4 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 05:38:13
前スレがまだ埋まっていないのに、随分と気が早いね。。。
5 :
がいやまん :2006/07/07(金) 14:51:53
南北朝鮮が箕子朝鮮を抹殺、異民族高句麗、百済、新羅の歴史を朝鮮族の歴史と する誤った史観を捏造した。これは自民族のみならず、近隣諸国及び全世界の 歴史研究に大きな誤解を与えた。わが国も高句麗、百済、新羅との関係を朝鮮族 との関係と考えるに至っている。山海経に出てくる倭とか朝鮮は事実であり、倭とは どちらかといえば高句麗、百済、新羅に近い移動性民族であり、朝鮮というのは 縄文人、漢族などと同様土着系の民族である。壇君神話とは箕子朝鮮という無文土器 稲作文化が始まる以前に朝鮮北部にあった先行文化の神話であろう。
6 :
がいやまん :2006/07/07(金) 15:01:16
ブリテン島がケルト・ノルマン・アングロサクソン等の異民族に支配され、更に、 ローマ帝国の属州とされたが、これを恥ずかしがって歴史を変えたいというような 英国人はいないだろう。しかし、それを子孫だという勝手な史観を作るうらには そうではないものがあるようだ。
前スレで馬韓が「コマ」と関係があるかどうかと言ってる奴がいるが 馬韓そのものは扶余南下前の半島南部の土着民国家であり 所謂「騎馬民族」とは何の関係もない。確か馬韓か辰韓か 忘れたが「馬はいるが使い方を知らない」等という記述もあったはず クマナリについては現在の朝鮮ので「熊」は「kom」であり、音韻変化 したとも取れるが日本書紀の記述であることから考えて「コムナリ」 とよんでいた可能性が高い。まあ日本語の熊と同祖に見れる かもしれんが、kuma>kamiなんてのは電波だろう そんな音韻変化 はない
8 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 19:39:56
>>7 kuma はツングース系?の中でアザラシを指す種族もいるらしい。
日本書紀で熊津は久麻那利とかいう漢字表記ではっきりクマナリだろう。
9 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 19:55:50
>>6 >しかし、それを子孫だという勝手な史観を作るうらには
>そうではないものがあるようだ。
どうしても意味がとれない。わかるように書いてくれ。
11 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 20:28:51
馬韓が扶余とは無知もいいところ。 扶余の南下がいつの時代なのか、調べれば時代の食い違いがすぐにわかる。
12 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 21:41:30
英国人は韓国人の子孫だなんていうけど、英国人には韓国人の先祖だなんて ことを言うものはいないようだ、ということでは。
13 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 22:21:40
熊野もkumaと関係あるのか?
要するに韓国人なるものは扶余に征服された「被征服民」であって、 統一新羅、或いは高麗が成立するときに「三国は同一民族である」 とする情報操作が行われた結果、現在に至っても「我々は扶余の子孫」 であるとの言説が韓国国内で罷り通り、あまつさえ北方ステップ地域一帯 に存在していた五千年帝国古朝鮮なんてのがマジで信じられてるの、 阿呆くせえって話だろ。お前等は征服された側ってことね。
15 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 22:29:44
>>5
「山海経」だって?!
>>13 昔がいやまん氏は「クメール」と関係がありそうだと仰っていたよ。
意見が瞬時に変化する人なんだ、この人は。
16 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 22:33:57
>>14 鳥越憲三郎氏ですか?
鳥越先生は、南方へ向かうと個人の趣味が反映して電波が強くなるんだけど、半島の
神話などを分析させたら、緻密で比較的まともな人かも知れないと思いました、ハイ。
18 :
白馬青牛 :2006/07/07(金) 22:58:09
>>5 渡来系土着系の多種族で構成された倭人が、移動的民族かどうかは
別ですが、シロコゴルフ氏の云われるよう朝鮮民族は、樺太のニブヒ・
ギリヤーク要素も強いと思います。満洲や沿海州のツングース系の侵入で
樺太や朝鮮に押しやられたと云うことでしょう。日本人が挙げる韓国人の
典型顔もギリヤーク的な顔立ちですし。韓国人は越人的南方顔と混じった
要素もあり、韓国人自身は否定しますけど、南方的要素も強いでしょう。
19 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 23:04:01
>>17 鳥越さんは「山海経」よりはましだと思うよ。
>>8 >『日本書紀』の古写本では「熊津(熊川)」に相当する地名を「久麻那利」と書いて「コムナリ」と訓じている(「図書寮本」)ようですが。
>>13 「日本語地名辞典」(正確な著書名は忘れた)で、kumaは「隈」、つまり奥まった所、転じて「神秘的な所、恐ろしい所」
を意味するとあった記憶がある。熊野は山深い聖地だし、熊曾、熊本も内陸に位置する。
21 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 23:08:08
>>18 >韓国人自身は否定しますけど、
今でもですか?理由は、何なんでしょうね?
>>19 具体的にどう可笑しいのか指摘した方が解りやすいよ。(笑
>>21 韓国人って、基本的に南方を差別してますし。日本を非難するときによく出るのが、
「日本原住民(つまり縄文人)を征服して文明を伝えた。日本人は南方との雑種」
「南方原住民、土人」とかですからねえ。まあこのスレにも一部いらっしゃいますが。(苦笑
あぁ、あと新聞とかでもそうだけど、よく東南アジアとかアフリカを馬鹿にしてますな。 公共言論でそれが出来るのが韓国ですが。
25 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 23:19:07
>>23 なるほどー、だから台湾人や香港人(南部中国人)を舐めてかかっているのね。
(国際会議の期間中に暴動起こす、韓流スターのギャラを高く請求するetc)
北方のエベンキと同祖という場合には、肯定的な反応を示す人が結構いましたよ。
中国といえども呉越(南部)は、蔑視の対象なのか。。。
>>23 その思考に、大和民族くつけて、中国とメリケンが利用してんだよなw
まあ、東シナ海の猿芝居が終わるまでは、半島も安泰だろ。
27 :
日本@名無史さん :2006/07/07(金) 23:51:56
28 :
白馬青牛 :2006/07/08(土) 00:07:38
>>21 韓国から南方と云うと、日本は植民地支配したので、けしからんと云う
ことでしょうし、東南アジアも世界に覇を唱えたことのない存在。
中国には、属国的屈辱がある。北方民族が同族とすれば、世界に覇を
唱えた民族と同胞で人口も韓民族の方が多いと云う解釈でしょう。
台湾人も店で食い物の注文が遅うなってもあやまらん。韓国人も同じで
日本人から視ると台湾人(外省人・内省人)も韓国人も大差ないと
考えるが、彼ら韓国人は一緒にして呉れるなということじゃろう。
日本人が台湾人を近い存在に見たいのは政治イデオロギーの問題であろう。
台湾人が中共の国旗を踏み潰す光景は、中国や韓国のやっとることと
変わらん。我々の周辺諸国には、我々には理解出来ん様式を持つ民族がおる
と云うことです。東南アジアでは、儒教の影響も強いベトナム人に、
漢人(越人)の分派である台湾人より近親性を感じる。タイ人も小乗仏教で
大乗仏教ではないが親しみを感じるのは、日本人の仏教的要素が強いからで
あろうか。満洲・モンゴル・チベットと大乗仏教要素の強い民族が、
儒教的漢民族や韓民族文化の周辺に存在する。彼らは人種的にも近いで
あろうとなると、同民族的親近感を覚えるのです。
>>28 やれやれ。「韓民族」の人種的な差別意識とか、
勿論日本人にも無いとは言わないが、彼等の
東南アジア、特に南方や所謂土人とされる旧植民地
の人々と「違う」と言わせたいのは日本の支配が関係
あるのかもしれんが、その反動にしては酷いものがあるよ。
「朝鮮民族」の差別意識は民族的なものがあるかもしれ
んが、彼等が北方の異民族に対して取った態度は、
決して「人種的なもの」から来るのでなかった。つまり歴史的
な意味だった。北方民族が「強い」だの、南方は「奴隷」
だの、そういう二元的な解釈しかできんのが、というか
せにゃ自分たちが歴史的につらいもんだから、そうやってる
に過ぎんわけで。
>韓国から南方と云うと、日本は植民地支配したので、けしからんと云う
>ことでしょうし、東南アジアも世界に覇を唱えたことのない存在。
この一文に凄い違和感を覚えるのは何でだろうなあ。
素直に彼等には「差別意識がある」とはっきり言ってしまえば楽になると思うんだがな。
>人口も韓民族の方が多いと云う解釈でしょう。
よくわかりませんが、「韓民族」はそんなに広域に定義されるもんですか。
「朝鮮民族」は、半島と満州の一部にしか住んでおらんと思うのですが。
まあ朝鮮・韓人がそう思ってるってことだろうけど。
>日本人から視ると台湾人(外省人・内省人)も韓国人も大差ないと
>考えるが、彼ら韓国人は一緒にして呉れるなということじゃろう。
最近そうでもなくなってきたなあ。(笑 台湾人と韓国人は明らかに「日本に対する意識」
が違うからねえ。
30 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 01:04:14
朝鮮人の南方人差別意識というのは単にシナと同じもので小中華思想に 基づくものなのだろう。 北荻のモンゴルや満州人に対してもシナと同様に差別意識はもっていた そうだし。 日本は東夷、南方は南蛮という中華思想の受け売りに過ぎないと思う。 シナも朝鮮も西戎に対しては頭が上がらず、白人崇拝の劣等感をもつ時代 になったようだが。
31 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 01:15:32
廣島・もみじ民
32 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 01:21:46
“安芸の宮島”のことを“秋の宮島”と思ってた馬鹿。
33 :
白馬青牛 :2006/07/08(土) 01:25:38
>>29 韓国人に人種的意識はあるんじゃないか。自ら北モンゴル人種を主張する
あたりは。人口が多いというのは、現在の人口数からツングース族が
韓族より貧弱でと云う韓国人のツングース=オランケと野蛮人視しとる
価値観のこと。『韓国上古代史の争点』学生社、参考。
ほいで、「日本に対する意識」だけで、区別しとるんか?
そりゃあ台湾人に対する侮蔑じゃと思えるけどねえ。
自分になついてくれる者は良いと、犬じゃあるまいし。
明らかに他国の民を見下しておるように思えるよ。
>>33 仮に韓国人に北方と人種的な繋がりに対する認識があったとしても
その繋がりを認識することが或いは南方に対する「差別」に繋がっていて
貴方が説明するようにそれが歴史的な北方の「意義」だとか「役割」
つまり「覇権を取った」(これ自体かなり胡散臭い信仰だけどねえ)事として
彼等に認識されてることは、つまり「差別意識」があることの証左なわけ
でね。で、彼等の南方に対する認識だとかアフリカの国家に対する差別
的なもんだとか、人種的とか文化的なものがあるんかもしれんが、どちらにせよ
歴史的なもんだろうなあ、と。実際に韓国人の文化的なもんにしろ人種的
なもんにしろ南方の影響は無視できんわけで、それを無視してる韓国の
実体っつーんは、要するに東南アジアの植民地化の歴史だとか、誰かが
認識してる「北方>南方」っつー不等式を頑なに信じたいが為に都合
よく信仰されとるに過ぎんし、中華的なものから隔離されてる北方は、
長い間中華と同一化してた韓国にとって唯一中華と対等に付き合える
文化として魅力があったという話。まあ北方の自然経済やってるような
人々を実際に見れば、また考えを変えるのかもしれんがなあ。
>人口が多いというのは、現在の人口数からツングース族が
>韓族より貧弱でと云う韓国人のツングース=オランケと野蛮人視しとる
>価値観のこと。『韓国上古代史の争点』学生社、参考。
イマイチわからんのでもっと呑み込みやすく説明してくれ、
参考というのなら引用してくれると助かるんだが。
>ほいで、「日本に対する意識」だけで、区別しとるんか?
>そりゃあ台湾人に対する侮蔑じゃと思えるけどねえ。
人間関係でも国家でも「嫌い」「侮蔑」「差別」「普通」「好き」「好意」それぞれを持ってる相手に対して
対応の区別が生まれるのは当たり前だし相手がこちらを嫌ってればそれなりにこちらも好意ばかり
持てなくなるのは当然だよ。台湾人と韓国人は違うよ、残念ながら。貴方にとって人種的に
韓国>台湾なのかもしれんが。まあ韓国人が「一緒にしてくれるな」と思ってるという主張も
面白い。何故一緒にされたくないのかねえ。経済的:文化的:人種的。色々あるが、
俺は台湾人の方が韓国人より好感持てる、という感想しか持たんな。
35 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 05:11:58
>>7 >>11 >馬韓が扶余とは無知もいいところ。
前スレでそのことを言った人は「騎馬民族」とか「扶余」とか意識したのではなく、
単に言葉の問題を言ったのだと思う。
つまり日本語で「こま」が「馬」を意味することから、馬韓という地域名の由来は
「コマの韓」を漢字で「馬韓」と表したのではないか、と言ったのだと思う。
もちろん、そのためには「コマ」が古代の朝鮮でも「馬」を意味したということが
前提になる。
36 :
がいやまん :2006/07/08(土) 05:58:10
>>18 ニブヒはいますね。が、ヨン様、将軍様もいるし。南方系というのはあまり見ま
せんね。どちらかといえば日本のほうが多いような気がします。
37 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 06:01:47
>>36 馬韓は文字通り韓人社会で扶余ではないことは承知していますが、
「馬」韓とは馬に関係ある種族なのか?と思いついただけです。
しかし慕韓とも書いていたようなので単なる当て字かもしれませんね。
狛、高麗をコマと呼ぶのも駒とは無関係の単なる同音異義なのかも
知れません。
38 :
がいやまん :2006/07/08(土) 06:08:36
>>17 山海経はスルメのようなもので味があります。クメール山岳民族は神武部隊とどこかで
共闘したことがあるのかなと思ったことはあります。それは霧島とかの山岳地帯かな。
でも、アルタイのクマンジン族と関係があるのかもしれないし。オープンにしておいて
今後2CH継続審議としましょう。ところで、神武に鳥が付きまとうのは意味深ですね。
東夷の帝王、少昊、これと三輪山のスクナヒコナ、なんか関係がありそうだ。
39 :
がいやまん :2006/07/08(土) 06:21:45
↑徐福船団が漂着する可能性が最も強いのはソウルから扶余にかけての 地域かなと思うんですが、徐福船団に山岳兵あたりを乗っける可能性もあろうかと。
40 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 06:45:46
>>28 北方民モンゴル族=大モンゴル帝国を築き、ヨーロッパを震撼させた。
北方民満州族=漢民族を支配して、世界的にも有名な清朝を建てる。
南方民東南アジア諸国=つい最近まで欧米の支配を受ける。
という発想なんでしょうかね?
>>36 しめ縄とかの風習は、北方にもあるかな?
あれ、韓国にはあるんだよね。
38度線を挟んで南北では、南に集中していると聞いたから、
あれも朝鮮の基層に残る南方文化の一つなのかな…
42 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 10:42:06
>輸入品 馬が珍しかったために、古代人は馬具の何たるかを知らず、最初は 輸入に頼りきったと思われます。
>>37 馬韓、辰韓、弁韓、何れも漢字の意味に関係はなさそうだが。
駒をコマと読むのは高句麗や高麗をコマと読むのと同じで、高句麗の「句」に
馬へんを付けてやや侮蔑の意味も込めて「駒」としたのだろう。或いは牧畜
を行い牛を殺し馬に乗るといった風習から「駒」をコマとしたのかもしれんが、
コマそのものが日本語なのか渡来語なのかは不明といったところ。シラキや
クダラが恐らく渡来語であることから考えて、当然高句麗のコマというのも
渡来語である可能性は高いが。
44 :
白馬青牛 :2006/07/08(土) 23:32:45
>>34 「差別」と云う言葉を多用されるが、文化を論じるのに「差別」と云う
のはイデオロギー的であると思う。
『韓国上古代史』の引用は文が長うなるんで、ろくに書かんかったが、
司会の千寛宇氏は、「アジアに雄飛した北モンゴル人種系」で
モンゴルや満洲族の活動に「同じ北モンゴル人種でありながら、他の族属は
このような活動をしましたから、いままで、品よく生きて来た様な我々も
大手を振って生きる日があっても良いんじゃないか」とされ、李光奎氏は、
ツングースが東北アジアの代表的族属であり、我が韓族はそのなかの一族属
であるというのは、とんでもない事です。」後は、ツングースが韓族より
人口数が少ないとされる。ただ同氏は「三韓は、北アジア諸族の要素もある
が、それより東南アジア諸族の文化に結びつくものが多い」と云われる。
自分に好意を持って呉れる相手に良く、悪感情を持つ相手には好意を持てん
のは、専制領主の馬鹿殿様と同じじゃないか。卑屈な同調者より、
わしゃは、敵対しょうと、誇りを持つ敵であったら尊敬心を持つけどねえ。
これは民族集団の事を指しておるんでなく、個人間においてじゃが。
誤解されんように云うとくよ。まあ見解の相違と云うべきか。
45 :
日本@名無史さん :2006/07/08(土) 23:55:38
>>43 コマという語は蓋馬高原のケマとも関係があるかも知れないという
説があった。
46 :
白馬青牛 :2006/07/08(土) 23:56:37
>>36 ニブヒ系は、韓人に多い。南方系の低顔の韓国人も多いでしょう。
日本の南方低顔形質は、弥生以降と云うより縄文系でしょう。
縄文系形質は中国南部〜東南アジア人とは似ておりますね。
江上波夫氏は、日本人は南朝鮮の人ほど顔が扁平で無く、満洲族や
蒙古族と似て、東南アジアのヴェトナム人も日本人と似ており、南方系の
それは倭人要素とされるのですが。倭人も支石墓の西九州の低顔と、
甕棺の北九州の北方系高顔でありながら南方文化の強い種族と違いが
あります。鳥取の弥生後期の青谷上寺地遺跡では、北方的要素がかなり
強いので、列島住民は弥生後期以降複雑性を持ってますね。
47 :
がいやまん :2006/07/09(日) 06:43:06
トーテムとされるもの、星辰等神紋、その他から見ると渡来人は2桁代の種族であった のかも。 百済という言葉が多くの移動性民族を表すとすれば、うまくあてはまる。狛犬の姿をみても 狼よりも強いカンガル犬のようなものを駆使するトルコ族のようなものが入ったことも ありえるかなと思います。愛知万博のような時代であったのかな。
48 :
がいやまん :2006/07/09(日) 07:04:28
コマですが、大局的にいって欧州にはクマン(キプチャク)、サクソン・サカが有名なので
「久米部は久米人の軍団で、「日本書紀」によると畝傍山の西の川辺の来目邑
くめのむら)、「倭名抄」に大和高市郡久米郷とある地に置かれていたものである。
彼らは佐伯部とならんで、宮門を守る衛兵であったらしい。」
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/nara/event/niiname-Kasihara-11.htm 日本も天皇の左右にサカ族、クマン族の外人部隊が配備されたということかな。
愛媛の久万高原は球磨と同じ読みですが、古代にNがあったことを物語るようだ。
第一波として入ったのがクメと呼ばれ、第二波のものがクマ・クマンと呼ばれたと
いうことだろうか。頂上に立つ神武が東夷の帝王・少昊同様鳥トーテムというのは
こうした倭人構造が、山海経で倭は燕に属すといわれた権力構造を持っていた
名残ではなかろうか。
49 :
がいやまん :2006/07/09(日) 07:15:54
甕棺墓は東胡族が燕の影響下に入る遼寧省方面で神話に卵生が付加される時代に 起こったのではなかろうか。少なくともそうした素地ができたのではなかろうかと思えます。 そして、その集団全体が倭であったが、倭の通過後三韓が生まれたのではないかと。
50 :
がいやまん :2006/07/09(日) 07:31:21
51 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 07:44:42
>>48 >倭は燕に属す
これに関して、詳しい事が解る人いますか?
倭人の一派が周王朝に朝貢する際に、東シナ海ルートを採らず、
渤海ルートを採用した。その為、燕に承諾を得る必要があった。
(=燕に属す)だという解釈もあり、それなりに受け入れられて
いるようですが。
52 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 07:54:34
>>49 卵生神話は、中国の卵生神話が伝わったものじゃないの?
大陸国家の卵生神話→半島の国家が権威付けのためにこれを盗作
→日本の皇室が更にパクる。
半島国家においては、それぞれの神話に共通性が濃厚で、かなり
忠実なパクり行為が行われた事を感じる。
53 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 08:04:31
54 :
がいやまん :2006/07/09(日) 12:26:20
>>48 坂上田村麻呂らが白人サカ族であることはうなづけるが、久米部のプロファイルは
燕の北方にいた山戎と見るほうがぴったりだ。久米は山戎とするとクマとは何か別の
存在であり、どうやら匈奴、高句麗、突厥、羌族と同じ血を引く攻撃的騎馬民族と
見て、日本列島にはこの2つがもつれ合って入っていると考えるべきだろう。
天皇家は燕を通じて中国古代の少昊の流れを引くものであったのではなかろうか。
あるいはそうしたプロファイルを奉られた唐古鍵あたりの族長家であったとかかな。
55 :
がいやまん :2006/07/09(日) 13:20:28
源氏の中でも木曾義仲が倶梨伽羅峠で使用したスタンピードはジョンウェーン の出てくる幌馬車にも登場するが、カウボーイのよくやる手であり、これは コマ系の戦術、一の谷鵯越は山戎の作戦であろうが効した面からも木曾には トルコ系、その他には山戎系とか、色んな騎馬民族出身の職業軍人の末裔が いたような気がするんだが。
56 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 14:05:41
>>54 坂上という苗字は、漢氏の系統ではなかっただろうか…?
57 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 14:08:12
58 :
がいやまん :2006/07/09(日) 14:14:26
山戎は女陰・手形を信じたといわれるが、高千穂の岩戸、加賀の潜戸は女陰である。 ただ、洞窟信仰は他にも慶州、台湾にもあり、一概に山戎とは結びつかないが、西都原 において鬼が地元の山住に利用されて古墳建設をやらされたり、するのは渡来した山戎 が信仰対象の女陰型の奇勝を求めたのかもしれない。沖縄を初め九州西岸には母胎 回帰をイメージする墓が多いが、甑島にはトシドンというナマハゲや欧州クリスマス儀式 と共通する儀式が残るし、沖縄にはポーランド同様の春狛がのこり、クマン族の足跡を 感じる。もしかして、久米・球磨・久万・狛・高麗は同じであったのかも。
59 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 14:31:21
60 :
がいやまん :2006/07/09(日) 14:54:59
↑久米島あたりまで足を伸ばしてるね。カデナの西に箱式石棺墓があるが、渡来直後は
現在のお墓のように母胎回帰ではなく、モンゴル高原型。
http://inoues.net/club/chimei.gif さて、渡来倭人の夢見た建国コンフィギュレーションは東向きの鳥形であり、東夷帝王
少昊氏の鳥の王国をイメージしたものだろう。出羽では殷の刀子も出土する。
61 :
がいやまん :2006/07/09(日) 15:03:26
ヤマトトトビモモソヒメというのはソラミツ大和の国などといってブリャート伝承など にある女王が空を飛びながら国を見るという概念からきて、その墳墓箸墓が シャーマンのドレス・飛ぶ鳥のイメージの初代女王という卑弥呼へのおくり名と 考えるとうまく説明がつくんだが。
62 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 15:06:35
△やっべ知ってるじゃろ
63 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 15:10:09
◎そやな知ってるみたいや、どないする。
64 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 15:34:15
日本の稲作に関係する祭りは苗族〜タミル人まで共通するという話もあり 南方からユーラシアまで色々共通点があるのだな。 ほとんど欧亜大陸すべてと結びつくのではないか?
65 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 16:12:40
その中で一番古いものが何かわかれば、原型を指摘する事ができる、かも。
66 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 21:46:29
△やっべ知ってる?どうすりゃいいの?
67 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 21:48:16
◎落ち着いて落ち着いて・・・
68 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 21:59:00
69 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 22:03:28
△やっべ怒ってますよ
70 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 22:04:02
◎スルーだよ、きまってるだろ
71 :
日本@名無史さん :2006/07/09(日) 23:25:27
日本の地理的位置から見ても大陸と南方からの吹き溜まりのようなもので、これ 以上出て行く場所もないので日本、朝鮮には南北の種族が重なりあっているのだろう。 しかし、シナやインドにしても南北のせめぎあいの場所なので日韓が特殊な 地域という訳でもないな。
72 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 00:16:30
スルー
今時こんな亡霊説信じる人いるの、この説でどれだけ古代史が歪められてるか 歴史に関心のないの無い者がみな、騙されてるじゃない。
74 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 06:36:33
>>71 出雲・福井などの日本海側に朝鮮半島からの渡来文化があったのは可能性は高い。
しかし、南九州や奈良は朝鮮半島の影響は少ないだろう。
天皇家の始まりの神武の東征は日向から出発している。
一度、ナガスネ彦に敗れた後、熊野まで南下して南方から奈良に入っている。
これは南九州〜土佐〜熊野の黒潮ルートの南方系の人種が活躍したと見るのが妥当。
今でもこの地域は南方系の風習が残っている。
そして、若者を尊重する儒教とはかけ離れた文化があり、明治維新の薩摩と土佐もこの地域の国だ。
また昨日、朝鮮人に馬鹿にされたが、朝鮮半島にはお歯黒の文化は無いそうだ。
朝鮮人から見るとお歯黒は酷く滑稽に見えるらしい。
昨日、福井県の敦賀に行ってきた。
地元の人の話だと敦賀は元々「角鹿」と書いて「つぬが」と読みます。
日本書紀に出てくる地名で、もともとは気比の浦から上陸した朝鮮半島日本領である任那の王子「ツヌガアラシト」からきているということです。
現在の「敦賀」という名の由来だそうだ。
あと、福井や滋賀の人間は日本人の平均に比べてて体毛が薄いらしい。
鹿児島・高知・和歌山の人間は体毛が濃い。
福井・滋賀の体毛が薄いのは遊牧民の体毛が薄いのに共通している。
75 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 06:46:50
>>74 福井県と滋賀県民の体毛が薄いって…一人ひとり調べたんか?
なんか、エッチだなぁ…
76 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 06:46:59
>>74 このツヌガアラシトの説話の概略は、垂仁天皇の一代前の崇神天皇の時に、気比の浦に来訪して垂仁に三年仕えて崇神の名ミマキイリヒコのミマキを元にして、それまでオオカラと呼んでいた国が任那となったとする話である。
崇神、垂仁は従来は実在するとする説が有力だったが、最近よく聞くのはどうも崇神、垂仁は継体、欽明をモデルにして記事が作為されたようです。
日本書紀での朝鮮半島関連記事は継体、欽明に非常に多いため、その時の渡来者を元に、誰か特定の人物を指すのではないのだろう。
当時の朝鮮半島の東側の新羅の官位「ツヌカン」からツヌガに転じた可能性、朝鮮半島から北陸に多く分布する角の形の土器や、角のように見える冠を模した可能性があるが、
朝鮮半島からの伝来が関連していることは、逆に古代社会での角鹿の共通性が考慮できる。
ツヌガアラシトの説話がある垂仁天皇について
垂仁天皇の記事には、ツヌガアラシトと同じく渡来者のアメノヒボコや、丹波から后を召す話など、大和、河内の北の畿内周辺部が意識されている。
なお現在新人物往来社から刊行の別冊歴史読本歴代天皇・皇后総覧で、私が垂仁天皇とその后のヶ所を担当しているし、かなり内容が専門的になるが、塙書房から刊行の日本書紀研究二五に「垂仁紀(記)の架空・作為に関して」も刊行されている。
ご一読いただければ幸いです。
77 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 07:02:03
>>71 >>74 朝鮮半島に近い福井や出雲が北方系の文化の影響を受ける。
太平洋側の南九州や和歌山が南方系の文化の影響が残っているのは当たり前だよね。
最近は津田左右吉批判もできるし神話の神武の東征も実話だと言われているよね。
地質学の発展で、津田左右吉の学説はドンドン否定されていっているとか。
神武の東征が宮崎県から始まったってのは面白いよね。
なんで和歌山から攻めたんだろうか?謎だよね。
>>75 福井県と滋賀県の彦根市出身の友達がいるけど、二人ともスネ毛が全く生えていないよ。
確かに体毛は薄い。
78 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 07:08:52
>>74 薩摩隼人は大和朝廷にとって異民族。東北の蝦夷も異民族。
79 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 07:21:37
>>77 和歌山…まさか、徐福とか紀氏とか言い出すんじゃないだろうな?
宋だったら面白いけどw
80 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 07:33:51
戦後、江上波夫の騎馬民族征服王朝説が学会を揺るがしました。 しかしながら、今のところそれを実証するには至っていません。 果たして天皇家のルーツは、渡来人による征服王朝なのでしょうか? 日本書記には、意富加羅国(伽耶)王子ツヌガアラシトの来日説話があります。 一方、古事記には新羅王子アメノヒボコ来日説話があり、ツヌガアラシトとアメノヒボコは同一人物との説があります。 私はアメノヒボコの渡来ルートに、古代の鉄の流通ルートを見ます。 ヤマト朝廷の成立過程は、鉄をめぐっての政界再編劇です。 アメノヒボコと神功皇后は、ヤマト勢力を代表し、北九州の邪馬台国(ヒミコ)を征服。 さらにヒミコの後継女王とされるトヨを、神功皇后と同一人物であるとします。 そしてアメノヒボコと神功皇后の子が応神天皇であり、応神天皇はヤマトへ東遷。 これが神武東征神話のモデルです(・・・とんでも説?!)。 アメノヒボコとは、鉄を求めて朝鮮半島へ渡り、再び日本へ戻ってきた人物・・・ つまり私は、皇室の祖先は海峡を往還したとのアクロバチックな説を採るのです。 アメノヒボコゆかりの但馬地方で、古代の製鉄遺跡が発掘されれば、大きくプラスとなりますが、まだ発見されていません・・・
81 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 08:03:02
>>34 確かに韓国人は台湾人を下に見ている節はある。
香港の会社のアンケート調査したところ、
台湾人が一番嫌いな国は断トツで「韓国」。
「韓国人の印象は?」という質問に対して、73%の台湾人は「韓国は嫌い。」と答えた。
「日本人は印象は?」という質問に対して、93%の台湾人は「日本が好き。」と答えた。
韓国人のアンケート結果は、
移民で他国に行くなら、どの国に行きたいか
1位 オーストラリア・・・17.9%
2位 米国・・・・・・・・16.8%
3位 日本・・・・・・・・15.3%
※ 北朝鮮・・・・0.0%
好印象な外国
1位中国・・・・・55.3%
2位アメリカ・・・50.5%
3位日本・・・・・36.0%
※ 台湾・・・・・0.0%
82 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 08:46:22
>>81 台湾の公使館員の奥様(若くてすごい美人)と友人と3人で食事を
したことがあるのですが、彼女「台湾人は日本大好きです」と言って
いた。日本のそうメジャーでもないタレントが台湾に行ったら大歓迎を
受けたという話をしたら「そうでしょうね。日本の芸能人は人気あります」と言っていた。
83 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 09:49:20
>>81 2chで台湾人を目の敵にしている“自称日本人”の椰子が暗躍しているけど、
あれって純粋な日本人じゃないよな、やっぱり...
>好印象な国
それウソじゃないの?!
日本が3位のわけないって...!
真剣にソース求む。
84 :
がいやまん :2006/07/10(月) 09:55:01
>>76 角杯については以前から論議に上っており、白馬青牛さんからも多くの情報をい
ただいたことあり。これと角鹿が関係あるとはまさに卓見だと感嘆しました。
死装束三角頭巾、烏帽子、赤烏帽子、しゃちほこ、小河墓ミイラの魔女帽子、
赤頭巾元となったゲルマン伝説、フリギアの装束、エジプト・ギリシャ・中国の
一角獣伝承・・・こうしたキーワードの背後にあるのは黄金の角が魔力に打ち克つ
という伝承だと思います。と同時にこの風習の流れにこそシルクロードを経由して
ナイルから黄河、そして北陸に上陸した極めてはるかな文化の流れを感じます。
ロシアの有名な民話に魔女に娘を雌鹿に変えられた農婦が金の角の協力を得て
娘を取り返すというのがありますが、ウグロフィン族領土に侵入するスラブが
スキタイの援助を得たことを物語るようでもあります。
85 :
がいやまん :2006/07/10(月) 10:00:56
ただ、ツヌガアラシトについては魏の張政の公式来日記録がないのでそれも一つ 考え、もう一つは東夷の守護神的宝器を安置する場所に敦賀が選らばれたという イベントの両方が混在する可能性もあるかと。
86 :
がいやまん :2006/07/10(月) 10:17:33
邪馬台国という日本建国の動機、原因につき、当時の国際情勢を見ると曹操に 討たれた烏丸の問題があります。この一部が公孫領内を通過して琵琶湖南部和邇川、 烏丸半島、比叡山に配置されたということが考えられます。これは書紀神代の一書に 安川近辺(これは三上山の麓の野洲川、伊勢遺跡近辺のことと見られます)において オオクニヌシと天孫の間で大きな取引が行われたとあります。これが邪馬台国の 国譲りと考えるとうまく話が合います。
87 :
がいやまん :2006/07/10(月) 10:25:06
88 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 10:56:26
烏丸(うがん)=京都市内の地名 曹操に討伐された烏丸勢力が日本に逃亡、亡命、その辺りに住み着く。 じゃないの?
89 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 10:59:55
なんで「うがん」じゃなくて「からすま」と呼んじゃったんだろうな。
90 :
がいやまん :2006/07/10(月) 11:14:20
>>88 垂仁朝の天日矛は但馬出石、淡路での居住を許可されたのに不遜にも
自分で選ばしてもらうといって近江に行き、最終的には出石に落ち着いている。
これは彼らの内部に近江銅鐸勢力に関係を持つものがいたのかもしれない。
が、このことは天日矛集団に烏丸がいたということかもしれない。末期銅鐸に
技術革新が現れるというのはよく指摘されている。
91 :
がいやまん :2006/07/10(月) 13:23:20
>>89 不慣れな人に道案内するときに「トリマル」って、ありまっしゃろ?という京都の
土地っ子がいるが、現代っ子にはそれでわかる。古代人もカラスマルと書きますのや
とでも言ったのであろう。
92 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 13:37:46
トリマル?!
93 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 13:44:20
本州+九州+四国+佐渡島+淡路島=大本州 ↑ 地続きになれば名称はこれでどうだい? 地続きになってくれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 ジェダイの騎士 武士、サムライ ライトセーバー 日本刀
94 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 13:46:10
ジェダイの騎士 武士、サムライ ライトセーバー 日本刀
95 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 13:50:04
ジェダイの騎士 武士、サムライ ライトセーバー 日本刀
96 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 13:59:28
分けの分からないレスするなこのチンカス
97 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 14:38:28
>>86 伊勢遺跡は他の地域では弥生遺跡が衰退していく紀元1世紀末頃に、この遺跡は突如出現し、紀元2世紀末に衰退し始める。
つまり、邪馬台国時代前夜に、発達を遂げた不思議な遺跡である。
祭殿らしい建物は、大型建物群の中の楼観と見られる建物を中心として、半径110mの円周上に等間隔に約30棟が並んでいたと推定され、国内に例のない配置である。
30棟の棟持柱付大型建物が円周上に配置されている。
これは角度や距離を測る技術にもとづいた計画的な配置がなされた証拠ですが、国内の弥生遺跡には例が見られない。
また焼床という、従来にはなかった建築工法が使用されている。
壁際には40cm×30cm、厚さ約8cmのレンガと思われる建築部材が少なくとも5個以上見つかっている。
日本で出土した焼成の最古のレンガは白鳳時代の7世紀後半とされてきたが、その歴史が500年もさかのぼることになる。
焼床の床を持ち、壁にレンガを用いている点で、この建物は特異な施設が施された住居だったことが分かる。
これらの建築工法は明らかに大陸や朝鮮半島からの技術の伝来を示している。
だが、我が国では前例がないため、建築史上の新たな謎とされている。
首長の居館であったとすれば、邪馬台国が出現する前の時代に、朝鮮半島などと深いつながりを持つ巨大な政治勢力が、野洲川流域に拠点をおいたことになる。
その首長は下之郷遺跡の後継者だったかもしれない。
あるいは、新たに半島から渡来して、この付近を切り従えた渡来系氏族だったかもしれない。
それにしても不思議な遺跡である。
弥生後期の紀元1世紀末頃に突如出現し、邪馬台国の女王・卑弥呼とほぼ同時代の2世紀末に最も栄え、そして大和地方に巨大な古墳が築かれる古墳時代前期になると急速に衰えてしまう。
伊勢遺跡の小高い一角から、衰退期に埋めたと思われる多数の勾玉や管玉、および破砕された銅鏡が出土したという。
伊勢遺跡の衰退期にこの場所で何らかの祭が行われ、その後人々はこの土地を離れていった。
何処へ移り住んだかを示す遺物は発見されていない。
98 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 16:34:32
>>80 鉄をめぐる政界再編と、列島と半島を往還していたという発想が、面白い。
99 :
がいやまん :2006/07/10(月) 17:09:17
>>97 銅鏡の破砕は九州から後の古墳時代に見られる儀式であり、銅鐸の聖地とも言うべき
伊勢遺跡周辺で銅鏡の祭典が行われるということ自体衝撃的な出来事と考えられます。
共産主義が資本主義に変わるくらいの出来事だったはずで、頭では理解できても心情
的に江戸っ子が薩長土肥を忌み嫌ったように深い対立は残っていたのでしょう。巻向
邪馬台国建設も東海(尾張)vs吉備の間でフェーズが切り替わり、倭人伝の頃は偶然
東海が敵性狗奴国とされる時期にあったのではないでしょうか。
100 :
がいやまん :2006/07/10(月) 17:46:31
>>88 そのとおり。難民であり、あまり技術もなく、用心棒的に天日矛冶金集団に随行して
いたものが初めて国家を作るイラクのようなところでピックアップされたというべきか。
101 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 17:53:21
102 :
日本@名無史さん :2006/07/10(月) 18:18:35
なんか邪馬台国スレみたいになってるね^^;
103 :
白馬青牛 :2006/07/10(月) 23:19:18
>>74 黒潮は、漂流ルートであって航海の軸線じゃない。
浄土真宗、門徒を「隠れ念仏」にさせ弾圧した、朝鮮李朝のコピーで、
列島で最も儒教国家の薩摩のどこが、儒教の影響が薄いんか?
薩摩は、儒教の影響で末子相続より長子相続に傾き朝鮮文化に近い。
薩摩・土佐は、西日本の中でもとりわけ社会の固定化、身分制度の強い
土地柄じゃろう。土佐は四国でも、瀬戸内海の渡来系の強い地域と違い、
縄文系が比較的残った地域じゃが。
島津系とハヤトは違うよ。お馬さん。
105 :
白馬青牛 :2006/07/11(火) 00:09:21
>>84 角杯は、鹿も関連するでしょうが、牛とも関連します。
都怒我阿羅斯等[つぬがあらしと](汙斯岐阿利叱智干岐[うしきあり
しちかんき])も、牛角の角杯族であったと思えます。
牛象徴要素があっても羊象徴要素が、我が国では薄いのですが、
http://www.z-tic.or.jp/site/page/yayoi/aoya/syutsudo/kaiga_koto/ の、琴板に描かれた動物は羊に見えますね。
彼らは、列島に移住する前の故国で羊飼育の牧畜を経験しておったので
しょうか。青谷上寺地人は、卜骨要素が他の弥生遺跡よりも極めて強い。
人種的にも九州北部の山東系に似た人骨とタイプが違うように、より北方的
な民族じゃったんでしょう。ただし、今のところ羊の骨が出ず、鹿や猪等の
野生動物を犠牲獣や食用に使うております。弥生後期は、まだ余り家畜を
伴って渡来しておらんかったんとも考えられますが。
106 :
日本@名無史さん :2006/07/11(火) 00:15:05
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.6【波夫】 日本古代史界の罪悪人です、人心を惑わす、とんでもない奴です。
107 :
日本@名無史さん :2006/07/11(火) 00:18:55
リップサービスのつもりで書いた本が古代史混乱の元
108 :
日本@名無史さん :2006/07/11(火) 05:09:27
江上波夫(笑)
109 :
日本@名無史さん :2006/07/11(火) 06:11:45
110 :
がいやまん :2006/07/11(火) 08:29:36
111 :
がいやまん :2006/07/11(火) 10:33:53
112 :
がいやまん :2006/07/11(火) 13:15:19
113 :
がいやまん :2006/07/11(火) 14:31:40
114 :
がいやまん :2006/07/11(火) 16:10:05
高句麗をなぜコマというのかという問題はまだオープンになっていると思うが、
朝鮮最古の地図
http://www.geocities.jp/sagong_jun/saikotizu.htm というサイトに、
「一つの考察法として動物名(私見)と対照させてみると虎加(諸加統率)、馬加(文書)、
牛加(農業生産)、熊加(国防)、鷹加(刑罰)、鷺加(保健)、鶴加(道徳倫理)、狗加
(地方官統率)の八加である。檀君の長男のブルは虎加、次男のブソは鷹加、三男
のブウは鷺加を担当している。」
とある。この中で言う熊加というのが日本の熊襲とか、地名のクマナリ(熊津)、そして
コマの原因かもしれない。
115 :
日本@名無史さん :2006/07/11(火) 16:30:18
116 :
日本@名無史さん :2006/07/11(火) 16:34:10
継体の古墳から出てくるものは騎馬的だよなぁ
117 :
日本@名無史さん :2006/07/11(火) 18:07:52
118 :
日本@名無史さん :2006/07/11(火) 19:20:37
我意屋満
119 :
日本@名無史さん :2006/07/11(火) 20:55:42
120 :
日本@名無史さん :2006/07/12(水) 00:00:02
古墳から兵士や馬の埴輪が出て来るが、兵馬踊に比べると月とスッポンのような ちゃちなものだな。 あんなもので騎馬民族というのは大袈裟ではないか?
