日本書紀紀年法がついに解明されました[part4]
839 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :
ちょっと閃きました
【その1】
研究家さんのプランと高城修三さんのプランを検証してて思ったんですが、
研究家さんのプランを拡張して考えて、
仁徳列で応神没年394年以前までを想定すると
応神五年〜二十年ぐらいまでの外事記事を中心に仁徳列で大量に処理出来そうです。
一例。まずこれを見て下さい。
■史記・近肖古王23年
>二十三年 春三月丁巳朔 日有食之 遣使新羅 送良馬二匹
近肖古王23年は368年になります。
■書紀・神功52年
>五十二年秋九月丁卯朔丙子 久?等從千熊長彦詣之 則獻七枝刀一口・七子鏡一面 及種種重寶
これを応神列で処理すると神功52年は372年になりますよね?
■書紀・応神15年
>十五年秋八月壬戌朔丁卯 百濟王遣阿直伎 貢良馬二匹
これを応神列で処理すると404年なんですが、仁徳列で処理すると368年で、三国史記と完全に一致します!
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
でも、書紀の復元に使う年代列が違う事で、
「神功紀」で七枝刀と七子鏡を貰ったの年代が後(372年)で、
「応神紀」で良馬二匹を貰った年代が前(368年)と、順番が逆になってますよね?
840 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/26(月) 22:39:49
【その2】
この関係が古事記では如何書いて居るかと云うと↓
■古事記・応神記の渡来系の記述箇所
>亦百濟國主照古王 以牡馬壹疋 牝馬壹疋 付阿知吉師以貢上【此阿知吉師者阿直史等之祖】 亦貢上横刀及大鏡
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
書紀で年代列を違えて逆の順番になって復元されたものが、
古事記の一文の中での順番とピッタリ同じで、馬が先で刀と鏡が後!
ここは古事記の伝承体系こそがほぼオリジナルに近くて、
書紀の側はこの一連の関係を年代列を二つ使って記録位置を隔てて分割したんでしょう。
(記)照古王=(紀)肖古王=(史記)近肖古王で、在位が346即〜375没ですから、
応神記の一文のそのままの順序で、
照古王(346即〜375没)が、
(記)阿知吉師=(紀)阿直伎を遣わして牡馬1と牝馬1の合わせて2匹を368年に献上し、
(369年に七枝刀が作刀され)、372年に七枝刀一口・七子鏡一面が献上した。
しかも、古事記の対象年代が実年代通りに書いているとすれば
これらは全部「応神の在位年間」の出来事ですよ。
つまり、実年代上の応神元年は応神列で求められた390年より前から始まっていると云う事に成る筈です。
841 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/26(月) 23:02:26
【その3】
応神五年〜二十年の外事記事を中心にと書きましたが
例えばちょっと応神八年を見てください。
百済人の来朝を書いていますが。
これだけでは応神列と仁徳列のどちらでも意味が取れそうですが
割註で書かれてる、百済記の引用だけを注目すると
阿花王(392即〜405没)について書いて居ますよね?
これなら、取り敢えずここだけは応神列と見て、応神列で397年で良さそうですね
(注意深く言えば割註だけは)
でも他の応神五年〜二十年あたりの記事を見てください。
外事記事に百済王の名前が書いて居ません
百済王が〜と書いている所もありますが、
古事記での応神治世の照古王などになってる所を誤魔化してるんです
つまりこれは、トリック記事だったんです
応神記で外事記事だけでも特定できるものは大量に在りますが
外事記事に限らず古事記の応神記に書かれているものは、
394年の応神没までに納まるように、応神列だけでなく、仁徳列も使って求めるべきです
842 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/26(月) 23:37:27
【その4】
こう云う推理が出来ます。
古事記は崩年干支が実年代に忠実なだけでなく
古事記は意図的な書紀のような紀年操作に左右されず
A天皇の記に、A天皇の事跡として書かれている事柄は、
オリジナルの年代観に近い形で記述されている
古事記製作者が紀年引き伸ばしに前の正しい(狭義)年代観を知っていそうです。
そう云う意味から崩年干支も当初から在ったと見ても良さそうですね。
記紀で記録位置が違う話なんかもフラグ記事になりそうですね
仁徳と応神も話のプロットが記紀を越えて移動しているようですが。
応神以前でも年代列の基準年を探す手掛かりになるかもしれないです
系図の錯綜問題もこう云う事が原因かも
逆に天皇記、国記の段階で引き伸ばし紀年が付いてが既に付いていて、
それを参考にしているような感じは受けませんが。うーん
843 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/27(火) 00:42:10
【その5】
ここで最初に言った高城さんのプランは、高城さんの著書の『紀年を解読する』に書いてある
二倍年歴説なんですけど、
そこでは、日本書紀の神功52年と応神15年と、古事記の応神記を引いて
三国史記で362年に新羅に良馬二馬を送ったんだからこの年代は
高句麗との戦いを前にした百済が送ったんだから
倭にも二干支繰り下げでの応神15年の404年ではなく、
新羅に送ったのと同じこの時期に良馬を送った筈だ、と云う前提で書いているんですね。
高城さんは倭に送った時期は計算上369年の後期だとしているんですけど
これの考えに沿う形で研究家さんのプランを拡張させてみたら?と思って計算すると
近いんですよね。この二つは水と油の筈なのに
私自身も高城さんに近い1〜3倍込みの立場で来てるんですけど
研究家さんのプランをこのまま拡張させて行った方が上手く行きそうな気がしてきました。うーん。
でも研究家さんのプランも高城さんのプランもここから年代を遡ると問題が
844 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/27(火) 10:03:36
「倉西先生のご学問所」というホームページを開設いたしました。
http://につづいて、www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/でアクセスできます。
>>1で述べたわたくしの紀年説については、日本書紀紀年法入門をご覧いただければ、
わかりやすいのではないかと思います。
ぜひ、皆様、アクセスしていただきたくお願い申しあげます。
845 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 11:09:33
研究家さん
さっそく拝見しました。(余談:きれいな人だなあ〜)
研究家さんと「いらつめさん」とで、同一人物かと思うくらい
息がぴったり合っている原因がやっとわかりました。
論文はこれからじっくりと読ませていただこうと思います。
掲示板が積極的、建設的で協調性ある意見でいっぱいになる
ことを楽しみにしています。
846 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/27(火) 12:16:15
>>845さん
さっそく、「倉西先生のご学問所」にアクセスしてくださいまして、ありがとございました。
拙いホームページですけれども、古代史について考えたり、学んだりされる際に、
皆様のお役に立てるものとなっておりましたならば幸いです。
掲示板は、現在設置の準備を進めておりますが、ホームページに不慣れなこともあって、
まだ、開設することができません。なるべく早くに開設できるよう、
努力してまいりたいと思います。
いつ発見されたん?とりあえずおめーー
綺麗な方でびっくりしました。もっとガリ勉風のイメージだったのですが・・・。
研究家さんというより、これではまるでモデルさんですね。
(研究内容と関係ない記述でごめんなさい)
849 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/28(水) 10:57:36
>>848さん
綺麗とほめてくださいまして、ありがとうございます。
わたくしの人となりを、知っていただけることになるため、プロフィールに
興味を持っていただけたことは、うれしいことです。恥ずかしながら、自己紹介として、
プロフィールコーナー設けました。
ついでながら、日本書紀紀年法入門を(本当はこちらがホームページ開設の目的なのですが…)、
ぜひに、ご覧いただければ、幸いです。
>>1で述べたことを、わかりやすく説明いたしております。
850 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 11:46:11
あのころ、早稲田からよく日本女子大のラウンジに出かけたものです。
あのとき、研究家さんといらつめさんが仲良く学んでおられたんですね。
ポンジョの学生さんには、楚々とした学究肌の人が多かったけど、
お2人にはちっとも気がつきませんでした。とっても残念。
851 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 14:02:45
( ^^ω)ホマホマ
852 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/28(水) 14:13:37
>>850さん
850さんは、わたくしと妹と同世代のかたなのですね。
そのうち、ホームページのアルバムに女子大時代の写真を掲載してみたいと
考えております。日本女子大学でも、双子の学生は、たいへん珍しかったそうです。
また、ぜひ、日本書紀紀年法入門と歴史発見物コラム、ならびに、妹の政治学コースも
ご覧いただければ、幸いです。
853 :
850:2007/03/28(水) 14:42:30
>>852 ありがとうございます。貴HPは頻繁に拝見いたします。
私は研究家さんよりやや上の学年です。学習院にはやんごとなき方がおられ、
川村女子学園には山田邦子が在籍していたころだと思います。
日本女子大は、「娘を入学させたい大学」のナンバーワンだそうですが、
私が週2回ほど通った印象では、むしろ「学問の府」でしたね。
たわいもない日常会話に、さらりと学術的な内容が織り込まれている感じでした。
研究家さんといらつめさんの印象そのままです。
854 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 20:34:53
流石にお上品なスレになってきましたね
あっ お紅茶がはいったようなので失礼します イソイソ イソイソ
855 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 22:23:11
古事記から崇神の崩年を258年にする説があるけど
書紀の在位年数から、仁徳、神功、成務、垂仁から一還暦引けば
崇神の崩年は259年になり、古事記とほぼ同じになるね
これって偶然?
