301 :
日本@名無史さん:
関東は土居中
302 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/11/16(木) 22:16:34
九州王朝関東東北事情
蝦夷(日高見国):九州王朝8番目の弟王大王国
7世紀の倭における畿内朝廷勢力に劣らぬ巨大勢力。
主な統治地域は、仙台平野・北上川流域・阿武隈川流域。
中心地(都)は宮城県仙台郡山。
7世紀前半九州王朝を構成する大王国(蝦夷)として参画。
8世紀の畿内朝廷の侵食により縮小しながら9世紀前半には北上川上流地域以北に追いやられる。
畿内朝廷軍に8世紀末13年にわたり応戦したアテルイがおり、彼と共に処刑されたモレがいる。
モレが日高見国の大王か?
夷(毛野:武蔵勢力):九州王朝7番目の弟王大王国
6世紀中頃までは武蔵地域の勢力。
6世紀中頃より7世紀末にかけて毛野旧勢力(鈴文化)を制圧。
7世紀初頭に常陸国を制圧。
中心地(都)は埼玉県熊谷大里。
朝鮮半島南部戦争への出兵により弱体化し、
701年畿内朝廷成立時にはその配下に編入される。
倭京が大宰府なら、郡山京と大里京は宰府。
303 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/11/16(木) 22:18:08
九州王朝関東東北事情
蝦夷(日高見国):九州王朝8番目の弟王大王国
7世紀の倭における畿内朝廷勢力に劣らぬ巨大勢力。
主な統治地域は、仙台平野・北上川流域・阿武隈川流域。
中心地(都)は宮城県仙台郡山。
7世紀前半九州王朝を構成する大王国(蝦夷)として参画。
8世紀の畿内朝廷の侵食により縮小しながら9世紀前半には北上川上流地域以北に追いやられる。
畿内朝廷軍に8世紀末13年にわたり応戦したアテルイがおり、彼と共に処刑されたモレがいる。
モレが日高見国の大王か?
夷(毛野:武蔵勢力):九州王朝7番目の弟王大王国
6世紀中頃までは武蔵地域の勢力。
6世紀中頃より6世紀末にかけて毛野旧勢力(鈴文化)を制圧。
7世紀初頭に常陸国を制圧。
中心地(都)は埼玉県熊谷大里。
朝鮮半島南部戦争への出兵により弱体化し、
701年畿内朝廷成立時にはその配下に編入される。
倭京が大宰府なら、郡山京と大里京は宰府。
304 :
唐松山:2006/12/07(木) 18:30:40
ご無沙汰しています
ついに 新しい暦の読み方が解りました。
ほつまの 暦には、増しがある と書かれています
もし 景行が 西暦239年からだとすると
治世 成太子 成天皇 <間> 世継誕生 立太子 死亡
60年 18才 81才 5年目 86才 126才 140才 これから`前57` ‘中20‘‘後10‘ を引く
29年 18才 24才 5年目 29才 49才 53才
増し 景行の年号より次の年を引く
中 6,7,8,9,13,14,15,16,28春=40冬、 後 47より51、55年死亡より60
崇神 西暦184年 24年間 後5年くらい縮められる
垂仁 西暦219年 27年間 後7年くらい縮められる
景行 西暦239年 29年間 後8年くらい縮められる
後漢光和年中(西暦178〜183年)、倭国大乱起る。 崇神の 国内引き締め
239景初三年、女王卑弥呼、魏に都市牛利(かしくい)、難升米(なしま)らを遣わす。
タジマモリ トコヨの国に行く
247倭女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越(倭世子大江)らを遣わして郡に相攻撃する
景行による クマソ討伐
檄を為りて之を告諭す。狗奴国対女王国海戦は難升米将軍の大勝利となる。直後に卑弥呼死す。大いに冢を作る。
ホ38232 18年 ソヤヤヨヒ ...クマノガタ ヲサクマツヒコ...さとさしむ しかれどこばむ かれころす
ホ38273 アフミヨカ ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ
卑弥呼の宗女壱與(いよ、比売多多良伊須気余理比売)
ホ38300 20年 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
28年コウス16才九州へ 休むまもなく 関東下向
これが 増し でみた 景行です。
305 :
肥国狗古智卑狗末裔・武蔵国新羅郡住民:2006/12/20(水) 13:07:34
ムサシモ・ムサカミ説に興味があります。
但し相模には出雲系神社が少ない事を考えると一考せざるを得ません。
武蔵の権力中枢が前期は荒川以北(さいたま市周辺か?・後期が荒川以南(多摩郡)
であった事は武蔵の東山道から東海道への移行にも現れています。
また前期武蔵は出雲系であり、毛野の出雲系とも密接な関わりが見えます。
但し、武蔵と毛野の出雲氏族の移住時期には時間差があると考えられます。
証左として武蔵系がスサノオを祭祀するのに対し、毛野ではオホナムチを祭祀している。
306 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/12/22(金) 00:51:43
>>305 >ムサシモ・ムサカミ説に興味があります。
>但し相模には出雲系神社が少ない事を考えると一考せざるを得ません。
ムサ(ムサ上・ムサ下)が成立するとすれば、
その歴史は出雲系神社よりももっと遡るのとおもいます。
出雲系神はムサシになってからのもの。
南関東相模が中心地だった頃、
縄文後の経済的に低落した中西部関東(ムサシ)に入植したのが出雲系ではないかと思います。
ムサ・ケヌ・フサ・ヒタの中心地がカミ、シモは後期晩期縄文時代に衰退した地域。
以上ムサカミ・ムサシモ仮説が成立する場合の推論です。
307 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 20:19:25
倉入防止揚
308 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 16:25:48
>305
亀レスですが、相模は寒川神社と大山寺(修験)が勢力を張っていたと思います。
309 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 16:17:06
なるへそ
310 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/03/19(月) 19:13:13
お、詳しい人がいっぱいいそうなスレ発見。
ひょんなことから氷川神社の名前について調べています。
ネット上では「氷川いうのは出雲の簸川(斐伊川)から転じた」という説明が
多いのですが、これってどのくらい信憑性があるのでしょうか?