121 :
日本@名無史さん :2006/07/12(水) 00:05:31
122 :
日本@名無史さん :2006/07/12(水) 06:57:57
>>120 今城塚古墳なら、高さ1m70cmの千木付き高床式家型埴輪の方が
衝撃的だけどな。
123 :
日本@名無史さん :2006/07/12(水) 06:58:42
家型× 家形○
124 :
がいやまん :2006/07/12(水) 07:44:56
125 :
がいやまん :2006/07/12(水) 08:04:14
チベットと日本を結ぶY染色体ハプログループYAP-D型につき遺伝学者はチベット のD型が日本のものに対して先祖型としながらも、日本のものはC型同様約2万年 以上前に日本に入ったとする。一方YAP-Dの兄弟分Eの一種については最近欧州 新石器拡大と共に小アジアから西欧にジャンプしたのではとされている。チベット、 新疆におけるYAP-Dを考えるとそれが日本の先祖型であるので「日本において」 分岐したとは考えにくく、逆に、チベットと日本の中間の内蒙古、中国東北部で分岐し、 その後O型共々日本に入るのではないかと思うのだが。
126 :
がいやまん :2006/07/12(水) 08:16:58
この際、再度強調するが幼年期に頭上に石を載せ頭骨を平らにするのは大月氏と 馬韓であるということ、推古斎明朝には多くのトカラ人が渡来していること、トカラ語 はアナトリア系ケンタム語であり、ゲルマンに近いことなどであり、最近コーカサスの マイコープ支石墓の下に埋葬設備を持ち込んだのをトルコによるものなどの主張が あるが、逆ではないかとの気がしている。小河墓の木棺こそモンゴリアに箱式石棺墓 をもたらしたと考えたい。
127 :
がいやまん :2006/07/12(水) 08:35:19
余談ではあるが、現在の皇室の儀式に神武の頃と同じ鳥に関する儀式、鴨猟とか が多いこと、鳥に関する氏族との婚姻関係などのあることは大和朝廷の起源に 東夷の帝王少昊をイメージした部分があったのではないかと思う。殷の刀子を 山形県遊佐の海岸に埋める香具師はいないだろうから東海の鳥の国に住んだとされる 少昊を古代人は日本の天皇の祖としたのではと思うんだが。決して渡来人が征服した 国ではなかったということをいいたい。
128 :
日本@名無史さん :2006/07/12(水) 09:30:42
>>120 >あんなもので騎馬民族というのは大袈裟ではないか?
正真正銘の騎馬民族である蒙古からは、兵馬ヨウよりもっと立派なものが
出るんだろうね。
129 :
日本@名無史さん :2006/07/12(水) 09:55:52
>>125 漏れもぶっちゃけそう思います。
2万年以上前に渡来したと考えると、チベット人の先祖型が
上手く説明できない。
>>127 鳥関係の遺物は、古いよ。
吉野ヶ里の高床式建築にも鳥があしらわれている…
130 :
日本@名無史さん :2006/07/12(水) 10:13:15
131 :
がいやまん :2006/07/12(水) 10:31:18
>>129 「火の鳥」なんてあるけど、浅草酉の市という風に地球の太陽一周を鳳ととらえる
日本人の感覚が古代的であり、科学的と思うなー。
>>130 こうした知識を持ち込んだのは秦氏に含まれる徐福の子孫かなーという感じがする。
しかし、中国からの亡命者が建国した新大陸のような国でなかったのかなー。
天皇選びは、誰がなっても殺されるような状況下であったのであろう。神武の
嫡子が先ずは先頭にやられているではないか。ヒミコがもっとも無難な方式だったの
だろう。
132 :
日本@名無史さん :2006/07/12(水) 13:35:33
自作自演
133 :
PU :2006/07/12(水) 21:52:44
PUです。ボクは東広島にすんでます。
134 :
がいやまん :2006/07/13(木) 08:25:36
135 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 09:46:33
ツヌガアラシト=「角がある人」か?
136 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 09:56:20
〜ヌ(の)っていうのは、現在の沖縄でもそうだな。 アイウイウだからな。意味は無し。
137 :
がいやまん :2006/07/13(木) 10:23:06
>>135 >>105 ツヌガアラシトは、別言すればウシキアリシチカンキということであり、一種の神職
神官の役職名ではないか。ケルト系のスコットランドの国章が一角馬であり、敦賀
同様の角杯文化を共有している。欧州のGlobular Amphora文化はコーカサスの
魔術者集団がユトランド地方に進出したものとする説を聞いたことがあるが、月氏
のシンボルもユニコーンの魔力ということでかかわってくるのかなーと考えたりして
いる。純潔伝承については男性性器の象徴が逆に処女を防衛するとされるように
なったということもありえる。小河墓遺跡女性墳墓の墓柱は卒塔婆の原型であろうが
韓国のソッテと似ており、男性性器を象徴するものとされていた。月牙山が、甘粛、
遼寧、韓国に残るのが面白い。
138 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 10:53:40
兵主神社に相撲神社だから、山東を経由したんでは?
139 :
がいやまん :2006/07/13(木) 11:13:04
>>138 兵馬俑では回しをつけた力士がいるし、相撲は秦の時代では現代のような
スポーツだったのかもしれないが、野見宿衝と当麻蹶速の勝負は殺し合い
であり、これでは力士も育たなかったことだあろう。古墳時代から寺院建設、
神社建設へと入るのは相当の年月を要したことであろ。古代においては
イワクラとか、石組みのある聖域で勝負をしたのだろうか。すべては後代の
神社に残る伝承が元になっているのだろう。日本には神社はないのだから
中国からなんらかが来るということはなく、寺院が発展して神社ができる
という順序だろう。
140 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 11:20:37
>寺院が発展して神社ができる >という順序だろう。 どこにそんなソースがあるのですか?
141 :
がいやまん :2006/07/13(木) 11:46:51
>>140 現在の神殿というものが寺院に刺激されて成長したということであり、祠の
ようなレベルのものは寺院以前にあっただろうというのが大方の見方。
142 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 12:02:32
東広島の見方ですか? どこにそんなソースがあるのですか?
143 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 12:34:44
やっぱり東広島では、寺院が発展して神社ができる という順序なんでしょうね。 でも東広島以外の全国では、神社の後に寺院が出来るでしょうね。
144 :
がいやまん :2006/07/13(木) 12:46:01
145 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 12:51:27
馬鹿だながいやまん、建物だって、そのとっくの前に、建物無しで古墳で神社が営まれているのに・・・ やっぱり東広島では、寺院が発展して神社ができる という順序なんでしょうね。 でも東広島以外の全国では、神社の後に寺院が出来るでしょうね。
146 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 12:57:52
がいやまんって、 地鎮祭とか知らないのかな?神には屋根なんて必要ないのに、 東広島じゃ、坊主が地鎮祭するんだろ。葬式みたいだな・・・ やっぱり東広島では、寺院が発展して神社ができる という順序なんでしょうね。 でも東広島以外の全国では、神社の後に寺院が出来るのでしょうね。
147 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 13:56:40
↑ あまり改行しないでくれよ〜 見難いうえに、もったいない。 ところで東広島ってナニ? 白馬青牛さんの故郷なんじゃないのか?
148 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 14:01:19
がいやまんって、 地鎮祭とか知らないのかな?神には屋根なんて必要ないのに、 東広島じゃ、坊主が地鎮祭するんだろ。葬式みたいだな・・・ やっぱり東広島では、寺院が発展して神社ができる という順序なんでしょうね。 でも東広島以外の全国では、神社の後に寺院が出来るのでしょうね。
149 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 15:05:19
がいやまんって、 PUと同じくきもじじヲタだろ? 同じ話で、ついて行けるから、同じ人だよ。同じPU語 使うし、PUと同じ説も言うし・・・ よそ行ってまた、荒らして、ここみたいに自作自演して、 白馬青牛さんもPUだよ。 やっぱり東広島では、寺院が発展して神社ができる という順序なんでしょうね。 でも東広島以外の全国では、神社の後に寺院が出来るのでしょうね。
150 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 15:40:48
PU=がいやまん PU=がいやまん PU=がいやまん PU=がいやまん PUは東広島に住んでいる、2ちゃんヲタだよ
151 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 17:38:33
152 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 18:07:01
やれやれまた自作自演かよ
153 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 18:20:42
おい、糞ヤロウ、いい加減にしねぇと通報すっぞ!!
154 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 18:30:18
155 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 18:34:01
156 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 20:28:38
157 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 21:19:03
158 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 22:17:01
159 :
日本@名無史さん :2006/07/13(木) 23:01:12
がいやまんはがいやまんでしかないだろう。 連投はしても自演するようには思えん。
つか日本史板もID制にするべきだと思うんだがな。 糞みたいな荒らしもいることだし。
162 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 01:23:20
163 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 01:26:57
164 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 01:32:16
あぼーん
166 :
がいやまん :2006/07/14(金) 06:24:17
寺院建設開始前の非仏教祭祀遺跡については今後の考古学発見によるところが 大きいため、マターリでいいんじゃないの。本筋からずれてるしなー。
167 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 06:26:38
***********************************************************
>>160 .161
132〜165まで(一部を除き)殆ど荒らしてんな。
どうするか。通報か?それともID化?
スレ主、あんたどうするよ?!
**************************************************************
168 :
がいやまん :2006/07/14(金) 10:55:36
169 :
がいやまん :2006/07/14(金) 10:57:31
170 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 13:36:53
>>166 あんたほんとに馬鹿だな・・・・・
古墳に載ってる神社さ、いくらでもあるよ。
今後の考古学発見よるだと!
掘る必要がどこにあるの?
わかんねぇだったらコメントすんなよ!
だからPUって言われるし、あらされるんだよ。
171 :
がいやまん :2006/07/14(金) 14:34:21
↑古墳に立ってる神社が掘って出てきた話はない。木片程度ならたくさんある。 それは地鎮祭を大きくしたような何か儀式を行ったものだが仮設材であり、 恒久的なものではない。しっかりした恒久的なものは唐松神社天日宮などがある が、これは全国どこにでもあるものとは違う。
172 :
がいやまん :2006/07/14(金) 14:47:39
神輿というのは過渡的なもので古代においてはたとえば崇神が同じ ワンルームに神鏡を置いていたような形で祭礼のたびにヒモロギに 持ち出したんじゃないかな。
173 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 14:50:30
>>169 > 江上さんのような時代にあって騎馬民族との関係を述べると
いうことは、プロ中のプロ
その通り。そして任那の扶余の存在を20〜30年前に予言した。
予言を的中させただけでも尊敬されるべき。
>重箱の隅をつつく人もいるが木を見て山を見ずであってはならない。
まったくその通り。反対論はみな重箱の隅つつきだ。
江上の予言は「山を見る」なかから出てきているのである。
174 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 15:02:21
>>169 お取り込み中申し訳ないが・・兵主神社と相撲神社と少昊とツヌガアラシトと
兵馬俑の話は、結局どういう結論に落ち着いたのだ?
175 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 15:17:43
>>171 何がいいたいの?馬鹿だなこいつほんとに・・・
176 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 19:59:29
>>173 >江上の予言は「山を見る」なかから出てきているのである。
天皇家が扶余である証拠なんて何もないよ。
>>172 どうして懲りずに同じ事繰り返すかな。
白馬青牛氏と同じ自覚症状のない真の馬鹿?
常に連投で意味不明な内容が多いから粘着されたんだよ。
少しは纏めればいいのに。
178 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 20:07:50
>>176 同様に、応神が三輪王朝の正統の後継者である証拠もない。
扶余である証拠は、強いて言えば渤海国王の国書だな。
179 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 21:44:48
>>178 あなたは文句言いたいだろうが、一応系譜がある。
証拠がないとはどういう意味だ?
180 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 22:37:59
自分の意見に都合の悪いことは証拠としないというだけの、 いつものことだろ。
181 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 22:49:47
>>176 ないない。
>>173 加羅地方を征服した扶余を恐れて日本が扶余化したとか、天皇が加羅・扶余系
だとか言っていたと思うが、加羅って、鼻くそみたいなチッポケな国で、資源
の関係で周辺諸国が狙っていたような、極めて存在の危うい国なんだぜ。
182 :
日本@名無史さん :2006/07/14(金) 22:50:47
古墳規格の緩やかな継承・発展、記紀の御陵伝承、稲荷山鉄剣銘文、倭王武の上表文に前王朝打倒記事が無いこと。 以上のように、河内王朝と三輪王朝を結ぶ状況証拠は結構多い。 一方渤海国王の国書は、前のスレで解釈の間違いを指摘されていた。
>>182 >一方渤海国王の国書は、前のスレで解釈の間違いを指摘されていた。
引用してちょ。
金官の遺跡については、一部のほんの一部で、扶余の木郭墓と似ているとの指摘があるのみ。
なんか確定したみたいに話してるけど。
184 :
白馬青牛 :2006/07/14(金) 23:35:17
>>177 自覚症状のない真の馬鹿とは、わしに対して連投で意味不明な内容が
多い連中の事じゃと思うよ。あんたも懲りんのう。
185 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 05:32:08
>>181 >加羅って、鼻くそみたいなチッポケな国で、
エジプトにとってのマケドニア、欧州にとってのモンゴル本国、中国にとっての満洲族
など相対的に「チッポケ」な征服者は枚挙にいとまがない。むしろそのほうが常態だ。
だいたい、応神を簒奪者だと見るならば、それは九州の「チッポケ」な一豪族が中央の
巨大な三輪王朝を倒した、ということだ。
>>183 >渤海国王の国書は、前のスレで解釈の間違いを指摘されていた。
間違いということではない。両方の解釈があり得るということである。私の
ように解釈する人はいくらもいる。
たしかに、「本枝百世」は中国の古典にあり、本家分家で子孫が多いということで
王家安泰を祝福しているに過ぎないという見方はできよう。
しかしもうひとつ、「有扶余遺俗」がある。扶余でもない相手に、正式な国書で、
「私もしっかり扶余やってますよ」と言うのか? という問題である。
>金官の遺跡については、一部のほんの一部で、扶余の木郭墓と似ているとの指摘があるのみ。
一部ではなくある時期の金官(および新羅)の全体だ。
あれが扶余による征服でないとすれば何なのか。対案がないとたんなるケチツケであって
反論ではない。
186 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 07:20:11
>むしろその方が常態だ。 半島においては絶対に無理なのだ。 資源を産出する国で外国人の出入りも激しく、周辺の複数国家が いつか征服してやろうと企んでいるような超小国は、海外の大国 を征服できるほどの軍事力を発揮する余裕は全くないはずで、もし そんな冒険を犯せば、国家が滅亡してしまう。 唐と新羅の連合軍に敗北した日本(倭国)が滅びなかったのは、ある 程度の国力があったからだと思う。半島の国家は、わりと簡単に 滅亡してしまっている。
187 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 14:52:18
高句麗も国家としては、歴史上一度も海を渡ったことがないな。 強いて言えば、国家滅亡の際に亡命してきたのが、唯一の渡海 経験かも・・・
188 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 16:16:43
高句麗、百済の難民はボートピープルになって日本へたどり着いたのか。 それ以外に日本へ渡る方法は無いな。
189 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 19:05:42
つうか、一番多かったのは正式な亡命→帰化というパターンでしょう。 特殊技術者や能ある者は高い評価を得てそれなりの地位に就いたとは 思われます。
190 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 20:27:50
>>186 >半島においては絶対に無理なのだ。
なぜ九州の豪族ならよくて、半島だとだめなのか。
伽耶が倭人圏であったことは、反対派の人達が常に唱えるところである。
そこが扶余に支配されてできた勢力は、倭人圏の内部の、すこし毛色の変わった
地方勢力であるに過ぎない。九州の豪族と選ぶところはない。
まあ騎馬戦術と鉄資源を持っていることを除けばね。
>唐と新羅の連合軍に敗北した日本(倭国)が滅びなかったのは、ある
>程度の国力があったからだと思う。
4世紀の征服のことを論じるのに、7世紀の「国力」の話をしてどうするのか。
それに、扶余征服説に従えば、7世紀の倭国はすでに扶余国家である。
どうでもよいが、唐が日本を攻める意志があったとしても、それは物理的に
不可能だった。なぜなら半島の唐軍は新羅との戦いに手一杯だったからだ。
唐軍は「半島の国家」の新羅に振り回され、ついには撤退した。
191 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 21:11:38
192 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 21:14:26
>>183 727年の渤海使が持ってきた武藝王の国書
「武藝啓、山河異域、国土不同。延聴風猷、但増傾仰。
伏惟、大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。
武藝忝当列国、濫揔諸蕃。復高麗之旧居、有扶餘之遺俗。
但以天崖路阻、海漢悠々、音耗未通、吉凶絶問。……」
扶余論者の方に言わせると、
「本枝百世」は、天皇家と渤海王家が本家分家の関係であり、
基を質せば同族であるからこそ出来る表現だそうです。
しかし、武藝王の子・欽茂王の国書と比較すれば、
上記の解釈が的はずれであることは自ずと明らか。
また、高句麗の後継としての渤海なら、
「復高麗之旧居、有扶餘之遺俗」は極々自然な記述。
>「有扶余遺俗」 扶余の習俗を遺す、つまり「我々は扶余である」という事を述べたに過ぎない 何故自分たちが扶余であると述べる事が、相手が扶余であることの証明になるのか? その辺の論理展開がよくわからないが >一部ではなくある時期の金官(および新羅)の全体だ。 一部と自分は聞いたが、 具体的に何処と何処にあるのか説明してもらいたい それに、あなたはまだ百済と高句麗の古墳でそのような傾向が見られないことを説明出来ていない 「結局古墳をどう作るかはそれぞれでわからない」のであれば、何故金官のみでそういう論理を適用するのか 全く論理的でないな
194 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 23:14:19
>>190 日本の古墳時代が本当に騎馬的だと思っているならもぐりだ。
大体どこが“騎馬戦術”だバカチンめ。
それに、どこに扶余が攻め込んできて、扶余政権をぶっ建てたという
正確な記録があるんだ?
中国の古文書にも「扶余政権」などとは書かれていないと思うけど。
最も『晋書』などを信じるなら、卑弥呼は公孫氏の子孫という事
にもなる。誰も信じないが。なんで『晋書』は、そういう記述を
したのだろう。何か政治的な理由でそう書いたんだと思う。
たぶん捏造。史書を読む場合にはよく注意しなくては「木を見て
森を見ない」大馬鹿野郎になってしまうよっ。
195 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 23:38:47
>>192 私古文に弱い物で、読み下して頂けませんか?
196 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 23:51:15
>>193 >何故自分たちが扶余であると述べる事が、相手が扶余であることの証明になるのか?
全くもって同感であります!
197 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 06:48:00
>>195 武藝啓す。山河域を異にして国土同じからず。
ほのかに風猷を聴きて、但、傾仰を増す。
伏しておもいみれば、大王天朝命を受けて、
日本基を開き、奕葉光を重ねて、本枝百世なり。
武藝かたじけなくも列国に当たりて、みだりに諸蕃を揔ぶ。
高麗の旧居にかえりて、扶餘の遺俗をたもてり。
但し、天崖の路へだたり、海漢はるかなるを以て、
音耗通わず、吉凶問うことを絶てり。……
198 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 07:44:18
だから扶余が「武」によって日本の基を作ったのなら、 堂々とそういう伝承を持ち、記紀にそう書かれてるだろうに…
199 :
がいやまん :2006/07/16(日) 10:15:04
>大王天朝命を受けて、 日本基を開き、奕葉光を重ねて、本枝百世なり 日本国の天皇は天の命により、東夷世界の頂点に立つものとして日本の 礎を築き、何代もの朝廷を経て、天皇家も、宮家も多くの世を経ておいで になります・・・ こういう風に解釈ができるとすれば神功の三韓征伐が極めて当たり前のことだと 解釈できるのだが。先ずはこの解釈で間違いなかろう。高慢ちきな高句麗が 日本に逃げ込んだことによってこうした地位を得たのだろうか。倭王武の時には 精々三韓どまりだったのに引き換え、満州にまで勢力が及んだがごとき錯覚を 覚える書き方だなー。
200 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 11:02:55
>>198 禿同。
トンデモ本などで「朝鮮起源を隠してる」なんて話があるけど、
確かにここ100年くらいの価値観ならその仮説も成り立つが
記紀の時代に自分達の経歴を隠す必要性がないんだよね。
201 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 11:06:37
>>200 同じく超禿同。
古代においてはむしろ、高句麗神社だの百済観音だのと堂々と
国名を名乗っている。それは、“差別”が存在しなかったから。
にも拘らず出自を隠す理由が見当たらない。
202 :
がいやまん :2006/07/16(日) 18:59:56
203 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 19:26:57
最近、DVDで人形劇のアメリカ映画『チームアメリカ=ワールドポリス』を 見たんだが、笑える作品だよ。 劇中で、北朝鮮の核査察に来た国連の調査官が、金正日のことを 「ミスターイル」と呼ぶんだけど(w あれは、映画の監督が金正日の苗字を「イル」と勘違いしたためではないんだよね。 欧米では、金正日の名前をキム・ジョン・イルと3つのパートに分けて表記するけど、 監督は、金正日の苗字が「キム」であることを承知の上で、 わざと「ミスターイル」と呼んでいるのだ。 英語で病気のことをイルネスと言う。 「彼は病気です」を英語で言うと、ヒー・イズ・イル、となる。 つまり、ミスターイルは「病気氏」という意味。 金正日のことを、精神病者あつかいしてるわけ(爆笑
204 :
がいやまん :2006/07/16(日) 19:33:28
>>202 縄文土器にも目の釣りあがったのが多く相当古い時代から日本海周辺地域kに
分布していたのかもしれません。
205 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 19:51:03
>>193 >扶余の習俗を遺す、「我々は扶余である」という事を述べたに過ぎない
相手をおだてて関心を買おうという手紙で、扶余でもない相手にじぶんの
血統をひけらかして何の得があるのか?
また「有扶余之遺俗」の「俗」は単なる習俗の意味ではない。アイデンティティ
を表すなんらかの徴表のことである。つまり「我々は扶余のアイデンティティ」
を失っていませんよ」と言っているのだ。扶余を名乗るのに、なんでそこまで
言わなくてはいけないのか?
もちろん、相手もまた扶余であれば「極めて自然」である。
>一部と自分は聞いたが、 具体的に何処と何処にあるのか説明してもらいたい
だいたい、「一部」とはなんの意味か。王および王族、貴族の墓であって、
しかもそれが集団墓地の形式を取るのだから、そんなに全国にくまなく分布する
わけがないではないか。
具体的には金海地区に2箇所、釜山地区に1箇所だ。それ以上はじぶんで
ぐぐって調べてごらん。
(ただし、「および新羅」というのは私の間違いだった。詳しくは割愛)
206 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 19:55:55
>>193 >それに、あなたはまだ百済と高句麗の古墳でそのような傾向が見られないこと
>を説明出来ていない
「逆は必ずしも真ならず」ということに尽きる。
例えば、外地で日本人らしい人が日本のパスポートを持っていれば、その人は
まず間違いなく日本人である。しかし逆に、日本のパスポートを持っていない
ことが、その人が「日本人ではない」ということの証明には「ならない」。
これと同じ事だ。
>>198 >だから扶余が「武」によって日本の基を作ったのなら、
>堂々とそういう伝承を持ち、記紀にそう書かれてるだろうに…
中国、半島、日本を問わず、古代の歴史書というのはそれが編纂された時点での
支配者の立場で書かれるのだ。4世紀に起こった征服について、8世紀の支配者が
それを喧伝する立場であったとは限らない。
207 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 20:05:30
>>201 「扶余神社」というのがあるぞ。ウソだと思ったらぐぐって見ろ。
祭神は、なんと「応神天皇」だ。
あまりのハマリの良さに思わず笑ってしまった。
208 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 20:05:53
>>206 4世紀の征服者と、8世紀の支配者が違うのか?
どういうストーリーなのかわからん。。。
209 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 20:24:21
>4世紀に起こった征服について、8世紀の支配者が >それを喧伝する立場であったとは限らない。 4世紀に征服があったなんて証拠は何もない。
211 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 20:38:20
>>206 記紀(8世紀)の時代の支配者が、自分の出自を隠す理由は?
中国、半島、日本を問わず、古代の歴史書が全て信用できないなら、
そもそも考古学が成り立ちません。。。
(もちろん、全てが信用できるわけではないけど。)
212 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 21:42:00
>>205 あまりの怪説に吃驚しました。
>>206 横から申し訳ないが、日本の古文書にも朝鮮の古文書にも大陸の古文書にも
一切書かれていないということは、実際にそのようなドラマチックな征服劇
など全く存在しなかったという証拠ではないのだろうか??
さりげなく血縁関係になるようなことはあるかも知れないが、そんなものは、
『征服』でも何でもない。単なる婚姻だ。
いい加減重箱の隅をつつくのやめたらどない?
大体古墳時代の7割以上は、実は従来の農耕+漁労(海洋)+中国趣味によって
出来上がっており、残りが半島南部からの馬具などの輸入による影響だと
思うよ。
213 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 21:44:50
>>212 それも、鉄目当ての媚び諂いに原因があるような気がする。
214 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 22:00:45
>>210 どうでもいいが、これは何気にスゴイ記事だと思う。
何がって、アリラン(alirang)がエベンキ語にも存在し、
北方シャーマニズムに関係があるっていうのがスゴイ。
215 :
日本@名無史さん :2006/07/16(日) 22:07:22
2000年以上前にオンドルがあったというのも凄い。
>>205 しかし、百済にも他の朝鮮諸国にも倭=扶余の記録が残ってないのに、
なにゆえ渤海に残っているのか?
単純に古く半島において扶余が一大勢力だった、
すなわち、倭の五王が上表文で、半島支配権の確認を求めたかのごとく、
かつての自分の存在の大きさを誇示したものにすぎないだろう。
つまり、(今では辺境に追いやられた小勢力にすぎないが)
我々はかつて半島で覇を唱えた扶余族の血を引く正統の後継国である、
として、倭の関心を惹く狙いだったということだ。
でなけりゃ、いくら交流を求めても倭には相手にされん。
>>214 アリランて峠の名前でしょ。
語源は諸説あるみたいだが。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%A9%E3%83%B3 もう一つの万葉集で、
あおによしの枕詞が現代ハングルで解読して
ああ素晴らしいの意味だと
言い張られたことがあったが、
その類の話だろ。
エベンキ語と朝鮮語の共通性から検証しなきゃあな。
217 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 06:23:56
>>216 渤海国が朝貢してくると、非常に不経済なので倭国は内心嫌がった
という話を聞いた事があるが・・
218 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 08:01:22
>>216 アリラン、スリー、ソッテ、オンドル、 檀君神話、沃沮…
彼ら(エベンキ族)がどういう経路で半島に達したのかは、
今後の地道な研究に委ねられることだろう。
219 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 12:15:06
朝鮮語とエベンキ語が同系なのかどうかが問題だな。エベンキ語というのはツン グースかトルコ系ではなかったか。
220 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 12:46:33
221 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 13:30:02
>>208 >4世紀の征服者と、8世紀の支配者が違うのか?
違っている可能性もあるが、とりあえずそれが問題なのではない。
もし応神が簒奪者であるとすれば、神功記はそれを隠蔽する立場で
書かれている。簒奪を隠蔽するのなら、出自などどこかへふっとんで
しまう。
222 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 13:30:38
ロシアでは、狭義のツングースを「エベンキ」と呼ぶらしい。 ザ・ツングース(これぞツングース)という事だろう。
223 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 13:33:09
>>216 >なにゆえ渤海に残っているのか? (<天皇=扶余)
当時は常識だったのだろう。
>かつての自分の存在の大きさを誇示したものにすぎないだろう。
文章ぜんたいを見ればわかるように、日本の歓心を買って友好関係を築くために、
基本的には対等の立場だが、相手の日本については極力持ち上げ、自分については
あくまでへりくだる書き方をしている。その中で「かつての自分の存在の大きさ」
を誇示してもなんの得もない。
>(今では辺境に追いやられた小勢力にすぎないが)
そんなことはない。渤海は高句麗の満洲部分と、その北方の扶余本国とを
合わせ、さらに沿海州まで及ぶ、広大な領地を支配していた。
>でなけりゃ、いくら交流を求めても倭には相手にされん。
渤海のもたらす黒貂毛皮は平安貴族達の垂涎の的だった。また渤海は遣唐使の
陸路ルートとしても重要だった。双方にとってメリットのある関係だったのだ。
224 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 13:35:37
>>212 >横から申し訳ないが、日本の古文書にも朝鮮の古文書にも大陸の古文書にも
>一切書かれていないということは、
いつも言うことだが、それよりも後に起こった広開土王の南鮮侵略も、「日本の
古文書にも朝鮮の古文書にも大陸の古文書にも一切書かれていない」
書かれていないものは存在しない、ということはないのだ。ついでに言えば
考古学から証明される扶余の任那征服も、三国の歴史書に一切書かれていない。
225 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 13:45:26
「扶余神社」について追加。 もちろん扶余神社は植民地に新たに建てられた(昭和14年創建)のだから 「創られた伝統」である。そして名称中の「扶余」というのは朝鮮の地名だから、 「扶余にある神社」という意味であって、民族としての扶余とはとりあえず 関係がない。 しかしそれならば、なんで扶余という田舎町に官幣大社をもって来るのか? そして、何故に応神を祭神とするのか? 古代の朝鮮経営の象徴、というのならば 朝鮮の他の場所にも応神を祭神とする神社があってもよい。 しかし私が調べたところでは: 慶州神社、京城神社、平壌神社、大邸神社、朝鮮神宮の各社が天照大神、 釜山神社が大物主神であって、応神天皇というのは扶余神社の他にはない。 どうも、戦前の皇室と政府当局との間に、「応神は百済出身の扶余」という 暗黙の了解があったのではないか? と思えて来る。そして朝鮮植民地化と いう状況の下で、「里帰り」を果たしたつもりだったのではないか?
226 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 13:52:07
>>224 考古学による証明以前に、稲作用語や騎馬に関する用語が日本と朝鮮
でほとんど一致していないという言語の方が実証的ではないか?
大王の称号から違うのは日本に征服王朝がなかったことの強力な証拠だろう。
227 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 15:50:51
>>224 広開土王は有名人だが、日本の天皇家が扶余系だと明確ににおわすもの
すら存在しないと思うんだけど。
渤海が朝貢してくるのはありがたいし、交通の要衝にあって仲良くして
おくのは得策だというだけでしょう。
渤海使は朝貢するたびに、大使や福使やその他諸々が天皇、皇后に対して
個人的に贈り物をしていて、日本側も当然お返しをしなくてはならないわけ
だが(つまり私貿易)、これっていったい日本側にとってどの程度の旨味が
あったんだろうか?
>>225 >百済出身の扶余
全体として怪しい文章も然ることながら、何故民族名まで断定しているのか?
物凄い妄想を感じる。
228 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 16:13:54
>>了解があったのではないか? と思えて来る。 >>たしたつもりだったのではないか? 昭和十四年だったら関係者まだ残ってんじゃないの? 仮近所の戦後すぐに大学出た爺みたいな定論はいい加減飽きた。
229 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 16:19:13
「>>もちろん」扶余神社は植民地に新たに建てられた(昭和14年創建) 多分こいつ自信満々で書いた後これに気付いてごまかしてるんだよ。
230 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 16:30:48
231 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 16:35:23
ふと思うことなのだが、戦前に「日韓併合」の根拠に使われた「日韓同祖論」 が劣化して逆利用されている希ガスル。 つくづく先輩達は罪作りだと思う・・・・・
232 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 17:38:49
>>227 平安時代に巻き起こる一大毛皮ブームは、渤海国使の持ち込んだ献上品
が発端だと思う。
なぜブームになったのかというと、それまでの日本では、毛皮がたいそう
珍しいものであったから。
233 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 18:50:20
>>229 207が半分冗談であるのに気がつかないか?
朝鮮の扶余にある神社なんて、はじめから「創られた伝統」であるのは
わかりきっているではないか。
その後、在鮮各社の祭神など調べているうちにやや本気になって来たのだ。
234 :
日本@名無史さん :2006/07/17(月) 18:59:49
>>227 ただ文字を並べたような文章を見ると力が抜けてしまう。
論旨を明確にしてくれ。
日本は平安時代「姫氏国」と言う、うわさが広まってたみたい 「日本書紀 私記」に書かれて意るな,当時の人は別に疑問を感じなかったんだろうな。
>>223 >当時は常識だったのだろう。
常識なら記録に残ってるわな。
倭が政治的意図で歴史書から抹殺しても、
半島には残ってるだろうし、中国にも残っとる。
残ってないのは「常識」ではないからだ。
>広大な領地を支配していた
面積の広大さと国力とは直結しない。
>双方にとってメリットのある関係だったのだ
それならことさら倭を持上げることもあるまい。
言ってることが矛盾しておるな。
広大な領地をもった大国だと言いながら、
実は倭を持上げて云々と、何が言いたいのかさっぱり分からん。
>>224 倭の上表文に半島での交戦が記録されてるじゃないか。
>>225 >「応神は百済出身の扶余」という暗黙の了解があったのではないか?
騎馬民族説っていつからだい?
応神は九州出身とみなされてるわけだがな、同説では。
それで崇神神社は同じく扶余にあるのかい?
237 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 05:52:13
>>225 百済は純粋な扶余族の国ではない。
元々は楽浪郡のあった場所だから、色々な人種が混じっている。
238 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 05:53:32
【356年】 ワイ人=朝鮮人の金奈勿(キン・ナブツ)が、稲飯命の子孫である志良岐王族を虐殺し、王権を簒奪、志良岐を乗っ取る。 金氏新羅の建国。稲飯命王朝が滅亡。
239 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 06:47:59
>>237 >>210 の『隋書』百済伝にも、「そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、
また中国人もいる。」と書かれているようだ。
240 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 10:20:42
日韓同祖論は、戦前の大日本帝国が考え出した妄想であり、 また騎馬民族征服説は、戦後朝鮮人が迫害されているのを 見るに見かねた江上らが、リップサービスで展開したのが きっかけで尾ひれがついて収拾がつかなくなってしまった と聞いたが、それは本当か?
騎馬民族説以上の妄想です
242 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 15:24:24
戦前の日本が旧植民地で同祖調査を積極的に行って、それを最大限に誇張したのは本当です。
243 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 15:35:06
>>225 応神天皇が百済出身だったのなら何故、百済語で於羅瑕とか
「革達」吉支と称していないのか?
244 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 16:28:34
>>236 >残ってないのは「常識」ではないからだ。
書かれない常識だってある。
>面積の広大さと国力とは直結しない。
だれも国力の話などしていない。領域の話をしたのだ。
>それならことさら倭を持上げることもあるまい。
文章のコンテキストの話をしたのだ。なんのために持ち上げたかは
別問題。
>倭の上表文に半島での交戦が記録されてるじゃないか。
「先祖が広開土王と戦って負けました」と書いてあるのかな。
>騎馬民族説っていつからだい?
天皇朝鮮起源説はなにも江上の騎馬民族説に始まるのではない。
>応神は九州出身とみなされてるわけだがな、同説では。
それは初耳だ。江上もびっくりだろう。
245 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 16:34:49
>>242 戦前の日本が、高野新笠等を含めて皇室との関係など、
同祖論を最も強烈に推し進めたのは、対朝鮮。
昭和14年に建てられた件の「扶余神社」なども、大日本帝国
の国策というか、陰謀の一環ではないかと思われる。
>>244 江上氏が北に支持されて以来、引っ込みがつかなくなった
可能性は多分にある。
田舎町というが、扶余という都市は、馬韓征服後の百済の首都だったわけだからな。 新羅の慶州みたいな感覚でしょ。
あと、広開土王と交戦した讃=応神とみなされてるから、 扶余にあえて扶余神社作って祭神を応神にしてるのは ある面当然の植民地統治思想なんだよね。 韓国で山に杭を打って気脈を封じてるとの、 日帝の陰謀論が荒唐無稽に語られてるが、 そういう発想があり得たとして、扶余神社はその典型だろ。 かつて扶余の棟梁だった広開土王と戦った応神が、 今、祭神として扶余の旧拠点に祭神として祀られるわけだから。 でも崇神ではないわけだ。祭神が。 もし皇室政府に“皇族の起源”に基づく意識があったんなら、 扶余神社の祭神は崇神でなきゃおかしい。
248 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 18:52:37
>>242 鳥居龍造博士は、日本国内の沖縄、北海道をはじめ、台湾、満州、中国南部、
南洋、それから「朝鮮」などの諸民族を熱心に調査して、日本人の兄弟民族
を探し回っていたはず。
朝鮮人の対日感情は、秀吉の侵略以来“常に”最悪だったようで、それゆえ、
戦前の日本政府は、“特に熱心に”日韓同祖論を展開したんだと思う。
韓国人は、なんと日帝の陰謀に寛容な民族であることか。
恨みを完全に忘れてしまう、アッサリとした気質のようだ。
249 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 19:14:32
扶余なんて民族は江上さんの説以降に知られただけでしょ。 扶余神社が作られた頃は誰も知らなかったはず。
250 :
本田 :2006/07/18(火) 21:37:30
251 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 21:59:57
>>249 昭和14だそうですよ。
関係者、まだご存命なんじゃないですか?
直接伺ってみれば、真相が解るんじゃない
ですか?
昭和14年当時、個人の趣味で勝手に神社を
建てる事って、できたんですか?
252 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 22:08:41
吉林省の扶余神社は、昭和18年創建となっている。 昭和18年に、吉林に「扶余神社」…もうどうしようもなく“政治”の臭いが漂う!
253 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 22:21:02
吉 林 省 扶余神社 天照大神 昭和18年10月
扶余神社
応神天皇 斉明天皇 天智天皇 神功皇后
忠清南道扶余郡
朝鮮・忠清南道扶余郡扶余面
未鎮座
昭14・6・15
神功皇后:三韓征伐
応神:広開土王との交戦
斉明:百済滅亡、百済救援遠征準備中に死去
天智天皇:白村江敗北
結局、建立意図は
>>246-247 つまり、朝鮮への進出意欲を示した天皇を祭神に選んだということだろう。
応神=扶余で、里帰りの意味というのはまるで下衆の勘ぐり。
256 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 22:36:23
皆さん、もうお分かりかとは思うが、昭和になって建設された朝鮮や満州の扶余神社は、 日帝の陰謀なのだよ。 なぜサヨク人士や韓国人に限って、扶余神社マンセーするのか…
257 :
本田 :2006/07/18(火) 22:51:41
>>198 > だから扶余が「武」によって日本の基を作ったのなら、
> 堂々とそういう伝承を持ち、記紀にそう書かれてるだろうに…
日本では、
桓武天皇と北条時宗の時代に焚書が行われているので、
真実でも記録が残っていないことが多いです。
例えば、
日本書紀には白村江の敗戦後、数ヶ月記録が削除されている。
258 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 23:08:21
>>257 そういう場合に最も頼りになるのは、中国の古文書?
259 :
日本@名無史さん :2006/07/18(火) 23:24:46
>>250 卑弥呼が公孫氏なら、中国語が一通り読めて書けたはずでは?
260 :
本田 :2006/07/18(火) 23:32:33
>>258 >そういう場合に最も頼りになるのは、中国の古文書?
朝鮮の「三国史記」「三国遺事」の方が参考になりそうです。
261 :
本田 :2006/07/18(火) 23:42:08
>>259 >卑弥呼が公孫氏なら、中国語が一通り読めて書けたはずでは?
卑弥呼(神功皇后のモデル)は、遼東半島から、
馬韓、弁韓、辰韓を経由して(三韓征伐)、
倭国を侵略したと思うので、
遼東半島の言語(中国語?)には馴染みがあるはずです。
262 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 00:04:04
263 :
本田 :2006/07/19(水) 00:12:26
国うみ神話。 国土創世神話でなにゆえ アメのヌ「ホコ」なのか?
265 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 04:56:46
>>252 ~
>>254 吉林省の扶余神社は、場所が書いてないが恐らく県公署所在地の「扶余」と思われる。
祭神も普通に天照大神だし、この「扶余」は地名の意味しかないだろう。
266 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 13:36:26
>>257 >桓武天皇と北条時宗の時代に焚書が行われているので、
北畠親房の「神皇正統記」に、
「昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代に焼き
すてられしなり」
という文章があるそうだ。私はうっかり、「日韓同種(祖)説」とは民族の
ことだと思っていた。しかし北畠親房がここで言っているのは、本の目的から
言って、「日韓王室同種説」なんだね。
>>246 >扶余という都市は、馬韓征服後の百済の首都だったわけだからな。
>新羅の慶州みたいな感覚でしょ。
だから、慶州神社にも古代の天皇、少なくとも神功皇后が祭られなければ
バランス上おかしい。しかし慶州神社は他と同様に天照大神なのだ。
267 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 13:42:06
>>247 >もし皇室政府に“皇族の起源”に基づく意識があったんなら、
>扶余神社の祭神は崇神でなきゃおかしい。
それは応神の簒奪を認めるかどうかによる。簒奪を認めれば現実の開祖は
応神だ。(公式歴史上は神武なんだから崇神だって中途半端)
>>255 >応神=扶余で、里帰りの意味というのはまるで下衆の勘ぐり。
もちろん、神社の表向きの「縁起」が「里帰り」であるわけがない。
私の言っているのは、「裏の縁起」があるのではないか、ということだ。
日本のすべての旧植民地の神社のなかで、古代の天皇を祭神とするのは
ただ一社、朝鮮の扶余神社のみである。こういう特殊なことを実現する
には、皇室と政府当局との間でなんらかの議論があったであろう。
その際に、上記の「日韓王室同種説」がなんらかの役割を果たしたのでは
ないか、ということである。それが「暗黙の了解」と私が言った意味だ。
つけたりだが、このような特殊な祭神のありかたは、民衆の間に応神と扶余
との関係について、ある種の憶測や風説を生じさせたであろう。そして
政府当局はその風説を黙認したのではないか。つまり、植民地統治の上
からはむしろプラスであるとして。
268 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 13:42:54
>>266 なんか、半島で王になった倭人が滅ぼされたって話もなかったか?
どこぞに詳しいコピペが貼ってあったのをを読んだ記憶があるんだ
よねえ。
269 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 16:49:34
【隋書 倭国伝】
新羅と百済は皆、倭国を大国として、珍しい文物が多いとし、恐れ敬い、通使を往来させている。
隋書とは中国の正史です。隋帝国(581年 - 619年)を扱った書物です。
「新羅と百済は倭国を大国とみなし、恐れ敬っていた。」ということが中国の歴史書に明記されています。
【広開土王碑】
そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・■■新羅を破り、臣民となしてしまった。
百済と新羅は高句麗の属国であったが、日本が高句麗と戦争をして勝利し、日本が百済と新羅を属国にしたと明記してあります。
【宋書 倭国伝】
今に至り、甲を練り、兵を治め、父兄の志を述べんと欲し、義士と勇士、文武に功を尽くし、白刃を前に交えるも、また顧みることなし。
もし帝コの覆戴を以てこの強敵を挫き、勝って方難を鎮めるも、前功に替えることなし。
密かに開府儀同三司を自ら仮称し、その余も皆、各々に仮授(して頂ければ)、以て忠節を勧める」。
詔を以て倭王武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。
宋書倭国伝には倭王を新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸を軍事的に支配する「安東大将軍」に任じたと記述してあります。
【三国史記】
402年 新羅は倭国に王子を質に出す
http://www.koreandb.net/Sam/bon/samkuk/04_030_2000277.htm 397年 百済は倭国に太子を質に出す
http://www.koreandb.net/Sam/bon/samkuk/04_250_2001365.htm 好太王碑、宋書、三国史記という系統の異なる史料が新羅と百済は倭の属国だったと記述しています。
【中国外交部】
ホームページ(www.fmprc.gov.cn)
「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期にその支配が朝鮮半島(韓半島)の南部にまで拡大した。」
現代の中国政府も朝鮮半島南部は日本の支配下だったという認識を示しています。朝鮮半島支配の点では、日本と中国は共通認識です。
270 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 17:06:14
中国の歴史認識を支持します! (ただしこの点だけ。)
>>267 百済が古代日本において、
特別の同盟関係、というより文字通りの臣民だったという現実を、
完全に無視して議論しても意味ないわな。
無視しなきゃ成立しない暴論なんだろうが。
272 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 17:12:41
中国外交部は発表は朝鮮半島を支配するために準備だろう。 それの前文に「高句麗は中国人が建てた国。」というものがある。 つまり、朝鮮半島南部は日本の支配下だったが、朝鮮半島北部は中国の支配下だったということだ。 中国による朝鮮半島支配は時間の問題だな。 その次は台湾か。最後は日本を支配化にして、東アジア覇権の完了か? 中国は怖いね。
273 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 18:26:18
>「高句麗は中国人が建てた国。」 別にどうでもいいです。
274 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 21:07:17
>>272 それらのすべての資料は「日韓王室同種説」と矛盾しない。
満洲から半島を経て日本列島に至る「扶余世界」のなかで、諸国は中国の圧力が
弱い時は内部で互いに主導権争いを繰り返し、中国が強大になれば連係してこれに
当たろうとしたのである。
ちょうど古代ギリシャ諸国とペルシャの関係のように。
違うのは、古代ギリシャはついにはペルシャを滅ぼしたが、扶余世界は
ついには中国の力に屈したことである。
275 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 21:11:59
276 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 21:12:40
↑ そんなにまでして日本人と兄弟になりたいですか?