857 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 07:40:23
>崇神の崩年は259年になり
239年の間違いです。 スーマン
858 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/29(木) 09:46:53
>>850さん
いろいろとお褒めくださいまして、ありがとうございます。
ぜひ、ホームページをご覧いただきたくお願い申し上げます。
わたくしも、歴史発見物コラムは、1か月に一度ほど更新し、多くの人々が、
興味を持つような話題を提供いたしたいと考えております。
また、コラムのテーマについては、紀年法に限らず、ご要望があれば、対応
いたしたいと思っております。
859 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/29(木) 10:04:19
本スレッドの読者の皆様へ
わたくしと妹で、ホームページ、「倉西先生のご学問所」を開設いたしました。
アドレスは、hppp://www3.plala.or.jp/kuranishigakumonです。
歴史学コースは、わたくしが担当しており、日本書紀紀年法については、
日本書紀紀年法入門を設けました。
>>1で述べたわたくしの説について、
わかりやすく説明いたしましたので、ぜひ、参照してみてください。
また、歴史発見物コラムでは、昨今の歴史的発見物をテーマにコラムを
掲載いたしました。わたくしのこれまでの著作についての内容概略のコ
ーナーもあります。
ぜひ、ご覧いただきたくお願い申し上げます。どうぞ、よろしくお願い
申し上げます。
860 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/29(木) 10:15:04
>>855さん
>書紀の在位年数から、仁徳、神功、成務、垂仁から一還暦引けば
崇神の崩年は259年になり、古事記とほぼ同じになるね<
とのことですが、60年引いて、仁徳紀(87−60=27)、
神功紀(69−60=9)、成務紀(60−60=0)、
垂仁紀(99−60=39)、という数字になります。
これらの27、9、0、39というを、どこからどのように引くと、
西暦239年となるのでしょうか?
861 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:31:28
>>855 春厨の戯言です
華麗にスルーしてくださいまし
862 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/30(金) 10:45:27
>>861さん
日本書紀の紀年と60年(一還暦)との関連には、興味深いものがありますので、
日本書紀紀年法と60年に注目しようとするお考えは、否定的に捉える必要はないと
思います。わたくしも、60年に注目して、プラス・マイナス120年構想が、
設定されていることに気付きました(
>>859の「倉西先生のご学問所」の日本書紀紀年法入門
をご参照ください)。プラス・マイナス120年構想は、神功元年から
雄略五年までをカバーしておりますが、そのほかにも、別の構想が設定されている
可能性があります。60年について、考察を続けてみては、いかがでしょうか。
863 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/30(金) 10:57:50
征東大将軍さん
>>821で述べたことについて、『高倉宮岡君本紀』においては、仁徳天皇の時代に
3代が入っています。わたくしは、このことから、日本書紀紀年法は、二倍暦で説明
するよりも、一倍暦による延長と考えたほうが、よいのではないかと、推論するに
いたりました。プラス・マイナス120年構想は、一倍暦によって、どのように考えれば、
日本書紀の編年の矛盾に、蓋然性の高い説明ができるのか、という問題意識を
スタートとして、たどりついた結論です。
864 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/30(金) 20:16:39
HP見させて貰いました。
研究家さんは仲良し姉妹(・∀・)人(・∀・)だったんですね
>>863 年代列構想はイケそうですけど、プラスマイナス120年構想は頂けません
神功元年201年は雄略列そのものであって、実年代側に乗って居ないでしょう
>>839以降の続きです。ちょっと読んで見てください。
仁徳列で応神15年が368年とし、仲哀古事記崩年干支設定年が361年と事を考えると、
応神列だと神功13年が333年になって仲哀の崩年以前になってしまいますから
神功元年〜神功13年記事までは応神列ではなさそうです。(勿論雄略列でもありません。)
その次の漢籍引用記事三連続は、雄略列ですのでコレも応神列ではありませんよね。
神功46年記事が応神列ですね。応神列で366年で仲哀没の五年後です。
神功47年記事に百済からの貢物の話が出ますし、丁度良いタイミングになっています。
とすると仲哀紀、或いは成務紀、はたまた景行紀あたりから神功13年までをカバーする
別の年代列が一本ある筈です。
基準年が特定出来ませんが、仲哀没を361年するような年代列に近いものでしょうか。
崇神十年も西暦247年でほぼ確定と思われますので、これを基準年とする年代列がある筈です。
崇神十年も西暦247年だとすると、崇神元年が238年(景初二年)で
崇神21年が西暦258年ですので、これ以降が延長紀年でしょうか。
とすると垂仁元年を258年(或いは259)とする年代列がある筈ですね。
後は垂仁紀で36年分記事が飛んで居るトコロや、
唐松山さんが指摘する、日本武尊物語の記紀で時間差(垂仁紀の橘の件もかな)も
年代列の切り替わりがありそうですね。
865 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/30(金) 20:28:55
>>863 仁徳ついでにもう一つ。
研究家さんは著書の中で仁徳55年を仁徳列で451年にしていると思うんですが、
これ自体の計算はあってると思うんですけど
「冬十月呉國高麗國並朝貢」の記事の日本書紀での記録位置は仁徳55年ではなく
仁徳58年ではないでしょうか?仁徳58だと仁徳列では454年ですよね?
これって底本に違いでも在るんでしょうか?ちょっと確認して下さい。
866 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 22:29:53
ゆーこタン先生に質問です
±百廿年構想がよく解りません
結局仁徳はいつからいつまで即位していたのですか?
867 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/30(金) 22:47:24
研究家さんのプランによると
仁徳の即位年は応神の古事記崩年干支設定年の394年から
皇位を譲り合った為に発生したと考えられる空年を2年分挟んだ397年を元年とし
古事記崩年干支設定年である427年までの累計31年間を在位年としています
397年を元年として、仁徳紀の元年記事から一年ずつ当て嵌めると
仁徳31年の立太子記事の「立大兄去來穂別尊爲皇太子」
がピッタリ当て嵌まると云う訳です
こう云う訳だから古事記の没年は、書紀では立太子記事になってるケースが在る!
