日本書紀紀年法がついに解明されました[part5]
1 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :
2 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/30(月) 13:05:36
3 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/30(月) 13:06:08
>*:[倭の五王編]は、わたくしのコテハンとトリップを流用するというマナー違反者が
>立てたものですので、[part5]とさせていただきました。
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )
4 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/30(月) 13:18:30
征東大将軍さん
日本書紀紀年法がついに解明されましたというスレッドは、日本書紀紀年法について議論するために立てたものです。
その意味で、どなたが同じようなスレッドを立てましても、構わないと考えております。
しかし、[倭の五王編]が問題であるのは、わたくしのコテハンとトリップを盗用したことです。
これは、明らかに2チャンネルにおけるマナー違反となるのではないでしょうか。
[part6]とはしなかった理由は、[part6]としますと、マナー違反の[倭の五王編]を容認している
という誤解を与えてしまうからです。
このように、理由ははっきりしておりますので、いぶかしげな憶測なさる必要は無いと思います。
>>4 スレは住人、利用者のものであってスレ立てた人の所有物ではありません。
トリップを使われて騙りのような事をされたことは不愉快でしょうが、それが原因でスレタイにこだわるのは「百害あって一利無し」です。
変にこだわると逆にバカにされる原因となったりしますので、余りこだわらない方が良いと思いますよ。
6 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 15:25:26
この見識と了見の狭さが逆に研究家の魅了ではないでしょうか?
前スレが終わりそうなのでこちらに転載。
> 967 :日本@名無史さん :2007/04/29(日) 18:53:11
>
>>965 > > 応神元年の実年代への位置づけを間違った上で、議論しておられるようです。
>
> 間違えてません。
>
> 書紀の編年上、
> ・神功皇后66年→6→応神天皇3年→189→雄略天皇5年です。
> 一方、記述内容から比定した場合、
> ・神功皇后66年→126→応神天皇3年→69→雄略天皇5年です。
> そして肝心なのは、
> ・神功皇后66年と雄略天皇5年は書紀の編年上の年代と記述内容から比定された年代は合致すること。
> ・しかし応神3年は書紀の編年上の年代と記述内容から比定された年代が合致しないこと。
> です。
> 応神3年は書紀の編年上の年代は272年、記述内容から比定された年代は392年。
> つまり120年引き上げられている。それは何故か?という話なのです。
>
> > 神功紀は、神功元年の西暦201年から神功69年の西暦389年までの189年間を扱っている
>
> この考え方が間違ってるのです。
> 神功皇后紀は書紀の編年上でも、記述内容から比定された年代を基にした編年上でも69年です。
> 神功皇后没と応神天皇即位との間に120年の空白があると考えるべきなのです。
> そしてその120年の空白は元々が存在しないものなのです。
> 神功皇后を卑弥呼・壹与に比定するために120年引き上げられた。
> そしてそれに引きずられるように応神天皇紀も引き上げられた。
> その引き上げによって生じた空白を埋めるために応神から允恭までの紀年に加算された。
> それだけのことです。
> 研究家さんの主張される-120年は幻の120年と言わざるを得ません。
> 985 :日本@名無史さん :2007/04/30(月) 13:26:14
> スレもそろそろ終わるけどまだ疑問があるので書いとく。
> それは古事記の崩年干支から確定紀年を導き出す手法の是非について。
>
> ・各天皇の即位年を紀の前天皇没後何年の即位かという記事から援用させているが、それは正しいのだろうか?
> ・応神天皇の即位年だけ応神3年の記述から比定される年代を逆算して求めるのは正し> いのか?
> ・安康に崩年干支はない、雄略の崩年干支は10年ずれてる。それなのに安康3年間、雄> 略元年から5年までの5をそのままスライドさせて大丈夫なのか?
>
> 以上のように確定紀年を導き出す手法が一貫していないのは問題と考える。
> さらにそうして確定紀年を求めても1年ずれるのは問題ではないか?
さらに前スレ990の研究家さんへ。
では応神から雄略までの各天皇の即位年をどのように求めたか、「個別」に挙げていただけないでしょうか?
以前に述べられているかもしれませんがお願いします。
研究家さんが、学問に対してもスレ住民に対しても真摯な姿勢であることが、
私には魅力です。
実質6スレ目なのね!了解
13 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/01(火) 09:34:26
>>9さん
応神元年は、応神三年条の百済阿花王の即位(392)、応神八年条の百済直支王の来日(397)、
応神十六年条の阿花王の薨去(405)の記述から、390年となります。
仁徳元年は、応神天皇の古事記崩年干支の394年に空位年の2年を加えて、
397年となります。また、仁徳天皇の古事記崩年干支の427年を履中天皇の立太子年
(仁徳31年)と考えて、逆算しても397年となります。
允恭元年は、反正天皇の喪が允恭五年条に見えることから、この年代を反正天皇の古事記崩年の437年と
考えて、逆算して433年となります。允恭元年は、允恭天皇の古事記崩年干支の454年の翌年を
木梨軽皇子の立太子年(允恭23)と考えて(踰年称元法)、逆算しても433年となります。
雄略元年は、雄略五年条に見える百済武寧王の出生についての記述から、この年を461年と考えて、
逆算して、457年となります。
>>13 > 応神元年は、応神三年条の百済阿花王の即位(392)、応神八年条の百済直支王の来日(397)、応神十六年条の阿花王の薨去(405)の記述から、390年となります。
紀の記述内容から比定される年代に基づいたもの。
> 仁徳元年は、応神天皇の古事記崩年干支の394年に空位年の2年を加えて、397年となります。また、仁徳天皇の古事記崩年干支の427年を履中天皇の立太子年(仁徳31年)と考えて、逆算しても397年となります。
記の前天皇の崩年干支に紀の記事の空位年を足したもの。
後段はその補足?
> 允恭元年は、反正天皇の喪が允恭五年条に見えることから、この年代を反正天皇の古事記崩年の437年と考えて、逆算して433年となります。
> 允恭元年は、允恭天皇の古事記崩年干支の454年の翌年を木梨軽皇子の立太子年(允恭23)と考えて(踰年称元法)、逆算しても433年となります。
古事記の崩年干支によると履中没は432年です。允恭元年が433年ならその間の反正はどうなるんでしょうか?
なんだか良くわかりません。
> 雄略元年は、雄略五年条に見える百済武寧王の出生についての記述から、この年を461年と考えて、逆算して、457年となります。
紀の記述内容から比定される年代に基づいたもの。
以上見ていくと、応神元年と雄略元年を求める方法論は一緒だが、仁徳元年を求める方法は異なっている。
允恭元年の求め方は説明が理解しがたい。履中・反正・安康元年の求め方は不明。
これではとても一貫してるとはいえないと思いますが?
15 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 12:41:17
437.1 反正崩御
437.7 反正埋葬
438 (空位期間)
439.12 允恭即位
454.1 允恭崩御
16 :
サガミハラハラ:2007/05/01(火) 14:38:01
437秋反正崩御
438春反正末年
438秋允恭即位
459春允恭崩御
別系譜に允恭末年は461春
17 :
サガミハラハラ:2007/05/01(火) 14:47:21
私、現在継体天皇から欽明天皇にかけての年代の確定に取り組んでおります。
そこで、この時代についてはご存知のように、安閑・欽明ニ朝並立説というのがございます。
紀のように安閑・宣化・欽明の系列であったとするほかに、安閑・宣化の一方で、欽明も即位していたという説です。
そこでこの説の真偽について広く皆様からの忌憚ないご意見を拝聴いたしたいとおもいます。
二朝は並立していたのか、論議のほどよりおしくお願いいたします。
19 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/01(火) 17:18:11
>>14さん
履中天皇、反正天皇、安康天皇の即位元年を挙げなかったのは、
年代列の基準年となった天皇ではないからです。
換言すれば、応神元年は応神列の基準年、仁徳元年は仁徳列の基準年、
允恭元年は允恭列の基準年、雄略元年は雄略列の基準年となります。
履中紀と反正紀の各々の紀年は仁徳列に属し、安康紀の各々の紀年は雄略列に
属していますので、それぞれの年代列上において求めることができます。
20 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/01(火) 17:25:32
>>18さん
通常、史書の編年には、当年称元法と踰年称元法という2つの編年方法があります。
当年称元法は、前帝の崩年と次帝の即位年を同じ年とする編年方法で、
踰年称元法は、史実はどうであれ、前帝の崩年の次の年を次帝の即位年とする編年方法です。
日本書紀は踰年称元法を用いていますので、履中天皇の立太子年(即位年)を
仁徳31年の427年に位置づけると、仁徳天皇の確定紀年をその前年に設定
しなくてはならないことになります。このため、仁徳30年までが仁徳天皇の
確定紀年なるのです。
>>19 > 年代列の基準年となった天皇ではない
年代列の基準となれる天皇の条件は何でしょうか?
>>20 > 履中天皇の立太子年(即位年)を仁徳31年の427年に位置づけると、仁徳天皇の確定紀年をその前年に設定しなくてはならない
しかし一方で仁徳の崩年干支は丁卯(427年)です。
応神の崩年干支は甲午(394年)ですから、空位期間の2年を除くと仁徳の在位期間は31年となります。
この誤差はなんでしょうか?
実際には3年あった空位期間は紀で2年に短縮されてるというのでしょうか?
また
>>14の
> 古事記の崩年干支によると履中没は432年です。允恭元年が433年ならその間の反正はどうなるんでしょうか?
> なんだか良くわかりません。
についてはどうなんでしょうか?
質問ばかりで申し訳ありませんが合わせてお答えいただきたいと思います。
良い天皇を基準にすんじゃまいか?
23 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 07:04:56
計算が合うようにするなんて恣意的な解釈です、説得力ありません。
24 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/02(水) 09:16:34
>>21さん
まず
>>19について
応神列の応神天皇、仁徳列の仁徳天皇、允恭列の允恭天皇には延長紀年が
設定されていますので、基準年となる天皇は延長紀年が関連しているのかもしれません。
雄略列については、神武元年を紀元前660年、持統11年を697年に位置づける編年と
一致していることが関連しているのでしょう。→
25 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/02(水) 09:23:57
→
>>20について
応神天皇の古事記崩年干支は394年、空位年が395年と396年、
そして、仁徳元年が翌年の397年となります。仁徳即位元年を397年と考えると、
仁徳天皇の古事記崩年干支の427年は仁徳31年となります。
仁徳31年条を見てみますと、履中天皇の立太子の年代であることがわかります。
前帝の古事記崩御年干支=次帝の立太子という関係にありますので、
427年を履中元年と考えることができます。
日本書紀は踰年称元法によって編年されていますので(
>>20参照)、
仁徳末年は仁徳30年となるのです。
26 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/02(水) 09:26:57
→
>>14のご質問について
日本書紀紀年法は、多列・並列構造ですので、允恭天皇と反正天皇の在位は
並行します。神祇王と執政王の問題が関連しているのかもしれません。
27 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/02(水) 09:29:23
28 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/02(水) 09:32:35
>>23さん
古事記崩年干支の年代も、海外資料に見える百済王の即位年や薨去年も
わたくしの恣意では、動かせません。
これらの年代から基準年を求めましたので、説得力はあるのではないかと思います。
29 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 12:06:38
>>28 神功皇后の実際の経過年数を189年としたのは、貴方の恣意ではないですか?
>69年(神功紀の紀年数)−189年(実際の経過年数)=-120年(不足する紀年数)
神功紀は、干支を2巡古くしただけで、「不足する紀年数」そのものが存在しない。
>192年(応神元年〜雄略五年までの紀年数の合計)−72年(実際の経過年数)=+120年(超過する紀年数)
記紀は、神功紀を古くみせるために、「応神紀〜雄略紀の120年水増し」をしただけ。
それなのに、研究家さんは、「応神紀〜雄略紀の120年水増し」を、
神功紀に「120年分の実際の経過年数がある」と考えて、プラスマイナス構想などと言っている。
神功紀で、干支を2巡古くしたので、応神紀〜雄略紀で数あわせをしただけ。
それ以上の意味を見出す理由は無いですよ。
>研究家さん
>>24 > 応神列の応神天皇、仁徳列の仁徳天皇、允恭列の允恭天皇には延長紀年が設定されていますので
他の天皇には延長紀年が設定されてないというのでしょうか?
延長紀年の有無は何をもって判断されてるのでしょうか?
>>25 応神の没年を古事記の崩年干支から比定しているのであれば、仁徳にも準用されるべきです。
であれば仁徳末年は427年となり仁徳31年とすべきです。
履中の治世は紀では6年ですが、記の崩年干支を頼りにすると5年です。
崩年干支から比定される応神没は394年、履中没は432年ですからその間38年です。
紀の記述のみを重視すれば空位期間2年+仁徳30年+履中6年=38年です。
仁徳紀にある履中の立太子年には一年の錯誤があるのではないのでしょうか?
そもそも立太子年=実際は即位年というのは確かなのでしょうか?
他の天皇にも当てはめられるのでしょうか?
>>26 > 日本書紀紀年法は、多列・並列構造ですので、允恭天皇と反正天皇の在位は並行します。
允恭と反正の即位年は一緒であるということでよろしいのでしょうか?
そうしますと研究家さんの主張される確定紀年の計算は反正5を省く応神5+空位2+仁徳30+履中5+允恭22+安康3+雄略5=72ということでよろしいのでしょうか?
そうしますと反正と允恭間の空位1年はどうなるのか?という問題が残る気がしますが……
>>29 > >69年(神功紀の紀年数)−189年(実際の経過年数)=-120年(不足する紀年数)
>
> 神功紀は、干支を2巡古くしただけで、「不足する紀年数」そのものが存在しない。
そうですね。私もそう思います。
言える事は神功皇后66年から応神3年までの編年上6年の間に実際には126年が経過していることだけです。
書紀の編年上、神功皇后の在位は201-269年ですが、実際の応神の即位年を390年とすると321-389年ということになります。
つまり神功皇后の在位が120年引き上げられている。
また書紀の編年上の応神天皇の在位は270-310ですが、実際の応神の即位年を390年とすると390-430年となります。
つまり同じように応神天皇の在位も120年引き上げられている。
また書紀の編年上の雄略5年は461年、記述内容から比定される年代も461年。
書紀の編年上の雄略元年から応神元年までは192年、実際の応神の即位年を390年とすると72年。
つまりその間120年引き伸ばされてる。
それだけのことであり、
> >69年(神功紀の紀年数)−189年(実際の経過年数)=-120年(不足する紀年数)
は意味のない計算だとい言わざるを得ません。
>>7の下段ということです。
-120年があると仮定すると、
・神功皇后の治世は実際には189年あった。
・神功皇后と応神天皇の間には記紀に残らない天皇がいた。
・神功皇后と応神天皇の間には120年の空位期間があった。
・応神3年は実は応神123年だった。
・応神3年は実は応神63年であり、神功皇后の治世は129年であった。
・応神3年は実は応神x+3年であり、神功皇后の治世はx+69年であった。
等等のケースが考えられますが、研究家さんは削られた120年に対してどのようなケースを想定されておられるのでしょうか?
33 :
サガミハラハラ:2007/05/02(水) 13:21:26
私は現在継体から欽明にかけての年代の割り出しをめざしております。
ところで、この時代は安閑、欽名の2朝が存在したという説があります。
はたして2朝は並立したのか皆様のご意見をたまわりたいとおもいます。ご論議のほどよろしくお願いいたします。
34 :
唐松山:2007/05/02(水) 19:20:28
四分暦と景初暦で 歴年を並べてみました。 前回と設定位置が違っています。
まず 四分歴で
歴年 月 暦日 干支 天皇 調整
0年 1月 1日 甲子 0日
152年 1月 55519日 壬午 崇神 0日
220年 1月 80354日 丁丑 垂仁 0日
319年 7月 116706日 己巳 景行 0日
379年 1月 138441日 甲申 成務 0日
440年 1月 160707日 庚寅 仲哀 -1日
449年 3月 164073日 丙申 神功 -1日
517年 10月 189115日 戊午 神功末 -2日
518年 1月 189204日 丁亥 応神 -1日
次 景初歴 干支の廻しの関係で設定位置がずれています。
歴年 月 暦日 干支 天皇 調整
0年 1月 1日 甲子 0日
287年 1月 104834日 丁丑 垂仁 0日
386年 7月 141186日 己巳 景行 0日
446年 1月 162921日 甲申 成務 0日
507年 1月 185187日 庚寅 仲哀 0日
516年 3月 188553日 丙申 神功 0日
585年 1月 213684日 丁亥 応神 0日
628年 1月 229394日 丁丑 仁徳 0日
663年 2月 242209日 壬子 履中 -2日
669年 1月 244394日 丁丑 反正 28日
四分歴では、成務、仲哀辺りから ―1日 狂う(月齢的には、歓迎)
景初歴 履中から完全に ―2日狂っています。 (日々の廻し閏の入れ処も狂う)
35 :
唐松山:2007/05/02(水) 19:51:16
四分暦は、200年で1日プラスになる暦です
そうすると 仲哀 より200年前には、景初暦に代わっていた。
垂仁の頃から仁徳まで景初暦
履中からは全く新しい暦 干支も中国と合わないだろうか?
36 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/02(水) 20:00:53
>>29さん
日本書紀において、神武元年を紀元前660年、持統11年を697年に位置づける
編年では、神功元年は西暦201年になります。
そして、応神元年は、研究史上においても、実年代で390年に相当するというのが、通説です。
神功紀の末年の神功69年は、390年の1年前ですので389年となります。
神功紀においては、201年から389年までの189年間を扱っていることになるのです。
したがいまして、189年という数字も、わたくしの恣意ではありません。
37 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/02(水) 20:06:17
>>29さん
また、応神元年から雄略5年までのプラス120年についても、
応神元年を390年、雄略5年を461年と考えますと、
明らかに、120年分の紀年がプラスされています。
プラス・マイナス構想は、わたくしの恣意ではなく、
数学的に、そのような構造になっているので、指摘したまでのことです。
38 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/02(水) 20:12:40
>>30さん
プラス・マイナス構想のプラス領域の歴代天皇においては、延長紀年が
設定されているのは、三帝のみです。
しかし、プラス・マイナス構想の枠外の歴代天皇につきましては、
延長紀年を持つ天皇の在位はあったと考えられます。
延長紀年は、古事記崩年干支によって求めました。
39 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/02(水) 20:17:08
>>30さん
>>25につきましては、日本書紀は、なぜか、踰年称元法を用いているのです。
現実には、前帝の崩御と次帝の即位は同年であったはずです。しかし、
編年においては、1年ずらしているのです。
現実には仁徳末年の427年は、履中天皇の即位年でもあったはずです。
そこで、427年を履中元年として編年しますと、仁徳末年は、仁徳30年の
426年となるのです。
40 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/02(水) 20:23:03
>>31さん
>>37でも述べましたように、神功紀は西暦201年から389年までの189年間
を扱っています。応神元年が390年に位置づけられることに、注目していただきたいと思います。
単に、干支2運古くしただけでは、応神天皇の古事記崩年干支の394年は
説明できないのではないでしょうか。
>>38 > プラス・マイナス構想のプラス領域の歴代天皇においては、延長紀年が設定されているのは、三帝のみです。
ですからそれは何を以ってそう判断されるのかを問うているんですが……
>>39 紀だけの情報から、
空位期間2年(紀)+仁徳30年(紀の次天皇の立太子記事による)+履中6年(紀)=38年
記の崩年干支から、
(応神没→仁徳没=)33年+(仁徳没→履中没)5年=38年
仁徳紀における履中立太子記事は1年前倒しにされてるんじゃないんですか?
>>40 > 神功紀は西暦201年から389年までの189年間を扱っています。
扱っていません。
扱っているのは紀の編年上は201-269年です。
記述内容から比定される年代である神功皇后66年=266年もその編年と合致しています。
神功皇后紀が卑弥呼・壹与を覆い隠すために引き上げられただけです。
さらにいえば神功皇后の紀年自体もおそらく延長されてます。
仲哀天皇没は記の崩年干支によると壬戌(362)ですから、応神没の394年まで32年しかありません。
ということは神功皇后+応神天皇の治世は32年であり、応神天皇の治世が5年であるなら神功皇后の治世は27年でしかありません。
つまり42年も延長されてるわけです。
これは神功皇后27年では120年引き上げただけでは243年までしかいかず卑弥呼に当てはめられなくなるからと思われます。
43 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 21:55:29
>>36 違うっていうの。
応神元年を、研究史上において実年代で390年に相当するという通説に従うのは良いが、
それは、「記紀の編年は信用できない」という証明でもある。
にも関わらず、神功元年を、記紀の編年を信用して、西暦201年だと決めてかかるのはスジが通らないということだ。
>>43 そういうことでしょうね。
神功皇后即位の実年代が201年だと主張されるなら、首尾一貫してるのですが……
もしかしてそう主張してたのでしょうか?
それとどうでも良いことかもしれませんが、
>>42も私です。
たまにメル欄に入れ忘れてただの名無しのようになってしまっていますが、他意はありません。
45 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 00:14:01
応神元年=270じゃないのか?
47 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 08:42:04
記紀の編年はそのままでは信用できませんが、単純な方法で修正できます。
ただ、今までその方法がわからなかったために、信用できないとされていたわけです。
48 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 08:56:00
>>41さん
>>38について
三帝の延長紀年と空位年の合計が、ちょうど120年になるからです。
わたくしのHP「倉西先生のご学問所」(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)
の歴史学コースの日本書紀紀年法入門の確定紀年と延長紀年の図をご覧いただけばわかりますように、
古事記崩年干支によって延長紀年が算出され、その合計が120年になるわけですので、
プラス・マイナス120年構想の範囲内では、三帝のみと判断できるのです。
>>39について
1年の前倒しではなく、日本書紀が踰年称元法という編年法を用いていることに
よって生じた問題です。
49 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 08:57:52
>>42さん
それでは、42さんは、応神元年は、実年代で何年に位置するとお考えでしょうか。
50 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 09:03:16
>>42(44)さん
また、学術的議論では議論の混乱を避けるためには、誰がどの説を唱えておられるのかが
はっきりしていることが大事ですので、
42(44)さんは、コテハンかトラップを付けていただきたくお願い申し上げます。
51 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 09:06:40
>>46さん
応神元年は、応神三年条などに見える海外関連記事から、西暦390年と
考えられます。
52 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 09:10:15
>>51 日本書紀紀年法研究家さんが三国史記の紀年を信用する根拠を教えてください
>研究家さん
>>48 > 三帝の延長紀年と空位年の合計が、ちょうど120年になるからです。
結果から逆算された事を理由に持ってこられても困ります。
自家撞着です。
> 1年の前倒しではなく、日本書紀が踰年称元法という編年法を用いていることによって生じた問題です。
自分で何を仰られてるかお分かりなのでしょうか?
そうすると古事記の仁徳崩年干支は間違いなんですね?
履中紀における反正立太子記事は2年の条ですが、履中の確定紀年は1年なんですか?
反正は允恭と並列してたから問題無いということですか?
どうも法則の適用が恣意的に感じます。
>>49 > それでは、42さんは、応神元年は、実年代で何年に位置するとお考えでしょうか。
それでは逆にお聞きします。
神功元年は実年代で何年に位置するとお考えなのでしょうか?
>>50 > 42(44)さんは、コテハンかトラップを付けていただきたくお願い申し上げます。
専ブラ(2ちゃんねる専用ブラウザ)をお使いであれば、メール欄が見えると思います。
”判別用sage”というのが私です。
それでも分かりづらいというのなら、考えます。
>>48 さらに補足。
下段について。
>>41で示した↓
> 紀だけの情報から、
> 空位期間2年(紀)+仁徳30年(紀の次天皇の立太子記事による)+履中6年(紀)=38年
> 記の崩年干支から、
> (応神没→仁徳没=)33年+(仁徳没→履中没)5年=38年
> 仁徳紀における履中立太子記事は1年前倒しにされてるんじゃないんですか?
についてはどう思われますか?
56 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 15:23:45
>>53さん
『三国史記』の成立は、一一四五年と百済滅亡から4、5百年も経ておりますが、
日本書紀にも百済三史が見えるように、もととなった史書があったとされています。
また、現地で編纂された史書でもありますので、信憑性はあるのではないかと、考えております。
57 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 15:32:32
>>54さん
>結果から逆算された事を理由に持ってこられても困ります。
まったくの逆で、結果として、ちょうど120年となったのです。
わたくしのHP「倉西先生のご学問所」(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の日本書紀紀年法に
図を用いて説明しておりますので、ぜひ、ご自身で、計算式を計算なさって確認してみてください。
また、一年の前倒しは、たとえば、A年にA天皇が崩御されたとします。そして、A年にB天皇が即位されたとします。
すると、踰年称元法では、A年をA天皇の崩御年とするか、B天皇の元年とするのか、
といった問題が生じることになります。史実としてA天皇の崩年はA年でも、日本書紀では、
A−1年となってしまう場合があるのです。したがって、古事記崩年干支が間違っているというわけではありません。
→
58 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 15:38:14
>>54さん
→
>>49についきましては、神功元年は、少なからず西暦201年(雄略列)と
321年(応神列)の2か所に設定されていると考えております。
また、
>>50につきましては、現在は、2ちゃんねる専用ブラウザを使用しておりません。
学術的議論におきましては、わたくしだけではなく、このスレッドの他の皆様も
誰がどの意見を述べておられるのか、一目瞭然、はっきりわかるほうがよいと思いますので、
コテハンかトリップを付けていただきたくお願い申し上げます。
59 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 15:41:44
>研究家さん
>>54 質問に対する答えになっていません。
応神、仁徳、允恭らに延長紀年が設定されていて、履中、反正、安康らには設定されていないと何故言えるのでしょうか?
120という数値を用いず説明してください。
>>55 仁徳の没年は何年なのでしょうか?
仁徳の治世が30年であるなら古事記の崩年干支である丁卯の前年にならなければ計算が合いません。
履中の治世は何年間なのでしょうか?
理由は良いです。以上を数字で端的にお答えください。
>>58 何年に設定されてるかはどうでもいいです。
実年代では何年だとお考えですか?とお聞きしてるんです。
神功皇后66年の記事は実際にその年代に神功皇后が行ったものなのでしょうか?
#一応、これ関係のスレだけトリップを使うことにしてみますので、以後よろしくです。
61 :
唐松山:2007/05/03(木) 19:47:28
景初暦 と 元嘉暦の比較
景初暦=1843年間=22795月=673150日
元嘉暦=608年間=7520月=222070日 です
景初暦≒元嘉暦= =INT(INT((B4*365.24688)/29.5306+0.5)*29.5306)
+CHOOSE(MOD(C4,13)+1," ",0,30,59,89,118,148,177,207,236,266,295,325)+$D$1
$D$1=調整値=1 B=歴年 C=月
日の干支を割出すだけなら 同じ式で充分
逆に言うと 景初暦と元嘉暦の差は、見つけられない。 と言う事に成ります。
なお 元嘉暦は、元嘉22年(450AD)より使われた
よって 履中天皇は、この後に即位したと思われます。
62 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 20:02:14
>>60 YvOB8さん
>>54について
まず、応神元年を西暦390年、雄略5年を西暦461年と考えますと、
この間に経過した年数は72年であることになります。しかし、応神元年から
雄略5年までの紀年数をすべて合計しますと192となります。
120年分の紀年が、実際に経過した72年に加えられてあり、超過紀年としてあることになります。
それでは、超過紀年120年の問題は、日本書紀紀年法において、どのようにして、解決されているのでしょうか。
そこで、古事記崩年干支が、確定紀年と延長紀年の区切りを示していると考えて、
応神天皇、仁徳天皇、允恭天皇の3帝の在位期間を古事記崩年干支によって確定紀年と延長紀年とに分けて、
延長紀年と空位年を合計してみますと、ちょうど120年になります。
このことから、延長紀年が、超過紀年である可能性が極めて高いことがわかるのです。
→
63 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 20:10:11
>>60 YvOB8さん
→
>>55について
古事記崩年干支は、崩御なのか、譲位なのか、という問題はありますが、
仁徳天皇の確定紀年は仁徳30年の426年までで、仁徳31年=履中元年=427年となり、
履中天皇の在位は6年間で、崩年は古事記崩年干支の西暦432年となります。
>>58について
神功66年条は、『晋書』から引用した台与についての記述ですので、
雄略列上に、実年代を求めて西暦266年となります。
64 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/03(木) 20:13:55
>>59にて、HP「倉西先生のご学問所」のアドレスの表記を間違えてしまいました。
正しくは、http//:www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/です。
歴史学コースの歴史発見物コラムにて、 紀年法と暦法はどこが違うのか、
似て非なる紀年法と暦法の違いをわかりやすく説明することを試みてみました。
興味のある方々は、ぜひ、ご覧ください。
>>56 確かに記紀にある王名と同一の王が記載されていますから百済三史の元となった史料が半島に残存していたとする推論は妥当性がありますが
現地で編纂された史書なら『どの時代でも』信憑性があるという考えは間違いです。実際に新羅本紀の例ですが阿達羅王の時代に卑弥乎の記載も信憑性があるのでしょうか?
66 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 21:55:47
キチガイ大国がいないと、まともな議論が続くよな
67 :
唐松山:2007/05/03(木) 22:17:31
研究家さんへ
暦法 が解るのでしたら
履中から −2日の朔 も検討してください
研究家さんの考えは、これらの朔も (四分暦、景初暦)書紀編纂者が
割り振った物とお考えでしょうか?
返答無くてかまいません そのうち 考えが、まとまってからでかまいません。
元嘉暦伝来以前に崩年干支は存在し得ない。
69 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 23:52:50
儀鳳暦期間の日付はなにを根拠に設定したんだろうか
大国って・・・嗚呼・・・
71 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/04(金) 08:28:53
>>65 53PTSDさん
4世紀後半になりますと、百済は中国南朝とも通交関係を結ぶようになります。
中国側史料にも、対百済関連の記事が見えます。
『三国史記』の編纂において、対倭国外交資料が対中国外交資料が切り離されてあったとは
考えられません。当時の国際情勢において、対中外交と対倭外交は密接に関連しています。
「新羅本紀」の信憑性に問題のある記事は、3世紀という昔の時代のものですが、
4世紀末の記述となりますと、ある程度は信憑性があるのではないでしょうか。
72 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/04(金) 08:34:46
>>67 唐松山さん
履中紀には、四分暦でも景初暦でもなく儀鳳暦が用いられています。
雄略紀からは、確実に元嘉暦となるようです。
朔の−2日は、このことと関連があるのではないでしょうか。
73 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/04(金) 08:39:03
74 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/04(金) 08:42:56
>>69さん
興味深いご疑問であると思います。
儀鳳暦の期間においても月日がありますので、当時、なんらかの暦法があって、
その月日を儀鳳暦に変換させたのか、それとも、8世紀に、日本書紀の編纂者が
伝承か何かにもとづいて、適当に決めたのかという研究課題があることになるかと思います。
75 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/04(金) 08:46:40
77 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 11:10:11
>>74 詳しくないのですが、
儀鳳暦というのは、月日は記録できない暦法なんですか?
儀鳳暦ってのは唐の暦法ですから
それを5世紀以前に適用しているんですからこの記録は…
79 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 14:39:27
儀鳳暦かどうかってのは、どこでわかるの?
>研究家さん
>>62 質問に対する答えになっていません。
古事記の崩年干支の問題から応神、仁徳、允恭の紀年が延長されてる。
履中、反正は変わらず、安康は不明。
これが答えなんじゃないですか?
もっとも履中も見かけ上は延長されてますが、これは理由が別にあると思います。
また雄略はその末年が研究家さんの論じられてる範囲から外れてはいますが、逆に10年縮められています。雄略の治世が紀の通りなら安康が10年縮められていて、本来雄略5年の記事は安康の事跡だったなんてこともあるかもしれませんw
>>63 > 古事記崩年干支は、崩御なのか、譲位なのか、という問題はありますが、
ああ、譲位の可能性は入れてませんでした。
トータルの数字は合ってるのでこの問題はこれで良しとしましょう。
ただ譲位でなかった場合は、仁徳没年と履中元年は同年ということになるでしょう。
どちらが正しいかは断定できない事柄なのでしょう。
ここで新たな問題が持ち上がります。
次天皇の立太子年は実際には次天皇の即位年である。
これは正しいのか?
>>58について
> 神功66年条は、『晋書』から引用した台与についての記述ですので、
> 雄略列上に、実年代を求めて西暦266年となります。
それは神功皇后の事跡なのでしょうか?
#トリップだけじゃ認識しづらそうなのでコテを足してみました。
82 :
唐松山:2007/05/04(金) 17:25:19
儀鳳暦は、唐の時代の李淳風が作成したもので、中国では麟徳暦と呼ばれ、麟徳2年(665年)から64年間使用された
神武は、儀鳳暦で書かれている?
私の考えでは 神武時代の干支は、神武時代に記録された物である。
儀鳳暦も景初暦も500年間ぐらいの朔では、 誤差がないと考えられますので
その辺はおいといて
儀鳳暦で書かれている という事は干支は、後の世に適当に割り振られた物である ということに成りますが
其の割には、干支も論議の対象としているように見受けられます
83 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 17:56:24
今、神武の時代から干支が記録されていた考える人は少ないね
そもそも神武ってなんなのさ?
84 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/04(金) 22:18:27
>>77さん
>>80さんがご説明されているように、研究史上において、日本書紀の暦日を丹念に調べた結果、
元嘉暦と儀鳳暦が用いられていることが明らかとされています。
日本書紀の暦日の朔と一致する暦法を調べて、元嘉暦と儀鳳暦であることが
わかったのでしょう。
85 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/04(金) 22:23:56
>>81検証中さん
>質問に対する答えになっていません。
いいえ、わたくしの
>>62での答えは、ご質問に対する答えになっております。
応神天皇、仁徳天皇、允恭天皇には延長紀年が設定されており、その合計+空位年が120年であり、
それは、応神元(390)年から雄略5(461)年までの間に超過している紀年数120年と
一致しているわけです。
どうして、
>>62が、ご質問の答えとなっていないと、お考えなのでしょうか。
86 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/04(金) 22:29:18
検証中さん
また、神功皇后の事績は台与の事績であるのかと、というご質問に対しましては、
可能性はかなり高いと考えております。もっとも、神功紀は西暦201年から389年までの189年間を
扱っておりますので、神功皇后の事績には、複数の人物像が投影されているようです。
87 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/04(金) 22:36:40
>>82唐松山さん
日本書紀において、儀鳳暦で設定されている暦日は、8世紀の日本書紀の成立期に
別の暦法において記録されてあった暦日を儀鳳暦に変換させた、ということは、
可能性としては否定されえないのではないかと思います(例えば、中国春秋戦国に
使われていたという四分暦)。
>>85 延長されてるされてないというのは二つのものを比較して分かることです。
この場合、書紀の編年上の紀年と実際の(あくまで便宜上の述語です。事実そうであったか否かは別問題)紀年との比較です。
……と、このような答えを期待していたのです。
その上で「では実際の紀年はどのように算出したのでしょうか?」という風な流れにしたかったのですが、どうも質問してる過程でこちらも最初の意図からずれてしまったようです。すいません。
研究家さんが各天皇の紀年を確定させる作業過程は、
1.書紀の編年上の紀年。
2.古事記の崩年干支に当てはまる年を天皇の末年とする。崩年干支の無いものはそのまま。
3.天皇の即位年は紀の前天皇との末年との関係性を維持する。
基本はこれで良いのでしょうか?
それとも3は「前天皇紀の立太子記事をもって天皇の即位年とする。」でしょうか?
またはその他?
そうした事を一人一人の天皇について検証していきたかったのですが、質問者の未熟さのおかげで上手くいかなかったようです。反省。
>>86 > また、神功皇后の事績は台与の事績であるのかと、というご質問に対しましては、
そうではなくて、
神功皇后66年の記事は神功皇后の事跡だとお考えなのでしょうか?
という質問です。
神功皇后の即位年は編年上は201年に当たりますが、応神列(研究家さんの述語に則ります)での神功皇后の即位年は321年に当たります。
書紀の編年上、神功皇后66年に当たる266年には神功皇后は当たり前ですがまだ即位していません。
90 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:59:24
>>86 >神功紀は西暦201年から389年までの189年間を
だからね、
実年代とされる389年は、編年とずれてるのに、
神功紀の即位年を201年として編年と正しいと決めてかかる根拠はなんだ?と言うわけだよ。
91 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 07:50:52
神功紀の摂政元年に、和歌山での日食の話がでてきます。
201年の三月に和歌山県御坊市で日食が見られました。
よって201年即位が立証されるわけです。
92 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/05(土) 08:26:52
>>88検討中さん
ご質問の内容が、履中天皇と反正天皇には延長紀年が設定されていない点に重点を
置いたものであったことに気付かなかったことから、どうも、ご質問に対しての答えが
要点からずれてしまっていたようで、こちらこそ、反省いたしております。
>3.天皇の即位年は紀の前天皇との末年との関係性を維持する。
>基本はこれで良いのでしょうか?
>それとも3は「前天皇紀の立太子記事をもって天皇の即位年とする。」でしょうか?
につきましては、わたくしも、悩んだところです。
日本書紀は、踰年称元法によって前帝の崩御(譲位)と次帝の即位の関係を整理しています。
この方法ですと、古事記崩年干支は、日本書紀では、前帝の崩年として編年されているのか、
次帝の即位年として編年されているのか、という問題があることになります。
そこで、パターン1(古事記崩御年干支=前帝の末年)と
パターン2(古事記崩年干支=次帝の即位年)という2通りの編年法が用いられていると
考えております。→
93 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/05(土) 08:34:38
検討中さん
→神功66年条につきましては、神功66年条は、『晋書』からの引用文によって
構成されています。検討中さんのご質問は、”引用文中の「倭女王」は、
神功皇后のことであるのか?”というものなのでしょうか。
神功紀には、応神列とともに、雄略列も設定されています。少なからず、
2本の年代列があるのです。『晋書』の記述は、266年のものですので、
神功66年条は、雄略列上に実年代を求めて、266年となります。
94 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/05(土) 08:38:06
>>90さん
>神功紀の即位年を201年として編年と正しいと決めてかかる根拠はなんだ?と言うわけだよ。
神功紀には魏志倭人伝が引かれているからです。
日本書紀の編纂者は、明らかに神功紀の扱う時代に3世紀を含めているのです。
95 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/05(土) 08:41:54
>>91さん
神功元年の西暦201年に和歌山県御坊市で日食があったという天文学からの研究は、
どなたがなさっておられる研究なのでしょうか。
96 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 11:47:33
>>94 ちょっとまて。
外国の史料が引用されていたら、その部分が実年代の記述を示しているというのか?
98 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:59:04
>>96 実年代を示しているわけではない、日本書紀編者がそう設定しているだけ。
年代が正しいか正しくないかの問題ではない。
99 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:12:00
>>98 だからなんなの?
神功〜雄略までを120年水増しして古くしただけでしょ?
研究家さんは、とてもまわりくどく説明してるだけで、
たとえて言うなら、
1+1=2
を、
1+120+1-120=2
と、説明してるようなものだ。
江田船山と稲荷山を比較すれば分かるように、
干支で年紀を表すようになったのは、雄略前後から。
それ以前は、某天皇の御代(あるいは某天皇がどこどこに居た時)とだけ。
具体的に何年とかは言わない。
101 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 20:40:07
だから日本書紀編者が設定している年代は実年代とは関係ないんだって
百済三逸史に出てくる倭王だって特定の王名が書かれていたわけじゃないのは明らか。
102 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:27:01
天文ソフトのステラナビゲータをつかうと、簡単に表示されます。
例えば、卑弥呼は天照大神で天石戸隠れは日食のことであるという考えから、卑弥呼の死んだと思われる年の北部九州をこのソフトで検索すると、確かに、卑弥呼の死んだ年に日食があったことが表示されます。
天文ソフトをつかう研究では安本美典氏が著名です。
ただし、神功皇后の日食の件には裏があり、(実際には日食はなかった)後藤幸彦氏が今度だす本に詳しくのっているはずです。
103 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/05(土) 22:37:43
104 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:19:54
神功紀のどこに日食があったって?
日食ってのは、何日も続くのか?
105 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/06(日) 09:48:54
>>96さん
重要なことは、日本書紀は、神功紀を魏史倭人伝の時代から応神元(390)年の1年前の389年を含む
ように設定しているということです。
したがって、神功紀には、神功元年を西暦201年に設定した雄略列と神功元年を西暦321年に
設定した応神列の2本の年代列があります。神功紀の各々の条は、これらの2本の年代列のどちらかに、
実年代を求めることができます。
106 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/06(日) 10:07:08
>>97さん
「自作君」とは誰のことでしょうか。
たぶん、どなたかが、複数のコテハンを用いるか、「日本@無名史」で、会話のような書き込みを行っているのでしょう。
議論が混乱しないように述べておきますが、
わたくしのコテハンは、「日本書紀紀年法研究家」で、トリップも付けております。
そして、わたくしのアイデンティティーについてはHP「倉西先生のご学問所
(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)」のプロフィールをご覧いただければ、
わかります。学術的議論を望んでおりますので、事実上、匿名ではないのです。
わたくしの書き込みには、すべて、わたくしのコテハンとトリップが付いております。
わたくしのコテハンとトリップが付いていない書き込みは、わたくしの書き込みではありません。
わたくしのコテハンとトリップを盗用して、立てられた[倭の五王編]の存在を容認しなかったのは、そのためです。
わたくしは、「日本書紀紀年法研究家」というコテハンを用いているものの、事実上匿名ではありませんので、
”なりすまし”されているようで、容認できなたっかのです。
自作自演をなさっておられる方は、止めていただきたいと思います。
107 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/06(日) 10:17:23
>>99さんは、
>>98さんを、わたくしと勘違いしているようです。
>>106にても述べましたように、わたくしの書き込みには、すべて「日本書紀紀年法研究家」という
わたくしのコテハン、ならびに、トリップが付いております。
学術的議論をおこなうために、事実上、匿名では無く、わたくしのアイデンティティーははっきりさせて、
スレッドを立てておりますので、どうぞ、皆様も、コテハンかトリップを付けて、なるべく、誰が、どの意見を述べているのか、
はっきりとさせていただきたくお願い申し上げます。
また、自作自演は厳禁です。
108 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/06(日) 10:24:39
>>102さん
>天文ソフトのステラナビゲータ
天文ソフトのステラナビゲータで、地域ごとの日食がわかるとのこと、
教えていただきましてありがとうございます。
そのステラナビゲータとは、どちらで製造されたものなのでしょうか。
また、卑弥呼が畿内にあったと考えますと、日食があったという年代は
異なってくるのではないでしょうか。
109 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:05:02
私のはアスキー社製です。ほかにもいくつかでています。前にだれかが、提示版に載せた方がおりました。
どなたか載せていただくとありがたいです。(わたしは、やりかたがわからないので)
日食は東から西へと移動していきます。201年の日食も和歌山から新羅のほうへ移動し、三国史記新羅本紀に記録されました。
卑弥呼時代の日食も大和から北部九州へと移動し、大和ではどう見えたとか安本氏がかなり精しく論じていました。季刊邪馬台国bT7等。
110 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/06(日) 13:17:09
>>109さん
アスキー社製とのこと、お教えいただきまして、ありがとうございます。
また、
>>107にて、若干述べましたように、自作自演の禁止と、”成りすまし禁止”対策のため
(このスレッドでも、わたくしの名前を明記して、名指してわたくしの説を批判されておられる方々が
おられるように、日本書紀紀年法研究家というコテハンを用いておりますが、わたくしは、事実上、
匿名では無く、本名にて、スレッドを立てております。日本書紀紀年法研究家に”成りすま”されますと、
わたくし個人に、成りすましていることになります)、
>>109さんも、ぜひに、
コテハンかトリップを付けていただきたくお願い申し上げます。
111 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:40:52
日食は、普通に数年おきに起きてる現象ですよ。
ステラナビゲータでもわかります。
100年に一度しか起きないとか、そういうものではありませんよ?
だまされないでくださいね。
>研究家さん
>>92 立太子記事を用いない方法だと119年しか余分な年数しか導き出せません。
しかし立太子記事を次天皇の即位年としてよいのでしょうか?
・神功皇后3年の応神立太子記事。
・応神40年の菟道稚郎子立太子記事。
・履中2年の反正立太子記事。
・允恭23年の木梨軽皇子立太子記事。
はどう解すべきなんでしょうか?
>>93 神功皇后紀に二つの元年が設定されてると仰られていますが、どうしても納得できません。
神功元年は書紀の編年上も神功皇后66年の記事から逆算しても201年です。
元年が二つ設定されてるというべきなのは応神天皇ではないのですか?
113 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/07(月) 08:02:36
>>111さん
歴史的事件と結び付いたり、日本書紀にも記録されたような日食は、皆既日食など、
日食は日食でも人々の印象に残るような日食でなければならなかったのかもしれませんね。
>>102 :日本@名無史さん :2007/05/05(土) 22:27:01
>天文ソフトのステラナビゲータをつかうと、簡単に表示されます。
おまえ、まだ、そんなこと言っているのか?
あの天文ソフトは誤差があって、正しいことは分からない。
NASAのHPを見てみろ。
卑弥呼の時代には、皆既日食は日本では観測されていない。
天文系の板で聞いたら、そんなことは当たり前だとかいって
安本の説は一蹴されてしまったぞ。
115 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/07(月) 08:17:11
>>112検討中さん
応神元年=西暦390年、雄略五年=西暦461年ですので、余分な年数は、
120年で間違えは無いのです。検討中さんの119年という数字は、どのような
内訳となっているのでしょうか。
>立太子記事を次天皇の即位年としてよいのでしょうか?
につきましては、おおよそにおいて、問題はないと思います。
前帝の古事記崩年干支は次帝の即位年、もしくは、即位年の前年とし捉えて
編年してある、と考えると、120年分の延長紀年が、きれいに算出されるという
数字的事実があります。→
116 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/07(月) 08:25:48
>>112検討中さん
→また、>神功皇后3年の応神立太子記事、>応神40年の菟道稚郎子立太子記事 、
>履中2年の反正立太子記事、>允恭23年の木梨軽皇子立太子記事につきましては、
それぞれ意味があります。神祇祭司王と執政王の問題があるため、短く説明することが難しいので、
いずれ、論文、もしくは、著作にて発表いたしたいと考えております。
例えば、神功3年は、崇神元年を西暦91年と捉えると西暦390年となります。
応神天皇については、立太子=即位という関係が成り立っています。
また、菟道稚郎子立太子は、菟道稚郎子皇子の執政王としての在位が2年間であることを示しています。
117 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/07(月) 08:31:44
>>112検討中さん
神功紀の2つの元年につきましては、神功紀には、4世紀後半を扱っていると考えられる
記述が見えます(例えば、七支刀)。したがって、2つの元年は、やはり神功紀において、
設定されていると考えられるのです。神功元年=201年は雄略列、神功元年=321年は応神列に一致しています。
実年代との関係が120年ズレる2本の年代列が神功紀において並行しているのです。
>>115 > 検討中さんの119年という数字は、どのような内訳となっているのでしょうか。
以下は、
・応神元年を390年である事。
・古事記の崩年干支を治世の末年とする。
・天皇の即位年は紀での前天皇没後何年であるか?を準用。
を前提とするものである。
・応神天皇
元年=390、没年=甲午=394年→∴5年
・空位期間→2年
・仁徳天皇
元年=397年、没年=丁卯=427年→∴31年
・履中天皇
元年=428年、没年=壬申=432年→∴5年
・反正天皇
元年=433年、没年=丁丑=437年→∴5年
空位期間→1年
・允恭天皇
元年=438年、没年=甲午=454年→∴16年
・安康天皇から雄略5年→8年間
各天皇の治世を足すと70年、空位期間が3年で73年経過。
紀の編年上の紀年では192年なので、差は192年-73年=119年。
延長紀年は120年のはずだが、1年足りない。
允恭没年が紀と記の崩年干支がずれてるのは致命的。
以上のことから崩年干支の信憑性も問われる可能性も大きい。
ただし、允恭天皇紀における木梨軽皇子立太子記事の問題から解決できる可能性もある。
もっとも立太子記事=次天皇即位かについては他の全ての事例に当てはめることが出来るのかは検証し切れていない。
119 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/08(火) 08:36:02
>>118検討中さん
検討中さんは、延長紀年ではなく、確定紀年も含めて計算されているのではないでしょうか。
わたくしの考えている延長紀年と空位年の合計120年の内訳は以下のようになります。
応神列の延長紀年:応神8年(397)から応神41年(430)までの34年
空位年:2年(395−396、もしくは、431−432年)
仁徳列の延長紀年:仁徳31年(427)から仁徳87年(483)までの57年
空位年:1年(438)
允恭列の延長紀年:允恭元年(433)から允恭6年(438)までの6年
允恭23年(455)から允恭42年(474)までの20年
となり、34+2+57+1+6+20=120となります。
もし、わたくしの計算が正しいようでしたならば、検討中さんは、
日本書紀紀年法にはプラス・マイナス120年構想が設定されており、
プラス領域は、多列・並列構造となっているというわたくしの説に
賛同していただけるのでしょうか。
120 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 20:39:02
>>114 NASAのHPに掲示されていることを、市販のステラナビゲ−タの企業が参考にしていないということですか。
それは亦資本主義の世の中、妙な話ですな。
商品は信頼性がないと売れないので、企業は正確なものを一生懸命とりいれていると思うのですが。
しかし確認してみましょう。とりあえず、このスレをごらんの方々では、
>>114の内容は正しいのでしょうか?
