【江上】騎馬民族説は今。。。vol.10【波夫】

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
☆前スレ
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.9【波夫】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1172163435/


騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ     江上波夫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001478/qid=1068485710/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-2208796-7626727
騎馬民族は来た!?来ない?!               江上波夫・佐原真
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4096260665/249-2208796-7626727

騎馬民族は日本を征服したか
http://inoues.net/mystery/kibaminzoku.html
辰王の系譜、天皇家の遠祖     −騎馬民族は来なかったか?
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku1.htm
第208回 新春講演会「騎馬民族は来なかった」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku208.htm
第209回 特別講演会 「古代日本の馬文化   『江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を考える』 」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku209.htm
是か否か「騎馬民族征服王朝説」
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub19.html
「日本」国の起源説について     騎馬民族征服説説 / 「日本」と名乗った経緯 / 天皇と名乗るまでの歴史
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/kigen/index.html
2日本@名無史さん:2007/06/02(土) 01:20:54
3日本@名無史さん:2007/06/02(土) 01:21:54
4日本@名無史さん:2007/06/02(土) 10:24:55
あれ?また立てたんだ。
頭のおかしい奴らをいじるのは楽しいけどちょっとな・・
5日本@名無史さん:2007/06/02(土) 17:12:01
一応、10スレ目だと
ちょうどきりがいいんで。

このスレで数年持たすつもりで
まったり大事に使って欲しいですね。

つまらない論争はやらないで、
基本的にスレが落ちない程度にすませてください。

今城塚古墳の発掘とかで、
将来なんか新しい考古学的発見とか起きるかも知れませんし、
その時にちゃんとスレがあるようにしてもらいたいです。
6日本@名無史さん:2007/06/04(月) 19:41:50
この前、本屋でNHK出版の今城塚古墳発掘の本を読んだ。
うろ覚えなんで何だが、
この時代の武装は、
庇付冑と桂甲という、倭スタイルと北方民族系スタイルの折衷だったそうだ。
7日本@名無史さん:2007/06/04(月) 22:02:44
チベットの鎧にも似ている
8日本@名無史さん:2007/06/09(土) 16:10:37
■朝鮮民族の故郷はシベリア・ヤクーツク地方

 朝鮮人は、アムール河流域に住んでいるツングース系諸民族と同種のようである。
アムール河流域の民族には、熊や虎を「山の主」「森の主」として崇拝する信仰があるらしい。
どうやら、朝鮮民族(ワイ族)は、アムール河の以北のシベリア地方から南下してきたようだ。
 朝鮮人の先祖は、狩猟民族のワイ族であるが、このワイ族はロシア領=シベリア・ヤクーツク地方に
住んでいるヤクート族やエベンキ族、エベン族と同種の民族である。
 ワイ族は紀元前の時代、シベリア地方でトナカイやカモシカ、猪などの狩猟をしながら生活していたらしいが、
獲物であるカモシカや猪を求めて南下していき、やがて古代カラ半島の東北部(現在の江原道地方)に
辿りついたようである。南下のルートは下記のような流れであろう。

 シベリア=ヤクーツク地方→ アムール河中流域→ アムール河下流域→ カラ半島東北部

【ヤクーツク地方】
http://www.khabarovsk.ru.emb-japan.go.jp/j/shinai/ykt.htm

【アムール河】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%B7%9D

 朝鮮・韓国人は、「自分たちの先祖は満州地方からやって来た高句麗人(フヨ族)だ」と、
主張しているが、これは誤りなのである。
 朝鮮・韓国人とフヨ族はまったく無関係であり、別種である。朝鮮民族はシベリアから南下してきた
狩猟民族=ワイ族の子孫なのである。
 朝鮮人の土着文化がヤクート族やエベンキ族の文化に似ているのは、そのためなのだ。

★朝鮮民族とエベンキ族
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1553866
9日本@名無史さん:2007/06/09(土) 17:06:41
確かに、シベリアのエベンキやヤクート族を初めて見たとき、
容姿は日本人に近いけど、目が切れ長で
ロシアにもこんな純アジア系の顔つきの民族がいるんだと驚いた記憶があるけど、
そう言われてみると、
日本人よりもっと朝鮮人に近い顔つきだな。言われて気付いた。
ただ最近の朝鮮人の顔つきは昔と変わってきて、
目が大きくなってきてるような気がする
10白馬青牛:2007/06/10(日) 01:25:59
>>9
シベリアのエヴェンキやヤクート(サハ)は、バイカル型の北アジア系
北ツングース人種で、満洲族等の南ツングースや朝鮮・日本と異なる。
朝鮮人の容貌も南北で違うけど、目が大きくなったたァ知らん。
南ツングースの満洲族は目が大きい。
鈴木武樹氏が「ぼくが不思議に思うのは、南朝鮮の人たちよりも、
北朝鮮の人たちの方が日本人に似てますね。」
それに答え江上氏も「日本人は一般に南朝鮮の人ほど顔が平たくないし、
またあれほど短頭ではないね。満洲族、それから蒙古族、あのあたりの
東北アジアの民族、中央アジアのトルコ系のウィグル族など日本人と
区別のつかない顔の人が多い。」と云われる。
容貌と遺伝子は別であろうが、地域的癖があるんじゃないか。
11YAP?:2007/06/10(日) 01:28:15
Y染色体DNAハプロタイプでは、ヤクート族(言語学的には、チュルク系だ)は、
ほとんどハプログループ(面倒くさいので以下Hgと省略)「N」だ。
 満州・ツングース語派のエヴェンキ族は、モンゴル語派のモンゴル(外蒙古)族(ハルハ)
弥ブリヤート族同様、Hg「C」が過半数を占める。

 韓国朝鮮人はHg「O2b」が多いが、これは、日本人でも同様だ。
日本人だ、別に「縄文系」と推定されるHg「D」(D2)が、同程度存在する。
「O2b」は祖型の「O2b*」と、それから分岐した「O2b1」がふくまれるが、
では、O2b朝鮮人では、「O2b*」が、「O2b1」の2倍あるのに対し、
日本人では、逆に「O2b1」が「O2b*」の倍あるそうだ。(中堀豊氏)

地出に言えば、「N」はウラツ語族にも多い。
12YAP?:2007/06/10(日) 12:33:19
済まん。
上のNo10だが、誤変換やら消し忘れが多く少し判りにくくなってしまった。
パソコンが外れで、無線でキーボードを少し早く打つと、「字」(アルファベット)を、
ちゃんと拾ってくれないのだ。子音や母音が良く脱落するが、子音の脱落の場合は、日本語に
変換されるので、見落としてしまう(母音が脱落すれば子音のみアルファベットなのですぐわかるが)。
まあ、要するに、Hg「O2b」は、北部中国、それも渤海湾沿岸部を含む地域で起源下か、
あるいは、繁殖し、そこから半島・列島へ南下したと言うことだろう。
満州あたりの満州族のO2b分布がもう一つわからないので、O2bの拡散の中心部を絞りきれないのだが、
列島では、D2が縄文人、O2bが倭人(弥生人)、O2b集団の内、列島内でシェアの高い「O2b1」が
天孫族〜天津神の子孫集団をそれぞれ代表する指標だろう。
「O3」は、秦氏を含む?漢族系の往来帰化人集団と弥生時代に江南より灌漑水田農耕を持ち込んだ
集団を含むのだろう。あと、日本人のY染色体Hgで10%程度を占める[C」につては
、[C1]と[C3」で前者はインドネシア、後者は沿海州やモンゴルで頻度が高いので、希釈が難しいが、
C1は、旧石器時代人、C3は、或いは北方からの南下倭人集団に参加していたのかもしれない。
 最近では、チベットのD2集団や、モンゴルのC3集団は日本から移住した可能性も示唆されているが。
13また湧いたの?w:2007/06/10(日) 13:07:44
>>10

>朝鮮人の容貌も南北で違うけど、目が大きくなったたァ知らん。
>南ツングースの満洲族は目が大きい。

最近は世界中で感覚器官の拡大が起きてるな。

>鈴木武樹氏が「ぼくが不思議に思うのは、南朝鮮の人たちよりも、
 北朝鮮の人たちの方が日本人に似てますね。」

オ偉い専制がこういってました、だから本当です。か?
少しは自分の考えを持ったらどうだ?

>容貌と遺伝子は別であろうが、地域的癖があるんじゃないか。

お前前頭の形がナントカってほざいて騎馬民族征服説をこじつけ
ようとしてなかったかw
14日本@名無史さん:2007/06/10(日) 17:44:17
南ツングースって何ですか?

勝手に造語しないでください(笑
人種を捏造しないでください。


15日本@名無史さん:2007/06/10(日) 18:46:34
縄文人と混成して原型でもあるまいに、日本人が
エヴェンキやヤクートと異なるのは当たり前だろうが。

頭指数だって数百年もあれば変わってしまう。

ただ日本人の顔から推測するに、糸目が多い事からして
弥生期の渡来人は眼裂が非常に狭い人類集団だった事が伺える。

満州人やモンゴル人ではまだまだ眼裂が広い。

おそらくはシベリアのかなり北方が起源。

シベリア東部〜東北部あたりの人類集団であろう。
16日本@名無史さん:2007/06/11(月) 16:36:01
ゲルマン人の頭蓋骨には長いものから丸いものまで色々ある。

つまり、頭蓋骨の形状には個人差があるのであり、
頭蓋骨の形で、「この人、縄文人」「あの人、弥生人」というのは
愚か者の考え方。

17白馬青牛:2007/06/12(火) 23:17:06
>>13
現在だけじゃのうて、マルチン=マルチェも満洲族の容貌を
「顔は整って、色白く、鼻も支那人ほど低くなく目も小さくない。」と。
偉い先生以前に、あんたの知識を広げるんが先じゃのう。
ほいじゃないと自分の意見を構築出来ん妄言になるよ。
頭型だけじゃのうて顔型や遺伝子等あくまで全体的にどうかじゃ。
>>14
エヴェンキは北方ツングース、満洲族・シボ族・アムールナナイ族等は
南ツングースと呼ばれるんは人種論より、ツングース語派の分類上、
文化的要素から。
>>15-16
頭指数は、長期間をかけて環境変化もあろうが、短期間で急激に変化する
例を知らん。上顔指数も含めて。渡来系の土井ヶ浜弥生人等は高顔・狭顔で
高顔・広顔のシベリア系と違う集団であろう。狭顔集団となると、
満洲〜モンゴル南部か華北・華中〜チベット・中央アジア集団の可能性が
強いと思うが。ゲルマンは中長頭が多いが、より短頭的なダール型の
ずんぐりした体質は中・長頭よりも英国・ドイツと南方へ行くほど
増えるんじゃないか。
混血以外短期間の形質変化の根拠もないのに、形質人類学を否定しても
意味がないよ。事物の考察は総合的に判断すべし。
18日本@名無史さん:2007/06/13(水) 00:44:35
>>17
もうお前のにはみんな飽きてるから、釣りやめたら?
>現在だけじゃのうて、マルチン=マルチェも満洲族の容貌を
 「顔は整って、色白く、鼻も支那人ほど低くなく目も小さくない。」
で?小さくない=大きいとはならないぞ?
俺が言ってるのは世界規模での感覚器官の開放。
>頭型だけじゃのうて顔型や遺伝子等あくまで全体的にどうかじゃ。
そういや、前遺伝子の話してたっけ。
そんでお前が急に頭の形持ち出してきたんだよなw
>頭指数は、長期間をかけて環境変化もあろうが、短期間で急激に変化する
 例を知らん。
へえ、前にも言ったけど、お前の説からすると、古墳時代の逆行は、
縄文人の進出のためなんだw
>高顔・広顔のシベリア系と違う集団であろう。
アレレ?w
高句麗って高顔・広顔だったっけ?w
お前どんだけ自分の都合の良い情報しか見ないんだよw
>混血以外短期間の形質変化の根拠もないのに、
混血しか思いつかないんだもんね、お前は。
どうしても祖国起源にしたいの?ww
>事物の考察は総合的に判断すべし。
つ(鏡)
お前の総合的な判断ってのは、形質人類学だけで判断するだけかwwww
ギャハハハハ〜〜〜〜ww

19白馬青牛:2007/06/13(水) 01:15:07
>>18
釣りたァ何なら。現在の世界規模での感覚器官の開放について具体的例を
云えーや。
縄文時代の逆行?縄文人は広顔であるが低顔で高顔じゃあるまいし。
高句麗の人骨の調査例は定かでないし、知らんよ。
高句麗の人骨データでも詳しゅう解るんか?内モンゴルの熱河地域の
夏家店上層文化人の人骨は華北型に属するが、外モンゴルのイノンーウラや
アルタイ地方の人骨は北アジア型と違いがあろうに。ほいで混血以外の
短期間の形質変化の例とは?
形質だけじゃのうて、HLAやDNAも嫌韓厨には残念じゃが、
本土日本人と韓国人は近い関係じゃ。
20日本@名無史さん:2007/06/13(水) 02:02:25
>>19 容貌から見ると日本人は朝鮮人より北方シナ人の方が似ていると
感じる。

 モンゴル力士を見ていると、日本人に近いのとシナ人に近いのが居るが
典型的な朝鮮顔のモンゴル人はいないと思う。顔まで太っているので
気がつかないだけか。

 しかし、安倍首相や小泉前首相のような容貌は日本独特ではないか?
21日本@名無史さん:2007/06/13(水) 16:58:27
>>19

>現在の世界規模での感覚器官の開放について具体的例を
云えーや。


ま、まずは日本人の近年の顔の変化を見ろや。
http://www.sankei.co.jp/enak/2006/nov/kiji/06lifenose.html

>縄文時代の逆行?縄文人は広顔であるが低顔で高顔じゃあるまいし。

ま、まずは
http://www.kahaku.go.jp/special/past/kao-ten/kao/mirai/mirai-f.html

古墳時代には縄文人的な「体型」の要素が高まるんだよな?
お前は前「それは一部の・・」「拡散が・・」とかわめいてたけど
結局あやふやな答えだけしか言えなかったよな。
さあて、どう説明する?w

>形質だけじゃのうて、HLAやDNAも嫌韓厨には残念じゃが、
 本土日本人と韓国人は近い関係じゃ。

お前ってさあ、本当に都合の良い情報しか信じないよね。
さすが劣等朝鮮人www
>>11>>12に対する具体的反論は?ww
22日本@名無史さん:2007/06/13(水) 19:59:32
23日本@名無史さん:2007/06/13(水) 20:04:02
>>5
>このスレで数年持たすつもりで
白馬の耳に念仏
24日本@名無史さん:2007/06/13(水) 20:41:37
消えたと思うと、忘れた頃に現れてはまたバカを晒す白馬青牛
25日本@名無史さん:2007/06/13(水) 20:59:41
>>17
1910年の日本列島のほとんどの地域は中頭であったが、
1960年頃には日本列島のほとんどの地域が既に短頭になっていたという
有名な日本人種の短頭化現象も知りませんか。

半世紀のうちに日本人種は中頭人種から短頭人種へ、別人種に変貌を
遂げてしまったのですよ。

ハワイ移民の日系2世は日本人種としての容貌までは変わらないが、
混血無しで欧米人並みの長身になり鼻骨まで高くなったという報告もあります。

戦後、満州に移民した長身の華北人の子供たちは混血も無く、土着の
満州人の子供たちと同じ様に小柄になってしまったという報告もあります。

骨は想像以上に変わるようですよ。

ただ骨屋の調査報告はサンプル地域がいつも偏っていてほとんど参考に
なりません。

ただ華北の狭い範囲の骨だけを日本の渡来人骨と比較し、ただひたすら
一致した一致したとアホのカラスのように鳴いているだけで、その一致が
他の地域と比較してどう違うのかがいつも無いのです。

要は華南や満州や満州や沿海州やアムールやモンゴルやアルタイやブリアートや
シベリア東部やシベリア中部など、広域での調査サンプルを比較して
遠近距離を割り出したデータではないのです。

あてにならない骨屋の報告の中で唯一、埴原のQモードを使った
広域での比較調査データだけは信ずるに値するものではありました。

そのデータの中では日本の渡来人骨に一番近いのはウルチやオロチョン
など、アムールあたりのツンギーデでしたよ。
26白馬青牛:2007/06/13(水) 22:03:59
>>21
下記のサイト、馬場氏による「縄文顔と弥生顔」は見たんか?
http://www.kahaku.go.jp/special/past/kao-ten/kao/jomon/jomon-f.html
なめらかな顔の北方高顔渡来顔と、四角いえらの張った南方(遺伝子は
北方的要素が強いであろうが形質的に南方顔)低顔縄文顔。
図2の解説に、北方顔が人相の良い顔で被支配者で虐げられた縄文顔は
鬼の顔にさせられたと。
古墳時代は、渡来系と縄文系の混血が見られる時期じゃったんど。
じゃけえ渡来形質が拡散したんじゃ。渡来系弥生人は一部地域に
限定されとった集団云うこと。ほいで現代日本人は縄文土着系の直系じゃ
のうて概ね渡来系の子孫じゃろう。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/132.html
「頭骨の形態小変異22項目に基つく東アジア、北アメリカ、オセアニア
集団の類縁関係」に、土井ヶ浜・古墳・中世・近世・現代まで類似するが、
縄文・アイヌとは遠い関係にあろう。両者は同系統の集団じゃないわ。
鼻指数の変化だけで結論を出しても都合のええ妄想ななるど。
耳垢や歯等様々な要素から総合的に判断せにゃあのう。
YAPの単一標識で判断しても同じことよのう。
27白馬青牛:2007/06/13(水) 22:54:52
>>20
ほうかのう、容貌から見ると華北人より韓国人の方が日本人に似とる
思うよ。モンゴル人・満洲人・朝鮮人・日本人は華北人より瞼が腫れ
ぼったい処が共通するんじゃないか。モンゴル人でも外モンゴルと
内モンゴルやホルチン、ホロンバイル地方と容貌に多少違いが
あると思うが。日本でも地域によって多少容貌が違うので、小泉氏や
安倍氏が日本顔が解らんが、福田赳夫氏などは韓国人顔じゃったのう。
>>25
まず尋ねるが中頭の頭示数の基準は?小浜基次氏の頭長幅示数分布
(1966)では近畿を中心に、瀬戸内、東海、関東南部では短頭。
東北は長頭になっとる。ハワイ日系移民の二世は一世および一世の
故郷である広島・山口の人達に比べ高身長、短頭である(池田次郎氏)
土着の満洲人と同じように小柄になった云うデータは知らんよ。
ぜひ、提示して貰いたい。
埴原和郎氏は北アジアの新モンゴロイド、南アジアの古モンゴロイドと
大雑把な比較じゃないんか。ウルチは北海道に移住し蝦夷を圧迫した
オホーツク文化人に近いと山口敏氏は云われたそうじゃが。
オロチはアムールじゃが、オロチョンはエヴェンキに近い、
主に満洲興安嶺北部に住む集団なんじゃが。
28日本@名無史さん:2007/06/13(水) 23:11:39
>>26

・・・・・
>四角いえらの張った南方(遺伝子は
 北方的要素が強いであろうが形質的に南方顔)低顔縄文顔。

ほう、韓国人は縄文系だったのか。
「形質人類学」ってのは、随分と適当なものなんだな。

>古墳時代は、渡来系と縄文系の混血が見られる時期じゃったんど。
 じゃけえ渡来形質が拡散したんじゃ。
>渡来系弥生人は一部地域に限定されとった集団云うこと。

何度も言ったけど、お前の言い草からすると
弥 生 人 は 縄 文 人 だ っ た ん だ ね w
まあ弥生時代に混血が進んだことや縄文と弥生が共存していたことが
「弥生時代」の各地の遺跡から見つかるんだけどな。
残念w

>「頭骨の形態小変異22項目に基つく東アジア、北アメリカ・・

ま た そ れ か w
もう飽きたよ。それ。最終更新日が5年前だぞ?
遺伝的・社会的・考古学的資料から総合的に判断せにゃ。
頭蓋骨の単一標識で判断しても同じことよのうw

29日本@名無史さん:2007/06/13(水) 23:13:46
>>27

>ほうかのう、容貌から見ると華北人より韓国人の方が日本人に似とる
 思うよ。

お前の周りは在日ばっかだからねw
韓国人と日本人とは全く異なるよw
もうちょっと広い世界見ようなw

頭蓋骨だの頭指数だのの前に

>>11 と >>12 へ の 答 え は ま だ か ?

逃げるなよw
30日本@名無史さん:2007/06/13(水) 23:42:07
郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史 其の弐
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1144579367/
31白馬青牛:2007/06/14(木) 01:25:43
>>28-29
韓国人がさほどエラが張っとるか?華南人等の南方系や縄文系の四角顔の
方がニダー顔じゃに。弥生人にゃあ渡来系と在来系の違いがあるんも
知らんのか。縄文と弥生が共存しとった弥生時代の各地の遺跡を
挙げえや。単一標識?耳垢や歯も含め単一になるんかいのう。
YAP?氏に頼るしかないんか。つまらんのう。
YAP?氏が形質人類学的考察を軽視したんに便乗しとるんじゃろう。
YAP?氏がわしに対し直接反論して来るんなら相手するが、
他人任せのワレの逃げ口上にゃあ、あきれるわい。
32日本@名無史さん:2007/06/14(木) 02:15:05
>>31

・・・・・
>韓国人がさほどエラが張っとるか?華南人等の南方系や縄文系の四角顔の
 方がニダー顔じゃに。

前々から感じてた違和感の正体がようやっとわかった。
お前は「弥生人は高顔・・」「縄文人は広顔・・」とか言ってたが
全部お前の主観だったんだな?ようやく理解できたわ。

>弥生人にゃあ渡来系と在来系の違いがあるんも知らんのか。

前俺がそう言ったら
「自然環境での変化で弥生人ができたわけがない」って言ってたな?
考えを改めたのか?ん?

>。縄文と弥生が共存しとった弥生時代の各地の遺跡を

http://reikoyamamoto.blogzine.jp/ynot/2005/07/_vs__ae0e.html
縄文の居徳は土器や農耕に関して田村の影響を受けたようだが、マツリなど
精神的な部分ではかなり「頑固」に縄文流に固執した形跡が見られるという。
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n734.htm
http://www.geocities.jp/tyuou59/nakazatoiseki.htm
お前ってさあ、エセ形質人類学しか知らないんだね。
勉強不足だよ。

>他人任せのワレの逃げ口上にゃあ、あきれるわい。

言い訳はわかったから反論してみろよ。
「形質人類学」を駆使してな。できるんだろ?
形質人類学と遺伝学が食い違うことってあるのか?w
33日本@名無史さん:2007/06/14(木) 21:11:45
エラが朝鮮人の人種的特徴だとデムパを吹聴してまわっている知恵遅れは
在日台湾人ですよ。

エラはむしろ中国人の人種的特徴で有名なのですよ。

朝鮮人の主な人種的特徴は絶壁頭と突出した頬骨。


>>31
そうそう、1960年以降でも東北以北は中頭だった事を
言い忘れていましたよ。

かなり有名な調査結果ですから、ちょっと古い平凡社の世界大百科事典
などで「日本人」で索引していただければ載っていると思います。

満州移民の華北人の子供が土着の満洲人と同じように小柄になってしまった
というのも「中国人」で索引してみて下さい。

それと、仰るとおりオロチョンは私の間違い。オロチでした。
オロチが正しい。

骨だけで系統を探るのは大掛かりな広域での何十もの何百もの地域サンプル
での比較調査をしない限り無理だというのが私の結論です。

それと山口敏は例の華中の数箇所の骨だけで弥生人骨と一致したと
吹聴して国民を欺いたA級戦犯の一人なので私は大嫌いですよ。
34白馬青牛:2007/06/14(木) 22:54:18
>>32
弥生・古墳期の渡来系が高顔。在来縄文系が低顔云うたんじゃが。
あんたが挙げたサイトに高顔率とか、渡来系と縄文系の混血を示すもんが
出とらんど。自然環境の変化になっとらんじゃないか。
まあ、渡来系と縄文系が仲良く暮らしたじゃの、根拠ものう共存説を
強調するサイトじゃが、軍事的・経済的優位にあった集団は、
劣位にあった集団を奴隷化する訳じゃし、共存云う甘い関係とするんも
ユートピ論じゃのう。近世の新大陸のヨーロッパ系と
ネイティブ・アメリカン原住民の関係等実例を考慮せん夢物語が
日本の学者の認識じゃろう。じゃけえ世界史の例、類型を提示せず
日本的鎖国史観のアウタルキーで独善解釈する見本じゃのう。
ほいで、形質人類学じゃあ縄文人が古モンゴロイドとして南方渡来か
北方渡来か判断出来んし、遺伝学じゃあ渡来時期の年代設定が出来ん。
お互いに補足して総合的に考察する方が望ましい。
35白馬青牛:2007/06/15(金) 00:01:42
>>33
確か小浜氏は80、9からを中頭とされる。満洲移民の小柄になった
云々は「中国人」だけでは曖昧で検索しても、なかなか出てこんですよ。
地域サンプルが欠如しとるんは、その通りで類似人骨が出たら、
全体を無視して結び付ける傾向にあるでしょう。華中からアムールまで
新モンゴロイド特徴の人骨が出たに過ぎません。ただ渡来系弥生人の
高顔狭顔系統は、山東〜チベットまで分布してますし、更に北方の
高顔広顔系と多少違うと思います。ただし弥生期もポリツエ文化等、
アムール文化が日本へ流入したことは否定出来ません。
漁撈文化のみ考えると家畜飼育文化の強い満州よりも、アムール地方の
漁撈中心文化の方が列島に受け継がれとると思います。
36日本@名無史さん:2007/06/15(金) 00:33:49
>>34

>あんたが挙げたサイトに高顔率とか、渡来系と縄文系の混血を示すもんが
 出とらんど。
>渡来系と縄文系の混血を示すもんが

「形質人類学」のホムペじゃないんでね。
俺は「考古学的」な見地から探してきたんだよ。
てか、弥生系遺跡に縄文系の遺物があるなら、何らかの平和的交渉
を普通は考えるだろ。どうして征服だの侵略だのに置き換えるのかね。

>渡来系と縄文系が仲良く暮らしたじゃの、根拠ものう共存説を
 強調するサイトじゃが、

じゃあ反証を探してきてもらおうかね?「根拠がない」んだろう?
「渡来人」が「縄文人」を「経済的・軍事的」に征服したという証拠をな。

>、軍事的・経済的優位にあった集団は劣位にあった集団を奴隷化する訳じゃ

妄想を事実と勘違いするアフォのまんまだな・・・

軍事・・新天地を求めて日本に来た渡来人が、どうして縄文人を征服
    する必要があるのか?
    彼らの求めるものは稲作をするに適した場所であり、縄文人
    の狩猟場でも居住地でもない。軍事的に征服したとなると、なぜ流血の後が無いのか?
    何故弥生文化は縄文文化を「色濃く」受け継いでいるのか?
    何故縄文系の人骨が「弥生系」の「墓」から出土するのか?
    一つでも「縄文人が征服された証拠」とやらを出してみろ
経済・・・中国のように貨幣経済の発達した社会なら良いが、朝鮮半島
     では貨幣経済が発達していたのか?楽浪郡等での貨幣が、物々交換を主とする縄文人に通用したか?
37日本@名無史さん:2007/06/15(金) 00:38:10
>>34

>近世の新大陸のヨーロッパ系と
 ネイティブ・アメリカン原住民の関係等実例を考慮せん夢物語が

ほうかほうか、渡来人は「近代ヨーロッパ」のように資本が発達してて、
その資本の拡大のために日本に来たのかw
当時の先進国である漢だってそんな事できないぞwww

>形質人類学じゃあ縄文人が古モンゴロイドとして南方渡来か
北方渡来か判断出来んし、遺伝学じゃあ渡来時期の年代設定が出来ん。
お互いに補足して総合的に考察する方が望ましい。

渡来の話なのになんで北方系・南方系の話になるんだ?w
今は前1000・400〜400までの話をしてるんだろ?w
てか、早く>>11>>12に答えろよw

お 得 意 の 形 質 人 類 学 で な w
38白馬青牛:2007/06/15(金) 23:43:47
>>36-37
弥生系遺跡に縄文系の遺物があって、それが何で平和交渉に結びつくんか。
高句麗が積石塚から平壌遷都以降、盛土塚が増えるんは平和共存で
楽浪郡を侵略・征服したんはネットウヨクの好きな用語「証拠がない」
になるんか?馬鹿々しい。平和共存と普通に考えるんはワレの主観的
妄想に過ぎんのに。軍事的たァ奴隷にすりゃあええことじゃし、
日本は中世まで物々交換じゃったんに、貨幣流通のみで経済尺度を
測ったり、戯言云うのう。
結局、「渡来系と土着民の商品売買で贈物の交換が行われ、
価値の高いものを与えた方が優位に立つ。土着民は新参者の連中と比べ、
自分達が後進的であることを思い知らされ、「相対的貧困化」を
経験する。世界各地において白人と原住民が接触した場合発生する
土着主義運動は、だいたいこの「相対的貧困化」が心理的なモチベーション
になっている。」云うことじゃ。逆に渡来した側が軍事的・経済的背景も
のうて、少数で漂流した場合はバタン島漂流記になるでえ。
http://www.tokoname.or.jp/batan/batanono.htm
「すべてのものを略奪され、奴隷としてこき使われる。年寄りの2人は
働きが悪いので殺され、」云々と悲惨な事になるど。まさか日本に限って
のみ縄文人は新参者を暖かく受け入れた云う夢物語を「信仰」しとるんか?
39日本@名無史さん:2007/06/16(土) 00:33:10
>>38
そこまで言うなら聞きたい。
被差別民は縄文系か?
40:2007/06/16(土) 00:37:49
>>38

>弥生系遺跡に縄文系の遺物があって、それが何で平和交渉に結びつくんか。
>高句麗が積石塚から平壌遷都以降、盛土塚が増えるんは

はいダウト。
弥生系遺跡の内部の縄文系遺物は、弥生系遺物と同時代のものです。
しかも弥生系土器はその影響を受けています。
そして縄文人系人骨もまた、そこから出てきます。
どうしたら征服になるのでしょう?もう少しお勉強しましょう。
http://www.geocities.jp/hatm3jp/003.html

>軍事的たァ奴隷にすりゃあええことじゃし、日本は中世まで物々交換じゃ
 ったんに、

はい、お前の妄想を人に押し付けないでね。
奴隷化した理由は?お前がそう願っても、相応の理由と根拠がないと
事実とは認められないよ?
そして、中世までって言った?君は鎌倉時代の貨幣経済の発展を知らないのかい?
歴史をもうちょっとお勉強しましょう。
41日本@名無史さん:2007/06/16(土) 00:42:18
>>38
一生、そんな事を喚いて氏んで池って感じだな。
あなたがそう言おうと誰も納得しないし何も変わらない。
42:2007/06/16(土) 00:47:09
まず、そのリンク先だが、
>15人の船員は土人に船を壊され、すべてのものを略奪され

これじゃあ弥生系が縄文系を征服なんてできるわけないわなあw
着いた途端に皆殺しにされると言うならなw

>世界各地において白人と原住民が接触した場合発生する

白人が世界に進出した理由を述べよ。

>「相対的貧困化」

ポートピープルとして日本にやってきた渡来人が、縄文人が作成できない
それでいて「縄文人に価値の高い品々」を製作できたってことだよな?
金属器は狩りに必要ないし、縄文人は生活必需品を製作できるし、
宝器・財物は貨幣経済に発達してない縄文人には不必要だし・・・
具体的になんだ?それは?
ていうか

グ ダ グ ダ 言 い 訳 ほ ざ い て な い で
縄 文 人 が 征 服 さ れ た と い う 根 拠 を 出 せ

どんな論文でも、その根拠・証拠は必要だぞ?
それらがあるから、他人を納得させられるんだぞ?
43:2007/06/16(土) 00:48:08
まあお前のような劣等朝鮮人は、妄想しかしないから証拠も根拠も出せんわな。

一生妄想ほざいてろ
44白馬青牛:2007/06/16(土) 01:53:09
>>39
被差別民は縄文系も考慮すべきは当然として、後に渡来した集団も、
傀儡師等は、禾尺・楊水尺等朝鮮で賤視された後の白丁と呼ばれた集団と
関連するじゃろう。
>>40
やっぱし、火病起こしゃあがったか。
縄文系人骨が出てくる云うて土井ヶ浜遺跡でどの程度出てきたんか?
ほいで縄文系が新参者を暖かく受け入れた云う、ネットウヨク用語の
「証拠」は見つかったんか?
鎌倉時代の貨幣経済の浸透?その辺を詳しく述べて貰いたい。
>>41
誰も納得しないと、他者をあてにしょうるようじゃ、負け犬じゃのう。
>>42
渡来系が形質からも遺伝子からも種を残しとるんは、それだけの武力と
文化・経済的優位にあった云うことじゃ。日本列島移住の渡来系が
漂流ボートピープルじゃのうて、まとまった集団じゃったことを意味する。
ほいで、青銅器・鉄器も無視かいのう。どんな論文でも文献・出土品から
考察するんは個人の主観的見解で解釈論じゃが。じゃけえ、多様的考察から
全体論を構築するんが学問なんでえ。
>>43
民族間に劣等云うんも主観的解釈で、民族の優劣もネットウヨクのナチス
的影響か?そもそも歴史学における証拠とは何か?平和共存の類型も根拠も
出せんで、日本だけ別と鎖国的に引きこもるおどれら夜郎自大の
妄想にゃあ、わしゃあ笑いが止まらんよ。次回の妄想も期待したいが、
そうすりゃあ、このスレも来年まで持たんけえ、困ったもんじゃ。
45日本@名無史さん:2007/06/16(土) 09:08:44
>>44
ここにいるほとんどの人たちが、
青銅や鉄を持って渡って来た人達の末裔なのだろうけど、
じゃご先祖様が渡って来た時期に、
矢や刀で惨殺されたような先住民の人骨がどれほど出土してるのですか?

倭国大乱の時期には見られますけどね。
46:2007/06/16(土) 12:58:17
>縄文系人骨が出てくる云うて土井ヶ浜遺跡でどの程度出てきたんか?

なんで渡来人の人骨が多い「土井ヶ浜」に特定するんだ?
逃げるなよw

>ほいで縄文系が新参者を暖かく受け入れた云う、

証拠?縄文系が新参者を温かく受け入れなかったら、そこには
争いの跡があるはずだ。それが無い=共存と考えられるだろ?普通。
最も、お前の示したバダン島のようにかたっぱしからやられたら、征服
なんてできっこないけどなww

>鎌倉時代の貨幣経済の浸透?その辺を詳しく述べて貰いたい。

お前って本当に「オバカ」だな。脳みそがツルッツルなんだなw
コレ見てお勉強しましょうね。
ja.wikipedia.org/wiki/鎌倉時代
君、義務教育受けてないの?w

>渡来系が形質からも遺伝子からも種を残しとるんは、それだけの武力と
 文化・経済的優位にあった云うことじゃ。

何度も言わせるな。最近の考古学的成果によって、弥生時代は紀元前1000
年からになる可能性が出てきた。そして、渡来人は長い間連続的に渡日した。
最初、縄文人の人口を1000としよう。そこに渡来人が毎年2,3人1000
年間渡来したとしよう。
1000年後には縄文人:弥生人=1:2・3になる。
さて、これは縄文人を征服したと言えるか?
前もコレ言って理解できなかったよな?
まず、1000×2を計算してみろ。

47:2007/06/16(土) 13:03:54
>>44

>まとまった集団じゃったことを意味する。

ポートピープルの意味を理解しているか?
まとまった集団って、規模は何人だ?まさかギリシアの植民活動を想定
してるわけあるまいな?
集団で大量に渡来したなら、朝鮮では人口の減少が起こったはずだ。
戦争抜きにしてのな。それが何故無い?ん?

>、青銅器・鉄器も無視かいのう。

狩猟採集生活を行う縄文人に

青 銅 器 ・ 鉄 器 が 利 用 価 値 が あ っ た の か
と 聞 い て い る 。

>どんな論文でも文献・出土品から
 考察するんは個人の主観的見解で解釈論じゃが。じゃけえ、多様的考察から
 全体論を構築するんが学問なんでえ。

お 前 は 形 質 人 類 学 一 辺 倒 で 事 実 を 見 て
な い だ ろ う が w

>日本だけ別と鎖国的に引きこもるおどれら夜郎自大の
 妄想にゃあ、

だったら証拠を出してみろw
劣 等 白 丁 在 日 ク ン w
48:2007/06/16(土) 13:05:00




結局、今日も泣き虫在日は証拠を出すことができませんでしたw




49日本@名無史さん:2007/06/16(土) 19:32:56
弥生人って、後期縄文人のことだろう。

弥生人を渡来人呼ばわりする奴はアホだよ。




50日本@名無史さん:2007/06/16(土) 20:36:37
金関は大陸人がやって来て弥生期に入ったと見ているようだが。


金関 縄文から弥生を土器の移り変わりで見ても、大陸から入って
きたと考えざるを得ない。ただ同時期の中国土器や金属器はない。
このため日本列島へは朝鮮半島経由だろう。

http://www3.saga-s.co.jp/pub/hodo/yoshinogari/001.htm
51日本@名無史さん:2007/06/16(土) 21:10:33
その時期の土器は朝鮮から出土してるのかな?
52白馬青牛:2007/06/16(土) 23:35:48
>>45
本土日本人のほとんどの人達は渡来人の子孫、在日でしょう。
倭国大乱のような大規模な戦闘でのうて、惨殺された人骨が出土する
んですか。まとまった集団で渡来した連中とまともに戦闘する
には、土着民も軍事・経済力が拮抗しとらんと無理です。
ほいで、倭国大乱の2世紀頃は寒冷化時代で、後漢の黄巾の乱と時代も
一致し、飢饉やそれに伴う戦闘で人口が減少したんじゃないかと思います。
新たに北方系の南下、日本の古墳期の渡来系や中国では五胡時代の到来と
なるんでしょう。
>>46
わしゃあ、鎌倉時代の貨幣経済の浸透はどうか云うて聞いたんじゃが。
http://moch.daishodai.ac.jp/cgi-bin/usr/qabbs/qabbs.cgi?mode=disp&file=37
質問内容の回答にあるよう、古代からの現物交換、中世の中国銭の流通が
あっても、現物交換が普通じゃ。まあ、米や絹等貨幣の変わりに物品売買
するし、16世紀には銀じゃ。浸透もすくのうて貨幣経済の発達たァ何か?
53日本@名無史さん:2007/06/16(土) 23:42:42
>>52

またこりずに妄想か。

>倭国大乱のような大規模な戦闘でのうて、惨殺された人骨が出土する
 んですか。
>まとまった集団で渡来した連中とまともに戦闘するには、

戦闘での「縄文人の死体」が無いのは何故ですか。
死体の無い戦争なんてあるんですか。
皆殺しが当然だった当時で。

>土着民も軍事・経済力が拮抗しとらんと無理です。

資本主義経済が発達して、火器という圧倒的な兵器を持った
西欧人の世界進出を、渡来人の渡来に比較するお前は
先 に 世 界 史 を 習 っ て か ら ほ ざ け

>新たに北方系の南下、日本の古墳期の渡来系や中国では五胡時代の到来と
 なるんでしょう。

北方系の南下があるなら、ソレ相応の証拠があるはずです。
それが無いのは何故ですか?
古墳文化の変遷は緩やかだし、馬具の存在も交易による理由も考えられます。
54日本@名無史さん:2007/06/16(土) 23:55:49
>>52

お〜〜〜〜い、ペクチョンよお〜〜〜い、
誰が現代社会のような貨幣経済と言った?ん?
お前が言ったのは

>渡来系と土着民の商品売買で贈物の交換が行われ、
>日本は中世まで物々交換じゃったんに、

日本全域、都市部も農村部も全部物々交換だったってことだろ〜?
農村部まで貨幣経済が入ってくのは鎌倉末期からだよ〜?
ま〜中世だけどね〜。
それが村請制につながっていくんだよ〜〜。
それにさ〜、

>浸透もすくのうて貨幣経済の発達たァ何か?

全くの物々交換(まあそれも律令以前が主だけ)から貨幣が使われ始めた
のって、「発達」って言わないのかあ〜い?www
キミの祖国と違ってね、日本はここから商業が発展していくんだよ〜んw

55日本@名無史さん:2007/06/16(土) 23:57:54
お〜〜〜〜い、ペ〜〜クチョンw

1縄文人が征服されたと見える明らかな証拠
2渡来人が持っていた、縄文人の作れない、価値の高いもの
3西欧人の植民地活動の原動力


これらが答えられてないよ〜〜〜んwwww
逃げるなよ〜〜〜wwww
56白馬青牛:2007/06/17(日) 00:02:23
>>46-47
土井ヶ浜遺跡は渡来系の典型じゃったけえ、挙げたんじゃが回答は無しか。
ワレが逃げとるんに、わしが逃げとるじゃあ云うて幼稚な火病はすなや。
漂流と殖民の渡来人を同一視したり、わや云うとりあがるわい。
>>47-48
論破された相手に対してネットウヨク用語の「在日」は他板と同じじゃ
のう。嫌韓ネットウヨクは、政治版で論破され、極東板でも劣勢に
なりよるが、はあ、ハングル板ぐらいしか馴れ合いが出来んけえ可
哀想なのう。
>>49
弥生人=後期縄文人云う根拠は?
57日本@名無史さん:2007/06/17(日) 00:08:52
>>56

プw
あのさ、前も挙げたはずだけど、その土井が浜に女性の縄文人が
いるのは何で?
まあどうせ慰安婦だのどうのほざくんだろうがww

>漂流と殖民の渡来人を同一視したり

殖民の根拠を教えてくださ〜いw

>論破された相手に対してネットウヨク用語の「在日」は他板と同じじゃ

グダグダわめくよりさ、以下の質問答えてよw

狩猟採集生活を行う縄文人に

青 銅 器 ・ 鉄 器 が 利 用 価 値 が あ っ た の か
と 聞 い て い る 。

>弥生人=後期縄文人云う根拠は?
>弥生人にゃあ渡来系と在来系の違いがあるんも知らんのか。

主張を統一してくださいww
58白馬青牛:2007/06/17(日) 00:31:17
>>57
土井ヶ浜の女性に縄文系は何割存在したんか?
渡来系の殖民がなかったら、形質や遺伝子で現代本土日本人は、
朝鮮人よりもアイヌ人に近うなっとるよ。じゃが現代日本人はアイヌ人より
朝鮮人の方が人種的に近い関係じゃ。嫌韓厨のナチス的人種論と違う
結果で残念じゃのう。
縄文人は狩猟より採集の要素が強いと思うが、青銅器・鉄器は武器として
石器たァ格段の差じゃ。
じゃけえ、わしゃあ縄文形質の弥生人と渡来形質の弥生人の違いを前から
云うとるでえ。わしの文についても読解力に欠けよるらしいのう。
59日本@名無史さん:2007/06/17(日) 00:48:21
>>58

>土井ヶ浜の女性に縄文系は何割存在したんか?

だ〜から、どうして土井が浜に限定するの?
ってか、それについての資料は前に提示しただろ?見てからほざけ。

>渡来系の殖民がなかったら、形質や遺伝子で現代本土日本人は、
 朝鮮人よりもアイヌ人に近うなっとるよ。

だ〜からさ、「集団殖民」の根拠は?イライラするなあ。

>。じゃが現代日本人はアイヌ人より朝鮮人の方が人種的に近い関係じゃ。

お前本当に「バカの一つ覚え」しか言わないね。
>>11>>12で完璧に論破されただろ?ん?

>縄文人は狩猟より採集の要素が強いと思うが、青銅器・鉄器は武器として
 石器たァ格段の差じゃ

縄 文 人 が 金 属 器 を 使 っ た な ら 戦 争 で
死 ん だ 縄 文 系 人 骨 が あ る は ず だ が ?

>わしゃあ縄文形質の弥生人と渡来形質の弥生人の違いを前から
 云うとるでえ。

>弥生人=後期縄文人云う根拠は?

弥生人=後期縄文人の一部だろ?
読 解 力 の 無 い の は ど っ ち か ね ? w
60日本@名無史さん:2007/06/17(日) 00:49:20
ペクチョンは以下の質問に答えられません。

1縄文人が征服されたと見える明らかな証拠
2渡来人が持っていた、縄文人の作れない、価値の高いもの
3西欧人の植民地活動の原動力

なぜなら、弥生人が縄文人を征服した事実が無いからですw
61日本@名無史さん:2007/06/17(日) 01:12:12
>白馬青牛氏

縄文時代からの精神的文化品である勾玉が、
弥生時代、古墳時代と引き継がれ、
そして現在も三種の神器として在る事実について、
何度も質問してるのに、
いつも「勾玉は紅山文化じゃ」というルーツ論で逃げておられる。
何故、先住異民族のスピリチュアルな文化を、
後から来た渡来人が「継続」したのかを再度お答え願いたい。
ルーツ論でごまかすのはやめていただきたい。
62白馬青牛:2007/06/17(日) 01:28:51
>>59
縄文系女性の割合を提示したもんがあったか?
集団殖民がないと種を残せんよ。
ほう、YAP?氏がわしを論破したんか?YAP?氏は週一回ぐらいしか、
現れんけど。YAP?氏もいよいよ嫌韓ネットウヨクの神に祭り
あげられたか。まあ、YAP?氏が現れてからのお楽しみで、
まず>>11-12がわしに対して云うたもんか、聞いて見たいもんじゃ。
もしそうじゃったら、わしが直接云うことで、他人任せのこんなら
(こいつら)軟弱嫌韓ネットウヨクが口を出す必要もあるまい。
弥生人=続縄文人の一部じゃ断言出来るんか?
土井ヶ浜人骨は、縄文系の一部になるんか。相変わらず妄想が激しい。
ほいで、渡来系が土着縄文系を支配したことがない「証拠」は、
見つかったか?おどれら嫌韓ネットウヨクの主観的脳内妄想じゃのうて。
63白馬青牛:2007/06/17(日) 02:01:39
>>61
三種の神器なら、剣や鏡も重要じゃろう。これらが原住民の
スピリチュアルな文化か?土着縄文人が三種の神器としたんか?
ほいじゃが、わりゃあ丁寧な言葉使うて、わしに対し逃げるじゃの
ごまかすじゃの無礼な言を云うとるが、おどりゃ、人を嘗めたような文を
書きャあがるのう。こんなあ、実生活で人様に、こがあな無礼な物言いは
すまあ。くそ外道みたいなまにゃあすなや。
64日本@名無史さん:2007/06/17(日) 02:25:20
>>63
おや?
勾玉が「何故、継続されてるのか?」について、
答えてませんね?

お答えを?
65日本@名無史さん:2007/06/17(日) 10:55:02
>>62
>渡来系が土着縄文系を支配したことがない「証拠」は、見つかったか?


悪魔の証明キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!!!
66日本@名無史さん:2007/06/17(日) 11:35:36
何もないというのが「ない」の証拠だろうねw
あると言う人が何か出さなきゃ
67日本@名無史さん:2007/06/17(日) 19:52:15
>>62

>集団殖民がないと種を残せんよ。

その集団殖民が大規模にあればの話だろ?
集団殖民をしたなら、朝鮮の当時の人口は激減したはずだ。
少なくとも、縄文人を「征服」するほどの数ならな。
それが何故無い?
それに、集団殖民したなら、半島の文化をそのまま維持するだろ?
何故弥生は縄文の風を「色濃く」残してるんだ?
欧米人がインディアンの風を取り入れたか?(さあ乗って来いw)

>まあ、YAP?氏が現れてからのお楽しみで、
 まず>>11-12がわしに対して云うた・・

グダグダ良いわけは良いから、彼の提示したこの一文に対して
答えてみろよw

>韓国朝鮮人はHg「O2b」が多いが、これは、日本人でも同様だ。
日本人だ、別に「縄文系」と推定されるHg「D」(D2)が、同程度存在する。
「O2b」は祖型の「O2b*」と、それから分岐した「O2b1」がふくまれるが、
では、O2b朝鮮人では、「O2b*」が、「O2b1」の2倍あるのに対し、
日本人では、逆に「O2b1」が「O2b*」の倍あるそうだ。(中堀豊氏)

お前、こうほざいたよな?
>HLAやDNAも嫌韓厨には残念じゃが、本土日本人と韓国人は近い関係じゃ

お〜い、逃げですか?w
68続き:2007/06/17(日) 19:55:20
>弥生人=続縄文人の一部じゃ断言出来るんか?

断言できないと思うなら
>弥生人にゃあ渡来系と在来系の違いがあるんも知らんのか。

こんなこと言うなよw

というか、お前いっつもこれから逃げ回るよな。

1縄文人が征服されたと見える明らかな証拠
2渡来人が持っていた、縄文人の作れない、価値の高いもの
3西欧人の植民地活動の原動力

答えられないんだろ?w
こたえられないから逃げ回るんだろ?ww
反論できないから「オエライ」先生の言葉を出すしかないんだろ?www

>他人任せの

正 に お 前 じ ゃ ん w
69日本@名無史さん:2007/06/17(日) 20:16:46
>>63
しかし論点ずらしもここまでくると名人芸だね。

>三種の神器なら、剣や鏡も重要じゃろう。
>これらが原住民のスピリチュアルな文化か?
>土着縄文人が三種の神器としたんか?

誰も剣や鏡が原住民のスピリチュアルな文化などと言ってない。
ごまかすな。逃げるな。

縄文時代のスピリチュアルな文化「勾玉」が、
何故、弥生時代や古墳時代まで「継続」されてるのかと聞いてるのだ。
もし弥生人が征服者なら、先住民の精神性文化など、
滅ぼしたり粗末に扱ってしかるべきだろ?
何故継続してるんだ?
再々度聞く。
いやこれで5回目くらいだな…
70日本@名無史さん:2007/06/17(日) 20:24:45
台湾人を叩く奴は全部チョン
悪い事は全部チョンのせい
李登輝を日本の総理大臣にしよう
日本人は台湾人が大好き
日本人は台湾が好き!朝鮮嫌い!
日本に来る台湾人歓迎!朝鮮人出て行け!
台湾人はマジでかわいい
ヴィック・チョウは日本女性に大人気
日本人種は在日チョン用語



金美鈴は絶世の美女


71日本@名無史さん:2007/06/17(日) 20:27:40
>>69

俺も以下の質問を覚えている中で4回はしたぞ・・

>縄文人が征服されたという根拠は?
72白馬青牛:2007/06/17(日) 23:46:41
>>64
勾玉の継続は、大陸アジア文化の継続で、日本独自云々云う必要もない。
>>65-66
悪魔の証明が、あると言う人が出さなきゃ?そがいなん初めて聞いた。
悪魔の証明たァ「ない」と云う人が出すんじゃないか?
http://jp.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E
「ないことの証明」は「あることの証明」に比べ、一般に困難である
場合が多いからである(検証と反証の非対称性)。この「ないことの証明」
(消極的事実の証明)について、その立証の困難さから「悪魔の証明」と
いう表現が比喩的に用いられている。
ネットウヨクが用語を捏造し、詐欺師のくせに騙してない云う逆切れを
引用し毎度誤魔化しよるが、まず「ないことの証明」を出さにゃあ。
まあ、あんたら騙されよる連中に、「ないことの証明」は、
いた(難)しいのう。洗脳されとる可哀想な連中じゃけんのう。
73日本@名無史さん:2007/06/17(日) 23:54:02
>>72
>勾玉の継続は、大陸アジア文化の継続で、日本独自云々云う必要もない。

縄文、弥生、古墳と続く断絶なき見事な継続は日本しかないだろう。
おまえはアホか?
74日本@名無史さん:2007/06/17(日) 23:57:22
>>72
>まず「ないことの証明」を出さにゃあ。

      _| ̄|_| ̄|  | ̄|_| ̄|__| ̄|_| ̄|   | ̄|_| ̄|_| ̄|
      |_  _||  | ̄    |  |     |  | ̄   |  |     ̄|
       r┘└へ|  |二コ ┌'|  |二コ ┌|  |二コ ┌'|  |二コ ┌┘
      〈 〈]  ゜,、〈|  | o  ヽ| | o  ヽ|  | o  ヽ|  | o └「 ̄\
      ヽ-ヘ_>ノ_ノ|_|、_ハ/|_|、_八ノ|_|、_ハ/|_|、_ハ/`⊇.ノ
        ____                ____                ____
      /⌒  ⌒\          ./⌒  ⌒\          ./⌒  ⌒\
    o゜((●)) ((●))゜o        o゜((●)) ((●))゜o       o゜((●)) ((●))゜o
   /::::::⌒(__人__)⌒::::: \   /::::::⌒(__人__)⌒:::: \   /::::::⌒(__人__)⌒::::: \
, -‐ (_)    |r┬-|     |, -‐ (_)    |r┬-|     |, -‐ (_).    |r┬-|     |
l_j_j_j と)   | |  |     / l_j_j_j と)    | |  |     / l_j_j_j と)    | |  |     /
75日本@名無史さん:2007/06/18(月) 00:14:25
> 悪魔の証明が、あると言う人が出さなきゃ?そがいなん初めて聞いた。
> 悪魔の証明たァ「ない」と云う人が出すんじゃないか?

なんだか知らんけど「悪魔の証明」の意味わかってない馬鹿がいるような気がする。
言葉遣い的にこの人は広島の人?
「おまえは部落差別した!してないというなら証明してみろ!」ってお国柄だから仕方ないのかな。
76白馬青牛:2007/06/18(月) 00:39:11
すいませんでした。
分かりません。
77日本@名無史さん:2007/06/18(月) 00:54:02
>>72
恥を晒していることに気付いてる?
あんた、ほんとどうしようもないよ。
78白馬青午:2007/06/18(月) 00:58:55
わしは馬鹿じゃけえの
>ほいで、渡来系が土着縄文系を支配したことがない「証拠」は、
>見つかったか?
ゆうのを「悪魔の証明」じゃあ言われても何のことか解らんのじゃ。

>悪魔の証明たァ「ない」と云う人が出すんじゃないか?

つまり「お前は悪魔じゃ」言う人はその証拠を出す必要なんかなくて
「俺は悪魔じゃない」言う人が身の潔白を証明せにゃいけんのじゃろ
悪魔の証明ってそういうことじゃろ??
違うんか?わし低能じゃけん教えてくれんか。

「ないことの証明」は困難じゃけん「悪魔の証明」と言われとるとか書いた直後に
>まず「ないことの証明」を出さにゃあ。
とか言うてしまうことに何の疑問も感じとらんわしは何か間違っとるんか?
79日本@名無史さん:2007/06/18(月) 01:05:11
そうだろう
80日本@名無史さん:2007/06/18(月) 01:06:05
あの人は今こうしている
元十両増健の柳川信行(33歳) 現幕下力士養成員

「例のテープ、儂も聞きました。紛れもなく兄貴(金親)の声でした。しかも、愛人に自分をカッコ良く見せたいんでしょう、
実力を出すのも嫌がる 八百長男がとてつもないことを口にしている。ホントうれしかったね」

柳川は三保ヶ関部屋の力士養成員時代に金親と兄弟弟子、よく知っているらしい。

「白鵬もたまに部屋に顔を出してくれるんだけど、週刊誌の記事が出たときはさすがに落ち込んでいて、ザマミロですね。
本人も”なぜこんなことに なってしまったのか?”って嘆いていました」

「(増厨は)インターネットのファンクラブなんです。全国で300人くらい 増厨がいるのかな?
みんな白鵬には怒り心頭ですよ。稽古場でイジメばかりしている奴を横綱にして、一体何を考えてるのかってね。」

「(若女将)本人が望んだらしい廣川の娘はすでに3人の力士(光法・安美錦・旭天鵬) に縁談を断られ、もう後が無かったんでそれで
兄貴(金親)が引取ったんです。それにしても、儂ら朝鮮人が、まさか親方になるとはねえ。偉大なる首領様のおかげです」

「正直、アイツ(若女将)のことは(出羽海)一門の全員が嫌っています。
理事長だって口もきかないし、挨拶もしない。愛人が発覚して、アイツももうダメでしょ。
あの部屋で立浪みたいなことが何時起こるか、楽しみにしているんです。」

「今のままじゃ部屋の力士がかわいそうですよ。女将らしいことは何もしないくせに、自分フトコロを潤すために兄貴や熊ヶ谷親方・弟子を利用する悪い母子です。
兄貴は小遣い稼ぎのために春場所中に兵庫県にパチンコ屋をオープンして、白鵬にサイン会をさせて皆を食わしているんですよ。
現役時代には八百長三昧で十両の中盆として理事長や(出羽海一門の)親方
からの信頼も厚かった。そんな男だから部屋の親方におさまり、愛人まで作れたんだ。
解決策はひとつ。熊ヶ谷親方が廃業し、儂か高濱を熊ヶ谷親方にすること。
北の湖理事長には決断をしてほしいですね。あんな破廉恥な女達が部屋を牛耳り、
横綱を増長させて何もおとがめナシじゃ、納得いきません。」
81白馬青牛:2007/06/18(月) 01:31:38
>>69-73
古墳期まで云うがそれ以上に継続したんか?中世はどうか?
継続に見事云う形容詞を付ける必要もないんじゃが。
>>75
まだ悪魔の証明を理解出来んのは、洗脳されたカルト宗教集団の
ネットウヨクぐらいじゃろう。
http://members2.jcom.home.ne.jp/yu-misawa/hibi/akuma.html
「いない」とは可能論で、立証は難しいのう。ふむ、科学的思考
そのものが「推論と可能性」で「可能性を否定した科学なんて
存在しません。」と、あるが、科学は仮説で成り立っとるもんじゃ
けえのう。人文科学である歴史学もその通り。
否定派は「根拠はお前が証明できないからだ」と言います。
悪魔の証明に関して言えば、「いない」と主張する側が使っちゃ
駄目ですね。そもそも「いない」と主張した人間に反論しただけで、
「お前が証明しろ!」と言われるわけですから、「なんじゃそりゃ?」と
思うわけです。このスレの証明可能と考える非科学的なカルト宗教
ネットウヨクと、ピンボケを指摘するわしの構図も同じじゃけえ、
笑うたよ。事物の信憑性は多面的要素から、考察することなのに、
学問の基礎も知らんで、文献や出土品に現れる極一部を捕え、
「証明」やら、「検証」したじゃの自慰に過ぎんのに、妄想する。
ほんま、ネットウヨクの解釈は馬鹿丸出しじゃけえ、笑えるよ。
>>76
偽者まで現れて、嫌韓ネットウヨク恒例の嘘吐き大会でも始めるんか?
82日本@名無史さん:2007/06/18(月) 01:36:08
白馬青牛は、まず「自分が痴的生涯者ではないことの証明」を出さにゃあいけんよ。
83日本@名無史さん:2007/06/18(月) 01:39:57
>そもそも「いない」と主張した人間に反論しただけで、
>「お前が証明しろ!」と言われるわけですから、「なんじゃそりゃ?」と
> 思うわけです。

なんじゃそりゃ?はこっちの台詞なのだが???
真性のキチガイですかあなたは?
84白馬青牛:2007/06/18(月) 01:43:28
>>78
こんなも偽者じゃが、わりゃあ何処のもんなら。
わりゃあ論理が反転しよるど。おどれの低脳振りをわしに聞いて
どうなるんなら。わりゃ、タコのくそが頭に張り付いたんか。
85日本@名無史さん:2007/06/18(月) 01:47:58
>>81
「いない」という主張への反論は「いる」でしょ?
だったら、いない側が「いる(いた)事を証明しろ」というのは至極真っ当な反応ですよね。
いると主張するあなたが「いないことを証明しろ」というのを、この星では「悪魔の証明」といいます

ご存知なかったんですか?
86日本@名無史さん:2007/06/18(月) 01:51:09
>>84

ウシとウマの区別もつかないハクチと議論する無駄について
87日本@名無史さん:2007/06/18(月) 02:00:55
口からでまかせとは正にこの事よ。極右九州人と極右南朝鮮傀儡、互いにエタ血(朝鮮人の血液)が混ざり合った
部落民族ならではの庇い合いだな。無学の者ならば終ぞ騙されるか煙に巻かれることではあろうが。西郷隆盛の征韓論を背負いたった背景はその後の
西南戦争に見て取れる様に不平士族の鬱憤晴らしだ。明治維新の後政府が深刻な財政難に
陥っていたことは周知の事実だ。それにも増して倒幕を急いだのは露西亜の南下に対応
することが目的。その為には強固な軍隊、当時は陸と海を逸早く近代化させ、世界最強の
列強に対する防衛体制を敷く必要があったのだ。しかしながら、国家の枠組みというものは単に
軍備を近代化すれば済むほど簡単ではない。
佐賀の江藤新平や長州(九州の本当の支配者)の
伊藤博文は法整備が整わない状態では軍備の
近代化は困難であるとして、模範をドイツに取り、
佐賀の大隈の言う英国制の議会制民主主義を遠ざける
に至った背景がある。財務省の井上馨は明治維新
で浪費してしまった赤字費用の穴埋めが先決であると考えた。
どういうことなのかと言えば簡単なことだ。資金調達と税収が安定しないければ、
維持費の高い近代軍隊を整備することが困難であるからだ。そしてその包括的な法律統制に
日本の国情、所謂万家一世の天皇が治むるべき皇国、それは単なる皇帝ではなく、
神に近いという意味、所謂日の本の体制に影響が出るようであってはならないという不文律
があるからだった。
88日本@名無史さん:2007/06/18(月) 02:02:23
そして、財務の話に戻るが、井上馨財務大臣が懸念する赤字財政、所謂不良債権の存在が、
明治維新に参加した多くの士族だったのだ。彼らは年貢を米でもらうという給与の受け方をしており、
これらは秩禄などと呼ばれていたが、極端に国庫を圧迫した。井上馨は日本の近代化の重荷となった
秩禄を廃止すべく活動したが、旧士族は当然反対。後の陸軍省山県有朋は平民から軍隊を徴収することを考え、
士族不要の流れにより迎合していったから、いよいよ士族は明治政府に反感を覚えていった。そしてその流れの
中核にいた、最も影響力のあった男が薩摩の大久保利通という稀代の英雄だったと言う訳だ。大久保は伊藤、

井上、大隈、山形、桂など維新の英雄に対して非常に大きな影響力を持っており、当時考えられるべき最も現実的な
政策として征韓論よりも殖産興業を取った。これは簡単に言えば、国家の近代化の石杖が組み上がるまでは極力武力
闘争を控えるという方針であり、戦後吉田茂が影響を受けた。しかし、元来古代朝鮮半島から渡って来て以来、筑紫野
ミヤツコ磐井となって大和朝廷に背いたり、大友家(昔の福岡)が毛利(長州の先祖)の傘下に入っても、秀吉に降伏
するまで抵抗し続けると言う、エタの血の最も濃い薩摩(シメンズ)にとって、平和的解決というものは生き恥であった。
彼らは元々順当な日本人ではなく、古代移民してきて制圧された部落だったからである。そして、彼ら部落にとって大久保
は薩摩の利益よりも日本の利益を取った憎むべき裏切り者であったのだ。多くの日本人にとってこれは奇怪と考えられるだ
ろうが無理もない。しかしながら、残念ながら鹿児島人というのはそういう宗教、つまり儒教で形成された部落だからなのだ。
部落の中では部落の掟は絶対で、日本的な、天皇の下それなりの自由があるということは鹿児島部落では絶対にあり得ない。
89臼馬青牛:2007/06/18(月) 10:37:09
今日の聖教、寸鉄より
>会館近隣のマナーを守れ私語・喫煙・路上駐車は厳禁。信心は良識だ。
・・・イラクの子供を殺しながら、こんな一般の常識をいちいち新聞に書くなよ、無駄。

>竹入・山友ら金狂い魔物は仏罰無惨。偉大な学会に怨嫉した阿呆の結末よ
・・・信心は良識って、さっき書いてなかった?
石油資源を無駄にしながらこんなこと書いてるってことは、死んだイラクの
子供たちも邪教の仏罰、偉大な学会に怨嫉した阿呆の結末って言いたいんだね。
90日本@名無史さん:2007/06/18(月) 11:15:46
>>81
>古墳期まで云うがそれ以上に継続したんか?中世はどうか?