出雲系が武蔵に来たのは正しそうだけど、鳥越憲三郎の「出雲神話の誕生」
なんかを読むと斐伊川流域(出雲平野西部)が開拓されたのは時代が下がって
からだそうで、つじつまが合わない気がするんです。
ついでに古事記の安閑紀の条に出てくる「多氷」の屯倉を「多未」の誤記として
多摩に比定している説も多いけど、これにも何か裏づけがあるのでしょうか。
飛鳥・奈良のあたりは気温が低く、また
>>116も書いてるように寒流の影響も
あったんだから、川に氷がはりまくっても不思議じゃない気がするんです。
そうすっと、相模一ノ宮の寒川神社もそれっぽいし。
311 :
火国狗古智卑狗末裔・武蔵国新羅郡住民 :2007/03/29(木) 14:26:06
寒川神社の祭神は氷川神社の祭神と同一であるという説があります。
武相の地は北は利根川で毛野と境し、東は旧利根川で総と接しています。
また荒川以北・多摩川以北・以南と別れています。
いずれの地域も出雲系神社が有力社で氷川神社・大国魂神社・寒川神社です。
また毛野も出雲系神社が有力社です。
ヒタ・フサのみ鹿島・香取という大和朝廷よりの神社です。
考え得るに大和朝廷が伸張して来た時代に関東ではヒタ・フサが朝廷側についていた証左ではないかと思われます。
312 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/03/31(土) 00:29:55
>>311 くわしい説明ありがとうございます。
>>310を書いてからいろいろ調べたら、いつの頃からかはわからないけど、
出雲系の人たちが武蔵に住み着いたというのは間違いなさそうですね。
とはいえ、社伝に出てくるイベントは以下の3つ
・孝昭天皇三年四月中の未の日、素盞嗚尊・稲田姫命・大己貴命三神を祀った。
・景行天皇の皇子・日本武尊東征の折り、当社を祈願所にしたことにより、相殿に日本武尊を祀る。
・成務天皇の御代、出雲族の兄多毛比命が武蔵国造となり、当社を奉崇した。
3つめは「先代旧事紀」が元ネタだと思うんですけど、いずれにしてもこれらの時代の
出雲は平野東部の意宇川が中心で、斐伊川流域の杵築神社(出雲大社)は
できてなさそうです。
313 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/03/31(土) 00:30:32
となると、古い時代にできた神社を、出雲族が武蔵進出をしたときに
リニューアルして素盞嗚尊の社にし、同時にもともとの名前である氷川に
斐伊川を充てる操作がなされたんじゃないかという気がしています。
んで、そのもともとの「氷川」の由来については、神社・仏閣板で
「氷川本紀」を教えてもらいました。その中の、「池中蓴菜を繁生す、
三冬の比今も御手洗に堅氷を結ぶ、 故に氷と云ひしを今は氷川と云ふなり」
というのは、古墳・飛鳥・奈良ごろの気候を考えればありうるかなと。
<続き>
寒川神社についても、もともとの祭神は寒川比古命だったけど、
出雲族の進出にともなって素盞嗚尊が加わったんじゃないかという気がします。
まとめると、
・もともと寒かったから、「氷川」「寒川」「多氷」みたいな地名がついて神社ができた。
・出雲族がやってきて住みついた。
・もとからあった神社の祭神を付け替えた。
・氷川はたまたま似た斐伊川があったので縁起にしたが、寒川は似た言葉がなかったので
そのまんま(だからメインの祭神も寒川比古命のまんま)。
みたいな感じ。
そんでもって、後半部分についてはよくわかりません。
たとえばフサと言っても下総の一宮は寒川神社だったりするし、
大和朝廷の進出と神々の勢力分布図とは簡単に対応していない
ような気がしています。
>>313 あう、変なところに<続き>が入ってた… orz
現在でもチバラキや毛野の方が与党寄りで、中央政府で活躍する人材が多いな。
316 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/14(土) 10:13:22
>>311 >ヒタ・フサのみ鹿島・香取という大和朝廷よりの神社です。
香取は出雲系だよ。元は在地系だと思うが。
鹿島の摂社末社から見て、鹿島はヒタ在地系が出雲系に更に大和系に変遷したものと思います。
一言主神社もあり、これは出雲系か大和系かどちら系としてフサに進出したのか?
>>311>>316 氷川のような100%誰の目にも疑いようのない明確な出雲系ではないが、
鹿島と香取は微妙に違うところがある。
香取神宮は、いろんな言い方があるが要するに"put"神を祀っているわけで
これは確かに石上神宮などと同じ。だが、もう少し古い層があるような気もする。
房総半島の持つ、東関東と西関東の中間的性質を良く示していると思う。
鹿島は、香取とはかなり毛色の違う神社で、
今の祭神はたしかに朝廷系つまり天津神系。
だが、ここは香取よりさらに先住民の神の雰囲気が濃厚で、
本来は、出雲系弥生人ではなく
真正の先住民である縄文系の聖地だったのではないかと思われる。
行けば分かるが、ここは本来は見事な地下水脈上にのる水の神だ。
出雲系を挟まずに、縄文系の基層の上に天津神が直接乗っていて、
その意味では、西関東ではなくたしかに東北的だね。
318 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/14(土) 11:58:15
>>317 鹿島神宮本体は、出雲系を挟まずに、縄文系の基層の上に、
天津神が直接乗っているのでしょう。
常陸国風土記から、基層は縄文以来の現地系であったと推測できますね。
さらに、ヒタは関東平野中部西部よりも東北との関連が深かったようですね。
>>318 鹿島神宮に関しては、大生神社(元鹿島伝承あり)の件もあって難しいけどね。
個人的には、大生神社がイカヅチ神を祀る本来の天津神系神社であって、
その後、多氏による常陸支配が安定した後
大昔の縄文系の水神・石神の聖地であった今の鹿島神宮の位置に
祭神まるごと引っ越したと考えている。
水脈や要石などの自然物が引っ越すことはないが
渡来者の神の座は当然引っ越すことが出来る。
多氏の系譜問題はあるが、総じてあまり出雲色は感じられない。
在来系と言えば、俺はいわゆるアラハバキ神が何者か、
よく分からないんだけどね。本当に在来の縄文神なのかはやや疑わしい。
石神井(ミシャグジ神)と並んで、関東西部の出雲以前を解く鍵の一つだとは思うが。
>>319とか
西関東(武蔵野)では、縄文期は栄えていたのに弥生遺跡は少なくて、
古墳時代まで人の気配が薄いですよね。もちろん台地だから水田に不適だったと
からでしょうが、それなら縄文時代が続いてもよかったはずだけど、
遺跡はぱったり無くなる。
で、その空白期の理由はやっぱり
>>313に書いたようにすげー寒くなった
からじゃないかと考えています。もちろん縄文末期は地球は寒冷化したし、
それが縄文→弥生交代の要因でもあるんだけど、関東地方の寒冷化は平均に
比べて半端なく冷え込んだんじゃあるまいか、という仮説です。
根拠は上に書いたような地名もそうだし、海底に降り積もったプランクトンの死骸から
海流の履歴を再現する研究からも、2500-2000年くらい前に房総沖の黒潮が衰退した
時期があったっぽいし(鎮西,1987)。
321 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/15(日) 05:36:36
縄文晩期寒冷期はBC1300〜BC600で、縄文後期より平均気温が3〜4℃低くなったそうです。
