1 :
新田小太郎:
2 :
足利又太郎:2007/01/21(日) 14:41:03
3 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 16:37:29
4 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:02:33
大中黒と二引両
5 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 01:50:45
hosyu
6 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 06:45:20
何か話題無い?
7 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 18:58:13
足利家の分家の中で
なぜ新田義重の系統だけが足利一門ではなく
新田一門という別の一門とされるのだろう?
義重はれっきとした足利家の出身なのに。
8 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 01:38:48
>>7 釣られて答えよう。
一部の学者は源義国(義重・義康の親父)を足利義国として取り扱っているが、
源義国は死ぬまで「源義国」であり、公に足利義国と名乗ったことはない。
これは、後に足利義清(矢田判官)の遺文でも明らかになっている。
んでもって、長男、義重は新田に、次男、義康は足利にそれぞれ土着し
新田氏の祖、源姓足利氏の祖となったのだ。知っているとは思うが
当時、下野には藤姓足利氏(藤原秀郷流)が存在していて、源姓足利氏と
勢力争いをしていた。義重率いる新田氏は義康率いる源姓足利氏を支援
するために度々、藤姓足利氏と戦っていたのよ。
9 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 05:13:09
>>8 なるほど〜。
それからまた質問なんだが
新田氏の家紋である大中黒は○に─だが
─は○と接するのかいな?
それとも離れるのかいな?
NHK大河なんかだと足利氏の家紋も同じく
○と接してないが
古い屏風の絵なんかだと接しているんだが
義康の頃までは、足利も新田もなかった、
という説もあるんだけどな。
11 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 00:46:45
義康は若くして死んだから、
義兼が実質初代の気がする
12 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 01:42:55
足利義康が早死にしたので、新田義重は一時期
若年の足利義兼を補佐し、後見人になっていた。
>>12 その説は俺も見たことがあるが、
一体誰が言い始めたんだ?
そんな史料どこにもないと思うんだが。
奥富だったっけ?
新田神社を麓から徒歩で目指したら
時間がどれほどかかることやら・・・
15 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 23:01:24
hosy
16 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 01:00:06
新田義貞の子孫っているの?
自称ならたくさんいるんじゃない?
俺の先祖は「先祖は脇屋なんとかの部将」と詐称した。
18 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:49:55
19 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 11:51:27
>>16 徳川家も新田の子孫ということになってる。もちろんでっち上げだが。
例えば家康の正式な名乗りは、清和源氏新田氏系得川氏徳川家康
その他、新田系の有名どころでは里見氏、山名氏、脇屋氏かなあ。
江戸時代の高家や旗本として義貞の子孫の岩松氏や由良氏がある。
>20
> 徳川家も新田の子孫ということになってる。もちろんでっち上げだが。
「もちろん」というほど確証は無いけどね。
>>21 遊行僧の徳阿弥の子孫が、
三河守を得るために藤原氏を名乗り、
征夷大将軍を得るために源氏を名乗り、
秀吉以上の迷走ぶりで、もう無茶苦茶じゃん。
一体、どこに「得川」の子孫という根拠があるんだ?w
>例えば家康の正式な名乗りは、清和源氏新田氏系得川氏徳川家康
めちゃくちゃ言ってるな。これが正式な名乗りって。
源朝臣徳川家康 だろ。新田とか得川とか言わないよ。
24 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 21:41:46
>>20岩松家や由良(横瀬)氏が義貞公の子孫??? どこの情報だよ!
>>23(苗字)+(官職)+(氏)+(姓カバネ)+(諱)
では?
『徳川右大臣源朝臣家康』でいいのかな?
世良田じゃなかったっけ?
>>24 >岩松家や由良(横瀬)氏が義貞公の子孫??? どこの情報だよ!
徳川幕府は由良を高家とし、
明治政府は岩松を新田家嫡流と認めて叙爵しているんだから
そういうことにしてやれ。
>>22 > 征夷大将軍を得るために源氏を名乗り
↑
これって昔は定説化してたのかもしれんけど、
家康の祖父の代から源氏を名乗っていたって史料が
何年か前に見つかってからは、
そこまではっきり言い切れなくなっているんだが。
28 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 10:27:49
>>26いや、それは判るけど、少なくとも義貞公の血はひいてないでしょ。
生物学の話は板違いだろ?
削除依頼しといた
松平家の本姓は在原だったはずでは
31 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 00:40:21
32 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 01:49:17
織田氏 = 忌部姓→藤原姓→平姓
羽柴(木下)氏 = 馬の骨→藤原姓→豊臣姓
徳川(松平)氏 = 賀茂姓→在原姓→源姓
だべ?
33 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 02:16:25
2001年宇宙の旅ってドキュメンタリー映画があるじゃん
あの映画で最初に道具を使った猿が秀吉の先祖
秀吉こそ人類嫡流だと確信したね
↑
自分じゃ相当面白いこと言ってるつもりなんだろうな。
35 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 06:48:34
36 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 09:25:51
後年に源義国が不祥事を起こし蟄居した先が足利じゃなかったっけ?
それから足利荘開発が本格化してて、新田荘は長男に譲ったと読んだ事あるが。
37 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 22:49:03
>>32 >羽柴(木下)氏 = 馬の骨→藤原姓→豊臣姓
馬の骨ワロスw
38 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 00:08:20
39 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 00:10:56
新田昌玄さんは新田義貞の子孫ですか?
40 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 09:36:44
長男系統は頼朝に付かずに次男足利が頼朝につき鎌倉幕府内の名門として源氏の新田系本流になったんだろ。
>>36 後年に源義国が不祥事を起こし蟄居した先が足利
それから新田荘開発が本格化して、足利荘は次男に譲り、
義国は長男とともに新田荘開発に勤しんだ
中曽根大勲位って里見の一族みたいなことを言ってたことがあるが、
つーことは新田氏系なんか?
>>次男足利が頼朝につき鎌倉幕府内の名門として源氏の新田系本流になった
こんな表現する人初めて見たw
44 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 10:51:37
次男足利が源氏の新田系本流になったのかw
45 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 12:58:48
新田家も足利家も
設立当初は、どちらが本家という感じでもなかったんだろう?
それに、両家とももに、長幼の序で家督を相続したわけではないから。
だから、新田家が長男だから本家というわけでもない。
あえて、本家はどこかというと
源義家の総領を継承した源為義の分家という立場だったんじゃないの?
両家とも。
46 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 20:43:15
>>42 どうせ徳川と同じ「自称新田氏系」じゃないの?
新田の子孫といえば地元の選挙区にもウケがいいだろうし…。
47 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 21:38:53
庶長子=新田 嫡子=足利
新田氏からみれば、「どちらも御家人だし兄系のこちらが上!」「(源家郎党の)北條なんぞになびいて地位を上げやがって」みたいな感じ?
足利氏からすると、「こちらが嫡流」「(新田は庶長子の家だから)斯波・吉良みたいな扱いでい〜や」って感じ?
48 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 21:55:25
>>47 それは後世に創作された可能性が高い
昔は長子相続も嫡流という概念もあまりなかったから
頼朝がいつの間にか嫡流で源氏宗家扱いになってるが
当時は義平や村上源氏が嫡流扱い
>>47 新田と足利で嫡子も庶子もないって。独立した家として成立してるんだから。
頼朝からみてもどっちも別に庶流ではない。(河内源氏の嫡流・庶流って区別が当時は無意味、嫡流と自称しても何も特典なんかない)
頼朝が他の御家人の支持を集めて幕府が成立したから、頼朝の右大将家の実力と格が上がって、頭が上がらなくなっただけ
親父の代の源義朝と源(足利)義康は独自の軍事力を持って、別々に朝廷に奉仕していたんだから。
、
>当時は義平や村上源氏が嫡流扱い
村上源氏が嫡流ってのは源氏長者と混同してるだろ?
あれは、源氏の最上位の公卿がなるんだよ。
だから今の長者が引退とかで位を退いたら、別の家系が就任することが多い。
高位の公卿として残ったのはほぼ村上源氏だけど、複数の家が残っているので、前の長者の息子より高位の別の家の当主がいることが多いから。
足利義満が源氏長者になって以降も、足利将軍より官位が高い源氏の公家がいたら、そちらが源氏長者になる。
講談社現代新書の「源氏と日本国王」って本にその辺が詳しく書いてあるよ。源氏長者の一覧も載っている。
51 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 00:33:40
新田義重って、中央では活躍してるの?
足利義康の場合は、早死にだけれども、保元の乱で大活躍してるし、
乱後に蔵人になって昇殿も許されたりしてるけど。
52 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 01:11:14
日本国王と源氏長者って愚説だなw
徳川家康が何故、源氏長者に拘ったかというと
当時の貴族・諸侯の任官の管理が出来たのが
源氏長者と藤原氏長者なわけで。(鎌倉期にはこの二氏しか長者を出さなかった)
氏族の長者が、同じ氏族を名乗る貴族や諸侯の任官の世話をしたわけで。
これは平安時代からずっとそう。
で、朝廷から認められた氏族の大半が、源氏と藤原氏を名乗ったので
これらの長者になったほうが有利だった。
藤原氏長者は、五摂家という存在があったから
当然、狙うのは、源氏長者のほう。
53 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 02:03:55
鎌倉段階で、橘氏長者とか菅原氏長者とかもなかったか?
橘氏は公卿を出さなくなった10世紀末以降、血縁のある藤原氏・源氏の公卿が
代わって推挙を行い、これを是定とよんだ。
(大納言橘澄清の女より生まれた藤原時姫(藤原兼家正室)所生の道長の子孫など)
藤原・源の他、王氏・伴・菅原・三善・和気・小槻などは後世まで続く。
また、藤原の場合、勧修寺長者・善勝時長者など分流ごとにも長者がいた。
>52
こりゃまた斬新な説を提唱されますね。
他の武家の任官に関わった織田信長や羽柴秀吉が氏長者だったとは聞きませんが?
それとも流浪中の足利義昭がやってたとでも?
だから豊臣姓を造ったとかいうなら、豊臣姓が出来る前後の任官の仕組みの違いを説明してくれ。
>>55 秀吉は、近衛家の養子になっている。
そこから関白への道が開け
全国の諸大名に号令をかけられた。
織田信長は天下を号令する前でしょう?
うはっ、いきなりチャチャが入ったw
試しに読んでみようと思って
>>50が紹介してくれた
「源氏と日本国王」をさっき注文しちまった
もしかして電波系の本だったのか?orz
>秀吉は、近衛家の養子になっている。
で、藤原氏長者になったの?
>織田信長は天下を号令する前でしょう?
本人や息子達、部下も正式な官位についてるんだが。
信長右大臣 信忠秋田城介 光秀日向守 とかね。
59 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 11:33:45
源頼朝が平家に反旗を翻した時に、すぐ従った足利が
鎌倉時代を通じて重用された
新田は、頼朝に従うのが遅れて、
冷遇されたらしいが、平家が勝つと思って様子をみていたのだろうか?
60 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 13:56:47
>>59 むしろあの時点で頼朝が勝つなんて普通は思わない
それこそ今シーズンは楽天が優勝!と予想するくらいのもの
61 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 17:36:53
当時は頼朝ばかりが源氏の代表だったわけじゃないからね。
当時からいえば甲斐源氏のほうが大勢力だったわけだし。
62 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 21:07:45
>>57 >「源氏と日本国王」
この本の内容はNHKでも紹介されたよ。
しかし、この本の内容に関しては、イチャモンをつける人が多い。
その後、結構、論破されている。
なぜ、源氏長者が重要だったかというと
朝廷内の任官の世話を、その氏の氏長者がするという決まりがあった。
当時の豪族の多くが、自称・藤原氏や源氏が多くて
源氏長者や藤原長者になることは、その当時の
多くの貴族や諸侯の任官の世話をする権利が獲得でき
政治的に有利な地位につけたからだ。
平安時代なんかでも、武門の棟梁・源義家ら清和源氏も
任官に世話を、源氏長者の地位にあった村上源氏の当主にしてもらっていた。
藤原長者は五摂家がいるからハードルが高い。
(ただし、秀吉は養子になって、そのハードルを越えたけど)
足利義満も朝廷内で優位にたつために、
徳川家康も、全国に多くいる自称・源氏の諸侯に対して優位に立つために
源氏長者になった。
>>62 >なぜ、源氏長者が重要だったかというと
>朝廷内の任官の世話を、その氏の氏長者がするという決まりがあった。
そんなお得な決まりはない。w
氏長者が持っていた氏爵は、年に一人正六位上のものを推挙して、従五位下に叙するってだけだ。
(五位になれるかどうかってのは下級貴族には大事だが)
その他の人事にまで、氏長者が関与するわけじゃない。
>武門の棟梁・源義家ら清和源氏も
>任官に世話を、源氏長者の地位にあった村上源氏の当主にしてもらっていた。
ソースをどうぞ。
>徳川家康も、全国に多くいる自称・源氏の諸侯に対して優位に立つために
>源氏長者になった。
で、藤原氏(伊達)や菅原氏(前田)や大江氏(毛利)の任官はどうするんですか?
>>60 結構確立有ったんだな。
オリックスだったらあり得ない話だが…
65 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 00:03:33
頼朝が挙兵した当時に将軍宣下される確率と、清原が今年ホームラン王になる確率では、清原の方が確率上かもしれないな。
66 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 00:11:11
>>59 いやいや、楽天優勝よりも確率は遥かに高いよ。
一度動き出した歴史の流れは誰にも止められない。
150騎で挙兵した義貞が、2週間で鎌倉幕府を陥落
できるなんて、当時誰が想像できただろうか?
67 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 00:18:33
>>62 藤氏長者について質問なんだが、
天正13年(1585)に関白が二条昭実から秀吉に変わってから、
慶長5年(1600)に九条兼孝が関白になって摂関家による関白が
復活するまでの時期って、藤氏長者はどうなってたの?
秀吉の豊臣賜姓前は秀吉が藤氏長者のような気もするんだけど、
秀吉・秀次が豊臣朝臣になってからは、関白とはいっても彼らが藤氏長者に
なるわけにもいかないよね?
68 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 02:10:28
秀吉は近衛家の養子とはいえ猶子だから、当主でもなきゃ嫡男でもない。だから、藤原氏長者とも無関係。
69 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 03:37:36
>>66 >150騎で挙兵した義貞が、2週間で鎌倉幕府を陥落
>できるなんて、当時誰が想像できただろうか?
1.たった150騎での挙兵だったのかどうか疑わしい
2.千寿丸の兵がどこで合流したのかすらわからない
3.高氏と合議の上だったのかもわかってない
4.ただし、当時は裏切りが多いので今日の友は明日の敵率多い
>66
でも歴史の流れなんてものは後になってから分かるものであって。
その時代の渦中にいる人間にはなかなか分からんものだよ。
頼朝にしたって、弟希義や義円のように、
挙兵したはいいが敗死してそれっきり、なんてことになっていても
全くおかしくなかった。
木曾義仲を忘れないで下さい
72 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 17:04:17
君のことは永遠に忘れたりしない
>>69 >千寿丸の兵がどこで合流したのかすらわからない
えっ、そうなんですか?
74 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 23:00:26
>>69 でも仮に新田がどこかで潰れても、千葉貞胤が東京湾沿いを大して変わらない
速さで侵攻していたから、結果的には鎌倉陥落は時間の問題のような気もするな。
75 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 01:29:50
>>73 YES
分倍河原の戦い前なのか後なのかはっきりしない
前なら鎌倉陥落はある意味足利軍のおかげであり義貞の評価は薄くなる
後なら新田軍の快進撃なのにおいしいところを吸ったのが足利(細川兄弟)という評価
>>74 タラ・レバは(ry
76 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 01:34:44
>>69 ライバル足利家の千寿王(足利義詮)が、新田庄の生品神社の挙兵
の時点で加わっていたとは考えにくい。まず越後の新田一族と合流し、
それから細川らが千寿王を押し立てて鎌倉攻めに合流したと考えるのが
自然だろう。 もしも新田が最初から千寿王を大将にしていれば、
鎌倉攻略後に鎌倉で新田、足利の指導権争いなど起きるはずもない。
義貞の頭の中には足利の配下につく選択肢はないからね。
>>69 三浦義勝もいたしな。高氏も東下してくれば、鎌倉陥落は結局
時間の問題だろうな。
77 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 02:23:41
吉川の人物叢書やミネルヴァの人物評伝はどう書いてる?
78 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 08:02:06
>>77 吉川の「峰岸純夫」著でも「わからない」となっている
ただ、尊氏と義貞が後醍醐天皇を介して罵り合った際のエピソードを入れている
尊氏が「おれのおかげで鎌倉落とせた」と罵ると
義貞は「ちがう!」と反論した
79 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 09:10:55
いくら鎌倉幕府の権威が落ちても、無位無官の新田義貞に従う軍勢は多くない
足利家嫡子の千寿王が加わったから、多くの軍勢が集まった
>>76 いや、
>>69は「新田庄での旗揚げの段階で千寿王が加わっていた」なんて事
は一言も書いてないやんけ
>>76 >義貞の頭の中には足利の配下につく選択肢はないからね。
それは、幕府を滅亡させて、名が売れたあとだから言えることなんじゃないの?
足利の名前を前面に出すことで軍勢を募って、実権は自分が握るということを考えた可能性はあるのでは?
82 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 23:42:03
新田義貞の建武体制での官位は?
83 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:22:00
>>81 いや、義貞はずっと自分自身が総大将になって鎌倉攻めをする姿を
思い描いていただろうし、実際に何年も前から入念にその
計画をを立てていたんだよ。 千寿王の参陣は、義貞にとって
嬉しい誤算だったのだと思う。
義貞は鎌倉大番役だった時代から、鎌倉の地形を深く研究していたのだろう。
でなければあのような短期間で鎌倉は攻略できない。
稲村ガ崎の刀剣投げも、引き潮のタイミングを見計らった
一大パフォーマンスだろ。はなから足利の配下で手柄に預かろうなんて
考えていなかったはず。
現に鎌倉攻略軍は、義貞隊、脇屋隊、大舘隊と、すべて新田一族によって
統率されており、千寿王や細川に一切出番はなかった。
義貞は戦後の鎌倉の治安維持に失敗し、むしろ名を落としてしまった。
>義貞は鎌倉大番役だった時代
何だそりゃ?
お前、変な小説の読みすぎじゃないか?
85 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:31:18
昔、大河ドラマで真田広之が尊氏やてた時、義貞は根津甚八だったなー。
86 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:41:34
>>84 バレたか。新田次郎ね。
あなたも読んだのね・
87 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 00:56:23
>>82 正四位下行左近衛中将
新田小太郎源義貞
だよ。
>81
>足利の名前を前面に出すことで軍勢を募って
それは新田が足利の下であるのを世間に公表するようなものだろう。
しかし実際に義貞がそんなことをやっていたのであれば、
鎌倉陥落後に足利との間でトラブルが起こるはずはない。
>それは、幕府を滅亡させて、名が売れたあとだから言えることなんじゃないの?
それを言うなら、あの段階で、足利の名前さえ出せば
全国から大軍勢が馳せ参じる、なんていうのも、
後年足利幕府が成立したことから来る錯覚では?
>>88 鎌倉末期の足利と新田、どれだけ地位に差があったか知ってる?
足利→北条一門と同格
新田→地方の田舎御家人
当初、後醍醐天皇ですら新田は足利の一支族という認識だった
新田なんて屁のつっぱりにもならんですよ。
建武政権で対足利として持ち上げられただけの存在。
>89
具体的にどの程度の差があったのか、
思い込み以上のちゃんとした根拠で示してみてよ。
「同格」だの「田舎御家人」だの、
あんたの脳内にしか無い歴史用語使わないでさ。
92 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 18:50:55
>>89 随分昔に見たNHK大河ドラマがソースだって吐いちゃえよ。
楽になるぜ。
>>91 89じゃないが、
足利氏 当主以下一族の複数が正式に官位を貰い(つまり朝廷にも名が知れている)、北条一門と姻戚関係を結び、幕府でも守護を務める
(同じような立場の一族は、佐々木や宇都宮など、一握り)
新田氏 官位を貰えず、名門と結婚も出来ない
>>88 >しかし実際に義貞がそんなことをやっていたのであれば
>鎌倉陥落後に足利との間でトラブルが起こるはずはない。
じゃあ何故鎌倉陥落後に、義貞らが鎌倉をそのまま掌握できずに上京せざるをえないようなことになったと考えるの?
結局、建武体制では鎌倉の実質的な支配権は足利氏のものになっちゃうんだけど。
>それを言うなら、あの段階で、足利の名前さえ出せば
>全国から大軍勢が馳せ参じる、なんていうのも、
当時の足利高氏の立場を考えてみれば?
北条氏の有力一門と代々婚姻を結び、一門で守護複数出している有力御家人だぞ?
しかも、つい先日関東から畿内への幕府側援軍の大将の一人として出陣した立場の人間。
そんな人間が幕府を見限ったということが、どれだけ周囲に影響を与えるか。
>>91 思い込みとするなら、まず自分がソース出した方がいいよ。
足利家=御門葉(将軍家に準ずる格式、従五位下国司、源姓)筆頭格
足利一門(細川、斯波、渋川、一色、畠山、吉良、今川など、総領権有り)
新田家=一御家人(無位無官、公式の場で源姓名乗れず)
新田一門(里見、山名など、総領権無し=独立)
ちなみに新田本家の所領って新田荘60郷のうちわずか数郷に過ぎなかった
さて、あんたの反論の根拠を示して貰おうか。
>>95 そうそう 新田は義重がすぐに頼朝につかなかった事に加え、
その後のごたごたで総領権を無くしたのがイタイよね
本家と奉られても実際の所領が少ないもんな
北条と縁戚関係にある足利とは境遇違いすぎるわ
>>95 これじゃ足利家とは違いすぎるわ、新田宗家。orz
「総領権」とやらを持ってなかったせいで
山名家を引き留めることができなかったんだ。
>>95 ちょっと横から質問だけど
足利宗家の斯波、吉良、畠山に対する総領権ってのは何を指しているのですか?
100 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 23:02:41
>>98 山名は義重の時から本宗家とは別行動。
どうやら山名は一族で冷遇されていたらしく、相続した土地も新田荘の外の山名郷だけ。
オヤジの義重には従わずに頼朝に真っ先に従った。
その後も山名氏は新田一族だけど、独立した御家人として扱われている。
>>99 斯波、吉良、畠山の所領は足利のモノ、って事。
後継者も御本家の承認が必要。
「戦じゃ〜」って言ったら従わなければならない。
一方の山名・里見は独立してるから、新田に対し
服従する義務は無い。あくまでも対等な関係。
所領も新田には一切関係なし。
102 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 02:42:25
おまえらの義貞に対する評価はどうなんだ?
A 「大将」
B 「凡将」
103 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 02:52:24
鎌倉攻めの総大将は足利千寿王だからな
新田義貞は先鋒に過ぎない
>89
> 当初、後醍醐天皇ですら新田は足利の一支族という認識だった
これのソースって何?
>>101 吉良と斯波の場合、足利宗家への従属は屈辱的だったんだろうなぁ
本来なら自らが足利宗家になるはずの家だったんだから
106 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 03:48:28
>>100 新田義重の主な失敗、その1 子供達への所領分割の際に資源(特に水)のバランスを欠いたこと。
特定の子供への偏愛が強かったこと。結果的に新田本宗家としての統率力を
弱めた。
その2 「陸奥守(義家)嫡孫」という血統意識が強く、源家本宗家には従わず
新興勢力になろうとしたこと。
その3 (外因)
源家本宗家の棟梁を悪源太義平が相続できなかったこと。
義平の正室は義重の娘。
だと、俺は思っている。
>95
だって、非常に恣意的な言い方でしょ、「田舎御家人」って。
確かに新田は足利と比べれば弱小かもしれん。
でも、御家人全体の中では果たしてどの程度の位置付けだったのか、
そこまで踏み込んで考察した話って聞いたこと無いんだよね。
更にいうなら、足利が新田より強大なのは確かだろうけど
北条氏と比べた時にどの程度だったのか。
あんたは「同格」なんてこと言っているけど、
何を以て同格とするのかな?
官位か、所領か、或いは動員兵力、名望、経済力、軍事力etc‥‥
全てに於いて北条と対等だったのかな?そんなわけ無いでしょ。
つまり、足利の勢力は北条と比べてどの程度だったのか。
新田の勢力は足利や北条と比べてどの程度だったのか。
そして御家人全体の中ではどうだったのか。
その辺りをもっと具体的に考察を詰めないと、
なかなか判断は出来ないんじゃないの?ってことね。
あとさ、この時代は総領じゃなくて「惣領」じゃない?
ついでに言うと、惣領職は義貞の祖父基氏の代に
世良田家から新田宗家が取り戻しているよ。
だからこそ、鎌倉攻めでははるばる越後から
里見一族が馳せ参じたわけで。
>94
>それを言うなら、あの段階で、足利の名前さえ出せば
>全国から大軍勢が馳せ参じる、なんていうのも、
> 当時の足利高氏の立場を考えてみれば?
>しかも、つい先日関東から畿内への幕府側援軍の大将の一人として出陣した立場の人間。
> そんな人間が幕府を見限ったということが、どれだけ周囲に影響を与えるか。
いや、だからさ、当の高氏にしてからが
「足利の名前さえ出せば 全国から大軍勢が馳せ参じる」
なんてことを信じ切れなかったからこそ、
なかなか倒幕に踏み切れずに一旦は鎌倉を離れて
都に上ったんじゃないの?
なんぼ有力御家人といっても、そこまでの自信はなかなか生まれなかったってことで、それほどにも北条氏が強大だったってことじゃない?
だいたい、足利が北条に匹敵するほど大きな存在なら、
三河で反転して一気に鎌倉に攻め上ったって良さそうなもんだ。
>>107 「具体的な考察」っていうのが
>>95なんだが、それでも理解出来ないかな?
御家人の定義で「上は数国の守護から下は僅かな所領しかない者まで」とあるが、
正にこれが足利と新田、ピンとキリだ。新田信者の拠り所である「同じ源氏」も
御葉門の足利と源姓すら名乗れぬ新田ではこれまた雲泥の差。
「格」という言葉が分からなければ辞書を引きなさい。
源将軍に準ずる家柄、北条執権が歴任する相模・武蔵の国司で唯一の例外が足利。
名声では一歩上の足利、官位ではほぼ同等、実権は北条が上、しかし
いずれを取っても新田が比較の対象になる事はありえない。
新田の勢力云々は挙兵時の150騎、それが全て。
それぞれの比較は意味無し。単独で合戦じゃなくてどれだけ他家を動員できるか、
これは時節によって異なる。北条をとれば六波羅陥落前後では大幅に異なる。
総領・惣領、どちらも使われる。正しくは惣領だろうが、こだわる必要は無いと思う。
総領権が復活してもすでに一門は束ねられなかった、これが現実。
頼朝の時代に山名・里見の独立を認めている。時流を見て本家についたのが里見、
足利についたのが山名。それだけの話。これも足利と新田の力の違いが伺える。
思い込みだけの反論、手持ちのソースもなく相手にソースねだるだけなら
議論にならないから、これからはレスしないよ。あしからず。
分別しやすい様にコテ名乗ってくれると助かる。
110 :
109:2007/03/13(火) 06:18:02
>>107 言い忘れた。
>だって、非常に恣意的な言い方でしょ、「田舎御家人」って。
例えで言えば、東京都知事と群馬の市に昇格出来ない郡の
さらに下の一行政センターの所長くらい開きがある。
こう言えば分かりやすかったかな?
111 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 07:59:55
>>106 >義平の正室は義重の娘。
その義平の未亡人を 頼朝が狙っていて
関係を断られたらしい
だから、新田は よけい冷遇されたww
112 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 09:57:26
鎌倉攻めの時新田よりも千葉や小山、宇都宮の方が格上だったのでは?
彼らが義貞の指示を素直に従ったとは思えないのでつが
それはプロジェクトを立ち上げたものと、プロジェクトに乗ったものとの差じゃないのかな?
多少格上でも後から参加すると、よほど人物に差がないか限りなかなか主導権をとりにく
いってことでは?
114 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 11:25:40
>>105 >>106 吉良と斯波が宗家になれなかったのは
それぞれの祖(長氏・家氏)の母が正室じゃなかったからだよ
だから正室腹の弟(泰氏・頼氏)が宗家を継いだというわけ
義平が源家を継げず、頼朝が継いだのも同じで
義平の母は側室で頼朝の母が正室であった事が大きい
115 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 11:27:15
そういえば義重は庶子で義康は正室の子であったような.....
116 :
;:2007/03/13(火) 13:15:53
>>109 越後や会津など.遠方にいる一族の到着をまだず旗揚げしたか
ら掻き集めれば.足利に劣るが 正成や赤松円心.名和長年なんかより
動員力を持つだろう。
117 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 13:59:26
>>114 もし、義平がこの時代まで存命していたら判らないよ。三浦氏のバックアッブもあるし
板東武者の間では義平は「八幡太郎義家」「鎮西八郎為朝」と肩を並べるほどの源家の有名人
だったからね。あなたの説はあくまで「義朝が正規に家督を譲る場合」は成り立つかもしれないが。
118 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 14:14:06
訂正です。
×板東武者
○坂東武者
119 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 23:08:57
>>111 実質人質として要求したんだろうけど、それを断るんだからよほど頼朝に従うのが嫌だったんだろ。
実際、新田惣領家は源平合戦、奥州合戦はおろか、承久の乱にも参加していないからね。
120 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 23:23:18
平治の乱で源義朝、義平、朝長が死に、頼朝が生き残ったから
頼朝が源家を継いだようになったが、
義平が生き延びていたら、頼朝と義平の間で家督争いが絶対に起きただろう。
新田のくせして盛り上がってるなぁ。
122 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 00:01:09
新田一族は、みんなニタニタしてますか?
123 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 01:54:35
>>113 当然プロジェクトにあとから乗っかった方が遥かに楽で安全だろな。
もし新田が潰れれば、逃げるか寝返るかすればいいだけだから、リスクも
責任も負わずに済む。
対する義貞にとっては、プロジェクト(革命)失敗=確実な死を意味する究極の大博打。
150人で政府転覆を企てるなど、尋常な心臓の持ち主ではまず無理だろうな〜
ルビコン川を渡ったシーザーや、桶狭間の信長以上の度胸が必要だったと思うぞ。
通常の人間だったら、せいぜい新田のケツをついていって恩賞をあずかるのが
関の山だったろうし、それも全うな人間の生き方だと思う。
>>109 たくさん書いて貰って悪いけどさ、
結局あんたの言いたいのは「足利に比べて新田なんてつまらん存在」。
それだけでしょ?
正直こういうステロタイプな言い回しって、もう飽き飽きしてるのよ。
あんたの論法は、例えば関ヶ原の折の石田三成は、徳川家康と比べれば比較にもならん弱小大名だ、
だから大名のピンからキリでいったなら三成はキリだ、というようなもので、非常に恣意的かつ主観的、まるっきりアバウトなんだよね。
もちろん三成の場合は「佐和山19万石」という具合に
その勢力値がわりあい知られているし、
三成が大名全体のランクとしてキリじゃないことくらい子供でも
わかっているから、そんな議論にならないだけでさ。
あいにく義貞の活躍した時代はそこまでわかりやすいバロメータがなかなか無いけれど、
だからって頭ごなしに「新田は御家人のピンキリでいえばキリ」だったと言い切れる根拠っていうのは何なのかな?
何度もいうけど、力関係が
足利>>>>>>新田って、それくらい誰でもわかってるよ。
ただ、そういう甚だ漠然とした言い方ではなしに、
御家人という層全体の中で新田はどの程度のランクだったのか、
或いは足利は、北条は、その他の大勢の御家人はどうだったのか、
その辺りをちゃんと踏まえて議論しているのか?ってことを言ってるつもりなんだけどね。通じないかな?
