942 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:44:51
広形銅矛・突線鈕式大型銅鐸等、列島における青銅祭器最終段階の状況が巷
間よく「二大文化圏の対立」などと誤解される要因の一つはここにある。仔細に見
れば四国南部の高知県南国市辺りで双方の青銅器文化圏は細くてもつながって
いるのだ。
この見かけ上の「対立」がなぜ最終段階で生じるかと言えば、山陰および瀬戸
内では一足早く共同体的な青銅器祭祀をやめ、そこには首長の死を弔いつつ首
長権の継承儀礼をも伴うと見られる新たな祭祀が山陰→瀬戸内へと、あたかも
日本海から列島めがけて太いクサビを打ち込むように行われ始めたからである。
結果、四国南部を除く青銅器祭祀地は広形銅矛と大型銅鐸の2地域に分断され
てしまった。
http://www.yu-ji.com/saisi1.gif 残念ながらこの図はやや正確性に欠ける。四隅突出墓区域は丹後半島と但馬
からは外すべきである。また岡山県域に付せられた「二突起墳丘墓」も誤解を招
く表現であるのでこれは「特殊器台祭祀」と手直しすべきである。
そもそもハンヨウが、倭人伝の一夫多妻制の記述を読んで、
国女子多しとか適当に解釈したんだろ?
他の記述も推して知るべし。倭人伝読んで、適当に書いてるだけ。
大戦乱で人口激減、女子が多かったとかアホかいな。
昔の、近代以前の戦争では、そんな大規模な殺戮なんてしないよ。
人口減があったとしたら、寒冷化による食糧難とか疫病とかだろう。
でも、そういった要因で、女だけが増える筈も無い訳でw
944 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:46:10
弥生後期における社会変動はひとり北部九州地域のみにとどまらず、北部日本
を除く列島全体に広く顕現していたと捉えるべきであろう。各地はあるところでは
連動をし、またあるところでは反目するかの如き複雑な動きがあったに違いなく、
これこそが後期弥生社会の著しい特徴であると云ってよい。
弥生後期におけるかくの如き社会変動の発端は、どうやら北部九州とは別の土
地にその震源が見出されるのではなかろうか。私見では山陰における四隅突出型
墳丘墓の出現こそが、そうした発端を物語るように思われ、最も興味を覚えるので
ある。これ以前、弥生時代の前・中期は、押しなべて云えば事物の伝播が北部九
州→本州へと穏やかな東向きであった。ところがこの四隅突出型墳丘墓という墓
制は、意外なる土地で一種異様とも云える始まり方をし、それの大小の影響はあ
らゆる方向を向いて列島各地の弥生社会に波及し、緊張を高めていったものと思
われる。
http://www.hist.shimane-u.ac.jp/kouko/list.htm
945 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:47:46
四隅突出型墳丘墓はすでに弥生中期後葉において、その初源的な形態が広島
県東北部の三次・庄原盆地に出現しているとされる。三次市宗祐池西遺跡や陣山
墳墓群、殿山38号墓等である。ところが近年島根県出雲市の青木遺跡で見つかっ
た青木遺跡4号墳も中期に遡り得る四隅突出型墳丘墓であるらしく、初源の問題
も含んで謎を深めている。
しかし翻って考えてみると三次・庄原盆地は中国山地の脊梁に近く、このような
地に何ゆえ四隅突出型墳丘墓を生じるのであろうか。外部からの影響なく在地集
団のみで、かくの如き新たな墓制を生み出し得るものであろうか。
そもそも四隅突出型墳丘墓を生み出した集団とは何者であったろうか。
この四隅突出型墳丘墓の集団は、それまで銅鐸や銅剣・銅矛等の各種青銅器
による共同体的祭祀を行っていた集団とは異なるのか、それとも何らかの関係が
あったのだろうか。
四隅突出型墳丘墓の分布中心は紛れもなく出雲である。何ゆえ出雲なのか。
946 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:55:54
青銅器祭祀の終焉→古墳築造だから、
それまでの村や共同体の祭りから、首長層の権力増大→首長霊祭祀に移った
ってことなんでしょうね、やっぱり。
青銅器自体が神様では喋らないし不都合が出てきたというか、強いリーダーシップが
求められたんでしょう。青銅器が盗まれるリスクもありますしね。
それまで、環濠やら灌漑工事に振り分けていた労働力を、首長個人に