勾玉が古墳期まで「何故継続されたのか?」と聞いてるのに、
あなたは「いつまで継続したのだ?」と聞いてくる。

何で論点をすり替えるのだ?
91日本@名無史さん:2007/06/18(月) 22:54:20
>>72

>悪魔の証明たァ「ない」と云う人が出すんじゃないか?

・・・・オオバカの中のオオバカだね。w

騎馬民族征服が「無い」という証拠は、騎馬民族征服の「ある」という
証拠が存在しないことから裏付けられる。
あるのならば、その証明は簡単だ。
何故ならば、存在する証拠を出せば良いからだ。
何故出せない?

いい加減出してみろ。
「存在することの証拠」
それが「存在しない」という論を破壊できるのだから。
92日本@名無史さん:2007/06/18(月) 23:18:20
しかし、この広島のオッサンは笑わせてくれる。
素晴らしいエンターティナーだなw
93日本@名無史さん:2007/06/18(月) 23:44:06
全然関係ないけど、電車の中の痴漢冤罪ってこの「悪魔の証明」がまかり通ってるみたいな感じなのかな…

まあ例の広島の奴は素で意味を知らなかったみたいで哀れだが。
今は何と言い繕うか、どうはぐらかすか思案中といったところ?
94日本@名無史さん:2007/06/18(月) 23:48:16
>>93

ネットウヨクがバカじゃのうとかなんとか言葉尻に終始する悪寒
95日本@名無史さん:2007/06/19(火) 18:14:49

もう来ないのかな?w

96白馬青牛:2007/06/19(火) 22:29:00
>>85
馬鹿たれが抽象的な逆説を展開で誤魔化すなや。「悪魔の証明」の話を
続けたいんかいのう。
hhttp://ameblo.jp/scopedog/entry-10028252839.html
「ないことは証明出来ない(ないし、困難である」=「ないことが
証明できた」「(「ない」と云う側が)証明してないんだから、
ないことを証明できていないことは自明だろう。」>>91
の騎馬民族説の証拠がない云う断定もそうじゃ。多面的見解から否定した
訳じゃのうて、「事実である(黒)、事実でない(白)事実かどうか
わからないグレーがあるにもかかわらず、グレーの存在を無視して
いう」、「数学や歴史学をはじめ裁判以外の多くの場合はグレーを白と
みなすようなことはしない。」つまり、○×教育とパソコンの影響の強い
ネットウヨクだけに通用する戯言じゃ。じゃけえ、他板でもそうじゃが、
論破されたら、「証拠はない」を繰り返すだけじゃ。「証拠がない」と
するんなら多面的考察から反論せにゃあいけんのに、ネットウヨクの
精神年齢が幼稚園並みじゃけえ、無理じゃし、>>93も同類じゃのう。
>>94
ネットウヨクは洗脳され、大量生産で同じ鋳型に作られた粗悪品じゃわい。
こんな、ネットウヨクがあんぽんたんじゃ思わんか?
97日本@名無史さん:2007/06/19(火) 22:40:38

>>96
征服された証拠がないというのは征服されなかった証拠になります。


こ れ 以 上 ま だ 恥 じ を か く つ も り か
98白馬青牛:2007/06/19(火) 22:52:03
>>89
「臼馬」か。新興宗教集団のもんか?
>>90
勾玉が古墳時代まで継続したんは、列島島国では北ユーラシアの流行から
はずれたこと、縄文の勾玉文化に影響を与えた「先紅山文化」が、
狩猟・漁撈・採集に経済基盤を持ち、縄文文化と共通し、中国の他地域が
農耕・牧畜段階にあったこと。それたァ、満洲(現、中国東北部)の
文化が、縄文、弥生、古墳と我が国の文化(人種も含め)の故郷で
あることじゃ。
このスレのテーマ騎馬民族説も同様であろう。列島の継続云う鎖国史観
じゃのうて、文化流入を考察した方がええど。
99日本@名無史さん:2007/06/19(火) 23:14:08
>>98
そうすると勾玉文化を持ってた縄文人を、
同じく勾玉文化を持ってた弥生人が征服した…と?
大陸に居た弥生人が勾玉持ってた証拠はあるの?
100日本@名無史さん:2007/06/19(火) 23:42:55
>>99
彼によると
>勾玉の継続は、大陸アジア文化の継続で、日本独自云々云う必要もない。

らしいから、証拠も現物もザクザクでてくるんじゃないですか?たぶん。
101日本@名無史さん:2007/06/20(水) 00:44:31
>>98




まずは前4〜後5世紀の大陸の勾玉出してもらおうか?




102日本@名無史さん:2007/06/20(水) 16:43:12
>>96
まだ分からないのか?
なにひとつ証拠がないのに「あった」と言うオマエが馬鹿だと言う話なんだ。
103日本@名無史さん:2007/06/20(水) 19:49:40
野っ原の真ん中で二人の男が言い争いしている。
「この場所でかつて殺人事件があった」
「いや、なかったんじゃない?」
「なかったというならなかったことを証明しろ」
「は?お前が死体を掘り出すか、犯人連れてこいや」
「このネットウヨクがおんどりゃー!がんばれカープ!」

いまこんな感じ?
104日本@名無史さん:2007/06/20(水) 20:17:28
そんな感じ!
105白馬青牛:2007/06/20(水) 23:23:34
>>99
勾玉文化云うたら、日本列島の中でも伝統的に北陸の越地方に集中しとる。
>>100は出土品が産出地か交易品に述べとらんけど、日本列島全体が
勾玉文化云うわけでもない。勾玉産地の糸魚川流域を渡来系出雲勢力が
古墳期以降侵入し、職人を出雲へ拉致したんじゃないか。
>>101にも関連するが、だいぶ前にも云うた四隅突出墳や記述からも
出雲勢力の越侵攻の根拠も考察し、出雲は母国と思える朝鮮半島と勾玉を
特産物として交易品としたんじゃろう。新羅古墳の王冠の翡翠勾玉も
韓国人国粋派は日本からの物と云うんを否定したいようじゃが、
海上交易を否定しちゃあ、朝鮮内陸鎖国史観で日本列島のネットウヨクと
違わん。ええ例が、>>102で、具体的論拠ものう、抽象的な「証拠」云う
用語でしか云えん幼稚並みのもんが、カバチ垂れよるけんのう。
>>103
例がわや過ぎるわい。仮に殺人事件があって犯人を知りよっても、
密告したら自己や先祖の名を汚すもん出来るわけあるまい。
死体掘り出す云うて土に埋めるだけじゃのうて死体は海でシャコの餌に
なっとるかわからん。
ネットウヨクは馬鹿にしとるが、「おんどりゃー」は近畿方言で「おのれ」
は、広島じゃあ概ね「おどりゃー」じゃろう。がんばれカープにゃあ同意。
106日本@名無史さん:2007/06/20(水) 23:35:08
>具体的論拠ものう、抽象的な「証拠」云う用語…

すまん、この文字列は俺の目の錯覚なのか?
107日本@名無史さん:2007/06/20(水) 23:52:14
>105
>勾玉産地の糸魚川流域を渡来系出雲勢力が
>古墳期以降侵入し、職人を出雲へ拉致したんじゃないか

だからあなたが言う渡来系勢力とやらが、
何故、職人を拉致するほど勾玉を崇めてたのかと聞いてるのだが。
108日本@名無史さん:2007/06/21(木) 00:34:13
>>105

>出雲勢力の越侵攻の根拠も考察し、
>出雲は母国と思える朝鮮半島
>渡来系出雲勢力

どれもこれも、考古学的な裏づけが皆無だな。
文化電波=征服になるお前の頭は、大したものだよ。

>仮に殺人事件があって犯人を知りよっても、密告したら自己や先祖の
 名を汚すもん出来るわけあるまい。

どんだけ特殊な事例なんだww

>死体掘り出す云うて土に埋めるだけじゃのうて死体は海でシャコの餌

つまり、お前は難癖つけて「無かったはずじゃじゃじゃじゃじゃ!!!」
って言いたいんだろうけど

存 在 し た こ と を 証 明 す る に は 裏 づ け が 必 要 だ よ 。

殺人事件で殺されたと思われてる人間が生きていたらどうする?
警察の資料にその場所での殺人事件が存在しなかったらどうする?
109白馬青牛:2007/06/21(木) 00:50:01
>>106
抽象的な「証拠」「証明」を繰り返すんはネットウヨクの用語じゃろう。
>>107
交易品として、勾玉が価値があったゆえじゃろう。
他の日本列島の特産品云うたら奴隷かのう。
110日本@名無史さん:2007/06/21(木) 00:50:07
111日本@名無史さん:2007/06/21(木) 01:00:45
>>109
>交易品として、勾玉が価値があったゆえじゃろう。

だから何で価値があったのかを聞いてるのだが?
あんたなめてるのか?
112日本@名無史さん:2007/06/21(木) 01:08:19
>交易品として、勾玉が価値があったゆえじゃろう

半島にどれだけの勾玉が出てるのさ?
交易品と言えるほどの量か、このバカがw
113日本@名無史さん:2007/06/21(木) 01:08:29
>>109

オイww
「抽象」と「証拠」は語義矛盾が起きるぞww

リア中だな。
114日本@名無史さん:2007/06/21(木) 01:11:28
わかり合えない人、ってのはどこにでもいるもんだよね。
つうか何なんだろう、奴の広島訛りの文章に触れたときに感じる本能的な不快感は。

牛ちゃん偉いねえ、牛ちゃん賢いねえ、と甘やかされて育った坊やが、
自分に向かって「違う」「馬鹿かw」とダメ出しする他人に初めて遭遇して、
火病ってる姿は、鬱陶しいことこの上ない。
実生活でもこの調子なんだろうな。周りから思いっきりハブられてそうだw
115日本@名無史さん:2007/06/21(木) 01:18:43
>抽象的な「証拠」「証明」

…意味わからなすぎで俺も目頭がツーンとしてきた
116白馬青牛:2007/06/21(木) 01:38:46
>>108
存在せんかったことを証明する方が、多面的な考察から反論せにゃあ
いけんし、ご苦労なことじゃが、あんたらネットウヨクは、考察も
出来ん、短絡的な「証拠」で吼えるだけじゃないか。
殺された者が生きる?よっぽど殺人者は下手やったんか?止めをさして、
しご(処理)したもんが生き返るんは幽霊が存在するか、せんかの見解に
なるわい。警察の資料?警察を介入されるんも可笑しいが、地域の揉め事で
殺しがあったとして警察が真剣に捜査すべき問題かのう。昔は地域の
慣習で解決すべき問題じゃったが、今は都市化して、地域の慣習より
公権力に依存する度合いが増えた云うこと。今でも、地域の結束が強い
地域は、その辺はタブーに属するじゃろうし、警察が資料に載せるか、
載せんかはも、難しい処じゃ。殺人事件が必ずしも深く調査される訳でも
あるまいに。現に経済、金の絡んだ事件じゃあ真相は闇の中じゃ。
曖昧な言となったが、公然と話せん話題を例に挙げちゃあいけんよう。
広島県で殺人やるなら○○でやれ云う言葉もあるが、確かに某地域は
未解明事件が多い。取材するんなら警察よりも、△△で聞いた方が
ええのう。
117日本@名無史さん:2007/06/21(木) 01:56:08
でさ、征服があったと主張する人は、自分がその論を導きだすに至った具体的なデータ
ここでいうなら征服の証拠を示せばよい。じつにシンプルな話だ。それがあるんだろ?
まさか根拠も無く「あった」と言ってるわけではないんだろ?

これのどこが抽象的で短絡的なんだろう?
118日本@名無史さん:2007/06/21(木) 02:03:40
とりあえず半島に交易品と言えるほどの量の勾玉が出てるというデータを出せば?
日本の勾玉が大陸アジア文化の継続に過ぎないと断言した根拠を
誰でも確認できる物証を示しながら説明すればどう?
君に求められてるのはたったそれだけの事だぜ
119日本@名無史さん:2007/06/21(木) 09:30:43
この広島のオッサンって、
困ったら本質をはぐらかしてウダ話でごまかすよね。w
>116はその典型。
120日本@名無史さん:2007/06/21(木) 15:57:53
>>105
>四隅突出墳や記述からも 出雲勢力の越侵攻の根拠も考察し、
>出雲は母国と思える朝鮮半島と
>勾玉を特産物として交易品としたんじゃろう。

まったく意味不明。
西谷墳墓群(四隅突出墳)からは大量の勾玉が出土する。
さらに埋葬に際して「朱」が使われてる。
勾玉も朱も縄文からの継続文化だよね。
「出雲は母国と思える朝鮮半島」などと言うが、
半島にいた何族を想定してるのだ?
121日本@名無史さん:2007/06/21(木) 16:10:17
>>116

>考察も出来ん、短絡的な「証拠」で吼えるだけじゃないか。

古墳文化の連続性・弥生土器の系統・遺伝学
考察してますが?
てか、考察ばっかで裏づけの証拠も出せないようじゃなw

>殺された者が生きる?よっぽど殺人者は下手やったんか?

どれだけバカなんだ?
ある人物が殺されたと主張する人間の前に、当の本人が出てきたら
どう言い訳できるのだ?

>警察の資料?警察を介入されるんも可笑しいが、地域の揉め事で
 殺しがあったとして警察が真剣に捜査すべき問題かのう。

お 前 に 日 本 の 社 会 が 理 解 で き な い こ 
と が よ く わ か っ た 。

>今でも、地域の結束が強い地域は、その辺はタブーに属するじゃろうし、

マンガやドラマの見すぎ

>警察が資料に載せるか、載せんかはも、難しい処じゃ。

普通、人が殺された、もしくは失踪したなら、警察に届出出しませんか?
お部屋にこもってばかりじゃいけまちぇんよw
122日本@名無史さん:2007/06/21(木) 18:28:20
半島にはごく少量の勾玉しかないのに、
交易品だったって言う白馬青牛はアホ丸出し。
じゃ、半島の勾玉は何かといえば倭人の進出の証拠。
123日本@名無史さん:2007/06/21(木) 23:57:33
白馬青牛は反論できなかったときに「今日はデートだった」「今日は仕事だった」
「お前らみたいに2chに貼り付いてらんないんだよ」とか言わないだけマシではあるが
願望ありきでしか歴史を考察できない、度し難い低能だということははっきりしてるなw
124白馬青牛:2007/06/22(金) 00:10:05
やれやれ、またつまらん連投か。どっから答えようか。>>114は、感情論で
わしが気に入らん云うことか。周りの評価はあんまし気にせんが、
ワレが、周囲の関係を気にしょうるけえ、書いたんじゃろう。可哀想に。
>>115-117よ、>>118もか、証拠・証明を具体的に云わんけえ、
抽象論になろう。>>120の玉作りは日本海側を中心とした文化で、
日本列島全体の文化と云い難い。朝鮮半島では新羅に翡翠の勾玉が集中
しとる処、日本海の交易ルートで朝鮮半島へもたらされたんじゃろう。
出雲が何族か。松本清張氏は濊(ワイ)集団を想定されたが、スサノオノ
ミコトが新羅から出雲へ移住した神話もあり、方形の高句麗的な、
四隅突出墳等、日本海側から列島へ渡来移住した要素も強い。
125日本@名無史さん:2007/06/22(金) 00:19:43
>>124

>>114は、感情論でわしが気に入らん云うことか。

自分に向けられた批判を直視できないんだな。
精神年齢が低いぞ。

>証拠・証明を具体的に云わんけえ、抽象論になろう

出 せ な い だ け だ ろ ?

>出雲が何族か。松本清張氏は濊(ワイ)集団を想定されたが、スサノオノ
 ミコトが新羅から出雲へ移住した神話もあり、

普通、出雲が当選人だったら、スサノオは渡来神になるよな?
バカじゃね?

>方形の高句麗的な、四隅突出墳等、

高句麗に四隅突出墳あったか?
126日本@名無史さん:2007/06/22(金) 00:39:12
>方形の高句麗的な、四隅突出墳等、
>日本海側から列島へ渡来移住した要素も強い。

高句麗の古墳に、埋葬に際して朱を使ったり、
勾玉を副葬品にしてる例があるのか?

あんたの話は力が抜けるよ…
127日本@名無史さん:2007/06/22(金) 00:49:21
>>124
> 出雲が何族か。松本清張氏は濊(ワイ)集団を想定されたが

今さら松本清張かよ。
こいつホントに思考が1970年代で停止してるんじゃないか?
三日月情話とか、本気で信じているんじゃないだろうなw
128白馬青牛:2007/06/22(金) 00:56:50
>>121
日本の社会を知らんのは、ワレの方じゃ。マンガやドラマ?何じゃそりゃ。
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/6261/kako3.html
の、「投稿日:4月13日(火)06時42分51秒」に、
夜這いの話で有名な民俗学者赤松啓介氏の「非常民の民族境界」P28を
引用された方がおられるが、「こうした人達の正体を調べようなどと、
バカな野心は起こさないのがよい。ウラの世界には、ウラのオキテがある。
仲間になって生涯を埋めるのならよいが、よいところで足を洗ってあっと
いわせるような論文を書いて、博士、教授になる、などと夢を見るのは
やめておくがよい。絶対に死体の上がらない海もあるし、あまり人が
行かぬ林の中に白骨が横になり、木の枝に縄がゆれているという風景が
ある。地下活動の経験があれば、これから奥は通行禁止だとわかった。
この禁を冒さない限り、われわれの友好は保たれる。それで充分であり、
それ以上の事を知る必要は無い。」
常民であろうと、非常民であろうと、戦前に村人が積極的な関係を持とうと
せんものは、駐在と税務署で、殺人でも内々で処理し密告等せんのも
村落のオキテであろう。部外者が立ち入り知る必要もない。
村の共同体が崩れた現代じゃあ、公権力に依存する率は高いけどのう。
129日本@名無史さん:2007/06/22(金) 00:59:38
>>124
縄文から続く精神性文化「勾玉」の継続性について、
何の説明にもなってない。
縄文の勾玉が日本列島全体の文化と云い難いのはその通りだが、
その勾玉が弥生時代になってさらに発展してるのは何故なんだ?

交易品だ何だで話をそらすなよ。
130日本@名無史さん:2007/06/22(金) 01:04:03
>>128
おい、そこの広島ハゲ。

そのリンク先は何だ?
何の話してるんだよ!
131日本@名無史さん:2007/06/22(金) 01:09:28
>>128

広島痴呆の提示したリンク先




日 猶 同 祖 論 を 考 察 す る




アイタタタ・・
132日本@名無史さん:2007/06/22(金) 07:16:24
>>99
>>101
>>112
>>107
>>111
>>112
>>118
>>120
>>122
>>129
にマトモに答えられないで貼ってるリンクがこれか…
133日本@名無史さん:2007/06/22(金) 18:09:43
>>124
で、その松本清張氏が言う濊(ワイ)集団ってのは、
半島で勾玉を埋葬する習慣や、
朱を使う習慣があったのか?
四隅突出墳が四角い古墳だから、
何となく高句麗的だろうというのならば、
ほんといい加減にしてくれよ。
134白馬青牛:2007/06/22(金) 23:59:53
相変わらず、具体的な言がのうて、他板でもネットウヨクが論破された時に
使う「証拠を出せ」の繰り返しじゃのう。詐欺師や盗人も窮すると
「証拠を出せ」云うが、同じ構造じゃろう。
>>129
勾玉が弥生時代に発展云うて抽象的なが、その意味はなんや?
>>131
確かに>>128の掲示板は、あんたらと同じで精神性じゃの宗教くさい人が
多いが、3月28日の元自、特科砲兵の方の、旧軍出身の上官の人達が
旧日本軍の犯罪の数々を得意げに話したことを、正直に云われたり、
昭和の戦争指導者が武士道のかけらもなく「国賊」と云われた部分に
ついては同意じゃ。まあ、国賊を英霊と賛美するネットウヨクらの方が
宗教狂信者であることは云うまでもない。
135日本@名無史さん:2007/06/23(土) 00:15:55
>>134

>相変わらず、具体的な言がのうて、他板でもネットウヨクが論破された時に
 使う「証拠を出せ」の繰り返しじゃのう。

ほう、他の板でも証拠も根拠も出さずに妄想を撒き散らしているのか。
論には証拠の後ろ盾が存在せねばならん事が、まだ理解できんのか?

>勾玉が弥生時代に発展云うて抽象的なが、その意味はなんや?

オイ、質問に答えろ。
無知をさらすな。

>あんたらと同じで精神性じゃの宗教くさい人が
 多いが、3月28日の元自、特科砲兵の方の、旧軍出身の上官の人達が
 旧日本軍の犯罪の数々を得意げに話したことを、正直に云われたり、
 昭和の戦争指導者が武士道のかけらもなく「国賊」と云われた部分に
 ついては同意じゃ。

ブログ自体は否定して、自分の都合の良い場所は「事実」と断定するのか。
呆れるな。

136白馬青牛:2007/06/23(土) 00:46:27
>>133
勾玉は新羅地域までじゃろう。翡翠の勾玉は交易品じゃけんのう。
出雲なら直接北陸の越に侵攻し職人を拉致して来作らせることが出来る。
四隅突出墳については、
http://www.lares.dti.ne.jp/~sako/yosumi.htm
四隅突出墳は、山陰、広島県北部、岡山県北部、北陸に分布するが、
森浩一氏は「朝鮮北部にある積石塚が遠い祖先」と云われた事が出て
おるが、石を積むことや、方形であることは同じ構造じゃろう。
最古が広島県三次盆地としても、広島県の四隅突出墳の人骨は
高顔渡来系で広島県の石棺墓の人骨の低顔縄文系と違う。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/4sumi1.html
下段の特別番外に、朝鮮北部の滋江道の例があるが、日本列島じゃあ
中国山地、日本海側と出雲勢力圏と云えようか。北陸から信濃に移ると
高句麗系積石塚が分布し、出雲、高句麗勢力の侵攻が考えられる。
137日本@名無史さん:2007/06/23(土) 00:49:50
侵攻じゃないだろ
138日本@名無史さん:2007/06/23(土) 01:41:27
>>136

>森浩一氏は「朝鮮北部にある積石塚が遠い祖先」と云われた事が出て
 おるが、石を積むことや、方形であることは同じ構造じゃろう。

またお得意の「先生がこう言ったからニダ!!」か?
じゃあ、高句麗の霊肉分離思想に基づかずに死体を埋葬しているのは何故だ?
征服したんだろう?

>広島県の四隅突出墳の人骨は
 高顔渡来系で広島県の石棺墓の人骨の低顔縄文系と違う。

お前前「渡来系と在来系があるんじゃ!!じゃじゃじゃ!!」
って言ってなかったっけ?

>北陸から信濃に移ると
 高句麗系積石塚が分布し、出雲、高句麗勢力の侵攻が考えられる。

なるほど、後にヤマト王権によって征服され、同化されたわけだ。
139日本@名無史さん:2007/06/23(土) 02:03:17
>>136
結局、朱と勾玉の埋葬が高句麗に見られるのか?と言う質問はスルーですね。

>北陸から信濃に移ると 高句麗系積石塚が分布し、
>出雲、高句麗勢力の侵攻が考えられる。

その高句麗系積石塚は何世紀のもの?
5世紀後半だろ。
百済の熊津遷都による混乱時に渡来してきた人たちだろう。
漢江沿いに積石塚があるが、あれと同系の人たちかもね。
おそらく馬の生産が仕事だったろう。
彼らは下伊那や長瀞西にみられるように、
明らかに劣位な地位の古墳しか作れてない。
何が侵攻なんだよ、このバカが。
140日本@名無史さん:2007/06/23(土) 02:11:09
>四隅突出墳は、山陰、広島県北部、岡山県北部、北陸に分布するが、
>森浩一氏は「朝鮮北部にある積石塚が遠い祖先」と云われた事が出て おるが、
>石を積むことや、方形であることは同じ構造じゃろう。

だいたいがさぁ、石を積んでりゃ高句麗起源なのかよ。
石を積む発想くらい自発的に出てくるだろが。
副葬品についても考察するのは当たり前だろが。
勾玉と朱の問題から逃げるなよ。
141日本@名無史さん:2007/06/23(土) 11:01:37
>>136
>勾玉は新羅地域までじゃろう。翡翠の勾玉は交易品じゃけんのう。

出雲から出土する勾玉の量は、半島・新羅地域の勾玉の量なんぞはるかに圧倒するね。
勾玉は交易品の一面も確かにあったかもしれない。
が、自分達も副葬品にするほど大切な物だったんだよね。
その四隅突出墳の人たちが濊や高句麗のはずがないではないか。
142白馬青牛:2007/06/24(日) 00:54:46
>>135-138
政治板でもネットウヨクは論破されたら、証拠を出せと火病を起こすが
ない証拠を出せんでみじめなのう。自分の都合以前に、旧軍上層部は、
一部の武士道を持っておられた人達は別として、沖縄や満洲で同胞の
日本人を棄てて逃げたじゃないか。
高句麗の霊内分離思想云うんは何か?具体的に書けや。ほいで高顔の
渡来系弥生人と低顔の在来縄文系弥生人は違うで。
ヤマト政権(天孫族・畿内高顔渡来系)よりも信濃の諏訪神社の主神も
出雲系じゃないんか。
http://www.shiga-miidera.or.jp/serialization/shinra/114.htm
高志(越)の八俣大蛇征伐、縄文中期のヒスイ勾玉の遺跡と伝統ある
新潟県の糸魚川の玉生産を出雲、高句麗、新羅勢力が侵攻したとも
云える。出雲族が「鹿塩の地で天孫族を迎え撃った伝説から天孫族に
敗れたというのは嘘である。」と。真偽は解らんが、北陸は新羅・
高句麗系の侵攻地であろう。継体天皇も越前の新羅・伽耶系かも知れん。
143日本@名無史さん:2007/06/24(日) 01:06:24
>>142
おい、おっさん。
とうとう神話に逃げたか。
今までの質問、全部スルーか・・・

>北陸は新羅・高句麗系の侵攻地であろう。
>継体天皇も越前の新羅・伽耶系かも知れん。

根拠は?
144日本@名無史さん:2007/06/24(日) 01:10:47
>政治板でもネットウヨクは論破されたら、証拠を出せと火病を起こすが
>ない証拠を出せんでみじめなのう。

こいつ発狂したのか?
日本語になってない。
証拠を出せんでみじめなのはおまえだろ?
145日本@名無史さん:2007/06/24(日) 01:12:07
>>142
つくづくバカな痴呆だな。

>高句麗の霊内分離思想云うんは何か?具体的に書けや。

日本の古墳では、社会的上位の者の遺体を、古墳上部に埋葬したな?
様々な宝物・武具・農具とともに。
それも、明確に遺体を保護する目的の施設を伴って。
これは、日本人が霊肉分離の思想を持っていなかったからだ。
つまり、死者が神に擬せられるのだ。
一方、高句麗はどうだ?
死体に対して、何か守ろう、保護しようという施設があるか?
日本のように、呪術的副葬品は存在するか?
まあ、代わりに霊肉分離の概念を体現したと思われる土器類は見つかるがな。

>ほいで高顔の渡来系弥生人と低顔の在来縄文系弥生人は違うで。

どっちなんだお前?
主張を統一せいや。

>高句麗、新羅勢力が侵攻したとも

少なくとも、日本の政権が固まるのは4世紀中庸。
新羅に至っては後半だ。
バラバラな勢力が、どうやって日本に侵攻したのかね?
それに、高句麗はその時期、南朝鮮に力を伸ばしていないぞ?
それはそうと、これはこたえてやらんのか?

>その高句麗系積石塚は何世紀のもの?

いつも逃げてばかりだなw
146日本@名無史さん:2007/06/24(日) 01:26:35
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai00/tz2012f7.jpg

群馬県高崎市長瀞西遺跡。
積石塚は円墳や方墳に比べ、端っこの方にこじんまりと存在してる。
で、関東の古墳王国・群馬にはもちろん前方後円墳も多数ある。
じゃ序列で言えば、
前方後円墳の下に円墳や方墳。そしてその下に積石塚だな。

積石塚の人間達が侵攻だと?

言っとくが信濃も似たようなもの。
147白馬青牛:2007/06/24(日) 01:28:57
>>139-140
翡翠の勾玉の分布は新羅までじゃろう。朱や勾玉は隷属民の産物で、
出雲は越隷属を拉致しても高句麗までは流入しとらん。
信濃の高句麗が5世紀以降として高句麗系の改姓が平安期初めじゃし、
ヤマト政権に属したと云い難い。優位な古墳とやらも、諏訪の出雲的要素
から、在来民のものじゃあるまい。石を積む発想が自発的に出てくる
根拠例たァどがいな例を根拠としとるんか?ワレはわしの質問に全然
答えんが、ちいたあ逃げずに答えんかい。
>>141
勾玉が大切なもんなら、何で新羅に売るんか?新羅の王冠に勾玉があるんも
交易品である云うことで、あんたらが宗教的精神論で語ってものう。
四隅突出墳の高顔渡来系が濊・高句麗のはずがない云うんも、おどれら嫌韓
ネットウヨクの感情妄想論で根拠もない。
148日本@名無史さん:2007/06/24(日) 01:47:23
よく読めハゲ。
四隅突出墳に朱や勾玉が埋葬されてる。
隷属民が古墳を作ったのか?

>勾玉が大切なもんなら、何で新羅に売るんか

売ったと決めてるのはおまえだろが?
自分に質問してどうすんだボケ。
新羅にも勾玉があるのは倭人の進出の証拠。

結局、縄文からの継続性について答えきれないんだな?
逃げずに答えんかい、このおかまハゲ!
149日本@名無史さん:2007/06/24(日) 08:49:54
>148
おれは白馬青牛さんの意見を読むのが好きなのに、
あんまり罵倒するのは止めようや。せっかく来てくれてるのに。
暇人のあんただって白馬青牛さんがいなくなったら
話し相手がいなくなって寂しいぞ(笑
150日本@名無史さん:2007/06/24(日) 09:16:04
>>149
罵倒たってこいつのおどりゃ〜やわりゃーはどうなんだ。
しかも読み辛い広島弁。
しかも本質をはぐらかす。
しかもほとんどの話が騎馬民族説とスレ違い。
俺は別のスレに行って欲しいと思うが?
151日本@名無史さん:2007/06/24(日) 09:35:05
>>147
>信濃の高句麗が5世紀以降として高句麗系の改姓が平安期初めじゃし、
>ヤマト政権に属したと云い難い。

「高句麗系の改姓が平安期初め」というのは、7世紀後半の高句麗滅亡後に帰化した人たちの事ではないのか。
前文の「信濃の高句麗が5世紀以降として」の人たちとは別。
一緒にするとややこしい。
5世紀(後半)からの高句麗というのは、高句麗とは決まってない。
高句麗系というか百済だ。
百済には漢江に沿って積石塚があるらしいがその系統ではないかと。
何故百済に高句麗系の積石塚があるのかは知らないが…
群馬・長瀞の積石塚はその系統だろう。

で、大室にある合掌型の古墳もまた別だろう。
これは明らかに馬匹生産に関わってた人たちで、
この頃、大和は半島でしきりに戦ってたので、
その関係で日本に来たのだろう。

おおまかに3通りがあるみたいだが、全部、大和に属してるよ。
152日本@名無史さん:2007/06/24(日) 09:51:16
>>147
>>優位な古墳とやらも、諏訪の出雲的要素 から、在来民のものじゃあるまい。

優位という説明で群馬の例を出したから、また群馬で説明するけどいいか?
太田天神山古墳だったと思うが、
出土した石棺から畿内の大王の近親とも言われる古墳がある。
この古墳の埋葬者と、長瀞の隅っこの積石塚の埋葬者の序列は言うまでもないよな。
つまり大和政権の支配下に入ってたという事になるよね?
153日本@名無史さん:2007/06/24(日) 16:42:41
『朝鮮人の『反日主義』は、2000年前から始まった』
http://cgi.members.interq.or.jp/asia/showashi/cgi-bin/trees.cgi?log=&v=1565&e=res&lp=1565&st=0

 多くの日本人が、朝鮮・韓国人の『反日主義』は、戦後に始まったものだと思い込んでいる。
あるいは、次のような思い込みがある。

(1)明治時代に日本が朝鮮半島を併合したことが原因で、朝鮮民族は反日主義になった。
(2)高麗時代に、『倭寇』という日本人海賊が高麗(朝鮮)を襲ったので、朝鮮民族は反日主義になった。
(3)豊臣秀吉が『朝鮮征伐』を行ったことが原因で、朝鮮民族は反日主義になった。

 上記の説は、全て誤りである。特に(2)は間違っている。倭寇とは朝鮮海賊であって、
日本人は無関係なのである。倭寇の正体は、高麗の三別抄(傭兵軍団)とその残党である。

【気ままに歴史】『元寇と高麗』『高麗の無法集団=三別抄』
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 実は、朝鮮民族の『反日主義』が始まったのは西暦1世紀頃からなのである。それは、古代のカラ半島をめぐる
『領土戦争』が原因なのだ。
 朝鮮民族が、半島南部の日本領土(シラキ・ウルマ・ミマナ・クタラ・タムラ等)に対し、執拗に侵略を繰り返したために、
日本民族と朝鮮民族の間で『領土戦争』が起きた。それが、朝鮮民族の『反日主義』の起源なのである。
154日本@名無史さん:2007/06/24(日) 16:45:26
>>147
>朱や勾玉は隷属民の産物で

ほほう、はっきり言ってくれましたな。
おかげで質問しやすくなった。

出雲の王家の谷とも言われる西谷古墳群に、
大量の勾玉や朱が使われてると言う事は、
あなたが言う【隷属民の墓】という事になりますね?

じゃ支配者の墓は別にあるという事になりますね。
どんなので、どこにあるのですか?

スル〜しないでくださいよ。
155日本@名無史さん:2007/06/24(日) 20:07:05
お〜い、ハゲ痴呆よ〜い。




霊肉分離についてはスルーか?




156日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:06:09
>>1
なんでいつも荒れるスレを何度もたてるの?
157日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:51:56
>>156
根拠もなく、日本は支配されただ、隷属されてただ言うコテハンさんがいれば、
荒れるのはあたりまえ。
彼の言うネット右翼でなくても、根拠を言え!となるからね。
158日本@名無史さん:2007/06/24(日) 23:08:43
しかもそいつ、隷属され「なかった」ことを証明しろとかほざくオカルトマニアだし
159日本@名無史さん:2007/06/24(日) 23:22:55
朝鮮人だからだろ。
160白馬青牛:2007/06/25(月) 00:50:36
>>143
神話云う文化人類学的要素を無視して、全体像の構築は出来んよ。
>>145-151
被葬位置における高句麗と日本の相違についての論文は知らん。
高句麗と日本の何処の古墳被葬者例を比較したんか。その辺を詳しゅう
書かんかい。また霊内分離の思想判断材料の事例についても述べて
貰いたいもんじゃ。
また、4世紀中庸に日本の政権云う根拠は何か?新羅については、
377年の秦に入貢から4世紀に国家形成となったろう。
信濃の高句麗人は積石塚から、平壌遷都の土塚墓以前と考えた方がええし、
掛婁真老や後部黒足等高句麗系が多いではないか。森浩一氏は、信濃の
高句麗人を5世紀頃から始まって、六世紀にその子孫が繁栄したと
されるが。大和が朝鮮で戦うた根拠も確認出来んよ。それこそ、戦闘
犠牲者の人骨が大量に出た云う報告も知らん。それこそネットウヨク用語の
「証拠がない」になるんじゃないか?矛盾しとるよ。>>152の群馬の
埋葬者の人骨は渡来系か土着縄文系か述べんのか?>>154も、土着民の
産物があったら、土着民の墓になる云う短絡的根拠は?
>>157日本列島は渡来系に支配されたが、本土日本人の多数は土着原住民を
支配・隷属した渡来系の加害者じゃ。そうでない根拠はあるんか?
161日本@名無史さん:2007/06/25(月) 01:06:27
>>160

>神話云う文化人類学的要素を無視して、全体像の構築は出来んよ

お前は都合の良い解釈しかしないけどな。

>被葬位置における高句麗と日本の相違についての論文は知らん。

知らんならデカイ口を慎め。

>高句麗と日本の何処の古墳被葬者例を比較したんか。その辺を詳しゅう
 書かんかい。

ハイ?日本で大型の古墳が集中する佐紀・馬見・古市・百舌鳥古墳群では
全て以上のような埋葬のされ方がされている。
(まあ全国的なものだが・・)
で、高句麗古墳群ではそれが見当たらん。何故かな?ん?

>また霊内分離の思想判断材料の事例についても述べて
 貰いたいもんじゃ。

もっかい>>145見ろ。しっかりな。

>4世紀中庸に日本の政権云う根拠は何か?

391年、新羅・百済と交戦したな?
逆に聞くが、日本の政権が成立していなかったという根拠は?

>377年の秦に入貢から4世紀に国家形成となったろう。

予想だけじゃ歴史は動かん。
162日本@名無史さん:2007/06/25(月) 01:09:55
>>160

>大和が朝鮮で戦うた根拠も確認出来んよ。それこそ、戦闘
 犠牲者の人骨が大量に出た云う報告も知らん。

ほうw
日中韓三国で第一級の歴史資料となっている広開土王碑を否定するわけかw
ていうか、お前も「犠牲者の人骨が出てないから戦いは存在しない」と考える
わけだな?

じゃあ犠牲者の人骨がないから渡来人は征服したわけじゃないなw
163日本@名無史さん:2007/06/25(月) 01:29:31
仕込まれたトラップというトラップ、地雷という地雷すべてに
丁寧に遺漏なく引っかかり馬鹿を晒す白馬青牛ってナイスガイだよね
164白馬青牛:2007/06/25(月) 02:04:48
>>161
誰の論文からが聞きたいんじゃが。高句麗古墳群では、それが見当たらん
云うんはどの高句麗古墳群からの調査報告か?詳しゅう述べえや。
>>145も根拠を述べとらんど。新羅は、377年(太元2年)だけじゃ
のうて、380年(太元5年)三月の条もあろう。
>>162
考古学の次ぎは文献か。広開土王碑文の倭が、日本列島の倭とする
根拠は何か?
日本列島で犠牲者の人骨は、鳥取の青谷上寺地遺跡でも出とるが、
当時、列島在来系で渡来系と戦えるだけの武力はあるまい。
渡来系同士の戦闘が主じゃったろう。
>>163
馬鹿を露呈しよるんは、わしじゃのうて嫌韓ネットウヨクの方じゃけえ、
みじめなのう。
165日本@名無史さん:2007/06/25(月) 06:42:46
>>160
>土着民の産物があったら、土着民の墓になる云う短絡的根拠は?

言ってて恥ずかしくないか?
じゃ支配者が土着民の習俗である朱を使い勾玉を埋葬したのか…?
その支配者とやらは半島のどこの人間か言えや。
偉い「先生」の意見を紹介するのでなく。

それと騎馬民族の産物があったから、騎馬民族の墓になる云う短絡的根拠を言ったのは
江上なんだけど。
倭の伝統的産物を無視して、騎馬民族の産物があることだけでね。
江上を批判しないのはお気に入り学者だからか?w
166日本@名無史さん:2007/06/25(月) 08:08:28
>>160
>群馬の埋葬者の人骨は渡来系か土着縄文系か述べんのか

骨は出てないよ。
もし出てても「古墳人」だろうね。
あなたは骨の話でごまかそうとしてるけど、
積石塚が序列の下位だという意見に反論できないと言う事は、
認めたのですね、ありがとう。
167日本@名無史さん:2007/06/25(月) 08:47:11
>>164

クレクレ厨か?ホレ
http://homepage1.nifty.com/uraisan/yakata2/j0403.html
www1.u-netsurf.ne.jp/~jnaka/china1/china13.htm
論文は、広瀬和雄氏の「前方後円墳と大和王権」だ。
まあ見ないだろうが。

>新羅は、377年(太元2年)だけじゃ
 のうて、380年(太元5年)三月の条もあろう

それが領域国家としての新羅の朝貢と言えるのかあ?
奴国のような朝貢じゃないのかあ?

>考古学の次ぎは文献か。広開土王碑文の倭が、日本列島の倭とする
 根拠は何か?

またそれか。
1 日本列島で、大和王権の象徴たる前方後円墳が広開土王碑の年代に
  多く建設されている。即ち、大和王権の広域支配が成立している。
2 朝鮮半島には、倭と名乗る勢力は存在しない
普通、これでわかるだろ?
そんなに事実を捻じ曲げたいのかね?w

>青谷上寺地遺跡

それ弥生の遺跡だろがw何?話をそらそうとしてるの?

168日本@名無史さん:2007/06/25(月) 08:49:21
>当時、列島在来系で渡来系と戦えるだけの武力はあるまい。

「あるまい」また推定だなwいい加減、事実を認めたら?
渡来系が縄文を征服したという根拠が無いんだからなwww

>渡来系同士の戦闘が主じゃったろう。

それで良く縄文を征服したなど言えるなw
身内で戦ってたら、征服なんてできんだろがww

そういや、
1 縄文人の作れない、それでいて価値のある渡来人の生産物
2 縄文人を征服した証拠

はまだ答えてくれないのかなw

てか、霊肉分離の思想については反論できないんだねwww
169日本@名無史さん:2007/06/25(月) 09:26:13
>>160
>森浩一氏は、信濃の 高句麗人を5世紀頃から始まって、
>六世紀にその子孫が繁栄したとされるが。

その人たちを征服者などと言うから「はぁ?」となるわけだ。
あのあたりで言えば、森将軍塚という巨大古墳と、
それら渡来系の墓の序列を考えなきゃ。
群馬の例と同じ。
170日本@名無史さん:2007/06/26(火) 00:45:27
厨房の頃、騎馬民族征服説というセンセーショナルな学説に触れ、
以来手に入る(というか意に添う、か?)文献をそこそこ読んで
偏った知識を詰め込んだオツムで2chで高説を垂れようとしたら
思わぬ反撃に遭い、いま必死でお勉強中の白馬青牛…
けっこう幸せ者じゃないか。みんなに感謝しろよ。
あとな、常識があるなら(ないんだろうけど)全国の人間が見てる
掲示板の書き込みに無闇に方言を使うなクソ鬱陶しい。
ワンポイントの強調や弛緩や、そういう効果を狙ってるでもなく延々と広島弁って
何の意味もないし面白くもないし個性的でもない。
周りの人は自分の事を理解してくれるべきだ、という幼い精神性しか見えない。
171日本@名無史さん:2007/06/26(火) 01:02:12
卑弥呼の時代まで遡ったとしても
いわゆる日本は、
中国文明、果てやローマ帝国なんかに比べて
はるか遅れてやって来たニューカマーな文明ということは
もはやどの国の知識人も薄々わかってる事なのに。
江上先生の騎馬民族説が真実でないにしても、
どっちにしろ日本の皇祖を辿れば、いつの時代か
大陸から流れこんで来た人達の誰か、
もしくはその子孫なのは明らかなのに
172日本@名無史さん:2007/06/26(火) 01:14:28
>>170
ギスギスした文章だこと。心病んでるよあんた。
もっと心に余裕を持たないと(笑
普段ロムってるけど、
あの方言が味があっていいんだよ
173日本@名無史さん:2007/06/26(火) 01:22:32
日中戦争(支那事変)9 参謀本部第二部支那課
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/army/1180107898/

郷土の英雄。帝国陸軍師団の歴史 其の弐
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/chiri/1144579367/

【YAP】日本人とチベット人は同祖【GM】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/geo/1117725834/

出身国別 最強兵卒はドコだ?? パートA
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1168497193/

日本女性は処女性を重んじない
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1163713670/

坂東武者は本当に残忍だった?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1138247458/

【江上】騎馬民族説は今。。。vol.10【波夫】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1180714761/
174日本@名無史さん:2007/06/26(火) 05:22:42
>172
あんなのを味があるなんて言ってるおまえこそ心病んでるとしか
思えんけどな。
もしおまえが白痴青牛の自演でないというなら、
歯の浮くようなお世辞垂れてないで適切な援護射撃でも
してみせたらどうだ?
もしかして>171がそのつもりなのかもしれんがw
175白馬青牛:2007/06/26(火) 22:25:37
>>166
「古墳人」が答えか。骨の話じゃのうて群馬県の古墳については、
http://members3.jcom.home.ne.jp/yoshi-cp/gmasakura.htm
どうも出雲に多い前方後方墳の影響もあろうが、新羅系渡来人も
無視出来ん。まあ、群馬は子午足等193名が改姓願いを出したよう
新羅系が多い土地じゃし。
一方、「知見印象」に、前方後円墳を加羅(崇神天皇)の渡来勢力の墓と
されるが、「金冠塚古墳考察」で、この前方後円墳は、継体天皇の東国平定
の時、動かされた北陸の新羅勢力の墓とされる。新羅の金冠が群馬じゃあ
銅制となるが、「出」方の直線的冠は新羅そのものであろう。百済は
曲線的冠じゃけんのう。また北陸が角杯土器等、新羅系の多い土地じゃった
けえ、出雲・高句麗・新羅系の東国支配の可能性は強い。前方後円墳は、
積石塚渡来集団等の古墳も同族の首長者クラスが序列権威付けの為したもん
じゃろうて。前方後方墳もそうじゃろう。
176白馬青牛:2007/06/26(火) 22:51:31
>>167
クレクレ厨?わしが広島県呉(九嶺)市の厨か?広島県全体の厨にして
呉れえや。前方方円墳が大和王権と結び付けたい考古学者が文献に合わせて
解説しよるだけじやろう。領域国家?当時の朝鮮半島や古代日本が領域国家
か?海上路を重視する「点と線」の世界で「面」の領域国家じゃあるまい。
倭の解説じゃが、朝鮮の漁撈集団は倭じゃないか。井上秀雄氏は、
魏志から隋書の時代、朝鮮半島南部〜九州島迄を倭とされる。
記述に阿蘇山は出ても、難波港や飛鳥の記述はない。つまり畿内は倭じゃ
ないと。まあ倭は内モンゴル・楽浪海中の時代もあったわけじゃし。
あんたが事実云うても、ネットウヨク用語の「証拠がない」んじゃわい。
青谷上寺地は渡来系弥生人の例じゃが、縄文人が征服されてないんなら
縄文系人骨の戦死者の痕跡が多くあってもええ思うが。そがいに無いんか?
177日本@名無史さん:2007/06/26(火) 22:53:59
>>175
子午足って8世紀でしょ。
時代軸がバラバラなんだけど。

>新羅の金冠が群馬じゃあ 銅制となるが、「出」方の直線的冠は
>新羅そのものであろう

金冠などは威信財でしょうね。
新羅に前方後円墳はないでしょ?
出土部の一部に新羅のものがあるから新羅人の墓だろうと言うなら、
加古川の行者塚古墳に3世紀の晋の帯金具が出土してるのはどうなるのだろう。
また世界最大の墳墓・大仙陵からペルシャグラスが出土してるようので、
世界最大の墳墓に埋葬されてるのは、ペルシャ人という話にもなる。
178日本@名無史さん:2007/06/26(火) 23:03:44
>>175
>前方後円墳は、積石塚渡来集団等の古墳も同族の首長者クラスが序列権威付けの為したもん
じゃろうて。

つまり群馬で言えば太田天神山古墳は畿内の大王系のものでなく、
渡来人の首長のものという話ですね。
なんで渡来人が長持型石棺に埋葬されるのでしょうか?
179白馬青牛:2007/06/26(火) 23:45:38
>>168
渡来人の生産物は須恵器等あるんに、また同じ言の繰り返しか。
それたァ具体的な霊内思想とやらを説明せえや。宗教カルト君よ。
>>170も、そがん虚勢を張っても意味がなあど。厨房なら夜ざるひかんと
寝る時間じゃろう。朝早う学校行かにゃあ。人の理解も万人の中の一人でも
こういう視点もあるんかと自らが思考してくれりゃあええ。厨房さんの
心配はご無用じゃ。
>>177
時代軸がバラバラ云うが、先に移住した地に故郷の後続連中が来るんが
異常なんか?冠自体を権威にするんなら百済系の曲線文様でもええじゃ
ないか。何で新羅系の様式を使うたんか。新羅は双円墳で前方後円墳や
前方後方墳と違う。墓の形式は流行や権威付けのもんで、民族や集団を
特定するもんじゃあない。高句麗の石塚から土塚のように。
ペルシャ・グラス、ローマン・グラスと遠地からと、朝鮮、日本の近地の
人の移動を混同させても意味がない。出土品と文献、伝説説話の
モチーフ等総合的に考察せにゃあ学問じゃないわい。
他板にも書くけえ今日はこれまでじゃ。
180日本@名無史さん:2007/06/26(火) 23:50:15
>>176

>前方方円墳が大和王権と結び付けたい考古学者が文献に合わせて
 解説しよるだけじやろう。
んじゃあ、何故大和王権の勢力圏とピッタリ一致するんだ?古墳の分布域がよ。
納得いく説明をしてもらおうか?ん?
>領域国家?当時の朝鮮半島や古代日本が領域国家か?海上路を重視する
 「点と線」の世界で「面」の領域国家じゃあるまい。
バ〜カw
日本が都市国家の連合体と考えてるのか?大馬鹿野郎w
都市国家なんか無いってほざいたのはお前の方だぞ?
>朝鮮の漁撈集団は倭じゃないか。
>井上秀雄氏は、魏志から隋書の時代、朝鮮半島南部〜九州島迄を倭と
 される。
だから、お前の都合の良い学者がそう言ってたからって、それが事実とは
限らないの。
>記述に阿蘇山は出ても、難波港や飛鳥の記述はない。つまり畿内は倭じゃ
 ないと。
お前に良いものくれてやるよ。
つja.wikipedia.org/wiki/九州王朝説
>史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。[30]
考古学の資料分析の成果に合わない。[31]
漢文の読み方が恣意的である。[32]
九州王朝の歴史を記録した一次史料が存在しない[33]。したがって説の
論拠となる史料は、記紀や中国や韓国の歴史書等に散見される間接的な
記事、九州年号(逸年号が九州年号である証明は無い)や大宰府など僅
かに残されたものに止まっている。この直接的記録が無いことが、九州
王朝否定論の論拠となっており、また多くの亜流を生む原因ともなって
いる[34]。
181日本@名無史さん:2007/06/26(火) 23:53:34
>>179

>渡来人の生産物は須恵器等あるんに、

須恵器の導入は古墳時代です。

182日本@名無史さん:2007/06/26(火) 23:56:45
>>176

>まあ倭は内モンゴル・楽浪海中の時代もあったわけじゃし。
あんたが事実云うても、ネットウヨク用語の「証拠がない」んじゃわい。

お前が「事実じゃじゃじゃ!」って言っても、倭=南朝鮮・北九州
の証拠も無いんだよねw

>ペルシャ・グラス、ローマン・グラスと遠地からと、朝鮮、日本の近地の
 人の移動を混同させても意味がない。

渡来人の渡日と帝国主義時代の西欧人の行動を混同させても意味が無い。

>出土品と文献、伝説説話のモチーフ等総合的に考察せにゃあ学問じゃないわい

そして自分の都合の良いものだけ拾い上げるわけだw
183日本@名無史さん:2007/06/27(水) 00:07:12
usiは征服厨ですなあ
184日本@名無史さん:2007/06/27(水) 00:29:08
>>179
>墓の形式は流行や権威付けのもんで、民族や集団を特定するもんじゃあない。

それは墓の形式でなく、むしろ出土品に対して言わなければ。
新羅の物が出たから、その墓は新羅人だろうの方がよっぽど短絡的。
文化受容という点を無視してる。

渡来系の墓というのは、それなりの理由がある。
新沢千塚126号墳は珍しい長方形の古墳だし、
出土物が遠くペルシャにまで及んでるから、明らかに渡来系の墓となるわけだ。
群馬・長瀞西の積石塚も同じ。
積石塚という墓の形式はもちろん、韓式土器や金銅製の装飾品が出る。
これも間違いなく渡来系の墓でしょう。

ところが太田天神山にはそれがありません。
それがなんでいきなり、あなたが言う「渡来系の首長」になるのかな?
185日本@名無史さん:2007/06/27(水) 00:35:41
>>179
新羅系の物が出てるから新羅人になるなら、
四隅突出墳に勾玉や朱が使われてるから在地系弥生人でいいんだな?

ダブルスタンダードはやめてくれ。
186日本@名無史さん:2007/06/27(水) 01:41:04
魏志倭人伝には邪馬台国から東方にまた大海を渡って国があるが皆倭種と
書いてあるな。

 邪馬台国が九州だとすると大海(瀬戸内海?)を渡れば中国、四国くらい
、近畿だとすると大海(伊勢湾?)を渡って東海地方も倭種だったことに
なる。
187日本@名無史さん:2007/06/27(水) 08:49:20
>>179
>新羅は双円墳で前方後円墳や前方後方墳と違う。
>墓の形式は流行や権威付けのもんで、
>民族や集団を特定するもんじゃあない。

大阪の金山古墳は日本で珍しい双円墳だ。
墓の形式は民族や集団を特定する大きな要素だ。
188日本@名無史さん:2007/06/27(水) 14:37:36
>>187
古墳群を見たこともない、お馬鹿な机上の空論。

築造時期がそれほど離れない間で、複数の墳形(墓の形式)が混在することなど、珍しくもない。
前方後円墳と円墳の混在など、むしろデフォルトといってよいほど。
これらに加え、方墳と前方後方墳も混在する古墳群すら、ちらほらあるぞ。

そこで、前方後円墳体制など、「墓の形式は・・・権威付け」という説が有力なわけだ。
189日本@名無史さん:2007/06/27(水) 18:58:48
>>188
>複数の墳形(墓の形式)が混在することなど、珍しくもない。

>「墓の形式は・・・権威付け」という説が有力なわけだ

どこで有力とされてるのか知りたいのだが、
倭固有の前方後円墳が「権威」になると言う事自体、
異民族による支配や征服を意味しないよね。

俺は権威付けよりは皇流の意味があったと思う。
血筋が何よりも重んじられたから。

190日本@名無史さん:2007/06/27(水) 22:26:24
おれ死ぬ前に分譲墓地の一区画に収まるサイズのMy前方後円墳つくるつもり
スレの流れとは関係ないけどさ
191日本@名無史さん:2007/06/27(水) 23:12:14
女子トイレ墓
192日本@名無史さん:2007/06/28(木) 01:43:22
>>190
盗掘とかされんじゃね
193日本@名無史さん:2007/06/28(木) 03:35:13
お可哀想に。
ここのお家、墓石も建てられないほど貧乏なのね。
194白馬青牛:2007/06/29(金) 00:38:14
>>180
前方後円墳と大和政権が一致する云うんは考古学者が記述に当てはめよう
と、こじつけに過ぎんし、点と線の確保支配は、東南アジア・イスラム圏・
中央アジアの砂漠地帯を近代領土概念の支配じゃあるまい。
砂漠地帯をどう領土支配するんか?東南アジアも古代日本も拠点支配
するしかあるまい。白村江以降の律令国家じゃあ、面的支配の側面も
出てくるが。鮮卑に拉致され漁撈生産した倭は何か?
まあ生口献上の奴隷輸出の倭らしいエピソードじゃが。
関係ない、九州王朝説と関連付けられても困るよ。
>>181の渡来人云うんは弥生後期〜古墳期の渡来人のことじゃ。
>>182倭が列島だけを指す根拠は見つかったか?倭は東北アジア一帯に
おったんじゃけどのう。>>183「ですなあ。」云う言い方もネットウヨクが
よう使うのう。>>184積石塚等故国の墓を継続しとるんは、文献等
多面的に考察し可能性が強いわけじゃし、ほうよ、出土品じゃ。
http://www.page.sannet.ne.jp/gooki/p/sonota/haniwa.htm
の、太田市出土の埴輪はミズラの髪型、胡服で北方民族の習俗、
縄文系の椎結の髪型じゃないし、魏志倭人伝の貫頭衣でもないのう。
195日本@名無史さん:2007/06/29(金) 00:41:46
近頃けったいなデザインの墓も多いし、前方後円墳ふうもいいかもな。
最低一坪くらい欲しいけど
196日本@名無史さん:2007/06/29(金) 00:48:14
勾玉の継続は、大陸アジア文化の継続で
と言ったり
勾玉は新羅地域までじゃろう

と言ったりする馬鹿がまた来たw
197日本@名無史さん:2007/06/29(金) 00:51:49
>>194
>太田市出土の埴輪はミズラの髪型、胡服で北方民族の習俗、
>縄文系の椎結の髪型じゃないし、魏志倭人伝の貫頭衣でもないのう。

その通り。
秦氏かもしれないが、亡命北方民族が来てたのでしょう。
だからと言って4世紀からの大きな前方後円墳がある、
毛野氏の地盤の群馬で、
彼ら北方民族がその巨大前方後円墳に埋葬されたとは考えにくい。
首長の配下の者だからこそ埴輪になったのだろう。
198白馬青牛:2007/06/29(金) 01:03:36
>>185
渡来人の墓に現地民の産物が入って何がダブルスタンダードなら。
>>186
東云うても、豊後から南下し日向かも解らんのに、何で瀬戸内、畿内と
幸せ回路になるんか?
>>187
新羅系が渡来して、必ずしも母国の墓制を継続しとる訳でもない。
>>196
勾玉は玦状耳飾からで大陸の継続文化じゃが、大陸の新文化の流入と
列島の日本海側のローカル継続を同一視されてものう。
後世じゃあ、勾玉は日本海交易ルートで新羅まで流入したわい。
199白馬青牛:2007/06/29(金) 01:13:16
>>197
毛野氏も渡来系の田辺氏と同族説や出雲〜紀伊から北関東へ来た説も
あるが出雲神系統云うことは、出雲〜北陸〜東山道〜上野へ辿ったと
云う説もあり、日本海経由も無視し難い。
毛野氏自体の人類学的考察が出とらんゆえ、今の処断定は出来ん。
200日本@名無史さん:2007/06/29(金) 01:17:56
>>199
毛野氏は崇神天皇時代からの古族だ。
201日本@名無史さん:2007/06/29(金) 01:18:49
このスレは白馬青牛の独り言のためにそっとしといてやって
みんなでどっか行かねえか?
なんかさ、このスレいると痴呆老人の話し相手でもしてるような気分になる
202日本@名無史さん:2007/06/29(金) 01:20:46
>>198
>渡来人の墓に現地民の産物が入って何がダブルスタンダードなら。

なんで渡来人の墓って決まってるんだよ。
根拠を言え。
おまえ頭がおかしいよ。
203日本@名無史さん:2007/06/29(金) 01:22:32
>>198
>新羅系が渡来して、必ずしも母国の墓制を継続しとる訳でもない。

例えば何古墳?
204日本@名無史さん:2007/06/29(金) 01:29:06
>>198
>勾玉は玦状耳飾からで大陸の継続文化じゃが、大陸の新文化の流入と
>列島の日本海側のローカル継続を同一視されてものう。

縄文後期の九州にもありますが何か?
http://www.pref.kumamoto.jp/education/hinokuni/tuushinkumamoto/no.12/no12_3.html
205日本@名無史さん:2007/06/29(金) 22:06:18
>>194

>前方後円墳と大和政権が一致する云うんは考古学者が記述に当てはめよう
 と、こじつけに過ぎんし、

前方後円墳の分布域は九州から東北南部まで。
ヤマト王権の支配域は、沖縄・北海道・東北北部除く日本全域。
どこがこじつけだ?

>砂漠地帯をどう領土支配するんか?東南アジアも古代日本も拠点支配
 するしかあるまい。

話を摩り替えないでくださいwその拠点ってのは何ですか?
日本には、その拠点が無数にあったんですが?
弥生・古墳時代の人間は、大多数がムラに集住してたんですが何か?

>>181の渡来人云うんは弥生後期〜古墳期の渡来人のことじゃ。

「縄文人の作れない、それでいて価値のある渡来人の生産物」
が須恵器か?
須恵器が具体的に 縄 文 人 にとって、どう価値があったのでしょうか?

>倭が列島だけを指す根拠は見つかったか?倭は東北アジア一帯に
 おったんじゃけどのう。

ちゅうごくじんは、わってことばをやまたいこくのじだいからにほんに
しようしてきたよね?
にせいきいごのわがおまえのいうようないみでつかわれたしょうこは
ないのかな?

