1 :
平山貴士:
よろしくお願いします
終了
3 :
平山貴士:2007/11/27(火) 23:24:50
そんな事言わず何か書いて下さい
4 :
家康:2007/11/27(火) 23:28:08
>>3 西軍が勝っていたら、どのような展開に
なっていたと思う?
5 :
秀頼:2007/11/27(火) 23:33:28
終了
6 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 23:40:18
関ヶ原で西軍が勝っても、家康は関東へ退却する程度であり、黒田如水の軍が九州から北上し更なる戦いを強いられるであろう。
黒田如水は頭のいい軍師だから政治官僚の石田三成も歯がたたんだろうなあ。
7 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 23:54:44
関ヶ原の戦いで、例え西軍が東軍に
勝ったとしても、家康の生き死に
いかんでは、その後の展開はかなり
違う事になると思う。
8 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 00:20:33
家康が生きていたら謙信と関越同盟を結び再び西軍と戦うが、更に西の黒田軍から大坂の西軍が攻撃され、はさみ打ちにされる可能性が高い。
最後は家康・謙信と黒田如水の戦いになるだろうなあ。
第二次関ヶ原合戦であろうか。
9 :
平山貴士:2007/11/28(水) 02:14:29
ぶっちゃけた話
ボクは徳川が好きなので東軍に属すつもりですが
しかし雄図虚しく儚く散った西軍の武将に敬意をはらい
スレッドを立てさせてもらいました
このスレは私が立てた初めてのスレです
よろしくお引き立て下さいますようお願い申し上げます
以上、遅ればせながら開式の辞でした
10 :
平山貴士:2007/11/28(水) 02:23:50
4番様へ
これはこれは家康公
えーと1の方に書き込んだんですが
過去ログ御覧になって下さい
どうもすみません
歴史じゃねーんだからお花畑かライノベにでみ行って立てろ
12 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 13:36:55
>>6 如水も島津維新や立花宗成や小早川の兵と戦えるかな?
惟新斎だヴォケ。
如水の北部九州の制圧戦の実態は中央での西軍敗北を受けて諸城を開城させていった
というもの。これが東軍敗北という逆状況ではそんなまねができるはずもない。さらに
長政が死亡なんてことになったら軍、領地の維持も難しいかも。
15 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 14:09:18
秀頼が成人するまでは、後見人争いで、淀、5大老が対立し、内部崩壊。
16 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 16:46:28
小早川が天下をとっていたら!!
17 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 23:37:53
18 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 12:02:35
東軍敗北まさか関ヶ原の局地戦の勝利をいっているの?
だったらそのまま安土桃山末期の混沌とした状況が続くだけだとおもう・・・
だれか家康殲滅作戦をプランニングしてくれ・・・
清洲あたりで第2戦があるのか、小田原とか果ては江戸あたりで行われるかは
作戦プランナーで考えてくれ。
20 :
平山貴士:2007/12/02(日) 01:28:15
だいぶん上がってきたな
立ち上げた甲斐があった
>>19 秀吉の小田原征伐を参考にするとこんな感じかな?
・西軍主力は東海道及び海上を進軍、箱根経由で小田原攻略した後江戸を攻撃
・信濃勢は碓氷峠方面に進出し、上野の徳川軍を牽制して釘付け
・上杉・佐竹は下野攻略の後、武蔵に進出して西軍主力と家康本隊を挟撃
ただし関ヶ原の勝利で寝返る勢力が少なかった場合、秀吉の時と違って、越後・信濃方面からの圧力が小さいから、
家康の背後を突くはずの上杉・佐竹が逆に奥羽の東軍方に拘束されてしまう可能性が大。
そうなると後北条氏が対秀吉でやろうとしていた箱根〜小田原での迎撃プランが生きてくるから
西軍大苦戦は必死だろうなあ。
>>21 > ・西軍主力は東海道及び海上を進軍、箱根経由で小田原攻略した後江戸を攻撃
東海道筋は徳川方が押さえているから・・・・そこの攻略法を考えないと。
攻略法とか作戦以前の話だろw
誰が指揮とって誰の軍勢をどの程度の規模でどのように送るわけ?
それを決めるにあたって誰がどのように取り仕切るわけ?
前田の問題は?西日本の東軍は?東日本の東軍は?
よくまぁ諸問題すっ飛ばして言えるもんだ
>>23 そんなことすっ飛ばして戦後の論功行賞の話ばっかりしていますがなにか?
石田プランだとこんな感じかね?
長い戦になるけど、関ヶ原で追い散らしたら岐阜を取り戻すまではみんなで侵攻、
・東海道はむしろ西に東軍が反攻してこないよう三河あたりでの膠着状態でよしとして
お手紙切り崩しに励む(主任担当石田、長曾我部)
・主力は中山道から入って秀忠、徳川譜代を真田と挟撃、小山あたりまで出る(担当:宇喜多その他)
・敦賀から北陸道、日本海航路を使って前田の兄弟げんかを焚きつけて支援、
越後まで地鳴らししつつ上杉を支援(毛利のケツを大谷が叩いたりなだめたり)
冬までに下2つがうまくいったら一気に江戸目指して進軍
…色々と無理があるなw
26 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 14:26:28
>>25 真田はかき集めても兵力はたかだが3000.それで.挟み撃ち?
27 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 16:31:49
質問です。皆さんが近畿or中部に十五〜二十万石の所領を持つ大名で派閥的にも
中間派だったら東軍・西軍どちらにつきますか?またどの様な条件を提示されたら
決断しますか?
おまいらまだやってんのかよw
29 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 02:41:40
>>8さん
謙信は二十二年前の天正六年に死去してますよ。もし謙信が景勝を指したもの
としても、関ヶ原の戦いの発端は家康による上杉征伐ですし、東国における反徳
川の中心勢力である上杉が徳川と同盟を結ぶなんて理由もメリットもないと思い
ますが…。直江状の逸話とか御存知ありませんか?たまには仮想戦記だけでなく歴
史の本も読まれる事をお勧めします。
上杉が東国の反徳川とかw
31 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 20:25:19
↑東国と東軍の違いて分かってる?
↑東国における反徳川の中心勢力の根拠あんの?
もしかして直江状(笑)?
33 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 20:39:54
東国に所領を持つ大名の中で上杉の百二十万石は最大だよ。
34 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 21:04:56
上杉の会津百二十万石は徳川、毛利に次ぐ石高。東軍に属した伊達や最上と比較
してみたら分かると思うけど、奥羽で東軍参加大名の合計よりも多いと思うよ。
それに上杉は家康の侵攻に備えて城を築城したり、浪人を雇ってるしね。東軍の
最上領に攻め込んでます。
それで、上杉がいつ「東国における反徳川の中心勢力」になったのか小一時間(ry
石高の規模で中心勢力というのか?イミフだな
36 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:24:37
教えて頂きたいんですが、東国で上杉家以外で西軍と積極的に交戦した有力大名
て他にいますか?
37 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:42:07
石高の規模によって動員できる兵力が違ってくると…。江戸期の話で申し訳ないん
ですが寛永十年の軍役規定では一千石当たり23人が出陣することになってます。慶
長五年の段階では多分、もう少し動員していたとは思いますが…。
徳川と上杉の不和は東国取次職が上杉から徳川へ移行したことも一因なのかな。
39 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:49:54
40 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 23:58:57
>>37 上の軍役規定について詳しくは新訂増補国史大系第三十九巻の『徳川実記』を
ご覧下さい。
41 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 00:08:33
真田家の活躍は私も大好きです。ただ石高や格式などから考えても当時、上杉家と並べて
論じるのには無理があるかと。それに十勇士は存在自体が怪しいし…る
42 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 00:19:50
石高はかなり重要。家康がもし三河一国程度の大名なら秀吉死後、誰も靡かな
い。イミフなのは
>>35
>>42 だから上杉が「東国での反徳川の中心勢力」だと言うのだろ?
会津征伐は上杉と徳川の対立という図式でもなく、上杉は売られた喧嘩を買っただけで、別に反徳川だった訳でもないぞ
それを反徳川の中心勢力と言うのなら、その根拠を出せと言ってんだよ
つか石高の規模で中心勢力と言うのか?関ヶ原時に西軍に属した勢力を纏めていた訳でもないのに
全くイミフだなお前は
>>38 >「東国取次職」
以前から前田が取次やってたんだけど、東北は浅野
上杉が取次やってたと言うのはどこから出た話?
45 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 00:45:15
>>42 西軍て毛利家と上杉家の参加という担保がなければ成立してないとおもうんだ
けど・・・。そんなこと言ったら関ヶ原合戦自体、プランニングしたの輝元で
はなく三成だし。
46 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 00:47:58
>>45 いやだから、君のプランニングとかどーでもいいから、
上杉が「東国の反徳川の中心勢力」というのを証明してくれと言ってんだが
成立しないから上杉は東国の反徳川の中心勢力なのか????
なおさらイミフ
つか上杉は西軍の為に、上洛拒否して会津征伐になるまで強硬な姿勢とった訳ではないんだけど
それとも上杉の行動は、西軍決起の為とでも言うのかいな?
48 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 02:52:08
>>8への
>>29の意見は関ヶ原での戦闘で西軍が勝利した事を前提に上杉家と徳川
の同盟について書いているから意見を書いただけです。確かに上杉景勝の会津
帰国は家康や他の大老達の承認を得たものです。三成たちと意思疎通はなかっ
た可能性はあると思っています。神指城の築城について色々な考え方があると
思います。ただ上杉家は討伐に対して戦備を整えてますし、前田家の様に必死
の弁解もしていません。軍を北上させ最上を攻めて最上・伊達と交戦していま
す。こうした経緯や石高などの実力を考えると「東国の反徳川の中心勢力」
になっていたと考えています。
49 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 03:05:25
>>47 売られた喧嘩を買った時点で反徳川にならざるおえない。その喧嘩は家康が主導して
吹っかけてきたもの
50 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 04:10:22
てか、家康の最初の討伐対象は前田家でしょ?
最初はそれをキッカケに関ヶ原みたいに事を起こそうとしてたんだよ
で、その時に家康は上杉を完全に味方に引き込もうとしていた
で、その時にすでに上杉は拒否してるし
前田家は完全降伏の姿勢で母親差し出すし
それで矛先を上杉に持って行ったんでしょ
でもそれが上杉は売られたケンカは買うという硬派な姿勢の現れなのか
石田西軍を意識してなのかは
わからないが
51 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 05:02:41
上杉憲政・謙信以来、北条は天敵だった為、上杉家では北条の味方は全て敵という考えがあったらしい。
北条と徳川は婚姻関係にあったので潜在的に敵視していたのではないかと。
「上杉謙信」(相川司著)に書いてありました。
同レベルなんでまとめて
>>48-51 >三成たちと意思疎通はなかった可能性はあると思っています。
可能性でなく、なかったんだよ
>こうした経緯や石高などの実力を考えると「東国の反徳川の中心勢力」 になっていたと考えています。
その経緯は、会津征伐に備えての行動であり、それが「東国の反徳川の中心勢力」足る証明にはなってないんだが
反徳川という証明も、中心勢力であった証明も君はしてない、考えの根拠示せと書いてるのだけど
反徳川だったなら関ヶ原以前での徳川との対立を示す論拠、中心勢力というなら東国における西軍諸侯の中で、
上杉がどう主導的立場だったのかを示す史料提示なりしてね
>売られた喧嘩を買った時点で反徳川にならざるおえない
別に合戦したから反徳川という訳ではないのだが
徳川と上杉が利害関係上、存続する上で絶対に排除しなければならない存在というなら、そうなのだろうが
別にそういうのではないから
西軍に参加してる諸大名は「西軍の為に」行動してるのではない、これは勿論東軍にも言えるがね
>で、その時に家康は上杉を完全に味方に引き込もうとしていた
>で、その時にすでに上杉は拒否してるし
史料名提示よろしくね
>でもそれが上杉は売られたケンカは買うという硬派な姿勢の現れなのか
>石田西軍を意識してなのかはわからないが
単に交渉手段の一つでは?すんなり恭順すると前田の二の舞、でも即軍事衝突する力は上杉にはない
だから突っぱねて時間稼ぎし、交渉によって少しでも有利な条件を引き出そうとしたが、
家康は即軍事行動による解決という通常ではありえない手段に出た
まぁ家康側からすれば当然なのだろうがね、元々上杉とは目的が違うのだから
>「上杉謙信」(相川司著)
笑うトコですか?
53 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 10:40:29
前田の二の舞って何?
最初に上杉が徳川に誘われた時は、その前田を討つための同盟軍としてだよ
つまり伊達みたいなポジションで誘われたのであって
当然、加増や安泰は言うまでもない
前田の場合は問答無用で討伐しますよ。だろ?
全然、状況が違うじゃん
なのに上杉は歯向かって、前田は降伏した
これを野心の為の交渉と考えるのは、とても無理があるんだけど
>最初に上杉が徳川に誘われた時は、その前田を討つための同盟軍としてだよ
>つまり伊達みたいなポジションで誘われたのであって
>当然、加増や安泰は言うまでもない
何度も書くが、
根 拠 は ?
>前田の場合は問答無用で討伐しますよ。だろ?
へ?問答無用ではなかったんだけど????
というか
>これを野心の為の交渉と考えるのは、とても無理があるんだけど
イミフです、野心の為の交渉???ナンデスカソレハ
55 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 11:42:02
何度も言うが西軍が勝つはずないんだよ。タヌキオヤジに踊らされて自滅しただけ。
会津征伐、三成の挙兵、小早川の裏切り、すべてタヌキオヤジが書いた筋書き通りに
進んだんだよ。西軍びいきの諸君ご愁傷様。
家康の筋書き通りだった訳ではなかろうに
57 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 13:07:27
55>>さん、ここのスレタイは「もし西軍が関ヶ原で西軍が勝ったら・2」ですよ。
一六〇〇年の段階で謙信が存命している様に書いたり、関越同盟(笑)とか書いた
>>8 のせいで揉めなくても…。人には根拠を求めるのに、自分は上杉家が東国の反徳川の中
心でなかった根拠(史料、先行論文)を挙げてないですし…。これからでみんなで楽しく
関ヶ原の戦いのifを話し合いませんか?
58 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 13:22:51
江戸時代に大名として存続した上杉家が自家が関ヶ原で果たした役割が分かる
ような文書を残しておくのかな?
59 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 13:39:20
>>55 「もし関ヶ原で西軍が勝ったら」ってスレで、西軍が勝つはずが無い・・なんて言い張るなんてね・・w
神君家康様が負けるわけ無い・・ってかw?
糞して寝なさい。
>>57 >人には根拠を求めるのに、自分は上杉家が東国の反徳川の中
>心でなかった根拠(史料、先行論文)を挙げてないですし…。
お前はバカか?
お前の言う主張の論拠求めてるのに、反証出してないから・・・とか
反証欲しければ、まず己の主張の根拠出せ、なければ語るな
ついでに
>>55と
>>54は別人ですが何か?
>>58 残っていないとでも?それなら書状や何かは全く存在しないようになるんだが
上杉家に残っておらずとも、相手には残ったりするんだよ
・上杉が「東国の反徳川の中心勢力」というのは具体的根拠がない
・前田討伐の際に(討伐まで具体的に話しすすんでいたのかさえ謎)、上杉に協力しようとして上杉が拒否
↑これは妄想でいいのかいな?
ついでにここは「学問スレ」なんで勝つ訳ないというのも有りだろ
勝つ見込みがないのにメンヘラ的駄文でオナニーする気ならチラ裏でやってりゃいいだけだしなw
62 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 14:16:31
【】医学部や司法試験よりはるかに難しい最難関試験である国家T種試験【】
★☆★☆ 真のエリートを輩出する実力校はここだ ☆★☆★
07年度国家公務員1種試験合格者 私立大学別(10人以上合格)
早稲田大 85 さすがは早稲田の一言に尽きる
慶応義塾 72 さすがは慶応の一言に尽きる
中央大学 35 さすがは資格試験でも早慶に次ぐ実績を誇る中央
東京理科 32 さすがは理系私大NO,1の王者の風格
立命館大 31 さすがは関西私大NO,1の実力を披露
法政大学 13 さすがは東京六大学の実力校
上智大学 10 さすがは早慶上と並び評されるエリート校
毎回ageてる人が同じ人間に見える。
関ヶ原のたらればスレは厨ホイホイだとよくわかる展開だなw
66 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 23:46:12
66 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2007/12/13(木) 23:46:12
>>60さん釣れますか?
これはひどい
69 :
平山貴士:2007/12/14(金) 22:43:11
何でオレが痛いんだ?
オレは東軍厨だが
面白そうなスレだったから「PART2」を作ってみたんだよ
PART1作った人に悪いだろ
70 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 02:27:35
>>44 天正十四年年九月二十五日付けで関東、伊達、会津の取次ぎを命じる秀吉の朱印状が出ている。
沼尻の合戦の前後から景勝は佐野、皆川、宇都宮、佐竹らと接触しており、
景勝を通じて彼らは秀吉とも連携していたが、九月二十五の時点で正式な取次ぎとなった。
(実態はともかく、名目上は同盟関係だった秀吉・景勝だが、景勝が上洛して
正式に秀吉に臣従したのは五月、家康が上洛し臣従したのは十月)
北条滅亡後の関東の大半を上杉に付け、景勝を関東統治の中心とする構想が
秀吉の吏僚(施薬院全宗、富田知信、津田信勝など)を中心にあり、
上杉、徳川で五分五分の情勢だったが、結局は家康が関東に入部。
71 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 09:01:44
会津征伐は三成の挙兵を誘う罠だったんだよね。吉川、小早川の裏切りを確信していた
から故意にスキを見せたんだよね。
72 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 13:54:39
確かに、本多中務太輔・井伊兵部少輔から吉川侍従・福原式部少輔に充てた
起請文(日付は関ヶ原の前日)とかを見ると家康がどれだけ入念に準備してい
かが窺い知れますね。
73 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 11:30:54
2代目豊臣政権
関白・秀頼
関東管領・上杉
征夷大将軍・宇喜多秀家
鎮西大将軍・毛利輝元
五大老・秀秋、織田秀信、三成、行長、吉継
74 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 11:35:33
豊臣の貴族的生活からして足利みたいにすぐグチャグチャになっただろね
76 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 03:33:05
足利は一門がたくさん居たかけど、豊臣はほとんど居ない
すぐに崩壊したよ
77 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 23:07:22
徳川家康は腰抜け@日本人の恥である。歴史見ればすぐわかる。ただの馬鹿アホ
78 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 23:37:58
77に同感、徳川家康はアホ。糞もらし、うつけ物。徳川時代は税金の無駄ずかい今の馬鹿自民党道路族と同じだ。アホ家康。
79 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 00:08:14
死ね死ね死ね。徳川の子孫@大奥などとゆうハーレム作ったおかげで多くの農民達が苦しめられて来た。島原では、8万の男女、子供皆殺し。日本統一した英雄などではない、北朝鮮のキムジョンイル以下だ。死ね死ね死ね。
80 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 00:18:13
日本の恥、徳川家康、人殺し将軍。世界の恥
81 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 00:22:51
世界から;消えろ徳川氏。
82 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 00:56:31
上杉が東国の反徳川の中心てどこがおかしいの?そのまんまやん
83 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 05:18:46
2代目豊臣政権
関白・秀頼
征夷大将軍・上杉
関東管領・佐竹
鎮西大将軍・毛利
西国探題・宇喜多
84 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 09:27:07
室町時代に贅沢をしていたのは京都の足利将軍家や公家や一部の金持ちの武士であり、殆どの人間は貧困や餓死で苦しんでいた。
この時代に浄土真宗が栄えたのも理解できる所である。
桃山時代は合理的な制度が作られていたので餓死者は室町時代ほどいなかったと思うが、秀吉が贅沢な生活ばかりしていたら確実に地方の農民などに影響を及ぼしていただろう。
85 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 09:49:11
戦後主権在民になるまで贅沢しているのは支配階級だけ、
ほとんどの人民は貧困や餓死で苦しんでいたのだが。
戦後、たまたま日本は発展したから餓死者が減っただけで。
いまだって官僚や公務員は庶民よりいい暮らしをしてるだろ?
86 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 10:04:51
例え勝ったとしても三成への反感のせいですぐに政権は空中分解するよ。
頼病の吉継君もそう長くは生きれなかったろうし、
そう考えると三成は家康にとってつくづく美味しい存在だったなあ。
87 :
日本@名無史さん:2008/04/08(火) 12:12:20
日本の恥、徳川氏。アホ、馬鹿、死ね死ね死ね
88 :
平山貴士 ◆fUWY7Y19ZA :2008/04/18(金) 03:36:39
89 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 04:19:27
戦術的に勝っても、論功行賞で西軍参加武将内で内輪もめ勃発。
五奉行解任の後徳川が実権を握るでしょう。
結局豊臣方は既に詰んでた。
朝鮮出兵の時点で家康に戦略的に負けていた。
これが蝦夷地へ行ったら場合によっちゃ、話が変わってたかもね。
90 :
日本@名無史さん:2008/04/18(金) 14:09:18
>>89 >結局豊臣方は既に詰んでた。
東西両軍、共に豊臣側なんだが?
内府も将軍任官前、いや将軍任官後も暫らくは豊臣の家臣というタテマエを維持していた。
将軍任官後も毛利輝元の書状や醍醐寺三宝院義演の日記などにも見えるように
秀頼がいずれは関白に任官し、天下を統べると見られていた。
武家、公家でも秀頼の関白任官は当然と思われていたわけだ。
伊達政宗なども、いずれは家康は秀頼に権力を委譲するものと考えて、
「いくら太閤殿下の御子であっても支配者としてふさわしくない人物ならば、
家康の保護の元に二、三カ国、もしくはそれ以下でも与え豊臣家を残していくのが望ましい」
などと家康側近に書状を出している。
まして、関が原の時点では豊臣方vs反豊臣という構図ではない。
一代限りと思われていた将軍職を息子に譲ったあたりから悪心は露見し出すだが。
東は上杉西は毛利、豊臣はそのまんなかでひっそりと暮らすことになるだろう
関ヶ原では、三成方に大老や奉行といった実際に豊臣政権の中枢にいたものが多くついて、
家康方には、その中枢から弾き出された武断派がついたと考えればいいんじゃないかな・・?
加藤や福島なんかは、戦乱が終息していけば自分たちが功を立てて
加増されたり出世する機会はどんどん減っていく。
それどころか、何かと難癖つけられて、減封や取り潰しに逢う心配さえあるわけで・・
家康についた武断派の中には、一発逆転を狙って家康に付いて、豊臣政権の中枢に入ろうという
思惑もあったんじゃないかと思われる。
93 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 18:17:27
少なくとも岡山は大都会だな
福岡には誰がくるか
94 :
日本@名無史さん:2008/05/09(金) 19:26:58
加藤清正が秀頼 熊本城に持ち帰る
95 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 21:58:57
>>61 論理学の大前提。そんな事も知らずに学問か・・・。
96 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 22:38:44
東軍 大老:徳川・前田
奉行:浅野
西軍 大老:毛利・宇喜多・上杉
奉行:石田・長束・増田・前田
97 :
金吾秀秋:2008/05/26(月) 10:02:58
|
|ω・`)チラッ
|
98 :
大谷吉継:2008/05/26(月) 12:50:00
|
|ω・`)Σガッ┗┐ヽ(●д●#)ノ シネヤゴラァァァァァ
|
Σガッ┗┐ヽ(●д●#)ノ
99 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 18:31:48
鹿児島は大都会
熊本と名古屋は衰退
100 :
日本@名無史さん:2008/06/02(月) 23:36:29
西軍が勝っていたら東北諸大名も西軍に寝返り
小田原の北条みたいに徳川は血祭りだね。
江戸で夏の陣冬の陣が起こっただろうと思う。
101 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 01:27:33
西軍に寝返るとというけどそう簡単なことじゃないと思う
徳川本体はほぼ無傷で残ってるし
伊達にしても西軍中枢で何かできる立場じゃない
徳川を血祭りに上げるためには上杉の背後の安定が必要だし
家康が江戸を固めて他国を味方にすべくじっくり時間をかけられたら
西軍の結束はそう盤石に維持できるとも思えないよね
長期戦になって歴史が大きく変わってたかもよ
西軍が勝ったら・・・・という仮説を立てる人はどのように西軍が勝つのか
明記しないとね。
「家康敗死」と「家康撤退」じゃぁ戦略的状況が違いすぎ。もっともあの
関ヶ原では「家康敗死」はよっぽどの事がない限りないだろうけど。
負けないことはあっても勝つことはなかったんじゃないかなあ
>>101 結束力は西の方が遥かに強いよ
ただ、三成は前に立つべきでなかったというだけ
西軍を勝たせる方法
まず小早川を裏切らせないようにする
それ以前に他の奴らが動かないなんて状況を作らない為に三成の人格を
善良な人格に変えて誰からも慕われる性格にする
106 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 18:10:29
来年の大河ドラマは
「本多佐渡守」か?
>>106 来年の大河は『天地人』
再来年の大河は『龍馬伝』
再来年まで決定している。
108 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 19:46:36
じゃあ再来年の大河は
「麟太郎伝」で
勝海舟と越後屋の活躍を
109 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 19:50:08
原作「夢酔独語」で
後の三井財閥も描く
110 :
日本@名無史さん:2008/10/20(月) 19:56:39
111 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 00:43:25
関ヶ原で西郡が勝利した場合、それでもおそらく家康は死なないであろうから、一時岐阜あたりまで撤退し、敗残兵を集め、編成しなおしたところに、
遅れていた徳川の精鋭部隊を率いて秀忠が到着し、再び東西両軍の激突となります。
家康がしんだとしても、秀忠はただちに弔い合戦をおこないます。
今度はどちらがかつでしょうか。
112 :
日本@名無史さん:2008/10/21(火) 13:02:27
このスレの大部分の人の誤りは「天下は統一される」という前提。
戦国〜秀吉前期までのような状態に戻るという(具体的にどうなるかまでは
わからないが)のが普通だろう。朝廷あるいは幕府などはあっても実質的には
分国状態。
今後は豊臣家をどう動かすかが重要
114 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 05:07:10
西軍が勝つわけないだろ。家康の掌で踊っただけなのに。
115 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 18:29:48
>>111 大津城を攻略した立花宗茂ら2万の軍勢と、田辺城を攻略した小野木重勝ら1万5千、
それに大坂城の秀頼を擁する輝元3万があるので、秀忠部隊(立花部隊に比べてはるかに関ヶ原に遠い)が
合流しても西軍優位は変わらない。
鳥羽伏見でも1万5千の幕府軍と5千の薩長の戦いで、緒戦の敗北しても数的にはまだ幕軍有利なのに、
すぐに藤堂が裏切ったのをみても、関ヶ原で敗退した場合は野戦の名人?という虚像がくずれ裏切り続出は必至。
慶喜みたく江戸に逃げ帰り、「秀頼さまに弓をひくつもりはなかった」として、
本多や井伊あたりを犠牲にして条件闘争で生き残るしかない。
家康が戦死した場合の崩壊はもっと早い。
本田忠勝は、娘婿を頼って西軍に回るかもねw
上州じゃ真田信之が真田昌幸と和睦するだろうから、秀忠勢も安泰じゃない。
秀忠勢を攻撃しないまでも、引き上げようとする軍勢も出るだろう。
徳川譜代だって、家名の存続を考えれば、徳川と心中しない連中も出てくる。
西軍が勝っても群雄割拠になるだけだね。
何もしなかった秀頼に従う馬鹿は少ない。
三成だって傀儡する価値がないと解れば離反する。
統一できる力量を持つ人物が現れなければ、数カ国を支配する大名達による
連邦国家を形成する形で近代に至るかもしれない。
117 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 21:59:05
>>111 家康亡き後、秀忠が何かできたとでも?
寝返り続出以外には無いでしょ。秀忠なら。
毛利氏には豊前一国加増。上杉氏には旧領越後を加増。石田三成は畿内を睥睨する近江一国を得る。長宗我部は伊予一国加増。宇喜多秀家は徳川旧領関東255万石を得る。
真田昌幸は甲信、上州加増の密約あるも信濃一国に留め置かれる
小早川秀秋は筑州のほかに関白料として播磨36万石を得る
もし家康が戦死したら、徳川家中に豊臣と縁の深い結城秀康を担いで
なんとか和睦を請う勢力が出てくるだろうなぁ。
>>117 そう言い切ってしまうのは流石に秀忠と徳川家臣達をなめ過ぎだと思うが。
江戸には秀頼の義理の兄である秀康もいるのだから「亡き実父と養父の意思を継ぎ、弟はこの秀康が守る」って感じの大義名分も立つし。
>>120 いや、>119の言うように秀康の存在のせいで徳川が分裂する可能性のほうが
高いでしょ。秀忠まで死んでいるほうが状況はまだマシかもしれないぞ。
122 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 01:02:45
>>120 秀康は上杉への備えとして宇都宮にいるわけだが、
東軍の敗北によって、援助要請で出陣しながら最上を助けずに傍観し、
様子見していた伊達が上杉側になる。
また、最上侵攻部隊は置賜と庄内の武将のみが参加しており、上杉全軍の1/3程度、
かれらの帰りを待つまでもなく上杉は3万の兵力で南下可能な上、秘密同盟の佐竹も加わるので
秀康は撃破される。(佐野などの北関東の大名も裏切るだろう)
秀忠が江戸に戻っても、江戸城(この当時はたいした城ではない)は陥落している恐れもある。
で、戦が終わった後どうなるか・・ってのがこのスレの趣旨なんじゃね?
徳川が滅びるまで戦ったとしても、大幅減封されて家名存続しても復活の目はなさそうだし。
取りあえず朝廷に働きかけて、秀頼の関白就任を急ぐだろうけど、秀頼が幼いため大老と奉行の合議制になるとは思うんだが。
それとも、秀頼の前に繋ぎ役で小早川秀秋を関白に置くだろうか?
関ヶ原前の三成から出た言葉が、きちんと履行されるかどうかは怪しいもんだが・・
仮に秀秋の関白就任ってな事になると、似たような立場の宇喜多秀家も黙ってないだろうし・・
実際関が原での西軍の中核は、宇喜多みたいなもんだからな・・
案外、小早川派と宇喜田派に別れて内部分裂が起こり、両者の間での天下分け目の戦に発展する可能性もあるかもしれん。
>>121 秀康担いで和睦って、秀康本人がそれでなっとくするかなぁ?
当時から勇将と言われていたわけだから覇気は有りそうだぞ。その辺り、毛利輝元と同じ流れになるとは限らない。
父を討ち豊臣に仇なす逆臣三成を討ちたおし、義弟を守るという大義名分にケチのつけようは無いわけだし。
江戸に残っている奴らだって、上杉が来る可能性も織り込み済みで待機しているわけだから、そうそうたやすく打ち破られることは無い。
東軍側の将だっていきなり全員が裏切るわけじゃないし。
125 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 23:43:15
>>124 家康自身、上杉(および佐竹)の南下が心配で、
秀忠、秀康を北関東(宇都宮)に置いて上杉を牽制していたほど。
福島らが単独で岐阜城を落城させてしまい、
家康不在のままで、単独で西軍に勝利する可能性が出て、
このままでは家康の主導権がゼロになる可能性も浮上して、あわてて自身も出馬、
あまり使えない旗本が中心なので、上杉を牽制しつつ真田を攻めていた秀忠にも急遽西上を命じた。
秀忠・秀康軍でやっと対抗できるのに、東軍敗北後、裏切りもあるだろうし、
秀康に上杉・佐竹を防ぐ力はない。
>>125 >>秀忠・秀康軍でやっと対抗できるのに、東軍敗北後、裏切りもあるだろうし、
>>秀康に上杉・佐竹を防ぐ力はない。
その辺の根拠がイマイチ不明。特に「やっと対抗できる」の辺りがね。
真田攻めで苦戦しているけれど、城攻めは寄せ手の方がかなり不利なんだから、城攻めで苦戦しても五分という事にはならない。
上杉・佐竹が攻める方に回れば、こんどは上杉が寄せ手の不利を受けることになるからね。
西軍の戦力・兵站も無尽蔵ではないわけだし、そう易々と関東の深部までは攻め入れないのでは。
東軍に勝たれると困る奴らがいるように、西軍に勝たれると困る奴らもいるわけだしね。
三成の手腕次第では適当なところで和睦して、その後政治的に潰していくという方法(要するに史実の家康が取った方法)もとれるだろうけれど、
純粋に軍事力で押しつぶすのは中々しんどい様な気がする。
軍事力でやろうと思ったら後ろで待機している毛利を押し出すなどの方法も考えられるけれど、
それをやると、戦後の天下人はかなりの確率で毛利だろうな。
前田家はどっちにしろ日和見な気がする。
127 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 02:09:50
>>126 確かに、上杉・佐竹と結城秀康軍では戦力に倍の開きがあり、
佐野ら小領主を率いているので一枚岩とはいかないわけで、戦力的には非常に不利だが、
秀康が決戦を挑むことなく、持久に徹すれば一気に関東を蹂躙されはしないだろう。
ただ、秀忠隊などの戻りが無いか、あるいは非常に遅れたらやばい状況になる。
>戦後の天下人はかなりの確率で毛利だろうな。
関が原では毛利本体の活躍はないし、それ以降に毛利が、ある程度活躍しても、浮田の功績には及ばない。
多分、前田は東軍なので減封だろうし、毛利、上杉、浮田の三大老の連合政権だろう。
ただ、小早川が決定的な働きをしたなら、大老に加える必要があるかも。
その流れで行くとすると、毛利・上杉・宇喜多の連合政権が成立して、地方に伊達やら島津やらが残る展開になるか。
徳川は立ち回り次第になるだろうけれど、外交が出来る人材もいれば秀康もいるし、家康無しでも戦後の改易を逃れることは可能かな?