277 :
日本@名無史さん :2006/07/19(水) 21:19:04
>>古代ギリシャはついにはペルシャを滅ぼした いつだよ?
278 :
本田 :2006/07/20(木) 00:05:53
279 :
本田 :2006/07/20(木) 00:38:02
280 :
日本@名無史さん :2006/07/20(木) 00:59:45
もう江上波夫や騎馬民族なんか関係ない馬鹿な珍説発表所だな。
【 ☆ 決定 ☆ 朝鮮族の母体はエベンキ系「沃沮、濊狛」人 】 その風俗は山川が重なり、山川には各部族がおり、みだりに干渉することはできない。 同姓は婚姻できない。多くの忌諱があり、(家族が)疾病で死んだときは、すぐに旧宅を 廃棄し、更(通典では夏)に新居を建てる。麻布があり、蚕糸で絹を作る。 夜明けの星宿 (二十八宿の占い)から、その歳の作物の豊穣を予想する。珠玉を宝としない。 常用十月の節句(重陽の節句。旧暦9月9日)に天を祭り、昼夜に酒を飲み、歌い踊る、 これを「舞天」 という。また虎を神として祭る。その邑落は互いに侵犯するが、刑罰とし て相手に生口(せいこう=奴婢) と牛馬を差し出す、これを「責禍」という。人を殺した 者は死をもって贖(あがな)う。強盗は少ない。
283 :
日本@名無史さん :2006/07/20(木) 01:57:46
>>279 日本が新羅の一部なら何故、天皇を新羅語のコニキシとかカンキと
呼ばず、オオキミ、スメラミコトという称号を採用したのだ?
神武天皇以来の天皇名が和語だけで新羅語名などどこにも書いていない
のは何故だろうか?
北畠親房の「神皇正統記」・・これは新羅人による日本接近のための政治的
日韓同祖論の先駆けかも知れないな。
おいおい、きちがいあほにマジレスすんなや。
285 :
日本@名無史さん :2006/07/20(木) 04:42:06
>>284 まあ、一応どういう反論が自分にできるのか、練習問題としてレス
してみただけ。
倭王武の上表文な。 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王 日本の歴史書には載ってないが、 『宋書』「夷蛮伝」に記録されてた。 このように叙せられたからには、 「昔日本は三韓と同種也と云事のありし」 と北畠親房が「神皇正統記」に記述することにもなろう。 すなわち、倭王が倭と三韓の王を名乗り、 (既に中国に朝貢してる百済をやむなく除いて) 実際に認められた歴史的事実が確かに存在してるんだから。 それだけの話。
287 :
日本@名無史さん :2006/07/20(木) 05:04:05
>>277 アレキサンドル大王のマケドニアだって、ギリシャ世界の一部だ。
彼によって、ペルシャ帝国はBC330年に滅亡した。
マケドニアは扶余世界の高句麗にあたるだろう。
>>271 無視するどころか、「特別の同盟関係」「君臣の関係」というのが私の
考え方そのものだ。
倭国が扶余の本家すじ、百済はそれに対して分家すじ、と考えるのだから。
288 :
日本@名無史さん :2006/07/20(木) 05:15:23
ちょっと不親切だった。私は任那説だから、「応神は百済出身の扶余」というのもまた、 誤り伝えられたものだ、という考え方だ。 しかし百済系だとしても臣従関係は説明できる。ちょうど今の英国が、じぶんから 別れて大きくなった米国に「臣従」しているようなものだ。(と、考えればよい。)
289 :
日本@名無史さん :2006/07/20(木) 06:52:15
>>245 イザベラ・バードの『朝鮮紀行』(よく“ボロクソ”に書いた本と言われているが、
『日本奥地紀行』とともに、異民族に対する愛情が溢れた本だと思っている。)
には、朝鮮人は「秀吉の恨み」を延々と持ち続けて日本人を嫌っていたということが、
しつこくしつこく書かれている。
恐らく、朝鮮人の度を越した“息の長い”反日をなだめ、懐柔する目的がそこには
あったんだろうな。
290 :
日本@名無史さん :2006/07/20(木) 16:30:29
>>289 「日本奥地紀行」では、アイヌのことを「世界で最も美しい民族の一つ」と
書いていたような。
291 :
本田 :2006/07/21(金) 01:12:24
292 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 01:56:11
>禅光王(601年−687年):持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓 を賜る。 そりゃ禅光王というのが百済人だからコニキシを賜ったので、持統天皇が 自分をコニキシと称するわけが無い。
293 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 02:00:24
>>289 日本を嫌うわりには、朝鮮人はシナ、モンゴル、満州人にはしつこい
嫌悪感情はもっていないようだな。1000年も属国になっているとそれが
当り前になっているからだろうか。
294 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 07:44:50
>>292 激しく同意しますw
間違いなく、禅光王(百済人)を気遣っての事ですよね。
>>293 いわゆる「小中華思想」というやつでは?
日本は儒教も十分に根付かない蛮国で、日本人は朝鮮の奴隷階級よりも
はるかにレベルが低いと蔑視してきたからでしょう?
295 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 08:28:10
神皇正統記について追加。 例の「同種説」はどこに出て来るかというと、なんと応神天皇のところに出て来る。 一般論だからどこでもいいのに応神天皇のところに出て来るということは、焼かれた 問題の書物も、応神天皇に関連してそれを言っていたのであろう。 それから、「三韓」は普通、高句麗を含まないから、扶余世界の話としては片手落ち だと思っていたら、それについても解説があった。神功皇后のところに、三韓とは 新羅、百済、高麗のことであると書いてある。さらに、「正しくは辰韓、馬韓、弁韓 を三韓と言うべきだが、ふるくは新羅、百済、高麗を三韓と言った」と、丁寧に 解説している。 だんだんと輪郭が浮かび上がって来る・・・
296 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 08:33:43
高麗の建国って、確か918年ですよね?
297 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 08:39:37
神功皇后の三韓征伐は、3世紀。高麗の建国は918年。
298 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 10:13:42
>>296 >>297 高校世界史年表の域を出ないな。
高句麗と高麗は同義だ。10世紀の高麗は高句麗の後継者であることを意識して
国号を称したのである。
また旧唐書は「渤海靺鞨大祚榮者本高麗別種也(渤海靺鞨大祚栄は本来、高麗の別種である)」
などと「高麗」を用いている。(大祚栄は渤海の始祖)
299 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 10:25:04
『旧唐書』(くとうじょ) 945年に成立。(『新唐書』は、北宋時代) 後晋滅亡のため、編集責任者が途中交代するなど大混乱に。 編集内容にも偏りがあり、後世での評判はすこぶる悪い。 「倭国伝」と「日本国伝」が別々になっているのも、 編者交代の影響だと考えられている。
300 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 10:51:09
>>295 広開土王と戦ったのが応神(3C末〜4C初頭)では?
ちなみに楽浪郡が半東北部に設置されていたのは、BC108〜AD313。
301 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 12:34:31
302 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 13:01:45
>>294 中華思想から言えばモンゴル、満州は北荻で日本は東夷という蛮族
で差はないはずと思うが。
秀吉にしても日韓併合にしても日本は手加減していたので舐めている
のだろう。シナ、モンゴル、満州のような徹底した支配でなければ弱いと
感じているように思う。
まだ神皇正統記がどうとか言ってる馬鹿がいるのか。
定期的に出没するんだよ、この手の類は。
この辺でも読んどけ。
朝鮮総督府の韓国史料あぼーんは本当か!?
http://rkrc5w2q.dyndns.org/cache/korea/kaba.2ch.net/korea/kako/1000/10003/1000311730.html 129 名前: 七誌 投稿日: 01/09/13 22:35 ID:S8VsRyB.
『神皇正統記』の焚書に関する記事について、何か勘違いしているようだから書いておく。
問題の文章は以下のとおり。
「昔日本は三韓と同種なりという事のありし、かの書をば、桓武の御代に焼き捨てられしなり。」
この記事の元ネタは『日本後紀』大同四年・『弘仁私記』序文である。
関連部分は岩波書店版『神皇正統記』にあるから省くが、「漢の高祖も呉王も高麗王も日本の神の子孫だと説く系図を焚書した」といったことろ。
決して「天皇は朝鮮人の子孫であると書いていた本を桓武天皇が焼いた」という意味ではない。全くの逆だ。
だから、文章は以下のように続く。
「天地開けて後、スサノヲノ尊韓の地にいたり給きなどいう事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならんこと、
強ちに苦しみ無きにや。」
(スサノオノミコトが朝鮮に渡ったというから、朝鮮人も日本の神の末裔だということもあながち間違いではあるまい。)
782 名前: 娜々志娑无 投稿日: 2001/06/27(水) 22:12 ID:QTgc2w6Q 異朝の一書の中に「日本は呉の太伯が後(のち)也」といへり。返々(かへすがへす) あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種なりと云(いふ)事のありし、かの書をば 桓武の御代(みよ)にやきすてられしなり。天地(あめつち)開(ひらけ)て後、 すさのをの尊(みこと)韓の地にいたり給(たまひ)きなど云(いふ)事あれば、 彼等の国々も神の苗裔(べうえい)ならん事あながちにくるしみなきにや。それ すらも昔よりもちゐざることなり。天地(あめつちの)神の御すゑなれば、 なにしか代(よ)くだれる呉太伯が後にあるべき。三韓震旦に通じてより 以来(このかた)、異国の人おほく此(この)国に帰化して秦のすゑ、 漢のすゑ、高麗百済の種、それならぬ蕃人の子孫もきたりて、神皇の 御すゑと混乱せしによりて、姓氏録と云(いふ)文をつくられき。それも 人民にとりてのことなるべし。異朝にも人の心まちまちなれば、異学の 輩(ともがら)の云出(いひいだ)せる事歟(か)。 以上が神皇正統記の原文ですが、ここに書いてあるのは、要するにこういう ことだと思います。 日本が中国・三韓と交流するようになって、大勢の帰化人が日本にやってき たが、彼等はそれぞれ自分達の出自について自分勝手なことを主張していた。 中には天皇家と三韓とを結び付ける者達まで出て来たので、桓武天皇は氏族の 序列が崩れるのを防ぐために、日本に住むすべての氏族の系譜を国家事業とし て本にまとめることを命じた。後に、この事業は嵯峨天皇の代になって『新撰 姓氏録』として結実したが、その過程で、天皇家が三韓と同種であると主張す る本が焼き捨てられた…。 こうしてみると、別に大したことでもないような気がしますが、あちらさん としてはこの記述は「三韓と日本との関係を証明する資料を故意に湮滅した文献 的証拠ニダ!」ということになるのでしょう。やれやれ。
くそブタと呼ばれてた済州島出身や白丁出身の在日が、 自らを両班出身だと称したり、 天皇は半島出身だと主張してる今の時代と同じですよ。 だからそういう出鱈目な出自がまかり通るのを阻止して、 身元や身分をきちんと正しましょう、 インチキな文献は処分しましょうと、 厳格にやったのが桓武天皇。
>>298 > 高句麗と高麗は同義だ。
同義であるにもかかわらず、高校世界史年表で何故区別して表記されるのか?
そこについて解説して欲しかったなw
307 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 15:05:01
>>304 これ、コピペでもしてばら撒いた方がいいかも知れないなw
>天地(あめつち)神の御すゑなれば、なにしか代(よ)くだれる呉太伯が
後にあるべき。三韓震旦に通じてより以来(このかた)、異国の人おほく此
(この)国 帰化して秦のすゑ、漢のすゑ、高麗百済の種、それならぬ蕃人の
子孫もきたりて、神皇の御すゑと混乱せしにより、姓氏録と云(いふ)文を
つくられき。
別に三韓(半島)人を標的にしているわけじゃなくて、中国人による風説の流布等も
対象にしているわけじゃん。
半島出自を隠す目的…って、ものすごく自意識過剰だ(苦笑)!
308 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 19:56:03
>>299 >945年に成立。(『新唐書』は、北宋時代)
>後晋滅亡のため、編集責任者が途中交代するなど大混乱に。
新唐書も「高麗」を用いている。残念だったね。
>>306 >同義であるにもかかわらず、高校世界史年表で何故区別して
>表記されるのか?
高校生および、高校生レベルの人を混乱させないためだろう。
309 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 19:57:53
>>299 >945年に成立。(『新唐書』は、北宋時代)
>後晋滅亡のため、編集責任者が途中交代するなど大混乱に。
新唐書も「高麗」を用いている。残念だったね。
>>306 >同義であるにもかかわらず、高校世界史年表で何故区別して
>表記されるのか?
高校生および、高校生レベルの人を混乱させないためだろう。
310 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 20:16:48
311 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 20:27:56
312 :
本田 :2006/07/21(金) 22:07:11
>>303 奈良時代の正装は、チョゴリです。
神社では今もチョゴリ着てます。
朝廷の語源は、
「朝鮮王の宮廷。」か
「朝鮮王の庭」だと言われてます。
313 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 22:23:03
チョゴリって朝鮮が蒙古に支配されてから根付いたんやなかったっけ?
【 ☆ 決定 ☆ 朝鮮族の母体はエベンキ系「沃沮、濊狛」人 】 その風俗は山川が重なり、山川には各部族がおり、みだりに干渉することはできない。 同姓は婚姻できない。多くの忌諱があり、(家族が)疾病で死んだときは、すぐに旧宅を 廃棄し、更(通典では夏)に新居を建てる。麻布があり、蚕糸で絹を作る。 夜明けの星宿 (二十八宿の占い)から、その歳の作物の豊穣を予想する。珠玉を宝としない。 常用十月の節句(重陽の節句。旧暦9月9日)に天を祭り、昼夜に酒を飲み、歌い踊る、 これを「舞天」 という。また虎を神として祭る。その邑落は互いに侵犯するが、刑罰とし て相手に生口(せいこう=奴婢) と牛馬を差し出す、これを「責禍」という。人を殺した 者は死をもって贖(あがな)う。強盗は少ない。・・・・『三国志、魏書、濊伝』・・・
316 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 22:26:45
>>312 チョゴリといえば朝鮮半島だが、それはいつからよ?
1000年以上前の民族衣装がどんなだったか、資料がない気がする。
317 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 22:29:52
>>312 あなたちょっと、餅つきなさいよ。
>奈良時代の正装は、チョゴリです。
奈良時代の朝服は、どう見ても中国服のパクリですが。
チョゴリも中国服のパクリでしょう。
>朝廷の語源は、
「朝鮮王の宮廷。」か
「朝鮮王の庭」だと言われています。
朝廷は、日本語でも中国語でも「朝廷」だろうが。
「朝鮮王の宮廷」なんて意味有ったか?
318 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 22:32:03
319 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 22:33:22
>>312 漢和字典で朝廷の語源を読んでみろ。朝鮮とは何の関係も無い。
320 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 22:40:58
>>312 朝が付いたら朝鮮と関係があるのなら「朝飯」とはビビンパのことか?
321 :
本田 :2006/07/21(金) 22:45:48
322 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 22:59:00
>>319 あるわけないじゃん。王朝の“朝”だもん。
朝廷、朝服、朝貢、、、全然関係ない。
唐朝なんかの“朝”も当然関係が無いよ。
>>321 バランスを取ろうとして頑張っているのかも
知れないが、ヤケクソでレスしちゃ駄目だよ。
323 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 23:05:35
>>321 7世紀後半の日本は、百済は潰れ、唐とは険悪になる中で、
新羅との交流が随分増えたからねぇ。
324 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 23:29:45
>>321 それ本当に新羅語なの?
犍吉支、王(コニキシ):
古代朝鮮語、コニは大、キシは君の意。
(1)古代朝鮮の三韓の王の称。コキシ。
(2)古代、百済から渡来した王族系氏族に与えられた姓(かばね)。『大辞林』
【 ☆ 決定 ☆ 朝鮮族の母体はエベンキ系「沃沮、濊狛」人 】 その風俗は山川が重なり、山川には各部族がおり、みだりに干渉することはできない。 同姓は婚姻できない。多くの忌諱があり、(家族が)疾病で死んだときは、すぐに旧宅を 廃棄し、更(通典では夏)に新居を建てる。麻布があり、蚕糸で絹を作る。 夜明けの星宿 (二十八宿の占い)から、その歳の作物の豊穣を予想する。珠玉を宝としない。 常用十月の節句(重陽の節句。旧暦9月9日)に天を祭り、昼夜に酒を飲み、歌い踊る、 これを「舞天」 という。また虎を神として祭る。その邑落は互いに侵犯するが、刑罰とし て相手に生口(せいこう=奴婢) と牛馬を差し出す、これを「責禍」という。人を殺した 者は死をもって贖(あがな)う。強盗は少ない。・・・・『三国志、魏書、濊伝』・・・
327 :
日本@名無史さん :2006/07/21(金) 23:51:28
>>317 >チョゴリも中国服のパクリでしょう。
いや、チョゴリはモンゴル服だよ。元への服属時代に導入されたもの。
中国のチャイナドレスは清時代の満州族のものだけど。
329 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 00:07:29
>>324 シナの史書に百済語 於羅瑕(支配層の言葉)、[革建]吉支(民衆の
言葉コニキシ)、新羅語 干支 などの記録がある。
これらは日本語ではない異民族語だった。
330 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 00:14:13
>>328 中国人は、チョゴリも“漢服”の影響だって言い張っていますよ。
合わせ方は、着物に似ている気がするんだけど。
331 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 00:16:51
>>323 日本には新羅に滅ぼされた百済貴族、高句麗難民などが流入して
反新羅の機運はますます高まっていただろう。
コニシキの話は相撲スレでしろ
333 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 00:23:04
>>328 >チョゴリはモンゴル服だよ。
wikiにはそう書いてあったね。
騎馬民族が着ていた胡服の流れ云々と。
334 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 00:44:37
>>321 持統天皇が禅光王に新羅語の姓を送ったのは、
持統天皇が日常的に新羅語を使用していたからだと思う。
・・・脳内お花畑満開だな。
335 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 01:11:19
336 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 01:41:27
>>本田 氏ね
↑ あ〜すまん干ちがいしとったわ ところでコニキ市って何処にあるんや、フィリピンかベトナムか。
338 :
本田の代理 :2006/07/22(土) 01:50:09
誤解が解けてよかったよ
339 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 02:25:33
北尾に滅ぼされるコニシキ
340 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 03:10:03
>>337 コニキシはドイツのケーニヒスブルグにある。
koenichsburg>konikisi ケーニヒ=キング
341 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 05:02:16
>>304 >その過程で、天皇家が三韓と同種であると主張する本が焼き捨てられた…。
それでよい。そのような本が存在した、ということになるではないか。
>>307 北畠親房がそのようななことを主張するわけがない。
じぶんの論旨(太伯起源説に対する反論)を展開するなかで、「かの書」の存在に
言及してしまった、ということだ。
342 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 07:30:36
>>341 >>303 は、「漢の高祖も呉王も高麗王も日本の神の子孫だと説く系図を焚書した」
と言っていますよ。こういうルーツ本が何種類もあったっていう事でしょう?
何冊あったんだ…???
343 :
本田 :2006/07/22(土) 07:32:58
>>334 >
>>321 持統天皇が禅光王に新羅語の姓を送ったのは、
> 持統天皇が日常的に新羅語を使用していたからだと思う。
> ・・・脳内お花畑満開だな。
現代韓国語の基礎は新羅語です。
>半月城通信
>No. 48
http://www.han.org/a/half-moon/hm048.html >- FNETD MES( 8):情報集積 / 歴史の中の政治 98/05/30 -
>00509/00509 PFG00017 半月城 宮内省の守護神
>( 8) 98/05/30 18:18 00479へのコメント
>
> ぺくすこんだるさん、はじめまして。
>
> #479、ぺくすこんだるさん
>> 話しのついでに思い出したんだけんどよ、もとの上司が宮内庁に出向し
>>ていて、東宮大夫(だいぶ)という肩書きなんだとさ。ただこれは対外的
>>名称で、宮中では「てーぶ」と呼ぶらしい。これ韓国語の発音と全くおん
>>なじ。ともかく、あそこは電話の受け答えからして浮き世離れしてるんだ
>>よなぁ。
344 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 07:40:24
>>343 オラの田舎では、「大事」のことを「でーじ」と言うよ。
「大変」のことを「てーへん」とも言うよ。
「てーへんだ!てーへんだ!」
別に新羅語じゃないけど。
>>341 北畠親房は、彼自体は同時代人ではない。
南北朝時代の人間なんだから。
常識で考えましょうよ。
元ネタはあくまで『日本後紀』大同四年・『弘仁私記』序文
>>303 そこから彼が勝手に話を膨らませて話しるだけであって、
彼が三韓云々の焚書を見聞きしたわけでもない。
元ネタの論旨は、
「漢の高祖も呉王も高麗王も日本の神の子孫だと説く系図を焚書した」
つまりね、あなたが意図して引用してるのとは正反対の話なのよ。
346 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 10:43:29
347 :
日本@名無史さん :2006/07/22(土) 19:54:06
>>345 どうもよくわからない。「焼かれた書」と「弘仁私記序文」とを同じ書と考えるのか?
それとも別の書と考えるのか?
弘仁私記序文に、 「漢の高祖も呉王も高麗王も日本の神の子孫だと説く系図を焚書した」 と記述されてるんだろ。 それを元に親房が神皇正統記に、 「昔日本は三韓と同種なりという事のありし、かの書をば、桓武の御代に焼き捨てられしなり。」 と書いたってことでしょ。
349 :
日本@名無史さん :2006/07/23(日) 04:33:39
>>348 弘仁私記序文は古事記と同時代だ。
それが焚書のことを言っているのなら、焚書のあったのは「桓武の御代」では
ないではないか。
なんでやねん。
351 :
日本@名無史さん :2006/07/23(日) 11:39:47
間違えた。弘仁私記序文は812年の成立だった。 だから桓武の後であり、年代的には成り立つ。 内容について確認して見る。
352 :
がいやまん :2006/07/23(日) 13:46:10
>>348 焚書が必要なほどの真実だということをよくわかったもんだ。
354 :
日本@名無史さん :2006/07/23(日) 15:39:50
>>352 真実だったらすげえな、日本の皇室。
漢の高祖や呉の太伯や高麗王とも親戚なのか?
それらの国からの移民が「同祖論」を吹聴して
回ったんだろうな。
在日が騎馬民族説や同祖説を吹聴する、居こご地が良くなるように!
なにがしかの文書を焚書したという桓武天皇は、
百済武寧王子孫の高野新笠が実母だったため、
「百済王等者朕之外戚也(百済王らは朕の外戚なり)」として、
百済王一族を政権中枢に登用し、後宮には大量に百済王氏を入れてる。
百済王族の地が流れてることは必ずしもメリットがあることとは言えないが、
それをことさら強調してた桓武天皇が、
仮に倭と三韓と同族だということが歴史的事実なら、
なにゆえにそれを隠蔽しなければならないのか?
むしろ桓武天皇は、歴史を偽造しててでも同族だと言い張って
不思議じゃないくらいの立場だろ。
百済王等は朕が外戚なり。
http://homepage3.nifty.com/osuzume/kotonoha.htm#74
357 :
日本@名無史さん :2006/07/24(月) 07:28:37
■好太王碑 最古の拓本発見 旧日本陸軍入手のものと一致 古代日本の朝鮮半島進出を記録した好太王碑(中国吉林省)の最古の拓本が中国で発見され、 倭(日本)との関係を示す記述が、旧日本陸軍が入手した拓本と一致することが、中国社会科学院 の徐建新教授(日本古代史)の研究で分かった。 これによって、1970年代以降論争が続いてきた、旧陸軍が碑文の内容を書き換えたとする 「碑文改竄説」は成立しないことが確定的となった。 好太王碑には、「391年以来、倭が海を渡って、百済や新羅を破り、臣民とした」とする記述がある。 この碑文の拓本を、1883年に旧日本陸軍参謀本部の酒匂景信が入手。参謀本部が、4世紀に日本 が朝鮮半島を支配していたと解読した。 戦後になって酒匂の拓本の信頼性が疑われ、李進煕・和光大名誉教授が1972年、「近代日本 の半島進出を正当化するため、都合のいいように旧陸軍が改変した」と主張。日本、中国、韓国、 北朝鮮4か国の研究者の間で大論争となった。その後、改竄を否定する有力な説も出たが、実物 の検証が困難な状況で、決着には至ってなかった。 (続く) 東アジア各国に散在する約50種の拓本を実際に確認する作業を続けていた徐教授は一昨年、 それまで最古とされていた酒匂の拓本より古い1881年作成の拓本を、北京のオークションで発見。 酒匂拓本とともにパソコンに取り込んで比較したところ、意図的な書き換えの痕跡はないことが 判明した。その成果は今年、『好太王碑拓本の研究』(東京堂出版)として発表された。
358 :
日本@名無史さん :2006/07/24(月) 07:29:12
徐教授は「これで、皇国史観からも、軍の関与を証明するための研究からも脱却し、好太王碑 が4〜5世紀の東アジア史を解明する純粋な歴史資料として位置づけられるだろう」と自らの研究の 意義を強調した。 ただ、碑文の解釈については、倭を打ち破った好太王の業績を誇張するために、倭を実際よりも 強大な勢力として記述したとの説が強く、改竄が否定されても古代の日本が朝鮮半島を支配して いたかどうかの問題を決着させることにはならない。 吉村武彦・明治大教授(古代史)は、「拓本には信憑性があり、長年の論争に終止符が打たれた と言える。パソコンの画像で比較するという10年前には考えられなかった手法で、IT時代ならでは の成果だ」と評価する。 一方、李名誉教授は「拓本に付随する書き付けの記述を、製作年代の根拠にしているが、本物か どうか疑問が残る。まだ疑惑が払拭されたわけではない。」と反論している。 ソース:読売新聞2006/04/14 朝刊19面
359 :
日本@名無史さん :2006/07/24(月) 07:31:50
徐教授は「これで、皇国史観からも、軍の関与を証明するための研究からも脱却し、好太王碑 が4〜5世紀の東アジア史を解明する純粋な歴史資料として位置づけられるだろう」と自らの研究の 意義を強調した。 ただ、碑文の解釈については、倭を打ち破った好太王の業績を誇張するために、倭を実際よりも 強大な勢力として記述したとの説が強く、改竄が否定されても古代の日本が朝鮮半島を支配して いたかどうかの問題を決着させることにはならない。 吉村武彦・明治大教授(古代史)は、「拓本には信憑性があり、長年の論争に終止符が打たれた と言える。パソコンの画像で比較するという10年前には考えられなかった手法で、IT時代ならでは の成果だ」と評価する。 一方、李名誉教授は「拓本に付随する書き付けの記述を、製作年代の根拠にしているが、本物か どうか疑問が残る。まだ疑惑が払拭されたわけではない。」と反論している。 ソース:読売新聞2006/04/14 朝刊19面
360 :
日本@名無史さん :2006/07/24(月) 10:13:21
>>356 高野新笠は、武寧王の子孫だけど、日本では下級貴族出身だよ。
361 :
日本@名無史さん :2006/07/24(月) 10:14:30
>>348 :
>弘仁私記序文に、 「漢の高祖も呉王も高麗王も日本の神の子孫だと説く系図を焚書した」
>と記述されてるんだろ。
弘仁私記序文を読んで見た。問題の箇所は、大略:
「世の中に帝紀、系図、姓記の類が多くあるが、そのなかには間違っているものも多い。
官書以外は禁書としてこれを焚した」
と書いてあるだけだ。
要するに焚書の事実はあるが、なにを焼いたかを具体的に書いているわけではない。
だから弘仁私記序文をもって神皇正統記の
「昔日本は三韓と同種なりという事のありし、かの書をば、桓武の御代に焼き捨てられしなり。」
を否定することは難しい。
362 :
日本@名無史さん :2006/07/24(月) 10:16:21
>>356 権力の中枢には登用していませんよ。
位を与えただけです。
363 :
日本@名無史さん :2006/07/24(月) 10:21:11
>>361 >官書以外は禁書としてこれを焚した
つまり、正式な「官書」は焚書していないという事でしょう?
364 :
日本@名無史さん :2006/07/24(月) 16:54:54
>>361 だったらお前、
なんで南北朝時代の人間が、
そのような「三韓と同種なり」の如き重要な文書の存在を知ってるのだ?
時代が全然違うだろぼけ。
何が否定するのは難しいだ。
それじゃ津田左右吉の神話研究なんて全部インチキになるぞ。
366 :
日本@名無史さん :2006/07/24(月) 19:57:56
>>365 一つの可能性は、皇室内部に文書か口伝かが伝わっていて、それを
北畠親房が知った、ということだ。
>>366 そういう希望的観測は、
桓武天皇の本質という、
客観的な時代状況と焚書の時期を考えれば
まるで説得力のないものだ。
弥生人のDNAは古代中国人
さて、その絹織物と養蚕技術の伝来ルートとしては、従来の定説では、華北〜朝鮮半島経由だと
されてきた。ところが吉野ヶ里遺跡から発見された四片の絹織物を鑑定したところ、江南地方で
ある「華中」に特有の蚕である太い「四眠蚕」であることが分かった。このことから大陸文化の
(=弥生文化)の伝来は、長江流域の江南からの直接ルートが強く推測される。
そして、最近、日中の「江南人骨日中共同調査団」の調査結果(1999年3月)が、その直接
ルート説をさらに補強した。これは、江南地方の紀元前5〜8世紀の人骨と、福岡県筑紫野市出
土の人骨(紀元前後)について、「ミトコンドリアDNA分析」という方法で、塩基配列を比較
したところ完全に一致したというものである。
以上のような事実をつなぎ合わせると、大陸の華中(江南地方)から直接、吉野ヶ里など北部
九州へ渡来人がやって来た可能性が強くなり、大陸文化の伝来についても、華北〜朝鮮半島経由
以外に江南からの直接ルートの存在を強く示唆される。
これまで、大陸との交流というと、魏と邪馬台国というように、魏(華北)の地域との関係が
どうしてもクローズアップされがちだった。しかし、吉野ヶ里遺跡の絹片や人骨の分析により、
呉(華中=江南)地域との交流の存在が実証されたというわけである。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=65883
369 :
本田 :2006/07/24(月) 22:58:40
>>365 >
>>361 > だったらお前、
> なんで南北朝時代の人間が、
> そのような「三韓と同種なり」の如き重要な文書の存在を知ってるのだ?
古事記の稗田阿礼みたいに、
焚書の前に、
暗記させて保存するんじゃないの。
>>369 その種の驚異的記憶力というのは、
文字と記録様式が確立されると維持できなくなる。
必要が無くなるからだ。
驚異的な記憶力なんかなくても、「三韓と同種なり」くらい記憶出来る 後世に捏造されたということの方がありそうではあるが
372 :
日本@名無史さん :2006/07/25(火) 07:42:51
>>371 特別な言い伝えでもない限り、普通記憶は曖昧になると思いますよ。
例えば、呉太伯の末裔説、これもたぶん何かの誤解か早合点ですが、
中国の文書に書かれているために、特別講義の場を設けて何度も否定
しています。「三韓同種説」も、広まった時代があったんでしょう。
だから、全てのインチキルーツ説を一纏めにして一気に否定する事に
したんでしょう。
373 :
日本@名無史さん :2006/07/25(火) 09:41:08
>>367 >そういう希望的観測は、 桓武天皇の本質という、 客観的な時代状況と
>焚書の時期を考えればまるで説得力のないものだ。
よくわからない。もうすこし論旨がわかるように書いてくれ。
>>372 >全てのインチキルーツ説を一纏めにして一気に否定する事に
>したんでしょう。
「一気に否定」とは桓武の焚書、弘仁私記序、神皇正統紀のうち
どれを言っているのかな。
375 :
日本@名無史さん :2006/07/25(火) 20:14:53
>>348 で「(弘仁私記が)なにを焼いたかをを具体的に書いているわけではない」
と書いたのは語弊があったので、補足して置く。
弘仁私記序は誤りの多い書として、次のものを例示している。
「神別記十巻」「帝王系図」「書民雑姓記」「諸蛮雑姓記」「新撰姓氏目(禄?)」
このうち「帝王系図」の註記に「或到新羅高麗為国王」(新羅高麗に到って国王と
なった)の文字がある。
これが「漢の高祖も呉王も高麗王も日本の神の子孫だと説く」にやや近い。
しかし「呉」や「漢」は含まれていない。
そしてこの例示の後に:
「如此之書、触類而夥・・・官書之外、多穿鑿之人、是以官禁而焚」という
文章が続くのである。
「このごとき書が類を呼んで夥しい」のだから、この例以外にも問題となる
(あるいは焼かれた)書はあったのだろう。
逆に例示されたものは必ず焼かれたのかというと、「新撰姓氏禄」は焼かれてない
のだからそうとも言えない。
つまり例示であって網羅してはいないし、例示と焚書の結びつきも明らかでない。
376 :
日本@名無史さん :2006/07/25(火) 22:07:11
よするに、曖昧、ってことだろ?
377 :
日本@名無史さん :2006/07/25(火) 22:23:08
>>366 可能性としては、桓武天皇の母君が武寧王の末裔なので、百済系の帰化人が同祖論を吹聴して回り、
あまりのウザサに天皇が遂にブチキレ、このネタが有名な話として宮中に伝わって行ったか。
呉王云々に関しては、外国の書物に文章化されてしまったために、はるか時代が下ってからも儒学者の
林羅山などが持ち出しては、その度に否定されて顰蹙を買っている。
378 :
日本@名無史さん :2006/07/25(火) 22:42:35
>>377 一時、美智子妃殿下が平民、平民と言われ続けてノイローゼになった
ようなことか。
379 :
日本@名無史さん :2006/07/25(火) 23:07:49
恐らく。
380 :
日本@名無史さん :2006/07/26(水) 04:26:27
>>376 要するに、神皇正統記の「昔日本は三韓と同種なりと云事のあるかの書」のネタが
弘仁私記序文であると結論するだけのものがない、ということ。
381 :
日本@名無史さん :2006/07/26(水) 14:57:50
高野新笠というが、実家が「高野」の姓になったのは彼女の嫁入り以後のことである。 改姓以前は「和朝臣」と言った。「やまとのあそん」と読む。
どっちにせよ、 百済との親縁な関係をおおっぴろげにしてた桓武天皇の時代に、 大陸側とのつながりを否定する形の国史の統一が図られたことからして、 いわゆる大和政権扶余簒奪説が否定されたようなもんだ。 桓武天皇の後、あるいは最悪その前政権時に、 “あやしげな”文献が処分されたというならまだ分かるけど、 桓武天皇の時代だからな。
383 :
日本@名無史さん :2006/07/26(水) 18:12:22
桓武天皇は、百済系帰化人を位に就けてるし、大っぴらに贔屓しているし、 戦前の日本もその事を別に隠してないし、「官書」は燃やされていないし。
384 :
日本@名無史さん :2006/07/26(水) 18:39:48
>>348 ところで、漢の高祖なんて、あまり聞かないしうそ臭いけど、元ネタはどこの古文書なの?
向こうの書物に書かれてたっけ??各種倭人伝にも書かれてないな?
385 :
本田 :2006/07/26(水) 20:04:15
>>367 >
>>366 > そういう希望的観測は、
> 桓武天皇の本質という、
> 客観的な時代状況と焚書の時期を考えれば
桓武天皇の本質とは何?
386 :
日本@名無史さん :2006/07/26(水) 20:25:08
白木系と百済系が混ざってるのですが、白木系の方が古いかもしれまへん
387 :
日本@名無史さん :2006/07/26(水) 22:32:27
>>384 日本で言いふらすとしたら、やはり漢氏の系統かな。
388 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 05:10:38
>>382 >大陸側とのつながりを否定する形の国史の統一が図られたことからして、
別に「大陸側とのつながりを否定」してはいないだろう。
問題は天皇家自身に関することだ。
桓武天皇も天皇家自身が朝鮮系だと言っているわけではないし。
389 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 05:34:32
>>382 桓武の時代に古代の在日が差別撤廃と参政権を要求した、というよう
な話なのか?
390 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 07:14:52
>>382 違うよ、ただ単に、帰化人数人にお情け程度の位を与えただけ。
お母さんが日本国内においては、身分が低すぎたから、顔を立てる
目的もあったと思うが、ただそれだけだろう。
>>388 朝鮮系、朝鮮系と連呼しているが、あまり意味ない。
(もっとも単なる弥生系だとは思うが)あらゆるルーツを
否定している。漢の高祖も、呉王太伯も、高麗王も、全て。
在日差別じゃなくて、百済や新羅からの帰化人も、中国系の帰化人も、
日本国内では地位が軒並み低かったのだ。それは、後の世においても
同じ。ただ、お母さんの顔を“適当に”立てただけ。
391 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 07:24:57
392 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 07:54:55
>>391 帰化人=優れた技術を持つ偉い人。日本を文明開化させた、と思っているが、
4〜5世紀に日本に亡命してきた椰子なんて、かなり惨めな境遇のものが多い
と思うな。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E6%B5%AA%E9%83%A1 >楽浪・帯方の中国系住民は高句麗・百済の支配下に入り、
楽浪郡(BC108〜AD313)があった頃は支配者としてのさばっていた中国系
住民が、逆に被支配者となって肩身が狭くなってしまったので、日本に
逃れてきたケースは多かったと思う。
その後の半島内の複数国家からの亡命者は、国家が滅亡してしまった為に
行き場を失った王族やその家臣や住民らが亡命してきたケースが多かった
と思う。
そういったケースの場合、高い地位を与えてチヤホヤする理由も特に無い。
393 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 07:56:33
>>日本を文明開化させた、と思っているが × >>日本を文明開化させた、と思っている人が多いが ○
394 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 10:03:13
>>392 で、その“惨めな境遇の椰子”が、どのような行動をとったかと言うと、、
>>391 の紹介スレにあるように、
後漢霊帝の末裔(坂上氏)、始皇帝の後裔(秦氏)、曹操の後裔(高向氏)、
孫権の後裔(蜂田氏)、孫公淵の末裔(赤染氏)、劉邦の末裔(栗栖氏)…等々
と、日本での地位を高めるために、一斉に大法螺を吹き始めたと思われる。
もっとも、大法螺吹きの子孫が現在の日本人でもあるので、あまり大きな事は
言えないのかも知れない。
395 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 15:39:03
>>394 邪馬台国の倭人も呉の太伯の末裔と称していたらしいが、これも大法螺
だったかもしれんな。
396 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 15:43:16
現在の朝鮮人が桓武天皇を朝鮮系と称するのも大法螺の一種だな。
397 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 16:48:22
>>395 いや、それは中国人の妄想だと思う。つーか、なんでそこまで弥生人が
中国の歴史に詳しくなきゃいかんのかいな?と。
呉からの亡命者が実際にいて、適当な事を言って回った可能性はある。
『晋書』になると、卑弥呼は公孫氏の末裔と書かれているらしい。
398 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 16:54:33
>>397 もっとも57年には金印を貰っているから、それなりに中国史の知識があった
可能性もあるか。
399 :
日本@名無史さん :2006/07/27(木) 20:22:30
沖縄にも源の頼朝か何かの子孫という伝説があるそうなので、近隣大国の有名人を 称していたのではなかろうか?
400 :
本田 :2006/07/27(木) 22:03:46
401 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 04:36:16
>>390 >お母さんが日本国内においては、身分が低すぎたから、顔を立てる
>目的もあったと思うが、ただそれだけだろう。
それにしても王妃と後宮が外国系で占められる朝廷というのはなんだろうか。
較べられるのは清国の朝廷ではないか?
清国の場合、王妃は基本的に満洲族だったが、征服に協力した民族である
蒙古から王妃が入ることはしばしばあった。しかし被征服民族の漢族から
王妃が入ったことは遂になかったのではないか?
日本の場合、百済の地位は上記の蒙古族にあたるのではないか?
そして、天皇族でも渡来系でもない、土着系から王妃が入ったことはあった
のだろうか?
私は詳しくないが、知っていたら教えてくれ。
402 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 04:43:55
と、書きながら思いついた。 蘇我は渡来系と言われるからいいとして、後世になると藤原はなにか、平家は なにか、という話になって来るね。 奈良時代までに限定するとどうだろう。
>>402 桓武天皇固有の問題と、朝廷全体とを混同するべきではないな。
――先生が著書の中で書かれているように、そのころは既に日本版中華思想が出来上がっていて、
渡来系の人々を諸蕃あるいは蕃人と呼んで、在来の日本人との間にはっきりと区別をおいていました。
そういう中で、桓武天皇が、渡来人を重用したり、百済王氏との繋がりを堂々と述べたのは何か意図
があったのでしょうか。
上田 やはり、旧来の陋習(ろうしゅう)にとらわれないで、国際的な繋がりの中で新しい王朝の樹立
が目指されたのではないでしょうか。
ところが、桓武帝が亡くなると、また宮廷の雰囲気が変わって、日本版中華思想が強くなる。
『日本後紀』に、高野新笠の出自の和(やまと)氏の和家麻呂が中納言になったことについて、
そこに「蕃人、相府に入るは」という表現が出てくる。これも、そういう空気を反映しています。
ttp://www.worldtimes.co.jp/special/yukari/yu021229.htm
天皇族ってのを何の根拠も無く設定するのはまずいよね。 そもそも族って言葉で表現すると暗黙のうちに文化や 言語、習俗、人種などが他と異なる集団という先入観を 与えやすい。 「族」ありき、じゃなくてハードファクツから、集団の 性格を一つづつ推定していくのが本道のはずなのに。
高野新笠は、陸奥守で大仏建立に 黄金を献上した敬福とは別系でしょ
406 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 07:13:22
>>401 >王妃と後宮が外国系で占められる朝廷
具体的な、一覧表を提示してくれ。
後宮が「外国人で占められた」なんて、聞いた事ないぞ。
>土着
縄文系のことを言ってるの?
