1 :
日本@名無史さん :
2007/12/14(金) 20:18:01 。 o 。 o o O 。 o
O O ______o ○ o O 。
。 ○ o O / ィ o 。 o
o (:::::::::::::::)⌒ヽ 九州も畿内も四国も朝鮮も沖縄も
o \(^▽^ )__ ) o エジプトもコテハンもドンと来い!
○ 。 ○ /○ ○) /|,. 。 o 。 o
。 o o ∠∠______∠_/ / 出来るだけソースを出して後はお好きに!
o .|/ |_/ ○ 。 。 o o
o O / ̄ ̄ ̄/ ̄ o 。 。 o O 。 ○
。 ノ / o O 。 o O 。
o o ∧∧__ノ) ∧∧__ノ) 。 o ○
o (゚-゚= ) (゚-゚= ) つ 良識ある言動を。煽り、粘着禁止。荒しはスルー
。 o ∪-∪'"~ ∪-∪'"~ 。 。 o °o 。 。 。 o
■前スレ ♪邪馬台国 ドンと来い♪ 24
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1194005931/l50
2 :
日本@名無史さん :2007/12/14(金) 20:34:24
西暦273年の日食は 神功元年の日食である。
3 :
日本@名無史さん :2007/12/14(金) 23:42:50
前スレのラストで出てきた議論は面白いので継続してほしい。 つまり倭人伝で卑弥呼の死のあとの「更相誅殺」をどう解釈するか、という問題。 俺なりにちょっと交通整理すると、 1.男王は、卑弥呼が持っていた30国をとりまとめる「倭王」の権限を継承しようとして、うまくいかなかったのか? 2.それとも、邪馬台国内だけの後継王位をめぐる騒動なのか? 3.そもそも、この男王は邪馬台国の人なのか? 4.卑弥呼の死の直前には狗奴国との不和が出ている。こちらの問題は決着していたのか? それとも、卑弥呼後継争いには狗奴国も関わっているのか? 5.卑弥呼を補佐していた男弟や、伊支馬以下の4人の官、難升米、一大率など、有力人物はどう動いたのか? 6.張政も何らかの関与をしていなかっただろうか? こういう点が気になるのだが、よくわからないので議論してほしい。該当箇所を原文で示すと、 其八年、太守王[斤頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯・烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米、爲檄告喩之。 卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與。
4 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/15(土) 00:15:12
途中なんであれ 最終的に漁夫の利?(意図的か?)を得たのが「壹與」 以前から何度も言ってるけど 狗奴国と卑弥呼は戦争してないよ
5 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 01:15:29
>>3-4 壱与が意図的にやったのか漁夫の利かは知らんが、(意図的とすればスゴイ少女だね)、
引用倭人伝最後の「國中遂定」がたいへん印象深くに思える、とくに「遂」の字。
卑弥呼生前中からあった狗奴国とのゴタゴタも含め、倭のさまざまな難題が、若き女王
壱与の登場によって一掃され、倭全体がすっきり丸く治まって解決した、という意味を込め
ているのではなかろうか。「国中遂に定まる」は。
6 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 02:56:40
ちょっとみんなwww >>1 乙!を忘れているよ。
イヨタンサマ・・・・・・
13歳で日本中の男を虜にして従わせた壹與たん どんだけ可愛かったっちゅうねん
イヨタン・・・ イヨタン・・・・・・ イヨタン・・・・・・・・・・・
10 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/15(土) 07:47:25
遅くなったけど
>>1 乙
>>5 どうせ壹與は最初お飾りだろうけど
『卑弥呼宗女壹與』
と、書いてあるから
こう言う時は必ず、後で絵図描いている奴が存在するもんだよ
一言で静まりかえる程の大物が
11 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/15(土) 07:56:58
>>2 西暦273年は倍暦計算で垂仁天皇の時代に相当する。神功の時代ではない。
それに神功元年の紀の記述のは日食ではなさそう。日食が誇張を考えても数日
も続くとか考えにくい。それは何らかの永続的特殊な気候だったのだろう?
神功の時代は同計算で300年代後半だ。
壹與はおそらく実力者の妾
13 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 09:25:51
ここまでイヨタソゆっといて、誰もみかん王国に触れない不思議。 四国は無視かい! って俺も無視してるけどw
>>14 愛媛みかんはもう少し後の話しだから。
先ずは壹與誕生までのプロセスを纏めないと、話しが混乱するだろう。
それに
愛媛みかんの時代は
帝国史書より、記紀のほうが細かいし
史書に五瀬命は登場しないからややこしくなるよ。
16 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 13:00:40
混乱を制して卑弥呼の宗女(血族)が正統を継承したということは、邪馬台国を盟主とする勢力が実権を取り返したということ。 一時的にせよ、奪ったのが伊都なのか投馬なのかは知らないが。
17 :
992 :2007/12/15(土) 13:39:50
>>4 >狗奴国と卑弥呼は戦争してないよ
なんで?
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状」
倭女王卑彌呼と狗奴國男王卑彌弓呼は戦争してると遣倭の載斯と烏越等は帯方郡に説明しに行っているのでは?
18 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 13:58:01
いや、卑弥呼と台与は血族じゃねーぞ。宗女は宗女。 男王もたっただろ。 こいつらは血族では繋がっていない。結婚できない宗女が頂点に たってるということが天皇家とは違うことを示している。 つまり大和政権とはまったく関係ないね。
19 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 14:00:17
俺的には大和朝廷が邪馬台国から王朝簒奪した。 というのが一番説得力がある。
20 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 14:24:02
21 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/15(土) 14:33:15
>>18 『宗女』→選ばれし女
卑弥呼と血族関係にはないから
ワザワザ宗女と記載したんだ
22 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/15(土) 14:48:50
>>17 >なんで?
『なんで?』って
こっちが聞きたいよ。
貴方の主張通りなら、普通「説明」→「原因判明」
じゃない?
「原因判明」→「説明」
となってるのはどうして?
説明できる?
23 :
ローガン :2007/12/15(土) 16:08:31
>>17 それはね、正始六年の記事と正始八年の記事をよく読めば、判る。
ヒントは六年の黄幢と八年の黄幢は同じものだという事。
24 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 16:14:50
>>18 >>21 宗女と書いてるから卑弥呼と血族関係はない、というのは論理の行き過ぎと感じる。
もちろん卑弥呼は独身を貫いたわけだから台与が卑弥呼の直系血族(娘や孫)では
あり得ないのは解るが、卑弥呼にも当然父母はいたわけだからその血縁をたどれば
台与に行き着く可能性は、なんぼかはある筈。
その系譜が倭人伝に書いてないじゃないか、と言う向きもあるかもしれんが、陳寿は
苦笑するだろうね。数等身離れればもう簡潔には表現できないよと。
プラム氏のように「選ばれし女」と解釈したところで、一族から選ばれたかそれとも他
族から選ばれたのかは、判然としないというのが正直なところだろう。
血族関係は「絶対に無い」とは言い切れない。
25 :
24訂正 :2007/12/15(土) 16:30:20
数等身→数親等 スマソ
26 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/15(土) 17:09:10
>プラム氏のように「選ばれし女」と解釈したところで、一族から選ばれたかそれとも他 族から選ばれたのかは、判然としないというのが正直なところだろう。 血族関係は「絶対に無い」とは言い切れない。 じゃあこうしない 今は私の予想という形で
27 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 19:16:10
「宗」に「選ばれる」なんて意味を思いつく神経がわからん。 「宗女」と書かれて無関係にしちまう魂胆は哀れ。
28 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/15(土) 20:41:06
>>27 >神経がわからん
別にわかってもらわなくてもOK
わかる人だけで十分です。
今日は漢字の解説なんてしたくないし
>哀れ
暇潰しの古代史の解釈くらいで「哀れ」と感じちゃう、精神構造の方が
『哀れ』 (-.-;)
29 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 21:19:25
つまり説明できないってことねw
>>29 今、説明したい気分じゃないしぃ〜
釣にも興味ないから〜
31 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 22:18:09
前にたしか謎の女王スレで意見表明したんだが、もう一度ここで再説したい。
これは3世紀の倭の政治や社会を考えるうえでも、案外重要な点と思うのでな。
>>3 >倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和。遣倭載斯・烏越等詣郡説相攻撃状。
俺はこう読み下す。
<倭の女王[卑彌呼]、狗奴國の男王[卑彌弓呼素]と不和となり、
倭載斯・烏越等をして郡に詣らせ、相攻撃の状を説かんと遣わしむ>
通説の読み方と違うが、そのポイント。
(1)狗奴國の男王名を[卑彌弓呼素]と5字にする。読みはヒミクコソか。
(2)したがって「素」に「もとより」の読みはなくなるので、「もともと仲が悪かった」とする
通説の解釈は誤読である。卑弥呼と狗奴国は正始7〜8年頃に不和となったのである。
実はこの解釈は、俺の新発明じゃないんだ。
内藤湖南が明治43年に「卑彌呼考」で述べたもの。この説、もっと見直してほしいが。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/4643_11096.html
何の論理も伴わない単なる思い付きを「解釈」なんて表現しちゃうのは凄いセンスだと思う。
34 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/15(土) 22:58:21
>何の論理も伴わない単なる思い付きを「解釈」なんて表現しちゃうのは凄いセンスだと思う。 いいんじゃない人それぞれだし なんの理論も伴わないんじゃなく、理論を公開していないだけだけ とっかかりだけ公開すれば 「宗」と言う文字に対して古代の人は、和語(ムネ)をあてた 和語音(ムネ)をあてた漢字は他にも「胸、旨、棟」などがある ここから論理(考察)は始まり ↓ ↓ ↓ ↓ 最終的に「選ばれし女」と解釈したんだよ 最初のとっかかりを書いたから、後は自分でも考察してみたら?
倭人が「宗」と言う文字にどう言う意味を与えたかなんて関係ないだろう。 魏志に「卑彌呼宗女壹與」と書いたのは倭人じゃないだろうにw 「理論」も何も鼻っから何も考えてない証拠だね。 ちなみに「胸」とか「棟」の古語は「ムナ」だからね。
36 :
日本@名無史さん :2007/12/15(土) 23:25:36
またまた「ぷ」祭りか?
37 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/15(土) 23:30:07
>ちなみに「胸」とか「棟」の古語は「ムナ」だからね。 「ムネとムナ」(最終母音eとa)の関係は少しだけ他スレで先日説明したから ここでは省くよ >倭人が「宗」と言う文字にどう言う意味を与えたかなんて関係ないだろう。 魏志に「卑彌呼宗女壹與」と書いたのは倭人じゃないだろうにw 漢人が書いた「橋」の文字と和語(はし)は異なるのか? それにいいかい「ムナ」は「ムネ」が存在するから成り立つ(言葉、意味)だよ な〜にが 古語だ しっかり勉強してからヤリ入れないと、恥かくよ
38 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/15(土) 23:39:38
>倭人が「宗」と言う文字にどう言う意味を与えたかなんて関係ないだろう。 魏志に「卑彌呼宗女壹與」と書いたのは倭人じゃないだろうにw 何処がどのように関係ないんだ? 説明してミソ 漢人が書いた「橋」の文字と それに和語(はし)をあて、カナ表記「はし」は 意味が異なるのか? >「理論」も何も鼻っから何も考えてない証拠だね。 それって、典型的なキミのこと >ちなみに「胸」とか「棟」の古語は「ムナ」だからね。 「ムナ」は「ムネ」があるから存在できる表現。 時系列を考えるときは 「ムネ」→→「ムナ」の順 な〜にが 古語では「ムナ」だ しっかり勉強しないでヤリ入れると、恥かくよ。
39 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/16(日) 00:08:10
40 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 00:09:39
邪馬台国はチェジュ島! その後、九州を支配し、日本を作りました チェジュ島人は百済系か新羅系なので、日本は韓国が作ったことになります はやく列島を韓国に返還してください! 倭寇人は東南アジアにでも引っ越さなければならない
41 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 00:14:35
>漢人が書いた「橋」の文字と和語(はし)は異なるのか? 誤魔化すなよ。 例えば「猪」と言う文字なら意味は異なるだろう。 キミの説は、当時倭人が「宗」と言う字に倭語「ムネ」を当てていたと仮定して、 かつ、魏志又はその原文献の著者が、その用法を受け入れた場合にのみ成立する。 ただし、その場合でも読者である漢語話者には全く意味が通じない文章となるという 笑い話だけどなw >いいかい「ムナ」は「ムネ」が存在するから成り立つ(言葉、意味)だよ >な〜にが 古語だ 胸を「ムネ」と読むことが万葉以前に成立していたことを立証できるのかねw しなが鳥 安房に継ぎたる あづさ弓 周淮(すゑ)の珠名は 胸別(むなわけ)の ひろき吾妹(わぎも) 腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)の その顔の 端正(きらきら)しきに 花のごと 咲(ゑ)みてたてれば 玉ほこの 道行く人は おのが行く 道は行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ さし並ぶ 隣の君は あらかじめ おの妻離(か)れて 乞はなくに 鎰(かぎ)さへ奉(まつ)る 人皆の かく迷へれば うちしなひ 寄りてぞ妹(いも)は たはれてありける(万葉集巻9)
久々にN速+で邪馬台国関連のスレをみたので来てみた。 やっぱ専門板はなんか良くわからんけどディープで良い感じ。 ムナとムネについては、記だか紀で、「宗像(ムナカタ)」を 「胸形」と表記している例がありますよね。
43 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/16(日) 00:56:33
>>41 >胸を「ムネ」と読むことが万葉以前に成立していたことを立証できるのかねw
(万葉集巻9)
その万葉集の読み下しは(仙覚さんの)? それとも自分で?
>「胸別」(むなわけ)
ムネ(胸)があるから(むなわけ)があるんだろ? こんなのは道理だよ 証明なんて必要のない
>胸を「ムネ」と読むことが万葉以前に成立していたことを立証できるのかねw
これはトンチンカンな質問ですね
漢字「胸」という意味が、和語音表記(むね)なんだよ、 時系列なんて関係ないこと
「むね」という音は当然文字以前からあったのは間違いないことだし
>誤魔化すなよ
誤魔化しと、とらえてしまう貴方の知識が乏しいの
>例えば「猪」と言う文字なら意味は異なるだろう
この例えの趣旨が分かりません。
44 :
ローガン :2007/12/16(日) 01:03:26
>>33 「相攻撃」は 倭載斯烏越等郡訟だったね。理由というか、原因というか… 素不和だよね?
でも張政等の来倭とは直接、関係があるような書き方をしていないでしょう?
張政等は六年の詔に基づいて八年以降に来倭したんだから、
八年の「素不和」や「相攻撃」と張政等の来倭目的は関係ないと判断せざるを得ないでしょう
45 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/16(日) 01:11:35
正始八年の記事は 「・・・・素不和」まで それ以降は、正始八年以前の出来事です。
>>42 >やっぱ専門板はなんか良くわからんけどディープで良い感じ。
あのな、婆さん
今進行中の応酬は最悪や思いますが、違いますか?
ディープで良い感じとは、俺にはちっとも思えんがのう ( ; ; )
つか悪夢の1年前に戻ってしまったみたいや (><)
47 :
改め :2007/12/16(日) 01:28:44
ぷさん〜ここでも論破されまくってるね(笑) 宗女とは一族の女でいいんだよ。
48 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 01:32:40
>>45 ん? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
>>1 スレ立て、乙。
>良識ある言動を。煽り、粘着禁止。荒しはスルー
了解。
49 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 01:36:33
>>44 だから、そんなことより、邪馬台國と狗奴國の間に戦闘があったかどうかの話をしてよ。
相攻撃っていうのはどういう意味さ?
50 :
改め :2007/12/16(日) 01:40:45
>>4 >狗奴国と卑弥呼は戦争してないよ
あーたねえ・・・・同情。
>>17 さんが
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状」
て書いてくれてるでしょう!虫語やなくふつーに訳しなさいよ笑
51 :
改め :2007/12/16(日) 01:42:35
>>4 ああ〜戦争やなく事変クラスって事でつか?
まあ、戦ったのは事実でしょうね。
52 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 01:45:47
猪って中国では家畜であるブタのことだよね。 それを日本では野生のイノシンの意味で受け入れているね。 ぷは知らないんだね。
53 :
改め :2007/12/16(日) 01:46:05
>>51 を訂正
訂正箇所:戦った⇒お互い攻撃しあった
54 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/16(日) 01:53:12
>>50 夜中まで粘着 乙
(^O^)/
粘着に狙われた以上、この先荒れそうだから
失礼しよ〜っと
(^-^)/
クワバラクワバラ
55 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 02:04:48
>>53 >お互い攻撃しあった
「相攻撃状」
お互いとは何処と何処?
56 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 02:12:20
>>42 婆さん、久しぶりに見かけたね
僕からすりゃ十二分に若い女性なのに。
57 :
改め :2007/12/16(日) 02:20:40
>>55 >「相攻撃状」お互いとは何処と何処?
>>17 とか
>>50 のレスをよくみて!
>>54 >夜中まで粘着 乙 >(^O^)/
>粘着に狙われた以上、この先荒れそうだから
>失礼しよ〜っと >(^-^)/
>クワバラクワバラ
いつまでもそうやって論争から逃げてなさい。
58 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 02:25:38
私もN速+で邪馬台国関連のスレをみて面白かったので来てみた。 やはり専門的ですね。言葉も短くてよく分からない。 山谷に囲まれた安全で豊かな穀倉地帯に強大な古代の部族連合国家「ヤマト」が 成立するとなると、それは条件的に大和盆地以外にないってのは どうなんですか。詳しい方々から見ると。
59 :
ローガン :2007/12/16(日) 02:54:14
正始六年は魏の率善中郎将の難升米に黄幢を渡す事を詔。 それが実行されたのが八年。 中郎将に軍旗を下賜せよ…との皇帝の詔、つまり「半島の戦いに参戦せよ」という意味だろう。でも倭国からは出兵していないね。 出兵しない言い訳が、「相攻撃」じゃないだろうか? もちろん、実際の「相攻撃」があった事を100%否定している訳ではないので悪しからず。 おやすみ…眠い…
60 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 02:59:39
もし、卑弥呼の名が於目呼だったらどのように扱っただろう。
61 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 09:21:22
>>59 > 正始六年は魏の率善中郎将の難升米に黄幢を渡す事を詔。
> それが実行されたのが八年。
> 中郎将に軍旗を下賜せよ…との皇帝の詔、つまり「半島の戦いに参戦せよ」という意味だろう。でも倭国からは出兵していないね。
> 出兵しない言い訳が、「相攻撃」じゃないだろうか?
その解釈じゃ「言い訳」が先で「出兵要請」が後にされたことになっちゃうよ。
62 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 09:25:46
>>45 >それ以降は、正始八年以前の出来事です。
他の部分は時系列に従がって叙述されてるのに
なんで載斯烏越の遣使記事だけそんなことになるの?
63 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/16(日) 10:50:38
>>62 正始八年太守王キ到官倭
→正始八年帯方郡王キ倭を調査する
因みに
一般的には「赴任」と訳されているがトンデモナイ
赴任なら必ず赴任地を明記するし、赴任は「至官」
第一、一太守の赴任を記載しても意味がない
中達の実質失脚や、明→芳への移り変わりすら触れていないのに
到→ 着手
官→ 職務
つまり、
倭を調査した結果「素不和」が解り
それ以降が八年以前に起きた出来事に対する調査内容。
正始八年以降、紀元が一切書かれていないのがなによりの証拠だよ
後はこれ以上詳しくはしゃべりません
64 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 11:09:59
>>57 >よくみて
とてもハイエナ臭の強い文体でつねw
65 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 11:41:41
魏志倭人伝とか文章を一つ一つ検証していくことがどれだけ意味のあることだか… 風俗について書いている部分なんて、これは沖縄でしょ?ってことになるし。 魏志倭人伝については細かい部分はほぼ無視して、年代の確定と、その当時の日本の状態の概要だけ確定させればいいと思う。 ということで、魏志倭人伝を読み解く作業は既に終了しているとおもうんだが・・・ 問題はその先。 なぜ、記紀の編纂者は邪馬台国を無視したのか。 大和朝廷と邪馬台国のつながりは? 初期大和朝廷の構造は? あたりだと思う。
>>63 アラ、プさんじゃないですか!相変らずですね。
何か笑っちゃって指に力が入らないんですけど一言二言三言・・・
> 正始八年太守王キ到官倭 →正始八年帯方郡王キ倭を調査する
> 到→ 着手 官→ 職務
そう言う意味だとしてw、その解釈のどこから「調査」がでてくるの?
太守の「職務」って「調査」だけか?論証が跳んでますよw
> つまり、
だから「つまり」じゃないよね。
> 倭を調査した結果「素不和」が解りそれ以降が八年以前に起きた出来事に対する調査内容。
「調査」って何を?
ぷ説に立てば「遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状」は正始八年以前のことなんだろう。
だったら、倭から報告が来ていて、既に判明している事項じゃないか。
> 第一、一太守の赴任を記載しても意味がない
> 中達の実質失脚や、明→芳への移り変わりすら触れていないのに
何で?司馬懿の劣勢期は時期が違うし、ましてや、東夷伝自体が司馬懿の顕彰記事とまで
言われることがあるんだからそんなことは無用だ。
皇帝の代替わりなんかは帝紀があるんだから、伝に影響が無けりゃ普通書かないだろう。
> 後はこれ以上詳しくはしゃべりません
「しゃべれません」の間違いでは?
>>66 >太守の「職務」って「調査」だけか?論証が跳んでますよw
それだけの答弁書では却下
コチラとしては
甲号証付けてるんだから、その甲号証に対する乙号証を提出して反論するのがスジ
それ以外は却下
68 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 12:12:48
>>60 >もし、卑弥呼の名が於目呼だったら
耶馬臺國はヤバタイ國だな。
ヤバタイは播州弁で「危なっかしい」、「頼りない」
「いつ崩壊してもおかしくない」という意味だ。
浄瑠璃の台本だったか膝栗毛だったかに「やばな」が出てくる。
戦争ばかりして、外国から攻められるとすぐに陥落するような
ヤバな国という意味で言った鴨。
69 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 12:22:12
>>65 >魏志倭人伝を読み解く作業は既に終了しているとおもうんだが・・・
未だ終了していない。
たとえば、ここで挙がっている句点位置で解釈が全く変わってくる。
「其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
一つ目「到官、倭女王」か「到官倭、女王」か?
二つ目「卑彌弓呼、素不和」か「卑彌弓呼素、不和」か?
各々後者にも一理あるが説明不足は否めない。
70 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 12:31:54
>>69 まあ、その程度の解釈の違いは古代史を語る上で問題じゃないとおもうんだが…
そのあたりを楽しむのも自由だけど。
しかし、それがどちらかに確定しても歴史としてみる限り全く影響は無いんじゃ?
根本的な「その時代に日本にはいくつかの国が存在し、その国をまとめる連合王国のようなものもあった」
「そこには女王がいた」「その王国は中国から倭王の称号をもらった」「その王国に敵対する国もあったらしい」「その王国の場所はわからない」
このあたりに決定打が出る可能性があるのでなければ歴史研究としては意味がないような気がする。
>>69 何時・・・・・・正始八年
誰が・・・・・・太守王キが(当然配下の者)
何処を・・・・・倭
どうした・・・・事情調査 (到官倭)
で、その結果・・・
「女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」 このような事が解った。
72 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 12:46:58
>>70 >「その王国の場所はわからない」
「その王国の場所は畿内だ」と主張する人がいるから、後の歴史が大きく異なるのである。
現代でも男系皇位継承問題として大きく影響しているのでは?
73 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 13:07:24
>>72 邪馬台国が畿内だろうが、九州だろうが、後の歴史が大きく変わることはないだろう。
ただ、大和朝廷成立の課程、初期大和朝廷の権力の仕組み当たりには大きく影響を及ぼすと思うけど。
結局、大和朝廷がその正史として書いた記紀では、邪馬台国も卑弥呼も無視。
しかし、記紀の編纂者たちは魏志倭人伝は読んでいるわけだし、当時は魏志倭人伝を含む三国志は中国の正史扱いでしょ?
なぜ無視したのか?
無視しながらなぜ注訳とかで魏志倭人伝を紹介したりしているのか?
その当たりにどうしても大きな意図を感じてしまう。
男系問題は是非古代史研究、古代史論争の邪魔にならないようにやってもらいたいもんだね。
ただ・・・男系維持の急先鋒というか中央で論陣張っているやつらが「皇室2600年の歴史的事実・・・」とか、「万世一系で2600年続いている男系の血筋・・」とか、カルト的事言っているやつらなんで、うざいけど。
>>67 さすがにプだねw
他人の文章を3行しか読まずにたいそうなことを言うね。
甲だかなんだか知らんが、キミの「論証」とやらを論証した部分には反論なしか。
再度、言葉を換えてきいてあげるが、「官」が「調査」の意味だと言うことは、
どうやって論証するのかな?
「つまり」と書いただけでキミは何も述べていないことは、
自分だって承知してるんだろう。
さあ、嗤ってあげるから、少しは何か書こうとしなさいよ。
それとも、もうごめんなさいをしますか?
どんなにトンデモな説でもかまわないんだが、
40男の文章に理屈がともなわないのはどうかと思うよ。
75 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 13:43:11
>>71 『解った』と言う部分は原文のどのあたりに表現されているんですか。
76 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 14:11:21
>>65 それは部族連合国家の頂点に立つ民族のルーツを示すものとは考えられ
ないでしょうか。彼らが水の門(ミナト)より上陸し、漁労生活をしつつ
長期間に渡って徐々に内陸に移動し、山の門(ヤマト)に到達し、大陸伝来の
武器で脅しつつ数多の谷間の農耕民共同体を支配連合して、巨大な人口と
穀物の生産力、軍事力を手にし、それが国家「ヤマト」の誕生となった。
単なる想像ですが・・
を
77 :
ローガン :2007/12/16(日) 14:15:38
>>61 魏朝に対し、倭難升米に黄幢下賜を申請したのは、おそらく前太守弓遵だろう。
それに基づいた詔が出された事は、冊封国である倭に届く。
当然、中郎将である難升米は出された勅命に従わなければならない。
そしてその弓遵が半島の戦いで死んでしまう。倭は新太守に対し、前太守が戦死する半島での戦いに際し、詔が出ているにもかかわらず、国内事情により参戦しなかった釈明を行ったのが、「訟相攻撃状」だと思う。
そして時をおかず、正式な詔書と黄幢を持った郡使が来倭し、あらためて「檄告諭」となる。
こんな流れかなあ。
78 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 14:39:21
>>76 私の仮説・・と言うか想像は…
古代日本は地域ごとに国が乱立した状態だった。
その中からやがて、一つの国がある程度の国々を支配するようになっていった。
それが邪馬台国。
で、卑弥呼亡き後、その体制もだんだん崩れて群雄割拠状態に後戻り、その中からいくつかの有力な国の王たちが新たな連合国家を築く。
最初はその連合国家で、実権を持つものとはべつに祭司的地位として今でいう天皇的者を決めていたのだが、そのうち、連合国家の王たちの間の争いから天皇の地位と実権とが統一され、以後世襲にて最高権力の地位をつないでいくようになった。
それが今の皇室の由縁。
記紀はその世襲体制が完了したあと、自らの王朝正当性を示すため、過去の伝承などを自らの血筋とつなぎ合わせ、神代の時代までさかのぼったものだが、
邪馬台国に関しては、魏志倭人伝という中国の正史の中で倭国の王と認められており、その記述も詳細なことから自らの王朝と世襲で結びつける事はせず、その存在自体を無視することにした。
しかし、魏志倭人伝自体は無視することは出来ないので、何となく訳注とかで取り上げ、神功皇后を卑弥呼とにおわす記述を入れ、自らの血筋に取り込んだ。
こんな感じ。
79 :
ゴジンム :2007/12/16(日) 14:45:49
神州ハ萬邦無比ヲ誇ルナリ
80 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 15:07:50
>>78 そうしますと、やはり鍵となって行くものは、「食」の関係、つまり
保存でき、永続的に人口を養える穀物の生産という点ですが、当時
古代の農耕形態ってのはどんなものだったんでしょうか。農耕史の
ようなお勉強をなすっている方に聞いてみたい。
81 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/16(日) 15:35:42
>>74 却下
何時でも何処でも手に入るような、受け売り反論いらないしぃ〜
>>77 >正式な詔書と黄幢を持った郡使が来倭し、あらためて「檄告諭」となる。
それじゃ、なんか間の抜けた告諭だねえ。
なんせ、齊王紀にあるように正始七年には幽州刺史毋丘儉が既に半島を鎮圧しているからねえ。
>>81 そうか反論無しで「ごめんなさい」ということだね。
わかったw
>>83 貴方の意見も却下
一銭にもならないつまらんレスだ
85 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/16(日) 17:36:39
ローガンさん その二つの『黄幢』の文字、片方は旧字で片方が新字の記憶が? 何処の影印だか忘れたので、ご存じの方は教えて下さい。
>>69 其八年太守王キ到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和
それだったら、また別の解釈もあるよ。
太守王キは正始8年に倭へ向かい、女王の都(官)に到着したんだよ。
それを妬咬んだ狗奴國男王卑彌弓呼素は卑彌呼と不和になった。
そんなことが原因だから、何とかしてくれと載斯らは郡に訴えたんだね。
71 名前:プラム ◆TOfHBAKZgM [sage] 投稿日:2007/12/16(日) 12:41:45
>>69 何時・・・・・・正始八年
誰が・・・・・・太守王キが(当然配下の者)
何処を・・・・・倭
どうした・・・・事情調査 (到官倭)
ヴァカかw
「官」は動詞かそれとも副詞なのかw
ついでにどうやって調査したかも書いてくれりゃな。
>>80 漁撈+里山での採集+扇状地での水稲栽培+焼畑+狩猟
90 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 18:39:45
>>77 出た詔だったら届けないと。間が抜けていると感じるのはただの主観
91 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 18:50:02
記紀は卑弥呼だけでなく倭の五王や倭国王帥升も無視してるよ 煬帝に国書を送った多利思比孤(推古天皇と思えない)や蘇因高(小野妹子と読めない)も無視してると言えなくもない
92 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 18:52:37
>>80 そうしますと、遠征も可能な巨大な軍隊を食わせるための水の豊富
な扇状地を領内に沢山抱え、しかもその軍隊を休ませるための自然の
要害に囲まれた後方地を持てるとしたら、当時の地形で言えば、西日本で
考えるとどこら辺が該当して来るんでしょうか。
大陸伝来の新型武器というのも考慮しなきゃなんないと思うんですが、
古代の武器についてはどんな研究がなされてるんでしょうか。
93 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 19:07:33
>>76 >漁労生活をしつつ長期間に渡って徐々に内陸に移動し、山の門(ヤマト)に到達し、
>大陸伝来の武器で脅しつつ数多の谷間の農耕民共同体を支配連合し
漁労民というより、中世史の用語を借りて「海民」としたいところだ。
貴殿が海の民に目を付けられたのは慧眼で、敬服に値すると思うが、
レスを読む限り背後に神武東征伝承への信奉が見え隠れするのは如何なものか。
あまりに支配/被支配(従属)の二項対立的図式で古代社会を想像しても
得るところは少ないだろうと思うが。考古的事実と整合するかどうかも気になる。
海民の担った役割として、漁撈(含製塩)、水上交通(含河川湖沼)、商業、のほか
各地在地集団への情報伝達(含情報収集)という点も考慮して然るべきだろう。
在地集団に対する一種の情報サービス業といったところだが、存外大きいと思う。
考古学的には…発掘調査などから直接的には…なかなか確認しにくいものだが。
もちろん海民の中から図抜けた力を持つ集団やリーダーが出てくることはあったろう。
それはいい。私も否定しない。
94 :
93 :2007/12/16(日) 19:09:08
>>78 >卑弥呼亡き後、その体制もだんだん崩れて群雄割拠状態に後戻り、
>その中からいくつかの有力な国の王たちが新たな連合国家を築く。
時期がいつかが明示してないので解りにくいが、敢て貴殿の考えを推し量って
書いてみれば、上行が4世紀〜5世紀前半、下行が5世紀後半〜6世紀か。
しかし「群雄割拠」と言うには、各地の大型前方後円墳の偏在分布と整合せぬ。
4世紀(含3世紀後半)の前期古墳は、明らかに奈良盆地内に最大のものが
造り続けられている。オオヤマト古墳群、およびそれに続く佐紀古墳群だ。
馬見古墳群内のいくつかも含まれるが。
畿内以外ではそれらに匹敵もしくは凌駕する大型前方後円墳は一基も無い。
やはりヤマト王権を超えてはまずい、との意識が働いていたのではないか。
「群雄割拠」が4〜5世紀の社会を説明するに適切な言葉かどうか、再吟味されたい。
>>87 >「官」は動詞か副詞か
アホっ
もちっと銭になる話し持ってこい。
知りたきゃ自分でGO(^O^)/調べ方くらい分かるだろう?
その辺で調べられるタダ話でヤリさすなよ
96 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 19:27:05
>>93 神武東征伝承への信奉云々のイデオロギー(?)的なものは一切
ございません。ただのど素人が、そのヤマトとかヤマタイとか言われる
太陽の御子の君臨した王国が、自然条件的に、日本のどこにあったのか
自分なりに考えてるだけです。しかし、いかんせん古代の生活、生産、
戦争の様式について知識がないので、この場で専門の諸氏に伺って見たい
と思っただけです。
>この場で専門の諸氏に伺って見たい >と思っただけです。 向学心は認める、なかなかよろしい じゃが、ここに専門家はほとんど来ない わしも単なる歴史好きなだけ 2ch日本史板はもはや妄想家の吹溜り あんたは図書館行って独学勉強した方がよい
>>73 >邪馬台国が畿内だろうが、九州だろうが、後の歴史が大きく変わることはないだろう。
>ただ、大和朝廷成立の課程、初期大和朝廷の権力の仕組み当たりには大きく影響を及ぼすと思うけど。
正直、邪馬台国が畿内だろうと北部九州だとしても、大して違いは生じない。
弥生中期から後期にかけて筑紫王が倭国王として君臨してたのは間違いないし、
弥生終末期=庄内期に大和が突如台頭してくるのも間違いない。
政治権力が筑紫→大和へと移るのはほぼ確定事項。
実年代が確定し得ない以上、この程度の結論で留め置くべきだよ。
これ以上は妄想。倭人伝の逐字解釈なんて不毛な議論はヤメレ。
ただ、邪馬台国が吉備とか東海になったら、大分変わってくるけどね。
99 :
日本@名無史さん :2007/12/16(日) 22:42:09
>>98 国家権力の九州から畿内への移行は7世紀末だよん。
>>78 >卑弥呼亡き後、その体制もだんだん崩れて群雄割拠状態に後戻り、
そうかなあ。
卑弥呼の名声に隠れて台与タンなんとなく影が薄いけど、
台与女王はたぶん卑弥呼よりも上をいってる。
台与タンものすごい求心力があったと思うよ。
卑弥呼女王の時代・・・3世紀前半
台与女王の時代・・・3世紀後半
こう分ければ、3世紀後半のほうがスゴイと感じられない?
101 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 02:35:43
>>93 確かに支配/被支配(従属)の二項対立的図式オールで古代社会を想像したら
マルクスなんとかみたいになって偏ってしまうかとは思います。
しかし当時の大陸に伝わるほどの王国ならば、当然恐れられる存在、経済・軍事
文化的な影響力を持っていたはずで、その影響力を作り出すものは富、ずばり
穀物生産力、そしてそれを搾取し国庫に蓄積できる力だと思います。そうすると
あちこち扇状地で原始農業を営んでいた共同体を力で纏め上げられる「強い」存在を
考える以外ないと思うのですが。
トヨタン・・・
>>102 おまえは、トヨタンでもイヨタンでも、どっちでも構わんのか。ww
104 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/17(月) 08:05:51
邪馬台国って 九州説と畿内説 の2種類しかないの? ちなみにオレは「弁韓」にあった弥烏邪馬国=邪馬台国だと思うよ 魏志倭人伝も「邪馬台国がある。その国から海を渡って○○里行くと伊都国があり、、」って意味だと思うし ちなみに弁韓ってのは倭人が納めてたよ
105 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 08:57:10
>>100 確かに、台与の時代のほうが重要だと思う。特に男王の存在が大きい。
倭国の大乱のあと平和な時代が続いたのだと思う。だから、卑弥呼の長期政権が
続いた。しかし、狗奴国の存在が浮上する。武力を持った外敵に対して
巫女的な女王では対処できない。
記紀的には、高皇産霊尊が登場することにより、対外的に積極的になると思う。
>>94 墓だけで古代の歴史を論じられるものかどうか。
確かに近畿地方に大きな古墳が多いのは事実。
しかし、たとえば、戦国時代の城は、墓よりももっと権力のありかを示す
ものだと思うが、城の大きさと勢力はそれほど比例しない。
日本三大名城は大阪と名古屋それに熊本。大阪はともかく、名古屋と熊本は
歴史的に重要な意味はない。最終的な覇者である徳川家康の江戸城は
それほど目立たない。強大な力を誇った武田信玄は城を持たない。
最も重要な存在である織田信長の城は残っていない。
城でさえ、戦国時代を語りえないのに、墓で大勢がわかると考えるのは無理が
あると思う。
逆に言えば、城だけで戦国時代を語るのはかなり危険ではなかろうか。
墓で古代を語るのはもっと危険だと思う。
106 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 11:31:26
>>105 >特に男王の存在が大きい
どこが?
卑弥呼より前の男王も、卑弥呼死後に立った男王も、めっちゃ力不足じゃん
男王が立つと、倭国は大揉めに揉めるんだぜ、そう書いてあるだろ、魏志倭人伝に
卑弥呼死んだ後の男王なんて、ぜーんぜん人望なくて、国じゅうが不服、
で壱与たんに代わられてしまうじゃん、きみ倭人伝ちゃんと読んでる?
>記紀的には、高皇産霊尊が登場することにより、対外的に積極的になると思う
へ???
意味不明、どーしてここで神サマが???
107 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 12:17:52
13歳で大乱収まらない国をまとめあげた壹與たんは偉大だな そんなスーパーヒロインが記紀に出てこないのは謎 モデルといわれている人物でも13歳で国を治めたなんて話は出てこないし
108 :
ローガン :2007/12/17(月) 18:03:32
>>85 プラムさん。
旧字、新字の事は知りません。
ただ、宮内庁書陵部所蔵の刊本では「幢」を「憧」にしている様ですね。
>>108 ローガンさん ありがとう。
そうそう宮内庁書陵部所蔵、やっともやもやが解決しました
確か正始六年が (旧)黄 に 憧
正始八年が 黄 に 幢
こういう情報が、銭になる情報なんです。 ありがとう。
イorトヨタン・・・・・・・・・・・・
>>105 実際問題として、古墳時代という名称の通り、巨大古墳こそが大王権力の誕生の根拠なんだよ。
文献が無い(信用できない)から、古墳以外に王権の存在を証明出来るものがない。
112 :
ローガン :2007/12/17(月) 23:08:41
113 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 23:24:45
>>105 >墓で古代を語るのはもっと危険だと思う。
小学生の子どもたちでさえ、これは詭弁だと見抜くでしょうね。
なにか魂胆がおありなのか、どうしてこんな詭弁をおっしゃるのだろうか、と呆れます。
伊都国=前原市説は、三雲・井原・平原の各墓があったればこそ、多くの研究者が賛同する通説となっているのです。
クフ王のピラミッドやツタンカーメン墓、始皇帝陵……これらの墓で、古代エジプト、古代中国を語ってはいけないのですか!
>>112 >副葬品も考えてみたら?
その通りです。
墓の立地、外部構造、内部主体、遺体(人骨)、副葬品、祭祀の痕跡、後世の文献記載……、判明し得るかぎり、どんな要素も見過ごさないようにして考察するのが大切です。
114 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 23:28:09
始皇帝陵がいつ発見されたと思ってんだよ
115 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 23:53:18
天皇一族が地位を世襲できるよう あえて右も左もわからないような少女を据えたんじゃないの? 卑弥呼のような巫女を象徴として権威付けるとともに 卑弥呼のような力のある者に今後さらわれないよう形骸化した
116 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 00:00:27
右も左もわからないような少女を据えてどうやったら国中が服すんだよ 壹與たんの可愛さに国中がメロメロになったからか?
117 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 00:15:37
>>113 だからピラミッドは墓じゃないってば
ツタンカーメンにしろ他のミイラにしろ王家の谷にある墓に弔われてたんだってば
それにピラミッドはクフ王が建てたものでもない
あと中国の始皇帝陵は「これだけ巨大な陵だから秦の始皇帝の墓に違いない」って言われてるだけだよ
そもそも秦王朝の事なんて司馬氏が書いた魏志に少し記述がある程度で良くわかってないよ
それに秦は日本では蚕と機織りを伝えた渡来人で、後の波多野氏とかが秦氏族って事になってるよ
秦野とか湊とか波多野とかさ
118 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 00:46:21
>>115 >>116 13歳は中学1年生かな。
「右も左もわからない」ってこたぁねえだろ ww
壇ノ浦で入水した安徳天皇(即位2歳)や清朝ラストエンペラー溥儀(3歳)なんかは、
そりゃ幼帝も幼帝。右も左もわからないし、きっとまだオムツしてたろうな ww
けど、台与はぜんぜん違うよ、もう13歳だぜ
えーと、男子元服は昔は15歳だったろ。家督を継いでいいんだろ。
とすると13歳は、うーん、ビミョーな年齢だな
まあ今の中一だって幼いのもいるけど、おませもいる。
わりかし政治や社会問題知ってる早熟な女の子も、必ずいるね。
台与もそういう感じの少女じゃなかったかな、ま、想像ですが
119 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 00:57:42
当時の日本はアキバのおやじみたいなのばっかりだったのでは?
120 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 01:03:32
>>65 魏志倭人伝をよく読むことは非常〜〜に意味がある。
なぜなら他にはまったく邪馬台国や卑弥呼や台与なんて出てこないんだよww
唯一でてくる書物を無視してどーするw もうこの時点で滅茶苦茶。
あと、風土は別に宮崎や鹿児島でも十分当てはまる。九州の気候を知らないだけ。
で、問題はその先。邪馬台国・卑弥呼・倭の五王。
こーゆーのは「日本の書物による日本史」にはないんだよね。
大和政権には関係ないってこと。
大和朝廷と邪馬台国のつながりは? → なし。w
↑これを無理やり繋げようとするから無茶苦茶なる。
121 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 01:04:24
>>94 墳墓の目的とはまさにその大きさに於いて権力の大きさを
示すとことにあるのだから、一番分かりやすい証拠物件だと
思います。
ところでその畿内の最大級の墳墓群から当時の国力のようなもの
を数字的に推し量ることはできないのでしょうか。墳墓の造成に
どのくらいの人員を動員し、そのためにどのくらいの糧食を投入
できたか。そしてそこからその王国の全体的な経済人口規模のような
ものを割り出せないのかなと思います。
>>112 >副葬品も考えてみたら?
北部九州では、すでに弥生中期から豪華な副葬品になっている。
しかしそれは王権誕生とは語られない(実際は王権だったのかもしれないが)
つまり、王権の定義が何なのかなんだと思うよ。
少なくとも、副葬品だけでは富裕な商人と大王の区別だってつかないだろうし。
特定個人に権力が集中し、家族墓から個人墓への転換。
更には墳丘墓や副葬品に一定の規制が働くことをもって、王権誕生と見るべきだろう。
特定個人墓であるところの大型墳丘墓の誕生こそが、王権誕生と直結すると
考えて、さほど違和感はないと思うが。
123 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 01:37:19
>>117 墓であるという確証がないだけで、墓じゃないと証明されているわけでもない。
>つまり、王権の定義が何なのかなんだと思うよ。 >少なくとも、副葬品だけでは富裕な商人と大王の区別だってつかないだろうし。 やはり墓のデカさでは? 無駄にデカいのは象徴的な意味があるから、王権の誇示としか考えられない つまり公葬の意味が強いわけで⇒王権 逆に、墓自体が小さくて他と同じくらいなのに、副葬品が豪華と言うのは、 個人的追善というか、見送る側が親族レベルにとどまるという事だろう つまり私葬の意味が強く⇒族長レベル
>>121 ヤマト王権の誕生母体になった筈の大和川水系、特に中河内地方に
初期古墳が見られないのは、何らかの規制が働いたと見るべき。
こうやって考えれば、初期ヤマト王権の実質支配領域が判明する。
つまりは、大和川流域なんだろうと。
倭人伝の邪馬台国7万戸に該当する。
逆に初期古墳が築造された(出来た)地域は邪馬台国の盟邦。
古墳を築造することに、大和王権の規制が及ばなかった地域。
那珂八幡の奴国や、浦間茶臼山の吉備など。
椿井大塚山の淀川水系や、西都原の日向、赤塚の宇佐、鶴尾神社4号墳の讃岐なども
大和王権の盟邦だった(直接支配はされていなかった)と思われる。
>>118 ご近所に仲のいい母娘がおる。
娘は小6だが、もうムチムチのボインボイン。
土日、母娘二人おしゃれしての外出。
とても母娘には見えん。
どう見ても姉妹か友達同士。
両人なかなかセクシーな服を着る。
ヘア、メイクもばっちり。勿論娘も。
母ちゃん若く見える。
娘はしかし年齢(12?)より遥かに上に見える。
女子大生でも通る。
>>124 農閑期の農民に収入を与えるための公共事業として、
古墳築造がされたのかもしれない。
環濠集落の環濠にしたところで、軍事的意味合いは殆どなく、
集落内の結束を高める意味での公共事業だったという説もあるそうだし。
庄内以降、大阪湾沿岸などから大量の製塩土器が大和に運ばれているが、
実は古墳建設労働者に対する対価として、塩が運び込まれたという仮説がある。
まさにサラリーの語源の通りなんだけれど。
>>126 マジレスするとw
古代の祭祀王は人目に触れないことで、その神秘性を高めていたんだよ。
いやむしろ、人目に触れると霊能力が落ちると考えていたフシさえある。
だから見映えは関係ない。
さらには卑弥呼みたいに、男弟が実質的為政者だった可能性も捨てきれない。
129 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 02:16:15
>127 >公共事業として 服属した豪族に忠誠の証として奉仕させたのかもですね 豪族は御柱祭りみたいな事やってでも、古墳に巨大な依り代の柱を競って立てた
131 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 02:26:05
邪馬台国は中津の山国川流域だろうね。
133 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 03:00:08
>>123 ピラミッドの事?
そういうセリフはむしろ考古学者に言ってやるべきだよ
「クフ王の墓だ」と推測し、決め付けて、それを前提で研究してるのが考古学なんだから
134 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 03:13:26
>>125 大和川水系の河川を畿内の大和川って前提で考えるからそうなるんだよ
畿内の大和川水系は舟で飛鳥朝廷まで行き来出来る規模の川じゃないでしょ?
長良川や木曽川を遡ってみ?
あれが飛鳥川や大和川水系の河川だって分かるから
まあでも、美濃の飛鳥は最終的には負けた方の飛鳥だよ
蘇我氏や聖徳太子の方
135 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 03:18:07
古墳も後から作られた古墳とかもあるよ 例えば橿原にある橿原神宮や神武天皇陵 これどちらも明治時代以降に明治政府により作られたものだから
136 :
ローガン :2007/12/18(火) 07:21:52
>>122 富裕な商人?
弥生末頃の富裕な商人とは何?具体的に教えてもらえないだろうか
137 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 11:07:45
古墳の規模とかはどうだろう… 例えば、邪馬台国が衰退し、群雄割拠の時代がある程度の間存在したとする。 (3世紀末から4世紀にかけて。) ちょうどその頃にあわせたように巨大古墳が近畿に現れるんだよね。 初期は、邪馬台国の正当継承者ではないいわゆる新興国の豪族が自らの勢力を鼓舞するために巨大古墳を作ったとは考えられないか? 正当に近い豪族たちはべつにその時代で言えば前代未聞の巨大古墳を作る必要が無かったとも考えられる。 また、巨大古墳群は作りといえ副葬品といえ、随分形が変わってきているよね。 初期巨大古墳群が作られ始めたあたりが群雄割拠の時代で、その後、全くの異民族か、ほとんど邪馬台国とつながりの無い一族であるその巨大古墳群製作者たちが旧邪馬台国正統派を制して連合国家を作り5世紀に突入する… そしてその中からある一族がその連合国家を統一し、以後世襲による権力継承を確定させる… そして正史である記紀編纂。 そう考えると記紀における邪馬台国無視は至極当たり前だと思うけどね。 そして、倭の5王時代はまだ世襲による王朝継承が確定していなかったんじゃないかな。
138 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 11:18:03
そもそも邪馬台国や卑弥呼を「日本の発祥」みたいに解釈してる事が違うと思うけどな
139 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 11:35:30
邪馬台国が日本の発祥ではないが、邪馬台国は古代日本をある程度まとめた大国で、卑弥呼は最初に外国から日本の国王と認められた人物であるというあたりは間違いないんじゃ?
140 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 13:27:59
>>139 そう解釈してるだけでしょ?
そんな事、一言も書いて無いよ
そもそも「倭人の納める國」ってだけだから、例えば、その時代に倭人がアメリカ大陸を統治してたのなら、アメリカ大陸まで範囲を広げて考えなきゃダメと思うし
百済、新羅、高句羅、任那、満州、、、いわゆる後漢時代の漢半島は倭人の和帝が統治してたって記述もあるんだよ
紀記の記述でも神后皇后が氏族を半島統治に向かわせたり、吉備氏が任那に行って新羅と戦ったりしてるでしょ?
邪馬台国って単に弁韓にあった倭人の弥烏邪馬国の事じゃないの?