領地は減らされるだろうけれど。
結果的には、地方勢力の力が強い室町幕府型の政権に落ち着く、ってとこかね?
前哨戦で三法師がまさかの大勝利
天下は再び織田家へ
五大老の戦略を見てみると
前田は芳春院を家康に人質として徳川に屈したものの
中立色強し。北陸七カ国切り取り自由のお墨付きを背景に
徳川に対しえる勢力を望んで北陸切り取り体制をもって
北陸を制覇しようとした。
上杉は西軍との共謀がささやかれているが本音は
旧領越後と腹背の最上を併合独立した勢力圏を確立していく。
上方の戦乱長期化を視野において出羽平定、伊達政宗の屈服による
全奥羽支配をはかり関東の徳川と対抗
おそらく天下ではなく東国における武力による覇権確立
宇喜多は徳川に代わって豊臣の後見の座を獲得し政権の主導権を握ろうとして
家康の専横を弾劾するという体裁で豊臣家後見の座を奪おうとした。
毛利は東は徳川に任せてもいい(上杉でも混戦でも可)西国の覇権確立
でありそして対中国貿易の特権の獲得なども考慮
というところでしょうか・
まず秀吉没後にあった前田利家-徳川家康の二頭体制を
西の毛利と東の上杉による二頭体制に再構築
秀秋を羽柴豊臣家に戻し関白ならぬ内覧の役職に着け
名実ともに関白ではないが関白代行なりうる職にしておくと
同時に天下政務は毛利と上杉の合意を必要とするなどの
制約を設けて独走を防ぐ。
利家没後の家康の専横という先例から
秀頼後見として二頭体制とは別に宇喜多秀家を任じ
天下政務に秀頼名代として代弁させる。
あとは奉行衆が実務担当というところで一応政権の
体裁をとるのかな。
ただ毛利は豊臣大老の名を借りて毛利による西国支配体制を
図るだろうから(そして関ヶ原での西軍で活躍勝利なんかしたら、なお確実に)
筑前は小早川家を秀秋(羽柴系)から秀包(毛利系)へ復せしめ
豊前から伊予山陰山陽道は毛利領にしてしまうだろうし、播磨因幡までを勢力圏
として間接的な実効支配に置くくらいやるだろう。
丹波の亀岡、篠山、明石あたりに豊臣家の名目で城を建てて代官として
毛利の者を豊臣直参名目で任命して私物化とか・・
そこまでいかないかもな・・
まあ統一というと徳川豊臣のような集権的なのをイメージするが
室町期的秩序が、知られていた一番身近な秩序なのだから
豊臣政権も地方勢力の力が強い室町幕府型の政権に落ち着くだろう。
その図式でいくと徳川は関ヶ原前までは執権北条氏
関が原での東軍大敗後は関東公方ってとこかな
秀忠系と秀康系と二つに分裂する要素もあるので
関東征伐は回避するが西側の分裂工作が功をそうして
古河公方と堀越公方の焼き直しになるのかww
あとは室町期大諸侯の復活として
前田=山名
上杉=管領家上杉
宇喜多=細川
毛利=大内
に相当する勢力になるだけかも。
>130
上杉は、本来はもっと南下・西進指向だと思う。
会津統治にしても、内心ではイヤイヤ感溢れているからなあ。
越後を押さえたら、次はなんとしても北関東に足がかりを欲するはず。
徳川と関東平野で数年以内に次のガチンコ勝負もあり得る。
結果、「どうでもいい」奥羽では伊達や南部が生き残りそうで、
奥羽は中世のまま、部族社会の生き残りのような状態が続くんだろう。
秋田氏なども生き残り、蝦夷やアイヌと近縁のもっと北方的な世界が、
北東北以北ではその後も続くのかもしれない。
重心がやや南にずれるが、上杉の「東国支配」にはおおよそ同意するよ。
>>133 諸侯が大坂なり伏見なりに常時滞在しなかったら、集権度は室町幕府未満になる。
(守護大名は京都に常時滞在していた)
直近の戦国時代のイメージが残っているならば
この可能性もかなり高い。もはやヨーロッパのようになりそうだ。
いまごろEUならぬJUをどう統合するかという話になっていたりしてなw
135 :
日本@名無史さん:2008/11/09(日) 10:36:48
>>134 基本的には、上杉は南下・西進指向に同意なんだけど
問題点として伊達を野放しにして徳川と争うか?というのが争点になるだろう。
最上を併合してしまえば小野寺と合流たぶん秋田とかは、そこまでになれば戦わずに
上杉の軍門に屈服するだろうし津軽もさほど労力が必要でもない。
南部を併合にまい進した伊達をそのままにしておいては危険でしょうから
やはり伊達を征伐するか何度か戦って実力で従えてから出ないと
関東の徳川は狙えないでしょう。
徳川も関が原で負けて西軍との緊張関係があるので
積極的に東北方面まで武力を展開することはできないでしょう。
西軍も短期で関東まで同行できるとは思えないし、
西軍の出方を様子見しながら徳川とはお互いけん制しあい
先に全奥羽を抑えて背後の憂いをなくして北関東に展開を図るのが
無難な戦略だと思う。
136 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 15:38:35
教えてください。
西軍が勝ったとしたら、吉川広家や関ヶ原にいた毛利諸将は戦後、いかなる処遇をうけたでしょうか。
領土を削られた可能盛大だが、
総大将が輝元なのでお咎め無しかも
138 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 18:37:14
お咎めなしとなると、西軍の諸将はだまっていないのでは。
>>137 毛利にとっても自家内の不穏分子の処分のいい機会やん。
140 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 19:40:01
もし寛大な措置をした場合、西軍は四分五裂となり体制を整えた東軍が攻めてきたら、
東軍にねがえるものが続出することになる。
吉川をきったにしろ、毛利氏の権威は暴落し、西軍は新しい指導者をたてねばならないが、
結局はうまくまとまることはないであろうから、やはり、徳川にふくすることになるのでは。
141 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 21:39:23
西軍が勝ったとしたらというのは、東軍を木っ端微塵にやっつけた時と解釈して
考えるが、毛利輝元は優柔不断そうだから、そんなに厳しい処分はなかったんじゃないかな。
142 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 22:38:08
143 :
日本@名無史さん:2008/11/11(火) 22:47:09
吉川は敵への内通者だよ。時は戦国、内通者に緩い処分ですか。
関ヶ原で東軍を木端微塵にしたところで、直に秀忠が到着しますよ。
それまでの間、西軍は吉川の処分のことで四分五裂でしょう。
144 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 00:11:47
というか勝ったとした場合西軍にそこまで求心力を発揮できる余地はあるか?
ということでただでさえ寄り合い所帯に近いのに
ただ空中分解はしなかったろうけど政治的妥協で決着つけざるを得ないだろ。
短絡的に戦国が再来するとも思わない。
戦国世代から、豊臣を頂点とした平和妥協の世代へと
世代の意識の変化というという流れに移行しつつあったし
家康というっ戦国世代最後の大物がいなくなれば自然と
豊臣政権が
>>133という形式で残って
善くも悪くも長いものには巻かれろという形で
続いてはいくでしょうが・・
145 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 00:17:24
歴史のもしもだから、正解などあるはずもないのだが、あの日関ヶ原で、
東軍が完全に敗北していたら、秀忠軍は関ヶ原に向かわず、敗残軍と合流し、
一旦関東に引き返して体制を整えようとしたんじゃないかな。
内通者とはいえ、みすみす相手方に追いやるよりも、元々身内なんだから、味方に引き入れる方が
得策だ。それに、毛利諸将は直接戦闘に加わっていたわけではなかったんだから。
146 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 07:36:55
一旦関東に引き返す?
今川の二の舞じゃん。
147 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 07:49:21
>>146 具体的に書くべし。
そんな意見では反論ができませんよ。
>>147 桶狭間後の今川は、義元が死んで駿河に引き返したんで、松平が独立しちゃったって
ことでそ。
149 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 09:40:07
そうです。弔い合戦もやらなかったために、家来にみはなされてしまったのです。
150 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 14:32:49
家康が討ち死にでもしていたら、それこそ、弔い合戦どころではなくなるでしょ。
当時はまだ秀忠は正式に後継ぎではなく、秀康もいたし、忠輝もいたのだからね。
徳川内部での跡目争いがまず出てくる。戦さどころではない。
家康が死んだら、東軍は完全に瓦解。徳川は、奥州上杉や東海道本拠の武将の動向が
まったく読みずらくなり、豊臣恩顧の大名も、秀忠が大将では、最早東軍に味方する
理由もなくなる。
今川は後継ぎの氏真が武将としてはまったく無能だったために家臣の離反を
招いたものであり、駿河に引き返したとか、弔い合戦とかは関係ないんじゃな
いかな。
151 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 14:50:05
>>143 もし処分する気があったとしても、あの状況では不可能ではないだろうか。
内通者に厳しい処分が下せるのは、絶対的な権力を持った大将がいるからこそ
出来るものだ。たとえば、家康のように。
もし、徳川の一族に西軍に寝返るものがいたら、それは絶対に許されなかっただろう。
しかし、毛利は違う。豊臣のもと、形だけ西軍の総大将に担ぎあげられただけなのである。
こういう大将では、家臣や他の諸将も自分の言いたいことを、ああだこうだと言うのである。
もちろんその中には厳しい処分を主張する家臣もいただろうが、やはりもう一度節得して、
味方に引き入れようと主張する意見に分かれ対立するのだ。
つまり、どっちに転んでも、まとまらないのである。
そんな状況になったら、最早、輝元に、断固とした処分など出来るはずもない。
152 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 20:00:15
跡目争いは誰が弔い合戦を主導したかが重要です。本能寺では秀吉が主導して家中でのゆるぎない地位をかくとくしました。
となると、当然弔い合戦はおこなわれ、大軍を率いていた秀忠が主導することになります。
153 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 21:42:22
秀忠は家康の子息の中では最も譜代衆の支持が高いんだよ
跡目は難なく決まるだろうな
石川数正でもいたら少しややこしくなっていただろうが
154 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 09:08:50
跡目争いの件は別にしても、関ヶ原後の弔い合戦は無理があるんじゃないだろうか。
まず、弔い合戦は実力がなければ出来ない。本能寺の例で言うと、秀吉がそれを掲げたのは
信孝、信雄にそんな器量もなく、はなから出来ないとたかを括っていたからではないだろうか。
信長の弔い合戦を言うなら、跡目を継いだ子が本来言うべきものだろう。
次に、家康が討ち死にしたら、秀忠の徳川軍だけでなく、他の東軍の士気低下は
著しいだろう。一方西軍の士気は敵の大将を討ち取ったことでますます上がる。
さらに家康の死の知らせを聞けば、前田や上杉、伊達の動向も気がかりだ。
このような状況で江戸をガラ空きにすることは危険この上ないだろう。
さらに、本能寺は弔い合戦が大義名分であったが、関ヶ原はまったく異なる。
東西両陣営は豊臣政権下で君側の奸を討つことを大義名分にしていたのではなかったか。
その大義があるからこそ、家康の勢力におそれをなした豊臣恩顧の大名や他の諸大名も
徳川に味方したのである。それを家康が死んだからといって、弔い合戦などと言い出したら、
元々味方であった東軍諸将からも猛反発を食らうだろう。
以上のような理由で、家康討ち死にの報を聞いた秀忠軍は、指揮の衰えた状況で
無駄に戦力を消費するのではなく、一旦江戸にもどり、その体制を立て直すほか
道がないと思うのであるがいかがだろう。
もっとも、巨星家康が亡き後の徳川家の前途は厳しい。たとえ、秀忠が家督を継いだとしても
西軍からすれば、豊臣への反逆者のままである。
清盛亡き後の平氏、頼朝亡き後の源氏、信玄亡き後の武田、義元亡き後の今川、
信長亡き後の織田、秀吉亡き後の豊臣、これらと同じ命運をたどった可能性は
十分にある。
155 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 19:04:35
>>150だからさー、無能とされ離反をまねいたのは、弔い合戦をしなかったからだってば。
この時代の弔い合戦は非常に重要なもので、本能寺のときも、織田信雄はもっとも弔い合戦をやる立場にあったのに、んさんのかんのといって行わず、家来のなかには公然と嘲笑するものまであらわれたという。
そのため、清州会議のときは二男でありながら誰もかれを跡目に押すものはなかったという。
弔い合戦とはそうゆうものです。勝ち負けはともかく形だけでもやらなければだめなのです。
関ヶ原後しか必勝のチャンスはないですよ。
>>155 >だからさー、無能とされ離反をまねいたのは、弔い合戦をしなかったからだってば。
ん?家督継いでも遠江や三河に権限なかったからじゃね?
義元が家督譲っても、氏真は駿河にしか影響なかったので、義元死後には家康も含む三河衆や、
飯尾氏などの遠江衆の造反招いたんだと思うが
それでも反対勢力の飯尾氏や堀越氏を制圧して遠江を確保したかと
弔い合戦云々は徳川史観で作られた話じゃね?家康が独立するのを正当化する為のね
157 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 20:04:50
>>155 弔い合戦を掲げるのなら、誰を敵とするわけ?。
三成?、輝元?、西軍諸将全部?、はたまた、秀頼?
今川氏真の場合は信長、秀吉の場合は明智光秀とそれぞれ、はっきりと、
相手が決まっていたよ。
三成も輝元も、豊臣秀頼の元、徳川の討伐に旗を挙げたんだ。
そこはどう考えているのかな?
それと、清州会議では、信孝、信雄を推す家臣がいたが、その間に秀吉が
三法師秀信(信忠の幼子)を担いで後継ぎに推したんじゃなかったかな。
あんたの理屈なら秀信だって完全に圏外だろう。
家康戦死なら秀忠じゃなくて結城秀康が後を継いでた可能性は高いな。
史実ですら本多忠勝と正信が支持してるのだから。
後は徳川が再戦を選ぶか、東軍諸将がそれについてくるかだな。
多分、石田三成は徳川の改易、あるいは大減封を要求してくるはずだし。
159 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 22:39:15
家康が討ち死にすることなど殆ど考えられないのでこの流れはほとんど無意味だな
160 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:44:36
あ、そうそう、島津をどう扱うかも問題だな。
161 :
関ヶ原:2008/11/13(木) 23:53:07
家康の農業国家は「鎌倉幕府のセカンドシーズン」って感じかな。
国内産業(畿内を中心とした国内ネットワーク)を携えてきた三成や大谷卿が勝ったら、日本は商業大国になって結構潤うかもな。
多分、諸大名の問題は増えるけど・・・
162 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 00:14:15
>>159 この流れは、元々、歴史にはまったく存在していなかった状況を想像して
書き込んでいるのだからね。
可能性があるとか、ないとかの話ではない。
家康討ち死にを想定して、その後どうなっていたかを空想しているシミュレーション
だ。歴史の「もしも」の空想だ。
163 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 00:23:40
>>160 それはどういう意味で?
島津の扱いがそんなに重要だとは思えんのだが・・・。
164 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 08:11:33
実は家康は討ち死にしていたw
という巷間説もあるくらいで逆にいえば家康が死んだくらいで徳川の勢力が崩壊するなどあり得ない。
徳川というのは勢力の拡大に伴い、いろいろな配下を実によく組み込んできている。
中核の三河衆から始まり、井伊家などの遠江勢、旧今川勢、旧武田勢、そして旧北条勢。
徳川勢というのは、これだけの集団が揃った質量ともにダントツの家臣団だろう。
戦国中期でいえば戦国大名4家分に匹敵する勢力だ。
信長のようにやたら相手勢力を滅ぼして来なかったし、秀吉のようにやたら妥協して温存してきたわけでもない。
(徳川家温存がそもそも最大の失敗)
徳川は信長以前の勢力が滅ぼしたところの家臣団をちゃっかり取り込み、秀吉の妥協にうまく乗って勢力を拡大した。
関東移封さえ石高アップだ。
かつ朝鮮出兵のようなリスクの高い拡大策にはほとんど乗らず、それによるダメージはほぼなかった。
かつ関ヶ原までにそれらの家臣団を実にうまく統制してきている。
最大の特色は三河衆とそれ以外をあからさまに差別しなかったことだろう。
また伊賀の忍びの集団や僧侶、学者、外国人(Wアダムス等)も組み込まれ、軍事だけでなく諜報、知識、政治全般にまで内容も充実している。
逆に離反者と言えば大賀弥四郎、石川数正くらいのもの。石川は徳川大老だったが、逆にいえば大老ひとりくらいが抜けてもビクともしないくらい総合力が充実している。
ちょっとやそっとの対抗勢力では歯が立たない。徳川「家」の前には屈するしかない。
江戸幕府が外様の参与を許さず、徳川家+譜代による「独裁」体制を作れたのもそこに要因がある。
江戸幕府というのは「徳川家」だけでやっていけるくらいの、それまでの武家政権(鎌倉幕府、室町幕府、織田政権、豊臣政権)とは全然違うものだった。
世界的にも近代に入るまでの政権としては「絶対王制」が最終的帰結だった。
日本の歴史も同様の帰結となったにすぎない。もし日本人がそれ以外の選択をしたなら、不幸な結末を迎えただろうな。
165 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 08:49:39
>>163関ヶ原で島津がどのような行動をとったかご存じですか。
総大将の三成が闘ってくれ(助けて)といってもうごかなかったんだよ。
166 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 09:43:29
西軍が勝ったら現在の東京は無くて大阪が首都になっただけのことだよ
もちろん明治維新はありえなかっただろうな。
豊臣はどのみち秀頼の代で終了して毛利か上杉の天下が到来しただろう。
167 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 10:22:27
>>166 だからそうならないっていってるでしょう。
西軍の中に内通者がそれも総大将の毛利の縁者がいたりしたので、西軍の内部は四分5裂し、そこに
秀忠が到来し、(家康がしんでいたら弔い合戦)、ばらばらになった西軍を撃破しますよ。
どのみち戦う前から勝負は決まっていたのです。家康もそれをよんでいたから、本陣を敵中深くまで進めたのでしょう。
計算外は島津の行動だけですね。
キチガイさつま、うざすぎ
169 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 11:21:51
その後2代将軍になる3男の大遅刻で負ける恐れはあったね。
170 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 12:08:27
>>165 そんなことぐらい知っとるよ。
だから、もっと具体的に言わんと何のことかわからない。
171 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 12:14:31
>>166 ん?
豊臣が秀頼の代で終わると書いてあるのに、何で大阪が首都になるの?
毛利か上杉が天下を取るんなら、山口か東北が首都になるのではないの?
その主張の流れなら???。
172 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 12:17:07
>>167 家康が生きてたら反撃はできただろうが、死んでいたら、東軍が四部五裂
になっちゃうでしょ。
173 :
ナイトロ:2008/11/14(金) 12:34:16
いくら陣形が西軍有利だとしても戦上手の家康に三成が勝てるわけないよ
174 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 12:48:16
>>164 「実は家康は討ち死にしていたという巷間説もあるくらいで逆にいえば家康が
死んだくらいで徳川の勢力が崩壊するなどあり得ない」
まず、徳川の勢力拡大から、関ヶ原までの徳川の体制の構築はすべて、家康
の代で行ってきたものだ。父の広忠の代には弱小勢力で、だからこそ、家康は
幼少期人質に取られていたのである。
さらに、関ヶ原後においても、豊臣滅亡までの過程を見ていると、すべて
家康の意向によってことが進んでおり、秀忠はほとんどそれに従っているだけ
なのである。 家康の存在は巨大で、秀忠などの及ぶところではない。
家康が豊臣を滅ぼし徳川の政権を盤石にできたからこそ、その後を継いだ
秀忠も徳川を支えていけたのである。
頭書の異説は、関ヶ原後の家康は影武者だったとの説のことだと思うが、
それは、逆に家康の存在の大きさをあらわしているのである。
もし、家康が本当に死んでいても秀忠がいれば徳川は大丈夫だと、家臣が
思っているのであれば、そもそも影武者なんぞいらない。
影武者を必要とするのは、家康が死んだことを敵に知られたら困るから
なのである。それだけ家康の力が大きいということの証明だ。
それは信玄が死を三年秘匿せよと遺言した説と同じである。
後継ぎがしっかりしておれば、そんなことをする必要などどこにもない。
175 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 14:01:11
>>174 いい指摘だと思う。
でももう「物理的な家康の存在」を徳川家は超えていただろうということだ。
それと、家康が実際に存在しなくなったら、日本の歴史は史実よりかなり混迷しただろう。
だが、大局的には徳川家に収束していく流れになったと考えられる。
実はあなたも同じ見解なんだよ。
何故なら、影武者になったら徳川家は崩壊するとは思っていないから。
ただし、歴史は人間の思惑により、ベストな選択がなされるとは限らないのであるべき姿にはならない可能性も考えられる。
また、それが次のベストを生む可能性になったりするから人間のなせることは面白い面もある。
この場合で言うなら、家康が幕府を開き、かつ秀忠に譲るまではそういう流動的な要素はあった。
また、西国の有力外様大名が生き残ったのも、幕末までのスパンで考えたら「次のベスト」への流れだろう。
>>173 ひとつ言えるのは、関ヶ原で勝てたので、家康はそれを天下分け目の決戦にしてしまったということだろう。
家康が関ヶ原で勝てない可能性はあった。ただし、負けはしなかっただろう。
そこまで家康がぼんやりしているはずがないからだ。
負けそうになったら、いったん関ヶ原から撤退。すぐに体制の立て直しにかかる。
だいいち、関ヶ原は、家康にとってベストの状況ではない。主力も到着していないし、逆にいえば関ヶ原がダメでも構わない。
しかし結果は、関ヶ原で「勝ってしまった」。だから結果的に天下分け目の関ヶ原になっただけのことで、そうならなかったなら、それは緒戦として位置付けられ、別の決戦が「作られた」ことだろう。
176 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 14:20:32
連投済まないが、こういう言い方の方が分かり易いかな↓。
実を言うと関ヶ原で勝てなかった場合の方が、その後の徳川政権の進行はスムーズに進んだとさえ言える。
考えられる展開は、福島、黒田などの豊臣恩顧武断派の東軍大名が西軍に戦闘で壊滅させられ、西軍が「関ヶ原で」主導権を取った時だ。
池田や山内なども巻き込まれるだろうし、そうなると彼らが逆転するなど考えられない。
そういう状況で家康は関ヶ原から撤退。おそらく尾張まで後退する。
この状況に至っても、家康は自分の望みが半分は叶ったと思えるはず。
何故なら豊臣勢力の文治派、武断派を互いに直接戦わせ、結果的に豊臣勢力全体を半減させることに成功したからだ。
暗殺などではなく、軍事衝突で互いが消耗したのだから、実質的には半減より効果があった。
はっきり言えば、家康にとって福島が勝とうが石田が勝とうが大した差はなかったということだ。
そして最終的には秀忠率いる主力が到着した段階で反攻に転じ、これで東軍ではなく「徳川軍」が石田三成始め西軍を倒すことだろう。
家康は最初から漁夫の利を求めて戦いを仕掛けるために上杉討伐を企画したんだ。
石田が勝った場合、これは徳川主力の到着さえ待てば必ず勝てる。
実はこの方が良かった。これで勝った場合、加藤清正など関ヶ原にいない者を除いて豊臣恩顧大名はほぼ全滅だからだ。
江戸幕府は史実よりもっと早く豊臣氏討伐に着手したことだろう。
実際は「東軍」が勝ってしまったので、石田など西軍は当然壊滅だが、反面豊臣恩顧武断派の大半が生き残ってしまった。
これを潰していくために江戸幕府は時間をかけなければならなくなった。また大坂の陣までにも関ヶ原から10年以上もかかってしまった。
家康は豊臣恩顧大名たちを潰し切らないまま亡くなったが、秀忠がそれを受け継ぎ、福島はじめほとんどが改易で潰された。
しかし「土佐」の山内などは残ってしまった。これも幕末にはやっかいな存在になる。
177 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 14:35:43
家康敗死だったら(史実の関ヶ原の戦場じゃムリだろうけど)、
秀忠はどう振る舞うのが正しいんだろうか?
@名古屋付近で再戦の準備を整え待機(野戦にしろ籠城線にしろ)
A関東に撤収、体制を整えて再戦準備をする。
東海道・中山道筋の諸城は放棄
ちゃんとAを選択できれば数年は徳川は大丈夫だろうけど@を
選んだら破滅しかねないなw。
西軍は戦後処理抜きに関東侵攻なんてムリだろう。関ヶ原組と輝元あたりが
ゴネまくりそうだし・・・・
178 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 14:51:27
>>177 逆だ。
Aならば、武田信玄亡き後の勝頼ではないか。
ここで重要なのは必要以上に時間をかけてはいけないということだ。
秀忠は躊躇せずに戦闘を引き継ぎ西軍をそのまま打倒すべきだ。またそれは可能だ。
武田はそれが出来なかったがゆえに最終的に滅んだ。徳川家はその轍は踏まないだろう。
秀忠に判断ができなくてもよい。逆に家康はその判断できる股肱の主力の殆どを秀忠側につけている。
準備にはいくら時間をかけてもいい
勝負は無駄な時間をかけてはいけない
基本だなw
桶狭間で主を失った今川所隊が、戦闘を継続せず帰国したのは、義元の死で武田・北条
との同盟が壊れる可能性を危ぶんだもの。
一所懸命を是とする武士達は、所領の保全が肝要だからね。
カリスマ的な主を失った場合の家臣の動揺は大きい。
秀忠勢の中には、西軍に所領を脅かされる者もいる。
沼田に入った真田信之の動静も不安だ。
上杉と対峙している連中には、くせ者の伊達が居る。和睦して結城を攻めるやもしれない。
家康の命に背いて、上田に固執した結果の東軍大敗って一面になってるわけだから、緒将
の信頼は低下の一途。
譜代の家臣だって、秀忠相手では一枚岩じゃない。
不安要素だらけで強引に進軍して足並みが揃うとは到底思えない。
金ヶ崎の信長同様、瞬時に帰国しないと危険だと思うけどね。
181 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 17:56:42
182 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 18:00:45
>>178 これは難しい判断だとは思うが、家康敗死の場合は、たとえ徳川軍が
西軍との決戦を主張しても、他の東軍諸将の意向を無視することはできない。
家康と違って、秀忠であれば徳川の言いなりにはならないだろうからね。
183 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 18:07:53
家康討ち死になんて妄想がはびこっているが、西軍にその気がないのだからあり得ない。
家康さえ打ち取れば何とかなるのであれば、何故赤坂で奇襲をかけない?
島津が提案したとされるが石田三成が却下。
困難な作戦であるには違いないが、却下された時点で家康討ち死にの可能性は消滅したことになる。
関ヶ原ではなく、家康討ち死にの可能性を考えるのなら、もっと早い段階の話だ。
184 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 18:15:20
>>182 だから関ヶ原の戦いで家康での討ち死にはない。
が、関ヶ原でたとえば家康が急性心不全でも起こして死んだとしても、もう戦いが始まっていれば福島や黒田らは石田三成との戦いを止めるつもりはないだろう。
家康様のために戦っているなどと考えていないからだ。あくまで豊臣家のため、君側の奸を討つと考えているおめでたい連中だ。
だから関ヶ原の動静に大きな変化はない。ただし、繰り返し書いているように関ヶ原で東軍が勝てない場合はあり得る。
ただ、この場合の展開も
>>176の通り。その場合、東軍側の豊臣恩顧武断派大名は既に壊滅しているので、
>>182の考える心配はないことになる。
185 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 19:06:02
>>183、184
家康が関ヶ原で討ち死にする可能性がほとんどないって、そんなことわかり
きっているよ。
だから、これは、そういう仮定を前提に、その後の歴史の進行を想像している
だけの話だ。
186 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 19:13:54
>>181 反論するんだったら、具体的に書かないとダメじゃないかな。
そんな書き方では、何のことやらさっぱりわからない。
187 :
177:2008/11/15(土) 20:09:55
>>178 西軍を打倒するってどこを決戦場にするんだよ?
西軍だってバカじゃないからそんなハイハイ秀忠の都合のよいように
決戦を挑んでくれるわけないじゃん。時間は秀忠に不利なのはその
とおりだから、関東に戻って体制の立て直しに入るべき。
というか、西軍勝利後のビジョンってなんだったんだろうね?家康排除?
関東なんてどうでもいい?
>>185 西軍勝利後の論功行賞を妄想するよりもまだおもしろいんじゃないの?
配置的には毛利秀元とかが機動的に退路を遮断できれば家康を捕捉撃滅できそうだけど
そんなこと出来るんぐらい西軍が統制取れていたらメッケルがいうとおり西軍が勝利だよな。
>>185 なら話は簡単だ
話の内容は最初から破綻しているよ。
189 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 20:55:31
>>187 メッケルは山形有朋らから布陣図を見せられただけ(というか過去の文献からいくつもの日本史上の戦いの布陣図の作成を命じたのがメッケル)なので、勝敗当ては「ごっこ」に近いものだった。
秀忠なら小牧城に下がるだろう。
ここなら10万の大軍でも防げる。
かつて家康が織田信雄とこの辺りに布陣し、秀吉10万の大軍と対峙したところ。
酒井忠次や本多忠勝もいるし、関ヶ原の井伊直政も合流すればかつての小牧・長久手の経験者が揃うことになる。
石田三成始め、西軍とされたメンバーに秀吉以上の戦闘指揮など不可能。
やみくもに攻めれば被害を蒙るのは西軍(だから秀吉は攻めなかったのだが)。
そして、小牧まで西軍が進軍した場合、吉川・小早川を背後に回してしまう(当然、彼らは関ヶ原を動かない)。
ただし、大谷刑部辺りや島津などの献策を三成が聞く気になれば、(1)再び大垣城に籠るか、(2)大坂に引き揚げる選択がある。
しかし三成には、もうそれ以上の展望がない。
(1)なら秀忠軍は再び西進を図るだろう。その場合は関ヶ原での再戦となり徳川主力が有利。第二の長久手戦となるだけ。
(2)が西軍ベストの選択だが、これでは元の木阿弥で、消耗した分豊臣の凋落は避けられない。
豊臣恩顧大名以外の協力が得られなくなり、毛利も撤退。
この場合は、いくつかの紆余曲折のあと、天下分け目の戦いは大坂の陣というものに近くなることだろう。
190 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 22:49:17
>>175-176 私は174だが、あなたの関ヶ原における家康の狙いについて、とても興味
深く読ませてもらった。
実は私は、両軍の軍事衝突、すなわち関ヶ原の戦闘開始時における家康の
真の狙いは、西軍諸将と東軍の豊臣恩顧大名を戦わせることによって、その
両者の戦力消耗が隠された狙いだと考えている。
だからこそ、秀忠をわざと遅らせた。(いわゆる主力温存策)
もし、秀忠が正真正銘の遅参ならば、逆に、家康がなぜ秀忠が到着するのを待たずして、
戦闘を開始したのかが理解できないからだ。
そう考えれば、東軍が一時的に劣勢に落ちたとして、秀忠軍はいずれ到着、十分に
反撃可能と考えていたのではないだろうか。
しかし、結果は誰もおそらくは予想もしていなかった。東軍の圧勝、一日で勝敗が
決着してしまった。徳川主力がほぼ無傷、家康は東軍諸将の手前、秀忠を厳しく
叱責はしたが、それはあくまでも見せかけに過ぎず、秀忠はのちに徳川の後継者となる。
191 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 23:18:43
190の続き。
家康にとって、結果的に、東軍の豊臣武断派大名が十分な余力を残しての
戦闘終結は、決して好ましいものではなかっただろう。
しかし、こうも考えられないだろうか。
それは、関ヶ原にいた小早川、吉川、毛利の軍勢の動きである。
これらは、東軍に内通していたと一般的に考えられているが、そう単純な話
ではないと思う。私の考えはこうだ。
まず、小早川は二股を掛けていたのである。もし、最初から東軍に味方する
気があるのなら、戦闘開始から東軍に加勢するはずであるが、それをせずに、
途中から東軍に加勢したのはなぜか?。もしかしたら、西軍優勢と見れば、
西軍に加勢するつもりだったのではないだろうか?
