日本書紀紀年法がついに解明されました[part4]
1 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :
2 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 10:41:38
「日本書紀紀年法がついに解明されました[part3]」が、
512kを超えているとの理由で、書き込みをすることができなくなりました。
パート4を立てました。
3 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 10:44:54
応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、仁徳列(D列)の基準年は、
以下のとおりです。
応神列(A列):応神元年=390年
雄略列(B列):雄略五年=461年
允恭列(C列):允恭五年=437年
仁徳列(D列):仁徳元年=397年
4 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 10:48:33
「日本書紀紀年法がついに解明されました[パート3]」にてのご質問や
ご意見につきましては、引き続きパート4にて、お答えいたしたいと思います。
5 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 10:56:46
パート3の970さん
>詳しい解説ありがとうございます
>系譜関係まで微妙に違いがあることを知ってびっくりしました
>ところで、この二つの書物の内で一人の日本人として読むべき書物はどちらなのでしょうか?
>それとも二つともただの「史書」にすぎず「日本人として」読む様な代モノではないのでしょうか?
>日本人の古今を通ずるアイデンティティを見いだすための書物を探しています。あればいいけど・・・
970さんのご質問につきましては、『日本書紀』と『古事記』もどちらも日本人として読むべき書物
であると思います。多くの違いがあることから、『日本書紀』と『古事記』は矛盾しているように見えますが、
実は、グランド・プランともいえるような相互補完関係にあります。
例えば、
>>1や
>>3で述べた日本書紀紀年法の多列・並列構造は、『古事記』崩年干支によって、再構築できました。
『日本書紀』と『古事記』は、日本の国の成り立ちや、紆余曲折の歴史をよく伝えています。
6 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 11:10:43
パート3の972の858さん
>『古事記』におけるA天皇の宝算−『日本書紀』におけるA天皇の宝算=在位年数
>全く理解できません。マイナスになる天皇も多いし、仲哀天皇は崩年が同じです。
>両者の間にはどんな法則もないと思います。
>記紀の編者が採る操作法の傾向の違いがあるだけです。
マイナスになる天皇は女性ではないかと考えております。仲哀天皇については、パート3の980を
ご覧ください。
『日本書紀』は養老四(720)年、『古事記』は和銅五(712)年というように近い時期に成立しており、
また、編纂の時期も重なっています。にもかかわらず、歴代天皇の享年(宝算)に
違いがあることは、奇妙なことです。
欠史八代など、宝算が伝わっていたとは考えられないような時代の天皇の宝算が記されていて、
5世紀、6世紀、7世紀といった編纂期に近い天皇の宝算が記されていないことを、
不可思議であるとは思いませんか?敢えて、異なる数字を記したと考えたほうが、
蓋然性が高いと思います。
7 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 11:26:59
パート3の971征東大将軍さん、973さん
日本人としてのアイデンティティーの確認ためには、『日本書紀』神代紀上下や
『古事記』上巻だけではなく、すべての天皇紀や天皇の段を読むべきであると思います。
日本人が辿ってきた歴史的経緯は、天皇紀や天皇の段に記録されているのですから。
970さんに、間違ったアドヴァイスをなさらないでください。
また、『日本書紀』の各々の紀年に相当する実年代が、わかるようになってきたわけですので、
日本古代史の実相は、これからもっとはっきりとしてくることになります。
8 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 11:35:29
パート3の974さん
>仲哀と神功の宝算が記紀で一致する理由は
>記紀編纂時期までに異説が存在しない程の新しい創作物だったから。
>また神社で仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・武内宿禰らを
>祭神としはじめた時代の上限は記紀編纂時期に近い。
仲哀天皇と神功天皇の宝算が一致する理由は、パート3の980でも述べましたように、
何らかの構想、もしくは、理念にもとづいていると考えられます。
また、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・武内宿禰らを祭神としはじめた時代の上限は
記紀編纂時期に近いことにつきましては、そのような傾向にあることは、
奈良時代の政治史が関連していると推論することができます。
9 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/27(土) 11:57:12
パート3の981・982の征東大将軍さん
981の允恭元年につきましては、「允恭五年=437年」、「允恭二十二年=454年」と、
考えて、允恭元年を求めてみてください。
どちらの式からも允恭元年は、433年となります。
982につきましては、『白河本旧事記』とは、どのような系列の『旧事記』でしょうか。
『旧事記』には、諸本がありますが、「白河本」なるものがあることは、
私は知りませんでした。
何年の書写本で、奥書にはどのよなことが記録されているものなのでしょうか。
『日本書紀』と『白河本旧事記』における宝算の相違などには興味がありますが、
『白河本旧事記』は偽書かもしれませんので、『白河本旧事記』につきまして、
ご説明いただきたいと思います。
10 :
征東大将軍:2006/05/27(土) 12:09:08
11 :
◆16/YXRFBRM :2006/05/27(土) 12:20:59
12 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 12:32:03
そこにも在る様に書紀のように仲哀52歳没じゃあ、父子関係が崩れるな
13 :
太国:2006/05/27(土) 14:38:50
日本書紀紀年法研究家さん (前スレ末)
貴女の頭の中の民主主義的夢はあいかわらず治らんようですねぇ〜?w
それにそれがしは独裁とかはあんまり言っていないですよ。実際暦法を創るのは
天皇の下の面々でしょうが? 独裁暦などというのは貴女の新造語であって、それ
以外の何物でもないですよ。民主主義というのは西欧、あちらが発祥なわけで、
これはまだ古代日本に浸透はしていないんですよ。浸透し始めたのは明治の頃で
あり、当時の古代日本に浸透していたのは神道とかなんですよ。江戸時代には
犬将軍もいたわけであり、この例など幕府の信用失墜と問われますがねぇ〜。
ですがそういう時代もあったわけであり、武烈天皇の非業を思えば貴女の云う
頭のいい指導者ばっかりが当時固まっていたものでもないでしょう。
なにせ義務教育もなかったはずであろうし、それが貴女は貴女の頭脳と同程度の
ランクまで古代人の頭を引き上げて物事を考えるから、そんな哀れな滅茶苦茶な
暦法の有無の結論になっちゃうんですよ。w 貴女の言い分は現代にITがある
から古代もそうでなければならないとの発想論理に基づくそれがしへの批判で
あり、タイム・マシン的空想と古代の現実とをごっちゃ煮にした、非常に矛盾を
含んだ議論であり、これはこれは困ったさんの状態だなぁと危惧しております。
>>6 ますます理解できません。オッカムの剃刀にもあるように、
より少ない仮定で説明できる説がおそらく最も正しい説だと思います。
あなたの主張は根拠不明な仮定が多すぎます。
15 :
太国:2006/05/27(土) 19:42:23
part3 >980
>現時点におきましては、憶測の域をでませんが、仲哀天皇については日本書紀
>紀年法の構造上においては、日本武尊と同一人物であると想定できること、
>神功皇后については、卑弥呼や台与など複数の人物が付会されており、特定の
>人物の史実としての在位ではないという理由にもとづくのではないか云々〜
日本書紀紀年法研究家さん
これではまたお得意の探偵小説的怪人二十面相理論の方式がでましたね。w
仲哀天皇=日本武尊
などと本気で信じておられるんですか?w あまいあま〜〜いですなぁ。
その次には神功皇后と卑弥呼、台与が付会になっておいるとか?
これでは実に牽強付会の大亡説ですよ。臥海でこんな説を主張してるんですか?
貴女の頭の中はもうイコール説の「不史議の国のアリス」ですなぁ?
