生産の集中、遺跡の規模などを分かってて言っているだろうか?w
575 :
(´-ω-) :2008/05/19(月) 21:50:37
>>574 この辺は昔、毎日通勤で通っていたな・・・。
576 :
(´-ω-) :2008/05/20(火) 11:01:16
通説の解釈は金印抜きに考えても強引だよな。
永初元年(107年)急に出てくる帥升は何時冊封されて『倭國王』になったと考えているんだろう。
建武中元二年(57年)に冊封を受けたのは『倭奴国』だから、『倭奴国』の王が漢より冊封されて『倭國王』になったと考える以外ないだろ。
この間50年、帥升は冊封を受けた本人か子孫だと普通は考えるわな。
『倭國王』てのは漢の役職だから任命した事を明記する、『倭國王』任命記事なしに急に出てくるはずが無い。
しかも、奴国王とか訳の判らない者を創造して呆れる( ´H`)y-~~
「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。」
「倭奴國」が「倭國」の全部ではなく、「倭國之極南界」であることは明記されているのだが。
578 :
サガミハラハラ:2008/05/20(火) 12:33:56
つまり現日本領土のうち、委奴国の南は倭の領域であっても倭国の領域ではないということです。
倭と倭国は同一ではないようなのです。
倭の中に倭国があり、その中に委奴国があったわけです。
奴国の中心地であったとされる須玖岡本遺跡の王墓は弥生中期後半のもの。
その後この地にはめざましい厚葬墓は現れていない。
金印の王の墓は未発見と思われるが、以後も奴国が北九州倭国の中心ならばもっと継続的に王墓が発見されてもいいはず。
対し伊都国があったとされる前原市は、三雲南小路(BC1C〜AD0年頃)・井原鑓溝(AD1C〜AD100年頃)・平原(AD200年頃)と二百年余りに及ぶ厚葬墓が発掘されている。
北九州の中心が奴国から伊都国に遷ったことがうかがわれる。
こんな「基本的な考古知識」も踏まえず、たった数行の文献いじくりまわしてるだけじゃね・・・
土地の古老の述懐によると卑弥呼は色白で声はハスキー意外に大柄
(一次資料)
日本初の(女)王・卑弥呼って、鬼道の巧者だけあって
霊神でみたいな存在だったんだろうな・・。宜保愛子級か!?
583 :
(´-ω-) :2008/05/20(火) 18:15:06
>>577 >「倭奴國」が「倭國」の全部ではなく、「倭國之極南界」であることは明記されているのだが。
「倭奴國」が「倭國」の全部ではなくとも、「國王」に冊封されれば「倭國」の全部の王となる。
古代国家「倭國」は中央集権国家ではない、「倭奴國」が他の国々を従えた封建的な国家だ。
光武帝が金印を授けたのだから、もともと「倭奴國」は「倭國」の中で最有力の国で、他国の倭の国々を支配していたのだ。
脳内産物だけだとホント説得力がないな。
>>580への反論期待したんだが・・・
九州説って考古学の成果には「三猿」だな。
マキムクや出現期前方後円墳だけにかと思いきや、九州の遺跡にまでとはね。
585 :
(´-ω-) :2008/05/20(火) 19:43:34
>>584 奴國は邪馬壹國の中心都市だが王都ではない。
王都は伊都國である。
>>585 大倭王かね?
伊都国が亀岡付近にあったというのが俺の持論。
587 :
(´-ω-) :2008/05/20(火) 20:37:41
倭奴國⇒伊都國
>>586 倭の都、邪馬壹國の都。
588 :
日本@名無史さん:2008/05/20(火) 22:07:15
海┏┛∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
┏┛∵∵帯方郡∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
┗━┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┗━┓▲帯方郡庁∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┏┓┣━━━━┓∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┃┗┛∵∵∵∵┗┓∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┃∵∵∵∵∵∵∵┣━━━┫〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┃∵馬韓55国∵┏┛∵∵∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜┗┓10万余戸∵┃辰韓12国┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵∵∵┏┛弁辰12国┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜┃∵∵┏━┛∵4〜5万戸┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━海
海〜┏┛∵∵┃(投馬國) ┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵
海〜┃『到』狗邪韓國○━┛〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵
海〜┃∵∵┏┻━┛〜〜〜〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵
海〜┗━━┛〜〜〜〜〜〜┏┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜┃∵∵倭種∵┃┗━
海〜┏━┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜┏━━┓━━━━━┛〜┏
海〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵┗━┓〜〜〜〜┏┛
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜『到』伊都國○◎∵∵∵∵∵┃〜〜〜┏┛侏
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓∵邪馬壹國┗┓〜〜┗┓∵
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵26国∵∵┃〜〜〜┗┓
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┏┛7万余戸┏┛〜〜〜〜┗
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┣━━━━┳┛〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┏┛狗奴國∵┃〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜〜〜〜〜〜海
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜海
589 :
:2008/05/20(火) 22:37:33
九州に出来た国が畿内を落とすが、九州を土着の別の一派に奪われた
で済む話じゃね
590 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 00:12:37
>>589 土着って言えば、土着関東住人はヒドイもんがあるんじゃね?
591 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 00:23:42
応神天皇代以降に日本に秦人や前漢人、後漢人がやってきている。
秦人は日本に帰化して秦(はた)氏となった。
前漢人は日本に帰化して漢(あや)氏となった。
後漢人は日本に帰化して東漢氏となった。
秦人は自分達を「我意阿(わいあ)」と呼びあい黄河中部の「河内(かだい)」の主であったことを自慢していた。
漢人たちは初期の劉邦に見られるように漢人には比較的「仁義を誇る漢(おとこ)気」の風情があった。(だがどこか抜けたところもあった)
秦人たちが関西で幅を利かすようになると漢人たちはしだいに東の関東平野方面に移動した。
これが関西人気質と関東人(江戸っ子)気質の違いに表れていると考えている。
592 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 00:33:11
机上空論なんかイラネ
>>588見て思ったんだけど、奴国2万戸って結構大きいじゃん。
奴国だけを冊封するってことがあってもそれほど不自然だとは思えないな。
それに、例えば狗邪韓國を冊封したら自動的に狗邪韓國の王が辰韓・弁辰全体の王になるわけがないわけで、
奴国を冊封したからといって自動的に奴国の王が倭国全体の王になるというのもありえないと思う。
やっぱり70〜80年の男王の起算点は帥升じゃないかな。
生口160人を献上するだけの巨大な権力(卑弥呼ですら生口10人しか献上してない)は、初代倭王と考えなければ納得できない。
594 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 08:42:31
595 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 10:23:28
597 :
(´・ω・`):2008/05/21(水) 18:48:09
>>593 1世紀に冊封されたのは「倭奴國」、奴国は3世紀の邑落の名前で別物。1世紀に奴国が在ったかも定かでない。
「倭奴國」が冊封されたのは「倭奴國」が倭国全体の支配者と漢に認められたから、自動的に「倭奴國」が倭国全体の王となったのではない。
>>594 對馬國、一大國、末盧國、伊都國、奴國、不彌國、有斯馬國、有已百支國、有伊邪國、有都支國、有彌奴國、有好古都國、有不呼國、有姐奴國、有對蘇國、有蘇奴國、有呼邑國、有華奴蘇奴國、有鬼國、有為吾國、有鬼奴國、有邪馬國、有躬臣國、有巴利國、有支惟國、有烏奴國。
計26國
>>597 「倭奴國」が倭国全体の支配者と漢に認められた、という根拠は?
脳内?
辰韓12国、弁辰12国であわせて4〜5万戸ってことは、辰韓と弁辰はそれぞれ2万戸程度。
奴国1国で2万戸もの規模があるのなら、単独で冊封されても全然不思議ではない。
601 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 19:46:34
>>600 辰韓や弁辰は冊封されてないよ(´_`)y〜〜
602 :
(´・ω・`):2008/05/22(木) 21:10:32
>>598 倭国に漢に正式に認められた王は一人しか居ない。
「倭奴國」に金印を授与した後、解任していないのだから金印を貰った「倭奴國」が引き続き倭国王を出していると考えられる、
『後漢書』の記事の続き具合からも「倭奴國」から倭国王繋がっている。
「倭奴國」が金印を授与された事が「倭奴國」が倭国全体の支配者と漢に認められたこと。
50年後に倭国王の帥升がいるのだから、倭国王の帥升は「倭奴國」の後継者。
603 :
(´・ω・`):2008/05/22(木) 23:38:33
建武中元二年(57年)倭奴国が金印を授与され倭国王となる。
↑
永初元年(107年)倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。 男性を王とした七、八十年
↓
桓帝と霊帝の間(146−189年)倭国は大乱。
光和中(178−184年)卑彌呼が共立される。
景初三年(239年)卑彌呼が初めて朝貢、大夫の難升米を派遣し仮の金印を授与さる。
正始元年(240年)帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年)倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年)難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
正始八年(247年)倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援軍を請う。難升米に詔書、黄旗を仮授与。
正始中(247−249年)卑彌呼死亡。
計算が合わないね。
57年の70年後は127年。80年後をみても137年。
よって、この説はありえない。
「桓、靈閨C倭國大亂,更相攻伐,歴年無主。有一女子名曰卑彌呼,年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑衆,於是共立為王。」
てことは、卑弥呼は金印の授受とは無関係に王になってるね。
光和中(178−184年)卑彌呼が共立された以上、倭国大乱が189年までというのはおかしい。
倭国大乱は桓帝と霊帝の間とはいえ、146−189年の丸々争われたわけではないことがわかる。
桓帝が146−167年だから、倭国大乱は最大で146−184年、最小で167年の1年間ということになる。
なお、閧ニいう漢字の意味(「暇」という意)から考えるなら、西暦167年のうち、桓帝が死去して霊帝が継ぐまでの、権力の空白期間だと解するのが一番素直な解釈となる。
桓帝が崩御したのは167年の12月。次の霊帝は12歳の幼帝で、すぐには改元されず、翌168年になってから建寧元年となった。
てことは、桓帝崩御以後の年内は桓帝の年号も使えず、建寧にもまだなってなかったから、「桓靈閨vとしか言いようがなかったんだな。
倭の記事のうち他の記事は全部年号が書かれていることを考えると、倭国大乱も可能であれば年号で示したかったけど、こういう事情があってできなかった、ということか。
【桓、靈閨z西暦167年のうち、桓帝が死去して霊帝が継ぐまでの、権力の空白期間に
【倭國大亂】倭国が大いに乱れた。
【更相攻伐】さらにその後、互いに攻伐するまでに事態は進行し、
【歴年無主】何年も、主のない状態が続いた。
【有一女子名曰卑彌呼】卑弥呼という名の一人の女子があり、
【年長不嫁,事鬼神道,能以妖惑衆】年増にして嫁にも行かず、祖霊信仰の道に仕え、大衆を惹きつけることができた。
【於是共立為王】だから共に立てて、王にした。
これで決まりだね。
さらにいうと、「歴年」が10年を超えると「歴数十年」、100年を超えると「歴百年」と言うのが普通だから、
「歴年無主」の状態は長くても9年間だね。
互いに攻伐するまでに事態が進行したのが仮に3年後の170年だとすると、卑弥呼は遅くとも179年に共立されたことになる。
「光和中」のほうも、光和元年か2年ぐらいだと考えるべきだね。
609 :
(´・ω・`):2008/05/23(金) 15:39:14
>>604>>605 「桓靈陂`國大亂」と書かれているが、中国の皇帝の代に合わせて倭國大亂が起きたのではない。
桓帝と霊帝の間(146−189年)が倭国の大乱のメインの期間で、
実際には10年くらい前から乱は起きていたのであろう。
卑弥呼は金印の授受とは無関係に王になっているが、この期間は中国から見れば自称王、
正式な王となったのは金印を授与さた正始元年(240年)。
>>606 光和中(178−184年)に卑彌呼が共立されても乱が直ちに収まったのではない、徐々に収束に向かい189年頃に終わったのである。
>>607 建武中元二年(57年)倭奴国が金印を授与され倭国王となる。
↑
永初元年(107年)倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。 男性を王とした七、八十年
↓
桓帝と霊帝の間(146−189年)倭国は大乱。
光和中(178−184年)卑彌呼が共立される。
景初三年(239年)卑彌呼が初めて朝貢、大夫の難升米を派遣し仮の金印を授与さる。
正始元年(240年)帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年)倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年)難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
正始八年(247年)倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援軍を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。
正始中(247−249年)卑彌呼死亡。
> 卑弥呼は金印の授受とは無関係に王になっているが、この期間は中国から見れば自称王、
その理屈からいくと、帥升のことを「王」と書いてあるからといって自称王である可能性もあるな。
611 :
(´・ω・`):2008/05/23(金) 16:30:30
自称王である可能性もあるが、
『光武賜以印綬』の直後に『安帝永初元年倭國王帥升』と続くから帥升は正式な王だろうな。
>>611 そこは「自称王である可能性もあるが」で済む話ではない。
自称王であれば倭国と倭奴国とは全く無関係な別国となり、倭国大乱の起算点も変わる。
当然、大乱の期間も全く変わることとなり、100カ国が大乱で30カ国に減ったなどという馬鹿な話もなくなる。
613 :
(´・ω・`):2008/05/23(金) 17:04:02
全体としてみれば
建武中元二年(57年)倭奴国が金印を授与され倭国王となる。
↑
永初元年(107年)倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。 男性を王とした七、八十年
↓
桓帝と霊帝の間(146−189年)倭国は大乱。
光和中(178−184年)卑彌呼が共立される。
景初三年(239年)卑彌呼が初めて朝貢、大夫の難升米を派遣し仮の金印を授与さる。
正始元年(240年)帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
正始四年(243年)倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
正始六年(245年)難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
正始八年(247年)倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援軍を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。
正始中(247−249年)卑彌呼死亡。
で説明が付くからは正式な王だな。
「100カ国が大乱で30カ国に減った」これ馬鹿な話?
>>613 それで説明がつくのは「倭奴国」が「倭国」になったという仮定を置いているから。
しかし、そのように明示された部分はどこにもない。完全に脳内ソース。
「流れ」という言葉を盛んに使っているようだが、その「流れ」が邪馬台国までつながっているのをお忘れか?
で、邪馬台国の記事で、邪馬台国のことを「倭国」と呼ばないどころか、倭種でありながら女王国に属さない国をたくさん明示している。
「流れ」で判断するのなら、「倭奴国」と「倭国」と「邪馬台国」の3つはみな同じ国だということになり、「流れ」で判断せず書かれた文字だけで判断するならその3つはみな別の国。
前者は邪馬台国の記述で矛盾が生じる。よって後者が正しい。
615 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/23(金) 17:40:21
卑弥呼が少なくとも2人いるのだ。
史書後漢書中の卑弥呼と史書魏書中の卑弥呼。
@後漢代光和中(178−184年)王となった卑彌呼。
A魏代220年以降に王となった卑弥呼。
筑紫国の祖である卑弥呼は、617年に300年前と書かれた(「聖徳太子伝暦」推古二五年条)
魏代220年以降に王となったAの卑弥呼である。
616 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 18:19:17
倭奴国=倭国の一部(極南界)←金印を授与され冊封される
倭国=生口160人を献上して安帝に拝謁を願うが叶わず
邪馬台国=倭国大乱後に共立された女王国であるが倭国100国のうち30カ国のみを支配←印綬を受け冊封される
要は、中国にとって倭は大国で脅威だったから、倭の一部を冊封して懐柔し、倭の本体と対立させていたんだな。
夷をもって夷を制する、という、中国が歴史的にずっとやってきたことを、倭に対してもやったまでだ。
617 :
(´・ω・`):2008/05/23(金) 20:04:15
>「流れ」で判断するのなら、「倭奴国」と「倭国」と「邪馬台国」の3つはみな同じ国だということになり
ヽ(・∀・)ノ同意してくれた!