食料難でギリシャ文明は衰退し、日本九州では水田耕作が始まった時期です。
関東平野の縄文生活サイクルが破綻し、
以降それに変わる生活サイクルが成立せず関東縄文の衰退をもたらしたものと思います。
冬の関東平野では-10℃近い乾燥寒風が吹き荒れたことも多かったのでしょうね。
雪がないと気温が下がり縄文生活サイクルは破綻せざるをえないですね。
>>320>>321 冬の「乾燥寒風」では、
縄文後期晩期の関東の人口崩壊状態の説明は出来ないよ。
主要な植物栄養源であるナラ属の落葉樹(つまりどんぐりの木)は
かなり冬の寒さに強いし、むしろある程度冬は寒いほうが良い。
寒さ指数が照葉樹林ゾーンに楽々入るようになると、
コナラやミズナラなど沢山どんぐりを付ける落葉ナラ属の林は
遷移のスピードが上がってシイやシラカシなどの
どんぐり生産力の低い照葉樹林に早々に入れ替わってしまう。
遷移スピードは寒いほどゆっくりなので、寒いほうがナラ林は楽に維持できる。
反対に、冬の寒さだけで、落葉のナラ属を生えなくするのは大変だ。
コナラやミズナラを枯死させるには北海道道東レベルの寒さが必要、
カシワなどはもっと寒さに強い。北海道の海岸地帯の主要防風林はカシワだ。
これらを完全に追い出すには、タイガ地帯並みの寒さが必要になるわけで、
小氷河期程度では無理。ヴュルム氷期の最厳氷期でやっとギリギリそのレベル。
まあ、関西在住の九州王朝大好き氏あたりだと
体感的に全く理解出来ないことだとは思うが、
>>320氏の言うような
房総沖の黒潮の北上の衰退が起きると
真っ先に関東の気候で変化することは、
冬の寒さではなく(後述するがこれは全く関係ない。雪の量は増えるが)
夏の極端な冷夏だ。冷たい東風・北東風の日が増えることになり、
特に梅雨から夏にかけて気温低下と日照不足が確実に増える。
これは稲作にとっては致命的なのだが、
縄文的生業に関してはどうなのかは微妙なところだ。
なお、
冬の寒さと房総沖の黒潮の南下とはほとんど関係を見出せない。
そもそも北西季節風の風下の海がどうなろうと関係ない。
もし関東の冬の乾燥寒冷化が進む要因がどこかの海にあるとするなら、
それは日本海を流れる対馬海流が弱まり、日本海の海水温が下がって、
日本海側が寒冷化し、その余波で太平洋側も寒冷化するということなら
考えられないこともない。だがそれだと「関東限定」にはならず、
太平洋側でもフェーン現象の小さい畿内や西日本のほうが気温低下は著しいはずだ。
324 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/04/15(日) 20:31:36
>>321-323 興味深い話をありがとうございます。
海流については、銚子にある「海鹿島」の地名も傍証になりそうですね。
黒潮衰退時の気候については
>>323氏の言うとおり、東北のヤマセ的な
感じだと思いますが、そうすると福島から宮城、岩手にかけての海岸線に
弥生の水田遺構が出てくる説明が難しいんだよなぁ。
ちなみに火炎土器で有名な信濃川中流域も弥生になったらパタっと
人が居なくなるのですが、こっちは積雪深の増加が主因っぽいですよね。
足の短いイノシシが生存できなくなる。いずれにしても、姿を消した縄文人たちが
どうなったのか(死んじゃったのかどこかに移住したのか)というのは気になりますね。
なんだか元ネタの祭神の話から離れちゃってすみません。
325 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/16(月) 07:43:24
縄文晩期低温期の関東平野内陸部は日本列島としては特異な状況です。
この低温が関東縄文人に食料面で大きな影響を与えたことは言えますが、
どの様な影響を与えたのかはまだ十分に精査できていません。
得異な気候とは、冬の乾燥低温です。
つまり積雪がなくて土壌がむき出しの状態で零度以下に冷やされることです。
積雪があれば雪が断熱材となり、気温がマイナスになっても、土壌は氷点温度以下にはなりません。
つまり、土壌中の根・種子・芽は積雪があれば細胞凍結から保護されますが、
積雪がないと土壌中のそれらの細胞は凍結して死滅します。
縄文人の食料は栗胡桃(落葉ナラ属の種子)だけではありません。
芋豆野菜雑穀も大きなウエイトを占めています。
それらの収量が冬季土壌凍結によって減少したことは十分に予想できます。
縄文晩期の関東平野の低温は、現代の道東より暖かかったのですが、
縄文晩期の関東平野は無積雪により土壌温度は現代の道東以下になっていたのではないかと推定します。
>>323 関東には40年近く住んでいましたよ。関東内陸部の冷え込みも経験しています。
関西関東の二股生活が殆どでしたので、実質は20年ほどの関東生活ですね。
黒潮問題が仮にあっても、縄文食料には大きな影響を与えないですよ。
水田は無理だけれど。
今年は桜の満開が2週間ほど続いた。一昨日の雨風でやっと葉桜になった。
桜満開2週間は人生初めて。秋の桜の満開は経験あるけれど。
326 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/16(月) 08:04:24
桜の満開期間を指折り数えたら、10日間だった。上記レス修正
やっぱり人生最長の10日間。
>>325 住んでいたら分かると思うんだが、
1984年の冬は関東に滞在していたかね?
論より証拠、あれが明確な実例だよ。
関東地方程度の冬の気温の場合、
寒冷化すると南岸低気圧の降雪がむしろ増え、
しかも雪が事実上の根雪になって、プチ日本海側状態になる。
雪の性質と降り方の問題もあるんだが、
関西などの太平洋側の冬型のおこぼれ雪よりもしつこく地面に残る。
寒冷化すると関東の雪は増えるのか減るのか、
気象板で議論になったことがあるが、
直近で最も明確な寒冬年であった1984年の事例と、
小氷河期であった江戸時代後期の江戸の気象資料を分析すると、
南岸低気圧が発達する事例が増えて、冬の降雪・積雪は増えるというのが結論。
一見、例えば仙台付近のように冬の降水量が減りそうにも思えるが、
実は逆に雪の量が増えることになるのは、
関東は東北太平洋側と違って東と南の2方向が海になっているから。
328 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/17(火) 00:11:49
1984年の大雪はよく覚えています。
あの大雪は関西に住んでいてもニュース等で記憶に残るほどの大雪でしたから。
年末から3〜4回あった様な記憶です。
けれども関東平野南部の冬の大雪も、春4月に降る雪と基本的に同じです。
暖かいから降る雪ですよ。
あの雪は関東南岸太平洋上を通過する低気圧によって降ります。
寒気が南に張り出していて、太平洋水温が低いと、
低気圧は沿岸から遠く離れた太平洋上を通過し、関東平野南部に雪を降らせません。
強い低温の寒気でも勢力の弱い南への張り出しの弱い寒気で、太平洋上の水温も高いと、
低気圧は沿岸近くを通過し、寒冷化した関東平野南部に大雪を降らせます。
縄文晩期寒冷期に比べて、現代日本列島は比較的暖かいから、低気圧が南岸近くを通過すると大雪が降るのです。
なお雪の降る地域は低気圧のコース沿いの関東南部・東海・鹿児島になります。
関東が南と東に2方面で海に面しているからではありません。
和歌山・四国南岸では、近畿中部・瀬戸内までしか寒気が流れ込めないので、
低気圧が通過しても雨にしかならないのです。