アスキー社製のステラナビゲータは何年か毎に更改されており、私の入手したものはVer6です。直後にVer7がでました。
今Verいくつでしょ。
121 :
サガミハラハラ:2007/05/08(火) 21:38:05
日本書紀紀年法研究家さま。
畿内王権生成史の謎のスレをご訪問いただきありがとうございます。
ところで研究家さまは、継体帝から欽明帝にかけての年代についてどのようにお考えでしょうか?
二朝並立や各天皇の崩年や干支についてお聞かせ願えれば幸いです。
122 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:28:00
>>120 NASAがどうかは知らないが、
卑弥呼の日蝕とされる日蝕は、非常に地平線近くで起きており、
観察できたかどうかわからんね。
それよりもっとよく日蝕と呼べる日蝕は、200年から300年にかけて、10回以上も起きてるよ。
天文学板にいったら
市販のステラナビゲ−タは
歴史を遡れば上るほど
誤差が激しいので、当てにはならんとか
と言われた。
で、その例の247年について聞いたら
日本では、皆既日食は、その時代、観測されてません
という話だった。
普通の日食だと、インパクトがないんじゃないのか?
古代の人には...
やはり、皆既日食じゃないと、インパクトがないように思う。
247年ごろ、皆既日食が観測されたのは
中国大陸だったと思う。
NASAのには?
よって、卑弥呼の時代は、日本では皆既日食は観測されてない。
この皆既日食説は、結構、在野の歴史小説家や歴史愛好家が
飛びついた説で、その代表格が、安本だったり井沢だったりする。
126 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/09(水) 09:07:37
>>121サガミハラハラさん
雄略紀(雄略列)からは、神武元年を紀元前660年、持統11年を697年に位置づける編年と
一致してきますので、継体紀や欽明紀の紀年は、神武元年を紀元前660年、持統11年を697年
に位置づける編年のとおりに位置づけてよいのではないかと、考えております。
しかし、雄略6年以降は、プラス・マイナス120年構想の枠外となりますので、
日本書紀には、何らかの別の構想が設定されている可能性もあります。
例えば、日本書紀の成立期である8世紀、奈良時代の歴史的事象は、
120年遡った推古紀に影響を与えており、また、推古時代の歴史的事象が、
奈良時代に影響を与えているなど、興味深い関係が見えます。
127 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/09(水) 09:14:31
サガミハラハラさん
→また、継体天皇の古事記崩年干支、日本書紀の継体天皇の末年、日本書紀継体紀の分註に見える
異説のそれぞれが異なる年代となっていることなどには、何らかの理由や構想があったと
考えられますので、研究課題になるかと思います。
128 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/09(水) 09:20:35
日食について
ステラナビゲーターの誤差について議論があるようですが、
いずれにいたしましても、日食と卑弥呼、日食と天照大神の天磐戸籠りなどの年代を、
日食の年代から判断することは、難しいようですね(候補年が、たくさん生じてしまうようです)。
129 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 12:03:08
日本書紀紀年法研究家さんは、暦に詳しい方だと思いますが、
3世紀の当時の中国では、すでに日蝕は予測可能な天文現象だったと聞きます。
魏と通じていた邪馬台国でも、日蝕が天文現象だったと聞かされていたはずで、
日蝕と卑弥呼の死とは、なんら関係ないかと思われます。
130 :
唐松山:2007/05/09(水) 20:12:55
日食で検索すれば、使えそうなソフトが出てくる。
ついでに 新羅本紀、や百済本紀 と打ち込んで
こちらに出ている 日食の日付けを調べて併せてみると
全く合わない
131 :
サガミハラハラ:2007/05/09(水) 20:32:11
拙も神功皇后の新羅遠征の年代を日食で探ろうとして失敗したことがあります。
どうして失敗したのか、くわしいことはこんど出版する本の中で説明しております。
>>119 単純に(紀での経過年数)ー(記での経過年数)です。
(記での経過年数)は
>>118の通りです。
研究家さんの延長紀年、確定紀年の求め方にまだ疑問があるので、
>>88の下段のように一つ一つ検証していきたいのです。
で、立太子年=次天皇即位年は正しいか?
>>112 > ・神功皇后3年の応神立太子記事。
→神功皇后の治世は2年なのか?
> ・応神40年の菟道稚郎子立太子記事。
→応神天皇の治世は39年なのか?
→そうではなくて応神41年の残り2年が菟道稚郎子の治世なのか?
→しかしそれは空位期間として現れてるのではないか?
> ・履中2年の反正立太子記事。
→履中天皇の治世は1年なのか?
> ・允恭23年の木梨軽皇子立太子記事。
→允恭天皇の治世は22年なのか?
>>119 > もし、わたくしの計算が正しいようでしたならば、検討中さんは、
> 日本書紀紀年法にはプラス・マイナス120年構想が設定されており、
> プラス領域は、多列・並列構造となっているというわたくしの説に
> 賛同していただけるのでしょうか。
今の段階ではなんとも。
その計算の元となる紀年の出し方の方法論が納得いくものであれば、プラス領域における多列・並列構造に賛同することにやぶさかではありません。
134 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 23:46:36
神功皇后元年の日食(和歌山県御坊市で応神天皇が生まれた翌年あったとされる。)は、
日食の計算により、355年にあったことがわかりました。(アスキー社製ステラナビゲータ使用)ここに神功皇后、応神天皇、仲哀天皇の実在が証明されました。
よって応神天皇の誕生は354年となります。
135 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 23:54:01
ちなみに、3世紀近くの皆既日食をステラナビで調べると、
221年、342年となります。
ステラナビゲータは最近の皆既日食なら
だいたい分かるが
1000年以上も前の皆既日食を調べようと思ったら
誤差が生じて不可能なんだわな。
皆既日食は、部分日食と違って、少しでも誤差があったなら
皆既日食にならないわけだから。
よって、安本や井沢が、歴史愛好本や歴史小説本を売るために
例の247年、248年皆既日食説に飛びついたのが
いかに馬鹿だということがわかる。
彼はこれを本で書いてしまったから、恥が永遠に残るな。
137 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 00:38:57
で、NASAのサイトとか、天文板のスレってどれ?
探しても見つからないんだけど。
138 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/10(木) 08:36:16
>>129さん
わたくしは、日本書紀紀年法を研究しており、暦法の専門ではありませんので、
そんなに詳しいというわけではありません。紀年法の研究に必要な知識として、
かじっている程度です。紀年法と暦法の違いについては、HP「倉西先生のご学問所
(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)」の歴史発見物コラムで、わかりやすい
説明をこころみていますので、ぜひ、ご覧になってみてください。
日食につきましては、卑弥呼の没年や天照大神の天磐屋籠りの問題と結び付ける諸説がありますので、
本当のところ、日食は、どの程度あったのかという問題に興味がありました。
139 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/10(木) 09:10:01
>>132・
>>133検討中さん
>> ・神功皇后3年の応神立太子記事。
>→神功皇后の治世は2年なのか?
>> ・応神40年の菟道稚郎子立太子記事。
>→応神天皇の治世は39年なのか?
>→そうではなくて応神41年の残り2年が菟道稚郎子の治世なのか?
>→しかしそれは空位期間として現れてるのではないか?
>> ・履中2年の反正立太子記事。
>→履中天皇の治世は1年なのか?
>> ・允恭23年の木梨軽皇子立太子記事。
>→允恭天皇の治世は22年なのか?
これらのご質問につきましては、
>>116にて、若干お答いたしましたが、
それぞれにお答するには説明文が長くなりますので、徐々に、ご説明してまいりたいと思います
(2ちゃんねるでは、おそらく”あらし”対策のため、同じ人は、
5回までしかレスポンスできないようですので)。
HP「倉西先生のご学問所 (
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)」
の歴史発見物コラムで扱うかもしれません。
また、検討中さんは、これらの疑問点に、わたくしが納得のゆく説明を
行えば、プラス領域の多列・並列構造についてのみご賛同いただけるようですが、
それでは、神功紀のマイナス120年については、ご賛同いただけないということでしょうか。
もし、そうでしたならば、その理由は何でしょうか。
140 :
サガミハラハラ:2007/05/10(木) 09:42:03
しかし、結局のところ、卑弥呼のなくなった年に日食があろうがなかろうが、卑弥呼の死とはなんの関係もないのですよ。
第一、日食など珍しくはないし、時間も短いのです。日食のために卑弥呼が殺されたなどということはないのです。
141 :
唐松山:2007/05/10(木) 19:37:11
日食計算ソフト emapwin によると
西暦 328年5月25日
西暦 454年8月10日 この辺がまっとうな日食
なお地球自転の狂いは、2000年で5時間 軸の狂いは、判りません
百済、新羅の 年初は、2月建寅月(中華景初暦の使い始めが年初=建寅月2月でしたが、
途中より改めている。)
142 :
唐松山:2007/05/10(木) 19:42:00
ついでに 書紀に出ている
年初?の詔
途中より1月から2月に代わったように思う
143 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:06:44
【日本語】 【韓国語】
鉄(てつ)→ チャル
金(かね)→ クム
↑
金属の意味
日本の金属文化は、朝鮮とは無関係であることがハッキリした。
金(かね)は日本語であり、朝鮮語とは呼び方が違う。
朝鮮人が日本に金属文化を伝えたのならば、日本語でも「クム」と言うはず。
実際は言わない。
144 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 03:50:20
>>144 年代的にありえないわなww
新羅の建国時期を知っているのか?
新羅の建国時期は4世紀以降だろうが。
菅原道真の先祖とかスサノオの活躍時期は
紀元前1世紀〜紀元1世紀くらいなわけだから。
146 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/11(金) 08:16:04
>>142唐松山さん
>ついでに 書紀に出ている
>年初?の詔
>途中より1月から2月に代わったように思う
具体的に、いずれの天皇のいずれの詔でしょうか。
147 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/11(金) 08:29:25
>>144さん・
>>145さん
国境線がほとんどの地域で引かれている現代と異なって、
昔は、世界中で民族移動がありました(民族移動の結果、同一地域に複数の民族が混住してしまい、
民族問題を抱えている国々は、今日でも多くあります)。
また、複数の民族が統合したり、反対に分裂したり、民族形成の経緯は、それぞれ複雑です。
今日的な感覚で捉えないで、歴史を探究しなければならないのではないか、
と思います。
148 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 08:42:38
>>147 >今日的な感覚で捉えないで、歴史を探究しなければならないのではないか、
>と思います。
これはおっしゃる通りですね。
歴史家にとっては至極当然な心構えだと思いますが、
その当然のことが出来ない歴史愛好家の一部が、あれこれ言うわけです。
149 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 20:51:51
★カラとは何か★
加羅と書いてカラと読む。韓と書いてカラと読む場合もある。
カラの語源は、日本語古語の離る(カル)である。カルとは「離れる」という意味の大和言葉である。
このカルが変化してカラとなった。「大和から離れた土地」「海の向こうの土地」という意味である。
また、伽耶(カヤ)の語源も日本語である。日本語古語の離ゆ(カユ)は「離れる」という意味であるが、
カユが変化してカヤとなったのである。つまり、カラとカヤは同じ意味の地名なのだ。
カラ=カヤの地には、紀元前から多くの倭人(日本民族)が住み、華やかな日本文化が栄えていた。
カラは倭人の世界だったのである。
現在、カラ半島に住んでいる朝鮮人は、4世紀頃(300年代)に、カラ半島北部から南下してきた
ワイ人の末裔なのである。
結論は、朝鮮人はカラビトではない、ということである。
カラ=カヤの国
http://www.kase-hideaki.co.jp/k005/trees.cgi?tw=&log=&search=&mode=&v=1237&e=res&lp=1181&st=0
>>139 > それでは、神功紀のマイナス120年については、ご賛同いただけないということでしょうか。
> もし、そうでしたならば、その理由は何でしょうか。
削られた紀年が不明。これに尽きます。
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命
卑弥呼と台与の間に短期間だけ即位した男の王=大田田根子命
台与=豊鍬入姫命
卑弥呼の男弟=卑弥呼の即位時は孝元天皇
239年の時点では開化天皇
442年くらいから崇神天皇
狗奴国の男王・卑弥弓呼=武埴安彦命
難升米(239年、卑弥呼が魏へ使わした大夫)=梨迹臣(崇神時代の中臣氏の先祖)
都市牛利(239年、卑弥呼が魏へ使わした次使)=丹波大県主・由碁理
伊聲耆(243年、卑弥呼が魏へ使わした大使)=彦五十狭芹彦命
152 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 23:55:56
難升米=夏羽
153 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 07:14:00
日本は言霊の国なのです。
語呂合わせで古代がわかります。
馬鹿馬鹿しいww。
いい加減古代史研究家の皆さんは語呂合わせ、言葉遊びの世界から覚醒してはいかがでしょう。
154 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/12(土) 09:30:50
>>150検討中さん
神功紀は189年間を扱っていますので、120年分の紀年が足りていないことになります。
そこで、これをカバーする別の構想があると考えております。
現在、研究中の構想は、崇神元年を西暦91年に位置づけると神功三年が
西暦390年になるという構想です。
神功三年は誉田別皇子(応神天皇)の立太子年ですので、390年は応神天皇の
即位年であって、かつ、立太子年であるということになります。
155 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/12(土) 09:33:15
>>153さん
たしかに、語呂あわせ説は、多種多様あって、中には、首をかしげるものもありますが、
実際、用語は訛る場合がありますので、研究課題にはなると思います。
156 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 11:03:17
近つ飛鳥の仲哀陵を訪ねてみよう。
157 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 12:45:58
>>153 語呂合わせでも、体系が論理的なら真とみなせられるだろ。
例
「あさ(朝)」「あす(明日)」「あした」「あさって」
「あさり(貝)」「あさる(漁る)」
「あか(赤)」「あかり(灯り・明かり)」「あける(明ける)」「あかる(明るい)」
これらは、朝に太陽が昇って明るくなる言葉。
158 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 12:48:01
「あさり(貝)」「あさる(漁る)」 は、
朝一番で、浜辺で貝をとるなど漁に出かけていたことがわかる。
言葉には、古代の風俗・習慣の名残がある。
159 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 12:52:19
>>149 >カラの語源は、日本語古語の離る(カル)である。
「かる(離る)」に、接頭語の「あ」を付けたものが、
「あかる(明るい)」となる。
これは、「あがる(上がる)」にも転化する。
つまり、太陽が天高く上がった(地平線から離れた)という意味の言葉である。
加羅とは、何の関係も無い。
きちんと、体系付けて考えるべし。
160 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 12:59:51
「かる」には「離る」のほかに「狩る」の用法がある。
これは、上にも書いたように、
朝に、狩りにでかけたことを表す言葉。
「あさ(朝)」「あさる(漁る)」→「かる(狩る)」
「あか(明)」「あがる(太陽が上がる)」→「かる(離る)」
日本語のカラ(離る)が、加羅が語源と言う説は、
このような明快な体系をまず崩してからの話だ。
161 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 07:16:56
162 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 07:24:17
163 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/13(日) 09:36:45
>>159さん・
>>160さん
加羅の語源問題について、
語源案の一つとして、「かるい(軽)」は、考えられないでしょうか。
允恭紀に、「軽箭」についての記述が見えますが、軽箭は鉄製です。
古代三韓は、鉄の産地でしたので、加羅地方からも鉄が産出されていたのではないか、
と考えられます。
164 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 10:00:57
木梨軽皇子も半島産の鉄製ですか?
日本書紀の年代解明は
邪馬台国論争と直結する。
167 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/13(日) 13:26:35
>>164さん
「軽箭」は鉄製で、「穴穂箭」は銅製で、鉄は、銅よりも軽いので、
「軽箭」と称されていたようです。
「かるい」は、日本語なのではないでしょうか。
168 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/13(日) 13:34:00
169 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:49:53
>>159 >>160 >「かる(離る)」に、接頭語の「あ」を付けたものが、
>「あかる(明るい)」となる。
↑
間違い。「明る」は、赤+る。赤には「美しい」という意味もある。
赤に接尾語の「る」を付けた言葉が「あかる」だ。赤は日の色で、光のこと。
>これは、「あがる(上がる)」にも転化する。
転化しない。
>つまり、太陽が天高く上がった(地平線から離れた)という意味の言葉である。
間違い。天に上がることは「のぼる」「たく」「いづ」という。
離る(カル)の『カ』は、「遠い」「遠くの」という意味。
彼(カレ)、神(カミ=彼命)の『カ』と同じ。
170 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:57:32
171 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:56:40
>>167 矢の筒中を銅にしたので、(軽い)のでは?
ということは、「かるい」という言葉が生まれたのは、軽太子からで、
軽太子の頃は、「かる」に「軽い」という意味は無かったということでいいですか?
みなさん。
172 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 18:01:09
常に『結論先にあり』な姿勢でやってるからだな
173 :
唐松山:2007/05/13(日) 19:00:59
詔 の 月が変わるは、間違いでした。
1月 立太子 等の詔
2月 神や神社に対する詔
鉄
まず 綏靖天皇が タギシミミを討つ時
マカゴの鏃を作らせた。 と在りますから まだ鉄は貴重品
倭人伝 の時代(乱の時代)も 骨製が主流かと
神功の時 鉄の産地を自分の物とする為海外遠征
日本国内で鉄の生産が軌道に乗った後 任那は 百済の支配地となる。
トトモモソ姫の石塚は 木の鍬で作った?
174 :
天津真浦:2007/05/13(日) 19:04:04
木梨軽vs穴穂の戦なんて創作じゃ
175 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 19:30:54
卑弥呼が氏んで台与が西征してきた時期が畿内の鉄獲得期
176 :
唐松山:2007/05/13(日) 21:06:19
景行の 熊襲征伐
この時に 畿内は、 鉄の魅力に取り付かれた。
だから この時期が、 175さんの言う時期
今言われている 年代に合わないのが悩み
177 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/14(月) 08:13:01
>>170さん
>勘違い、逆でしょ?
逆ではありません。
銅の比重は8.9で、鉄が7.85、鋳鉄が7.2、銑鉄が7.0ですので、
鉄(軽箭)は、銅(穴穂箭)よりも軽いことになります。
178 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/14(月) 08:18:33
>>171さん
「かるい」という用語が、5世紀までなかったとは、考えられないように思います。
むしろ、軽木梨皇子は、鉄や鉄器生産をおさえていた勢力に支えられていたために、
「かるい」という意味を持つ「軽」の字が、その名に用いられたのではないでしょうか。
179 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/14(月) 08:25:50
唐松山さん
詔の途中で月が変わることについては、詔の種類が異なっていたのですね。
また、鉄問題は、重要であったと考えられますが、弥生時代の遺跡からも鉄製品が
出土しています。綏靖天皇の時代は弥生時代であるとお考えでしょうか。
180 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/14(月) 08:27:38
>>174さん
木梨軽皇子と穴穂皇子との争いは、実際に、5世紀に発生していたと考えられます。
181 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/14(月) 08:32:16
>>175さん
わたくしも、卑弥呼は畿内におり、台与は畿内から九州に向かったと考えております。
したがって、神功皇后には、卑弥呼よりも台与がより大きく投影されていると推論
いたしております。
ただし、卑弥呼の時代まで畿内に鉄が無かったのか、といいますと、そうではないように
思います。
182 :
170:2007/05/14(月) 09:10:53
>>170 まったくわけが分からん、軽箭が銅で穴穂箭が鉄なのに何を根拠に逆にしてんの?
183 :
170:2007/05/14(月) 09:12:11
184 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 18:27:12
>>177 それが本当に「鉄は銅よりも軽い」という意味だとしたら、
興味深い事実です。
九州説の主張では、鉄鏃は銅鏃よりも重くて威力があるから、
「九州勢力(鉄鏃)と畿内勢力(銅鏃)が戦えば、九州が有利」
というのが、九州説の根拠の一つと言われます。
しかし、実際に銅鏃のほうが、鉄鏃よりも重ければ、
銅鏃(畿内)が有利となり、九州説の根拠の一つは崩れます。
どう思われますか?みなさん。
185 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 19:04:56
>>184 邪馬台国スレにコピペしたでしょw
そっちで答えたけど、こちらが本スレみたいだから貼っておきます。
戦うこと自体が有り得ないので、どちらの説にも有利にも不利にもなりません。
強いて言うならば「弥生時代では鉄製武器を多く保有している勢力のほうが軍事力は上」という迷信は否定されるべきとは思います。
邪馬台国wikiを参照の事。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD 「畿内説の弱点」という項目に、以下の記述があります。
>倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する
>(しかし、邪馬台国が北九州をすでに勢力下においていたとすれば、絹や鉄の記述があるのは不思議ではない。
>また青玉をヒスイのことであるとすれば、これは新潟県糸魚川にしか産出せず、畿内説で考えたほうが無理は少ないともいえる。
>鉄は朝鮮半島を大産地とし、4世紀以降も主に北九州で出土するので、東遷説については根拠とならない。
>また、当時の製鉄技術では、鉄剣や鉄斧を用いる鉄文明が青銅文明を圧倒できたと考えるのは難しい)。
ここを読めば邪馬台国論争のだいたいの概要はつかめるので
妄想を書き込む前に一読することをお薦めします。
186 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 19:14:56
ついでに言うと
九州説はもはやアマチュア好事家の一部にしか存在しません。
厳密な意味での九州説は考古学者はおろか文献史学者にもひとりも居ません。
(高島忠平や森浩一も昔ながらの鉄器重視の九州説ではない)
同時に、これまた厳密な意味での畿内説(畿内勢力自生説)も、ごく少数です。
では何が主流かというと、3世紀においてのヤマト連合成立説です。
とりあえずこの手の話はwikiにかなり正確に記載されていますので、そちらをまずお読みください。
これも邪馬台国スレにレスされたコピペへの回答
コピペにマジレス
金属の比重で戦いの有利不利を論ずるなんて馬鹿
金属の比重はその丈夫さとはなんの関係もない。
たとえば釣りでおもりに使用する鉛は、比重は11.34と重い金属だが手で千切れる。
重くて柔らかい金属だ。しかし銃弾となれば殺傷力をもつ。
つまり金属の硬さと密度あるいは比重は異なるし
それをもって兵器としての性能を定量化することは出来ない。
金属の硬さの評価では押し込み硬さ試験法が多く用いられるが、
これは荷重を加えたとき金属に生じた圧痕表面積あるいは深さを試験荷重で除して
いわば「変形のしづらさ」を測定する。
ただ金属には弾性があり、変形が小さい範囲では、変形しても元に戻る。
弾性が小さい(容易に変形する)物質はやわらかいと言うことが出来る。
一方、変形したままの状態になる性質を塑性という。
引っ張り強度や伸びというもので、延性や展性をしめさず塑性が小さい物質は容易に破断する。
そのほかに人間が感覚的に「硬い」と感じる傷つきにくさもある。
たとえばダイヤモンドは最も硬い鉱物といわれるが、もろい物質であり金槌などで簡単に砕けてしまう。
考古学は様々な分野を横断する総合科学であって、もはや文献史学者はその主役たり得ない。
言葉遊びや数字遊びは無意味である。
188 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 20:31:34
>>187 >金属の比重はその丈夫さとはなんの関係もない。
「鏃」の場合、丈夫さは関係ありませんね。
重さで威力が変わるでしょう。
また、皮鎧を着ていても、銅鏃は跳ね返し、鉄鏃なら貫通するとか、
必ずしも考えられないでしょう。
189 :
唐松山:2007/05/14(月) 20:38:20
185さんへ
当時の製鉄技術では、鉄剣や鉄斧を用いる鉄文明が青銅文明を圧倒できたと考えるのは難しい
鉄の最も重要な使い道の一つに 鍬 があります
鉄板を Cの字形に折り曲げて 木鍬の先端に取り付ける。
これだけで 生産力は、倍増
青銅製より格段に優れている。
畿内で使われだしたのは、やはり神功以降ではないでしょうか
ついでに 草薙の剣 草を刈ったから草薙 と名づけられた。 と書かれていますが
草も刈れる剣(冬の枯草や柴木も含む) とも読める
鉄が似あうが中国のクロムメッキされた 青銅器製でも可能か?
190 :
唐松山:2007/05/14(月) 21:07:02
179への 返答
綏靖天皇は、卑弥呼より おおざっぱに200年以前の天皇と考えております。
関東における当時(弥生時代)の鉄の供給は、 諏訪酒折が関っていたのではないかと
現在茨城県方面の神社の宝物となっている沼沢より産出された古代鉄(自然鉄)
以前インターネットでこの神社まで行きつけたのに 何処の何と言う神社か忘れてしまいました。
古代鉄の産地 私の推定は、霧が峰池のクルミ
ほつまに於いては、諏訪酒折は、考霊から日本武尊 まで活躍しています。
191 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 21:08:11
>これだけで 生産力は、倍増
倍増はオーバー、2割増し程度ならまああり得るが。
金属器は直接農耕具として使用しても、生産量や開発速度はそれほど劇的に変化しない。
なぜならごく簡単に言うと、脆くて使い物にならないからだ。
鉄器が農耕具として威力を発揮しだすのは、さらの後の時代に製鉄技術が向上し、強度の高さが実現してからのはなし。
武器として威力を発揮するのはさらに後の時代。
それでも鉄器保有が生産性に大きく関係するのは、加工具として木製農具生産速度が向上させたと考えられる。
ただし加工具としての鉄器は、弥生後期後半には東日本にも広く普及していたと見られている。
事実、鉄器加工痕のある木製具が弥生中期には関東からも出土し始め、後期には全国規模で出土する。
木製工具の充実度は、それまで鉄器すらほとんど出土しない大和に2世紀末頃から一気に増加することからも
外来式土器の爆発的な増加とともに、この時期大和に多数の移民があったことを意味している。
ただしこれは九州勢力ましてや神武の東遷ではない。
もっとも多い移住者は東海からで、続いて河内、吉備、山陰、阿波、讃岐などの順になる。
北部九州は半島と並んで最下位クラス。
草薙の剣は、貴方の言うようにビジュアル優先のイメージ映像みたいなもの。
7世紀の鉄剣ならかっこよく草をなぎ払うことが出来るかもしれない。
だがそれさえも鉄剣そのものではなく、相当に高度な鍛冶技術とメンテナンス体制が必要となる。
192 :
唐松山:2007/05/14(月) 21:25:43
綏靖天皇は、卑弥呼より おおざっぱに200年前の天皇である と考えていますので
弥生時代です
関東の鉄には、諏訪酒折が関っていたと思います
ほつまでは、 諏訪坂折は、 考霊から日本武尊において 出てきます
193 :
唐松山:2007/05/14(月) 21:45:13
生産量が倍増しなくても 労働時間の半減 ならどうだ
余った時間は 塚作りにまわす
なお 異民の多く集まる は、 崇神で良いと思うのだが
どうだろう
194 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/15(火) 09:47:40
軽箭と穴穂箭について
箭は飛び道具ですので、軽箭と穴穂箭につきましては、別の意味があったのではないかと
考えてみました。それは、相手の箭を再利用できるという問題です。
神代紀にも、名なし雉について、矢を射返すということについてのお話があります。
195 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/15(火) 09:52:56
唐松山さん
唐松山さんは、ずいぶん時代が下がるまで箭には骨を用いていたとおっしゃられておりましたが、
それは、
>>194で述べましたように、相手に箭を再利用されることを防ぐためであったとは、
考えられないでしょうか。
また、鉄器によって生産力や開発力が伸びたとわたくしも考えております。
例えば、荒地の開墾などに効果があったのではないでしょうか。
>>194-194 横レス申し訳ない。
箭、鏃などは再利用を防ぐための様々な工夫がなされており
その技術はすでに紀元前から一般的ノウハウとして確立していた。
最も端的な方法としては、返しの部分を強度限界まで薄く削り
対象物に命中した際の衝撃か、または抜くときに破損するように加工するやりかたがある。
これは素材が何であれ、同様の加工が可能。
(これを逆手に取ったのが、三国志演義で有名な藁の案山子で矢を集めるお話)
名なし雉の寓話の面白さは、そういった「破損して使えなくなったはずの矢が、そのまま射返されてきた」ことから
相手が人外の力の持ち主であることを仄めかす点にある。
日本での出土例としては、吉野ヶ里の銅鏃や土井ヶ浜の骨鏃が有名。
またホケノ山での鉄鏃は返しが加工前であったことから、副葬目的のものと見る考えもある。
荒地の開墾については、鉄器が早い時期から浸透していた北中部九州でもあまり例がない。
元々人の住みやすい場所や開墾しやすい場所を選んで集落を築き、発展したと見られている。
それが飽和状態になる弥生後期後半あたりから、今度は全国的に開発が始まる。
その際の主力は、金属器によって加工された使い捨ての木製鍬と見られている。
北部九州では比恵・那珂や三雲、畿内では纏向などで大量の木製農具が出土する。
これはどこでもそうだが、潤沢な鉄器入手が可能であった地域でも
使い捨てにするような無駄はしなかったためと見られている。
鉄器の導入によって生産力が伸びたというのは事実だが
それが直接の道具として広く行き渡ったということではない。
また導入時期と開発拡大の時期は、必ずしも一致しない。
むしろ元からあった有効利用土地が残り少なくなったことによる、必然的な理由による。
最近、分かってきた話だと
巻向遺跡の近くの唐古・鍵遺跡のあたりは
大和湖から大阪湾まで流れる大和川の港町だったらしいな。
大和湖?
200 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 19:10:21
事代主が入水自殺したのも大和湖
磯城津彦の津は港の意
ところで研究家が軽箭が銅・穴穂箭が鉄な件を無視するのはなんで?
201 :
唐松山:2007/05/15(火) 19:28:12
たしかに 私の年代感は、かなり遅くまで 縄文、弥生文化が在ります。
なにしろ 日本武尊の 関東征伐時 関東の半分は、まだ縄文だと考えていますから。
伊豆新島で出土した縄文時代の刀子は 崇神以降 こんな 思考です
こんな考えで 崇神をまとめると
崇神6年民散る=新羅本紀 西暦193 倭人が大飢饉となり避難民到来
大国魂の神移し=国譲り
崇神10年四道将軍 異俗重訳来=考古学のいう急に多くの地方からの人々
崇神12年 天下大平矣=畿内の話で 全国(九州を含む)の話では無い
崇神17年 始造船舶=丸木舟からの脱却 まだ九州に軍を送り込める状態では無い
崇神60年 出雲臣之遠祖出雲振根主于神宝。是徃筑紫国而不遇矣
出雲=現在の出雲神社地域で考えるな
今日は、このへんで
>なにしろ 日本武尊の 関東征伐時 関東の半分は、まだ縄文だと考えていますから。
「弥生」となぜ名付けられたのか、一晩よく考えてください。
203 :
唐松山:2007/05/15(火) 20:55:10
ほつま より日本武尊が関東平定時 の一部です。
ホ39028 アナにすみ ケシシをはみて ケコロモき
穴に住み 獣を主食とし その毛皮を着る
生活は、縄文です
時代の事ではありません 当時畿内から(偏見のある)見た目です。
>>203 古代の日本人は肉食だったのですね?
忌部氏は、肉を奉納してたので、一説には渡来系だと言われますが、
渡来人でなくとも、肉食だった古代日本人が肉を奉納していても不思議ではなく、
忌部氏が渡来系だという証拠にならないと、
そういうことでよろしいですね?みなさん。
205 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 21:40:28
渡来文化を身につけたネイティブいなかったの?
>>205 もちろん、その可能性も十分あります。
牛が輸入されたとき、牛肉を食べる習慣も当然持ち込まれたでしょう。
その習慣を真似たからといって、忌部氏が渡来人とはならないわけです。
忌部氏は、古語拾遺で、高天原から続く古代祭祀の忌部氏の関わり深さを訴えています。
忌部氏の拠点は阿讃ですから、古代大和王権に続く邪馬台国も阿讃に近い場所、
つまり畿内であったというわけです。
よろしいですね?みなさん。
>>203 >ホ39028 アナにすみ ケシシをはみて ケコロモき
>穴に住み 獣を主食とし その毛皮を着る
「縄文」となぜ名付けられたのか、1週間よく考えてください。
てか考古学用語をむちゃくちゃな意味で使わないでください。
>>204 忌部氏は天神系だろう?
渡来系にはされてなかったはず。
210 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/16(水) 10:07:55
>>196-
>>198さん
箭の再利用について、日本でも、そのような工夫がほどこされていたことを
示すような考古学的発見はあるのでしょうか。
また、弥生時代の遺跡から、かなり鉄製の農具が発見されていたようでしたけれども、
主流は木製であったということなのでしょうか。
211 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/16(水) 10:09:30
>>200さん
>ところで研究家が軽箭が銅・穴穂箭が鉄な件を無視するのはなんで?
軽箭が鉄で、穴穂箭が銅と考えておりましたが、逆なのでしょうか。
212 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/16(水) 10:14:45
唐松山さん
崇神天皇の6年を西暦193年に置くと、神功紀との関係はどのようになるのでしょうか。
神功紀は、魏志倭人伝の記述を扱っていますので、3世紀を含みます。
神功紀までの、垂仁紀、景行紀、成務紀、仲哀紀については、
どのようにお考えなのでしょうか。
213 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 11:59:35
>>200 どうしてそう考えるのか不思議です、普段から自分の都合の良いように考察しているとこうなるのでしょうか?
少しは自分で原文読んだ方がいいですよ
214 :
213:2007/05/16(水) 12:00:45
215 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 17:29:11
これ、貼りますよ。
★カラとは何か★
加羅と書いてカラと読む。韓と書いてカラと読む場合もある。
カラの語源は、日本語古語の離る(カル)である。カルとは「離れる」という意味の大和言葉である。
このカルが変化してカラとなった。「大和から離れた土地」「海の向こうの土地」という意味である。
また、伽耶(カヤ)の語源も日本語である。日本語古語の離ゆ(カユ)は「離れる」という意味であるが、
カユが変化してカヤとなったのである。つまり、カラとカヤは同じ意味の地名なのだ。
カラ=カヤの地には、紀元前から多くの倭人(日本民族)が住み、華やかな日本文化が栄えていた。
カラは倭人の世界だったのである。
現在、カラ半島に住んでいる朝鮮人は、4世紀頃(300年代)に、カラ半島北部から南下してきた
ワイ人の末裔なのである。
結論は、朝鮮人はカラビトではない、ということである。
カラ=カヤの国
http://www.kase-hideaki.co.jp/k005/trees.cgi?tw=&log=&search=&mode=&v=1237&e=res&lp=1181&st=0
216 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 18:11:57
穴穂箭が鉄製とはどこにも書いてない。
217 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 19:10:02
稲穂の形をして穴の開いている矢じり(の写真)を見たことあって
軽箭、穴穂箭、はデザインの違いだと思ってたんだけど違うの?
218 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 20:21:59
確かに日本書紀には鉄とか銅とかは書いてないが、穴穂箭は古事記には「今使ってる矢」とあるから鉄製に間違い
219 :
唐松山:2007/05/16(水) 20:45:05
212への返答 別の角度から返答に変えます。
まず古代天皇家のシノギ は 種貸し
天皇=開化までは、地方の種貸し屋の親分
崇神=5,6年に大凶作が起こります 秋 大親分(近江に居たオオモノヌシ)は
ノイローゼ?になり大親分の地位を崇神に譲ります (近江から山陰地方の方が凶作の度合いが強かった)
民は、耕作を放棄 旧暦6月(稲の収穫8月)渡海する者1000人以上
エミシの南下を防ぐ為オオヒコ を 越の主とします
ハニヤスは 兄弟げんかに毛の生えたような物なので 飛ばします
17年に初めて船を作る とありますが この船は、アガリの種を畿内に運ぶ為の物
垂仁
垂仁末にタジマモリをトコヨ国へ派遣
新しい種や果木を調達します
景行
景行本人が続けて2回九州遠征 1度目は、同類の反乱者征伐
2度目は、 熊襲 このとき 卑弥呼死亡
九州の現状を見た景行は、武内(稚足と同年)を関東、東北の視察に出す
日本武 が其のあと関東平定 このとき 日本武はタジマモリの残した種と果木を与えて手なずける(東北では、日本武を悪し様に言わない)
関東の経営は、屯倉 入植地は、丹沢、秩父山地の山沿い
成務
さらに 屯倉経営を推し進める(種貸し屋からの脱却)
実力(経済力)の付いた天皇家(武内等かも)は、鉄を求めて渡海
こんな所でしょうか
220 :
216,217:2007/05/16(水) 21:59:20
>>218 あやしいなw
そもそも、軽箭、穴穂箭という異なる種類の矢があって
それぞれがそれぞれの矢を使用したことから軽太子、穴穂王子と
呼ばれるようになったんじゃあるまいか?
古事記を書いた人は穴穂箭がどんな矢か知らず、穴穂王子が勝ったことから
最新式の威力のある矢を使ったに違いないと思ったんだろ?
221 :
唐松山:2007/05/16(水) 22:04:41
暦や治世のことは、飛ばしましたが
このままだと 伸長されているであろう神功以降の年数に不足が生じる
この辺がネックになっています
222 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 23:56:38
>>218文末は「間違いない」に訂正
>>220 穴穂皇子が勝ったのは木梨軽太子から人が離れたのが原因で兵器のせいではないのでは?
それに古事記編者が穴穂箭の実態を知らなかったとは考えられないな
223 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/17(木) 09:52:36
>>213さん
わたくしは、日本書紀や古事記は原文を読むようにしています。
現代語訳には、誤訳や省略がありますので。
しかし、軽箭と穴穂箭については、わたくしの勘違いでしたので、お詫び申し上げます。
もう一度確かめてみましたら、古事記の允恭天皇の段の分注に、軽箭は銅製であると記されていますので、
軽箭が銅となります。穴穂箭については、素材についての記述がありませんが、おそらく
鉄製なのでしょう。
224 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/17(木) 14:54:53
>>224 日本書紀紀年法研究家さん、高松塚古墳のことについては、
別スレたてられてはいかがでしょうか?
あちこちで宣伝されているようですが、
直接スレの内容とは関係ないような・・・
226 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 15:59:21
少しは自重しろよ
程度が低いから相手にされないだけだろ
228 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/18(金) 08:22:52
>>225さん
日本書紀紀年法は、日本古代史全般に関連しております。
日本書紀紀年法にご興味のある方々は、きっと日本古代史にも興味があるでしょう。
そこで、拙い意見や仮説ではありますが、歴史発見物コラムは、皆様方のご研究など
のご参考になるのではと思い、ご案内させていただきました。
今回は、第五回で、高松塚古墳の被葬者は誰かというテーマを扱ってみました。
また、あちこちで宣伝しているわけではなく、高松塚古墳と関連のありそうな
スレッド数か所に、ご案内させていただいております。
229 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/18(金) 08:24:06
>>227さん
マルチポスト乙とは、どのような意味でしょうか。
230 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/18(金) 16:31:37
231 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 18:48:58
>>227 は外出中のようなので代わってお答えします。
乙は ”お疲れさま・・・”の略記です。
で、 ”関連スレッド数か所に、ご案内させていただいております”
↑これがマルチポストです。合体すると否定文になって
「他スレの流れを止めてしまうし迷惑電話と同じくらい嫌がられますよ〜」
と
>>227は言っている訳ですが、 生意気ですよね。
後で一発分殴ってやりましょうか?
研究家さんのキャラは天然なのか、ねらいなのか教えてくさい
生まれも育ちも、生のままであのキャラです。
日本女子大ではこういう雰囲気の学生さんが、珍しくありませんよ。
研究家さんはここをレンタル掲示板かブログと勘違いしているだけなんですよね?
235 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 09:12:13
学者 対 学問に集まる人 という理解だけでしょう。
236 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/19(土) 10:01:41
>>231さん
「マルチポスト乙」の意味を教えてくださいましてありがとうございます。
日本古代史について考えるにあたり、少しでも、興味深い説や視点を提供できれば、
議論の幅がひろがるのではないか、と思い歴史発見物コラムをご案内させていただきましたが、
ご迷惑とお考えの方々もおられるようなのですね。
>後で一発分殴ってやりましょうか?
ここで、「一発殴ってやってくださいませ!」といいましたならば、
面白いのでしょうけれども…。ちょっと、この言葉は、わたくしのキャラでは
なさそうです。
237 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/19(土) 10:08:07
>>232さん
わたくしは、ねらってキャラをつくれるような器用な人間ではありません。
ところで、わたくしのキャラには、どこかおかしなところがあるのでしょうか。
238 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/19(土) 10:14:35
>>233さん
もしも、わたくしのキャラに問題があるのならば、
それは、おっしゃるとおりに、天然ということなのかもしれません(自己分析)。
239 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 10:19:11
別人ですが、そんな研究家さんといらつめさんが大好きです。
240 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/19(土) 10:28:44
>>234さん
ブログやレンタル掲示板と勘違いしているというわけではありません。
日本古代史について考えるための知識や知見を深めることは
大切なことですので、わたくしのサイトをご案内させていただきました。
それでも、勘違いしていないと思いこんでいること自体が、勘違いなのでしょうか?
241 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/19(土) 10:37:42
>>235さん
>学者 対 学問に集まる人
このような対立関係とは、別段捉えてはいないのです。
学者の間でも、学問に集まる人の間でも、様々な説や意見がありますので、
対立構図の型にはめる必要はないと思っております。
242 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/19(土) 10:45:59
>>239さん
おはずかしい限りでございます。
奇妙なキャラ?にもかかわらず、応援ありがとうございます。
243 :
唐松山:2007/05/19(土) 22:08:43
244 :
唐松山:2007/05/19(土) 22:19:46
弥生時代の遺跡から獣の骨の出土が少ないのは、
焼いて肥料にしたせいだと考えられます。
害獣の猪や鹿は、農作物の天敵ですから それらの獣は縄文時代より徹底的に
捕獲する 肉は食べる 骨は、肥料
穴の開いた鏃なら、普通に出土してるが?
247 :
唐松山:2007/05/20(日) 17:15:14
差し込み式、かぶせ式、以外に填め込み式もあったんですね
命を賭する武器だけあって奥が深い。しかも銅製・・・
私が気になったのは現代に伝わる鏃の種類が柳葉、槙葉、木葉、など
その形を穂ではなく葉に見立てていている点
そして穴穂と空穂の字の類似の2点です。
穴穂、空穂は始めは鏃も槍と同じように先っぽを穂に見立てていた名残りか
そもそも穴穂矢など存在せず金属製鏃と入れ物の国産化成功物語だったのか
249 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/21(月) 08:02:58
>>245さん
『古事記』には、軽箭は銅製で、穴穂箭は、「今の箭」であると分註に記述されておりますので、
金属製の箭は、銅製の軽箭が最初に製造されたのではないでしょうか。
250 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/21(月) 08:11:26
>>248さん
>しかも銅製・・・
弥生時代や古墳時代の遺跡から出土した箭は、銅製であったのでしょうか。
また、穴穂は、植物の穂を意味するのではなく、「穴太」とも表記するように、
別の意味があったのではないか、と考えられます。
>>243 十分、遅すぎると思うし、
そもそも、その時代に、縄文、弥生という対立軸は存在しないと思う。
自分の考えだと、神武の生存年は
紀元50年代〜紀元120年前後であり、
神武東征は紀元70年代くらいに行われたと踏んでいる。
神武の4代前で、出雲の臣だった
カチハヤ(官名はアメノオシホミミ)の活躍時期が
紀元前50年〜紀元元年くらいと踏んでいる。
「ミミ」がつく名前は、出雲王朝の官名であり、
魏志の投馬国(出雲か?)の官も「ミミ」副官「ミミナリ」
神武の子供の代は、まだ殆どが「ミミ」という名前が多いのは
これは出雲王朝の官名の影響が強く残っているからだと思う。
ちなみに、神武と正妻との間の長子の名称には「ヒコ」があっても「ミミ」がない。
おそらく、神武が始めて倭の王者になったので、その長子は最早、一臣下ではなかったのだろう。
しかし、彼は早く死んでしまって、結局、日向時代の庶子や、正妻との第二子以降の間で
権力闘争が勃発したが、彼らには全員「ミミ」という名称がついている。
>>251 >「ミミ」がつく名前は、出雲王朝の官名であり、
何度も繰り返してるけど、ソースは無いわけで、君の想像だろ?
253 :
唐松山:2007/05/21(月) 20:17:45
251さんへ
縄文と弥生の全面戦争 このような物は、私も無かったと思っていますが、
神武 畿内入植時
神武=種貸し屋 と考えれば、
種を借りてもらわねば シノギが成り立たない =>種を貸す と 借りる の間では、そこそこの戦が在った
ただし アガリの籾を運べる範囲が当時の国の範囲 神武から見た関東は、遠い異国 そこで農業が営まれていても
アガリを得る方法が無かった
神武入植時と 神武8年にこの戦を起こしています(縄文、弥生関係なく種を借りてアガリを収めてくれさえすれば良し)
ついでに 神武8年の次の年は、神武21年になります(増しの考え方)
254 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/22(火) 08:31:56
>>251さん・
>>252さん
横レスになりますが。
わたくしも、名に「みみ」が付く人物は、魏志倭人伝の投馬国に関連していると
考えております。地域的にも出雲と関連があるのかもしれません。
日本書紀において、名に「みみ」が付く人物は10名ほどで、
神代紀には、出雲の「稲田宮主簀狭之八箇耳」の名も見えます。
255 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/22(火) 08:35:24
>>253唐松山さん
唐松山さんは、弥生時代においては、稲種の問題が、語弊はあるかもしれませんが、
権力と関連していると捉えておられるようですが、水利権問題は、どうでしょうか。
>>254 魏志倭人伝の投馬国に「ミミ」が見えることと、
日本書紀に「ミミ」の人物が見えることと、
出雲との因果関係は何も証明されてません。
研究者なら、まず証明してから論を進めるべきです。
3世紀の倭国では、西日本一帯で、ありふれた名前かもしれませんよ?
36 :日本@名無史さん:2007/05/21(月) 16:49:49
神武東征って、そのあたりの神話って
みんな意外にちゃんと読んでないだろう?
古事記、日本書紀、旧事本紀白河本、海部氏系図などを総合してみたら
もともと日本は、出雲王朝(本拠地は大和?)が支配していました。
そこの臣下にカチハヤ(官位はアメノオシホミミ)という人物がいて
その長子にニギハヤ、次子にニニギがいましたとさ。
まずニギハヤが出雲王朝に謀反を起こし革命が成功、
アメノホアカリとして天津系の初代倭王になりました。
しかし、それから三代後、弟のニニギの子孫である神武さんが
ニギハヤの三代後の倭宿禰命から王権を奪取、
神武王朝が始まりましたとさ。
ちなみに、「ミミ」「ミミナリ」というのは出雲の官の名称。
神武の先祖・子供などに「ミミ」がついた呼称が多いのは
出雲王朝の影響でその官名を引き継いだのが大きく影響しているだろう?
ちなみに、神武の正妻との子供の長子には「ヒコ」があっても「ミミ」がない。
これは彼が最早、一官ではなく、倭王の新しい後継者と確定したからであろう。
(ただし、彼は早く死んで王位を継承することはなかった)
260 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/23(水) 09:10:04
>>256さん
魏志倭人伝に投馬国の官名に「みみ」や「みみなり」と記録されていることは、
注目にあたいするのではないでしょか。
>>254で述べたように、神代紀に出雲の「稲田宮主簀狭之八箇耳」の名も見え、出雲の在地勢力と考えられることからは、
出雲との関連は、まったく可能性が無いわけではないと考えられます。
261 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/23(水) 09:21:26
>>259さん
面白い推説であるとは思いますが、なぜ、「にぎはやひ命」が、「あめのほあかり命」に
なるのでしょうか。
耳はそこらじゅうの豪族が名乗る原始的姓。
ミゾクイ耳、スエツ耳、オホ耳、トヨ耳、サキツ耳‥‥
>260
よくある「先代旧事本紀に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とあるから
同一人物なんでは?」という考え方ですね。
日本書紀紀年法研究家さんがよく用いる論法と同種だと思いますが…
264 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 16:28:47
263=259
265 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/23(水) 17:39:29
>>263=259さん
>天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
たしかに「天孫本紀」の冒頭に、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と見えますが、
亦の名は、「天火明命」の他にも幾つかあるようです。『古事記』などでは、
亦の名がある場合は、別の時代の別の人物の事績が重ねられているケースが多いとの研究があります。
むしろ、このことは、神武の大和入りという伝承には、いくつかの別の時代の歴史的事象が投影されている
とを示唆している、とは考えられないでしょうか。
266 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 23:36:27
>>263=259さんの知ったかぶりに、こっちまで恥ずかしいです
267 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 04:03:20
259=266
「ミミ」の件ついて
海部氏系図の研究をしている人の解釈だと
アメノオシホミミ(カチハヤ)は、出雲の官だったという話。
たぶん、オシホミミというのは出雲での官名で、
カチハヤが本名だと思われる。
じゃあ、姓はアメ(アマ?)かもしれんな。
そのアメノオシホミミの長男のアメノホアカリ(ニギハヤ)が
主君の出雲を倒して、天津系の初代倭王になったそうだ。
しかし、三代あと、
アメノホアカリ(ニギハヤ)の弟のニニギの曾孫の神武が
派遣先の日向から大和へ迎えられ、
新しい天津系の倭王になったとさ。
隋書の「日いずる国の天子...」の
「阿毎多利思北孤(聖徳太子か?)」の
「阿毎」は、皇室の失われた姓だったんじゃないのか?と妄想してみる。
隋の時代の発音で「阿毎」って何と発音するの?
音韻に詳しい人、教えて?
つーか、漢和辞典で調べてよ、誰か。
神話時代の皇室の先祖やその家族に
「アメの・・・・」がつくが、これは天孫系の姓なんじゃないのか?
よく天津系(出雲の官だった天孫)とか
国津系(出雲の王室だった地祗)なんていうが...