どの程度の差があったか、非常に詳細に客観的なデータが
示されていると思うんだが
126 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 08:00:02
鎌倉末期の状態を、江戸時代の○○万石大名で例えれば
足利:50万石以上の大大名、分家の吉良、斯波なども10万石クラス
官位は従四位下あたり 北条家と数代にわたり婚姻関係あり 準一門扱い
新田:せいぜい5万石 しかも所領内で分家を養い相続争いも頻発
無位無冠の一御家人
当時は 足利>>>新田 だったでもういいじゃん
なんでそんなにひとりで必死かな
128 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 08:33:18
足利学校というのがあるんだから、新田学校も発見してくれ
>>124 >その辺りをちゃんと踏まえて議論しているのか?
こちらは「新田がキリ」の根拠は提示しているだろ?
踏まえて議論も何も、そもそも「新田は田舎御家人」と言い、その根拠を提示しただけだ。
何故そう思わないのか、あんたは一度も提示していないよな?
自分からソースだして論じてみろ、と何度も言っているのが分からんのかね?
傍から見ると、耳を塞いで「聞こえない聞こえない」と言ってるだけだ。
新田庄数郷程度、総員150騎、無位無官で源氏と認められない新田義貞、
これが漠然とした言い方かね?これの何処が「非常に恣意的かつ主観的、まるっきりアバウト」?
いい加減、きちんとした根拠を元に反論してくれないかな?
130 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 10:28:16
鎌倉幕府内で足利と同格、もしくはそれに次ぐ源氏一族は武田、小笠原でつか?
131 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 14:15:24
>>117>>120 平治の乱直前の義平と頼朝の官位を考えてみれば、
父親である義朝や、官位を与えた朝廷がどちらを義朝の後継者と
見なしていたかは一目瞭然だよ。
>>87 建武政権から離反する直前期の尊氏の官位は、
正三位参議兼左兵衛督だね。
132 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 16:41:47
>>131 この場合は、そのことを指していないのでは?義朝が頼朝を後継者としていたにせよ、
サバイバル状態になれば武力や後見人の勢力等を含めた総合力を考えるとどうなるか判らない、ということでしょ。
133 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 16:54:32
まあ、頼朝が源家を滅亡させる元になったのも事実だわな。
官位で見れば、源義親の5男・源為義よりも
為義の兄たちのほうが官位は上。
しかし、武門の源氏の棟梁として認められていたのは源為義で、
彼の兄貴たちは武門から離れ、下級の公家源氏という感じになっていた。
横からすまんが、新田の百五十騎は御家人として少ない方とは思えない。
時代は違うけど源平合戦の時の熊谷直実は五騎くらいだし、元寇のときの
竹崎季長は郎党入れて五人だった。何騎だったかは知らんがおそらく一騎
じゃないのか?もっとも竹崎は没落していたけれど。
また石橋山の頼朝は三百騎だし、多々良浜の尊氏だって譜代だけで三百人
くらいだったはず。
新田が、あの時点で百五十騎動員できたとすると、御家人として結構大きい
方じゃなかったのでなないか?
136 :
135:2007/03/14(水) 20:37:25
ごめん、最後のほうが意味不明だった。
>御家人として結構大きい方じゃなかったのでなないか?
→御家人として結構大きい方だったのでなないか?
全御家人の中での新田の順位が真ん中より上か下かは話題にしてないよ。
足利との規模の差が大きかったか、それほどでもなかったかが話題となった。
138 :
名無しさん:2007/03/14(水) 21:44:03
でも赤松円心の蜂起の時は500とか言ってたが?
139 :
135:2007/03/14(水) 22:05:38
>>137 それについては異論はないよ。
ただ新田が御家人のピンキリでいえば…って話が上の方であったから。
動員できる一族郎党の数でいえば、新田は決して小さくはないだろうが、
一族以外を動員するだけの力というか権威はなかっただろうね。
>>137 >>139 新田自体は、一族としてみたらそれなりの勢力を持っていますよね。越後・上野で。
ただ、足利が当時の北条以外の御家人でみたら群を抜いてトップクラスの勢力なんで、それと比べることが出来るような存在ではないってこと。
熊谷は竹崎は、御家人の中でも動員兵力は最低クラス。
竹崎は、結構えらい人(長門守護代)が烏帽子親だったりと、一族自体は勢力があったのではないかと言われているけど詳しい家系は不明。
>>135 一族存亡を賭けて勝ち馬に乗ろうと旗揚げした際の150騎が
100%譜代だけとは考えにくい。
比較するなら、この時合流した他家がどれ位だったかで
うかがい知れると思うが、あいにくソースは無い。
ただ分倍河原の合戦前の数万、その後の数十万(誇張はあると思うが)の中で
新田家150騎は明らかに少ないと思う。
150騎と数騎程度は大きく異なると言われればそうだけど、
中級の豪族辺りと比較しても無位無官で総領権もないとなれば
譜代数騎程度の末端と一緒に括っても問題はないと思うけどね。
>>139 >動員できる一族郎党の数でいえば、新田は決して小さくはないだろうが、
何度も言うけど総領権を駆使できないのはマイナス。
150騎の中に岩松辺りも含まれていただろうが、こちらは任意だからね。
"No"と言って足利に付いても問題はない(実際にそうした)。
総領権を駆使し、主従関係の出来上がっている地方豪族のレベルでは無いよね。
>一族以外を動員するだけの力というか権威はなかっただろうね。
これには同意。
143 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 00:11:03
旗本は150騎でも、新田には幸い足利と並ぶ源氏の嫡流という威光があったから、義貞はそこを最大利用
したと思う。 稲村ガ崎で、先祖伝来の剣を投げたら満ち潮が引いた、という
演出はその好例だと思う。
一度カリスマ的リーダーが現れれば勢力地図など激変してしまうのが
乱世の掟だ。それは時代そのものが強力なリーダーを必要とするからだ。
義貞には人並みはずれた武勇に加え、由緒ある血統を持っていた
からこそ朝廷軍の総帥にまで登りつめたのだろうな。
下克上の時代はまだだったわけで、新田源氏という肩書きがなければ義貞の名が
日本史上に刻まれることはなかったであろう。
義貞がラッキーだったのは、途中から千寿王が加わった事。
分倍河原で負け戦になっても、六波羅陥落によって士気が衰えなかった事。
もう一つは尊氏が謀反した事によって対抗馬に持ち上げられた事。
これをラッキーとせず、義貞または新田家の力がさもあったかの様な物言いに
異論があっただけなんで、大体の総意も得れた様なのでそろそろ消えます。
ま、電波みたいなのは初代スレからずっといたから以後、無視しますわ。
146 :
135:2007/03/15(木) 00:59:28
>>142 >総領権を駆使し、主従関係の出来上がっている地方豪族のレベルでは無いよね。
言われてみれば、総領権っていうのは幕府によって認められるもの(だよね?)
なので、幕府で重用されていない新田に総領権なんてあるはずないよなぁ。
ところで、結局、新田義貞は新田源氏の総領権を手にすることができたの
だろうか?
147 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 01:00:33
>>143 すげーな
奥○先生でもそこまでマンセーできないぜ
新田軍が通過した当時の笛吹峠付近は険しい山道だったのだろうか?
現在ではおよそ「峠」とは思えない感じだが・・・
>>146 新田の総領権は世良田と岩松に二分割され、その後義貞の祖父の代で回復してる。
ただし既に山名や里見は頼朝の代に独立御家人として認められているし、
岩松も系統は足利なので微妙。一族の揉め事でも義貞ではなく幕府に裁定を求めた、
とあるから影響力は殆ど無かったようだ。
>>134 その辺りはwikiの為義の項が冷静に分析している。
いずれにせよ、この時代は嫡男の家督継続が基本。
151 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 04:14:43
岩松氏は初代が女系で新田に繋がっていて、新田氏の側から所領の分与なんかを
受けたから新田氏の一族のように扱われるが、実際には男系では足利氏の一族。
一方、山名氏は男系では新田氏の一族だが、2代・3代の当主の母方がいずれも
足利氏の一族出身で、女系で足利氏と強く繋がっているため、足利氏の一族と
して扱われることが多かった。
なお新田氏に関して言えば、義貞に繋がる新田宗家を「小新田」というのに
対し、有力な分家である里見氏のことを「大新田」という言い方がある。
>137
そういうウソは困るね。
全御家人の中での位置付けを俺は問題にしているんだから。
>144>145
>これをラッキーとせず、義貞または新田家の力がさもあったかの様な物言いに異論があっただけなんで、
力があったとか無かったとかは主観的な言い方でしかない、
と何度いえばわかるのかな?
相対的に見て「どの程度の力だったのか」を話題にしたいのに、
なんで通じないのか不思議でしょうがない。
>144
何度もいうが、足利と比べれば新田は弱小だった。
これは俺も認めてる。
でもどの程度の弱小だったのか、
幾らなんでも5、6騎しか動員できない御家人(こういうのが一番多かったろうね)と、
150騎を動員できる御家人を同じグループに入れるようなズサンな認識でいいの?ってことを言ってるんだけど。
154 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 04:31:34
>>151 山名の所領って、初期の当主が母方の足利から貰ったものと自分で開発したものだけで、新田庄内には所領を持っていなかったんだっけ?
>129>144
ソース出せ出せうるさいなぁ。
こんなもん、ソースとかいう以前の問題じゃないか。
ごくごく素朴な疑問だよ。
>新田庄数郷程度、総員150騎、無位無官で源氏と認められない新田義貞、 これが漠然とした言い方かね?
「数郷」ってのが曖昧。
他の御家人がどのくらい動員出来て、
それとの全体の比較において150騎が多いのか少ないのかの
考察が無いのが曖昧。
ただ単に足利との比較においてショボイと言ってるだけで曖昧。
ご理解いただけたかな?
あとさ、前にも書かれていて気になってたんだけど、
「源氏と認められない」ってどういう意味?
他にもどこだったかな、あ、>95か。
公の場で源氏を名乗れないとかかんとか書いていたよね。
これの意味を教えてよ。
それと>89にあった
>当初、後醍醐天皇ですら新田は足利の一支族という認識だった
のソースも明示してくれる?
とりあえずこちらのソース。
正和三年五月二八日付「新田朝兼在家畠地買券」に「源朝兼」とあるんだけど、これは「源」を公に名乗ったケースにはならんのかな?
>110
そういうズレた例えをやって、しかもそれが
「わかりやすい」と思ってしまうあたりが、
またどうしようもなく浅薄なんだよね。
現代の行政単位なんて関係無いの。
鎌倉末期の新田氏の地位、名望、財力、軍事力etc。
それらもろもろが、他の御家人と比べてどの程度に位置していたのかってことが重要だって言ってんの。
もっと相対的な視点を持てよ。
足利氏との比較ばっかりじゃなくて。
ま、あんたのように、一番上からの視点しか持っていない人間って多いけどね。
想像力が決定的に不足してるんだな。
>129
あと新田氏は確かに義貞の代には無位無官だったけど、
家格としては義重と義兼が従五位下まで得ている家柄であることを
無視してはいかんと思う。
幾ら破天荒の後醍醐天皇といえども、
もし新田が全く草奔の一土豪なら、
どんなに鎌倉攻略という大功があってもいきなり五位には叙任しないでしょ。
とりあえず、
>>155 が当時のことを何も理解していないのは分かった。
>「数郷」ってのが曖昧。
んなもん自分で調べろ。
『新田町誌』あたりに載ってるから。
新田荘全体の領有さえできていなかった、
というだけじゃご不満かね?
>>95の「公式の場で〜」
というのは確かに誤解だが、
新田氏が「御門葉」でなかったのは間違いない。
しかしながら、『吾妻鏡』建仁2年正月29日条に、
「故仁田(新田)入道上西者、源氏遺老、武家要須也、」
とあるので、源氏と認められていなかった
(という認識自体がそもそもおかしいのだが)
訳ではない。
>後醍醐天皇ですら新田は足利の一支族という認識だった
後醍醐ではないが、『神皇正統記』には書いてあるな。
つーか、必死すぎてキモい。
>どんなに鎌倉攻略という大功があってもいきなり五位には叙任しないでしょ。
それをやっちゃたのが建武政権。
>129
とにかく、あんたは他人にソースソースとうるさく言う前に、
もう少し人の文章をちゃんと読め。
で、きちんと意味を咀嚼した上でレスしてくれ。
知らないことは別に恥じゃないよ。
知ったかぶりして頓珍漢なレスをする方がよっぽど恥ずかしいんだからね。
ま、こんな夜中に俺もアホだ。
あんたの勝手な勝利宣言にむかついたので、
思わずたくさん書き過ぎたようだな。
まぁついでだ。
以下、「梅松論」から抜粋しよう。
知っての通り、「梅松論」は足利氏サイドから見た、いわば
足利の御用史書。
その足利贔屓の御用史書が、義貞をどう書いているかは
南朝贔屓とされる「太平記」を例に出すよりは参考になるだろう。
162 :
つづき:2007/03/15(木) 05:08:22
「五月中旬に上野国より新田左衛門佐義貞、君の御方として当国世良田に打出て陣をとる。これも清和天皇の御後胤、陸奥守義家三男、式部太夫義國子息大炊助義重、陸奥新判官義康の連枝なり」
この文章からすると、新田家を貧乏御家人、田舎御家人と貶めている
臭いは全く感じないね。
「潜に勅を承に依て義貞一流の氏族、皆打立けり。先、山名・里見・堀口・大館・岩松・桃井、皆一人当千にあらずという者なし。」
潜に勅を承に依て‥‥とある。
足利の催促によって義貞が決起した、なんてことはどこにも書いていないわけだ。
163 :
つづき:2007/03/15(木) 05:10:42
「しかるあいだ、当国守護、長崎孫四郎左衛門尉
即時に馳向いて合戦に及ぶといえども
既に上野の輩のこらず義貞に属するにこそ、
あいささうるに及ばず引き退く間、
義貞多勢を引率して武蔵国に責入間、
当国の軍兵も悉く随付けるほどに、
五月十四日高時の弟、左近太夫将監入道恵性を大将として
武蔵国に発向す」
「既に上野の輩のこらず義貞に属する」
‥‥つまり、緒戦の勝利で、上野の群小豪族は
残らず新田軍に加わった、と書いてある。
次には「武蔵国に責入間、当国の軍兵も悉く随付けるほどに」だ。
これは、あんたがこじつけている「他家への動員力」と
いうことにはならないか?
164 :
つづき:2007/03/15(木) 05:18:09
もっと重要なのは、この足利の御用史書でさえ
「千寿王が挙兵」などとは一言も書いていないし、
千寿王が他の武家に呼び掛けた、
といった類の話も全く書かれていないことだ。
鎌倉攻略は、あくまで義貞とその一族によって為された手柄として
書かれ、そこには千寿王のせの字も足利のあの字も出てこない。
こんな文章もある。
「下の道の大将は武蔵守貞將向う處に、下総国より千葉介貞胤、義貞に同心の儀有て責上間、武蔵の鶴見の辺におひて相戦いけるが、是も打負けて引退く」
千葉介貞胤、義貞に同心の儀有て‥‥だ。
足利の御用史書でさえもが、鎌倉攻めの主語を「義貞」としている
ことが如実にわかるだろう。
それこそここは、あんたの論法なら「千寿王」にしたって
いいくらいなのに、だ。
165 :
つづき:2007/03/15(木) 05:44:43
いやはや、書き過ぎた。この辺にしとこう。
必死過ぎてキモイとかいう外野の声もあるようだし、
確かに読み返すとちょっと恥ずかしいものがある。
ま、お互い様とはいえ大人げなかったということでw
しかしあんた、時間あるねー。朝早くからこんな時間まで。
仕事の方大丈夫?まあ余計なお世話か。それじゃね。
ちょっと、必死すぎなひと、ID出ないんだからコテハンにしてくんないかな?
読みにくいわ
普通の人が寝静まってると思われる時間に、延々と長文書き散らかして、
最後に「それじゃね。」って..........
だんだん、なんの仕事してる人なのか別の興味が湧いてきたw
さすがにあきれたが、幾つか返答しよう。
>>155,
>>158 御門葉以外の源氏は公式の場、幕府や朝廷で源姓は名乗れない。
地元でどう名乗ろうが勝手だが、幕府や他の御家人への書簡で名乗れば叱責される。
源範頼ですら、頼朝への忠誠を誓う起請文で「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として
責めて許さず、結果伊豆に流された。
>>165 自分への反論は全て俺だと妄想しちゃってる様だな。頭大丈夫か?
勘違いされない様、レス番名乗って以後それで通している。
余程のバカか猜疑心が強いか、甚だ呆れる。
「あんたの論法なら」とか意味不明なんだよ。
俺が千寿王について書いたのは
>>144のみ、「途中から千寿王が加わった事」、
これが何故、俺の論法だと千寿王が鎌倉攻めの主語になるんだ?
鎌倉攻めは義貞の功だ。しかし、
>>94氏の言う様に鎌倉の支配権は足利が握る。
鎌倉攻めに参加した武士の殆どが義貞ではなく千寿王に軍忠状を差し出している。
これは新田ではなく足利の名の元に兵が従った事を意味する。したがって
>>163 >あんたがこじつけている「他家への動員力」ということにはならないか?
これはあんたがこじつけている事になる。
あとさぁ、こちらが何か言うにつれソース出せだの主観的だの言うクセに、
自分に返されると「ソース出せ出せうるさいなぁ。」かよ。笑わせて頂きました。
>>152 >相対的に見て「どの程度の力だったのか」を話題にしたいのに、
>なんで通じないのか不思議でしょうがない。
こちらも笑いました。だったら自分で「どの程度の力だったのか」を語れと言っているのに
なんで通じないのか不思議でしょうがない。
つまりあんたは人に茶々入れるだけで自分では何一つ語れないのよ。
スレ読み返してみたら
>>135と粘着クンの言ってる事がかぶるんだが同一か?
だったら「横からすまんが」とか他人に成り済ますのは関心しないね。
他の人も言っているし、コテハンにしてくれないか?
171 :
名無しさん:2007/03/15(木) 11:20:20
>>157 正成は挙兵前に従七位下左兵衛尉だったが。新田家より家格が上だった
のか?
新田宗家って、一時、不始末で
分家の世良田家に惣領を代わってもらってたんだな...
随分、鎌倉時代は不遇だったんだなと思う。
山名家とか里見家とかは、独立の道を歩んでいたし...
感じからいって、足利家の一支族って言いすぎじゃないよ、新田家は。
庶兄の山名家は足利家との交流が深かったし、
源義国を初代足利家とカウントして、新田家を
足利家の一支族とみるのも、あながち言いすぎじゃないように思う。
173 :
135:2007/03/15(木) 16:11:42
>>170 おいおい、同一じゃないぞ。
おれの考えは、こんな感じだ。
・新田の百五十騎は動員力としては決して少ない方ではない。
・おそらく足利も一族譜代だけの動員力ではそんなもんだろう。
・ただし、足利は一族以外を動員するだけの権威があるが、新田にはない。
・当時の状況としては、問題なのは御家人としての大小はではなく、
武家の棟梁として、他の御家人に号令するだけの家格があったかどうか。
・新田は御家人として小さい方ではなかったが、棟梁となるだけの家格が
あると、他の御家人に思われていなかった。
ついでに教えてもらいたいんだが、義貞は源義貞として催促状を出したり
した痕跡はあるの?
174 :
135:2007/03/15(木) 16:21:40
>ついでに教えてもらいたいんだが、義貞は源義貞として催促状を出したり
>した痕跡はあるの?
すまん、これは鎌倉陥落以降についてだ。
>>173 こちらの勘違い、失礼
考えに対しては
>>141で述べた通り。
源義貞の名乗りについては幕府の縛りがなくなれば可、というより
真っ先に名乗ったと思う。
建武親政後の催促状に関しては聞いた事は無い。官軍なら後醍醐天皇を通さず
独自で呼びかける事はあり得ないと思うのだが如何?越後に落ちてからはあるかもね。
>>168 >御門葉以外の源氏は公式の場、幕府や朝廷で源姓は名乗れない。
すまん。では教えてくれ。
建保3年3月22日付「将軍(源実朝家政所下文」(『正木文書』)で、
「可令早以源時兼為地頭職事」
とあるのはどうしてなんだ?
源時兼は岩松時兼で、明らかに新田一族だ。
文書の内容も
「任蔵人義兼後家所進之注文」、時兼の
新田庄内12箇郷の地頭職を安堵したものだ。
政所下文は、姓で書いてあるものが多いが、
苗字で書いてあるものも多いよな?
あと、
>幕府や他の御家人への書簡で名乗れば叱責される。
のソースも教えてくれないかな。
『吾妻鏡』建久4年8月2日条の源範頼起請文は、
同日条で範頼の使者大夫属重能が言うように、
頼朝の言いがかりにしか見えないんだが。
そもそも範頼の場合は受領に任じられた時期や
序列でも安田義定や足利義兼の上位に来る事を考えても、
明らかに御門葉であって、
御門葉であることとこの件は全く無関係なんじゃないか。
そもそも、鎌倉中期以降は御門葉なんて存在してたのか?
御門葉であった山名氏でさえ、受領になってないんだぞ?
>>161 >千寿王が挙兵
これに関しては峰岸純夫の論考が詳しい。
『後鏡』所収康永元年8月15日付「鹿島利氏申状案」に
元弘3年5月12日に上野世良田にいた「将軍家若君」
に参じたと書かれている。
この軍勢には新田一族の世良田満義がいたとも書かれている。
>足利の催促によって義貞が決起した
応永33年7月「岩松満長安堵申状写」に、
将軍(足利尊氏)より御教書を賜って
曽祖父岩松経家が新田義貞と
両大将として先代を「退討」したと書かれている。
>>171 新田は過去に従五位下まで上った家柄ということなので
家格としては新田の方が上、ということになるんじゃないの?
その家ごとの極官ってやつがあるでしょ。
ところで正成って、挙兵前にもう官位なんかあったっけ?
笠置山に駆けつけた時に任官されたんだとばかり思ってた。
>168
> 御門葉以外の源氏は公式の場、幕府や朝廷で源姓は名乗れない。
地元でどう名乗ろうが勝手だが、幕府や他の御家人への書簡で名乗れば叱責される。
どっかの小説かドラマの話?
まあこれについては>176が訊いてくれているからスルー。
>自分への反論は全て俺だと妄想しちゃってる様だな。頭大丈夫か?
ご心配ありがとう。あんたと>94にレスしたつもりだ。
>他の人も言っているし、コテハンにしてくれないか?
つまらんことにこだわるのね。
2chってのは相手が誰かが問題じゃなくて
カキコの内容次第ってところだと思ってたが。
まあどうしてもってんなら別にいいよ。
152までしか書けなかったけど、あとはわかるだろ?
それと>158はあんたじゃないの?
文体とか内容が非常に似ていたもんで。
まあ間違ったら許せ。些細なことだw
>168
> 鎌倉攻めに参加した武士の殆どが義貞ではなく千寿王に軍忠状を差し出している。
そういう不確かなことは言わない方がいいな。
義貞判の軍忠状も残っているし、しかもそれはこの後すぐに足利方に属した者の軍忠状。
このことは、多くの武士が新田足利の両方に差し出していた、
とするのが自然な解釈じゃない?
だいいち、終始新田(南朝)方だった武士のその手の文書なんかは
家が滅びて残っていないのが当たり前だ。
>だったら自分で「どの程度の力だったのか」を語れ
わからない。
だからこそ議論して考察を深めていこうや、
と提言してるつもりなんだが、
なんでそうヒステリー女みたいに喧嘩腰になっているのか
さっぱり理解できんね。
それでも、今はっきり言えるのは、少なくともあんたの言う、
新田氏は「ピンからキリ」のキリではない、ということ。
この理由は前に書いた。
もちろん、実際の力がどの程度だったのかはなかなか難しい問題。
でも、その難しさをちゃんと踏まえた上で
議論するのとしないのとでは違うのよ。
>169>170
天に唾するアホ一匹。
蟹は己の甲羅にあわせて穴を掘る。
>142
>何度も言うけど総領権を駆使できないのはマイナス。
駆使したでしょ。100%機能したかどうかは別にして。
>総領権を駆使し、主従関係の出来上がっている地方豪族のレベルでは無いよね。
相対的な視点が無い、とはこの事をいう。
新田氏だけ特別惣領の権威が衰えていたとでも思ってるの?
なら結城はどうだ?千葉は?佐々木、宇都宮は?
熱田大宮司家もだな。
皆、南北朝の動乱で早々と宮方と武家方に別れている。
惣領は何していたんだ?抑えられなかったのか?
佐々木に至っては誰が惣領権をかざしているやら
はっきりしないくらいだw
むしろ、割れるくらい一族の規模が大きい、という言い方も出来るな。
鎌倉時代を通じて庶子の分割相続がふえて、
総じて惣領の権威は失墜気味。
ところが北条得宗の専制色が強まると、
鎌倉末期に一時的に惣領の権威は回復の傾向を見せる。
強大な専制政治に対し、
一族の結束を強めることが求められたからだろう。
が、鎌倉幕府が滅ぶと、惣領vs庶子の対立構造はいっそう鮮明になり、
南北両朝の分裂と相俟って、果てしない抗争が始まる、というわけ。
あ、ごめん、あんたにはこんなことは初歩的過ぎたね。
あと新田挙兵時の「150騎」という数ね。
これが多いか少ないかはまた相対的な問題だが、
いずれにしてもこの数は太平記にしか記述が無く、
前に挙げた「梅松論」では具体的な兵数は書いていない。
だいたいが「太平記」の兵数記述は当てにならないとされていて、
劇的効果を狙うあまり、極端に少ないか、多いかのどっちか。
この場合は寡兵を以て強大な鎌倉幕府に向って挙兵した義貞の
勇気を強調したいために、敢えて少数に書いた可能性もある。
なお、楠木正成の湊川での兵数も
太平記では少数であることを強調して(700だったっけ?)いたが、
梅松論を読む限りでは、もっといるような記述だった。
更に、新田義顕が僅か16騎で100倍以上の敵の包囲を突破した話、
京都攻防での義貞や細川定禅の話も、
いずれももの凄い小勢で大軍を破ったことになっていて、
話をドラマチックにするための意図的な兵数の誇張があるね。
まぁ太平記を信じるとすると、義貞の挙兵直後にいきなり越後から馳せ参じてきた一族が「七千騎」。
直属がたった150なのに、7000騎があっさりと義貞の指揮下に入っていることを見れば、
義貞の惣領権はそれなりに機能はしていたといえるんじゃないの?
>>176 岩松を「明らかに新田一族」とするには抵抗がある。
理由は
>>151氏が述べている通り。
足利の一族と扱われた、と考えるのが自然だと思われるが如何かな?
ならば後に新田の総領権を世良田・岩松いずれかでなく二分割したのも頷ける。
源範頼起請文が言いがかりなのは明白だが、源姓が発端になったのも事実。
義経の腰越状も同じ理由で難癖をつけられている。逆に言えば御門葉に
源姓を認める事が如何にステイタスだったかという事。
あいにくソースは無いんだよね。あちらこちらで見るから定説かと思っていたが。
>御門葉であった山名氏でさえ、受領になってないんだぞ?
伊豆守になってるんだぞw
>>179-182 一点だけレス。
>それと>158はあんたじゃないの?
>文体とか内容が非常に似ていたもんで。
>まあ間違ったら許せ。些細なことだw
>天に唾するアホ一匹。
>蟹は己の甲羅にあわせて穴を掘る。
相変わらず愉快だな
>>179-182 と思ったが今回後半は比較的まともだから機会があれば追々レスするよ。
それが何で周囲が引くほど口泡吹いて必死になるのか分からんね。
>わからない。
>だからこそ議論して考察を深めていこうや、
>と提言してるつもりなんだが、
丸っきりそうは取れなかったけどな。
まぁ、そうであればそういう姿勢で頼むよ。
仕事に出る前にコーヒー飲みながら覗いてるんだけど、明け方に
凄い事になってるw
新田擁護?の方の香具師もレス番コテにしたのはいいが、長文
オンパレードで、もう何がなにやら、というか読む気力が萎えた
この数日、モーニングコーヒーしながら傍観するのが日課だった
けど、もうだめぽ
片方の人は(自称かホントか知らんが)新田の子孫なのか?
あまりにも必死で、なにか先祖の名誉を回復する為の戦いに挑ん
でるが如く執念を感じる
お互い、紳士的な感じでの論争ならば、傍観してても結構面白そ
うなテーマだと思うんだけど、もはや無理かな〜
横レスすまんこ
187 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 08:55:16
歴史に名を残した点では、足利が勝ちだが
現代まで残る子孫は、どっちも一庶民
ほりえもん以下だろ
188 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 09:46:58
ああ、書き方が悪かったな。
山名義範は、御門葉と認められたから受領になれたが、以降の山名氏は時氏に至るまで受領に任じられてないのは間違いないよな。
これは、鎌倉中期以降は御門葉が特別扱いされていなかったからじゃないのか?
岩松氏の所領は、新田義兼後家や得川頼有から譲られたものが殆んどで、足利氏から譲られたものは見えないんだが、どうよ。
コーヒー飲み終わったけど、まだ続くの?
190 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 11:47:56
ずいぶん長いコーヒータイムだなw
191 :
151:2007/03/16(金) 12:16:40
>>183 俺のレスを曲解して引用するのは止めてくれないか?
俺は岩松は男系では足利だが、新田一族と扱われることをいってるだけで、
岩松は足利一族として扱われたのが自然などとは一言もいってないわけだが。
192 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 18:06:16
おい、新田は貴重な家系だぞ
新田がなかったら、松平元康は源氏を名乗ることができなかったかもしれん
あやしい家系が多い新田だから、松平も誤魔化しが通ったんだろ
>>176,
>>188 下 上野国新田庄住人
可令早如本以義兼為地頭職郷之事
村田郷 田嶋郷 中今居郷 一井郷
田中郷 堀口郷 多古宇郷 綿打郷
前裁郷 藪墓郷 上女墓郷 高嶋郷
右件郷々、如本可令彼義兼為地頭職之状如件、以下、
元久二年八月 日
右近衛中将源朝臣御判
同じく『正木文書』の新田への書簡。
1.新田には源姓を用いていない事。
2.岩松、新田の所領を明確にした事。
新田と岩松の離反もしくは切り離しを狙った意図があると伺えるが、どうよ。
>>176,
>>188 北条得宗家が勢いを増すにつれ、御門葉の扱いも落ちてきたのは事実。
それが何故「そもそも、鎌倉中期以降は御門葉なんて存在してたのか」になるのか疑問。
国司任命はなくなった様だが、官位は与えられている。
195 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 19:18:41
室町中期まで守護大名クラスで残った新田系は
山名、里見だけ?
>>191 俺が言ったのは「明らかに新田一族とするには抵抗がある」で
その理由を「岩松は男系では足利だが」を引用させてもらったつもりだが。
>>193 ちゃんと文書を読め。
「早如本」とあるだろ?
最初から新田義兼が地頭職だったのを、
幕府が認めただけだ。
それに重要なのは、
これが実朝の「奥上署判下文」
であるということだ。
これがどういう意味かは分かるよな?
>>194 頼朝期には御門葉かそれに準じる者だけが
受領に任じられたにに対して、
頼家期以降はかなりの御家人が受領に任じられている。
にも関らず、新田一門では
世良田頼氏・得川頼有を除いて、
山名や里見一族の一部が、
せいぜい院蔵人や六位相当の官職
(実際に叙爵された形跡もない)に任じられている程度。
それは、元弘合戦の際の新田一族の通称
を見ても、官職がないものばかりなので分かるだろう?
得宗や足利の被官でさえ靫負尉・権守になれるのにだぞ?
御門葉が特別扱いされていないのは、
『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条の
足利義氏と結城朝光の争論を見ても
明らかじゃないのか?
>>197 念の為確認するが、91,107,108,124,152とは別人なんだよな?
レスがケンカ腰だし、他からもこの流れを好んでいない様だし、
つまらんので退散するよ。
御門葉の権威は落ちたが存在していなかったとは思わんよ。
御門葉であれ一般御家人であれ、北条得宗家の専制が増して全般に
そういう風潮だった程度だな。
以上、おしまい
199 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 22:21:47
俺、初心者なんで
>>193と
>>197の両方に質問したいのだけど、
>>193にあるような下文では、一般的にその対象となる人物の名前を
源平藤橘のような本姓で書くものなの?