何もかも曖昧なので、説明よろしく。
407 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 07:22:44
>>400 >白村江の敗戦後は、戦勝国の新羅と唐の人間は高位に就いた。
ごめん。馬鹿なんで、こちらもソースください。
白村江の戦いで捕虜にした唐人2人に『日本書紀』を書かせたっていう
話がなかったっけ?
408 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 07:33:29
>>401 どうでもいいけど、百済って小さいよ。
乱立する小国の一国でしかないが。
409 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 10:05:06
藤原氏は奈良時代から皇后を出しているね。 今朝の読売新聞に光明皇后(701〜760)のことが出ているが、夫の聖武天皇の 母とともに、藤原不比等の子だそうだ。 藤原氏は中臣鎌足を祖とするが、別の資料によるとこの中臣はオホ(多、大、太、意富) 氏の系統で、また別の資料によるとオホ氏は新羅系だそうだから、結局藤原氏も 新羅系ということになる。 そして「弘仁私記序」は、時の百済系の栄達に対する新羅系の反感を表したものだそうだ。
410 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 10:41:59
>>407 新羅は、白村江の後にわかに反唐に転じ、唐の掃討作戦を受けている。
で、その後再び唐の冊に入る事になった。
唐・新羅の蜜月→一転反目、戦い。→唐を恐れて日本に大接近。遣日使増える。
なんか、非常に複雑で付き合いにくい印象を受ける…
国際情勢により、新羅との関係が深まったのは確かだが。
411 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 10:55:45
>>407 >白村江の戦いで捕虜にした唐人2人に『日本書紀』を書かせたっていう話
戦勝国の知識人(外国人)が筆入れしたんだったら、有る意味客観的な部分も
あるかも知れんと思った。
412 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 14:06:49
>>400 >白村江の敗戦後は、戦勝国の新羅と唐の人間は高位に就いた。
・・・常識的に考えて旧敵国の人間が高位に付くはずがないだろう。具体例があれば
挙げてほしい。
413 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 15:03:31
>>411 ちなみに音博士を務めた、続守言と薩弘恪の2人らしい。
薩弘恪は「大宝律令」の編纂にも参加しているようだと『日本書紀の謎を解く』に書いてあった。
彼らが携わった部分は、唐代の北方官音によって音訳がなされ、正格漢文で書かれているのだが、
日本の事情に疎いらしく、当時の日本人なら常識的な事柄にもいちいち注釈を入れ、しかもそれが
間違っているらしい。
>>412 あまり高い地位につけるのは、危険だと思う。
お仕置きしちゃだめ %%%%%%%%% 6| -σ-σ | | ゝ | <チョンコまるだしだから \ ∀ / │| │ U ♂ ) │|│| ⊂つつ お仕置きしちゃだめ %%%%%%%%% 6| -σ-σ | | ゝ | <チョンコいじりすぎた \ ∀ / │| │ U ♀ ) │|│| ⊂つつ チョンコもげちゃった
415 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 19:32:54
>>410 なにも複雑ではない。唐はじぶんをやっつけた相手を、実力を認めて
册封するのだ。
新羅は共同作戦した唐軍がいすわって半島支配の動きを見せたので決別して、
数年の戦いの末に唐軍を半島から追い出した。その後新羅は唐に恭順の姿勢を
見せ、唐は新羅に手出しせず、共存関係になった。一方で新羅は、民間の力
ではあるが、唐の東シナ海沿岸部を侵食した。それを唐は黙認した。
似ているのは渤海だ。渤海ははじめ「郡王」しか認めてもらえなかったが、
唐の傀儡国家を攻め滅ぼしたことで実力を認められて「渤海国王」に
封じられた。
416 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 20:00:41
417 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 20:07:35
418 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 20:18:54
>>415 自分をやっつけた相手の実力を認める?
事実上、新羅は硬軟両方(武力と外交)を使って国家を保つ事には成功
した。唐に対して正式に謝罪し、国内の唐化政策を積極的に推進したり
もした。
複雑だと言ったのは、唐にとってではなくて、日本にとってということ。
日本も唐との関係がギクシャクする一方で、新羅との関係が緊密化したが、
昨日まで敵だった奴らと、どういう顔をして付き合っていたのだろう?と
思うわけだ。
419 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 20:31:10
>>417 あ〜、確かに轆轤は使っているな。
写真を見ればわかるけど。
すると弥生土器も須恵器も元はこれじゃないか。縄文土器
422 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 04:32:10
>>418 >昨日まで敵だった奴らと、どういう顔をして付き合っていたのだろう?
それは結局、日本と新羅、高句麗が中国とは別の、同じ世界に属していたからだと
思う。同じ世界に属するから、主導権争いもすれば提携もする。
日本の戦国時代だって同じことだ。秀吉と家康だって一度は戦ったのだからね。
423 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 07:21:55
>>413 ちなみに音博士を務めた、続守言と薩弘恪の2人らしい。
薩弘恪は「大宝律令」の編纂にも参加しているようだと『日本書紀の謎を解く』
に書いてあった。
・・・この地位とは通訳のようなもので国政に参与するようなものではない
だろう。
百済の亡命貴族が文部大臣に相当する地位に就いたという話もあるが、
これも、この唐人捕虜よりややマシな程度の地位ではないか。
つまり将棋の駒のように唐人は利用されただけだろう。
424 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 08:14:04
>>423 位は低かったらしいが、正格漢文が操れ、かつ正確な唐音に通じていて、
更に実績があるという点で、抜擢されたらしい。つまり、信用が高かった
というそれだけでしょう。
日本人が書いたへたくそな漢文の添削も行ったようだ。日本人が書いた
部分は誤字脱字が多いのでよく解るらしい。
>>422 >同じ世界に属する
ところが、日本は白村江の後唐との関係強化も図ろうとしていたようだ。
唐でも、日本人の捕虜を返しに来たりしている。また内政が大変だった
とは言え、唐は報復に出る事も遂になく。ようするに、各国とも政治的に
大人だったという事だろう。
425 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 09:25:39
>>422 それなら新羅は同盟国だった唐と同じ世界に属していたのだろう。
日本は百済とは同じ世界に属していただろうが、新羅とは別世界だった。
426 :
本田 :2006/07/29(土) 10:18:21
427 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 10:43:56
430 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 13:11:11
>>424 >同じ世界に属する
>ところが、日本は白村江の後唐との関係強化も図ろうとしていたようだ。
要するに東北アジア世界というか、扶余世界というか、それが中国の前に
屈したのである。
高句麗がさかんに日本と連係しようとしたことで、この世界が満洲までの
広がりを持っていたことがわかる。
その高句麗が最終的に唐によって滅ぼされ、その戦勝祝賀の儀式に日本が
出席したことが、扶余世界の終わりを表したのである。
>>425 >日本は百済とは同じ世界に属していただろうが、新羅とは別世界だった。
そんな小さなことを言っているのではない。
431 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 13:28:17
第10代天皇=崇神天皇(すじん天皇) (在位:142年1月13日〜175年12月5日=33年) 第11代天皇=垂仁天皇(すいにん天皇) (在位:176年1月2日〜226年7月14日=50年) (空位・・・・・1年) 第11代の垂仁天皇の時代=178年頃に、天日矛が日本に来たらしい。 この時点では、まだシラキは倭人が支配していたようだ。 やがて、魏が建国されて、公孫氏の楽浪郡を攻撃した頃から、シラキの政治情勢も不安定化し、 北方のワイ人がシラキに流入し始めたらしい。 3世紀から4世紀初頭にかけて、シラキ領内のワイ人が急増し、 やがてシラキは、ワイ人国家=新羅に変質してしまう。
432 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 13:31:39
【騎馬民族説は今。。。vol.17】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152216234/431~ 第10代天皇=崇神天皇(すじん天皇)
(在位:142年1月13日〜175年12月5日=33年)
第11代天皇=垂仁天皇(すいにん天皇)
(在位:176年1月2日〜226年7月14日=50年)
(空位・・・・・1年)
第11代の垂仁天皇の時代=178年頃に、天日矛が日本に来たらしい。
この時点では、まだシラキは倭人が支配していたようだ。
やがて、魏が建国されて、公孫氏の楽浪郡を攻撃した頃から、シラキの政治情勢も不安定化し、
北方のワイ人がシラキに流入し始めたらしい。
3世紀から4世紀初頭にかけて、シラキ領内のワイ人が急増し、
やがてシラキは、ワイ人国家=新羅に変質してしまう。
433 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 18:46:59
>>430 げらげらげら。
>>427 劉徳高とその使節=マッカーサーと進駐軍
っていう説もあるようだが、どう思うか?
反論もしくは賛同される方はどうぞ。
434 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 20:48:48
>>427 その年表に出て来る小錦上とか、小錦下というのはコニキシのことだろうか?
そうだとすると百済人だろうな。
小錦は冠位だよ。「こにきし」とは関係ない。 「こにきし」は一部百済系の「王」または「軍王」の字に 当てられた訓だったと思う。
436 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 21:10:50
>>434 コニキシとかコニオルクとか…悪いけどぜんぜん関係ないのよ。
437 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 22:11:00
>>435 そうですか。そうすると大錦とか、中錦なんちゅうのもあるのでしょうか?
いや上下があるのだから、大中は無いのか。
438 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 22:26:39
コニシキの事ならワイにキキ→ワイキキ バンザーイ!!!
>>437 664年の冠位二十六階だと大錦、小錦がそれぞれ上中下の三つに分かれている。
中錦はない。
440 :
日本@名無史さん :2006/07/29(土) 23:43:56
441 :
日本@名無史さん :2006/07/30(日) 17:00:26
>>346 さて、適当な事でも言ってみるか…
韓神は「からかみ」と読む。
「から」を変換すると、
(1)漢 (2)唐 (3)韓 (4)加羅
と最低これぐらいは出てくるようだ。当然全て「から」と読む。
漢国神社はもともと、「韓園社」だったという噂もあり、
「韓園社」→→→「漢国神社(かんごうじんじゃ)」と変化したという
説もあるようなのだが、どこをどうしたらそういう変化が起こるのかは、
解らん。
適当に思うに、「韓」だろうが「漢」だろうが「唐」だろうが全て「から」と
読むのだからして、大陸や朝鮮半島をひっくるめて「から」なんじゃねーか?
と思うに至りました。
442 :
日本@名無史さん :2006/07/31(月) 00:04:08
>>441 カラは加耶ともいい、半島南部を指す言葉だったが、半島南部というと
旧倭人地域で、日本本土から見た場合の外地というニュアンスがあったのだろう。
その外地が半島南部だけでなく、半島全体からシナまでカラと呼ぶように概念
が拡大していったものと思う。
故に、日本各地に韓国神社や韓国岳、漢国神社などがあっても、朝鮮やシナを
表わすものとは速断できず、半島南部の倭人地域を指すことが多いだろうと思われる。
443 :
日本@名無史さん :2006/07/31(月) 08:09:37
>>442 『魏志』などにも、南の三韓と倭人、それから北方の扶余、高句麗、沃沮などの
グループとの言語的共通性が書かれていない。言語・文化的に、北は北(扶余系?)
で共通性を持ち、纏まっていたようだが。
邪馬台国の時代の、扶余系(半島北部)と三韓(倭人含む)を一緒くたにしているヤツ
が多杉るような希ガス。
>漢国神社
「韓園社」という言い方があったという証拠も無いそうで、適当に推測する
のみらしい。もしかすると、「韓園○○」という呼び方自体が最初から無くて、
「漢国神社」という名前が突然出てきたのかも知れない。
444 :
日本@名無史さん :2006/07/31(月) 19:57:52
>>443 邪馬台国の時代はそれぞれが楽浪郡に直属(直接支配という意味ではない)して
いたのだから当然。
問題はその次の時代だ。楽浪郡はなくなり、高句麗、百済、任那の支配者が扶余という
ことで共通する。そして新羅は恐らくある時点まで任那の扶余の支配下にあった。
そして日本は?という問題だ。
ただし、これらが「扶余語」で共通するかというとそうはいかない。なぜなら支配層の
言葉が土着語にとって変わるとは限らないし、支配層自体も被支配層から言語的影響を
受けるからだ。清国/満洲族の例を見よ。
445 :
本田 :2006/07/31(月) 22:12:41
446 :
日本@名無史さん :2006/07/31(月) 22:23:46
>>443 ちなみに、「韓園社」でググッたら、一つもヒットせんかった。
やはり「漢国神社」は「韓園社」ではなかったらしい。
春日の地を名門春日氏から強奪した 新興藤原氏。
448 :
日本@名無史さん :2006/08/01(火) 00:28:31
>>444 扶余が日本に来たという何の証拠もないという事だね。
449 :
日本@名無史さん :2006/08/01(火) 01:05:10
>>444 百済の支配層の王、於羅瑕、於陸という扶余語、民衆語のコニキシ
という馬韓語のどちらも日本語に入っていないな。
450 :
日本@名無史さん :2006/08/01(火) 11:21:53
>>449 >民衆語のコニキシ という馬韓語
姓の「吉師部」は?
>於陸という扶余語
大王および王族の名前の中の「イリ」との関係はどうだろう。
451 :
日本@名無史さん :2006/08/01(火) 19:55:31
>>450 「コニ」が取れているのはおかしいのでは?
於陸は王妃という意味なので「イリ」とは関係無いと思う。
唐国神社だとか、韓国神社だとかは、西日本、特に九州にある。
そしてこれらの祭神は大抵がスサノオとその子イタケルだったりするんだが、
これは、外地の神を尊いものと見なす信仰(宗教的にそういう例はある?)
ではなかったかという気がする。日本書紀の一書で、スサノオの新羅追放
の逸話があり、そこからスサノオを祭神とする神社が「韓神」と冠するように
なったのではないかな。韓国人は日本に韓国の神を祭る神社があると
大騒ぎしているようだけど。w
>>443 韓園社というと、平安期までに宮内庁に祭られていた「園神一坐」「韓神二坐」を思い出す。
半月城などではこれらは三坐とも「半島の神」とされているが、韓神二座とはスサノオとイタケル
の事なのかもしれない。
と、
>>345 で言及されていたな。ついでにレスすれば、
>>343 扶余語は韓系言語ではない。天皇が新羅語を話していたとすれば、
天皇=扶余説を肯定できない。
>>444 任那の支配者が扶余っていうのは、学説的に定まった事なのか?
確定して話を進めている感があるのだがなあ・・・。
それにしても、貴方は、以前からずっと電波扶余征服説支持者だな。
君のお陰でこのスレは伸び続けてるようなモンだ。w
>>401 百済系の地位は総じて低いだろう。高野新笠は、死後にやっと皇后と認められた(筈)。
またよく知られているように、桓武が皇位に就いたのは、全くの偶然だった。
そもそも何故渡来人の多くが、自ら「百済系」と名乗らず「漢系」を主張したのか?
(研究者の中には出自漢系の殆どは百済系とか半島系なんだよと言ってるけど)
つまり出自を偽造せねばならないほど、百済系の立場は余り褒められたものではなか
ったということになる。仮に江上の扶余征服説に則るとしても、「征服後に王は中心に
移動する」のだから、扶余の正当後継は天皇家ということになる。つまり百済も高句麗
も傍系であって、それらを尊重する立場にない。・・・・とすると、扶余征服説が肯定出
来てしまいそうだが。w
ちなみに桓武の焚書については、恐らくは神皇正統記の事を言っているのだろうが、
あれは「我が皇国と三韓が同じ血筋を持つという史書が作られて、桓武の御代にそ
れを燃やした。聞くところによるとスサノオも新羅に居たのだから、彼の地と日本が関
係があったとしても不思議はないが、昔からそんなことは言われていなかった」と結局
否定している。文脈的には、渡来系と天皇家との関わりを否定し、その為に新撰姓
氏録を作ったとした。さらに日本後紀には
「辛亥勅倭漢惣歴帝譜圖天御中主尊標為始祖至如魯王呉王高麗王漢高祖命等接
其後裔倭漢雑糅敢垢天宗愚民迷執輙謂実録宜諸司官人等所蔵皆進若有挾情隠
匿乖旨不進者事覚之日必処重科」とあり、この時期に様々な偽書が作られ、「焚書」
されたことを示している。また新撰姓氏録の新良貴氏は、「新羅王の祖は天皇家だ」とまで
いい、皇別に分類されようとした。これは嘘なのか本当なのか(三国史記辺りにもそれらしい
事は書かれてはいるが)わからないが、当時の渡来人が出自を偽造しまくって朝廷に取り入ろう
としてたのは本当のようだ。
>>345 は
>>343 >>345 は
>>346 訂正。
しかし、だ。斯様の如き言説が、ほぼ否定・肯定、両者において、民族的なイデオロギーに
基づいているのは確かなことで、韓国人は百済が日本を征服したというし、日本人は
そうではないと主張する。尤も朝鮮民族そのものについても、征服された民族である事には
変わらず、民族史という観点から扶余征服説を語るのなら、我々の祖先は大陸から
やってきた騎馬民族だと肯定的に解釈する事も可能ではある(韓国的な考え方をすれば)。
つまり渡ってきた騎馬民族は朝鮮人でも何でもなく、“我々の一部”であり、また朝鮮民族を
形成しているのも“大陸の我々の同胞の一部”であったとするなら、このよくわからない論争にも
何かしらの意味はあるのかもしれない。尤も人間が社会生活する上で、過去の歴史とか民族
の由来など“本来”は気にもしなければ、我々は日本語を使い、日本に住み、日本という共同体
で生活している以上、その“纏まり”を維持し続けている。何故此処までこの議論に拘るのか?と
いうのも、一種の学問的な好奇心と言うより、ある特定のイデオロギーがそうさせていると解釈した
方がよいのだろうか。別に“扶余征服説支持者”がサヨクだとか在日だとかは言わないが、そういった
イデオロギーに近い人々なんだろうなあ、ということは感じる。
455 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 07:28:57
>>452 >>454 乙かれさまでした。
>>452 >研究者の中には出自漢系の殆どは百済系とか半島系なんだよと言ってるけど、
またそれを力説しているのが、現代の韓国人だったりする歴史の皮肉。
製鉄とか水利とか、馬とか機織などの面で純粋な楽浪・帯方系漢人じゃないかと思う
人もいるけど、確かに怪しい素性の人がオオイ。
>>454 >ほぼ否定・肯定、両者において、民族的イデオロギーに基づいているのは確かな
ことで、韓国人は百済が日本を征服したというし、日本人はそうではないと主張する。
中立を装っているようだが、こんなものは真面目に調べればすぐに分かる事
なんじゃないのか?イデオロギー云々するような小難しい問題じゃないだろう?
日本や中国や韓国の古文書、考古学、様々な観点から結論が出せるはずなのに、
「イデオロギー」てなんだ?
中立を装って、シレッとウソこかないように。
456 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 07:38:32
皆に聞きたい。 百済が日本を征服したか否かについては、結論が出ていないようなややこし〜い、 複雑〜な問題なのか?真剣にバカバカしいわ。
457 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 10:28:31
扶余(または百済)征服説支持者は、身分を偽り密かに政権を奪取したと 主張するが、要するに証拠はどこにも無いという事であり、『三国志』は、 「倭人伝」に限って東西南北の地理勘が狂っている、という主張に近い詭弁 を感じる。
458 :
がいやまん :2006/08/02(水) 10:53:38
ウィンドウズが日本を席巻した、これすなわち、ビル・ゲーツが日本の天皇になった というような話だね。
459 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 12:28:06
457 朝鮮人の主張する日本文化朝鮮起源説は、要するに証拠はどこにも無い という事であり、彼らの願望による捏造に過ぎないことが分かる。
460 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 12:45:17
がいやまんは、パソコンが無くなると、玉砕するらしいぜ。
461 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 13:24:58
多氏は秦氏と深い関係があることから、渡来系である可能性が強いとされる。 しかし多氏は新撰姓氏録によれば「皇別」である。 渡来系でありながら皇別というのは悩ましい。 だから多氏渡来人説を唱える人は新撰姓氏録の皇別を誤りであるとせざるを得ない。 しかし視点を変えればなにも悩むことはない。天皇家じしんが渡来人であれば それでよいのだ。
462 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 14:21:49
463 :
がいやまん :2006/08/02(水) 14:22:55
>>460 将軍様と一緒にスンナよ。2発打たしたんじゃねーか、なんていうなよなー(w
464 :
がいやまん :2006/08/02(水) 14:37:41
>>462 ちょっと飛躍するが、この規模からすると多<オオ<オーワ<大倭かな。
秦氏のスクナヒコナは少昊のことだろう。夫与、高句麗ならば天神かな。
465 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 14:52:38
>>461 そう云う思考が出来るのは、あなたの勉強不足ですね。
ある程度歴史を学んだ方なら、ほぼ総てがその疑問の対処を学んでいるのに、
そしてそれは暗黙の了解で、触らぬように扱われているのです。
天皇家も秦氏も多氏も安曇氏も物部氏も蘇我氏も葛城氏も中臣氏も・・・
殆どの有力氏族は、天皇家を祖とする氏族です。
何しろ神々の時代から、近親相姦の血の濃さを重視する天皇家が、
別祖の氏族と易々と婚姻するでしょうか?
記紀でも墓記(系図)等をわざわざ回収して、直させています。
云わば改竄をしています。
それは記紀を外国に見せる為に、
近親相姦を隠す事が必要だったのです。
しかし記紀後でも天皇家では、近親相姦は続きましたが・・・
この辺の証拠は貴方も見つけたように、かなり方々で確認できます。
そして天皇を含めて我々日本人の総てが、渡来人なのはご理解頂けますよね。
あなたの思考に悪意が感じられます。
466 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 15:07:53
467 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 15:12:07
>>453 >つまり百済も高句麗 も傍系であって、それらを尊重する立場にない。
>・・・・とすると、扶余征服説が肯定出 来てしまいそうだが。
非常に正しい理解だ。つまり百済の地位は清国の満洲族王朝における
蒙古の如し、ということだ。王妃を出すこともあるが、王朝の中枢に
入り込むわけでもない・・
>「我が皇国と三韓が同じ血筋を持つという史書が作られて、桓武の御代にそ
>れを燃やした。聞くところによるとスサノオも新羅に居たのだから、彼の地
>と日本が関 係があったとしても不思議はないが、昔からそんなことは言われて
>いなかった」と結局否定している。
親房の立場からすれば、三韓起源説を肯定するはずがないことは前にも言った。
私の意見を言う前に、関係箇所の全文をまず引用しよう。
「異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬ
ことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやき
すてられしなり。天地開て後、すさのをの尊韓の地にいたり給きなど云事あれば、
彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔より
もちゐざること也。天地神の御すゑなれば、なにしにか代くだれる呉太伯が後に
あるべき。」(この後に新撰姓氏録の話が来る)
468 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 15:13:30
>>466 ご理解頂いてないようですが・・・
秦氏が祭祀している神は、天皇家の血筋ですね、
何故でしょうか?
469 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 15:17:34
つまり、ここで一貫して言っていることは「呉太伯の後ではない」である。 「三韓と同種」云々は呉太伯説のすぐ後に対置するように出てくるのだから、 呉太伯説のアンチテーゼである。つまり「呉太伯の後ではない、三韓だ。」 と言っているのである。(文のニュアンスからは「あの本が焼かれずにあれば はっきりするのだが」という無念さえ感じられるではないか) しかし親房の立場からはその三韓説もまた肯定するわけにはいかない。だから すさのおの話などして薄め、あるいはごまかした後、再び「なにしにか代くだれる 呉太伯が後にあるべき。」と結論を述べているのである。 しかしまた親房の論旨が問題なのではない。彼が論旨を勧めるなかで、意識してか 無意識にか言及した、「昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武 の御代にやきすてられしなり。」の一節が、そのような本の存在を示唆するもの として、それ自体、独立に価値があるのである。 ついでに言っておけばここで「同種」と言うのは民族のことではない。 「高句麗は扶余の別種なり」という、あの「種」である。つまり王朝の系統 のことである。
470 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 15:20:24
466です 電波など言ってません。貴方が電波を述べているのでは? 上のように証拠はあります。 八幡はなぜ「やはた」で、 それが天皇家の宋廟なのですか? 狭い知識で、思い込むとスキだらけですよ。
471 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 15:21:31
○468 ×468 間違いです。
472 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 15:21:39
>>468 知るか、そんなもん。
天皇家に仕えた家柄だからじゃないのか?
今でも子孫が働いてるな。
473 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 15:25:20
>>472 それが電波なんですよ。
>天皇家に仕えた家柄だからじゃないのか?
>今でも子孫が働いてるな。
私は電波などいっておりませんので。
474 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 15:28:31
>>473 いったい何のだ?
天皇家中国人説に誘導したいのか?
475 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 15:29:21
私は電波などいっておりませんので。 失礼にも程がある!
477 :
日本@名無史さん :2006/08/02(水) 15:39:12
>>475 じゃあ東儀秀樹の先祖は秦氏というよりは、そのルーツである天皇家という事になるのか。
その割には随分軽んじられているような気がする。
478 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 00:13:38
>>462 秦氏ユダヤ人説っていうのは結局誰が広めたんだ?
秦の始皇帝でさえ激しい誇張と言うか捏造と言うか、恐らく鍍金目的なのに、
ユダヤ人とは凄過ぎる。
479 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 00:17:49
>>477 >その割には随分軽んじられているような気がする。
わたくしのかんがえをいれすぎだな
みっともね、おこられてるし
480 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 07:56:33
>>465 >ある程度歴史を学んだ方なら、ほぼ総てがその疑問の対処を学んでいるのに、
>そしてそれは暗黙の了解で、触らぬように扱われているのです。
ここは良くわかります。「ある程度歴史を学んだ方」の苦悩が。
しかしほかのところは私の頭脳ではなんかい読んでもわかりませんでした。
けっきょくのところ、あなたの考えでは天皇家と多氏の関係はなんなのか。
そして多氏はなぜ皇別なのか。
これだけについて、具体的に書いてください。
481 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 10:04:01
多氏は日本最古の皇別氏族だそうだから、渡来人の可能性は少ないのでは ないだろうか?
482 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 10:10:04
>>462 >多氏(おおし)は、日本最古の皇別氏族とされている。太、大、意富、飯富、於保とも
記され、九州と畿内に系譜を伝えている。
九州土着勢力か?
483 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 10:27:23
ちなみに肥前国佐賀郡於保村ってのがあったのな。 於保という苗字の日本人は、今でも結構いるぞ。
484 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 14:50:39
>>481 >多氏は日本最古の皇別氏族だそうだから、渡来人の可能性は少ないのでは
>ないだろうか?
日本最古の皇別氏族であるにもかかわらず、渡来人である証拠は多くある。
>>465 はそれを知っているから悩んでいるのだ。
もちろん、天皇家も渡来人であればなんの問題もないけどね。
485 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 14:59:38
>>480 >しかしほかのところは私の頭脳ではなんかい読んでもわかりませんでした。
お前に頭脳があるのか?それは味噌だから解らんのよ!
486 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 15:06:38
>天皇家も秦氏も多氏も安曇氏も物部氏も蘇我氏も葛城氏も中臣氏も・・・ >殆どの有力氏族は、天皇家を祖とする氏族です。 >何しろ神々の時代から、近親相姦の血の濃さを重視する天皇家が、 >別祖の氏族と易々と婚姻するでしょうか? >記紀でも墓記(系図)等をわざわざ回収して、直させています。 >云わば改竄をしています。 >それは記紀を外国に見せる為に、 >近親相姦を隠す事が必要だったのです。 >しかし記紀後でも天皇家では、近親相姦は続きましたが・・・ >この辺の証拠は貴方も見つけたように、かなり方々で確認できます。 近親相姦隠す為に、系図を別けたって書いてあるぜ!嫁ねーのか? 馬鹿はねててほしいな
487 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 16:36:45
>>486 横レスするよ。
よーするに、天皇家は古代から純潔を保つために近親相姦を繰り返した。
そのことを隠す為に各種家系図や新選姓氏録を改竄しまくった。
で、秦氏も蘇我氏も初めから天皇家と同祖であり、、、
ゆえに、よそ様の血は一滴も入ってねーだよ、秦も葛城も多も皆最初っから
親戚なんだべさ!シナ人でも半島人でもねーだよ、、という訳か?
俺は馬鹿じゃないから理解するが、、、すげーな。
488 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 17:35:34
日本の土着系は完全に天皇を祖とする民族集団として天皇を祖としていて、 あるいはそれが古過ぎる場合は新たに一族の娘を天皇に嫁がせて産まれ た子供を祖としたかもしれない。完全な渡来系は嫁がせて産まれたた子供 を自分達の祖としたという違いはあるかもしれないけど。 その際に疑問となるのが平家系の勢力の祖で、どうなっていたのか気にな る。もともと天皇を祖としていたか、そうでなかったかが。もしかしたら 当事者も良く分からないままだったかもしれないな。
489 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 17:53:57
とにかく色んなところからよりすぐられた美少女を、しかも頼まれて 妻にする大昔の天皇って最高にいい暮らしだったんじゃないか? 右を向いても左を向いても寝てもさめても美女美女美女だぞ。
490 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 18:21:41
>>488 >完全な渡来系は嫁がせて産まれたた子供
を自分達の祖とした
これはあるかも知れんな。
491 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 19:42:04
>>486 >近親相姦隠す為に、系図を別けたって書いてあるぜ!嫁ねーのか?
そんなことがあったとして、そのことと多氏が渡来系であることと、どのように
つながるのか、それがわからないと言っているのだ。
>>489 半島北部の馬賊の大将と勘違いしてないか、「喜び組」だったかな?
493 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 19:59:40
天皇(神武天皇)にはヒメタタライスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)との間の子の他に、 日向にいたころにアヒラヒメ(阿比良比売)との間にタギシミミ(多芸志美美命)、キスミミ (岐須美美命)の二柱の子をもうけていた。天皇が亡くなった後、タギシミミはヒメタタラ= イスケヨリヒメを妻にし、その3人の御子を殺そうと計画していた。それを知ったイスケヨリヒメは 3人の御子にそれを知らせようと、 「狭井河から雲が立ち登って、畝傍山では大風が吹く前触れとして、木の葉がざわめいている」 という内容の歌を詠んだ。その歌の意味を理解した御子たちは、すぐにタギシミミを殺すことにした。 カムヌナカワミミ(神沼河耳命)は、兄のカムヤイミミ(神八井耳命)に武器を渡してタギシミミを 殺すように言った。しかし、カムヤイミミは手足が震えて殺すことができなかったので、 カムヌナカワミミが兄の持っている武器を取って、とどめを刺した。 カムヤイミミはこの失態を恥じ、弟のカムヌナカワミミに皇位を譲り、自らは神官となって 仕えた。 タギシミミ=タギシ御命 カムヌナカワミミ=カムヌナカワ御命 ミミ=御命 御命→命(ミコト)
494 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 20:04:07
この神話は、神武天皇の死後、日向国の皇族と大和の皇族(物部氏と出雲氏の連合)が 皇位継承を巡って抗争した事を伝えている。 事実、神武天皇が崩御した後、天皇の座は4年間も空位であった。
495 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 21:28:24
>>491 >しかしほかのところは私の頭脳ではなんかい読んでもわかりませんでした。
お前に頭脳があるのか?それは味噌だから解らんのよ!
497 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 22:19:55
>>495 もうなんでもよか!
卑弥呼は、公孫氏の末裔でもいいっ(爆)!
卑弥呼は、教養として中国語が堪能だったと思われる。
というのは、『三国志』の中に、卑弥呼が魏に使いを送り上表文を読ませた
という記述が出てくるからだ。(出てきたと思う)
公孫氏の出身なら、ありえるかもな〜〜〜〜
個人的には奴国王もペラペラだったと思う。
倭人の支配層の語学力はすごかったのだ、たぶん。
498 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 22:23:05
下記にご不満ある? 「天皇家は近親相姦が大好きでした。」 これを覆す資料を、是非だしてほしいね。 僕天皇だけど、おねーさんもいもーとも大好きなんだ!文句あるか!
499 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 22:28:25
というか、騎馬民族論てどうなったの?
500 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 22:31:10
>>498 あんた馬鹿か?
>>491 は、
秦や多が、天皇家をルーツにしているという証拠を見せろって言ってんだよっ!
手っ取り早く言えば、資料出せって言ってんじゃねーのか?
だいたい、最初に絡んできたのは、テメーだろう?!それにここは、騎馬民族を
云々するスレなんだよ。
>>500 491さん どこに資料出せって書いてある?
しかも証拠を自分で出してるぜ、遡ってよく見ろ!
最初に証拠だして、馬鹿こいてたのは、君だよ。
本当に騎馬民族は秦や多だけか?天皇家は違うのか?
違うと思うなら最初からスレタイにそう書けよ。
何がスレ違いなんだ?お前大丈夫か?
502 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 22:40:45
下記にご不満ある? 「天皇家は近親相姦が大好きでした。」 これを覆す資料を、是非だしてほしいね。 僕天皇だけど、おねーさんもいもーとも大好きなんだ!文句あるか!
503 :
本田 :2006/08/03(木) 22:50:31
------------------------------------------------------------
>豪華絢爛の三国時代と甦る百済王朝、
>時代に翻弄される百済国王「武王」の甘く切ない恋をドラマティックに描いた『ソドンヨ』
>*「チャングムの誓い」の制作陣が作る最高の時代物!!
>*原題:薯童謠(ソドンヨ)
http://www.kntv.co.jp/prog/dra/p0229.php こんなドラマが日本でも流行すると、
三国史記や三国遺事も日本で読まれるようになって、
古事記や日本書紀ばかりが古代史じゃないと、
みんな気がついて欲しいな。
あぼーん
505 :
500 :2006/08/03(木) 23:26:11
>>501 ハァ?
あんた人違いじゃないの?
誰かと間違ってるよ。
506 :
日本@名無史さん :2006/08/03(木) 23:31:16
>>501 >本当に騎馬民族は秦や多だけか?
誰がそんな事言っているんだ?
秦や多が騎馬民族だと思っている香具師は、お前だけだろ。
どこに機織って、都市整備する騎馬民族がいるんだよ。
馬鹿じゃないのか、さっきから見てれば。
507 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 02:08:23
>>506 おまえHOTだな!こんなレスして大丈夫か?
>秦や多が騎馬民族だと思っている香具師は、お前だけだろ。
じゃあ古墳はどの民族の特徴だ?騎馬民族以外なのか?
兵馬傭に馬だらけであれどう説明する?
中国人が古墳作って、馬だらけ・・・あれ騎馬民族じゃないの?
それとも秦氏は甕棺の南方系なのか?
>どこに機織って、都市整備する騎馬民族がいるんだよ。
騎馬民族は衣服は着ないのか?スーパーで買ってくるのか?
騎馬民族は道を歩かないのか?日本では勝手に道が出来るのか?
道であろうが基礎工事が必要なんだぜ!
お前考古学オタクだろ!ちゃんと答えろよ!
508 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 04:36:22
>>500 >
>>491 は、 秦や多が、天皇家をルーツにしているという証拠を見せろって言ってんだよっ!
>手っ取り早く言えば、資料出せって言ってんじゃねーのか?
私は
>>491 だが、上記は私の主旨ではない。
私は
>>461 で、多氏が渡来人である可能性が強いのに、皇別であるのはなぜか、
ということを指摘したのだ。(天皇家もまた渡来人であれば問題はない)
それに対して
>>465 氏が、(恐らく)多氏渡来人説を前提にして、すなわちそのことを
認めた上で、それに対する「対処法」を説いた。
それによれば、天皇家が近親相姦を隠すために、多氏などの分家をたくさん作った、
ということだ。
しかし、このことが事実だとしても、その事実は最初に指摘された矛盾(多氏が
渡来人であると同時に皇別であるという矛盾)を説明していない、と私は思う。
だから私は「なんかい読んでもわかりません」と言ったのだ。
その後、
>>465 氏も含めて、上記の矛盾に対する説明はまだなされていないようだ。
509 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 08:20:43
>>507 秦は中原の西部に起こった国だが、民族構成がどうなっていたかはいまいち分からないし、
秦氏が中国系だとしても、先祖は秦の支配地域から(辰韓辺りに)亡命して来ただけの可能性
がある。
確かに西域は絹織りが盛んだったようだが、仮に先祖が西域出身でも、馬から下りて、
機織ったり、畑を耕したりしている時点ですでに「騎馬民族」とは呼べないんじゃないのか?
秦氏関係の神社
http://kamnavi.jp/mn/hatauga.htm 機物神社、服部天神宮、呉服神社、穴織神社・・・
養蚕・機織くさい名前の神社ばかりだが、絹織り自体は、邪馬台国時代から行われている。
510 :
がいやまん :2006/08/04(金) 08:22:46
>>495 天日矛は亡命かもしれないが、逃亡したアカルヒメを追ってきたとか、古めくが、
芦原シコオ(出雲族か)、イワ大神(阿讃播あるいはイワレの神か)などと干戈を
交えたとか、垂仁が出石、淡路提供を申し出たが、好きさせてくれといい、近江、
若狭、丹後、但馬ルート、つまり、安曇メインルートで出石に収まったりしている。
終末期の銅鐸の意匠変化とか、国産銅鏡の生産にもかかわったのかもしれない。
出雲とは仲がよくないが、これは時代による交易ルートの変化とも関係があるのか、
あるいは、出雲に朝廷寄りと思われたのだろうか。関係リンク先としては↓
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/jinm/jin3.htm
511 :
がいやまん :2006/08/04(金) 09:16:18
アカルヒメの弁明によれば天日矛は秦的官僚主義者で稲作文化には不理解というし、 タジマモリの説話は徐福のミッションの延長のようだ。であるから、技術者には呉、燕 等のものもいたであろうが、上層部は秦系とも見られる。出雲族が嫌ったのは鏡文化 という宗教上の理由ではなかっただろうか。
512 :
がいやまん :2006/08/04(金) 09:19:26
不理解ではなく、無理解であった。漏れはツチグモだから漢字には弱い。
513 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 12:41:36
>>508 矛盾?の説明はとっくに終わってるよ。
>天皇家も秦氏も多氏も安曇氏も物部氏も蘇我氏も葛城氏も中臣氏も・・・
>殆どの有力氏族は、天皇家を祖とする氏族です。
>何しろ神々の時代から、近親相姦の血の濃さを重視する天皇家が、
>別祖の氏族と易々と婚姻するでしょうか?
>記紀でも墓記(系図)等をわざわざ回収して、直させています。
>云わば改竄をしています。
>それは記紀を外国に見せる為に、
>近親相姦を隠す事が必要だったのです。
>しかし記紀後でも天皇家では、近親相姦は続きましたが・・・
>この辺の証拠は貴方も見つけたように、かなり方々で確認できます。
近親相姦隠す為に、系図を別けたって書いてあるぜ!嫁ねーのか?
>秦氏が祭祀している神は、天皇家の血筋ですね、
>何故でしょうか?
>八幡はなぜ「やはた」で、
>それが天皇家のの宋廟なのですか?
これだけの証拠あんたは論破できるのか?
514 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 12:46:22
>>509 >機織ったり、畑を耕したりしている時点ですでに「騎馬民族」とは呼べないんじゃないのか?
だから秦氏は服は着ないのか?裸で生活してたのか?本当に馬鹿だな!
よほど暖かい地方じゃなけりゃ、機織するに決まってるだろ!
兵馬俑の話ちゃんと返事しろごまかす気か!
世界中の温帯以北の民族で、 服着ないでどうやって暮らすんだ? その服どうやって作るんだ? 騎馬民族が、肉食のみなんて考えてるのは誰だ! 現在モンゴル人も肉以外食べてるし、耕作してるぜ。 元の皇帝は穀物は食べなかったのか? 思い込みの強い人だね、 疑問に思ったこと一度も無いんだろ! お前脳みそ本当にあるのか?
516 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 13:55:12
>>513 もはやあきらめた。始めに戻ろう。
多氏は、
>>465 も認めるように、渡来人である可能性が強い。
と同時に、新撰姓氏録によれば多氏は皇別である。皇別とは、天皇家から別れた
氏族である。
天皇家が土着であるとすれば、天皇家から別れた多氏が渡来人であるというのは
明らかに矛盾する。
このことの唯一の説明は、天皇もまた渡来人であるということである。
517 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 14:47:08
>>516 多氏が渡来人でなければならない理由がよく解らん。
渡来してきたとしても、ものすごく古いんではないか?
秦氏の渡来は、せいぜい4世紀中頃以降だろう。
秦氏と関係が深いからというだけなら、根拠が薄い。
>>517 頭悪けりゃ此処に来ない方がよろしいですよ
519 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 18:40:32
>>517 こいついっつも解らんとか、
読めないとか言って、
無視するんだよ。
問題外だよな!
通りすがりだが、渡来人云々以前に、新撰姓氏録を事実を伝えたものと考えるのはまずいのでは? そもそも記紀神話の八百万の神々は、大和朝廷による統一の過程で在地の勢力で信仰されていた 神々を、中央の神々と関連づけて取り込んでいったために出来上がったものと考えると、 皇別だからといって単純に考えるわけにはいかない希ガス。 特に多氏の場合、神八井耳命という神武天皇の子を系譜上の祖としているため、神武東征伝説が 発生する以前の時代に遡って天皇家と関連づけるのは難しいことになる。 (神武天皇の神話以外の文脈での初出は天武天皇元年条。 まあここの人たちは神武天皇の実在性を認めた上で議論してるのかもしれないけど。) 多氏と天皇家との関係が作られたのはむしろ新しい時代だったので、近い時代の系譜に 割り込ませることができなくて、神武天皇などの後世作られた神話的な系譜に連なることに なった希ガス。 あと韓神に関して、韓神とも目されるオオナムチは元々、大和朝廷の祖である高天原の神々に 征服される出雲の土着の神なわけで、天皇家がオオナムチをマツルのは上と同じく大和朝廷に 帰順した神々としてマツラれているのだと思われ。 したがって、本来天皇家と血縁とか祖先とかではなく、やはり比較的新しい時代に出雲との 関係ができた時に、天皇家の系譜に組み入れられたと考えられるのでは? ついでに言うと、天皇家が半島と関連のある氏族を神話上の系譜に取り込んだのは、元々、 記紀神話成立時代の背景として、失われ行く朝鮮半島南部における大和朝廷の権益を 主張するためであったと思う。 夢もロマンもないけども、神話と呼ばれるものの大部分はずっと新しい時代の思惑で 創作されたものだという視点が欠けてる希ガス。
521 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 20:21:46
★倭姫命は卑弥呼なのか★ 倭姫命(やまとひめのみこと)は、古代日本の人物。 第11代=垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により伊勢神宮などを建立したとされる。 伊勢神宮最初の斎宮(齋宮)である。皇大神宮別宮の倭姫宮に祀られているが、その創立は大正10年1月4日であり、 神宮別宮としては極端に新しい神社である。 伊勢神宮を建立したときの天照大神から倭姫命への神託は、『日本書紀』垂仁天皇25年春3月丁亥朔丙申条では 「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」、『倭姫命世記』では「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也 傍國可怜國也 欲居是國」であり、神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰(よ)する国、方国(かたくに)の すばらしい国なり。この国におらんと欲(おも)ふ と伝えられている。 倭姫命が伊勢神宮を建立するまでに八咫鏡を順次奉納した場所は元伊勢と呼ばれている。 また、日本武尊に天叢雲剣を与えた人物でもある。 倭姫は卑弥呼なのだろうか。卑弥呼が死去したのは247年頃だと言われている。 時代的には、卑弥呼が活躍した時代と倭姫の時代は重なるのだが。
522 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 20:55:19
>>520 そうだよ、神話って政治的なもんだ。特に「記紀」はね。
あれは100%政治的目的によって成立したもんで、事実も含んでいるが、
対外的な政治的影響を狙ったものと捉えた方が懸命だ。
信用できない度 檀君神話>>>>>(決して越えられない壁)>>クトゥルフ神話>>>>記紀神話
懸命か、懸命だな! 新選姓氏録の方が、記紀より信用おけると思うぜ、 だって記紀は、欠史八代とか時間の、明らかな間違いがある文書だぜ。 新選姓氏録に、明らかな間違いはあるのか?