>>263 :日本@名無史さん:2007/05/23(水) 14:01:37
>
>>260 >よくある「先代旧事本紀に天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とあるから
>同一人物なんでは?」という考え方ですね。
>日本書紀紀年法研究家さんがよく用いる論法と同種だと思いますが…
海部氏系図のほうにも、アメノホアカリ=ニギハヤと出てくるんですよね。
物部氏と海部氏は、記紀でいう神話時代に分かれた遠い親戚なんですが
その遠い親戚である両者に、同じ伝承が残っていたことに注目されます。
中世なんかでは
日本の貴族や諸侯の名前には
本名以外に
官位名とか通称とかが色々、入っているのは当たり前なんだわな。
吉良上野介義央とか...
この場合、吉良義央=吉良上野介=源義央 なわけだから。
アメノホアカリ=ニギハヤ も似たようなものじゃないのか?
272 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/24(木) 09:15:12
>>270さん
横レスになりますが。
天火明命と櫛玉饒速日尊とは、>記紀でいう神話時代に分かれた遠い親戚>
ということは、ありえるかもしれません。
ただし、同一人物であるのか、といえば、もう少し検証してみなければならないように思います。
日本書紀の神代紀については、複数の書から構成されていることに示されるように、
研究課題が、まだまだたくさんあります。
273 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/24(木) 09:18:49
>>271さん
確かに、一人の人物が複数の名前を用いていることはよくあります。
しかし、
>>265でも述べましたように、日本書紀や古事記では、
別の時代の歴史的事象を投影させるために、「亦名」を用いる場合が
あるように思います。
>>272 そうそう。検証は必要だとは思う。
神話時代から上古代の皇室は
自分たちの姓を、「アメ」か「アマ」と認識していたのかもしれない。
275 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/24(木) 16:49:59
>>274さん
姓を「あめ」としたり、姓を用いなくなった理由として、天下(俗世)に対して、
天上の人であるという観念があったからなのではないか、と考えております。
ただし、『隋書』の「あめ たりしひこ」については、「天下人(天の下を治たらす男王)」という
意味もあったようにも思います。
276 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 17:33:39
「あま」姓は、玄界灘や日本海に勢力のあった「あま族」の出身だからでしょう。
雲の上の天上などという概念は後世のでっち上げだと思います。
277 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 20:05:26
韓国人に『正しい歴史』を教えてあげましょう★ 高句麗は韓国ではないのです!
http://www.kase-hideaki.co.jp/k006/trees.cgi?log=&v=1270&e=res&lp=1270&st=0 我々日本人が、『正しい歴史』を韓国人に教えてあげるべきです。
韓国人による歴史の「捏造」「歪曲」を、このまま放置しておくのは危険です。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
質問:『韓国人が、「我々韓国人は高句麗人(フヨ族)の子孫だ。高句麗は韓国人が建国した国だ」と主張していますが、
これは事実でしょうか?』
【回答】
完全なウソです。韓国人の作り話です。韓国人と高句麗人はまったく別種の民族です。高句麗人は古代の満州地方に
住んでいた遊牧民族=フヨ族の一派ですが、韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方
(日本海沿岸地方)に住んでいたワイ族です。狩猟民族=ワイ族の子孫が現在の韓国人です。このワイ族はシベリア奥地の
山岳部から半島東北部に移住してきた民族です。
満州地方に住んでいた遊牧民である高句麗人(フヨ族)とは何の関係もありません。強いて関連付けるならば、
一時期、フヨ族がワイ族を支配化に置いていたこと、くらいです。
278 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/25(金) 08:25:39
>>276さん
「あま」が、漢字で表現すれば、「天」という意味となるのか、「海」という意味になるのか、
という議論はあるかと思います。
>>276さんは、「天孫」という用語も、後世のでっちあげと、考えておられるのでしょうか。
279 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 12:52:39
言語の基本は文字ではなくて発音された言葉です。
「あま」と自称していた部族を漢字でどう書くかは自由です。
海人・海部・海士・天などどれでもいいのです。
280 :
続き:2007/05/25(金) 12:59:39
「あま族」のボスが対馬の阿麻弖留(別名天照大神)だったときに、
その孫である(つまり天孫)邇邇藝が博多に上陸、征服した事件を
起こしたので、福岡県を中心に征服した「あま族」勢力を、天孫族
と呼んでいるわけです。
281 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 14:17:01
素朴な疑問ですが、「天」は基本「あめ」じゃないんですか?
「天照」なら「あまてる」になりますが(雨傘と同じ)
「海」系は「あま」で微妙に違ったりしませんか?
282 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 20:40:39
韓国人に『正しい歴史』を教えてあげましょう★ 高句麗は韓国ではないのです!
http://www.kase-hideaki.co.jp/k006/trees.cgi?log=&v=1270&e=res&lp=1270&st=0 我々日本人が、『正しい歴史』を韓国人に教えてあげるべきです。
韓国人による歴史の「捏造」「歪曲」を、このまま放置しておくのは危険です。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
質問:『韓国人が、「我々韓国人は高句麗人(フヨ族)の子孫だ。高句麗は韓国人が建国した国だ」と主張していますが、
これは事実でしょうか?』
【回答】
完全なウソです。韓国人の作り話です。韓国人と高句麗人はまったく別種の民族です。高句麗人は古代の満州地方に
住んでいた遊牧民族=フヨ族の一派ですが、韓国人=朝鮮人の先祖は、古代半島の東北部、いわゆる中国領・楽浪郡の東部地方
(日本海沿岸地方)に住んでいたワイ族です。狩猟民族=ワイ族の子孫が現在の韓国人です。このワイ族はシベリア奥地の
山岳部から半島東北部に移住してきた民族です。
満州地方に住んでいた遊牧民である高句麗人(フヨ族)とは何の関係もありません。強いて関連付けるならば、
一時期、フヨ族がワイ族を支配下に置いていたこと、くらいです。
283 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 21:12:07
「天」という文字や、中国における天の概念を語りたいなら、まったく別な話になります。
いまここで言っているのは、「あま(族)」の表記として「天」「海部」「海人」
「海士」「海女」などが使われたということに過ぎません。
アメリカ合衆国を「米(国)」と表記したことについて、米という文字が表わすものを
語っても意味がありませんし、「米」の読みについて論じても意味がありません。
284 :
唐松山:2007/05/25(金) 21:38:03
天=天文=暦
天孫=暦による(農事暦)支配 ではあるまいか?
285 :
唐松山:2007/05/26(土) 10:18:53
255の水利権 について
この時代 まだ川に土手を作れない時代ですので
大川(東京付近なら 多摩川や利根川、荒川)を制御できない=国境
利権問題の発生しそうな川は、多摩と相模の国境(町田市付近)を流れる境川
国境の確定した古墳時代以前に於いては、この小川(境川)さえ制御できない
だから 国境となった
和歌において 相模の枕詞は、サネなしサガミ なので (当時富士山の噴火堆積物の為)
この境川を例とするのは 適当でないかもしれません、水利より土地が先でしょう。
286 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/26(土) 12:36:39
>>279・
>>280さん
わたくしが問題としておりますことは、「あま」の意味です。
漢字は表意文字ですので、「あま」という言語に対しまして、
その意味に適った漢字が用いられたと思います。
言語(発音)であろうと、漢字表記であろうとも、
仮に、民族名であろうとも、「あま」には、意味があったと考えられます。
287 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:38:11
お前らさ、ちょんとジャップは永遠のライバルだな?おもしれーw
目くそ鼻くそ同士w背比べお似合いなwかっこよろいーわーw
たかが黄色人種同士で劣等レッテルの擦り付け合いナw
そんでここではみんなで俺をちょんと馬鹿にするオ決まりパターンw
日本も中国大陸につながってりゃ同じ運命だ馬鹿がw
まず白人に差別されてる人種ということはやくきずけよ
288 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/26(土) 12:42:35
>>281さん
わたくしも「あめ」の基本は、漢字表記では天という意味なのではないかと思っております。
「あめ(天)」は「あま」と訛りますが、「あま(海)」は「あめ」とは訛らないような気がします。
289 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/26(土) 12:46:13
>>284・
>>285唐松山さん
唐松山さんのおっしゃる稲種を貸していた勢力というのは、土地所有者という
意味であったのでしょうか。
290 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/26(土) 12:49:07
>>287さん
ここは、日韓問題について議論の場ではなく、日本書紀紀年法について議論する場です。
スレ違いであると思います。
291 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:57:31
そうか そりゃすまない
デモさ、日本書紀では天皇の先祖って
韓国の何とか王の末裔とかいてあんでしょ??
292 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 13:16:55
ええと、朝鮮民族が成立したのは新羅統一以降でしたね。
半島の王がしばしば日本列島出身の倭人だったことが、
半島側の歴史書に明言されています。
ですから、天皇のルーツが朝鮮民族だとか、倭人や日本民族
のルーツが朝鮮民族などということは100%あり得ません。
293 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 13:21:09
いみわからないんですけど、もうすこしわかりやすくいってyO?
じゃあ天皇の先祖誰?
そもそも日本人はどっからきたの?大陸なのは明白じゃない?
294 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 14:32:42
スレ違いなのでこの問答はここでしないでください。
日本人はアフリカから北経由・南経由で来ました。
この子孫が天皇になりました。
なお、半島人の南半分は列島ゆかりの倭人系です。
295 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 14:35:37
わかりました
だけど294さん
そういうでたらめはやめてくれ
もうすこし馬鹿も休み休み言いなさい
半島人は日本から渡ったといいたいの?
低脳無地のいい加減にもほどがあるw
296 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 14:51:19
半島人の半分は倭人系です。
297 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 16:23:48
>>291 >日本書紀では天皇の先祖って
>韓国の何とか王の末裔とかいてあんでしょ??
う、うわ〜恥ずかしいい〜!
アホ丸出し!www
298 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 16:27:06
はずかしくてもかまねーーよw
この黄色人種がよ
そんないまどき確証も立証もねーー千年以上前の妄想こいてせんずりかいてるサルのくせによ
天皇の先祖なんかほんとはどーでもいんだよ なにがおおみかみだよ
一個人の人間の先祖は髪ですか?
すごいね
現代科学もまっさおだわ
299 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 16:58:43
>>298 >一個人の人間の先祖は髪ですか?
(原文ママ)
神道は多神教であり、気象、地理地形に始まりあらゆる事象に「神」の存在を認める。
また、人物神といい、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる。
時には、菅原道真や平将門のようにその非業の死と恐れた民衆によって神と祭られる場合もある。
300 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 17:02:36
>日本書紀では天皇の先祖って韓国の何とか王の末裔とかいてあんでしょ??
>日本書紀では天皇の先祖って韓国の何とか王の末裔とかいてあんでしょ??
>日本書紀では天皇の先祖って韓国の何とか王の末裔とかいてあんでしょ??
>日本書紀では天皇の先祖って韓国の何とか王の末裔とかいてあんでしょ??
>日本書紀では天皇の先祖って韓国の何とか王の末裔とかいてあんでしょ??
>日本書紀では天皇の先祖って韓国の何とか王の末裔とかいてあんでしょ??
>日本書紀では天皇の先祖って韓国の何とか王の末裔とかいてあんでしょ??
>日本書紀では天皇の先祖って韓国の何とか王の末裔とかいてあんでしょ??
アハハハハハハハ!
301 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 17:11:33
なにがおもしろいのエテコウ?あぁ?
この弥生女で妄想せんズリサルが
日本書紀とかわらえんだよ
じゃっぷの黄色人種のちょんと寸分たがわぬ歴史のあげくは日本書紀
そんな妄想真剣に」いってるやつほどわらえるよ
302 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 17:19:29
>日本書紀とかわらえんだよ
>一個人の人間の先祖は髪ですか?
>日本書紀とかわらえんだよ
>一個人の人間の先祖は髪ですか?
アハハハハハ
知的障害!
303 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/26(土) 17:30:57
>>291さん
>>292さん(女性?)が、横レスなさっておられるようですが、
日本書紀には、天皇のご先祖が、どちらかの国の出身とは、一言も記していません。
天皇のご先祖については、神話の世界のこととして、位置づけられています。
神様が、国土を生成して、天皇のご先祖が、降臨されたことになっています。
また、
>>291さんの言葉使いは、まるでろれつが回っていないようで理解し難いので、
もっと丁寧な言葉使いをなさっていただきたいと思います。
304 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 17:39:15
>>303さん
いつまでも寝言言って妄想抱いてないで、僕が
15歳女 大東亜戦争についておしえて
というスレにいっぱいためになることかいてやったから呼んで勉強しろ!
天皇の神降臨とか、頭ダイジョブ?
305 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 17:47:43
>呼んで勉強しろ
>日本書紀とかわらえんだよ
>一個人の人間の先祖は髪ですか?
こいつマジでバカだなwww
306 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 17:51:38
馬鹿に馬鹿呼ばわりかえてこう
臭い口にはふたしとけ低脳
307 :
唐松山:2007/05/26(土) 18:05:43
ホ28225 マサカキの フタヱミヱトヱ カツテなく イヨにいたれば ...
ホ28230 モノヌシが オキナうゑんや カスガまた ワレはトミなり
キミうゆる アマノマサカキ いかにせん ワレはノトコト のんすのみ またとふナンヂ
タをすつや ほろしていわく チはすてず うゆををそれて ...
土地は、個人又は、一族の物
農事暦を使わないと作、不作が 甚だしい
アマノマサカキ(農事暦)プラス 種籾
これが 天皇家のシノギ
308 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 18:10:33
天皇天皇ておまえら信者かばかが?
よほどイングランド王のほうがかっけーー世馬鹿が
>>288 「天」の表記を「海」と表記した実例がありますよ?
「天日槍」は、古語拾遺では、「海檜槍」と書きます。
「あま」という発音の漢字表記は「天」も「海」も利用されていたのでしょう。
あま族のなかでも、支配層の「あま」は「天」を使い、
それ以外の氏族は「海」を氏族名に使ったのだと思われます。
310 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 20:32:03
>>268 >「ミミ」の件ついて
>海部氏系図の研究をしている人の解釈だと
>アメノオシホミミ(カチハヤ)は、出雲の官だったという話。
>たぶん、オシホミミというのは出雲での官名で、
>カチハヤが本名だと思われる。
ミミ=御命
ミ=御
ミ=命
311 :
見た目:2007/05/26(土) 20:40:36
日本後記で飢饉に逢った国に「無利子で米を貸し付けた」と
恩着せがましい記述があることから見ても種貸し説は頷けますね。
312 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/27(日) 09:12:04
>>304さん
日本書紀には、天皇のご先祖は、天孫降臨として神代紀において扱われている、
という事実を説明したまでです。
史実については、諸説があり研究課題とはなりましょう。
また、わたくしと、
>>292・
>>294・
>>296さんとを混同しないでください。
わたくのコテハンは、日本書紀紀年法研究家で、現在のトリップは◆RyFCZPFpzA です。
それから、304さんは、大東亜戦争に詳しいようですが、なぜ、このスレッドに興味を持たれているのでしょうか。
313 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/27(日) 09:21:32
>>307唐松山さん
唐松山さんは、天皇家は、土地と関連がなかったとおっしゃりたいのでしょうか。
しかし、天皇陵などは、自勢力内に大きな所有地が無ければ、築造できないと思いますが、
いかがでしょうか。
314 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/27(日) 10:07:12
>>308さん
英国の国家統合史も、ローマン・ブリテンやヘプターキー時代(6世紀末から9世紀前半にかけての七王国時代)
があったように複雑です。
デーン人との戦いや、ノルマンコンクエストを通して、
イングランド王が、他の封建諸王よりも強力な政治・軍事的王権を築くことになりまいた。
日本の”大王(おおきみ)”は、イングランド王に近い存在であったかもしれません。
しかし、日本には神祇祭司王というたいへん重要な地位もありました。
そして、18世紀のジョージ一世の時代に、議員内閣制が形成されてくると、国王は政治に介入しないという慣習が
できあがり、象徴的存在となってくることになりました。これは、”君臨すれども統治せず”
という言葉に端的に表わされています。
ちなみに、308さんのおっしゃる>イングランド王>とは、イングランド王のことでしょうか、
連合王国王のことですか(イングランド、ウェールズ、スコットランド)、
それとも、コモンウェルスの盟主という意味でしょうか。
315 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/27(日) 10:22:32
>>309さん
309さんは、「あま族」なるものは、本来は海という意味であり、支配者層のみが、
「天」という漢字を充てたとお考えのようですが、
『紀』・『神』神話に見える、海幸彦が、山幸彦によって懲らしめられ、
山幸彦が皇孫ににぎの尊の先祖となるという経緯は、海幸よりも、山幸が重視されているようです。
この点は、どのようにお考えでしょうか。
316 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/27(日) 10:29:01
>>311見た目さん
>>313でも述べましたように、天皇陵は大規模古墳と考えられます。
天皇陵が築かれた場所に、領域支配権、あるいは、土地所有権が確立していなければ、あれだけ大きな陵を
築くことはできません。単なる「種貸し説」では、天皇陵問題を説明できないと思います。
>>315 その神話は、南方系の外国の民話のコピーでしょう。
史実とはいえませんよ?
仮に事実の投影だとしても、
最初に優位にあったのは海人(あま)族だったことにはかわりありません。
山族が海人族の名を騙って「天」と称したとも考えられます。
>>315 「アマ」というのは「海」という意味よりも
天上とかいう天気とかいう意味もあるんでしょう?
というか、「アマ」というのは、語源の大元は「水」でしょう?
つまり、農耕社会においては「水」を支配するものが世界を制する。
「アマ」は、水が沸いてくるところであり、それは
「天空」の「天(あま)」
「雨」の「あま」
「海」の「あま」もある。
全部、水と関係している。
だから、「アマ」でも、意味が微妙に違うと。
>>318 「アマ」の語源の大元は「水」というのは賛成です。
だからこそ、天上に限った意味は無いと思います。
320 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/28(月) 07:47:57
>>317さん
>最初に優位にあったのは海人(あま)族だったことにはかわりありません。
どのような理由から、最初に優位であったのは海人(あま)であったとお考えなのでしょうか。
例えば、海幸彦が山幸彦よりも年長であるといったような理由でしょうか。
321 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/28(月) 07:50:21
>>318さん
海水は、農耕には利用できないのではないでしょうか。
「天」と「雨」が結びつくことはわかりますが、
「海」と「雨」は結びつかないように思います。
322 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/28(月) 07:53:09
>>319さん
>>321で若干述べましたように、古代の人々にとって、水は、水でも、
海水と雨水に対しては、認識がまったく異なっていたと思います。
したがいまして、「海」と「雨」は結びつかないと思います。
323 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/28(月) 07:57:10
>>317さん・
>>318さん・
>>319さん
コテハンかトリップを付けていただきたくお願い申し上げます。
何人の人が(二人?、三人?、それとも、一人?)、どの意見を述べているのか、
アイデンティティーがはっきりしませんと、わかりません。
日本書紀では、アマノオシホミミ
古事記では、アメノオシホミミ
つまり、アメ→アマ
アマは、もともとアメ。
つまり、水が関係している。
>>320 どちらが優位かではなく、雨も海も、水という意味で同列、同じ意味ということですよ。
>>322 「海(うみ)」と「雨(あめ)=天(あめ)」は、古代では同じ発音上区別は無かったはずです。
>>309にもあるように、「天日槍」は、古語拾遺では、「海檜槍」と書きます。
同じ意味の名詞に異なった漢字が使われていた場合、
その漢字同士は同じ発音だったとみなすのが、古語研究の約束です。
貴方ならご存知のはず。
もともと、「アメ」とか「アマ」という言葉には
水という意味があったんだろう?
そこから派生して、水と関係する多くの言葉に
「アマ」と「アメ」が使用されるようになった。
「海(アマ)」とか「天(アマ)」とか「雨(アメ)」とか
327 :
唐松山:2007/05/28(月) 21:13:33
研究家さんへ 土地問題
天皇家が 畿内に広大な土地を持っていたでしょうけれども 日本全国
又は、アガリ を得る土地全部を所有していた とはとても考えられません
もし 大きな古墳を作る為に土地が必要となれば、その土地で生業を立てていた者に
徒出て行け では無く 代わりに なにかしらの報酬 土地の開発権 などを与えていたのではないでしょうか
たとえば 鎌倉幕府を開いた土地 小林郷(現在の鎌倉鶴岡八幡宮のある所)
土地を収用する代わりに宮の雑務等優先的に仕事を廻す とか
神主に小林の苗字が多いのは、そんないきさつではないかと 考えています。
脱線しましたが よろしいでしょうか
神が天にいるという発想は、日本的ではない。
アマ(天)姓には、キリスト教(景教)の影響が見られる。
一神教か多神教かという土壌の違いはあるが、
天孫降臨も、キリストが神から使わされたモチーフに似ている。
キリスト教徒は漁師であり、海人に通じる。
日本書記の最初の神が登場するくだりも、聖書の冒頭と似てる。
http://imgnews.naver.com/image/001/2007/05/28/PYH2007052801170005200_P2.jpg (昌原/釜山=聨合ニュース)六世紀以前、洛東江東地域に新羅や伽揶ではないもう一つの古
代国家が存在した可能性を見せてくれる遺跡が発見されて古代史学界の気を引いている。
慶南文化財研究院は釜山-蔚山高速道路建設区間の釜山機張郡(キジャングン)大羅里(テ
ラリ)遺跡を発掘調査した結果、六重の木柵で取り囲まれた三国時代祭祀遺跡と祭司が暮
したと推定される大型掘立柱建造物の敷地を見つけたと27日明らかにした。
多くの木柵で取り囲まれた三国時代の祭祀遺跡が発見されたのは今回が初めてで、これ自
体が力強い中央権力の存在を証明するものだと発掘チームは説明した。祭祀遺跡は楕円様
の木柵で取り囲まれ、一番外側の木柵は短い直径60mで長い直径は70mにのぼった。
この遺跡が発見された丘陵全体を囲む木柵が六重にもなることは、祭祀遺跡が簡単に近付
くことができない神聖な所だったことを見せてくれる。祭祀遺構南側の大型掘立柱建造物
の敷地底面積が横28m縦5mにもなる大規模なもので、祭司が居住して祭祀儀式を主幹した
と推定された。
木柵で発見された立入路2ヶ所を通れば祭祀遺跡とこの建物敷地が繋がり、木柵がこちらを
保護するための装置であることを確認ができる。出土遺物を根拠として見る時、この遺跡
の年代は五世紀中盤から六世紀前半、新羅が洛東江下流の機張・東莱・金海で勢力を広げ
ながら伽揶征服に力を注いでいたころ、と研究院側は明らかにした。
ソース:naver/聨合ニュース(韓国語)釜山機張で古代国家跡発見
http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSS2D&office_id=001&article_id=0001648660
331 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/29(火) 08:16:05
>>325さん
古代において、海(うみ:塩水)と雨(あめ:真水)が、同じように「水」を語源としていたとは、
やはり、考えられないのではないかと思います。
海水のことを「水」と表記した事例は、無いのではないでしょうか。
海水は、「潮(しお)」と表現されているように思います。
「海」よりも、むしろ「海人」、もしくは、海に潜る人々が、
「あま」と称されているようです。
332 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/29(火) 08:20:43
>>324さん・
>>325さん・
>>326さん
それぞれ別の方であるのか、同じ方であるのか、わかりません。
このスレッドは、学術的議論のためのスレッドですので、
コテハン、もしくは、トリップを付けていただきたくお願い申し上げます。
333 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/29(火) 08:34:37
>>327唐松山さん
もし、土地の代替として、開発権などを与えることができたのならば、
天皇家は、古代においては、その古墳築造地域に行政権を及ぼすことができていた、
ということになるのでしょうか。
唐松山さんのおっしゃられるように、稲種貸しを王権の起源と考えるよりも、
やはり、行政権に、より大きな要因があるように思いますが、いかがでしょうか。
334 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/29(火) 08:43:55
>>328さん
たしかに、『紀』・『記』神話においても、「天」と「地」という概念をわけており、
天照大神が天に配されたとあるように、「天」は聖界、「地」は俗世を表していると
考えられます。
キリスト教徒は漁師であり、海人に通じるというのは、奇想天外なお説とは思いますが、
案外、一考の余地はあるのかもしれません。
キリスト教(景教)の影響説については、研究課題であると思います。
>>331 >海水は、「潮(しお)」と表現されているように思います。
「水」は「ミヅ」と書くように、
「みつる(あふれる)」「潮がみつる」と語源を同じくしています。
「水がみつる」とは言いません。
もともと、「水(ミツ)」は、満潮で海水が増える様子を指した言葉でしょう。
336 :
唐松山:2007/05/29(火) 20:37:21
ミ07037 キサラギは メヲほぼやわし キサシおふ タネかしまつる
このように 近江(近海?)の オオモノ主が 申しておりました。
本当は、カシマです
337 :
唐松山:2007/05/29(火) 20:53:28
天女 から羽衣を獲ったら 海女 と見分けがつかない
わたつみ を訳すと わきたつ水 か
天 を訳すと 海を渡ってきた か
いずれにしても 水平線がわける
平行線では 無いわな
338 :
サガミハラハラ:2007/05/29(火) 23:07:52
日本書紀の紀年に関心のある方々へ
「畿内王権生成史の謎3」に継体天皇の記干支についての結論を書き込みました。
是非ご覧ください。
339 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 23:46:32
,. ‐';ニ"´ニイ:i!:、ヽ:.:`ヽ、_
/.:///:.イ:.|:|:|i:.:ヽ:.、ヽ:、ヽ、
:.:/:/./://:|:.:|:!:|:|i:.:.:゙,:.:.:.リ:.ヽ\
./:.:/:/:.:.//ハ:.:i:.:l:.:.i:.:.:i:.ヽ`:|:!:.:ヽヽ
:.:/.:/:.:./:.l!::.:.ハ:.V:.;、:i:.:.|:.:.ヽ|:.i:.i:.:.',:.゙:,
/l!:/.:.:/|!.|:.:./ハ:',:|:ヽ:、|!:.:.:.ハ:.||:.',:.i:、:',
!|l,:!:.:.:.:|.| |レ/∧:l:メ!:.ヽ:.:|:.|/:.i:.リ:、',:|:.i:.i
:|l.|:.:.:.:|!.:|:.//¬i:.{‐、.:|.ト、:l:|、:.!:.:.i:ヽ|:.|:|
i:.:| |:.:.|l:.:.l/ィ示ヽミ !.メ| 〉ヽ!:|_!:.|:i.:N:.|
:.:.l!:l、.:.:l、:l`ヽノ_, ' リ |i |.,.ィl、.|::!||:.メ:リ
、:.l!.N、:い!. !く:::ソ } |:.:|/:/
!:i、.i!リ ヽ! , `~ /|:ノ:/
:.i|:iN ` .: ノ /:!レ/′
:、l:|ハ 、____ /::i/'′
小| ヽ `''ー‐`'' /|/l
:.:トヽ \ / r‐-、r‐-、r‐-、r‐-、
N|`ヽ ヽ、 , '´ ┌───────┤ || || ||_..._|‐───────┐
``'''‐- ..,_ iT"´ | ー──────‐ |_...._|| ||_...._|ヽ_,ノ. ─────── |
、_ ``''‐N、 | DEATH NOTE .ヽ_,.ノ|.-‐.|ヽ_,ノ |
`ヽ、 i | ─────────. `ー' ー‐─────────‐ |
、 `ヽ、 | | 宮野裕史 神作譲 湊伸治 湊恒治 |
、`ヽ、 \ | | ──────────‐ :. ──────────‐ |
\ \ ヽ.|ヽ | 渡邊恭史 垣東孝一 岩井哲夫 星寿和 |
ヽ ヽ | \ | ──────────‐ :. ──────────‐ |
340 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 03:33:10
韓国で日本系土器が見つかっているのは福泉洞古墳群以外にも、
東莱(トンネ)貝塚など、釜山市周辺を中心に十数遺跡あるが、いずれにしても、
韓国で出土する古代日本の土器研究が始まったのは1980年代後半からであり、
その研究はまだ今から。
341 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/30(水) 08:48:50
>>335さん
>もともと、「水(ミツ)」は、満潮で海水が増える様子を指した言葉
「水(ミツ)」の語源が、満潮の海水であるのならば、「潮がみちる」は、
「ミツがミツ」という二重表現となってしまいます。
342 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/30(水) 08:56:27
>>336・
>>337唐松山さん
たしかに、稲種貸には、元となる稲種がありませんと貸し付けることはできません。
したがって、天皇家のご先祖たちのような有力者たちが、支配地・所有地からとれた
稲を貸し出してはいたのでしょう。
しかし、それをもって、天皇家の性格を稲貸として見做してしまいますことは、
行き過ぎの解釈であると思いますが、いかがでしょうか。
たとえば、政治行政(軍事権や裁判権も含めて)や神祇祭司などは、重要な要素です。
343 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/30(水) 09:27:13
>>338サガミハラハラさん
>@ 記干支では天皇の崩年と末年は異なっている場合がある。
>A 天皇によっては即位のみとめられない天皇がいた。(安康天皇)
>B 欽明天皇については、安閑・宣化をみとめていない系譜があり、欽明天皇の即位年をくりあげている。
>C 逆に継体天皇の在位期間をのばしている系譜もあるのでは?
>D 伸ばしたとすれば宣化崩年までとなり、539年己未である。
>E 己干支で十干と十二支が実際の崩御年と食い違う場合があった。
(応神天皇崩年甲申が甲午となっていた。これは崩年の壬午Aと末年の甲申を混同して、末年の候と崩御年の午とをくみあわせてしまったものである。
>C 同様の間違いがほかにはなかったとはいえない。
>G 安閑以降は記と紀の干支が同じであるとするならば、紀干支は己未であるはずである。
以上のサガミハラハラさんのお説につきまして、@については古事記崩年干支は、譲位である可能性もありますし、
1年ズレている場合もあります。A、Bにつきましては、「天皇」の定義の問題がかかわっていると思います。
C〜Gにつきましては、わたくしも継体天皇の末年をめぐる異説の問題を研究しておりますが、
まだ、仮説の段階で、万人を納得させるような結論にはいたっておりません。
344 :
サガミハラハラ:2007/05/30(水) 09:43:05
ご意見ありがとうございます。
更に研究を続けてまいりますのでまたよろしくお願いいたします。
>>341 なんにせよ、「ミツ」は「満」であって、
「水」を意味した言葉ではないでしょう。
「ときがみつる」ともいいます。
346 :
唐松山:2007/05/30(水) 16:53:44
種籾を持っているだけでは、 種貸し屋に成れません。
何故なら 出来た種を食べずに蓄えれば良いからです
其処に 農事暦を付ける(半年かもう少し 1年365日分ではない)
民に暦なし=暦は、天皇家及び支配層の物 (制作は、ミワか天照に暦なし)
崇神の 不受正朔 やまつろわぬ人等=まだ天皇家の農事暦を使用していない人々
=>天皇家の支配地域の拡大=>異族多来
この異族が大乱の敵方だったら いつ寝首を掻かれるか判らない
その恐れの無いような敵だったら大乱ではない(戦があったと言うだけで 乱れ が無い)
天皇家を 種貸し屋と呼べるのは、屯倉経営以前です
屯倉経営と大きな陵墓、古墳の始まりは、ほぼ 同時代と考えます
唐松山は、ひとつ勘違いしてるなあ。
暦を必要とする場合というのは、稲作など、準備や収穫の時期を知る場合に限る。
狩猟採集優先の、まだ稲作がなされていない土地では、細かい暦は必要がない。
だから、暦が支配層のものという概念は間違ってる。
支配層が暦だけ知っていても、何も利益は無い。
民が暦を知ることで、稲作が効率よく行なわれ、クニが発展するのである。
民にとっての暦も正確である必要はなく、
山の雪溶けとか、はじめての南風が吹いた日から種付け日を起算しても、
生活の知恵として、十分役に立つ。
稲作民にとってと、狩猟民にとってと、そんなに必要な暦の精粗に差があるか?
どちらにとっても、収穫期と貯蔵期に対する認識は似たようなもんだろ。
349 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/31(木) 09:00:08
>>344サガミハラハラさん
日本書紀の本文の継体天皇の末年、分註の末年、古事記崩年干支の末年が、
それぞれ異なることについては、何らかの理由、もしくは、構想があると考えられます。
その解明は、たいへん難しい研究課題です。
わたくしも、研究を続けてまいりたいと思います。
350 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/31(木) 09:10:20
>>345さん
>なんにせよ、「ミツ」は「満」であって、
>「水」を意味した言葉ではないでしょう。
わたくしも、そのように思います。
>>335さんが、以下のように、おっしゃられたことに対するわたくしの反論が
>>341です。
>もともと、「水(ミツ)」は、満潮で海水が増える様子を指した言葉
345さんは、わたくしではなく、335さんに対して、345でのお意見を
おっしゃられてください。
351 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/31(木) 09:20:59
唐松山さん
わたくしは、日本古代においては、暦はあまり重視されていなかったのではないかと、
考えております。農事暦があったのかどうかは、疑問に思います。
また、天皇の支配地での稲種貸しについきましては、行ってはいたとは思いますが、
それが、どの程度の政治的・経済的影響があたのか、につきましては、
唐松山さんの過大評価であるのか、否か、わたくしには、まだ、わかりません。
352 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/31(木) 09:29:19
>>347さん
古代中国では、暦(時間空間)は、支配者から人々に賜るものという観念、すなわち、
暦法は、支配の象徴であるといった観念があったようです。
日本では、天智天皇の漏刻(水時計)が、時を人々に賜るという発想において、
このような観念に通じているのかもしれません。
しかし、日本書紀では、持統四年に漸く暦法についての記述が見えるようになりますので、
本当のところ、どうであったのかは、まだ、明らかにはなっていません。
353 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/31(木) 09:34:40
>>348さん
>稲作民にとってと、狩猟民にとってと、そんなに必要な暦の精粗に差があるか?
>どちらにとっても、収穫期と貯蔵期に対する認識は似たようなもんだろ。
『魏略』にも歳時については、春と秋というおおざっぱな計り方をしていたと
記されていますので、
>>351でも述べましたように、
日本古代におきまして、暦法に対しては、あまり関心は高くは無かったのではないか
と考えております。
354 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 09:56:14
日本で最初に暦を意識したのは
農耕周期からだろう?おそらく。
>>352 >しかし、日本書紀では、持統四年に漸く暦法についての記述が見えるようになりますので、
水時計程度のもので喜んで記述してるので、
それ以前はたいした暦法は無かったのでしょう。
ということは、それ以前の干支表記は、全然あてにならないということです。
356 :
唐松山:2007/05/31(木) 18:50:30
暦法は、10干12支 と24節気だけでは有りません
干支、九星、十二直、二十八宿、下段、選日、二十四節気、七十二候等
これらを使った 占い の類も含めて 持統四年に漸く暦法 に辿り着くわけで
それ以前に 日食の記事が無いのは、干支の廻し程度しか使われなかった証拠だと思います
日食の意味さえ知らなかった または 重要性は、認識していても 使う事が出来ない
347さんへ
雪解けや東風では収量に差が出る
たとえば 今年2007年のように 雪の降らない年は、雪形は使えない
そんな物で農業は出来ないですよ
現在は、ビニールハウス等があり 稲苗の栽培も楽になっていますが 当時は、野天の苗代に種まき
しかも 古墳寒冷化時代 という見方も在ります(私は倭国大乱のきっかけと考える)
1週間の違いは、収量に差が出る可能性大 百姓の勉強もして下さい。
>>356 自己矛盾してるぞ。
>たとえば 今年2007年のように 雪の降らない年は、雪形は使えない
>そんな物で農業は出来ないですよ
それなら、計算しただけの「暦」はなおさら役に立たない。
>1週間の違いは、収量に差が出る可能性大 百姓の勉強もして下さい。
なおかつ、1週間の違いで、どれくらいの差が出るのか具体的に根拠を述べて欲しいな。
3月〜9月の長期気候変動のほうがよほど影響がでるだろ。
358 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/01(金) 08:34:18
>>354さん
暦には、あまり関心がなかったものの、春と秋を重視していたという点は、
やはり農耕との関連が想定できると思います。
ちなみに、持統天皇は、百人一首で、「春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」
と詠んで、夏がお好きであったようですが、農繁期に行幸されて、重臣たちから諫められるなど、顰蹙をかっています。
想像の域をでませんが、持統天皇は、農業への関心が低かったのかもしれません。
359 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/01(金) 08:47:02
>>355さん
日本書紀では、雄略元年から元嘉暦を用いていますので、雄略紀以降については、一定範囲内で元嘉暦が用いられていた可能性があります。
それより前は、七世紀に編まれた儀鳳暦が用いられていますので、日本書紀の編纂者が適当に暦日をわり振ったという説もあります。
しかし、前漢時代に四分暦という干支紀年法と連結した暦があり、我が国にも将来していたとも
考えられますので、あるいは、四分暦を儀鳳暦に変換しているとも想像できます。
また、干支表記については、暦日ではなく干支紀年法の場合には、信憑性があります。
暦法が無くとも紀年法を用いることができるからです。
暦法と紀年法の違いについては、わたくしのHP「倉西先生のご学問所(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)」の歴史発見物コラム
にて、「紀年法と暦法はどこが違うの」で扱っておりますので(過去コラム)、ご興味があれば、ぜひ、ご覧になってください。
360 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/01(金) 08:50:27
>>339さん
わたくしは、「Death Note」の意味がわからないのですが、物騒な意味であるように思います。
ここは、学術的議論の場です。議論には議論をもって、説には説をもって、対応していただきたいと思います。
網野があれだけ言っても、まだ農業中心史観の連中が居るな
とくにこういう↓思い込みの人などはそうだね。
→日本の古代はマキムクが中心
→邪馬台国は畿内以外ありえない
→日本の古代は農業と土木だけで考えよ
363 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/02(土) 10:57:19
>>361・
>>362さん
わたくしは、農業中心史観ではありませんが、幕末までは米本位制ともいえるような状況
にあったことを考えますと、農業は重要であったと考えております。
経済流通において、いわば、貨幣の役割を担ったような物品は、行政(語弊はあるかもしれませんが、支配)
と密接な関係にあったのではないか、と推論できるからです。
ちなみに、古代中国では布本位制であったそうです。
おいおい、農業中心でなければ、何が中心だって言うんだ?
祭祀は、五穀豊穣を願うものだし、
鉄器は、農地開拓のために必要なものだ。
考古学オンチが本当に多いな。
玉
「あまくだり」=「天下り」という言葉の意味は、
「天百済」ではないだろうか?
つまり、百済のアマ族が日本にきて王になったと。
政治の中心概念に、「農業」「漁業」「林業」なんてものを持ってくること自体が無意味。
もっとも多くの住民を抱えてうまくいく体制をとることが、政治の最大関心事。
他を排除して農業に専念したるする阿呆な政治などない。
[もっとも多くの住民を抱えてうまくいく体制]
って、具体的に何なの?
人口を維持ないし増やすこと。
本列島の民衆の食事において、農作物がトップだったことは
一度もない。
>>369 >人口を維持ないし増やすこと。
どうやって維持して増やすんですか?
>>370 では、民衆の食事のトップはなんだったのですか?
373 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/03(日) 09:38:32
[もっとも多くの住民を抱えてうまくいく体制] は、領域(外敵から領土を守る)、国民の生命・身体・財産の保護(治安の維持・公平な裁判など…)、
主権(当時にあっては統治権…)にあったことは、昔も今も変わらないのではないでしょうか。
独裁者によって、不当な裁判が行われることは、その地域の住民にとりまして、脅威であったはずです。
妹の”いらつめ”が、HP「倉西先生のご学問所(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)」の統治学入門にて、
よりよき統治のあるかたについて論じておりますので、ぜひ、ご覧になってみてください。
374 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/03(日) 09:41:17
>>373 その統治者の「統治権」は、何によって支えられていたのですか?
1、統治者が統治権を獲得し、民を束ねていた
2、民から推挙されて、統治権を委ねられていた
古代において、どちらの体制が敷かれていたとお考えですかな?
>371
それは「どういう政治が良い政治ですか」と同じ質問ですから循環になります。
民衆がその共同体に所属し身を寄せていると、快適に「食っていける」ような政治です。
377 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/03(日) 12:21:28
>>375さん
『魏志』倭人伝には、卑弥呼没後に「男王」が立ちますが、これに人々が従わなかったとありますので、
日本古代においては、推挙型が主流であったと思います。
1のタイプは、独裁者になってしまって、少なくとも、日本古代では、好まれなかったのではないでしょうか。
1のタイプは、むしろ、政治的不安定要因になりやすかったからなのかもしれません。
>>376 循環しません。
こちらは、「手段」や「手法」を聞いているのであって、
貴方の言ってることは、結果や展望です。
快適に「食っていける」ような政治とは、どういう手段で可能なのですか?
貴方は「安定した農業生産の確立と保障」では無いと考えているわけでしょう?
それとも、政治を下支えしているものは農業だと認めますか?
>378
どの場所のどういった環境のどんな気性の共同体であるかなどに依存しますね。
敢えて言えば、農業以外の諸要素のはうがはるかに大きかったということです。
農業を軽視した共同体、例えば対馬の社会では、農業を重視したら崩壊するでしょう。
380 :
唐松山:2007/06/03(日) 17:45:59
>379
対馬の社会も 元は、農業の時代が在ったかも知れません
農業のみの時代は、在ったとしても それほど長くは無かったでしょうが
農業を 無視又は、軽視した時代は無い。
其の証拠が 供物として古代米が伝えられてきた ということでは?
古代米=禾稲 (稲穂のヒゲの長いヤツ)
現在の日本米の国内持ち込みは、 タジマモリでは無いでしょうか
381 :
唐松山:2007/06/03(日) 18:02:42
380訂正
農業が行われる以前 においては農業は、無視される。 のは当たり前
禾稲=>陸稲=>焼畑(水田を含む)
日本米=水田のみ
主食は、麦でもドングリでもアリだが 酒は米
非常に勘違いをされております。
農業があったかどうかという議論はしておりません。
「古代政治の中心が農業だった」という仮説は
当たっていないだろうという話です。
383 :
唐松山:2007/06/03(日) 19:08:58
>375 さん へ 私の考え 1 です
>377 のような考え方も御ありでしょうが
卑弥呼―>男王―>イヨ(五百野姫)
この 五百野姫 筑紫下向の時 20人の司に80人(沢山)の武士が同行しています。
なかよしクラブでは、天皇家 此処まで繋がらない
此処まで繋げるため 天皇家(支配層)では、暦を秘匿し 農事暦による 種貸し
崇神6年凶作 支配階級の発行する農事暦への不信 九州では、倭国大乱の序奏
暦が分散します(宇佐のクロマロなど)離農者の九州流入―>盗賊となる(川坂たのみ掠め取る)
九州王朝では、アガリの減少、討伐の為の戦
当然九州王朝疲弊 景行に軍事出動要請...
これが 倭国大乱 だと考えています。
畿内では、離農者などに適切に対応できた為 畿内静謐、天下泰平
研究家さんは、崇神 不受正朔を どのようなモノとお考えでしょうか?
>>382 貴方は、「古代政治の中心が農業だった」という仮説は
当たっていないだろうという話をしたいなら、
「古代政治の中心は***だった」と、貴方の考えを述べるべきでは?
貴方の考えを、昨日からずっと問いただしてるわけですが、
お答えになりませんな。
あと、このスレで話題にしてる限り、古代社会といっても、弥生時代後期以後と、
考えていてよろしいですな?
まさかいまさら「縄文時代の話でした」なんて言わないでくださいね。
答えにならないのではなく、農業が政治の中心とは言えませんといっているのです。
政治の中心がなければならないという理由をあなたが先に証明してください。
政治に中心が無ければ、政治と呼べる社会ではない。
本末転倒。
証明になっていませんね。
要するに、マキムクが日本の中心であり、邪馬台国は畿内大和だと
結論付けんがための無茶な農業政治論なわけです。
>>388 なんだ?
「農業政治論=邪馬台国畿内説」という話をしてたのか?
笑わせるな。
邪馬台国が九州であろうと、農業が主要産業だったことは変わらない。
なんだ、魏志から海洋国だったのを読み取れないのか。
お話にならないな。
魏志倭人条を読みました?どこが農業国家ですか?
土地山險,多深林,道路如禽鹿徑。有千餘戸,無良田,食海物自活,
乖船南北?糴。・・・方可三百里,多竹木叢林,有三千許家,差有田地,
耕田猶不足食,亦南北?糴。又渡一海,千餘里至末盧國,有四千餘戸,
濱山海居,草木茂盛,行不見前人。好捕魚鰒,水無深淺,皆沈沒取之。
・・・今倭水人好沈沒捕魚蛤,文身亦以厭大魚水禽,後稍以為飾。
網野も泣いてるよ。農業中心史観の洗脳がこれほど強いとは。
網野が何を言ってた?
農業中心史観が間違いなら、何が中心だったか早く答えて見ろよ。
>>391 各地から集めた「租・庸・調」のうち海産物がどれくらいだというのかね?
もちろん、最も重要なのは「租」ですが。
政治の中心として「何々業」があらねばならない理由や証拠は何ですか?
まずそれを先に述べてからにしてください。
396 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/04(月) 08:16:49
>>383唐松山さん
1と2のパターンがあったと思いますが、唐松山さんは、1が主流であったとお考えなのですね。
しかし、唐松山さんが
>>383で述べた仮説は、2のパターンが主流であったことを示しているように思います。
暦にしたがわない、ということは、不服従を意味したはずですので、やはり擁立型の2が主流では
なかったのでしょうか。
また、崇神天皇の正朔不受は、暦法よりも紀年法を重視していたということなのではないでしょうか。
397 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/04(月) 08:23:24
日本古代において農業が中心であったのか、という問題について活発な議論があるようですが、
日本古代といいましても、縄文時代、弥生時代初期、中期、後期、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代と
それぞれ産業構造が異なっていたと考えられます。皆様方が、それぞれイメージする時代が違いますと
議論にならないような気がします。
398 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 09:53:13
狩猟、漁猟、果実・・・、稲作が中心になって来た・・・食料備蓄
縄張り争い〜全国統一国家が形成されて行った。
稲作が、如何に重要だったかは全国神社の祝詞を読めば、一目瞭然
天の大罪に、畔放ち・溝埋め・樋放ち・頻蒔・串刺し・生剥ぎ・逆剥ぎ・糞屁
・許許諾の罪 を天津罪と言う。
これらから、農業の主たる生産活動で、生活そのものであった。
その他、国津罪が15罪ある。・・・これは法別
>>395 それなら、「政治」の定義で共通認識をもつべきだな。
貴方の考える「政治」とはなんだ?
>>397 このスレで話題にしてる限り、弥生時代後期以後としか捉えられない。
400 :
唐松山:2007/06/04(月) 18:31:21
396へ
崇神天皇十年秋七月。詔群卿
曰。導民之本。在於教化也。今既礼神祇。災害皆耗。然遠荒人等。猶不受正朔。
是未習王化耳。其選郡卿。遣于四方。
崇神10年民を治めるため 教えが必要である。 今はもう神祇に礼を尽くし、 災害の余韻も癒えた、
然るに 遠方の益荒男等は、未だ 朕の正朔を 受け容れていない、
これ(正朔)を教え習わせ 従わせる 為に選郡卿を将軍とし 四道に軍を送る
異族(農奴として)多く連れ帰る。
このように 読むと 1 になる。
文字の使えない民に 紀年法を教えて何に成るんですか? そんな物より
種まき の日にちを教える。 この方がよっぽど 民は、喜ぶ=従う
当時の 稲籾の種まきは、現在の5月 早いと遅霜の被害 遅いと実入りが悪い。
それでも 5,6年のような 被害は出る
>399
辞書をご覧のとおり。
402 :
唐松山:2007/06/04(月) 21:10:41
391さんへ
対馬 千余戸 + 壱岐 三千戸 + 松浦 四千戸 =八千戸
現在の人口 対馬市+壱岐市+松浦市=十万人弱
当時の人口密度は、農業だけで食べるには、多すぎる 認めます。
ただ 畿内から見た この 偏狭の地を 日本の平均値に当てはめる事は出来ない
私は、畿内天皇家の 政治治世基盤の話をしているのであって 日本全国同じ状態であるわけが無く
この地方を持ち出して 農業のみに在らず と言うならば
どの天皇の時代に この地方が天皇の支配下となったか
だけでも かきこみ お願いします。
>>395 大辞林 第二版 (三省堂)
せいじ ―ぢ 【政治】<
(1)統治者・為政者が民に施す施策。まつりごと。
(2)国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動。広義には、諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整・統合することにもいう。
「―にたずさわる」
----------------------------------------------------------
「施策」「権力作用にかかわる人間の諸活動」の根本は、
古代社会では農業以外に無いだろう。
海洋民族だった古代社会で、農業のみが政治だというのは
単なる思い込み。
海洋民族の定義を出してからの話だ。
辞書どおりです。
大辞林 第二版 (三省堂) 【海洋民族】 の検索結果
キーワードに該当する結果が見つかりませんでした
408 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/05(火) 09:15:46
弥生時代となって稲作がおこなわれるようになり、国々が形つくられてきたという経緯からは、
稲作は国家形成の大きな要因となったのではないか、と思います。
ただし、日本書紀の仁徳紀や古事記の仁徳天皇の段に、「贄」の魚についての記述が見えること、木の実や魚などが
神前に供されることからは、採取漁撈もまた、重視されていたのではないか、と考えられます。
409 :
唐松山:2007/06/05(火) 17:54:29
崇神天皇十七年秋七月丙午朔。詔曰。船者天
下之要用也。今海辺之民。由無船、以甚苦歩運。其令諸国俾造船舶。 始造船舶。
崇神17年 アガリを運ぶ為に船を始めて作る
もちろん 船が出来れば アガリの運搬だけに使われる なんてことは無く
色々な物資の運搬、交易に使われる
崇神が 海洋国家をまとめていたんですか?