低気圧が沿岸にかなり接近して通過した場合は関西中部・瀬戸内にも雪が降ります。
でも西日本では寒気が弱いので雨になることが多いです。
蛇足:鹿児島と近畿中部では鹿児島の方が雪が多い。
>>328 >暖かいから降る雪
まさにその考え方について、気象板で議論がされていたんですよ。
だが、どうも真実は、その常識的な推測とはかなり異なるらしいんだな。
1984年もそうだし、江戸時代後期から明治にかけてもそうなんだが、
東京あたりでは、意外にも、寒冬年のほうが雪が多い。
というのはどういうことかと言うと、
どんなに寒い年でも、ぶっ通しでシベリア高気圧が張り出すことは無く
かならず日本付近を低気圧がそれなりの回数通過することになるんだが、
暖冬の年だと、日本海を通過しやすくなって関東は大高温になる。
だが、寒冬の年だと、日本海まで北上できず、南岸低気圧が増える。
結果、気圧の谷が通過するごとに関東は大雪ということになる。
そして、寒気が強い分、マクロの気圧の傾きが大きくなり、低気圧は発達しやすくなる。
江戸後期などの江戸の記録からは、
寒気を巻き込んで強力になった南岸低気圧が来た形跡が明らかにみられ、
2尺程度の積雪はごく当たり前だった時期があったらしい。
南が海だからと言ったのは、東北南部あたりだと、
南岸低気圧だと雪雲が届かないことがあるから。
地形の関係から、北関東あたりを低気圧が通過することはあまりない。
それから、スレタイには関係ないけど付け足し。
鹿児島で雪が意外に多いのは、鹿児島は西側に遮る山脈がないため
東シナ海から冬型の雪雲が直接やってくるから。長崎や福岡と同じなんだが、
鹿児島と大陸の間はかなり広いので、
東シナ海で雪雲が生まれるくらいの強い寒気になると、
朝鮮半島との海上距離が短い博多あたりを凌ぐ勢いで雪が降る。
冬の気象板は雪ヲタばかりだから、こんなことがあると、
冬型では滅多に雪が降らない関東をネタに、煽り煽られの大騒ぎになる。
「鹿児島でも大雪なのに、快晴の関東プギャー」ってやつだね。
南岸低気圧では、さすがに鹿児島で雪が降ることは滅多に無い。
緯度が低過ぎるからね。ただ、南岸に共通して、冬場でも南岸低気圧の降水量は多め。
南岸低気圧が来た時、どこで雪が降りやすいか、
どんなメカニズムが想定されるかは、気象板の雪ヲタたちが
地域ごとに詳細に分析しているよ。結構面白い。
だが、基本はやませと同じパターンなので、中部山岳より東で雪になるのが普通。
331 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/17(火) 13:44:15
>>329 縄文晩期の気候がどのようだったのかは、ココのスレタイと大いに関係あるのでもう少し書きます。
>暖冬の年だと、日本海を通過しやすくなって関東は大高温になる。
>だが、寒冬の年だと、日本海まで北上できず、南岸低気圧が増える。
>結果、気圧の谷が通過するごとに関東は大雪ということになる。
現代気候においては上記のとおりです。
しかし縄文晩期の気候は平均気温で現在より2〜3℃低いのです。
縄文寒冷期の頃の暖冬では、南岸低気圧が増え雪が降ります。
縄文寒冷期の頃の寒冬では、低気圧が遥か南方太平洋上を通過するので関東平野には雪が降りません。
江戸時代の小氷期は現代の寒冬程度でしたから関東平野に雪が多かったに過ぎません。
江戸時代の小氷期の通常の冬は、縄文寒冷期の暖冬程度で、雪が多かったのです。
縄文寒冷期の通常の冬では、低気圧は遥か南方海上を通過するから、
関東平野は乾燥低温化するだけで雪は殆ど降りません。
「氷川」「寒川」「多氷」の名前は、2400〜2200年前の弥生小氷期に由来するのではと思います。
弥生小氷期の一時期は期間は短いですが縄文晩期に匹敵するほど気温が下がっています。
>>320の「海流の履歴を再現する研究からも、2500-2000年くらい前に房総沖の黒潮が衰退した
時期があったっぽいし(鎮西,1987)。」は弥生小氷期のことを指しているものでしょう。
332 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/04/17(火) 21:13:33
話題をふっといて議論に参加せずにすみません。
>>329-330の見方も
>>331の見方も、なるほどもっともな感じで、私には判断できません。
ただ、縄文文化を破壊するだけのインパクトと
いう点では
>>331かなぁと。
そこでちょっと別の視点として、当時の陸と水面との比率について考えてみたいと
思います。 縄文海進が終わった時点で現在の海岸線が確定したわけではなく、
古代ではけっこう広い面積が海か湖沼か湿地(ようするに水面)だたことが
わかっています。
たとえば↓このページの図はちょっと大げさですが、けっこうわかりやすい図を載せています。
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/k3_mgw1.htm 鹿島、香取、氷川、寒川などの一宮をはじめ、ほとんどの施設が標高6m上に並んでいます。
もちろん6mのところまですべて海だったわけではないでしょうが、ともかくこれより下は
沼地だったり湿原だったりして、人が住んだり建物を建てたりするのが不適な地だった
ということでしょう。局地気象における水面の働きはとしては、夏場は蒸発による気象緩和
が知られていますが、冬はむしろ最低気温を上げる効果になります(というのは
>>329にも
>>331にも釈迦に説法でしょうがw)。ただし、海に比べれば微々たる物とはいえ
水蒸気の供給源ですから、降雪量増加には寄与するかも知れません。
水面に関してもうひとつ考えられるのは、現在の霞ヶ浦が海とつながっている点だと
思います。鹿島・香取両神社に挟まれた湾口が北東からの親潮を受け止めて、
内陸深くまで低温の海が入り込んでいる。この地形によって、今と同じ気象総観場でも
違った気象状況になっていた可能性はある気がします。
そういうわけで水面の効果が昇温なのか寒冷化なのか判断はつきませんが、
このへんのところは領域気象モデルにでも突っ込んでシミューレーションしてみたら面白そう。
いずれにしても
>>331 >「氷川」「寒川」「多氷」の名前は、2400〜2200年前の弥生小氷期に由来するのではと思います。
というのは同意です。実際に神社ができたのはもう少し後かもしれませんが、
各地の一之宮がことごとく当時の水辺にあり、とくに鹿島と香取が寒流の入り口を
はさんで建っているというあたり、両神社が備えている「敵」は蝦夷ではなく
海とヤマセかも知れません。…とかなんとか妄想を入れてみるw
334 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/18(水) 10:34:32
>>332 >
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/kasi/k3_mgw1.htm 上記の図は非常に興味深いですね。
弥生海進期(AD1c〜2c)の様に思えます。後期縄文海進期では神社群が海に水没することになるので。
西日本の戦乱期に、西日本から逃れて移住して来た人々(神武の様な多数のグループ)が関東平野沿岸に定着した様にみえます。
海岸線沿いにプロットされている神社は、その時彼らが持ってきた神社群の様に見えます。
となると、「氷川」「寒川」「多氷」の名前は、古墳寒冷期に由来するものとなりますね。
出雲系の関東進出もこの時期か、それより少し遅れた時期かも?
