1 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :
2007/02/05(月) 04:19:05
2 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 04:28:22
お疲れ
ここのコテさん達って似ていて 揃って畿内と九州の並立を主張しているW 両雄並び立たずでね どっちかは王朝じゃないのにねW あと揃って記紀至上主義には笑うよなW もう少し気の利いた自作すりゃいいのにねW
4 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 10:16:07
記紀や新撰商事録がフィクションであることからまず固定しなければ、 架空の上の架空のお話で終わるよね
同感! 記紀なんて参考資料程度にして 相反する資料の存在意義を考えて欲しいな。
6 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/05(月) 11:16:06
>>3 このスレシリーズのコテで並立論者はいままで1人もいないぞ。
どのコテが並立論者だ?
7 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 11:21:30
いや、原点批判を理解している人は、結果として記紀を鵜呑みにしてしまうことはあるにせよ、 初めから鵜呑みにするつもりはないはず。 原点批判をやって、著者や編者が何を避けて書いたか、何をごまかして書いたか どんな論理を構築したか、なぜこんなことを書いたか書かなかったかなど、 作者の言いなりにならずに、その裏から原典を浮き彫りにしなければ、学問とは いえないでしょう。
変説ニートにはかなわんわW
10 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 13:13:26
自分の過去レス位読みなおせ! めちゃくちゃ論展開して、 方々でアホ扱いされてるくせにW
11 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 14:56:35
太国さんがやるべきことは、自説をあれこれ広げることよりも、 他人が理解でき、納得できるテーマ選びと論理構築でしょう。
12 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 15:08:21
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
13 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/05(月) 15:14:14
>>11 このスレには、太国さんは殆どこられませんよ。
来られても、自説を展開されたことはありません。
14 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 15:32:40
古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。 古代日本では,底の尖がった土器を土に突き刺して炊飯していました。
15 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 15:35:04
お前もだよ! 能天気なとこまでそっくりなお前の過去レスだよ! 方々で馬鹿レス三昧だっただろ!W
16 :
太国ファン :2007/02/05(月) 15:46:15
太国がんばれよw
17 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/05(月) 16:04:42
>>15 は、どこかのスレで僕に、生暖かくえぐり取られ突っ込まれた様ですね?
18 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 16:41:58
お前のアホレス貼りつけたろか?W
19 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 18:29:56
20 :
日本@名無史さん :2007/02/05(月) 23:18:46
畿内王朝は九州王朝の分派から生じて本家を蹴散らしたようですが、 それなら、兄王・弟王のシステムは畿内王朝にもあったのかもしれませんね。
21 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 07:27:00
↑太国説だな
22 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 09:07:22
兄王・弟王のシステムは畿内王朝にはなかったようです。 隋書の記事にはあったように書かれていたが、あれは、畿内王朝の幹部たちが体裁を取り繕うためにうった芝居です。 そのもとは魏志倭人伝です。
23 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 09:14:03
畿内説では、タリシヒコ、倭の5王、年号がどうやっても綺麗に説明できない。 九州王朝説なら、記録がないから言いたい放題って方向でOK?
24 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 10:09:47
あったけどもすぐに滅ぼされた
25 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/06(火) 11:53:10
>>20 畿内では結果的には兄弟統治システムにはならなかったようです。
天武没後の畿内と九州の権力抗争のなかで、持統が卑弥呼の様に兄大王(兄天子)位につき、大嘗祭をしたようですが、
文武は九州を武力制圧し、兄王弟王の権力を一手に手を入れたので、
兄弟統治システムの必要がなくなったようです。
これが後に地方王権である国造を廃止し国司派遣システムになったと考えます。
以上は未だ十分にはあたたまっていない仮設です。(詳細では欠陥だらけ)
参考:九州王朝の統治システム
兄大王(兄天子)のもとに、弟大王(弟天子)(筑紫・肥から選抜)及び地方6大王(出雲・浪速・越・尾張・夷・蝦夷)と
地方王(多数)が従属するシステム。
26 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 14:43:13
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
28 :
日本@名無史さん :2007/02/06(火) 22:32:17
九州の倭王朝から見ると、北の半島も、東の本州も基本的に同じような ものでしょうね。
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ
30 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/06(火) 23:31:24
>>27 >>29 太国氏のレスを何故コピペしたの?????
意味不明
>>28 東の本州畿内のほうが遠い外国だったと思う。
31 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 00:01:36
>>30 言葉はどうだったんでしょうかね。
倭国の人達は、北の半島と東の本州と、どちらの方がよく通じたでしょうかね。
32 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/07(水) 11:36:47
>>31 半島1/4〜1/3の南部では倭語(日本語)地帯ですから、
遠い畿内より近い半島のほうが判り易い方言だったと思います。
7世紀までは朝鮮語は半島東部日本海側でしか使われていません。
半島北部2/3の東シナ海側は、8世紀までは日本語に最も近いと見られる扶余系言語(高句麗語)。
半島の3言語の朝鮮語化統一は新羅統一の8世紀から。
半島では3種類の言語が使われていたので、言語統一の為の文字がハングル。
やっと表音文字と熟語による表記、それまでは漢文表記。
ですから、半島では、表音文字(万葉仮名のようなもの)や漢字訓読みは発達できませんでした。
白村江戦の頃日本に渡って来た百済難民は扶余系言語語又は半島倭語を使っていましたから、
日本語(列島倭語)には何の苦労もしなかったと思います。
33 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/07(水) 18:43:19
朝鮮半島の範囲についてのコメント 平安南道と咸鏡南道の南部以南 西朝鮮湾と東朝鮮湾を結ぶライン以南 北朝鮮の朝鮮半島に含まれる部分はその面積の南側1/4程度 朝鮮半島の北1/4が北朝鮮地域、南3/4が韓国
最高権威なニートのコメント
35 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/07(水) 21:44:44
ニートではない。 最高速度275km/hドイツ製2座スポーツカーに乗っている60代のおっさん。
36 :
大好きさんFAN :2007/02/07(水) 22:09:05
でもついこの間まで、50代の現役でいらっしゃいましたね。 定年退職後、しばらく2chご無沙汰されていたので、 さびしかったです。
37 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/07(水) 22:16:54
>>36 車種板・株板・市況板・不倫板に行っていました。
38 :
日本@名無史さん :2007/02/07(水) 23:32:41
>>32 半島の統一が新羅以外の国によっていたら、その後の歴史はサマガワリだった
訳ですね。半島・列島の統一倭国ができていたかも知れないですね。ただし、
その場合は、シナ帝国の朝貢国であったか、日本のような独立国であったか・・・・。
ところで、古代の言語分布がそのような状況であったことを示す根拠は何か
あるのでしょうか。
>>33 すみません。何をおっしゃりたいのか全く分かりません。
39 :
大好きさんFAN :2007/02/08(木) 00:34:13
>37 いつか、大好きさんの体系的なお考えを、どこかでご披露願えませんか?
40 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/08(木) 12:11:06
>>38 >>33 について
半島範囲が間違っていると判断を大きく間違える可能性が高いから敢て書き込みました。
西朝鮮湾と東朝鮮湾を結ぶラインの北と南では地球科学的地質構造が異なります。
これにより、地形風土が異なり、人間の活動が影響を受け異なった文化を持った人が生活するようになります。
これは歴史に大きな影響を及ぼすので、間違った地形概念を持つことは判断を歪める原因となります。
高句麗と百済、唐・渤海と新羅、遼・女真と高麗、北朝鮮と韓国、其々の国境は風土地形の影響を大きく受けています。
41 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/08(木) 12:38:49
>>38 >古代の言語分布がそのような状況であったことを示す根拠は何かあるのでしょうか。
中国半島の古文献、地名、地形等の其々では小さい情報が集積繋ぎ合わさった結果です。
そうなると、公開土王碑の高句麗と倭の戦いで出てくる「渡海」の意味も自明の事となります。
>>39 体系的なものはありません。
徐々に、一進一退、ある時は突然、視界が開けるだけです。
42 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 12:58:15
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
43 :
銀大O教授 :2007/02/08(木) 13:04:20
三足土器は青森県の縄文時代遺跡から発掘されています。
44 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 13:26:33
金関が粛慎との交流物だと見解している。
>>43 スルーすればいいものを・・・(笑)
でも、この青森の三足土器、すごい遺物ですよね。
北海道、樺太・・・と北回りで、大陸につながっていたのかな?
46 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 13:50:27
違う。 津軽が朝鮮北部辺境と直接交流があったという事。
48 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 14:10:40
粛慎のいた豆満江下流からやはり三足土器が出てくる。
49 :
銀大O教授 :2007/02/08(木) 18:33:24
どうやらそのあたりから直接日本海を横切って青森と往来したようである。
50 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 20:37:59
ほほう。
51 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 21:41:50
邪馬台国は九州か? 大和政権(畿内)と邪馬台国の関係は?
頭の悪いニートのバレバレ自作はもうするな(^^)/
53 :
日本@名無史さん :2007/02/08(木) 22:04:04
>>51 >邪馬台国は九州か?
邪馬台国はなかった。
>大和政権(畿内)と邪馬台国の関係は?
無関係の関係。
>無関係の関係。 誰だか直ぐ解るwwwwwwwwwwwwwwwwwww
55 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 11:10:28
56 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 13:24:46
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
57 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 13:37:07
>>56 古代日本にも,いわゆる三足土器がありました。
古代日本にも,いわゆる三足土器がありました。
古代日本にも,いわゆる三足土器がありました。
古代日本にも,いわゆる三足土器がありました。
古代日本にも,いわゆる三足土器がありました。
古代日本にも,いわゆる三足土器がありました。
古代日本にも,いわゆる三足土器がありました。
古代日本にも,いわゆる三足土器がありました。
58 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 13:47:03
>56は、コピペ・マルチ・ポスト
59 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 14:29:22
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
60 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 14:30:56
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
61 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 14:32:04
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
62 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 14:32:50
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
63 :
日本@名無史さん :2007/02/09(金) 14:35:05
コピペ・マルチ・ポスト警報発令中
64 :
九州王朝大好き :2007/02/11(日) 13:32:01
津軽の三足土器を忘れていたな。 津軽独立政権を忘れていたんだ。 畿内朝廷も武力支配できず、いつのまにか消滅したんだよね。 阿弖流為のいた北上王国とは別だよね。
無視をする学問は古代だけ コレ指摘されて返事出来る学者全くいないよ しかしいい訳が滑稽だよね
66 :
↑ :2007/02/13(火) 21:20:00
意味不明。
67 :
名無し :2007/02/14(水) 18:09:42
今日は、福岡の千代町に行って来たのですが、 そこに「松原水」という井戸があったのですが、 自分は、てっきり大昔からある井戸かと思ったのですが、 残念ながら、明治の初めに掘ったとのこと。 見当違いでした。
68 :
九州王朝大好き :2007/02/14(水) 19:39:55
「千代紙」はその千代町が語源かな? 君が代「わが君は千代にましませ」の千代。
69 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/02/14(水) 19:42:24
70 :
九州王朝大好き :2007/02/14(水) 20:30:57
>>69 :福岡在住◆9N4nUN7jEY
志賀島神社の歌
「君が代は九州王朝の賛歌」でググって。
71 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/02/14(水) 20:36:19
やまほめ祭りで、歌われるのですね。
72 :
福岡在住 ◆9N4nUN7jEY :2007/02/14(水) 21:28:47
あと、千代の「山神社」にも行ってみたのですが、 祭神は、大山祇大神ではなく、なんか残念でした。 稲荷神社になってました。 玄徳稲荷神社って、書いてあったと思います。
まぁ九州にクニがあったんだからそれでいいじゃん。 妄想はやめようぜ。
74 :
日本@名無史さん :2007/02/15(木) 02:27:48
後進国の大和に比べて、巨大な権力と領土を持った国。 元号を制定して大和にもその元号を使用させ、 「評」という行政単位を大和にも使わせ、 支配下においていた九州王朝というただの国があっただけ。 大和が支配していたなんて妄想はやめようぜ。
75 :
倭奴国 :2007/02/15(木) 16:36:57
Wikipediaについて注意。「九州王朝」関係の項目で、著作権の侵害があったり、出典の明記していないものがあり、 削除が行われたり、「要出典」の印などがつけられたりしている。これは一見、九州王朝否定派の「荒らし」のようにも見えるが、 Wikipediaのルールに則った処置。 1.著作権 著作権のあるもの(ブログやホームページなどを含む)から切り貼りしたような表現をWikipediaに投稿しては いけない。そのような著作権違反のある「版」は削除される。また、その「版」を編集した「版」も削除される可能性が大きい。 (続く)
76 :
倭奴国 :2007/02/15(木) 16:42:37
77 :
倭奴国 :2007/02/15(木) 16:44:33
78 :
日本@名無史さん :2007/02/15(木) 17:15:01
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
「Wikipediaについて注意」 (さらなる続き) 要は、Wikipediaのルールを守り、説の信憑性を失わせるようなことはやめようということ。
信憑性が元からない説はどうしようもない。
81 :
名無し :2007/02/15(木) 21:38:18
安曇氏のことなのですが、志賀島を根拠地にして、 朝鮮半島などにも、船で行っていたんですよね? それがどうして、長野県に移住?をしたんですかね? でも、今でも志賀海神社の宮司さんは安曇さんですから 全員が行ったという訳ではなく、一部だったのでしょうか。 長野県に移ったということは、もう船を捨てたということでもありますよね。
九州のコテさん達は誰もいなくなった これはどうしてなの?
来たら九州王朝が否定されるから。
荒らしが来るから >12>14>26>42>56-62>78
86 :
↑ :2007/02/21(水) 22:12:05
そっちは大嵐。 こっちは無風。
87 :
日本@名無史さん :2007/02/21(水) 22:13:53
>>85 住人が1人しかいなかったの?
その返事おかしくない?
88 :
太国 :2007/02/21(水) 22:29:29
卑弥呼≠比売大神と分かってから、俄然古代史の謎が氷解して来た。 これを等号としていたのが盲点であり、卑弥呼の4世紀の生存は疑っ ていなかったわけである。しかし今や間違いがはっきりしている。 卑弥呼は3世紀の開化〜崇神世のころの人物 比売大神は4世紀の神功〜應神のころの人物 但しもう少し幅があるやも知れぬ。 九州王朝の始まりが女王国となろう。そして漢委奴国王とか帥升は 倭の五王の始まりとなるべき「下積み九州王朝」で、勢力は充分 ではなかった。 五王の短期九州王朝でない、本筋のほうの九州王朝は女王が多い 系だということが分かってきた。
>>88 大変興味深い説です。ソースをお願いします。
また、貴殿のなりすましが出ています。トリップを付けられたい。
>>88 大変興味深い説です。ソースをお願いします。
また、貴殿のなりすましが出ています。トリップを付けられたい。
92 :
太国 :2007/02/21(水) 23:06:43
理由の一部は「2倍念暦」のスレ >520 に書きました。 年表は「邪馬台国は大和朝廷になったのかpart21」の >411〜>499 (>485 訂正)にあります。 眠いね。zzzzzzzzzzz
93 :
太国 :2007/02/21(水) 23:15:33
訂正は その >673 でした。すみません。いったん起きzzzzz
94 :
日本@名無史さん :2007/02/21(水) 23:24:57
ここで解説:ただいま太国さんが緊急瞑想に入りました。
>>91 またコンピュータウイルスなんて貼ってるのかオマエは。
96 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 01:27:00
_, ,_ パーン
( ‘д‘)
⊂彡☆))Д´)
>>95 グルタン
_, ,_ パーン
( ‘д‘)
⊂彡☆))Д´)
>>96 グルタン
99 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 02:12:14
太国さんへ 一度登録すれば、Cokkieの設定をOFFにしない限り継続されます。 fusianasanは、正式にはフュージャネイザン、又はフュジャネイザンと読みます。 元々はアメリカの学生達の間で、チャットの時にセキュリティを強化する為に 開発されたシステムです。これを行うことにより同一人物が書き込んでいるか どうか判別する手段が遮断されるので安心です。ぜひ書き込む前には 名前欄にfusianasanと入力してください。自分の身は自分で守りましょう
100 :
↑ :2007/02/22(木) 03:43:37
これは嘘。
101 :
太国 :2007/02/22(木) 07:35:51
>>88 >>92 神武天皇は始馭天下之天皇というわけだが、この別名には『始』の
字がついているのに注視すべきである。
この文字のツクリは【台】であるが、これは神武以後に続く
漢委奴国王と帥升の下積み王朝から短期の本格王朝「邪馬台国」の
始まりを示唆する台の字なのである。つまり倭の五王朝の国であり、
これこそが「邪馬台国」である。
一方、ヘンの【女】はここの【台】字からの邪馬台国にかかるん
ではなく、ヘンとツクリは互いに独立しており、女王の知らす長期
の本格王朝たる「邪馬壹国」に当たる。それはもう一つのハツクニ
シラスの崇神朝に対比され、この前後ころ女王国が九州王朝の
始祖的国としてその九州に存在することになったということだ。
そして魏の景初元年は崇神即位元年で237年である。
だいたい【女】という文字は忍びでは「くノ一」であり、【く】
は九州の「九」を【一】は「邪馬壹国」を隠匿した文字に思えて
仕方が無い。「ノ」は【く】と【一】との接着を意味しているか?
今後いよいよ面白くなる。w
102 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/22(木) 11:00:34
太国さんへ
>>99 は悪意を持って書き込んでいます。
試してはいけません。
103 :
名無し :2007/02/22(木) 12:45:42
すいません、81に答えてもらえますか?
104 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 13:57:26
太国さんへ
105 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/22(木) 14:18:36
太国さんへ トリップの付け方 @書き込み画面で「名」の欄に、「太国#太国」と書き込み、本文欄に本文を書く。(#は半角で入力) A書き込みボタンを押す。 B書き込まれたレスの名前の欄は「太国◆yVAs7uaYlY」となります。 C#の後の文字は自由に選んでください。文字は全角半角どちらでもかまいません。#の後の有効文字数は全角の場合で4文字です。
106 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/22(木) 15:03:58
>>103 >>81 について
個々の件についてはわかりません。
博多湾岸の安曇氏(部族)が権力抗争(戦争)に敗れて、部族の一部が信濃に落ち延びたのでしょう。
神社等を調べると、よく似たケースは数多くあります。
出雲→諏訪
出雲→関東平野(埼玉・茨城)低地部
北九州→大阪(物部)
北九州→奈良(神武)
107 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 17:02:23
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
108 :
太国 :2007/02/22(木) 17:32:44
>>101 富士山には富士穴があるのかな?
竹内文献によれば、孝靈72年に秦の始皇帝の命により徐福が不老不死
の薬を入手のためか? 来朝したという記述があるそうである。
倍暦の関係で、景初元年は崇神即位元年の237年と計上した。この
ことから孝靈72年は秦の時代に当たらず、後漢の靈帝の中平2年
(実年代185年)に相当することになる。
この文献の記述な関わった大元の者がこの記事を通常暦で記載
したようだが、どうも倍暦を知っていたようで、その示唆をこの話
の中にひそませたのではないのかと感じてやまない。
孝靈の時代は3倍暦をやっており、
72÷3=24(フシ 不死、富士=蓬莱)
と読め、計算結果で実質72年は24年と出ている。
実は、秦の時代での日本はウガヤ朝70数代の時に当たっているの
が本来ではないだろうか? 『靈』の字の中の □ □ □ は
三つの富士穴か?w
九州王朝大好きさん アドバイス有難うございます。いずれ捕離符
を使うときが参るかもしれません。
109 :
太国 :2007/02/22(木) 17:51:13
>>108 中平2年ころに中国から日本への人物渡来があったか否か?
奈良県天理市の東大寺山古墳から某年鉄刀が出てきたが、その銘文
に以下の文字がある。
「中平□□ 五月丙午 造作支刀 云々〜」
当時(孝靈72年=実年代185年=中平2年)後漢から来日があったの
であろう。
110 :
九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/22(木) 19:01:34
プラムさん心配してくれてるようだけど、倭人伝を「行き当たりばったりの文章」 とか言うのに対して、一人の魏使が見聞して書いたのではなく、 複数の魏使によって、倭国は見聞されているのは疑いないことだと言いたかったわけよ。 「たくさんの」とはそういう意味なの。
111 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 19:20:19
えへっ、太国さん、
そんな古神道だか2倍暦・3倍暦だか、その世界の問題について
大好きさんからアドバイスって、そりゃちょっと難しいと思いますよ。
>>108
112 :
太国 :2007/02/22(木) 21:03:32
比売大神は九州の女島に生まれたか、由緒がある人物であろう。 仁徳50年に日女島の雁の卵の話が記述されているところから考え ると、比売大神は仁徳世までも生きていた可能性が残っている。 神功〜仁徳世は3倍暦の時代にて事実上年代が短縮されているから、 たとえば神功世の終わりころに生まれていれば、應神の世を通り 過ぎて仁徳世まで生き残っていたと云いうる。卑弥呼が崇神 前後の時代の女王と分かれば、比売大神と卑弥呼は別人だという ことに傾き、古代史の謎は氷解して来る。 宇佐神宮においても、比売大神の左右に應神、神功が祀られて いることから、比売大神が崇神世の人物とは考えにくい。宇佐神宮 創建が725年ならば、双方を同一人物だと当時の神宮の関係者が思 っていたとは思わないほうがいい。両者がイコールならば比売大神 とせずに、卑弥呼大神とかの直接名称で祀れるはずであるからだ。
113 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 22:12:39
坂の上田村麻呂は百済系の人で、百済群平野郷に祖神の杭全神社がある 元の本拠は飛鳥のひのくまにあり、平安初期の将軍として各地の開発を行いました。
114 :
九州王朝大好き :2007/02/23(金) 12:12:44
>>113 >平安初期の将軍として各地の開発を行いました。
違うだろう?
各地への侵略戦争や反乱鎮圧弾圧をした。
115 :
日本@名無史さん :2007/02/23(金) 21:05:53
>>106 東京の神社とか地名なんてほとんど関西の出先だからな。
116 :
唐松山 :2007/02/23(金) 22:24:39
比売大神=卑弥呼 景行が12年 (弟)住吉 に祭らせた。 場所は、大分瓜生島 何てのは いかがでしょう
117 :
太国 :2007/02/23(金) 22:32:40
唐松山さん 『卜字』を操作しますと神功のころ、「日本に二人の史実の女性がいる」との 結果を前から得てるんですよ。だから今まで卑弥呼を崇神のころの女王だという 説を拙者は強力に否定をしていたんですが、何とこれには盲点があり、倍暦の 関係から卑弥呼は崇神あたりの女性と覚り、比売大神こそが神功のころのもう 一人の重要人物だったということが判明したんです。
118 :
唐松山 :2007/02/23(金) 22:34:16
長野県 安曇=穂高神社 東筑摩郡 四賀村(現 松本市)に 錦織部(錦部)=明神、ニシゴリが正しい読み方 現在(明治以降)にしきべ 共に 近江 が元では
119 :
一応九州王朝説 :2007/02/23(金) 22:40:14
うーん。確かに神社の系統性の観点からは出雲→諏訪と見えますがね。 でも、私は逆に諏訪→出雲の順でいいんじゃないかと思うんですが。 縄文王国はどう見ても諏訪ですよね。柱=神=信仰の対象というのも、月並み ですがやはり縄文発信の概念ではないかと思います。「柱」と言うのは出雲〜 筑紫神話に至るまで続いていますよね。タケミナカタの敗北・逃亡劇の終末点 の諏訪は、そこに本拠があったということではないかと。それとともに、以後 の国譲り説話と違う残虐な結末が、「祀り」の思想が生まれる以前の古形だっ たとも思えます。更に、出雲族と越・諏訪・信濃の部族とは異質な征服劇のよ うな関係だった、と。 これも、出雲と筑紫の関係、或いは神武と長脛彦との関係(当初友好に迎え入 れられた感じもあるし、完全に互いを殲滅するまでやりきったとは思えない)、 或いは後の「四道将軍」(既に「祀り」の思想で隠蔽されている可能性もある が、やはり残虐な征服劇とは思えない。)などと比較すると、相互の非親和性 が感じられます。丁度、邪馬台国連合と狗奴国の関係、或いは大和朝廷と隼人 の関係と似ているかな、と。犬とさげすまれた理由、実に八世紀まで抵抗した、 更には1000年後の明治維新の中核も薩摩隼人だったこと・・・。 九州には、今でも瞳が大きくて彫りが深くて二重、体毛も濃い、なんて人がいま すよね。 出雲と信濃の戦いは、やはり縄文・アイヌ対弥生・朝鮮・中国の戦いではないで しょうかね。
120 :
唐松山 :2007/02/23(金) 22:54:17
泰和四年五月十六日丙午正陽=大和が 許されるなら 私は、 久?獻七枝刀一口= 420 久尓辛王即位クニシン ちと 強引か
121 :
唐松山 :2007/02/23(金) 23:22:49
タケミナカタの敗北 は 神武死亡時 タキシミコ ひとりマツリを とらんとす カンヤヰミコに ユキをはせ ヌナカワミコと ヱトいたる この時 タギシミコ側 タギシミコが殺されて皇子の子供が兵を上げたが破れて投降 (1000人以上の軍)この中に居たのでは無いでしょうか
>>119 いや、素直に諏訪大社の縁起を読んで出雲系→諏訪でいいんじゃないか?
出雲は先発であるだけで、真正の北方アジア系弥生人でいいと思うよ。
諏訪大社は、良く知られるように明らかな二重構造になっていて、
下社が後発の出雲系、上社が先住民の神ということになっている。
そして両者の間には、明らかな戦闘が伝承されている。
多分、真正の縄文系の系譜を引くのは、諏訪大社でも上社だけ。
そして、「柱」信仰は「上下共通」であって、どうも出雲または越起源臭く、
上社固有のミシャグジ神への神事とは、あまり関連性が無い。
1出雲系の大和侵入(ニギハヤヒ神話に転化?)
2筑紫(天孫)の大和侵入→古大和≒出雲の諏訪侵入という玉突き
という考えでいいと思うけどなあ。
記紀神話の開始年代は、筑紫の弥生時代開始から最低でも数百年は経っている。
記紀には縄文の部族に関する伝承はそのままでは出てこないと考えたほうが自然だ。
123 :
一応九州王朝説 :2007/02/24(土) 09:14:04
なるほど。そうかもしれませんね(あっさりw) 猿田彦が縄文系だとか、「つちぐも」がそうだとか、色々説は あるけど、それらも断定はできません。 征服・被征服については私とあなたと矛盾しませんよね。同じ 事を言ってますよw ただ、文化伝搬として、私は 縄文(諏訪)→出雲→筑紫 あなたは 出雲→諏訪 という部分が違うのかな。 それと、玉突きというところも違いますかね。 私は、出雲王国はもっと古い、弥生中期で、後期・末期にクニ 譲りによって八百万の神=倭国全体の代表権の委譲が行わ れたと考えます。 だから、玉突きで出雲が諏訪へと支配領域を広げたので はなく、ずっと以前に諏訪・縄文が敗北し、出雲が盟主となった あと筑紫天孫族の支配領域に自動的に入ったという事ではな いでしょうか。 といっても、勿論後の大和朝廷のような直轄支配ではないので、 出兵要請とか貢ぎ物とかの、連合国家だと思いますが。両面宿 儺も征服劇だと思いますが、やっぱりあれも縄文と弥生=ヤマト? の戦いではないでしょうか。あまり出てきませんよね、そういう戦い の記録って。
124 :
唐松山 :2007/02/24(土) 12:32:22
筑紫(天孫)の大和侵入→古大和→常陸鹿島は、ほつまに 書いてある 日本武の時初めて 支配下となる ニギハヤヒ系 ≒出雲の諏訪侵入という玉突き こちらは、 戸隠タチカラオ(諏訪の見張りとして信濃に入る?)伊那も同じ 早い時期から 記事になっている 諏訪酒折の記事は、孝霊時代富士山の噴火 及び 日本武 諏訪は、孝霊時代には、 古代鉄を持って居たのではないか (常陸方面の神社の神宝 名前は忘れた...) 古代鉄の採集場所として考えられる場所(私の思い込み)霧が峰 池のクルミ かも
125 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/24(土) 12:46:07
>>123 一応九州王朝説さん
出雲→諏訪の移動が合理的。
出雲神話には縄文時代からの記述があるので、
出雲文化は縄文文化の伝統を引き継いでいる。
又出雲の石器は隠岐産、讃岐でも諏訪でもない。
出雲は歴史的に独立した諏訪とは異なる文化である。
126 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/24(土) 13:23:25
出雲族の移動について 天照の海峡・北部九州倭の侵入に敗れた出雲が、 一部は諏訪に、その他は関東平野に落ち延びたと考える。 関東平野低地部の埼玉茨城には氷川神社をはじめ数多くの出雲系神社がある。 又、水稲耕作等の文化を関東に持ち込んだのは、この出雲族ではないかと推測している。 さらに想像を発展させると、水稲耕作を東・北日本に運んだのは、この出雲族とも思えるのだが。
127 :
日本@名無史さん :2007/02/24(土) 14:34:49
弥生の移動 考 神武が大和に入る この時の 大王は、近江に都を構えた 大物主 河内=三輪の神(たたねこの先祖)大和=神武、サホコ→現出雲、コシやコシウシロ、コエネ国 等を束ねる この時 ニギハヤヒ系は、日本海側では、富山辺り、太平洋側=常陸辺りまで 逃げる 日本海側は、早い時期に オオモノヌシにより 平定その後すぐ弥彦がはいる 太平洋側は、遅く(駿河でニギハヤヒ系が頑張っていた) オオモノヌシの国譲り(崇神)以後の話に成ります。 垂仁時代 近江に安曇あり 景行時代 武内(スクネ)により、東北、関東の視察があります そして 日本武 の登場 この時の日本武の本当の武器?は、タジマモリの持ち帰った”種” で ここから 成務にかけての仕置き で出雲系関東進出
128 :
唐松山 :2007/02/24(土) 14:53:03
名前を入れ忘れた これが私の年代感ですので 崇神=倭国大乱 早すぎる オオモノヌシの国譲りから卑弥呼死亡まで60年程 この時期が 倭国大乱
>>123 玉突きに関しては、その通りかもしれないね。
出雲の東日本侵入と筑紫の畿内侵入には、実は時間差がある無関係の事柄で
後世になって、二つの別々の伝承がジョイントされたのかもしれない。
>>124 ほつまはともかくw、
天孫東進のとりあえずの終着点が、恐らく茨城県鹿島だったというのには同意するよ。
このあたりが、西南日本系の植生の事実上の北限にあたるので、
筑紫式文化を持つ集団はまずはここまでしか来られなかっただろう。
これは、濃尾平野でストップしてその後一気に岩手までという
有名な弥生稲作文化の北上とは、別の文化形態の話。
これを担っていたのは多分出雲系だろうね。
>>125 出雲は縄文文化を発展させるには不向きのところだよ。
出雲縄文に関する古田説には全く賛同できない。
そもそも、縄文文化はかなり土地を選ぶ文化で、広い台地と潮汐による干潟が必須。
日本海側はどちらにも欠けるので、縄文文化は太平洋側に著しく偏っている。
130 :
一応九州王朝説 :2007/02/24(土) 17:44:04
「ほつま」については、私はよう触りまへんなw
仮に部分的に正しくても、編者自身がその歴史的意味や値打ちを
わからずまとめたらああなる、って典型の気がします。
まだ一次史料としてどこまで使用できるのかよく分からないので、
私如きが言及や引用はできない。
つうか、唐松山氏って文章非常にわかりにくいんですが・・・。
>>129 私も縄文時代の出雲王国というのは、どうかなと思います。
いくら昔ほど古い伝承が残されたと言っても、出雲神話がBC2000
年までさかのぼれるのかどうか。まあ、黒曜石の分析を行ったのが
ソ連の科学アカデミーだったというから、無視することは出来ません
が。それに、環日本海文化圏なるものが、決してあり得ない事では
ないということは、間宮林蔵や同時代のロシアの記録などからもわ
かります。ですから、クニ引きが壮大なスケールであったことも、否
定は出来ませんが。
131 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/24(土) 17:58:19
>>129 >縄文文化はかなり土地を選ぶ文化で、広い台地と潮汐による干潟が必須。
海岸地域縄文文化については上記に同意。
更に付け加えると中性堆積地層土壌地帯。火山性地層は酸性地層土壌で不可。
上記3条件を満たす日本海側の主な地域は、津軽・越前・出雲である。
なおこれらの地域では(縄文)巨木構築文化でも共通する。
>>131 縄文文化は火山灰土大歓迎だったはずだよw
八ヶ岳山麓、関東平野、有明海東岸、青森(三内丸山)と、
繁栄した縄文文化の有名どころは、むしろことごとく火山灰地に立地している。
これは、潮汐による干潟よりも、木の実を集める大森林を抱える
台地の卓越のほうが重要だったことを示していて、
この台地は、洪積台地である必要はなく、火山の広大な裾野でも、
広葉樹が生えるほどの土壌の安定をみていれば十分に代替可能ということ。
食料を供給できる遠浅の内海や汽水湖などがあっても、
台地に欠ける地域には、縄文人は沢山住めなかった。例えば畿内。
出雲(あるいは山陰地方全域)に致命的に欠けているのは、
この木の実を集める広い台地。あそこは海岸からいきなり山岳地帯になるからね。
>>129 国引き神話は、俺の妄想では、弥生時代になって住みついた出雲族が、
居住・農耕地の少なさに悩まされ続けていたことの反映だと思っている。
「もっと沢山引っ張って、持って来られたらいいのになあorz」という話。
ボケが際限無しで 誰も突っ込まないw
134 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/24(土) 22:53:32
>>132 三内丸山での反論は予想していました。
三内丸山遺跡は堆積地層上にあります。
青森市南方の八甲田山方面は火砕流の火山性地層で、
火砕流地層の北端は三内丸山遺跡の直ぐ傍まで来ていますが、
その遺跡北方向西方向西南方向すべて堆積岩地層中性土壌です。
ですから、今より海水位の高かった縄文の頃には、
三内丸山遺跡も
>>131 レスの3条件を満足していた可能性があります。
火山性地層酸性土壌の地域では、土地(森林)の生産性が低く、
多数の人間が集中する大きな集団は維持できないので、
八ヶ岳山麓・関東平野北部・熊本のように小さな集団が数多く散在することになります。
この場合巨木構築物を作るには小さすぎる集団とならざるをえない。
135 :
唐松山 :2007/02/24(土) 23:16:58
判りにくくてごめんなさい。 1からやり直し。 まず 私が 読み解いたホツマの暦から ほつま には、暦は増しがある(年の干支に増しがある)と書かれています 干支に増しがある=増しを引くと本当の暦が出来る そこで 書紀の干支を暦(年代順)に落とす 以前(1週間前)発表した(ほかのところか) 作り直して また書きます。
136 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/02/27(火) 15:53:07
>>130 >>132 >>131 の修正
越前→加賀(金沢)
巨木構築物が出土しているチカモリ遺蹟が、
例としてあげるのにはより適切かと思います。
縄文時代に大きなまとまった勢力が存在できる条件。
@後背地としての低い山・丘陵(広い台地)が肥沃な中性土壌であること。
即ち高い生産性のある森があること。
又、高い生産性のある豊かな後背森林地帯が豊かな海を生む。
生産性が高い肥沃な土壌が形成されていれば火山性地層上であってもよいが、
その様な土地は傾斜の少ない台地地形にしか求められない。
又肥沃な土壌を持った森林は、火山性地層酸性土壌では、
一度破壊されると再生が困難。(例8世紀の武蔵野)
縄文末期の関東平野の衰退は土壌再生の困難さによると推定できる。
A波の穏やかな浅い海や干潟があり、
縄文人に魚介類意等豊富な蛋白質を供給できること。
(海が豊かである為には豊かな後背森林地帯が必要)
うんこな議論
138 :
太国▲kosintou :2007/02/27(火) 23:46:41
139 :
太国▲kusoroujin :2007/02/28(水) 00:47:34
140 :
太国 :2007/02/28(水) 08:23:20
141 :
太国 ↑ :2007/02/28(水) 08:26:45
ニセ大王
142 :
太国 :2007/02/28(水) 08:28:07
ご本人より、贋者のほうが多いほど、大人気の太国さん大忙し。
144 :
太国 :2007/02/28(水) 22:59:46
どうやらグルタンは逃亡したらしい。w
145 :
太国 :2007/02/28(水) 23:33:05
146 :
太国 ↑ :2007/02/28(水) 23:40:25
ニセマン
最初の金印から、卑弥呼の金印まで 300年も間が開いてるんだね。 知らんかった
>147 その「300年も開いている」ってのは間違った情報だから、 今まで知らなかったことを恥じる必要はありませんよ。 むしろ、「今まで知らなかったことを誇りに思え」とさえ言いたい。 最初の金印が紀元「後」52年で、卑弥呼の金印が238年(ごろ)として、190年弱でしょ。
149 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/09(金) 15:33:39
逃亡者 グルタン
150 :
日本@名無史さん :2007/03/09(金) 15:46:39
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
151 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/09(金) 16:48:36
おい 三足土器 いい加減にしろ 古代津軽にも三足土器があったのを知らないのか?
152 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/10(土) 17:44:27
那珂川の近くで、大きな道路?が発掘されたらしいよ。 今日の西日本新聞に出てた。 最古の計画都市ではないか?と書いてあった。
153 :
倭奴国 :2007/03/11(日) 09:40:06
154 :
倭奴国 :2007/03/11(日) 10:41:19
頭悪いよw
156 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/14(水) 19:25:57
今日、NHKで面白そうな番組があるね 邪馬台国論争がまた盛り上がるね。
157 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/15(木) 01:48:38
九州王朝説からは、昨日のNHKの邪馬台国番組は何の関係もなかった。 九州王朝説も邪馬台国九州説に含まれるのだろうが。
>>159 NHKのディレクターなんて、所詮その程度なんだから許してやれ。
不正しないだけマシじゃないか。
>>160 なんでオレへのレスになるのか全くわからん。
162 :
日本@名無史さん :2007/03/15(木) 23:56:54
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
163 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/16(金) 18:03:01
海の民として、福岡地方には安曇一族と 宗像一族がいると思うのですが、 あと住吉も海の民と聞いてます。 住吉は大和の海の一族ですよね。
164 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/16(金) 21:04:38
>>163 住吉も九州の海の民だよ。
九州から四国・兵庫・大阪へと移動した痕跡があるよ。(住吉・灘でググれば)
おおもとは壱岐の民ではないかと思われる。
165 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/16(金) 21:34:55
一応、大阪の住吉大社が本拠地?発祥地?みたいに記憶している感じ ですが、実は博多の住吉が発祥地なんですね。 「海の民」からと言った観点から攻めていっても 結構歴史の常識を突き崩せていくのではないかと 自分は考えてます。
ネットでの朝鮮系工作員の日本分断工作 地域同士あおり合って対立させようとする いわゆるお国自慢厨と言われてる人達は大抵がこの工作員 特に東京vs大阪の構図にしたいらしく、大阪叩きに力を入れている(もしくは関東vs関西) 「大阪民国」等と名前を付けて、日本から孤立させようとする 何かあるたびに「また〇〇か」「〇〇人じゃしょうがない」などのフレーズを使ってけなす 朝鮮系であることを隠す為に嫌韓を装うことも多い(これは同時に嫌韓の評判を下げる在日エセ右翼の街頭右翼と同じ仕組み) 「〇〇人=朝鮮人」「〇〇人とチョンは似てる」等と書いて叩く このような朝鮮系工作員の企みに惑わされないよう注意してください
167 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/16(金) 21:57:33
168 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/17(土) 01:11:10
>>165 応神東征の主力部族が住吉(津守)氏ではないかと。
安曇氏・住吉氏・宗像氏が玄海灘沿いの海の民。
169 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/17(土) 14:46:27
伊都国→邪馬台国→九州王朝→ヤマト王権でOKですよね おおざっぱですいませんが。
170 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/17(土) 23:26:06
>>169 九州王朝の東征は、応神、欽明と天武の3回。
ヤマト王権の西征も、仲哀、継体と文武の3回。
九州王朝→ヤマト王権の権力移行は文武から。
172 :
カナカナボウシ :2007/03/18(日) 07:04:00
日向福岡市西部説についてお尋ねいたします。 ここは記紀神話の地名があり、真の日向であるとのことですが、最初の提唱者は誰なのでしょうか。 私は古田武彦氏の著作で知り、サガミハラハラ氏も強く主張しているのですが、既に原田大六氏が提唱していたとも聞きました。 となると、この日向福岡説は誰が最初に提唱したということになるのでしょうか? よろしくお願いいたします。
173 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/18(日) 08:16:17
福岡日向は、宮崎のと同じように「ひゅうが」と読みますか? それとも、「ひむか」でしょうか?