410 :
横スレのいらつめ:2007/06/05(火) 18:31:15
>>403さん
横スレと言われるものとなってしまいますが、お許しください。確かに、
大辞林には、政治は、そのように定義されてあるかと思います。しかしなが
ら、この定義ですと、政治を内政にのみに特化してしまい、外政の部分が抜
けているように思えます。そこで、私は、”政治”を、集団の戦略的な決定
(特に外政)と、内部調整(これは、大辞林の定義に近い)とに分類し、さ
らに、これらに個々人のの自由と権利の保障に関する秩序維持を加えて、
”統治”と捉えることにいたしました。こうした多元的な見方の方が、集団
にともなう統治をというものをより現実に即して説明できると考えるのですが、
いかがでしょうか?詳しくは、HP『倉西先生のご学問所』の統治学入門をご覧
くださいませ。
アドレスは、
http://www3.plala.or.jp/kuranishgakumon です。
>>410 政治も統治も同じようなことでしょう。
ごく一部のアホが、弥生時代の倭国は海洋国家だから、
政治・統治の基礎は、農業ではないと言ってるので、たしなめていただけです。
海洋国家の定義が無ければ、海洋国家を議題にすることはできません。
ごく一部のアホが、自己のイメージだけで、
「倭国は海洋国家だったから農業は主体ではない」と妄想してるわけです。
412 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 20:57:54
そもそも、農業を中心に据えんがために、政治の中心なんて概念を持ってきて
「それは農業です」といっても、魏志倭人伝は否を言うばかり。
陸行一月の邪馬台国のどこが海洋国家ですか?
農業国家でもないし、もちろん海洋国家でもない。
そんなの古代国家論の常識。
指導者が農業を奨励していたことは間違いない。
農地があるのに、ほったらかしで、海産物採取に人民を動員するような指導者は、
過去も現在も世界のどこにも無い。
まあ、あったら聞かせてくれや。
バイキングなんかも農地が乏しく飢えていたから船で遠征して略奪してたわけで、
イギリスやフランスで農地を確保できたグループはそこで農民となってる。
狩猟や漁も大事なわけだが。
魏志倭人伝の言う通り、農業などほんのわずか。
倭人社会では、農業より漁業のほうがよっぽど大事。
「政治の中心が農業」だなんて大笑いです。
ひとりでほざいてろ。
420 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/06(水) 09:23:03
日本古代における農業の問題については、いろいろと議論があるかと思いますが、
採取漁撈よりも農業のほうが、より人々の組織化を必要としたと考えられます。
稲作ですと、水田に必要な農業用水を確保しなければなりませんので。
そこで、村から国造りいたるまでの、人間集団の政治化に、農業が、どのような影響を
与えていたのかが、課題になるかと思います。
大局的に見て、弥生時代になって、国々が形作られたことは、農業の影響と捉えることができるかもしれません。
421 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/06(水) 09:30:54
議論の話題が、農業と採取漁撈の問題に集中しているようですが、このスレッドは、日本書紀紀年法をテーマとしたものです。
昨今、ブログ「ゆうちゃまの昔語り」(
http://kuragaku.typepad.jp/yuko)を開設いたしました。
研究史上、日本書紀紀年法が解明困難とされてきた理由や経緯を、わかりやすく説明しようと試みております。
日記形式の連載にしてゆく予定ですので、興味のある方々は、ぜひ、ご覧になってみてください。
日本人が米食中心になったのは、戦前からです。
古代から米食を中心にしていたような幻想はやめましょう。
農業も漁業も民族全体の伝承で行うのが基本です。
何か、権力のある首長の号令が無いと農業ができないかのような
錯覚はやめましょう。
423 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/07(木) 09:30:49
>>422さん
お米が重要であることは、米食中心であったというよりは、石高制であったことです。
貨幣のかわりになった、すなわち、米本位制であったということになります。
古代中国では布本位制でしたので、遣唐使などは、かの地でお世話になった方々への謝礼として、
日本から持参した絹布を贈ったという記録も残っています。
また、権力のある首長の号令の有無については、日本古代において、どのようであったのかはわかりませんが、
合議という考えもありますので、わたくしは、農業イコール権力者という短直的な考えを持っているわけではありません。
>>422 「日本人が米食中心になったのは、戦前からです。」
歴史板で仕入れた浅知恵かい?
そりゃあ、江戸時代までの貧乏な庶民は白米なんてめったに食えなかったろう。
それだけ、大名などの権力者が資産価値として牛耳っていたということだよ。
高齢者に聞いて調査したことがありますか?常識です。
太古から昭和10年代まで、実体として「主食が米食」という時代はないですね。
一日のうち、せいぜい1食しか米飯を食べない世帯が大半。
ゼロの世帯も非常に多い。
特に古代となれば、政治の中心が農業なのではなく、
農業は数ある要素の一つにすぎません。
426 :
唐松山:2007/06/09(土) 16:17:38
主食は 麦でもドングリでも可能だが、 酒は、米
もし 魚介類を主食としても(なるのかな?) 酒は米
神様に沢山の米を奉納して お神酒の分け前を戴く
天皇家(支配層)は暦
江戸時代まで 暦編纂権を手放さないのは、この伝統のせいでは?
427 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 16:37:18
米が主食でなかったのなら米騒動なんて起きなかっただろうねw
あれは、産地の出荷騒動ですね。
米食が憧れだったのは事実。
戦後は牛肉も憧れでしたね。
430 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/10(日) 09:18:49
お米が主食であったのか、なかったのか、は重要であるのかもしれませんが、
お米と国家形成との関連が議論の焦点であるのならば、正税の問題や、
稲作にともなう組織化の問題に目を向ける必要があると思います。
灌漑、農業用水路の造営、水利権をめぐる争いの調整などは、裁判権なども含んで、
統治権を有する謂わば”政府”のような機能を発展させた可能性はあるのではないでしょうか。
可能性もなにも常識だろうが。
地理的にも時間的にも、非農業国家のほうが、歴史上占めていた部分は大きい。
海洋にしろ牧畜にしろ商業にしろ。但しそういう国家はやたらと大きくはなるが
安定性はない。農業国家は安定性はまあまあ高い。
日本書紀ですから持統天皇までに限定して申せば、日本列島の住民は米の飯はほとんど食べていません。政治の中心が稲作農業だというのはちょっと違うでしょう。
434 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 17:34:22
平安時代から平成までの歴史を記した新・日本書紀が必要。
序章として、神代の話を付けるのも良い。
>>433 語れば語るほど無知をさらけ出すというのは、こういうことか。
海産物を好んで食べていたという記述がどこかにあったら教えてくれ。
魏志倭人伝や日本書紀には、住民の主食が米であるとか、
政治の中心は農業でしたという記述は一切ありませんね、残念。
ひとりでほざいてろ。
過去レスを見ると、どちらが「ひとり」かよくわかるよw
439 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/11(月) 08:10:16
>>431さん
常識とのご意見は、うれしく思います。
といいますのは、原始時代には利害関係や争いごとは無かったと見做す単純で、
短直的な考えがあることから、今日の世界が、多くの国々で成り立っていることの理由、すなわち、
なぜ、人類は国家を形成するようになったのか、という問題を、きちんと見据えて議論しない方々も
多いように思うからです。
440 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/11(月) 08:21:42
>>432さん
>地理的にも時間的にも、非農業国家のほうが、歴史上占めていた部分は大きい。
>海洋にしろ牧畜にしろ商業にしろ。但しそういう国家はやたらと大きくはなるが
>安定性はない。農業国家は安定性はまあまあ高い。
産業構造が単純であった時代、農地の確保に困らなかった時代においては、
農業国の安定性は高かったと、わたくしは思います(今日では、他にも安定要因があります)。
おそらく、商業国家は点と点を結ぶ支配、農業国家は領域的・面的支配と関連しているからなのでしょう。
441 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/11(月) 08:29:19
>>433さん
『日本書紀』神代紀には、天照大神とスサノオ尊の争いについての記述があり、
その内容から、稲作がいかに重視されていたのかが、わかります。
お米が主食であったのか、なかったのか、については、地域差などもあったのではないか、
と思いますが、弥生時代以降は、政治的に稲作は重要であったと考えられます。
442 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/11(月) 08:46:09
>>434さん
>平安時代から平成までの歴史を記した新・日本書紀が必要。
>序章として、神代の話を付けるのも良い。
なぜ、平安時代からが、新・日本書紀なのでしょうか。
平安遷都は794年ですので、『日本書紀』につづいて、『続日本紀』や『日本後紀』が、
697年から794年までの歴史を記録しています。すなわち、平安時代初期までは、
六国史が扱っています。
平安時代以降を新・日本書紀とする区分は、おかしいと思います。
また、序章を神代の話としてしまいますと、神武紀から『続日本紀』までの
歴史が、すっぽり抜けてしまい、通史としての体裁も整わなくなることにもなります。
443 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/11(月) 08:53:43
>>437さんと
>>438さん
スレッドの書き込みは、原則一人であって、連名で書き込みをなさるかたは、
おられないのではないでしょうか。
>過去レスを見ると、どちらが「ひとり」かよくわかるよw
とは、どういう意味なのでしょうか。
何か、勘違いしておられる記述が見えますのでひとこと。
古代の政治は「稲作を軽視」していたのではなく「稲作も重視」していましたが、
慣海民だったアマ族系の天孫政権だったために九州本土の稲作が目新しく、
農業の将来に期待していた風は見られます。戦後の日本人が肉食にあこがれて
いたのに近いものがあります。
しかし政治の中心が農業だった、稲作だったというのは実態を無視している幻想です。
日本列島全体としては米食中心ではなく、まして「政治の中心が稲作農業である」
というのは全くの見当違いだということです。
また、「古代は平和で戦争がなかったという幻想」は研究家さんだけが言及して
おられますが、このスレの誰も主張していないので、意味がない反論だと思います。
445 :
唐松山:2007/06/11(月) 17:39:57
人性酒を嗜む。
この酒は、米から作られた酒でなければ、何から造られた酒でしょう
政治の中心に稲作を置かなければ 神も祭れない お神酒上がらぬ神はなし
政治の中心が酒だったというのは間違いでしょう。
お話になりません。
447 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 22:50:29
日本では料亭政治といって料亭で酒盛りをしながら政治を話し合うという
風習が幕末以来の伝統としてつい最近までおこなわれていました。
政治と酒の原料とは無関係ですね。
フランスの政治の中心は葡萄栽培ではありませんでした。
>>444 どこのバカだ?
毎日毎日ひとりよがりの妄想を繰り返すとはな。
他のスレで同じこと言ってみろ。
>農業国家は領域的・面的支配と関連しているからなのでしょう。
領域的支配になるかどうかは、要するに人的支配から土地的支配への転換が
必要で、農業かどうかは第一義的要因ではない。
荘園が一円・領域的編成になるのに、長い年月を要したことからも明らか。
>>450 それでは、何が第一義的要因なのかな?
やみくもに否定ばかりしてないで、自分の考えを言えよ。言えるものならな。
第一義的な要因がなければならない根拠は何かな?
第一義的な要因が古代(日本書紀に記載されている年代)に
一貫して変わらないはず、と推定している証拠は?
仮にあったとして、稲作が政治の中心だと断定した根拠は?
453 :
唐松山:2007/06/12(火) 18:36:35
暦は、神代 天照の時代には在りました。 暦の廻しは、 この時代から 秘密です。
ホ22025 ひさかたの アマテルカミの ハツミヨに ヒヨミのトリの ...
ホ22045 たまわりて コヨミをまもる ヤヤサカミなり このカミの つねにめぐりて
まもるゆえ ヒミツのワザの さわりなし
ホ22129 キヨハラヒ ヒミツをカミに つゝしみて きよめたまえと まうしてもふす
ナガスネは、この暦(文)を盗み出した為 追われた。
ホ23007 ときにアマテルミコトのり ツルギのモトは アメノホコ クニトコタチの
ヨにはまだ ホコなきゆえは すなほにて ...
ホ23029 アメノカミ つぎ(貸し籾)なくマツリ つきんとす かれイザナギに のたまふは
トヨアシハラの チヰオアキ ミヅホのタありナンヂゆき しらすべしとて
ト(トはオシテ)とホコ(サカホコ)と さつけたまわる ... トヨアシハラ(筑紫)は 天照が 力で奪い治めた。
ホ23075 クニみたるれば タもあれて ミヅホのぼらず まづしきを
ツミビトきりて たかやせば ミツホのなりて タミゆたか 従わない者は、天誅
ホ23157 アメカセも トキもたかえば イネやせて ... 時が違えば 稲 痩せて...
少し前に 1週間違えば... という議論をしましたが それが1週間 早いのか遅いのかはたまた1日なのか
判らないのが 暦無し の状態です。
今でも 「閏7月のある年は、夏が長い」 是くらいの言い回しをする人、聞いた事のある人は、大勢居ると思います。
454 :
唐松山:2007/06/12(火) 18:54:38
453さんへ
ホ2309の 継ぎ 無く祭り尽きんとす
ツギ は米です 魚介類では有りません
それとも やはり魚ですか
その質問の答えが「米」だった場合でも、神代から持統天皇までの政治の中心が
稲作農業だという結論になるわけではありませんから、誘導尋問ですね。
まつりごとに「米」が出てくるのは、対馬や壱岐から上陸したアマ族にとって、
新しい行為だったから書き立てているのです。明治維新後にすき焼きで
牛肉を食うべしと大騒ぎした風がありましたが、明治の政治の中心は、
牛の牧畜になったわけではありません。
>>452 >仮にあったとして、稲作が政治の中心だと断定した根拠は?
稲作でなければ、政治の中心は何だというのだね?
他に何かあるなら、ぜひ教えてくれたまえ。
457 :
唐松山:2007/06/12(火) 20:33:26
だから 種貸しを シノギ としていたのは、景行あたりまで
成務の時代から屯倉経営に切り替える。
この辺から 上がりは、籾だけではありません
関東からは、労働力(武士も含む)などになると思います
全国から米を集めても使い道が無い 腐らすだけ
それを 持統天皇まで と 言うなら先に言って下さい
持統天皇は 弥生時代ですか?
このスレは日本書紀の記年法のスレです。
「日本書紀に書いてある時代」や「書かれた時代」以外を問題にしないでください。
ある勝手な時代だけを取り上げて、その時代を何と呼称するか否かなどの議論は、
他でやってください。
>>455 >対馬や壱岐から上陸したアマ族にとって、
アマ族ってなに?
対馬や壱岐から上陸した根拠は?
ではご自由に。
まず稲作農業が政治の中心であった証明からどうぞ。
>>460 稲作でなければ、他に何があるのだ?と聞いてるのだが?
政治に中心がなければならない証拠、とくに政治の中心として産業がなければならない証拠は?
話はそれからでしょう。
>>462 「中心の無い政治」「産業の無い政治」とは何か、具体例を挙げて説明せよ。
「ある」と主張している側だけが、証明する必要があります。
それではどうぞ。
465 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 07:51:11
このスレには異常に拘泥性のある人が居座ってるようですね。
>>464 「中心の無い政治」「産業の無い政治」の具体例が、
誰からも提示され無ければ、
政治には中心があり、産業があるということです。
反論があるなら、「中心の無い政治」「産業の無い政治」とは何か、具体例を挙げて説明せよ。
いいえ、中心がなければならない証明が先になります。
古今東西の政治に、はたして中心などあったのか、
ましてや特定の産業だけが中心などということがあるのか、
そちらの証明が先になります。
誰が見たって勉強不足の厨房なんだしスルーでお願いします。
>>467 証明は必要ありません。
貴方が「中心の無い政治」「産業の無い政治」の具体例を語るつもりがないなら、
なんの議論もできないわけですから、貴方が消えるべきです。
稲作が政治の中心だという妄想を語りたいなら、他スレでどうぞ。
471 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 20:44:38
全然関係無いけど
景行天皇だけど、古事記では完全にやっつけキャラなんだけど、書紀では大活躍
なんでだと思う
>>470 稲作が政治の中心だという妄想を語りたいなら、
どうぞ、早く語ってください。
政治の中心は何だったのですか?
>>472 >稲作が政治の中心だという妄想を語りたいなら、
訂正
稲作が政治の中心ではないことを語りたいなら、どうぞ早く語ってください。
ずっと待ってますが。
474 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 06:53:18
>>471 古事記日本書紀が景行のモデルを多利思比孤にしたからだから
先代の成務が次代に変更されたのは太子が和歌彌多弗利だから
475 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/14(木) 16:13:24
476 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 04:30:40
はやく数字遊びスレに戻るといいてすね
477 :
450:2007/06/15(金) 07:34:55
>それでは、何が第一義的要因なのかな?
何なのかは私も分かりませんが、律令制が個別人身支配をとっていたことからも
明らかなように、農業云々と人頭税か土地税かは次元の異なる話です。
もちろん土台が上部構造に影響を与えることは否定出来ませんが、やはり
政治によるリーダーシップによるところが大きいのではないでしょうか。
上部構造たる政治に影響を与える下部構造は生産関係であって、産業の種類とは
関係のない話ではないでしょうか。
>>477 >産業の種類とは関係のない話ではないでしょうか。
「農業ではない」というなら、おまえの想定してる産業は何だと聞いてるのだ。
「わからん」なら、もっと勉強して出直して来い。
政治の中心は産業でないと言っているのに、
どんな産業が中心か言ってみろって、馬鹿ですか?
>>479 では政治の中心は何ですか?
さっぱり、お答えになりませんね。
「わからん」なら、もっと勉強して出直して来い。
政治の中心に産業がなければならない理由を探して来い。
話はそれからだ。
わからないんじゃなくておバカな考えが否定されてるのが、わからんの?>480
483 :
唐松山:2007/06/15(金) 19:55:36
政治の中心に産業がなければならない理由を探して来い。
もちろん 政治を司る集団が、食べる為です。
この海は、われ等の物だから、魚を獲ったら半分よこせ
目の前で揚った魚ならともかく 3日前の魚じゃ喰えん...
同じ事が、獣にも当てはまります。
村以上の地域支配は、不可能
籾や芋ならば 運べる範囲の支配が可能です。
種貸し
借りた物は、返す 単純です
484 :
唐松山:2007/06/15(金) 20:44:45
政治の中心に産業がなければならない理由を探して来い。 其の2
政治の中心を担う産業が無ければ その政治の求心力はなに?
まだ 文字の無い時代 民が納得できる 法律とはなに?
そして アガリはなに?
何も無ければ まだ時代は、縄文。
>>482 相手にされてないのは、おまえ一人だよ。
486 :
唐松山:2007/06/15(金) 21:35:25
477さんへ
律令 は 奈良時代以降で考えればよい事で
それ以前の 政治体制を 語ってください。
江戸時代も 基本的に税は、米
律令時代 税が米以外の物で徴収されても まだ貨幣経済以前の話ですので
政治のリーダーシップ = 一杯の酒
又は、 農業溜池を掘る
最後に 塚に生き埋め
どれが 民の幸せだろう
共同体にそもそも目的があるほうがおかしい。
農業をするために生まれてきた共同体など、古今東西存在しない。
>>487 原始時代の話ならスレ違いだ。出て行け。
489 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 00:46:00
>>442 >なぜ、平安時代からが、新・日本書紀なのでしょうか。
>平安遷都は794年ですので、『日本書紀』につづいて、『続日本紀』や『日本後紀』が、
>697年から794年までの歴史を記録しています。すなわち、平安時代初期までは、
>六国史が扱っています。
>平安時代以降を新・日本書紀とする区分は、おかしいと思います。
良いんじゃね?
平安時代の歴史を、現代の視点で書いてみるのも面白い。
別に史書のタイトルを「新・日本書紀」にしなくても良いし。
「大八嶋史記」でも良いしね。
神代の話も、物部氏よりの記述になっている古事記とは違う視点で記述すると
良いよ。たとえば、ニギハヤヒを天神とする記述を無くして、物部祖人という名前にする。
つまり、天神ではなく「人間」として記述するわけだ。
何か酒酒とわめいている人がいるけど、頭大丈夫?
491 :
450:2007/06/16(土) 04:51:02
他の方が仰ってらっしゃることと一緒になりますが、産業っていうのは、
経済の話であって、政治とは別物でしょ? 政治社会と経済社会が結び
ついたのは産業革命以後のことであって、前近代においてはあてはまり
ません。当たり前といえば当たり前の話なので、これ以上易しく説明しろ
といわれても困るわけで‥‥。他の方の口調がきつくなるのも宜なるかなかと。
>>491さんのとおり。
日本書紀は神代〜持統天皇までを扱っている。書かれたのは8世紀。
その時代以外を対象にしても学問にはならない。その時代を研究する際、
近代社会のモノサシで政治の中心に産業があらねばならないとする理由なし。
>>492 政治が産業を育成し、上納する「税」というものがあるわけです。
崇神天皇から税の記録はありますよ。
>近代社会のモノサシで政治の中心に産業があらねばならないとする理由なし
では、産業が始まったのは、日本では何世紀からなのかお答えしてもらおうか。
ミクロな話をしても無駄ですなあ。
政治と経済が学問としてくっついたのも近代からで、
こんなことを今ここで争う必要などさらさらないし、スレ違いだ。
ここは紀年法のスレだ。近代経済学などは他スレでやってほしい。
>>494 都合が悪くなったら、はぐらかして逃げる気か?
どのみち消えるのはおまえの方だから、こっちは構わないがね。
ひとりでダダ捏ねてみっともないぞ。
ここは紀年法のスレ。消えていなくなれ。
497 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/17(日) 13:15:09
>>476さん
>はやく数字遊びスレに戻るといいてすね
日本書紀紀年法は、数字遊びではなく、むしろ、とても真面目に設計されていたのかもしれません。
しかしながら、今日、日本書紀紀年法を見てみますと、人々をびっくりさせるような
数字遊び的な要素はあるのかもしれません。
いずれにいたしましても、このスレッドのメインテーマは、日本書紀紀年法ですので、
わたくしも、はやく話題が、日本書紀紀年法に戻ってくれれば、と思っております。
6月2日より、ブログ「ゆうちゃまの昔語り」(
http://kuragaku.typepad.jp/yuko/)
を開設いたしました。日本書紀紀年法について扱っておりますので、興味がございましたならば、
ぜひ、ご覧になってみてくださいませ。
498 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/17(日) 13:25:03
>>489さん
神代から、突然、平安時代に飛んでしまいますと、奈良時代までの歴史が、
すっぽり抜けてしまうことになります。
むしろ、日本書紀が扱っている時代の様相を、より正確に再現してゆき、
自国の来しかたを、きちんと検証してゆくことのほうが、大事であるように思います。
>>497 なぜ「数字遊び」と揶揄されるか理解してないな。
記紀を編纂した人は、年代を操作したのは「なぜ?」という視点を欠いてるからだ。
「プラス・マイナス120年構想」は、なぜ必要だったのか説明されてない。
目的や理由がなければ、それは「遊び」と同じ。
501 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 22:04:26
そういうことになります。
>では、産業が始まったのは、日本では何世紀からなのかお答えしてもらおうか。
日本も何も、文明があれば生産活動はある。人間の歴史と同じくらい古い。
もちろん当時は農業も国家もない。
503 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/18(月) 08:04:37
>>499さん
>「プラス・マイナス120年構想」は、なぜ必要だったのか説明されてない。
現在、プラス・マイナス120年構想、多列・並列構造の設定理由についての研究を進めており、
かなり、蓋然性の高い説明ができるようになってきています。
拙稿は、分量がありますので、HPやブログで公開することが難しく、
できれば、書籍の形で、発表いたしたいと考えております。
504 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/18(月) 08:12:00
>>500さん
>によると確定紀年の年だけが真実で他は嘘ということですか?
延長紀年にも意味があります。
>>503で述べましたように、現在、プラス・マイナス構想、
多列・並列構造が設定されている理由について、延長紀年の問題も含めて研究を進めております。
いずれ、発表いたしたいと考えております。
505 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/18(月) 08:18:43
>>501さん
>そういうことになります。
>>500さんのご質問に対しての横レスなのでしょうか。
>>500さんのご質問は、わたくしが答えなければならない質問です。
延長紀年は、嘘ではありません。確定紀年と延長紀年それぞれに意味や意義があります。
横レスで、間違った意見を書き込むことは止めていただきたいと思います。
>>503 つまり「後で出すよ、あるある詐欺」ですか?
507 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 23:55:34
道楽半分の自称学問なんてエンターテイメントとしては三流以下
508 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/19(火) 08:43:24
>>506さん
>つまり「後で出すよ、あるある詐欺」ですか?
いいえ、既に、完成稿の段階です。問題は、刊行をお引き受けいただける出版社が、まだ見つかっていないことです。
わたくしといたしましては、早くに発表して、プラス・マイナス120年構想や
多列・並列構造に対しましての、皆様からのご質問や疑問点に答えたいと考えております。
HPですと、すぐに発表できるのですが、拙稿の分量が多すぎるという問題があります。
わたくしといたしましても、ジレンマに陥っているのです。
わたくしの研究成果を、すぐに、刊行してくださるような奇特な出版社があればよいのですが…。
ただし、来月、拙論「日本書紀紀年法から読み解く隅田八幡宮所蔵明鏡銘文」が、
『東アジアの古代文化』132号に掲載されます。
多列・並列構造となっている五世紀について論じていますので、多列・並列構造にある理由について、
少しはご参考になるかもしれません。
509 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/19(火) 09:05:55
>>507さん
>道楽半分の自称学問なんてエンターテイメントとしては三流以下
歴史家は、エンターテイナーではありません。
道楽というよりは、わたくしは、日本古代史を研究することが大好きなのです。
一日中、机に向っていても、平気なのです!したがって、運動不足の解消に、頭を悩ませています。
また、わたくしの作品に関しては、むしろ、論文調で、読みずらいとの
ご指摘が屡あり、読者の方々が、わかり易く、楽しんで読めるよう、文章に表現力をつけようと
努力しております。また、わたくしのブログ「ゆうちゃまの昔語り」(
http://kuragaku.typepad.jp/yuko/)も、
日本書紀紀年法という難く、複雑で面倒な分野の研究史や研究成果を
読者の方々に、すんなりと理解していただけるよう、苦心して開設いたしました。
510 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 10:29:54
不比等の墓が建てられた際に寺が建立されたと言う説もあるね。
511 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 10:44:38
ごめんなさい。
誤爆です。
研究家さん、吉川弘文館なんかどうですか?
・・・そんな簡単にいかないか・・・
とにかく応援してますよ!!
513 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/20(水) 09:13:19
>>510さん
>不比等の墓が建てられた際に寺が建立されたと言う説もあるね。
いずれのレスに対するご意見でしょうか。
日本書紀の成立に藤原不比等がかかわっていたことについて、議論をなさりたいのでしょうか。
514 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/20(水) 09:15:50
>>511さん
>ごめんなさい。
>誤爆です。
どなたへ向けたご発言なのでしょうか。
515 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 09:17:45
>>513 510ではありませんが、代弁させていただくと、
すぐ次の511で、誤爆です、と自ら言っておられるのですが・・・
よって、この件は誤爆かと思われます。
516 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/20(水) 09:21:44
>>512さん
アドヴァイスをありがとうございます。
なぜ、日本書紀紀年法には、プラス・マイナス120年構想や、
多列・並列構造が設定されているのか、疑問に答えるべく、研究成果を
できうるかぎり早くに発表できるよう、努力いたしてまいりたいと思います。
517 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/20(水) 09:27:58
>>515さん
「誤爆」の意味は、間違えたということなのでしょうか。
すなわち、
>>510さんは、「スレッドのテーマとは、まったく関係のないレスを書き込んでしまった」
という意味になるのでしょうか。
専用ブラウザで読み書きしていると時々スレッドを間違って書き込んでしまいます
そのことを一般的に「誤爆」というんですよ
519 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 13:53:53
ネタとか書き込む事を「ネタ投下」と言います。
その投下先を間違える事は、まさに誤爆と言うべき。
ゆえに2chではこのように表現されています。
520 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/20(水) 17:17:53
521 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/20(水) 17:26:56
わたくしのHP「倉西先生のご学問所(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)」にて、日本書紀紀年法入門の
確定紀年と延長紀年の図に、各々の年代列の紀年の実年代(西暦)への対応表を加えてみました。
各々の年代列の確定紀年と延長紀年は、どのように実年代へ位置づけられるのか、
といった研究課題につきましては、試行錯誤を続けてまいりましたが、ようやく、これが決定版ではないか、
と考えられる試案を提起できるようになりました。
表をご覧いただきますと、応神元年から雄略5年までの紀年の実年代を求めることができます。
ご興味がありましたならば、ぜひ、ご覧になってみてくださいませ。
522 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 17:36:45
わたくしのHP?
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA =倉西裕子さんなのですか?
ご本人?
「聖徳太子と法隆寺の謎 」蔵書探索システムより引用
倉西裕子=1963年東京都生まれ。日本女子大学文学部史学科卒業。
日本赤十字社国際部を経て、日本史の研究に入る。
著書に「日本書紀の真実」「「記紀」はいかにして成立したか」がある。
523 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/20(水) 19:36:11
>>522さん
>わたくしのHP?
>日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA =倉西裕子さんなのですか?
>ご本人?
>「聖徳太子と法隆寺の謎 」蔵書探索システムより引用
>倉西裕子=1963年東京都生まれ。日本女子大学文学部史学科卒業。
> 日本赤十字社国際部を経て、日本史の研究に入る。
> 著書に「日本書紀の真実」「「記紀」はいかにして成立したか」がある。
そのとおりです。わたくし本人です。
日本書紀の編年には、プラス・マイナス構想、多列・並列構造が設定されてあることは動かしがたいと考え、
多くの方々に、研究成果を知っていただき、史学の発展に貢献したいと思い、スレッドを立てました。
524 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/06/20(水) 21:00:55
倉西先生、もしよろしければ詳しくお説を説いていただけませんか?
非常に興味があります。
525 :
唐松山:2007/06/21(木) 00:41:51
神武の頃の 国家の一部
訳は、私ですので 眉に唾して読んで下さい。
ホ30064 アマスメラギの モロハトミ カスガとコモリ キミトミの ココロひとつに ミヤコトリ カタチはヤタミ
クビはキミ カガミとツルギ マテのハネ(両の羽) モノノべはアシ(足) カガミトミ(農務大臣) ツギほろぶれば
タミはなれ ヒツギふまれず ツルギトミ(国防大臣) ツギほろぶれば モノフわれ ヨをうばわるゝ
ヤタオミ(農業指導者)は ゾロ(稲苗)おうハルの タミワサを かんがみるメぞ
カキオミ(暦臣)は ヨコマ(真似)をからし モノノフの チカラもるテぞ
農業を基盤とする国家です。
526 :
唐松山:2007/06/21(木) 01:07:05
西暦300年 (私の考え)
神功(武内)に刃を向けた畿内政権は、こてんぱんにやられ
そして畿内は 鉄 の輸入利権から取り残される。
神功が摂政を執り行った 形跡は無く 各国造りが独自に各国を治めた時代ではないか
近江や河内の遺跡から出る鉄は、この時代からか?
神功をとばして其の子?応神から紀年を数えるのは ちょっといただけない。
527 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/21(木) 12:44:57
>>524 花さん
拙論にご興味をもっていただきまして、うれしく思います。
ちゃんねる2にて、拙論を詳しく説明いたしたいのですが、所謂「スレ流し」にあってしまいましたり、
レスの文章が長すぎてしまうなど、問題が多いことから、現在では、HP、ならびに、ブログを開設して、
対応いたしております。わたくしのHPとブログのアドレスは、以下のようになります。
倉西先生のご学問所:
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/ ゆうりゃまの昔語り:
http://kuragaku.typepad.jp/yuko/ ぜひ、ご覧になってみてください。わたくしのHPやブログで紹介しております拙著も
ご参考になるかと思います。
また、日本書紀紀年法、日本書紀、古事記、古代史などについてのご質問や疑問点につきましては、
質疑応答という形で、スレッドにて、できうるかぎりお答えいたしたいと考えております。
528 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/21(木) 12:47:42
>>526 唐松山さん
>神功をとばして其の子?応神から紀年を数えるのは ちょっといただけない。
これは、どなたのお説についてのご意見でしょうか。
529 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 18:46:35
>525
新しい産業である農業も重視しただけ。
530 :
唐松山:2007/06/25(月) 19:41:16
記年法 に戻る
書紀の暦は、 19年7閏 228月 6940日又は6939日 で書かれています。
そうすると 増しも 19年間を一つの単位として組み込まれているのではないか?
神武76−19*3=19年
綏靖36−19*1=17年
この方法だと間延びした現在の暦でも本当の暦でも 朔の干支は狂うが(当然年の干支も狂う)
あわせることが出来る。
書紀の暦の復元
神武1年 より 354、 354、 384、 354、 385、 354、 354、385、 354、 354、
384、 354、 384、 354、354、 385、 354、 354、 385、
これの繰り返しで 19年6940日の暦が出来る
531 :
◆16/YXRFBRM :2007/06/26(火) 06:42:31
久々にまともなことが書いてあるな
コロッケでも食ったの?
532 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/26(火) 08:06:30
>>530唐松山さん
>書紀の暦は、 19年7閏 228月 6940日又は6939日 で書かれています。
>そうすると 増しも 19年間を一つの単位として組み込まれているのではないか?
日本書紀において、暦法は、元嘉暦と儀鳳暦が用いられています。
この点に関しては、どのようにお考えでしょうか。
533 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/26(火) 08:08:49
>>531さん
>久々にまともなことが書いてあるな
どなたのレスに対してのご意見でしょうか。
唐松山さんの
>>530でしょうか。
534 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/26(火) 11:18:22
研究家さん
隅田八幡宮の人物画像鏡に関する論文、是非読みたいと思います
差し支えなければ、要点だけでも教えていただきたいのですが
可能な範囲でお願いします
536 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/26(火) 13:28:12
>>535さん
隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡は、銘文に「癸未年」という干支紀年、複数の人物名、
宮所名などが記してある稀有の明鏡です。
これまで、「癸未年」は、西暦何年に相当するのか、人物名は『紀』・『記』においては
誰のことであるのか、などをめぐって様々な議論があり、多くの諸説が唱えられてきました。
しかし、未だに定説が無く、謎の銘文とされています。
本論では、これまでの研究成果を踏まえながらも、日本書紀紀年法が5世紀を多列・並列構造において
扱っていることをアプローチに、人物の特定を試みるとともに、
なぜ、明鏡は作られたのか、その時代背景などを解明いたしました。
来月刊行の『東アジアの古代文化』132号に掲載予定ですので、ぜひ、ご一読、ならびに、ご批判を
賜りたくお願い申し上げます。
>>536 ありがとうございます
5世紀と言うことは癸未年=443年とお考えでしょうか?
論文楽しみにしております
538 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/26(火) 14:44:24
>>537さん
>5世紀と言うことは癸未年=443年とお考えでしょうか?
そのとおりです。癸未年を443年と考えますと、隅田八幡宮所蔵明鏡銘文は、
『日本書紀』と整合してきます。
539 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 21:30:30
>アマテラスは男だったんだよ
こういうことを言う人がたまにいるが、アマテラスは女神である。
これは、議論の余地は無い。
アマテラスの子であるアメノオシホミミが男神なのだ。
つまり、オシホミミはアマテラスの息子なのだが、同時に男・アマテラスという
性格を持つ神なのだ。アマテラスの分身=分神である。
ただ、このオシホミミは、神道の世界ではあまりにも軽く扱われているね。
本当は、ひじょうに重要な神なんだが・・。
540 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 06:45:29
アマテラスが男と考えられた理由は、天石屋戸隠れのとき、アメノウズメの裸踊りを覗き見
したことから、女の裸踊りをみるのであるから男であるというのが根拠のようである。
実際現在でもストリップ劇場に行くと観客は99.99%男である。
541 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 07:03:16
男装してるから女
542 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 07:24:45
天照国照
543 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 07:28:13
猿田彦
544 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/27(水) 08:28:18
>>539さん
>アマテラスは男だったんだよ
この文章は、いったいいずれのレスのもので、どのような文脈でのご意見なのでしょうか。
いわゆる”誤爆”というスレ違いなのでしょうか。
545 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 09:52:33
そうですね。これは明らかな誤爆ですね。
「謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!7」のスレが適切でしょう。
546 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 10:19:04
大草香皇子は即位していたと考えるのは妥当だと思う
547 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 10:39:24
545
それでは卑弥呼は男だったとでも?
548 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 10:45:02
547さん、スレタイ読みましょう。
「謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!7」
でどうぞ。話題が違います。
549 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 16:43:56
元嘉暦や麟徳暦についてどう思うか とのことですが、 答えは、 後の世の暦
としか答えようが無い。
元嘉暦は 19年7閏法
暦法は、朔望と24節気の関係 暦法により朔望の日数に変化無し(月のスピードに変化無し)
今回発表した19年の廻し 景行までは 狂いがありません(閏の位置)
成務からは、狂います(閏の位置で16年分か)
狂わしてから続けても継体天皇末辺りから時々 敏達天皇ではかなりの数が合わない
麟徳暦なら合うのか まだそこまで見ていません(多分合わない)
1年目神武元年正月庚辰朔=8777日として
781年景行五十一年春正月,壬午朔=293659日です。
四分暦なら76年の日数で見ないと何の意味もありませんが
550 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 20:35:51
訂正
成務の次に 狂うのは、
履仲、反正
干支は良いのだが 日数が2日ほど多い
551 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/30(土) 11:41:44
>>546さん
>大草香皇子は即位していたと考えるのは妥当だと思う
大草香皇子には、たいへんな権勢があったと考えられます。しかし、即位されていたのか、
否かについては、可能性としてはあるものの、検証してみなければなりません。
5世紀史は複雑ですので。
552 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/06/30(土) 11:58:34
>>549さん
549さんは、唐松山さんでしょうか。
唐松山さんは、渋川春海の日本長暦などのように、日本独自の暦法があったとお考えなのでしょうか。
また、
>元嘉暦や麟徳暦についてどう思うか とのことですが、 答えは、 後の世の暦
>としか答えようが無い。
とのことですが、「後の世の暦」とは、どのような意味でしょうか。
553 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/03(火) 21:20:06
研究家さん、研究家さん
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1175834481/680 でチョコっと言った事にも関連する事なんですが
ちょっとイイコトを閃きました
研究家さんの云う「允恭列」が21年差の年代列で、「仁徳列」が84年差の年代列に成っていますよね。
百済直支王薨の応神25年は書紀294年なんですが、
これを三国史記では腆支王は420年死亡ですから、126年差で
通説の120年差の年代列(応神列と同じですね)とは6年違いになって乗らなくて、
ここで通説に乗っ取ると不整合箇所なんですが、
この126は21の整数倍に成っているじゃないですかッ♪
126/21=6
つまり126年差の年代列に応神25年記事は乗ってるんですよ。
と云う事は21年周期の法則がある筈です
日本書紀で応神25年記事を作るときに用いた資料と
朝鮮半島で三国史記を作るときに作るときも用いた当該箇所の資料は
同等の物だと云う事になる筈です。
554 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 21:23:11
ここでもう一つの直支王関係の説明不能な矛盾点で応神39年(書紀308年)に
日本書紀では応神25年に既に死んでいる筈の直支王が、
妹を遣わした記事があるんですが
これは、神功52年と応神15年で、異なる年代列を想定する事で
両者の実年代に措ける実年代の逆転現象を起きる事を考えれば
仮に21*5=105の105年差の年代列を想定すれば、
応神39年の書紀308年に+105で413年になりますから
応神39年の実年代とAD413年とすれば、
応神25年のAD420年の直支王死亡前に妹を遣わす事が可能に成りますよね
ここは三国史記で確認出来ない箇所なので、別の可能性も考えられますが、
ただ、腆支王は在位が405〜420年なので、その場合でもこの間に収まる必要がある筈です
555 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/03(火) 21:25:49
556 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/03(火) 22:06:43
続けますが、この関係で研究家さんの著書をチェックしてみたんですけど、
『日本書紀の真実』のp81の第一章第八節以降で気付いた問題があります
まず基本的な問題として、p82の(3)。
ここで、応神25年を420年として、逆算すると応神元年は395年であると云う旨がありますよね。
でも同一年代列で応神25年が420年とした場合の、応神元年は396年ですよね?
第一章第八節の前提問題として著書の中で既に1年の狂いがあります。
続いて、p83の図T-3。
420年 「420年 久爾辛王即位=応神二十五年」
│
.-25年│
↓
395年-------------------------------
こんな感じになってるんですが、
応神25年から応神元年を求める訳ですから-24年とすべきですよね?
それで395年ではなく、396年です。
この右側に「405年 直支王即位=応神十六年」とあるんですが、
そこは良いんですけど、↓の脇の-16年は誤りですね。正しくは-15年。390年と云うのは合ってます。
557 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/03(火) 23:16:43
p83の本文の一行目
>二つ目の応神元年の三九五年は、空位年の一年目である三九五年と一致します。
ここなんかの前提が、それ以降の応神Iと応神Uなんかの立脚点になってるんですけど、
最初の事実関係が違うので問題ですよね。
p86の作図なんかもコレで良いのかなァ?と思っちゃいましたが、どうでしょうか?
結局は応神25年記事は、切片21年周期の法則によって年代列Y=X-126の上に乗って記述しているだけなんですよ
神功紀や応神紀の年代列Y=X-120(応神列)は、神功62年記事に出てくる百濟記云壬午年の
「壬午年」に合わせた「だけ」だったんじゃないでしょうか
ですから当初は年代列Y=X-126を使う予定だったのかも知れないですね
そう考えると、日本書紀製作段階では百濟記を引用する以前には、
今の状態と6年違う記録位置に書かれて居たものが在ったかもしれないです
そうではなくて、現行日本書紀でも、
三国史記で確認出来ない神功紀の記事はY=X-126の側で計算すべきかも知れないです。
何れにしても古事記や三国史記の記述からして応神15年記事にしても
仁徳列を使ってると見てほぼ間違いない筈ですから、この法則の存在を否定するのは難しいと思います。
研究家さんはこの辺りの事も延長紀年と定義した上で、実年代が前後しない前提になっていますが
年代列を切り替えれば、応神15年なんかは(応神16年なんかに当て嵌まりますが)
書紀の紀年に沿った前後関係に必ずしも拘束されません。応神6年〜応神41年までの記事にも
応神生存中の記事が含まれていると云う事です。
558 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/04(水) 11:50:53
征東大将軍さん
たいへん興味深いご指摘であると思います。征東大将軍さんのご指摘は、
1)応神25年条の腆支王の薨去を420年と考えると、126年差で126/21=6という21の整数倍となる。
2)応神39年条に、既に薨去されていた腆支王についての記述が見える。
3)応神25年を西暦420年と考えると、逆算して求められる応神元年は、396年である。
4)日本書紀は、当初は年代列Y=X-126を使う予定だった。日本書紀の編纂途上では、百濟記を引用する以前は
現行日本書紀の状態と6年違う記録位置に書かれて居たものが在ったかもしれない。
5)応神15年記事は、仁徳列を使ってると見てほぼ間違いない。
一つ一つ重要な問題点と考えられますので、以下に、征東大将軍さんのご指摘につきまして、お答してまいりたいと思います。
559 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/04(水) 12:00:58
征東大将軍さん
まず、1)について、「21」という数字が、日本書紀において重要な数字として設定されていると
わたくしも、考えております。したがって、126/21=6という数式を日本書紀の編纂者が
意識していたことは、十分にありえます。しかし、征東大将軍さんが、根拠とされている
応神25年=420年という設定には、海外資料と比べることによって求めることのできる
応神元年=390年という設定に対する唯一の例外となっているという問題があります。
仮に、Y=X-126という式を日本書紀紀年法における基本設計としていたのならば、
唯一の例外を根拠とすることは、不自然であることになります。
したがいまして、やはり、わたくしが提唱させていただいております
応神元年=390年という設定におけるプラス・マイナス120年
構想、多列・並列構造のほうが、説得力があると思います。
560 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/04(水) 12:06:56
征東大将軍さん
2)につきましては、腆支王は生存していた、ということになります。
日本書紀紀年法では、延長紀年が設けられておりますように、譲位というケースも
ありえることです。百済国でも、譲位制があって、『三国史記』においては、薨去とされてはいますが、
実は、譲位であったかもしれません。日本書紀は、譲位であったことを示すために、応神39年条に
腆支王についての記述を載せたとも考えられます。
561 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/04(水) 12:15:45
征東大将軍さん
3)につきましては、これは、わたくしの計算間違えとなります。拙著『日本書紀の真実』が重版される場合、または、
改訂版を刊行する際には、ぜひに、訂正いたしたいと思います。この場をかりてお詫び申し上げます。
ただし、空位年の1年目ではなく、2年目の396年になるからといって、論理構成に問題が生じているわけではありません。
昨今、研究を進めておりますうちに、菟道稚郎子皇子の地位には、複雑な経緯があることに気付きました。
それは、古事記では、菟道稚郎子皇子の地位が変化していることです。
395年と396年という2つの年代において、菟道稚郎子皇子の地位が、神祇祭司王から執政王へと変化している
可能性があります。396年は、執政王としての即位年として捉えることができるのです。
562 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/04(水) 12:21:52
征東大将軍さん
4)につきましては、日本書紀は年代列Y=X-126を使うことを予定していた可能性、
現行日本書紀の状態と6年違う記録位置に書かれていた史書が存在していた可能性は、
研究してみるだけの価値のあるテーマであると思います。
また、5)につきましては、阿直岐の来日を、なぜ、征東大将軍さんは3世紀とお考えになっておられるのでしょうか。
563 :
唐松山:2007/07/06(金) 13:07:35
書紀の朔の日数を数えました。
景初、四分は、以前発表した 式で数えましたが、19年7閏で無いので 時々閏が狂います。
歴年 景初暦風 四分暦風 実際の日数
1年目 8777日 8777日 8777日 神武 春正月庚辰朔。天皇即帝位
80年目 37628日 37629日 37629日 綏靖 元年春正月壬申朔
186年目 76343日 76344日 76343日 孝昭 元年春正月丙戌朔
269年目 106641日 106672日 106642日 孝安 元年春正月乙酉朔
371年目 143909日 143910日 143909日 孝霊 元年春正月壬辰朔
447年目 171668日 171669日 171668日 孝元 元年正月辛未朔甲申
504年目 192487日 192489日 192487日 開化 元年正月庚午朔癸酉、
564年目 214398日 214401日 214399日 崇神 元年正月壬午朔
632年目 239234日 239236日 239234日 垂仁 元年春正月,丁丑朔
成 務 より 閏の廻しが変わります。
791年目 297320日 297323日 297321日 成 務 元年春正月,甲申朔戊子
852年目 319586日 319590日 319587日 仲哀 元年春正月庚寅朔庚子
930年目 348083日 348087日 348084日 応神 元年春正月,丁亥朔
973年目 363794日 363797日 363794日 仁徳 元年春正月,丁丑
履中より 朔の日付が3日程遅れます。
1015年目 379120日 379124日 379123日 履中 二年春正月,丙午朔己酉
1077年目 401770日 401774日 401774日 反正 元年春正月,丁丑朔
1151年目 429174日 429179日 429179日 清寧 元年春正月,戊戌朔壬子
1159年目 431714日 431748日 431718日 顕宗 元年春正月,己巳朔
1231年目 458026日 458031日 458029日 用明 元年春正月,壬子朔
とりあえず 当時の暦は、19年7閏法
証拠は、 どこで切っても(数えても)6940日か6939日+−1日
564 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/06(金) 16:39:14
ブログ「ゆうちゃまの昔語り」に加えて、もう一つブログを開設いたしました。
「日本史問はず語り」というブログです。アドレスは、
http://blogs.yahoo.co.jp/nihonshinoiratsume/となります。
興味がございましたならば、ぜひ、ご覧になってみてください。
また、「ゆうちゃまの昔語り」では、なぜ、日本書紀の編年は信用されてこなかったのか、
その理由を研究史を含めて、毎日少しずつ、お話してゆくという形式で、
わかり易く説明しております。こちらも、日本書紀の紀年法に興味がございましたならば、
ご覧くださいませ。
565 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 01:58:28
「日本史問はず語り」で、やっと研究家さんの「見方」がわかりました。
はじめから、こう語っていただきたかったです。続きを楽しみにしています。
566 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/08(日) 14:25:49
>>565さん
日本書紀紀年法の構造(プラス・マイナス120年構想や多列・並列構造)をどのように説明したら、
もっともわかりやすいか、という点には、いつも大いに頭を悩まされます。
HP「倉西先生のご学問所」の日本書紀紀年法入門での説明やブログ「ゆうりゃまの昔語り」も、
わかりやすい説明という試みの一環です。
ブログ「日本史問はず語り」も、試行錯誤となりますが、どうぞ、ご批評、ご批判たまわりたく
お願い申し上げます。
567 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/08(日) 16:05:18
私も毎日拝見しております。
残念ながら携帯ですので、ホムペの図解コンテンツなどは閲覧が困難ですが
そこは想像力でカバーしつつ。
今後も頑張って下さい。
568 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 17:04:45
アマテラスって、オンナの愛人いなかったっけ?
てことは、ズーレ?
織田信長って、オトコの愛人いなかったっけ?
ってことは、カーマ?