本当に「困ったさん」ですね。ww もう治らないかなぁ〜?治療しなくちゃ。
太国のふざけた口調は別として、レス内容には見るべき物が多いと思う。研究家
氏には、半年2ちゃんねるを離れ、自説の見直し・2ちゃんねるのルールの把握
をすることを勧めときます。あと太国にトリップ付けを希望しとく。
17 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 23:55:37
1/1スケール日本史A┬→x1x2x3+αスケール日本史C┬年齢計算→白河本旧事紀
│ │ ↓
│ └年齢計算→日本書紀
│ ↑
1/1スケール日本史B┴――――――――――――――――――→古事記
こう云うシナリオも考えられ無くない
18 :
征東大将軍:2006/05/28(日) 02:28:50
例の操作からして没年が一番最後に決ってる筈だから、
没年最終決定作業後に寿命を求めた故に計算違いが生じたとも考えれる
と云うか再計算していないのか
19 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 10:12:33
>>10 征東大将軍さん
白河本旧事記とは、『旧事紀白川家三十巻本』のことですね。
『旧事記』には、偽書が多いため、偽書であるかどうかは、わかりませんが、
享年(宝算)の数字には、何らかの伝承にもとづく意味があるかもしれませんので、
少し研究してみようかとも思っています。
20 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 10:17:05
>>11 ◆16/YXRFBRM さん
せっかく、『白河本旧事記』や白川伯王家についてのwikipediaのアドレスを
表示してくださいましてありがたく思いますが、アドレスが壊れているようです。
21 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 10:25:12
>>12さん
仲哀天皇の享年(宝算)が52歳であると日本武尊と仲哀天皇との親子関係が
繋がらないという問題は、すでに江戸時代に新井白石によって指摘されています。
しかしながら、パート3でも提起させていただきました「天皇即位=立太子構想」
によって、「確定崇神列」上において、日本武尊の薨年の翌年が、仲哀天皇の
即位年となります。
すなわち、日本武尊と仲哀天皇の親子関係の断絶問題は氷解するのです。
22 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 10:38:41
>>13・
>>15 太国さん
古代人が頭が悪く愚か者であると考えることにも問題があります。
一般市民でしたならば、多少頭が悪くとも問題はありませんが、
為政者においてはそうはゆきません。
統治というものは、頭が良くなければできません。国民を守るという責務を果たさなければならないからです。
「紀記」神話でも、すさのお尊は、よく国を治めることができなくて、
根の国に追放されています。昔から、統治には統治能力が必要と認識されてきたのです。
「紀紀」神話の意義を考えてみてください。
天皇家が存続したのは、こうした難しい統治の役割を、天皇以外に任せて、
神祇祭祀を専らとしてきたからでしょう。
日本武尊と仲哀天皇につきましては、
>>21で述べましたように「天皇即位=立太子構想」では、
日本武尊(30歳)の薨去の翌年が、仲哀天皇(31歳)の即位年となることから、
日本武尊とは仲哀天皇のことではないかと推論いたしました。
23 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 10:48:39
>>14さん
私の「宝算年差の法則」という仮説は、欠史八代という『日本書紀』の編年にそのまましたがいますと、
紀元前に位置付けられるような天皇たちの享年(宝算)がすべて算出できるように
なぜ、『日本書紀』では設定されているのか、という疑問から出発いたしました。
『日本書紀』と『古事記』の編纂期に近い天皇の享年(宝算)が伝わらず、
紀元前の天皇の享年が伝わっていることは、奇妙であると思ったのです。
そこで、『日本書紀』は、何らかの紀年構想を欠史八代の享年に託していると考えました。
「プラス・マイナス120年構想」でも、『古事記』の崩年干支が役割を果たしているように、
欠史八代に設定されている享年には構想上の意味があると推論することができるのです。
24 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 11:01:01
>>16さん
>研究家氏には、半年2ちゃんねるを離れ、自説の見直し・2ちゃんねるのルールの把握
をすることを勧めときます。
とのことですが、まず、自説の再検証は常日頃、適宜行っています。
2ちゃんねるの書き込みに対応するために、パソコンに一日中はりついている
わけではありませんので、自らの研究はきちんと進めています。
私は、日本書紀紀年法についての議論の場をオープンにしておくことは
大切なことであると思っております。
スレ主は私ですので、2ちゃんねるを離れるということは、スレッドの閉鎖を意味します。
このスレッドに書き込んで意見を述べたい方々や読者の方々が閉鎖をお望みになるのならそういたしますが、
お望みにならず、議論を続けたいとお考えであるのならば、スレッドは開いておきます。
また、2ちゃんねるのルールを恰も私が守っていないかのようにおっしゃられますが、
どのようなルール違反を私が行ったのか、具体的に挙げていただきたいと思います。
25 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 11:15:02
>>17さん
17さんのお説における「スケール日本史A」は推古朝の『帝紀』・『国記』
「スケール日本史B」が『古事記』、「スケール日本史C」が天武朝の『帝紀』・『上古諸事』
という想定も成り立つ気がいたしますが、果たして『白河本旧事記』にどの程度の信憑性があるのかは疑問です。
ただし、『白河本旧事記』と『日本書紀』の間には歴代天皇の在位年数をめぐって、反正天皇の「6年」のみが
異なっているだけであとは、まったく一致していることは、注目されます。
天皇の享年(宝算)をめぐっては、宝算構想という構想がやはり存在しているのではないでしょうか。
私の「宝算年差の法則」は、その一試案として提起できる内容なのではないかと思います。
26 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/28(日) 11:17:18
>>17さん
>>18 征東大将軍さん
年齢を計算したのではなく、その数字に設定したとは考えられえないでしょうか。
27 :
太国:2006/05/28(日) 11:17:25
>>22 日本書紀紀年法研究家さん
貴女の理屈とは下記のようなことなんですな?
興王=木梨軽皇子=某天皇
成務=卑弥呼
日本武尊=仲哀天皇
これでは、あまりにもイコール多すぎると、え〜おかしいと考えませんか?ww
貴女は古代史の研究よりも、山村美沙さんのように探偵小説作家の技能のほう
が優れていると思われますがね。怪人二十面相的紀年法論ではまことに面白
おかしくデンパ読者には格好のエサですが、真の古代史等を追究するんには
これでは非常に困るわけですよ。ww
このごろ貴女はこういう等式理論に疑いもなく乗りかかってしまい、昨今では
飛鳥氏の古代人イコール超多用論のご親戚の感を呈しています。ww
まったく頭の制動装置がおかしくなっているんですね。困った困ったさん。
>>23 なにを言ってるか判りません。
誰と誰は同一人物だとか、男ではなく女だとか、誰それは複数いたとか
あなたの説には意味不明な仮定が多すぎるので、皆呆れています。
何度も言いますが、より少ない仮定で説明できる説が正しい仮説なのです。
この基準に立つ限り、あなたの主張は失格です。論外なのです。
>>20 壊れてるわけじゃなくて、その時あっちのサーバが落ちてただけかも
分かると思うけどwikipediaで「白河本旧事紀」を検索すれば良いだけだから
ご自分でお調べになってください。
http://ja.wikipedia.org/ > 享保年間に三重松庵が『先代旧事本紀大成経』を30巻にして
> 白河家伝の書いわゆる白河本として発行したとされており
> 内容もほぼおなじものとなっている
こういう落ち目の人間がルサンチマンを同源として過去にアイデンティティーを
求めるのは至極真っ当な行動かと思いますから(それが正しいかはどうかは別)
「白河本旧事紀」は偽書と見て間違いないでしょう。
>>24 2ちゃんねるのような匿名掲示板における暗黙のルールみたいなものに
こだわる古参気取りの人もいるから「空気読めない奴」と思われても仕方ないかもね
>>1さんはスレ主だけどスレッドの所有者でもないんだから
居なくなったとて結局「
>>1は電波でトンデモ」として終了しても
結果が早まっただけで問題ないと思うよ。
なんにせよ『古事記』『日本書紀』だけでは確実に571年から628年以前の紀年は
再構成することは出来ないという結論に至ってしまうわけだから
宝算や崩年干支をどうしようと無駄です。
30 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:26:10
>>28 >誰と誰は同一人物だとか、男ではなく女だとか、誰それは複数いたとか
>あなたの説には意味不明な仮定が多すぎるので
今までの研究家さんの意見をよく読め。
同一人物だとか、男ではなく女だとかは言っておられない。
>この基準に立つ限り、あなたの主張は失格です
君こそ自分の思い入れを基準にし過ぎ。
31 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:30:40
>>27 爺さん。
>デンパ読者には格好のエサですが
キリストと神武の関係について言ってたあなたが言うのもおかしい。
32 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:34:52
応神天皇の即位が390年は正確なんdねすか?
34 :
33:2006/05/29(月) 06:50:59
応神天皇の即位が390年は正確ですか?