174 :
カナカナボウシ :2007/03/18(日) 09:05:00
読みはヒナタです。宮崎日向は元は日に向かっている地すなわちヒムカで、ヒュウガはこの訛化といわれます。
えっと サガミハラハラ=カナカナボウシ=後藤幸彦 でいいの? まさか別人を装っているつもりじゃないよね 同板で複数コテはマナー違反ですよ どれかに統一してトリップつけてね
176 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/18(日) 13:40:00
>>172 原田大六氏の説を古田武彦氏が取り上げ、その著書に書いたと記憶していますが?
古田氏もそのことを何処かに書いていた(公演記録?)ように思います。
言い出したの原田氏で間違いありません。
その著書「実在した神話」を読んでください。
177 :
一応九州王朝説 :2007/03/18(日) 14:02:47
私もそう認識しています。 平原1号が卑弥呼という可能性は今でも十分ありうると思います。
178 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/18(日) 14:49:49
>>171 仲哀は畿内王権の王です。
仲哀は、九州王朝の半島倭支援戦争中の空家に攻め込み、
当初は北九州侵攻に成功したが、
九州王朝残留部隊(宗像族)の海からの夜襲で暗殺された。
との言うのが僕の認識です。
文献と全く一致しないけどな。可能性ならまあいいだろ。
180 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/18(日) 17:36:22
>>177 平原一号遺跡というのは、埋葬品が煌びやかなところですよね
181 :
一応九州王朝説 :2007/03/18(日) 19:24:41
出土品全部国宝指定されましたよ 井原鑓溝王墓は、レーダーで墓らしき物が16発見されてます。 近くの十六天神と数的に一致することも衝撃的で、倭王が十六人も 一気に確定したら凄いですよね。
182 :
日本@名無史さん :2007/03/18(日) 21:38:49
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
183 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/18(日) 21:40:56
>近くの十六天神 これは初耳です。知らないので教えてください 僕は海の観点から迫ってみようと思っているのですが、 宗像の「沖ノ島」の祭事ですが、 これに九州王朝はどのように関わっているのでしょうか? 九州王朝の海の民は安曇族だろうし、 大和朝廷は住吉だろうし。
184 :
大林賢栄 :2007/03/18(日) 21:47:17
こんにちは 東広島から頑張っています!
185 :
カナカナボウシ :2007/03/18(日) 21:47:43
福岡日向説の件ありがとうございました。
186 :
日本@名無史さん :2007/03/18(日) 21:48:55
福岡日向説の件ありがとうございました。
福岡日向説の件ありがとうございました。
188 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/18(日) 23:54:25
大林賢栄って 本当にプラ国に そっくりだなw 真似できない レベルで妄想こいているよw
191 :
↑マルチポスト荒らし :2007/03/19(月) 22:17:33
>>190 演技力不足で
自作自演なんてするからねw
193 :
日本@名無史さん :2007/03/21(水) 21:26:40
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1172000417/l50 571 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:35:20
プラム大林の邪馬台国四国説って
凄い荒唐無稽な説なんだなw
572 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/21(水) 13:39:36
>>571 >プラム大林の邪馬台国四国説って
凄い荒唐無稽な説なんだなw
意味わかんね? 四国説じゃないけど
四国を含む九州説だよ
573 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:39:59
ブラムも昔
東四国が邪馬台国だって宣ってたなw
覚えてるぜ!
574 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:49:11
俺も知っているよ
突飛な説に
突飛な馬鹿だから
当時居た奴は皆知っているよw
それに当時から大林と同一人物だと
ばれていただろうw
194 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/22(木) 19:06:20
あれほど百済と仲が良かったことを考えれば 九州王朝の人は、元をたどれば 百済の人かな? 鉄器とか稲をもってきたのかな?
195 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/23(金) 23:25:00
テレビ東京で、安曇一族がな国滅亡後、 全国に散って壬申の乱の背後にいたみたいなのやってた。 海人は、鉱山技術も持ってたという内容だった。
196 :
日本@名無史さん :2007/03/23(金) 23:29:35
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1172000417/l50 571 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:35:20
プラム大林の邪馬台国四国説って
凄い荒唐無稽な説なんだなw
572 :プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/03/21(水) 13:39:36
>>571 >プラム大林の邪馬台国四国説って
凄い荒唐無稽な説なんだなw
意味わかんね? 四国説じゃないけど
四国を含む九州説だよ
573 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:39:59
ブラムも昔
東四国が邪馬台国だって宣ってたなw
覚えてるぜ!
574 :日本@名無史さん:2007/03/21(水) 13:49:11
俺も知っているよ
突飛な説に
突飛な馬鹿だから
当時居た奴は皆知っているよw
それに当時から大林と同一人物だと
ばれていただろうw
198 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/25(日) 08:05:26
散歩いくか
コテはみんな赤の大林賢栄だってもう皆知ってるよw
200 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/25(日) 13:05:41
グルタン 逃亡!
201 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/25(日) 16:03:51
書き込んだつもりだったけど書き込まれてなかった。 上岡龍太郎さんも、九州王朝の支持者なんだって、 これは心強いね
マルチうぜぇ 自分の書いたスレぐらい覚えとけよ
203 :
日本@名無史さん :2007/03/25(日) 18:03:58
コテはみんな馬鹿の大林賢栄だってもう皆知ってるよw
九州王朝支持してるやつって地元のアマチュアだろ? ただのオナニーやんw
205 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/25(日) 19:41:13
206 :
日本@名無史さん :2007/03/25(日) 19:42:54
赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 が自作中
207 :
日本@名無史さん :2007/03/25(日) 20:19:11
>>204 神奈川です。
ちなみに言い出した古田氏は、福島生まれで、氏の親は高知の血筋。
208 :
日本@名無史さん :2007/03/25(日) 22:05:27
九州王朝があったのは事実ですね。 なかったという方が変です。
209 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/25(日) 23:03:21
>>208 まともな学者が誰も相手してないのにwwwwwwwww
211 :
日本@名無史さん :2007/03/26(月) 00:27:20
自称、まともな学者は糞だから粗大ゴミだな。
と学者ですらないカスが妬んでいます。
213 :
日本@名無史さん :2007/03/26(月) 00:38:18
と、学問を理解しない低脳がほざきます。
214 :
日本@名無史さん :2007/03/26(月) 00:42:59
相手にしてくれないから学会とかを敵視するんだよな。 オレは正しいこと言ってんのにアイツら馬鹿だ!って。 トンデモと分かっていて楽しむならまだしも、本気で電波振りまいて学会も批判するって基地外だろ。
215 :
↑ :2007/03/26(月) 00:46:12
池田犬作
216 :
日本@名無史さん :2007/03/26(月) 17:16:56
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
217 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/26(月) 17:25:32
福岡には、古代小さな国家はあったのは事実ですよね
218 :
日本@名無史さん :2007/03/26(月) 17:39:39
極東の中では、大きな国家ともいえると思いますよ。
219 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/26(月) 19:17:08
弥生時代の小さな集落群→小さな国家群→九州王朝の流れでOKでしょうか?
220 :
一応九州王朝説 :2007/03/26(月) 21:44:09
>>219 基本はその形ですが、途中のプロセスはまだまだかたまってみたいです。
なにせ証拠が少ないw
文献はないし、発掘については九州の年代観自体がまだまだ。
上岡は、かなり熱狂的なファンで、テレビなどでも何度も古田説に言及してます。
他にも文化人のファンは多いですよ。あと、理系の人も。
学者先生が「あんなものくだらない」とこき下ろすほど、リベラルな精神の持ち主
を古田に押しやってしまう面もありましたね。
論理が明晰でわかりやすい、いわゆる弁証法的な論理構成、それと文献に対
する深い読解力、ワイドな感覚、そのあたりが理系の人に受ける理由でしょう。
教祖様としては、安本氏より遥かに上玉と思いますよw
まあ、学会とのスタンスは色々考えさせるものはありますが、かといって在野が
極端に低く見られる歴史学会の構造の中で例の捏造事件も生まれたわけで、
そうであるなら、学問本来の批判と論争の姿勢を貫いているのは、いっそいさ
ぎよいとも言えます。欧米の論争は、それは凄いものがありますが。
でも、相手の立場や役割も理解するというのが前提ですから。
221 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/27(火) 08:54:32
また、前原市の遺跡でお墓がでてきて 火葬してあったとのこと。 古墳時代と奈良時代の中間の埋葬方法らしいです。
223 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/03/27(火) 17:36:32
おいおい、芸人を文化人の仲間に含めるなんてナンセンスだぞ。 たしかに、インテリの芸人だっているんだけどな、それとこれとは別だろ。
225 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/27(火) 19:27:58
趣味とするには、最高だよね
226 :
日本@名無史さん :2007/03/27(火) 20:21:26
火葬は縄文時代
227 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/27(火) 21:08:39
>>226 そうでしたか、新聞を流し読みして書き込んでしまったので
間違えてしまったみたいです。
今後気をつけます。
大宰府政庁跡には、「内裏」とかのほかにも、「御所の内」という
地名もあるみたいです。
これも大発見だと思います。ひとつの証拠になりますね
228 :
日本@名無史さん :2007/03/27(火) 21:36:51
九州王朝っていう呼び名はどうかと思うけど・・・ 熊襲と統一してたはずもないし、九州が一つの王朝だったことは ないと思うな。北部・中部その辺りの連合国みたいな感じの 一番大きな王朝じゃないの?
九州王朝は2王朝。倭の五王朝がもう一つありました。
太国さん、トリップがついておめでとうございます。(もっと前から?) 九州王朝は菊池朝=倭の五王朝と、それをはさんだ前期筑紫朝、 後期筑紫朝があったのではないでしょうか?
231 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/27(火) 22:50:31
>>231 太国さん
訂正します。前期筑紫王朝といいましたが、前期は王朝ではなく王権でした。
装飾古墳や将軍号・大将軍号が特徴の菊池王朝は、卑弥呼で有名な、
軍事性の弱い筑紫王権から、権力を奪って半島進出を盛んに行なった権力です。
後期筑紫王朝は、薩夜麻が天子だった王朝です。
233 :
日本@名無史さん :2007/03/28(水) 08:46:44
前原で発見された遺跡は、奈良時代前でOK。 薄葬令の後らしい。
234 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/28(水) 10:16:50
>>232 >前期は王朝ではなく王権でした
ほぼ正解でしょう。拙者は下積み王朝と言ってましたが王権のような意味です。
倭の五王朝は末期が雄略〜顯宗あたりですから、そのころからは残党のみ
となっており、見る影もなくなっていたでしょう。その天子は卑弥呼の系の
末期ころの人物でしょう。
235 :
日本@名無史さん :2007/03/28(水) 14:16:51
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
236 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/28(水) 18:59:34
大宰府に残る地名「御所の内」ですが、 ほかにも、「内裏」や「ししんでん(変換できない)」「朱雀」があると聞いています。 王朝があったっぽい地名が、このほかにもあるのでしょうか?
するとなにか? 徳島県にある「御所」は、四国王朝(阿波王朝?)の跡地だとでも? 淡路島にもそういう地名はあるような気がするが
238 :
日本史@名無しさん :2007/03/28(水) 22:57:02
まあ餅漬け 御所は各地にある。 ただ、紫宸殿とか朱雀、内裏はちょっと気になるのは間違いない。 しかも、太宰府天満宮の所が字紫宸殿というから、普通は何かあると 思うわな。
遠の朝廷と呼ばれた太宰府政庁がありました。おわり。
240 :
日本@名無史さん :2007/03/29(木) 00:52:07
遠の朝廷と呼ばれた,、列島最高府がありました。おわり。
241 :
日本@名無史さん :2007/03/29(木) 08:25:35
大宰府が都だったら、「遠の朝廷」という表現されないだろう。 普通は、「古の朝廷」となるのでは?
242 :
日本@名無史さん :2007/03/29(木) 08:33:18
安徳天皇がらみだろ。 「紫宸殿」なんて地名は逆に由来が新しい証拠だよ。
243 :
日本@名無史さん :2007/03/29(木) 09:10:50
ボキュの妄想が証拠だ! 文句有るか?!
244 :
日本@名無史さん :2007/03/29(木) 09:59:06
245 :
日本@名無史さん :2007/03/29(木) 10:00:43
安徳天皇は行幸と言うのとは、ちょっと違うだろ。
246 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/29(木) 11:18:19
安徳天皇は、壇ノ浦までしか来てないんじゃないの? 松本清張が古代史についての研究?をしているみたいなので 今度読んでみたい。 どんな内容なんだろう?九州王朝説かな?
247 :
日本@名無史さん :2007/03/30(金) 04:52:46
王朝つうとなんだけど、 六世紀頃まである程度独立した王権があっただろうな。 やたら話をデカくするから、トンデモ学説になっちまう。
248 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/30(金) 08:17:56
出雲とか吉備とかと同じ感覚でいいんじゃないの?
249 :
日本@名無史さん :2007/03/30(金) 08:43:08
そういう王朝説なら支持できるけど、拡大解釈して日本書紀の記述は九州であった事だと 主張するトンデモが居るんだよね。
250 :
日本@名無史さん :2007/03/30(金) 11:03:42
>日本書紀の記述は九州であった事 …日本書紀の記述は九州での出来事が少なくないのに・・・
251 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/03/30(金) 11:06:04
古史古伝には九州にウガヤ朝ありの記述があるな。
252 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/30(金) 15:08:45
万葉集でもさ あきらかに福岡のことなのに「すめろぎ」とか歌ってるところがあるから 天皇のことでしょ?すめろぎは。 そこんとこどうなんだろう。
253 :
九州王朝大好き :2007/03/30(金) 19:11:29
>>252 「すめろぎ」を何故畿内の天皇の意味に限定するの?
「天皇」は「法皇」と同様に九州王朝の言葉。
>出雲とか吉備とかと同じ感覚でいいんじゃないの そう。邪馬台国東遷を認めたとしても、ごっそり全部ではなかろうし、 後継勢力があとあとまで残ってて、初期大和朝廷と緊張はらんだ協力体制にあっても おかしくない。 それをまた「君が代は九州王朝」「万葉集はどうの」と ガイキチみたいなこと言い出すから。
6世紀後半の敏達朝時代、大和の国は播磨国や河内国すら 支配していなかったんだから、当たり前でしょ。
256 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/30(金) 21:13:56
おおきみは、畿内 すめろぎは、九州でOKですか?
257 :
日本@名無史さん :2007/03/31(土) 15:30:08
すめろぎは、天皇に対して使われだした言葉。 おおきみは、各地のきみの上に立つものとして作られた。 脳内妄想だから信用しないでね。
258 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/31(土) 18:27:11
九州の南さえ支配していなかったんだから、 今の福岡県知事くらいの感覚かな。 九州王朝は。
259 :
日本@名無史さん :2007/03/31(土) 19:09:23
260 :
日本@名無史さん :2007/03/31(土) 21:05:24
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
261 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/03/31(土) 23:04:02
↑はなんなの? 九州王朝説に関係あるの?
262 :
日本史@名無しさん :2007/04/01(日) 06:10:33
>それをまた「君が代は九州王朝」「万葉集はどうの」と >ガイキチみたいなこと言い出すから。 まあ実際読んでから判断したら?ムーなんかよりよっぽど論理的で 面白いからw 糸島歌謡の存在や、万葉集のエリアの偏りは事実なんだし。
263 :
日本@名無史さん :2007/04/01(日) 07:29:08
※九州王朝はなかったのか? ↓ なかった
邪馬台国の「東遷」 信じてる人いるの? 自分は政略結婚などによる連合だと思うんだけどなあ。 なぜなら熊襲で強い南をほったらかしにして関西に攻め入るなんてできないよ。 神功皇后に助けてもらって畿内の力を借りてやっとこさ、勝った相手なんだし。 ところで宇佐の亀山に眠っているのは 誰 ?
宇佐は古社が6つも遡る。 最後の2つが天皇の命により百年おき。 山頂の奥宮は絶対に3世紀まで遡りますね。しかも太陽神信仰の遺跡。 しかも代々神官を勤める家は中津。 豊○の国の中津です。これはアマテラスにも関連してくるわけで。 そして豊前の中津といえば福沢諭吉....w
北海道には蝦夷共和国があったよ!
267 :
日本@名無史さん :2007/04/01(日) 11:58:51
邪馬台国の「東遷」という話は、記紀には出てこない。 王様でもなんでもなかった神武の流浪定着話があるだけ。
268 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/04/01(日) 12:38:27
「津」と入っているので、海と関係ありますか?
>ムーなんかよりよっぽど論理的 比較の基準がはじめからアウト。
おでの感なんだけど、たぶんなかったぽい。
271 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 01:23:07
お前らやまたいか読めよ
やまたいかってなんか聞いたことあるけど、なんだったっけ? 作者と出版社 おせーれ
273 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/02(月) 02:00:32
狭義の九州王朝は九州を中心として522年〜695年に存在した王権。 九州王朝となる新王権のスタートは九州年号「継体」517年からか? 倭5王はプレ九州王朝王権。広義の九州王朝。
274 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 04:55:31
九州王朝って呼ぶのは辞めなよ〜〜〜 熊襲も征伐してないのに九州王朝なんてないって。 しかも一県一県文化が違う。福岡県民除いて誰もダイエーホークス応援してない。 誰も天神なんか行かずに東京に行く。 ....大宰府にはいったな。九州北・中部の王族が大宰府集まったりして宮廷風には なってたかもね。 但し、当然、肥の国や南九州は全く別に栄えてたと思われ・・
なんでもかんでも、今の中心性を古代にまでスライドさせるからだよw そりゃぁ、てめぇのとこ中心で歴史は見たいだろがw それじゃ半島人種と大差ない。
>熊襲も征伐してないのに九州王朝なんてないって。 熊襲系が途中で九州王朝に入ってるんじゃないのか?>菊池朝
一県一県言葉や文化が違うのは現代だけじゃないと思われ。 古代一緒だったとは思えないな。
278 :
日本史@名無しさん :2007/04/02(月) 06:46:57
「県民性」は中世を経て、江戸時代に完成するケースと、明治以後
完成するケースとに分かれます。古代の個性や風俗がどこまで現
代につながっているかはよく分かっていません。まあ山笠やねぶた
はなんかあると思うけど。
>>272 「ヤマタイカ」は星野之宣の漫画で、代表作の一つです。ちょっと力
が入りすぎの部分もあるけど、なかなか面白いです。ネタバレにな
りますが、巨大銅鐸・オモイカネの呪力の争奪戦で、東遷説の一種
だと言っていいでしょう。彩色古墳、宇佐、阿蘇など、押さえていると
ころはしっかり描かれているのと、畿内天皇家=国家鎮護=権力悪
という図式なのも九州派には楽しいところかもw
お金があれば、ついでに諸星大二郎の古代物もご一読あれ。特に暗
黒神話と孔子暗黒伝は掛け値なしに名作。
古田のイメージする通りの九州王朝が実在したかどうかは議論の余地が多々あるとはいえ、 (いくつかある)九州王朝説のすべてはトンデモ、万世一系・八紘一宇のほうが論理的、と主張する低脳はネタなのか?
天子を称して、元号を用いて、政治体制の継続性があるから、 九州王朝と呼ぶしかないでしょう。アンチ説はちょと無理がある。
281 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/02(月) 13:59:03
>>279 萬世一系とかは朝廷のほうであり、九州王朝は無窮ではないから途中滅んだ。
>>281 畿内の朝廷は、まったく万世一系でないことが、記紀に再三書かれています。
第一、神武の遠い祖先のアマテルやニニギは一種の王だったが、それ以降神武まで、
王であった形跡がまったくありませんね。ニニギの後継国内でも、神武は王じゃなかった。
天壌無窮の神勅は、ニニギが対馬から筑紫に上陸したときの話で、菊地朝の時には
筑紫から遷都したために、神勅が破られてしまったわけです。
284 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/02(月) 16:09:49
>>283 >記紀に書かれています。
どこに書かれているか?
>ニニギが対馬から筑紫に上陸した
これもどこに書いてあるか?
285 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 16:13:11
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
286 :
283 :2007/04/02(月) 16:38:53
>>284 万世一系でないことが、記紀全体に書かれています。
ニニギが筑紫に上陸いたことは記紀に書いてありますね。
ニニギはアマテルの孫(子でもいいが)なので、アマテルとおなじ対馬出身です。
287 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/02(月) 18:05:55
記紀全体には書かれてませんよ。そんなぼかすような言い草では、君の自作 としか想えない。 子は出身が同じになるんですか??
288 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 22:33:25
はあ?ストーリー全体がそうなっているわけでしょう。 一族が対馬に住んでいたから対馬出身なわけですが。
神武以降はストーリーではない。神武以前は判定は現段階では無理だ。 お前は具体的記述なく、無を有に勝手に造作しているデタラメ論。
290 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 22:39:20
出たらめいっちゃ困りますなあ〜 ニニギの次の台から神武の畿内進入まで、代々王様であった証拠はありますか?
291 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/02(月) 22:41:39
>>290 古史古伝にウガヤ朝70数代の記述がある。
デタラメはお前のほうだ。
292 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 22:45:11
馬鹿言っちゃいけません。記紀が婉曲に否定しているのに勝手に歴史を作らないでください。
293 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/02(月) 22:47:33
>>292 記紀の完全じゃぁない。お前こそ勝手なデタラメを蔓延させている。
294 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 22:53:12
まあ、録に読めていない人には何を言ってもしょうがないが、 天基を草創するためには、王様じゃない傍流だから出来るの。 代々王様だったら天基を草創南下できないの。 もう馬鹿だから教えない。妄想の世界で遊んでください。
295 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/02(月) 22:57:08
教えないっていうのは、お前の蔓延させだデタラメがお前は回収 できないから、逃げたいんだという隠蔽語だ。よく頭を冷やせ。 花見の酒の飲みすぎだろう?w
296 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 22:58:51
王様がどうやって天基を草創するんだ? 既に王様なんだろ?代々万世一系なんだろ? なんで天基を草創するんだ、できるんだ?
297 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/02(月) 23:02:33
>代々万世一系なんだろ? お前はみとめたのか?w 軟弱だな。 それより皇基を振起でもしろ。
>代々万世一系 もし代々万世一系なら神武は九州から東征したことが史実なので 九州が万世一系の発信となるよ?ww
299 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 23:04:25
つまり万世一系じゃありませんと日本書紀が堂々と宣言してるわけ。
300 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/02(月) 23:06:32
>>299 ありません宣言なんかしてるのは、お前のほうだ。紀にそんな宣言はない。
301 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 23:22:25
まあ、たまには読んでみれば?ちゃんと書いてあるから。
302 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/02(月) 23:25:04
どこに書いてあるんで? 全部か〜?ww
303 :
日本@名無史さん :2007/04/03(火) 01:25:56
「天基を草創」といった時点で、すべてを察知・理解できるのに、 そうならない太国氏、哀れ。
304 :
日本@名無史さん :2007/04/03(火) 17:17:53
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
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古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
306 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/04(水) 14:33:12
>>305 > 「天基を草創」
要するに王朝を開いたということでしょ。
神武らが九州の王朝を正統に受継いでいるなら、「天基を草創」なんて言葉は使わんでしょ。
一系が天照を祖とする王権を受継いでいるを意味するものであるなら、神武は一系を受継いではいないということになる。
そういうことでしょう。
308 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 14:38:45
309 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/04(水) 14:42:29
310 :
日本@名無史さん :2007/04/06(金) 23:42:14
>>283 ニニギのおじさんが出発したのは、対馬ではなくて、壱岐ではないか?
311 :
日本@名無史さん :2007/04/06(金) 23:59:41
軍事駐屯地としては壱岐かもしれないですね。 当時もし本籍があったとすれば、本籍地は対馬だと思いますが。
ニニギは畿内から来たんだろう。 何故なら、ニニギの親族の神の多くが 畿内や出雲に集中しているから。 物部氏や熊野国造の祖であるアメノホカリが最たる例だ。 アメノホカリは、ニニギの兄。 その兄の子孫は畿内にずっといた。
313 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 01:40:46
畿内は当時、まったくの異国。 お話になりません。
314 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 01:59:35
九州王朝なんて電波の相手しないほうがいいよ
315 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 02:32:10
漢籍には書いてあるんだけどねえ〜九州王朝の姿が。 君は否定しちゃうわけね。そりゃ無理だろ〜。
316 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 13:48:30
九州に一定度独立した勢力があったことと、 ここの電波はまた別。
グルタン逃走中!
318 :
倭奴国 :2007/04/07(土) 18:10:44
日本書紀における「清白」の用例から七世紀の九州が新羅や蝦夷のような
「征服地」ではなかったかと考察。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin06/maeda01.html 更に、「清白忠誠を以て」という文言がその詔の中に見えるが、ここに見える
「清白」という言葉については、西暦六五八年四月に阿陪臣が蝦夷を征伐した
際、蝦夷の恩荷が「清白心をもちて朝に仕官らむ」と誓って居り、西暦六八九
年五月には新羅の使が「清白心を以て仕え奉れり」と弁明し、さらにその後に
も「清白を傷りて」云々とある。こうした例からみて、「清白」という言葉の
裡には、敵対の意志無く服従を誓うといった重要な意味が籠められて使われて
いることがわかる。国内の諸臣たちや豪族に対して「清白」という用語は使わ
れていない.「清白」という言葉が公文書である詔勅の中に用いられていると
いうことは、「近畿王朝」にあって九州が新羅や蝦夷と同等の立場にあること
を示している。
319 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 21:21:49
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
320 :
↑ :2007/04/07(土) 21:49:36
グルタンの立ち寄りカキコ
この者は真にグルタンでしょうか?w
322 :
日本@名無史さん :2007/04/07(土) 23:14:53
屁理屈コネ回し大好きのグルタンじゃないかも。 もっと素朴な荒らしですね。
323 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 23:28:04
了解です。w
324 :
倭奴国 :2007/04/08(日) 20:25:44
古事記序文の、「諸家の齎*(もた)る帝紀と本辞と既に正実に違ひ、多く虚偽
を加ふといへり。今の時に当りて、その失を改めずば、いまだ幾年(いくとせ)
を経ずして、その旨滅びなむとす。」の「帝紀」とは東アジアの術語としての
言葉であり、それを踏まえて解釈されねばならない。
即ち、戦後古代史学の従来説の[「帝皇の日継(ひつぎ)」と「帝紀」は同じものだ]という解釈は成り立たない。
各地の権力者がもっていた自らの「帝紀」を天皇家へもってきた、と解釈すべきという考察。古事記が多元的古代
史観でないと正しく解釈できないというもの。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin09/tagens09.html (’『古事記』序文を読み直す’以降を参照。)
325 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 20:43:12
臣下の諸家がそれぞれの視点で帝紀を記録しているので違いが出来たり、 自分の家の都合の良いように嘘を付け足している。 今、その間違いを正さないと、数年も立たないうちに帝紀を記す事の本来 の目的は忘れ去られてしまうだろう。
326 :
日本@名無史さん :2007/04/08(日) 23:06:39
327 :
日本@名無史さん :2007/04/09(月) 01:16:08
328 :
日本@名無史さん :2007/04/09(月) 23:37:42
各地の権力者を平定して、天皇家が列島(の大部分)を統一したんだね。 平定される前は、各地の権力者は天皇家の家臣でもなんでもないよね。 そういうのを多元的古代史観と呼ぶらしいが、当たり前のことに名前を 付けただけって感じだよね。
329 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/04/10(火) 18:46:43
卑弥呼は朝鮮には攻め込んでないのかな?
卑弥呼が神功さんだったら、新羅遠征へいったよね!
331 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/04/15(日) 13:09:02
本日、志賀海神社の「山ほめ神事」に行ってきました。 「君が代は 千代に〜」ってセリフありました。
332 :
日本@名無史さん :2007/04/15(日) 14:34:02
<<<!!!!!邪馬台国は多元的古代史観にあった。!!!!!>>> _人人人人人人人人人人人人人人人_ > な、なんだってー!! <  ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄ ∩___∩ ∩____∩ | ノ u ヽ / u u └| ∩____∩ / # ● ● | | ● ● # .ヽ/ u └| | u ( _●_) ミ 彡 (_●_ ) u |● ● # ヽ 彡、 |∪| 、`\ / |∪| 彡 (_●_) u | / __ ヽノ /´> ) ( く ヽ ノ / u |∪| ミ (___) / (_/ \_ ) ( く ヽ ノ ヽ
九州王朝なんてなかった。はい おshまい
日本書紀の編纂者が、年代をいじくったから 後世の学者らが苦しむはめになった。 おかげで、現代では日本書紀が歴史書としての信憑性が 大きく欠落する事態になってしまった。 じゃ、なぜ、日本書紀の編纂者は年代を弄くったかというと 魏志の女王卑弥呼の記載が気になったから。 そして、日本書紀編纂当時は、上古代の日本の暦(半年で一年)が すでに忘れ去られていたから。 そして、日本書紀という史書の特性が、対中国外交上、重要で 中国に自国(日本)の歴史を説明しなきゃいかんので、 女王卑弥呼の箇所で、整合性が取れないとマズイということになった。 一方、古事記はあくまでも日本国内向けの歴史書であり 年代に関しても、干支没年という曖昧なものしか記載されていないから わざわざ年代を修正する必要がないわけだ。 よって、上古代の日本の年代を研究するうえで、古事記の干支没年が 重要になってくるのは、そのためである。
335 :
日本@名無史さん :2007/04/16(月) 06:34:32
なのに今はお馬鹿で罰当たりの畿内説者とやらが必死で卑弥呼の邪馬台国を 天皇家と結びつけようとしていますね。
>>335 :日本@名無史さん :2007/04/16(月) 06:34:32
>なのに今はお馬鹿で罰当たりの畿内説者とやらが必死で卑弥呼の邪馬台国を
>天皇家と結びつけようとしていますね。
邪馬台国=大和王権と考えるほうが自然なんだよ。
337 :
日本@名無史さん :2007/04/16(月) 22:59:39
いい加減オナニーやめろよwww
338 :
日本@名無史さん :2007/04/17(火) 00:08:49
阿蘇山が畿内にあっただと? 気でも狂ったのか?>336
>>336 妄想は辞めろ。罰当たりめがW 本読めないだろ。
>>336 非常に不自然。日本の歴史書から抹殺されとる。
>>338 邪馬台国畿内説というのは、邪馬台国全国王朝説でもあるわけ。
よって、阿蘇山の話が出てきても
それは、畿内の邪馬台国政権下の九州地域のことにすぎないわけで。
342 :
日本@名無史さん :2007/04/17(火) 06:03:30
>>341 でも完全支配ではないよ。
あくまでも、共立支配ってとこだな〜
343 :
日本@名無史さん :2007/04/17(火) 06:29:45
九州王朝は西と東の二国あったんだよな
344 :
日本@名無史さん :2007/04/17(火) 08:52:04
ここと、「古代九州は都! 2開」の二つか?
345 :
日本@名無史さん :2007/04/17(火) 10:17:13
邪馬台国畿内説というのは、邪馬台国全国王朝説でもあるわけ。 よって、北海道の話が出てこなくても それは、畿内の邪馬台国政権下の地域になっていたという解釈と矛盾しないわけで。
652 :日本@名無史さん :2007/04/16(月) 11:13:02
中国の学会では、
任那日本府はほぼ事実だと受け入れられている。
前方後円墳は3世紀中頃の日本の畿内で始まり
4世紀には、ほぼ九州から関東まで全国へ拡大し
5世紀終盤〜6世紀初頭には、朝鮮半島の南部に出現する。
日本書紀や古事記の記載の大枠どおりだ。
653 :日本@名無史さん :2007/04/16(月) 11:18:45
三国時代墳墓の高塚化過程について・・・チェ・ビョンヒョン韓国考古学会会長
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=73998 韓国の考古学会でも、権威のほうでは
その考古学会者としての探究心から
大和政権の三韓への勢力拡大は既定路線で語られてきている。
中国の社会科学院でもそうだ。
認めたがらないのは、韓国右翼と韓国マスコミだけ。
347 :
日本@名無史さん :2007/04/17(火) 20:08:42
九州ワンチョンってなに?
348 :
日本@名無史さん :2007/04/17(火) 20:50:41
九州王朝ってwwwwwwwwwwwwwwwwww
350 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/04/23(月) 18:21:35
白川静先生は、なにか書き残してないでしょうか?
351 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/04/25(水) 15:09:13
仁徳天皇りょうも実は誰が被葬者なのか わからないらしいね なんでも古代は、「言霊」があって 言葉を文字にするのはいけないことだと考えていたんだって。 だから古代では、このお墓はだれだれですとは書いてないんだって。
352 :
佐賀県民 :2007/04/25(水) 20:29:54
日本の場合、総じてお墓に記録を残さないことが多いね 中国などでは記録を残した石版などが良く見つかるらしいけど 日本の場合は、静かに忘れさせようという文化なのかな
353 :
日本@名無史さん :2007/04/25(水) 21:35:36
日本は伝統的に、白骨が消えてなくなるまでの期間のために墓がある。 それ以降は祖先霊に合体してしまうから、個人霊を祭る意味がない。
355 :
福岡市民 ◆mfl6EhR6DM :2007/04/26(木) 12:10:24
考えたら、その個人名を書かなかったことにより 古代史が謎になって、いろんな説が出ているんだよね 古代人は現代人を困らせるために考えてやったことではないんだろうね 言霊信仰は、古代アジアに広く広まっていたんだって。
356 :
倭奴国 :2007/05/01(火) 07:24:21
>346
「継体の反乱」と任那日本府
中心の権力者を斬っているのに、なぜこれほど遠慮して和睦しなければならないか。
東京の毛利一郎さん(東京「古田武彦と古代史を研究する会」所属)が、「これはおかしい」
と力説されるところであり、わたしもおかしいと思うのです。この場合、磐井本人を斬ること
はできたが、磐井側(わたしのいう九州王朝側)の軍事勢力は必ずしも壊滅してはいなかった。
どこに壊滅していなかった証拠があるかといえば、継体の軍、つまり物部麁鹿火の軍が肥後に
侵入した形跡が全くない。『日本書紀』を見ても書いていない。
・・・・
もう一つは朝鮮半島側です。「任那日本府」というのは大和朝廷の配下のもので
はなく、また現在韓国や北朝鮮側の学者がいっているように「任那日本府は架空の
話」なのではなくて、「九州王朝の任那日本府」であったというようにわたしは
理解しているわけです。磐井の滅亡は「任那日本府の滅亡」より以前ですから、
当然、九州王朝の軍勢が朝鮮半島の南端にいるわけです。事実、装飾古墳と同じ模様が
洛東江流域のところに出てくるわけです。(『ここに古代王朝ありき』、朝日新聞杜刊)
まさに装飾古墳とそっくりたものが出てきております。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin05/tantikus.html
357 :
倭奴国 :2007/05/01(火) 08:36:18
358 :
倭奴国 :2007/05/01(火) 19:49:12
通典に関する論点について
九州王朝批判派からの「通典」に関する批判について、河西良浩氏がそのサイトでよくまと
めているので、紹介しておきたい。
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/forKawamura-san.htm#sec1 結局は『旧唐書』に示されたとおり、「倭国」と「日本」の称は、いくらかの
「混乱」を含んでいることは、私も指摘した(かわにし「倭国と日本」も参照)。
その一端が、早く『通典』から見えている。そういうことだ。『通典』は『旧唐書』
の採用しなかった方の説を採った。『唐会要』は両説をあげ、そのいずれを採るかの
判断は保留している。『新唐書』は、一見、「王年代記」に基づく「近畿天皇
家一元」の立場に立つかのようであるが、川村の指摘する「用明の代より前に中国と
国交があったとは一切書かれていない」点や、「世々中国と通ず」を削除している点等は、
「歴代の正史に明記されている倭と中国の国交は史実ではない」という主張と見なすよりも、
「これ(日本)は歴代史書に言う倭国ではない」という主張であると見なす方が、適切では
ないか(古田武彦「新唐書の史料批判」参照)。
(引用終わり)
通説の支持者の間で、九州王朝派がこの点について、反論していないかのごとく述べている
人間がいるようであるが、それは事実に反する。蛇足ではあるが、念のため投稿しておく。
359 :
日本@名無史さん :2007/05/02(水) 00:41:46
>358 >。『新唐書』は、一見、「王年代記」に基づく「近畿天皇 家一元」の立場に立つかのようであるが、(中略)「これ(日本)は歴代史書に言う倭国ではない」という主張であると見なす方が、適切では ないか 新唐書日本伝には冒頭に「日夲、古倭奴也」と書かれてるんですが…。
そりゃ、ぎりぎりのリップサービスだね。 唐と畿内国が、歴史解釈の政治決着をしたあとだからね。
新唐書がいつできたか知ってるのか
歴史解釈の政治決着が何時ごろだか知っててきいてるのか?
363 :
日本@名無史さん :2007/05/02(水) 02:10:23
我々九州王朝電波説信者は都合の悪いものはみたくありません。
364 :
倭奴国 :2007/05/02(水) 08:10:43
>358 「其の人の入朝するは、多く自ら矜大。実を以て対えず。」とあるわけだから、 旧唐書の段階では、唐は「大和朝廷」側の主張を実のないものとみなしていたのは 明らか。 >346 古田の従来説に対する批判は以下のとおり。 四世紀に畿内の勢力が九州まで勢力下に入れていたという従来説の主張は 高句麗好太王碑の「倭」を畿内の勢力だと仮定したため、成り立つものである。 これには根拠がない。朝鮮半島に進出するような政治勢力は「大和朝廷」しか いないという暗黙の前提によっているのである。「一元通念」側の常套手段。 ちなみに、日本書紀にも筑紫の磐井について以下のような記述がある。。「是に於て 磐井、火、豊、二国に掩い拠りて修職せしむるなし。外は海路を邀へて高麗、百済、 新羅、任那等の国を誘致して聡船を貢せしむ。内は任那に遺わせし毛野臣の軍を遮る。」 外国や属国ないし植民地の使節が相手先を間違えて貢ぎ物を持っていくなどということが ありうるはずはない。これは、畿内側がそういった状況を不当だとみなしたという政治的 表現にほかならない。
365 :
日本@名無史さん :2007/05/02(水) 08:28:31
間違えたんじゃなく日本に内戦が起こる事で日本による半島への干渉が減り、 その内戦の間に自分たちの支配領域を増やして、可能であれば日本本土へも 支配領域を広げたいと思って磐井に協力したんだろ。
366 :
日本@名無史さん :2007/05/02(水) 09:33:09
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)
宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm http://youtube.com/watch?v=iRD3k2j9BeA
367 :
日本@名無史さん :2007/05/02(水) 09:35:43
宝来mtDNAデータのトリックとその欠陥を簡単に説明してやると、 朝鮮半島にしろ中国大陸にしろ、古代より北方アジア人の侵入定着が絶え間ない 地域であったのにもかかわらず、データの中に北方アジア人に関するタイプの データが一切出てこない。 しかも、調査サンプルにも北方アジア人のサンプルが一つも無い。 つまり、宝来mtDNAデータは、北方アジア抜きの偏向調査で出された単なる 偏向データなのであって、ただひたすら中国や朝鮮からやって来たと 錯覚させるだけの非常に悪質極まりない欠陥データに過ぎないのである。
368 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/02(水) 11:40:40
>>336 日本列島に渡来した集団についての仮説が間違っているのではないのかな。
以下の様な仮説はどう思う?