また
>>197のいう「奥上署判下文」にはどういう意味あるの?
袖判とは違うということなの?
>>197 念の為確認するが、
>>91>>107>>108>>124>>152とは別人なんだよな?
レスがケンカ腰だし、他からもこの流れを好んでいない様だし、
つまらんので退散するよ。
御門葉の権威は落ちたが存在していなかったとは思わんよ。
御門葉であれ一般御家人であれ、北条得宗家の専制が増して全般に
そういう風潮だった程度だな。
以上、おしまい
ケンカ腰に見えるか?
別に逃げるのは構わないけど、
こっちは例を挙げてるんだから、
論理的に返答してくれないかな?
>北条得宗家の専制が増して全般にそういう風潮だった程度
意味不明。
得宗の専制が増すと全般的に何がそうなるんだ?
御門葉の「権威」がなくなったとは誰も書いてないじゃないか。
安達宗景が、曽祖父安達景盛が実は頼朝の子だったとして
と突如源氏を称した、という話が『保暦間記』に載っているように、
源氏の威光が無くなったという訳ではないと思う。
しかし、頼朝が規定した
「門葉・家子・侍」
という幕府内の序列がなくなったのは間違いないんじゃないか?
>>199 本姓と苗字どちらも見られる。
>>193が挙げた文書のように、
官職も姓も載せずに
本名だけを書くのは余り見ない例だけど、
通常の下文は、袖判(右側に花押だけ据えるもの)
で発給されるのに、
奥(左)に発給者の署名と押を据えるのは、
袖判のものよりも厚礼とされる。
頼朝の場合でも、奥上署判下文は
賀茂神主重保と池大納言頼盛に宛てた物が
知られるだけ。
>>201 最近、えらく深い話になってるんで興味深く見てるんですが横から。
>安達宗景が、曽祖父安達景盛が実は頼朝の子だったとしてと突如源氏を称した
これは、源氏と称することより、頼朝の血筋ってところに意味がある話なのではないでしょうか?
御門葉の「権威」とは直接は繋がらないような気がします。
>>201 >>ケンカ腰に見えるか?
ケンカ腰というか、「上から物を言ってる感じで、どエラソー」な感じはするなw
これが2ちゃんの醍醐味さw
>別に逃げるのは構わないけど
充分ケンカ腰だろw
206 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 00:31:38
>>201 ちょっとずれるけど、南北朝・室町期段階になると、この種の下文や御教書で相手の名前を本姓で書くケースってまずなくなるよね。
あと鎌倉期には奥判って珍しいってのは知らなかった。
南北朝期だと、同内容のものでも時と場合によって袖判だったり奥判だったりするね。
変なの多いな
208 :
201:2007/03/17(土) 01:10:32
ちょっと悪乗りしすぎた。
ゴメンね。
209 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 04:04:09
袖判とか奥判とかって何?
210 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 13:36:35
たかが足利や新田の話題で、よくもこれだけ必死になれるもんだ。
実生活に関係のない趣味の話なんだから、気楽にいけ。
まあ必死とか低学歴とか、自分じゃろくなことも言えない奴が使う定番のような言葉だけどなw
これが2ちゃん本来の低レベルな煽り合い
213 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 08:07:51
下文と下知状と御教書って何が違うんですか?
週末はちょっと来れなかった。
興味深いレスも出て来てるけど、思ったより盛り上がってないね。
とりあえずいつもの人。
>>198 >念の為確認するが、91,107,108,124,152とは別人なんだよな?
何が念の為やらわからんが、
あんたが
>>168で言っていた言葉をそのまんまお返しするよ。
>自分への反論は全て俺だと妄想しちゃってる様だな。頭大丈夫か?
>余程のバカか猜疑心が強いか、甚だ呆れる。
>>197も一部で粘着呼ばわりまでされている俺と一緒にされちゃ
迷惑千万。
彼の名誉にかけて、別人だと言っておくよ
(てか、レスの内容から分かるだろ普通‥‥)
>レスがケンカ腰だし、他からもこの流れを好んでいない様だし、
つまらんので退散するよ。
おいおい、一番ケンカ腰なのはあんたじゃないのか?
前にも言ったが、別人とか本人とかそんなもんどうでもいいことだろ。
IDが出ない以上、ヒマな奴がその気になれば
幾らでも自演なんかできるんだし(もちろんバレる時はバレるがw)
あんたがそれをやってないという保証もどこにも無い。
いずれにせよ、そんなどうでもいいことよりレスの内容の方に
ちゃんと反応してくれ。
これまでさんざん他人を見下した言動をとってきたくせに、
いざ自分が答えられなくなると「上から見下すな」
だの「つまらんので退散する」じゃ幾らなんでもカッコつかないだろ?
まあ読み返してみれば、俺も最初に「思い込みで語るな」とか挑発的と取られるような言い回しをしていたし
あんたも多分それでキレたんだろうから、それについては反省する。
でもやっぱり、
>>183 > あいにくソースは無いんだよね。あちらこちらで見るから定説かと思っていたが。
このように、ソースも確かでないことを断定して語るのはよくないと思うよ。
新田氏が田舎御家人だ的な言い方も同様、
都のお公家さんとかそれこそ幕閣の中枢にいる人間がそう見ていた、というんならまだ分かるけど、
後世の人間の俺らまでがこの種の小説やドラマにありがちな先入観で見てしまうと、なかなか実際の姿というものは見えなくなってくるんじゃないの?
で、確認するけど結局のところ、
>御門葉以外の源氏は公式の場、幕府や朝廷で源姓は名乗れない。地元でどう名乗ろうが勝手だが、幕府や他の御家人への書簡で名乗れば叱責される。
↑こういう実例は無い、ということでいいのかな?
一応その反証として新田朝兼と岩松時兼関係の文書がこのスレで出てきたわけだが、
他にも文保二年十月に出している所領の売券に「源義貞」と書判した例もあるようで、いずれも、叱責なんかされていないよな?
>183
>足利の一族と扱われた、と考えるのが自然だと思われるが如何かな?
うーん、これは自然というよりちょっと強引な解釈では?
岩松時兼の実父って、足利の嫡子でもない上に、
確か別家(畠山家だったか)を継いだ人だよね?
また、足利家を離縁されて新田に戻っていた女性(つまり新田氏)の子供が、しかもその新田氏の財産を相続している以上、
それをわざわざ足利氏として扱ってやる理由がよくわからないんだけど。
既に開発されつくしてそれ以上を望めぬ土地を渡された次男坊の系統は、
京都の武者づとめで見聞を広める機会をもった。
一方、開発領主の総領として、「将来性ある(つまり未開発の)」土地
を渡された長男の家は、せっせと土地開発に励み、田舎武士の道を辿った。
田舎の家をついだ長男が田舎くさくなり、東京で一旗あげた次男が日本中
で知られる有名人となって偉くなる、まぁ、よくある話なんだよね。
「つうか、あいつ妾腹だし」とか、「長男の家って分裂しちゃって、もう
どこか本家か分かんないよね」とか、色々言ってる次男の家ですが、これ
だけは覆らなかった。
「新田は大中黒、足利は二つ引き(つまり、一番目と二番目)」。
218 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 01:20:19
新田氏の支族に得川氏がいますよね。
徳川の名は得川から盗んだって聞いたんですけど本当でしょうか?
219 :
::2007/03/20(火) 13:36:51
>>218 本当です。得川氏の末裔の乞食坊主が三河に流れ着いてと物語ははじ
まります。
220 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 13:55:31
徳川氏ってのも実は岩松氏が継承してたりするんだけどなぁ
221 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 14:09:20
徳川の例があるように、新田系を称する連中は足利系に比べて胡散臭いのが多いのかな?
そりゃあ怪しげなやつは文句つけられる可能性が低い家の子孫だって騙るよね、普通。
本物も逃げ回って系図どころじゃないってこともあるかもしれないし、
逆にそれを言い訳にした偽物も「証拠は全部日帝が焼いてしまった」式で出てきやすい。
どっちにしてもうさんくさくなるな。
223 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 16:27:19
>>218 それで、徳川氏は世良田に東照宮を建立したのよ。
足利も徳川も、「嫡流」の新田本家なんぞが横で繁盛してたら今ひとつ
困る一族だからなあ。
今川某(足利支族)の「難太平記」じゃ、八幡太郎義家の誓いが足利
に伝わっていて、それが尊氏の天下取りに……なんて話まで
書いて、しかも俺はその置文見たぜ、とまで必死の嫡流伝説だが、
かつての栄華からこれだけ遠ざかって、新田足利を平たくみてい
ると、今川某の努力がかえって空しいなw
ウソつけってw
>>225 224は、日本語として不十分だったか?
足利支族である今川の何某が書いた「難太平記」によれば、八幡太郎義家
の「七代後に天下を取るべし」という誓いの言葉が足利に伝わっており、
その代にあたる足利の棟梁が自殺して、「俺の人生縮めるから、後の代
の者、頼むよ」という置手紙を残したという。それで、それから数代目
の足利尊氏の天下取りに話がつながっていくわけですが、この話の裏
テーマは、要するに新田でもその他の源氏支族でもなく、足利こそが
源氏の嫡流です、ということだよね。
で、ウソをつけ、貞世と、こういいたかったわけなのです。
227 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 02:34:32
『難太平記』って、新田を意図的に貶めるような記述はあったっけ?
228 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 11:15:20
>>221 ウチもそうだよ。先祖は主家であった足利分家大名が滅びる時に傍観。その言い訳が「ウチは新田義貞の子孫だから」。
親戚はそれを信じているが、どう考えても胡散臭さ満点。
鎌倉時代の総領と庶家の関係が良くわからないんで質問です。
初心者スレよりこっちのほうが回答がもらえそうなので。
このスレで、吉良や斯波、畠山の家督相続に足利本家の了承がいるという話があったんですが
例えば吉良の当主が息子達に所領を分けるときも、誰にどの領地を与えるのかという細かい点まで、本家の了承がいるのでしょうか。
また、幕府での守護職や朝廷から任官するのも本家の了承がいるのでしょうか?
逆に庶家の当主の持っている権限はどのようなものがあるのでしょう?
さらに、この総領・庶家という関係は、例えば三浦と和田とか六角と京極、北条各流でも同じなんでしょうか?
(例えば北条各流の家督相続は得宗家当主の了承がいる?)
違うのなら、そういう家と足利の庶家では何が違うのでしょう?
後、家督相続の流れ(本家の了承が具体的にどういう形になるのか)も出来たらお願いします。
家督相続の結果は、幕府からの所領安堵の書類ということですか?
そのときに、本家から推薦状みたいのを幕府に提出するのかな?
本家と庶家の思惑が異なったらどうなるのでしょう?
230 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:54:36
久々に日本史板のぞいたら、このスレが粘着論戦以来
過疎って消えそうだったので、お助けアゲ
南朝支持の連中は都合にいい資料だけみて電波垂れ流す奴が多いよな
南朝の資料なんてロクなのにないし調べれば調べるほど虚しくんだが
↑
日本語不自由な朝鮮人?
233 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 18:40:37
で平島公坊の先代当主の出自は判明したのか?
新田は足利の嫡流では無いでしょう?
別に足利は新田から別れたわけではないし。
新田が兄だからというのなら
新田氏二代目以降に分かれた山名氏や里見氏の兄の家系は
どうするんだ?
ウィキペディアの新田と足利の始祖はなんで源姓なの
ずっと違和感があるんだが
木曽義仲とか志田義広が源姓になってるみたいなもん。
237 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 08:08:44
>>235 問いの意味が不明。
新田氏の祖は、源義国の長子の源義重、足利氏の祖は、源義国の次子の源義康。
238 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:36:32
豚の書は読まね。
じゃあ徳川家康じゃなくて松平元康に項目名変更しないとな
豊臣秀吉も木下藤吉郎に変えよう
かばねとみょうじについての理解が駄目だなこの人
>240
↑
なんでこんなレベルの低い人が紛れ込んだんだろう?
ああ、黄金週間か‥‥
じゃあ源家康とか平信長にしようって言えば満足?
皮肉で言ってるだけの事をうじうじと
アホのレベルに合わせるのも疲れるなぁ
まあこれは姓から苗字に変わってないにせよ、どっちにしろ馬鹿のたわごとだな
始祖は姓っていみがわからん
それならずっと姓のままにしろ
脱力するほどバカなレスをみた
「足利」と呼ばれている同時代史料のない
義康はともかくとして、
新田義重の場合は、
はっきり『吾妻鏡』に「新田冠者」とか「新田大炊助」とか
書かれてるから、
本来なら「新田義重」で項目立てるべきだな。
義康だって後世には足利氏の祖とはっきり認識されて
「足利義康」と呼ばれてるんだから、
「足利義康」で構わんと思うし。
247 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 11:23:19
室町期に新田の宗家と見なされていたのは、山名、岩松のどっちですか?
室町期において新田の宗家って発想自体あったの?
>247
岩松でしょ。
菩提寺等も含めて宗家の跡(旧領)を相続したものが宗家という感覚
250 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 02:44:02
山名は室町期だと足利一門待遇になってるからな。
新田 純興(にった すみおき)
1897年1月14日、北海道生まれ、幼名 稜威丸(みいつまる)。
東京帝国大学卒業。
1921年のJFA創設においては、組織運営、競技規則の翻訳や指導書の作成など多方面にわたり尽力。
全国優勝競技会(現天皇杯全日本サッカー選手権大会)の発足にも貢献し、日本サッカー界の礎を築いた。
1922年には大学専門学校4校リーグ(1924年から東京カレッジリーグ)、
1923年には全国高等学校ア式蹴球大会を創設し、学生サッカーの継続的強化の基盤作りにつとめた。
1935年JFA理事に就任。翌年のオリンピックベルリン大会に向け財務を担当し、遠征費用捻出に奔走。
1940年の第11回明治神宮国民体育大会では練成部長をつとめた。戦後は1962年常務理事に就任。
オリンピック東京大会に向け、会場設営を中心に準備に携わり、大会の成功に貢献した。
また、日本サッカー史研究の第一人者としても名高く、FIFAやイングランド協会を訪ねて自ら資料収集し、
日本のサッカー史を掘り起こした成果を『日本サッカーのあゆみ(日本蹴球協会創立満50年記念出版)』(講談社、1974年)に著す。
日本体育協会理事としてスポーツ界の戦後復興にも尽力。
日体協とJFAの橋渡しをつとめ、天皇杯下賜にも寄与した。
1972年 勲五等双光旭日章。
ttp://www.jfa.or.jp/jfa/hall/
多分庶流の清水家の人じゃないかな?
某所の系図見ると息子の名前が一致してるし。
>>253 ありがとうございます。
某所わかりました。
息子さんは本も出してるんですね。
通字の「純」が前にきているから分家筋だね
新田岩松本家は陽子氏の跡がいないとかって聞いたことある
中曽根さんも老けたなー
257 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 00:12:31
新田氏の現在当主なのはどなたですか?
258 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 01:04:12
陽子氏じゃね?
260 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 22:38:57
男系じゃないのかよ・・・
261 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 23:22:19
天皇家と違う(皇室典範で直系男子限定という規定なだけ)から
別に女子でも構わないだろう。
263 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 22:41:20
陽子氏の前の代で男系は断絶したのか?
NHK 阿部陽子
265 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 13:50:17
保守
新田って何気に庶流多いよな。
267 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 20:37:18
そうか?
268 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 23:55:55
さびれてるな
そもそも「足利と新田」だったのが、新田ヲタが常駐して
「<丶`Д´><新田が後なのはけしからんニタ」ってスレタイまで変える始末。
新田が有利でないと荒らしに近い難癖でマトモな会話が出来ない。
270 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 11:14:06
足利尊氏 妖星 南斗紅鶴拳のユダ
足利義満 将星 南斗鳳凰拳のサウザー
271 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 15:02:13
┌源義親─為義─義朝
│ ┠─頼朝┌頼家
│熱田大宮司┬──女 ┠┘
│ 季範│ ┌政子┌重時───長時──義宗───久時─┬守時
│ │ 北条│ │ └登子
│ │ 時政┼義時┴泰時┬時氏┬時頼┬宗政─師時─時茂┐ ┃
│ ┌─┘ │ ┌──┘┌─┘ └時宗┬貞時─高時│ ┃
│ └─範忠─女└─女└─女 └女 ┌──÷─────┘ ┃
│ ┃ ┃ ┃ ┃ └─女└─女 ┃
└源義国┬足利 ┠┐ ┠┐ ┠┐ ┠┐ ┠┐ ┠─高義 ┃
│義康━━┛└義兼└義氏└泰氏└頼氏┌家時└貞時 ┏┯━┛
│ ┠┘ ┠┬高氏├義詮
└新田 上杉┌─女 ┃│ │
義重 重房┴頼重─────女└直義└基氏
準一門で扱われても全く不思議ではないこの血の濃さ。
足利氏は御門葉になってるから鎌倉初期からの名門だ。
まさに中世の王者だ。
>>271 美しい系図だけに尊氏のパパの名前のとこだけ惜しい
>>271 家時妻の父の「時茂」は重時息・長時弟の時茂という説もあるわな。
世代的なことを考えるとそっちの方がしっくりくるような気が。
274 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 02:45:58
>>273 てか間違いなくそっちでは?
もし家時の正室が師時の子供のほうの時茂の娘だったとすると、
貞氏(1273生)は師時(1275生)の曾孫ということになるが、どう考えても
これはおかしい。
ついでにいえば師時の子のほうの時茂には貞親という兄弟がいるが、この貞親の
妻が登子(尊氏正室)の姉妹だったりする。
因みに家時が極楽寺流の時茂(姉妹が安達泰盛室)と親戚なら、北条時宗死後の
幕府内の対立に巻き込まれたとしても不思議はない。
まあ頼氏正室の実家である佐介流との関連もありそうだが。
>>271 高義生母(貞氏正室)は金沢流の顕時の娘(貞顕の姉妹)。
また足利宗家と北条氏との婚姻関係でいうなら、
泰氏前妻(名越流の朝時の娘)と頼氏正室(佐介流の時盛の娘)も外せない。
275 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 03:08:55
岩松や由良とか横瀬とか桐生の話をしね?
276 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 04:56:16
話したきゃ話題提供しるよ。
岩松や由良の話題をよこせってことで
278 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 15:47:29
鎌倉時代の北条一族出身の足利当主正室は、庶流出身でも必ず得宗家の養女って扱いなんだっけ?
279 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 15:49:35
里見!里見!
280 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 21:30:40
コータロー
そうすると婚姻から言うと日野家と得宗家は同格ってことになる。
足利家の家格上昇を無視すればの話だが。
282 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 21:47:10
室町の場合は、足利将軍家>日野家の婚姻。
要は家礼が主君に娘を差し出してるようなもの。
山名義範は矢田義清の子供ですか?
いいえ私の子です
いやいや、わたしの子です。
ワタシノコー
>286
どうぞどうぞ
288 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 22:24:53
はじめて投稿します
最初から目をとうしましたが
勘違いなされている方が多いです
新田=南朝
足利=北朝
では
ないですよ
足利一門でも南朝に付いた武将もいるし
新田一門でも北朝に付いた武将もいる
楠木氏、その他氏族もしかり
途中で南朝から北朝
北朝から南朝へくらがえしている武将も多いじゃないですか
ようは勢力争い
どちらにも正義があります
289 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 22:27:01
もっと新しいネタにしてください
290 :
日本@名無史さん:2007/12/25(火) 22:40:17
>>250 山名も大館も源氏の一門です
足利流×新田流の考え方じたいおかしい
源氏の庶家が足利につこうと新田につこうと
庶家の勝手
桃井は新田につき
山名は足利についた
問題ないじゃない
291 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:37:19
桃井は2系統あって、片方が足利流、もう片方が新田流じゃなかったっけ?
292 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:43:06
東京読売ジャイアンツ球団社長の桃井恒和は桃井嫡流なんですか?
293 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 14:17:11
新田家没落の原因は新田義兼の妻が
娘の婿の岩松時兼(足利の入り婿)に所領の半分を譲ったことにありはしないか?
その後本宗家の新田政義は自由出家して幕府の反感を買ってしまうが、
これは新田義兼妻(政義祖母)の行動と関係あると思うがどうなんだろう?
政義父も早逝したようだし、後ろで足利が糸を引いているような気もする。
贔屓目で見れば義重の頼朝帰属が遅れて新田家が没落しつつあったので、
足利と連携して家運向上を図ったとも言えるし、
ここらの経緯がわかると興味深いね。
294 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 15:24:01
すみこ〜
295 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 18:31:12
>>288 ×とうしましたが→○とおしました(トホス)
×南朝→○吉野朝
×どちらにも正義があります→○吉野朝にこそ正義があった。
296 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 19:22:22
>>295 たぶん地方の訛りでしょう
南朝でも良いと思います
皇統どうしの争い、どちらにも正義があります
持明院統、大覚寺統は
どちらも正しい天皇家です。
297 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 21:08:24
国語改革の経緯を知っていれば、『とう』と『とお』の間違いについては十分同情できるが地方の訛りというのは考えがたい。
どっちも現代での発音は仮名で表すなら『とー』であって、発音上の違いはあまりない。
本来『たう』と『とほ』であったのを戦後のいい加減な国語改革によって変えたからこんな不自然なことになったのである。
国語改革では表音主義を掲げていたが、本当に音通りで行くのならばどっちも『とー』であって、
そこを発音し難い『とう』『とお』と変えたのは三百代言的誤魔化しに他ならない。(表音主義自体が誤りだが)
然らば、なぜ我々はこのようないい加減な国語改革に基づく日本語を使わねばならなくなったのか。
それはこの国語改革というものが、文化的、学問的に同意を得て行われたものではなく、
占領軍と左翼知識人の共謀によって行われたもので、日本人の主体性というものが全く無視されたものだったからである。
戦前において一部の官僚によって提出された国語改革は芥川龍之介らの強い反対によってつぶされたが、
戦後、『戦争を起こした日本の物は何もかも良くない』式の
日本文化破壊の一環として国語改革は復活し、実施されてしまった。
その点で
>>288氏のような人は占領軍と左翼知識人の被害者だと言っていい。
この国語改革の問題と全く同じ構造を持つのが足利高氏の評価の問題である。
戦前は逆賊に他ならなかった足利高氏が戦後不当に評価されるようになったのも
占領軍と左翼知識人の共謀によるものに他ならない。
>>288氏は『戦後』に侵食された自分の知識を検証することが必要だろう。
>>297 その割には吉野朝廷の討伐文書がみんな「尊氏」表記になっている事も知らない左翼知識人と同レベルの歴史知識な訳だが。
299 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:06:14
>>282 足利将軍家と日野家が主君と家礼の関係であるはずがない。
足利将軍家と日野家が最初に婚姻を結んだのは、3代将軍足利義満のとき。
後光厳天皇の愛妾にして絶大な発言力を有していた典侍日野宣子の斡旋だった。
父義詮をなくし若くして将軍となった義満はこの頃右も左も分からず、
天皇に絶大な影響力を及ぼす女官の勧めに従ったわけだ。
このとき義満の正室に迎えられた日野業子は、日野宣子の姪。
ところが、この婚姻は義満にとって有意義なものであったらしい。
業子が早世すると義満は同じく日野家から業子の姪康子を後妻に迎え、
最初に日野家との橋渡し役を買って出た女官、典侍日野宣子は、
晩年、足利義満によって将軍御所花の御所に迎えられ、
将軍義満から邸のひとつを与えられて岡崎殿と呼ばれている。
以後、歴代将軍が日野家から正室を迎えるのもここに始まったわけで、
けして公家の日野家が武家の足利家を主筋としていたわけではない。
>>299 すごくよくわかった。
カイジ風に書き込みなおしてくれると、もっと興奮できる。
301 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:27:32
鶏が先か卵が先かを議論してもねぇ。
302 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 08:01:04
新田と足利って、実質的に
殆どファミリーとして行動していないか?
新田宗家だけが、足利宗家と格闘しただけで
他の新田傍系は、わりと足利家と行動をともにしている。
そりゃ有利なほうについてっただけじゃないの?
そもそも、一族の生き残りを考えて、
行動を別にして敵味方に分かれるのは、
割と普通にあったでしょ。
304 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 14:23:33
新田尼(義兼夫人)の出自は?
山名・岩松・里見、みんな惣領に成りたがったり独立したがったりしてたから、
宗家に刃向かうのはむしろ当然では?
足利は力で押しつけてたから表向きは反抗できなかっただけでは。
306 :
日本@名無史さん:2007/12/31(月) 20:11:31
越後の新田一族は終始南朝方で義貞、義助の子供達を支援しているね。
それにしても新田義興のだまし討ちは悲惨だったなぁ。
新田神社が破魔矢の初めというのも最近知った。
308 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 06:05:28
309 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 11:47:54
>>305 そう考えると、一族いっせいに自害した北条氏はすごいかもね。
北条も、金沢、大仏、赤橋など諸家に別れていたのに、
皆北条宗家を裏切ることなく得宗北条高時を最後まで守って
自害&戦死したものね。
宗家を裏切る者が出なかった点ではすごい。
その直前までは血で血を争う構想をしてただろうに。
一族一斉というのも、誤解だな。
生き残った一族は大勢いた。
中先代の乱前後の蜂起で大方壊滅したけど。
311 :
お岩:2008/01/01(火) 12:11:38
一族の結束は、高時の人格が太平記でいわれているのと違って、優れていたんじゃないか?
…てなことは、研究者もよくいう台詞
312 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 12:57:54
>306
矢口渡?
あれはひどかったね。
ほんと、酷かったね。
思わず目を背けてしまったよ
ああ、あんな酷いのは生まれて初めてだったよ
315 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 16:18:57
>>306 庶流が宗家についていくかどうかは、ついていった場合に最終的にどれだけ
おこぼれにあずかれるかってことじゃないの?
足利の宗家は庶流から見てくっついていくだけの価値・魅力のある美味しい
宗家だったが、新田の宗家は大半の庶流から見て必ずしもそうではなかった
ってことだよ。
316 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 20:55:24
地方にいた連中はわりと出家降伏して生き残ってる。
と言ってもほとんどの者は鎌倉にいたから全体から見ればごく少数。
それも翌年に処刑されたのがほとんど。
高時の弟の泰家は死んだ振りして鎌倉から脱出、
その後一時兵を挙げるが敗北してその後は行方不明。
もしかすると最後の生き残りかもしれない。
まあ短期間にこれほど見事に滅んだ一族は日本史上希でしょう。
物部も蘇我も傍系は生き延びてるし、仲麻呂一家も生き残りが居る。
平家も頼盛流は生き延びた。源氏だって滅んだのは頼朝直系だけ。
安達も三浦も全滅したわけじゃない。
徳川にいたっては首魁すら助命、しかも後に復権し公爵。
普通は傍系はそこまで追いつめないよね。
豊臣は当主と跡継ぎくらいしか居ないからしょうがない。
その意味であそこまで徹底して北条を追いつめた後醍醐は、
日本史上非常に特異な存在かもしれない。
北条残党は尊氏憎しで南朝方に付いたから殆ど没落した
おいおい、中先代の乱の時の
北条方の交名見た事あるのか?
321 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 16:10:37
北条一族でいえば、そのまま生き残って建武政権のメンバーになった大仏高直とかもいるね。
えっ?
>>293 > 新田家没落の原因は新田義兼の妻が
> 娘の婿の岩松時兼(足利の入り婿)に所領の半分を譲ったことにありはしないか?
出戻りの娘可愛さのあまり、孫の政義の意向を無視してしまう
トンデモ婆さんってイメージがあるな>新田尼
ホームドラマ風に言っちゃうと、嫡孫政義より
外孫である岩松ボーイズの方を偏愛していたって印象。
324 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 21:05:03
大仏貞朝・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
大仏宣朝・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
大仏貞直・・・1333年、新田義貞が鎌倉を攻めた際、鎌倉防衛のため出兵して討死
大仏宣政・・・1333年、新田義貞が鎌倉を攻めた際、鎌倉防衛のため出兵して兄貞直と共に討死
大仏時英・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
大仏高貞・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
大仏家時・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
大仏貞宗・・・1333年、鎌倉幕府軍として楠木正成と交戦、六波羅探題が滅ぼされると出家して降伏したが、東山の阿弥陀峯で処刑された
大仏高直・・・1333年、鎌倉幕府軍として楠木正成と交戦、六波羅探題が滅ぼされると出家して降伏したが、東山の阿弥陀峯で処刑された
大仏顕秀・・・1333年、六波羅探題において鎌倉幕府軍として戦い、討死。
大仏高朝・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
325 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 21:35:00
普恩寺基時・・・12代執権。1333年、鎌倉防戦のために出陣、新田義貞軍と戦い、自害
普恩寺高基・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
普恩寺仲時・・・1333年、六波羅探題の任にあるとき、六波羅探題が滅ぼされ、北朝の上皇たちとともに都落ちするが、近江国で自害
普恩寺友時・・・鎌倉幕府滅亡時幼少、1339年に挙兵して捕らえられ斬られる
赤橋守時・・・16代執権。1333年、新田義貞が鎌倉を攻めた際、鎌倉防衛のため出兵、自害
赤橋英時・・・1333年、鎮西探題の任にあった際、後醍醐方に寝返った菊池氏、大友氏、島津氏らに攻められ討死
赤橋益時・・・1333年、鎌倉防戦のため新田義貞軍と戦い、父守時とともに自害
赤橋重時・・・幕府滅亡時若年か1335年中先代の乱で自害
塩田国時・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
塩田俊時・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
塩田藤時・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
常盤範貞・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
常盤重高・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
個人的な日本史のいろんな人物の官歴を調べて居るんだけど、
北条氏人名辞典(人物辞典?)見ていてあまりの1333年死亡者の多さに感心した。
とりあえず裏切り者が居ないのは凄い。
大勢が決してから孤立したまま生き残っちゃって降伏したのはいくらか居るけどね。
どうも明らかな裏切り者は居ないみたいだな。
まあ事態の進展が早すぎて裏切る暇もなかったのかもしれないとも思うけど。
327 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 22:00:43
金沢貞顕・・・15代執権。1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
金沢貞将・・・1333年、鎌倉防戦のために出陣、新田義貞軍と戦い、自害
金沢貞高・・・1333年、鎌倉防戦のために出陣、新田義貞軍と戦い、自害
金沢種時・・・1333年、鎮西探題滅亡の際自害
金沢忠時・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
金沢高政・・・1334年、肥後守護として後醍醐方菊池氏と戦うが、後醍醐軍に討たれ死去
金沢貞義・・・1334年、豊前守護として後醍醐方菊池氏と戦うが、後醍醐軍を討たれ討死
甘縄宗顕・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
甘縄顕茂・・・1333年、鎌倉防戦のために出陣、新田義貞軍と戦い、討死
甘縄顕益・・・1333年、鎌倉防戦のために出陣、新田義貞軍と戦い、討死
甘縄時顕・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
328 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 22:17:39
名越俊兼・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
名越公篤・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
名越時有・・・1333年、鎌倉幕府方として戦い、討死
名越有公・・・1333年、鎌倉幕府軍として戦い、討死
名越高家・・・1333年、鎌倉幕府軍として後醍醐方千種忠顕軍と戦い、討死
名越時兼・・・1335年、挙兵、討死
名越時治・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
名越時賢・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
名越朝貞・・・1333年、鎌倉防戦のために出陣、新田義貞軍と戦い、自害
名越時香・・・1333年、鎌倉防戦のために出陣、新田義貞軍と戦い、討死
名越顕朝・・・1333年、鎌倉防戦のために出陣、新田義貞軍と戦い、討死
名越俊兼・・・1333年、鎌倉幕府滅亡時、鎌倉東勝寺において北条一門と共に自害
まあ、正確には鎌倉幕府の討幕運動ではなく、北条政権の打倒運動だったんだよね。
それを勘違いした後醍醐と見極めていた尊氏は結局ぶつかるべくしてぶつかったんだよな。
330 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 23:43:14
331 :
日本@名無史さん:2008/01/04(金) 00:38:16
>323
そうそう、俺もそう思う。
新田尼は岩松の婿殿が好みだったのかね。
なんかホームドラマみたいだな。
332 :
日本@名無史さん:2008/01/04(金) 01:25:26
>>319 そうだな。でも赤橋流とかなら北朝方に付けばVIP待遇で室町幕府に
迎えられたような気もするのに不思議だね。
あと北条一族出身でも、元弘3年段階で既に他家に嫁いでいた女性は、
尊氏正室の赤橋登子を筆頭にかなり生き残った人がいるね。
>>332 >
>>319 > そうだな。でも赤橋流とかなら北朝方に付けばVIP待遇で室町幕府に
> 迎えられたような気もするのに不思議だね。
赤橋の遺領ってほとんど尊氏夫人が継承したってきいたことがある。
だとしたら取り分が減るわけだから来られるのは迷惑だったんでは?