吉川、毛利は結果的に戦闘に加わることはなかった。それはなぜか?
家康に内通の意を事前に通告していたとか、そういう表面的なことではなくて、
毛利は毛利で、高みの見物を決め込んでいたのではないのか?。
こんな戦闘で毛利の軍を消耗するのは、バカバカしい。他の諸将に派手に
戦ってもらい、疲弊するのを見計らって、毛利の発言力を増大させようと
していたのではないか。
もし、関ヶ原及びその後の両軍の戦闘が長引くような事態になると、これらの
軍がどう転ぶかわからなくなってくる。
結果的に、東軍が一日で圧勝してしまったために、これら毛利勢の思惑も
完全に吹き飛んでしまったのか?。
やはり、歴史のあの結果は、家康にとっては最も好ましい結果だったのでは
ないかと、考察するのである。
192 :
歴史学者:2008/11/15(土) 23:46:33
色々 見させてもらいましたが 中途半端な知識を付け 更に妄想を付け加えた
低レベルな意見ばかりだな
まず
家康は強運なだけ
戦略も政治も全然ダメ
これは事実
関ヶ原
ただの強運で勝てたまで
西軍が勝っていたら 徳川は 四国に飛ばされていただろう
なぜ 四国かは
勉強しよう
関ヶ原に付いては
西軍は家康以下
人選ミスだ
シビアに戦に勝つ事だけを考えれば
まず 負ける事は無かっただろう
家康の戦は敗戦続きだ 家康自身 関ヶ原では負けると言ってたな
だが そこは強運
家康の生い立ち
今川〜織田
家臣の謀反(父死)
独立、一揆、武田上洛 北条との口戦
何を取っても全て運 。だが西軍が勝ってたら、今の日本は朝鮮みたいな国だっただろう 。今の日本が こうなったのも運
全ては運を味方にした 時の流れ
194 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 13:59:56
>>190-191 概ね同意だ。
が、ここで家康の天下分け目の戦略を考える際、関ヶ原での吉川・小早川の裏切りをどの程度想定していたかということだろう。
実はそれほど期待していない。だが、三成に100%着かれるようなことがあってはならない。
家康は東軍の豊臣恩顧大名も全く信用していない。だから関ヶ原以前の段階で清州に東軍諸将が集結した際も江戸から動いていない。
家康はこれから起きるであろう事態についていろいろなケースがあり得ることは百も承知していただろう。
その中で最悪の事態があっても徳川家が勝利すると考えて満を期して兵を挙げた。
戦国の世を乗り切って来た、秀吉死後の最大の実力者だ。誰かを頼りにして計画が行き詰まる状況ではない。
毛利について考える時は関ヶ原だけでなくもっと視野を広げる必要があるだろう。
おそらく毛利勢はどんなことがあっても東国までは出て行かない。
それは、九州の黒田(如水)がいるからだ。輝元も大坂城までが精一杯。吉川や毛利秀元、小早川にしても東国に踏み込んでまで三成と運命を共にするつもりはない。
そのギリギリの最前線が関ヶ原だ。関ヶ原は昔から東国の入り口、また東西衝突は大抵この付近。壬申の乱、南北朝期の最大の戦い青野ヶ原の戦いもここ。
だから西軍が大垣城に入った際も吉川・小早川は関ヶ原(南宮山、松尾山)に留まった。
>>189で西軍が関ヶ原で勝って前進する場合でも吉川・小早川が関ヶ原を動かないと考えたのはこういう理由だ。
裏切りというより東西両局の展開次第で動く状況は高みの見物にも見えるが、その裏には「毛利の限界」も同時に垣間見えるということだろう。
それは、九州の黒田(如水)がいるからだ。(笑)
やはり妄想スレは無知ホイホイだなw
196 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 17:16:32
199 :
195:2008/11/16(日) 21:49:17
ぶw
192と194の同じ無知同士の醜い争いだなw
しかも192と決め付けた上での
>>196-198w
200 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 22:08:42
遂に西軍厨が荒らしと化しtたか
>>191 吉川広家と黒田長政の密約を広家が毛利氏全体の意向としてしていたら
輝元は西軍の総大将にはならないのでは?
202 :
日本@名無史さん:2008/11/16(日) 23:28:46
志茂田の「逆撃!関が原」では
上のレスで話題になってるように関が原で家康が敗死した後の去就で揉めて
結局、とっとと逃げ帰って関東を押さえて時期を待つって意見が採用されて
西軍は 毛利・石田・小早川・宇喜田・上杉、こいつらの合議制で全然まとまらず
秀忠追撃どころじゃなくて、そのまま徳川の朝廷工作で豊臣と和睦。
って流れだったな。
俺もそう思うわ。徳川家臣団が家康の仇討ちをやったやらないで、揉めるとは思えん。
将来の勝利のために力を温存するだろう。
203 :
ナイトロ:2008/11/17(月) 00:09:53
お前達がいくら熱く語っても歴史は覆えせないんだよ...W
204 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 06:19:47
>>201 毛利は内部がバラバラだったんだよ
三成に一番協力的なのは安国寺だ。
これが輝元総大将の仕掛人。
吉川は家康寄り。
小早川はねね寄りw
205 :
サガミハラハラ:2008/11/17(月) 13:05:09
昨夜の篤姫ご覧になったのでしょうか。
負けて逃げ帰ると、女にまで見放されるのですよ。
軽蔑の対象以外のなにものでもない。
206 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 13:44:55
>>201 つまり、こういうことだと考えている。
毛利一族は、毛利の安泰を図ることでは皆一致していたのだが、その方法論
がバラバラで、考えがまとまっていなかったのだ。
広家の考えを推理してみると、こんなところだと思う。
広家にとっては西軍が勝利したところで何も問題はない。それによって毛利
本家が危機に陥ることはないのだから。両軍が戦闘を開始し、西軍がどんなに
優勢に戦さを進めたとしても、徳川が江戸まで一旦撤退した場合、毛利を始め
西軍諸将が一致団結して、江戸まで攻め込んで行くとは考えにくい。
そのことは、誰もが予想したことと思う。
そうすると、広家にしてみれば、最も恐れる状況は何かということになる。
それは、歴史の結果通りとまではいかなくとも、東軍が優勢に戦を進め、
京大阪あたりまで西軍が撤退したような場合である。これなら十分可能性があった。
そうなってからでは、毛利が和睦を申し入れても状況はかなり厳しくなっていただろう。
広家としては、最悪の事態が訪れたとしても、毛利の被害が最小限に済むように、
徳川にも働きかけをしたのではないだろうか。
つまり、ある意味、広家も、毛利のために二股をかけていたのである。
西軍敗退の場合に備えて、保険を掛けていたと言ったらわかりやすいだろうか。
そして、それを推測させる理由はふたつある。
まず、内通の交渉相手が、直接にではなく、互いに黒田を介していたことである。
これは家康、広家どちらにも言えることだが、これなら、あとで事情が変わったと言って、
約束を反故にしやすくなる。所詮は、生き残りをかけた騙し合いなのだ。
そして何よりも、広家は、関が原で東軍に加勢していないのである。傍観していただけだ。
つまり、積極的に東軍が勝利することを願っていたわけではない。
広家にとっては、徳川政権の樹立や豊臣政権の安泰が目的ではない。毛利の安泰がすべてなのである。
>>204 輝元の総大将就任を秀元は諫めてますね
秀秋とねねの甥、叔母の仲があまり良くないのを書いた秀吉の書簡があったような
>>206 輝元は豊臣政権下の毛利内閣的な野望を持っていたかもしれませんね
広家のみ黒田長政を介して本領安堵と密約しますが
関ヶ原以外の戦線での毛利軍の動き
毛利軍全体は秀元中心に輝元が総大将になったからには勝たねばと四国や九州に同時侵攻してますので
吉川広家と黒田長政の交渉は当の毛利宗家も知らなかったのでは?
後の毛利側の吉川氏への確執を見ると
毛利側に黙って広家が黒田長政と勝手に交渉を行っていたことこそ最大の手落ちかもしれませんね
ここは推測ですが毛利側は小早川の動きも掴めていないと思いますが
吉川広家は小早川秀秋の動き
西軍離反を聞いていたかもしれませんね
208 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 21:24:36
黒田長政は本来の役目は父如水の意向を受け、東西両軍の様子を探ること。
つまり東西からすればダブル・エージェント。実態は黒田家という第三勢力のエージェントだ。
それで上杉討伐に参加してきたが活動はもっと早く開始していると考えて良い。
討伐参加なので軍勢を引き連れての参加だが、どこまで如水の真意を理解していたかは疑問だ。
結局長政はほとんど家康にいいように利用されてしまった。
長政は、豊臣武断派を家康に寄らせることが豊臣を弱体化すると考えたと思われる。
かつ、それは正しいヨミなんだが、問題は長政はまだ政権を持っている天下人の家豊臣を過大評価、そしてその結果として徳川家康を過小評価してしまったことだ。
長政は豊臣分断して一方を徳川につけることで、事態が混迷化、泥沼化すると読んだのだろう。
それが黒田如水の付け入るチャンスになると考えたのかもしれない。
そして西軍側の吉川・小早川にまで手を伸ばし、あろうことかこの勢力まで家康寄りにしてしまった。
だが実際は、それによって東軍は、徳川主力と家康抜き状態の東西(石田・大谷・宇喜多・小西VS福島・黒田・藤堂・井伊)で拮抗状態、プラス吉川・小早川が西→東になったことでその日のうちにで東軍勝利となってしまった。
この辺りは長政自身と家康とで謀略のスケールが違っていたということだろう。
如水はどこまで長政に指示を出していたかは定かではないが、如水黒田官兵衛は、昔から目上の秀吉には細かく進言するが、配下や格下の者に対する指示はおおざっぱというかぶっきら棒というか、手取り足取り教えるというタチではなかったらしい。
長政の行動は実質的に家康の使い走りと同じだ。如水の指示が行き届いていたとは言えず、かつ長政も1聞いて10理解するには程遠かったのだろう。
こーいう妄想出来る人って幸せだと思う。
>>208 どちらにしても黒田長政は関ヶ原の戦場にて吉川広家に空弁当を食わせ
毛利全軍を戦闘に不参加させることで両軍のミリタリーバランスを崩し
徳川方の出した空手形を毛利家に突き出した功績は事実ですね
>>208 あーそれ解るようなw
黒田官兵衛みたいなのって、自分の能力に凄い自信持っていて実績もあるし。
そういう天才肌の人って自分より能力のない人の立場とか状況が良く分からないから
これだけ言えば当然相手は理解するもんだってオモテしまうよね。
なのに自分以上に理解力がある人、それが上司だったりしたら
1言っただけで10理解されてしまうけどそれじゃ自分が評価されないとでも思うのか
必死になって少しでも多くの意見を言いたがるみたいw
現代でもいるよ、こんな人w
秀吉さんみたいな人が上司だったから良かったものの、信長だったらウザく思われて
殺されていたかもw
213 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 14:35:17
関ヶ原後の黒田父子に関わる有名な逸話がある。長政が、家康から関が原での
戦功を大変感謝されたことを父、如水に伝えたところ、「その時、おまえの左手
は何をしていたのだ。」と叱責されたというあの話だ。
この話の真偽はともかく、父子の考えの違いをよく表しているように思う。
日々強大化する徳川に対して、どのように対処すれば黒田家の生き残りが図れるか、
その考え方が、如水(腹背面従)と長政(絶対忠誠)の両者には決定的に違っていたのであろう。
如水の思惑をこう推察する。
如水自身は己自身が天下を取る気はなく、天下を取る才能がある人物に軍師として寄り添い、
そこで知略を駆使することこそが、最も己の才能を発揮し、また、そのことに生きがいを感じる
タイプの人物だったように思える。
しかし、秀吉亡き後、日々勢力を強大化させる徳川に対して、子の長政では、
その対抗馬としての器量を見出せず、虚しい感慨を抱いていた事であろう。
如水は如水で、このまま徳川が強大化し、黒田がその臣下の立場となることに
危機感を抱いていたことと思われる。
しかし、かといって直接、徳川に敵対する力はない。
また、西軍の団結力では、一時的に徳川を封じ込めても、すぐに反撃されるであろう。
そこで両面作戦、すなわち、内心は徳川の戦力消耗を願いつつも、東西両軍の
戦闘状況がどちらに転ぼうが、言い訳ができ、かつ黒田に有利な状況(九州北部における勢力拡大)
を作り出そうとしたのだ。
そこで、関が原前後、九州において、形だけは東軍を装って軍事戦略を遂行した。
これなら、たとえ西軍優勢な状況で天下の動向が推移しても、当時の情勢からして、
九州の黒田に積極的に進攻してくるほどの勢力があるとは考えにくいのである。
214 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 14:37:37
213続き
一方、長政は正室を家康の養女を迎えていることからも、すでに秀吉死去の後から、
黒田家の生き残りには、徳川へ忠誠を示すしか、その道はないと考えたのであろう。
それは、父の意向を汲み取るとか、そういうことではない。
もはや己の信念で、徳川に味方する道を選んだのであろう。
しかし、如水にはそんな長政の考えが甘く思え、歯痒かったのだろう。
「黒田は徳川の譜代ではないのだ。さんざん利用された挙げ句、いつ見放される
かもしれないのだぞ。そうなってからでは、最早まったく反抗する事などできないのだ。
そんなこともわからないのか、このバカ息子が。」
それが如水の本心だったのではないだろうか。
そんな如水の気持ちが冒頭の逸話に言い表されているように思う。
>>213 その逸話、大抵の人が知っている有名なものだけど、出典は何でしょ?
調べたけど解んない・・・・・・・・・・・
216 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 23:27:06
その前に、黒田如水は東軍として兵を募って、東軍として行動して味方増やして、豊後一帯で争ってたに過ぎないのを、
黒田が居るから・・・なんてのを理由にするのはあまりにもおかしな話なんだが
218 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 06:30:27
つまり関ヶ原は黒田が勝手に動いてくれて福島が勝手に騒いだ上に突進してくれて
山内が勝手に進路を開いてくれて吉川が動かないでいてくれて小早川が勝手に
裏切ってくれて、家康が勝ったと
219 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 06:35:44
織田の家臣がついて豊臣の家臣がこねた天下餅を徳川が美味しくいただきました(w
220 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 13:31:54
>>218 みんな自分の身が可愛いのだから、何もせずに勝手に動いてくれるなどと
いうことはない。人を動かすには恫喝と愛撫だ。
家康からみれば、秀吉死後から天下取りへの戦闘、戦略はすでに開始していたのだ。
221 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 20:31:36
222 :
日本@名無史さん:2008/11/19(水) 21:54:20
黒田なんか嫌いだ
伝統ある博多に乗り込んできて
福岡、なんて備前か何かの山ん中の地名を勝手につけやがって
俺は今でも福岡なんて地名は認めないぞ!!
223 :
日本@名無史さん:2008/11/20(木) 05:38:16
スレスト乙
つ黒田節
225 :
日本@名無史さん:2008/11/21(金) 23:29:46
遂にここは黒田スレと化したなw
226 :
日本@名無史さん:2008/11/23(日) 12:45:37
黒田スレかどうかわからないが、少なくとも黒田と徳川の違いはその「役回り」だろう。
黒田の場合、百戦錬磨の黒田如水がいわば「後詰」で前線にいたのが長政だった。
ところが徳川の場合は家康が前線に立ち、秀忠は逆にあとからやってきた。
家康は秀忠(徳川主力)を温存すると完全に決めていた訳ではなかったと思う。
しかし、まずは豊臣恩顧武断派や西軍にいながら内通しているものを出来るだけ使って徳川の消耗は最小限にしようという意図は伺える。
メリットは消耗が少ないことだが、逆にデメリットは制御が難しいところ。局面が複雑になることだ。
しかしだからこそ、家康がいなければどうにもならない。秀忠ではそこはうまくいかない。
うまくいくのなら、家康は江戸にいて、秀忠でもよかった。
おそらく「信康」がいたらそうなったかも知れない。かつて源頼朝も平氏討伐には出向いていない。義経や範頼に任せている。
この辺り、前線に赴けるだけの器量があるか、自分に代わってどこまで任せられるかの見極めが肝心。
しかし家康は総合的に判断して自分が出向く必要があると判断したのだろう。
黒田如水が関ヶ原に出てきていたら、そして長政を地元にとどめていたらかなり局面が変わっていた可能性はある。
つまり如水はヘタレということでおk?
228 :
ドブロク:2008/11/24(月) 13:41:19
なんで如水がへタレ(腰ぬけ)なのだ。
わかりやすく理由をのべろ。
>>226 家の当主は家康と長政です
アホですか?
230 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 19:22:34
>>229 肝心な時にはそんなことは関係ない。
信長も家督を譲った後でも出陣するべき時は出陣している。
もし如水がそんなことを理由に出て来なかったのなら天下も糞もないが。
如水なんて山師に過ぎんわ
>>230 長政は会津征伐へ黒田家の当主として出向いたのです
アホですか?
233 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 19:59:12
如水様と興雲公の微妙な関係わかってないやつだな
234 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 23:46:40
西軍厨全滅
235 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 06:33:23
結局関ヶ原の戦いでは徳川家康が勝ったが
関ヶ原スレの勝者は黒田如水・長政だったなw
236 :
日本@名無史さん:2008/11/25(火) 06:51:59
なんで関ヶ原の西軍に同情したり肩入れしたりするやつがいるんだろ、戦国時代が際限無く続いて欲しかったのか
あれは東軍が勝たなきゃならない戦だったのだ
豊臣政権が続いていたら鎖国はなかっただろうな。
238 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 09:54:59
もし石田三成が、前田利家死去の後、おとなしく佐和山で隠居していて、
家康の挑発にも一切乗ってこなかったら、家康なら、どのようにして、
豊臣から天下を奪っていこうとしただろうか?
>>237 いや。
豊臣もキリスト教嫌いだったから鎖国した可能性大。
むしろ家康のような積極貿易をする人間が出てこなければ
鎖国のタイミングは史実より早まる可能性もあり。
240 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 10:17:42
江戸幕府が鎖国した理由は大きくわけて二つだと思う。
まず、キリシタン勢力の排除。
そして、諸藩が勝手に外国と貿易して富を増やすのを警戒した。
これらの理由を考え併せると、豊臣の政権下でも、鎖国を推し進めた
可能性はある。
実際徳川幕府の鎖国への流れは豊臣政権の時代から続いていたからね
その中でも信長の対外政策を知っている秀吉や家康までは
まだ貿易も重視していたが、信長を知らない世代の時代になって
鎖国優先の方向性になってしまったのかな。
鎖国政策について関わるようなIFは関が原や大坂の陣による
影響よりも本能寺の変の影響を考えたほうがいいのかも。
>>238 豊臣家の大老として秀頼を抱え込んで
豊臣恩顧の大名達をしだいに従え
豊臣秀吉と織田信秀の関係のような形で行くんじゃないでしょうか?
243 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 10:41:13
>>242 何となく、そういう形で進行していくことは想像できるが、「関ヶ原」
がなければ、結局、家康はどこまでいっても「豊臣の家臣」から抜け出す
ことは出来なかったのではないかと考える。
それは、家康の性格が「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」だからなのだ。
豊臣武断派大名を分断出来たのも、三成がいたからこそである。
そうこうしているうちに、家康の天命(寿命)は尽きたのではないだろうか。
244 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 12:30:31
三成役が宇喜多秀家に代わるだけのような気ガス
>>243 ifなんですべて憶測になってしまうのですが
秀頼が成人(元服)するまでに秀頼含め家康の影響下に入れてしまってた可能性が高いような・・・
秀頼が朝廷から関白まで貰えたかどうか?
単純に力関係で豊臣家を上回り、かつ朝廷での官位でも秀頼の上の位階に就けば
いずれにしろ秀頼征伐(賊軍征伐)などと、こじつけは幾らでもしたと思います
何せタヌキですからね
明・朝鮮征服を目指していた豊臣政権が鎖国とかワロス。
248 :
日本@名無史さん:2008/12/03(水) 19:15:00
>>247 秀吉と秀頼を一緒にするなよ。
他の大名も世代が代わっているんだよ。
江戸幕府も鎖国なんてしてないけどなw
250 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 05:12:55
こんなところにも井沢厨がw
鎖国=交易断絶ではないぞw
関ヶ原で西軍が勝ってれば
キリシタン弾圧は弱まるわ。
252 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 10:03:10
253 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 10:06:35
>>249-250 出島で貿易していたことを言ってるのだったら、そんなことぐらいなら、
ここのスレの住人なら誰でも知っているだろう。
254 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 14:11:44
>>238 他の重役(五大老)を蹴落として、専制を確実にしていくでしょう。
前田利長の謀反の噂を流して、最終的には屈伏させ、
次のターゲットは上杉、上杉は屈伏しないので、謀反として秀頼の代理として会津征伐。
ここで、関ヶ原がおこらないとすれば、次は宇喜多か毛利。
関ヶ原のように一挙に権力を集中する事態にはならずに、時間がかかるので
死ぬ前に豊臣家を潰すことは出来ないでしょう。
秀長が関ヶ原の頃まで生きてればね・・・
257 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 22:39:06
結局どうあがいても西軍はやはり勝てなかった、でおk?
おkおk
259 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 16:43:18
>>257 西軍に全く勝ち目が無かったか?といえば、そんなことはない。
小早川の裏切りが無く、安国寺恵瓊・毛利秀元・吉川広家西軍の軍勢が積極的に攻勢に出ていれば、西軍勝利は間違いない状況だった。
260 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 17:40:21
江戸が栄えることはなかっただろう。
スペインもしくはオランダの植民地になっていた
>>259 とういうか、毛利が動いてりゃ西軍が圧倒的に優勢。
日和見の小早川も裏切らんでしょ・・・
冬休みなのに盛り上がりに欠けるのぉ。
>>262 何でもありが許されるんだったらやっぱり秀頼出陣じゃないの?
でも毛利が動くとわかっていたら家康は決戦なんて挑まないでしょw
てきとーに三成か、三成がムリだったら毛利のどれかと手を結んで
しゃんしゃんとコトを治めて次の機会を狙うだろうね。
264 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 00:29:29
いや関ヶ原では勝敗が微妙でも、結局家康の勝利で一連の動きは終わるってことだよ。
毛利家が好戦派の声が強く合戦ヤル気まんまんだったら
結局、家康は時間を裂いてでも切り崩したでしょうねえ
266 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 06:25:50
前に出ていたけど、結局毛利勢(吉川、小早川も)は関ヶ原より東には出て行かない、行けない。
これでやる気になるわけがない。
267 :
;:2009/01/01(木) 10:38:13
立花宗成の大津城攻城軍がまにあってたら毛利が動かなくても勝負になってたんでは?
268 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 10:48:48
西軍は勝てても 内紛になる。家康は よく利用してる。
東軍側の改易&再分配とかゆー威勢のいい話はないのかよw
冬休みだぞ。
270 :
;:2009/01/01(木) 15:55:31
>>267 上杉 佐竹 なんか 近接した土地でいいが。毛利や島津は東軍からの接収地が遠方ばかりでどうなんだろう?
271 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 18:19:33
輝元が毛利本軍を関ヶ原で指揮して西軍が勝利したとしたら毛利は戦後、国人
連合体的な体質から脱却できたのかな。少なくても野戦の名手である家康を破
った武将として世間の評価を上昇したと思う。上手くすれば毛利家は集団指導
体制から輝元の君主権が確立された体制へと変移できるかも?
西軍が勝ったとのイフでも勝利の度合いによって違うよな。
東軍総崩れで家康戦死の決定的な西軍勝利と西軍の判定勝ち・東軍は引き上げて再起を図れるレベルでは。
273 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 20:13:26
西軍が勝ったとしても、西軍をまとめる力量がある者はいない。
結局群雄割拠の戦国時代に逆戻り。
そうなると徳川が息を吹き返してきて・・・・・
274 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:00:16
上の方のいう通りだな。西国は 分割されすぎで まとまらない。
275 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 01:30:51
昨日放映の「おんな太閤記」で竹中半兵衛が機転を利かせて
幼少時代の黒田長政を、信長から助ける話(史実から曲げてはいたが)
が出てきたが、これがなければ黒田長政はおらず、したがって
小早川秀秋は裏切らず、西軍が勝っていたんだな。
276 :
;:2009/01/03(土) 09:09:47
藤堂高虎あたりが代わりをやったと思われ。
今でも京都が首都で、経済と政治は大阪が中心
と言う感じになっていたと思われ、それか大阪遷都
江戸が栄えていなければ、前島密の横車がないだろうから
278 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 14:21:42
>>275 秀吉に大貢献したはずの半兵衛が
豊臣滅亡に間接的に手を貸したこと
になるとは。
歴史の皮肉。
279 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 17:20:40
>>276 慧眼です。
私も同感です。
藤堂高虎の名をお出しになるとは、相当お詳しい方とお見受けいたします。
280 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 18:29:32
281 :
日本@名無史さん:2009/01/03(土) 22:33:55
黒田長政がいなかったら……
黒田家は東西決戦に参加せず、
九州の如水が、寄せ集め浪人ではなく
黒田家の譜代の家臣を九州戦役に投入でき
史実より早く九州を切り従え、家康を破り
天下を取っていた
……かも。
282 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 00:16:28
>>281 面白いイフだけど、無理だろうな。
如水の読みでは、東西の決着には膠着状態が
続いて数か月かかるはず、だった。
たとえ黒田軍の主力を九州で使えたとしても
関ヶ原が一日で終わったのでは九州平定まで
時間が足りなすぎる。
長政がいようといまいと如水には天下取りの
目はなかった。
>>282 ある意味、石田三成の実力をかってたんでしょうね
284 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 00:54:04
つか、普通に考えて養子とるだろ。
そこで我らの秀秋たんが…
285 :
日本@名無史さん:2009/01/04(日) 08:03:33
黒田如水にゃあ、天下盗りは無理だんべ。
人望がありゃしねぇよ。
せいぜい参謀やってるのがお似合いだぜ。
トップに立つのは孔明じゃあなくて劉備だっちゅうことさね。
286 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 07:11:38
家康が劉備なのか?
287 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 07:19:56
家康は1/3の劉備なんぞより、はるかに大物。
たとえるなら、劉邦とか朱元璋でないと釣り合わんよ。
288 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 09:20:01
黒田如水は参謀がお似合いタイプ。
そもそも天下取りを狙っていたとは思えんな。そんな気があるのなら、秀吉
死後にもっと早く行動を起こしていたと思う。
あと、小早川の裏切りだけでは、歴史の大きな流れには影響なかっただろう。
せいぜい関ヶ原の決着が1、2か月ほど伸びる程度。
289 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 18:20:46
海援隊「二流の人」 作詞:武田鉄也
♪そんなに ほしい 天下なら
家康 お前に くれてやろう
まぐれで勝った 関ヶ原
さぞや鎧も 軽かろう
せめて百日 関が原 続いておれば この天下
俺のものにしていたものを
信長・秀吉・家康と 仕えて戦さに明け暮れた
水の如くと 流れてきたが
今は天下に 未練なし
黒田官兵衛 苦笑い
一生ツキが なかったと
黒田官兵衛 苦笑い
290 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 18:20:59
291 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 18:23:59
♪弓もひかずに ただ待つだけで
天下取ったか 家康よ
十万の兵士 ひきいて敗れた
石田三成 愚か者
せめてひと月 関ヶ原 続いておれば博多から
大阪・京まで攻めこんだ
天下を取れば 船を出し バテレンの国や絹の道
ただの一人で 駆け巡る
それも今は 夢の夢
黒田官兵衛 苦笑い
一生ツキが なかったと
黒田官兵衛苦 笑い
♪流れる水に 文字を書く そんなムダな一生さ
人よ笑え 二流の人と 今はおのれが哀れなり
黒田官兵衛 苦笑い
一生ツキが なかったと
黒田官兵衛 苦笑い
292 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 23:54:17
無かったのはツキじゃなくて能力さね。
293 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 02:49:41
むしろ、小早川隆景の寿命が家康より長かったら?が気になる。
六大老の中では、
徳川・前田+宇喜多・毛利+小早川・上杉
のように分かれていたと思われ、毛利+小早川の約150万石を小早川隆景
が実質的に動かしていたら、豊臣の天下ももっと続いたのか?
>>293 小早川隆景は毛利家にとって、その時々の時世で豊臣、徳川のどちらが得か?
で動くような
ぶっちゃけ毛利家が安泰なら天下は豊臣だろうと徳川だろうといいみたいな
あと宇喜多って小早川隆景の死によって大老になったんじゃなかったでしたっけ?
小早川隆景の後釜は上杉景勝じゃなかったっけ?
296 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 16:32:51
>>293 隆景がいたら、三成の毛利担ぎ出しも困難だったと思うね。
で、家康も手詰まり状態。そうこうしているうちに、秀頼が成人。
そうなれば、加藤・福島らも家康には味方しない・・・。
297 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 18:30:09
「我以外に、天下を束ねる器量を持ちしは如水と隆景」
と秀吉に言わせたほどの実力者だからな。
しかし、家康より10歳年上だから家康より長生き
するとは考えにくい。
せいぜい関が原が数年遅れるだけではないかな。
それより、中国大返しのときに吉川元春に同心
して秀吉を追撃していたら、の方が歴史はもっと
大きく変わっていたかもしれん。
「安国寺恵瓊を信用するな」という隆景の
諫言を輝元が守ってりゃなあ。
>>295 おっしゃる通り小早川隆景の後釜で五大老になったのは上杉景勝でした
失礼しました
300 :
日本@名無史さん:2009/01/06(火) 20:50:13
>>298 そんな遺言残すのなら自分で処分しとけばよかったのにな
あとよく隆景の遺言を輝元が守っていればよかったいうけどどうかなと思う
関ヶ原で東西どちらにつかなかった大名がいたけど改易くらってるし
天下人の器ではないとか言う話ももうすこし気の利いた言い方をすればいいのに
元就だったらもっと気の利いた言い方をしたと思う
あの隆景の遺言を見ると中国の蓋と言われるほどの実力と
同時に中国の蓋でしかない隆景の限界が見えてくる
>>300 その限界は隆景自身、分かっていたんじゃないかな。
だから本能寺の時、秀吉を追撃しなかったわけで。
その辺、秀吉から「この世に政治ができるのは直江と小早川である」
「ただし、天下を取るには直江は知恵が足りず、 小早川は勇気が足りない」
と評されるだけのことはある腰抜けともいえる。
303 :
日本@名無史さん:2009/01/08(木) 22:45:01
まあ、ろくな政治も出来なかった秀吉に言われたくなかっただろうけどな。
その秀吉よりも劣るわけだ。
305 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 01:32:40
>>中国大返しのときに吉川元春に同心
明智と毛利で秀吉を挟撃する形か。それでも
秀吉もそう簡単にはやられないだろうし、摂津
あたりで両軍がウダウダやって消耗する間に
伊賀越えで三河に戻った家康が、勝った方を
叩いて漁夫の利を得るw
秀吉の時代をすっ飛ばして家康の天下がもっと
早く来る。結局どう転んでも最後は家康w
>>306 柴田は戦国最強の上杉軍団に蹂躙されて滅亡します。
308 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 07:36:26
309 :
;:2009/01/10(土) 16:49:24
景勝は内乱でそんな余裕はなかった。
310 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 01:47:54
もし本能寺の時に毛利が秀吉に追撃をかけていたら
>>305のような展開になっていた可能性はあるだろうね。
ただし、信長から秀吉への移行がスムーズにいったのは
秀吉が天下取りに王手をかけていた信長の後継者という
ポジションをゲットできたからで、もしこの時点で家康
が秀吉を打ち破ったとしても、織田家中が家康に従うか
はわからず、更にまだ北条、伊達、島津らの大大名が健
在だから、これらを家康がどう切り従えていったかは興
味あるな。
311 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 23:42:51
>>305 火事場泥棒で信忠の与力大名が治めていた甲斐と、信濃の一部を手に入れた(川中島4郡は上杉)けど、
そんなに家康に力量があるわけではない。今川を滅ぼしたのも信玄で、同盟とは言ってもたいして役にたってない。
相手が秀吉(敵を取り込み重用:毛利・徳川・上杉など)ならよいが、それ以外のものが本能寺後の中央の権力になったら、
徹底的に潰される可能性があるね。
本能寺の変後の各地の大大名は、信長と敵対していたところは
基本的に大復活しているのに、毛利だけ所領安堵だからなぁ。
上杉: 滅亡の淵から復活。内乱を抱えていたために、越後一国と川中島四郡のみ確保。
北条: 北武蔵まで分捕られていた状態から復活。甲斐・信濃で上杉、徳川と争い上野を確保。最終的に最大版図を達成。
長宗我部: 四国征伐軍派遣直前から復活。最終的に四国統一。
内乱さえ抱えていなかったら、大幅な領地拡大が望めそう。
もし、毛利が秀吉を追撃していたとしたら、徳川・上杉と争わなければならなかった
北条以上に躍進していたことは間違いなく、宇喜田は毛利に寝返るだろうし、
おそらく播磨・但馬までは毛利の版図。
地理的にも畿内の争いにかなり介入できるので、天下に一番近い存在になる。
徳川も毛利も天下徒労なんて思ってなかったんでしょ
314 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 07:03:56
そんなことあるまい
水呑百姓や乞食坊主の末裔でも余裕で天下取れたんだぞ?