上記の図は新しい視点を与えてくれそうです。
ありがとうございます。
>>334 >海岸線沿いにプロットされている神社は、その時彼らが持ってきた神社群の様に見えます。
>となると、「氷川」「寒川」「多氷」の名前は、古墳寒冷期に由来するものとなりますね。
その点は私はちょっと慎重で、地名を付けたのが誰かというのが気になります。
やってきた人たちが川に手を突っ込んで「うー、冷たい」と思ったから氷川、寒川になったのか、
地元の人に「何ていう川?」と聞いたのか。
それはさておき、注文してた「古代東国の風景」(原島礼二)が届いたので、
これから酒を飲みながら読書するざんすw
>>231 南岸低気圧がいわゆる「お辞儀」をするか発達コースを取るかどうかは、
実は寒気の強さというよりも、偏西風の蛇行コースの問題なんだよ。
もし、東谷西谷関係なく、冬を通じて南岸低気圧を寄せ付けないほどの
強力な寒気が毎年ぶっ通しで大陸から南下するほどの寒冷化が起きれば、
それは、関東よりも先に、大陸に近い西日本を直撃して気候を激変させるよ。
関東と言うのは、北西季節風が、日本海が一番大きく開いた部分を通り、
さらに日本で一番高い脊梁山脈を場合によってはいくつも越えて
何度も弱いながらもフェーン現象を起こした後でやってくるところなので、
大陸の寒気の影響は、日本列島弧で一番緩和される地方にあたる。
朝鮮半島があるため海の距離が短く、大陸の影響をまともにうける九州北部などは
大陸が寒冷化すると劇的に気温が下がる道理だし、
寒気がなべ底ルートで降りてくると、九州西岸や四国の西部も雪国化する。
>>332>>333 それは俺も気になっていた。重要な着眼点だよね。
「香取湾」という「もう一つの関東内湾」があることによる、
関東への気候の影響は計り知れないと思う。
まず、やはり夏の寒冷化は否めない。
指摘どおり、香取湾は東京湾と違って親潮側の外海に開いているので、
夏でも湾内の海水温は低いはずで、
これは、やませの時のみならず、通常の海風の源としても重要だ。
かなり涼しい東風が、普通の夏の日であっても
関東のかなりの内陸部深くまで入り込むことになる。
まあ余談だが、現在においても「香取湾」が健在だったら、
東京近郊も含めて首都圏の夏の猛暑は随分緩和されただろうね。
今の東京湾の海水は、真夏の気温を27度くらいまでしか下げないが、
「香取湾」の海水だったら、気温を23度くらいまで下げる能力が今でもあるはず。
338 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/19(木) 10:29:59
>>336 @関東平野と北部九州では、どちらが多雪でどちらが寒冷か比べてみよう。
A道東と道西ではどちらが多雪でどちらが寒冷か比べてみよう。
B放射冷却について調べてみよう。低湿度大気と高湿度大気の放射冷却を比べてみよう。
放射冷却の気温下降とフェーン現象の気温上昇ではどちらが大きいか調べてみよう。
C道東の低温化の仕組を調べてみよう。
蛇足:「雪が降ると暖かく、天気が良いと寒い。」と雪国で言われている言葉をご存知ですか?
「フェーン現象の日の夜は涼しい。」を体験したことがありますか?
>>337 香取湾があれば佐倉近辺の高温化はなくなるでしょうね。
香取湾と東京湾の入り込みで、熊谷あたりの高温化は少し緩和される程度ではないでしょうか?
夏には、埼玉と茨城西部・千葉北部は湘南の様な気候になると思いますね。
339 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/19(木) 11:48:03
>>337 北海道や東北と違って、関東平野に、強い「やませ」が吹くことはあまりないですよね。
20〜25年位前に強力なやませが吹いた記憶があります。
関東ではその夏は寒くて夏中スーツが手放せませんでした。
その夏は一度も暑い日がなかった。寒い日が続いたのは15年位前の冷夏以上でした。
ところが、関西では暑くて半袖ワイシャツでないと仕事にならなかった。
東京と大阪を行ったり来たりしていたのでよく覚えています。
>>338 ん?なんだか分かっているような、まるで分かっていないような。
要するに、40年前の民間俗説から未だに抜け出ていないんじゃないかなあ。
当時はアメダスも未整備で、データも気象台や大学止であって、
一般人は細かい気象現象の科学的数値を知る由も無かった。
まず、太平洋側が日本海側よりも冬に明確に寒くなるのは、
今の気候で北海道だけ。本州北端でも、津軽と南部は統計上はほぼトントン。
それより南になると、太平洋側沿岸のほうが暖かくなる。弱いフェーンと日照のためだ。
ところが、十勝まで寒くなると、すでに地表は根雪が覆う地帯になる。
つまり
>>325の仮説「積雪が無くて土壌が剥き出し…」に矛盾してしまうんだな。
いくら関東が太平洋側だと言っても、東シベリアや満州のような
冬季の完全な無降水状態というのはあり得ない。
それに、放射冷却は、北西季節風が強まると起きなくなる。
関東地方は、とりわけ北西季節風で気温が特に『下がりにくい』地帯だ。
夜間でも、新潟で0℃前後なのに、前橋では5℃近くあることがよくある。
だから、季節風が強まると、関東の夜間の気温は上がる。
そして、放射冷却が起きる時は、冬型が弱まっている時だから、
日本海側も晴れる。日本海側も同じように放射冷却で気温が下がる。旭川のように。
最後に、
「フェーン現象の日の夜は涼しい」には、さすがに『珈琲を吹きました』よ。
フェーン現象が発生した真夏の北陸で、大都会でも無いのに
夜半を過ぎても気温が33℃前後の熱風が山から吹き降りる地獄のような状況に、
心底悶絶した経験が何回もあるからね。
フェーン現象に昼夜は全く関係ない。
海風が入らず暑い盆地が、夜は放射冷却で冷えるのと勘違いしていないかね??