北の果てで叛乱起こした名越時如と安達高景(だっけ?)はどうな
たんだろう?
朝敵死ね
とか言ってみる
__,,,,_
/´  ̄`ヽ,
/ 〃 _,ァ---‐一ヘヽ 皆さーーん、楽しんでますかー
i /´ リ}
| 〉. -‐ '''ー {! /\___/ヽ
| | ‐ー くー | /'''''' '''''':::::::::\
ヤヽリ ´゚ ,r "_,,>、 ゚'} + + | ,,-‐‐ ‐‐-、 .:::| +
ヽ_」 ト‐=‐ァ' ! + | ,,ノ(、_, )ヽ、,, .::::| +
ゝ i、 ` `二´' 丿 + + | `トェェェイ ' .::::::::|
r|、` '' ー--‐f´ \ `ニニ´ .:::::/
/ `- 、 /|ヽ | ̄ ̄ ̄|,; | ̄ ̄ ̄|, ‐´ヽ
/ \ 介 ノ \ ||'゚。 "o ||ー、 ,..‐||'゚。 "o || / \
/ ヽ、 \| |/ || o゚。 ゚||ニ、l lニ|| o゚。 ゚|| / ヽ、
/ ヽ ヽ ||。_0_o_||ー_ノ\ /ヽ‐||。_0_o_|| / ヽ
l ヽ |___|`-'_ノ ヽ_'-´|___| / l
337 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 03:18:18
338 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 16:56:35
>>332 登子の兄赤橋守時は鎌倉幕府最後の執権だった人物。
北条政権の最高責任者が、責任逃れして新政権に迎えられるか?
仮に守時は生き残っても義弟尊氏から死を賜っただけだろう。
守時は当初より北条と運命を共にする覚悟だったが。
339 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 05:01:23
>>329 だから元弘3年5月に六波羅攻めや鎌倉攻めに参加した武士達の多くには、
幕府自体を滅ぼす意識はなく、北条氏の滅亡後はそのまま足利尊氏が幕府を
引き継ぐと思っていたところに、後醍醐天皇の新政が始まってしまったので、
狐につままれたような感じだったということだね。
341 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 10:48:50
学界の共通認識
仁木と細川って両家の関係だけで言うと仁木が嫡流、細川が庶流ってことになりそうだけど、
両家の間では特にそんな意識はなかった?
足利宗家の家臣として同格だったの?
343 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 13:18:30
仁木と細川に優劣なんてあったのか?
仁木仁木仁木仁木仁木の勝ち!
価値は価値でも勝ちはしてない仁木の価値
346 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 00:31:22
子孫集まれのスレでは平島信者がうまく逃げたようだなw
347 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 09:19:00
足利氏の格は
斯波>吉良>渋川>石橋>今川>仁木・一色>細川などその他という感じでいいのですか?
別家を継いだ畠山や桃井は別扱いだったのですか?
後、石塔は渋川と同格くらい
348 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 20:16:29
仁木は南北朝期に細川から養子を迎えているから、その後は細川の分家扱い。
>>347 時代によっても違いますが、義政・義尚期なら
三職=御一家>御相伴衆>国持衆>准国持=御供衆(大名級)>外様衆=御供衆(その他)
ここまでが上層武家衆で、その下に節朔衆、奉公衆、奉行衆など。
347さんが挙げられているのを、上記に私見を交えて当てはめると、
吉良>斯波>畠山>細川=石橋=渋川>一色>今川>桃井>>>石塔
って感じですかね。
349はあくまでも格式の話であって、軍事力・経済力を全然反映していないのは勿論です。
三職の中で序列をつけたのは、斯波は文句ないとして、畠山も斯波同様三位になった人がいるけれど
細川は四位止まりだから。
御一家は「大概三職同事」だそうですが、吉良は「一段御賞翫」で、格式だけなら三職以上と見受けられるので。
但し斯波・吉良の極位という意味では349に対して異論の余地は大いにあり得るとおもいます。
吉良と斯波の格式については面白い話があって、
石橋邸で信長打倒計画を練った際、吉良と斯波どっちが上座かで揉めたとか。
で、密議は露見し、斯波義銀・吉良義安・石橋義忠3人揃って尾張から追放されるわけですが。
一色は御相伴衆で、山名・細川讃州・畠山匠作と同格。
御相伴衆でも赤松・京極・大内はやや格下。
今川は国持衆。
桃井は奉公衆番頭で御供衆。
石塔は南北朝期以降ぱっとしませんね。上記の序列外です。
おっと349で仁木を落としました。
話が錯綜しますが、
三職・御相伴衆・国持衆・准国持・外様衆・御供衆と
御一家(吉良・石橋・渋川)とは将軍拝謁の式日が異なる等、
扱いが異なっていたんですが、伊勢仁木・四条上杉は御一家三氏と同じ日に、
但し御一家よりは薄礼にて将軍に拝謁を賜っていました(義政期)。
ところが義尚期には伊勢仁木・四条上杉とも外様並みの扱いとなったようで、
「常徳院江州御動座着到」で、最初に戦死し「名誉々々」と称えられた仁木某が、
「上杉代」と共に「外様」にカテゴライズされていたと記憶しています。
同書で御一家のみ「殿」と敬称されているところは興味深いところ。
尤も三宝院は「三宝院殿様」ですが。
伊賀仁木も、伊勢仁木と同格なのではないでしょうか。
以上、記憶で書いてしまったので、うろ覚えの点はご海容を。
それにしても、347が石橋を落とさず書いてくれたのはうれしい限りです。
>>353 お前、かつてコテハンで石橋を名乗っていた痛いヤツか。
まだ足利氏の家格なんぞやってたのか?
時代によって違うと自分で書いてるじゃねーか。
斯波と吉良なんて、鎌倉〜南北朝期は、
どう見ても斯波の方が家格は上だぜ。
どっちが格上か、なんてよりも、
何で家格が変わっていったか、を調べるほうが
面白くないか?
355 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 11:18:43
名越時如と安達高景は最悪待遇で獄死じゃね。
あと行方不明者といえば金沢貞冬が気になる。
常陸・飛騨江馬氏や尾張赤目横井氏・淡河氏・相模田中氏ぐらいが信憑性ある生き残りじゃね
356 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 12:38:00
>>349 吉良は意外に格式高いんですね。
何で吉良の格式は高くなったのですか?
一門の格式の差は何から生まれた?分家した時期の差?
357 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 13:40:38
358 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 13:43:34
一番家格が高いのはどう考えても斯波だよ。
斯波の初代家氏は鎌倉幕府からの横槍がなければ足利本家を継いでいたかも知れない人物。
359 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 13:47:54
斯波については、そもそも室町幕府内で「斯波」という苗字で呼ばれること
自体がほとんどない。
基本的には、「武衛」(兵衛の唐名)とか「勘解由小路殿」(屋敷の所在地)で
呼ばれる。
これは足利名字を禁止されているといっても、足利以外の名字で呼ばれたくない
斯波氏への配慮。
殿付きでも、名字で普通に呼ばれる渋川・石橋とは違う。
360 :
349:2008/01/30(水) 06:39:20
>>354 多分違うと思います。
あなたが言われる痛い奴って江戸時代に高家だった石橋氏の末裔と言っていた人のことかな?
私もあのカキコには辟易していました。
高家についてはむしろ私の方があの人物にいろいろ聞きたいのですがw
>斯波と吉良なんて、鎌倉〜南北朝期は、
>どう見ても斯波の方が家格は上だぜ。
具体例を教えていただけるとありがたいです。
私は一応、「義政・義尚期」とお断りしています。
二木先生の受売りですが、理解の浅い部分は多々あると思います。
361 :
349:2008/01/30(水) 06:43:24
>>357 御相伴衆の中でも格差があるというのも二木先生の受売りです。
正則が三位になったのは義材期ですね。
私もなぜ赤松氏が三位になったのかは非常に興味あります。
362 :
349:2008/01/30(水) 06:53:13
>>358 家氏については御説の通り。
家時の「家」も、義家ではなく家氏の偏諱なのでは、というのが私見です。
>>359 義政・義尚期の将軍拝謁で、練貫を下賜される際、吉良だけが一段厚礼であること
伊勢氏の故実書で、将軍拝謁の際、吉良は「殿」を付ける、
三職も「殿」を付けるが小声で言う、他は「殿」は付けない、とあったこと(これは多分義材期)
から吉良>斯波と書いてしまいましたが、早計だったかも知れません。
政則(361はtypo)以前、鎌倉公方はともかくとして斯波・畠山のみが
武家衆で三位に昇り得たことの意味も考えるべきではあったと思います。
363 :
349:2008/01/30(水) 06:55:59
>>362 将軍拝謁の際
↓
将軍拝謁で申次が呼び出す際
365 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 01:00:06
大館氏って新田の一族なんだね、それもかなり嫡流に近い。
丹波守護の細川家の家臣にも江田氏という新田一族がいたらしい。
越後守護の上杉家の家臣は里見流の新田氏だらけだね。
越後は新田一族が最後まで蔓延ることがでいたところだからね。
367 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 17:21:22
にしても妻の実家である北条一族を裏切って、
妻の家系含めて根絶やしにした尊氏は恐ろしいね。
妹の嫁ぎ先の諏訪家を攻め滅ぼして
姪である諏訪家の姫に勝頼生ませた信玄並みの鬼畜。
368 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 17:35:23
尊氏が裏切った当時、妻の登子、息子の千寿王(のちの義詮)
は北条方の人質になっていた。
登子の兄執権赤橋守時が妹親子を脱出させたからよかったものの、
普通ならば登子と千寿王は北条と運命を共にしていただろう。
足利将軍には北条の血が流れているとか、
守時も尊氏に寝がえればよかったのに、と言っている人がいるが、
あのとき尊氏は妻子の命を無にしてでも天下取りを狙ったことは確か。
>>369 登子の兄執権赤橋守時が妹親子を脱出させたからよかったものの
ソースはNHKの「太平記」?
顔洗って出直したら?
371 :
370:2008/02/23(土) 18:34:46
372 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 02:53:48
373 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 09:18:33
代々北条家と婚姻結び,幕府から厚恩受けておきながら
家運が傾くと寝返って先頭に立って攻め滅ぼす足利は犬畜生並みの外道。
まさか北条家も足利が寝返るとは思うまい。
婚姻結んで置いて徳川を裏切った島津も似たようなもんだな。
375 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 13:00:35
【不買運動】アウトドアファッションの「パタゴニア」が「捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものです」と宣言!!!【テロ支援】
アウトドアファッションメーカーの「パタゴニア」が
先日、日本の捕鯨船に対して攻撃を仕掛けた狂信的反捕鯨テロ集団シーシェパードを支援していることが明らかになりました。
「パタゴニア」はこの事実を指摘されて
今後もシーシェパードを支援していくと明言、
捕鯨は残酷的かつ暴力的であり、不必要なものであるとして、
反捕鯨の立場を明確にしました。
日本の捕鯨は長い歴史と伝統の中で
海の恵みに感謝しながら鯨のすべてを利用して
採り尽くさないように環境にも配慮しながら
行われてきたものです。
白人のように鯨の油を取る為だけに
鯨を殺戮した捕鯨とは違います。
パタゴニアはそのような日本の伝統を無視して
「捕鯨は悪」決め付けて白人の一方的な価値観を
日本に押し付けようとしています。
パタゴニアはアウトドア用品などを売って
人間が自然に入り込んで環境を破壊することに加担しておきながら
反捕鯨と言うことで何か環境に良いことをした気分になっている
自己満足の偽善者たちです。
日本文化の破壊を目論む反日テロ支援企業に対する
不買運動と抗議メールの送信にご協力下さい!!!
376 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 22:33:04
政略結婚程度で裏切らないと思うのが間違い
377 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 22:55:15
信玄、信長もそうだけど、血縁者のいる家を攻め滅ぼすのが解せない。
妹、妻の家系を殺すわけで。
外国もこんなことするの?
するよバカ
379 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 17:51:00
もともと領土が隣接しているなど
小競り合いの多い大名同士が
和議の証などとして政略結婚をする
一度は争った相手であることが多いし
破棄されることのほうが多いわな
380 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 19:03:04
>>代々北条家と婚姻結び,幕府から厚恩受けておきながら
>>家運が傾くと寝返って先頭に立って攻め滅ぼす足利は犬畜生並みの外道。
>>まさか北条家も足利が寝返るとは思うまい。
ふっ…
北条氏を討った足利尊氏、直義の兄弟の母は
北条の娘ではなく、上杉重房の孫、清子だぞ(笑)
上杉重房は6代将軍宗尊親王に随伴して
京都から下向した公家で、元々は勧修寺重房といった。
つまり尊氏、直義兄弟は、重房の曾孫にあたる。
道誉や高といった皇室を尊重しない連中のなかにあり、
足利兄弟の私的心情に朝廷崇拝が強いのは、
母親が公家の家系であったことと無関係ではあるまい。
尊氏など、後醍醐に叛いたことで
半ノイローゼ状態だったのだからな…。
381 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 19:24:55
尊氏兄弟がたまたま北条氏を母親としていなかっただけで
代々北条氏と血縁を通じてきたのは間違いない
尊氏の中にも北条の血が流れている
足利義政(母;北条時政女)−足利泰氏(母;北条泰時女)ー足利頼氏(母;北条時氏女)
−足利家時ー足利貞氏(母;北条時茂女)ー足利尊氏
なにか道誉の方は皇室尊崇とか言う感情から自由で心底どうでも良いと思っていた感じだけど、
師直の方は意識しすぎて逆に乱暴な言動だったように見える。
別の意味で皇室の呪縛に囚われていてそれで自滅したみたいな。
>足利義政(母;北条時政女)
誰だそれwwwwww
義氏のことだろ。
そんなタイプミスごときで得意になりなさんなって
385 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 00:03:11
>>382 そういえば
皇族の牛車に矢を射かけたり
屋敷を襲って重宝を奪う馬鹿者もいたな
>>382 > なにか道誉の方は皇室尊崇とか言う感情から自由で心底どうでも良いと思っていた感じだけど
そうでもないだろ。
『太平記』には道誉が天皇の前で感動して泣いちゃったりしてる場面があるし、なんだかんだ言っても中世の人間だぜ。
387 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 04:32:42
>>尊氏兄弟がたまたま北条氏を母親としていなかっただけで
>>代々北条氏と血縁を通じてきたのは間違いない
>>尊氏の中にも北条の血が流れている
おいおい、これは聞き逃せないな…
関東では2世代も離れれば他人も同然で、まったく機能しない
頼れるのは母親か、せいぜい妻の実家までだぞ。
実際、たとえば鎌倉幕府の第2代将軍源頼家などは
妻の実家を頼り、母の実家・北条氏と対立してしまったではないか。
とにかく当時の関東武士というのは恐ろしく即物的で
先祖代々の母系血統など、まったく機能しとらんだろーが。
388 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 04:43:44
確かに江戸の幕末には
有栖川宮家の王女(登美宮)を母として生まれた
徳川慶喜が大政奉還に応じた。
これは確かに母系が機能した好例だ。
しかし、これは慶喜が江戸時代に生きた人だからであって、
鎌倉時代から武士がこのような発想をしていたわけではない。
実際、足利尊氏は上杉(勧修寺)重房の母系の曾孫にあたるが
最終的には後醍醐を京から追い出してしまった。
尊氏の朝廷尊重はあくまで私的情緒にとどまり、
慶喜のように、不利益を招くような行動まではしていない。
389 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 08:54:58
幕府から厚恩うけながら、時勢変わると
先頭に立って攻め滅ぼす外道・尊氏。
光秀、穴山梅雪、片桐勝元と同類の犬畜生。
390 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 09:59:31
>>388 幕末に皇軍総司令官として江戸城を攻めた有栖川宮家と異なり、
上杉家は公家の時代から朝廷の中枢にいたような人物でもなく、
親王の関東下向の追従を命じられて都落ちをよぎなくされた家柄。
尊氏の頃には京での地位も失い、4代にわたって幕府に仕える家になっており、
尊氏が上杉家の影響で天皇に味方したと取るのは間違い。
391 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 16:40:49
>>387 2代将軍頼家は妻の実家を頼り、母の実家北条氏と対立した。
尊氏は妻の実家北条氏を裏切ったわけで、これとは全く逆。
しかも、尊氏の母上杉家を京の公家だとまだ勘違い。
上杉家は宗尊親王の関東下向に伴って東下、
宗尊親王が都へ返されたあとも鎌倉に残り
幕府に仕えていたのだと何度言ったらw
尊氏の時代、上杉家はすでに公家ではなかったのだよ。
392 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 23:05:23
>>上杉家は宗尊親王の関東下向に伴って東下、
>>宗尊親王が都へ返されたあとも鎌倉に残り
>>幕府に仕えていたのだと何度言ったらw
7代将軍の惟康親王って
宗尊親王の嫡子じゃなかったっけ?
意外と、その面倒みるために残ったんじゃないの?
実際、上杉氏は室町幕府の鎌倉府では
関東管領として引き立てられたのだから…
尊氏との血縁なしには考えられないことだにょ。
妻の北条氏を断って、母の実家上杉氏を選んだ。
このことこそ、尊氏と上杉の結びつきの強さの証左なりッ
393 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 00:24:52
尊氏ってさ、最後まで妻の実家利用してる気がするな・・・
赤橋の女性達って、北朝の皇室と縁戚関係にあるよね。
姉妹が持明院統の国母だらけの太政大臣洞院公守の嫁とか。
公守の孫の大納言公蔭の嫁とか。
種子というんだよね。娘が北朝の親王の生母。
公守とか実明とか公蔭、その周辺一族の娘や姉妹は皆北朝の妃で、女院になったり、
親王や内親王を産んでる。
尊氏の嫁の登子は、実家滅んでもあんまりダメージなかったのかな・・・
公守嫁と公蔭嫁は尊氏嫁と姉妹らしい。
詳しいことはよく知らんけど。
394 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 03:07:33
>>尊氏の嫁の登子は、実家滅んでもあんまりダメージなかったのかな・・・
元々北条氏は、頼朝を婿入りさせた頃には
200人ほどの動員力しかなかった、という説もあるね。
もともと家柄は良くないので、惜しまれもしなかったのでは?
執権やってた実家が滅んだ代わりに
亭主の家が将軍家そのものになったわけだからね…。
395 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 08:01:03
>>392 おいおいw
惟康親王もすぐに廃されて都へ帰っただろうがw
上杉家はすでに都での官職を失っていたよ。
鎌倉で何とか生き残ろうと、有力御家人である
足利家に側室を差し出して保身を図ろうとしていたのだから。
396 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 08:43:12
北条から妻をもらいながら
妻の実家を攻め滅ぼす尊氏は外道極悪人。人倫にも取る犬畜生。
幕府もまさか、藩屏として厚遇した足利が倒幕に加わるとは思うまい。
397 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 09:05:17
>>392 尊氏の時点で、上杉家は姻戚の足利家におんぶに抱っこの家来みたいなもん
足利が上杉を選んだんじゃなくて、上杉が足利について行ったんだよ
398 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 09:36:01
尊氏の母上杉清子は父貞氏の嫡室じゃないんだよね。
貞氏の正室は北条顕時女。
貞氏と正室の間には足利高義というれっきとした嫡男がいて、
清子は側室、尊氏は庶子だった。
嫡男であり長子であった高義が20歳前後で没したために、
貞氏はやむなく庶子であった尊氏を後継と定めた。
上杉家は、明らかに足利より格下だった。
鎌倉幕府滅亡時にも特になんら働いたわけでもなし。
399 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:00:32
ただ血筋的には北条よりも上杉の方がいいんじゃないか?
尊氏上洛の際も、上杉の血筋ということは邪魔にはならんと思うが。
400 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 12:12:10
後醍醐は足利の親戚の新田や、
土豪出身の楠木ですら重用しているのだから、
母方がどこであろうが関係なかっただろうね。
しかも、鎌倉幕府百四十年の間に
北条氏は幕府御家人ばかりではなく、
京の公家たちにも娘を正室として送り込み、
相当都での認知度も上がっていた。
登子が実家の滅亡後も尊氏正室の座を守り、
登子を母とする三男義詮が後継者に選ばれたことも
それを物語っている。
新田氏も足利氏も藤原秀郷流征服系移民。
土着するとその地名を姓とて名乗り、あたかも先祖代々住んでいたかのような細工をする。
しかも、その土地の名士の娘を嫁にして子を産ませ、土地の信仰のある神社まで氏神とし
て祀り支配の道具とした。このやり方は、大陸から渡ってきたツングース系騎馬民族の伝統
です。
皇室の外戚洞院一族の縁者だから、登子は北条滅んでも正室だったんじゃね?
403 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 16:57:07
上杉ってもともと勧修寺家の分家でしょ?
そんな影響力あると思う?
関東下向を命じられた時点で終わってる証拠
おかしな方向に話もっていかないでよ
もっと「中世の天皇観」とか読んでよ
当時の人が母系をどうみていたか一発でわかるよ
404 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 17:03:25
京都の人たちが鎌倉をどう見ていたか
そのことを考えてみぃ
そこへ行けと命じられた勧修重房は
左遷組なんだよな
そもそも承久の乱以前の皇室は
再三の北条氏の要求をはねつけ
決して皇親を関東へ送ろうとはしなかった
宗尊親王の下向は
傍流から皇位につけてもらった後嵯峨上皇が
断りきれずにやむなく追い込まれた結果
405 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:26:05
関東へ下った上杉重房の実父、藤原(勧修寺)清房。
都での役職、正五位下出羽守。
受領階級、うだつの上がらない中流公家。
406 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 10:38:26
義国はさぁ、義重の屋敷で死んだんでしょう?
だったら少なくとも義国の意向としては
嫡流新田では?
>義国はさぁ、義重の屋敷で死んだんでしょう?
証拠はないがな。
408 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 15:36:11
源義重(新田祖)・・・長男。従五位下。大炊助。
源義康(足利祖)・・・次男。陸奥守。
義国の意向では嫡男は長子である義重だったろうね。
晩年身を寄せているし、義重自身、頼朝台頭まで
坂東の長老として一族の崇拝を受けていた。
次男だった義康は立ち回りがよかったんだろう。
義康の妻(藤原季範の養女、実は孫)は、頼朝母の姪に当たることから、
頼朝とも姻戚関係が近く、いち早く幕府を開いた頼朝の同盟者となった。
このことが鎌倉時代、兄義重を上回る家格となった由縁だろう。
409 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 20:35:50
何を今更
410 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 22:27:05
>>次男だった義康は立ち回りがよかった
「北面(の武士)」の一員というブランドは
現代のわれわれからすると大きい。
ん?
義康は陸奥守になってないぞ。
義康の最終官職は、従五位下・検非違使・蔵人・左衛門尉。
朝廷官職の叙任スピードを見る限りでは、
義重は義康の後塵を拝しているとしか評価できない。
義国の北面としての地位を継承し、
また義国の在京中に代官として
鳥羽院に参じているという事実は、
義国の嫡子が義康であったとういうことに他ならない。
412 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 04:53:49
>>朝廷官職の叙任スピードを見る限りでは、
>>義重は義康の後塵を拝しているとしか評価できない。
>>義国の北面としての地位を継承し、
>>また義国の在京中に代官として
>>鳥羽院に参じているという事実は、
>>義国の嫡子が義康であったとういうことに他ならない。
どうやら足利と新田をめぐる正嫡論争に
結論が出たようだな…
っつーか、そういう事実があるなら最初に言えや(笑)
義国が義重を手元に置いていたから義重が嫡流では、
などと漠然と思い込んでいた己が恥ずかしいわ…
やっぱ朝廷での序列こそ真の実力の評価だよな…
でも戦争やらしたら新田のほうが強そうだよな…
なんか足利は経済ヤクザっぽい(笑)
413 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 05:05:08
足利義康が最終的に新田義重より
上位の官職に到達していたことは認めるとして、
両家の社会的地位を測る際、一番関心があるのは
その官位の差が個人的な猟官活動の結果なのか、それとも
両家の始祖である義国の意向だったのか、という点だよな。
もし足利家の上昇が
単に義康個人の精力的な活動の成果に過ぎず、
父である義国の家督継嗣の意向が義重であった場合、
これは両家の関係はやはり微妙なことになるのでは?
義康が在地の下野で義重と同居していたという形跡は
やはり新田側にかなり有利な材料となりそうだが?
414 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 05:16:17
根拠の薄い推論になるが
父親の義国が下野に下向することになったのは
当時の内大臣と悶着を起こしたことが大きいのでしょ?
義国は以後、京都に出仕しなくなるよね?
だとすれば、義重が京都政界で活動しなかったのは
同居していた父の意向ということにはならないかな?
それを補うかたちで弟の義康に京での義務を負わせたとか?
あくまで薄い根拠だが(失笑)
415 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 12:07:52
>>411 >義国の北面としての地位を継承
義国はこの時期すでに北面の武士としての地位を失って東国におり、
義康に地位を父子相続などしていない。
また、義国が晩年持っていた所領のほとんどは
長男義重が継承し、義康に渡ったのは足利荘のみ。
義国が義康を嫡男として連れまわしていたならともかく、
むしろ義重が自ら一旗揚げようと都に出て、
就職活動した結果のようにも見える。
416 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 14:00:34
411と415を読んでると、結局、
言い方のうまい奴に軍配があがる気がする。
いったん411で決まりかと思ったが、
415の新事実を見ると、騙されたような気がする。
結局、結論、これでいいのか?
↓
「源義国の家督譲渡の意向は新田義重であったが
その後、足利義康が実力で奪い取った」
別に義康が兄義重から家督を奪い取った、というのでもないでね?
本人たちが生きていた間に奪い合ったというものではなく、
鎌倉時代を通じて、北条氏と姻戚関係を結んだ足利のほうが
なんとなく幕府内で大きな顔をしてきたというだけ。
義国の頃は兄義重のほうが父には重用されていたと思うよ。
弟義康のほうが頼朝には重んじられたが、
別に兄義重と戦をして家督を奪ったというものでもないし。
>>415 『兵範記』とか、『本朝世紀』とか、『山槐記』読んだ事ある?
『尊卑分脈』だけ見てると事実は分からないよ。
義康が義国の代官として北面に参じている事が分かるのは、
『本朝世紀』久安3年7月24日条。
つまり、この段階では明らかに義国は北面の地位にある。
義国が乱闘事件を起こしているのは、久安5年正月30日(『本朝世紀』同日条)。
ただし、この後の東国下向も、『尊卑分脈』などに見えるだけで、
同時代史料には見えない。
東国下向は事実である可能性は高いが、
乱闘事件が直接の契機であるかどうかは不明。
義康は事件の3年後には大膳亮から右衛門少尉に転じているので、
久安5年以降も京で活動している事は確実と見て良い。
>義国が晩年持っていた所領のほとんどは長男義重が継承し
新田荘は当時浅間山の大噴火によって荒れ果てており、
漸く再開発が始まったばかりで、
その広大さに比べて肥沃な土地であったとは言い難い。
八幡荘に関しては不明だが、より浅間山に近かった関係上、
無傷であったとは考えにくい。
義康が継承したとされる土地で管見に入るのは足利荘・梁田御厨のみだが、
実際には他にどのような土地を義国が領し、
義重・義康に譲与が行われたのかは不明としか良い様がない。
新田荘だって、義国から直接義重に譲与が行われたのかは
不明じゃないのかな。
そもそも、義康段階で、足利・新田氏を分けて考える必要はあるのか?
義康の生前は義国の家を継承した義康と共に義重は一門として行動し、
義康没後に、それこそ415が言うように
「一旗揚げようと」して、独立した家を興したと見るほうが
良いんじゃないのか?
419 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 02:20:11
それるようでいて微妙にかする問題だと思うんですけど
源義康の足利荘、梁田御厨の領有の実態ってどうだったんですかね?
足利荘も梁田御厨も藤姓足利氏に取り返されたのではないですか?
同領域は長尾が入ってきたほか戦国時代まで藤姓足利氏の勢力圏でした。
それにひきかえ、足利一門って三河がほとんどで、この辺出身はほとんどいません。
それ以前の一門は上野の桃井、渋川、広沢(後の石橋)など新田領より西に、
ちょうど藤姓足利氏の勢力圏を取り巻くか避けるかのようにして分布しています。
足利義兼や義純などが義重の庇護の下育ったという話がありますがこれははっきりと確認できるんでしょうかね。
もしそうだとすれば、義康は新田庄の援助のもとデラシネとして京で活躍していたのではないですか?
420 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 02:37:48
由良と長尾
>足利荘も梁田御厨も藤姓足利氏に取り返されたのではないですか?
梁田御厨の相論では、義清が勝ってるね。
>足利一門って三河がほとんどで、この辺出身はほとんどいません
渋川の本領は足利の板倉。これは文書にも残ってるよ。
小俣とかも足利荘が本領だね。
>足利義兼や義純などが義重の庇護の下育ったという話
義純はともかく、義兼は奥富さんの妄想だね。
422 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 13:28:23
自分で文献にあたったことはないのだが
今までの討論を読む限り、
新田、足利の正嫡争いというのは、多分に結果論的なものだな…。
どうも義国がはっきり相続を決定したという形跡はあまりみられず、
両家の地位の差異は、後継の活動の結果で生じた、という感じだ。
つまり最終的に足利氏が義国流の嫡流に収まったことは
当然の事実として認めるとして、
それは義康以降の相続人たちの努力活動によるもので
必ずしも義国の意向とは断定できない、このあたりが結論だな。
すくなくとも義国の明瞭な意志は確認できないのだな。
423 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 13:32:19
>>422 新田を足利と同列に論じさせようとするのは
群馬県人の身贔屓というものだ。
日テレの「県民ショー」という番組でやっていたが
群馬県民はいまでも歴史カルタというのがあり
そのうちの「れ」は「歴史に残る新田義貞」というものだそうな。
同県出身の井森美幸や中山秀行など、全員が言えたからな。
鶴舞う形の群馬県、の上毛カルタか
425 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 13:55:45
船田元議員の船田一族は船田入道善昌の後裔を称し
田中正造も新田の後裔を称していたのだから戦後までは下野も親新田だったんだろう。
426 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 15:10:17
>>新田を足利と同列に論じさせようとするのは
>>群馬県人の身贔屓というものだ。
お前、群馬に喧嘩売ってる?
そっちこそ栃木の田舎者だろ?
427 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 15:12:02
栃木県の奴らはズルくて嘘つきが多いんだよな。
それでいて粗暴なバカ揃い。
そのうえ風呂嫌いだから臭い(爆)
428 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 15:43:14
難太平記とか見ても分かるけど、足利一門の武将には、
新田も本来的には同族って意識もあったみたいだね。
成り行き上、敵味方になっちゃったけど
429 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 16:31:09
>>421 >梁田御厨の相論では、義清が勝ってるね。
は藤姓足利氏が所領の奪還に動き出したばかりの話で
>渋川の本領は足利の板倉。これは文書にも残ってるよ。
>小俣とかも足利荘が本領だね。
というのは藤姓足利の本家が滅んでからの話ではないですか?
三河の話は鎌倉以前はどうだったのかという意味合いにおいてです。
430 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 16:55:12
もし429の言っていることが正しければ
421は議論に勝とうとして
異なる時期の話をまるで同時期のものであるかのように
うまく抜き出して話した、ということだな?