向けた結果が、巨大古墳。
出雲がいち早く、青銅器から決別して、首長霊祭祀を創始したのは、そうなんでしょう。
ただ、青銅器→首長霊の流れは、出雲が主導したとかではなく、
ある種、歴史の必然だったんではないかと。
弥生中期末に、それまでの環濠集落が解体、弥生後期が始まるわけですが、
その契機となったのは、やはり鉄需要の高まりだと思います。
つまり、狭い範囲で完結し得たそれまでの弥生式経済圏が、
鉄という遠隔地交易でしか入手し得ない物資の重要性が高まったことにより、
交易路の安全を保障し得る、広範囲に権力を行使し得る権威が希求されたのだろうと。
それまでの、それぞれの拠点集落の首長が、共通のシンボルを頂くことで
結束を深め、やがてオウが誕生したというのが、弥生後期の大まかな流れだと思います。
弥生中期末の激変は、おそらくは大きな気候変動、寒冷化によって
もたらされたものではないかと思います。
気候変動によって大規模な灌漑工事が必要となり、
鉄資源の需要が爆発的に高まった。
で、
>>948-949に繋がるわけですが。
951 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 01:19:56
>>945 > しかし翻って考えてみると三次・庄原盆地は中国山地の脊梁に近く、このような
>地に何ゆえ四隅突出型墳丘墓を生じるのであろうか。
> そもそも四隅突出型墳丘墓を生み出した集団とは何者であったろうか。
鉄鉱石の採掘とかの可能性は?
通説だと製鉄は古墳時代後期からだけどさ、
もしかしたら弥生時代からやってるかもよ。
つーか、なんかやってそうな気がしてきた。ww
2世紀は、九州よりか出雲の方が上をいってるような気も少しする
953 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 11:00:55
>>950 >気候変動によって大規模な灌漑工事が必要となり、
自分勝手な想像ではないか?
大規模な灌漑工事と言うが、そのような工事を思わせる弥生中期の遺跡が見つかっているのか?
954 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 11:53:07
>>951 >鉄鉱石の採掘とかの可能性は?
>通説だと製鉄は古墳時代後期からだけどさ、
>もしかしたら弥生時代からやってるかもよ。
>つーか、なんかやってそうな気がしてきた。ww
かもではなくあったよ。
東日本or北日本「會稽海外有東鯷人・・・・地有銅鐵」後漢書東夷伝東鯷人
半島南部「弁辰・・・・國出鐵韓濊倭皆從取之」魏志倭人伝
しかし倭では大規模な鉄鉱床がないと思われるから、
鉄鉱石の採掘精錬跡遺蹟は見つからないだろう。
955 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 15:03:39
>>954 阿蘇ではたくさんの鉄加工跡などが見つかっている。
鉄素材を輸入していたのなら、このような場所で加工するわけが無いので
製鉄が行われていたのではないかと思われる。
阿蘇谷には褐鉄鉱(リモナイト)の鉱床があるので、これを利用していたとも
考えられる。
出雲は斐伊川の砂鉄を使って鉄を作っていた可能性もある。
後漢書の鉄の記述がいつごろのことかわからないが、「皆以鐵爲貨」というのは
面白いと思う。鉄が道具としてだけでなく貨幣の役割もしていた。
>>952 後漢書の「自女王國東度海千餘里至拘奴國」の記述の方が正しいとしたら、
出雲を狗奴国に比定するのも面白い。
投馬国=出雲説も昔からある
957 :
945:2007/12/13(木) 17:32:49
>>955 >阿蘇谷には褐鉄鉱(リモナイト)の鉱床があるので
リモナイトから製鉄すると、製鉄跡とはっきりわかる鉱犀が残らないから、
阿蘇は製鉄していたと考えられるね。
リモナイトからの製鉄を調べなおす必要あり。
現段階では夢想:狗奴國(肥後説)は製鉄を背景に邪馬壱国を凌駕し、倭五王朝となった可能性がある。
958 :
954:2007/12/13(木) 17:36:17
959 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 18:46:44
>>940 >必ずしも、大規模な戦乱で人口減少したと短絡的に捉える必要はない。
>これは、弥生後期で各地でパラレルに首長権力が増大していることとも符合する。