569 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/09(月) 08:13:32
花さん
ホームページやブログをご覧いただきまして、うれしく思います。
携帯電話では、ホームページの図表をご覧になることはできないようですので、
携帯の読者の方々のためにも、できるかぎり、文章だけでご理解いただけますよう、
わかりやすく、丁寧な記述をこころがけてまいりたいと思います。
570 :
唐松山:2007/07/09(月) 19:37:00
563 の訂正
月の朔望が 狂う分けにはいかないので 再検討
成 務と履中の間に50年間の空白を置くと朔と廻しが 合う
1060年目 395599日 履中 元年2月
1061年目 395923日 395927日 395923日 履中 二年春正月,丙午朔己酉
571 :
唐松山:2007/07/09(月) 19:51:45
570の訂正
成務=× 仁徳=○
仁徳と履仲の間に 空白? 50年を入れると
朔望 閏の廻し共 合う。
572 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/11(水) 20:22:22
>>559 研究家さんがどう云う意味合いで「21」を重要な数字と見ているかの解りませんが、21は
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1175834481/680 で書いたように、允恭列(C列)Y=X-21と、仁徳列(D列)Y=X-84の切片が
-21の整数倍になっていますよね?
允恭列の場合はそのまま切片-21、
仁徳列の場合は-21*4=-84で、84年差の年代列と云う事です。
つまり、基準とする年代に対して、21の倍数に意味があるんじゃないか?と推測してました
(もっと言えば雄略列もY=Xで、切片の値が0ですから、これもそうと云えばそうですね)
仲哀崩年の場合は、応神列の-120に-21*2したY=X-162と云う年代列を想定すれば
書紀200年+162年=362、これが古事記の仲哀崩年の362に乗っているわけじゃないですか
(コレが本当に妥当かどうかは別ですか)
こう云う目で書紀を検証していた訳です。ここまでが「倭の五王編」スレまでのおさらいです。
573 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/11(水) 20:26:04
では本題
>>559 >しかし、征東大将軍さんが、根拠とされている
>応神25年=420年という設定には、海外資料と比べることによって求めることのできる
>応神元年=390年という設定に対する唯一の例外となっているという問題があります。
研究家さん、応神25年の記録位置にある
>廿五年。百濟直支王薨。即子久爾辛立爲王。〜
の記事は、三国史記で確認出来ますよね?
ですから「海外資料」と云う意味ではこの箇所は例外ではないです
三国史記での腆支王(直支王)没と、久×辛王(久爾辛王)即位記事の記録位置はAD420年です
これは、研究家さんも著書のp82の(3)で自分でも書いている事です
ここは応神元年=390年とする年代列(応神列、Y=X-120)の例外か如何かと云う事でなく
応神25年記事=420年と云う海外資料で確認出来る客観性がある事と、
切片が21の整数倍である、年代列(Y=X-126)上に乗っている事に注目すべきです。
574 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/11(水) 20:30:36
因みに、研究家さんも、応神25年のこの記事をAD420年であると言っている訳ですから
実質上はこの年代列の存在を認めている事になるんですよ。
研究家さんの発言からして、仮に、この年代列を認めないと云う事は、
応神25年の実年代を応神列(120年差)で計算した414年であると云う事を認める事と同義です。
でも研究家さんは、そんな事言ってないですよね?
研究家さんも年代列を考えを拡張して下さい。
たった一つの記事の為にそれが用意されていようが、影響ないじゃないですか
応神列を認める根拠に三国史記と云う海外史料での客観的性を認めるなら、
ここも受け入れるべきです
これによって不整合箇所が解消される訳ですから、
年代列(Y=X-126)は日本書紀の設計上の趣旨にも適っている筈ですよ。
>>560 >百済国でも、譲位制があって、『三国史記』においては、薨去とされてはいますが、
>実は、譲位であったかもしれません。
このような深読みをする必要性はなくなったんですよ
575 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/11(水) 20:43:08
先学では、干支に合わせた60年周期である応神列(Y=X-120)のみを想定する事で
腆支王(直支王)の没年の、この6年差の不一致に関しては
1、三国史記が正しく、日本書紀が誤り
2、日本書紀が正しく、三国史記が誤り
3、両文献とも誤り
概ね、このような議論が展開されて来たんじゃないでしょうか
しかし、允恭列や仁徳列の切片の値の推測から、
年代列の21年周期の法則による設計箇所を認めて、
且つ、420年に起きた腆支王(直支王)没が、21の整数倍である126年差のズレた
書紀294年=応神25年の「記録位置」に掲載されていると云う客観的事実から
Y=X-126の年代列を認めれば
この箇所の日本書紀と三国史記は同等の史料によって作成されたのは疑いなく、
4、両文献とも共通史料に基づいていて、実年代に措いて同じ年を指している。
と云う第四の選択肢が得られる事になります
これは研究家さんの多列並列構造論の本質にも違反している訳では在りません
576 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 20:44:27
577 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/11(水) 21:08:02
>>561 他にも探して見たんですが、p33掲載の表4の項目の一番右側
「日本書紀の編年に基づく年代との差」
ここの崇神での値が+288年になっているんですが
紀元前三〇年〜二五八年と云う事は、えぇーっと
BC30=AD-29ですから、258-(-29)で、これは+287年ですよね?
p54の図も問題です
この図に120「年間」とありますが、
270〜390の場合は120年差であって、120年間ではありませんよね
461〜581の場合も120年差であって、120年間ではありません。
ここでの「年間」とは累積の年間の事ですから、121年間になる筈です。
この図での趣旨が192-72での120と云う意味なら、意味が通らないです
これは別の年代列での、同じ書紀記事の記録位置を比べて居る訳ですから
年間ではなく、年差が120年なんです。
これは比較する年代列の差そのものです、それが120年差と云う事ですョ
578 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/11(水) 22:17:11
【訂正】
>>575 4、両文献とも共通する内容の〜
に訂正します。
579 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/11(水) 23:01:09
580 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/11(水) 23:16:47
通説の120年差ですと、良馬二匹を貰った応神15年は284+120年でAD404年の事になりますが
研究家さんの年代列構想の考えを拡張して解釈して
「仁徳列」を用いて応神15年を計算すると、
「仁徳列」ですと84年差の年代列なので、284+84年でAD368になる事を見つけました
これが三国史記で百済が新羅に馬を送った年とピッタリ同じAD368年になります
(しかもコチラも良馬二匹です)
この箇所の古事記の記述とも一致します。
古事記では応神天皇が百済の「照古王」から馬(牡・牝)を貰い、
その後に横刀と大鏡を貰った順序になっていますよね
古事記の「照古王」は、三国史記百済本紀では「近肖古王(346即〜375没)」ですから、
彼はAD375年没に没している訳ですが、
仮に通説どうりに120年差で応神15年を解釈すれば応神15年=AD404年となって、404年には
応神天皇(古事記394没)は、「照古王」=「近肖古王(346即〜375没)」から馬を貰う事が出来ない訳です
この問題で古事記が時系列の問題について嘘を付く動機があるでしょうか?私はそう思いません
動機があるのは紀年操作の必要のある日本書紀の側の筈です
日本書紀の応神15年条を見て下さい。「百済王」から馬を貰った事を書いていますが
百済王が「誰」であるかを書いていません。
彼等は書けない筈なんですよ、書いてしまえば、
百済王名の順序が逆転してしまうのが完全に露呈してしまうのですから
これは年代列を移動する事による実年代逆転現象のトリック記事なんだと思います
581 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/11(水) 23:34:38
他には応神16年春2月記事なんかもでも、
先程の応神15年8月6日記事で来た阿直岐によって、王仁が来朝の話になる訳ですから
応神16年春2月記事なんかは仁徳列であるべきだと思います。
つまり284+85年でAD369年になる筈です
王仁来朝の事も応神記に書いているので、問題ありません
「応神記に書いてある=AD394年までの出来事」
こう云う考えで良いのではないでしょうか?
応神6年〜41年までの記事の解釈には、こう云う事が許される筈です。
(他も基本的にはそう云う事だと思います)
但し、応神16年(書紀285)是歳記事は、百濟阿花王(三国史記405)薨記事なので
同じ年の記事だからと言っても、これは120年差の年代列である応神列上で解釈すべき記事です
つまり、確定紀年をある年からある年まで決めて、その間を全部その年代列を使ったり
末端部で一部重複したりするのではなく
もっとダイナミックに飛び飛びになって居る筈なんですよ
582 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/12(木) 13:47:24
征東大将軍さん
まず、
>>572から
>>573までについて、お答いたしたいと思います。
21という数字につきましては、古代におきましては、朝廷や神社では21歳で襲職する
場合が多かったと考えられることから、21という数字は重要ではないかと推論いたしました
(好数の3と7をかけた数字であることと関連があるのかもしれません)。
また、420年を唯一の例外として指摘した理由は、仮に征東大将軍さんがおっしゃられるように、
「年代列(Y=X-126)」という式が成り立っているのならば、応神紀すべてにおいて、応神25=420の
関係が成り立っていなくてはならないからです。年代列(Y=X-126)という関係は、応神3年条や応神15年条では、
成り立っていないのではないでしょうか。
583 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/12(木) 13:59:59
征東大将軍さん
>>574につきましては、以下のようにお答いたしたいと思います。
わたくしも『三国史記』などの海外史料には、信憑性を認めています。
したがって、応神元年=390年と応神元年=396年という2つの関係式が成り立つことについて
論理的説明を試みています。この問題については、確定紀年と延長紀年という区分けにおいて説明しております。
わたくしのHP「倉西先生のご学問所(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon)」の日本書紀入門をご覧になって
いただければ、2つの応神元年が確定紀年と延長紀年と関連していることが、
ご理解いただけるのではないか、と思います。
584 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/12(木) 14:11:30
征東大将軍さん
>>575から
>>577につきましては、以下のようにお答いたしたいと思います。
これまでの研究史において、2つの応神元年について、『日本書紀』側と『三国史記』側の
どちらかが間違っていると考えられてきた理由は、多列・並列構造にあることが、
解明されていなかったからです。多列・並列構造であることがわかりますと、
別の説明ができるようになるのです。
また、拙著『日本書紀の真実』のp54の図T−1につきましては、「120年間」という表現よりも、
「120年差」という表現のほうが、たしかに正確であったかもしれません。
重版、もしくは、改訂版の際に、訂正いたしたいと思います。
585 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/12(木) 14:15:44
征東大将軍さん
>研究家さんの年代列構想の考えを拡張して解釈して
>「仁徳列」を用いて応神15年を計算すると、
>「仁徳列」ですと84年差の年代列なので、284+84年でAD368になる事を見つけました
>これが三国史記で百済が新羅に馬を送った年とピッタリ同じAD368年になります
>(しかもコチラも良馬二匹です)
>この箇所の古事記の記述とも一致します。
たしかに、おもしろいご指摘であると思います(ただし、『日本書紀』は、
百済→日本で、『三国史記』は百済→新羅ですが…)。
応神15年条には、応神列と仁徳列の両年代列で実年代を求めるべき記述が、
重なっているのかもしれません。
586 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/12(木) 14:20:00
征東大将軍さん
6月2日からブログ「ゆうちゃまの昔語り」(
http://kuragaku.typepad.jp/yuko)をはじめています。
征東大将軍さんは、多列・並列構造にかなりご関心を寄せていらっしゃるようですので、
ぜひ、ご覧になってみてください。ホームページの日本書紀紀年法入門の内容について、研究史も含め、
よりわかりやすい説明を試みております。
587 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/12(木) 23:24:06
倉西先生、お時間がある時でかまいませんので
「倭の五王」の比定見解をブログにて教えていただけますか?
588 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/13(金) 08:29:36
589 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/13(金) 13:44:33
おそらく、かなり密接な関連性があるだろうとは私も思います。
私見では「倭の五王」は畿内天皇家とは無関係で
九州の豪族が倭王を自称したのでは?と考えていますが
畿内である可能性と蓋然性が説明されるのであれば
否定するつもりはありません。
いずれにせよ楽しみにしておきますね。
590 :
唐松山:2007/07/15(日) 09:57:08
成 務からの閏の廻し
成 務 天 皇元年春正月,甲申朔戊子=791年=297321日
3、5,8,11、13,16,19年目 が閏
1月1日の歴日の目安
=INT(INT((D49*365.24688+$C$1)/29.53059+0.3)*29.53059)+C$4
+$C$1=100、 C$4=8305
1年の長さ 365.243でも殆ど同じなのでどちらでも良い。(リントク暦でも景初暦でも朔は、変わらない。)
仁徳天皇と履中天皇の間に50年間の空白ができます。
この空白は使える 私としては、100年位ほしいが
まず 卑弥呼=崇神 が 卑弥呼=景行 が 楽になる
次 鬼の城 をこの空白に入れられる。
そして 武内に 潰された?大和政権の復活
用明辺りから また暦が変わる。?
591 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/15(日) 14:15:07
>>589 花さん
わたくしは、倭の五王については、倭王武上表文の内容から判断いたしますと、
やはり大和朝廷とかかわりがあるのではないか、と考えております。
もちろん、九州の情勢は、たいへん重要なのですが、稲荷山古墳出土鉄刀銘文、
江田船山古墳出土鉄剣銘文、隅田八幡宮所蔵明鏡銘文などの5世紀の金石文などを考えあわせましても、
倭王たちについては、日本書紀や古事記にその事績をたどることができる人物なのではないか、と推論しております。
しかし、いろいろと説や意見があってよい問題であると思いますので、ブログ「ゆうちゃまの昔語り」にて、
倭の五王について、お話させていただきます際には、厳しく、疑問点などをご指摘いただきたくお願い申し上げます。
592 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/15(日) 14:20:43
>>590 唐松山さん
研究史上、日本書紀は、神武元年から安康3年までが儀鳳暦で、雄略元年以降が元嘉暦が用いられていると
されていますが、唐松山さんは、この定説を全面否定されて、日本書紀は日本書紀独自の暦を用いていると
お考えなのでしょうか。それとも、儀鳳暦や元嘉暦だけではなく、もっとさまざまな暦法が用いられていると
お考えなのでしょうか。
593 :
唐松山:2007/07/15(日) 16:27:50
朝鮮では百済が660−663年に滅ぼされるまで元嘉暦を使っています。
日本では690年に元嘉暦,ついで697年に儀鳳暦(=麟徳暦)をも採用し
元嘉暦は、19年7閏法
儀鳳暦(=麟徳暦)は、 19年7閏の束縛から開放された暦法
つまり 私の提案したような式で表されるはず
しかし 実際に使われた暦は、19年7閏法です。
神武から 私の書き込んだ 閏 で 30日、29日の暦を再現してください。
景行までは 1つの19年7閏法、
成務からも 閏の 入る位置は変わるが19年7閏法
用明から 朔が1日ずれるがまだ 調べきれていません
この暦を再現していただけると話が早いんですが
594 :
唐松山:2007/07/15(日) 16:31:17
北 史 卷 一 魏 本 紀 第 一
四 十 二 年 , 遣 子 文 帝 如 魏 , 且 觀 風 土 . 是 歲 , 魏 景 元 二 年 也 .
五 十 六 年 , 文 帝 復 如 晉 , 其 冬 還 國
其 年 , 神 元 不 豫
神 元 尋 崩 , 凡 饗 國 五 十 八 年 , 年 一 百 四 歲 . 道 武 即 位 , 尊 為 始 祖
上記の抜粋は中国の事ですが、治世58年、寿齢104歳
中国では、本当に有った事としていますが ...? ですよね
日本の暦は、中国よりもたらされた、増し も其の時一緒に入ってきます。
元嘉暦や麟徳暦にこだわるようですが、朔望の記録だけでは、どんな暦か誰にも判りません
だから 元嘉暦や麟徳暦が使われた。としか言いようが無い=
元嘉暦と麟徳暦の繋ぎ目が判るのなら教えていただきたい
19年7閏法は、6940日と6939日
四分暦なら6940日*3+6939日=76年*365.25日
他の暦は、6939日の割合が増えるだけです (正しい暦の場合)
閏にこだわらない麟徳暦でも たぶん 6940日と6939日及び例外 6941日と6938日が有れば、足りると思います。
595 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/15(日) 19:59:27
唐松山さん
わたくしは、日本書紀紀年法が専門であって、暦法の専門ではありませんので、
唐松山さんのおっしゃられている暦を再現することはできません。
また、唐松山さんのおっしゃる「儀徳暦」とは、「儀鳳暦」のことでしょうか。
儀鳳暦と元嘉暦のつなぎ目でしたならば、研究史上では、安康3年か、雄略元年のあたりとされています。
596 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/15(日) 20:03:25
597 :
唐松山:2007/07/15(日) 20:20:29
24節気の判らない暦では、 暦法は、解りません
判るのは、朔の廻しだけです。
その朔を 私の提案した 閏 で並べる そうすると 19年7閏の暦になる
其の時 誤差があれば 其の誤差について考える
仁徳と履仲を きれいに繋げる為には、50年の空白が必要
安康と雄略、朔ではきれいに繋がる
欽明天皇からまた おかしくなる
598 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 15:48:00
ちょっと別スレの話題になりますが、このスレの問題なので。
征東大将軍氏
>太国さんの説を批判する為に、研究家さんを利用しようとして
>「太国さんを批判しないのはおかしい」と、こう言う訳です。
当方は、前スレで「倍暦」は存在しないと主張し、太国氏と争ったものです。
太国氏の倍暦論を否定するために、研究家さんを利用した、という指摘が別スレでありましたので、
一応、解説をば。
もちろん、当方は「倍暦」の存在を認めるものではありません。
研究家さんには「倍暦」に対する具体的な見解を仰ぎ、
「倍暦」が存在した物証が無いのに、研究家さんが倍暦自体の存在を否定しない姿勢が、
科学者としていかがなものか?という点を追求しました。
それを持って、太国氏批判のために、研究家さんを利用したと言われては、
利用された形になった研究家さんも気持ち悪いでしょう。
研究家さんの下した見解は、「古代に倍暦が存在した可能性はあった」というものです。
当方よりも博識の研究家さんが、「倍暦」の存在を「否定しなかった」ことで、
当方は、「倍暦」の存在を否定できる根拠をすべて失いましたので、
太国氏への反論は、休止しております。
これは、良い悪いではなく、論理的帰結の一つにすぎません。
この件以降、当方は、具体的な「倍暦」批判を太国氏に行なっていませんし、
新しい事実が見付かるまでは、今後も太国氏とは論戦はしないでしょう。
ただ、自説と反する相手を根拠なく攻撃する輩と、一緒にしないように認識していただきたく存じます。
599 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 16:36:16
スレ違いになりますが、どうかご容赦を。
しかし、「議論のしかた」という点においては、重要な問題なので。
征東大将軍氏
>仮に私の説に対する批判があれば、それは私とその人、個々人での一対一の関係です。
そのような考え方もあるでしょう。
その場合、他者の説を引用したときは、「他者を利用した」と解釈されるわけですか?
ほとんどの論文は他者の引用だらけだと思いますが。
一対一の関係で議論をした場合、はたして真実にたどり着けるのか?という問題もあります。
征東大将軍氏と、研究家氏が議論をし、ある帰結点にたどりついたとしても、
それは、あくまでも、二人だけで到達した帰結点にすぎません。
もし、二人双方ともが、偏重した考え方をしていた場合、
帰結点もまた、偏重したものになるでしょう。
貴方が、当方の思うようなクールな人であれば、貴方の論の危うさにも、
当方が気づいてることも、知ってるはずだと思います。
600 :
唐松山:2007/07/16(月) 18:55:27
太国さんの 倍暦は、 太陽暦
それも ○○朔 と書いてある 日付を ○○月1日(太陽暦)としている。
研究家さんの 考えも 朔には、 気が配られていない。
よって 双方とも 書紀が書かれた時点で年を増すと共に 朔も合わせた。
と言うような 主張と見受けられますが
では 何故 1っ本の 暦にならないのか?
601 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/17(火) 08:25:44
>>597・
>>600 唐松山さん
わたくしは、暦の専門ではありませんので、朔計算についてはよくわかりませんが、
一つ、ご提案があります。わたくしのHP「倉西先生のご学問所」(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon)の歴史学コースの
日本書紀紀年法入門にて、応神元年から雄略5年までの間、時代としては4世紀末から5世紀後半にかけて、
多列・並列構造になっていることを説明しております。
すなわち、応神元年から雄略5年までは、一本の直列的な年列ではないのです。
そこで、多列・並列構造と考えて、朔を求めてみてはいかがでしょうか。
例えば、多列・並列構造では、仁徳87年は483年で、履中元年は427年です。
50年の空白が必要になってしまう問題は、このような構造に原因しているのかもしれません。
602 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/17(火) 08:38:23
>>598・
>>599さん
わたくしは、日本古代において、二倍暦法ではなく、二倍紀年法はあったかもしれない、
と考えております。暦法と紀年法は、大きく異なります。違いについては、
わたくしのHP「倉西先生のご学問所」(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon)の歴史学コースの歴史発見物コラム
にて、「紀年法と暦法はどこが違うの」というテーマで説明しておりますので、ご参照いただきたいと思います。
いずれにいたしましても、598さんは、日本書紀紀年法は、多列・並列構造であるという考え自体に対して、
批判的なご意見をお持ちなのではないかと、拝察いたします。東征大将軍さんは、わたくしの説のうち、
多列・並列構造であるという点のみは認めていらっしゃるようですので。
そこで、598さんは、具体的に、どのような点から多列・並列構造に、納得なさっておられないのか、
疑問点やご質問を提示していただけましたならば、さいわいです。
603 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 13:49:32
>日本書紀紀年法研究家さん
当方は、倍暦を論理的に否定できる根拠が無いので、
太国氏の提示された倍暦の傍証には、説得力があると認めるしかありません。
>【日本書紀の應神の条、日数統計表】
>1日 3 16日 0
>2日 0 17日 0
>3日 2 18日 0
>4日 0 19日 0
>5日 1 20日 0
>6日 2 21日 0
>7日 0 22日 0
>8日 1 23日 0
>9日 0 24日 0
>10日 2 25日 0
>11日 0 26日 0
>12日 0 27日 0
>13日 1 28日 0
>14日 1 29日 0
>15日 1 30日 0
他人の説を引用すると、また、東征大将軍氏が不快感を表明するでしょうが、
東征大将軍氏も、太国氏の倍暦を否定されておられないようなので、
当方は、説得力の点において、東征大将軍氏の修正案を支持するものです。
当方の見解は、以上です。もうありません。
604 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/07/17(火) 22:18:22
>>598=
>>599=
>>603は、このスレの初めのほうに出てきた
「検証中」氏?名無しなので、流れが読めません。
また「東征大将軍」氏じゃなくて、「征東大将軍」氏ですね。
606 :
598:2007/07/17(火) 22:52:37
>>604 征東大将軍氏の年代観は、確か、崇神天皇が3世紀ということで、当方の見解と一致していたはずです。
貴方は違う年代を割り出していましたよね?
そういうわけで、「説得力」という点で乏しいと思われるわけです。
>>605 失礼しました。訂正します。
それと、当方は「検証中」氏ではありません。
主に前スレで太国氏の「倍暦」を徹底批判し、返り討ち(笑)になったものです。
>>606さん
606さんは
>>603にて、崇神紀ではなく、応神紀を例に引いておられます。したがいまして、606さんは、
3世紀ではなく、4世紀末から5世紀の編年問題について、征東大将軍さんのお説を支持されていると、
わたくしは理解させていただきました(どうやら、誤解であったようですが…)。
しかし、崇神紀の問題となりますと、4世紀末から5世紀にかけて設定されてある
プラス・マイナス120年構想と多列・並列構造の設定範囲からは外れますので、別の問題ということになります。
わたくしは、崇神元年は西暦91年と考えております。そして、西暦91年から西暦390年までの間には、
天皇即位=立太子構想が設定されていると推論いたしております。
606さんは、崇神紀をめぐって、わたくしの天皇即位=立太子構想よりも、征東大将軍さんのお説を支持されていると、
おっしゃられるべきであったと思います。
608 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 12:42:12
倍歴って、中国思想をやってる人にいったら、
鼻で笑われるから気をつけてね。
609 :
598:2007/07/18(水) 13:52:41
>>607 大変申し訳ありませんでした。
>606さんは、崇神紀をめぐって、わたくしの天皇即位=立太子構想よりも、征東大将軍さんのお説を支持されていると、
>おっしゃられるべきであったと思います。
当方も、両者の説を100%理解してるわけではないので、
説の内容を誤認していたということであれば、謹んで謝罪、前言を撤回するものであります。
しかしながら、「プラス・マイナス120年構想と多列・並列構造」についても、
研究家さんは、倍暦を自説に組み入れて計算されていないようです、
倍暦を否定されていない征東大将軍さんは、倍暦を自説に組み入れて計算されているはずです。
研究家さんは、
>>603の現象を、論理的に説明できなければ、倍暦の存在を否定できないはずです。
倍暦があったと仮定すれば、倍暦を組み込まないままの「プラス・マイナス120年構想と多列・並列構造」は、破綻する、
と、当方は解釈するものであります。
よって、研究家さんよりも、征東大将軍さんの説のほうが、説得力があるというお話です。
当方の見解は以上です。
610 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/18(水) 14:42:02
横槍失礼します。
私に倍暦に対し否定的な見解を持ちます。
おそらく当時すでに大陸より暦法は輸入されていたでしょうし、
その大陸でも通常暦が普通であったのに、あえて倍暦を使用する論理的な根拠がありません。
大陸でも時代によっては倍暦が使用されていたのかも知れませんが、
自分の知る文献(史記、漢書、論語等)で倍暦が使用されていたと聞いた記憶はありません。
普通に考えて、暦法は通常であるほうが自然です。
太国氏の説は確かに興味深く、軽視できないものだとは思いますが
通常暦→倍暦→通常暦といった、不自然な変更は恣意的な解釈を禁じ得ません。
よって、私としては倉西先生の説をひと通り伺ったうえで
諸氏の説を参照していくスタンスでありたいと考えています。
611 :
598:2007/07/18(水) 14:55:56
>>610 花さん
当方も、基本スタンスは倍暦否定ですが、
>>603の現象は、無視しかねる問題だと思います。
持論と整合しないからと、スルーする姿勢はいかがなものかと思います。
倍暦の存在を具体的に否定できなければ、
倍暦が使用されていた可能性を無視するわけにはいかないでしょう。
花さんは、
>>603の現象を、どのように説得性を持って解釈できますか?
>>598さん
日本書紀が二倍年暦を組み入れていないことは、例えば、神功紀には魏志倭人伝が引用されていますが、
その文中に魏朝の年号が見えることからもわかります。元号は1年を単位とした通常の天文暦を用いていますので、
日本書紀の編年は、通常暦を用いていると考えて問題はありません。
また、日本書紀は1年を2年と計算して編年したと考えますと、先帝と次帝の父子の年齢に不整合が生じる
という問題も指摘することができます(ブログ「ゆうちゃまの昔語り」(
http://kuragaku.typepad.jp/yuko)の「日本書紀のお話13」参照)。
歴代天皇の在位年数や宝算は、別の理論で説明できれば、二倍年暦を用いていると考える必要はないのではないでしょうか。
>>603の現象につきましても、応神紀の記事の大部分は、月までで、暦日まで記したものは少数です。統計としても事例が少なすぎます。
二倍年暦を組み入れなくとも、論理的に、プラス・マイナス120年構想と多列・並列構造は、
まったく破たんしないのです。
613 :
598:2007/07/18(水) 15:30:29
>>612 研究家さん
>
>>603の現象につきましても、応神紀の記事の大部分は、月までで、暦日まで記したものは少数です。統計としても事例が少なすぎます。
>二倍年暦を組み入れなくとも、論理的に、プラス・マイナス120年構想と多列・並列構造は、
>まったく破たんしないのです。
当方は、太国氏ではないので、「なるほど」と感想をするに留めるのみです。
倍暦を否定されていない征東大将軍さんが、その論で納得され、
研究家さんの見解に征東大将軍さんが同意されるのであれば、
>>603の事象について、両者の論点の相違は無いことになります。
その場合、当方はあらためて、どちらの説に説得性があるか見解を抱くことになるでしょう。
当方が言えることは、ここまでです。
花さん
わたくしも、暦法は、かなり早い段階で将来していたと考えております。
仮に、太国さんがおっしゃられるように1年を2年と数える方法があったといたしましたならば、
それは、春期と秋期を峻別する二倍紀年法、もしくは、年齢のみを二倍紀年法で数えるようなものであったのかもしれません。
また、
>>603の現象につきましては、応神紀の前後の神功紀と仁徳紀には、16日以降の暦日が見えます。
応神紀の41年間のみ、二倍年暦を用いているということになりますので、太国さんの二倍年暦説には、
説得力がないのではないかと考えております。
615 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/18(水) 16:07:39
>>611 まずその事例は「たまたま」であった可能性もあります。
他の天皇の記録では月の後半も出現します。ならば、
天皇の代ごとに暦法を変更する不自然さと
たまたま一代の記録に月後半の記録がない不自然さと
どちらがより不自然でしょうか?
いい勝負かもですね。そうなると、どちらも否定する決定打にはなりません。
私は倍暦を否定するのではなく、現時点では積極的に肯定できないだけです。
616 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/18(水) 16:10:14
追記です。
当時の暦法って旧暦ですよね?
では、ひと月は28日周期なハズです。
15日が存在するのは何故でしょうか?
617 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/18(水) 16:19:19
>倉西先生
祟神元年が西暦91年との事ですが、
これはつまりモモソヒメと卑弥呼は無関係(年代があわない)
とのご意見と解釈してよろしいでしょうか?
私は、(素人意見ですが)
モモソヒメ≒卑弥呼≒倭姫
と見ております。
いずれも完全な同一人物ではなく、
職制としての「卑弥呼=日の巫女」の伝承が分岐して
それぞれの人物像を形成したと考えております。
もしかしたら神功皇后も?というのはまだ妄想の範疇ですが(^^;)
>>617 花さん
>祟神元年が西暦91年との事ですが、
>これはつまりモモソヒメと卑弥呼は無関係(年代があわない)
>とのご意見と解釈してよろしいでしょうか?
花さんがおっしゃられておられます以下の点につきまして、わたくしも同じように考えております。
>モモソヒメ≒卑弥呼≒倭姫
>職制としての「卑弥呼=日の巫女」の伝承が分岐して
>それぞれの人物像を形成したと考えております。
後の斎宮の原型となったような女性神祇祭司者という立場があり、モモソヒメ、卑弥呼、倭姫も
このような神祇祭司者としてあったのではないでしょうか。
もちろん、神功紀は189年間も扱っていますので、神功皇后にも投影されているのではないか、
と考えられます。
619 :
598:2007/07/18(水) 17:16:02
>>618 なるほど、ある時代の記録が、別の時代に「投影」されていることも考慮されてるということですね?
崇神紀には箸墓建造の記録があり、考古学的には(異論はあっても)AD250-300年前後とされているようです。
ですので、当方は崇神の時代を3世紀と見積もっていますが、
研究家さんは、崇神元年をAD91年とし、そこに箸墓建造の記録があっても、
後の時代の記録が挿入されている(?)という見解なのでしょうか?
それならば、一理あるように思います。
漢や魏の傘下にあったときは、魏の暦。
中華から離脱したときは、国内暦。
こんな考えはいかがでしょう?
621 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 19:42:49
>>616 陰暦は大月(30日)と小月(29日)の組み合わせになります
622 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/18(水) 19:49:29
イイコトを閃きました
新撰姓氏録で太秦氏の来朝記事が仲哀8年と応神14年と云う事になって居る訳なんですけど
応神14年を仁徳列(Y=X-84)で367年と解釈する場合、
仲哀8年をココから4周期繰り上げた年代列(Y=X-168)で解釈すればピッタリ367年となって、
1年の狂いも無く両年代が実年代上では完全に同期します。
このケースの場合は、つまり、
「そもそも同一年次の同一氏族の同一伝承の来朝記事自体を、敢えて二分割している」
と云う事になる筈です。
書紀の編年上では84年差(これが21の整数倍になっています)ですから、
新撰姓氏録のまま解釈すると3世代クラスの差になり、
更には書紀にはない新羅遠征前の渡来と云う解釈困難な箇所ですが
先述の解釈を施せば、この問題が綺麗に解消されます。
書紀以外の文献からもこの法則の確認出来きた事ですし、
少なくともこの年代までは、この法則とそれに基づく年代列の存在自体は決定的でしょう。
年代列(Y=X-126)も例外と見るべきでないと云う事です。
反対に、寧ろ神功62年記事の壬午年の干支に合わせた所為で
この周期から外れていると考えられる応神列こそが、
この年代では本来の書紀の設計上は例外的な年代列であると見ても良さそうです。
それから仲哀は古事記崩年干支では362年崩ですから、
367年自体は仲哀朝の事象ではなく、応神朝の事象の筈ですね。
本来の編年上の想定では。
大分と持ち駒が増えて来た感じですね。
>>598さん
モモソ姫と箸墓との関係につきましては、わたくしは、前方後円墳の築造のはじまりの時期を
モモソ姫の時代であることを示すために、箸墓についての記述を崇神紀に置いたのではないか、
と推論しております。すなわち、前方後円墳という墳形の由来には、女性神祇祭司の問題が
かかわっており、箸墓に前方後円墳を象徴させたのではないか、と考えております。
>>620さん
暦の問題を考えます場合に、わたくしは、研究史上、神武紀から安康紀までが儀鳳暦、
雄略紀以降が元嘉暦であるという定説の問題が、どうしても頭をよぎってしまいます。
二倍暦などさまざまな諸説が唱えられていますが、これらの説の妥当性を論証するためには、
まず、定説を否定しなくてはなりません。しかし、いずれのお説も、定説との関係については
論じていないように思います。
>>622 征東大将軍さん
>応神14年を仁徳列(Y=X-84)で367年と解釈する場合、
>仲哀8年をココから4周期繰り上げた年代列(Y=X-168)で解釈すればピッタリ367年となって、
>1年の狂いも無く両年代が実年代上では完全に同期します。
たいへん興味深いご指摘であると思います。
仲哀紀と応神紀をつなぐ鍵が、仁徳列にある可能性があるということでしょうか。
日本書紀では、プラス・マイナス120年構想の他に、神功紀のマイナス範囲に重なる形で、
崇神元年から神功3年までの間に別の構想もあるようですので、その構想が、どのような法則に
もとづくものであるのか、大いに研究しなければ課題であると思います。
わたくしは、崇神元年を91年に位置づけると、ちょうど、応神天皇の立太子の神功三年が390年と
なることから、天皇即位=立太子構想というものを考えておりますが、他にも、法則があるのかもしれませんね。
626 :
598:2007/07/19(木) 12:49:15
>>623 研究家さん。
申し訳ないのですが、貴方のおっしゃる意味がいまいち把握できません。
「前方後円墳の築造のはじまりの時期」=「モモソ姫の時代」ということは、
貴方の想定する、「モモソ姫」の時代とは、以下のABCのどちらなのですか?
A、箸墓建造の時代=考古学的に早くて3世紀中期、遅くとも4世紀=モモソ姫の時代。
B、女性神祇祭司の起源は不明だが、1世紀から存在した可能性はある=モモソ姫の時代。
C、その他。
Aならば、モモソ姫(3世紀)と崇神の時代(1世紀)は一致しないので、
崇神紀に女性神祇祭司の起源を投影させて記録した。
崇神とモモソ姫を繋ぐ系図は、創作・捏造ということとする。
Bならば、モモソ姫と崇神の時代は一致するとし、
さらに、「前方後円墳の築造のはじまりの時期」を1世紀と想定した。
モモソ姫の墓=現在の奈良にある箸墓とは別の墓のこととする。
場合によっては、貴方の知識の乏しさを露呈し、貴方の説の説得力を大いに低下させてしまいます。
慎重に、具体的、お考えをお聞かせください。
627 :
598:2007/07/19(木) 13:12:01
C、その他、の答えの一例としては、
崇神と、モモソ姫は、同時代の人物とし、
「前方後円墳の築造のはじまりの時期」は、箸墓もしくはそれより数世代前の古墳だとし、
崇神とモモソ姫を繋ぐ系図は、その通り解釈してよいとする。
崇神=1世紀とするのは、あくまでも「記紀の年代設計上のこと」で、
崇神天皇(に当たる人物がいたと仮定して)の実年代は、3世紀でも構わない。
当方には、これくらいしか、貴方のおっしゃる意味を解釈できないのですが。
違うのであれば、違うとして、具体的に説明して欲しいのです。
628 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/19(木) 15:02:51
D、モモソヒメは伝承中の人物であり、
正確な年代や人物像は日本書紀編纂者にもよくわからず
「とりあえず箸墓と一緒にぶち込んどけ」
なノリで祟神紀に挿入した。
だと私見してます。
考古学的な根拠や文献史学的な解釈だけでは解けないパズルですね。
仏教が伝来し、日本で本格的に文字文化が始まった当時すでに
口伝伝承は錯綜していたのだと思います。
629 :
598:2007/07/19(木) 16:44:56
>>628 花さん。
なるほど、そういう解釈もアリでしょうね。
崇神=実年代の1世紀に、崇神天皇に当たる人物がいた
モモソ姫=伝承中の人物で年代不詳/記紀では、崇神の時代に記録した/崇神との系譜は創作。
箸墓=3(〜4)世紀/モモソ姫の墓とされるが、モモソ姫の墓ではない。
案外、花さんの解釈は合理的かも知れませんよ?
箸墓という巨大な前方後円墳を作るには、相応の合理的理由があって建設用人員が投入されたはず。
にも関わらず、モモソ姫の記述は神話めいていて史実とは考えられません。
よって、記紀が編纂されたときは、箸墓が誰の墓かわからず(巫女の墓という伝承だけはあった?)
別個にモモソ姫の伝承があり、さらに、別個に崇神天皇(初代大王)の伝承があったので、
崇神天皇(初代大王)の時代に、モモソ姫伝承を挿入し、箸墓建造物語を創作した、
ということを推測することは、合理的解釈のように思われます。
630 :
598:2007/07/19(木) 16:58:41
当方の年代観では、神武天皇(に相当する人物)が実在したなら1世紀だろうと考えています。
この年代観は、確か、太国氏、征東大将軍氏ともに一致していたはずですので、説得力はあります。
加えて、一部では、「神武天皇=崇神天皇」という説もあります。
「神武東征が3世紀にあった」という東遷説と供に論じられることが多いわけですが、
それとは別に「神武天皇=崇神天皇が1世紀の話」ということならば、それはそれで新しい視点ですね。
十分に、論議の対象となる話でしょう。
とくに、研究家さんは憶測ではなく論理的な計算によって、崇神天皇を1世紀と計上したわけですから、
少なくとも当方にとっては、「説得力がある」とみなすことができす。
631 :
598:2007/07/19(木) 17:57:39
大仙陵古墳(wikiより)
「記紀」「延喜式」などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇・反正天皇・履中天皇の3陵が築造されたことになっている。
しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治定している古墳は、
考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、
大きく齟齬が生じている。
このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。
しかし、この場合は「延喜式」の記述と大きく食い違うことになる。
-------------------------------------------
つまり、「延喜式」が書かれた頃には、すでに、あの巨大な古墳の被葬者が誰かさえも、わからなくなっていた!
ということであります。
よって、箸墓の被葬者もモモソ姫だとはまったく確定できないということですね。
632 :
598:2007/07/19(木) 18:07:02
さて、大仙陵古墳が本当に仁徳天皇陵だったのか?という点において、
研究家さんの「プラス・マイナス120年構想と多列・並列構造」または、
征東大将軍さんの「修正案」で、上手く説明され得るならば、
その論は、決定的に支持され得るものとなるでしょう。
633 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/19(木) 18:26:21
たとえば今から100年前、大正時代の総理大臣を順番に暗誦するとします。
で、現代の我々には教科書も書籍もネットもありますが、
それらを一切ないものとして先輩からの伝承のみで
順序、事跡、出身地、晩年までを覚えるとしたら
これはもう不可能ではなくともかなりの労力を必要とします。
で、さらに我々は文字を知っていますので名前などもビジュアル的に記憶できますが
文字もなく単純な「音」のみで記憶し、それを10人くらいで
伝言ゲームをしたとすれば、
10人目まで正確に伝わるとは思えないですよね。
そこにさらに、途中で意図的な改竄などがなされたら
全く違う物語になり得るおそれもあります。
文字のない時代に数百年にもわたり伝えられ、
さらに権力者による改竄もあり得る口伝伝承を
苦心のすえまとめ上げたのが日本書紀ではないでしょうか?
>>627 589さん
モモソ姫の時代がいつであるのか、につきましては、
わたくしの考えは、Bに近いといえます。
女性神祇祭司者が、卑弥呼ほどは高くはなくとも、重要な立場となってきたのが、
二世紀ということになります。
巨大前方後円墳の築造は、3世紀中頃の箸墓からですが、前方後円墳という墳形の古墳自体は、2世紀には
造られていたようです。
8世紀初頭に成立した日本書紀では、当時、最古級の前方後円墳型古墳として、もっともよく知られていた箸墓を
前方後円墳という墳形に代表させたのではないかと考えることができます。
>>628 花さん
たしかに、モモソ姫の時代がいつであったのか、正確な伝承が、8世紀まで残っていた
可能性は低いと思います。
しかし、わたくしは、崇神天皇は、『後漢書』に見える倭国王帥升ではないかと、
考えております。魏志倭人伝でも、2世紀初頭から70〜80年治世にあたったという男王について述べています。
闕史八代の後に、登場してくる崇神天皇には、中国史書にはじめて「倭国王」と明記された帥升が投影されていると
推論することができます。
>>631>>632 598さん
>考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、
>大きく齟齬が生じている。
プラス・マイナス120年構想と多列・並列構造において、仁徳末年は483年となり、履中末年の432年よりも年代が下がります。
したがって、履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)という考古学的見解にはあってきます。
しかし、反正天皇陵については、反正末年は437年ですので、あってまいりません。
あるいは、改葬ということも考えられるかもしれません。
また、>征東大将軍さんの「修正案」につきまして、通常、何らかの案や説があって、それに修正を加えた場合に、
「修正案」という用語は適当であると思いますが、征東大将軍さんは、別に、何らかの案に
修正をくわえているわけではありません。したがいまして「修正案」という用語では、不明瞭で、意味不明です。
「Y=X-126案」など、征東大将軍さんのお説の特徴を表した用語を用いていただきたいと思います。
>>634にて、598さんを589さんと誤記してしまいました。お詫びして訂正いたします。
637 :
598:2007/07/20(金) 15:47:28
>>636 >「Y=X-126案」など、征東大将軍さんのお説の特徴を表した用語を用いていただきたいと思います。
失礼しました。それでは、征東大将軍さんの説は「Y=X-126案」とします。
本人から「○○○説」として欲しいという要望があるまでは。
それでですね、当方もやっぱり、貴方の説を誤解していたようですので、確認を。
研究家さんの説では、「実年代で、仁徳天皇が483年まで、生きていた」ということなんですね?
当方は、てっきり、
「仁徳崩御は427年だけども、仁徳天皇が生きていたと仮定して当時の人が記録した仮想年代の話」だと思ってました。
一応、確認させてください。
仁徳天皇が、実年代で、483年まで生きていた、という主張が、貴方の説なのですね?
(「Y=X-126案」も同じ?)
>>589さん
仁徳天皇が、西暦483年で存命されていたとは、さすがに考えられませんので、
仁徳天皇には、複数の人物が投影されているのではないかと、推論いたしております。
おそらく、仁徳31年の西暦427年(古事記崩年干支)に譲位された後、20年後の
仁徳50年(446)頃に、崩御されたのではないでしょうか。
したがいまして、446年以降の仁徳天皇には、仁徳天皇のご子孫が投影されているのでしょう。
仁徳天皇陵には、複数の石室があるとのことですので、それは、このような事情によると推論することができます。
639 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 16:40:33
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640 :
598:2007/07/20(金) 18:32:21
>>638 研究家さん
仁徳天皇は、実年代427年(古事記干支)で、「譲位」したとし、
その後、実年代446年頃(?)までは生きていたとし、その後483年までの記録は、
仁徳の子孫(?)の業績が、仁徳天皇の業績として投影された、というわけですね?
一応、当方の見解では、仁徳天皇が483年まで生きていたとしても、それほど不思議でもないので、
(仁徳の生まれ年を、400年頃と仮定すれば?)
「譲位」でも、「存命」でもどちらでも解釈可能と思えました。
古事記では83歳で崩御と明記されてますが、仁徳天皇の生まれ歳の実年代は、
研究家さんの計算では、363年頃、ということで解釈してよろしいですか?
>>640 598さん
古事記における仁徳天皇の宝算が83歳で、日本書紀の仁徳天皇の在位年数が、
これをうわまわって87年ということには、おそらく意味があるのでしょう。
したがいまして、仁徳天皇の宝算が、史実として83歳であったかどうかは、何ともいえません。
しかし、仁徳天皇は、長じてから、西暦397年に即位されたと考えられますので、
生年は4世紀後半なのではないでしょうか。
そういたしますと、やはり、483年までの長寿を保たれたと考えますことには、
無理があるように思います。
642 :
598:2007/07/20(金) 20:36:42
>>641 わかりました。
古事記記載の83歳崩御は史実でない可能性があると。
仁徳生誕は、4世紀後半ということで。
まあ、この件は問題ないと思います。
643 :
598:2007/07/20(金) 20:57:10
ああ、いけない、失敗だ。
当方と、研究家さんの議論では「倍暦」の視点が無いので、
「倍暦」の可能性を見失ってしまうところでした。
日本書記で、仁徳治世87年という記録が「倍暦」に基づくものなら、
実際の治世は約40年になります。
仁徳天皇が83歳まで生きたなら、西暦397年に、40歳過ぎくらいで即位した計算になります。
古事記の干支が信用できるとすれば、古事記では倍暦が使われていないことになり、
仁徳天皇は倍暦ではなく、実年齢で83歳で崩御したと考えられます。
そう考えると、整合性が取れていくようにも思われますが、さて?
この仮定から導かれることは、古事記では倍暦は使われて無く、日本書紀では倍暦が使われていた(?)ということですが……。
当方には、これ以上なんとも言えません。
644 :
598:2007/07/20(金) 21:22:28
>>643の検証のためには、
仁徳紀の中の同様の事象の記録年代を、日本書紀と古事記を比較検討すれば良いでしょう。
そこに、何らかの法則性があれば、仁徳紀の倍暦の存在を特定できるでしょう。
法則性がなければ、倍暦の存在は無い、と考えて良いかと思います。
とりあえず、当方としては「法則は無い」という予測の元に調べてみることにします。
645 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/20(金) 22:57:36
見るべき所が狭過ぎる
と言って措きましょうか
646 :
コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/20(金) 23:29:48
古事記分註天皇崩年干支は驚くべきことに2倍年暦です。
30年で1巡ですので、普通暦として考えると、倭の5王あたりは合っているようで合わない。合うところと合わないところがあるのです。
647 :
598:2007/07/20(金) 23:33:59
>>645 情報交換をする気が無いなら、ちゃちゃを入れないように。
貴方専用のスレでも立てたらいかがですかな?
>>646 資料があるなら、具体的にお願いします。
648 :
598:2007/07/21(土) 00:09:10
仁徳紀に、倍暦の痕跡があるのか?
ということで、やはり最初に目につくのは、「民のために3年間課税を免除した」という記述。
古事記でも、日本書紀でも、冒頭で謳われていますが、
はたして、日本書紀では、仁徳4年から課税を免除し、仁徳10年に課役をはじめて命じたとあります。
3年の課役免除のはずが、その間、6年。
綺麗に、「2倍暦」になっているように見えてしまいますね。
これはどう解釈したらよいのでしょうね?
649 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 00:38:35
日本語の漢字読音(音読み)は、伝統的に「呉音」・「漢音」と呼ばれる2系統がある。
呉音の方が少し古い時代(奈良時代前期まで)に輸入された音、 漢音はより新しい時代の音と
されている。
この事実は、日本への漢字の伝播が呉からであることを証明している。
韓国人の主張によると、漢字はまず半島北部のフヨ族が使い始め、このフヨ族が半島南部を征服することで、
半島南部に漢字が伝えられ、半島南部から日本列島へ漢字が伝えられた、
と言う。だが、そういうことはありえないのだ。
漢字が、本当に半島北部→半島南部→日本列島、という流れで伝わったのならば、
日本の漢字音は、漢音が基本でなければならない。しかし、実際は呉音がメインである。
韓国語の漢字音も、古代では呉音が基本だが、これは半島の漢字が日本から
伝えられたためである。
つまり、呉→日本→半島南部→半島北部、こういう流れである。
漢字は、日本から半島南部へ伝わったと考えるべきである。
ちなみに、朝鮮・韓国人が漢字を使うようになったのは7世紀以降である。
百済人は4世紀から使っているが、これは日本人が百済人に漢字を教えたのが
4世紀からだからである。
650 :
598:2007/07/21(土) 01:06:56
仁徳紀には、応神紀と重複する記録もあるようです。
たとえば、
日本書記:応神31年9月、枯野船を燃やして塩を作ったとあります。
古事記:仁徳崩御の直前に、枯野船を燃やして塩を作ったとあります。
どちらの記事が真なのか?
古事記の伝承が真ならば、日本書記の応神31年の記事は付けたしということになります。
もしかしたら、枯野船の記録には干支が記載されており、
応神31年と、仁徳崩御の直前では、丁度干支が1巡する年代だたということもあるでしょう。
応神崩御が実年代394年で、日本書記の応神41年が同年だとすると、応神31年は384年です。
仁徳崩御?が427年なので、単純に引き算すれが43年です。
さてさて、「21の整数倍」に近い数値が現れてきましたなあ。
651 :
598:2007/07/21(土) 01:58:23
>研究家さん
貴方の見解を伺ってみたいのですが、
応神・仁徳の時代のころに、「太歳紀年法」が併用されていた可能性はあると思いますか?
木星は、天の赤道上を1年に1/12進み、約12年で元の位置に戻ります。
しかし、公転周期は11.862年なので、86年で1年分の狂いが生じます。
日本書紀の、仁徳87年に崩御という数値と近いですし、
86/4=21.5となります。
これって、偶然だと思いますか?