ここでもまた読んでる人間をうまく誘導しようとしたな?
421は口がうまい。
>>渋川の本領は足利の板倉。これは文書にも残ってるよ。
こんな書き方をされれば、読み手はこちらが正しいと思ってしまう。
これが藤性足利氏の滅んだ後のことだ、
とは一言も書いてないからな。
議論に勝てればそれでいいのか?
恐ろしい男だよ、お前は…。
431 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 17:07:02
>>渋川の本領は足利の板倉。これは文書にも残ってるよ。
こんな書き方をされれば、読んだ者は
「反論された側は、その文書を読んでいないんだな」
と反射的に思い込んでしまうからな…。
もし429の反論がなければ、このまま通ってしまうよな…。
前々から思っていたのだが、この板には考証で負けていても
話術の巧みさで勝とうとする奴が、ひとりいるんだよな…。
アメリカの政治家みたいな奴がな…。
古代ギリシアではおまえみたいのを「デマゴーグ」と言ったんだよ。
民主政治家の一種で、だまして人を誘導するんだよ。
432 :
429:2008/03/05(水) 17:10:38
いや、この場合時期の問題というのは議論のうえの誤魔化ではなく
それ自体問われる、見直されるべき問題でしょう。
自分の言っている事が正しければということですが
自分は全然詳しくないで改めて時期の話を知りたいと思っています。
433 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 17:18:41
これからの時代、議論のテクニックを否定してどうするの?
悔しかったら自分もテクニックを学べよ、負け犬君。
そもそも誤解するほうが悪い(失笑)
434 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 17:22:32
おれおれ詐欺師と変わらないな、ここの住人は。
議論に勝てればそれでいい、金が儲かればそれでいい、
精神構造は一緒。。。
これで日本史をやる資格あるのかねぇ。。。
日本史をやるなら
嘘を極端に嫌がった古人の精神を相続してこそだと思うがねぇ。。。
435 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 17:29:02
負け犬は消えな。戦国で勝つのは421みたいな男だろ。信長の親父だって恩人から城を奪って自立したんだよ。
ごまかされるほうが悪いんだ。泣き言いう奴はムカつくぜ。
436 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 17:32:30
人間のクズだな
>藤姓足利氏が所領の奪還に動き出したばかりの話
そもそも、義国は藤姓足利氏の上位に位置する存在だったらしい。
これは、『中右記』永久2年(1114)8月16日条に、
源為義と源義国が両人とも、事件を起こした足利家綱を、
「郎党ではない」と言っている事からも想像がつく。
足利荘・梁田御厨の立券が1142・3年。
時期は不明だが、義国存命の間に梁田御厨を巡る相論は始まっており、
一旦は義国が「得理」ているものの、義康の時期にも相論は続き、
最終的に義清が勝訴するのが永暦2年](1161)。
訴訟が始まってから、20年近く経とうとする時期だから、
>>421の言う「奪還に動き出したばかり」ではないね。
ついでに誰か教えてくれるとありがたいんだけど、
『吾妻』養和元年9月7日条には、
仁安年間に足利忠綱が足利荘の「領主職」を得ていたとされるが、
これは「本家」が「平重盛」であり、
「安楽寿院」領であった源姓足利氏の「足利荘」と同一のものと
看做して良いのだろうか?
同一のものでなければ、藤姓足利氏と源姓足利氏が、
それぞれ別の「足利荘」を領していた事になり、
両氏の足利荘を巡る相論、という考え方も
再考の余地があるんじゃないだろうか。
>>421は、藤姓足利の本家(足利俊綱・忠綱)が滅んだ時期って言ってるけど、、
そうなるとそもそも治承・寿永年間まで遡ってしまうんだから、
源姓足利だって義兼と義清の子供の世代でしかない。
三河に足利氏が展開するのは、承久の乱以降とされるから、
三河の足利一門は成立していない事にになるんじゃないのかな?
438 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 03:33:47
違うでしょ
>>423 > 新田を足利と同列に論じさせようとするのは
> 群馬県人の身贔屓というものだ。
そうなると「新田足利の国争い‥‥」云々とかって書いていた
太平記の作者は群馬県人ってことになるのか?
あ、そうそう。頼山陽も群馬県人だなw
>>435 恥を知らない奴だな。まるで中国人だ。
嘘がバレたら居直り。挙句に悪いのはそっちだと喚き散らす。
しかもこんな匿名掲示板で空威張りして戦国の強者気取りだから
呆れるよ‥‥
441 :
水戸光圀:2008/03/06(木) 19:02:09
足利尊氏は外道
新田義貞は英雄
八公二民の重税で民衆を苦しめた暴君に発言権はございません
443 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:01:02
だな
444 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:30:55
wikipediaで新田政氏のところを見ると、生年が1208年で、母親は足利義氏の娘
ってなっているのだけど、これっておかしくない?
足利義氏の生年は1189年になっているけど、これだと1189年生まれの人物の
外孫が1208年生まれってことになってしまい、年齢的に無理な気がするのだが。
445 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 22:33:23
446 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 03:25:51
そんなこといえば
源頼経と満仲は親子じゃなくなってしまうよ。
若干、大目に見る必要は常にあるよ
447 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 07:53:26
新田政氏の母が足利義氏の娘ということが間違っているんじゃないのかな
継母という線もありますよね
最初は政氏の年齢を疑ったが、前後からすると間違いはなさそうですね
448 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 13:09:22
ただ尊氏と義貞がほぼ同世代であることを考えると、義貞の曾祖父である新田政氏が、尊氏の曾祖父である足利頼氏(1240生、もちろん足利義氏の孫でもある)と、親子以上の年の差になってしまうのは微妙な感じもするな。
また兄弟である新田義重と足利義康から見ると、新田政氏と足利頼氏はともに玄孫で、ここでもこの2人までの世代数は合う。
さらに新田政氏の娘が、足利頼氏の子である家時の側室とある。
系譜関係よりも、wikipediaでの新田政氏の年齢のほうがおかしい気もする。
新田政氏を1208生とすると、その長男である基氏(1249生)と40歳以上も歳が離れるのも不思議だ。
449 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 15:35:43
新田政義 1187年生
足利義氏 1189年生
この2人はほぼ同世代
義氏女が政義の正室となり政氏を産むというところに無理がある気がする
この時代の嫡男が10代後半から子づくりを開始しているところをみると
1187年生の政義の嫡男政氏が父21歳のときに誕生しているのを見ると妥当なところ
義氏の娘が父親よりも2歳年上の新田政義の正室になったというのが事実ならば、
447氏がいうとおり養子、養母の関係であったことも考慮に入れるべきでは?
450 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 15:41:05
>>448 新田基氏は政氏の長男ではなく五男坊。
基氏には六男八女があったとされているので、
五男坊である政氏が40代はじめの誕生だと考えて妥当なところ。
451 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 16:57:08
新田も足利も阿野氏(源義経兄弟の)に比べたら源氏の庶流もいいとこだね。
>>451 阿野氏は時元も消されているし、武家の家系のほうはほとんど何の力も残ってない
公家で残った家系は女系だしね。
>>444>>449 足利義氏の「娘」じゃなくて「妹」だったという線はない?
婚姻の時の足利の当主が義氏だったのなら
妹でも「義氏女」って記し方をするような気もするけど。
454 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 20:26:53
新田政氏って「吾妻鑑」には出てくるっけ?
455 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 13:28:35
wikiの年齢が正しければ出てこないとまずいよね。
456 :
429:2008/03/08(土) 13:39:13
>>437 >時期は不明だが、義国存命の間に梁田御厨を巡る相論は始まっており、
これは知りませんでした。
>それぞれ別の「足利荘」を領していた事になり、
>両氏の足利荘を巡る相論、という考え方も
辞典を見たら「安楽寿院」領のほうの足利荘が足利郡全域に拡大したのは鎌倉のころとありました。
確かに別だったという可能性もあるんでしょうね。
三河の話は混乱させるようでしたね。
要するに藤姓足利氏の本家を滅ぼした後もその藤原秀郷流の勢力は確固たるもので
源氏側はその辺りで勢力を拡大することができなかったということです。
457 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 14:48:56
しかしそうすると室町幕府成立後、秀郷流の連中は素直に足利尊氏に従う気になれたのかね?
>>456 > 要するに藤姓足利氏の本家を滅ぼした後もその藤原秀郷流の勢力は確固たるもので
> 源氏側はその辺りで勢力を拡大することができなかったということです。
これは仮説ですか?
一般的には藤姓足利氏の旧領を源姓足利氏が継承したって
話だと思ってたけど違うのかな。
例えばその時分の秀郷流の勢力というと何氏?
秀郷流の連中が尊氏の時代まで生き残ってたんかな・・・・
小山とか結城は、かなりの独立性を持っていたろ。
461 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 21:11:51
それ、そこまで強く主張できるの?
なんか中世では一族の土地の所有権が強くて、
罪があって没収してもなるべく早急にしかるべき親類に再交付すべきものだったとか。
って話は読んだことがあるな。
463 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 00:00:35
>>460 足利義氏と結城朝光だかの例の相論の話か?
>>462 だいたい戦争や政変なんかで同じ一族が敵味方に別れると、負け側に付いた者の
領地は没収はされるものの、その後は同じ一族で勝ち側についた者に恩賞として
再給付されることが一般的って話だな。
藤姓足利氏諸氏は
佐野、大胡、藤岡、佐貫、山上、赤堀、淵名、那波、阿曾沼、佐貫、舞木など等。
藤姓足利本家との戦いも秀郷流小山朝政が中心。
↑ざっとあげたので後世の分家も混ざっているかも。
当時からいたと今の自分の知識でわかるのは
佐野、大胡、佐貫、山上、那波
(那波は後に大江氏が名跡を継ぐ。)
さらにすいません。淵名氏は同族で秀郷流ではあるが足利氏流ではないようだ。
むしろ逆で、淵名兼行の子淵名成行が足利にはいってこう名乗るようになった。
それにしたがって、佐貫氏も足利ではない。佐貫、佐位は足利と兄弟。
淵名、佐位、那波など、上野の南部の秀郷流ははやくに没落したようだ。
他はほぼ戦国時代まで残る。
467 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 04:59:41
新田政氏問題は解決したの?
468 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 23:36:38
>>452 室町幕府と江戸幕府により故意に記録が消されたが
実は、鎌倉末期の時点で、有力な武家であった。
470 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 00:12:32
,-ー─‐‐-、
,! || |
!‐-------‐
.|:::i ./ ̄ ̄ヽi
,|:::i | (,,゚д゚)||
|::::(ノ 中濃 ||)
|::::i |..ソ ー ス||
\i `-----'/
 ̄U"U ̄
471 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 00:18:03
472 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 00:38:56
拙者、昨年末にネット通販にてジーンズを購入してござる。
注文先の住所は美濃国土岐市でござった。
土岐といえば鷹にござるが、だからと言ってコンドルを名乗るショップとはいかがなものでござろうか。
大喜びで注文した拙者でござるが、正直言うと、ぜんぜん気に入らないので一度しか穿いてません。
473 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:21:15
>>472 ネタはいりませんよ。
皆が真面目に話してるのに。
中濃って薄口と濃い口の中間という意味だろう、常考・・・
475 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 23:03:57
とんかつにソースをかける気力もない
ウィキペディアの新田政氏、というか新田氏ぜんぶ精査しないとダメだよ
去年の秋頃から最近まで荒らされ続けてたんだから
ひどい例では学説上、藤姓足利氏の同族らしいとされてる人物が新田義重の子供にされてた事もあった
477 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:03:41
ウィキペディアを引用するのは問題かもしれんね…
個人的には便利なので使ってしまうことも多々あるが…
ただ、荒らしというのは言いすぎだと思うよ…
多分、その人も自分なりに精一杯やってると思う…
そもそも歴史ってのは意図的な荒らしが発生する分野じゃないよ…
日韓関係とかなら別だけど…
478 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:37:30
>>474 では、東濃、西濃、北濃などと言った場合は?
479 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:40:59
それは岐阜県内の地方を指すだけだよ。
480 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:42:42
じゃあ中濃も同じ
481 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:49:22
それは違うでしょ
ソースを連想させる
ソース希望すると突然ネタスレ進行になる
単純にソースどこ?ってだけなのにソース出さない
インターネットって知の共有だったんじゃないんですかね?
483 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 00:53:44
484 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 01:00:46
両方ともよしなよ、こんなことで…
意地張らずに岐阜中部って言い換えれば済むことでしょうが…
よく静岡と山梨の人は富士山の景観をめぐって口論するというが…
>>477 意図的な荒らしでなくても、メチャクチャな事を精一杯書くから使い物にならなくなる
結果は荒らしと同じ。吾妻鏡だ尊卑分脈だ系図纂要だともっともらしく典拠を示してたが
まともに読んだ事無いのが明らかな者の仕業
487 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:18:27
先祖が新田系
備後に移動後
毛利に追われる
488 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 00:35:37
>>484 結局、貴方も「中濃」の言葉にはソースの味の濃さという意味以外は許さないという主張か。
ついでに言っておくと、「中濃」は美濃の中部ではあっても、岐阜県の中部とは必ずしもいえないよね。
現在の岐阜県は飛騨も含むからね。まあ日本史板ではいうまでもないこととは思うけど。
489 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 02:01:26
新田陸奥守殿
490 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 03:04:13
>>485 甲相駿三国同盟=富士山トライアングル同盟
491 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 03:36:05
>>488 >>「中濃」の言葉にはソースの味の濃さという意味以外は許さない
レベル低過ぎ。
ソースの中濃と中濃地方を駄洒落でひっかけたんだろ?
おまえみたいの相手にしたくないよ。
492 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 03:45:30
駄洒落を解さないのはおまいじゃないかw
493 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 03:46:37
>>481とか、それは違うって断言しちゃってるしw
どうでもいい。死ねバカども。
おっ、逆切れか?
496 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 23:15:33
話を新田政氏問題に戻そう
新田まさし
498 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 23:34:17
499 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 23:37:01
グッドデザイン!!!!
500 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 01:47:50
>>498 これって本物?
俺が大田市民ならその市章考えた奴、怒鳴りつけてやるね...
人を舐めるのにもほどがあるよ...
501 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 02:57:00
ぶっちゃけ「おおた」の文字はナシで大中黒だけのほうがまだ潔い。
502 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 09:02:43
足利市の市章は?
504 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 17:27:28
旧オウム真理教のバッジかと思ったよ
505 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 20:43:17
オ…オッパッピー?
506 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 01:45:27
507 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 03:30:50
太田周辺は中黒紋使って家多いしな
508 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 03:35:01
>>476 wikipediaの新田氏歴代の生没年って何が根拠なの?
509 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 11:35:09
>>508 wikipediaは誰でも自由に編集できるから
出典が書かれてない場合は
その文章を書いた人に聞いてみないとわからん
みんな一応匿名で書いているんだが
新田義重の7男の合土義佐って何者?
「合土氏の祖。額戸経義の弟に当たる。額戸経義と同一人物とみられる」
の意味からして全く理解できない
でっていう
時々「ぼくのかんがえたせんごくぶしょう」まで存在するからのう>wikipedia
wikiの新田氏関係、ここ数ヶ月で塗り変わってる。
粘着臭漂う文章だな
514 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 12:39:43
意図的な改竄でもあったのか?
515 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 02:47:36
当人が脳内ソースを唯一の真理と思ってるふうだったから
改竄を意図してたとはいえないかも知れない
とにかく476
>>486に書いてるような事を
1日に100件、200件規模の異常な連投で何ヶ月も続けてたのさ
517 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 20:45:50
こういうのがいるからウィキの信用度は地に落ちた。
518 :
武陽隠士:2008/03/17(月) 21:24:02
ウィキペディアが間違っていると思ったら、
自身の知識に自身があるのなら
どうして書き直そうとしないんだよ?
え?
それができないでどうして2ch日本史板の住人です、
なんて名乗れるんだよ?
それができないのなら日本史板から去れッ!
私はそんな負け犬との討論をしにここへ来るのではないッ!
じゃあ書き換えといてくださいね^^
520 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 21:44:17
だね
合意形成やら改名手続やらの鬱陶しいウィキペのルールに拘束されて
1項目直すのに1か月掛かったよ
だから今後新田足利の訂正をやるかは判らない。とりあえず当分はやらない
池沼と編集合戦になってもウザいだけ。
ウィキペディアなんてどうでも良いよ。
信じたいやつだけ信じれば良いんじゃない?
523 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 01:00:46
だね
524 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 18:51:48
てゆうか妄想抜きにして鎌倉期の新田氏歴代の生没年ってわかるのか?
525 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 19:41:22
526 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 23:33:13
527 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 23:35:13
だね
529 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 23:41:20
530 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 19:31:43
何を今さら
531 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 03:38:08
新田郡に東照宮あるんだ
532 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 07:59:25
いっときは熱い論戦があったのに
ブヨが来てからこのざまだよ
533 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 21:03:23
wikiの義重のところに
>ここに至り、かねてより敵対していた縁戚の藤姓足利氏・平姓秩父氏らと本格的に武力衝突し、
>渡良瀬川の強硬渡河作戦によってこれを撃破し(秩父足利合戦)、さらに北関東における地盤を確固たるものにした。
とあるが、これは何?
平家物語に、足利忠綱は宇治川の戦いの際に利根川を挟んで秩父氏と戦った際に
義重は足利方についた。秩父側は船橋を切り落とした義重は馬で渡河せよと命じた。
(源義平・源義重・藤姓足利氏vs源義賢・秩父重隆の大蔵合戦)
という話をして渡河作戦を果敢したとあるが、これの誤りか?
534 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 23:09:24
実家の蔵の奥に眠ってある絵で、実物を撮影することはできないんですけど、
江戸時代に書かれたもののようで、金色絵で描かれており、鑑定士にて本物であることも確認しましたが、
何分、その人物が誰で何の図について描かれているのかが知識不足で分からないといわれてしまいました。
推測で構わないので、以下でその絵について説明する文から、この大将騎らしき人物は誰か、これは何の戦いか、
小鳥四羽は何を意味しているのか、お教え願えませんでしょうか?
このスレに持ってきたわけは、恐らく素人目ですが足利尊氏だとすると識者でないと
解析が不可能だと思われたからです。
表は白旗に二引き(丸に二引きではない)の旗印を掲げて、豪奢な鎧を身につけた大将と思われる武者が、
口を開けて意気揚々とした白馬に乗り、鎧武者一名を連れて高原(山?)を駆けており、その上に小鳥のようなものが四羽舞っています。
ですが、退却しているようには見えません。
裏は、山肌(高原の裏?)に1、2、3、4、のような旗印が並んでおり、恐らく行軍している模様。大軍に思えます。
1234
●━●━
● ─
● ─
535 :
旗印訂正:2008/03/29(土) 23:16:33
1 23 4
●━●━
● ─
● ─
536 :
旗印訂正(こうかもしれません):2008/03/29(土) 23:19:20
1 23 4
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| ノ ヽ
/ ● ● | クマ──!!
| ( _●_) ミ
彡、 |∪| 、`\
/ __ ヽノ /´> )
(___) / (_/
| /
| /\ \
| / ) )
∪ ( \
\_)
538 :
日本@名無史さん:2008/03/30(日) 09:45:58
あげ
539 :
ハイドン ◆gFOC1ww1d. :2008/03/31(月) 00:58:06
>>534 足利二引きではなく二引き両の旗印みたいだが、俺には知識不足で分からん。
画家は案外博学で、故事や逸話を用いた絵画を描くので素人には全く意に介さない場合がある。
足利尊氏か徳川家康でもないのかなぁと思う。
楠木正成(笑) 大楠公(笑) 逆賊足利高氏(笑) 南朝の忠臣(笑)
悲劇の天皇後醍醐(笑) 建武中興(笑) 中先代の乱(笑)
この世は夢の如くに候(笑) 七生報国(笑) 義貞は尊氏と比べて無能(笑)
吉野朝(笑) バサラ大名(笑) 天皇など金で鋳ればいい(笑)
あちらにいるのは院か犬か(笑) 佐々木道誉(笑) 湊川の戦い(笑)
嗚呼忠臣楠子の墓(笑) 官能の擾乱(笑) この頃都に流行るもの(笑)
541 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 01:19:34
桜井の別れ(泣)
>533
秩父足利合戦は大蔵合戦の事のようだが、これは源義賢・秩父義隆が
大蔵館で義平に襲撃された合戦で、橋云々は関係ないよな?
543 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 01:06:01
>>533は文がめちゃめちゃだったな。義重が藤姓足利に味方して利根川の強行渡河作戦で勝利したのを
足利忠綱が宇治川でまねようとしたってことね。
>>542 源義賢・秩父義隆は武蔵比企郡から上野まで勢力を伸ばしたと言う(そもそも義賢は上野多胡郡だけど)
義重は娘婿の義平に味方しただろう。
とすると大蔵合戦の前哨戦のようなものとして、足利忠綱が言ったような戦いがあったかも。
544 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 08:37:07
あのさぁ…
ここが一番日本史板でまともな住人が多いスレだと見込んで
スレ違いなことを承知で訊くのだが
明治天皇ってほんとにすり替わってるの?
最初は笑ってたんだけど中丸薫とかの話きくと
どうなのかなって、最近思うんだけど…
煽りなしで頼む。。。
ない。入れ替わりをさせて利益を得る人間は、どこにもいない。
京都には、明治維新政府に裏切られたと管を巻く廃れ公卿がいたが、
彼らも、天皇が東京にいるあのお方だ、ということに異議は無かった。
やはり、そうでしたか…
まともなご意見を聴いて、すっきりしました(´▽`)
ありがとうございましたm( )m
>>544 ここは日本史板でも有数の妄想スレですが?
岩松時兼の嫁さんの化粧料だったところ(現在、「手賀」「布瀬」と言われる辺り)は50年くらい前まで夫婦交換の慣習があったことを知りました。
こうした慣習は岩松氏が持ち込んだのか、元々なのか気になります。
旧新田荘地域には夫婦交換の慣習があったのでしょうか?
549 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 02:27:43
age
550 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 00:00:58
桃井って足利氏の支流なのに、上野国に居たもんだから、鎌倉攻めに
まるで新田氏の1つ見たいに参加してるね。
でも、高氏の指令だったのかな。
551 :
日本@名無史さん:2008/05/27(火) 01:42:33
>>551 と、尊氏が後醍醐天皇に申し上げましたが
あっさり却下されますた
>>550 そういえば「太平記」とか「梅松論」でも
まるで桃井を新田氏の一族のように記述しているくだりが結構ある。
父系では足利なんだが、ひょっとして母系で新田に繋がっていたのかな?
554 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 01:43:02
日本はやっぱ、血縁より地縁なのかも、遠くの親戚より近所の他人(今回は
全くの他人でもないし)。
555 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 02:25:39
555
556 :
日本@名無史さん:2008/06/17(火) 21:26:28
557 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 13:39:31
足利一族で新田方として参戦して終始行動を共にした人はいなかったのですか
桃井なんとか
桃井はもともと領地が上野にあったから、新田と親しかったのかもしれない
楠正成こそ実は東国を支配していた蝦夷の御大将。
それが秦人に負けたわけです。
560 :
日本@名無史さん:2008/08/13(水) 02:32:28
六波羅攻めや鎌倉攻めのとき、幕府側に味方した大物御家人て北条一族以外誰がいたの。
六波羅の方は六角時信と河野通盛、佐々木清高の三名が御家人として名を残してるけど、鎌倉の方は?
北条一族+御内人のほかは寒河江氏や摂津氏などの文官系統しか記録に無いのですが
561 :
日本@名無史さん:2008/08/14(木) 00:43:11
分倍河原では三浦氏が新田についたので、傍観していた他の外様(非北条)御家人が態度を鮮明にしたようだよ。
衰えていても三浦はそれなりに勢力残していたんだな
夏休み万歳
563 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 11:54:28
三浦は三浦でも分家の方ね。
三浦本家を含めた大物御家人はほとんど千早城攻めに回されていたから関東御家人で残ってたのは千葉氏位。
あとは名もない豪族。六波羅では河越氏や武田氏が幕府方についた。
564 :
鎌倉末において〜:2008/08/25(月) 23:16:06
新田を足利の本家というなら
新田の本家は阿野(今若丸の子孫)だ
阿野に従わない新田に足利に従えといえる道理は無い
565 :
日本@名無史さん:2008/08/26(火) 00:08:02
源氏は骨肉の争いが大杉
566 :
日本@名無史さん:2008/08/26(火) 00:21:46
>>565 確かに…。
それに比べて平家がなんて優しい事か…。
だって平氏は源氏より格下の賜姓皇族だもの
源氏の間で嫡流や氏長者を争うならともかく
二番手の中で一番を競ったって仕方ないでしょ
568 :
日本@名無史さん:2008/08/26(火) 01:34:22
569 :
日本@名無史さん:2008/08/26(火) 20:08:51
>>567 先に皇族から姓氏を受けて臣籍になったから?
それは認識が甘いという物でしょ。
平氏だって皇胤の氏族でしょ。
失礼だよ、今の近衛や鷹司の方々にも。
>>570 格下かどうかはともかく源氏よりも平氏の方が遠い皇族に与えられた姓であるのは確か。
572 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 03:55:48
源平藤橘だから源氏が一番上?
573 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 07:30:13
摂関家が一番上というのは揺るがない
574 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 09:45:26
575 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 23:44:33
>>568 源義国の嫡流だから義貞に足利尊氏は従えと主張するのが、新田氏だとしたら
鎌倉時代末に源義家の嫡流だった阿野氏に新田氏は従えという意見なのでは・・・?。
576 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 21:27:06
源氏の嫡流途絶えて以降は義家の子孫かそれ以前に別れた子孫かで差が有る気がする。
何となくだが義光の武田佐竹と義家の足利、新田なら後者の方が格上?
義光流・・・格上げ阻止
足利・・・格上げ成功
新田・・・格上げ失敗、一部底上げ成功
って感じなのかな
578 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 01:05:45
義光流は頼光流同様同族意識がまた違うものになってるからじゃない。
賀茂二郎義綱の子孫ているの?
580 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 21:54:26
源義綱の七男源義直は、昭和16年発行の旧駒ヶ谷村々誌に「幼子源義直は、石橋の祖である。」との記載があり、
現在、通法寺在住の石橋氏は、この子孫である。しかし、これ以外の詳細は不明。
過疎化が進んで檀家が減って、生計を維持できずに廃寺になり、
一家離散で逃げるように都会に出てきた嫡男は、自分の祖先の
ことを知っていても、その子に由来を告げることはない。
こうして血統は途絶えて行くけれど、姓は残るし血は途絶えない。
意外なところでルーツをたどることになるかもしれません。
582 :
日本@名無史さん:2008/09/01(月) 22:32:48
>>580 尊卑分脈じゃ石橋氏の祖は義綱の四男の義仲なんじゃなかったっけ?
いずれにせよ義綱末裔を名乗った後世の武士はかなりのマニアだったんだろうな。
583 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 12:51:59
弾左衛門家が頼朝直系
584 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 13:00:51
幕府にほとんど奉公しなかった新田氏は、足利とちがい、新たに地頭職与えられて全国に分散しなかった。
585 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 10:33:07
平家から頼朝へ
豊臣から家康へ
徳川から明治天皇へ
このような「前の王から後の王」への領土受け渡しは
得宗から足利への移り変わりのときはあったの?
鎌倉で一族自害したんだから、ないのでは
>>585 >「前の王から後の王」への領土受け渡し
何を意味しているのかよくわからないが、日本の歴史上存在しないよ。
平氏は有無を言わさず斬首されただけ。
家康は「主人」である秀頼に難癖点けて焼き殺しただけ。
明治天皇は逆賊に担ぎ出されて忠臣慶喜を追い出して監禁した。
北条氏は後醍醐に皆殺しにされたからね。
尊氏は後醍醐を山奥に追い払って自分の都合の良い新しい天皇を担ぎ出しただけ。
中国では形ばかりでも禅譲の儀式やるけど。ま、王朝交代だからね。
588 :
日本@名無史さん:2008/09/09(火) 13:44:22
>>587 禅譲(日本じゃ大政奉還のみがこれにあたるな)みたいなのじゃなくて
単なる領土や富、人材の接収という意味だろう。
一口に「領土や富、人材の接収」と言っても
>>585は
得宗→建武政権→足利
を数に入れてないみたいなんでよくわからん
平家→頼朝
豊臣→家康
徳川→明治天皇
にあって(or あると
>>585は思ってて)
得宗→(後醍醐→)足利
にない(or あるかどうか
>>585にはわからなかった)ものってなーんだ?
ってこと
>>588 大政奉還は朝廷から預かった政権を返上するんだから禅譲とは違うでしょ。
592 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 21:59:53
現実とタテマエを混同したらダメ
593 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 22:12:18
しかし、征夷大将軍の地位は、東国の警備員。
奉還もなにも、退職届の提出で済むじゃないか。
594 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 22:48:29
自宅警備で忙しい俺が来ました
595 :
日本@名無史さん:2008/09/12(金) 09:21:52
尊氏の妻は執権の妹だからそこから受け継いだ権利や富は無かったのかと。
598 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 00:48:57
儀式が大事なの
599 :
日本@名無史さん:2008/09/13(土) 07:49:26
>>595 尊氏自身が北条氏が持っていた権益をすべて破壊したのだから意味がない
建武の親政により土地も人民もすべて後醍醐天皇のものになったしね
尊氏に従った武士には鎌倉幕府を懐古して武士主体の幕府樹立を希望する者が多かったが
尊氏が妻の縁で北条氏から直接もらったものではない
マラ成繁
横瀬成繁
◆成繁家督相続10周年記者会見の言葉
「はい。いま10年目と言われまして,ああ10年目なんだなというふうにまず思いました。
自分の中では9年という気持ちが強かったものですから,10年目と言われて,10年と申しますと,
十年一昔とも申しますし,十年一日のごとしとも申しますけれども,確かに考えてみますと,
秋になりますと,9月9日に父泰繁が下野壬生で戦死しまして,そして後継にということになったのが
もう10年も前になるんだなあということを思い出しますと大変深い感慨がございます。
その後,嫡子国寿丸を授かって,私なりにいろいろと努力をしてきたつもりではございますが,
本当に力の至らない点が多かったのではないかしらというふうに思いますが,
常に管領や幕府の皆様に温かく支えていただきまして,いつもいろいろとご相談に乗っていただいて,
励ましていただいてここまで元気に過ごしてまいることができましたことを,
本当に有り難いことと思っております。」
603 :
日本@名無史さん:2008/10/04(土) 11:59:23
ttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20081004-OYT1T00350.htm 足利将軍の2木像、左手首部分が盗まれる…京都・等持院
室町幕府の足利将軍家の菩提(ぼだい)寺、臨済宗等持(とうじ)院(京都市北区)内の霊光殿に安置されている
足利尊氏(初代将軍)、義晴(12代)の両木像から左手首部分が盗まれていたことがわかった。
京都府警北署は、窃盗事件として捜査している。
同署などによると、手首部分は取り外しが可能だという。
いずれも江戸時代初期の作だが、文化財指定は受けていなかった。
霊光殿には、一部を除く歴代の足利将軍像と徳川家康像の計14体の木像が安置され、
午前8時〜午後5時に拝観できるが、柵やケースはなく、監視員や防犯カメラなども設置していなかった。
等持院は1341年に尊氏が創建。
川勝承哲副住職は「悪質ないたずらだろうが、許されることではない」と話している。
(2008年10月4日11時42分 読売新聞)
604 :
日本@名無史さん:2008/10/08(水) 18:50:12
ていうか、何故、義晴とか中途半端な手首を盗むのか?
605 :
日本@名無史さん:2008/10/11(土) 09:15:37
南朝残党の恨みによる犯行
606 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 13:58:52
次代の天皇は、新田源氏の血筋を引くことになるな。
東洋史学の斯波義信って斯波家の末裔ですか?