と云う寸法です
±120構想に付いては、
研究家さんが云うところの雄略列と、研究家さんが云うところの応神列の差が
等倍論ですので、当然日本書紀の書紀年代上でも実年代上でも
両年代列の差は常に120年差になる訳ですが
これを研究家さんは早とちりしてしまった。と云う訳です
◆この板はボキュの物だ宣言◆ なんだかんだ言ったって、この板の殆どはボキュがレスしているんだから、ボキュの物だ!
|ミ/ ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(6 (_ _) )< ボキュは還暦の大林賢栄だ!もっと優しくしろよ!
|/ ∴ ノ 3 ノ \_______________________
\_____ノ,, ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ 総ての野郎が、ボキュの説に同調しないと、徹底的に荒らしてやる!
/ ヽ| |大 林 | '、/\ / /
869 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 09:58:12
征東大将軍さん
ホームページ「倉西先生のご学問所」をご覧いただきまして、ありがとうございます。
まず、
>>864につきまして、多列・並列構造について、ご理解いただきまして、
うれしく思います。しかし、プラス・マイナス120年構想は、神功元年の201年から、
雄略五年までの間に、数学的に、きちんと整合してきますので、むしろ、プラス・マイナス
120年構想のほうが、理解し易いのではないかと考えておりましたので、意外です。
もし、HP「倉西先生のご学問所」に、もう一度アクセスされることがありましたならば、
歴史学コースの日本書紀紀年法入門をご覧いただければ、幸いです。
数学的に、整合することを図示しております。
870 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 10:21:53
征東大将軍さん
また、仲哀天皇の古事記崩年干支を、わたくしは、361年とは考えておりません。
巻九神功紀の前が巻八仲哀紀ですので、201年以前ではないかと推論しております。
さらに、景行紀から神功13年あたりまでの間に、もう一本年代列があるのではないか、
という点につきましては、わたくしも、そのように考えております。
「『紀』・『記』間における歴代天皇の宝算の年差をめぐる一考察」
(『東アジアの古代文化』120号)にて、試案を提起させていただいております。
この論文では、崇神元年を西暦91年に位置づければ、応神元年390年となるなど、
さらなる年代列構想の存在を示唆しております。ご一読いただければ、さいわいです。
さらに、仁徳55年についてですが、これは、『日本書紀の真実』の150ページ
の表U−8のことですね。ご指摘を受けるまで気がつきませんでした。
まったくの、うっかりミスです。論旨に影響はありませんが、重版になった時にで、
訂正いたしたいと思います(むしろ、仁徳58年のほうが、允恭天皇の崩年干支の454年
と一致いたしますので、倭の五王をめぐる国際情勢の反映とも推測されてきます)。
いずれにいたしましても、誤記につきましては、この場で、お詫びして、訂正いたします。
871 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 10:32:26
>>866さん
プラス・マイナス120年構想につきましては、昨今、ホームページ、
「倉西先生のご学問所」を開設いたしましたので、歴史学コースの日本書紀紀年法入門を
ご一読いただければ、さいわいです。アドレスは、
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/です。
ご一読いただきても、まだ、よくわからないようでしたならば、具体的に、どのような点がわかり難いのか、
ご指摘いただきたいと思います。
仁徳元年は397年で、仁徳天皇の「確定紀年」は397年から426年まで、
さらに、「延長紀年」として、483年まで在位が設定されています。
「確定紀年」と「延長紀年」の相違については、「天皇」の定義は、神祇をつかさどる立場
であるのか、執政者としての立場であるのか、など「天皇」の定義の問題や、
複雑化していた倭の五王の時代の情勢が、関連しているのではないかと、推論いたしておりますが、
まだまだ、研究段階です。
872 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 10:41:18
大林さん
多くの人々は、学術的な議論の発展のためにスレッドを立てていると思います。
日本史版のいわゆる「スレ主」はテーマを提供するのみで、そこで、活発な議論が
行われることに、掲示板の意義があるのではないでしょうか。
日本史版のスレッドを自分のものという大林さんの主張は、理解に苦しみます。
また、説というものは、論理的、合理的なもので、多くの人々が納得して、
はじめて定説として確立されてくるものです(時間がかかる場合もあります)。
脅しでは、説は、確立されないのではないでしょうか。
873 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/31(土) 11:16:05
>>870 研究家さんは2ページ先の152ページで仁徳55年=451年として論考しているので
そこも修正もお忘れなく
それから11ページの4行目の
>神倭伊波礼比古命
これは古事記での名前なので『書紀』を引用して使うには問題ですね
もう一つ、196ページの上段8行目の
>先代旧辞本紀
この書名も大丈夫でしょうか?
――――――――――――――――――――――
【訂正です】
>>864で言った
>仲哀没を361年
は362年の誤りですね。
>>870で研究家さんが引用された仲哀没も362年です。
――――――――――――――――――――――
>巻九神功紀の前が巻八仲哀紀ですので、201年以前ではないかと推論しております。
研究家さんは、年代列算出論に純粋にしたがって、通説通りの
古事記仲哀362年没辺りに当て嵌まる年代列を求める方が、
応神列以降の研究家さんの論説をも強固にする事に繋がる筈なんですけどね
875 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 12:34:32
征東大将軍さん
仁徳55年をめぐる間違えは、允恭天皇(済)の崩年干支の454年=仁徳55年(仁徳列)と、
「済」の遣使年の451=仁徳58年とを、取り違えてしまったことから、起こりました。
仁徳列が五世紀の倭の五王の時代に位置づけられることを示すために、
国際情勢と関連した記事を、あればあったで、というように、よく検証を加えずに、
論述してしまったことに、わたくしの落ち度があります。
『日本書紀の真実』の150ページから152ページにかけては、訂正しなくてはなりません。
しかしながら、仁徳55年問題は、プラス・マイナス120年構想、多列・並列構造の論理には、
まったく影響のない記述です。ぜひに、「倉西先生のご学問所」の歴史学コースの
日本書紀紀年法入門をご覧いただき、プラス・マイナス120年構想についても、
ご理解いただきたいと思っております。
876 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 12:37:48
>>859にて、わたくしのホームページ、「倉西先生のご学問所」のアドレスについて、
hpppは、httpの間違えです。お詫びして訂正いたします。
877 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 19:28:01
征東大将軍さん
>年代列算出論>とは、どなたの論のことでしょうか。
わたくしの説の年代列算出法ですと、仲哀天皇の古事記崩年干支は、362年にはなりません。
先ほども述べましたように、巻八仲哀紀は、巻九神功紀の前に位置づけられていますので、
西暦201年よりも前の年代と考えております。
それから、ひとつ訂正させていただきますと
>>870にて、崇神元年を91年に位置づければ、
応神元年が390年になるのではなく、応神天皇の立太子年の神功3年が390年になります。
すなわち、390年は、応神天皇の立太子の年代であるとともに、即位の年代でもある
という不可思議な関係が成り立っていることになります。
879 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/01(日) 09:41:42
>>874さん
忠告をいただきましてありがとうございます。
880 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/01(日) 09:50:38
>>878さん
王仲殊氏は三角縁神獣鏡の研究をなさっておられたかと思いますが、
どのような点において、台与の活躍を再評価すべきと考えておられるのでしょうか。
狗奴国戦争?倭諸国30ヵ国の統合?
魏志倭人伝は、台与の遣使のところで筆を置いていますので、その後、日本が
どのような経緯をたどったのか、まったくと言ってよいほど、わかっておりません。
これを解く鍵となる人物であるかもしれませんので、いずれにせよ、台与について、
もっと、研究を進めるべきなのでしょう。
881 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/01(日) 09:51:43
研究家さんの話ですよ。
研究家さんの年代列算出法は本来±120年説に「無関係」に存在可能なのにも関わらず
プラスマイナス120年説を介在させようとして誤った結論を導いてしまっています。
仁徳列や応神列を導くのに±120年説が必要だったでしょうか?