日本書記では、神武東征は、「太歳の甲寅」に始まったとされてます。
どこかで、「干支」と「太歳」の記録の混乱があった、という可能性はどうですか?
652 :
コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/21(土) 09:39:29
暦についてはあまりわからないのですが、日本書紀の「太歳干支」とは木星とは
関係はないのではないでしょうか。
太歳の太とは太郎次郎三郎や太田、(庶子の田に対する)本家分家のような意味での太ではないだろうか。
つまり天皇は国の中心なのであるから、天皇にかんする干支には太をつけたのではないでしょうか?
>>598さん
>日本書記:応神31年9月、枯野船を燃やして塩を作ったとあります。
>古事記:仁徳崩御の直前に、枯野船を燃やして塩を作ったとあります。
日本書紀の応神31年の出来事が、古事記では仁徳天皇の時代のこととされていることは、
多列・並列構造において、応神列と仁徳列が並行していることの支証になるかと思います。
>情報交換をする気が無いなら、ちゃちゃを入れないように。
横レスになりますが、情報交換ではなく意見交換であると思います。
>>651のご質問につきましては、日本書紀では、たしかに太歳を意識しているようです。
598さんのおっしゃられる「太歳紀年法」とは、12年単位で一巡するもので、
この年代を干支を用いて表記したために、後に、干支年については、
干支紀年法における干支表記であるのか、太歳紀年法の干支表記であるのか、
混乱したということでしょうか。
現時点では、何ともいえませんが、可能性はまったく無いとまでは、いいきれないのではないかと思います。
いずれにいたしましても、太歳紀年法なるものがあったのか、無かったのは、研究課題となりましょう。
>>646・
>>652 サガミハラハラさん
古事記では、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇には崩年干支が記されています。
さらに、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇については在位年数も記されています。
これらの崩御干支と在位年数から、明らかに古事記は一倍暦です。
わたくしのブログ「ゆうちゃまの昔語り」(
http://kuragaku.typepad.jp/yuko)にて、
古事記崩年干支の称元法についてお話しておりますので、ぜひ、ご覧になってみてください。
また、
>>652のご意見につきましては、天皇についての干支のすべてに「太」という文字がついているわけではないように
思いますので、やはり、別の理由ではないでしょうか。ただし、誤記かもしれませんが、
仲哀紀に、「太歳」ではなく「大歳」と見えますので、「太歳」の意味については、検証を加えねばならない課題でしょう。
655 :
コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/21(土) 10:10:12
説明不足でした。
古事記干支は安閑天皇以降は(継体?)普通暦での干支です。
>>649さん
呉音と漢音の問題については、わたくしも興味を持っています。
呉音が多いことについては、倭の5王の遣使が、いずれも南朝であることなど、
呉音地域と漢音地域、いずれとの文化交流が大きかったか、などの問題が、関連しているのでしょう。
>>655 サガミハラハラさん
それでは、なぜ、継体天皇以前は二倍暦で、継体天皇より後は通常暦という
分け方を古事記は行ったとお考えなのでしょうか。古事記が成立したのは、既に暦法のあった712年頃ですし、
崩年干支には暦日も記されています。途中から、二倍暦から通常暦に換えるというのでは、
史書としての一貫性に欠けているように思うのですが。
658 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/21(土) 10:20:13
>>603 古事記の崩年での記述も15日までだったりしますよね
659 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/21(土) 10:21:58
660 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/21(土) 10:24:27
そもそもあれは、「相手を倒す為の」討論なんじゃないんですか?
他のスレでの遣り取りもからもそう思えますが。
普段でもそうですし、特にそう云う↑時は尚更ですが、
他の人の説を引用して、討論相手の同一箇所の論説に付いて対決するなら、
その説の正しさは引用者自身が討論相手に説明して下さい。
仮に「違う、その説は誤りだ」と切り替えされても、引用者の貴方が責任を負うんです。
引用した説が誤りなら、その説を以って相手の説を
批判しようとした貴方自身の誤りであり責任です。
引用した説が例え正しくとも、貴方がその全てを理解して、
その説の正しさと相手の説の誤りとを論じて下さい。
被引用者だとしても、被引用者は自分自身の都合以外では
リングに上がって戦う訳ではないと云う事ですよ。基本的に。
リングに上がらなくても、
自分の側のセコンドについて意見を表明して欲しいと間接的支援を望んでも、
そもそも見解に相違がある場合には、求められてもそう云う訳には行かないでしょう。
661 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/21(土) 10:25:26
それから、ある「説」を支持する事と、
その説を論じている/或いは同調している「個人」を支持する事も違いますよね。
本当は人なんか見てはいけない筈なんですよ。
誰々が言っているとかは、その個別の説の本質とは全然関係ない事ですから。
誰の説だろうが、正しい事なら正しい訳ですし。
博識と謳われる学者だろうが、間違っているなら間違っている訳ですし。
ある論説の自体の検証に、他の人の論説に依存する事は出来ないですから。
でないと検証にならないですからね。
(切り口が全然違って居て、別の角度から補えるなら
その限りではない場合もあるかも知れませんが)
ですから自分の能力超えた検証不能な説は、
ホントは討論する対象にならないんですよ。(本当は)
自分の為に引用する事はあっても、
その分野で矛先を他の相手に向けてはいけないでしょう。
662 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/21(土) 10:28:15
例えば、ある論説に対して、
「誰それさんがそれを正しいと言ってる。/誤りだと言っている。」
これ自体は単にその人の結論であって、それ自体では客観性が担保されている訳でないないでしょう
「誰それさんの言う事なら信頼できる。/信頼できない。」
これも、その説自体を自分自身で判断する事を投げている訳でしょう。
自分で正否の判断が出来ない事柄で、相手に斬り掛かかってはいけないんですよ。
我々はそれぞれ独立した論客なのですから、自分の能力の範囲で検証可能な事に措いてのみ
相手の説に対して反論すべきなんですよ。(本当は)
それが出来ない場合はリングから降りて、そこでその話を終わりにしなければなりません。
自分の代わりに戦う人は居ないのですから。
そして普通の議論に戻りましょう。
663 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/21(土) 11:50:18
>>650 枯野に関係するプロットの移動は重要箇所だと考えますし、
問題設定は正しいと思いますが、598さんは事を取り違えていますよ
ここでは船を潰した話を中心にしていますから、そこだけに絞って話しますが、
394年を応神41年とする年代列こそは仁徳列そのものな訳ですから
仁徳記の記述を仁徳列で求める訳には行かない、と考えるべき筈なんですよ
598さんの言う通りに応神31年の実年代384年としてしまうと、
仁徳記に書いている事柄の実年代を応神朝であると言っているのと同じなんですよ。
話の前提に逆らっています。
664 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/21(土) 11:52:13
応神記の馬の時のように、ここで古事記の時系列を注意するなら
応神31年が、394年以降になる年代列で実年代を求める必要がある筈なんです
現在の所、このケースの場合に推測される有効年代列は、仁徳列より繰り上がった
既存の応神列と新説のY=X-105、Y=X-126の三本が候補ですが
この内、105は信頼性に問題があります。
古事記でその天皇記内に最後にある記事は必ずしも編年上でもそうであるとは言い切れませんが
死ぬ直前で事を、冒頭に持って来ていそうなケースもなさそうですし
仮に仁徳崩御の「直前に」と云う視点を重視するのなら
応神列か126なら、前者では420年、後者では426年になりますから
仁徳の古事記崩年が427年なので一年前の426年が出る年代列Y=X-126が最も相応しい筈ですが
これだけでは断定出来ません。
この年代列自体の信頼性は、応神25年が年代列Y=X-126を使っているのは客観的事実なので
この年代列の使用可能性自体には問題はありませんが。
ただ、ここでは外事記事が絡んでいますから近接する年代に関して別途検証が必要です。
665 :
598:2007/07/21(土) 13:51:24
>征東大将軍氏
貴方の考えは、もうわかりました。
議論を、1対1で希望してるらしいということもね。
しかし、当方は、仮想敵を論破することが目的でなく、
それぞれの論の整合性を検証することが目的です。
他の論と比べて、矛盾が少なければ、その論は説得力があると見てよいのです。
もちろん、完全ではありませんよ。
しかし、完全でない論を、他にどう、客観視できますか?
当方は、倍暦を否定する立場ですが、記紀の中に、倍暦を匂わせる「からくり」があるのでは?
という視点を持つことで、ようやく「太歳紀年法」が併用されていた(?)可能性に気づきました。
いろんな方の意見を相互に吟味しなければ、当方はこの論点に気づくことは無かったでしょう。
すなわち、当方にとって、貴方の言う「1対1」議論方式は明確に否定されたわけです。
当方は、現時点では、年代列の存在を認め、年代列がズレて存在する理由は、
「干支紀年法」と「太歳紀年法」の誤用がどこかの時点であったのではないか?と推測するものです。
意見は、出揃いましたね。平行線になるようなら、当方の議論への参加は、は終了です。
以上です。
666 :
598:2007/07/21(土) 14:19:17
当方なりに、研究家さんの論を整理してみますと、以下の通りです。
「間違いがあれば、指摘してください」←(当方は、このうような言い方しかできません)
古事記干支から計算される、天皇崩年の実年代の定説は以下の通り。
応神天皇の崩年干支の甲午年=西暦394年
仁徳天皇の崩年干支の丁卯年=西暦427年
履中天皇の崩年干支の壬申年=西暦432年
古事記では、仁徳天皇は83歳で崩御したと明記。
日本書紀では、仁徳87年に崩御したと明記。
(ここで、古事記と、日本書紀は、明らかに矛盾しています。)
研究家さんの説では、
仁徳元年を397年(古事記を重視)とし、在位年数を87年(日本書記を重視)とし、
仁徳天皇の仮想治世(?)が483年まで続いたと仮定。
(仮定1)
履中天皇の治世が、仁徳の死後(譲位後?)427から始まるので、
実年代上の仁徳の治世は30年とする。(日本書記とは不整合)
ここに「延長紀年」という概念を想定し、日本書紀の仁徳87年崩御をもとに、
57年分が「延長」されたと仮定。
(仮定2)
このような計算は、他の天皇にも同様に当てはめられ、
天皇ごとに、独立した「列」の存在を仮定。
(仮定3)
当方は、仮定1〜3までは、同意することができます。
667 :
598:2007/07/21(土) 14:27:15
日本書紀紀年法研究家氏の仮定から、推論として、「プラスマイナス120年構想」が導かれ、
征東大将軍氏は、126年のズレに着目し、「21」という定数を導きました。
120年にしろ、126年、21年にしろ、「論点」は、その定数が存在する「理由」です。
当方は、年代列のズレが事実なら、ズレの要因が「紀年法の誤用では?」と想定するに至りました。
「21」という定数の存在を、当方・研究家・大将軍の3者で共有できたわけですから、
議論のあり方としては、「論点」は、その定数が存在する「理由」に絞られるはずでしょう。
「理由」が無ければ、論は成立しませんからね。
当方は、その「理由」として、「干支紀年法」と「太歳紀年法」の誤用を挙げておきます。
668 :
598:2007/07/21(土) 14:41:42
「21」という定数の存在理由
当方=「干支紀年法」と「太歳紀年法」の誤用
日本書紀紀年法研究家=プラスマイナス120年構想によって記紀が編纂された
征東大将軍=「?」
当方には、まだ、征東大将軍氏の論の根幹たる「理由・根拠」が不明です。
次のレスあたりには、明確にして頂きたいですね。
もちろん、「まだ、わかりません」でもいいですよ。
669 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/21(土) 17:08:46
皆さんこんにちわ。
仕事をしていたらスレがえらく流れていて驚きましたw
>>598さん
素人視点では、21や120などの定数の存在が解せません。
120というより、還暦×2ならば納得なのですが。
定数を用いて操作をするのであれば、そんな面倒臭い事をするよりは
歴代天皇の業績などを創作し捏造したほうが簡単ですし
武烈などの不名誉な記述を抹殺する事だって出来ます。
私が倉西先生の並列紀年論に興味を持ったのは、日本書紀の記述の矛盾を解消する可能性を感じたからです。
すなわち、錯綜した伝承を整理し記述するにあたり、
複数の伝承政権(実在は不明)の序列などを干支をもとに60ないし120年の間隔を設定し
一本の系統政権に纏めあげその正統性を証明可能にしたと思ったからです。
私のスタンスとしては、
・日本書紀は伝承に忠実に編纂された
・その伝承は錯綜していた・日本書紀編纂者は、その整理に苦労した
・すでに国記、天皇紀の時点で真相は不明だった
このように考えております。
670 :
598:2007/07/21(土) 18:03:57
>>669 花さん、もちろん「定数」の存在自体が「幻影」という可能性もあります。
貴方の視点も、軽視できない問題だと思いますよ。
671 :
コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/22(日) 09:59:25
>>652記干支は古事記中に分註という形で存在します。しかも記載のない天皇もあります。
思うにそもそも記干支は日本書紀の編纂の際に収集された史料のなかの干支を一通りまとめたものであったとおもわれます。
どうやら暦や年代や天皇の在位について当時はまだ固定したものではなく、
いくつかの系統があったのかとおもわれます。現に記干支もT類とU類と二種あり、天皇の系譜も、安康天皇にいたっては三種類
もありました。
そういったものを全て照合しながら日本書紀の編纂がおこなわれたのです。
そのなかで、記干支もまとめられていったようなのであるが最終的(または途中で)に、紀の年代系列にあわないということで
不採用となったようなのである。
それを、誰かが(惜しいと思ったのか、紀の編集方針に反発したのか)古事記に滑り込ませた(完成品を書写する時にいれた?)
とも考えられるのです。
よって、記干支は未完成品なのです。
記干支に関しては、真福寺本に記載されているのであるが、他の古事記の写本にも記載されているのか、未調査のためわたしにはわかりません。
どなたかご存知のかた、お教えねがいたいと思います。
>>658〜
>>665 征東大将軍さん
まず、
>>658につきましては、15日までの暦日が多いというよりは、15日の日付が
多いといったほうが、よいのではないかと考えれます。なぜ、崩年干支の暦日に15日が
多いのか、それには、理由があったと思います。
>誰の説だろうが、正しい事なら正しい訳ですし。
>博識と謳われる学者だろうが、間違っているなら間違っている訳ですし。
わたくしも同じように考えております。
研究者は、多くの説を提唱してゆくもののですので、同一研究者の説でも、ある説は正しく、
ある説は間違っている場合があります。
したがいまして、説ごとに、検証してゆき、妥当性、蓋然性が高く、自らの説を補う材料となるような説でしたならば、
自らの論文に引用先を明記のうえで、引用するということを行うものなのではないでしょうか。
わたくしも、専門外の考古学的見地などについては、よく他の研究者の説を拙論に引用
しています。
いずれにいたしましても、自説に他者の説を引用する場合には、引用説を正しく理解し、
誰のお説であるのかを、はっきりと記すことがマナーでしょう。
>>665〜
>>668 598さん
定数の21については、讖緯暦運説の「七元にして三変あり。三七相乗して、廿一元を一蔀となす」
(三善清行「勘文」所引の『易緯』じょう玄注)が、着目されるかもしれません。
21を重要な数と見做すことには、政治倫理思想がかかわっているようです。
120も、21も、讖緯暦運説において天数とされてきた数字であることについて検証することは、
数字によって構成された構造物である日本書紀紀年法を解明するにあたり、
効果的なアプローチとなると思います。
>>669 花さん
わたくしの説に、花さんが、ご興味を持っていらっしゃる理由がわかりました。
わたくしも、多列・並列構造となっている4世紀末から5世紀にかけての歴史は、
相当に、複雑であったと考えております。
もしかしましたら、花さんとは別の点から、複雑であったと想定しているのかもしれませんが…。
>>671 コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラさん
わたくしは、日本書紀と古事記は、二書一対のごとくに成立したのではないかと、
考えております。
古事記崩年干支は、一見、直列的な1本の年列に見える4世紀末から5世紀にかけての
日本書紀の編年を、多列・並列構造に復元するための、鍵となっているからです。
ぜひ、わたくしのブログ「ゆうちゃまの昔語り」(
http://kuragaku.type.pad.jp/yuko)を
ご覧になってみてください。古事記崩年干支の役割について、お話しております。
676 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 13:46:00
崇神天皇は、2代目ヤマトタケルなのだな・・・。
オウスは5代目ヤマトタケルであると。
677 :
598:2007/07/22(日) 14:34:49
>>673 >定数の21については、讖緯暦運説の「七元にして三変あり。三七相乗して、廿一元を一蔀となす」
定数「21」の出所として想定するのは、とても合理的だと思います。
「讖緯説によって、日本書紀が設計されている」というのも、ほぼ定説と言われていますからね。
ここでまた太国氏の論を引用すると怒られそうですが、
他スレで、太国氏が倍暦の傍証として提示された資料を転載しておきます。
仁徳紀の日数が「21」までというのは、無視できない現象でしょう。
>【紀の仁徳の条の日数統計表】
>1日 3 8日 2 15日 1 22日 0 29日 0
>2日 0 9日 1 16日 1 23日 0 30日 0
>3日 2 10日 1 17日 1 24日 0
>4日 0 11日 1 18日 1 25日 0
>5日 2 12日 1 19日 0 26日 0
>6日 2 13日 0 20日 0 27日 0
>7日 2 14日 0 21日 1 28日 0
当方は、これをもって誰の説が正しいとか間違っているとかを、言及するものではありません。
提示された「事実」が、それぞれの説と整合性が取れているかどうかという点だけに着目しています。
整合性が取れている論を展開している、という意味では、太国氏の倍暦論も否定が難しいと考えます。
678 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 20:44:47
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679 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/23(月) 00:27:47
>定数の21については、讖緯暦運説の「七元にして三変あり。三七相乗して、廿一元を一蔀となす」
>(三善清行「勘文」所引の『易緯』じょう玄注)が、着目されるかもしれません。
>21を重要な数と見做すことには、政治倫理思想がかかわっているようです。
>120も、21も、讖緯暦運説において天数とされてきた数字であることについて検証することは、
この問題が三善清行の勘文に言及されるべき事か如何かに付いては躊躇するところです。
三七相乗辺りまでは良いとして、
21元の解釈上、ここから21或いは21年の意を汲んで良いものか?
と云うここでの文脈上のの問題もありますけど、
書紀側の問題としては、年代列が21の整数倍以外の位置にも存在する事は確実ですから、
ここで何故21が選ばれたかに付いて「だけ」に注目すれば理由として手を出したい所ですけど
全体の構成を推測すれば、今の時点でここから21を取り出して意味を与えるには
危険な領域に踏み込んでいる筈です。
それとこの後に、1320年と来るんですよね?これより前の側も切ってあると思うんですけど、
ここも超解すれば色々言えそうなんですけど、止めて措きます。
598さんがこの問題設定をするのは時期尚早なんですよ。
「誤用」説は明らかな誤りです。それこそ「設計」の問題なんですよ、純粋に。
680 :
598:2007/07/23(月) 01:15:12
>>679 >598さんがこの問題設定をするのは時期尚早なんですよ。
そんなことは、ありませんよ。
またひとつ、論点が明確になったではありませんか?
-------------------------
記紀に定数(?)が現れる理由。
征東大将軍/日本書紀紀年法研究家
記紀の「設計」の問題であり、人為的操作による結果の反映。
当方
暦法の誤用による混乱であり記紀の編纂ミス
花
定数の存在自体を認めることに懐疑的であり、当時の人が苦労して編纂した結果
-----------------------------
いかがですか? 論の進め方には、なんら問題ないと思われます。
論点が絞られてきたでしょう?
681 :
598:2007/07/23(月) 01:29:50
ここで、単純に「記紀の編纂ミス」と主張する当方の論拠が弱いことは、認めるところです。
それはそれとして、当方も征東大将軍氏の定数「126」が、記紀と他の文献の中で、
どのように「ふるまっている」のか?
現時点で、何箇所に定数「126」の存在が見えるのか?
また、他の定数があるなら、それはどこにどういう数値で現れているのか?
このへんで、整理して解説していただけませんか?
最初は、研究家さんの説の「修正案」かと考えていましたが、どうもそうでも無いようなので。
貴方も自説を他人に曲解されたくは無いはずですよね?
ところで提案があります。
このスレで名無しで頻繁にレスされてる方々には、
捨てハンで結構ですのでハンドルネームを名乗っていただきたいと思います。
そのほうが呼びやすいですし、主張などを整理しやすいからです。
あくまで「お願い」ですが、せっかく議論が進んでいるワケですから
お互いに「個体識別」できたほうが簡便かと…
>>639・
>>678さん
本スレッドは、学術的な議論の場です。
本スレッドのテーマとは、まったく無関係の人物の絵柄を書き込むことは、議論を阻害するあらしとなりますので、
止めていただきたいと思います。ご質問や疑問点があるのでしたならば、文章にて書ていただきたいと思います。
>>598さん
仁徳紀の暦日が21日までであるのでしたならば、二倍暦にはならず、およそ4分の3倍暦となってしまいます。
応神紀では二倍暦、仁徳紀では4分の3倍暦といった具合になってしまい、一貫性が、
なおさらに欠如してしまうことになります。
ただし、応神紀の1/2、仁徳紀の3/4という比率には、何らかの別の意味があるのではないかと思います。
例えば、多列・並列構造において、応神紀は仁徳列と並行し、仁徳紀は、応神紀、允恭紀、雄略紀の3本の年代列と
並行していることを暗示している、とも推論できます。
>>679 征東大将軍さん
日本書紀紀年法に讖緯暦運説が用いられていることは、辛酉改元の際の朝廷の僉儀において
常に議論されていることが勘文類に記録されていることによって、明らかです。
神武元年の紀元前660年辛酉年は、三善清行の勘文に見えるじょう玄注『易緯』によっているのです。
このじょう玄注は、「四六二六相乗」として、120年という数字も重要な天数であるとしています。
三善清行の勘文と日本書紀紀年法とのかかわりにつきましては、わたくしのブログ「日本史問はず語り」(
http://blogs.yahoo.co.jp/nihonshinoiratsume)
にて少し述べておりますので、ぜひ、ご覧になってみてください。
>>692 花さん
わたくしも、花さんの論者は「個体識別」すべきという案に賛同いたします。
学術的議論の場合には、誰がどの説を述べているのか、アイデンティティーをはっきりさせる
必要があります。このスレッドでは、日本書紀紀年法研究家というコテハンを用いてはいますが、
わたくしの論文・著作、HP、ブログなどをご覧になっていただくことによって、
わたくしのみが、誰であるのかがはっきりしています。
しかし、わたくし一人のアイデンティティーがはっきりしていましても、他の論者の方々の個体識別が
曖昧ですと、誰に対して、レスをしたらよいのか、混乱する場合がありました。
わたくしも、論者の方々は、コテハンを用いるなど個体識別をきちんとなさっていただきたいと思います。
687 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/23(月) 16:20:08
当方は598です。
コテハンつけてみたです。
688 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/24(火) 21:08:21
ここまでの論評をしたいと思います。
科学的事実を「討論」方式で解き明かそうという考え方は疑問に思います。
討論方式で決着可能なのは、「科学的に決定できない事象」
例えば、政治経済の将来の方向を決める政策などを決める議論の場合です。
一方、「科学的に決定できる事象」とは、邪馬台国が九州・畿内のどこにあったのか?
記紀の年代は、設計されたものか否か?倍暦は存在したか否か?という議論です。
この場合、討論をしても、えてして平行線に終わるのが常でした。
なぜ、平行線になるかというと、いずれの論にも「事実」とか「間違い」という証明が困難だからです。
しかし、真実というものは、邪馬台国が日本のどこかに存在し、九州か近畿のいずれかに絞られますし、
記紀の年代は、設計されたものか、編纂ミスのどちらかであるし、
倍暦は存在したか、存在しなかった、の2択しかありません。真実は単純なところにあります。
現代人は、現代から知りえる「事実」から古代を推察し、最も整合性のある矛盾の少ない論を、
真実に一番近い論だと、客観的に見ることしかできません。
討論は、ひとつの論点に対する解釈が正しいか間違ってるかについて討議しますが、
ひとつの討議の結果によって、古代史の全体像が見えてくるわけではありません。
ありとあらゆる論点から、総合的に、最も整合性があり矛盾の少ない論を「真実に一番近い論」だと見なすべきでしょう。
いままで、議論が平行線に終わっていたのは、総合的に矛盾の無い論が無かったためではないでしょうか?
各論が、総合的に矛盾が無いかどうか、誰もチェックしていなかったからではないでしょうか?
当方が、倍暦否定の立場でありながら、あえて「倍暦」を論点にしているのは、
「倍暦の傍証」として提示された「事実」に、各論が、きちんと説明できているかどうかを、チェックするためです。
ここまで、研究家氏の論は、よく説明できていると思います。(正しいかどうかは別問題として)
征東大将軍氏の論は、倍暦を否定していないようですが、倍暦を自説とどう整合性を持たせているのか興味があるところです。
689 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/25(水) 20:01:17
当方は、
>>688でこのように意見を述べましたが、
>討論は、ひとつの論点に対する解釈が正しいか間違ってるかについて討議しますが、
>ひとつの討議の結果によって、古代史の全体像が見えてくるわけではありません。
>ありとあらゆる論点から、総合的に、最も整合性があり矛盾の少ない論を「真実に一番近い論」だと見なすべきでしょう。
その論に、整合性があるかどうかのチェックのためには、「ありとあらゆる論点」は必要ありません。
関係する論点を絞り込めば、単純化できます。
記紀が、ある「計画・構想」によって、「記紀の年代が人為的に設計された」と仮定するならば、
「倍暦」の存在の有無を、論の前提として定義しなければいけません。
----------------------------
日本書紀紀年法研究家=倍暦を否定するという前提で、論を立てている
征東大将軍=倍暦を肯定するという前提で、論を立てている
----------------------------
「記紀の年代が人為的に設計された」と主張する場合、「倍暦の有無」という前提は、
「倍暦は存在した」 か、 「倍暦は存在しない」 の、2択しか取ることが出来ません。
「記紀の中に倍暦は存在したとも言えるし、存在しないとも言える」といった、
曖昧な前提のまま、「記紀の年代が人為的に設計された」という論は成立出来ません。
690 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/25(水) 20:07:28
日本書紀紀年法研究家氏は、明確に倍暦を否定しておられますので、論の立て方に問題はありません。
他の論者も、倍暦については、明確なスタンスをお持ちのようです。
征東大将軍氏は、現時点まで、倍暦をどう評価してるのか明確にしておられない様子なのが気になりますが、
前スレで、倍暦を否定する立場の当方を、征東大将軍氏は批判されましたので、倍暦肯定論者とみるのが合理的でしょう。
ですが、もし、倍暦を肯定するという前提で、自説に倍暦計算を組み入れていなかったとすれば、
その時点で征東大将軍氏の論は、議論の場に上がる以前に自己矛盾により破綻しています。
征東大将軍氏におきましては、ぜひ「倍暦」についてのスタンスを明確にした上で、
自説の年代計算がどのようなものなのか、具体的に説明していただきたいと要求するところです。
「かつて存在した倍暦が、記紀に混入している」といった
半端な状態は絶対無いということですね。
692 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/25(水) 21:25:23
>>691 「かつて存在した倍暦が、記紀に混入している」と、するなら、
それは、どこの箇所にどのような様子で混入し、どこの箇所には混入していない、
ということを明確にしなければ、「記紀が人為的に設計されている」という論は成立できません。
いずれにしても、倍暦をどのように持論の中で扱っているのかを説明する責任は征東大将軍氏にあります。
「記紀が人為的に設計されているように見えるが、
実はかつて存在した倍暦が記紀に混入していただけで、
人為的な設計は無かった」
・・・ということはないのでしょうか。
論評人(598)さん
>ここまで、研究家氏の論は、よく説明できていると思います。(正しいかどうかは別問題として)
褒めていただきまして、うれしく存じます。
わたくしの論は、日本書紀紀年法は基本的には讖緯暦運説にもとづく天数を駆使して構築された構造物であるというものです。
このように考えますと、120年が重視されていることや、神武元年が紀元前660年辛酉年に設定されていることを
きれいに説明することができます。
ただし、讖緯暦運説という政治倫理思想にもとづいているからといって、日本書紀に史書としての価値が無いわけではなく、
歴史書としての役割もきちんと果たしていると考えております。
695 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 20:33:13
おだつな
696 :
◆16/YXRFBRM :2007/07/27(金) 07:24:36
倍暦の有無に関わらず日本書紀の紀年は対称構造に二倍に展開されているので
結論としては壬申紀以前の紀年は信頼する根拠がない
>>696さん
>倍暦の有無に関わらず日本書紀の紀年は対称構造に二倍に展開されているので
>結論としては壬申紀以前の紀年は信頼する根拠がない
日本書紀の紀年は、対称構造に二倍に展開されているわけではありません。
一部分は、対称構造があるかもしれませんが、基本的には120年という数字
を用いた構造物です。わたくしのHP「倉西先生のご学問所」(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon)の
「日本書紀紀年法入門」にて、120年が用いられたプラス・マイナス120年構想、多列・並列構造について
概略説明いたしております。ぜひ、ご覧になってみてください。
壬申紀以前の紀年も十分に信頼することができます。
698 :
◆16/YXRFBRM :2007/07/27(金) 11:47:04
120年云々の発見にこだわりを持っているのは分からんでもないけど
それに固執するのは太国が倍暦にこだわるのに似たものだと思うんだよ
>>696に付け足せば『120年云々』の成否も含めて信頼性が無いんですよ
もともと、倉西さんに惹かれたのは120年云々の論説ではなくて
酢香手姫や糠手姫と推古などと同一人物として考えていたところだったんですが…
これを証明するのも無理と判断したので俺は記紀の考察を諦めたわけなんですよ
「記紀は複雑な多重構造体だ」結論から正確な歴史は見出せないと思うんですが
どうですか?
699 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/27(金) 14:57:59
素人な私から見れば、「複雑な多重構造」であることに合点がいきません。
なぜ複雑にする必要があるのでしょう?
天皇家の歴史に重みを持たせるのであれば、
複雑に組合せるのではなく歴史を捏造すればすむ話です。
それなのに複雑に組み合わせたのであれば、
歴史を操作して権威を持たせる意図は薄かったのだろうと推察できます。
つまり、天皇家の祖と伝えられる複数の伝承を
それぞれの干支をもとに順番に並べたのが現存の日本書紀で、
もしかしたら真相は倉西さんの説かれる「並列した歴史(並立した政権)」
なのかも知れませんね。
700 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/27(金) 19:25:35
閃きです
日本書紀では欽明13年(書紀552壬申)が所謂仏教公伝になっていますが、
『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』では戊午年になっていて、
これが538年相当なので、14年差になってる訳なんですが、
これは、この記事が年代列(Y=X+14)に従って記述されている筈です。
日本書紀には敏達14年(書紀585年)に仏像/仏殿焼いて難波の堀江に棄てさせる記事がありますが
これに対応する記事は
『上宮聖徳法王帝説』と『元興寺縁起』では庚寅年、つまり570年で、15年差になって居ます
ここで上の14年差と15年差の二つの年代列を想定しても良いのですが。
『元興寺縁起』には(蘇我)稻目の薨記事が、已丑年/569年になっている訳ですが
日本書紀ではこれに対応する記事が欽明27年(庚寅年/書紀570)にあり
1年の差があります。
ここで「例えば」このように考える事が出来ます
「そもそも14年差の年代列を使用していたが、現行書紀の編纂時に中間資料を作成した段階で、
この年代の同期関係がベースのタイムラインと1年のズレが発生している。」
701 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/27(金) 19:27:49
つまり、
「仏教公伝」と「難波堀江」記事はは年代列(Y=X+14)に従って、
欽明九年(書紀552壬申)と敏達13年(書紀584年/甲辰)に記述される筈だったが
「難波堀江」記事は「蘇我稻目」記事と同一の中間資料に載せられた為に
同じ1年分が同一方向へズレている。
このような事が一例として考えられます。
これらのケースでは書紀の側が上記文献より1年遅くなっています。
これとは逆のケースがあります。
推古27年(書紀604/甲子)に聖徳太子の所謂「憲法十七條」の記事がありますが、
これに対応する記事が『上宮聖徳法王帝説』には乙丑年/604にあります。
推古29年(書紀621/辛巳)には太子の薨記事がありますが、
これも『上宮聖徳法王帝説』では壬午年/605年説を取っていますよね。
つまり、これらのケースでは書紀の側が上記文献より1年速くなっています。
(山背大兄王滅記事に関しては643年/癸卯年で同期しています。)
702 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/27(金) 19:29:08
>>701 【訂正】
×欽明九年(書紀552壬申)と敏達13年(書紀584年/甲辰)に記述される筈だったが
○欽明13年(書紀552壬申)と敏達13年(書紀584年/甲辰)に記述される筈だったが
703 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/27(金) 19:30:40
そして『万葉集』に朱鳥四年庚寅〜/朱鳥六年壬辰〜/朱鳥七年癸巳〜八年甲午〜/
と在りますが、この編年の想定上の朱鳥元年は書紀の持統元年と同じ687年で
『書紀』の朱鳥元年は天武最終年の686年とは1年のズレがあって、
ここも『書紀』が『万葉集』に対して1年速くなって居ます。
但し、此処での万葉集の中での朱鳥×年に対する言及が、「日本紀曰〜」の形式なので
現行日本書紀とは違う『日本紀』の段階では、
このズレが皆無で持統朝では朱鳥が使われていたと見て良いと思います。
これが研究家さんが想定する、『養老日本紀』での姿かもしれないですね。
研究家さん天武の殯に関する論考の中で、『万葉集』側に間違いがあったとする先行研究に
対して反対の立場を取っていますが、
私も先述の±1年ズレの件から考えても現行日本書紀の側が実年代と同期ズレを起こしていると考えます。
(このズレも広い意味で云うなら年代列の解釈に含めて良いと思います
年代列Y=X-1、年代列Y=X+1)
天武の本来の崩年は書紀での天武末年での朱鳥元年686年ではなく
(『万葉集』での朱鳥元年687年と同じ)
持統元年687年でないかとする研究家さんの見解は妥当なものであると考えられます。
(書紀の方が1年速い箇所がある。)
704 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/27(金) 19:32:13
そして、もう一つ、年代列(Y=X+14)を肯定する箇所を見つけました。
通説では『隋書』には開皇二十年(600年)の遣使記事が存在し、
『日本書紀』推古八年(書紀600年)に対応記事が存在しないと云う事で、様々な問題になっていましたが、
実年代のAD600年は、この年代列(Y=X+14)上では書紀614年、つまり推古22年に相当します。
『書紀』の推古22年記事にはこう在ります。
>六月丁卯朔己卯。遣犬上君御田鍬。矢田部造〈闕名。〉於大唐。
翌、推古23年にはこう在ります。
>廿三年秋九月犬上君御田鍬。矢田部造至自大唐。百濟使則從犬上君而來朝
つまり犬上君御田鍬の遣使記事こそが本来の600年遣使だった筈です。
そして614年での記事は、『日本書紀』には在りますが、『隋書』に存在しません。
本来、存在しない筈ですから。
丁度600年の時の関係と『書紀』と『隋書』の関係と逆転していますよね。
推古八年に本来記録されるべき記事が「仏教公伝」等と同じ年代列に乗って、
+14された事によって書紀614年の記録位置に記述されて居ると解釈すれば、
両年代の齟齬は解消され、実年代上で完全に同期する訳です。
この年代列の存在とそれに対応する記事の存在は最早決定的でしょう。
705 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/27(金) 22:42:51
ここで言うなら14年差の年代列なので、強いて言うなら7の倍数である事ですね。共通性は。
(21の約数に意味があるかもしれないと云う様な事は以前に書いたと思いますが。)
こう云う訳なので、讖緯暦運説で二七相乗、二十一とはないでしょうし(知りませんけど)、
讖緯暦運説で説明し出すと、他の場合でもそれが通用するかが問われるので
強調すべきではないでしょう。
それから、こう云う具合に雄略列より繰り下がった側への年代列が肯定化されると、
もう少し年代列を柔軟に解釈出来そうですね。
雄略8年(書紀464)記事なんかも年代列(Y=X+21)として解釈する事が合法なら、
宋書なんかの443年の倭王済遣使記事に対応すると見れそうですけど、
ここは他の記事との一致性の問題もあるので、決定的とは言えないですから、
もっと良い方法があるかもしれません。
後は継体崩年に関して引用された或本が3年ズレて居る件なんですが、
三国史記での威徳王即位(554)と、書紀での即位記事の欽明18年(書紀557)が3年ズレているんで
百済側史料の立場で見るなら、ここを「一応」年代列(Y=X+3)としても良いと思いますが、
このケースの場合は特殊で、書紀の継体崩年は既に修正済みですし、
威徳王に関しては、或本での編年に従ったまま記述している事になります。
修正に一貫性がありません。そうすると当初は或本ベースで一旦書かれて、
その後のステップで修正が加わったと云う事が考えられますよね。
先述の±1年ズレもそうですが、ベースがどちら側で書かれていて、
事後的処理がどちら側なのかと云う視点が必要なんだと思います。
706 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/27(金) 23:55:08
犬上君御田鍬は、舒明2年(630)に犬上君三田耜として第一回遣唐使でも行ってますから
>>704での論考が正しければ第一回遣隋使もそうですから、
二度とも第一回遣使の役目と云う事になりますよね。
>>705 【訂正】
×こう云う訳なので、讖緯暦運説で二七相乗、二十一とはないでしょうし(知りませんけど)、
○こう云う訳なので、讖緯暦運説で二七相乗、十四とはないでしょうし(知りませんけど)、
>>696 >>698 16さん。±120年構想は年代列移動による数学上の見かけの問題で
論拠にならないので、無視すべき問題とみて間違いないと思いますが、
多列構造による年代列構想は存在すると見て良さそうですよ。
新規の年代列や考え方を見つけたので、
まだ読んでなかったら私の投稿をちょっと読んで見て下さい。
>>553前後、
>>580前後、
>>622前後です
書紀以外の文献から確認出来るので、間違いないと思います。
707 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 00:23:39
>>701 【訂正です】
これとは逆のケースがあります。
推古27年(書紀604/甲子)に聖徳太子の所謂「憲法十七條」の記事がありますが、
【誤】これに対応する記事が『上宮聖徳法王帝説』には乙丑年/604にあります。
【正】これに対応する記事が『上宮聖徳法王帝説』には乙丑年/605にあります。
推古29年(書紀621/辛巳)には太子の薨記事がありますが、
【誤】これも『上宮聖徳法王帝説』では壬午年/605年説を取っていますよね。
【正】これも『上宮聖徳法王帝説』では壬午年/622年説を取っていますよね。
つまり、これらのケースでは書紀の側が上記文献より1年速くなっています。
708 :
◆16/YXRFBRM :2007/07/28(土) 08:44:18
>>699 失礼、『複雑な』ではなく『複雑系』と言いたかったわけなんです
記紀は『複雑系多重構造体』
ある年代の事象は対称・相対・相似・年差など利用して別の年代に反映されていると考えられます。
他にも年代差の例では489年から38年後が527年で527年から43年後が570年(欽明末年?)とか
敏達の在位14年は天武の在位期間を反映させているとか…
またこれは記紀のオカルト的年代操作の問題であって、
歴史の創作・捏造・修飾・脚色の類の問題とは分けて考えるべきでしょう。
709 :
◆16/YXRFBRM :2007/07/28(土) 08:49:09
>>706 年代列は相似の副産物ではないかと考えてます
>>699 花さん
わたくしは、「天皇」号や「皇太子」号などの定義とその成立過程の問題として、
神祇祭祀王と執政王という2つの流れがあると考えております。
魏志倭人伝にも、宮室に籠って、神祇を専らとする卑弥呼と
執政者としての「男弟」という人物が見られます。
2つの地位があったのならば、日本書紀の編纂期において、過去の神祇祭司王と執政王を
どのようにして「天皇」や「皇太子」として位置づけていったのか、という問題があったことになります。
このような問題があったことから、日本書紀紀年法は複雑な構造を持つようになったのではないか、
と、わたくしは、推論いたしております。
>>707〜
>>707 征東大将軍さん
『万葉集』の「朱鳥」と日本書紀の「朱鳥」の相違については、
征東大将軍さんは、拙著『日本書紀の真実』の70〜71ページについて、
おっしゃられているのではないかと思います。
1年ズレる原因については、友田吉之助氏の干支紀年法と連動しながらも1年ズレる暦法の
存在や、持統天皇の称制問題などを軸に、解明を進めたいと考えております。
また、征東大将軍さんのお説は、21と14は7の倍数ですので、
Y=X-7aというような式であらわされるものなのでしょうか。
713 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 11:29:45
征東大将軍氏の論からは、「倍暦」という言葉が全然出てきませんね。
どうやら、征東大将軍氏は、「倍暦」に関するスタンスを明確にすることを拒否し、
「記紀の中に倍暦は存在したとも言えるし、存在しないとも言える」といった、
曖昧な前提のまま、年代列の計算を試みてるようですね。
征東大将軍氏は、↓のスレの932番で、
「謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!7」
>但し、自説の具体的な内容に付いて批判を受けた場合は、それ相応の対応をすべきです。
↑のような発言をされてます。
当方は、「倍暦を肯定する立場で、持論に倍暦計算をしていないなら、その論は破綻している」と指摘しています。
彼にとって、相応の対応とは、「スルーする」ということであり、
持論に不都合な批判を「スルーする」という行動は、彼の中で正当化されているものと判断します。
「倍暦」に対して明確なスタンスを取ること自体が、彼の論のウィークポイントであることは間違い無いでしょう。
征東大将軍氏が、「倍暦」に対して、何故、明確なスタンスを取ることができないのか?
論考してみるのも面白いでしょう。
714 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 11:50:55
では、先に遡って
多人数での議論する事を否定してる訳じゃないですよ。
ある論説を批判する時に、そこで第三者の説を引用して行うなら、
それに派生する責任は自ら負わなければならないと云う事です。
「誰々さんが、こう言っていますので貴方の説は誤りでしょう。
反論や質問は、誰々さんにお願いします。私は判りません」
と云う事では済まないでしょう。
第三者の「説」を引用して自分の責任で話す事と、
第三者の「人」自体に話を投げる事は全く別の事です。
討論で相手の説を批判する時は自己完結して下さい。そう云う意味での一対一ですよ。
どうにも貴方がオカシナ事を言っていると思うので、この際ですから。
>しかし、当方は、仮想敵を論破することが目的でなく、
>それぞれの論の整合性を検証することが目的です。
少なくとも前スレでの貴方は明らかに仮想敵を論破する事を目的にしていたでしょう?
その点は認めないんですか?
715 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 11:53:16
>>598では否定していますが、あからさまな嘘がありますよね。
貴方は仮想敵への論破の為に研究家さんを利用しようと指図していたじゃないですか。
「科学者として」云々じゃないですよね、
研究家さんから言質取って、それを「根拠」にしたかっただけですよね。
断言してくれたら自分にとっての証拠になると、
その方が仮想的を全否定する上で話が簡単だからと、こう云う訳でしょう。
この点は認めないんですか?
貴方は前スレの醜態を誤魔化して取り繕う前に、やるべき事があるんじゃないですか?
他人の研究テーマを冷かして調子に乗った投稿をあちらこちらでして廻るのは辞めたら如何なんですか
>ただ、自説と反する相手を根拠なく攻撃する輩と、一緒にしないように認識していただきたく存じます。
あの彼は、自説に基づいて居ますし、根拠なく批判していた訳じゃないでしょう。
彼が書紀の話を離れて以降、番号固定を名乗ってからは特に問題ないと思いますよ。
ここでの貴方と違って
716 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 11:57:34
征東大将軍氏が、「倍暦」に対して、何故、明確なスタンスを取ることができないのか?
仮説1
もともと、彼は「倍暦」に対して、何の思い入れも無い。
そのときとのときの議論で、都合が良ければ「倍暦」を導入し、都合が悪ければ「倍暦」を導入しない。
議論ごとに、争点を設定して討論すればよい。
別の議論の場と、矛盾した論を立てても、構わないと考えているし、そうした議論のあり方を肯定している。
コウモリ男爵的論者として、いずれは、彼の論は誰からも無視されることになるだろう。
仮説2
彼は、持論で倍暦を積極的に組み込むつもりはないが、倍暦というカードを捨てるのももったいないので、
「記紀の中に倍暦は存在したとも言えるし、存在しないとも言える」といった、 曖昧な立場を保持したいと思っている。
倍暦を肯定してるわけでは無いので、当方からの指摘は「的外れ」として無視できる。
曖昧な態度をとっていれば、他の倍暦肯定論者からの支持を得ることが期待でき、研究家氏を一方的に追及できる。
717 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 11:58:43
征東大将軍氏が、「倍暦」に対して、何故、明確なスタンスを取ることができないのか?
仮説3
倍暦を否定したい考えだが、前スレで、倍暦否定の当方を批判した手前、バツが悪くて、いまさら倍暦を否定できない。
持論では倍暦を組み込まずに年代列を綺麗に証明できそうなので、いずれかのタイミングで倍暦否定を表明したいと思っているが、
今は、そのタイミングではないと考えている。その意味は不明。仮説2に準じた理由からか。
仮説4
倍暦を肯定したい考えだが、倍暦に言及すると持論が崩壊することを自覚している。
なんとか、倍暦と持論の整合性を持たせようと、年代列計算に四苦八苦しているところ。
今は、倍暦問題をスルーして時間稼ぎをし、研究家氏の論を批判することに専念する作戦。
仮説5
倍暦の存在を証明する確固たる自信がある。
いまは、研究家氏をもてあそんでいるところで、当方に「ゲーム」を邪魔されたくないと思っている。
研究家氏のとの議論のクライマックスで、倍暦を証明して見せて、研究家氏の論を跡形も無く粉砕する予定でいる。
718 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 12:04:23
>当方は、「倍暦」の存在を否定できる根拠をすべて失いましたので、
>太国氏への反論は、休止しております。
>これは、良い悪いではなく、論理的帰結の一つにすぎません。
論拠なく、自説と反する相手を根拠なく攻撃する輩は貴方なんですよ
認めるんですか?認めないんですか?
書紀には、当初の編年の尺からn倍になるように設計されている箇所はありますよ
それを貴方が倍歴と呼ぶかは別にしてね。
貴方が呼ぶような意味での定数も他にもありますし。
但、貴方は、禄に自律的な研究もしない癖に、
仮想的を論破する為の情報だけを集めようと画策している訳じゃないですか。
人の説を解りもしないで勝手に纏め様として、自分が話の中心に入ってスレを廻そうとする
貴方は、卑弥呼スレでの私の投稿によって、このスレに再び興味を持ち
飴に集るアリの様に情報を欲しているだけでしょう
だからこそ、「情報交換」だの「論評人」だの言い出すんですよ
719 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 12:05:26
>少なくとも前スレでの貴方は明らかに仮想敵を論破する事を目的にしていたでしょう?
>その点は認めないんですか?
SOY氏のことですか?
当方は、彼を論破していません。いいがかりはよしてください。
彼は、自分から「投了」したのです。
なお、当方が仮想敵とする相手は「議論の場でウソをつく人」です。
例えば、倍暦の存在を認めるような態度をしつつ、持論に倍暦計算をしない人、などです。
もしも、貴方がウソつきと判明したなら、当方は貴方を仮想敵として標的にします。
720 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 12:07:08
「方々で馬鹿にして廻っていた「アマチュア」が重要な情報を握っているようだ
奴は何故情報をこっちへ寄越さないんだ」
貴方の考えはこう云うですよ
721 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 12:07:45
722 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 12:08:13
>>718 つまり、「倍暦」を認めてるわけですね?
それなら、そうと、最初からスタンスを明確にすればいいことではないですか?
持論の中で、倍暦計算の数式をぜひ、明らかにしてもらいたいものです。
723 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 12:14:51
結局太国さんの研究成果だって平気でパクろうとしている訳でしょう
貴方は、この期に及んでノコノコやって来て議論の中心に入って話を振って廻る為に、
自分自身は初めから何時でも中立的な立場だったかのように振る舞いたいだけなんですよ
本性は前スレから全く変わっていない癖に
貴方は全然反省してない訳でしょう?
自分が悪かったとは思わないんですか?
724 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 12:21:38
>>723 >結局太国さんの研究成果だって平気でパクろうとしている訳でしょう
当方が太国氏の研究成果を横取りする?
意味不明なことをおっしゃいますな。
当方が太国氏の研究成果を横取りして、自分で倍暦論を立てようと考えているとでも疑っているのですか?
それは、大変なおもいあがりですね。
しかし、今のやりとりを見て、貴方が真に倍暦を信じてることは理解できましたよ。
貴方はウソつきではないでしょう。
あとは、倍暦と年代列の整合性を取れれば、貴方の論は完成するでしょう。
当方が言えることは、ここまでです。
725 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 12:24:00
貴方は前スレでの行いや、発言の程度からして
自分が謝罪して廻って、情報を一方的に提供して貰う側に過ぎない立場なのに
白々しい「情報交換」だのと下心丸見え事を言い出すし
>貴方も自説を他人に曲解されたくは無いはずですよね?
だのと、さも、自分は情報を欲していないが、貴方は解って欲しい筈ですから
聞いてあげますよ、そっちの方が貴方にとっても良いでしょう?
とでも言わんばかりな事を言っている訳じゃないですか
誰が「ハイそうですか」と応じてやるんですか?貴方の為に
726 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 12:29:25
>>725 たいへんよろしい。
当方を批判する人もいなければ、フェアではありませんから。
貴方からの指摘も、甘んじて受けますよ。
後は、他人が「客観視」してくれるでしょう。
平行線となる議論には、これ以上参加しません。
727 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 12:37:52
貴方の書紀に対する立場もハッキリしませんよね
太国さんや、私の事を言っていますが
例えば、太国さんや、私が神武が1世紀であると考えていると
そして貴方もその立場だと、一致しているので説得力があると
だいたい、太国さんは紀元前1世紀だったんじゃないですか?