13000年以上前に、ヤンガードリアス氷期(13000〜11500年前)が始まる前に、
アムール川流域(orシベリアのどこか)に住んでいた人達がいた。
ヤンガードリアス氷期の襲来と共に、彼らは南下した。
ひとつの集団は東方回りで樺太から日本列島に南進して来た。
もうひとつの集団は西方回りで東シナ海平原及び九州西部まで南進して来た。
前者はアイヌ琉球人集団で日本列島全体に分布を広げた。
後者は縄文人集団でヤンガードリアス氷期が終わる温暖期開始(1万年前)と共に、
日本列島を九州から東進北進し本州北端まで分布を広げた。
温暖化により、東シナ海平原が海水面の上昇と共に水没し、彼らの生息地がなくなったからである。
この縄文人の東進により、アイヌ琉球族はアイヌ人と琉球人に分断されたのある。
以上のように仮定すると、
@アイヌ人と琉球人の類似性
A縄文人とアイヌ・琉球人の類似性
C縄文土器の分布状況(縄文土器は西九州で発明された)
Dその他
がうまく説明できる。
宝来mtDNAデータは上記仮説を補強するものと思うが。
スットボケ遺伝学者かね?
369 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/02(水) 11:44:07
370 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/02(水) 11:51:01
>>368 の補足
ヤンガードリアス氷期は高緯度地帯でおきているので、
シベリア高緯度地域に住んでいた種族が氷期の襲来と共に南下し、
その玉突きでアイヌ沖縄縄文族の源集団が南下したとも考えられる。
371 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/02(水) 12:10:52
僕としては、「倭奴国」氏のレスに挟む余地はありません。 【毛野】関東に大王あり【武蔵】スレの「婆」氏のレスにも同じ思い。
九州島で完結してくれよ。 南下するな。
>>370 DNA,民俗学やったほうがいいな、それに、メリケン絡みの国際政治w
374 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/03(木) 10:35:31
>>373 宝来氏とやらはよく知らない。
彼を非難も擁護もするつもりはない。
宝来mtDNAデータは欠陥データであることはわかる。
それを偏向データと言うのはわからない。
もうひとつわからない事。
「メリケン絡みの国際政治」を学べと言うのは何故?
>>372 >九州島で完結してくれよ。
>南下するな。
上記は誰に言っているの?
375 :
日本@名無史さん :2007/05/03(木) 11:39:44
>>367 ニブヒやコリャックは北方アジアでは無いのか?
376 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/04(金) 14:39:36
>>375 ニブヒやコリャックは北方アジアに入るが、
>>367 はヤクーツクやバイカル湖よりの人種が入っていないのを、
「北方アジア人に関するタイプのデータが一切出てこない」と、
ヒステリックに書いているだけじゃないのか。
バイカル湖・ヤクーツク・黒竜江中流域の現代少数民族のデーターを入れても、
彼らは新モンゴロイドだから無意味なデーターになるだけだと思う。
古モンゴロイドのデーターがもっと多ければより信頼性の高いデーターになるのだが。
377 :
倭奴国 :2007/05/13(日) 14:24:33
Yamagishi氏の古田史学関連の書籍紹介もしばらく見ないうちに更新されたようだ。
「太宰府は日本の首都だった」の紹介から急所の一つを引用しておきたい。
http://classic.music.coocan.jp/book/furuta/kanren.htm 著者がこの本を執筆するきっかけとなったのは、世界で常識とされている
「炭素14年代測定法」が日本では普及しておらず、学者たちは「土器の様式」
などという先入観に影響されやすい非科学的な方法で編年をしている、という
ことに疑問をもったことによる。そして1996年に「埋蔵文化財研究会」が、
炭素14測定法の他、年輪年代測定法など理化学的な年代判定例をあげ、それら
が従来の土器様式による年代測定とどのように異なっているかを発表したもの
を資料としてあげている。
この資料によれば、土器による年代測定と理化学的年代測定があっているの
は近畿のみで、九州や関東・東北は軒並み従来の判定よりも数十年から場合に
よっては数百年も古いという結論が出るという。(これ以前から、弥生遺跡では
九州の年代は近畿の年代より百年古い、と換算するのが一般的だったらしいが、
理化学的結論はそんな小手先の処理を超越している。)(引用終わり)
その測定が発表されたあとに、 全国規模で大々的に、何万点もの試料を測定した結果が すでに発表されているわけだが。 で。 近畿も含めて全ての地域で、従来の編年より古い年代だと判明してる。 「この資料によれば、土器による年代測定と理化学的年代測定があっているの は近畿のみで」 なんて事はないので、出発点からしてデマ。
379 :
日本@名無史さん :2007/05/15(火) 00:46:10
まあ、絹が出ないような後進地域が、邪馬台国のワケないがな
380 :
日本@名無史さん :2007/05/15(火) 06:00:18
大宰府を治めたのが 太宰治だって、筒井康孝が書いてたなあ。
381 :
日本@名無史さん :2007/05/15(火) 23:39:41
>>380 そうなのか・・・
殴ってくるwwwwwwwwwwww
誰がおもろいこといえと・・・・ 熱々のマルちゃんのワンタン、吹いたやないけ
383 :
倭奴国 :2007/05/22(火) 01:25:00
384 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 08:02:19
age
385 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 19:28:31
>>366 彼のDNA調査というのは、
母方の血(ミトコンドリア)の分類を
「○○に多い」という言い方をしているから
それを「○○国人の血」というふうに
印象操作で勘違いしやすくなる。
386 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 19:55:40
387 :
日本@名無史さん :2007/06/02(土) 11:28:41
388 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/02(土) 18:00:28
6月2日、 北朝鮮から青森への脱出者4名。 全長8mの手漕ぎ舟でやって来た。 全員健康。 ところが8世紀の遣唐使の渡航成功率は20%。 これは異状だね。 渡航成功率は20%の理由はなんだろう? 九州王朝の残党の勢力は大きかったのだね。
389 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 03:08:56
電波乙
>>388 賛成!
ベストコースは九州王朝の残党が阻んだために、選べなかったってことですね。
そろそろ大好きさんのWebサイトを作っていただけませんか?
391 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/03(日) 08:53:43
>>388 の間違い訂正
誤:>全長8mの手漕ぎ舟でやって来た。
正:全長7.3mの発動機舟でやって来た。
船外機エンジンを取り付けていなかったので、手漕ぎと誤判断。
発動機2台を積んだ舟とは驚き。
50年以上前の日本のレベルだな。
392 :
日本@名無史さん :2007/06/07(木) 22:48:47
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200706060182.html >今まで研究者が「新潟産のヒスイでできている」と報告してきた九州の
>縄文時代後期の首飾りを分析したところ、ほとんどが地元産の石だった――。
>最大の原因は、多くの考古学者が科学分析をしないまま、報告書に推測で
>「ヒスイ」「蛇紋岩」等の記載を行ってきたことだ。
>鉱物学が専門ではない発掘担当者が石材を見分けるのは、かなり難しい。
>ある関係者は「でも、報告書は出さないといけないし、『緑の石』とは書
>けない。そんなこともあって、考古学では経験に基づく記載が慣用的に行
>われてきたのではないか」と話している。
考古学者は信用できないね。
393 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/07(木) 23:02:34
全部じゃないが、臥海は真に信用できない面がある。 畿内説がその典型。 あの阿蘇の奴もヒスイのいい加減さで臥海は全部創作だと言わね ばなるまい。記紀の文から、33代まであいつはでたらめだとぬかし たからな。
394 :
日本@名無史さん :2007/06/08(金) 08:39:52
氷ノ山を挟んだ鳥取の若桜と兵庫のどこかの二ヶ所でもヒスイが採れる。
395 :
日本@名無史さん :2007/06/09(土) 01:49:46
>>394 >>392 は、考古学者が何の根拠もなくヒスイと断定していたものは、
実はヒスイではなくタダの石だったと言っている訳だな。
いずれにしても、日本の考古学者の知的レベルは全くお話にならない
バカばかりではないか、と思ってしまう記事だな。こんなやつらの調査
結果なんて、本気で相手にする意味はないな。この記事のように、本物の
科学者の調査結果意外は、まともにとりあう必要はないぞ。
畿内説とかにしても、黙殺しておけば良いのではないか。
神武天皇はいなかったと思うけど、 「ヤマトイワレ彦」はいたと思う。 「九州王朝」はなかったと思うけど、 邪馬台国残存勢力とも言うべき、西部倭人王権はあったかも知れない。
397 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/09(土) 10:18:04
前段 精神科へ行って診てもらえ。
398 :
日本@名無史さん :2007/06/09(土) 21:19:32
>『緑の石』とは書けない。そんなこともあって、考古学では経験に基づく >記載が慣用的に行われてきたのではないか」と話している。 日本の考古学者の知的レベルが露となった重大事件だな。 世界に対して恥ずかしい限り。こういうレベルなら、全てフタをしておいて、 将来世代にゆだねる方が良い。先進国とはとても思えない状況に驚愕を覚える。
399 :
日本@名無史さん :2007/06/10(日) 17:38:34
<C. T. キーリ >-----------------------------
遺跡の立地する古地形を検証すべき地質学者の研究を、見たことが無い。
石器石材の由来について、適切な研究が行なわれていた形跡も乏しい。
「ピット(土坑)」が、人為的なものでなく、自然の作用で説明できる可能性が、検証された形跡もない。
遺跡の堆積層が、どのように現在の状態に至ったかという、遺跡形成作用のまともな研究も無いようだ。
テフラクロノロジー(火山灰編年学)と年代測定学の重要性は、いうまでもない。(略)
日本のアカデミズムは、閉鎖的な体質で知られている。学生は教師を忌避できない。
下位にランクされる教師と学生は、上位にランクされる教師や指導者の意見に従わなければならない。
さもなければ、グループから排斥されてしまう。(略)
筆者は、多くの考古学者が、予算獲得のために、報告書をでっち上げてきたことを知っている。
<奥野真正男>-----------------------------
この事件は、捏造遺跡が国の史跡に指定されたり、教科書に書かれたりした事実によく現れているように、
日本の文化史上、国や公共機関・大学・考古学界が歴史の偽造に直接かかわったがために20年も続いた、
組織的、構造的な「犯罪」事件だと、私は考えています。
<考古学系過去ログ>-----------------------------
893 名前: 名無しさん@3周年 投稿日: 03/05/25 06:14 ID:IVr4gOOM
>>888 ピルとダウン原人なら頭骨を一個偽造しただけだったはず、
藤村遺跡とは規模が違う。
917 名前: 名無しさん@3周年 投稿日: 03/05/25 09:44 ID:EWoqJbYF
ゴッドハンドのおっさんが186箇所も捏造したという事よりも
マスコミに写真取られるまで、考古学者がウソをひとつも見抜けずに
教科書にまで載っちゃったという事実の方がよっぽどビックリだよね。
<総括文>-----------------------------
「擬似考古に基づく従来説は砂上の楼閣であり奇想天外なトンデモ説である。」
401 :
日本@名無史さん :2007/06/11(月) 17:57:20
藤村の見つけた石器に疑問を投げかける人もいたんだけど。
402 :
日本@名無史さん :2007/06/11(月) 22:30:50
「倭」は天智とともに滅亡し、「日本」は天武とともに誕生した。 壬申の乱は、戦勝国使節団の眼前で見せた、政権交代のパフォーマンス。 今日からは、大日本帝国じゃない、日本国だ。もう敗戦国じゃないぞってね。それだけのことだ。 あきれたね。まだ九州王朝なんて信じてるのかい。
403 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/11(月) 22:39:59
魏志倭人伝の卑弥呼は九州王朝の始点。 崇神即位元年=237年=景初元年 ないなんて、まだ思ってんのか? 早く旧来の間違いを知れ。 なお九州王朝の下積み的準王朝とかいうべきものもあった。
404 :
日本@名無史さん :2007/06/11(月) 22:48:53
どうやったらここの人みたいな妄想家が生まれるんですか?
405 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/11(月) 22:53:52
妄想はお前のほうだよ。 こちらは古神道の『卜事』の運用ですでに知悉している。 マァ、お前さんのほうも妄想のあきらめが肝心だ。 なお倍暦で 上述の年が判明している。
>>402 は、天武天皇の出身が九州王朝系だというのを知らないらしい。
後の結論がみな正しいだけに、残念だ。
藤村の見つけた石器に疑問を投げかける立派な人もいたんだけど・・・ 真っ当な判断力を持った人間が冷遇される傾向にあるのが、ホルホル学会(自称歴史学界)である
408 :
日本@名無史さん :2007/06/12(火) 01:24:06
沖縄は九州に入れるの? あと、対馬は朝鮮の支配下にあったっていう説もあるよね。
409 :
日本@名無史さん :2007/06/12(火) 02:40:31
410 :
日本@名無史さん :2007/06/12(火) 23:25:04
>402続き >406に反論 天武に九州の匂いがするのは、扶養を担当した氏族が宗像(胸肩)氏だから。 大海人の名は、大海(凡海)氏から来たとされているが、これは天武天皇の葬儀で、 壬生のこと(養育)の誄(しのびごと)したのが大海麁鎌(菖蒲)であることから、 そう言われてきた。が、菖蒲は続日本紀大宝元年にも登場するのでここから類推すると、 葬儀のころは三十歳前後、しかも無位無官。帝王の国葬に壬生のことを奏するのは あまりに不自然。天武の妃、宗像徳善の娘、尼子郎女は天武の長男高市の母。宗像氏は、 海人族で、大海人の扶養担当氏族。オオアマとアマコは、ペアルック、幼馴染で正しく最初の妻。 書紀の神代紀、アマテラスとスサノオの誓約の場面で、アマテラスが剣から産み出し スサノオの娘とされたのが宗像三神であるのが、その証拠。 あきれたね。まだ九州王朝なんて信じてるのかい。
411 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/12(火) 23:32:13
当然九州王朝は実在した。卑弥呼の女王国が九州王朝の始点。 無いというのはお前の妄想。 古神道の『卜事』(ウラゴト)では、九州王朝は崇神の時代あたり から文武の世のころまでである。
412 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/13(水) 00:14:44
「信じてるのかい」氏は アンチを装った、九州王朝説支持者でしょうか? 説の否定部分だけ浮いている。
九州王朝説か。なつかしい。 「東日流事件」のおかげで目が覚めたが。 ま、若き日の「はしか」みたいなもんだった。 「はしか」って、歳取ってかかるとエラいことだから。
415 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/13(水) 07:43:27
青森が失敗でも九州のほうもそうだとはならない。 両者は別物として考えねばならない。
416 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/13(水) 17:16:12
九州・東北と青森は別もの。
九州王朝説は、なんか地球空洞説に似てるな。
アンチ九州王朝説は、なんか天動説にそっくりだと思う。 たんなる思い込みが長年にわたって定着するとこうなるという見本。
419 :
日本@名無史さん :2007/06/13(水) 23:10:33
>>399 なるほど。
鏡はあそこにあるなあ。剣はあそこにあるなあ。
だけど、玉はないなあ。
420 :
日本@名無史さん :2007/06/13(水) 23:24:26
>単なる地方豪族であった宗像氏が、天武の扶養担当氏族になったことが天武朝に 九州の香りを加えていると言っただけ。文脈が逆。(俺の日本語がヘンなのか) >この国は、百済=満州国、新羅=中国国民党、唐=アメリカ合衆国、と千三百年経って 同じパターンの失敗をしただけ。どこに九州王朝の出る幕がある。 >大体、われわれ関西人は、古代の膨大な遺跡遺物の中に住んでいる。九州王朝の 同時代とされる歴史の舞台である天理市桜井市飛鳥町橿原市を一歩歩けば、 九州王朝説なんか頭の片隅にも残らない。九州王朝説なんて東京の連中が言ってる だけ。 >>先週は見瀬丸山、先々週は石舞台、その前は西山古墳に行ってきた、今度の休みは 牽牛子塚に行って来ようっと。
倭の五王は、極東の「将軍」「大将軍」号を受けていた。 その時代、大和国は畿内の狭い領土を保有していただけ。 大和国と極東制覇国とでは、市長と総理大臣ぐらいの差がある。 九州王朝以外に極東を制覇した国はない。
422 :
日本@名無史さん :2007/06/13(水) 23:47:38
>418 なるほどもっともだと思う。 ただ冒頭の「アンチ」という三文字は余計。
阿蘇山が畿内にあるという、トンデモ天動説がアンチ九州王朝説です。
まあ、阿蘇の岩石は畿内に埋まっているけどな。
425 :
日本@名無史さん :2007/06/14(木) 00:09:45
相手にされないから2chでしか吼えられないおまえらが可哀想だよw
志賀島の金印は畿内にあったという妄想が、アンチ九州王朝説です。
427 :
日本@名無史さん :2007/06/14(木) 00:51:37
俺はアンチ九州王朝ではないが、こんなスレがあるほど九州王朝説が知られていることに ビックリした。
428 :
日本@名無史さん :2007/06/14(木) 01:14:51
天照の四代目と五代目が二百九十年空いてて、四代目は有名な山佐知毘古。このスレ見つけて懐かしいから、その辺りを読み返してた。連投すまぬ。
安本センセぐらいだぞ、まともに反論してくれんの。 正直、九州王朝なんて言い出したら もう人格まで疑われる。 邪馬台国四国説のオッサン程度の扱いだ。
安本を先生扱いしてる時点でt(ry
431 :
日本@名無史さん :2007/06/14(木) 11:41:40
昔、古田の本を読んでた時期がありました。 でも、九州王朝って、まっとうな根拠は隋書の「有阿蘇山」ぐらいしかなかったような気がする。 ほかの根拠らしきものは、、 3世紀:畿内の邪馬台国か九州の邪馬壱国か。この時代はどちらともいいがたい。 4世紀:もともと王朝の場所を特定するようなめぼしい記録がない。 5世紀:倭の五王を九州とする。しかし、倭の五王が九州であると特定する根拠は皆無。 磐井の乱も九州王朝論者が大好きなできごとである。 磐井は一時的に王を僭称していたが、それ以前の時代から継続的に九州に王朝があったとする根拠は皆無。 また九州王朝論者は戦後処理や葛子の処遇などについて(継体の詔のひねくれた解釈以外は)触れたがらない。 6世紀:欽明の時代の半島との交流について触れたがらない。 7世紀:隋書の「有阿蘇山」を鬼の首を取ったように吹聴 これを除き、この時代に畿内以外に王朝があるとしても、それが九州であることを示す根拠は皆無。 大化の改新については、なかったとか、時代が違うとか諸説に分かれるようだが、 やはり、畿内以外に王朝があるとしても、それが九州であることを示す根拠は皆無。 4世紀以降の記紀の記述を軒並み捏造・隠蔽としないと成り立たない説であり、そのくせ王朝の場所を特定する根拠が薄弱で、 九州王朝だろうが長州王朝だろうが壱岐王朝だろうが成り立つような理屈ばかり。 今となってはアホらしい限り。 誤った推論をしないように論理的思考力を養うための教材、つまり反面教師のような存在価値しかない。 若気の至り、ハシカのようなものだった。
古代史でミクロな証明を求めること自体が無理なのに、それがないからダメというのは反論にならない。 マクロな仮説で多くのことを矛盾少なく説明できるほうが、真理に近い。 阿蘇山・金印や九州年号、旧唐書の日本国・倭国併記問題など、他の説では説明できないだろう。
>九州王朝だろうが長州王朝だろうが壱岐王朝だろうが成り立つような理屈ばかり
そうだったとしても、
「弥生時代以来の日本列島の支配者は天皇(との血縁を主張する)一族である」
という証明にはならんな。
>>431 は何が言いたいのやら。
スレ違いになるが、
>>431 みたいな奴の政治的(思想的)傾向をぜひ知りたい。
434 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/14(木) 16:03:32
>>431 卑弥呼の女王国は九州所在。3世紀だから神武以前でないわけで、神武以降
なのだから畿内に女王国があれば朝廷の隣に女王国があるわけで、当然記紀が
記載を落とすわけがない。遠い百済からとかの朝貢とかの記録があるんだから
倭人伝以上に詳細に卑弥呼のことが書かれる筈が、それが無いのは女王国が九州
にあったからだ。まさか四国とか沖縄などと君は言うまい。さらに卑弥呼が朝廷
の女ならば神功皇后のように記紀に各天皇のあい間に一章設けられるはずだが
それがない。ということは卑弥呼は朝廷の女でなかったからであり、これでも
女王国は九州にあったことになる。つまり卑弥呼から壱与への移行を考えれば、
これだけで九州王朝が存在したと充分言える。さらに卑弥呼が神功皇后だという
なら、次代の應神、仁徳の寿命がそれぞれ111歳、143歳とかの超長寿が続くのを
肯定することになり、生物学的にありえることではない。つまり紀の編者らは
卑弥呼が崇神世あたりの人物なのに、当時大陸側と日本側との暦法の著しい相違
を見抜けず、これを知らずか過失の調整を為し、神功世が相当と見て誤認記載し
たものとわかる。
倭の五王も畿内の天皇ではない。もしそうならば武王くらいでなく五人とも名
が一致するはずであり、「武」の字から雄略の幼武とするには文武、日本武尊、
武烈とか古代の名において「武」の名の多用が見られることからも武王を雄略
と特定するにはほど遠い。さらにどんな研究家、学者が五王と天皇の年代の
一致を試みてばかりいるが、どれもこれもピタリと合致した者は誰一人として
いないわけで、帯に短し襷に長しの蒸し返しである。という事はなおさら五王が
当時の各天皇ではないと確信してよい。つまり九州王朝の王だから合わん訳だ。
最後に上表文であるが、これは神武以前の五王の祖先ころのことを物語っ
た文であると観る。
435 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/14(木) 16:13:36
なぜそれだけ九州王朝を妄想だと、とたんに言い出す輩がわりかし多くいる理由 とは、おそらく彼らは女王国が畿内にあったとの強い希望が脳内の存在するから で、九州王朝説を認めると自己の畿内説の主張がひっくり返る懸念が大幅に あるからなのであり、だが残念ながら卑弥呼の国は上述のとおり畿内にはない。
邪馬台国は北九州と認めていればこそ、 「九州王朝説」は迷惑なのだ。 みんなもそうだろ?
437 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/14(木) 16:42:47
北九州には女王国はまずないな。そこより南のほうが可能性が大。 もしも北九州にあったんなら、百済あたりからも朝貢の記録に女王国のかなりの 記載があって然りである。なぜかと言うに、百済→北九州→畿内の道筋上に 女王国があるわけだから卑弥呼の国の情報が畿内に届きやすく、神功39年等 の記述くらいの紀の猫の額程の女王国の記述で終わるわけがないわけで、もっと 多大に記紀に卑弥呼の件が書かれるはずだ。だから北九州の線は薄いと観たい。
438 :
日本@名無史さん :2007/06/14(木) 18:20:40
>>433 >何が言いたいのやら
弥生時代などにクニと呼ばれるものが日本中の至るところにあったことは、ほぼ定説。
古墳時代などに、時にはヤマト朝廷に従わない地方豪族がいたことも、ほぼ定説。
ヤマト朝廷以外に王朝があろうがなかろうが、具体的に根拠のある話であれば受け入れる。
しかし、九州に継続的な王朝があったという主張には、
ヤマト以外の王朝の場所を九州であると特定する根拠が薄弱 (せいぜい隋書の「有阿蘇山」くらい)
王朝が継続していたことを示すような根拠も薄弱 (例えば隋書の「自魏至于斉梁代与中国相通」は解釈に難)
と言いたいのだ。
>政治的(思想的)傾向
古代史を楽しみたいだけで、政治的傾向は関係ないと思うが、強いて言えば、どちらかというと古臭い左寄りかなあ。
だから、433みたいな物の見方は、マルクスが言うような「観念論で逆立ちしている」典型のように見える。
ただし、唯物史観もフィクションだと思うし、皇国史観やアンチ皇国史観どちらもオエ〜です。
「弥生時代以来の日本列島の支配者」・・・妙な先入観を伴うこんな気色悪い概念に興味はありません。
九州王朝の首長は天子を自称して、元号も連綿と制定していた。 だから王朝なわけで、根拠薄弱なんて笑ってしまう。
440 :
日本@名無史さん :2007/06/14(木) 18:53:42
>>427 全然知られてないよw
珍説として極一部に有名なだけ
441 :
日本@名無史さん :2007/06/14(木) 18:57:55
九州の一部にヤマトに属さない半独立的な勢力があった時代もある。 これでいいのにわざわざ「王朝」なんてつけるから珍説になる。
442 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/14(木) 19:15:26
江戸時代、京都の朝廷と江戸の徳川幕府が並立していた如く、当時は九州と畿内 とにそれぞれ九州王朝と大和朝廷とが並立していたのである。 畿内に卑弥呼の女王国は先述のとおり存在しないから、畿内説信者はその盲信を 早急に遺棄すべきである。紀無いになんかありっこない。
7世紀まで連綿として元号や政治体制をもった国は九州王朝だけでしょう。 矮小な大和国など、全く不可能なことでした。
444 :
443 :2007/06/14(木) 19:19:46
訂正 ×7世紀まで ○7世紀までの日本で
445 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/14(木) 21:25:37
>>441 >九州の一部にヤマトに属さない半独立的な勢力があった時代もある。
>これでいいのにわざわざ「王朝」なんてつけるから珍説になる。
九州にヤマトを従属させる独立勢力があった時代があった。
これでいいのに日本唯一の「大和朝廷」なんてしたから袋小路に陥る。
446 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/14(木) 21:32:16
>>431 >6世紀:欽明の時代の半島との交流について触れたがらない。
欽明は九州王朝の大和の大王だよ。
九州王の「朝やん」 つう方がおられたのだ。 九州王朝の末裔が麻生家。 宮廷料理がトンコツラーメン。 これでオケ?
448 :
日本@名無史さん :2007/06/14(木) 22:30:32
>九州王朝論者は、馬鹿の一つ覚えのように阿蘇阿蘇と言いたがるが、 >隋書倭国伝の次の記事は、どう見たって熊野の花の岩窟だろうが。 >九州王朝は熊野まで支配していたってのかい。 >446 根拠を示せ。 >あきれたね、まだ九州王朝なんて信じているのかい。
449 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/14(木) 22:47:07
ま〜だ畿内の大和朝廷しかなかったと信じててるんかねぇ〜? 哀れだねぇ〜。 臥海のあやつりの糸が断ち切れてないようだな?w
>>438 俺もほぼ同意だな。弥生時代が日本列島で最初に始まったのは北部九州で、
そこから順に東へ伝わっていったこと、
そしてその生産手段が稲作という温暖地帯が有利な作物である以上、
九州弥生開始(BC10C)から暫くの間は
社会の発展・政治統合は九州が全国に先行していたことは誰も否定していないし、
その時期の日本列島において、多くの首長が全国に存立していたことも通説。
それが、闘争・講和・合従連衡を繰り返して、
最終的に畿内の筆頭首長=皇室の傘下の豪族・貴族となったこともこれまた常識。
俺は、邪馬台国や倭の五王など、中国側の文献に出てくる倭人国・倭人首長は、
畿内大王とは関係無い、列島の中のどこかの首長が勝手に使節を出したとしても、
全くおかしくないと考えているので、
その意味では九州王朝説なるもののエッセンスは、十二分に承認するよ。
(これらの場合、誰が倭の王であるかを認定するのは、中華皇帝なのであって、
そこには日本列島内の正統性に関する意識は実は直接には関係が無い。)
だが、
畿内の大首長の唯一の本家が九州にあったとしたり、
挙句の果てには以前コテ「九州王朝大好き」氏がどこかで書いていたように、
関東や東北に至る全国津々浦々の古代の首長が、
悉く「九州王朝」の血統の弟だの妹だの従兄弟だのハトコだのと認定するに至っては、
もはや、「水戸黄門皇国史観の、さらに劣化した醜い鏡像」にしか見えないよ。
なぜ「多元史観」なるものを掲げる「九州王朝主義者」が、
全国の首長を悉く「九州王朝」なる日本の端の豪族一族に繋がる単一血族にするのか?
それじゃあまさに「日本唯一の皇国なるところの偉大なる大九州皇国史観」だろw
本当にミイラ取りがミイラになっているとしか思えないよ。
451 :
443 :2007/06/14(木) 23:21:39
倭の五王は、極東支配の将軍ないし大将軍だったわけで、 畿内ローカルな大和の小王とは規模が違う。 極東を支配した大将軍の後継者が、のちに天子を自称し 元号を制定して畿内もそれに従っていた。 「郡」制でなく、「評」制を敷いていたのも九州王朝。 畿内の首長が、極東の覇者になったことなど一度もない。
452 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/15(金) 00:23:53
>>450 >関東や東北に至る全国津々浦々の古代の首長が、
>悉く「九州王朝」の血統の弟だの妹だの従兄弟だのハトコだのと認定する
コラ、でたらめ書くな。
「関東や東北に至る全国津々浦々の古代の7大王と九州王朝の大王は緩い連合体を形成していた。」
と言う意味のことは書いたがな。
畿内の仲哀以前と継体3代は含まれないが。
>>452 ちょっと俺も過去ログを漁れないのでソースは出せないんだが、
その「古代の七大王」とやらだったか、あるいは
武蔵か毛野あたりの在地豪族が、九州王朝一族の誰それの兄だとか弟だとか
言っていなかったかい?
百歩譲って「緩い連合体」だとしても、
九州所在の王朝が全国連合の盟主に立つことは
ほぼ地政学的に無理なことなんだよ。しかも大和朝廷の統一以前の大昔だ。
幕末の薩長同盟でさえ、天皇を九州に呼び、
太宰府に首都をおいて全国支配なんて馬鹿げたことは考えなかった。
畿内所在の律令政府、それも西向きの湊である難波ではなく
東側と縁が深い大和や山城所在の歴代中央政権においてさえ、
関東と、東北の特に太平洋側は、「裏日本」になってしまい、
独自の気風が渦巻く中央統治に難渋する地域となってしまった。
それは、どうしても中部山岳と脊梁山地で交通路と文化伝播が遮られてしまうからだ。
海のルートとて、畿内以西から関東常磐東北へ直通するルートは豊臣秀吉まで無い。
御前崎沖は海難の名所、日本海回りでも三陸沖が大問題になる。東回りは難しい。
況や、畿内より500km以上も西にある九州の政権が、
関東や東北まで盟主としての影響力などまともに及ぼせると思うかね?
454 :
443 :2007/06/15(金) 03:14:47
鉄のなかった畿内大和が、極東の覇者でしたなんてありえない。 九州王朝以外には、ありえない。 装飾古墳の分布が九州王朝の勢力圏に近似していることも見逃せない。 以下引用: 横穴系を含めて装飾古墳は全国で約600基が確認されていますが、 分布には大きな偏りがあります。最も多いのは福岡・熊本県を中心とした 北部九州で、続いて東日本の茨城・福島県周辺です。この2箇所以外にも、 鳥取県東部、大阪府南河内など装飾古墳が局地的に集中する地域が あります。九州と東日本、山陰の装飾古墳は壁画の題材や古墳の構造に 共通の要素が見られる場合があります。
455 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 09:47:27
>定義の節操のなさに呆れている。 古田の九州王朝説は、天智の代に白村江で九州王朝が滅亡し、大和政権が取って代わったってのがセールスポイントじゃないか。 誰も弥生時代の話なんかしていない。 そんな時に、装飾古墳がどうのって言われてもなァ。 大宰府のついては、それ以前に筑紫率って役所があって、これが大宰府に 数世紀先行するって言われている。筑紫率については、清張が、倭人伝の一大率の解釈で無視したように、 何か無視されことが多いけど、何で? だから大宰府以前の遺跡があるって言われても、そっちじゃないのかとしか言えない。
456 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 10:05:04
>>450 九州王朝説=大九州皇国史観
的確、ピッタシ、ナイスなレッテルです。
今後いろいろな所で使わせてください。
457 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 10:14:48
>>445 九州にヤマトを従属させる独立勢力があった時代があった。
こういうあいまいな言い方はやめませんか。
「九州が大和を従属させていた時代がある。」と言う場合、これを完全否定する人は少ないでしょう。
プロの考古学者や歴史学者でも、九州が河内や大和に攻め込んだという仮説を心の中で抱いている人は珍しくないと思います。
問題なのは、その時代がいつかということです。
年代が確定できるような記録が少ない4世紀以前なら、「九州が大和を従属させていた」というのも仮説の一つとして、ただし蓋然性の著しく低い仮説として考慮できるかもしれません。
九州王朝説では、7世紀の白村江まで、人によっては壬申の乱まで「九州が大和を従属させていた」というからトンデモ以下になるのです。
歴史の話をしているのですから、常に時間軸を意識して欲しいと思います。
458 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 10:20:48
>>445 日本唯一の「大和朝廷」なんてしたから袋小路に陥る
これも時代の前提がないから、誤解しやすい表現になっています。
おおよそ雄略あるいは倭王武の時代までは、「大和朝廷」は国内統一のための戦争をしていました。
日本書紀あるいは宋書の記述から、これを否定する人は少ないと思います。
すなわち、この時代までは、「大和朝廷」が日本唯一の権力だと考える人は稀でしょう。
歴史の話をしているのですから、常に時間軸を意識して欲しいと思います。
問題なのは次の2点です。
1 「大和朝廷」が日本をほぼ統一した、つまり日本唯一の権力といえるようになったのはいつか。
2 「大和朝廷」に反乱する勢力はあるが、その勢力はどの程度継続性があるのか。
少なくとも、王朝といえるような王権の世代交代などがあるような期間、存続するものだったのか?
九州王朝説では、
1について、7世紀後半とするからトンデモ以下になるのです。
2について、例えば磐井など1代限りとしか読めないのに、数世紀もの継続性を主張するからトンデモ以下になるのです。
459 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 10:38:35
>>446 欽明は九州王朝の大和の大王だよ。
本当に日本書紀の欽明の箇所を読んだうえでの主張ですよね。
まず、天国排開広庭皇子が天皇に即位した記事のあと、系譜等の若干の記事以外は、延々と半島との外交・軍事や交流が記されています。
欽明は大和にいて、九州王朝に従属していたということですが、半島との外交交渉や派兵の可否の決定は大和にいる欽明が行っていたと主張するのですね。
まるで、幕末のアメリカと朝廷&幕府との関係に似ていますが、欽明が九州王朝から外交権と軍事権を与えられたという根拠が何もありませんね。
もしかしたら九州王朝には最初から外交権と軍事権などなかったとか・・・?
次のいずれでしょうか?
a 九州王朝は外交権と軍事権を持たない珍妙な王権である。
b 日本書紀の欽明の箇所はほとんど捏造である。
c 「欽明は九州王朝の大和の大王」は大九州皇国史観によるファンタジーである。
>>458 >1について、7世紀後半とするからトンデモ以下になるのです。
「外部」の人間にとってはこういう主張自体がトンデモなんだがなあ。(もちろん東北支配の件は別として)
大和朝廷の東日本以西の支配が確立したことを示す客観的事実を列挙してみなよ。
もし「獲加多支鹵」持ち出すんなら別スレでのコテハンさんみたいに玉砕しないよう慎重にな。
6世紀後半の敏達期ですら、大和国は播磨国を領有していないのに、 それ以前の大和朝廷の日本統一なんて言われても笑わせる。 九州王朝が畿内大和に取って代わったのは、やっと7世紀末だ。
462 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 15:06:17
>>460 大和朝廷の東日本以西の支配が確立したことを示す客観的事実を列挙してみなよ。
つまり、「大和朝廷が東日本以西を支配したのは7世紀後半以降だ」と主張したいのですね。
で、稲荷山の鉄剣ですか。
江田船山の鉄剣などと総合的に判断して「獲加多支鹵」を雄略とするのが通説ですが、それではお気に召さないということですね。
景行紀の日本武尊の東征も当然「客観的事実」ではないと。
では、稲荷山のある古墳群に関係付けられることもある安閑紀の武蔵国造の争いはどうでしょう。
朝廷が断を下して笠原直使主を武蔵国造とし、使主は、横渟・橘花・多氷・倉樔という東京・川崎あたりの4つの屯倉を設けて国家に奉りました。(謹爲国家奉置)
また、同じ安閑元年には、奉勅して(勅命で)上総の伊甚に珠(真珠)を求め、これが元で一騒動が起こっています。
さらに、安閑2年には豊作を祝って宴を催し、筑紫、播磨、上毛野、駿河、その他に屯倉を置いています。
こういう記事をどう解釈するか。
次のいずれなのでしょうか?
a 九州王朝は、ヤマトの安閑によって地元に屯倉を作られてしまうような珍妙な王権である。
b 日本書紀の安閑の内政記事はほとんど捏造である。
c 「大和朝廷が東日本以西を支配したのは7世紀後半以降だ」は大九州皇国史観によるファンタジーである。
初めて大嘗祭の主体者になった天皇は持統天皇だ。 それまででは「部下が参加した記録」はあるが、畿内の天皇側に主催した記録がない。 九州王朝の天子以外に、だれが主催できたのか?
464 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 15:22:06
>>461 6世紀後半の敏達期ですら、大和国は播磨国を領有していない
まず、「大和国は播磨国を領有していない」ではなく、「大和朝廷は播磨国を領有していない」と言いたいのですね。
さて、「敏達天皇十三年に馬子は播磨にいる恵便を(仏教の)師とした」をどう解釈するか。
(領有していない地域から人を呼び寄せることは可能であるとか?)
敏達の時代も半島との交流の記事は多いし、そのルートが筑紫・壱岐・対馬を経由することをうかがわせる記載もある。
播磨を迂回して、頻繁に筑紫・壱岐・対馬ろ経て半島と行き来していたというのは、どういうルートを想定しているのでしょう?
(領有していない地域でも使者等が通過することは可能であるとか?)
括弧内のような解釈をとる場合、「播磨国を領有していない」と強弁して笑うことに何か意味があるのでしょうか?
敏達以前の状況からいっても、地理的関係からいっても、何をもって「領有」と呼ぶかという言葉遊びになりそうですね。
なお、敏達以前の大和朝廷の例として、欽明や安閑はいかがでしょう。(参照:
>>459 ,
>>462 )
しかも、九州王朝は外交について休眠状態なのかな。
やはり、次のいずれなのでしょうか?
a 九州王朝は外交権と軍事権を持たない珍妙な王権である。
b 日本書紀の敏達の外交記事はほとんど捏造である。
c 「九州王朝が畿内大和に取って代わったのは、やっと7世紀末だ」は大九州皇国史観によるファンタジーである。
大和朝廷?朝廷じゃないでしょう。 だれが朝廷と断定したんですか?
