謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!7

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484征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE
SOYさん、日本書紀研究家さんを御存知でしょうか?

通説の120年差ですと、応神15年は284+120年でAD404年の事になりますが

日本書紀研究家さんの年代列構想の考えを拡張して解釈して
彼女の言う「仁徳列」を用いて応神15年を計算すると、

「仁徳列」ですと84年差の年代列なので、284+84年でAD368になる事を見つけました
これが百済が新羅に馬を送った年とピッタリ同じAD368年になります


この箇所の古事記の記述とも完全に一致します。

古事記では応神天皇が百済の「照古王」から馬を貰い、
その後に刀と鏡を貰った順序になっていますよね


古事記の「照古王」は、三国史記百済本紀では「近肖古王」ですから、
彼はAD375年没に没している訳ですが、

仮に通説どうりに120年差で応神15年を解釈すれば応神15年=AD404年となって
応神天皇は「照古王」から馬を貰う事が出来ない訳です

古事記が時系列の問題について嘘を付く動機があるでしょうか?私はそう思いません
動機があるのは紀年操作の必要のある日本書紀の側です


日本書紀の応神15年条を見て下さい。「百済王」から馬を貰った事を書いていますが
百済王が「誰」であるかを書いていません。

彼等は書けなかったんですよ、古事記の通り神功55年=255+120=375年の時点で既に死んだ肖古王
から生存中のAD368年に貰った筈の馬を、年代列を移動して応神15年に挿入する紀年操作をやった訳ですから