341 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/20(金) 01:32:12
>>340 論点が外れている。
>>325をよく読め、読み間違えている。
縄文晩期小氷期と現代の状況を区別できていない。
一派一絡げ読みになっているよ。
前橋の件は昼間の現象、太陽も照っており暖めている。
夜になると-5℃以下に下がっていく。
昼間は暖かくても、夜の-5℃以下の強風の寒さを知らないな。
放射冷却は夜におこり最低気温になるのは夜明け前。
北陸は昼間38℃で夜になって33℃でも明け方には30℃を切る。(富山平野内陸部)
これは放射冷却による現象。 湿度が低いから涼しいよ。
海風が入らず暑い盆地が、夜は放射冷却で冷えるのは当たり前。
海風が入り続けたら、海風で暖められ続けるから、放射冷却現象が起きていても、気温は下がらない。
>>341 全部筋を繋いで読んでほしいんだけどなあ。
簡単に言えば、
1 太平洋側が日本海側よりも特に極寒になるためには、
今の関東の気温より最低でも5℃以上は低下する必要がある。
2 ところが、必ず少しは冬の降水がある日本列島では、
1を満たす気温になると、少ない降水がすぐに根雪になり地表は雪で覆われる
3 雪の保温効果があるので土壌の深部までの凍結は免れ
>>125のようなことは起きない。
(現に、十勝ワインの産地では、土に埋めてしまえばブドウの枝でさえ越冬する)
休眠中のヤマノイモの根茎が枯れるなどという状況には
日本国内では小氷期でもあり得ないクラスの乾燥寒冷が必要だよ。
それに、本来は関係ない議論だが、フェーン現象が起きる時は、
昼夜問わず、全く同じ方角から風は吹き続けている。
明け方の若干の気温低下は、夜間であるため、風上側が25℃前後に下がるために
フェーン効果を加味しても28℃から29℃前後になるだけ。
風上側も同じ風が吹いており、フェーンの風上では曇で降水があり、放射冷却ではない。
夜間で太陽の熱供給が無いため、太平洋の海水温程度の本来の気温になるだけ。
空気は乾いているが、重苦しく息苦しい風でたまらない。25℃と29℃の差は大きい。
気象に関して論ずるなら、気象学の勉強をするまでいかなくても、
気象板でしばらく議論をするか、
最低でも、何年間か、時々で良いのでアメダスの実況に触れることを勧めるよ。
今はサイトでリアルタイムの詳細な情報が簡単に閲覧できる。
単なる体感や、昭和時代の古い新聞天気予報レベルの常識とは
かなり異なる状況が展開されていることが良く分かる。
縄文時代くらいなら、地形は海の出入り以外は変わらない。
もう一つ、単純な乾燥寒冷化によるという説の反証となるのは、
縄文中期の、縄文文化最盛期のかの有名な八ヶ岳山麓は、
小氷期の関東程度の乾燥寒冷の気候だったということ。
今の遺跡群の地域が、照葉樹林帯に入ったという証拠は全くなく、
最も暖かい時期でも一貫してナラ林帯植物の花粉しか出ない。
今よりやや暖かい程度で、今の東北北部の太平洋側程度だったとされる。
ここは信州でもすでに中部山岳の風下にあたり、
谷が北西から南東へ抜けているため、
冬型では雪は降らず、乾燥した寒風が直撃して吹き抜ける。
つまり、ここは「寒冷化関東」の一つのシミュレーション地域たり得るのだ。
その当の信州が、縄文最盛期の縄文王国だった。
そして、この信州縄文人と、関東平野の関東縄文人は、
密接に交流していたことが遺物からうかがえるわけだ。
縄文晩期に寒くなった時に、信州縄文人が困って山を降りたのは当然だが、
関東縄文人が激減して、残りも西を目指したのは、
別の理由がなければいけないだろう。「信州並み」で乗り切れたはずなのだ。
344 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/20(金) 07:31:54
>>343 内容は同意ですが、乾燥寒冷化の反証になっていないと思います。
その信州縄文人や関東縄文人は何処へ消えたのでしょうね。
食料難から自滅的人口減?
それともどこかに移住?
移住先は寒冷湿潤な地域?
それとも温暖な地域へ?
>関東縄文人が激減して、残りも西を目指したのは・・・
どの様な事実に基づいて「西を目指した」となるのですか?
345 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/20(金) 10:19:24
>>342 1.縄文晩期の関東平野の冬季夜間気温は、乾燥化の為現代より5℃以上低下していたとみられます。
2.縄文晩期には全体的に現代より気温低下していましたから、
関東平野を冬季通過南岸低気圧は現代の様に沿岸を通過しないで、
はるか南方太平洋上を通過するので、関東平野に水分を補給できず積雪をもたらしません。
現代でも低気圧が南下しているときには夜間は低温化しています。
昼間は太陽熱の供給を受けかなり暖かいですが。
3.積雪が無いので土壌の夜間冷凍化は避けられません。
縄文晩期寒冷化といえども、昼間は太陽熱で0度以上に上昇し、
一時的に積もった雪も融解し蒸発します。
山芋はわりと低温に強いですね。里芋や豆類その他野菜穀物はどうでしょうね。
低湿度30℃未満は涼しいのでは?
個人的な感覚に支配されることがらですが。
富山の知人達が「富山は蒸し暑い」と口をそろえて言うのですが、
僕にとっては快適な暑さでしたね。
(東京よりは蒸し暑かったかな? と言うより気温が高い、しかし湿度は低い)
そのうちの一人が大阪の蒸し暑さ(瀬戸内も同じ)を経験し、
「死にそうだった。」と言ってましたね。
最近の気象についてのアドバイスありがとう。
どうでもいい部分だけど、ちょと。
>>340 >フェーン現象に昼夜は全く関係ない。
実は「北陸のフェーンは夜に吹く」らしいですね(荒川正一『局地風のいろいろ』成山堂)。
細い平野を挟んで海岸線と脊梁山脈が平行に走っているもんだから、
昼のフェーンは海陸風と相殺して弱まるけど、夜は加速すると。
ちなみに、稲は夜間にフェーンにあった方が被害が大きいそうで、
砺波平野に点在する風の神の祠(風宮)は、その脅威を物語ってるのでしょう。
そんでもって話は戻りますが
>>334 >西日本の戦乱期に、西日本から逃れて移住して来た人々(神武の様な多数のグループ)が
>関東平野沿岸に定着した様にみえます。
ちょっと古い(1978)ですが、山本武夫「気候と歴史』(朝倉書店)は
歴史上繰り返されたこのようなダイナミズムを、気象の観点から考察していますね。
生産力に制限を加える要因を、東日本は気温、西日本は降水であると
規定して、そこにトレードオフの関係があるとしています。つまり、
温暖期には東日本の生産力が上がる一方で西日本は旱魃になるし、
逆に寒冷期には西日本は大丈夫だけど、東日本は冷害になると。
かなり単純化したモデルだし、例示している期間も10,11,12世紀(承平・天慶の乱から
鎌倉幕府成立まで)だけですが、けっこう「うんうん」と思ってしまう。
347 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/20(金) 22:36:55
>>346 山本武夫「気候と歴史』(朝倉書店)は存じ上げていませんでしたが、同じような見方です。
AD1c2cの西日本戦乱の原因は旱魃だと見ています。
魏志倭人伝の倭人の風土についての記述は、
温暖期ピークを過ぎた頃の九州の温暖な気候を示しているように見えます。
卑弥呼を共立できたのも、旱魃ピーク後に旱魃対処に目処がたったことを意味していると思います。
関東最古の神社といわれる鷲宮神社も出雲系だっけか?