>日本の戦国時代も好景気で人口増加してるし、政治の乱れが人口減少に直結するものじゃない。
>各国は防御施設を作ったりはするだろうけれどね。
論点がずれているね。
論点は戦乱による成年男子のみ減少。
960 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 18:49:21
>>943 >人口減があったとしたら、寒冷化による食糧難とか疫病とかだろう。
>でも、そういった要因で、女だけが増える筈も無い訳でw
君も論点がずれている。
論点は戦乱による成年男子のみ減少。
961 :
唐松山:2007/12/13(木) 19:04:07
最も 金の係った工事は 仁徳稜
近江にも 鉄加工場があり 褐鉄鉱も有るようだが 出土品は 輸入鉄らしい。
962 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 19:10:28
>>943 >人口減があったとしたら、寒冷化による食糧難とか疫病とかだろう。
人口減の理由がお菓子い。
西日本では、寒冷化すれば夏季降水量が増大し、水稲及びその他農産物は栽培し易くなり豊作。
温暖化すれば夏季は旱魃となり、水稲をはじめ農業生産が低下、
食料不足となり、人口減になりうる。
又、食料不足から戦乱となる。
弥生温暖期のピークは1世紀から2世紀。
2世紀末頃から気温が下がり始め、古墳寒冷期に至る。
古墳時代の到来は寒冷化による食料増産による経済力増大のたまもの。
963 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 19:17:14
>>961 近江のリモナイトは量が少ない。
リモナイトは少量であれば全国何処にでもある。
又、含有黄鉄鉱成分が多いと精錬できない。
>>960 鉄を交易で入手するには見返りなる商品が必要だよね。
また、人口が自然減以外にも減少する要素って何だろうねw
965 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 21:18:14
>>964 近代以前で人口減要因の第一に挙げるべきは、重篤な状態に陥る感染症、
つまり致死性の、いわゆる伝染病である。
966 :
唐松山:2007/12/13(木) 21:29:40
交易の 見返り品 考えた事があるが 米以外ない
米は輸送が大変なので 大量の鉄に対する 見返り品が無い
無ければ 自分で 掘って来る 神功です
つまり 神功以前には 沢山の 大きな墳墓の制作は不可能 ということです。
967 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 22:27:20
>>966 >つまり 神功以前には 沢山の 大きな墳墓の制作は不可能 ということです。
神功以前の大きな墳墓、けっこう奈良盆地にはあるんじゃない?
おかしなことを言う人だな
968 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 22:46:22
>>962 >西日本では、寒冷化すれば夏季降水量が増大し、水稲及びその他農産物は栽培し易くなり豊作。
>温暖化すれば夏季は旱魃となり、水稲をはじめ農業生産が低下、
この人もおかしいね。
鉄の見返りは、真珠や翡翠など特産品では?
魏への献上品にもあるし
鉄の見返りは人間だろ。
生口は、米とかと違い、足が生えてるから自分で動いてくれる。
運搬がし易い。
>>959-960 >論点がずれているね。
>論点は戦乱による成年男子のみ減少。
「そもそもハンヨウが、倭人伝の一夫多妻制の記述を読んで、
国女子多しとか適当に解釈したんだろ? 」
てのが真だと思うよ。
近代以前の戦争の死傷率を考えても、男女比率が大きく偏る程、多数の男が
戦争で死んだとは考えられない。
いい加減に認めれ。
>970
貢物の生口は、倭錦を織る職人とか勾玉作り職人とか真珠採りの水夫とかだぞ
単純労働者ではないよ
>>972 そういう説もあるってのを、さも当たり前、当然のことみたいに書く欺瞞はどうか。
歴史上に普遍的に見られる奴隷貿易とか知ってる?
>973
植民地主義時代の農業プランテーションの奴隷とは違うよ、生口は
単純労働者を数十人送って何の足しになると思うんだね?
975 :
ローガン:2007/12/14(金) 00:21:54
>>942の人に同意。
ただ、奈良における銅鐸祭祀については、2世紀末にはもう行われなくなったって考えるけど、いかが?