466 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 15:30:16
>>463 九州王朝の天子が、例えば崇峻の大嘗祭を主催したというソースを示さないとだめですよ。
かえって主張が眉唾になるばかりですよ。
現代の国境の概念を古代に適応した、妄想ですね。 半島と列島間で人が行き来しているような社会ですよ。
天皇が大嘗祭を主催していないのに、 天皇の部下に大嘗祭参加の褒美を与えているわけです。
469 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 15:35:29
>>465 最近の書き込みでは、「大和朝廷」という用語を自ら使っているのは、「九州王朝大好き」さんと「太国」さんですね。
他の方々は、そのお二方へのレスのために「大和朝廷」という用語を使っていて、積極的な用法ではないみたい。
九州王朝内部も一枚岩でないから、皇国史観じゃないでしょ。 むしろ畿内説のほうが万世一系っぽいですね。
九州王朝のパクリを日本書紀には盛り込んだわけです。 8世紀以降、畿内政権が九州王朝の正当な後継と宣伝を始め、 天照やニニギまで祖であると言いだしちゃった。 九州王朝の外交記事も一部取り込んだ。 畿内の首長も部下として半島にかかわったから、その記事もある。 こういった日本書紀の捏造をそのまま信じては、原典批判はできない。
472 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 16:21:30
>>471 「パクリ」とか「一部取り込んだ」といった根拠を示さないとだめですよ。
パクリ等をしろという命令書が残っていそうもないので、例えば記紀のどの部分がパクリ等であるか、
その元になった九州王朝のできごとは何なのかなど、丹念に示さないと。
このままでは、
「九州王朝説に矛盾する記紀の記述は多い。
しかしそれらは捏造である。
故に九州王朝説に矛盾はない。」
という、同義反復のトンデモになってしまいます。
473 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 16:35:28
>>471 「原典批判」なんぞというなら、欽明紀などを一度見てくれ。
「九州王朝の外交記事も一部取り込んだ」とか「畿内の首長も部下として半島にかかわった」といったレベルではないことがすぐ分かるだろう。
九州王朝は外交権がないとするか、欽明紀はあらかた捏造とするか、九州王朝はないとするかだと分かるだろう。
で、
日本書紀にたくさん捏造があると考えるより、
隋書等に若干の誤記があると考えるほうが、
どう考えてもまっとうなんですが。
ああ、要するに日本書紀ファンダメンタリストの方ですね。 漢籍より国書が絶対というわけですか。どうも話が通じないわけです。 ファンダメンタリストとの議論はまったく無駄でした。
475 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/16(土) 01:22:15
>>464 5〜7世紀の九州王朝にとって半島南部は外国の概念の地ではない。
韓地も畿内も関東も皆同じ感覚。
5世紀では関東のほうが韓地より外国だったかもしれない。
九州王朝の息がかかった欽明だからこそ、
九州に対するのと同じ感覚で韓地と交流したに過ぎない。
九州との交流は日本書紀では当然省かれ記載されない。
敢て現代の外国の感覚といえる国々は大陸の各王朝と高句麗かな。
>>467 氏と考えを同じくするので引用します。
>>464 については、
>現代の国境の概念を古代に適応した、妄想ですね。
>半島と列島間で人が行き来しているような社会ですよ。
476 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 01:53:03
ここのバカどもは雄略=ワカタケルではないんだなw
477 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 02:01:50
肝心なとこには答えない九州厨w
478 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/16(土) 02:51:02
479 :
460 :2007/06/16(土) 06:50:42
>>462 保守的古代史を支持してる奴は、相変わらず主観と客観の違いも分からないのか。
日本武尊ねぇ…
保守派の中でも実在でないとする「説」もあるよな。実在の証拠は?
とにかく、大和朝廷の東日本以西の支配が確立したことを示す『 客 観 的 事 実 』を列挙してみなよ。
例えば「獲加多支鹵」の読みを推論や証明不能な仮定抜きで説明してみ?
480 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 09:03:57
実際の大嘗祭がいつから始まった行事か調べてみたら? 記紀は、編纂された時代感覚で過去の事を書いているから、 役職や宗教行事などの実際にはまだ存在しない事柄が記述 されてたりしてるんだよ。
481 :
日本@名無史さん :2007/06/16(土) 09:42:31
482 :
九州王朝派 :2007/06/16(土) 21:58:57
博多湾の志賀島で発見された「漢委奴國王の金印」は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣の倭国王(倭奴国王)の印綬であり、金印が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である「倭国王」の居城「倭奴国」があった。 つまり博多湾の近くに倭国の首都があったと考えられる。 後漢書に「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」とある。 倭國が倭奴國と区別されており、倭奴國について倭國之極南界也とあることから倭奴國は倭國の一部であると考えられる。 王については倭國王帥升(等)しか記されず倭奴国王は記されていないことから、建武中元二年に倭奴國の自称大夫(公式に国王印を綬かる為に自称王から大夫に下がる必要があった)が使いを遣し漢より印を綬かって王に任ぜられ倭國王になったと考えられる。
483 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 00:40:30
>「漢委奴國王の金印」を今さら本物と信じているのかい。 >発見された金印と称するものは複数個あるし、宮崎市貞もあれはアンタッチャブルって言ってるぜ。
金印が複数発見されたってのは、単なるデマ。
485 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 00:56:22
>そうでもない。黒田藩が倣製品をいくつか造っていて、今となってはどれが本物なのかよくわからない。
嘘を言え。黒田藩が金を使って無駄なもの作って何になる。
487 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/17(日) 01:31:47
>>482 僕は以下の様に思います。
「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」
「建武中元二年倭奴国」と「安帝永初元年倭国」とは別国。
倭国王帥升は印綬を望んだ(願請見)が、安帝は印綬(請見)していない。
又、生口百六十人は倭奴国の捕虜ではないかと思う。
倭国王帥升は倭奴国を制圧した証拠として、
倭奴国人捕虜百六十人を生口として差出したと思う。
倭国王帥升は印綬に失敗し、以後倭国乱に入る。
年表
57年「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀」
107年「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」
108年〜188年頃「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年」(魏書東夷傳)
147年〜189年 桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼(後漢書東夷傳)
189年 有一女子名曰卑彌呼(後漢書東夷傳)、共立一女子爲王(魏書東夷傳)
488 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 01:43:41
>金印については、明石散人が詳細な考証を書いている。 >発見場所もはっきりしないし、発見されたとされている地名も現存しない。 >黒田藩の2つの藩校の勢力争いに絡んで、劣勢の方が金印を鋳造して藩主に献上したっていうのが結論だった。 >宮崎市貞も、何かの著作でもう一つの金印について書いていた。本棚にあるはずなんだけど、 >悪いけど今すぐにはちょっと出てこない。宮崎さんの本は多すぎるんだ。 >確か、かって東京のデパートで開かれた展覧会に出品されたという話が書いてあって、 >東洋史をやっている連中の中では、金印の話はやばいのでタブーになっているって書いてあった。 >で、自分もそれ以来金印の話はしないことにしている。
現実の伝承はありのままであり捏造として下手過ぎまますね。 江戸時代の農民による私掘などそんなものでしょう。 金印が捏造なら、場所や状況設定についてもっと上手な捏造をしましょう。
ありそうな話としてはこんなところ。 農民が届け出なしにある場所を盗掘した。 金印が出てきたが、これはバレないわけがないと思った。 秘密裏に換金するすべもなく、捨てるには惜しすぎた。 そこで夢を見て誘導されたという作り話作って、金印をお上に届け出た。
「東日流外三郡史」って、 「桓檀古記」に似てるな。
492 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 08:20:41
>489 >490 想像ではなしに、文献的考察をしようぜ。内容が正しいかどうかは別として、 少なくとも無知から来る想像よりはいい。 明石散人「七つの金印」:明石散人は、資料収集や解析のレベルにおいて、 松本清張なんかとは別ランクの作家だよ。 まさか宮崎市貞って誰だとはいわんだろうな。
493 :
九州王朝派 :2007/06/17(日) 09:43:35
>倭国王帥升は印綬を望んだ(願請見)が、安帝は印綬(請見)していない。 『後漢書』は漢の公式文書である、この中で帥升は国王と明記されている。 107年「安帝永初元年」当時、漢国から国王に任命されていたのは57年「建武中元二年」に印綬した倭奴國の他にない。 国王と記されている以上、倭国王帥升は漢から正式に国王に任命された倭奴國の自稱大夫の後継者である。 これ以前の状況でも『漢書(前漢書)』地理志の「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」から前漢の時代は100国あまりの小国分立の状態であったのが 『後漢書』東夷傳では「凡百餘國 自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統」となり国の数が30国あまりに減り統一が進むと共に、一時的に自称王が乱立していたが、 漢が国王と呼ぶ正式な国王はいなかった事がわかる。
494 :
九州王朝派 :2007/06/17(日) 10:33:51
金印について偽物ではないかとの意見もあるが、金印には『後漢書』にはない倭奴國王と刻印されている。 偽物を作るのに『後漢書』にある倭國王とせず、『後漢書』にはない倭奴國王としたとすると偽物の製作者の意図はなにか? 倭國王の方が倭奴國王より日本人には感じが良いのは日本人なら皆分かりきったことだ。 金印を偽物だとすると製作者の意図が全く分からない。 金印に倭奴國王と刻印されていたのは、倭奴國の大夫が國王になったので倭國王の名称が倭奴國王であったから。 『後漢書』にも記されていない倭奴國王が本物の証拠。
おいおい 倭奴じゃなく委奴国王だろ 後漢書の表記と微妙に違うじゃないか。
496 :
九州王朝派 :2007/06/17(日) 12:16:11
>倭奴じゃなく委奴国王だろ 金印の文字は倭から人べんを取って委し、奴を付ける等、この金印が偽物だとすると、これを作った人物は江戸時代の反日の日本人だな。
497 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 12:18:46
>委奴国は伊都国なのか倭の奴国なのか、本物論者の間でも決定されていない。 >伊都国は松浦半島で一大卒があったところ、奴国は安曇族の国で今の博多付近。 >どちらも志賀島とはかなり離れている。出土状況も覚書が残っていて、小さな石組みで >古墳でもなければドルメンでもない。真贋問題は、昔から論争の種だ。 >中国は昔から印鑑をやるのが大好きな国で、数年前の天皇訪中でも金印を「下賜」 >しようとして、外務省と大揉めに揉めた。その内、日本も古代は中国領だって >言い出して、その証拠に、どこぞのアホ学者が親魏倭王の金印でも持ち出してくるんじゃないか。 >金印を有難がるやつの気が知れんよ。
「金印を有難がるやつの気が知れんよ。」 →「畿内説の弱点を語るのをやめよ」 →「畿内説だけが正しいよ」 のんきな馬鹿ですか?
499 :
九州王朝派 :2007/06/17(日) 15:54:54
金印は今では近畿一元説からすると邪魔な存在。 抹殺するか捏造品としたい。 しかし江戸時代に得られた知識や情報で金印を製作することは不可能であることが分かっており、金印は本物であることは歴史学界でも定説。 明石散人なんて得体の知れない作家の与太話を真面目に信じるバカがいるとは・・・トホホ。
500 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 16:29:08
えっと。 ここの人は前方後円墳の位置付けはどうなってるんですか?
501 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 17:25:11
★謎の民族=カラビトの正体★
http://www.kase-hideaki.co.jp/k006/trees.cgi?log=&v=1237&e=res&lp=1237&st=0 古代のカラ半島南部に住み、日本語を話していた謎の民族=カラビト(韓人)とは何者なのか。
『渡来人』とも呼ばれた彼らの正体は、「倭人」である。
カラビトは、カラ地方(韓)に住んでいたことから、韓人=カラビトと呼ばれたわけだが、
彼らが話していた言語は日本語であり、大和言葉の方言である。古代カラ半島には三つの国が存在した。
シラキ、ミマナ、クタラの三国である。これらの国に住んでいたカラビトは、日本にも移住し、
古代日本の繁栄に貢献したが、彼らは倭人(日本人)なのである。
つまり、古代日本に、朝鮮人は移住していない。古代日本に朝鮮人は来なかったのだ。
戦後、朝鮮人は「古代日本には多くの朝鮮人が移住し、日本文化の発展に貢献した」という宣伝を組織的に
展開しているが、これはデタラメなのである。古代日本に移住したのはカラ半島に住んでいた倭人=カラビト
(韓人)であり、彼らは日本民族だったのである。
カラビトは、現在の朝鮮半島に住んでいる朝鮮人とは、民族が違うのだ。
現在の朝鮮半島に住んでいる民族は、志良岐(シラキ)の北方=ワイに住んでいたワイ人の子孫なのである。
古代日本人と友好関係にあった韓人(カラビト)と、現在の半島に住んでいる朝鮮人(ワイ人)を、
混同してはならない。
502 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 17:28:55
>金印が二つある話 出典:中公新書「謎の七支刀・五世紀の東アジアと日本」宮崎市貞著6頁 引用:私がこの金印について意見を求めると、(古文書学では第1人者と称せられた中村直勝) 教授は事もなげに、「あやしいな。なんせ、ほんま物が2つもあるんやで」と答えられた。 金印の真物が2個存在するとは聞き捨てならぬ発言のようだが、ただし、それなりの理由が あることは、私にも後になって分かった。昭和55年8月京都高島屋において朝日新聞社の 主催により、邪馬台国への道展が催されたが、云々。 >結局、本棚をひっくり返す羽目になってしまった。確か文庫本になっているから、今でも 手に入るんじゃないかな。もう一つの金印はどうも個人の所有になっているらしくて、 なかなか公開の場で話がしにくいらしい。 この本以後、金印に信用が置けなくなってしまった >499 出典を教えてくれ。探して読むから。
503 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/17(日) 17:35:29
504 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/17(日) 17:42:09
なんでも歴史の事象には出て来るのがニセ物とかの話。 「古事記は偽書か」なんていう書もあったような。ここでは 「金印」もそういう話が出て来る。まぁ上の奴なんか武烈の『悪行』も偽装 なんだろうし、倉西氏は成務は女性の偽装なんだろうし、「阿蘇は移動した」は 古事記の33代総てが偽作だと思ってそう主張してるようだ。 日本書紀も年数の辛酉年へ引きのばしだという研究家もいるようだし、歴史の 場合は何から何までニセだという論が多発する。古史古伝も自宅供給の飲料水を 現今の中国の歯磨きのようには疑わずに飲んでる論者が偽書だと疑っているし、 もうキリない。典型はあの青森古文書かいな。 中にはホントウにニセもあろうしね・・・?
505 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/17(日) 17:51:25
上の奴っていうのは九州王朝大好きさんのことではないよ。失礼失礼。 他スレの奴の間違い。
506 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 17:54:39
>>司馬遼太郎著「街道をゆく」(2)韓のくに紀行p57抜粋 「釜山・金海のあたりの連中は、厳密には倭人であって韓人ではない」
507 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 17:58:50
司馬遼太郎「街道をゆく(2)・韓の国紀行57ページ抜粋 朝鮮の民間伝承でも「釜山・金海あたりの連中は、厳密には倭人であって韓人ではない」 というのがあるそうだ。
508 :
日本@名無史さん :2007/06/17(日) 18:40:51
509 :
倭奴国 :2007/06/17(日) 20:43:06
>>472 そもそも、古事記にはなくて、日本書紀にある朝鮮半島関係の記事は一体どこから
出てきたと従来説の人は考えているのだろうか。古事記が正史だとしたら、もともと
あった記録を抹殺することなど考えられないし、もしそうしたことをした人間がいたら
切腹ものだという古田の主張はもっともなものだと思う。
私自身は99%間違いないことだと思っているが、九州王朝が存在したという、証拠はある意味状況証拠でしかないもの
も多い。しかし、従来説の史料解釈は一種のイデオロギーに基づいたもので、それは100%ありえないと思っている。
そういう従来説の構造そのものを理解していない、もしくは理解していない振りをしている専門家の姿勢が問題だ。
例えば、大化改新の詔勅では郡という行政単位を使って述べられているが、木簡などでは、評という行政単位であったことが明らかに
なっている。そして、8世紀になっての評から郡への変更を「日本書紀」や「続日本紀」は隠している。これは、既に存在していた権力
中枢をこれらの歴史書が隠そうとしたのではないか、という点がひとつ。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin06/taikakai.html また、古田が主張しているは、日本書紀や三国史記、万葉集にも九州における「短里」の使用例が出てきており、これらは「大和朝廷」とはことなる
権力主体が存在したことをうかがわせる。(「邪馬一国から九州王朝へ」より)
さらに言うと、asahi.comに昨年興味深い記事が出ていた。昨年の前半だったと思うが、今の天皇のお言葉として、「大和朝廷が西日本を統一したのは
7世紀以後のことである」といった意味のお言葉が伝えられていた。保存をしておかなったのは残念だが、古代史や考古学の専門家はこうしたお言葉がどこから出て
きたのかよく考えてみるべきだろう。私自身は、昭和天皇が天皇機関説論者であったのと同様の意味で、今の天皇は九州王朝論者だと理解している。
畿内説だけでは、各種事実を説明できなくなっている。 たとえば 大嘗祭が初めて出てくるのは天武からだ(後世の加筆を除く)。 天武天皇は大嘗祭を開催したことがない。しかし大嘗祭に参加した部下に褒美を与えている。 次の持統天皇以降、みな大嘗祭を開催している。 天武の部下が出席した大嘗祭って、いったい誰が主催した大嘗祭か。 旧唐書には倭国と日本国が併記されており、別な国としている。 いわゆる「邪馬台国時代」から、畿内王権が日本列島最大かつ中心国 だったとしたら、こんな記述はあり得ない。 倭人の後継国として、隋書に「イ妥国」の記述がある。イ妥国では阿蘇山で祈祷を行う 習慣があったことが隋書にはっきりと書かれている。 漢籍に出てくる金印は、福岡県以外から発見されていない。 法隆寺は九州から移転されたものであるという説が有力である。
511 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/17(日) 21:26:37
余は、女王国は阿蘇ではないかと強く思っている。
512 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/17(日) 21:45:05
>>511 邪馬台国(7万戸)が阿蘇なら、
では、投馬国(5万戸)と狗奴国(数万戸以上)は何処になるの。
513 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/17(日) 22:43:41
阿蘇と大分県の中間付近と愚考しましたが、不具合ありますか? それがしとしては、そこんところは確定ではありませんが?
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` ) 大好きさんと太国さんが会話してる・・・
515 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 00:01:42
>>508 別に知りたいわけじゃないんですw
ここの人がどう答えるのかなと思っただけで。
答えられないのかどうか知らないけどスルーされてますねw
516 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 00:20:13
九州と畿内と2つの王朝があったとして、最終的には畿内が勝ってるんだから、 その歴史的勝利を記録しなかったのはどうしてなんでしょうね。 あと、聖徳太子の弟が九州で死亡してるけど、九州王朝があったとしたらこれはどういう ことになるのか? 古代史は謎が多くて萌える
古墳は各種あって、前方後円墳だけ取り上げる理由がありませんね。 古墳で地域を語るなら、岡山や島根もたっぷり語るべきでしょう。 九州王朝ゆかりの古墳のひとつに装飾古墳があります。 熊本が多いですが、福島県や岩手県にも分布しています。
>>516 聖徳太子は本当は九州王朝の人物で、
それを畿内の蛮族が剽窃して史書を作った。
しかし、作り物は必ずどこかに綻びがあるもので、
弟が死んだ場所をついうっかりと九州のままにしてしまったために
それが露見してしまったのである・・・・ってとこじゃね
519 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 00:31:08
>>517 そんな曖昧な答えはいらないんです。
「前方後円墳」はどう位置づけているのかを聞いてるんですw
>>518 それは結局妄想です。
あなた方が批判しているヤマト王権を主張する学者がやっている(としている)ことです
>その歴史的勝利を記録しなかったのはどうしてなんでしょうね。 政治的な理由があるからです。 畿内王権を掌握した天武・持統・文武系列の天皇が、 九州王朝の正当な後継者であるという立場をとったからです。 ヴィクトリア女王がインド帝国皇帝に就任後、英国を引き払って渡印し、 「いまから英国の歴史をインド帝国が引き継ぎます」というようなもの。
>519 無意味な質問です。円墳と方墳については、どうして質問しないんですか?
畿内王権一元史観を金科玉条としているために、 「前方後円墳」以外のすべての古墳はどうでもよくて 「前方後円墳」以外を語ってはならない、という妄想に 取りつかれているわけです。
523 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 00:44:37
524 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 03:06:25
結局答えられないんじゃんw
>>523 えらく広範囲に分布した「地方文化」ですねw
>九州王朝の正当な後継者であるという立場をとったからです だったら九州王朝についての歴史を書き残さなきゃ意味無いじゃん
526 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 03:16:33
マトモに書いたら正当な後継者じゃないことがバレちゃうじゃん。
527 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 03:19:34
正当な後継者じゃないから王家の記録や国交記録なんかないし、 適当に書いたら漢籍との矛盾が出まくっちゃうじゃん。
528 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 03:32:02
もう、九州説論者って哀れだな。
529 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 04:30:00
530 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 12:03:51
>>474 「日本書紀ファンダメンタリスト」
面白い表現ですね。どこかで使わせてもらいます。
しかし、漢籍より国書が絶対でないとして、いろいろな方々が主張している、
a 7世紀半ばまで九州に王朝が継続的に存在した
b 7世紀半ばまで大和朝廷は東日本以西の支配を確立していなかった
は、漢籍のどこから読めるのでしょう。
(aについては、隋書の「有阿蘇山」ぐらい。しかも継続性の証明は不能。bについては、ポカ〜〜〜ン?)
私は「日本書紀ファンダメンタリスト」ではないので、きちんと矛盾を指摘してもらえれば、納得しないわけではありませんよ。
記紀には細かい矛盾などいろいろありますし。
しかし、これまでの指摘のとおり、欽明、安閑、敏達の記事をあらかた大部分ほとんど捏造とするような説はトンデモでしょう。
まずは九州王朝の外交と軍事の構造ぐらいは説明してくれないと、王朝として珍妙すぎます。
外交権と軍事権を持たない王朝って、「はてしない物語」のファンタージェン国みたい。
「九州王朝ファンタジスト」と言われてしまいますよ。
531 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 12:03:54
自「説」のお披露目もいいが、 大和朝廷の東日本以西の支配が確立したことを示す『 客 観 的 事 実 』はまだかい?
532 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 12:06:26
>>479 まず、景行紀の日本武尊の東征が、客観的事実とは言っていませんよ。
それに、保守的古代史では応神や仁徳あたりより前はまとめて否定するのでは?(いつの時代の保守なのか?あなたのセンスが古いのでは?)
「景行紀の日本武尊の東征はフィクションであるが、ヤマトの勢力が東国へ及ぶプロセスの反映であろう」といったあたりが今どきの古代史の通説でしょう。
さて、気色ばんで『 客 観 的 事 実 』を強調していますが、記紀などの書物ではなく、考古的な遺跡や資料のことのようですね。
例えば、土器については、弥生時代のものから5世紀の韓式土器や須恵器に至るまで、東へ東へと伝播したことは確実です。
しかし、これは状況証拠であり、王権が広がったという直接的な証拠にはなりませんね。
気色ばむ以上、479さんは、単にモノや意匠の伝播や普及などは、王権の『 客 観 的 事 実 』と認めないですよね。(←ここ重要!)
例えば7世紀後半以降の荷札木簡が、ヤマトの政権が日本のかなりの部分を支配していたことの客観的事実となりますが、
頑固な言い方をすれば、7世紀前半より前ではそのように直接の証明となる資料はまだないようです。
479さんは、7世紀半ばまででヤマト以外のどこかで王権と言えるようなものの存在を直接証明する『 客 観 的 事 実 』をご存知なのでしょう。
それを教えてください。
533 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 12:08:02
>>479 何故、稲荷山鉄剣にそれほどこだわるのでしょう?
「獲加多支鹵」が通説の読みでお気に召さないなら、素人の私になど、納得していただけるような説明ができるわけがありません。
しかし、それが九州王朝や大和朝廷(柔らかく「ヤマトの勢力」と言うほうがいいかな)の東日本以西の支配の話に、それほど決定的なのでしょうか?
当然、意富比コ=大彦(四道将軍の一人)とは考えていませんよね。
獲加多支鹵、意富比コ、多加利足尼、互已加利獲居、多加披次獲居、多沙鬼獲居、半互比、加恙披余、乎獲居臣の誰かについて、何か心あたりがおありのようですね。(もちろん客観的事実によるもの)
杖刀人、寺、斯鬼宮の解釈についても、客観的事実に基づいて、通説とは異なる解釈をお持ちのようですね。
では、左治天下の天下とはどのようなものか、客観的事実に基づく説明をお願いします。
ただし、古田のように稲荷山鉄剣の「天下」とは関東のことだなどと、客観的事実なしにいうのはアウトですよ。
稲荷山鉄剣の「天下」とは今日の行田市ぐらいの地域ですか、東日本以西の地域ですか、客観的事実を示して説明してください。
総合的な判断で仮説を立てるということが許せずに、それほど「客観的事実」、「客観的事実」、「客観的事実」と気色ばむのなら・・・。
534 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 12:26:49
だから、6世紀後半でも大和国は播磨国を支配していなかった事実を認めろよ。 大和の全国支配なんかまったくの妄想だよ。
535 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 12:28:47
旧唐書に出てくる倭国・日本国の「どちらも大和国です」なんてばかなこと言うなよ。
536 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 12:33:37
客観的事実を教えてやろう。 金印が出たのは九州。 イ妥国が祈祷したと隋書が指摘するの場所は阿蘇山。 畿内王権が金印を志賀島に埋めて、阿蘇山で祈祷していたことを 立証してください。
537 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 12:39:01
538 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 12:48:01
>>533 読めないのなら何度でも繰り返すが、
大和朝廷の東日本以西の支配が確立したことを示す『 客 観 的 事 実 』はまだかい?
539 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 13:08:01
>>538 質問や要求の仕方があいまいだから、こちらも質問と要求で返すね。
どのようなものなら『 客 観 的 事 実 』としてお気に召すのかな?
そのサンプルとして、九州でもどこでもいいから、王朝の存在を示す『 客 観 的 事 実 』を教えてよ。
540 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 13:10:28
>>538 九州でもどこでもいいから、王朝の存在を示す『 客 観 的 事 実 』はまだかい?
541 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 13:13:30
542 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 13:16:25
畿内前方後円墳(大王墓)の相似縮小規格が全国に広がってるやん。
543 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 14:15:49
前方後円墳のことは九州妄想説の人は答えてくれませんw というか答えられませんw 円墳とかもあるのになんで前方後円墳にこだわるのか? という謎の質問返しのみを連呼しますので。 大型で朝鮮南端を含む日本の大部分に分布した重要な遺跡を無視しないと 九州妄想説は瓦解してしまうのですwww
544 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 14:41:45
>>510 九州王説の主張って、王朝の場所が九州でなくても成立しそうなのに、何ゆえそれほど気色ばむのでしょう。
どこでもよいけど、例えば、長州王朝とか、壱岐王朝とかでも、OKではありませんか?
>天武の部下が出席した大嘗祭って、いったい誰が主催した大嘗祭か。
⇒さあ、誰が主催者か客観的事実や記述はなさそうですね。
でも、主催が九州王朝という根拠はないので、長州王朝とか、壱岐王朝とか、ヤマトの王朝とかでもOKかもしれませんね。
>旧唐書には倭国と日本国が併記されており、別な国としている。
「倭国者・・・」という箇所と「日本国者・・・」という箇所とに分かれて記載されて、「倭国は古の倭奴国なり」とか「日本国は倭国の別種なり」とも書かれています。
ところで、「倭国自悪其名不雅、改為日本」とか「日本旧小国、併倭国之地」と併記されていますが、これらの記述によると時代とともに倭国が日本国になったと読めそうですが、この記述は無視ですね。
また、「東西南北各数千里」以下の地理的記述を無視して、都合のよいとこだけツマミ食いされてもねえ・・・。(本当に読んだの?)
金印から倭奴国は志賀島かもしれませんが、日本国は、九州か、長州か、壱岐か、ヤマトか、分かりませんね。
最近は金印が偽物という書籍が人気なので、倭奴国も、九州か、長州か、壱岐か、ヤマトか、分かりませんね。
545 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 14:43:53
>>544 (続き)
>イ妥国では阿蘇山で祈祷を行う習慣があったことが隋書にはっきりと書かれている
「有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭」ですね。
王朝が九州にあったかもしれないと、場所を特定できる唯一の根拠らしきものですね。
しかし、落ち着いてきちんと隋書イ妥国伝を読むと、・・これが何か?・・倭国の領内に阿蘇山があったらしい。それだけのこと。
その倭国の中心は、九州か、長州か、壱岐か、ヤマトか、分かりませんね。
というより、都斯麻国(対馬か?)、一支国(壱岐か?)、竹斯国(筑紫か?)、秦王国(周防か?)、
さらに十余国を経て辿り着いた海岸の先に王朝はあるというのが隋書の素直な読み方だと思いますが、
九州王朝説の方々はお気に召さなくて、「以東」という用語など重箱の隅を突くようにして色々と難しい解釈をされますね。
であれば、グルッと回って実は壱岐に王朝があったなんてのも、九州王朝論法ではありなんじゃないかと思えるほどです。
>漢籍に出てくる金印は、福岡県以外から発見されていない。
金印から倭奴国は志賀島かもしれません。それが何か?
最近は金印が偽物という書籍が人気なので、倭奴国も、九州か、長州か、壱岐か、ヤマトか、分かりませんね。
546 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 14:46:06
>>544 (続き)
>法隆寺は九州から移転されたものであるという説が有力である
まさか、古田の『法隆寺の中の九州王朝』の釈迦三尊像光背銘ですか。
「法皇」≠「法王」であり「法皇」=「天子」だから銘文の「上宮法皇」は聖徳太子ではないなど、もう時代遅れ。
王とか親王とかの用語が鉄板のように厳密なわけではないということは、長屋王木簡から、今や常識。
用語の重箱の隅を突っつくような古田の論理など、時間とともに破綻していくだけですね。
没年月日のズレについても、天寿国繍帳や上宮聖徳法王帝説を無視して、「上宮法皇」が九州というのはインチキですね。
九州年号にしても、法興あるいはその他の元号があったとして、古田は(大げさに言うわりには)あまりきちんと分布図などを示していません。
(一応、古田によれば九州のほか山口での使用例があるらしい。)
書物に「襲国」という国名があるので九州年号というけど、王朝の場所は、長州か、壱岐か、ヤマトか、分かりませんね。
というより、記紀の多くの箇所を捏造とするより、九州年号を後世の僧侶等の偽作と考えるほうが、はるかに矛盾が少ないのですが。
547 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/18(月) 14:55:46
じゃぁ人気が降下するまで待てばいいわけだ。人気はアベ総理の支持率と 似通った感じで、お前はグラフとにらめっこだな?ww 人気によってお前は論説を左右するようだから? 壱岐なんてよく言い出したもんだが、そうなると女王国は沖縄、エジプト、 ムーもお前は範疇に入れるわけだな。Pu! お前の論は分かりませんばっかりで、優柔不断。そんな態度なら死ぬまで 分からないで終わりだね? たよりないな。ww
548 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 14:58:55
549 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/18(月) 15:00:57
偽作は利害が著しく大のとき、やる場合がある。八百長っていうわけだ。 やれば腹切りかな〜。 お前、女王国畿内説なんだろう? だと 九州王朝があると都合がわるいからな。なると偽作にせねば困るわけだ。 お前の自論が成り立たんからな。利害はお前にあるわけだよ。図星だな。ww
550 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 15:02:34
551 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 15:08:02
>>536 こんなものが気色ばんで連呼する『客観的事実』とは・・・!!!
>金印が出たのは九州
後漢の光武帝が建武中元二年(57年)に奴国へ与えた印というのが通説。
1世紀に「大和朝廷の東日本以西の支配が確立した」など、まともな者は誰も主張していないと思うぞ。
「大和朝廷の東日本以西の支配が確立した」を否定する客観的事実というなら、時代錯誤のトンチンカン。(馬鹿すぎる)
もし「漢の倭の奴の国王」と読むのであれば、1世紀に倭国はまだ統一されておらず、その中に奴という国があったというのが、客観的な見方であろう。(中学生レベルだな。)
>イ妥国が祈祷したと隋書が指摘するの場所は阿蘇山
本当に隋書を呼んだのか?
「有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭」
主語が明確ではない。つまり、九州王朝のものが「祷祭」を行ったかどうか客観的には判断できない。
こんな5W1HのうちのWHOがあいまいなものを客観的事実とは、低レベル。(馬鹿すぎる)
通常は、倭国の一般的な習俗を記述したものの一つと解釈され、王朝の存在や場所などと関係ない記述であると考えるのが、客観的なものの見方だよん。
552 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/18(月) 18:08:47
屁理屈を捏ねる輩が出てきたね。 読んでいたら、「ふぁー」と欠伸が出た。
553 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/18(月) 18:20:28
連中、九州王朝があったら自説が危うくなるから、証拠という物を いろいろ手をかえ品を変えて葬り去ろうとしているんですな。 女王国畿内説者が多いんではないでしょうか? 彼らには都合悪いから。 かなり強力な資料には難癖をつけて証拠の価値がないとか、偽作だとか 糊塗して九州王朝説を霍乱するわけなんですよ。 金印も都合の悪い輩がいて、偽作をさも本当のように論じて証拠価値を 激減させるやり口を蔓延させるわけですね。 その手に乗らんことです。 年号なんてどうも偽作する利害が見えないし、これを無理でも陰謀の ように印象付けて足払いをかけ、すっ倒して自説を保持しようと するわけですわ。
554 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 18:20:31
「仏教初伝」は播磨国=外国から大和国へ伝わった、6世紀後半のこと。 屁理屈で大和の全国制覇なんて妄想してもむりだなあ>464
>>539 いちいち匿名レスを追わせるのは酷だから書いてやるが、俺自身の立ち位置は中立なんだよ。
証拠不十分で説得力に欠けてるのはどっちも同じ。
自分の主張に組しない相手に「自分こそ持論を証明しろ」というのはこの板(それとも歴史学全体か?)の悪い癖だ。
>大和朝廷の東日本以西の支配が確立したことを示す『 客 観 的 事 実 』はまだかい?
↑「客観的」という語を理解できている人間ならば十分回答可能な文章だぞ。
あれこれ言って回答を避けてると、客観的な証拠がないと自白するようなもんだ。
何でもいいから書いてみろよ。
556 :
九州王朝派 :2007/06/18(月) 20:03:26
「大化の改新(入鹿殺害事件)」は九州年号の大和(大化)元年(695年)のことであり、畿内大和の豪族が九州王朝の天皇を殺害し皇権を簒奪した、下克上のクーデターである。 「大化の改新」は、695年に畿内大和の豪族が九州王朝の天皇を殺害し皇権を簒奪した下克上のクーデターであり、一方では藤原氏の政権掌握の功績は記述したいが、 他方では皇権簒奪の事実は隠匿したいという欲求から生まれた年代・背景を改竄した記事であると考えられる。 『日本書紀』の「大化の改新」に関する記事からは、新興勢力の豪族を誅した程度で、何故、政権を改新したり、改革したりすることができたのか全く不明である。 もし既存の権力を倒して史書に記すような政治の大改革を行ったのであれば、倒された権力は、それ以前長期に亘り権力を掌握し、 政治体制を維持してきた者でなければならないし、倒した側はそれまでの権力者とは全く違わなければならない。 しかし『日本書紀』の記述では、倒された蘇我氏の歴史は100年にも満たないような新興勢力であり、倒した側は代々の天皇であり最高権力者である。 『日本書紀』の記述には明らかにこのような矛盾がある。
557 :
九州王朝派 :2007/06/18(月) 20:06:30
『日本書紀』は「大化の改新」の時に「郡(こおり)」が成立したと記すが、「郡」と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定以降であり、それ以前は「評(こおり)」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている。 646年正月の改新の詔の第一条で公地公民、(私地私民の廃止)をうたっていながら646年から後も伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)が所有する部曲(かきべ)や田荘(たどころ)の領有権が認められていた。 改新の詔において「初めて戸籍・計帳・班田収授法をつくれ」とあるが、戸籍・計帳・班田収授は大宝律令で初めて見られる用語であり、それ以前の文書には出てこない。 大宝律令が発布されたのは701年である。律令制度が定着したのは、大宝律令からである。 『日本書紀』大化元年七月の条に高句麗や百済の使者に「明神御宇日本天皇」と示したという記事があり、日本における「日本」という国号の最初の使用例となっている。 しかし、中国の正史(『旧唐書』『新唐書』など)で日本の国号が「倭」から「日本」に変わっているのは7世紀末である。
558 :
九州王朝派 :2007/06/18(月) 20:08:35
『二中歴』など九州年号では、大化(大和)元年は695年である 。 元号は連続するものであるが、『日本書紀』では、大化から大宝の間の年号が飛んだり無かったりしている。
559 :
九州王朝派 :2007/06/18(月) 20:10:28
ヤマト王権初の本格的都城である藤原京が建設されたのは694年であるので、ヤマト王権の成立はこの頃と考えられる。 藤原氏という一族がいるのに藤原京という家臣の名の付く都を朝廷が建設することはない。 藤原京が先に有って後で藤原姓を賜ったのである。 藤原不比等が「大化の改新」の主役だから中臣鎌足の息子のうち不比等だけが藤原姓なのである。 「大化の改新」の功績で不比等が藤原姓を賜り、父の中臣鎌足には不比等が自分の功績と藤原姓を後で贈ったと考えられる。 645年即位とされる孝徳天皇も696年即位とされる文武天皇も、即位前は軽皇子と名乗っており、孝徳天皇は実は文武天皇のことであると考えられる 。
560 :
九州王朝派 :2007/06/18(月) 20:12:00
蘇我氏とは九州王朝(倭国)の天皇家のことであったと考えられる。 蘇我氏の名は、馬子と入鹿の二人の名を合わせると馬鹿になることや蝦夷など、実名ではないと考えられる点がある。 蘇我蝦夷の邸宅が「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅が「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼ばれていた。 蘇我入鹿の子らが親王の扱いを受けていた。 『国記』(くにつふみ)・『天皇記』(すめらみことのふみ)と言った皇室が代々受け継ぐべき史書を蘇我氏が所持し邸宅で保管していた。
561 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 21:54:14
そして九州王朝(倭国)の一部は残存しつづけ、 大歴12年(777)には朝楫寧と総達を、 開成4年(839)には薜原朝常嗣を、 唐に遣わしたのであった。
562 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 22:51:59
563 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/18(月) 23:19:14
九州王朝派さん、 562さん、 書いてしまいましたね。
564 :
日本@名無史さん :2007/06/18(月) 23:23:04
九州王朝派さんに質問。 蘇我氏が「国記」などを所持していたというのにソースはありますか? また孝徳天皇が軽と呼ばれていたというのは初耳なのですが、これについてのソースは? 更に、藤原性を賜ったのは鎌足だと史書にありますが、あなたの説を総合すると、 蘇我から始まり藤原に至るまで、天皇家にはほとんど権力がないかのように感じられますが、 天武朝では臣下を政治の中枢から排除している時期がありますが、矛盾していないでしょうか?
565 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/19(火) 10:37:51
>>545 先に言ったとおり、お前は九州王朝を糊塗さらに否定しているようだから、
お前の脳内は九州王朝があると都合の悪い、卑弥呼女王国畿内説の考え
なんだろう?w
それでお前は壱岐になぜ九州王朝があったか論がないなどとえらく揺すぶって
いるようだが、それなら何故畿内にあると主張したいお前は淡路に邪馬台国
があるという、昨今未聞なる淡路島女王国を畿内説論法でも有りとしないのか、
それを問いたい。どうなんだ?
566 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 10:57:42
>>552 読んでいたら、「ふぁー」と欠伸が出た。
そのとおりですね。
九州王朝説って、相手してみると案外と底が浅くて退屈ですね。
古田のころよりちっとも進んでなくて、相変わらずゴミ箱の隅を突っついたような瑣末な矛盾で騒ぎ立てているだけ。
しかも、同じ言葉の繰り返しばかり。
アンチ皇国史観みたいな古臭いイデオロギーに洗脳されてるし。
九州を頂点とした階層的権力構造を主張するので、所詮は古臭い一元的歴史観だし。
(古田は、他人を一元的歴史観と罵倒するくせに、自分自身が実は九州を頂点とした一元的歴史観だったという、ブーメラン野郎)
ちょっと論理的思考力と想像力が貧困って感じしませんか。
もうちょっと、勉強になりそうなネタを頼みたいですよね。
567 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 11:02:12
>>553 >女王国畿内説者が多いんではないでしょうか
女王国と九州王朝を、むりやり関連付けようとするから両方が破綻するのでしょ。
おそらく、女王国九州説の多くの方々にとって、九州王朝説は迷惑でしょうね。
現状では、女王国は、九州とも畿内とも、どちらとも結論付けられないと思っていますが。(何故、今、無理やり結論を得ようとするのか理解できません。)
>年号なんてどうも偽作する利害が見えないし
資料の偽作なんて、古田がひっかかった和田某のように金や名声めあてばかりとは限りませんよ。
九州に特有の年号の存在を主張するなら、年号事例の地理的・時代的分布や変遷などを系統立てて説明する努力をもっとしてくれないと。
あまりそういう地道なことはお嫌いな方々が多いようなので、九州年号はちっとも信用されないのでしょう。
568 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 11:06:31
>>554 繰り返しばかりでまともな論もなしに相手を誹謗するばかりでは、信用を失うだけですよ。(子供に諭すみたい・・)
で、6世紀後半に播磨が外国である場合、敏達記の解釈は? (参考:
>>464 )
で、6世紀までに大和がほぼ全国(おおむね関東より西)を制覇していない場合、欽明記や安閑記の解釈は? (参考:
>>459 、
>>462 )
結局、九州王朝は外交・軍事について休眠状態なのだな。
やはり、次のいずれなのでしょうか?
a 九州王朝は外交権と軍事権を持たない珍妙な王権である。
b 日本書紀の敏達の外交記事はほとんど捏造である。
c 「九州王朝が畿内大和に取って代わったのは、やっと7世紀末だ」は大九州皇国史観によるファンタジーである。
569 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 11:11:21
>>555 ↑「客観的」という語を理解できている人間ならば十分回答可能な文章だぞ。
551のように指摘されるような方もいますよ。(
>>551 )
つまり、『客観的事実』のとらえかたは、人それぞれですね。
あなたのお気に召すように「↑「客観的」という語を理解できている人間」は、あなたの脳内にしか存在しないみたいですね。
まじめに、議論する気があるなら、『客観的事実』の例を示してくださいよとお願いした次第。
で、あなたの言う『 客 観 的 事 実 』のサンプルはまだかい?