那奴国とかも同じ時代の弁韓にあるし
141 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 13:43:28
>>137 >ちょうどその頃にあわせたように巨大古墳が近畿に現れるんだよね。
>初期は、邪馬台国の正当継承者ではないいわゆる新興国の豪族が
>自らの勢力を鼓舞するために巨大古墳を作ったとは考えられないか?
>正当に近い豪族たちはべつにその時代で言えば前代未聞の
>巨大古墳を作る必要が無かったとも考えられる。
全国で、近畿以外には前期古墳が全く見当たらないのであれば、
御説のような考えも出来るかもしれん。
しかし実際は違う。
九州でも中四国でも東国でも、前期古墳は結構作られておる。
だがサイズはおしなべて100メートル内外かそれ未満。
九州で云えば、久里双水、金立銚子塚、端山、御道具山、山の鼻1号、
那珂八幡、光正寺、島津丸山、石塚山、三国の鼻1号、焼ノ峠、神蔵、
下町外畑1号、赤塚、檍1号、西都原1号、西都原81号・・・・、など。
中四国や東国の前期古墳も、最近になって大分判明し、かなり増えたようだ。
前期古墳が地方に無いのではなく、作っているのだよ。近畿より小さいサイズで。
そういう事実には目を塞いで、「群雄割拠」を強弁するのはいかんと思うね。
142 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 14:02:11
>>139 あとね、日本は血縁社会で、特に天皇は「血統継承者」のみしか天皇になれないよ
例えばアメリカ人が日本を武力制圧した所で天皇にはなれない
そのアメリカ人は天皇になる血統を引いて無い訳だから
天皇以外にも征夷大将軍とかも血統が無い人は地位に付けないんだよ
だから農民出身の秀吉は征夷大将軍に慣れなかった訳だし
143 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 14:14:47
>>141 いや、だからそうなんだけど・・・
あらたな支配層は近畿に突如現れたわけじゃないから…
前期古墳は中期と違って超巨大一極集中じゃないよね。
で、中期になると超巨大一極集中になるでしょ。
しかもそのあたりから副葬品なども大きく変化する。
で、そのうち巨大墳墓は消滅。
つじつまが合ってると思うんだけどね。
144 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 14:21:39
あと、血縁は古代において関係ないでしょ? 俺は古代は連合国家だと思っているし、血縁が条件になったのは大和朝廷が統一して以降だと思ってんだけど…
145 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/18(火) 14:23:44
関係あるのとないのとあるだろう。皇統は部外者は文字のとおり部外者。
146 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 14:33:10
俺は、大まかに言えば・・・ 邪馬台国は結構広範囲を連合国家の長として治めていた。 その後、邪馬台国とは全く違う人種、もしくは無関係、もしくは敵対していた国家がその王権を簒奪した・・・ それが後の大和朝廷である。 と思っている。 その王権交代の時期が4世紀あたり、倭の5王の時代はまだ新権力者の連合国家の時代。 飛鳥時代あたりから世襲による王権継承が確立された… そんな感じかな。
>>144 その転換期がトヨじゃないかと思うんだけど、どうだろう。
古代国家において、呪術を司ることのできる能力はそのまま権力になっただろうし
卑弥呼などの女性巫女が国の最高権力者として立つのも古代なら自然。
けれど、個人の能力頼みじゃ長期的な安定政権は作れない。
天皇家が世襲にこだわったのもそのためだろうし
その時には個人の能力はむしろ邪魔になる。
いわば、卑弥呼までは巫女>>>実務的国王
トヨの代で巫女=(<)国王になったんじゃないだろうか。
年代的にもしっくりくるような気がするんだけど。
148 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 15:30:24
>>147 女王が卑弥呼で、男王は卑弥御呼だっけ?
タントリズムの鬼道使い。
西王母仙人と東王父仙人と同一人物のような気がするけどな
西王母仙人は三蔵法師の一人だけど、大乗仏教の毘沙門天とか不動明王とかってのは天竺の神の事だしさ
ちなみに東王父仙人は日本にいた大仙人の事だよ
猿の先導で鬼道使いの三蔵法師が、って西遊記は、天の岩戸の猿田彦と猿姫の話のまんまな気がするけどな
天竺へ向かったのと、天竺から来たのの相違はあるけれど
149 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 15:33:10
実際のところ、畿内や吉備あたりの大国は、 九州を越えて中国と交流したり貢いだりしていなかった。独自に繁栄していたんだよ。 だから中国と特に関わりの深い九州の王族が「倭=九州」としていた 中国の皇帝から国王の印をもらってもしったことじゃない。 だから、畿内政権が成立して「初めて」畿内から遣隋使を遣わしたとき(西暦600年つまり ほとんど7世紀w)が初めての日本からの遣いになったんだよ。 つまり倭の五王や卑弥呼・台与なんかの遣いは日本の使いじゃないわけ。わかる?
150 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 15:47:21
>>149 倭人=九州人(漢半島を納めてた九州人含む)
ってのは有り得なく無い気はするよ
○○武尊=○○軍って解釈した場合にも
出雲武尊、熊祖武尊、大和武尊、倭武尊、、
倭武尊と大和武尊は別の種族を差してるとも解釈出来るし
九州が独自に栄え漢などと交流してた地域としたら、東国の交流の港は近江(新潟の方ね)だった気もするし
けど畿内の大和王朝が統一された際には九州の氏族や吉備氏とかも絡んでの事な気がするよ
日向三代、、つか九州勢力も元々は東国から別れた氏族だと思うし
ウガヤ達でしょ?
151 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 16:08:34
>>143 >前期古墳は中期と違って超巨大一極集中じゃないよね。
大型、巨大、超巨大などは論者によって使う意味が違うかもしれんから用心して考察したいが、
御説はどうみても客観性を欠いておるね。
前期の200メートル超級の大型古墳は、まさに奈良盆地に集中している。
渋谷向山(現景行陵) 300、箸墓278、五社神(現神功陵) 275、メスリ山 250、行燈山(現崇神陵) 242、
宝来山(現垂仁陵) 227、西殿塚 219、佐紀石塚山(現成務陵) 218、 桜井茶臼山 207、
佐紀陵山207 、巣山 204
数字は墳長で、手元の本から取った。最新データと若干違ってるかもしれん。
これらと、先に
>>141 で挙げた九州の前期古墳を比較すれば、奈良優位は一目瞭然と思うがね。
さっき書くのを忘れたが、九州宮崎の生目3号が143メートル、生目1号136、
この辺りが九州の前期古墳では最大で、福岡の石塚山は110、佐賀の久里双水108、
あとはかなりダウンする。やはり前期の大型は「奈良盆地一極集中」だと私は思うよ。
ただ大事なのは、繰り返すが、前期古墳は全国ほぼ何処にでも、奈良より小さくても作られた、ということ。
>で、中期になると超巨大一極集中になるでしょ。
このあたり、認識が、私とずいぶん違う。畿内集中は前期から一貫している。
中期は大阪に集中が移ると見る点は同意見だろうが、岡山にも最大級の極が出来ておる。
ただ岡山は、大型の数は大阪より少ないからこれを「二極集中」と見るのは不適切だろうね。
152 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 16:38:58
>>151 う〜ん…
理解して頂いていないようで…
だから私が言っている事とは矛盾しないんだけど…
古墳の規模と実際の権力は必ずしも比例しない…ということを言ってるんだが…
だから、近畿に巨大古墳を作ったのは新興勢力が見栄を張るため。
とも考えられるでしょ?
実際大和朝廷が間違いなく日本の広い地域を治めた後は古墳も小さくなるよね。
べつに古墳で自らの権力を鼓舞する必要はないわけだから。
大きい古墳があるということはそれだけのものを作る力がある権力者がいたということ。
しかし、小さな古墳(ある程度の大きさは必要だけど・・)が、即、力のない権力者の墓…とはならないでしょ?
そういうことをいっているわけ。
で、中期以後だけど、近畿の古墳はさらに大きさに拍車をかけて、副葬品の質も変わる。
で、古墳というものが作られるようになったのもちょうど邪馬台国の後の時代から。
ここで何かがあったわけだよ、普通に考えれば。
そして、副葬品が変化する中期古墳で又一つの変化。
それをどう考えるか?という話なんだけどね。
153 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 16:48:22
古くは九州でとれる米を中国米って呼んでただろ。 やはり中国=九州だったんじゃねーかな。
154 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 16:58:00
そもそも古墳とは何なのか。 墓には違いないが、どうして突然大きな古墳が出来たのか。 しかも、それまでへんぴとしか言いようのない奈良盆地に。 古墳は、たぶん、弥生時代の墳丘墓から発展したものだと思う。 山信仰の現われとも言われる。 南九州の隼人の地域には、高塚式の古墳はない。どうも、ここら付近の民族? は、高塚式を嫌ったらしい。たとえば、宮崎には非常に多くの古墳があるが、 高塚式の古墳と地下式の墓が混在している。地下式横穴墓は、かなり豪華な 副葬品を伴っているので、身分が低いというわけではなさそうである。 地下式横穴墓は、古墳と共存するが、完全に隼人の地域と思われるところでは 地下式板石積石室墓だけが見られる。 このように見ると、古墳は信仰的な考えに基づいているのかもしれない。 つまり、古墳は高塚式の墳丘墓を古くから持っている人たちのものといえる。 弥生時代の近畿地方に墳丘墓はあったのだろうか。 たとえば、吉野ヶ里の墳丘墓は弥生中期からあったのだが。
155 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 17:10:33
古墳自体が、大陸由来だと思う。
156 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 17:34:53
>>152 それだと、なぜ九州やその他畿内以外の地域の豪族たちがなぜ古墳を、
とくに前方後円墳を作り始めたかが、その理由をまったく説明できないだろう。
同一人と思うが
>>137 の
>初期は、邪馬台国の正当継承者ではないいわゆる新興国の豪族が自らの
>勢力を鼓舞するために巨大古墳を作ったとは考えられないか?
>正当に近い豪族たちはべつにその時代で言えば前代未聞の
>巨大古墳を作る必要が無かったとも考えられる。
という意見が正当とするなら、そして、邪馬台国が弥生の九州であったとするなら、
邪馬台国の正当後継者は九州の地で、ずっと弥生墓を作り続ければいいではないか。
畿内が前方後円墳を作り始め、竪穴式石槨が採用され埴輪が墳丘に飾られても、
九州は独立独歩で昔ながらの弥生の伝統に則り、甕棺・木棺や箱式石棺の直葬をすればいい。
墳丘も吉野ヶ里のような方形を、円形などに変更する必要は無い。葺石も使うな。
「古墳? あんなものは新興の畿内の見せたがり豪族がやること、ハハハ」と笑って無視せよ。
しかし現実は違っているだろう。
>>141 で列挙したように九州でも前期古墳を作っている。
しかも多くは、サイズは畿内より小さくても前方後円墳という極めて特異なスタイルの墳形だ。
それまでの九州の弥生墓には全くなかったスタイルだ。
その理由の説明がないので4世紀「群雄割拠説」はだめだ、と申しておるわけだよ。
157 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 18:23:01
仕事で韓国の慶尚南道の昌寧市によく行くけど、あそこの山すそには 古代王たちの土饅頭の巨大古墳が仲良く並んでいる。よく見物に行きました。 ああいうのは古代人たちの心理的なかけひきがどうかというより、 そこにあった古代国家の土木工事への動員力や土木工学的な知識なんかを 推測できないんですか?あの巨大な土饅頭と地下構造を作るのは 見栄や意地でできるほど簡単だとは思えない。
158 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 18:27:19
>>156 いや、いや、だから、群雄割拠したのは邪馬台国と異質の人種、文化、をもつ国だったのでは?
と言っているんだよ。
邪馬台国あたりまではまあ、国の実権は旧来のグループが握っていた。
そして邪馬台国崩壊あたりからそれまでいた渡来系に加えて、新たに海を越えてわたってきた人たちが台頭し始めた。
そこで・・・・と言う感じ。
馬も邪馬台国まではいなかったらしいが、その後は埴輪にもなってるだろ?
邪馬台国崩壊から、古墳時代初期にわたって日本の実権を持つ人種が変わった可能性は大きいと思うよ。
風習・風俗も魏志倭人伝に書かれているものから古墳時代には全く違った形になるだろ?
ここで大きな大転換があった…と思うわけ。
だから、記紀では邪馬台国を意図的に無視した。
自らの系譜とは全く違うわけだからね。
159 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 18:38:14
>>153 おお。
秀吉も「中国遠征」って言って毛利のいた地や九州を攻めにいったりだもんね
「九州(昔の中国の呼び名)」
みたいなのは確かウィキにも書いてあったし
160 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 18:45:14
>>158 邪馬台國、那奴國、扶桑國、中つ國、葦原中國、東海國、蓬莱國
「國」ってのは国家の意味じゃなく「地域」の意味だよ
魏志倭人伝にも邪馬台國以外にも沢山○○國って書いてあるでしょ?
あれ全部地域の事だよ
161 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 18:58:24
倭國 女王國 邪馬壹國 全部「地域」って意味で「国家」って意味じゃないわけね?
卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩 (魏志倭人伝) すなおに読めば、卑弥呼の墓はそうとう大きく作ったと書いてるんだから これ古墳だよな。 日本が古墳時代に突入したのは卑弥呼の墓からですよ、って魏志倭人 伝がきちんと記録してくれてた、とまあ、そう読めばいいんじゃねえの?
163 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 19:04:40
>>158 人種が変わってるって言う意味は俺も賛成
ただ民族や血統が変わってるってのは違うと思う
宗教→仏教、儒教伝来
神代文字→漢字
この文化の転換は確かにあるんだと思うよ
文化の転換は『国譲り』にあると思う。 逆説日本史だと盗られたのは、大国主命で盗ったのは天照大神。 祟りを恐れた天照の子孫が、出雲大社を建てて鎮めたとか。
165 :
ローガン :2007/12/18(火) 21:01:00
九州説を支持する人は平原以降の盟主墳を、何処だと考えているのだろう? 伝統的な九州の墓制で造られた王墓…。 平原以降にあるのかな?私が知らないだけなのかもしれないけど
166 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 21:04:01
>>164 そっか、確かに国譲りかも
素戔嗚尊は国譲りを受ける前に天照大神(の血統?)との子供を儲けてるしね
国造りってのは「あの地を納めてこい」って事だと思うから、国譲りとはまた違う気がするな
167 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 21:12:17
発祥って言うか今の天皇氏族の血統原始はアマテラスでしょ? アイヌや琉球や他の民族もいたかもだけど、最終的に天照大神原始の血統氏族の歴史が紀記や日本の歴史なんだと思うんけどなあ 天照大神との血統の縁の無い氏族や民族が納めてるなら、紀記時代の日本王朝とは違う別の王朝な訳だし
168 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 21:20:38
「日本は世界一歴史のある国」 これは王朝の転換がない事もだけど、天皇家の血統の長さの事も含めての事だよ 日本は他に出雲家や明治時代以前にはそういう氏族ばかりだった訳だから凄い国なんだと思うよ 他の国だとエチオピア王朝がシバ神を原始として2000年以上続いてる王朝だったけど、近年の戦争によって絶えちゃったし
天皇家が危なかったのは、 信長の時代と第二次世界大戦後の敗戦のときだよな。 それ以外は内輪揉めはあったけど、天皇家を潰そうとした輩はいなかった(将門はようわからん)。
170 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 21:49:19
>>162 古墳じゃ無いんじゃないかな。
まあ古墳をなんと定義するかにもよるけど・・・
割と大きな墳丘墓じゃないかと思う。
そして、邪馬台国を境目にして、例の前方後円墳と言う特異な形が出てくるんじゃないかと思う。
そして大和朝廷の原型である連合国家が形成され、飛鳥時代で大和朝廷が完成する。
以後世襲によるとされる継承が続くんじゃないかと見ている。
>>163 そこで人種が変っているかは謎だが、縄文から弥生にかけては確実に人種がかわっているよね。
弥生人は大陸からの渡来人+渡来人と日本の原住民である縄文との混血じゃないかと思っているけど、限りなく大陸系が中心だったと思う。
そして、邪馬台国以後台頭してきたのは新興渡来人だと思っている。
旧弥生系で縄文の血が濃い人種は南北に分かれて、熊襲や蝦夷となった。
大陸系が濃い人たちは新興大陸系ともまざっていった。
で、大和朝廷は新興大陸系の人々によって成立した。
まあ、北海道だけは縄文のままだけど・・・
171 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 22:04:09
>>169 血統を疑うとしたら継体天皇の時よりも、明治維新の時だと思うよ
明治政府は系譜まで書き換えちゃってるから訳わからんもん
172 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 22:12:30
>>170 おれは
縄文人→土蜘蛛族
弥生人→現代人
って解釈してるよ
土蜘蜘蛛ってのは、欧州ではドワーフ、アイヌではコロボックル、マレーシアではエルボボとか呼ばれてた夜行性で岩穴に住む小人族
日本だとアイヌの伝承では百穴遺跡がコロボックルの住居跡と伝承されてて、100年前に吉見百穴を巡りコロボックル論争もあった
(結局、頭の固い学者により石器時代の墓とされたけど骨なんて頭蓋骨が数個発見されただけ)
小人族は東南アジアやハワイなどの太平洋諸国に400年ぐらい前までは実在した種族
フローレンス島では地元民から「小人族の住居」と呼ばれてた洞窟から8体もの小人族の化石が近年発見されてるんだよ
日本も紀記では「土蜘蛛を穴から引きずり出し皆殺しにした」みたいな記述があるよ
百穴遺跡は日本にはそこらじゅうにあるよ
173 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 22:15:48
>>162 卑弥呼? ひやこ?
つかその漢文に墓を作ったなんて書いてないじゃん
>>158 >邪馬台国崩壊から、古墳時代初期にわたって日本の実権を持つ人種が変わった可能性は大きいと思うよ。
>風習・風俗も魏志倭人伝に書かれているものから古墳時代には全く違った形になるだろ?
>ここで大きな大転換があった…と思うわけ。
邪馬台国崩壊とか、その後に古墳時代が始まるなど、
かなり古いタイプの実年代観を持ってるな。
議論相手と平行線になっているのもそのせいかと。
>だから、記紀では邪馬台国を意図的に無視した。
>自らの系譜とは全く違うわけだからね。
邪馬台国と6世紀以降の大和朝廷が、系統を別にするということには賛成だが、
(少なくとも継体の時、もしかすると応神の時にも変わっているだろう)
君は記紀に記載が無いことを大げさに考え過ぎてるんじゃないだろうか?
当時の為政者が、昔の倭国が中国皇帝に朝貢した事実を無視したかっただけかもしれないし、
単に500年前のことが伝承されていなかっただけかもしれない
(何度かの代替わりや政変のドサクサで史料が焼失したとか。天皇記国記みたいに)。
例えば500年前の戦国時代のことが、どこまで正しく現在に伝わっているだろうか?
いわんや3世紀だ。
176 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 22:25:25
なにその必死なマジレスw
179 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 23:37:12
>>177 おお。確かに「墓」だね。つか「塚」かあ
ボケをボケと見抜けないとは…
181 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 23:50:32
>>175 >邪馬台国崩壊とか、その後に古墳時代が始まるなど、
>かなり古いタイプの実年代観を持ってるな。
3世紀中ばから後半にかけて邪馬台国が存在していたと思っているけど・・・
で、3世紀後半から前方後円墳は始まるよね。
違った?
>君は記紀に記載が無いことを大げさに考え過ぎてるんじゃないだろうか?
というか、これは軽視できないだろ?
これを軽視することができないと言うのが俺の前提なんだ。
戦国時代だろうがなんだろうが、織田信長の存在、安土桃山時代の存在自体は無視できないよね。
記紀ではそれを無視したような形にになっているわけだよ。
それは意図的以外の何者でもないと思う。
で何故だか注訳あたりでこっそりと魏志倭人伝の話では・・・何てこと書いてある。
それはひじょ〜に不自然極まりないと思うけど。
よく考えてね、当時三国志とかはいわば記紀のお手本でしょ。
もし邪馬台国が、何とか自分たちにつなげられるんだったら、これほど都合のいいことは無いと思うわけだ。
それをあえて無視する意味をよく考えるべきだと思う。
記紀編纂者たちは魏志倭人伝を読んでいたわけだから・・・
182 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 23:52:32
>>175 >邪馬台国崩壊とか、その後に古墳時代が始まるなど、
>かなり古いタイプの実年代観を持ってるな。
3世紀中ばから後半にかけて邪馬台国が存在していたと思っているけど・・・
で、3世紀後半から前方後円墳は始まるよね。
違った?
>君は記紀に記載が無いことを大げさに考え過ぎてるんじゃないだろうか?
というか、これは軽視できないだろ?
これを軽視することができないと言うのが俺の前提なんだ。
戦国時代だろうがなんだろうが、織田信長の存在、安土桃山時代の存在自体は無視できないよね。
記紀ではそれを無視したような形にになっているわけだよ。
それは意図的以外の何者でもないと思う。
で何故だか注訳あたりでこっそりと魏志倭人伝の話では・・・何てこと書いてある。
それはひじょ〜に不自然極まりないと思うけど。
よく考えてね、当時三国志とかはいわば記紀のお手本でしょ。
もし邪馬台国が、何とか自分たちにつなげられるんだったら、これほど都合のいいことは無いと思うわけだ。
それをあえて無視する意味をよく考えるべきだと思う。
記紀編纂者たちは魏志倭人伝を読んでいたわけだから・・・
うわっ、時空の歪み
タイムマシンがあればなあ。1800年前に行ってみるのに。
178 名前:日本@名無史さん :2007/12/18(火) 23:36:37
なにその必死なマジレスw
179 名前:美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 23:37:12
>>177 おお。確かに「墓」だね。つか「塚」かあ
180 名前:日本@名無史さん :2007/12/18(火) 23:34:55
ボケをボケと見抜けないとは…
184 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 23:56:37
あれ?連投になってる!! なんで????
185 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 00:14:29
186 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 00:17:55
187 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 00:34:56
188 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 00:43:45
連投すみません;;
>>181-182 >3世紀中ばから後半にかけて邪馬台国が存在していたと思っているけど・・・
>で、3世紀後半から前方後円墳は始まるよね。
>違った?
径百余歩の墓は、少なくとも庄内以降の前方後円墳と見るべきでは?
で、庄内開始の実年代は、現在有力なのが3世紀初頭。
俺は2世紀後半と思っているが。
実年代はこのように、かなり意見が分かれているので、注意して
書いた方がいいと思うよ。
>というか、これは軽視できないだろ?
>これを軽視することができないと言うのが俺の前提なんだ。
しかし、邪馬台国以外にも、倭国の遣使の記述が記紀に記載されていない例が
あるんだしな。古田の九州王朝説を唱えるなら別だが。
>>181-182 >3世紀中ばから後半にかけて邪馬台国が存在していたと思っているけど・・・
>で、3世紀後半から前方後円墳は始まるよね。
>違った?
径百余歩の墓は、少なくとも庄内以降の前方後円墳と見るべきでは?
で、庄内開始の実年代は、現在有力なのが3世紀初頭。
俺は2世紀後半と思っているが。
実年代はこのように、かなり意見が分かれているので、注意して
書いた方がいいと思うよ。
>というか、これは軽視できないだろ?
>これを軽視することができないと言うのが俺の前提なんだ。
しかし、邪馬台国以外にも、倭国の遣使の記述が記紀に記載されていない例が
あるんだしな。古田の九州王朝説を唱えるなら別だが。
>>181-182 >戦国時代だろうがなんだろうが、織田信長の存在、安土桃山時代の存在自体は無視できないよね。
どうなんだろ。
織田信長の存在が重要視されたのは、徳川の豊臣討伐、政権簒奪の正当化のため
ではないかと、おれは思うのだが。
織田の盟友たる大権現様、みたいな。
更に言えば、実質天下を統一していた細川・三好政権が、不当に貶められているような
気がする。実質、織豊政権と期間はそう変わらんのだし。
>それは意図的以外の何者でもないと思う。
>で何故だか注訳あたりでこっそりと魏志倭人伝の話では・・・何てこと書いてある。
>それはひじょ〜に不自然極まりないと思うけど。
この辺りは恣意的解釈。
紀の編纂者が知らないから正直に知らないと書いた可能性が高いと俺は思うが。
>もし邪馬台国が、何とか自分たちにつなげられるんだったら、
>これほど都合のいいことは無いと思うわけだ。
>それをあえて無視する意味をよく考えるべきだと思う。
>記紀編纂者たちは魏志倭人伝を読んでいたわけだから・・・
邪馬台国以外でも、倭の五王とも結び付けて書いてない訳だしな。
何度も言うけれど、倭国の王が中国皇帝に朝貢したことは、
そんなに誇るべきものではない、というのが記紀編纂者の立場なんだと。
192 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 01:14:53
>>187 まあ古代史は邪馬台国が朝鮮半島にあろうが、沖縄にあろうが決定的に否定は出来ないわけだけど、俺は日本説支持するね。
>>189 卑弥呼の墓の表記だけ正確であると信じることは出来ないし、そのあたりの年代も微妙だから意見は分かれるのは承知しています。
しかし、倭国の遣使無視の記述と邪馬台国無視は質が違うでしょ?
例えば、古代で言えば倭の5王あたりが無視されているのと同じだからね。
記紀に倭の5王とするべき人物が全く見当たらない・・・晋書安帝紀に書いてある倭の5王関連の出来事が、記紀には全く見受けられない・・・
という事と同じだと思うよ。
しかし、事実は邪馬台国も卑弥呼も無視!!でも、倭の5王は諸説あるけど大体比定されていて、少なくとも架空の人物説は無いよね。
邪馬台国無視を倭国の遣使無視と同じに考えるなんて・・・絶対に出来ないと思う。
記紀編纂者たちは魏志倭人伝を読んでいた、しかしその記述を全く無視した・・・
この事実はとても大きいと思うよ。
193 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 01:31:34
>>191 だから重要視しているか軽視しているか・・ではなくて無視しているところが重要なの。
>この辺りは恣意的解釈。
>紀の編纂者が知らないから正直に知らないと書いた可能性が高いと俺は思うが。
そちらの方が恣意的に思えるんだけど・・・
知らなくて昔話をするように魏志では・・・と書くんだったら邪馬台国の話も卑弥呼の話も入れてもいいんじゃ?
それが魏志では・・・と言いながら肝心の邪馬台国も卑弥呼にも触れず単に、その頃朝鮮半島に行ったそうな・・・って書いてあるだけ。
これは普通に「わたしはそんな事知りませんよ〜」って言いながら語るに落ちた表記だと思うけどね。
>倭国の王が中国皇帝に朝貢したことは、
>そんなに誇るべきものではない、というのが記紀編纂者の立場なんだと。
それを言ったのは国学者本居宣長じゃ?
国学は基本的に記紀全部を史実と捉えるところから始まっているから、歴史学的には信用してはいけないと思う。
国学が後の皇国史観の大元になるわけだから・・・
だから、何らかの理由で意図的に無視したんじゃなかったら、それに比定出来る人物を記紀に埋め込むはずだと思うけどね。
まあその埋め込んだのが神功皇后だったのかもしれんが、わざと年代をずらして、比定では無く否定できるような埋め込み方をしている。
まさに、魏志は無視できないから、まあ、それなりの人物を作って入れときましょう。
でも、その人物が卑弥呼として比定されるのはまずいので、年代もずらしてエピソード関係も魏志とは関係ないようにしておきましょ・・・
と言う感じがしてならない。
194 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 01:52:56
>>191 なんども言うけど当時は大陸には「中国」なんて国や地名は無いよ
そもそも「中国の皇帝」って支那大陸のどこの都のどの朝廷の事言ってるのかが全くわからん
195 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 02:00:00
>>192 だから漢半島を日本が統治してた時代もあるんだってば
中国の史記にも後漢時代は倭人や和帝が統治してた記述があるし、紀記の記述でも神后皇后の命で氏族が統治してる
日本書記によれば日本府が置かれてたのは任那な訳だし
外国にあったって意味じゃなく、当時の倭人の領土内で探せばいいんじゃない? って話だよ
美濃もん太くんのレスはするーするが吉。
>>195 史記に後漢時代の記述は無い。史記は前漢の司馬遷が武帝の時代に編纂した。
後漢時代の記事を記述できるはずがない。
198 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 03:23:51
>>197 ウィキじゃなかったかな?
おれ、調べててなんかで見たよ
弁韓や馬韓は倭人が統治してて辰韓は朝廷と民衆の言葉が違う、、とかそんなような記述
満州や黄湾辺りまで倭人が統治してたとかそういうのもあったし
あと司馬の魏志の三国志伝は2世紀頃の時代の話でしょ?
三韓時代(弁韓とか)→前2世紀〜4世紀頃
三国時代(百済とか)→前2世紀〜5世紀頃
三国志代(魏や呉とか)→2世紀頃
呼び方が違うだけで同じ時代の同じ場所(漢半島)の事な気がするよ
それに司馬氏は日本に来てた渡来人だよ
後の鞍作氏
多分、馬の鞍を作ってた(鞍を伝来した?)からこの名前なんだと思う
この時代は「鞍(槌って説もある)」の発明によって戦争で騎馬を使えるようになって飛躍的に戦力が上がったとかの時代の頃だよ
199 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 03:29:37
秦の始皇帝ってのも前2世紀頃なんて言われてるけど 奈良時代前後に日本に渡来して来てた秦氏族達は秦始帝から4代目の氏族達だよ ちなみに蚕(シルク)は秦氏によって伝来して来たんだよ 秦氏、機織、波多野、秦野、湊
200 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 03:49:29
俺もあんま理解はしてないけど、漢漢、唐、満州、新羅、高句羅、弁韓とか色々な記述があるけど、それぞれを統治してた氏族(民族)がなに民族なのかとかは、肝心な事だと思うよ 例えば違う民族の氏族の侵害によって朝廷が転換されたのなら、その都の王朝での言葉や民族も変わる訳だからさ 言葉が変われば文字の使い方や言葉の文法やなんかも変わるんだし だから一言で「昔の中国人」みたいに言うのは違うと思うよ そもそも60年前に中華人民共和国が出来るまで、支那大陸を統一した王朝や民族なんて今まで無いんだし
201 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 04:05:13
>>193 >それが魏志では・・・と言いながら肝心の邪馬台国も卑弥呼にも触れず単に、
>その頃朝鮮半島に行ったそうな・・・って書いてあるだけ。
「その頃朝鮮半島に行ったそうな・・・って書いてあるだけ」は、事実誤認であろう。
日本書紀神功皇后紀の問題の分注は、次のようになっている。
使者が魏の都(今の洛陽)へ行ったことは、この分注からでも判る。
三十九年 是年也太歳巳未 <魏志云明帝景初三年六月倭女王遣大夫難斗米等詣郡求詣天子朝獻太守ケ夏遣吏將送詣京都也>
四十年 <魏志云正始元年遣建忠校尉梯攜等奉詔書印綬詣倭國也>.
四十三年 <魏志云正始四年倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻>
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/syoki/syoki09.htm 「邪馬台国も卑弥呼にも触れず」はその通りで、倭女王としか書いていない。
ところが不思議なことに、難斗(升)米などの使者の名前は、校異はあるようだが明記している。
しかし彼らが魏帝から率善中郎将などに任じられたことは省いてある。
興味深いと思わないか。こういうところが歴史研究の醍醐味だと小生などは感じるが。
貴君はもちろん魏志倭人伝を所持しておられるだろう。
それならば魏志倭人伝とこの紀分注を書き並べ、対比表を作成してみられよ。
せっかく魏志を参照しながら、分注者が引用したものと、引用しなかった(つまり隠した)ものが
あることに気付かれるだろう。これ即ち「紙背を読む」、歴史研究に大切な心掛けであろう。
>>198 三国志は、3世紀に晋の官吏だった陳寿が編纂した。司馬某とは無関係。
司馬遷が編纂したのは史記。史記と三国志は、全く別の書物。
魏の都は洛陽、現在の洛陽市。呉の都は建業、現在の南京市。蜀の都は成キ、現在の成キ市。
そこの住民に対して、魏・呉・蜀は、実は韓半島にあったんだというのは、
日本の京都の住民に対して、平安京は韓半島にあったというのと同じ。
そういうレベルの話。
203 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 04:23:02
>>201 洛陽って白馬寺がある所だっけ?
恵果和尚がいた寺
204 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 04:42:38
>>202 ごめん、あんま詳しくなくて、勉強不足っす
ただそうなると、やっぱ漢は漢半島にあった王朝でしょ?
205 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 05:26:33
>>204 前漢の武帝は、朝鮮半島を征服して、今のピョンヤンあたりに、楽浪郡という直轄地を置いています。
漢が朝鮮半島にあった王朝だとすると、自国の領土を自分で征服したことになって矛盾します。
漢書・地理志には、「楽浪郡、戸数は六萬二千八百一十二、人口は四十萬六千七百四十八、県は二十五」とあって、
朝鮮以下、二十五の地名が記述されています。
だから、漢は、朝鮮半島にあった王朝ではありません。大陸にあった国で、都は長安です。
ちなみに、白馬寺は洛陽ですが、恵果和尚がいたのは、長安の青龍寺です。当時は、唐の都でした。
ところで、朝鮮半島を韓半島と言いますが、なぜ美濃さんは、漢半島と書くのですか。
206 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 05:55:54
>>205 漢=韓
ってウィキに書いてあったよ
漢城があったのがソウルで、漢州や漢江とかもあるし
あと秦=辰
辰韓って秦漢の事らしいよ
てか漢半島は漢半島だよ
漢城は漢城だし
俺は基本的に朝鮮人が韓国人(漢国人)を名乗る事が間違ってると思ってるし
今の中国人が支那人も上海人も満州人も元人も、なんもかもひっくるめて「漢人」を名乗るのも違うと思ってるしさ
白人が「我々は古代ユダヤ人だ」って名乗るのと同じ違和感を感じてるんよ
魏呉蜀の時代にはもう後漢は滅びて無いな。
208 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 06:58:03
>>207 そもそも「前漢」や「後漢」って表記自体がおかしいんだけどね
東ローマ、西ローマとかなら解るけど、「前」「後」ってのは、完全に後に付けられてる訳だしね
漢とか随とか唐とかって朝廷や王朝の名前ってより「弥生時代、安地桃山時代」みたいな意味でしかないよ
んで「中国は4000年の歴史のある国」ってやってるだけだし
209 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/19(水) 07:54:10
そりゃ漢民族が大多数を占めて、さらに少数民族であっても行政区に皇帝の支配が及んでるなら 一国として考えるのが当然でしょうに。
>>206 >漢=韓ってウィキに書いてあったよ
そのウィキのアドレスを張ってみてくれ。
>漢城があったのがソウルで、漢州や漢江とかもあるし
漢の字がつく地名は、大陸にも沢山ある。そのなかで、漢城を特に主張する根拠は何?
以前説明したように、劉邦は、大陸の漢中を領有していたので、漢王と名乗っていた。
その後、皇帝になって、国号を漢にした。
それだけ明々白々に文献に残っている事実を否定してまで、
朝鮮半島に漢王朝があったと主張する根拠は何?
>そもそも「前漢」や「後漢」って表記自体がおかしいんだけどね
前漢・後漢は、後世の歴史家が便宜的に名付けただけで、
他に西漢・東漢という言い方もある。同じ意味。
その時代に生きた人たちは、自分の国は漢だとしか思っていない。
>漢とか随とか唐とかって朝廷や王朝の名前ってより「弥生時代、安地桃山時代」みたいな意味でしかないよ
初代の皇帝が即位するときに、国号を漢や隋や唐と定める。最後の皇帝が退位するなり、
崩御するなりすると、その国号が消滅する。国を興した当事者が名付けた国の名前であり、王朝の名前。
弥生時代や安土桃山時代などは、学者が学問的に時代区分を設定するために付けた名前。
弥生人が、今は弥生時代だとか、秀吉の時代の人が、今は安土桃山時代だと言うわけがない。
しかし、漢の時代の人は、今は漢の御世であると言っていた。まったく違う。
211 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/19(水) 09:31:55
>>208 滅ぼされて 次の支配者が国を
立ち上げてるだろ 馬鹿。
歴史の知識を広げるな。
安土桃山は支配者の城の名前。
213 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/19(水) 12:23:38
モンちゃんの歴史観っておもしろいのね。
214 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 15:37:07
>>211 貼ってくれたページを読んだけれど、秦の労役に耐え切れずに朝鮮半島に逃げてきた人たちが、
馬韓の王様から土地をもらって辰韓を作ったとかいてあるね。(魏志韓伝にその記述がある)
つまり、中国人が横浜に住んで中華街を作り、アメリカに住んでチャイナタウンを作ったように、
秦人が、朝鮮半島に住んで、秦人街を作ったわけですね。
中華街を見て、コレが中国だと思ってはいけないように、
秦人街の辰韓を見て、これが秦帝国だと思ってはいけません。
秦は別の場所でないと、秦から朝鮮半島に逃げてこれないでしょう。
>>213 どういう経緯で、そうなったのか、ちょっと興味をそそられるね。
なんだか、高校で世界史やらないまま、古史古伝のムック本とかを読んでしまった感じがする。
215 :
ローガン :2007/12/19(水) 16:07:48
やはり平原以降の九州の盟主墳はないようだな? とすれば九州説では東遷説しか無いようですなあ
実際、九州の王族は畿内に移ってるし。
217 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 19:09:19
>>215 とすれば九州説では東遷説 または滅亡説 しか無いようですなあ
と言ったほうがいいのでは?
218 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 19:26:59
>>213 おもしろい?
おもしろくない。
うざい!
219 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 19:32:17
220 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/19(水) 20:43:24
モンちゃんってまだ十代なんじゃない?どこか可愛い文章だし。 スレの主旨からはずれるけどまあ僕が知らない事だって勉強になるし。 なんかこの人のこと悪く言っちゃいけないような気がする。 ただ邪馬台国関連からあんまリずれないようにしようね。 という僕も今まで何度も凄くずれてきたけど。
221 :
ローガン :2007/12/19(水) 21:01:47
>>217 滅亡はちょっと言い過ぎかなあ。九州でも前方後円墳作っているし…
可能性があるとすれば東遷説だけど、纒向の搬入土器には九州のがほとんどないようだし、これもやっぱり駄目みたい
222 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 21:12:18
>>215 >>217 二人に同意。
仮に古田に従って倭の五王=九州王朝説(←邪馬壹国後継)としてみる。
だが博多湾や大宰府近辺の5世紀代の古墳には
九州で一二を争うようなずば抜けたものが見当たらない。
5世紀代の九州の古墳で大きなのは宮崎と鹿児島にある。
福岡には無い。
もちろん畿内の巨大古墳にはまるで及ばない。
古田の九州王朝説は破綻していると見る。
223 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 21:43:21
「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王」を名乗り 宋にもそれを認められた倭の五王が九州の盟主ですらないというのは馬鹿げてる 最低でも対馬海峡の制海権を握る北九州の覇者であり もしくは西日本を制した畿内勢力の大王だろう
224 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/19(水) 22:36:17
おそらく殆ど九州の古墳っていうのはt朝廷のよりこぶりだと想うがね? 朝廷よりも小さな勢力で九州に小国が分立してうんとあっ たわけで、崇神とか応神、仁徳朝などの大勢力ではないから、小さ めだろうからおかしくはない。そのうち若干大きくなり、王朝に なって五王朝とかになったんだろう。 ウガヤ朝もあったかも知れんし、破綻なんぞはしていないね。 卑弥呼、五王が記紀に伝と独立しての記載がないところを観ると、 女王国畿内説は破綻だな。 卑弥呼の国は日本にあったのに日本代表の古文書たる記紀に記載がなく、まったく外様の大陸の倭人伝に詳細な記載があることを考えれば、 畿内ではなく、大陸に若干近い九州にあったと考えるのが合理的 なのである。
>>224 で、卑弥呼の大きい墓は九州の何処にあるの?
日本代表の古文書たる記紀に『卑弥呼』なんて卑しい字で書くわけ無いだろうに
中国人による当て字だろ。
倭人にあの人なんていう名前なの?ってジェスチャーで聞いて、なんとなく「ピミコ」に聞こえたんだろう。
226 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 22:49:59
>>201 恐らくだが書紀に分注を入れた者はなんらかの方法で計算した。
神功皇后三十九年が魏志の景初三年にあたる、
四十年は正始元年、四十三年は正始四年・・・などと推定できたんだろう。
だが神功皇后が魏志に云う倭女王卑弥呼かどうかまでは
まったく自信が持てなかった。
魏志には卑弥呼に続く女王台与の記載もある、
だが日本側の資料では該当する女性が掴めない。
どう考えていいかよく分からんかったんだろう。
ただ魏志の倭人伝を読んでこれが重要歴史資料という認識はあった。
で後世の史家に判断をゆだねようとの気持ちで分注を入れたと思える。
親魏倭王や率善中郎将などを分注に入れなかったのは当然。
日本書紀は天皇家が一系で日本を統治していたことを示す書物。
昔の倭王が魏帝国の臣下として冊封されてたことは明からさまには書けない。
仮に卑弥呼が天皇家の先祖でなくても、やっぱりまずい。
昔は天皇家の統治が及ばず魏が支配してた所が日本にあったことになる。
下手な注記は揉め事の元。
分注を入れた者は恐らくいろいろ配慮してる。
227 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 23:08:13
>>224 太国さん。
あなたが日本書紀や古事記の編纂者の立場だったらどう?
一方で天壌無窮の神勅を書く。
しかし一方で魏や宋から日本人が任官を受けてたことを書く。
そんな矛盾に満ちた歴史書が編纂できると思いますか。
>>192-193 >記紀編纂者たちは魏志倭人伝を読んでいた、しかしその記述を全く無視した・・・
>この事実はとても大きいと思うよ。
君の意見を全否定して悪いけど、完全に間違ってるよ。
記紀編纂者は倭人伝を無視してるんじゃなくて、逆に積極的に利用したんだよ。
端的に言えば、紀の編纂者が邪馬台国畿内説を最初に唱えたんだ。
太古の倭国の歴史を記述するとき、まったく実年代が分からなかった
(大王の崩御年の干支くらいしか伝承されていなかった)ので、
定点を必要とした。
で、紀記述の有名な2つの定点が、神武即位の辛酉の歳=紀元前660年と、
卑弥呼の遣使239年を神功に当てることだった。
その定点を確定することで、本来は実年代が伝わっていない太古の歴史年を
記述することが出来たのが紀なんだよ。
無理矢理卑弥呼を神功に合わせるために、肖古王の記述を120年ズラすなど、
結構涙ぐましい努力を紀の編纂者はしている。
229 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/19(水) 23:26:02
>>227 だったら記紀には雄略、武烈の悪業も書かないよ。それが書かれて
あるということは進捗と任官の断層のことから卑弥呼、五王の記事を
抜かすわけはあるまいが・・・。さらに浮気だとか殺害だとかうんと
記載があるんだから、卑弥呼が畿内にいれば抜かすわけがあるまい。
武烈の悪業は、継体という異例の日嗣を正当化するために必要とされただけ。 あんなものが史実なんて思ってる人間はいない。
231 :
ローガン :2007/12/19(水) 23:48:02
>>224 太国さん。
こぶり云々はさておき、どうして以前から続く九州本来の墓制をすて、前方後円墳を取り入れたのでしょう?
平原王墓は西新式の終り、つまり、2世紀末もしくは、3世紀初め…
邪馬台国の年代ですね
232 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 23:55:03
>>230 ご都合主義ですか?
>>228 さんですよね。
基本的に間違っていると思います。
記紀は邪馬台国を無視しています。
その前提が無いとどうしようもない。
>紀記述の有名な2つの定点が、神武即位の辛酉の歳=紀元前660年と、
>卑弥呼の遣使239年を神功に当てることだった。
前半の根拠はそれなりに・・・
後半はあなたの想像のみ
卑弥呼を神功にあわせる???
卑弥呼も邪馬台国の名前も出さないで、しかも、魏志では女王だが神功は皇后扱い。
時代もずれているし・・・
涙ぐましい努力をして、後世でも神功は卑弥呼と断定されないからくりを残している。
本居宣長もうまくひっかかって、卑弥呼は神功ではなく、熊襲の女王だ・・って言ってたよね。
邪馬台国は記紀編纂者たちの権力者にとって、消し去りたい歴史だったんだと確信している。
>>230 中国の史書では、一つの王統が賢君で始まり暴君で終わるという潤色が散見される。
紀の編纂では、その手法が模倣されているのでしょう。
234 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 23:59:41
>>229 一天皇の悪業とか皇族同士の皇位継承争いなどは
べつに天壌無窮の神勅と矛盾するものではない。
後継の天皇が善行を積めばよく日本国の最重大事ではない。
だが中華帝国による冊封体制は
神勅が示す万世一系、八紘一宇の根本理念と完全に矛盾する。
国家(独立国家)というものの根幹に関わる。
>>232 君はちゃんと日本書紀を読んだのかとしか言えないな。
肖古王についてはどれくらい知っている?
まずは自分の無知を踏まえた上で書き込んで欲しい。
236 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 00:12:12
>>234 へ自己レス
誤解を受けそうに思えたので下から2行目を次のように改める。
神勅が示す万世一系、八紘一宇を根本理念とした8世紀奈良朝期ごろの政治思想と完全に矛盾する。
237 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 00:29:28
分注を入れた時代において 卑弥呼と神功皇后が同一人物(=同一神)という考えがあったのだろう 古代日本において神と歴史上の人物とに区別はなくしかも検証作業もろくに行われないから 検証すれば時代が合わない人物(神)でも平気で同一人物とみなされる
238 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 01:23:35
>>235 貴方は神功が卑弥呼であると言う根拠を全然示していないわけだが・・・
何故皇后としたのか?
何故卑弥呼の名も邪馬台国の名も入れなかったのか?
時代がずれている理由は?
肖古王って、百済王照古王のこと?それとも近肖古王のこと?
そのあたりの見解を示してから人の批判をするように。
>>238 日本書紀が「卑弥呼とは神功皇后のことじゃないだろうか?」とか書いてなかったか?
編纂当時の日本人も中国人が勝手に付けた 邪馬台国や卑弥呼などの
当て字がどれを指してるのか 解らなかったんだろ。
240 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 07:14:27
>>230 あんたも婿入り(嫁入りか?)するんなら殺人犯人の父親のところにはせんだ
ろう? それは君の詭弁だよ。探偵小説の世界だとかだと読者をケムに撒くため
以外な展開になるように工夫されているがね。そういうときは君のいうよう
な結果になるw
舎人親王らは推理作家ではな〜い。万一婿入りしたらそれは世間に知れ渡って
ないときとかで、むしろ父の悪業を通例は隠し立てするのが通り場だぜ。
武烈の悪業を強引に抹消する必要なのは異例の日嗣を正当化するため。
↑
こういうんだとありうることだがね。お前さんのは、逆に消さずにワルを露呈
させるのが皇統の正当化に必要だと云っていて、弁護士が被疑者の犯罪を正当化
させるために、堂々と被疑者の悪い点0を100%に増幅、拡大させることが有利
な判決を得るのに必要だとか言っているようなもので、主張がメチャクチャ。w
そんなんだったらどんなおかしな論理も必要だにすることが出来る。まぁ言葉
は重宝なものだね。デタラメ論もまかり通らせようとできる。真面目に皇統の
恥ずかしい事件を真面目に記載したものだから、史実の信用性が高い。お前さん
の論だと、雄略、武烈の悪業が書かれてないと信用性が高くなるという話になる。
こんなんは大デタラメだ。ww
ところで、欠史八代の伝承が 葛城氏の本拠地の御所市〜大和高田市にやたら多いのは、 ここに王朝があったからなんでしょうかね? 一言主の神社もありますし…
242 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 07:33:26
>>231 ローガンさん、そこんところは一般人判断で言ってますし、考古学研究家では
ありませんので、さあ〜?と答えるしかないです。
貴殿は畿内説のようですが、もしそうならば、卑弥呼が神武以後でとりわけ
マキムク時代の人物だというなら、垂仁景行の支配地と重合的になりますから、
そんなのは記紀に記載ないからありえんでしょう? 朝廷より遠隔地にあっ
たから女王国の記述がされてないということですよ。ならば卑弥呼の国は九州
だと考えるのが合理的でしょうが。まさか消極的行動が仕事たる斎宮では鬼道の
卑弥呼の大陸まで知れ渡る身分としては採用できないですね。それでもそうだと
言うなら、記紀の神功皇后の章のように景行の箇所に「卑弥呼女王」とかで一章
儲けられて、倭人伝以上に詳細に卑弥呼のなりふりが書きこまれてるはずです。
神武以前だとは倍暦の紀年考察から困難ですね。それを強引にやっておられ
るのが安本先生でしょう。記紀に欠史八代の箇所の記載のないことは、大陸半島
と日本の暦法に大いなる相違があったからで、その調整がうまく行かなかっ
たことから、記載をためらったということだと思考します。合わなかったんで
すよ。むこうと日本の年代がですね。そうでしょう、日本側は倍暦を行使して
いたためです。だから舎人らは干支があうように60の倍数でできうるところは
修正していたようです。とりわけ 60×2=120 だとけっこう合うように見え
て、120年調整を断行したようです。例外もあるようですが、そういうことです。
243 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 07:39:35
>>232 消し去りたければ雄略、武烈の非業も消し去りをやってるよ。だからそうでは
なく、畿内から遠隔地にあったから情報が少なく記紀に書かれなかったという
ことが真なわけ。九州だったら畿内から隔絶的になり、伝に書かれやすい大陸
に近くなる。ただ北九州は女王国の位置としては大陸半島から畿内への遣使の
通行路になるから情報が畿内に流入しやすくなり、そこには女王国があったとは
考えにくい。となれば奥九州とかの以南だよ。
244 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 07:51:21
>>230 父親が殺人犯人だと息子等は夜逃げだよ。親戚だったら必死に隠して生活
するだろう。現今銃での殺害がうんと起こってるが、被疑者の親戚はえらく
苦しい人生を送るかわいそうな状況におかれる。つまり知られると近所から
白い目で見られる。こういう探偵小説でない現実を考えて論を展開してくれよ。
君のは殺人被疑者の親族の正当性のために被疑者父親の息子養子が堂々と悪業
を記載して近隣に知らせるのが養子の正当だとか言っていて現実遊離の論説
だ。現今の銃殺人被疑者の親戚が隠し立てして生活せざるをえない厳しい現実
を見てから、ここでの書きこみをしたほうがいい。雄略、武烈の非道を隠さず
書いてるということは、朝廷に隠し立てがあったとは考えにくい。
245 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 08:53:50
神功皇后は文字通り皇后であって天皇ではない。天皇になっていない。 つまり、天皇のいない期間が日本書紀によると、69年も続いている。 記紀を含めた皇室の歴史でもこれは異例のこと。 というか、ありえないことだと思う。 どうしてありえないはずの事が記紀に書かれているのか。 記紀のほうが倭人伝を無視できなかったと考えることが妥当じゃなかろうか。
246 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 09:31:43
神功の時代は倍暦を使用しているから、実際は69年ではなく23年だ。このくらい ならおかしくはない。女王国は畿内から遠隔地にありしかも大陸に情報が行く 可能性が畿内より大なる所にあるのだ。だから日本の卑弥呼の国の状況が日本の 記紀に独立しての記載がなく、外様の大陸の古文献に書かれているわけだ。 ならば女王国は中九州以南の可能性が大きい。
247 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 10:24:05
応神・仁徳同一説があるがこの説が正しいとすると応神朝はサザキで始まり、サザキで終わった事になる。
248 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 11:46:05
イコール説は探偵小説の世界。すべてと言うくらい外れる・
昔は「天皇」が確立されてないんだから 空位があっても何ら不思議じゃない 大王なら単なる支配者だし。神云々は後付けでは?