>「流れ」で判断せず書かれた文字だけで判断するならその3つはみな別の国。
そうかな?1世紀の「倭国」の最初の覇者「倭奴国」。3世紀の「倭国」の覇者「邪馬壹國」。
「倭」には「邪馬壹國」以外にも「邪馬壹國」に属さない国が在った。
倭奴国=倭国の一部(極南界)←金印を授与され冊封され倭国王となる
倭国=生口160人を献上して安帝に拝謁を願う
倭国大乱で倭国100国が30カ国になる、
邪馬壹國=倭国大乱後に共立された女王国であるが倭国のうち26カ国のみを支配←印綬を受け冊封される
618 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/23(金) 20:07:44
>>616 下記以外は同意。
>邪馬台国=倭国大乱後に共立された女王国であるが倭国100国のうち30カ国のみを支配←印綬を受け冊封される
後漢より印綬を受け冊封されていない。
魏より印綬を受け冊封された女王國なら、
邪馬台国=倭国乱後に卑弥呼を共立した。
倭國大乱後(後漢代の大乱)の卑弥呼と倭國乱後(後漢末から魏代の倭國の乱・220年前後の乱)の卑弥呼は別人。
619 :
(´・ω・`):2008/05/23(金) 20:15:07
卑弥呼は別人ではない、同一人物。
卑弥呼は後漢より印綬を受け冊封される事はなかった。
晩年になってやっと魏より印綬を受け冊封された。
晩年になっても拘奴国など従わない国がまだ残っており、
卑弥呼の時代は中国に使者を送る余裕がなかなか無かったのだ。
620 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 20:19:08
九州王朝を建てたのは渡来中国人。
九州とは中国の意味だ!
621 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/23(金) 21:02:55
>>619 疑問点
@『桓靈間倭國大亂』と『倭國亂』とは同じものなのか?
A史書である魏書に理もなく後漢漢代の出来事を書いてあるのは異状ではないのかな?
B魏書に後漢代のことを敢て書けるとすれば、曹操が魏公に封じられ(213年)、王位に就いた(216年)以降のことではないのかな?
C漢代光和中(178−184年)王となった卑彌呼は年長。
60年後魏より印綬を受け冊封された卑弥呼も年已長大。
卑弥呼は100歳以上生き続けたのか?
622 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/23(金) 21:06:05
>>618王朝さん
まだまだあまいです。
しかし、「卑弥呼は複数」には同意。
623 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/23(金) 21:12:54
>>623王朝さん
@への回答
『倭國大亂』と『倭國亂』とは別物。
Aへの回答
魏書は魏時を記載するのが主目的ですが、過去の出来事は記載可能ですから
魏書に後漢時の記録を記載してもOKです。が、しかし、魏時以外の時代の記述をする場合、必ずその記事が何時の時間帯であるかを明確に記載しなければなりません。
これは絶対です。
Bへの回答
これはAの回答にて解決済みですね
Cへの回答
>卑弥呼は100歳以上生き続けたのか?
考えるだけ無駄な時間です。
後漢書記載の卑弥呼と魏書記載の卑弥呼は別人です。
625 :
(´・ω・`):2008/05/23(金) 21:48:51
>>621 Cお答え
漢代に卑弥呼は使者を中国に送っていない。
景初三年(239年)卑弥呼が初めて魏に朝貢。
後漢書の記録は景初三年(239年)以後に得たもの。
したがって卑彌呼は年長。
後漢書が5世紀と成立が遅い為に生じた珍現象。
初代卑弥呼、2代目卑弥呼・・
初代天皇、2代目天皇・・
同じだ。
>>625 >後漢書が5世紀と成立が遅い為に生じた珍現象。
五世紀に編纂されようが、二十一世紀に編纂されようが
後漢時の記事を記載するから後漢書。
編纂時期に影響されるものではありませんよ
628 :
(´・ω・`):2008/05/23(金) 21:56:52
>>624 >『倭國大亂』と『倭國亂』とは別物。
根拠の無い判断ヽ(。Д゜)ノ
>>625 >漢代に卑弥呼は使者を中国に送っていない。
陳寿の筆法が読めるようになったら分かりますよ
>>628 >根拠の無い判断ヽ(。Д゜)ノ
十分すぎるほどあるでしょう。
『倭國大亂』と『倭國亂』これが同じに見えますか?
先ずは眼科にご案な〜い(まずは軽いジャブね)
631 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 22:13:37
卑弥呼は役職だったのか
>>631 >卑弥呼は役職だったのか
正確には役職名と言えるかどうかの判断はムズイけど、個人の固有名詞でないことは確かだよ
和語音(ヒミコ)を絶妙(ある意味、芸術)に漢字にて形容されたもの
古代の漢人は「卑弥呼」という文字を見ただけで、卑弥呼と書かれた対象人物の環境が理解できた。
633 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 22:30:13
卑弥呼(ひみこ)=姫彦(ひめひこ)
つまり、祭を司る姫と政を司る彦。
この支配者姉弟を「ヒミコ」と称したというのが真実。
634 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/23(金) 23:14:48
>>628(´・ω・`)さん
>
>>624 >>『倭國大亂』と『倭國亂』とは別物。
>根拠の無い判断ヽ(。Д゜)ノ
『倭國大亂』は後漢代のできごと。
『倭國亂』は何のことわり(理)もなく魏書に書かれているから魏代のできごと。
>>634王朝さん
>『倭國大亂』は後漢代のできごと。
『倭國亂』は何のことわり(理)もなく魏書に書かれているから魏代のできごと。
ピンポ〜ン(同意)
こんな単純な事が理解できない史学の世界。 情けないと思いませんか?
636 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 23:39:06
>>633 祭を司るっていうか、はっきり言って鬼道だろ。
ここもスレ立てていいかな?
スレ主なってもいいかな?
638 :
来蔵:2008/05/24(土) 00:47:56
新しいスレたてようや
639 :
(´・ω・`):2008/05/24(土) 07:55:41
>>634 >『倭國亂』は何のことわり(理)もなく魏書に書かれているから魏代のできごと。
魏書が書かれた段階では『倭國亂』が何時の事なのか確認されていなかったのだ、
後漢書が書かれた段階では詳しい情報が入手出来『桓霊間倭國大亂』となった。
梁書でも『漢靈帝光和中倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子卑彌呼為王』で『倭國亂』。
晋書 漢末倭人亂
隋書 桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主
640 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/24(土) 08:05:50
>>639 河童さんは梁書を信じないそうだよ。話ても無駄だし・・・。
641 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/24(土) 08:53:17
>>639 確認できなかったって、小学生の作文かよ?(小学生に失礼か?)
643 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/24(土) 09:30:24
>>641の補足
しかし太国氏のコメントも、あながち全否定するわけではありません。
私は宗教活動者ではありません。
なので、『梁書』に対し、『信じる、信じない』と言う考えで接していませんので、太国氏の『信じない』とする発言に対し、全否定できません。
確かに
梁書に対し、信じた事など一度もありませんから
あくまで
『信じる、信じない』
という、レベルの話しですが
644 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/24(土) 09:36:25
>>639 >魏書が書かれた段階では『倭國亂』が何時の事なのか確認されていなかったのだ、
>後漢書が書かれた段階では詳しい情報が入手出来『桓霊間倭國大亂』となった。
後漢書・梁書・晋書・隋書では、時を指定して『亂』を書いています。
ですからこれらの史書では、『亂』が後漢のできごとであるとわかるのです。
魏書においては時の指定がありません。
史書である魏書に、時の指定なし(理なし)に書かれていることは、全て魏代の出来事です。
例
『樂浪郡徼去其國萬二千里』後漢書倭國伝
『倭人在帶方東南大海之中』『自郡至女王國萬二千餘里』魏書倭人伝
後漢書倭國伝は魏書倭人伝をコピーしたような内容のある文ですが、
後漢書では後漢代の出来事を書いているので「樂浪郡」としています。
一方魏書では魏代の出来事を書いているので「帶方」郡としています。
後漢代には帯方郡が未だなかったからです。
645 :
(´・ω・`):2008/05/24(土) 09:38:28
>>642 確認されていれば乱の起きた年号が記載されている。
倭人から聞いた倭の歴史を書いたにすぎない。
>>639 そんな情報どっから入手した?
CIA? FBI?それとも 東スポか?
あっ!
たま出版か。
なるほど 了解です(^O^)/
647 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/24(土) 10:01:48
>>645 マジ、初歩からやり直したらいかが?
いくら2ちゃんでも、そのレベルじゃしんどいだろう。
これはイヤミじゃなく
私のこれまでの実体験からの感想だよ
648 :
(´・ω・`):2008/05/24(土) 10:42:53
>>644 魏書においては時の指定がありません。
史書である魏書に、時の指定なし(理なし)に書かれていることは、全て魏代の出来事です。
通常はそうだが、『倭國亂』が何時の事なのか確認されていなかったので時の指定なしに書かれた。
『其國本亦以男子為王、住七八十年』も時の指定なし(理なし)に書かれている。
これも魏の時代の出来事?
七八十年は魏の時代に入らないから前の漢代の出来事と判る。
同じく『倭國亂』も漢代の出来事。
649 :
(´・ω・`):2008/05/24(土) 10:49:33
>>647 河童虫さんも九州王朝大好きも三国志魏書の読み方が足らない。
その時の思いつきだけで発言している。
その通り。発言のぶれは、勉強不足に由来する。
>>648 >これも魏代の出来事
そうだよ
何時も言ってるだろう。
『文字の義は文中にて発生し、文脈に左右され変化する。』
て、
(^O^)/
652 :
(´・ω・`):2008/05/24(土) 11:27:06
>>『其國本亦以男子為王、住七八十年』も時の指定なし(理なし)に書かれている。
>>これも魏の時代の出来事?
>そうだよ
ついに狂ったか・・・orz
653 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/24(土) 12:28:12
>>652 理解力が足りないんだね〜
>>651で説明してるだろう。
『義は文中にて発生し、文脈に作用され変化する』と。
654 :
(´・ω・`):2008/05/24(土) 12:42:38
良かった、良かった
バンザ〜イ。
??(゜Q。)??
656 :
(´・ω・`):2008/05/24(土) 13:48:57
>『文字の義は文中にて発生し、文脈に左右され変化する。』
ふざけるな!
『文字の義は文中にて発生し、文脈に左右され変化する。』
は欧米の理論を輸入した言い換えだろうが、
「言葉の意味は、その意味が多義的である場合には、
文中において揺らぎの幅が変化し」くらいが妥当かな。
引用者は、ふざけていたのでないとすると、理解力が若干
人並みでないと考えられる。
と言うか「記号論」でも気取っているんだろw
>>658 貴方は評論家気取りか?
ついでに
顔文字君の質問には、
>>657と一緒に、貴方が答えてあげなよ
660 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 22:57:42
荒らし報告
論点が錯綜して何が言いたいのか分からない書き込みが多いけど、事のはじめは「倭国大乱」がどの程度の規模のものだったかって話だったよね。
●「倭国大乱」が
>>606-608のいうような規模の乱であれば、それによって国の数が減ることはまず考えられず、その後も倭は100カ国程度に分かれていたことになる。
よってその場合、邪馬台国は倭のわずか30%の国ということになり、九州説で確定する。
(但しその九州説というのは
>>441-442のようなものになるので、九州よりもむしろ近畿のほうが栄えていたという結論になる。)
●しかし、これが長期間に及ぶものだったり、「倭国大乱」と「倭国乱」という2度もの戦乱だったりすると、その結果100カ国の倭国が30カ国に減ったとしても不思議ではない。
とすると、邪馬台国が日本の大部分を支配していたことになり、近畿説の可能性が出てくる。
こういう論点で議論していたのが、いつのまにか後者の説が内部分裂して、「倭国大乱」と「倭国乱」の2度の戦乱があったかなかったか等で紛糾し、
その結果、荒らしだのふざけるなだの評論家気取りだのというくだらない喧嘩になったわけだ。
で、
>>608への反論がないようだけど、これに反論できないってことは、前者の説で決まりじゃないの?
>>636 「鬼神道」です。
中国語で「鬼神」というのは、日本語でいう「幽霊」のこと。すなわち「鬼神道」=「祖霊信仰」ですよ。
>>661 九州説で確定などしないよ。
伊都国丹波説をとれば、近畿勢力は女王国で南九州が狗奴国となる。
つまり伊都国の南、瀬戸内海(河内)沿岸諸国と九州が70余国となる。
このほうが呉と魏の地理を考えても自然。
>>662 伊都国丹波説の根拠は何ですか?
人を納得させる根拠が示せればそれは一説になりえます。
そうでないなら、662の脳内だけの妄想か、あるいは
自分でも信じていないことを言っているか、であって、
662・663は荒らしということになります。
再度言います。
伊都国丹波説の根拠を述べてください。
666 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 12:31:02
667 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 13:16:29
「1000余里」は外国への運行上の予算算定の最低単位では
ないかと考える。
一大国について:壱岐島とするなら対馬からの連絡地としてはあまりに
中途半端なため、ガイドとして紹介した可能性がある
・・・というように、ゼロに近い仮説を積み立てた説である
と受け止めました。よって、妄想に近い一仮説としてお蔵入りです。
>666
七死ドツボでつねwww
>>669 重要な点は末盧國をどこに比定するかという事だよ。
>ゼロに近い仮説を積み立てた説である
きみが自分の固定観念を前提に考えてるだけじゃないかな。
軍や官の文書内容を考えるのに、予算策定を想定するのは当然だよ。
一部の歴史家がその点に無知無関心であることに付き合う必要はないよね。
672 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 16:10:20
>>669>>671 予算算定の最低単位ではないかと考える。
くだらない妄想。
伊都国丹波説はカス。
一部の妄想家の妄想に近い説に付き合う必要はないよね。
674 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 17:58:10
おお、すんばらしい。
荒らしやカスでも、書き込みができて、
おまけにスルーされないスレもあるんだ。
さあ、荒らし諸君、カス説を唱える諸君、脳タリンの諸君、
じゃんじゃん荒らしまくろうぜ。
675 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 19:09:23
というか、なんで邪馬台国は大和じゃないとダメなの?
九州にある悪の帝国である邪馬台国を、近畿にある正義の帝国である天皇家が
滅ぼしたでいいじゃん。邪馬台国が大和じゃないといけない理由が分からない
意味が分からない
>>675 アンタの頭の中の方が、もっと解らない。
677 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 19:20:30
>>674 オメーが下らん事ぬかすから、パッパラパーな奴が湧くじゃねえか。
ボケが!!!!!!
KY
>>677 おじさん、ちがうよ。パッパラパーな奴だけが生息してるスレもあるだろ?
それに比べりゃ、このスレはまだましだよ。
680 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 23:16:19
>>675 逆だろ。
そもそも天皇家一族の先祖は九州から旅だって
近畿の代表国、大和国の豪族たちを征伐してるんだが。
681 :
サガミハラハラ:2008/05/25(日) 23:34:30
そうです。神武の東征は真実です。神武が東にさったのち、九州では邪馬台国が隆盛をほこります。
682 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 23:46:46
>>681 神武の東征が真実として、
神武の東征は何時のことでしょう?
683 :
サガミハラハラ:2008/05/26(月) 00:27:54
神武の橿原即位年はAD131年となります。
皇国史観に基づいた正しい歴史教育の最新に近いレスをごらんください。
理由を明記してあります。
684 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 00:57:50
>>680 それは分かってるよ。
天皇家→日向から東征して畿内に国を作った
邪馬台国→昔から九州にあり、漢や魏に朝貢したり、卑弥呼がいた国
全く別物の国が7世紀後半に邪馬台国が天皇家に滅ぼされ1つになった
これですべて丸く収まるじゃん。なんで畿内説の人は、邪馬台国は畿内にあったと
拘るのかが分からない。天皇の面子も立つに、これが1番自然でしょ
685 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 02:54:27
神武が即位して配下に与えた土地が橿原市+桜井の一部
欠史8代てのは何の事跡もないから欠史なわけで
せいぜい田舎の大庄屋クラスの支配者だよ
686 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 03:37:07
>>685 なるほど。
しかし大和国からは天皇家関連の貴重な遺跡以外は
これっといった遺跡が、見当たらないのはどうしてか?