何時から変わったんですか?
取り敢えずそう云う発言をしているレスを持ってきて下さい。私は知りませんから
そして、貴方は、如何して神武を1世紀であると考えるんですか?
おかしいですよね。
神武を一世紀に持ってくる為のロジックは限られている筈ですよ
如何してこう云う結論が導けるんでしょうか?
それとも私が知っている太国さん結論と同じで紀元前1世紀の誤りですか?
728 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 12:52:34
>貴方の書紀に対する立場もハッキリしませんよね
基本的に、記紀編纂時の元資料が曖昧で、
年代については編纂ミスが多かったと考えます。
元資料ごとの年代列の存在は想定されますが。
>神武を一世紀に持ってくる為のロジックは限られている筈ですよ
>如何してこう云う結論が導けるんでしょうか?
崇神紀には、箸墓の記述があるので、まず、仮定として崇神時代を3世紀と「想定」できます。
そこから、「系図に信頼性があると仮定」した上で、神武に相当する人物がいたとすれば1世紀と憶測しました。
太国氏が紀元前だというなら、当方の記憶違いです。謹んで訂正すれば済む話です。
いずれにしても、細かい話に質疑応答してスレ消費するつもりはありませんので。
今は、貴方が、持論を証明すべきときですよ?
お二方とも落ち着いて下さい。
議論において、その論旨に強く異義を述べるのは問題ありませんが
その論者を個人攻撃するのはスレの主旨にそぐいません。
我々は議論するためにこのスレに集っているのであり、
喧嘩するために集っているのではありません。
意見が異なるとしても、「和して同ぜず」でいきましょう。
730 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 15:22:32
彼は仮想敵を論破する為に情報収集しているだけなんですよ
731 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 15:25:37
226 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/04/08(日) 15:19:50
>>208 >わたくしは、二倍暦を否定する仕事など選んでおりません。
>>165さんは、”学問の自由”という言葉の
>意義をもっとよく勉強なさるべきであると思います。
申し訳ないですが、奇麗ごとですね。
貴方のいう「学問の自由」が、
現状のように、邪馬台国畿内説・九州説・九州王朝説などを乱立させ、
議論の妨げになっているではありませんか?
確かに、誰がどんな説を立てようと自由です。
しかし、貴方もご存知のように、学会では邪馬台国は畿内で決着しており、
次はどのような過程で王権が生まれたかの議論に移行しています。
アマチュアだけが、「学問の自由」で九州説に固執しているばかりに、
こうした掲示板で多くの意見を募ろうとしたときに、
畿内説VS九州説という前段階の呪縛から逃れられず、
結果的に、貴方の紀年法を検証する作業まで至らないでいるではありませんか?
これで、5スレ目だと思いますが、まだわかりませんか?
732 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/28(土) 15:43:20
参考のため、学会における「畿内で決着」との見解の要旨を教えていただけませんか?
「卑弥呼の正体」を探る事は無意味として
学会ではなされていないとは聞いております。
ですが、当時の畿内政権が魏に朝貢した政権と同一かどうかについて
学会ではどのように整合させているのでしょうか?
733 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 16:07:07
方々のスレで論破目的で九州論者を吊るし挙げて廻っていた人で二言目には、
考古学者の九割は〜
学会では〜
邪馬台国は畿内という事で決着している、
と締める人が最近まで居たんですが、
彼は基本的に自分では論拠は示しません。
そもそもこの論説自体が、そのまま他人のパクり/受け売りだからです
どうも自分ではその説の正否を検証する能力を超えているのに、
九州説を否定する為に、都合の良い引用をチョコチョコっとしては
九州説論者を見つけては斬り掛かって廻っていたん様なんですね
だから何処かで聞いた事のあるセリフの寄せ集めで構成されています
今のその人のレベルがどの程度に高まって居るか解りませんが
私が
>>731で挙げた前スレでの、彼(論評人)の投稿は、
その人と同レベルの内容です。仮想敵に斬り掛かる同じような人が沢山居るようですね
>>731自体は論評人さんの投稿内容なので、
学会における「畿内で決着」に付いては彼に聞いて下さい。さぞ考古学には詳しいのでしょう。
彼の説明に拠る「決着」していた事と、「次はどのような過程で」の間の飛躍がどうなっているのかが楽しみですね
734 :
◆16/YXRFBRM :2007/07/28(土) 17:36:24
向上心ウゼー
735 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 19:37:40
まずしい者だけが痛みをうけつづけるような改革は
736 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 19:50:59
>>732 >>731で引用されたレスは、当方のカキコで間違いありませんよ。
当方も、そのレスを書いた当時は、「畿内で決着」で間違いないと考えていました。
しかし、自分なりの思考で論理をつきつめていくと、必ずしもそうはならないと、
後から気がつきました。
そのことを教えてくれたのは(また利用する形になりますが)研究家さんの、
「古代に倍暦があった可能性を完全に否定しきれない」という見解です。
「早い話が、文献と整合させようとすると、邪馬台国が九州にあってもおかしくない」と、持論を修正したわけです。
同時に、一つのテーマを討論で決着させようとする行為が生産性の無いものと悟りました。
以後、邪馬台国は畿内で決着したなどという発言は、当方はしてません。他の名無しでしょう。
>>733 >彼の説明に拠る「決着」していた事と、「次はどのような過程で」の間の飛躍がどうなっているのかが楽しみですね
持論にしがみつくことしか出来ない姿勢は愚かです。間違いがあれば、すぐに修正すべきです。
貴方の論であっても、一言「倍暦が存在しないことを前提とする」と宣言するだけで成立するのに、
倍暦を認めるという持論にしがみついてるばかりに、わざわざ自己矛盾に陥り破綻してるではないですか?
737 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 19:59:56
>征東大将軍氏
個人攻撃に論をすりかえても、貴方の論が現状で破綻してる事実は変わりません。
倍暦計算を持論に組み込むか、
倍暦が存在しないと持論を修正して、今の論を進めるか、
貴方の論が生き残る道は2つしかありません。どちらか選んで進んでください。
738 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 20:08:32
>征東大将軍氏
貴方の言質も、一応確保しておきますよ。
「謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!7」
>490 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/01(日) 02:06:54
>卑弥呼の墓=箸墓説を言った事はあっても
>邪馬台国九州説宣言なんてしてないと思うんですけど><
739 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 22:29:06
貴方が言う倍歴の概念が何を想い描いているか解りませんが
書紀の特定箇所がn倍の尺で設計されているのは客観的事実ですからこれを排除する必要はありません
書紀の特定箇所が所謂年代列構想によって設計されているのは客観的事実ですからこれも排除する必要はありません
書紀がある特定の法一つだけで設計されていると云う予断に固執しているのは貴方です
21年の周期の件にしても、他の周期の存在を予見せずに、
たった今、自分が他人から仕入れたばかりの情報だけが、
全年代全区間を支配している唯一の法だと決めて掛かって、
明らかに見当違いな解釈をしてしまったのが貴方ですよ
結局は、どの法がどの年代のどの記述を支配しているかを全年代全区間に措いて検証しなければならないのに
貴方はその作業にする前に、自分が他人から手に入れたばかりの目の前の情報だけで
証拠より論を優先させたくて、よく検証しないまま結論を下しただけでしょう。
全てを検証し尽くせば済む話じゃないですか。
でも貴方はそう云う地道な作業は否定するんですよね。「難しい」だのと言って。
証拠集めと云う最も重要な作業より、他人が集めた限定的な証拠を元に、
全体を見通さずに論を展開したがるから、尚更情報を欲しがるんでしょう。
論点が明らかになっただのと開き直ったり、指揮って廻ろうとするのも止めたら如何なんですか
ミスリードですから
740 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/28(土) 22:32:09
それと論評人さんは摩り替えてますよね。
貴方が畿内説で決着だと思っていたかどうかじゃなく、
>学会における「畿内で決着」との見解の要旨を教えていただけませんか?
これに付いて答えたらどうなんですか?
まさか、自分が畿内説だと云う立場だったからと云う理由で、
方々のスレで訳も解らず「学会では畿内で決着してる」云々と言い触らして
他人を罵倒していた居た訳じゃないですよね?
さぁ、如何云う事なのか説明して下さいよ
他にも考古学者の九割は〜云々等と言い触らして廻っていたのも貴方でしょう
所詮アマチュアは〜云々等と冷かして廻っていたのも貴方でしょう
741 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/28(土) 22:46:34
>>740 貴方自身は、いったい畿内説なのか九州説なのか、どちらの可能性も考慮してるのか?
さ っ ぱ り わ か り ま せ ん 。
他人から何か指摘されるごとに論点を摩り替えて逃げてるだけではないんですかね?
>>学会における「畿内で決着」との見解の要旨を教えていただけませんか?
>これに付いて答えたらどうなんですか?
いわゆる、「考古学者」と肩書きを持つ人の書いた本、シンポジウム本では、
邪馬台国が議題になれば、近畿という前提で、畿内王権の成り立ちについて論じられています。
それ以上に、何か論拠が必要なのでしょうか?
悪あがきにしか見えませんね。みっともない。
>貴方が言う倍歴の概念が何を想い描いているか解りませんが
もちろん、太国氏が論じてる倍暦のことです。
太国氏の論とは違うなら、「違う」と明言していただきたい。
そもそも、年代列計算のためには、前提として倍暦の存在の有無を定義しなければいけないはず。
倍暦の有無を定義しなくても良いととおっしゃいますか?
貴方が、持論を、倍暦と整合性を持って説明できるなら、貴方の論は成立するわけです。
持論に自信があるなら、持論を完成させればよろしいだけです。
742 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/07/29(日) 00:49:05
>いわゆる、「考古学者」と肩書きを持つ人の書いた本、シンポジウム本では、
>邪馬台国が議題になれば、近畿という前提で、畿内王権の成り立ちについて論じられています。
この、「考古学者」の先生方が、なぜ畿内を前提としているのか。
その論拠を伺いたいのですが。
※私は畿内でも九州でもどちらも否定はしません。
ただ理由を知りたいだけです。
743 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/29(日) 01:47:30
>>742 >この、「考古学者」の先生方が、なぜ畿内を前提としているのか。
>その論拠を伺いたいのですが。
「考古学者」の先生方が、なぜ畿内を前提としているのか?
当方は、当事者でないので、真の意味はわかりませんが、考古学の本に書いてあることを要約するなら、
3世紀終わりまでには北九州の衰退が見られ、纏向の開発が始まるということなので、
纏向に生まれた王権が、邪馬台国であろうと推論していたと記憶しています。
当方も、数ヶ月前までは、この考え方を支持していました。
考古学者の論説を知りたいなら、当方は、本に書いてあることをそのまま引用することしか出来ません。
ご自分で、本をお読みになった方が、確かな論を知ることができるでしょう。
いずれにしても、現時点の当方は「邪馬台国が九州にあった可能性を否定しない」と、持論を修正しています。
「邪馬台国が九州には無かった」ということを、論理的に証明できないことを悟ったからです。
九州の邪馬台国と、畿内王権が並立で存在していても、考古学上も矛盾は無いと考えています。
論理的に断定できないことは、断定して論を立てるべきでないというのが、当方の基本スタンスです。
744 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/29(日) 10:02:43
論評人さんは卑弥呼スレの彼と同じセリフを言ってしまうんですね
745 :
唐松山:2007/07/29(日) 10:24:13
成務天皇からの 閏の廻し
神武から同じだと 閏年は、2,5,8,11,13,16,19年目ですが
3,5,8,11,13,16,19年目 の方が良く合う
神武からの廻しで 丸8年の空白と同じに成ります。
仁徳、履仲の空白は、私の間違い ごめんなさい。
まず 以前 発表した 暦日の式
暦日=INT(INT((G2*365.25+100)/29.5306+0.3)*29.5306)+8305 G2=皇暦 神武元年1月朔=8777日
狂いは、1日か30日 皇暦(年)を打ち込んでください。
成務天皇元年より皇極天皇元年まで 511年186634日 増しは、152年55517日 と見ます
皇極天皇元年1月朔=西暦623年とすると (合わせ場所 舒明天皇9年三月,乙酉朔丙戌,日蝕之=西暦618年4月10日と見ます。)
垂仁天皇元年=623−(511−152)=西暦264年 に成ります
次
景行の増し 38年13880日 そうすると 治世22年
垂仁の増し 76年27759日 同じく 治世23年
崇神の増し 43年15710日 同じく 治世25年 (崇神と開化で増し95年 開化治世8年)
これに西暦を合わせる ただし 先の8年を“実”とみて成務に加える。
成務=西暦256年より
景行=西暦234年より
垂仁=西暦211年より
崇神=西暦186年より
以上のように成りました。
なお 神武元年は、西暦34年と見ています。
746 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/29(日) 10:41:53
征東大将軍氏が、倍暦に関する明言を避けてるために、スレが無駄に消費されています。
当方は、征東大将軍氏の論を正確には知りえませんが、これまでの発言から推測するならば↓のような論でしょう。
>>739 >書紀の特定箇所がn倍の尺で設計されているのは客観的事実ですからこれを排除する必要はありません
>書紀の特定箇所が所謂年代列構想によって設計されているのは客観的事実ですからこれも排除する必要はありません
この2行の論旨を読むかぎり、「太国氏の倍暦論とは違う」というように読み取れます。
当方が太国氏の倍暦の傍証として引用した
>>603 >>677の「記事上の事実」については、
研究家氏の見解と同じく、「倍暦の傍証とは考えない」として、
「自分の論は、太国氏の倍暦論とは違う」と明言されるなら、貴方の論は成立します。
太国氏の提示した「倍暦の傍証」は、「倍暦の傍証」とは無関係であり、
「自分の論は、太国氏の倍暦論とは違う」と、そういうお考えだと認識して良いわけですね?
747 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/29(日) 10:53:43
私の立場は
「過去の倍歴の可能性を否定できないが、書紀には倍歴は使われていない」でもなく
「過去に倍歴は使われていて、書紀にも反映されている」でもなく
「過去の倍歴の存在に無関係に、書紀には通常編年のn倍になるように設計されている箇所がある」です
この計算上の崇神十年記事が西暦247年であると「断定」出来ます
ですから、日本書紀の設計に立てば、
倭迹迹日百襲姫命の墓=箸墓=卑弥呼の墓
彼等はこう云う趣旨で「設計」している筈ですよ。史実性に関わらず
748 :
唐松山:2007/07/29(日) 11:11:55
訂正
× 垂仁天皇元年=623−(511−152)=西暦264年 に成ります
○ 成務天皇元年=623−(511−152)=西暦264年 に成ります
749 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/29(日) 11:32:56
>>747 つまり、貴方の論の中では
>>603 >>677は「倍暦の傍証」とは見ずに、
「自分の論は、太国氏の倍暦論とは違う」と、そういうお考えだと認識して良いわけですね?
否定するレスが無ければ、肯定したものと受け止めます。
750 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/29(日) 12:14:55
えぇ、そうですよ、今の考古学の成果で論理的に証明なんて出来ません。
だから考古学は畿内で「決着」だの「断定」だのなんて出来ないんですよ。
決定的証拠が発掘されて居る訳じゃありませんから。
邪馬台国は文献上の存在ですから、
決定的証拠を発掘しない限り断定は何時までも出来ませんし、決着も出来ません。
ここに証拠を無視して、文献史学の側へ踏み越えようとする飛躍があります。
1、「畿内の編年と九州のそれとはタイムラグがないと見て良さそうだ」
2、「だから、邪馬台国は畿内で・・・」
2への言及は単なる予断に過ぎません。2を証明する証拠は別に必要です。
ここを論破目的で虎の威を借る連中が、
考古学者の9割は〜学会では〜と騒いで居ただけです。
討論で自分が有利になるように、掻い摘んだだけの情報を元に、
それが科学的事実だとして誇張や飛躍、嘘があるロジックを交えて
彼のような人が吹かして来たのですよ。
751 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/29(日) 12:20:34
そして、徐々に手法を改めてきました。洗練されて来たと言って良いと思います。
九州の編年と畿内の編年にタイムラグがない事を認めろと。
これを認めない、或いは『遡上派』と呼ぶような九州説論者を見つけては、
吊るし上げて居ますよね。
しかし、『遡上派』等と畿内説論者を呼ぶ彼等こそは、
九州が邪馬台国である条件を揃える為だけに、
畿内の編年が、九州の編年に近付く研究成果を考慮しません。
同じ条件で同じ土俵に上がられると、彼等は不利だと解っているのです。
同時期の九州は衰退期に入っています。でも、彼等はそこも認めません。
この辺りに彼等の弱さがあると思います。
ですから、論破目的で暴れている連中は、ここから攻める訳です。
「邪馬台国が九州にあった可能性を否定しない」と云う立場を維持した上で、
「九州の邪馬台国と、畿内王権が並立で存在していても、考古学上も矛盾は無いと考えています。」
こう云う事を言ったり
「邪馬台国と纏向は並行しないという論は成り立たないと考えます。」
こう云う事を言ったりして、
相手を追い詰めて行く訳ですよ。
752 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/29(日) 12:43:33
この言葉を聞いた九州論者が、もし否定的見解を示したら、
編年に付いて追求する訳ですよ。
ですからこれは撒餌です。相手が反論するなら、しめた物です。
でも、追求しようとしている「内容」は真っ当な事だと思いますよ。
ここを攻められて一方的不利に陥る九州説の論者は、
畿内の編年を、後ろへ後ろを遠ざけようとして居ますから、
何故違うと言えるのかを、九州説論者の口から引き出す事が出来れば
無理にこの前提を護ろうとしている彼等の側に無理があるんじゃないでしょうか
九州説は考古学なんかに頼っちゃいけないんですよ。
邪馬台国は文献上の存在ですから、
考古学に基づいているかのような前提に九州説が立って居るとするのには虚構があります。
九州説の肝は文献解釈であって、考古学ではありません。
753 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/29(日) 12:57:04
これとは違って、考古学的成果に依存して、記紀編年を修正する人間が居ます。
例えば、箸墓が考古学では3世紀だから、崇神は3世紀だ云々。
こう云う人達は、嘗ては崇神は4世紀だと言っていたかもしれません。
考古学の成果に最初に左右されて、記紀編年を語るのは手法として誤りです。
つまり、文献の史実性を前提にして、考古学的見解によって再解釈するのであれば、
書紀が編纂段階で編年の設計を偽っていた場合に、それが反映されない訳ですから。
考古学的見解に合わせて辻褄を合わせているだけでしょう。
考古学も文献史学も、どちらかがどちらかに依存する
従属的立場になってはいけないんですよ。
754 :
唐松山:2007/07/29(日) 13:44:37
征東大将軍さんへ
どんな計算をしたら 崇神十年記事が西暦247年であると「断定」 出来るんですか?
古代 畝傍山と三輪山が 入れ替わったように
倭迹迹日百襲姫命の墓=箸墓 も 石塚と 入れ替わっていませんか?
男王無し はどのような計算で成り立ちますか?
男王無し は事象であり計算できないなら 書紀と 重大な齟齬をきたす
異属多帰は 崇神が(多くは、東海)の人々を連れ帰る であり 崇神がひとさらいをしたのであり
少しも 困った所が無い 畿内静謐、天下泰平 なんですよ。
755 :
唐松山:2007/07/29(日) 13:59:26
食い付いて あげましたよ
私の現在の考え方は、
邪馬台国=卑弥呼の(頼りとする景行の)都する所 です。
756 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/29(日) 16:22:47
論評人さんは結局同じなんじゃないですか、
方々のスレで仮想敵の論破目的で廻っていた彼と
その文句、そのロジック、その知識レベルの発達過程も
貴方は自分の立場を誤魔化して居るんじゃないですか?
どちらかが、どちらかの単なる受け売りなんですか?
同じ人が二人以上居るんですか?
話を簡単にしましょうよ
貴方が彼と同一人物なのか、彼のデッドコピーなのか
>>749 太国さんの説に批判があれば自分の力でやったらどうですか?
757 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/29(日) 16:41:40
先ずはデッドコピーの論評家さんは
五王スレでの自分の投稿レス番号と
卑弥呼スレでの自分の投稿レス番号から全部列挙して下さいよ
名無しだったからと言ってあれは違うこれは違うと、卑怯な言い逃ればかりしないで下さいよ
纏向スレや邪馬台国スレもどうぞ
758 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/29(日) 17:20:43
自分から別人だと言い張った相手と同じセリフ次々に口走る論評家
759 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/29(日) 17:49:33
征東大将軍氏へ。
個人攻撃はよくないですね。当方は、SOY氏の論を問いただした本人に間違いありませんが、
「名無し」での発言がどれか?という件については、ここはそういう掲示板なので、
名無しのときは、名無しでいるし、コテハンを使うときはコテハンを使う、それだけです。
何か、意見があるなら、コテハンを使用中の当方に対して述べればよろしい。
760 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/29(日) 17:56:06
>>756 >太国さんの説に批判があれば自分の力でやったらどうですか?
ここから、もう曲解してますね。
当方は、最初から太国氏の倍暦論を否定できないと白旗を揚げたと宣言しているわけでしょ?
当方以外の誰かが、太国氏の倍暦論を否定したとしても、当方が否定したわけではありません。
それは、貴方が論じていたことです。
当方は、いまもって、論理的に、太国氏の倍暦論を否定することは出来ません。
征東大将軍氏も、太国氏の倍暦論を否定することができないはずです。
したがって、太国氏の論も、征東大将軍氏の論も、研究家氏の論も、当方の論も、どれが正しいとは、
まだ確定しておりません。
貴方の論は、太国氏の論とは違うようですが、
こうして、格論者の論旨や相違点が明確になった時点から、本当の意見交換が始まるのだと、
当方は言いたいわけです。
貴方が、倍暦に対するスタンスを明確にしないために、ここまで時間がかかってしまいました。
761 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/29(日) 18:05:11
さて、格論者の論旨や相違点が明確になったわけですから、
あらためて、当方の見解を述べてみたいと思います。
結論から言えば、太国氏の論も、征東大将軍氏の論も、研究家氏の論も、当方の論から、
一番、真実に近いと思われる整合性のある論を立てているのは、征東大将軍氏です。
これは、嫌味でもなんでもありません。曲解する必要はありません。
ある文献同士で、似た記事が、違う年代に挿入されていた場合、
そこに異なった「年代列」という概念を想定することは合理的だと思います。
征東大将軍氏は、「類似した記事」を抽出することから始めています。
これは、とても合理的な論の立て方です。
そして、記事の間の年代差に注目し、独立した年代列を想定したわけでしょう。
太国氏や、研究家氏の論は、「年代列ごとの記事」に整合性が取れているかどうか、不明瞭です。
また、当方の「編纂ミス」という論も、なかば思考停止に近いものがあるので、
何も論じていないことと同義と言われても反論できません。
したがって、当方の見る限りにおいて、現時点で最も客観的に優れている論は、
征東大将軍氏の論であると認められるというわけです。
これは、当方の論理的帰結です。
762 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/29(日) 18:14:55
征東大将軍氏も、冷静に持論を淡々と述べればいい話です。
意見の相違のある相手に敵対する必要はないでしょう。
持論に自信があれば、淡々と説明すれば良いだけです。
そもそも、
「名無しで攻撃を受けただけで、破綻するような論は、最初から破綻している」
と、言いたいですね。
763 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/29(日) 18:32:14
当方が前スレで、名無しで太国氏と議論したことは事実ですが、
それで、彼の論が揺らぎましたか?揺らぎませんね?
相手が「名無し」であるかどうかは、関係ありません。
持論が、きちんと確立していれば、どんな質問をされても対応できるはずです。
持論が揺らいだとき、相手が「名無し」だからという理由をつけるのは「責任転嫁」というものです。
764 :
唐松山:2007/07/29(日) 20:51:30
765 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/29(日) 21:05:21
えぇ、貴方が名無しであるか固定であるか関係ありません
貴方は貴方でしょう
自分は方々のスレで本当の個人攻撃をしているのに
自分が批判されたら逃げるんですか?
被害者面をしないで下さいよ
名無しの時と固定の時で言う事が変わるんですか?
如何して答えられないんですか?
貴方は自分の立場に嘘を付いているからでしょう
卑弥呼スレでの貴方の発言はどれなんですか?
如何して貴方が、SOYさんとの話に絡んで来るんですか?
あの番号固定も貴方ですか?
早く列挙して下さいよ
766 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/29(日) 21:18:18
当方が「謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!7」の682なのは自明だと思いますが、
それが何か?
もうひとつ、征東大将軍氏に指摘しておくべきことがあります。
>>751あたりから、何か語ろうとしていますが、
当方が仮想敵とみなす相手は、あくまでも議論の場で「ウソ」をつく人です。
故意に、議論をかく乱させるために、整合性の無い論理を展開する人などです。
SOY氏にしろ、征東大将軍氏にしろ、自分の立場を即時に明確にできなかったわけですから、
疑念をもたれるもは、仕方ないでしょう?
当方が否定している論は、「九州にあった邪馬台国が、畿内に東遷した」という論であり、
「九州に邪馬台国があった可能性」については、否定していません。(現在では)
「邪馬台国九州説」と「邪馬台国東遷説」は、まったく別問題です。
わざと、当方の論旨を無視してるように思えます。
また、当方の論を、「相手を論破するための巧妙な論」だと、解釈なさるのは自由ですが、
結果的に、「整合性の無い論は生き残れない」、という現実のみがあるだけです。
それにしても、スレ違いな話題で、当方に絡むことしか出来なくなったのですか?
当方が、どのスレの誰だなどと言うことは、紀年法とは関係の無いことです。
そもそも「名無し」の発言など、雑音と捉えても結構なことでしょう。
当方への罵倒で、スレを埋め立てる作戦ですか? それなら、今後は、レスしませんから。
>>766 >当方が仮想敵とみなす相手は、あくまでも議論の場で「ウソ」をつく人です。
>故意に、議論をかく乱させるために、整合性の無い論理を展開する人などです。
お前が言うな。
768 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/29(日) 21:57:09
論評人さんは言ってる事が可笑しいですね。
>>598では
>ただ、自説と反する相手を根拠なく攻撃する輩と、一緒にしないように認識していただきたく存じます。
つまり、
「五王スレの『彼のような方』=論評人(598)」
≠
「卑弥呼スレの『彼』(682)=一緒にされたくない自説と反する相手を根拠なく攻撃する輩」
こう云う構図なのに
>>766では
論評人(598)『彼のような方』=卑弥呼スレの『彼』682
さぁ、説明して貰いましょうか
>>751 >しかし、『遡上派』等と畿内説論者を呼ぶ彼等こそは、
>九州が邪馬台国である条件を揃える為だけに、
>畿内の編年が、九州の編年に近付く研究成果を考慮しません。
私は年代遡上には否定的ですが、ちゃんと考古学も見ていますよ。
逆に年代を遡上させるとする根拠で確実なものがありますか。
・・・このスレは荒らしたくはないので、他のスレで議論しましょう。
770 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/07/30(月) 20:29:32
>>712 上宮聖徳法王帝説での勝鬘経記事が戊午年(598)で
書紀側の対応記事が推古14年(書紀606)記事で8年差なんですが、
これも7年に他の箇所同様に事後的処理の+1年と見れば、
想定される年代列(Y=X+7)による記述と云う事になりますね。
と云う事でこの辺りの14年差の年代列も7年周期と云う様に見て良さそうですね。
書紀との±1年のズレの問題ですが、仮にこのまま
この勝鬘経記事での598が+1年ズレの下限で、605の憲法十七条が-1年の上限と云う事なら
この間に継ぎ目があるかも知れないですよね。それこそ601年の辛酉辺りとか
それから研究家さんのブログも一足先に見させて貰らっています、ハイ
771 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/31(火) 11:18:05
征東大将軍氏の論は、太国氏の倍暦論とは違うようですが、
太国氏の倍暦論が、征東大将軍氏の論と整合性を取りはじめたようです。
今後、太国氏によって、うまく倍暦計算が征東大将軍氏の論に組み込まれれば、
征東大将軍氏の論と、太国氏の倍暦論は、齟齬なく完成し、倍暦の存在も証明されるでしょう。
現時点で、研究家氏の論は客観的に不利と言えるでしょう。
倍暦の存在が証明されれば、研究家氏の論は破綻しますからね。
---------------
最後に、少し当方の感想を述べてみたいと思います。
考古学が、纏向を3世紀とし、年代遡上を既成事実化させてきた(?)と指摘されるように、
「真実か否かとは、無関係に」「倍暦の存在を既成事実化させることは可能」だと、当方は考えます。
倍暦が実際に存在しなくても、数式を工夫すれば、倍暦が存在したかのように見せかけることは可能だと推測します。
こうした疑念を晴らすためには、「倍暦計算の数式」をわかりやすく公表していただくことですが、
倍暦論者の中には、公表する方もいらっしゃるようですが、太国氏のように公表されない方もいます。
公表をお願いすると、「貴殿には理解できない!」「研究成果を盗むつもりだな?」と怒られたりするわけです。
だから、何だということではありません。
これは当方の感想ですし、当方は、論理的に倍暦の存在を否定できませんし、
研究家氏のプラスマイナス120年構想を支持したこともありませんので、議論から降りて傍観するしかありません。
おそらく、今後の展開として、この掲示板上では、倍暦の存在は既成事実化され、研究家氏の論は粉砕される、
という結果予想が論理的に導かれるということです。
当方の出番も終了したようですので、これを最後に退席しようかと思います。
772 :
論評人(598) ◆iHyWcPC65E :2007/07/31(火) 11:32:48
引用:「2倍念暦」の真実
915 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/31(火) 07:43:34
倉西氏は臥海の定説におんぶしてばかりいて、もしや定説に誤りがないかとの
用心をしなかったから大きく軌道をズラしてしまった。
應神即位が390年だというのは疑ってかかるべきだと想う? 拙者の説は376年
と倍暦計算で出たが
390 − 376 = 14年
の差がある。どうやら嶋王の時代あたりのみ、百済は倍暦を14年間だけこの王の
時代特別行使していたようだな? 彼は日本人のようなもんだから成る程だな。
916 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/31(火) 07:53:03
臥海とかあちらとこちらの学者らが倍暦の可能性を忘れて年代の比定をやって
いたから定説に語が生じたわけのようだ? 14年差ができてしまう。
嶋王が倍暦をしていたとなるとそれがしの年代はピタリと合うようだ。
917 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/31(火) 07:54:58
(訂正) × 語が生じた ○ 誤が生じた
773 :
横槍:2007/08/04(土) 00:45:41
まず見て
四一〇 ―崇神即位―
四一三 倭国方物を献ず(晋書)
四一四 ―垂仁即位―
四〇七〜四一八 安帝の時、倭王賛あり(梁書)
四一四 広開土王が倭軍に大勝利
四二一 倭王讃朝貢し、徐授を賜う(宋書)
四二五 倭王讃、貢献(宋書)
四三〇 倭王讃、方物を献ず(宋書)。田道守を常世の国に派遣する。
四三一 倭の兵が新羅に侵入
四三四 ―仲哀即位?―
四三八 ―神功皇后即位?― 讃死す。弟珍(香坂?忍熊?)立つ。遣使貢献す。
四四〇 倭軍が新羅の南部と東部に侵入。
四四三 ―応神即位― 倭国王済、遣使貢献する。
四四四 倭人が新羅の金城を包囲
四五一 倭国王済に六国諸軍事を加える。
四五九 倭人が船百余隻で新羅を攻める
四六〇 倭国遣使、方物を献上する。
四六一 応神崩御
四六二 倭国王済死、世子、興遣使。
四六三 ―仁徳即位― 倭人が新羅のマ良城を攻撃
四七七 ―履中即位― 倭国遣使、方物を献上す。
四七八 倭国王興死。弟武立つ
四七九 倭王武を鎮東大将軍とする。
四八〇 ―反正即位―
四八二 ―允恭即位―
五〇〇 倭人が新羅の長峯鎮を攻め落とす
五〇二 倭王武を征東大将軍とす
2倍暦を通常暦に修正、干支の繰り入れを削除すると書紀と中国側の資料とは
ぴったりと一致するよ。 面白いでしょ
774 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 00:58:18
いくらなんでも祟神の即位が410年だなんて・・・
775 :
横槍:2007/08/04(土) 01:09:15
>>774 狭い了見では古代史の謎は解けないよ。
崇神稜は、ちゃんと調査されて無いのだから
776 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 01:12:29
>>775 妄想だけでも古代史は解けないだろ?
小説でも作るつもりならいいけど。
すくなくとも祟神即位が410年ってのに違和感感じるのは当然でしょ。
777 :
横槍:2007/08/04(土) 01:20:37
>>776 重要なことは日本と中国の資料が合致する事なのだよ
別に妄想ではなくて単なる計算結果
778 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 02:15:51
>>777 計算の結果、崇神即位が410じゃ、その計算当てにならんでしょ。
その他の天皇の即位年にしてもハチャメチャとしかいいようがない。
だいたい、上の年表じゃあ「倭の5王ってのは一体なんやねん?」って話になっちまう。
779 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 07:02:54
崇神は大彦の活躍年代に生きてないとおかしくね?
稲荷山鉄剣を参考に遡れば大彦の生存期間は300年前後
780 :
横槍:2007/08/04(土) 11:01:03
>>778 讃=垂仁
珍=忍熊
済=応神
興=仁徳
武=履中=允恭
781 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 11:38:00
>780
古墳の築造年代はあってるね
782 :
横槍:2007/08/04(土) 11:47:11
雄略=武としてしまった事がそもそもの間違い
年代がどうしても合わなくなったのだ
783 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 13:21:35
古墳の築造年代に関しても、合ってるとは言えないな。
合ってるとする説を採りたいだけだろ?
784 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 14:29:56
現存する日本の城も、限られた極短い期間に造られたものが大半
前方後円墳も同じ。箸墓等例外もあるけどね。
785 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 15:49:34
786 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 16:55:23
夏の幻想・・・
研究家さんといらつめさんが、日本女子大で
なんと「ブルマーを着用」して体育の授業を受けている
見たかった・・・
787 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 17:32:36
場末のイメクラじゃあるまいし…
788 :
唐松山:2007/08/04(土) 20:43:01
朔を 基本として見ると
全て元年1月朔として、判らない所は推定
西暦 治世 治世日 歴日元 増し
神武天皇 36年 19年間 8033日 8777日 57年
空白(タギシミミミコ) 3年 1093日間 神武の治世日に含む
綏靖天皇 58年 14年間 5108日 37629日 19年
安寧天皇 72年 5年間 1830日 49677日 33年
懿徳天皇 77年 11年間 4017日 63556日 24年
孝昭天皇 88年 26年間 9480日 76343日 57年
孝安天皇 114年 26年間 9509日 106642日 76年
孝霊天皇 140年 19年間 6939日 143909日 57年
孝元天皇 159年 19年間 6940日 171668日 38年
開化天皇 178年 8年間 2923日 192487日 52年
崇神天皇 186年 25年間 9125日 214399日 43年
垂仁天皇 211年 23年間 8417日 239234日 76年
景行天皇 234年 22年間 8032日 275409日 38年
朔の廻し8年 この8年暦日に含まず
成務天皇 264年 4年間 1447日 297321日 57年
仲哀天皇 268年 3年間 1093日 319587日 5年
神功皇后 271年 37年間 13524日 322510日 33年
応神天皇 308年 24年間 8771日 348084日 19年
空白 2年 応神の治世日に含む
仁徳天皇 332年 87年間 31776日 363794日
履中天皇 419年 6年間 2184日 395570日
増し は、19年7閏を基本とし 6940日か6939日
安寧、懿徳は 2人で3回 57年
開化、崇神 及び仲哀、神功も 同様
成務 以下は、これから 再度検討します
789 :
唐松山:2007/08/04(土) 21:41:33
世継ぎを検討する
先の書き込みより 天皇の世継ぎを検討すると
誕生日が最も妥当だと思われる処 孝昭天皇は安寧天皇の子供であり懿徳天皇元年誕生が想定されます
そうすると 孝昭天皇誕生は、西暦88年と言う事で
天皇名 誕生西暦 即位才 生世継ぎ 死亡才
孝昭天皇 西暦77年 12才 18才 33才
孝安天皇 94年 21才 22才 47才
孝霊天皇 115年 26才 34才 45才 孝元は 孫
孝元天皇 148年 12才 18才 31才
開化天皇 165年 14才 18才 22才
崇神天皇 182年 5才 20才 30才
垂仁天皇 201年 11才 18才 34才
景行天皇 218年 17才 21才 39才
書紀の記事にあまり対応させていませんが 世継ぎは、 可能
790 :
唐松山:2007/08/04(土) 21:48:37
年齢 間違えたので やり直し
791 :
唐松山:2007/08/04(土) 21:56:22
訂正
孝昭天皇誕生は、西暦77年と言う事で
後は、大丈夫
792 :
唐松山:2007/08/04(土) 23:10:42
ついでに ほつま伝の作者 たたねこ の年齢を推定すると
崇神元年 西暦186年頃の生まれ
成務元年 西暦256年頃まで活躍
256−186+1=71歳
可能な年齢
793 :
横槍:2007/08/04(土) 23:37:54
卑弥呼より古い時代に正確な年代記が、存在したのか?
また8世紀の奈良時代までそれが残っていたと考えてますか?
↑
それはありあえない話です
794 :
唐松山:2007/08/06(月) 00:09:17
773の書き込みより 妥当だと思うが
とりあえず 書紀には年と月が書いてあるが 年の干支で きれいに読めないのは
横槍さんもご存知のとうり
ほつま には 月を増す と書いてあるので年の干支の増しはマレとも書いてある
まず 年の干支の増しで考えたが 無理だった。
そこで どのようにしたら 月の単位で増しが可能か考えました。
行き着いたのが 19年7閏 で 書紀は書かれていましたので
増し も19年7閏をひとつの単位として 組み込まれていると仮定し今回の結果が得られました。
13ヶ月1300年の朔表を作って どこが狂っているか 反論して下さい。
あなたも 773で使った記事は、書紀からでしょ 書紀のきじを
一応正しいと見るから使ったわけでしょ?
ならば 朔は正しくない という根拠を提示してくださいよ まったく期待していませんから
795 :
唐松山:2007/08/06(月) 00:38:50
すこし 言葉足らずだった
書紀の 年の干支と朔の干支は、皇紀で読む限り連動しています
多少の間違いはありますが 無視というか補留 数件です
このとき 年の干支のみ動かしても 月の干支は、付いて来ません
朔、日々の干支を動かす事によって 年の干支も連動して動く
使える のは、朔の日数と閏の廻しのみ 干支は、年も日々の干支も連動して 動きます。
年の干支のみ動かすと 朔や閏がメチャクチャになります。
796 :
横槍:2007/08/06(月) 07:41:11
倭人伝に『其俗不知正歳』とあるから。
暦を記録するようになったのは卑弥呼あたりからでは、と推測される。
年号を表す干支になんかの根拠があるとすれば、全て3世紀以降に修正すべき。
797 :
唐松山:2007/08/07(火) 00:16:28
支配層も 俗か?
崇神の 不受正朔は何だ
倭人伝に『其俗不知正歳』は 正しい。
支配層が暦による 種貸しを生業としていた。 だから暦を 其の 俗 に知られない為に
増しを行って隠していた。
これが 私の自論です。
このスレの始めの方から読んでね
3世紀半ば 景行の九州遠征時には 九州では暦が分散しはじめていた。(倭国乱)
よって 種貸し屋から 屯倉経営に切り替える日本武尊以降、垂仁時代になります。
倭国乱の始まりは、崇神6年の不作(韓国の歴史書では西暦192年か3年)
支配層の発行する種蒔き日に対する不信から(古墳時代 寒冷期の始まり)
ピンポイントで見るのは良くないと思いますが この様な見方をしています。
798 :
唐松山:2007/08/07(火) 00:33:14
この 正歳と正朔の間にあるのが 19年7閏の増し
799 :
横槍:2007/08/07(火) 07:55:55
考古学的にも、2世紀以前の銅鐸、銅矛、銅剣その他の遺物からは、一切
倭製文字が出てこない。
最古の倭製文字は三角縁神獣鏡の鋳型に書かれたもの。つまり卑弥呼の時代
文字の使用の無かった時代は歴史時代とは呼ばない。
800 :
唐松山:2007/08/07(火) 19:04:14
いやいや 古代天皇家が 暦による 種貸し家であった以上
暦と、誰にどれだけ種を貸したか 是を記録しておかないと生業として成り立たない
其の年の天候と出来も重要です
まあ ほつま伝 は無視している書物と思いますが、
暦の導入は、アマテラスの時代 (この暦は、梓に彫りて...程度の物ですが)
その後 神武の少し前に ナガスネが 其の(暦だと思います)文を盗む
よって ナガスネは、大物主や神武に追われる
暦が秘匿物であった以上 文字もそれに付随する物であったと推測します
801 :
横槍:2007/08/07(火) 21:28:39
>>979 支配層が暦による 種貸しを生業としていた。 だから暦を 其の 俗 に知られない為に
増しを行って隠していた。
想像力琢磨し過ぎ。
やっぱり歴史は、物的証拠と推理力のバランスが大事、証拠も無しに決め付けるのは
単なる妄想と言われてもしかたあるまい。
太国みたいな言い方をしてしまったが、
世界史の中で同じような事例を列挙しないと誰も納得しないであろうzzzzz
802 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 21:58:21
種貸し業で国家が成立していたという妄想
邪馬台国は、大和国。
狗奴国は、許乃国(このくに)・・・宇治のあたり(山城国風土記逸文より)
魏志倭人伝は、
最初の北九州の国の漢字名については、
漢の時代の上古音をもとにつけられた名残があって
後の北九州以外の国の漢字名については
魏の時代の中古音をもとにつけられた名残がある。
つまり、伊都国・奴国などと邪馬台国・狗奴国とでは
中国人がこれらの地域と交流を緊密化させる時期が異なっていて
伊都国・奴国などは、57年の金印の頃の上古音時代につけられた可能性が高い。
しかし、邪馬台国・狗奴国などは240年前後の卑弥呼の時代につけられた漢字名で
魏の時代の中古音でつけられている。
よって、魏志倭人伝には、20数カ国の戸数を記していない国が多く列挙されているが
その殆どに、「奴」という字がつくが、これは中古音で「の」と呼ぶ。
狗奴国=許乃国(このくに)=山城の宇治
ここは、日本書紀の崇神期に武埴安彦命が謀反を起こした地域である。
武埴安彦命は、河内と山城の両方に拠点を持っていて
彼は、甥の崇神天皇や伯母のモモソヒメを
山城と河内の両方から、大和を挟み撃ちするように攻めた。
こういう二方向からの攻撃だから、魏志の方角観も混乱したのだろう?
狗奴国=許乃国(このくに)=山城の宇治
狗奴国男王・卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命
狗奴国官・狗右智卑狗=河内彦
の可能性が高い。
>邪馬台国は、大和国
大和国は、6世紀後半になっても、まだ播磨国が外国だった。
中国から極東の大将軍号を受け、遂に隋の煬帝と対等外交を
迫るような国が、小国家=大和国では無理。
邪馬台国=大和国とは、古代妄想=誇大妄想です。
>>805 その歴史観のほうが無理。
学会では君は相手にされないだろうね。
奴国=根国
808 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 07:47:11
>>805 「京都」は「東京都」ではないからね。そう、君の主張は理性がある。
みんなその語で騙されて畿内説に傾くのさ。それに考古学を取り付けて
女王国は畿内だと結論付けてしまう者が多い。こういう輩は古代史の謎解きの
明智小五郎にはなれないわけさ。
809 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/08(水) 07:51:11
マチガエて書きこんだか〜。
このスレは「書きこむな」とよくない要求の者がいるから、またオサラバ。
811 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 10:28:54
倉西ちゃん最近来ないね〜、どうしたのかな?
812 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 11:40:56
>>810 目に鱗だ!
そんな説があるって、盲点だった...
風土記って馬鹿に出来ないな。
>806
学会?ああ、あのレベルの低い某集団ね。
相手にする必要ないでしょ。
814 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 13:49:02
>>813 というかさ...それって、きみ
負け犬宣言じゃないの?
はあ?
九州の弥生時代の土器編年がおかしいって
馬鹿な学会に教えてあげたでしょ。
816 :
横槍:2007/08/08(水) 20:22:45
>>804 崇神を卑弥呼の時代に置くという事は、
開化以前の記紀の内容はかなりデタラメって事でおk?
>>811 倉日産は、議論のレベルが高くなってしまったので夏休みです。
818 :
オージョ二− ただ嬉しくて 実はサガミハラハラ:2007/08/08(水) 22:36:35
崇神天皇の即位は272年で崩御は288年春年ですから卑弥呼の死(248年?)の
ずっと後ろです。卑弥呼の死の248年は孝元21〜24年にあたります。
819 :
横槍:2007/08/08(水) 22:57:18
神武元年が西暦200年よりそう古くならなければ、ぎりぎり歴史時代となり得る
可能性はあると思います。
820 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 03:53:10
>>816 なぜ、そうなるのか、分からない。
むしろ、卑弥呼が崇神天皇の時代だということが分かったのなら
それ以前の存在まで見えてくるでしょう?
821 :
横槍:2007/08/09(木) 07:39:15
卑弥呼時代以前の倭製文字は全く発見されていません。
文字の無い文明は歴史が残っている例は無く、精々言い伝え、神話のレベルで
それを歴史とは言いません。
822 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 12:21:42
>>821 文字の無い時代を歴史に含めないなら、
稲荷山古墳鉄剣のワカタケル大王以降を歴史と言うべきだろ?
なぜ、崇神天皇や神武を歴史に含めようとするのだ?
823 :
オージョ二− ただ嬉しくて 実はサガミハラハラ:2007/08/09(木) 13:27:59
文字での記録をもって歴史時代というのであれば、鉄剣に記載されている一番最初
の人物の時代をもって歴史時代のはじまりといってよいであろう。
となれば崇神の時代からということになります。
824 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 13:34:50
>>823 天皇(倭王)名が明記されてないから却下。
ある程度文献と一致してなければ、崇神や神武が実在してた証拠にならない。
825 :
オージョ二− ただ嬉しくて 実はサガミハラハラ:2007/08/09(木) 13:52:02
あの程度の一致で十分でしょう。
826 :
オージョ二− ただ嬉しくて 実はサガミハラハラ:2007/08/09(木) 13:52:58
訂正 十分を十二分に訂正いたします。
827 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 13:57:33
>>825 すまん、「あの程度の一致」とは、何を指してるんだ?
何か一致してたか?
828 :
唐松山:2007/08/09(木) 20:28:59
805 の 点数 50点
神功、武内に 敵対した大和残留組 敗戦の後 どのように復活?したか
又は、入れ替わったか?
神功が、大和を治めた <― 無いと思います.
スレ主でありますのに、最近、忙しくしておりまして、2チャンネルを閲覧して
おりませんでした。
久しぶりに、閲覧してみましたなら、
>>811さんや、
>>817さんのような書き込みがありました。
近頃、荒唐無稽な意味不明の書き込みが多いようで、議論になっていない気がいたします。
ちなみに、近々の拙論に「日本書紀紀年法から読み解く隅田八幡宮所蔵明鏡銘文」が、『東アジアの古代文化』132号に
掲載されておりますので、興味がございましたならば、ぜひ、ご一読くださいませ。
830 :
唐松山:2007/08/09(木) 22:05:02
西暦200年少し前にあった 事柄
考古学では、 マキムクに 急に地方からの人々の流入
特に 東海地方の土器が多く出土するようになる。
崇神10年異属多帰 という事だ。
早い話が 四道将軍により 人攫い が行われた。
後の世 日本武尊に最も強力に刃向かった焼津等
横槍をどうぞ
831 :
横槍:2007/08/09(木) 22:07:27
>>824 >>799で述べたように三角縁神獣鏡ですでに倭製の文字が使われています、
という事は、読み書きが出来る人物が既にこの時代には倭国にいた可能性があります。
という事は文献による記録も可能となり歴史を残すことも可能となります。
逆に文字を使用出来る民族が銅剣や銅鐸にこれを残さないのは不自然です。
つまり文字の無かった時代、神話時代となります。
歴史の上限を卑弥呼時代に置くのはそのためです。
追伸 明日から1週間程、漢の国の上海の方に渡海してきますので倭国の事は皆さんにお任せします。
倉西さん、お元気そうで
てっきり三つ子に細胞分裂中かと思い心配しました。
なによりです
いらつめさん、降臨期待age
834 :
横槍:2007/08/09(木) 22:57:41
>>830 歴史というより大分考古学的な話のような気がするが・・・
巻向に邪馬台国があった可能性を示すものだろう
後に天皇家が巻向を支配したんじゃないか?
その時に天照大神教団を伊勢に左遷したんだろ
それ迄は奈良盆地に幾つかの豪族が連合国家を形成していた(天皇家も含む)ようだしね
835 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 23:50:07
>>834 >巻向に邪馬台国があった可能性を示すものだろう
なぜ?
836 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 03:11:31
倉西はしっかり著作活動してて偉いなぁ、それにくらべてこの板の連中ときたらアル中のくせに
御託ばかり並べていかんよ
837 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 09:12:13
>>821 :横槍:2007/08/09(木) 07:39:15
>卑弥呼時代以前の倭製文字は全く発見されていません。
というか、普通に漢字の書かれた遺跡が出てきているだろう?
838 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 09:33:06
>>837 書かれている日本語の意味がわかりません。
ここは吉野ヶ里ですとか遺跡名がかかれた門柱とか出土しているのですか?
839 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 10:09:50
はい「吉野ヶ里女王の館 明朗会計 各夕刊紙で紹介」の看板が出土しています。
840 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 13:12:16
>>831 おまえ、文字の社会的な意味を知っているのか?