525 :
本田 :2006/08/04(金) 21:18:55
>>509 >秦は中原の西部に起こった国だが、
>民族構成がどうなっていたかはいまいち分からないし、
兵馬俑や皇帝の墳墓を見ると、
秦はペルシャの影響が強い。
発掘した中国政府は、ちゃんと把握しているはず。
墳墓は発掘後埋め戻され非公開。
>秦はペルシャの影響が強い。 だからなに?
527 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 21:56:30
>>523 「史記」>>>「三国志」>「後漢書」≧「日本書紀」>>>>「古事記」>>>∞>>「何とか神話」
だろうな。
528 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 21:57:59
↑ ちなみに、信用できる度ね。
529 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 22:01:37
>>525 >発掘した中国政府は、ちゃんと把握しているはず。
君はその発掘現場に立ち会ったのかね?
「はず」って何だ、「はず」って。
530 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 22:10:27
>>524 『新選姓氏録』を信用してみたいよ。
怪しい記述は多いけどな、秦氏が始皇帝の子孫とか。
中国人かも知れんが、いくら何でも言い過ぎだろう。
531 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 22:12:29
>>530 その怪しい記述の理由は?
また思い込みだろ!
>>524 新撰姓氏録自体が記紀神話に依存しているから記紀神話以上の信頼性は当然のことだがない。
533 :
本田 :2006/08/04(金) 22:14:02
>>527 >
>>523 > 「史記」>>>「三国志」>「後漢書」≧「日本書紀」>>>>「古事記」>>>∞>>「何とか神話」
> だろうな。
史記は、始皇帝の焚書の後で書かれているので、
信用できない。
534 :
本田 :2006/08/04(金) 22:20:02
>>529 >
>>525 > >発掘した中国政府は、ちゃんと把握しているはず。
> 君はその発掘現場に立ち会ったのかね?
いいえまた聞きです。
> 「はず」って何だ、「はず」って。
何か非公開になった理由があったとゆうこと。
535 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 22:21:02
>>531 とりあえず、始皇帝よりも徐福の方がロマンがあるからだよ〜(なんてな〜
536 :
日本@名無史さん :2006/08/04(金) 22:22:39
>>534 >何か非公開になった理由があったということ。
なんちゅう曖昧な…
プラムおとーさん、本当は子供なんて居ないんでしょ?
モンゴル人は服は毛皮で肉食が主体 穀物等の農産物は農耕民から手に入れる ビタミン摂取のために茶を良く飲む という話を聞いた
と言う話を聞いたプラムおとーさん。子供は自称いるらしい。
540 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 10:17:28
結局、騎馬民族って何なんだ。
541 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 10:34:01
目の錯覚だろう。
>>540 馬もってりゃ騎馬民族さ!
第一細かい定義立てる自体おかしいね!
543 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 14:20:50
「騎馬民族」とは、遊牧が主体で、戦術として騎馬戦を使う民族の事だろう? そんな民族、日本にも半島にも殆どおらんかったのよ。
九州じゃ副葬品で、 馬具が沢山出土しているし、 全国に残る牧地名はなんだろな?
545 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 15:32:01
馬具以外のものが一切注目されないのが残念だ。 馬具なんて、実際には、古墳時代の一部でしかない。 列島が馬に占領された形跡もない。 輸入したんだろ、馬とか馬具とかをよ。
546 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 15:34:04
>>544 とりあえず、古墳時代に馬をどういう風に搬送したか、
説明して見れ。
>>545 コイツ何も言ってないよな?なにが言いたいんだ?
輸入するのは当たり前だな、だからなんなんだ?
それに牧地名って牧場だと知らないのかな?
和名抄みると一杯牧場話あるよ、馬かってたんだって。
550 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 15:41:05
説明不足。 船で運べるが、まとまった頭数を運ぶのはきっと結構大変だぞ。 時間がめっちゃくちゃかかったはずだ。 一度に大量には運べん。
大量に運ぶ必要はないだろ。 オス、メス一頭ずつ輸入して、国内の牧場で繁殖させれば良い。 飼育係も数名呼ぼう。それで十分だ。 ところで騎馬民族って誰のこと?騎馬民族が馬ごと船に乗り込んで征服王朝? 何それ?もしかしてギャグ?
553 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 15:59:55
>>552 まじめにレスする気ないだろ その改行!
だれが大量に運ぶなんていいました?
大量に運ばないんだったら、征服王朝を考えなくても 飼育員さんとお馬のカップル輸入で説明つくじゃない、 という論旨が馬鹿には読めない空行に書いてあるよ。
>>554 ははは・・・
語るに落ちまくりだね、
大丈夫かあたま!
556 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 18:25:02
>>520 >あと韓神に関して、韓神とも目されるオオナムチは元々、大和朝廷の祖である高天原の神々に
>征服される出雲の土着の神なわけで、天皇家がオオナムチをマツルのは上と同じく大和朝廷に
>帰順した神々としてマツラれているのだと思われ。
韓神って、存在しないでしょ。
檀君のことは<朝鮮神>と呼んだほうがいいね。
韓神っていう表現だと、「韓国の神」と誤解されてしまうしね。
557 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 18:26:25
オオナムチは出雲の王族だろう。
558 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 18:28:02
神功皇后が三韓征伐して新羅を討ったあと、新羅の国王が降伏して、今後は天皇の 馬飼いとして仕えます、と誓い、毎年馬と馬飼いを日本へ贈って来たという記録が あるな。 その牧場の遺跡が北河内の四条畷にあるらしい。枚方の牧野もそれだろう。
あぼーん
560 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 18:41:29
★倭姫命は卑弥呼なのか★ 倭姫命(やまとひめのみこと)は、古代日本の人物。 第11代=垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により伊勢神宮などを建立したとされる。 伊勢神宮最初の斎宮(齋宮)である。皇大神宮別宮の倭姫宮に祀られているが、その創立は大正10年1月4日であり、 神宮別宮としては極端に新しい神社である。 伊勢神宮を建立したときの天照大神から倭姫命への神託は、『日本書紀』垂仁天皇25年春3月丁亥朔丙申条では 「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」、『倭姫命世記』では「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也 傍國可怜國也 欲居是國」であり、神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰(よ)する国、方国(かたくに)の すばらしい国なり。この国におらんと欲(おも)ふ と伝えられている。 倭姫命が伊勢神宮を建立するまでに八咫鏡を順次奉納した場所は元伊勢と呼ばれている。 また、日本武尊に天叢雲剣を与えた人物でもある。 倭姫は卑弥呼なのだろうか。卑弥呼が死去したのは247年頃だと言われている。 時代的には、卑弥呼が活躍した時代と倭姫の時代は重なるのだが。
オオナムチが韓神とされるのは、おそらく、渡来神の面影の濃いスクナヒコナとともに 国づくりを行ったとされるからだろう。 出雲風土記には有名な国引き神話があるが、八束水臣津野命が新羅や北陸から土地を 引っ張って島根半島を作ったことになっている。 出雲は日本海沿岸の交流拠点として国際色豊かな土地柄だったのだろう。 おそらく記紀神話の出雲国の国譲りの説話からみて、オオナムチを韓神と見なす意図は、 朝鮮半島の神もまた皇孫に帰順したのだ、という結論を導くことにあると思う。
562 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 20:21:50
>>520 >多氏と天皇家との関係が作られたのはむしろ新しい時代だったので、近い時代の系譜に
>割り込ませることができなくて、神武天皇などの後世作られた神話的な系譜に連なることに
>なった
それはその通りだろうが、皇別でもない人を皇別にするために神話的系譜を作った、
という意味なら、無理があるだろう。やはり実際に皇別であった、あるいはそのような
伝承を持っていたから、それに合わせて神話的系譜を作ったのだろう。
多氏と同じようなもうひとつの問題は蘇我氏である。蘇我氏は皇別氏族に出ていないが、
他の皇別氏族の祖として出てくる(そして神別、蕃別には出てこない)から、皇別と
されているようだ。
ところが蘇我氏は日本書紀の中で三韓と極めて関係の深い書き方をされているし、
木満致のような、両国の歴史にまたがった人物もいる。蘇我氏は渡来系である可能性
が高い。
皇別の始まりは清王朝における「満洲」(政治的階級としての満洲)のようなもの
だったのではないか。つまり征服者である王と、その周辺の狭い範囲の集団、それが
皇別だった。そして同じ集団の出であっても、征服に立ち会ったのでなく後から
来たものは「今来」として「諸蕃」に入ったのではなかろうか。
(それが親戚でありながら皇別と諸蕃に別れる、多氏と秦氏の違いではないか?)
>>562 >やはり実際に皇別であった、あるいはそのような伝承を持っていたから、
>それに合わせて神話的系譜を作ったのだろう。
もしそれが本当なら、神八井耳命に始まる系譜はなんらかの事実に基づく
伝承の反映と考えられることになります。
そこで、神八井耳命の生まれてくる環境を良くみてみましょう。
父は神武天皇ですが、母は古事記によると比売多多良伊須気余理比売で、
この比売多多良伊須気余理比売は大物主の娘とされています。
大物主は大国主の和魂であり、大国主とは大己貴(オオナムチ)の
別名とされます。(つながってきましたね。)
元々出雲東部には意宇(おう)という地名があり、大国主とは意宇国主、
つまり意宇を統べる氏族の長であったと考えられます。
さて多氏の伝承上の祖である神八井耳命は出雲の意宇氏の流れにあることが
わかります。
もうわかりますね。多氏の本来の祖は出雲の意宇氏なのです。
この神話上の系譜の骨子となるのは、意宇氏から天皇家への嫁入りによる
婚姻関係によって縁戚関係が生じた、ということなのです。
ですから、なんらかの史実の反映があったとしても、天皇家の出自には
なんの関係もない話になってしまいます。
この辺にしておきますが、いずれにしても新撰姓氏録を元に天皇家の出自を
云々というのは非常に荒っぽい議論であると思います。
>>563 貴方の想像と証拠だけでは、非常に荒っぽい議論になると思います。
>>565 証拠次第でいんじゃない、
感情で決めてるから、
想像ばかりで話が進みます。
誰も理解しませんよ。
>>566 想像でもなんでもなく
>>562 の言うように神話が史実を反映していると仮定して
古事記の系譜に基づいて考えたものです。
>>562 の言に従ってみても、天皇家の出自に関する新しい発見は何も無いという
ことが、主張の中心なのですから、もっとまともな論を出すべきなのは
>>562 や
>>461 でしょう。
568 :
日本@名無史さん :2006/08/05(土) 23:14:45
あぼーん
571 :
日本@名無史さん :2006/08/06(日) 03:04:19
1980年大野晋学習院大学教授は 1、タミル語と日本語の間に500と少々の朝鮮語の対応語がある。 2、カンナダ語と朝鮮語の間に400の対応語がある。 3、タミル語と日本語との間には、音韻、語彙、文法が全く同じである。 と発表。 従って、この4種類(日本語・タミル語・カンナダ語・朝鮮語)の言語は共通点が多いのです。 日本語とタミル語が似ているか並べて見ますと @ すべての音素にわたって音韻の対応がある。 A 対応する単語が基礎語を中心に500語近くある。 B 文法上、ともに膠着語に属し、構造的[S(主語)O(目的語)V(動詞)]に共通である。 C 基本的な助詞・助動詞が音韻と用法の上で対応する。 D 歌の五七五七七の韻律が共通に見出される。 そんなに似ているのだったら、通訳ナシで話が出来るのではないだろうかとおっしゃる方もいらっしゃいますが、通訳ナシではとても会話は無理です。 考えてもみてください。 40年前までは、青森や鹿児島の人の会話は成立しなかったのです。
572 :
日本@名無史さん :2006/08/06(日) 14:33:03
>>571 >タミル語と日本語との間には、音韻、語彙、文法が全く同じである。
これだけ共通点がありながら、真面目に論じられていないとしたら、逆に大問題だな。
573 :
日本@名無史さん :2006/08/06(日) 19:43:12
>>563 >もしそれが本当なら、神八井耳命に始まる系譜はなんらかの事実に基づく
>伝承の反映と考えられることになります。
私はそんなことは言っていない。多氏が皇別であるという「事実」または
「伝承」が先にあって、それを歴史記述に反映させるために、例えば神武天皇
の話を創作したときに、ついでに多氏起源説話を創作して挿入することはできた
だろう、と言う意味だ。
>さて多氏の伝承上の祖である神八井耳命は出雲の意宇氏の流れにあることが
>わかります。
>もうわかりますね。多氏の本来の祖は出雲の意宇氏なのです。
母方を「祖」と呼ぶかどうかは知らないが、神八井耳命の父が神武天皇、母が
オオナムチの娘であることは古事記に書いてある。
古事記にそう書いてあるから多氏は渡来系ではない、という論法かな?
秦氏と多氏の関係についてはどう説明するの?
574 :
本田 :2006/08/06(日) 20:49:34
575 :
日本@名無史さん :2006/08/06(日) 20:56:33
ズッコケてよろしいですか?
一緒にズッコケテよろしいですか?
>>573 >「伝承」が先にあって、それを歴史記述に反映させるために、例えば神武天皇
>の話を創作したときに、ついでに多氏起源説話を創作して挿入することはできた
>だろう、と言う意味だ。
ですから創作であれなんであれ、古事記の記述から多氏に
つたわる伝承の骨子を抽出したわけです。
古事記の編者とされる太安万侶は多氏ですから自らの氏族の
来歴に関しての記述は信頼できると思います。
つづきです。
>>573 >古事記にそう書いてあるから多氏は渡来系ではない、という論法かな?
違います。
出雲東部は古墳時代に入ったあとも、しばらく前方後円墳が作られない独自の
墓制を保った地域でした。
国引き神話や弥生人骨などに見るように、朝鮮半島とも独自の交渉ルートを
持つ、渡来系とも関係の深い氏族であったと思います。
逆に言えば、墓制が独自のものであることからわかるように、元々は皇孫たる
大和王権とは独立した氏族だったのです。
オオナムチの国譲りの神話が示唆するのは、長く独自性を保った出雲が、
大和王権の支配下に入るにあたって、出雲独自の神々が大和の神々の系譜に
組み入れられたという点です。
その結果がスサノオに始まる国津神たちなのです。
神話の中でスサノオやオオナムチが天津神に対立する存在として描かれるのは
出雲の大和への抵抗と帰順の歴史が背後にあると考えて間違いないでしょう。
(しかも皇孫の系譜に組み入れるにあたって、わざわざオオナムチの和魂という
形で悪者としての性格を打ち消しています。)
そして対立する神々が皇孫の系譜に組み入れられたのは他でもない、出雲が持っ
ていた朝鮮半島における利権を譲り受ける正当性を大和王権が確保するためなの
です。
オオナムチが韓神なのも、スサノオが半島に降臨するのも、出雲の(そして観念的な
半島諸国の)征服者である皇孫がその所有権を主張する為でしょう。
(大和朝廷が半島における利権を失っていった時期に神話が成立しているであろうことを
思い出しましょう。)
「皇別」の事実や秦氏との関係だけから、天皇家の来歴まで想像するのは、
自分には単純すぎると思いますです。
579 :
がいやまん :2006/08/07(月) 06:30:57
中国が簡体字、上古・中古音復元で敵対する周辺の西蔵、越南、台湾、日本、朝鮮 当局の十分な合意を得て進めたかというと、国内の少数民族はおろか、方言地域との 調整すら十分に行わない北京官話の独善専制、中華的手法がとられたといっても過言 ではないと思うが、日本の中国語学者がこうしたものを金科玉条とするが故に、たとえ ば、「倭」は委任の「委」と同様であるとされると、現代中国語では「我」と同じウォーであ り、「魏」が「委任」と同様ウェイであり、異なっていることから、古代において「倭」が オオ、オウと発音された可能性は大きく、ワとは文書で和を使用することがあっても、 「和」の現代中国語はマージャンの天和、地和のホウであり、ワよりかむしろオオ、オウ である。もちろん、「我」の例もあり、ワもある時代には正しいだろうが、オオ、オウは排除 しきれない。
580 :
がいやまん :2006/08/07(月) 06:34:44
呉の太白に近い上海の人にいわすれば、上古・中古は多分日本語に近かったはずで あり、日本のお葬式のお経がずばり理解できるという。
581 :
がいやまん :2006/08/07(月) 06:42:37
韓国の釜山、それに近い金海の付近に水石里遺跡 があるが、「勒島貿易と原の辻 貿易勒島貿易と原の辻貿易」という研究では、 「水石里式土器は,舶載青銅器の登場と軌を一にして日本列島に登場するので, 青銅器を搬入した人びとの土器である蓋然性は高い。また,擬朝鮮系無紋土器と 呼ばれる変容した土器を生み出すことから,朝鮮半島からの人の移住が想定され ており,筑後平野や肥後地域ではそのような集落が青銅器生産に関与したことが 指摘されている。北部九州のほか,有明海沿岸や南九州,山陰沿岸にも分布して おり,海を利用しての直接の渡来も想定できる。」
582 :
がいやまん :2006/08/07(月) 06:50:53
上記は弥生前期末〜中期初頭、時あたかも、戦国末であり、燕人というか、秦の 長城建設の苦役を逃れたものも多かったこととであろう。後の高地性集落に傾斜地 建設技術の伝統があるのではないか。
583 :
日本@名無史さん :2006/08/07(月) 06:56:36
>>580 「お経」って、万国共通で意味も同じなんじゃないのかな?
584 :
日本@名無史さん :2006/08/07(月) 07:56:26
>>583 それは漢字で書いてあるから、字面で見れば日本人も中国人も意味がわかる、
と言うことだろう。
>>580 が言ったのはそうではなくて発音の話だろう。
上海人の漢字の発音が日本人の読み方(音)に近いから、日本人の坊さんが
漢字のお経を棒読みするのを上海人が聞いてわかる、と言うことだろう。
なぜかと言うと、上海語は南方中国語の寄せ集めでできた一種のピジン語で、
その南方中国語は北方より古い形をとどめているから、日本語の読み方
に近いのだ。
例えば、現在の音は似ていないから良い例ではないが、虫の「蝶」は旧仮名遣い
で「てふ」と書いた。これは昔の日本人が「蝶」を「テフ」または「テプ」と
読んだ名残りだ。
その「蝶」は北京語では「ディアオ」だが、広東語では「ティップ」だ。
585 :
日本@名無史さん :2006/08/07(月) 08:05:23
>>584 細かい突込みを入れさせてもらえば、蝶は「ディアオ」じゃなくて「ディエ」だ。
586 :
がいやまん :2006/08/07(月) 08:30:20
>>581 「滑石混和土器を出土する沖縄の遺跡では青銅器片などを出土する場合があり,弥生
前期末〜中期初頭の北部九州に朝鮮産青銅器が流入することと一連の物資の流れが
沖縄まで及んだと考えられるが,古朝鮮の人びとが南方に移動するような情勢がその
背景にあったと考えられる。」漢に追討される燕人が北部九州に身の安全を感じなかっ
たほど、北部九州には漢の影響があったのか、あるいは、甕棺墓文化と衝突したのか。
587 :
がいやまん :2006/08/07(月) 08:33:24
588 :
がいやまん :2006/08/07(月) 08:36:29
589 :
がいやまん :2006/08/07(月) 08:40:49
590 :
がいやまん :2006/08/07(月) 08:43:33
石棺墓だが、アルタイの先史を見ると カラコルスカヤ (多色絵画・鳥・太陽人/動物像)BC2100-1900 オークニェフスカヤ (人面動物石柱・石板墓・円形石囲い) BC1900-1500 アンドローノフスカヤ(幾何学模様土器)BC1500-1100 カラスク(箱式石棺墓)BC1100-800 パジリク(盛土クルガン墳)以下の2時期に分かれる: パジリク・クルトゥースカヤBC800-600 つまり、カラスク文化である。これがオルドスで燕人に伝わるのだろう。
591 :
がいやまん :2006/08/07(月) 09:42:02
592 :
がいやまん :2006/08/07(月) 09:51:47
ブリャート考古学会では方墳と円墳の対立はモンゴル高原西部における モンゴロイド対コーカソイドの文化的対立に端を発するとしている。この対立が 遠く日本において前方後円墳で止揚されたことはまさに和をもって貴しとなすだ。 小野妹子さん、苦労したねー。
593 :
日本@名無史さん :2006/08/07(月) 10:09:05
>>489 確かに、ナマハゲ関係は、九州とか沖縄とか南方に多く見られる風習だよ。
594 :
がいやまん :2006/08/07(月) 10:11:45
595 :
がいやまん :2006/08/07(月) 10:28:31
漏れが妹子さんなら、ヒノモトと申すは、阿蘇山の西に発する国にて、旧倭奴国とは 実は旧倭国であったが、ヒノモトの一部になり申した。ヒノモトの発祥の地は旧倭国 の南方でオジャル・・・なんて煙にまいてやったのになー。首をはねられていただろうな。
596 :
がいやまん :2006/08/07(月) 10:35:48
更に曰く、皆様、この辺でヒノモトの国歌をご披露します。 ♪あんたとこどこさ、肥後さ、肥後どこさ・・・ヒノモトさ、 ヒとは何さ、球磨さ、球磨とはなにさ、久米さ・・・別の名前がクマモトさ♪
597 :
がいやまん :2006/08/07(月) 11:47:14
598 :
がいやまん :2006/08/07(月) 14:06:47
「楽浪人を名づけて阿残となす。東方人は我を名づけて阿となし、楽浪人は本その 残余人という。」これは辰韓人のことだが、泉ピン子などで有名な「おしん」は阿信 と書いてオシンと言う。のどの奥で発音するオであり、日本人環境ではアになりやすい。 阿波と書いたものが、次第に安房というようになるものと似ているのではなかろうか。 しかし、阿波にはなんだか倭のWを日本語環境で発音したために補助的母音が付帯する、 これはRをアルタイ系が発音するときにはよjく発生する。
599 :
日本@名無史さん :2006/08/07(月) 14:12:29
>>577 >古事記の編者とされる太安万侶は多氏ですから自らの氏族の
来歴に関しての記述は信頼できると思います。
普通は、そういう資料こそ信頼しないんだろうけどね。
>>578 なるほど、あなたがオオナムチを渡来人と見ることによって、多氏の「渡来系」
を説明しようとしていることがわかった。
渡来人であるオオナムチの娘が神武天皇との間に神八井耳命を生んだ。
その神八井耳命の子孫だから、多氏は渡来系である、という考え方だと理解
したが、それでいいかな。
そのような考え方に立てば桓武天皇とその子孫も「渡来系」ということになるね。
それと、多氏の本拠は出雲というよりは九州とされているようだが。
601 :
日本@名無史さん :2006/08/07(月) 14:28:03
>>580 もしもし、がいやまん氏・・・
>呉の太白に近い上海の人にいわすれば、
呉の太白には子供がいなかったはずだが、現在の上海に子孫がいるのかい?
あぼーん
603 :
がいやまん :2006/08/07(月) 14:31:44
隠し子で、太黒子と言うのがいたらしいのだが(w 漏れ、かわかわれたのかなー。
604 :
日本@名無史さん :2006/08/07(月) 14:40:07
>>603 >太黒子
微妙w
とりあえず、説明キボン。
中国人が○○の子孫…と言う場合は、直接の子孫の事じゃないと思うよ。
605 :
日本@名無史さん :2006/08/07(月) 15:02:56
>>599 >普通は、そういう資料こそ信頼しないんだろうけどね。
当然ですけど書かれている内容が事実かどうかは別の話です。
(神話上の人物ですし。)
しかし当時の多氏自身が考えていた自分たちのルーツを、
表現したものとして興味深いですね。
>渡来人であるオオナムチの娘が神武天皇との間に神八井耳命を生んだ。
>その神八井耳命の子孫だから、多氏は渡来系である、という考え方だと
>理解したが、それでいいかな。
まだ多少の誤解があるようです。
私は多氏が「渡来系か否か」を論じたのではなくて、「なぜ皇別なのか」を
論じたつもりです。
そして天皇家のルーツとは基本的に異なる氏族であることを書きました。
ついでにオオナムチが韓神に擬せられた理由も書きました。
多氏が渡来系であるにしろ、ないにしろどちらでも成立する論だと思っています。
つづきです。
>>599 >そのような考え方に立てば桓武天皇とその子孫も「渡来系」ということになるね。
桓武天皇と多氏では状況がかなり異なります。
多氏の場合は、本来同一でない先祖を無理矢理同じ系図の上に編み込む為に、
神武天皇の子である神八井耳命という神話上の人物が創作されました。
形式的に父系で天皇家につなげる為で、本来の父系は出雲の意宇氏であると考えられ
ます。
桓武天皇の場合は、高野新笠も白壁王も歴史上の実在の人物ですからね。
いずれにしても多氏から天皇家の出自を邪推するやり方は、今ひとつ有効で
ないと思います。
>それと、多氏の本拠は出雲というよりは九州とされているようだが。
これは簡単です。時間軸を逆転してください。
多氏の系図上の始祖が、神武天皇の子である神八井耳命になってしまったために、
本貫が九州ということになってしまったのです。
多氏が出雲に本来の出自があったことは、太安万侶によるとされる古事記に
出雲系神話が格段に多く採録されていることで間接証明されていると思います。
608 :
日本@名無史さん :2006/08/07(月) 17:39:21
>>585 その通りだった。「蝶」は「畳」などとともに「ディエ」だ。
609 :
日本@名無史さん :2006/08/07(月) 18:38:18
『新しい歴史教科書をつくる会』の設立者の一人であり、
文学博士である西尾幹二氏が、朝鮮民族の性質について鋭い意見を述べているので紹介します。
【外が見えない可哀そうな民族】−西尾幹二氏−月刊誌『正論』より
我々はイスラム教徒が毎日時間がくると一斉に座して、手を前につき、アラーの神に祈りを捧げる風景を見て、
我々とは異なる宗教社会の存在をありありと感じることが少なくないであろう。
しかし、朝鮮半島となると、これは近隣で生活上の見かけも似ているので、我々とは異なる宗教社会が
あそこに存在するとは、なかなかに気がつかない。実は韓国人と韓国社会は、イスラム教とイスラム社会と
同程度か、あるいはそれ以上に、日本からはへだたる異質な社会なのである。
(省略)
西尾幹二先生の論文、実に素晴らしい。韓国人の妄論をバッサリと斬り捨てています。
【外が見えない可哀そうな民族】
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/jsdf/1150817829/217-223 この論文は、マンガ『嫌韓流』にも掲載されました。
610 :
日本@名無史さん :2006/08/08(火) 14:07:13
>>607 >>606 >多氏の場合は、本来同一でない先祖を無理矢理同じ系図の上に編み込む為に、
>神武天皇の子である神八井耳命という神話上の人物が創作されました。
あなたが、天皇家と多氏とが実際は全く無関係であると考えていることがわかった。
それならば、無関係な氏族がなぜ皇別にされたかという、重大な理由が
必要になろう。あなたが以前に言っていた、中国に対する近親結婚の隠匿、
というのがそれだということか。
しかし、なんでそれが近親結婚の隠匿になるのか、それがわからない。
>多氏が出雲に本来の出自があったことは、
多氏出雲出自説には、「意宇」(おう)が大きな要素になっていると思うが、
私には語呂合わせのように思える。
なぜなら、「意富」(おほ)という音は、古代には ofo または opo と発音された。
ou とは全く異なる音である。「おほ」がそのように発音されたことは、中国人が
「おほきみ(大君)」を「阿保鶏彌」と聞き取った、ということ証拠がある。
どうも上記の語呂合わせは、「おう」(例:応)も、「おほ」(例:大、多の訓)も、
「わう」(例:王)も、等しく「お」の長音として意識される、現在の音韻に
影響されているのではないか。
>多氏が渡来系であるにしろ、ないにしろ
多氏が渡来人ではないか、という説は多氏と秦氏の密接な関係を最も大きな
理由にしている。
あなたはこのことについて今まで一言も触れていないが、両氏の関係をどの
ように説明するのかな?
>>610 >無関係な氏族がなぜ皇別にされたかという、重大な理由
>>578 で述べました。
>あなたが以前に言っていた、中国に対する近親結婚の隠匿
その方とは別人です。
>ou とは全く異なる音である。
元々上代日本語には二重母音は存在しなかったために表記上の
ゆれが生じたものと、とりあえず考えています。
>多氏と秦氏の密接な関係
hataが朝鮮古語で「多い」の意味だから、「多氏」と関係がある、
という説のことなら、
すいません途中で送信しました。 hataが朝鮮古語で「多い」の意味だから、「多氏」と関係がある、 という説のことなら、個人的にはこじつけであると思います。 木村さんがアメリカで「ウッドビレッジ」って呼ばれるか? というと、そうではないと思います。
613 :
日本@名無史さん :2006/08/08(火) 15:35:12
hata(多い)→はた→秦(はた) それ以前に、何故に天皇がhataを語源にする『波多』の姓を授け、 「はた氏」が「秦」と名乗らなければならなかったのかが全く分からん。 数ある中で、最も語呂合わせくさい説だ。
higasshihirosima→ひがしひろしま→東広島 数ある中で、最も「ぷ」くさい説だ。
615 :
日本@名無史さん :2006/08/08(火) 18:37:35
hata→はた→秦 やっぱり「ぷ」くさい?
616 :
日本@名無史さん :2006/08/08(火) 21:08:45
>秦氏が祭祀している神は、天皇家の血筋ですね、 >何故でしょうか? 秦氏=松尾山を支配=大山咋神ってだけだろ(w >八幡はなぜ「やはた」で、 >それが天皇家のの宋廟なのですか? 八幡様=応神天皇 で、応神天皇が生まれた時に、天から8本の幡が降ってきて 産室をおおったということから「八幡様」となった。 調べりゃ、謂れぐらい出てくるんだが… デンパ相手にしてる?
東広島電波発信中 同時警戒プラム臭 東広島電波発信中 同時警戒プラム臭 東広島電波発信中 同時警戒プラム臭 東広島電波発信中 同時警戒プラム臭 東広島電波発信中 同時警戒プラム臭 東広島電波発信中 同時警戒プラム臭 東広島電波発信中 同時警戒プラム臭 東広島電波発信中 同時警戒プラム臭 東広島電波発信中 同時警戒プラム臭
618 :
がいやまん :2006/08/09(水) 06:57:11
>>598 倭の上古中国音を*WEとする。この音をのどの奥で発するOとする。
アルタイ語族である倭人は半母音的子音Wを語頭におくような緊張した
アーティキュレーション状況では補助的に母音を前置する。
ところが、アルタイ系には母音調和というルールがある。仮説であるが
元の*WEは列島日本海側でOWO、太平洋岸でAWAと変化した。その理由は
古代からの母音発生の開口度合いに差があった。一方朝鮮半島では
上古中国音に近いWEが複雑なアーティキュレーションを残して保存された。
どーです/どーだす?
619 :
がいやまん :2006/08/09(水) 07:12:58
こうした変化は弥生中期といった非常に古い時代のもので、海岸沿いに発生している。 沖縄、アワギガハラ、宇和島、阿波、淡路、安房、輪島、粟島等に痕跡が見られる。 つまり、倭人とはおそらくは弥生中期に海岸から入り込んだ渡来系であるものの、 時代が古すぎ、弥生人とほとんど同じとなったのではないか。
620 :
がいやまん :2006/08/09(水) 07:15:44
スマソ、オシマというのがあったなー。函館のオキだったか。
621 :
がいやまん :2006/08/09(水) 07:25:57
いずれにせよ、ノルマンジー大作戦ではなく、丸木舟船団が隣村の登呂遺跡へ といった尺取虫のような極めて緩慢な時の流れの中で起こったのだろう。
622 :
がいやまん :2006/08/09(水) 07:45:02
仲哀の御宇にウルサンに天下ったものの子孫イドデが白銅鏡を仲哀に渡す。 これは伊都県主という。三雲遺跡の子孫じゃないかと思う。ところがウルサン に天下るのは海流の関係で対馬から向かった日本人でなくてはおかしい。 現地人なら洛東江上流に天下るならば意味もあろうが北の果てのウルサン に天下っても利するところはない。逆に金海辺りからだと海流で対馬には 来られる。金海には勅島があり、日本人、北部九州人が商活動をしていたようだ。 ウルサンに天下りと言うのは、たとえば、倭面土国王帥升のような人物で あったと考えるのが自然だろう。ただ倭人の開発した交易ルートに載って 楽浪、三韓の承認の渡来があったと言うのも事実であろう。
623 :
がいやまん :2006/08/09(水) 08:03:07
アマテラスの鏡は本来ならば神武経由で後の崇神に伝わっていなくてはならないのだが 神話上では貰ったことにはしたものの、現物を入手したのは仲哀であり、つまり、アマテ ラスと言うのは平原古墳被葬者のことであろう。国産の大型鏡は日本国中ここ以外から は出土しないのだから間違いなかろう。こうなると仲哀までの大和朝廷乃至は邪馬台国 は平原に対する反逆者であったということになるが。・・・ 三種の神器も後代の制定によるものとすれば別におかしくもないのか。
624 :
がいやまん :2006/08/09(水) 08:15:47
邪馬台国時代の奴国伊都国行政府は面従腹背でアマテラスの鏡を隠していたのか、 それとも糸島の旧王朝は鏡を持って南方のヤマイ・ヤイ国に避難していたのか。 これなら、仲哀の戦闘の意味もわかるような気がする。
625 :
がいやまん :2006/08/09(水) 08:27:37
そして、仲哀の死、応神の誕生にはその裏にオキナガ一派と結託した、ヤマイ・ヤイ国 の正統倭国があったと言うことも考えられる。ヤマイ・ヤイ国が百済と関係しており、 オキナガ一派がこの関係で百済に引っ張られる形で渡海、高句麗と戦わされることに なる。こういったことでは。大本営神功皇后に百済が報告した戦況報告、大本営発表 と高句麗の大本営発表もよく似たものであったと考えられる。ジーコジャパンのような ものであったのかもしれない。
626 :
がいやまん :2006/08/09(水) 08:31:08
筑紫の磐井が近江毛野とは昔同じ飯盒で飯を食ったのにと言うのはこのことを いうのであろうか。イワイ・ヤマイ・ヤイ・ヤメ・・・この辺でやめにしよう。
627 :
がいやまん :2006/08/09(水) 08:50:44
住吉神社は神功皇后は不倫と伝える。結婚などはなく夜這いが主流であった時代 殺した夫の子を、しかも、産み月の後にできた子を、天皇と言えるか。ましてや、 鏡も賊軍の将の子である。しかし、天皇と言われるほどの地位に近い皇后であり、 やはり、そこは仲哀に貞節であったが、しかし、胎の中のことは世評に任せた、つまり、 九州人が納得するように含み、不倫の含みを持たせた、まことに稀有の政治家であった とするのがいいのかも知れない。おい、住吉系、考えすぎだぞ。
628 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 10:38:40
>>611 (天皇家と無関係な多氏が皇別になった理由)
>そして対立する神々が皇孫の系譜に組み入れられたのは他でもない、出雲が持っ
>ていた朝鮮半島における利権を譲り受ける正当性を大和王権が確保するためなのです。
これかな? それならば、出雲國造氏を皇別にするべきではないのか?
出雲國造氏が神別の天神なのに、その分家(?)の多氏が皇別なのはなぜか?
それに、新撰姓氏録編纂の時点で「 朝鮮半島における利権」を主張する意図が
王朝にあったかどうかは疑問だし、もしあったとしても、我々にさえ分かりにくい
やり方で、主張するべき相手の中国がどうやって理解するのか。
>元々上代日本語には二重母音は存在しなかったために表記上の
ゆれが生じたものと、とりあえず考えています。
その通り。「おほ」は ofo であって、二重母音ではない。二重母音でなければ
二重母音の表記法がなくても、「表記上のゆれ」が生じるはずがない。
「おほ(o-fo)」と「おう(o-u)」は別なのだ。
>hataが朝鮮古語で「多い」の意味だから、「多氏」と関係がある、
という説のことなら、
多氏を渡来人と見る説の根拠は、そんな言葉の問題よりも、多氏と秦氏の
事績、居住、祭祀が交絡していることによる。例えば:
http://www.ne.jp/asahi/pasar/tokek/TZ/C-IL-Oouji.html
629 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 11:02:49
>>628 姓の由来だが、秦(機)も漢(綾)も「織工」だったから。
じゃ駄目なの?やっぱり、ハタパタやアヤヤじゃなきゃまずいのか?
あぼーん
>>628 >新撰姓氏録編纂の時点で
当然系譜に組み入れられたのは神話の成立した時点です。日本書紀、古事記、編纂以前ですね。
>主張するべき相手の中国がどうやって理解
日本書紀編纂の第一の理由は中国を意識したものだと思います。
>「おほ」は ofo であって、二重母音ではない。
そうですね。とりあえず、もともとの形は二重母音であったものが、上代日本語は
二重母音を嫌う為に子音が挿入されたのではないかと考えます。
ou→oo(長母音化?)→ofo(子音の挿入?)
苦しいかな?
それに、発音がどうあれ多氏が系譜上でオオナムチにリンクしていることは、太安万侶
自身が書いている事実ですから、私としての結論は変わりません。
>多氏を渡来人と見る説の根拠
そのページでも「hataが朝鮮古語で「多い」の意味」説を主張されているようですが。
それと前にもお話ししたように、多氏が渡来人であるにしろないにしろ
私の結論自身には影響がありません。
632 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 13:49:16
>>629 逆。秦氏が持ち込んだ機械だから「はた」。漢氏が織るのを得意にした織物だから「綾」。
633 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 14:22:27
>>632 現在定説になっているpataやhataにしても、漢氏のaya(安羅)説にしても、
「あらゆる」由来がこじつけの域を出ていないのが現状では?
そしてこれら「こじつけ」の中で熱心な議論が行われていると思う。
例えばこれ。
当時中国や朝鮮半島は“先進国”であり、これらの国技術は日本において珍重された。(なるほど)
↓
当時の百済人や新羅人は「諸蛮」と差別されていたので「秦人」を自称した。(話が違うが・・・?)
↓
古朝鮮語のpataかhataにちなんだ苗字を「賜る」。或いは「自称」する。(だったら最初から“チン”と名乗れ)
↓
出自を隠し箔をつけるために「秦」の字を採用した「のではないか」。(・・・。)
定説化しているものは全て、脳内妄想の域を出ていないという希ガス。
全て「のではないか」「と思われる」「可能性がある」で定説化してしまっている。
その他、地理的なことやその土地の技術をすっかり無視して地名に拘る説もある。
漢(aya)氏に至るともっと酷い(ry
634 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 14:27:40
唯一まともにに文章化されているのは、信憑性は甚だ怪しいものの『新選姓氏録』 だけ。
635 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 15:03:15
636 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 15:32:51
秦というのはペルシャ(パルチア)の音写という説もあったな。 諸説紛々
あぼーん
638 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 18:15:03
>>633 安羅や波旦に、果して両氏が得意とした高度先進技術が存在したのか否か、
それらの先進技術を使いこなせる土着民集団がいたのか否か、
なぜ彼らが先端技術を流出させてまで、あの次期、一族郎党を引き連れて
日本へ亡命して来なければならなかったのか・・・・
ということを突き詰めて行けば、彼らが、どこから渡来した、何系の人間
だったかということが大体分かりそうなもんだ。
(宇宙人じゃあるまいし。そこまで得たいの知れない香具師なのかアレらは。)
あぼーん
640 :
がいやまん :2006/08/09(水) 19:50:31
641 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 20:46:58
>>631 答がない部分をもういちど書いておこう。曰く:
それならば、出雲國造氏を皇別にするべきではないのか?
出雲國造氏が神別の天神なのに、その分家(?)の多氏が皇別なのはなぜか?
>ou→oo(長母音化?)→ofo(子音の挿入?)
>苦しいかな?
大いに苦しい。あなたは「大きい、多い」と言う意味の古語「おほ(ofo)」
の、もっと古い形は「おー(oo)」であった、という資料を探さないと
いけなくなった。
というのは冗談で、もちろんそんな資料はない。だから「意宇」と「意富」は
別なのだ。
>発音がどうあれ多氏が系譜上でオオナムチにリンクしていることは、太安万侶
>自身が書いている事実ですから
「リンク」という言葉で母系のことを言っているのなら、それは古事記に書いて
あることだ。しかしあなたが主張しているのは多氏が父系も含めて出雲系だ、
ということであり、「意宇・意富論」もそのためではなかったのか?
それとも太安万侶は「多氏は父系も含めて出雲系である」という「事実」を
どこかに書いているのか?
>そのページでも「hataが朝鮮古語で「多い」の意味」説を主張されている
>ようですが。
別にそれを否定してはいない。だから「よりは」と言ったのだ。英語で言えば
rather than だ。
もしかしてあなたは、語源説が併記されていることによって「秦氏と多氏の事績、
居住、祭祀の交絡」という事実が否定される、と言いたいのかな。
>>641 >出雲國造氏を皇別にするべきではないのか?