316 :
日本@名無史さん:2009/01/16(金) 21:31:56
歴史に「タラ・レバ」はナンセンス。
317 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 01:23:22
うむ、そうか。天下取りには
1.野望・知力・人望など個人的資質
2.武器・兵力、信頼できる家臣などの具体的武力
3.時の運
が必要だろうが、
1はあったが、2も3もなかったのが黒田如水
2と3はあったが1がなかったのが毛利
1と2はあったが3がなかったのが伊達政宗じゃないか。
>>317 伊達は現実の歴史がベストだろう。
伊達政宗は出生年を悔やんだというが、
実際には出生地のほうがはるかに問題だった。
仮に、出羽国米沢生まれという線を動かせないなら、
生まれ年は、ほぼ最善の時期となる。
実際、畿内の豊臣政権下ではただの三流クラスのド田舎大名。
徳川家康が徐々に実権を握り、
しかも政治中心を東日本の江戸に移行させる傾向
(自分は伏見や駿府にいても、秀忠は江戸においた)の下で、
さらに戦国武将第一世代が軒並み老死するという状況下で、
ようやく「天下に手が届く気がする(笑)」という意味で、日の目をみることになった。
みな毛利、毛利と言うが冷静に考えてくれ
毛利輝元だぞ
毛利輝元が天下を獲れるか?
吉川元春も小早川隆影も愚将じゃない
絶対に二人が止める!!
320 :
;:2009/01/17(土) 09:28:49
チョンの裔の大内や長曽我部よりまし。
島津も実は朝鮮人らしいな。
武田や佐竹も先祖は朝鮮人らしい。
日本人の祖先は朝鮮人
日本の文化の起源は朝鮮
323 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 14:57:15
毛利輝元の力量は防長36万石くらいがちょうどいい
中国120万石でも輝元の才覚、資質じゃ度を越えてた
毛利輝元が幕府なんて開けるのかよ
毛利だけ毛利家って一緒くたにしないで
毛利輝元個人の才覚考えろよ
正気な家臣は輝元の天下獲りなんてみんな止めるよ
325 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 15:31:19
輝元は120万石の才覚はもっていただろ
だからこそ秀吉はそれだけの石高を与えているわけだし
あと輝元が幕府を開かなければならない理由もないわけだし
輝元一人が毛利家でなくその他の一族や重臣たちを含めて毛利家なんだから
輝元個人の才覚を考える必要もないし才覚がないなら他の人間が補えばいいだけの話
重臣一堂輝元の才覚なんてわかってんだから(だから関ヶ原でも毛利家は支離滅裂になったんだろ)
その輝元の家臣を纏めれない才覚が結果として36万石なんだから120万石は荷が重すぎたんだよ
毛利家に天下狙わすなら隆元が長生きしてたらとか、そっちの線で行かなきゃダメだろ
天下狙うのと天下獲るのと意味ちがうんだぞ
重臣が優秀だからこそ輝元に天下狙わすことしなかっただろうに
重臣から見てそれが輝元の才覚なのに天下獲りは無理だろ
>>325 > 輝元一人が毛利家でなくその他の一族や重臣たちを含めて毛利家なんだから
毛利家だけ当主の力量無視するなよ
328 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 18:53:51
輝元は立派に120万石を統治した。
一方宇喜多は57万石すらまともに統治できず・・・。
関ヶ原敗戦の責任は宇喜多にあり。
宇喜多がもう少しまともだったら治部ごときがのさばることもなく、
島津や小早川の造反もなかっただろう。
あほやがな
毛利家全体としての実力は充分に認めるが
輝元擁護は苦しくないか…
輝元ってさほどの落ち度もないのに妙に愚鈍扱いされるよね。
毛利毛利うるせーな
大名は毛利だけじゃねーんだよ
333 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 21:03:01
関ヶ原で西軍が勝利を収めれば、
石田三成の権勢は、かなり大きくなるのでは?
少なくとも、当時、天下に並ぶ者無しといわれた?徳川家康を撃破したという事で…。
334 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:49:44
輝元が無能だったことは、彼の行動を見れば疑問の余地なし。
335 :
日本@名無史さん:2009/01/17(土) 22:57:35
肥薩国境なんて存在しなかっただろうね。北に南肥後、南に北薩、西に東支那海、日本語は難しいね。
336 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 01:21:08
輝元が無能であろうがなかろうが、その動向が
関ヶ原の勝敗を大きく左右したのは間違いないね。
輝元に関しての大きなイフは、
「もし三成の要請に応じて、秀頼と共に出馬していたら」
だろうな。
西軍の勝算が高くなったと思うがどうだろう?
毛利家の実力は充分に評価できるんですよ
結局、輝元だったから家中を掌握できなかった
元就は年齢的に不可能でも隆元が存命だったら…
家中の意見を纏めあげ毛利が一枚岩なら秀頼の出馬orそれを合図にした関ヶ原の毛利軍の戦闘開始も夢ではなかったかも
なんにせよ当時120万石の巨大組織毛利家を纏める当主が不在では仕方ない
338 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 01:46:36
>>336 >もし三成の要請に応じて、秀頼と共に出馬していたら
大津城は即降参。
立花宗茂、小早川秀包たちを引き連れての関ヶ原入り。
そうなれば西軍の勝ち、もしくは関ヶ原の合戦はなかったかも。
(どちらにしても、家康は江戸へ逃げ帰り、後は政治の駆け引きか?)
仮に東軍が負けたとしても、後の政治の駆け引きに家康が勝って、天下を取ってそう。
家康相手じゃ輝元では荷が重い。
339 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 02:52:58
結局西軍は勝つための戦争を企画できなかったということになるな。
340 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 07:41:04
輝元と家康では器量は大差ないよ。でも状況は家康に圧倒的に有利だった。
蜂起したタイミングはほぼ理想的だったけど、家康が豊臣政権の執権であるから、
その家康に対して、極めて重要な公務中(謀反人征伐)に出かけた隙に
クーデターを起こすといった卑劣な行いをしたせいで人心掌握が難しかった。
そもそも家康は豊臣軍の総大将として豊臣軍の主力(福島ら)を率いていた。
一方の輝元は残り物を率いざるを得なかった。
豊臣軍(東軍)は豊臣家の御為に謀反人を討つと言う大義名分に燃えていた。
一方の蜂起軍(西軍)はもともと動機が不純な上、東軍派の武将(島津・長曽我部ら)を
無理矢理従わせたり、官位で釣ったり(金吾)と烏合の衆にすぎなかった。
家康のいた江戸城は自分の居城で、留守にしても乗っ取られる心配はなかったが、
輝元の占領した大坂城は豊臣家の居城で、輝元が留守にしたとたん豊臣派に奪回されるのは必至だった。
輝元はタイミングよく蜂起したが、同時にかなりハンデを負っていたんだよ。
でも天下を取るためには蜂起するしかない絶好のタイミングだよね。
341 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 08:01:49
家康も愚策、誤算だらけだったよ。むしろ輝元の方がマシなくらい。
・自分は安全な江戸城に引き籠もって部下の武将のみに先行させた。
↓
西軍の対応次第では先遣部隊壊滅の可能性も。史実における西軍の敗北と同じことになる。
一方輝元の留まった大坂城は、留守にすると乗っ取られる可能性濃厚。
輝元の方がマシ。
・秀忠軍が到着しないなど、戦力を集中できなかった。
↓
西軍と同じ。
・金吾調略に失敗しかけ、悔し悔しと爪を噛む羽目になった。
↓
結果オーライ。
まあ輝元の方がマシというのはどうかと思うが、
家康も言われるほど戦上手でもないよね。
関ヶ原では前線の武将に勝手に戦わせてただけだし、
大坂夏の陣では醜態をさらしている。
1万程度の軍ならともかく、何万もの兵は統率出来なかったのでは。
10万対10万の戦いなら家康も三成も大差ないだろ。
>>341 事実としちゃ結果がすべてダメだったのが輝元だろ
駄目人間だけど運良く結果が出た・・・家康
駄目人間だけど運悪く結果が出なかった・・・毛利
こういうことかな?
345 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 14:16:24
「能ある鷹は爪を隠す」と言葉があるが
輝元はわざと馬鹿を演じてただけで本当は超策略家だったんじゃないだろうか?
30万石の大名に落ちたのも徳川幕府の警戒心をなくす為に
わざと騙されただけだと思うよ
346 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 14:31:42
本当の輝元は何度も大阪城に密偵を送るほどの用心深さと緻密さがあるからな
前田利長と同じ徳川幕府に「こいつはたいした事ない」と思わせるために愚将を演じてただけかも知れん
347 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 14:36:29
「能ある鷹は爪を隠す」
真の一流ほどバカに見られてしまうのがこの世
輝元は250年後の子孫が新生日本を建国するのまで見据えてた行動をしてたのかも知れんな
もしかしたら毛利輝元は祖父を超える超謀略家だったのかも・・・・・
349 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 15:00:22
同じ毛利でも秀元の方はどうだろう?
空弁当で天下に名を馳せた秀元殿だが、実は結構有能だったらしいね。
しかも怪力だったとか。
>>344 普通は後者をダメ人間と呼ぶ
毛利全体でなく輝元ね
351 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 16:46:26
で、結局輝元のどこが駄目なわけ?
無能なとこかな
吉川広家がいなきゃ36万石でもなかった
吉川広家がいたから36万石になっちゃったんだろうがw
354 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 19:13:06
そもそも輝元が有能なら、決戦場に行かないなんてことはありえん。
355 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 20:24:00
総大将は軽々しく動かんものだ。
既に大老の宇喜多に出陣させてあるしな。
秀頼が
>>355と考えるのはもっともだが
輝元が本気で
>>335のようなこと考えてたら敗因はそれだな
形でも関ヶ原に出てきた家康とは大違いだ
>>356 秀頼は西軍の大将ではない。
よって戦場に出てくるわけがない。
それに関ヶ原で合戦がおき、わずか1日で決着がついたのは
アクシデントみたいなものだ。
>>353 毛利輝元自身は1毛利家を保つための積極的な行動をなにもしとらんだろ
359 :
日本@名無史さん:2009/01/18(日) 22:43:26
軽快に動けない総大将って無能だよ。
カエサルなんか迅速に動けるように道路を造ったほどだぜ。
チンギス・ハンなんか何千キロも疾駆したしな。
源義経は八艘跳びまでしたんだぞ。
>>357 秀頼は東西両軍の総大将だろうが
輝元なんて贔屓に見ても家康と同じ立場
大坂城にいるなら秀頼から強引にでも豊臣の千なり瓢箪でも借り受けて
大義は我らにありと秀頼の名代として関ヶ原に出馬すべきだろ
これなら1日かからず関ヶ原の決着ついただろ
だいたい戦争の勝敗にかかる時間が1日だろうと10年だろうと
勝敗が決めるにかかる時間をアクシデントにしてどうするんだよ
機をみるに鈍
無能の証明だろ
>>360 秀頼はどちらの総大将でもない。
当然西軍などにも加担しなかった。
豊臣家の御為を旗印にする以上、
嫌だという秀頼を引きずってくることなど不可能。
馬印も貸してもらえないし、貸してもらったところで
そんなものは役に立たない。
なぜなら東軍の諸将は秀頼が西軍に捕らわれ、
利用されることなど織り込み済みだから。
むしろ奪回しようといきり立って攻めかかってくるのは必定。
関ヶ原の毛利輝元はさすが120万石の太守だけあって、
実に見事だった。
どっしりと本拠地に腰を据え、配下の宇喜多や石田を指揮して
あたかも天下人のような貫禄だった。
大老のひとりに過ぎない徳川など、
同格の宇喜多ひとりを派遣すれば事足りるからな。
時に利あらず合戦に敗れはしたが、軽挙妄動せず、
整然と大坂城を退去した。戦いの幕引きも実に見事。
敵に怯えて味噌をこぼすどこかのイモ侍とは大違い。
>>361 嫌だろうとなんだろうと大名の頂点は豊臣家で東西両軍の総大将は秀頼なんだよ
関ヶ原は東西両軍の豊臣秀頼の取り合いの戦いなんだよ
それがわかんないのか?
嫌だろうとどうだろうと豊臣家と秀頼を総大将に戴いて大義を立てほうの勝ちなんだよ
なんでそれがわからないんだ
>>363 おいおい、何勝手なこと言ってるんだ?
下々の者が勝手に総大将認定したところで本当に総大将になるわけないだろう?
大儀なの何だのと言うのは勝手だが、勝手に宣言することと
実際に総大将になるのとでは大違いだが、そんなことも分からないのか?
じゃあさ、勝手に官軍宣言してもなぜか官軍になれてしまうのか?w
言ってること無茶苦茶すぎだろw
>>361 西軍の東軍に対するアドバンテージは唯一大阪城で秀頼を抱えてること
これを最大限に使わなきゃ勝てないんだよ
> 豊臣家の御為を旗印にする以上、
嫌だという秀頼を引きずってくることなど不可能。
馬印も貸してもらえないし、貸してもらったところで
そんなものは役に立たない。
輝元がこんなことを考えた瞬間に西軍の負けが確定するんだよ
>>364 オイオイ家康は東軍緒将をどい従えた
石田三成は西軍の決起の理由をなんとしたんだよ
君らの意見は関ヶ原の戦いそのものの存在意義の否定になってるだろ
豊臣家と秀頼を抱き抱えたほうが勝ちなんだよ
>>365 >西軍の東軍に対するアドバンテージは唯一大阪城で秀頼を抱えてること
>これを最大限に使わなきゃ勝てないんだよ
禿胴。全くその通り。輝元は唯一のアドバンテージである
「大阪城で秀頼を抱えてること」の維持に最大限尽力した。
輝元は自分の務めを立派に果たしたのだ。
なのに責められてる可哀相な輝元卿・・・
>>366 だからさあ、勝手に総大将認定したところで
実際に総大将になってもらえる訳じゃないんだよ。
勝手に認定して即就任してもらえるんだったら
誰も苦労しないっつーのw
>>367 確かにパーフェクトな人間はいない
>「大阪城で秀頼を抱えてること」の維持に最大限尽力した。
これが輝元に出来た精一杯だったかも知れないが
毛利輝元だったからこそ出来たことは認める
確かに西軍の大名に輝元以外にこれが出来た大名は見当たらないと思う
東軍は秀頼を取り返す軍。総大将は家康。
西軍は秀頼を盛り立て、姦物家康を除く軍。総大将は輝元。
両方とも秀頼のために戦ったわけだが総大将は秀頼ではない。
というか、一人しかいない秀頼が同時に東西両軍の総大将になるなど不可能w
>>368 わかんないヤツだな
秀頼を戦に出すとかじゃないんだよ
自分で勝手に秀頼を総大将にしてと認めてるだろ
どちらが正しい総大将秀頼の率いる軍かを相手に認めさせる戦いが関ヶ原なんだよ
どうしても意味がわからなきゃ自分で頭を整理してちゃんと考えろよ
自分の言ってることを整理し直しな
>>370 わからないヤツだな
東西両軍ともどちらが正しい秀頼の軍かを相手に認めさせる戦いなんだよ
だから東西両軍とも総大将は秀頼なんだよ
>>368 >勝手に認定して即就任してもらえるんだったら
誰も苦労しないっつーのw
だから関ヶ原の合戦をしたんだよ
>>372 だからさあ、どっちとも勝手に秀頼を総大将認定してるだけなんだろ?
で、それを相手に認めさせようと必死なんだろ?秀頼の意思関係なく。
ほら、どっちとも秀頼が総大将じゃないじゃんw
お前自分の言ってることがどれほど滅茶苦茶なのかいい加減気付けw
>>373 そのとおり!関ヶ原で勝って初めて東軍は秀頼を総大将に頂くことができ、
秀頼の名の元に戦後処理をすることが出来るようになった。
ようやく分かったようだね。
>>374 秀頼の意思なんてすべて関係ないだろ
秀頼が望んだものでもなんでもない
東軍は関ヶ原に勝って秀頼の意思に関係なく秀頼のために合戦をして勝ったと勝利宣言してるだろ
まだ意味がわからないのか?
>>372 >東西両軍ともどちらが正しい秀頼の軍かを相手に認めさせる戦いなんだよ
>だから東西両軍とも総大将は秀頼なんだよ
これ「秀頼軍になりた〜い」と言ってるだけのことであって、
実際に秀頼を総大将に据えてるかどうかと言うことは全然別問題なわけだが。
>>375 秀頼の意思関係なく東西両軍は秀頼を総大将にしてるだろ
その取り合いの戦いだってさっきから書き込んでるだろ
東西両軍にとって最初から最後まで秀頼が総大将でその取り合いの戦いなんだよ
>>376 東軍西軍の戦いは秀頼の意思と関係のない戦いだな。
だから秀頼が総大将などと言うことは有り得ないわけだ。
もうそろそろ分かってきたかな?
>>379 秀頼の意思とかそんなんじゃなくって東西両軍とも秀頼を総大将にしてるだろ
こんな屁理屈ばっかりだから西軍は負けたんだよ
どこに秀頼が自分から東西両軍な総大将になったなんて書き込んだよ
>>378 >秀頼の意思関係なく東西両軍は秀頼を総大将にしてるだろ
してませんが?
>その取り合いの戦いだってさっきから書き込んでるだろ
総大将にしてるんなら取り合う必要なんかありませんが?
>東西両軍にとって最初から最後まで秀頼が総大将でその取り合いの戦いなんだよ
秀頼は総大将に就任なんかしてないし、就任してるんなら取り合う必要もないよねえ?
家康はなんて言って東軍緒将をまとめたんだよ
東軍にとって秀頼はどんな存在なんだよ
石田三成はなんて言って西軍を決起させたんだよ
西軍にとって秀頼はどんな存在なんだよ
>>380 だからさあ、秀頼のためと称することと
秀頼が総大将に就任することは全然別なんだって。
なんで勝手に総大将認定されたからって本当に総大将になると思えるんだよw
じゃあさ、秀頼が一言戦をやめよ、っていったらあっさり戦いは収まるんかよw
あんたのは言ってることがメチャクチャすぎて屁理屈にすらなってないじゃんw
>>382 >家康はなんて言って東軍緒将をまとめたんだよ
>東軍にとって秀頼はどんな存在なんだよ
家康が東軍をまとめたことは理解できてるんだ。
これすなわち総大将ね。
秀頼は遥か彼方の大坂城内。総大将になんか就任できません。
>石田三成はなんて言って西軍を決起させたんだよ
>西軍にとって秀頼はどんな存在なんだよ
専横な家康を打倒する、かな?
結局秀頼(淀殿)は味方してくれなかったけどね。
385 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 15:35:21
まあ、淀殿の意識としては「豊臣家の家来同士が勝手に戦をしてるだけ。どちらが勝っても豊臣家の家来であることに変わりは無い。どうころんでも切り抜けられる」くらいのことだったんでしょう。
女の浅知恵ですな。
386 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 17:22:16
関ヶ原で西軍が勝利を収めれば、
少なくとも石田三成の権勢或いは勢威は上昇するだろう。
海道一の弓取りである徳川家康を撃破したという事で…。
387 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 17:47:32
毛利輝元ってわざと愚将を演じてただけで実際は大謀略家だったんじゃないかな
388 :
日本@名無史さん:2009/01/20(火) 18:15:59
>>386 だからこそ広家なんかは協力的じゃなかったんじゃないの
三成は相手に感謝するようなタイプじゃないし
むしろ俺様のおかげみたいなタイプだから不安になったんじゃないのか
389 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 00:56:21
>>384 総大将と主君を混同してるんですな。
東西両軍とも例外無く秀頼の家臣であり(東軍勝利後も領地の宛がい状は秀頼名で出されている)、
関が原は豊臣家内部の派閥争い。
後で、権力を集中した大番頭(家康)が、主家を乗っ取り、最後には殺してしまったけどね。
あり得ん仮定をするとして、前田利家か秀吉の弟の秀長どちらかが家康並に長生きできれば歴史は変わったかもしれないな。
仮に家康がこの二人のどちらかににガチ仕掛けて、利家or秀長の西軍VS家康の東軍の合戦が行われてたら、少なくとも三成の西軍よりはマシな戦いになってだろう。
391 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 07:34:13
>>387 それは幻想に過ぎん。
結果が雄弁に物語っているではないか。
392 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 10:15:17
>>390 利家か秀長が生きていれば関ヶ原はおこらないだろうな
三成も一官僚にすぎない
秀次が関白のままでいても家康としてはやりにくいだろう
>>390 秀長が長生きしていたら、朝鮮出兵なんてさせなかっただろうからなぁ。
政権内の分裂もうまいこと調整していただろうし。
家康が付け入る隙なんてまったくなくなる。
>>393 むしろ秀長が総大将になって出陣しただろ。
で、李舜臣に大敗して海のもずく・・・。
秀長総大将の西軍であれば日本中のほとんどの大名が西軍に付きそうだもんな。間違いなく三成よりは指揮系統統一できただろう。
実現したとして豊臣VS徳川一門で勝負になりそうにないな、 やったとして兵力的に12万VS4万くらいの差にはなったかも。
関ケ原戦無く家康が亡くなり秀忠当主になったらいよいよ徳川家改易に入るか、関東の一大名で終わってたかだろうな。
秀長長寿で行ってたら秀頼の存在意義を巡って秀長と淀で対立起きそうだけと、秀長にねねが付けばとりあえず淀の出る幕は無さそうだよな、少なくとも秀頼成人までの間は。
397 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 18:04:25
>>391 輝元もけっして馬鹿ではないと思うが
如水のような真の策士でもないのに策士きどりで墓穴を
掘ってる感じだな。
大坂の陣でも佐野道可事件みたいな愚行やらかしてるし、
あれで周防・長門すら失っていたら、史上最高クラスの愚将
扱いされてるだろうな。
秀吉があと10年長生きすれば問題なし
>>397 佐野どうかの件はむしろ輝元の意地だろう。
輝元は腑抜けのボンボンのようだが意外と骨はある。
家臣粛正したり外様の益田を起用したりと荒っぽいことやってる割には
家中は治まってるし、それなりに能力はあったと思われ。
せっかく変名なのって入城したのに、逃亡した挙げ句
生け捕りになって身元がばれるとは輝元も予想してなかっただろう。
息子まで切腹させたのはどうかと思うが。
401 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:27:55
小沢一郎は、やっちゃいけない 日本とアメリカの 対の 経済構造協議というのを やって、
8年間に、430兆の カネを 無駄遣いして、日本の 経済力を 弱めた。
沖縄の 需要の 全くない島に、5万トンのコンテナ船が 着くような 港を作ったり、
北海道で、熊や鹿しか 出てこないような、町のない所に 道路を 作った。
そのため 国債も 発行した。いまだに 670兆という、厖大な 国債がある。
この 体たらくを 作ったのは、小沢一郎 が 幹事長の 時だ。
小沢一郎 のような 人物が、日本の 首相になったら、とんでもないことに なります。
WILL 2007年9月号 石原慎太郎 (東京都知事)
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
小沢一郎◆
東京市下谷区(現:東京都台東区)御徒町に弁護士で東京府会議員だった父・小沢佐重
喜(オザワサエキ)、母・みちの長男として生まれる。その父の佐重喜が、56歳の時の子
供。本籍地は岩手県水沢市(現:奥州市)。3歳から14歳まで郷里の水沢で育つ。 小
沢佐重喜は、夜叉の異名を持つ、浅草の香具師。北朝鮮の満州派]の潜入工作員。戦後、 岩手方面に進駐した朝聯の指導者。 母の日本通名荒木みちの墓は、韓国済州島。こ
ちらは、南朝鮮労働党の残党。 そして、小沢一郎の戸籍は、浅草の泥棒市で入手さ
れた。
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF%E4%BA%8B%E4%BB%B6 1993年7月18日、第40回衆議院議員総選挙 が行われ、与党自由民主党 が解散前の議席数を維持したものの過半数を割り、非自民で構成される細川連立政権 が誕生。自民党は結党以来初めて野党に転落した。
9月21日、民間放送連盟の放送番組調査会の会合が開かれ、その中でテレビ朝日報道局長の椿貞良は選挙時の局の報道姿勢に関して、
「小沢一郎 氏のけじめをことさらに追及する必要はない。今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民の連立政権 を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」
「共産党に意見表明の機会を与えることは、かえってフェアネスではない」
との方針で局内をまとめた、という趣旨の発言を行った。
402 :
日本@名無史さん:2009/01/21(水) 23:29:38
輝元は三成が敗れた時点でも、まだ大坂城に籠城して
家康と対峙する選択肢もあったんだよな。
立花宗茂あたりはそのつもりだったようだ。
東には上杉がいたし、秀頼を前面に立てれば豊家恩顧
の大名も手は出せない。まだ家康の勝利に終わるかは
わからなかった。
それもできない様では天下をうかがう資格は無いだろう。
>>402 そんなことすれば豊臣恩顧の大名がブチキレるのは目に見えてるが。
もう勝敗はついてるんだよ。輝元もその程度のことは分かっていた。
立花のような葉武者とは全く視野が違う。
>まだ大坂城に籠城して家康と対峙する選択肢もあったんだよな。
そんな可能性、最初からないって。輝元が西軍の総大将に
なったのは安国寺にたぶらかされたためで、最初からまともに
家康とやり合って天下取る気なんてないよ。
輝元は横暴な家康を除きたかっただけだろ。
何で天下云々の話が出てくるのかよく分からん。
>>398 寿命は天命だからな。
歴史のイフで意味ありそうなのは
決断や判断が変わっていたら、だろ。
>>405 そんなわけないだろ。
戦国時代にそんなお人よしがいるかwwww
408 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:07:37
>>405 それを言ったら家康のほうも同じ。
家康は、織田家横領(本能寺自作自演後・1年で横領)の朝鮮出兵などの
悪政の豊臣百姓政権を除きたかっただけだろ。
しかも誰の子供か分からない幼児秀頼なんかの言うことが聞けるかよ。
戦国時代はそんなに甘くない。
409 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:17:51
戦国の論理から言ったら、茶々親子は関ヶ原で逆らった時点で
殺されてても文句が言えなかった。
それを千姫との結婚など礼を尽くしたのに、徳川と官位を争ったり
朝廷工作したり、将軍宣下を無視したり、あるいは千姫に子供を生ませなかったり・・・
茶々は世の中を甘く見てたんだと思う。
家康はやはり律儀者。
大野治長の子供を、よくあんなに丁寧に扱った。
410 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:43:26
>>407 へ〜、じゃあ三成は輝元に天下取らせるつもりで担ぎ出した訳か。
んなわけねえw
おまえ戦国武将はみんな天下を目指していたとかの光栄史観だろwww
>戦国の論理から言ったら、茶々親子は関ヶ原で逆らった時点で
>殺されてても文句が言えなかった。
どんな論理なんですか?
こんな珍説はじめてみました
412 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:53:47
>>411 力あるものに敗れたら
殺されても文句言えないだろうが。それが戦国の掟。
秀吉は、そうやって主家の人間を葬っただろ。
413 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:57:36
>>411 他の戦国大名だったら
茶々が大野治長と不貞を働いたことを理由に
秀頼を殺して、小早川秀明に家督相続させることもできたはずだぞ。
414 :
日本@名無史さん:2009/01/22(木) 23:59:05
>>413 豊臣は戦国大名じゃないし、どこのドイツがそんなことをするんだよw
>>412 関ヶ原前後では豊臣>>>徳川ですが?
戦後も家康は戦勝報告して、関白に九条を就任させたり、大名を転封などさせて、外堀埋めて行動してるんだけど?
秀吉でさえ信孝葬ったのは信雄と協力してからなんだけど?
ただのバカだろw
相手にするだけ無駄だぞw
417 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:04:01
418 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:06:48
>>415 命を助けてもらったのに
天下人徳川に大人しく臣従しなかった豊臣が悪い。
関ヶ原で本当に中立なら、なんで茶々は三成のアホに
加担したんだよw
加担した時点で殺されても文句は言えない。
携帯から必死にageてレスして妄想スレで妄想してスレ主だと電波飛ばす馬鹿な
>>417
420 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:08:32
>>418 >命を助けてもらったのに
誰が誰に命助けてもらったの?
>関ヶ原で本当に中立なら、なんで茶々は三成のアホに加担したんだよw
いつ、どのような加担を淀が三成にしたの?
証明してねw
422 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:11:55
本当に茶々が賢い女なら、千姫に子供を生ませて
徳川の親戚になれば良かっただろ。
もっとも本当に賢ければ、誰の子か分からないのを生んだり
秀次を殺したり、ねねを追い出したりしねえだろ。
な?ただのバカだろ?相手にすんなよw
424 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:16:28
家康→実力がありながら、サルと馬鹿にされていた秀吉が関白になったあとは臣従した。
茶々→実力がないにもかかわらず、徳川が征夷大将軍源氏長者に
なったあとも臣従しなかった。
ここが器の違いだろ。
妄想スレだから妄想なんだろ。
426 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:18:58
>>421 本当に中立なら、毛利を大阪城に入場させなかっただろ。
ねねが主なら、絶対そうしたはずだぜ。
そもそも三成と、茶々は結託したたんだろう。
427 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:20:36
結局、豊臣が滅亡したのは自業自得ってことだな。
三成が勝つなんて妄想もいいところ。
>>426 入城してから毛利から人質取ってるし本丸に毛利勢入れてないんですけどw
ねねが主って、いつ大坂城の主が北政所になったの?
>>421での証明もまだ?