>>684 7世紀後半である必要はないよ。台与以後邪馬台国の記事がないわけだから直後に滅ぼされた可能性もある。
日本武尊の熊襲征伐あたりが暗示的だと思う。
688 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 08:32:18
そもそも大和ってもともと今の奈良をさす地名かどうかもわからない
689 :
サガミハラハラ:2008/05/26(月) 09:02:55
ヤマトは神武が生まれ育った九州福岡市西区(日向の地名もあり)の地名であり、神武が奈良にいってから、その地名を
移住地につけたものです。
>>687 「台与以後邪馬台国の記事がないわけだから」
ここの箇所が事実誤認。『隋書』を読んでごらんよ。
直後に滅ぼされた可能性はない。
7世紀後半である必要は、あるよ。
692 :
(´・ω・`):2008/05/26(月) 12:38:58
邪馬台国九州説を採ると必然的に九州に7世紀後半まで倭の政権が在った事になる。
現在、邪馬台国九州説が決定的なのに認めない学者がいるのは、九州に7世紀後半まで倭の政権が在った事を認めたくないから。
>>693 >倭国はわかれて百余国
妄想或は誤解。
695 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/26(月) 14:43:24
>>693 「凡百餘國」と「三十許國」の範囲は同じ
『…凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於三十許國』(後漢書倭伝)
自武帝滅朝鮮以降、王朝と往来関係にあった三十国は、自武帝滅朝鮮以前、だいたい百餘と細分形成されていた。
>>695 およそ100余国のうち、使驛の通じる国が30余国じゃないの?
でなければ、わざわざ「使驛」に言及した意味がない。
697 :
サガミハラハラ:2008/05/26(月) 16:04:45
九州の倭の政権が大和に合併吸収(連衡の形か)されたのは290年だったようです。
大和朝廷は垂仁天皇の時代です。7世紀後半まで九州に倭の政権が存在したことはありません。
691 名前:日本@名無史さん :2008/05/26(月) 11:41:04
>>697 「九州に倭の政権が存在したことはありません」
ここの箇所が事実誤認。『隋書』を読んでごらんよ。
290年に滅ぼされた可能性はない。
7世紀後半滅ばされた公算が大。
699 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 16:32:38
>>696 『三国志魏書』倭人伝
『舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國』
昔は百余国在った、
漢代には朝見する者もいた。
今は使訳が通じるのは三十国。
>>699 使訳が通じない国がいくつあるかに言及されてないね。
使訳が通じないから調べようがないってことで触れなかったんだろう。
しかし漢代以後大きな戦乱がなかったと考えれば(
>>606-608のような考え方)、残りは70カ国になる。
701 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/05/26(月) 20:01:07
>>696 使驛は通訳じゃないよ
“使の往来”と考えた方が全体像が掴みやすい。
通訳なら「譯使」、「使譯」じゃない。
>>697 「九州に倭の政権が存在したことはありません」
ここの箇所が事実誤認。『隋書』を読んでごらんよ。
290年に滅ぼされた可能性はない。
7世紀後半滅ばされた公算が大。
703 :
サガミハラハラ:2008/05/26(月) 22:31:24
九州の倭の政権とは、57年に金印を授受した委奴国いらい連綿とつづいてきた王朝です。
その国は3世紀ごろは邪馬壱国となのり、最終的には邪馬台国となり、壱与をもって終息(梁書ではさらに男王が継ぐ)しました。
その後現地勢力で大和朝廷にしたがわないものが散発的に反乱を起こしましたが、とても王朝とか王権とかよべるようなものでは
なかったようです。また伝統ある委奴国につながるような系譜でもありません。
704 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 23:31:03
『隋書』倭国伝
『都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』
九州の倭の政権は壱与では終息してません。
>703サガミハラハラさんの説は
>704に引用された『隋書』の記述に矛盾しています。
このことは、『隋書』の記述が間違っているか、
サガミハラハラさんの説が邪説であるか、
そのどちらかだと言えるでしょう。私は後者ではないかと思います。
おお、すんばらしい。
荒らしやカスでも、書き込みができて、
おまけにスルーされないスレもあるんだ。
さあ、荒らし諸君、カス説を唱える諸君、脳タリンの諸君、
じゃんじゃん荒らしまくろうぜ。
サガミハラハラさんが、この呼びかけに応じられたのであれば、
私としては何も申し上げるつもりはありません。
>>701 どこから通訳の話が出たのか理解できん。
>>696は“使の往来”と考えていると思う。
つまり、およそ100国ある倭のうち、魏と国交があるのが30カ国。
残りの国(
>>700によれば70カ国)は、魏と対立する国(おそらく呉。蜀ではなかろう)と国交があったと推定される。
惜しむらくは、三国志がもう少し公平な立場で編纂されていれば、呉や蜀の外交記録も今日まで伝わっていたものを…
708 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 12:14:14
>708は何度も見かけるが、次のように、判り易い文章にすべきだ。
●●日本の稲作の起源●●
(1)最初の稲作は、早くも弥生前期末に、九州・西日本に伝わった。
それがやがて、北陸や東北にも伝わった。(中国から来たか、
朝鮮半島から来たか、沖縄経由で来たかは不明である。)
(2)第2波(?)の稲(RM1-b遺伝子の稲)は中国から来た。
要するに、稲作が中国から直接日本に伝来したのは確かだが、
これが即「日本の稲作の起源」だとは言えない。
710 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 17:00:32
倭国乱とか更相誅殺當時殺千餘人とかの記述があるが畿内では戦争があった様子は全くない。
一方、吉野ヶ里とか出雲のほうには戦争で死んだ人間の墓がある。
年代が古くて邪馬台国の時代のものではないと言われているが、この吉野ヶ里の首無し遺体の年代が
更相誅殺當時殺千餘人の年代ではないのか?
年輪年代や炭素年代はトンデモであることは確定しているのだから。
>>710は、現代行われている年代観に対する正当な疑問提示であって、
大いに評価すべきです。
この発想に基づいて活動している専門家はいるのでしょうか?
このような発想を持つだけで、専門家になれない、学会で村八分になる、
というようなことは、いかにもありえそうに思えるのですが。
712 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/27(火) 17:43:35
ありえそうな〜。
713 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 19:03:12
「倭国乱」という表現が気にかかる。
日本語の歴史の本で書くときくらい、「倭国の乱」でいいと思うのだが。
なんでも原文どおりにすればいいってもんじゃないだろ。
714 :
サガミハラハラ:2008/05/27(火) 21:44:32
隋書には不可解なところがあります。たとえば、タリシホコなどであるが、これは九州王朝説では九周王朝の王とされているのであるが、
わたしはこの時期の九州王朝の存在は疑問におもっております。
隋書のヤマタイに都すは、ヤマトの聞き間違いであろうとみます。
邪馬台国の大和への吸収は、中国には不確かな情報しか届かず(大和朝廷は統一後中国に使いを送らなかった)
そのため、ヤマトとヤマタイの音が似ているための混同だったようです。
715 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 22:17:18
下九沢のサガミハラハラさん、隋書イ妥国伝ではイ妥国が祷祭を阿蘇山で行っているとありますが、
ヤマトの国が阿蘇山で国家行事をやっているという記録や証拠がありますか?
また、ヤマトの国ではヤマトで制定したことのない九州元号が平然と使用されていることについて、
どう説明しますか?
鵜野森の住民より
716 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 22:24:14
下北沢の相模原さんさん、隋書イ妥国伝ではイ妥国が祷祭を富士山で行っているとありますが、
伊豆の国が富士山で国家行事をやっているという記録や証拠がありますか?
また、伊豆の国では出雲から移り住んだもので、出雲元号が平然と使用されていることについて、
どう説明しますか?
大森貝塚の住民より
717 :
サガミハラハラ:2008/05/27(火) 23:01:30
>>715阿蘇山については魏志倭人伝にはでてきません。阿蘇山が狗奴国にあったがために、邪馬台国中心の倭人伝にのらなかったものとおもわれます。
よって、隋書の阿蘇山の記録は、倭人伝の時代以降に中国につたわったものとおもわれます。
おそらく民間人による伝達でしょう。また、祭も国家的な祭りであるとの確証はないようです。民間での祭でしょう。
九州年号についてはこれからの研究になりますが、九州独立の証拠とはならないと思います。
718 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:06:04
弟の塾の教師が徳島説を語ってたそうだが、
九州説よりは可能性があるからまあいいや。
720 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 23:10:21
>717
国家や為政者の関与しない、民間の習俗なら、全国津々浦々の記述があるはずで、
阿蘇山の祷祭が国家儀礼でないことは有り得ず、説得力に乏しいでしょう。
また狗奴国など一切出てこないのに、イ妥国でなく狗奴国の領土だと断定してはいけません。
九州元号には、継体、大化、白鳳などがあり、これらはヤマトの首長が制定したことはなく、
しかしヤマトでは首長以下が使用しておりました。これは九州王朝の制度のヤマトが
従っていた証拠なのです。
鵜野森の住民より 下九沢のサガミハラハラさんへ
おお、すんばらしい。
荒らしやカスでも、書き込みができて、
おまけにスルーされないスレもあるんだ。
さあ、荒らし諸君、カス説を唱える諸君、脳タリンの諸君、
それに、サガミハラハラ君も、
じゃんじゃん荒らしまくろうぜ。
722 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 00:22:08
721が群を抜いてドカスだなw
723 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 01:02:12
>>710 >倭国乱とか更相誅殺當時殺千餘人とかの記述があるが畿内では戦争があった様子は全くない。
お 前 馬 鹿 だ ろ ?
724 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 01:14:20
阿蘇山。火の民の国。 ヤマタイカってマンガでゆってた。
>>714 隋書のヤマタイに都すは、ヤマトの聞き間違いであろうとみます。
ヤマトとヤマタイの音が似ているための混同だったようです。
>>717 隋書の阿蘇山の記録は、倭人伝の時代以降に中国につたわったものと
おもわれます。おそらく民間人による伝達でしょう。また、祭も国家的な
祭りであるとの確証はないようです。民間での祭でしょう。
ここの「ようです」「でしょう」の箇所は、資料の批判、読み込みにおいて
全く説得力がありませんでした。同様の読み方で魏志倭人伝を認めない人が
主張しているスレもあるようです。
726 :
サガミハラハラ:2008/05/28(水) 12:26:31
混同したという見方のほかに、大和朝廷は古の邪馬台国の名をかたったという見方もあります。
隋書の記載が邪馬台国時代を彷彿とさせるものがあることから、大和朝廷はみずからを、
委奴国以来邪馬台国まで続く倭の正当なる後継者であるとみせるためです。
東国のほうが九州畿内より古墳などの遺跡が多い
これは何を意味するのか?
実は古代日本政権は東国にあった?
サガミハラハラさんが、隋書は極力否定的に受け取られる一方で、
魏志倭人伝の方は通説どおり解釈しておられるらしい、というのが
今一つ理解できません。むろん、仮説を立てたり保持するのは
自由に行うべきですが、「祭も国家的な祭りであるとの確証は
ないようです。民間での祭でしょう。」の箇所も、これで済ませる
おつもりでしょうか?
729 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 15:14:26
>725
中国には、似た発音の国も、まったく同一の別な国もあるのに、
ヤマトとヤマタイほどに異なる発音を聞き間違えるほうが不思議。
阿蘇山が民間伝承だというなら富士山や白山、大山の祷祭を初めとして
無数の山岳信仰行事が載っていなければおかしい。
むしろ、民間行事ではない国家行事の最たるものが阿蘇山の祷祭だった
としか考えられないし、書いた側としてもそういうつもりで書いているはずだ。
>>723によると
>>710はどカスだそうだが、年代観の見直しは、古田が
『ここに古代王朝ありき邪馬一国の考古学』(1979年)で提案している。
C14測定結果の封じ込めに見るように、年代観がぐらついていて
確定的なことは言えないんじゃないか。
731 :
サガミハラハラ:2008/05/28(水) 16:30:04
中国人の頭には邪馬台国という言葉がしみついています。そこにヤマトということばや
邪摩途という字が入ってきた場合、これは邪馬台の誤記であろう、または邪馬台のこととかんがえることも考えられます。
なにも全部がのっていなければおかしいとは思いません。
ようは、載せる側がえらんだものが載るのです。
富士山をしっていたかはともかくとして、阿蘇山は火の山として九州のみならず他国にまでその名と噴火の様子がなりひびいていたものでしょう。
732 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 16:36:50
日本列島は火山列島。ヤマトの都に近い山を記載するのが当然で、
祭りをやっているだけという民間行事なら、全国津々浦々の祭りを
100も1000も記載する必要があるでしょう。
どちらから考えてもイ妥国の国家儀礼を阿蘇山で行ったという記載なのです。
733 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 16:39:37
>邪馬台国という言葉がしみついています
これは誤り。邪馬台国ではなくて邪馬壱国です。
ですから畿内ヤマトの発音とは相容れず異なり、間違えません。
734 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 16:43:01
長年、教職にあったサガミハラハラさんが、
この程度の理解力・判断力もないというのは、驚きです。
日本の教育が地に落ちているのが良くわかります。
735 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/28(水) 18:11:37
邪馬臺國の「タイ」は大倭の「タイ」だよ。
736 :
にんとく:2008/05/28(水) 21:54:50
『隋書』には、西暦600年ころのヤマタイの戸数は10万戸、とあります。
今、古代の人口構成(推計値)を『在野史論』から書き写すと、
750年に、近畿120万、九州70万、近畿・中国・四国・九州合計300万です。
ヤマタイは九州であると考えないと、戸数10万の説明が困難になります。
推計値、隋書の記載等に難癖をつけて、近畿王家が西日本または全国を
統一していたと強弁することよりも、隋書の記載を受け入れる方が、
(たとえ結論が意外であっても)資料の読みとしては正しいと思います。
737 :
サガミハラハラ:2008/05/28(水) 22:39:56
>>732阿蘇での祭に畿内の大和朝廷から使いが派遣されたり御祝儀が贈られたりして、国家儀礼としてとりおこなわれたでいかがでしょうか。
地元でなければというのであれば、タイ国は阿蘇山の麓ということになります。しかし、それはありえません。
738 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 22:56:22
>737
隋書イ妥国伝にはまったく畿内の地名や国名、山河などまったく記載されておりません。
イ妥国の首都にある風景や山河、そこで見られる儀式や民俗を一切捨て置いて、
首都から非常に遠い地の、儀式のみを取り上げて、中国の歴史書足り得ません。
たとえばアメリカ合衆国を紹介するのに、アラスカの山のもとで行われる
イヌイットの儀式を紹介したとして、これが正規の史書足り得るでしょうか?