976 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:34:25
>>971 >近代以前の戦争の死傷率を考えても、男女比率が大きく偏る程、多数の男が
>戦争で死んだとは考えられない。
「更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人」魏志倭人伝
これを何とみる。
死んだのは主力戦闘員の20代30代の男子だろ。
倭人は勇猛怒濤九州男児のようだ。まさに特攻隊員。
畿内人なら「また負けたか八連隊」だけれどね。
977 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:35:25
差し出される上質の生口は、生きた広辞苑
当時相手国のリアル情報は、なによりの宝。情報提供は、実質従属を意味するよ
>>974 だから、生口がどういうものかについては異論があるわけで。
奴隷という意味で書いてるンだよ、俺は。
980 :
976:2007/12/14(金) 00:43:25
>>942 >>975の人達に同意。
ただ、奈良における銅鐸祭祀の終りは、2世紀末よりもう少し遅いと思うけれど。
>>976 不毛な議論になってきているのでもうウンザリなのだが。
まず、千人が当時の倭国の男女比率を大きく偏らせる程の人数なのか、という点。
さらには、その千人が、単純な戦闘行為における成年男子の戦死者数なのかも疑問。
単に政争で多くの人が死んだと記載されているだけように読めるが。
>>974 奴隷貿易の基本は、男は肉体労働、女は売春婦。
植民地獲得競争の時代にまで下らなくても、もっとあるだろ例が。
戦国時代のバテレンが、大量の日本人の女を海外に送ってたこともある訳で。
文化的に劣位で特に特産物も無い国が、輸出出来る一番簡単なモノが人間だと思うよ。
983 :
976:2007/12/14(金) 01:19:30
>>981 ちょっとした戦闘でも千人単位の戦死者が出たことが重要。
この間まで共同体連合を組んでいた人々が非戦闘員の虐殺までするかなぁ。
984 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 06:35:13
白村江の戦いで日本側は戦争でも水夫は殺さない風習があったことに注目
倭人に敵国民虐殺の風習はないよ
ただ皇族・王族ら貴人が自ら戦場に出てきて勇敢に戦う傾向はあったからこの身分での男女比率に大きな偏りがあった可能性はある
985 :
サガミハラハラ:2007/12/14(金) 07:55:12
やっと私の出番がやって来ました。
「更立男王国中不服更相誅殺当時殺千余人」ですが、誅殺の文句にご注目ください。
攻伐ではなく、誅殺です。つまり誅されたのです。
倭人伝の一族を滅す等の文から、これは新王に服さなかった者を殺したと解釈できますから、
一緒に女も赤ん坊まで殺したものとおもわれます。
986 :
ローガン:2007/12/14(金) 08:46:43
>>980そうだな。私の書き方が不味かった。
纒向から突線のカケラしか出ないという意味
987 :
983:2007/12/14(金) 11:40:23
サガミハラハラ氏の言う通り。
しかし「誅殺」は支配層に対する戦後処理だよね。
「更相誅殺」だからね。
「更相」があるので「國中不服」で戦争が何回もあったことを示しているのでないか?
「國中」の國は女王國全体を指しているとみなしているが。
プラムさんのご意見はいかがですか?
次スレででも書いていただけませんか。
>>983 >ちょっとした戦闘でも千人単位の戦死者が出たことが重要。
「ちょっとした」とか、君独自の読み方を披露されても。
>この間まで共同体連合を組んでいた人々が非戦闘員の虐殺までするかなぁ。
実際、その当時は有力豪族の連合政権で、倭国が同一という考えが
あったのかどうかも分からない。少なくとも違うクニとして、倭人伝では
書かれているが。
>>984 >倭人に敵国民虐殺の風習はないよ
うーん、伝わらないんだな。
戦国時代の死傷率を見ても、合戦で部隊の殆どが壊滅なんて事態は起こり得ない。
死傷率2割程度で部隊は壊走するよ。
有事の兵士は平時には農耕民なんだから、共同体内の大事な労働力。
拠点集落の首長たちは自身の経済基盤すら危うくしかねない、そこまでの壊滅戦は避ける傾向にある。
だから政治的決着、卑弥呼を共立したとも言えるのだが。
そういった壊滅戦を厭わなかったのが信長で、結果的に兵農分離していく訳で、
中世が近世に変わる画期となる。
>>984 戦争ってのは秩序の崩壊、無法状態なんだから、
普通に村を焼き討ちして、米や人を奪ったと思うが。
上杉謙信も毎年農閑期に上野に出兵して奴隷狩りをやってたしな。
宮廷内での政治闘争なら一般人にまで害が及ばなかった可能性もあるが、
当時の倭国のオウたちは拠点集落の首長なわけだから、必然的に
集落も戦火に巻き込まれたと思うよ。
991 :
プラム ◆TOfHBAKZgM :
『相誅殺』→互に責め殺す。
『立男王』の前に何故『更』が付くのか?