歴史に客観なんてあるわけないじゃん だから九州「王朝」説とかが存在しうるw
571 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/19(火) 14:54:11
>>567 畿内にはないですな。あれば記紀に書かれます。地図上では朝廷と目と鼻の先
です。一国の女王国を隠匿なんか出来っこないし、国には人民がゴマンといるん
だから隠し立てはできません。畿内から遠く離れれば畿内に情報が入りにくい
し、そういう土地に女王国はあるんですよ。朝廷の真近にあれば記紀の取り入れ
る情報はもっと遠い遠い遠い倭人伝の書かれた大陸の書物よりもたらふく卑弥呼
がどんな人物か克明に記紀により詳細に記述が為されます。たとえば
「巻向に女王国あり、名を卑弥呼という。御真木の天皇の××年秋×月、朝廷に
朝貢あり。数十年にして百済と比べ朝廷と交易少なく、遣使は稀なり。」
これだけ記紀に記載されていれば論争なんか起きっこないわけで、無いからこそ
論争が絶えないわけで、一点から観れば無いということは九州にあったという
ことが遠回しに分かって判別できるわけね。まさか沖縄だとかエジプトだとか
君は言うまいと思うがね。ww
イカサマ、八百長っていうのは利害が大のときにやらかすのが殆どだよ。伊達
や酔狂で腹切りを平気で、漫然と年号の偽作をやるわけがあるまい。それとも
年号の偽造は愉快犯かねぇ?ww 利害がかかってなければそのまま記するよ。
つまり年号の八百長なんてあるわけがあるまい。君は先に偽作を糊塗して、
後から大なる利害をさがすのか? そんなことするんならば、君の説が大間違い
だったってことさ。ww
それとも卑弥呼は朝廷の女王だっていうのかいな?ならば神功のように記紀に
一章ができるはずだろう。神功が卑弥呼だって言うなら、後代の應神、仁徳の
各々111歳、143歳の超長寿を肯定せざるを得なくなるし、壱与なる人物の附合
もままなるまい。だからこれも成立しないのだよ。
572 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 15:06:52
天智天皇が大嘗祭を主催したことがないのに、 天智の部下が大嘗祭に出席したのは、、 畿内説では説明つかないわけだ。 客観的に考えて、畿内説は破たんしてるな。
573 :
572 :2007/06/19(火) 15:08:34
あ、ごめん。 畿内説の辞書に、「客観的」って言葉はなさそうですね。 こりゃ無理な問いかけだったな。
574 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 15:14:02
>>566 >アンチ皇国史観みたいな古臭いイデオロギーに洗脳されてるし。
へ?
そもそも九州説の発祥は、日本が中国の朝貢国であったはずはない、
というところから主張されはじめたものだし、
(それの当否は別として)、
アンチ皇国史観は、むしろ畿内説で、
九州説はむしろ皇国史観寄りだよ。
(もし邪馬台国が畿内ということになれば、中国は大喜びするはずだし、
意外なほど中国で日本のこの時代が研究されているのも、まさにこのため。
つまり、これが証明されれば、日本という国は誕生時点から中国の属国と
いうことになる)
まあ、真実追求に、皇国史観もへったくれもないが。
575 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 15:27:10
遣隋使、遣唐使なんてのがあるのに、馬鹿か、お前は。 皇国史観に中国なんかを持ち出す当たりが馬鹿だよな。 なんの関係がある? 国賊とはお前のことだ。
576 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 15:29:47
>>571 女王国九州説と九州王朝説とは、切り分けたほうが良いと思うよ。
両方正しいかもしれないし、両方間違っているかもしれないし、片方だけ正しいかもしれない。
ただ、女王国九州説と九州王朝説とは、相互に補強しあうような内容ではないので、一緒に論じるのは九州王朝説にとっても益がないでしょう。
で、女王国が九州か畿内か、アクロバチックな理屈で無理やり結論付けることに、何の意味があるのかな?
その感覚がまったく理解できない。
しかも、自分に少しでも批判的と見るや、やみくもに畿内説と決め付けて罵倒するというのも、損なことだと思うよ。
奇説を披露したり、強弁の腕力を誇示したりして、トンデモネタが好きな人たち相手にウケ狙いをするのも良いけれど、
「無知の知」、分からんものは分からん、結論が出ないものは出せんという、真摯な態度が大切だと思うよ。
577 :
572 :2007/06/19(火) 15:32:04
虫の息たる皇国史観よりタチの悪い、 畿内一元史観 がいちばん毒を垂れ流してるのに気付かないのか?
578 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 15:37:17
九州王朝の中心地は、変遷していると思われる。 熊本菊池にあった時代が長かっただろう。 福岡に中心があった時代もあっただろう。 女王国は福岡か佐賀で、熊本ということはありえない。
579 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 15:37:36
>>463 初めて大嘗祭の主体者になった天皇は持統天皇だ。
>>510 天武天皇は大嘗祭を開催したことがない。しかし大嘗祭に参加した部下に褒美を与えている。
>>572 天智天皇が大嘗祭を主催したことがないのに、天智の部下が大嘗祭に出席した
463と510は内容が矛盾しないが、572はちょっと違う。つまり
463 & 510 vs 572
ツッコミの段階で破綻しているのではないのか? (まさか自爆? ブ〜メラン?)
まず、この三者でよく話し合って、どうツッコミを入れるのかネタを整理整頓して、やり直し。
580 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 15:48:58
>>579 572は、自分自身が破綻してしまったのでつね。
最近の朝鮮総連みたいでつね。
581 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 16:26:45
おんなじ意味だろ。 畿内説が破たんしていることは明らかだなあ。
582 :
572 :2007/06/19(火) 16:28:50
すまんな、天智じゃなくて天武な。 要するに畿内説完全崩壊を客観的に示しちゃってるわけ。
583 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/19(火) 16:43:24
584 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/19(火) 17:05:45
>>572 >九州王朝の中心地は、変遷していると思われる。
>熊本菊池にあった時代が長かっただろう。
>福岡に中心があった時代もあっただろう。
九州王朝の中心地は福岡県内をほぼ南北に移動、
菊池にあったことはない。
585 :
日本@名無史さん :2007/06/19(火) 17:19:26
女王国が福岡って、無理じゃね? 魏志倭人伝での記載と異なり、近すぎる。 漢の頃の奴国とかの隣りじゃね?
そんなとこに、中心性置くかなw北部九州。 今も古代も窓口支店領域じゃないか?
九州王朝説なるものも、いくつかの説の集合体であるわけで、 全否定と全肯定がやりあっても何も生まれないと思うけどね。 大雑把に分類すれば、 1弥生時代において、最先進地だった九州北部には他に先駆けてクニ(複数)が生まれた。 2その福岡のクニにおいて、日陰者だった一族が畿内に移動征服して王国を打ちたてた。後の皇室である 3その後も、福岡には強い王朝が存続し、それは2の畿内王家の本家であって影響を与え続けた 4のみならず、福岡の王朝は本州全域の豪族を束ねる王家として君臨していた。 5九州所在の王朝は、歴代支那帝国に使節を送り「倭王」として認識されていた。 6九州王朝は白村江の戦を戦って破れ、分家だった畿内王権に逆転されて後に滅びた。 1、2、5は別にそんなにおかしな説ではない。特に1と2は白眉と言って良いだろう。 畿内論者は5と6がキモイと言うんだが、むしろ本当に可笑しいのは3と4。特に3の後段だ。 日陰者が出ていった後で、残った本家がずっと本家領域の大王であり、 分家に対して兄貴分として影響を与え続けていたというのは、 実に不自然なことなのだ。日本史上そんな例は他には存在しない。 伊達家本家が常陸の守護だったとか、毛利家本家が相模を押さえていたとか それくらい不自然な話。
白眉といえば馬良か・・・・ぁあああぁ。眠い眠い。
畿内説論者がいかに硬直的な考えをしているか、勉強になったよ。
不自然なのは、
>>587 のほうだ。
第一、神武伝承の実態がわかっていない。
北部九州から離脱した久米族は数十人程度だろう。これが畿内に定着した。
別に神武が王国を打ち立てたなんていうほどの大袈裟な事件はなかった。
後世、高貴なニニギ系の血筋として神武伝承が大いに利用されたがね。
のちに九州王国が九州王朝に変容していくと、畿内の「多くの国」は
当然その影響を受けながら運営していた。畿内からも九州王朝につかえる
真人や朝臣が出たことだろう。九州王朝から「評」制度も命ぜられていただろう。
畿内諸国は「弟の国」として半独立を保っていただろう。九州王朝は宗主国
だったと言っていいだろう。九州王朝の威光はせいぜい福島県ぐらいまで
ではなかったか。本州全体など荒唐無稽なはなしだ。各国との関係は様々
だったに違いない。それは古代中国と周辺国との関係もそうだろう。
九州王朝自体だって一枚岩ではなかったし、畿内王権もしかり。587のいう
「不自然」などとんでもない。
>589 >高貴なニニギ系の血筋として あらあらw だから「大九州皇国史観」だと揶揄されるんだよ。 言っている意味は分かるかい? 「高貴なるニニギ血統万世一系」なんて、 福岡平野の外で、一体どれだけ通じるものかw しかも、出自はいわば「対馬島の海賊」だからな。 そんなことは、九州の人ならばこそよく知っている。 逆に、畿内ではそもそもニニギ血統の話そのものが、 アーサー王伝説並みの遠い島の縁遠い話にしか聞こえない。 血統が崇拝されるためには、話を具体的に理解できるだけの 地域文化の共有がなければならない。 日本列島の外では、20世紀になっても「八紘一宇」は全く通じなかった。 皇室と関係無い、畿内などの豪族にニニギの話など 「遠いところから来たらしい」以上の神通力を持つわけがない。
全然わかってないようだな。 上陸して北部九州を征服した「ピルグリムファーザー」の長がニニギなんだよ。 天武以下の天皇にとって、ニニギがビッグな始祖という看板を畿内で通用させれば十分。 畿内のみんなが記憶してる九州王朝の天子たちより、ニニギを上に置いたことが それを始祖とする畿内王にとっての権威になるわけだ。
つづき 九州王国や九州王朝にとってビッグな始祖は天神様だ。もうちょっと格が落ちるが 天照大神も権威だ。畿内じゃそこまで血統を引っ張り切れなかったね。 要するに、畿内王が王統と血統を錯覚させながら、九州王朝の天子に負けない 権威を「畿内の中で」吹聴したまでだ。
593 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 08:20:57
宗教儀式の大嘗祭を即位儀礼と一体の物として天皇家が独占して、天皇以外の者が行えないようにした。
594 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 10:01:52
>>582 天智は天武の誤記ということ、了解しました。
それでは、ちょっと意見を言わせてください。
1 大嘗祭の核心部分は秘儀とされ、その内容がよく分かっていません。
そういう儀式について厳密な起源を論じるのは無理があると思います。
「遅くとも○○頃までにおおよそ形式が整った。(あるいは制度として確立した)」といったような言い回しの結論が精一杯でしょう。
このような事項で、畿内説(?)を否定するというのは無理ではないでしょうか。
2 天武の大嘗祭の主催者が誰であるかにかかわらず、九州王朝が主催者という根拠はありませんし、九州王朝説と結びつけることは論理不全です。
3 大嘗祭の起源に関連しそうなのは、日本書記と続日本紀あたりですが、これらを読むときの鉄則のひとつは、
「当たり前のことは記述するとは限らない(記述することもあるし、記述しないこともある)」です。
例えば、法隆寺の再建記事がないというのは有名な例です。
火災で焼失した法隆を再建するのは、当たり前のことなので、再建の記述がないのでしょう。
大嘗祭の主催者についても同様でしょう。
このような事項で、畿内説(?)を否定するというのは無理ではないでしょうか。
595 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 10:28:42
>>547 壱岐なんてよく言い出したもんだ
単なる思い付きやイヤミで言っていることではありませんよ。
壱岐王朝
もはやウロ覚えですが、確か古田は出雲沖合いから玄界灘にかけて「大国」があったと主張していました。
大国の主がオオクニヌシノミコトであると・・・。
そして、大国と壱岐=一大国(魏志倭人伝)とを関連付けていたような・・・。
(古田については、九州王朝説の方々のほうが私の何百倍も詳しいと思います。)
であれば壱岐王朝というのもありえない話ではないでしょう。
(この海域については、天照大神の起源は対馬のアマテル神社だという主張もあったような気がしますので、対馬王朝も可)
常識のある方々には「壱岐王朝」は珍妙に思えるかもしれませんが、九州王朝説ではありえないことではないのです。
596 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 10:31:01
>>595 (続き)
長州王朝
もはやウロ覚えですが、確か古田は九州年号は山口県でも使われていたと主張していました。
山口県は、昔は長門と周防ですが、周防は秦王国(隋書倭国伝)の可能性があるので除いて、残るは長門、すなわち長州。
それから磐井の乱のときの、継体から物部荒鹿火への命令の「長門より東をば朕制らむ、筑紫より西をば汝制れ」から、長門は磐井の勢力範囲だと古田は明確に主張していました。
磐井の本拠地が長門にあった可能性も十分ありえます。
であれば長州王朝というのもありえない話ではないでしょう。
常識のある方々には「長州王朝」は珍妙に思えるかもしれませんが、九州王朝説ではありえないことではないのです。
以上のとおり、単なる思い付きやイヤミで言っていることではありません。
597 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/20(水) 10:42:01
>>595 そんなことを言いだすなら、卑弥呼の女王国はエジプトでもありえ
ないことではないとかになって来る。
そんなの可能性あると言うなら、もっとより以上の強力な資料、根拠
を持ってきてもらわねば単なる思い付きにしかこちらはそう反応
するほかはない。
また九州王朝説の方々でも各主張が左右される。
壱岐王朝は困難だと想うがね。そういうんなら卑弥呼の畿内説で
淡路王朝もありえるとか、君は許容、言い出すべきになって来る。
君の考えすぎの思いつきだな。w
598 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 10:54:45
>>597 そのとおり、常識のある方々にとってまったく珍妙なことだと思いますし、そう書いておきました。
どうか大国の存在を主張した古田に言ってやってください。(無理か)
あるいは、古田の大国存在説を否定せずに九州王朝説を主張している方々に言ってやってください。
王朝ってのは、中国における秦とか漢とか、イギリスにおけるプランタジネットとか ハノーバーとか、フランスのカペーとかブルボンとか、イスラムのウマイヤとか アッバースとか、政権の変転を表す用語であって、列島各地の地域政権のことを 王朝なんて呼ぶのは愚の骨頂。
壱岐島が九州王朝とある程度関わったことは云えるとは思う。 王朝の本拠地ではないだろうな。
>>599 氏に同意。
天武が主催していない大嘗祭の存在は、畿内王権一元史観の崩壊を意味している。
また、連続した元号を持ち、極東地域に君臨し、元首を「天子」と呼んでいた一連の国は
王朝と呼んで差支えない。7世紀以前に、壱岐や長州や畿内には、そんなレベルの
王朝などなかっただろう。
畿内説は、王朝の定義からやり直しだな。
602 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 12:33:35
>>601 大嘗祭:大嘗祭の起源で王権を論ずるのは無理だっってば。儀式の内容を詳述できるの?
連続した元号:逸年号=九州年号は一部を除き根拠がない。書物によって元号に違いがあって、こんなもので王権を論ずるのは無理だったば。
(この辺り、ちっとも進歩してねえな。ふ〜〜〜)
元首を「天子」と呼んでいた:その国が九州だという根拠は「有阿蘇山」しかないけど、隋書倭国伝の他の箇所の記述から、九州と断定するのはそれなりにまた矛盾が発生するってば。
603 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 13:24:08
>書物によって元号に違いがあって まさに机上の空論。引きこもってないで碑文のひとつも見てこいや。 >その国が九州だという根拠は「有阿蘇山」しかないけど その国が九州じゃない根拠はどのくらいあんの?列挙してみ?
605 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 13:40:04
壱岐王朝はあったと思うよ つーか高天ヶ原って壱岐の天原遺跡だろ 神話じゃ矛で国が作られたわけだが銅矛が大量に出てくるのは対馬 しかし対馬は山だらけで多くの人口を養える平地がああるのは壱岐 古事記で壱岐の別名を天一柱というが正に中心地の意味じゃないか 筑紫に天下りするにも絶好の位置だし
606 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 13:40:35
>>604 >>545 都斯麻国(対馬か?)、一支国(壱岐か?)、竹斯国(筑紫か?)、秦王国(周防か?)、さらに十余国を経て辿り着いた海岸の先に王朝はあるというのが隋書の素直な読み方だと思います
それでも、九州の内だと主張されるのでしょうね。
まさに文字通り「大九州説」、「大九州皇国史観」
>602 はあ?大嘗祭の起源なんか論じていないぞ。 1)天武の部下が大嘗祭に参加した事実がある。 2)天武が大嘗祭を主催したことがない事実がある。 3)天武の部下が出席した大嘗祭は天武以外の誰かが主催したものだ。 4)次の持統天皇も文武天皇も大嘗祭を主催した事実がある。 3)の状況を説明するには、天武以上の権力者が大嘗祭を主催した と判断するほかない。それは九州王朝の天子以外にありえないという話。
壱岐王朝なんかないよ。壱岐国があっただけ。 夕張市を、お前は夕張王朝と呼ぶのか? >606は畿内王権唯一絶対主義かよ。皇国史観よりひどい馬鹿だな。
>>605 平野があるところは王朝の成立には都合がいいことは、通常的には言えるね。
古事記の文の順序では、高天原は壱岐島発生の前に位置しており、これは
史実の域を段違いに遠のかせるものだから、実際の学術的史実の論には
向いていない。古神道的には論じるのはよくて重要なことは確かだ。
だが史実の論では、壱岐に高天原根元王朝を認容するのはまだ早計と思う。
>>606 辿り着いた海岸の先っていうのはどこかね?
610 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 13:53:33
>>603 >>書物によって元号に違いがあって
>まさに机上の空論。引きこもってないで碑文のひとつも見てこいや。
古田が当初拠り所とした「襲国偽僣考」と最近もてはやされている「二中歴」とで、内容が違うことも知らんのか?
碑文の例として法隆寺釈迦三尊像の銘文の「法興」が「二中歴」に無いことも知らんのか?(実際に見ることはできないがね。)
これって、九州年号のイロハだと思ってたが・・・、そうではないらしい。
それぞれの分野で、何が常識か分からんもんだね。(どうせ私は九州王朝説の部外者よ・・)
>>その国が九州だという根拠は「有阿蘇山」しかないけど
>その国が九州じゃない根拠はどのくらいあんの?列挙してみ?
>>606 のとおりです。
611 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 14:03:08
>>607 天武や持統のころは、大嘗祭の起源が論じられる時期に重なるのですよ。
人によっては、斉明からとか、なかには推古からとか・・・。
起源が論じられる時期に重なるので、儀式の中身はどうかとか、後世とほぼ同じ形式が確立されたのはいつからかとか、そして、
当然、誰が大嘗祭の主催者かも微妙な時期なのですよ。
そんな微妙なことから、王権のことを論じるのは無理ですよ。
そんな微妙な時期の瑣末な事項を4つ並べ立てても、王権という大事を論じるのは無理ですよ。
ですよ。
612 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 14:06:33
>>609 辿り着いた海岸の先っていうのはどこかね?
「隋書からは分からない」と言うのが、正しい態度だと思います。
ただし、九州から十数か国以上離れているのが、条件だと思います。
>>612 じゃぁどこだかわからんな? どれもこれも何でも論が成立するな?w
614 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 14:25:47
>>613 「場所がどこだか分からない」というのと、「場所はどこでもよい」と言うのは違うと思います。
隋書だけからでは、阿毎多利思北孤の本拠地について、「場所がどこだか分からない」ことになります。
ただし、九州から十数か国以上離れているのが、隋書による条件だと思います。
もちろん、この条件を満たせば、「場所はどこでもよい」ということではありません。
分からんものは、分からんのです。
で、通説では、日本書紀という別の資料と突き合わせているのですが、これはお気に召さないのでしょうね。
>>611 大嘗祭の起源をあなたが決めないでください。また起源論は関係ありません。
日本書紀は、「天武以外の誰かが主催した大嘗祭に天武の部下が出席した」
と事実を書いているわけです。
よって、畿内説が成り立ちませんよ、という結論しか出てこないんです。
言い訳しても無駄ですなあ。
>>614 >>605 氏が言っていたが、日本で王朝のできうる地域は広い平野か、それに準じ
る地域にあると余は観ている。準じるとは、たとえば盆地のような処だ。
日本に砂漠が少ないから水の確保の心配はまずしないでいいだろう。気候も
過酷でもいかんわけだが、これも極暑極寒の地でなければいい。
朝廷の畿内は平野的だから申し分ないし、徳川幕府は関東、武蔵の平野の中だ。
しかしあまり畿内に近い処に朝廷と別の王朝があれば記紀に載るわけだから、
そこにはアマタリシホコの王朝とやらはあるとしないでよい。
ならば九州の大ではなくても小的平野に王朝があったと観てよい。卑弥呼の
女王国は阿蘇の盆地で大分県との間でもうすこし北寄りだと想定している。
617 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 16:03:37
>>615 ちょっと教えてください。
天武以外の誰かが主催した大嘗祭を主催したのは、九州王朝なのですか?
その王朝はいつ滅亡したのですか?
618 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/20(水) 16:47:30
>>617 天武は大嘗祭を主催しなかったから天皇ではない。
では大嘗祭を主催した天皇はだれかを説明しなければならない。
それを説明できるのが九州王朝の天皇の存在である。
何を以て九州王朝の滅亡とするかは判断のしずらいところなので、
その滅亡は696年〜700年の範囲である。
619 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 17:08:20
本来は天皇家とは関係なかったとは考えない?
620 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 17:18:30
>>618 九州王朝の話なのに、天武とか言い出すから、何事かと思っていたのだが、・・・。
古田の説の白村江(663)よりもずっと後の時代まで、九州王朝があったということか。
粟田真人の遣唐使のちょい前あたりまでか、・・・。
これは、もう相手しなくてもよさそうだな。
まいりました。さすがに、反論不能でございます。 (あまりに馬鹿すぎるので)
621 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 17:21:03
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y この人、天武天皇の頃に九州王朝があったとか、マジで言ってんの? 中大兄皇子は白村江なんかへ出兵してないで、 まずそっちを滅ぼすべきだったねwww 脳内君の多い2ちゃんねるは、たまに見ると、面白いねw
622 :
日本@名無史さん :2007/06/20(水) 17:22:49
>>615 大嘗祭の起源を決めてなどいません。その逆で、微妙な時期(よく分からない時期)だと明記していますよ。 (眼科行け、ボケ)
天武二年(673)十二月の「侍奉大嘗中臣忌部及神官人等併播磨丹波二国郡司又以下人夫等悉賜禄」のことをしつこく言っているのかな?
で、「侍奉」が「つかえまつる」で、「侍奉大嘗」は「大嘗に参加した」という意味しかなく、この文全体は大嘗祭の参加者へご褒美(禄)をあげたという記事にすぎず、「大嘗祭をやった」とは書いてないのだということですね。 (古田っぽいトンチだな)
>>594 の2のとおり、九州王朝が主催者という根拠はありません。
>>594 の3のとおり、日本書紀は当たり前のことは記述するとは限らないので、「大嘗祭をやった」とは書いていなくても、大嘗祭の参加者にご褒美をやったのだから、大嘗祭をやったと解すべきです。
古田がよく自慢するように、日本書紀を隅から隅まで読んで記載の特徴をとらえれば当然の解釈なのですが、古田は汚いので、
ときどき自分の自慢の方法論を頬被りし、ゴミ箱の隅を突付くように言葉尻を捕らえて、捩くれた解釈をします。その典型。
そんな、子供のトンチ言葉遊びのような屁理屈はほどほどにして、もっと本質的なことを考えましょう。
さて、これは「大嘗」という用語の初出であり、一般には新嘗祭と大嘗祭とが明確に区別された最初と言われていますよね。
しかし、そんな用語の問題だけで、天武以外の王権、それも天武より優越する王権があったと主張するのですか?
儀式の実態としては、詳細は秘儀なのでよく分からないけど、形式が整ったのは斉明のころかといった説も有力なようです。
称徳だったかな、昔、大嘗祭の施設らしきものが発掘されたなんて記事もあったような・・。であれば、考古的には称徳以前という根拠があるということになりますね。
そういう意味も含めて、大嘗祭の起源がからむ微妙な時期であり、そんな時期の瑣末な記述で天武より優越する王権があったと主張するのは無理だろうと言っているのです。
言葉の瑣末だけにしがみつき、天武より優越する王権がどんなもので、いつ衰退・滅亡したかも説明できないのでは、トンデモ以下と言わざるをえませんね。
苦しすぎて大笑いだ。「大嘗す」ってなんで書けないの? 天皇にとって一生に一度しか開催しない、一大イベントだぞ。 その大嘗祭を「自分が開催した」ことも「出席した」ことも書かないのは 天皇の記録を書いた日本書紀としては失格だろ。
624 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/20(水) 23:35:32
>>622 @記載の特徴をとらえれば当然の解釈なのです
A一般には新嘗祭と大嘗祭とが明確に区別された最初と言われていますよね。
B形式が整ったのは斉明のころかといった説も有力なようです。
C大嘗祭の起源がからむ微妙な時期であり
Dいつ衰退・滅亡したかも説明できない
上記について質問
@誰が当然の解釈としたの?
A誰が言っているの?
B誰が有力としたの?
C誰が微妙な時期だと判断したの?
D誰が説明できないの?
上記質問の「誰」は、貴方にとっての権威者ではないのですか?
625 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 00:15:01
九州王朝って悲しいね。 まともな人には誰にも受け入れられない。 電波が集まって概念化される九州王朝(笑) 前方後円墳はどう位置づけるんですかー?(笑)
>625 残念でしたね。 前方後円墳は、中国の薄葬文化を知らない後進文化を象徴ともいえるものです。 中国から将軍号や大将軍号を受けるような国は、もっと薄葬の風があったでしょう。 畿内がいかに後進的だったかを示している証拠なわけです。
628 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/21(木) 07:29:15
>>625 お前さんの古代九州の空白的無知が産んだ言葉がそれだよ。w
>>610 …
>これって、九州年号のイロハ
…自分で認めてる通り一次資料の可能性の高い碑文等に日本の正史上認められていない年号が記されていることが重要であって、
二次的記録の完全性は関係ないだろうに・・・
古田説の欠陥を指摘すれば「法興」や「白鳳」は消えてなくなるとでも?
それから
>>606 は単なる個人的解釈と心証であって、客観的事実は一切含まれてないんだけど?
それと「大王=天皇家説」に組せず、九州その他に大王を認めるべきとする人間を脊髄反射で「古田九州王朝信者」扱いするのはいい加減にしてくれ。
630 :
629 :2007/06/21(木) 10:25:22
連書きになるが、
>>629 の最後は
>>610 へのレスじゃないので念のため。
俺自身は「九州に大王あり」とは主張していない。
631 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 10:44:59
>>623 日本書紀
持統天皇の持統五年(691)十一月の箇所は、単に「大嘗」とだけ書いてある。主語は明記されていない。
続日本紀
文武天皇の文武二年(698)十一月の箇所は、単に「大甞」とだけ書いてある。主語は明記されていない。
元明天皇の和銅元年(708)十一月の箇所は、単に「大甞」とだけ書いてある。主語は明記されていない。
元正天皇の霊亀二年(716)十一月の箇所は、単に「大甞」とだけ書いてある。主語は明記されていない。
聖武天皇の神亀元年(724)十一月の箇所は、単に「大甞」とだけ書いてある。主語は明記されていない。
孝謙天皇の天平勝宝元年(749)十一月の箇所は、「於南薬園新宮大甞」と書いてある。主語は明記されていない。
淳仁天皇の天平宝字二年(758)十一月の箇所は、「御乾政官院。行大甞之事」と初めて主語が明記されている。
称徳天皇の天平神護元年(765)十一月の箇所は、「天皇重臨万機。於是。更行大甞之事」と主語が明記されている。
光仁天皇の宝亀二年(771)十一月の箇所は、「御太政官院。行大甞之事」と主語が明記されている。
桓武天皇の天応元年(781)十一月の箇所は、「御太政官院。行大甞之事」と主語が明記されている。
それほど、厳密さにこだわった揚げ足取りをしたいなら、持統以降孝謙までも大嘗祭を主催していないことになる。(大爆笑)
《「自分が開催した」ことも「出席した」ことも書かない》例が多数あるのだ。
言葉尻の瑣末を突っつきたいなら、もっとよく読め。
というより、自分でもっとよく読んで、古田の受け売りで言葉尻の瑣末を突っつくようなことはやめたほうがよい。
632 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 10:47:06
>>623 それほど、厳密さにこだわった揚げ足取りをしたいなら、持統以降孝謙までも大嘗祭を主催していないことになる。(大爆笑)
《「自分が開催した」ことも「出席した」ことも書かない》例が多数あるのだ。
言葉尻の瑣末を突っつきたいなら、もっとよく読め。
というより、自分でもっとよく読んで、古田の受け売りで言葉尻の瑣末を突っつくようなことはやめたほうがよい。
日本書紀
持統天皇の持統五年(691)十一月の箇所は、単に「大嘗」とだけ書いてある。主語は明記されていない。
続日本紀
文武天皇の文武二年(698)十一月の箇所は、単に「大甞」とだけ書いてある。主語は明記されていない。
元明天皇の和銅元年(708)十一月の箇所は、単に「大甞」とだけ書いてある。主語は明記されていない。
元正天皇の霊亀二年(716)十一月の箇所は、単に「大甞」とだけ書いてある。主語は明記されていない。
聖武天皇の神亀元年(724)十一月の箇所は、単に「大甞」とだけ書いてある。主語は明記されていない。
孝謙天皇の天平勝宝元年(749)十一月の箇所は、「於南薬園新宮大甞」と書いてある。主語は明記されていない。
淳仁天皇の天平宝字二年(758)十一月の箇所は、「御乾政官院。行大甞之事」と初めて主語が明記されている。
称徳天皇の天平神護元年(765)十一月の箇所は、「天皇重臨万機。於是。更行大甞之事」と主語が明記されている。
光仁天皇の宝亀二年(771)十一月の箇所は、「御太政官院。行大甞之事」と主語が明記されている。
桓武天皇の天応元年(781)十一月の箇所は、「御太政官院。行大甞之事」と主語が明記されている。
633 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 10:49:46
>>624 @誰が当然の解釈としたの?
B誰が有力としたの?
C誰が微妙な時期だと判断したの?
九州王朝大好きさんが仮想敵としている「権威者」
(本当は、「そんなこと常識だろ」と言いたいのですが、九州王朝大好きさんは「常識」という言葉に脊髄反射して嫌悪感を示しそうなので、上記のような回答とさせていただきます。)
A誰が言っているの?
たくさんの人。例えば、宮内庁。
孫引きで申し訳ないが、次の「平成2年に宮内庁が報道機関等に配布した資料(大嘗祭について)」参照。
ttp://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai8/8siryou3.pdf (これも、「そんなこと常識だろ」と言いたいのですが、九州王朝大好きさんは「常識」という言葉に対してパブロフの犬のようにハアハアしそうなので、上記のような回答とさせていただきます。)
D誰が説明できないの?
九州王朝大好きさん。
九州王朝は、天武二年(673)十二月以降のいつごろ衰退・滅亡したのでしょう。
もちろん、単に時期を言うだけでなく、その経緯と主張の根拠が説明できないようでなければだめですよ。
634 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 10:54:07
>>629 九州年号について
資料によって内容に違いがあるのをそのまま放置はまずいでしょう。
それでは、「二次資料」である「襲国偽僣考」や「二中歴」は資料的価値がほとんどないことになってしまう。
各資料を比較検討し、実際に使われていた年号は何なのか、いつまで使われていたのか、どのような地域で使われていたのか、
そういった、時間的、空間的分布などについて、はっきりさせる努力は不可欠だと思います。
隋書の旅程記事について
確かに、対馬か、壱岐か、筑紫か、周防か、といった比定は解釈にすぎないかもしれせん、(ただし、周防以外は、ほぼ定説でしょう。)
しかし、都斯麻国、一支国、竹斯国、秦王国、さらに十余国を経て辿り着いた海岸の先に王朝(の都)があるというのは、隋書の記述のままだと思いますが。
「経都斯麻国廻在大海中又東至一支国又至竹斯国又東至秦王国・・・又経十余国達於海岸・・・至彼都」
>631-632 主語じゃないでしょ。 日本書紀の文章自体に、天武が大嘗祭を行ったことが書いてないわけ。 「いつどこでだれが行ったか不明の大嘗祭」に出席した部下に褒美を与えただけ。 あなた、国語の成績、悪かったでしょ?
あそうそう、頻出する「大嘗す」ってのは、「天皇が大嘗祭を催行しました」って意味でしょ。 主語は明らかだなあ。主語がありませんって議論は、かなりの馬鹿。
637 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/21(木) 12:35:41
>>633 >>662 氏が
>>633 さんであるとして以下書き込みます。
@ABCについては、
争点となっていることの自説に都合の良い部分を根拠として主張してはいけません。
と言いたかっただけです。
Dについては、日本語の主語省略の特性を利用して曖昧な表現をしていることを指摘しただけです。
九州王朝の衰退・滅亡については何に着目するかにより判断が異なります。
いくつかの段階があります。
@ 663年 白村江の敗戦
A 672年 天武即位の前年
B 696年 文武即位の前年、古田説大化の改新
C 699年 文武九州討伐の終了
D 700年 大宝建元の前年
E 70?年 大倭国の白亀献上 (続日本紀に記事有り)何年か思い出さない
638 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/21(木) 12:37:07
>>633 >>662 氏が
>>633 さんであるとして以下書き込みます。
@ABCについては、
争点となっていることの自説に都合の良い部分を根拠として主張してはいけません。
と言いたかっただけです。
Dについては、日本語の主語省略の特性を利用して曖昧な表現をしていることを指摘しただけです。
九州王朝の衰退・滅亡については何に着目するかにより判断が異なります。
いくつかの段階があります。
@ 663年 白村江の敗戦
A 672年 天武即位の前年
B 696年 文武即位の前年、古田説大化の改新
C 699年 文武九州討伐の終了
D 700年 大宝建元の前年
E 70?年 大倭国の白亀献上 (続日本紀に記事有り)何年か思い出せない
639 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 13:24:54
>>635-636 この二つのスレ同一の人かな(636の冒頭に「あそうそう」と追記っぽい表現があるので。)
>「大嘗す」ってのは、「天皇が大嘗祭を催行しました」って意味
であれば、天武紀の大嘗も天皇が催行しましたという意味でないと。
天武以外に天皇はいるのか?九州王朝のトップも天皇と称していたのか?その根拠は?
632のような記事において主語は自明だというのは常識的にはそのとおり。それが普通でしょ。
しかし、635-636自身、そうした書き方の一つである天武2年の記事で、主語があいまいだと散々言っているのではないのか?
635-636のような読み方をするのであれば、天武紀の記述においても、天皇が行う行為であれば暗黙の主語は天武であることは自明であろう。
天武二年(673)十二月の「侍奉大嘗中臣忌部及神官人等併播磨丹波二国郡司又以下人夫等悉賜禄」だけを天武が主催していないと強弁するのはいかがなものか。
一貫性がない。
最後に、
私の国語力を心配してくれてありがとう。しかし、言ってることが支離滅裂なので説得力はゼロですよ。
640 :
日本@名無史さん :2007/06/21(木) 14:28:56
世の中には、公演会のネタはないか、本や記事のネタになるものはないかという観点だけから、年がら年中、記紀などを読んでいる人がいるらしい。 そういう人は、天武二年の大嘗祭の記事に「侍奉」と付いているのを発見すると、「いいもの見つけた」とばかり食いつくのだろうな。 そして、自分できちんと記紀を読んだり、論理を組み立てようとしない人たちを相手に、一稼ぎか。 いいカモだな。
>>634 「九州年号」を復元しようとする場合には(一次資料から直接分からない情報を補う意味で)
二次資料の精査が必要になるだろうが、俺が論点にしてるのは
「大和朝廷の正史に創元・改元の記事のない元号が実用されていたことを示す(であろう)碑文等の存在は
いかなる歴史的事実の反映であるのか?」ということなんだけど。
旅程に関しては、(直接表現はしてないが)都が海岸にあるとして、「十余国」がおよそ直線に並んでいることはどこで分かるの?
「中国側使者が夷蛮王に謁見する場合、国勢等の状況視察などせずまっすぐ都に至るのが一般的である」
ことを示す史書等の資料はあるの?
駄目だな。畿内説は成り立たないな。 畿内説信者の希望的観測なんか、どうでもいい。 日本書紀にかいてあるかどうかだけで、客観的に判断しなきゃ。 書いてないものは「ない」と言うしかないな。 天武が大嘗祭を催行したことはない。 でも天武の部下は大嘗祭に出席してる。 事実はそれだけだ。妄想は受けられないな。
FAQ Q 九州王朝はなかったのか? A 九州王朝は無かった。 なんで11スレもやってんの?
>643の判断力もなかった。
判断力の無い俺だが、11スレもやってる理由がなにげに分かった A .>644の判断力がなかった。あるいは、行き場のない>644並みのが居座ってる これでオケ?
答えても判断できないだろうから、さようなら。
647 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 00:58:27
みんなオナニー好きですねwww
いつ誰が催行したかわからない大嘗祭に出席した者が、天武の部下にいる。 天武は大嘗祭を催行したことはない。 いったい誰がその大嘗祭を催行したのでしょうか? 天子がいて、極東諸国に君臨し、連続した元号を持っていた国以外に、 考えられるでしょうか? え?畿内大和国?あんな弱小国は該当しませんね。
649 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 08:23:19
日本書紀は何処の王朝が編纂したの? 大嘗祭の記述はどの天子の時代の記事?
650 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 13:39:35
>>648 天武二年(673)十二月の「侍奉大嘗中臣忌部及神官人等併播磨丹波二国郡司又以下人夫等悉賜禄」
ここでは「侍奉大嘗」(大嘗祭に出席した)と書いてあるだけで、「大嘗」は天武即位に伴うものとは書いていないという屁理屈。
まず、「賜禄」(ご褒美をあげた)を行ったのは天武以外の解釈はありえない。
ゆえに、誰のものとも分からぬ大嘗祭に出席しただけの者に、天武はたんまりとご褒美をあげたという解釈になる。
そんなタワケタ読み方をするより、「侍奉大嘗」の「大嘗」は天武即位に伴う大嘗祭のことと読むほうが、はるかに矛盾が少ない。
というより、まったく矛盾がない。
なぜなら、日本書紀や続日本紀では、「当たり前のことは書くとは限らない」という傾向があり、実際に大嘗祭の記事において、誰の即位に伴う大嘗祭かということを明示するような文になっているのは称徳のときぐらいだ。(
>>632 )
本当に日本書紀を読んだのか?