なぜ貴方がそう思うのか、今ひとつ理解できないんですよね。
なんとなれば、出雲國造氏は系譜上、アメノホヒ(ということはアマテラス)
に遡る天津神系だからです。
>大きい、多い」と言う意味の古語「おほ(ofo)」
>の、もっと古い形は「おー(oo)」であった、という資料を探さないと
>いけなくなった。
私は「多」(オホ)の古形が「oo」と言っているのではありませんから、
少し的外れかと。母音融合、長音化、子音の挿入など一連の変化があった
あとの時代で「多」の字が借用されたと考えるわけです。
>多氏が父系も含めて出雲系だ
そうです。それが、国津神と天津神が同じ系譜に結びつけられたことや、
オオナムチが韓神に擬せられること、多氏=太氏が古事記を編纂した動機、
古墳時代の出雲東部の考古学的な状況、などを最もきれいに説明するから
主張しているのであって、「意宇・意富」だけに寄りかかったものではあ
りません。
>もしかしてあなたは、語源説が併記されていることによって「秦氏と多氏の事績、
>居住、祭祀の交絡」という事実が否定される、と言いたいのかな。
そもそも私の議論には無関係だ、と繰り返しているのですが、理解いただけないようですね。
643 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 21:36:37
>>636 それは恐らく、「諸説」の中にも入ってないだろ。
邪馬台国はハワイにあるとか、台湾にあるとかいうのと同レベルの珍説棚。
あぼーん
645 :
がいやまん :2006/08/09(水) 22:10:44
>>623 >>640 スレ内リンクを間違えて申し訳なし。ついでだが、箱式石棺は天孫族だろうが、
三雲の大王は甕棺のようだし、天皇になれる必要条件かもしれないが、絶対
条件ではないようだ。かなり遅い渡来系だろう。鏡も仲哀の頃からぼちぼち
レガリアの体をなしてきたのだろうか。まー、地方首長クラスのパワーはあった
のかも。
あぼーん
647 :
日本@名無史さん :2006/08/10(木) 00:48:11
>>643 ハタ=パルチア説は、松本清張か誰かが唱えていた相当、有名な説だと思う。
松本清張は奈良のお水取り儀式がペルシャの拝火教儀式などと言っているので
松本説なのだろう。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
あぼーん
655 :
本田 :2006/08/10(木) 06:56:54
>>636 > 秦というのはペルシャ(パルチア)の音写という説もあったな。
> 諸説紛々
私は、秦は、シリアの当て字だと思います。
656 :
日本@名無史さん :2006/08/10(木) 14:18:36
>>646-654 頼むから、プラムだけを標的にしてくれよ。
その他大勢が書き込めなくて真剣に困ってる。
657 :
日本@名無史さん :2006/08/10(木) 14:43:18
>>642 >なんとなれば、出雲國造氏は系譜上、アメノホヒ(ということはアマテラス)
>に遡る天津神系だからです。
だから出雲國造氏は大和側の人間だと言いたいのか?
>「意宇・意富」だけに寄りかかったものではありません。
そんな事はわかっている。私が取り上げているのは、あなたが
>>631 で:
「発音がどうあれ多氏が系譜上でオオナムチにリンクしていることは、太安万侶
自身が書いている事実です」と書いていることだ。
もういちど聞くが、太安万侶は多氏が父系も含めて出雲系だ、とどこかに書いて
いるのか? 簡単に答えてくれ。
>母音融合、長音化、子音の挿入など一連の変化があった
>あとの時代で「多」の字が借用されたと考えるわけです。
なるほど。「おほ」と発音される姓と漢字「多」とが、意味上のつながりを持つ
とは限らない、というわけだね。
しかしそれならそれで、「ou → oo → ofo」という音韻変化をした言葉の例を、
傍証として見つけなければならない。それがなければ「意宇=意富」論は単なる
語呂合わせだ。
>そもそも私の議論には無関係だ、と繰り返しているのですが、
無関係だ、という意味がわからない。秦氏説は、秦氏と多氏とがひょっとすると
一体のものだ、ということを言っているのだと思うが、それであってもあなたの
説は成り立つ、という意味か?
>>657 >だから出雲國造氏は大和側の人間
あいかわらず何が言いたいのかわかりません。
記紀神話に立脚した系譜上そうなのですから、
それをわざわざねじ曲げて新撰姓氏録に記載する理由が
わかりませんし、元々の議論とどうかみ合うのかわかりません。
>もういちど聞くが、太安万侶は多氏が父系も含めて出雲系だ、とどこかに書いて
>いるのか? 簡単に答えてくれ。
これは無意味な質問です。
私は神八井耳命によって父系で天皇家に接続されている多氏は本来、
母系とされている、出雲の意宇地域の氏族につながるのであろうことを、
その他の証拠によって説明しているわけですから、議論の前提となる
事実認識を改めて問う意味がわかりませんね。あなたの自己満足?
>「意宇=意富」論は単なる語呂合わせだ。
語呂合わせ以外の根拠があることもお忘れなく。
hata=多=多氏よりはマシかな?と思います。
>無関係だ、という意味がわからない。
私は多氏が天皇家とはルーツの異なる氏族であることを説明しているだけ
なのに、あなたが議論に無関係な秦氏の話を繰り返しているだけです。
あぼーん
660 :
日本@名無史さん :2006/08/10(木) 18:49:35
あぼーん
662 :
日本@名無史さん :2006/08/11(金) 20:08:19
>>658 >記紀神話に立脚した系譜上そうなのですから、 それをわざわざねじ曲げて
>新撰姓氏録に記載する理由がわかりません
神話成立の際に、政治的な目的によって出雲と天皇家の同祖神話が作られ、
後にそれに基づいて記紀が書かれ、新撰姓氏録が編まれた。その結果本来は
敵である出雲が神別の天神に入れられた。
それで十分な気がするが、さらに分家(?)の多氏を、本家とのバランスを
欠いてまで皇別にしなければならない理由がいまいちわからない。
>議論の前提となる事実認識を改めて問う意味がわかりませんね。
いやいや、あなたは質問の意味がわかっている。わかっているからこそ、
まっすぐに答えないのだ。「書いている」「書いていない」どちらかでいい
のにね。
大安万侶が書いたという古事記には、多氏(および関連する17氏)の祖
が、神武天皇を父とし、出雲のオオナムチの娘を母とすることが書いてある。
これが多氏の問題の原点であり、あなたの言う「議論の前提」だ。
663 :
日本@名無史さん :2006/08/11(金) 20:18:40
<続き> 多氏出雲起源説は、ここから発してさらに多氏はもともと出雲なのであり、 したがって父系もまた出雲であるとする。その一つの根拠として地名の「意宇」 と多氏の「意富」とを関連づけるのだ。 これに対して私が「意宇=意富」は音韻的に無理であることを指摘したところ、 あなたが書いたのが: 「発音がどうあれ多氏が系譜上でオオナムチにリンクしていることは、太安万侶 自身が書いている事実です」という文言だ。 「オオナムチにリンク」という表現で母系か父系かをぼかしているから、予備 知識のない人がこれを読めば、「意宇=意富」説に替わる、多氏出雲起源の有力な 根拠を太安万侶自身が書いているのだ、と誤解するだろう。 だから私は「父系も含めた多氏出雲起源を、太安万侶が書いたのか」ということを 確かめたのだ。もしあなたが「書いていない」と答えれば、上記の話はあなたの 言う「議論の前提」に過ぎないことがわかるからね。 >私は多氏が天皇家とはルーツの異なる氏族であることを説明しているだけ >なのに、あなたが議論に無関係な秦氏の話を繰り返しているだけです。 なんで無関係なのか。私は「秦氏=多氏」という説を紹介しているのだから、 秦氏は多氏を介して多氏出雲起源説と関係しているではないか。
664 :
日本@名無史さん :2006/08/11(金) 20:33:35
>>658 >hata=多=多氏よりはマシかな?と思います。
その説は私が言ったものではないし、私はそれに対して中立だ。
しかしひとこと言っておけば、少なくともその二つの説を「較べる」ことは
できない。なぜなら「hata=多」説は「意宇=意富」説とちがって、音韻の問題
ではないからだ。「hata=多」説は、漢字「多」の、古代朝鮮語(「古代朝鮮語」の
厳密な定義は別として)による訓読みの話だ。
もし本当に「古代朝鮮語」でhataが「多い」の意味であれば大いに興味のある話だし、
「はた」の起源としてあり得ることだと思う。
しかし私は「古代朝鮮語」について知らないから、中立の立場なのだ。
あぼーん
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アヴァールはそののち九世紀末頃に、東方のウラル山脈中・南部方面からやって来た マジャール族に併わされてハンガリーとなるが、この建国神話にも鳥が活躍する。 マジャール族が族長アールパートに率いられて南ロシアからハンガリーへ進入したとき、 この軍が疲れ果てていたところ、鳥(鵄または鷹の一種)が現れて勇気づけられ、 その先導でハンガリーの地に到り建国を果たしたので、この鳥は国家的民族的象徴となったという。 これは、神武の八咫烏・金鵄の伝承にもつながる。 神武の正体はフンのアタマン(頭)であるアールパートだろうか 八幡神とはアタマンの訛りヘーチマーンで頭領を神格化したもの。 古代ロシア語のアタ父+マン万でアタマン頭となる。アッティラもアタマンの事と思われる。
675 :
日本@名無史さん :2006/08/18(金) 20:49:05
>>674 「八幡」を「ハチマン」と音読みすることがすでに語呂合わせの現れ。
あぼーん
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679 :
がいやまん :2006/08/22(火) 13:20:36
あぼーん
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694 :
白馬青牛 :2006/09/07(木) 00:06:57
>>674 動物が、征服軍や移住民を先導するのは、ユーラシアの牧畜民において、
多く見られる。日本の神武東征の八咫烏。フン族が白い牝鹿に導かれ
スキタイの地に至ったこと。フン族の牝牛が足で地面をかいて見つけた
剣によってアッティラが侵攻の成功の確信を得たことは、渡来系、
東漢氏系の坂上氏の始祖伝説、阿智王が神牛の教えで、帯方郡に行ったこと
とも関連はありますが、アタマン(首長)説となると、関連させるのは、
難しいですね。
牛と剣の話やヤマタノオロチの話、日本の古事記の話はみんな シルクロード沿いで流行ってたミトラ、ミトラス教の経典に載ってる話 秦氏(ミトラ教の信者)がヤマトに、持ち込んだもの弥勒教もその一つ。
696 :
日本@名無史さん :2006/09/10(日) 14:04:01
★『日本国』という国号は、なぜ生まれたのか★ 日本という国号ができたのは7世紀頃で、最も確実に明文化されたのは、飛鳥時代の701(大宝元)年に 制定された大宝律令からである。 720(養老4)年に編纂された日本書紀には、日本の名があるが、こういった資料をひもとくと、 少なくとも674(天武天皇3)年はまだ「倭」という国号であったことが分かる。従って、国号の変更は 674〜701年の間に行なわれたと考えるのが妥当であろう。 大宝律令よりも前に『日本国』の国号が成立した時期として、最も可能性が高いのは、飛鳥(あすか)浄御原令 (きよみはらりょう)が成立した689(持統天皇3)年6月29日頃である。 隣国の支那へは、702(大宝2)年に粟田真人(あわたのまひと)により、『日本国』という新国号が 伝えられた。彼は浄御原令の編纂にも関わっており、日本という国号は彼が発案した可能性もある。 なぜ、大和朝廷は、大和国から日本国へと国号を変更したのだろうか。 やはり、6世紀に九州地方で起きた「盤井の乱」が大きく影響しているのだろう。 古代九州は、自ら『日の国』と名乗っていた。ヒの国は、『火の国』でもなければ、『肥の国』でもない。 あくまでも『日の国』である。この国号が意味しているのは、日神=天照大神の国という意味である。 九州地方は、天皇家の先祖であるニニギノミコトの出生地であり、まさに『日の国』なのだ。 『日の国』という国号には、「我々こそがニニギノミコトの正統なる後継者である」というメッセージが 込められている。 大和朝廷は、九州勢力が『日の国』と名乗ることに危機感を抱いていた。 だからこそ、自分達(大和国)のほうがニニギノミコトの後継者であることを、国の内外にアピールする ために、『日本国』と名乗る必要があったのである。 これが、『日本国』の国号が誕生した真相なのだ。
697 :
日本@名無史さん :2006/09/10(日) 19:01:18
【国引き神話】 国引きの神話は、出雲国風土記の、意宇郡名伝承『八束水=臣津野命(ヤツカミツオミヅノ命)国引き』として 風土記神話の中でも最長篇で語られている。風土記の記述によると、出雲国はその昔「狭布の稚国」といって、 細く長く未完成の国であったという。 そこで、大水主=臣津野の命(オミヅのミコト)が、出雲は狭い若国であるから、広く継ぎ足そうと言われて、 遠い志羅紀の国の余りを「国来い国来い」と引き寄せたのが杵築の岬で、その時に使われた綱は園の長浜、 そして、引いて来た国を動かないように継ぎ止めた杭が三瓶山(佐比売山)であるという。 その風景は、稲佐の浜から現に見ることが出来る。 出雲国風土記に記されている「志羅紀の余った土地を引き寄せて杵築の岬を造った」という記述が 何を意味しているのかは、一目瞭然である。古代出雲人が、出雲地方だけでなく志羅紀も支配していた、 という事実を示しているのだ。つまり、志羅紀人は出雲人と同族だったという事だ。 志羅紀人(シラキ人)は日本民族だったのである。彼らは朝鮮人ではなかった。この事実を頭に入れて 考えなければ、天日矛(ツヌガアラシト=都怒我阿羅斯等)の日本への亡命、そして、それに続く天日矛の子孫 =神功皇后による<新羅征伐計画>の理由を理解することはできない。神功皇后の<新羅征伐・政策>は、 息子の応神天皇に引き継がれた。なぜ、当時の大和朝廷は、<新羅征伐>を何度も繰り返したのか。 なぜ、それほどまでに『シラキ=志羅紀』にこだわったのか。 理由は明確である。当時の大和朝廷は出雲勢力によって牛耳られていたのであり、彼ら出雲人は、自分たちの領地 である志羅紀を異民族=朝鮮人に奪われたため、失地回復のために<新羅征伐>を断行したのだ。 すなわち、当時の出雲人は、朝鮮人(志羅紀の北方に住んでいたワイ族)と敵対関係にあったということだ。 出雲人は、「シラキは我々の領土だ」という意識があったので、朝鮮人に奪われた<シラキ>を、何が何でも 取り返したかったのである。
698 :
日本@名無史さん :2006/09/14(木) 00:05:26
699 :
日本@名無史さん :2006/09/14(木) 00:21:21
「古朝鮮〜渤海は中国の歴史」 ▽渤海の建国を主導した勢力は靺鞨族▽ 東北工程を推進している中国政府が最近「渤海国史」というパンフレットを発刊した。 渤海が独立国家ではなく、唐の国の一地方組織にすぎない地方民族政権だったと主張したとKBSニュースが4日、報道した。 これは2004年、韓国・中国の両国が政府レベルの古代史歪曲を中断することで合意した事項に触れることから、両国間の摩擦が予想される。 KBSによると中国社会科学院所属辺疆史地研究中心が発刊した「渤海国史」は ▽渤海の建国を主導した勢力は靺鞨族 ▽渤海国初期の国号を「靺鞨」と表記した −−と記述するなど、渤海史を中国史に編入、韓国の歴史を歪曲している。 中国社会科学院は中国が2002年から5カ年計画で推進している「東北工程プロジェクト」を主導している機関だ。 また辺彊史地研究中心のホームページには高句麗が古代中国の地方民族政権だと主張する内容が載せられており、 古朝鮮と扶余まで中国歴史の範疇に含ませるなど、韓国の古代史を歪曲している。 「東北工程プロジェクト」って何???
700 :
日本@名無史さん :2006/09/14(木) 01:13:16
渤海で勃起
701 :
日本@名無史さん :2006/09/14(木) 01:57:02
渤海で勃起してんじゃねえよ、このタコ!
702 :
日本@名無史さん :2006/09/14(木) 02:24:29
勃起不全(ED)で悩んでます
703 :
日本@名無史さん :2006/09/14(木) 10:12:46
牙民族とやらがどうやって日本に渡ってきたのか気になります 蒙古みたいに海の藻屑になってなければいいのですが
704 :
日本@名無史さん :2006/09/14(木) 22:32:47
カナダの歴史教科書では、渤海やモンゴルや朝鮮は中国の地方政権と教えているのは事実。 近い未来のカナダでは、それが真実の歴史になるんだろうね。 もし、渤海から来た人間が大和朝廷を建てたなら、 中国人は「倭を建国したのは中国人だ!だから、日本史は中国史になる。従って、日本は中国の領土だ。」 というロジックで主張し始めるかもよ。 実際、高句麗は中国史の一部で、朝鮮半島北部は中国の領土だ!って言っているくらいだからね。
705 :
日本@名無史さん :2006/09/14(木) 23:13:34
↑相変わらずのバカ騒ぎだな。氏ねウジムシめ
>>704 高句麗は中国の地方政権に間違いないだろ。
中国というのは中華文明ことだからな。
支那には入らないけど。中国人は支那人とは別に考えないと。
中国人と言う場合には、ウイグル人やチベット人も入ってるんだよ。
だからそもそも異民族の高句麗を自国民だと考えてる韓国の側がおかしいわけで、
中国の言い分の方が正しいんだからしょうがない。
それに中国は朝鮮半島を自国領だとは言ってないだろ。
李氏朝鮮は元(モンゴル)の武将だった満州族が建国した国だけど、
それを元や中国の版図には入れてないだろ。百済も同様。
高麗は高句麗の武将が建国したけど、中国の一部だとは中国人も言っていない。
そんなわけで、騎馬民族説がどうであろうが、中国人が倭を日本領土だと考えるわきゃない。
そういうわけで、日本を勝手に持ち出さないで欲しいね。韓国と中国の問題だからなそれは。
708 :
日本@名無史さん :2006/09/15(金) 23:25:08
>>704 韓国の学者も中国に負けないくらい馬鹿な発言をしている。
「金、清、韓国史に編入を」…東北工程対応策提案
「中国の漢族は漢、唐以後、満州地域を一度も完全に支配したことがない。
高句麗と渤海を継いで満州一帯に建国された女真族の金と満州族の清を広い意味で韓国史の一部に編入し、
中国の悪意的な歴史歪曲に積極的に対処しなければならない」−−。
これは東北工程を通じて古朝鮮、扶余、高句麗、渤海など韓民族の古代史を根こそぎ中国の地方政権歴史に編入しようとする悪意的な試みに正面から対応するための努力と見られる。
ソ・ギルス・ソギョン大学教授は
「現行の韓国の歴史教科書は中国の既存歴史観を無批判的に受け入れ、満州地域で成立された遼、金、元、清をすべて中国の歴史と認めているが、
これは中華思想に染まった事大主義の歴史観と批判した。
また「歪曲のレベルを超えた中国の韓国古代史侵奪行為にまともに対立するためには、
東アジアの歴史に新たにスポットを当てる新史観を定立する必要がある」と強調した。
その新史観が「金と清を韓国史に編入する」ということだ。
キム・ウィヒョン明智大教授は
「宋史には金の太祖アゴタの8代祖が統一新羅王族出身の金函普という記録がある」とし
「統一新羅と渤海を南北国と記述するように金、高麗時代を南北朝に分類することができる」と述べた。
709 :
日本@名無史さん :2006/09/15(金) 23:42:31
真実の歴史ってナニ?
710 :
日本@名無史さん :2006/09/15(金) 23:44:18
「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期にその支配が朝鮮半島(韓半島)の南部にまで拡大した。」 まぁこれが正しいんだろうな。
九州南部から東北北部まで統一してたらすごい。
712 :
日本@名無史さん :2006/09/15(金) 23:49:16
>>709 真実の歴史は勝者が作ります
だから、韓国と中国の歴史主張は、結局、中国の言う歴史が真実になります
そして、いずれ日本も・・・
713 :
日本@名無史さん :2006/09/16(土) 00:01:33
韓国の大学教授って本当にバカだな〜。
714 :
日本@名無史さん :2006/09/16(土) 01:42:10
>>710 中国外交部はわざわざホームページ(www.fmprc.gov.cn)で
「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期にその支配が朝鮮半島(韓半島)の南部にまで拡大した。」
と日本を援護した狙いはなんだろう?
中国正史に狗邪韓国は倭と書いてあるんだから、しょうがない。
716 :
本田 :2006/09/16(土) 03:13:12
>>696 ★「三国史記〜新羅本紀」
文武王10(670)年、倭国、あらためて日本と号する。自ら言う。日出る処に近い、以て名とする。
三国史記なんて500年後の1145年に書かれたもので資料的価値なし ただの歴史小説。
719 :
日本@名無史さん :2006/09/16(土) 15:52:59
>>708 >「中国の漢族は漢、唐以後、満州地域を一度も完全に支配したことがない。
>高句麗と渤海を継いで満州一帯に建国された女真族の金と満州族の清を広い意味で韓国史の一部に編入し、
>中国の悪意的な歴史歪曲に積極的に対処しなければならない」−−。
当の本人の満州族が蚊帳の外に置かれている件。
720 :
日本@名無史さん :2006/09/16(土) 16:08:35
チャイナドレスって満州族の衣装なんだってね
721 :
日本@名無史さん :2006/09/16(土) 16:19:28
李氏朝鮮の最初の王は、モンゴル人で、フビライの身内とのことが、 韓国の学者と、モンゴル人の学者の共同研究で判明しました。 李氏朝鮮は、モンゴル人の征服王朝だったのです。
722 :
本田 :2006/09/16(土) 22:26:43
>>717 > 三国史記なんて500年後の1145年に書かれたもので資料的価値なし
> ただの歴史小説。
じゃあ作者も成立年代も不明な日本書紀(舎人親王の日本紀に非ず)は、
いったい何んなの?
723 :
日本@名無史さん :2006/09/16(土) 22:38:49
中国共産党の気が変わらない内に 「5世紀初頭の朝鮮半島南部を支配していたのは倭国」という歴史認識を世界に発信しておくべき。
724 :
YAP? :2006/09/17(日) 00:43:18
あれ、李成桂って確か女真名を持っていて、満州族では無かったのかな? でも、モンゴル族でも不思議はないが。
725 :
日本@名無史さん :2006/09/17(日) 01:00:51
726 :
日本@名無史さん :2006/09/17(日) 01:01:32
養老4年(720)に完成した『日本書紀』30巻は、わが国最古の勅撰の国史で、
いわゆる六国史の最初に当たる歴史書である。神代から持統天皇の時代までの
出来事を、漢文により編年体で記している。『日本書紀』はきわめて重要視され、
すぐれた写本も少なくないが、本巻が現存する最古の写本である。
1. 著者(責任を負うべき人)がいない.
日本書紀の執筆者は天武天皇の皇子である舎人親王。
2. 序文(執筆意図や執筆原則)がない.
執筆目的は大化の改新で消失した国記、天皇記に代わる歴史書を作成するのが目的。
日本書紀にも書いてある。
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/nicchou/ginen.html
727 :
日本@名無史さん :2006/09/17(日) 13:39:21
>>725 韓国人は日本の歴史や古い文献を批判して何をしたいんだろうな?
他国の文化や歴史を尊重できない人種だ。
728 :
日本@名無史さん :2006/09/17(日) 13:47:29
>>727 omaemo nanigasitainnda!
729 :
日本@名無史さん :2006/09/17(日) 15:02:58
>>720 >チャイナドレスって満州族の衣装なんだってね
少なくともコリアン・ドレスとは呼ばないね。
【日韓】゛日本固有の木゛である高野槙…で作られた木棺が、百済の王陵にあるという“古代史の謎”[9/17]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1158443541/ 624 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[] 投稿日:2006/09/17(日) 16:45:32 ID:a3tUROY9
>>618 百済の王族は高句麗と同じ扶余族であると自称していた。
扶余族の王族の下には、漢族、倭族、地元の韓族の官僚もいた。
倭族の官僚は日本書紀とかにも記載がある。百済は、中国、日本、高句麗の
バランスの上に成り立って、繁栄していた。
百済に割譲した任那4郡では倭族が韓族を支配していて、この地域からは
前方後円墳が数個見つかっている。倭族と韓族の混血児を記紀では「韓子」
(からこ)と記載している。
722 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[] 投稿日:2006/09/17(日) 20:41:49 ID:CC1FC8C7
>>641 夫餘(ふよ)ってのは穢(わい)族の中の一種だよ。
「穢」には、前一世紀から後一世紀までの間に
「夫餘・高句麗・沃沮・穢」の四つに分かれた。
三国志東夷伝には、この四種族は言葉が似ていたと書かれており
現代の学者からも同系の民族だったと考えられている。
その頃、満州族の先祖(ツングース)は「邑婁」といって
「夫餘・高句麗・沃沮・穢」とはぜんぜん別の民族として存在してた。
また「辰韓」「弁韓」は中国語をしゃべっていた。
「馬韓」や「倭」の言葉はどれと似てたとか書かれてない。
ーーーーー
百済というのは夫餘の一派が馬韓を征服して作った国なので
王族貴族は夫餘系、庶民は馬韓人で、階級によって言葉が違っていた。
したがって「百済人」というのは国籍による分類であって
人種や民族の名ではない。
731 :
日本の最高太陽神は韓国女性だ :2006/09/17(日) 23:02:44
(中央日報 韓国語 2006/09/14)
崔ユギョン氏(30)は日本国内の八百万の神様の中で一番上位のこの神様が韓国女性だったと主張する。
アマテラスは生前は日本の開国始祖の卑弥呼女王だった。
死んで太陽神になった。
邪馬台国の女王で189年に30余ヶ国を統合、日本皇室の母胎を作った女性だ。
邪馬台国は7万余郷で成り立った大国だった。
当時、他の国は10004000郷規模に終わった。
卑弥呼は王宮で女官1000人余りに囲まれて生活した。
弟を通してだけ人に命令し神秘さを維持した。
卑弥呼に関する客観的歴史記録は多くない。
はなはだしきは卑弥呼が実名なのか本名なのかさえ不確かだ。
しかし、現在の研究では 韓国から渡っていった巫女、首露王の娘ミョギョンゴングスという説が有力だ。
崔氏は卑弥呼がアマテラス神話のモデルという日本人の斉藤説を発展させた。
「インカ、マヤのような高度な文明を持った国で発達するという太陽神が、当時、韓半島より文化水準が低い邪馬台国で生じたのも変だが、その上に女性とは?
アマテラスのモデルが卑弥呼だったためという斉藤の主張はこの質問に対する答になるのに充分だった」ということだ。
http://article.joins.com/article/article.asp?ctg=15&Total_ID=2447515
732 :
日本@名無史さん :2006/09/18(月) 00:07:48
卑弥呼も応神天皇も神武天皇も韓国人ってことで、おつかれさんでした〜!!!
733 :
日本@名無史さん :2006/09/18(月) 01:54:17
このスレ終〜了〜〜〜〜。。。。。。。。。
734 :
日本@名無史さん :2006/09/18(月) 14:40:20
首露王の娘ミョギョンゴングスという説が有力だ。 首露王の娘ミョギョンゴングスという説が有力だ。 首露王の娘ミョギョンゴングスという説が有力だ。 wwwwwwww
>>734 「〜は定説です」というのを思い出したw
738 :
日本@名無史さん :2006/09/19(火) 07:04:11
縄文時代の日本列島には、”エミシ(EMISHI)”と呼ばれた先住民が住んでいました。学校では縄文人と習う人種です。 このエミシはロシアのアムール河から樺太を通って南下して、北海道、日本列島、沖縄まで住んでいたと言います。 今でも沖縄の日本人はエミシのDNAを色濃く受け継いでいて、顔が濃いです。 しかし、弥生時代の終わりになると、エミシは、『九州からの勢力』によって、東へ東へと追いやられ、東北に居住しました。 この『九州からの勢力』が倭人です。 大学の研究者や司馬遼太郎によると、「もともとは奈良は倭人の土地ではなかった。」と中国の歴史書に書いてあります。 奈良は“エミシ”の土地だったと司馬は言います。 九州の倭人は勢力を拡大していきます。 九州南部には隼人が住んでいて、平安時代になっても隼人は大和朝廷に反抗します。これは誰もが認める通説ですね。 宮崎出身の神武天皇の母親はこの隼人だと言われています。つまり神武は隼人と倭人の混血です。 司馬は神武の東征はあったと言います。私も神武の東征はあったと思います。 倭人と隼人の混血の神武は先住民のエミシの土地だった奈良に入ります。
739 :
日本@名無史さん :2006/09/19(火) 07:12:05
『魏略逸文』や『梁書東夷伝』などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う」とあります。 魏の使者が卑弥呼に「どこから来たのか?」と質問します。卑弥呼は「私たち(倭人)の祖先は呉から来た。私たちの祖先は太伯だ。」と答えます。 太伯とは呉を建国した人です。 倭人の風俗は刺青をして、抜歯をして、お歯黒をして、稲作をして、水に潜って魚を取ります。 これは「楚」や「呉」に見られる長江周辺の民族に見られる風俗です。 高句麗などの遊牧民民族にこんな風俗はありません。 中国大陸の長江から海を渡ってきた倭人は九州や朝鮮半島南部に住み着きました。 朝鮮半島南部に倭人が住んでいたというのは、司馬も大学の教授も認める通説です。 東方に勢力を拡大して、奈良まで領土にした倭人ですが、朝鮮半島では苦戦します。 高句麗という強大な遊牧民の国があったからです。 百済という国は中国歴史書によると「百済は支配層と民衆の言語が違う。」「住民の多くが中国人や倭人。」「倭人が頗る多い。」と記しています。 百済は多様な人種が住んでいる国だったと推測できます。 百済の場所には楽浪郡があったので、中国人が多かったのでしょう。 当時の朝鮮半島では、北から南下する遊牧民族と南から北上する倭人との争いの場でした。 結果、倭人は敗れ倭人の土地だった任那(伽耶)や百済も遊牧民族の土地になってしまいます。 欽明天皇が「百済は兄弟の国だ。」と言って、百済の再興にこだわったのも、百済は同じ倭人が建てた国だったからでしょうね。
パクリが得意だなwハヤトを血統的に小さくとらえ過ぎだぜ。
741 :
白馬青牛 :2006/09/26(火) 01:13:11
>>738-739 コピーをあちこちで、よう書いとるのう。
沖縄人よりアイヌ人の方が縄文直系じゃろうね。
九州の勢力云うても、北方新モンゴロイドは近畿から各地へ流入しとるし、
根拠に薄いのう。隼人も蝦夷も古モンゴロイド的形質が多かったろうが、
現在の南九州や東北地方より琉球人やアイヌ人の方が隼人や蝦夷の末裔とも
云える。倭人とは海上交易する集団を表したもので、エスニック集団。
倭人の末裔は、日本人や韓国人、あるいは中国人になったと云えよう。
高句麗は、農業を主体とし、狩猟、漁撈、牧畜も行った訳で遊牧民じゃ
ないよ。百済の支配層は扶余族で、支配された集団が、漢人、韓人、倭人。
長江から直接船で渡るんは、唐代の事。それ以前の航海路は山東経由じゃ。
お馬さんもハヤトについて情報収集したかw
743 :
日本@名無史さん :2006/09/27(水) 10:01:12
白馬青牛 って久しぶりだよね。
どっかで野垂れ死にしてるのかと思ってた。(笑)
>倭人の末裔は、日本人や韓国人、あるいは中国人になった
日本人と韓国人じゃ顔が全然違うじゃん。
どっちかって言うと、韓国人とモンゴル人が顔が似ている。
日本人と台湾人は顔が似ている。
このサイトで「日本人は百済人の末裔。日王は百済人だ!」と歴史教育で習ったと韓国人は主張しているけど、それは間違い?
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/list.php?board_id=thistory 白馬青牛も一度、ここで韓国人と議論してみたら?
白馬青牛が主張している歴史がいかに空虚なものか実感できるよ。
744 :
白馬青牛 :2006/09/27(水) 23:22:51
>>743 日本人と韓国人の顔は、台湾人よりは、お互いに似とると思うよ。
鈴木武樹氏の「ぼくが不思議に思うのは、南朝鮮の人達の顔よりも
北朝鮮の人たちの顔のほうが日本人に似ていますね。」
江上波夫氏は「どっちが似ているかというのは難しいかも知れないけれど、
日本人は一般に南朝鮮の人ほど顔が平たくないし、またあれほど短頭では
ないね。とにかく、満洲族、それから蒙古族、あのあたりの東北アジアの
民族、中央アジアのトルコ系ウィグル族などは日本人と区別がつかない
顔が多い。もっとも東南アジアのヴェトナム人なども非常に日本人に
似ているが、これは江南地方や倭人との関係を思わせます。」と、
され、わしの見解でも、韓国人より、中国の朝鮮族の方が日本人顔が多く、
満洲族に至っては、日本人の顔に似とると思うたよ。
http://www.nig.ac.jp/labs/AR98ja/research/A/Ac2.html に、「遺伝子の結果、南グループには、台湾中国人、インドネシア人、
タイ人が含まれ、北グループには、本土日本人、韓国人、ハルピンの
中国人、琉球人とアイヌ人が含まれたが、アイヌ人は南グループと北
グループの中間に現れるという微妙な系統位置を示した。」わしの
主観的顔比較では、個人的見解で根拠に乏しく、形質より遺伝子で
考察したが、「エンジョイ・コリア」の日本側の書き込みでは、台湾人に
近いように、捏造しとるようじゃのう。
745 :
白馬青牛 :2006/09/28(木) 00:10:22
>>743 そのサイト、「エンジョイ・コリア」は、韓国人側も日本人側も、概ね
程度が低いよ。いつぞや韓国人の原爆投下された広島を愚弄した
書き込みに、怒りを覚えたし、日本側の素性の知れん連中の書き込みにも、
あきれる。こがいな連中に味方する意思も無いし、そのサイトは、長文じゃ
のうて、短文のプロパバンダに有効な文章を書く所じゃろう。
ダイジェストで済む、スローガンは、わしにゃ、書けんよ。
日本側の連中も、新興宗教団体の依頼で書いとるんかも知れんし。
http://www.tokakushin.org/undou/no_net_uyoku/net_uyoku.htm に、出とる連中が、流れこんどるんじゃろ?あんたも運動員かも
知れんが。兎も角、警察にチンコロ(密告)とは、風が悪うないか。
日本人の誇りも無い連中じゃ。こういう連中は、戦後日本人が抑留された
シベリアの様な境遇に陥ったら、真っ先に同胞の日本人をソ連人に密告し
点数を稼ぐくらいの者じゃろう。権力に依存する者は、真っ先に仲間を
裏切る者じゃとシベリア抑留者の方は語られたもんじゃ。最近の「ネット
右翼」たあ、我が日本民族の誇りを傷つけあがるのう。こがん連中が
日本代表かいの。上記の左翼の人らに突っ込まれても自業自得じゃ。
746 :
日本@名無史さん :2006/09/28(木) 10:42:50
>>744 工作員じゃないけど、中国では上海の人が一番似ていると思った。
北京はツルツルのっぺりで違和感があったし、台湾も違和感があった。
韓国人は、ごつくて背も高いし怖かったw
747 :
白馬青牛 :2006/09/29(金) 01:55:46
>>746 上海人を含む漢人と日本人、蒙古人、満洲人、韓国人の違いは、
後者の蒙古襞まぶたのはれぼったったさか。台湾人は、鼻のあぐらがかいた
ような南方顔が多く、韓国人の顔相は確かにごついね。
じゃが、韓国人の性格は温和な方じゃろう。北朝鮮や満洲の漢人の方が、
気性が荒いんじゃないか。
一人上手に勤しむスレなのですか?
749 :
日本@名無史さん :2006/09/29(金) 10:39:08
>>747 >韓国人の性格は温和な方じゃろう。北朝鮮や満洲の漢人の方が、
気性が荒いんじゃないか。
満州人は誇り高く性格が正直、韓国人と台湾人は感情的にして卑怯云々…
という自論から急転換したのは、どういった風の吹き回しですか?
複数の人間が同じ名前で書きこんでるようにも見えるね。 トリップつけないと、コテにしても意味ないよ。 読む方もトリップなしコテは、ある程度距離を置いて見ないと 釣堀になるだけだよ。
751 :
白馬青牛 :2006/09/29(金) 22:30:23
>>749 満洲族と満洲へ移住した漢人を混同しとるんじゃないか。韓国人と
台湾人は感情的じゃが、卑怯云々云うたこたあないよ。
わしゃは、東三省の漢人と北朝鮮人の気質が似とる云うたんじゃ。
戦前の方の話じゃが、朝鮮南部じゃったら、京城(現在のソウル)に
降りても、日本人に旗を振って歓迎して呉れるが、北朝鮮の平壌の方じあ、
石を投げつけあがる。京城あたりじゃあ、口論の喧嘩が多いが、北朝鮮の
方は実力行使に及ぶ喧嘩が多かった事。ほいじゃけえ、韓国人は口は
騒々しいが温和で、北の連中は血の気が多い云うか気性が荒いよ。
満洲じゃあ、北朝鮮の移住者も多く、漢人やロシア人相手に喧嘩武勇を
発揮しとったようじゃ。
752 :
日本@名無史さん :2006/09/30(土) 08:21:18
>>751 >戦前の方の話じゃが、朝鮮南部じゃったら、京城(現在のソウル)に
降りても、日本人に旗を振って歓迎して呉れるが、北朝鮮の平壌の方じあ、
石を投げつけあがる。京城あたりじゃあ、口論の喧嘩が多いが、北朝鮮の
方は実力行使に及ぶ喧嘩が多かった事。
南は口先だけで、北は即実力行使・・・という事ですか。
同じ民族でもかなり性格が違いますね。
北の教科書だったか、「我々は北方人の血を引いているので 南の連中より背が高いのです」ってw
754 :
白馬青牛 :2006/10/01(日) 01:30:16
>>752 朝鮮南部は、内心じゃ、日本人に対する反撥意識もあったが、
うわべだけは、歓迎して呉れると云うべきでしょう。
北は直情的じゃが、あっさりした部分もあり、前の揉め事の話を
ねちねち繰り返すんは南の方じゃそうです。
>>753 戦前の北朝鮮の身長が平均165〜166センチで、日本人の160
センチや朝鮮南部の162〜164センチより背が高かった云うことで
しょう。1940年の身長分布では、西洋の北欧人168〜173センチ、
中欧人や地中海人で160〜165センチで、東洋の華北人168センチ
より低い。東南アジアは159センチ以下の低身長。
現在の北朝鮮は栄養不足で相当身長も低いんじゃないですか。
755 :
日本@名無史さん :2006/10/01(日) 01:44:25
今の学会じゃ通用しないわな。
756 :
日本@名無史さん :2006/10/02(月) 08:12:46
もうこのスレも終わりだな。以前のように白熱しない。 江上波夫の「騎馬民族征服説」なんて嘘だということにみんなが気付いてしまった。 「日韓同祖論」や「騎馬民族征服説」が支持されていた時代があったなんて信じられないよ。 時代は進んでいるということを感じさせられる。 時代に取り残されている人間もいるが・・・。
757 :
ヤマタノオロチ :2006/10/02(月) 09:00:30
騎馬民族征服説はもう誰も支持しない妄説ですが、日韓同祖論はなりたちます。
758 :
月光仮面 :2006/10/02(月) 15:37:20
>>757 O-47zと言う遺伝子が日韓共通であることは事実だが、マジョリティーではなく、日韓双方
に無紋・弥生時代に内モンゴル方面から入ってきたもの。日韓の一部は祖先を共にして
いるとは言えるだろうが、朝鮮族とか、縄文人集団から見れば渡来系であるとも言える。
日韓両国は非常に似通った歴史的運命をたどってきたものの、基本的に朝鮮族・縄文人
の差であるとか、最終的に落ち着いた遺伝子とかがずいぶんと異なっている。今後日韓
の理解を深めるためにはお互いに中国、米国、欧州のような多民族起源の国家である
という共通認識に立ち、相互にその歴史を尊重すると言うことが大切でないだろうか。
759 :
月光仮面 :2006/10/02(月) 15:46:37
江上さんの研究で日本国家が成立した頃、ユーラシア騎馬民族(スキタイ)の影響に 染まり、騎馬民族化してしまったモンゴル・満州のアジア系遊牧民が殷崩壊に続く 中国の膨張のたびに朝鮮半島、日本列島に渡来してきたと言う考古学的遺跡、古墳 等のもつ意味が次第に明確化してきた。
760 :
日本@名無史さん :2006/10/02(月) 21:20:14
王朝崩壊の余波は、北へ向かうのか・・・ 逃げ出したのはいつも騎馬民族、とうことか。
761 :
月光仮面 :2006/10/03(火) 11:02:39
>>760 >逃げ出したのはいつも騎馬民族
中国にしてみりゃ、攻めてくるのはいつも騎馬民族、21世紀まで途上国にされてしまった。
他方、日本など東夷が先進国になりやがって・・・といったところだろう。
762 :
月光仮面 :2006/10/03(火) 11:07:09
↑中国は国が膨張しすぎた。少数精鋭の逆を行ったというか。しかし、分裂すると 戦国状態に入るし、難しいねー。
763 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 11:41:45
>>757 騎馬民族征服説はもう誰も支持しない妄説ですが、日本語・朝鮮語
同系論も誰も相手にしない妄説です。
764 :
ヤマタノオロチ :2006/10/03(火) 11:47:27
言語の類似性についての研究は復活してしかるべきです。
765 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 13:06:25
>>764 上古日本語と中期朝鮮語との関係は、インドネシア語、カンボジア語
との関係より低いという研究が出ているが、ご存知か?
766 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 15:13:49
古代朝鮮語は短歌17首しか残っていない。だから古代韓国語がどのような言葉であったかは解読不明。 しかも、その古代朝鮮語の短歌17首を発掘して解読したのは京都大学の日本人の教授。 朝鮮人は認めたくないらしいけどね。
>>764 上代日本語 高句麗語 新羅語 高麗語 中期朝鮮語 現代朝鮮語
1 pito" −− hっtっn hっtっn hΛnah hana
(一等) (河屯)
2 puta −− tu"pっ"r tuβっr turh tu:r
(二尸) (途孛)
3 mi mil −− sei s∂ih se:s
(密) (洒)
4 'jo" −− −− nei n∂ih ne:s
(廼)
5 'itu 'utu −− ta∫us tasΛs tasっs
(于次) (打戍)
6 mu −− −− 'jur∫us 'jっsΛs 'jっsっs
(逸戍)
7 nana nanun −− 'irkup nirgub 'irgob
(難隠) (一急)
8 'ja −− −− 'jurtap 'jっdщrp 'jっdっr
(逸答)
9 ko"ko"no" −− −− 'ahop 'ahob 'ahob
(鴉好)
10 to"'wo" tek −− 'jっr 'jっrh 'jっ:r
(徳) (噎)
768 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 15:25:59
『梁書』諸夷傳(東夷条)本有五族、有消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部。本消奴部爲王、微弱、桂婁部代之。 五部の内『○奴部』と付くもの四 消奴部 絶奴部 順奴部 灌奴部 『魏志倭人伝』 邪馬台国余傍二十一ヶ国と狗奴国の内『○奴国』と付くもの七 彌奴國 姐奴國 蘇奴國 華奴蘇奴國 鬼奴國 烏奴國 狗奴国 『後漢書倭伝』 委奴国
769 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 15:26:03
南島語は語彙などの近似が著しいにも拘らず、完全に無視されているようで、 気の毒です。 あまりにも共通点が多過ぎるので、無関係とは思えない。 早くまともな研究をして欲しい!