250 :
ローガン :2007/12/20(木) 15:58:40
>>242 太国さん。
書紀には銅鐸に関する記述がありません。
銅鐸は西日本で多く出土していますね。未発見をも考慮に入れれば、当時かなりポピュラーな祭器だったでしょう。
書紀編者が敢えて無視したというような恣意的な解釈はさておき、普通に考えたら、「知らなかった」という事でしょう。
書紀編纂時には銅鐸に関する記憶がなかった…
同様な事が邪馬台国についても云えないだろうか?
ヒミコの系譜が後の大王家に繋がるものでなかったとしたら、邪馬台国は伝承されず、8世紀にはもう存在の記憶がなかったのではないでしょうか?
まあ、私の勝手な想像ですが…
251 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 16:39:46
記紀では、神武東征が重要なモチーフになっている。 果たして、これはいつ頃のことなのだろう。 神武東征の前の日向のことや、その前の出雲のことは詳しく書かれている。 高天原時代の様子も詳しい。 これは、事実というか伝承に基づくものなのか、それとも単なる創作なの だろうか。創作にしてはあまりにも生々しいと思うのだが。 また、その頃、物語を創作するような環境があったとも思えないし、 そういう意図があったとも思えないのだが。 思うに、天照大神の時代からは現実味を帯びた出来事が多いので、ここら あたりから人々の記憶にかなり強く残っていたのではないかと思う。
252 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 17:03:54
>>250 >書紀編者が敢えて無視したというような恣意的な解釈・・・
ではないでしょう。
というか、邪馬台国の存在を恣意的に無視したと言うのが最も自然だと思う。
記紀は歴史書として編纂されたわけだから、なにかの道具である銅鐸とかについて記載がないのは至極当然。
邪馬台国が無視されていることと同列に扱うべきではありません。
邪馬台国の存在は歴史そのものだから、書かなかった理由は二つしかありません。
知らなかったのか、無視したか…
それでは知らなかったのでしょうか?
それはありえませんよね。
魏志倭人伝を読んでいたわけだから。
と言うことで無視したと言うことになります。
なぜ無視したか…
魏志倭人伝の記述でのみその存在を知って、それ以外の伝承が皆無だったから・・・
と言うことも考えられます。
あと一つの可能性は、知っていたが記紀には記さなかった・・・
と言う可能性です。
このどちらかになるわけですが、私は、知っていて記さなかった可能性が大きい…というか、そう考えざるを得ない、と思っています。
記紀の編纂は国家の一大プロジェクト。
各地の伝承を細かく調べているはずです。
もし、邪馬台国が魏志倭人伝の中のみに存在していたのなら、記紀の編纂者にとって一大ミステリーとなります。
それは、今の邪馬台国論争どころではないでしょう。
なにせ、中国の歴史書の中で初めて詳細に語られた日本の様子ですし、倭国の王という称号まで得ているわけですからね。
それはそれは大変なことでしょう。
しかし、現実は記紀の中では神功の時代に、魏志倭人伝ではなんだか女王の使いが中国に貢物を持っていったみたいですよ〜と言う感じでさらっと触れてあるだけ。
邪馬台国も卑弥呼も出ない。
私は明らかに何らかの意図があって邪馬台国と卑弥呼の存在を無視していたとしか思えません。
253 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 17:37:34
日本書紀も風土記も編集方針は同じ。 知っていて記さなかった。 しかし風土記が少なくとも筑紫国風土記が全文残っておれば、 倭人伝や倭五王の内容と符合する記事を見つけられたであろう。 それらは、播磨国風土記や常陸国風土記から類察できる。
254 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 18:01:25
記紀の編纂者は邪馬台国と卑弥呼の存在を知っていて、意図的に記さなかった・・・ なぜ…
255 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 18:30:37
>播磨国風土記や常陸国風土記から類察できる 倭の五王に関することなんて、 なんか書いてあったっけ?
日本人の呼ぶ名前が 「邪馬台国」や「卑弥呼」じゃなかったら、紀記には載らないよ。
257 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/20(木) 18:58:35
日本人の呼ぶ名前が 「邪馬台国」や「卑弥呼」 実際には何と読んでいたのかはわかんないよ。 中国人が聞き間違った事だって考えられるし。
258 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 19:02:50
卑しい卑弥呼 邪(よこしま)邪馬台国 卑下する字を使うのは他民族だから
259 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 19:04:30
紀記の記述が信憑性を帯びてくるのは5世紀ぐらいから 100年以上生きた天皇やら 兄弟相続がなく嫡子相続のみの天皇続出の 3世紀あたりの記述に信憑性などない
武内宿禰なんか、180歳(だっけ?)まで生きて、 大王を補佐したって事になってるんだよね
261 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 20:11:50
>>250 ローガンさん
銅鐸は朝廷の信仰とは無関係のようです。神武以前の畿内原住民らの信仰の
産物というのが本筋でしょう。銅鐸はかなりの量があったとはいえ、女王国は
小国でしょうが一国の広大さ。畿内に女王国があったんなら隠し立てはでき
ないでしょう。当時の畿内の住民から口伝えで女王国の所在が四方八方で広がり
ますよ。銅鐸とは同格には扱えぬ代物が国でしょう。鬼道としてこれも信仰が違
うでしょうが、一国の大きさでは隠匿は無理です。ですから女王国は畿内から
遠方にあったということになります。
>>259 君の言い分より記紀の文面と稲荷山鉄剣の銘文のシキの宮と大彦の記載の一致
のほうが信憑性がある。雄略の記載からの遡り代数の合理性ある系譜の幅が
記紀がデタラメでないことを証している。さらに神武以降は古史古伝と記載が
ほぼ合致する。このことは神武以降に関して、君のいい加減な主張を棄却する。
100年以上生きたとはいえ、当時は倍暦であるから、現今の一般人の寿命と似た
りよったりで不審とするのは研究不充分の露呈である。当時は畿内は民主主義
ではないから、父子相続が長く続くのは当たり前であり、選挙で皇位が決ま
るんではない。
262 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 20:14:34
>>260 武内宿禰は国の長人(国の最高長寿者)と仁徳が歌をかわして感嘆しています。
その者のみ長寿だったということです。5代と神功に仕えた人物ですから。
263 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 20:18:28
>>261 うーん、太国君、なぜ日本は5世紀に嫡子相続をやめて
急に兄弟相続にしたの?
天皇家の兄弟相続はその後長らく
日本の天皇家で続けられた相続方法だよね?
3世紀に嫡子相続だったという根拠が無いんだけど?
稲荷山鉄剣の銘文は雄略時代からせいぜい5代程度
遡るだけだよね?
そりゃあ、雄略にだって5代前の先祖はいるわけで。
大王だったかどうかは知らんが。
264 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 20:33:22
>>263 〜教授さんですか?w
稲荷山鉄剣にはワカタキル大王とあるでしょう。大王だったからでしょう?
貴下は古神道の見解をやってないからそういうことを言うんでしょうな?
16代までは菊の紋所の関係で兄弟継承はやりませんよ。自分の息子そして
そのまた息子のタテの系で皇位を継ぐものです。16菊ですよ。
その菊花弁数の位置は16確定したあとに菊花の中央を確定するんですよ。つまり
履中の号はそれを示唆しています。中を踏む、中央を支配する意ですな。そこ
から厳格性はゆるまって兄弟継承が許容されるわけです。いったん許容と
なると以後幾度も兄弟継承は構わんものです。
菊花紋のできたのは後世ですが、理念的には皇統継承の理念の中にあったという
ことです。信じないならそれは構わんですがね。w そうだと倍暦で欠史八代の
年数が合わなくなったりして問題となりますよ?
265 :
ローガン :2007/12/20(木) 20:47:53
>>252 レスありがとう。
私も以前は貴方と同じような見解を持っていたので仰る意味は解ります。
ただ、私には、貴方がいう所の「何らかの意図」なるものが、客観的に論証出来ません。
まあ、私の勉強不足なのでしょう。
「何らかの意図」をご教示いただけませんか?
266 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 21:15:24
>>265 それが客観的に論証できたら私は権威ある歴史学者になれますね。
何らかの意図があったという事は私の中ではほぼ確定的になっています。
可能性としては・・・
記紀に不正確な事実は記したくなかった、だから意図的に無視した。
邪馬台国は特定できていたが魏志に書いてあるほど大きな国ではなく、小さな辺境の国であった為無視した。
という事も論理的には考えられるでしょう。
しかし前者は史実ではないことでも巧みに自らの正史として取り込んだ記紀の性格から考えにくいと思います。
後者は仮に邪馬台国が日本国外や沖縄などにあったとしたら考えられないことではありません。
しかし、九州や近畿にあったとすればどう考えてもある程度の規模が無いと魏志の内容とは著しく矛盾します。
その矛盾を容認することは魏志の記述すべてを否定するほど大きな矛盾だと思いますので、邪馬台国が九州や近畿にあったとすれば後者も考えられないと思います。
残る可能性は・・・・
邪馬台国の存在を容認することが出来なかった。
邪馬台国の存在を容認することは自らの正当性を多き揺るがさざるを得ないことだった。
となってくるのではないでしょうか。
私の個人的な見解は、邪馬台国は3世紀に西日本を治めたほど大きな勢力だった。
しかしその後、邪馬台国とは全く質を異にする民族・勢力が日本の勢力を邪馬台国に取って替わることになった。
その勢力が打ち立てた国が大和朝廷。
そう思っています。
もしかしたら邪馬台国にとって、大和朝廷は異民族と言える存在だったのかもしれません。
まあ、こんな想像が大きな声で言えるあたりが古代史の楽しいところですね。
267 :
ローガン :2007/12/20(木) 21:19:02
>>261 太国さん。
私も邪馬台国の存在を書紀編纂者が隠したは考えません。
編纂時に、3世紀にさかのぼる記憶がなくなっていたのではないか?と考えており、
銅鐸祭祀についてはその傍証とならないか?としたのであって、銅鐸と邪馬台国を同列に論じている訳ではありません。
稲荷山鉄剣ですね…
上つ祖は大彦ですね。記紀の系譜が正しく、かつ古い記憶が銘文が刻まれた当時にあったとすれば、もう一代遡りませんか?
5世紀頃、もう、大彦を遡る記憶や伝承がなくなっていたのではないのかなあ?
なんて考えています
268 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 21:33:03
畿内天皇家の相続という観点からちょっと距離をおいて 中国史書の記録から倭の王たちがどうしてたか、と考えてみる。 宋書倭国伝では「讃死して弟珍立つ」「済死す。世子興、使を遣わして貢献す」 「興死して弟武立つ」などと記載してるから、5世紀の倭ではだいたい 父子または兄弟で、男系の男子が王位を世襲する決まりだったと思われる。 ところがだ、魏志倭人伝ではそれが何一つはっきりしない。 …男王…(大乱で空位?)…女王卑弥呼…男王…女王台与… 2世紀から3世紀はこんな感じ、としか倭人伝では読み取れない。 唯一続柄らしきものが書いてあるのは卑弥呼…台与の関係で 「宗女」とされているが、むろん実の娘ではないし、妹でもなさそう。 一族ではあるが、かなり遠縁だったのかもしれない。 卑弥呼とその後の男王は、どうも血のつながりはなさそう。 男王と台与の関係も全然血縁があるとは思えない。 卑弥呼は「共立」とされ、また男王に国中が不服だったから台与の 擁立となったことを重く見るなら、ひょっとして2〜3世紀の倭の王位は 世襲君主制ではなく、共和制に近かったのかなと思ってしまう。 世襲じゃなくローマ法王みたいに人望で選ばれていたのかもしれない。
奈良県御所市に高天原って 地名あるけど、関係が…!!ないか…
>>268 2〜3世紀の倭国が共和制だった可能性は大いにあるよ。
卑弥呼は世俗の王ではなく、宗教的権威者としての王だろ。
台与たんも卑弥呼から宗教的な教育を受けた弟子の一人じゃないかな。
優秀な弟子が何人かいただろうけど、この際一番若い台与たんがいい、とね。ww
宗教的な王だから王位の継承法がローマ法王に似てるのは、まあ当たり前だよな
271 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 22:01:15
どっかで読んだんだけど・・・・ 日本古代の遺跡で、王の家と思われるところの作りは開放的で、その周辺の権力者の家は堅固なつくりになっていた。 だから、古代の天皇制は各豪族の中からシャーマン的人を選んで天皇として祭祀にあたり、実権は豪族たちが握っていた・・・ こんな感じのこと書いてあったけど・・・どこだったかな・・・
272 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 22:10:07
>>267 ローガンさん
5世紀というと倍暦計上から仁徳世からになります。仁徳天王は武内
大臣に国の最長寿者との感嘆の歌を送ってまるから当時大臣は存命だ
ったことになります。大臣は5代と神功に仕えてますから、仁徳世に
景行世の史実を天皇、大兄のイザホワケ尊にも話をしているはずで
すよ。だから景行のマキムクの状況は天皇と太子の耳に入ってる筈
です。
>>270 ローマとかはデモクラシーの発祥地にちかい所だろう? だからそう
いう制でやってるわけ。日本に共和などは少なくとも朝廷のほうは
ありっこない。
>>238 >貴方は神功が卑弥呼であると言う根拠を全然示していないわけだが・・・
いやだからさーw
紀の編纂者が卑弥呼=神功皇后説を唱えてるだけなんであって。
俺はそんなことは思ってないよw
紀の編纂者が魏志を読んで、そこに書かれている卑弥呼のことが誰なのか分からず、
神功に比定したのが真相。
本当に都合が悪ければ、卑弥呼のことに一切触れない筈だよな。
>肖古王って、百済王照古王のこと?それとも近肖古王のこと?
分からないなら分からないで、もうちょっと謙虚な態度で。
紀の肖古王が二運ズレてることは有名な話なんだが。
>>272 >
>>270 >ローマとかはデモクラシーの発祥地にちかい所だろう? だからそう
>いう制でやってるわけ。日本に共和などは少なくとも朝廷のほうは
>ありっこない。
ていうか、倭人伝では卑弥呼を共立したとはっきり書かれてるんだし、
275 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 23:03:18
共立っていうのは共和制の意味ではないだろう。w
276 :
ローガン :2007/12/20(木) 23:20:21
>>266 ご教示ありがとう。
粘着するつもりはありません。お話しするのが楽しいので、よかったらもう少々…
「邪馬台国にとって代わる勢力」…
私も考えました。しかし、その考え方では、「前方後円墳」が理解、説明出来ないのではないでしょうか?
277 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/20(木) 23:23:01
だいたい、当時共和制という後は大陸にも日本にもなかったろう? 近代になって出来た熟語じゃないの? だから逆に共立の語が共和制 より後に出来た語ならそういうことは言えるが、共和制の語を知る はずがない陳寿らがそういう意味で共立と書いたわけではあるまい が?w
278 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 23:34:05
共立された王にどれだけ実権があるのか・・・
実際卑弥呼の前の男王や壱与の前の男王は他の国が服さず倭国大乱を招いたでしょ
邪馬台国当時の王は専制君主的な記紀の大王じゃなく
共立してくれる他の国の王が不服を抱かないような統治をしなければならなかった
これは共和制ではないけど
>>270 に近いと思うが
279 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 23:37:01
>>273 あなたは自分が知らないことを知らないんですね。
>紀の編纂者が卑弥呼=神功皇后説を唱えてる・・・・
あなたがそう考えるのは自由ですが、真相ではないと私は思います。
紀の編纂者が魏志を読んで、そこに書かれている卑弥呼のことが誰なのか分からず、
神功に比定したのが真相・・・と言う可能性もあるでしょう。
私はきわめて低いと思いますが。
しかし仮にそうだとしましょう。
それでは何故卑弥呼の名前も邪馬台国の名前を出さず神功を女帝じゃなく皇后にしたのですか?
年代の問題もそうです。
あなたは年代はずれていない・・・といっていますが、一般的解釈ではやっぱりずれていると言われていますよね。
何故8世紀の時点で、5王の年代は中国の書物と年代はそうずれていないのに神功の年代だけずれているのですか?
その根拠に肖古王を持ち出していますが、それのみで年代のずれが確定できますか?
ほとんどの解説書にも卑弥呼と神功の年代はずれていると出ていますが、それらは全部勘違いであなたが正解と言う根拠を示してください。
>本当に都合が悪ければ、卑弥呼のことに一切触れない筈だよな・・・
そうでしょうか?
いや、触れない方が不自然でしょう。
大陸の正史に邪馬台国も卑弥呼も書いてあるわけですから。
触れなければ逆に不自然、しかし特定することは出来ない。
そう考えたとき、「まあ、それらしき人物を作り出しておこう、しかし将来特定されると困るから、国名も名前も伏せて時代も少しずらしておこう」
そんなふうに考える方が全く無視するより逆に自然だと思いますよ。
なんたって邪馬台国は大陸の正史に始めて詳細に取り上げられた大事件なんですから。
全く無視はあまりにもその意図が透けて見えすぎでしょう。
記紀の編纂者たちは有能ですからね。
それは考えますよいろいろと・・・
私はあなたの意見が間違いと断言は出来ません。
しかし、私はあなたの考え方は間違いだと思います。
というか、すでにカルトだとすら思いますよ。
自らが信じていることが真実であると言う保障はどこにもありません。
280 :
日本@名無史さん :2007/12/20(木) 23:58:35
紀の編者は卑弥呼は無視しなかったけど壱与たんは無視したよね 創作にしては中途半端すぎる 神功皇后はエピソードも豊富なんだがこれも記紀の編者の創作なの? 卑弥呼をモデルにしたにしては女性で最高権力者って以外に類似点がないに等しく 記載されたエピソードはどれも卑弥呼のものとは思えないんだが
仲哀天皇が死んだ(殺された?) 後の統治は応神が大きくなるまでの間、 神功皇后と宿禰が行っていたとするとどうなる?
282 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 00:43:24
自殺、売春、虐待、大量殺戮、女性差別、は農耕社会になってから始まりました 天皇はA型で朝鮮の出身です。A型は2000年前に日本に来たから帰ればいいのに。 A型は100%農耕民族とはいえないがO型かB型にぜんぜん好かれないA型は 農耕民度が高すぎるから2000年前に日本の先住民族を大量に殺してきた 遺伝子、多そうだね。 遊牧民族は厳しい自然の中を小さい家族で移動しながら生活してきたので家族と他人の線引きをはっきりさせたと思う。 これをクールと感じる。だから、そのぶん身内にはあつくなるのか。 B型は遊牧民族、O型は狩猟採取民族。 A型は農耕民族。農耕民族は2千年前(つい最近)に、中国から日本に来た。A型は2万5千年ごろ誕生して農耕社会を 作ってきた。農耕民族社会になってから狩猟採取民族が大量に殺され滅び吸収され、ホームレス、虐待、売春、 女性差別 が始まり、強制的に横並び結婚し横並び子作りしないと女が生きていけない社会になる。 横並びの群れ社会(農耕民族社会)は無理やり敵を作り差別しないと作れない。これが、いじめ。 ブサイクで、もてない農耕民族はとくに性欲として横並びの群れ社会を作りたがる。 農耕民族社会はA型女も不幸になります。
283 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 00:47:19
>>245 神功皇后は文字通り皇后であって天皇ではない。天皇になっていない。
それは当時スメラミコトは男性がなるもので女性が即位する慣習がなかったから。
(ただし6世紀に炊屋比売命が即位してるがこの時代と神功皇后の時代とでは天皇の役割も意識もまるで違う)
天皇のいない期間が日本書紀によると、69年も続いている。
天皇空位自体は天皇崩御後によくあることでこの場合皇太子か皇后が代行する
これは短期的なものもあれば数年に及ぶこともあり、それが69年にわたっても問題はない
(あったかも知れないが当時のあの神功皇后に意見できたものがいたとはとても思えない)
284 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 01:01:56
>>277 共和という言葉自体は、既に史記にあるよ。
紀元前の周王朝の時代に、王様がとんずらこいたことがあって、
周公と昭公という二人の臣下が共同して十四年間統治していた。それを共和と言う。
republicを翻訳するときに、王がいないのが似てるってことで、共和国にしたんだろうね。
卑彌呼も壹與も、明らかに王として立っているんだから、言葉の厳密な意味では共和制とは言いがたいね。
宗女は、漢籍では明らかに血族の女性の意味だから、やはり世襲に近い血族支配だったと思うよ。
神社の神主が、祭神の子孫であるという考え方の源流と、鬼道というのが近いのではないかと思う。
285 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 01:13:03
286 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 01:22:55
>>276 前方後円墳の理解は難しいものがあります。
なにせ、時代の確定は難しいですから。
邪馬台国と卑弥呼を記紀の編纂者が全く無視しながらちょっとだけ卑弥呼をにおわすエピソードを注意書きに入れた・・・
と言うのは時代とは関係なく書かれている事実ですから問題ないんですが・・・
古墳の時代となると過去と現在では変わってきているし、未来では邪馬台国の時代をふくめ変る可能性もある。
そのことを踏まえたうえで・・・
成立にはいくつかの可能性があると思います。
まず、弥生時代の墳墓が自然と形を変えて行った・・・と言う可能性。
けっこう有力みたいです。
あと、日本独自の形と思われていた前方後円墳が朝鮮半島でいくつも見つかりました。
今後発掘が進むと、もしかしたら日本より古い時期の前方後円墳が見つかる可能性も・・・
もしそういう事になったら前方後円墳朝鮮半島起源説が出てくるでしょう。
まあそのあたりは私が言うよりwikiの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3あたりを見たほうがいいわけですが ・・・
可能性としては、邪馬台国の女王卑弥呼が大陸の影響も受けて初めて前方後円墳を作った。
そして邪馬台国に取って代わった新しい権力者たちがそれにまけじと大きい古墳を作って行った・・・
と言う可能性。
あるいは、卑弥呼の墓までは巨大ではあるが旧来の墳墓の形だった。
その後の新たな権力者たちが前方後円墳と言う新たな形を作り出した・・・
と言う可能性もあるでしょう。
どちらにせよ、卑弥呼の時代の後に古墳か巨大化しそして、大和朝廷が疑うところ無く成立したあたりから古墳は小さくなりなくなって最後は消えて行く・・・
そのことをみると、古墳と言うものの大きさは、権力の象徴と言うより権力の誇示と言う側面が大きいと思います。
大きな古墳であればあるほどその時にその大きさの古墳を作って自らの権力を誇示する必要性があった。
という事は逆に考えれば、誇示する対象がまだ存在していた・・・・とも取れるのではないでしょうか。
国譲りと倭国大乱は共通のように思えてきた。 記紀作者が書くように、卑弥呼=神功皇后で仲哀の死後、 年老いた神功の統治国の日本を 派遣された中国人がその現状を魏志倭人伝に記したとすれば、自分的にも納得できる。 問題は卑弥呼死後。男王が応神天皇とするとその後のトヨは誰になるんだ・・・?? 箸墓古墳に眠っていた彼女か・・・?
>>287 そりゃおかしいww
箸墓に眠る彼女はモモソヒメですよ、
モモソヒメは神功皇后より実年代でおそらくは1世紀ほど前の人です
>いや、触れない方が不自然でしょう。 >大陸の正史に邪馬台国も卑弥呼も書いてあるわけですから。 >触れなければ逆に不自然、しかし特定することは出来ない。 このあたりは、大体俺の意見と一緒なんだが。 紀編纂者は、意図的に卑弥呼や邪馬台国を無視してない、と。 >そう考えたとき、「まあ、それらしき人物を作り出しておこう、 >しかし将来特定されると困るから、国名も名前も伏せて時代も少しずらしておこう」 ここはどうかなあ、と思うが。 わざわざ間違えて書いた、というより、紀編纂者は一番最初の邪馬台国畿内説論者で 本当にそうだと信じていたんだと思うよ。 実年代もズレてるなんて意識、なかっただろうし。
>>273 >>紀の編纂者が卑弥呼=神功皇后説を唱えてる・・・・
>あなたがそう考えるのは自由ですが、真相ではないと私は思います。
君が思うのは勝手だが、神功のとこで倭人伝の記述をわざわざ引用してんだから、
普通はそう考えるよね。
>年代の問題もそうです。
>あなたは年代はずれていない・・・といっていますが、
>一般的解釈ではやっぱりずれていると言われていますよね。
ずれてるずれてない、って何が? ずれてないなんて言ったか?
紀の実年代が当てにならないのは自明のことだと思うのだが、
君は全部正しいと思ってるの?。
実年代を定めるのに、神武即位を紀元前660年、卑弥呼=神功を定点に
してるから、大きくズレてる。
>その根拠に肖古王を持ち出していますが、それのみで年代のずれが確定できますか? そんな意味合いで肖古王を持ち出したんじゃないよ。 5世紀の近肖古を120年ずらして、あたかも3世紀の人物のように 書いてる、と言ってる訳。 >ほとんどの解説書にも卑弥呼と神功の年代はずれていると出ていますが、 >それらは全部勘違いであなたが正解と言う根拠を示してください。 だから何度も書いてるが、俺は「紀編纂者が卑弥呼=神功皇后説を唱えてる」と 言ってるだけで、おれ自身はそんな説は信じてないよ。 誰かさんの言う、「紀編纂者が意図的に卑弥呼・邪馬台国を無視してる」という 言説に、そんなことはないと反論してるだけ。 むしろ、実年代を定める根拠として倭人伝の記述を積極的に活用してる、 というのが俺の意見。
293 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 09:53:38
隋書の「多利思北孤」は、厩戸皇子(聖徳太子)というのが一般的だが、
それは前後の文からわかることで、名前からは良くわからない。
>>257 にあるように、卑弥呼や邪馬台国のことは倭人伝から知っていたとしても
それを記憶に残る日本史上の誰かに結びつけることが出来なかったと言うのは
考えられる。
記憶に残るといっても、記録として残っているものもあれば、それ以前の
伝承として語り継がれて来たものもあるわけだから、なおさら結び付けにくい。
しかし、倭王として魏と交流した卑弥呼を無視するわけにはいかない。
だから、神功皇后という実在の人物がいたから、卑弥呼の年代に合わせたのか、
または、日本書紀の年代観にあわせて神功皇后を創作せざるを得なかった
のかのどちらかではないかと思う。
神功皇后の日本書紀での年代と倭人伝での卑弥呼の年代があまりにも
一致し過ぎるわけだから。
まあ、とにかく神功皇后の摂政在位69年はありえないと思うが。
294 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 10:18:51
神功を創作したいなら、神功39年等の文を倭の女王とか書かずに実直に神功皇后 と伝の文に混ぜて書けばいいことだから、創作ではない。 69年は一見して長いので疑惑の出るのはもっともではあるが、結局当時は1年が 現今の1年とは異なる倍暦年であったので、正味は23年だからおかしくはない。 記紀には伝のではない独立しての女王国の卑弥呼の記事が乗ってない。これは 畿内から女王国がかけ離れた地にあったためで、情報記録がないから記載がなさ れなかったということである。これが公判定の書類だったら都合が悪いので載せ なかったと考える余地は充分に出てくるが、記紀においてはそういう見方はまず 必要性が薄い。それに重大な利害があったんなら、雄略、武烈の非道も載せない はずだからだ。 今朝9時のTV10chにて放映していたが、太平洋戦争の東京軍事裁判に掲げられ た日本周辺の巨大地図にはハワイが載っていない。ハワイの手前までなのである。 これなど裁判で米国側に都合の悪い事があるからカットしたんだろうとの見解が されていた。真珠湾奇襲の1時間ばかり前に米国側のウォード艦がハワイから 5kmにてか日本の特殊潜航艇「甲標的」の司令部分あたりを砲弾で当て撃沈した 話が、現に約400mの海底で当時の潜航艇を発見し、乗組員米国人が証言したこと をTVが流していた。つまり先に攻撃したのはなんと米国側だったということで ある。それをつつかれないためか、東京裁判の巨大地図にはハワイが削われている のだということらしい。 以上からものによっては、利害で載せるのを無視する場合もあるということだ。
295 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 10:22:49
296 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 11:02:31
記紀が、神功皇后を倭人伝の卑弥呼の記述に合わせたとすれば、神功皇后の 摂政69年は不可欠。 なぜならば、卑弥呼が女王になったのは2世紀の終わり頃。また、晋に使いを 送ったのが西暦266年。この二つをカバーするためにはそれくらいの年代が 必要となるわけだから。 ここら付近にも、創作の影がちらほらあるのだが。
297 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 12:38:55
そうでなくて、大陸半島の暦法と日本の暦法に大いなる相違、断層があったため に紀の編纂者らが困っていたのだということ。つまり定規で言えば西欧1mでも 日本が1尺を1次元的に使っていて双方距離の幅が相違があるように、4次元的 に時間幅が違っていたわけだ。向こうの1年が日本では半分で1年とか、4ヶ月 が1年とかだったから大幅に年代がズレていたというのが事の真相だ。 それを知らないらしく、舎人親王の配下は合わせるため60の倍数を使い調整を したのだ。すなわち干支の倍数で断層を埋めればむこうとこっちの干支が 一致するから、神功が卑弥呼かも知れぬという想いを含めて 60×2=120年 がほどよいように見え、大半がそれで修正したわけ。 だから彼らが創作したんではなく、調整が失敗だったということ。
298 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 12:51:40
>>296 卑彌呼は正始中に死んだと梁書・北史にありますね。
倭人伝の記事を読む限り、卑彌呼は正始六年ではないかと思っています。
だから、西暦266年泰始二年の朝貢は、卑彌呼ではなく、壹與タソでしょうね。
霊帝在位末年から正始六年までだと、56年。
もう少し長く取って、霊帝光和末年から正始八年だと63年。
確実に年号がわかる景初二年から正始六年だと、7年しかない。
景初二年六月から正始八年王キ到官までの記述は、魏と倭の外交の箇条書きになっています。 詔書の内容を記載していますので、そこが目晦ましになりやすいですが、 その部分を除けば、ただの箇条書きです。 魏・倭の国情は描かれていません。「到官、倭女王以下」は、それまでと内容が違って、 倭の国情の説明です。倭国はクナ国と素(もと)より不和だったので、 郡まで行って訴えた。その甲斐あって、難升米正に正始六年に黄幢が、郡経由で下賜された。 それを直接持ってきたのが、張政。これは、正始八年の条文ではない。 正始八年までの年表的箇条書きを終えて、そこから、正始六年の黄幢下賜にいたった 倭国内の経緯を説明しているのです。そうやって難升米が拜假して檄で告諭されて、戦争をした。 その結果、卑彌呼は戦死した。「卑彌呼以死」は「卑彌呼以○○死」が省略された形。 何が省略されたかと言うと、その直上の文章の内容。 告諭によって戦争して、戦死したと考えられます。
つづき 何故記述が正始八(247)年までかと言うことは、推測ですが、 嘉平元(249)年に司馬懿が曹爽を殺して実権を握っています。後に帝号を追尊されておりますので、 つまり、それ以降の倭との交流は、高祖宣帝の事跡として晋書に書くべきとして、 陳寿が遠慮したのではないかと思います。 蜀漢の出身で、晋内で苦労した陳寿ならありうる政治判断だったのではないかと想像します。
301 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 14:00:52
「戦死した」は、ないでしょう。 宮室の奥深く居て或る男子一人が辞を伝え・・・の卑弥呼ですよ。 まだしも、昔からある殺害説の方を検討すべきではありませんか。 私は、病死と思いますが。
302 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 14:07:05
300さん、司馬懿が実権を握っていたのは、嘉平元年以前からですよ。 三少帝紀を読めば、詳しく確実に判ります。
303 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 14:21:56
あまり細かい年代にとらわれると木を見て森を見ずになってしまうでは? 大事なことは他にある。 そしてそれは年代の比定にとらわれることはない。 ゆるぎない事実…それは… 記紀に邪馬台国も卑弥呼もその前後の支配者に関しても全く記載がないという事実。 記紀編纂者たちは魏史を読んでいたと言う事実。 邪馬台国の時代とややずれるとされているが、記紀に神功の記載があると言う事実。 その時代に、本文ではなく但し書きの中で倭の女王が大陸に貢物を持っていった…と言う記載がある事実。 神功は、女帝ではなく皇后と記されている事実。 神功の時代は天皇の位が空位だったと言う事実。 神功のエピソードが相当現実離れしているという事実。 エピソードの中では神功自身が軍を率いて朝鮮半島征伐に赴いたとあるが、朝鮮半島の歴史書などのはそのような記載がないという事実等々… 神功を年代によって卑弥呼と比定することも出来るが、年代にとらわれず、神功を空想の人物とすれば卑弥呼にも斉明天皇や持統天皇などもモデルとすることは可能。 また、モデルも何にもない単なる空想の人物とすることも同じく可能。 記紀に書いてあることを史実、もしくは史実にかぎりなく近いもの…として扱い、他の資料によって記紀の人物や出来事を比定する…と言う手法は、歴史を検証する上で大きな間違いを犯すことにつながる。 この手法は国学的手法であり、戦前の皇国史観にもつながり歴史研究、とりわけ古代史研究の大きな妨げとなってきた。 記紀は一級の歴史的資料だが、それは1資料に過ぎない。 大陸・朝鮮半島の資料、後の風土記等々の日本における資料などと総合的に見比べて研究されるべきだろう。 記紀はあくまで当時の権力者から見た正史編纂作業。 それを忘れてはならない。
304 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 14:32:14
>>301 直接戦場に出て死んだのかは解りませんので、「戦死」というのは、言い過ぎかもしれません。
少なくとも告諭によって動いた状況が、何らかの原因となって死亡したのだと思います。
戦勝祈願で呪術をやりすぎたとか、戦争遂行の種々のストレスが老齢に堪えたとか、
本当に戦場で戦死したとか、とっぴな所では、卑彌呼が生贄になれば、
和解が成立するという条件だったとかいろいろ想像できます。この辺は、お楽しみですね。
>>302 晉書の方では、嘉平以前からの記述がありますし、仰るとおりですが、
三国志ですと、嘉平元年までは、曹爽一派も勢力をもっており、
ここで一掃され、同時に司馬懿を丞相にしようという動きがありましたが、
これを本人が固辞したとあります。
それまでは、二大巨頭だったのが、ワンマンになったと言う意味で、
嘉平元年がメルクマールと考えていいと思います。
305 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 14:37:29
記紀も中国の正史と同じ側面を持っています。つまり政治背景が在るということです。 記紀は、卑弥呼を民の記憶から抹殺消去する役目も有った、とする方が自然でしょう。 無論、九州説からの考えですけれど。 卑弥呼像も、近畿説・九州説で、ずいぶんと違いますね。
306 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 14:39:29
二大巨頭とおっしゃるのでは、きちんとお読みではないですなー。
307 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 14:52:22
>>305 その考え方は近畿説でも有効ですよ。
というか、私自身は九州以外説・近畿周辺説のほうが有力だと思っていますが、記紀は、卑弥呼を民の記憶から抹殺消去する役目も有ったと思っています。
308 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 14:53:10
>>306 すいません。今度眠くないときに、きちんと読んで見ます。
309 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 15:10:29
記紀の卑弥呼抹殺説に賛同して下さり有り難く存じ上げます。 卑弥呼の記紀での取り扱われ方も、邪馬台国の位置論に発展すると思います。 近畿説ならば、卑弥呼は当然に大和に祀られて然るべきと考えられます。 それを伊勢に祀った理由を、近畿説は伊勢が東国への守りの要の地だったから などと苦しい説明をしておりますが、整合性が欠落しております。 この点につきましてのご意見ご高説を賜わりたく存じます。よろしく。
310 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 15:16:31
>>309 卑弥呼を伊勢に祭った…と言うのは確定した史実ではないでしょう。
貴方はなぜそのことを確信するんですか?
311 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 15:20:02
記紀くらいで抹殺なんぞはできないよ。小国だとしても一国の巨大さだ。 口伝えで広がってもう口止めなどできっこない。仮に緘口令を強いても、 こっそりと他国に漏れる。現今北でもこっそり撮影して、カセットビデオが 日本に少しは入って来ている。 こんなんだから、抹殺は一時しのぎは出来るが、時間が経てばどこかで再生 する。だから記紀に女王国の記載がないのは朝廷のあった畿内からかなり遠方に 女王国が位置し、そこは九州でありここから大陸へ畿内よりは情報が行き易い 地理的位置から、倭人伝が造られる情報源となったということ。
312 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 15:21:29
恐縮ですが追記させて下さい。言葉足らずでしたので。 アマテラスで卑弥呼を抹殺するとする意志が大和朝廷に存したと思う次第です。 神功皇后も同じ視座であると考えております。 卑弥呼は、中国の正史に載るほどの国際有名人でした。 卑弥呼の存在する過去の歴史事実は、大和政権には有害であったはずですから。
313 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 15:21:48
卑弥呼は伊勢に祀られてないだろう?
314 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 15:26:01
>>312 ならば何故雄略天皇、武烈天皇の非道は大和政権には有害ではないのか?
記紀にはその悪業が明確に書かれているが・・・。どういうわけ。即興で理由
を造り弁解したのならば、>312はあなたの思いこみすぎの論。
315 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 15:27:42
太国さん、お久し振りです。では、お尋ね致します。 江戸時代以前の日本の史料に「卑弥呼」と記載のある史料は無いと存じます。 本居宣長・新井白石らの教養人のみならず、江戸時代以前の一般庶民が 俾弥呼と記してある中国史料を知っていたと、お思いでしょうか。
316 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 15:30:41
>>315 それは大半は知らぬでしょう。天皇も知らぬ連中がわりかしいたんだろう?
そんな状況なら抹殺することもあるまいと思うよ。
317 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 15:37:02
太国さんの雄略天皇云々は論理の飛躍ですよ。・・・相変わらずですねー。 私は、邪馬台国の卑弥呼の歴史的存在事実自体が大和政権にとって不都合 であったはずと申し上げている次第なのです。 又、卑弥呼が伊勢に祀られているということではなく、 卑弥呼を抹殺するべく、アマテラスを伊勢に祀ったという意です。 お久し振りでございますれば、無益とは存じながらも、一応という意です。
318 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 15:38:30
>>302 明帝がなくなってからはしばらくは曹爽が実権を握っていたと考えるべきでは?
曹爽は、大将軍から侍中になり特権的に地位になった。
一方で、司馬懿は、曹爽により太傅という名誉職に祭り上げられる。さらに、
病気により引退したかのような態度を取る。
こういう風に油断をさせておいて、嘉平元年、曹爽の留守を見計らい
クーデターを起こして、曹爽一派を殺害する。
実権を握っていたら、曹爽を殺害する必要はないわけだから。
319 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 15:42:18
>>317 その不都合とやらは貴殿の恣意的採用でないの?
雄略武烈の悪業は都合悪くない、女王国の存在は都合わるい・・・。これでは
自論に都合のいい勝手な選択でしょうがね。
国の存在の抹殺なんて不可能だよ。それは一時的には短期間限定で隠匿は
できましょうが、いずれは存在がわかってしまう。
そんならば、抹殺よりも女王国を朝廷にとって悪者のように記紀に書きこん
だほうがごまかしでも実効があるだろうがね。
320 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 15:45:23
曹爽と司馬懿の力関係については、重ねて申しますが『三少帝紀』を よくお読みくださいませ。祭り上げられたというのは、俗説であり間違い であることが、普通に読めば普通にご理解できるはずでございます。
321 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 15:51:47
>>320 あれを読め、これを読めではちょっと困るので、ここで説明してもらうと
ありがたいのだけど。
邪馬台国の場所は、倭人伝をきちんと読めばわかる、というのと同じでは
ないかと思うので。
322 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 15:56:12
>>318 中達グッグって丸写しかよ。
>>302 に三少帝紀を見ろと言われているのに
あとな、馬鹿たいに和訳本見た感想書かずに、自分で原文訳し感想かきな。
323 :
320ではないが :2007/12/21(金) 16:05:37
324 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 16:11:53
>>312 私はまだ確信はもてないが、邪馬台国は近畿周辺にあって、九州の国々とは異民族…というか、異文化の国であったと思っている。
で、邪馬台国を滅ぼし、またはなにかの理由で滅んだ後、大和朝廷を打ち立てたのは銅矛・銅剣文化圏の九州型民族だと思う。
アマテラスで卑弥呼を抹殺するとする意志が大和朝廷にあったかどうかは不明だが、何らかの意思を持って、邪馬台国を歴史の上から葬り去ろうとしたのは間違いないと思っている。
しかし、大陸の正史にも残る国際的有名人と国際的有名国を全くなかったことにするわけにもいかず、記紀の端々に卑弥呼伝説や邪馬台国伝説を特定されないように気を使ってちりばめた・・・
そのような気がしている。
天照もそのようなちりばめれられた伝説の一部かもしれない。
ただ、神功は、間違いなく意図的に卑弥呼を匂わせていると思うが…
325 :
ローガン :2007/12/21(金) 16:39:44
>>286 古墳が単なる権力誇示のモニュメントであれば、貴方の仰る通りかもしれません。
前方後円墳の始まりについては(「将来の展望」は別として) 現段階では、近畿圏内であるという事は否定しにくいですね。
もっといえば、奈良県南東部であると…。
年代観としては3世紀中頃、邪馬台国の年代ですね。
その後定型化した前方後円墳が各地に造られる様になった。
所謂「前方後円墳体制」ですね。そして古墳終焉を迎えるまで、ある程度の変遷は見えても画期的な変化は読み取れません。
>>266 >邪馬台国とは全く質を異にする民族・勢力が日本の勢力を邪馬台国に取って替わることになった
全く質を異にする民族、勢力なら、首長霊祭祀の方法も独自のものがあったでしょう。
所謂「古墳時代」と呼ばれる時代の中で、異民族による首長霊祭祀に変革した時期をいつとお考えでしょう?
又、論拠もあればご教示ください。
まさか古墳とは単なる権力誇示のモニュメントであると考えている訳ではないでしょう?
326 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 16:40:56
なぜ邪馬台国と卑弥呼の存在は大和朝廷には不都合で、雄略天皇、武烈天皇の非道は不都合ではないのか… 説明は簡単に出来ますよね。 雄略天皇、武烈天皇の非道は、個の問題です。 しかし、邪馬台国は国の問題。 これは全く次元が異なるでしょう。 例えば卑弥呼が魏志倭人伝の中で、数ある国の中の一つの国の女王…と書かれていたとしたら… 卑弥呼の存在は全く消す必要はありません。 卑弥呼が行ったと言う大陸への貢物も同様です。 しかし、魏史は邪馬台国を日本の大国として書いていますし、卑弥呼を倭国の王と書いています。 もしそうならば、大和朝廷が邪馬台国と別系統だったとすると、これは大変不都合なことです。 雄略天皇、武烈天皇の非道などとは比べ物にはなりません、なにせ、大和朝廷の正当性自体が否定されかねないわけですから。 雄略天皇、武烈天皇の非道などは、その後の天皇の業績によりいくらでも修正できますし、長い歴史の中で暴君が一切生まれないのは逆に不自然でしょう。 当たり前に雄略天皇、武烈天皇の非道は記紀に記すと思いますよ。 個人的に雄略天皇、武烈天皇が大和朝廷の天皇であったかどうかすら確定はしていないと思います。 私は確信はないのですか、その時代の大和朝廷は連合国家で、雄略天皇、武烈天皇たちはその連合国家を形成している大国の王の1人がモデルではないかと思っています。 そうすれば大陸の書にある倭の五王も無理矢理1系統につなぐ必要はなくなり、比定もしやすいですよね。
327 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 16:53:23
>>322 一応、原文にも目を通しているが…。
しかし、原文をちゃんと解読できて、意見を言えるのは学者の仕事だろう。
ここはそんな人間の集まりか?
三少帝紀にも一応、目を通してみたが、こりゃあ難しい。
司馬宣王が司馬懿のことなのだろうが、わかりづらい。
だから、どの部分を読んだら端的にわかるのか、そこには何と書いてあるのか
それを説明してくれるとわかりやすい。
教えてくれる?
こちらも関係した以上、原文でがんばって読んでみよう。
ちょっと時間が掛かるだろうが。
しかし、君は原文で全部読んでいるのかな。
328 :
304 :2007/12/21(金) 17:19:43
>>304 です。眠気が飛びましたので、三少帝紀読みました。
>>306 さんは
>>320 さんでしょうかね。
>>322 さんとは別の方のような印象ですね。
まず、明帝紀の最後で、曹爽と司馬懿が臨終の床に呼ばれて後を託されますね。
託孤の臣二人です。斉王も即位の詔で二人を名指して頼っています。
曹爽は大将軍で蜀に遠征しています。大尉司馬宣王は呉の将軍と戦っています。
孔子を祭ったときには、「太傅(司馬懿)・大将軍(曹爽)及び侍講の者に賜うに云々」と二人は特別扱いです。
しかも、注に引かれている漢晋春秋では、呉の将軍朱然と戦うときに、司馬懿が提案した作戦を、
曹爽は蹴って従っていません。
どう見ても二大巨頭です。司馬懿が祭り上げられて力を失っているとまでは、思いませんが、
どちらかというと、曹爽の方が偉そうな感じがします。
軍事的な才能の司馬懿と、宗室に連なる者としての権威の曹爽という感じがしますね。
306さんは、はっきり書いていませんが、嘉平の前から、司馬懿ワントップの政権と主張しているのでしょう。
三少帝紀のどこを読んで、そのような結論にいたったのか説明してくれませんか。
329 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 17:31:03
327だけど、曹爽と司馬懿が話をしているところで、「爽不聽」とあるので、 曹爽の方が若干上かなという印象を受けた。 漢文には自身がないので良くわからないのだが。 それに、司馬懿は、晋の高祖、陳寿は晋の時代の人というわけで、司馬懿の 扱いについてはちょっと割り引いて考える必要があるかも。
330 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 17:37:18
>>325 大型古墳は基本的には権力誇示のモニュメントと言う色合いが強いでしょう。
その形についてですが、初期前方後円墳は、確定はしていませんが邪馬台国と時期がかぶるのかもしれませんね。
ここではかぶったとして話をすすめたいと思います。
前方後円墳初期は中期以降と少し形が違い、円墳+出っ張りと見ることも出来ます。
この初期前方後円墳は邪馬台国の王達の墓の可能性もおおいにあると思います。
で、邪馬台国が何らかの理由で滅んだかあるいは滅ぼされたか…そしてその後その地を征服したのが九州一族。
彼らは何を見たでしょうか?
大きなちょっと形の変わったお墓です。
そして彼たちはどうしたでしょう。
この大きなお墓群を取り壊して自分たちのスタイルの円墳を建てるでしょうか?
私はそうではななかったと思うのです。
九州一族は大陸との交流も多く、異文化を柔軟に取り入れる人々だったと思います。
彼たちはさらに大きなそして少し形を変えて方墳をくっつけた典型的な前方後円墳を作り始めたのではないかと思うんです。
あの時代にあの大きさは九州から来た一族にとってはそれは立派な巨大建造物です。
それを習い、そしてそれに手を加えて独自色を出し、より大きな前方後円墳を作ることによって、自らの権力を誇示すると共にこの地に過去にあった邪馬台国の文化をも自らの中に取り入れる形で消し去ろうとしたのではないでしょうか?
彼ら九州一族は邪馬台国とは違い馬を持っていました。
これは大変優れた交通手段です。
たちまち全国にこの形が広まった・・・・と考えたりしています。
331 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 17:48:06
国は法によって栄え 法は民によって貴とす 国滅び 民滅せば 誰が仏を崇める事ができるのか 誰が法を信ずる事ができるのか
332 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 17:53:11
>>327 学者がトンチンカンナ翻訳しているから、現在までこうして混迷してるんだ。
翻訳はむしろ、素人がやる可き作業だよ。
数多くの史料が見られる今、学者に頼れない時代なんだから自分でやる。
333 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 17:58:23
>>331 馬鹿か?