35 :
太国:2006/05/29(月) 07:53:02
>>34 もともと臥海の説は無用心らしく、信用に疑問を抱くべきで、そこの説を
信じすぎたことから倉西女史の決めた年なので、もはや正確かどうかはブレーキ
ペダルを踏んでバックして再考ほうがいい。
36 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/29(月) 08:25:52
>>27・
>>35太国さん
付会説につきましては、日本書紀紀年法の構造上、興=木梨軽皇子=雄略天皇、
成務天皇=卑弥呼、日本武尊=仲哀天皇というように推論されてくると、
私は述べているだけです。根拠無く付会説を提起しているのではありません。
また、応神元年が西暦390年となることは、私が決めた年代ではありません。
応神紀に見える百済王の即位や薨年を『三国史記』「百済本紀」の当該百済王の
即位年や薨年と照らし合わせることによって、求めることができる年代です。
明治時代から、既に定説とされています。
37 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/29(月) 08:40:35
>>28さん
日本書紀紀年法は、さまざまな構想から成り立っています。
28さんは、まずは、そのひとつの「プラス・マイナス120年構想」から理解しましょう。
>>1で述べた以下の式を計算なさってみてください。
192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年
・応神元年〜雄略五年までの合計紀年数は、「41(応神)+2(空位)+87(仁徳)+6(履中)+
5(反正)+1(空位)+42(允恭)+3(安康)+5(雄略1〜5)」となります。
・応神元年は390年、雄略五年は461年です。
・神功元年は201年、神功69年は西暦389年です。
神功紀では120年分の紀年数が不足しており、一方、応神元年から雄略5年までの間では、
120年分の紀年数が、超過していることがわかります。
このような構造を「プラス・マイナス120年構想」といいます。
38 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/29(月) 08:49:46
>>◆16YXRFBRMさん
『白河本旧事記』につきましては、wikipediaなどで、調べてみよと思います。
ご親切にも、wikipediaに『白河本旧事記』について記載があることを
教えてくださいまして、ありがたく思います。
『先代旧事本紀大成経』は、偽書である可能性が高いとされておりますので、
『白河本旧事記』も、偽書かもしれませんが、なぜ、歴代天皇の享年(宝算)が、
大きく異なっているのか、気になりますので、やはり、少し、
研究をおこなってみたいと思います。
39 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/29(月) 08:54:20
>>33さん
応神天皇即位が西暦390年であることは、明治時代から定説とされています。
理由は、
>>36で述べましたように、海外資料によって確定することができます。
40 :
太国:2006/05/29(月) 09:17:11
>>36 どうもこの前の七支刀の説明からして、そのへんは怪しいと思うようになり
ましたよ。なかなか油断がならない定説のようですな。
そんなにイコールがあるものなんですかねぇ〜? 「おかしいわねぇ?」と
貴女は思わんのですか? 数歩譲って、たとえ運良くイコールがあったとしても
1個くらいなもんでしょうが? そのうち
神武=崇神=應神
などと主張し始めるんじゃぁありませんか?ww
41 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/29(月) 13:04:07
>>40 太国さん
イコールではありません。付会です。
七支刀につきましては、銘文によって、東晋の時代に鋳造されたのではないかと推論できます。
巻九神功紀が4世紀後半を扱っていることになりますので、
巻十応神紀の応神元年は390年と考えて問題はありません。
「ちっとも、おかしくないわ」と思います。
42 :
太国:2006/05/29(月) 14:27:47
>>41 日本書紀紀年法研究家さん
イコールでないならば不等号なんだから「別人である」とハッキリ言うべき
ですよ。貴女は雌雄が正反対だから、自動車の運転免許証をもらってないので
運転はしないわけだからこれでホッとしますがねぇ。もしそれの交付を受けて
いて、運転中に赤信号を貴女が見てっ、「いや、あの信号は赤じゃなくて青だわ
よ。」などと強く主張する可能性が充分あるわけで、これはもう一大事的困った
さんだということになって来ます。雌雄が逆に観じる貴女には赤青が逆に見え
ることになり、大事故の原因になりますからねぇ?ww→mm
貴女の説でもっともまずいのがイコールとこの雌雄逆説な訳ですよ。正負逆で、
1+1 を 1−1 だと言ってるのと大略同様であり、これは精神科直行を
アドバイスせねばなりますまい。話かわり、
それがしの現今での説は應神元年が376年であり、貴女の説との差は14年だから
ものにもよりますが、このへんはお互いに支障が少ないかも知れませんがね?
43 :
征東大将軍:2006/05/29(月) 18:14:37
44 :
16:2006/05/29(月) 22:00:29
研究家さんがルール違反しているとかじゃなくてでですねー、自分のメアド晒
したりトリップの付け方知らなかったり・・・とりあえず2ちゃんの基礎を知ってくれ
ということです。
>>37 72年を引いて189年を足す意味が判りません。
46 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/30(火) 08:23:08
>>42太国さん
例えば、『日本書紀』が卑弥呼や台与を「神功皇后」とみなしているように、
時代の異なる複数の人物が付会されている場合もありますので、イコールではないのです。
また、私が、車の運転免許証を取得するつもりがないのは、私は運動神経があまりよくありませんし
(テニスぐらいしかできません)、私の性格も車の運転には向いていないのではないかと考えているからです。
自分が柱や壁にぶつかるのならばまだしも、他者を傷つけてしまいましたら、申し訳ありませんもの。
できないことを行って、周りに迷惑をかけるよりも、自分にできることを着実にこなしてゆくのが、私のモットーです。
お勉強には、運動神経は必要ありませんので、一生懸命に、日本古代史の研究を続けています。
したがいまして、古代史研究においては、「青信号」を「赤信号」と間違えることはありません。
47 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/30(火) 08:36:27
>>44 16さん
私のメールアドレスを公開されてしまいましたり、トリップの付け方すら知らなかったことは、
たしかに2ちゃんねるについての基礎知識不足であり、不甲斐のないスレ主であったと反省しています。
48 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/30(火) 08:41:26
>>45さん
「72」は、応神元年の西暦390年から雄略五年の西暦461年までの間に
実際に経過した年数のことです(390〜461年)。
「189」は、神功元年を西暦201年、神功六十九年を西暦389年に位置付けて、
その間に実際に経過した年数のことです(201〜389年)。
「72年を引いて189年を足す」のではなく、以下の式が成り立っているのです。
192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年
49 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:00:42
>>44 誰でも最初はわからないのだから、
細かい事をごちゃごちゃ言うな。
>>38 16/YXRFBRMとしては「歴代天皇の享年(宝算)が、 大きく異なる」のは
『白河本旧事記』が日本書紀の紀年上の矛盾を独自に解消しようとした
結果だろう、と想定しています。
もちろん、ご研究されるなら『白河本旧事記』の成り立ちからするのでしょう、
何か成果があるといいですね。
>>32>>43 よろしく
>>44 メアドもトリップも既に解決済みじゃねーか、何言ってんのよ?
51 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 14:29:19
この議論は面白くてROMっているのだが、太国の(内容ではなく)文体がいただけない。
良スレだと思って読んでいる人もいるのだから、例えどんなにデンパでトンデモだろうと
それなりの文体で返してもらいたいと切に願う。
>>1が(内容はともかく)最低限のマナーをもって誠実に一つ一つレスしている姿には好感を持った。
参加できるほどの知識もない人間の横槍で申し訳ない。
52 :
太国:2006/05/30(火) 15:07:32
どこがいかんのだどう?
53 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/30(火) 16:13:00
>>50 ◆16/YXRFBRMさん
◆16/YXRFBRMさんは、『日本書紀』と『白河本旧事記』のどちらが、
先に成立したとお考えでしょうか。
『日本書紀』は、養老四(720)年に成立して、「旧事記」は、9世紀頃の
成立と考えておりますので、『日本書紀』が先と考えられますが、
『日本書紀』にも、「旧事記」にも、原典となるような史書があった可能性があります。
54 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/30(火) 16:20:15
>>52 太国さん
私も、時々、文体については変であるというご指摘を受けてしまっており、
人のことは言えませんが、太国さんの場合には、思考が先走ってしまい、
主語、述語、目的語などが、どこで、どう繋がっているのか、
こんがらがっている文章があるように思います。
また、前後の脈絡が不明である場合もあります。
55 :
国太 ◆h1A8iHzIDo :2006/05/30(火) 16:26:25
爺ちゃん、久しぶりだね…
例えば
>>42なんて、3行目から下はいらないよ。
56 :
征東大将軍:2006/05/30(火) 16:28:21
ちょっと閃きました
神武治世元年から懿徳治世末年の翌年の空位1年までを足すと185年、
孝昭と孝安の治世年間を足すと185年になります
前者は4代で、後者は2代で、185年ですから
これで神武〜欠史八代に適用可能な倍率が収束されて来ましたね
57 :
征東大将軍:2006/05/30(火) 18:14:20
part1スレの人のと合成すると
185、
185、
133+60+68+99+121=481、
121+99+68+60+133=481、
13+1+11。
こんな感じに整理出来ますね
これで見通しが良くなりました
それと空位の扱いがいよいよ怪しくなりましたね
本当に空位なんか存在したんでしょうか?
書紀に何故空位が挿入されているかを旨く説明出来ると
1/1スケール日本史A(仮称)、1/1スケール日本史B(仮称)
から日本書紀が出来た成り立ちがスッキリ説明出来そうです
それぞれの天皇の尺より、上記の尺が先に決っていたので
演算上の誤差を空位にしたとか
例えばこんな感じ
先ずは1/1スケール日本史を作る
→倍率換算スケール日本史を作る
→複数代天皇間での尺を決める(上記)
→一代ごとの天皇の治世年間を尺に合わせて増減させて微修正(一定法則?)