349 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/21(土) 10:58:46
鷺宮
>>348 実は恥ずかしながら鷲宮神社というのをよく知らなかったのでちょっと調べたら、
けっこう面白いですね。
http://www21.big.or.jp/~tetsuki/hokan/washinomiya.html たとえば↑など、いくつかのページには「古くは浮き島大明神」と呼ばれた
という記述があります。これは
>>349とも絡んで歴史地理的に興味深いのですが、
出典が不明なので措いとくとして、とりあえず縁起です。
上のページにも書いてあるように、出雲系の天穂日命と武夷鳥命父子が
やってきて神崎神社を建立して大己貴命を祀ったのが始まりとなっています。
で、神崎神社といえば香取神社のお膝元、千葉県香取郡神埼町の神埼神社。
http://www.kaiun-goriyaku.com/12j-009.htm ここの祭神も鷲宮神社の武夷鳥命と同一神とされる天鳥船命でして、
この二つの神埼神社は同じものと言えそうです。それでもってこの
香取の方の神埼神社は7世紀の創建となっています。これまた出典は
不明なのですが、しかし7世紀というのが興味深い。
鳥越憲三郎の「出雲神話の成立」で詳しく考証されているように、
7世紀前半までは出雲族の中心は平野東部の意宇川流域にあり、
これが出雲大社のある斐伊川流域に移るのは7世紀後半なんだそうです
(ちなみに出雲国造が移ったのは記紀成立とほぼ同じ8世紀初頭)。
ところがべつに平野西部が無人の荒野というわけではなく、大小の
豪族がすでにいたわけです。たとえば神門郡には出雲国造臣から
別れた神門臣が住んでいたわけで、そこに本家が来れば譲らざるを得ないでしょう。
ようするに、出雲の国譲り神話の唯一の典拠である記紀が書かれている
まさにそのころ、出雲では「プチ国譲り」ともいえる事態が起きていたと。
その結果として初めて斐伊川流域を舞台にした記紀神話が完成するのですが、
それはスレ違いなのでさておいて、ともかくもともと斐伊川流域に住んでた
豪族が玉突き的に追い出されて関東に向かった。 とすれば、上の神埼神社の
7世紀につながります。
ここまで踏まえた上で鷲宮神社に戻ると、どうやら出雲族に係る神埼神社が
発祥というのはどうやら嘘らしい。では元々の由来はなにかというと、
神社の中にある堀内遺跡が浮かんできます。
http://syokoukai.or.jp/kankou/washimiya/pg.htm 縄文晩期以降、人の気配がぱったり途絶える武蔵において、
縄文・弥生・古墳と住み続けてきた鷲宮には古来からの神様が座して
いたのでしょう。そこに後からやってきた出雲族が出雲の神様を奉り、
そのうちそちらが元祖になってしまった。そんな感じがします。
このあたりの事情は、民俗・神話板の質問スレで話題になった大宮の
氷川神社と同様の構造がある気がします。社殿に「景行天皇の御代に
日本武尊がやってきてテコ入れした」というのがあるのも共通ですし、
何かしら出雲族の移入を古くしたい操作の存在を感じるのでした。
長々と書いちゃってすみませんでしたが、鷲宮神社からの妄想ネタだけで、
ご飯三杯くらい食べられそうな気配ですねw 先に書いた「浮き島大神宮」も
突っ込んでみたいですし。 いいネタをありがとうございました。
353 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:21:20
良スレage
354 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:01:01
誰か推測でもいいので下総国造について教えてクレ。千葉の歴史スレであの辺は縄文遺跡の上に弥生・古墳遺跡が立ってて全国的にも非常に希少とのこと。なのに正体がわかっていないんだ。頼む。
355 :
354訂正:2007/04/21(土) 22:04:26
あの辺(×)→市川の国府台のあたり(○)
下総国造なんていない。後に下総国の管轄下になる郡にはいた。
(これは日本どこでもそう。大半の国造は後の郡規模。)
例えば千葉国造、印旛国造、上下の海上国造、そして香取。
関西人なのでよくしらんが、市川は葛飾郡で、一番近いのは千葉国造かな。
確証は無いけど川筋つながりで印旛じゃねーかな。
千葉国造が何時成立したのか知らないけど、地勢的には菊麻国造領の分割。
>>357 君原礼二「古代東国の風景」(吉川弘文館)によると、6世紀になって
市川・松戸・我孫子あたりに新興勢力出てきて千葉国造につながるそうですね。
その前の旧海上国やそれが分裂してできた諸国の中では、辺境の田舎だったっぽい。
それが下総の国府が置かれるようになったんだから、それだけ千葉国造の
勢いがよかったということでしょうね。
んで、6世紀前半というと、「日本書紀」の安閑記に出てくる武蔵国造のゴタゴタも
同時期(もう少し遅いという説もあり)だし、「続日本後紀」には、畿内の豪族の
物部小事が坂東を征した勲功で匝瑳郡を与えられたとか出てくるし、
なんかいろいろ目まぐるしい。
もうひとつ、たとえば千束の鷲神社のような 天日鷲命を祀る神社が
東京の東側と千葉の西側にいくつかあるのも気になります。こちらは阿波の忌部氏。
ただし、千束の鷲神社は江戸名所図会(1832)には記載がないそうなので、
安易に古代に結びつけるわけにもいかない気がしますが。
359 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/25(水) 15:22:36
360 :
348:2007/04/25(水) 16:02:35
361 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/26(木) 06:36:28
>>360 ありがとうございます。
特にアーバンクボタです。これから利用できそうです。
この種の資料は検索が大変です。
362 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/26(木) 11:39:43
>>360 flood mapも参考に使わさせていただきます。
ただflood mapは樹頂等が標高になっているところがあり、
ベース地図は、国土地理院の2万5千分の1の地図等から引き起こさなければと思います。
363 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 12:43:20
【わきもと】札幌市民に企画有り!【しげゆき】
364 :
婆 ◆HKZsYRUkck :2007/04/26(木) 22:26:31
>>360 ありがとうございます。flood mapは面白いですね。
小一時間遊んじゃいましたw
市川の下総国府に絡んで、現在の東海道やそれに接続する水戸街道、
成田街道などのルートがいつできたのか、というのが疑問に思えてきました。
武蔵国が正式に東山道から東海道に変わったのは771年ということから
「古代から奈良時代までは浦賀水道の海路がメインルートであった」
という記述がwebでも多く見られます。ですが、下総の中でも西のはずれにあたる
市川が国府になるということは、100年以上前の7世紀半ばの時点ですでに
都内を通るルートが盛んに使われるようになっていたということだと思います。
もちろん全部が陸路というわけでなく、江戸時代でも「矢切の渡し」があった江戸川
周辺は船だったでしょうが、それでも房総半島の半ばまで回るよりもずっと早い。
そう考えると、8世紀はじめに書かれた古事記の日本武尊が浦賀水道を渡っているのは
ちゃんと時代考証ができているということなのか、単に当時も浦賀水道ルートも
メジャーだったからなのか…。
365 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:52:48
良すれgae
縄文気候の変動の話が非常に興味深いのですが
>>331にある
>縄文寒冷期の頃の暖冬では、南岸低気圧が増え雪が降ります。
>縄文寒冷期の頃の寒冬では、低気圧が遥か南方太平洋上を通過するので関東平野には雪が降りません。
>江戸時代の小氷期は現代の寒冬程度でしたから関東平野に雪が多かったに過ぎません。
の2行目、「低気圧が遥か南方太平洋上を通過」に関する論文やデータなどありますか?
366 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/04/30(月) 06:15:57
>>365 論文やデータと言うより、現代でも冬季には日常的に発生しています。
天気予報士の方々にとっては常識的なレベルのことと思うのですが。
367 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 16:33:55
>>366 わたしは天気予報士ではないので…
たとえば近年では何年の何月何日ごろがそうだったとか例をあげてください。
おねがいまします。
369 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/01(火) 06:36:40
>>367 「南岸低気圧」でググって下さい。
見つかるのではないかと思います。
ただ、南岸低気圧が沿岸部に近づいた場合に雪が降るったことの記載が殆どでしょう。
南岸低気圧が沿岸部から離れた場合の記載はなかなか見つかりにくいと思います。
雪が降らないで普通に寒いのでニュース性がありませんから。
寒冬になれば「何故雪が降らないのか」とニュース性がでるので記載が増えると思います。
しかしながら、この20年暖冬が続きで、南岸低気圧が沿岸部から離れて通過する場合があまりないようです。
自分は栃木出身で毛の字が入った苗字なんだけど
なんか関係あるのかな?