そんな判断も出来ないような方が、教鞭をとっておられたというのは、
はなはだ遺憾です。
739 :
サガミハラハラ:2008/05/28(水) 23:07:03
飯豊天皇は実在したのか
清寧天皇が崩御後飯豊皇女が摂政となったという説があり、また、扶桑略記や皇胤紹運録には飯豊天皇という女帝を置いています。
しかし、正式の記録には飯豊天皇は存在しません。
古事記と書紀における顕宗天皇の在位年の食い違いからこの年代の天皇の存在が問題となるわけです。
前にものべたように、記紀が完成するまでは、多くの系譜があり、天皇についても、即位を認められない方もいたようなのです。記紀はそれらを統一した書なのです。
つまり、記紀には天皇とされていなくとも、実際には天皇として即位し業務をおこなっていた天皇もあったということです。
となると、隋書のタリシホコもそういった天皇のひとりであったという可能性があります。
隋書には載ったが、記紀では認められなかった天皇です。
このことからも、タリシホコの件をもって九州王朝の存在を論ずる証拠とはできないわけです。
では問題はタリシホコは誰であったかということになりますが、まだ考証にはいっておりませんが、わかりましたらまたこの2ちゃんねるで
お伝えいたします。
740 :
サガミハラハラ:2008/05/28(水) 23:25:09
これは魏志倭人伝を読むときにもいえることであるが、両書とも使者の報告書ではないということです。報告書も資料としてつかった倭国
の紹介文なのです。中国ほ古来九州を中心とした地域と深い関わりがあったがために、
その紹介の内容が九州のことを多くのべるころになったのです。畿内のことがとりあげられるようになるのは隋の時代以降のようです。
かつて北海道の観光ポスターや紹介文にはよくアイヌ人がのっていました。
また外国に紹介される女性はよく振袖姿であるようです。(今でもノーベル賞受賞式には奥さんは振袖(既婚の女性は留袖が常識)をきさせられるようです)
フジヤマ、芸者、腹切りというところでしょうか。
741 :
日本@名無史さん:2008/05/28(水) 23:40:13
「既に彼の都に至り、その王、裴世清と相見え、大いに悦び」
ということだから、裴世清と倭王は倭の都で会ってますね
742 :
ローガン:2008/05/28(水) 23:59:55
>>741 はい、倭王だと認識した人物と朝庭で会ったと考えられます。
なんだか、えんえんと詭弁を繰り広げている人がおられる
との印象を持ちました。ご本人には詭弁という自覚はお蟻
なのかな?
>>743 犯人が必要以上に話すのは、バレることへの不安感からくる補償行為。
自分ではないと強調する為に次から次へ喋らずにはいられないのだが、
端から見ると不自然であることには気が付かない。
一種の強迫観念にかられている心理状態。
745 :
サガミハラハラ:2008/05/29(木) 00:22:13
>>743私は真実しか語らないようにこころがけておるから、上記の詭弁を繰り広げている人とは私ではない。
さて誰でしょう。
「真実しか語らないようにこころがけている」ことと
「(実際に)真実しか語らない」こととの隔たりは、
日本人の無意識を規定しているもののせいなのか、
古代史の領域では特に顕著なように見受けられます。
邪や馬ま台と
大やま和と
正しい読み
748 :
サガミハラハラ:2008/05/29(木) 10:18:30
大にヤマ、和にトという読みはありません。
大和=ヤマトの読みは、新東京国際空港とかいてナリタクウコウと読むが如しです。
大和政権は、大陸からきた騎馬民族系です
邪馬台国も東国の大王国も侵略されその支配下に置かれたのです
それを正当化するために、大和政権は天孫降臨だの国譲りだのの神話をでっちあげたんですよ
750 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 11:28:15
>隋書には載ったが、記紀では認められなかった天皇です。
隋書の多利思比孤、妻の雞彌、太子の利歌彌多弗利は記紀では誰?
>749
東国の大王国が侵略され、神武説話が示す勢力の支配下に置かれた、
という解釈は、記紀の神武説話から読み取れますが、
「邪馬台国が騎馬民族系に侵略され」の部分に、資料的根拠は
あるのでしょうか? 749氏の想像でしょうね?
752 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 11:44:38
>752は判り易い文章にすべきだ。
◎◎日本の稲作の起源◎◎
(1)最初の稲作は、早くも弥生前期末に、九州・西日本に伝来した。
(中国から来たか、朝鮮半島から来たか、沖縄経由かは不明。)
それがやがて、北陸や東北にも伝わった。
(2)第2波(?)の稲(RM1-b遺伝子の稲)は中国から来た。
結論:稲作が中国から直接日本に伝来したのは確かだが、
これが即「日本の稲作の起源=第1波の伝来」とは言えない。
東国のほうが、古代は馬場が圧倒的に多くて馬具出土もたくさんだそうだよ
渡来、というと朝鮮半島経由というイメージあるけど、実はもっと北からきてたんじゃ?
で、やがて畿内九州政権を併呑
相手に花もたせるため、そっちのルーツを自分達のものにしてみたとか
>>749 妄想だな。正当性のためなら記紀の雄略、武烈の悪事も善に化しすため
隠匿、無記述のはずだ。
>>755 マンセーばかりじゃ信憑性無い、と思ったんじゃないの?
757 :
サガミハラハラ:2008/05/29(木) 16:03:59
>>750さあ誰でしょう。みんなで考えてみましょう。
>隋書には載ったが、記紀では認められなかった天皇です。
というのが妄想なら、考えるだけ時間の無駄です。
定年・引退後の小人は大いに考えてみましょう。
759 :
サガミハラハラ2:2008/05/29(木) 16:16:18
760 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 17:06:25
761 :
サガミハラハラ:2008/05/29(木) 17:38:41
聖徳太子説もあります。
762 :
ローガン:2008/05/29(木) 18:07:47
私も馬子説です。
推古18年に新羅、任那使を都に迎えていますが、最終的に奏上を受けたのは大臣ですね。帝や皇太子は登場しません。
16年もこれに近い儀事の進行であったとすれば、唐客側が馬子を王と認識したのではないかと、考えたりします。
16年の記事でも皇子諸王諸臣とは有りますが、帝も皇太子も登場しませんね。
ただ、唐書の目多利思比狐はちょっと気になりますが
763 :
日本@名無史さん:2008/05/29(木) 19:37:54
>>755 基本的にどこかから(高天原のような)来たという神話を持つ王朝は征服王朝だ。
自然発生王朝は何かから生まれたとなる。
高天原は半島にあるよ。「原」は半島では「伐(ばる)」=国だ。
「高」を音読みにしてみな。
764 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/05/29(木) 19:40:55
>>763 天津神は中国の天津か〜?ww そうではないだろう。だから妄想。
>>753 きみぜんぜん見当外れのことを書いてるよ。
垂柳 砂沢 でぐぐれ
>>753が見当外れであって
>>752がそうでない(見当外れでない)
ということがよくわからない。
>>766 >>753は
>>752の文意をまったく理解してないように見えるから見当外れ。
まあ
>>752の文章ががわかりやすいとはお世辞にもいえないが。
おれの解する
>>752の文意は、
東北で発見されてる2300年ほど前の水田後の稲からは中国由来の
特徴が見当たらないということ。
俺流に>752を言い換えてみる。
「稲作が列島に初めに伝わったころの各地域の稲遺伝子を調べると、
中国稲の遺伝子がある地域とない地域とがあり、日本列島に伝わった
初期の稲はすべて中国由来とは判断できない。」
この主張が正しいかどうかは知らんが。
769 :
にんとく:2008/05/30(金) 12:33:39
『隋書』には、西暦600年ころのヤマタイの戸数は10万戸、とあります。
今、古代の人口構成(推計値)を『在野史論』から書き写すと、
750年に、近畿120万、九州70万、近畿・中国・四国・九州合計300万です。
ヤマタイは九州であると考えないと、戸数10万の説明が困難になります。
『隋書』の記載について、一部は難癖をつけて不採用、一部は採用し、
「書記」の批判(男王タリシホコなど)をしている方が上におられますが、
「戸数10万」は(「伊尼翼」「軍尼」があって)否定できませんから、
『隋書』の人妥「タイ」を近畿大和と解釈するのは、誤りです。残念ながら。
770 :
ローガン:2008/05/30(金) 16:23:52
>>769 ん、私かな?
>戸数10万…
さて、一戸あたり何人とお考えかな?
まさか一桁ではないですよね?貴方は、軍尼や伊尼翼についても触れている訳ですから。
771 :
日本@名無史さん:2008/05/30(金) 17:24:59
一戸の人数は時代によって大きく違う。
5〜6人から7〜80人とさまざま。
772 :
にんとく:2008/05/30(金) 17:40:02
>>771の「一戸の人数は時代によって大きく違う。
5〜6人から7〜80人とさまざま。」が正しいとして、
中国史書の(600年ころの)一戸が30人以上であることが確証されれば、
無論、
>>769の推論は取り消すつもりでおります。確証がなければ、
一戸の数をめぐって水掛け論になります。(水掛け論という点では、
阿蘇山についても同様。)
773 :
ローガン:2008/05/30(金) 18:21:45
>>772 軍尼や伊尼翼は行政の単位ですね。
今の里長の如き、伊尼翼は80戸に対したものですが、律令では里長は50戸に一人となっています。
この対象となる戸数とは「郷戸」の戸数です。郷戸は最小の行政単位であり、先学の研究に拠ると一戸あたり20〜40人されます。
774 :
日本@名無史さん:2008/05/30(金) 18:44:32
>>771 人口が増えても戸数を増えない傾向があったので、
時代が経つにつれて一戸あたり人数はふえたらしい。
775 :
ローガン:2008/05/30(金) 18:47:19
25人として…
80戸で1伊尼翼、10伊尼翼で1軍尼、それが120人。
240万人ですね。
776 :
にんとく:2008/05/30(金) 22:20:15
>775 ローガンさん、ご説明、ありがとうございます。
@対象となる戸数とは「郷戸」の戸数。(郷戸は最小の行政単位)
A郷戸は(先学の研究に拠ると)一戸あたり20〜40人とされる。
B25人として…240万人。
人口推定はゆらぎがあっても、桁違いではないでしょうから、
Bは、「隋書は九州王朝説を支持しない」ことの根拠になります。
よって、@Aが妥当であるか、特に@が自明かどうかが、
懸案事項になりました(私にとっては、ですが)。
@が自明でない場合、(古い記事ですが)「西日本では6世紀から
竪穴式住居から平地式への移行がみられる」などを、一戸のイメージと
しておりました。
777 :
ローガン:2008/05/30(金) 23:05:28
やあ!にんとくさん。
ご理解頂けたようで何よりです。
隋書の一戸が20〜40人って、誰がどういう根拠で断定したの?
779 :
にんとく:2008/05/31(土) 00:33:24
>778 は、現時点で、重要な指摘です。
>>776@Aは私にとって自明ではありません。
Aの根拠も、@についても、どなたかが典拠等を示してくだされば
ありがたいです。(無論、ローガンさんの教示も歓迎です。)いずれ
にせよ、自力で確認するまで、
>>769のような書き込みは自制します。
780 :
ローガン:2008/05/31(土) 00:54:17
東大寺正倉院の山背郷計帳を調べられたら如何ですか?
781 :
にんとく:2008/05/31(土) 11:21:03
>>769に引用した、古代の人口構成(推計値)(『在野史論』から抜粋)。
750年に、近畿120万、九州70万、近畿・中国・四国・九州合計300万。
(上記に追加)関東・北陸・中部・東海(東北を除く)合計200万。
『隋書』には、西暦600年ころのヤマタイの戸数は10万戸、とある。
・九州王朝説では、1戸あたりせいぜい7,8人。竪穴式住居相当か。
・『隋書』タイ国=近畿王家説では、1戸の戸は「郷戸」の意味であり、
1戸あたり40〜50人。邪靡堆=邪馬台と記するなど、『隋書』の記述に
混乱があると解釈する。
・・・というように、私は新たな課題を抱えてしまいました。
今のようにブルドーザーなどの重機があって区画整理事業をやっていた
わけではないのだから、平野といっても人の住める場所は限られていた。
しかも、食料を自給する田畑も限られており、土地の痩せた九州に10万
戸人口にして数10万人もの大都市があったとは考えられない。
したがって、九州説そのものに疑問符が付くことになる。
783 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 12:47:35
>>782 投馬國、邪馬壹國は都市(國邑)ではない、馬韓などと同じ領域国家だ。
邪馬壹國は北部九州全体のことだ。
邪馬台国=大和だとしたら疑問が1つ・・・
邪馬台国は女王なのに大和は推古ぐらいしかいないんじゃ??
785 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 13:21:34
>>781-782 『國大人皆四五婦下戸或二三婦』魏志倭人伝
10万戸は成人男子(戸主)が10万人であることを示す。
1家=2〜3人 構成:婦1人+1〜2人(幼児は除く・少年成年の子及び老年の親は含む)
1戸=2〜3家 婦の数
故に
1戸=(2〜3婦)家×(2〜3)人+1人成人男子(戸主)=5〜10人
1戸≒8人
10万戸=10万×8人=80万人(幼児は除く)
成年男子(戸主でない男子)は、しばしばある戦争(内戦・半島派兵)で死亡し、成年男子不足社会である。
786 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 13:37:39
『有軍尼一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長也十伊尼翼屬一軍尼』隋書俀國伝
俀國が96000戸であることを示している。
俀國(九州島)は総人口100万と推定できる。
俀國の範囲が九州島であることは、隋書百済伝及び俀國伝から別途証明できる。
787 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 13:42:46
イ妥國の支配地域が九州島全土に及んでいたという主張の根拠は?
788 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 13:44:53
>>784 姫彦制 中国人からみたら斎宮は王にみえるだろうね。
789 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 14:43:19
>>787 @『其南海行三月有[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里』隋書百濟伝
A『俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居』隋書俀国伝
B『其國境東西五月行南北三月行各至於海』隋書俀国伝
C『度百濟行至竹島南望[身冉]羅國經都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國』隋書俀國伝
上記@ABCが根拠です。
@ABCに整合性があることに気が付けば、それが根拠です。
[身冉]牟羅國=[身冉]羅國で済州島のことです。これは別途証明ができます。
790 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 15:44:30
>>787 参考に、以前にどこかに書いたものを貼り付けます。
半島記事
@『其南海行三月、有[身冉]牟羅國、南北千餘里、東西數百里』隋書百濟伝
A『俀國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居』隋書俀国伝
B『其國境東西五月行、南北三月行、各至於海』隋書俀国伝
C『度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國』隋書俀國伝
九州記事
D『其地勢東高西下、都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也』隋書俀国伝
E『又東至秦王國・・・・又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於俀』隋書俀國伝
F『倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎。後十日又遣大禮哥多毘従二百余騎郊勞既至彼都』隋書俀國伝
G『從郡至倭・・・・・・・自郡至女王國萬二千餘里』魏志倭人伝
H『魏志倭人伝』と『隋書俀國伝』の地理的整合性
I『此地帝都近気於今在一百餘歳一百年竟遷京北方在三百年之後』「聖徳太子伝暦」推古二五年条(617年)
791 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 15:47:41
〜〜〜〜┗━┓高句麗┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→→→┐┗━┳━┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜隋使進路↓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┏━┻━━━┓∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┃∵∵百済∵┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜↓┗┓居抜城∵┃∵新羅∵◎┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜┳───↓←┃◎∵∵┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜↑〜〜〜↓┏┛∵∵┏┛∵∵∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜三〜〜〜↓┗┳━━┛∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━
〜月〜竹島↓┏╋━━━━┛〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵
〜行〜〜〜↓┗┛〜〜隋使進路〜〜┏╋┛都斯麻國〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵
〜│〜〜〜└→→→→→→→→→┐┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵
〜↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜└→→→→┐〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓
〜┻───┏━┓ タムラ國 〜〜〜〜〜〜┏┓↓〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃┗
〜〜〜〜〜┗━┛(済州島) 〜〜〜一支國┗┛↓〜┏━━╋━━━┯━┛〜
〜東西千里×南北数百里〜〜〜〜〜〜〜〜┏○━┛∵∵┗━┓〜↑〜〜┏
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛竹斯國∵∵∵∵┃〜│〜┏┛
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓◎邪靡堆∵┗┓│〜┗┓
タムラ國: [身冉]羅國〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃│〜〜┗
〜〜〜 : [身冉]牟羅國 〜〜〜〜〜〜〜〜│┗┛┏┛∵俀國∵┏┛五〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┏┓┃∵∵∵∵┏┛│月〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│┗╋┛∵∵∵∵┃〜│行〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┃∵∵∵∵∵┃〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜┗┓┏┓∵┏┛〜││〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜┗┛┃┏┛〜〜│↓〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜│〜〜〜〜┗┛───┼┷〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┠←──三月行──→┨〜〜〜〜
792 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 15:50:04
参考記事
済州島の国名と読み方
耽羅::::タムナ・タムラ・タンラ
耽牟羅:::タムモラ・タムラ
[身冉]羅::タムラ・タンラ
[身冉]牟羅:タムラ・タムモラ
793 :
にんとく:2008/05/31(土) 15:50:12
>>784 「倭人伝」に「女王国の東、海を渡る千余里、皆倭種なり。」
とあるので、魏志倭人伝を読むかぎり、
邪馬台国=大和、という読みは無謀と言わざるをえません。
隋書の解釈の幅が大きすぎる、ということです。
上記の御説を拝借するなら、戸は、@「郷戸」の意味なのか、
A成人男子(戸主)を指す(>785)のか、の選択肢になります。
「阿蘇山」の説明については、九州王朝説に説得力を感じます。
794 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 15:55:11
795 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 15:56:17
〜〜〜〜┃◎┃都斯麻國〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
→→→┐┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜經都斯麻國迥在大海中
〜〜〜└→→→→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜迥在大海中又東至一支國
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━┓〜〜
〜〜〜〜一支國┃◎┃↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜〜〜〜〜┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵┃〜〜
〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵┗┓〜
〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜┏┛∵┗━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓
〜〜〜〜〜〜〜┃唐┃↓〜┏┛∵∵∵∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵┗
〜〜〜〜〜〜〜┃津┗↓━┛秦王國∵∵∵∵∵大宰府∵∵∵∵∵∵東至秦王國
〜〜〜〜┏━━┛∵∵◎→◎→┐∵∵∵∵∵∵◇倭京∵∵∵∵∵∵此地帝都・・・遷京北方
〜〜〜〜┗┓∵∵竹斯國∵∵∵↓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵↓十餘國∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵伊都國◇→→→┐海岸∵∵∵∵∵∵∵∵∵經十餘國達於海岸
〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵佐賀市大和∵∵┏○→→◎邪靡堆(久留米)∵其地勢東高西下都於邪靡堆
〜〜〜〜┏┓┗━┓∵∵∵∵∵∵∵∵┃┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵邪靡堆則魏志所謂邪馬臺
〜〜〜┏┛┗┓〜┃∵∵∵∵┏━━━┛┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┃∵∵┃〜┗┓∵∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┃∵∵┃〜〜┃∵∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜┗┓∵┗┓〜┃┏━━┛〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┗┓∵┗━┛┗━━┓〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜┃∵∵┏━━┓∵┗┓〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜長崎┃◇┏┛〜〜┃∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┏┛┏┛〜〜┏┛∵∵┃〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┃┏┛〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜┗┛〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┃〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
796 :
ローガン:2008/05/31(土) 16:11:52
いいですか。
私は隋書に書かれたものは行政単位であり、それから導かれる人口の概算について述べました。
つまり、隋書記載の戸数を、7世紀初頭にあったイ妥国が所謂「九州王朝」の論拠には使えないと云う意味です。
邪馬台国が畿内か九州かについてはここでは触れていません。
797 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 16:35:27
>>796 >7世紀初頭にあったイ妥国が所謂「九州王朝」の論拠には使えないと云う意味です。
>>790-792の説明のように、俀國は九州にあった。
だから、俀國は九州王朝のことを指している。
798 :
ローガン:2008/05/31(土) 17:15:15
まさか、根拠は済州島の方角の誤り?