429 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:29:55
431 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:34:21
感じの間違いをごちゃごちゃ言うやつって
低学歴が多いよな。
小学生みたいなことやるなよ。スレ主。
432 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 00:35:27
434 :
日本@名無史さん:2009/01/23(金) 01:51:16
こんなとこで「証明」云々言うのもどうかとも思うが、
いずれにせよ、関ヶ原終わった段階で豊臣を滅ぼすなんてぜったい無理。
その段階ではあくまでも豊臣家が「主筋」なわけで、
そこであからさまに豊臣を滅ぼそうとしたら東軍についた諸将も黙っちゃいない。
関ヶ原後、丹念に既成事実を積み重ねて絶対権力を掌握したんだよ。
そもそも大坂は豊臣政権の「首都」だったことは一度も無いんだよなあ。
秀吉は最初の最初は考えたという説もあるが、
結局、豊臣政権前期の「武家の首都」は京聚楽第、後期のそれは伏見。
大坂城はあくまで豊臣家の私的な拠点で、
公儀性をあまりよく持っていない。
秀頼母子の安全を慮ってのことではあるが、
秀吉自身が、遺言で「秀頼を大坂城に移すように」と言った段階で、
秀頼とその周囲の「公儀性」がある意味失墜した。
秀吉のオウンゴールのようなところがあるんだよ。
このことを、輝元が「大坂にいた」ことを考えるに当たっては考慮する必要がある。
秀吉の遺言はアホだったんだよ。
家康が臨終に当たって、愛する孫家光を愛する駿府に呼び、
江戸を空っぽにして伊達政宗あたりに居座らせるようなマネをしているわけで。
>>434 そうだな。関ヶ原の野戦だけ捉えると
西軍にも勝ち目があった様に見える。
しかし、そこから大坂夏の陣までに真綿で
締めるように豊臣から力を奪っていく狡猾さ
老獪さ、忍耐強さなどは余人の及ぶところではない。
やはり、天下が家康の下に転がり込んだのは
必然だった気がする。
>>435 アホはお前。
うつわに意味があるんじゃなくて人に意味があるの。
天下人たる秀吉が伏見城に住んでいれば伏見城が政治の中心
天下人たる秀頼が大坂城に住んでいれば大坂城が政治の中心
>>437 家光が破却するまでの、伏見の「土地」としての重要性が読めないと、
秀吉死去から大坂の陣の後くらいまでの徳川の動きは読めない。
つまり「政権簒奪」の過程は全く読めないことになるよ。
徳川は、豊臣政権政庁所在地としての伏見の土地の力を最大限に使い、
豊臣政権を徐々に「乗っ取った」上で、
大坂という「地方」に篭った秀頼を巧みに周辺に追いやり、最後に滅亡させた。
そして、家光が将軍宣下を受けるところまで最大限に使って、
その上で破却し、「豊臣政権の完全終了、武家の都の江戸『完全遷都』」を
宣言したということになる。
まあ、輝元と違って石田三成は伏見の意味についてよく知っていたんだけどね。
ということで、輝元が大坂を出なかったことは、
思われている以上に重大なことだった。
大坂を出なかったというより、「大坂までしか来なかった」と言える。
伏見が中央政庁である豊臣政権にとっては
たとえ秀頼がいようとも、大坂はいわば「西の地方都市」であって、
つまり輝元は、当時の首都圏の西の入り口に顔を出しただけ。
「秀頼のいる大坂まで来ておけば、どう転んでも安泰じゃろう」と考えたのは、
「広島人輝元」の地理的な読みの甘さ・限界だったんだろう。
441 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 03:04:02
聚楽第が関白としての秀吉の公邸だったのは知っているけど、首都は大坂だろう。
伏見は天正16年の後陽成天皇の行幸なんかの公式セレモニー用の会場。この行幸
の二日目に徳川家康・織田信雄・前田利家・宇喜多秀家・豊臣秀次・豊臣秀長6名
の連署と長宗香部元親以下23名連署の禁裏御料所・公家知行の安堵や関白秀吉へ
の服従を誓約させる内容の起請文を提出させている。結局、伝統的な官位制度と天
皇家の権威を利用して政権の正当性を確保している豊臣家にとっては伏見は正当性
を見せつけるセレモニー会場だったんだと思う。
442 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 03:20:21
>>439 >輝元と違って石田三成は伏見の意味についてよく知っていたんだけどね。
当時の政権の最高権力者の一人である輝元が首都を首都と認識してなかった
ていうのは余りにも無理がある気が・・・。
輝元と
>>439、どっちが賢いかというと、断然輝元の方が賢い。
その輝元が大坂城を占拠し続けたと言うことは大阪城の方が重要だったと言うこと。
というか、当主(秀頼)の居城ではない伏見城なんて何の意味もないぞ。
所詮徳川の一家臣が籠城する程度のものでしかない。
>>404 安国寺恵瓊に説得されたのは確かだがたぶらかされた
わけではないだろ。
自分が天下人になる器量はないとわかっていても、あ
わよくば家康に取って代って五大老筆頭になるくらい
の野心はあったはずだ。
まあ、輝元は関ヶ原の後で120万石の大所領を大減封
された事で愚将、凡将のイメージが定着しているのは
少し気の毒だな。
445 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 03:00:16
秀吉亡き後の集団指導体制の豊臣政権の主導権を確保するという程度の野心は
当然あったと思う。個人的な輝元のイメージは自民党総裁になる気はないけど
幹事長になってキングメーカーの地位を狙っている政治家。でも輝元は金丸信
というより藤山愛一郎に近いかも知れないが・・・。
小泉・・・秀吉
安陪・・・宇喜多
福田・・・前田
麻生・・・毛利
細田・・・大谷
中川秀・・・小早川
渡辺・・・赤座
太蔵・・・秀頼
武部・・・速水
小沢・・・徳川
管・・・本多忠
鳩山・・・井伊
河村・・・秀忠
前川・・・忠輝
447 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 07:33:58
しかし・・・・・・「もし」という仮定を読めば読むほど
実際豊臣政権って問題山積&運のなさ
これじゃとてものこともたない政権だったというのが浮き彫りにされるなあ
448 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 10:22:00
直轄領が200万石程度、貿易や鉱山収入が主な財源だったし、数ヶ国を有する
有力大名が多すぎたんだと思う。
病弱小沢が、健康ヲタの家康とな!
450 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 14:40:49
輝元を藤山愛一郎に喩えたのは自分だけど、
>>446には同意しかねる。
先代から引き継いだ藤山財閥を一代の政治遊びで傾けた御曹司という部分が
重なるから書いただけ。
>>447 実際、秀吉の才覚だけで持ってたんじゃないかな
豊臣政権。
仮に家康が早死にして秀吉の方が後で死んだとしても
秀吉が死んだら、天下盗りに野心を持ってた連中が
一斉に動き出して乱世に戻っていたかも。
452 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 18:40:24
>>451 確かに秀吉の才覚に依存する部分が強かったらしいね。五大老・五奉行の制度
ができたのは秀吉の晩年だし。直轄領も約二百万石。
これに対して江戸幕府は17世紀末で天領が四百万石。これに旗本知行地三百
万石を加えると七百万石。軍事力も享保7年の段階で旗本5205人、御家人
17399人。直参の平均石高を六百石として千石に付き23人の軍役規定を
当てはめると約7万人が直属兵力となる。それに加えた親藩・譜代の大名もい
る。しかも要地に配置。
こんだけ圧倒的な力を持てたのも関ヶ原で勝利して西軍九十家を改易して四百
四十万石を改易にしたからなんだけど。それに比べると脆弱だと思う豊臣政権
>>451 1590年代の相対的安定を味わってしまっているから、
単純には乱世には戻らないんじゃないか?
(朝鮮半島で明帝国と激しい戦争をしたところで、内地は安穏なのは日中戦争時と同じ)
この空気を全く読めなかったのは黒田如水くらいで、
あの伊達政宗でさえ空気を読んでいる。
>>452 17世紀にはそうなのかもしれない。幕末になると石高の問題ではなくなるが。
ただ、改めて思うんだが、一般に使われている
徳川領を「天領」というのは、本当は沿革的にも正しい意味でも良くない用語法だよなあ。
維新後朝廷が「没収」した後で、そのために「天領」というネーミングが出来たんだから、
「幕府領」と言うべきなんだよね。
454 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 00:47:57
>>451 豊臣政権が存続したとしても結局は政権内部の主導権争いが激化して、鎌倉時
代の宝治合戦の様な抗争は起きると思う。国持大名が多すぎるし、徳川に比べ
ても譜代・親藩層が薄い。
>>454 そもそも豊臣政権には、「譜代」という発想そのものが無いだろうよ。
譜代と外様を出来る限り峻別するのは、
徳川家・徳川家臣団特有の発想。
豊臣家は「外様を、将棋の駒が成るように味方に付けて天下を取った」わけだから、
子飼い・恩顧という事実上の考え方はあっても、
あるいは大老(領主)と、奉行(どちらかというと官僚)という区別はあっても、
譜代////外様という発想は無いよ。
徳川氏は譜代の中でも、安城だの何だの言い始めるわけで、
これは、諸侯の中でもかなり特異な門閥閉鎖主義だ。
456 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 04:44:46
譜代・外様の区別は鎌倉・室町にもあったと思うけど、江戸時代ほど峻別しな
かったの事実だろうな。大内や山名なんて足利からみたら外様の家も重用して
いるし。ただ戦国時代も譜代や一門に対する一種の安心感みたいなものがあっ
たのも事実だと思う。
457 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 23:20:39
だから豊臣の五大老というのは、江戸幕府的にはみんな「外様」。
秀吉は一代で成り上がったので「譜代」はいない。
(もともと譜代とは、先祖「代」々仕えている系「譜」の者という意味)
だから豊臣の場合は「恩顧大名」という言い方をする。
すなわち秀吉の「恩」をどれだけ受けたかということだ。
その意味でいえば五奉行は恩顧の者で構成されている。
しかし、それは恩顧大名の一部、おおざっぱにいっても「半分」だ。
それ以外が問題。
すなわち、加藤、福島、黒田など、所謂「武断派」だ。
彼らは五大老でも五奉行でもない。そういう待遇は受けていない。
彼らが五大老五奉行体制の下で不満があった場合、頼りにするのは誰か?
その枠組みで出来るだけ高いポジションにいる最初の理解者だろう。
それが徳川家康。五大老の筆頭。これなら文句はない。
これが関ヶ原につながる豊臣内部の対立のもとになった。
そして五大老の筆頭=豊臣の外様、だ。豊臣政権を継続してくれるはずがない。
徳川政権、つまり江戸幕府の譜代と外様のバランスはそうした豊臣政権の
ケース・スタディに学んでいる。
関白殿下の譜代は恩顧の大名
結論から言えば、どう転んでも豊家の天下は長続き
しなかったということかな。
如水の言葉だったか
「太閤のやり方では後継者はまねができまい」
とかいうのがあった。
江戸時代の太平が現在の日本の繁栄につながって
いる。天下を取ったのが家康でよかったんじゃないかな。
信長が生きて天下統一してればよかった。
海外にも積極的に進出して植民地帝国を気付いてただろう
日本が欧米列強と互角に対抗できることでアジア人が白人どもに抑圧されることもなく
世界のあり方自体が今と変わってただろう
信長の夭折はある意味世界史的な出来事ではなかろうか
所詮、本能寺で死んだ男に過剰に夢見すぎだぜ
>>457 徳川は豊臣のケースに学ぶまでも無く、
幕政の担い手は譜代で完全に閉じる体制を作り上げただろうよ。
何代前から仕えているか、どこの出身なのかで
譜代内部まで徹底して徳川家に対する親疎のランク付けをし、
最も近しいもののみに、重要な政治を委ねるというのは、
徳川家特有の家風と言ったほうがいい。
ちょっと他の大名家には見当たらない。
織田家や豊臣家の開放性も際立つが。
西軍が勝とうが東軍が勝とうが
世界史にはほとんど影響がないと思われる
西軍が勝っても
鎖国になるという状況は想定し得るわけで
この一点を無条件に受け入れるならば
やはり19世紀の半ばには
ペリーみたいな人物が日本に来航することになるだろう
そこで維新がはじまると仮定すれば
大阪人気質を土台にし、関西弁を標準語とする
大日本帝国が成立する可能性がある
その後、日露戦争、第一次世界大戦に勝利した日本は
第二次世界大戦においても、大阪人気質と関西弁で連合国に打ち勝ち
枢軸国を中心とした世界がはじまることになるだろう
そして日本とドイツは核保有国となり
冷戦の時代がはじまるだろう
日本の男達は「わいは日本人やからモテるんや」
などと言いながら犬となったアメリカ合衆国の女達を食っていることだろう
464 :
463:2009/02/05(木) 14:33:15
序文を
西軍が勝とうが東軍が勝とうが
19世紀までの世界史には
ほとんど影響がないと思われる
に変更
465 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 07:33:34
ポエムを今さら変更してどうするんだ(笑)
466 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 09:33:07
大阪弁が今の形のような大阪弁になったかどうか。
467 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 10:04:26
>>463 どうでもいいが「文化的」とされる関西の軍隊は非常に弱いので定評があった。
戦国時代の関西の大名の弱さは説明するまでもなく、
戦前も「またも負けたか八連隊」とか言われてた。
大阪が首都だったら、二本は負け続けだったろう。
大阪史最強の武士って荒木村重?
下間頼廉じゃね?
軍事90超だったような。
西軍が勝っても尾張・岐阜辺りで膠着戦になりそう
でも関ヶ原の地形から言って、東軍が負けたら相当な打撃を受けると思うよ。
472 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 18:28:35
>>460 そういう可能性はおおいにあった。
信長が長生きしてれば、日本はイギリスを圧倒する海洋国家になっていたはず。
信長の時代に元気だったスペインやポルトガルはその後…ということ考えると…
474 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 21:47:53
>>471 東軍は家康・秀忠の兵が無傷だから
仮に東軍全部敗れても、追撃を振り切るくらいは
できそうじゃないか?
秀忠ははるか彼方だし、東軍が敗走する時点で家康本体が無傷だと言うことはないんじゃない?
前線の武将が必死こいて戦ってんのに自分は無傷で逃げましたとかなんてことになったら、もう誰もついてこないと思われ。
>>463 重大なことを忘れているよ。
もし西軍が勝って、仮に大坂が豊臣家が君臨する政治上の首都になっていたら、
大坂は「武家の都」になる。
上町台地には、ずらりと全国諸侯の武家屋敷が立ち並び、
更に船場の町人地を囲むように、下屋敷も林立するだろう。
これでは、大阪人の気質も今とは全く異なってくる。
徳川家や上杉家の家中の気質のような、東国的息苦しさはないだろうが、
それでも、今よりずっと権力的で、
しかも全ての面における畿内絶対中心主義の、
華やかだろうが、随分鼻に付く都市文化の気質になったと思うけどね。
室町までの京絶対主義がそのまんま継続って事だからねい。
478 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 12:34:44
>>475 それなら、信長などは、もっと早い時点で滅亡してるわけだが。
それはともかく、脱出できたとしても、西軍がほう起した途端にすぐに日和見する伊達みたいなのが、
「先陣を勤めます」とか言って上杉に加担、逃げる場所がなくハサミ打ち?
東軍の諸将は家康の家来じゃないからな。
形勢が傾けば雪崩を打って裏切りかねない。
480 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 19:49:28
>>475 家康以外の松平・井伊・本多の部隊もいるから
けっこう本隊は無傷で済みそうな気がする
逃亡後も秀忠が合流すればそこそこの兵にはなるし
何より東海道の大名は全部家康寄りだから
西軍が勝った所で即江戸に攻め込めはしない
福島あたりが生き残って、なお徳川方だったら
清洲あたりで対陣することが出来るかもしれんな。
でも東海道筋で本当に徳川方(反石田)と言えるのって福島池田くらいじゃあるまいか。
いくら城預かっているとはいえ、他の連中は信頼できまい。
482 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 21:49:24
>>480 東軍が西軍を攻めあぐねてるのを見てわざわざ桃配山から前進してきた家康が、
前線に援軍を繰り出さずにあっさり敗れ去るとは思えないけど。
もともと陣形からして東軍は西軍に半包囲されてる形だし、小早川ら日和見や
南宮山麓・大垣の部隊も動き出すだろうから、家康があっさり退却しちゃったら
前線部隊は壊滅だろう。
家康としてもそれは洒落にならんから、必死に戦って、夜陰に紛れて退却するしかないのでは。
秀忠って遺骨調べたら結構マッチョだったらしいね。
木曽越えで疲労困憊の軍で意気盛んな西軍に突撃、大敗したりして。
484 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 01:07:51
>>480 家康や秀忠軍が江戸に戻らないと、関が原の敗戦で
伊達のみならず、結城秀康の指揮下にある佐野、成田などの
北関東の小領主連中も雪崩を打つし、上杉、佐竹を中核とする西軍には関東は思いのまま。
それに、481のレスにあるように、海道ぞいには本当に信頼できる大名は少ないので、
江戸に戻って再起を期すだろう。
無事に江戸に戻れるわけないだろう
三方原みたいに本多忠勝や井伊直政や松平忠吉が
「我は家康なり」とか言いながら囮になって
脱糞しながら逃走するのか…
まさに「二回目は茶番」だな。
487 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 23:02:06
>>462 それは徳川を余りにも古く評価しすぎだ。
家康の代になってから急速に規模が拡大した徳川の
家臣たちはほとんどが家康の代になってから仕えている。
酒井や鳥居、本多など古くから仕えているのは少数派だ。
それに序列も必ずしも松平・徳川に仕えていた「年功序列」
にはなっていない。
例えば、井伊家は元々遠江の豪族で三河譜代ではない。
家康が浜松に本拠を移した頃からの家臣だ。
また有力な侍大将というほどですらなかった。
井伊が台頭してくるのは、武田滅亡の後、その大半の遺臣
を引き受けたからだ。
それにより井伊は旧武田軍によって強力な部隊となり、
徳川の有力侍大将となった。所謂井伊の赤備えは元武田。
更に徳川の大老は石川と酒井だったが、石川数正が出奔した
ので、井伊が大老格となった。
また、水野家は織田の家臣筋。家康の母の実家ということで
江戸時代は多くの老中を輩出したが、水野も三河譜代ではない。
江戸時代の直参も、細かく見ると三河譜代もいれば元今川、元武田
或いはそれ以外も含めて実にさまざまだ。
かつ、幕府以前に徳川家に仕えた「年功」はほとんど昇進の際
影響しなかった。
事実関係をよく確認した方が良い。
488 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 21:28:54
>>487 禿同。
家康の側近中の側近、本多正信はあの蝙蝠、松永久秀に仕えていたこともあるしね。
489 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 21:44:40
それに禅僧の崇伝、天台僧の天海、
儒学者の林羅山と顧問的な学識者も宗教宗派を問わず実に多彩だよ。
あげくはウィリアム=アダムスやヤン=ヨーステンといった英国人まで。
徳川家康の頃の徳川家って、家康のイメージとは違い実はすごく開放的なスタッフだw
490 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 21:46:24
あ、政商茶屋四郎次郎を忘れていた。元譜代の家臣だけどねw
491 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 00:35:33
やっぱ、1番まともなのは秀吉やろ。
穴に入れるのは女と決まってる。
家康も利家も謙信も信玄も信長も男としてる姿を
想像すると大笑いするぜ。
上杉謙信女説もあるが。
ねーよ。
494 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 02:18:28
上杉謙信女性説と天海=明智光秀説は
ネットではよく目にするな。
トンデモ本の類なんだろうけどさ。
495 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 16:34:26
>>487〜
>>490 藤堂高虎も忘れてもらっちゃ困るよ。
豊臣を滅ぼすにあたっては、家康の右腕状態だったからな。
496 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 23:41:17
497 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 02:22:48
>>495 藤堂君はすごいね、いつもナンバー2の右腕になって、次代を待っている。
豊臣秀長→豊臣秀次→家康
後世からは「裏切り名人」などと呼ばれ極悪人
扱いされる高虎だが、主君は何回も変えてるが、
現在仕えている主君を裏切ったことはない。
実は、高虎の悪評を決定づけたのは幕末の鳥羽伏見の戦い。
勝負を決めたのは、津藩藤堂家の幕府軍への離反だった。
これが世間では「さすが藤堂、藩祖以来の裏切り上手」
と揶揄され、人々に高虎の世渡り上手を思い起こさせた。
高虎とは、まったく関係ない話だから気の毒な気はする。
関ヶ原で西軍が勝つなどというのは許されない
西軍はただの田舎大名の集合体でトップが三成では天下がぶっ壊れるだけ
っていうか藤堂が極悪人って?
世渡り上手とは言われるが極悪人だなんて初めて聞いたな。
三成がことごとく大谷等の献策に反対したんだろう。
夜襲は卑怯だとか、向こうの軍が集結する前にたたくのは武士道に背くとか
三成が主導である以上、勝てなかったと思うんだが。
ただ、家康と向こうをはれる大名がその当時いたかと言ったら疑問だが。
もし生きてたなら
羽柴秀長、前田利家←関が原回避されてたかも
小早川隆景、吉川元春←関が原の参加の仕方が変わってたかも。静観?
蒲生氏郷←会津領そのままで西軍なら伊達を抑えれる。これにより上杉と
共同戦線がはれる。
豊臣秀次←どうなってたのかわからん
>>501 三成が島津の夜襲の策を採用していたら
わからなかったかも。
まあ、家康のことだから当然奇襲への
備えは怠っていなかっただろうが。
503 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 17:09:25
西軍にとっては小早川の裏切りも誤算だけど
島津の静観も大誤算だったでしょうね。
敵中中央突破で退却するほどの島津勢が初手から
西軍に与していたら、東軍が押し込まれて
秀秋も西軍についていたかも。
504 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 19:34:10
しまず(なぜか変換できない)は東軍の空いてるとこ狙ってステガマリしながら逃げただけ。
逃亡には向いてるが攻撃には向かない。
だから参戦しなかったんだよ。
505 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:17:45
>>504 しまづ、が正しい。
島津はあまり大勢の兵を連れてってなかったのも
動かなかった理由じゃなかろうか。
奇襲ならいけると考えてたかも。
島津が献策した夜襲案を採用してたら、東軍壊滅じゃなかったっけ?
確か、夜襲の準備はされてなかったと思う。
島津が献策した案に大谷などは賛成したがいかんせん三成が反対。
島津が戦はきれいごとだけでするもんじゃないみたいなニュアンスでチクリ
その後、島津が、自分たちは自分たちの戦いをするとかいって積極参加
しなかったんじゃなかったっけ?
誰か忘れたが、石田じぶが中心に戦略を練ってるようじゃ家康に勝てるわけが
ないとか言ったんだよね。
大津城攻略の立花辺りと合流をまてばよかったのにとは思うが。
507 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 22:24:51
たった1600の島津に何が出来る?
ま、自衛隊とのヘリボーンなら奇襲は成功するだろうが
>>498 高虎の脇坂、朽木らへの寝返り工作がなければ、家康はあん
なに簡単に勝てなかった。
徳川家は、藤堂の(豊臣への)裏切りで手に入れた天下を
260年後藤堂に裏切られた事で失ったという事になるんだな。
歴史の皮肉か。
509 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 15:37:58
藤堂高虎にすれば、けっして裏切りなんかではなかったはず。
そもそも高虎が仕えていたのは浅井長政。
それを滅ぼしたのは織田信長ですな。
その後豊臣秀長・秀保に仕えたが、それを滅ぼしたのは淀殿と組んだ石田三成。
非常に複雑な心境だっただろうと思うよ。
そんな中で高虎を最も高く評価してくれたのが徳川家康だったというわけですな。
「士は己を知る者のために死す」と言う言葉がある。
士は自分のことを良く理解してくれる者のためなら、死をもいとわず尽くす(べき)ものだという意味ですなあ。
藤堂高虎という男は、並外れた知恵・能力をもっていたばかりでなく、意気に感ずる侠(おとこ)でもあったということですな。
510 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 16:51:07
長州も薩摩も体制派になって
明治維新は仙台藩あたりがやった?
511 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 16:58:35
>>509 >そもそも高虎が仕えていたのは浅井長政。
>それを滅ぼしたのは織田信長ですな。
その後信長の家来に仕えていたわけですがw
>その後豊臣秀長・秀保に仕えたが、それを滅ぼしたのは淀殿と組んだ石田三成。
全くの言い掛かりですがw
そして高野山に遁世しようとした高虎を召し出し、大名にしてくれたのは秀吉ですが。
藤堂高虎は、歴史小説でも変節漢、卑怯者
よばわりされることが多いが、家康が外様の
高虎を異様に重用したので、徳川譜代の嫉妬、
やっかみを買ったせいが大きい。
江戸時代を通じて、高虎の人物像は権力に媚びる
走狗として描かれた。
実像は裏切り上手というより、勝ち馬を見抜く
目利き上手というほうが正しいだろうな。
目利きなら最初から家康に仕えてるって。
>>512 うむ、結局戦国武将のイメージなんて
作家がどう描くかによるところが大きいもんな。
高虎以上の変節漢の松永弾正なんか、なぜか
肯定的に描かれたりすることが多い気がするよ。
高虎の悪印象は司馬遼のせいだろw
幕末の子孫のことまで言われて高虎困っちゃうー
幕末の当主はワシの子孫じゃないし。
われらは藩祖高虎公の教えを忠実に
守っただけにござる。
518 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 17:59:39
>>511 読解力の無いヤツだな。
だから俺は >非常に複雑な心境だっただろうと思うよ。 と書いてるんだ。ボケ
>全くの言い掛かりですが
ほお?ならばその根拠を示してみろや。
>そして高野山に遁世しようとした高虎を召し出し、大名にしてくれたのは秀吉ですが。
それがどうした?
秀吉に対する感情と、石田三成に対する感情はおのずと違うだろうが。アホ
>目利きなら最初から家康に仕えてるって。
いくら目利きと言ったって、超能力者じゃねぇんだよ。馬鹿野郎
519 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 18:37:13
島津って実際のところ午前中も全く戦っていなかったのか?
敵中突破するとき1600人から300人に減っていたらしいから
消極的であったにせよ全く不動であったとは思えないが
清洲城では諸将が内府公のご到着を待ちかねている様子でござる
>>519 戦死した奴がゼロとは言わんが、負け戦になれば兵が我先と逃げ出すんだから
積極的に戦っていなくても普通はそんなもん。
義弘と薩摩兵が凄いのは「寡兵で敵中突破」したことではなく、
ボロ負けで逃亡兵続出という絶望的な状況でも軍隊の組織的行動を維持させたことだ。
逃亡するときにまず1000人敵中に捨てたんだよ。
そして烏頭坂あたりで300人くらいになってた。
島津隊が脱出した時、家康本陣のすぐ脇を
すり抜けていったわけだが、この時逃げないで
家康の首を取りに行ってたら面白いことに
なっていたかもしれない。
実際、義弘にはその考えも浮かんだらしい
が豊久らが必死で食い止めたようだ。
その場合は義弘以下島津隊は全滅していた
だろうが。
「東軍は完全勝利したが家康は討ち取られた」
ら歴史はどうなっただろうか。
影武者世良田二郎三郎元信の出番
歴史変わらず。
>>524 3万の旗本に守られた家康の首なんか取れるわけない。
足軽数十人討ち取って島津全滅だと思われ。
>524
秀忠の力量が試されるのじゃないですかねえ。
その時点で西軍諸将は討死しているだろうけど、三成・秀家らは生存している
ので、家康討死で東軍が混乱して大阪進出が遅れると復活もあるかもね。
本陣を急襲されてたらわからんな。
家康の本陣の回りにいたのは数百名足らずだろう。
全滅覚悟で本陣に向かっていたら家康は危なかった。
大坂夏の陣の真田隊と同じパターンだ。
島津恐るべしの印象を残して去ったことで、戦後の
本領安堵につながったわけだが。
>>524 東軍諸将は、家康からの恩賞をあてにして参加
してたから、指揮官がいなければ大混乱だ。
とはいえ西軍もその時点では既に壊滅してる。
西軍壊滅、東軍大混乱となると
九州の如水にチャンスが来るんじゃないかな。
>>528 前線に出てきてるのに本陣のまわりが数百人のわけないだろjk
534 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 23:02:26
>>530 たぶん大坂夏の陣と混同しているか思い込んでいるか
>>528 大坂夏の陣では越前兵と徳川本隊が前に出て混戦になってしまった。
関ヶ原の家康は徳川家の当主だが、夏の陣では本体を率いていたのは現将軍の秀忠だったという違いがある。
それで家康の周りは「駿河旗本」数百人になってしまった。これは事実。
一方夏の陣の豊臣方は、当初真田が先鋒となって乱戦に駆け込み、その隙に他の軍勢が家康本陣を襲う手はずだったが、徳川方が先に仕掛けたのでその手順が逆になってしまったと伝えられている。
(本当かどうかわからない。それで真田がやむなく家康急襲に向かったという、ちょっと真田美化の傾向がある話だ。)
関ヶ原の場合は、家康の周りには精鋭は全くいなかった(どころか、ほとんどは信濃路だ)が、その分「数」は確保している。
2万8000とも3万ともいわれているので、これは力で突破は無理だろう。最初から家康本隊が関ヶ原で戦闘するという計画はない。
もっぱら厳重警護だ。
535 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 23:24:17
>>528 島津の目の前には井伊の赤備えがいたし
家康本陣の前は松平、本多が居る
何より家康本隊が多い
家康本陣にたどり着いたところで
相打ちがせいぜい
大体そうなる前に家康は本陣から逃げおおせるから
無理
何があるかわからないのが戦というもの。
桶狭間だって常識的に考えたらありえない展開だろ。
>>534 同じIFでも、そっちのほうがあり得るよな>大坂の陣で家康討ち取り
ただ、ここで家康討ち取りとなっても、
蠢動する可能性があるのは、伊達&忠輝コンビだけだろうけど。
(1615年時点では、他に動ける(あくまで可能性レベルで十分としても)
能力と気力を持つ大名はだれもいない。もう伊達以外二代目に入っているからね)
いいね、スレが活発になってきた。
起こらなかったイフを論ずるスレなんだから
どんな可能性だって提議していいだろう。
しかし、関ヶ原で西軍が勝つという可能性より、
島津隊が玉砕と引き換えに家康の首を取るという
可能性の方がよっぽど高そうな気はする。
↑
島津キチ
関ヶ原で東軍が負けても家康は
生き残るだろうという意見が多いよな。
東西の決着が済んだあとで家康だけが
死ぬとなると想像もつかない。
三成らが大坂城に逃げ込んだとしても
関ヶ原の惨敗後では権威失墜だろうし
九州の黒田如水、東北の伊達政宗らの
曲者が虎視眈々と野望をたぎらせるだろう。
毛利、上杉らも無傷だし、戦国時代に
逆戻りするんじゃないのか。
>>540 さすがに黒田を伊達と並べては、黒田如水がかわいそうだw
この時点で、黒田はやる気満々で、かつ現実性のあるプランも持っている。
問題は福岡と畿内が500km以上あることと、
九州島内が一筋縄ではいかない「西の武士の島」であることで、
時間的に追いつけない可能性がやはり高かったことだろう。
だが、1600年秋には、まだ伊達政宗はド田舎の三流大名だ。
豊臣政権下で、最上と仲良くww伏見の外れの外れに屋敷を拝領していることでも
16世紀中の伊達の実力が、どの程度だったのかが分かる。
当時の力では、中央に影響力を持ち得ない。
だが、これが1615年になると、唯一の徳川氏に対抗する可能性のある大名になる。
それくらい、この15年の変動は大きかったということだろう。
>>541 黒田如水の現実性のあるプランってなんですか?聞いたことないんだけど
つか黒田如水が関ヶ原でやった事は、あくまで東軍として活動しただけなんだが
543 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 07:21:51
島津は別に東軍をぶち抜いたわけではなく、
基本的には家康本陣と西軍に追撃をかける東軍勢の間に出来た間隙をすり抜けて退却しただけ。
しかも逃げるときには旗まで巻いていたという。
つまり「前進退却」というよりは「横進退却」とでも言うべき。
死者が多かったのは別に戦いながら前に結露を開いていったからではなく
単に退却戦によるもの。井伊らの追撃が激しく、それをスデカマリでかろうじて振り切った。
そんな状態なのに家康を討ち取るなんて無理な話し。
544 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 07:22:17
結露は血路
545 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 07:26:26
>>522 まあ関ヶ原の島津勢は極めて特殊だったしな。
国元では島津義久が援軍妨害活動をしてたのに
慕われていた島津義弘の元に自分の意思で私費を使って駆けつけた
義勇兵か親衛隊みたいな存在だし。
546 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 07:28:35
>>506 その夜襲うんぬんの話しは信頼性が低い史料にしか出てなく、
事実であるかどうかは疑わしい。
夜襲すれば勝てるんなら誰も苦労はしないよな。
当の島津も根白坂で惨敗したし。
548 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 08:23:27
>>545 その通り。
島津にとっては実は関ヶ原なんてどうでもいい。
地元を守るのが先決だ。
加藤清正がいるし、黒田の動きも警戒する必要がある。
小西行長が関ヶ原に出張っているだけに妙な空白が生じていて、却って九州は情勢が不穏な状態だ。
関ヶ原の島津義弘は軍事的には威力撤退以外の何ものでもない。特殊な行動をしたわけではない。
しかし問題は何故そんな結末になってしまったかだった。
要は中央情勢が全く見えていなかった。島津にとってみれば初めての中央での戦い。田舎大名の悲しさ。
伏見城で徳川といさかい、更に石田三成とも対立。当時の状況では、これは政治的には幼児同然の振る舞いだ。
しかし、ここでの失敗がその後の島津=薩摩が中央情勢に敏感になる契機になったと思う。
それが江戸期から幕末に至る薩摩の狡猾な政治手腕の基になっていくわけで、まさに塞翁が馬といったところだろう。
549 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 10:27:09
>>548 知ったような口利きくなよ
中央の大名だって中央情勢なんぞ見えてないのに
550 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 12:29:27
関ヶ原で西軍が勝ったとしても西軍も深手を追ったはず。
家康の首までとれない。
家康の退路は江戸まで延々確保されてるしな。
計算された秀忠軍の無傷温存は専守防衛も攻撃展開のどちらも可能。
伊達と上杉が同盟を組み速攻アタックで江戸を抜かない限り限り家康は安泰。
>>503 大谷吉継は事前に小早川の裏切りに備えていたから迅速に対応したらしい。
つまり、最初から小早川が裏切ると察知していたということだ。
史実かどうかは知らないけどな。
家康が安泰?
なわけねーじゃん。
北条の二の舞になるのがオチ。
>>536 君の中で桶狭間の戦いはどういう流れになってる?
>>550 西軍が勝ってる展開とは、小早川が裏切らず、毛利秀元が参戦していりゃ良かったわけだよな。
なんでその展開で深手を追うわけ?毛利・島津・小早川隊が動かないときでさえ西軍有利の展開だったんだぜ?