あたまおかしいね。ちほうじじい。
しねば?
206白馬青牛:2007/06/29(金) 22:12:02
>>200
その毛野氏は>>199で云うたよう、人類学的考察せにゃあ解らん問題じゃ。
>>202の、土器を作るんは土着被征服民じゃ。そこに征服民のミズラの
髪型で、胡服の筒袖の埴輪がある云うことは征服民の習俗を被征服民に
描かせた云えよう。>>203は、>>175をよう読め。
>>204
玦状耳飾について、わしゃあ以前江南起源としたが、わしの間違え
じゃった云うたはずじゃ。近年じゃあ中国東北部(満洲)起源の
可能性が強い。
http://www.nihonkaigaku.org/03f/i031213/t1.html
2の、「東アジアの最古の玦状は、西遼河流域に出現」したこと。
「玦状は中国東北地区(満洲)を中心に四方に広がっている。」こと。
結論として「玦状の起源は中国東北地区(満洲)にあるとしてよい。」
3・4・5に記されてあるよう、日本の北方系非ロクロ系Aと
江南の浙江省〜東南アジアのロクロ系Bは違う。
図に九州西南部もあるが、日本海側を中心とした文化で、
古墳期までヒスイ勾玉の産地が日本海じゃったんは伝統継続と云えよう。
207日本@名無史さん:2007/06/29(金) 23:31:48
>>206
>土器を作るんは土着被征服民じゃ。そこに征服民のミズラの
>髪型で、胡服の筒袖の埴輪がある云うことは
>征服民の習俗を被征服民に描かせた云えよう

そんな事言ってるのはあなただけだろう。
4世紀から続く前方後円墳の首長に、
金銅製の装飾品などを贈呈したのが渡来系の工人だ。
蝦夷対策の武人として入植した人も多かったろうが。
彼らは征服でなく亡命だろう。

勾玉についてはルーツなんてどうでもいい。
何度も言うが縄文、弥生、古墳と続く継続性の話なんだ。
異民族による征服などの断続が見当たらないでしょ?
208日本@名無史さん:2007/06/30(土) 05:30:51
>>206
>>>175をよう読め。

金冠塚古墳か?
文化受容という概念が抜けてるのはアホ。
日本でベンツに乗ってる人はドイツ人だろうと同じ発想。
209白馬青牛:2007/07/01(日) 01:25:21
>>205
こんな(君・こいつ)、文章の間に点ぐらい付けや。
後漢書鮮卑伝の拉致された奴隷民の倭人の説明がないど。
おどれに、「しねば?」云われる筋合いはないわい。
わしゃあ、おどれらブクブク太りよった豚ネットウヨにやられるほど、
老いぼれちゃあおらんど。
>>207
前方後円墳の被葬者が渡来系じゃない云う根拠はあるんかいのう?
土着民に対し武人として君臨したんが征服じゃのうて亡命か?
>>208
群馬の古墳のことじゃ。文化受容じゃ云う人類学的要素はあったんか?
210日本@名無史さん:2007/07/01(日) 01:42:55
雲国斎 VS 中国社会科学院&韓国新石器学会 MBC勾玉問題file No.11
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=75200
勾玉が韓国起源でない理由  MBC勾玉問題file No.9
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=74526
211日本@名無史さん:2007/07/01(日) 06:58:37
>>209
その「ない云う根拠」はやめてくれないか。
渡来系と言ったって基点をいつにしてるのかで変わるが、
3世紀半ばからと言われる前方後円墳が継続してるのだから、
何で5世紀以降の渡来系による征服になるのだ?
渡来人は来たけど帰化でしょうが。
彼らが武人として存在しようが、前方後円墳に埋葬されてる主を越えれないよ。
常識的に考えて前方後円墳は皇別の墓だろう。


212日本@名無史さん:2007/07/01(日) 11:25:04
>>209
まだ「ないこと」を証明せよと言うか w
213日本@名無史さん:2007/07/01(日) 14:38:59
>>209

>後漢書鮮卑伝の拉致された奴隷民の倭人の説明がないど。

その後漢書に「倭国」ってちゃんと別に存在するんだが・・
「倭人国」=「倭国」なら、ちゃんと「倭人伝」に「征服された」
って書くんじゃないのか?
鮮卑の細かな行動まで書かれているんならさ。
ま,良い。
確かに新羅も百済も倭人が作ったから、倭人国とも言えるわな。

でさ、早く前方後円墳がヤマト王権に結びつかない理由と
縄文人の須恵器の利用法を説明してくれないか?
214曰馬青午:2007/07/01(日) 17:59:05
>>211-213
こんな(君・こいつ)、やかましいわい。
わしゃあ、はじめに征服ありきなんじゃ。聞く耳は持たん。
215日本@名無史さん:2007/07/01(日) 18:04:53
>>214

ちょwwww
日wwww
216日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:55:15
敗北宣言乙
217日本@名無史さん:2007/07/01(日) 22:47:03
>>216

良く見ろ。
白痴じゃなくて日本人だ。
218日本@名無史さん:2007/07/01(日) 23:00:51
日?
曰?
219日本@名無史さん:2007/07/01(日) 23:37:36
【YAP】日本人とチベット人は同祖【GM】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/geo/1117725834/
220日本@名無史さん:2007/07/02(月) 00:23:11
にちばあおうま
221日本@名無史さん:2007/07/03(火) 10:36:58
>>206
>土器を作るんは土着被征服民じゃ。
>そこに征服民のミズラの髪型で、胡服の筒袖の埴輪がある云うことは
>征服民の習俗を被征服民に描かせた云えよう

そういう風俗の渡来人がいたことは間違いないだろう。
また彼らが持ち込んだ文化が倭人の間にもあっただろう。
しかし、何で征服民が埴輪を配置した倭固有の前方後円墳に埋葬されるのだ?
222白馬青牛:2007/07/04(水) 01:50:34
>>211-213
前方後円墳は皇別としたら、毛野氏は何で出雲神何か?
鮮卑伝に倭人の記述もあり、列島の集団だけに倭人をさすとは云えん。
『山海経』では、倭は燕に属し蓋国のお隣さんじゃ。まあ、遼寧の倭人は
拉致されたが、奴国も生口を献上した。倭人が奴隷輸出国じゃったんは、
長崎・平戸が奴隷市場じゃったこと、戦前まで「唐行きさん」「娘子軍」
の産地である九州人(東シナ人)の特徴であろう。
新羅も百済も倭人が作った?新羅の積石木槨墓の被葬者が倭人か?
百済の扶余氏も倭人か?いくら倭人が濊人と同音の部族としても、
扶余ら北方集団による建国を無視出来ん。縄文人が須恵器を使うたんか?
渡来系の須恵器の縄文人の利用法はわしが聞きたい。
>>221
倭固有やら、倭人たァ北東アジア〜九州のどの集団のことか?
223日本@名無史さん:2007/07/04(水) 02:03:32
>>222

>鮮卑伝に倭人の記述もあり、列島の集団だけに倭人をさすとは云えん。

ねえねえ、俺は
「倭国=朝鮮半島南部・九州」だとしたら、倭人条に「倭国は鮮卑に攻撃
されて奴隷化されました」って書かないの?って聞いてるんだけど?
まさか、中国の役人がそこまでバカだったなんて言わないよね?

>『山海経』では、倭は燕に属し蓋国のお隣さんじゃ。

今は邪馬台国以後の書物の話だろ?
逃げるなってw

>倭人が奴隷輸出国じゃったんは、

聞き飽きた。
朝貢貿易が何でそのまま経済全体を推し量る材料になるのか結局答えられ
なかったクセに、よく言い続けられるね。
じゃあ何か?韓国は売春婦を世界に売り出してるから、売春婦輸出国か?
お前の論理からするとそうなるぞ?

>新羅も百済も倭人が作った?新羅の積石木槨墓の被葬者が倭人か?

日本を渡来人が征服した?日本の前方後円墳の被葬者が渡来人か?

>百済の扶余氏も倭人か?

出雲族は新羅人か?いくら古墳の形が似てるとしても、その内部の遺物を
無視できん。
224日本@名無史さん:2007/07/04(水) 02:11:51
>>38 痴呆
>「渡来系と土着民の商品売買で贈物の交換が行われ、価値の高いものを与
 えた方が優位に立つ。

>>42
>ポートピープルとして日本にやってきた渡来人が、縄文人が作成できない
 それでいて「縄文人に価値の高い品々」を製作できたってことだよな?
  具体的になんだ?それは?

>>44 痴呆
>青銅器・鉄器も無視かいのう。

>>47
>狩猟採集生活を行う縄文人に
 青 銅 器 ・ 鉄 器 が 利 用 価 値 が あ っ た の か
 と 聞 い て い る 。

225日本@名無史さん:2007/07/04(水) 02:16:41
>>58 痴呆
>縄文人は狩猟より採集の要素が強いと思うが、青銅器・鉄器は武器として
 石器たァ格段の差じゃ。

>>59
>縄 文 人 が 金 属 器 を 使 っ た な ら 戦 争 で
 死 ん だ 縄 文 系 人 骨 が あ る は ず だ が ?

>>168 俺
>1 縄文人の作れない、それでいて価値のある渡来人の生産物
 2 縄文人を征服した証拠

 はまだ答えてくれないのかなw

>>179 痴呆
>渡来人の生産物は須恵器等あるんに、また同じ言の繰り返しか。

>>181
>須恵器の導入は古墳時代です。

>>194 痴呆
>>181の渡来人云うんは弥生後期〜古墳期の渡来人のことじゃ。

>>205
>「縄文人の作れない、それでいて価値のある渡来人の生産物」
 が須恵器か?
 須恵器が具体的に 縄 文 人 にとって、どう価値があったのでしょうか?

226日本@名無史さん:2007/07/04(水) 02:17:44
>>213 俺
>でさ、早く前方後円墳がヤマト王権に結びつかない理由と
 縄文人の須恵器の利用法を説明してくれないか?

>>222 痴呆
>渡来系の須恵器の縄文人の利用法はわしが聞きたい。
>わしが聞きたい
>わ し が 聞 き た い
>わ   し   が   聞  き  た  い
227日本@名無史さん:2007/07/04(水) 07:33:43
>>222
>倭固有やら、倭人たァ北東アジア〜九州のどの集団のことか?

言葉尻を捉えるな、前方後円墳は大和朝廷固有だろが。
228日本@名無史さん:2007/07/05(木) 17:56:39
白馬青牛ってのは、
本質を煙に巻いて、
瑣末な論点に逃げていくいつものパターンだな。
229日本@名無史さん:2007/07/07(土) 19:37:39
>>227
タージマハールは印度/イスラム文化の粋だが、そこに葬られているのは
ムガール王朝、つまりモンゴル系征服王朝の王だ。
230日本@名無史さん:2007/07/07(土) 19:56:35
>>229

全く状況の異なるものを持ってくるな
231日本@名無史さん:2007/07/07(土) 20:16:22
古代に半島から入ってきたものは青銅器も無文土器も陶質土器(灰陶)
も全部宝器として扱っていたんだな。

だから何も利用価値なんて無くたっていいの。

今で言うマイセンやらカルティエやらブルガリなどの海外ブランド
と同じ舶来品だから。

日本人のブランド好きの原点でしょう。
232日本@名無史さん:2007/07/07(土) 20:43:14
>>231

弥生人を主語にしてる場合ならな。
233日本@名無史さん:2007/07/07(土) 21:09:56
>>229
だから証拠を出せと言ってる。
新羅系の冠が出たから新羅人の墓だと言うなら、
晋の帯金具が出た古墳の主は中国人か?
234日本@名無史さん:2007/07/07(土) 21:22:40
>>229
タージマハールは継続性がない。
征服を記念してドカーンと建てられた。
一方、日本の古墳は継続してる。
235日本@名無史さん:2007/07/07(土) 21:37:44
>>233

もちつけ。ソイツはタダの愉快犯だ。
236日本@名無史さん:2007/07/07(土) 23:08:13
>>62
亀レスだがつっこませて

「征服された」「征服されていない」どっちの証拠もいくら探しても
見つかんないから「されてない」と主張するのは理解できる。

で、「された」という根拠を「されてない」という証拠がないからとしたら
それは単なる妄想でしょう?そんな事実があったかも知れないというレベルの
ものを、ワケのわからん考察でムリヤリこじつけてるだけでしょーに。
まあアンタが「征服された」って証拠だせばそれで済む話なんだが
237日本@名無史さん:2007/07/07(土) 23:30:23
定説を覆す側が証拠を出さないと始まらないよね。
出せないくせに、逆に「おまえらが出せ!」とほざいてるんだから。
238白馬青牛:2007/07/07(土) 23:45:41
>>223
倭人の条に遼寧地方の出来事まで書かにゃあいけんのか。魏志倭人伝は
漁撈民の記述で農耕民としての記述がほとんどないが、中国の役人は
馬鹿か?つまり記述・文書は特殊なことしか残らんよ。
倭人の問題で逃げよるんはどっちかいのう。
列島倭人の社会進化程度が舗装道路がないことから、ポリネシアの
ダメホーより下位あり、経済力以前に国家の程をなしてないことは
以前にも云うたで。ほんまこのスレは繰り返しの連続じゃけんのう。
韓国が売春婦輸出国云うんも、どうせ嫌韓サイトの引用じゃろ。
まあ、九州と朝鮮半島は慰安婦になった女性も多く、人身売買も
さかんじゃった共通点はあるよのう。そりゃあ九州や朝鮮の騙されて
辛い境遇にされた女性たちに責任じゃないど。
新羅の遺物の王冠や黄金文物や天馬塚の天馬図は高句麗よりもむしろ
濃厚に北方系要素が中国を経由せず伝えられとるじゃないか。
江上波夫氏は、高句麗は北方民族と中国(漢)の混合した「胡漢様式」と
違い、新羅はアルタイ以西の黄金文化とされる。
239日本@名無史さん:2007/07/08(日) 00:05:44
>>238
>新羅の遺物の王冠や…(以下)

そうだろうな。
北方系の技巧に長けた人たちが日本に来たのだろうね。
彼らが作り出す素晴らしい冠などが、
日本でも首長の威信財となったのだろう。

で、何が征服なんだ?
240日本@名無史さん:2007/07/08(日) 00:23:17
>>238

バカはお前だよw

>倭人の条に遼寧地方の出来事まで書かにゃあいけんのか。魏志倭人伝は
 漁撈民の記述で農耕民としての記述がほとんどないが、中国の役人は
 馬鹿か?つまり記述・文書は特殊なことしか残らんよ。

鮮卑の条には事細かに情勢が書いてたよね。
で、倭国が朝鮮南部にあったとして、それが攻撃されたのに中国人が
書かないのは何で?
しかも鮮卑伝には「東に撃つ」と書いてあるが、一言も「遼寧地方」
なんて書いてないぞ?
またいつもの「妄想」かね。

>舗装道路がないことから

それはそれは、唐代の鮮卑も朝鮮も日本もチベットもそのポリネシア
の人々の文化水準に劣るのかw

>、経済力以前に国家の程をなしてないことは

邪馬台国がありましたが何か?w
ていうか、奴隷を用いた朝貢が何でそのまま貿易に繋がるか早く答えろよw
241日本@名無史さん:2007/07/08(日) 00:25:29
>>238

>ほんまこのスレは繰り返しの連続じゃけんのう。

何度も論破された内容をバカの一つ覚えで繰り返して楽しい?

>韓国が売春婦輸出国云うんも

お前は自分の妄想は絶対的に正しいとほざくクセに他人の言うことはウソだと
決め付けるんだな。
社会性に問題アリだよ。お前。


242日本@名無史さん:2007/07/08(日) 01:04:19
>>237
一番卑怯なやり方だよな。敗北宣言出さずに煙に巻くには有効だろうけど
そんな事ばかりやってると誰にも相手にされなくなる。一部の変なもの好き
もいるみたいだけど。まあ普段からこんなんだとしたらきっと孤独だろう
243日本@名無史さん:2007/07/08(日) 01:45:29
廣島・もみじ民:2006/10/14(土) 02:01:15 ID:Trs+O0oK0
>>418
わしゃは、アンチ東国、アンチ縄文文明、アンチ江南派、じゃけど。
ベッキー(翁)さんにもアンチじゃのう。


嫌いなだけかよ

244日本@名無史さん:2007/07/08(日) 08:25:46
>>234
>タージマハールは継続性がない。

イスラムのモスク建築であるという意味では継続性、普遍性がある。

>征服を記念してドカーンと建てられた。

征服を記念してではない。第5代の王が王妃の死を悼んで建て、
自分が死んだ後は王妃と並んで葬られた。
前方後円墳の合葬と同じだ。

さて、このどこに征服者(モンゴル)の特殊性が出ている?
245日本@名無史さん:2007/07/08(日) 08:44:10
>>244
だから前方後円墳の埋葬者が渡来系だという証拠を言えと言ってるんだ。
ダルいやつだな。
246日本@名無史さん:2007/07/08(日) 12:59:30
>>245

まあまあ

>>244

お前は前方後円墳もタージマハールのように征服者が建てたと言いたい
ようだが、征服者にふさわしく中央集権的な力を持つに至ったムガール
王朝と、全国の豪族の協力があって初めて成立する大和王権には、形態
についてすでに次元が異なる。
247日本@名無史さん:2007/07/08(日) 15:21:04
>>246
>お前は前方後円墳もタージマハールのように征服者が建てたと言いたい
>ようだが、

頭の悪い奴だな。前方後円墳もタージマハールも、征服者固有のものではない
ことは同じだ、と言っているのだ。
だから前方後円墳は、征服がなかったことの証拠にはならないのだ。
248日本@名無史さん:2007/07/08(日) 15:28:26
>>247

>だから前方後円墳は、征服がなかったことの証拠にはならないのだ。

それは無い。
前方後円墳は、邪馬台国の時代から日本に存在する。
つまり、土着民の文化だ。

前にも言ったけど、征服王朝は大抵強力な王権を持つものだよ。
ムガールしかり、ノルマンディしかり。
ヤマト王権にそれが見れないのは何故だい?
249日本@名無史さん:2007/07/08(日) 15:40:38
>>247
>前方後円墳は、征服がなかったことの証拠にはならないのだ。

あんたもアホコテと同じか。
征服があった証拠を先に言えって。
言えないのが「なかった証拠」になるのだ。
250YAP?:2007/07/08(日) 18:47:25
江上説では、「辰王」の子孫が、日本の支配者になったという話なのだが、
Y染色体DNAのハプログループ(以下Hgと省略する)のDIが、
チベット人の他に、半島で5〜8%ぐらい見られ、それが、辰韓の起源説と結び付けられ、
「秦人」が、半島に逃れて「辰韓人」になったという伝承を裏付けた?と言う解釈があるようだ。

それが正しければ、「辰王」はHgD1集団を率いて半島に南下したということになるが、
日本では、縄文系とされるYAP+のHgD2は多いが、HgD1の分布や頻度が高いという話は聞かない。

まあ、「辰王」の子孫集団などは、渡来してこなかったのだろう。
251日本@名無史さん:2007/07/08(日) 20:14:47
>>248
>前方後円墳は、邪馬台国の時代から日本に存在する。
>つまり、土着民の文化だ。

だからその「土着民の文化」を征服者が採用するのは普通のことだ、と
言っているのだ。
ムガール王朝はインド/イスラム文化に染まってモンゴルの片鱗もないし、
ノルマン王朝は地元ゲルマン豪族たちを懐柔するために婚姻政策をとり、
その結果ゲルマン語とフランス語のチャンポンの「英語」という言葉を
生み出した。
決して彼等は固有の文化を守り通すほど、強力ではなかった。
252日本@名無史さん:2007/07/08(日) 20:25:34
>>251

>だからその「土着民の文化」を征服者が採用するのは普通のことだ、と
 言っているのだ。

君も頑固だね。
もし騎馬民族が日本を征服したとして、前方後円墳を受け継いだとする。
当然、そこには騎馬民族的文化が多分に入ってくるハズだ。
もし「騎馬民族集団が日本を征服した」と考えるならね。
さて、それはどこかな?
まさか馬具とか出しては来ないよね?

でさ、何故ヤマト王権は中央集権国家じゃなかったか答えてくれる?
253日本@名無史さん:2007/07/08(日) 20:33:15
>>251
>だからその「土着民の文化」を征服者が採用するのは普通のことだ、と
>言っているのだ。

それは言いすぎだろう。
たいがい征服者は自文化の押し付けだろう。
大和朝廷も韓国南西部に前方後円墳を作ってるし。
254日本@名無史さん:2007/07/09(月) 09:23:00
>>252
>君も頑固だね。

私が頑固なのではない。君が、私の挙げた例を否定できないだけだ。
それ以外はさしあたっての話題ではないのでまた別の機会に。
なお下記も参照↓

>>253
>それは言いすぎだろう。
>たいがい征服者は自文化の押し付けだろう。

全く言い過ぎではない。
要するに征服があれば必ず文化の混淆があり、その混淆の仕方と程度とは
ケースバイケースだ、ということだ。

前方後円墳は一種の宗教の現れだから、宗教に即して言えば、
例えばアレキサンダーは各地にギリシャの都市文化と宗教を押しつけたが、
その部将がエジプトを征服して新王朝を建てればエジプトの宗教を
採用した。

これに対して、「前方後円墳が継続してあるのは征服がなかった証拠だ」
というのは、「征服がなければ100%土着文化、征服があれば100%
征服者の文化」という論理だ。
そういう論理は成り立たないことは、歴史を見れば明らかである。
それを私は言っているのだ。
255日本@名無史さん:2007/07/09(月) 11:04:10
>>254
>要するに征服があれば必ず文化の混淆があり、その混淆の仕方と程度とは
>ケースバイケースだ、ということだ

「征服があれば」そうなのかも知れないね。
だから「征服があった証拠」をずっと聞いてるのだが…
256日本@名無史さん:2007/07/09(月) 13:52:17
>>254

>私が頑固なのではない。君が、私の挙げた例を否定できないだけだ。

俺としては、>>252で否定したつもりだが・・・?

さて、「次の機会に・・」なんて逃げずに、日本のヤマト王権が何故
統制力が弱かったのか、見解を聞かせてもらおうか。

>、「前方後円墳が継続してあるのは征服がなかった証拠だ」

前方後円墳は、その発生からヤマト王権の権力を示すものである。
その前方後円墳を、何故征服者は残したのか?
わざわざ前代の象徴を残すものだろうか?
257月光仮面:2007/07/09(月) 18:16:00
>>250
YAP?さん、ご無沙汰です。
辰王の辰というのは辰(辰韓)巳(任那)午(馬韓)という方角的な意味もあろうかと。
アカルヒメが天日矛に追われ、摂津に逃げ帰りますが、追っかけてきた新羅王子
天日矛は垂仁朝に但馬出石に封じられておりますので、辰王が倭国王になる
なんて話はなく、また、仲哀の頃の伊都県主の先祖がウルサンに天孫降臨と
いうのは丹波国からのように伊都国からウルサンに天孫が降臨したということかも
しれませんね。YAP-D1ですが、これは日本人のYAP-D2の先祖で、秦氏が豊富に
持つ東地中海・中近東文化の広がっていた地域、南西シベリア、中央アジアから
新疆ウイグル経由チベット雲南に入るようなんですが、チベット雲南は五胡十六国
の時代のようですね。
http://www.genetree.com/PDF/Y-MAP.pdf
そうした、秦氏の故地であるかもしれないトルクメニスタンからは
最近日本の平安京、平城京のような都市とか、
http://www.stantours.com/pics/tm_gal_her_gon_air.gif
土師器のような土器とか、銅鏡と甕
の埋葬とかが発見されています。又イランでは甕棺墓が出てきているようです。そして
年代的にはBC13世紀と言いますから、殷の時代のようですが。YAP-D2が日本に
12,000年も前からいるんじゃないかと言うのは、
http://img438.imageshack.us/my.php?image=japan9zr.gif
この分岐図でYAP D M174 34.7% (黒の網掛け)の右の突然変異が長すぎて
貫禄が出ていること、日本だけで4つの大きな枝分かれが出ていることを、もともと
日本にいたからなんだと解釈するからでしょう。これはそうでなく中央アジア方面で
長期にわたり存続し、カーストあるいは部族特化が進んでいたものが朝鮮半島経由
列島に何百年ものスパンをおきながら支石墓・甕棺から応神から飛鳥にかけて波状
的に渡来したことを意味していると思うのです。
258YAP?:2007/07/09(月) 23:19:38
月光仮面さん、

D1がD2のそというのは、D1の変異をD2が持っていないので、無理だと思います。
勿論microsatellite変異は、結構起こりやすいので、独立して、別個に生じたりもしますので
、なんともいえませんが。
D2の変異が重なっているように図示されているのは、日本人の研究者が比較的多く、
調査が行き届いているのと、日本人のYAP+人口が多くそのために、細分類が可能な状態に
なっていることも大きいのではないでしょうか?

ただ、HgDの祖型とされるHgD*であるとされるアンダマン島人や、(頻度は低いですが)
モンゴル人やチュルク人も、HgDの「branch」ではないかと疑われており、今後の研究次第では、
これらが、HgD4やD5といった新しいサブグループとされる可能性も十分にあります。
チベットのYAP+は、日本から西進したという考えも、最近はかなり有力になりつつあるようですが。
259日本@名無史さん:2007/07/09(月) 23:50:32
彼らのやり取りこそ、議論と呼ぶにふさわしい。
260月光仮面:2007/07/10(火) 07:56:08
YAP?さん
>>258
>D1がD2のそというのは、D1の変異をD2が持っていないので、無理だと思います。
>勿論microsatellite変異は、結構起こりやすいので、独立して、別個に生じたりもしま
>すので 、なんともいえませんが。
>D2の変異が重なっているように図示されているのは、日本人の研究者が比較的多く、
>調査が行き届いているのと、日本人のYAP+人口が多くそのために、細分類が可能
>な状態に なっていることも大きいのではないでしょうか?
なるほど、チベット型が日本型の先祖であると言うのは、変異の履歴から見れば、
言えないということですね。互いに独立したグループということですね。
>ただ、HgDの祖型とされるHgD*であるとされるアンダマン島人や、(頻度は低いで
>すが) モンゴル人やチュルク人も、HgDの「branch」ではないかと疑われており、
>今後の研究次第では、 これらが、HgD4やD5といった新しいサブグループとされる
>可能性も十分にあります。
HgD*であるとされるアンダマン島人ですが、これはそのうちのOnge族、
Jarawa族と言うのがモンゴルKhalkh族と同じくHgD*を持っているということで
すね。しかし、Onge族のmicrosatelliteはモンゴルKhalkh族のものとは別のもの
であり、先祖が異なるようですが、牛頭天王の花嫁探しというか、タカラガイを求
めての旅というか、南北シルクロードと言ったものがあったのではといった感、
北方起源の感がありますね。
>チベットのYAP+は、日本から西進したという考えも、最近はかなり有力になりつつある
>ようですが。
歴史的イベントを考えると、日本からではなく、鮮卑拓跋とか、日本に来た東胡系
と同じく黒龍江省方面からの気がします。
261月光仮面:2007/07/10(火) 08:15:56
YAP?さん
もう一度↓を見てください。
ttp://www.genetree.com/PDF/Y-MAP.pdf
YAPと言うのはEとDです。アフリカ西端、南端、アナトリア、中央アジア、日本に広がる
この世界地図を見ても、日本から世界に拡散したと言うことは無理じゃないですか。
日本の先住民、縄文人は海岸沿いに南回りでやってきたC、YAP+は内陸回りで、秦氏
のたどったルートと違いますか。
262日本@名無史さん:2007/07/10(火) 13:26:47
>>255
>だから「征服があった証拠」をずっと聞いてるのだが…

君が「征服があった証拠」に話を広げるのは、「前方後円墳が継続して
存在することが、征服がなかったことの証拠にはならない」という
私の主旨に反論することをあきらめた、ということかな?

>>256
>前方後円墳は、その発生からヤマト王権の権力を示すものである。
>その前方後円墳を、何故征服者は残したのか?

前にも言ったように、前方後円墳は一種の宗教を表している。
そして、征服者が被征服者を懐柔するには、被征服者の宗教を受け入れる
ことは最も手っ取り早い方法の一つである。
このことを分かってもらうためにエジプトのマケドニア人王朝の例を
わざわざ挙げているのに、鈍い奴だな。

>日本のヤマト王権が何故 統制力が弱かったのか、見解を聞かせてもらおうか。

私は「ヤマト王権が統制力が弱かった」などと言ったことはないが、
一般論として言えば強い相手にこそ懐柔が必要である。
263日本@名無史さん:2007/07/10(火) 15:58:48
>>262
前方後円墳が継続してる状況で、
征服を証明できなければ征服がなかった事になる。
それだけ。
264日本@名無史さん:2007/07/10(火) 16:42:42
>>262
プトレマイオス朝はエジプト文化を取り込んだが、支配層はギリシャ文化では?
王家の血統自体も純血に拘っているし、王様の名前もギリシャ系。
言語もギリシャ語で、ギリシャ文化の痕跡も多数残しているし、
クヌム神殿などにもギリシャの様式が入っている。
ギリシャ人(マケドニア人)が征服した王朝であるのは、被支配層も征服者も隠していないし、
それを周辺国も後世の人間も知っている(文献資料だけでなく遺物でも証明できる)。

古墳時代に支配者が異民族に変わったのなら、何らかの痕跡(古墳時代の一時期に埋葬物が大きく変化するとか)があるのでは?
それから支配者層が変わって、一時期だけでなく後世に繋がっているなら出自を後世に隠そうとする必要もないと思うのだが?
265日本@名無史さん:2007/07/10(火) 17:42:16
>>262
>征服者が被征服者を懐柔するには、被征服者の宗教を受け入れる
>ことは最も手っ取り早い方法の一つである。

5世前後の北方民族なら、すでに仏教徒である可能性が高い。
高次元の宗教を持つ民族が、低次元の宗教を受け入れるのはおかしい。
266日本@名無史さん:2007/07/10(火) 19:23:29
>>264
そんなことは承知の上だ。議論のすじみちを考えよ。
宗教にかぎった議論をしている。
征服者が前方後円墳を残すのはおかしいというから、前方後円墳は宗教の表れだ、
征服者が被征服者の宗教を受容するのは懐柔の手段だ、
その例はエジプトの宗教を受容したプトレマイオス朝がある、
ということを言ったのだ。この議論にギリシャ文化は関係あるまい。

>>265
具体的に、4〜5世紀の金官の扶余は仏教徒だったのか? 
少なくとも私は初耳だが。
267日本@名無史さん:2007/07/10(火) 19:45:43
>>266
扶余みたいな実態のよく分からないのはどうでもいいが、
馮素弗の墓から発見された冠帽飾り。
真ん中に仏像がある。
http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/Pict0024.jpg

馮素弗は5世紀前半だが、その前から鮮卑の周辺の民族にも仏教が広がってたと見たほうが自然だろう。
268日本@名無史さん:2007/07/10(火) 21:24:20
>>262

>君が「征服があった証拠」に話を広げるのは、「前方後円墳が継続して
 存在することが、征服がなかったことの証拠にはならない」という

なあ、話をそらさないで答えてやれよ。

>そして、征服者が被征服者を懐柔するには、被征服者の宗教を受け入れる

なるほど、元も儒教を受け入れたんだね!(チベット仏教に狂ってたけど)
なるほど、イスラム帝国もキリスト教や仏教を受け入れたんだね!

ていうか、新たな王権を樹立させたんなら、別のモニュメント作るよな。

>私は「ヤマト王権が統制力が弱かった」などと言ったことはないが、
 一般論として言えば強い相手にこそ懐柔が必要である。

いや、実際にヤマト王権は中央集権型じゃなかったってば。
キミが言った言ってないの問題じゃなく。
元も北朝もノルマン朝もイスラム征服王朝も、征服者の政権はたいてい
王権が強いよ。
宗教の受け入れについては世界一般の例を挙げて、政権については日本だけ
特別かい?

>5世前後の北方民族なら、すでに仏教徒である可能性が高い。

北方民族に仏教が広まってたんなら、ガルダン=ハンもわざわざチベット
から僧を招かなかっただろうね。
269白馬青牛:2007/07/10(火) 22:36:55
>>240-241よ、鮮卑が何処へあったんか知らんようじゃのう。ほいで、
おいおい唐代の鮮卑たァ何なら?騎馬民族スレなんじゃに、内陸アジアの
歴史も知らんでカバチ垂れよっても結局論破されるだけど。低脳相手は
これくらいとして、
>>250-258
YAP?氏登場か。久しぶりじゃのう。江上説じゃあ辰王は流移の者で
扶余とされる。それを辰韓全体と結びつけるトリックは、どがあな意図か?
チベットのYAP+が日本から?根拠は複合的要素からの見解が必要
じゃないんか。あんたあ、北方弥生ポンチョ厨じゃ思うとったが、
いつから縄文文明派になったんの。それたァこのスレの嫌韓ネットウヨに
担がれて、タコのくそが頭へ上がったんか?
270白馬青牛:2007/07/10(火) 23:23:56
>>260
月光仮面さん、お久しぶりです。YAP+の関連ですが、
考古学板の「日本人はどこから来たんだ?」の>743で、
土族を土家族とされてますが両民族は違います。
YAP23,8%の土(tu)族は青海モンゴル系で、土家(tu jia)族は、
苗族と共に「土兵」を構成し、広西の「狼兵」も含め明軍中の精強で有名
な湖南の被差別民視されたチベット・ビルマ系です。ほいで、土族は
鮮卑慕容部の吐谷渾の子孫とされます。我が国の東漢氏のものとされる
新沢千塚古墳と鮮卑慕容部の関係も深いものです。
http://www.gesanmedo.or.jp/uli227.html
羌族の混合した鮮卑は拓跋系禿頭氏も青海に行っておりますね。
『新五代史』に、「其大姓有慕容・拓跋・赫連等」。
ですが、漢の華北にも鮮卑系は征服者として、また羌族も含め華北で
漢人と融合しましたが、日本の山地やチベット等辺境地にYAPのD型が
残り、華北にほとんど無い云うんも不思議な現象です。鮮卑拓跋部の末裔
と云えば、ツングース系シボ族が知られてますが、彼らにYAP+は
多いんでしょうか?YAP+では、まだ、どうも人種・民族の分類が
出来とらんように思いますが。
271日本@名無史さん:2007/07/11(水) 00:09:53
>>269

>鮮卑が何処へあったんか知らんようじゃのう。

遼寧は朝鮮のすぐ北ですが、何か?
鮮卑から見た東ってのは、朝鮮・日本も入りますが何か?

>唐代の鮮卑たァ何なら?

おいおい自分で言ったの忘れたか?w

>列島倭人の社会進化程度が舗装道路がないことから、ポリネシアの
 ダメホーより下位あり、

舗装道路が社会の進歩の基準にできるなら、鮮卑も日本も属国朝鮮も
チベットも舗装道路無かったからダメホーより下位にあると言うこと
になるんだがw

全く、バカはバカの自覚が無いから困る。
272YAP?:2007/07/11(水) 00:21:39
月光仮面さん

私は、本来、縄文人の主流となるYAP+集団は、シベリアの細石器文化をいわゆる
「northern lannd bridge」を通過して、列島にもたらした集団であると考えて
いたのです。
しかし、最近のAMS法による年代見直しが、縄文時代草創期にも及び、縄文時代は
1万8千年前に、或いはそれより更に前に開始されたという可能性が高くなったことから、
YAP+が、HgC同様、日本列島には、南ユーラシア沿海部を通過して、中国南部(それも東海岸沿いに)
から北上して入ったという可能性も考えざるを得なくなったわけです。

この場合、HgDが、おそらく中央アジア南部からイラン東部あたりで発生したとして、
それが北方の道を通って、河西回廊→青蔵高原に出たと言う可能性のほかに、最近、モンゴルのHgC3が
日本列島から、進出した可能性を示唆されるように、HgD1も日本から西進した可能性も考える必要が
在りそうだという話なのです。
実際には、日本でHgD1やHgD*が、発見されない限り、その確率は低いでしょう。
しかし、縄文時代が遡ることにより、「海退期」に列島にYAP+集団が多数を占めていたこと、
その時代には、東シナ海の大半が、陸地であり、渤海や黄海はりくちであり、日本海は「湖」であったこと、
南西諸島も沖縄本島まで、中国南部とつながっており、その東北方で、海が湾入していたこと、等の可能性が高く、
いわばこの「東シナ湾」の周辺が、YAP+の東アジアの拡散の中心(おそらく、HgC3の拡散の中心でもある)
と言う可能性を、考えれば、チベットのHgD1が、雲南あたりから北上した可能性よりは、日本周辺、おそらくは
現在は水没して東シナ海となったかもしれない地域から、北上・西進したという考えが、否定できないのです。

まあ、Y染色体DNAのでーたは、息子氏集積を待てばよいのですが、
その移動の時期については、縄文時代開始期がいつかと言うのは、
きわめて重要な問題となるでしょう。
273日本@名無史さん:2007/07/11(水) 00:29:06
>白馬青牛

今までの肝心な質問をことごとくスルーして、
さも何事もなかったような登場の仕方、ご苦労さま。
274YAP?:2007/07/11(水) 00:37:16
白馬青牛氏へ

礼儀を知らないおっさんだな。
わたしが、「秦人」と「辰韓」を結びつける話を紹介したのは、Wikipediaの
「HaplogroupD1(Y−DNA)」の項に記載されていた「Qin(秦)」と
「Jinhan(辰韓)」の話を紹介しただけだ。

私は、騎馬民族説を採らないが、倭人は遼河流域あたりから、弥生時代開始期に
列島に渡来したという説を今のところ採っている。
で、その倭人は、Y染色体DNAで言えば、HgO2b集団であり、その中の
O2b1aが、いわゆる「天孫族」だろうと見当をつけているが。
ついでに言えば、O2b*は、満州族、O2b1*は韓国人に多いが、
言語は、また多少のずれがあるだろう。
275白馬青牛:2007/07/11(水) 01:22:13
>>271
渡来系がボートピープルじゃ勝手な解釈する馬鹿がつまらんカバチ垂れ
よっても意味がないど。
>>274
わりゃ、礼儀知らずたァ何なら。人様を「おっさん」云うわれに礼儀が
あるんか。ウィキ何かどうでもええ。江上説を否定したいんなら、
姑息な工作すなや。倭人あるいは濊人でもええが遼寧、遼河流域から、
列島へ渡来した要素は否定せんが、Y染色体だけで種族集団が、
特定出来るんか?じゃけえ複合的根拠は何か?云うて聞いたんじゃ。
YAP+のチベット系が、華北の集団と混合しても、YAP+が残らん
かった根拠は何か?そがいなことを無視しあがって電波飛ばしょうるんは
誰なら。けたいくその悪りい言をぬかしゃあがるわい。
276日本@名無史さん:2007/07/11(水) 02:03:23
>>275

>渡来系がボートピープルじゃ勝手な解釈する馬鹿がつまらんカバチ垂れ
 よっても意味がないど。

根拠も無いのに「征服じゃ!!じゃじゃじゃ!!」と勝手な妄想を垂れ流す
お前がほざいてもなあ・・・

ってか、とうとう反論もできずに罵倒だけかw
お前らしいと言えばお前らしい。
バカは反論せずに論点ずらし、罵倒、妄想しかしないからなあw
277月光仮面:2007/07/11(水) 06:58:13
白馬青牛さん  >>270
>土家(tu jia)族は、苗族と共に「土兵」を構成し、広西の「狼兵」も含め明軍中の精強で有名
>な湖南の被差別民視されたチベット・ビルマ系です。
了解、深謝します。
>ほいで、土族は鮮卑慕容部の吐谷渾の子孫とされます。我が国の東漢氏のものと
>される新沢千塚古墳と鮮卑慕容部の関係も深いものです。
了解、深謝します。
>日本の山地やチベット等辺境地にYAPのD型が 残り、華北にほとんど無い云うんも
>不思議な現象です。
非常に同感。アルタイ・オークニェフ文化に始まる山城、山岳宗教、これが、燕・秦長城
建設に結集され、その後、朝鮮、日本、チベット、また、西周の頃には青銅器文化と共に
ペルーに入った可能性もあると思います。YDNA O47zは原郷が河姆渡方面で、先住民
Cと一緒になって列島穀倉地帯を押さえ、D2は山岳、一部は河川、海浜と言った布陣と
なりますか。
>鮮卑拓跋部の末裔と云えば、ツングース系シボ族が知られてますが、彼らにYAP+
>は多いんでしょうか?
http://lib.bioinfo.pl/meid:7662ではYAP-にも計上されていないので不明です
278月光仮面:2007/07/11(水) 07:24:02
YAP?さん >>272
YAP+は新大陸へのバスに乗り遅れているんですね。ところが沖縄のグスク、シーサ
なんていうのは、ポーランドにタタールの持ち込んだジュリ馬とか、スイスのナマハゲ、
これは鹿児島の甑島にありますが、山城、匈奴、西域のにおいが強い。
また、沖縄には土佐、新潟のように牛相撲がある。これはローマクラッスス軍団敗残兵
が甘粛、新羅経由持ち込んだ風習のようですが、この辺からもは時代的にD2が喜界カ
ルデラ噴火を生き延びて沖縄にいたとは考えにくいし、やはり、飛鳥時代あたりに半島
からはいってきたものの一部と言う気がしますが。山海経では倭は燕の北方にあるよう
ですが、その辺から何派にも分かれて南下し、一部が西周時代にアンデス太平洋岸
で乗り遅れたバスに追いついたのではと考えます。
279YAP?:2007/07/11(水) 08:57:36
月光仮面さん

新大陸へ移住したHgCといえば、ナ・デネ大語族が属する、HgC3と言う事になりますが、
これは、ご承知の通り、モンゴル人で最多頻度であり、北アジアに拡がっています。
日本には、このHgC3のほか、C1も少頻度ですが存在し(どうもインドネシアあたりが
分布の中心のようですが)また、ナ・デネ大語族の人々のC3が、C3bが種とされるのに対し、
日本人のC3は、C3aと言う相違もありますから、アメリカ先住民のC3は、日本列島から北上して、
シベリア東北部を通過したというよりも、やはり、モンゴリアや満州・東シベリウアから、
ベーリンジアを通過したという通説どおりでよいのでしょう。
(モンゴリアに行く前に、Hgcが、中国大陸東岸を通過したときには、おそらく「東シナ湾]の
東部を構成する西南日本にも広がっていた可能性は高そうですが。)

日本のYAP+集団、すなわちHgD2は、1万8千年前以前に西南日本に入り、HgC集団を北上あるいは、
(まだ陸地であった渤海・黄海・半島方面に)西進させたという可能性を考慮する必要があります。

そのあたりは、HgD*の分布がどうであったかのデータが出てから判断するべきでしょうが、
喜界カルデラの爆発の影響も含めて、東シナ海の「海底考古学」の進捗を待ちたいところです。

アイヌがHgD2とCの集団だということからは、飛鳥時代とか、余り後代にD2集団の移住を
想定することは無理でしょう。
D2のsabcladeも多く、列島内で、かなり永い時間をすごしたことはまず間違いないでしょう。

Y染色体DNAのHgの研究は、まだその分布や、サブタイプなど全貌が見えたというには
程遠く、しばらくはデータに振り回される状態が続きそうです。
私が、日本列島における秦氏(と言うか漢系移住民)の指標と考えたHgOの枝である
「O3e」は、2002年ごろは、そう表記されていたのですが、最近の2006ISOGG treeでは
、「「o3a5」に同様に「O3c」は、「O3a3」になってしまいました。
この調子では、いちいち注記をつけないと、同じマーカーについて話しているかどうかも
わからない状況です。
280月光仮面:2007/07/11(水) 11:56:16
YAP?さん
>日本のYAP+集団、すなわちHgD2は、1万8千年前以前に西南日本に入り、
>HgC集団を北上あるいは、 (まだ陸地であった渤海・黄海・半島方面に)西進させた
>という可能性を考慮する必要があります。そのあたりは、HgD*の分布がどうであっ
>たかのデータが出てから判断するべきでしょうが、 喜界カルデラの爆発の影響も
>含めて、東シナ海の「海底考古学」の進捗を待ちたいところです。
D*のサブクレードにはモンゴル・ハルハ族D*、アンダマン・オンゲ族D*を想定しなくては
ならなくなっています。しかし、タカラガイとか、南北シルクロードと言う物理的接点はあ
りますし、これは特殊な交易路で長年培われたローカルな母集団が想定されます。
しかし、これはインドにDの痕跡がないこととあせて南海岸回りを排除します。
281月光仮面:2007/07/11(水) 11:57:40
>アイヌがHgD2とCの集団だということからは、飛鳥時代とか、余り後代にD2集団の
>移住を 想定することは無理でしょう。
縄文時代の東北鳥海山で殷の青銅刀子が出土します。また、遼河(紅山文化) の頃の
縄文人の満州方面との交易もあります。Dが縄文時代の相当古い頃からその原郷、
推定されるのは山海経にあるバイカル、黒龍江省方面にあった倭から日本列島への
浸透を開始したと言うこともありえます。飛鳥時代に高句麗・三韓王族の最終的日本
到来があり、その後半島においては例外的に進出した日本人の末裔を除きYAP+は
消滅したと見られます。
>D2のsabcladeも多く、列島内で、かなり永い時間をすごしたことはまず間違いない
>+でしょう。
D2が長期にわたって変異を受けたのはモンゴリア・新疆ウイグル・内モンゴル・バイ
カル地方でしょう。
>Y染色体DNAのHgの研究は、まだその分布や、サブタイプなど全貌が見えたという
>には程遠く、しばらくはデータに振り回される状態が続きそうです。
続き YAP?さん
>私が、日本列島における秦氏(と言うか漢系移住民)の指標と考えたHgOの枝である
>「O3e」は、2002年ごろは、そう表記されていたのですが、最近の2006ISOGG 
>treeでは、「「o3a5」に同様に「O3c」は、「O3a3」になってしまいました。
文化的なイベントを考えると、秦氏こそユダヤ・イラン・アナトリアのYAP+E型が突然
変異を起こしてDとなった最も古いサブクレードでしょう。
>この調子では、いちいち注記をつけないと、同じマーカーについて話しているかどうかも
>わからない状況です。
われわれがしっかりと歴博、橿研、各大学等の考古学研究の成果を持って批判して
行く義務があります。2CHはそうした大きな可能性を与えるのではないでしょうか。

282月光仮面:2007/07/11(水) 13:52:38
「科学とは無縁の「学説」が公然と大手を振ってなされてきた」・・・ちょっと待てよ!
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-52.htm
http://www.microbes.jp/aimai/kurashi/fl451.htm
考古学も、歴史も科学。簡単にチャラチャラ結論を出すだけが能ではないのだ。
↓これらの知見に基づいて遺伝子学の成果を評価すべきなのだ。
水稲農耕と突帯文土器
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/suitonoko/noko.html
福岡平野における弥生文化の成立過程
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/fukuokaheiya/fukuoka.html
生業からみた縄文から弥生
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/seigyo/jomon.html
九州の甕棺
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html
心無い日本の遺伝子学者は、既に世界の遺伝子学会を完全にミスリードし、多くの難問
を生んでいる。だが、それは2CHにとってはまたとない論戦の好機でもある。

283日本@名無史さん:2007/07/11(水) 15:29:01
>>268
>なあ、話をそらさないで答えてやれよ。

話をそらしているのは向こうだ。
「前方後円墳が継続して存在することが征服がなかったことの証拠には
ならない」という私の主旨に同意するのかどうか、あいまいにしたまま
話を「征服があったことの証拠」に拡大している。
まあ、それについては君も同じだけどね。

>なるほど、元も儒教を受け入れたんだね!

何時、私が「必ず、被征服者の宗教を受け入れる」と言ったのか?
私は「ケースバイケース」と言ったではないか。
元は儒教を受け入れなかったかも知れないが、清(満洲)は儒教を受け
入れて国教としたではないか。
その方が賢明だった。清は元より長続きしたのだからね。

>いや、実際にヤマト王権は中央集権型じゃなかったってば。

私も中央集権型だったとは思わないが、それがどうかしたのか。

>征服者の政権はたいてい 王権が強いよ。

そう、「たいてい」な。「必ず」ではない。
284YAP?:2007/07/11(水) 17:43:33
月光仮面さん

中堀豊氏については、『Y染色体から見た日本人』弥、あるいは、徳島大学の
研究室のHPに発表された論文なども見て、それなりに判断していますが、
月光仮面さんは、中堀氏の所説に対し、肯定的なのか、或いは否定的なのかが、
私にはわかりません。
引用された、2つの文章ともに、やや不正確な中堀説理解をされているうに
見えます(特に日本人のYAP+の頻度が少なすぎる)。

考古学も科学では在りますが、土器の型式による相対年代(編年)から
C14年代などの絶対年代への以降の課程で、まだ、動揺しており、今のところ
分子人類学以上に過渡的印象を受けます。

専門家にとってある意味受難の時期かも知れませんが、われわれ素人の
歴史好きにとっては、面白い時代でもあります。
285日本@名無史さん:2007/07/11(水) 21:08:15
>>283

全く、人の言うことを聞かないやつだな。

>話を「征服があったことの証拠」に拡大している。
 まあ、それについては君も同じだけどね。

だからね、>>268に書き込んだだろう?
読んでから答えておくれよ。

>何時、私が「必ず、被征服者の宗教を受け入れる」と言ったのか?
>私は「ケースバイケース」と言ったではないか。

何故ヤマト王権がそのケースバイケースの一つであったと言えるのか?
推測を並べ立てても、根拠を出せねば意味が無い。

>清(満洲)は儒教を受け入れて国教としたではないか。

学問としてね。
「自分達に都合の良いように」改造して、それを官学にしたけど?
発言するのは良いことだけど、ちゃんと調べないと赤っ恥かくよ。

>そう、「たいてい」な。「必ず」ではない。

あいまいなままにしないでおくれよ。
「島国」の「異民族征服王朝」が「王権が弱かった」事例を教えてくれ
ないか?
どうして「日本は異民族に征服された」ことを前提として、言い訳ばかり
するのかね?
286日本@名無史さん:2007/07/11(水) 21:21:35
>>283
「征服があったことの証拠」を言えないのに、
「前方後円墳が継続して存在することが征服がなかったことの証拠には
ならない」とかいうあいまいな主旨を言わないでくれ。
287月光仮面:2007/07/12(木) 10:59:21
YAP?さん >>284
中堀説であるかのようにネット上で紹介されている内容は、攻撃8的な渡来人が
縄文人を山の中に追い上げたような言い方ですが、弥生人と言うのは実体は
文化的に成長した縄文人にほかなりません。勿論若干の河姆渡系が渡来して
その農業技術によって子孫繁栄したということもありましょうが。各地の伝承でも
海岸沿いに鬼がやってきて古墳を作ったり、石段をきづいたりするも、ホストは
あくまでも先住民、伝承は先住民側からのものだけです。秦河勝にせよ海から
来ています。縄文人にせよ山岳がプロであったわけではありません。全国的に
山と里の境界にある猿田彦神社等はこうした渡来系が神職として宗教的機能を
遂行していたと考えられます。中堀説であるかのようにネット上で紹介されている
内容はこうした事実を全く考慮していないと言うことです。土器編年は歴博の
マシーンが日本では最もパワフルです。海外とも広く交流しており、信頼性が
あります。


288日本@名無史さん:2007/07/12(木) 13:41:09
>>285
>「自分達に都合の良いように」改造して、それを官学にしたけど?
(清・満洲が儒教を)

そら見ろ。征服者が被征服者の文化を受容したと、じぶんで言っている
ではないか。

>発言するのは良いことだけど、ちゃんと調べないと赤っ恥かくよ。

儒教が宗教か、学問かは見方の問題だ。そんなことで赤恥をかく人はいない。
しかし赤恥なら君がすでにかいている。「タージマハールは征服の記念碑だ」
とか言ってね。せっかく見逃してやっているのに、「赤恥」などと言うから
じぶんに帰って来る。

>「島国」の「異民族征服王朝」が「王権が弱かった」事例を教えてくれないか?

心配になって、「島国」をつけ加えたな。
まあいい。島国征服の例はすでに出した。英国のノルマン王朝がそれだ。
もういちど説明すれば、征服が一応成功した後、ノルマン人はアングロサクソン
豪族を武力で服従させようとやっきになったが、途中であきらめて、通婚によって
これと融合する方向を選んだ。「アングロノルマン」というのは融合によって
できた新しい貴族階層を表す言葉だ。
ノルマン王朝は武力で服従させるほどには「王権が強く」なかったわけだ。
289日本@名無史さん:2007/07/12(木) 13:43:47
>>285
>何故ヤマト王権がそのケースバイケースの一つであったと言えるのか?

そんなことは議論していない。私が言っているのは「前方後円墳の存在が
征服のなかったことの証明にはならない」という一つのことだ。
これを言うには、征服者が被征服者の文化を受容する例が一つでもあれば
よい。そして一つどころでないことは見てきた通りだ。

>だからね、>>268に書き込んだだろう? 読んでから答えておくれよ。

君が「前方後円墳の存在が征服のなかったことの証明にはならない」という
命題を認めるのなら、先に進んで、質問に答えてもよい。
認めないのなら、認めない理由を出してくれ。それについて改めて議論しよう。

>>286
>あいまいな主旨を言わないでくれ。

「前方後円墳の存在が征服がなかったことの証明にはならない」というのが
あいまいでないのは、
「前方後円墳の存在が征服がなかったことの証明にはなる」というのが
あいまいでないのと同じだ。
290日本@名無史さん:2007/07/12(木) 14:07:29
>>289
君、友達いないだろw
ここはスレ違いの人が多いけど、
本来は征服の証拠を言うスレです。
291日本@名無史さん:2007/07/12(木) 15:46:19
>>289
訂正:
「前方後円墳の存在が征服がなかったことの証明にはなる」
→「前方後円墳の存在が征服がなかったことの証明になる」
292日本@名無史さん:2007/07/12(木) 15:50:36
>勿論若干の河姆渡系が渡来してその農業技術によって子孫繁栄した
>ということもありましょうが。


全くありませんね。

河姆渡文化は既に家畜として豚や犬を飼い、
木製や骨製の鋤を使った農業です。

炊飯器は釜や甑です。

煮沸器は罐。つまり壺ですよ。

どれもこれも縄文文化には伝わってない未来技術だよ。
293日本@名無史さん:2007/07/12(木) 16:10:47
古代日本の遺跡は古代イスラエルの度量衡で造られている

法隆寺や藤ノ木古墳は聖書の神聖キュビト尺で造られている
ちなみに三内丸山も弥生遺跡も同じらしい

http://www.geocities.jp/atelier_efraym/

この理由を皆さんの●い頭で考えましょうね
294日本@名無史さん:2007/07/12(木) 16:46:53
>>289
>「前方後円墳の存在が征服がなかったことの証明になる」というのが
>あいまいでないのと同じだ。

あいまいでない、つまり征服がなかったと「はっきりした」のだな。
ありがとう!www
295日本@名無史さん:2007/07/12(木) 20:10:11
>>294
もはや揚げ足取りしかできないことが「はっきりした」な。
296日本@名無史さん:2007/07/12(木) 20:58:02
>>288

>そら見ろ。征服者が被征服者の文化を受容したと、じぶんで言っている
 ではないか。

・・・・・・何時の間に宗教から文化にすり替えたんだい?
>学問としてね。←ちゃんと読んでおくれよ・・頼むからさ・・

>儒教が宗教か、学問かは見方の問題だ。

少なくとも、「清」は学問として導入したがね。
勝手な見方なら誰でもできるのさ。

>「タージマハールは征服の記念碑だ」とか言ってね。

人違いしてないか?

>ノルマン王朝は武力で服従させるほどには「王権が強く」なかったわけだ。

通婚政策を、支配をより安定させようとする政策の一つと何故考えられない
のかね?
というか、豪族が服従しないこと=王権が弱いとなるのかね?
ノルマン王朝は当初から中央集権型だったんだが・・・
豪族が服従して王権が弱かったのがヤマト王権だぞ?

>そんなことは議論していない。

ちゃんと説明しておくれよ。
「宗教」だけから古墳は見れないぞ。
297日本@名無史さん:2007/07/12(木) 21:04:27
>>289

>君が「前方後円墳の存在が征服のなかったことの証明にはならない」という
 命題を認めるのなら

キミは相手の主張は何一つ見ないで、自分の主張だけを相手に押し付けよう
とするのかい?
前にも言ったとおり、宗教以外の面からも古墳を見なきゃ。
まずは
「前方後円墳が征服王朝によって建立させられ続けたなら、何故征服を
示すような合理的根拠が無いのか」
まずはこれを答えておくれよ。


なあ、頼むから逃げないで答えておくれよ・・・・
言い訳ばっかじゃ議論にならないじゃないか・・・・
298日本@名無史さん:2007/07/12(木) 21:38:06
>>289
>「前方後円墳の存在が征服のなかったことの証明にはならない」

明らかな渡来系の古墳が、前方後円墳ではない形で、
前方後円墳より劣位で存在してる以上、
前方後円墳の存在が征服のなかったことを証明している。
反論があるなら前方後円墳で明らかに渡来系だとおぼしき例を出せ。

299YAP?:2007/07/12(木) 21:46:47
月光仮面さん

中堀説に対する評価については、現在では、限定的に使用すべきデータであるという評価を降さざるを得ないでしょう。
なんといっても、『Y染色体からみた日本人』で発表されているデータを見ると、調査したY染色体上のマーカーが、
SRY465、DXYS5Y,YAPの3つだけであり、最後のDXY5Yは、47zのことですから、これによる
日本人男性の4分類は、SRY465(M168)HA[O2b],47ZHA[O2b1a」のマーカーと言う事になり、
中堀氏の四型の分類は、現在の水準では、「D/E」「O2b」(O2b*とO2b1*)トその他の全部」と言う
きわめてばらbbすを欠いた物と言う事になります。
おまけに、『Y染色体からみた日本人』のp80では
 タイプVと言っていたものをハプログループO2b*、タイプWをO2b1とする
とかいています。
まあ単なる誤記か誤植でしょうが、「O2b*」のマーカーは、SRY465(M168)ですが、「O2b1*」の
マーカーはP49であり、「O2b1a」のマーカーはが、47zです。
「O2b1a」が、西南日本で起源したと考えられ、韓国などではほとんど見られないことを考えると、問題です。
ただし、私は、まだ例数g少なすぎるので、O2b1aが、満州・内蒙古・半島でも低頻度で発見されるのではないかと
考えていますが。

>弥生人と言うのは実体は文化的に成長した縄文人

と言う点については、私は、在来縄文系弥生人と、満州・半島を通過して渡来した弥生人の2系統があった
と言う立場を採ります。日琉祖語Japonicを列島に持ち込んだのは、北方からの渡来組だったと考えています。

尚、歴博のAMS法に対する評価は、私も同感です。
その結果としての縄文時代草創期(1万8千年前?)に対する年代見直しも正しいとして、解釈する必要があるでしょう。
300日本@名無史さん:2007/07/12(木) 21:47:52
ちょwww
いきなりソレを出すかw
もう少し粘らせろよw
301月光仮面:2007/07/13(金) 10:21:26
YAP? >>299
>「O2b1a」が、西南日本で起源したと考えられ、韓国などではほとんど見られない
そうではなく、一般的に、日本と韓国でしか見られないとされている。
http://www.isogg.org/tree/ISOGG_HapgrpO.html
↓では日本22.0%、北東アジア0.7%、南東アジア0.6%にわずかある。
http://img438.imageshack.us/my.php?image=japan9zr.gif
日韓、日本は御公家言葉には謙譲、丁寧のカテゴリーが文法にくみ込まれているが、
これが孔子をして東夷には古代の礼が残っていると言わしめたのではないかと思い
ます。これと稲作は河姆渡方面ではないでしょうか。

302月光仮面:2007/07/13(金) 11:53:48
国際的に現在の通説は、haplogroup Dの世界的分布が、主に中央アジア、東南
アジア、日本。下位グループD1 (D-M15)はチベット、モンゴル、中央アジア、東南
アジア、下位グループD* (D-M174)、D3 (D-P47)は中央アジア。下位グループD2
(D-M55)はほぼ日本に限定haplogroup Dのチベット出現頻度(about 50%)日本出現
頻度(about 35%)は両地区間で早期に移住関係があったことを意味する。
下位グループD2の遺伝学的多様化は12,000-20,000年前からこのグループが日本に
隔離されて来たことを意味する。日本においてD2の出現頻度が多いのはアイヌと
琉球人である。インド洋アンダマン諸島においても飛び石のhaplogroup Dが見られる。
これはhaplogroup Dが太古には今以上に広く分布していたものが、最近の民族移動で
排除されたことを意味している。
http://www.isogg.org/tree/ISOGG_HapgrpD.html
私の意見は、下位グループD2の遺伝学的多様化は12,000-20,000年前からこの
グループが「日本に」隔離されて来たことを意味するのではなく、「中央アジア、
モンゴリアに」隔離されて来たことを意味すると言うだけのこと。
303日本@名無史さん:2007/07/13(金) 12:18:57
>これと稲作は河姆渡方面ではないでしょうか。


じゃあ何で河姆渡の釜は伝わらなかった?