これは?
「国西南人島居者十五所」
「新羅国在高麗東南」
799 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 17:50:10
>>798 百済伝の済州島の方向も距離にも間違いはありませんよ。
済州島の形は『南北千餘里東西數百里』で地図上で横長四辺形を意味する表現方法。
>「国西南人島居者十五所」
>「新羅国在高麗東南」
間違いはありませんよ。その通りです。
>>791の地図を見て下さい。
百済の南北は新羅と接していますから。
>>799王朝さん
>『南北千餘里東西數百里』で地図上で横長四辺形を意味する表現方法。
横長はないですよ 流石の私だって縦長と捉えますよ
重箱の隅つつきだけが、河童の生きがい
802 :
ローガン:2008/05/31(土) 18:34:55
>>799 地図上で横長四辺形を意味??
なんの事??
その横長なんとかと裴世清の道程になんか関係があるのですか?
さっぱりわからん。
803 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 20:50:00
>>800-802 済州島は横長四辺形である。←地図で見よ。
東西長70km、南北長40kmの島である。
そうすると、済州島の形を示す
『南北千餘里東西數百里』(百済伝)は
「南北の境界線の長さが東西方向に千餘里、東西の境界線の長さが南北方向に數百里」と読まなければならない。
(里は短里表記)
(済州島が[身冉]羅=[身冉]牟羅であることは
>>792で示した。前者は百済伝、後者は俀國伝。)
(俀國伝の裴世清の道程の[身冉]牟羅國は百済伝の[身冉]羅國と同じもの。)
>>803王朝さん
済州島が横長なら、[身冉]牟羅は済州島ではないということですよ
無理に[身冉]牟羅を済州島にする必要性もないでしょう。
で、境界線は何処に?
こっちにも書いておくか
魏志倭人伝の「戸」は面積であって人口を表そうとしたものではないですよ。
よくある間違いなので書いておきます。
1里=約430m
1戸=43×43m=1.85km2
戸は面積であって平野(農地宅地に適するもの)を表してるものですよ。
だから、すぐに人口とは直結しない。
なぜ戸を書いているかは、主に軍の展開に必要な情報だからです。
806 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/05/31(土) 22:00:17
>>804 済州島=済州道=耽羅=耽牟羅=[身冉]羅國=[身冉]牟羅國
耽羅⇔[身冉]羅
↑↓ ↑↓
耽牟羅⇔[身冉]牟羅
807 :
805:2008/05/31(土) 22:07:32
>>803 數百里は面積と考えればいいんですよ。
日本でよく言う千畳敷と同じ。
敷一理=100戸=1.85km2×100=185km2
すなわち數百里=18500km2
済州島の面積とはあっています。
808 :
805:2008/05/31(土) 22:13:55
すみません桁間違えてました。
1戸=0.185km2でした。
だから數百里=1850km2
809 :
805:2008/05/31(土) 22:23:12
×1戸=0.185km2でした。
○1里=0.185km2でした。
ああ、寝よう
810 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/01(日) 11:33:44
>>804 河童虫さん
>>802 ローガンさん
再度説明しましょう。
[身冉]羅國は済州島であることは別途証明されています。
その証明は長くなるのでココでは省略。
その理解の一助として
>>806を書きました。
[身冉]羅國=済州島ですから、
[身冉]羅國は地図上で横長四辺形でなければなりません。
そうすれば、
『南北千餘里東西數百里』(百済伝)を横長四辺形となるように読まなければなりません。
[身冉]羅國の南北にある海陸境界線の長さが千餘里と読むのです。
[身冉]羅國の東西にある海陸境界線の長さが數百里となります。
>その横長なんとかと裴世清の道程になんか関係があるのですか?
上記説明の[身冉]牟羅國が俀國伝で裴世清の道程に出てくるからです。
『上遣文林郎裴清使於倭國度百濟行至竹島南望 [身冉]羅國 經都斯麻國迥在大海中』
又、俀國が九州島であることの証明につながります。
『其國境東西五月行南北三月行各至於海』俀國伝
上記を[身冉]羅國の場合と同様の読み方をすれば、
俀國は縦長四辺形の島となります。(南北間距離五月行、東西間距離三月行)
ここで百済と[身冉]羅國間の距離の「行三月」(百済伝)が、
九州島の東西間距離と一致します。
俀國島の東西間距離は「三月行」ですから、
俀國の範囲は九州島と一致するのです。
百済伝の「行」は動詞。
俀國伝の「行」は名詞。
811 :
にんとく:2008/06/01(日) 14:40:58
>>773 ローガンさま。「律令では里長は50戸に一人となっています。
この対象となる戸数とは「郷戸」の戸数です。
郷戸は最小の行政単位であり、一戸あたり20〜40人。」
>>793に書いたように、「戸は、@「郷戸」の意味なのか、
A成人男子(戸主)を指す(>785)のか、の選択肢」で迷います。
「郷戸」(や房戸)は律令政府が設定した擬制的な形態だという説があり、
いずれにせよ令制の下にあるはずですが、西暦600年に令制下にあったのは
九州(イワイ)ですから、戸=郷戸と解釈するためには、
(A)ヤマタイは九州、(B)「日本書紀」は近江令を遡る令制を隠している、
のいずれかを選択する必要があると考えられます。
812 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 18:46:11
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
通説の江戸期伝来よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
813 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 21:26:35
欠史八代、特に三輪王朝は難しい。
倍戸、4倍戸を使っていた。
中には環濠を掘った1集落を1戸としたものもある。
10万戸は人口にして数100万人だった可能性のではないだろうか?
814 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 21:51:07
>>810王朝さん 遅くなりました
>[身冉]羅國=済州島ですから、
[身冉]羅國は地図上で横長四辺形でなければなりません。
という見解なら
横長ではなく縦長に書かれた [身冉]牟羅國は済州島ではないでしょ
それを済州島と辻褄が合うように
>[身冉]羅國の南北にある海陸境界線の長さが千餘里と読むのです。
[身冉]羅國の東西にある海陸境界線の長さが數百里となります。
のように読まなくてもいいんじゃないですか?
それに
>俀國伝で裴世清の道程に出てくるからです。
そんな道程なんて何処にも書いてないですよ
816 :
にんとく:2008/06/01(日) 22:16:31
>>811にあるように、戸=郷戸(20〜40人)と解釈するためには、
(A)ヤマタイは九州、または、(B)「日本書紀」は近江令を遡る
令制を隠している、の(A)(B)いずれかを選択する必要がある。
(A)で、かつ、10万戸=数百万人だとすると → 紀元600年ころ、
タリシホコのタイ国は、都を九州に置き、関東までを支配していた。
(B)で、かつ、10万戸=数百万人だとすると → 紀元600年ころ、
タリシホコのタイ国は、都を近畿大和に置き、関東まで支配していた。
律令制を敷いたのは、天智以前の、継体、欽明あたりか。
(A)でも(B)でもない場合は「戸=郷戸」の仮定を捨てることになる。
817 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 22:31:38
>816
(A)じゃないでしょうか?
装飾古墳の中心が西北九州であり、
その分布域が南東北まであるのを思えば
まあそんなところかと。
818 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/01(日) 23:18:39
>>826 ヤマタイは九州だけれど、
(A)でも(B)でもない。
俀國の範囲は九州島に限定されるから。
装飾古墳の中心が西北九州であり、
その分布域が南東北まであるのは、
文化の共有地域であるから。
7世紀日本列島にあった国家は、
倭(俀)國であり日本國であり蝦夷國である。
毛野國、出雲國、尾張國、加賀國もあった。
819 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/01(日) 23:43:49
>>815 河童虫さん
>そんな道程なんて何処にも書いてないですよ
裴世清(日本書紀)ではなく裴世(隋書)ですね。
『上遣文林郎裴清使於倭國度百濟行至竹島南望 [身冉]羅國 經都斯麻國迥在大海中』隋書俀國伝
裴世清は、裴世とは全くの別人か、裴世に似た名前を付けた日本書紀上の創作人物です。
>横長ではなく縦長に書かれた [身冉]牟羅國は済州島ではないでしょ
>それを済州島と辻褄が合うように
[身冉]羅國=[身冉]牟羅國は済州島そのもので、それは動かせませんから、
7世紀の「東西」と「南北」読み方は現代とは全く違っていたと云うことです。
820 :
にんとく:2008/06/01(日) 23:51:35
(A)で、かつ、10万戸=数百万人だとすると → 紀元600年ころ、
タリシホコのタイ国は、都を九州に置き、関東までを支配していた。
(A')(「戸=郷戸」の仮定を捨てて)10万戸=数十万〜百万程度
→ 紀元600年ころ、タリシホコのタイ国は、都を九州に置き、
九州島内(全域ではない)を支配していた。・・・九州王朝大好きさん説
私こと「にんとく」は(A')に与したい気持ちですが、
(A)の可能性もわずかながら残しておきます。(A)の場合は、隋書の
記述の一部(東西各々海に至るなど)は誤記述ということになります。
>>819王朝さん
裴清が倭に渡ったことと
『倭國度百濟行至竹島南望 [身冉]羅國 經都斯麻國迥在大海中・・』この文は
書かれた目的が異なります。
この文は位置関係を表したぶんです。
822 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 00:16:11
邪馬台国のそばには、水銀鉱山があったらしいが、
それが実在するのは、四国だけ。
823 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/02(月) 00:29:13
>>821 『上遣文林郎裴清使於倭國度百濟行至竹島南望[身冉]羅國
經都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國
其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸
自竹斯國以東皆附庸於倭倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎
後十日又遣大禮哥多毘従二百余騎郊勞既至彼都其王與清相見』
以上全部が裴清の行路説明文と思います。
824 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/02(月) 00:36:21
>>822 丹の産出地があったのだ。
この丹は赤丹で鉄ベンガラのこと。
これは装飾古墳の赤顔料として使われた。
825 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 06:54:43
丹は水銀。ベンガラではない。
丹の産出は、四国か丹波。
826 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 07:58:47
>>824 天然の赤鉄鉱を砕いたベンガラは縄文早期には日本にあった。
装飾古墳に限らず、3〜7世紀頃までの前方後円墳などに使われている朱の顔料はベンガラ。
827 :
にんとく:2008/06/02(月) 10:23:52
>>820の続き
(再掲)750年の人口構成(推計値)(『在野史論』から抜粋)。
近畿120万、九州70万、近畿・中国・四国・九州合計300万。
関東・北陸・中部・東海(東北を除く)合計200万。
(A案)10万戸=数百万人だとすると → 紀元600年ころ、タリシホコ
のタイ国は、都を九州に置き、関東までを支配していた。→その場合、
80戸に1伊尼翼(里長)ゆえ、1伊尼翼は4000人に1人。
後の令制では、1稲置は1000人に1人くらい。
(A'案)(「戸=郷戸」の仮定を捨てて)10万戸=数十万〜百万程度
→ 紀元600年ころ、タリシホコのタイ国は、都を九州に置き、九州
島内(全域ではない)を支配していた。1伊尼翼は600人に1人くらい。
「倭人伝」と「隋書」の間に「梁書」があり、550年ころまでは、
日本列島が複数の国家から成っていたことが確実。
よって、(A案)はほぼの不可能でしょう。
828 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/02(月) 10:34:36
>>825-826 丹と言えば水銀丹と決め込むは間違い。
丹は単に鉱物(金属)顔料を指すに過ぎない。
白丹は鉛丹。
弥生九州魏志倭人伝の丹は縄文期のような天然の赤鉄鉱を粉砕したものではない。
阿蘇黄土リモナイト(褐鉄鉱)を加熱加工等をして作ったベンガラである。
この加工品としての人造ベンガラは、消臭効果も大きいので、横穴墓の装飾に使われ始めたものと思われる。
この黄色いリモナイトは褐鉄鉱の一種であるので、第二次大戦中には製鉄原料としても使われた。
829 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 13:04:47
何が何でも「ベンガラは丹じゃない」と押し切りたい四国説の根拠なし。>またもNHKの軽はずみ
天下のNHKですよ。
仕事中に株取引する人が大勢いるほど暇を持て余している組織。
それほどの人が、ベンガラと丹を間違えるはずがない。
ベンガラは酸化鉄。丹は水銀。全く別物だと気付かないはずがない。
831 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 22:39:28
天下のNHKですよ。
贈賄能力は他社を圧倒して天下一品。
話題を宮崎県知事に奪われて、ドングリ背比べをしていたはずの
あの鳥取や佐賀にすら、大きく水をあけられてしまった。
そんな中の一発逆転を狙った贈賄劇だった。
832 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/02(月) 22:52:42
>>830 よくニュースとか番組とかで、某人の名前を間違えて訂正をよく
やってるよ。丹塗りの鳥居を言ったって水銀化合物で縫ってるんで
はないだろう?