770 :
769 :2006/10/03(火) 15:27:10
>>765 さんへのレスポンスです。分かりにくくて、すみません。
771 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 15:32:48
こういう意見もあります。
------------------------------------------------------------------------
481 :477:2006/10/02(月) 23:23:13
>>480 日本語の起源は明らかではない。日本語の起源が解明される目途も立っていない。
いくつかの理論仮説があるが総意にいたらない。朝鮮語は、文法的近似性はあるが、
基礎的な語彙を大きく異とする。朝鮮半島の死語である高句麗語などとは共通点が
認められるが、データが非常に限られているため確かなことは言えない。音韻体系
や語彙は、南方系のオーストロネシア語族との近似が見られるが、関連性は分かって
いない。(Wiki「日本語」)
遺伝子は専門じゃないけど、日本語は複雑怪奇みたい。
日本人が複雑な渡来経歴を持つ民族だという事は想像できるよ。
772 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 19:25:29
騎馬民族征服王朝説って支持派もアンチもおかしいんだよ。 なんでその時代の農業の形態や、生産の様式や、自然環境だけで騎馬民族や農耕民族と言いきれるの? 江上波夫も佐原真も単なる唯物史観なんだよ。 歴史というのは唯物史観だけで語れるか?そうじゃないだろ。 どんな国の歴史だって神話というのがある。それを江上も佐原も無視しすぎだ。
773 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 20:50:46
>>768 消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部
倭人伝の方の国名は奴の前は全て開音節だが、東夷条の方は二重母音か閉音節語
というはっきりした相違がある。
774 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 21:27:09
>>772 「征服」したかというと確実にNOでしょう。
騎馬民族は来たかもしれないけど、楽浪滅亡後の高句麗の膨張に備えて
倭人が兵力増強の為に騎馬文化を受け入れたという方が正しいのでは?
775 :
YAP? :2006/10/03(火) 23:05:33
後漢、三国(中国史の方だ)時代の「奴」は、「n」音が頭子音だったと考えられる。 つまり、「t,d」系の音を写したとは考えられない。 で『魏志倭人伝』の国名に多い「奴」は、上代日本語(奈良時代の日本語)の 「の」(野)や「な」(地)の語彙と同じか、まあ、その祖形だろう。 一方、「地」の語義を持つ語彙は、満州・ツングース諸語や、韓国朝鮮語でも 、大体、「na][naa」であり、日本語の「な(地)」「の(野)」と 明らかに同源だ。日本語の「な」と「の」は、母音交替形だ。 扶余系高句麗語の「五部」の名称に繰り返し現れる「奴」は、 日本側の国名に現れる「奴」とほぼ類似した音価で、「n」音だろう。 語義もおそらく、るいじしたものだろうが、高句麗五部が、王族内の 分枝である家系→氏族を指したものとすれば、やはり上代日本語の語彙 「な(名)」が考えられる。 上代日本語でも「な(名)」が、「氏」の名をしめすことがあったらしいので。
776 :
白馬青牛 :2006/10/03(火) 23:35:28
>>756-772 概ね、HLAやDNAで日韓は同祖に近いという結論じゃ。顔は東西日本でも
違うし、朝鮮半島と比較しても多少違うことは当たり前じゃ。
人種系統では日韓は大雑把に同族と云える。人類学的見解も江上氏の
騎馬民族説も大雑把に妥当と云える結果になった。月光仮面さんは、
弥生期に北方民族が流入とされておられるが、形質人類学から古墳時代に
多くの北方民族が流入し、人種的に土着民は渡来系に征服された。
古墳渡来系は現在日本人の直系先祖と云える。
佐原氏は、リベラル派で唯物論とも云えるが、江上氏は唯物論じゃないよ。
皇国史観と供にマルクス史観を批判しておられ、遊牧民が自由主義、
現実主義で、農耕民は、共産主義的とされとる。(「攻めの文明・
守りの文明」、「世界史の新視点」六興出版)江上氏が唯物史観で
あったとされるんは、江上氏のどの著作から引用したんか?
参考文献に使うた資料を挙げて貰いたい。挙げれんかったら、あんたは、
嘘つきになるよ。ほいで江上氏が神話を無視したとされる根拠は?
神話についても、江南派の諏訪氏のように、南方系の影響をことさら
強調する人もおられるが、日本神話のアルタイ系要素を無視出来まい。
南島語も文法がアルタイ系でない。日本語と同祖にするには根拠に乏しい。
>>774 高句麗と闘い、惨敗した倭人のほとんどは、朝鮮半島の人達じゃったと
思うけどね。当時の土着民が騎馬文化を受け入れた周辺民族の例を
述べてない。日本だけが例外と云うんは、
>>745 のカルト原理主義宗教の
世界のみ通用する論理じゃろう。
777 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 23:38:27
>>744 >アイヌ人は南グループと北グループの中間に現れるという微妙な系統位置を示した。」
へ〜〜〜。
778 :
↑ :2006/10/03(火) 23:39:31
スレ違いっぽいけど、これについて詳しく知りたい。
779 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 23:46:35
>>776 >人類学的見解も江上氏の騎馬民族説も大雑把に妥当と云える結果になった。
どこが妥当なのかよくわからないんですけど。
遺伝子的に中国東北から本州〜沖縄にかけての人々の距離が近いのはその通り
だけど、なぜ「騎馬民族征服説」が妥当になるのかさっぱりわかりません。
弥生の頃からの民族大移動が関係していると思ってますよ。
>>776 私は浄土宗です(怒)!
あなたいったい何様ですか?!
780 :
日本@名無史さん :2006/10/03(火) 23:51:36
>>776 >南島語も文法がアルタイ系でない。日本語と同祖にするには根拠に乏しい。
現代の言語学の世界では「基層南島語系」という説が有力なんじゃないですか?
それは、あまりも南島語との共通性が高いため、少数の移住者による影響とは
考えにくいからだと思うんですけど。
781 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 00:33:47
>>775 奴は同じとしても、その前に付く語が倭人伝の方は日本語の特徴を
備えているが、東夷条の方は日本語的ではない、という相違がある。
782 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 00:45:47
>>780 インドネシア語の身体語
目mata>まつ毛、手tangan>たなごころ、脚kaki>駆ける、鼻hidung、
耳telinga>耳ダリ?、歯gigi>牙、頬pipi
これらは明かに日本語と関係が深いと思えますね。
783 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 00:50:04
顔muka>額ヌカ、ムカ・フ、もあるが、これはヒンドゥー系単語らしい。
784 :
白馬青牛 :2006/10/04(水) 01:32:59
>>778 http://www.nig.ac.jp/labs/AR98ja/research/A/Ac2.html >>779 何度も云うが、北方渡来、新モンゴロイド形質の人骨が広範囲に見られる
んは、古墳期になる。世界的気候寒冷化による北方民族の南下(ゲルマン・
エフタル・五胡)が4世紀頃であったこと。江上氏の騎馬民族到来期と
一致しとる云うこと。どうしても弥生期と言い張るんならの弥生期の
「民族大移動」を世界的にどのようなものがあったか、日本の
新モンゴロイド到来期と比較して、具体的に云われよ。
>私は浄土宗です(怒)!
わしゃあ、浄土真宗、安芸門徒じゃ。キリスト教徒でも、一言一句無謬の
聖書と解釈するとカルト原理主義になるしね。仏教でもオーム真理教の
ように、カルト化する危険性はあるよ。資料の無謬を疑わず、
文献至上主義史家も原理主義者と同類じゃろう。
>>780 南島語派の人達はそう解釈するでしょう。彼らは文法を重視せん云うこと
でしょう。言語も文書の世界なので、資料の無謬性を疑わず妄想の世界に
閉じこもる危険性があるんじゃないでしょうか。何れにせよ、日本人は、
南方系の人種群に無く、北方系の人種に属すると云うことです。
韓国人やイヌイット(エスキモー)にも、オーストロネシア言語の
影響もあるようですが、韓国人がHLAでタイ人と単一遺伝標識が似ておると
しても、基本的全体的に北方系の人種に属すると云うことです。
785 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 05:03:29
>>775 >「の」(野)や「な」(地)の語彙と同じか、まあ、その祖形だろう。
邪馬台国時代には高頻度で国名の語尾に『の』『な』が付いていたが
その後の国名や地名では頻度が激減したのはなぜだ?
毛野、美濃、信濃ぐらいしかない
『の』『な』は助詞だ
786 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 06:00:40
>>784 >わしゃあ、浄土真宗、安芸門徒じゃ。キリスト教徒でも、一言一句無謬の
聖書と解釈するとカルト原理主義になるしね。仏教でもオーム真理教の
ように、カルト化する危険性はあるよ。資料の無謬を疑わず、
文献至上主義史家も原理主義者と同類じゃろう。
日本の弥生〜古墳時代の文化は、決して騎馬的なものだけでもないし、
実際には「農耕漁労」的なものが中心なのです。
そして日本語は非常に複雑な構造も持つ。日本人とはかくも複雑で
豊かな歴史を持つものなのに、それを認めない。
いい加減にしろと言いたい。
南島語を云々すると「カルト」だ「嫌韓」だと言う。
日本人はツングース、日本語はアルタイ語、と割り切れない時代になってきて
いるんだから、北も南も拒否しないでよく調べなさい!
787 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 06:07:02
>>784 >南島語派の人達はそう解釈するでしょう。
私は「南島語派」ではない。
南島語と日本語は密接な関係があるといわれているにもかかわらず
「ロマンチストの電波」扱いする人間が多いのには、何か政治すら感じる。
それから、「古墳時代」の舟形木棺墓などの大量の出土を完全に無視して
「騎馬民族」が日本を征服したと強調する。
古墳時代の初期の頃は、中国的な副葬品が多いのに「馬具」しか出ないかの
ように捏造する。
全て胡散臭い。私はこういう日本史の誤った状を正したいだけです。
788 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 06:14:28
>>784 >基本的全体的に北方系の人種に属すると云うことです。
華北以北は、チベット系も含めて基本的に北方系です。
そんなもの、いちいち念を押さなくても、世界中の人間が知っている事でしょう?
もうちょっと掘り下げなさいよ。
789 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 08:45:26
>>784 >世界的気候寒冷化による北方民族の南下(ゲルマン・エフタル・五胡)が4世紀頃であったこと。
>江上氏の騎馬民族到来期と 一致しとる云うこと。
4世紀の騎馬民族の南下とエフタル(Ephthal)と関連つけている時点で間違っているね。
エフタル(Ephthal)が騎馬民族の突厥(テュルクを表音)に滅ぼされたことは、どう説明するの?
牛さんは「世界的寒冷化で民族大移動は世界的に連鎖したのだ!!!」アニメっぽく考えているけど、現実は違う。
民族の移動なんて常に起こっていた。
すべての民族移動を4世紀に限定するのが間違い。
6世紀にも7世紀にも民族移動はある。
牛さんは思想家的だから、現実の考えには向かないね。
自分がサラリーマンに向いていないと思ったことがあるでしょう?
790 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 10:06:34
>>782 >目mata>まつ毛、手tangan>たなごころ、脚kaki>駆ける、鼻hidung、
耳telinga>耳ダリ?、歯gigi>牙、頬pipi
>目mata>まつ毛、 じゃなくて「まなこ」じゃない?
791 :
月光仮面 :2006/10/04(水) 10:22:03
白馬青牛さん、お久しぶりです。下記の通りレスさせていただきます。
>>776 月光仮面さんは、弥生期に北方民族が流入とされておられるが、形質人類学から古墳時代に多くの北方民族が流入し、人種的に土着民は渡来系に征服された。
それは弥生終末期で、古墳の始まりの頃。渡来した騎馬民族の上層部はスサノオが
アマテラスによって、その斑馬生剥ぎ、農耕馬使用の禁忌をともなうカミヤライ処分
を受けることとして記紀に残された。下部組織は山戎の相を呈したもので、秦氏の
下部組織として石柱、巨石加工運搬に従事したものであろう。北部九州・豊前・中国
地方・阿讃播といった順序で遺伝子の拡散が行われた。阿波のオオゲツヒメが
月読命に殺され、アマテラスが袂を分かつのは楯築建設の後のことだろう。・・・続く。
792 :
月光仮面 :2006/10/04(水) 11:04:12
日御碕神社伝承ではヒコフトニこと、孝霊の御宇、月支国王ヒコハニが、来襲せるも、 天から白い矢が降り、つまり、出雲ではよくあることだが、寒波の急襲により失敗したと されるようだが、田和山古墳は頂上に半月(月牙、月弓>月読)の壇がある三段の祭祀 施設(山海経にあるものか)、また、この近辺には松江近辺に鉱山・冶金文化を示す 北斗信仰・7福神・蜈蚣の伝承、更に奥地には熊野大社がある。孝霊帝であるが、これは ヒコハニ来襲よりも早く、隠岐の黄魃鬼征伐に出ているが、田原本町の黒田では当時 兵站としてあまりにも遠すぎ、但馬の黒田の方がもっともらしく、出陣したのは桃太郎 伝承のある気比大社ではないかと思う。また、青谷上寺地出土の銅鏃は皇軍のみが 使用できるもので、その生産地としては吉備、ないしは東奈良方面であろうか。こういう ことを考えると孝霊は既に田原本町に本拠地を持っていたものかもしれない。
793 :
月光仮面 :2006/10/04(水) 11:09:26
田和山古墳なんて言っているが、古墳ではなく、古代の神社のような崇拝施設であり、 3段に別けるのは山海経時代からの風習だろうが、紀州の本宮神社では見事見事に されている。
794 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 13:01:48
>> 792 「孝霊帝の時、秦の徐福結伴して薬を東海の神山に求む。」 これが何で秦氏と関係するのか、いまだに咀嚼できないんでいるんですけど。 余裕があれば馬鹿にも解るように説明よろしくお願いします。
795 :
月光仮面 :2006/10/04(水) 14:05:39
>>794 垂仁の時代にタジマモリが仙薬を持ち帰ったが帝が崩御したとして御陵に(洛陽の
始皇帝陵か)泣き崩れるし、竹取物語では不要となった霊薬を富士のクレーターに
投げ捨てる話sもあり、当時天日矛として新羅から渡来してきた集団に、そのまた
4世紀も以前にピョンヤン辺りに漂着、後に、ソウル(徐市のハングル読み)に定着、
更に馬韓経由新羅に入った集団に混じっていた可能性はあるような気がします。
796 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 16:33:46
>>790 目ツ毛も目ナ子も目+助詞+名詞の複合語だと思う。そうすると目=mata
だけになってしまう、という辛いところもある。
目はボド語megan,シナ語mok ともにmで始まる特徴がありますね。
797 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 16:43:25
その他、マレー山地民族語に顔kapo、肝kemod、体kradなどもあったような 気がします。 心はモンゴル語、トルコ語、高句麗語に相当するものがあったような。
798 :
794 :2006/10/04(水) 18:59:31
>>795 説明ありがとうございました。
>垂仁の時代にタジマモリが仙薬を持ち帰ったが帝が崩御したとして御陵に(洛陽の
始皇帝陵か)泣き崩れるし、竹取物語では不要となった霊薬を富士のクレーターに
投げ捨てる話sもあり
秦氏の集団に秦からの逃亡者(例えば徐福のような)が混じっていたという事ですか?
その「仙薬」探し等の伝承が、日本の伝説に反映していると。
799 :
794 :2006/10/04(水) 19:01:46
>>797 >マレー山地民族語に顔kapo、肝kemod、体kradなどもあったような
気がします。
近い、というよりそのまんまって感じがしますけど。近いですね。。
マレー語の「アラマー」というのは、日本語の影響というのと、マレー語が
日本語に影響したという両方の説があるそうですね。(語学系のTVより)
800 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 22:42:08
>>799 南島語には呼びかけの「あのう」とか、掛け声の「せーの」というのも
あるそうですが、本当だろうか?
801 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 22:47:12
>>799 ドイツ語のナヌ?(何)は偶然だろうな。
802 :
日本@名無史さん :2006/10/04(水) 22:55:45
>>801 横レスですが、、、、
それは本当に偶然だし、ハンガリーの「シオタラン」や、
どこかの国の「ヨッパラッチ」も偶然ですが、南島語は本当に語彙の面での
共通性が指摘されています。恐らく確実でしょう。
803 :
白馬青牛 :2006/10/04(水) 23:15:30
>>786-787 南方起源論者は、江南派を含めファンタジー思考じゃろう。
安田善憲氏や諏訪春雄氏にしても。彼らこそ、牧畜文化に対する
蔑視、一神教を排撃する、独善的な思想意図を感じるんじゃが。
弥生期の倭人は、越文化(東南アジア・江南・山東・朝鮮南部)要素が
強いが、弥生後期の青谷上寺地遺跡のように北方的要素が増え、古墳中期、
後期にピークとなる。そう、騎馬要素よりも北方系ツングース漁労文化
要素の方が強い。江上氏が北方系漁労文化について述べておられんのは残念
じゃ。江南系の大型構造船文化が日本に伝わらず、日本は、準(半)構造船
であったこと、鯨猟が江南に伝統が無く、遼東や朝鮮半島が鯨猟をして
おったこと。日本の漁業文化も北方要素が強い。
舟形木棺が渡来系が持ち込んだ物か現地人の形態墓か断定出来んが、
墓は現地人が作り、外来征服者も概ね現地人の墓式になる。(高句麗も
集安時代の積石塚から平壌の土塚に変わった。)古墳時代の後期は
明らかに馬具等の副葬品が増えとる。馬具しか出てないように捏造する?
誰が?そのように捏造した考古学者の名前と引用した書籍なり論文なり、
提示しんさいや。胡散臭いんを正したいんなら。ほうじゃないと、
あんた自身が胡散臭い云うことじゃろう。
51 :ひよこ名無しさん :2006/09/28(木) 20:33:08 ID:??? みんな、名古屋に「竹石 圭佑」って物がいたことを忘れないでやってくれ。 竹石は確かに人間のゴミクズで在日で、覗きや万引きで逮捕されるような どうしようもない奴だが、それでも一応生きてるんだ… だが、竹石も今年で20歳…脳内は小学生くらいの思考能力しか備わってないが… 馬鹿でかなりの目立ちたがりだから、成人式に出て、騒ぎを起こさなければ良いが…
805 :
白馬青牛 :2006/10/05(木) 00:33:39
>>788-789 基本的に北方民族じゃが、初期の北九州の渡来系弥生人は漢人的で、
弥生後期〜古墳期の渡来系は、徐々に、北方系の要素が強くなると
池田次郎氏は云われる。
あんたの、エフタルの例が間違えと云うとる根拠が、突厥(西突厥)が
567年エフタルを攻撃しエフタル集団が崩壊と云うより、
遊牧騎馬民族的に云えば解散した云うこと。
エフタルは、4世紀初期興り、南下し、5世紀中頃には、
カスピ海〜北インドまで勢力を誇っとったよ。捏造はやめんさいや。
あんた自身が惨めになるだけじゃ。
北方民族の大量南下現象は気候寒冷期に現れるは、4世紀の例でゲルマンや
五胡だけじゃのうてスラブや高句麗(扶余系)、オホーツク文化人の
北海道への南下と世界的なもんじゃ。6、7世紀はまだ寒冷期が終わって
ないが(日本でも万葉寒冷期)、温暖化の影響はアラブ(サラセン)が
北上と云うより東西に勢力を広げ、唐も西方オアシス地帯に勢力を広げる。
寒冷期ほど大量な民族移住はないよ。風土と云う人の要素と地理要素は、
歴史を考察するんに不可欠なことじゃが、それら現実を無視して、
閉じこもる空想鎖国史観にゃ、あきれる。あんまり思想に捉われると、
自分を見失うよ。特定な思想を崇拝するんはカルト新興宗教信者と
変わらん。わしゃは、そういう類の者じゃないよ。
806 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 00:40:17
>弥生期の倭人は、越文化(東南アジア・江南・山東・朝鮮南部)要素が >強いが、 越文化の印紋陶も越式鼎も玉器も酒器も無いのにか(嘲笑)
807 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 00:43:53
トトカルト廣島
808 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 00:53:21
白馬青牛さん。 ところで広島人の容姿の評判が よくないのはどういうことだと思う?
809 :
白馬青牛 :2006/10/05(木) 01:00:51
>>791 >>803 に、書いたように、弥生終末期から段々と増え、古墳中期〜後期に
ピークになったと思うんです。西日本、特に近畿地方が渡来の中心ですが、
東日本の方にも北方形質が増えていきます。しかし古墳期の段階では、
熊襲や蝦夷等の集団は、まだ縄文形質であったんでしょう。
810 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 01:03:45
811 :
白馬青牛 :2006/10/05(木) 01:12:52
>>806 また、弥生北方ポンチョ民族厨か。弥生人の抜歯や断髪、椎結の髪型、
どこが北方習俗なんか。
>>808 広島人の容姿の評判?誰が云うたんか解らんのに、答えようがない。
812 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 01:15:24
僕の知り合いの人は 申し合わせたかのように 広島女の評判は悪いです。
813 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 01:22:22
日本の抜歯は東北起源の縄文文化だがな(嘲笑) 抜歯なんてアフリカからアメリカまで、世界各国の原始社会に 頻繁に見られる風俗で珍しくもなんともないんだがね(嘲笑)
814 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 01:34:48
九州沖縄には縄文土器はない 貝殻文様土器 縄文土器は下関から青森までの本州四国地域のみ
815 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 01:39:48
東北と関東と関西と四国瀬戸内は同族。 縄文土器文化圏。 沖縄西九州、南九州は貝殻文様文化圏 これは弥生時代の甕棺、木韓文化圏とも重なる。 カスガバル、ヤンバルクイナ 原←九州沖縄 タカマガハラ原←本州四国
816 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 07:59:38
>>813 >日本の抜歯は東北起源の縄文文化だがな(嘲笑)
なるほど、じゃぁ弥生人は、原住民の文化のかなり細かいところまで真似したんだね。
たぶん差別されたり迫害されたりしないように?
817 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 08:02:52
>>814 >>815 九州南部〜沖縄の原住民って、喜界大爆発で一度ショボショボに
なっちゃったんじゃないの?
818 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 08:08:23
>>816 >なるほど、じゃぁ弥生人は、原住民の文化のかなり細かいところまで真似したんだね。
自己レスするが、いいこと発見した。
そうかもな。新参者ゆえの「迫害防止」とかね。所謂「人心掌握」。
だから支石墓とかも、日本のは遠慮してスゲー小せぇんだと思ったよ、今。
819 :
月光仮面 :2006/10/05(木) 10:38:40
820 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 14:03:55
>>815 バルとハラなら、語尾の母音の有無が違うだけで、同じ倭人語ということは
明らかだな。
821 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 18:12:07
822 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 18:18:39
>>816 単に文化の同化だと思われ。
まずは土着人の縄文時代から引き継ぐ弥生文化と
渡来人の持ち込んだ北方アジア文化の情報交換や
文化交流から始まっただろうね。
823 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 18:37:13
325 名前:名無しって何ですか?:2005/12/27(火) 07:14:19 ID:YevwbuuZ ________ /:.'`::::\/:::::\ /:: \ /::. /""" """\ ヽ |::〉 ●" ●" | (⌒ヽ |) ←セロイwwwwww ( __ ( ∩∩ ) | | 、_____ / ヽ \____/ / \ / \____/ 竹石 圭佑 (1986〜 愛知県名古屋市) 在日中国人の両親を持つ為か、日本語のアクセントがおかしい時が多々ある。 小学生の時に万引きで補導されたらしく、その頃から既に歪んだ性格であった考えられる。 中学・高校時代…意中の女子には露骨にちょっかいを出して気を引こうとし、また、その時の言動は挙動不審で相手に好意があることがミエミエな為、非常に痛々しい。 でしゃばりで、なぜか偉そうな態度をとっていたが、不良学生相手にはビクビクしながら機嫌をとっていたという不可解な面も併せ持つ。 また特に自分より力の弱い女性教員や女子生徒等を格好の的としていたので、その様な人間には異常に高圧的な態度をとり、馬鹿にし、いつも幼稚な悪口や悪質な嫌がらせを考えて楽しんでいた。 相当な目立ちたがり屋で「地球は自分を中心に回ってる」という性格。しかし、何の能力・才能の欠片もなく、ヘラヘラしていただけなので精神が不安定だったとも考えられる。あだ名はダメ石(何をやってもダメなくせに口八丁なので)→デメ石(非常に出目金に似た顔なので)。 愛知県の底辺の大学に通ってるが、名古屋大学医学部を目指しているらしく、医学生になった自分を日々妄想している。 余談だが、KAT-TUNの田中聖をライバル視しているらしい。 ※注 これは自分の知っている範囲の竹石圭佑の情報であり、全てではないと思われ。
825 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 19:01:29
細石器の出土から北日本の縄文人たちは12000年前までには既に 九州北部に到達していたようである。 縄文土器が成熟期に入る前に縄文人が九州に拡散していったために 九州の縄文土器は独自の発展をしていったのだろう。 その九州の縄文人たちが8000年くらい前から沖縄に渡っていった。 5000年くらい前までの土器も出ているところから、6000年前の 喜界大爆発後も渡っていたと見られる。
826 :
白馬青牛 :2006/10/05(木) 22:49:34
>>812 >僕の知り合いの人の評判?そがいなん知らんよ。
>>813 渡来系弥生人の抜歯が縄文土着系の文化と断定出来るんか?
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/162.html 渡来系弥生人の代表的存在である土井ヶ浜弥生人の抜歯には、上顎側の
切歯を抜去する、古代中国と共通する型式が多く、この点でも大陸の影響を
受けた可能性がある。と江南派に近い中橋考博氏の解説があるが、
>>821 氏の挙げたサイトにある縄文人の下顎側抜歯との違いを云うて
おられるんじゃろう。
あんたが、もし越文化圏の山東系と違うと云う意見があるんなら、
縄文文化の継続と云う根拠を示して貰いたい。
抜歯は、越文化圏〜オセアニア、古アジア系に広がる習慣じゃが、
渡来系弥生人が列島移住した同時代のモンゴルや満洲、あるいは華北の
広範囲地域で抜歯風習はあったんか?あんたのよう云う北アジアの人骨を
無視しとると思えるゆえ、北アジア(モンゴル・ツングース民族生活圏
地帯のこと。極北集団や新大陸の古アジア集団の古アジア文化圏を
別として)の例を示して欲しいね。
当時の北アジアの諸集団の多くに抜歯習俗はあったんか?
827 :
日本@名無史さん :2006/10/05(木) 23:35:25
>>826 >土井ヶ浜弥生人の抜歯には、上顎側の
切歯を抜去する、古代中国と共通する型式が多く、
そうですね、ここですね、注目ポイントは。
偶然の一致かも知れないけど。
828 :
白馬青牛 :2006/10/05(木) 23:38:01
829 :
日本@名無史さん :2006/10/06(金) 07:25:46
>>828 >弥生時代初頭のものは四眠系蚕(淮河以南の華中、華南の蚕)で、華北、朝鮮半島特有の
三眠蚕は中期後半から
この時間差はなんなのでしょう?
830 :
日本@名無史さん :2006/10/06(金) 07:53:20
>>828 >九州北部に最初にたどり着いた水稲耕作技術を持った人たちは、江南あるいは山東半島から
直接渡来した倭人だったのではないかと推測する。
その後、弥生時代前期末頃から青銅器と水稲文化をもつ人たちが渡来するようになり、
弥生時代中期後半頃(紀元前後)から次第に、その中でも朝鮮半島北部からの、北方系の血を
濃く引く人たちが多く渡来するようになったと考えられる(三眠蚕から推測)。
資料に書いてあった…(自爆)
831 :
月光仮面 :2006/10/06(金) 09:15:32
832 :
日本@名無史さん :2006/10/06(金) 14:15:27
シナの山海経によると、殷を建国したのは日本の出羽出身の羌族で、 周を建国した姫氏も日本出身だそうだ。 今の流行は騎馬民族どころか、農耕民族大陸征服説ですよ。
833 :
日本@名無史さん :2006/10/06(金) 18:02:57
>>826 抜歯や蚕より、何で生活で何よりも最優先されるべき食生活に関わる一難重要な
器種が伝わってないのか、残り少ない余生、無い頭で死ぬまで考えな。
デムパじいさん。
834 :
日本@名無史さん :2006/10/06(金) 21:50:19
>>832 >シナの山海経によると、殷を建国したのは日本の出羽出身の羌族で、
周を建国した姫氏も日本出身だそうだ。
それは本当ずらかw?!
835 :
日本@名無史さん :2006/10/06(金) 22:14:49
>>833 そういう煽り口調はやめようや。
騎馬民族説から離れてるし…
836 :
日本@名無史さん :2006/10/07(土) 00:20:51
デムパじいさんはやはりデムパじいさんだからデムパじいさんと呼ばれデムパじいさんが怒ってデムパじい さんが罵倒してやはりデムパじいさんはいつでもデムパじいさんでいつものデムパじいさんはやはりデムパ じいさんだからデムパじいさんと呼ばれデムパじいさんが怒ってデムパじいさんが罵倒してやはりデムパじ いさんはいつでもデムパじいさんでいつものデムパじいさんはやはりデムパじいさんだからデムパじいさん
837 :
白馬青牛 :2006/10/07(土) 01:55:11
>>829 わしは、漢人商人の流入説を考慮する必要があると思うんです。
倭人は生口を献上する、漢人の隷属民であったことも含め。
>>833 満蒙から朝鮮半島を経ず、日本へ渡来した集団があったんなら、オルドス、
遼河の三足土器が伝わってもええはずじゃが、現在確認出来ん。
残念じゃのう。後は罵倒のオンパレードで答えようがない。
838 :
日本@名無史さん :2006/10/07(土) 02:24:54
では、どなたか、現在版騎馬民族日本建国関与説、渡来人建国説 を簡易にまとめ解説してください。征服説でなくてもいいです、 渡来文化影響など。 まったく無関係であったとは国民は考えていませんので、今後の中国、半島、 アジアとのおつきあいにおいて、基本的な歴史認識として参考にさせていただきます。 あと、ネオ騎馬民族説以降の現在の有名研究者はどなたあたりでしょうか? 予算つけさせますので。 官邸代理人
839 :
日本@名無史さん :2006/10/07(土) 07:17:37
官邸代理人 ? 官邸代理人 ? 官邸代理人? 官邸代理人 ? 官邸代理人 ? 官邸代理人 ? 官邸代理人? 官邸代理人?
840 :
日本@名無史さん :2006/10/07(土) 10:22:49
漢に差し出した奴隷の日本人を救出するための予算を組んでください 17人分です。名前は
841 :
月光仮面 :2006/10/07(土) 12:42:34
>>838 >予算つけさせますので。
これは国民にしか許されない発言だから、あなたがわれわれと同じであることは
わかった。しかし、総理に申し上げたいことは、北朝鮮、中国などとの難局に当たり
「鳩のごとく純真であり、蛇のごとく狡猾であれ」との聖書の言葉をはなむけにしたい。
842 :
日本@名無史さん :2006/10/07(土) 13:00:37
>>810 (白馬青牛氏曰)弥生北方ポンチョ民族厨(?)
機械翻訳使って適当に文献読むから浅薄になるみたいだな。
おっと…こんな事を言うと乱入されるから控えるが、
俺は中国人じゃないからね。
日本国籍を有するチャキチャキの日本人だ。
このスレ、なんかヘンなのが大杉。
843 :
日本@名無史さん :2006/10/07(土) 13:13:03
844 :
月光仮面 :2006/10/07(土) 17:42:02
845 :
日本@名無史さん :2006/10/07(土) 18:40:56
846 :
日本@名無史さん :2006/10/07(土) 19:05:43
>>845 勿論弥生時代開始次期の日本では、っていう意味ですけど。
Kuangwuziyuan,renliziyuan(jishuxing de wenti),hai yao jingjili,dui ba ?
847 :
日本@名無史さん :2006/10/07(土) 19:48:24
848 :
846 :2006/10/07(土) 20:50:38
>>847 お尋ねしますが、中国人じゃないよね?
>Kuangwuziyuan,
何気に打っちゃたけど、当然「鉄鉱資源」の方ね…
>jishuxing de wenti
さて、この誤字に気がついたら偉い。
849 :
846 :2006/10/07(土) 21:07:57
>>848 悪い悪い…
>何気に打っちゃたけど、当然「鉄鉱資源」の方ね…
取り消し。
別の板の別のスレと勘違いしたorz
IDが無いから、気がつかないで書いてるときがあるよ。
ここは騎馬民族スレか…(溜
850 :
日本@名無史さん :2006/10/07(土) 21:12:13
なんだ覗きチャンコロかw
851 :
日本@名無史さん :2006/10/07(土) 21:27:01
>>850 違うよ。
>>842 のスレで、
>日本国籍を有するチャキチャキの日本人だ。
と言っているが。
852 :
日本@名無史さん :2006/10/08(日) 18:47:36
ぁゃιぃ・・・
853 :
日本@名無史さん :2006/10/10(火) 00:07:36
>>834 本当。
山海経の研究はアメリカで進んでいて、
日本の学界も少しずつ評価しはじめてる。
854 :
日本@名無史さん :2006/10/10(火) 06:45:19
855 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 07:49:26
856 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 07:52:51
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1157465721/menu213 戦国、秦、漢時代にできた山海経によると倭人は燕に属し、その北方、つまり、
内モンゴル辺りにいたとある。倭人の北、つまり、モンゴル以北は鉅燕、順番から
見ると倭人の東方が列陽、その隣が朝鮮だから、列陽は遼のようだ。これらの
北方に、つまり、吉林省以北に蓋がったようだ。そして大河の洲と、海とが一緒になる
黒竜江河口の彼方に列姑射、つまり、樺太があり、その西南に山に囲まれたような
地形、大きな蟹の取れる射姑國ありとするが、どうも地形からは積丹半島のイメージ、
更に、陵魚人面 手足 魚身 在海中 大居海中と言うのはトド、アザラシの感じ。
順路で行けば、更に南下すると、明組邑居海中、これは意味が不明だが海の辺に
あり、蓬山在海中、 大人之市在海中、これが玄界灘周辺の感じである。つまり、
後半は日本海をぐるりと南下しているようだ。
857 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 08:02:01
上記の明組邑居海中、これは後漢の時代に天火明命を祀る丹後籠神社、イネの船宿 辺り、蓬山在海中、 これは英彦山とか背振山脈か、大人之市在海中、これは壱岐原 の辻あたりではなかろうか。漢の時代であったもこの北回りコースは渤海時代同様で 樺太の霧が晴れる夏至の頃の一瞬に頼ったほぼ1年がかりのコースであったことであろう。
858 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 08:14:55
青銅器については殷よりはタイの方が早いようである。
http://www.chanty.info/rekishi.htm 「青銅の使用は中東に起源を発していると考えられていたが、タイのバン・チャン近くで
発見された遺跡により、タイの青銅技術は紀元前4500年前から知られていたことを
示している。これは中東での青銅の使用よりも数百年も先になる。ギリシャには紀元前
3000年まで、中国には紀元前1800年まで青銅は入っていない。つまり世界最古の
青銅器文明は今までのところタイということになる。」
859 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 08:24:16
まー、タイについてはこれと言った詳細な情報もないのでガセネタかもしれないが 要は青銅器生産に使用する錫がインドネシア方面にあることで、これは沿海州とか、 日本では日向の高千穂の近辺にもあるが青銅器文明が発達していないので、先ずは タイ、そして無錫辺りで錫が発見されるに至って湖北・銅緑山方面に進むのではなか ろうか。東南アジアに残るYAPを太古の日本人の祖の交易活動だとするのも案外面白い。
860 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 08:35:33
テレビのウルルン滞在記でタイ北部山岳民のレポートがあったが銃で武装した 原始人集落間で警察もなく日常殺傷活動を行っている。ところが、祭りにはドルメン を作るのだ。コーカサスにもドルメンがあるがこれを青銅器の鋳型作りから発した ものと考える人がいる。つまり土師というか、土をうまく使用して巨石を移動さす技術 と青銅器文明とに関係があるということであろうか。
861 :
日本@名無史さん :2006/10/10(火) 09:48:26
>>856 古くは倭人(東方の海中に住む夷)=縄文人を指したのだろう。
山海経に出てくる「倭人」の記述は、日本列島北部にいた縄文人の
交易ルートを示しているのだと思う。
小柄で刺青をして北方の住民と交流(交易)…これが縄文(あるいはアイヌ)
でなくてなんだろう?
862 :
日本@名無史さん :2006/10/10(火) 09:51:55
倭人:@在来縄文人 A弥生時代初期に移住してきた人間達 Bそれ以降の列島の住人 @〜Bまで、すべて「倭人」であろう。 列島からやってくる人間は全て倭人と理解していたはずだ。 北方を目指す縄文人は、地理勘に乏しい当時の人間によって「燕に属す」 と考えられたのだろう。
863 :
日本@名無史さん :2006/10/10(火) 09:59:51
>>861 >小柄で刺青をして
『山海経』という訳ではなく、中国の古文書にしばしば見られるこういう風習は、
縄文人にもそのまま当てはまる、という事を忘れてはならないべ。
弥生人も入墨や抜歯をしていたようなので、風俗的に相当カブってるが。
864 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 10:05:15
倭人(縄文人)居留民団のようなものが内モンゴル、遼寧にあったということもありえる。 12000年前の隠岐の黒曜石がウラジオストーク近辺で出土すると言うから、縄文商人 が古くから活躍していてもおかしくはない。が、弥生人の先祖が内モンゴルにいたと言う 可能性、それらが、昔は長江中流、下流域から中原の殷に入り、殷の崩壊と共に、内モン ゴルに入ったという可能性もある。この辺はなかなか簡単に決まる問題ではない。
865 :
日本@名無史さん :2006/10/10(火) 10:13:03
>>864 大事な点だが。
「倭」とは卑字で「チビ」を表す。(ただの蔑称かもしれないが)
モンゴルに「チビ」の倭人が大挙していたとしたらかなり不自然だ。
別の種類のチビた倭人がいなかったとしたら、初期の段階では「縄文人」
を指したのだろう。
866 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 10:19:25
「さて、曲木のこと松島町誌は籬は曲木であってとし、この島に曲がった木ばかり
で造った社があり、曲木のお宮と呼んでいたのを後の文人が都風に籬の字を当てた。
また、別の伝説として、塩竃様がこの島を訪れたとき、そこの人達が穴居生活で
不潔な暮らしをしていたので、家を建てる術を教えた。人々は曲り木を組み合わせて
住んだので「曲木神」の称号を授けたので曲木島となったと書かれている。」
http://www.shiogamajinja.jp/lineage/05.shtml 古代○○キという言葉には氏族名が入るのがある。これからするとここに入るのは
靺鞨がぴったりする。もちろん文字どうり流木と取れば網走のオホーツク文明という
可能性もあろうが。・・・この靺鞨の先祖がこうした交易活動を行っていたと考えると
縄文人(クイ)の直接貿易の線は薄くなるのだが。
867 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 10:48:54
868 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 11:11:12
869 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 11:13:14
おっとっと、護憲ではなく戦国時代あるいは燕地方とのタイムラグを考慮すると春秋時代 ということになる。
870 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 11:14:26
すると籠神社の後漢伝世鏡は天日矛の奉納したものと言うことになろうか。
871 :
日本@名無史さん :2006/10/10(火) 15:48:52
872 :
月光仮面 :2006/10/10(火) 16:51:40
>>871 これはズバリですなー。利尻礼文は古くから倭人の領域ですから、海馬島辺りで
倭人の漕ぎ手に代わって南下したのでしょう。夏場なら快適なたびです。津軽からは
牡鹿半島沖までは東岸、塩釜神社で塩を調達という手もあったかも。
873 :
日本@名無史さん :2006/10/10(火) 22:05:59
>>872 倭人の勢力範囲は関東あたりまでで、列島北部は縄文の世界じゃないの?
874 :
月光仮面 :2006/10/11(水) 06:47:42
>>873 そうですね。言葉遣いに気をつけなくっちゃいけませんでした。
875 :
日本@名無史さん :2006/10/11(水) 06:51:08
>>872 北九州辺りから出航して、半島南端に到り、そこから半島の西海岸を北上して、
遼東半島に辿り着いたのではなかろうか?
遼東や山東が大陸の玄関口となっていた可能性は?
876 :
月光仮面 :2006/10/11(水) 08:56:11
>>875 山海経の話だとすれば、燕を中心とした話であり、列陽、蓋、朝鮮などから満州、
沿海州方面が舞台ということで間違いなかろう。松花江、間宮海峡、積丹半島というのは
ありえる話だ。ただ、帰路として半島楽浪経由使っていたのかもしれない。なにしろ、
山海経は百科事典だから記述が飛び飛びである。
877 :
日本@名無史さん :2006/10/11(水) 19:54:50
文化天象学って本に、ここで言われてる様なことが書いてあった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 天文学は古代中国から起こり、星座や天体の知識がアラブ商人に よって中近東からギリシャやローマに伝えられ、それがやがて急速に ヨーロッパ全体に広がった。 中国の雲南省に先史時代から居住する少数民族の彝族に、 『彝族天文学史』 という最古の文献があり、そこには原始時代から の祖先の知識だと書いてある。 その 『彝族天文学史』 には驚くべきことが記述されている。 なんと、彝族の知識は羌の氏族が基礎を作ったものだというのだ。 この羌氏とは、『山海経』 によれば、「山形県や秋田県出身で、 日本から大陸に渡り、殷(商)の王国を築いた部族である。 その歴史を含めて、日本の歴史や 『風土記』 や伝承を、出羽 出身の姫氏が築いた周王朝で記述したものが 『山海経』 として 漢文に訳された」 という。 そうなると、世界最古の古代中国の天文学は日本原産である ことになり、それがアラブ商人、特に大月氏(ソグド人)によって ギリシャやローマに伝えられ、それが欧州に広がったことになり、 このことを私が第八回のオクスフォード文化天象学会で発表すれば、 世界中から集まった文化天象学者を驚かせること確実である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 他にも面白い記述が色々あるので、興味ある人は是非読んでみてください。
878 :
日本@名無史さん :2006/10/11(水) 20:31:56
出版社と著者は?
879 :
日本@名無史さん :2006/10/11(水) 21:05:27
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)
宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm http://youtube.com/watch?v=iRD3k2j9BeA
880 :
日本@名無史さん :2006/10/11(水) 21:09:35
まーだ宝来mtDNAデータのトリックと欠陥が分からない脳弱が いるようなので、簡単に説明しておくと、 朝鮮半島も中国大陸も、古代より北方アジア人の侵入定着が絶え間ない 地域であったのにもかかわらず、宝来mtDNAデータには北方アジア人に 関するタイプのデータが一切出てこない。 しかも、調査サンプルに北方アジア人のサンプルが一つも入っていない。 つまり、宝来mtDNAデータは北方アジア抜きの偏向調査で出された 偏向データなのであって、ただひたすら中国や朝鮮からやって来たと 錯覚させるだけの極めて悪質な欠陥データに過ぎないのである。
881 :
日本@名無史さん :2006/10/11(水) 21:17:01
・・・・吉田 信啓・・・・電波かよ・・・
883 :
日本@名無史さん :2006/10/11(水) 23:39:23
騎馬民族説から逸脱してるのですが…?