651 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 13:42:38
>>648 この天武二年の大嘗祭の件は、晩年の教祖の汚さを如実に示す典型例だ。
こういうときは、資料を徹底的に読んで「大嘗」という記述をすべて洗い出すのが教祖の方法ではなかったのか?
そういう方法が、他人を見下してまで自慢する教祖の御自慢の方法なのではなかったのか?
結果は、
>>632 のとおり、誰の即位に伴う大嘗祭かということを明示するような文になっているのは称徳のときぐらいだ。
天武二年の大嘗祭の解釈は、コジツケ以外の何ものでもないことが明白である。
教祖とその弟子たちは、かつて散々他人を見下して自慢した方法をとらなかったか、あるいはその結果を頬被りしたか、そのいずれかだ。
汚い奴らだ。
自分らの信者はどうせ日本書紀や続日本紀などまともに読まないだろう、読んだところでロクな注意力もなかろうという内心小馬鹿にした前提のもと、
自分らの信者にこのような汚いタワケたコジツケを披露して、小銭を稼ぐのだ、
汚い教祖と弟子どもだ。
畿内説信者は、何が書いてあって、何が書かれていないのか、 ありのままに読めなくなっちゃってるわけです。 天武天皇の項も他の天皇同様に、「大嘗す」と書けば済むこと。 しかしなぜ、大嘗すとは書かなかったのか。 書けるわけないでしょう。畿内をはじめ、全国の有力者は 壬申の乱の経緯も覚えてる。嘘は書けなかったんですよ。 天武が上京した時の国内事情はひどいものでした。 倭人と百済人の捕虜も合わせて2千人もの唐軍が 九州に上陸してきた。続いて壬申の乱、畿内は大混乱。 ゆっくりと即位式などできたでしょうか?大嘗祭を 悠長にやっていられたでしょうか? 畿内説はこういった国際感覚も畿内のいがみ合い構造への 配慮がないんです。天武が天下太平の即位だと思ったら 大間違いですよ。だから天武は大嘗祭をとても催行する余裕が なかったというのが真相でしょう。
653 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 14:25:24
>>652 嘘は書けなかったんですよ
九州王朝説における日本書紀の読み方の基本スタンス
a 九州王朝のことは隠蔽した
b 欽明のころを頂点とするような膨大な外交記事、あるいは推古の遣隋使や隋からの使者の記事などについて、
これらは、九州王朝の事跡を横取りしたもの又は創作、すなわち捏造
c 大和にいる天皇が九州に屯倉を作ったという記事は、当然捏造
d 壬申の乱のずっと後の、大和が九州王朝の王権を簒奪するプロセスも隠蔽し、その時期の記事を適当に創作、捏造
e その他、九州王朝説に都合の悪い記事はすべて捏造
つまり、嘘を書きまくったというのが、九州王朝説における日本書紀の読み方の基本スタンスでしょ。
そうでないと、九州王朝説など、秒殺で崩壊・消滅する。
何ゆえ、ここだけ嘘は書けなかったのか。アホらしか。
654 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 14:35:42
アリ山古墳
655 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 14:40:50
>>652 ありのままに読めなくなっちゃってるわけです
。
>>650 のとおり、天武二年(673)十二月の記事は、
「侍奉大嘗中臣忌部及神官人等併播磨丹波二国郡司又以下人夫等悉賜禄」
で、読まなくてはだめですよ。ありのままによく読んでください。
最初の4文字の「侍奉大嘗」だけ抜き取っても、ありのままに読むことにはなりませんよ。
>倭人と百済人の捕虜も合わせて2千人もの唐軍が九州に上陸してきた。続いて壬申の乱、畿内は大混乱。
畿内だけではなく、九州も大混乱あるいは緊張状態ではないのですか。
>大嘗祭を悠長にやっていられたでしょうか
でも、誰かの大嘗祭をやったことはまちがいないでしょ。
それとも、ずっと前(白村江前ぐらい)の大嘗祭の出席者への、ご褒美をそんな「大混乱」のときに与えたとか?
畿内でも九州でもない、どこかの王の即位に伴う大嘗祭があったという結論に導かれてしまいますね・・・?
ひどく支離滅裂です。
自分で自分が何を論証したいのか分からなくなっているようですね。
656 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 15:08:32
>>652 畿内のいがみ合い構造への配慮がないんです
内戦等の直後に即位式のようなものが行われるというのは、歴史のうえでは何ら珍しいことではありませんよ。
天皇の例でも、応神、継体、崇峻、推古、(実在性は低いとされる神武も)などは、比較的大規模な内戦や天皇暗殺などの直後に即位していますね。
他にも、源頼朝も九州や東北で戦争した後、足利尊氏や徳川家康に至っては有力なライバルがまだ健在なうちに征夷大将軍に就きます。
あまりに有名な例ばかりなので、指摘しているこちらが恥ずかしくなってきました。
「戦争などで混乱した直後に即位式など行うのは妙だ。」←ツマラン空虚な思い込みです。
汚いペテン教祖にだまされましたね。
畿内説はだいぶ苦しいな。 用例をずらずら列挙して出た結論が、結局畿内説の敗北だ。 「大嘗」の語が日本書紀中、初めて出てくる箇所なんだから、 本来なら大嘗祭の始まりとして、大々的に書くべきだろう。 それがどんなイベントだったのかも書いていない。 天武の部下が出席しただけという、あまりにもオソマツな内容だ。 どうして日本書紀の編者は、大嘗祭の初出に際し、力をこめて 書かなかったのか?それは天武が主催した大嘗祭ではなかったと そう読むより他はないし、そう読めるように書いてある。天武が主催した とは、ちゃっかりと書いていないし、書けなかっただろう。 残念だったな。>畿内説
大嘗祭=即位式??? ・・・はあ?畿内説ってこれほど馬鹿なの?
659 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 16:44:47
九州に上陸してきたのか、大変だったね。 そんな状態では、九州で大嘗祭をするのは無理では?
>657 新嘗祭なんぞ、昔からやってただろうよ。 五穀豊穣を祈るのは、大王の最も大事な仕事だろう? 天武朝ではじめて大嘗祭が行われたというのがまず、間違い。 斎宮も始めて派遣されるとき、それほど大々的にかかれてない、 そもそも起源が定かではないからな。 起源の定かではない大嘗祭を大々的にかかなかったからといって不思議はない、 それよりも、九州王朝があったというほうが間違い。
661 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 17:24:43
九州バカは完全に論破されてるのに勝利宣言かよw
まともな史料はないし、日本書紀は盗用捏造ってかw
>>626 初現期の話だけですか????????
初期古墳て何時代だよw
それくらい遡れば北九州が先進的なのは当たり前だろw
前方後円墳という形ですら大和地方のオリジナルとはいえないんだから。
北九州やら山陰やら吉備やらの影響を受けてできたものなのは全然否定しませんw
ところがその古墳は大和地方を中心に広がってるんだよ。
根本的なところはスルーですか?www
>>627 すっげえ笑えるw
武の上表文には自分の国は藩国だっていってんのにw
つーかその後進的な前方後円墳が全国的に広がっているのは無視かよw
九州王朝があった証明にまったくなってないの分からないの?
>>628 おもしろいクソコテさんですね^^
662 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 17:44:53
まだ目が覚めんのか? 五王と卑弥呼は九州王朝よ。古墳なんか後から出てきたって構わん。 それに建築関係で破壊も多いだろうしな。 君はクラークケントか?ww
どうしょうもないね、畿内説は。 阿蘇山や金印が「畿内だ」と言ってダダを捏ねる。 どうあがいても、無理なんだよ。
畿内説っておかしいんだよ。 畿内って、半島で倭が戦争をやっている期間、 鉄器文化がほとんどないんだよ。 そんな国が極東諸国と長期に戦争ができるわけがない。 大将軍なんて名前もらうには、鉄器が大量に出土するような 国じゃないと無理だな。
隋書をみればわかるとおり、首長が二人(兄・弟)いるのが特徴。 畿内でこんな時代、あったっけ?九州王朝しかないと思うぞ。
666 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 18:53:44
>>658 大嘗祭=即位式??? ・・・はあ?畿内説ってこれほど馬鹿なの?
馬鹿はおまえだ。
>>652 ゆっくりと即位式などできたでしょうか
これへの反論だから、「即位式」と言ったまで。
ぜんぜん流れが理解できていないのではないのか?
なお、この箇所のやり取りに限って言えば、大嘗祭か即位式かといった言葉尻は本質的なことではない。
だから、こちらも「大嘗祭だろ」とツッコミをいれずに「即位式」という言い方に付き合った。
枝葉末節ばかり突付き回して、そんなことも分からんようでは、ほんとガキだな。
いや〜無知を指摘して悪かった。 大嘗祭は即位式と信じていたのか、そりゃ悪かった。
668 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 18:59:13
>>657 何も苦しくはありませんが。
日本書紀では、九州王朝のことは、ほとんど隠蔽しているのだろう。
九州王朝が主催した大嘗祭であれば、何も書かなければよい。
そこだけ、うっかり本当のことを書いてしまったとか?
ご都合のよろしいことで。 (ぷぷぷ)
669 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 19:04:06
>>667 よく読んで
>>666 以上。
しかし、
大嘗祭≠即位式
という知識を自慢したいのかねえ? (こんな馬鹿見たことない。すげ〜みじめだね。)
670 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 19:11:18
>>665 九州王朝を持ち出したところで、隋書の「俀王以天為兄以日為弟」の説明はつかないだろ。
もっと本質論をやろうよ。
九州王朝の権力構造や統治機構を教えて。
もちろん、根拠が明確な形でな。
当然、首長が二人いるのだよな。
例えば、おまいらの大好きなサチヤマの相方は誰だ?
そいつサチヤマとの力関係や役割分担は?
671 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 19:14:43
>>663 阿蘇山や金印が「畿内だ」と言ってダダを捏ねる。
誰がそんなことを言ったのだ?
捏造するにもほどがあるぞ。
阿蘇山:畿内の政権の勢力範囲の中にあった。畿内の中だとは言っていない。
(この違いを理解する知能はないのか?)
金印:関係ない。あなたが時代錯誤なだけ。
672 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 19:19:38
>>667 例えば、
即位式はタカミクラ
大嘗祭はユキデン、スキデン
何のことか分かるか?
こんなこと歴史板では常識だから。
みっともなく、即位式≠大嘗祭 なんて知識を自慢するものじゃない。
673 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 19:30:37
しょうがないな、教祖にだまされやがって。 阿蘇山について少し教えてあげる。 隋書倭国伝の「有阿蘇山」の記事は、全体を書くと、「有阿蘇山其石無故火起接天者俗以為異因行祷祭」 「阿蘇山がある。その石は、故なくて火が起こり天に接するもので、習慣として異となし、よって祷祭を行う。」(岩波文庫版) 見てのとおり、隋の使者が目撃した事実をそのまま書いたものとは思えない。 外交の仕事をほったらかして、阿蘇山へ上り、火がついた石を観察し、それを使って住民が祷祭を行う様子を観察していたのか。 隋の使者も暇なのね。 この記事は伝聞とみなすべきだろう。 すなわち、使者は阿蘇山へ行ったとは限らない。 ペテン師の教祖のウケウリをせずに、よく読めってば。
674 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 19:37:11
金印は?これもペテンか? 都合悪いのは創作とかイカサマに すれば片付くか〜?ww
それにしても、畿内説ってペテンだな。 隋書には、倭人の国家行事の特記すべき事項として 阿蘇山の祈祷を述べているわけだ。 倭人のゲリラが阿蘇山で祈祷しているのではなく、 国家の行事として書いているわけだ。 畿内説はゲリラの祈祷だとか国家に無縁の祈祷だと 断定しちゃってるわけでしょ。無理なんだよ。
676 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 19:49:10
刑事裁判では伝聞証拠は慎重を極めて厳格採用だろうが、古代史 の根拠とかにはそこまで至らなくてももうOKですよ。 金印、倭の五王←これはどううやったって編年が合わんし名も五人 全員で合わんから天皇じゃぁないし、卑弥呼の女王国も九州だし、 それに年号まであって、さらに帥升とか漢委奴国王とかも九州臭い し、せいぜい紀無い一本でがんばるのはむなしいことさ。 女王国畿無内説が揺らぐから認めたくないわけだが、畿内説は もう心肺停止状態。あきらめが肝心だ。
677 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 19:58:59
日本最古の神社は阿蘇神社なんだよね。でも、そこが邪馬台国とは限らないと 思うが。
678 :
日本@名無史さん :2007/06/22(金) 20:26:52
質問なんですが、九州王朝が倭という呼び名で、畿内王朝が大和という呼び名 で別の王朝だと唱えた説はないのでしょうか 九州王朝で倭から大和に変更するとか、畿内王朝で倭を大和に変更したとか言う 文献があるのならば繋がっているのだと思いますが、そんな記録が無ければ別の 名前が別の王朝を指している可能性もありではないかと考えたものですから。 また、対外用呼び名(japan)と国内用(日本)みたいな使い分けの可能性もあるので 一概には言えませんけれども。
>>678 素直で聡明なあなたも、そう思われるでしょう?
それが九州王朝説なのです。
文献にも書いてあるんですよ。
日本書紀によれば、かつてニニギが天孫降臨して、新領土の首長になった。
神武はニニギの血統を受け継いでいる子孫だが、新たに天基を草創し、
(畿内で)分家筋を始めましたと明記されています。
さらに、続日本紀によれば、文武はニニギの系譜(血統)、神武の王統を
引き次ぐ宣言をして、皇位に就いています。本家筋と分家筋の両方を
受け継ぎます、と宣言しているわけです。
畿内説信者は、日本書紀と続日本紀にこう書いてあるのに、必死に無視し、
否定しています。阿蘇山と金印の本家筋を否定するのは、まあ無理なんですが。
680 :
日本@名無史さん :2007/06/23(土) 00:01:44
血筋の最初がニニギで、建国者が神武。 本家、分家となぜ分けるのか解からない。
ニニギは新天地の首長。その子孫神武は首長ではなかったが、 あるとき畿内で「天基を草創」し、首長に就任しました。 ニニギ以来の「天基を継承」したかといえば、全くしていません。 「天基を継承」していなければ、これは本家筋でありませんね。 本家筋じゃない「天基を草創」した。これは分家筋以外、あり得ませんね。
682 :
678 :2007/06/23(土) 00:34:19
>679 ありがとうございます 大宰府の存在から見て、九州王朝が独立して存在していれば、 のちに、九州王朝が大和朝廷に組み込まれる際には、激烈な 戦闘が行われる可能性があると考えてきました。 実際には小さな戦争はあったでしょうが、全面滅亡戦争というような ものはありそうになかったので、どのように組み込まれていったのか 疑問でした。 親戚筋ということなら、ある程度穏やかに事が進むかもしれませんね。 しかも、かなり後世にいたるまで太宰府も、それなりに尊重されているわけで 大和朝廷にとって敵ではない扱いに納得がいきます。 しかし、8世紀頭まで並立していた可能性があるとは、ちょっとびっくりです
683 :
日本@名無史さん :2007/06/23(土) 00:39:39
ニニギは王で、神武は皇帝。
>683 日本書紀にそんなことは書いてありませんね。 神武は、村長程度の首長です。非常に小さな領土と人口のみ。 隣接した国々のほうが巨大です。
685 :
日本@名無史さん :2007/06/23(土) 01:11:43
いやー1世紀の遺物を根拠に6〜7世紀の九州王朝を語るとはおみそれしましたw
21世紀の思い込みで、畿内説信仰を譲らない頑迷さに驚きました。
687 :
日本@名無史さん :2007/06/23(土) 02:13:17
まあ要するに九州王朝とか邪馬一国とかは 壮大な小説だと思ってればいいんじゃないの? めくじら立てて是だ非だ論じても仕方ないだろ
論じなくとも、結論が書いてあるわけです>679参照
>日本書紀と続日本紀にこう書いてあるのに、 両書には、イザナギの子がアマテラスでその孫がニニギでその曾孫が神武で その子孫が文武って書いてあるよ。
だから何?結論変わらず。
「なお、支持者には理解できていないが、九州王朝説の方が『日本書紀』の記述を無批判に 丸呑みする傾向が高い。 そもそも九州王朝説は「中国の史書と『日本書紀』との記述に齟齬があるのがおかしい」とい うところからスタートしているが、この主張は「中国の史書も『日本書紀』の記述も正しい」、 すなわち「中国の史書と『日本書紀』の記述の両方を信ずる」という前提に立たなければ成立 しえない。 なぜならば、「史書にも間違いや書き漏らしがある」という学界で一般的な理解に立った途端、 両者が完全に一致しなければならない必要性がなくなるからだ。」
天武紀(に限らないけど)、いちいち「天皇は」なんて主語書かんわな。 大嘗以外の記事もそう。てことはこれらの記事は全部誰か天武以外の人間が 主語なんだ。てゆうか『日本書紀』、てゆうか六国史、全て主語が書かれて ない記事は、天皇以外の誰かがやったことなんだ。 すげえよ。日本史が根底からひっくり返るよ。九州王朝のファンになったよw
693 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/24(日) 08:39:06
>>692 「主語が書かれてない記事は、天皇以外の誰かがやったこと。」と、まず考えると良いと思います。
敢て主語が書かれていないのか、単に省略されているだけなのか、注意して読んでくださいね。
いっときはあこがれたんだけどねえ。 やっぱ、トンデモ扱いされとるわけか。 少なくとも史学界では、 ほとんど八切止夫やカンダン古記と同列みたい。
日本書紀だけでなく、思い込みに無批判なのは、畿内説の専売特許だなw いわく、畿内以外に古代権力の中心はありえない いわく、マキムクが日本列島を統一していった起源 いわく、阿蘇山や金印が九なのノは、なにかの間違いだろう いわく、旧唐書に倭国と日本国が併記されているのは無視していいだろう
696 :
日本@名無史さん :2007/06/24(日) 12:51:35
学問には柱となる定理が必要でしょ 物理学に光速度不変の法則があるように 史学には国家はヤマトから発生したという定理がある
697 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/24(日) 14:17:41
定理はまだ早計。古史古伝には九州にウガヤ朝70数代の記録がある。 だいぶ偽書だと言われているが、全冊誤りだとかはまだ云えまい。 それに女王国は九州にあったわけで、壱与を考えれば九州王朝は充分言える。
古史古伝ですかw ウガヤ朝ですかw そうですか・・・
太国は九州王朝説と古田先生を貶めるアフォだからスルーよろ
×史学には国家はヤマトから発生したという定理がある ○史学には国家は筑紫国のヒナタのクシフル嶽から発生し、 阿蘇山で祷祭するに至ったという定理がある
701 :
日本@名無史さん :2007/06/24(日) 22:48:10
邪馬台国九州説はいいんだよ。 でもそれと九州王朝をくっつけんなよ。 邪馬台国九州説がかわいそうだ。
王朝がそんなに嫌いですか? 極東の大将軍号を受けた首長の国家が、連続した元号を制定するようになり、 首長が天子を自称するに至って、隋に対等外交を突きつけた国家は、 王朝でしょう。その国は金印と阿蘇山がキーワードだから、九州王朝と よぶのがふさわしい。 「王朝」を懸命に否定する理由などないでしょう。
いまどき九州王朝信者じゃない九州説なんているのか? 阿蘇山と金印だけがより所なんだろ。
神武が「天基を草創」したと日本書紀が正式発表してるんだから、 畿内王権は分家だな。 草創する前の神武は、どこの天基にいたのか・・・ それは天孫降臨した筑紫国以外、あり得ないでしょう。
邪馬台国九州論の人たちにとって、 九州王朝説は身中の癌みたいなものかな。 だから真摯な研究者は、徹底して無視しようとしている。
別な説でしょ。 単なる九州説って 全国津々浦々に邪馬台国の候補地があって、 たまたま九州じゃないかというだけの説。
「見るところは都府楼の屋根瓦、聞くものは観音寺の鐘の声」・・・・。 これは菅原道真が配所の大宰府で読んだ詩の一節 ここでいう「都府楼」とは太宰府の建物を指す言葉である。 中近世文書で「太府」と言えば太宰府の省略で、同じように「都府」と言えば都督府の省略である。 この都督府は、日本書紀に「筑紫都督府」と記されており、この九州の太宰府以外には、都督府が日本の文献に出てくることはない。 一方 「都督」とは、倭の五王で「使持節都督・・・」という形で宋書に出てくる五世紀からある中国の官職名である。 中国の天子が、周辺の蛮夷の王に領地を治めるための政府を開くことを許す位階である。 また、「倭の五王」は中国に朝貢し天子から都督「鎮東大将軍」に任命されている。 筑後国風土記の中で、「東北の角に当りて一つの別区あり。号けて衛頭と曰ふ。衛頭は政所なり」とある。 ここが倭の五王「鎮東大将軍」が君臨する政庁があったと考えるのが自然である。 中国からは都督「鎮東大将軍」の官職を得、倭国にあっては王朝を開いた倭王の宮殿が都府楼なのだ。 さらに、太宰府には「内裏」という地名が残されている。内裏とは天子のおわします場所のことである。 また、天子が住む建物である紫宸殿という地名もある。天子を自称した王者が太宰府に存在したということになる。 このように、中国、日本、それぞれの文献は、太宰府に日本の王者の都があったことを指し示している。
708 :
九州王朝派 :2007/06/26(火) 15:00:00
大宰府 第1期 7世紀後半〜8世紀初頭。大宰府政庁創建期。掘立柱建物群。 第2期 8世紀初頭〜10世紀中葉。朝堂院形式創建期。礎石建物。 第3期 10世紀中葉〜12世紀。朝堂院形式整備拡充期。礎石建物。 約300年にも亘って当初の計画に基づき建設され続けたことになるが、 単なる区画整理事業に過ぎず、数ヶ月から数年で可能な条坊の建設に何故300年も要したのか、 300年にも亘って計画を維持する事が可能か、実施した者の正体は何か、 目的は何か、 などの疑問や矛盾が発生する。 現在の大宰府の年代測定は、年輪年代測定や放射性炭素年代測定等によるものではなく科学的根拠が無い。 水城の建設等は、理科学的測定によれば『日本書紀』の記述等より90年以上も古くなり、大宰府本体も古くなる可能性がある。 学習院大学年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、大宰府遺跡の竹内焼土層は1600年ほど前の物である。
709 :
九州王朝派 :2007/06/26(火) 15:01:17
大宰府 711年〜800年の蓄銭叙位令などが示すように畿内大和は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、 『続日本紀(しょくにほんぎ)』769年(神護景雲3年)10月の記事で大宰府の役人が都に 「此府人物殷繁。天下之一都會也。」と報告しているように大宰府は国際交易都市であり、 役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた都市であった。 7世紀中頃に創建された観世音寺の遺構が太宰府の条坊と正確に一致している。 寺社に合わせて条坊が建設されることはない、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、 太宰府の条坊は観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していた 都市の区画割が明らかに唐の長安を模した条坊制である(政庁の位置が創建当時から移動していないことから「都市プランは政庁創建当初からあった」と考えられる。 ヤマト王権でこのように北に政庁を配置した条坊制の都は、平城京(710年)以降であり、これより46年〜92年早い。 またヤマト王権の都にはない都城周辺の城壁があったとも考えられている)。 竈門神社の縁起にあるように「四神相応の地」といわれ、首都としての立地条件を備えており、 また、これは水城等の建設された664年や大宰府が建設された618年には確定していたから、 ヤマト王権唯一の日本式風水(陰陽道)都市である平安京(794年)よりも130年〜176年以上も早い。
710 :
日本@名無史さん :2007/06/26(火) 16:54:27
日本初の条坊制の都市かもしれないけど、四神相応にはなってないだろ。 長々と書いてるけど九州王朝があったと証明できる部分は一つも無いな。
極東地域の大将軍号を受けていた首長がおり、 のちにその首長は天子を名乗って隋の天子と対等を張り 連続した元号をもった政体のある国家。 その国家にゆかりのものは、金印やら阿蘇山がある。 それは王朝でしょ。九州王朝。
>「主語が書かれてない記事は、天皇以外の誰かがやったこと。」と、まず考えると良いと思います。 六国史の殆どの記事は↑に当てはまるね。 すごいね。日本史どうなっちゃうんだろw 『続日本紀』文武元年(六九七)八月甲子朔「受禪即位」。 これもいったい誰が即位したのかわからないねw
紀元前から7世紀末まで日本を代表した政権は一貫して九州にあり、倭(ゐ)、大倭(たゐ)、?(たゐ)と呼ばれていた[4]。 1世紀には倭国が北部九州を中心にとした地域に成立し、倭国王は博多湾近くの倭奴国に首都をおいて漢に朝貢していた。 3世紀前半が最盛期であった邪馬壹国は福岡平野の奴国(当時としては大都市の2万戸)を首都としていた。 卑彌呼(ひみか)は、筑紫君の祖、甕依姫(みかよりひめ)のことである。また、壹與(ゐよ)(臺與)は、中国風の名(倭與)を 名乗った最初の倭王である。 日本神話の神武東征にある畿内のヤマト王権は、九州王朝内の豪族の一派が東征してこれが成立した(天孫降臨の地である 筑紫の日向とは福岡市と前原市との間にある日向峠であり、高千穂とは前原市の高祖山のことである)。 倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州王朝の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。 筑紫君磐井(倭わい)(石倭)は倭の王であり、磐井の乱は継体による九州王朝に対する反乱であった
天皇の称号を初めて用い、独自の元号(九州年号)を初めて建てたのも九州王朝である。 中国の隋との対等外交を行った「?王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩?彌」[6]は、九州王朝の倭国王であった。 「白村江の戦い」では、総司令官である九州王朝の天皇「筑紫君薩夜麻(さちやま)」が唐軍の捕虜になり、 九州王朝側の敗北が決定した、これにより、日本国内での九州王朝の権威は失墜し、衰退に向かった。 「壬申の乱」の吉野は佐賀県吉野ヶ里の吉野であり、倭京とは飛鳥宮ではなく大宰府のことである。勝敗を決したと される美濃からの援軍こそは畿内大和軍のことである。「壬申の乱」の舞台は九州であり、前年に唐軍の捕虜から 解放され帰国した九州王朝の天皇である「筑紫君薩夜麻」を巡る九州王朝内の内紛に畿内大和の豪族が介入し日本列島の覇権を得た事件である。
「大化の改新(入鹿殺害事件)」は九州年号の大和(大化)元年(695年)のことであり、畿内大和の豪族が九州王朝の天皇を殺害し皇権を簒奪した、下克上のクーデターである。 通説で飛鳥時代と呼ばれている時代までは、ヤマト王権はまだ日本を代表する政権ではなく畿内の地方政権にすぎなかった。 大宰府(倭京618年〜695年)は九州王朝の首都であり、日本最古の風水の四神相応を考慮した計画都市である。 防人の目的は、九州王朝の首都である大宰府(倭京)占領にあり、「夷(異民族)を以て夷を征(制)す」というヤマト王権の政策であった。
716 :
日本@名無史さん :2007/06/27(水) 08:54:55
青龍はどこ?
九州王朝派の長文は妄想だらけで読む気にもならんが、 保守派も結局のところ、列島支配の進行についての客観的証拠は持ち合わせてないってことね(´・ω・`)
718 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/27(水) 10:02:21
大陸が魏、蜀、呉とか一国でなかったように、半島も新羅、百済、高句麗とか 一国ではなかった如く、当時の日本も一国でなく九州王朝と大和朝廷との二国的 情勢にあったということである。
×九州王朝と大和朝廷 ○九州王朝と大和国
720 :
日本@名無史さん :2007/06/27(水) 12:16:40
>718 >大陸が魏、蜀、呉とか一国でなかったように、半島も新羅、百済、高句麗とか >一国ではなかった如く 日本は、「倭」以外、どんな国号がありましたか? 新羅、百済、高句麗の如く、 王朝が別れていたのならば、当然、別々の国の名前がありますよね? 答えてくださーい
隋書に出ている九州王朝の名は「イ妥国」だな
722 :
日本@名無史さん :2007/06/27(水) 13:22:58
>721 あれれ? 九州王朝と畿内王朝の「並立」ですよね? ひとつの書物の中に、日本をさす二つの国号が同時に存在していなければおかしい。 隋書が「倭国」を指しているのは明らか。 この時代に、日本を指すもうひとつの国号がなければ、成立しない。
723 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/27(水) 13:36:28
倭=大倭=イ妥 ヰ=タヰ=タイ
>>722 あれれ、この時代(隋)畿内の大和国と
隋との間に国交があった証拠があるの?
ちなみに、イ妥国は国家行事、祷祭を阿蘇山で行っている。 もちろんこれは九州王朝だ。
726 :
日本@名無史さん :2007/06/27(水) 14:39:36
>>724 また推古朝の日本書紀の記述は全部うその
基地外が出たか・・・
九州王朝が隋と国交があった証拠はあるの?
つ隋鏡
728 :
日本@名無史さん :2007/06/27(水) 14:50:33
>727 隋鏡は岐阜県をはじめ、いろんなところから出土している。 隋鏡が根拠だというなら、大分にも、岐阜にも、奈良にも、王朝があったとでもいうのか? 日本国中、王朝分裂だw
729 :
日本@名無史さん :2007/06/27(水) 15:25:05
>>726 推古朝の相手は「大唐」と自ら明記してますよ
730 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/27(水) 15:33:38
>>720 余は古代史学者じゃないぞ。『卜事』には九州王朝の消長の大勢は知悉でき
るが、国名まではこうだとは出て来ないよ。
今後研究すればいいことだ。
>>719 より正解にしてくれたか? thank you. 史学者でないから、そのくらいの
書き方だ。辛抱してくれ。
>>722 後代の江戸時代の江戸の徳川幕府と京都の朝廷との並在と同様に、あの当時
九州の九州王朝と畿内の朝廷との並立があったということです。
>>726 はあ?馬鹿ですか?
阿蘇山が特徴と書いてある「隋書」以上の証拠などないでしょう。
それとも大和国では阿蘇山で国家の祭をやっていたのか?
>>729 推古朝と隋は、国交なし。
九州王朝の天子は男性で、妃がいる。名前はアマ氏。
推古が性転換手術をして妃をもらい、アマと改姓した証拠をあげてください。
733 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/27(水) 16:02:52
隋書のその文は九州王朝があったとのズバリ記載ではないが、その次に準じ ると観れる記載であるから、否定は葬るのに必死なわけだ。だいたい女王国 畿内説の連中が否定に回るんだろうがね? 九州王朝が肯定されると連中の説 は心肺停止だから、何としても偽造、創作とか難癖をつけて葬り去りたいわけ さ。年号も同様だな。w
734 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/27(水) 16:05:30
>>732 有コテハンの阿蘇は移動した氏は推古にチンポがあったそうな説を唱えて
いたようだ。w
735 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/27(水) 16:11:54
>>733 訂正 2段目
× 否定は ○ 否定派は
736 :
日本@名無史さん :2007/06/27(水) 16:18:57
>731 元コテハン? 自分と都合の悪い記事は葬るんだねw 日本書紀よりも隋書が正しいとする根拠は何? 隋の官僚は、日本に住んでいたの?
太国はウガヤ朝でも語ってろw 古田門下の恥さらしが
畿内説の否定にかかっても九州説の補強にならないよ つかスレ違い
筑後住人の妄想です。 倭国騒乱(大乱?)は筑後平野を巡る戦いであった。 甘木朝倉エリアの国、佐賀吉野ヶ里エリアの国、八女を中心とするエリアの国が、 筑後川下流域の支配をめぐって争った。時々は状況に応じて、大国である福岡市 エリアの那国、熊本エリアのクナ国?が手を出し、混乱に拍車を掛けた。 宇佐中津エリア、日向エリア、筑豊エリアは背後には、いるかもしれないが余り関係なさそう 狭い山道しかないので、砦を設置しておけばそう簡単には通れない。騒乱状態にはなりにくい。 熊本は広いので、その中をまとめるのも一騒動ありそうですが
>>738 元々畿内説の否定が九州説の根本だから仕方がない
倭奴国〜大化の改新の一貫した時系列の主張と根拠があればおもしろいんだけどね
日本書紀より漢籍を優先させる立場なのに、日本書紀を根拠に出す愚
>>742 日本書紀の都合のいいところは根拠になりえるけど、都合の悪いところは抹消されたことに
なるんだよ
朝鮮の市民歴史家と同じロジック
九州王朝説によると、磐井と倭の五王と卑弥呼と委奴国王は歴代の王に連なるらしいしなw
>>744 それどころか天孫降臨の面々や神武も同じ王系だ。
746 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/27(水) 16:55:44
>>744 九州王朝説者でもいろいろある。笑うのはお前の即断好きの脳内だな。ww
倭の五王は卑弥呼と系が異なる。王朝は2本あったのだ。この二つは別王朝
だね。委奴国王はそれより古く、国王と云っても王朝の準備的段階の人物だ。
畿内説批判を取り除くと、九州王朝説ってホント電波だな 説そのものに主体性がない
>>746 ちょっと王朝の系統をまとめてみてよ
磐井はどっちの系統なの?
偉大なる九州王朝 委奴国王 ↓ 卑弥呼 ↓ 神武→ヤマト王朝作る ↓ 倭の五王 ↓ 磐井 ↓ 蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
人の矛盾を突いてばかりで自説がないとこうなるという見本だね
>>749 九州年号には「継体」もあるぞ
偉大なる九州王朝
委奴国王
↓
卑弥呼
↓
神武→ヤマト王朝作る(分家)
↓
継体天皇
↓
倭の五王
↓
磐井
↓
蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
全然皇国史観をバカにできねーなw>九州王朝説
壬申の乱、白村江の戦い追加 委奴国王 ↓ 卑弥呼 ↓ 神武→ヤマト王朝作る(分家) ↓ 継体天皇 ↓ 倭の五王 ↓ 磐井 ↓ 目多利思比孤(用明天皇) ↓ 筑紫君薩夜麻 ↓ 大海人皇子(天武天皇) ↓ 蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
754 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/27(水) 17:36:34
古代九州は当時数十国に分立していた時期が多々続いたろうから、江戸時代で の大名的勢力の者は多かったろう。委奴国王はそういうクラスにの人物で王朝 とまでの上位の人物ではないな。 卑弥呼と委奴国王の線が継続の系かどうかは定かではないが、別系であろうと そう考えている。卑弥呼は九州王朝の始点の女王であり、その祖の一人が 委奴国王かどうかは先述のとおりだが、卑弥呼の父あたりは先の大名級の一人で あったろう? それが卑弥呼の代に至って勢力をつけ、彼女が王朝の始祖となっ たと観ている。神武は卑弥呼と全く無関係ではないが、直接的王系の繋がりは 無いとしてよい。 倭の五王朝も同様に神武とも卑弥呼とも別系であり、短期の九州王朝である。 当時卑弥呼の子孫系と並行して二王朝存立の状態にあった。 磐井は朝廷のあらさんにやられたとしても、九州王朝は文武世までのウラゴト だから、そこで滅亡にはならんわけで、勢力の消長を見るにまだ継続と出て いるところから、どうも筑紫君は九州王朝の王ではないと観る。ここんところ、 他の九州王朝論者と考え、主張が違いがあろうかとも思うが、それがしは そう観ている。
委奴国が大名クラスなら、金印があるから倭の王朝という主張はみごとにくずれますな
>>754 まずは1次資料を元に語ってくれw
あんたの想像だけで根拠が全然ないやんか
>>754 漢籍は総じて倭を連続した1つの国とみなしている。
王朝が代われば国号も代わるし、九州年号も変わるだろ
その兆候が資料にないのはおかしくないか?
倭の五王朝が短期の九州王朝だったり、卑弥呼の子孫系と並行して二王朝存立だったりは どの文献を読めば出ているんだ?
>>754 九州の二王朝存立論は新説だな
1.漢籍に出てくる倭はどっちなの?
2.九州王朝論は元々天皇を使っていたのは九州王朝だとしているがどっち?
倭の五王も卑弥呼も天皇を名乗っていないよね
3.九州王朝論は筑紫君を王としているけど否定するのね
白村江の戦いと壬申の乱の主張が根本から変わるけど
4.結局、蘇我氏は天皇ということでいいの?
760 :
759 :2007/06/27(水) 18:24:51
すまん、訂正 2.九州王朝論は元々天皇の称号を用いたのは九州王朝だとしているがどっち? 倭の五王も卑弥呼も天皇を名乗っていないよね
761 :
日本@名無史さん :2007/06/27(水) 18:38:33
>758 九州説には史料による裏づけが一切ない。 よって、史料など存在しないのだよ。 脳内君だということだ。
九州王朝の華麗なる歴史 委奴国王 ↓ 卑弥呼 ↓ 神武→ヤマト王朝作る(分家) ↓ 継体天皇 ↓ 倭の五王 ↓ 磐井 ↓ 目多利思比孤(用明天皇) ↓ 筑紫君薩夜麻 ↓ 大海人皇子(天武天皇) ↓ 蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
763 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/27(水) 19:56:45
>>755 お見事。大上段から切り降ろされた感じだな。
余は史学者じゃないからな。王朝に関する見方
の相違だとかわすとするか。
委奴国王は準備王朝と観ているが、王朝に至らず
衰退やも知れぬ。この前までの主張は、準備
王朝を含んでの意味だね。別にこれで
九州王朝を無としてるわけではないぞ。
どうもpcが重厚で書きこみにくいな。 作業中と画面に出ていてやりにくい。
765 :
日本@名無史さん :2007/06/27(水) 20:45:33
阿蘇山以外に史料的根拠あるのー?w 考古学的根拠あるのー?
畿内大和国も 九州王朝も、 内部の人脈は一枚岩ではない。 馬鹿な畿内説って、そんなこともわからないのか?
まあ8世紀以前に、大和朝廷などなかったことは確かだ。 九州に朝廷はあったがな。
日本を代表する歴史的建設物、法隆寺は 九州王朝のもとにあった建物でした。 日本を代表する印鑑といえば、志賀島出土の金印。 九州王朝の前身国家のものでした。 隋書に記載されている、日本列島を代表する「祭」は 阿蘇山で行われていました。 それらは大和朝廷のことじゃないかって?違います。 当時、大和に朝廷などありませんでした。 朝廷といえば、日本列島内では九州だけです。九州王朝です。
769 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/27(水) 21:18:48
書きこみにくいところ・・・・・ さっき大上段から委奴国王金印で面を とって来た方がいて、気がしゃんとなった。 ところで、こういうことは金印を逆の反論として証拠 として来たわけだから、卑弥呼の金印のほうは まだ未発見でも論として用いるれことを遠回しに同意 したことになる。 つまり卑弥呼の九州王朝論を間接的に助力したこと になるわけだ。
771 :
日本@名無史さん :2007/06/27(水) 21:24:37
754 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2007/06/27(水) 17:36:34 古代九州は当時数十国に分立していた時期が多々続いたろうから、江戸時代で の大名的勢力の者は多かったろう。委奴国王はそういうクラスにの人物で王朝 とまでの上位の人物ではないな。 もう前言を翻しているよw
>>766 畿内説を煽っても九州王朝説の論拠になりませんわ
ついでに言うと多分ここにいる人間の殆どは畿内説の立場じゃない
>772 無駄口たたく前に、畿内に阿蘇山があった証明を、早く出してください。 推古天皇が男だった証拠を早く出してください。
774 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/27(水) 22:42:10
>>770 さっき話したろうが。余は史学者じゃあないぞ。
さっきからのは古神道の見解での説明だ。
国名とか天皇号を使ってたとかは、いくら九州
王朝を云っていてもこちらの範疇ではない。
わかったか?