「国」なんて縛り設けている時点で、そんな台詞言う可からず。
「縛りを設ける」これ、即ち欲也
334 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 18:08:22
>>326 卑弥呼を消すんだったら神功39年等の記述も無理やり記紀に挿入せずにシカト
して記述しないでいたほうがいいんではなかったか? なぜ消す国を匂わす
ように同39年等の記述を記紀に挿入せねばならんのかね?
おかしいだろうがね? その挿入をすれば、なおさら女王国のあるのが一般に
知られやすくなる。だから同39年等の記述があるということは、女王国を隠匿
するために記紀が書かなかったという論理は成り立ちにくい。
それほど女王国の存在が舎人親王らが嫌がったと仮定しても、隠し立ては短期
的にしか可能ではないから、むしろ存在を認めて女王国を悪者に仕立て上げた
記述をするほうがまだ相手の国の悪さを一般に周知できて、むしろ「好都合」で
はないか?w
そして雄略、武烈は善人、聖人だったようにでっち上げて改変すれば、朝廷の
権威は地に落ちずにいられようできうるではないか? なぜそうしないのかね?
君の論理の展開は畿内説が地に落ちないために無理な抗弁をして頑張って
いる利害からの女王国隠匿希望だろうがね・・・?w
不都合なのは、君の畿内説の崩壊だというのが図星だろう? 大和朝廷の
正当性を保全するには、女王国の隠匿無記述よりも女王国を悪者のように記紀
に記載すれば事足りるんだよ。
>>332 そういってトンチンカンな翻訳をする素人の何と多いことか。
ネットのお陰で、数多くの資料を素人が見られるようになったが、
その数多くの資料を、読み解くだけの、時間と体力と根気と知識を持ち合わせた素人が
どれだけいるか疑問に思わざるをえない。
学者のトンチンカンは、読みきれていないことを自覚しながら、
「読めません」ばかりでは論文も著書も書けないので、暫定的な訳をして注を沢山付ける。
素人のトンチンカンは、自分が本当に読めていると思い込んで、他を否定してまう。
336 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 19:26:55
記紀は邪馬台国も無視しているが奴国も無視してるよね 古代においてあれほど威を誇った大国なのに戦争して征服されたなんて記述もなく いつの間にか大和朝廷の支配下に入ってる 磐井の乱? あれは戦争ではなく反乱の記述でヤマトタケルの時代よりずっと後ですよ 景行天皇の九州巡行? 奴国らしい国は出てこず、しかも武烈帝の悪行と同じく日本書紀のみの記述で 古事記では一切無視されてますよ
337 :
唐松山 :2007/12/21(金) 19:38:42
卑弥呼は,書紀に 景行時代 石っころ として出てくる 神代文字を漢文に直すとき 間違ったのではないか?
338 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 19:51:52
>>336 古事記のほうは稗田阿礼の記憶からだろう? 日本書紀のほうは原書群からだ。
だから無視とかいう故意性は古事記のほうは考えるには至らん。
339 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 20:54:08
>>335 学者は某かの報酬を得ている限り間違いがあってはならない。それがプロ
例え謎多き古代であっても、そこに報酬が有る限り誤りはゆるさなれない。
340 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 20:59:58
だったら畿内説の学者と九州説の学者がいるわけだから、全日本が 女王国だったとかそれに準じる状況が出てこない限り、いずれかが 間違っているわけだよ。 だから、みんな学者諸氏が必死になって研究してきた経過からだから、 そういう誤りはもうやむをえないだろう? 片方をデムパとしちゃうのはかわいそうだな。自明な間違いをいつに なっても云ってるのをデムパと云ったほうがいいだろう。
341 :
285 :2007/12/21(金) 21:21:13
>>285 >それと、もっと重大な、根本的な疑問が俺にはあるんだ。あすレスするよ。
と昨晩横レスした285だけど、こんなに議論が白熱してるとき書くと水を差しそうで・・・。
俺の大疑問はみんなの議論が一段落してから書いた方がいいんじゃないかと思った。
つーわけでしばらく疑問は保留します。
後日必ず書くのでそのときはご検討よろしく。お騒がせスマソ。m(_ _)m
あの、それと、議論になってる武烈の悪業なんだけど・・・、
あれ本当の史実か。
悪業があまりにも凄過ぎなんで、俺なんかは逆に創り話じみてるように思えるが。
342 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 21:25:16
全部善業だったら、それこそおかしい。あんたの妄想。
343 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/21(金) 21:27:48
じゃぁヒトラー総統の生前とか、南京大虐殺とかは創作か?w
>>339-340 これに関しては太国氏のように鷹揚な態度でよいと思う。
学者にはある程度、自由な学問研究の環境を保障してやらんと
萎縮して何も発表できなくなってしまう
謬論を述べてしまった学者は、将来世代から笑いものにされるから
それがペナルティとなる。報酬カットよりもきつかろう。
まあ故意に虚偽を述べてはいかんがね
そういえば、なんとかいうセンセがいたな、好太王碑は日本陸軍参謀本部が云々とかww
故意ではないのかもしれんが
>>343 疑問点は多々ある
しかしここではスレ違いだからスルーする
やりたい人は世界史板、日本近代史板でやってくれ
346 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 22:06:27
>>339 三割しか打てないバッターが何億円も貰っているのは良いのかい?
プロというものの考え方が間違ってるよ。
人間が無謬であるわけないし、解らないものは解らない。
プロの学者がやってはいけないのは、解っていないことを解ったことにしてしまうこと。
バイオや考古学で捏造が問題になったけど、
あれで、何年分、研究が遅れたことか。被害は甚大。
あれほど大事じゃなくても、一本一本の論文に、その態度が厳格に求められる。
348 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 22:28:18
武烈は桀紂のパクリっぽいネタが多いのと古事記じゃただの太子なく崩じた短命な天皇だってことで 「悪行は捏造だ」という説が支持を集めてるみたいだが もともと評判の悪い大王だったのがそれに様々な尾ひれ背ひれが付いたレベルと言えなくもない ゼロから捏造したよりこっちのほうがよっぽど信憑性あると思うんだが
>>347 だから故意はいかんと言っておる
野球選手は球団との関係で年俸が決まるので
打率以外で貢献した要素も加味されるのじゃないかな。
しかし常時三割打てるのなら結構一流バッターじゃよww
武烈天皇は逮捕だな
暴君や愚帝であっても、普通は誰か高潔な側近が居て、 事態が最悪になる前に、自らの死を賭してでもお止めするんだがな。 武烈天皇の周りにはそんな人物が居なかったのかな。
352 :
ローガン :2007/12/21(金) 23:48:27
>>299 の人、もうちょっとよく 読んでください。そうは書いてないので。
353 :
日本@名無史さん :2007/12/21(金) 23:49:05
大伴金村が諫めたという話はあるよ
暴君ネロ ・・・・ 寝ろ ・・・・ 寝よう ・・・・ zzzzz
355 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/22(土) 08:13:32
邪馬台国が九州から畿内まで全国統一宜しく広がっていたなどという事は絶対にありえない。 それなら大和朝廷時代になって畿内からわざわざ遠征してくる必要が無い。 実際は人々の間から邪馬台国の記憶が途切れて久しく時が過ぎ、 大和朝廷が畿内から勢力を伸ばしてくるのであって。 まして両者が同一だなど、そうあって欲しいと願う人の願望に過ぎない。 記紀に倭人伝の奴国や伊都国、狗奴国の地名が出てくるのならまだしも。 特に狗奴国は大和朝廷の宿命の敵国になるわけだから戦った記憶は必ず残される。 アーリア人がインダス人とハーリーピーヤーで堅固な要塞を持つ敵と戦った、と リグヴェーダに歌ってるように。
356 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 09:12:10
九州ですがさんのご意見は当然至極です。どなたかご異論があるんでしょうか。 昔、邪馬台国は大和政権になったのか、というスレがあったと記憶しますが そこで議論されていたことは、九州邪馬台国が東征し大和政権になったという説は あまり支持されず、いったん九州邪馬台国は滅び、大和政権が西進して統一との 説が支持されていたように記憶しますが、 コテハンの皆様方のご記憶は如何でしょうか。
>>356 そのスレは「老教授」と言うコテが邪馬台国九州説の非論理性を実証して終了しました。
358 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/22(土) 09:38:09
邪馬台は元々中華の認識、当然最初から列島にその名を求める事自体変。 自国を「偉大な日/ヤマヒ(イ)」と紹介、それを漢人が(邪馬臺/壹)と漢字化したに過ぎない 地域の名前は「日」 当然「記紀」に邪馬臺/壹を見出だすのは無理 見出だすなら『日成』国(日成る国)
ぷっ!
360 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 09:44:53
記紀に邪馬壱国が登場しない理由を教えてくださいな。
361 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 09:46:25
記紀に邪馬台国が出て来ない理由はどうしてですか。教えて下さい。
362 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 10:52:03
>>356 大和朝廷の作った記紀では、自分たちの先祖は西からやってきたと書かれて
いるんだよなあ。
>>355 後漢書には、「自女王國東度海千餘里至拘奴國」と書かれている。
倭人伝には狗奴国は南と書かれているが、後漢書では東に海を渡ったところと
書かれている。
仮に、狗奴国(拘奴国)が出雲だとすれば、いろいろうまく説明できる。
天照大神と素戔鳴尊の対立を邪馬台国と狗奴国の対立に比定できる。
そのあとの高皇産霊尊の出雲への軍の派遣で狗奴国と争いに決着がつく様子も
わかる。
出雲への軍の派遣というのは、古事記によると、まず天菩比神の派遣。
天菩比神は、三年経っても大国主命に懐柔されて帰ってこなかった。
次に、天若日子の派遣。天若日子も八年経っても帰ってこなかった。
次の建御雷神の派遣で、大国主命の二人の息子は屈服し、大国主命は
国を譲ることを約束する。
363 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 11:02:10
364 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 11:05:09
>>361 たぶん、後の人には邪馬台国が何かわからなかったんだろう。
中国の書物に出てくる固有名詞と日本のとでは異なるから。
たとえば、倭の五王は、だいたい応神天皇か仁徳天皇あたりからあとの五人の
天皇に比定されるが、これも良くわかっていない。
また、隋書に出てくる「多利思北孤」も聖徳太子(厩戸皇子)と言う説が有力
だが、これもわかりづらいし。
だから、邪馬台国も、記紀には別の名前で、別の印象で登場している可能性が
あると思う。
365 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/22(土) 11:14:46
>>357 反対意見が出ないうちに勝手に終わるのは自由だけど
でたらめじゃ何にもならないでしょ。
366 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 11:40:52
>>364 その説は極めて説得性にかけると思います。
記紀はありえない年代までさかのぼって、自らの系譜をつなげています。
各地の伝承を事細かに調べそれらをまとめて自らの系譜につなげ、自らの王朝の正当性を鼓舞しているのではないでしょうか。
記紀は一級の歴史資料ですが、あくまでも時の権力者が自らの正当性を示すために編纂した歴史です。
仮に邪馬台国の記憶が消えていたとしましょう。
しかし、大陸の正史には邪馬台国は日本における最大の大国で、当時考えられる日本という地の多くをまとめていた。
そして、倭国の王という称号を大陸から与えられた。
とかいてあります。
これは大変大きな出来事です。
記紀編纂者たちにとっては、大陸の正史は手本です。
その正史の中にこれほど強大な国として、そしてこれほど詳細に語られた国はそれ以前はなかったわけですから。
決して無視できることではないと思います。
もし、邪馬台国の記憶が消えていたなら…
確実に当時は大きな邪馬台国論争が起こっていたはずです。
そして、邪馬台国をどこか比定して、邪馬台国と大和朝廷をつなぎ正当性をアピールするでしょう。
そうすれば、より確実に自らの正史を正当化できます。
大陸の正史の中にも、自らの正史の中にも同じ時期に登場するわけですから、たとえ邪馬台国の記憶が消え大和朝廷とは無関係の可能性が大きくてもそうしておけば未来にわたって、史実として扱われる可能性が大きいわけです。
しかしそれをしなかった…
自らの正当性を示す大変有利な方法をとらなかったわけです。
それには必ず理由があると思います。
記紀編纂者たちは意図的に邪馬台国を無視した。
そして邪馬台国の存在を日本の正史の中から消し去ろうとした…
そう考えるのがきわめて自然だと思います。
367 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/22(土) 11:41:55
>>362 それはおかしい。邪馬台国は狗奴国の侵入に悩まされていたわけだし
国境を接していたからこそもめていたのであって。
第一、狗奴は大船団を仕立てて攻めてこなければいけなくなる。
倭人伝には邪馬台国に港があるような記述も無い。伊都国から段々内陸へと入っていく。
魏の仲介が来倭した時、さらに船を使って狗奴へ渡ったと匂わせる記述も無い。
後漢書の記述は伝聞を基にした為に誤ったもの。
実際に邪馬台国へ来た魏使の記述が正しく、後漢人は来ていないと見るべき。
368 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 12:07:07
ちょっと立場がよくわからなくなってきたので、可能性を簡単にまとめてみた。 A 邪馬台国は九州にありそのまま消えて幻となった。 B 邪馬台国は九州にあり東征して大和朝廷になった。 C 邪馬台国は九州にあり大和朝廷の西進でほろんだ。 D 邪馬台国は近畿にありそのまま消えて幻となった。 E 邪馬台国は近畿にありそのまま大和朝廷になった。 F 邪馬台国は近畿にあり同じ近畿にあった別の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 G 邪馬台国は近畿にあり出雲の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 H 邪馬台国は近畿にあり九州の勢力にとってかわられ大和朝廷が成立した。 I 邪馬台国は九州、近畿以外の地域にあった。 J 邪馬台国はなかった。 こんな感じだと思うがそれ以外の可能性があったら教えてください。 ちなみに私はH説を支持しています。
ウィキの「日本の歴史」という項目に以下の説明があった。
>>366 の主張とリンクしてる希ガス。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 <ヤマト王権が統一国家を形成しようとしていた6世紀には、倭王家の系譜を記す『帝紀』・倭国の神話を記す『旧辞』が、7世紀前半には厩戸皇子らによって『天皇記』が編纂された。
そうした修史の伝統を継承して、律令統一国家が成立した8世紀前半には、日本最初の正史である『日本書紀』が完成した。
『日本書紀』は中国の正史の影響を強く受けており、天皇支配の正統性を強く訴え、皇位継承の経緯に関する記述が主たる内容だったが、もう一つ重要な点としては、中国・朝鮮に対する日本の独自性を主張していたことであった。
この「天皇の正統性」「日本の独自性」の主張は、『日本書紀』を含むその後の正史(いわゆる六国史。『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)の主要なテーマであり、以後、幕末期までその影響が及んだ。>
370 :
369 :2007/12/22(土) 12:22:50
>>369 ウィキの
>もう一つ重要な点としては、中国・朝鮮に対する日本の独自性を主張していたことであった。
これが
>>366 が書いてる
>それには必ず理由があると思います。
>記紀編纂者たちは意図的に邪馬台国を無視した。
>そして邪馬台国の存在を日本の正史の中から消し去ろうとした…
に対応してる、と俺は踏んだ。
>>367 もうそろそろ
狗奴国と争ったなどとする考えは消去しちゃいなさいよ
誰が言い出したのか知らないけれど
書いてないんだから
372 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/22(土) 13:13:07
>>371 狗奴国と卑弥呼との仲が悪かったというくだりで「相攻撃」
という文字が見えるから互いに相争っていたんではないですか?
373 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 13:42:06
>>366 記紀の場合は、神武天皇の即位を紀元前660年あたりに想定している。
つまり、卑弥呼の時代には大和朝廷はとっくに成立している。
だから、魏から「倭王」と呼ばれるのは、大和朝廷の大王以外には考えられない。
そういう考えが固定観念としてあったのだと思う。
そういう前提で記紀の編者は邪馬台国を見ている。
しかし、大和朝廷、まあ大和政権でもいいが、その成立がもっと新しいのは
いまや常識になっている。一番早く考える人でも3世紀のはじめ。
東遷説では4世紀になってからということになる。
それ以前の大和にはめぼしい遺跡がなく、出てくるものは後進性を示すもの
ばかりだからである。
つまり、邪馬台国は、そういう時代の出来事なのである。
記紀で言うところの日向時代あるいは高天原時代の可能性もある。
むしろ、そういう時代と考えたほうがつじつまが合うかもしれない。
とすれば、邪馬台国の記憶が高天原の記憶として残っていたとしても不思議では
ない。繰り返すけれども、記紀の書かれた時代の年代観は卑弥呼の時代には
大和朝廷が厳然と大和に存在していたこととなっている。
374 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 13:52:01
>>373 国学〜皇国史観の悪影響を受けているようですね。
375 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 13:56:38
>>374 皇国史観なんて言葉はもう古い。
そんな言葉で対立する考えを阻害しようとしたのは、昔の畿内説で、そんな言葉に
束縛されていたのは第二次世界大戦を経験した人だよ。
376 :
唐松山 :2007/12/22(土) 13:59:12
書紀の編者は卑弥呼を 石っころと 見ている。 邪馬台国 推して知るべし。
377 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/22(土) 14:03:33
>>372 仲が悪いというよりも、協調出来ないだけ
それに、何故
『仲が悪かった』が先で、使の郡詣で説明が後書き?普通、これらが一連の文章なら
(郡詣で→説明→原因)
だろう。
陳壽の頭がパープリンじゃなければ ね
しかも
後世どの編纂者も、戦いはおろか狗奴の文字すら書き触れる事もない。
歴史上、この倭人伝だけに登場する名称なんだよ
今回のドンと来い25は、かつてない好レスの連発で 勉強になるな〜と注目してたんだが… でもやっぱりレベルを引き下げるヤシが湧いてくるんだわな 安本教信者…か、ふ〜っ
379 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 14:04:37
九州ですが氏を支持します。 説相攻撃状の前段に狗奴國と記されている訳ですから自然な解釈であります。 さて、記紀に卑弥呼も邪馬台国も記してない理由は、作為以外の何物でもない と考えます。 そもそも、記紀の成立を以って、それ以前の各地豪族らの独自伝承はすべて 消去抹殺された次第です。 国史編纂は、大和政権に限らず、成立政権を維持確保するためには、 古今東西用いられる手法であることも、普遍的なことです。 記紀に卑弥呼と邪馬台国さらには難升米らの記載をしなかった理由は 大和政権にとり不都合であったからにほかありません。 それが証拠に、戦前の国定教科書にでさえ、白村江の敗戦は書いてありません。 戦前の初等教育のみしか受けなかった日本国民には、神国日本の負け戦を 知らぬ人も大勢居たのです。 近世においても、国史というものは、こういうものなのです。 まして、記紀においてをや、ではありませんか。
380 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 14:13:35
黄憧とは、魏の戦旗でしょう。九州ですがさんの言うとおりでしょう。 狗奴國と邪馬台国の戦で卑弥呼を支援するために拝受したものでしょう。 また、張政は何ゆえに帯方郡から派遣されたのでしょう。 拡大解釈もそれなりに面白いでしょうが、やはり、自然な解釈は当然 必要なことではないでしょうか。
381 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/22(土) 14:20:51
>>366 よくそう云うが、正当性を示すんなら雄略、武烈の悪態なんぞは省いたほうが
なお正当に見えるがね? それに浮気だとか暗殺だとかが身内でやっている事も
同様で、こんなことを堂々と、うんと記紀に載せることが正当化になるのか?
こういう文を削ったほうが、なおも正当化の鼓舞になるではないか? おかしい
ではないかね?
紀の編者連が女王国を日本の正史から消し去ろうとするならば、神功39年等の
記事も抜かなくては消し去ったというには手ぬるく、むしろ女王国があるんだと
云うことを教えているようなものではないか? これもおかしい論理だ。
382 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/22(土) 14:28:35
>>379 女王国の場合にはそれは当てはまらない。当てはまるものも別にあるがね。
不都合ならば神功39年等の女王国を匂わす伝の文をシカトし、紀に挿入は
しないだろう。これではまるで暗黙に女王国があるぞと遠まわしに編者らが
言っているような神功39年の文ではないか?
383 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 14:30:32
>>378 畿内説は、いつの時代もレベルの低いレッテル張りしかできないんだな。
最も畿内色の濃いと思われる考古学者でも、纒向遺跡の誕生を西暦200年頃と
している。それ以前は、後進地だと認めている。
しかし、庄内期はもっと遅く始ったと考える人もいる。
大和に強い勢力の誕生が見られるのはそんな時代なのだよ。
卑弥呼の時代の前か後かそれが問題になっている。
以前は、卑弥呼の時代の後というのが定説だったが、現在は前と主張する
考古学者もいる。
邪馬台国の記憶は、伝説として残っているくらいのものだろう。
384 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 14:32:38
太国さんよ、やっとお気づきか。 歴史とは歴史記録とは、本来そういうものなんだよ。 おかしいことや矛盾していること不整合なことは、山ほどあるんだよ。 歴史は、太国さんの言うように、論理ではないんだよ。 無益だろうがね、太国さんにはよ。
385 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/22(土) 14:37:00
だから正当化っていうのは記紀は強調してはいないよ。お前たちが増幅させて いるだけではないか? それに無益がどうのとかは、具体的なる女王国とか 記紀の論説ではないだろう。
386 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/22(土) 14:39:15
>>379 戦前の教科書は壬申の乱と邪馬台国はけして教えなかった。
というのは万世一系を否定するからだ、と聞きましたが
当時の「大和政権にとり不都合」は具体的にどのような理由とお考えですか。
387 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 14:41:09
だから〜
みんなの説はどれなの??
>>368 から選んでください!
立場がよくわかりません!!
388 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 14:43:39
記紀の編纂には、中国人も帰化人も、当然に関わっていると見るのが当たり前。 何故、それらの人名が記録に残っていないかって・・・。 どこの國の政府要人が、わが国の歴史は他国の知識人に作ってもらいました という馬鹿が居るものかね。 大和政権には多くの渡来人帰化人が重用されてる。 その彼等は三国志くらい知っていたとするのも当然。 大和政権内にも三国志に詳しい連中も居たはずさ。 卑弥呼はアマテラスに変えられて卑弥呼と九州邪馬台国の記憶を 大和朝廷の威光で消されたのさ。 簡単明瞭だろ。
389 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/22(土) 14:44:08
戦前の体制ではあったはずだ。不都合が強いと官憲の力で抑えられたろう。 大本教とか天津教とかはその典型だな。だから当時、滅多なことは書けない。
390 :
ローガン :2007/12/22(土) 14:49:38
>>380 軍旗下賜が果たして支援でしょうか?
8年拝仮の黄幢は、6年の詔に基づいたものでしょう。6年詔の段階で魏朝は邪馬台国と狗奴国の関係を知らない。
もし、「軍旗下賜は支援のため」なら、下賜の詔より、支援の要請が後になってしまいますね。
おかしくはないですか?
391 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 14:51:11
九州さんの質問に答えます。 大和政権は大和で興った。しかるに、それ以前に九州には卑弥呼の邪馬台国が 存しており、魏から金印紫綬も拝受し居る史実があった。 しかるところ、大和政権は九州邪馬台国の系譜ではなかった。 なんとなれば、新しい神話を創造捏造して政権の安定を図ることは、当然。 これだけの話。
392 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/22(土) 14:53:49
女王国の記憶を消すんだったら、先述のとおり女王国を匂わす神功99年等の 伝の挿入はしないだろうが・・・。w だから朝廷が女王国を隠匿したとか記憶を消し去ったとかいうのは成立しない 論理であり、記紀に女王国の文が伝ではなく独立しての記載がないということ は、畿内からかなり遠方に女王国が位置したということを意味しているもので、 また畿内よりも伝の情報になりやすい、より大陸に近い場所に女王国が所在 したということが合理的だということになる。 それは女王国が(北九州を除く)九州にあったと考えることに行き着くのだ。
393 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 14:56:08
ローガンさんよ、屁理屈だよ。 張政等とあるよね。複数の帯方郡の戦争軍事顧問団が派遣された ということじゃない。 それにさ、昔の誰かさんじゃないんだからさ、 倭人条の二千字足らずがさ、歴史事実の全てじゃないんだからさ、ね。
394 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 14:56:42
>>387 たくさん選択肢を用意設定した労は認めるが、
答えにくい。
なぜかというと
>>368 は一つの先入観が前提となっているから。
それは「大和朝廷」なる語。
395 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/22(土) 14:56:50
>>392 訂正
× 神功99年等 ○ 神功39年等
396 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/22(土) 14:58:27
>狗奴國男王卑彌弓呼 まるで小学生の作文ですね(^O^)/
397 :
ローガン :2007/12/22(土) 15:01:37
>>387 失礼しました。貴方がスレ主さん?
私は「F」ですね。邪馬台国は、近畿。大和朝廷とは直結しない。
398 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 15:03:02
太国さんよ。どこに行き着くのもあなたの勝手さ。 だけど、記紀編纂には多数の政権関係者並びに知識人が関わっていたはずさ。 ならば、匂わす、くらいの記述を求めた連中も当然いただろうさ。 各地の豪族の思惑も当然にあっただろうさ。 太国さんは、神代編の系図には精通しているんだろ。 宗像三姫神が誰の子供と記してあるか知ってるはずだよね。 それが、いい例さ。 おしまい。
399 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/22(土) 15:10:39
400 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 15:18:19
私はCです。正確にはCダッシ。プラムさん、お久し振りです。飛車角 で次から 書き込みますれば、また宜しく頼みます。 今日は盛り上がってますね。プラムさんの書き込み楽しみにしています。
401 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/22(土) 15:24:14
>>391 僕はですね、邪馬台国は畿内との繋がりが無かったと考えているんです。
それが倭人伝の「其餘旁國遠絶不可得詳 」の記述です。
やがて畿内勢力が九州にまで及んでくると邪馬台国という国の存在を知る事となる。
すでに崩壊していたその国は強烈なインパクトを地元に残し続けていたと思うんです。
そこで仰るとおりにその名を故意に払拭しようとしたのかもしれません。
ただそれが記紀以前の最古の歴史書にはあり、記紀編纂で削られたものかどうかは
解りませんが恐らく後世になって邪馬台国の記憶を消したというのが真相ではないでしょうか。
402 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 15:27:09
一応言っておくと、僕もB。 しかし、織田信長に対する豊臣秀吉に対応する人物が東征し、信長の直系を 名乗ったというような可能性もあると思う。
403 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 15:27:49
九州ですがさんは、Aと言うことですね。
404 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/22(土) 15:29:37
それがしはAですね。
405 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 15:30:55
こう見てみるとここでは九州説が多いみたいですね
406 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/22(土) 15:31:43
407 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 15:42:31
すみません、 九州説の方々にお聞きしたいんですが、 近畿の巨大古墳群の初期のものは邪馬台国の時代とかぶると言われていますよね。 それについてはどのようにお考えですか?
408 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/22(土) 15:43:23
>>400 ご無沙汰しております。
>書き込み楽しみに
夢も希望もなく、ただ事務的に処理するだけだから
つまらないですよ。
それでもいいなら
409 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/22(土) 15:55:18
>>407 別に被ったって良いんじゃないの?
畿内にだって出雲にだって人は住んでいたし、人が住めば自ずと文化は出来る。
ただ
漢人との関係が公認じゃなく非公認だっただけでしょ
晋書宣帝紀にも記載あるし
410 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 16:05:08
「大和朝廷」が歴史概念を表す言葉としては不適切とされ、近年は 「ヤマト王権」「畿内大王権」等の語が使われているのだが、その理 由として、5〜6世紀の天皇陵とされる大型前方後円墳の多くが大 阪府に所在することのほか、たとえば下記の諸天皇は大和以外の 地に皇居を営んだと記紀が伝えていることも挙げられよう。 景行天皇…志賀高穴穂宮 成務天皇…志賀高穴穂宮 仲哀天皇…穴門豊浦宮、筑紫橿日宮 応神天皇…大隅宮 仁徳天皇…難波高津宮 反正天皇…丹比柴籬宮 継体天皇…樟葉宮、筒城宮、弟国宮
プラムさん >まるで小学生の作文ですね(^O^)/ 何がどう間違っていると判断したのか、具体的に書かないと、 議論ではなく中傷にしかなりません。 悪い癖ですよ。
412 :
ローガン :2007/12/22(土) 16:18:45
>>330 書き込みが多いので亀レスになりました。
貴方のレスは「箸墓はすでに九州一族の王墓である…」と書かれている様に見受けられます。
とすれば、3世紀後半には、九州一族が西日本を支配していた事になりますね。
書紀成立から約450年前ですか…
永きに渡り実質支配を続けてきたなら、400年以上前に存在した国の記録、記憶についてナーバスになる必要があるでしょうか?
まして、仰る所の「異文化を柔軟に取り入れる人々」であるなら、自らの系譜に書き加える位、簡単な事だと思いますが?
>>407 かぶらない。
ホケノ山は当初纒向型土器の古いほうだとされたが、今は布留0でほぼ決まり。
その他も同様に今は布留0か同時期の纒向3〜4あたりでほぼ決まり。
つまり、箸墓の陪塚と言われていた昔の考えに戻りつつある。
箸墓を350頃とする考えによれば、これらの陪塚もほぼ同じ頃になる。
414 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 16:27:20
>>377 プラムさん
言っている意味がわかりません。
特に「使の郡詣で説明が後書き?」の日本語の意味がわかりません。
郡詣って、どういう意味で使っているの?
原文では詣郡で順序が逆だけれど。
仲が悪かったが先でも、意味はちゃんと通ります。以下、簡単に訳してみます。
「卑彌呼と卑彌弓呼は、もとから仲が悪かった。そこで、倭の載斯・烏越たちが
郡の役所へ詣でて、「私たちは、隣の狗奴国とこんな風に「相攻撃」してます。」と説明した。
そこで塞曹掾史張政たちは、詔書と黄幢を調えて、難升米に拜假して、檄を作って告諭した。
(魏が卑彌呼を支援すると言う意味で)」
これが、正始六年の出来事だと思っています。
>>390 ローガンさん
仰るように、黄幢を倭に対する半島への出兵命令だとすると、
1.倭人伝に朝鮮半島の情勢が何も書いていない。
2.万単位で軍を動かす魏が、海を越えてまで、倭の兵力を必要とするか。
3.皇帝によって下賜されたものが、六年から八年まで、二年も放置されるのか。
4.朝鮮に出兵したとして、それが卑彌呼の死とどうつながるのか。
つまり、「卑彌呼以死」の「以」をどう解釈するのか。
ということが問題となろうかと思います。
>>413 >箸墓を350頃とする考えによれば、これらの陪塚もほぼ同じ頃になる。
これね、「箸墓を350頃とする考えによれば・・・」とあっさりおっしゃって
そのことを前提で言ってらっしゃるみたいなんだけど、
どうして箸墓が西暦350年頃の古墳と考えられるのか、それをまずきちんと
証拠立てて論述してもらわないと、ぜんぜん説得力がないんじゃないかと。
と思うので
>>413 氏にお願い。
箸墓を350頃とする理由を書いてください。
ぷの書き込みなんか理解できるわきゃないだろう。 もともと、理解力も説明力も知識も教養も品格もないくせに、 いい加減なレスをつけてくる。 反論されれば、自分で調べろとかスルーしろとしか言えないくせにな。 むかし、ここで恥かきまくったときの遺恨だけで居ついてるやつだ。 いじめられたのだって、己の不誠実な態度が原因だというのに それすら理解していない。 単なるアラシだから相手にしちゃいけない。
417 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 17:09:39
ちゃんと書くときっちり論破されちまうからな。 そいでもって、お得意の捨て台詞を残して御退場かw
418 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 17:26:06
>>415 堂の後が掘れればあの辺りの先後関係はもう少しかたまるでしょ。
>>411 >何がどう間違っていると判断したのか、具体的に書かないと、
議論ではなく中傷にしかなりません。
悪い癖ですよ。
ごめんなさいね
『女王卑彌呼與狗奴國男王』『卑彌弓呼素不和』
じゃダメ?
つまり、
『女王卑彌呼與狗奴國男王』とした理由が『卑彌弓呼素不和』な訳
狗奴国は前の記事で
『其南有狗奴國男子爲王』と、書いてあるんだよ
>>414 >郡詣って、どういう意味で使っているの?
原文では詣郡で順序が逆だけれど。
これはミスったね
「郡に詣で」と書いたつもりなんだよ スマソ
>「卑彌呼と卑彌弓呼は、もとから仲が悪かった。そこで、倭の載斯・烏越たちが
郡の役所へ詣でて、「私たちは、隣の狗奴国とこんな風に「相攻撃」してます。」と説明した。
そこで塞曹掾史張政たちは、詔書と黄幢を調えて、難升米に拜假して、檄を作って告諭した。
(魏が卑彌呼を支援すると言う意味で)」
でもそれじゃあ
もとから仲が悪かった起因が分からないだろう
それに
「其八年太守王kui[扁斤旁頁]到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
この文が浮いちゃうよ
>>416-417 相変わらずストーカー行為が多いね 病気か?
いい加減大人になったら
それに
>>417 >論破
馬鹿じゃないの? 論破されるとかされないとか、アンタの価値観って
そんなものかい?
いったい論破されたりしたりすることが 何なの?
悪いけど
レベルの低い投稿や銭のにならない投稿は、お花畑にでも行って自由に議論してくれ
422 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 17:52:36
211大阪住吉大社 248年邪馬台国の卑弥呼
423 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 18:00:30
>>419 それだと『女王卑彌呼與狗奴國男王』の部分は、「女王卑彌呼と狗奴国男王」という意味ですね。
ならば、『卑彌弓呼素不和』は、どいう意味だと解釈しているのですか。
>「其八年太守王kui[扁斤旁頁]到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」
>この文が浮いちゃうよ
これについては、
>>299 の書き込みを見てください。
424 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/22(土) 18:25:36
>>423 そのまえに
>女王卑彌呼と狗奴國男王
どうして「與」が(〜と〜)になっちゃうの?
425 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 18:47:20
>>424 そのまえに、『女王卑彌呼與狗奴國男王』と『卑彌弓呼素不和』を
プラムさんが、どう訳しているか、現代日本語で書いてください。
そうしてくれないと、プラムさんが、どう読んだのか解りません。
私の訳はすでに書いてあるので、プラムさんが訳を書いてから、
お互い、何故、そう訳したか議論した方が、見通しが良いでしょう。
426 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 19:01:36
連投ですみません。 >>女王卑彌呼と狗奴國男王 >どうして「與」が(〜と〜)になっちゃうの? このような場合、まず、自分がどう読んだかを書き、 その上で、なぜ自分と違う読みをしたのか訊ねるようにしてください。 それだけで、互いの相違点が明確になり、論点がはっきりして議論がしやすくなります。 このようにおすれば、一回のレスですむことが、424のようなレスでは、 425のような遣り取りを重ねなければならず、時間とレスの無駄になります。 以後、そのようにお願いいたします。
はなっから議論などできないやつを相手にして・・・
>>425 >そのまえに、『女王卑彌呼與狗奴國男王』と『卑彌弓呼素不和』を
プラムさんが、どう訳しているか、現代日本語で書いてください。
そうしてくれないと、プラムさんが、どう読んだのか解りません。
私の訳はすでに書いてあるので、プラムさんが訳を書いてから、
お互い、何故、そう訳したか議論した方が、見通しが良いでしょう
了解
「女王卑弥呼は狗奴域を男王に与えた(任せた)」
その理由は
「卑弥弓呼とは元来協調出来なかったから」
で、協調できない理由が
「景初二年六月〜正始六年まで内容」と、「其國本亦以男子爲王・・・・有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人・・・持兵守衞」
こうした複雑な事情を
『其八年太守王kui[扁斤旁頁]到官倭』(正始八年太守王kui[扁斤旁頁]は倭を調査した)から詳しく事情が分かり
以下の文は
その正始八年以前に起きた、邪馬台国の国内事情回想録
だから
後世の各史書編纂者(梁書、北史、隋書、通典・・)は、全て『正始中』としています。
>>426 >時間とレスの無駄になります。
以後、そのようにお願いいたします。
申し訳ない
今まで誰も発表していない内容を書き込む場合、その内容がどうであれ
そこには必ず著作権の問題が発生するから
全てを晒していいものか迷うから、何時も中途半端なレスになってしまうんだよ
著作権の問題だけは出来る限り慎重に対処したいからね
矮小なプライドが邪魔して逃げるに逃げられなくなったみたいね。
>>428 まず、私の読みでは、卑彌弓呼は狗奴国の男王の名前ということで解釈しています。なぜなら、
倭 女王 卑彌呼
狗奴国 男王 卑彌弓呼
と対の表現になっているからです。「與」は「と」と読む理由もそこにあります。
それに対して、プラムさんの読みでは、卑彌弓呼が突然現れますが、何者かわかりません。
そこを、どのように考えていますか。
※「太守王キ到官。倭女王」の句の切り方は、卑彌弓呼についての意見を伺ってから論証します。
>>427 >はなっから議論などできないやつを相手にして・・・
お前はいいな、何時もお気楽極楽で
その辺から探し出した受け売り談義に花咲かせているヤツには関係ない話だから
たまには
銭になるような話でも持ってこいや 遊んであげるから
タダで探せるようなネタ話なんか何時までもするなよ、恥ずかしいから
>それに対して、プラムさんの読みでは、卑彌弓呼が突然現れますが、何者かわかりません。 そこを、どのように考えていますか。 だから『卑彌弓呼』とかいてあるでしょう(意味はまだヒミツ) これ、一個人の名前じゃないし、これを書けば十分に理解できる構成になっています。 だから当然『卑彌呼』も個人名ではありません 意味は(卑しくも、太陽に叫ぶ) 国内解釈(日の巫女) これは漢人が読む史書だということもお忘れなく
435 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 20:42:52
>>434 個人名でも職名でもかまいません。しかし、倭人伝では、初出のところで、必ずそれだけが単独で登場することはありません。
共立一女子爲王名曰卑彌呼 をはじめとして、
太守劉夏 大夫難升米 次使都市牛利 大夫伊聲耆・掖邪狗 太守王キ 塞曹掾史張政 卑彌呼宗女壹與
全てに、初出で、肩書き或いは、それに準ずる情報が付加されています。
例のホームページは拝見しましたから、プラムさんたちが、難升米や卑彌呼などに、独特の意味づけをしているのは、
承知しております。しかし、たとえ、『卑彌弓呼』にプラムさんの言うとおりの意味が込められていたとしても、
初出で、『卑彌弓呼』だけというのは、頷けません。
それから、狗奴国を男王に与えたのなら、卑彌呼は狗奴国を支配していたことになります。さらに頷けません。
>)434 「意味はまだヒミツ」 これから考えてみます、ということでよろしいか?
>>435 >狗奴国を男王に与えたのなら、卑彌呼は狗奴国を支配していたことになります。さらに頷けません。
『其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王』
狗奴国も邪馬台国三十国体制の一つ
しかし、この地は貴方が疑問を抱くように直接女王が支配する場所ではないことが倭人伝からも読み取れます。
ここを支配していたのは『不屬女王(女王の配下でない)の官、狗古智卑狗』
そこに、女王が配下の男王を管理者にした『狗奴國男子爲王』
>>436 >「意味はまだヒミツ」
これから考えてみます、ということでよろしいか?
それは貴方の自由
こちらで「こうしろ」とは言えない。
ただこれだけは一言
「銭にならないレスは以後不要」
439 :
435 :2007/12/22(土) 21:47:49
>>437 各国に官が居て、女王國にも伊支馬、彌馬升などの官が居るので、
王と官が並存していたのが解ります。
男子爲王、「其」官有狗古智卑狗
です。狗古智卑狗は男王の官です。
官が女王に属さないから、女王が狗奴国を男王に与えたと言うのは、こじつけです。
>>435 倭人伝を眺めてみると分かるんだが
登場人物は必ず組になっているんだよ
(官と副官)(難升米と牛利)(伊聲耆と掖邪狗)(載斯と烏越)(卑彌呼と卑彌弓呼)
そして
(狗奴国男王と狗古智卑狗)
探せばもっとありますよ
これが女王を共立した邪馬台国三十国体制のシステム
これを集約したのが正始八年の調査きじなんだよ
意味不明の抽象論が始まりました。 そろそろ逃亡準備開始ですか? 今宵はお開きということでつね。
442 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/22(土) 22:11:32
>>439 もう少し深く考えてみ。
『男子爲王』
これ
何時の話し?
当然魏時だよねぇ『魏書』なんだから
だったらこの『男子爲王』と書かれる前の狗奴国は誰が治めていたのかな?
当然狗奴は魏時に突然飛び出した地域じゃないことはわかるよね
つまり
魏時に『男子爲王』となる前までは
ここを管轄する特定の王が存在せず、邪馬台国管理下の官が管理していた訳だよ
理解できますか?
>つまり >魏時に『男子爲王』となる前までは >ここを管轄する特定の王が存在せず、邪馬台国管理下の官が管理していた訳だよ >理解できますか? 理解できるわきゃないだろうw 「男子爲王」と言うのは、男の立王していたと言うだけで、 「それまで王が居なかった」と意味じゃないだろう。 ましてや、それ以前は邪馬台国の官が居たなんて読みようがない。 普通の人(当時の中国人も普通の人だし)には「読めない」話だw
444 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 22:23:05
>>440 官に正と副があるのも、使者に正使と副使があるのも、倭人伝に限ったことではありません。
さらに、官と副官を対としながら、狗奴国だけ男王と官の狗古智卑狗を対にするのもご都合主義でしょう。
もっというと、官にしても使者にしても、正と副は、はっきり解るように並べて書かれています。
一方、卑彌呼については、即位の事情や、その暮らしぶりが詳しく説明されているのに、
卑彌弓呼が出てきません。
プラムさんが挙げた組
>(官と副官)(難升米と牛利)(伊聲耆と掖邪狗)(載斯と烏越)(卑彌呼と卑彌弓呼)(狗奴国男王と狗古智卑狗)
プラムさんの読みを指示する為の最後の二組だけ、性質が明らかに仲間はずれなのが解ります。
『男子爲王』の「爲」は、「なった」ではなく「である」です。
つまり、女王が治める倭国に対して、狗奴国は男王が治める国ですよという説明です。
特定の男王が存在して、ずっと治めていたのであって、
卑彌呼の時に、突然男王が即位したのではありません。
>>441 君には少しムズイ内容だったかな?だから参加できないから誹謗中傷に走るのね
だったら
君用に宿題だしてあげるから
これを正確に意訳してみなさいね
『 韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接方可四千里』
はい、スタート
他の人たちにも全然理解されてないつよw そして、今度は話題ずらしに走る作戦でつね。
良スレだったのに・・・ もうすぐクリスマスだというのに、意味不明な奴が沸いてきたな。。。
>>444 >ご都合主義
ご都合主義でここまでレスできますか?
>官に正と副があるのも、使者に正使と副使があるのも、倭人伝に限ったことでは
ありません。
因みに、なるべく分かりやすいように倭人伝に限った話してるんですが。
それに
使者の正、副関係と官の正、副の何処に共通点があるのです。
倭人伝に使者の正、副関係があるのなら、貴方の指摘が正しいでしょうけど
>卑弥弓呼の暮らしぶりが詳しく出てきません
当然ですよ
魏朝から正式に認められてる王は『卑弥呼』ですから
>特定の男王が存在していて、ずっと治めていたのであって
ずっとって何時から?
特定の男王って? 特定という言葉には基準が存在するから「特定」なんですよ
>卑弥呼の時に、突然王が即位したのではありません
じゃあ何時?
449 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 22:48:16
なんで今更漢文訳の論議になるのかよくわからない。 その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。(中略)その八年(正始8年)、太守王頎官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず、倭の載斯・烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。 でしょ。
450 :
435 :2007/12/22(土) 22:49:39
>>447 すみません。あまり二人でスレを消費しても申し訳ないので、
「到官倭」と読むのは間違いと言うことだけ書いて、
今夜は終わりにします。他の方にも参考になれば良いなと思います。
三国志中、「至官」の例は6例。「到官」の例は倭人伝を除くと7例。
両方とも「到官倭」「至官倭」のような形で、到官の直後に目的地を書く例はありません。
二十五史全体で検索した結果は、「到官」が196例。「至官」が102例。
(注も含む。他に「所至官吏(至る所の官吏)」のような、関係ないものも小数含まれる)
その中で、倭人伝は取りあえず保留しておいて、297例中、「到官○」の形で目的地が書かれている例は、皆無。
ほとんどは一見して違うと解るものばかりで、前後を読まなければ判断できない例は、ごく少数なので、
興味のある方は、是非ご自分で検証してみてください。
ttp://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3 つまり、「到官倭」と読むのは間違いです。
其八年、太守王キ到官。で、太守の王キが赴任した。です。
451 :
435 :2007/12/22(土) 22:52:36
ちなみに、「到官」も「至官」も、同じく「赴任」です。 陳寿が両者を同じ意味で用いた、明確な証拠があります。 三国志・許靖伝 馥(人名です)等到官,各舉兵還向京都,欲以誅卓. 卓怒曰:「諸君言當拔用善士,卓從君計,不欲違天下人心. 而諸君所用人,至官之日,還來相圖.卓何用相負!」 「韓馥たちが「到官」すると皆兵を挙げて都に攻めてきた。」という地の文に対して、 董卓の科白が以下のように続く。 「諸君が任用した者達は、「至官」の日、還り来たりて相い図る(示し合わせて攻めてきた)」 地の文と科白で同じ事を言っており、地の文に「到官」と書き、科白に「至官」と書いています。 陳寿が、両者を同一の意味で使用した証拠です。 連投すみませんでした。
狗奴って熊襲じゃないのか。 で、ヤマトタケルのもともとの名は熊襲タケルだろ。 狗奴=熊襲が(もしくはその分家が)大和朝廷の前身だと思うな。 邪馬台国とは直接関係ない。
453 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 23:04:51
新しい説?でも大和朝廷のときに熊襲を手に入れるために戦いを挑んでなかったっけ? 「神武東征神話」そのものは『古事記』や『日本書紀』による虚構であるとする学者たちの中にも、モデルとなった何らか の歴史的事実があったのではないかと考えている人は多い。狗奴国は、鹿児島・熊本・宮崎あたりの南九州を領域にしてい たとし、狗奴国が邪馬台国を滅ぼして九州を統一し、その勢いで東征したという可能性を考え、畿内勢力を打倒したとする。 これによれば、狗奴国が「邪馬台国」との闘争に勝利し、その勢いで畿内にも進出して大和朝廷を成立させたという事にな る。 自分はこれだと思うな。 けれども邪馬台国の影響というのは拭いきれず、他の国々を支配下に置く為に邪馬台国の卑弥呼を神として遇した。 そして、銅鏡を神器として祀ったんだと思う。
454 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 23:06:32
倭人伝によると奴国が女王国の境界の尽きるところ(後漢書でいう極南界)で その南に狗奴国がある 邪馬台国は奴国の東百里行った不弥国からさらに南にあって狗奴国と接するという記載はない
455 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 23:08:26
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20) 熊本市およびその都市圏を語るスレ76 [地理お国自慢] 福岡市vs熊本市 [地理お国自慢]
456 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/22(土) 23:11:34
卑弥呼より神武のほうが古い。だいたいそのへんの時代は九州と本州 とが別国気分だったということ。つまり本州からすれば九州は外国の 考えでいたと思えばよい。だから景行九州行幸というのは外国旅行の 感じだな。卑弥呼のほうが景行よりも古い時代だ。
457 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/22(土) 23:14:21
>>450-451 乙です。
私も全て検索済みです。
しかし、それだけでは片手落ち
先ずは『到と至』の同一性を説明してから後、そこに触れる可きでは?
今までもただ漠然と「赴任」で片付けてしまうから、こういう曲面が繰り返えされるのです。
私は既に何度か「至と到」の活用の違いを説明し、その延長線にこの「到官倭」としているのです。
「到官」と「至官」が同じ意味なら「至」に付いた「リ」はどう処理するのでしょうか?
>>448 >使者の正、副関係と官の正、副の何処に共通点があるのです。
>倭人伝に使者の正、副関係があるのなら、貴方の指摘が正しいでしょうけど
何が言いたいの?
どこか違うといいたいわけか?意味がわからん。
「次使都市牛利」の「次使」にまたまた想像外の解釈を試みますか?
>>448 スルーするのも悪いので、これだけレスして終わりにします。
>使者の正、副関係と官の正、副の何処に共通点があるのです。
プラムさんが、
>>440 で、倭人伝は登場人物が必ず組になっているとして
官と使者の例を挙げたので、官も使者も正・副があるのが普通ですよ。
それを例に挙げても、倭人伝の官・使者以外の登場人物も
組でなければならない証拠にはなりませんよと言いたかっただけです。
>ずっとって何時から?特定の男王って?
對馬國から狗奴国まで、何時から国が存在していたか、倭人伝でわかりますか。
国に王は一人だから、特定のと書いたのです。
至官と到官は、陳寿が明確に同じ意味で使用している例を挙げたのに対して、
字の形が違うでは、論理的な反論になっておりませんよ。
文字の発生時には、プラムさんの言うような「活用」の違いがあったかもしれません。
しかし、言語は時と共に用法が変化します。
陳寿が至官と到官を同じ意味で使用した実例がある以上、
字の形が違うからと言って、それを否定はできませんでしょう。
「リ」の処理はどうするんだというのは、私ではなく、そのように使った陳寿に言わなければなりません。
ということで、おつかれさまでした。では、おやすみなさい。
>>452 クマソタケル=倭武
クマソは日本列島内の言葉
倭は大陸側の呼び方
大陸側では日本列島の人間を倭人と称した
大陸側では倭が表す対象が邪馬台国からクマソに変更となる
倭の五王はクマソ
倭王倭武はヤマトタケル
名前の交換の逸話は歴史のサン奪
クマソの持つ伝説をヤマトの伝説に取り込んだ
このあたりは古田の九州王朝説に近い
本来、倭はクマソともヤマトとも読めない
>>453 それだと狗奴国首領は神武になってしまう。
天孫降臨は宮崎だったと思うけど。。。
逆説日本史では大国主神(大物主)は、
東征時に神武に殺された元々の大和土着の首領で、
後に祟りを恐れた大和王権が、黄泉の国出雲に鎮めたとか。
三輪にも大物主を三輪に奉ってるって言うことは、
大物主の本拠地がマキムクだったのかな?