609 :
日本@名無史さん:2008/11/02(日) 20:45:30
>>609 おお!簒奪者の子孫偽帝統仁を堵殺処分し、復位した南朝正統の寅之祐帝の玄孫様が南朝忠臣の御血筋も受け継がれているとは!
万々歳だな!
611 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 16:15:32
スレ違いかもしれんが、源氏足利と藤原足利との違いを教えてくらはい
氏が違う
先祖が違う。
614 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 00:49:34
太平記を少々かじった程度の趣味的南北朝ファンです。
先日、足利−新田の系図を見ていてふと思ったのですが、新田本宗家から分家
している「今井」という家系はその後どうなったのでしょうか?
桃井・畠山・今川・矢田といった足利の分家にしても、脇屋・山名・里見はじめ
新田の他の分家にしてもみなそれなりに名の知れた家だと思うのですが、「今井」
は系図以外で聞いたことがありません。(今井兼平とは別の氏族のようですし…。)
私が無知なだけかも知れませんが…御教示いただければ幸いです。
615 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 08:18:12
正田家の遠祖は新田義重の家臣生田隼人であると称している。
後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って商人になった。
館林における始祖は“六三郎”であり、
江戸時代には代々「米文」の暖簾のもとに
米問屋を家業とし上州館林および近郊きっての富商であった。
「米文」の名声は江戸だけでなく大阪方面まで聞こえていたという。
弘化の頃(1844年 - 1847年)には名主の職にあり名字帯刀を許されていた。
文政元年(1818年)7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家「中興の祖」
といわれている。
文右衛門は明治6年(1873年)米穀商を辞め醤油醸造業を始めた。
貞一郎は館林製粉を創立して製粉業を始め醤油醸造業は本家筋が引き継いだ
新田氏庶流に額戸氏あり
その額戸氏の庶流に庄田氏、勝田氏あり
おそらくこの庄田氏、勝田氏の庶流ではなかろうか
額戸氏系図
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/fclan_index.htm
正田隼人家は幕臣で御目見以下の御家人では最高禄の知行高五百石
>>616 500石も貰っていたのか?
120石の岩松より上とは‥‥
自称新田一族に関しては、もろバチもんには手厚く、当時本物と考えられていた者には厳しくというのが徳川幕府の方針だからね。
自分自身ももろバチもんだから。
ならば足利時代は新田残党狩りを逃れて隠遁生活だな。
戦国期に北条あたりに士官して、再び落ち武者→帰農か。
新田に近ければ近いほど後世は不遇。
もちろん足利に付いた家系やバチもんは別だが。
綿打氏はどうなったんですか?
622 :
614:2008/11/18(火) 23:25:43
614です。
系図を見ていてふと気になったので書き込んでしまいましたが、
流れを妨げてしまい、すいませんでした。
レスくださった方、どうもありがとうございました。
623 :
sage:2009/01/02(金) 22:52:47
鎌倉幕府を倒した時点での足利と新田の力の差を知れば知るほど、その後の足利の振る舞いが大人げなく思えてきてしまう…
624 :
623:2009/01/02(金) 22:57:48
↑おっと間違えて上げてしまいました…
後付け保守ってことでm(_ _)m
徳川氏は新田氏の支流という説もあるんだよね。
ただ、最新の研究成果によると、家康によるでっち上げらしいね。
つり???
627 :
;:2009/01/03(土) 16:27:48
家康は賤民出身 サンカじゃないかと思われる。
>>627 何のバックも無しに、個人の知恵才覚だけで最下層から最上級へ
昇り詰める。
秀吉も家康もそうだというわけか。
まさに「ジャパニーズ・ドリーム」w
貴族だとか賤民だとかそんなことはドウデモイイわけだが…
630 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 01:00:38
>>606その通りです。
話が原点に戻りますが、新田は頼朝が北条氏に操られていることを、早くから
知っていて(おそらく義経もしかり)鎌倉幕府に対して距離を置いていたと思う。
鎌倉幕府=源氏の幕府ではないことを悟っていた。
一方、足利はそれを知っていたと思うけど、時の権力に従うことを選び、
代々、有力御家人として存続した。
実は、北条平家を快く思っていなかったのは、京都の平家の子孫達もしかり。
新田義貞を応援した平家の末裔が結構いたのも事実。
鎌倉幕府は北条幕府というほうが正しい。
631 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 19:31:03
>>630 電波発見ppp
よって晒しageだ。
>新田は頼朝が北条氏に操られていることを、早くから知っていて(おそらく義経もしかり)
根拠を挙げよ。
>足利はそれを知っていたと思うけど、時の権力に従うことを選び、
根拠を挙げよ。
>実は、北条平家を快く思っていなかったのは、京都の平家の子孫達もしかり
根拠を挙げよ。
>新田義貞を応援した平家の末裔が結構いたのも事実。
根拠を挙げよ。
632 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 14:12:09
>>628 家康と一緒にしてやるな。秀吉の努力と運に失礼w ヤツは最下層から
頂点を一代数十年でやってのけた。家康は先祖の出自はともあれ
何代もかけてるし。
俺も仲間にいれて
634 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 13:47:41
┌○┐
│お|ハ,,ハ
│断|゚ω゚ ) お断りします
│り _| //
└○┘ (⌒)
し⌒
確かに秀吉は別格。
それはともかく、もし
>>630に根拠があるなら非常に知りたい。
時の権力に媚びたのは源氏でも足利でもなく平家にべったりの新田なんだけどな。
だから鎌倉幕府で新田が冷や飯喰わされたのは当然だろ。
何スレか見ているが、俗に言う「新田厨」な輩は消えて欲しいな。
突拍子も無い事を言うか、難癖付けるかのどちらかでしか無い。
新田御厨
639 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 19:53:55
新田は田分(たわけ)をした戯けだから、分家に対する宗家の支配権が弱く、
田分の結果、宗家の勢力自体も高くなかった。
足利は田分をせず、宗家の勢力が強いため、分家に対する支配権も確立していた。
そして、頼朝旗揚げ時に、足利は当初から頼朝に馳走したのに、
新田は日和見をし、旗幟を鮮明にするのが遅れた。
馬鹿出現
足利厨も似たり寄ったりなんだが…
642 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 00:48:52
足利は市として残っているが、新田の地名は消えたな。
643 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 01:33:29
頼朝が新田殿の後家を狙ってて断ったから冷遇されたんだっけ?
まあ冷遇っていっても源氏一門の名族の扱いだったが
644 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 17:09:51
木枯らし紋次郎って、たしか新田出身だったな
>>643 あれは実質上は人質として出せと言ってると見られている。
その娘は、頼朝の兄貴、義平の元妻。頼朝と同じ歳だったとすると約40歳。人生50年の時代。今で言えば60後半から70歳くらいの感覚。
本気で側室にしようとしていたなら、頼朝は変態だな。
>>644 「生国は上州新田郡三日月村」と言っているね。
頼朝は変態だと思うけどな。
ちなみに、足利直義の妻が出産したのが42歳の時だから、
40歳くらいなら問題ないと思うぞ。
へー,_φ(・・)
649 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 08:16:04
近世以前だと、経済的状態によって、老ける速さが猛烈に違うのでは?
経済的下層だと、20代半ばで早くも老婆状態。
経済的上層だと、そんなに老けない。さすがに現在よりは老けているだろうが・・。
650 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:17:47
鎌倉が新田を源家一門の名族扱いってホント?
有力御家人の中で、新田義重は最後の義家の孫だったから、敬意を払われた。
でも以降の新田氏は急速に没落し、屁もひっかけられないほど零落する。
ひっかけられないのはハナじゃないのか
屁なんて引っ掛けられない方がむしろ嬉しいな。
651は屁たれ決定
655 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 23:41:27
656 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 07:36:42
義理5つ、本命2つ貰った
657 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 10:15:29
新田陸奥守殿
659 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 02:10:32
鎌倉時代末期の足利家ってもちろん「有力御家人」だったわけだけれど
この「有力御家人」ってどれくらいのイメージだったんだろう?
江戸時代の大名で言えば、何万石取りくらいのイメージなのかな??
たとえば加賀百万石程度、とか考えていいのだろうか
660 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 12:05:06
確かに、足利尊氏って自分の直属の兵力はどれ位持っていたんだろうね
よくわからない
661 :
日本@名無史さん:2009/03/03(火) 01:36:26
直属なんて意味無いよ
だいぶ前に、金沢にある自称新田義貞の嫡流とか言う庄屋がテレビに出ていたけど、
よく誇らしげにテレビ出演できるもんだな。
まだ、旗本出身の岩松家や由良家の連中が言うのは分からんでもないけど。
自分と他人では考えがちがうことくらい知っておけ
明日、新田勢は渡良瀬川を渡河して、足利を制圧する。
666 :
新田元康:2009/04/17(金) 22:03:25
新田義貞に憧れ、
新田流源氏を自称した
松平元康。
667 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 22:20:50
668 :
國學院大學卒:2009/04/17(金) 22:37:02
しかし、新田義貞が
鶴岡八幡宮の神殿を
あけたおりに、「二つ引両の紋」(当時、足利家の家紋)の旗(旗は八幡太郎義家奉納か)が
出てきたというが、
とするとやはり源氏正統は
やはり足利だったのか?
670 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 09:24:21
>>659 領地じゃなくて血縁でじゃない。
頼朝の親戚なんだから。
幕府の中枢にいるのが自然。
671 :
日本@名無史さん:2009/04/20(月) 09:31:53
>>659 大大名じゃなくて、将軍の兄弟、親族衆という扱い。
672 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 00:29:36
【岩松頼有こそ、田島経政?】
暦応2年から伊予国守護、その後備後国守護として活躍する岩松頼有その人を岩松・田島経政の出家した姿か、後継者である可能性が高いという。
新田義貞の鎌倉攻めにおいて、岩松経家と並ぶ岩松軍団の大将として、新田遠江(田島)又五郎経政がその人であろうという。
ソース『新田町史』
負け組み新田の子孫の俺が来ましたよ。
674 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 07:19:14
新田恵利
675 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 14:04:37
尊氏のDNAを受け継いでるやつは、この世にいる?
676 :
出羽源氏の分家人:2009/05/14(木) 16:45:07
>>675 一番有名な家では古河公方6代目義氏の娘と小弓公方家血を引く喜連川氏があり、
明治に足利に姓を戻した。
しかし、途中で細川氏からの養子が入っているため血を引いてはいない。
次に平島公方家の血筋が続いている。
これは、12代将軍義晴の弟義維を事実上の初代とする家系で、
現当主の足利義弘は
松永久秀に擁立されたことで有名な14代将軍義栄の弟・義助の子孫である。
現在、創造学園大学教授をなさっている。
足利尊氏の血を引く正当な家系は平島のほかにないと思われる。
ただし、足利直冬の孫で、嘉吉の変の際に赤松氏に擁立された
足利義尊・義将兄弟に子がいたとすれば、もっと多くの子孫がいることになる。
高基子の晴直系の宮原氏は?
678 :
出羽源氏の分家人:2009/05/14(木) 17:15:03
>>677 そういえば確かに古河家の子孫にいたな。
ちなみに俺は東海林(とうかいりん)なんだが、
新田義貞のいとこが家祖らしい。
その後、新田義顕の息子の圭樹丸俊行が養子に入ったらしいから、
俺は義貞の血を引いている?
679 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 17:35:12
でも大々名という考え方もあながち間違いじゃないと思う。
数多くの荘園を持っていたし、三河の大半は足利の分家たちが占拠していたに等しい
おそらく、数千単位の兵を動員可能だった御家人は北条の有力一門をのぞけば、足利だけだっただろうね。
特に当時の御家人は近世大名ほど巨大な存在じゃないから、足利の軍事力の強大さは、群を抜いていただろう。
680 :
日本@名無史さん:2009/05/14(木) 19:26:16
>>676 あれだけ暴れまくったのに…
尊氏あわれwww
681 :
日本@名無史さん:2009/05/15(金) 09:35:05
俺の血縁なしの縁戚で新田義貞の子孫を名乗っている家がある
俺はいったことがないが鎧がおいてあるそうな
近所にある大きな八幡宮の祭礼の時は屋敷を提供するんだと
あれはどういう家なんだろうな
682 :
681:2009/05/15(金) 09:40:27
もとい
義貞とは言ってなかった、新田と言っていただけだった
当主にあったのは披露宴のときだけなんだが、
自分の家柄を仲居に伝えても、新田なんぞ知らないので
源氏の〜、と言ったら、ああ源頼朝〜、としか反応がなくくさっていた
それだけの話
>>681 > あれはどういう家なんだろうな
こんなところで訊いてないでおまいが直接調べに出向けばいいだろタコ
前にも書いたが、ウチも自称義貞の子孫。
戦国末期に足利一門の領主が滅んだ時、家臣のほとんどが主家を見限って屋敷に閉じこもっていた。我が先祖もその一つ。
息子あたりからなぜ行かないとでもいわれて苦し紛れに言ったのだろう「ウチは新田義貞の子孫だから」
それ以降、新田義貞の子孫で通している。
歴史学を大学で一応学んだ漏れから言わせると、典型的な地侍で、義貞の子孫はあり得ない。
685 :
681:2009/05/16(土) 15:24:55
>>683 別にたいした関係でもないし
たまたまこのスレみつけたから書いただけ
でも一応義理義理の兄弟になるのか
>>684 新田姓名乗っているの?
686 :
684:2009/05/16(土) 17:47:44
バッタ者
>>684 > 戦国末期に足利一門の領主が滅んだ時、家臣のほとんどが主家を見限って屋敷に閉じこもっていた。我が先祖もその一つ。
ほうほう。で、その領主の名は何と?
> 息子あたりからなぜ行かないとでもいわれて苦し紛れに言ったのだろう「ウチは新田義貞の子孫だから」
> それ以降、新田義貞の子孫で通している。
義貞のどの子供の末裔ってことにしているのでしょうか?
> 歴史学を大学で一応学んだ漏れから言わせると、典型的な地侍で、義貞の子孫はあり得ない。
あり得ない。のは当然として、
そのヨタ話をいかにして周囲に信じ込ませたのか、
またその後は祖先の祀り方をどうしていたのか、
系図をいかにして書き換えたのか、
次の領主にどう対応したのか、などなど、
そちらの方にむしろ興味を持ってしまうのだが。
良かったら教えてくれ。
689 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:36:30
群馬県立太田高等学校
対抗戦
隣接する栃木県足利市にある栃木県立足利高等学校との間で毎年開催される。
両校はともに「質実剛健、文武両道」を校風として掲げていて、学習面や部活動面などでも常に良きライバル関係にある[1]。
本戦の年は一回交代で相手の高校を訪れ、足利高等学校は足利氏の旗を、太田高校は新田氏の旗を掲げつつ、さまざまな種目で競い合う。
それ以外の年は、部活動同士の部戦が行われる。
690 :
日本@名無史さん:2009/06/02(火) 20:51:25
群馬県八幡町の太田女子高は、学校の魅力つくりとして、栃木・足利女子高との対抗戦を企画している。
前橋高と高崎高、太田高と栃木・足利高など男子校同士の対抗戦は知られているが、女子高同士は珍しいという。
具体的な内容や開催地などはこれから決めるが、太田女子高の生徒らは「生徒全員が参加できるものにしたい」と意気込んでいる」
新聞記事にもある男子校の太田高校vs足利高校の対決とは、「隣接する栃木県足利市にある栃木県立足利高等学校との間で毎年開催される。
両校はともに質実剛健の校風を有し、学習面においても部活動などの面においても常に良きライバルである。
本戦の年は一回交代で敵地に乗り込み、足利高等学校は足利氏の旗を、太田高等学校は新田氏の旗を掲げつつ、さまざまな種目で競い合う。
それ以外の年は、部活動同士の部戦が行われる。また、過去の戦歴は足利高校ホームページにて確認することができる。」とWikipediaに記載されている。
現代にも、「新田vs足利」は残っているんですね。
そして、新聞記事にある生徒会長・川島彩加さんの言葉が勇ましい。「前例のないことでうまくいくか不安だが、一回目がないことには次もない。なんとか成功させたい」
いいですね。直接的には何もできませんが、応援しますよ〜。(ブログに書くことぐらいしかできませんけど……)
そして、太田女子高の校章がこれ、校章の由来は
「女性のシンボルである鏡を台にし、その中に太田のシンボルである金山の松と新田氏の大中黒の紋を配している」(太田女子高ホームページから)
大中黒のシンボルを有した時点で、君たちは「富士重工」や「斎藤佑樹くん」と同じ新田源氏だ!頑張れ!
691 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 10:18:10
こう見ると新田家の流れ(自称)の奴って多いよな。
俺の祖母の実家も新田義貞の末裔(自称)で苗字が新田。
戦前ぐらい前には鎧や刀はあったらしいが、今は無いらしい。
やっぱ、歴史上名をはせた敗者の末裔を自認する人って多いんだね。
693 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 23:05:29
↑
それまで、古作農だったのが、開墾して新田を開いたので、
明治維新の平民苗字必称義務令で、新田と付けたのだろう。
荒田別→新田氏
鹿我別→足利氏
695 :
はじめまして:2009/06/11(木) 00:08:00
鎌倉時代の御家人の序列が知りたいのですが
わかりやすく、江戸時代の大名にでもたとえて、ピンからキリまで教えて頂けないでしょうか?
江戸時代の幕藩体制にたとえたなら、
ピンの方はともかく、
キリの方だと1〜2万石の小大名どころか、万石以下の旗本クラスにカテゴライズされてしまう家も多いんじゃね?
元寇の時の竹崎氏とかそんな感じ。
697 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 13:53:36
いわゆる無足御家人
698 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 20:49:48
江戸時代は、直参以外、高家等例外はあるけど、
万石以上の200〜300の大名以外すべて陪臣あつかいだけど、
鎌倉は大小名って言うように、直参(御家人)が多かったんだろうな。
江戸時代の旗本なんて、鎌倉なら身内人で、御家人より格下だったが
旗本と大名は同格の直参扱いだからな。
699 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 21:15:58
>>698 鎌倉時代の御内人って将軍と直接主従関係にあったの?
700 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 21:16:38
>>698 鎌倉時代の御内人って将軍と直接主従関係にあったの?
701 :
はじめまして:2009/06/11(木) 22:33:50
たとえていえば、赤橋や金沢とかの一門は御三家で、長崎氏とかは井伊や阿部、足利は島津、新田は吉川って感じですか?
702 :
日本@名無史さん:2009/06/11(木) 22:52:38
将軍をどうとらえるかによるから後世実在した大名に例えるのは無理だろう。
足利も新田も源氏の中でも頼朝にわりと近いとこだから求心力があったわけで。
703 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 06:06:02
>>698 >江戸時代の旗本なんて、鎌倉なら身内人で、御家人より格下だった
旗本は私的家臣ではないからこれは違うだろ。
704 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 16:45:31
鎌倉時代は将軍が傀儡だから
執権・連署は大老で得宗・赤橋・政村流・大仏・金沢が資格者
名門なのに反主流の名越が越前松平、足利は前田、京極が藤堂
新田は?
松平上総之介
706 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 21:49:16
707 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:18:01
>>704 名越は酒井左衛門尉家じゃないかね?
足利は御三家で新田は御三家の連枝ってとこじゃない?
708 :
日本@名無史さん:2009/06/12(金) 22:47:35
>>699 将軍はお飾りで、得宗家を将軍家とみなしてる。
くだらね。
江戸時代の感覚で語ったらおかしいだろjk。
710 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 00:34:12
たしかに
711 :
日本@名無史さん:2009/06/14(日) 11:12:59
得宗家の権力が同じ北条一族でも突出している理由はなぜ?
執権・連署は赤橋だって輩出している、血統は名越の方がいい
新補地頭と御内人が泰時系にだけ忠誠を誓っているから?
領地が多く、経済力が優っていたから?
長命で無能ではなかった重時・政村が短命な得宗家を超えられなかった
または超えようとしなかったのは不思議だ
712 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 16:29:31
徳川宗家の権力が同じ徳川一族でも突出している理由はなぜ?
将軍は紀州だって輩出している、血統は越前の方がいい
譜代大名と旗本が将軍家にだけ忠誠を誓っているから?
領地が多く、経済力が優っていたから?
長命で無能ではなかった吉宗が宗家を超えられなかった
または超えようとしなかったのは不思議だ
714 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 22:00:51
715 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 22:23:13
宗家=秀忠系は傍流過ぎて相続権認められない越智以外絶えたからな。
っで、その後は吉宗系が14代まで続いてる。
ってか、新田と足利に連なれば何でもありになったのか。
平安から室町にかけての両家限定でなくていいの。
716 :
日本@名無史さん:2009/06/15(月) 23:20:22
>>715 越智は初代清武で絶えて養子が続き、結局水戸系の血筋になった。
秀忠の血統が長く続いたのは会津の保科松平だが、ここも幕末近くになって絶え、
水戸系の血筋に取って代わられた。
「反町」って姓は新田と関係あるんでしょうか?
母方の姓なんですが、以前反町薬師とやらで一族が集まって法要をやったんだそうです。
そのとき新田義貞に関係があると聞いたそうなんですが
調べてもわかりませんでした。
どなたかご存知のかたはいらっしゃいますか?
718 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 14:19:36
神流川合戦の一番槍が反町さんじゃなかったかな?
たしか鉢形の手勢
>>718 そうなんですか?
ありがとうございました!
720 :
日本@名無史さん:2009/06/16(火) 22:23:59
武州金窪原での武蔵野合戦で滝川一益勢に一番に馬を入れ槍下の功名を果たした北条氏邦旗下の反町大膳亮幸定だね
721 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 00:40:01
結局尊氏が御家人を糾合できたのは、源氏の嫡流という血統のおかげ?それとも
北条時代に準一門格で迎えられてたことが大きいの?
722 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 07:43:18
長尾顕長の家来には豊島、江戸、山名とか名門っぽいのが多いな
723 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 18:01:51
>>721 北条時代の格が大きいのでは?少なくても新田との差はそこだろう
725 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 20:20:12
新田大炊介上西入道以来の新田領を守ってきました
726 :
日本@名無史さん:2009/06/17(水) 23:17:04
北条時代の足利と北条得宗じゃ、得宗の方が家格は上だったんだよな?
727 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 00:09:49
家格?足利は鎌倉の家人だよ
728 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 00:25:46
最近思うんだが
家格というか・・・
足利・新田は、源氏で、「将軍家の一門」、貴種
将軍位への興味はあるが、幕府の役職に就くことは家の恥・・・室町時代の斯波みたいな感覚
北条は、家来筋の出ゆえに、幕府の役職に就くことに躊躇しない
潜在的な敵・倒すべきライバルは、同じような考えを持つ他の御家人勢力
比企・梶原・和田・三浦・安達
だから(待遇に差はあるが)警戒されつつも足利・新田は生き残ることができたのかな
歴史的事実は知らないけど
729 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 00:52:16
武田はやられたりしてるけど
平賀はどうなったかしらない
730 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 18:22:12
源氏の「一門」なんて他にもいっぱいいるわけだが
足利は、義康が頼朝の母方の従兄弟でもあったから親しく、早い時期から北条とも縁戚関係になり、大身のまま生き残った。
他の源氏一門はほとんど頼朝に粛清されて没落している。
もし、新田義貞が後醍醐に取り立てられず尊氏に従っていたら、新田宗家は上野守護として戦国時代まで生き延びられただろう。
733 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 22:57:22
↑
源氏の嫡流に近い血筋である以上、直義、直冬と同じ運命になったんジャマイカ
734 :
日本@名無史さん:2009/06/18(木) 23:27:20
上野国新田領金山の城主の由良がいる!
735 :
日本@名無史さん:2009/06/19(金) 22:36:23
>>732 頼朝時代は平賀、大内のほうが足利より序列は上
親子で武蔵、相模の国司を独占していた
平賀って「源氏一門」の筆頭だったようですね
畠山の没落に関与し、将軍位への野望を抱いたとして
滅んだみたいだけど
737 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 21:55:55
平賀源内は貴種だな
草燃えるに平賀朝雅とかいうのが一瞬でてきた
本人が知らないうちに謀反の首謀者にされていて驚くマヌケなキャラ
738 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 23:04:03
武蔵守だからね平賀は
739 :
日本@名無史さん:2009/06/20(土) 23:22:47
新田利用した徳川が足利優遇した事なんて無い。
名族好きの秀吉が取り立てた奴等が徳川に味方し辛うじて残っただけ。
由良、横瀬等の偽新田は仲間意識で優遇。
740 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 01:49:55
偽新田??
自分たちに権威づけするため
ホントは全然関係ないのに
新田に繋がる系譜(系図)を捏造して、新田(源氏)の子孫と自称した
そういう家系騙りの同類ってことかな?
742 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 11:55:44
由良や横瀬は全然関係ないとは言えない
由良とか横瀬は、もともと新田氏(岩松)の被官だからなぁ。
>>743 被官でも色々あるんでは。
傍系、女系、数世代立てば家臣化。
曲げて名乗れないこともないでしょ。
745 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 14:00:13
実際に名乗ってるし
15世紀の横瀬国繁は小野篁の子孫を称してたぞ。
女系で新田(岩松)の血が入ってるかもしれんが(政略的婚姻はしてたような)、
由良が偽新田と言われるのは岩松氏が現存してるのに新田氏正統を称したからだろ。
新田一族程度ならよかったのかもしれんが、
それじゃ岩松氏に成り代われなかったろうしなぁ。
747 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 14:37:52
由良氏こそ新田上西入道以来の新田領を守ってきた新田氏の正統です
新田姓の殆どは新田(しんでん)作った百姓の明治政府「苗字必称義務令」の産物
749 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 22:28:57
大館、堀口、烏山、金井、高山みんな由良の家来
鎌倉、室町の段階でも岩松初めに、山名や里見って出て来てんのに、明治まで新田はねーよな。それこそ先祖代々、新田庄で新田義貞邸に住んでましたじゃないとね。
名字は枝別れして違う土地に住んだ時点で変わるもの。名字ってのは土地(自身の所領)の名だからね。
751 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 10:44:10
足利荘に源氏でない足利がいたらしい、そいつが真の足利だな
平安末期の足利庄には
藤原系の足利氏と源氏系の足利氏とがいて
対立していたらしい
そういう事は普通にあることだったのかな
>>736 平賀って源氏なんだ。
だから「源内」を名乗ったんだね。
754 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 20:25:51
おいおい・・・平賀が源氏だなんてあたりまえのことも知らないのかよw
鎌倉方の源家緒流だとあとは武田、安田、足利、新田、小笠原、
敵だと佐竹、志田、木曽、新宮かな
755 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 21:34:56
朝廷のバランス感覚に倣い
北条は、足利を牽制するため、
落ちぶれ源氏の新田を
利用しようとは思わなかったのかな
まあ、ゴダイゴがこれをやったのだけど。
足利は代々得宗家から嫁貰っていたから、準北条一門。
得宗家の香具師など、鎌倉中期以降は新田なぞ存在自体知らなかったんじゃないか?
757 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 00:21:11
新田上西の存在を知らない鎌倉武士などいたのだろうか?
758 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 02:03:27
新田上西ってだれですか?
>>752 オイオイ藤姓藤原氏の娘を義家が孕ませて生まれた子は誰なんだよw
>>759 まさか義国のこと言いたいの?
マジであんな説信じてるの?
やっぱり古墳だったか。
ところで、このあたりは上毛野氏の祖と言われている
荒田別(崇神天皇のひ孫だっけか?)の本拠地だったと思う。
いろいろ現地を回って、一説にあるように荒田→あらた→新田
説を強く支持する気持ちになった。
つまり、新田氏は上毛野氏の宗家にして、古くからの在地豪族で、
その後、源氏の婿をもらったんダナと。
同じく足利氏は鹿が別(かがわけ)つまり、下毛野氏の宗家に
藤原氏の婿が入り、その後、源氏の婿が入ったダナと。
何で、こんな田舎に源氏の御曹司が来たのか不思議だったが、
実は、関東の上古の公方家に婿入りしたんだね。
764 :
日本@名無史さん:2009/06/23(火) 22:58:51
765 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 10:45:21
>>736 嫡男の大内惟義の系統は幕府とは距離を置きつつも
6か国の守護として承久の変まで続いただろう
766 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 21:55:36
767 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:06:55
新田上西は源家の重鎮
768 :
日本@名無史さん:2009/06/24(水) 22:30:11
歴史に名高い
新田義貞
G県人だな
770 :
日本@名無史さん:2009/06/25(木) 00:49:41
仁田上西
バッタ義貞
772 :
日本@名無史さん:2009/07/01(水) 07:36:38
G県人って言うなよ
ゴキブリ県人と勘違いするだろ
773 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 20:33:37
新田之庄の民人
774 :
日本@名無史さん:2009/07/03(金) 20:57:37
新田郡三日月村
775 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 22:41:24
足利県足利市足利区足利町字足利1番地
776 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:33:12
新田上西は鎌倉幕府ではどんな扱いを受けてたの?
777 :
日本@名無史さん:2009/07/04(土) 23:36:10
群馬栃木ではなく新田県、足利県になるべきだった。
778 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 00:24:55
江戸以降、足利優遇されてない・・・400年
明治以降、新田(徳川が騙ったから)優遇されてない・・・140年
現代ではどっちも微妙。
足利ってなんで栃木なのか不思議だよね。
780 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 16:20:49
宇都宮も佐野も小山も那須も栃木だ。
781 :
日本@名無史さん:2009/07/05(日) 16:29:46
>>776 八幡太郎義家公に血縁が最も近い源家の重鎮として遇されました
782 :
日本@名無史さん:2009/07/09(木) 13:23:54
新田義重って、系図上では為義と同世代なんだよね。
そりゃぁ重鎮扱いはされる。
しかし、100年以上経った鎌倉末期には、「新田?誰それ?ああ足利の親戚ね」だった。
なんせ、公文書で名前を間違われているんだからw「新田貞義」てww
存在感薄い奴がクラスで名前間違われる、あの感覚なんだろうなwww
>>782 本人は新田義重と名乗ってないからね。
あくまで源義重。
>新田?誰それ?ああ足利の親戚ね
「足利の末の一族」でしたっけ?
785 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 17:19:34
既にスタートの地点で貞義と尊氏の間には大きなハンデがあったって事だな
貞義はよく頑張ったと思うよ。
貞義さんお疲れ!
786 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 20:07:38
足利に比べると見劣りするけど他の大多数の御家人に比べたら名流だな
787 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 21:55:01
>>786 新田に対する評価の中で、
鎌倉幕府内の足利との格差を考えれば、
倒幕時から南北朝初期にかけての活躍は稀有だというのもあるな。
まあ、楠木にも同じことが言えるのだけれど。
788 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 22:11:51
新田義貞はなんで挙兵したの?
790 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 23:14:03
新田義貞はなんで討ち死にしたの?
負けたから。
792 :
日本@名無史さん:2009/07/13(月) 23:57:51
坊やだからさ
793 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 11:20:35
鎌倉幕府の滅亡時になぜ協力できたのか不思議だな
元々不仲でしかも京都と関東で離れている
794 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 12:58:14
>>793 足利と新田は不仲では無かったよ。
もう地位・勢力に差がつきすぎてライバルでは無くなっていた。
新田本家は勢力挽回のために足利の力を借りたり・御内人を嫁にしたりしてた
795 :
日本@名無史さん:2009/07/16(木) 17:06:46
鎌倉末期には新田と斯波・吉良・岩松とどちらが勢力があったのかな
どういう条件なら尊氏は新田を味方につけることができただろうか?
796 :
日本@名無史さん:2009/07/17(金) 13:22:28
>>795 斯波、吉良の足元にも及ばないでしょ
岩松とはトントンじゃないの?