→最終的な誤差は在位年数に織り込まず空位にする
うーん、どうでしょう
他にも色々考えられそうですが
58 :
征東大将軍:2006/05/30(火) 18:46:48
>>26 没年の年齢は尺によって変わりそうですし、
立太子時の年齢を先に設定した可能性なんてのもどうでしょう
それと
>>6や
>>8での研究家さんの前スレからの引用文で思いましたが
私も宝年にはそれなりに意味があると思います
神功や仲哀にも・・・角度とかw
これは結構マジレスです
>>48 神功元年を西暦201年に位置付ける根拠が判りません。
60 :
征東大将軍:2006/05/30(火) 19:11:24
私が思う所を解説しますに、神功記と云うのは、
日本書紀をY、実際の西暦値をXとしますと、少なくとも
漢籍引用に用いられるY=X直線と、
百済関係に用いられるY=X-120直線と
更にもう一つ、実年代に用いられるY=3X-902直線の
3直線が重層的に統合されて日本書紀側からは見えるのですが
例えばY=X-120直線上で神功末年(神功69年)の実年代389年を取る事で
応神元年が同直線上からも単純に390年と解釈可能な訳です
その上で研究家さんは、書紀(Y)201年時に実年代(X)西暦321年を取る
百済関係に用いられるY=X-120直線以外にも、
漢籍引用に用いられるY=X直線も使える筈じゃないかと言って
神功元年の書紀(Y)201年時の実年代(X)は正に西暦201年だ!
等と大体そう云う事を言って120年構想だと言っている訳です
61 :
太国:2006/05/30(火) 19:24:12
>>59 これは通常の年代の突き合わせから出た数字ですな。倍暦とかでない、一般的
素直な照合からの得られた数字ですよ。
>>53 『白川本旧事記』は『先代旧事本紀大蔵経』を元に作成された、らしいので
『日本書紀』より早い成立はないでしょう。
『旧事記』の原典については別の問題だと思いますので保留。
>>56-58 将軍様はなかなか鋭いね、185・185は今まで気づきませんでした
これはまだ途中なんだけど何か意味あると思いますか?
a 83+64+60=207
b 153
c 99
a-b=54
b-c=54
詳細省略。
他のグループには成り立たないんだけど気になる
63 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 23:35:39
記紀は藤原不比等らの権力側による捏造歴史書で、本来の日本の歴史はそれ以前の
古文書を読めばすっきりする。権力側(現在まで続く)はそれを読まれたくないために
弾圧してきた歴史がある。皆さん「竹内文書」を読んで見なさい。歴史観が一変する
から!そして、世界の歴史も見方が変わってくる。さらに天皇(スメラミコト)の
意味も解るでしょう!!
64 :
征東大将軍:2006/05/30(火) 23:39:22
あぁー
a古事記仁徳宝算83年、履中64年、反正60年
b古事記垂仁宝算153年
c書紀垂仁治世の99年=仁徳・履中・反正・空位の99年
って事ですね?
cの121年相当でちょっとやってみましたが合いませんでした
と云うか、A、B、Cから
差をA-B、B-C、C-Aと三つ出すと
一番大きい値は、小さい二つの値の和と同じになるようです
えぇーこう云う場合数学的に云うと・・・
誰か説明して下さいw
65 :
太国:2006/05/30(火) 23:55:00
66 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 09:44:20
>>57 征東大将軍さん
>part1スレの人のと合成すると
>185、
>185、
>133+60+68+99+121=481、
>121+99+68+60+133=481、
>13+1+11。
「part1スレの人」とは、パート1で、日本書紀の紀年は、孝霊元年から壬申年までの間で、
対称関係が成り立っていると主張された「日本@名無史」さんのお説であると拝察いたします。
同じことを、たしかパート1で、「◆16/YXRFBRM」もおっしゃられておりました。
このような対称関係が成り立っていることも、日本書紀紀年法が数学的思考にもとづいて
構成されている支証となるのではないかと思います。
67 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 09:50:07
>>58 征東大将軍さん
>>66でも述べましたように、日本書紀紀年法は、数学的思考にもとづいて
構成されていますので、歴代天皇の享年(宝算)にも数学的構想が、設定されている可能性があります。
そこで、私は、一案として「宝算年差の法則」を提案いたしました。
他にも、宝算構想案があるかもしれませんので、
征東大将軍さんも、宝算についても、考えてみてはいかがでしょうか。
68 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 09:54:54
>>59さん
『日本書紀』において、神武元年を紀元前660年、持統十一年を697年に位置付ける編年
において、神功元年が西暦201年となります。
69 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 10:11:55
>>62 ◆16/YXRFBRMさん
『日本書紀』の成立よりも『白河本旧事記』の成立が遅いのでるならば、
『日本書紀』が、『白河本旧事記』の歴代天皇の享年の数字を変えたという
東征大将軍さんのお説には、反することになるわけですね。
孝霊元年から壬申年までの対称関係など、◆16/YXRFBRMさんと東征大将軍
さんは、研究対象が同じようですので、
>>32さんが、お二人を同一人物なのではないかと
ご指摘されていたように、私も、お二人は、同一人物なのではないかと思いましたが、
お説が異なっておりますので、こんがらないように注意いたしたいと思います。
70 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 10:17:37
>>63さん
「竹内文書」は、偽書であるといわれてきましたので、私は読んだことはありません。
「竹内文書」が、本当に『日本書紀』や『古事記』以前にあった古文書であるのならば、
たいへん重要な文献であることになります。
63さんは、まずは、「竹内文書」が偽書ではないという論拠を提示して
いただきたくお願い申し上げます。
また、『日本書紀』と『古事記』が、藤原不比等によって捏造された歴史書と
決め付けてしまうことにも、問題があります。
71 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 10:22:56
太国さん
◆16/YXRFBRMさんや征東大将軍さんなどが、唱えておられる孝霊元年から
壬申年までの数字的対称関係において、たしか、西暦元年と関連するような設定があった
ように思います。具体的にどのような設定であったのかは忘れてしまいましたが、
もしかしましたら、太国さんの二倍暦・三倍暦における西暦元年問題と
関連しているかもしれません。
72 :
太国:2006/05/31(水) 11:32:33
>>71 日本書紀紀年法研究家さん
天皇の寿命、宝算は自然が関係しているわけですから、計算とかで割合や和差等
の関係を調べることは、史学的にはメリットはどういうものか? と疑問を抱き
ますな? 確かに記紀の編纂者とその取り巻き、及び原書の書いた者とその関係
が故意に宝算をいじくった等の可能性があるならば役に立つこともあるでしょう。
竹内文献の史学界での論議は今のところ、存在価値を疑っている連中が多いで
しょうから、呈上は無理としか考えざるを得ません。
降参
test
75 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 12:51:16
>>72 太国さん
日本書紀紀年法をめぐって、私が多列・並列構造論などを提起しておりますように、
また、◆16/YXRFBRMさんや征東大将軍さんたちが、孝霊元年から壬申年(672)年までの
紀年には、数字的対称関係が構築されていると唱えておられるように、
数学が、その構成要素として、大きな役割を果たしていると考えられます。
したがいまして、数学的構想が、天皇の享年(宝算)の数字にも及んでいると
推論することができます。このような意味においてメリットはあると思います。
また、『竹内文書』につきましては、わたくしは読んだことがありませんので、
どなたか、お読みになった方が、その概略を説明していただければ、さいわいです。
76 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 12:54:23
>>73 ◆16/YXRFBRMさん
「降参」とは、どのような意味でしょうか。
◆16/YXRFBRMが唱えておられた孝霊元年から壬申年までの
数字的対称関係は、一応、首肯できるのではないかと思います。
77 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 12:56:21
>>74 ◆LYO.s2lkEwさん
「test」とは、どのような意味でしょうか。意味不明です。
>>64 途中は省略
a-b=b-c
a-2b+c=0
まず、aとbは古事記の同一書を典拠するものである。
cは日本書紀を典拠とするものである。
そして、cの値がaとbによって導き出されたと仮定はする場合
c=2b-a
という式が成り立つね?
つまり99年という枠組みは古事記の宝算から算出されたと考えられる
ということです。どうかな?
ちなみにpart1スレの人や
綏靖スレの36も16/YXRFBRM本人ですから了解してくだされ。
紛らわしくてすみません。
LYO.s2lkEw ってのはトリップパスを一文字間違えたのが出力されたやつ
なんですよ。
>>51氏も真面目にやるのを期待してるようだから
おふざけやめたいんですけどねー。
>>69 真面目な話、将軍様と16/YXRFBRMは別人ですから
16/YXRFBRMとしては紀年の対称関係性等から
当初欽明以降、現在は敏達(記571年)以降から信頼性があると
考えています。
部分的に允恭前後も信じたいんですけど
複数年代列という考え方がキーポイントになるのかな?