462 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 23:36:46
>>452 ヤマトタケル(小碓命・倭男具那王)が熊曾建を討ってその熊曾建に「倭建御子と称え」と言われてから
称して倭建命と言うようになった・・・
ただし小碓命は謀略によって熊曾建に近づいて首領のみを討ち取ったのであって戦争はしていない
そして日本武尊の伝承や日本武尊を祀った神社は九州にはまるでなくその後東征した先に圧倒的に多い
>>458 >「次使都市牛利」の「次使」にまたまた想像外の解釈を試みますか?
想定外? 貴方の認識の?
「次使」て書いてあるんだから
当然、難升米の次に訪れた使者だよ 他になにかトンデモない説があったら教えて
難升米が洛陽に行ったので、慌てたんじゃないの?沢山土産持って
>>459 もうちょっと反論期待していたのに残念
でも、最近あまり見かけられなくなった上質なレスでした
お疲れ様 ではまた何時の日か
466 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 23:51:27
>>463 横レス失礼。わたしは素人なので教えてください。
>「次使」て書いてあるんだから
>当然、難升米の次に訪れた使者だよ
この解釈を取る人が最も多いのですか?もし違うのならどういう解釈が多いのでしょうか?
467 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 23:53:15
普通は次官の次
>難升米が洛陽に行ったので、慌てたんじゃないの? 何か、功名争いで勝手に「使」として渡海しちゃった人みたいだねw
今日のプラムは徹底したお笑い路線だったな。
自説が不利になる。 ↓ 相手を馬鹿にしたり不真面目なレスをする。←今ここ ↓ 相手がキレる。 ↓ 相手も感情的なレスをつける。 ↓ それに同調した匿名の低レベルの中傷レスが現れる。 ↓ これではまともな議論にならないから失礼するという。
>>447 >良スレだったのに・・・
半分ぐらい同感
全部つーわけじゃないが今回ピカリと光るレス結構あった印象
>>459 スルーするのも悪いので、
嵐と見抜いて最初からスルーしときゃ・・・・
嵐は良心者のこうゆう心理につけ込んでくる罠
>>459 そんなことよりも何よりも「官」の方に「調査する」なんて意味の無いことに気づけ。
>>470 下らネェ〜レスしてないで、銭になるレスしなさいよ
お休みzzzzz
474 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/23(日) 00:16:11
>>472 寝る前に一言
『官』=職務
ちゃんと漢字の勉強するように
小学生に笑われちゃうぞ
>>474 「官」に「調査する」意は無い
↓↓↓
『官』=職務
到(着手する)官(職務)倭 じゃ意味にならないのw
キミの脳内では意味のある説明かもしれないけど、そのままじゃ他人には理解されないよw
弱いもの(頭の)虐めは良くない!
478 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 00:29:27
記紀には大和にもともと住んでいたのは物部氏の氏神ニギハヤヒが支配していた。 この地を神武東征の時に神武に譲った。とあります。 で、このニギハヤヒ=大物主の神であると思われ、物部氏の物は大物主から来ていたらしい。 三輪の山に住んでいた賀茂氏は出雲出身の一族でかなり前から大和の地に移り住んでいたようです。 崇神天皇の御世にアマテラスを祭っていたが疫病がはやったのでもともとの大物主を祀りなおした、とあります。
>>476 もういいよ、みんな解ってるって・・・・
良識ある言動を。煽り、粘着禁止。荒しはスルー(
>>1 )
>>466 >横レス失礼。わたしは素人なので教えてください。
>「次使」て書いてあるんだから
>当然、難升米の次に訪れた使者だよ
この解釈を取る人が最も多いのですか?もし違うのならどういう解釈が多いのでしょうか?
数で決まるものではない。
483 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 00:41:22
自説が不利になる。 ↓ 相手を馬鹿にしたり不真面目なレスをする。 ↓ 相手がキレる。 ↓ 相手も感情的なレスをつける。 ↓ それに同調した匿名の低レベルの中傷レスが現れる。←今ここ ↓ これではまともな議論にならないから失礼するという。
484 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 00:41:44
藤原の不比等がそれまでの歴史書を全部焼いて天皇家と藤原氏に都合のいい記紀(のもと)を作ったので、日本の資料からは邪馬台国がわからないのが問題だよね。 それまで日本の支配をしてきた経緯を無理やり天皇家と繋げているのは確実だからどこかには当てはまるはずだけど。
>>478 >で、このニギハヤヒ=大物主の神であると思われ、物部氏の物は大物主から来ていたらしい。
>三輪の山に住んでいた賀茂氏は出雲出身の一族でかなり前から大和の地に移り住んでいたようです。
らしい、ようです、と言われてもね
思うのは勝手
でもそれを一つの説と他人に認めてもらいたいんだったら、まず論証
論拠を書かなきゃ
>>477 ここに限って言えば、イジメられる側に問題があるとしか言いようがない。
487 :
小学生 :2007/12/23(日) 00:46:04
全てプラム君の自演に見えるのは気のせい?
489 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 00:48:36
ニギハヤヒ=大物主はこの場合意味がありませんでしたね。すみません。 賀茂氏が出雲系であることは自分が勝手に思ったわけではありませんが、いつ移り住んだ等については諸説あるのでわかりません。 そもそもその論拠をここでながながと書いたら邪馬台国と全然違う話になります。
490 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 00:57:53
播磨国風土記にはニギハヤヒの尊は大国主の子供であるとあります。 大物主の神は大国主の幸御魂であると記紀に書いてあるので、大物主の息子が正しいですかね。 ちなみに他にもいろいろと説があります。
京都の鴨(賀茂)社と本家争いをしている奈良の高鴨神社の 祭神・阿治須岐高彦根命は大国主の子どもらしいから、 出雲とも関係はありそうですね。 京都の方の賀茂別雷命と言うのは全然出雲っぽくない。
>>489 >そもそもその論拠をここでながながと書いたら邪馬台国と全然違う話になります。
邪馬台国問題に重要な関わりがあるのなら要点だけでも書きんさい
ないのなら別スレでどぞ、物部氏のスレはあるね
賀茂氏とか古代氏族一般を取り上げるんだったら専用別スレ立てるがよろし
三輪山信仰が3世紀まで遡れるかどうかと言う視点であればスレ違いでもない。
494 :
493 :2007/12/23(日) 01:11:40
ちなみに、山と言うより山に棲む生物(熊や狼)は、 一般的に畏怖の対象(山ノ神)ではあったろうけど、 日本では山体自体を崇拝すると言うのは、 ポピュラーでは無いように思うけど。
>>493 >三輪山信仰が3世紀まで遡れるかどうかと言う視点であれば・・・
それならことさら邪馬台国スレで議論しなくても・・・
民俗・神話学板が最適と思われ
496 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 01:25:47
>>489 >そもそもその論拠をここでながながと書いたら邪馬台国と全然違う話になります。
邪馬台国スレなのに、邪馬台国と全然違う話をながながと書いたら、そりゃいかんだろ。ww
497 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 01:39:22
>>494 >日本では山体自体を崇拝すると言うのは、
>ポピュラーでは無いように思うけど。
ポピュラーだよ。
ポピュラーもポピュラー、大ポピュラーだよ。
498 :
ローガン :2007/12/23(日) 01:50:04
>>414 6年は仮授する旨の詔があるが、拝仮していない。8年は拝仮はしたが詔はでていない。
とすれば、8年拝仮は6年の詔に対してのもの。これは、ご理解いただけますね?
6年の詔は自軍の将に対してのものですから、出兵命令であったとしてもさほど違和感はないでしょう?
その詔を求めたのは、当然現場でしょう。
現場の長は勿論、弓遵ですね。
弓遵の申請に基づき詔がくだされる…
しかし弓遵のその後はご存知の通り。空位になった帯方太守に8年、玄莵から王キが転任…
こういった状況の中で詔の施行が遅れたのではないでしょうか?
ご承知の通り魏の将、難升米は出兵していないですね。
新任の太守に対して、前太守が戦死している半島の戦に出兵しなかった理由が、狗奴国との相攻撃であると釈明したのではないかと考えています。
来倭した張政等は詔の主旨に沿って黄幢を渡し、檄をしています。
檄とは、古語で「人を集める木札」でしょう? 出兵要請ではないでしょうか?
それに、もし、倭が狗奴国との戦争に対する援軍を魏に依頼したとして、「旗をあげるから、君たち!自分達だけでガンバレ!」なんて変じゃないですか?
もう一つ、張政等の来倭目的に狗奴国との戦争の援軍や、調停があるなら、それに関する記述があってしかるべきではないかって考えています。
答えになったでしょうか?
>>498 細かいことですが。
>来倭した張政等は詔の主旨に沿って黄幢を渡し、檄をしています。
>檄とは、古語で「人を集める木札」でしょう? 出兵要請ではないでしょうか?
この場合の「檄」とは詔勅を書いた木簡(普通の2倍サイズ=詔勅のスタンダード)のことでしょう。
「檄をする」じゃなくて「檄をもって告喩する」です。
直の口頭命令じゃなく、書面で行われたということです。
「告喩」は「告喩」であってそれだけじゃ出征命令とは限りません。
大事なのは「黄幢」の方でしょうね。
何せ「軍旗」だから。
500 :
ローガン :2007/12/23(日) 07:43:07
>>499 そうですね。檄をする、との書き方は不味かったですね。
ご指摘ありがとう
501 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/23(日) 08:49:06
>>450-451 >>476 昨晩の『到官』についての補足
皆さんもご存知のように、「到官も至官」もともに(赴任)の意味がある。
しかし見てもわかるように、使用されている文字が違うので当然その活用も異なるのです。
その前に、この「至官や到官」が何故(赴任)なのかご存知ですか?
「至と到」⇒(共通する意味は範囲)
『至』⇒限定された範囲(面)
『到』⇒限定された範囲の境に接触する(点)
「官」⇒任務・職務
「至官」⇒至(範囲) 官(職務) 至官は、赴任しその職務期間全体(範囲)を表します
「到官」⇒到(範囲の中に設ける点)官(職務) 到官は、赴任しその職務期間内の一つの職務内容をあらわす。
つまり
至官は赴任期間の範囲全体ですが、到官はその範囲全体の中の特定個別職務を表すため
当然「到官」にはその特定する目的が必要になるのです。
その目的とするものが、ここでいうところの『倭』なのです
『其八年太守王kui[扁斤旁頁]到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和』
この文章の「到」を成立させるにはどうしても「倭」が必要なのです
これは文法以前の根本的な文字の仕組みの問題です。文法はこれを仕組みを完璧にクリアしてからの話です。
502 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 09:20:14
箸墓古墳が卑弥呼の墓だという説があるけど? 記紀ではヤマトヒモモソヒメの墓になってる
>>3 の振り(問題提起)は良かったんだが・・・・
しかし荒らしを呼び込んでしまったなあ・・・・
504 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 09:35:37
卑弥呼が大陸から送られた鏡の分布が北九州から畿内に広がっているよね。 畿内の方が数が多いから畿内説の根拠にもなってるわけだけど、邪馬台国が支配した小国は畿内にまで及んでいたと考えられる。
>>500 ローガンさん
今、私も「黄幢」について調べている最中なんだけど
「幢」に(はた)の意味は未だ見つからず
>>502 それは笠井新也説
笠井は先にまず卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命説を発表
それから20年近く経ってようやく箸墓を卑弥呼の墓とする説を発表した
いま両方一体で「笠井説」と称されるが、二つを同時に述べたんじゃない
>>504 >卑弥呼が大陸から送られた鏡の分布が北九州から畿内に広がっているよね。
卑弥呼がどんな鏡をもらったかは甲論乙駁していて未確定
魏志には「銅鏡百枚」とあるだけで、鏡の種類については何も書いてない
508 :
飛車角 :2007/12/23(日) 10:22:00
昨日は盛り上がり祝着です。みなさん、おはようございます。 正史三国志は第一級の史料ですから詳読する姿勢は大事なことと思います。 しかし、皆さんご存知のとおり、倭人条は東夷伝の一部の末条ですから、昔から 倭人伝は東夷伝の一部であるという認識の基に読むべき、との見解があります。 さてその一方で、倭人伝の字句文言は一字一句全て正しいとする誤説が、昔から 在ることも、周知のことです。 後者は何故に過誤かと言えば、東夷伝に限らず、三国志全体において不整合及び 矛盾点は多々見受けられるからです。その根拠の一つを書きます。 「東沃沮伝」の次の記事がその極めつけです。 『老人が言った。女ばかりで男のいない国があります。うなじの所にもうひとつ 顔が有り、二つの顔を持つ人間がいます。』 皆さんには、陳寿の東沃沮伝で是非にご確認をして頂きたく、お願いします。 なんとなれば、倭人条の里程記事・七万余戸の人家・卑弥呼の千人の侍女・ 黒歯国などは、御伽噺の範疇である可能性は甚だ高いと申せましょう。 里程記事やその他は疑うべくもない真実が書いてあるとは、断定できません。 倭人伝記事にに誇張は無いとする説者がたまにいますが、案外、いや間違いなく まともに普通に「東夷伝」すら読んでいない証拠です。 申し上げたい事は、歴史は勝者側から書かれた非客観的なものであり、作為だらけ であるからこそ、注意して面白く読む姿勢も必要ということです。 「明帝紀」の司馬懿と明帝の永訣記事にしても、陳寿の過ぎた作為は明白なのですから・・・。
509 :
飛車角 :2007/12/23(日) 10:41:35
プラムさんへ。「幢」についてお調べでしたら、以下お読みください。 ・軍の指揮に用いる長いはたぼこ。儀器として翳し覆いに用い、また幕のように 用い、后妃の車のほろ、車のとばりの類をもいう。旗竿から垂れる形の旗を幢 という。 ・幢翳 (晋書) 「天子出征のとき、幢翳を載つ。」 旗の翳し ・幢牙 天子や将軍の用いる旗 ・幢主 旗がしら 以上は『字通』白川静著・平凡社1208-1209頁
>>508 飛車角さんおはようございます。
ところで飛車角さんはその一字一句を全て検証しましたか?
私が先ほど
>>501 で概略ですが示したように、「至官と到官」の活用の違いだけでも
ここまで突き進めます
それを三国志全体でいや、倭人伝だけでも全ての文字から始まって意味解釈まで行った結果の
主張でしょうか?
511 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 10:46:04
東方見聞録とかうそばっかりだしね いずれにしても魏からしてみれば外国のことで伝え聞いた話であるから全てが正しいとは限らない。 全てが正しいなら九州説だの畿内説だのが出てくる事はない。海の上に幻の島国があった。で終わってしまう。
だって魏志倭人『伝』だからね。
513 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 10:50:17
>魏志には「銅鏡百枚」とあるだけで、鏡の種類については何も書いてない この頃の日本には銅鏡を作る技術はまだないから発掘された銅鏡が大陸から来たものであることは確実。 日本に銅鏡を送ったと記されている資料が他にない以上、邪馬台国に送ったものを支配下の小国にばらまいたと見るべき。
514 :
飛車角 :2007/12/23(日) 11:14:45
プラムさん、「全て」検証などは、無論、致しておりません。 ただ、おっしゃるとおり、字の使い分けを陳寿が行なっていることは、私も 存じております。たとえば、 「詣る」は、主語が明らかで主に倭から魏へ地位低きが高きへの用例でしょう。 ・古より以来その使い中国に詣るや・その高来渡海中国に詣るには・王、使い を遣わして京都に詣り・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ・郡に詣り天子に 詣りて・京都に詣らしむ・倭国に詣り・因って台に詣り 至る、到る、詣るは、プラムさんの言われるとおり見事正確に使い分けされて いますことは存じております。 だからこそ、却って逆に、内容記述にこそ、私の場合は目が向く次第なのです。
>>508 何だ、昔の圭角じゃないか・・・また、ややこしいのが戻ってきたな。
516 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 11:39:52
>>513 >この頃の日本には銅鏡を作る技術はまだないから
西暦240年頃? 倭でも銅鏡を作っていると思うね。
中国風文様をつける知識は必要だろうが、鋳造技術自体は楽々とあった。
すこし昔の小型鏡を作った石製鋳型なら、すでにいくつか北部九州で出土してる。
>日本に銅鏡を送ったと記されている資料が他にない以上、邪馬台国に送ったものを支配下の小国にばらまいたと見るべき。
舶載鏡のなかには記録に載らなかったものや、「商品」としての鏡が無かったとは断定できない。
卑弥呼宛の銅鏡百枚がどうなったか、卑弥呼が実際にどうしたかは、それこそ記録がない。
「ばらまいた」かどうかなんとも言えない。ばらまかなかったかもしれない。
517 :
飛車角 :2007/12/23(日) 11:46:56
515さん、よく記憶されてますね。その上、「ややこしいの」という賛辞賜わり 感涙にむせんでおります。戻って来た記念に次の話を披露しましょう。 明帝紀の最終節に明帝崩御の下りがあります。 司馬懿が間一髪で明帝臨終に間に合うシーンです。司馬懿は早馬で都洛陽に 帰還して明帝から幼帝の補佐を依頼されたその当日に明帝が逝去したと 陳寿は記しています。まさに時代劇の如しで緊張感激の名場面であります。 しかるに、よく読んでみると誰でもよく判るのですが、司馬懿の明帝毒殺説を 否定する陳寿のアリバイ工作記事であります。 このような類の記事は、三国志全体に沢山あります。よって、したがって 倭人伝を読むときにも、眉に唾が必要、という姿勢が肝要です。 陳寿の正史三国志は彼自身が生きた同時代を晋帝室のくびきの下で書かれた。 さすれば、ここ、こここそが無視し得ない所である訳です。
518 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 11:51:54
516 つまり発掘されている銅鏡は日本製のものかも知れず、もしくは大陸製であるとしても邪馬台国とは結びつかない。 そもそも邪馬台国自体実在したかわからない、という結論ですか?
519 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 12:18:15
>>518 >そもそも邪馬台国自体実在したかわからない、という結論ですか?
いや。
邪馬台国は実在しただろう。
ただ卑弥呼がもらった銅鏡百枚の、種類の内訳などは皆目分からない。
百枚のうち何枚が出土しているのか、それも分からない。
もし卑弥呼がその中の1枚を誰かに与えたとしても、
もらった人間が自分の墓に入れたかどうか、それも分からない。
鏡はまだ分からないことだらけなので、慎重な態度で臨みたいと思っている。
520 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 12:22:10
邪馬台国は南朝鮮って説。
521 :
唐松山 :2007/12/23(日) 12:23:07
ゴー-ン 銅鐸で1発 銅鏡より銅鐸は、古い 倭製である。
522 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 12:26:22
見つけました。畿内に多く出てくる銅鏡は様式が呉のもので魏が与えた銅鏡とは思いにくいということですね。 自分は北九州説なんですが、ネットワークはあったと思うんですよね。 当時の日本は太陽信仰と蛇神信仰の二大勢力があり、九州から太平洋側が太陽信仰、日本側が蛇神信仰。 と思ってましたが、複雑に絡んでいるようですねー。太陽信仰から卑弥呼を見出すのは難しいのかも
>>514 飛車角さん
現代人の漢字認識は、私も含め『橋で食する』人種のようで
誠に情けないしだいです。『文を把握するには先ず完璧な文字の把握』
これが私の“座右の銘”スタイルなんです。
>>523 木を見て森を見ずっていう言葉もあるよ。
525 :
唐松山 :2007/12/23(日) 12:52:35
正しい 年代設定。
>>516 つーか、舶載鏡は立岩古式の甕棺からも出てくるんだからさ、
>>513 の「日本に銅鏡を送ったと記されている資料が他にない以上」と言う前提が、
3世紀以前の現物の出土によって否定されてるんですけど。
>>522 畿内は蛇神(というか水神)信仰が強いよ。
日神信仰を思わせるような痕跡は無い。
仰るように日神と蛇神の信仰って
特に対立するような概念ではないでしょう。
大物主を奉る三輪山は地元では「三輪、巳(蛇)、巫女」をかけて「みーさん」って呼んでますよ。 以上、桜井市地元民からの情報でした。
529 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 13:22:19
畿内に日の神信仰を思わせる痕跡がない? 天孫の一人天照国照彦天火明櫛みか玉ニギ早日命は太陽神(あるいは火の神)でもともと大和の地を支配していましたよね。
みーさんは蛇神だよ
531 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 13:36:09
大物主はもともとは出雲の神ですよね。 記紀に直接名前は出てこないものの大国主が共に国を作っていたスクナヒコを失って嘆いていたときに海から登場し 三輪山に祀るのであれば国造りを手伝うと言って三輪山に祀られます。 そしてその後三輪山に太陽神が祀られると、タタリをもって再び(?)大物主が祀られます。
532 :
ローガン :2007/12/23(日) 13:50:07
九州であれ、近畿であれ、「墓」から沢山銅鏡がでますね。 まあ、時代の違いがありますが…。 九州説を支持される方にお訊きしたい。邪馬台国時代、つまり3世紀中頃以降の王墓や遺跡を何処だとお考えでしょう? 平原1号が出土土器(西新式)から、2世紀末の年代観を与えられていますが、その後の王墓はどこでしょう?
>>529 蛇像は縄文期から土器の装飾に汎用されてますよね。
大和では唐古の井戸からだったと思うけど、蛇神像が線刻された土器も数点出ています。
記紀の伝承などより時代性の確かな物証ですね。
畿内に日神関係のこういった資料はありますか?
銅鐸の模様にお日様がとか・・・・
534 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 14:12:54
邪馬台国は最初は九州にあったがその後畿内に移ったと思います。 卑弥呼の墓は畿内にあると思いますよ。
535 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 14:20:25
533 縄文時代とかは男根崇拝などの象徴として蛇を祀っていました。 これは特定の地域というより、その頃は狩猟採集の生活であって、生命の神秘に重きを置いていたからだと思います。 けれども時代が稲作中心になると生命の神秘よりは自然現象を拝むようになり、太陽信仰が出てくるのだと思います。 蛇を祀るのが続くのは蛇が男根を象徴としたものではなく水を象徴したものに変化していくからでしょう。 畿内に鏡が多数出土しているのは太陽信仰の現れでしょう。 またまた記紀で恐縮ですが天の岩戸のときに木に鏡をくくりつけて祀ったとありますから。
536 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 15:09:31
>>534 国の移動など、孫悟空であるまいし、感嘆にはできないだろう?
537 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 15:12:43
太国は、西遊記だけ読んでいればいいと思う
538 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 15:15:41
539 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 15:58:01
国の移動は簡単に出来るよ。国って言っても小さいし。 奈良時代まであちこちの豪族が移動してるよ。
540 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 16:26:04
それ、国の移動と言うより人の移動ね。 奈良時代までと限らず、いつの時代にもあること。 移住のことでしょ。 魏志に七万戸書かれた集団が九州から跡形も無く 消え去ったなんて考えがたいな。 まあ、完全否定もしませんけどね。
541 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 16:37:26
>>532 平原を200〜250頃としたのは、三角縁舶載説に従ったもの。
つまり、紀年から画文帯を180頃からとし、三角縁を240頃からとする。
その上で画文帯、三角縁の伝世を加味して年代を決めている。
三角縁国産で伝世を認めない考えでは、平原は300年前後になる。
平原は周濠がある墳墓で割竹形木簡に超大型鏡があることからは、
古墳時代の要素が強い。
方格規矩鏡や内向花文も、古墳出土のものを舶載とするためには
「10年ごと配布」のような不自然な伝世を認める必要がある。
つまり、両者ともかなり早く国産が始まっていたとするべき。
単なる複製であれば、紀元100年頃の技術でも可能。
542 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 17:01:25
>>532 盗掘というのも考える必要があるかも。
平原の墳墓は、方形周溝墓らしいがあまり大きくない。14m×12mくらいらしい。
鏡はすごいけれども、もし、盗掘されていたら、ほとんど顧みられなかった
だろう。
逆に、すごい副葬品のある墓が盗掘されてしまい、評価されていないものも
あるかもしれない。
543 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 17:55:34
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の位置についてですが、現在の日本地図はあまり参考にならない かも?という話を大学で聞きました。アメリカの研究結果で、邪馬台国のあった時代の日本列島は今 よりも大きく傾いていて(地下プレートがかなり活発な活動をしていたそうです)当時、現在の近畿 地方が南国の様な気候だったという可能性もあるそうです。 そして、その当時の(傾いた)日本列島のデータに魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の位置を当ては めると、ピッタリと今現在の奈良県の位置と重なるそうです。 現在の発掘調査の結果等も考えれば、畿内説(特に奈良)が一番しっくりくる様に感じます。 橿原にある考古学研究所が重要な証拠を持っているそうですが、九州説を唱える学者等との摩擦も あり、まだ発表は出来ないそうで・・・。焦らさずに、早く発表して欲しいと思っています。
544 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 18:49:39
邪馬台国畿内説の人に尋ねたいんだけど、 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。」についてはどう解釈してるの?
>>544 > 邪馬台国畿内説の人に尋ねたいんだけど、
> 「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。」についてはどう解釈してるの?
「俺はこう考える」つーだけの話として聞いてね。
資料の誤用かなと。
倭に対する漢代の知見(漢朝は、まだ、北部九州諸国としか通好が無い)が
三国期の資料に混入されただけ。
漢代には、北部九州の倭についてのみ一グループとして詳しい情勢が知れていて、
九州島より東のことは、別グループの倭人が棲む土地だくらいしか情報が無かった。
三国期では西日本の中枢が一つの倭人グループ(女王國)として認識されるが、
これと前述の漢代の情報(倭の東に倭種あり)が合体して、
女王國の東に倭種の国があることになる。
昔から、いろんな人が主張する考えでもあるけど、
実証しようも無いので言いっ放し、聞きっ放しということでよろしく。
546 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 19:22:13
>>543 重要な証拠? 聞きたいもんだ。ww
おそらくなってない証拠だろう??
毎回言ってるが、畿内に女王国がありゃぁ記紀に倭人伝以上に卑弥呼女王の
大勢が詳細に書かれる。それがない。ということは朝廷の近隣には女王国は
存在しないことを物語っている。記紀に一発独自に女王国がすぐそこに
あると書けば、もう決着がついてるんだからね・・・。つまりだ、女王国は
畿内の遠方に位置して倭人伝に情報が行った大陸に一段近い位置に女王国が
存在したということととなる。つまり九州であって、畿内にはない。
547 :
古代 :2007/12/23(日) 19:47:42
記紀は当てにならない。藤原京の時それまでの歴史書は燃えてしまった(おそらく故意に燃やした) その中には邪馬台国に関するものもあったかもしれないが今となってはわからない。 ただ記紀から読み取れることはそれまで大きな政権をとってきたのが天皇家であり昔から日本を治めて来たと言うことだ。 もし邪馬台国が大和朝廷になったんだったら堂々と書けばよかったのであるから、少なくとも邪馬台国が大和朝廷になったということは考えられない。
548 :
古代 :2007/12/23(日) 19:49:41
昔から治めて来た、と書いてしまったけれども治めてきた事にしたかった、が正解です。
549 :
ローガン :2007/12/23(日) 20:04:47
>>544 はい。私畿内説支持です。貴方は九州説ですか?とすれば
>>532 の質問にお答え願えないでしょうか?
(誰も答えてくれないのであれ〜なんでえ?なんてちょっと思ってた所なので…)
その後、貴方の質問に私見を書いて見たいと思います。
550 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 20:14:45
女王国は阿蘇だと思うね。だから卑弥呼の墓はそのへんの蓋然性が 強いと考える。遺跡は超時間の経過により見つかり難きに事が進む。 さらに崩壊の運命に陥りやすい。盗掘もあし、九州王朝はいまだ 一系で続いている朝廷と違い、もうなくなってしまったんだから、 これを維持する後代の王の勢力はない。 いまだクレオパトラの墓もわかっていないしね。 畿内説社に聞くが、じゃぁ卑弥呼の墓は朝廷の支配域のどこだという んだろう?
551 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 20:16:23
>>550 訂正
× 盗掘もあし ○ 盗掘もあるし
552 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 20:27:40
>>550 再訂正 すまんです。
× 畿内説社 ○ 畿内説者
よく無コテ氏が記紀に女王国の記載がないのは、都合が悪いから記載
しなかったとか言うが、そうならば紀の神功39年等の記述とかは女王
国があるのを進んでバレるようにしむけていることになる。この考え
はだからおかしい。よって記紀が卑弥呼の国を隠したなどということ
は考えにくいのだ。
日本に女王国があるんだから、日本の古文書に女王国が書かれていて
然りなのに、現実はそうでなく、全く外様の遠い外国の倭人伝にその
詳細が書かれている。このことは女王国が畿内から離れた情報が畿内
に入りにくく、情報の外国へ飛んだ、その飛びやすい(畿内よりも)
大陸に近い場所に女王国があったということを物語っている。
そこがどこか? 九州でも中九州以南に卑弥呼の国があったという
考えが合理的であるという結論に至るのである。
553 :
沖田 :2007/12/23(日) 20:29:06
>>547 古代クンは、このレスの上の人(太国爺)と同じような考えだね。
二人は気が合いそうだから、お友達になったらどうだい?
554 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 21:56:59
記紀に載ってなければ卑弥呼や壱与たんの伝承を伝える神社もないね 卑弥呼あるいは壱与がモデルと研究者が勝手に決めつけてるのはあるけど卑弥呼や壱与たんらしい伝承はない そもそも建国の祖でもない2人だし単に大陸の大国に使者を送っただけの人物を地元民が称える理由はないんだが
555 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 22:02:38
そういえば、来年のドラマで奈良と卑弥呼が関係する様なドラマを放映するらしい。 邪馬台国はずっと大和にあったと思ってたけど、九州説なんてのもあったのね。 (まぁ、これからも大和説を信じるけど。)
556 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 22:07:32
>>555 畿内説はマスコミを使った宣伝をすることで有名だけど、今度はドラマを
使うのか。支持者を増やせば良いと言うものじゃないと思うが。
557 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/23(日) 22:19:17
なんて言ったって、先入観で失敗する。それが根を張り、もういくら そうでないと合理的に説明したところでなかなか翻そうとはしなく なる。その麻薬的ものが邪馬壹国を邪馬臺国から→ヤマト国として 考えてしまう。これが第一の間違いのはじめのようだ。 そうは言っても、実際オーストラリアはオーストリアではないし、 京都は東京都でもない。さらに倭人伝には邪馬国と言う名の国も 書かれているから、当時「邪馬」は国名にわりかし多用に近い文字 ではなかったのか? かようにも思う。 いま言った矢印への移行がうまくないことを目覚めることだ。倭人伝 以外の大陸の古文書にも邪馬臺国とあるから、なおさらこれの信じ こみが脱却できなくなるわけだ。分からんわけでもないが・・・。
倭人は漢字使わないので 倭人伝の国名は中国人の当て字。 実際 呼ばれてた名前なんぞ誰も知らん。
559 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 22:32:44
>>544 その海を渡った国っていうのは現在の北海道の事だと思う。
(地図がないので説明しにくいけど)当時の日本列島(北海道を除く)は今より時計回りに90度
傾いていたらしい。(今の九州が一番北で、青森が一番南)
それで、北海道は近畿地方の東側の海上に。
※九州地方で西に北松浦、北に東松浦、東に西松浦等の方角のおかしい地名があるそうだけど,90度
傾けるとこれらの地名の方角の辻褄が合う事からも、アメリカの研究者が出した大陸データもあなが
ち嘘でもないと思う。
>>546 箸墓古墳から出土した副葬品か何からしいけど・・・。
卑弥呼の名前が入った鏡とかだったらおもしろいけどね。
560 :
古代 :2007/12/23(日) 22:44:18
90度傾いていたなら畿内説が正しいということになりますね・ 箸墓古墳は誰の墓なんでしょうね?大物主の妻にしては大げさな気がします。 卑弥呼の墓だったら面白いですが。昔は年代が合わないと言われたけれども今はぎりぎり合うようだし。
561 :
ローガン :2007/12/23(日) 23:11:01
>>557 太国さん
そうですね。先入観はいけないですね。
引用している他の史書を含めて考えたらよい事であって、女王国は「邪馬壹国」であるというような、貴方の仰る所の「先入観」は、いけない事だと思います。同感です。
562 :
544 :2007/12/23(日) 23:12:11
>>545 質問と齟齬があるのか、すまんですが、よくわからんです。
卑弥呼の邪馬台国が畿内にあったとするなら、「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。」はどう解釈するのかと質問しているんですけど。
邪馬台国畿内説支持の方に質問したつもりなんですが九州説の方でしょうか?
>>549 すいません、にわかなので、「わかりません」。一応答えました。
では、私の質問に答えてください。
>>559 確かに方角を勘違いしていたという話はききますが、
女王国が畿内にあったとすると、女王国の東の海を渡った千余里にある倭種の国は北海道ですか??
東北地方は余裕で蝦夷(アイヌ人)とかいたんじゃないかと思われるんで、倭種ではないような気もするんですが。
言葉も違うし。
563 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 23:21:53
>>562 言葉や倭種等の問題については資料を持ちあわせていないのでよくは分かりませんが、研究者が出
した地図を見ると、日本列島の東側にある島は現在の北海道の大きさ・形と酷似しているので、
おそらく・・・。と思って北海道と書きました。(これは個人的な推測です)
北海道ではなく別の島という可能性もあります。
564 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 23:25:53
北海道や東北地方北部が2000年弱前には亜熱帯に近い気候だった? そんな化石が出土したのか?
565 :
古代 :2007/12/23(日) 23:32:58
大陸がどこまでを倭人と考えていたかによりますね。 彼らは自分達の東の国は東夷(東の後進国)であって日本列島のどこまでを倭人の国と考えていたか。 おそらくはあまり区別はなかったと思います。
566 :
544 :2007/12/23(日) 23:33:37
>>563 南北を逆に勘違いしていた地図をもってしても、たぶんそれらしい島って言えば北海道以外ないですね。
でも当時、北海道に倭種は住んでいないように思われます。
なので、邪馬台国畿内説は苦しいのではないでしょうか?
その点はどうでしょう?
当時の大陸の知見として、北海道にも倭種がいたという勘違いもあったとしたら話は別ですが、
どんどんむちゃくちゃな方向にいってしまうので、それもないような気もしますが。
>>564 魏志倭人伝が書かれていた時代の中国によって書かれた日本地図は南北が逆だったということを言ってるのだと思いますよ。
567 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 23:39:06
>>564 傾いているって言っても日本列島が垂直になっている訳でもないから・・・。
それに、九州や四国も本州とほとんどくっついた状態だし、形も今の日本列島とは少し違うので、
現在の日本地図をそのまま90度ひっくり返したのとはまた違う感じ。
(この地図データを出したのは自分ではないので、あまり詳しい事は分からないですが。)
あくまでもこのデータが正しいとすれば、という話です。
568 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 23:50:04
>>566 すみません。上にも書きましたが、その辺の事はよく分からないです。
倭種の定義というのもよく分からないし、資料も全くない状態ですので。
569 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 23:51:58
>>567 >>543 のアメリカの研究レポートって日本列島が90度傾いてて東北地方が南に北海道がその東にあったってことじゃないの?
実際そうだったらそれを示す化石なり遺跡なりが出土してしかるべきなんだが
570 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 00:14:06
>>569 wikiで調べてみたけど、弥生中期までは北端の青森県の垂柳遺跡・砂沢遺跡でも水稲耕作が行
われていて、当時は現在よりも温かい気候だったらしい。
縄文時代については(以下コピペ)
縄文時代には気候が温暖化して、東北地方も現在より暖かかった。当時の採集・狩猟・漁労を中心
とした生活では、西日本よりも東日本の方が生活に適しており、関東地方・中部地方・東北地方の
諸地方の人口が多かった。
571 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 00:16:49
570の「西日本よりも東日本の方が生活に適しており」という文章に注目。
572 :
544 :2007/12/24(月) 00:18:22
>>568 あ、別にかまいませんよ。その点については詮索しません。
邪馬台国畿内説の人が「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。」についてはどう解釈してるのか知りたかっただけなので。
追記になりますが、
元々は蝦夷征伐の職位であったはずの征夷大将軍という職位名が、
鎌倉時代以降は日本の統治者としての職位名に変わるぐらいなんですから
蝦夷征伐って相当苦労を強いられた職位だったことがうかがえます。
それを考えると、まつろわぬ民(中央政権に従わない民、蝦夷)の抵抗は相当なものだったかと。
つまり明らかに蝦夷は倭種には含まれないよなと個人的には考えるわけです。
でも、確かに倭種の定義となるとまた難しい問題になるかな。
ただ、言葉も文化も違う蝦夷は倭種にはならないだろうなと思った次第です。
記述されるとしたら、別の種族の敵対国があるってことになるんじゃないかなと。
蝦夷との交易は当然あったと思うんですが、邪馬台国当時の北海道や東北はまだまだ未開の地で、
大陸の知見としても情報はあまりないようにも思います。
なので、女王国の東の海を渡った倭種と言っているのはおそらく本州(中国地方、近畿地方)や四国を指していると思うわけです。
いずれにしても畿内は銅鐸なんてものが比較的数多く出土するぐらいですから、
同じ倭種でも、よくわからん祭事をする文化圏があったことだけは間違いなさそうですが。
>>543 2000年以内にそんな大地殻変動があったら大変なことだと思うんですが・・・
とっくに地球規模で自然災害が起きて人類滅亡してるんじゃないでしょうか・・・
573 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 00:20:06
そこに注目したら「なぜ生活に適してない西日本の奈良県に邪馬台国があったのか」という疑問が
574 :
ローガン :2007/12/24(月) 00:27:20
>>562 そうですか…
にわかに、答えにくければ、又お手空きの時にご教示ください。
畿内説では、郡使が女王の都迄訪れたと考える方は、伊勢の海や、琵琶湖を考えておられると思いますよ。
又、郡使が女王の都迄行っていないと考える方は四国西部を考えておられると思います。
私がこの記述について考える事は…
もし、九州説で考えた時、「東の海を越えた所にいる別種」とは、やはり本州を考えたいですね。
しかし、郡使に本州人と九州人の区別は難しいでしょう?
普通に考えたら、郡使が自身で見聞して判断したものではなく、倭人からの伝聞でしょう。
しかし、福岡県の邪馬台国時代の集落遺跡の中で、畿内系の土器を使った集落が複数あります。
畿内からの移住者の集落が複数あったという事ですね。
つまり、九州人は畿内の人達の事を知っているというか、生活圏をちかしくしています。
とすれば、倭人が別種とは言わないのではないかって考えています。
まあ、私の単なる想像です
575 :
544 :2007/12/24(月) 00:28:15
>>570 貝塚などが内陸部で見つかるのが良い例なので、
温暖だったのは間違いないですが、それはあくまで気候変動の問題ですよね?
地殻変動で日本列島が傾いていたというのはないです。
単なる地球規模の温暖化の時代です。縄文海進とか言われてる例の。
576 :
543 :2007/12/24(月) 00:37:20
>>572 あくまでも、アメリカの研究者が発表した地質データなので、自分は何とも言えません。
(大陸移動については、大陸は長い時間をかけて徐々に動くという説と、一気に大きな移動をする
事もありえるという説があるそうなので、この研究者は後の方の説を採用したのだと思います。)
倭種については分かりませんが、『出雲風土記』という書物の「国引き神話」の中で、北門国が
陸地を引っ張っり島根半島を作ったという話があります。この北門国を北海道とすると・・・
傾いた日本列島と北海道で辻褄が合うように思います。
577 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 00:48:31
>>573 「西日本よりも東日本の方が生活に適しており」というのは縄文時代の話。
弥生時代からは西日本に生活圏が移動していった。(wikiで東北地方の所を読めば分かる。)
それに、奈良が生活圏に適していなかったら、九州地方はもっと適していなかった事になってしまう。
>>575 温暖化と捉えるか,日本列島の傾きと捉えるかは自由。
578 :
544 :2007/12/24(月) 01:15:20
>>574 陸続きで行けるところをわざわざ記述するとは思えないんですよね。
個人的見解ですが、出雲も畿内も九州も、みな倭種だったと思います。
交易などは当然やっていたでしょうし、畿内で多くでる銅鐸も吉野ヶ里で見つかっていたりするので、
畿内も出雲も九州も全て倭種なのは間違いないだろうと。
糸魚川のヒスイにしてもそうですが、日本全国的に文化交流はかなりあったはず。
で、ただ単に、豪族が各所にいたんだろうと想像します。
なので邪馬台国の卑弥呼も一豪族に過ぎなかったと考えます。
たまたま九州という地勢上の利から、魏から正式に倭国王として認めてもらえたんでしょう。
その後、東征とか国譲りで融合していくんでしょうけど。
>>577 温暖化が起きたのは地球規模での話で、日本限定の話ではありませんよ。
あと、日本が傾くほどの大地殻変動が人類有史数千年内に起きたのだとすると、
人類はとっくに滅亡してるんじゃないですか?と言っているんですけど・・・
579 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 01:36:37
>>578 アメリカの研究データを見ると、日本の周りの大陸はほとんど移動していません。このデータを
見る限りでは急激な移動をしているのは日本だけの様です。
(もちろん日本以外の周りの島などの移動は多少見られます。)
恐らく、日本の地下プレートが影響しているのだと思います。なので、人類規模での滅亡はあり得
ません。
日本人の滅亡(?)についてですが、急激な移動と言っても1日やそこらで移動するものではない
で、日本列島が大揺れして大地震が起きて・・・なんていう激しい移動はしなかったのでしょう。
大きな移動と言っても、何百年に何度という話です。
(それでも、今現在の常識からすればかなりの移動量ですが。)
何度も言いますが、このデータは自分が出したものではないので、「それはおかしいのでは?」
という話は、アメリカの研究者に対して言って頂きたいです。(そんな事出来ないですが)
あくまでも、自分はこのアメリカの研究結果が正しければという話をしているだけです。
580 :
544 :2007/12/24(月) 01:46:53
>>579 トンデモ学説に思えるのは私だけ?
いや、別にあなたを責めてるわけじゃないので。
ソースがあったら教えてください。
581 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 01:55:28
上記の 「何度も言いますが、このデータは自分が出したものではないので、「それはおかしいのでは?」 という話は、アメリカの研究者に対して言って頂きたいです。(そんな事出来ないですが) あくまでも、自分はこのアメリカの研究結果が正しければという話をしているだけです。」 という発言は取り消します。 これを言うと何も反論出来ないですよね・・・。すみません。 でも、まぁ自分はこれからも畿内説を信じていきたいと思います。 邪馬台国の話に限らず、日本列島が傾いている事で辻褄が合う謎が沢山存在している事も、 アメリカの研究者が、こういった日本列島のデータを出したのも事実です。 (傾き、傾き、とうるさかったですが、もちろんそれ以外にも畿内説にするとしっくりくると思う 事が沢山あります。) 恐らく何を言っても何を聞いても、お互いの主張は変わらないと個人的に思うし、明日も仕事が あるので、そろそろスレを去らせて頂きます。 最後に自分は宮城出身で、近畿や九州の人達よりはこの問題を客観的に考えられると思っています。 また、色々調べるうちに他の説に傾く事もあるかもしれませんが、今の所はこの主張を通します。 それでは。長文失礼致しました。
582 :
581 :2007/12/24(月) 02:02:23
>>580 最後に何度もすみません。
今投稿した後に文章を見たので、このままだと逃げたな・・・と思われそうなので。
自分自身も初めはそう思ったんですけどね。
色々調べているうちに、この説で結構辻褄が合うんじゃないかと思う様になりまして。
でも、真実はやはりタイムマシンを使うか、もの凄い発見があるか・・・からしか分からないですね。
邪馬台国の一つの説くらいに思っておいて下さい。
ソースは、ネット上には載せられないのでごめんなさい。(大学の研究室のものなので)
それでは、本当に失礼します。
583 :
544 :2007/12/24(月) 02:46:16
ちなみに、縄文時代は、北海道を除いて日本の大部分が落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われていました。
三内丸山遺跡では北海道の黒曜石も見つかっていて、縄文時代に本州と北海道が格別離れていたわけではないようです。
三内丸山には行ったことがあるのですが、感想としては、こんなクソ寒いところが昔は温暖だったんだなと思いましたよ。
>>543 の話の傾くっていうのがどのくらいっていう規模も傾いている場所も分からないので何とも言えませんが、
畿内が亜熱帯だったという痕跡は今のところありませんし、
亜熱帯から今の気候に数百年(邪馬台国の時代〜)という短期間でプレートが動いていたとすると、
毎日有感地震が起きてることでしょう。
大変なことです。。。
小島がプレートのベルトコンベアーに乗って日本列島に向かってくるとかって話なら別ですが、
日本列島は大きいですから、畿内の一部が歪んでいたとすると、あらゆるところで頻発的に大地震発生です。
人、住めません。
フォッサマグナでさえ数百万年前にそれなりのタイムスケールで形成されてるのにそんな無茶な・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8A あ、ちなみに私も関西人でもありませんし、九州人でもありません。でも、九州説支持です。
出身云々が思想に関係してるとかそういう話はナンセンスな話になるのでやめましょう。
>>582 >ソースは、ネット上には載せられないのでごめんなさい。(大学の研究室のものなので)
仮にも大学で研究室にいる身ならばreferenceを示せって。
ソースじゃなくてreference。どこの雑誌の何巻何号か、あと筆頭著者名。
査読を受けた論文ならば発表された公知事項だから、載せられないなんて言い訳は通用しない。
あとは興味があれば図書館でいくらでも調べられる。
585 :
581 :2007/12/24(月) 03:04:09
>>584 最初からそう言ってあげれば良かったんじゃない?
586 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 03:06:11
587 :
544 :2007/12/24(月) 03:07:55
もう、どっちでもいいし。 九州でも近畿でも。
588 :
544 :2007/12/24(月) 03:09:03
589 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 03:09:11
590 :
543 :2007/12/24(月) 03:10:03
もう寝ろおまいら。
591 :
A.A. :2007/12/24(月) 07:13:28
592 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 07:38:40
>>582 その研究者の説は外れるよ。失敗説だと思うな。
ところで拙者も元は邪馬台国の話を聴いて、若い頃は卑弥呼女王は神功皇后だと
書で聞かされてああそうかと思っていた。がしかし、幾度も記紀を読んだり他の
諸説を見聞してどうやらそうではないと考えるようになって行った。
それで字の正確な読みはさて置いて、ヤマタイ国とヤマイチ国、またヤマト国、
ヤマ国とかいう国々は4つとも皆別々の国だと、そう考えるようになって来て
いる。とくにヤマイチがヤマトではないことはオーストラリアがオーストリア
でないごとく、別国だと確信している。卑弥呼のことは記紀に(倭人伝からの
挿入以外)記載が全くない。この厳然たる事実は大和朝廷の真近に女王国が
存在しないことを記紀は暗に示していることとなる。紀の編者連が女王国を
不都合とやらで隠匿したと言う者がいるが、もしそうならば神功39年等の倭人伝
からの挿入は女王国というものがあることをバレるようにしむけていることに
なって来るから、そんな隠匿のための無記述とは成立するものでなく、考え
にくい。
593 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 08:13:07
>>591 それ、別に新しい解釈でもないよ。
ぐぐってみなよ。
たくさん出てくると思うよ。
>>592 太国さん
久しぶりにレス付けます。
古事記の最初に登場する神は(国常立尊)
日本書紀の最初に登場する神は(天之御中主神)
古事記編纂 ⇒ 日本書紀編纂 という流れは、すなわち
国常立尊 ⇒ 天之御中主神
この(国常立尊〜天之御中主神)の期間が、漢文体日本書紀では書けない歴史の真実なのではないでしょうか?
いいかえれば
古事記の本質は
全て、この(国常立尊〜天之御中主神)に集約されている。
>>529 太国さん
もう一つ書くのを忘れたので追記
大和三山の一つである「香具山」
この山頂に祭られているのはご存知(国常立尊)文献上もっとも古いとされる
神
天皇家にしてみたら根源といえる神です。
しかしこの場所、国宝どころか扱いが相当ずさんと言えませんか?
相当、天皇家にしてみたら都合の悪い神と言えそう
そう読まれても不思議じゃありません
>>595 〉古事記の最初に登場する神は(国常立尊)
〉日本書紀の最初に登場する神は(天之御中主神)
逆でしょ。
古事記が天之御中主からで、書紀が国常立から。
〉この(国常立尊〜天之御中主神)の期間が、
〉漢文体日本書紀では書けない歴史の真実なのではないでしょうか?