371 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 01:19:16
372 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 03:36:52
まあ普通に朝鮮人が来る前から関東にも縄文系の国家があったってことでしょ。
九州の隼人や出雲、東北の三内丸山みたいに。
んで第一次朝鮮移民では平和的に、出雲辺りで朝鮮系移民と縄文が
融合していったと。
第二次朝鮮移民が、いわゆる天孫降臨で、北部九州からどんどん東進して、
出雲以外の全ての関西圏を掌握。東の限界は日本アルプスまで。
いわゆるフォッサマグナだな。
この時点で、朝鮮系と日本系のバランスがしばらく続いて、
九州南部、出雲、そして日本アルプスより東が縄文系。
西側が朝鮮系の支配する領域になった。
そして、朝鮮系が更なる東進を始めて、関東、そして東北を支配下におさめたと。
しかし、関東以東は田舎だということで、朝鮮人は住みたがらず、
代官だけを置いて、税金を徴収して、縄文系の地元豪族に実質の支配は任せた。
朝鮮人が直接住んだのは大体名古屋まで。
また、関西圏でも山岳地帯に日本人が逃げ込んで残っていたために、
時代と共に徐々に朝鮮系と、縄文系が緩やかに混ざっていった。
っていうのが大体の流れだよな?
373 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 01:45:02
誤解されないように言っておく。
半島にとどまって、ツングース系女真族やら高句麗系と混血して、
新羅統一以降に出来たのが「朝鮮民族」。
だから、「朝鮮人」が日本列島に移民移民してきたわけじゃない。
半島倭人(ないし原日本人)の一派が日本列島へ移民してきた、
というほうが近い。
半島に留まったやつと、渡ってきた奴ね。
結局それ以前に遡れば一緒なわけね。
376 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 09:03:19
秦氏や漢氏などは一族で日本に帰化してるので、
半島に残った人間(今の半島人)とは根本的に違う。
377 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 11:09:00
373や376の意見って最近2chを中心によく聞くんだが、古代半島人と現代朝鮮人が完全に違うということは無いと思うんだがなあ。滋賀県人と朝鮮人との顔・体型の余りの類似度!柳美里や椎名英姫とおんなじ顔がゴロゴロ。あそこは古代半島人の入植地でしょ?
378 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 12:51:20
「古代半島人」と言ってる時点でダメ。
379 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 12:58:34
んじゃ「古代朝鮮人モドキ」ならOKなのか?
380 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 13:34:57
「韓民族」という想像の民族の伝統を主張するために、
扶余・高句麗・百済・韓・新羅・加耶、といった諸集団を
「韓民族」の祖先だとするのが、韓国では一般的です。
381 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/31(木) 15:30:17
>>380 でも、民族として最大の文化である言語では、
「新羅語」が朝鮮語の基本祖語なんですよね。
「高麗語」になると殆ど「朝鮮語」とみなして良いし。
扶余・高句麗・百済・韓・加耶の言語が殆どわからないこともあるが。
高句麗語の数詞が日本語に近いので、(高句麗語と新羅語は全くの別言語)
扶余・高句麗・百済・韓・加耶の言語グループに日本語も入っていると見て間違いないと思います。
扶余・高句麗・百済・韓・加耶が、「半島に留まったやつと、渡ってきた奴ね。」に分かれたのでないかな。
15世紀のハングル文字の発明と朝鮮語に漢字1文字の訓読みが無い事が、
15世紀になってやっと半島の言語統一が為されたことを示していると思います。
382 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 16:53:29
>>381 >数詞が日本語に近いので
それはもう、日本人はどこから来たか論の話でしょうね。
やれバイカル湖がどうだこうだの…
383 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 08:33:01
384 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/10(日) 11:57:18
385 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 08:06:34
386 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/26(日) 18:03:02
上げておきます。
関東平野の海岸線と神社のプロットはまだ出来ていません。
最近は魏志倭人伝の読み直しに嵌ってしまいましたので。
九州の1〜3世紀の気候地形等を踏まえて読み直すと新しい発見が数多く出てきています。
実質的に天皇家(大和朝廷?)が関東を支配下に治められたのは大政奉還以降とみなしてよいのでしょうか?
388 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/27(月) 00:08:53
>>387 畿内天皇朝廷が関東を支配したと思ったのは8世紀。
秩父和銅の件が、やっと支配できたと思い喜んだ最初の出来事だろうな。
蝦夷征伐が継続してできたのも、関東から兵士と食料を調達してたから。
また、平家が勃興できたのも関東と言う豊かな土地があったから。
これを考えると、それ以前に、朝廷と張り合える大王いたとしても不思議じゃない。
と寝れないので書いてみる。
390 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 22:02:08
あげ
391 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/16(火) 00:00:40
>>383 遅レス
国造を廃し、国司を置いた時点で、
武蔵は大和朝廷の支配化になった。
それは、8世紀の始め、何年か忘れた。710〜720年頃?
おいおい、当時の状況でそんな余力が中央にあったとは思えない
393 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 16:22:54
>>392 >当時の状況でそんな余力が中央にあったとは思えない
地方支配を進めるだけの余力は持ち始めていたことが、続日本紀に記載されている。
*九州及び各地の鎮圧完了
*太宰府を核にした九州支配の達成
*各地の国造からの献上
*隼人や半島人等の東国北国への移住開始
*日本書紀の編纂開始
*風土記の編纂開始
394 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/20(日) 20:22:08
九州王朝揚げ
395 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 21:21:32
上尾
396 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 23:47:32
倭王武(雄略)は、
「六国(@倭A新羅B任那C加羅D秦韓E慕韓)諸軍事
・安東大将軍・倭王」を
中国(宋)の順帝から授かっている。
ヤマト朝廷は、当時の日本は間違いなく抑えていたと見ていいだろう。
397 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/21(月) 16:22:13
>>396 >倭王武(雄略)は、
それでは、倭武天皇(常陸國風土記)は誰になるの?
398 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 18:26:10
ヒタチハラハラ
399 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2008/01/23(水) 09:53:29
以前のレスに出た「南岸低気圧」が今日の雪だよ。
縄文晩期の暖冬では、今日の様に南岸低気圧が通過し雪が降る。
雪が降るときは暖かく気温は-2℃〜+2℃。
縄文晩期の関東平野では平年の冬には、
シベリア高気圧はもっと張り出し南岸低気圧は太平洋上に南へ後退。
連日晴天が続き、夜間気温は放射冷却とあいまって-10℃以下は普通。
関東平野には雪が積もらないので、現在の道東以上の厳しい冬となる。(土壌凍結)
これが縄文晩期に関東平野で縄文人が希薄であった理由。
400 :
女王國はどこか?:2008/02/22(金) 01:26:25
之止ってる