83 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 13:45:25
>>78-82 何 を う ろ た え て る ん だ、 お ま え は
うるせーな、いいわけだ
85 :
太国:2006/05/31(水) 14:38:55
>>84さん
感情的にならず、今後もアドバイス等よろしく願います。
86 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 15:28:43
>>78〜
>>82 ◆16/YXRFBRMさん
>>76と
>>77は、私の書き込みです。私に対しまして、
>ごめんね。あんた、もう用ねぇーから。
とは、どういう意味でしょうか。
私が、スレ主ですので、このような暴言をおっしゃられるのであれば、
このスレッドには、二度と書き込まないでください。
すなわち、◆16/YXRFBRMさんは、このスレッドがら出て行ってください。
87 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 15:35:33
>>85 太国さん
このスレッドは、日本書紀紀年法について学術的に論じるために私が立てました。
◆16/YXRFBRMさんは、スレ主である私を追い出して、スレッドを乗っ取るという
マナー違反をしております。
太国さんも、◆16/YXRFBRMさんのお仲間で、マナー違反に同調なさるようでしたならば、
太国さんも、このスレッドから出て行ってください。
88 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 15:41:42
「日本書紀紀年法がついに解明されました」の読者の皆様へ
「日本書紀紀年法がついに解明されました」というテーマでスレッドを
立てましてから、半年ほどが経ちました。スレッドでの議論がパート4まで
続いておりますことを、よろこばしく思っております。
しかしながら、私を追い出して、このスレッドの乗っ取りを試みている方々がおられるようで、
困惑しております。
ぜひ、マナーを守っていただきたくお願いもうしあげます。
89 :
太国:2006/05/31(水) 15:42:54
>>87 日本書紀紀年法研究家さん
自分は同調などしてはいないですがね。相手の感情を鎮めて適正な論を
書きこむよう忠告するのは当然ではないですか?
それがしに「出ていけ」は早計な語だと思いますよ。
そんなことなら、
>>84氏よりお先に逐電しますわ。おさらば。
90 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 16:48:11
762 :太国 :2006/05/30(火) 15:37:57
>>750 の結論に至った倍暦の内容
神武世 3倍暦と等倍暦
綏靖世 等倍暦
安寧、懿徳世 2倍暦
孝昭〜孝元世 3倍暦
開化世 2倍暦
崇神、垂仁世 3倍暦
景行世 2倍暦
成務世 3倍暦
仲哀世 等倍暦
神功〜仁徳世 3倍暦
履中、反正世 2倍暦
允恭〜武烈世 等倍暦
繼體、安閑世 2倍暦
宣化世以降 等倍暦
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こんなのありですか?
強引に合わせただけじゃん。
年代復元にあたって、古事記なら2倍年暦は有効なケースもある。
書紀は、単純に60年分を水増しする方法ではどうやっても説明できないので、
最近は、干支12年の整数倍ではないかと思うようになった。
92 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/05/31(水) 19:32:17
>>91 前スレ858さん
「干支12年の整数倍」とは、12、24、36、48、60のいずれかの年数を
水増ししたというお考えでしょうか。
93 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:20:18
研究家さん、
>>51です。
今回の研究家さんの態度はいかがなものでしょうか。
太国さんは小生の意見を聞き入れて下さって、マジメな文体で応対して頂いていたのに
スレ主である研究家さんを追い出そうとしているからという解釈の下で追い出すのはいかがなのでしょうか。
拙い読解力かもしれませんが、小生が読む限りでは
>>85での太国さんは◆16/YXRFBRMさんに同調しているわけではないと思います。
研究家さんの研究内容を興味深く拝読させて頂いておりましたぶん
このようなことで議論が止まってしまうのは大変残念です。
たしかに◆16/YXRFBRMさんの態度はいただけなかったと思いますが、それと同じように反応されていては
ご自分が自信を持たれている説の信憑性が違う方面から疑われてしまうと思います。
乱文乱筆にて申し訳ありません。私もこのスレからは失礼いたします。
94 :
征東大将軍:2006/05/31(水) 22:22:51
│
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│ │
│ │ │
6 3 1
大、中、小と並び替えて考えたら話が早かったですね
大-小の差が、大-中の差と、中-小の差の和に等しいです
│
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│ │
│ │ │
207 153 99=c
さっきので云うと大-小の差の108の1/2の54になってて
中の立ち位置が丁度、大―54→153、153←54―99
って成ってるから、成立していると云う事でしょうか
他は大-小の差の1/2差の立ち位置に中がなってないようです
95 :
征東大将軍:2006/05/31(水) 22:34:19
◆16/YXRFBRMさんこそがどうやらpart1スレの例の人のようですね
16と付いていたので、てっきり邪馬台国スレの某16歳の人か何かだと思ってました
>>67 宝算に付いては依然に少しお話ししましたが
プランと云うか、、、仮説は既に建てています
でも研究家さんとはアプローチが違った方向になると思います
>>69 >>56-57は
>>32さんが勘違いされた以降の話ですから、
>>32さんの勘違いは別の理由じゃないでしょうか
96 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:51:48
「竹内文書」「宮下文書」等の古文書を先入観なしに読んでみるといい。
なぜこれらの古文書を偽書と片付けてしまうのか、学会はその証明を全てする
必要がある。同様に記紀もすべて真書とする証明も必要だろう。
お互いそれができないなら、検証する必要がある。日本の歴史は記紀だけで
網羅できないのだから、古文書を検証していく必要がある。
伊勢神宮文庫には神代文字があり、八咫の鏡の裏に書かれている文字は
「ヒフ文字」であるという。あるいは古代ヘブライ文字でもあるといわれている。
決して、漢字でもなくカタカナ・ひらがな文字ではない!これは皇室の奥の深い
秘密があるということの証明でもある。だから、日本の歴史はまだまだ奥がある。
97 :
征東大将軍:2006/05/31(水) 23:14:34
>>90 例えばですね、
>>57を見て貰うと解り易いですが、10代までの天皇で云うと
185年(神武76、空位3、綏靖33、安寧38、懿徳34、空位1)
185年(孝昭83、孝安102)
481年
133年(孝昭76、孝安57)
60年(開化60)
68年(崇神689
こうなる訳ですが、
とするとですね、(綏靖33、安寧38、懿徳34)と(孝昭83、孝安102)を比べると
後者の異常さが解り易いですよね。
前者は三代で累積治世105年しかない訳だから
逆に孝安102は最低でも常人の3倍分に治世が水増しされてるんじゃないか?とか
同一185年区切りの孝昭も3倍に水増しされてるんじゃないか?
寿命的にも3で割ると手頃だ、とか
まぁ、最終的にそれが在りか無しかはですね、世代モデルの一致性と、
他の要因からも、その必然性が導かれるかですかね
98 :
征東大将軍:2006/05/31(水) 23:31:52
01 神武 (BC660) 丙子(BC585) 76(3) 127
03 安寧 *癸丑(BC548) 庚寅(BC511) 38 57
07 孝霊 辛未(BC290) 丙戌(BC215) 76 #128
こう云うのもアレですね
>>92 12〜72年くらいです。
例えば、孝安天皇の在位期間102年は、60年引いても42年です。
少し長すぎるので、72年は水増しされているのではないかと
思うようになりました。
100 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/01(木) 13:24:41
>>94・
>>95・
>>97・
>>98 征東大将軍さん
>◆16/YXRFBRMさんこそがどうやらpart1スレの例の人
パート1にて、孝霊元年から壬申年までの間に数字的対称関係が成立していることを
◆16/YXRFBRMさんと、もう一方、匿名の方が指摘されていました。
◆16/YXRFBRMさんは、パート1から「◆16/YXRFBRM」というコテハンを用いています。
すなわち、数字的対称関係を指摘されていた方は、お二人おります。
したがいまして、そのもう一人の人物は、東征大将軍さんではないかと推理いたしましたが、
いかがでしょうか。
私は、東征大将軍さんが、
>>97にて指摘されている「185」も含めて、孝霊元年から壬申年までの
数字的対称関係は、おそらく、『日本書紀』の編纂者が設定したものではないかと考えております。
このことからも、日本書紀紀年法が、いかに数学的構造物であるのかがわかります。
宝算につきましても、東征大将軍さんの案をたのしみにしております。
101 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/01(木) 13:29:48
>>96さん
96さんが、そこまで力説されるのでしたならば、きっとなにか日本古代史の
謎を解くヒントのような内容なのかもしれませんので、『竹内文書』を
読んでみたいと思います。
また、『日本書紀』と『古事記』が、どの程度、史料的価値があるのかにつきましては、
多列・並列構造にあることがわかり、多くの紀年に相当する実年代
を求めることができるようになりましたので、史料的価値は大いに上がったと思います。
102 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/01(木) 13:32:23
>>99 前スレ858さん
歴代天皇の在位年数から、12〜72までの倍数のどの数字を引けばよいのかということを
決める基準は何でしょうか。
103 :
質問のいらつめ:2006/06/01(木) 14:18:17
>>93さん、ならびに、皆様方
つかぬ事をおたずねしますが、2ちゃんねるのルールといたしまして、
スレ主に、スレ参加者を追い出す権限は、認められているのでしょうか?