833 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 03:21:58
徳島は水銀も辰砂も採れる。
834 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 11:11:03
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
通説の江戸期伝来よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
九州説論者は今でも「畿内説論者は南を東と書き換える!」などとほざくが、
邪馬台国論争に関わるならまず原田大六の事ぐらい知ろう。
836 :
ローガン:2008/06/03(火) 15:47:23
>>811 忙しくてなかなかこれません。
私は九州王朝説なるものについては否定的ですが、それはさておき。
確かに九州王朝説だと「戸=郷戸」といった考え方は認めにくいと理解します。
貴方が九州王朝説を支持される考え方を私は否定する訳ではありません。
ただ、後に郷戸と呼ばれる生活共同体が、隋書が書かれた当時に存在した可能性を否定は出来ないと思います。
つまり稲置の下の生活共同体をさして「戸」とカウントした…
この可能性を排除できなければ、隋書の記事と推定人口の比較は、九州王朝説の論拠の一つにはならないと言いたかったのです。
>>793で魏志倭人伝の「東渡海千餘里復有國皆倭種」に触れておられましたが、
魏使が訪れていない所にもかかわらず、「千餘里」と記述されている事、後にある「侏じゅ国」「裸国」「黒齒国」も同様、記事自体に信憑性がないものと考えます。
まあ、色々想像は可能なのでしょうが。
837 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/03(火) 15:53:49
畿内論者は「壹」も「臺」と置き換える。
もう年号が多々出てるからもう間違いない。あと反論者のイカサマゴリ押しと
私年号に格下げしての無理な否認が目につくくらいだな。w
838 :
にんとく:2008/06/03(火) 16:12:31
>>836 ローガンさま。「後に郷戸と呼ばれる生活共同体が、
隋書が書かれた当時に存在した可能性を否定は出来ない。」
もちろん、可能性は否定しません。つまり、
「隋書の記事と推定人口の比較は、九州王朝説の論拠の一つには
ならない。」という主張も、その可能性に依存しると理解致します。
後半の、「千餘里」については、「里」が書かれている以上、
魏使が僅かながら立ち寄った、と解釈しますが、これは水掛け論に
終わるでしょう。また、「裸国」「黒齒国」も同様、記事自体に
信憑性がない、という判断も当然ありえると考えます。
無視や罵倒でなく、真摯なご回答をいただき、感謝いたします。
タリシホコ(タリシヒコ)=蘇我馬子または聖徳太子、といった
比定は、昔の松下見林の倭の五王の比定と同類のようで、折角の
推理力・古文読解力を浪費させておられるようで、もったいない
気が少ししますが、これは余計な御世話と言われそうですね。
839 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/03(火) 17:15:35
なぜ邪馬台国を大和と認めないの?
何度も言うようですが、その理由は一大率の記述が本州に無い、
という事がその一つでしょう。当時の交通手段を考えると
一大率はそれほど広範囲に目を光らせられるのもではない。
むしろ女王国に近くにあって、いざとなれば女王国を守る為の
守護の役割をも果たしたのではないかと思われます。あまり離れていては意味が無い。
倭人伝に魏王から女王への贈り物を上陸の際に点検するとありますが
折角九州に上陸しながら、再び贈物を船積みして四国や本州へ向かうなど
常識でも考えられません。よって大和に女王国はありませんでした。
841 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/03(火) 19:59:37
三国史記 新羅本紀
「阿達羅二十年 夏五月 倭女王卑彌呼遣使来聘」
紀の記載を見れば五月は朝廷の忌月とか凶月に当たり、紀の五月の
記事の内容は(佛伝以前)殆ど縁起の悪い出来事が殆どであり、五月
が朝廷にとって活動したくない月なのであって、卑弥呼が朝廷の女
ならば上の文献のような活動を五月に行うわけがない。だから卑弥呼
は朝廷の女ではないし、またアマテラスでもない。アマテラスは
五月蝿なす高天原の状況を嫌い岩戸へ隠れたのであるから、五月に
活動する卑弥呼がアマテラスのはずがない。かようなことから卑弥呼
は九州の女であることが上の記述から一目瞭然とわかるのだ。
842 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/03(火) 20:03:12
このスレって定期的に九州王朝の話になるよな
844 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/03(火) 20:36:16
>>843 >このスレって定期的に九州王朝の話になるよな
ではこれを貼り付けるよ。
魏史倭人傳 [隋書俀國傳] 地図
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
〜〜〜〜〜〜 [一支國]┏→┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
〜〜〜〜〜〜〜一大國┃◎↓壱岐〜方可三百里〜〜〜〜┏━━━┓ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┃ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜┏━┓〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵┃ │
〜〜現長崎佐賀県境┏━┓↓┏━┛∵┗━━━┛∵∵∵∵∵∵∵┃ │
〜〜〜〜〜〜〜┏┿┛∵┗━┛[秦王國] ∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵┗ 使譯所通三十國
〜〜〜〜〜〜〜┃└末盧國◎→◎→┐五百里∵∵∵∵倭[俀國] ∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜┗┓[竹斯國] ∵∵∵↓∵百里∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓└┐∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │●印:女王國構成国
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓└──┐百里│┏┓├┐[邪靡堆] ∵∵∵∵ │ 不彌國:吉野ヶ里
〜〜〜〜〜狗奴國領域┗━┓∵│奴國●┃┃●●邪馬壹國 7万餘戸 │伊都國:佐賀市大和
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵│┏━━┛┃投∵∵ (女王之所都)∵ │邪馬壹國:久留米
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵│┃〜〜〜┃馬 五万餘戸 ∵∵∵∵ ↓
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┃┗┓└┻┓〜〜┃國∵┌─────── ┿現福岡熊本県境ライン
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ ↑
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┠┘∵◎狗奴國∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵10〜15万戸?∵∵ 狗奴國領域
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵倭[俀國] ∵∵∵ │
846 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 21:35:26
「壹」か「臺」か、はたまた「壺」か・・
難しい面もありますね。
847 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/03(火) 23:30:54
>>845 見やすいか?
魏史倭人傳 [隋書俀國傳] 地図
〜〜〜〜〜〜〜〜└→→→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 │
〜〜〜〜〜〜一大國┃◎┃↓壱岐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━┓ │
〜〜〜〜〜 [一支國]┗━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┗ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓〜〜┏━┓〜〜〜┏━┛∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━┓↓┏━┛∵┗━━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜┏━┛∵┗━┛[秦王國] ∵◇博多∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜[竹斯國] 末盧國◎→○→┐∵∵∵∵∵∵∵倭[俀國] ∵∵ │末盧國:唐津
〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵↓[十餘國] ∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │伊都國:佐賀市大和
〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵伊都國◎┬→→●不彌國∵∵∵∵∵∵ │●印:女王國構成国
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵│┏┓├┐∵∵∵∵∵∵∵∵ │不彌國:吉野ヶ里
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━┓∵∵奴國●┃┃●●邪馬壹國 [邪靡堆] │投馬國:大川
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏━━┛┃投∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │邪馬壹國:久留米
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵∵┃〜〜〜┃馬∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │奴國:佐賀市中心部
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┃┗┓∵┗┓〜〜┃國∵┌─────── │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜〜┃┌─┘∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜〜┠┘∵∵◎狗奴國∵∵∵ │狗奴國:菊池
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜〜┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┗┓〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜〜┃∵∵◇熊本∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┏┛〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵ │
848 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/04(水) 00:00:47
というよりこの海と陸地を表している縞模様は要らないんじゃ?
乱視なので目がチラチラしていつもあんまり見ない。
849 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/04(水) 00:06:16
何かの模様を入れないと書き辛いのです。
850 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:07:31
邪馬壹国は筑後川から北熊本の矢部川の間。
狗奴国は球磨川、八代から人吉。
投馬国は大淀川から一ツ瀬川、宮崎の西都を中心に都濃辺りまでだと思います。
チンギスハーンの時代でも、いかに大河の流域を占領するかという事は最大の課題だったようです。
投馬国の位置に関しては、
>>188のように考えれば記述のどこも訂正せずに適切に推定できる。
とすると邪馬台国は、
>>188の水行コースの半分の距離だけ、そこから南にいけば着く。
てことで、鹿児島県出水あたりじゃないかな。
となると狗奴国はそのさらに南。古事記・日本書紀の天孫降臨にいう「笠沙の岬」(旧鹿児島県川辺郡笠沙町、現鹿児島県南さつま市)あたりになる。
ますます、狗奴国が後の大和朝廷に%8
過去の遺跡を調べると、古代の牧場=軍馬等の保有地は東国のほうが圧倒的らしいよ
騎馬民族説って矛盾してない?
>>852 してない。邪馬台国が騎馬民族であることと、そのさらに東国にもっとたくさんの騎馬民族が存在することとは両立する。
>>853 でも周辺から当時の時期に相当する牧畜場とか発見されてないよ。
馬を捨てた説?
855 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/04(水) 13:18:38
>>852 騎馬民族も遠く日本に移住して来ただろうけど、慣れない船旅の末に着いたのは馬もいない島国ときた。
世代を重ねるごとに騎馬民族としての誇りも記憶も失われ、郷に入れば何とやらで農耕民に帰していった。
時代は下り大和朝廷時代に大陸から馬がもたらされ、しだいに東国が軍馬の生産地になっていった・・。
という筋書きになろうか。
邪馬台国論争において皇国史観的なイメージを持たれる奴
九州論者で卑弥呼を天照大神にする奴
畿内論者で卑弥呼を神功皇后にする奴
857 :
ローガン:2008/06/05(木) 00:31:43
>>838 ははは、にんとくさん、馬子説は駄目ですか?
まあ私も確信が有るわけではありません。
倭人伝での「国」については、@官、副(官)、戸数及び地勢習俗が記述された国。
A官、副、戸数が記述された国。
B国名のみの記述。
といった情報量の違いが有りますね。情報の入手方法は改めて云う必要もないでしょう。
よって、官や副、地勢や習俗はもとより、国名も把握出来ていない「有国皆倭種」は使者が訪れていない所であると考えます。
よって、訪れていないにもかかわらず「東渡海千餘里」とあるのは、その後に書かれた裸国や黒齒国と同様の情報価値しかないものだと考えられます。
ひらたくいえば、巻末お約束の異人譚て所でしょうか…
よく九州説の方から、この部分をどう説明するか?と訊かれるのですが、まあ私の回答としたらこんな所です。
良ければ又議論致しましょう。
858 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 01:01:36
>>852 5世紀頃、馬を犠牲にして埋める「犠牲馬」の土壙が特に多いのが
信濃、上野、日向とか。
それらの地域は、延喜式にも、国家の運営する牧が、数多く置かれた場所である事が、書かれているとか。
ちなみに纏向の「纏」の文字も馬に関する文字だとも・・・
無論、邪馬台国の時代とは流石に関係無い話だとは思うがwww
859 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/05(木) 02:15:45
>>858無論、邪馬台国の時代とは流石に関係無い話だとは思うがwww 」
関係おおありだと思う。牧に向く。つまり牧場として良好な土地だったんじゃないの?
つまり馬が広く利用されるようになってから発展した土地なのよ。
過去の遺物が現在すべて破壊されることなく残って、しかもすべて発見され尽くしていると思うアホがいるようですな。
「発見されてない」というのは何ら根拠として無意味なんだよ。東が文明から取り残されてたから過去の遺物がたくさん残っているだけの話。
861 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 10:55:27
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
通説の江戸期伝来よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
近頃の九州論者は畿内論者を「大和一元史観」などとのたまっておるが、
九州論者の発言を見ると「九州一元史観」の持ち主にしか見えない。
863 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 13:34:53
君の読解力が猿並だからそうみえるのだろうw
国譲りの神話見たく、話し合いで併合が行われたんじゃないの?
だから相手と昔仲悪くて争いました、とかいうのを記録すると都合が悪かった
865 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/06/05(木) 14:58:32
>>862 そんなことはないでしょう。畿内には天皇がいたんだから、九州はあって畿内が
無いということにはならない。
866 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 17:33:10
>>862 畿内論者「大和一元史観」
九州論者「多元史観」
よく出ている邪馬台国の説はこんなところなんでしょうか
宮崎説
宇佐説
福岡湾岸説
甘木朝倉説
吉野ヶ里説
山門説
畿内説
佐賀説
阿蘇説
四国説?
あとなんかありましたかね
869 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 19:48:17
870 :
サガミハラハラ:2008/06/05(木) 21:29:49
覗いてみたが、一番肝心の「後藤幸彦 佐賀県小城甘木説」がぬけているではないか。
確かにニニギは騎馬民族かもしれないけれど、
ニニギが征服した倭人は半猟半農の民族だったわけだから、
何代も続いているうちに、騎馬民族の特性は失われていった
と思われます。
872 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 03:23:36
>870
著者自ら、小城市役所に著書を大量に寄贈しても、
小城市民から相手にされていない「佐賀県小城甘木説」は
誰からも支持されようがない。
代々校長先生を輩出している小城市旧家の知人に打診したけど、
まったくダメだということだ。
873 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/06(金) 05:51:18
>>860「過去の遺物が現在すべて破壊されることなく残って、
しかもすべて発見され尽くしていると思うアホがいるようですな。
僕が以前会話した者の中にもそんなアホがおりました。同一犯では?
火山の噴火や、後世の都市建設で破壊されたり、地殻変動で海底に沈んでも
弥生遺跡は痕跡が必ず残るものだというのが・・。
さらに弥生遺跡は既にすべて見つかっているから邪馬台国7万戸など
九州にはありえない、などの我田引水の持論を展開したが
水は一滴も来ずという感じだった。
四川大地震など見たら解るけど土地が崩れたり埋もれたりして
当時の貧弱な集落など跡形もなくなったものもあったろうし、
発掘され終わっているのなら何故掘っているのかと問えば
発掘目的が違う、と答えたり。忙しいので相手するのやめたけど。
874 :
サガミハラハラ:2008/06/06(金) 08:37:41
>>872勿論その方は「倭国歴訪」をよんだのであろうが、従来の定説とやらを頭において読んだのでは
まったくダメでしょうね。
頭をきりかえて、壱岐あたりから倭人伝を素直によみはじめることがまず大事です。
定説が正しいとして東南に行けというのに東にいってしまってはまったくダメです。
875 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/06(金) 12:30:17
>>874 >頭をきりかえて、壱岐あたりから倭人伝を素直によみはじめることがまず大事です。
>定説が正しいとして東南に行けというのに東にいってしまってはまったくダメです。
全くその通りです。
でも、
魏志倭人伝『南至邪馬壹國女王之所都』と隋書俀国伝『都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』にも矛盾は許されないと思います。
僕が素直に読んだ場合には、女王之所都が久留米になりました。
>>875 東南に行けなんて何処にも書いてないよ。
『東南陸行五百里到伊都國』
この文章は、
『又渡一海千餘里至末廬國』の着点が港で、次への起点でもあることの確定文章だよ
877 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/06(金) 12:56:22
『又渡一海千餘里至末廬』
この文章だけでは、次の末廬國が今までみたいに島なのかどうか?等分からない。
しかし、『東南陸行五百里到伊都國』の文章によって、末廬の港からは少なくとも陸上移動であることがわかる。
方々の質問スレを見て回ったのですが、
見るからに酷い所ばっかりだったので、詳しい人が多そうな此処で訊ねさせてください。
クナ国・えみし・熊襲の都市の、当時の名前を可能な限り教えてください。
名前しか知られておらず、所在の確認されていない都市でも構いません。
あと、読み方も教えて頂けると嬉しいです。
879 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/06(金) 15:08:10
>>876 >東南に行けなんて何処にも書いてないよ。
正確にはその通りです。
末廬國の東南方向にある伊都國に行くのです。
東へ行って南に行くのか、南に行って東に行くのか、
くねくね曲がりながら東南方向に行くのか、
東南方向に直線で行くのではありません。
>>879王朝さん
最終目的着点が、起点の東南に位置する場合は
『東南至(到)伊都國陸行五百里』と、言う文になりますよ。
881 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 15:28:30
なんか「九州ありき」だなあ
例えば九州っても例えば薩摩潘と長州潘では全然別の国でしょ?