304月光仮面:2007/07/13(金) 12:56:04
知識の及ばないところだが、朝鮮半島にも土着の土器文化はあるので、無紋土器
文化圏で統一されたと言うことだろうか。
305月光仮面:2007/07/13(金) 13:14:08
河姆渡
http://www.esri.jp/~nobu/asia/map/map2/12inasak.jpg
東夷
http://www.esri.jp/~nobu/asia/map/map2/02toui.jpg
これはかなり離れているが、
「漢族は中央アジアの部族と考えられる
 主語・動詞・補語の文法
 鼻母音の発声(日本は喉)
 蒙古斑がないなどアジア系ではない
  ↓
黄河上流域に移動、中・下流域には強盛な苗族が居た
  ↓
BC2000年頃、漢族が苗族を討って、中原(黄河中流域)に進出し、夏国を建てる。
初代 (う)王。」
306月光仮面:2007/07/13(金) 13:14:42
続き
「敗れた苗族が南下。
  ↓
長江中流域(洞庭湖〜陽湖)→後に楚
  ↓
苗族の南下により、長江全域に居た倭族が東と西に分断される。(BC2頃)
 上流域「倭(wo)人」
 下流域「越(wo)人」(河姆渡の子孫)→後に東夷
 上古音では類音異字(日本では越智氏)
  ↓
長江下流域から、粟・黍を主食とする大もん口文化(遺跡C14で5785年前)の土着の
民族を討ちながら北上して、山東半島に至り、東夷と呼ばれる。
  ↓
商(殷)を建国
さらに海を渡り、日本に移動?
倭族の移動(倭族→百越(BC5000)→東夷→韓族→倭人(弥生人))
 文化的特質 水稲栽培 高床式の住居と穀倉
その際に問題となること
海人との繋がり?
舟は?筏舟と箱舟
海流?」
http://www.esri.jp/~nobu/asia/shiryou/shouyou/chou3.htm
↑これは魅力的なストーリーだなー。
307YAP?:2007/07/13(金) 23:03:48
月光仮面さん
 ご引用の[tree」では、「O2b*」が区別されておらず、「O2b1*」と「O2b1a」のみです。
WikipediaのHaplogroup NO(Y−DNA)やO2bのところでは、O2b*も区別されており、内蒙古や
満州、韓国で(非常に)少ない頻度で見出されると記載されていますので、O2b*も存在することは間違いないでしょう。
まあ、このあたりも、進歩の激しい分野での、わずかな時間差での表記法の相違や、データの相違を表しているのだと思います。

「O2b1a」のひんどについては、WikipediaのHaplogroup O2b(Y−DNA)の項目では、現代韓国人では、全く無い(completeLYabsent)か
国わずか(only extremely iow frequency)しか見いだされないとしています。
 日本人で4〜7%のO2b1*が存在することから、半島から列島に侵入したO2b1*の中から列島西部で、O2b1aが生じたという可能性があると
判断したのでしょう。

まあ、どうも、日本人や琉球人で多いHgが、ごく少数旧大日本帝国の範囲内で発見された場合は、近代の日本帝国の膨張の反映だという解釈をしているのかもしれません。
308月光仮面:2007/07/14(土) 09:08:32
YAP?さん >>307
>「Haplogroup NO(Y−DNA)やO2bのところでは、O2b*も区別されており、
>内蒙古や満州、韓国で(非常に)少ない頻度で見出されると記載されています」
この発言に反応して削除されたようですね。
ウィキの現状は↓
O2b (SRY465 (M176))
O2b*
O2b1 (P49) Typical of Koreans
O2b1*
O2b1a (47z) Typical of Japanese and Ryukyuans
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_NO_(Y-DNA)
http://en.wikipedia.org/wiki/Haplogroup_O_%28Y-DNA%29
しかし↓これの47zの上の行O-SRY 7.7%
http://img438.imageshack.us/my.php?image=japan9zr.gif
これはO2b1 (P49)が日韓にまたがっていることを意味するのでしょう。
近畿の丁寧語、謙譲語は百済王朝の遺産だろうと思います。
309月光仮面:2007/07/14(土) 09:16:49
しかし、日韓両国民が推測している通り、基本的にO2bの世界でも日韓両国は
歴史的、遺伝的に切れているんですね。つまり、交流ではなく、直流なんですよ。
310月光仮面:2007/07/14(土) 09:42:16
しかし、むしろショッキングだったのはO-M175の方がYAPよりも中央アジアに
結びついている、シルクロード、秦氏の線が強いと言う事実ですね。スターリン
に連行された朝鮮人数世代の影響なんていえるもんじゃないしね。これはやはり
揚子江地から古代にモンゴロイドが中央アジアに進出していたと言うことなのかな。
311月光仮面:2007/07/14(土) 11:33:33
↓Y染色体遺伝子の世界全体構造において、
http://img438.imageshack.us/my.php?image=japan9zr.gif
漢族系を拡大して、地理的分布を地図にすると
http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=1226206&rendertype=figure&id=FG4
徐福型 M122 6.6%、 楽浪系ホケノヤマ・萩原古墳型M134 O3a5 10.4%となっているの
がわかるが、これらは渡来百済系ではないかと見られるO2b1a (47z)まるで「在日韓人」
系のようなO2b1 (P49)とはことなり、漢四郡支配層であろう。
312月光仮面:2007/07/14(土) 12:15:54
>>306
苗族の南下により、長江全域に居た倭族が東と西に分断される。(BC2頃)
 上流域「倭(wo)人」
 下流域「越(wo)人」(河姆渡の子孫)→後に東夷
 上古音では類音異字(日本では越智氏)
とされるが、中国史書によれば倭は山海経でモンゴル、鮮卑檀石塊には拉致され、
楽浪海中にいる移動民族であるが、
中国少数民族YAP+出現頻度:チベット族(蔵族) 36.7%, トゥー族 23.8%, イ族 18.4%,
プミ族 11.3%, タジク族 7.4%, パイ(白)族 6.7%, ジノー族(基諾族) 5.1%, 山東省漢族 4%,
ムーラオ族 2.7%, マオナン族 1.3%.(この2族は百越系)
http://lib.bioinfo.pl/meid:7662
百越系にYAPが認められることは、本来YAPと上記韓系O2bの山里補完共生群で
あったと見ることが出来る。YAPがそのEの中近東に近い中央アジアで変異を見た
ものと考えられることから、韓系O2bは青銅等の資源を求めパミール山麓、アラル海
方面に進出、そこでYAPとの共生関係が発生、秦氏、あるいはさらにシベリア経由
バイカル湖にラピスラズリ、金を求めて移動したものではないかと思われる。
二里頭、そして、三星堆、タイのバンチャンの青銅器文化は彼らの交易活動に
よるものであろう。アルタイ方面から列島に至る間には長い歴史と遺伝子の多様化が
起こり、それがそのまま列島に持ち越された。それは支石墓、甕棺から箱式石棺墓、
百済、高句麗の王朝亡命という1500年以上にわたる日本列島への浸透であったので
あろう。
313月光仮面:2007/07/14(土) 12:28:23
>>311
斜陽、弱体化した帯方郡の貴族であっても邪馬台国における地位は決して大王
と言ったものではなく、せいぜい鏡作りがいいところだったのではなかろうか。
それは考古学的には楽浪土器商人が海柘榴市に到来して布留式土器の製造
販売を開始したと言う程度のことであろうが、この頃近畿日本は庄内式土器、
布留式土器による邪馬台国建設が始まっていたが、たまたまそうしたタイミングに
銅鏡ルートが開拓されたと言うことであろう。
314日本@名無史さん:2007/07/14(土) 13:01:18


ま  た  連  カ  キ  か!


315月光仮面:2007/07/14(土) 13:30:27
頭悪いから天下ごめんのオフサイドだ。ただ連投のいけないのはAAのような反社会的
意図が明白なものであり、連投をしないと首尾一貫しないものなどについては逆に
必要なことだと言う風に見ているが。
316月光仮面:2007/07/14(土) 13:38:26
韓国にYAPが残らなかったのは、スサノオの嫌韓もあるが、たぶん熊野本宮大社
のような山岳宗教立地条件がなかったと言う宗教的理由ではないかと思う。クスコ
マチュピチュを頂点とするインカ文明もこうした山岳宗教システムであり、YAP+が
チベット、雲南に浸透してゆくのもこうした山岳信仰が背後にあるんではないかと思う。
317日本@名無史さん:2007/07/14(土) 13:57:28
>>296
>何時の間に宗教から文化にすり替えたんだい?

文化でいいのだ。この議論は、私が:
「土着民の文化を征服者が採用するのは普通のことだ」と言ったのに対して
君たちが反論したことから始まっているのだからね。
それとも今度は「学問としての儒教は文化ではない」と言い出すのかな?

>少なくとも、「清」は学問として導入したがね。
>勝手な見方なら誰でもできるのさ。

元が受容しなかった「宗教」として、儒教の話をしたのは君のほうだ。
元の時代の儒教は宗教だが、清が採用した儒教は学問だ、と書いてある
資料がなにかあるのか? あったら紹介してくれ。

>というか、豪族が服従しないこと=王権が弱いとなるのかね?

いちいち具体的な例で征服者の文化受容を示しているのに、なんで強い弱い
という言葉の定義をしなければならないのか、さっぱりわからない。

>ノルマン王朝は当初から中央集権型だったんだが・・・

なんの関係があって言っているのか知らないが、ノルマン王朝を含めた
中世ヨーロッパの封建制こそ、中央集権の対極にあるものだ。
い。
318日本@名無史さん:2007/07/14(土) 14:01:13
>>317
訂正:
最後の「い。」は除去
319日本@名無史さん:2007/07/14(土) 14:05:30
>>298
>明らかな渡来系の古墳が、前方後円墳ではない形で、
>前方後円墳より劣位で存在してる以上、
>前方後円墳の存在が征服のなかったことを証明している。

前方後円墳を含む支配形態を基本的に変化させない征服や簒奪があり得るのに、
劣位の渡来系の古墳からなんでそんなことが「証明」されるのか、さっぱり
わからない。
320日本@名無史さん:2007/07/14(土) 14:42:39
>319
君は「あり得る」ばかり言ってるなぁ。
いい加減聞き飽きた。
「あった」例を言え。
君が渡来系だと思う前方後円墳を言えばいいだけだ。

321日本@名無史さん:2007/07/14(土) 15:24:54
●越族 えつぞく

中国の長江中下流以南に広く分布していた民族。粤(えつ)とも書かれる。地域によって,於越(于越),
甌越(越東海,東甌),ビンエツ※注1※(東越),揚越,山越,南越,西甌(甌),駱越(駱)などが
あり,総称して百越(百粤)と呼ばれた。於越は春秋戦国時代に浙江省北半部を本拠に越という国を
建てた。甌越は浙江省南部の甌江流域により,ビンエツ※注1※は福建省ビンコウ※注2※流域を中心
とした。揚越は揚州にいた越で,西甌,駱越は広西壮族自治区,あるいは北ヴェトナムにまでひろがって
いたとみられている。秦代末期の混乱に乗じて,趙佗(ちょうた)が番禺(ばんぐう,広東省広州市)を
都に南越(南粤)国を建て,5代97年のあいだつづいたが,漢の武帝の前111年(元鼎6),漢に滅ぼされた。
越族の習俗については,入墨・断髪などが知られ,文化については,新石器時代から春秋戦国時代まで
盛んにつくられた幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている。
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C080C100.HTM
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
幾何印紋土器が越族の文化の一つと考えられている
322日本@名無史さん:2007/07/14(土) 15:25:56
印文土器は中国南端の広西壮族自治区まで発見されている。


近年になって広東、広西、福建、台湾、浙江、江蘇、安徽、湖南、湖北などの
地方で、続けさまに新石器時代末期から秦漢以前にかけての、幾何学的印紋の
ある陶器と石器を特徴とする文化遺物が発見されている。
http://www.beijinginfinity.com/culture/jieri/duanwu.htm


鉦は主に湖南省、江蘇省、浙江省、福建省などの華中や華南で出土し、
南方の百越(越族)の諸地で流行した。


鉦主要出士於湖南、江蘇、浙江、福建等地,而以湖南寧了縣出土最多。
西周晩期以後,甬鐘行用地區甚廣,在南方百越諸地則流行鉦。
http://www.ntut.edu.tw/~s7360376/page0-2.htm
323日本@名無史さん:2007/07/14(土) 15:26:47
324月光仮面:2007/07/14(土) 15:33:49
>>311
>徐福型 M122 6.6%
これって始皇帝の徐福遠征隊航路に似ているんだが、
「米国人間遺伝学協会東アジア特有のHaplogroup O3-M122が南方起源であるY
染色体証拠」
http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?artid=1226206
の色刷り地図によって原郷が雲南のDulong族であることが判明している。
照葉樹林文化、顔の刺青、谷間における毒矢による殺牛儀式を持っている。
http://www.yunnanexplorer.com/Ethnic%20Groups/Dulong
これはアカルヒメが新羅王子天日矛に殺牛疑惑で予防拘禁されたことに憤慨
同族のいる難波に、離婚して、帰国、天日矛がおっとり刀で追っかけてくる話を
思い出す。又、始皇帝が徐福の復命を聞き精鋭山岳兵を人選したことも考え
られる。
325日本@名無史さん:2007/07/14(土) 15:38:38
刺青はBC50Cには既に登場している。


紀元前5,000年前-日本人が世界で初めて?

日本人が最初に入れ墨を取り入れたであろうと想像できる縄文時代の土器が
発掘されています。縄文土器にあしらわれた顔には埋葬者を守る意味合いを
持つ神秘的な「入れ墨」のようなものが認められ、これが入れ墨として
記録されている世界最古のものではないかと想像されています。
また、日本原住民族であるアイヌには優れた入れ墨技術があったものと
思われます。
http://www.ta2.com/tattoohistory.html
326月光仮面:2007/07/14(土) 15:39:37
↑ただ、この米国情報と言うのは半島部分の遺伝子等圧図、密度分布図が混乱の
北朝鮮と中国を考慮する場合現実的というより、空想的じゃーないの、できすぎてん
なーって感じがするが、俺だけかなー。
327日本@名無史さん:2007/07/14(土) 16:16:24
むしろ形質学や遺伝学が考古学的真理を割り出す事の邪魔をしている。

考古学は遺物だけで割り出した方がよっぽど近道である。
328日本@名無史さん:2007/07/14(土) 17:55:42
形質なんて新モンゴロイドが優位なんだからよ。
ボンクラ学者もそろそろ、リセットせんと滅ぶぞ、いろんな意味で。
329日本@名無史さん:2007/07/14(土) 19:09:31
>>320
>君が渡来系だと思う前方後円墳を言えばいいだけだ。

劣位の渡来系古墳の存在が、征服がなかったことの証明になるか、
ならないか、という問題と、
どれが渡来系の前方後円墳か、という問題とは明らかに別だ。

劣位の渡来系古墳の存在が、なぜ征服がなかったことの証明になるのか、
と聞かれれば、君は:
「渡来系の前方後円墳がないからだ」と答えるのか?
330日本@名無史さん:2007/07/14(土) 20:21:22
>劣位の渡来系古墳の存在が、なぜ征服がなかったことの証明になるのか、
>と聞かれれば、君は:
>「渡来系の前方後円墳がないからだ」と答えるのか?

その通りだ。
君が渡来系だと思う前方後円墳を言え。
331日本@名無史さん:2007/07/14(土) 20:40:02
>>317

>「土着民の文化を征服者が採用するのは普通のことだ」と言ったのに対して
 君たちが反論したことから始まっているのだからね。

キミの最初の発言はコレだったと思うがね。↓
229 :日本@名無史さん:2007/07/07(土) 19:37:39
>>227
タージマハールは印度/イスラム文化の粋だが、そこに葬られているのは
ムガール王朝、つまりモンゴル系征服王朝の王だ。

>資料がなにかあるのか? あったら紹介してくれ。

あのね・・・・
儒教は、宗教として、学問として、二つの顔を持つんだよ?
漢代には国教だったろう?

>いちいち具体的な例で征服者の文化受容を示しているのに、なんで強い弱い
 という言葉の定義をしなければならないのか、

前方後円墳の意義は、あらゆる面から考察されねばならないのに、宗教
だけに的をしぼって「征服の可能性がある!!」ってどうして言い切れ
るのかサッパリわかりません。

>ノルマン王朝を含めた中世ヨーロッパの封建制こそ、

ノルマン王朝は王権の非常に強い王朝ですが何か?
征服王朝だからこそ王権が強いのですが何か?
332月光仮面:2007/07/14(土) 21:51:13
>>302 >>310
YAP?さん >>272
スタンフォード大学 「Y染色体で先史時代のヒマラヤ山脈への移動が明らかとなる」
P8 Fig4
http://hpgl.stanford.edu/publications/HG_2000_v107_p582.pdf
上記の図が生きたきますね。YAP+のチベット・雲南への移動はタングート時代の
鮮卑拓跋ではなく更に古く、例えばフェルガナ盆地とか、アルタイ高地とかから
入ってきたと見るのがいいかも。M122と言う中国南部のものと、西方起源のYAP+
が共に始皇帝の徐福遠征隊で山岳要員として入り込み例えば熊野で徐福と久米
(クメール)の話を残したとも考えられます。
333日本@名無史さん:2007/07/14(土) 21:56:42
でむぱもほどほどにしとけ。
334日本@名無史さん:2007/07/14(土) 22:20:14
今日はさんざんであった。雨の中、バスには30分もまたせられ、講演会は期待はずれでがっかり、
某レストランで食事をしたが可愛い女の子がいなくてがっかり。
帰りのタクシーに傘まで忘れた。今日はほんとについていない日だ。
明日はなんとかならんかな。
335月光仮面:2007/07/15(日) 10:52:29
>>334
トピずれ、オフサイドになってきたようです。
→日本人どこから来たんだ?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1165607012/
こっちに河岸を変えて、又、いっぱい、出直して、やりやしょう。お付き合いください。
アンダマン島とモンゴル・ハルハ族から見て、まれに見る深いルーツの日本人
YAP+の海外居住地においての数千年の多様化はどうも↓遼河文明にあったの
http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/sympo/20040201-r-2c.gif
ではなかったかなー。勿論、Eとの接点は依然フェルガナ盆地とかにあるのであろうが。
こうした視点から考え直して行こうと思います。

336月光仮面:2007/07/15(日) 10:56:24
>>335>>332を参照したもので、ミスタイプで>>>334となったもの。シルレハムニダ。
337日本@名無史さん:2007/07/15(日) 16:16:15
おまい、発狂でむぱ仮面とでも名乗れよ。
338月光仮面:2007/07/15(日) 18:18:33
少々物狂おしい方向にずれてしまったのは否めないが、俺はしばしロムに回ることに
する。が、このトピは昭和天皇も興味をもたれたほどのテーマなんで、時には書き込ま
せてもらうことにする。悪しくな思へ。こんな日本語あったか?
339YAP?:2007/07/15(日) 18:48:25
月光仮面さん、
進歩の激しい分野で、まだ例数も少なく、今後のでーた次第で解釈が大幅に変わる可能性のある
資料を、同じ基盤で論じることの難しさが、よくわかる議論になりました。

共通認識に立って議論するためには、もう2=3年は待ったほうが良いのかもしれません。
また、機会があれば、議論したいと思います。
340日本@名無史さん:2007/07/15(日) 18:55:39
先生方、金玉握ってんのはDNA必死にかき集めてる中国様だぜw
341日本@名無史さん:2007/07/15(日) 19:06:22
そう。

中華人が一番信用できないよな。

ここで言う中華人とは中国人だけでなくて台湾人も含む。

おかしな江南でむぱを何千回にも渡ってばら撒いて
洗脳工作してたしな。

これならまだ朝鮮半島見てた方がマシだとか言ってたの
アンタだろ?
342日本@名無史さん:2007/07/15(日) 19:42:43
>>月光仮面

あなたの話は決して嫌いじゃないけど、
話が飛び過ぎてて分からない。
一つ一つを丁寧に説明してないから、
何を言ってるのか分からないんだ。
自分ひとり分かってて、
気持ち良さそうにオナニーしてるとしか見えないんだよ。
343日本@名無史さん:2007/07/15(日) 19:44:12
>>330
渡来系の前方後円墳がないとわかっているのならば、
なにも「劣位の渡来系古墳の存在」を持ち出す必要はない。
すなわちそれは「証明」ではない。

>>331
君はただかきまわしてごまかそうとしているだけだ。
まじめに議論する気がないのなら、ここまでにしよう。
最後にもういちど言っておく。
「征服者が被征服者の文化を受容するのは普通のことだ」
その例はじゅうぶん多く、挙げた。
だから前方後円墳が日本固有だからと言って、征服がなかったとは言えないのだ。
344日本@名無史さん:2007/07/15(日) 19:58:36
>>343の上

意味不明。
渡来系の前方後円墳がなく、
劣位の渡来系古墳(前方後円墳でない)が存在する事が、
渡来系の征服がなかった事の証明だ。

それより君が渡来系だと思う前方後円墳を言えと言ってるのだ。
何回同じ事を言わすのだ?
345日本@名無史さん:2007/07/15(日) 20:42:49
>>343

>君はただかきまわしてごまかそうとしているだけだ。

それは君のことだ。
最後に言っておく。コレだけ答えてくれ

「前方後円墳は宗教だけで捉えられるものではない。
 騎馬民族征服の根拠が薄弱な以上、前方後円墳は日本固有のもので
 ある。にもかかわらず、宗教だけに焦点を当て、騎馬民族征服はあ
 ったかも知れないと何故言えるのか?」

言い返せないから頭に来てるんだろうけど、これだけは答えてくれ。
346月光仮面:2007/07/16(月) 12:30:57
YAP?さん >>339
確かに土俵がぐらついていますね。本件はその後、こちら→日本人どこから来たんだ?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1165607012/menu783-780
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1165607012/menu792-794
飛んで展開しました。ご案内の通り、土俵の揺らぎもさりながら、国際的には領土民族
紛争、国内的には個人情報の取扱、国民統合の維持と言う観点からも、公的機関の
研究テーマとしてはおのずと限度のある面もあろうが、逆に世界平和、国内安定、
犯罪減少に寄与することありましょう。しかし、それだけに2CHは格好の討議の場と
えるかもしれません。
何か新展開あればただちにこちらにもご報告します。ではまた。
347月光仮面:2007/07/16(月) 12:33:39
>>342
日本の北と南のはずれ、全国的に山などの外れにYAP+という男性遺伝子が多い。
そしてこれにそっくりな遺伝子はチベット・雲南、近いのはユダヤ、イラン、コイサン等
があるが、どこからか日本に移住してきたのと違うか。この議論なんだか騎馬民族と
か、南米のアンデス文化にもからむような気がする、とまー、平たく言うとこうなんだ。
348日本@名無史さん:2007/07/16(月) 15:15:12
からむような気がするってだけで連カキしてたのかよ・・・
349月光仮面:2007/07/16(月) 15:35:54
気がする程度の情報が最高のもので、絶対と言うのが最低の情報だと思うんだが。
350日本@名無史さん:2007/07/16(月) 18:53:18
>>344
なぜ、前方後円墳は「全て」渡来系でないと言えるのか?
あるいは、
なぜ、渡来系の前方後円墳があってはいけないのか?

>>345
>前方後円墳は宗教だけで捉えられるものではない。

もちろんその通りだ。エジプトのピラミッドが宗教だけで捉えられる
ものでないのと同じ。
だから私は最初、「文化」と言ったのだ。(宗教も文化のうちだ)
そして、被征服者の文化を征服者が受容することは世界史上、ざらにある。
君も私が挙げた例で見てきた通りだし、いみじくも君自身もまた
満洲族が漢族から受容した儒教「文化」を挙げた。

>騎馬民族征服はあったかも知れないと何故言えるのか?

その前に聞いておこう。君が言う「騎馬民族」とは、例えばどんな
民族のことか?
351日本@名無史さん:2007/07/16(月) 19:49:57
>>350の上

あってはいけないではなくて、思いつかないと言ってるんだ。
だからあなたに具体的に渡来系と思われる前方後円墳の名前を聞いてるのだ。
352日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:16:49
>>350

>満洲族が漢族から受容した儒教「文化」を挙げた。

文化の受容は、何も征服だけではない。
盛唐もまた、西域の文化を受け入れた。
わかるか?
文化だけで、「征服した可能性がある」などとは言えないのだ。

>その前に聞いておこう。君が言う「騎馬民族」とは、例えばどんな
 民族のことか?

俺は「無い」と思っている。
いかなる騎馬民族もな。
騎馬民族征服が「あった」と考える君が出すべきだろう?

話を横にそらさないでもらえるかい?
353日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:42:15
4Cだぜ。

やって来たなら文物も記録もしっかりと残ってしまう時代だよ。

同じく、4Cにやって来た秦氏の帰化の記録は哀仲天皇も交えて
全ての経緯がしっかりと残っているんだよ。

何で騎馬民族の記録が一切無いんだよ。

もう笑うしかないだろw
354日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:44:35
×哀仲天皇
○仲哀天皇

スマソ
355日本@名無史さん:2007/07/17(火) 00:10:25
月光仮面も内容的には白馬青牛と大差無いな。
まあ、あの広島のクズと違って、礼儀正しいからずいぶんマシだが。
356日本@名無史さん:2007/07/17(火) 01:12:55
馬好きな同族だろw
357月光仮面:2007/07/17(火) 08:32:49
規制の巻き添えを食い、自分のせいではなんてびっくりすることってあるよね。
そこでヤフー掲示板 トップ > 芸術と人文 > 歴史 > 世界史 > 世界史の中の
古代日本↓
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835209&tid=c0a43a6bbka4ncfa4n8ebeffckdc&sid=1835209&mid=4
つうのを造ってみました。規制とかで連絡取れなくなったら、ヤフールール内で
使ってね。
358日本@名無史さん:2007/07/17(火) 11:10:23
ドドドドドドドドドドドド!!     |風|               _     |風|
                      |林|   _           .|風|   |林|
                      |火|  |風|        .|林|   |火| コッペパ〜ン
                           |山|   |鈴|           |火|   |山| ジャム塗ったらア〜ンパ〜ン♪
               _∧ ∧(oノヘ| ̄  .|火|          |山|(oノヘ| ̄
               (_・ |/(゚∀゚ )|\.   |山| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
     _∧ .∧(oノヘ   |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄(_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
    (_・ |/(゚∀゚ )\ (  (_・ |/(゚∀゚)|\   |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
       |\Ю ⊂)_ √ヽ| ||   |\ Ю ⊂) |√ヽ(  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
      (  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~   (  ̄ ~∪ )^)ノ .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
        ||` || ( | ( |(´⌒(´    ||` || ( | ( |  (´⌒(´⌒;;  (´⌒ '~ (´⌒(´⌒;;
359日本@名無史さん:2007/07/17(火) 12:28:00
>>355
知識だけは中途半端に多く持っているが、それらの正誤を判断する知能が
基本的に無いのな。

おまけに自分の間違いを修正していく知能もねえの。
360月光仮面:2007/07/17(火) 13:08:17
「一馬」、「勝馬」見たいなもんで発走すれば赤鉛筆でマークされ、馬券が財布に
入る前にはゴミ箱に入っているって感じだよなー(www ピン、パーン!!!
361日本@名無史さん:2007/07/17(火) 15:15:13
>>351
>あってはいけないではなくて、思いつかないと言ってるんだ。

蛇塚古墳、天塚古墳はどうするの?

>>352
>文化の受容は、何も征服だけではない。

「征服だけではない」ということは「征服を含む」という意味だな?
それで私の意見と一致した。ありがとう。

>その前に聞いておこう。君が言う「騎馬民族」とは、例えばどんな
 民族のことか?

>俺は「無い」と思っている。 いかなる騎馬民族もな。

え? 騎馬民族は存在しないのか。
それならいかなる証拠を出しても無駄だな。
362日本@名無史さん:2007/07/17(火) 15:48:09
>>361
蛇塚古墳、天塚古墳が征服王朝と結びつく巨大古墳なのか?
363日本@名無史さん:2007/07/17(火) 16:00:50
>361
秦氏はその頃もう「日本人(倭人)」だろ?
364日本@名無史さん:2007/07/17(火) 19:31:27
>>362
君は「渡来系の前方後円墳がない」
と言ったのであって、
「征服王朝と結びつく巨大古墳がない」
と言ったのではない。
365日本@名無史さん:2007/07/17(火) 19:38:34
>>364
ここは征服王朝について語るスレだろ。
くだらない言葉尻を捉えるな。
366日本@名無史さん:2007/07/17(火) 20:03:41
>>361

>「征服だけではない」ということは「征服を含む」という意味だな?
 それで私の意見と一致した。ありがとう。

そうか、君は前方後円墳が続いているのは、征服の否定材料になること
にやっと気づいてくれたのか。
良かったよかった。意見の一致を見たな。

>え? 騎馬民族は存在しないのか。
 それならいかなる証拠を出しても無駄だな。

反論できないからといって、言葉尻を捉えて屁理屈をこねるのは良くない
と思うぞ。

367日本@名無史さん:2007/07/18(水) 05:04:44
>>365
「渡来系の前方後円墳は存在しない」は撤回するのか?

>>366
「文化の受容」が「征服ばかりではない」とは君自身が言ったことだ。
「征服ばかりではない」というのは「征服を含む」、
すなわち「征服者が被征服者の文化を受容することがある」ということだ。
ここまでは意見が一致した。

言い換えれば前方後円墳が征服者による文化受容であり得る、
したがって:
「前方後円墳が継続して存在することが征服がなかった証拠にはならない」
私はこれ以上のことは言っていない。
368日本@名無史さん:2007/07/18(水) 07:27:54
>>367
「日本に来て何代目かの渡来系の前方後円墳なら存在する可能性もある」
に言い換えよう。
369日本@名無史さん:2007/07/18(水) 07:37:53
>>367
>「前方後円墳が継続して存在することが征服がなかった証拠にはならない」

君が出した例は秦氏と言う帰化民。
征服ではない。
370日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:47:01
>>367

何度言ったらわかるのかね?

「前方後円墳は、宗教や文化の面だけから捉え切れるものではない。
 文化・宗教の受容は、平和時でも充分可能である。
 しかしながら、騎馬民族征服の痕跡が前方後円墳初め当時の遺物に
 見受けられない以上、前方後円墳の継続は騎馬民族征服の否定材料
 になる。」

どうしても「騎馬民族は日本を征服した!」という前提から考えたいようだね。
371日本@名無史さん:2007/07/18(水) 09:56:15
【前回選挙前】
    , - ,----、
   (U(    )  サラリーマン大増税は行いません!
   | |∨T∨   郵政民営化だけで全て解決です!
   (__)_)    どうか自民党に投票お願いします。
          ↓
  【選挙勝利2日後】
   ↓自民党
   ∧_∧   サラリーマン大増税するのなんて解ってただろw
  ( ´∀`)   勝っちまえばこっちのもんwww口約なんて破る為にあるんだよ!w
  (   /,⌒l     ギリギリまで税金絞り取ってやるからしっかり払えよ底辺どもwwwww      
  | /`(_)∧_0.        
  (__)(´∀`; )⊃⌒⊃  ←国民
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


【2007夏選挙前】
    , - ,----、
   (U(    )  消えた年金対策はしっかりやります!
   | |∨T∨    責任取らせます。給料下げます。
   (__)_)  
          ↓
  【選挙勝利後】
   ↓自民党
   ∧_∧   WE法案を早速導入するのは解ってただろw
  ( ´∀`)   反対しても強行採決するから無駄無駄www
  (   /,⌒l     ついでに消費税も10%に上げるからしっかり払えよ奴隷どもwwwww      
  | /`(_)∧_0.     は?消えた年金・・・?なにそれ。領収書持ってこいボケwww   
  (__)(´∀`; )⊃⌒⊃  ←国民
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
372日本@名無史さん:2007/07/18(水) 21:54:37
>>369
>君が出した例は秦氏と言う帰化民。 征服ではない。

だれも征服の話などしていない。
渡来系の前方後円墳があるか、ないかだけの議論だ。

>>370
>>騎馬民族征服の痕跡が前方後円墳初め当時の遺物に見受けられない以上、

不思議だな。
君によれば、騎馬民族は「存在しない」。
存在しないのならば騎馬民族とはどんなものかわからないのに、
なぜ「痕跡」がない、と判断できるのかな?
373日本@名無史さん:2007/07/18(水) 22:06:21
>>372

やれやれ・・・
仕方ない。行間や文脈を読めないようだから、説明してあげよう。

>その前に聞いておこう。君が言う「騎馬民族」とは、例えばどんな
 民族のことか?

君は最初にこう言ったね?つまり、「日本に侵攻したと考える騎馬民族は
どんな種族だったか?」を聞いているな?
そして、俺はこう答えた。

>俺は「無い」と思っている。いかなる騎馬民族もな。

つまり、俺は「日本を征服した騎馬民族など存在しない」と考えているのだ。

お分かりかな?
さて、言葉尻を捉えるのに必死なようだが、前方後円墳出現時期における
宗教を除いた騎馬民族征服説の可能性を示唆するものを教えてもらおうか?
374日本@名無史さん:2007/07/19(木) 00:06:11
>>372
>だれも征服の話などしていない。
>渡来系の前方後円墳があるか、ないかだけの議論だ。

「前方後円墳が継続して存在することが征服がなかった証拠にはならない」
とか「征服」の話をしてるのは君だろが。
わけ分からない…
375日本@名無史さん:2007/07/19(木) 05:03:26
>>373
>つまり、俺は「日本を征服した騎馬民族など存在しない」と考えているのだ。

ある民族を想定しなければ、その痕跡を云々できないではないか。
で、どんな民族を想定するの?

>>374
>「征服」の話をしてるのは君だろが。

ここは「渡来系の前方後円墳があるかないか」だけの議論だ。
そして結論は君が見たとおり「ある」。
なぜこの議論が出てきたかと言えば、
「前方後円墳は土着系(または皇別)、円墳などは渡来系」
という区別を考えて、これを「征服がなかった証拠」にする人がいるからだ。
つまり「征服」を前方後円墳にくっつけているのは向こうであって私ではない。
私はこの説がなりたたないことを言っているだけだ。
で、渡来系の前方後円墳があることになって、この説がどうなるのかは、
まだ聞いていない。
376日本@名無史さん:2007/07/19(木) 06:07:53
>>375
>そして結論は君が見たとおり「ある」。
>つまり「征服」を前方後円墳にくっつけているのは向こうであって私ではない。

何代か後の前方後円墳は「ある」という事なんで、
やってきてすぐ作れる物でないという事だろう。
征服を先に言い出したのは君だ。
377日本@名無史さん:2007/07/19(木) 11:30:33
>>375

ハア・・・
つくづく頭が悪い・・・

いかなる騎馬民族にも共通する属性があるだろう?
一つの民族に絞らずとも、大体わかるものさ。
それが存在しないのは何故かな?
言っておくが、馬具が古墳にあるから・・なんてバカなことは
言わないでおくれよ。
378日本@名無史さん:2007/07/19(木) 15:01:24
>>377
4〜5世紀において、日本の周辺にいた民族は限られている。
以下に並べるもののなかで、君の「騎馬民族」の定義にあてはまるものは
どれか? (もちろん4〜5世紀の時点の各民族だ)

新羅人、百済人、高句麗人、金官加羅人、その他の加羅人、本国の扶余、
鮮卑、中国人(西晋人、燕人、東晋人など)、匈奴、ワイ族。

一つでも複数でもいいよ。もちろん上記以外を挙げてもいい。
379日本@名無史さん:2007/07/19(木) 16:05:42
>>378

質問に対して答えずに、質問で返すなと先生に言われなかったかい?
何度も言っているだろう?

い か な る 騎 馬 民 族 も 日 本 を 征 服 し て い な い
 
なぜなら、考古学的に否定されているからだ。

さて、君は逃げてばかりだが君の考える日本を征服したという騎馬民族を
どれか教えてくれないか?その中からでいいからさ。
「あった可能性がある」と言う君が出すべきだろう?
答えてあげよう。
380日本@名無史さん:2007/07/19(木) 17:24:31
>>379
彼(378)はずっと扶余だと言ってるけどね。

大仙古墳から騎馬用の鎧である桂甲が出ず、
弥生時代からある短甲が出てる事について今だに説明できてない。
381日本@名無史さん:2007/07/19(木) 19:39:05
>>379
ここは江上説のスレだから、それに即して言えば、江上は「扶余」と特定
している。ただし本国の扶余ではなく、金官加羅を支配した扶余だから、
「百済人」「高句麗人」と同じ言い方で「金官加羅人」と言ってもよい。
この「扶余」または「金官加羅人」は、君の言う「騎馬民族」の定義に
あてはまるのか?
382日本@名無史さん:2007/07/19(木) 20:43:46
>>381
俺は379ではないが金官加羅を支配した扶余などという言い方はあいまいだ。
一人の学者の推測だろが。
383日本@名無史さん:2007/07/19(木) 20:45:15
>>381

>この「扶余」または「金官加羅人」は、君の言う「騎馬民族」の定義に
 あてはまるのか?

>>382
384日本@名無史さん:2007/07/20(金) 12:02:43
>>379
あなたは邪馬台国はどこにあったと思いますか?
385日本@名無史さん:2007/07/20(金) 13:25:30
>>380
>弥生時代からある短甲が出てる事について

その、「弥生時代の短甲」とはどんなもので、何に書いてあるのかな。
ぜひ、教えてくれ。

>>379
>「扶余」または「金官加羅人」は、君の言う「騎馬民族」の定義に
あてはまるのか?

たったこれだけのことに答えられないのか?
質問を言い換えれば、
「江上の言う特定の征服者は、君の言う騎馬民族の定義にあてはまるか?」
という、もっとも基本的なことではないか。
386日本@名無史さん:2007/07/20(金) 14:54:27
>>385
http://homepage1.nifty.com/daifukuya/Hakkutu.yougo.htm

もちろん弥生時代からある木製の物という意味でなく、
短甲という形状(蝶番のある)が同じという意味だよ。
387日本@名無史さん:2007/07/20(金) 18:30:39
>>385
俺は379ではないが、俺的に騎馬民族を定義しようか?

「騎馬用甲冑の桂甲という文化を持つ事」

これだけ。
388日本@名無史さん:2007/07/20(金) 22:09:52
>>387

サンキュ

>>385

おやおや・・・
日本を征服した異民族は存在しないと言ったつもりだったがねえ。
騎馬民族とは、騎馬戦術を戦闘の中心に据える民族・または騎馬戦
術を得意とする民族・・かな?

これで俺は答え終えた。

な、いい加減答えてくれよ。日本を征服したという騎馬民族を
教えてくれないか?
「あった可能性がある」と言う君が出すべきだろう?

答えられないのかな?だから必死になってるのかな?
389日本@名無史さん:2007/07/21(土) 05:02:41
>>388
>騎馬戦術を戦闘の中心に据える民族・または騎馬戦術を得意とする民族
>これで俺は答え終えた。

なるほど、最初の質問は「どんな民族のことか?」だったのだから、
それには答えているな。
では、君は日本の古墳時代に「騎馬戦術」の「痕跡」がない、と言っているのか?

>日本を征服したという騎馬民族を教えてくれないか?

そんなことは江上の騎馬民族征服説を議論する前提だ。
「金官加羅」に決まっている。

>>386
この資料は「弥生時代に木製の短甲があった」というだけではないか。
人間の上体という基本的に円筒形のものを固いもので覆うのだから、
だいたい同じような形になるのは当たり前だ。
それをもって大仙古墳の金銅製短甲が、弥生時代の木製短甲の発展形だ、
ということはできない。
390日本@名無史さん:2007/07/21(土) 05:12:51
>>389
>それをもって大仙古墳の金銅製短甲が、弥生時代の木製短甲の発展形だ、
>ということはできない。

大仙古墳の金銅製短甲が渡来系であると言いたいのかな?
伽耶と同系であると言いたいのか?
391日本@名無史さん:2007/07/21(土) 10:43:01
>>390
>渡来系であると言いたいのかな?
>伽耶と同系であると言いたいのか?

少なくともそのような議論の対象になるな。
4〜6世紀の朝鮮と日本の武装はみなそうだ。そして結論はまだ出ていない。
392日本@名無史さん:2007/07/21(土) 10:50:12
>>389

>では、君は日本の古墳時代に「騎馬戦術」の「痕跡」がな
 い、と言っているのか?

ああ、無いな。
ヤマト王権が騎馬民族征服王朝であったなら、歩兵中心の軍団で朝鮮に
攻め込みもしないだろうし、高句麗の騎馬戦術への対応策も持ってたろ
うしな。
しかし現実には高句麗の騎馬軍団に大苦戦し、対応のために加羅から馬
を輸入までして騎馬資源を確保しようとしている。
騎馬民族ならこんな苦労はせんよ。

>そんなことは江上の騎馬民族征服説を議論する前提だ。
 「金官加羅」に決まっている。

金官加羅が日本をどう征服できたのかね?
統一勢力が形成されなかったのに、日本を征服できたのかい?
いくら鉄器や騎馬戦術を持っていても、いかんせん国力が小さすぎる。
少し考えればわかる話だが・・・

393日本@名無史さん:2007/07/21(土) 10:53:44
結局、曖昧なことで逃げ回っていたが、とうとう尻尾を出すはめになったな。
まあ騎馬民族説の支持者は大体同じパターンだから言い負かすのは簡単だが・・

>>391

君に忠告をしておこう。
中 国 も そ う だ 。
394日本@名無史さん:2007/07/21(土) 14:13:32
>>391
大仙古墳の短甲は日本製で、
同型のものが伽耶で発見されてても、
日本製か日本の強い影響によるものだそうだ。

http://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2003b.html#3_2
395日本@名無史さん:2007/07/21(土) 21:08:21
>>392
>ああ、無いな。

馬兜は「痕跡」ではないのか?

>>394
朝鮮半島と日本の武装は双方から影響しあって発達しているのだ。
問題は始まりがどちらだったかということだ。
それは別として、短甲というとすぐ「歩兵用」という考えがあるが、
大王が歩兵であるはずもない。
金銅製短甲は騎馬用であったと考えざるを得ないのである。
396日本@名無史さん:2007/07/21(土) 21:20:12
>>395

>馬兜は「痕跡」ではないのか?

少し考えてみろ。
それはいつのものだ?
397日本@名無史さん:2007/07/21(土) 21:21:22
>>395 上
馬冑は痕跡ではない。
和歌山の大谷古墳には長持形石棺があり、勾玉が副葬品になってる。
騎馬民族ではない。

>下

桂甲は5世紀前半〜中頃に日本に入ってる。
騎馬民族なら堂々と桂甲を副葬品にすればいい。
したがって大仙古墳の主は馬に乗る習慣を持たない大王だったという事だ。
騎馬民族ではない。
398日本@名無史さん:2007/07/22(日) 20:23:26
>>392
> しかし現実には高句麗の騎馬軍団に大苦戦し、対応のために加羅から馬
を輸入までして騎馬資源を確保

なるほど、歩兵集団では騎馬戦術に勝てないのだな。
それでは広開土王以前に、どうやって歩兵集団で、騎馬戦術を持つ伽耶を
服属させたのか?

>馬冑は痕跡ではない。 >騎馬民族ではない。

そうやっていろいろな解釈を加えなければならない。それも馬兜という「痕跡」が
「ある」からではないか。

>和歌山の大谷古墳には長持形石棺があり、勾玉が副葬品になってる。

マケドニア人のファラオがエジプト式の墓に入るのと同じだ。

>したがって大仙古墳の主は馬に乗る習慣を持たない大王だったという事だ。

馬鹿を言っては困る。短甲と同時に蒙古鉢型兜(本来は桂甲とセットで用いられる)
と、これらと同じく金ぴかの馬飾り金具とが、一つの場所から出土しているのだ。
これらはワンセットの儀礼用武装と考えられる。

>騎馬民族なら堂々と桂甲を副葬品にすればいい。

大仙古墳は現在では5世紀末〜6世紀初頭と考えられていて、これはワカタケル
の時代に近いが、そのワカタケル銘鉄剣が出た稲荷山からはちゃんと桂甲が出ている。
武具の変化は早い。恐らく騎乗用の武装も、実用品の桂甲と、儀礼用/示威用の
金ぴか短甲とに分化したと考えられる。
399日本@名無史さん:2007/07/22(日) 20:43:54
>>1
韓国人がこんなこと言ってますよ(w

「核兵器を作って日本に撃ち込んでやれ」
「日本人を皆殺しにするぞ!」
「日本は海に沈んでほしいわ」
http://www.youtube.com/watch?v=5KDkIuz2GTw&mode=related&search=

wwwwwwwww
400日本@名無史さん:2007/07/22(日) 21:02:41
>>398

>それでは広開土王以前に、どうやって歩兵集団で、騎馬戦術を持つ伽耶を
 服属させたのか?

はて?加羅が騎馬戦術?
まあ良い。
騎馬軍団に対して、歩兵軍団が戦力的に劣ることは事実だが、それは同等の
兵力の場合だ。
近代以前の戦争は、よほど優れた戦略を持たねば多数の敵に打ち勝つことは
難しい。
ついでに言うと、伽耶は征服したのではなく、同盟に近いものを結んでいる。

まだまだ勉強が足りん。
精進することだな。

401ついでに:2007/07/22(日) 21:04:29
>そうやっていろいろな解釈を加えなければならない。それも馬兜という「痕跡」が
 「ある」からではないか

馬冑が存在することと、騎馬民族説を否定することが合致するのか?
402日本@名無史さん:2007/07/22(日) 21:12:42
>>398
>馬鹿を言っては困る。短甲と同時に蒙古鉢型兜(本来は桂甲とセットで用いられる) と、これらと同じく金ぴかの馬飾り金具とが、一つの場所から出土しているのだ。

どこでの話しだ?

>大仙古墳は現在では…(省略)…稲荷山からはちゃんと桂甲が出ている。

日本では5世紀後半から桂甲が多くなるみたいだね。
なら大仙古墳から出てても不思議でないわけだが出てない。
長持山古墳のように桂甲を副葬品としてる例があるのだから、
君の言う「実用品の桂甲と、儀礼用/示威用の金ぴか短甲」はあてはまらないな。w
で扶余の首長は短甲で馬に乗ったのか?
403日本@名無史さん:2007/07/23(月) 20:31:10
>>400
>ついでに言うと、伽耶は征服したのではなく、同盟に近いものを結んでいる。

対等だったというわけか。それなら、どっちに転んでもおかしくないな。
ついでだが、その「同盟」の資料を教えてくれ。

>>402
>どこでの話しだ?

もちろん大仙古墳だ。明治5年の大仙古墳の発掘はすぐ埋め戻されたから
絵図しかない。その絵図には金銅製の鋲止め式短甲と、蒙古鉢型兜(眉庇
付き兜)がある。そして、米国の博物館に、伝・大仙古墳出土の馬鈴(三環鈴)
があるのだ。

残念ながら大仙古墳は盗掘があり、また調査された時代のせいで、不明確な
ところがある。しかし「江田舟山古墳」が補強してくれる。ここもワカタケル
銘鉄剣が出ているから同じ時代だ。もちろん大王墓ではないが、「金銅製冠帽」
が出ているからローカルな「王」墓である。

さて、江田舟山古墳からは、大仙古墳と殆ど同じ造りの鋲止め式短甲(ただし
金銅貼りはない)と、衝角付き兜が出るが、その他に轡、馬鈴などの馬具が
出るのだ。江田舟山古墳は盗掘されていないから、同時代の古墳として、大仙
古墳の副葬品の当初の姿を推定させてくれる。
大仙古墳もまた、このような短甲と馬具の組み合わせであったに違いない。
404日本@名無史さん:2007/07/23(月) 20:34:30

>>402
>なら大仙古墳から出てても不思議でないわけだが出てない。

江田舟山古墳からすれば出る必要がない。

>扶余の首長は短甲で馬に乗ったのか?

いつも不思議なのだが、反対派のいうことには時間軸というものがないな。
3世紀末に伽耶に現れた扶余の首長は、まだ「王」であって大王ではない。
しかもその王は、ヨーロッパの中世の王と同様に、みずからも戦闘者だった。
だから木郭墓に実用品の桂甲を入れたのだ。

しかしそれから100年たって大王が出現すれば、大王は最早や戦闘者では
なく、「大元帥」である。実戦の便よりも「威儀」に重点がある。
だから実用品の桂甲ではなく、桂甲よりも厳めしい、また金ぴかに装飾しやすい
短甲を着けて、馬鈴などで飾った馬に乗った。
一方、稲荷山などの中型古墳の被葬者は「将軍」であり、依然として自らも
戦闘者であった。だからこれらの古墳では実用品の桂甲が存在し続けた。

私の言う「分化」は、単なる武器の分化ではなく、身分・機能の分化でもある
のだ。
405日本@名無史さん:2007/07/23(月) 21:02:46
>>403
>蒙古鉢型兜(眉庇 付き兜)

眉庇 付き兜は倭のものだぞ。


>>404
>実戦の便よりも「威儀」に重点がある。
>だから実用品の桂甲ではなく、桂甲よりも厳めしい、また金ぴかに装飾しやすい >短甲を着けて、馬鈴などで飾った馬に乗った。

言い訳。
「帯金式甲冑」には短甲も桂甲もある。
短甲だけが厳めしい金ぴかではない。
406日本@名無史さん:2007/07/23(月) 21:21:45
>>404
それは伽耶での話かな。
最初は戦闘者だから実戦的な桂甲だったが、
落ち着いて大元帥になったら威厳が大事なんで短甲になったと?

あなたがよく例に出す申教授は違う事言ってるけど。
4世紀の伽耶は、桂甲の集団が、短甲と蒙古式冑の集団を支配したと言ってるが。
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/dspace/bitstream/2241/4445/1/B0902.pdf
PDF形式で読みにくいかもしれんが頑張って読んでくれ。
407日本@名無史さん:2007/07/23(月) 21:33:51
言い忘れた。
>>403
>さて、江田舟山古墳からは、大仙古墳と殆ど同じ造りの鋲止め式短甲(ただし
>金銅貼りはない)と、衝角付き兜が出るが、その他に轡、馬鈴などの
>馬具が出るのだ

衝角付き兜も鋲留式短甲も日本のものだ。
それが5世紀後半の伽耶に伝わったのだ。
伽耶と日本の強い親近性を>406の論文で申教授も言ってるだろ?
408日本@名無史さん:2007/07/23(月) 22:39:43
>>403

>対等だったというわけか。それなら、どっちに転んでもおかしくないな。

そう、中国文化を媒介する代わりに日本をアテにしたってこと。
まあ高句麗に転ぶことはないわな。

>ついでだが、その「同盟」の資料を教えてくれ。

先に伽耶の騎馬戦術について教えてくれないか?
409日本@名無史さん:2007/07/23(月) 22:40:50
何か俺のほうからどんどん逃げてる気がするが気のせいか・・?
410日本@名無史さん:2007/07/24(火) 01:21:20
411日本@名無史さん:2007/07/24(火) 09:50:27
>>404
大王は「威儀」に重点があるので短甲。
稲荷山などの中型古墳の被葬者は「将軍」であり桂甲。

と言いながら、
あなたが自分で>403で例に出してる江田舟山古墳という中型古墳の被葬者が短甲なのは何で?w
412日本@名無史さん:2007/07/24(火) 19:02:05
>>405
>眉庇付き兜は倭のものだぞ。

眉庇付き兜は扶余/伽耶の蒙古鉢型兜の系譜だ。
ただし、倭で改良発達したことを否定するものではないよ。

>>404
>「帯金式甲冑」には短甲も桂甲もある。

「帯金」は短甲の部品だ。桂甲は小鉄片を鱗状につなぎ合わせたものだ。
「帯金式甲冑には桂甲もある」は意味をなさない。

>>406
>それは伽耶での話かな。

伽耶に大王はいない。
大仙古墳との関連において言っているのだから、倭の大王のことにきまっている。
だから申教授の4世紀の話もとりあえず関係ない。
413日本@名無史さん:2007/07/24(火) 19:06:01
>>407
>衝角付き兜も鋲留式短甲も日本のものだ。
>それが5世紀後半の伽耶に伝わったのだ。

前にも書いたが、個々の技法については朝鮮半島と日本が互いに影響を及ぼし
合いながら平行して発達したのだ。
問題はオリジンだ。申教授は定型化された短甲は伽耶西部(安羅地区?)で
発生して日本に伝えられた、と言う立場だ。

さて、細かい話は以上だ。君は私の書いたことのキモである、
「大仙古墳および江田舟山古墳の被葬者は、短甲を着けて馬に乗った」
については何も反論していないが、納得したということかな。

>>408
>そう、中国文化を媒介する代わりに日本をアテにしたってこと。

対等なら、どちらがどちらを征服することもあり得るのだな、と言う意味
で言ったのだ。

>先に伽耶の騎馬戦術について教えてくれないか?

前スレで資料も含めて詳しく書いたから繰り返さない。
それに君は申教授の論文を読んでいるのだから知っているはずではないか。
414日本@名無史さん:2007/07/24(火) 19:44:38
>>413

>対等なら、どちらがどちらを征服することもあり得るのだな、と言う意味
 で言ったのだ

やっぱり広島痴呆のなりすましか。
伽耶が日本を征服する可能性は0だ。

>前スレで資料も含めて詳しく書いたから繰り返さない。
 それに君は申教授の論文を読んでいるのだから知っているはずでは

だれと間違っているかは知らんが、俺は知らんぞそんなこと。
伽耶の騎馬戦術が存在したなら、何度でも言えるはずではないか?
415日本@名無史さん:2007/07/24(火) 20:23:16
じゃ俺も細かい話は置いといて、

>「大仙古墳および江田舟山古墳の被葬者は、短甲を着けて馬に乗った」
>については何も反論していないが、納得したということかな。

するわけねぇじゃんw
短甲の倭人が馬具も威信財として文化受容したで話が成立するんだから。
実際、短甲で馬なんて乗れないって。
頑張って乗ったんだと言われればもう言い返す要素もないがなw
それと1000歩譲って騎馬民族の大王が、
威厳のために短甲を埋葬したとしても、
河内王朝の軍事大臣的な人物は桂甲だったと思うがいかがかな?
416日本@名無史さん:2007/07/24(火) 20:52:47
>>411
中型古墳=将軍と言っているのではない。
女の墓もある古墳について、そんな括りができるわけもない。
稲荷山の被葬者は、じぶんで「杖刀人」と言っているのだから、戦闘者(武人)
であった。
これに対して、江田舟山の被葬者は(中にも書いて置いたが)金銅製冠帽や
金銅製履が出るから、大王ではないがこの地方の王であった。
つまり戦闘者ではなかった。
そういうこと。
417日本@名無史さん:2007/07/24(火) 21:37:45
あれ?江田船山古墳鉄刀ありますけど・・
418日本@名無史さん:2007/07/24(火) 21:37:54
>>414
>だれと間違っているかは知らんが、俺は知らんぞそんなこと。

#406で申教授の論文を紹介したのは君ではないのか?
もし君でなかったのなら、ちょうどいい。#406のPDF資料を頑張って
読んでくれ。金官伽耶の騎馬戦術について書いてあるはずだ。

>>415
>実際、短甲で馬なんて乗れないって。

私もそう思っていた。その理由は君も同じだろうが、埴輪で見るあの鉄製(?)の
スカート状の草ずりがあるからだ。あれでは馬に乗れない。

しかし考えて見よう。短甲だけなら、例えばナポレオン時代の胸甲騎兵
の鎧だって短甲だ。草ずりがなければそれでよいのだ。

それでは江田舟山古墳の短甲の草ずりはどうなっていたのか?
それが不思議なことに、草ずりは出ていないのだ。
肩甲(肩を覆うと同時に短甲を吊るもの)から袖まで、すべての部品が
揃っていながらである。
盗掘されていない墓でこの状況を説明するのは、草ずりが革製などの
有機質のもので、腐って残らなかったか、それともそもそも草ずりを用い
なかったか、どちらかだ。
いずれにしても、それなら馬に乗れる。そして、自分で使いもしない馬飾りを
「威信財」として骨董品みたいに墓に入れる、という都合のいい考え方を
しないで済む。
419日本@名無史さん:2007/07/24(火) 21:43:20
具体的な騎馬戦術がないんですけど・・・

なあ、いい加減日本を騎馬民族が征服したという根拠出せよw
420日本@名無史さん:2007/07/24(火) 21:48:49
>>418
あのさぁ。
桂甲という騎乗に便利な鎧を知ってる北方民族が、
なぜわざわざ不便な短甲を身に着けて馬に乗るのだと聞いてるのだ。
短甲でもかろうじて乗れる事を説明しても意味がないだろ。
もし、短甲で馬に乗ってたとしたら、
それは桂甲をよく知らない倭人だろう。

それと、>415に書いたんだが、
「騎馬民族の大王が、 威厳のために短甲を埋葬したとしても、
河内王朝の軍事大臣的な人物は桂甲だったと思うがいかがかな?」
について答えてくれないか?
君は>404で将軍は桂甲と言ってるんだから桂甲でいいか?
大王も将軍も短甲なら、桂甲はどこに行ったになるからなw
421日本@名無史さん:2007/07/24(火) 22:00:31
>>420

あんまいじめるなって









壊れちゃうじゃん。
422日本@名無史さん:2007/07/25(水) 21:28:38
>>420
>桂甲という騎乗に便利な鎧を知ってる北方民族が、
>なぜわざわざ不便な短甲を身に着けて馬に乗るのだ

それはすでに説明したが、さらに付け加えれば、
短甲は騎馬に不便、というのは固定観念に過ぎないのではないか?
あれが不便というならヨーロッパの騎士の鎧だって同じことだ。
ヨーロッパでも、一方で鎖かたびらという、桂甲相当品がありながら
あのかぶと虫のような武装が盛んに用いられた。

君の言う「軍事大臣」を含めて、結局は個人の好みの問題なのではないか。
短甲の方が動きはやや悪くても防御力は高いかもしれない。
また、短甲の方が製作が容易で入手しやすかったかもしれない。
さらに、前にも言ったが短甲のほうが見栄えすると思われたかもしれない。

伽耶の出土を見ると、5世紀後半からは蒙古鉢形兜と短甲との組み合わせ
が増えてくると言う。蒙古鉢形兜は、本来、桂甲との組み合わせで
騎馬戦用に用いられたものだ。上記の傾向は短甲が桂甲の分野を奪って
いることを示しているのではないか?
また残念なことに保存しなかったが、池山洞かどこかに、短甲が騎馬に
用いられたことが分かる出土があるそうだ。
大仙古墳の状況は、日本に限ったことではないのだ。
423日本@名無史さん:2007/07/25(水) 21:33:20
本当、自分の都合の良いように考えるな。
424日本@名無史さん:2007/07/25(水) 21:58:03
>>422
4世紀の伽耶で、支配的地位にいた桂甲集団が5世紀前後に消えたという話だったね?
それが日本に来て河内王朝を建てただ簒奪だの話だったね?
いつのまに伽耶で彼らに支配されてたと言われる短甲の側の話になってんだ?

日本で桂甲は継体天皇の時代には一般化してるのだから、
やはり乗馬に便利な鎧としてその時代には認知されたのだろう。

だいたい5世紀前後に桂甲の集団(北方民族)が河内王朝を築いたのなら、
その時代に桂甲が出てるはず。
しかし、日本では桂甲は5世紀半ばからしか出土しない。
その時点で扶余が大和を簒奪だ侵略だは無理。
425日本@名無史さん:2007/07/25(水) 22:09:29
河内王朝で最古の馬具(木芯鉄板張輪鎧)が出た七観山古墳からは、小札鋲留の衝角付き冑が7個、三角板革綴短甲が6個以上出てる。
履中天皇陵の陪塚と言われてたが、考古学的には5世紀前半の古墳らしい。
扶余や桂甲なんて全然関係ないじゃないか。
426日本@名無史さん:2007/07/25(水) 22:52:31
しっかし、俺の方からは逃げ続けてるな・・・

これだけ答えれば良いものを・・・

「騎馬民族が日本を征服したという根拠」

ああ、>>425と議論してる副葬品のことじゃない方でね。
427日本@名無史さん:2007/07/25(水) 23:20:31
>>422
>伽耶の出土を見ると、5世紀後半からは蒙古鉢形兜と短甲との組み合わせ
>が増えてくると言う

衝角付き冑など日本と結びつきが鮮明になってくるのだ。
任那日本府だろうなw
428日本@名無史さん:2007/07/26(木) 04:53:18
>>427
>衝角付き冑など日本と結びつきが鮮明になってくるのだ。
>任那日本府だろうなw

半島での支配体制を残したまま中心が日本に移った(それが任那の調の由来)、
さらに日本の支配を確立した勢力が半島に逆進出した、というのが
すじがきだから、その筋書きには合っているね。

429日本@名無史さん:2007/07/26(木) 06:17:23
>>428

>半島での支配体制を残したまま中心が日本に移った(それが任那の調の由来)、

その説は非常に苦しいものであるわけだが・・・
430日本@名無史さん:2007/07/26(木) 08:29:48
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/sitei/sitei-15.jpg

長持山古墳(5世紀後半)出土の桂甲の復元品。
衝角付冑(倭)と桂甲の組み合わせだ。
431日本@名無史さん:2007/07/26(木) 14:07:09
ずっと後世になるが平安武士の多くは蝦夷の騎兵戦術に倣って馬に乗っていた
となっている。戦術も騎兵戦術が基本となっている。
何故、朝廷は牧を畿内に残さなかったのであろう。
東北からの重要な献上品は馬となっている。東日本の馬は騎兵に向く馬が
多かったが西日本には馬格の劣るひょこひょこ歩く馬しかなく。
乗馬騎兵になれるとは考えられない。
主力が騎兵であれば戦場跡から騎兵の遺骸が多く見つかってもよさそうであるが
鉾や槍や剣が多く、馬のねきで死んだ遺骸は少ない。
また、戦術単位の騎兵の運用には大量の燕麦などの穀類を消耗するが
それだけの用意がなされた形跡がない。
草だけ食べた馬が軍用に耐えるとは考えられないことは周知である。
厩舎跡が大量に見つかっているのであれば納得なのであるが。。
騎馬民族は高句麗系であり、三韓とは異質であると考えるがどうだろう
確かに騎兵は存在していた、埴輪に多くの出土例がみられる。
432日本@名無史さん:2007/07/26(木) 18:27:54
騎兵は桂甲が一般的になる5世紀後半以降じゃないの?
古墳の副葬品に轡や鐙がある事から、
乗馬という習慣は5世紀前後からあったのだろうけど、
それは騎兵があったという事ではないからね。


433日本@名無史さん:2007/07/26(木) 19:24:03
>>431
>騎馬民族は高句麗系であり、三韓とは異質であると考えるがどうだろう

その「騎馬民族」の高句麗で、桂甲や、蒙古式兜や、「馬のねきで死んだ遺骸」や
「燕麦を給餌した跡」が見つかっているかと言うと、それが壁画以外はゼロだ。
これには反対派の学者も困り果てているよ。
434日本@名無史さん:2007/07/27(金) 13:35:50
困り果てた学者とは「「騎馬民族征服説」の問題点」という題名のpdf
資料(この資料も反対派の言うことが現在でもいかに古典的かがよくわかって
面白い)の著者で岡内三真という人だ。 彼はこう言っている。

「4世紀中葉から5世紀末の高句麗壁画古墳には、騎馬戦闘図や騎馬軍団が
数多く描かれている。しかし現実の高句麗墳墓からはそれを示す馬甲や馬冑が
いまだに検出されていないのは真に不可解である。半農半牧の生活を営む
高句麗に対して、乗馬にたけた騎馬民族の姿を過大に求めすぎているのかも
しれない。これほど出土例がないと、高句麗では馬甲、馬冑を墳墓に埋葬し
なかった可能性をも考慮しなければならない。」

彼も言外に言っているように、出土するかしないかは使用の状況を示すのでは
なく、埋葬状況を示すに過ぎないのだ。

この学者ではないが、面白いことを言っている学者がいた。
日本や伽耶で馬冑が出るのは、それが威信財であったことを示し、高句麗で
馬冑が出ないのは、それが実用品であったことを示す、というのだ。
こうなると「出る」と「出ない」の意味が逆転してしまう。
この言い方を応用すれば、日本で短甲に較べて桂甲の出土が圧倒的に少ない
ことに対しても、「短甲は威信財であり、桂甲は実用品であった」と言って
もいいわけだ。
435日本@名無史さん:2007/07/27(金) 15:06:59
>「短甲は威信財であり、桂甲は実用品であった」と言って
 もいいわけだ。

へえ、それでどうしてヤマト王権が騎馬戦術に苦戦したんだろうね(棒読み
436日本@名無史さん:2007/07/27(金) 15:40:01
>「短甲は威信財であり、桂甲は実用品であった」

桂甲を副葬品にしてる古墳もあるのだから、その説は成り立たないな。

騎馬民族が河内王朝を立てた5世紀前後には桂甲を副葬品にしてたが、
盗掘にあったので見つからないというのも成り立たない。
例え盗掘にあっても小札の何枚かは必ず残るだろうから。
実際にそういう形で桂甲が見つかってる5世紀後半の古墳があるようだ。

つまり河内王朝が開かれた5世紀前後、桂甲は日本になかったのだ。
そして、その頃、乗馬の習慣はあったが騎馬戦術など存在してなかった。
騎馬民族が河内王朝を立てたのではない事がはっきりしたのだよ。
437日本@名無史さん:2007/07/27(金) 20:56:17
>>435 >>436
私がそう言っているわけではない。
反対派の学者の論理がいかにおかしいかということを示すために
ひっくり返して見せたのだ。

それは別として、長持山の桂甲の復元は、高句麗の桂甲とは似ても
似つかないね。
高句麗の桂甲は、上記の文献に壁画が載っているが、はっきりした
筒袖とズボンがあって、全体の印象を一言で言えば「ぬいぐるみ」だ。
長持山のは、袖がオープンな肩当てで、ズボンはなく、胴が伸びて
スカート(草ずり)につながっているだけだ。
これは後世の日本式鎧への移行段階だな。
日本式鎧のなかでは中級武士の「腹巻き」に相当する。
438日本@名無史さん:2007/07/27(金) 21:11:35
追加すれば、腹巻きというのは上から下まで(胴から草ずりまで)革製
の桂甲でできている。いかにも動き易そうだ。
これに対して上級武士が着たのは大鎧だ。大鎧は胴の部分が短甲と
同じように固定式(ただし革製)で、そのぶん動きは悪そうだ。
なんで上級武士は、わざわざ動きにくい大鎧を着たのか、興味ある
問題だね。
439日本@名無史さん:2007/07/27(金) 21:25:11
高句麗の桂甲ってこれ?
http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/image608.jpg
440日本@名無史さん:2007/07/27(金) 22:37:44
朝鮮系の国内最大勢力が出雲であったのだから
出雲における出土例及び神話の研究で
騎馬民族であるかどうかの見解がだせないだろうか?
八紘一宇の場面においても近衛に騎馬があった描写が無い。
確かに埴輪の出土からみると騎馬の比率が高いようにも見れるが
なぜ意図的に隠されたかのように騎兵が歴史から隠されたのであろう
戦史などを検証すると移動速度は騎兵のものではない描写が殆どで
あるように見えるが。
441日本@名無史さん:2007/07/27(金) 22:46:16
>>440
>朝鮮系の国内最大勢力が出雲であったのだから

根拠は?
442日本@名無史さん:2007/07/28(土) 00:27:39
>>438
胴の部分が革製だから固定式でも何とかなったのだろうね。
金属製ならとてもとても…
乗れたものじゃないと思うよ。
もちろん乗った経験なんてないけどw
443日本@名無史さん:2007/07/28(土) 04:23:57
>>442
>金属製ならとてもとても…

そうだろうか。西洋の騎士の鎧は関節が精巧にできているが、胴の
部分だけは固定式だが。もちろん金属製で。
織田信長の鎧と伝えられる、ポルトガル製の胴があるが、全くの
一枚物だ。(着るための蝶番はあるだろうが)
案外、胴の部分はそれでいいのではないか?
444日本@名無史さん:2007/07/28(土) 04:44:21
>>439
この写真も面白いが、私が言っているのは、#434で挙げたpdf資料の
なかにある、高句麗壁画のコピーだ。

>>440
騎兵が隠されたとかいうのはなんのことか?
平安時代の戦争の絵巻や物語は、華やかな騎兵(騎士)の活躍で
いっぱいだが?
445日本@名無史さん:2007/07/28(土) 09:11:31
短甲の方が桂甲より軽いし、短甲で馬に乗ったのかもしれない。
しかし短甲は古墳前期からあるのだし、
その短甲で馬に乗ってたとしても、少しも騎馬民族説を証明する事にならないよな。
446日本@名無史さん:2007/07/28(土) 10:30:50
>>438

>なんで上級武士は、わざわざ動きにくい大鎧を着たのか、興味ある
 問題だね。

大鎧は動きにくくなんかないぞ?
騎乗で弓を撃つ、敵の放った矢を防ぐことに特化してるんだが?
447日本@名無史さん:2007/07/28(土) 12:20:23
付与騎馬族が日本を立てた?  
YTN TV | 記事入力 2007-07-28 05:16

付与騎馬族がなぜを征伐して日本を立てたにも日本は 1,300年間歴史を歪曲捏造しているという主張が
韓アメリカ学者によって申し立てられました.
この学者は特に従来の三国時代は三国ではない伽揶まで含んで 4国と呼ばなければならないと強調しました.