もしも、スレ主に権限がないのにもかかわらず、論者を追い出したと
いうことになりますと、それは、越権行為となってしまうかもしれません。
スレ主の妹として、スレ主が判断を誤り、皆様方にご迷惑をおかけしたの
ではないかと、心配いたしております。スレ主の権限の範囲については、
幅広い了解が必要であると思いますので、どなたか、教えてくださいませ。
>>103 2chにおいては基本的にスレ主という概念は存在しません。
参加者は皆平等です。
それは、極々少数の例外はあるものの、運営側、削除人などのボランティアの人間であっても変わりません。
ただしスレ立て人が話の振り役である以上、実質上のスレ主のような役割を果たす場合はありますが、それはそれだけのことであり、なんらかの権限が与えられる訳ではありません。
一応スレ違いのレスに関しては削除依頼(要請の方だったかな?)が出来ますが、スレ立て人以外にも同等の権利があり、実際に削除されるか否かは削除人、あるいは運営側次第です。
105 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 20:36:10
日本書紀紀年法研究家へ
ありがとうございます。「記紀」「竹内文書」「宮下文書」等の年代区分は
「多次元同時存在の法則」(蘢神社第82代宮司・海部氏の説)によって解明
出来るとあります。つまり、記紀の神武天皇から仁徳天皇までは同一人物の別名
表記である可能性があるということ。つまり、天照大神(イエス・キリスト)である。
伊勢神宮は三宮からなり、国史も三書からなる。古事記・日本書記・先代旧事本紀
であるのに、先代旧事本紀のみは藤原不比等によって封じ込められた。それは、物部氏が
神武以前の記録を預かっているからであり、それが公になれば権力側に不都合だから。
この日本は古代ユダヤ民族(秦氏がその代表)の国になり、表は八百万の神々を敬って
いることになっているが、裏は一神教だということ。伊勢神宮はその象徴。
http://www.geocities.jp/atelier_efraym/index.htm このサイトも参照してください!仁徳御陵とピラミッドは同じ尺度で作られている
ことが解ります。学者の検証が必要ですが・・・
106 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/02(金) 08:30:00
>>104さん ならびに
>>103 質問のいらつめさん
たしかに、私は、議論の議題の提案者であって、書き込みをなさる方々を追い出す権利は
ないかもしれません。
しかしながら、このスレッドは、私の多列・並列構造論が議題ですので、
「用は無い」、すなわち、書き込むなと言われてしまいますと、困ったことになります。
議題が私の説であるにもかかわらず、私本人が質疑応答することができなくなるからです。
問題は、マナー違反者にどのように対処するかです。
私は、◆16/YXRFBRMさんに対しては、「このような暴言をおっしゃられるのであれば」、
太国さんに対しては、「マナー違反に同調なさるのであるならば」という条件を付けました。
それでも、もう議論に参加されないようでしたならば、条件を守るおつもりがないのでしょうから、
しかたがありません。
107 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/02(金) 08:43:19
>>105さん
興味深いご指摘と思います。
日本書紀紀年法の構造的観点から、『日本書紀』と『古事記』が、
グランド・プランとも称せるるような密接な相互補完関係にあることは、
はっきりしています。これに『先代旧事本紀』が加わるというわけですね。
籠神社の先代海部様が、様々な史書の「多次元同時存在の法則」について
ご研究なされていることは、存じ上げております。
かなり、研究を進められたようなのですが、道半ばで、逝去されてしまわれたそうです。
以前に、籠神社の現宮司の海部様より先代の研究成果を見せていただけるとのお話があったのですが、
私も、自分の研究に忙しく、そのままになっておりました。
研究者の方で、どなたか、先代海部様のご研究を引き継がれておられる方はいらっしゃるのでしょうか。
>>106 > 「用は無い」
は◆16/YXRFBRMさんにとって研究家さんに対してレスする気がないという意思表明なだけであって、
研究家さんに対して書き込むなといってるわけではないと思います。
相手に議論する気がない以上はスルーしかありません。
ちょっときつい言い方になりますが、相手が無視するよ〜と泣いても誰も助けてくれません。
そういった相手は無視をするか、あるいはスレの価値がなくなったと判断して去るかのどちらかしかないでしょう。
あと「多列・並列構造論」を中心に据えたいのであれば、スレタイ等を工夫する必要があるかもしれません。
研究家さんにとっては日本書紀紀年法=多列・並列構造論なのでしょうが、その他の構造論を主張する人もいます。
多列・並列構造論を論じないレスも現行ではスレ違いとは言い切れない状態であります。
研究家さんが多列・並列構造論のみについて議論したいのであればスレタイ変更をお勧めします。
109 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 09:26:27
十七条の憲法現代語訳
第1条 お前ら仲良くしる
第2条 仏様とお経と坊さんは大切にしろよ
第3条 天皇陛下の詔勅は謹んで受けろ
第4条 役人は礼儀と身分をわきまえろ
第5条 人を裁く奴は賄賂とかに惑わされんなよ
第6条 DQNは叩け。いいことしろ。
第7条 役人はちゃんと自分の仕事をしろ。
第8条 役人は朝早く出勤して夜遅く帰れ。きっちり定時なんかに帰るなよ。
第9条 信用は大切だぞ。
第10条 他人が何か間違ったことしてもあんまり怒るな。
第11条 功績や過ちはハッキリさせて、賞罰とかその辺きっちりさせろよ。
第12条 役人は住民から搾取しちゃダメだろ。
第13条 役人ども、おまいらは同僚が何やってるかはきっちり知っておけよ。
第14条 役人は他の市とかの方が給料高いからって妬んだりすんな。
第15条 役人どもはてめー財布のことばっかり考えてないで国のために働け。
第16条 国民に何か課すときは、必ず時期とか空気読んでやれよ。
第17条 重要事項は会議して決めろ。ひとりでこそこそやんなよ。
110 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 08:37:03
神武天皇は西暦60年に即位が一番あってるんじゃない?
111 :
征東大将軍:2006/06/03(土) 10:05:02
60年以前にしないと世代モデルを合わせるのが難しい筈
系図を無視した兄弟相続説を取るなら大丈夫だろうけど
112 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/03(土) 10:21:23
>>108さん
日本書紀紀年法の多列・並列構造論は私の説で、論文、著作において2002年から2003年にかけて
発表いたしました。
日本書紀紀年法が、多列・並列構造にあることは疑いがありませんので、せっかくの
研究成果を多くの研究者や一般の方々に知っていただきたいと思いました。
私の論文と著作を読んだ人々しか、知らないというのでは、研究成果が日本古代史研究の役に立ちません。
そこで、このスレッドを立てたわけです。
多列・並列構造についてのご質問に対しては、誠実にお答えしてきたつもりです。
ところが、暴言、暴論をもって、私の説を潰そうとしたり、スレッドから私を追い出そうという
動きがあったようで、困惑することになりました。
スレ主には、追い出す権利があるというご意見が、以前にありましたので、
>>86や
>>87のような対応をいたしました。
追い出す権利がないとおっしゃられる方々もおられるようですので、これからは、
気をつけたいと思います。
113 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/03(土) 10:27:19
>>109さん
憲法十七条に限らず、『日本書紀』や『古事記』を、わかり易い、
平易な現代語訳にしますと、時代の様相が見えてくる場合があります。
もう少し、丁寧な言葉を使ったようがよいとも思いますが、憲法十七条の内容には、
当時、綱紀粛正が必要であったことが、表れているのでしょう。
114 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/03(土) 10:29:32
>>110さん
>神武天皇は西暦60年に即位が一番あってるんじゃない?
どのような論理構成において、「一番あっている」のでしょうか。
115 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/03(土) 10:31:43
>>111さん
>60年以前にしないと世代モデルを合わせるのが難しい筈
「世代モデル」とは、何でしょうか。
116 :
征東大将軍:2006/06/03(土) 11:30:54
生年 即位年 崩御年 備考
神武b60 b30 b01
┃
綏靖b30 001 031
┃
安寧001 031 061
┃
懿徳031
┃
孝昭061
┃
孝安091
┃
孝霊121
┃
孝元151
┃
開化181 211 241 卑弥呼遣使239
┃
崇神211 241 271 崇神十年箸墓/卑弥呼死248頃
┃
垂仁241 天日槍来朝
┃
景行271
┠―――――――┐
武尊301~30 成務 武内宿禰
┃
仲哀331====神功 七支刀作刀369、七支刀伝来
┃
応神361 391
┃
仁徳391大鷦鷯皇子 木兎宿禰 菟道稚朗子
117 :
征東大将軍:2006/06/03(土) 12:15:04
まぁ、これは極端な標準モデルの例で、
一世30年モデルで即位年に皇位継承者が生まれると設定な訳だが
私の場合は、崇神末年を268年、応神元年が390年に設定している
説を建てている訳だから、この間は、ほぼ完全に合ってる
崇神の没年を干支一順手前に持ってくると、世代モデル的にちょっと苦しい
それと神武から昭和までの正統天皇が71世代
日本の歴史を2000年とすれば、2000/71で28.16年/世?