あと、家康の首を取れないと言い切れるわけ?
タラレバを言うなら、南宮山に配置してあった毛利が家康の退路を断つだろ。
秀忠みたいなヘタレならいつでも討ち取れるだろ。
西軍勝利というタラレバを話すなら毛利の参戦だろ。
毛利が参戦してりゃ、あの陣形から西軍絶対有利。
さすがに東軍の敗戦色が強くなれば小早川の裏切りなどなかったよ。
あとな、このスレタイから、ここは西軍が勝った後の話をするスレじゃなかったっけ?
西軍が勝てば、もちろん徳川滅亡だろ。
関ヶ原で毛利・島津・小早川が西軍として参戦してれば袋叩きで東軍主力は壊滅してんだろうから。
>>554 家康が逃げ延びたとしても、東軍の諸将は前面と南宮山の西軍に挟撃されて
史実の西軍以上の大打撃を受けるのは必定だわな。
家康は一戦にして一大名、ただの叛徒に成り下がるわけだ。
それが分かってたから家康は「悔し悔し」と爪を噛んだわけだ。
557 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 18:09:33
毛利参戦は無いだろ吉川がしっかり抑えていたし
下手に突出すれば横槍入れられる恐れがあるから
唯一参戦するとするならどーしても西軍が勝てそうな雰囲気になって
吉川が西軍に付く決断しないと無理
すなわち小早川らの寝返りが消滅したとき
つまり小早川の裏切りで勝負は事実上決まっていたということ
558 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 00:01:45
>>555 いや大勢は、関ヶ原での戦闘で西軍が勝っても東西の勝敗はまだ決まらないって流れだ。
妄想したい人間は別にいて、それは勝手に自己満足で思っていればいいが。
家康も関ヶ原ですべてを決しようと思っていなかっただろうし、また決してもいない。
関ヶ原が決戦のように言われるのは、あとになって徳川政権が盤石になったからにすぎない。
559 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 01:08:53
>>558 何のこと言ってるのかサッパリ分からん
が、思い込みが強いということはよく分かった
560 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 01:58:05
>>550 >計算された秀忠軍の無傷温存
ありえんな。
秀忠軍には徳川譜代の武将が多く、彼らが戦功を挙げれば、それに応じて加増できる、
だが、実際の戦闘では彼らが参加しなかったため、豊臣恩顧大名に大領を与える結果となった。
実際に、上田城攻めの最中に家康の使者に接した秀忠は、西進を命令。
但し、上田城の押さえに森忠政、仙石秀久、石川康長、諏訪頼水らを置いたので
当初の3万8千は3万に減少、狭く険しい中仙道、木曽路を3万で進むのは困難を極めて
秀忠の藤堂高虎宛ての書状では「昼夜を問わず進軍している」と書かれている。
それでも、家康が彼らを待たずに西上しようとしたのは、大津城開城で立花隊2万の来援が近いことと、
輝元軍3万が秀頼を担いで大阪城から出馬する可能性を考えたからだろう。
グダグダ待ってたら志気も落ちるし、細川の田辺城を攻めいていた1万5千までもが加わるかもしれん。
561 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 06:27:03
司馬史観に踊らされてる反徳川がいますねw
感情を抑えられない昭和の団塊ですか?
それとも「小説」を鵜呑みにしたゆとりですか?
562 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 08:32:23
↑
こういうのが司馬史観に踊らされてる馬鹿
アンチの方だけどw
>>557 ここのスレタイの意味がわかってないようだね。
「勝ったら」というタラレバ論だ。
西軍が勝つためには「小早川の裏切り無し」、「毛利参戦」が必須条件だろ
あくまでタラレバで話してんだよ。
564 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 19:32:46
>>558 それはどうだろうwなんちて
関ヶ原の後、すぐに徳川が盤石になっていたら、あれは却って決戦と位置付けられなかったんじゃないか?
事実関係は別として。
おそらくすぐに徳川が着手するのは東軍にいた豊臣恩顧大名潰しじゃないか?
それが出来なかったのは「豊臣家」がまだ存在していたからだと思う。
そしてこの場合、関ヶ原は徳川家康天下取りの「着手」「きっかけ」の戦いという歴史上の評価になるかも。
実は逆の場合も同じかな?
関ヶ原で西軍が勝っても徳川家は残存する。家康がたとえ死んだとしても。
秀忠がすぐに反撃すべきだという過去レスもあったみたいだけど、この場合秀忠は江戸に退くと思う。
木曽川を渡河して、東海道方面を東へ。中山道引き返しはない。真田がいるしw
この場合、東軍豊臣恩顧大名潰しは大坂方の手により行われる。
遠隔地では黒田、加藤(清正)、島津、上杉、伊達が元の戦国時代へ逆戻り。
時代としては本能寺の変の直後くらいの情勢にまで戻る。
ただし、秀吉も、そして戦死しなかったとしても家康も病死。その後は誰が主導権を取っても強力な統一政権は出来ない。
565 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 21:41:19
畿内は根っからの官僚石田三成と中国の雄毛利輝元が大坂城での内紛を経て
合従連衡の果てに乱勃発。第二次応仁の乱。
関東の徳川は旧領奪回に向けて東海甲信に進出。豊臣恩顧雑魚大名を蹴散らす。
上杉も越後へ。前田とガチ対決。
後戦国時代が始まった。
家康放置して内紛とか有り得ない。
567 :
徳川林政史研究所顧問大石慎太郎:2009/02/27(金) 22:28:39
秀忠軍が遅参したのは計算づくだと言い出したのは誰なんですか?作家?学者?
568 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 03:41:09
秀忠自身の負け惜しみだったりしてw
569 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 08:06:19
>>548 そもそも伏見城の件自体が
江戸時代の史料に急に出てきた話で史実かどうかは不明。
多分、鳥居に対する「死人は口なし」の創作と思われ。
>>567 負け惜しみだろ
秀忠が間に合っていれば、関ヶ原で徳川に味方した豊臣恩顧の外様大名に領地与えなくても済んだ
結局、徳川が嫌がった「西に不安の残る大名」を残すこととなっている
秀忠遅参は結果的に倒幕のきっかけになったとも言っていい
と、「その時歴史が動いた」では言っている
571 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 11:17:11
>>569 まあ島津が西も東も分からぬ田舎大名だったのは事実だがなw
572 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 11:35:25
>>570 おそらく主旨はそんなところだろうが、秀忠自身の負け惜しみというより、
秀忠の取り巻きが将軍家マンセーの為にでっち上げた話だろうな。
それより、例えば家康が亡くなる際に「我が亡骸を西に向かって埋めよ」
などと言って、西国大名を警戒したという話の方がウソくさい。
それに江戸初期の情勢でもって幕末の情勢がどうだこうだというのも。
それはあくまで「結果」であって、別に何が何でも徳川政権は永遠なれ
である必要は全くない。それは徳川の当事者ですらそうだろう。
もし本当にそんなことを考えているのなら、すべての大名を滅ぼすまで
徳川の戦いは続くことになる。しかしそんな半ば被害妄想みたいな戦いを
するより、政権の座が確定した段階で、後のことは後のこととし、
今をより平穏にかつ豊かにしていこうとする方がはるかに現実的で妥当な
政策・方針だ。
幕末期に至って、では何故関ヶ原の際に西国大名を滅ぼしておかなかったのか?
などというと、徳川家の人間ですらバカにするだろう。
そんなものは後世の人間の責任。俺たちが何とかすべきで、ダメなら滅びるまでだ、とね。
あまり歴史を大きく見過ぎると、論理がとんでもなく無責任になるので留意した方が
良いと思われ。
573 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 14:39:02
まあNHKは無責任だわなw
575 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 15:23:28
576 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 15:35:35
>>572 禿同
>もし本当にそんなことを考えているのなら、すべての大名を滅ぼすまで
>徳川の戦いは続くことになる。しかしそんな半ば被害妄想みたいな戦いを
信長は、それでこけた
577 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 16:27:34
578 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 16:28:17
信長は甘すぎた、それでこけた
579 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 16:59:28
なるほど
関ヶ原の西軍をマンセーする奴はNHKマンセーなんだなw
580 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 17:00:56
NHKは間違った事言わないよ
>>570 さすがにコジツケが過ぎる気がするね。
藤堂高虎の教えが、江戸幕府を倒した
というのと同様のロジックだろ。
582 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 18:01:15
関ヶ原で西軍が勝ってたらもう一戦あっただろ
秀忠軍がまだ来てなかったし
九州から加藤が石田討伐に来るだろうし
583 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 18:03:48
秀忠軍は瓦解するよ
碓氷峠あたりで地侍に討ち取られそう。
585 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 22:59:51
碓氷峠で土民に刺されて横死した江戸中納言秀忠
586 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 05:51:48
>>583 瓦解はせんだろ、いくらなんでも
徳川軍の精鋭部隊だぞ
家康の周りの東軍は混成軍だから瓦解することはあり得るが
小牧長久手でも実績があるから相手が10万でも五分に戦える。
587 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 08:01:47
上田城でも実績があるから相手が数千でも十分に瓦解する。
588 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 08:03:53
小牧長久手の実績なんかなきにひとしいよ。
あれ、奇襲+陣城によってにらみ合い程度のものだから。
むしろ徳川軍は長年ろくな戦いをしていないから弱体化してた。
弱体化した軍がどれほど役立たずかは大坂夏の陣の家康隊見ればよく分かるでしょ?
史実を見ても徳川軍3万<<<真田軍1000 だし。
589 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 11:40:47
>>588 その真田でも徳川秀忠を遅参させただけで瓦解など程遠いわけだが
日本人は判官びいきだから、結果的に負けた側により有利に伝わるものなんだが真に受けるなよw
基準が違うような
後世負けた側は送りバントを阻止したプレーくらいで
試合に勝ったような評価をされてしまうもの
591 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 11:54:13
>>590 だからそれが「西軍が勝ったら」なんて妄想の起こる理由だ。
592 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 12:07:09
だからそれが「小牧長久手の実績」なんて妄想の起こる理由だね。
>>586 >相手が10万でも五分に戦える。
って本体が敗北後に秀忠軍は現岐阜県東部からさらに前進するって事?
594 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 15:22:54
いや追撃に遭ってもむざむざやられないってことだろ
それはそう思う。
それに西軍は尾張より東に行くのは相当リスクが高い。
特に大垣城にすら入らなかった吉川、小早川(裏切らなかった場合)、
毛利や安国寺はハナから出張るつもりはないだろう。
大坂への撤退へと進言するか、そのまま行動に移す。
三成の戦術で最も非難されるべきは、挙兵して伏見城を落とした後、
すぐに兵力を分散させて伊勢と北陸に展開したこと。
ただし、それは東に進むことを念頭に置いた場合背後を突かれないように
する為でもあるので、合理的な理由もあった。
しかしそれならなおのこと関ヶ原で勝ってもそれ以上の前進は難しい。
兵の展開を止めて大垣城に集結させたのは家康なしで東軍が軍事行動
を起こしたこと、および家康が江戸を出たという情報を知ったからで、
北陸や伊勢の平定が終わったからではない。
そこまでは秀忠が分からなくても家康股肱の家臣たちがいるので
妥当な判断は出来るはず。秀忠は東に撤退するのもありだな。
しかし、むしろ小牧に再び展開するのもありだと考える。
10万の秀吉軍ですら攻めなかった。バカなら攻めてくるだろうがそれだと
第二の桶狭間だな。徳川軍は小牧山城に籠城はせず、周辺の窪地に
展開し、大軍を迎撃できる体制を取るはず。
小牧長久手の時と違い背後に敵を抱えてる
退路を脅かされながら戦いきれるか
それに合流の為にに西上を急いでたのにその目的も無くなった
596 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 15:58:57
>>595 東海道沿いは完全に東軍に抑えられているから背後には何の心配もないよ。
真田って山の中だよw
>>594 三成は戦闘指揮はヘタレだけど、戦略的にもっとだめなのは上杉を過信したことかな。
上杉が南下して江戸を突くなんて本気で信じていたんじゃ?
今年の大河ドラマ辺りでは美化して演出されるんだろうけど、上杉なんてそこまで
頼りにならないよ。
三成と兼続でどんな話があったかだけど、調子のいいことを言って結局何もできなかった
上杉。
裏切劇は関ヶ原以前からもう始まっていたんじゃないの?
小早川云々なんて、関ヶ原をドラマチックに描きたかった後世の人の創作だとオモ。
>>596 上田市の位置くらい知ってるよw
とりあえず東海道に出るのか、関が原敗北を知ったら佐竹がどう動くか帰った方が良いんじゃね?
>>594 >家康が江戸を出たという情報を知ったからで
知らなかったんですけどw
>>594 東軍が敗北した以上吉川小早川は西軍に忠節を尽くさねばならない立場だし、
毛利安国寺がなんで徳川を放置したまま勝手に敵前逃亡しなきゃいかんのだw
都合良すぎw
東海道筋なんて城預かったところで所詮他人の領地だし、もともと西軍に敵意を持ってるのは
福島池田くらい。関東だって元は北条領。佐竹はじめ関東勢や東北勢北陸勢だって
家康につかねばならない強い理由はない。
本領からはるか彼方の小牧なんかに籠城しちゃったら家康滅亡しちゃうよw
真田に信州荒らされるんじゃね
601 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 16:50:18
>>599 毛利の方があんたよりずっと利口だったようだな。
だからこそ、毛利は三成に単純に加担しなかった。
家康にも通じていたのはそういう事情だ。
その話を続けて行くと、結局は関ヶ原東軍勝利しかなくなるのだが。
>関東だって元は北条領。
それをいうなら東海地方は元徳川領だな。発展性のない応酬話でしかない。
>本領からはるか彼方の小牧なんかに籠城しちゃったら家康滅亡しちゃうよ
家康は関ヶ原の16年前に実際にやっている訳だが。
しかも相手は三成なんて小物ではない。羽柴秀吉その人で10万以上の軍勢。
対する家康は織田信雄の軍を入れても2万しかしなかったが、みごとに膠着状態になった。
これは秀吉が利口だったからで、バカなら攻めて第二の今川義元になるだけだ。
ちなみに尾張小牧は現代でも日本の防衛拠点で、自衛隊の陸上、航空の基地がある。
ここを攻略するのは現代ですら困難な拠点だ。
バカな話はそこそこにしておかないと楽しめないぞw
マジレスを続けて行くと、結局関ヶ原の話は史実に近づいて行って、西軍勝利なんて
あり得なくなるだけだろう。
602 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:12:01
小牧の役と違い和睦の機会が無い。
日露戦争と第二次世界大戦くらい場合が違う。
603 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:16:12
>>602 それは例えの根拠がないな。何でも出せばいいという訳ではない。
小牧の時も和睦の機会は結局秀吉が「作った」んだよ。
あるとかないという問題にすることがどうかと思われ。
604 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:16:34
>>601 >毛利の方があんたよりずっと利口だったようだな。
>だからこそ、毛利は三成に単純に加担しなかった。
>家康にも通じていたのはそういう事情だ。
>その話を続けて行くと、結局は関ヶ原東軍勝利しかなくなるのだが。
オレ利口。だからオレの言うこと正しい。ww
>それをいうなら東海地方は元徳川領だな。発展性のない応酬話でしかない。
徳川なんて東海地方でも所詮出来星大名。
>家康は関ヶ原の16年前に実際にやっている訳だが。
当時はお隣の三河が徳川領。っていうか10万の大軍抱えちゃって兵站どうするのよw
>ちなみに尾張小牧は現代でも日本の防衛拠点で、自衛隊の陸上、航空の基地がある。
>ここを攻略するのは現代ですら困難な拠点だ。
ここまで来るとキチガイだなw
>>603 秀吉にはまだ敵がいた妥協して政権に取り込むのは意味があったが
関が原は家康の排除そのものが目的
あんたが基地外にみえるよ
>>604 オレ利口ってwwwwww
607 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:21:45
>>604 語るに落ちたな。
>っていうか10万の大軍抱えちゃって兵站どうするのよw
これをそっくり関ヶ原の西軍に当てはめてみればいい。
如何に西軍の東進が困難であるかを自分で語ってしまっているが。
608 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:25:00
秀忠は岩村城を迂回して小牧へ向かうのか?
609 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:26:29
>>607 その人擁護すると西軍は策源地が圧倒的に近い
610 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:28:20
>>607 禿同
実際に関ヶ原近辺の攻防戦にしてしまったところで西軍は後がなくなってしまったんじゃないかな。
逆にいえば西軍は畿内からうかつに動くべきではなかったとも思えるね。
やはり東軍が武力に勝るものだから、その分焦ってしまっている石田三成の心境がよく表れていると思うけど。
612 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:32:37
>ちなみに尾張小牧は現代でも日本の防衛拠点で、自衛隊の陸上、航空の基地がある。
>ここを攻略するのは現代ですら困難な拠点だ。
ワロタw
613 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:39:35
>>609 策源地はないと思うよ。実際。
だから周辺に兵を繰り出して平定しようとしていたんじゃ?
それが不十分のままに決戦になってしまったと。
西軍が勝ったらというストーリーは面白いと思うけど、関ヶ原じゃない方がいいね。
大坂城を拠点に畿内でとどまって決戦をすぐには想定しないで進める方がいい。
そうすれば、大義は常に西軍にあるし、時間をおけば東軍は豊臣恩顧大名が大半で
やがて家康との間に亀裂か、溝が生じると思う。
秀頼が出陣したらという形が無理なので、なおさらそれが重要かな。
本当は、秀吉死後も豊臣政権を保つなら、三成ではなく、もっと要になる人が
必要だったね。
前田利家がいたら良かったんだけど。
でも本当の最適任者は、実は他でもない五大老筆頭の徳川家康。
実際、豊臣政権の運営が当時の社会から受け入れられていたら、家康も豊臣の
執権としての立場でいたような気がする。
大陸出兵以来豊臣政権はもうだめになっていた。おまけに豊臣内部でも内紛続き。
いずれ崩壊したと思う。
家康がすぐに政権を別途作る体制を作れたのは、日本人にとって良かったのでは?
大坂は全国随一の米の集散地で兵站は圧倒的に西軍有利。
615 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:45:00
>>613 同意。不実な侵略戦争をした秀吉政権からは、既に人心が離れていた。
次に天下を託すとしたら侵略に反対した徳川家康しかいない。
西軍などに最初から勝ち目はないのにそんなこともわからないやつがいる。
侵略戦争ワロタ
618 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:48:17
>>613 確かに豊臣は朝鮮出兵に失敗した時点で
終わってたね。
あのまま、豊臣が続いてたら大陸からの逆侵略攻撃を
受けるのは時間の問題だった。
論戦して言い負けそうになる
↓
突っ込みどころ満載の相手側への賛同レスをする
↓
相手がキチガイ扱いされて形成逆転!!!
ID非表示の板でしか出来ないからな
>>618 どう考えても明の寿命の方が早いです、本当に(ry
621 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 17:58:03
>>619 しかしそれで論戦して勝ったからと言って何になるんだ?
そして関ヶ原の西軍もそんな戦いでしかなかったのではないか?
それを勝たせようと必死になって妄想するのも。
世の中、誰がというよりどうすればより多くの人の望む社会になるか
どうかで大局的には進むだろうな。
正しいかどうかは別にして。
俺は関ヶ原で東軍が戦闘で負けても結局は家康に収束すると考えて
いろいろシミュレーションを試みたが、結局は
>>613の流れで決まったと
思われる。
622 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 18:00:12
多くの人が望んだとは後付でどんな惨状でも言える
623 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 18:00:28
確かに豊臣は朝鮮出兵に失敗した時点で
終わってたね。
あのまま、豊臣が続いてたら大陸からの逆侵略攻撃を
受けるのは時間の問題だった。
624 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 18:02:34
>>622 それは秀吉の場合も同じだろう。
秀吉の天下統一も望まれて実現したことだった。
家康と秀吉の違いはその後だろう。
関ヶ原の戦いは、その後がNGだったという例として
認識すべきだな。
625 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 18:37:00
>>621 ここは妄想すれだからね。
そもそも、関が原を「天下分け目」と過大評価するから
こういうスレがたつ。
現実には、どう転んでも人望・武功・能力・人材が大きく勝っていた
徳川家康が勝つのは必然だったわけで・・
626 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 18:40:32
そもそも秀吉の運命は、本能寺の変を自作自演をして
織田家を倒した時点で決まってたんだよ。
それを快く思ってない徳川一派に同じ仕返しをされただけ。
627 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 18:51:01
628 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 18:53:37
>>613の前半は西軍が勝つ場合の戦略のようだが、
実はそのような戦略をとれる武将が一人いた。
それは「徳川家康」
家康が西軍を率いていたらやりそうな方法だ。
>>613 西軍が勝ったらと言うストーリーなら関ヶ原は最適。
布陣的に東軍は袋のネズミになっているわけだから。
それから豊臣政権に内紛を起こしてたのは他でもない家康な。
三成は奉行に過ぎず、しかも追放の身だった。
三成が失脚し、家康が内紛の種まき散らしていなければ、豊臣政権はまともに機能してた。
実質家康の反乱
631 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:26:58
そもそも秀吉の運命は、本能寺の変を自作自演をして
織田家を倒した時点で決まってたんだよ。
それを快く思ってない徳川一派に同じ仕返しをされただけ。
632 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:36:14
>>629 >西軍が勝ったらと言うストーリーなら関ヶ原は最適。
>布陣的に東軍は袋のネズミになっているわけだから。
ここは笑うところ?
633 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:37:36
634 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 19:51:58
>>633 ヤコブ・メッケルは笑われて、本人も苦笑したんだがw
635 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:08:12
>>634 メッケル笑いものにされたの?
じゃあメッケルに遥かに及ばないお前はどうなるの?
636 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:09:34
>>635 おまえはそれも知らなかった奴ジャマイカ
637 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:12:48
関ヶ原は激戦でも何でもない東軍圧勝の出来レースだな
638 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:16:36
639 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:20:46
何だか西軍勝利を叫ぶ奴らの知性のなさが滲み出ているスレだな
640 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:23:34
ひとつ聞いていいか?
西軍勝利の話を作って、それで何がしたいの?
何を主張したいの?
バカだから分からないのだったら答えなくていい
641 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:27:45
642 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 20:41:51
涙目なんだろうな、実際w
メッケルの話って創作って聞いたんですけどマジっすか?
644 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:12:01
645 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:21:57
646 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:41:24
647 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:42:46
馬鹿麦価
メッケルも信濃の鉄道の不備を理由に秀忠に同情してた
649 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:47:54
↑こいつが一番アホやね
650 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:50:40
↑バーカ
651 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:01:14
>>646 おちょくられてるのも分からず釣れたと思ってる馬鹿w
652 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:08:54
どっちがというより
>>613が決定打じゃね?
あとはもうグズグズ
もう勝負あった
西軍は勝てなかった、でおk?
653 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:12:19
それでおk
>>652 もうこんな妄想スレを学問板 日本史板に立てんなよ!
歴史難民板にでも立てろや、妄想厨房共w
654 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:13:13
655 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:13:32
神君が負けるわけない
656 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:14:24
なんだ、家康キチガイが暴れてるのかw
657 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:28:46
>>645 メッケルの日記を読んでみることをお勧めする。
申し訳ないが和訳版は出ていない。
山形有朋が仕掛けた一種の冗談で、笑われたのも別に嘲笑ではない。
その証拠にメッケルも笑って応じている。
おまえのような論議の際に余裕のない奴には分からんだろうな。
史実でない西軍勝利などというものを強引に言い張るからそういうことになる。
メッケルは屋島の合戦や壇ノ浦の合戦、厳島の戦いなども分析している。
題材がこの辺りが多いのは長州の連中が多かったこともあるが。
メッケルは古文書から当時の布陣図を書くように日本陸軍の人間に演習させた。
それで勝敗までメッケルが言い当てたことを山形有朋は感心している。
特に厳島の戦いは普通に考えれば毛利の前のはず。これもメッケルは当てている。
しからばと、山形らが持ってきたのが関ヶ原の布陣図だった。
>>657 山形有朋→山縣有朋
毛利の前→毛利の負け
まあ毛利がドイツ参謀本部だったら二正面作戦やって滅亡してるんだけどな
660 :
日本@名無史さん:2009/03/01(日) 23:49:26
>>657 646 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2009/03/01(日) 22:41:24
>>645 だから釣られているじゃないかw
>>660 涙目の余り文章も書けずにコピペで間に合わせているんですねっ
662 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 00:02:19
>>660 やはり涙を拭いて顔を洗ってくることをお勧めする。
申し訳ないが水道を止められているのなら諦めてくれ。
妄想に浸っているおバカ連中にまともな歴史論で仕掛けた一種の冗談で、笑われたのまさに嘲笑だ。
その証拠にお前は涙目になっている。
663 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 00:06:26
東照権現は無謬バカな妄想やめろ
664 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 00:32:54
馬鹿が来るとスレが伸びる伸びるw
きっと火病でも発症してるんだろうなw
665 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 00:35:21
岐阜城で織田秀信が戦ってた頃、石田や宇喜多は何やってたの?
あのときに福島や池田の出鼻を挫いておくべきだったんじゃね?
667 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 00:47:36
>>657 >おまえのような論議の際に余裕のない奴には分からんだろうな。
>史実でない西軍勝利などというものを強引に言い張るからそういうことになる。
スレタイ100回嫁。最初っから西軍が勝った場合のIFの話してるんだよw
議論の際に余裕がなく、わけのわからん家康最高説を強引に引っ張るおばかさんは
まずスレタイを読む練習から始めましょうw
>特に厳島の戦いは普通に考えれば毛利の前のはず。これもメッケルは当てている。
>しからばと、山形らが持ってきたのが関ヶ原の布陣図だった。
そのとおり。関ヶ原の布陣図は西軍必勝。だからこそこんなスレが立ったわけだが。
もうちょっと余裕を持って生きようねw
>>667 彼には家康敗北を考えることすら罪なんだろ
669 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 00:56:14
また三河者が暴れているのかw
670 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 01:40:40
スレタイの意味も理解できない家康信者
671 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 06:57:16
自演乙
672 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 08:06:18
>>667 >そのとおり。関ヶ原の布陣図は西軍必勝。だからこそこんなスレが立ったわけだが。
まるで石田三成のような虚しい「大義」だな(笑)
673 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 08:28:31
大義だってさ(笑)
>>669 暴れてんのは全国でも悪評高い三河ナンバーの連中な
675 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 17:17:45
三河ナンバー(笑)
676 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 19:32:20
一通り読んだ・・・・・・・・・・・
このスレでは、語尾に「体言+な」をつける奴のレスが一番笑えるみたいだな(笑)
678 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 23:14:06
>>677 一番あきれるレスは(笑)付ける奴のレスだな。
679 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 23:16:38
それはたくさんいるみたいだぞ
専用スレがあるくらいだから(笑)
680 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 23:31:56
別に西軍勝ちを想定していろいろ語るのは構わないと思うけど。昨日も書いたけど。
でも関ヶ原はちょっと難しいね。
敢えて時代・社会の流れは無視して、西軍勝利のシナリオを考えてみようかな?
三成さんはたぶん東進するつもりで大垣城まで進んだはず。それには反対。
そして上杉をあてにしてはいけない。
せっかく毛利や特に宇喜多を陣営に入れたんだから西との連絡が出来るように
そして大義を保つために大坂を死守することだったと思う。
たぶん家康は攻めて来ない。そして東軍諸将とのつながりは次第になくなっていく。
これで元の木阿弥だけど、政治的には三成の勝ち。家康に大きなミソをつけたことになる。
そして家康はまず京大坂に上ってこれなくなる。
これは大きいよ。七将が三成暗殺を企てた際は、三成が大坂を追われたけど、立場が
逆転するからね。それに東軍諸将も同様。
あとは20年くらい平気で待つつもりでじっくり構えていれば、家康は死んでしまったのに。
釣られたりせず、まともに相手にしないことが家康にとって一番困ったことだったんだと思う。
上杉景勝がダメなのは賛成
徳川家康は最初前田利長討伐しようとしていてダメだったってんで
上杉景勝にしたんだろ?
それに関ヶ原までのそもそもの張本人のはずの上杉家が
なんで江戸時代もずっと生き残っているんだ?
話がうまくデキ過ぎているような希ガス
682 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 00:10:39
家康がなんだかんだと理由をつけて上京しようとしたら
「上杉討伐のために出陣したんだろうが! とっとと討伐してこいゴルァ!」
と秀頼の名で書状を発すればよろしw
683 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 00:15:41
黒田如水にとっては願ったりかなったりの展開だなw
684 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 00:19:15
>>680 あのーそれ面白い戦略やと思うけど
秀吉が三成くらいの歳やったらできると思うんやが
三成やったら無理でっせ
685 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 00:36:17
>>680 上杉討伐が日本史上最大の「釣り」だなw
>>680 ただ、徳川勢を、少なくとも「五畿内の領域」からは追放しないといけない。
大坂だけで、伏見に鳥居元忠がいたままだと、畿内を二分するわけで
これでは「第二の天王山の戦い」になるだけだよ。
京伏見と大坂では、勢力も正統性も拮抗してしまう。
結局どこかで戦いを行わざるを得ないだろう。
五畿内から完全に追い出した状態でフリーズさせて15年しのげば、
徳川氏は、ただの関東のローカル勢力のままで済んだかも知れない。
結局少なくとも伏見城を奪取する必要だけはある。
ここで「止める」のは、至難の業だろう。
ただなあ、これがもし行われたとして、逆に中央集権が出来ないことになるよなあ。
687 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 05:33:05
>>686 中央集権は1872年の廃藩置県までできません
688 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 05:34:00
1871年だったw
689 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 05:44:25
>>686 >大坂だけで、伏見に鳥居元忠がいたままだと、畿内を二分するわけで
たった300の兵で畿内を二分?
史実の伏見城攻略もいくさのうちに入らない。
単なる血祭り
691 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 07:29:29
釣りって話は続いていくものだからそれを否定したらみんな自分だけの世界で終わりやん
不毛な釣りはだめ
有意義な話なら「乗って」いいんだよ
692 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 08:34:14
>>681 >それに関ヶ原までのそもそもの張本人のはずの上杉家が
なんで江戸時代もずっと生き残っているんだ?
話がうまくデキ過ぎているような希ガス
どこが出来過ぎなの?
上杉は領地を30万石まで激減されてんだけど。
あれこそ、上杉の外交手腕の賜物なんですけど。
>>681 まさか、「上杉と徳川の密約があった」とか言い出さないよね?
695 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 14:14:14
680の言うとおりにすれば家康は討伐に行かざるを得なくなるからやらせてみるのも見物だな
しかし家康は密約の有無とは別に兼続と高度なレベルで和睦するのでは?
双方緊急事態
ちょうど本能寺直後の秀吉と安国寺のように
いずれの人物も状況判断と外交交渉にたけている
696 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 14:36:39
>>695 は?中央でクーデターが起きてるのになんで辺境討伐なんか続行せにゃならんのだw
真っ先に中央の賊を討伐するに決まってんだろw
698 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 19:29:26
↑
むしろお前じゃね?
700 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 21:12:54
釣って釣られて700げt(笑)
↑
700に釣られた奴
702 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 21:56:16
逃したのが悔しいみたいだな
703 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 23:09:32
論戦で負けた奴がファビョって荒らしと化したんだろ(笑)
704 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 23:37:07
反論する能力に限界が来たんで同意できない意見はみんな釣りかw
これにて西軍厨は崩壊
やはり関ヶ原は東軍の圧勝(笑)
706 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 00:47:10
>>680が釣りじゃない?じゃあよほどの低脳か?
進軍せずに大坂死守ってw
で、家康が攻めてこないんだってw
攻めてこないんなら死守する必要ないし、謀反人にされて家康が黙っているわけねーよw
つーか東軍の武将たちはどうするよw黒田や細川なんてのは領地に帰れず江戸で居候かよw
しかもそれを20年ってw腹イテーw
>>706 >>680 >釣られたりせず、まともに相手にしないことが家康にとって一番困ったことだったんだと思う。
釣られたりせず、まともに相手にしないことが
>>680にとって一番困ったことだったんだと思う。
708 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 08:15:09
必死だな
709 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 21:35:24
>>706 家康が黙っている訳はないな。
でも漏れも大坂に攻めては来ないと思う。
おそらく三成が無視するならこちらも無視とばかりシカトを決め込むのではないか?