上古代の日本のような神権政治の場合は
幅広い層に文字が行き渡るのを、支配者層は恐れているわけで。
何故なら、文字というのは、幅広い層の情報伝達を可能にし、
やがて、彼らが為政者に逆らう武器になるから。
古代の上級階層の人の尊称に、命(みこと)とあるだろう?
これは、御言(みこと)であって、
言葉を発する(命令を出す)人という意味もある。
低下層に文字が行き渡ったら、その特権が失われる。
古代の日本で、神権政治派と仏教派で対立したのも、そういう理由。
仏教には教義があって、それには文字が書かれているから
仏教が広まると、庶民が文字を覚える事態になって、それは支配者層は恐れた。
よって、おそらく、上古代の日本は、対中国と外交をしていたわけだから
当然、漢字を知っていたはずであるが
それは一部の階層のものに留まっていたと考えるべきである。
>幅広い層に文字が行き渡るのを、支配者層は恐れているわけで。
そんなことはないだろう。
一般人の目に触れさせなければ、教わる手段もないし、
文字は普及しない。恐れるほどのことは無い。
文字が行き渡ると特権が失われてしまうのではなく、
特権のある人物だけが文字を学べるということだ。
842 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 18:15:13
最初の文字は「外国語」ということも忘れるなよ。
843 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 21:24:26
>>807 奴国は波国だろう。
上代の北九州では、波(ナミ)のことをナと言ったらしい。
ナ国=海辺の国、という意味だろうね。
844 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 22:27:39
日本人は、なぜ、天と海をアマと言うのか?
それは、天皇家と日本人の原型となったアマヒト族が海洋民だったからであろう。
つまり、アマとは吾間なのだ。吾(ア)とは私であり、間(マ)は、島・山のマである。
マは、上代日本語で「場所」の意味である。
したがって、アマとは「私の場所」「私がいる所」という意味だ。
自分たちが生きている世界、存在する世界をアマと言ったのだ。
そして、自分たちの先祖=神がいる世界も、アマと呼ぶようになったわけだ。
845 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 05:35:17
自説を述べるにコテハンでやるのもいいが
生半可な知識と独善性を暴露してるとしか見えん
スレタイトルに引かれてきたが
まあこれが2ちゃんねるか
846 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 09:44:01
2ちゃんねるであってもここは学問板ですよ
>>845 批判するなら具体的に。
そんな抽象的な批判なら誰でもできる。
848 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 13:33:29
>西俣さんはこう語る。
>「生野周辺も、古代から農耕や機織、土木建築、漢字、仏教など先進技術や文化を
>伝えた渡来人によって築かれた土地です。ところが、約1500年後の1910年から
>日本の朝鮮半島支配が始まり、多くの朝鮮人が出稼ぎに来て、過酷な労働に携わる。
>その後も創氏改名や強制連行、戦後もひどい差別が続きます。
>お世話になった民族にこの仕打ち。ヨン様もいいですが、歴史と現状を広く知ってもらい、
>大阪から本当の国際化を目指していきたいですな」
日本人が古代・中世に、朝鮮人のお世話になったことは一度も無いんだよね。
誤解してる人が多いんだけど、古代日本に移住した渡来人は、朝鮮人じゃあないんだよね。
ぜんぜん無関係な別種の民族なんだよ。
半島南部の韓人(からびと)と呼ばれた倭人系民族と、楽浪郡が滅びた後、難民として日本に来た
漢人たち、それが渡来人なんだよ。
いわゆる「百済系渡来人」とか、「コマ系渡来人」と呼ばれている帰化人は、
そのほとんどが楽浪郡系の漢人なんだよ。朝鮮人は一人もいないんだ。
楽浪郡の漢人や半島南部の倭人系民族、日本列島の倭人、これらの民族と対立していたワイ族こそが
朝鮮人の先祖なのであり、とうぜん、ワイ族は古代日本には移住していない。
「朝鮮人にお世話になった」という主張は、歴史認識の誤りから生まれる意見だ。
同意。
朝鮮民族が成立したのは、統一新羅(676〜)以降。
それ以前に朝鮮民族など存在しない。
後進国新羅はその後、倭人や百済人、加羅諸国人から
人と文化を収奪して、発展していった。
それ以前はアメリカのネイティブみたいに、
バラバラの部族国家を作っていた韓族と、
靺鞨族、群小国を形成していた倭人が
半島に住んでいただけ。
850 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 19:19:41
現生半島人はモンゴル人と高麗人の混血です
済州島は倭人系。
>>844 倭(wa、wo)と書いてamaと読んだ可能は無いのか、
又、邪馬台国はamato天戸国ではないのか?
連投
邪馬台国=ywato岩戸国
854 :
唐松山:2007/08/15(水) 00:15:58
神話時代は別スレ立てた方がよくないか?
855 :
唐松山:2007/08/15(水) 21:03:23
今 住吉大社神代記を読んでいます
姫大神は やはり 卑弥呼 では?(景行時代)
そして 神功との秘め事は、住吉の神
新羅遠征後 住吉神
穴門豊浦、難破長柄泊賜、甘南備山等
亦大神宣賜。吾天野。錦織。石 川。高尾張。膽駒。甘南備山。等榊黒木その他諸処
膨大な土地、神域を 神功から賜う
当然 姫大神は霞んでしまう
住吉神の裏方として3筒男?(仲哀暗殺)なんて...
次
仲哀9年(神功元年)
適二是時一也。晝暗如レ夜。已経二多日一。時人曰。常夜行〔之〕也。
皇后問二紀直祖豐耳一曰。是恠何由矣。 間二舊老一時有二
一老父一曰。傳聞。如レ是恠謂二阿豆那比之罪一也。問二何謂一也。
アズナイの罪(どこか他で見たような)
日食 西暦273年5月4日 食94% 17時頃 または
西暦301年4月25日 食75% 17時40分頃
この後は、302,306,308、316,318年と日食が 続きます。
(卑弥呼の記事が此処に挿まれたのも こんな事が合ったからでは?)
これで この頃の 人々は、日食をしらなかった(暦的には)
856 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 01:42:43
845です
二度目ですけど
書記”紀年?”が解明というスレタイは誇大広告ですね
そんな事より原点返りませんか?
日本書記の”年紀(年月日が記されている)”の最初の神武東征元年に始まる
ものに対しては儀鳳暦では古すぎる、あるいは神武以下の諸天皇の長寿を何とか
合理的に説明できないものかという動機が失礼ながら強すぎる人が多いように感じます
847さんに言われたので自分の仮説を述べます
年紀が古すぎるのは神武即位年を辛酉年にしたこと
明治時代に那珂通世博士がとなえられた説ですけど、博士はその基準年を推古9年とされています
私には異論が有ります
むしろ天智が称制した年(斉明崩御の年)の方がより相応しい
その理由は天智の和風諡号に有ります
”天命開別”
漢文の素養は無いのですが”天命開”は王朝交代の意味が有ると聞きました
私とすればここで王朝交代があったとは思いません
なぜならばその後の連続性が確保されてるからです
ご批判を請う
857 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 02:06:47
その後 ×
その前後 ○
858 :
横槍:2007/08/16(木) 18:50:27
>>856 批判もなにも・・・
証拠を示せ! と言うのは無理な話だろうが、せめてその仮説により××時代
の○○の矛盾が解決するみたいな論拠が無いと・・・・
思いつきなら幾らでも出せるが、あえて書き込む必要が無いと思ふ
859 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 01:02:55
>>858 レス有難うございます
最初に申し上げたいのは
必ず現実に起きた事の反映が神話、伝説になったという立場です
勿論都合よく付加されたり改変された事、あるいは錯誤により変形したことも有ったとも思いますが
長い時間の間に淘汰されて原形は充分留めてると考えます
それを踏まえて考えるに
紀の年紀(年月日)は安康以降は元嘉暦、それ以前は儀鳳暦に一致(正確には両者で16か所一致しない)します
元嘉暦 宋(南朝)445年施行
儀鳳暦 別名麟徳暦 唐665年施行
持統朝に両者が併用されてたことが確認される(持統4年11月の条)
即ち日本書記の編纂時期に当たる
従って儀鳳暦に一致する允恭以前の年月日は無視してもいいんじゃないか
即ち伝説は伝わっているがそれには年月日は付されてなかったと結論してもいいんじゃないかと考えます
なお雄略以降については稲荷山鉄剣の金石文から暦が有ったのは確実ですので
無視どころか相当信頼性が有ると思います
本当に話合いたかったのは辛酉革命の事です
那珂博士は一ボウ(字が出ません)1260年
平安時代の三善清行は1320年
それに基づき
神武即位年を固定したため、伝説を尊重すれば天皇の崩年その他に矛盾が出るのは当然のことじゃないでしょうか
以上です
860 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 12:45:57
神武即位西暦1年説はここでは支持されるのか?
861 :
唐松山:2007/08/17(金) 19:44:57
859さんへ
一致しない所を教えてください.
それと 閏の廻しも一緒に
わたしの計算では、16ヶ所も一致しない所がないので ぜひお願いします.
862 :
唐松山:2007/08/17(金) 19:47:10
もう一つ
その暦は、19年7閏法ですか?
よろしく
863 :
横槍:2007/08/17(金) 20:11:54
864 :
横槍:2007/08/17(金) 21:20:27
>>856 >允恭以前の年号は無視していいのでは
という考え方は一応説得力があると思います。
しかし、私の希望的憶測としては、3世紀ぐらいからの月日の記載された
なんらかの資料が各地の社にあったのではと考えます。
理由としては、三角縁神獣鏡に日本で作られた「青龍十年」の年号が記載されて
いるからです。
記紀は記憶と記録で成り立っていると考えます。
865 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 22:52:37
>>861 孝元4年3月
崇神7年11月
崇神12年9月
垂仁23年10月
垂仁99年7月
応神2年3月
履中5年9月
欽明14年5月
欽明31年4月
敏達4年2月
推古36年4月
推古36年9月
大化5年4月
大化5年5月
以上14箇所は朔日の干支の相違です
あと2点(箇所というのは不適切でした)は推古紀と持統紀に有ります
推古紀は現存の最古の写本である岩崎本(平安中期)とその他の大多数の諸本の間で
岩崎本では30,31,32,33年の記事がその他の諸本では31、32、33、34年になってます
岩崎本をとれば33年5月の一箇所です
持統紀が元嘉暦とすれば6年11月、10年12月、11年4月の3箇所
当時は儀鳳暦が併用されてるのが確認できますのでそれをとれば相違はありません
>>862 元嘉暦、儀鳳暦とも二十四節気を加味した太陰太陽暦です
従って19太陽年に7個の閏月を挿入します
その入れ方は節気の「中」を含まない月を閏月とします
866 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 23:13:06
韓国人が日本書紀を引用して、こんなこと言っているんだが・・・。
>高麗若光は、日本書記によれば、666年に高句麗の使者として来日した。
>668年に唐と新羅の連合軍に高句麗が滅ぼされると帰国の機会を失った。
>『続日本紀』によると703年(大宝3年)に、文武天皇により高麗王の氏姓を賜ると有り、
>従五位下に叙された。
なぜ、若光を高句麗人だと言い張るのか?
666年といえば、高句麗の騎馬軍団は、もう平壌(ピョンヤン)まで後退しており、
日本に使者を送る意味など無いのだが。
そもそも、高句麗には船が無いではないか。とうぜん、航海技術もない。
日本に来ることは不可能であろう。仮に船があり、航海技術もあったとして、
何の目的で、高句麗人がこの時期に来日するのか?
コマ王若光は、やはり百済人(コマ人)であろう。
高句麗人であるわけがない。コマ人とは百済人(百済のコマ県人)のことだろう。
867 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 23:45:08
865です
>従って19太陽年に7個の閏月を挿入します
その入れ方は節気の「中」を含まない月を閏月とします
を以下に訂正します
従って19太陽年に7個の月を挿入します
その入れ方は19年の間で節気の「中」を含まない月を閏月とします
「中」と「中」の間は30-31日、陰暦の月が29-30日ですので詳しい計算は省略しますが
「中」を含まない月が7回出現します
失礼しました
868 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 00:26:16
869 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 05:53:55
856です
>>864 いろいろ有難うございます
最後の一行には全く同意します
870 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 19:04:54
Please comeback again princess of ancient history 倉ニッ氏!
871 :
唐松山:2007/08/18(土) 19:07:45
返答 感謝
私の暦は、神武元年正月朔を 暦日8777日として計算しています。
考元四年春三月甲申朔甲午 計算値より+2日多い、閏年
崇神7年11月 8年11月 の間違いか?
崇神12年9月 暦日218681 閏年の10番目の月
垂仁23年10月 暦日247562日 閏年の11番目の月
垂仁99年7月 97年7月 暦日274495日
応神2年3月 暦日348527日 閏年の4番目の月
履中5年9月 暦日397282日 閏年の10番目の月
欽明14年5月 閏年
欽明31年4月 閏年
敏達4年2月 閏年
推古36年4月 12ヶ月の普通年
私の現時点での暦の考え方
皇歴のままの暦では、暦法は、当て嵌まらないと考えています。
皇歴は 19年7閏法で書かれていて 其の中に19年7閏の 増し が含まれている。 このように解釈しています。
そこで 皇暦から 正しく19年7閏の 増しを差し引く =正しい暦
19年7閏=6940日又は、6939日 この1日の違いが 暦法の違いとなって現れる。
まだ 暦法の確定までは、いたっていませんが 以上。
872 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 00:00:57
東アジアの暦の歴史
時間の周期としての一日は誰にも自明だから
暦のそもそもの大元は日を数えることから始まった
歴史以前から、太陽の昇る方位などの観察で春分、秋分、夏至、冬至の知識は有ったと思われ
季節がおおよそ365日で繰り返すのを知った。すなわち年の概念の誕生である
文明が進むともっと細分化する必要に迫られ(過去の記憶、未来の予測のため)
月の満ち欠けの観察(月読み)からそれがおおよそ29.5日で繰り返すことから、月の概念を生じ
新月の日(朔)から数えて12ヶ月後の新月がおおよそ355日で一年にきわめて近い事で1年=12ヶ月の概念が出来た
さらに観察からこの周期がおおよそ太陽年の19年であることから7個の月(当然新月から次の新月の前日まで)
を一定の法則で挿入すればよいことに気が付く
すなわち暦の誕生である
日本を含めた東アジアにこれ以外のアルゴリズム基づく暦法が存在した証拠はありません
日本人自身の手による暦に至っては江戸時代!渋川春海の貞享暦まで存在しません
873 :
唐松山:2007/08/19(日) 11:12:27
日本書紀の暦法
元嘉暦と儀鳳暦の違い
元嘉暦 19年7閏法で400年で1日狂う これが19年7閏法の限界。1000年経っても閏の廻しに変化なし。
(日本では約800年間使われましたので、2日の狂い)
儀鳳暦 19年7閏法に囚われない暦法 元嘉暦より精度が良い。 100年位で閏の廻しが変化する。
日本書紀 精度は、儀鳳暦並に 正確 ただし 19年7閏法で書かれています。
何か矛盾していません?
つまり 儀鳳暦並に精度が良いので儀鳳暦で復元しようとすると 閏の廻しが狂う、
元嘉暦で復元しようとすると 元嘉暦より精度が良いので 本物の元嘉暦には、成らない。
つまり 19年7閏の 増し が有る という事ではないでしょうか?
この 増し を入れる為に 月の観測をし 月齢だけが 非常に正確になった。
推古天皇 辺りまでの私の 見解でした。
874 :
唐松山:2007/08/19(日) 11:20:42
再度 掲載 朔を 基本として見ると 全て元年1月朔として、判らない所は推定
西暦 治世 増し
神武天皇 36年 19年間 57年
空白(タギシミコ) 3年間
綏靖天皇 58年 14年間 19年
安寧天皇 72年 5年間 33年
懿徳天皇 77年 11年間 24年
孝昭天皇 88年 26年間 57年
孝安天皇 114年 26年間 76年
孝霊天皇 140年 19年間 57年
孝元天皇 159年 19年間 38年
開化天皇 178年 8年間 52年
崇神天皇 186年 25年間 43年 +2年
垂仁天皇 211年 23年間 76年
景行天皇 234年 22年間 38年 +2年
朔の廻し8年に相当
成務天皇 264年 4年間 57年
仲哀天皇 268年 3年間 5年
神功皇后 271年 37年間 33年 +2年
応神天皇 308年 24年間 19年
空白 年 応神の治世に含む
仁徳天皇 332年 87年間
履中天皇 419年 6年間 ...欽明天皇 540年 +2年 推古天皇 593年
増し は、19年7閏を基本とし 6940日か6939日
安寧、懿徳は 2人で3回 57年
開化、崇神 及び仲哀、神功も 同様
仁徳から推古まで で 増しは38年しか有りません。
+2年は西暦に対して 不足ではないかと思う年数
875 :
唐松山:2007/08/19(日) 11:38:28
世継ぎを検討する
先の書き込みより 天皇の世継ぎを検討すると
誕生日が最も妥当だと思われる処 孝昭天皇は安寧天皇の子供であり懿徳天皇元年誕生が想定されます
そうすると 孝昭天皇誕生は、西暦77年と言う事で
天皇名 誕生西暦 即位才 生世継ぎ 死亡才
孝昭天皇 西暦77年 12才 18才 33才
孝安天皇 94年 21才 22才 47才
孝霊天皇 115年 26才 34才 45才 孝元は 孫
孝元天皇 148年 12才 18才 31才
開化天皇 165年 14才 18才 22才
崇神天皇 182年 5才 20才 30才
垂仁天皇 201年 11才 18才 34才
景行天皇 218年 17才 21才 39才
書紀の記事にあまり対応させていませんが 世継ぎは、 可能
ついでに ほつま伝の作者 たたねこ の年齢を推定すると
崇神元年 西暦186年頃の生まれ
成務元年 西暦256年頃まで活躍
256−186+1=71歳 可能な年齢
876 :
読んでる人:2007/08/19(日) 21:25:32
>>866 日本書紀ではなく続日本紀でしょう
866の話ではないけど、文字のない時代の歴史を現代では語りがたい
と思いますが、それより以前に歴史はないとは考えられないのですが。
少なくともここでは日本書紀に基づき神武年代までを歴史的に考察
しようと試みているスレなんでしょうから。
877 :
横槍:2007/08/19(日) 22:03:08
俺の結論としては、神武が3世紀後半にあたるので、
ここから歴史としたいと考えている。
878 :
唐松山:2007/08/19(日) 22:50:58
日本書紀 と 他の事象とがうまく合えば、 それが本物 と思ってやってます。
現在 会うところ
崇神6年 新羅本紀 西暦192(193)年倭人が凶作となって大量に押し寄せる
崇神10年 異属多帰 考古学2世紀末 大和に地方の土器が急に出土する
景行12年 景行12年 西暦247年 九州で 母亡くなり住吉に祭らせる 卑弥呼死亡
神功元年 住吉記 日食 西暦273年4月 94パーセント夕方
欽明天皇 542年 唐の歴史書
879 :
横槍:2007/08/19(日) 22:52:01
>>877 訂正
>ここから歴史としたいと考えている。×
ここから記紀に基づいた歴史としたいと考えている。○
邪馬台国時代も年号がはっきりしているものは全て歴史です。
年式の不明なものは、考古学や神話学に当たります。
880 :
唐松山:2007/08/19(日) 22:57:28
なお 景行18年 筑紫のオオミケ死亡
景行20年 五百野姫14才 筑紫に下向
881 :
唐松山:2007/08/19(日) 23:04:00
横槍さんへ
麻雀じゃ無いんだから シャッフルして好きなのを並べる 無しね
ただ ゴミは、取り除いても良い。
882 :
横槍:2007/08/19(日) 23:21:22
例えばねこういう事ですよ。
記紀の年代を計算し直して、神武の即位年が紀元1年だと出たとしますよ。
しかし、倭国では3世紀まで文字を使った痕跡が無いのだからこの場合、
神武は実在したかも知れないが、年代紀はデタラメって事。
文字が使われる200年以上後までそのデーターを保存しておく方法が無いのだから。
だから文字を持たない文明は歴史も持たないのですよ。
883 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 23:32:09
伝承はもともとは事実に基づく
しかし時間とともに変形するのは仕方が無い
特に口承はそう
文字記録であってもどの時点で記録されたか、あるいは原本が失われれば信頼性は低下する
伝承が変形、消失、付加の過程をへて現在我々の前にある
私見ですが伝承をそのままに時系列(前後関係)を生かすと本来の物から遠ざかると考えます
884 :
横槍:2007/08/19(日) 23:51:53
俺の考えでは天皇の初期の十数代は単純な親子関係でしかも一本の糸
の様に繋がっています。これははっきり歴史が分かっている8世紀以降
或いは世界史と比べて非常に不自然です。真相は複数の糸が複雑に絡まって
いたと思います。
恐らくオオヒコの鉄剣に書かれた系図も8世代では無く、8代でしょう。
記紀は単純にのような資料を単純に親子関係で繋いだのしょう。
だから世代のくい違いの矛盾が幾つか有ります。
885 :
唐松山:2007/08/20(月) 00:18:52
初期天皇家なる物は、職業と見て美味しいものではなかった。
だから 欲しがる人間は、いない
よって 世継ぎが出来た。
886 :
横槍:2007/08/20(月) 00:21:46
そんなに3Kな仕事なら嫁も来ずに廃業
もう寝ます
887 :
日本@名無史さん:2007/08/20(月) 00:29:46
古代史に興味をもったのは60年代です
江上先生の「騎馬民族説」
水野先生の「三王朝交代説」
あと民間は松本清張氏をはじめ多士済々の時代でした
上の方々は別ですけど日本史の専門家は証拠を提示出来ない仮説には慎重でした
それだけに稲荷山鉄剣の金石文は衝撃でした
特に関東から出土したこと
専門家にとっては鼎の軽重を問われることだったと推察します
888 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 08:49:44
真・スルー 何もレスせず本当にスルーする。簡単なようで一番難しい。
偽・スルー みんなにスルーを呼びかける。実はスルーできてない。
予告スルー レスしないと予告してからスルーする。
完全スルー スレに参加すること自体を放棄する。
無理スルー 元の話題がないのに必死でスルーを推奨する。滑稽。
失敗スルー 我慢できずにレスしてしまう。後から「暇だから遊んでやった」などと負け惜しみ。
願いスルー 失敗したレスに対してスルーをお願いする。ある意味3匹目。
激突スルー 話題自体がスルーの話に移行してまう。泥沼状態。
疎開スルー 本スレではスルーできたが、他スレでその話題を出してしまう。見つかると滑稽。
乞食スルー 情報だけもらって雑談はスルーする。
質問スルー 質問をスルーして雑談を続ける。
思い出スルー 攻撃中はスルーして、後日その思い出を語る。
真・自演スルー 議論に負けそうな時、ファビョった後に自演でスルーを呼びかける。
偽・自演スルー 誰も釣られないので、願いスルーのふりをする。狙うは4匹目。
3匹目のスルー 直接的にはスルーしてるが、反応した人に反応してしまう。
4匹目のスルー 3匹目に反応する。以降5匹6匹と続き、激突スルーへ。
889 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 09:29:36
416 :日本@名無史さん:2007/08/21(火) 20:50:43
最近、日本国内外から、海部氏の調査に多く学者がくるらしい。
理由は、日本の皇室の創世記を知るため。
これが明らかになることは、物凄い大発見になるわけだから。
出雲から政権を奪った初代の大和国王は、アマテル(ホアカリ)。
このアマテル(ホアカリ)には、ホノニニギという兄弟が居て、
この系統は、出雲王朝時代に日向に派遣されていたわけだな。
畿内に派遣されたホアカリは大和で勢力を蓄えて、出雲を倒したわけだ。
一方、日向に派遣されたホノニニギの系統は、神武の代まで田舎で大人しくしていた。
しかし、ホアカリの曾孫の代くらいに、執政のナガスネヒコが専横を振るった。
そのために、日向で分家していた神武が、宗家の大和王家(ホアカリ系)を助けるために
大和へ駆けつけたわけだ。それを神武東征という。
その後、祭祀の長がホアカリ系、政事の長がホノニニギ系(神武皇統)が握った。
が、やがて、ホノニニギ系が祭祀の長の座も奪ってしまった。
このへんのことが
日本書紀の欠史八代であり、
魏志倭人伝の 元々は一人の男王→歴年争う→卑弥呼共立
なのであると。
890 :
すみれの花のような ぼくの友だち 実はサガミハラハラ:2007/08/22(水) 10:21:03
昔昔のその昔、大阪に行った時、ある回転すしやに行こうと思い道順を聞いて(駅から進んであるビルの角を曲がり、焼肉屋の道をはいったところです)
と聞いて出かけました。ところがまちがってビルの角を曲がり(大阪はいっぱいビルがありますからね)、それでも進んで行くと焼肉屋があったのでそこから横道にはいったら回転すし屋がありました。
着いたとおもって食いはじめたのですがなにかおかしい。第一店名が違う。
そうです。わたしは間違えて違う回転すし店にはいったのでした。
つまり、曲がり角一つ間違えて迷い道くねくねだったのですが違うにしろ回転すしやがあったわけです。
ちなみに其の店は始めに行こうとした店の姉妹店でした。
ところで、奴国博多説は唐津で曲がり角一つまちがえているのです。それでもきづかず進んでいったら倭人伝の
地名とそっくりな所であった(そっくりと考えた)のでそこが奴国だとおもいこんでいるのです。
891 :
すみれの花のような ぼくの友だち 実はサガミハラハラ:2007/08/22(水) 10:25:16
以上、回転すしと焼肉やはどこにでもあるという話でしたが、邪馬台国ドンと来いのスレにかくつもりがまちがえたようです。
892 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 10:37:14
笑ってあげるね!
893 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 02:18:17
894 :
すみれの花のような ぼくの友達 実はサガミハラハラ :2007/08/23(木) 18:49:21
ふと思ったのであるが、日本での干支の使用はいつどの天皇から始まったのだろうか?
古事記天皇崩年干支が崇神天皇から記されているので、崇神天皇からと考えたいのであるが、
だとしたら前帝の開化天皇の没年もわかているはずである。崇神の時代に当の天皇が何年前に即位したかはわからないほうがおかしい。
では垂仁天皇はというと、父の天皇が何年在位したかわからないというのもおかしい。
それでは、孫の景行はとなると、これも祖父や父が何年在位したかわからなくなっている年代ではないであろう。
そう考えていくと、何代前まで記憶されているのかということになるのであるが、いかがでしょうか?
895 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 19:31:57
>>894 まじめに返そうと考えたのだがやめた
何を言いたいのか簡潔にまとめよ
なにがいかがでしょうかなのか述べてからだ
896 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 20:38:33
天武天皇は陰陽の知識が詳しかったり、その手の知識を政治に導入した
天皇だから干支も天武時代に使用されたとみて間違いあるまい
それが日本書記にも取り入れられて過去の年表作成に生かされた
897 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 20:40:57
>>894 代わってマジスレ
正朔を奉じるようになった時期以降ならいつでも
私見では2世紀より後、5世紀より前
天皇についてはなんとも
崇神については実在性が高いと思いたいのでこれ以前か?
898 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 20:44:47
>>896 はあ?
5世紀の金石文を知らないのか?
899 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 23:20:55
サガミハラハラ氏は古事記干支は2倍年歴といってなかったっけ。
そうなると話は複雑になるのでは?
まず正当な干支が入ってきて、それから2倍年暦に直して記録したということになる。
900 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 23:36:08
901 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 07:29:58
>>889 それが、崇神天皇以前の記述が淡白だという理由でしょう?
つまり、崇神天皇以前は
大和の王は、尾張氏の先祖で
それを補佐していた執事が、現在の天皇家の先祖だった。
だからこそ、古事記では、崇神天皇以前は
寿命だけで、即位した干支とか詳しいことが書いてない。
902 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 08:55:56
古事記干支についていうならば、崇神の次の垂仁、景行の干支がしるされていないのを中止すべきであろう。
これは、両天皇の干支での記録がなかったからであるとみるならば、崇神の干支は偶然に記録されたものと考えられる。
つまり、干支は崇神の時代にはいってきたが一般的ではなくまた、天皇の没年を干支で記録する制度もなくだれかが偶然記録しておいたものであろうとみられる。
次と次については、記録(公式ではない)されても残らなかったと見てよい。
903 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 09:53:56
訂正 中止は注視の間違いえした。
904 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 11:19:05
住吉大社死んだ遺棄にある垂仁の崩年干支は信頼できるの?
905 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 13:15:30
訂正 死んだ遺棄は神代記の間違いでした。
906 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 15:50:22
サガミハラハラ氏は崇神も垂仁(住吉大社神代記)の古事記干支は2倍年暦だといっているとおもうのであるが、
2倍年暦の干支がはいってきたことはかんがえられないので、古事記干支は国内でかんがえられたということになる。
サガミハラハラ氏の崇神の没年(古事記では戊寅)は288年(2倍年暦U類)だという。
この年は本来の干支では戊申である。氏の2倍年暦では288年春年が2倍年類のT類で戊申でU類で戊寅となっており、
そうなると、古事記の崇神の没年は当初から2倍年暦であるということになってしまう。
このことを考えていくならば、氏の2倍年暦は破綻してしまうのではないだろうか。
大枚をはたいて自費出版をするようであるが、金をどぶにすてることにならないかと心配である。
907 :
すみれの花のような ぼくの友達 実はサガミハラハラ :2007/08/24(金) 17:33:36
ご心配していただきありがとうございます。
大丈夫です。論理はばっちりです。
くわしくはご覧になってください。
相模原原は負け組み。
909 :
唐松山:2007/08/25(土) 15:08:46
干支の信頼度 は 増しで 考える以外信頼度は、非常に低い
なぜならば
朔で日にちを数えれば 解かると思いますが 暦法に則っていない。
@ただし 朔(月齢)は、非常に正しい。
A後の世の暦法に則っていない。19年7閏法である。
この@とAをクリアーして下さい。
910 :
すみれの花のような ぼくの友達 実はサガミハラハラ :2007/08/26(日) 11:36:34
古事記干支の原点であるが、もし崇神の時代に干支がはいってきたとしてもそれを体系づけるのは後世であろう。
私はそれは早くて日本書紀編纂時とみた(古事記干支は分註であるので後世の書写の時つけくわえられた)のであるが、
そのとき造られたこの干支は紀の年代にあわなくなったので捨てられたがだれかがもったいないとして記にすべりこませたとみていたのであるが、
その原型は聖徳太子が編纂した「天皇記」にあるのではないだろうか。
「天皇記」は蘇我氏滅亡の時に焼失したとされているが、その写し等がなかったはずはないであろうから、どこかに保存されていた天皇記のなかに
この干支があったのではないかとおもってみたのですが、暑さのための妄想ですよね。
911 :
唐松山:2007/08/26(日) 15:24:38
日本の干支は、 ホツマの キツサネ アミヤシナウ
で宜しいのでは?
キツネ=稲の神
912 :
唐松山:2007/08/26(日) 16:16:58
ほつま伝 に見る 暦の読み方と思われる処
ホ15160 クニおさむ ワレみるススキ チヱヨタビ わがミもコトシ
フソヨヨロ いまたさかりの カキツハタ のちモモヨロを ふるもしる
ホ16160 オオンカミ コソムツキます このコヤネ モモツキませり タチカラオ ミソムツキます
サルタヒコ ソムトシをれど これはまれ
ホ23013 カミのヨは マスヨロトシの コトフキも ウビチニのヨは
をこそかに かさるココロの コトブキも モモヨロトシぞ
神代 百、万は 振り 干支に関係無し
神武からは、増し 日々の干支まで 増しの対象
寿と称して改元(干支の増し)
もし 書紀編纂時に 干支を割り振った。 としたら 暦法に合っていない皇暦の証明が必要です。
適当に割り振っただけ とするならば 朔(月齢)の正確さ の証明が...
そろそろ 目覚めて下さい。
913 :
唐松山:2007/08/26(日) 16:35:19
ホ04157 アマノハラ ソムホゐますも ヒトヒとぞ
16年も1日
これを可能とする暦の読み方に 倍暦は、ありません。
914 :
花 ◆PfZ6nXw0Y. :2007/08/29(水) 08:26:33
倉西先生、恐れ入りますが
ホムペのURLを再度貼っていただけますか?
携帯のデータが消えてしまいまして…
916 :
唐松山:2007/08/29(水) 20:13:49
日本書紀 の朔を数える式 多少手直し
=INT(INT((E1787*$D$2+$D$1)/29.53059+0.3)*29.5306)+D$4
E1787=皇暦
$D$2=365.245 1年
$D$1=106 朔の廻し
D$4=8305干支にあわせる為私的な数字 他意は、ありません。
この式で 閏の廻し バッチリ
皇暦を打ち込むと 其の年の1月朔 の日数に成ります 誤差+−1日 最大2日
暦日(G1786)を干支に換算=CHOOSE(MOD((G1786+69),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")
&CHOOSE(MOD((G1786+71),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
917 :
日本@名無史さん:2007/08/29(水) 21:08:36
難しくてわかんなーい。
918 :
唐松山:2007/08/29(水) 22:22:21
コピー して エクセル に貼り付けるだけ。
921 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 04:39:21
>>920 日本書紀紀年法って?
何だそれ?
意味が解らない
説明求む
922 :
読んでいる人:2007/08/31(金) 07:13:14
日本書紀紀年法のスレで何だそれ意味わからないってのもアレですが
暦法の話までスレ主が違うってのはそれもどうかと
年月を語るために何をもって年となすかは重要なテーマじゃないかと
他にスレのある二倍歴なら議論はそちらでエッセンスだけ持ってきて欲しいというのなら判らなくもないのですが
>921
スレ主が説明すると難しいから、私流に言ってみる。
日本書記に書かれている個々の年月の合計は
トータルの年月よりずっと長いという矛盾がある。
これはデタラメのようにも見えるが、じつは法則があるのだ
というのが、スレ主のいう紀の紀年法だ。
また紀年法は、暦法と関係あるとも、ないとも考えられる。
924 :
唐松山:2007/08/31(金) 21:50:29
垂仁 治世99年
これを 他の天皇と2重、3重に重ねるだけでは、長すぎる。
1年を3年と数えるのも なんかしっくり行かない、
そうなると 増し と考えられるのであって
方法として、 19年7閏 が1番暦とマッチする。
この方法が(考え方、紀年法として)間違っていれば そこを 指摘してもらいたい。
925 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 00:07:44
>>924 良く解らないのですが・・
具体的に垂仁の治世は何年になるのですか?
926 :
サガミハラハラ:2007/09/01(土) 10:18:41
垂仁以前は2倍暦X2で4倍年となっています。
ただ垂仁に関しては4倍年の年数より7年(4倍年)少なくしるされております。これは神武即位を辛酉年にしたための
調整です。
よって垂仁の在位年は106年で普通暦では27年の在位となります。
288年秋年即位314年秋年崩御となります。
日本書紀紀年についてはここまで解決できました。
927 :
唐松山:2007/09/01(土) 16:42:13
垂仁 治世99年 − 増し19年*4(76年) = 23年
ひと月位前の 書き込みから 読み直してください。
年齢も 荒く推定しています。
928 :
唐松山:2007/09/01(土) 17:31:50
神武即位が辛酉年で無ければ どうなりますか?
たとえば ほつま伝
神武から3代 1,2年書紀と違っています。
こちらで 推定すると 垂仁99年は、 そのまま4倍の基礎として使えるのですか?
929 :
サガミハラハラ:2007/09/01(土) 20:28:38
辛酉年を考慮しなければ、神武即位は4倍年で7年(普通年で1年と4分の3年)さかのぼり、BC667年となります。
前述したように、垂仁の在位年は7年削っていますので、わたしは崇神没年西暦288年を基準としてさらに種々調整しています。
930 :
唐松山:2007/09/01(土) 20:52:09
ありがとう
特に 辛酉年に拘っているわけでは、無いですね。
931 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 13:46:02
(*^-^*)
932 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 07:49:51
唐古・鍵遺跡が初期天皇の宮と考えることは出来ますか?
933 :
唐松山:2007/09/11(火) 18:34:10
唐古・鍵遺跡に 環濠があれば, 神武が,掘った 可能性大
934 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 21:01:48
唐古・鍵は奈良在来人の遺跡で、天皇一族とは関係のない遺跡で、勢力を増大させてきた
天皇一族に滅ぼされたものと思われます。
935 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 22:29:57
936 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 23:55:07
大国主の国が唐古・鍵でしょ
937 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 23:57:46
太国王は、すばらし・・・・おっと`の位置を間違えた
倉西先生のHPの日本書紀紀年法入門ですが、壁紙が無地じゃないし、
フォントが明朝ですごく読みにくいです。
目がチカチカして途中で断念しました。あと行間をもう少しあけた方が読みやすいですよ
939 :
唐松山:2007/09/14(金) 13:27:47
銅鐸から見れば 大国主も考えられないわけでは,ないが
神武東征 当初 まだ 銅鐸の時代前
この時は 大国主は、近江又は、斑鳩
銅鐸の使われたのは 垂仁時代が最後、
もう 子供の玩具 程度
>>934 :日本@名無史さん:2007/09/11(火) 21:01:48
>唐古・鍵は奈良在来人の遺跡で、天皇一族とは関係のない遺跡で、勢力を増大させてきた
>天皇一族に滅ぼされたものと思われます。
違う。大和=天皇家。
941 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 22:41:16
大和平野から破壊された銅鐸が出土しているところを見ると、神武進入時には銅鐸は存在したようです。
おまえら、天照国照彦火明命について調べてみい。
紀元1世紀、大和王権の初代国王は、この人物だよ。
それで、天武天皇が記紀を編纂するまでは
この人物が、大和の祖神・太陽神アマテルとして敬われていた。
天照御魂神社の祭神の多くが、この火明命を祭っている。
天皇家の祖は、この火明命の弟の天津日高彦瓊瓊杵尊。神武天皇の曽祖父だ。
つまり、天武天皇にとっては、このことは非常にまずいことだった。
天武天皇は、大海人皇子の名の通り、海部氏(火明命の後胤)に養育され、
しかも、壬申の乱の時は、尾張氏(火明命の後胤の嫡流、草薙の剣を保持)の
支援を受けて勝利し、皇位を継承している。
しかも、その家系を見れば、尾張氏・海部氏こそが大和王権の創始者の家系であり、
天武天皇の家系はその傍系に過ぎない。
実は継体天皇が傍系から皇位を継承する時も、尾張氏・海部氏の支援があり、
伊勢神宮の外宮も、海部氏から持ってきたものである。
つまり、政治的には皇室が最高位だが、宗教的・祭祀的には
尾張氏・海部氏が本家で、皇室は格下の傍系に過ぎなかった。
よって、天武天皇は、尾張氏・海部氏の権威を打ち消すために
火明命(尾張氏・海部氏の祖)と瓊瓊杵尊(皇室の祖)の祖母を
女神・天照大神として新しく祭ることにした。
しかも、尾張氏から三種の神器の草薙の剣を奪おうとしていた。
が、結局、あきらめて、草薙の剣の本物は尾張氏の熱田神宮に保持されている。
(皇室にあるものはレプリカだ。)
943 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 23:27:02
>>942 日本書紀が天武天皇の死後30年たってから完成したという事実を
皆忘れてるんだよね。
だから天武天皇がいろいろと真実をねじ曲げたとか、天武に都合良く書かれた記録だとかって偏見にとらわれてる。
天武が編纂を命じたのは確かだし、死後30年後も天武シンパはたくさん残ってたろうから
それなりに天武を絶賛する記述は書かれているものの、
日本書紀は、時の権力者にして壬申の乱で大友皇子について敗北し天武に干された藤原不比等にとって
都合のいい文書だと解釈しなければ、古代史の謎は解けませんよ。
944 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 02:12:59
>>943 [藤原不比等にとって都合のいい文書]
とは、いっても古語拾遺でも大きな食い違いが無いわけだが?
945 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 02:58:47
>>944 日本書紀は正史として編纂されたものだから、それ以後の文書が
日本書紀の記述と一致したとしても不思議ではなく、日本書紀が藤原不比等のために
書かれた文書であるという説を否定し得る証拠にはならない。
946 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 03:05:39
>>945 [藤原不比等にとって都合のいい文書] なのは、そうだろうが、
どの程度のレベルの話をしてるのかね?
藤原氏に都合の悪い過去なんてのがあるわけ?
そもそも藤原氏の前身の中臣氏は、古代から政界の中枢にしたことは、
古語拾遺でも保障されている。
947 :
唐松山:2007/09/15(土) 09:56:35
アビラノ神 について 知りませんか?
神倭磐余彦天皇
年十五立為太子。長而娶日向国吾田邑吾平津媛。為妃。生手研耳命。 年四五歳に及びて...
タケヒト=カンヤマト イワワレヒコの スヘラギは ミオヤアマキミ ヨツノミコ
アビラヒメ めとりうむミコ タギシミミ キミトシヨソヰ ものがたり
ミオヤアマキミ ツクシたす ソトセおさめて ヒたるとき アマキミのニを
タケヒトに さつけアビラノ カミとなる
948 :
唐松山:2007/09/15(土) 10:31:34
ヲヲモノヌシは フキネなり
カクヤマのトミ ナガスネが まゝにふるえば さわがしく
タカムスビ→ヒタカミ→オオンカミ→ミコのヲシヒト→ミマコ キヨヒト<=>ワケイカツチノ アマキミと アメのイワクラ
をしひらき
尾張氏=ニニギ=香具山 異論は,有りませんが,
天照大神=アビラノカミ? こんな疑問が頭をよぎったんで。
手研耳→天忍男→?→世襲足媛(考昭の妃)
ほつま ではこのように読めます
949 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 11:43:43
>>946 中臣氏が古代から政界の中心にいたことは間違いなかったとしても、
中臣鎌足が本当に生粋の中臣氏だったのかどうかが疑わしいという事なんですよ。
この人の出自があいまいで、この当時百済から人質として来日していた百済王子、豊璋である可能性が高く、
その子供藤原不比等にとっては、自分の立場を保証してくれている女帝持統天皇が天武の皇子達をさしおいて
即位した正当性を確立させなければいけなかった。
だからアマテラスが皇祖神になったのは、天武の都合ではなく、藤原不比等と持統天皇の都合だったという事です。
そうかんがえれば、天子降臨神話にならず、天孫降臨神話になった理由もわかるでしょう。
950 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 15:10:00
天皇の祖や日本建国のあらましの真実が後世に記録されることも藤原不比等には都合悪かった。
なぜならば、それを語る上で蘇我氏の祖、武内宿ねやトヨ(壱与、台与)の存在に触れねばならず、
さらには彼らの家柄の正当性を認めねばならないことだったから、藤原一族としてはなんとしても
合法的な手段で歴史をねつ造し、事実を歪めねばならなかった。
951 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 15:13:33
蘇我の王(スサノオウ)の作った出雲が神話に封じ込まれたのも藤原不比等の仕業です。
952 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 15:27:06
ついでに言いますと、このスレの主題である日本書紀紀年法が複雑な操作を施されているのは、
ズバリ応神天皇の即位時期をごまかすために藤原不比等とそのブレーン達が考えた事です。
日本建国にまつわる古代史の鍵はひとえに応神天皇に隠されていると言っても過言ではないでしょう。
歴史を歪めて正式な記録とする、その動機があったただ1人の人、それが藤原不比等であり、
持統天皇だったと断言してもさしつかえありません。
953 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 15:34:27
関裕二乙。
954 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 15:54:21
>>953 あんな素晴らしい人と私を同一視しては、彼に失礼です。
関さんは天才で、文章も素晴らしく、単なる歴史ファンでよくいるタイプの私とは月とすっぽんです。
955 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 15:57:56
うん天才だね。だからそれに感化される凡人が続出するのも当然だね。
956 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 16:02:55
それに関さんがこのような場所で書き込むはずありませんから。
彼にはわざわざこんな所で私見を発表する動機がない。
活躍の舞台は十分あるわけだから、ここで書いてる私などは単なる普通の歴史オタクだと見るべきでしょう。
957 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 16:15:54
関に感化されるようではオタクとは言えない。
ついでに言えば2ch初心者らしいな。半年ロムれ。
958 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 17:41:25
関の論は、もともと天の岩屋神話が「トヨのヒミコ殺し」という妄想から始まったもの。
「トヨのヒミコ殺し」の前提が、天照大神=ヒミコだから、
持統天皇が天照大神を皇祖神にしたという説は矛盾してる。
最初は素人考えで「天の岩屋神話は実話」「ヒミコが天照大神」だとして、
「トヨのヒミコ殺し」を妄想したんだろうけど、
後になって天照大神が創作だと気がついた。
その時点で「トヨのヒミコ殺し」は成立しないのに、強弁しようとしたからグダグダになってしまった。
物部氏が九州出身で、出雲をいじめてるとか言ってたが、これもグダグダ。
自分でロクに調べもしないうちから、
先人が調べつくしてきた資料に新解釈を入れようとしたから失敗するんだよ。
959 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 17:46:46
関が、「物部氏が九州出身」だと考えたのは、明らかに安本の影響。
だが、後になって安本がインチキで、自分が騙されたと気がついたものだから、
今は反動で安本を叩いてる。
「トヨのヒミコ殺し」もいつかは訂正しないといけないだろうが、
そうすると関の今までの論がすべて崩壊する。
論を進めるほどに自滅の道を歩むというのは、デンパ本作家の宿命というのかねえ。
960 :
躑躅:2007/09/15(土) 18:43:32
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961 :
躑躅:2007/09/15(土) 18:44:10
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躑躅:2007/09/15(土) 18:44:32
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躑躅:2007/09/15(土) 18:45:19
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躑躅:2007/09/15(土) 18:45:41
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966 :
躑躅:2007/09/15(土) 18:46:03
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967 :
躑躅:2007/09/15(土) 18:46:25
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968 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 20:19:18
そうです。今までの紀年論は全て終了し、正確な紀年がもうすぐときあかされます。
969 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 10:18:42
もうすぐ1000になるので、
そろそろ倉西先生に、きゅっとしめてもらいたいな
970 :
唐松山:2007/09/16(日) 17:15:24
次回より
下記の 治世 年齢で 記事(何でも有り)を検討します。
西暦 治世 即位年齢
神武天皇 36年 19年間 25才以下
空白(タギシミコ) 3年間
綏靖天皇 58年 14年間 15才
安寧天皇 72年 11年間 14才
懿徳天皇 77年 11年間 8才
孝昭天皇 88年 26年間 5才
孝安天皇 114年 26年間 15才
孝霊天皇 140年 19年間 20才
孝元天皇 159年 19年間 14才
開化天皇 178年 8年間 13才
崇神天皇 186年 25年間 4才
垂仁天皇 211年 23年間 10才
景行天皇 234年 22年間 17才
朔の廻し8年に相当
成務天皇 264年 4年間
仲哀天皇 268年 3年間
神功皇后 271年 37年間
応神天皇 308年 24年間
西暦は,2年不足 年齢も検討不足ですが
971 :
唐松山:2007/09/16(日) 17:18:37
まず 神武から 考昭 あたり
ほつまで
ホ29023 アビラヒメ めとりうむミコ タギシミミ キミトシヨソヰ 推定西暦30年頃
ホ31024 フソヨトシ キミヨツギなし 神武24年 西暦40年
クメがコの イスキヨリヒメ ヲシモメに 西暦40年
サミヱナツ ヤヒコのほりて おがむとき ツボネにあるを 神武32年 西暦45
タギシミコ ふかくこがれて チチにこふ
フソコトシ キシヱハツミカ キサキたつ ヨソタリヒメの 考昭29年 西暦97年
トシソヰぞ ムカシヤヒコに ユリヒメを たまえはうめる
アメゐだき このアメヲシオ マゴムスメ ユリヒメ=イスキヨリヒメ
ヨソコトシ キミヱハツヒに キサキうむ イムナヲシヒト 西暦99年
ヤマトタリ ヒコクニノミコ
次 有史八代 白河本旧事紀より
(考昭)天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、
政務を事(つ)かへたまはず。然(しか)れども天下泰平、...
是の月、大物主大神 出現し、...国主、寿(ながいき)せず。...
検討
初に 手研耳 16才で父の妾 イスキヨリヒメを孕ませる
西暦46年 誕生 天忍男その孫娘 世襲足姫 西暦97年15才
46年+18+18+15=97 可能な年齢 及び年数
次 考昭即位時の年齢 上記 有史八代を読んで下さい。
幼いか痴呆 私は,幼い(5才) と読み解きます。
天皇 長生きせず。
如何ですか?
日本書紀紀年法がついに解明されました[part5]もレス数が1000に近づいてまいりました。
パート6を立てるかどうか、現在、考えこんでおります。
本スレッドの目的は、日本書紀紀年法においては、応神元年から雄略5年までの間は、
プラス・マイナス120年構想と多列・並列構造にあることを、多くの方々に知っていただきたいということにありました。
日本書紀紀年法の構造がわかれば、史学のみならず考古学などの他の研究分野においても、
役に立つのではないかと、考えたからです。
これまでの議論を通して、プラス・マイナス120年構想、多列・並列構造にあるということを、
皆様、ご理解いただけたでしょうか。
973 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 11:14:04
関さんの新作のネタに使えそうだねw
974 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 11:29:24
関さんこんにちは
975 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 11:42:31
2倍年暦による日本書紀紀年法の画期的解釈が今週末頃に発売されるようです。
976 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 12:48:57
977 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 13:18:43
埋めますか
>972
2chで紀年法論議の裾野が広がったと信じます。
期間をおいて、しばらくしてからご検討ください。
パート6の形でなくともかまいません。
「永久に〜我〜ら〜が〜 誇〜り〜な〜れ〜♪」