権誤診記者です

[レポート]
韓半島で渡ってなぜに入って来た付与族と言葉をグリーン日本九州竹原古墳壁画です.
お腹で言葉を使う人が見えて天馬も描かれています.
4世紀初付与族の滅亡した後一部が韓半島伽揶に影響を及ぼしてお腹に言葉と武器を積んで
なぜで進出したという主張の根拠です.
付与騎馬族は引き続き 369年なぜの大和を征伐して 6世紀初めまで王権を掌握するようになります.
以後伽揶と百済高句麗の滅亡でシブヨだけ名医専門家集団が日本に流入されて文化を発展させます.
このような事実は土器と刀,マルガブオッ,金冠古墳の壁画のような遺物がいきいきと証言します.
竜柄飾り掛けがね掛けがね者で刀の場合左側が伽揶,右側が日本のだがあまりにもそっくりです.
よろいの場合も同じで話頭よろいはふっと区別しやすくないです.
しかし日本は '日本書紀'でむしろ自分たちが韓国を征伐したように歪曲していると
アメリカの東洋美術史学者であるゾーンカーターコベルは主張しました.

[インタビュー:金留京,付与騎馬族とどうしてピョンヨックザ]
"8世紀日本書紀歴史では権力闘い史蹟な面があって王権伝統性確立させるために巧みに歪曲..."
コベルは特に伽揶の存在を重要視しながら三国時代ではない高句麗新羅百済伽揶の 4国是どおり呼ぶと正しいと強調しました.
[インタビュー:金留京,付与騎馬族とどうしてピョンヨックザ]
"伽揶は韓国史でとても誇らしい存在に決して 3国で減らして呼ぶのがではなくて伽揶もとの場所を捜してくれなければならない."
また壬辰の乱当時にも朝鮮を除いて日本と中国が交渉することで韓半島が分断される所だったと説明します.
コベルは結果的に日本が歴史歪曲で得ようとすることはミリタリズムの復活だとひりひりするように一針を加えながら静かに世を去りました.
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSS2D&office_id=052&article_id=0000159108
448日本@名無史さん:2007/07/28(土) 15:27:17
>>446
>大鎧は動きにくくなんかないぞ?
>騎乗で弓を撃つ、敵の放った矢を防ぐことに特化してるんだが?

馬から降りてしまえば動きにくい。
だからこそ動きやすい歩兵用の胴丸などがある。
つまり、騎馬戦用の鎧は多少動き難くてもかまわないのだ。馬が動いて
くれるから。
桂甲は動きやすいから騎馬戦用、ということは言えない。
449日本@名無史さん:2007/07/28(土) 16:56:19
>>448

>桂甲は動きやすいから騎馬戦用、ということは言えない。

宗や神聖ローマ帝国の兵隊は歩兵+重騎士だったね。
チンギス=ハーンのモンゴル軍は薄い鎧を着た軽騎兵だったね。
450日本@名無史さん:2007/07/28(土) 17:21:32
5世紀前後に来た「騎馬民族」は、
短甲は上級武人が着け、
桂甲は下級武人が着けたと言いたいのだな?

繰り返すが、その時期(5世紀前後)に桂甲のかけらも発見されてないので無理。
あきらめなはれ。
451日本@名無史さん:2007/07/28(土) 17:38:43
台湾人を叩く奴は全部チョン
悪い事は全部チョンのせい
李登輝を日本の総理大臣にしよう
日本人は台湾人が大好き
日本人は台湾が好き!朝鮮嫌い!
日本に来る台湾人歓迎!朝鮮人出て行け!
台湾人はマジでかわいい
ヴィック・チョウは日本女性に大人気
日本人種は在日チョン用語



金美鈴は絶世の美女


452日本@名無史さん:2007/07/28(土) 17:54:29
日本の歴史教科書に書かれているように日本の天皇家が紀元前660年に始まったのではない。
4世紀に入って、初めてできた日本王家(天皇家)は優秀な武器と騎馬兵をひきいて、船に乗って海を渡って来た韓国の夫余族だ。

505年に一時的に入れ替わったが、夫余族はずっと重要な支配階層として君臨し続け、6世紀後半には統治権を掌握した。
このような事実が、日本の教科書に記載されているか。いやない。絶対にそのように記述されることはない。

今頃になって、天皇が権力の主体として出てきたら、日本に1930年代の軍国主義が復活することになるかも知れない。
私には、“天皇陛下”が京都市内を通過するという理由で、部屋と玄関、すべてにカギをかけなくてはならなかった記憶がある。
1971年の自由な時代には、東京駅ホテルで天皇の写真を撮ることができたことも、憶えている。

日本はなんでじっといることができないのか。日本は軍事費の出費をしないで済んだおかげで、1人当り国民所得比で
世界第2位の富国になることができた。それなのになんで、日本は韓国と中国、東南アジアの人々が、
いまだに記憶し癒されずにいる傷口に塩をぬろうとするのか。日本は再び“大東亜共栄圏”を夢見ているのか。

こんな状況が繰り返されてはいけない。戦争を禁止した日本憲法の平和條項はそのまま守られなければならない。
軍部を昔のように、破壊的で力強なものに、しようとする法案に署名するような事が、あってはならない。
日本は自らを力強く批判する勢力があってこそ、自らを救うことができる。
http://www.geocities.jp/ku_da_ra/ETC/cobel20050715.htm


原文
http://www.donga.com/docs/magazine/shin/2005/04/22/200504220500023/200504220500023_1.html
453日本@名無史さん:2007/07/28(土) 20:56:45
>>441
出雲族で重要視されるスサノオノミコトが朝鮮族の牛頭天王と神話形態が
まったく似ている点。
神話形態そのものが朝鮮と符合している。
これって周知じゃなかったのか。

>>444
主語を明確にしないですみません。
騎馬民族が征服王朝を打ち立てたのであれば
八紘一宇の描写に騎兵が林立していてもよいのではないですか?
という点と
古墳から出土する騎馬から騎兵がいたと推察なされているのならば
なぜその騎兵の存在が歴史書に乗らないのでしょう
そして、歴史書に載らないけれど出土例があるよというならば
どうして騎兵の存在を意図的に隠したのでしょうか。
ということ。

454日本@名無史さん:2007/07/28(土) 21:05:12
牛頭天王は仏教神なわけだが・・
455日本@名無史さん:2007/07/28(土) 21:06:16
>>453
スサノオは出雲に来た渡来人として認識されてる。
したがって受け入れ側の出雲自体が渡来系だという意味ではない。
スサノオは、5世紀後半に百済経由で来た仏教や鉄に関わる渡来人だろう。
456日本@名無史さん:2007/07/28(土) 21:27:24
スサノオは元々日本の神なわけで・・・
朝鮮行って木を持ってきたわけで・・・
朝鮮の神だったらアメノヒボコみたいに隠す必要はないわけで・・
457日本@名無史さん:2007/07/28(土) 22:13:14

アメノヒボコは新羅・脱解王の末裔だろうね。
458名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 00:54:31
スサノオノミコトは高天原から降臨してきた際に、朝鮮に降りてから日本にきたけど
在日の朝鮮族が重要視してきた神であることは周知。
459名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 01:13:37
>>458

「日本に下りて朝鮮行って戻ってきた」
の間違い
460名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 01:16:56
>>458
すまん、朝鮮族って?
461名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 04:57:51
>>449
宗や神聖ローマ帝国の兵隊は歩兵+重騎士だったね。
チンギス=ハーンのモンゴル軍は薄い鎧を着た軽騎兵だったね。

その通り。そして高句麗の軍隊も「歩兵+重騎士」だった。
広開土王碑に、ちゃんと「歩騎五万」と書いてある。
そして日本の大鎧武者も、「重騎士のつもり」である。

>>450
>短甲は上級武人が着け、桂甲は下級武人が着けたと言いたいのだな?

それは思いつきで書いたが、日本の桂甲が高句麗式の桂甲から発達したとは
思えないので、考え直している。
ただし、「短甲が騎馬用に使われなかったわけではない」というのは持続する。

>>453
>古墳から出土する騎馬から騎兵がいたと推察なされているのならば
>なぜその騎兵の存在が歴史書に乗らないのでしょう

日本書紀で、新羅王が神功皇后に降伏するとき、「これからは毎年、馬の鞭を
贈ります」と言っている。馬ではなく、馬の鞭だ。これは相手が馬に乗って
いることを前提としている。
このあたり以後、日本書紀に馬の記述が出るようになる。
462名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 12:04:59
>>461

>その通り。そして高句麗の軍隊も「歩兵+重騎士」だった。
 広開土王碑に、ちゃんと「歩騎五万」と書いてある。

「歩騎五万」という文脈だけで重騎兵と言い切るお前の頭の悪さに脱帽
463名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 12:07:22
>>461

>、「これからは毎年、馬の鞭を
 贈ります」と言っている。馬ではなく、馬の鞭だ。これは相手が馬に乗って
 いることを前提としている。

日本書紀が編成された時代と目的について
464名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 16:40:01
>>462
お前の頭の固さも相当なものだ。
蒙古の軍隊が軽騎兵だというのは、それが歩兵を兼ねる、つまり100%
騎兵だということを含んでいる。
そして#449が「歩兵+重騎士」と書いたのは、「重」がどの程度の「重」か
よりも、「歩騎混成」ということに意味がある。
この点において高句麗の軍隊も、中世ヨーロッパの軍隊も、中国の三国志
時代の軍隊も、そして日本の源平時代の軍隊もみな同様だ。
そしてそれは、100%騎兵の蒙古軍(ただし大陸での)とも、100%
歩兵の三輪王朝の軍隊とも違っている。

>>463
7〜8世紀の人がそのように考えていたということを示しているではないか。
465名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 17:12:14
ここ、低学歴アカポス崩れのバカしかいないのか?w
466名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 18:51:31
>>464

>そして#449が「歩兵+重騎士」と書いたのは、「重」がどの程度の「重」か
 よりも、「歩騎混成」ということに意味がある。

>>449は俺だが、歩騎混成に重きを置いたつもりは無い。
要は高句麗が重騎兵をもっていたかどうか。
言い訳はいいから勝手な推測はやめれ

>7〜8世紀の人がそのように考えていたということを示しているではないか。

7〜8世紀の人間がそう考えていたとしても、騎馬民族が日本を征服した
証拠にはならない。
何故ならば、時代が違いすぎるからだ。
神功皇后の三韓征伐と同じく、創造が多い。
467名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 20:04:52
>>466
>要は高句麗が重騎兵をもっていたかどうか。
>言い訳はいいから勝手な推測はやめれ

それなら、私の挙げたpdf資料のなかの高句麗壁画のコピーや、#439が
紹介してくれた復元写真を見ればよい。
高句麗騎兵の「重騎兵度」は文句のつけようがあるまい。
これより「重」かったら馬が潰れる。

>7〜8世紀の人がそのように考えていたということを示しているではないか。

>7〜8世紀の人間がそう考えていたとしても、騎馬民族が日本を征服した
>証拠にはならない。

何を間違えているのか。
これは「歴史が騎兵を隠しているのはなぜか」という質問に答えたものだ。
「日本書紀は隠していない」ということを答えたのだ。
468名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 20:15:59
>>467

>それなら、私の挙げたpdf資料のなかの高句麗壁画のコピーや、
>紹介してくれた復元写真を見ればよい

433 :日本@名無史さん:2007/07/26(木) 19:24:03
>>431
>騎馬民族は高句麗系であり、三韓とは異質であると考えるがどうだろう

その「騎馬民族」の高句麗で、桂甲や、蒙古式兜や、「馬のねきで死んだ遺骸」や
「燕麦を給餌した跡」が見つかっているかと言うと、それが壁画以外はゼロだ。
これには反対派の学者も困り果てているよ。

>何を間違えているのか。
 これは「歴史が騎兵を隠しているのはなぜか」という質問に答えたものだ

俺が言っているのは
「日本書紀は歴史書ではない」
ということだ。
つまり、歴史書が騎兵を隠しているか否かという質問に対して
>「日本書紀は隠していない」ということを答えたのだ。
これは通用しないということだ。

469日本@名無史さん:2007/07/29(日) 23:08:18 0
この前行った、大阪「近つ飛鳥博物館」に桂甲の編年表があったのだが、
だいたい5世紀中頃から始まってた。
その日本で最古の桂甲はどこの古墳から発見されたのかネットでいろいろ探してるのだが分からない。
まぁ実質、桂甲が一般化するのは5世紀後半〜6世紀頃だろうけど。
470日本@名無史さん:2007/07/30(月) 05:48:24
>>468
高句麗の重騎兵の遺物について私が書いたことをコピペしているのは
どういう意味か。
出てこないから無かった、と言いたいのか?

>俺が言っているのは 「日本書紀は歴史書ではない」ということだ。

それでは「隠している」歴史書とはどんな歴史書か?
歴史書が「隠している」のと、歴史書が「ない」のとは違う。
「ない」のなら「隠している」のかどうかわからない。
471日本@名無史さん:2007/07/30(月) 08:34:44
>>470

>出てこないから無かった、と言いたいのか?

自分の主張を徹頭徹尾貫頭することだな。

>それでは「隠している」歴史書とはどんな歴史書か?

何故「歴史書が真実を隠している」としか考えられないのか?
日本書紀・古事記など、古代の「歴史書」は朝廷の正当化のため
書かれたものであり、神話と歴史の境界があやふやだ。
お前の出した神功皇后の三韓征伐も、その類に入る。
歴史が騎兵を隠しているわけではない。
そもそも騎兵を重要視する必要が無かったから書かなかったに過ぎない。
472日本@名無史さん:2007/07/30(月) 16:39:57
>>471
>何故「歴史書が真実を隠している」としか考えられないのか?

それは私の言ったことではない。
私は「歴史が騎兵を隠しているのはなぜか」という人に対して、
親切に答えてあげているのだ。
間違えないように。
473日本@名無史さん:2007/07/30(月) 16:43:36
>>472

騎馬民族が日本を征服した=歴史書に騎馬の記述がある
ということにはならない。
牢記するように。
474日本@名無史さん:2007/07/30(月) 22:46:11
小田実が亡くなったらしいが、
昔「朝まで生テレビ」で、
「宮内庁が天皇陵を発掘させないのは天皇が韓国人だというのがバレるからだろ?」
などと言ってた。
こんなキチガイは死んだんだしほっておくとしても、
天皇が渡来系だといわれて反論できない人が多すぎる。
考古学も進化してきたのだし、はっきりさせるべきだな。
渡来系だという何の証拠もない。


475日本@名無史さん:2007/07/31(火) 02:45:27
だからよ、こういうのは歴史ロマンじゃないんだよw

沖縄に居座るメリケン、EEZでオオボケ噛ます中国。横目のロシア
結局は、舐められない軍事力持てっツウ話になる。
476日本@名無史さん:2007/07/31(火) 19:38:17
以前に、「「騎馬民族征服王朝説」の問題点」というpdf資料を
紹介した。考古学の最新成果をちりばめて、如何にも学術的である
が、よく読むと「問題点」がみつかる。

まず、この論文は一つの胡麻菓子をやっている。
それは申敬チョル氏の論文を概説したところの、次の文章である。

「申敬チョル氏は、大成洞の木郭墓、騎馬用甲冑と馬具、陶質土器、
人と馬の殉葬、折り曲げた武器の副葬習俗などから、4世紀中葉を
上限とし5世紀前葉までに海路を通じての騎馬軍団の到来があったと
想定している(5)。」

どこが胡麻菓子かというと、「4世紀中葉を上限とし5世紀前葉まで」
という年代である。申教授は詳しい土器の編年によって伽耶の墳墓の
北方化の画期を3世紀末に比定し、これを扶余王朝の第一次滅亡と
関係づけているのである。決して4世紀中葉などと言っていない。
477日本@名無史さん:2007/07/31(火) 19:43:45
著者の岡内三真氏がなぜ4世紀中葉にしたいかと言うと、伽耶の北方化
を高句麗の影響にしたいからである。自説を強化するために、他人の
論文を歪曲して要約するのはいかがなものか。

上記(5)と言う文献を当たると、申教授の「伽耶と古代東アジア」
他1編である。岡内氏も上記「歪曲」が気になると見えて、文献
を挙げた下に、次のようにわざわざ註書きして、予防線を張っている。
「しかし報告書が出版されている福泉古墳軍を除くと、他の重要な
古墳群はまだ調査が継続中で、概報以外には正確な内容は不明である。
正式報告書の出版によっては多少の違いや訂正が生じるかも知れない
ことを、前もってお断りしておく。」

語るに落ちるというものであろう。他にもいろいろあるが、また改めて。
478日本@名無史さん:2007/07/31(火) 21:03:22
また何か変なのが湧いてきたな・・
479日本@名無史さん:2007/07/31(火) 21:24:15
>>476
伽耶の北方化の画期が3世紀末という事だが、
北方化と言えるほどの出土物の量なのだろうか?
量的には、そんなに多くなかったように読んだ覚えがあるけども。
480日本@名無史さん:2007/08/01(水) 08:06:54
>>479
>北方化と言えるほどの出土物の量なのだろうか?

ここではとりあえずそれを言っていない。
(じぶんで申教授の資料にあたって欲しい)
反対論者が人の文献を歪曲している、という事実を示したのだ。
481日本@名無史さん:2007/08/01(水) 11:51:22
>>479
甲敬K氏はこう言っている。
狗邪韓国ならびに金官伽耶の支配者集団の共同墓地、金海大成洞遺跡をはじめ、
金海良洞里墳墓群やその他の全墳墓群の調査を検討してみると、今までの我々の知識(というより先入観)について
の根本的な再考が必要であると言う事を悟った。 特に金海良洞里墳墓群の発掘調査成果が契機になって知りえた事
実だが、北方系遊牧民族の習俗と文物、すなわち人と馬の殉葬、武器を折り曲げて墳墓に埋葬する習俗、蒙古鉢形
冑や挂甲といった騎馬用甲冑、馬冑、北方式銅カマ、青銅製虎形帯鉤などの文物、を持った北方系木槨墓が三世紀
末に金海地方に突然出現し、首長墓をはじめとするそれ以前の墳墓を意図的に破壊するといった現象が、金海の全
墳墓群のおいて確認できるのである。」
482日本@名無史さん:2007/08/01(水) 12:06:34
>首長墓をはじめとするそれ以前の墳墓を意図的に破壊するといった現象

騎馬民族が日本に来てないことが理解できた。
483日本@名無史さん:2007/08/01(水) 14:56:00
>>481
俺が以前ネットで読んだのでは、
5世紀初頭に人と馬の殉葬が現れるだった記憶がある。
そこらへんがどうもあやふやだな。
ま、どっちみち>482が言うように日本には関係ないけどw
484日本@名無史さん:2007/08/01(水) 15:42:20
じぶんであやふやな「記憶」をぶっかけておいて、人がはっきりと
書いていることをあやふやとは・・・
485日本@名無史さん:2007/08/01(水) 17:19:41
べつにいいけど。
伽耶は3世紀後半から北方化したんだね、それで?(棒読み)
486日本@名無史さん:2007/08/01(水) 20:37:32
東洋大学の金ウンフェ教授は、夫餘の仇台王が南方へ移動して百済の古爾王になり、百済の近肖古王が
日本に渡って応神天皇になった可能性が高いとし、これを大陸夫餘―半島夫餘―列島夫餘の成立過程と説明する。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2007073191788
487日本@名無史さん:2007/08/01(水) 20:56:41
上記の部分に続いて、岡内氏は次のように書いている。
「経路についてはなお再考の余地があるが、伽耶の墳墓に変革があった
のは確かである。しかしその変革が騎馬民族の移動、移住でなければ
達成できなかったかについては、なお検討の余地がある。縦矧板革綴冑
(註:蒙古鉢形冑)や銅[金+腹−月]などの類似から騎馬の技術や
文物の移動は肯定できる。しかしそれのみでは「征服王朝の辰王国」
を証明したことにはならない。」

岡安氏は伽耶の墳墓の変革を認めながら、それが民族移動であるという
申教授の、根拠に基づく説については「なお検討の余地がある」とたった
一言で片づけ、
次いで「技術や文物の移動は肯定できる」と根拠も示さずに文化受容説を
提起し(文化受容はデフォールトであるらしい)、
最後に「それのみでは辰王国を証明したことにはならない」と、申教授が
言ってもいないこと(辰王国)を掲げて、それを否定しているのである。

どこかでよく見かける論法だと思わないか?
488日本@名無史さん:2007/08/01(水) 21:03:49
>>487

騎馬民族征服説を支持するやつの使うそれにそっくりだ。
489日本@名無史さん:2007/08/01(水) 21:49:38
というか堂々と高塚を作ればいいのに、
地下式墳墓しか作ってないというのがポイントだな。

大和朝廷の管轄地なので高塚を作る事を許されなかったのだろうな。
490日本@名無史さん:2007/08/01(水) 22:37:03
>>487
>申教授が言ってもいないこと(辰王国)を掲げて、それを否定しているのである。

江上説を否定してるんでしょ。
491日本@名無史さん:2007/08/01(水) 22:40:23
申敬Kという人は、
4世紀後半の伽耶に日本系土器が増える事について、
伽耶建設のために倭人が動員されたなどとふざけた事を言ってるみたいだな。

492日本@名無史さん:2007/08/02(木) 13:06:01
>>489
大和朝廷の直轄地だったというのはいつごろから?
493日本@名無史さん:2007/08/02(木) 20:27:59
3世紀ぐらいからじゃないの。
494日本@名無史さん:2007/08/02(木) 21:37:21
この板は学問板or妄想板?

とても読めた門じゃない
495日本@名無史さん:2007/08/03(金) 13:31:55
>>493
>3世紀ぐらいからじゃないの。

すると卑弥呼の邪馬台国が伽耶を直轄地にしていたということだね?

496日本@名無史さん:2007/08/03(金) 13:34:48
次に岡内氏の論文のまとめ部分を示そう。

「倭の古墳時代を通じて、重装騎馬軍団用の武装一揃いを納めた天皇陵、
騎馬軍団に利用できる一定量の馬具や武器、武具等を副葬した首長墳、
または各墳ごとに馬具や騎馬戦用武器を納めて古墳群全体として騎馬
軍団を構成できる古墳群、以上のどれひとつもいまだに見いだし得ない
のである。さらに騎馬戦闘にそなえた防御用の施設さえ検出されていない。
倭の古墳時代はおよそ300年であるが、騎馬戦あるいは騎馬軍団の脅威
を示す考古学資料は皆無である。
 この考古学的事実からは、いかに強弁しても騎馬民族の日本侵入と征服
応答の樹立を証明することはできないと思われる。」
497日本@名無史さん:2007/08/03(金) 13:41:32
>>495
伽耶に首長級墳墓がない。
3世紀になり、三輪山周辺に大規模古墳が出来てる以上、
そういうことになる。
498日本@名無史さん:2007/08/03(金) 13:43:42
岡内氏は「重装騎馬軍団」を想定して、その痕跡が見つからないことを強調している。
彼の描く「騎馬民族」のイメージは、重装騎馬軍団を戦力の中心とする民族なのだ。
その背景には高句麗の騎馬戦闘壁画や、伽耶の発掘成果など、新しい考古学資料が
あるのだろう。

以前は反対論者の描く「騎馬民族」のイメージはモンゴルだった。
だからその軍勢は全軍騎乗の軽装騎馬軍団であった。
岡内氏はもはやこのイメージをとらない。反対論も時代とともに進歩して
いるのだ。

ところで、上記の岡内氏の論旨におかしな所はないだろうか?
499日本@名無史さん:2007/08/03(金) 14:00:23
>>498

ところで騎馬民族征服説におかしなところを見つけられないだろうか?














実在してたと思い込んでちゃ目の前にある事実も見れないか。
500日本@名無史さん:2007/08/03(金) 15:47:40
>>498
おかしな所なんて別にないけど?
501日本@名無史さん:2007/08/03(金) 18:52:40
>>497
>そういうことになる。

ではなぜ、君たちの好きな「中国の歴史書」である魏志倭人伝は、伽耶を
女王国の領域に含めなかったのかな?

502日本@名無史さん:2007/08/03(金) 19:36:08
魏志倭人伝なんて参考程度だよ。
503日本@名無史さん:2007/08/03(金) 19:56:07
>>501
魏志倭人伝に書かれてないから「ない」なら、
騎馬民族が日本に渡ったなんてどこの文献にも書かれてないよね。
504日本@名無史さん:2007/08/04(土) 09:50:53
>>503
魏志倭人伝をよく読め。
「書かれてない」のではない。女王国の領域を詳細に列挙しながら、
狗耶韓国を含めていないのだ。
また女王国の官が奴国(博多)にいて、人や物の出入りをチェックした。
これはそこまでが境界である証拠だ。
あるいは少なくとも帯方郡がそのように考えていた。

>騎馬民族が日本に渡ったなんてどこの文献にも書かれてないよね。

同じ頃のできごとである広開土王の南侵が「どこかの文献」に書かれて
いるのか?
505日本@名無史さん:2007/08/04(土) 10:54:28
>>504
>境界である証拠だ。

倭人は弥生時代から伽耶で鉄を採ってたんだろ?

>広開土王の南侵が「どこかの文献」に書かれているのか?

書かれてない事は同じでも、
考古学的に認められてる広開土王の南侵と、
考古学的に認められてない江上説を一緒にするな。
506日本@名無史さん:2007/08/04(土) 11:02:45
”帯方郡から倭国に至るには船で韓国を経て7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に至る。”

狗邪韓国を「倭国の北岸」にしてるのではないのか?
507日本@名無史さん:2007/08/04(土) 19:22:01
>>506
「其(倭)北岸狗邪韓国」な。
「女王国の北岸」ではない。女王国が倭と同じではない、つまり女王国が
倭を統一していなかったことは魏志倭人伝から読みとれる。

>>505
>考古学的に認められてる広開土王の南侵と
> 一緒にするな

広開土王碑によって考古学的に証明されるできごとであるからこそ、
それが中国の歴史書に書かれなかったことがはっきりするのだ。
この大事件が書かれなければ、同時代にこの地域で起こった他の事件も
書かれなかった可能性がきわめて高くなる。
508日本@名無史さん:2007/08/04(土) 19:51:21
>>507
だから、書かれてない大事件(騎馬民族による日本侵略)があった事実を証明するのは考古学だろが。
509日本@名無史さん:2007/08/04(土) 21:00:36
>>508

考古学的に騎馬民族による日本侵略が否定されてるんだが?
510日本@名無史さん:2007/08/04(土) 22:51:32
>>509
うん。だから騎馬民族による日本侵略などないと言いたいんだ。
511日本@名無史さん:2007/08/05(日) 02:27:01
>>510

普通の人間はそう考えるよな・・・
512日本@名無史さん:2007/08/05(日) 04:22:33
>>508
>>509
「考古学」に逃げたということは、中国の文献に書かれるはずがないことを
理解したという意味だな。

ついでに、狗耶韓国が「邪馬台国の直轄領」ではなかったことも理解したらしい。
今後はそれをベースにするように。
513日本@名無史さん:2007/08/05(日) 10:31:00
>>512

伽耶では弥生時代から倭人が鉄を採ってた話は江上も本に書いてたぞ。

>「考古学」に逃げたということは

都合が悪くなると考古学を避けてるのは君の方だろがw
岡内って人のどこが変なのか早く言いなさい。
特に「騎馬軍団に利用できる一定量の馬具や武器、武具等を副葬した首長墳」
が発見されないという部分。
514日本@名無史さん:2007/08/05(日) 17:02:38
>>513
>伽耶では弥生時代から倭人が鉄を採ってた話は江上も本に書いてたぞ。

まだ分かってないようだ。
狗耶韓国は邪馬台国に属しないが、倭人居住地域なのだ。
その倭人が鉄を採った、というだけのことだ。
515日本@名無史さん:2007/08/05(日) 17:53:17
邪馬台国自体が曖昧なんでまぁいいが、
岡内のどこが変なのかについてどうぞ。
516日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:54:40
岡安氏のまとめ部分のどこがおかしいか。
岡安氏の結論は、騎馬民族による征服は、必ず典型的な重装騎馬軍団
による典型的な征服として起こり、その結果として典型的な遺物が、必ず
1500年の後まで残る、と言うことを前提にしている。

それではこんな絵に描いたようなことが実際に起こるだろうか。
そのことを検証するための例には事欠かない。
なぜなら、江上説による征服主体は扶余であるが、同じ扶余が建てた二つ
の国家、すなわち高句麗と百済が同じ時代に存在するからだ。

では高句麗はどうか。高句麗に重装騎馬軍団があったことは壁画でわかる。
では重装騎馬軍団の典型的な遺物が出るのか、といえば、人馬一そろい
の武装や合わせて一軍団分の武装はおろか、事実上ゼロである。
岡安氏は集安の近くの墓から出た「甲冑」をただ1件挙げているが、詳しく
書いてないところを見ると、余り重要ではないのであろう。
517日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:57:11
つまり、高句麗は、「重装騎馬軍団」が存在してもその遺物が後世に残る
とは限らないという実例を提供しているのである。

これについては百済も同様だ。百済からどんな武器・武装が出土しているか、
あまり文献がないが、少なくとも馬冑などが出たという話は聞かない。
しかし百済は広開土王軍と戦って勝ったり負けたりしているのだから、騎馬
軍団がなかったとは考えられない。百済もまた高句麗と同様な例を提供して
いる。

また、岡安氏は「騎馬戦闘にそなえた防御用の施設さえ検出されていない」
と言っているが、それならばもっと時代が新しい、源平時代はどうか。
源平の軍勢だって、立派な騎馬軍団である。重装と言うにはちょっと軽いが、
かえって飛越能力が高いであろう。
源平の騎馬軍団が戦ったことを示す、どんな「防御用の施設」が残っているのか。

岡安氏の結論を導き出すための、上記の「前提」は要するに「無い物ねだり」
であり、そのような前提に基づいて出された結論もまた意味がないのである。
518日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:00:43
>>515
>邪馬台国自体が曖昧なんでまぁいいが、

「倭人が鉄を採った」について、やっと分かったようだな。
今後はそれをベースにするように。
519日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:05:02
岡安でなくて岡内だろ?
高句麗に重装騎馬軍団の遺物が出てない。
だから日本で騎馬軍団の遺物が出てなくても騎馬軍団がいた可能性があると言いたいわけだな。
何度も言うけど日本に騎馬軍団の遺物(桂甲)は出るじゃないか。
しかし時代が騎馬民族説と合わないし、桂甲の種類も高句麗と違うわけだろ。
いい加減にあきらめろ。
520日本@名無史さん:2007/08/05(日) 20:46:20
>>517
>つまり、高句麗は、「重装騎馬軍団」が存在しても
>その遺物が後世に残るとは限らないという実例を提供しているのである。

伽耶の地下式木郭墓には騎馬民族の遺物が残ってたんだよね。
なんで高句麗に話を摩り替えてるの?
521日本@名無史さん:2007/08/05(日) 22:54:33
>>517
高句麗の遺物が残ってないのは、
今の北朝鮮という国にも原因があると思われ。
あの国にはまともな考古学がないのだろう。
522日本@名無史さん:2007/08/06(月) 10:24:45
>>519
私は岡内氏(岡安は誤記)のようなタイプの反対論が成り立たないことを言ったのである。
他のことは言っていない。

>>521
>あの国にはまともな考古学がないのだろう。

現在の遺物(壁画古墳など)が出たのは戦後のことである。
それさえ出ていなかった戦前の日本の考古学はもっとまともでないわけだな。

それに高句麗の遺跡は北朝鮮ばかりではない。中国東北部も重要である。
中国の考古学もまともでないのか?
523日本@名無史さん:2007/08/06(月) 12:51:30
>>522
知らんがな、うるさいなぁw
考古学って学問自体が日本統治下で培われたものだろ。

早く日本の騎馬軍団について言えよ。
いつ頃からだと思うんだよ。
524日本@名無史さん:2007/08/08(水) 14:40:20
>>522
>考古学って学問自体が日本統治下で培われたものだろ。

その日本の考古学は、自由に掘ってよい植民地時代に、朝鮮、満洲でほとんど何も
発見していない。
現在の韓国、朝鮮、中国の考古学をけなせた話ではない。

それは別として:
さらに百済について言えば、百済が扶余の騎馬軍団によって征服されてできた
かどうかは定かでない。一説によれば中国人勢力が扶余の王子を招いて王位に
つけたという。この説に従えば百済は中国の傀儡政権として発足したことに
なる。

つまり、扶余国家が騎馬軍団の征服によって生じるということさえ定理では
ないのだ。河内王朝が中国の傀儡政権だと言っているのではないよ。
國のできかたにはいろいろあり、必ずしも典型的な「重装騎馬軍団」を
必要としない、ということを言ったのだ。
よく引き合いに出すコルテス軍も、「騎馬軍団」というほどの馬の数はもって
いなかった。そういうとすぐ「鉄砲」だというだろうが、鉄砲も全期間を通じて
十数丁しかなかった。要するに馬や鉄砲は「見せ金」だったのだ。
525日本@名無史さん:2007/08/08(水) 14:56:28
>>524

征服された根拠が一切見つからないのですが・・・

仮定に仮定を重ねて騎馬民族征服説なるものを作り出したってなあ・・・
526日本@名無史さん:2007/08/08(水) 16:36:53
>>524
河内王朝が扶余による征服王朝でもなく、
また中国の傀儡政権でもないなら、一体何だと言いたいのだ?w
527日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:45:49
天山ウイグルが騎馬民族であったころの痕跡は、
オアシス定住民になったあとからの天山ウイグルからは見い出しづらい、
っていうからな
日本を征服した騎馬民族の痕跡がかすかなのは、それと同じことなんだろ
528日本@名無史さん:2007/08/08(水) 22:06:17
>痕跡がかすかなのは

かすかにある痕跡って何?
529日本@名無史さん:2007/08/09(木) 10:26:07
>>526
典型的な「重装騎馬軍団」を要しない征服だってあり得るということだ。
530日本@名無史さん:2007/08/09(木) 11:45:14
>>529
「あり得る」じゃなくて「あった」の証拠を言え。
「あり得る」だけなら日ユ同祖論もあり得る。
531日本@名無史さん:2007/08/09(木) 13:31:07
>>530

仕方ないじゃん、本当は「あった」と言いたいけど、根拠も何も無い
んだもの。
532日本@名無史さん:2007/08/10(金) 15:03:43
>>530
4世紀、5世紀の全ての説は「あり得る」だ。だから「謎の世紀」なのだ。
三輪王朝が伽耶を征服した証拠も、もちろんない。

さて、今の私の考え方は、扶余による征服は「コルテス型」だったのではないか
ということだ。言葉を換えれば「内乱型」だったのではないか。
つまり、征服の主体は、少なくとも数的には国内勢力だった、ということだ。
それならばモンゴル式の軽騎兵の大軍も、高句麗式の重装騎兵の軍団も、ない。
533日本@名無史さん:2007/08/10(金) 16:25:50
>>532
伽耶を征服も何も、
4世紀後半からの日本系土器の多さが伽耶の性質を物語ってるよ。

>征服の主体は、少なくとも数的には国内勢力だった、ということだ。

国内勢力って何だよ。
扶余の騎馬戦術の優位性を言ってたのは君じゃないか。
ころころ変えるなよ。
534日本@名無史さん:2007/08/10(金) 16:56:57
なるほど
国神系の争いにつけ込んだ、もしくは乗っかった、ということか
535日本@名無史さん:2007/08/10(金) 19:17:16
>>532

時期的には何時ごろを想定しているのか?
536日本@名無史さん:2007/08/10(金) 20:40:58
>>533
「日本系土器」が多ければ征服したことになるのか?
それなら日本から出る伽耶系遺物はもっと多いが?

>扶余の騎馬戦術の優位性を言ってたのは君じゃないか。

もちろん戦術としては優位だ。だから「数的には」と断っている。
コルテスの騎兵と鉄砲も戦術的には圧倒的に優位だ。
しかし数的・量的にはそれだけでは征服はおぼつかなかった。
数的に言えば征服の主体はコルテスと協力した土着の反アステカ勢力であった。
以前に馬と鉄砲は「見せ金」だったと言ったのはそういう意味だ。
537日本@名無史さん:2007/08/10(金) 20:56:07
金官伽耶という国は、6世紀に朝鮮人が建てた国だろう。

伽耶人(カラ人)とは無関係な国だよ。


538日本@名無史さん:2007/08/10(金) 21:10:15
>>536

>「日本系土器」が多ければ征服したことになるのか?

「可能性」はあるだろう?
日本人が伽耶を征服した証拠が朝鮮の日本式土器であり、伽耶からの
「貢納品」が日本の伽耶式土器である「可能性」はある。
他人の説には寛容ではないな。

>さて、今の私の考え方は、扶余による征服は「コルテス型」だったのではないか

なるほど、自らの文化を「完全」に捨て去って日本を征服し、日本化したと・・・
一体どういう民族だww
539日本@名無史さん:2007/08/10(金) 21:17:18
すごい妄想です(笑

韓国民団=湘南支部
『韓日古代史への旅』
http://www.somnet.co.jp/mindanshonan/kan-nichi.html

 古代日本の草創期は韓国文化の影響なくして日本史は語れません。
こんにち、よく言われる『日本古来の伝統文化』とは、古代韓国三国(高句麗、新羅、百済)からの
渡来人によってもたらされたものです。

  ↑↑
渡来人は韓国人じゃあないんだが(苦笑
540日本@名無史さん:2007/08/10(金) 21:23:51
>>536
伽耶に王墓らしい王墓はあるのか?
力のある民族(大和)が鉄を採ってたのだろう。
それが日本系土器に現れてるのだ。

>扶余による征服は「コルテス型」だったのではないか

少数の扶余も5世紀前後に日本に来た痕跡はない。
541日本@名無史さん:2007/08/10(金) 22:06:05
>>539
そこのコラム、半月城ってやつが書いてるのだろ。
調子のいいクズ野郎だ。
542日本@名無史さん:2007/08/11(土) 12:01:18
>>538
>日本人が伽耶を征服した証拠が朝鮮の日本式土器であり、

沖の島の祭祀遺跡は弥生時代から9世紀まであるが、4世紀までは畿内系の
出土品がない。それが出始めるのは5世紀以降だ。
これは、4世紀にはまだ大和が朝鮮に進出していない、つまりそれまでの
朝鮮との関係は大和以外の勢力によるものだったことを示す。
4世紀に三輪王朝が伽耶を征服した、というのは根拠がない。

>> なるほど、自らの文化を「完全」に捨て去って日本を征服し、日本化したと

百済の扶余は自らの文化を完全に捨て去って中国化したではないか。
それが日本で起こらなかった、と考えるほうがおかしい。
外国を見れば、バイキングはノルマンジーを征服した後、短期間でキリスト教化
して、バイキングの文化を捨て去った。
だからノルマンの英国征服があったからと言って英国にバイキングの痕跡はない。
543日本@名無史さん:2007/08/11(土) 12:19:50
>>542

>4世紀に三輪王朝が伽耶を征服した、というのは根拠がない。

他人の説には厳しいな。
それなら、散々言っている通り騎馬民族系統の日本征服の根拠が
見当たらないので、騎馬民族征服王朝の可能性は0である。
こう言ってもいいわけだ。

>百済の扶余は自らの文化を完全に捨て去って中国化したではないか。

「全く」自らの遺物を残さずにか?
百済の支配層が扶余であったと思われるのは、出土した遺品から推定される。
一方、日本での扶余系統遺物は日本独自のものに比べて少なく、そして古墳か
らもその他遺物からも扶余の征服は読み取れないが?

>だからノルマンの英国征服があったからと言って英国にバイキングの痕跡はない。

これはどう説明する?
http://www.nauticalarchaeologyjp.com/ja/article/news/20070129530.html

お前は本当に都合がいいな。
他人の可能性については遺物を挙げて批判し、自分のは「可能性がある」と
ゴリ押しする。
色眼鏡をかけては事実を見れないぞ?
544日本@名無史さん:2007/08/11(土) 12:40:56
>>542
>これは、4世紀にはまだ大和が朝鮮に進出していない、
>つまりそれまでの朝鮮との関係は大和以外の勢力によるものだったことを示す。
>4世紀に三輪王朝が伽耶を征服した、というのは根拠がない。

大和以外とは九州だね。
でもその九州の福岡や宮崎に3世紀代の前方後円墳があり、
4世紀の佐賀にもある。
そして4世紀後半、伽耶にも進出したのだ。
545日本@名無史さん:2007/08/11(土) 14:28:10
>>543
それはイギリスに直接侵入したバイキング船だ。
私が言っているのはノルマンジーを経由して英国を征服した「ノルマン人」
のことだ。
ノルマン人がバイキングの子孫であっても、ノルマンコンケストに関連した
バイキングの遺物はない、ということを言ったのだ。

>>544
九州以外にも吉備や出雲の可能性もあるだろう。
これらの勢力が独自に朝鮮と関係を持つことと前方後円墳の分布とは
矛盾しない。前方後円墳の普及こそ地方の独立性を示しているからだ。

アステカと同じ様なピラミッドを築いていたトラスカラが、アステカの
知らないところでコルテスと取引していたようなものだ。
546日本@名無史さん:2007/08/11(土) 14:38:51
>>545

>私が言っているのはノルマンジーを経由して英国を征服した「ノルマン人」
 のことだ。

それならなおのこと。ヴァイユーのタペストリーは征服の顛末を事細かに残しているぞ?
ところで、扶余が日本を征服したという確証は?

>ノルマン人がバイキングの子孫であっても、ノルマンコンケストに関連した
 バイキングの遺物はない、

扶余の日本征服に関連した遺物は存在しない。

>前方後円墳の普及こそ地方の独立性を示しているからだ。

お前の言う独自性とは何か?
地方はヤマトの優位を受け入れたからこそ前方後円墳を建造したのだ。
知ったかぶりは恥をかくぞ?

お前は本当に都合がいいな。
他人の可能性については遺物を挙げて批判し、自分のは「可能性がある」と
ゴリ押しする。
色眼鏡をかけては事実を見れないぞ?
547日本@名無史さん:2007/08/11(土) 15:23:35
>>542
騎馬民族の痕跡がないのを認めるわけだな。
ならもう話は終わりだ。
もともと騎馬民族の征服による痕跡があるということで始まった説なのだから。

548日本@名無史さん:2007/08/11(土) 19:55:54
>>546
>それならなおのこと。ヴァイユーのタペストリーは征服の顛末を事細かに残しているぞ?

お前は議論のすじみちがわからない奴だな。「ヴァイユーのタペストリー」のどこに、
「バイキング」の文化が見られるのか。全てはフランス文化、キリスト教文化、騎士
社会文化ではないか。

>地方はヤマトの優位を受け入れたからこそ前方後円墳を建造したのだ。

アステカも優位にはあった。トラスカラから人身御供を取っていたのだからね。
それでもトラスカラは自身のピラミッド(宗教は類似)を築いていたし、
アステカと距離が離れているのをよいことに、コルテスと反乱を画策するだけの
「独自性」があったわけだ。

沖の島については資料を示して置こう。
http://inoues.net/yamahonpen13.html

念のためサワリ部分を引用する:
「I号巨石周辺の16号、17号、18号、19号遺跡の段階になると、畿内的な
奉納品が多くなり、宗像本土でも見られないものがあるので、大和政権直轄の
祭祀が始まったとも考えられる。或いは胸形氏自身が、この頃大和朝廷と強い
繋がりを持つようになったのかもしれず、いずれにしても、沖ノ島での祭祀に
畿内の影響が見られるようになる。
 言い換えればそれ以前は、沖ノ島での祭祀は大和朝廷のあずかり知らぬ所で
行われていたか、或いは、大和朝廷がまだきちんと成立していなかった可能性
も秘めている。」
549日本@名無史さん:2007/08/11(土) 20:08:00
>>548
地方が独自性を持ってたということが言いたいわけだな?
いくら大和発祥の前方後円墳があったとはいえ、
独自性を持ってたと言えば持ってたのだろう。

で吉備でもいいし九州でもいいが、
扶余との関連を示す証拠はあるのか?
550日本@名無史さん:2007/08/11(土) 20:35:06
>西俣さんはこう語る。
>「生野周辺も、古代から農耕や機織、土木建築、漢字、仏教など先進技術や文化を
>伝えた渡来人によって築かれた土地です。ところが、約1500年後の1910年から
>日本の朝鮮半島支配が始まり、多くの朝鮮人が出稼ぎに来て、過酷な労働に携わる。
>その後も創氏改名や強制連行、戦後もひどい差別が続きます。
>お世話になった民族にこの仕打ち。ヨン様もいいですが、歴史と現状を広く知ってもらい、
>大阪から本当の国際化を目指していきたいですな」

日本人が古代・中世に、朝鮮人のお世話になったことは一度も無いんだよね。
誤解してる人が多いんだけど、古代日本に移住した渡来人は、朝鮮人じゃあないんだよね。
ぜんぜん無関係な別種の民族なんだよ。
半島南部の韓人(からびと)と呼ばれた倭人系民族と、楽浪郡が滅びた後、難民として日本に来た
漢人たち、それが渡来人なんだよ。
いわゆる「百済系渡来人」とか、「コマ系渡来人」と呼ばれている帰化人は、
そのほとんどが楽浪郡系の漢人なんだよ。朝鮮人は一人もいないんだ。
楽浪郡の漢人や半島南部の倭人系民族、日本列島の倭人と対立していたワイ族こそが
朝鮮人の先祖なのであり、とうぜん、ワイ族は古代日本には移住していない。
「朝鮮人にお世話になった」という主張は、歴史認識の誤りから生まれる意見だ。
551日本@名無史さん:2007/08/12(日) 04:28:25
>550
>>日本人が古代・中世に、朝鮮人のお世話になったことは一度も無いんだよね。

その通りだろうね。
少なくとも古代には「朝鮮人」という人種は存在しないからね。
552日本@名無史さん:2007/08/12(日) 14:02:48
よく、朝鮮人が、
「古代日本には高句麗人が移住した。埼玉県の高麗郷には、高句麗人が建てた神社がある」
と主張するのだが、三国史記=高句麗本紀には、高句麗人が古代日本に移住したという記録は無いね。
埼玉県の高麗神社は、百済移民が建てた神社であって、高句麗とは無関係。
百済の旧名はコマ。百済と書いてコマと読む。
韓国の首都ソウルの辺りに、最初の百済は建国されたのだが、あの地域の古名がコマだった。
楽浪郡(コマ国)が滅びた後、楽浪郡の漢人たちが帯方郡(今のソウル地方)に百済を建てたので、
百済は、楽浪郡の日本名=コマを受け継いで、コマの名で呼ばれた。
朝鮮・韓国人は、もっと真剣に古代史を研究すべきだね。


高句麗本紀
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sangokushiki/nf_koukuri_menu.htm

553日本@名無史さん:2007/08/12(日) 16:44:47
よく、朝鮮人が、
「古代日本に高句麗人が移住した。埼玉県の高麗郷には、高句麗人が建てた神社がある」
と主張するが、三国史記=高句麗本紀には、高句麗人が古代日本に移住したという記録は無いね。
埼玉県の高麗神社は、百済移民が建てた神社であって、高句麗とは無関係。
百済の旧名はコマ。百済と書いてコマと読む。
韓国の首都ソウルの辺りに、最初の百済は建国されたのだが、あの地域の古名がコマだった。
楽浪郡(コマ国)が滅びた後、楽浪郡の漢人たちが帯方郡(今のソウル地方)に百済を建てたので、
百済は、楽浪郡の日本名=コマを受け継いで、コマの名で呼ばれた。

【高句麗本紀】
http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/sangokushiki/nf_koukuri_menu.htm

高句麗人が日本に来ることは不可能だな。
途中で唐軍に捕まるし、船で日本に着いたとしても、
沿岸部で待ち構えている大和朝廷軍の弓兵が、矢を射るからね。
殺されてしまうから。
そもそも、事前に使者を送って移住許可をもらわずに、いきなり他人様の国に上陸しようとしたら
敵だと思われるのは当然。
おまけに日本語とは異なるミョーな言葉を話すから、よけい警戒されるだろう。
554日本@名無史さん:2007/08/12(日) 19:53:37
>>549
4世紀の三輪王朝が伽耶を征服ないし支配した可能性は薄いことが
理解できたようだな。
555日本@名無史さん:2007/08/13(月) 19:40:12
さて、4世紀の三輪王朝が伽耶を征服ないし支配していなかったとすると、困った
ことになる。
広開土王の南侵は4世紀末のことである。すると碑に書かれた、広開土王と戦った
「倭」とはどんな勢力なのか?
九州王朝だったとすれば倭はまったく統一されていなかったことになる。
三輪王朝に命じられて戦った地方豪族だとすると、その豪族はこれだけの戦争を
独力で行える大きな力を持っていたことになる。
そのような豪族が戦争を通じて伽耶の鉄と馬に接近する機会を持ったのだから、
これは大和にとっては不安定要因である。
また、その豪族が戦争の主体であったのなら、当初まだ騎馬戦術を有しない段階で、
どうやって伽耶を服属させたかという疑問が残る。
いずれにせよ、倭の朝鮮進出は全国統一の余勢をかって行われたのではない。
統一と朝鮮進出は、いわば平行して起こったのである。
556日本@名無史さん:2007/08/13(月) 23:21:52
>>555
>当初まだ騎馬戦術を有しない段階で、
>どうやって伽耶を服属させたかという疑問が残る。

騎馬戦術なんて全然強くね〜よ、バカ。
蚊帳の4世紀後半からの日本式土器は、
倭人が安定して鉄を採ってた証拠。
557日本@名無史さん:2007/08/13(月) 23:29:15
>>554
アホかおまえは。
九州を3世紀に平定し、
伽耶から安定した鉄を輸入していた。
伽耶なんて王墓もないし国とは言えない。
558日本@名無史さん:2007/08/17(金) 23:15:11
韓国人が日本書紀を引用して、こんなこと言っているんだが・・・。

>高麗若光は、日本書記によれば、666年に高句麗の使者として来日した。
>668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされると帰国の機会を失った。
>『続日本紀』によると703年(大宝3年)に、文武天皇により高麗王の氏姓を賜ると有り、
>従五位下に叙された。

なぜ、若光を高句麗人だと言い張るのか?
666年といえば、高句麗の騎馬軍団は、もう平壌(ピョンヤン)まで後退しており、
日本に使者を送る意味など無いのだが。
そもそも、高句麗には船が無いではないか。とうぜん、航海技術もない。
日本に来ることは不可能であろう。仮に船があり、航海技術もあったとして、
何の目的で、高句麗人がこの時期に来日するのか?
コマ王若光は、やはり百済人(コマ人)であろう。
高句麗人であるわけがない。コマ人とは百済人(百済のコマ県人)のことだろう。
559白馬青牛:2007/08/18(土) 01:21:30
>>558
高句麗が騎馬軍団だけで構成されとらんし、歩兵矛兵もおったよ。
高句麗に船が無いとは初耳で根拠を聞きたい。航海技術も少なくとも、
当時の列島よりも、だいぶ優れとったろう。ツングース水軍の伝統よのう。
航海技術云うたら少し時代が後になるが、
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/ja/issue/pdf/pdf_zasshi08/06_sakaehara.pdf
(3)東アジア海域の分節構造に、ウ、の東シナ海北部〜黄海〜日本近海に
新羅商人・在唐新羅人。エ、の日本海域に渤海商人。オ、の
オホーツク海域にオホーツク人(靺鞨文化人)。列島周辺海域の制海権は
東北アジア系諸族で占めまれておった。渤海は高句麗の後裔じゃ。
当時、日本の造船技術じゃあ、難破するボロ船しか造れんかった。
久しぶりに書いたが、どうせ反論は同じパターンじゃろうし期待せんよ。
560日本@名無史さん:2007/08/18(土) 09:09:40
>>559
じゃ来るな。
561日本@名無史さん:2007/08/18(土) 13:46:43
562日本@名無史さん:2007/08/18(土) 21:51:57
韓国人が日本書紀を引用して、こんなこと言っているんだが・・・。

>高麗若光は、日本書記によれば、666年に高句麗の使者として来日した。
>668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされると帰国の機会を失った。
>『続日本紀』によると703年(大宝3年)に、文武天皇により高麗王の氏姓を賜ると有り、
>従五位下に叙された。

なぜ、若光を高句麗人だと言い張るのか?
666年といえば、高句麗の騎馬軍団は、もう平壌(ピョンヤン)まで後退しており、
日本に使者を送る意味など無いのだが。
そもそも、高句麗には船が無いではないか。とうぜん、航海技術もない。
日本に来ることは不可能であろう。仮に船があり、航海技術もあったとして、
何の目的で、高句麗人がこの時期に来日するのか?
コマ王若光は、やはり百済人(コマ人)であろう。
高句麗人であるわけがない。コマ人とは百済人(百済のコマ県人)のことだろう。
563日本@名無史さん:2007/08/18(土) 22:30:31

■朱蒙のロケ地
http://blog.arukikata.co.jp/tokuhain/seoul/2007/05/post_47.html

韓国ドラマの『朱蒙』は、民族衣装がおかしい。
フヨ族がチマチョゴリを着ていたり、フヨ国の王様が、
呉人のような着物を着ていたりする。

また、遊牧民はゲルと呼ばれる大型テントに住んでいるのだが、
遊牧民であるはずのフヨ族は、なぜかゲルに住んでいない。
不思議だ・・・。
564日本@名無史さん:2007/08/19(日) 18:04:05
>>548

>お前は議論のすじみちがわからない奴だな

このスレで騎馬民族征服説の存在の根拠を提示しないお前に言われたくないな。
ならばこれはどうだ?
http://www.amagen.jp/scotland/architecture/history-of-architecture.html
http://www.sky.sannet.ne.jp/mfumio/considerengland.htm
しっかりとノルマンが影響を残しているが・・・

>「独自性」があったわけだ

なるほど、お前の言う独自性は「地域性」なわけか。
結局ヤマトの支配権を受け入れ、一律の前方後円墳を建設したのは
認めるわけだな?

>4世紀の三輪王朝が伽耶を征服ないし支配した可能性は薄いことが
 理解できたようだな。

返答できないか?
前方後円墳を建設しないまでも、ヤマト王権が加羅を支配していた
「可能性」はあるんだよな?
日本式土器があるんだから。
565日本@名無史さん:2007/08/20(月) 20:27:12
>>564
相変わらず議論のすじみちがわかってないな。
バイキングとノルマンは別なのだ。バイキングがノルマンジーを侵略して、
キリスト教化し、地元民と混血したのがノルマンだ。そのようなノルマン
がイギリスを征服したのだから、ノルマンの遺跡があるのは当然だ。
しかしそのノルマンはバイキング文化を保存していないから、彼らに係わる
バイキングの遺跡はないのだ。

次に前方後円墳について。
もういちど、アステカの例を見よう。トラスカラはアステカの支配を受けて
人身御供を納めていた。しかし反乱を起こす程度の独立性は保っていた
わけだ。そのトラスカラもピラミッドを築いたが、これはアステカの支配
を受けたからではない。同じ宗教を信じたからだ。その宗教に基づいて
自発的に築いたのだ。前方後円墳も以上と似ているだろう。

次に倭式土器について。
私は、伽耶と、西日本の地方勢力が一体となっていた、その一体性が
広開土王戦争の倭の実態だ、という見方をとっている。
だから4世紀後半に、伽耶に列島からの倭人がいるのは当然だ。
もうひとつ、倭式土器は伽耶式より品質が劣る。なぜそんなものをわざわざ
王族の墓に入れるか。容器より中身が貴重だったからだ、という見方がある。
たとえばそれは倭から輸入した酒の容器だった、という見方だ。
566日本@名無史さん:2007/08/20(月) 21:03:33
>私は、伽耶と、西日本の地方勢力が一体となっていた、
>その一体性が広開土王戦争の倭の実態だ、という見方をとっている。
>だから4世紀後半に、伽耶に列島からの倭人がいるのは当然だ。

4世紀後半、伽耶には畿内系土器が出てくるのだろ?
西日本の「地方勢力」ではないはずだ。
567日本@名無史さん:2007/08/20(月) 21:28:04
>バイキングとノルマンは別なのだ。バイキングがノルマンジーを侵略して、
 キリスト教化し、地元民と混血したのがノルマンだ。

http://en.wikipedia.org/wiki/Normans
こう書いてあるが・・・?
The Normans were a people from medieval northern France,

>そのトラスカラもピラミッドを築いたが、これはアステカの支配
 を受けたからではない。

ヤマトの支配権を認めたくなくて必死だな。
アステカと古代日本を比べても仕方が無い。
ヤマトが地方を支配していなかったのなら、何故にヤマトの遺物が出てくる?
トラスカラでもそうだったか?
同じ宗教と言うが、ピラミッドを建設した=同じ宗教は暴論中の暴論だぞ?
それなら、エジプトも同じ宗教を持っていたのか?
大体、古代においては多神教で、各地の豪族は各々の神を祭っていたぞ?
568日本@名無史さん:2007/08/21(火) 09:34:32
>>566
>4世紀後半、伽耶には畿内系土器が出てくるのだろ?
>西日本の「地方勢力」ではないはずだ。

だから輸入品説を挙げておいた。畿内からの輸入品だったのだろう。
畿内との間に交易があったことは確実だからね。

>>567
>The Normans were a people from medieval northern France,

それが私の言いたいことだ。
ノルマンは中世のノルマンジー半島、すなわち北フランス出身の人たちであって、
スカンジナビア出身のバイキングではない。

>ヤマトが地方を支配していなかったのなら、何故にヤマトの遺物が出てくる?