そうではありませんよね
一端±120年説をポーンと脇に退かして下さい。ポーンっと
±120年□ヽ(・д・≡・∀・)ノ==■ポーン
882 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 10:51:28
189年間の記事を69年間に圧縮するというのはかなり不自然な気がする。
系図や登場人物はどうなるのだろう
883 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/01(日) 12:38:50
>>征東大将軍さん
なぜ、プラス・マイナス120年構想であるのかといいますと、応神元年の西暦
390年がマイナス領域とプラス領域の接点となっているからです。
たしかに、多列・並列構造は、プラス・マイナス構想とは無関係に算出することができます。
しかしながら、神功紀や応神紀の紀年の実年代への位置づけ問題を考えた場合、
プラスマイナスの問題も重要ではないかと思います。
884 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/01(日) 12:46:50
>>882さん
圧縮しているのではありません。西暦201年から389年までの189年間
を神功紀でカバーしているのです。このため、少なからず、神功紀には、神功元年を
西暦201年とする年代列(雄略列)と西暦321年を神功元年とする年代列(応神列)の
2本の「年代列」が設定されています。神功紀の紀年不足をカバーするためのさらなる構想が
日本書紀には、設定されている可能性があります。
885 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/01(日) 12:48:43
>>880 王仲殊氏は三角縁神獣鏡は国産説を唱えて
九州説論者を喜ばした人ですね。
九州説論者からは神のような扱いを受けた人。
王仲殊氏は中国社会科学院のトップの人だから。
しかし、その後、王仲殊氏は
三角縁神獣鏡は日本製だけど、
邪馬台国=大和だろうといって
九州説論者をガッカリさせた。
で、三角縁神獣鏡は卑弥呼の時代ではなくて
台与の時代のものだろうという考え。
彼は、巻向に物凄く関心を持っている。
王仲殊氏は、中国社会科学院の偉いさんで。
おそらく、中国政府の意向もあり
日本の起源を徹底的に調査している人だと思われ。
当然、彼は、日本考古学の研究で
中国の文献、日本の文献を照らし合わせて
考えているように思われ。
中国の学者では、当初は邪馬台国=九州説がやや優位だったんだけど
もう最近は、邪馬台国は畿内だろうという考えが強くなっている。
そして、その考えを強くしているのが、例のマキムク。
日本記紀の崇神時代の記述と、中国史書の邪馬台国の記述との
類似性に着目している。
あと、彼は、107年の帥升の記述にも興味を持っている。
う〜ん、王仲殊氏を私流に翻訳するとこうなるんですが。
→ 原材料の銅は中国製だけど、こんなヘンチクリンな鏡は
野蛮な日本しか作りませんよ。
でも機嫌悪くしないでくださいね橿原のみなさん、邪馬台国は
九州に決まってますが、畿内説を支持しときますから許してね。
王仲殊先生は畿内説だよ、この人。
この先生は、三角縁神獣鏡は日本国産製の可能性が
高いといっているんだけど、
邪馬台国に関しては、大和のことだろうという意見に
そうとう傾いている。というか、断定してきている。
だからこそ、九州説論者に当初、肯定されたのに
その直後、物凄く不評を買った。
王仲殊先生に言わせれば、三角縁神獣鏡が魏志に
書かれた100枚の鏡でなくとも全く問題ないらしい。
何故なら、その魏から貰った鏡100枚は普通
他の日本の豪族たちには安易に配らないだろうって。
それを元に独自に鏡を作って、そちらのほうを
日本国内の権威付けにするほうが可能性が高い。
王仲殊さんが三角縁神獣鏡が日本国産説を提唱したのが1981年。
その時点では、邪馬台国がどこだかは
彼はあんまり断定していなかった。
それから二十年がたって、彼の中での一つの結論として
邪馬台国=大和説に固まってきたんだろう。
また、彼は、後漢書に登場する
107年の帥升にも強い関心を示している。
橿原考古学研究所にへつらってゴマをすることで、
研究所の逆鱗に触れなければ、
中国人が日本の古代をいろいろ語ってもおK。
このスレ一応ざーと読んだけどAA1個しかないね。
俺は携帯だし、技術もないんだけど、テーマが堅いんで、AAでイメージさせたら、やわらかく伝わるかも。
古墳・干支・古代人・研究家のAAがかける人よろしくりん!
》893 2個あったのね。
すみませんでした。
それならもう充分だわ!
895 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 09:45:15
>>886-891さん
王仲殊氏は、三角縁神獣鏡に魏年号などが見え、卑弥呼の時代に鋳造されたと考えられること、
魏年号に景初四年などありえない年紀があるなど、日本で造られたと推論できること、
そして、三角縁神獣鏡の分布状況が畿内に偏っていることから、畿内説を唱えて
おられるのではないかと思います。
また、王氏は、纏向遺跡に注目されているそうですが、わたくしも別の観点から、
纏向遺跡に注目しています。考古学的に、纏向遺跡は、2世紀代が最盛期で、3世紀
まで、存続していたそうですが、このことと、垂仁天皇と景行天皇の宮が纏向にあったという
日本書紀と古事記の伝承との間には、何らかの関連があるのではないかと考えております。
崇神天皇の元年を古事記崩年干支と垂仁天皇の立太子年から逆算して、西暦91年と
推定するわたくしの説の根拠の一つは、纏向遺跡の考古学的年代に拠ります。
896 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 09:47:36
>>892さん
AAとは、何を意味しているのでしょうか。
897 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 09:55:11
>>893さん
>>183と
>>868は、いわゆる”あらし”という意味不明の内容です。また、
このスレッドでの学術的議論を阻害するものであって、読者が不快に思う
内容であると思います。大林賢栄氏という人物が、いくつかの名前を使って
自作自演を行って議論を混乱させようとしているそうですが、困ったことで
あると思っております。「太国さん」や「プラムさん」を別人と考えておりましたので、
これらの人物が、実は大林氏であるということには、わたくしも驚きました。
898 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 10:05:27
「倉西先生のご学問所」にて、昨日開設いたしました歴史学コース掲示板が、
利用不能となってしまいましたことをお知らせいたします。
まだ、原因がわかりませんが、歴史学コース掲示板が再開できますように、
努力してまいりたいと思います。
899 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 14:10:28
ホームページ、「倉西先生のご学問所」の歴史学コース掲示板が、再開いたしました。
>>1で述べたように、日本書紀紀年法は、プラス・マイナス120年構想、
多列・並列構造によって、きれいに説明することができます。
ぜひ、ホームページの日本書紀紀年法入門をご覧いただきたいと思います。
また、ご質問やご意見、ならびに、歴史発見物コラムにて扱ってほしいような
テーマの要望がございましたならば、歴史学コース掲示板にお寄せいただけたならば、幸いです。
「倉西先生のご学問所」のアドレスは、
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/です。
>>897 AAとはアスキーアートです。 簡単にゆうとまあ絵ですね。
901 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 17:21:43
>>900さん
AAとは、絵のことなのですね。
しかし、このスレッドで絵を用いている書き込みは、”あらし”のようです。
このスレッドは、わたくしが立てたものですが、
>>868では、大林賢栄なる人物が、
このスレッドを、自分のものであるという奇妙な主張を行っており、困っております。
スレッドを立てた理由の一つは、わたくし自身の説もふくめて、さまざまな紀年説について語り合い、
どの説に、説明力、説得力があるのかを判じてゆこうとすることにあります。
読者参加型の議論のほうが、よいのではないかと思ったからです。
大林氏が、かってに多くのスレッドで、どのような書き込みも、大林氏の自作自演だと読者が誤解するように
仕向けて、議論が成り立たなくなってしまうことは、たいへん残念なことです。
研究家さんも、ご存じの事と思いますが、荒らしには一切反応しない、スルーをするしか対応の仕様がありません。
あまり期待は出来ないかもしれませんが、飽きるのを待つしかないのです。
ホストさんとしては、ストレスを感じる場合もあると思いますが、華麗にスルーねがいます。
よって私も今後は、この様なレスはしません。
それと、ほむぺ拝見しました。
商業媒体の本を数冊だされている、プロの先生だったんですね!たじろぎました。
まだ120年の表のとこまでしか読んでませんが、わからないところがあったらレスするかも、可能性として・・・かなり質問レベルが低くても、ご容赦願う!