古事記の神譜は書紀では第4の一書別伝として書かれているが。
〉古事記の本質は・・・
書名勘違いのままでのご高説、何も考えずのテキトーレスの見本だね。
このままじゃ、恥ずかしいでしょうから、
何か言い訳を思いついたら書いてね。
嗤ってあげるから。
598 :
古代 :2007/12/24(月) 11:16:12
国常立尊や天之御中主神て始原神で天津神でもなく国津神でもない別天津神ですよね。 そこまで遡るとじゃあ他の神々はなんなのかということに・・ 確かに最初から皇祖神が創造し日本を作ったことにすればよかったとは思いますが。 思うに古事記を作ったとき天皇が大王だったとはいってもそれぞれの豪族がかなりの力をもっており それぞれが氏神を持っていた訳だから各々の氏神を調整する必要があったのではないでしょうか? それならば大国主と共に国造りをしていた別天津神のスクナヒコは何者だったんでしょう?とか考えますけど。
599 :
唐松山 :2007/12/24(月) 11:25:28
フトマニ図 トヨケ神(伊勢外宮祭神)が初めてイサナギとイサナミの両神(フタカミ)に天上モトモトアケ(元元明)のサゴクシロ宮に坐す四十九(ヨソコ)神の座席図を五十一文字で表わし授けた。 後にアマテル神(伊勢内宮祭神)は、このフトマニ図で吉凶を占おうと考え自ら編集長となり、八百万(ヤオヨロズ)の神に命じ万葉の情を歌に作らせて添削し、その中から百二十八歌を選んで大占(フトマニ)の紀(フミ)を著して占いの元とした。 1. 天御祖神(アメミヲヤカミ) 中心の輪のアウワ神は天地創造のアメミヲヤ(天祖)神。 アは天、ウは神の最初の一息、ワは地を表す。 2. 天元神(アモトカミ) 二番目のトホカミエヒタメ八神は人の魂(タマ)の緒を地上に吹き降ろし魄(シイ・肉体)と結び合わせて寿命を得る。 初めて諸国を建国した国常立神(クニトコタチ)の八御子(ヤミコ・八面八降ヤモヤクダリの神)の頭文字。 3. 天並神(アナミカミ) 三番目のアイフヘモヲスシ神は、方位と言葉、人の内臓(五臓六腑)を司る。 4. 三十二神(ミソフカミ) 外輪の三十二(ミソフ)神は人の容姿を司り、人の寿命を日夜休み無く守る。
600 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 11:32:42
>>330 >で、邪馬台国が何らかの理由で滅んだかあるいは滅ぼされたか…
>そしてその後その地を征服したのが九州一族。
>彼らは何を見たでしょうか?
>大きなちょっと形の変わったお墓です。
>そして彼たちはどうしたでしょう。
>この大きなお墓群を取り壊して自分たちのスタイルの円墳を建てるでしょうか?
>私はそうではななかったと思うのです。
>九州一族は大陸との交流も多く、異文化を柔軟に取り入れる人々だったと思います。
>彼たちはさらに大きなそして少し形を変えて方墳をくっつけた典型的な
>前方後円墳を作り始めたのではないかと思うんです。
畿内の地を征して九州一族が作り始めたとする最初の前方後円墳は、
どこの何と言う古墳か?、具体的に古墳名を挙げて示してほしい
御説では、その古墳より以前には、九州一族は九州において、一つとして
前方後円墳は作っておらず、円墳しか作っていなかったと主張するのわけだな?
しかしそれだと、九州および畿内における前期古墳の編年と全く整合しないであろう
>>591 >>593 倭種の国は、女王国から海を隔てて東にあるんだろ
それが佐渡ヶ島って言うんならさ、いったい女王国はどこでつか?
602 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 11:53:37
ちょっと話は変りますが・・・ 私は近畿論者ですがやっぱり気になる魏志の記述は気候に関してです。 これは九州、近畿に関係なく問題ですよね。 まあ、大陸に比べたら暖かかったから・・・とか、そのあたりはそんなに重要ではない・・とか、色々考えてみましたがどうものどに小骨がひっかかっているような感じがしてなりません。 亜熱帯以南としか思えない記述に関してはみなさんはどう消化されているのでしょうか? よろしければお聞かせ下さい。
603 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 11:53:55
>倭種の国は、女王国から海を隔てて この書き方だと女王国は倭種の国ではないみたいです
>>603 >この書き方だと女王国は倭種の国ではないみたいです
スマソ
ちょっと書き方悪かったね、反省
「そこもまた倭種だよって書いてある国は女王国から海を隔てて・・・」
こーすればいいんだよな
605 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 12:10:06
よく言われるのは、当時の倭国は九州あるいはその一部だけを指していた。 つまり、邪馬台国の統治する範囲のこと。 それ以外は、倭国ではないが同じ種類の人が住むところ、という意味じゃないかな。
606 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 12:16:58
602 先にも書いてあったけど昔は今の気候よりは温暖だったから亜熱帯に似ていたのでは?
607 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 12:17:15
>>605 まあ、604は九州説の立場で言っていることになるわけだが、
後漢書では、
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」
となっている。
つまり、女王国より東に海を渡ること千里余で拘奴國に至る。皆倭種といえども、
女王に属さず。
608 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 12:19:14
609 :
544 :2007/12/24(月) 12:22:17
>>605 私もその説を割と支持します。
各地の支配層の中には渡来系とかもいたと思うんですが、
たぶん、民はお互いに言葉が通じるレベルの人たちであり
みな倭種だったのではないかと思います。
610 :
唐松山 :2007/12/24(月) 12:47:35
当時は 寒冷化 西暦193年の 新羅では,旧暦4月に雪が積もっている あと 豊国の風土記を読むと 久住の山に万年雪がある この間にある 西暦240年頃 温暖化は考えられない。
>>597 そんなタダで手に入る様な書き込みなんていらないから
古典に詳しいなら、もう少し銭になる書き込み頼むよ
>書名勘違いのままでのご高説、何も考えずのテキトーレスの見本だね。
このままじゃ、恥ずかしいでしょうから、
何か言い訳を思いついたら書いてね。
嗤ってあげるから。
じゃあお言葉に甘えて、少し質問させてもらおうかな?古典に強そうだし
1・古事記の始まりの神が国常立尊で、日本書紀の始まりの神が天之御中主神な、理由は
そして、古事記が天之御中主神で始まらない理由は?
2・奈良三山の一つである「香具山」
どうして書(主に万葉集)に登場する時には「(天)香具山」と(天)が付加されて記載される?
3・天皇家の根源のような国常立尊が粗末に扱われている理由は?
4・【山常庭村山有等取與呂布天乃香具山騰立國見乎為者國原波煙立龍海原波加萬目立多都怜シ國曽蜻嶋八間跡能國者】
これ、万葉集にある二番歌(舒明天皇)なんだけど
仙覚さんの読み下しによると
『山常』も『八間跡』もどちらも(やまと)と読み下されています。
同じ歌の中でどうして
和語(やまと)に対して違った漢字を使用するのでしょう?
せっかく弄ってくれたついでに、教えてください。お願いします。
>>605 >よく言われるのは、当時の倭国は九州あるいはその一部だけを指していた。
それってちょっと、つーか、かなり疑問
いまの福岡県北九州市門司区までは倭国、
山口県下関市は倭国じゃない・・・・そんな線引きがあったってわけ?
関門海峡知ってるけどさ、向こうの岸すぐそこに見える
ゆーくり泳いで渡ったって30分ぐらいだな
行ったり来たりは大昔からしょっちゅうやってたって思うんだよね
613 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 13:11:35
晒しあげ(爆
614 :
544 :2007/12/24(月) 13:23:44
>>610 宮崎などは冬季でも温暖ですよね。
邪馬台国が一年を通して温暖だったとすると
九州地域などに邪馬台国があったのかなと。
また、2世紀〜3世紀に寒冷化していたとすると
そもそも一年中温暖と考えること自体に問題があるのかも知れません。
日本も夏季と冬季では大違いですから、冬季は冬季で普通に寒かったのかも知れませんね。
夏季に日本に訪れたら、印象も全く異なるのかなと。
裸國に関しては明らかに東南アジアでしょうね。(黒歯國も?)
>>612 ”圏”はあっても明確な線引きというのはないでしょうね。
個人的には狗邪韓国、対馬、壱岐、九州北部、本州西端の一部、四国の一部とか、
そのあたりは邪馬台国の影響下にあったんじゃないかと思います。
スルーすりゃいいのにそやって反応するから・・・・
616 :
飛車角 :2007/12/24(月) 13:27:47
「魏志倭人伝」は金科玉条のテキストか 我々が読んでいるテキストは、刊本の『三国志』としては一番古い南宋の紹興判 (12世紀)にしたがったものだが、クセモノであると言わなくてはならない。 倭人伝の原本は無論存在せず、原本から書き写され書き写され続けて12世紀の 木版本に至ったもので、その間には八百年以上も経っている。 これほどの長い間には、度重なる筆写において書き誤りや書き落としが無いとは 言えない。むしろ、大いに考えられる。手っ取り早い例で言うと、 『日本書記』を編纂する頃には既に『魏志』が渡来していたとみえて、 その神功皇后紀には「倭人伝」の一節が引用されている。『書紀』の編者は 中国史の卑弥呼のことを暗に神功皇后に当てはめて挿入したようである。
>>614 >個人的には狗邪韓国、対馬、壱岐、九州北部、本州西端の一部、四国の一部とか、
>そのあたりは邪馬台国の影響下にあったんじゃないかと思います。
本州西端の一部、四国の一部・・・・ここかなり問題になってくると思うね
一部とはどこまで?
618 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 13:37:05
>>611 脳の回路が、どう壊れるとそこまで悲惨になれますか?
他人の文章も自分の書いたことも、全く理解せずに
機械的にレスが返せる。
むかし、そういうソフトがありました。
確か、人工無脳とか言ったかな。
スルーしろよ
620 :
飛車角 :2007/12/24(月) 13:44:50
大宰府天満宮に「翰苑」という写本が伝わっている。唐の張楚金という人が 撰したもので、中国には残っておらず、日本だけにある。この「翰苑」にも 「広志曰く」として『魏略』の引用がある。『魏略』は散逸してその逸文を 集めたものが『魏略轅本』という本だが、「翰苑」所引の『魏略』は、この 『魏略轅本』に漏れた珍しい史料である。 「翰苑」の引いた「倭人伝」には「邪馬嘉国」と書かれている。「嘉」「臺」「壹」 の文字は見間違いやすく書き間違いやすい。つまり「壹」が絶対とは言えない。
621 :
544 :2007/12/24(月) 13:47:04
>>617 どこでもかまいませんが泳いでいけるあたりは誰でも行くでしょうという話です。
関門海峡など川を渡るようなものなんでしょうし。
縄文ネットワークのあった時代から、日本列島全域で文化交流や交易はかなりあったと思ってるんですけど、
”かなり問題”になるとしたら何が問題になりますか?
623 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 13:51:21
>>617 口を挟ませて貰うが、「九州北部」にも問題が残る。
北部と南部(非北部)をどのようなラインで分けるのか。
簡単な問いではなく、相当難しいと思う。
624 :
飛車角 :2007/12/24(月) 13:59:48
「北部九州」と「南部九州」は、地形的に筑肥山地で分ける。簡単な答えです。 弥生人の広がり方の考古学史料も、その裏づけのひとつであり、 装飾古墳に描かれた文様の際立った相違も、そのひとつ。非常に簡単な質問でした。
>>620 飛車角さん
>「翰苑」の引いた「倭人伝」には「邪馬嘉国」と書かれている。「嘉」「臺」「壹」
の文字は見間違いやすく書き間違いやすい。つまり「壹」が絶対とは言えない。
それってモロ日本人の感覚ですよ
字形は似てても「嘉」「臺」「壹」の意味はまるで違う
よく「壹」は「臺」の誤字という話を聞くが、今までその逆の話は聞かない
間違えやすい文字なら
必ず「壹」とするところを「臺」と書いてしまった事例もあるはずですが?
それに、原本と版本が800年あろうが1日であろうが
誤写が発生する時はするし、しない時はしない
誤写と時間の経過はあまり関係ないと思います。
626 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 14:14:43
>>622 君の書いた勘違いに対する指摘にまず答えるべきじゃないかな?
そこをスルーされたんじゃ質問にも応えようがないよ。
勘違いを勘違いのまま押し通して誤魔化せるレベルの話じゃないだろう。
君の提示した疑問点の根幹の部分じゃないかw
>>624 筑肥山地てよく分からない
尋ねるけどさ、熊本県菊池市・・・・ここは北部九州?南部九州?
それと大分市は?
>>544 と
>>605 にも同じ質問
628 :
飛車角 :2007/12/24(月) 14:21:27
モロ日本人の感覚というより、モロ私自身の感覚かもしれませんね。 プラムさん、簿記でいうところの転記はご存知でしょうか。自分自身の体験 では、昔は、この転記に苦労したものです。誤記があるから試算表の貸借が 一致平均せず、コンピュータの無い昔は皆一様に苦労したものです。 無論、漢字と数字は違うかもしれません。 しかし、結婚式披露宴列席者の氏名に誤記のある場合は実際に多いでしょう。 話のレベルが落ち過ぎて恐縮の限りですが・・・。
629 :
飛車角 :2007/12/24(月) 14:28:50
筑肥山地は福岡県と熊本県の県境の山地です。地図帳で確認して下さい。 熊本県菊池市は勿論南九州です。 ちなみに、或る行政機構管轄も北部の福岡・佐賀・長崎と 大分・熊本・鹿児島・宮崎と分かれています。 免田式土器の分布も参考になりますが、一度、九州をくまなく旅して下さい。
630 :
544 :2007/12/24(月) 14:35:32
>>629 ありがと
九州をくまなく旅・・・・できないよー
ヒマはかなりあるんだけどお金がねw
でそんなことよか問題はね、倭国の領域つーこと
倭国の領域は福岡・佐賀・長崎県まで、
大分・熊本・鹿児島・宮崎県は倭種だけど倭国領域じゃない・・・
それでいいでつか?これほんとは
>>605 に尋ねたい質問
>>630 こっちもありがと
しっかし・・・・・・・・・・まん中リンクの北部九州をコピペ
>一般的には、福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県の5県のことを指す。また、天気予報の気象区分では山口県を含む。
>ただし、熊本県・大分県を南九州とした上で福岡県・佐賀県・長崎県のみを北部九州とする場合や、熊本県のみを南九州に含めて残りの4県を北部九州とする場合もある。
>また、中央構造線を境に北部九州と南九州とに分けるといった考え方もある。
>熊本県や大分県、あるいは福岡県大牟田市や長崎県島原半島などについては、中九州と呼ばれることもある。
熊本県は北部九州or南九州or中九州・・・だっておw
633 :
ローガン :2007/12/24(月) 15:03:29
>>626 お〜っ
家に帰ってから調べなおしたら 逆だった ご指摘サンクス
いくら携帯からの記憶投稿とはいえ あまりにもひどいミス 申しわけない
ここに訂正しておくね
>>595 訂正レス
古事記の最初に登場する神は(天之御中主神)
日本書紀の最初に登場する神は(国常立尊)
古事記編纂 ⇒ 日本書紀編纂 という流れは、すなわち
天之御中主神⇒ 国常立尊
この(天之御中主神〜 国常立尊)の期間が、漢文体日本書紀では書けない歴史の真実なのではないでしょうか?
いいかえれば
古事記の本質は
全て、この(天之御中主神〜 国常立尊)に集約されている。
これでいいかい?
で、私の質問には答えてもらえるのかな?(別に貴方の自由だから無理に答えなくてもいいけど)
>>628 飛車角さん
>結婚式披露宴列席者の氏名に誤記のある場合は実際に多いでしょう。
話のレベルが落ち過ぎて恐縮の限りですが・・・。
結婚式披露宴列席者名簿作り関係者と史書刊本関係者を同じ位置で扱ってよいのか悪いのか?
そのレベルでの話から始めるのですか?
スルーは大切でつよ、みなさん
637 :
飛車角 :2007/12/24(月) 15:16:30
631氏の「倭国の領域」とは、奇妙な質問だね。 『女王国』の領域というなら理解できるが。 倭人伝においての『倭国』の用例を見てみなさい。その後に質問しなさい。 荒らし君か・・・。不勉強ちゃんか・・・。君には今後スルーするよ。
638 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 15:17:11
>>627 弥生中期の甕棺の分布が一つの参考になるかもね。
初期の甕棺は、福岡市のあたりから熊本県宇土市まで分布しているから、
この範囲が古くからの同じ文化圏だと思う。
八代市まで含めてもいいかもしれない。八代市からはなんと小銅鐸が見つかって
いる。
八代市からは南も東も山ばかりで行き止まりのような感じがある。
一方で、遠賀川の下流域からは甕棺が見つかっていない。
北九州市はひょっとして違う文化圏だったのかもしれない。
言葉で見るのも面白い。福岡市あたりから八代市それに人吉市は同じ系統の
言葉だが、北九州市や大分市はちょっと違う。
もちろん、鹿児島県や宮崎県も違う。
639 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 15:22:57
>>637 「倭国の領域」というのはそんなにへんな言い方ではないと思う。
卑弥呼は倭王という立場だが、狗奴国は従っていないという意味で倭国に
属さないとも言えるわけだから。
つまり、倭人伝に記された29カ国?が倭国の領域とも言える。
640 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 15:23:44
>>595 プラムさん
記紀が取り違えになっていますよ。以下の通り
古事記が 天之御中主神 から
日本書紀が 国之常立神 からです。
古事記の本質が天之御中主神〜国之常立神に集約されている。この点はほぼ
同意に近いですが、ここんところは歴史事実ではありません。もうすでに
解読しておりますが、何故歴史事実でないのかと申しますと、国生み以前の話
ですから、そうではないわけです。ならばこれは何か? ここが真の古神道の
起点(基点)たるものです。おおまかに言えば古神道の究極の秘儀の説明を
神名で羅列したものです。それは何かと問われれば、卜事(ウラゴト)とは
どうなって、あるいはどうして行う段取りになったかということを神名で書いて
いるものです。歴史の始まりは国生み直後の大事忍男神以降の条からがそれです。
その神からは、神としているものの実在の人物です。
倉西裕子氏は古事記を地の書、日本書紀を天の書と主張しておりますが、これは
むしろ逆であり、古事記が天之御中主神の天から始まりますので天の書、日本
書紀は国之常立神という国から始まりますのでこちらが地の書とするのが妥当
なのです。
641 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 15:24:18
>>595 プラムさん
記紀が取り違えになっていますよ。以下の通り
古事記が 天之御中主神 から
日本書紀が 国之常立神 からです。
古事記の本質が天之御中主神〜国之常立神に集約されている。この点はほぼ
同意に近いですが、ここんところは歴史事実ではありません。もうすでに
解読しておりますが、何故歴史事実でないのかと申しますと、国生み以前の話
ですから、そうではないわけです。ならばこれは何か? ここが真の古神道の
起点(基点)たるものです。おおまかに言えば古神道の究極の秘儀の説明を
神名で羅列したものです。それは何かと問われれば、卜事(ウラゴト)とは
どうなって、あるいはどうして行う段取りになったかということを神名で書いて
いるものです。歴史の始まりは国生み直後の大事忍男神以降の条からがそれです。
その神からは、神としているものの実在の人物です。
倉西裕子氏は古事記を地の書、日本書紀を天の書と主張しておりますが、これは
むしろ逆であり、古事記が天之御中主神の天から始まりますので天の書、日本
書紀は国之常立神という国から始まりますのでこちらが地の書とするのが妥当
なのです。
642 :
飛車角 :2007/12/24(月) 15:32:27
プラムさんへ。不真面目に答えたものではありませんが、さらにお答えします。 『日本書紀』「神功皇后摂政紀」引用の「魏志倭人伝」(岩波判日本古典文学大系 『日本書紀上』)の頭注には、次のとおり書かれています。ご参考まで。 「神功皇后摂政紀」には文注として「魏志倭人伝」を三箇所に引用した。 ・・・中略・・・人名は「紹興判」から較べて間違いが多い。 地元の石原先生岩波判においても、景初二年は景初三年の誤と指摘されています。
>>637 うーん、嫌われちゃったみたいだぞorz
領域て言葉使ったの俺だけどさ、その前に
>>605 のレスがあるっつーの
「邪馬台国の統治する範囲」て書いてる
>>605 >よく言われるのは、当時の倭国は九州あるいはその一部だけを指していた。
>つまり、邪馬台国の統治する範囲のこと。
>それ以外は、倭国ではないが同じ種類の人が住むところ、という意味じゃないかな。
でいろいろ疑問湧いたので・・・・
ま少し休むよ
644 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 15:39:41
>>596 プラムさん
天香具山には30年前登頂しております。確か登山口には祠のような神社があり、
火之迦具土神が祀られてあったと記憶していますが、今はどうなっているか
分かりません。頂上までそんなにかからなかったと思います。頂上は大藪で草
ぼうぼうであり、小道は一定の地点まで行くと立ち消えであり、前方は蜘蛛の
巣の大軍で以後先には進めませんでした。晴れの日で空は青く澄み渡り最高
でしたが、頂上は神社は見当たらなかったです。もちろん頂上全部見回った訳
ではありませんので、見てない場所にあったのかも知れませんが? 帰り際
大藪の中で子供の小指大の貝のヘッドあるペンダントを拾ったのを覚えて
います。どこの誰かが落としたか? 懐かしいですね。
そうですか? 山頂に国之常立尊が祭祀されてあるわけですか?
645 :
544 :2007/12/24(月) 15:40:24
>>632 なのでお好きなのをどうぞと言ったわけで。
中九州のところはあいまいなんですよ。
あくまで”圏”ですから線引きなんてできないんです。
その時々の行政区分によっても変わりますしね。
でも、北部九州と言って、鹿児島を指すことはないですよ。
九州をすぱっと横で切って
上半分が大体九州北部、邪馬台国支配地域と考えているということです。
646 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/24(月) 15:49:45
>>641 は操作の間違いでマルチ書きこみになってしまいました。失礼。
647 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 16:00:44
>>614 レスありがとうございます。
私も調べたかぎり当時の日本が今より温暖であったと言う事が確認できる資料はありませんでした。
一般的に今よりは2度程度寒かったのでは・・・と言われているようですね。
う〜ん、このことばかりはどうもすっきりしないんです。
たいした事じゃないかもしれませんが・・・・
何故、日本の気候とあわない記述があるのか・・・
沖縄だったらしっくり行くのですが、どう考えても無理がある。
九州や近畿だとすれば明らかに誤りですが、何故そのような誤りを犯したのか、理由があったのか、意図的なものか・・・
何だか気にかかって仕方がありません。
もやもやしますね・・・
648 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/24(月) 16:02:01
太国さん さっきも指摘されたみたいで 正反対になっていました。 失礼しました。m(__)m そうそう 香久山に登られたそようで、私は麓から眺めた事しかありません。(三山とも)
649 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 16:06:37
>>638 >言葉で見るのも面白い。福岡市あたりから八代市それに人吉市は同じ系統の
>言葉だが、北九州市や大分市はちょっと違う。
>もちろん、鹿児島県や宮崎県も違う。
上記の市や県は、今は全部日本国だ。そうなって久しい筈だが、
地域による言葉の違い、つまり方言は、いつまで経っても解消されていない。
とすれば、言葉の違いで国の支配の及ぶ範囲を線引きしようとすること自体が、相当危なっかしい試みに映る。
650 :
古代 :2007/12/24(月) 16:15:43
国之常立尊は香具山の頂上に祭られているといってもたかおかみ神社と共にで他にもいざなぎ・いざなみとかいろいろ祀られていますね。 でもちょっとおもしろいなと思ったのは皇祖関係の神様が出てこない。 国之常立尊は奈良の玉置神社が立派です。
651 :
649 :2007/12/24(月) 16:17:24
>>649 へ自己レス。
上記批判は638に向けたものではない。
誤解を招くような書き方をしてしまったが、本意ではない。お詫びする。
652 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/24(月) 16:19:32
>>642 飛車角さん
日本書紀の景初三年
魏志倭人伝の景初二年
これはどちらも間違えじゃないんです。
つまり視点のと編纂内容の違い
倭人伝の二年六月、十二月の視点は郡のリアルタイム情報であり、一方「紀」の三年は視点が日本であり
朝献が完了した時点での時間が三年なんです。
「紀」はあくまで国内情報ですから
倭人伝の時系列とズレがでて当然です。
国内からすれば、朝献が無事成功しなければ書けません
失敗したら当然書けない内容です。
653 :
ローガン :2007/12/24(月) 16:26:22
>>647 漢書粤地の所を読んで見てください。
農作物、服装、武器まで倭人伝と同じ記述があります。
ここからの引用ですね。地面は回転していないと思いますよ
654 :
544 :2007/12/24(月) 16:39:51
>>647 使者が半島経由で日本列島にやってきたとすると、その時期はやはり夏ではないでしょうか?
(冬は朝鮮北部など雪で閉ざされてしまうので)
今よりも温暖であったかのような記述ってみなさんはどこを言ってるのでしょうかね。
以下あたりかな?
・今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補う。
・男子は皆露かいし、木綿を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。
婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣る。
・倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣なり。
上記、夏なら余裕で可能ですね。
現代でも海女さんはウェットスーツなしで冬でも海に潜りますが。
参考までに以下資料なども
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E4%BA%BA 『万葉集』などで、讃岐国、伊勢国、志摩国などで潜水を行う海人の記述が確認できる。
筑前国などでは白水郎と記されている。
このことから、中国、四国地方より東では潜水する海人を海人と呼び、九州地方では白水郎と呼んでいたことが伺える。
655 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 16:40:28
>>653 海南島付近の風俗と魏志倭人伝が合致している部分ですよね。
何故風俗だけそこと合致させて書いたのか・・・
と言う疑問がまた出てきます。
例えばこれが東方見聞録のようにまるっきりの伝聞情報を面白おかしく書いた紀行文の類でしたらわかります。
しかし魏志はそうではない。
伝聞情報も入っているでしょう、しかし史実も大きな部分で入っていると思います。
そこをどのような考えの下混同させて書いたのか・・
やっぱりしっくりいかないんです。
こだわるわけじゃありませんが、どうももやもやする気持ちがのこって・・・
656 :
544 :2007/12/24(月) 16:47:55
>>655 魏志倭人伝では
「侏儒国」「裸国」「黒歯国」が日本近くにあるような書き方されてますが、
感覚的にはこれらは東南アジアだと思います。
そういうのと混同されていても不思議はないのかなと思ったりもします。
657 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 16:55:02
>>654 私がひっかかっているのは「倭の地は温暖にして、冬・夏生菜を食す。皆徒跣なり。」この部分です。
日本に来た使者が寒い地域の出身で、陳寿が比較的暖かいところの出身だから、日本が温暖であると言う報告を受けて、海南島付近の風俗に合わせて記した・・・
とでも思えばいいのかな・・・・と思ってますが、どうも自分で自分をだましているような気がして・・・・
しっくりいきません。
658 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 16:59:03
>>656 そうも思ったりしましたが・・・
実際使者は邪馬台国には行っていなかった可能性はあるとしても九州には行っていたはずです。
風俗を何故東南アジアとあわせる必要があるのか・・・
う〜ん・・・ここ以外は自分なりに消化できてるんですが、ここは、自分で自分をだましているような気がして・・・
659 :
544 :2007/12/24(月) 17:18:12
>>657-658 引用されているだけだとすると、
何だか私までもやもやしてきてしまいましたw
有識者の方にうかがいたいのですが、
狗邪韓国以北の風俗ってどんな感じだったかお教え願えないでしょうか?
風俗的にはたぶん、そのあたりに近いものを持っているような気がするのですが。
660 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 18:26:29
>>659 >狗邪韓国以北の風俗
狗邪韓国自体位置が確認されていない
風俗は韓伝に記載されているから自分で確認出来ます。
661 :
ローガン :2007/12/24(月) 18:41:51
>>658 暖かいというか、暑い時期に来倭したのでしょうね。だから、南方の風俗と似ていると考えて、先行する史書をおそったのじゃないでしょうか。
ただ、植生等は別記しているので、あまり、「南方の風俗」にこだわらなくても…
って思いますが
662 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 19:29:34
>>634 >この(天之御中主神〜 国常立尊)の期間が、漢文体日本書紀では書けない歴史の真実なのではないでしょうか?
>いいかえれば古事記の本質は全て、この(天之御中主神〜 国常立尊)に集約されている。
一部、訂正してもらってもまだまだ意味が通じないな・・・いったい何が言いたいのか?
古事記の神統譜は、日本書紀に一書として記録されている。
現実に書いてあるものを「日本書紀では書けない」と事実誤認の前提でネタを振られても返答に窮するし、
そちらも、答えを用意しているようにも思えないので、とりあえず苦言のみ標記しておく。
キミの質問にも理解できる部分については義務的に答えておこう。
まず、一問目は「記の始まりの神が国常立でない理由」又は「紀の始まりが天之御中主でない理由」と言うことだね。
何度も言うように、天之御中主は紀にも記録されている。紀は神代については一つの系譜にこだわらずと言うスタイルだ。
質問の主旨が不明なのでこれ以上答えようがない。
二門目、天から降って来たという伝承があるからだと思ったが、興味も無いので深く考察する気もない。
三問目、管理者の橿原市役所に聞いてくれ。
四問目、別にヤマトだけでは無い、同歌の中ではタツも”多都”、”竜”と二種類の書き方をしている。
必ずその字を使うというようなルールは無い。写本によって文字が替えられることもある。
>>662 ありがとうございました。
重ねて御礼申し上げます。m(__)m
664 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 20:40:34
>>522 >当時の日本は太陽信仰と蛇神信仰の二大勢力があり、九州から太平洋側が太陽信仰、
>日本側が蛇神信仰。
>と思ってましたが、複雑に絡んでいるようですねー。
>太陽信仰から卑弥呼を見出すのは難しいのかも
上の方でこのレスから少しだけ太陽信仰、蛇神信仰の議論がありました。
蛇神信仰なら小生なんとなく理解できますが、太陽信仰はほとんど分かりません。
初歩的な質問ですが、太陽信仰があったという証拠は何なんですか?
九州〜本州四国の太平洋側に何かそんな証拠が濃く残っているのですか?
それと卑弥呼が太陽信仰だったとお考えのようですが、そうなんですか?
卑弥呼は鬼道に仕えていたというから小生は太陽信仰じゃなかろうと思ってました。
665 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 20:43:23
>>657 「倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣」
>日本に来た使者が寒い地域の出身で、陳寿が比較的暖かいところの出身だから、日本が温暖であると言う報告を受けて、海南島付近の風俗に合わせて記した・・・
僕も戦後子供の頃物の無い時代田舎(西日本)で同じ生活だった。
「徒跣」は冬でも素足に藁草履のこと。
666 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 20:53:00
邪馬臺 jamato
667 :
本田 :2007/12/24(月) 21:40:38
>>386 >
>>379 > 戦前の教科書は壬申の乱と邪馬台国はけして教えなかった。
> というのは万世一系を否定するからだ、と聞きましたが
> 当時の「大和政権にとり不都合」は具体的にどのような理由とお考えですか。
戦前の台湾がまだ日本の領土だったころには、
まだ旧漢字の使われていた歴史の教科書に、
邪馬台国ではなく邪馬臺国と書けば、
「魏志倭人伝」なんか読んでない、
「三国志魏書東夷伝」の倭人条や韓条を読む台湾人には、
邪馬臺国が独立国ではなく、
遼東半島の公孫氏が、
帯方郡につくった植民地の、
そのまた九州にある植民地と判るからなのでは。
台湾では現在でも臺と台の使い分けされてるようだ。
首都だけは台北で、
地方都市は臺南、臺東と「台」を使わず「臺」を使っている。
>台湾鉄路 [2:嘉義〜臺南〜高雄〜臺東〜台北]
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/5082/taiwan02.html
668 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 21:56:16
664 蛇信仰と太陽信仰の話はその後のレスで説明されてませんか? 卑弥呼が行っていた鬼道がどのようなものだったかは今ではわかりませんが 今の鬼道のような呪術的な事ではない様な気がします。
669 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 23:43:29
>>668 難しくかんがえるなよ。
卑弥呼は単なる巫女だよ、女の神主だよ。
近世まで沖縄にもいた巫女と同様のものだよ。
670 :
日本@名無史さん :2007/12/24(月) 23:43:44
>>623 倭人伝に関してなら答えは簡単
「次有鳥奴國次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國」
奴國が女王国の境界でありその南が狗奴國
後漢書なら
「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也」
奴國が倭国の極南界
671 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 00:03:08
補足します 神降ろしのときに蛇神信仰は木の枝に縄を巻きつけて蛇がとぐろを巻いているようして祀ったんですね。 木に縄は→ご神木にしめ縄 で、これは蛇神信仰。 もう一方太陽信仰のやり方ではご神木に鏡をくくりつけるわけです。 で鏡に太陽を写して太陽が地上に降りてきた。神が宿ったと見ているわけです。 で魏志倭人伝には卑弥呼に鏡100枚送ったとあるのでこのような使い方をしたと思うわけです。 で、近畿には多く鏡が出土されているので太陽を信仰していたと思うわけです。
672 :
544 :2007/12/25(火) 00:11:55
673 :
本田 :2007/12/25(火) 00:20:01
674 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 00:21:46
>>623 あんた九州? ならわかるはずだと思うが。
大体、大分南部の佐伯辺りから南国風になる。植物や海産物の種類が南洋地域の
ように変わるから。椰子みたいな木が山に見え始め、冬でも緑の濃い自然になるし
貝や魚がカラフルになる。冬に宮崎南部あたりに行けば温暖さがわかるはず。
675 :
本田 :2007/12/25(火) 00:27:38
676 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 00:33:40
>>654 >>657 「冬でも」とあるから、冬に見聞きした記録なんだよ。
じゃなきゃ「冬でも」と書かない。「邪馬台国伝」じゃなく「倭人伝」だから
倭国の概要としてレポートを集めたものだろ。
これに完璧に該当するのは宮崎南部〜鹿児島から奄美大島・琉球しかない。
驚くことないと思うが。
鹿児島や熊本に西側から独自の中国ルートがあったのは間違いなく
鹿児島や奄美大島辺りに何度もおとづれた中国人が
報告したものだろう。
魏の知りうる倭というのは九州なんだよ。畿内どころか中国地方や四国を
少しも書いてないのは確かで、「魏志倭人伝」に九州以外の地域の説明は
「海を越えた向こうの別種の倭人の住むところ」以外何もない。
677 :
本田 :2007/12/25(火) 00:34:56
>>675 ×壬申の乱の勝者の海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)です。
○壬申の乱の勝者は、海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)です。
678 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 00:37:39
「卑弥呼」の「ひ」は「日」と連想しがちだが「火」の可能性もある。 亀の甲羅を焼くんだろ。火を使ってるじゃんよ。 「日」向なら宮崎 火の国なら熊本 あの辺怪しい。
>>669 沖縄の「聞こえの大君」は王の妹の未婚女子がなる
その点は卑弥呼に似てるけど、沖縄のそれは尚寧王だったかの代に作られた制度だ
むしろ平安時代頃の日本の斎王の制度の影響を受けた物じゃないかな
680 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 00:41:52
太陽を信仰していた部族も骨や亀の甲羅を焼いて占いをしていた 物部神道も藤原氏の中臣神道も亀の甲羅を焼いていた。 信仰対象と占いの仕方は関係がない。
>>671 黒塚とか多数△がでてるけど、あれなんかの使い方は蔽邪物だよ
埋葬者の遺体に悪霊が憑かないように鏡を副葬品に入れるの
鏡の面を外向きにして置いてある墓もあるからね
最近まで懐に手鏡を忍ばせておく風習もあったよね、あれと同じ
むしろ本来、古墳時代に蔽邪物でしかなかった鏡が、
日本神道の確立に伴って御神体に変っていく方が興味深い
紀記にも、鏡をアマテラスの分霊としてニニギに持たせる話や、
出雲の神寿詞のように、大物主が自分の御霊を鏡に依り憑かせて三輪山に祭らせた、という件がある
古墳時代の鏡の副葬のしかたを見る限り、御神体なんかじゃなくて、単なる結界異義物だよ
>681 威儀物の誤り すまん
683 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 01:01:17
では何故魏は鏡100枚なんて送ったのか?中国では鏡なんてたいした価値はなかったのに。 卑弥呼が死期を予感していたから? という疑問はちょっと持ちましたがかなり納得。
卑弥呼の時代より前談があるのかも知れない 倭国が多いに乱れた時代、昔の建国の王の霊力に救いを求めた →初代、偉大に君臨したアマテラスの墓を掘る →鏡が出てきた(古墳を作った頃は蔽邪物として入れた物) →長らくそばにあった鏡に御霊が移っているとして御神体扱いに →この種の鏡は卑弥呼時代は作っていないため魏に求めた →下賜品の鏡100枚 →この辺の逸話が後の紀記に、鏡をアマテラスの分霊としてニニギに持たせる話に取り込まれる 魏に鏡を求めたという事は、アマテラスが大陸の出自だから古地に鏡を求めた つまりアマテラス墓から発掘した数枚の鏡が原版で、あとは大陸製のレプリカ だから日本の原版を元に特注鋳造したものだから、△は大陸からは出ず日本だけから出る つまり アマテラスは卑弥呼の時代ですら遠い昔の始祖の偉大な王 前方後円墳は卑弥呼の時代よりも古い △は神仙思想が描かれている、天孫という民族観、大陸から降臨した末裔の自観
685 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/12/25(火) 04:41:13
686 :
本田 :2007/12/25(火) 06:45:46
>>684 おまいの言う、アマテラスの墓ってどこさ?
モモソヒメの箸墓か?
>>684 ボクちゃん。
頑張って、長々と書いてくれたけど、
先ずは、鏡の副葬がいつごろからかを調べてみようね。
689 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 09:07:08
卑弥呼の鬼道というのは、神様などの声を代弁するものだろう。 いわゆる神懸りというもの。 日本書紀などにそれをうかがえるものが見られる。 たとえば、倭迹迹日百襲姫は、三輪山の大物主神が神懸かりして、 我を祀れば国は治まると言った。 崇神天皇がそのとおりにすると、国は治まった。 また、神功皇后の場合は、仲哀天皇が熊襲を攻撃するとき、神懸りして 新羅には金銀財宝がある、これを攻めよと進言したが、仲哀天皇は 従わず熊襲を攻撃したので急死してしまった。
690 :
ローガン :2007/12/25(火) 15:38:32
>>688 同意します。
鏡の話は面白いですね。少し書いておきます…
九州の弥生後期の墓からは銅鏡が沢山見つかりますね。漢鏡5期、6期のもの。勿論舶載鏡です。
鋳造から、墓に副葬されるまであまり時間差はないですね。
ところが、平原1号には4と5期が一枚ずつ。他は国産鏡ですね。
本当なら、6期7期が沢山あってもいいはずなのに…
おそらく平原墓が造られる頃には、九州の人達は舶載鏡の入手が困難だったのでしょう。
特に7期の鏡は九州以東での出土がほとんどになります。
つまり、3世紀中頃に「九州勢力」はまとまった数の銅鏡を受けとった痕跡が見えないという事ですね。
691 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 20:24:25
世界気象機関(WMO)の下で香港気象局が運営している「世界気象情報サービス」
(World Weather Information Service)のサイトにより、各地の気温を比較してみた。
http://worldweather.wmo.int/ ※以下「最高気温」「最低気温」の語が頻出するが、いずれも「最高気温の月平均値」
「最低気温の月平均値」という意味なので注意してくれ。
英文ページの方が地図が出るのでいい。英語苦手な人は中文ページもある。
【福岡】
http://worldweather.wmo.int/068/c00185.htm 左下に各月ごとの平均最低気温(青字)と平均最高気温(赤字)が出てる。
データは1971−2000年の30年間の平均。
・12月〜1月に注目。
最低気温は3〜5℃台。寒いようだが氷点下じゃない。
最高気温は10℃前後。1月が最も寒く10℃を割って9.8℃。
・7月〜8月。
さすがに夏だ。最高気温は30℃を超える。
最低気温は両月とも24℃台。暑くて寝苦しい夜も多いと見る。
(しばらく続ける)
692 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 20:32:04
続き。
畿内説のために奈良のデータが欲しかったが、このサイトには無い。
国内サイトを探せば有る筈だが、もうこのサイトのままで行くぞ。
奈良に近いのは、大阪のデータが掲載されてるので、あとで各自見てくれ。
でちょっと興味があったので東京のデータを見てみる。
【東京】
http://worldweather.wmo.int/068/c00183.htm 福岡より若干低め。
でもあんまり大した差は無いと思うがどうだろう。
東京→福岡を移動した時のおれの皮膚的実感もそんな感じだが。
東京の冬の最低気温も氷点下となる月は無い。これは福岡と一緒。
693 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 20:39:54
続き。
次に【洛陽】と行きたいところだったが、残念、洛陽のデータが無い。
で代わりに、同じ河南省にある鄭州のデータを示す。
【鄭州】(河南省)
http://worldweather.wmo.int/001/c00552.htm 上右上のMAPをクリックすると地図上での鄭州の位置が分かる。
鄭州は河南省の省都で、洛陽は鄭州よりかもうちょっと西にある。
・12月〜1月。
福岡や東京より相当寒い。最低気温は氷点下なので毎晩氷が張るだろう。
昼もあまり気温は上がらず、最高気温は福岡より3〜4度低い。
特に1月は寒い。最低-4.6℃〜最高 5.6℃で、戸外での仕事は辛いだろう。
・7月〜8月、および12月〜1月を除く他の月。
福岡と比較すると、とくに最高気温に関して、面白い傾向が見て取れる。
最高気温は3月に急上昇し、福岡を0,2度だけだが抜いてしまう。
その後も最高気温は月ごとにグングン上がり、6月の時点でもう32.0℃。
結局3月〜7月は、最高気温だけの比較なら、鄭州の方が福岡より高い。
だが最低気温は、福岡を上回るのは6月のみ(小差0,4度)。他の月は全て福岡が上。
7月〜8月の最低気温は22.8℃と21.7℃なので、鄭州に「熱帯夜」は無いと思われ。
694 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 20:52:46
695 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 21:07:06
続き。
南京を見てみる。呉の孫権が都を置き、東晋以下南朝の諸王朝も都とした。
【南京】(江蘇省)
http://worldweather.wmo.int/001/c00350.htm 南京は緯度からすれば九州宮崎ぐらいだから、福岡より暖かいかなと思ってたが、
必ずしもそうじゃなかった。
鄭州・西安ほどじゃないが、やっぱり冬は、南京も寒い。
最低気温は12月〜1月氷点下になる。2月も0.0℃。
南京が福岡より上になるのは、最低気温の5月〜7月と最高気温の5月〜8月だけ。
「秋冬は南京よりも、福岡や東京の方が暖かい」と言ってよいと思われ。
もっと南下して浙江省杭州へ行く。緯度は九州の南にある屋久島と同じぐらい。
【杭州】(浙江省)
http://worldweather.wmo.int/001/c00556.htm だいぶん南へ来て、冬の氷点下はなくなった。
だいたい福岡のデータに近い数字が並ぶ。が、それでも冬は福岡より若干低い。
同じ浙江省の紹興がいにしえの会稽だが・・・。うーむ。
ただ夏7月8月は、ここ杭州は暑い。熱帯夜に悩まされると思われ。
696 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 21:18:30
続き。
福建省の福州を見る。緯度はちょうど沖縄の那覇と同じ。
倭人伝に出てくる「会稽東●の東」は、「東治」か「東冶」か、異論あるそうだが、
東冶ならこの福州にあたるんだろう。
【福州】(福建省)
http://worldweather.wmo.int/001/c00557.htm 見ての通りで、福州まで南下すると大逆転する。福州は夏暑く、冬も暖か過ぎるほど。
最低気温、最高気温、どの月をとっても福州の方が福岡よりか上になる。
というか、詳細データは見てないんだが恐らく鹿児島・宮崎といった南九州も
一気に抜き去ったんじゃなかろうか。この福州の気温の高さは。
どうも杭州と福州とでは、気温に差があり過ぎる印象だ。
隣り合う州都同士だが、距離がやや離れているからか。
それとも杭州〜福州間には「気象の断層」みたいなのが横切ってるのかも。
福岡や東京に気温が似てるのは杭州だな。
福州だと気温高過ぎて、本州や九州(九州島)とは違う感じと思われ。
697 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 21:29:45
続き。
今度は帯方郡と楽浪郡の気温を考えてみよう。
楽浪郡は北朝鮮のピョンヤンだ。ここは歴史的に古い都市なんだよな。
だが、帯方郡はまだ遺跡がはっきり掴めてないとか。
一応ここでは帯方郡ソウル説に従って、ソウルの気温を見てみる。
というか、ソウルにしないとデータが無いから、ソウルで行くぞ。
【ソウル】(もと京畿道)
http://worldweather.wmo.int/095/c00231.htm ひと言で言って、ソウルは涼しく、そして寒い。
福岡より断然寒い。
1月の最低気温は-6.1℃。鄭州の-4.6℃をも下回る。
まあ福岡より緯度的にだいぶん北なんだから、考えれば当たり前か。
698 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 21:43:22
続き。
最後に、楽浪郡の故地ピョンヤンを見てみる。
【ピョンヤン】(もと平安南道)
http://worldweather.wmo.int/120/c00230.htm なんと寒いことか!
ピョンヤンの1月は最高気温でさえ氷点下なのだ!
夏はまあ、いいのだ。不思議と夏はソウルに匹敵するぐらいに気温が上がる。
しかしピョンヤンのこの冬の厳しさはどうだ。
あらためて色々なことを考えさせられる。
日本のコタツと火鉢のような暖房器具は、北朝鮮の冬に通用するか?
日本は耕地は狭いが、冬も裏作ができる。北朝鮮はどうなのだろう?
ジョンイルさんよ、あんたは核兵器と原発、どっち取る? 本音で言ってくれよ。
(いちおうここまで。あとで全般的な感想を若干コメントするかも)
(晩メシも食わず我ながらよく頑張った。「乙」ぐらい言ってくれ)
(だが居るんだよな、日本史板住人には。「そういうデータは何の意味もない」とか抜かす厨房がッ)
699 :
スマソ訂正 :2007/12/25(火) 22:05:37
削除依頼出していい?w
701 :
ローガン :2007/12/25(火) 23:16:20
あの〜 ご自身ある程度考えをまとめてから書かれた方がいいですね。 とりあえず情報提供ありがとうございました。 以上。
702 :
日本@名無史さん :2007/12/25(火) 23:21:45
703 :
414 :2007/12/25(火) 23:58:13
>>498 ローガンさん。龜レスですみません。
>6年は拝仮していない。8年は詔はでていない。
というのは、ちょっと頷けません。
先に假授と言い、後に拜假と言っています。これは同じことです。
問題点を整理すると、
1、黄幢の假授は、魏への支援命令なのか。倭への支援表明なのか。
2、二度出てくる黄幢は、同時か、6年と8年の二度かです。
1、については、難升米は率善中カ将ではありますが、
れっきとした倭の大夫で卑彌呼の臣下です。
魏の皇帝にとっては、陪臣にあたります。純粋な魏の将ではありません。
とはいえ、大陸本土内で檄を移す場合、確かに出兵要請であることが多いので、
ローガンさんの説も完全否定するわけではありません。
私は、錦の御旗としての魏の支援表明の可能性が強いと考えていますが、
これについては、結論はまだ出せずにおります。
つづきます。
704 :
414 :2007/12/26(水) 00:02:37
2、についてですが、倭人伝で太守が出てくるのは、劉夏と弓遵どちらも、 一連の倭からの使節の取次ぎの場面です。 同じ流れの記述で出てくる王キも、使節を取り次いだ者として名が記録されているのです。 冊府元亀に (正始)八年、倭國女王壹與遣大夫掖邪狗等、・・・・・・ とあり、壹與の朝貢が正始八年であったと考えられます。 もし、ここで王キ到官の記述がないと、弓遵が取り次いだことになってしまいます。 陳寿は、誰が取り次いだのか、正確に記述しなければならないと考えたのでしょう。 さて、王キは正始八年の倭の使節を皇帝に取り次いだのですが、 その使節が送られた経緯が、「倭女王卑彌呼與狗奴国男王素不和〜國中遂定」なわけです。 「素」は、ここから過去の記述ですよという印です。 どこまでが過去の話かということになるのですが、 難升米の黄幢拜假が正始八年では、それから卑彌呼が死んで怩作り、 男王が立って相誅殺し、壹與が即位して張政が告諭して、それから朝貢使節を出すというのは 時間的に無理がありすぎると思います。 ですので、二度記述される難升米の黄幢拜假は、どちらも正始六年の同一のものと考えるのが妥当です。 卑彌呼以死とあるので、黄幢拜假が何らかの原因になって卑彌呼が死に、 国が乱れ、最終的に壹與の即位で治まった。その即位後の挨拶が正始八年の朝貢だったのだと考えます。 追記:そういうわけで、狗奴国男王は、やはり卑彌弓呼です。卑彌弓呼素という読みは賛成できません。
706 :
ローガン :2007/12/26(水) 17:00:54
>>703 6年に郡假授の詔がだされ
8年に詔書黄幢拝假ですね。
この流れは、
景初二年(3年)12月詔書報倭女王…
正始元年太守弓遵…拝假倭王…
と同じパターンだと思うんですよ。
冊府元亀巻96外臣部朝貢ですね。
冊府元亀は倭人関連は梁書から、引いているのではないでしょうか?
正始中のヒミコの死の記事を見て8年を壹輿にしたのかも…
まあ、単なる想像です
冊府元亀以外には8年の王が壹輿としたものはなかったように記憶しています。
そうそう、細かい事ですが、冊府元亀では確か、壹輿ではなく一輿じゃなかったですか?
又レスします。今少し忙しくて…ごめんなさい
707 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 14:15:40
211年大阪住吉大社 248年邪馬台国の卑弥呼 645年難波宮 710年奈良 794年京都とうやつかね
708 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 14:19:38
211年住吉大社って・・・ これは信憑性ないでしょ?
709 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 14:30:40
710 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 14:46:01
難波津の海の神様住吉大社が登場するのって、 応神天皇ぐらいからだよね? 神功皇后を祀ってるけど。 あったことが推測されるのは5世紀ぐらいから?
711 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 14:56:06
大和弁(関西弁)というやつかね
712 :
ローガン :2007/12/27(木) 17:01:10
>>704 遅くなりました。704の人まだいてるかな?