支配してなかったとは言っていない。支配の質、程度が問題なのだ。

>同じ宗教と言うが、ピラミッドを建設した=同じ宗教は暴論中の暴論だぞ?

トラスカラはアステカと似たようなピラミッド型の宗教施設を築き、その頂上で
生贄(人身御供)をささげるという、アステカと同じようなことをやっていた。
これはアステカに命じられてやっていたのではない。

>大体、古代においては多神教で、各地の豪族は各々の神を祭っていたぞ?

それはどうでもよい。前方後円墳を築いて葬ればあの世で幸福になれるという
思想が共通にあったということだ。

569日本@名無史さん:2007/08/21(火) 09:55:45
>>568
畿内系の土器を輸入する意味が分からない。
輸入品というよりも、
製鉄技術の進歩により大量の鉄が採れはじめ、
必然的に鉄に携わる倭人の居住が多くなったと見た方が自然だ。
570日本@名無史さん:2007/08/21(火) 11:53:56
>ノルマンは中世のノルマンジー半島、すなわち北フランス出身の人たちであって、
 スカンジナビア出身のバイキングではない。

お前一体何言いたいんだ?征服したけど文化的影響はこれっぽっちも残しません
でした。とでも言いたいのか?
もっかい俺の出したソース見直せ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E8%AA%9E

>支配してなかったとは言っていない。

お前の離し方は紛らわしい。

>これはアステカに命じられてやっていたのではない。

根拠は何か?

>前方後円墳を築いて葬ればあの世で幸福になれるという
 思想が共通にあったということだ。

東国では前方後方墳が中心だったが・・・
しかも、前方後円墳=あの世の幸せにはならないぞ?
571日本@名無史さん:2007/08/21(火) 14:14:01
>>570
>お前一体何言いたいんだ?征服したけど文化的影響はこれっぽっちも残しません
>でした。とでも言いたいのか?

やれやれ。
スカンジナビアのバイキングがいったんノルマンジーを征服して、ノルマン人に変わって
からイギリスを征服したから、征服者がバイキングとしての痕跡をイギリスに残すことはなかった。

このことを扶余にあてはめれば、
満州中部の扶余がいったん伽耶を征服して、伽耶人に変わってから倭国を征服したから、
征服者が扶余としての痕跡を倭に残すことはなかった。
ということだってあり得るのだ。

>根拠は何か?

もし命じられてピラミッドの建設や生贄をやっていたのなら、反乱したとたんにピラミッド
をこわし、生贄をやめてもいいわけだが、そんなことは起こらなかった。
また、トラスカラの宗教は外形的にアステカに似ているが、微妙に違ってもいた。

>

お前はそれを断言できるのか?
お前があの世のことを知りえないのは、アステカ人や古代人が知りえない
のと同じだと思うが。
572日本@名無史さん:2007/08/21(火) 14:50:24
>>571
>満州中部の扶余がいったん伽耶を征服して、伽耶人に変わってから倭国を征服したから、
>征服者が扶余としての痕跡を倭に残すことはなかった

伽耶には扶余の痕跡を残してるのに何で日本にはないのだと言ってるのだ。
573日本@名無史さん:2007/08/21(火) 14:55:56
>>571

>満州中部の扶余がいったん伽耶を征服して、伽耶人に変わってから倭国を征服したから、

ノルマンはイギリスにて政治的・文化的な影響を残した。
それが遺物・遺跡・言語・習慣となっているから確認できるのだ。
一方、日本はどうだ?伽耶やら扶余やら日本を征服した痕跡があるか?
そもそも伽耶の日本征服自体根拠に乏しいものだから、お前の言う騎馬民族征服説
は成り立たないな。

>反乱したとたんにピラミッドをこわし、生贄をやめてもいいわけだが、

この論理を日本にあてはめると・・・
「扶余が日本を征服したなら、征服した後に前方後円墳を壊し、自分達の文化的
モニュメントを建設してもいいわけだが・・」
となる。

ちなみに、反乱=支配者のモニュメント破壊となるなら、ヨーロッパ各国の
ローマの遺跡はどう言い訳するんだ?

>お前はそれを断言できるのか?

じゃあお前は前方後円墳=死後の幸福と断言できるのか?

お前はいつも素晴しいダブルスタンダードを使っているな。
574日本@名無史さん:2007/08/21(火) 20:14:29
>>573
>伽耶やら扶余やら日本を征服した痕跡があるか?

議論に従えばこの場合は扶余でなくて伽耶だ。それならば古墳時代は伽耶に
満ち溢れている。

>この論理を日本にあてはめると・・・
>「扶余が日本を征服したなら、征服した後に前方後円墳を壊し、自分達の文化的
>モニュメントを建設してもいいわけだが・・」

お前はつくづく議論のすじみちがわからない奴だ。
この場合コルテス軍に当たるのは伽耶、トラスカラに当たるのは西日本の豪族、
アステカに当たるのは大和だ。
西日本の豪族は、大和に強制されて前方後円墳を築いていたのなら、伽耶に協力して
反乱したとたんに前方後円墳を壊すなり、作るのをやめるなりしてもよいが、
宗教の問題だからそんなことはせず、その後も造り続けた、とこうなるわけだ。
わかったかな?

>じゃあお前は前方後円墳=死後の幸福と断言できるのか?

誰もそんなことは言っていない。古代人がそれを信じたから前方後円墳を築いた、
という話をしているのだ。
そうでなかったら苦労してあんな巨大な物を築くものか。
575日本@名無史さん:2007/08/21(火) 21:01:28
>>574

>それならば古墳時代は伽耶に満ち溢れている。

交易品として入ってきた品な。

>コルテス軍に当たるのは伽耶

領域国家としての体裁も整っていない伽耶がか?

>トラスカラに当たるのは西日本の豪族

不思議だな、それなら西日本の豪族がもっとヤマト王権の中枢にいてもいいはずだが・・
どうして新羅遠征の際に重い負担をかけられたのだろう?

>宗教の問題だからそんなことはせず、

なるほど、宗教の問題と言うだけでそんなに簡単に片付くのか。
もっとも、宗教的祭祀のためだけに前方後円墳が作られたという前提自体が
間違っているのだが・・・
ヤマト王権に伽耶やら扶余やらの影響がないのは不思議だなあ。

>古代人がそれを信じたから

だからその根拠は何だって聞いているのだよ。
質問に答えておくれ。

ところで、ノルマンはノルマンディーに育んだ文化をイギリスで完全に捨て去ったかい?
576日本@名無史さん:2007/08/21(火) 23:02:06
>>574
>古墳時代は伽耶に満ち溢れている。

まともな王墓もない伽耶とは一体何なんだという根本的な疑問がある。
国とは言えないだろう。
577日本@名無史さん:2007/08/22(水) 00:19:27
■9・15 リチャード・コシミズ東京講演会
 アジアの平和に必要なのは何か?
 911謀略を解明し、極東戦争を阻止する
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/9_15tokyo.htm 

■主  催 DAYA・SAGARA & 独立党
■日  時 07年9月15日 (土) 13:30〜16:30
■場  所 東京ウィメンズプラザ (東京都渋谷区神宮前5-53-67)

電話 03-5467-1711(代)   FAX 03-5467-1977
●交通:渋谷駅から徒歩12分、地下鉄表参道駅から徒歩7分。国連大学のとなり。
http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/

2月17日リチャード・コシミズ東京単独講演会ダイジェスト版
http://video.google.com/videoplay?docid=-7654256446381089725
578日本@名無史さん:2007/08/22(水) 21:13:27
>>575
>領域国家としての体裁も整っていない伽耶がか?

コルテス軍は領域国家だったのか?

>それなら西日本の豪族がもっとヤマト王権の中枢にいてもいいはずだが

例えば物部は九州出身という説があるのいではないか?

>宗教的祭祀のためだけに前方後円墳が作られたという前提自体が
間違っているのだが

誰も「だけ」とは言っていない。

>ところで、ノルマンはノルマンディーに育んだ文化をイギリスで完全に
捨て去ったかい?

いや、ノルマンはイギリスで自分の文化を守った。だからその痕跡はいろいろ
あるのだろうが、手っ取り早くはイギリスの言葉、すなわち英語だ。
英語は半分はフランス語でできていると言ってよい。これはノルマンの
中世フランス語の名残だ。
だけどお前の言いたいことは大体わかるよ。
征服者は「必ず」自分の文化を捨て去るはずではないのか?と言いたい
のだろう。

>>576
>まともな王墓もない伽耶とは一体何なんだという根本的な疑問がある。
国とは言えないだろう。

まともな王墓とは巨大古墳のことだな?
それなら古墳時代が終わった後の日本はまともな国ではないわけか?
579日本@名無史さん:2007/08/22(水) 22:15:33
>>578

>コルテス軍は領域国家だったのか?

れっきとした領域国家スペインの人間で、かのカール5世から総督に命じられているぞ?

>例えば物部は九州出身という説があるのいではないか?

初耳だな。
物部の持つ曲部は九州のどこか?
まさか故地をすっかり捨ててヤマトに移ったのか?
それとも王族にそっくりそのまま献上したのか?

>誰も「だけ」とは言っていない。

おやおや?
では、前方後円墳が政治性をある程度帯びていたことは認めるね?
じゃあ、宗教だけの問題じゃないから、君の>>574の言説は通らないわけだ。

>征服者は「必ず」自分の文化を捨て去るはずではないのか?と言いたい
 のだろう。

わかってるじゃあないか。
では、日本に残した「征服者」としての伽耶の影響は何かな?

>それなら古墳時代が終わった後の日本はまともな国ではないわけか?

議論の筋道のわからんやつだな。
何故伽耶に統一国家の痕跡が無いかと聞いているんだ、コイツは。
王墓はその一環だ。

580日本@名無史さん:2007/08/22(水) 23:19:40
>>578
>まともな王墓とは巨大古墳のことだな?
>それなら古墳時代が終わった後の日本はまともな国ではないわけか?

屁理屈こくな。
大和の巨大古墳と同時期の伽耶の地下古墳の貧弱さを見よ。
伽耶では高塚さえも作れなかったのは何故だ?
実質上の支配者である大和から「お許し」がでなかったからだw
581日本@名無史さん:2007/08/23(木) 05:00:28
最近覗いていなかったけど、このスレ相変らずだね。
下品な広島のおっさんが消えた代わりに
内容的には大差ないのが現れて電波全開。
もしかしてあの白馬ナントカが標準語で書いてるだけなのかな?
582日本@名無史さん:2007/08/23(木) 20:11:00
>>579
>れっきとした領域国家スペインの人間で、かのカール5世から総督に命じられて
>いるぞ?

コルテスはキューバの植民地総督に反逆した一旗組だった。(コルテスの探検隊
はキューバから発進したのだ)
だからキューバ総督はコルテスの追討軍(!)をメキシコに送ったぐらいだ。
コルテスは実力で追討軍を丸め込んでしまったけどね。
このように、コルテス軍はその征服過程では、スペイン王から見て単なる無法
集団だった。総督に命じられるのは征服成功後の事後承認だ。

>初耳だな。 物部の持つ曲部は九州のどこか?

じぶんで調べて見よ。物部・九州出自説はネット上に多い。
だいたい、記紀にしてからが、物部の祖・ニギハヤヒが日本書紀では神武に
先んじて、古事記では神武の後を追って、大和に天降った神武の同族、と
しているのだから、九州出自を暗示している。
583日本@名無史さん:2007/08/23(木) 20:16:39
>前方後円墳が政治性をある程度帯びていたことは認めるね?

首長があれだけの大工事をやれば、それが「政治性を帯びる」のは当たり前。
人民にとっては「おらが國さ」であり、首長間では「こっちの方が偉いぞ」
であろう。
主たる目的が墓だと言っているのだ。墓であれば宗教に関係するのもまた当然。

>では、日本に残した「征服者」としての伽耶の影響は何かな?

すでに言ったように、古墳時代は「伽耶」にあふれている。
韓国に、立派な伽耶関係の博物館が二つあるが、それを見た人はだれしも、
「これは日本の古墳時代博物館ではないのか」という感慨を持つそうだ。

>>578
>大和の巨大古墳と同時期の伽耶の地下古墳の貧弱さを見よ。

中国の明十三陵はばかばかしく巨大だが、その一時代前の征服者、ジンギスカンの
墓はいまだに見つからないほど目立たない。要するに墓は宗教次第なのだ。
584全てブーメラン:2007/08/23(木) 22:59:34
>>582

>総督に命じられるのは征服成功後の事後承認だ。

インカより兵器に優れていたスペインならともかく、伽耶が日本に勝る
と言えば騎馬戦術程度だぞ?(お前の説を信じるならばの話だが)
で、その伽耶の騎馬戦術が日本に定着しなかった理由とは?

>じぶんで調べて見よ。物部・九州出自説はネット上に多い。

物部の曲部が九州に多いのは、磐井の乱で活躍したから。
学会で見向きもされないトンデモ説を根拠に上げるなよ。

>物部の祖・ニギハヤヒが〜

結局神話に走るのか。
じゃ、少なくとも伽耶が日本を征服なんてしてないわな。
神話じゃ逆に征服してるんだからw

>主たる目的が墓だと言っているのだ。墓であれば宗教に関係するのもまた当然。

先住民を征服しといて、その宗教的・政治的モニュメントになんら影響を
与えなかったと考える方が不自然だと何回いっていると思ってるんだ?

585日本@名無史さん:2007/08/23(木) 23:02:34
>すでに言ったように、古墳時代は「伽耶」にあふれている。

へえ、それが伽耶の征服の根拠?
じゃあ朝鮮南部には日本式土器があふれてるから、三輪王朝は伽耶を征服
してた「可能性」があるわけだな?

>要するに墓は宗教次第なのだ。

お前の説に従うと、前方後円墳をその後も作ったのは伽耶勢力だな?
その伽耶勢力が、本国と同じ墓制を採用しないのは何故か?

伽耶は日本征服した瞬間から自らの文化を全て捨て去って同化
したのか!?
世界のどの征服王朝にも見られない、素晴しい王朝だ!!
586日本@名無史さん:2007/08/24(金) 19:29:02
>>584
>その伽耶の騎馬戦術が日本に定着しなかった理由とは?

なんで騎馬戦術が定着しなかったと考えるのか?
源平時代は騎馬戦術が花開いたではないか。もちろん、高句麗や伽耶
のような典型的な重装騎兵ではない。しかしそれを言うなら、朝鮮半島
や中国で、あの重装騎兵がその後も続いたのか。
つまりは、戦術がどんどん変わっていくなかでの話なのだ。歴史上、
永久に続いた戦術はない。

>物部の曲部が九州に多いのは、磐井の乱で活躍したから。

勉強になっただろう。お前は九州には物部の領地はない、と言って
いたのだからな。

>結局神話に走るのか。

お前は神武東征伝説の核になる出来事も無かった、という立場か?

>神話じゃ逆に征服してるんだからw

その新羅征服を、おとぎ話のような形でしか書けないところが問題だ。
587日本@名無史さん:2007/08/24(金) 19:31:37
>>584
>先住民を征服しといて、その宗教的・政治的モニュメントになんら影響を
>与えなかったと考える方が不自然だと何回いっていると思ってるんだ?

前にも言ったが、マケドニアの征服者は結局、エジプトのファラオになった
のだから、「宗教的・政治的モニュメントになんら影響を与えなかった」と
言っていいだろう。満洲族またしかり。

>>585
>じゃあ朝鮮南部には日本式土器があふれてるから、

へえ、それが三輪王朝の伽耶征服の根拠か。土器だけで?

>伽耶は日本征服した瞬間から自らの文化を全て捨て去って同化したのか!?

そこで参考になるのが、前にも挙げたバイキングとノルマン人の関係だ。
バイキングはイギリスを征服する前からノルマン人に変わっていた。
扶余が日本を征服する前に治めたのは狗耶韓国人、すなわち倭人だ。
おまけに4世紀後半から本土の倭人と一体になって戦争をしている。
扶余は日本征服以前に十分に「倭化」を受けていたと考えられる。
もう一つの例は満洲族だ。満洲族は中国侵入以前から遼東で中国人を支配
して、十分に中国化を受けていた。
588日本@名無史さん:2007/08/24(金) 20:27:59
>>586

>なんで騎馬戦術が定着しなかったと考えるのか?

前にも言ったが、ヤマト王権は伽耶からわざわざ馬を輸入して
繁殖させた。
この状況で何故騎馬戦術が定着したと言えるのか?

>お前は九州には物部の領地はない、と言っていたのだからな。

負け惜しみか?
俺は「物部九州出身説」を否定しただけで、「磐井の乱後の北九州の
物部の曲部は存在しない」なんて一言も言ってないぞ?

> お前は神武東征伝説の核になる出来事も無かった、という立場か?

神話とは、政権の正当性を主張するものである。

>その新羅征服を、おとぎ話のような形でしか書けないところが問題だ。

神武東征も御伽噺だな。
神鳥で敵を倒したり、神剣で邪神を倒したり、「国を統治するにいい場所は・・」
などと、統一国家を前提としている面がな。

本当に自分に都合の言い箇所しか信用しないんだな。
589日本@名無史さん:2007/08/24(金) 20:37:43
>>587

>、「宗教的・政治的モニュメントになんら影響を与えなかった」

なあ、ムセイオンって知ってるか?

>へえ、それが三輪王朝の伽耶征服の根拠か。土器だけで?

へえ、圧倒的に数の少ない伽耶製品があるだけで伽耶が日本を征服したと
言うの?
土器だけじゃなく、日本の物産・武具・勾玉があるのだがな・・
(ひっかかるかな?)

>扶余が日本を征服する前に治めたのは狗耶韓国人、

初耳だ、ソースよろ。

>扶余は日本征服以前に十分に「倭化」を受けていたと考えられる。

それでどうして「古墳時代は伽耶に満ち溢れている。 」と言えるのか?
同一文化ならば、「倭式」「伽耶式」なんて区分は無いのではないか?
しかも、いくら関係が緊密と言って、混合するものか?
ローマはそっくりそのままギリシアの文化だったか?

590日本@名無史さん:2007/08/24(金) 20:40:17
>十分に中国化を受けていた。

清初期には満州的家族制度、言語、風習が生きてたがな。
それが同化されるのは中期以降。
しかも中国と言う巨大な文化の下でだ。

本当に自分に都合の言い箇所しか信用しないんだな。

591日本@名無史さん:2007/08/24(金) 22:04:03
42 :本当にあった怖い名無し:2007/08/07(火) 07:36:16 ID:9rlUPCRn0
中国政府の研究機関が、日本の稲作の伝来を科学的に照明した。
諸外国の研究機関も納得している。
韓国だけが感情的に反対しているがw
日本の歴史教科書や世界の教科書も大きく書き換えられるかもな。
遺伝学的、農学、植物学、生態学でみて、
稲の伝来は、中国南部→日本列島→朝鮮半島
詳しくはここ。


日本から朝鮮半島への米の伝播
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12585608.html
>日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、
>水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。
592日本@名無史さん:2007/08/25(土) 03:06:55
韓国と同じく反日国家の中国でさえ「任那は日本の植民地」と教育
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pschool&nid=80410

593日本@名無史さん:2007/08/25(土) 18:51:35
>>587
>扶余は日本征服以前に十分に「倭化」を受けていたと考えられる。

もういいよw
日本に北方民族の桂甲が出ないので無理に話を合わしてるだろ?
594日本@名無史さん:2007/08/25(土) 20:23:15
>>588
>前にも言ったが、ヤマト王権は伽耶からわざわざ馬を輸入して
>繁殖させた。 この状況で何故騎馬戦術が定着したと言えるのか?

なぜ、馬を繁殖することが、騎馬戦術が定着しなかった証拠になるのか?
定着するかどうかはそのような努力の後の話ではないか。
定着したからこそ、源平時代の華やかな騎馬戦術がある、と私は言っている
のだが。

>俺は「物部九州出身説」を否定しただけで、「磐井の乱後の北九州の
>物部の曲部は存在しない」なんて一言も言ってないぞ?

下は#579のお前の発言だ。

>物部の持つ曲部は九州のどこか?
>まさか故地をすっかり捨ててヤマトに移ったのか?

これは物部の領地が九州には存在しない、と言っているのと同じではないか。
この時点では「磐井の乱後」などと条件はついていない。

>初耳だ、ソースよろ。 (>扶余が日本を征服する前に治めたのは狗耶韓国人)

初耳とは初耳だ。
狗耶韓国人が倭人系であるというのが初耳なのか?
扶余が狗耶韓国の地に侵入して金官加羅を建てたという説が初耳なのか?
595日本@名無史さん:2007/08/25(土) 22:01:24
>>594 上

騎馬戦術が定着したのは5世紀後半以降だって。
遺物がちゃんと証明してるよ。

それ以前、「乗馬」という習慣はあった。
今まで轡や鐙が出てることで騎馬民族説が語られてきたが、
これが間違いなのだ。
「乗馬」から「騎馬戦術」までに1世紀近い期間がある。


596日本@名無史さん:2007/08/25(土) 22:08:38
ここのスレに阿呆な韓国人が居るみたいだが

日本で騎馬戦術が主戦になったことなど、歴史上、一度もない。

源平合戦は物語り上は騎馬戦術の描写が激しいが
実際の戦闘は、ほぼ9割以上が歩兵だといわれている。
国土の8割が山岳部の日本においては、山の砦をつくって立て篭もるのが基本で
騎馬戦が主戦になったことは、近代まで一度も無い。

ドラマや小説のイメージで歴史を語るなよ、韓国人w
597日本@名無史さん:2007/08/25(土) 22:12:39
13世紀の蒙古襲来のときも
モンゴルの軍団は歩兵中心でやってきた。
日本の国土は8割が山岳部なので、騎馬兵が主力になることはない。
軍事専門的な視点から見てそうだ。

よって、騎馬軍団が日本に乗り込んで、日本を征服するなど
有り得ないことだ。

騎馬民族説というのは、高句麗碑文に書かれている4世紀の倭の朝鮮半島侵攻の事実を
打ち消すために作られた愚説である。
598日本@名無史さん:2007/08/25(土) 22:15:58
韓国と同じく反日国家の中国でさえ「任那は日本の植民地」と教育
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pschool&nid=80410

599日本@名無史さん:2007/08/25(土) 22:22:05
himiko= yamato totohi momoso himemiko
600日本@名無史さん:2007/08/25(土) 23:30:31
>>596
>実際の戦闘は、ほぼ9割以上が歩兵だといわれている。
えっ?
誰が唱えてる珍説?
>山の砦をつくって立て篭もるのが基本
源平の時代にかい?
笑っちゃうよw
601日本@名無史さん:2007/08/25(土) 23:56:00
>>596
つーか戦国時代と間違ってるんだろうな(追加)
戦国時代でも歩兵の割合に地域差があるわけだが。
602日本@名無史さん:2007/08/26(日) 17:57:00
>>594

>なぜ、馬を繁殖することが、騎馬戦術が定着しなかった証拠になるのか?

ねえねえボク?
騎馬戦術って言うのはね、一定の数の騎馬が必要なんだよ?
騎馬戦術が定着していたなら、何故馬がいないのかな?
何故騎馬戦術を使った高句麗に手間取ったのかな?
また重装騎兵とか言って逃げるつもりかな?

>この時点では「磐井の乱後」などと条件はついていない。

時間軸は

蘇我氏が九州に領土を保有
    ↓
ヤマトに騎馬民族とともに移住
    ↓
九州領土の消滅

とここでは考えられているが、ここでの前提は「騎馬民族が征服した時点で
蘇我氏は九州に領土を持っていたか」である。
「騎馬民族とともに在来王朝を倒した九州出身の蘇我氏」というお前の言っ
た前提の下で「蘇我氏に九州の領土は無かった」といっているのだが・・?
言葉尻を捉えるようになってきたな。
603日本@名無史さん:2007/08/26(日) 18:01:08
>>594

>狗耶韓国人が倭人系であるというのが初耳なのか?
 扶余が狗耶韓国の地に侵入して金官加羅を建てたという説が初耳なのか?

どちらも知らんな。
詳しく説明してもらえないか?
物証とともに。

というか、反論が無かったけど、以下の俺の主張は認めてくれるんだな?

>神話における物部氏の出自は、事実を反映したものとは考えづらい
>日本の古墳時代に伽耶の土器があったのは、交易によってである。
>征服者は、在来の文化に影響を与える。
>扶余は倭人社会と同一文化圏ではなかった。
604日本@名無史さん:2007/08/26(日) 21:29:03
>>603
*神武東征伝説がなんらかの事実に基づくと考えるならば、神武と同族であり
「皇別」である物部も、同じ頃東征したということになる。

*日本の古墳時代の伽耶の土器が、人の移動を伴っていたことは、それが「征服」
であるかどうかは別として、考古学で認められている。

*征服者は多くの場合被征服者の文化に影響を受ける。それは古代の征服が、
武力だけは優れているが、文化、文明、人口、富などにおいて被征服者より
劣っている集団によって行われることが多いからである。

*古墳時代において、伽耶と倭とは同一文化圏であった。と言って悪ければ、
類を見ないほど緊密に、互いに影響を及ぼし合っていた。

ついでに言っておこう。日本は山が多いから騎馬戦闘に向かないなどと
言う奴は、前期の高句麗の本拠地である満洲東部の、山また山の現地に
行ったことがない奴である。
605日本@名無史さん:2007/08/26(日) 21:41:13
>>604

>神武東征伝説がなんらかの事実に基づくと考えるならば

そうだな、何らかの事実に基づくと「考えるならば」な。

>それが「征服」であるかどうかは別として、考古学で認められている。

もし征服であった場合、それは日本がしたものだと考えるのが自然だな。

>文化、文明、人口、富などにおいて被征服者より

伽耶の日本に優れている箇所とは一体なんだ?
まあ、その伽耶の影響が「征服者」として顕現していないことは、伽耶の
日本征服は無かったと言えるだろうが。

>古墳時代において、伽耶と倭とは同一文化圏であった。と言って悪ければ、
 類を見ないほど緊密に、互いに影響を及ぼし合っていた。

「同一文化圏」と「緊密な関係」は全く意味が異なる。
小学校からやり直してこい。

>日本は山が多いから騎馬戦闘に向かないなどと言う奴

俺はそんなこと言ってないが?

606日本@名無史さん:2007/08/26(日) 21:43:48
ついでにもうひとつ言っておこう。
磐井戦争が始まる前に継体は物部アラカビに「朕は長門より東をとる。汝は筑紫
より西をとれ。」と言ったと日本書紀にある。
この記事から、このときはじめて物部が九州に領地を得た、と考える必要は
必ずしもない。
なぜならば継体じしんはすでに長門より東を持っているのに、改めて「とる」と
言っているからである。これは要するに、継体と物部とで日本を二分しようと
言っているのである。
物部は「筑紫より西」だから九州全体である。ということは、「磐井を滅ぼしたら
その領土は切り取り次第だよ」と言っているのであって、それ以外の九州に物部が
領土を持っているかどうかは言っていないのである。
607日本@名無史さん:2007/08/26(日) 21:58:31
>>604
>ついでに言っておこう。日本は山が多いから騎馬戦闘に向かないなどと
>言う奴は、前期の高句麗の本拠地である満洲東部の、山また山の現地に
>行ったことがない奴である。

高句麗は騎馬民族じゃないしw
高句麗は厳密に言えば、半農半漁の連中だろう?
あとさ、基本的に高句麗は大陸の国家だから
陸続きで、国境の外までどこまで逃げ切れるから
まあ、多少、騎馬が便利なんだけど、

日本の場合は、山岳国家というだけではなく、島国なんだわな。
周りを海に囲まれているから、こういう国家は、騎馬は戦闘はあまり役に立たない。

あと、日本は前近代に置いては、純粋な九州から軍隊が畿内を征服したことはない。

神武東征は、軍事専門家からみたら、完全に神武の負け戦である。
しかし、神武東征戦争は、基本的に畿内王権内部の権力闘争に
九州で分家していた神武が援軍した戦争なので、
戦争のメインは、あくまでも畿内内部の戦争。

神功皇后は、もともとは北陸出身の皇族だから
九州から畿内へ東征した時は、神功皇后側に加勢する畿内や東国の軍隊がいて勝てた。

足利尊氏は関東と中部が本拠地で、九州へ一旦逃げて、そこから畿内を攻めたのだが
彼の主力軍は、あくまでも畿内以東の軍隊だった。
608日本@名無史さん:2007/08/26(日) 22:02:39
>>601
あのな...戦国時代に歩兵の割合に差があるといってもな。
地域差なんて、殆どない。

あの騎馬軍団で有名な武田軍も、9割以上は歩兵だぜ。
しかも、戦闘中は、騎馬兵ですら、馬から下りて戦ったりしている。
609日本@名無史さん:2007/08/26(日) 22:46:45
>>608
差はあるんだわ。岩付北条氏は騎兵が30%弱な。
「あのな」じゃなくてさ、武田の9割以上が歩兵とかって、鈴木真哉か何かの受け売りでしょうが。
戦国遺文でも読んで自分で調べたのかい?武田も10%以上だぞ。
フロイスが書いたりした下馬云々は主に西国の戦だな。
武田の軍役定を見れば、騎馬を重要視している記述もあるしな。
610日本@名無史さん:2007/08/26(日) 23:12:54
>>609
あのな...
そりゃさ、小隊の中に騎馬兵の比率が高い部隊もあるかもしれない。
でも、数万規模の軍隊でさ、
騎馬軍団が30%超なんて、あるわけがないわな。

>武田も10%以上だぞ。

それみい、ほぼ歩兵は9割じゃないか

前近代の日本で、歩兵が主力というのは、世界の常識です。
ハリウッド映画、ラストサムライで、騎馬兵の殴りこみのシーンで
さっそく、日本は山岳部が多くて歩兵が中心だとかいって
歴史考証の面から叩かれていた。
611日本@名無史さん:2007/08/26(日) 23:33:34
>>610
武蔵岩付北条は小隊ではなく、1600人中の500騎な。これは正確な史料。
北条配下の上野衆は、恐らくほぼ20%で平均してるな。

以上と以下>608じゃ全然違うぞ。
武田は史料の残存具合が北条より少ないからあれだけど、普通に10%以上はある。
織田の明智家でも、10%以上は規定されてるわけだが。
ラストサムライはファンタジーだろw較べられても。
612日本@名無史さん:2007/08/26(日) 23:57:44
岩付は1600弱中の500騎。万単位で探すのははさすがに無理。
規定された軍役には、もちろん非戦闘員も含まれるわけだから、戦闘員としての騎兵の割合は上昇する。
武田は13〜15%弱くらいだろうか(小田切・土屋氏)。
まあ原点に戻れば、これも問題発言なわけだが。

>>596
騎馬戦が主戦になったことは、近代まで一度も無い。
613日本@名無史さん:2007/08/27(月) 06:09:26
日本(国土の8割が山岳部で周囲を海に囲まれた島国)では
騎馬軍団が戦闘に効果を上げることは殆どない。

では、蒙古では、騎馬軍団が何故、効果を上げたのか?

実は、蒙古軍の騎馬軍団は戦闘自体に強いのではない。

彼らが遊牧民であり、生活基盤ごと移動できることに意味があるわけ。
つまり、蒙古は、敵に攻撃されたら、生活基盤ごと、広大な蒙古高原に
逃げることが出来る。これが蒙古の強さ。

こういったことは、日本での戦闘は無理なのだ。
日本は国土の8割が山岳部で、周囲を海に囲まれているから
基本的に、膨大な歩兵を動員するかで勝負が決まる。

中世の元寇の時も、蒙古軍は、大陸での騎馬兵中心と違って
大幅に歩兵中心の兵団で、日本を攻撃しようとした。
614日本@名無史さん:2007/08/27(月) 06:14:04
>>611
いやいやw、だからw

映画のラストサムライで、騎馬兵での殴りこみシーンで、
やたら、馬での突撃シーンを描いていた。

それに対して、アメリカでは、
日本は山岳部が殆どで、海で囲まれた国なのに違うだろう?
と突っ込みを入れられていた。

つまり、日本では、陸続きの大陸国家に比べて
騎馬兵の比重が小さいことは、まあ有名だということ。
615日本@名無史さん:2007/08/27(月) 06:19:26
>>611-612
おまえの発言は、結局は
日本では騎馬兵が脇役だということを証明しているだけだろう?
要するに、歩兵が8〜9割の証明だから。
616日本@名無史さん:2007/08/27(月) 16:39:31
まあまあ、どっちも同じ考え持ってるじゃないか。
仲良くしろよ。
617日本@名無史さん:2007/08/27(月) 17:54:01
スレ違いになってきたなw
618日本@名無史さん:2007/08/27(月) 19:33:10
>>613
逃げ上手なだけで、大陸に君臨出来たわけないし。
モンゴル馬は馬体は大きくないが持久力が利点、それを戦術に活かした訳だし、モンゴル人は騎射に巧みだろ。
軍事面を含め優れた制度に、合理性、柔軟性、諸々の理由はあるんだろ。

>日本は国土の8割が山岳部
ん?だから?戦闘の多くが山岳部で行われたとでも?
古戦場は山岳かい?
歩兵中心の律令的軍隊も、惰弱だったわけだが。
>>614
ラストサムライどころかクレヨン戦国映画もフィクションだし、
だから何だよ?って感じ。
>>615
要は日本の軍事史といっても、時代によって変遷があるわけよ。
山岳に築かれた城郭で戦われるようになるのは、ほぼ南北朝期以降な。
>596の源平期の9割が歩兵とか、電波も甚だしい。
西上野武士への軍役賦課を戦闘員のみで平均すると、馬上2・鉄砲1・弓1・槍4だな。
時代下って、1595年の佐竹氏のある例だと、馬上210・鉄砲100・弓200・槍358。
西国大名だと、馬上と槍が減って、鉄砲と弓の比率が多くなる。
有名なトコで槍の長さから、好んだ刀の長さも違うしというし(甲陽軍艦)、馬具も違う罠。
地域差はあるって事だ(>608)

>>617
ああ、その通りだな。普段はusi登場すれとしてロムってる。
一応言っとく・・・ヤマトは騎馬民族ではない。
619日本@名無史さん:2007/08/27(月) 20:39:41
>>697
>高句麗は騎馬民族じゃないしw
>高句麗は厳密に言えば、半農半漁の連中だろう?

なるほど。すると扶余も高句麗の本家だから、やはり君の定義による
「騎馬民族」ではないわけだな。
それなら扶余が日本を征服するときも、君がイメージするような騎馬戦術
を展開しなくてもよいわけだ。

>周りを海に囲まれているから、こういう国家は、騎馬は戦闘はあまり
>役に立たない。

満洲には海はないが、大河がある。満洲の大河は日本の川とは違うぞ。
ハルビンまで外航船がさかのぼれると知っていたか?
満洲の大河はちょうど日本列島と同じぐらいの単位に、陸地を区分して
いる。

>>608 ~ >>615
戦国時代の話をしてどうする。問題は騎馬戦術がいちおう定着したか
どうかであって、その後の変化ではない。だから源平時代を考えれば
それでよいのだ。
源平時代は、一家の家長や眷属が騎兵であって、それ以外の郎党が歩兵
であった。歩兵は単なる従者/補助兵力であって、実際の戦闘は騎兵同士で
行われた。だから数や割合の問題ではなく、騎兵がいなければ戦争に
ならないという意味では、騎兵こそが主力であった。

その源平時代の騎兵は、例のヤブサメのようなことを特技とするプロで
あった。このようなプロ集団を維持することは、いろいろと困難だから
その後の戦術の変遷は、プロでなくても戦争ができるような、つまり戦争の
アマ化の過程であった。その究極が鉄砲である。
以上のようなことだから、戦国時代の騎兵/歩兵の比率を論じても意味がない。
620日本@名無史さん:2007/08/27(月) 20:42:20
>>605
>そうだな、何らかの事実に基づくと「考えるならば」な。

東征を否定するなら、大和王朝の正統性にとってなんの足しにもならない
神武東征のようなことをなぜ日本書紀が書くのか、その説明が必要だな。

>伽耶の日本に優れている箇所とは一体なんだ?

だからお前は議論のすじみちがわからない、と言うのだ。
武力のみに優れているが文化、文明、人口、富などにおいて劣るというのは
扶余/伽耶のことだ。
一方、三輪王朝の日本があれだけの古墳を築けるというのは、やはり一つの
文明である。それは人口、富の現れでもある。
このような征服者・被征服者の関係は、例えば満洲族と中国、バイキングと
フランク王国などに見ることができる。

>>「同一文化圏」と「緊密な関係」は全く意味が異なる。

同一文化圏だからと言ってすべてが同じである必要はない。
もしそうなら、例えば「日本は漢字文化圏に属する」などと言えないではないか。
この例に見るように、「文化圏」は文化の一要素に着目することが多い。
その意味では、武装があれほど一致しているという意味において、倭と伽耶は
「倭/伽耶式武装文化圏」であったと言ってよい。
それに加えて、埴輪に見るような支配層の風俗がある。これは魏志倭人伝の
描写とは異なり、中国とも違うのだから、伽耶から入ったと考えざるを得ない。
ここにも一つの「文化圏」がある。
621日本@名無史さん:2007/08/27(月) 21:38:31
>>620

>東征を否定するなら、大和王朝の正統性にとってなんの足しにもならない
 神武東征のようなことをなぜ日本書紀が書くのか

何を屁理屈言ってるんだ?
当時のヤマト朝廷支配下の日本には立派に受け入れられたじゃないか?
当時に考古学があったのかい?

>武力のみに優れているが文化、文明、人口、富などにおいて劣るというのは
 扶余/伽耶のことだ

武力のみに優れてるって・・・・
その伽耶が日本の武力をアテにしたなら意味ねーよ。
で、その武力が優れてる根拠とは何か?

>このような征服者・被征服者の関係は、例えば満洲族と中国、バイキングと

どちらもしっかりと史書に残っている「強大な」民族だな。
伽耶がそんなに強い民族とはね・・・
622日本@名無史さん:2007/08/27(月) 21:43:44
>武装があれほど一致しているという意味において、倭と伽耶は
 「倭/伽耶式武装文化圏」であったと言ってよい。

伽耶の武具には日本からの影響がかなり濃く見られるな。
なるほど、三輪王朝の強大な影響力を垣間見れる。
ところで、論点をずらして逃げまくっているが・・・
前方後円墳はどう説明するんだ?
623日本@名無史さん:2007/08/27(月) 22:09:10
>>619
日本の騎馬戦術は6世紀後半から7世紀にかけてだろうな。
確かに騎兵の活躍は源平時代を頂点とする。
後半部はヤブサメ(非実戦的)川合の毒に犯されてる感じもあるが、関係ないけど。
まあ、関係ない馬鹿話>596に乗ってる俺が言えた義理じゃないがw
624日本@名無史さん:2007/08/27(月) 23:26:45
繰り返すが日本の5世紀の古墳は、ほとんど馬具と短甲のセットなんで、
この時点で乗馬文化はあったが、騎馬戦術はなかったという事だ。
4世紀の伽耶にちょろっと桂甲などが出てるからと言っても、だからどうした。
騎馬戦術などたいしたことはない。
おそらく北方系の製鉄集団が持ち込んできたものだろう。
その製鉄集団も日本に来て秦氏と呼ばれたのだろう。
625日本@名無史さん:2007/08/27(月) 23:34:54
>>620
>武装があれほど一致しているという意味において、倭と伽耶は 「倭/伽耶式武装文化圏」であったと言ってよい。

その通りだろうね。
ただ>622も言ってるが、
伽耶には日本の前方後円墳ような立派な高塚古墳がない。
したがって序列で言えば伽耶は下位だろう。
面白いのは日向に高塚(前方後円墳や円墳)と地下式古墳がある。
日向での序列として高塚が上なのは言うまでもない。
伽耶と大和の関係に置き換えても同じだ。
626日本@名無史さん:2007/08/30(木) 20:22:01
>>625
>伽耶には日本の前方後円墳ような立派な高塚古墳がない。
>したがって序列で言えば伽耶は下位だろう。

異なる国家の間で墓を比較して序列をつけられるとは思わない。
大成洞の支配者たちは自ら選んで木郭墓を造り続けただけだ。
白村江戦の後、日本は中華体制に組み込まれて行くが、その前後から
薄葬の時代に入っていく。その時代の天皇の墓は唐の皇帝の墓より小さい
だろうが、これを理由にして日本は唐の下位だ、という人はいないだろう。
(朝貢しているから、というのは理由になり得るが)
それと同じ。
627日本@名無史さん:2007/08/30(木) 20:28:12
>>621
>当時のヤマト朝廷支配下の日本には立派に受け入れられたじゃないか?
>当時に考古学があったのかい?

何回読んでも、「もっかい」読んでも意味不明だからあきらめて、私が
賛同する説を挙げておく。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/006/re_006_040703.htm

例によってサワリを引用すれば:
<引用はじめ>
「応神が大王家の正当な後継者である忍熊王を打倒して河内王朝を樹立した。
日向の諸県君(もろがたのきみ)一族が河内大王家の姻族となっているのは、
彼らが応神側に加担し勝利に貢献したことを物語っている」
塚口さんはさらに、いわゆる神武東征――初代天皇を日向出身とする伝説も、
5世紀の河内王朝の時代に、4世紀末の内乱をモデルに構想されたものとみる。
つまり王権を簒奪した河内大王家と諸県君一族が、皇祖はもともと日向出身と
することによって、自らを正当化しようとしたというのだ。
<中略>
「神武が日向を出発し草香に上陸しているのは偶然とは思えない。神武が大和の
在地豪族長髄彦(ながすねびこ)を破り、橿原宮(かしはらのみや)(奈良県
橿原市)で即位したとする記述も、応神が忍熊王を破り軽島の明宮(あきらのみや)
(同)で即位したことに対応している」
<引用おわり>

神武東征伝説の不自然さも重要性も、河内王朝との関連の中にある、という
点で、私はこの塚口氏(塚口義信・堺女子短大学長)の説に賛同する。
しかし塚口氏の説によっても、応神が出自不明であることには変わりはない。
そこに扶余征服説がつけいる余地がある。
628日本@名無史さん:2007/08/30(木) 21:10:42
例によってイタイものを根拠にしてるな・・・

イチイチ根拠を挙げて反論するのも面倒だから、以下の事実を良く考えてくれ。

「ヤマトの四大古墳群は相互に関係が深い。」
629日本@名無史さん:2007/08/30(木) 23:32:43
>>626
>異なる国家

4世紀後半には堂々と倭人が伽耶に居住してるね。
何でそんな事ができたのだろう。
逆に日本に伽耶スタイルの地下式墓はないね。

630日本@名無史さん:2007/08/31(金) 09:12:19
>>627
>そこに扶余征服説がつけいる余地がある。

ないないw
扶余と河内王朝を結びつける何の物証もないし。
鐙が似ているなんかはだめだよ。
それは東アジア全般の話になるし。
631日本@名無史さん:2007/08/31(金) 13:37:15
>>629
>4世紀後半には堂々と倭人が伽耶に居住してるね。
>何でそんな事ができたのだろう。

別に不思議ではない。狗耶韓国人はもともと倭人だ。
それに、4世紀後半にはすでに金官と倭(恐らく地方豪族)とはなんらかの
軍事協力関係にある。
海峡を毎回横断するのは大変だから、一部が常駐するようになるのは当然。
632日本@名無史さん:2007/08/31(金) 14:12:41
稲荷山の鉄剣でいうと、騎馬民族の王様に仕え始めたのって誰からよ?
タサキワケあたり?
633日本@名無史さん:2007/08/31(金) 14:45:36
>狗耶韓国人はもともと倭人だ

だからその根拠は何かと何回聞いたら・・
634日本@名無史さん:2007/08/31(金) 18:50:06
>>632
騎馬民族の王様って誰だ?
635日本@名無史さん:2007/09/01(土) 00:40:44
>>631
>4世紀後半にはすでに金官と倭(恐らく地方豪族)とはなんらかの
>軍事協力関係にある。

そうだとして、どちらが優位での軍事協力かと言えば、
明らかに倭だな。
636日本@名無史さん:2007/09/01(土) 12:48:37
>>633
カヤは日本語じゃん。




637日本@名無史さん:2007/09/01(土) 13:27:22
>>636

その根拠は?
638日本@名無史さん:2007/09/01(土) 13:32:40
>>634

江波氏は崇神としていたらしいけど、このスレの流れから応神ということで。
639日本@名無史さん:2007/09/01(土) 14:53:52
>>633
だからその根拠は何かと何回聞いたら(>狗耶韓国人=倭人)

反対派にとっても常識ではないのか?
中国の史書のなかの「倭の北岸狗耶韓国」
朝鮮半島南部のどこだかの國の「倭と境を接する」
狗耶韓国の遺跡と吉野ケ里遺跡の類似

>>635
>そうだとして、どちらが優位での軍事協力かと言えば、
>明らかに倭だな。

そうとは言い切れない。倭の地方豪族が、鉄供与の見返りに兵力(歩兵)
を提供していたことが考えられる。
640日本@名無史さん:2007/09/01(土) 15:18:06
>>639

>中国の史書のなかの「倭の北岸狗耶韓国」
>朝鮮半島南部のどこだかの國の「倭と境を接する」

魏史東夷伝倭人条のことを言っていると思うが、「倭の北岸」ではなく
「其の」北岸とある。
つまり、前段の「郡より倭に至るには〜韓国を歴て〜」と比べると、
馬韓の北岸とした方が正しい。

「倭と境を接する」とあるのはどこの史書から引用しているのだ?
後漢書東夷伝には「倭在東南大海中〜」とあるが・・?

>倭の地方豪族が、鉄供与の見返りに兵力(歩兵)

兵力が無ければ加羅は困っただろうな。
ヤマトが兵力の見返りに鉄の上納を定めたのだ。
641日本@名無史さん:2007/09/01(土) 15:58:56
>>638
江波?w
642日本@名無史さん:2007/09/01(土) 16:14:09
>>639
日本の地方豪族と金官(扶余)の連合が大和王朝を簒奪したと考えたいのだな?

日本のどこかの地方から、
鉄テイや桂甲が畿内よりかなり早く出たというならその考えもありえるが、
残念ながらどこにもないな。
643日本@名無史さん:2007/09/01(土) 16:22:42
>>637
★謎の民族=カラビトの正体★

 古代のカラ半島南部に住み、日本語を話していた謎の民族=カラビト(韓人)とは何者なのか。
『渡来人』とも呼ばれた彼らの正体は、「倭人」である。
 カラビトは、カラ地方(韓)に住んでいたことから、韓人=カラビトと呼ばれたわけだが、
彼らが話していた言語は日本語であり、大和言葉の方言である。古代カラ半島には三つの国が存在した。
シラキ、ミマナ、クタラの三国である。これらの国に住んでいたカラビトは、日本にも移住し、
古代日本の繁栄に貢献したが、彼らは倭人(日本人)なのである。
 つまり、古代日本に、朝鮮人は移住していない。古代日本に朝鮮人は来なかったのだ。
戦後、朝鮮人は「古代日本には多くの朝鮮人が移住し、日本文化の発展に貢献した」という宣伝を組織的に
展開しているが、これはデタラメなのである。古代日本に移住したのはカラ半島に住んでいた倭人=カラビト
(韓人)であり、彼らは日本民族だったのである。
 カラビトは、現在の朝鮮半島に住んでいる朝鮮人とは、民族が違うのだ。
現在の朝鮮半島に住んでいる民族は、志良岐(シラキ)の北方=ワイに住んでいたワイ人の子孫なのである。
 古代日本人と友好関係にあった韓人(カラビト)と、現在の半島に住んでいる朝鮮人(ワイ人)を、
混同してはならない。

★カラとは何か★
 加羅と書いてカラと読む。韓と書いてカラと読む場合もある。
カラの語源は、日本語古語の離る(カル)である。カルとは「離れる」という意味の大和言葉である。
このカルが変化してカラとなった。「大和から離れた土地」「海の向こうの土地」という意味である。
 また、伽耶(カヤ)の語源も日本語である。日本語古語の離ゆ(カユ)は「離れる」という意味であるが、
カユが変化してカヤとなったのである。つまり、カラとカヤは同じ意味の地名なのだ。
 カラ=カヤの地には、紀元前から多くの倭人(日本民族)が住み、華やかな日本文化が栄えていた。
カラは倭人の世界だったのである。
 現在、カラ半島に住んでいる朝鮮人は、4世紀頃(300年代)に、カラ半島北部から南下してきた
ワイ人の末裔なのである。
 結論は、朝鮮人はカラビトではない、ということである。
644日本@名無史さん:2007/09/01(土) 16:27:23
金官をフヨだと宣伝している朝鮮人がいるが、金官は6世紀に朝鮮人(新羅人)が
建てた植民地だろ。
朝鮮人が任那地方を侵略して建てた植民地じゃん。



645日本@名無史さん:2007/09/01(土) 16:32:50
>倭の地方豪族が、鉄供与の見返りに兵力(歩兵)

伽耶=加羅で鉄を作っていたのは倭人だろ。

カヤ人は倭人であり、古代ヤマトからの移住民だろう。
なんか、カヤ人がヤマトから独立していて、ヤマトを相手に商売していた、
政治的な取引をしていた、みたいな主張を見かけるが、違うだろ。

倭人がカヤに住んで、現地の住民を雇い鉄を掘らせた、と。
これが真実だろう。
646日本@名無史さん:2007/09/01(土) 16:47:17
>>643
奈良=ナラ

平す(ナラす)→ナラ→奈良の都

これと同じだな。

647日本@名無史さん:2007/09/01(土) 20:21:04
>>640
>馬韓の北岸とした方が正しい。

お前、漢文読めるのか?
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國

韓国を「歴て」南行しているのにどうして韓国の「北岸」に「到る」のか。
「其」は「倭」に決まっている。

>「倭と境を接する」とあるのはどこの史書から引用しているのだ?

同じ魏史東夷伝だ。韓国条:
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接

韓国の北に帯方郡があり、東と西は海で限られ、南は倭と「接」して
いるのだ。わかったか?
「與」は「と」の意味の、英語で言えば前置詞だよ。
648日本@名無史さん:2007/09/01(土) 21:46:40
>>647

>お前、漢文読めるのか?

お前に言われたくは無いな。

從郡至倭、循海岸水行、歴韓國
ここと
乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
ここは別々の段だ。

>東西以海爲限、南與倭接

どうして「陸上で」となるのか?
前段に「以海」とあることから、海で分かたれていると考えた方が合理的である。
言っておくが、後漢書は魏志によっているものだから、「倭在東南大海中」という
のは魏志と同じ意識が働いていることがわかる。
649日本@名無史さん:2007/09/01(土) 23:32:50
伽耶は弥生時代から倭人が鉄を採ってたんだし、
古墳時代になっても三輪王朝はそれを継続してたろう。
そして4世紀に北方系らしいのが伽耶に来たとて、
三輪王朝は誰にも気兼ねすることなく鉄を採ってたろう。
北方系に騎馬戦術があったからってどうなんだ。
全然関係ないよ、そんな事。
その北方系は製鉄関係だろう。
鉄テイがそれを証明してる。
650日本@名無史さん:2007/09/02(日) 11:17:22
>>648
>從郡至倭、循海岸水行、歴韓國 ここと
>乍南乍東、到其北岸狗邪韓國 ここは別々の段だ。

別々の文章だと言うのか? お前自身が>>640では:
>つまり、前段の「郡より倭に至るには〜韓国を歴て〜」と比べると、
>馬韓の北岸とした方が正しい。
と書いて、全体をひとつながりに解釈しているではないか。
だからこそ前段の「韓国」を「其」の先行詞として「馬韓の北岸」
などとトンデモ解釈をしているのだ。
理屈を考えるのもいいが、自分で書いたことぐらい読み返してからに
したらどうか。

私に反論するのなら、「其(倭)北岸」は「倭の北側の対岸」の
意味だ、と言えばよかったのだ。この解釈なら五分五分だ。 残念だったね。

>前段に「以海」とあることから、海で分かたれていると考えた方が合理的である。

それならなおのこと、「東西南以海爲限」と言ってしまえばいいではないか。
「接」に「海で分かつ」などという意味はない。
この文章は、「韓国は東西は海で限られ、南北は他国と陸続きで接する」という
解釈で、なんの問題もない。
それにここは韓国条の始まりで、韓国の領域を述べるところであって、
倭国にでかける話ではない。海のかなたの倭国を意識する必要はないのだ。

「其(倭)の北岸」だけなら上記「倭の北側の対岸」という解釈も成り立つ。
しかし「南與倭接」と並べて考えれば、朝鮮半島の南端に「倭」と呼ばれる
地域があった、とせざるを得ないのである。
651日本@名無史さん:2007/09/02(日) 12:55:45
>>650

>つまり、前段の「郡より倭に至るには〜韓国を歴て〜」と比べると、
>馬韓の北岸とした方が正しい。
と書いて、全体をひとつながりに解釈しているではないか。

国語力のないやつを相手にするのは疲れるな・・・

>つまり、前段の「郡より倭に至るには〜韓国を歴て〜」と比べると

ここと「比較」はしているが、一つの意味の固まりとして見てはいない。
ということだ。
まずそこから勘違いしている。
わかったかね?

>それならなおのこと、「東西南以海爲限」と言ってしまえばいいではないか。
 「接」に「海で分かつ」などという意味はない。
>「南與倭接」と並べて考えれば、朝鮮半島の南端に「倭」と呼ばれる
 地域があった、とせざるを得ないのである。

確かに、「現代の基準」で「朝鮮に倭があると」解釈すればそうなるだろう。
だがね、史書の検証は先入観を捨てて行わなければならない。
「接」と言う文字は「あるものが別のものに触れている」状態を示すだろう?
「韓という地域と倭と言う地域が接している。」つまり、陸上でなくても良い訳さ。
お分かりかな?

>海のかなたの倭国を意識する必要はないのだ。

矛盾してるな、「倭と接する」とある時点で、倭国を意識しているだろう?

まあ落ち着けよ。
652日本@名無史さん:2007/09/02(日) 15:23:16
>>651
>「比較」はしているが、一つの意味の固まりとして見てはいない。

では聞くが、お前の解釈では、
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
この文章で、「其」は先行するどの文字を受けるのか?
653日本@名無史さん:2007/09/02(日) 16:59:39
古代朝鮮に先進文化が無かった◆ 朝鮮人が貨幣鋳造を始めたのは10世紀からである。
http://www.kase-hideaki.co.jp/k006/trees.cgi?log=&v=1345&e=res&lp=1345&st=0
★日本におけるコイン鋳造の歴史

 歴史の教科書には、西暦708年[慶雲(けいうん)5年]に、武蔵国(むさしの国)の秩父郡(ちちぶごおり)から
銅が献上され、年号を和銅とあらため、初めて和同開珎(わどうかいちん)という貨幣[銀銭と銅銭]が造られたと書かれている。
しかし、奈良県の飛鳥池(あすかいけ)遺跡から発見された富本銭は、それ以前の7世紀(西暦600年代)後半頃に、
飛鳥の中心地で作られていることが分かった。富本銭が鋳造されたのは683年頃である。
 考古学の研究が進んだことにより、古代の日本国では、富本銭以前にも『無文銀銭』という貨幣が使われていたことが
明らかになっている。『無文銀銭』が使われていた時代は、660年頃だ。
 朝鮮において初めて貨幣が鋳造されたのは、高麗時代初期(996年)であり、日本国の貨幣鋳造よりも後の時代である。
この事実からも、10世紀以前の東アジアでは、日本国のほうが朝鮮よりも文化レベルが高かったことが理解できる。
朝鮮人は、「古代朝鮮人が日本に移住し、さまざまな先進文化を日本人に教えてあげた」と主張するが、そういう事実は無いのだ。
 朝鮮人は古代日本に移住していない。文化レベルも日本国のほうが高かったのである。日本国におけるコイン鋳造にも、
朝鮮人はまったく関与していないのである。技術というものは、どのような技術であれ、使うためにある。
 古代日本人に貨幣鋳造技術や貨幣経済の管理法を教えた渡来人たちは、当然、自分の国に住んでいた頃も、その技術を使っていたはずだ。
もし、これらの技術を日本人に指導した渡来人が朝鮮人であったならば、彼らは自分の国(朝鮮)でも、貨幣を鋳造していたはずであり、
彼らの国では日本よりも早い時期に貨幣経済が発展していたはずだ。
 ところが、9世紀以前の朝鮮(ワイ州とワイ新羅[わいしんら]が古代朝鮮である)においては、貨幣が鋳造された事実は無いのである。

654日本@名無史さん:2007/09/02(日) 20:03:50
>>652

>、「其」は先行するどの文字を受けるのか?

俺の書き込み最初から見て来い。
655日本@名無史さん:2007/09/02(日) 20:28:52
>>654
とうとう答えられなくなったな。
まあそうなると分かってはいたけどね。
656日本@名無史さん:2007/09/02(日) 20:46:29
>>655

だから・・・・
あのな、>>640

「其の」北岸とある。
つまり、前段の「郡より倭に至るには〜韓国を歴て〜」と比べると、
馬韓の北岸とした方が正しい。

と書き込んだ気がするが?

ところで、「魏志」には加羅が倭種であると書いてあったかい?
657日本@名無史さん:2007/09/03(月) 08:39:17
135 :日本@名無史さん:2007/08/30(木) 16:00:45
韓国と同じく反日国家の中国でさえ「任那は日本の植民地」と教育
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pschool&nid=80410

136 :日本@名無史さん:2007/08/30(木) 16:01:37
2001年の佐藤洋一郎先生の講演ですよね。

1.基調講演 イネと稲作の日本史
http://inoues.net/study/japonica1.html

それから2005年になって...
yahoo掲示板に下のような書き込みがあった。

42 :本当にあった怖い名無し:2007/08/07(火) 07:36:16 ID:9rlUPCRn0
中国政府の研究機関が、日本の稲作の伝来を科学的に照明した。
諸外国の研究機関も納得している。
韓国だけが感情的に反対しているがw
日本の歴史教科書や世界の教科書も大きく書き換えられるかもな。
遺伝学的、農学、植物学、生態学でみて、
稲の伝来は、中国南部→日本列島→朝鮮半島
詳しくはここ。

日本から朝鮮半島への米の伝播
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12585608.html
>日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、
>水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。
658日本@名無史さん:2007/09/03(月) 09:06:58
>>656
ぐだぐだはいい。
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
この文章で、「其」は先行するどの文字を受けると考えるのか?