904 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/03(火) 09:23:01
>>902・903さん
荒らしの件につきまして、アドヴァイスいただきましてありがとうございます。
スレッドでの議論が混乱して、スレッドが成り立たなくなるのではないかと心配して、
ついつい苦言を呈してしまいました。
また、ホームページをご覧いただきまして、うれしく思います。
ご質問でも、ご意見でも、ぜひ、このスレッド、もしくは、ホームページの
歴史学コース掲示板に、お書きいただければ、さいわいです。
905 :
唐松山:2007/04/03(火) 17:47:37
前回 暦のページを載せましたが 裏まで読まれていないようなので
景初暦 の 西暦へのすり合わせを書きます。
現在の干支を辿っても素直に景初暦に辿り着けません
では、どのようにすり合わせしたか
景初元年(237AD)は元首のを離れること4046年と書いてあるので,
元首は237−4046=−3808年すなわち3809BC(壬辰歳)の正
月の前の甲子夜半朔旦冬至(ユリウス暦3809BC1月6日[グレゴリオ暦
では前年12月6日])です。これだけのデータがあれば,あとは漢代の暦と
同様にして計算できますね。
今から1800年辿る事が出来ないのに 1800年前には 4000年前まで素直に辿れるそうです。
906 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 17:56:25
神武天皇は実在の人物だろう。
王仲殊氏も徐々に考えを変えていっているけど
卑弥呼=百襲媛命、台与=豊鍬入媛命
で考えが固まっているような感じだな。
これに関しては、自分も同意。
しかし、一方で
彼は、帥升にも注目していて、帥升等と読んで
生口が160人もいたということから
孝安天皇(オシヒト)と解釈しているみたいだけど
(たぶん、卑弥呼=百襲媛媛から逆算して二倍年暦でそう考えたのかも)
これに関しては、自分は同意しないな。
>>907 >孝安天皇(オシヒト)と解釈しているみたいだけど
この王仲殊氏の見解、ネットで読めますか?
909 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/04(水) 11:54:29
唐松山さん
唐松山さんがおっしゃる暦のページとは、
>>831・
>>832のことでしょうか。
唐松山さんがお説の根拠とされている「ホマツツタエ」という文献からは、
>>831・
>>832のような在位状況が考えられるということなのでしょうか。
また、
>>905の
>景初元年(237AD)は元首のを離れること4046年と書いてあるので,<
についてですが、何という史書に、このような記述があるのでしょうか。
910 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/04(水) 11:58:48
>>906さん
わたくしも、神武天皇は実在の人物と考えております。しかしながら、日本書紀と古事記の
神武天皇についての記述は、日本国の統合過程において発生した、さまざまな事件が影響を
与えているものと推測され、神武天皇の実像を求めることは、難しい課題であると
思っております。
911 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/04(水) 12:08:36
907さん
わたくしは、卑弥呼は、成務天皇に投影されているのではないかと、考えております。
『日本書紀』は、成務天皇には后妃が無く(独身)、また、大臣の武内宿禰によって、
輔弼されていたと記しています。このような状況は、夫婿なく、弟に政治を任せていた
という卑弥呼を想起させるのではないでしょうか。また、日本書紀も古事記も、
成務天皇陵と神功皇后陵をまったく同じ名の陵と伝えています。
>>908 王仲殊は、倭王・帥升等(帥升とせずに帥升等で人物名)は
畿内だと言っているんだわな。
その理由が、卑弥呼でも生口は30人程度なのに
生口160人というのは異様に多いから。
それと、面土国は後からつけた名前であんまり意味がないとw
魏志に面土国が出てこないのも理由らしいw
要するに、彼は卑弥呼=百襲媛命と思い始めているから
そこから正しく二倍年暦で逆算して
孝安天皇(オシヒト)と帥升(彼は帥升等で名前だと解釈)との
年代が被るのと類似性から、そう解釈しているのは丸分かり。
この説は自分も当初は支持していたけど
最近は違うだろうと思う。
邪馬台国畿内説は支持するが、帥升は吉野ヶ里の王だと思うね。
というのは、欠史八代の年代は、単純に二倍年暦では計れないと思うから。
実際に日本書紀には年代改ざんの後を思わせる記述がある。
913 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 18:29:35
>>912 >邪馬台国畿内説は支持するが、帥升は吉野ヶ里の王だと思うね。
なんでそこで「吉野ヶ里」なんだよ?
914 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 20:19:38
ところで、なんで神武元年がぜん660年に設定されているか、なんだけど・・
『史記』の『呉太伯世家』を読むと呉は前473年に越の勾践に滅ぼされている。
どうしても書紀の編集者はこれより前に設定したかったんじゃないかな?
》911 稚足彦天皇とは、おもしろい案ですね。
子がなく直系が途絶えたと言う程度しか情報がありませんでした。orz
稚足彦は女性だったんですか?
日本武尊とは兄弟でしょうか?
後をついだとゆわれている壱与(台与)に比定されるかたがいたらご教授下さい。
質問のレベルが低いのはゆるしてね!
>>916 吉野ヶ里の王というよりも
米多の国王という意味だろう?
米多(めた)は面土(めた)だから。
漢和辞典で、上古音、中古音を調べてみい。
面土国の面土は、「メタ」と読んだ可能性が高い。
917 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/05(木) 09:56:53
>>912さん
わたくしも、帥升は、畿内にあったと考えております。
魏志倭人伝は、2世紀中頃から後半にかけて発生した倭国大乱以前に70〜80年間、
男子王があったと伝えております。その男子王こそ、帥升であって、崇神天皇として
日本書紀に扱われているのではないかと推論いたしております。
倭面土国は、「やまと」と訓んだかもしれないのではないでしょうか。
918 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/05(木) 10:00:19
>>914さん
>『史記』の『呉太伯世家』を読むと呉は前473年に越の勾践に滅ぼされている。
>どうしても書紀の編集者はこれより前に設定したかったんじゃないかな?
とは、狗奴国の問題と関連してのご発言でしょうか?