貴方は魏の支援表明とお考えですね。もっともそれが通説で私のは珍説である事は承知していますが…
景初二年(3年)12月に倭女王を親魏倭王とする詔がだされていますね。 そのすぐ後に書かれているのは、当然その詔に関する話です。
金印は太守に假授するとあります。
正始元年「奉詔印授詣倭国拝假倭王」 これは、景初二年(3年)の太守假授と同じものでしょう。
つまり、一旦、郡に假授された後、拝假するという流れですね。
黄幢も同じ流れではないかと考えています。
それにもし、張政等の来倭目的が冊封国たる倭への支援であるなら、狗奴国との戦争に関する記述が書かれていて然るべきではないでしょうか?
冊府元亀によると8年の王はイヨですね。
これを信用すれば、時間的に無理があるのは貴方の仰る通りです。
しかし、貴説に従い6年張政等来倭とし、「素不和」の記述部分が過去の話とするなら、
「其八年太守王キ到官」の記述が前にも後にも繋がらない意味の無い文になりませんか?
やはり倭載厮烏越等の相攻撃状の訟は新太守王キに対する説明ではないでしょうか?
8年の訴えにより、6年に黄幢が下賜されるわけがないですね。
713 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 17:59:18
☆大阪の歴史☆古墳時代(西暦200年代末頃〜500年代末頃) 中国大陸や朝鮮半島との関係が深まり、 難波津は、古代日本の玄関口として、大陸からの渡来地、さらには使節往来の拠点として発展しました。 渡来人の手で持ち込まれた窯業・鍛冶・建築・土木・宗教などのさまざまな文化や技術が、日本各地へ広がっていきました。 この時代、大阪平野の各地には、仁徳天皇陵を始めとする王権の象徴ともいうべき巨大な古墳が出現しました。 また、南の大和川の水を大阪湾に流すため、難波堀江の開削がされたり、堺や大和へ至る南北東西の道が整備されるなど 土木工事がさかんに行われました。また、巨大倉庫群が作られるなど、 難波津を拠点として、大阪は交易、商業都市としての役割がますます重要になってきます。
714 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 20:00:49
>>712 はーい。いますよ。年末は、なんだか過疎ってますね。忘年会シーズンだからかな。
中国国内の檄の性質を考えれば、珍説という程のことはないと思います。
ただ、金印紫綬や下賜の品物を与えた目的が、「其れ種人を綏撫し、勉めて孝順爲れ」
「悉く以て汝の國中の人に示し、國家の汝を哀れむを知らしむ可し」と
詔書のなかにあるので、この黄幢も同じく支援表明だろうと推測するのです。
これに関しては、推測の域を出ませんが。
>金印は太守に假授するとあります。
これは、ちょっと間違ってます。
動詞+目的語の語順ですので、「装封 付帯方太守 假授汝」は、
「装封して帯方太守に付して汝に假授す」です。
郡太守は付されるのであって、假授されるのは、倭王です。
そこは、混同してはまずいです。
そこで、正始六年の記述を見ると「付郡假授」とあります。
つまり、郡に付されたあと、既に假授されているのです。
その対象は難升米で、文の最初に出ているので省略されています。
>狗奴国との戦争に関する記述が書かれていて然るべきではないでしょうか?
素不和、説相攻撃状とあって、張政が来ているので、
重ねて戦争の記述をする必要はないと思います。
715 :
日本@名無史さん :2007/12/27(木) 20:06:35
つづきです。 「其八年太守王キ到官」の意味ですが、劉夏も弓遵も、名前は必要ないと言えば必要ありません。 しかし、陳寿は記述しています。つまり、皇帝と倭の取次ぎをした者がだれか、はっきりさせたかったわけです。 正始元年に弓遵の名前を出していますし、 王キ到官の記述がなければ、正始八年のことまで、弓遵の仕事になってしまいます。 なおかつ、八年に到官と書けば、正始六年からのことに王キが関与しておらず、 たまたま赴任した年に、倭の使節を取り次いだことが解ります。 ここからは、私の推測ですが、蛮夷の朝貢は、皇帝の聖徳を称揚する慶事です。 それを取り次ぐことは、それなりに名誉なことだったのではないでしょうか。 だから、その顕彰のために名前を明記し、なおかつ、劉夏・弓遵とちがって、 タナボタ的な王キは、それも解るように記述したのではないでしょうか。 何年か前に、唐の劉知幾の史通通釋という書物をめくる機会がありまして、 多分その中で、歴史家の評価を論じているのを見たと思うのですが、 同じ事を記述するなら、文字数が少ない方が優れているというのが、伝統的な評価基準のようです。 それから考えると、王キ到官&素不和は、かなり優秀な記述のように思われます。
716 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/12/27(木) 20:12:21
黄(旧)憧→→黄幢 假綬じゃなく「假授」であることが ここのカギかな? 多分?
717 :
ローガン :2007/12/28(金) 00:38:41
>>714 レスありがとう。そうですね。
「付帯方太守假授」ですね。仰る通り私の間違いです。
12月の詔書の部分ですね。この詔書と印が翌年(翌々年)に拝假倭王となりますね。
同じ事が黄幢でも見れるって思うんですよ。
>>715 見解は違いますが…
いいレスですね。造詣の深い方とお見受けします。
良ければ、懲りずにご教示ください。
「卑弥呼以死」に触れてられましたね。もし、「以」と「已」に互換性を考えていいなら、張政等来倭時、卑弥呼はすでになく、
8年下賜でも仰る所の時間的な問題は無いように思えますが…
まあ、きっとそのお答えも持ってられるでしょうね。良ければ教えてください。
できればご一緒に一杯やりながらお話を…
まあそれは叶わないのでレス拝見しながら、一杯いただく事にします。
>>717 褒めていただいて、有難うございます。
レスを書いているときは、パズルを解くようで楽しいのですが、
褒められると、なにか急に恥ずかしくて、ウハーってなりますね。
私は、酒が飲めませんが、せっかくですので、
健康の為のどくだみ酒をお猪口に一杯やりながらレスします。
実は私も最初はローガンさんと同じ解釈をしていたんです。
最初に疑問に思ったのは、「以て死す」って何だろうだったんです。
そこから、二度の黄幢だと時間的に云々という現在の解釈に至りました。
ですので、以が已の意味であるならば、ローガンさんの仰るように、
時間的な問題は解消されますね。
ただ、それだと、ちょっと卑彌呼の死が唐突な印象があります。
それと、付郡假授は
其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授難升米
の最後の難升米が二重なので省略された形だと思うのです。
だから、六年の時点で、すでに黄幢は難升米に假授されたと思うのです。
今のところは、こんな感じですが、またいろいろ考えてみたいと思います。
では、おやすみなさい。
704さんのは傍から読んでても 久々に面白かったですね。
720 :
115ではないが :2007/12/28(金) 10:48:23
721 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 00:35:29
俺単なる傍観者だけど。やっぱドンコイはいいな。
722 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 00:57:25
723 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 08:39:34
718さんとローガンさんに質問 壹与ですか台与ですか?壹与だったら伊予、台与なら豊と関連がありか?
イヨタン・・・・・・・・ トヨタン・・・・・・・・
725 :
サガミハラハラ :2007/12/29(土) 11:59:20
>>723 そういうことは、邪馬台国の発見者にして邪馬台国研究の第一人者である私に聞いていただきたい。
旧国名の伊予もとよも人名に由来するものではありません。
卑弥呼の名も壱与(台与)の名も地名国名として残っていません。
726 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 12:07:35
釣りはやめてくださいよ。相模原原さん。 ヒミコ→肥の巫女→「肥前」「肥後」 トヨ →豊 →「豊前」「豊後」 ちゃんと残ってるじゃないですか。
727 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 12:08:05
魏志倭人伝が書かれた頃、北部九州に「邪馬台国」が有り、畿内に「大国」があった。 魏に朝貢したのはこの北部九州の邪馬台国。 この「大国」と「邪馬台国」はよしみを結ぶ事となり、「邪馬台国」から「大国」 に向けて彦火火出見ら一行が旅立つ。 「大国」内部ではこの同盟については必ずしも一枚岩でなく、ナガスネヒコ達は これを阻止しようとするが、なんとか彦火火出見一行は畿内三輪にたどり着く。 畿内に入った彦火火出見の子孫は畿内葛城に土地を与えられるが、やがて力を蓄え 同じ葛城に住む尾張氏らの協力を得て、「大国主」を滅ぼす。 「大国主」を滅ぼした彦火火出見の子孫は「大国」の名を彼らの父祖の地である 「山門」にちなんで「ヤマト」と改める。 畿内の戦いを勝ち抜いた崇神はその軍勢でもって外征に乗り出す。(四道将軍) 大恩ある「大国主」一族の祟りを恐れた垂仁は彼らの父祖の地である出雲に壮大な 社を営み、手厚く祀る。
728 :
唐松山 :2007/12/29(土) 14:06:23
「山門」にちなんで「ヤマト」と改めんでも 山の後ろから流れてくる川 山後川(大和)から 採った名前。
729 :
ご参考まで :2007/12/29(土) 15:10:41
黄幢と詔が帯方郡に正始六年から八年まで留め置かれた理由について 正始六年、楽浪太守の劉放と帯方太守の弓遵は、穢が高句麗の支配下に入ったので 軍を起こしこれを攻めた。(魏志穢伝) 韓族の臣智が帯方郡の崎離営を攻撃した。劉放と弓遵は征討した。が、弓遵はこの 戦いで死んだ。(魏志韓伝) このことについて、褒め合ったりしたスレがありましたが・・・、これだけの話です。
730 :
唐松山 :2007/12/29(土) 15:21:14
景行の娘 筑紫に下った 五百野皇女は、豊受神の 祭主。
731 :
ご参考まで :2007/12/29(土) 15:30:26
王キは、玄兎郡の太守で、正始六年、高句麗征討戦に出陣している。 これは、(魏志母倹丘伝)に書いてあるから、確認して下さい。 だから、弓遵の死亡年次は正始七年か八年になります。 正始八年、弓遵が戦死しての後任に王キが帯方郡太守に赴任した。 卑弥呼が狗奴國との戦いを報告して来た。 張政らが遣わされ、 そのついでに、正始六年に下された詔書と黄幢を携えていって、難升米に 仮授した。 魏志倭人伝ばかりしか読まない解釈は、誤るという好例ですね。オシマイ。
732 :
日本@名無史さん :2007/12/29(土) 15:32:28
「山門(ヤマト)」は日本全国各地にある地名。 山に囲まれて奥が開けている土地(奈良盆地など)は 「山門(ヤマト)」と呼ばれていた。 ヤマトに「大和」を当てはめたのは当て字。 アスカに「飛鳥」と当てたのも同じ。
733 :
718 :2007/12/29(土) 19:17:02
>>731 私の理解では、ご参考までにさんが
>>729 >>731 で書かれた、まさにその理由で
ローガンさんは黄幢が六年から八年まで帯方郡に留め置かれたと解釈されたはずです。
たしか、このスレの最初の方か、前スレの最後の方か、どちらかにローガンさんがそう書かれていたと思います。
ですので、六年から八年の半島の情勢と弓遵戦死のことは前提として、
それでも、黄幢を留め置いたというのはどうかなあという議論していたわけです。
まあ、スレの最初から全部を読んでレスするなんて、
私も面倒で、あまりしませんし、仕方ないかなと思います。
そういう訳ですので、あらためて、そういう視点から読み直してみてください。
734 :
ローガン :2007/12/29(土) 20:53:28
>>723 イヨ、トヨが地名とどう繋がるのか、私には見解がありません。
第一人者を自負されるサガミ先生にお任せしたい所です。
壹輿と臺輿について少し書いてみます。
あ!仕事がようやく片付き、少し酔ってますので、要点だけ…
トヨタンは梁書(629)北史(659)翰苑(660)通典(801)太平御覧(984)冊府元亀(1013)通志(1161)
私の知っている史書類書では以上です。
それ以降の書ではイヨタンです。
そしてそれらの「臺輿」と書かれた書はすべて「邪馬臺国」と書かれています。
つまり「邪馬臺国」と書かれた書は、「臺輿」。「邪馬壹国」と書かれた書は、「壹輿」…
12世紀迄の三國志には「邪馬壹国」はなかった!なんて考えたんですが…
太平御覧と冊府元亀には「臺輿」も「壹輿」(冊府元亀は一輿)も有るようです(孫引きです)。
ん〜。もうちょっと飲んでから又、書かせて頂きます。
718さんのご見解を楽しみにしてます
735 :
718 :2007/12/29(土) 22:34:27
>>734 すみません。イヨタン・トヨタンに関しては、まだ何も定見がないんです。
邪馬台国関連は、新参者ですし、色々なことの合間に少しずつ調べているもので。
「倭人伝への旅」というホームページの中の 「臺」と「壹」について というトピックを読ませていただいて
邪馬臺・邪馬壹・臺與・壹與は、難物だな〜と思ってから、まだ手をが出ていません。
ちなみに、そのホームページ、ここの住人なら、読んだ方も多いかもしれませんね。
漢籍の版本の知識も、邪馬台国関連の知識も豊富で
読み応えのある記事が多かったです。
どなたか存じ上げないのですが、
別の掲示板でプラムさんたちと議論されている方みたいですね。
736 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 00:08:16
737 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 00:30:41
マルチ禁止だろーがヴォケ
738 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 01:20:03
御所市大字高天の高天原は 高天彦から橋本院へ行く途中の広大な原っぱの事。 元々狩猟民族の葛城氏は 鴨氏を倒して 奈良県西部一帯を制圧したとされ、 後に欠史八代と呼ばれる 大王の宮があったと伝承されている。 最近、御所市室に大きい古墳が見つかったとか。 石を積み上げた小さい古墳だと田畑に大量に点在しており、 ここに大物豪族がいた事は間違いないようだ。
740 :
ローガン :2007/12/30(日) 15:57:55
>>735 「倭人への旅」ですか。畿内説の王道ですね。
718さんはどちらを支持されるのでしょう?畿内説?九州説?それ以外?
然し、卑弥呼のスレはにぎやかですね!
こちらもちょっと上げておきましょう。
先日少し書きましたが、魏志倭人伝は漢書からの引用が多いですね。作物、風俗、武器等粤地の記述をほとんどそのまま引用してます。
その漢書に「如墨委面在帯方東南萬里」とあります。如淳注なので、陳寿は見ているでしょうね。
(漢書に書かれた倭人とは北九州の事でしょう。)陳寿は「倭人は帯方東南1萬里に存在する」と書かれた記述を見た上で、
「自郡至女王国萬二千餘里」と魏志倭人伝に記しました。
とすれば、陳寿は漢書に書かれた倭人の位置から更に2000余里離れた所に女王国はあると認識していたのでしょう。
古代の史書が正確な距離を記述しているかは、甚だ怪しいので、この2000余里がどこを指すかはさておき、
2割強、距離を上乗せした事を考えると、北九州や中九州に女王国を求める事は難しいのではないかと考えています。
741 :
改め〜IN九州 :2007/12/30(日) 17:18:56
九州の古代史でお薦めのスポットどこですか〜?みなさん
>>740 ローガンさん
>その漢書に「如墨委面在帯方東南萬里」とあります。如淳注なので、陳寿は見ているでしょうね。
(漢書に書かれた倭人とは北九州の事でしょう。)陳寿は「倭人は帯方東南1萬里に存在する」と書かれた記述を見た上で、
「自郡至女王国萬二千餘里」と魏志倭人伝に記しました。
この『萬里』をストレートに距離の実数値と捉えるのはどうでしょうか?
この場合、『萬二千里』の萬と同じとすることはどうでしょう?
(一萬里ではなく萬里)ですから
葛城氏の事になると 口をつぐむな。
744 :
古代 :2007/12/30(日) 21:23:50
葛城の小角は役(えだち)の君と呼ばれてたので医療・薬を調合する人だったみたいですが。 賀茂家は昔は天皇の后とかを多く出した名門なのに??と思ったんですが。 後の藤原氏みたいに賀茂を名乗っててもこの時には支族が多くいたのかな
鴨氏は御所市が始まりだからね。 鴨氏は 京都に宮が移ると付き従って行ったようで。それが今の京都加茂
746 :
ローガン :2007/12/30(日) 22:21:58
>>742 プラムさん。
夕食後にレコード大賞視てたので遅くなりました…
どうでしょう?と問われましても、どう応えればよいやら…
もう少し敷衍していただいたら助かります。
747 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 22:39:00
高天原は日向あたりかな。
748 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 22:51:30
>>747 日向は高千穂のほうだろう?
高天原と高千穂をゴチャゴチャにしていないか?
749 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 22:54:47
だから高千穂の西だって。筑後平野か菊池平野。でもたぶん筑後平野。 高千穂から神々は東の日向に向かったわけでしょ? ということは神々は高千穂の西からやってきた(山を登った) と考えていいのでは?
750 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 23:02:19
大和の高天原から、日向の高千穂へ 派遣されたんだろう?ホノニニギさんは。 日向は南九州だから、おそらく熊襲の平定だったんじゃないの? その日向三代の間は、ホアカリ(ホノニニギの兄弟)の子孫によって 大和中央政権は運営されていた。 播磨国風土記にも、出雲の大国主から国譲りをさせたのは、ホアカリだと記載されている。 ホアカリの正式名称は、天照国照彦火明命。
751 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 23:05:07
つまり高天原は九州
752 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 23:09:09
まてまて、クマソが九州にあったのなら、 ますます卑弥呼の邪馬台国が畿内にいたことにはならないし、 邪馬台国と大和政権のつながりはなくなる。 つか、クマソの襲撃にあったりで使者は邪馬台国には行けない。
753 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 23:24:06
754 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 23:29:18
>>750 饒速日命は、高天原から天磐船に乗って大和にやってきたのだから、
大和が高天原とすると妙なことになる。
755 :
古代 :2007/12/30(日) 23:35:29
『古事記』では、物部氏の祖であるニギハヤヒは、神武東征が終わった後で、大和の地にはせ参じたと書かれています。
756 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 23:43:22
ヤマト王権はもともと畿内で発生した政権でしょう。 ヤマトが日向から東征してきた割には、 日本書紀や古事記は南九州の地理に暗く、 地名がほとんどかかれないばかりか、 南九州を支配下におさめ、薩摩、大隅の両国がおかれるまでに 時間がかかりすぎ。 また、日向から畿内へ都を移す理由がない。 奈良時代には、北九州はすでに左遷の地と化していましたからねえ。
757 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 23:48:51
でたらめをいうな!!
758 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 23:51:34
>>753 つまり、クマソは女王国の南にある敵対国、狗奴国を指す。
759 :
唐松山 :2007/12/30(日) 23:59:04
ニニギが天磐船 から降り立ったのは、天照が武力で治めた 筑紫 大和にやってきたのは天磐船から飛び降りた(逃げ出した)。ニギハヤヒ わづかの違いを 吟味してください。
760 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:01:58
761 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:06:39
>>756 卑弥呼の時代より、薩摩、大隅といった南九州には敵対国家がずっと存続していたのだよ。(熊襲・隼人)
それに、当時、遷都する理由はいくらでも考えられる。(畿内も何度遷都したことか考えれば理解できる)
日向から畿内に都を移す理由は、畿内の豪族を打ち破ったからにすぎない。(神武東征)
日本は倭人の国ではあるが、各地が豪族によって支配されていた。
中世戦国時代の原始版みたいなものを想像して貰えればわかりやすい。
卑弥呼の時代にはそれこそ多くの国(集落)があったのは言うまでもない。
762 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:11:15
>>755 日本書紀では、饒速日命は神日本磐余彦(神武天皇)の前に大和にやってきて
いた。長髄彦が戦いに負けると、饒速日命は神武天皇に忠誠を誓う。
どちらが妥当かというと、神武天皇の前に来ていたとするのが妥当ではないか
と思う。
というのは、神武天皇は苦戦しているから。奈良盆地の弥生時代は、鉄器の
出土が極端に少なく、遅れた土地だったとので、在来の人では神武天皇に
太刀打ちできなかったのではないかと思うので。
饒速日命を庄内期と関連付け、神武天皇を布留期と関連付けるのが
面白いのではないかと思っているのだが。
763 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:12:01
狗奴国は奴国の南にあったと書いてあるけど邪馬台国の南にあるなんて書いてないよ
764 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:14:42
>>761 畿内政権は、自分の勢力範囲内の近場で遷都を繰り返していました。
畿内政権が、急激に南九州へ遷都したり、
はたまた平定したからと言って出羽や陸奥に遷都したりしましたか?
先祖たちの墓がある土地を、一代にして急に捨てることはできないということです。
日本書紀や古事記によると、南九州の人たちは畿内の人々を驚かせる風俗があったようで、
隼人がもがりの際に取る行動が珍しそうに記録されています。
畿内王権の中心人物が九州出身者であったら、それらの風俗はすなわち自分たちの風俗。
全く特筆するに値しないというわけです。
766 :
古代 :2007/12/31(月) 00:18:43
ありゃ自分のことだったのね。 書記にはニギハヤヒは十種の神宝を持って降臨した天孫族で大和の地を支配していたが、神武の時に大和の地を譲ったと書いてあります これが有名なんですが、古事記には大和を治めていたという説明がなく神武が大和の地を治めた後に登場します。 するとそこで邇芸速日【ニギハヤヒ】命が参上して、天神御子【あまつかみのみこ】に、「天神御子【あまつかみのみこ】が天降【あまくだ】りされると聞いたので、追いかけて降って来ました」と申し上げて、天津端【あまつしるし】を献上してお仕【つか】することになった。 そして、邇芸速日【ニギハヤヒ】命が登美毘古【トミビコ】の妹の登美夜毘売【トミヤビメ】を娶【めと】って生んだ子は宇麻志麻遅【ウマシマヂ】命。これは物部連【もののべのむらじ】、穂積臣【ほづみのおみ】、采臣【うねめのおみ】の祖である。 さて、このようにして神武は荒々【あらあら】しい神々を説得して平定し、従わない人たちを追い払って、畝火之白檮原宮【うねびのかしはらのみや】において天下を治めることとなった。 以上が古事記での記述です。
767 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:25:09
>>765 東京遷都を考えれば分かりやすい。
中心地は既に関東だったので江戸城を皇居とした。
要するに、これと同じ事が当時起きた。
出羽や陸奥は中心地となるほど大きくないので遷都などしませんよ。
あと、九州地域は大陸や半島に近いので、
他国の侵略を考えると都は遠い方が都合がよい。
768 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:28:47
>>765 書物には現れないが、九州内でも遷都はあったはず。(勢力圏内で)
769 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:32:32
>>756 大和王権は畿内で発生した王権だが、それを九州勢力が譲ってもらった、というか奪った、というか支配下においた。
これが初期の大和王権の時代。
770 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:32:57
>>764 …次有鳥奴國次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
奴国が女王国(倭国同盟)の境界でその南に狗奴国があると書いてある
奴国までが女王に属し狗奴国は女王に属さず、
倭女王卑彌呼與狗奴國男王彌弓呼素不和
卑弥呼は邪馬台国の女王として狗奴国と不和だったのではなく
倭女王として狗奴国と不和だった
771 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:35:43
>>770 3世紀の倭国で邪馬台国の尽きるところである奴国の南に位置
772 :
古代 :2007/12/31(月) 00:36:05
こういった違いは当時の政治情勢を考えなくてはなりませんね。 日本書紀が書かれたのは藤原氏が政治の中枢に入り込んだ時で勢いがありました。 しかし、藤原氏の土台はまだ不安定な時でもありました 物部氏は名門でしたが、蘇我氏に敗れてからは昔ほどの力はありませんでした。 大化の改心は、国の宗教が仏教に定まった蘇我政権から古来の神道(神々)を取り戻したと見ることも出来ます。 藤原氏の元々の氏である中臣家は神道の家系でしたから物部氏(石川氏)とは協力関係にあったでしょうし、神道としては物部氏の方が大家でした。 説明が長くなりそうなので端的に言うと、藤原氏はこの時には物部氏を立てる必要があったということです。だから天孫族の一人として立てたのです。 もっとも後には政敵として石川氏を敵対視するようになりますが。
773 :
古代 :2007/12/31(月) 00:42:22
765 >先祖たちの墓がある土地を、一代にして急に捨てることはできないということです。 これは今の人の感覚ですね。一代で簡単にかどうかはわかりませんが、この時代は氏の移動は激しいようですよ。 神社の祀る神を考えればわかるとおもいますが、同じ神がいろいろな土地で祀られている事はよくありますね。 もちろん後の時代に祀ったものもあるわけですが、移動した人たちが祀ったものも多くあります。
774 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:43:18
>>771 女王国=女王を共立した倭の国々(の連合体)
邪馬台国は女王を輩出したが奴国と同じ女王共立の一国
「其の南に狗奴国あり」と書かれているのはあくまで奴国
倭国と女王国と邪馬台国の使い分けに注意すべし
775 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:49:22
>>772 奈良時代初期の物部氏は不比等に旧都藤原京の留守役を命ぜられて事実上左遷状態だよ
776 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 00:50:28
奴国や壱岐国が女王国連合体の一部でなければ 魏へ使いは送れないわな
九州を一つの国とした場合、日向が都でも何の問題もない。 だが、西日本全域に勢力が拡大したとき、そこは途端に僻地に変わる。
778 :
古代 :2007/12/31(月) 00:55:06
物部氏の事を書くと長くなるんだけど、この時には中央の物部氏は石川氏として力を持ってるはず。
物部は 神道の神主で神具七支刀を守り、旧神の大物主を奉る一族ですね。 だから『物』部なのかも。
780 :
古代 :2007/12/31(月) 01:26:26
物部の物については諸説あるみたいです 今神社で巫女が舞う時は大体手に鈴を鳴らして舞っていると思いますが、あれの源流が物部神道のようです。 元々は十種の宝を祭り(あるいは手にとって)体を震わす(あるいは宝を振る)やり方だったようです。
781 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 01:35:16
>>776 つまり卑弥呼の連合国家が北九州
敵対する国家が南九州
女王国の南に敵対国家があるということ
782 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 01:36:09
>>777 そこで大和に遷都ですよ。
というか、大和入城。
783 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 05:21:17
>>781 より詳しく言えば女王国を構成する国々の一つである奴国までが女王国の勢力範囲で
その南に狗奴国があった
784 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 06:59:41
日向三代の本籍地は、あくまでも畿内・大和。 初期大和王権(尾張氏の先祖)の傍系が、日向三代の家系でしょう? 日向三代は、大和宗家の命令で、日向・高千穂に派遣されていた。 地理的にいって、熊襲の平定のためにしか? が、大和王権内部でナガスネヒコの専横で内戦があって その戦いで分家筋の神武が加勢して功績を挙げた。 それで、大和のイワレに居を構えて、大和宗家(尾張氏の先祖)を助けて 執政の座に着いた。(以下、祭祀は尾張氏先祖、政事は神武皇統) それが、神武皇統の始まり。 だからこそ、神武東征みたいなことが可能だった。 普通、日向から畿内へ首都を移す理由なんて意味なしだし そもそも、そんな短期間で、可能なわけがない。
785 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 07:03:04
狗奴国は、コノ国と読むべき。中古音で。 クナ国なんて読んじゃ駄目だ! 狗奴国=許乃国のことで、京都の宇治あたり。 ここは、武埴安彦命の領国だった。 狗奴国王・卑弥弓呼は武埴安彦命。
786 :
唐松山 :2007/12/31(月) 07:33:26
武埴安彦は本当なら 天皇に成るべき身分 庶子の子 崇神より格上 だった。 盾突く 謂れは有る。
787 :
サガミハラハラ :2007/12/31(月) 08:45:19
狗奴国はクトコクと発音します。 熊本県北部にあった国です。残存地名として宇土半島がそうです。 ほかに熊本城の宇土櫓や宇城なる地名もあります。
788 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 10:15:43
魏志倭人伝が書かれた頃、北部九州に「邪馬台国」が有り、畿内に「大国」があった。 魏に朝貢したのはこの北部九州の邪馬台国。 この「大国」と「邪馬台国」はよしみを結ぶ事となり、「邪馬台国」から「大国」 に向けて彦火火出見ら一行が旅立つ。(神武東遷) 「大国」内部ではこの同盟については必ずしも一枚岩でなく、ナガスネヒコ達は これを阻止しようとするが、なんとか彦火火出見一行は畿内三輪にたどり着く。 畿内に入った彦火火出見の子孫は畿内葛城に土地を与えられる(綏靖、安寧、懿徳)が、 やがて力を蓄え同じ葛城に住む尾張氏らの協力を得て、「大国主」を滅ぼす。(孝の字を持つ四代) 「大国主」を滅ぼした彦火火出見の子孫は「大国」の名を彼らの父祖の地である 「山門」にちなんで「ヤマト」と改める。 畿内の戦いを勝ち抜いた崇神はその軍勢でもって外征に乗り出す。(四道将軍) 大恩ある「大国主」一族の祟りを恐れた垂仁は彼らの父祖の地である出雲に壮大な 社を営み、手厚く祀る。
789 :
古代 :2007/12/31(月) 10:48:31
788 ほぼ同意。でも大国は畿内ではなく吉備だと思う。昔の畿内の土器は数そのものが小さく小さな王国だったようだ。 出雲、伯キ、因幡あたりが盛ん。ここに最初スサノオ連合国があった。と思う。 なぜ連合国かというと。各地のスサノオの話がつながっていない。 出雲風土記のスサノオは「出雲は小さいけれどいい国だ」などと言ってるので、この時出雲は小さな国だったと思われる。 そのあと大きくなった畿内勢力がこの地方を征圧した。
790 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 10:55:45
スサノオって渡来人(漢人?スサの王?)だと思うけどなあ 紀記にもイザナミへ「故郷に帰りたい」とか言ってたり、「スサノオは韓郷の島(漢半島、朝鮮半島)に」とかの記述があるらしいしさ
791 :
古代 :2007/12/31(月) 11:03:23
ヤマタノオロチの話がありますよね。板に女性をくくりつけて蛇神に捧げるという風習は中国にあるのでもしかしたらここの人たちだったのかも。と思うのです。 でもスサノオはそういった風習が理解できなかった。つまり何処かから来たのでは?とは思うものの、中国も広いから他の地方かもしれないし、朝鮮かもしれないし・・・・
792 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 11:08:14
ちなみにスサノオと出雲ってあんま関係ない気がするけどな スサノオがイザナミに言われて納めたのは「葦原中国」で、葦原神社があるのは信濃だよ スサノオを祀る諏訪神社があるのも信濃だしさ 信濃は越(石川や新潟辺り)の近江へと東山道が続いてて ここの近江港(琵琶湖の近江じゃないよ)は、渡来人との交易港すよ 半島(平壌とか)から黒潮だかにのれば越に着くんすよ 青森とかに渡来人縁の神社があるのもその為だと思うよ ちなみに大乗仏教以前に日本に伝わって来た「密教」 密教の本山派の信仰してた大峰山は、畿内にある大峰山じゃなく、越にある大峰山の方だよ 密教は大峰山に対して西(越、信濃、東北)から登るのが密教の本山派 東(美濃、三河、尾張)の派閥は密教の当山派 で、2つの勢力に別れてたんだよ(飛鳥時代頃) その後渡来した大乗仏教は畿内に京を置いて大和を統治したんだと思うよ
793 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 11:18:52
>>791 「蛇、大蛇、龍、ドラゴン」
これらはさ、世界中の神話に登場するよ
水神としてだったりとか、悪の使いとしてだったりとか
ある時(またある土地では)は良い者だったり。またある時(土地では)は悪者だったりとかさ
アフリカ奥地のドゴン族の神話が、この「蛇、龍」に付いて詳しく伝えてたよ
龍やら蛇やらってのは、彼ら曰わく、オリオン座三ツ星のシリウス星から来た異星人だよ
水を操り空を飛んだりして、全身にウロコがあり体が蛇のような半人半魚の両生類星人
世界中で水神とか蛇や龍の神としての伝承があるよ
本当に異星人かどうかは知らないけど
794 :
古代 :2007/12/31(月) 11:18:53
出雲のスサの男とスサノオは別人という考えをする人もいますね。 出雲風土記では先に書いたのとか風除けを作ったから安心したとかのほほんとした話が多い。 実はスサノオの墓とか神社とかいっぱいあって謎の人物の一人なんですが。 そういえばヤマタノオロチも越の国から来る事になってますね。
795 :
古代 :2007/12/31(月) 11:24:25
蛇神の話はこれまたややこしいのです。生け贄を捧げる風習は中国に見る事が出来るのは言ったとおりですが。 他の地方の蛇は稲の神様である事も多いです。稲穂が穂を垂れる姿が蛇に似てるからとか、水田の水に住んでいる、とか雷の事でだから稲妻というとかその他諸々。
796 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 11:27:01
>>794 ヤマタノオロチは龍じゃなく「水を操る仙人」の事と思うよ
水を操るから龍神とか呼ばれてたんだと思う
奥美濃の岐阜長野愛知の県境辺りに、昔は「海水の湖(海と呼ばれてた)」があったらしいよ(阿智村の伝承など)
その名残として、その付近では海水が出る井戸が今でも長野にあるし
その湖が無くなるまでは、信濃は塩を作ってて、信濃から美濃や尾張へ塩を運んでたりしたらしいよ
だからその道が「塩の道」って呼ばれてたり飯田付近に「塩田」って地名や塩田城が有ったりしたんだよ
大震災(地震?)により、山が崩れ、その海水の湖は一晩で無くなったらしいよ
797 :
古代 :2007/12/31(月) 11:31:44
海水の湖ですか。塩は貴重だったでしょうし。おもしろい観点ですねー
798 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 11:38:40
まあこの奥美濃にあった「海」って呼ばれる海水の湖とヤマタノオロチは関係ないかも知れないけど、一応この湖は龍が住んでたらしいよ ただ飛騨の奥地にも九龍湖とか龍や仙人にまつわる場所はある 山幸彦の話がヤマタノオロチなのか、スサノオの話がヤマタノオロチなのかどっちかだとは思うよ(つか同じ話がごっちゃになってるだけかもだし) ただ剣は「オロチの腹を裂いたら、、」ってのはどうやら違うよ 山幸彦の話とリンクさせるなら、山幸彦が3年間お世話になった山奥の仙人の宮から帰る際に、送ってくれた和迩に渡した剣が草薙の剣 仙人(東覚林坊?)の麓の人々の間で「ヤマトのオロチ(山幸彦?)は仙人が封印したからもう現れないよ」みたいに伝わったからそんな話になったんだと思うよ 奥美濃、奥信濃、飛騨の辺りの伝承を総合するとそれがヤマタノオロチ伝承だと思うよ スサノオとリンクさせるなら、箸が流れて来た川は木曽川か長良川か矢作川のどれかと思うよ
799 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/31(月) 11:47:03
>>797 ヤマタノオロチと関係ないかも知れないかもだけど;;
ただ山幸彦の話とはこの湖は関係あると思うんだあ
山幸彦が「海」を渡って出会った仙人
この「海」は東シナ海か、奥美濃に有った「海」かどちらかな気がする
浦島太郎も多分、山幸彦の話の事だと思うけど、浦島神社や浦島が寝てた岩とかの伝承も、このクソ山奥の付近に沢山あるしさ
亀岩や舟岩や池の平や塩野や塩田や、、
天照大神の恵那山や御嶽山の霊山にも近い場所だしさ
800 :
日本@名無史さん :2007/12/31(月) 17:40:56
紋太くん! 今夜はうんこして早く寝るのよ。 わかった?
伊勢に並ぶ宇佐八幡に奉られてる 比め大神が卑弥呼なら、九州邪馬台国なんだろうね
802 :
ローガン :2007/12/31(月) 20:37:32
803 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :2008/01/01(火) 00:00:22
おめでとう
あけおめです。
805 :
ご参考まで :2008/01/01(火) 16:07:28
日本列島冷え込んでいますね。 それでも、倭の地は温暖なのですから、よほど半島と洛陽は寒かったでしょうね。 この寒気を身に思いつつ、邪馬台国の所在地論をするのも一興でありましょう。 なにせ、倭地温暖なんですから。 尤も、夏にしか魏使は来ず、比較論の寒さ也、という見解は百も承知です。 しかし、張政らが倭にとどまった年数を思うと、 水野教授の説、いわゆる狗奴國の風土描写説も心情的かつ気温的には同意したくなります。
806 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 16:59:05
>>805 >魏使は夏しか来ず
正月そうそう異な事をおっしゃる。
807 :
【末吉】 :2008/01/01(火) 21:47:22
>>806 古代の渡航は4〜10月に集中していて、それ以外の時期は
ほとんどない。これは海が荒れるから。
魏の使者が温暖期に来て帰ったというのは、あり得るよ。
>古代の渡航は4〜10月に集中していて、それ以外の時期は ほとんどない。これは海が荒れるから。 そんな事どこに書いてあるの >魏の使者が温暖期に来て帰ったというのは、あり得るよ ようするに推測ね
809 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 22:35:59
冬の玄界灘は荒れるから。 転覆したら水は冷たいし。 何はともあれ、倭人伝には持衰ってのも書いてあるくらいだから、 大海の横断は命がけだったんだろう。 沖の島ってのは、古代の海難事故防止を祈願する聖地だっただろうと思う。
>冬の玄界灘は荒れるから。 >転覆したら水は冷たいし。 いやだから類推が求められてるんじゃなくて 冬季渡航がなかったという典拠が求められてるんだろう、今は
811 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 23:08:59
813 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/01(火) 23:23:55
>>811 一見倍暦の証拠に思えるが、冬は寒冷だろうし秋は台風が多来
するためでないの? 参考には相当なる。
814 :
唐松山 :2008/01/01(火) 23:47:18
こちふかばぁ-- こち=東風 之だけじゃ 面白くない。 匂い起こせよ 梅の花 梅の花=中華 だよね 春、東風 と共に 中華に 渡る。 遠く離れた 京の都人等は、 船が 中華に渡った、又は 無事に渡れた事を 祈る歌。 中華の立場で もし この船が 北西から吹く 北風に逆らってくる、 不吉の知らせ。 追い返せ。
815 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/02(水) 00:02:12
航海に合った季節風の吹く時期に、潮目を読みながら進んだのでしょう。 「月待てば潮もかないぬ いまは漕ぎ出でな」のように。
>815 埴輪にあるとおり、当時の倭に帆船はなく、櫓で漕ぐ船だった件
817 :
汽笛一声 :2008/01/02(水) 00:21:49
冬は北西の季節風が頻繁に強く吹き、逆風だからですよ。 冬でも天候に恵まれれば渡れます。
818 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/02(水) 00:22:33
艪で漕ぐにしても向かい風では進みにくいんでは。 風と潮目を見ながら波風のあまり無い時期をを選び 万全を期す手馴れの船頭さんがいたに違い無いと思うが。
親潮暖流の強い冬は流されて、下手すれば危険な馬賊が住む沿海州に流れ着く やはり冬は危険だったろうな
ようするに、一年中フリーということで
一年中フリーなら日本列島はとっくの昔に大陸の支配が及んでるよ
822 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 22:51:20
三国史記にもあちらから日本に渡ったものがいたという記録は全くないし、 有史以来、海を渡って日本に攻めてきたのは元だけかな。 しかし、徐福渡来伝説もあるし、熊本県には、河童渡来伝説もある。 河童渡来伝説というのは、仁徳天皇の御世、九千坊という河童の総大将が 大勢の部下を引き連れて海を渡ってやってきたという話。 九千坊は、八代市に上陸し、そのまま球磨川をさかのぼって行ったとされる。 この九千坊というのは呉人という説もあるらしい。 大陸からやってくるときは、朝鮮半島経由ではなく、揚子江付近から直接 やってきていたのかもしれない。
823 :
日本@名無史さん :2008/01/02(水) 23:03:47
馬鹿な八つ目
対馬海峡を渡ってそんなに大量の軍は送れないね 使節ていど人数が優れた船頭と船を以って渡るのがやっと 日本列島がよほど魅力的な所なら別だけどね
825 :
唐松山 :2008/01/03(木) 13:37:31
神功が渡海 当然 櫓こぎの舟 1回の 渡海で 「三韓を治める」事は不可能 渡海は 西暦272年 魏が滅んで まだ間もない とりあえず 鉄の輸入と 中継港の 百済と通好を結ぶ それから 10年程 実力を蓄える そして 新羅と戦 (新羅本記参照のこと) 60年後の出来事では 不可能。
826 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 20:36:19
神功自身は治めてない 旧支配者をそのまま温存するかわりに自国を宗主国と認めさせて朝貢させた
827 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 20:40:35
つまらん! くだらん! あほくさい!
仲哀死去からの 大王空座間は 神功皇后と武内宿ネが治めてたはず。。 これが魏史の卑弥呼と弟王なのではと、チラ裏
>>828 そうじゃないと思いますよ。それがしも古代史のかじり始めの昔の
時はそう思ってましたが、研究するに従い違うと考えるようになり
ました。まず、卑弥呼を神功だとすると神功39年の記述は239年に
あたり、これを肯定すると次代の應神、仁徳の寿命が著しく長く、
100歳をだいぶ超えることにを容認したことになっちゃうんです。
だから卑弥呼が神功ということは考えにくいのです。神功が卑弥呼
ならば畿内説でしょうが、卑弥呼は死亡時百人ばかりの殉死者ととも
に埋葬されたそうで、垂仁は殉死を取りやめ埴輪の代用策を採用して
ますから、神功の世だとこれも倭人伝の記載と合わんこととなり
ます。もっとも垂仁世が過ぎて再度殉死再開だと言うならまた話は
別でしょうが、考えにくいんではないでしょうか?
すると 宇佐八幡に奉られてる 応神・神功皇后に挟まれてるあれが卑弥呼かな?
831 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 22:00:39
>>830 そうでもないみだいですね。社伝は宗像三神だそうですが、比売大神
は神功の時代の前後ころの、九州の女王あたりの方だと思いますね。
おそらくは女島生まれの女性ですよ。
そうだとしても、ただの島人が 応神、神功と共に奉られて並び立つんでしょうか…? しかも真ん中に鎮座されてますよね?
833 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 22:56:14
ただの島人じゃあないと思いますよ。後代でも北九州の島で生まれた 人でしたか、半島の王になったりしています。女王級の身分だと思い ますね。
一国の女王級で 大王と皇后の真ん中に鎮座できるんでしょうか? 応神と神功に引けのとらない身分でないとおかしいと思いますが。
835 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 23:12:45
宇佐神宮の昔の神官が対等に考えていたんでしょう? それに神官は 九州住まいだから、多少ひいきがあるって言えば否定はできんです。 九州王朝の女王の一人でしょう?
836 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 23:24:59
神社に祭られてる神様の位置や人数ってのは余り気にしない方がいいと思う 俺なんであっちもこっちも同じ神様を祭ってたり、何人もまとめて祭ってるのかなって思ってたけど何となく理由がわかったよ 例えばその土地を新しく納めた氏族とかが「俺らの氏神や始祖の○○命もここで祭れ」って事で祭る神様が何人にもなったり、氏族が散らばればまたそこでって事であちこちで同じ神様を祭ったりってなってるから見たいだよ けど一応全国的に多少の分布はあるみたいだね ここら辺は素戔嗚尊の諏訪系とか、天照大神の伊勢系とか、なんとかの出雲系や、中臣鎌足とか 全国的にみると大まかに8人ぐらいの神様系に分かれてた図を確か中日新聞の日曜日の奴で見た気がする しまったあ。ちゃんとよんどけばよかったなあ
具体的に女王の居た九州王朝とは何処ですか? 太国さんの想像国の一つですか? 地元神なら単独に奉るのが普通ですよね? しかも伊勢神宮と並ぶ大社にヒイキもヘッタクレもないんじゃないでしょうか?
838 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/03(木) 23:41:23
全国的にめちゃくちゃ数が多い八幡神社や稲荷神社や愛后神社や熊野神社とかは、日本にあった産土神社って言う文化によって各村落事に村落神として神社を祀る風習があったからめちゃくちゃ沢山あるらしいよ 産土神社や村落神社って性質の神社と、その部落(差別の意味じゃなく集落ね)の一派氏族を祀る性質の神社がある見たい 例えば俺の実家のクソ田舎の町にも ・八幡神社(品陀別尊) 3個 ・石亀神社(大山積命) ・熊野神社(伊弊再命) ・神明神社(天照皇太神) 2個 ・津島神社(素戔嗚尊) ・愛后神社(火之迦具土神) ・早房八幡神社(品陀別尊) ・出雲神社(スサノオ尊) ・八王子神社(久名斗神) とにかく沢山ある 言われやいつ頃かわかるものや、元々は金比羅神社だったとか祀神は応神天皇だとか諸説あるものや、年代不明のものもある なぜその部落はその神社なのかとかも恐らく理由があるんだろうけど俺は良くわからないや
839 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/03(木) 23:44:58
>>837 まず阿蘇あたりですま。あそこは1回しか行ったことがないので、
貴殿から反論が出てもさらなる説明は無理やも知れないですが、
そのあたりだと考えます。遺跡は時間の経過、事前の猛威、風化、
盗掘等によって壊滅に至りますから、遺跡が単にないからとして
否定すれば失敗すると思いますが・・・。
当時の神官が比売大神の正体を知らなければ、かような祀り方も
するんでないですかな?
ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・
まず、どこの馬の骨かわからないような神を 応神と神功の間に奉りますまい。 もんたさん、宇佐八幡をその辺の八幡と 一緒にしてる時点であなたとの会話は無理です。
841 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 23:52:53
>>838 この文化以外に江戸時代までは各家々で自分の家系の「氏神」を祀ってたらしいよ
まだ幾つか家の裏山に小さい社で氏神を祭ってる家もあるし
ただ氏神が誰なのか分からないまま祀ってる人も多いよ
明治時代に自分の家系の氏族や氏神を名乗ったり公表する事を禁止する法律が作られて、ひい婆ちゃんとかは余りそう言う事を話さなかった見たいだよ
キチンと伝えてる家は伝えてると思うけどさ
檀家の寺に江戸時代のなんとか戸籍ってのが残ってれば、それに全ての檀家の家の氏神とかまで書いてあって、自分の家系や血統の氏神が分かるようになってた見たいだけどさ
江戸時代までは日本はそういう文化風習の国だった見たいだよ
つか自分の氏族を誰もが遡れる国だったってのは凄い事だと思うけどな
大陸の国の人達なんて、血統や家系の事は数代ぐらいしか遡れないでしょ?
日本は天皇や出雲家だけじゃなく、全ての国民も平安時代ぐらいまで遡れてた見たいだよ
家紋とかもその名残だね
842 :
日本@名無史さん :2008/01/03(木) 23:59:30
>>840 俺も祭られてる神のルーツを辿るのは必要と思うよ
ただ5人神様がいたら2人あ後から別の氏族が合祀したとか言うケースもある
「八幡」の発祥は良くわからないけど「稲荷」は多分、尾張キツネとかの神話の事じゃ無いかなって思う
あとさっき書いた産土神社の一覧みると神社の名前と祀る神が必ずしもリンクしてなかったりするし
つか宇佐八幡をちょっと調べてみるね
843 :
日本@名無史さん :2008/01/04(金) 00:10:26
>>834 宗像の三女神というのは、天照大神や素戔鳴尊と同じ時代の神様で、二人の子供
のようなものだから、応神天皇などのご先祖様ともいえるからじゃなかろうか。
古事記によると、素戔鳴尊が高天原に上っていくと、攻めてきたと高天原は
大騒ぎになる。素戔鳴尊は、そんなつもりはありません。私の心は清い。
なんだったら、誓いを立てて子供を生みましょうか。
てなわけで、素戔鳴尊が天照大神の玉を噛み砕いて噴出したときに生まれたの
が三女神。ほら、女の子が生まれた、私の心は正しかったでしょうということ
になる。ここの所の意味は良くわからないが。
ちなみに、天照大神が素戔鳴尊の剣を噛み砕いて噴出したときに生まれたのが
五柱の男神。
三女神は素戔鳴尊の子供となり、五柱の男神は天照大神の子供になった。
五柱の男神のうちの一人が天忍穂耳命、つまり天孫・邇邇芸命の父親で
皇室の祖先になっている。
844 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 00:20:05
宇佐八幡神宮→宇佐神宮の事 ってあるけど、宇佐神宮の前の名前は宇佐大社とか宇佐神社でいいのかな? 「神宮」って名前は明治時代以降に作られた呼び名だから、橿原神宮や宮崎神宮見たいに明治以降に記紀の記述から後付けで祭ったり建て替えたりとかの神社の事と思うけどなあ 扶桑略記の記述にある宇佐の地ってのが本当に大分の宇佐の事なら間違い無いとは思うけど「神宮」の時点で怪しいなあ 扶桑略記に書いてある訳だから、扶桑の国があった辺りで宇佐を探して見るね。 似たような神社や由来があるかも知れないっす
なるほど、では最初に比売だけが奉られていて、 わざわざ後世に両端に応神と神功を奉って建て替えたと? ところで、伝承上では高天原は御所市の高天(私の故郷の近所ですw)になってますよね。 天照は…実在と考えますか?