ただし、上杉問題があるので、これは兼続と和議を結ぶと思う。ただしこれは時間稼ぎかな。
家康って意外と(でもないか)無理な状態の時はあえて動かずにじっとして待つタイプ
しかし問題は東軍諸将だな。確かにこのままだったら
>>680の言うとおり家康との間に溝が出来る。
佐竹なんていう格好の標的がいるから東軍諸将には佐竹討伐でもさせるだろう。
ただし最も焦るのは黒田長政・細川忠興だな。これは
>>706のいう通りだ。あと池田輝政もか。
しかし一方で彼らは東軍諸将の中で冷静というか分別の利く武将でもあるので家康がキチンと話せば理解する手合いだろう。
処遇を惜しまないという条件はあるが。
ここまでで東西分裂。状況は平安末期に似た様相になってくるのでは。
西の平氏、東の源氏。奥州の藤原氏のような。
家康は頼朝の崇拝者でもあるので、この状況から頼朝のような戦略を続けて行くだろう。
>>709 >上杉問題があるので、これは兼続と和議を結ぶと思う
かわいそうに当主の景勝は無視ですかそうですか。
711 :
日本@名無史さん:2009/03/04(水) 21:55:07
てか「関ヶ原」は無視ですかそうですか。
712 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 06:41:57
西軍勝利妄想厨房壊滅w
713 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 18:16:31
>>709 その間西軍が黙ってるわけないし東軍の諸将も黙っていない。
東軍諸将に見放されれば家康の首も飛ぶから家康も黙っていられない。
出陣した時点で戦は始まっちゃってんだよ。
東軍の諸将が家康についたのは「君側の賊」を討つためであって、家康の家来だからではない。
714 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:06:18
だから1日で決着がつくなんて誰が予想してるんだよw
史実はうますぎる展開だったんで、そうでなければ黙っていないって発想が貧弱すぎるな。
結果からしか物事が見れないのなら、結果だけを受け止めて妄想なんてスンナ
妄想にも多少は能力がいるんだYO!
>東軍諸将に見放されれば家康の首も飛ぶ
いや、ここは笑いどころだ(笑)
716 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:14:32
>>714 誰も言っていないことを・・・w
妄想君(笑)
717 :
日本@名無史さん :2009/03/05(木) 22:20:28
家康は東海道に予備軍置いてるから
関ヶ原で負けたら東海道で迎撃するつもりだったんだよ
それ預かった他人の城の守備兵でしょ。
そんなの動員しちゃったら城取り返されて退路断たれちゃうかもよ?
中山道にも置いてるだろw
負けたら清洲城に逃亡して秀忠待つしかないね。
合流前に秀忠が捕捉されちゃったらおしまいだな。
721 :
日本@名無史さん :2009/03/05(木) 22:41:04
>>718 違う違う
東海道守備隊
家康の弟・内藤信成(沼津城・興国寺城)
菅沼定仍(駿府城)
松平康重(掛川城)
保科正光(浜松城)
松平家乗(吉田城)
北条氏勝・松平忠頼(岡崎城)
松平家清・石川康通(清洲城)
総兵力1800
>>720 清洲は尾張の中でも西に寄りすぎじゃね?
秀忠迎撃がてら犬山経由で尾張侵入されてやばいことになりそう。
724 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:51:13
725 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 22:52:13
uyto
726 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 00:22:55
727 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 01:13:30
ここは妄想すれだからね。
そもそも、関が原を「天下分け目」と過大評価するから
こういうスレがたつ。
現実には、どう転んでも人望・武功・能力・人材が大きく勝っていた
徳川家康が勝つのは必然だったわけで・・
728 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 01:14:16
そもそも秀吉の運命は、本能寺の変を自作自演をして
織田家を倒した時点で決まってたんだよ。
それを快く思ってない徳川一派に同じ仕返しをされただけ
729 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 08:21:43
つか「関ヶ原で西軍が勝ったら」なんて発想は
小早川の裏切りの有無だけで決まったと思っているからだろ
甘過ぎるなw 歴史を知らなさ過ぎる
730 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 08:26:27
原因は神君の過小評価だろうな
歴史玄人の三河ヲタが降臨しました!
732 :
日本@名無史さん :2009/03/06(金) 11:30:55
小早川と毛利が西軍として誠実に戦ってれば関ヶ原は西軍勝利
歴史を知らなさ過ぎて困るねぇ
神君の旗本に蹴散らされるよ
神君は「金吾めに謀られて悔し悔し」と爪を噛んでたらしいジャン。
どーせ鞍壺に味噌をこぼしながら逃走するんじゃね?
735 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 13:47:05
家康が討ち死にまでしないと大勢は変らないだろ
736 :
日本@名無史さん :2009/03/06(金) 14:55:28
家康が敗北すれば秀頼の名前で徳川追討令が発せられる可能性大→追随して朝廷が家康の官職を剥奪→家康は正当性を完全に失う→味方の大名が激減して孤立化
局地戦で数度勝てても結局徳川滅亡or降伏
737 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 20:25:04
どうして秀頼が「西軍」だと思い込めるんだろうな?
それに会津上杉討伐令が秀頼の名で出されている。
局地戦で多少負けても結局徳川勝利and江戸幕府創立
局地戦で惨敗して味噌こぼすんだろ?
739 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:29:53
まあ実際は関ヶ原という局地戦で一日戦って東軍勝利に決まってしまったわけだが
740 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 22:32:23
>>732 >小早川と毛利が西軍として誠実に戦ってれば
またまた笑いどころ(笑)
741 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 23:10:20
全然笑えないね。
せめて鞍に味噌をこぼすくらいじゃないと笑えないなあ。
742 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 23:58:41
ネタにマジレス(笑)
徳川廚が必死な所が笑いどころ(笑)
744 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 00:27:21
必死も何も史実ははっきりしているんだから余裕だよ(笑)
西軍勝利なんて妄想でしかない。
実は西軍が勝っていた、なんて異説にすらならないしなw
745 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 00:31:14
まだ西軍厨残党がいるみたいだな
このスレでももう東軍の圧勝で、残党狩りの局面に入ったと思われ
746 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 00:32:37
神君様に刃向かうからだ
747 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 00:34:36
そんな撒餌で西軍厨房残党が釣れるのか?
748 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 00:36:28
749 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 00:39:28
ひとりでわめいてバカみたい
ここは西軍勝利の妄想を語るスレなのに妄想を語るなと言われましても
751 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 00:55:43
>>750 それが最大の勘違いだろ
妄想を騙れなんてスレタイにも書いていない。
ちなみに前スレ「もし関ヶ原で西軍が勝ってたら」では、
1 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/09/25(火) 22:00:25
それでも徳川の天下になったか?
それとも豊臣の天下が続いてたか?
とある。
つまり関ヶ原の結果は西軍の天下だという前提にすらしていないんだよ。
それを妄想を語るスレだとか勝手に決めつけて、徳川勝利はスレチだとか
書いている奴が多いようだが。
このスレの
>>1は徳川マンセーなんだろうが、前スレが興味深かったから
立てたという旨の発言している(スレの途中で)。
だから、このスレでの論議の結果、関ヶ原の勝敗如何によらず、やはり
(最終的に)徳川勝利という結論でも何の問題もないんだ。
ここは学問板、日本史板だ。
考察の方法論として、関ヶ原西軍勝利の可能性を仮定して話を進めるのは
構わないと思うが、妄想を語るスレではない。そんな意見は東軍厨も西軍厨
も誤り。
妄想を語るなw
752 :
1:2009/03/07(土) 01:24:58
秀吉の死後、天下は家康に移った。
これは歴史の必然(蓋然性でもいいと思う)。
いってみれば関ヶ原の勝敗を逆にしてみるという試みもこの必然性をより深く理解するためのもので、無茶な妄想を作り出すものではないということかな?
>>680を書いた者だけど、基本的な考えは既にその前
>>613に書いたとおり。
豊臣の天下は、もう日本社会が受け入れられなくなっていた。
だから家康かどうかは別にしても、もう豊臣政権は終わり、徳川家など他へ移っていったと思う。
>>752 あ、名前「1」は間違いね。私は平山さんではありません。
754 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 09:15:15
>>751 史実は西軍の負けだったんだから、「もし関ヶ原で西軍が勝ったら」は
妄想以外の何ものでもないわけだが?スレタイに書くまでもないわけだが?
756 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:20:43
>>755 マジレスすれば、過程としての話はまったくの空想ではなく
十分な客観的論拠が必要ということだろう。
それと最も重要なのは、その目的はあくまで史実の検証。
秀吉→家康という結末でなくてもよいかもしれないが、これ
は大きな前提条件だ。
究極は、この時期の歴史の蓋然性を探ることだ。
いってみれば、将棋や囲碁の「感想戦」。
ここをこうすればよかったとか、いやそう来たとしてもこう
なったとか、これは両者が決まってしまった勝敗を前提と
しながらも、互いの立場を尊重して進めるもの。
そして史実の勝敗は覆せない。
遊びたければ、他に該当する板やスレはいくらでもある。
例えば戦国板や軍事版、歴史難民板など。
妄想に耽るだけなら、他でやってくれ。
>>756 誰も全くの虚構を元に話をしてるわけじゃないし
史実の勝敗を覆そうとしてるわけでもない
わざわざこんな妄想スレ来てわけのわからん理屈こねてるあんたは一体何なんだろうね。
他でやってくれって、じゃあここの板のスレタイずらっと見て見ろよw
どう見ても「学問」に相応しくないのがゴロゴロしてるからさw
758 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:34:17
759 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:37:28
>>757 それは簡単な話だ。
この板には板の主旨をはき違えている奴は多い。それだけの話。
しかし悪いことをしている奴が多いからと言って悪いことをしてもいいという理由にはならない。
760 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:47:52
西軍厨房には策士がいないね
ギャーギャー騒いでいるだけという印象かな。
>>680も結局は東軍方だろ
まるで実際の関ヶ原の戦いだなw
これじゃ西軍が勝てる訳がないwww
761 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 11:52:58
御神君様の卓抜した戦略と指導力あってのものだけどね
>>759 趣旨をはき違えるも何もここはたかが2ちゃんねるに過ぎないわけだが。
文句あるなら削除依頼でも何でも勝手にやってみれば?そんなのが通るかどうか知らないけどw
763 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 12:00:54
>>761 そういう検証も面白いかもなw
すなわち当時の勢力分布が史実通りで徳川の総帥だけがアホだった場合どうなるか?
そこまでいかなくとも徳川家康に重大な健康上または政務軍事を司るための支障が生じていた場合
764 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 12:03:10
>>762 現実にこのスレも東軍の優位が動かないので余裕の展開、削除なんかいらんだろww
やれるもんならやってみろwww今までも散々ヘタレだったくせにwww
西軍厨房のイカレレスをイタぶるのは面白いし論拠なら史実で勝っている
東軍が圧倒的に優位なんだから削除はしないでくれ
766 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 12:15:21
>>757 まるで大負けしても自刃せずに最期まで吠え面をかく三成にそっくりだなwww
767 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 14:48:58
東軍大勝乙
768 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 18:34:54
なんかレスの時間見てると面白いなw
火病を発症した厨がポンポン連続レスw
>>763 徳川成敗後(ムリがあるとかいうツッコミはやめてね)に石田三成が
中心になって豊臣政権を再興するというのが西軍厨のシナリオだけど
それは応仁・文明の乱の後に足利政権を再興するより困難な事業だと
おもうけどね・・・。
秀頼が出陣すれば、誰も逆らえ無いだろう。家康だって涙を流して帰順すると思う。
それが権威だよ。
>>769 少なくとも最近は家康滅亡後の豊臣政権の話なんかしてない件。
あ、東軍厨が勝手になんか妄想してたっけw
>>770 上杉討伐が完了していない件の許しを請うのか?
確かにそりゃマズイよね。
>>771 > 少なくとも最近は家康滅亡後の豊臣政権の話なんかしてない件。
昔はしていたんだ。というよりその話が出来ないんだったらこのスレ
意味ないんじゃないのw。
ガミラス帝国のデスラー総統が石田に加勢していれば石田の大勝利
ハイパーデスラー砲で徳川軍全滅ついでに関東一円廃墟
秀頼が徳川追討を命じれば戦いは明徳の乱のようになっただろう
当時日本最大の大名だった山名が京都で室町幕府軍に粉砕された
>>774 秀頼にそんなことが出来るんだったらそもそも関ヶ原の戦いなんか勃発しないよね・・・
>>772 出来ないんじゃなくって誰もしてないのに
したと主張してる
>>769はアホだといってんのw
777 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:05:10
やはり東軍勝利は動かないでおk?
778 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:19:05
>>770君側の奸を討つってことがあるの(当時この言葉はなかったろうが)
知らないの?
秀頼が出馬したら徳川方の大名は次々と寝返るんじゃないか
応仁の乱でも足利の軍旗が細川軍から出ただけで、山名軍から裏切りが続出した
江戸に引き返すまでに空中分解だな
781 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 23:56:45
>>773 まるで「続戦国自衛隊」そっくりのストーリーでワロタw
ちなみに、続戦国自衛隊の場合、敦賀にタイムスリップしてきた自衛隊は、大谷刑部と知り合うことで西軍に味方する。
自衛隊が加勢することで西軍勝利確実と思われたが、事態はやはり史実のように展開する。
焦った自衛隊は結局関ヶ原で決戦しようとするが、家康は自信満々。
合戦が始まり、自衛隊が家康を攻撃しようとしたその時、東軍方から自衛隊を上回る戦力を持つ「米軍」が登場。
自衛隊は粉砕され、結局徳川家康と東軍の勝利に。
妄想というのか、SFの世界ではこのようなトンデモ展開がよくストーリーの構成で登場するな。
戦国自衛隊も、また米国映画の「ファイナル・カウントダウン」なんかもそうだ。
しかし三流の小説や劇画は知らず、ある程度ヒットしたこのような作品には共通点がある。
それは必ず「史実に近い形で結末を迎える」、または「史実に持っていく」ということだ。
半村良原作の「戦国自衛隊」は、パラレル・ワールドの異なる歴史になるかも知れなかった時代を、自衛隊が参加することで我々が知っている歴史に「修正」してしまうというのが「オチ」だった。
こういう作品が世の中で受け入れられるのは、当初の設定はトンデモだが、史実や歴史そのものに対するリスペクトを必ず持っていて、結局歴史というのはなるようになるというお話に必ずなるからだ。
これがあるのなら、それはある種の歴史検証として成立する。
それが単なる妄想なのか、そうでないのかの違いだ。
もう少しこういうものも見習ってみたらどうかな?
ドラゴンボールでは歴史が修正されたよ
そこで家康が持ち出すのは秀頼討伐の勅令ですよ。
784 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 00:07:37
>>782 それがあったから売れたというわけでもあるまい(笑)
>>773 ハイパーデスラー砲なら地球が吹き飛ぶよ。
初期波動砲でオーストラリア大陸位の要塞が消し飛んだんだから。
それを遥かに上回る銀河系最強のエネルギー弾だし。
787 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 03:57:17
>>781 結末が同じで経緯が違うということなら、歴史小説も「戦国自衛隊」もさして変わらない気もしますが。
違いは、信じやすい嘘かどうか。それだけでは・・・
788 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 14:31:06
>>787 解り易くていい意見だな。
そうだと思うが、では多くの人が信じやすいのは何故かと言えば「史実」が前提にあるからだろう。
設定がトンデモで、結末もトンデモなら「何なんだ、これは!」でポイだろうな。
789 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 14:40:56
そもそも最初の戦国自衛隊では信長・柴田勝家とともに家康も
三河文康とかいう自衛官の奴がなってた気がするが、
続編の関ヶ原編には反映されてないよな。
790 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 15:05:00
>>789 秀吉が過去を抹殺したことになっているらしいよ。
旧自衛隊員から歴史を聞き出し、三河文康も徳川家康に
791 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 15:08:14
>>791 あ、それと三河文康は、上杉謙信の家臣直江文吾ということだったはず
>>788 そうそう。
というか、このての話は昔からよく言われることなので。
>>775 明徳の乱は、主君と家来の対立だけども、
関ヶ原は、家来と家来の対立、つまり私闘。
そして、私闘を抑えられない権力者は権力からすべり落ちる。
戦国時代の守護家の没落も似た過程だし、豊臣秀吉の惣無事令や徳川幕府の武家諸法度にも大名の私闘を禁じる意思が現れている。
問題は、なぜ豊臣秀頼・淀殿らは関ヶ原を防げなかったのか、ですが・・・
・文禄・慶長の役で、自ら私闘の種をまいてしまったこと
・五大老の合議制により、徳川家康の勢力伸張を助長してしまったこと
かなぁと。
とくに合議制は諸刃の剣で、家康を抑える目的の機能をまがりなりにも持っていたとは思うのですが、・・・
淀殿やその側近達が豊臣家の主導権を取れるのは、関ヶ原で大老・奉行がいっせいに排除されたからかもなどと考えると、
合議制は、徳川家康だけでなく豊臣家の足かせにもなっていたのかなぁと。
皮肉な見方だけども。
>>770 戦国無双でそんな感じのシナリオあったな
794 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 19:24:57
設定がトンデモで結末もトンデモな奴はきっとゲームでしか歴史を知らない奴だろ
歴史とはゲームで学ものだろ。
796 :
日本@名無史さん:2009/03/08(日) 22:52:55
Put into Japanese.
797 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 07:29:39
>>792 五大老・五奉行制は、秀吉が晩年にようやく作り上げた体制だが、これには重大な欠陥があった。
江戸幕府の仕組みと比べてみると分かり易いのだが。
五大老の大名はどんな大名か?
全部外様の有力大名だ。それが豊臣政権の上位にいる。
五奉行の大名は?
豊臣秀吉には「譜代大名」はいない。しかし秀吉に取りたてられた「恩顧大名」がいる。
その中で五奉行になったのは文治派の人間だ。
この体制で、爪弾きになった立場の者がいる。
ひとつはさほど有力でない(=秀吉に近くない)外様大名。
そして、これが重要だが、豊臣恩顧大名の「武断派」だ。
実は以前(
>>457)でそれを書いている。
それに付け加えるなら、もうひとつの問題は外様大名は石高が大きく、恩顧大名は石高が低いこと。
それと外様は外様でそれ以上の領土拡大が出来なくなったこと。
恩顧大名も、特にいくさが得意な武断派も小さいままで領土拡大が望めなくなった。
平和が来る引き換えに失うものだ。
それが大陸出兵の一因にもなった。しかし大陸出兵が失敗した段階で、そうした問題はそのままになった。
この状況で秀吉が死んだ。
五大老、五奉行の大名はよい。しかしそれ以外の大名はみんな不満だ。
必ず争いが起こる。当然のこと。
よく言われるのが秀吉死後の武断派と文治派の対立だが、角度を変えてみて欲しい。
五大老、五奉行の大名と「それ以外」の対立なんだ。
そんな中、もし五大老の、それも筆頭が「それ以外」に対して理解を示したらどうなるか?
「それ以外」はみんなそれに流れる。
あとはその五大老筆頭の思うままだ。
それが徳川家康だった。
798 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 13:55:49
>>797 1.ひとつはさほど有力でない(=秀吉に近くない)外様大名。 = 南部・最上・秋田・佐竹・伊達・長宗我部・松浦など
2.豊臣恩顧大名の「武断派」 = 福島・加藤・池田・細川・黒田など
という理解でおk?
1 + 2 = 「それ以外」
という理解でおk?
つまり、言い換えれば、五大老・五奉行・「それ以外」の三角関係ということ?
799 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 14:00:13
でも秀吉が五大老制度を使わずに独裁体制を固めたら、今度は徳川が毛利や上杉など外様大名をまとめて対抗するよ
800 :
798の続き:2009/03/09(月) 14:24:10
>>797の考えは間違っていると思う。
理由は、
・実際の関ヶ原では、五大老の足並みが乱れていること。五大老をまとめてひとつの政治勢力と扱うには無理がある。
・外様大名達も足並みが乱れている。皆が東軍についたわけではない。
しかし、島津・長宗我部は東軍に付くそぶりをみせていたことを考えると、徳川家康が外様の理解者として見られていたふしはある。
外様という視点から関ヶ原を見てみるのも悪くないと思う。
でも、外様大名は関ヶ原で決定的な役割を果たさなかった。最上の長谷堂合戦、島津の退却、佐竹の中立など見ても、大局に影響しないところでがんばっていた印象をうける。
一方、豊臣恩顧だが、武断派とは毛並みの違う生駒・堀尾・中村・山内・京極など三中老クラスの大名の果たした役割は大きいと思う。
とはいえ、加増された領地をみれば前線(関ヶ原本戦)で戦った大名の評価のほうが高いのだが。
島津(というか義弘)は最初から三成閥だが?
>>800 山内や京極が三中老クラスとは?
そんなことないよ
803 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 22:36:19
>>800 ええと。
まず五大老(関ヶ原直前)
徳川家康・・・・東軍の総大将へ
前田利長・・・・討伐の対象になりかけるが和解。関ヶ原は中立(ただし西軍大谷軍などと交戦している)。
毛利輝元・・・西軍の総大将へまつりあげられる。
宇喜多秀家・・・西軍へ。副将だが関ヶ原は事実上軍の中心で最も奮戦。
上杉景勝・・・家康から討伐の対象となった。
結果から言えば、
>>800の言うことにも一理ある。
しかし、会津討伐勢出陣以前の状況をいえば、当時は「機能していない」。なぜならほとんど国許にいたから。
上杉討伐までの間、畿内にいたのは家康。
ちょっと確定申告&消費税で取り込んでいて(笑)、詳しい検証は後回しにしたいところなんだが、一つ提案。
このままでは「スレチ」と言われそうだ。
やはりスレタイに沿って、かつ妄想でないような論点整理しておいた方がいいと思う。
1.関ヶ原までの状況認識について・・・これは今図らずも進行中なので、今までの意見に反論、賛同、敷衍などしてもいいと思う。
2.関ヶ原での戦闘結果について・・・この戦闘で「西軍」が勝つ可能性が合理的にあり得るかの検証。またこの戦闘で西軍が勝った場合、そのまま戦後処理へと進むのか。それとも東軍が逆転するのか。膠着または泥沼化するのか。
3.その後の社会について・・・豊臣政権→徳川政権になったのか。ならないとすればどのような合理的な説明が出来るのか。歴史の蓋然性に即して。
史実は関ヶ原は東軍の勝利に終わり、徳川による戦後処理、江戸幕府の成立と進んだのだが、それが否定されるなら、この蓋然性の否定なので、偶然の要素と逆になった場合の今に至るまでの蓋然性を別途提示して頂きたく。
で、納税が終わるまで姿を消します。悪しからず。
804 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 23:07:56
よくわからんのだけど、考察したいんなら何で関ヶ原スレ行かないんだ?
追放されたのか?
805 :
日本@名無史さん:2009/03/09(月) 23:14:18
>>804 ここを追放されて、また戻ってきたの?
ていうかまるで
>>803は三成挙兵を促すために上杉討伐に出てった家康みたいだなあ。
>>797 「だから、小大名の譜代で政権担当資格を完全に閉じて、
外様には中央政治に一切参加させない徳川氏のやりかたマンセー」
と言いたいのだろうが、
これは、
>>457に対する反論レス以外の点でも、重大な前提に欠いているんだよ。
1615年の段階で、
「譜代まで含めた広義の徳川領」は、数百万石レベルの追随を許さないレベルだった。
これを前提にしてはじめて、大藩の外様を「中央政治」から締め出すことができた。
豊臣氏の場合、石高至上主義を前提とするなら、こんな地位にはとても無い。
要するに「少数与党」になってしまうわけで、
こんなときは、有力大名を中央政治に参画させないと、
「公儀」としての正統性がゆらいでしまう。こちらのほうがむしろ普通の感覚。
結局、豊臣政権が織田政権から受け継いだ重商主義的側面が裏目に出ている。
石高制をとってそれで諸侯の力のランク付けをするなら、
ゴリゴリの農本主義・領地拡大至上主義をとらなければ駄目だったんだ。
(朝鮮?という話もあるかもしれないが、あんな貧しく未整備な土地を取ってどうするw)
そういう意味で、秀吉の政権構想は中途半端だった。
ID出ないから自演も出来るからに決まってるだろ
>>804 関ヶ原スレんあて厨の巣窟、史料厨とか言い出すのもいるからなw
808 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 06:46:16
日本語でおk
>>804が何いってんのかわかんなかったけど、もう一個スレがあるんだね。
っていうかそっちの方が本スレでこっちはネタスレじゃん。
810 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 07:28:37
>>806 秀吉は全国の主要な金山、銀山を押さえたからね
一方で甲州の金山等はもう枯渇していた。
そして家康が関ヶ原の戦後ダントツになったのも
それをかすめ取ってしまったからでガチガチの農本主義
のみで天下を取ったというのは前提を欠いた話。
徳川家康も朱印船貿易で利益を上げようとしているし
W.アダムス等の英国人側近もいた。
後世の鎖国イメージから誤解してはいけない。
年貢収入
金山収入
貿易収入
それぞれどれくらいだったんだろうね?
>>801 島津は、淀城入城を拒否されて西軍についたと記憶。
山内・京極は三中老に数えられていないことは知っている。
ただ、東海道など要所に小録と城を与えられた大名達という意味で三中老クラスと表現した。誤解をうむ表現だった。
813 :
日本@名無史さん:2009/03/10(火) 16:52:26
>>803 1.関ヶ原までの状況認識について
豊臣恩顧大名の私闘が要因となり、五大老の分裂を引き起こし、関ヶ原を勃発させた。
関ヶ原は私闘であり、惣無事令体制の崩壊である。
2.関ヶ原での戦闘結果について
西軍勝利の可能性はありえたと思う。
単純に軍事的にいったら、徳川家康の内線防御が上手く機能しすぎていた。
上杉は、徳川主力を拘束すべきところを、逆に伊達・最上に拘束される結果になっている。
そこをなんとかできれば、西軍勝利はありえたのでは?
3.その後の社会について
西軍勝利であろうと、東軍勝利であろうと、豊臣家が関ヶ原を私闘と見る限り、惣無事令体制は破綻をきたしている。
その後、新たな天下人が出現して、私闘を禁じる政策を進めることになるだろうと予想。それが秀頼なのかはわからないが。
納税ガンバ
なるほど
>>812 島津の伏見入城拒否は島津側の捏造で、実際はそれ以前から三成に協力していた模様
7月15日付の上杉景勝宛の島津義弘書状で西軍に協力する事が書かれてるしね
伏見入城を拒否されたというのは「島津国史」が初見です
>東海道など要所に小録と城を与えられた大名達という意味で三中老クラスと表現した
京極は兎も角、山内などの東海に配せられた大名は福島正則を含めて「奉行」だよ
過去に何らかの奉行の経験はあるだろうけど、現役の奉行ではないだろう。
現役の奉行ってなんだ?
福島らは間違いなく奉行だよ、その奉行の筆頭格なのが「五奉行」なんだよ
豊臣政権で奉行が五人しかいないとでも思ってんの?
うん
それならしょうがない
ずっとそう思っててくれ
821 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 00:13:43
終了
で、奉行って何?いつ任命されたの?
そんなのも知らないのが語ってたの?
824 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 18:36:04
ソース
825 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 18:42:02
>山内などの東海に配せられた大名は福島正則を含めて「奉行」だよ
>山内などの東海に配せられた大名は福島正則を含めて「奉行」だよ
>山内などの東海に配せられた大名は福島正則を含めて「奉行」だよ
戸谷穂高氏の『豊臣政権の取次』
粟野俊之氏の『豊臣政権の所領安堵政』
山口 啓二氏の『豊臣政権の構造』
ソースとか言うなら、これら読むといいよw
無知が必死すぎて怖いがw
827 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 19:11:48
取次したからといって五奉行に含めるのはどうかね
五奉行に含める?意味不明
何偉そうにしてるんだか
ID非表示は便利だな。
831 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 19:25:55
そうだね自演できるもんねsage君
832 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 19:30:23
こいつが噂の史料厨ですよ。
携帯から必死なのが哀れ;;
歴史の話で史料厨なんて言い回しするやつって何なの?
クズがよくいうよ
・逸話、講談レベルの知識しかない
・他人にはソース要求するが自分にはない
・誹謗中傷だけのレスでその場を荒らす
・基本age荒らし
・戦国板ではID出るので居場所がない
・他にも三成スレや秀秋スレにも出没
・西軍厨で自身の妄想が理知的で当時の人物より賢いと思い込んでる
>>836 大抵の史料は読み下し文の翻刻本出てるので図書館で閲覧出来ますよ?
これ読めない人は中学生からやり直しましょう
839 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 20:37:40
戦国板w
荒らして話そらしてるのは奏者や取次の役割や奉行とは何かを知らないんでしょ
スルー推奨
だいたいスレ自体無意味
なら来るな
存在自体ゆるせん
何様のつもりだw
歴史厨ってキモイ
素人相手に論破して悦に浸っている品性卑しい奴らだよ
論破されたら荒らして終いには素人だからと開き直るの図
848 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:38:39
>>846 向上心ってのが欠落しているような
「素人」という言葉は免罪符じゃないだる
849 :
848:2009/03/12(木) 21:40:30
850 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 21:42:51
自演
史料厨の特徴
・史料をたくさん持っていることが唯一の自慢。
・読解力は低く誤読が多いが、本人は読めていると思っている。
・自説に都合良く史料を曲解し、俺の説には根拠があると言い張る。
・常に上から目線で他人を見下す。
・素人相手に知識をひけらかし優越感に浸る最低な性格。
・自説に都合の悪い史料は創作・捏造・講談で片づける。
・ムダにレスが長い。
・時々、ファびょって意味不明な日本語を書く。
豊臣政権においては各政策ごとに置かれる奉行職よりも諸大名との政策調整等をおこなう
指南や取次奏者のほうが政権中枢であった。
853 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:10:40
>>850 そんな短時間に連投できるかよw
バーカw
854 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:13:23
>>851 >ファびょって意味不明な日本語を書く
意味不明な日本語だなw
855 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:13:47
複数回線晒し
856 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:37:26
まあそう独りで思い込んでろよ
史料厨w
857 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:43:19
もうスレとしては東軍圧勝後の掃討戦ということでおk?
858 :
日本@名無史さん:2009/03/12(木) 23:56:23
まぁ史料厨と言うヤツは一匹しかいないけどなw
読み下し文も満足に読めんからすぐに総ツッコミされるけどw
860 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 00:33:18
最強の史料厨がウィキペディアと関連スレにいたよ
書状の本文に筆者の下の名前があるのは不自然だ 後世の捏造だと喚いてた
wikiなんて素人が好き勝手に書いてるトコなんでどーでもいいw
ウィキのスレがある事自体驚いた。スレで何話すんだろね?
>>862 そりゃ史料厨とか言うような
>>860みたいなヤツが集うような場所なんだから推して知るべし
864 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 02:33:04
もし関ヶ原で西軍が勝ったら
ひこにゃんがこの世に現れなかった
そうなったらどうしてくれるんだこの野郎
俺のmyfavorite萌キャラが生まれなかったかもしれんのだぞこの野郎
しまさこにゃんやいしだみつにゃんも生まれなかったかもしれんぞこの野郎
866 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 06:52:05
夜中にひとりで何やってんだろw
自分以外は全て一人らしい。
西軍が勝ったら?大阪が首都になってる?
ぜーったいヤダ!!!!!日本は近代国家になってませんでした。
その場合、首都は京都だろ
日本の首都は天皇のいる所だ
大阪はニューヨーク的な立ち位置
870 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 19:21:53
>>869 何で京都なんだよ?朝廷が力持つわけないし
秀頼の下で三成らが合議制で運営していくのかねえ
でも家康討っても
伊達政宗とか黒田如水がいるわけで
そんなにうまく収まるとも思えん
>>869 明治天皇が東京に移ったみたいに、そのうち大阪に遷都してたかもよ。
してた可能性が大きいんじゃね。豊臣家は関白として朝廷と近い建前だし。
それにニューヨークは経済都市で、政治都市じゃないよ。
この場合は大阪こそ政治の中心じゃん。
872 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 21:06:29
そこまでして西にこだわってどうする(笑)
NHK「首都圏ニュース」で道頓堀川からサンダースおじさん引き上げ映像
「きょうの料理」は「春のたこやきレシピ」
国会中継とか討論番組とか大阪弁の怒号の応酬でっか??