883 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 15:40:10
記紀によると仲哀天皇は「筑紫の訶志比」に宮を置き、その土地を納めてたよ
ちなみにこれ九州のどこら辺の事ですか?
九州王朝だ邪馬壹國だ以前に
仲哀天皇や神巧天皇は筑紫(今の九州)に宮を置いてた訳だから、その場所を特定出来ないですか?
884 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/06(金) 15:48:37
>>880 『東南至伊都國陸行五百里』なら直線で行くことになります。
直線の距離が500里です。
「到」を使うなら、
『東南陸行五百里到伊都國』になり、道程(みちのり)が500里です。
『東南到伊都國陸行五百里』では、「東南」と「到」の間には、
「到」が目的の着点であることである為の経過を示すものが何もないので、
文にならないと思います。
885 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/06(金) 15:56:05
>>884 >直線の距離
思い過ごしじゃない?
何処にもそんな定義はないし、
『南至投馬國水行二十日』
これも直線の距離かい?
886 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/06(金) 16:15:31
>>884 >至は直線の距離
>到は道程
王朝さん。
どんな文章に「至や到」を挿入しても、そんな意味は発生しませんよ
起点から着点までの過程を表す文字は「至や到」ではなく「致」。
887 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 16:18:46
>>884 つか中国大陸では、漢字は「文章を書く文字」として使えて無い文字だよ
主語や述語の観念も無く、文法もないし、熟語も無い
また漢字の発音にも何の意味も無い文字だよ
「支那人(中国人)は漢字を使えない」
って言われるぐらいだよ
日本人は2つ以上の漢字を組み合わせて熟語を作ったり、日本の言葉の音を当てたり、仮名文字を作ったり、、、
これをやってるのは日本だけだよ
日本人は「漢文」って形で、漢字で文章を書く事も出来る
中国では漢字は「漢文」じゃなく「漢字」のまま使われてるよ。
書かれてる字の意味から解釈するんだよ
ちなみに中国大陸は川を越えたら言葉が違うって言われるぐらいの多民族地域
言葉が通じない地域でも、漢字を使って意思疎通をしてたんと思うよ
近代ではだいぶ漢字を使う地域や国が減ってきちゃった見たいだけどね。タイとかさ
888 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 16:29:25
大陸の人達は、日本人見たいに漢字を上手に使えないよ
>>884 >文に成らない
ってあるけど、そもそも大陸では漢字は「意味を表す字」であって「文」では無いよ
そもそも文法なんてものが無い訳だから
あと文法以外にも、例えば日本ではサンマを秋刀魚って熟語や当て字で書いたりするけど
中国では2つ以上の漢字を組み合わせる熟語の観念がなく
基本的に一つの字に一つの意味って事で漢字を作ったりするから、魚であれは魚と何かをくっ付けて「鰹、鯖、鰆」とか一つの漢字で表せる字を作っちゃうよ
だからあっちはややこしい漢字が多いよ
889 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 17:20:49
おれ思うけど、仮に九州に邪馬壹國って呼ばれた王国があったとしたらさ
その国は俺ら日本民族がとっくの過去に滅ぼしてる国だよ
例えば随書には「琉球王国」って国の事が書いてあるけど、この国も日本民族が滅ぼして統治してるしさ
890 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 18:16:29
バカ美濃もん太おまえは日本民族じゃない。
朝鮮人だ。
891 :
九州王:2008/06/06(金) 18:33:13
『到其北岸狗邪韓國』
『東南陸行五百里到伊都國』
二つの『到』から『狗邪韓國』と『伊都國』が目的地であった事が判る。
『南至投馬國水行二十日』
『南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月』
二つの日数表記の國『投馬國』と『邪馬壹國』がそれぞれ『狗邪韓國』と『伊都國』に対応しているのである。
892 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/06(金) 19:25:41
>>885-886 「至」と「到」の違いについては、僕には簡潔に正確に説明ができません。
「至」と「到」の魏志倭人伝での用例比較をしてください。
「到」は2箇所、「至」は9箇所。
「到」の場合は直前に先行する行路説明があります。
「至」の場合は直前には先行する行路説明がありません。
>>887-889 漢字文にも時代場所によるルールがあります。
『其南海行三月有[身冉]牟羅國南北千餘里東西數百里』隋書百濟伝
上記は[身冉]牟羅國は済州島で、南北方向幅が數百里で東西方向の幅が千餘里と書いてあるのです。
邪馬壹國は俺ら日本民族(畿内朝廷)がとっくの過去に滅ぼしてる国だよ。
例えば随書には「琉球王国」って国の事が書いてあるけど、この国も日本民族(薩摩藩と明治政府)が滅ぼして統治してるしさ。
893 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 19:32:19
>>891 魏志倭人伝の中の「倭人が納める邪馬壹國」
魏志東夷伝の「倭人が納める弥烏邪馬」
魏志韓伝の「倭人が納める邪馬國」
邪馬壹國、弥烏邪馬國、邪馬國
これらの國って全て違う國の事を指してるんですか?
魏志の倭人伝の章だけ抜き出して考えてるから邪馬壹國がどこにあったのかわからないんじゃないのかな?
倭人伝以外の章には、倭人が韓半島などを制圧して統治して、倭國の治める委奴国としてた記述とかもあるよ
日本の記紀にも、神巧皇后が韓国を統治し、百済や新羅を建国する様子がちゃんと書かれてるよ
894 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 20:02:03
>>892 >漢字文のルール
まあある程度はね
あと時代や場所よりも「民族、語源」によっても違うだろうしね
例えば清や明王朝の支那人と、漢字を作った漢人は違う民族で言葉も違うすよ
北京より東周辺だけでも、満州民族、漢民族、支那民族、モンゴル民族、、、
また長江や上海の方はまた違う言葉な訳だし
漢字や儒教を作ったのは漢民族と思う
ただ明や晋や清や唐とかは、漢とは民族も言葉も地域も文化も違う王朝だよ
例えば晋王朝に漢字と儒教を伝えたのは百済を統治してた倭人だよ
その事を日本の朝廷に報告した文書だかの記述もあるし
今の中国人(支那人、上海人、香港人などの多民族)が、漢字を上手く使えないのも、彼らは漢字を作った漢民族じゃ無いからだよ
毛沢東が中国を統一した際にも、統一文字を漢字を使うの辞めて、ローマ文字に統一しようとしたぐらいだよ
895 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 20:21:42
美濃もん太・・・嵐認定
896 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 20:29:17
>>895 なんでだよ(笑)
まあ確かに間違いも多いかもだけど(;_;)
ただ今はいろいろ調べながら勉強しながらっすよ
中国大陸の歴史っても、古代大陸の王朝がどの民族かとかも、いまいち良くわからないしさあ
897 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/06(金) 20:30:06
>>to all
美濃もん太氏は、まともなのかバカなのか、よくわからん。 誰か解説して?
邪馬臺國美濃説だけは全くいただけぬ。
898 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 20:40:49
美濃もん太・・・説得力0%・・・所謂荒唐無稽嵐
899 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/06/06(金) 20:47:37
>>898 荒唐無稽とも云い切れないし。
傾聴すべきことも云っている。
>>892王朝さん
>「至」と「到」の違いについては、僕には簡潔に正確に説明ができません。
「至」と「到」の魏志倭人伝での用例比較をしてください。
「到」は2箇所、「至」は9箇所。
「到」の場合は直前に先行する行路説明があります。
「至」の場合は直前には先行する行路説明がありません。
地理記事で「至と到」の共通使用は(着点)
この着点の活用が違うから、文字も違うのですよ
途中の行程云々は関係ありません。
901 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 22:17:24
>>900 先行する行路があるということは、つまり、最終目的地だということ。
至るは経由地だということです。
>>901 >至るは経由地だということです。
「至」と言う文字を、文章に挿入しても(経由地)という意味は発生しません。
>>901 因みに、
「経由」の意味、わかりますか〜?
904 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 22:45:42
河童虫が字引を引くだけのスレ
>>904 >河童虫が字引を引くだけのスレ
それがいやなら、俺よりも早くアンタが答えてあげなよ
906 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 23:10:26
>>902-903 河童さん
わたしは、以前、貴方と「至」&「到」の違いを議論した、改め卑弥呼 です。
貴方が考えてる九州東部湾岸線は、邪馬壹國の中心地ではないスょ。
南至投馬國
南至邪馬壹國
これらは、不彌國の南となります。
>>906 >貴方が考えてる九州東部湾岸線は、邪馬壹國の中心地ではないスょ。
中心地は「奴国」
中心地だからこそ「奴/ナ」なんでしょ
「首都」は福岡東部周防灘沿岸地域
「行政出張所」は伊都國
>南至投馬國
南至邪馬壹國
これらは、不彌國の南となります。
「奴国」の南
908 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/06(金) 23:54:29
>>897 邪馬壹國は美濃になんか無いってのw
美濃が発祥だとか美濃王朝だなんてつもりも無いし
ただ日本は邪馬壹國やら卑弥呼とかの時代より前からの歴史がある訳だから、邪馬壹國が日本の発祥だとかって事は無いよ
909 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/06/07(土) 00:16:07
ちなみに鬼道使いの倭人の女王が治めてた弥烏邪馬國を初めとする12ヶ国は任那にある国の事だよ
魏志東夷伝では任那、百済、新羅は、倭が治めてた倭の領土として書かれてるよ
まあ弥烏邪馬國と邪馬壹國が同じ國かどうかは知らないけど
910 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:28:36
最近は 河童虫さん と 美濃もん太 の違いが分からない。
じつは同一人物では?
911 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:30:54
美濃もん太 クン 19を片付けて〜
912 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 00:59:59
>>910 その認識でも特に支障は無いと思われwwww
913 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 01:03:44
>>912 おれが一番マトモだよな?
誰が一番マトモと思う?
914 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 13:54:15
>>892 到と至の違いは到の旁が刀で切れ目をつけると言う意味だから
ただ至ったのと何らかの区別をつけたかったんじゃないでしょうか。
例えばそのまま通過したのを「至」とし、一泊したか、一服して休み食事などを取った後
再び出かけたのを到着とした。現在でも電車の駅を同じ停車と言わずに
大都市の場合「到着」と言い、それ以下の規模の都市は「通過」と分けたりしますし。
915 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/07(土) 14:57:23
>>914 >到の旁の部分は刀で傷をつける。
ですが さん
この文章に何か違和感ありませんか?
旁が刀で傷をつけると言う意味なら、『到』と言う文字は『刀』と言う文字の後に発生しなければ(刀で傷をつける)と言う意味が成立しない事になりますね
916 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 15:44:54
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
917 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 16:50:31
>>915 >到の旁の部分は刀で傷をつける」
到の旁が刀で切れ目をつける事であってキズではないです。
至は「矢が下方に進むさま+横線」の会意文字で、矢が目標戦までとどくさまを示しますが
例えば創は「刀+倉」の形声文字で、倉(くら)とは関係がなく、刃物で切れ目をつけること。
工作の最初の手順という意味から、はじめるの意にも使われるようになったが
到の旁はへんの至と関係していて目的地まで到達したが、スッパリ切れている、つまり
恐らく日が落ち夜になって日が変わり朝になった、という意味で刀と言う意味の旁を
付けていると思われます。
919 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/07(土) 17:56:09
「リ(りっとう)」が刀の旁になるときの形なら、
『切』という文字はどうして「(七)(リ)」と言う形にならず、『切』という(刀)が変形せず原型のまま残されたのか?
という疑問が発生する。
ロマン、が答えだろ
>>918 >至が単なる前置詞であり
〜になると(いたーり)と言う意味ですか?
923 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 18:40:36
>>919 >888で美濃さんがいい事言ってるでしょう。
>「中国では2つ以上の漢字を組み合わせる熟語の観念がなく
基本的に一つの字に一つの意味って事で漢字を作ったりする」と。
そうなんですよ。現代の中国語文でさえ言文一致体の日本語の影響で成立したもの。
中国語に熟語の観念はありません。
漢字は一語で表そうとするから単に「至る」=「通過」と違う意味の「至」と
「到着して休む」「宿泊する」という意味で「至る」を今日はここで終わり、という
ナイフでスパッと切り取るというイメージの「刀」をくっつけているのです。
よって「倒」一語で字義を十分表しているのであり、さらに続けてくっつけるなどおかしな話です。
924 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 18:50:06
切は「刀+七(中程で切る)の会意兼形声で、刃物をぴったりと切り口に当てて切ることですから
まさに付け足しではなくナイフがそのままの形で残っています。
りっとうは刀の文字が変形したものです。
>>923 >「到着して休む」「宿泊する」という意味で「至る」を今日はここで終わり、という
ナイフでスパッと切り取るというイメージの「刀」をくっつけているのです。
イメージですか? 人それぞれ異なるイメージを持つのではありませんか?
ナイフのイメージも人それぞれで、グサッ ズブズブ 「スパッ」は ですが さんのイメージでしょ
「到着して休む」も人それぞれの行動、「宿泊する」も人それぞれの行動
『至、到』の文字に委ねることは困難です。
>>924 >刃物をぴったりと切り口に当てて切ることですから
まさに付け足しではなくナイフがそのままの形で残っています。
では、『風を切る』という時の「切」文字の登用は間違いと言うことですか?
なんとなく
>>921さんの『ロマン、が答えだろ 』が身にしみる今日この瞬間
926 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 20:57:28
>>925 それは古代の中国人がイメージして作った文字ですから。
現代の我々の感覚とは多少違うと思いますよ。
「「通過」「到着して休む」「宿泊する」の重きを置くのではなく
あくまでも「着く」ことが本意ですが、同じ着くにも
旅行でやっと宿泊先のホテルに着き休むのを前提にした到着と
単なる通過点に着くのでは意味が違う。
漢字は数多くこのような同義語があり、日頃使い分けていますよね。
927 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 21:16:43
>>925『風を切る』という時の「切」文字の登用は間違いと言うことですか?」
さあ、間違いかどうかはわかりません。風自体は目に見えませんが
それを切るというイメージを古代中国人が持てっていたら古代の中国の文献にあるでしょうが
私はそれを知りません。恐らくは後世に本来の意味から広げて考えられ、
目に見えないものを切るという表現に転じたものではないですか。
>>926 >それは古代の中国人がイメージして作った文字ですから。
中国人がイメージで作ったとどこで理解すればいいのですか?
中国人も様々な主観をもっていますよ
それに、
>旅行でやっと宿泊先のホテルに着き休むのを前提にした到着と
単なる通過点に着くのでは意味が違う。
という違いをどこで理解するのです?
休みを前提にしたというのは何処で感じ取るのか?
そろそろ
ですがさん個人の主観での解釈はよしましょうよ、
マトモ度
九州王朝大好き=にんとく>ローガン>太国>>>>得られない壁>>>>河童虫≧美濃もん太
930 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 21:59:27
>>928中国人がイメージで作ったとどこで理解すればいいのですか? 」
それは中国文字の発祥まで遡って象形文字で考えればいいんじゃないですか?
>「中国人も様々な主観をもっていますよ 」って。そんなに主観の違う意見の対立する人ばかり
いたとしたら漢字一つ生まれていませんよ。どっかで協調して妥協したんでしょうね。
それにしても中国の奴隷の落書きから生まれたと言いますから大変な知恵ですよ。
>「休みを前提にしたというのは何処で感じ取るのか? 」
おたく通過と到着の区別もつかないんですか?
931 :
判定:2008/06/07(土) 22:17:10
>>929 マトモ度
ローガン=九州王朝大好き=にんとく>>太国>>>>越えられない壁>>>>河童虫>改め>サガミ>唐松山≧美濃もん太
932 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/07(土) 22:26:02
>>930 『至と到』の区別が
なんで
「通過と到着」にすりかわるんだ?