天照とスサノオは姉弟だから……………… 近親相姦www?でも遺伝子上の問題で奇形児が…う〜む。。夫婦かな? んで、夫の暴力に耐え兼ねて岩戸に引き込んだとwww 親近感沸きますね
八幡大神=応神の事
848 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 00:43:06
大分にあるのが宇佐八幡神宮 扶桑略記とかに書いてあるのは 宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起ってので、これ建てられたのは「弥勒寺」だよ この宇佐の八幡宮に建てた弥勒寺はどこかなってくぐったら、弥勒寺ってのも結構沢山あるね まだちゃんと調べて無いけど、それらしいのは ・昔の扶桑国のあたりだった岐阜の関市にある弥勒寺跡 ・同じく扶桑と呼ばれてた信濃の弥勒寺 ・群馬にあり高尾山と古峰神社とで関東三天狗と呼ばれてた迦葉山弥勒寺 大分にある宇佐八幡神宮は昔は弥勒寺って呼ばれてたの? 宇佐八幡神宮って名前がいかにも「扶桑略記の記述にちなんで名前つけました」見たいな名前だし
849 :
日本@名無史さん :2008/01/04(金) 00:44:00
宇佐神宮の創建は比較的新しいのじゃないかな。 西暦571年に八幡神が現れたとなっていて、これが一番古い由緒らしい。 西暦700年頃に、法鏡寺・虚空蔵寺が創建されたとなっている。 西暦720年の「隼人の乱」のとき、制圧するための本拠地のようになっている。 その後、宇佐に災いが多く起きたので隼人の霊を慰めるために御殿が造営される。 西暦740年に聖武天皇の東大寺大仏の建立に協力する神託があったことから 国家神としての地位を持つようになる。 そして、769年の道鏡事件では大きな影響力を発揮する。
850 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 00:47:40
851 :
日本@名無史さん :2008/01/04(金) 00:53:16
>>843 ごめん、間違えた。
天照大神が素戔鳴尊の剣を噛み砕いて空中に噴出したときに生まれたのが
宗像の三女神で、素戔鳴尊が天照大神の首にかかっていた玉を噛み砕いて
空中に噴出したときに生まれたのが五柱の男神だった。
852 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 01:04:23
つか俺が書くと無理やり美濃と結び付けてるんじゃないかって思われるかもだけど、 宇佐の八幡宮の弥勒寺 これ扶桑略記とか宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起とかに書かれてる寺の事をいってるのであれば、場所は大分じゃなく岐阜市の宇佐や関市付近にあった円空とかの話もある弥勒寺の事だと思うよ 大分の宇佐八幡宮ってのは申し訳ないけど、後付でそこに建てた神宮だとおもう つか「神宮」ってのは基本的に明治時代以降に立て替えられたり新しく建てたり、違う神を合祀して格式を高く見せたりそういうのばかりだよ 伊勢もあそこじゃなく、紀氏の伊勢をルーツとしてるだけだとおもうしさ
ではなぜ、九州宇佐と出雲だけが、鎮魂を意味する四拍手なのか…? あと、なぜ道鏡事件の時に、称徳天皇はその認証をもらいに伊勢ではなく九州宇佐にいったのか? これは逆説かなんかで読んだ請け合いですがw
854 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 01:26:32
855 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 01:41:08
あと宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起とかによると、山頂に3つの磐座が置かれた山ってのは、 磐座尾張の春日井市にある弥勒山って山があって磐座があるからこの山か、もしくは犬山の事じゃないのかな? この弥勒山と付近にある同じような磐座が祭られた二つの山を「三山、御和山」とかって呼ぶみたいだよ ちなみに、この辺りも宇佐って地名が残ってる この辺りも宇佐だったんだとおもうよ
そんな辺境に称徳天皇は行きません。 いいかげんなんでも 美濃に持って来るのは辞めましょうよ。 無視されるだけだよ… 宇佐も明日香も美濃とか バカボンでも言わないよ。古墳もロクなの無いのに。 まさか…江戸幕府も美濃とか言わないよね
857 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 02:04:16
あのね、そんなの美濃だけじゃなくて 山神なんてのは全国各地にあるわけで、 奈良に至っては県内の山全部に神が奉られてるわけさ。 地名にしてもさ、 例えば、昭和30年に開拓した 奈良と京都の県境の学研都市に 高の原ってつけたり、 大字に神功とか、宮も無いのに右京や左京ってつけるわけさ。
859 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 02:16:33
>>856 古墳は沢山でてるよ。特に犬山、桃山の周辺とかさ
つかやっぱ無理やり美濃に持ってきてると思われてるんかぁ::
一応、↑にある宇佐神社ってののルーツを辿って、群馬や信濃の弥勒寺とかもあったけど、宇佐や扶桑って地名とも関連がある関市にあった弥勒寺の事じゃないかなって話だよ
宇佐八幡神宮って名前じゃなく、扶桑略記や宇佐八幡宮弥勒寺なんとか記によれば、宇佐の八幡宮に「弥勒寺」を建てたって記述だよ
称徳天皇とか応神天皇とかがどうこうとかは俺言ってないよ。調べても無いしさ
扶桑略記の中の弥勒寺の場所がどこかな?って調べてみただけだよ
あと犬山周辺は全然辺地じゃないよ。平安時代とかは一番人口が多かったとか言われてる所だしさ
木曽三川沿いだよ
860 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 02:24:21
>>858 もちろん美濃以外に合致する地域が他にもこうやって探してけばあるとは思うよ
で、元となるルーツの場所はどこかな?って探したりしてるんよ。まぁ、基本的には美濃信濃尾張で探して他は調べたりしてないけどさ
宇佐八幡をWIKIで調べたら「扶桑略記によればこの神社の設立は、、、」みたいなのが合ったから
それみたら、宇佐八幡神社じゃなく、建てられたのは宇佐の八幡宮に弥勒寺がって事だったから、その弥勒寺の場所を特定できないかなって感じで調べたりとかだよ
大分の宇佐八幡は昔は「弥勒寺」って名前でした?
美濃は今も昔も地方都市。 てか、一般レベルでも良いから、 近代までの歴史勉強したら? 平安の平は平氏の平 とか言ってる時点でイタいですから。
862 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 02:32:15
>>858 つか畿内にある社寺や地名なんかがほとんど後付けの地名だってのは知ってるっす
畿内にある地名とかのように跡付けの地名とかが多いからチャンと、書物が書かれた当時の地名の場所を自分なりに調べて特定してみたりとかだよ
つか畿内にある社寺はほとんど移設物だし地名は後付のものばかりだしさ
神宮の中に寺。寺は後から建てたに決まってる。 物部衰退後だろ。 ちょっと考えればわかるだろ
864 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 02:37:12
>>861 つか承和11年宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起や、扶桑略記に書かれてる宇佐八幡宮の弥勒寺って、どこのことだと思います?
俺はこれ、関市にあった弥勒寺の事だと思うよ
建てられたのは弥勒寺であって、宇佐神社って名前の神社じゃないすよ
移設www跡付けwww おぃおぃ、藤原氏や天皇家などの建立者に シバかれるぞwww 頼むから素面では語るなよwww あくまでファンタジーなのでって跡付けよろしくwww
だから、宇佐八幡の中にある寺のことだと 何度言ったらわかるのか
867 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 02:50:42
>>866 その寺は弥勒寺って呼ばれてた寺?
あと、近くに磐座を祀った山とかある?
神宮境内に寺があっても 何の不思議もない。 考えれば不思議なもんだが、そういうのは全国にある。 大体、その寺と山がどうしたんだよ? 宗像三神と全く関係ないだろうが
869 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 03:06:26
>>868 宗像三神だの天皇がどうとかは何もいってないってば
宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起や扶桑略記に書かれてる宇佐の八幡宮に建てられたと言う弥勒寺はどこかなってだけだからさ
天皇とか神とか全く気にして無かったけど、これを建てたのが天皇なの?
どういういわれのある寺なのか俺良く知らないまま場所だけ探してたよ
870 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 03:11:20
ちなみに「宇佐」ってのは宇佐津彦とかの宇佐氏の事みたいだね ウサツヒコ(宇佐津彦=宇佐国造の先祖) ウサツヒコは菟狭津彦とも表記され、九州は豊前の産と考えられるが、宇佐は、鬱陵島の古名・于山島(ウサンド)に由来する名称とされる。 中臣氏系図では、天児屋命→天押雲命→天種子命→宇佐津臣命と続き、ウサツヒコの妹と見られるウサツヒメ(宇佐津姫)をアマタネ(天種子命)が娶っているから その子のウサツオミ(宇佐津臣命)は母方の名を名乗ったということになろう。 アマコヤネ(天児屋命)は、天加耶主(カヤネ)とも表記され、伽耶の王族であったとされる。ウサツオミの後裔には『紀』〈神功条〉あるいは〈允恭条〉に登場するイカオミ(中臣烏賊津使主=伊香刀美)がいて 『姓氏録』などによれば、伊香連の祖とされている。伊香で想起するのは物部氏であり、イカオミは物部伊香色雄の女婿ではないかという説もあり、宇佐から近江国伊香郡与胡郷に移って繁衍したとされる。
871 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 03:13:10
ちなみに琵琶湖の北に佇む余呉湖の仙女伝説を紹介すると、八女(やおとめ)が白鳥となって天から降り、江(余呉湖)の南で沐浴した。この時、伊香刀美が西の山から白鳥をみて奇異と思い、近づいてみると、天女であった。そのうちの一人の天の衣を隠した。 覗き見されていることを知った天女は羽衣を纏って天に飛び上がったが、羽衣のない天女は、そのまま土地の人となり、伊香刀美と夫婦になった。そして、この地に住み、男二人、女二人を生んだ。 これが伊香連の先祖である。後に天女は羽衣をさがし、天に昇った。伊香刀美は物思いに沈んで独り暮らした 余呉湖の湖畔には、一本の柳の老樹があり、「天人の羽衣、衣掛柳」の案内板がある。新羅崎と呼ばれる地があり、白木明神社があったという。 ウサツヒメの祖にハナタリ(鼻垂)一族の女人部族長とされるハヤツヒメ(速津姫)がいる。 湯布院町(大分県)の福万山山麓にある伏魔社と若杉社は速津姫を祭り、ここでケイコウ(景行天皇)とハヤツヒメが会った伝承をのせている。 参考のために、偽書とされている『秀真伝』によれば、「タナコ姫(神名はイチキシマ姫)が伊予国の息吹戸宮で生んだ王子は三つ子で、兄は伊予津彦といい、 弟を土佐津彦、宇佐津彦という。この三王子を連れて筑紫の宇佐に移り住んだ。タナコの母ハヤコは八頭のハヤコ大蛇で、アシナヅチ・テナヅチ夫婦の七姫をかみ殺したため、ソサノヲに斬り殺された。 宇佐の地で成育したハヤコの三つ子の姫(タケコ・タキコ・タナコ)は、母の怨念と罪深さを知り、みずから母の罪のつぐないのため、さすらいの旅に出ていき、 それぞれ結婚する。タケコはオオナムチ(大己貴之命)の妻に、タキコはカグヤマツミ(香久山祇)の妻に、タナコはイフキドヌシ(伊吹戸主)の妻になった。この三姉妹は宗像三神(宇佐三女神)である、というものである。 九州と美濃尾張に同じ「宇佐」ってのがあってもこれ見るとおかしくはないとおもうよ
872 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 03:19:35
873 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/04(金) 03:33:04
まあただ○○発祥みたいな地は九州に譲るよ ○○発祥ってのは、どの時代を始まりとしたかによって、かわるから俺あんまりこだわって無いし イワレヒコを始まりとして、そこを発祥とするなら確かに九州が発祥で、その氏族が畿内へ遷都をして荒ぶる神々(他の氏族や勢力?)を統治したって事だと思うよ それを否定するつもりはないっす
874 :
唐松山 :2008/01/04(金) 10:23:43
どうせ書くなら 3名一緒に ホ06099 ヲシホミのミを ヲシヒトと イミナをふれて カミアリの モチヰたまえば タミうたふ さきにモチコが うむミコの ホヒノミコトの タナヒトぞ ハヤコがミツゴ ヒはタケコ ヲキツシマヒメ フはタキコ ヱツノシマヒメ ミはタナコ イチキシマヒメ
美濃もん太 太国 サガミハラハラ 三馬鹿だ
>876 もう面倒だから三匹まとめて サガミのもん太国 でイイヨ…('A`)
879 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/06(日) 19:11:41
わらわせないでちょうだいね。最近血圧高いんだから。
880 :
日本@名無史さん :2008/01/06(日) 22:12:19
腹腹さんやですがさんは立派なもんだぞ。
881 :
日本@名無史さん :2008/01/06(日) 22:33:59
いや、ですがのレスは空想ばかり。 根拠が全くない事ばかり。 まだ腹腹さんの方が、きいてて面白い
882 :
サガミハラハラ :2008/01/06(日) 22:55:00
>>880 ありがとうございます。
大変励みになります。
より一層頑張ります。
ですがは、面が割れてないだけまだよい。 サガミの方は、文字列を見ただけでキショいツラを思い出しちまう。 早速「腹腹」もNG登録せねば・・・・
ひどい自演が見れるって聞いてやってたんですが、ここで良いんですか?
885 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/07(月) 00:31:55
って言うか
>>880 >>881 は自演じゃないの。サガミハラハラさんはともかく
「ですがさんは立派なもんだぞ」なんて持ち上げといて
>>881 でドスンと落とす為の演技、そして
>>883 >>884 でショックを与える。
何年も同じ手口で来られてもねえ。心境の変化ももう起きないし。
文章に特徴があってバレバレだもの。まんねりよね。
なんか、ブチブチ言ってるぞ。 誰か相手してやれよwww
美濃もん太 太国 サガミハラハラ 九州ですが …じゃあ上記4人で四天王ってことでw
888 :
日本@名無史さん :2008/01/07(月) 06:18:57
>>784 日向にも都はあったが、もうすでに大和には都はあったのだよ。
>>777 九州日向の地の一族が邪馬台国系なのか狗奴國系なのか、またはまったく関係ない国なのかが問題。
狗奴國系か、またはまったく関係ない国が、邪馬台国を滅ぼして東征したと考えると、
アマテラス神話は倭国の女帝・女王・巫女の記憶や伝承を引き継いだだけということになる。
要は、アマテラスは、卑弥呼や台与、etc...その他にも大勢いたであろう女王(巫女)の風習の記憶が残ったものとみることができる。
支配層が違うだけで、どの地域にも同じ種の倭人が住んでいるので、伝承は共有される。
神武以降6世紀後半まで、しばらく女帝はいないので、女帝を共立していた連合国家とは違う一族が東征したと考えることが出来る。
アマテラス神話は神武以前(神武を3世紀後半〜4世紀前半の人物と仮定した場合)、
3世紀前半時代の女酋長の風習を伝承しているのではないか?
では、高天原は元々の出自故郷を懐かしんで 神話化した奈良の高天のことであると?
890 :
日本@名無史さん :2008/01/07(月) 16:26:55
>>889 当時の基本的法則として、
西から東への流れ(文化、その他)があることを無視してはいけない。
それは土器・遺跡の調査からも明らかだが、特に前方後円墳以前の時代にさかのぼると顕著。(おそらく神話に描かれている時代)
東国などは未開の地も多かったわけで。
891 :
日本@名無史さん :2008/01/07(月) 17:03:44
日本書紀によると、神武天皇は東征する前にこんなことを言っている。 「東のほうに良い土地があり、青い山が取り巻いている。(中略)そこに 行って都を作るに限る」。 また、景行天皇が日向に来たとき、都を懐かしんでこんな歌を詠んでいる。 「懐かしい。我が家のほうから雲が湧いてくる。大和は最もすぐれた国。 青々とした山がつらなって垣のように包んでいる。大和は美しい」。 どちらも、大和が山に囲まれていることを強調しており、そこが良いと 言っている。 日向は海に臨み、大和は山に囲まれている。これが東征の理由としたら、 津波なんかに襲われたのかも。あるいは超大型の台風とか。
確かに、現在も奈良は台風と新幹線は 避けて通ります。吉野山景が壁になって 天気図では直撃でも現地はどんよりしてるだけとか 多々ありますよ。 お陰で寺社は崩れず今も残ってます
893 :
古代 :2008/01/07(月) 19:31:17
『日本書紀』によれば、アマテラスは、その名をオオヒルメムチ尊(大日靈女貴尊)といった。このうちの「大」・「貴」・「尊」は美辞句なの で、その実名の部分は「日靈女」になる。「靈女」は「巫女」であるから、 「日靈女」は「ひみこ」とも発音できる。 また、天照=大日靈女貴尊を日女命(ヒメノミコト)と呼ぶこともある。意味は太陽の巫女、太陽の妻というような意味である。 つまり、もともとは大日靈女貴尊を日女命は太陽に仕える巫女、あるいは太陽神の妻というような位置であったと思われる。 後に太陽神そのもの、天照大神となったと考えられる。
894 :
唐松山 :2008/01/07(月) 19:48:22
女性は太陽ですから。 男は女次第ですから。 太陽がないと萎れるだけですから。
奈良は ハンダ郷米が昔から 今も、天皇家に納めてますよ。
897 :
880 :2008/01/07(月) 20:40:19
>>885 違いますよ、ですがさん。私は881ではありません。
どうしてですがさんはこんなに猜疑心に満ち満ちてしまったのだろう?;;
898 :
唐松山 :2008/01/07(月) 21:10:55
上から 下を見るのが 男 下から 上を見るのが 女
899 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/08(火) 00:27:31
>>897 反応するのも馬鹿げてるけど。目に入ったもんで一言。
>>880 だけ別の人だと?
「ですがさんは立派なもん」って、僕の文のどこを見てそう思うわけ?
今頃「からかってるだけなのに、ひっかかった、ひっかかった」って喜んでんじゃないの?
しばらく出てこないと思ったら。
又ね、そのうち書き込みどころじゃなくなる事態に陥るかもよ。人を欺いてばかりいると。
>>897 おまい、何かよく分からんが、
脅しかけられてるぞwww
俺じゃないよという単なる否定に
自分で推理して答え見つけて、脅迫とかwww
迷惑この上ないなwww
901 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/08(火) 00:42:05
脅しじゃありません。慈愛に満ちた神の御加護を!と 訴えかけておるのでございます。
イタい人がいるスレがあると聞いたんですが、ここですか?
>>893 要するに、卑弥呼や台与のような巫女さんってのが古代から日本に居たわけだな。
アマテラス女神=卑弥呼と短絡的に考えるよりも、
当時の太陽信仰と巫女さん全般を象徴的に表してるのだろうね。
巫女には必ず付き人の男がいて、それを象徴的に表してるのがスサノオなのかも。
スサノオが暴れて追い出されたりするくだりなどを見ると、
摂政政治または院政なのようなものがあり、権力闘争みたいなものも少なからずあったのかもね。
しかし、その後長らく女王を立てることをやめてしまった理由は何なのだろう?
推古天皇(在位592年〜628年)(第33代)
皇極天皇(在位642年〜645年)(第35代)
斉明天皇(在位655年〜661年)(第37代、皇極天皇の重祚)
持統天皇(在位686年〜697年)(第41代)
元明天皇(在位707年〜715年)(第43代)
元正天皇(在位715年〜724年)(第44代)
孝謙天皇(在位749年〜758年)(第46代)
称徳天皇(在位764年〜770年)(第48代、孝謙天皇の重祚)
明正天皇(在位1629年〜1643年)(第109代)
後桜町天皇(在位1762年〜1770年)(第117代)
神功皇后や飯豊皇女を除くと、ほとんどが6世紀末〜8世紀末に集中。
904 :
古代 :2008/01/10(木) 01:06:28
皇極から始まる女帝というのは中継ぎの天皇という意味合いで原則は元皇后だよね。 それまでは中継ぎを立てる必要がなかったとも考えられるし、中継ぎの天皇は天皇と数えなかったから記録がなかったとか。 称徳天皇が道鏡を次の天皇にしようとした事件で女帝はよろしくないと言う事になり、しばらく女帝は立てていない。 というより天皇大権がくずれるとわざわざ中継ぎの天皇を立てる必要もなくなったということかな。
905 :
日本@名無史さん :2008/01/10(木) 01:17:24
なるほどね。 まぁ、卑弥呼の時代でもそうだけど、女王は夫を持たなかったわけで、 そう考えると”男系天皇思想”と辻褄があう。 昔から、女系の王は立たなかったのだろう。 神事の権威として巫女を女王にしたりすることはあっても、 実権を握っていたのは男弟とかだったのかもね。
906 :
日本@名無史さん :2008/01/10(木) 01:25:08
>>903 まあ古代だと蘇我氏や藤原氏の思惑が大きく関与したから順当に次の男子とはいかなかったと言う事かな?
で、武家社会になって天皇の権威も形骸化するともう単純に順送りになったとw
考えてみりゃ卑弥呼の共立と言っても満場一致と言うより何処かの地方の首長の主導によりなされたと見るべきか?
907 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 01:28:29
>>893 ヒルメって天の岩戸の時に、マンコだして踊ってた鬼道師の事じゃないの?
猿田彦に天照の岩戸まで案内させたから猿姫とも呼ばれてる人
ヒルメは確か素戔嗚尊の氏族の娘で、岩戸の時の鏡も確かヒルメが持ってきたものすよ
紀記の解釈では天照はスサノオが攻めてきた来たと思ったから逃げて岩戸に閉じこもったんすよ
ってか、あの神話を解釈すればヒルメや力持ちの男が天照が眠る岩戸を開けて、なんか持ち出した見たいな事と思うけどなあ
昔は死んだら山の中腹に埋めて山頂に社を立てて、山岳そのものを○○神様を祀る山としてたってのが本当ならだけど
岩戸や祭壇の雨乞い岩と言われるものが各地に複数あるのもその為だろうし
908 :
日本@名無史さん :2008/01/10(木) 01:35:54
>>904 >称徳天皇が道鏡を次の天皇にしようとした事件
まあ藤原氏にすれば宿願であったろう天智系の天皇を即位させることができたんだから
「ここからは王道、男系男子で…」って事だったかもなw
909 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 01:40:35
「天皇」って権力者や統治者に与える称号じゃなく「血統」に対する称号の事でしょ? 征夷大将軍=王=皇帝=権力者=統治者 天皇=最高司祭=神々を降臨させれるシャーマンキング=血統の証しの神器継承者 天皇の称号はこっちの意味だと思うよ 王は王 天皇は天皇すよ
910 :
908 :2008/01/10(木) 01:51:04
>>909 >王は王天皇は天皇すよ
ひょっとして>908の「王道」について言っているのか?
王道と言うのは覇道にの対義語としての意味だが?
なんか「俺サマ辞書」に変な意味載せていないか?w
つか将軍も王も皇帝もイコールかw
歴史より先に日本語勉強しようなwww
王道と言うのは覇道にの対義語としての意味だが?
>>908 の用法のどこが?w
912 :
908 :2008/01/10(木) 03:59:38
>>911 アホが類義語を出す代わりに対義語を出したまで。
そんな事まで一々説明せにゃならんのか?
で、多少意味のあるレスもしておくと、、
弓削道鏡って弓削氏で天皇の血筋、所謂「男系男子」で称徳天皇が藤原氏にあてつけで
道鏡に皇位を譲ると言ったって話があるが本当だろうか?
まあ俗説に言う女帝をたらしこんで皇位簒奪を目論んだと言うのは大概うそ臭いがwww
で何が覇道の対義語の王道なの? まさか男系相続が王道で そうでなきゃ覇道だとでも思ってるのか? 言葉は適切に使わないとなぁ…
914 :
日本@名無史さん :2008/01/10(木) 06:14:07
>>906 神功皇后や飯豊皇女を除くと、卑弥呼・台与の頃から推古天皇までの間は長らく女王は立っていない。
これは何故なのか?
卑弥呼(国治まる)→男王(国荒れる)→台与(国治まる)・・・・・・・・・(謎)・・・・・・・・・推古天皇(これ以降は8世紀末まで女帝が集中)
基本的にお世継ぎをするのは男系というのは古代から変わらないようだが、
基本路線としては卑弥呼時代の巫女は夫を持たず、
推古以降は未亡人だったり、中継ぎの血族だったりする。
仏教の伝来などで、原始宗教の巫女みたいな地位や風習は廃れていったと見るべきか?
それとも、大和政権につながるまでに女王系部族と男王系部族で何か衝突が起きたのか?
915 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 06:50:19
天皇は王じゃなく神器を媒介にアマテラスを降臨させられるシャーマンっすよ 儀式や祭祀事を執り行う司祭は必要でしょ? 神々から続くあの血統が大事なんだよ ちなみに出雲大社の祭祀の出雲家も神代から続く男系の血統だよ 共に世界最古の血統を持つ氏族っす
916 :
日本@名無史さん :2008/01/10(木) 09:34:23
日本書紀に大王が即位する際「群臣が立てる」とあるように、 日本古来の大王即位は王族の中から王位にふさわしい人物を 男女問わず擁立するというものだったのでは? 邪馬台国には身分制度があったことがわかっているし、 巫女とはいえ卑弥呼が低い身分の出身だったとも思えない。 男系だの女系だの言っている人がいるが 男性王族は正室を女性王族からしか娶れない、 女性王族は生涯未婚か夫を男性王族からしか選べないとすれば、 男性王族の子で優先順位がだんとつに高い正室の子は女性王族の子でもあるし、 女性王族の子は男性王族の子でもあるということになる。 王族であれば、男性にも女性にも等しく大王になる権利が与えられていたと。
917 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 14:06:15
>>916 日本はいわゆる都市国家だから国やそこを納める王は同じ時代に沢山いるってば
江戸時代にあった「藩、藩主」ってのも、あれ英語でいう「ハーン」称号の事だよ
チンギス・ハーンが名乗った称号
キング、エンペラー、ハーンってのは王と同意語で、トルコ中東辺りの王はキングよりハーン称号を好んで名乗ってたよ
国王っていうけど國ってのは国家の意味じゃなく地域の意味だしさ
例えば朝鮮王朝は明国の属国だったけど、朝鮮王朝の王になる
同じように日本も征夷大将軍に従えるそれぞれの領地(藩、国)の長が、その國(地域)の藩主であり王だよ
918 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 14:08:39
ああでも「大王」ってなると、それらの王を束ねる王の意味かも 鎌倉時代は藤原氏で江戸時代は徳川氏が大王すよ
919 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 14:19:48
日本における天皇の称号は、国王じゃなく法王って解釈した方が良いと思うよ 仏教は伝来したけど神仏合同って言って、古代神道と仏教が混ざっただけで、仏教が伝来したからといって天皇が古代神道上での最高司祭って立場に変わりは無かったと思うしさ 日本は祭りや司祭や山岳信仰や雨乞いや豊穣を祈る儀式の国なんだしさ 古代日本の宗教上の称号が天皇称号と思うよ 権力者が名乗る称号とは意味が違うと思う
2人目出て来たwww
921 :
日本@名無史さん :2008/01/10(木) 17:23:41
美濃もん太君、書き込む前に読み直してみてくれ。 単純な間違いが多すぎるから・・。
922 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/10(木) 19:34:35
はい、、すみません;; 出来るだけもっと落ち着いて書くようにします;;
923 :
唐松山 :2008/01/10(木) 22:03:39
祭りの踊り とは 男が 女の振りをして踊るから面白いのであって 女が ストリップをしても 男は、唾を飲み込む方が多くて 盛り上がらない。 今でも 神楽として 踊っている神社がある。 岩戸の前で踊ったのは、男です。
924 :
古代 :2008/01/11(金) 00:05:00
王朝交代説を持ち出せば、最初の制度ではいわゆる実力者が交代で天皇になったので血筋は関係なかった。 ゆえに女帝というものも必要なかった。けれどもある時から血統で天皇が引き継がれるようになると、上手く引き継がれない時代があり中継ぎとしての女帝が必要だった。 巫女というものの地位は卑弥呼の時が絶頂期で、崇神天皇あたりまでは神託が政治にかなり影響力をもっていたと思われるが、天皇が神そのものであるかのような天皇大権に移行していく過程で次第に低下していった。
925 :
古代 :2008/01/11(金) 00:18:57
912 道鏡はまじめな僧侶で当時では最先端の梵語も理解していたらしい。 むしろ称徳天皇が結婚を望んでいたために天皇の位に着かせようとしていた、が真実。 藤原氏へのあてつけは淳仁天皇を廃し、自らが重祚することで終わっている。
926 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/01/11(金) 00:48:59
>>924 おー!同意っす
>女帝を立てたのは血統が、
って所は俺もそう思う
現代でも例えばまるで血統の違う俺が天皇を皇居から追いやって
「今からオレが天皇だから」
って、次の天皇になれるってもんじゃ無いと思うし
天皇の血統を全て殺して「オレが、、」ってのも無理と思うしさ
俺は天皇無理だけど、あれこれ天皇氏族と政略結婚して自分の下の代を天皇に据えるってやれば可能と思う
つかこういう作業の間はとりあえず女帝を立てるとか、そういう事もあったかも知れないすよ
927 :
古代 :2008/01/11(金) 01:15:19
926 >自分の下の代を天皇に据えるってやれば可能と思う つかこういう作業の間はとりあえず女帝を立てるとか、そういう事もあったかも知れないすよ 蘇我氏が推古天皇を立てたときがそんな感じだね。
928 :
日本@名無史さん :2008/01/11(金) 01:42:31
>>923 歌舞伎の話でいくと、初めは女が舞台にあがっていたらしい。
ところが、犯す連中が出てきたんで、
風紀上の問題から男が演じるようになったんだとか。
929 :
日本@名無史さん :2008/01/11(金) 01:52:35
>>924 邪馬台国の時代は都市国家の時代。
シャーマン信仰があったため、信託を受ける巫女が王の立場になることもあった。
この頃は実力者が交代で王になる時代だったのだろう。
そしていつの頃からか、支配層の血統が作られていく。
もちろん、皇族同志でも権力闘争はあった。
天皇大権に移行する中で、巫女の地位は低下。
宮廷に使える陰陽師のようなものに変遷していく。
そんな感じか。
930 :
日本@名無史さん :2008/01/11(金) 01:58:55
>>927 おおー! やっぱかあー
聖徳太子は単なる太子であって、別に聖徳皇太子じゃ無かったのかも知れないっすね
あの辺りはやっぱ、ちと継承の仕方がおかしいもんなあー
居ないとか居たとか言われてたな
932 :
日本@名無史さん :2008/01/11(金) 07:58:39
>>929 飛鳥〜奈良にいたる間の女帝は、
巫女のようなこともやっていて、
巫女=最高権力者の天皇
だった時期もあった。
女帝が出なくなってからの地位低下かな。
伊勢斎宮は南北朝まで、
賀茂斎院は鎌倉時代まで
天皇の代わりに信託を受けるものとして存続したが、
斎宮や斎院が政治に口出しをすることは無かった。
男性の陰陽師も、運や縁起を言う程度で、
もともと高位の官僚ではなく、政治に介入などできない。
卜占そのものの地位が下がったというわけだな。
陰陽師が政治に介入したなど、漫画の読みすぎ。
933 :
古代 :2008/01/11(金) 10:13:36
天皇家に限らず奈良時代までの女性の地位は高く巫女的であった。 家の姫は斎姫であったし、女性が家刀自として後継者を指名したりすることも多々あった。 平安朝になっても女性の地位は高い。依然として女性相続だったし皇太后や女院はかなりの発言権があった。 けれどもそこに斎姫としての尊崇を見る事は出来ない。”母”という立場が尊重されたのである。 思うにこれは陰陽五行の考えが浸透した事による影響ではないか。 陰陽五行説では女性は支配には向かない。けれども母親は特に尊重しなければならない。故に”国母”が尊重されたのである。 まあ藤原氏が自分に都合の良い考えを広めただけだろうけれども。政治と思想は絡まりあっていて複雑
934 :
日本@名無史さん :2008/01/11(金) 10:25:46
>>933 斎姫としての地位が奪われて母を強調というのも違う気がしますね。
例えば、平安時代の藤原氏出身の皇后たちは
皇太后や女院であると同時に「斎姫」でもあった。
一条天皇にすでに中宮定子が居るにもかかわらず、彰子が立后した際、
藤原氏の氏神春日大社への拝礼は藤原氏出身の后が勤めねばならず、
定子は出家后でこの任を果たせない、というのが理由だったことは有名。
春日大社に藤原氏が斎姫を奉っていた時期もありました。
国母が力を持ったのは、天皇を母方一族が養育するという伝統によるもので、
斎姫が廃止されたために力を持ったものではありません。
巫女が力を持っていた時期から、王の母方の一族というのは力があったように重います。
935 :
古代 :2008/01/11(金) 11:13:04
934 なるほど、そういわれて見ればそうですね。蘇我氏が力を持っていた時代も天皇の外戚として権力を振るっていたわけですし。 この構図は昔からあったと見るべきですね。 そうすると、巫女の性質の変化という様に考えるべきかも知れません。ある時までは神託や信仰が政治を左右していた。これは確かです。 時代が下ると信仰は消えないけれども神託はそれほど多くなくなっていきます。 斎姫は神託を受ける巫女というよりは、子孫繁栄の象徴であり、神の四魂のうちの荒魂を沈め豊穣へと導く御霊沈めの役が大きいように思います。
936 :
古代 :2008/01/11(金) 11:34:58
陰陽師といえば賀茂家、安部家=土御門家ですね。安部家は賀茂家の弟子で、賀茂家が断絶したのでそれを引き継ぎます。 賀茂家は上古代には妃を輩出した名門ですが、神祇官に下がった。というよりは、権力闘争にまけて神祇官としての家柄が残ったんでしょうね。 この時は卜占ではなく式占ですが結構重要視されてたように思いますが・・ 陰陽師といえば安倍晴明のイメージですが、この頃の陰陽寮の役割は主に天変地異の予測とカレンダー作りです。 特に重要なのはカレンダー(暦)で、貴族は暦の日の吉凶によって一日の行動を決めていたので大変重要でした。 神託ではなく暦と占が重要視されていった、と見ることができます、シャーマンよりも理論が重要視されていったのです。 といっても内容ではなく行動パターンですけどね。
937 :
世界から彼女をゲット! :2008/01/11(金) 11:36:51
加茂は元々、奈良の御所市風の森の鴨氏だよな
939 :
古代 :2008/01/11(金) 20:17:48
賀茂氏もあちらこちらに散らばっているのでイマイチわかりにくいですね。 鴨氏は鴨弓から子孫が上賀茂社家、下賀茂家へと別れます で、陰陽道の賀茂家はというと一説には葛城の役の小角の子孫といわれますが、孝霊天皇の血筋ともいわれます。
中鴨もあるよ。中鴨は御歳神社 鴨氏は葛城大和王権に併合され、 葛城大和が三輪に負けると蘇我や巨勢などの葛城支族 と共に朝廷に使え、遷都と共に京都に移り住んだという事です。
941 :
日本@名無史さん :2008/01/12(土) 01:46:06
>>932 陰陽師なみに地位が低下していると言ってるのだけど。
942 :
日本@名無史さん :2008/01/12(土) 08:47:16
>>941 えっ?
巫女の地位は陰陽師と同等にまで低下?
それはないでしょう。
平安時代においても伊勢斎宮や賀茂斎院の地位は、別格でしたよ。
女帝ほどの政治力や地位がなかったといっているだけで。
彼女たちが臣下、それもあまり身分の高くない官僚である陰陽師と
同等の地位、政治力しかなかったなんて、そんなわけがない。
平安時代には伊勢斎宮のために五百人が奉仕していたことが
わかっています。占卜と祭祀が彼女らの任務で、
朝廷に何かと要求をしたこともあったようですね。
今の巫女は売店でお守り売ってるねwww
>>943 今の巫女は神主にあんなことやこんなことされてますw
今の巫女は時給800円です。
今の巫女は、二次元にもいますww
おまいらミコ好きなんだな
ミコタン・・・・・・・・
ヒミコ(日の巫女)は九州の倭(ヤマト)の巫女的盟主 その死後の戦乱で一族が畿内に移住、トヨの代となる トヨの兄が崇神天皇
951 :
本田 :2008/01/13(日) 14:56:43
>>909 > 「天皇」って権力者や統治者に与える称号じゃなく「血統」に対する称号の事でしょ?
違うよ、○武天皇は易姓革命の勝者に対する称号だよ。
>>952 ほっとけ。
百歩譲って仮にそうだとしても、それは日本人の祖先であって朝鮮人の祖先ではない
954 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/01/14(月) 09:45:58
>>948 おたく「イヨタン・・トヨタン・・」の人でしょ。
最近出てこないねって神奈川県民さんが心配してましたよ。
955 :
日本史@名無しさん :2008/01/14(月) 10:07:44
>>949 九州の連合国がいきなり畿内で再度共立するって、無理じゃね?
現代じゃないんだから。
956 :
日本@名無史さん :2008/01/14(月) 14:20:42
邪馬台国が九州から東征して ヤマト王権になったというのは無理だよ それなら九州を都にして 畿内に官僚置けばいいだけの話だし ヤマト王権が大宰府おいて九州を統括してたみたいに
957 :
日本@名無史さん :2008/01/14(月) 14:44:41
大陸に近いため、九州を統一国家の都にはできないだろう。 もし遷都するなら出雲か畿内あたりが妥当。 それにハヤトやクマソが南九州にはまだいたと思われる。
958 :
日本@名無史さん :2008/01/14(月) 15:40:21
>>956 九州には筑紫大宰府(倭京)
畿内には難波宰府(前期難波京)
959 :
日本@名無史さん :2008/01/15(火) 08:38:27
大陸から近いから国家ができたんだろ この当時の航海技術は至難の業 関西から瀬戸内海経由とか 博多まで陸行して大陸に渡航とか非現実すぎる ヤマト王権は倭京の地方機関が元で藤原のようにクーデター起こして独立したもと考えてる 北は北海道〜南は沖縄までの現代じゃあるまいし この時代を考察するなら九州=都 関西=地方行政 が自然だろ
その大陸が1番の脅威なんだろ。隼人にクマソも居た 現実、奈良に王都があった訳で。
>>952 ブレーキニュースとかいうところだな、全部。
末盧國、伊都国がどこだったのかから考え直す必要があるのかもね。 で距離もどこからどこまでなのかってのが解らんのよね。 末盧-伊都が500里って末盧の中心地-伊都の中心地なのか 末盧の国境-伊都の国境なのか まぁ俺の住んでる福岡県筑紫郡那珂川町周辺に 吉野ヶ里も含め弥生時代の集落が色々出てるから 割と重要な場所だったのは間違いないと思ってる。
963 :
日本@名無史さん :2008/01/18(金) 00:59:26
>>959 前時代の縄文人はカヌーでバヌアツまで行ってたよ。
対馬経由で北九州なら割と楽なのでは?
中国に直接行くとかは厳しいかもしれんが。
>>960 奈良にも出雲にも大きな勢力はあったろうね。
でも北九州にも大きな勢力はあったよ。
それぞれが国を称し、都を持っていた。
964 :
日本@名無史さん :2008/01/18(金) 01:06:25
>>963 倭人伝には、持衰というのが出てくる。
航海の安全を祈って、禁欲の生活を送る。
航海がうまく行けば、たくさんの褒美をもらえる。
うまく行かなければ殺される。
こんなのが必要なくらいだから、大変な航海だったと思う。
965 :
日本@名無史さん :2008/01/18(金) 08:39:34
>>963 バヌアツでの縄文土器のことだと思いますが、あの土器はバヌアツが日本領であった戦前、畑をつくる(バヌアツには良い土がない)ために日本から畑の土をもって行った際に、偶然縄文土器がまじっていたということに
落ち着いているようです。
壱岐・対馬までは間違いないとして 現在の松浦市/伊万里/備前町辺りを末盧国として 船が入ったのは伊万里湾から伊万里市あたりとすると 伊都國は東南陸行五百里だから天山あたりか? 国の範囲は松浦川以東-脊振山系及び唐津湾-糸島半島を含み室見川まで 伊都國は農業を主体とする都市じゃないのは魏志倭人伝の記録からも明白だし 末盧国が4千戸に対し1千戸ってのも役所が山の中でその周辺ならうなずける。 末盧国に役人の名前が出てないのは伊都國が直接管轄してたから? 奴國は東南に百里・・・近い 天山から東南・・・わ!船塚古墳だ! 佐賀平野なら二万戸も大丈夫だね。 ん?奴國は佐賀平野のことか? 福岡近辺は?は!!もうひとつの奴国!
967 :
日本@名無史さん :2008/01/18(金) 18:17:45
おしらせ (明日です!)
【天理参考館 第179回 トーク・サンコーカン】
ヤマト王権を語るシリーズ 3(全5回) 『黒塚古墳と三角縁神獣鏡』
講師/藤原郁代 (当館学芸員)
日時/2008年1月19日(土) 午後1時30分から
場所/天理大学附属天理参考館 研修室(地下1階)(奈良県天理市守目堂町250)
受講料/入館料のみで受講できます(友の会 300円、一般 400円)
定員/100名
http://www.sankokan.jp/event/talk/179.html 内容は――
奈良県天理市の黒塚古墳は、33枚もの三角縁神獣鏡が出土したことで有名です。
そして、奈良県では黒塚古墳以外にも50枚を超える三角縁神獣鏡が知られています。
天理参考館ではそのうちの3枚を所蔵しています。
奈良県の古墳と三角縁神獣鏡、そのほかの副葬品を手がかりに、ヤマト王権について考えてみましょう。
予告:
第180回 2月23日(土) 『東大寺山古墳と鉄刀』 山内紀嗣
第181回 3月15日(土) 『大和古墳群と中世山城――古墳を壊した人々』 太田三喜
東大寺鉄刀大勝利
969 :
日本@名無史さん :2008/01/18(金) 19:25:56
ついに宮内庁が稜墓への立ち入り調査を許可しましたね。 今後も申請が有れば原則認めるってこと。 まさか主体部をほじくりだすようなことは認めないだろうが、 トレンチくらいは入れさせてくれるだろう。 これで箸中山に手が入るのは、間違いないね。 大仙や行灯山あたりもすぐにスポンサーが付きそうだから、 業界の人は忙しくなるね。
イクヨタン・・・・・・
>まさか主体部をほじくりだすようなことは認めないだろうが、 トレンチくらいは入れさせてくれるだろう。 トレンチもNGなのでは?
972 :
日本@名無史さん :2008/01/19(土) 06:23:41
倭人伝の記述で不思議に思うのは、どうして投馬国が書いてあるのかということ。 不弥国から投馬国まで水行二十日とすれば、その間に国はなかったのだろうか。
>>972 >その間に国はなかったのだろうか。
有ったと思いますよ。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
この記述は「女王國より北は簡単な戸数道里なら書けますが・・・」と言う体裁なので、
これを素直に読むと不弥国・投馬国間に別の国は無いように思えますよね。
そして、20日間の連続水行なんて難儀なことなので、寄港可能な場所があれば、
当然寄港するでしょう。
書かれていない理由は判りませんが、投馬と邪馬台国は大国だからそれくらいの
領域が有った、とか言う人もいますw
私は、単に記録が無かっただけかなと。
「自女王國以北〜」の記述は、三国史編纂時か、その基となった原資料の段階かは
判りませんが、記録が無いこと(又は割愛してしまうこと)を利用して、倭地の遠絶感を
修辞的に表現したのだと思います。
974 :
ローガン :2008/01/20(日) 01:06:08
>>973 同意します。
「判る範囲で、簡単に記載しておきます。後は国名だけでご勘弁。なんせ倭地は遠絶なので。」
こういう意味でしょう
975 :
唐松山 :2008/01/20(日) 12:15:50
神武東征時 又高尾張邑有土蜘蛛。其為人也、身短而手足長。与侏儒相類。 高尾張邑の土蜘蛛は 侏儒に 似ていた。
976 :
ご参考まで :2008/01/20(日) 12:27:37
女王国の里程その他は、実は詳らかに陳寿は知っていたはずです。 理由は、張政等が少なくとも一年以上に渡って倭國に滞在した、と陳寿は記しているのです。 しかも、張政の役目は軍事顧問です。軍事において軍事地理は必要不可欠です。 その上、卑弥呼や壱与の使いは、直接に洛陽を訪れています。 都や郡の史官ならずとも、質問して聞くのは、当たり前のことではありませんか。 後世の好例が信長です。信長が宣教師に西欧の地理を尋ねた如く、 洛陽や郡の役人たちが、倭の使いの者に倭の地理の詳細を聞くのは当然でしょう。 加えて、太守弓遵が戦死した時、魏軍は朝鮮半島南岸まで征討しているのですよ。 そもそも、その以前において前漢時代に設置された四郡のうち、真藩郡の位置は 半島南岸に置かれていました。つまり、倭は目と鼻の距離だった訳です。 世界に冠たる中国商人は当時シルクロードを切り拓いています。 魏志倭人伝の記事のみを、あまりにも額面どおり解釈するのは如何なものかと思いますが・・・。
張政と陳壽は直接関係があるわけじゃない。 張政の報告がどのようなもので、 その内容がどういう曲折を経て陳壽に伝わったかは判り様が無いこと。 それが原資料どおりに正しく伝わったと思い込むのも、 倭人伝の文字列を全て鵜呑みにするのも、 五十歩百歩かなと思います。 ここらあたりの塩梅は難しいところでありますな。
978 :
ご参考まで :2008/01/20(日) 14:01:29
張政と陳寿は直接関係あるわけじゃない・・・云々は、ナンセンスですよ。 『壱与、液邪狗等二十人を遣わし、政等の環るを送らしむ。因って台に詣り、』と 倭人伝に記してあるでしょ。 この一文の台の意はお解りですかな。 魏都洛陽の中央官庁である尚書台(尚書省)のことなのですよ。 尚書台については、ご自身でお調べあれかし。 まあ、ご自身自体の、塩梅のさじ加減される前に、基本事項は是非お考えあれかし。
>>978 >『壱与、液邪狗等二十人を遣わし、政等の環るを送らしむ。因って台に詣り、』と
>倭人伝に記してあるでしょ。
このとき、陳寿は蜀に居ますね。敵国の人間ですね。
そのへん、どう考えているんですか。
980 :
ご参考まで :2008/01/20(日) 14:21:24
ちなみに、液邪狗は率善中郎将と記してありますが、 この『率善中郎将』の官職については、ご存知でありますかな。 三国官職表に拠りますと、 降伏した蛮夷を管理する魏の武官の意であります。 つまりまあ、適切適当な官位であると感心しますよ。 魏の尚書台も官職の一つにもキチンと拘っている訳でありますよ。 そのような魏の中央官庁の役人が、倭の地理もしくは軍事地理を尋ねないことなど、ないでしょ。
981 :
ご参考まで :2008/01/20(日) 14:26:10
陳寿は、おっしゃるとおり、当時は蜀に居ましたよ。 だけど、当たり前の話で甚だ失礼ながら、 当時から既に陳寿の前にも、魏の史官は居たのだし、文字記録も在ったのですよ。 陳寿が敵国の人間云々・・・なんの関係があるのですか。 もう少し落ち着いて考えてくださいな。
982 :
日本@名無史さん :2008/01/20(日) 14:37:24
〔結論〕 「遺跡」が見つからない事には、話にならない。
983 :
ご参考まで :2008/01/20(日) 14:43:34
陳寿の人となりを書けば次のとおりですよね。間違いがあればご指摘下さいな。 字を承祚と言いますよね。四川省南充県の北方の出身ですよね。 蜀の朝廷に召し出されて観閣令史となりましたが、左遷され失職しましたよね。 蜀が滅び魏が晋となっても浮かび上がれなかった陳寿を引き立ててくれた人物が 張華ですよね。 かくして陳寿は佐著作郎を拝命、陽平國の相をも兼任しましたね。この間、書き上げたのが 三国志ですよね。さて、この張華という人物をご自身で調べて下さいな。 あなたの疑問もきっと氷解しますから。そして、また、レス下さいな。
985 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/01/20(日) 14:59:17
見つからなくても話にはなりうる。エジプトの王家の谷のツタンカーメンも最初は 遺跡は見つかってなかったのを後で発見したわけで、クレオパトラの墓もまだ 見つかってないという話だろう。卑弥呼の墓だってまだではないか。
986 :
本田 :2008/01/20(日) 15:51:56
>>972 > 倭人伝の記述で不思議に思うのは、どうして投馬国が書いてあるのかということ。
> 不弥国から投馬国まで水行二十日とすれば、その間に国はなかったのだろうか。
伊都国から投馬国まで水行二十日。
>>983 ご参考までさん。まあまあ、落ち着いてくださいな。
どう考えているんですかと聞いているだけで、別に貴方の意見を全否定しているわけではないですよ。
気持ち的には否定してますが、論理的には質問しているだけです。
平陽国の相だったときに編纂したのは諸葛亮集で、それが認められて中央に復帰して著作カに任じられます。
三国志編纂は、その後のことですね。いずれにせよ、陳寿本人が、
>自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
と書いているのです。だから、時間的にも三十〜四十年経っているし、王朝も魏から晋に変わっているし、
なにか記録に欠落でもあったのかなと考えるのが普通ではないですか。
なのに、本人の「良く解りませんが」という記述をあえて疑って、
「いいや、陳寿は知っていたはずだ」と主張する、論理的な根拠は何でしょうね。
陳寿は、なぜ、そんな嘘を正史に書かなければならなかったのですかね。
尚書臺が、皇帝から命令されて適切な官位を決定するのは当たり前のことでしょう。
だけど、その記録が、三十年後四十年後、次代の王朝でどのように取り扱われるかまでは、
尚書臺の官吏は、管理しようがありませんわな。この議論には関係のない話ですね。
みょうな官位を授けたというのなら、何故だっていう議論も面白いですが。
990
991 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/20(日) 19:50:42
>>986 >伊都国から投馬国まで水行二十日。
そんなこと何処にも書かれていない。
書いてあるのは「南至投馬國水行二十日」だけ。
仮に「水行二十日」が道程を示すものとしても、
何処にも起点が書かれていない。
「從郡至倭」は「自郡至女王國萬二千餘里」で、
「東行至不彌國百里」と里表示による合計の道程として、
不彌國で萬二千餘里と完結している。(古田説を支持)
では、「南至投馬國水行二十日」と「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」の起点は何処だろうか?
日数表示の道程は、「從郡至倭」の続きとして、
新たに「(自郡)南至投馬國」及び「(自郡)南至邪馬壹國」と表記されているのである。
なお、(自郡)は省略されているのである。
最後に誤爆w
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。