もっとも初期の天皇寿命は60歳を下回るだろうから、
神武の生年がbc60と云うのが限界年代近くであるとも言えると云う事かもしれないが
長子継承でない場合を考えれば、もう少し古くても構わないはず
逆にちょっと頑張れば無理なく神武即位年に紀元元年に持ってくる事は可能だが
ad60年だと、うーんやっぱりそれはどうだろう、って感じがする
2代以下の天皇に対して、系図を無視して兄弟関係に据えることで
これを解決しようと云う論もある
118 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/04(日) 09:34:56
>>116・
>>117 征東大将軍さん
征東大将軍さんは、歴代天皇の平均財年数30年という統計学的手法をもって、
標準モデルを作られたわけですね。
私の説でも応神元年は390年になりますので、参考になります。
しかしながら、日本書紀紀年法では、しん緯暦運説がもちいられていて、
一元の「60年」が多用されているために、きれいに390年となるとは考えられないでしょうか。
30年は、一元の半分の年数ですので。
また、統計学による数値は、実際の数値と異なる場合がありますが、これは
どのようにお考えでしょうか。
119 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 10:55:34
120 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 11:51:29
5世紀の天皇を見ると凄く短い期間なんだよね
121 :
征東大将軍:2006/06/04(日) 12:28:15
えぇー、在位年数30年を設定したんじゃなくて
生年差を30年に設定した訳ですが
天皇の平均在位年数と云うのは、
結局は一世あたり平均の生年差数に依存する訳ですから
それと統計ってのはサンプル数が多ければ多いほど収束性がある訳ですし
標準値で30の所を、算出値で30弱と云うのは、整合性が高い事の証明でしょう
一世の意味自体も30年ですしね。歴史的数値じゃないでしょうか
それと、この系図が正しいとして、応神生年を361年を基準に設定して
一世20歳でカウントすれば神武の生年はad81年
一世25歳でカウントすれば神武の生年はad11年
一世30歳でカウントした神武の生年がbc60年でしょうか
一世28歳だと神武の生年がad-31、
これだとAD1年辺りに即位しても不自然さはないですかね
まぁ、これらは、あくまでも「モデル」ですが
それに10歳で次期継承者が生まれたり、80歳で次期継承が生まれたり
と云う異常な実年代モデルが復元されるなら、それはチョットおかしい訳ですから
そうなれば系図を否定するか、系図の正当性を認めながら
その世代モデルの異常さを正当化するか、復元した当該実年代モデルを否定するか
と云う事なんかが迫られるので、実年代検証には崩御年の特定以上に
生年の特定(或いは合理的に設定)する事の方が、
その各説での実年代復元モデルの正当性を強固にする筈です
122 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/05(月) 13:05:04
>>121 征東大将軍さん
「生年差を30年に設定」したわけですね。
『日本書紀』では、1)兄弟相承がかなりあることと、2)異世代間の通婚がますので、
世代モデルを作成することは、難しいのではないかと思います。
兄弟姉妹の間で、かなり、年齢差があると考えられます。
むしろ、「異常な実年代モデル」が復元されてしまう気がするのですが、この点は、いかがお考えでしょうか。
123 :
質問のいらつめ:2006/06/07(水) 17:26:01
>> 日本書紀紀年法研究家さん
基本に戻って質問いたしますが、紀年法と暦法とは、どこが違うの
でしょうか?また、それぞれの特徴を教えてくださいませ。
124 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 20:38:23
日本書紀紀年法研究家さん・・・
貴方の「記紀」の解釈には尊敬の念を感じます。
ところで、古史3部の一翼を担う「先代旧事本紀大成経」
(ほとんど世に顕れない)の一部でも読まれたことは
ありますか?私には難解過ぎてお手上げです。
しかし、この天皇家と六家が秘匿してきた内容を纏めた
この古書にこそ、本来の日本の歴史の根元があると思うのですが・・・
ピラミッドや日本の古墳が何を示しているのか、おぼろげながら理解
できます。
また、神武天皇とは人間の姿をしていたのか?興味深い点もありますが・・
125 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/08(木) 09:58:19
>>123 質問のいらつめさん
紀年法は「年」の構成法で、暦法は「年月日(暦日)」の構成法であるといえます。
例えば、元号や干支紀年法は紀年法ですし、西暦(グレゴリウス暦)や元嘉暦などは暦法です。
紀年法と暦法は一致する場合があります。例えば、2006年1月1日は、平成18年1月1日です。
しかしながら、一致しない場合もあります。
『日本書紀』の暦法については、小川清彦氏によって元嘉暦と儀鳳暦が用いられていることが明らかとされています。
では、紀年法はどうかといいますと、研究史上、各々の紀年に相当する実年代は求めることができないとされてきました。
それは、紀年と実年代との関係に明らかな矛盾が認められるからです。
すなわち、日本書紀紀年法は未解明の問題であったのです。
そこで、日本書紀紀年法が、どのように構成されているのかについて、
多列並列構造説を提起させていただきました。多列並列構造にあると考えますと、
これまで、矛盾として捉えられていた点を論理的に説明できるようになるのです。
多列並列構造説については、研究者、ならびに、一般の皆様に、ぜひに、
その是々非々を議論していただきたいと考え、このスレッドを立てさせていただきました。
126 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/08(木) 10:07:09
>>124さん
「先代旧事本紀大成経」は、偽書であるとのことでしたので、読んだことがありません。
しかしながら、124さんのご指摘から、たいへん興味を持ちました。
ぜひ、読んでみたいと思います。
『日本書紀』と『古事記』だけでは説明できない部分が、見えてくるのかもしれません。
また、「神武天皇とは人間の姿をしていたのか?」につきましては、
これは、神武天皇は、実在していたわけではなく、ピラミッドや古墳の意味と関連した
観念的存在であったということなのでしょうか。
127 :
質問のいらつめ:2006/06/08(木) 17:44:32
>>日本書紀紀年法研究家さん
大変基本的な質問ですが、『日本書紀』は、いつ頃、誰によってに作成され
たのでしょうか?定説では、舎人親王ということになっておりますが、この
定説のとおりに考えても差し支えはないのでしょうか?
128 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 22:19:07
>>研究家さん
太国爺さんが、このスレに戻ってきてもいいでしょ?
研究家さんは別に怒っておられないのでしょ?
129 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/09(金) 08:24:50
>>質問のいらつめさん
『続日本紀』によれば、『日本紀』は養老四(720)年に成立したとされています。
養老五年には、『日本紀』の講義が、朝廷において行われていますので、『日本紀』は
720年に成立したと考えられます。
しかしながら、日本書紀紀年法の構成からは、『日本書紀』として成立したのは、
740年代なのではないかと推論できます。
すなわち、『日本紀』が改編されて、740年代に『日本書紀』が成立したのではないでしょうか。
『日本紀』の成立過程、そしてまた、現存『日本書紀』の成立過程については、まだ、きちんと明らかにされている
わけではありませんので、興味深い研究テーマです。
130 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/09(金) 08:42:03
>>128さん
このスレッドにての書き込みは自由です。
そもそも、スレ主には、追い出す権利は無いようですので。
ただし、私を追い出そうとなさらないでください。
問題の発端は、16◆/YXRFBRMさんが、暴言によって私をスレッドから追い出そうとしたことにあります。
スレ主にも追い出す権利は無いのですから、書き込まれる方々にもスレ主を追い出す権利は無いはずです。
131 :
質問のいらつめ:2006/06/09(金) 20:09:06
>>日本書紀紀年法研究家さん
『日本書紀』の成立以前に『日本紀』が編纂されていたとのことですが、
両者には、どのような違いがあるのでしょうか。紀年法や暦法にも異なる
点が見られるのでしょうか?
132 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/10(土) 09:37:36
>>131質問のいらつめさん
紀年法の構成(編年)や記述内容が多少異なっていたと考えられます。
基本年代列の応神列(A列)と雄略列(B列)との間には、実年代との関係において
120年のズレがあります。この年差を利用して、奈良時代の政治的事象を用明紀、崇峻紀、推古紀
に付会させています。
ただし、プラス・マイナス120年構想は、720(養老四)年の『日本紀』の成立時に
すでに設定されてあったと考えられます。
133 :
質問のいらつめ:2006/06/10(土) 10:16:06
>>日本書紀紀年法研究家さん
現存の『日本書紀』に見られる多列型の紀年法は、『日本紀』の成立
時点において、既に用いられていたのではないか、と考えておられるよ
うですが、このように推測には、何か、根拠があるのでしょうか?