797 :
日本@名無史さん:2009/07/22(水) 21:56:20
新田次郎の新田義貞だと、
足利が権力を笠に着て、
水利を横領していた。
本領が隣接しているから
小説で因縁を書きやすいんだろうな。
798 :
日本@名無史さん:2009/07/23(木) 23:22:54
新田次郎版とか見るとお互い源氏の嫡流って事に相当こだわってる描写が
あるけど実際はどうだったのかな。
本当だとしたら足利と新田は全く相容れない事になってしまう。
結果だけ見ると実際にそうなってる訳だけど。
799 :
日本@名無史さん:2009/07/25(土) 08:21:16
源氏と平家
頼朝と義経
得宗と名越流
朝廷が密かに第二派閥に肩入れして、
第一派閥をけん制するのは常とう手段だな。
足利が権力を握ろうとするから、
その対立軸として、
新田が担ぎ出されたんだな。
まあ、後醍醐は表に出過ぎて、
後白河ほどうまく立ち回れなかったけどな。
800 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 22:13:35
新田義貞の鎌倉幕府倒幕軍に岩松軍団の大将として、
新田遠江又五郎経政が居る (元弘3年8月熊谷直経軍忠状・熊谷家文書)。
彦五郎・又五郎は田島氏の諱名であろう。
この経政は、南北朝内乱初期に、陸奥南部で親類の相馬氏と共に活動する
新田左馬亮経政である(相馬文書)。また「新田左馬亮経政代田島小四郎」(相馬文書)という記述から、
経政の代官として田島小四郎なる人物が派遣されている。代官には普通一族の者がなる場合が多いから、
この史料は経政か田島氏であることを裏書するものである。
ところがこの経政は、史料上では建武2年(1336)に姿を消し、暦応元年から岩松頼有が伊予国守護、
その後備後国守護として活躍する。岩松氏惣領家は岩松経家が建武2年に中先代(北条時行)の乱で戦死してから、
岩松三郎直(正木文書22)国が跡を継いで活躍する。そのように考えると、
この岩松頼有は岩松経政(田島系)の出家した姿か、あるいはその後継者である可能性が強いが、それを確定する史料がない。
『新田町史』より
801 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 23:46:53
新田次郎の「新田義貞」いいですよ。
私はそれまであまり歴史に興味がなかったのですが、引き込まれました。
義貞と尊氏の幼少時が対照的で、年下でお坊ちゃんの高氏(足利又太郎)の元服に際し、
義貞(新田小太郎)が高笑いを受ける場面は大河ドラマの1シーンとして目に浮かぶようです。
義貞の「今に見ていろ」という思いに、読んでいる自分も共感してしまいます。
別のたとえを使うと、新田義貞=星飛雄馬、足利尊氏=花形満というようなキャラで描かれています。
ライバル関係が明確で、読者をぐいぐい引き込みます。
太田高校出身の私は「新田義貞」の大河ドラマ化を切に願っています。
802 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 11:21:53
>>801 歴史上の評価は非常〜に低いけれど、
貞義はよく頑張ったと思う。
義重から始まって凡君・暗君ぞろいで無位無官に成り下がっていた新田家を歴史にしっかり刻み込んだし
>>802 高時に言われるとムカツク義貞であった。
804 :
日本@名無史さん:2009/08/25(火) 18:38:08
太田市は新田町等を合併した際に
新市名を新田乃庄市とするべきだった。
805 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 22:26:34
太田と足利の合併案もある
合併したら、
太平記市
南北朝市
とかにしてほしいな。
806 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 11:15:12
かつて群馬県では前橋と高崎および周辺市町村を合併させて「東国市」とする構想がありました。
北関東の拠点都市として、宇都宮に対抗するねらいがあってのことです。
しかし、群馬では前橋、高崎の対抗意識が強く、実現には至りませんでした。
近年、そして今回の総選挙でも道州制への移行が話題として上っています。
茨城、栃木、群馬の三県に埼玉、新潟、長野のいずれかを加えたものを「北関東州」とする案が上がっています。
その場合、人口規模からすればさいたま市や新潟市が州都の候補ですが、
いずれも州全体からは辺境の地ということになりますし、特にさいたま市は東京のすぐ近くということになってしまいます。
現在の市域で考えれば、宇都宮が州都の最有力候補ということになりますが、
前橋、高崎を合併させることにより、これに対抗できるというのです。
さらに周辺市町村を加えるとか、市町村の土地を州のために提供するとかの
誘致合戦に発展すると、道州制自体が成り立たなくなるでしょう。
そこで両毛地区が注目されています。
太田・桐生・みどり・館林・邑楽と足利・佐野を合わせれば、宇都宮や前橋・高崎に対抗できるし、
「北関東州」がどんな組み合わせになっても、州のほぼ中心に位置するというのです。
群馬と栃木の誘致合戦による争いを避ける折衷案とも言えます。
その場合当然、市の名称が問題になるでしょう。
室町幕府の開祖である足利氏に因んだ足利市は、全国的な知名度は高いでしょうが、
そのために人口で上回り、足利氏のライバルでもある新田氏にゆかりのある
太田市他の市町村が飲み込まれるのは群馬県人としては許したくないでしょう。
では、どんな名称がよいでしょうか。
ひとつは前掲の「東国市」です。
鎌倉攻めの経緯などを考えると、この地域の方が前橋・高崎よりもこの名前にふさわしいと思います。
>>805の「太平記市」も悪くはないと思います。「南北朝市」だと京都や奈良のイメージが強いように思います。
他に「源氏市」や「源(みなもと)市」はいかがでしょうか。
「坂東市」もよいかと思ったのですが、すでに茨城県にあるようですね。
807 :
日本@名無史さん:2009/08/30(日) 22:17:05
>>805 >>806 太平記市? 南北朝市? 源氏市? 源市?
センスの片鱗もないご冗談は程々にされたい。
歴史的経緯に基づかない珍妙な市名は文化の破壊。
「足利市」の名前を無くしてはならない。
808 :
日本@名無史さん:2009/08/30(日) 23:34:50
公明の太田さん落選だってさ
809 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 05:57:15
>>807 「太田市足利区」とか「新田市足利区」になるより良いのでは?
810 :
日本@名無史さん:2009/08/31(月) 15:16:12
群馬県新田郡世良田町字得川
811 :
日本@名無史さん:2009/09/03(木) 23:38:37
最低賃金、関東最下位は群馬、茨城、栃木の順(全国平均時給700円代には
遠く及ばない)。
民主の1000円は北関東(新田・足利)死滅の前兆。
812 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 13:00:59
>最低賃金、関東最下位は群馬、茨城、栃木の順
最下位とは、最も下の位のこと
つまり、この場合、最下位は群馬
「群馬、茨城、栃木の順」
としたいのなら、
「ワースト3」は、
とか、
「下から順に」となる。
813 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 00:37:03
最低賃金は栃木、茨城、群馬の順。
首都圏なのに全国平均の700円にも満たないのに1000円無理だって言ってるだけ。
ワーストは最悪、最下位、ワースト順は最下位順。ワースト3は下から3。
何が言いたいんだ?低能。
814 :
日本@名無史さん:2009/09/10(木) 21:38:00
>最低賃金、関東最下位は群馬、茨城、栃木の順
>最低賃金は栃木、茨城、群馬の順
ようやく、言いなおさなければ意味が通じないことに気付いたのか。
815 :
日本@名無史さん:2009/09/11(金) 00:04:53
通じないのは、お前だけ。
ようやく言ったのが数日後(低能)
816 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:17:03
>ようやく言ったのが数日後
2ちゃんの過疎スレに張り付いているほど暇じゃない。
>(低能)
相手の表現のどこがどのように不適切なのかを的確に表現できず、
侮蔑的単語を使い抽象的にしか非難出来ないんだな。
817 :
日本@名無史さん:2009/09/14(月) 22:23:38
↑
こう書かれても、
張り付いてるんだろから、
レス遅らす必要ないぞ。
818 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:02:04
通じないのは、お前だけ。
過疎ってようが自分が覗くスレ二日に一回くらい見る。
連投、張り付き、ボロが出た。白痴確定
819 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:08:07
初心者ですが質問があります
群馬と栃木はどっちが右でどっちが左でしょう
820 :
日本@名無史さん:2009/09/15(火) 00:25:56
>>817 お前は偉そうに主張してんだから毎日見るのが礼儀。白痴ちゃん。
821 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 01:27:55
>>819 栃木は右(東)、群馬は左(西)。
漫才のU字工事に、栃木と群馬を対比する際に、足利と新田のことも盛り込んで
ほしいな、と勝手に期待してしまう。
822 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 03:05:53
足利一族で御家人として認められていたのは北条氏を母親とする畠山.吉良.斯波.渋川らしいけど吉良の母親って北条一族なの?
義清流の細川や母親の身分が低い一色は家臣で当然だと思うが
823 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 11:13:36
母が正室(正室は北条泰時の娘)ではなかったため、長男でありながら足利家
の家督を継ぐことができなかったという。
この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の今川家のみが
足利宗家継承権を持つことになる。
意味わかんね。
824 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 14:57:16
吉良の親は何者だったんだ
>>823 徳川将軍家の血統が絶えたら御三家から継承者を選ぶってのと同じだよ。本家に養子に入って
継承するのと、本家は絶えて吉良家が宗家になるという違いは有るけど。
826 :
日本@名無史さん:2009/09/28(月) 22:36:19
鶴舞う形の群馬県と
日本地図を
同時にインプットされた小1の俺は
北海道を群馬県と認識していた。
828 :
日本@名無史さん:2009/09/29(火) 18:55:39
>>827 822じゃないが、
御成敗式目読んだことのある奴会ったことないぞ。
日本史の試験解答レベルの概要が知っているが。
弘安10年・正応6年の追加法に、
祖父母・曽祖父母が将軍家からの下文を賜った者が、
所領を知行していなくても御家人である
と書いてるので、義氏・泰氏の子孫は
全員御家人ということになるんじゃないかな。
当然一色・石堂・上野・加古・小俣も御家人ということになる。
北条氏云々は関係ないよ。
830 :
日本@名無史さん:2009/10/02(金) 14:41:06
御内人にも御家人身分を持ったまま北条家人になった者が大勢いた。
生活が成り立たない分家や御家人が足利家人になってもおかしくない。
上杉なんてまさにそうだろ
>>823 御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が、
ってのは確か『甲陽軍鑑』かなんかに乗っていた俚謡に過ぎず、
恐らくは今川氏が自らの家格(そりゃ良いには良いんですが)
を喧伝するためにでっち上げたもの。
実際、将軍家の後継問題が勃発した際に吉良氏による継承が取り沙汰された例は皆無。
吉良氏に継承権があるのならポスト義教で籤引きなんかする必要もないし、
義政だって義尋(還俗して義視)ではなく吉良を後継指名すれば良かった。
で、義尚が生まれたら「ごめん。やっぱ降りてよ。」
「もちろんでございます大樹。所詮私なんて吉良ですから。」
で応仁の乱も起きずめでたしめでたし。
失礼。「乗っていた」じゃなくて「載っていた」でした。
とは言え吉良氏が斯波氏すらも凌ぐ格式を誇っていたことは
義政期〜義材期の故実書に明らかです。
一方『信長公記』かなんかに、信長打倒の謀議の席で、
上座を巡って吉良と斯波が争ったという記述もありますね。
斯波は吉良の優越性を認めてなかったのかな。
時代的にそんなこと言ってる余裕はないはずなのですが。。
(まぁ軍記物の記述ではありますから。)
>>831 飲みながら書くと我ながら碌でもないですな。
聡明な諸賢はお気付きの通り、ポスト義教じゃなくてポスト義持です。
835 :
日本@名無史さん:2009/10/11(日) 21:17:10
岩松満純って当時から義宗落胤自称してたの?それとも戦国になってから?
また人物嚴書の足利義満って読む価値ある?明治生まれの南朝主義者が書いてるみたいだけど
>>835 臼井信義氏の本のこと?
義満について知りたければ読んで損はないと思います。
著者は明治40年生まれですが、カビの生えた南朝主義者とは感じませんでしたよ。
>>831,834
吉良が継ぐを真に受けたとして
くじ引きする対象もいなくなった時、
関東にもいなくなった時などなど、
始めて吉良の出番だろうな。
飲みながらは碌でもないね
自称かどうかも立証できないから
当時から気にもされてなかったんじゃないのか
歴史的事実は、それでも岩松が続いたこと
>>836 そうそう。臼井氏には「尊氏の父祖−頼氏・家時年代考」という優れた論考もありますね。
>>837 >飲みながらは碌でもないね
まぁそう言わないで下さいよ。
うまい例が思いつかなかったもんで。
義持との血縁の近さは当然弟たち>持氏なわけで、
それでも持氏は義持の猶子となることで後継の座を手に入れようとしたんですよね。
今ひとつは出家者を還俗させて将軍職に就けるのが異例だということもあります。
であるならば、あくまでも837氏と同じく「吉良が継ぐを真に受けたとして」ではありますが、
「御所が絶えれば吉良が継ぎ」という制度があるのなら吉良某を義持の猶子にすれば良いのではと思った次第です。
この例の拙いところは、義持は義量夭逝ののちも自らに後継男子が授かると信じていたことと、
そもそも三宝院満済と畠山満家にとってポスト義持の本命は青蓮院義円であり、
籤引きは八百長だったとの説もありますから、どの道吉良の出番はなかったわけですが、
可能性が取り沙汰された形跡すらない、ということが、
そもそも吉良氏の継承権云々が俗説に過ぎないことの証左なのでは。
私は足利一門における吉良氏の抽んでた家格の高さ(守護大名でもないのにも拘らず)に
とても興味があります。
にも拘らず、吉良氏に将軍職継承権があったことを示す史実はない、がFAで宜しいでしょうか。
浅学非才の身ですので、反証があったらどなたか教えていただけると有難いです。
>>839 だから クジ引きの対象者がいなくなった時に
&関東にも尊氏の子孫などがいなくなった時に
はじめて、吉良の出番だろっと
>>841 そうそう。本当の意味で誰も居なくなった時に、だよな。
まぁ、自分で勝手に言ってるだけだと思うけど。
>>842 結局、「勝手に言ってるだけ」ということに尽きるのでしょうね。
吉良がというより今川が勝手に言ってたのかな、と私は思うのですが。
だから
>>825みたいに「本家は絶えて吉良家が宗家になる」
とか適当なこと言われても困るんですよ。
844 :
825:2009/10/21(水) 22:24:14
>>843 いや、俺は
>>823に言葉の意味を解釈しただけで、そういう事実が有ったか無かったかは語って
ないんだけども。
845 :
日本@名無史さん:2009/10/23(金) 12:26:56
新田は政義さえあんなアホな事連発しなきゃもう少しマシだったんだろうがな
846 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 15:27:49
847 :
日本@名無史さん:2009/10/25(日) 16:29:12
吉良といえば、徳川家康が将軍になるとき清和源氏の子孫を名乗るために
吉良の系図を譲り受けたという話が有名だが、これっておかしくないか?
同じ清和源氏とはいっても、徳川氏は新田支流の徳川氏という設定だろ。
新田系の子孫を名乗るのに、足利支流の吉良の系図なんて関係ないだろうに。
吉良氏が持っていた系図に、
新田流得川の系図も記載されていた
ってことだろ?
足利氏所有の系図に
先祖筋にあたる源家や同族の新田氏その他の系図が
載っていて何か不思議なのか?
自分のおつむが浅はかなのに、他に問題があるように
非難するのは、どういう了見なのかね〜ヤダヤダ
850 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 18:36:36
>>845 そこなんだよな。俺もいつもそう思う。
あんな短気を起こさなければまだまだ源氏の重鎮として幕府でも重用されたのにね。
母親と上手くいってなかったんだろうか?
それにしてもあの母親も岩松になぜ肩入れしたのか疑問なんだよな。
851 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 20:35:16
>>850 無断出家は53才の時
積もり積もった鬱憤が爆発したんだろうね
852 :
日本@名無史さん:2009/10/26(月) 23:39:19
>>847 その疑問はしごくもっともです。
これまでそこを簡単にスルーしてる人が多すぎたくらいです。
853 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 11:13:26
北条秀時もなんで新田みたいな没落御家人に娘やったんだろ
854 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 13:48:44
新田政義軽挙録
@1242年預かり囚人に脱走される。
A1244年大番役中、無許可検察非違使任官を求める。
B拒否されると無断出家
C足利義氏の宴会において厩番をやらされた
855 :
日本@名無史さん:2009/10/28(水) 14:46:38
>>854 ひどすぎるな…
そもそもの資質に問題ありの人物という感じだ。
こいつを跡取りに決めて教育した親の責任も大きいな
856 :
845/854:2009/10/28(水) 16:37:55
こいつと荒井覚義とか言う僧侶しか息子いなかったし
857 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 23:31:18
徳川が吉良に系図借りたのは足利一族で三河時代から従っていたから?
山名や畠山.細川は幕府できてから
858 :
日本@名無史さん:2009/11/08(日) 13:05:17
徳川(松平)は、もともと幕府の伊勢氏との付き合いのほうが深くて、
伊勢氏の被官的なつながりがあったんじゃなかったかな。
859 :
日本@名無史さん:2009/11/09(月) 02:52:03
松平は応仁の乱でも出てくるな
>>家系図
新田と足利はもともと同族だよ。
源頼朝の5代前の祖先に義家がいるが
その源義家の次男であった義国の嫡子が足利祖であり
側室の子が新田祖。
だから当然、新田氏の末裔であるということは
足利氏と同様、清和源氏であり将軍補任の資格あり、ということになる。
ちなみに幕末の徳川に勤皇主義が台頭するのは
自分らの祖先を足利氏ではなく、
後醍醐天皇の忠臣・新田義貞の家系に結びつけたから。
これ豆知識な。
>>859 もっともらしく書いているが、
事実誤認、あるいは断定できない事項を断定してるな。
>源義家の次男であった義国
義国は、系図上では義宗・義親に次ぐ三男。
弟に義忠がいるが、実際の長幼の順は不明。
>義国の嫡子が足利祖であり側室の子が新田祖
義康母(源有房女)が正室で、
義重母(藤原敦基女)が側室だというソースは?
862 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:15:49
単に前妻、後妻じゃないか。
863 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 21:12:51
864 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 17:43:58
>>59-61 足利も義康は、保元の乱での活動からも明らかなように、
義朝・頼朝の系統に属さない独自の軍事力として存在していたわけで。
頼朝の旗揚げ時に、足利義兼が早い段階から頼朝に協力したのは、
頼朝と義兼が母方の従兄弟同士であったことが大きいのだろう。
あとこのときの新田については、本家と山名・里見等の分家との間での
足並みの乱れが指摘されているけど、足利側だって、義兼の庶兄義清は
木曽義仲に属して西国で戦死したりしている。
結局、足利本家が鎌倉幕府の有力御家人になったから、
分家一族(義清の子孫の仁木・細川等)もみんな足利本家に靡いたけど。
865 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 17:58:57
>>100 山名は、新田庄内の領地を全く知行していない上に、初期の頃から
足利一門や上杉氏なんかとの婚姻関係が続いたから、事実上の
足利一門みたいな感じだったんだよな。
男系血縁では新田一族だが足利一門待遇の山名って、岩松とは対照的だ。
ただ山名・岩松みたいな足利一族と新田一族の立場を使い分けていたような
者たちが、南北朝分裂時にみんな足利についちゃった時点で、新田に未来は
なさそうだけど。
866 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 03:28:19
>>403-405 勧修寺家自体がそんなにランクの高い公家ではない。
後世の感覚だと、公家の家格における羽林家と名家は、昇進の際に経由する
官職が違うだけで、家格自体は大差ないようなイメージがなくもないが、
これは室町期の日野流の大出世によって名家全体の地位が上昇したため。
勧修寺流も公家の家格の上では名家であり、鎌倉段階での地位は、
たかが知れている。
867 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 04:12:20
>>863 向こうのスレの主要レス抜粋
212 :日曜8時の名無しさん:2009/12/04(金) 02:45:32 ID:IGDS/8Mz
ところで、wikipediaや各家成員リストのサイトで
新田政氏(義貞の曾祖父)のところを見ると、政氏の生年が1208年に
なっているけど、これは本当なのかなぁ?
新田政氏の母は足利義氏の娘だから、政氏は義氏の外孫ってことになる。
ところが足利義氏の生年は1189年。
1189年生まれの人物の孫が1208年生まれって、どう考えても
変じゃない?(祖父と孫の年齢差が19しかないなんて)
wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%B0%8F 各家成員リスト
http://nekhet.ddo.jp/people/japan/nitta01.html#masayosi257 215 :日曜8時の名無しさん:2009/12/04(金) 14:21:52 ID:m4spH6Kf
足利義氏の生年は1189年らしいことは間違いなさそう
だとすると、一次資料を当たらねばわからないが、新田政氏の生年が間違っていることが考えられる
新田政氏は源義国から5代、同じく足利で義国から5代は頼氏に当たる
高氏と義貞はともに義国から8代なので、政氏と義氏が同年代とは考えにくいのだが…
ただ、代替わりが平均的に行われるとは限らないので、
そのwikipediaの新田政氏の生年が全く間違いだとは、断定できない
その場合、足利義氏の娘は新田政氏の生母ではなく、父政義の後妻、つまり継母の可能性もあるのではないか
或いは義氏の娘ではなく、妹の間違いかもしれない
素人考えなので、この辺で許してw
216 :日曜8時の名無しさん:2009/12/04(金) 15:20:47 ID:Crt9UeY8
新田政氏の嫡子基氏(義貞祖父)に関しては、新田氏の菩提寺である
円福寺にある墓誌の銘文から1324年に72歳で没したことが確実。
ここから逆算すると、新田基氏の生年は1253年。
政氏の生年が、ウィキペディアなどのいうように1208年だとすると、
嫡子基氏との年齢差が45歳もあることになり、これもあり得なくはないが
不可解。
>>215 >その場合、足利義氏の娘は新田政氏の生母ではなく、父政義の後妻、つまり継母の可能性もあるのではないか
ウィキペディアなどは、新田政義の生年を1187年としている。
そうすると、足利義氏の娘は自分の父親より年上の新田政義に嫁いだことに
なるわけで、これも絶対にあり得ないとはいわないが不可解な話。
どうも、新田政氏だけでなく、その父親の政義の生年も怪しい感じがする。
なお史実としての新田政義は、1244年に京都大番役の最中に無断で
出家したために改易処分を受けていることが『吾妻鏡』から確認でき、
1244年段階で存命しており、現役であったことが分かるが。
217 :日曜8時の名無しさん:2009/12/04(金) 16:02:51 ID:m4spH6Kf
>>216 >嫡子基氏との年齢差が45歳もあることになり、これもあり得なくはないが不可解。
一応、言い訳としては、基氏が五男であることを上げられるかもしれない
ただ、確かに余りしっくりこないですね
政氏の生年の根拠になっている一次資料ってなんだろう
それを検討しないことには、どうにもこうにも…
閑話休題、新田氏といえば、その基氏が死去したことを
足利貞氏が義貞に悔みを言うシーンがドラマの中にあった気がするけど
自分的には、そういう小技的なのって好きだな〜〜
きちんと歴史を調べて作っているんだな、この時代を愛して作ってるんだなって感じがする。
218 :日曜8時の名無しさん:2009/12/04(金) 19:30:29 ID:8pPGHftT
>>217 >政氏の生年の根拠になっている一次資料ってなんだろう
>それを検討しないことには、どうにもこうにも…
どうせ後世に作られた系図とかの注記じゃないかな?
ただこういう系図の注記の年号はあまりアテにならない。
例えば足利家時についても、かつてはこうした系図類から
文保元年(1317)に35歳で死んだという俗説が信じられていたが、
これだと家時は息子である貞氏よりも10歳も年下ということに
なってしまい、辻褄が合わない。
現在では家時は三河滝山寺の記録から弘安7年(1284)6月25日没で
ほぼ決着しているけど(但し年齢は不詳)。
>閑話休題、新田氏といえば、その基氏が死去したことを
>足利貞氏が義貞に悔みを言うシーンがドラマの中にあった気がするけど
新田基氏の没年が1324年と分かったのは、実は大河「太平記」が
放送される直前。
あの頃の大河制作スタッフには、最新の発見や研究成果を積極的に
ドラマに取り入れようという強い意気込みがあった。
220 :日曜8時の名無しさん:2009/12/04(金) 20:52:32 ID:BXxVgY/a
>>212 その新田政義の記事、謎だらけだな。
wikipedia新田政義の記事より
>平秀時の娘を室に迎え、足利氏や北条氏と姻戚関係を作ったと見られる。
>平秀時の通称は左近大夫で、名前に「時」がつくことから、
>北条氏の一門と考えられ、官途から赤橋流の一族と推測されている。
wikipedia新田基氏の記事より
>父・政氏の没後、五男でありながら兄たちを差し置いて、
>19歳で新田氏の当主となった。このことから、記録は残っていないが、
>生母は北条氏一族と推測されている平秀時の女であろうことは間違いないと思われている。
この記述もおかしい。
仮に「平秀時」が赤橋流の初代長時のことだとしても、長時の生年は1230年。
1253年生まれの基氏と年齢差が23しかなくて祖父と孫の関係というのは、ちょっと難がある。
221 :日曜8時の名無しさん:2009/12/04(金) 21:08:01 ID:BXxVgY/a
>>220訂正
× 新田政義
○ 新田政氏
233 :日曜8時の名無しさん:2009/12/05(土) 05:10:17 ID:1fkW17y/
>>142-159 赤橋登子の場合は、彼女の母親が北条宗頼(時宗の弟)の娘だから、
尊氏の正室には、一応北条一族の中でも血縁的に得宗家に近い者が
選ばれているとはいえる。
>>212-221 ウィキペディアの政氏以前の新田氏当主の生没年は、全て怪しいかも。
ウィキペディアだと、
義重 1114年または1135年生まれ
義兼 1139年生まれ
義房 1162年生まれ
政義 1187年生まれ
政氏 1208年生まれ
となっているが、近年では新田の初代義重の生年は1135年説が有力。
義重が1135年生まれだとすると、義兼が1139年生まれはあり得ず、
義房・政義・政氏も、この数字は厳しいといわざるを得ない。
235 :日曜8時の名無しさん:2009/12/05(土) 13:59:54 ID:MmxFyXu+
>>218 1317年に死んだのは、高義かも。
>>233 新田の当主の生没年は、なんか1世代ずつズレているような感じがするな。
新田って子孫はぱっとしないね
やっぱ幕府開いてないからね
皇后の先祖を同じ群馬ということで
新田にくっつけたがってる宮内庁だが、これはまあ嘘だろう
>>401 最後の一文だけはいただけないが、
あとはなかなかいい線ついてる。
876 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 12:21:18
うちの地元では新田上西入道が神様扱いされてるよ
>>872 北条秀時は北条(名越)篤時の子
時政―義時―朝時―時章―篤時―秀時(美濃守)
878 :
日本@名無史さん:2009/12/06(日) 17:45:41
>>877 しかしその秀時は年代的に新田基氏の外祖父ではないな。
>>872 「左近大夫」って別に赤橋流に限らず他の北条一族にも普通に見られると思うのだが。
赤橋流に限定する根拠が意味不明。
今、鑁阿寺新田足利両家系図というのを見ていたら
基氏の項に「母北條英時女」とあった。秀時と英時は読みがおなじだからwikipediaは
これを執権赤橋守時の弟で元弘の変で滅亡した鎮西探題の英時と考えたんだろう。
ますます時代があわなくなるなあ。
wikipediaだけでなく人物叢書「新田義貞」峰岸純夫著も「左近大夫平秀時」を「北条長時(赤橋家)の一門と考えられる。」
って書いてあった。
881 :
日本@名無史さん:2009/12/07(月) 18:27:08
基氏は、新田嫡流家の中興の祖というべき人物である。
基氏の母は左近大夫平秀時娘といわれ、秀時は官途から
北条長時(赤橋家)の一門と考えられる。母の縁で執権
北条氏との関係を強め、宝治合戦で活躍して滅亡した三浦氏方
の没収所領と考えられる甘縄郡の所領(丹生クか)を与えられたという。
(「鑁阿寺新田・足利両家系図」)
以上、人物叢書「新田義貞」峰岸純夫著P12
ですから879で書いたように尊卑分脈の「秀時」と鑁阿寺系図の「英時」をごっちゃにしてるんでしょう。
ただ881さんが問題視している「左近大夫」の官途からなぜ赤橋一門とわかるのか?という根拠は示されていないですね。
「左近大夫」なんか北条氏の得宗・名越・極楽寺・金沢・大仏にゴマンといますからね。
883 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 09:46:02
阿野は義朝の側室の子だから、源氏嫡流にはなれないんじゃないの?
俗説?正室か継室の子しか嫡流候補になれないってのは。
884 :
日本@名無史さん:2009/12/08(火) 23:14:02
>>883 「正室・継室の子しかなれない」のではなくて
「正室・継室の子が優先される」というのが正解だろ。
正室の子が早世したり子孫が絶えたりすれば、側室の子でも可能性はある。
足利尊氏だって、側室の子だったが正室所生の兄が早世したために嫡子と
なった。
>>882 しかし守時・登子の兄弟の英時は年代的にあり得ないし、そもそも基氏って
宝治合戦のときにはまだ生まれてないですよね?
「左近大夫(将監)」の官途だって、五位で左近将監をやった人は、みんな
そういわれるし、左近将監の定員自体が多いから、いくらでもいるし。
>>884 883の質問と関係するが、基氏は複数いる兄を差し置いて惣領になったから生母の実家の家格が
高いだろうと考え平姓の北条氏と推定したのかもしれない。
また北条氏は源氏との婚姻関係がおおいというのも考慮したかもしれない。
基氏は建長5年頃の生れだから、北条氏で外祖父になりそうな人物は限られる。
義時や時房の子かせいぜい孫の世代くらいまでだろう。
探してみたが該当する人物は見あたらない。北条氏ではないと思う。
(当然赤橋氏でもない)ちなみに秀時はもう一人いたが鎌倉末期だった。
886 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 09:26:38
生母の実家の家格低くても嫡流になれるのか?
吉良希望とかも?
887 :
日本@名無史さん:2009/12/09(水) 22:30:26
仮に足利義氏に長氏(吉良氏の祖)以外の子供がいなかったとしたら、
長氏の子孫が足利の嫡流になった可能性は高いと思うが。
>>885 北条氏以外で、平姓で名前に「時」を使いそうな家系というと、
高棟流の公家平氏とかかな?
>>887 一般に系図に書かれる官職は極官である場合が多いから
極官で左近大夫程度だと公家平氏かどうか疑問はある。(早世なら別だが)
それに武家の娘が貴族に嫁ぐのは多いが、その逆は少ないだろう。
政氏の母が足利義氏娘だというのを考慮すれば秀時も上級御家人
だった可能性があるが吾妻鏡にも出てこない。
逆に基氏誕生当時は新田嫡流不遇の時代だったから二流御家人の娘かもしれないが。w
889 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 02:40:10
価格的には伊具やあたりなら見合うが極楽寺流はキツい
名越朝時の娘が新田(世良田)頼氏に嫁いでいる
891 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 19:03:55
>890
それで頼氏は二月騒動のとばっちり受けて佐渡へ配流
結婚当初
頼氏「おれ、評定衆の名越時章様や教時様の妹と結婚したんだぞ。
どうだすごいだろ。」
基氏「す、すごいですね・・・」
二月騒動直後
頼氏「おれ、名越の妹が嫁さんだから配流されてしまう(泣き)」
基氏「ざまあ〜wwwwwwwww」
ところで吾妻鏡の建長6.7.20に新田太郎というのが出てくるが
あれは新田政氏なのかな?政義は寛元2.6.17に出家しているものな。
もう一丁、建長2.3.1に「新田入道跡」というの出てくるが
これは政義かな?だとするとこの時までに死去しているわけだが。
Wikipediaには正嘉元年(1257年)に71歳で没とか書いてあるが何が根拠なのかなあ。
895 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 21:32:29
>>894 それって閑院内裏造営の分担についての記事だよね?