到は到着じゃないよ
「到」が到着の意味だったら(着)の立場はどうなる? 可哀相に
933 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 22:46:55
人偏にに到るで倒す。
剣を持って人が至れば敵が倒れる。
至ると、到の違いは、友好関係があるか。
敵対する国に至るには、兵力によって敵を倒す必要がある。
つまり、魏志倭人伝を書いた当時、邪馬台国とは敵対関係にあったということだ。
これで、全ての謎が解けた!
934 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 22:51:15
>>933素晴しい推理ですね。驚きました。
これで、白村江の戦に至る大陸との関係がはっきりしました。
頭痛くなってきたから俺は降りるよ
後はご自由にロマンしてください
936 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 23:23:11
至+人=到
至は矢が刺さった形の象形文字から。
横に人が付いて到。
到の刂は人です。
937 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 23:25:00
>>932 すりかわるんだ?]
すり替え?どこがですか?
>>914でちゃんと言ってるじゃないですか。
昼の1時54分ですよ。もう半日も字の意味がどうだのこうだのやってるんですよ。
>「 到は到着じゃないよ 」
到が到着じゃなかったら何だって言うんですか?
そちらに解りやすいように「通過と到着」と分けてるけど
どちらも到着には違いが無く、素通りするかどうかで違ってくるのは
至の横にナイフで切るという字義の刀の文字があり、何を切るかというと
時間をスパッと切っているイメージから、そこでいったん時間を切る、つまり
休憩ないし宿泊して日が変わる、と言う意味を持つのではないかという事。
これがこちらの主張の骨子です。
ちなみに「着」の字は元々別の字、別の意味で「つく」という意味はありません。
938 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 23:33:39
>>937 到の刂は人です。
刂が刀は河童虫のホラです。
939 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 23:39:27
河童虫はホラ吹きです、信用しない方がよい。
>>938 >刂が刀は河童虫のホラです。
月曜日には眼科に行って来なさい。
「リが刀」と記載したのは私ではありませんよ
941 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 23:43:56
>>936>>938「到の刂は人です」
ちがいますよ。
りっとうは漢字で書くと「立刀」と書いて刀で切るという意味です。
942 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 23:46:27
到の刂は人です。
原型の象形文字を調べてみてください。
943 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/07(土) 23:59:49
人はどう考えても人偏でしょうそれ以外など聞いた事無い。
944 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 00:03:47
945 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 00:05:59
象形文字では人です。
きちんとした漢字の形に成る時に刂になってしまった。
致も象形文字では到と同じ字です。
>>937 >もう半日も字の意味がどうだのこうだのやってるんですよ。
何年もまだ続けている人もいるんですよ
>到が到着じゃなかったら何だって言うんですか?
そもそも「到」の文字に意味なんてない・・・・これ、最低認識ね
>時間をスパッと切っているイメージから、そこでいったん時間を切る、つまり
休憩ないし宿泊して日が変わる、と言う意味を持つのではないかという事。
これがこちらの主張の骨子です。
なるほど、想像ですね
>ちなみに「着」の字は元々別の字、別の意味で「つく」という意味はありません。
もしかして「著」の文字のこと?
947 :
改め:2008/06/08(日) 00:15:00
お〜河童氏と九州ですが氏が「至」、「到」の違いをやりあってるわけですか?
河童氏はわたしと「至」、「到」の違いをやったでしょ?
何でいまさら?まだちゃんと理解できてないようですね・・・。
>>937 で、
『・・・到其北岸狗邪韓國七千餘里』
の(到)が
君に言う
>時間をスパッと切っているイメージから、そこでいったん時間を切る、つまり
休憩ないし宿泊して日が変わる、と言う意味を持つのではないかという事。
これがこちらの主張の骨子です。
これに当てはまるというんだね?
海の上だよ
『其』=大海 『到』も大海
>>947 >河童氏はわたしと「至」、「到」の違いをやったでしょ?
何でいまさら?まだちゃんと理解できてないようですね・・・。
理解できていないのは『貴方』 自分のことを他人にすりかえないでね
私は既に完了していますからご心配なく
それよりも、魏書と魏略ネタを盛り上げようとしていたのではないですか?
あ〜そうそう
魏略ネタで、しばらく楽しめるネタあげるね
どうして魏略は『従郡至倭』で始まっているか?(頑張って考えてみたら)
さ〜始めっ
950 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 00:24:30
>>933の人は敵対するから刀を意味する立刀を使うと言ってるけど
「到」の文字が使われているクニは伊都国のみ。後は全部「至」。
伊都国は必ず魏使が来倭の時立ち寄るところであって
だからこそここだけ到が使われてると言える。
伊都国は敵対どころか魏使をもてなす迎賓施設があったと考えられる。
ここで休憩したか宿泊したかであり恐らく後者。
酒宴が設けられ疲れを癒した処だと考えられる。故に「到」。
951 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 00:29:24
>>946そもそも「到」の文字に意味なんてない・・・・これ、最低認識ね 」
そんな事言ったら小学生に笑われますよ。
意味の無い漢字を学校で教えるわけ無いでしょう。
元々意味を失ったことがあるのは「着」字の方です。
>>949 >理解できていないのは『貴方』 自分のことを他人にすりかえないでね
>私は既に完了していますからご心配なく
いえいえ心配ですw
わたしのほうは完璧に完了してることなので、
もう、議論するんではなく教える立場なわけです。
貴方はまだ議論したがってるところをみると、まだまだ完了してなさそうですよ。
>それよりも魏書と魏略ネタを盛り上げようとしていたのではないですか?
それは貴方と・王朝氏へふったはずですが、進めてくれなかったんですね・・・。
>どうして魏略は『従郡至倭』で始まっているか?(頑張って考えてみたら)
>さ〜始めっ
貴方は、まだまだ勉強が足らないようですね。
953 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 00:36:32
>>948海の上だよ
考えても海の上に到着するわけ無いじゃないですか。そんな解釈は日本ではありえません。
到其北岸狗邪韓國とは「其北岸」は「倭の北岸」到着したのは狗邪韓國に着いているんです。
>>950-951 九州ですが さん お久しぶり。
終止符スレで「なぜ、改め、九州ですがは議論しない?」書きこみありましたよ。
なぜでしょう?w
それと河童氏と「至」、「到」の違いですか?
まだまだ、あなた達は勉強が必要ということ。
頑張って「至」、「到」の違いを河童氏と一緒に見つけて下さい。
私の中では、もうその問題は、既に過去の「課題」となってますので
議論はしませんが・・・。
956 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 00:46:24
>>954 誰ですか?おたくは?神奈川県民さんでも無く三重県民さんでもなく
両方の名を騙って「こんばんわ」とか出てきては、かき混ぜてる人じゃない?
僕の知ってる神奈川県民さんはおたくのように軽い人ではないです。
それとも何かの心境の変化でもおありになって人格でも変わられたんでしょうか?
>>956 >誰ですか?おたくは?
記憶力が悪いのですか?
ドンコイの前々スレで、貴方から「邪馬台国は九州八女周辺」というのを聞きましたが?
神奈川県民?三重県民?なんのことでしょうか?
三重県民さんなら、さっき 別のスレへきてましたが・・?
「裏日本は現存する/日本建国の真相を暴露?!」だったかな。
958 :
橿原一派:2008/06/08(日) 00:53:26
こんばんわー
>>953 >考えても海の上に到着するわけ無いじゃないですか
到=到着と考えているからそういう判断になります。
>到其北岸狗邪韓國とは「其北岸」は「倭の北岸」到着したのは狗邪韓國に着いているんです。
「大海」之中 それに何故「其北岸」で括るのです?括るなら「北岸狗邪韓國」でしょう
>>958 おう しげちゃん〜♪
どう思うよ?
この中の3人で俺の説が一番まともでしょ?
961 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 01:03:06
前のお客さんのケツの穴を舐めた唇でディープキスはきついですねぇ・・・
でもアナル舐めは超きもちいいですから我慢しますね・・・
たまに気持ちよすぎてくそ汁がでそうな時があります。
出したらひんしゅくだから我慢していますね。
乳首なめ、アナルなめ、裏筋なめはたまりません。
。ρ。
ρ
mドピュッ ワショ〜イ
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3)
./_ ゝ___)(9 (` ´) )
/丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/ \____/
962 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 01:03:19
>>959到=到着と考えているからそういう判断になります。
それいがいになんだとおもうわけ!!もうしちめんどくさい。
>>962 >それいがいになんだとおもうわけ!!もうしちめんどくさい。
ほらほら勉強が足らないからまだ分かってない。
貴方とは「なぜ、議論しないの?」言われてるので、軽くひねっても
いいのですが、わたしの相手として役不足だし、相手になりません。
以上 「改め、九州ですがが、議論しない」理由。
しげちゃん 分かったかな?そうゆう理由だからだよ。
964 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 01:08:34
>>962続き
まさか、ひょっとしてこの意味にとってるんじゃ?
いたる‐ところ【至る所/到る所】
[連語]行く先先どこでも。また、あらゆる所。「―で大歓迎」「部屋中―ほこりだらけだ」
>>962>>964 「到」に意味なんてありませんよ 一文字で意味を成す名詞は「姓」ぐらいでしょうから
>いたる‐ところ【至る所/到る所】
(いたるーところ)という意味を発生するには、(いたるーところ)という意味を必要とする文章に「到」と言う文字が挿入されてはじめて(義)が発生しますよ
966 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 01:34:56
>>965>いたる‐ところ【至る所/到る所】
の意味に取ってるとしか考えられない。
>「到」に意味なんてありませんよ」このソースは?
>>964 確か貴方には「到と至」の活用に違いを(プラム時代から)2〜3度繰り返し説明しているはずですよね
>>963 なんだか凄く不自然だし、わざとらしいよ
969 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 01:49:05
>>967 ああプラムさんなんですか。「到と至」の活用など話した事はありませんよ。
今初めてだと思いますけど。ただ僕は辞書に基づいて話してるだけです。
>963なんだか凄く不自然だし、わざとらしい
改めや橿原一派など何処のスレにも、もう誰も相手する人いません。
970 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/08(日) 01:51:19
>>968 議論するなら河童氏のが、「骨の有るやつ」いうことだよ。
ほら 喜べw
すいません 言葉悪く、分かりづらくてw m(__)m
>>966 >「到」に意味なんてありませんよ」このソースは?
『漢和辞書』
漢和辞書に掲載されている意味には、必ずその意味に相当する用例が平行して記載されています。
つまり
漢字と言うものは、文章があるから意味があるのであって
文章の無いただの文字の意味は 名詞以外ありません。
漢和辞書に掲載されている意味は、沢山の用例から導き出された結果であり
文字自体の意味ではなく、文章とセットで意味をなすものです。
つまり
貴方は、肝心な基本的なこの事が分からず
タダ闇雲に都合に合わせて意味をチョイスしていたにすぎないのです。
で、『到』に意味が存在するという理由は?
>>969 >改めや橿原一派など何処のスレにも、もう誰も相手する人いません。
そんなこと言わないで
たまには相手してあげてくださいよ(根は 悪い奴じゃありませんから)
ところで
『橿原一派』さんなんですが、私の知ってる昔の橿原一派さんじゃないようなんです
973 :
意義あり:2008/06/08(日) 02:00:41
>>931 判定
マトモ度
ローガン=サガミ>>>越えられない壁>>>唐松山>九州王朝大好き=にんとく=太国=河童虫≧美濃もん太≧改め
・・・これぐらいが妥当だろう。
サガミハラの場合、良くも悪くも昔ながらの九州説論者であり
昨今の九州説の窮地を自覚もしているみたいだし・・・
ネットじゃなくてリアルでもまあ一応は説として出せる範疇。
それ以下はまあどいつもこいつも電波垂れ流しで甲乙つけがたし。
改めの場合、そこに2ちゃんでスレ私物化をうたうと言う狂気が加わる。
974 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/08(日) 02:01:36
>>972 自分が騙されやすい人ってこの人は分かってないね(笑)
>>970 >議論するなら河童氏のが、「骨の有るやつ」いうことだよ。
ほら 喜べw
私は虫さんとは議論しませんよ
議論する余裕もありませんし、議論する前に毎回宿題出されて『はい、おしまい』
これをかれこれ3年ほど繰り返しているだけです。
>>974 >自分が騙されやすい人ってこの人は分かってないね(笑)
彼とはかれこれ2年〜3年にまるかな〜?
彼はとっても純朴な人柄だよ
977 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/08(日) 02:07:19
>>975 いやいや 「河童虫氏」と「九州ですが氏」とでは、貴方のが「骨」有る。
ということ。
何で、そこで貴方の師匠がでてくるんだよ(笑)
>議論する余裕もありませんし、議論する前に毎回宿題出されて『はい、おしまい』
>これをかれこれ3年ほど繰り返しているだけです。
恥ずかしくないの?おれは論破してるのに(笑)
978 :
改め ◆PWTcGEfp1s :2008/06/08(日) 02:10:29
ここのスレもうすぐ1000行くがもう立てないようにしない?
次どこを片付けましょうか?
邪馬台国かんれんのスレ〜一つ一つみんなで片付けよう!
>彼とはかれこれ2年〜3年にまるかな〜?
>彼はとっても純朴な人柄だよ
あんた〜本当に騙されやすいね。
しげちゃん〜教えてやれよ
979 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 02:12:46
980 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/06/08(日) 02:18:58
>>971「漢字と言うものは、文章があるから意味があるのであって
文章の無いただの文字の意味は 名詞以外ありません」
それが既に間違いですよ。漢字は一文字で 意味を表す表意文字。これが漢字の特徴ですよ。
これと違って文にならないと意味を成さないのは日本語です。
>で、『到』に意味が存在するという理由は? 」
だから何度も言ってるじゃないですか。
至は「矢が下方に進むさま+横線」の会意文字で、矢が目標戦までとどくさまを示し
立刀を付けることで切れ目を入れる、という事だと。
これに間違いないんですから。違うと言うのは邪義でしょう。
少なくともこれで日本人は教わってるのだから決めたように学ぶのが教育じゃないんですか?
こんな事言い合っても無駄でしょう。これで邪馬台国の何を実証しようといているわけですか?
時間ばかり費やして字についてだけ議論するのなら日本史とは何の関係もないでしょう。
981 :
河童虫 ◆EY2wfgakAQ :2008/06/08(日) 02:22:13
>>977-978 そのレス、時価で受け取っておくよ
そして
今度はプラムバージョンではなく 河童虫バージョンで対応させてもらうから
ヨロシク。
982 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 02:25:10
>そのレス、時価で受け取っておくよ
>そして
>今度はプラムバージョンではなく 河童虫バージョンで対応させてもらうから
>ヨロシク。
?! 謎のレスだね〜その意味は?? 説明よろ
984 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 02:27:46
>>981 あんたは改めと議論してる時の河童虫さんは評判いいんだよ。
何故か師匠の所へいくと「無視」されるような、言葉を教わってくるというか。
985 :
台与:2008/06/08(日) 02:51:04
こんばんわ〜
台与で〜ちゅ
トヨタン・・・・・・・・・・・・・・
987 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 04:31:18
『なぜ邪馬台国を大和と認めないの?』
>>1 >テレビ局やインチキ作家が喜ぶだけだろ。
正直邪馬台国ブームなんて大昔。
テレビ局にしても九州説やその他の説で番組組もうとはしないんじゃない?w
988 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 05:06:25
>>979 ↑
こいつまともにアンカーうてんのか?
たぶん改めストーカーのキチガイなんじゃねwww
989 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 05:08:05
11
990 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 05:08:53
10
991 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 05:11:23
9 2ちゃんねらーてアホ多いな
992 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 05:12:11
993 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 05:16:35
>>992 アンカーうつの下手なやつてそいつと
九州ですがてやつしか居ない・・・
立てた本人に片付けさせろ
994 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 05:31:30
995 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 05:36:13
995
996
997
998 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 06:01:18
998
999 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 06:01:56
999
1000 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 06:03:02
1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。