874 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:16:46
豊臣政権の本拠地は伏見城だろ
875 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:20:10
876 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 22:22:52
2009年3月、橋元が大阪幕府を開く
2009.3
臭うくさー、大阪幕府
877 :
日本@名無史さん:2009/03/13(金) 23:39:29
みんな必死に関ヶ原の話題からそらそうとしてるな
全部スレチガイ
878 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 19:24:08
>>814 亀レスだが納税終了、ありがと
関ヶ原で西軍勝利を夢見ていた人へ
家康が嫌いなら、江戸幕府のない17世紀〜19世紀の歴史の蓋然性を探るしかないだろうな。
結局19世紀半ばに日本は世界からショックを受けて、江戸幕府も滅んでいくのだが、
その辺りまでのストーリーとして歴史上の合理性がある結末なら、別に関ヶ原で家康が勝たなくても
また徳川が天下を取らなくても良かったということになる。
設定が妄想なのが悪いとは言っていない。
結末が妄想なら、世の中で受け入れられないし、ましてや学問でもないということだ。
879 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 20:16:21
↑
夢見てるとか世の中で受け入れられないとか学問でないとか・・・
こいつ何いってんだ?w
もっと肩の力抜けよw
880 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 20:47:13
まぁ三河者だからw
881 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 20:55:14
また慈円か
882 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 20:57:58
もし家康が敗死した時に天下を切り盛りする5人
前田利長
宇喜多秀家
毛利輝元
上杉景勝
石田三成
この5人は豊臣家を滅ぼそうとは考えてないから
不安定要素を残しつつも天下は豊臣家を中心に回っていくだろう
883 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 20:59:37
>>882 安心感の全くもてない政権だな
天下はまだまだ乱れる
884 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:00:39
重農主義の徳川体制とは違って、重商主義がとられてたから、和製マグナ・カルタが18世紀に出来てた。ん、時期が逆か?
885 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 22:57:11
>>878 17世紀〜19世紀の歴史の蓋然性の答えになっているかはわからないが、
西軍勝利→大国共存
西軍勝利→もうひと波乱→徳川的な封建制
のふたつのパターンを考えた。
<西軍勝利→大国共存>
西軍が完全勝利した場合、毛利・上杉・宇喜多らに大幅な加増が考えられ、彼等の力が増大する。
とくに宇喜多が上方に大封をもつことになったら、中央政府は常にその圧力に晒されることになり、政治は不安定になるだろう。
また、毛利が博多・平戸を抑えたなら、貿易利権が中央政府と毛利の対立点になるかもしれない。
さらに、上杉が東北・北陸を切り取り次第に領国化するようなことになれば、中央政府の命令などまるで行き届かない地方政府ができあがるかもね。
武家による一円支配や、農村の自治といった社会の基本的な部分は変わらないかも。
<西軍勝利→もうひと波乱→徳川的な封建制>
毛利・上杉・宇喜多・石田・小西らが相争うが、結局、血統書付きの若者が天下を掻っ攫う。
そして、沖積平野に大城郭と大都市を築く。
台湾が日本に、北海道がロシアになってたかも
887 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:20:45
三成が秀頼の名で徳川追討令を出せなかったことから、たとえ西軍が勝っても豊臣家の権威高揚には結び付きにくい
豊臣家が指導力をなんら発揮することなく、ただ反徳川の諸大名が連合して徳川を潰したとなれば、天下人として豊臣家は失格である
888 :
日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:46:54
江戸時代の支配体制は、流通による支配だった。
地方の大名が莫大な実高を持っていようと、大阪に回送して換金しなければ現金を手に入れることが出来なかった。
西軍が勝利して、大国共存のような自体になったなら流通はどうなっただろうか。
多極的な流通網が形成されたのかなぁ
889 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 02:11:50
>>879 あんたは間が抜け過ぎてるんだよw
もう少しまともに考えた方がいいかも
891 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 10:50:52
一番間抜けなのは史料厨だけどなw
あいつのデタラメな史料解釈には笑ってしまう。
892 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 11:13:06
まるで能の幕間に演じられる猿楽か狂言だな
まともなレスの間にたまに出てくるくらいなら許してやるぞ
893 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 13:28:03
>>890 2ちゃんの片隅で評論家やっても儲からんよw
894 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 14:50:00
895 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 15:30:29
>>887 同感。
春秋時代の超大国であった晋が辿ったようになると思われる。
すなわち有力家臣同士で潰し合いをし、それを勝ち抜いた魏、趙、韓が晋を分け取りしたように、下克上で簒奪される。
そしてそれら3国も地道に勢力を扶植してきた秦に結局は飲み込まれてしまう。
この場合の秦の役割を果たすのは徳川か伊達か上杉くらいか?
>>891が戦国板でデタラメな史料解釈をして失笑を買っていたのは今だにログ残ってるなw
898 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:38:51
これのことだな。
原文は「如何程慥成遠国衆にて候共」なのに、
「慥成」を訳さずに「どれほど遠い国から来た衆でも」なんて訳すとはバカ丸出しだな。
428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/26(金) 15:00:14 ID:LiVj4y5A
>>427 いかほど確か成る遠国衆にて候とも、今時分は国郡の心さしこれありて、人の心計り難し
「国郡之心さい有之付て」を「国元のことを思う気持ち」としてるが、そんな訳し方見た事がないんだが?
国郡で現在所在している場所・土地を指すんだけど、いつから望郷の言葉になったのか?
そもそも「国郡之心さし有之付て」をどうやって「国元の事を思う気持ち」になるのか?
ここの詳細なる訳を求める、新解釈にもほどがあるからね
429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/26(金) 15:15:24 ID:LiVj4y5A
それと望郷を言っているのであれば、前後の「如何程慥成遠国衆」と「人之心難計候」とがあっていない
遠国の衆ならば、望郷の念を持つのは当然なのだが、それを持って人の心計り難しと言ってるならば、
石田三成は人心を全く理解していない意味不明な文になってしまう
これを普通に訳すと、どれほど遠い国から来た衆でも、今では国郡、その土地の人間みたいな心を持っている、
だから人心とは計り難いものだとなる
>>898 427 名前: 人間七七四年 [sage] 投稿日: 2008/12/26(金) 11:30:24 ID:xcC1j6oG
如何程慥成遠国衆にて候共、今時分は国郡之心さし有之付て、人之心難計候
訳:どれほど確かな遠国衆であっても、今時分は国元のことを思う気持ちがあるので、人の心を推し量るのは難しいものだ。
これ書かないのはどうしてかな?www
900 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:52:19
>>899 そっちは正しい訳。
こんなデタラメな訳し方しといて「普通に訳すと」とか書いてるんだから失笑ものだ。
原文 史料厨の訳 正しい訳
如何程 どれほど どれほど
慥成 ? 確かな
遠国衆 遠い国から来た衆 遠国衆
にて候共 でも であっても
902 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 19:56:16
反論できないんだろwww
「慥成」をきちんと訳すとお前の訳では意味不明な文になっちまうからなwww
>>900 「いかほど“確か成る”遠国衆にて候とも」と書いてあるのに、それをあえて無視w
そして肝心な「国郡の心」はスルー、「人之心難計候」に推し量るのはなんて付け加えてたりするのもスルー
何が正しい訳だよw
>>902 どうしてID出る戦国板から逃げてるんですか?wwww
905 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:01:27
>>903 読み下しには確か成る
>如何程慥成遠国衆にて候共、今時分は国郡之心さし有之付て、人之心難計候
>(不慣れな)遠方の衆(で心配だった)だが、今では地元みたいな心持ってる・・・と
>何も問題視していないのが見て取れる
906 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:03:34
↑
は失敗。
読み下しには「確か成る」が入っているが、訳の方に反映されてないじゃないか。
それに原文にない(不慣れな)とか(心配だった)なんて勝手な意味付け加えているのはお前の方だろ。
>如何程慥成遠国衆にて候共、今時分は国郡之心さし有之付て、人之心難計候
>(不慣れな)遠方の衆(で心配だった)だが、今では地元みたいな心持ってる・・・と
>何も問題視していないのが見て取れる
907 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:06:14
なに?千石板から流れてきたのか?
うぜー。消えろよ。
>>905-906 >読み下しには「確か成る」が入っているが、訳の方に反映されてないじゃないか。
正確な訳してるわけじゃないし、ここでの「確か成る」は「遠国衆」というのが確かに遠い国の衆という意味で、
遠国衆というのは確かですよと言う意味でしかない
そこだけ引っ張って揚足取ったつもりになってるから、お前は馬鹿だ読めてないと言われるんだよw
同じスレで反論すればいいのに、そこで出来ないからって日本史板でやるトコも呆れるわ
909 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:12:12
アホだこいつwwww
「慥成遠国衆」とは「しっかりした遠国衆」「信頼のおける遠国衆」って意味なのに。
全然読めてねーのはお前の方だ。ホント呆れるわ。
913 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:19:42
916 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:33:08
そこの人だってAが正しいっていってるだろ。
大体、文脈からいってもお前の訳はおかしい。
「一、何れ之城之傳々にも、輝元御人数入被置候御分別、肝要に候、
此段子細有之候間、御分別あつて、勢州を初、太田駒野に今度城を構候而能候はんと存候、
江濃之境目松尾之城、何れの御番所にも、中國衆入可被置御分別、尤にて候、
如何程慥成遠国衆にて候共、今時分は國郡之心さし有之付て、人之心難計候、御分別之前に候事」
この文で三成は各地の城に輝元の軍勢を入れることが必要だと述べている。
何故そのような措置が必要かといえば、大津や犬山のように寝返りが出るのを防ぐためだ。
家康が西上に際して東海道筋の諸城に自軍を配してきたのも万一に備えてのことだ。
そして、どんな信頼のおける人でも心が変わることがあり、人の心というものは計りがたいから、このような措置が必要だと述べているのだ。
お前みたいに遠国衆の環境適応力の高さに安心しているような意味にとっては前の文と全くつながらん。
>>916 >何故そのような措置が必要かといえば、大津や犬山のように寝返りが出るのを防ぐためだ。
あれ?お前、三成書状読んだことないの?
寝返りが出る要因を書状では他の事で書いてあるけど、知らないの?
いかにトンデモのマイ解釈してるかわからないの?
三成書状の全文書いてあげようか?wwwww
ちなみにAが正しいとは一言も書かれてない
「確かな」があるので選ぶとすればBとあるだけ
国郡之心にしても「地方行政の区画」としただけで、彼はその中で国元としただけとある
読み下し文も無視するわ、読めないわ、懇意的な超解釈するわでどうしようもないな
918 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 20:44:39
屁理屈もいいところだな。
以下の書状でも「慥なる」は信頼できる者という意味で使われている。トンデモ解釈はお前の方。
真田昌幸宛石田三成書状
一、この方より三人使者を遣はし候。右のうち一人は貴老返事次第案内者そへられ、この方へ返し下さるべく候。
残る二人は会津への書状ども遣はし候の条、その方より慥なる者御そへ候て、沼田越に会津へ遣はされ候て給ふべく候。
御在所迄返事持ち来り帰り候はば、またその方より案内者一人御そへ候て上着待ち申し候の事
>>918 アホか「慥なる」は身元が確かでもいいし、それを信頼できるとしてもいい、はっきりしてるでもいいんだよ
信頼できるとしか解釈しないなんてどこのトンデモだよw
つかお前の主張で言うなら、真田宛書状では「慥なる」、増田宛書状では「慥成」で意味合いが変わってくるという解釈もあるんだよ
同一人物が同一の意味で書くなら同じ書き方するとかな
で、なんで戦国板の関ヶ原スレで反論しないの?w
ID出るとバカがばれるからか?
>>917で事実書いてあるんで、それを
>>918で屁理屈というなら、それを証明してくれw
三成書状ぐらい読んでるだろ?原文わからずとも、犬山とかの裏切り話書くぐらいだから、
それに言及してる一文も含めて
>>916の事書いてるんだろうからw
921 :
日本@名無史さん:2009/03/15(日) 22:41:40
言葉の意味は文脈の中で考えるべきもの。この文では信頼できると訳すべき。
「国郡」の意味も「現在所在している場所・土地」に限定解釈できるものではない。
裏切りの要因は人質を成敗しないから。
輝元の軍勢を各地の城に入れるのは、更なる離反者を出さないための方策。
で、俺はこの文を
「輝元の軍勢を各地の城に入れるべき。信頼出来る人でも人の心はわからないものだから」
というふうに、方策の理由付けの文として捉えているわけだが、お前の訳では、この一文は文脈の中でどういう位置づけになるんだ?
「輝元の軍勢を各地の城に入れるべき。遠くから来た衆も美濃国に慣れて心配ない」では、前の文とのつながりがなく、わけわからんぞ。
>>921 >言葉の意味は文脈の中で考えるべきもの。この文では信頼できると訳すべき。
断定する理由説明がない、説明してみ?
>「国郡」の意味も「現在所在している場所・土地」に限定解釈できるものではない。
出来る、何故なら望郷の念を指しているなら中国衆も遠国衆になり、矛盾する言葉になるから
>裏切りの要因は人質を成敗しないから。
>輝元の軍勢を各地の城に入れるのは、更なる離反者を出さないための方策。
違います、更なる離反者出さない為の方策はもう別のとこで示されています
この一文だけでも、お前が内容を知らないのがバレバレです
行き当たりばったりの言い訳する為に、デタラメ書くのはやめてください
毛利勢みたいなのを「信頼出来る遠国衆」と言うのですよ?w
だから輝元の軍勢を各地の城に入れるべきとなるのですよ?w
理解できましたか?
923 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 00:12:11
残党というより乱闘でこのスレあぼーんへw
924 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 17:58:04
断定する理由説明がないのはお前の方。
「慥成」を信頼できると訳さないという理由が何もない。
「遠国衆というのは確かですよ」なんて強調する必要がどこにあるんだよw
三成が「慥成」と「慥なる」で使い分けをしているというなら実例をあげて立証しろ。
それから「遠国衆」とは九州勢を指すものとみるべき。
「国郡の心さし」は単なる望郷の念ではなく、
国元の方に心が向いている(国元の情勢を気にしている)という意味に解すべき。
当時、九州には加藤清正・黒田如水らが在国しており、
戦が長期化するにつれて九州勢が彼らの動向を気にしはじめただろうことは想像に難くない。
で、肝心の文脈の話はスルーですか?
三成が各所への毛利勢の配置を求めている文章の中で、何の脈絡もなく唐突に
「遠国衆でも、今では地元みたいな心を持ってる、人の心は計りがたい」なんて話が出てくるんですか?
話の流れとしておかしいだろ。
っていうか、昨日あたりから一体何なんだ?
とっとと巣に帰れよ。
>>924 >断定する理由説明がないのはお前の方。
断定しているお前の断定理由が皆無なんだよw
自分は説明出来ませんから、逆に問い返すなんて説明出来ないのがバレバレ
>「遠国衆というのは確かですよ」なんて強調する必要がどこにあるんだよw
強調してないんだがw
ここは確かな遠国衆でも地元の心を持てるとしている
説明できないのを棚に上げて、こっちが説明できてないとか誤魔化すなよ
>三成が「慥成」と「慥なる」で使い分けをしているというなら実例をあげて立証しろ。
え?実際にこれが使い分けてるんだけど?文盲ですか?
>それから「遠国衆」とは九州勢を指すものとみるべき。
アホか、また「〜べき」と断定して、その理由説明ないじゃねーかw
どうして文中で一切触れられてない九州勢と限定し毛利勢を除くのか説明してみろw
>戦が長期化するにつれて九州勢が彼らの動向を気にしはじめただろうことは想像に難くない。
何言ってるんだ?九州の動向に言及している箇所あるだろ、嘘書くなよ
またその場しのぎのデタラメな言い訳ですか?
>話の流れとしておかしいだろ。
全然おかしくないが?
遠国衆である毛利勢が各所に入る事に際して、遠国衆でも地元の心持てるから大丈夫としているだけ
お前自身が文脈で判断しろと書いてるのに、文脈で全く触れられてもいない九州勢を指すとか理由もなく断定するのが、
いかに矛盾しているかわかるか?
ここで言う遠国衆とは文中でも触れてる毛利勢も含めるんだよ、除くというなら、それなりの説明しろよ
お前、相変わらず決め付けばっかで理由説明皆無だなw
927 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 21:54:47
>>925 負けが確定した西軍厨房が荒らしと化したんだろ?
2スレ連続東軍勝利
このスレ続ける意味あるか???
勝利宣言でました
929 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 22:23:34
「人之心難計候」が大丈夫なんて意味になるかよ。
人の心がわからない・理解しがたいという苦悩・嘆きの表現だろ。
これがID出る戦国板でやらない理由
>>929 他のとこはどーしたw
誰も「人之心難計候」が大丈夫なんて訳すなんて書いてないけどなw
人の心はわからないものだというそのままで、苦悩の表現でもない
相変わらずバカ丸出しなんでどーしようもないなw
荒らしかどうか知らないが巣でやれよ。
933 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 23:39:43
お前とは、この文に対する解釈が根本的に違うから説明するだけムダだろうけど、
三成が信頼しているであろう衆のうち、遠国から来てるのは小西・島津・熊谷らの九州勢。
宇喜多・毛利・安国寺も美濃からみれば遠国衆には違いないが、
九州勢に比べて国元にそれほど脅威となる存在がなく
「国郡之心さし有之」(俺の解釈では国元の情勢を気にする)に該当しないから外した。
長束・大谷は遠国衆にあたらないし、長宗我部・吉川は「慥成」(俺の解釈では信頼できる)に該当しないから外した。
三成は小西や島津とは同じ美濃口担当で開戦以来、行動を共にしているから、
この文は彼らの心の微妙な変化を感じ取っての記述だろうと判断した。
信頼出来る人ですらそんな状態だから他の相良・高橋・秋月らといった九州勢はなおさら、おかしな感じになっていたのだろう。
南宮山の諸隊は美濃に来て数日しか経っておらず、
ろくに接触もしていない三成が「地元の心持てるから大丈夫」なんて判断できたとは思えない。
別にどこでやっても構わんけど、永久に平行線だと思うぜ。
>>872 文脈まるで見てないからな、お前は
ここでは中国衆を各地の城に入れる話をしてる訳
前文の「何れの御番所にも、中國衆入可被置御分別、尤にて候」から続いてんだよ
それを無視して九州の話なんて微塵もしてないのに、
お前が“何の脈絡もなく唐突に”九州勢の微妙な変化とか言い出してるだけだってのw
>南宮山の諸隊は美濃に来て数日しか経っておらず、
>ろくに接触もしていない三成が「地元の心持てるから大丈夫」なんて判断できたとは思えない。
あのさ、ここの遠国衆は毛利勢だけを指してるのではないと書いたろ?
毛利勢を含めての遠国衆の話なんだよ
で、数日しか経ってない?そんな事言ったら、島津以外の殆どの諸将は数日しか経ってないのだが?
お前が国元が脅威ではないとか書いてるけど、国元が脅威だと望郷の念が強いのか?
下々の兵がそれを知ってるとする理由は?「〜だろう」としてるが、そう推察させるだけの根拠は?
お前は前からそう、全て何ら根拠のない思い込み、結論有りきで後から辻褄合わせようと理由付けしようとする
国元には脅威がないから遠国衆には当たらないなんて、今までの中で一番のトンデモ解釈だしな
遠国衆かどうかは距離的な問題なのにな
解釈が根本的に違うのは当然だ、バカバカしくて話にならんわ
>別にどこでやっても構わんけど、永久に平行線だと思うぜ。
いや、どこでやっても構わんなら、普通に該当スレあるのだから、最初からそこで反論すればよかったじゃん
他所の板の関係ないスレで顔真っ赤にして始めたのに・・・バカか?
936 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 08:08:46
いくら必死に自演しても過去レスはずっと残るよwww
937 :
日本@名無史さん:2009/03/17(火) 18:08:35
自演なんかしてませんが。
他の人がどう訳していようと俺と見解が違うというだけの話。
研究者の間でも史料解釈を巡る論争なんて珍しくもない。
続きは向こうで。
史料解釈の論争にもなってないけどな
そもそも読めてないアホが見解が違う解釈が違うと喚いても、説得力も糞もないけどねw
939 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 22:25:48
史実かあ
史実を無視して状況を考えたらいけないのか?
史実を無視したら、歴史学としてはその時点でアウト。
史実を無視したければ小説でどうぞ。
941 :
日本@名無史さん:2009/03/18(水) 23:57:41
西軍勝利なんて考えるバカは死んでね
942 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 00:13:46
学問もさることながら、歴史とはやはり「過ぎ去ったもの」だからだろう。
現代でも、いつまでも過去を振り返って、あの時こうしていればよかった、あの時こうだったらと
いつまでも「たられば」ばかり繰り返している奴にロクな奴はいない。
過去を振り返ることは大切だ。また過去の検証の手段としてIFを時には考えても良い。
しかしそれは今から先を見据えた場合に生きてくるので、過去を脳内で変えたって何も生まれて来ない。
徳川家康は、結構過去において苦労したり失敗したりが多い武将でもある。
しかし彼は、過去の失敗をよく検証して、それをその後に良く生かしている。
かつて家康は武田信玄来襲の際、浜松城に立てこもろうとしたが、信玄は無視して西に向かった。
家康はそうさせまいとして三方ヶ原に鶴翼の陣を布いたが、むしろ武田軍はそれを待っていたように襲いかかった。
それで惨敗。脱糞云々もこの時の話。
また小牧長久手の戦いでは、秀吉軍との戦闘では全勝したが、織田信雄に勝手に秀吉と和睦されてしまい、孤立した果てに
結局秀吉に臣従を誓わされた。これは見張りを付けるなど「裏切り」に備えていなかったからだ。
関ヶ原では、大垣城に立てこもった西軍を家康得意の野戦に持ち込むため、敢えて西に向かっている。
これはかつて三方ヶ原で家康自身が経験したケースを逆に利用していると言ってよい。
また東軍に寝返ると約束した小早川秀秋には、今回はきちんと「見張り」をつけている。
過去の過ぎ去ったケースでも、その後に活かす事が「歴史に学ぶ」意義ではないかと思うが。
愚にもつかん長文オナニーレス
944 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 08:29:55
いや悔しくてしかたがないんだろ
946 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 19:40:40
>>942 徳川家康個人が自分の経験から学んでいるという話でしょ。
経験から学ぶのと、歴史から学ぶのではちょっと違う。
歴史には、多くの想像が入り込む。
たとえば、「小早川に見張りをつけたこと」は事実かもしれない。
しかし、徳川家康が小牧長久手の経験をもとに行ったというのは、あなたの想像だ。家康本人の証言がまったくない。
このように、歴史を考えるとき、多くの想像が入り込む。また、想像だけがひとり歩きをすることがよくある。
鶴翼の陣、脱糞のエピソードなどが想像だけがひとり歩きをしている良い例だと考えられる。
「歴史を学ぶ」意義がないわけではないが、それは単純なことではない。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ
948 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 21:09:58
関ヶ原の戦いで東軍が勝ったのは結局のところ「運」によるものが大きかったと思うよ
小早川らの裏切り、毛利隊の不参加、大津城攻めによる西軍援軍の遅参等々
どれが欠けても東軍に勝利は無かった可能性が大きい
明治時代にメッケルが関ヶ原の布陣を見て西軍の勝利を確信したと言われるように
西軍が勝つ可能性も十分あった。
それだけどっちに転んでもおかしくなかった戦いだったんだよ
>>947 「歴史は勝者のもの」という言葉をご存知か?
950 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 21:20:49
>>948 賛成。山崎合戦の明智方のような絶望的状況ではない。
先に上洛を果たしたという見方をしたら、東軍の逆転勝利でもある。
またメッケルかw
952 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:15:27
>>946 人間の想像力を過小評価しているな。
それを言い出せば、我々は現代社会においてもどれだけの事実を知っているのか。
こんにち我々が入手し得る情報の大半は、誰かの推測や見通しが加わったものだ。
例えば統計情報という数値データでも、それは統計を取った人間の意識を無視できない。
それに本人の経験ですら、過去のものであれば「思い込み」がある。客観的事実を都合よく(或いはその逆)解釈している場合も多い。
歴史を学ぶことは単純なことではないことは理解しているが、想像力を過小評価もしていない。
問題は、客観的事実だけを考察しても余り意味がないことだ。現代史学はこの点が誤解され易い。
行動を起こす人間が、どのように「認識」するかが社会が動く大きな要素だ。
証言の有無だけで事実も認定できない。なぜなら、書状一つ書くのにも「虚実の駆け引き」がある。嘘も出まかせも含んで書かれている。
そして嘘もひとつの「事実」。推測も噂もひとつの「事実」だ。
社会を理解するには、そうした「大人の論理」も必要だ。これは時系列が過去だろうが現在だろうが未来だろうが同じ。
なぜなら社会を動かすのは大人だから。
想像や推測は事実ではないという単純な思考は、物理現象を考察する際に、摩擦力も空気抵抗も無視しても良いという子供が説く問題演習みたいな考えであって、そこから得られる結論は現実とはかけ離れている。
想像や推測は事実ではないという単純な思考は、物理現象を考察する際に、
摩擦力も空気抵抗も無視しても良いという子供が説く問題演習みたいな考えであって、
そこから得られる結論は現実とはかけ離れている。
↑馬鹿が無理すると意味不可解な事を言い出す好例だな、これは。
うんこ
955 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:39:03
>>946のものだが。
>>952のいっていることはよくわかる。
経験というものの危うさ。いや、経験というより、経験からの認識の危うさ。
そのことは、書きたかったが焦点がぼやけるため、あえて書かなかった。
また、歴史が客観的事実だけから構成されてはいないということも理解している。
先ほど、のべた通り、歴史には想像が含まれる。
文書には残されなかった事実もたくさんあり、想像で補完するほかないことも多い。
問題は、想像・推測を元にした歴史から教訓は得られるのか?ということ。
物理現象を考察することでたとえるなら、教訓(真理・法則)とは、摩擦力も空気抵抗も無視したところにあると考える。
教訓とは、ケースバイケースの事例すべてに共通するからこそ、教訓たりえる。
歴史は、現実のものであり、ケースバイケースである。また、歴史を考える人により、想像の方向性も異なる。(唯物史観など)
ゆえに、歴史から教訓を学ぶことは難しいことと考える。あなたと私の考えに遠い違いはないと思う。
わかりやすすぎるから、せめて串刺して文体替える事をお勧めする
957 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:43:53
関ヶ原の戦いで勝ったのは南軍でした。
958 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 00:47:34
>>956 要は、
>>952にある意味賛成しているんだよ。
歴史は、客観的事実だけじゃないと。
でも、いまいち信用なら無い想像を含んだ歴史から、教訓なんか得られないんじゃね?といってんの。
教訓を得るだけなら、想像のみのフィクションの方がむしろ優れているという意見。
はよ死ね
961 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:00:38
教訓というのは、その人がその後生きて行くための指標とするものだろうから
その人の価値観で考えればよい話で客観性とは一致しなくても良い。
史実を探究だけする作業もあってもよい。
ただ、そうでない歴史考察もあるわけでこのスレのスレタイがそういう要素を含んでいるのでその観点から書いていただけ。
ただし、結末として明確なもの(関ヶ原で勝ったのは東軍)を覆しても、ほとんどは余り意味がないが、あるとすれば肯定すべき結末をどこに置くかで変わってくるのではないか? ということだ。
例えば、江戸幕府の成立がその結末なら西軍勝利は全く肯定できない。
だが、現代社会の成立が結末だとして、それは江戸幕府の成立なしでも肯定できるのなら、現代に至る過程の中で西軍勝利はあり得たのではないか。
それはあり得ないという考えもある。その如何が、当時の歴史の蓋然性。
963 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:05:51
だから関ヶ原の勝利は南軍だと(ry
964 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:31:18
いや北軍だろう
965 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:34:41
>>961 わかった。教訓の話はもう終りにしよう。
その蓋然性なんだけど、前にも一回、言ってると思う。蓋然性を提示しろと。
いったい、何をすれば蓋然性を説明できるのか?正直、検討もつかない。
先に叩き台を作るべきだよ。言い出した人が。
966 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 01:53:06
自演乙
967 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 02:15:41
西軍が勝ったらどうなっていたかと夢見る
関ヶ原で痛い目をみた武将ヲタが悔しくて作った妄想スレ
そんな大げさな話をするスレじゃない
968 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 04:11:23
>>967 要はそういう妄想に対して否定圧力が働いているだけなので、それも大げさに受け止める必要はない。
>>965 蓋然性の探求は、歴史学の常なる目的なので、敢えてこのスレでやらなくても、逆に言えば歴史学の分野では常に行われていること。
敢えて蓋然性についてやるとして、簡単にまとめてしまうと、どんなマジな歴史論議でも、その過程を論じる際は、多少の仮定や憶測は入る。
それは、自然科学の場合でも「仮説」から検証に入るのと同じ。それは、検証の途中なら許される。ただ、結論がそのままではまずい。
そして歴史の場合、結論は見えている。「歴史的事実」だ。歴史学とは、それを説明する方法論。
では、「過程」とはどこまでが過程なのか? という問題がある。
それは結論をどこに置くかで決まる。過程とはそれまでの間だから。
それで、関ヶ原の戦いの直後を結論とすると、これは東軍勝利以外はみんな妄想だ。それ以降を論じないで行くのならだ。西軍勝利という歴史的事実は存在しない。
しかし、日本の歴史という経緯はそれだけしかあり得なかったのか?
例えば、関ヶ原で東軍が負けるという「可能性」はあった。しかしそれでも家康が最終的勝利者になったという可能性もある。
これは、「江戸幕府の成立」を歴史の蓋然性と捉えているからだ。
こういう見方もある。例えば、江戸幕府の成立さえ肯定できれば、その過程で成立していた豊臣政権はなくても良かったという見方。
歴史的事実とすれば、豊臣政権は存在した。
だが、あってもなくても、今に至る歴史には大して影響はなかったのなら、それは蓋然性ではない。「偶然」の産物で、今に至るいくつかの過程の一つにすぎない。
いや江戸幕府の成立に豊臣政権は必要だったというのなら、それはある種の蓋然性を豊臣政権はもっていたことになる。
そうすると、「結論」を例えば明治維新にしようか。そうすると、江戸幕府がなくても構わないという論理は、上記の豊臣政権と同レベルで論じることが出来るはずだ。
歴史の蓋然性を探るとは、人間が社会の中で進展していく中で必要なこととしてやるべきなのか、やってもやらなくてもいいことなのか、やらない方がいいことなのかを判断する材料の提示にある。
その問題提起自体は、その結論へと進むのであれば何でも構わない。当然妄想も含む。
969 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 04:59:12
>>968 問題提起はすでにされている。「もし関ヶ原で西軍が勝ったらどうなるか」だ。
しかし、あなたは、どこを「結論」とするのかさえ示してくれていない。
共通の「結論」を持たないかぎり、「過程」など論じられない。
とはいえ、話は一歩進んだ。どこを結論にする?
970 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 05:29:17
現代だろ
971 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 05:30:26
えええ。それじゃ広すぎないか?
972 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 05:35:43
簡単な話だよ
秀吉が天下を取ったのも家康が勝ったのも、みーんな偶然
たまたま
家康にウンがあった
やはり三方が原での脱糞が効果的だったなw
974 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 06:02:20
975 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 12:51:00
なるほど
三方が原の脱糞を教訓としてそれを関ヶ原のウンにつなげた訳か
いろいろ難しいことが書いてあったけどやっと理解できた♪
976 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 14:18:06
秀吉が憲法9条を発布してたら関ヶ原の戦いもなかったのに
977 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 15:46:06
憲法9条を発布するためにはどこかの属国にならなければいけません
978 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 17:17:44
いやそれは無意味w
「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使」を放棄すると言っても
諸大名のいくさは「国権の発動」に当たらない。
逆に言えば、現代の日本でも内戦は憲法9条違反ではない・・・・・・
979 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 20:13:36
>>978 やばいな・・・・・・・
今日本に内乱が起きたら反乱軍は「国権の発動」ではないが、
鎮圧・平定すべき政府軍は「国権の発動」になってしまう。
これじゃ反乱起こし放題???
980 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 20:54:39
釣りなのか春休みなのか?
破防法と内乱罪
981 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 22:48:29
だから反乱が無罪ということはない
でも国権の発動たる戦争、武力による威嚇・行使が出来ないんじゃ
平定できないやん
そもそも自衛隊の存在自体違憲とするなら治安出動だって違憲。
警察を圧倒するような内乱勢力が現れたらそれに対抗すること自体が違憲だよ
>>980 が正解
それ以上続けたければ他へ行け。
984 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 10:18:35
もうあと16レスしか残っていないのにここを死守してどうするんだ(泳)
関ヶ原のスレで破防法とか持ち出すな
そういう話はよそでやれタコ
986 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 14:25:43
>>976が根源だろ
最後の妄想で抵抗したみたいだな
よそでやれといいたいのは、こんな妄想スレに対してだ
まともな議論にならないのなら関ヶ原妄想スレこそよそに移れや
987 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 18:44:14
うめ
うめえ
989 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 15:54:29
もう西軍厨房は全滅ってことでおk?
990 :
日本@名無史さん:2009/03/22(日) 18:50:19
また東軍中の勝利宣言が出るの?
991 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 08:15:02
梅
ume
993 :
日本@名無史さん:
ウメ