それだけを答えてくれ。
漢字の一字か二字ですむことじゃないか。
659日本@名無史さん:2007/09/05(水) 01:29:33
身分格差の象徴】皇室・皇族が全員大嫌い4
http://human7.2ch.net/test/read.cgi/ms/1187598271/

301 可愛い奥様 2007/09/04(火) 20:22:02 ID:XW3y48kA0
>>297
江上波夫東大教授の名著「騎馬民族国家」くらいお読みになられたらいかがですか?
点脳一族のの起源は朝鮮半島。以来、日本に住み着き、今や最大限の利権をむさぼっているウジ虫です。

660日本@名無史さん:2007/09/05(水) 19:20:15
>>651 >>656は黙り込んでしまったな。
なぜ黙り込むかと言えば、「其」の先行詞となり得る言葉(文字)は、
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
のなかで郡、倭、海岸、韓国の四つ(実際は倭以外は無理)あるが、
どれをとっても上記文章の前半(歴韓国まで)に含まれる。

だからそのいずれを先行詞と答えても、彼が言う、「(全体を)ひとつの
意味の塊として見ていない」と矛盾してしまうわけだ。

ということで、彼がしたり顔で解説した「ここと、こことは別々の段だ」
が、苦し紛れの出まかせだったことがわかる、というわけ。
661日本@名無史さん:2007/09/05(水) 20:19:50
良いから騎馬民族の話しろよ。
662日本@名無史さん:2007/09/05(水) 20:28:16
牙民族
663日本@名無史さん:2007/09/06(木) 04:00:06
>>660
> >>651 >>656は黙り込んでしまったな。
> なぜ黙り込むかと言えば

いい加減、アホらしくなったからじゃないの?w
664日本@名無史さん:2007/09/06(木) 04:52:07
というわけで、魏史東夷伝から考えると、朝鮮半島の南端に「倭」と呼ばれる
倭人居住地域があった。
この「倭」に扶余が侵入して支配した。支配者が変わっても、外部から見れば
依然として「倭」だ。
これが広開土王碑に見える「倭」の正体である。
より具体的に言えば、金官加羅と、これに協力する日本列島の地方豪族とを
併せた勢力だ。
「渡海」とは、4世紀末に至って、上記日本列島の地方豪族が大規模な援軍を
送ったことを指す。
665日本@名無史さん:2007/09/06(木) 10:44:53
>この「倭」に扶余が侵入して支配した。

一人の学者の一つの推測。

>これに協力する日本列島の地方豪族とを併せた勢力だ

具体的にどこなのだと聞いてるのだが。
ついでに物証も示してくれ。

666日本@名無史さん:2007/09/06(木) 18:03:16
>>664

>というわけで、魏史東夷伝から考えると、朝鮮半島の南端に「倭」と呼ばれる
 倭人居住地域があった。

ここは良いけど

>この「倭」に扶余が侵入して支配した。支配者が変わっても、外部から見れば
 依然として「倭」だ。
 これが広開土王碑に見える「倭」の正体である。

どうしてこう言い切れるのかとても疑問。

667日本@名無史さん:2007/09/07(金) 21:42:40
>>665
>一人の学者の一つの推測。

申教授に対する反対論は主として「文化受容」だが、文化受容説は殉葬が
突然始まることを説明できない。

>>666
>どうしてこう言い切れるのかとても疑問。

マケドニア人がエジプトを征服しても「マケドニア」になるのではなく
依然として「エジプト」であり、満洲族が「中国」を征服しても「中国」
という呼び名が依然として通用するのと同じ。
668日本@名無史さん:2007/09/07(金) 21:50:06
>>667

そうじゃなくて、殉葬習俗を持った北方系が伽耶に来たのは事実だろう。
しかし伽耶の支配者とは決まっておらん。
伽耶は広い意味で大和の管轄地だったから。

669日本@名無史さん:2007/09/07(金) 22:47:22
>>677

物的証拠が無いね。
670日本@名無史さん:2007/09/08(土) 13:51:15
>>668
>殉葬習俗を持った北方系が伽耶に来たのは事実だろう。

それを認めるのは偉い。学者でも認めない人もいる。

>しかし伽耶の支配者とは決まっておらん。

それより上がいないから、伽耶の支配者であったには違いない。
それをさらに大和が支配したとすれば「間接支配」だ。
大和に間接支配されても新羅王は新羅王であるのと同じ。

>伽耶は広い意味で大和の管轄地だったから。

4世紀初頭〜半ばにおいて金官が「大和の管轄地だった」という
根拠はなにか。


671日本@名無史さん:2007/09/08(土) 15:02:54
>>670
>4世紀初頭〜半ばにおいて金官が「大和の管轄地だった」という根拠はなにか。

4世紀後半の伽耶での日本系土器の多さは、
倭人が堂々と伽耶に住んでた証拠だろう。
これらの土器は鉄との交易品だったとの見方もあるかもしれないが、
土器なんて伽耶にもあるのだし、こんなもの交易品にならない。
やはり倭人が直接住んでた証拠だろう。
じゃ、なぜ住めたのか。
伽耶はあなたが言う大和による「間接支配」だったからだ。
672日本@名無史さん:2007/09/08(土) 17:07:13
>>671

倭軍が高句麗軍に即応できたのも、日本式古墳が各地にあるのも、そこに
日本式土器があるのもそういう理由からなんだよね。

これをどうしても認めたくない困ったオバカさんがタマにいるんだよねえ・・
673日本@名無史さん:2007/09/08(土) 20:59:45
>>671
わざわざ4世紀初頭〜半ばと断ったのは、4世紀後半の議論と分ける
ためだ。
もういちど聞く。
4世紀初頭〜半ばにおいて金官は「大和の直轄地」だったのか?
イエスならばその根拠はなにか?
674日本@名無史さん:2007/09/08(土) 21:23:51
>>673

もう一度聞く、騎馬民族が日本を征服したといえるのか?
イエスならばその根拠は何か?
675日本@名無史さん:2007/09/08(土) 22:45:35
>>673
議論を別けるのは君の勝手だが、
4世紀後半の倭人の大量移住こそが、
4世紀初頭〜半ばにおいて伽耶が「大和の直轄地」だった証拠だと言ってるのだ。
そうでないなら、申教授のように、伽耶建設に倭人を動因したとかいうアホな意見になってしまう。
676日本@名無史さん:2007/09/09(日) 04:33:51
>>675
3世紀末に北方民族が狗耶韓国に侵入してこれを支配した(直接支配)。
するとたちまちにして海を越えた彼方の大和(発生したばかりの三輪王朝)
の「直轄地」になってしまった、と君は言っているわけだ。
677日本@名無史さん:2007/09/09(日) 07:36:34
>>676
いーや全然違う。
伽耶はずっと大和の管轄地だった。

巻向遺跡に東海系を中心に西日本各地の土器が搬入されてるのを見ると、
西日本全域が大和を中心に統一に近い連合をしてた。
韓式土器も出るから伽耶もそうだろう。
大王(天皇)とは鉄の配給システムの頂点に立つ大親方だ。
三輪王朝はそうして始まった。

で、その伽耶に北方系が来たのだが、
世間一般にイメージされてるほど騎馬民族は強くはない。
恐ろしく強いというイメージがあるが、
それらは映画やチンギスハーンからくるものだ。

伽耶に来た彼らの生業は製鉄関係だったというのが俺の意見で、
鉄テイがその証拠。
馬は主に鉄の運搬のために飼育されてた。
彼らは伽耶での支配者と言えるかもしれないが、
大和の承認があっての話だ。
678日本@名無史さん:2007/09/09(日) 09:27:06
騎馬民族の馬の種類って何なんでしょうね。
まさかサラブレッドじゃないでしょうし、倭にしろ高句麗にしろ馬の種類が分かればはっきりする気がします。どこの馬の骨か分からない奴の疑問です。
679日本@名無史さん:2007/09/09(日) 13:10:56
>>677
>伽耶はずっと大和の管轄地だった。

「ずっと」というのは何時からのことかな?
邪馬台国の頃から?
それとも三輪王朝7成立以後?
680日本@名無史さん:2007/09/09(日) 13:22:22
>>679
三輪王朝成立前から。
韓人と争いながらも倭人が鉄の支配権を持った。
それから三輪王朝が始まったと思う。
681日本@名無史さん:2007/09/09(日) 14:12:46
>>679

ねえねえ、騎馬民族征服説の具体的な証拠提示マダー?
682日本@名無史さん:2007/09/09(日) 15:22:26
騎馬民族征服説って国内の考古学的には根拠に乏しいよね。
朝鮮半島南部の伽耶への北方要素の登場を「征服」の根拠に
するぐらいしかない。
でも、そもそも「征服」という極めて政治的なイベントを、
北方要素の登場だけで「考古学的に証明した」というのは、
それ自体が政治的プロパガンダに堕してる気がする。
だから文献史学を援用するのだけれど、残念ながら日本を
騎馬民族が征服した、という記述は中国文献にすら存在しない。
だから、そもそも証明なんかできっこないことを延々議論している
だけに素人目には見えるね。
683日本@名無史さん:2007/09/09(日) 16:00:33
>>680
三輪王朝以前だとすると邪馬台国の時代だよね。
そのころに伽耶の鉄の支配権を持っていた倭とは九州? それとも大和?
そしてその支配権は帯方郡とはどんな関係にあったの?
684日本@名無史さん:2007/09/09(日) 17:39:32
>>683
大和だろう。
前方後円墳が3世紀代には九州や関東にも拡散している。
685日本@名無史さん:2007/09/09(日) 23:45:19
そういや、特殊基台とか全く考えてないよね、肯定派って。
686日本@名無史さん:2007/09/10(月) 08:34:49
>>684
前方後円墳は三輪王朝以後の話だ。
君は三輪王朝以前から「大和」が伽耶に「鉄の支配権」を持っていた、と
言ったのだから、君は邪馬台国大和説であって、その邪馬台国が伽耶に
支配権を持っていたことになる。
だから私は帯方郡との関係を尋ねたのだ。
ちゃんと質問に答えてくれ。
687日本@名無史さん:2007/09/10(月) 08:49:10
>前方後円墳は三輪王朝以後の話だ。

どうしてだ。
マバカ古墳は3世紀前半だろう。
そしてそのルーツの可能性の高い四国・萩原墳墓の、
舶載画文帯同向式神獣鏡は、3世紀楽浪・帯方郡を通じ輸入してたんだろう。
688日本@名無史さん:2007/09/10(月) 17:00:35
>>686

論点を二転三転させて逃げ回ってるのはお前じゃん。
689日本@名無史さん:2007/09/10(月) 21:58:08
>>687
邪馬台国の女王が朝貢のご褒美として鏡を下賜されたことは君の好きな
中国の史書に書いてある。
邪馬台国は帯方郡の属国、朝貢国だったのだ。
その朝貢国がどうやって帯方郡のお膝元たる伽耶で「鉄の支配権」を
有し得たのか、ということを聞いたのだが、わからなかったかな?
690日本@名無史さん:2007/09/10(月) 22:07:56
>>689
帯方郡のお膝元たる伽耶とはどういう意味だ?
狗耶韓国は倭人の国と君も言ってたな。
691日本@名無史さん:2007/09/10(月) 22:25:36
>>689

正確に言えば
「魏」の「地方機関」である「帯方郡」のお膝元な。
伽耶って帯方郡の「お膝元」と言える場所だったのか?
692日本@名無史さん:2007/09/10(月) 22:27:44
>>689
>朝貢国がどうやって帯方郡のお膝元たる伽耶で「鉄の支配権」を
有し得たのか

朝貢国だから帯方郡が許したとも言えるな。
扶余とかいう分けのわからないのに許したとでも言いたいのか?
693日本@名無史さん:2007/09/10(月) 23:22:05
>>682
正しい。


帯方郡(現在の韓国・京畿道地方)の南方に、伯済国という倭人国があったんだが、
この国は帯方郡と国境を接していた。
伯済国は、任那(馬韓)の一国なのだが、韓国では伯済国が馬韓を統一して百済になった、
などと馬鹿な歴史教育を行っている。


694日本@名無史さん:2007/09/10(月) 23:27:24

高句麗が帯方郡を滅ぼした時、帯方郡の役人・武将だった漢人たちは難民となり、
伯済国に逃げた。
これらの漢人を、伯済国の宗主国であるヤマト=任那日本府が保護し、支援した。

そして建国されたのが百済なのだ。
ヤマト朝廷の支援を受けて百済は建国された。これが古代史の真実。


695日本@名無史さん:2007/09/10(月) 23:33:31

伯済国があった場所は、現在の韓国・忠清道辺りである。
古代日本の関東に移住したコマ王・若光は、この伯済国の領主だったらしい。

つまり、若光は高句麗人ではないのである。



696日本@名無史さん:2007/09/11(火) 08:17:37
>>690
>狗耶韓国は倭人の国と君も言ってたな。

その通りだ。狗耶韓国は「倭人国」ではあるが「倭国」ではない。
「韓、わい、倭争ってこれ(鉄)をとる」というのは半島の倭人、
つまり狗耶韓国人が韓人、わい人と争ったのであって、列島の倭人が
海を渡って鉄を採りに行ったのではない。

>>692
>朝貢国だから帯方郡が許したとも言えるな。

もし「許した」のなら支配権は許した方にあるな。

>扶余とかいう分けのわからないのに許したとでも言いたいのか?

お前は時間軸を考えないのか。扶余が来たときは帯方郡は滅亡寸前だ。
帯方郡の権力が消滅したからこそ扶余が入って来たのであり、
鉄は占領したものの勝手次第なのだ。

>>691
>正確に言えば 「魏」の「地方機関」である「帯方郡」のお膝元な。

もっと正確に言えば「私的地方機関」、つまり半独立国だ。
697日本@名無史さん:2007/09/11(火) 08:30:01
>>696
>海を渡って鉄を採りに行ったのではない

巻向遺跡の韓式土器から考えて、
その半島の倭人も連合に参加してた可能性が高いな。

>帯方郡の権力が消滅したからこそ扶余が入って来たのであり、

権力が消滅したからこそ、力のある大和が好き勝手できたのだ。
アハハハハ


698日本@名無史さん:2007/09/11(火) 15:05:44
>>697
>その半島の倭人も連合に参加してた可能性が高いな。

ではなぜ、その当時の朝鮮半島南部に、前方後円墳がないのかな?

>権力が消滅したからこそ、力のある大和が好き勝手できたのだ。

帯方郡の権力がある間は、好き勝手にできなかった、つまり
邪馬台国に半島の「鉄の支配権」など無かったと認めるわけだな。

>権力が消滅したからこそ、力のある大和が好き勝手できたのだ。

4世紀初頭の三輪王朝にそんな力はない。
祭祀的王朝だから扶余退散祈願ぐらいしたかもしれんが。
この時代の大和が朝鮮に兵を送っていないことは沖の島遺跡が証明して
いる。
699日本@名無史さん:2007/09/11(火) 16:18:13
>>698
簡単な話だ。
「韓、わい、倭争ってこれ(鉄)をとる」
この争いに倭が優位だっただけ。

>ではなぜ、その当時の朝鮮半島南部に、前方後円墳がないのかな?

巻向には山陰地方の土器も搬入されてるが、
山陰にもこの頃に前方後円墳はない。
地方の独立性の問題だろう。
700日本@名無史さん:2007/09/11(火) 17:37:04
>>696

>もっと正確に言えば「私的地方機関」、つまり半独立国だ。

ちょっと待て。
701日本@名無史さん:2007/09/11(火) 17:39:01
>この時代の大和が朝鮮に兵を送っていないことは沖の島遺跡が証明して
 いる。

騎馬民族征服説が成り立たないことは、数々の遺物が証明している。
702日本@名無史さん:2007/09/11(火) 18:58:13
>>698
>祭祀的王朝だから扶余退散祈願ぐらいしたかもしれんが。
>この時代の大和が朝鮮に兵を送っていないことは沖の島遺跡が証明して
いる。

兵を送る送らないよりも、
3世紀後半の椿井大塚山古墳から短甲が出るのだが、
後の時代までも短甲は伽耶も日本もほぼ同質同系だよね。
伽耶の倭人の存在が同質同系にさせてるのだろう。


703日本@名無史さん:2007/09/11(火) 19:13:49
>>699
「韓、わい、倭争ってこれ(鉄)をとる」
この争いに倭が優位だっただけ。

うん、狗耶韓国という「倭」が優位だったとは思うよ。

>巻向には山陰地方の土器も搬入されてるが、 山陰にもこの頃に前方後円墳はない。
>地方の独立性の問題だろう。

同意。前方後円墳は政治的統一の指標ではない、ということだ。
今後もそれを前提にするように。
704日本@名無史さん:2007/09/11(火) 20:10:41
>>703
前方後円墳は政治的統一の指標だよ。
「菱の代紋は山口組である」と同じ。
ただ菱の代紋でなくても山口組と兄弟の盃を交わしてる場合もあるという事だ。
705日本@名無史さん:2007/09/11(火) 20:39:15
>>703

>>702の言うように、証拠が山ほど挙がっているんだが、見ないフリかい?ww
706日本@名無史さん:2007/09/11(火) 20:41:05
>その半島の倭人も連合に参加してた可能性が高いな。

>ではなぜ、その当時の朝鮮半島南部に、前方後円墳がないのかな?

>同意。前方後円墳は政治的統一の指標ではない、ということだ。


つまり、倭人も連合に参加していたことを認める、とww
707日本@名無史さん:2007/09/11(火) 22:30:45
古墳だの鎧だの関係ねーんじゃないのかな。
なんか騎乗の論理で話してないかい。要は日本の在来種でないお馬さんの形跡を探しなよ。一頭、二頭で来たわけでもなかろーに、人のDNA以上に如実に痕跡があるんじゃない。
708日本@名無史さん:2007/09/12(水) 21:56:00
>>706
>つまり、倭人も連合に参加していたことを認める、とww

扶余に支配された倭人国である金官が三輪王朝に参加していた可能性はあると
思う。
私は前スレか前々スレでそのように主張したこともある。
今回も言おうかと思ったが、また伽耶に前方後円墳がないのはなぜか、という
論議になると面倒なのでやめていた。
そしたら先に相手が、なくてもいいんだと言ってくれた。

三輪王朝に参加していたのなら征服はクーデター式になるわけだ。

>>707
古代の日本に「在来種」の馬なんていたのか?
709日本@名無史さん:2007/09/12(水) 22:16:24
>>708
君の説は騎馬軍または騎馬戦術が、
スーパーウェポンのように圧倒的に強いという前提でしか成り立たない、
極めてあやうい説なのだよ。
伽耶と大和の短甲などにみられる軍事同一性は、
そのまま任那日本府の証明になりえるのだから。
710日本@名無史さん:2007/09/12(水) 23:03:07
>>708

>扶余に支配された倭人国である金官が三輪王朝に参加していた可能性はあると

お前の頭の中って、いつも妄想が駆け巡ってるんだね。
根拠も出せずに戯言をほざくな。

そういえばお前>>702のように答えられないものはスルーなんだね。
711日本@名無史さん:2007/09/13(木) 09:07:42
>>710
お前の言う「証拠」とはこれか?

「石室の南端から小札革綴の武具が出土したことも重要だ。徳島大学の
橋本達也氏によると、三角縁神獣鏡を持つ初期の有力古墳から出土する
傾向の強いこの形式の武具は、四世紀半ば以降の朝鮮半島系のものとは
異なり、中国に系譜を辿ることが出来るという。」

http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/980112kuro.htm
712日本@名無史さん:2007/09/13(木) 09:33:29
>>711

そう、普通学説とは、お前のように感情論で語るものではなく、このように
根拠から類推するものだ。↓

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku208.htm
713日本@名無史さん:2007/09/13(木) 09:58:52
韓やワイとの鉄の争いに倭が優位にたったからこそ、
新羅の建国時に倭人の重臣がいて4代目の王が倭人であるという話も
充分納得出来るわけだ。
714日本@名無史さん:2007/09/13(木) 19:09:27
>>712
なにを感情的になっているのか。
私は、私がスルーしたとお前が言う「椿井大塚山古墳の短甲」について、
資料を挙げて「このことか?」と質問したのだ。

それに対してお前が挙げた資料は、「椿井大塚山古墳の短甲」のことを
含んでいないから、答えになっていないのだが。
715日本@名無史さん:2007/09/13(木) 19:19:19
>>714

何をそんなに興奮しているんだ?
ここは返答の意味で書き込んだのだがね。

>そう、
716日本@名無史さん:2007/09/13(木) 19:21:45
>>710
>お前の頭の中って、いつも妄想が駆け巡ってるんだね。

私が妄想する必要もない。
すでに4世紀後半、畿内以外の、おそらく西日本の勢力が朝鮮に
兵を送っていたことは沖ノ島遺跡から推定される。
これは伽耶、特に金官となんらかの形で共同作戦を行っていたので
あり、これが広開土王戦争の「倭」につながって行くのだ。
西日本の勢力が三輪王朝体制の下で上記共同作戦を行っていたので
あれば、協同した金官もまた事実上、三輪王朝体制に参加していた
ことになる。
後は形式的にも参加していたか、つまり三輪王朝の内部に人を送り
込んでいたかどうかの違いがあるだけだ。
717日本@名無史さん:2007/09/13(木) 19:43:45
>すでに4世紀後半、畿内以外の、おそらく西日本の勢力が
>朝鮮に兵を送っていたことは沖ノ島遺跡から推定される。

沖ノ島遺跡という一つの遺跡から、
「畿内以外」と推測されるどんな出土物があるのだ?
そこまで言うならどこか分かるだろうに。
718日本@名無史さん:2007/09/14(金) 09:38:18
>>715
>ここは返答の意味で書き込んだのだがね。

お前の挙げたページにそのことが含まれていなければ返答にならないではないか。
お前は何かを答えた、と見せかけているだけだ。

ではもういちど聞こう。
#711で私の挙げたページの著者は、椿井大塚山の短甲が中国系のものであって、
4世紀半ば以降の「朝鮮系」の短甲とは系列が異なる、と言っているのだが、
これに対するお前の意見は?

お前は3世紀の椿井大塚山の短甲が倭の朝鮮進出の「証拠」だと言っている
のだから、上記に対してなにかの意見はあるだろう。

>>717

>沖ノ島遺跡という一つの遺跡から、

簡単なことだ。初期の遺物には畿内系のものが含まれないのだ。
719日本@名無史さん:2007/09/14(金) 10:07:35
椿井大塚山の短甲を言い出したのは俺だよ。
中国系とは知らなかった。
といっても朝鮮にもこの系統が出ててもおかしくないだろうが。
どっちにしても大和と伽耶の武装の同質性は否定できない。
伽耶にいた倭人によるものだろう。
720日本@名無史さん:2007/09/14(金) 11:41:54
>>718

まあ上段のほうは>>719に任せるとして・・

>簡単なことだ。初期の遺物には畿内系のものが含まれないのだ。

4世紀の沖ノ島遺跡には前方後円墳の副葬品と同じものが出るのだが・・・
東郷高松古墳もあるのだが・・・

ああ、そうか、お前は前方後円墳は支配の象徴じゃないと思い込みたかったんだっけ。

所でお前に聞きたいんだけど、前方後円墳が支配の指標じゃなかったら、ヤマト
王権の全国統一と思われる時期に拡散したのは何で?
721日本@名無史さん:2007/09/14(金) 19:23:33
719 :日本@名無史さん:2007/09/14(金) 10:07:35
>椿井大塚山の短甲を言い出したのは俺だよ。

お前は困ると人格が分裂するのか?

>中国系とは知らなかった。

勉強せーよ。人に「スルーかい?」などと言う前に。

>どっちにしても大和と伽耶の武装の同質性は否定できない。

それは私がずっと言っていることだ。最近は「倭・伽耶式武装文化圏」などと
言う言葉も使った。

>伽耶にいた倭人によるものだろう。

それを言うには問題の武装が日本で発生したことが前提だが、その結論はまだ
出ていない。(椿井大塚山で発生したとは、もう言わないだろうな)
むしろ朝鮮半島で発生したという説のほうが強い。だからこそ「朝鮮半島系武具」
とも言われるのだ。
倭・伽耶式武装は朝鮮半島で発生し、日本列島に伝わり、日本列島で発展進化
して、こんどは逆に朝鮮半島に影響を及ぼすようになるのだ。
722日本@名無史さん:2007/09/14(金) 19:41:58
>>720
>4世紀の沖ノ島遺跡には前方後円墳の副葬品と同じものが出るのだが

だから大和系だと言いたいのだろうが、その「同じものが出る」前方後円墳
というのは北九州の古墳だ。

>東郷高松古墳もあるのだが・

それは知らない。説明してくれ。

>前方後円墳が支配の指標じゃなかったら、ヤマト
>王権の全国統一と思われる時期に拡散したのは何で?


前方後円墳が支配の手段だとしたら、大王クラスの古墳が吉備や日向に
あることを説明できない。各首長が実力や権勢に応じて勝手に築いた
と考えれば納得がいく。つまり序列があるように見えるのは結果として
そう見えるだけなのだ。アステカ諸国のピラミッドと同じ。

全国統一(それも前方後円墳の普及からそう見えるだけだが)と前後
して広まったのは、そのころ中国の道教が伝わって流行したからだ。
巻向などが意外に中国の影響があるのはよく言われることだ。

奈良時代初期の道教的な遺物が最近発掘されているが、これもそのころ
急に道教が入ったのではなく、古墳時代の道教の最後の残照なのだ。
723日本@名無史さん:2007/09/14(金) 20:04:10
>>721
>勉強せーよ。人に「スルーかい?」などと言う前に。

「スルーかい?」と言ったのは俺ではない。
おまえこそ人格が分裂してるのか?

>倭・伽耶式武装は朝鮮半島で発生し、日本列島に伝わり、
>日本列島で発展進化して、こんどは逆に朝鮮半島に影響を及ぼすようになるのだ。

短甲の発祥が伽耶でもかまわない。
まさか伽耶人が三輪王朝を築いたとか言うんじゃないだろうな。
韓国人ならそう言いたいのだろうが、
前方後円墳が日本より早く伽耶になくて残念だな。


724日本@名無史さん:2007/09/14(金) 20:36:40
>>721

言っておくが、>>723は俺ではないぞ?

>それは私がずっと言っていることだ。最近は「倭・伽耶式武装文化圏」などと
 言う言葉も使った。

>>622

>だから大和系だと言いたいのだろうが、その「同じものが出る」前方後円墳
 というのは北九州の古墳だ。

詳しく教えてもらおうか?
前方後円墳自体がヤマトの支配下にある証拠なのだよ?

>それは知らない。説明してくれ。

http://www.city.fukutsu.lg.jp/pdf/kyouiku/7_9_1.pdf#search='沖ノ島遺跡'

まずはここまで。
725日本@名無史さん:2007/09/14(金) 20:53:06
>>722

>前方後円墳が支配の手段だとしたら、大王クラスの古墳が吉備や日向に
 あることを説明できない。

お前の言う「大王クラス」というのは200m以上の古墳のことか?
確かに、岡山の茶臼山古墳・造山古墳、群馬県太田天神山古墳、宮崎県
男侠穂塚古墳など地方にも大型古墳はあるにはある。
しかしだ、その集中の度合いは圧倒的に畿内が優勢である。
時期別墳丘総体積の面からも、墳丘総体積の面から見ても、畿内に古墳が
集中していることは明らかなのだ。
つまり、お前の言うように「実力・権勢によって各々の地方酋長が建設した」
という論を受け入れても、ヤマトが圧倒的に優勢だったことを証明するに過ぎ
ない。
前方後円墳は畿内箸墓古墳を端緒として、各地へ広まっていく。それまで古墳
を建造しなかった地域へと、定型化された形で。
これは墓型を模倣したというレベルではなく、各地の酋長がヤマトの主権を受
け入れ、その支配に協力したことを物語っている。
726日本@名無史さん:2007/09/14(金) 20:58:10
>、そのころ中国の道教が伝わって流行したからだ。

西嶋氏の説だな。
中国からの影響で古墳が建造されたと言いたいようだが・・・
前方後円墳は弥生墳丘墓から発展したという説が学会で優勢だ。

とはいえ、道教が前方後円墳の広まりにどう影響を及ぼしたのか・・
興味をそそられる話だな。

ぜひ教えてもらいたい。
根拠を伴ってな。
727日本@名無史さん:2007/09/15(土) 15:14:17
>>724
>詳しく教えてもらおうか?

このスレで以前に紹介した沖ノ島関係のページだ。
宗像氏関連の前方後円墳の副葬品との同一性が、沖ノ島遺跡の編年に用い
られた。
ついでだが、お前の言う「東郷高松古墳」がグーグルで出ないと思ったら
「東郷高塚古墳」だった。これも北九州だ。

>前方後円墳自体がヤマトの支配下にある証拠なのだよ?

それがどうした。そのことは「共同作戦が三輪王朝体制の下で行われた
のならば」という形で、すでに言っている。
しかしそれにも拘らず、独自に行われた可能性も同様にある。
磐井だって前方後円墳を築いたのだからね。

>>725
>しかしだ、その集中の度合いは圧倒的に畿内が優勢である。

誰が数や密度の話をしたのか。
もし前方後円墳が支配のための手段であったのなら、たった一つにせよ、
地方の首長が大王クラスの墓を築くことは許されないはずだ、という
ことを言ったのだ。
728日本@名無史さん:2007/09/15(土) 16:26:00
>>727

>このスレで以前に紹介した沖ノ島関係のページだ。

悪いんだが、そのレスの位置を教えてもらえんか?

>「共同作戦が三輪王朝体制の下で行われたのならば」

お前の言う「共同作戦」が何を示すかはわからんな。
軍事的意味を示すのか、政治的結合を示すのか。
まずそこをハッキリしてくれ。

>しかしそれにも拘らず、独自に行われた可能性も同様にある。

「独自」に行われたのに前方後円墳が定型化し、ヤマト製遺物が大量に
出土するとはこれ如何に?

それと、磐井って新羅と結託する前はヤマト王権に服従していただろう?
そのときに服従の証として前方後円墳を建造したとしても、何の不思議も
無い。

>もし前方後円墳が支配のための手段であったのなら、たった一つにせよ、
 地方の首長が大王クラスの墓を築くことは許されないはずだ

それはお前の主観だ。
ヤマトは、各地の豪族達に服従の証として前方後円墳を建造させた。
豪族も、強大なヤマトとの繋がりを維持・強化していくために、ヤマ
トと同じ共同幻想を保ち続けたのだ。

ちなみに、ヤマトが圧倒的な勢力を誇っていたことは納得するわけだな?
729日本@名無史さん:2007/09/15(土) 18:22:38
>>727

君が言う金官と「共同作戦」をした日本の地方豪族とは、
どこなのかをそろそろ言ってくれないか?

俺には何のこっちゃ分からんがw



730日本@名無史さん:2007/09/16(日) 08:11:36
>>728
>悪いんだが、そのレスの位置を教えてもらえんか?

スレの「全部」を表示させて「沖ノ島」で検索すればよいではないか。
お前はそれを人にやらせるのか?

>それと、磐井って新羅と結託する前はヤマト王権に服従していただろう?

そう、「服従」しながら「独自に」新羅と関係を持ったな。

>軍事的意味を示すのか、政治的結合を示すのか。

作戦というのだから軍事的だ。そのためには「政治的結合」が必要だな。

>ヤマトは、各地の豪族達に服従の証として前方後円墳を建造させた。

それはお前の主観だ。
江戸時代の大名たちは実力によって大小はあるがほぼ定型化された城を築いた。
これは幕府の命令によって、幕府への「服従の証」として築いたのか?

>ヤマトが圧倒的な勢力を誇っていたことは納得するわけだな?

諸国連合の体制では、中央がいかに強力に見えようと、いざとなれば一つの
国(部族国家)に過ぎない。
徳川幕府がいかに強力に見えても、いざとなれば徳川藩という一つの藩に
帰して、薩長に負けてしまうのと同じだ。

>>729
>どこなのかをそろそろ言ってくれないか?

沖ノ島遺跡から、そのような非畿内勢力があったことは間違いない。
お前はそれがどこだと思うのか?
731日本@名無史さん:2007/09/16(日) 08:37:52
>>730

>そう、「服従」しながら「独自に」新羅と関係を持ったな。

その外交が「独自」かどうかは疑問だな。
ヤマト王権に隠れてやっていたのなら、それは立派な「内通」だ。

>作戦というのだから軍事的だ。そのためには「政治的結合」が必要だな。

前述したように、政治的結合の頂点には支配者としてのヤマト王権が存在
したわけだ。

>それはお前の主観だ。
 江戸時代の大名たちは実力によって大小はあるがほぼ定型化された城を築いた。

定型化?
まさか天守閣を言っているのか?
姫路城と江戸城のつくりはまるで違うぞ?
まさかとは思うが、平城と山城の区別さえつかないのか?

>諸国連合の体制では、中央がいかに強力に見えようと、いざとなれば一つの
 
そう、大和を頂点として、その支配を受け入れた連合国家だったわけだ。
ようやく事実を認めたな。

>徳川幕府がいかに強力に見えても、いざとなれば徳川藩という一つの藩に
 帰して、薩長に負けてしまうのと同じだ。

まず、薩長が勝利したのは騎馬戦術など目ではない、最新式の火砲を導入し
天皇という日本に普遍的な権威を及ぼす勢力を味方に引き入れたためだ。
古代と近代の区別くらいつけろ。奥羽列藩同盟さえ知らないとは、程度がわかるな。
732日本@名無史さん:2007/09/16(日) 08:44:06
>>730
>沖ノ島遺跡から、そのような非畿内勢力があったことは間違いない。
>お前はそれがどこだと思うのか?

その非畿内勢力はどこだと君に具体的に聞いてるのだ。
何を言ってるのだ?
733日本@名無史さん:2007/09/16(日) 18:25:06
日本国の『真の憲法』★ 日本版マグナカルタ=『日本憲章』
http://www.kase-hideaki.co.jp/k006/trees.cgi?tw=&log=&search=&mode=&v=1387&e=res&lp=1372&st=0

■『日本国の国会を設立し、日本人の基本的権利を宣言するための憲章』(通称・日本憲章)<試案>


第18条)すべての日本人は、信教の自由を有する。日本人は、自らの意思に基づいて宗教団体に所属し、
      又、宗教団体から離脱する権利を有する。
      日本人は、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加する権利を有するが、これらの行事に参加することを
      強制されない。
      公務員は、その役職に就き、公式の宣誓式を行う場合、自らが信仰する宗教に基づいて宣誓することができる。
      すべての国会議員、総理大臣、国務大臣、その他の公務員は、国家防衛のために戦死した兵士、
      および戦死した国民の冥福を祈るために、宗教的行事に参加する権利を保障される。
734日本@名無史さん:2007/09/16(日) 19:27:45
>>731
>その外交が「独自」かどうかは疑問だな。
>ヤマト王権に隠れてやっていたのなら、それは立派な「内通」だ。

「内通」というのは勝手に、つまり「独自」にやるものじゃないのか?
まあ日本語ができないのは仕方がないとして、磐井のやったことは
そんなにこそこそしたものではない。「独自」の港を作って「独自」の
通商ルートを開いたのだからね。それが問題であったことは、磐井の子
がその港を献上して命乞いしたことでわかる。

>>定型化?

定型化はつけたりだからどうでもよい。もう一度聞くが:
江戸時代の大名たちは幕府に命令されて、幕府への「服従の証」として
城を築いたのか?

>大和を頂点として、その支配を受け入れた連合国家だったわけだ。

三輪王朝の大和が強かった、としきりに強調するのはなんのためか
知らないが、諸国連合体制であったことが分かっているのならそれでよい。
そして、諸国連合体制は、「諸国」のある程度の独立性を認めることに
よって成り立っているのだ。
中央の強さは独立性と引き替えの「諸国」の支持によって始めて成り立つ。
その支持がなくなればその時点で中央も終わりだ。
それが徳川の末路であり、日本書紀に描かれた応神東征時の大和の姿だ。

>>732
西日本の非畿内勢力と言えばある程度限られるではないか。
吉備、筑紫、日向のいずれか一つまたは二つ、あるいは全てだ。
そのいずれであったとしてもすじがきは変わらない。
735日本@名無史さん:2007/09/16(日) 19:59:27
>吉備、筑紫、日向のいずれか一つまたは二つ、あるいは全てだ。

それらが4世紀には金官と独自にに交流してた証拠があるのだな。
どういう証拠があるのだ?
736735:2007/09/16(日) 21:41:48
証拠というのは沖ノ島ではなく、
吉備、筑紫、日向などに、
それぞれ金官との交流を証明するどういう物があるのかという意味ね。
737日本@名無史さん:2007/09/16(日) 22:55:54
>>734

>それが問題であったことは、磐井の子がその港を献上して命乞いしたことでわかる。

そう、問題だ。
大和王権に許しを得ないで独自の外交を行ったこと事態がそもそも許されることではない。
単純な「反乱」なのだよ?

>定型化はつけたりだからどうでもよい。

定型化していないなら、
「各首長が実力や権勢に応じて勝手に築いたと考えれば納得がいく。」な?

>江戸時代の大名たちは幕府に命令されて、幕府への「服従の証」として
 城を築いたのか?

そもそも、江戸時代の城と古墳時代の前方後円墳を同列に見ることはできない。
前方後円墳はヤマト王権の主権を示すために、ヤマトの意思で築造されたものだ
が、江戸時代の城は戦国期から、政庁・及び軍事拠点として築造された「江戸幕
府固有のもの」ではないからだ。

まあある意味当たってはいるな、武家諸法度で幕府の認可無しの城の建造・修繕
は禁止されているからな。
738日本@名無史さん:2007/09/16(日) 23:03:04
>そして、諸国連合体制は、「諸国」のある程度の独立性を認めることに
 よって成り立っているのだ。

その独立性は、江戸時代の藩のように限られてはいたがな。

>中央の強さは独立性と引き替えの「諸国」の支持によって始めて成り立つ。

何故諸国の支持が必要なのか?
ヤマト王権は非常に強力な力を持っていた。
それはお前も認める通りだ。
地方からの支持は絶対に必要なものではない、そのようなものが無くとも、
ヤマトは地方を動員できたのだから。
もしお前の言う通りならば、磐井の乱が起こった時点でとっくに政権は瓦解
してるよ。

>それが徳川の末路であり、日本書紀に描かれた応神東征時の大和の姿だ。

おーい、人の話聞いてたー?
古墳時代にイデオロギー的にヤマトに優越する存在がいたんですかー?
古墳時代に圧倒的な武器格差があったんですかー?
奥羽列藩同盟は無視ですかー?

本当に、都合の悪いことからは目を背けるな。
お前はその程度の人間だろうな。
739日本@名無史さん:2007/09/17(月) 13:53:03
>>736
> 証拠というのは沖ノ島ではなく、 吉備、筑紫、日向などに、
>それぞれ金官との交流を証明するどういう物があるのか

前にも言ったが、4世紀、5世紀に関する全ての説には証拠がない。
だからこそ謎の4世紀、5世紀なのであり、沖ノ島が奇跡と言われるゆえんだ。
上記のような証拠がないのは、「汝に300尺の前方後円墳の建造を命じる」と
書いた木簡が出てこないのと同様だ。
740日本@名無史さん:2007/09/17(月) 13:54:53
>>737
>大和王権に許しを得ないで独自の外交を行ったこと事態がそもそも許される
>ことではない。

とうとう「独自の外交」であることを認めたな。
議論を振り返ればわかるが、私は磐井に代表される地方首長の「独自性」を
言おうとしていたのだから、わかってくれればそれでいいのだよ。
ほんとうに大和が強いのなら命令一つで磐井の外交をやめさせたり、磐井の
領地を取り上げたりすればよいのだ。
磐井が「来るなら来て見ろ」という態度で独自外交を続けたからこそ戦争に
至った。それは大和の弱さの表れだ。
しかもそれは6世紀のことだ。三輪王朝の4世紀においてをや・・

>まあある意味当たってはいるな、武家諸法度で幕府の認可無しの城の建造・
>修繕 は禁止されているからな。

これも理解がいいな。その通り、幕府は城の建造を認可したのであって、
城を建造するように命令したのではない。
認可したということは、城を作る側にその意志があったということだ。
前方後円墳も、恐らく大和がやったことはせいぜい認可だろう。
古墳時代の終わりが「薄葬令」すなわち「前方後円墳禁止令」であったことが
そのことを如実に物語る。
前方後円墳は作る側の意志によって作られたのだ。
741日本@名無史さん:2007/09/17(月) 14:06:34
>>739
>証拠がない。

もちろんないよなw
でも普通、どこか一地域に金官との交流を示す遺物が出てから、
君はそのような自説を言うべきだ。
ないのに言ったってむなしいだけだ。
742日本@名無史さん:2007/09/17(月) 16:24:54
>>740

>とうとう「独自の外交」であることを認めたな。

得意になっているところ悪いんだが、お前何か勘違いしてないか?
ある勢力内部の主張なり団体が「独自の外交」をすればそれは「内通」だ。
何回言えば理解できる?
「独立性」の話をすれば、外交権を持っていなかった磐井は「独立性が
限られていた」のだ。
つーか、>>737の一番上の書き込み読んだか?

>ほんとうに大和が強いのなら命令一つで磐井の外交をやめさせたり、磐井の
 領地を取り上げたりすればよいのだ。

元々磐井は独自の外交を行っていなかった。
それはヤマトに反抗するときに行ったものである。
そして、独自の外交を行って叛意を明らかにした磐井をヤマトは潰した。
そして磐井の領地を召し上げた(まあ葛子が献上した形になるが)。

普通考えて、叛乱を起こそうという奴に命令して聞くと思うのか?

>前方後円墳も、恐らく大和がやったことはせいぜい認可だろう。

俺の言った事をまるで理解していないな。
もう一度言うぞ?
「江戸時代の城は江戸幕府の象徴ではない」
「古墳時代の前方後円墳はヤマト王権の主権を表すものだ」

認可制度だった根拠が何か、教えてもらおうか?
743日本@名無史さん:2007/09/17(月) 16:26:16
>古墳時代の終わりが「薄葬令」すなわち「前方後円墳禁止令」であったことが
 そのことを如実に物語る。

律令国家体制の下では、政府の命令は何によって為されるか理解しているか?
744日本@名無史さん:2007/09/17(月) 16:46:06
武田騎馬軍団って(ry
745日本@名無史さん:2007/09/17(月) 23:11:05
>>739
>4世紀、5世紀に関する全ての説には証拠がない。
>だからこそ謎の4世紀、5世紀なのであり

別に何も謎ではないよ。
馬は5世紀前後に日本に来たのでその頃から乗馬用の馬具が出てる。
何も不思議でないし記紀の記述どおり。
そしてその馬で運んだであろう鉄テイも5世紀初めに出る。
日本での桂甲の出土は5世紀半ばからだが、馬の数が増えてくるに伴って騎馬戦術が取り入れられたのだろう。
6世紀ごろからが本格的な騎馬戦術の時代だな。

以上、5世紀前後に北方騎馬民族による王権簒奪なんてないのが明白なのだが。

何が謎なのだ?
746日本@名無史さん:2007/09/18(火) 19:37:04
>>741
>もちろんないよな

三輪王朝が伽耶を征服した証拠も、もちろんないよな。
倭系の土器が征服の証拠だ、なんてのはだめだよ。

>>742
>ある勢力内部の主張なり団体が「独自の外交」をすればそれは「内通」だ。
>何回言えば理解できる?

その通り!
内通もまた独自の外交だ。以前は「内通だから独自の外交ではない」と言って
いたのに較べれば、お前の日本語もずいぶん進歩したな。
(ただし磐井の外交は内通と言うにはおおっぴらだがな)

>「独立性」の話をすれば、外交権を持っていなかった磐井は「独立性が
>限られていた」のだ。

その通り! 私も最初から「ある程度の独立性」と言っている。
限定された独立性を認めて体制を保証するかわりに従属させる関係は、
歴史にありふれている。中国と朝貢国の関係がそれだし、徳川幕府と大名の
関係もそれだ。
747日本@名無史さん:2007/09/18(火) 19:38:57
>>742
>>認可制度だった根拠が何か、教えてもらおうか?

私は認可制度だったとは言っていない。「大和のやったことはせいぜい認可
だろう」と言ったのだ。「せいぜい」と言うのは放任もあり得ると言うことだ。
そう考えて始めて、地方の大王級古墳が納得できる。

逆に、服従の証として強制的に巨大な自分の墓を築かせる、というのは世界史に
例がない。
大和の主権を示すのなら、エジプトのように大王だけが巨大な墓を築けばそれよい。
各首長がそれぞれ大きな墳墓を作って自らの権威を示すということは、中央の支配者
にとってなんの利益にもならない。それを押さえようとして大きさの枠をはめた
とすれば、それはとりもなおさず「認可」だ。江戸時代の城と同じことだ。
しかし、地方に大王級の古墳があるということは、その認可もあまり厳しくは
なかった、ということになる。
748日本@名無史さん:2007/09/18(火) 19:47:27
>>745
>そしてその馬で運んだであろう鉄テイも5世紀初めに出る。

鉄挺は4世紀後半からではないか?
馬で運んだとなんでわかるのか? 鉄挺に馬の毛がついていたか?

まあ、概して反対派には謎を感じない幸せな人が多いが、何が謎かは
ちょっとした古代史の本には書いてある。
そのうち私も書くつもりだけどね。


以上、5世紀前後に北方騎馬民族による王権簒奪なんてないのが明白なのだが。

何が謎なのだ?


749日本@名無史さん:2007/09/18(火) 20:36:41
>>746

>内通もまた独自の外交だ。以前は「内通だから独自の外交ではない」と言って

俺が言ったのは「独立国」の「自主外交」のことだ。
結局、「内通」を行うまで「独自の外交」やらを行っていなかったことは認めるんだな?
そりゃあ叛乱すれば「独自」だろうよ。

>限定された独立性を認めて体制を保証するかわりに従属させる関係は、
 歴史にありふれている。

お前の主張がわからん。
結局、ヤマトが支配権を握っていたことは認めるんだな?
何を言いたいんだ?

>。「せいぜい」と言うのは放任もあり得ると言うことだ。

放任にしてはヤマトの遺物が多すぎるな。

>そう考えて始めて、地方の大王級古墳が納得できる。

何故そうなる?
ヤマトの勢力下に入り、その象徴を受け入れた時点で「服従」していたのだ。
また主観でものを語っているな。
前方後円墳の分布も知らんのか?

750日本@名無史さん:2007/09/18(火) 20:46:51
>各首長がそれぞれ大きな墳墓を作って自らの権威を示すということは、中央の支配者
 にとってなんの利益にもならない。

ヤマトの影響を間接的に理解することに繋がらないか?
何と言っても「定型化」しているのだからな。
それに、世界中で中央の象徴を自己の支配地に建造した例などいくらでもある。
日本ではそれが前方後円墳であっただけ。

逆に聞こう、地方勢力が争って前方後円墳を築造したのは何故だ?

>しかし、地方に大王級の古墳があるということは、その認可もあまり厳しくは
 なかった、ということになる。

当然だ、ヤマトの権威を示すために作らせたのだから。
認可など必要ない。


ところで、
>前方後円墳の広がりと叛乱の鎮圧から、ヤマト王権が地方の賛同
 など無くとも政権を維持できるほどの勢力を持っていた。
>「実力・権勢によって各々の地方酋長が建設した」という論を受け入れて
 も、ヤマトが圧倒的に優勢だったことを証明するに過ぎない。

これは認めるな?

それと、道教と前方後円墳の関係を早く説明してくれないかなあ?
751日本@名無史さん:2007/09/18(火) 21:00:27
>そのうち私も書くつもりだけどね。

トンデモ本をか?ww
752日本@名無史さん:2007/09/18(火) 21:10:26
>>746
>三輪王朝が伽耶を征服した証拠も、もちろんないよな。
>倭系の土器が征服の証拠だ、なんてのはだめだよ。

君も倭人が韓やワイより優位に鉄を採ってたと言ってたのではないのか。
それが続いてただけだと思うが。
倭系の土器が征服(優位)の証拠だと思うよ。
そういうとすぐ金官の土器が日本から出るのはどうなのだと言うのだろう?
伽耶が高句麗に圧迫されて逃げてきた状況と、
4世紀後半、倭人が堂々と伽耶に住んだ状況では意味が違う。
753日本@名無史さん:2007/09/18(火) 21:11:55
近代考古学は捏造が国内外が多く模造品が増えている
754日本@名無史さん:2007/09/18(火) 21:12:28
>>752

江戸幕府とヤマト王朝を同じ土俵で見る馬鹿なんだから多めに見てやれ。
755日本@名無史さん:2007/09/18(火) 21:14:17
>>748
> 鉄挺は4世紀後半からではないか?
>馬で運んだとなんでわかるのか? 鉄挺に馬の毛がついていたか?

【日本列島では、五世紀初めの兵庫県加古川市の行者塚古墳から出土した大型の鉄ていが初現のようです。
同種の鉄ていは、半島南部で広く流通しました。
 後続する大阪府野中古墳や、滋賀県新開二号墳などの鉄ていも、
その形や加耶系の土器が共伴することから、加耶からもたらされたものと考えられます。
さらに、それらの鉄ていには、半島南部と同様、縄で束ねた痕跡があり、
形状だけでなく運搬や梱包の形態まで共通しています。】
【もう一つ注目されるのが、馬。
鉄素材の交易体制が大きく変化し、鉄ていなどが大量に流通し始めた時期と、
日本列島に馬が本格的に導入され始めた時期とは、一致します。
鉄素材の流通体制の変化と、馬の導入とは、互いに連動している可能性が強い。
先の兵庫県行者塚古墳からは、斧状鉄板や鍛冶用工具など鉄器生産にかかわる資料の他に、
加耶系の馬具も出土しています。
新しい鉄資源とその加工具、そしてそれらの輸送手段とが、
一つのセットを構成して出土することは示唆的です。】

岡安光彦
756日本@名無史さん:2007/09/19(水) 20:24:37
>>749
>「内通」を行うまで「独自の外交」やらを行っていなかったことは認めるんだな?

内通は独自外交の一部だ。磐井が独自外交を行おうと考えたとき、まず新羅に密使
を送っただろう。これが「内通」であり、独自外交の始まりだ。
新羅が同意して、磐井が港を築き、新羅との通商を始めれば、これはもはや
内通ではない。「内密」ではないからだ。おおっぴらな独自外交だ。

以上を前提にして、お前の言っていることは「Aという行為を行い始める時点
まではAという行為を行っていない」という、当たり前で意味のないことだ。

もうひとつの可能性は、磐井と大和の双方において、磐井の独自外交/通商が
「御法度」であるという認識はなかったのではないか、ということだ。
つまり、それは多くの有力首長がやっている当たり前のことだった。
しかし磐井は成功し過ぎた。それに眼をつけた大和が欲得づくで我が物に
しようとして、例えば「新羅と通じて謀反を企てた」とかなんとか難癖をつけて
戦争をふっかけた、ブッシュ戦略だったのではないか。
そう考えるならば、磐井の独立性はもっと高かったことになる。
757日本@名無史さん:2007/09/19(水) 20:25:46
>お前の主張がわからん。

わからん? お前はじぶんで、地方首長の独立性が「限定されていた」、
言い換えれば限定された独立性があった、と言ったではないか。
大和が地方首長の限定された独立性を認める代わりに地方首長を従属させた、
という関係を大和の「支配権」という言葉で呼ぶのなら、その通りだ。

例を挙げると、渤海は始めは「渤海郡王」だった。これは形式的には独立
ではない。なぜなら「郡」は唐の行政単位だからだ。
しかしそれにあきたらぬ渤海が遼東にあった唐の傀儡政権を滅ぼすという、明白
な敵対行為を行ったところ、唐は渤海の実力を認めて「渤海国王」に封じた。
「國」は中華体制の中の独立国だ。しかしあくまで唐の下位にある朝貢国だ。
唐は渤海の独立性を代償として渤海を従属させたのだ。
このことを唐が渤海の支配権を持った、というかな?

>当然だ、ヤマトの権威を示すために作らせたのだから。 認可など必要ない。

吉備の巨大古墳を江戸時代に引き移すと、赤穂の浅野匠ノ守が、江戸城と同じ
大きさの城を赤穂に築いた、ということに等しい。
(あるいは、お前によれば、徳川が浅野に命じて築かせた?)
これがなんで、徳川の権威を世に示すことになるのか?
758日本@名無史さん:2007/09/19(水) 20:27:06
>>752
>倭系の土器が征服(優位)の証拠だと思うよ。

これについて、学者が言っていることを引用しよう。
「伽耶と古代アジア」のなかの安在晧氏論文
「注目されるのは、これら(和式の小型丸底壷)が慶尚道を中心に一部全羅南道
まで分布し、4世紀末〜5世紀中頃にかけて、新羅土器や伽耶土器の様式構造の
一角を形成していることである。このことは、単に小型丸底壷が半島にもたら
されてつくられたというだけでなく、新羅・伽耶の人々に受け入れられたことも
示している。同じ時期の土師器のうち、二重口縁壷が受け入れられていないことは
伽耶・新羅の人々の主体的な選択があったことを示している。」
文化受容以外のなにものでもないな。

>>755
伽耶と倭で鉄挺の梱包形態が一致するというだけで、それが駄馬用の梱包だ
ということにはならない。
また、伽耶系馬具と言っても駄馬用の実用品ではなく、恐らく飾り馬具だろう。
まあ馬で運んでも一向に構わないけどね。

それと、鉄挺は4世紀から伽耶で出る。倭が伽耶の鉄を支配していたのなら、
なぜそれが4世紀から倭で出ないのかな?
759日本@名無史さん:2007/09/19(水) 21:13:12
>>756

>新羅が同意して、磐井が港を築き、新羅との通商を始めれば、これはもはや
 内通ではない。「内密」ではないからだ。おおっぴらな独自外交だ。

そこでヤマト王権の討伐。っと。
反逆者を力ある大和が討伐して、服従させたんだな。

>「御法度」であるという認識はなかったのではないか、ということだ。
>そう考えるならば、磐井の独立性はもっと高かったことになる。

三国史記にはヤマト以外の勢力との交渉が無いのに?
妄想なら誰でもできる。
お前は少し酷いがな。

>大和が地方首長の限定された独立性を認める代わりに地方首長を従属させた

少し違うな。
強大なヤマトが、その経済力・武力を頼んで地方勢力を従属させたのだ。
独立性を認めたから初めて従属させれたのではない。
従属させてから独立を認めていたのだ。
まあ官僚制が未発達だったから、当然といえば当然だが。
760日本@名無史さん:2007/09/19(水) 21:20:09
>>758
>伽耶と倭で鉄挺の梱包形態が一致するというだけで、
>それが駄馬用の梱包だということにはならない。

鉄を運ぶための馬だったのは当然だろう。

>なぜそれが4世紀から倭で出ないのかな?

鉄は加工されて使われたのだから、出なくてもかまわない。
出ても不思議でないし…
761日本@名無史さん:2007/09/19(水) 21:22:14
>例を挙げると、渤海は始めは「渤海郡王」だっ

どうして状況の違う外国の例を持ってくるのか。
まず、政治制度からして違う。
唐は洗練された官僚制を持つ先進国だ。
だから直接支配が可能だった。
故に、渤海の直接支配を目的としたが失敗した。
一方、日本は官僚制が未発達で、直接支配など、ミヤケを置く位しか
できなかった。
ミヤケを大量に設置するなど、非常にエネルギーのいることだ。
故に、ヤマトは面倒なことはせずに力で従属させていたのだ。

>吉備の巨大古墳を江戸時代に引き移すと、赤穂の浅野匠ノ守が、江戸城と同じ
 大きさの城を赤穂に築いた、ということに等しい。

その城は、江戸城と同じ構造を持っていたか?
江戸城と同じ構造の城が、全国各地に定型化・階層化されて築造されていたか?
違うものを無理やり同じ土俵に上げようとしても、無理が生じるのは自明だ。
屁理屈をほざくな。
762日本@名無史さん:2007/09/19(水) 21:24:02
それと、これらの質問をいつもしているのだが、答えが来ないな。
答えられないんだろう?

>何故地方豪族が前方後円墳を築造したか
>道教と前方後円墳はどのような関係にあるか
763日本@名無史さん:2007/09/19(水) 23:26:18
>>758の上

たしかに文化需要もあったんだろうね。
でも倭人の移住そのものもあったのだろう。
764日本@名無史さん:2007/09/20(木) 20:26:44
>>760
>鉄は加工されて使われたのだから、(4世紀の鉄挺が)出なくてもかまわない。

意味がわからない。
4世紀までは鉄の加工品のみが輸入されたという意味か?
それとも、4世紀には加工品は埋めたが鉄挺を埋める習慣がなかったという意味か?

それにしても「出なくてもかまわない」で話が済むのならずいぶん楽だな。
765日本@名無史さん:2007/09/20(木) 20:27:57
>>761
>どうして状況の違う外国の例を持ってくるのか。

状況が違おうと、関係の性質は同じであり得る。
それがわからないのは抽象力の欠如だ。

>ミヤケを大量に設置するなど、非常にエネルギーのいることだ
>故に、ヤマトは面倒なことはせずに力で従属させていたのだ。

よくわかっているじゃないか。直接支配しないから独立性を認めるしかないのだ。
それは唐だって同じこと。満洲を直接支配しようと思ったら随のように國が
傾いてしまう。だから朝貢関係しか方法はなかったのだ。
大和と地方豪族の関係と同じだ。
766日本@名無史さん:2007/09/20(木) 20:28:46
>その城は、江戸城と同じ構造を持っていたか?

お前は現実と仮想の区別ができないのか。
仮想の話において江戸城と同じ規模の城、と言っているのだから細かいことは
どうでもよい。天守閣の高さとか、城域の面積とか、掘の幅とか、いくらでも
基準はある。それらが全体として同じ規模であると仮定するのだ。

そのような城を、徳川が浅野に命じて浅野の居城として赤穂に築かせたら、それが
幕府の権威を高めることになるのか? ということだ。

吉備の巨大古墳を大和が命じて築かせた、というのはこれと同じことなのだ。
それが大和の権威を示すのに役に立ったのか?
学者たちはさすがにそうは言わず、例えば「吉備や日向にも、大和王権に匹敵する
勢力があったことを意味する」とか簡単にかたづけているが、そのことが全国統一
のすじがきにどのように組み込まれるのか? については黙っている。
お前は5世紀に謎はないと言うが、地方の巨大古墳はとりあえずその謎の一つ
なのだ。
767日本@名無史さん:2007/09/20(木) 20:29:52
>>763
>たしかに文化需要(受容?)もあったんだろうね。

理解がいいな。

>でも倭人の移住そのものもあったのだろう。

そりゃあっただろうよ。土器の面からもこのように「同一文化圏」が証明されて
いるくらいだからね。しかしそれが直ちに「征服」には結びつかない。
768日本@名無史さん:2007/09/20(木) 21:12:07
>>765

>状況が違おうと、関係の性質は同じであり得る。

ほう、前方後円墳と城郭建築が同じ性質のものか。
「関係の性質」事態が全く違うのだが・・・
妄想もほどほどにしとけよ。

>それは唐だって同じこと。満洲を直接支配しようと思ったら随のように國が
 傾いてしまう。

これはどうした?

>唐は渤海の実力を認めて「渤海国王」に封じた。

>仮想の話において江戸城と同じ規模の城、と言っているのだから細かいことは
 どうでもよい。

前方後円墳の性質が「細かいこと」?
都合の悪い物事を全て「細かいこと」としては、それに真実味が無いのは当然だな。
前方後円墳がヤマトの権威を示すと思われるのは、その性質たる「階層性・均一性」
からだ。
城郭建築が何故権威と結び付けられないかといえば、その点に集約される。

何回言えば「理 解」できるんだ?
自分の都合の悪いことは理解できないのか?
都合の言い頭だ。

それと、五世紀の謎など俺は言っていないぞ? 
769日本@名無史さん:2007/09/20(木) 21:14:39
>>767
同一文化圏だろうね。
伽耶が前方後円墳の発祥地なら、
彼ら「伽耶人」が三輪王朝を築いたといえるが、
もちろんそうじゃない。

鉄も大和が自由に採ってたんだろう。
それこそ任那日本府じゃないか。
770日本@名無史さん:2007/09/20(木) 21:17:18
結局、お前はこの点については認めたんだな。

>磐井はヤマト王権に服従し、前方後円墳を築いた。
>外交権はヤマトにあった。
>地方豪族はヤマトの権威を認めて前方後円墳を築造した。
>前夫後円墳と道教の関連性は無い。
771日本@名無史さん:2007/09/20(木) 21:43:40
テレビ東京 : 新説!?みのもんたの日本ミステリー!3〜失われた真実に迫る!
9/21(金) 21:00 〜 22:48
日本のルーツは古代イスラエル・ソロモンの秘宝は四国にあった!?

過去2回の放送でも取り上げた衝撃の報告、「日本のルーツは古代イスラエル」。
日本語とヘブライ語には500もの同じ音と意味を持つ言葉があるという。今回番組では、
京都の祇園祭りと古代イスラエルの共通点に注目した。八坂神社を総代として
疫病退散を願って1ヶ月にわたり繰り広げられる祇園祭。古代イスラエルには、
7月から1ヶ月行われる“シオンの祭り”が存在する。はたして“祇園”イコール“シオン”なのか!?
また、日本の神輿と類似する古代イスラエルの聖なる箱「失われたアーク」が、
四国徳島の剣山に眠っているという情報を得て、四国に向かう・・・。
http://www.tv-tokyo.co.jp/nihonmystery3/
772日本@名無史さん:2007/09/20(木) 23:04:46
古代イスラエルは剣山で復活する!!!
773日本@名無史さん:2007/09/21(金) 04:20:09
とりあえず、昨日載せ忘れたところを載せておく。

>>759
>三国史記にはヤマト以外の勢力との交渉が無いのに?

それは邪馬台国と帯方郡との交渉の話だ。
倭人と朝鮮半島諸国との通商については詳しく触れていない。壱岐対馬の
倭人が南北市テキしたなどで暗示はしているがな。

>独立性を認めたから初めて従属させれたのではない。
>従属させてから独立を認めていたのだ。

まあ従属の過程はいろいろあっただろうな。
いずれにしても、従属させる代わりに独立性を認める関係が理解できたの
ならそれでよい。

>官僚制が未発達だったから、当然といえば当然だが。

解説までしてくれてありがとう。たぶん、それが地方分権の一つの理由だ
と思うよ。
774日本@名無史さん:2007/09/21(金) 08:32:34
>>773

>それは邪馬台国と帯方郡との交渉の話だ。

三国史記ってどこの歴史資料か知っているか?

>従属させる代わりに独立性を認める関係

お前はどうしても
「地方豪族が認めてやったから大和は支配権があったんだ」
という方向に持っていきたいらしいな。
いくら頑張ったとて、ヤマトが圧倒的勢力で地方豪族を支配していたのは
変わらん。

>たぶん、それが地方分権の一つの理由だと思うよ。

その通り!!
だから、「ヤマトは地方勢力に推戴されて存立していた」のではなく
「ヤマトが圧倒的勢力を持ちつつも、官僚制が未発達であるゆえに地
方の自治を認めていた」に過ぎないのだよ?
ようやく事実を直視できるようになったな。
775日本@名無史さん:2007/09/21(金) 10:47:12
吉備の造山古墳は百舌鳥陵山(現履中陵)の、
日向の女狭穂塚古墳は仲津山(現仲姫陵)の相似形。
それぞれ、もとになってる設計図は同じものと思われる。
これ常識。
776日本@名無史さん:2007/09/21(金) 20:18:59
>>774
お前がとんでもないものを持ち出すから三国志魏書東夷伝とまちがえたよ。
お前は三国史記がいつごろ書かれた本なのか知っているのか?
777日本@名無史さん:2007/09/21(金) 20:34:56
>>774
>「地方豪族が認めてやったから大和は支配権があったんだ」
>という方向に持っていきたいらしいな。

それは、「朝貢国たちが認めてやったから中華帝国が支配権を有した」
というのと同じだ。
私がそんなことを言っていないのは読めば分かるだろう。
この議論は、お前が「地方豪族は限定された独立性があった」とじぶんで
言ったから、そこまでで良いのだ。

ついでに言えば、大和が圧倒的かどうかは時代によって変わる。
(時間軸がまったくないのが一般に反対派の特徴だな。)
日本書紀にしてからが、九州を統一したのは朝鮮進出の直前であるように
書いているではないか。
朝鮮進出を360年頃とすれば、4世紀半ばまで九州は統一されていなかったのだ。
あくまで日本書紀によればだけどね。
778日本@名無史さん:2007/09/21(金) 20:56:32
>>776

>お前は三国史記がいつごろ書かれた本なのか知っているのか?

おやおや?
同時代史ではないから事実を載せてないとでも言い張るのかな?

>それは、「朝貢国たちが認めてやったから中華帝国が支配権を有した」
 というのと同じだ。
 私がそんなことを言っていないのは読めば分かるだろう。

その通り!!
やっと事実を認めたな。
うれしいよ。

>ついでに言えば、大和が圧倒的かどうかは時代によって変わる。

そりゃそうだ、交易条件や政権内部の争いで状況は異なってくる。
しかしだ、全体から見れば、大和が圧倒的勢力を有していたのは変わりない。

>日本書紀にしてからが、九州を統一したのは朝鮮進出の直前であるように

お前は一体何を言っているんだ?
お前は日本書紀がいつごろ、誰によって、どういう目的で書かれた本なのか知っているのか?
779日本@名無史さん:2007/09/22(土) 04:35:33
>>768
(1)それは唐だって同じこと。満洲を直接支配しようと思ったら随のように國が
 傾いてしまう。

>これはどうした?

(2)唐は渤海の実力を認めて「渤海国王」に封じた。

矛盾を指摘したつもりか?
(1)と(2)が同じことを言っているのがわからないのか?
(念のためだが、「満洲」は地名だよ)

>日本書紀がいつごろ、誰によって、どういう目的で書かれた本なのか知っているのか?

同時代史ではないから事実を載せてないとでも言い張るのかな?
まあそれは別として、日本書紀がいつごろ、誰によって、どういう目的で書かれた本なのか
教えてくれ。
780日本@名無史さん:2007/09/22(土) 19:08:15
横レスいいか?
大和の力が意外と弱く、
地方の独立性が強かったという方向に導きたいのだろうが、
須恵器や武具を見ても、畿内も地方もほとんど同規格だ。
大和朝廷から地方に下賜されたのだろう。

781日本@名無史さん:2007/09/22(土) 20:10:58
>>768
>前方後円墳がヤマトの権威を示すと思われるのは、その性質たる「階層性・均一性」
からだ。

吉備や日向に大王級の前方後円墳があるのが「階層性」なのか?