磐井の件は先述のとおり。蘇我氏もそろそろ余の
古代史の範疇外さ。それは仏者と話をしてくれ。
>>773 スレ違い
ここは九州王朝を語るスレ
なんですぐに畿内説に話を持って行きたがるのかなw
>>775 お前が畿内説信者として暴れているから、退治しています。
778 :
775 :2007/06/27(水) 22:49:56
>>776 いや、俺は畿内説信者じゃありませんわ
よって畿内説を妄信的に肯定することもしないよ
勝手に仮想的を作って話をそらすなよ
わざわざ歴史板まで覗きにくるのは少なからず九州王朝に興味がある訳で・・・ 説論者にとっては格好のプレゼンの場なのに、かたっぱしから畿内信者扱いして攻撃して どうするんだよ>ここの住民 説明放棄や罵倒ばかりで議論の余地もないのかよ。
780 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/27(水) 23:01:00
>>777 お前もしつこい奴だなぁ。
将棋盤の先手後手に国名なんぞはなくても
史容疑は指せるようになっている。
確か軍事将棋の先手後手にも日本、米国などの
国名なんぞはなくても史用魏は指せる。
>>780 二王朝存立なら国の名が1つというのは不自然でしょ
>>780 旧唐書の倭と日本の記載および九州年号が九州と大和の2元論の骨子になっているんだから
国号はきっちりしておく必要があるんじゃないですか。
つか、議論を「しつこい」で切ってしまう態度もいかがなものか
>>781 だから女王国にも「倭」とか「日本」
とかの国名でない、別の『邪馬壹国』という
国名がついてるではないか。卑弥呼の女王国
は九州王朝の始まりさ。その後紆余曲折を経験
し王朝が揺さぶられながらも年代が進行した
ものよ。これは「倭」とか「日本」
とか「大和」とかでない国名だろう
がよ。
書きこみにくいなあ〜。
zzzzzzzzzzzzz・・・・・・・
>>781 女王子孫系が邪馬壹国ということは了解
同時に存立していた倭は五王系なの?神武系なの?
太国に言わせると倭と邪馬壹国は別の国なんだな
>>778 =
>>775 お前、畿内説信者の立場で、このスレを荒らしに来てるだろ。
自説を何も提示しないで、荒らしているだけ。
最低なやつだな。
他人を批判する前に、自分が違反者だということに気付けよ!!
>>754 から来る太国の論説をまとめると
・委奴国王は王朝とまでの上位人物ではない ← 重要
・九州には二王朝が存立していた ← 重要
・女王国子孫系と倭の五王系のこと
・なぜか他にも神武系がどっかにいたらしい
・磐井は王ではない だけど太国の範疇外
・蘇我はノーコメント 太国の範疇外
だけど、中国はこれらをすべてまとめて倭として国交していた
これらはすべて大和朝廷?に滅ぼされたので、中国は国号を日本と認識した
>>788-789 畿内説なんて関係ないし誰も展開していないでしょうにw
九州説の質問に答えられなくて、勝手に敵を設定して攻撃しているだけに見えるけど
>>788 よーわからんが、ここは質問に来るだけで違反者扱いになるのか?
九州王朝の華麗なる歴史 委奴国王 ↓ 卑弥呼 ↓ 神武→ヤマト王朝作る(分家) ↓ 継体天皇 ↓ 倭の五王 ↓ 磐井 ↓ 目多利思比孤(用明天皇) ↓ 筑紫君薩夜麻 ↓ 大海人皇子(天武天皇) ↓ 蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
>>791 お前、畿内説信者の傲慢さをまき散らすなよ。
自説もないくせに、他人を攻撃するばかりで、まったく卑劣なやつだなあ。
誰がここで畿内説をぶちまけたと言うんだろうな 九州説に質問する奴はみんな畿内説信者なのか?
>>794 ここで関係のない畿内説をダラダラと高説たれたら、畿内説信者として非難されるのは理解できる。
だけど九州説批判をしている椰子を勝手に畿内説信者して誹謗するのはお門違い。
九州説が堂々たるものなら論破すべきでしょ。
>>796 醜い態度だなあ。そんなに畿内説が絶対正しいなら、他スレで存分に語ったらどうだ。
このスレにやってきて、執拗に九州王朝説への皮肉ばかり書き連ねるのは、
異常性格だろ。
798 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 01:52:00
突っ込みはすべて畿内説信者の工作にすりかえてしのごうとするバカw
766 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/06/27(水) 21:04:30
畿内大和国も
九州王朝も、
内部の人脈は一枚岩ではない。
馬鹿な畿内説って、そんなこともわからないのか?
773 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/06/27(水) 22:39:52
>772
無駄口たたく前に、畿内に阿蘇山があった証明を、早く出してください。
推古天皇が男だった証拠を早く出してください。
776 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/06/27(水) 22:45:23
>>775 お前が畿内説信者として暴れているから、退治しています。
788 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/06/27(水) 23:25:26
>>778 =
>>775 お前、畿内説信者の立場で、このスレを荒らしに来てるだろ。
自説を何も提示しないで、荒らしているだけ。
最低なやつだな。
他人を批判する前に、自分が違反者だということに気付けよ!!
794 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/06/28(木) 01:31:23
>>791 お前、畿内説信者の傲慢さをまき散らすなよ。
自説もないくせに、他人を攻撃するばかりで、まったく卑劣なやつだなあ。
>>795 ここに九州説の人間などいないんだから、九州説などみんな知らないだろ。
おまえ、誰に向ってだれも理解していない九州説について尋ねてるんだよ。
まず自分から、九州説とはこういうものでございますがいかがでしょうか、って
聞くのが筋だろ?
>>798 九州説ってどんな説なんだか説明してみろや。
わかったか、畿内説信者!!
>>797 だーれも畿内説を主張したり正しいなんて言ってないだろ
批判を性格異常と罵倒で返すほうがよほど卑劣だよ
九州説論者はこのスレに確かにいる だから、質問が出る訳でw
>>799 ここにある九州説のカキコミに質問や突込みが出ているんだろ。
九州王朝説を批判する奴は全部畿内説信者 そうに決まっているっていうのが、ここの住民の信念なんだなw
>>804 九州説に興味があるからこのスレに来ている
当然質問もする
何が悪いのさ?
808 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 02:01:02
>>805 おまえはたまたま畿内説絶対信者だが、九州説を早く説明しろ!!
>>807 はあ?九州説ってどんな説だよ。教えてくれ。
なんか、ヤバくないか? まじで宗教がかってきたよw
>>810 だから、おれは九州説なんか知らないんだってば。
九州説に反論しろって、知らないのに反論などしようもないだろ。
お前が畿内説絶対信者だったわかってるし、畿内説は少々しっているから
畿内説には反論できるけどな。
九州説のあれこれカキコ ↓ 質問や突っ込み ↓ 畿内説絶対信者は出て行け! ↓ いや、誰も畿内説なんて展開していませんが ↓ 九州王朝説批判はすべて畿内説絶対信者の仕業 ↓ 勝手に信者設定して罵倒しても、九州説の補強にはならないべ ↓ ここに九州王朝論者なんていない ← いまここ
>>811 九州説を知らないで語る気も批判する気もないなら、ここのスレにいる意味なくないか?
>>811 誰がおまえに九州説に反論しろって言った?
ますます絶好調
797 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/06/28(木) 01:50:13
>>796 醜い態度だなあ。そんなに畿内説が絶対正しいなら、他スレで存分に語ったらどうだ。
このスレにやってきて、執拗に九州王朝説への皮肉ばかり書き連ねるのは、
異常性格だろ。
799 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/06/28(木) 01:53:20
>>795 ここに九州説の人間などいないんだから、九州説などみんな知らないだろ。
おまえ、誰に向ってだれも理解していない九州説について尋ねてるんだよ。
まず自分から、九州説とはこういうものでございますがいかがでしょうか、って
聞くのが筋だろ?
800 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/06/28(木) 01:54:12
>>798 九州説ってどんな説なんだか説明してみろや。
わかったか、畿内説信者!!
804 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/06/28(木) 01:59:03
>>801 =
>>802 だから、お前が九州説はこういうものでございますって、説明しろや!!
806 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/06/28(木) 01:59:51
>>803 早くしろ。九州説とはどんな説だ?
808 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/06/28(木) 02:01:02
>>805 おまえはたまたま畿内説絶対信者だが、九州説を早く説明しろ!!
816 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 02:15:50
809 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/06/28(木) 02:02:04
>>807 はあ?九州説ってどんな説だよ。教えてくれ。
817 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 02:17:07
九州説のあれこれカキコ ↓ 質問や突っ込み ↓ 畿内説絶対信者は出て行け! ↓ いや、誰も畿内説なんて展開していませんが ↓ 九州王朝説批判はすべて畿内説絶対信者の仕業 ↓ 勝手に信者設定して罵倒しても、九州説の補強にはならないべ ↓ ここに九州王朝論者なんていない ← いまここ
畿内説が絶対絶対絶対絶対ニダー!! ↓ でも畿内説の理論武装ができないニダー!! ↓ 九州王朝説と九州説を戦わせて、漁夫の利を得るニダー!! ↓ 作戦がばれちゃった!!どうしよう(動揺) ← いまここ
819 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 11:57:09
隋書に「十数か国を経由して都の海岸に着く」という記述があり、その場所は九州の東海岸だという説があります。 大分や宮崎や鹿児島から、阿蘇山の噴火の様子はよく見えるのでしょうか? 都が鹿児島の場合、当時の桜島の噴火の様子は阿蘇山よりショボかった(記録するほの価値もなかった)のでしょうか? 阿蘇山に詳しい人、教えて!
820 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 12:20:28
隋書には、「都から阿蘇山が見えた」とは一言も書いてないのですが・・・
821 :
九州王朝派 :2007/06/28(木) 12:32:15
太宰府における四神相応 青龍=御笠川 白虎=西海道 朱雀=二日市温泉 玄武=四天王寺山 裏鬼=竈門神社 裏鬼門=杉塚廃寺 大宰府の北東にある竈門神社の縁起である『竈門山旧記』には、 竈門神社が大宰府の鬼門を護るために大宰府建設時に創建されたことが記されている。 条坊制都市の形態そのものを四神相応と見なす説 青龍=左郭 白虎=右郭 朱雀=朱雀大路 玄武=政庁
822 :
九州王朝派 :2007/06/28(木) 12:36:30
大分や宮崎や鹿児島から、阿蘇山の噴火の様子は他の山の陰になって見えません。 熊本平野側からは見えます。
823 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 12:44:10
大宰府には、大和朝廷から官僚が派遣されていた。 どう考えても、推古朝の大宰府が大和朝廷の支配を受けない 独立王国だったと考えることなど不可能。
824 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 12:48:55
仁徳大王には日向髪長媛という娘が献上されていた。 九州説は、当然これは九州王朝からの献上品ということになるんだろう? しかし、仁徳大王のもとで髪長媛はまるで采女扱い、 畿内豪族の葛城氏の娘磐之媛の地位の高さの足元にも及ばず、逃げ帰る。 九州に王朝があったなら、この采女待遇はないだろう? しかも、対等王朝であったのならば、大和王権から九州王朝に対しても娘を貢ぐのが当然。 しかし、大和王権の皇女で九州へ嫁いだ媛など一人もいない。 九州に住んでいたのが、ただの豪族であった証拠。 仁徳の頃には、九州は畿内の配下に入っていた。
825 :
九州王朝派 :2007/06/28(木) 13:29:27
>大宰府には、大和朝廷から官僚が派遣されていた。 九州王朝滅亡後の話。 >仁徳大王には日向髪長媛という娘が献上されていた。 仁徳が実在したのか? 仁徳が実在したとしても、大和王権の王であったのか? 確定的なことは何も分からない。 この時代の記紀の内容が真実である確証はないくナンセンスな議論。
大宰府の成立の知識が根本的にないようだな・・・ あれは、磐井が作ったとでも思ってんの? 日本書紀の都合の悪い記事は全部無視、か・・・ そら、お宅らの九州王朝とやらには「正史」が存在しないんだから、 捏造し放題だわな。 正史が存在しないことこそ、そんなものが存在しなかった 何よりの証拠なのに。
馬鹿だな。 滅ぼされた側の記録は抹殺されてるんだよ。 そのあとで、文武天皇が抹殺された側も継承しますって 宣言してるんだよ。 万葉集だって九州王朝の歌集の引き継ぎだろ。 法隆寺もそうだろ。元号の「継体」「大化」も九州王朝が 定めたもの。大和国なんて、弱小国だったんだよ。
>827 お前、「万葉集」読んだことないだろ。 知ったかぶりはやめろよ。 万葉集に読まれているのは、 大和(奈良)の地名、風景ばかりだ。 残念だったな、捏造君。 自分で自説を否定するとはw
>>828 ほう、お前に説教されるとは面白い。
九州王朝下で編纂された歌集の一部を、再構成したのが、万葉集なんだよ。
万葉集ができる前に、全国津々浦々、上も下も大勢の人間が詠んだ歌集が
もともとあったんだよ。
それが証拠に、万葉集の歌の詠み人は、出身地が偏っていることを、
お前知らないだろ。ためしにどこの出身者がいないか言ってみろ!
言えるわけないよな。何にも知らないんだから。
830 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 17:19:34
>>829 関東の歌もあったような。
でも、関東には、別途「大王あり」のはずなのに、九州王朝下なのね。
多元的古代史観を否定する一元通念の極みですな。
まさに、大九州皇国史観だな。
>>819 ×隋書に「十数か国を経由して都の海岸に着く」という記述があり、その場所は九州の東海岸だという説があります。
○隋書に「十数か国を経由して海岸に着く」という記述があり、その場所は倭(イ妥)の都で九州の東海岸だという説があります。
>>829 あれあれ?
君の主張は「二朝並立」だよね?
なんでほかの王国の歌まで九州の王が集めることができたの?
不思議だなあ。
833 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 17:42:30
>>829-830 原文:多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能兒乃 己許太可奈之伎
よみ:多摩川に、さらす手作り、さらさらに、なにぞこの児の、ここだ愛(かな)しき
意味:多摩川に布をさらすよ。流れはさらさらとして。あぁ、どうしてこの児がとてもかわいいのでしょうか。
九州王朝が、他の大王が支配する遠く離れた地域のこのような庶民的な歌を編纂したというのか。
九州王朝の大王がネット使って歌の募集をかけたと考えれば辻褄があうな。まさに「論理が導く」結論だ。
違うというなら、当時ネットがなかったことを証明しろよ。
834 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 17:58:51
>833 君、おもろいのわかったから、コテハンにしようや。 あと、まじめに議論しようや。
835 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 18:01:31
ロクに存在を証明できない王朝(笑)
836 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/28(木) 18:19:20
>>825 氏は津田病の症状が出ているようだ。治療困難かも知れぬぞ?
837 :
九州王朝派 :2007/06/28(木) 18:41:15
なぜ現在、記紀以前の歴史書が一つも現存しないのか? 記紀は現皇室の正当性を知らしめる為に製作されたと考えられるが、参考とした資料が存在しない理由は次の理由が考えられる。 1.そのような資料は元々存在しなかった、記紀の内容は全て創作である。 2.参考とした多くの資料は有った、特に廃棄した訳ではないが全て自然に消滅した。 3.参考とした多くの資料は有ったが、記紀の完成後に記紀に採用した記録以外は現皇室に不都合と判断して全て廃棄した。 1の何の資料もなしに全て創作して製作するのは難しい、1は無理であろう。 『日本書紀』冒頭の神代紀には「一書に曰く」という表現が数多くあり、参考にした書物の存在を示している。 2の特に廃棄した訳ではないが全て自然に消滅したも不自然、1つや2つは写し等が残っていて普通、人為的に廃棄しないとこうも完璧には消滅しないだろう。 やはり3の全て廃棄したと考えるしかないようだ、 『続日本紀』和銅元年正月(708年) の詔に「亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。」とありこの時期にはヤマト王権の「正規のイデオロギー(日本書紀)」と相反する書物が残っており、 この時期焚書を行っていたことを示している。 記紀は多くの資料の繋ぎ合わせで、時間の入れ替えや、人物の入れ替えが頻繁に行われており、 内容をそのまま信用する訳にはいかない。
838 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/28(木) 19:43:25
どういう点は不都合なんだろう? 不都合の記述なんていくらでも書いて あるようだが? まぁ典型的なのは雄略武烈の非道なんてあるよな。不都合 でも文面に残ってるねぇ。 時間の入れ替えって神功39年とかのことかなぁ? 人物の入れ替えって誰と誰なんだろう? 確かに記紀には間違いもある。それはよく読んで採否を決めればいいことだな。 内容によると思うな。
839 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 20:36:53
九州王朝の華麗なる歴史 委奴国王 ↓ 卑弥呼 ↓ 神武→ヤマト王朝作る(分家) ↓ 継体天皇 ↓ 倭の五王 ↓ 磐井 ↓ 目多利思比孤(用明天皇) ↓ 筑紫君薩夜麻 ↓ 大海人皇子(天武天皇) ↓ 蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
>>754 から来る太国の論説をまとめると
・委奴国王は王朝とまでの上位人物ではない ← 重要
・九州には二王朝が存立していた ← 重要
・女王国子孫系と倭の五王系のこと
・なぜか他にも神武系がどっかにいたらしい
・磐井は王ではない だけど太国の範疇外
・蘇我はノーコメント 太国の範疇外
だけど、中国はこれらをすべてまとめて倭として国交していた
これらはすべて大和朝廷?に滅ぼされたので、中国は国号を日本と認識した
>>832 はあ?関東に王朝?
君のねつ造説かい?笑わせるな。
>>833 イスラエルとパレスチナのような、国境があったと信じちゃってるわけねw
まったく妄想だな。装飾古墳の普及を見てみろや。西九州を中心に
関東〜東北まで独特な文様が見て取れる。
関東と九州が敵対的いがみ合い国家同士だったなんて妄想だぞ。
結局、万葉集が、九州王朝のもとで作られた歌集をベースに
大和国で再編集されているという反論に、まったくなっていないな。
843 :
日本@名無史さん :2007/06/28(木) 22:53:08
754 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2007/06/27(水) 17:36:34 古代九州は当時数十国に分立していた時期が多々続いたろうから、江戸時代で の大名的勢力の者は多かったろう。委奴国王はそういうクラスにの人物で王朝 とまでの上位の人物ではないな。 卑弥呼と委奴国王の線が継続の系かどうかは定かではないが、別系であろうと そう考えている。卑弥呼は九州王朝の始点の女王であり、その祖の一人が 委奴国王かどうかは先述のとおりだが、卑弥呼の父あたりは先の大名級の一人で あったろう? それが卑弥呼の代に至って勢力をつけ、彼女が王朝の始祖となっ たと観ている。神武は卑弥呼と全く無関係ではないが、直接的王系の繋がりは 無いとしてよい。 倭の五王朝も同様に神武とも卑弥呼とも別系であり、短期の九州王朝である。 当時卑弥呼の子孫系と並行して二王朝存立の状態にあった。 磐井は朝廷のあらさんにやられたとしても、九州王朝は文武世までのウラゴト だから、そこで滅亡にはならんわけで、勢力の消長を見るにまだ継続と出て いるところから、どうも筑紫君は九州王朝の王ではないと観る。ここんところ、 他の九州王朝論者と考え、主張が違いがあろうかとも思うが、それがしは そう観ている。
太国氏は、王朝の定義を緩くしている。
>>843 はそれに幻惑されて、ワカランチンになっちゃったわけだ。
かわいそうに。
コピペにいちいちフォロー入れるなよw
846 :
日本@名無史さん :2007/06/29(金) 00:14:40
780 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2007/06/27(水) 23:01:00
>>777 お前もしつこい奴だなぁ。
将棋盤の先手後手に国名なんぞはなくても
史容疑は指せるようになっている。
確か軍事将棋の先手後手にも日本、米国などの
国名なんぞはなくても史用魏は指せる。
━━━━━━━━ここまで全部太国の自演━━━━━━━━
>844を見ると
>>847 もまんざらウソではないように思える
↑ 今更何言っているんだよ。規定事項だろ。
850 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/29(金) 12:24:20
>>837 九州王朝派氏は記紀を信用しておらずその理由を挙げているが、
では、続日本紀は文を出しているから信用しているんで
あろうが、こっちのほうはなぜさように信用できるのだろうか?
続日本紀の原本のほうは残ってるとでも云うのか? それに
こっちのほうは時間とか人物とかの入れ替えは、事前調査、研究
でされておらず心配ないという確証がはっきりあるのか、その点
氏がどう答えるか待たれるところである。
太国って続日本紀の年代って専門外じゃなかったの?
852 :
日本@名無史さん :2007/06/29(金) 12:48:23
774 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2007/06/27(水) 22:42:10
>>770 さっき話したろうが。余は史学者じゃあないぞ。
さっきからのは古神道の見解での説明だ。
国名とか天皇号を使ってたとかは、いくら九州
王朝を云っていてもこちらの範疇ではない。
わかったか?
磐井の件は先述のとおり。蘇我氏もそろそろ余の
古代史の範疇外さ。それは仏者と話をしてくれ。
太国とこのあたりを議論しても最後は専門外で逃げられるしなあ
854 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/29(金) 13:40:17
>>853 別に逃げてるわけではないよ。専門外のところだと答えるに知識が
少ない状況にあるなら、あまり勝手なことは言うわけに参らぬわけだ。
要するにしようがないだろうということさ。史容疑を指していて、西洋
のチェスの定跡はどうなんだと云われても、ちょっと答えにはばかる。
そんなところだよ。
今回は
>>825 で九州王朝派氏が記紀のあそこは信用しない、つまり
確証がないと云ってるから、そんじゃ、続日本紀の確証はどのように
して認容したのか、それを訊ねているだけのことだよ。
だらだらといいわけするな要点だけに汁
856 :
日本@名無史さん :2007/07/02(月) 00:44:20
>851-855 >ここ、専門家なんていたの?
857 :
日本@名無史さん :2007/07/02(月) 16:34:45
>>841 はあ?関東に王朝? 君のねつ造説かい?笑わせるな。
九州王朝説の古田やその一派に言ってくれ。
しかし、「関東に大王あり」も知らんで、こういう汚い口調で人をノノシるとは、バカすぎる。
>>842 関東と九州が敵対的いがみ合い国家同士だったなんて妄想だぞ。
誰がそんな妄想を抱いてるのだ?
「万葉集が、九州王朝のもとで作られた歌集をベースに大和国で再編集されている」という根拠などありもしない。
多摩川を舞台とした庶民的な
>>833 のような歌を見て、それでも何の根拠もなく九州王朝が編纂したと強弁するのは、説得力がない。
あなたが信用をなくすだけだよ。
858 :
日本@名無史さん :2007/07/02(月) 16:38:46
九州王朝の都は、博多→久留米(4or5世紀〜)→太宰府(618頃〜)だそうです。 でも、久留米や太宰府には、5〜7世紀で都と呼べるようなめぼしい遺跡はありません。 同時代の明日香に匹敵するものはおろか、各地で続々と発掘されている豪族居館や道路跡、少し後の時代の国府、郡衙、寺院などを大きく凌駕するようなものすらありません。お笑い状態です。 特に7世紀の太宰府は致命的で、とても都の跡などと呼べるものはありません。(条坊跡は早くて7世紀末なので、お呼びでない。) 邪馬台国畿内説が箸墓の年代を古く解釈しようとするのと同じように、九州王朝説が太宰府周辺の遺跡をムリヤリ古く解釈しようとする様は、なんとも滑稽。 こうときは「いずれ発見されますよ」と逃げを打つのをよく見るが、一部の九州王朝論者は待ちきれない。 なにしろ、九州王朝ファンタジ−を夢想してオナニーしたいのに、肝心のオカズがピンボケでは、気持ちよくオナニーできない。 そこで待ちきれない連中は、都府楼跡の下に紫宸殿や大(内)裏などの宮があるのに、畿内説論者が発掘を妨害していると陰謀論を言い出した。 九州王朝ファンタジ−のオナニーのオカズとなった都府楼跡、・・・かわいそす。
859 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/02(月) 16:50:53
>>858 君の食う総論はスーパーマンの冒険以上だな。w
860 :
日本@名無史さん :2007/07/02(月) 17:36:01
>>859 食う総論
九州王朝説が空想論でないとしたら、考古的なものはどう考えているのですか?
豪族居館や古道などの有力な都候補の遺跡は何なのでしょう?
あるいは、古墳の系統など、どう考えているのでしょう?
例えば、6世紀初頭については、
石人山古墳 ⇒ 磐井の父
石戸山古墳 ⇒ 磐井
乗場古墳 ⇒ 葛子(磐井の子)
という説は聞いたことありますが、その他の時代は(被葬者の比定は無理でしょうが)、どのような古墳を王朝の墓と考えているのでしょう?
>>858 おまえ、支離滅裂だな。ひとりでワメいてろ。
862 :
861 :2007/07/02(月) 19:06:42
863 :
日本@名無史さん :2007/07/02(月) 19:17:51
>>862 「妄想者!!支離滅裂!!」
ってわめく前に、少しは反論してみろよ
864 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/02(月) 19:40:36
>>860 考古〜?金印があるだろうが。ただその委奴国王が九州王朝の王とまでは
云わないが、これは同王朝の準備というか下積みというかそのへんの王だ。
それでこれから分かるように親魏倭王の金印は出ずとも金印があったことは
遠回しの証明ななるだろうがね。ならば卑弥呼の実在の肯定ともなり、同女
のほうは九州王朝の始点となりうる女王だから王朝の間接的でも強力な黄金
のブツだろうがね。
それともそっちは無理でも否定するのか? 日本も当時大陸半島の魏とか蜀
とか呉だろかあるいは新羅、百済、高句麗などがあったようにだ、九州にも
そういうものがあったわけさ。九州も数十国に分立して、そのうち1国。2国
とかが勢力をつけて統一的になるだろうが。それは戦国時代の武田、上杉他の
勢力からいずれ織田、豊臣、さらにが徳川が統一したようにだ。
あいつはまるでスーパーマンのX線の透視のように論を組み立てているのが
甚だしく激しいからかように云ったまでよ。w
遺跡なんかは後で出てくればいいことだよ。君は女王国畿内説論者なのか?
だとしたら都合悪いから潰したいのか? 都合悪けれれば自論を間違いじゃ
ぁあるまいかと検討しなおしたほうがいい。
磐井さんは断定はしてないが、九州王朝の直接の者ではないと思っているがね。
865 :
861 :2007/07/02(月) 21:24:19
>>863 は、相手にしてもしょうがない
自説のない妄想批判狂だな。
もう出てくんな。
866 :
日本@名無史さん :2007/07/02(月) 22:21:48
http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/amagaiden1.htm ここに非常に面白い本がある。「法隆寺のものさし」川端俊一郎著・ミネルヴァ書房
という。副題に(隠された王朝交代の謎)と書かれている。
つまり、現法隆寺建立に使用された測尺単位から、その時代を探るという内容だ。
結論から言えば、現法隆寺と九州大宰府遺構は、南朝尺であった。
それは、全焼後新築とするならば当然使用されているべき唐尺、さらに古い
高麗尺よりも時代をさかのぼるものさしだったのだ。
九州王朝の華麗なる歴史 委奴国王 ↓ 卑弥呼 ↓ 神武→ヤマト王朝作る(分家) ↓ 継体天皇 ↓ 倭の五王 ↓ 磐井 ↓ 目多利思比孤(用明天皇) ↓ 筑紫君薩夜麻 ↓ 大海人皇子(天武天皇) ↓ 蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
868 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/03(火) 07:47:03
倭の五王は繼體天皇より前だよ。卑弥呼も神武と逆だよ。 委奴国王は神武の直後で綏のころの時代の人物だ。
869 :
日本@名無史さん :2007/07/03(火) 11:53:12
>>864 金印は1世紀のものですよね。
九州王朝の特徴的な主張は、4〜5世紀以降、さらに7世紀後半まで継続して九州に王朝があって近畿を従えていたと言うところでしょう。
1世紀に、近畿の勢力は他の地域を圧倒していなかったと考える人はゴマンといるでしょう。(というより定説)
1世紀に、九州に王朝があろうがなかろうが、数百年後の5世紀以降のことにつながらないでしょう。
>>864 は、九州王朝説には、その説の肝となる時代について、何ら考古的裏付けがないと言っているようなものですよ。
太国氏の説は、代表的な九州王朝説でもないので、 太国説を否定する際に、いちいち九州王朝説を否定するなよ。
871 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/03(火) 14:34:08
>>869 京都に朝廷があったってだ、関東の江戸幕府なんかは270年くらい続いて
いるよ。だから九州王朝が長く続いた論はダメだと云うのは早計。
それに君の執念的の1世紀は九州王朝は欠の状態で、大名クラスの勢力は多々
あったが、九州に王朝くらいの勢力の流れの系は欠で無いよ。金印の国王は
そういうクラスの人物さ。
何ら考古学的裏付けがないとか云っているが、そんなことは金印を否定して
いるものと見なされてもしようがあるまい。それが考古学的の重要な
裏づけだろうよ。つまり片方の金印での卑弥呼のあとに壱与が立ち九州王朝が
続いたわけさ。親魏倭王の金印からして、出てなくても倭委奴国王の金印
から間接的でも充分な裏づけの物なわけさ。
それとも親魏倭王の金印はへし曲げても否定するのかね?w
君の想っているだろう女王国紀無い説は心肺停止の状態の哀れな考えだぜ。
とにかく、君が固執しやすい 出てないから無い っていう論で押し切るのは
駄目。今後もいろんな物が地中から出て来るからな。ww
872 :
日本@名無史さん :2007/07/03(火) 14:39:28
3世紀の邪馬台国が、1世紀の奴国の流れを引いている とするのが終わっているw 魏志には奴国のことも出てくる、同じ王朝ならば、そう書くだろう。 邪馬台国と奴国は別物だと魏志が証明しているようなもん。
873 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/03(火) 14:48:29
>>872 その可能性は相当程度ある。別物と想う。というのは、出ている金印のほうは
北九州の人物だが、卑弥呼のほうは奥九州の女王の可能性が大と見ている。
別物でも金印が片方出てればもう片方の卑弥呼の金印の話はウソではあるまい。
だから別としても九州王朝の肯定はこれで充分云える。
その委奴国王のころからそろそろ九州が数十ヶ国に分立して来て、時代の経過
とともに戦国時代的情勢になって行ったということだ。そして、卑弥呼により
九州が統一的状態になって来て、彼女が九州王朝の始祖的女王となったと
いうことだよ。
874 :
日本@名無史さん :2007/07/03(火) 14:53:28
>>871 >>871 ところどころ日本語になっていないので、何を言いたいのか分からない箇所が多いのですが、理解できた箇所についてだけ一言。
江戸幕府については、膨大な資料がある。
考古的にも、例えば、千代田区や港区や文京区内だけでも、いったいどれだけの武家屋敷等の発掘などが行われたか、現在も行われているか知っているのか?
古代だけが考古学の対象ではないぞ。
九州王朝については、豪族居館、道路(木道でもいいからさあ)など、都市と言えるようなものはないのか?
875 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/03(火) 15:16:53
>>874 お前は江戸時代と2、3世紀を同一次元で考えている。あきれるぞ。
江戸時代のものの方が出やすいだろうが。明治の手前だぞ。
フッフッ、それとも卑弥呼の時代のほうがうんと出るのかね?w
だったら紀無いから出してくれよ。
876 :
九州王朝派 :2007/07/03(火) 21:54:56
現在の大宰府の年代測定は、年輪年代測定や放射性炭素年代測定等によるものではなく科学的根拠が無い。 水城の建設等は、理科学的測定によれば『日本書紀』の記述等より90年以上も古くなり、大宰府本体も古くなる可能性がある。 学習院大学年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、大宰府遺跡の竹内焼土層は1600年ほど前(4〜5世紀)の物である。 >条坊跡は早くて7世紀末なので、お呼びでない。 これは誤り。 7世紀中頃に創建された観世音寺の遺構が太宰府の条坊と正確に一致している。 寺社に合わせて条坊が建設されることはない、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、太宰府の条坊は観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していた。
877 :
倭奴国 :2007/07/03(火) 23:35:36
>>869 >>876 で引用されているように、従来説における太宰府の年代推定は理化学
的な証拠とは矛盾している。前にも引用したが、再録すると:
http://classic.music.coocan.jp/book/furuta/kanren.htm >都府楼跡(太宰府政庁)の遺跡は、現在地上にある礎石などは
>藤原純友の乱以後の再建されたものである。ここの遺構は三層
>からなっており、従来説では下から順に飛鳥時代・奈良時代・
>平安時代のものとされている。そして下2層は、上層部の礎石
>を置く建て方ではなく掘っ建て柱方式で、何度か建て替えたあ
>ともあるという。これは、飛鳥時代以前の建て方であると考え
>るのが本当だろうが、九州歴史資料館は、「上の平安時代の遺構
>を壊すわけにはいかないので、これ以上発掘しない」と言い張って
>いるという。
1600年ほど前のものが、なぜ飛鳥以降のものとされているのか不思議ではないか。
従来説を支持する科学的(理化学)な証拠があれば示してもらいたい。
878 :
倭奴国 :2007/07/03(火) 23:36:13
また、太宰府のものではないが、筑後国府についても同じような問題が存在するようだ。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki2/nikki088.html >第六に、国府跡の発掘調査報告を読むと、弥生時代の住居跡なども出土しているのに、
>古墳時代や飛鳥時代の遺跡がほとんど見当たらず、いきなり八世紀以後の遺跡となって
>いること。この地帯が古墳時代や飛鳥時代は無人の地だったとは考えられません。須恵器
>を中心とする土器編年がおかしいのではないでしょうか。
これまた再録だが、以下のような主張も存在する。遺跡の年代推定が間違っているとすれば、
九州王朝の遺跡は確かに存在するのである。
******
「太宰府は日本の首都だったー理化学と証言が明かす古代史 内倉武久著 ミネルヴァ書房」から
引用したい。(25頁)
最近は、古代史に没頭しているという北村泰一・九州大学理学部名誉教授も、
「研究者が学者生命をかけて作り上げた年代観を、かんたんに撤回するのは難しいことは
わかる。しかし、いつまでも理化学的な年代測定に拒否反応を続けていては、
世界に通用しない学問になってしまいます。」
879 :
日本@名無史さん :2007/07/04(水) 10:38:47
>従来説を支持する科学的(理化学)な証拠があれば示してもらいたい 科学的手法は考古学や歴史学とは馴染まない、科学至上主義者は困ったもんだw、 などと公言する輩に何を言っても無駄。
弥生時代が500年ぐ繰り上がったぐらいだから、従来説はいったんご破算したほうがよい。
881 :
日本@名無史さん :2007/07/04(水) 13:30:17
>>875 九州王朝の継続性を説明するために、江戸時代のことを言い出したのは、太国さんですよ(
>>871 )。
しかし、それは「あきれるぞ」と、・・・。
871と875の両方の主張から、太国さんは、「九州王朝の継続性の根拠はない」という結論ですね。
「九州王朝が1世紀から7世紀まで継続性していたなど、あきれるぞ」と。
882 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/04(水) 14:25:36
>>881 お前は古代史の盲象だな。誰が1世紀から九州王朝が続いていたなどとと
云った? そんなことは云っていないぞ。お前が引き伸ばしている張本人
ではないか。そのうちお前は江戸幕府も年代追加をやらかさないかと心配だ。
卑弥呼は1世紀ではない。
「姓は阿毎 字は多利思比弧」とか年号とか文証は出てる。こういうの
を総合的に観れば、文武のころまでは間違いない。
その後は滅亡さ。
883 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/04(水) 14:39:38
>>881 九州王朝と大和朝廷の並立のように、京都の朝廷と江戸幕府の並行が真なんだよ。
お前の言う江戸時代のことでもだ、それとこれとは意味が違う別物だろうが。
そんなに江戸の事例を一緒にしたいのなら、他の例をだすことにしよう。ほ〜れ
典型があるではないか。皇統だよ。皇統はそれ以上に長く続いているぞ。
だから萬世一系というんだよ。
884 :
日本@名無史さん :2007/07/04(水) 14:56:08
九州王朝と大和王権には交流はなかったんですか? 大和王権の大王は、遠く同盟国の百済にまで 王女を送れと命じていたのですから、 九州王権とも交流があったはずですよね。 その辺りはどうなんですか? それとも両王権は対立関係にあったんですか?
885 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/04(水) 15:38:06
>>884 交流は殆どなかったろう。ただし後代に至り大和朝廷の勢力が多大になり、
九州にまでその範囲内に入り始めたころは少々はあったやもしれぬな。
まず卑弥呼の女王国の記事が記紀にほぼない。このことは朝廷と女王国が遠隔の
地にあり、卑弥呼の情報が畿内に入りにくかったことを物語っている。だから
双方の交流はまず無に近かったろう。
では何故もっと遠隔の百済と朝廷との交流がありその記事がいささかなりとも
記紀にあるのか? これは地理的に半島から畿内への交通しやすい日本版の
シルクロードと云えるものが当時あったもので、このためこの道に至りやすい
百済の情報が畿内に流れやすかったということが云えて来る。
ならば卑弥呼の国は九州でもこの交通路に至りにくい地域にあったからだという
ことになって来る。それは北九州ではないだろう。そこは日本版シルクロード
の上に位置するからだ。だから女王国は中九州か南九州にあった蓋然性が高い。
とりわけ奥九州の山岳で平地に行きにくい場、最も考えられるのは四方が山に
囲まれた盆地のような処に女王国があったというのが合理的であり、以後の
九州王朝はそういう地域にあっただろう。しかも朝廷よりも各王朝は狭小的
であり、目立たない、他国の関心が行きにくい土地にあったということになる。
以下のように矢印は日本版シルクロードの交通路線である。川の急流の如く
流れが急であり、百済と畿内の行き来きは遠いものの何とか達し得る。
奥九州はその川のよどみ、滞流箇所であり、たまに北九州へ交通するくらいで
孤立しやすい地域が残存しやすい。そこに女王国等の九州王朝があっただろう。
大陸 半島
↓
対馬等
↓
北九州−−−−−−−−−−−−−→畿内
奥九州
886 :
日本@名無史さん :2007/07/04(水) 15:51:09
後漢書の「建武中元二年倭奴国・・・光武賜以印綬」 これは1世紀の話。
倭奴国の金印は九州から出土した ⇒ 否定しません。
だから邪馬台国の金印も九州だ(
>>871 の趣旨) ⇒ 根拠がありません。
1世紀は九州王朝は欠の状態 (
>>871 ) ⇒ 根拠がありません。
卑弥呼のあとに壱与が立ち九州王朝が続いた(
>>871 ) ⇒ 根拠がありません。
卑弥呼が狗奴国と戦争していたことをご存知ないのかな?。
壱与が共立される前に男の王が立ち、その後内乱が起こったこともご存知ないのかな?
「卑弥呼のあとに壱与が立ち」:完全にダウト!!!
「九州王朝が続いた」:邪馬台国が九州なら九州は内乱続きであり、王朝と呼べるような存在があったかどうか根拠がない。
887 :
日本@名無史さん :2007/07/04(水) 15:57:27
>>884 時代がメチャクチャですよ。
「同盟国の百済(
>>884 )」なんていえるのは、概ね4末〜5世紀以降でしょう。
そのレスとして「卑弥呼の国(
>>885 )」は概ね3世紀前半で、まるっきりトンチンカンなのですが。
888 :
日本@名無史さん :2007/07/04(水) 16:31:52
まぁこのスレに引きこもっててくれるならいくら妄想たれてもいいよ あ、あとwikiの九州王朝説も隔離項目扱いされてるからそこもいいよw
889 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/04(水) 17:03:23
>>886 内乱なんか朝廷だってあっただろうがね。とくに允恭の時代のあたりか
うんとあったろうよ。
徳川幕府転覆の陰謀だってそれに準じていくつかあったろうよ。
当たり前だね。金印は1世紀の話だよ。根拠がないの羅列だが、お前の主張は
刑事裁判くらいの証拠が欲しいと云いたいわけだろう? つまりお前は何として
も食い止めようと自説(←どんなのか分からんが畿内説だろw)の砦をこさえ、
頑張ってるわけさ。根拠根拠とな〜。w 刑事までは古代史は無理には必要
はないよ。あればなおいいがね〜。それをあくまで要求するとなれば古代の天皇
は全部無くなってしまうよ。無とされてしまうからねぇ。
つまり津田病がまかり通ることになるわけさ。考古学のみでやっていると天皇
のテの字も出てこないほど古代の実態は虚無になるんだよ。まぁ稲荷山と隅田
から雄略と繼體くらいはありそうだと云う奴はまだ可愛いがねぇ。
それでも根拠根拠、証拠でやるんならば、お前は死ぬまでで古代史研究の伸長は
まぁ10センチくらいで終わるだろう? そんなもんだぜ。それでいいのか?