919 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/05(木) 10:07:43
>>915さん
稚足彦天皇が女性であることを示すために、日本書紀は神功皇后の陵と同じ名としたり、
雄略元年条に、稚足姫皇女を伊勢神宮の斎宮となした、とする記述を載せたのではないか、
と推論いたしております。
また、台与については、卑弥呼とは違い行動的な側面が見られます。そこで、神功皇后の事績は、
むしろ台与に投影されているのではないか、と考えられます。卑弥呼が稚足彦(姫)であるのならば、
台与は、息長足姫であるのかもしれません。
920 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/05(木) 10:15:05
>>916さん
邪馬台国論争などと関連して、弥生時代最大の政権が、九州にあったのか、畿内にあったのか、
という謎は、面白い課題であると思います。
わたくしは、帥升については、機内にあったと考えておりますが、吉野ヶ里説も米多説も、
それぞれ、ありえない仮説ではありません。時代は下がりますが、継体天皇は、米多と関連があった
ようですので、
>>916さんのお説は、興味深いと思います。
>>919 ご教授ありがとうございます。
予想通りww 息長足姫が台与に比定されますか、日本書紀の中では
稚足彦以上に大活躍してますねww
確かに、彼女は実質後を継いだ様な感じはしますね。
しかし、稚足彦には2人の妃がいたと記憶してますが、その点は魏志倭人伝との
相違点ですね。
日本武尊とは、異母兄弟(姉弟?)だと思いますが、
そう考えると古代のロマンがますます広がって楽しいですね。
>>919 ご教授ありがとうございます。
予想通りww 息長足姫が台与に比定されますか、日本書紀の中では
稚足彦以上に大活躍してますねww
確かに、彼女は実質後を継いだ様な感じはしますね。
しかし、稚足彦には2人の妃がいたと記憶してますが、その点は魏志倭人伝との
相違点ですね。
日本武尊とは、異母兄弟(姉弟?)だと思いますが、
そう考えると古代のロマンがますます広がって楽しいですね。
↑まちがって 2つ やっちゃいました ごめんなさい
>>912 解説ありがとうございます。
王仲殊氏は二倍年暦説に立っているのですか?
日本書紀の欠史八代の部分が二倍年暦×2で
実質的に四倍年暦になっていると思われる記述。
↓
孝元天皇は、孝霊天皇2年に生まれて
立皇太子が孝霊天皇36年で歳は19歳であったと、
19歳が34年間にすなわち約2倍の年数誇張を認めている。
おそらく、日本書紀の編纂者が改ざんし忘れた部分。
つまり、日本書紀の編纂者は欠史八代の部分を
元々の二倍年暦だった部分を更に二倍に倍増させてしまっている。
日本書紀の編纂者は、
卑弥呼が誰かという部分だけじゃなくて
神武天皇の即位年(革命年での即位)も異様に拘った。
しかし、実際の暦だと、そこには合わせられないので
欠史八代の部分を二倍にし(二倍年暦×2で西暦年の4倍)
行き過ぎた部分は、初代の神武天皇の在位機関を逆に短くした。
だからこそ、神武天皇の年齢に関しては、
古事記のほうが日本書紀よりも長かったりする。
927 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 16:34:08
「二倍年暦」なんていってるアホウがいるが、そんな暦は存在しない。
世界のどこに、1年を2年と計算する暦があるんだ?
あれば教えて欲しいな。
記紀の記述がおかしいからと、勝手に「二倍年暦」なんてものを想定するな。
編纂者が、適当に年代をサバ読んだといったほうがまだ信憑性がある。
現実的に考えて、魏(中国)と国交があり使者が往来していた国同士で、
暦の計算方法が違うなんてことはありえない。
「来年」が一方の国では「2年後」とか「半年後」なんて概念を持ってたら、
国交に支障が出る。
三角縁が、国産として、「景初」を採用してることからも、
倭国が、中国の暦法を古代から採用していたと考えるべき。
だいだい、中国から伝来した「干支」で計算をしてるのに、
倭人が勝手に二倍に計算するわけないだろ。
「二倍年暦」が事実だとするなら、今度は「干支」が捏造ということになる。
928 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 16:41:08
「二倍年暦」が事実だとするなら、今度は「干支」が捏造ということになる。
もっと詳しく指摘するなら、「二倍年暦」が事実だとするなら、
その当時の倭人は、「干支」を採用していなかったはずである。
「干支」と「二倍年暦」を同時に採用したら、それこそ中国人との国交に支障が出る。
中国と倭の「干支」がどんどんズレていくからな。
そんな状態がありうるはずがない。
したがって、「二倍年暦」が事実だとするなら、倭人は、「干支」を採用していないはずだ。
記紀の古代の干支表記がすべてデタラメと考えべき。
天皇が長生きすぎるとかそういう問題以前の問題になる。
>>927 二倍年暦は世界どこでもあった暦だよ。
この説を提唱したのは、英国の歴史家。
欧州でも初期は、二倍年暦だったんだよ。
中国でもそう。
古代の中国人もアホみたいに寿命が長かったりする。
中国の歴史家・考古学者も、日本の歴史を研究しているけど
古代の日本が二倍年暦だったのは、ほぼ定説だよ。
930 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 16:43:10
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
貴方の研究は悪くないと思う。
しかし「二倍年暦」は空想にすぎない。
研究課題にあげるべきではない。
931 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 16:44:04
>>929 はぁ?欧州や中国が二倍年暦だったなんて、聞いたこともないね。
ソースがあれば出してみろよ。
932 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 16:46:35
>>929 一応ググってみたが、
「古田武彦」のサイトしかヒットしねえじゃねえか。笑わせるな。
933 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 17:10:59
>>929 >この説を提唱したのは、英国の歴史家。
それで、その「英国の歴史家」って誰?
二倍年暦が定説なら、有名だよな?
たのむから教えてください。
>>925 >孝元天皇は、孝霊天皇2年に生まれて
>立皇太子が孝霊天皇36年で歳は19歳であったと、
>19歳が34年間にすなわち約2倍の年数誇張を認めている。
>おそらく、日本書紀の編纂者が改ざんし忘れた部分。
目にうろこの部分。
936 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 18:25:26
>>935 その記述のどこが、二倍年暦の根拠になるんだ?
妄想もいいかげんにしろ。
937 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 18:48:58
>>933 英国人の名はウィリアム・ブランゼンです。
2倍年暦については「2倍念歴の真実」をごらんください。
>>925 >孝元天皇は、孝霊天皇2年に生まれて
>立皇太子が孝霊天皇36年で歳は19歳であったと、
>19歳が34年間にすなわち約2倍の年数誇張を認めている。
>おそらく、日本書紀の編纂者が改ざんし忘れた部分。
まじで目にうろこの部分だな。
日本書紀の編纂者は改竄し忘れた部分か!?
上古代の日本は二倍年暦だが、
神武の即位年を干支の辛酉年(革命年)にするために、
欠史八代の部分を倍増させ(結果的に二倍年暦×2で四倍年暦計算に)
行き過ぎてしまった部分を神武天皇の在位期間を短くすることで調整した。
(だからこそ、日本書紀の神武の年齢は、古事記よりも10歳短い)
939 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 18:53:16
940 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 18:55:23
>>937 「2倍念歴の真実」をググると、サガミハラハラの立てたスレしかヒットしませんが?
まさか、サガミハラハラがソース元ですか?
ふざけんな。
941 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 19:19:35
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
一応、親切心から助言しておきます。
「二倍年暦」なんてのは、ごくごく一人の「古田武彦」という歴史空想家の思いつきでしかありません。
ググっても学会系論文はヒットしないでしょう。
貴方の説は、意義深いと思いますが、「二倍年暦」と絡めてはいけません。
一気に、信用を落とすだけです。ご注意を。
ウィリアム・ブランゼン ってのは明治期の
西欧人の学者だろう?