鎌倉幕府って、こういうものを御家人達に賦課する場合、鎌倉初期の頃に
作成された御家人注文に基づいて決めているらしく、時代が下れば下るほど
「○○跡」という表現が多くなる。
要は、鎌倉初期に御家人登録された奴の領地を、その人の死後に誰が
相続しているのかを一々調べるのが面倒なので、文面状は「○○跡」と
しておいて、実際にはその領地を相続している者に(複数人いる場合は
共同責任で)、負担を求めるという方式。
だからそういう場合の「新田入道跡」の「新田入道」は、もっと鎌倉の
初期の頃の新田の当主という可能性もあり得る。
人名索引が誰に比定しているかは知らないが。
もし義重なら「新田大炊助入道跡」、義兼なら「新田蔵人入道跡」だろう。
官職つけずに「新田入道跡」は政義の可能性あるかもしれない。(索引は不明扱い)
で、「左近大夫秀時」の件だけど、吾妻鏡に前評定衆上総権介秀胤の嫡男で式部大夫時秀という人物が出てくる。
「時秀」と「秀時」。「式部」と「左近」の違いがあるが「左近大夫平秀時」の可能性あるかもしれない。
「秀時」と表記している千葉系図もあるし、二文字の名前を逆さまに記載する例は多々ある。(誤記か故意か、又は「諱」の問題かも。)
千葉氏は平姓。時秀は父秀胤(評定衆で千葉一族の事実上の嫡流)の嫡男であり
娘が新田嫡流の室になるにはふさわしい。又、基氏誕生の時代と合致する。
ライバル新田頼氏室が評定衆で北条氏の名門である名越時章妹に対し、政氏室は評定衆で千葉嫡流である千葉秀胤嫡男の娘。
頼氏は北条(執権)側につき、政氏は千葉(将軍、三浦)側についた。
両家の盛衰の原因は政義の無断出家というより執権側に付くか将軍側に付くかで決まった・・・。
ちょっと強引すぎるかなあ。w
>896追加
ご存じかと思いますが蛇足ながら千葉秀胤時秀親子は宝治の乱で千葉館で自害しています。
898 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 23:49:43
宝治合戦の跡、千葉秀胤の遺跡(上総の守護職など)を与えられるのは
足利義氏だから、
>>896の説だとすると、足利と新田の関係においても
かなり皮肉な流れになるなw
>>898 その足利義氏息の泰氏は将軍頼経の交代劇に巻き込まれ出家したとも言われる。
宗尊がからんだ二月騒動では新田頼氏が失脚し、そのあと時宗死去直後に足利家時の事件が起きる。
こうみると数々の幕府の政変に足利・新田両源氏は否応なく巻き込まれていく運命にあった。
ちょっと牽強付会、我田引水、強引すぎたかなあ。ww
面白いよ。もっと頼みます。
901 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 19:29:01
平時忠の孫の時秀の可能性もあるな。
>>896 > 二文字の名前を逆さまに記載する例は多々ある。
貞義とか・・・
903 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 22:20:01
俺は『吾妻鏡』の宝治合戦に関する記事に、生け捕られた人として出てくる
「美濃左近大夫将監時秀」が怪しいと思う。
官途も左近大夫将監だし。
904 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 22:37:53
>>896 新田義兼は生前に入道している記録はあるの?
905 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 23:38:19
>>901 極官は正五位上のようだが、左近将監への任官が確認できない。
907 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 00:36:53
じゃあ「新田蔵人入道」なんて軽々しく言わないことだね。
908 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 01:52:44
>>895-896 鎌倉幕府の御家人への賦課の基本台帳は、おそらく承久の乱後の
1220年代くらいの御家人名簿をベースにしていると思う。
なので、その段階での新田の当主が政義であれば、「新田入道」が政義の
可能性は高い。
909 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 21:30:52
そういえば新田義房って吾妻鏡には全く出てこないよね。
910 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 21:39:31
殿様キングスの夫婦鏡には出てきた
911 :
日本@名無史さん:2009/12/16(水) 23:36:21
新田・足利嫡流の吾妻鏡登場回数(厳密ではない)
新田義重8
新田義兼15
新田義房0
新田政義4
新田政氏1?
――――
足利義兼52
足利義氏50
足利泰氏41
足利頼氏28(斯波家氏が多少混入?)
これ見るだけで幕府内の新田・足利の地位の格差が分かる。
同族でもやっぱ幕府ひらかなだめってことね
913 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 00:20:51
>>911 義兼がそんなに多いとは思わなかった。
義兼って早く死んでしまうし、義氏のほうが活動期間は圧倒的に長いのに。
914 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 00:36:09
しかし新田って鎌倉幕府ができる以前だって足利みたいに目立った活動は
していないよね。
足利の初代義康は、保元の乱のときに平清盛・源義朝と並んで後白河方の
主力だったけど、新田はこういう中央の政争に一切関わろうとしていないし。
915 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 11:26:21
>>911 やっぱり
足利>新田じゃないの
新田義貞も足利一族の一武将って扱いみたいだし
916 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 11:27:29
つか
足利氏に付属する新田氏ってあつかいなのでは
要は足利一族の代表者ではないから、名前が出てこないとか
917 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 19:04:35
足利・新田氏嫡流の吾妻鏡に登場する期間
足利義兼 1180〜1195 16年間(1196〜1198吾妻鏡欠落)
足利義氏 1205〜1252 48年間
足利泰氏 1236〜1251 16年間
足利頼氏 1252〜1261 10年間
―――――――――――――
新田義重 1180〜1193 14年間(1202は死去の事実のみ記載)
新田義兼 1185〜1195 11年間(1196〜1198吾妻鏡欠落)
新田義房 無
新田政義 1237〜1244 8年間
新田政氏 1254 1日だけ
足利はほぼ間断なく世代交代がなされ吾妻鏡全期を通して登場するが
新田は世代交代がうまく行っていないようだ。
918 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 22:04:04
>>914 平安末期の段階で、足利は中央指向、新田は地元指向ってことだな。
新田義兼については、皇嘉門院の蔵人ってことに一応なっているけど、
蔵人としての活動実態なんてあるのかね?
>>917 新田の場合、世良田頼氏とか、新田の庶流はそこそこ登場するんだけど、
本家がなぁ。
919 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 20:53:56
我の前世は足利義兼であ〜る!
920 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 08:42:17
921 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 13:11:24
>>917 『吾妻鏡』から分かる活動年代だけ見ると、泰氏と政義、頼氏と政氏が
だいたい一緒だね。
やはり、wikipediaに書かれている新田氏歴代の生没年は胡散臭い。
義貞の「貞」の字は北条貞時からもらったものなの?
923 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 21:05:02
>>922 だとすると普通は「貞」の字が上にくるはずだけどね
足利貞氏みたいに
偶然の一致じゃない?
この時代は、まだ一字付与しても、
それを上にするか下に使うか、
ってのはないんじゃないの?
そうでなければ、
将軍から一字貰ったのがほぼ確実な
時頼・時宗はどうなるの?
925 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 23:06:02
>>922,923
たしか霜月騒動以降、上野守護は得宗だったろう。
ならば、腐っても上野国内有力御家人だから、もらえたかもしれない。
926 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 23:08:23
>>923 偶然の一致はあり得ない。
いくら貧乏御家人でも、鎌倉の御家人で得宗家の当主の諱を知らないなんて
あり得ないだろ。
>>924 貰った字は上にするっていう慣習ができるのは、足利義満以降だよね。
偏諱の意味が単に烏帽子親子関係を示すものから、主従関係の確認という
意味に変化していくのが丁度義満の時代で、これ以降、貰った偏諱は原則
上につけるというルールができていく。
確か最初のきっかけは、鎌倉公方氏満の名前を、室町幕府側が強引に
「満氏」に改名させようとしたあたりから、この傾向が出てくる。
927 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 23:28:00
新田氏は全体から見たらけして貧乏御家人ではない
928 :
日本@名無史さん:2009/12/20(日) 23:32:28
>>927 そのことは、とりあえず今の議論において重要ではない
929 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 00:01:50
実は重要
930 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 00:20:02
歴代、最長政権の徳川が新田(自称)なんだから新田>>>>>>>>>>>足利
明治に新田>>>>>>>>>>>>>>>>>足利(南朝正当論)
ただ徳川が新田(自称)で微妙な扱い。
戦後は徳川も南朝正当も封建制の代表例として排除された。
足利は、たなぼた。
931 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 00:32:59
新田義貞の奥さんは御内人の有力者安東左衛門入道聖秀の姪っ子で、
新田宗家は北条氏と接点が有ったみたいだから貞時から「貞」の字をもらってもおかしくないかも。
北条貞時は義貞12歳の時に死去しているから義貞の元服はその前になるけど
932 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 12:29:27
安藤五郎重保の娘ってされているのと安東左衛門入道聖秀の娘にされているのあるけど、
聖秀と重保が義兄弟ってことか
933 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 19:58:56
>>931 それ以前に、鎌倉末期には上野国の守護が得宗家になっているのだから、
守護と国内に本拠地を持つ御家人との間で、偏諱授受があっても不思議は
ないわけで。
934 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 20:03:47
毎日香の貞吉も偏諱か?
935 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 20:42:22
>>932 ■太平記巻10「安東入道自害事」によれば「安東左衛門入道聖秀と申しは、新田義貞の北台の伯父成しかば、
彼女房義貞の状に我文を書副て」とあり義貞室は安東左衛門入道聖秀の姪とのこと。(娘ではない)
■「鑁阿寺新田足利両家系図」によれば、義貞に三人男子がおり、それぞれの母が別のようです。
1.義顕 母上野国甘羅令安藤左衛門五郎藤原重保女。
2.義興 母上野国抜鉾神主天埜民部橘時宣女。
3.義宗 母常陸国小田之城主八田常陸介源真知女。
義顕母の父重保が太平記の聖秀と兄弟のように思えますが、
安東(安藤)氏の系図が無いもので断言はできません。
なお、太平記の聖秀は相承院本では昌賢、今川本では聖遠になっています。
936 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 20:49:40
まあ義貞が得宗被官と婚姻関係を持つのも、上野の守護が得宗家であることが大きいな。
937 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 22:53:00
>>936 それも考えられるが、もうひとつ考えられます。
岩松経家室や義貞家臣船田氏は御内の紀氏出身らしい。
紀氏には安東能光に嫁ぎ安東宮内左衛門能光の母になった女性がいる。
その縁かもしれない。
938 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 23:36:40
やはり義貞の「貞」は貞時の「貞」ではないかもしれない。
義貞以外は祖父・父親・兄弟・子供に得宗の「時」「宗」「貞」
「高」がまったくつかない。
可能性があるのが新田の同族である堀口の系統で「貞」を使っている。
特に堀口貞義は一門の重鎮だったらしいから義貞の烏帽子親になった可能性がある。
939 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 23:58:33
ちなみに堀口貞義の母は北条有時娘だから、
貞義は、義貞の烏帽子親だけでなく、
母親のツテで義貞の室に御内宿老の一族の娘を迎えさせた。
安藤重保の所領も同じ上野国だし、、、と考えた方が自然ではないかな?
>>936の「上野の守護が得宗家」だからというだけで、
名前や結婚が決定されるというのは余りにも乱暴な話し。w
940 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 00:25:32
>>936はともかく、貞時から義貞への偏諱に関しては、
>>925や
>>931が
いっているように、得宗家が上野守護であることを重視する見方を一概に
否定できないと思うが。
941 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 00:29:10
>>938 >やはり義貞の「貞」は貞時の「貞」ではないかもしれない。
>義貞以外は祖父・父親・兄弟・子供に得宗の「時」「宗」「貞」
>「高」がまったくつかない。
得宗家が上野守護になるのは、霜月騒動以降だから、このこと自体からは
特に疑問は生じないと思う。
>>939 北条一族の庶流が必ずしも得宗被官に強いコネを持っているとは限らないと
思うよ。
あと得宗被官の安藤氏が上野国内に所領を獲得するのも、霜月騒動の結果、
上野国守護が得宗家に代わってからの可能性がある。
足利尾張守家は得宗から貰ってるね。
943 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 00:43:17
>>942 足利尾張守家(斯波氏)は、確かにそうだな。
足利一族の場合、他にも足利上総介家(吉良氏)、渋川氏、畠山氏
なんかにも、得宗からの偏諱っぽい名前が出てくる。
944 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 00:52:04
あと新田一族でも、大館宗氏とか山名時氏なんかは得宗からの偏諱の
可能性があるね。
まあ新田の庶流は宗家からの独立性が高いから、勝手に得宗家なんかと
結びついている可能性も否定できないが。
上のほうに出てくる堀口氏だって、新田宗家が無位無官なのに、自分は
勝手に官途を得ていたりするし。
945 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 00:55:13
946 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 01:34:36
1285年に起きた霜月騒動から幕末まで半世紀あるがその間に新田一族で義貞一人しか偏諱がないのは絶対に不自然。
三人の子供も鎌倉時代の元服なのに「高」が一人もついていない。
足利氏は貞氏の子供の高義・高氏と「高」が続いているけどね。
義貞の貞はやはり貞時ではない。堀口貞義だろう。
堀口氏は比叡山上で新田一族が分裂したときも義貞と行動をともにするなど
終始一貫して新田嫡流に近い存在だったことも傍証になる。
それから義貞室の件だが、安東氏は得宗だけでなく大仏や金沢や時村などの家臣としても活躍しているから
御内宿老に繋がる縁はいくらでもある。或いは紀氏の縁かもしれない。
どっちみち義貞の名前や結婚の根拠が「上野国の守護が得宗」だけでは話にならんということ。
上野守護代の長崎氏が得宗との「名前取り次ぎ係」や「結婚紹介所」でもやってれば別だがね。w
947 :
日本@名無史さん:2009/12/22(火) 01:50:33
それから、足利氏に偏諱が多いのは「守護が得宗」だからではなく
彼は鎌倉在中で常に幕府に祗候して北条氏と近い関係にあったから。
948 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 02:29:43
>>946 >1285年に起きた霜月騒動から幕末まで半世紀あるがその間に新田一族で義貞一人しか偏諱がないのは絶対に不自然。
>三人の子供も鎌倉時代の元服なのに「高」が一人もついていない。
義貞の父朝氏は、霜月騒動の段階では既に元服していた可能性がある。
また義貞の子供3人のうち、長男義顕は確かに鎌倉滅亡前の元服だろうが、
次男義興と三男義宗は鎌倉滅亡後(さらにいえば建武政権崩壊後)に
元服していることが明らか。
なお義貞の嫡子は三男義宗なので、鎌倉滅亡前に元服している長男義顕が
得宗の偏諱でなかったとしても、さほど不思議はない。
以上のことから、新田宗家歴代のなかで義貞のみ得宗偏諱だったとしても、
それ自体に矛盾は生じない。
949 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 02:30:50
>>946 >義貞の貞はやはり貞時ではない。堀口貞義だろう。
>堀口氏は比叡山上で新田一族が分裂したときも義貞と行動をともにするなど
>終始一貫して新田嫡流に近い存在だったことも傍証になる。
堀口氏偏諱説を採る場合、それでは何故新田宗家歴代のなかで義貞のみが
堀口氏からの偏諱なのかということを説明することが難しくなる。
得宗偏諱説なら、霜月騒動による得宗家の上野守護就任という画期を
見出すことが可能だけど。
また義貞の時期に新田宗家に忠実だったからといって、それ以前の鎌倉期に
新田宗家と密接な関係だったと必ずしもいえないことは、世良田氏なんかを
見てもよく分かる。
世良田氏と同様に堀口氏も、新田宗家が無位無官なのを尻目に、自分は
鎌倉幕府に対して独自ルートを持っていて、官位を得ているわけだし、
とても新田宗家にベッタリの状態で鎌倉期を過ごしていたとは思えない。
950 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 02:45:06
>>947 そんなことは、ここを見ている人には常識的なレベルだと思うよ。
足利氏の本拠地である下野国の守護が、鎌倉期を通じて小山氏だって
ことくらいは、この時代に関心を持っている人なら普通に知っているよ。
あと足利氏自身が守護となっていた三河・上総両国の守護も、当たり前だが
得宗家ではない。
無論足利レベルの有力御家人なら、代々得宗の偏諱で何ら不思議はない。
ただ新田のように元々得宗から偏諱を貰っていたわけじゃないのに、
義貞だけ突然得宗の偏諱になるのには、それなりのきっかけがあるだろうと
推論するのは、至極妥当なこと。
そしてそれが、霜月騒動以降に上野守護が得宗家になることによる、
得宗家との接触機会の増大と見るのも、極めて自然な発想だと思うが。
新田義貞の妻は一説には御内人の安藤氏の一族だったというからな。
義貞の「貞」が、
他の誰かの偏諱という考えは浮かばないの?
例えば足利貞氏とか。
何でもかんでも得宗の偏諱だと
思わないほうがいいんじゃないかな?
そもそも、偏諱が下にくるケースってどれくらいあるんだ?
宗尊親王→時宗って話はよく聞くけど・・・
954 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 15:38:17
>>950 「守護が得宗」の一点張りには閉口しちゃうな。
幕末七カ国あった得宗守護国の御家人達はみな得宗の偏諱と御内の娘を貰ったのか?。
そうではなく、七カ国中の全ての御家人ではなく得宗に近い御家人のみ貰ったというなら
新田宗家が守護の得宗に親密だったという事実は証明できるのか?
(偏諱をもらったから親密だったとか言わないでくれよ。疑論が堂々巡りしてしまうから。w)
そもそも、新田庶流の世良田や堀口は守護云々に関係なく北条朝時や北条有時の娘を室に迎えている。
霜月騒動→得宗上野国守護→得宗の接触増大→新田宗家が得宗の偏諱をもらう・・・
あまりにも一本調子の結論で何も考えていないに等しい。
955 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 15:48:00
>>954 霜月騒動以降、得宗家との関係が接近したことの証左として、得宗被官との
婚姻関係が挙げられているんだろ。
キミこそ、義貞の3人の男子は皆鎌倉滅亡前に元服しているとか、すぐに
見破られるホラを吹いたりして、見苦しいなw
956 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 15:59:58
>>952 足利貞氏の「貞」自体が元々北条貞時の偏諱だからな。
無論、偏諱の使い回しはあり得なくはないけど、貞氏が義貞の烏帽子親に
なる理由が思い当たらないのが難点。
>>953 鎌倉期なら事例はいくらでもある。
宗尊親王→北条時宗の例以外にも、
三浦義村→北条政村
九条頼経→北条時頼
北条時宗→足利家時
みたいな例がこれに当たるだろう。
なお事例の下限は、このスレのどこかに出ていた足利義満→足利氏満の
可能性が高い。
北条高時→佐々木隠岐清高
なんかもそうだな。
豊臣秀次→増田盛次等は違ったっけ?>事例の下限
959 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 16:22:55
北条時宗→島津忠宗なんかもそう。
960 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 17:56:00
鎌倉後期に北条一族で貞時や高時の偏諱をもらったと思われる人の例(おおよそ)
貞時から偏諱をもらったと思われる人の人数60人(貞時の治世28年間)
その内訳
「貞」が頭に来るもの46人
「貞」が後に来るもの14人
高時から偏諱をもらったと思われる人の人数25人(高時の治世22年間)
「高」が頭に来るもの20人
「高」が後にくるもの5人(注1)
(注1)「高」が後にくるもの5人内貞高という人物が3人いるが、もしかすると全員貞時の偏諱かもしれない。
また「重高」「高重」両方系図に載っている人物が1人いるが「高重」正しいとすれば
最後の得宗高時の「高」が後に来るのは1人だけということになる。(篤高という人物)
ちなみに朝時−時章−篤時−公篤−篤高と続き「篤」が通字になっている。
最後の得宗高時の「高」がほとんど頭に来るのは得宗の権威が最高潮になった現れか?
はたまた偏諱の数が貞時に比べ半分以下になったことを高時の権威の衰退と見るべきか?
あっ、御免。ここは足利・新田のスレだったね。w
>>956 ありがとうございます。
偏諱が下にくる場合、いずれもかなり有力な御家人の子弟に多い印象を受けた。
962 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 18:40:33
963 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 21:11:27
貞子
>>958 盛次と秀次は若い頃主従関係にあったとされてはいるが、
一字拝領の事実は確認できない
>>962 売り言葉に買い言葉だ
そういうのは荒れる元になるからやめようぜ
議論は歓迎するが罵りあいはアホやバカのやることだろ
>>960 それって、つまり、高時期に
偏諱は上に来るものだ
っていう認識が出来てきたってことじゃないの?
966 :
960:2009/12/24(木) 01:24:29
>>965 そう言う傾向が言えるかもしれません。偏諱の話しに触発されて大急ぎで
CPに入っていた北条系図の史料で作ったから大変大雑把ですが・・・。
ただ、貞時と比較し高時が半分以下しかない点を、私は「高時の権威の衰退と見るべきか?」
などと書きましたがちょっと先走りでした。
というのは、どの北条系図も高時治世の前半部分までの人物しかなく、後半に元服した人物
は系図に載っていないのが多いと思われるからです。(有力者の子供は別)
系図に載る前に幕府が滅亡したからでしょう。ですから高時が半分以下になるのは当然ですよね。w
967 :
日本@名無史さん:2009/12/24(木) 01:29:42
>966続き
ですから「高時期に偏諱は上に来る」と断定はできず
そいう「傾向が言える」ということですよね。
足利義詮から一時貰ってる武将って、足利満詮と大崎詮持の他にいる?
今、スカパー!で初めて太平記観ているから、このスレ為になるわ。
幕末オタだったから、この頃の話全然知らんのよね。理系で倫理経済だったし。
斯波詮経は違うんじゃないか
972 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 01:27:31
吉良氏の生母誰?
斯波氏が岩手ってのもな・・・あんな田舎なのにな
もっとも米と金がとれたから力あったのか?
974 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 19:41:16
>>965>>967 「偏諱は上にくるもの」という認識ができるためには、編諱に「主従関係の確認」という意味合いが加わらないとならないからね。
鎌倉段階だと、得宗の編諱を御家人がもらったにしても、御家人の主君はあくまで得宗ではなく将軍だし。
>>966 「貞」と「高」の比較をするなら、北条一族以外でやったほうがいいな。
ただそれでも、治世の長さが違うから、単純比較に意味があるかどうかは微妙だが。
>>968>>970 畠山国詮もたぶんそう。
>>973 斯波名字は、陸奥国紫波郡の地頭だったことによるが、郡レベルでの地頭職は結構な有力者でないと難しいんじゃないかな?
ただし「斯波」名字の成立はかなり時代が下るようだが。
あと足利一族は意外と東北地方との繋がりが深い。
畠山氏の有力被官に遊佐氏というのがいるが、この一族の名字の地は出羽国遊佐庄だし。
さらにいえば鎌倉末期の段階で足利惣領家が地頭職を持っている場所に陸奥国加美郡がある。
975 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 20:07:11
「瓦斯」
976 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 20:22:45
>>974 そういえば佐藤進一という学者が、建武になって高氏→尊氏・小田高知→治久・長井高冬→挙冬
と「高」を変えた例を上げて、「調べてみたら結構おもしろいことがわかるんじゃないか」と
言ってるがそういう研究ってあるのかなあ?
977 :
日本@名無史さん:2009/12/25(金) 23:10:53
ちょっと外様で偏諱やってみた。関東・六波羅・鎮西評定衆・守護など。安達を含む。(これもおおざっぱ)
貞時から偏諱をもらったと思われる人の人数45人(貞時の治世28年間)
「貞」が頭に来るもの38人
「貞」が後に来るもの7人
高時から偏諱をもらったと思われる人の人数10人(高時の治世22年間)
「高」が頭に来るもの8人
「高」が後にくるもの2人(注1)
(注1)馬場で自害した佐々木清高と二階堂行高の2人。行高は本名高雄だというからおもしろい。
「高」がつく10人のうち幕府滅亡に殉じたのは6人ぐらい。(安達・佐々木・摂津)
「貞」が45人にたいし「高」が10人と異常に少ないのは建武以降に名前変えたからかも。
官途名だけの史料を系図から実名を引っ張ってきて当てはめるからこうなるのかも。
色んな系図を丹念に調べていけば結構面白い事がわかるかもなあ。
真剣にやってみようかなあ。でも面倒だから止めた。w
978 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 00:19:41
977
ちょっと見直してみたら「高」に宇都宮高貞・小田高知・長井高広とか抜けてるよ。w
まあ、細かい事は気にせずに遊び半分でやったから。w
それにしても小田・長井・佐々木(出雲)はすごいな。
小田知家−知重−泰知−時知−宗知−貞宗−高知
大江広元−時広−泰秀−時秀−宗秀−貞秀−高冬(挙冬)
出雲義清−泰清−時清−宗清−清高
泰時の偏諱である「泰」以降はほとんど得宗の偏諱だよ。
そこまで得宗に媚びる必要あるのか!とか言いたくなるな。
>>954 得宗が守護をしている国の御家人がみんな得宗の偏諱を貰うなんてことは
書いていない。
ただ新田宗家の場合、それ以前に得宗の偏諱を貰っていた人がいないのに、
義貞のところでいきなり得宗の偏諱になるにはそれなりの画期があるんじゃ
ないかと思案するのは、いたって自然な発想だと思うぞ。
そしてその画期として考え得るのが霜月騒動だってこと。
なお義貞の「貞」を堀口氏の偏諱と見なす場合には、それではどうして
義貞の父や祖父は違うのに義貞だけ堀口氏の偏諱になるのか、ということに
ついての説明ができない(これは
>>949でも指摘しているのだが・・・)。
あと新田宗家が霜月騒動以降、得宗家に接触機会を増やしていく背景には、
霜月騒動(およびその前哨戦と見なされる佐介時国の事件)で、足利家時を
はじめ足利一族が窮地に立たされていることと無関係ではないかもね。
当時の新田宗家の当主である基氏の姉妹が足利家時の側室になっているし、
基氏の父政氏は足利義氏の外孫。
しかも当時、新田氏そのものを足利の支族のように見なす認識さえあったと
すれば、霜月騒動は新田氏の立場をも危うくした可能性が高い。
そのようななかで霜月騒動後、新田の本拠地上野の守護として得宗家が自ら
乗り込んできたとあっては、新田宗家は自らの身の保全のためにも、
上野守護の得宗家と意図的に接触機会を増やしていく必要が生じよう。
そうした背景のなかで、基氏は孫の義貞の烏帽子親をも得宗貞時に依頼する、
という流れになることは極めて自然。
いずれにしても、義貞の「貞」は貞時からの偏諱と考えるのが妥当という
結論に変わりはないが。
981 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 02:45:44
>>962 この議論だけでスレを占領してしまうような感じになるし、貴方もこちらの
指摘にまともに答えていなかったから、簡潔なレスで済ませようとしただけ。
仕方がないから、一応こちらの考えは書いた。
>>964 以後煽り文句は一切書かないことにするよ。
>>978 大友氏 頼泰―親時―貞親―貞宗
島津氏 忠時―久経(久時)―忠宗―貞久
毛利氏 経光―時親―貞親
小山氏 時長―宗長―貞朝
佐々木六角氏 泰綱―頼綱―時信
佐々木京極氏 氏信―宗綱―貞宗━宗氏―高氏(道誉)
佐々木塩冶氏 泰清―頼泰―貞清―高貞 ※泰清は佐々木隠岐氏と共通の祖先
このあたりはどう?
982 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 02:50:10
>>976 面白いというのなら、佐藤さん自身がやってくれればいいのに。
しかしそれにしても佐藤さんって長寿だね。
983 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 14:33:52
>>978>>981 佐々木一族の得宗家へのベッタリ感が物凄い。
それに引き替え小山氏なんかの場合、嫡流はともかく庶流の長沼氏・結城氏なんかは、必ず代々得宗の偏諱ってほどではないね。
984 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 14:51:38
>>981 六角氏に関しては、世代的には頼綱と時信の間にもう一代くらい入りそうな
気がするんだが、どうなんだろう?
足利上総家 長氏―満氏―貞義―満義
足利尾張家 家氏―宗家―宗氏(家貞?)―高経
畠山氏 泰国―時国―高国
斯波氏はほぼ得宗からの偏諱で、吉良、畠山は微妙。
斯波氏と足利氏と得宗と名越氏の4家の関係ってどんなもんだったのかな?
やっぱすごいよ
斯波は・・・東北出ってのが・・
伊達も南部も上杉も津軽も関東甲信越だろ
平泉は・・俘囚の子孫だっけ?
987 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:42:14
足利義氏−泰氏−頼氏−家時−尊氏
|
女子
|−政氏−基氏−朝氏−義貞
新田政義 (改朝兼)
新田政氏の「氏」は母の父である足利義氏の偏諱だろう。
それ以降新田一族は嫡流のみならず庶子家も「氏」の名を多く使うようになる。
新田一族は足利嫡流から「氏」の偏諱を頂く地位に落ちたとも考えられる。
しかし、政氏孫の朝氏は1313年以前に朝兼に改名し、更に子息の義貞や義助にも「氏」をつけていない。
足利家からの離脱をはかっているともとれる。
偏諱だけから見た推測ですが。w
988 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:54:57
>>987 新田政氏の「氏」が足利義氏の偏諱という点は同意。
自分もそう思う。
ただ基氏・朝氏も代々足利惣領家からの偏諱かどうかは微妙だろう。
また義貞のところで「氏」を使用しなくなる背景に関しても、この時期に
なると足利氏側も貞氏の嫡子は高義だからな・・・。
989 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 23:58:24
>>985 斯波氏(足利尾張家)は成立からいっても名越流北条氏との関係は強そう。
あと南北朝期の斯波氏の地盤って基本的に北陸なんだが、ここは鎌倉期に
あっては、名越流の地盤だった場所。
名越→斯波という流れはかなりありそう。
990 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:02:27
つうか鎌倉段階だと、足利尾張家=斯波氏、足利上総家=吉良氏なのに、
室町時代になると、尾張守は畠山氏の官途、上総介は今川氏の官途に
なるんだよな。
991 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:18:01
>>987追加
>>980「新田氏そのものを足利の支族のように見なす認識」
この説には賛成ですね。
新田氏研究家の久保田順一氏が「新田一族の家の成立と女性」で、
@政氏の妻は北条一族の「左近大夫平秀時」A新田陸奥守は政氏か基氏
の二点から「政氏は幕府内に一定の勢力を保持していた」と推測してるが到底賛成できないなあ。
@の「平秀時」は北条氏ではない。Aの「新田陸奥守」は新田一族ではなく「新陸奥守」の北条業時。
新田嫡流は政氏以降は「吾妻鏡」に一回出てるだけで幕府滅亡まで幕府関係の資料に全く出てこないから
幕府での地位は完全に失ったと断定していいと思う。そして偏諱でも分かるように足利の一支族扱いになった。
でも、足利の支族扱いが幕末まで続いたかどうかは疑問もあるけどね。
992 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:34:55
>>991 新田宗家自身は自らを足利の支流とは思いたくなかったかも知れないが、
世間は無位無官になりはてた新田宗家を足利の支族のように見ていた
可能性はあるよな。
実際、政義の自由出家を咎められて以降は、幕府との関係が良好な足利への
依存傾向も高まっただろうし。
ただそうすると、義貞が得宗貞時から偏諱を貰ったということには、
足利への依存からの脱却という意味合いもあったかもね。
霜月騒動以降は、足利に依存さえしていれば、身の安泰を確保できる
状況でもなくなっていただろうし。
993 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:42:11
平秀時については確かに北条一族と考えるのは無理がありそうだ。
新田基氏(1253年生)の外祖父ということになると、
1200年代〜1210年代くらいの生まれである可能性が高いと思うが、
この時期だと北条氏で考えられる人物はかなり限定される。
しかし具体的な該当者は思い浮かばない。
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997 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:48:56
>>988 足利氏側も貞氏の嫡子は高義
そう言われてみればそうだなあ。w
ところで高義だけど尊経閣文庫所蔵本「皇帝・女院・藤氏・平氏・源氏系図」
の足利の部分にに「高義 母上椙経高女 左馬助 従五位下 早世廿一」とあり
尊氏の所に「母同上」とあった。「経高」は「頼重」の間違いか、改名前の名前かもしれない。
建武以降に尊氏同様に高時の「高」を嫌って改名したのかも。
この系図の北条氏の部分は「前田家本北条氏系図」といわれ信用できる系図として
学者に使われているから、高義の部分も信用できるかもしれない。(もうご存じだったかもしれないけど)
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1000 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:52:42
皿仕上げ
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。