均一性と言ったって、作りだしの有無や、濠の作り方など一つ一つ違うぞ。
墳丘の寸法比例など、専門の土木集団がいて、同じ設計図を使い廻していたと
考えればよい。

城が権威を示さない?作った大名の権威を示しているではないか。
その大名たちは石高に応じて築こうとするだろうから、規模には自然と
「階層性」が生じるぞ。

そしていかなる大名も、将軍と同じ規模の城を築こうとしないから、
そのことで幕府の権威も保たれるではないか。
782日本@名無史さん:2007/09/22(土) 22:21:27
>>781

>吉備や日向に大王級の前方後円墳があるのが「階層性」なのか?

ヤマトを頂点に一定の規模で各地に古墳が作られ、それが「階層性」を
表していると認識されてますが何か?

>均一性と言ったって、作りだしの有無や、濠の作り方など一つ一つ違うぞ。

例えばの話をしよう。
カッパエビセンを一袋買った。
かっぱえびせん一つ一つは、欠けていたりしていて完璧に同一性を保っている
とはいえない。
が、それは相変わらず「均一性」を保っている。
わかったかな?

>城が権威を示さない?作った大名の権威を示しているではないか。

おーい、話を摩り替えるな〜。
今は「江戸幕府」の権威を話しているんだろ〜?w

>その大名たちは石高に応じて築こうとするだろうから、規模には自然と
 「階層性」が生じるぞ

お〜い、それは前方後円墳のように「上から命令されて」築いたのか〜?

>そしていかなる大名も、将軍と同じ規模の城を築こうとしないから

そりゃお家取り潰しが怖かったからな。
783日本@名無史さん:2007/09/22(土) 22:32:06
>>779

>矛盾を指摘したつもりか?
 (1)と(2)が同じことを言っているのがわからないのか?

理解できないか?
お前は「征服できなかったから自治を認めた」と言うやいなや、「経費が
かかりすぎるから自治を認めた。」とほざいてるぞ?
>>780も言っているとおりの事実から、どっちがヤマト王権の支配に近かっ
のかわかるよな?

>同時代史ではないから事実を載せてないとでも言い張るのかな?

頭の悪いお前に教えてやろう。
三国史記は高麗で著された。
故に、前朝の外交記録なども「都合よく歪曲して」載せる。
ヤマト以外の勢力が外交を「独自に」行っていたのならば、それを彼らは
「朝貢」として書き表すだろう。
だがそれが無い。
何故か?
答えは単純、地方勢力の独自外交など無かったからだ。
784続き:2007/09/22(土) 22:36:00
一方日本書紀の「天孫降臨神話」はどうか?
それは「朝廷に都合よく」書かれている。
自分達の都合で、自分達の歴史を書き表す。
さらに、近くは朝鮮・遠くはペルシアの神話まで参考にしていると来た。
さあて、三国史記と日本書紀を同じに語れるかな?
785日本@名無史さん:2007/09/23(日) 20:32:06
>>782
>ヤマトを頂点に一定の規模で各地に古墳が作られ、それが「階層性」を
>表している

何度も聞くが、吉備の巨大古墳が「階層性」を表しているのならば、被葬者
は大王と同じ「階層」にあったということでいいか?

>それは前方後円墳のように「上から命令されて」築いたのか〜?

前方後円墳と同じように自発的に築いたのだ。

>そりゃお家取り潰しが怖かったからな。

その通り。そのような遠慮によって自然に「見かけの階層性」が生じたのだ。
それによって「江戸幕府の権威」もまた保たれた。
786日本@名無史さん:2007/09/23(日) 20:34:50
>>783
>お前は「征服できなかったから自治を認めた」と言うやいなや、「経費が
>かかりすぎるから自治を認めた。」とほざいてるぞ?

引用に見せかけた「 」の中は私の言葉ではないが、理解は正しいからまあいい。
その二つのセンテンスを合成するとこうなる。
「満洲の部族国家を征服しようとすれば経費がかかり過ぎる。それを承知で強行
すれば随の二の舞だ。したがって征服できないから国王に封じて自治を認めよう」

すこしも矛盾していないことがわかっただろう。

>ヤマト以外の勢力が外交を「独自に」行っていたのならば、それを彼らは
>「朝貢」として書き表すだろう。

高麗の歴史書が、ごていねいに「ヤマト」と地方勢力を書き分けるのか?
どちらも「倭」一字だったのではないか?
地方勢力の海賊を「倭寇」というように。
787日本@名無史さん:2007/09/23(日) 23:26:04
>>785

>被葬者は大王と同じ「階層」にあったということでいいか?

そうだな、ヤマトの古墳より小さいものしかない事から、大王の下の「階層」
にいたんだろう。

>前方後円墳と同じように自発的に築いたのだ。

何度も聞くが、何故前方後円墳を築いたんだ?

>その通り。そのような遠慮によって自然に「見かけの階層性」が生じたのだ。

お前は前にこう言ったな?
「地方豪族が認めるからヤマトの王権は存在できたのだ」と。
何故自らが認めて「やって」いる王権に遠慮する必要があるのだ?
788日本@名無史さん:2007/09/23(日) 23:28:54
>>786

>満洲の部族国家を征服しようとすれば経費がかかり過ぎる。それを承知で強行
 すれば随の二の舞だ。

あれあれ?
磐井の乱は?
武蔵国造の乱は?
吉備の叛乱は?
全部武力で征服したものですが?

>高麗の歴史書が、ごていねいに「ヤマト」と地方勢力を書き分けるのか?

じゃあ何で室町時代の大名の名前で貿易が成されていたんだ?
「倭」一文字で言いというのなら、わざわざ日本の一大名の名前なんか載せないよね?
789日本@名無史さん:2007/09/24(月) 19:18:48
>>787
>ヤマトの古墳より小さいものしかない事から、大王の下の「階層」
>にいたんだろう。

苦しくなって小さいことにしたか。
吉備の造山古墳の大きさは、伝仁徳天皇陵、同応神天皇陵に続いて第3位タイだ。
これは時代を通じての比較だから、特定の時代において最大であった可能性が
高い。すると被葬者は大王の上の「階層」にいたということでいいか?

>何度も聞くが、何故前方後円墳を築いたんだ?

流行という他はないね。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、城郭建築に「天守」が出現するが、
これは誰が命じたものでもない「流行」である。これと同じ。

>何故自らが認めて「やって」いる王権に遠慮する必要があるのだ?

王権を支持しているのはじぶんだけではない。その他のすべての豪族が
支持しているのだ。王権に反逆することは自分以外の全ての豪族を相手に
することになる。連合国家の権威はこういう形で生じる。

それと、「見かけの階層性」の要因は遠慮ばかりではない。もっと重要なのは
経済力、動員力だ。これが小さな國は小さなものしか作れない。単純なことだ。
790日本@名無史さん:2007/09/24(月) 19:22:14
>>788
>全部武力で征服したものですが?

私が言ったのは、小国連合体制や中華体制において、服属関係が生じる
ときの事情だ。
体制外の集団との関係は含まないし、いったんできた関係の、その後の変化も
含まない。 歴史上、永久に続いた関係はないのだ。
伝統的に満洲を直接支配しなかった中国も、部族国家の統一が衰えた明の
一時期には満洲全土から沿海州まで直接支配したって、知ってた?

>じゃあ何で室町時代の大名の名前で貿易が成されていたんだ?

高麗の歴史書に室町時代の大名の名前が載っいるかどうかは知らないが、
話をもとにもどせば最も問題なのは4世紀後半の倭の交渉主体だ。
その名前が「三国史記」に書いてあるのか? 「倭」以外に?
念のためだが、「倭」を「やまと」と読むのは日本人だけだよ。
791日本@名無史さん:2007/09/24(月) 20:57:07
>>789
伝・履中天皇陵の次で4位だろ?
そこらへんは丁寧に書くように。
吉備は大和朝廷と婚姻関係で権力を手中にしようとしたのだろうが、
そのような巨大古墳を作ったから征伐されたとも言える。
792日本@名無史さん:2007/09/24(月) 21:24:06
>>789

>苦しくなって小さいことにしたか。
 吉備の造山古墳の大きさは、伝仁徳天皇陵、同応神天皇陵に続いて第3位タイだ。

いや、だから小さいじゃん。実際に。
何テンパっちゃってんの?

>特定の時代において最大であった可能性が

特定の時代において最大であった可能性がある=大王墓なのか?
全国一の前方後円墳ならヤマトに集中するから、必然的に王権=ヤマト
となるな。
となれば、大王階層はずっと「ヤマト」にいたわけだ。

>流行という他はないね。

いつもそう矮小化しようと必死になるなw
ま、良い。
流行なら、何故「定型化」しているのかね?
天守閣はこれと言った定型は無いぞ?
流行なら、何故「ヤマトとの活発な交流」が遺物から推測されるのかね?
流行なら、そんなことをするわけがないだろう?
793日本@名無史さん:2007/09/24(月) 21:35:53
>>789

>王権に反逆することは自分以外の全ての豪族を相手にすることになる。

いや、だからさ、「王権を認めてやってる」という意識が当時の豪族達に
あったなら、別に大きな前方後円墳を築造したって、それが王権への反逆
に捉えられるわけないだろう?
何を言い訳しているんだ?

>私が言ったのは、小国連合体制や中華体制において、服属関係が生じる

で、結局ヤマトの軍事力の傘下に入っていた、と。

>一時期には満洲全土から沿海州まで直接支配したって、知ってた?


ああ、確か明の衰退に応じて叛乱したんだっけか?
「直接支配しないから独立性を認めるしかない」ものでは無かったな。
日本の地方豪族のことを話しはじめたら・・・
最初は「武力で征服できないから」と言い始め、「支配するのに余計な経費
がかかるから」と言い逃れ、最後には「一時的なものを考えている」だと?
都合の言い頭だなあ。

794日本@名無史さん:2007/09/24(月) 21:37:48
>高麗の歴史書に室町時代の大名の名前が載っいるかどうかは知らないが、

お前の無知を恨め。

>話をもとにもどせば最も問題なのは4世紀後半の倭の交渉主体だ。
 その名前が「三国史記」に書いてあるのか?

その通り!!
彼らが交渉していたのは「倭」という一つの「交渉主体」だった。
それ以外の名前が出ていないのは、日本の豪族に外交権が無かったからだ。
まあ時代を降れば、「日の本国王」と自称した安東氏なんか出てくるけどね。 
795日本@名無史さん:2007/09/25(火) 05:08:16
>>791
>伝・履中天皇陵の次で4位だろ?
>そこらへんは丁寧に書くように。

造山古墳は保存が悪いせいか、いくつかの数字があるが、ウィキペディアや
岡山県のページでは全長360mとしている。
これは履中天皇陵と同じだ。
墳丘の全長を基準とするのなら、両者を第3位タイとすべきなのだ。
4位と書いてあるから4位、というのでなく自分の頭で考えるように。

>そのような巨大古墳を作ったから征伐されたとも言える。

そう考えるなら、地方の巨大古墳が「自発的」に作られたことになる。

796日本@名無史さん:2007/09/25(火) 06:50:38
>墳丘の全長を基準とするのなら、両者を第3位タイとすべきなのだ。

濠があるかないかは大きな違いだ。
濠がない造山はやはり4位だろう。
何とか上位にもって行きたいというバイアスが働いてるね。
もう少し丁寧に考えるように。
797日本@名無史さん:2007/09/25(火) 14:02:17
>>796
>濠があるかないかは大きな違いだ。

そんなのは後付けの基準だ。
私は墳丘の全長を基準にするのなら、と断っている。
なんとか天皇陵の方を上に、というバイアスが働いているね。
もうすこし客観的に考えるように。
798日本@名無史さん:2007/09/25(火) 14:54:31
>>797
造山が3位だと誰が言ってるんだ?
どこをどう調べても4位だろう。
百歩譲って3位だとしてどうなんだ。
天皇陵だと言いたいのか?
河内・百舌鳥では伝・履中天皇陵の後も巨大古墳建設が続き、
吉備など遥かにしのぐのだが?
799日本@名無史さん:2007/09/25(火) 15:28:35
疎遠同士があんなクリソツな古墳を作るかよw
800日本@名無史さん:2007/09/25(火) 16:03:43
>>799
そうだよね。
伝・履中天皇陵は5世紀前半で、これが本当の仁徳天皇陵ではないか言われてる。
で、仁徳天皇を調べたら、吉備海部直の娘で黒日売(くろひめ)という妃がいる。
これが造山古墳と関係してそうだな。
801日本@名無史さん:2007/09/25(火) 19:25:49
>>792
>特定の時代において最大であった可能性がある=大王墓なのか?

別に大王墓だとは言っていない。
同時代において造山古墳が大和の大王墓より大きいということは、
階層性を認めるならば、大王より上の位ということだ。 皇帝かな?

もしそれも違うというのなら、制度としての階層性など存在しなかったと
いうことだ。 造山の主は勝手に巨大古墳を築いたのだ。
ちょうど、姫路城の建設者が、この時代までは規制がなかったのをいいことに、
江戸城クラスの天守を築いたようにね。
802日本@名無史さん:2007/09/25(火) 19:30:24
>>792
>流行なら、何故「定型化」しているのかね?

「定型化」こそ「流行」の一つの特徴だ。
定型化していなかったら、それが流行のものかどうか、わからないではないか。

>天守閣はこれと言った定型は無いぞ?

城郭建築に、それまではなかった高層建築が加わる、ということだけで十分に
一つの「定型」だ。
その上に、天守閣と言えばだれでも思い浮かべる、大きな飾り破風をつけた
末広がりの塔のイメージがある。
流行すると言うことは皆が共通のイメージを持つということでもある。

>流行なら、何故「ヤマトとの活発な交流」が遺物から推測されるのかね?

それこそ流行の要因だ。情報なくしては流行などあり得ないからね。
803日本@名無史さん:2007/09/25(火) 19:35:32
>>793
>「王権を認めてやってる」という意識が当時の豪族達にあったなら、別に大きな
>前方後円墳を築造したって、それが王権への反逆に捉えられるわけないだろう?

よくわからない日本語だが、「王権を認めてやってる」という意識があるから
大きな前方後円墳を築くことを反逆と意識しない、あるいは逆に反逆と意識しつつ
敢えて行った、という意味なら、真相をついているかも知れないよ。
ただし群小の首長を含めた全ての築造者にあてはまるとは限らないけどね。

>>794
>彼らが交渉していたのは「倭」という一つの「交渉主体」だった。

その通り!!
交渉相手を表す文字は「倭」一つだけだった。
だから三国史記の「倭」から、それが大和か、九州か、吉備かを判別することは
できないのだ。
804日本@名無史さん:2007/09/25(火) 19:44:27
>>798
>造山が3位だと誰が言ってるんだ?

誰も言っていない。私は「3位タイ」だと言ったのだ。
1位、2位と来て3位タイが二つ、その下は5位と言う意味だ。
このように言ったほうが墳丘の大きさの関係をよりよく表す。

>>796
>濠がない造山はやはり4位だろう。

どうでもいいが造山にも周濠はある。例えば次のページ:
http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htm
805日本@名無史さん:2007/09/25(火) 19:56:12
>>801

>同時代において造山古墳が大和の大王墓より大きいということは〜

お前、人の書き込みみてるか?

>制度としての階層性など存在しなかったということだ。 
>姫路城の建設者が、この時代までは規制がなかったのをいいことに

なるほど、
「徳川幕府を支持している全ての大名」を敵に回す覚悟までして、「遠慮せずに」
築城したのだな?
論理が破綻してるぞ?

>「定型化」こそ「流行」の一つの特徴だ。

流行なら、前方後円墳を様々に改変して普通だよな?
帆立貝型や前方後方型など古墳の形も様々にあるが、何故前方後円型
で固定されていたのだ?
それに、墓制もほとんどヤマトと同じものだが、これも「流行」なのか?
806日本@名無史さん:2007/09/25(火) 20:01:18
>>802

>城郭建築に、それまではなかった高層建築が加わる、ということだけで十分に
 一つの「定型」だ。

なるほど、「弥生墳丘墓」になかった要素が加われば、それは方墳だろうが積石塚
だろうが「定型」になるのか。
お前、おかしいよ?

>それこそ流行の要因だ。情報なくしては流行などあり得ないからね。

だから、何故お前の言う「弱体化した時期」においてもヤマト型が流行
してるの?
吉備や毛野の様式でもよかろうに。

>大きな前方後円墳を築くことを反逆と意識しない、あるいは逆に反逆と意識しつつ
 敢えて行った、

つまり、お前の言うように「共立してはじめてヤマトが王権たりえた」という
のは妄想に過ぎなかった。ということさ。

>ただし群小の首長を含めた全ての築造者にあてはまるとは限らないけどね。

苦しくなって中小豪族を引っ張り出してきたかww
その中小豪族は、大豪族とどのような関係を持っていたんだろうね。
807日本@名無史さん:2007/09/25(火) 20:05:09
>>803

まだ人の話を理解できていないようだな。

>交渉相手を表す文字は「倭」一つだけだった。
 だから三国史記の「倭」から、それが大和か、九州か、吉備かを判別することは
 できないのだ。

で、何で新羅では日本の勢力を「倭」一文字で表していたのに、高麗では
「大内」「源」としっかり氏族名を表しているんだ?
古代は一文字、中世は様々、って普通に考えておかしいよな?
808日本@名無史さん:2007/09/25(火) 20:53:39
>>804
細かい話になるが、墳丘だけでも、ごくわずかに履中天皇陵の方が大きいよ。
「約」になれば360mとなって君の言うようにタイとごまかせるがな。

>どうでもいいが造山にも周濠はある

そのリンク先を見たがないぞ。

まぁ、あったって3位にはならないがね。w

809日本@名無史さん:2007/09/25(火) 21:12:23
>>801
だから同時代において造山古墳が大和の大王墓より大きくないって。
それより履中天皇陵とほぼピッタリ同形という事は、
履中天皇陵埋葬者(実質は仁徳天皇か)と極めて強い関係の人物だ。
810日本@名無史さん:2007/09/26(水) 07:43:33
先に言っておこう。
造山古墳の陪塚から馬形帯鈎が出土してるのだが、
それと扶余を関連付けたいのだなw

でも無理。
こんなもの輸入品に決まってるじゃないかw
811日本@名無史さん:2007/09/26(水) 14:49:14
>>805
>「徳川幕府を支持している全ての大名」を敵に回す覚悟までして、
>「遠慮せずに」築城したのだな?

その通りだ。城そのものが「反逆の気概」の象徴だ。(もし大名が単なる
行政官なら、天領のように掘もない役所と居館を建てればそれでよい。)
いざという時は「城を枕に討ち死に」、という言葉は徳川時代を通じて
遂に実行されなかったが、赤穂城明け渡しの前には議論されたではないか。
徳川体制は、特に初期においては、反逆と服属の危ういバランスの上に成立
しているのだ。

>何故前方後円型で固定されていたのだ?

皆がそれがよいと思って真似したからだ。それが「流行」だ。

>なるほど、「弥生墳丘墓」になかった要素が加われば、それは方墳だろうが
>積石塚だろうが「定型」になるのか。

弥生時代の円墳に、だれかが方形の墳丘を付け加えたとしよう。一人や二人が
そうした段階では「定型」ではない。多くの首長たちがそれを「よし」と
見て真似すればそれが「定型」になり、「流行」になる。
812日本@名無史さん:2007/09/26(水) 14:57:55
>>805
>だから、何故お前の言う「弱体化した時期」においてもヤマト型が流行
>してるの?

単なる流行だから、流行がいったん始まれば大和が強かろうが弱かろうが
関係ない。また必ずしも大和の勢力範囲である必要もない。

>お前の言うように「共立してはじめてヤマトが王権たりえた」という
>のは妄想に過ぎなかった。

現に同規模の墳墓を築いた吉備と大和が「共立」しているではないか。

>>807
>何で新羅では日本の勢力を「倭」一文字で表していたのに、高麗では
「大内」「源」としっかり氏族名を表しているんだ?

「新羅では」が誤り。高麗人が新羅の時代をあてずっぽで、あるいは創作で
書いているのだ。
813日本@名無史さん:2007/09/26(水) 15:01:05
>>808
>細かい話になるが、墳丘だけでも、ごくわずかに履中天皇陵の方が大きいよ。

ごくわずか、すなわち2メートルな。
私の紹介したページで造山の平面形を見て見よ。後円部がこれだけ崩れて
いれば2メートルなど誤差範囲だ。
まして造山は一度も精密測定されていない。
このような場合は「差がない」とするのが数字を扱う上では正しいのだ。

もう一つ、まして、>>809 も言っているように、履中天皇陵とほぼ「ピッタリ
同形」ということは、同じ設計図を使ったということだ。
そうであれば寸法もまた「ピッタリ同じ」である可能性が極めて高いのである。

>そのリンク先を見たがないぞ。

ページを「濠」で検索するということを考えないのか。
しょうがないから引用してやろう。

「造山古墳の前方部の南北方向に、稲穂が色づいた水田が続いている。この水田
は造山古墳の周濠の跡と推定されている。」

この水田は平面図と写真の両方で確認できる。
814日本@名無史さん:2007/09/26(水) 17:33:06
>>813
ほんとだ、「周濠の跡と推定されている」があったね。
ま、どうでもいいんだけど。

それより時期も規模も「ピッタリ同じ」について、
俺は仁徳天皇の近親者という説なんだが君は?
815日本@名無史さん:2007/09/26(水) 19:33:21
>>811

>その通りだ。城そのものが「反逆の気概」の象徴だ

じゃあ、その江戸時代の城と同じ属性を持つ前方後円墳を築いた古墳時代の
豪族は、何故ヤマトに遠慮してたの?
遠慮していたから階層性ができたとお前は考えるんだろう?
ヤマトに何の配慮もしないで前方後円墳を作ったのなら、何故階層性が出て
くるのか?
と、振り出しに戻る。
まあ虚言なんてそんなもの。

>もし大名が単なる行政官なら、天領のように掘もない役所と居館を建て
 ればそれでよい。

お前、前大名の権威を示すとか何とか言ってなかったっけ?
何度も言うけど、自分で自分の説を否定してるぞ?

>皆がそれがよいと思って真似したからだ。それが「流行」だ。
> 単なる流行だから、

だから、どうしてそれが何世紀も続いたんだ?ん?
前方後円墳の盛衰は、地方とヤマト間に密接な関係があるが、ただの流行
なのに何故こうなるんだ?
ん?

816日本@名無史さん:2007/09/26(水) 19:41:44
>弥生時代の円墳に、だれかが方形の墳丘を付け加えたとしよう。一人や二人が
 そうした段階では「定型」ではない。

な、な、字読める?

「城郭建築」に「高層建築」が加われば、「天守閣」という定型。
「弥生墳丘墓」に「それまで無かった要素」が加われば、「古墳」という定型。
何か論理的に間違ってる?

どうして「古墳の一形態」を持ってくるのか?

>現に同規模の墳墓を築いた吉備と大和が「共立」しているではないか。

例えばどういうものからそれが推測できるのかな?

>「新羅では」が誤り。高麗人が新羅の時代をあてずっぽで、あるいは創作で
 書いているのだ。

いよいよ苦しくなって、「僕の言ってることが正しいんだい!!」になってきたなw
高麗人が妄想で書いたのなら、磐井の乱も妄想なのか。
817日本@名無史さん:2007/09/26(水) 20:21:28
この人って電波でてますか?
http://music8.2ch.net/test/read.cgi/classic/1184991721/459

スレ違いすいません。
818日本@名無史さん:2007/09/26(水) 20:36:47
>>817

そりゃもうタップリと。
819日本@名無史さん:2007/09/26(水) 20:55:13
>>817

小林行雄って日本の古墳からの出土品に、
江上が言うような断絶がないという当たり前のことを言っただけ。
なんで皇国史観になるのだか…
820日本@名無史さん:2007/09/28(金) 09:28:59
>>815
>遠慮していたから階層性ができたとお前は考えるんだろう?
>ヤマトに何の配慮もしないで前方後円墳を作ったのなら、何故階層性が

すべては「自主性」の故だ。
(1)首長たちが自主的自発的に前方後円墳を作る際に、「遠慮」「体面」
「実力」等のかねあいによって、しぜんに「見かけの階層性」が生じる。
(2)そのなかで何らかの理由によって「遠慮」が少なく、実力も伴った
首長が「見かけの階層性」からはずれた巨大墳墓を作ることがある。

お前は(1)と(2)が矛盾すると言っているわけだが、自主的に作られた
と言う考え(自主説と呼ぼう)からは両方を包括的に説明できる。

これに対して大和の命令によって階層を表す制度として作られたという考え
(制度説と呼ぼう)からは、(2)を説明できない。
お前も逃げ回っている通りだ。

>お前、前大名の権威を示すとか何とか言ってなかったっけ?

疲れるね。だから大名は代官のような単なる行政官ではない、と言っているのだ。

>だから、どうしてそれが何世紀も続いたんだ?

流行ははかなく消え去るとは限らない。流行が「定着」すれば「伝統」になる。
天守だって、幕府によって三層以上の天守が禁じられた後も、呼び方を変えて
まで作られ続けた。
821日本@名無史さん:2007/09/28(金) 09:31:54
>>816
「城郭建築に、それまではなかった高層建築が加わる、ということだけで十分に
一つの「定型」だ。」

これは考えて見ると天守というより城郭建築の定型だから不適当だった。
しかしこれは次のメーンの部分を引き出す導入文だ。

「その上に、天守閣と言えばだれでも思い浮かべる、大きな飾り破風をつけた
末広がりの塔のイメージがある。
流行すると言うことは皆が共通のイメージを持つということでもある。」

これに対してお前は噛みついて来ないがどうしたんだ?

>高麗人が妄想で書いたのなら、磐井の乱も妄想なのか。

お前の挙げた例は14世紀から15世紀に起こったことだ。
お前は高麗(または李氏朝鮮)の文献から、1000年も前の日朝交渉を類推
しているわけだ。
しかし、どうせならもっとぴったりした事例がある。
南北朝時代に、明の使節が博多に上陸して、そのとき九州を支配していた南朝の
懐良親王と会った。そして彼を「日本国王」に封じたのだ。
九州の地方勢力を日本の代表者と認めたわけだ。14世紀にしてこの有様だ。
これと似たようなことが4世紀の日朝交渉で起こった可能性は大いにあるな。
822日本@名無史さん:2007/09/28(金) 15:44:25
>>821
横レスすまんが、話を戻さないか?
つまり西日本の地方豪族と伽耶人が連合して河内王朝を立てたという趣旨だよね?

なら日本最古の須恵器が畿内(宇治)から出土したというのをどう考えるのさ。
伽耶人は地方を通り越して畿内に来てるのだ。
823日本@名無史さん:2007/09/28(金) 15:47:28
>>820

おやおや、痛いところを突いてしまったな?

>、「遠慮」「体面」「実力」等のかねあいによって、しぜんに「見かけの階層性」が生じる。

その場合、「ヤマト政権を認めてやっていた」というお前の説は崩壊するな。
自主的にするなら、誰に遠慮するのだ?と聞いているのだ。
お前の説では、吉備は「ヤマト政権とそれを共立している諸豪族」の存在を無視して、作山古墳
が築造されたことになるんだが・・・

>そのなかで何らかの理由によって「遠慮」が少なく、実力も伴った

なんらかの理由とは一体何か?
これを答えられないな、お前は。

>大和の命令によって階層を表す制度として作られたという考え
 (制度説と呼ぼう)からは、(2)を説明できない。

答えは簡単。
ヤマトに告ぐ第一の臣下として、築造させたのだ。

>お前も逃げ回っている通りだ。

おっと、痛いところを突いてしまったかな?
ゴメンゴメン。

824日本@名無史さん:2007/09/28(金) 15:54:53
>だから大名は代官のような単なる行政官ではない、と言っているのだ。

その通り!!
古墳時代の豪族も単なる行政官ではない!!
だからこそ、その権威を示すために、ヤマトとの繋がりとして前方後円墳を
築造したのだ。

>幕府によって三層以上の天守が禁じられた後も、呼び方を変えて
 まで作られ続けた。

幕府の認可のもとでな。
で、天守閣も様々に形を変えていったが、前方後円墳だけがそのままなのはなぜだ?

>これに対してお前は噛みついて来ないがどうしたんだ?

ん?何だ?噛み付いて欲しかったか?

>お前は高麗(または李氏朝鮮)の文献から、1000年も前の日朝交渉を類推
 しているわけだ。

高麗の三国史記は、現存していない三国時代の書物を利用したらしいな。

>九州の地方勢力を日本の代表者と認めたわけだ。14世紀にしてこの有様だ。

その明自体が、日本国内の諸大名の存在を書物に記しているのはどう説明する?
外交対象として様々存在した勢力の中から、自らに臣従する有力者としてみてい
たワケだが・・・
ほう、三国は代表者と認めたものだけを「倭」としていたのか。
ならば、その対象がヤマト政権に限られていたなら、倭=ヤマト政権=日本の最大勢力
となるわけだな。
墓穴堀りまくりだな。
825日本@名無史さん:2007/09/29(土) 20:00:30
>>823
>自主的にするなら、誰に遠慮するのだ?と聞いているのだ。

「ヤマト政権を認めてやった」と言える独立性の代償は「服属」であることを
始めから言っている。服属というのは相手が上なのだよ。

>なんらかの理由とは一体何か?

お前から戴くなら、「大和に次ぐ第一の臣下」というのはいい理由だな。
さらに言えば、大和は「第一の臣下」の吉備によほど借りがあって、大王級の
墳墓を勝手に築かれても文句が言えなかった、というわけだ。

>答えは簡単。
>ヤマトに告ぐ第一の臣下として、築造させたのだ。

第一の臣下と言っても臣下には違いない。臣下に大王級の墳墓を、命令によって
築かせるのが、お前の言う階層制なのか?
826日本@名無史さん:2007/09/29(土) 20:03:59
>>824
>古墳時代の豪族も単なる行政官ではない!!
>だからこそ、その権威を示すために、ヤマトとの繋がりとして前方後円墳を
>築造したのだ。

なるほど、権威を示すために自主的に築造したのだな。
その通り!!
お前も私の考え方を理解するばかりか、身に付けてきた。

>幕府の認可のもとでな。

その通り!!
認可であって命令ではない。(この場合は規制逃れを見逃しているのだから
認可というより黙認だ。)

>>824
>三国は代表者と認めたものだけを「倭」としていたのか。

そんな堅苦しい話でさえ、なかろう。
南北朝の明国の使者は、怠慢あるいは無知によっていいかげんな册封をやった
わけだ。(このときの目的は倭寇の取り締まりを頼むこと)
同様に「高麗の三国史記」も、4世紀後半の交渉相手が九州の豪族であっても
とりあえず「倭」と呼んだだろう、と言っているのだ。

>その対象がヤマト政権に限られていたなら、倭=ヤマト政権=日本の

あくまで「限られていたなら」という仮定の話な。
827日本@名無史さん:2007/09/29(土) 23:11:46
>>825

>「ヤマト政権を認めてやった」と言える独立性の代償は「服属」であることを
 始めから言っている

やれやれ、ようやく認めたか。
そう、ヤマト王権は官僚制が存在しないため、莫大なエネルギーを用いる直接支配
より、力によって服従させていたのだ。
わかったかな?

>お前から戴くなら、「大和に次ぐ第一の臣下」というのはいい理由だな。

おいおい、俺はしっかりと「理由」を言ってるだろう?
お前は「なんらか」とハッキリ理由をつけてないじゃないか。ん?

>さらに言えば、大和は「第一の臣下」の吉備によほど借りがあって

どうしてもヤマトが弱かったと考えたいようだな・・・
でも事実は残酷だよ。
吉備に前方後円墳が多いのは確かだが、各地に「大王墓」に告ぐ墳墓がある。
吉備だけが特別ではないのだよ?

>臣下に大王級の墳墓を、命令によって
 築かせるのが、お前の言う階層制なのか?
>なるほど、権威を示すために自主的に築造したのだな。

そう、お前は認めたくないようだが、ヤマトの権威というのは、想像以上に
大きい。
であるからこそ、ヤマトを恐れ、それとの繋がりを保とうとしていたのだ。
墳墓形態を前方後円墳にしたのは、ヤマトへの服従の証。
「政権に参加させる」代わりに「前方後円墳築造」を「強要=命令」したのだ。
わかったかね?
828日本@名無史さん:2007/09/29(土) 23:18:37
>>826

>その通り!!認可であって命令ではない

何度も言うが、江戸時代と古墳時代をムリに混同させようとしても、矛盾が
発生するだけだぞ?
>>816のようにな。

>南北朝の明国の使者は、怠慢あるいは無知によっていいかげんな册封をやった
 わけだ。

「怠慢」で「無知」な割りには、日本国内の情勢を把握しているな。
北虜南倭って知ってるか?
明は倭寇にどれほど苦しんでいたか知ってるか?
まずは主観を取り払え。

>同様に「高麗の三国史記」も、4世紀後半の交渉相手が九州の豪族であっても
 とりあえず「倭」と呼んだだろう、と言っているのだ。

で、明の書物にしっかりと各勢力の名前が羅列されているのはどう言い訳するんだ?
「とりあえず」日本国王と呼ぶなら、諸勢力の名前など要らないだろう?
そうではないかね?ん?

>あくまで「限られていたなら」という仮定の話な。

お前の仮説の方が真実味が無いよ。
829日本@名無史さん:2007/10/01(月) 09:14:00
>>827
>やれやれ、ようやく認めたか。

悪いが「やれやれ、ようやく」というのはお前の記憶力の無さの証明だ。
私は>>746で次のように言っている:
「限定された独立性を認めて体制を保証するかわりに従属させる関係は、
歴史にありふれている。」
これと今回の:
「「ヤマト政権を認めてやった」と言える独立性の代償は「服属」である」
を較べて見れば、同じことを言っているのがわかるだろう。

>ヤマト王権は<中略>力によって服従させていたのだ。

諸国連合体制において、服属の中心は強大である必要はない。
極端な話、一個人でもよい。
邪馬台国の体制が、卑弥呼個人の死によって瓦解したのがそれを物語る。

>おいおい、俺はしっかりと「理由」を言ってるだろう?

だから私もお前と同じことをしっかりと「理由」にしたのだ。

>でも事実は残酷だよ。 吉備に前方後円墳が多いのは確かだが、各地に「大王墓」
に告ぐ墳墓がある。 吉備だけが特別ではないのだよ?

確かに残酷だ。それによってお前の言う、前方後円墳の「階層制」はますます
崩れるのだからな。
私が吉備を挙げたのは代表例としてだ。
「各地に大王墓に次ぐ墳墓」があるのなら、それらの地方にも、お前の言葉を
借りれば「第一に次ぐ第二、第三の臣下」がいたのだろう。
そして彼等は「階層制」を無視して大王級の墳墓を築いたのだ。
830日本@名無史さん:2007/10/01(月) 09:17:28
>>828
>「怠慢」で「無知」な割りには、日本国内の情勢を把握しているな。

把握しているならなおさらのこと。
明国は日本の中央が戦争に明け暮れて倭寇取り締まりどころでないことを
知っていて、とりあえずやってくれそうな、また手近で便利な、九州勢力を
「倭国王」にしたのだ。「怠慢」と呼ばないなら「実利」である。
倭国王の称号など実利次第、というわけだ。

>明の書物にしっかりと各勢力の名前が羅列されているのはどう言い訳するんだ?

何を倭と呼んだか、という問題に対して、何の関係もない。
831日本@名無史さん:2007/10/01(月) 13:44:23
>>829

>「「ヤマト政権を認めてやった」と言える独立性の代償は「服属」である」
 を較べて見れば、同じことを言っているのがわかるだろう
>極端な話、一個人でもよい。

わかったわかった。
ヤマトが諸勢力を力で服従させていたのが理解できたならそれでいいよ。

>だから私もお前と同じことをしっかりと「理由」にしたのだ。

>「なんらかの理由で」

これが「しっかりと理由にした」というのか?

>確かに残酷だ。それによってお前の言う、前方後円墳の「階層制」はますます
 崩れるのだからな。

おっと、痛いところを突いてしまったかな?
前方後円墳には「画一性」があり、大きさもそれぞれ一定の規模に固定されているな?
これを「階層性」と言わすに何と言う?
各地の首長が「流行」に合わせて「遠慮しながら」築造したのなら、どうして規模が一
定になるんだ?

>そして彼等は「階層制」を無視して大王級の墳墓を築いたのだ。

しっかりと大王墓の下に、一定の規模で築造してますが・・・?
何だ?
たった一つの例(吉備)を以て、古墳時代全体を見通す気か?
832日本@名無史さん:2007/10/01(月) 13:50:24
>倭国王の称号など実利次第、というわけだ。

で、実力で「倭」の称号がもらえるなら、お前の認めるとおり最強のヤマト
が倭で一定していたのに何の矛盾も無いな。
莫大なエネルギーが必要な前方後円墳を、衰退していた時期も郡を抜いて築
造できたのだからな。

>何を倭と呼んだか、という問題に対して、何の関係もない。

それが大有りなんだよな。
「最も強大な勢力」を倭と呼んだのならば、日本内部の事情に精通している。
そして、各勢力が独自の外交をしていたのなら、その勢力との交渉も記録とし
て残る。
お前がすがり付いている磐井のようにな。
ならば、「倭」以外の勢力も当然記録されて然るべきだな?
まあ、「ヤマト王権以外に独自の外交をした勢力」が「実在」したならの話だが。
833日本@名無史さん:2007/10/02(火) 21:50:30
>>831
>(服属の中心は)極端な話、一個人でもよい。
>ヤマトが諸勢力を力で服従させていたのが理解できたならそれでいいよ。

なるほど、「力」というのは卑弥呼個人のカリスマでもいいんだな。
それなら私の考え方と同じだ。意見が一致したね。

>これが「しっかりと理由にした」というのか?

お前ほんとうに日本語大丈夫か? 「なんらかの」というのは何でも書き
込めるブランクのようなものだ。後の議論のためにブランクにしておいたのだ。
お前が「第一の臣下だから」という「しっかりした理由」を提案したから、
それを採用してブランクに書き込んだのだよ。
ただし、なぜ第一の臣下になったか、という問題は残るけどね。

>前方後円墳には「画一性」があり、大きさもそれぞれ一定の規模に固定されて
>いるな?

画一性というが、だいたい前方後円墳には要素が少ない。円の直径、台形の
長さと広がり、それしかない。変化のつけようがない。しかもそれが時代に
よって徐々に変化している。それで編年ができるくらいだ。
また、「それぞれ一定の規模に固定」というが、天皇陵そのものが大きさが
いろいろではないか。天皇の地位は一つしかないから、それに対して規模が
「固定」していない明らかな証拠だ。
また群小の前方後円墳は、被葬者の地位が明らかではない。明らかではない
ものに対して、規模が「固定」しているかどうか、どうして分かるのか。
834日本@名無史さん:2007/10/02(火) 21:54:34
>>831
>たった一つの例(吉備)を以て、古墳時代全体を見通す気か?

日本語もさることながら、頭は大丈夫か? お前は>>825で、
>でも事実は残酷だよ。
>吉備に前方後円墳が多いのは確かだが、各地に「大王墓」に告ぐ墳墓がある。
>吉備だけが特別ではないのだよ?

と言ったばかりではないか。「事実は残酷」だな。
835日本@名無史さん:2007/10/02(火) 22:06:29


横レスだが、

話 を 戻 さ な い か?




836日本@名無史さん:2007/10/03(水) 12:11:58
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
837日本@名無史さん:2007/10/03(水) 15:02:32
訂正:
#834 で、
>頭は大丈夫か? お前は>>825で、

と書いたのは>>827 の間違いだったので訂正する。
838日本@名無史さん:2007/10/03(水) 16:36:41
>>833

>なるほど、「力」というのは卑弥呼個人のカリスマでもいいんだな。

どうしてそういう解釈ができるのかサッパリわからないな。
その結論に達する論理的道筋を教えてくれないか?

>「なんらかの」というのは何でも書き込めるブランクのようなものだ。

言い訳というのは無様なものだな。

>ただし、なぜ第一の臣下になったか、という問題は残るけどね。

答えは簡単。
ヤマトにいち早く協力した有能な勢力だったからだ。

>それしかない。変化のつけようがない。
>しかもそれが時代によって徐々に変化している。それで編年ができるくらいだ。

流行ならば、何故そのスタイルを保ち続けたのかと聞いている。
「前方後円墳」という墳形は変化しなかったろう?
帆立貝型古墳とか四隅突出型古墳とかほかにもあっただろうに。

839日本@名無史さん:2007/10/03(水) 16:49:05
>また、「それぞれ一定の規模に固定」というが、天皇陵そのものが大きさが
 いろいろではないか。

わからないか?
時期によって異なるものの、同時期の古墳は規模が一定になっていると言ってるんだよ?

>また群小の前方後円墳は、被葬者の地位が明らかではない。明らかではない
 ものに対して、規模が「固定」しているかどうか、どうして分かるのか。

何故被葬者の地位が規模の固定に繫がるのだ?
被葬者の地位が明らかでない古墳なら、ほとんどの古墳がそうだが?
苦し紛れに何を言っている?

>と言ったばかりではないか。「事実は残酷」だな。

吉備以外にも様々な大王墓が存在し、それらは定型化し、階層化されていた。
それなのに、お前は「吉備に大王墓より大きい古墳が築かれていた時期があっ
たかもしれない」と、吉備の一例を持ち出した。
それに対し、「大王墓に迫る規模だが、それに及ばない古墳など様々にある。」
と俺が言った。

何か論理的に矛盾でも?

ていうか、外交については事実を認めたんだな。
その姿勢は大事だぞ。
840日本@名無史さん:2007/10/05(金) 19:57:14
>>838
>どうしてそういう解釈ができるのかサッパリわからないな。

お前は>> で:
「(服属の中心は)極端な話、一個人でもよい。」という私の文を引用した上で、
>ヤマトが諸勢力を力で服従させていたのが理解できたならそれでいいよ。

と肯定的に書いたのだ。であるからにはお前は引用の元の文:
>諸国連合体制において、服属の中心は強大である必要はない。
>極端な話、一個人でもよい。
>邪馬台国の体制が、卑弥呼個人の死によって瓦解したのがそれを物語る。
を肯定したことになるではないか。

肯定していないというならそれでも構わない。上記の文に反論してくれればよい。

>言い訳というのは無様なものだな。

(なんらかの)という一般的な用語にそれだけ粘着しなければならないとは
無様と言うより哀れだな。
841日本@名無史さん:2007/10/05(金) 20:00:10
>>838
>ヤマトにいち早く協力した有能な勢力だったからだ。

その解釈は平板だな。
日本書紀を読めば、二度の東征において日向と吉備とは反大和勢力であったことが
わかる。
彼等は簒奪者に協力して恩を売ったのだ。

>流行ならば、何故そのスタイルを保ち続けたのかと聞いている。

流行だからだ。そして流行が長く続けば伝統になる。

>帆立貝型古墳とか四隅突出型古墳とかほかにもあっただろうに。

それらは「流行遅れ」だ。
842日本@名無史さん:2007/10/05(金) 20:09:15

>>839
>同時期の古墳は規模が一定になっていると言ってるんだよ?

同時期の天皇陵はたった一つだから、「規模が一定」もくそもないではないか。

>何故被葬者の地位が規模の固定につながるのだ?
>被葬者の地位が明らかでない古墳なら、ほとんどの古墳がそうだが?

いくらお前でも「規模が固定」とは「全ての古墳の規模が同じ」という意味では
あるまい。
「古墳の規模は被葬者の地位に対応している」という意味だろう。
ところがお前もいみじくも言っているように、ほとんどの古墳で被葬者の地位
が明らかではない。それなのにどうして、
「古墳の規模は被葬者の地位に対応している」という法則が導き出せるのか?

>吉備以外にも様々な大王墓が存在し、それらは定型化し、階層化されていた。

なるほど、上記の文を論理的に読めば、吉備は大王墓だったということになるな。
まあ、それは冗談だが、お前はひょっとして、
「吉備造山古墳は階層性の唯一の例外である。それ以外の巨大古墳は大王墓に
迫る規模だがそれに及ばない。だから吉備造山を例外として、階層性は保たれて
いる」と言いたいのか?

ところで、訂正。
>>840
お前は>>で → お前は>>831
843日本@名無史さん:2007/10/05(金) 22:31:56
>>840

なあ、

>ヤマトが諸勢力を力で服従させていたのが理解できたならそれでいいよ。
>諸国連合体制において、服属の中心は強大である必要はない。

これ、矛盾してないか?

>極端な話、一個人でもよい。
>邪馬台国の体制が、卑弥呼個人の死によって瓦解したのがそれを物語る。

どうしてここまで論理の飛躍ができるんだ?

まあヤマトの優位性を認めたならそれで良いが。

>(なんらかの)という一般的な用語にそれだけ粘着しなければならないとは
 無様と言うより哀れだな。

日本語をまだ使い慣れない自分自身のことを言っているのか?

>日本書紀を読めば、二度の東征において日向と吉備とは反大和勢力であったことが
 わかる。

ある時は日本書紀の記述を引用し、ある時は無視する。
日本書紀の内容を信じるならば、ヤマトは力による征服を推し進め、諸国に前方後円墳
の築造を強要したことになるな。

844日本@名無史さん:2007/10/05(金) 22:42:27
>流行だからだ。そして流行が長く続けば伝統になる。

どうして変化が無かったかと聞いているんだよ?
日本語わかるかい?

>それらは「流行遅れ」だ。

前方後円墳が「流行」だったなら、前方後方墳もさきたま古墳群の円墳も造
られなかったな。

>同時期の天皇陵はたった一つだから、「規模が一定」もくそもないではないか。

その時期の天皇陵を頂点として、基準が作られたとは考え付かないかい?

>「古墳の規模は被葬者の地位に対応している」という法則が導き出せるのか?

副葬された遺品から、ヤマトとの繋がり、被葬者の権力が推定できるからに決まってるだろ。
まさかとは思うが、お前古墳の形だけで当時の社会を想像してるわけじゃあるまいな?

>吉備造山古墳は階層性の唯一の例外である。

そもそも、造山古墳が大王墓より一時期大きかったから、それは階層性に外れている
ということにはならん。
なぜならば、それとヤマトのより大きな大王墓の完成が近いからだ。
つまり、ヤマトで最大規模の古墳が作られている最中に完成し、それが一時期日本一
の大きさであったとしても、階層性を破ることにはならんのだよ。

おわかりかな?
845日本@名無史さん:2007/10/06(土) 08:14:17
吉備の話が出てるが、
今、発掘中の倉敷の勝負砂古墳は、
伽耶の木槨墓の影響を受けた石室らしいね。
でもあくまで影響だ。
出土物の短甲などは河内王朝からの下賜品だろう。

846日本@名無史さん:2007/10/07(日) 15:34:08
>>843
>(服属の中心は)極端な話、一個人でもよい。
>邪馬台国の体制が、卑弥呼個人の死によって瓦解したのがそれを物語る。

>どうしてここまで論理の飛躍ができるんだ?

私は事実を言っているだけだ。魏志倭人伝によれば、倭国の大乱が数十年に
及んだ。これは大和を含めて武力がどんぐりの背比べであったことを示す。
その大乱が、卑弥呼を立てたことによって収まった。
すなわち諸国は武力によって征服されたのでなく、卑弥呼個人の霊力、あるいは
カリスマに服属したのである。その証拠に、卑弥呼の死後はたちまち邪馬台国連合
は瓦解して再び大乱になった。

このような体制は、諸国が一斉になにかに服属すれば領土が保証され、互いに
戦わないで済む、という「共同幻想」を抱くことによって成立する。
「なにか」でいいのだから、中心が必ずしも強力である必要はないのだ。
それはなにもめずらしいことではない。鎌倉幕府の体制も、江戸幕府の体制も、
同じことなのだ。

>日本書紀の内容を信じるならば、<中略>諸国に前方後円墳 の築造を強要した
>ことになるな。

築造を強要したと、日本書紀のどこに書いてあるか教えてくれ。
847日本@名無史さん:2007/10/07(日) 15:37:20
>>844
>どうして変化が無かったかと聞いているんだよ?

例えば武士の「ちょんまげ」は戦国時代に、だれが命じたのでもなく「流行」と
して始まった。その流行は江戸時代になっても続き、固定して「伝統」になった。
その結果300年間、ほとんど変化しなかった。

>前方後円墳が「流行」だったなら、前方後方墳もさきたま古墳群の円墳も造
>られなかったな。

それこそ前方後円墳が「命令」ではなく「流行」である証拠だ。
私は「流行」と「自発性」の両方を言っているのだからね。
「ちょんまげ」だって、自発的であるからこそ中には「総髪」を結う武士も
いた。
848日本@名無史さん:2007/10/07(日) 15:40:14
>>844
>副葬された遺品から、ヤマトとの繋がり、被葬者の権力が推定できるからに
>決まってるだろ。

なるほど、「地位」でなく「権力」と言ってしまえば、はるかに漠然とするな。
「規模が固定されている」と言ってもその程度の漠然としたものか。
それならしぜんに生じる「見かけの階層性」と区別はできないな。

>なぜならば、それとヤマトのより大きな大王墓の完成が近いからだ。

お前は長いこと「造山」を逃げ回っていたが、ようやく思いついた言い訳がそれか。
しかし造山の同時代古墳は同じ設計図を用いたと思われる履中陵だ。これは:

>その時期の天皇陵を頂点として、基準が作られた

と矛盾するではないか。
また造山の起工時点で、例えば応神陵の規模と起工時期がすでに決まっていな
ければならないが、それは都合のいい想像に過ぎない。
849日本@名無史さん:2007/10/07(日) 17:08:57
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
江戸期伝来の通説よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
850日本@名無史さん:2007/10/07(日) 17:13:06
>>846

>私は事実を言っているだけだ。

まあ確かに、大王家は三輪山で大々的な祭祀を行っていたが・・・
邪馬台国の例がそのまま当てはまるとは思えんな。
大王家が輪番制であったという説は学会で有力だが、一個人による
支配はヤマトの力をあそこまで永続的にできたのか?

>「なにか」でいいのだから、中心が必ずしも強力である必要はないのだ。

その「なにか」がヤマトの軍事力でないとする根拠はどこにも無いな。
武器・威信財を独占していたヤマトが弱かったとはとても思えんよ。

>築造を強要したと、日本書紀のどこに書いてあるか教えてくれ。

飽くまで日本書紀の記述を信じるならば、ヤマトは力で各地を征服したと
言えるな(それにしては大規模な戦争の跡が見受けられないが)。
そして、前方後円墳はヤマトの勢力範囲と重なる。

この二つを見比べた場合、先述の通りになるのは自然だと思うが?
飽くまで日本書紀を信じるならばの話だが。
851日本@名無史さん:2007/10/07(日) 17:17:52
>>847

>その結果300年間、ほとんど変化しなかった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A1%E3%82%87%E3%82%93%E3%81%BE%E3%81%92

ウィキペディアですまないが・・・

>それこそ前方後円墳が「命令」ではなく「流行」である証拠だ。

流行ならば、巨大な権力を持つ者がわざわざ円墳にする必要も無いよな?
ちょんまげが主流であった室町時代、極端な話みずらをする奴がいたか?

>なるほど、「地位」でなく「権力」と言ってしまえば、はるかに漠然とするな。

まあ稲荷山古墳の鉄剣を見る限り、権力と地位は比例していたようだがな。
852日本@名無史さん:2007/10/07(日) 17:24:27
>>848

>お前は長いこと「造山」を逃げ回っていたが、ようやく思いついた言い訳がそれか。
 しかし造山の同時代古墳は同じ設計図を用いたと思われる履中陵だ。
 >その時期の天皇陵を頂点として、基準が作られた
 と矛盾するではないか

はて、大仙陵古墳と造山古墳はともに五世紀の築造のはずだったが・・
どこが矛盾するんだ?

>また造山の起工時点で、例えば応神陵の規模と起工時期がすでに決まっていな
 ければならないが、それは都合のいい想像に過ぎない。

なぜだ?
階層性に基づくならば、いかなる古墳を作る際にもヤマトに許可を得ねばならない。
設計図も副葬品も、ヤマトが一手に握っていたならば、時期の調整も可能だろう。
都合の良い想像といったが、お前の言う「流行」説がそうでないと言い切れるか?
853日本@名無史さん:2007/10/08(月) 20:51:41
>>850
>邪馬台国の例がそのまま当てはまるとは思えんな。

箸墓が卑弥呼の墓である可能性はますます高まっている。
邪馬台国と三輪王朝とは連続しているのだ。

>武器・威信財を独占していたヤマトが弱かったとはとても思えんよ。

だから時間軸がない、と言うのだ。
5世紀の大和(河内)が鉄と馬の独占をもとに、王権を強めていたことは
私も何回か書いている。しかしそれは征服説から言うならば征服が起こった
後のことだ。
前にも言ったように、問題は4世紀後半なのだ。4世紀後半に朝鮮半島に進出
した主体は何か、というのがこの議論の発端だ。
854日本@名無史さん:2007/10/08(月) 20:59:23
>>851
>流行ならば、巨大な権力を持つ者がわざわざ円墳にする必要も無いよな?

流行だからこそ、なかには流行を無視する「個性的」な奴が出てくる。
「命令」や「制度」なら、なおのこと円墳を説明できないのではないか?

>室町時代、極端な話みずらをする奴がいたか?

いたな。みずらは皇族の子供〜若者の風習として長く残った。
明治天皇も、明治6年に断髪する前はみずらだった。
皇族がこの北方的な風習を長く保存したのは実に面白い。

>まあ稲荷山古墳の鉄剣を見る限り、権力と地位は比例していたようだがな。

ほう、こんどは「権力=地位」というわけか。
それなら元に戻って、お前は>>839で:

>被葬者の地位が明らかでない古墳なら、ほとんどの古墳がそうだが?

と言っているのだから、地位と古墳の規模との関係は調べられないよな?
855日本@名無史さん:2007/10/08(月) 21:01:26
>>852
>はて、大仙陵古墳と造山古墳はともに五世紀の築造のはずだったが・・

お前の「同時代」は100年のスパンを包含するのか。
現在は日露戦争の「同時代」か。
まあそれは別として、例えば造山古墳が420年頃できて、築造に20年
かかったとしよう。すると起工は400年頃だ。
一方、大仙陵は現在では5世紀末と言われている。すると起工は480年
頃だ。400年の時点で、480年のことがわかるのか?ということだ。

>階層性に基づくならば、いかなる古墳を作る際にもヤマトに許可を得ねばならない。

え? 「許可」だと? 許可とは自由意志に対して行うものだ。
それなら私の説と同じだ。
お前は「命令」と言っていたのではないのか?
856日本@名無史さん:2007/10/08(月) 21:12:27
>>853

>箸墓が卑弥呼の墓である可能性はますます高まっている。

またどこからかトンデモ説を・・
根拠を聞こうか?

>前にも言ったように、問題は4世紀後半なのだ。4世紀後半に朝鮮半島に進出
 した主体は何か、というのがこの議論の発端だ。

普通にヤマト王権だろう。
朝鮮との交易(まあ楽浪郡だろうが)を独占していたからこそ強大になれたのだ。

>流行だからこそ、なかには流行を無視する「個性的」な奴が出てくる。

「前方後円墳」が流行している中で「円墳」を作るか?
自分の説を理解できていないようだな。

>「命令」や「制度」なら、なおのこと円墳を説明できないのではないか?

何か理由があったんだろう。
「なんらかの理由」がな。
857日本@名無史さん:2007/10/08(月) 21:19:54
造山と履中陵が5世紀前半の同時期で、
大仙は5世紀半ばだろう。
後円部の埋葬品は5世紀後半に追加されたと聞いた。
もちろん不確かだが。
858日本@名無史さん:2007/10/08(月) 21:21:15
>>854

>いたな。みずらは皇族の子供〜若者の風習として長く残った。

おい、それは皇族という身分だからだろう?
ちょんまげを結う武士達の中にみずらを結うものがいたか?と聞いている。
理解できるか?

>被葬者の地位が明らかでない古墳なら、ほとんどの古墳がそうだが?
 と言っているのだから、地位と古墳の規模との関係は調べられないよな?

全く、これだから理解力に乏しい輩を相手にするのは疲れる。
ここで言う「被葬者の地位」とは王権内部での「具体的」地位だ。
例えば稲荷山の杖刀人とかな。
具体的地位は史料がないからわからんが、それがどの位上にいたかは副葬
された大和の遺品で推測できる。というわけだ。
おわかりかな?
859日本@名無史さん:2007/10/08(月) 21:26:08
>>855

>一方、大仙陵は現在では5世紀末と言われている。

反論は>>857が書いてくれた。
お前は都合よく事実を歪曲する癖があるらしいな。

>え? 「許可」だと? 許可とは自由意志に対して行うものだ。

何を屁理屈を捏ねている?
古墳を築造させるとき、現地にわざわざヤマトの労働力を送るとでも?
実際はヤマトの役人や技術者が出向し、監督したんだろう。
造山古墳築造の際、築造時期も彼らが監督していたと考えるなら・・という
意味で書き込んだんだがな?

無様だな。
860日本@名無史さん:2007/10/09(火) 19:07:50

稲作が中国から日本へ直接伝来した事の根拠としている
RM1-b遺伝子の稲は稲作が伝わったときの稲ではない。

なぜなら最初に九州や西日本に伝わった稲作が弥生中期頃に
伝わってきた北陸や東北にRM1-b遺伝子の稲が無いからである。

ゆえに朝鮮半島にはないRM1-b遺伝子の稲の存在がすなわち、
稲作が中国から日本へ直接伝来した事の証拠にはならないのである。

それにRM1-b遺伝子の稲はかつては朝鮮半島にも存在したが、
単に定着しなかっただけという事も十分に考えられる。

http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
861日本@名無史さん:2007/10/09(火) 21:47:45
>>856
>箸墓が卑弥呼の墓である可能性はますます高まっている。
>またどこからかトンデモ説を・・ 根拠を聞こうか?

人をトンデモなどと言う前に、すこし勉強した方がいいぞ。
例えば次の文献をよく読め。
http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai03.html
「画期的な年輪年代法」
http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai05.html
「箸墓は卑弥呼の墓か」
http://www2.odn.ne.jp/hideorospages/yamatai04.html
「邪馬台国時代の列島事情」

例によってさわりを引用すれば:
「もっと具体的にいえば、考古学者の間では、奈良県纏向(まきむく)遺跡にある
全長約280メートルの日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓(箸中山古墳)を
もって、卑弥呼の墓とする見方が、にわかに注目され始めました。すでに箸墓を
卑弥呼の墓の最有力候補とする暗黙の合意が、研究者の間に成立しつつあると
いっても、過言ではないと私には思えます。」
862日本@名無史さん:2007/10/09(火) 21:51:31
>>856
>4世紀後半に朝鮮半島に進出した主体は何か

>普通にヤマト王権だろう。

この時期、朝鮮半島に兵を送っていたのが大和ではないことは、沖ノ島遺跡
から証明される。

>朝鮮との交易(まあ楽浪郡だろうが)を独占していたからこそ

この時期、楽浪郡はすでに無い。

>「前方後円墳」が流行している中で「円墳」を作るか?

流行は自由意志によるのだから何があってもおかしくない。
「流行遅れ」でさえなければな。

>「命令」や「制度」なら、なおのこと円墳を説明できないのではないか?

>何か理由があったんだろう。 「なんらかの理由」がな。

それで済むのか? 私の「なんらかの」は後で埋めるために用意したブランクだ。
だからちゃんと、「吉備と日向は簒奪者への協力者」という、前から考えていた
理由を埋めた。
さて、円墳の理由に関するお前の「なんらかの」に、お前は何を埋めるのかな?
863日本@名無史さん:2007/10/09(火) 21:57:32
>>858
>ちょんまげを結う武士達の中にみずらを結うものがいたか?と聞いている。

別にみずらに限らなくてもよい。サカヤキを剃る典型的なスタイルの他に総髪や、
なんというのか知らないがポニーテールスタイル、さらに由井正雪のような
切り下げ髪スタイルもあった。 総髪のことはすでに言っている。
典型的以外のは技術者や武芸者などの一匹狼が多いな。

ビジネスマンの背広を考えて見ればわかる。背広はどこかで始まった流行が
「定着」したものだ。誰から命令されたわけでもないのにビジネスマンは
背広を着る。それは背広を着ないと相手にされないからだ。これが定着した流行
の姿だ。しかしジョブスやホリエモンのように、背広を着ない一匹狼もいる。

>具体的地位は史料がないからわからんが、それがどの位上にいたかは副葬
>された大和の遺品で推測できる。というわけだ。

はるほど、具体的地位ではなく「なんとなく偉そうだ」とか「たいしたこと
なさそうだ」とか、その程度の「地位」だと言うわけか。
それならどんな法則でも作れるな。

>>859
>造山古墳築造の際、築造時期も彼らが監督していたと考えるなら・・という
>意味で書き込んだんだがな?

それが「許可」の意味か?  無様だな。
864日本@名無史さん:2007/10/09(火) 22:01:01
邪馬台国畿内説なんてアホの寝言にしか見えん。
考古学界ってのはアホしかいないのか。
865日本@名無史さん:2007/10/09(火) 22:07:07
>>862

>この時期、朝鮮半島に兵を送っていたのが大和ではないことは、沖ノ島遺跡
 から証明される。

お前、前に「ヤマト政権に参画していた加羅」がどうのこうの言ってたではないか。

>この時期、楽浪郡はすでに無い。

ヤマト王権強大化の過程での話だ。

>「流行遅れ」でさえなければな。

確かに円墳は時代全体にわたってるな。
「小規模なものを中心」に。
小規模で副葬品が比較的乏しいのは、身分がそれほど高くなかったからだ。
何故、力のある者が採用する必要性がある?
まさか6世紀以後の言い訳を出すつもりではなかろうな?
866日本@名無史さん
>だからちゃんと、「吉備と日向は簒奪者への協力者」という、前から考えていた

ではその地域以外の大型古墳はどう説明するんだ?
という話に戻るな。
論理を理解できない奴の相手は困る。

>さて、円墳の理由に関するお前の「なんらかの」に、お前は何を埋めるのかな?

恐らく、ヤマトから出向した人物の墓だろうな。
円墳にしたのは、土着の有力人物=ヤマトに従う豪族ではなく、ヤマトでの
身分が低いものだったからだろう。
まあわからんがね。