当時の日本人が真面目に古代の天皇の寿命は長かったと語るもんだから
やんわりと、暦が違うかったからだろうと言った。
今でも、未開の奥地の原住民なんか
年齢が見た目よりも異様に高かったりするが
そういった理由がある。
上古代の日本の暦が二倍年暦だったというのは、たしか学会では
2003年には発表されたはず。
これから、この研究が活発化するだろう。
943 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 21:14:39
英国の歴史家の名を教えてくれといったから教えてあげたのになんだその態度は。
もう教えてあげないよ。
944 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 21:31:32
二倍暦の可能性が高いのは倭人伝の記述から、倭人の平均寿命が80〜90年
長い者は100年とあるからだろ
日本列島でも、かつて春と秋に新年をカウントしてたなんて、知識人の常識でしょ。
バイブル読めば、月齢暦すらあったことがわかる。
946 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 21:57:08
>>944 本当に倭人が二倍暦をつかってて、寿命が長かったら、
中国人が不審に思うはず。
明らかに子供の年齢が20歳とかなんだからな。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
どう考えたって、中国人が不審がる。
そして、魏志倭人伝に倭人の風習として二倍暦について記述するだろう。
しかし、記述が無いのは、倭人が二倍暦を使っていなかったということだ。
947 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:01:02
トヨが14歳で卑弥呼の後をついだという記録がある、
倭人が二倍暦を使ってたら、トヨの実年齢は7歳だ。
誰がみても、7歳の少女と14歳の少女は区別できる。
二倍暦なんてものは無い。
トヨ?壱与でしょ?壱与の年齢が2倍暦どうかしらないが、
大勢の従者に支えられ守られた宗教的巫女的首長なら7歳でも十分でしょ。
のちの文武天皇だって子どもだったし。
949 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:20:27
春分の日と秋分の日を祝うのは昔正月が2回あった証拠
欧米には無い習慣
950 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:23:26
キリスト教普及以後は消えたかもしれないけど、それ以前は西洋にもあった可能性がある。
951 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:26:43
>>944 本当に倭人が二倍暦をつかってて、寿命が長かったら、
中国人が不審に思うはず。
明らかに子供の年齢が20歳とかなんだからな。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
どう考えたって、中国人が不審がる。
そして、魏志倭人伝に倭人の風習として二倍暦について記述するだろう。
しかし、記述が無いのは、倭人が二倍暦を使っていなかったということだ。
言い返せるものなら、言い返してみろ。
952 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:34:05
>>948 中国人が、実年齢7歳の壱与を見て、
倭人から「14歳」と告げられたら、不審がるということだ。
頭の悪いやつだな。常識で考えろ。
953 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:38:57
倭人と交流のあった朝鮮人も大勢いただろう。
倭人が二倍暦を使ってたら、朝鮮人が気づかないはずはない。
朝鮮人も二倍暦を使ってたら、中国人が気がつかないはずはない。
どこかで二倍暦について、記録に残る。
記録が無いってことは、二倍暦は無いってことだ。あきらめろ。
955 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:48:18
956 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:52:28
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
倭人が、どこの国とも国交や人的交流が無ければ、
あるいは、二倍暦の仮説は成り立ったかもしれませんが、
実際にと朝鮮、中国と交流があり、
魏志倭人伝にあるように、使者が頻繁に往来しています。
倭人が二倍暦を使っていたら、必ず知れ渡ります。子供が20歳という年齢なのですから。
そして、特異な風習として記録されるでしょう。
記録が無いということは、二倍暦は無かったということです。
どうか、二倍暦などという空想に無駄な考察の時間を費やさぬように、お願いします。
>>952 お前、頭が相当悪そうだな。
倭の習慣としてそう書いてあるんだから、現地人の呼称として理解するだろ。
鯨尺で何尺何寸と現地人が呼称したのを、その数字のままインチやフィートだと思うわけないだろ。
958 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 23:09:15
>>957 子供は壱与だけじゃない。
中国の使者で、倭国に長く滞在してるやつもいるだろう。
倭人が二倍暦を使ってたら、
倭人の子供の成長をみて、早く歳をとることに、必ず気がつく。
959 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 23:12:11
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
ここで、二倍暦にこだわってる人たちは、
「古田武彦」信者です。
他に、二倍暦を説いてる人はいません。
貴方を利用して、「古田武彦」の二倍暦説に信憑性を与えようとしてるのか、
もしくは、わざと謝った情報を与えて貴方を陥れようとしてるのかもしれません。
二倍暦は、考証の価値の無いものです。常識的にかんがえてください。
バイブルの寿命からみて、今の360余日が一年でないことは明らか。
>>959の妄想に惑わされず、科学的な思考を持つことが大切です。
961 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 23:29:57
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
サガミハラハラや、二倍暦を盲信してる人は、ほっとけばいいのです。
相手をしてはいけません。
アラシと同じ。
貴方の貴重な考察の時間を無駄にしないでください。
二倍暦信者は、サガミハラハラのスレで語り合ってればいいだろう。
こっちにくるな。迷惑だ。
「信者」・・・この言葉を乱用している人に、学問が語れた験しはない。
そもそも二倍年暦は、人間の年齢を数えるためのものと、人間に関係なく
時間を表すための概念とがあるだろう。これは年齢と時間の概念論。
研究家さんが語っているのは、一見バラバラに見える記紀の年呼称が
人為的作為的に一定の操作により、ずらしてあると結論づける、
年呼称定型人為操作論。
この2論は、はっきり言って土俵がまったく異なる研究であり、ミックスして
語る意味はない。飴と雨、柿と牡蠣をミックスして語るな。
963 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 23:58:31
記紀の年号は一致しないが、共に寿命が常識の2倍ある事は一致している
964 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 00:13:42
大和朝廷と九州王朝では倍暦の使用が異なっていただろう。
九州のほうはまず二倍暦だと思い、3倍暦はないかもしれない。
九州を「竺紫」というが、『竺』の字には二倍暦の『二』の字が
中にあるし、豊の国の「豊日別」はトヨ日別つまり「十四日別』と
読める。1ヶ月が14日間だったということだろう。
2倍暦の朝廷のほうの繼體天皇の時代のこの天皇の号の「體」には、
字のヘンに十四の『豊』がある。
965 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 00:15:25
ありゃ、間違ってこのスレに書きこんでしまった。サラバ。
なんかさ、二倍年暦だったことに
異様に拒否反応をしめす奴が居るけどさ。
そいつって、日本の記紀が文献として復活することを
異様に恐れているんじゃないの?
967 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 10:15:42
二倍暦につきまして議論の応酬があったようですので、ここで、問題を整理させていただきたいと思います。
そもそも日本書紀紀年法を二倍暦によって説明しようという考えは、日本書紀の各々の天皇紀に配布されてある
紀年数が、非現実的なまでに多い場合がある、という問題から生じています。
実証主義史学の観点から、このような天皇の在位年数を、長寿であったという理由で説明することには、
無理があるからです。
そこで、ウィリアム・ブランセンというかたが、明治時代に、二倍暦説を唱えました。紀年数を2分の1に
縮めれば、現実的な数字となるからです。『魏略』という『魏志』倭人伝が参考とした私撰の史書にも、
倭人は、「春秋をもって年紀となす」という記述があったことも、二倍暦説を支持する研究者を増やす
要因となりました(今日でも、皆様もご存じのように、二倍暦説の支持者はかなりおります)。
このような意味において、二倍暦説は、長過ぎる在位年数を説明するための
ひとつの説であるということになります。→
968 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 10:20:20
紀年数を2分の1に縮めるよりも、
干支が60年(120年)ずれてると考えた方が説得力はある。
969 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 10:24:12
→ したがって、長過ぎる在位年数を説明するためには、別の説があってもよいことになります。
そこで、わたくしが、唱えている説が、多列・並列構造における「延長紀年」という考えです。
日本書紀の編年は、神武元年の紀元前660年から持統十一年の697年まで連なる
一本の年代列によって構成されてるわけではなく、複数の年代列が並列しており、
しかも、各々の天皇紀に配布される紀年数には、「延長紀年」が加えられてある場合がある、
と捉えてみると、日本書紀紀年法の多くは、数学的にも、きれいに説明できるようになります。→
970 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 10:31:40
→ わたくしの説につきましては、
>>1で述べましたが、先月、「倉西先生のご学問所」という
ホームページを開設いたしました。HPの歴史学コースの日本書紀紀年法入門で、
プラス・マイナス120年構想、多列・並列構造、確定紀年と延長紀年について、
わかり易く図も加えて説明しておりますので、ぜひ、ご覧いただきたいと思います。
アドレスは、
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/となります。
二倍暦も、長過ぎる在位年数を説明するための方法ですが、延長紀年という考えも、
十分に、日本書紀紀年法を説明する説となっているのではないか、と思っております。
971 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 10:50:25
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
二倍暦は、現実的に存在できません。
なぜなら、倭人は、朝鮮や中国と国交があり、
互いの国で1年の長さが違えば、当然、不都合が生じます。
二倍暦信者は、文献しか見ていませんが、
古代に、外国と人的交流が実際にあったことを考えに入れていないのです。
倭人、朝鮮、中国の使者が、互いの国を訪れ、
それぞれの歳や、子供の歳を聞きあったとき、
倭人だけ二倍暦を使ってたら、必ず問題になります。
問題になれば、倭人の風習として二倍暦の存在が記録されるはずです。
しかし、そんな記録はありません。
972 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 10:54:07
ウィリアム・ブランセンという人は知りませんし、
その人が本当に「二倍暦」を提唱したのか?