いいと頑張るならお前の説も出して、全部根拠以上の「証拠証拠証拠」で披露
してみろ。お前のほうはできるのかね。今度はお前にも証拠証拠根拠根拠の
羅列をして、いくらでも非を見つけてやれるぜ。
余は少ない証拠、根拠でいかに合理的に説明がつくかでやってるんだよ。
お前は自説が出鱈目となってしまうから、刑事裁判的にまで云ってくるわけ
だな。フ〜ンまだ目が覚めないのかねぇ。卑弥呼の国はいくら探しても畿内には
ないぜ。ww
890 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/04(水) 17:14:28
まぁ反面角度を変えて、根拠根拠とか証拠証拠とかの口撃が出るということは、 拙者の説明がそれだけ自然、合理的で、奴の論が危機に陥ってるということ を意味するな。ww それだけ相手方は自説を追い詰められていると観た。 それでもま〜だ目を覚まそうとしないわけだな。ww もうお前の論が破綻してるから、根拠根拠証拠証拠の書き込みで自説を曲げず 頑張るだな。犯人がケーサツや探偵に証拠証拠と云ってくる映画、TV ドラマをよく見たが、それは相手が追い詰められているシーンの時だからな。 それにソックリだよ。ww
891 :
日本@名無史さん :2007/07/04(水) 19:28:55
結論ははっきりしているし、可否もまた歴然。すべて、暗黙の了解の下。 要するに、どんなこといい加減なことを言おうが、言いたい放題で、社会に迷惑もかけない。 甲子園球場の阪神ファンみたいなものだからな。 絶対安全、九州王朝。 えっ、私って空気を読めない男?
まあ、王朝と呼べるのは、 連続した王位継承があり 連続した元号を定めている 連続した政治機構をもった国 でしょう。 大和国が王朝になったのは、白鳳時代よりあとでしょうね。 九州のイ妥国は明らかに王朝ですね。 中国の隋代、日本列島では九州のみに王朝があったということです。 残念ながら、聖徳太子時代以降もしばらく畿内には王朝などなかったんです。
893 :
日本@名無史さん :2007/07/05(木) 12:41:44
>>889 >允恭の時代のあたりからうんとあったろうよ。
内乱はあったが畿内の政権は継続していた。
根拠:記紀等の記述で明白
考古的にも百舌や古市などに巨大古墳が継続的に造営、など
> 徳川幕府転覆の陰謀だってそれに準じていくつかあったろうよ。
幕府転覆の陰謀はあったが、徳川の政権は継続していた。
根拠:たくさん。(以下、略)
九州王朝が7世紀まで継続していた?
根拠:なし (文献的にも考古的にも、継続性を証明するもの、まったくなし)
895 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/05(木) 14:39:12
年号でOKさ。7世紀あたりは余のテリトリーの範囲外だが、 続日本紀とか伊予風土記とかに年号があるそうだから、まるまる根拠がない などとの能書きは優れないだろうが。 お前はあるものを無いにするのが大得意のようだな。w なんでも698年のは「大長」っていうそうではないか? 文武2年で余の『卜事』 (ウラゴト)の文武年代とピタリだな。お前はウラゴトは分からんから 九州のことは盲象の状態だな。哀れだ。ww
文武天皇が即位するとき、ニニギ系を神武系を引き継いだといってるんだから、 その瞬間までは、九州王朝があったと日本書紀が主張しているわけです。
897 :
訂正 :2007/07/05(木) 14:44:47
× ニニギ系を神武系を ○ ニニギ系と神武系の王統の両方を
898 :
日本@名無史さん :2007/07/05(木) 17:28:23
>>895 いわゆる逸年号が九州の年号だというのは、宣長の「何が何でも熊襲国の僣称ありき」みたいな話からのコジツケではないの?
誰が定め、いつごろどこで使用していたかなどについて、きちんとした話を聞いたことがない。
というより、九州年号といわれるものには、複数の体系があって、統一的に整理されたものを見たことすらない。
邪馬壱国のときは「古い資料が正しい」といって邪馬台国と言う人をさんざん馬鹿にしていたくせに、九州年号のときは古い資料の二中歴に法興がないことを知らんぷり。
論理が一貫しておらず、詐欺のようだ。
金石文も、伊予湯岡碑の伊予は九州じゃないし、法興は九州年号だと勝手に決め付けて、法隆寺の釈迦三尊像は九州由来だとか、馬っ鹿じゃないの。
論理が逆立ちしている。
「法興という逸年号は、九州だけでなく伊予や大和でも使われていて、九州の年号とは言い切れない」がまともな論理的帰結でしょ。
太国って反論するとき必ず罵倒とセットなんだな。 改めたほうがいいと思う。
900 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/05(木) 18:22:17
>>898 フ〜ン、なんとかうっちゃってやろうと考えているようだが、それは撹乱
を狙った勝手な因縁つけであり、そんな難癖はお前の脳内とか同程度の賛同者の
泣き言な訳だよ。だいたい創作、偽作だとかにして有名無実の論をでっち上げ
たりそういうことをするのがお前らの否定の巧妙なやり方で、何が何でも素っ
倒そうという精神状態の滲み出たのがそのコジツケとかいう語で、牽強付会に
恣意的にでもしちゃおうという言動なわけさ。
つまりそういうことの最終的なる言い逃れでしかないわけで、無いとかいう
のは、お前のデタラメ論を固持する強度な希望でいかないわけだ。ww
年号は法興どころではなく、ほかにも「常色」とか「命長」とか30あまりも
あるそうではないか。そこまで古代人がコジツケなどやってる利害などなく、
利害大なのはお前のデタラメ論の保全の頭にあるわけさ。ww
901 :
日本@名無史さん :2007/07/05(木) 18:25:30
ロクに説明できないのになんで勝ち誇ってるの?
902 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/05(木) 18:31:35
根拠とかよくこいつは言い出すが、コジツケなりというのは、それこそ無い
という根拠にはならんだろうが。ww
どうだい
>>901 よ。年号がうんとあればそれで勝ちの決まりだよ。
あとはお前らが創作だとか偽作、コジツケだ、ロクに説明できないとかしか
の言い草なわけだし、お前だってそれ以外何も無いじゃないか。ww
903 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/05(木) 18:35:18
そしてこれに負け出すと、今度はこちらへの人身攻撃とかに移行して 来るわけさ。または論の選手なのに、論の審判兼選手でゆさぶりを かけて葬ろうってやって来るわけさ。 やめたほうがいいぜ。年号がこんなにありゃぁ、君ももう目を覚ます時 だよ。ww
904 :
日本@名無史さん :2007/07/06(金) 00:11:11
「ないという根拠」ですかwwwwwwwwwwwwwwww 悪魔の証明wwwwwwwwwwwwwwwww
905 :
日本@名無史さん :2007/07/06(金) 04:09:06
法興は九州年号じゃなくて新羅の法興王の年代を指してんじゃねえの? 新羅が独自の年号を建てるのは法興王の23年(建元元年)で それまでは中国の年号を使ってたと考えられるけど中国もその頃は 南北朝に分裂した上に北魏の末期でえらく混乱してたからね 時刻の王様の名で年を記したとしてもおかしくないだろう
邪馬「台」国至上主義者って
>>898 みたいな詭弁が「論理」と本気で信じてんのかね。
>邪馬壱国のときは「古い資料が正しい」といって邪馬台国と言う人をさんざん馬鹿にしていたくせに、九州年号のときは古い資料の二中歴に法興がないことを知らんぷり。
同時代資料である三国志と二次資料である後漢書その他の先後関係を
二次資料同士の比較に単純に代置していいわけないのに。
908 :
日本@名無史さん :2007/07/06(金) 19:22:15
>>905 が正しければ法隆寺の釈迦三尊像は新羅仏ということになるのか
法隆寺は一宇余すなく焼けて再建されたから本尊もどこかから運び込まれたわけだが
909 :
日本@名無史さん :2007/07/06(金) 21:38:19
>>905 法興はタリシホコ(法皇)の為だけの一世一代限りの特別元号
法興元年=タリシホコ即位=591年
法興32年=タリシホコ死亡=622年・・・普遍六道法界含識得脱九縁同趣菩提623年
多利思北孤=(海東)菩薩天子=上宮法皇=大王法王=弟王(兄王=天皇)
(法=仏法)
910 :
日本@名無史さん :2007/07/07(土) 00:09:41
>>909 一代限りの特別年号って・・・・そんな御都合主義の
主張ばかりしてるから信用されないんだよ古田教は
デタラメ主義の橿原教よりはるかにマシ。
912 :
909 :2007/07/07(土) 03:01:00
漏れは、古田教信者ではないのだが。
古田教信者のレッテル貼りで、目障りな九州王朝説を否定したいんだろ。 それだけ九州王朝の存在を恐れている証左。
914 :
日本@名無史さん :2007/07/07(土) 19:23:51
>>909 タリシヒコのことをタリシホコなんて書いてる時点で
古田の術中にはまってると思われても仕方ない
915 :
日本@名無史さん :2007/07/07(土) 19:33:21
なんてアホらしいスレだ
916 :
909 :2007/07/07(土) 22:00:29
「多利思北孤」と「多利思比孤」 「北」か「比」か。 原文写真を素直に見れば「北」に間違いない。 「比孤」とするは「ヒコ」としたいが為の捻じ曲げ。
917 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/07(土) 22:59:51
天之日矛っていう人物がいたな。
918 :
日本@名無史さん :2007/07/08(日) 01:24:28
>>916 俺には「比」に見えるがな
左側の横棒がはみ出してるのが「北」説の根拠なんだろうが
全体の字形を見れば「比」の誤刻に間違いないよ
919 :
909 :2007/07/08(日) 11:52:48
>>916 都合が悪ければ、誤刻にしてしまうことがバイアスをかけることだ。
はみ出しを素直に認めることがまず必要。
はみ出しを誤りとするならば、はみ出しが誤りであることを証明しなければならない。
感情的には、「はみ出し」を誤刻として「ヒコ」と読みたいのも解らないわけではないが、
だからと言って正論とするのはどうかと思う。
920 :
909 :2007/07/08(日) 11:59:34
921 :
日本@名無史さん :2007/07/08(日) 15:02:09
>>919 おいおい左側の横棒は縦棒を貫いてるんだぜ
はみ出しが誤りであることを証明が必要ならあんたもそれしなくちゃ
あの字のままじゃ「比」でもなけりゃ「北」でもないだろうが
だからどちらかの文字の誤刻に違いないわけで
字形全体から「比」と読むか「北」と読むか判断すべきなんだ
922 :
909 :2007/07/08(日) 16:02:12
>>921 「北」と「比」の文字成立過程を調べなさい。
「北」は突き抜けても良いが、「比」は突き抜けてはならない。
923 :
九州王朝派 :2007/07/08(日) 18:53:33
日本書記には遣隋使の記録が全くない、遣唐使の記録しかない。 国交を持った相手国、隋と唐を間違えるとは普通では有り得ない。 ヤマト政権が政権を握った時には隋は既に存在せず、ヤマト政権は隋と正式な国交を持った事がなかったので隋の事は知らなかった。 開皇二十年(600年)の「倭王姓阿毎字多利思比孤」もヤマト政権の人物ではない。
924 :
日本@名無史さん :2007/07/08(日) 18:59:24
日本書紀に書いてるじゃん
925 :
日本@名無史さん :2007/07/08(日) 20:50:43
>869 金印は18世紀製です。
926 :
日本@名無史さん :2007/07/09(月) 04:07:34
隋書も都合のいいように読まれてるな 日出処の天皇から日没処の皇帝に書を送るなんて そんなふざけた話をそれだけで載せてるわけがないのに 叱責されて翌年平謝りの国書を奉呈してるんだよ 何が対等外交だバカ学者ども
927 :
日本@名無史さん :2007/07/09(月) 10:13:02
>>923 日本書紀の推古十五年の記録は、地名、人名などから隋書の遣隋使のことであることは明白。
それのとき相手を「大唐」と書いていることも、よほどの初心者を除けば、周知のこと。
この時代の文書を読むときに固有名詞の厳密さにこだわりすぎるのはお馬鹿であるということの好例。
(実は王と親王などの身分についても同様。)
総合的な判断力が要求されるし、不確実な要素があれば安易に断定しない慎重な態度も要求される。
一つの矛盾だけしつこく突付いて、1点突破を図ろうとするような(2流の口喧嘩のような)論法は、無意味。
まあ、ここでこんなこと言っても理解できるお利口さんは少なかろうが、・・・。
928 :
イワンの馬鹿 :2007/07/09(月) 11:31:50
畿内論者はお利口さんなのだ! 九州論者はお馬鹿さんなのだ! 漏れは、都合よく理解できる様なお利口さんではありましぇん。
929 :
日本@名無史さん :2007/07/09(月) 11:34:26
>>923 隋書倭国伝の記述が九州王朝に関するものとか言うの、もうやめてもいいんじゃね。
ほぼ同時期に、
a 裴清という名の使者が九州(竹斯国)経由で九州王朝へ行き、(隋書倭国伝)
b 裴世清という名の使者が九州(筑紫)経由で大和へ来たとな。(日本書紀)
で、aとbは別ものとな。
使者の名前や旅のコースとかよく似ていて、すんげえ偶然だねwww。
しかも、aについては九州王朝の都の場所は太宰府の都府楼跡の下だとかいうけど、確実な根拠は何もなく、長州王朝と言っても成立する程度の理屈しかない。
多利思北孤などの記述が食い違うからといって九州王朝を持ち出しても、別に何の根拠もなく、長州王朝と言っても成立する程度の理屈しかなく、何の解決にもなっていない。
日本書紀の記述の解釈を若干考え直すほうがはるかに辻褄が合うのにね。
どんだけ〜〜〜阿呆なのやら。
930 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/09(月) 11:44:35
何の根拠もなく? 年号が厳然とものをいう。 九州卑弥呼の女王国もそれだしね。根拠があるわけだよ。それを「何の根拠も なく」とかに飛躍して否定に回る。否定派の得意技ですな。w これを示すと、今度は創作だ〜偽作だ〜、コジツケだ〜とかの言い回しで撹乱 して誤魔化し、否定を頑張るのが否定派の葬り去りたい虚妄の保全の虎の巻。
931 :
日本@名無史さん :2007/07/09(月) 12:53:35
>>929 >使者の名前や旅のコースとかよく似ていて
使者は一国一人がデフォとわかる資料や、古代中国から日本列島中部への『主要行路』が複数(たとえば越経由とか)
であった資料を参照しながらのレスなんだろうな?
例によってw俺は中立なので信者のレッテル貼っての煽りや逃げは通用しない。
932 :
日本@名無史さん :2007/07/09(月) 16:34:22
九州王朝の華麗なる歴史 委奴国王 ↓ 卑弥呼 ↓ 神武→ヤマト王朝作る(分家) ↓ 継体天皇 ↓ 倭の五王 ↓ 磐井 ↓ 目多利思比孤(用明天皇) ↓ 筑紫君薩夜麻 ↓ 大海人皇子(天武天皇) ↓ 蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
933 :
日本@名無史さん :2007/07/09(月) 17:14:31
>>930 だから逸年号を根拠にする場合は、
「九州王朝ではなく、長州王朝があったのだ!!!」
と言われてもまったく対抗できないんだってば。
>>929 日本書紀は年代的にも随書を下敷きに潤色して作られた可能性が高いから、それを根拠にするのは却下。
935 :
日本@名無史さん :2007/07/09(月) 17:31:32
>>931 ばーかw
使者は一人とはどこにも書いてないねwww
文盲乙プゲラ
936 :
日本@名無史さん :2007/07/09(月) 17:32:29
>>934 都合の悪いものは捏造拝借の電波人間乙wwww
総合的に考えて、長州王朝という王朝は存在しませんね。 もちろん畿内にも、白鳳時代以前に王朝など存在しません。 九州だけですね。
>>936 都合の良いように捏造拝借する電波人間乙wwww
939 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 10:51:08
>>934 隋のことを大唐と記述するとは、日本書紀もずいぶん中途半端な潤色をするもんだねえ。
隋書では裴清という具合に名前の世の文字が省略されているのに、潤色するとき「北史」も参照して裴世清と正しく記述したとな。ご丁寧なこって。
あ〜珍し珍しwww
裴世清の帰国に同行した留学生の高向玄理とか南淵請安も潤色ねえ。
ほぼ同時期に、
a 裴清という名の使者が九州(竹斯国)経由で九州王朝へ来た
b 高向玄理や南淵請安らが留学生として大和から中国へ行った
で、aとbは別ものとな。
すんげえ偶然だねwww。
日本書紀を書くとき、隋書と北史を参照して、aとbを一つのできごとであるかのように潤色したとな。
すんげえ編集能力だねwww
机上の空論で馬鹿さらす前に、まじめに日本書紀とか読んでみたら。
940 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 11:06:10
今の人間も東京生まれは江戸っ子って言うぜ。大江戸線の地下鉄もあるし。
941 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 11:08:38
>>937 九州年号と呼ばれているものは、九州王朝が作ったと言う証拠は何もない。
どうせ証拠がないなら、 (←ここ重要!!!)
これらは、長州王朝が作ったものであり、長州年号と呼ぶべきものである。
くやしかったら反論してみな。
942 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 11:15:36
>>940 そのとおり、江戸を東京と記述したり、東京を江戸と記述したりすることを、厳密に突っ付きすぎても意味はない。
で、とりあえず
>>927 をよく読んで。
一つの矛盾だけしつこく突付いて、1点突破を図ろうとするような(2流の口喧嘩のような)論法は、無意味。
例えば、
多利思北孤の身分が倭王であるという一つの矛盾だけしつこく突付いて、1点突破を図ろうとするような(2流の口喧嘩のような)論法は、無意味。
多利思北孤=聖徳太子でOK!
943 :
イワンの馬鹿 :2007/07/10(火) 11:19:13
>>941 長州年号と呼ぶものは、長州王朝が作ったと言う証拠は何もない。
どうせ証拠がないなら、 (←ここ重要!!!)
これらは、九州王朝が作ったものであり、九州年号と呼ぶべきものである。
くやしかったら反論してみな。
944 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 11:43:35
>>943 大爆笑ものだぞwww
九州王朝は、幼児みたいに幼稚なオウム返しのような反論しかできないと、証明した。
しかも、その内容が、九州王朝が認められるなら、長州王朝も認めざるを得ないと言う、オウム返し
(馬っ鹿でえ〜)
このレス、永久保存だな。【勝利宣言】
945 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 11:44:48
946 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 12:43:31
>>944 その長州には王朝を作れるほどの平野とか盆地があるのか?
長州だと半島から畿内に行くに日本版シルクロードの上だから、もし長州王朝
があったというんなら記紀に論争が出ないくらいの明文がありそうだがね?
半島から来る連中が長州とやらの王朝を通常は通貨して畿内にたどり着くだろう
から、記紀にはぼけた文ではなく、しっかり存在したような記載が残る筈だが?
それともそんな明文があるかい?
北九州を外れた中九州、南九州だとシルクロードから外れ、畿内に王朝の
情報が停滞する処と観る。とりわけ奥九州だとなおさら孤立状態的地理にある。
こういう処だと畿内の古文書等に実態が掴みにくい場ということで、反動と
して論争が後世置きやすい位置と観ている。
947 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 12:48:12
王朝とは、 連続した元号を持ち 連続した政体があり しっかりとした首長の交代があり 広域に影響がおよぶような国だろう。 奈良時代以前に、本州には王朝が見当たらない。 九州王朝だけだな。
王朝とは、 連続した元号を持ち 連続した政体があり しっかりとした首長の交代があり 広域に影響がおよぶような国だろう。 九州王朝の華麗なる歴史 委奴国王 ↓ 卑弥呼 ↓ 神武→ヤマト王朝作る(分家) ↓ 継体天皇 ↓ 倭の五王 ↓ 磐井 ↓ 目多利思比孤(用明天皇) ↓ 筑紫君薩夜麻 ↓ 大海人皇子(天武天皇) ↓ 蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
950 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 13:41:10
>>946 >その長州には王朝を作れるほどの平野とか盆地があるのか?
明日香の盆地より広い平地ならあるし、上町台地(難波宮)より広い丘陵地帯なら、いくらでもあるよ。
それで十分でしょ。
>長州だと半島から畿内に行くに日本版シルクロードの上
日本海や瀬戸内海が存在することををご存知ないのかな?
海路で長州をスルーするのはは簡単なこと
>記紀に論争が出ないくらいの明文がありそうだがね
神話の舞台である九州に王朝があるなら、記紀に論争が出ないくらいの明文がありそうだがね
散々捏造とケチ付けた記紀なんぞ今さら持ち出したところで、九州王朝でも長州王朝でも条件は変わらないでしょ。
九州王朝に有利な反論は何もありませんね。残念!
ゆえに、九州王朝はなかったが、長州王朝はあったで問題なし!!!
951 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 13:56:19
>>948 王朝とは、
>連続した元号を持ち
いわゆる九州年号を九州王朝が使ったという根拠なし。長州王朝が元号を作ったと言っても蓋然性同等。【長州元号】
>連続した政体があり
九州で政体の継続性を証明するもの、何もなし。長州に継続して王朝があったと言っても蓋然性同等。
>しっかりとした首長の交代があり
九州王朝で「しっかりとした首長の交代」と呼べるものなどない。
卑弥呼:後を継いだ男王で内乱勃発 (壹与がすんなり後を継いだと勘違いする馬鹿が多くて困る)
讃珍済興武:九州という根拠なし(倭の五王は、当然、長州の王だろ。違うと言うなら反論してみろ、事実を示してな)
磐井:敗戦・戦死(処刑?)
薩夜麻:捕虜(朝鮮半島で奴隷状態?)
お笑いです。長州王朝でしっかりとした首長の交代があったと言っても蓋然性同等。
>広域に影響がおよぶような国
長州年号(=いわゆる九州年号)の利用地域が長州王朝の影響範囲であり、そのうち長州と九州が長州王朝の領域と言っても蓋然性同等。
952 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 14:03:28
>>950 フ〜ン、そこに長州王朝があったというのか? その位で半島と畿内
へ方法の通行を考えたとき年がら年中、山陰道通行というわけがある
まい。山陽の瀬戸内海に面した通路を確率でいっても半分は交通
しただろう。百済等の半島からその交通路を通って畿内に半島の朝貢が
わりかし記載されてるのに、なぜ途中の長州王朝の朝貢記録がゼロww
ではお前のくぐりぬけたい言い訳もおかしいと皆から見破られる。
九州はさらに畿内より遠隔にあり、半島からの交通路から外れて交流の
停滞しやすい位置にある。だから記紀には物理的にも情報が多大に行く
ことはないため記述が無に近いわけで不自然ではない。条件は全然
違う。同じではない。それでもゴリ押しで同じだとぬかすなら、長州
王朝のほかに九州王朝も同じだで存在していたことになり、お前の論は
自語相違の矛盾を露呈したことになる。w
つまり長州王朝などこれこそありっこないこととなる。これにお前が
逆襲して九州王朝などありっこないと言うううなら、双方条件は変わら
ないと自信満々ぬかした言動が今のとおり自語相違の繰り返しとなる。
953 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 14:05:59
>>951 3行目を訂正
× いわゆる九州年号を九州王朝が使ったという根拠なし
○ いわゆる九州年号を九州王朝が作ったという根拠なし
954 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 14:37:19
>>952 長州では、萩など日本海側の都市や山口などやや内陸の都市も、王都の有力な候補地です。
太国さんの大好きな金印の出土地は志賀島で博多湾ですが、そこよりは長州のほうが「半島からの交通路から外れて」いるのではないでしょうか。(長州1勝)
久留米のあたりに都があったという説もあるようですが、そこと長州とでは同程度に「半島からの交通路から外れて」いるのではないでしょうか。(引き分け)
遅くとも7世紀には九州王朝の都は太宰府の都府楼の下だそうですが、そこよりは長州のほうが「半島からの交通路から外れて」いるのではないでしょうか。(長州1勝)
長州が2勝1分ですね。ゆえに、「九州王朝はなかったが、長州王朝はあった」と、またまた【太国さんの論理】で証明されてしまいました。
まじめな話としては、朝鮮半島から、越→近江→山城・河内・摂津・大和 or 越→近江→尾張 といったルートも無視しては困ります。
955 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 14:52:11
委奴国王 ↓ 倭国王帥升 ↓ ├神武→開化(断絶)→崇神→仲哀(断絶) ↓ 卑弥呼 ↓ 倭の五王→応神→武烈(断絶)→継体→宣化(断絶) ↓ 磐井 ↓ ├欽明→舒明 ↓ 多利思北孤 ↓ 筑紫君薩夜麻 ↓ ├中大兄皇子(天智) ├大海人皇子(天武) ├文武(大和朝廷を始める)→・・・ ↓ 蘇我氏←大和朝廷によって滅ぶ
阿蘇山と金印って、長州のいったいどこにあるのかと、小一時間(ry
957 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 15:50:43
>>956 博多湾からも太宰府からも久留米からも阿蘇山の噴火の様子が見えないのと同様、長州からも阿蘇山の噴火の様子は見えません。
阿蘇山が長州王朝の領域の中にあったというだけのことです。
(長州王朝とは、都が長州にあったの意味)
すなわち、九州王朝があるというのと、長州王朝があると言うのと、蓋然性同等。
2通りの仮説が可能です。
仮説1 金印出土地の志賀島は、阿蘇山と同様に、長州王朝の領域の中にあったというだけのことだ。
仮説2 金印の時代、「女王国東渡海千余里復有国皆倭種」と魏志倭人伝にあり、この東の国が長州王国だ。
仮説1でも2でも、お好きなほうをどうぞ。
ここでの重要な結論は、九州王朝があったと言えるなら、長州王朝があったとも言える、ですので。
しかも、
邪馬台国が九州にあったとすると、卑弥呼のあと一度内乱がありますので、九州に継続した王朝は存在しないことになります。
ゆえに、九州に継続した王朝はなかったが長州王朝はあった、が論理的帰結となります。
958 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 16:01:32
>>954 君の言ってることからは同じで変わらないんだから、1勝1敗だとか2勝2敗
でなけりゃぁ自語相違だろうが?
だいたい、へんちくりんなルートを勝手にこさえて畿内との通行路を造作
したところで、そっちばかり行くというのは苦しい言い訳に想えるぞ。ww
途中幾回も半島から畿内に百済等から朝貢があったりすれば、長州じゃぁ大和
朝廷に長州王朝の情報が入る。君の説明は常に半島から畿内に行くのに長州
王朝の存在を朝廷に分からしめない進路を探ってその道を毎回選んでたという
ことになり、無理な論理としか想えない。w
つまり地勢の位置から、長州王朝というのは考えられないにつきる。
卑弥呼のころは、まだプレ王朝だろう。 極東の大部分を支配するような王朝は九州だけだな。 総合的に本州(長州も含む)には王朝があった証拠がひとつも無いな。 九州に王朝があった証拠は漢籍にたくさん出てくるな。 そもそも「九州」という語自体が天子さまの領域だ。 「玄海」って語もそうだろ。 九州元号も九州の影響のある土地に分布してる。 明らかなんだよ。 え?長州王朝?南極王朝と同じぐらい有り得ないな。プププ
960 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 16:21:29
>>958 「西遊記」でも三蔵一行が火焔山を通過しなければ西天へ行くこと
あたわずの話と似たようなものであり、毎度長州の都を経ずして百済が
畿内へ朝貢していたなどはスリ抜けのゴリ押し論であ〜る。
あるんだったら百済等の使いが
「途中長州王朝で世話になりあちらにも貢物をささげて来ました。長州
は××王がいて王朝は十数代続き、××の風習があり、人民は礼儀
正しく××の信仰での祭事をやっています。」
とかの答礼を朝廷にして、その状況が記紀に書かれるに違いない。
日本版シルクロード上にいる長州に王朝があるからこそであり、それ
よりも遠隔でその交通路から遺脱した奥九州じゃぁ軽くは畿内に情報
は多量に流入などしにくい。
お前の考えは、キントウンで火焔山をひとっ飛びして西天へ到達
する孫悟空の論理だな。w
なにか大きい平野がないと王朝が出来ないみたいなアホがいるね。 九州王朝は日韓にまたがる海洋王国だったんだよ。 農産物は日韓の支配地から貢納させれば足りる。
962 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 16:48:19
フ〜ン、当時は日韓併合の状態だったのか? 出来ないとは余は言ってないぞ。出来にくいん出は無いのか?ということだ。 お前も 早土地理 な野郎だな。ww だいたいまたがってれば記紀になおさら九州王朝の状況が載って、論争など 起こることもあるまい。
963 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 17:43:49
>>958 、
>>960 長州といっているところを九州と言い換えても、そのまま意味が通じる文章ですよ。
その理屈では、九州王朝が存在しうるなら、長州王朝も存在しうる。
>>959 ソースは? wwwのブブブ
ソースなしでOKなら、【九州王朝はなかったが長州王朝はあった】と主張しても、何ら矛盾がない。
754 名前:太国 ◆yVAs7uaYlY [] 投稿日:2007/06/27(水) 17:36:34 古代九州は当時数十国に分立していた時期が多々続いたろうから、江戸時代で の大名的勢力の者は多かったろう。委奴国王はそういうクラスにの人物で王朝 とまでの上位の人物ではないな。 卑弥呼と委奴国王の線が継続の系かどうかは定かではないが、別系であろうと そう考えている。卑弥呼は九州王朝の始点の女王であり、その祖の一人が 委奴国王かどうかは先述のとおりだが、卑弥呼の父あたりは先の大名級の一人で あったろう? それが卑弥呼の代に至って勢力をつけ、彼女が王朝の始祖となっ たと観ている。神武は卑弥呼と全く無関係ではないが、直接的王系の繋がりは 無いとしてよい。 倭の五王朝も同様に神武とも卑弥呼とも別系であり、短期の九州王朝である。 当時卑弥呼の子孫系と並行して二王朝存立の状態にあった。 磐井は朝廷のあらさんにやられたとしても、九州王朝は文武世までのウラゴト だから、そこで滅亡にはならんわけで、勢力の消長を見るにまだ継続と出て いるところから、どうも筑紫君は九州王朝の王ではないと観る。ここんところ、 他の九州王朝論者と考え、主張が違いがあろうかとも思うが、それがしは そう観ている。
965 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 18:11:10
>>943 つまりね、その年号は証拠として使えないんだよw
966 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 18:20:32
>>963 そうだね。だから長州王朝と同じくらい九州王朝はありえないってことだね。
隋書イ妥国伝には、王朝が書いてある。 この王朝では、阿蘇山で国家の祷祭をおこなっている。 九州王朝以外にないんですよ。 え、長州王朝?北極王朝と同じぐらい、有り得ません プププ
968 :
九州王朝派 :2007/07/10(火) 18:51:57
日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等には私年号(逸年号。朝廷が定めた元号以外の年号。)が多数散見される。 九州年号は鶴峰戊申が、邪馬台国=熊襲説(倭の五王も熊襲の王とする)を述べた著書『襲国偽僣考』のなかで、それらを熊襲の年号として考証したものである。 古田武彦の『失われた九州王朝』で再評価された。 史料はこのほかに『二中歴』『海東諸国記』などがある。 九州王朝説ではこれらの年号(各地で現在500以上確認)を九州王朝が使用した「九州年号」であるとする。 九州王朝説では、この時期既に新羅等の朝鮮半島の諸国は独自の元号を建てており、半島の盟主を自認していた倭だけが独自の元号を建てることがなかったとは有り得ず、 また阿毎多利思北孤などは「日出處天子」と名乗っており「天子」と宣言している以上、元号の制定は当然であるとしている。 なお九州年号には仏教的な語句が見られることから、九州にはこの時期既に仏教が伝来していたとする。
969 :
九州王朝派 :2007/07/10(火) 18:56:47
大津宮は近江大津(大津市)ではなく、肥後大津(大津町)である。 大津宮への遷都は、敵の上陸に備えた大宰府から内陸部への疎開である (瀬田の唐橋の瀬田は、大津町瀬田)。
970 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 19:21:23
>>963 意味が通じる?w というより、長州は交通路が通ずると言ったほうがいいぜ。
長州じゃぁ、半島から畿内への朝貢の途中の駅のような地域。九州と同一の考え
はうまくないぜ。
当然大和朝廷に百済等の情報ととも長州の情報が容易に来るべき位置にある。
朝貢のついでに長州王朝があれば記紀にそれも載る。だがそんなことは百済等
のほうだけで、ついぞそっちは書かれていることはまるでないだろうが?
つまり長州王朝のほうは妄想だな。w
971 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 19:23:17
>968 普段ROMしているものですが、質問よろしいでしょうか >九州王朝説ではこれらの年号(各地で現在500以上確認)を九州王朝が使用した「九州年号」であるとする。 確認された年号で500以上というのは、比較的少数の年号が500以上文献で確認されていると解釈して よろしいでしょうか。500種類の年号が存在するということではないですよね。 もし500種類なら、九州王朝統一の証ではなくて、それぞれの豪族が勝手に制定していたと思われますので 久留米に何か都市があったとしたら櫛原でしょうか。今でも街中で、時々何かが出てきているようです。 櫛原(くしわら)という地名も古いもののようです ただし、地元民の感覚からすると、典型的な通り道なので、守るのはつらい地勢です。守りを固めるならば八女 甘木、朝倉のほうが守りやすいと思います。
972 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 20:54:56
卑弥呼の居城は久留米市市街地のど真ん中。
973 :
日本@名無史さん :2007/07/10(火) 21:18:32
久留米は大国にはなりにくいと思うんですが... 熊襲が北上してはつぶされ、大和朝廷か九州王朝が通過しては つぶされ、磐井が通過してはつぶされ、中立商業都市にしかならないのでは? いまも似たようなものですが
974 :
九州王朝派 :2007/07/10(火) 22:10:35
九州年号 『襲国偽僣考』の考証を修正したもの(「二中歴」によれば、「継体」という年号をもって「開始年号」としている。 二中歴以外の文献では、「継体」を欠いて二つ目の「善記(善化)」から始まる。) 517 継体 けいたい 522 善化(善記) 526 正和 531 発倒(教到) 536 僧聴 541 同要(明要) 552 貴楽 554 結清(法清) 558 兄弟 559 蔵和 564 師安
975 :
九州王朝派 :2007/07/10(火) 22:11:06
続き 565 和僧 570 金光 576 賢接(賢稱) 581 鏡當 585 勝照 589 端政 594 従貴(告貴) 601 煩転(願転) 605 光元 611 定居 618 倭京 623 仁王 629 聖徳 しょうとく 635 僧要 640 命長 647 常色 652 白雉 はくち 661 白鳳 はくほう 684 朱雀 すざく 686 朱鳥 しゅちょう・あかみとり 695 大和(大化) やまと・だいわ(たいか) 698 大長
977 :
971 :2007/07/10(火) 23:41:39
>>974 ,975
ありがとうございます。
九州年号はきちんと体系化されていたんですね
文献に時折、断片が表れる程度だと思っていました。
九州王朝並立はまだわかりませんが、ある程度の統一された
勢力があることは間違いなさそうですね。
王朝じゃなくて王国。
4世紀か5世紀までは王国といっていいかも。
980
981 :
日本@名無史さん :2007/07/11(水) 11:45:38
>>977 だまされてはいけない。
>>974-975 は、「『襲国偽僣考』の考証を修正したもの」であり、「九州年号」の複数の体系の一つに過ぎない。
974にあるとおり、『襲国偽僣考』と『二中歴』が参照されることが多いようであるが、両者の内容には不一致があり、特に時代が新しくなるほど不一致がひどくなるという珍妙な矛盾を見せている。
参照:
http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/NENGO01.htm また、古田は『法隆寺の中の九州王朝』という本で、法隆寺の釈迦三尊像の光背の銘文に「法興」という年号があり、だからこの仏像は九州王朝のものだと主張した。
しかし、「法興」という年号は『襲国偽僣考』にも『二中歴』にもない。
そこで古田は、「二系列の年号群並立」(上掲書第4部第1章)なんぞと、その本の一番肝のところを珍妙な屁理屈でごまかした。
重要なことは、『襲国偽僣考』と『二中歴』さらに「法興」のある年号群といったように、九州年号は「きちんと体系化」などされておらず、都合のよいネタに行き当たりばったりに食いついた未消化のゲロのように乱立状態なのである。
982 :
日本@名無史さん :2007/07/11(水) 11:48:02
>>978 (続き)
そもそも「九州年号」という呼び名は『襲国偽僣考』の著者の鶴峯戊申(1788-1859)が、「九州年号」と題する古写本を見たと記しているというだけの根拠しかない。
その古写本は確認されていない。(上掲書第1部第4章を参照)
鶴峯戊申が見た古写本が実在するかどうか疑わしい。
鶴峯戊申が見た古写本が実在するとしても、年号が九州で作られたという根拠は記されてはいないようである。
すなわち、これらの年号が九州の誰かが作ったという根拠はない。
「九州年号」という呼び名は便宜的なもの、あるいはせいぜい主たる使用地域を漠然と示すものであり、九州の人間が作った年号という意味ととらえる根拠はない。
ここを誤解してはいけない。
詐欺師はこういうところで読み手を誘導するために、わざと誤解しやすい記述をするので、賢い読み手は注意が必要である。
983 :
日本@名無史さん :2007/07/11(水) 11:51:06
984 :
日本@名無史さん :2007/07/11(水) 11:53:12
>>982 (続き)
「九州年号」は、九州で使われるだけでなく、九州王朝説の主張によれば、上掲書の巻末資料のWのとおり、山口県でも盛んに使われていたらしい。
したがって、この年号は、九州で作られたと仮定することもできるし、長州で作られたと仮定することもできる。
長州で作られ、長州及び九州を中心に使われたと仮説を立てるのであれば、「長州年号」という呼び方も可能である。
この年号を作った政権を王朝と呼ぶのであれば、年号を根拠として「九州王朝はなかったが長州王朝はあった」と主張することもできるのである。
【長州王朝】は、ただのひやかしのオチャラケと見做して済むことはない。
985 :
日本@名無史さん :2007/07/11(水) 12:00:33
>>981 【「法興」についての補足】
上掲書を注意深く読めば分かるが、この本は実際にはもっとひどい悪質な詐欺のような記述である。
本の中で『襲国偽僣考』の年号を紹介する表があるが、そこに『襲国偽僣考』と関係ない注を付して、その末尾に「法興」という文字を並べておく。
それは九州年号とは関係なく、ただ、同じような逸年号の例として、九州年号のどれと同時代かという参考のため、並べられているだけだ。
ずっと後の章で、この表を参照するときに、そこで「法興」という文字を見つけたかのような書き方をする。
自分で注を付けておきながら、隠れた事実を発見したかのような、ひどい自作自演のような書きっぷりなのだ。
こうした悪質な印象操作を通じて、「法興」が九州年号であるかのような錯覚を読者に持たせる。
そして、結論が、「法興という年号を持つ法隆寺の釈迦三尊像は九州王朝のものであり、『法隆寺の中の九州王朝』を古田が大発見した」となる。
詐欺だべ!!
私自身、最初に読んだときは若かったせいか、こうしたトリックに気がつかなかったので、信じている方々を責める気はないが、早く洗脳から目覚めることを期待します。
「法興は大和や伊予に実例がある逸年号である」、それ以上のことは言えない。
馬鹿だなあ。 法興は『茅窓漫録』にちゃんとでてくるだろ。 なんの問題も無い。