884 :
日本@名無史さん :2006/10/12(木) 18:59:02
885 :
白馬青牛 :2006/10/13(金) 00:14:44
縄文文明厨やら、ペトログラフロックアートとオカルトになって 来とるのう。
886 :
日本@名無史さん :2006/10/16(月) 23:22:15
騎馬民族説に戻ろう。 扶余は征服者となって日本に来たのか? それとも被征服者として日本に来たのか? それとも来てないのか?
来てないだろ、明らかに。
888 :
月光仮面 :2006/10/18(水) 08:11:16
記紀、スサノオの馬の毛皮を剥ぐ、農耕に馬を利用とする、スサノオが水田農作に 無知であることが糾弾され、厳し刑を受け、出雲に流されると言う記述は牧畜文化が 到来したが受け入れられず隔離されたと言うことを語っている。オオクニヌシ、八千矛 は馬に乗って都に向かおうとするから、例外的に馬が、神代に、飼育されていたことも 物語るのであろう。 騎馬民族のメンヒルは豊前、吉備、阿波、京都(松尾大社)等で特に目立つ。これは 古墳時代前夜に牧畜系文化が到来していることを物語るが、古墳建設を下から支えた ものである可能性がある。ただ、これらは匈奴、モンゴルのような侵略的遊牧民族と してではなく、戎、つまり、東洋のベルベル、のメンヒル、埋葬形式を持っていたという ことであって、人種的にはチャイニーズなのか、ツングースなのかはわからないし、 場合によっては。九州の縄文人が文化的に取り入れて移動したものだか、その点は 謎だ。阿波の場合、到着したものは忌部であり、その後千葉県安房に移動するのだ そうだが、千葉県ではもはやメンヒルなどはない。
889 :
サガミハラハラ :2006/10/18(水) 09:17:02
扶余族の日本渡来について、魏志倭人伝の風俗や政治形態、役職およびその名称当を考慮すると、邪馬台国は扶余族もしくはその影響を受けているようであると考えられると考えている。
890 :
月光仮面 :2006/10/18(水) 09:47:51
たしかに、扶余方面から百済の故地であるプヨ方面に渡来があったのでしょうが、日本 にはいるとなると、新羅辺りでカクテルがシェークされ、おまけに、狗邪韓国、対馬、 壱岐、伊都国シマなどで厳重な身元審査が行われることでしょうから、どうしても家柄 が古くて由緒あるものにする必要があったと思われます。結果、秦始皇帝の子孫とか ものすごいことを言うようになるのでしょうね。
891 :
月光仮面 :2006/10/18(水) 09:57:55
狗邪韓国と言うのは対馬の倭人がクサカの国と名づけたのでしょう。神武が難波に 上陸する辺りもクサ辺の境、つまり、クサと言うのは何らかの中心から見た西方と いうことで、狗邪韓国も対馬の西方地帯と言う意味だと思うんです。
892 :
日本@名無史さん :2006/10/18(水) 10:01:11
>>889 魏志倭人伝に、倭に牛馬なしと書かれてる。
(実際は馬はいたろうが…)
で扶余は殺牛祭典を持つ。
これは矛盾してる。
893 :
月光仮面 :2006/10/18(水) 10:11:27
タタール語で「クマン」というのは荒野、山地に住むものを意味するそうで、欧州に侵入 するキプチャク系トルコ人、はクマンと名乗るそうです。これは中国語の山戎、戎、日本語 の熊野にぴったり符合します。秦氏がその王を始皇帝末裔「コウマン王」としたり、タケ フルクマ、オシクマ王などというのはこうした戎・匈奴・烏丸等のことでしょう。
894 :
月光仮面 :2006/10/18(水) 10:18:43
倭のアマテラス禁忌によってスサノオの試みた牧畜導入は禁止されていたと言うこと (記紀神代は銅鐸終焉と崇神の間の数十年間の出来事)、秦氏広隆寺牛祭り (実際にこれとは別だが雨乞いには牛を殺したようだ)から、扶余の習慣が倭国に おいては体制側(弥生は500年さかのぼり、九州には相当古くからの勢力があった) の強烈な弾圧を受けたと言うことが考えられますね。
895 :
日本@名無史さん :2006/10/18(水) 11:13:13
>東洋のベルベル、のメンヒル >キプチャク系トルコ人 ・・・・・。 あとは任せた。
896 :
サガミハラハラ :2006/10/18(水) 12:35:49
天石戸事件事件(AD30年代)までは倭国に馬はいました。しかしその後200年後の倭国(邪馬台国時代)には 牛馬なしとしるされています。 いた物がいなくなった事情を考証する必要があると思います。 私はこれは宗教上の忌避にあると思います。 その原因はスサノヲによる馬の逆剥ぎ事件にあるとおもいます。この事件は倭国に重大な動揺をあたえたものとおもいます。
897 :
月光仮面 :2006/10/18(水) 13:20:20
宗教上の禁忌かもしれませんね。ただ、仏教のようなものではなく縄文時代からの 自然環境に対するソフトな対応というか。 邪馬台国に牛馬なしとは、リポーターの言であり、多分伝聞が主で、後は道中における 観察でしょう。逆に、国内が統一されていたと言うことかも。
898 :
日本@名無史さん :2006/10/18(水) 13:50:59
>>896 >邪馬台国は扶余族もしくはその影響を受けているようである
とあなたが考えられてるのならば、
扶余は日本に来てたとお考えなのかな?
もしそうなら牛も日本に連れてきてて、
扶余の殺牛習慣も当然あったという事なのかな。
あるいは扶余は来てないが、
政治形態、役職およびその名称当だけは
扶余の影響が強いと言う事なのかな?
899 :
日本@名無史さん :2006/10/18(水) 16:54:09
牧畜の男神は、農耕の女神に敗北を喫した。
900 :
月光仮面 :2006/10/18(水) 17:56:29
つーか、今でも日本の畜産は北海道、東北、信州、阿蘇その他の一部の地域を除いて 米国、豪州など放牧、粗放農業地域と比較すると不向き。多分スサノオは朝鮮半島でも 歓迎されなかったと思う。要するに満州草原を追われて逃げ込んできたのだ。時代的には 衛氏朝鮮の頃だろう。ガードマンで蛇退治でもして、農家の娘と結婚する他に道はなかっ たのだろう。
901 :
サガミハラハラ :2006/10/18(水) 18:32:08
今のところ影響があるのでは?という段階で、民族が渡来したかどうかまでは検証しておりません。 殺牛習慣もこれから調査してまいりますので、その際はよろしく。
902 :
YAP? :2006/10/18(水) 22:36:14
高天原神話の舞台を日本列島ではなく、半島か、遼河流域に求めれば、高天原での神話である天石屋 神話に「馬」が登場して、列島においては「馬」が見えないことの説明はつくだろう。 要するに、天石屋(天の岩戸)神話は、列島渡来前の倭人集団、あるいは、天孫族の神話〜伝承であると 素直に解釈すればよいと思われる。 このトピに出入りしている人のほとんどは、江上騎馬民族説そのものを信ずるか否かは別にして、 北方からの民族移動自体を否定するものはいないと思うが。 渡来の時期を、古墳時代中期初頭に置くか、弥生時代末期におくか、或は弥生時代開始期に おくかの問題だろう。
903 :
日本@名無史さん :2006/10/18(水) 22:56:34
馬を捨てて渡来したんでしょう。 弥生時代開始時期だとしたらなお更。 単純に馬を船に乗せて運ぶのが至難の業だから。 後世に馬が登場するのは、軍事力増強の目的? 「馬」の存在に無理矢理こだわる必要がどこにあるのか不明。
904 :
サガミハラハラ :2006/10/18(水) 23:00:03
馬を海上輸送するのは至難の業といわれていますがほんとうでしょうか。 だれか実験していただけないでしょうか。
905 :
日本@名無史さん :2006/10/18(水) 23:01:48
春秋戦国時代には、普通に騎馬戦していたので、
馬は大陸のそこいら中で走り回っていたはず。
倭に馬が見当たらないのは、馬に乗らない人が移住
して来たか、さもなくば、運べなかったかのどちらか
じゃないのかな。
>>900 概ね同意。
オイオイ、変なのがやって来ちゃったぞ…みたいな。
906 :
サガミハラハラ :2006/10/18(水) 23:06:35
それでは、いつごろ倭に馬がきて、その入手法は?
907 :
日本@名無史さん :2006/10/18(水) 23:08:53
908 :
日本@名無史さん :2006/10/18(水) 23:16:49
>>906 分からん。
高句麗の肥大化に備える目的で、慌てて導入とか?
必要に迫られて普通の国を目指そうとしている、
今の日本に似ているのかな(?)
応神朝に百済王から良馬二匹が貢上されてる。
910 :
日本@名無史さん :2006/10/18(水) 23:46:09
157 :夢見る名無しさん :2006/07/10(月) 22:53:34 O 時々目にする「竹石圭佑」という奴をまとめてみました… @両親が在日(中国人)。名古屋在中? A顔が出目金or宇宙人そっくり。 B新成人だが、知能が小学生程度(理由は下記の事項より)。 C「自分より力の弱い」女子生徒や女子教師をイジメの格好の的としていた。 D意中の女子には例外なく「ちょっかい」を出して気を引こうとしていた。 E万引きで数回捕まり、長期停学を検討していた(らしい)校長や他職員に大声で泣きながら謝罪。廊下まで泣き声が響いたらしい。 F自分は一般人とは違うと思っており、異常なほどの目立ちたがり屋で注目される為なら何でもする。 Gあまりにも女子に相手にされないことから気が触れ(?)、後輩や仲の良い男子生徒にも手を出す。噂だが注意が必要。 …ちなみにこれらは竹石圭佑の一部にすぎないらしく、 詳しく知りたいならば本人に直接聞くのが一番手っ取り早いそうです。
911 :
日本@名無史さん :2006/10/18(水) 23:59:17
>>910 別に弥生人中国人説を支持しているわけじゃないからね!
要するに、日本列島の住民が半島南部などから馬を仕入れた、
と言っているわけ。
912 :
サガミハラハラ :2006/10/19(木) 08:42:18
>>909 911 どちらにせよ、馬は船で海峡を渡ってきたのですね。 問題はその輸送に使われた船の規模ということになります。
913 :
日本@名無史さん :2006/10/19(木) 10:07:32
>>908 今で言うところの韓日同盟。
もしくは、対北朝鮮包囲網。
> 今で言うところの韓日同盟。 いや日本と韓国は同盟してないしww
915 :
日本@名無史さん :2006/10/19(木) 12:45:58
>>912 雌雄の子馬を数匹運んで来たら、いくらでも繁殖するのではないか?
子馬なら大型犬くらいのサイズだろう。
916 :
サガミハラハラ :2006/10/19(木) 12:57:13
つまるところは、馬の海上輸送は容易であるということでしょうか。
917 :
日本@名無史さん :2006/10/19(木) 13:50:38
また馬の輸送の話になってるけど、 要は半島南部が倭の支配下にあり平和裡に馬を運んできたのか、 それとも侵略的な意図で何者かが日本に馬を運んできたのかという問題。 俺は前者。
918 :
日本@名無史さん :2006/10/19(木) 14:12:51
ここもレベルが下がってな。 それ以前にスレ違いが増えてきた。 次のスレは必要???
919 :
サガミハラハラ :2006/10/19(木) 16:58:27
日本に馬を運んできたのは、平和裡か侵略用かであるが、 これは神功皇后の新羅遠征の際に半島から持ち帰ったものと考えます。 おそらく4,5頭で、逢坂の戦いで使用されたとおもわれます。 となると、平和裡、侵略的どちらになるでしょうね。
920 :
日本@名無史さん :2006/10/19(木) 22:19:59
馬は百済から平和裡に運ばれたんでねーの? まぁ昔からいたという話もあるが。
921 :
日本@名無史さん :2006/10/19(木) 22:35:31
日本にはナウマン象は居たが馬の化石は出ているのか?
922 :
日本@名無史さん :2006/10/19(木) 23:42:44
>>921 縄文時代の地層から馬の化石は出ている。
>>922 ・・・と思ったら、馬じゃなかったという。
924 :
日本@名無史さん :2006/10/20(金) 03:46:49
925 :
日本@名無史さん :2006/10/20(金) 10:17:37
926 :
サガミハラハラ :2006/10/20(金) 12:22:05
記録があるのは百済からの贈呈の2頭ですが、それ以外でも相当数あったようです。
927 :
◆fRleuKTcwg :2006/10/20(金) 12:28:20
あ
928 :
サガミハラハラ :2006/10/23(月) 21:30:17
つまるところは、実際に船に馬をのせて海上を輸送してみればよろしい。 対馬にイカダ船というのがあるらしいのでそれを若干工夫して運ぶのがよろしいかと。 こんど実験考古学の権威茂在先生に会ったらたきつけてみたいとおもいます。 もしやることになったら、皆様ご協力をお願いいたします。
929 :
日本@名無史さん :2006/10/23(月) 21:53:16
朝青龍
930 :
日本@名無史さん :2006/10/25(水) 02:05:06
日本書紀に玄界灘を越えて馬を輸送した記述があるが、たった9頭だけだった。 あの時代に朝鮮半島から九州に渡るのは命懸けだ。 平安時代になっても何回も難破して日本に帰国するのを断念したり、嵐にあって死亡している。
931 :
日本@名無史さん :2006/10/25(水) 08:58:04
大坂の四条畷に牧場があって、百済系の渡来人が世話をしていた。
932 :
日本@名無史さん :2006/10/25(水) 16:34:45
>>931 あの当時の大阪北部(四条畷・寝屋川・大阪市内)は海の中だよ。
地質学の調査で明らかになっている。だから津田左右吉の日本書紀の解読は否定された。
大阪府のHPにアクセスしてみな。地図が見れるよ。
933 :
日本@名無史さん :2006/10/25(水) 23:02:12
四条畷ったって全部海じゃなかろうに。 山の方は海に面した陸地もあったろう。
934 :
日本@名無史さん :2006/10/26(木) 08:52:05
最近、漆塗りの鞍が四条畷で発掘されてるよ。
935 :
日本@名無史さん :2006/10/26(木) 19:48:28
936 :
日本@名無史さん :2006/10/29(日) 11:11:26
アイゴー、列島はウリたちの末裔が建国したのは事実ニダ。
ウリたちが騎馬民族に支配されたというのは嘘ニダ。
倭が半島南端を支配していたというのは嘘ニダ。
>百済が扶余系であった(新羅も?)ことや高句麗も遊牧騎馬民族系であったことから、ある時点で日本の支配層が朝鮮半島から渡来した支配層に代わったと考えても、「遊牧騎馬民族征服説」が成り立ちます
http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/155.html 高句麗の起源を全く知らない人がこんなバカみたいな事を言っているのは秘密ニダ。
とにかく、日帝がすべて悪い二ダ!!ウリたちの文化には到底及ばないニダ。ホルホルホルホルホルホル
937 :
月光仮面 :2006/10/29(日) 11:50:44
朝鮮は地理的に山海経にも出てくるし、日本にとっては弥生文化を吸収した相手先 であり、その存在は疑う余地もないが、異民族である高句麗、百済、新羅、倭など、 更には、漢の4郡の為、約2000年ほど歴史上から消え去っているか、あるいは、 異民族の支配下に埋没してしまっている。なんとなく、日本の縄文人によく似た民族 であったのだろうか。
938 :
月光仮面 :2006/10/29(日) 11:56:46
だから、こうした異民族が日本に亡命した後、その残留分子を基にして挑戦国歌がで きるのであろう。つまり、古代において稲作文化などは半島から伝来したが、人的なもの としての朝鮮民族の日本への渡来は皆無であり、日本に渡来したのは満州系の高句麗、 百済、新羅、倭などであり、また、縄文人が朝鮮半島を制圧したこともないので、朝鮮と 日本は満州系の侵入を受けるといった非常によく似た運命にあった全く別な民族なん だろう。
939 :
月光仮面 :2006/10/29(日) 12:06:48
さて、現在バイカル湖南西部にクダラと言う地名があるが、その意味は「こっそりと」と いうブリャート語から来ているという、すると百済も中原・草原の覇者に敗れた百の諸族の 隠遁の地ということになろうか。韓国語の大村-クンナラ説よりも説得性がある。
940 :
月光仮面 :2006/10/29(日) 13:03:41
応神天皇は現在密航者不審船多発地帯で「なりすまし」をやっているから、不法入国者、 また、神功が不倫をしたと言うのも日本人にはないことであるから、川向こうに間違いない とするのは逆に向こうの発想であろう。実際は仲哀が近江出身の皇后に生ました実子。 応神がイザサワケ(どうも本名くさい)とホムタワケを交換するのは、ツヌガアラシトが 神官を務める由緒ある神社であるが、では、ホムタワケというのが三韓の神の名前かと 言うと、そんな名前は三韓にはない。それは多分宇佐等にある御許・大元という言葉、 あるいは大牟田などに残る言葉であり、九州の統治者のタイトルではなかったかと思う。 それを取得するために気比大社の力を借りたというのが真相。そして、タケシウチ傘下の 九州の豪族を臣従さすためにこの称号を名乗ったのではないかと思う。勿論、三韓から 秦氏が大挙渡来しているがそれはまた別の次元の話であろう。神功の不倫というのは 近江と肥後辺りに密約があり、百済と結び、新羅・高句麗との戦闘で共闘したということ ではなかろうか。
941 :
月光仮面 :2006/10/29(日) 13:11:43
ただ、田中真紀子さんのような人なら何をやったかわからないではないかと考える 川向こうの人がいるかもしれないが、神功皇后が息子に洋酒をプレゼントする歌 等には母の愛情が感じられるんだが。
942 :
月光仮面 :2006/10/29(日) 13:19:37
ばかねー、女って言うのは余韻をもたせて男を引っ張るのよ。九州男児もいちころだった のだが、それでいて操を崩さないのが大物の女なのよ。ところであなた金星人?さー、 いくわよ。・・・こういうことを言う女がいないとも限らない。
943 :
日本@名無史さん :2006/10/29(日) 13:22:49
てか騎馬民族説って矛盾がありすぎるよなあ・・・ 朝鮮人は嬉しいらしいが・・・
944 :
月光仮面 :2006/10/29(日) 13:30:32
騎馬民族は半島にとっては真実。列島にとっては地理的に無理。いくら半島人 でもこのくらいは本当はわかっているはずだよね。だから、倭国政府にとっては 無性に欲しかったあこがれの技術、装備だと思う。それが現実になるのは百済の 崩壊を待たなくてはならなかった。
945 :
月光仮面 :2006/10/29(日) 14:06:17
ただ、半島に騎馬民族文化が到達したのは衛氏朝鮮の頃で、その後三韓地方では 原三国時代が始まる。この頃何度もの騎馬民族の亡命、移住があったと思われる。 これが積極的に研究されていないのは、先にも言ったが、これを朝鮮人の内在的 文化と混同する誤った史観によるものであり、騎馬民族説は朝鮮において有効に 働くものと考えるべきである。これが強力に研究されない限りわが国の古代史は 真っ暗だ。
946 :
月光仮面 :2006/10/29(日) 17:38:43
947 :
月光仮面 :2006/10/30(月) 07:32:20
他力本願で独善史観を脱却するためには、日本に騎馬民族が入ればいいのかもしれ ないが、そうすると、更に短絡して日本に朝鮮族が侵入したと言うドンデモな話となる。 日本に遺伝子の流入のあったのは事実だが、それは朝鮮にとっても同様の稲作の 渡来と関わるものであり、侵入と言うより確実な稲作技術を持ったものの増殖率が 高かったと言うことだろう。これが関西、中部、関東の新規開拓稲作地帯にそうした 遺伝子が多い現象の原因であり、これこそ内因的問題だと思うが。
騎馬民族つよりも、半島方向系の史観の流入だろ。 これは、メリケン、中共にとっても戦略上ありがたいw
949 :
白馬青牛 :2006/10/31(火) 02:06:01
>>937 朝鮮南部は、縄文系形質があったと、池田次郎氏が指摘されておられます。
HLAでも、半島と日本は遺伝子で共通部分が多いでしょうが、頻度の
個性で違うと云う方が良いでしょう。韓国人に一番多いB44ーDR13が
渡来の多い西日本よりも北陸や東海に多いように、地域による癖でしょう。
>>943 騎馬民族説は兎も角、現在の朝鮮人は騎馬民族説が嬉しいんかのう?
1970年代は、朝鮮人は反騎馬民族説じゃなかったか。
しかも韓国人史家は、縄文末期〜弥生時代初期に韓半島人が日本原住民を
征服したとしとる。江上説より起源を遡らせ、紀元前300年(金貞培氏)
とされるが、渡来新モンゴロイド形質が全国に拡張したんは、
古墳期であるし(埴原氏)、世界的寒冷化による北方民族南下移動期と
ずれるので、到底同意出来ん。(起源を古くしたいんは、韓国の檀君派、
日本の縄文文明派の特徴であるが。)
満洲系女真のオランケと一緒にされることを嫌うとったんじゃないか。
最近は、中国との間に高句麗の歴史問題もあり、以前の女真蔑視と違い、
中国を支配した女真と我が民族は同胞(願望)と認識を変えとるんじゃ
ないか?
950 :
月光仮面 :2006/10/31(火) 08:52:55
>>949 >韓国人に一番多いB44ーDR13
これも韓国オリジナルではなく山東半島方面から無紋土器と共に移住した
と言う可能性が大きいと思いますね。
951 :
日本@名無史さん :2006/11/01(水) 10:48:41
4世紀に世界的寒冷化による北方民族南下という事だが、 3世紀前半の奈良・巻向発祥の前方後円墳が、 九州、例えば那珂八幡古墳や日向・西都原81号墳、 そして関東の千葉市原・神門4号墳などに、 3世紀後半までに波及してる事実がある。 すなわち受入れ側の日本に、がっちりした体制がすで出来てたという事だろう。 このような状況では、 秦氏のように亡命する以外なかったと思われる。 したがって侵略などの余地はないと思われる。
952 :
月光仮面 :2006/11/01(水) 12:57:25
西都原でも在地人が鬼に古墳を作らせ、その石を盗み、求婚は断り、追い返しているが、 この鬼とは曹操に討たれた烏丸等の匈奴系が逃げてきたのではないかと思う。こうした 難民パワーを引き込んだ出雲、日向等の戦いはあったのではなかろうか。
953 :
日本@名無史さん :2006/11/02(木) 01:14:46
次はもう必要ないだろう
954 :
白馬青牛 :2006/11/02(木) 01:20:26
>>950 B44ーDR13は、中国朝鮮族より韓国人に多いゆえ、
山東経由の倭人のものとも考えられますね。
>>951 気候変動移住は世界的に普遍で日本だけが例外と鎖国史観で解釈するんか?
古墳前期に列島において、北方新モンゴロイド形質の人骨が多かったんか?
古墳後期においても、九州西部・南部、北陸等は縄文形質で、西日本でも、
縄文形質が多かった時代じゃ。徐々に形質的に新モンゴロイド化された
云うことじゃ。人種的に日本在来民は、渡来民に征服された。
亡命する側も武力・経済力・技術力等が土着民より優れておらんと、
奴隷化され種は残せんよ。漂流民が文化を残した実例が無い。
がっちりした体制がすでに出来ていたとは何か?西日本の地域勢力は
磐井の乱においても、バラバラじゃないか。5千年の歴史と妄想する、
韓国人に対抗する縄文文明1万年と妄想し、起源を出来るだけ古く、
工作する朱子学的国粋土着主義者じゃのう。本土日本人は、土着系より、
渡来系によって出来た人種じゃし、なんで土着性にこだわるんかのう?
955 :
日本@名無史さん :2006/11/02(木) 10:29:01
>>954 >日本だけが例外と鎖国史観で解釈するんか?
してないよ。
だから秦氏の例で説明できると言ってる。
>人種的に日本在来民は、渡来民に征服された。
古墳時代の話か?
ちょっとガチガチ過ぎないか?
俺は考古学的事実を言ってるだけ。
磐井の乱なんか出されても…
956 :
日本@名無史さん :2006/11/02(木) 15:38:04
>>954 951氏は3世紀の話をしている。
それに対して6世紀の磐井の乱を持ってきてどうだというのだ?
957 :
白馬青牛 :2006/11/03(金) 01:41:59
>>955 考古学事実云うんなら、人骨の形質も重要じゃのう。
>>956 後世においても豪族連合体で、がっちりした体制じゃ無かった云うこと。
958 :
日本@名無史さん :2006/11/03(金) 08:16:25
>>957 古墳時代の日本人の骨相は頬骨が突出して、エラが張り、後頭部が絶壁だっ
たのか?
959 :
日本@名無史さん :2006/11/03(金) 08:36:33
高松塚から発見された人骨は、 長身の典型的渡来系だと分かるけど、 それ以外は弥生時代から続く人骨なんでないの? というか形質人類学は古くね? 歴史上、日本人の人骨が最も変化したのは「第二次大戦後」だしなw
960 :
日本@名無史さん :2006/11/03(金) 08:58:32
和歌山の大谷古墳を検索すると、馬冑や馬具が見れるよ。
961 :
日本@名無史さん :2006/11/03(金) 17:06:07
秋田県人は騎馬民族だろ。
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1141826082/848 >>味噌炊き
>葬式や通夜は不謹慎かもしれないが地域の一大イベント。
>村人全員にいきわたる食事を用意しなければならなかった。貧しい地方ならなおのこと、
>美味そうな料理の香りは葬式の時ぐらいしか嗅げなかったろう。
貴方様は勘違いなさっているようです。もう一度、以下の郷土資料に目を通していただけませんか?
秋田県で死人が出る家で味噌煮が始まるのは、亡くなった後ではなくて
亡くなる前です。と言う事は、ご家族の一員が病気や怪我等で瀕死の境を彷徨っている時に
その方を何とか回復するように励ますのではなく、その家族の人肉を皆で食べる準備を始めている事に当然なります。
これは家族の一員でさえ、もはや人間として扱ってもらっていない事を示唆している
可能性を示しており、非常に大きなカルチャーギャップを私は感じています。
人間とは何か?という感覚が狩猟民族と農耕民族とではここまで違うのかと深く考えさせられるものがあります。
亡くなる前の瀕死の状態で、味噌煮の準備を近所や親戚をあげてする訳ですから
味噌煮の準備が出来てまだ亡くなっていなければ、周りに殺される可能性も否定できないと考えます。
この文章の解釈について他の解釈法があるならお教えいただけないでしょうか?
謙虚に伺いたく存じます。
『男鹿・脇本の民俗 浦田・樽沢・百川』
秋田文化出版社
大島建彦・西郊民俗談話会編
114ページの上段の記述
『死ぬような時に前もって味噌を煮るため、
周囲に急いで味噌を煮るような家があると、ああもう駄目なんだなとわかる』
962 :
日本@名無史さん :2006/11/03(金) 22:33:37
>>954 で、渡来系が日本を征服したんなら何らかの考古学的証拠があるはずだが
朝鮮人だけか?古墳に葬られた人骨は?
なぜ征服した民族の古墳をその後も作り続ける?
そんなに古墳を作り続ける必要があったのか?
亡命する側の国力が相対的に強くなければ亡命はできない?
ではイスラムの攻撃に敗れ唐に渡ったペルシア王子ペーローズは
どうなる?
がっちりした体制?お前古代史について何も知らないようだな
縄文から日本には物資の流通ネットワークがあった。
黒曜石、土器に必要な土、工芸品のな。{土器は唯の土ではできない}
それは弥生期になって鉄のネットワークも加わった。
この鉄の流通ネットワークによって地域ごとに政治勢力が結成された。
邪馬台国も、まさむく遺跡もコレによって物資が集積された。
政治組織が整っている=強固な勢力とはならんぞ?
963 :
日本@名無史さん :2006/11/03(金) 22:35:20
そういえばお前前に 「経済力で圧倒していた渡来人は縄文人を征服した」 と言っていたがそれはどうなったんだ?
964 :
白馬青牛 :2006/11/04(土) 02:50:24
>>958 エラが張っとるんは、縄文系の特徴じゃ。他板のニダーの顔は縄文人か
思うた。
>>959 戦後の身長の変化と違うよ。高顔の渡来系が混血せずに急激に縄文系の
低顔にならんじゃろうに。
>>962 何で渡来系=朝鮮人になるんか。ササン朝ペルシャは外来強国で文化も高い
ゆえ、東南アジアの崑崙奴と一緒に出来る訳あるまい。
採集生活の縄文の文化程度が高い訳あるまい。
>>963 渡来系が縄文系より文化、経済力もあったんじゃが。それが何か?
965 :
日本@名無史さん :2006/11/04(土) 09:01:37
>>964 よく分からない。
古墳時代、しいて言えば4世紀〜に、
渡来系による征服があったとお考えなのか?
966 :
日本@名無史さん :2006/11/04(土) 17:00:46
>>962 お前の定義では 「武力、経済力、技術力」が高くない外国人は受け入れられないんだよな? 武力→イスラム勢力に壊滅させられた 経済力→すでにイスラムのもの 技術力→中国の技術力がササン朝のそれより劣っていたと? おかしくないか? 東南アジアのなんとかっていうとこを上げてもなんの証拠にもならんぞ 元来あそこは日本と違って早くから海上交易が開けていたし、中国やイ ンドの影響が強かったからな。だからドンソン文化が花開いただろう? まあ中国人やインド人が征服したわけないが 渡来系が文化、経済力が高かった? 文化→文化の高低を何を基準に図るかわからんが三内丸山遺跡に代表 される縄文文化は程度の低いものだったと? 経済力→貨幣経済が浸透していなかった日本で経済力が高いとはこれいかに? それでどうやって日本人を征服したんだ?傭兵でも雇ったか?
967 :
白馬青牛 :2006/11/05(日) 01:26:15
>>965 征服云々は確率論で、4世紀の世界的北方民族移動期の可能性が強いと
云うこと。
>>966 外国人の受け入れでも、後進国は奴隷化される。
技術力は中国じゃろう。ササン朝が、強国であった云うことじゃ。
歴史に見解はあっても証拠は難しいど。証拠云々は裁判の話じゃ。
文献も出土品もごく一部の物に過ぎん。証拠要素足りえん。
東南アジアも倭人社会も港市からの発達の可能性が強い。面の領域よりも、
点と線の構図じゃ。港市と後背地の構図も類似する。東南アジアは、
中国にとって生口(奴隷)供給地でもあったし。
三内丸山遺跡で縄文文化が高度な文化じゃ?
>>1 の是か非か「騎馬民族
征服王朝説」のトップペイジの「縄文遠望」を読んだらええじゃろう。
まあ、平均寿命も低く、食人習慣のあった縄文文化を、縄文文明派の
人達は無視しとるんじゃないか。倭人の経済力が強いんなら、
何で、生口(奴隷)を漢に献上するんか。日本人を征服した云うんも
可笑しな表現で、日本人は渡来系の血流が主流で在来縄文系は傍流じゃ
ないか。
968 :
日本@名無史さん :2006/11/05(日) 07:27:44
>>967 食人習慣をもって縄文が高度な文化ではないと言うなら、
中国はいつ高度な文化を持ったのだろう?w
969 :
日本@名無史さん :2006/11/05(日) 12:12:29
>>967 わからんやつじゃのう
ササン朝が滅亡した後に逃れてきた何の力も持たん王子を
なぜ中国が受け入れたんじゃ?経済力、武力、技術力が高
くなければ受け入れなかったんじゃないのか?
それとも何じゃ?イスラム勢力に売り渡す事を計算しておったのか?
お前は自分の言っていることがわかっておるのか?
港市国家じゃと?日本に港市国家の形跡が見られるのか?
東南アジアはインドと中国という大経済圏に挟まれておった
からこそ仲介貿易で繁栄したんじゃぞ?日本にそんな魅力が
あったのかのう?
ではお前の言う日本が港市国家から成長した根拠を見せてもらおうかのう
平均寿命が短い?食人風習?
お前は何を妄想してるんじゃ?
縄文人の平均寿命は大体30歳前後。当時の世界から見れば
長生きじゃったぞ?なんせ20歳前後が平均寿命の文明もあ
ったからのう。食人風習なぞ聞いた事もないがなんぞ変なサ
イトでも見たんじゃろうか?
縄文人が経済力があったなどと一言も言っておらんが?
経済力が強くてそれで「貨幣経済」が浸透しておらんか
った日本でどう優位に立てたのか教えてもらいたいのう
お前は本当に頭がスカスカじゃのう
1000人の縄文人の村があったとする。そこに渡来系が毎年
2,3人入ってくるとする。これが1000年続く。
さて、1000年後には縄文:渡来の割合は1:2・3じゃ
渡来系は縄文人を征服したのかのう?
縄文系は傍流かのう?
970 :
日本@名無史さん :2006/11/05(日) 14:15:46
白馬青牛(笑) 205(笑) 廣島・もみじ民(笑)
971 :
白馬青牛 :2006/11/06(月) 01:36:01
972 :
日本@名無史さん :2006/11/06(月) 08:27:13
>白馬青牛
あなたは
>>967 で食人習慣のあった縄文文化と言ってる。
ところが
>>971 では食人の可能性があるに変えてる。
どっちにしても極限状況においての食人は誰も批判できないはず。
縄文の文化レベルが「低い」にはならないだろう。
973 :
日本@名無史さん :2006/11/06(月) 08:45:37
>>971 お前話をはぐらかしとらんか?
おぬしは「経済力、軍事力、文化力が強くない相手の亡命は
受け入れない」と言ってたじゃろ?
唐代のペルシア文化はイスラム勢力の支配下にあったイランから
きたものじゃぞ?
伊都国や奴国は日本の中心だったかのう?
邪馬台国は港市国家だったかのう?港市国家というにはヤマト王権
は内陸すぎないのかのう?日本が港市国家から成長したというんな
ら港市国家の遺跡が多数発見され、かつそれらが日本の中心でなく
ばいけないのう
ググって調べてみたが、食人について本当に「あった」という研究
結果は見つからんかったぞ?
モース教授が提唱していたのは間違いないがのう
おぬしはまだ「渡来人は縄文人を征服した」ということを妄信しと
るのか?
前4世紀から後7世紀まで渡来系は渡日したんじゃ。縄文の人口を
上回る数がきてもフシギじゃないじゃろう?
縄文系が傍流と言うんならそれなりの根拠をだしてもらおうかのう?
まあ日本が港市国家から成長したと言うお前じゃ。ろくなもんは
出してこないじゃろうが
974 :
日本@名無史さん :2006/11/06(月) 14:35:51
595 名前:名無しさん名無しさん@腹打て腹。 :2006/09/20(水) 23:42:31 竹石圭佑 「竹石圭佑」、1986年に名古屋の肥溜めにて湧いて出た蛆虫。 小学校高学年から万引きを繰り返し 学校内では好みの女子に嫌と言う程ちょっかいを出しまくる。 当時のクラスメートが「お前って何で女子ばっか苛めるんだ?」という様な 質問をしたところ、竹石は「女を苛めても仕返しとか怖くねぇもん。 だって俺のほうが腕っ節が強いからな。いざとなったらツラァ殴って やればいいし。」と言ったそうだ。 弱い物に対しては恐ろしいほど高圧的になる竹石、万引きで警察に 補導された事を自慢げに話す竹石、自分が世界の中心だと言って憚らない竹石… 数々の犯罪行為も在日中国人の両親から産まれた自分に後ろめたさがあっての 反発心からの行動だろうか… ともあれ、竹石はまさに肥溜めから産声を上げた蛆虫である。
975 :
白馬青牛 :2006/11/06(月) 22:52:30
>>972 よう読めや。
>>971 は弥生期にも食人の可能性がある云うたんじゃ。
http://www.kochi-tech.ac.jp/jinrui60/page10k.html のT07大浦山洞穴出土の弥生時代人骨。赤星直忠や鈴木尚らの調査から
「大多数の骨が大小の破片となっており、刃物による損傷が観察される
ことなどを報告し、儀礼的な食人が行われた可能性に言及している。」
文化レヴェルは兎も角、縄文人の批判はしとらんよ。縄文系は主流で
無いんは、遺伝子や形質人類学からもそうじゃしのう。
>>973 わしが断定しとらん事を、わしがこう云うたと、決め付けとるのう。
唐代のそれは、ペルシャ文化と云うより、ソグド人も含めた西域の文化
じゃ。亡命者もペルシャだけじゃのうて高句麗人もおったよ。
東南アジアとの関係と違う云うことじゃ。
奴国は、金印を貰うとるし、港市が辺境の訳あるまい。邪馬台国の位置は
未だ判明しとらんが、生田滋氏は「内陸部の首長が港市の首長に面会し、
贈物の交換が行われ、価値の高いものを与えた港市の首長の方が優位に
立つのは当然である。」生田氏の漢人商人と呼び岡田英弘氏が中国人商人と
呼ぶ人達と倭人の関係も同様であろう。
976 :
白馬青牛 :2006/11/06(月) 23:28:27
>>973 食人についてタブー視するんは、日本の考古学に携わる人達の隠蔽体質の
要素が強いゆえじゃないんか。東北の某教授の捏造事件は氷山の一角じゃ
ないんかのう。人骨に石器、刃物による損傷があっても、食人の根拠に
ならんと研究者が偏狭愛国心を起こした場合は、食人があったとしても、
根拠は見当たらないと云う表現で説明するじゃろう。江上波夫氏も、
「日本の歴史家は驚くほど(視野が)狭い。考古学者にもいるんですよ。
出ても隠しちゃうんだ。出ないことにしちゃうっていうのがいるんだ
から。私はその先生と喧嘩して嫌われちゃったけど、全部出すのが本当
だっていいたい。」(世界史の新視点、六興出版)と云われた。
縄文人が、形質人類学や遺伝子から主流じゃない云う様々な根拠は
今まで出したど。
977 :
日本@名無史さん :2006/11/07(火) 00:28:41
>>976 その江上が老司古墳の人骨については触れなかったんだけどな。
自分の説が不利になるから…
978 :
日本@名無史さん :2006/11/07(火) 17:55:52
>>975 おやおやファビョってはいけんぞ?
冷静な判断ができなくなるからのう
弥生人が人肉を食った?
お前のソースを見る限り、「断定」はされとらんが・・
しかもおぬし「縄文人は食人風習があった」と言っておらんかったか?
結局おぬしは何が言いたいんじゃ?
結局ペルシア王子の亡命は「例外」だと言い逃れしとるだけじゃのう
港市が辺境のはず「あるまい」とは推定じゃのう・・
魏志倭人伝を読んでみい。それほど発展していたか?
むしろ内陸の邪馬台国のほうが人口、制度ともに上回ってたじゃろ?
奴国が本当に「港市国家」じゃと思っておるのか?
港市国家とは「港を核とした都市国家が内陸の一定範囲の地域を支配し
そこから徴収する特産物を売ったり貿易で繁栄する」国のことじゃぞ?
奴国の中心は港じゃったか?その港を中心とする大規模な集落など遺跡
が出土していたか?
atuhistory.fc2web.com/japan/rekisi/fukuoka/sukuokamoto.htm
港市国家が優位に立っていたのかのう?
魏志倭人伝には邪馬台国の行政機関があったんじゃが・・・・
中国系商人は存在は否定できんが
おぬし港市国家が中国人によって作られたと?
979 :
日本@名無史さん :2006/11/07(火) 17:59:07
>>976 ふう・・・・結局「陰謀説」にたどり着くんじゃの・・・
おぬしは「形質人類学」「遺伝子」から
「倭人を偉大な渡来人が征服した」と
わめいとるんじゃのう・・・・
わしの書いた969のたとえ話をよ〜〜〜く読むんじゃな
おぬしの言う「形質人類学」やら「遺伝子」と少しも矛盾
せんぞ?
980 :
日本@名無史さん :2006/11/07(火) 18:01:12
関西人の100人いる村に東京人が毎年2,3人100年間 やってくるとその村はもはや関東系の村じゃが 東京人は関西人を征服したのかのう?
遺伝学的には乗っ取れるかもしらんが、民俗学的には東京人が同化すんでないか?
982 :
日本@名無史さん :2006/11/07(火) 20:41:33
>>981 そう、それ俺が言いたいのは。
普通の人間ならそう考えるんだよね。
あいつは認めたがらないけど・・・
985
990
991 :
白馬青牛 :2006/11/07(火) 22:51:59
>>977 老司古墳の被葬者の顔面特徴が縄文的なことか。江上説に別に不利に
ならんよ。韓国南部、伽耶地方の礼安里の人骨群からは、
北方渡来系高顔と縄文的な低顔の両方が存在すると松下孝幸氏も
云われとるし、櫛目文土器時代の韓国南部島海の煙台島も縄文人特徴は、
池田次郎氏も指摘される。つまり朝鮮半島南部には縄文系と似た種族が
おった訳じゃ。
>>978 刃物による損傷は、ほぼ食人の可能性が強い。他に何の目的で骨を壊し、
切ったりするんか?亡命が例外たー、云うとらんど。わしの文を
よう読めや。港市から発展するんは、領土国家を形成する以前は普遍な
ことじゃ。華北の内陸地帯の場合はオアシス都市から面の領域国家へ
移行する。つまり或が領域の國になった。
邪馬台国の場所も解らんのに、何で内陸じゃと決め付けるんか。
港市は面の領域国家じゃないど。点と線の世界じゃ。世界地図に色を塗るん
と違う。後背地(東南アジアでは山の民)から収奪した特産物の交易じゃ。
鳥取の青谷上寺地遺跡も港市じゃ。
992 :
日本@名無史さん :2006/11/07(火) 23:30:27
>>991 >北方渡来系高顔と縄文的な低顔の両方が存在する
江上の言う騎馬民族「扶余」は、縄文的な低顔なのか?
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995 :
白馬青牛 :2006/11/07(火) 23:32:33
>>978 邪馬台国に行政機関があったが、職業的行政官か定かでない。
大林太良氏が、アメリカの民族学者ロバート・カルネイドの社会進化の
尺度表を参考に倭人伝の倭人社会マルケサス島民かタナラ族にほぼ対応し
舗装道路が無いことから、社会はインカ帝国やダホメー王国より低い段階
にあった。港市国家が漢人によって作られたか定かでないが、大林氏の
云われる「漢人商人と倭人の間に強い民族間圧力」はあったろう。
陰謀説?何じゃそりゃ。969のお笑い平和共存論こそ陰謀説じゃろう。
逆に渡来系、近畿地方系、北方モンゴロイド系は関東を征服は成り立つが。
995
997 :
白馬青牛 :2006/11/07(火) 23:35:19
>>992 扶余は、満洲から南下したんで、高顔の北方モンゴロイドであろう。
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