確認もとれません。
ソースがありません。
古田信者だけが、そういってるだけです。
ウィリアム・ブランセンの論文が本当にあるなら、それを見せてもらいたい。
確かに、論文があったとしても、後世の学者が100年も追認していないような説を、
検討する必要は無い。
973 :
唐松山:2007/04/06(金) 11:17:18
974 :
唐松山:2007/04/06(金) 11:51:54
景初元年(237AD)は元首のを離れること4046年と書いてあるので,
この 文章は、 左の 暦の説明 辺りから
massangeana(益山 氏)より
暦関係→暦入門→暦入門4
に出ています
975 :
唐松山:2007/04/06(金) 12:02:32
参考文献の 1番下に在ります
976 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 12:08:45
977 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 12:12:35
>>971さん
誤解をなさらないでいただきたいのですが、わたくしは、二倍暦論者ではありません。
>>967、
>>969、
>>970で述べましたように、多列・並列構造における「延長紀年」
という考えによって、日本書紀紀年法の長過ぎる在位年数を説明しています。
むしろ、わたくしは、二倍暦説に異議を唱えているのです。
978 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 12:28:19
>>972さん
ウイリアム・ブランセン(William Bramsen)の論文につきましては、1880(明治十三)年、
英文で"Japanese Chronological Tables"という論題で発表されています。
辻善之助氏という研究者が、日本書紀紀年法についての、本居宣長などの江戸時代以降の主要研究者の論文を、
『日本紀年論纂』(1947年)としてまとめておられます。
日本書紀紀年法の研究史を辿るうえで、たいへん便利なものですが、
その附録に、ブランセン氏の論文が掲載されています。
979 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 13:30:11
レスポンスが、979まで延びましたので、新しいスレッド、
「日本書紀紀年法がついに解明されました[part5]」を立てようと
いたしましたところ、「新このホストでは、しばらくスレッドが立てられません」
というエラーメッセージがでました。
理由は、”グループ”とういものに、関連しているようで、
そのグループわけについて、以下のように、記されていました。
>グループの決め方
>スレ立て人のIPアドレスを$1.$2.$3.$4とする。
>グループの決め方→ ($1 % 4) * 256 + $2 で得られる数字。
>つまり、$1を4で割ったあまりを256倍して、$2を足した答えの数字。
>ちなみに言うと、
>AAA.BBB.CCC.DDDとEEE.FFF.GGG.HHHのIPアドレスが同じグループである
>⇔BBB=FFF かつ (AAAを4で割った余り)=(EEEを4で割った余り)
どうもチャンネル2の管理者側によって、グルーピング化が
行われているようなのですが、これは、いったいどのようなことなのでしょうか。
ご存じのかたがおられましたならば、教えていただきたいと思います。
980 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 13:42:14
981 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 13:53:29
>>978 どうもありがとう。
「Japanese Chronological Tables」の原文を見つけました。
ざっと読んだけど、たいした内容では無いね。
しっかりした論証があるでもなし、
独り言に近いような、そんな感じ。
982 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 14:42:19
>>980さん
「日本書紀紀年法がついに解明されました[倭の五王編]」というスレッドが
立っているようですが、これは、ご親切に次のスレッドをお立くださったということなのでしょうか。
スレ主は、わたくしのコテハンの「日本書紀紀年法研究家」となっておりますし、
また、わたくしのトリップもついています。
どうして、わたくしのトリップを知りえたのでしょうか。一度、「#」マークをつけ忘れて、
コテハンの数字を公開してしまったことがありますので、その数字から
憶測されたのでしょうか。
いずれにいたしましても、これでは、誰でも、日本書紀紀年法研究家、すなわち、
わたくしに、”なりすませる”ということになってしまいます。→
983 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 15:00:35
→ 歴史研究の議論において、誰の説であるのか、という点は重要です。
先ほども、わたくしは、二倍暦論者ではなく、多列・並列構造論者であると
あれほど、主張してまいりましたのに、
>>971さんは、わたくしのことを二倍暦論者であると
勘違いなさっておられました。
誰が、どの説を唱えているのかが、わからなければ、議論は混乱するだけなのです。
そこで、トリップを変えたいと思います。
ご親切に次のスレッドを立ててくださったのかもしれませんが、
”なりすまし”ができるような方法となりますので、問題があると思います。
また、わたくしは、ちゃんねる2のスレッドでは、倭の五王編というテーマよりも、
日本書紀紀年法全般にわたって、議論いたしたいと考えております。
>>982 以前にトリップを漏らしたことがあるんじゃないですか?
もしあれでしたら、トリップ(#*********の部分)を変えられてみては?
その上で新しいトリップ(◆********)の方はHPの方で明示しておくのが良いでしょう。
私は別人でありますが、研究家さんが2度ほど#を漏らして入力され、
「トリップ丸見え」だった瞬間を知っておりました。そのとき誰も忠告する人は
いませんでした。
上品な研究家さんに対して、これを悪用した人間はいなかったと思います。
987 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 15:56:20
>>986さん
スレッドが立てられないことについてのQ&Aをご案内いただきまして、おそれいります。
スレッドが立てられない理由がわかりました。たいへん参考になりました。
ちょうど、どなたかが「日本書紀紀年法がついに解明されました[倭の五王編]」という
スレッドを立てたようですので、しばらくは、様子を見てみようと考えております(
[倭の五王編]のスレッドは、コテハンは、わたくしのコテハンになっていますが、
わたくしが立てたスレッドではありません)。
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
989 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:45:11
ここうめてから、次のスレ使わへん?
1000ゲト誰かな?
アピの為あえて上まつ
990 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:04:02
992 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:59:41
>>990 いまさら善意とか言うなら、他人のトリップ使うなボケが。
993 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:06:09
それは立てた本人に言えば?ボケ!!
994 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:16:35
995 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:22:35
冗談じゃないぞ、俺は観察者だ。第一エラーが出てて不可能だったので、
>>986を書いただけ。
996 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:29:40
>>995 善意でやったことなら、気にするな。二度とするなよ。
997 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:40:39
本人に言えよ、馬鹿が。
998 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:42:18
>>996 お前が犯人なんだろ!!このトリップ荒らし!!
999 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:49:22
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。