134 :
征東大将軍:2006/06/10(土) 17:32:38
y=3x-902上で
三国史記百済本紀418年記事と
日本書紀353仁徳41年記事が直交する事を確認した
と云う事でこっちの方が分がありそうだ
書紀379年記事は古事記没年干支年に合わせて
設定されて居たと云う意味になりそうだ
135 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/11(日) 09:03:42
>>133 質問のいらつめさん
プラス・マイナス120年構想は、『古事記』崩年干支を用いることで、
復元できるようになっています。
『古事記』は、和銅五(712)年に成立したとされていますので、
養老四(720)年の『日本紀』の成立時には、既に設定されてあったのではないかと
考えられます。また、『日本書紀』と『古事記』の相互補完関係を踏まえると、
『古事記』の成立は、養老四(720)年に近い年代であるかもしれません。
136 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/11(日) 09:12:58
>>134 征東大将軍さん
仁徳41年は西暦418であるとおっしゃられておられるのでしょうか。
「Y」は西暦(実年代)、「X」は『日本書紀』の編年上の年代ということでしょうか。
もし、そであるのならば、「Y=3X−902」の式においては、3年ごとにしか実年代を
求めることができない気がします。
137 :
質問のいらつめ:2006/06/11(日) 16:21:07
>>日本書紀紀年法研究家さん
『日本書紀』と『古事記』が相互補完関係にある、ということが、すなわち、
『日本紀』と『日本書紀』が同じような紀年構造(多列構造)を持っていたこ
との論拠となるのでしょうか?もし『日本紀』と『古事記』が、紀年を解くた
めに二書一対として編纂されたとしますならば、『古事記』が推古期で終わっ
ている理由は、推古期以降には多列構造を用いる必要がないため、と解釈でき
ると思われますが、いかがでしょうか?
138 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/12(月) 07:56:03
>>137 質問のいらつめさん
日本書紀紀年法において、応神列(A列)と雄略列(B列)との間に実年代に対して、
120年のズレがあることを用いて、奈良時代の歴史的事象を用明紀・崇峻紀・推古紀
に投影させるという構想も設定されています。この構想は、推古紀までですので、
『古事記』は推古紀までになっているのではないかと推論いたしております。
逆説的には、推古三十六年の628年に120年を加えた748年以前に、
これらの構想が設定されたと考えることができます。
139 :
質問のいらつめ:2006/06/12(月) 15:24:33
>>日本書紀紀年法研究家さん
それでは、『日本書紀』と『日本紀』とは、どのように違うのでしょうか?
『日本紀』の編纂の後に、わざわざ『日本書紀』に改編しなおした理由は、
どのような歴史的事情に求められるのでしょうか?
140 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/13(火) 08:11:57
>>139 質問のいらつめさん
憶推とはなりますが、『日本紀』の段階で、プラス・マイナス120年構想などのいくつかの構想が設定
され、『日本紀』を改編して、さらに別の紀年構想を加えてたのが『日本書紀』ではないかと考えます。
例えば、応神列(A列)と雄略列(B列)との間に実年代に対して120年の年差があることから、
奈良時代の歴史的事象を用明紀、崇峻紀、推古紀に、多少投影させる構想などが、
新たに加えられた紀年構想であると考えられます。
日本書紀紀年法という数学的構造物は、さらに複雑なものとなったことになります。
141 :
質問のいらつめ:2006/06/13(火) 16:03:09
>>日本書紀紀年法研究家さん
それでは、何故、『日本紀』の編纂に際してプラス・マイナス120年構想が
設定されたのでしょうか。それ以前の史書には、こうした構想がなかったと
考える理由とは、どのようなものなのでしょうか?
142 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/14(水) 09:50:36
>>141質問のいらつめさん
プラス・マイナス120年構想が、いつの段階において構想されたのかはわかりません。
それは、プラス・マイナス120年構想は、およそ3世紀から5世紀までをカバーしていますので、
6世紀以降に史書の編纂があった場合に、その時から設定されていた可能性もなきにしもあらずであるからです。
例えば、欽明・継体天皇の頃の「帝紀」・「旧辞」、推古朝の「天皇記」・「国記」、
そして、天武朝の「帝紀」・「上古諸事」などがありますので、いずれかの史書が成立した際に、
既に、プラス・マイナス120年構想が設定されてあったとも考えられます。
また、このような構想が考えられた理由は、おそらくは、多列・並列構造ですと、
5世紀史をよく表現できると考えられていたからではないかと、思います。
143 :
質問のいらつめ:2006/06/14(水) 17:41:45
>>日本書紀紀年法研究家さん
『日本書紀』には、特に神代の巻に「ある書に曰く…」という表現が多く
見られますが、この異説を複数並べるという並列的な表記と紀年法の全体の
多列構造とは、何か関係があるのでしょうか?
144 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/15(木) 08:56:53
>>143質問のいらつめさん
なぜ、『日本書紀』神代紀においてのみ、複数の説が並べてあるのか、万人を納得させるような説は、
研究史上もたらされておりません。
神代紀において複数の書の説が併記されていることは、大変興味深い研究課題なのです。
私も、研究しておりますが、この研究課題はかなり難しく、日本書紀紀年法の多列・並列構造と関連あるのか、
ないのか、現時点では、まだわかりません。
神代紀の説の並列説問題を解くには時間がかかりそうです。
145 :
質問のいらつめ:2006/06/15(木) 09:57:06
>>日本書紀紀年法研究家さん
そういたしますと、『日本書紀』の紀年法が、多列構造になっている
理由は、三世紀から五世紀にかけての”歴史”にある可能性が最も高い
ということなのでしょうか?紀年の列には「応神列」「雄略列」「允恭
列」「仁徳列」がありますが、これらの何れもが、上記の期間に含まれ
ておりますことも、何らかの意味があるのでしょうか?
146 :
太国:2006/06/15(木) 14:32:21
研究家さん、ご無沙汰です〜!
まぁ余は2倍年歴の真実スレに書き込んでましたが〜、
なかなかスレも伸びないので、またここに書き込ませてもらいます。
よろしく〜!
147 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/16(金) 15:32:02
>>145 質問のいらつめさん
>『日本書紀』の紀年法が、多列構造になっている
>理由は、三世紀から五世紀にかけての”歴史”にある
多列・並列構造になっている理由は、3〜5世紀史にあると推論しております。
では、それが具体的にどのような歴史的状況を表現したものであるのか、
という段階になりますと、難しい課題です。
まだ、仮説の段階ですが、試案はありますので、説得力のある説明ができるのではないかと考えております。
148 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/16(金) 15:39:29
>>146 太国さん
日本書紀の編年や歴代天皇の享年(宝算)に見える非現実的数字を説明する
アプローチとして、二倍・三倍年暦が説得力があるのか、それとも、
私が提起させていただいている多列・並列構造論に説得力があるのか、
まだ決着は着いておりません。
太国さんには、二倍・三倍年暦説を、皆様や私に納得の行くような理論構成で
披瀝していただきたいと思います。
149 :
質問のいらつめ:2006/06/17(土) 09:22:26
>>日本書紀紀年法研究家さん
『日本書紀』の多列構造におきましては、”プラス・マイナス120年”、
つまり、”120”という数字が鍵となっているように見受けられます。この
数字には、何らかの意味があるのでしょうか?それとも、偶然に過ぎない
のでしょうか?
150 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/17(土) 11:46:15
>>149質問のいらつめさん
120年という数字は、しん緯暦運説の四六二六相乗説にもとづいていると考えられます。
すなわち、4×6=240年と2×6=120年は、重要な天数です。
三善清之の「革命勘文」にも、120年と240年については言及がなされており、
清之自身は、これらの数字、どのように日本書紀紀年法に応用されているのかを知らなかったようなのですが、
120年と240年という数字が日本書紀紀年法を構成する重要な数字であることだけは、
朝廷知識層の間に、伝承されていたのではないかと推論できます。
151 :
質問のいらつめ:2006/06/17(土) 16:27:47
>>日本書紀紀年法研究家さん
120年を重要な天数とするしん緯暦運説とは、いつ頃の時代に唱えられた説
なのでしょうか?
152 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/18(日) 10:23:25
>>151質問のいらつめさん
『易緯』や『詩緯』などの緯書の解釈として緯暦運説がありますが、これには多くの説があります。
四六二六法も、その一説で、『易緯』の解釈にもとづいています。
三善清之の「革命勘文」によると、わが国には、『易緯』のじょう玄の注として四六二六法が伝わっていたようです。
じょう玄は後漢の学者ですので、遅くとも、1世紀頃から唱えられていた説となります。
153 :
日本@名無史さん:2006/06/21(水) 19:14:08
正直言って、紀年法の事で研究家さんに質問する事は、
2ちゃんねるの人間には限界がありますw
もっと歴史全般に話を拡げられてはいかがでしょうか?
154 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2006/06/22(木) 12:47:50
>>153さん
日本書紀紀年法を最も論理的、合理的に説明し得る仮説として、プラス・マイナス120年構想、
ならびに、多列・並列構造論を提起させていただきました。
もし、私の説が正しければ、日本書紀研究が進み、
史学・考古学などの研究者の方々にも利用、応用していただくことができるようになります。
すなわち、スレッドを立てた目的は、これまで実年代を求めることができないとされていた日本書紀の紀年の多くが、
これを求めることができるようになったということを、多くの人々に知っていただきたかったからです。
155 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 20:38:21
東北6県−青森−岩手−山形−宮城−福島
156 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 20:44:29
157 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 22:21:46
へえ
158 :
征東大将軍:2006/07/12(水) 22:31:34
ヤレヤレだぜ
159 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 08:55:39
還暦2周とかじゃないの?
160 :
日本@名無史さん:2006/07/14(金) 00:48:23
一世30年と考えるのは古代では苦しいでしょ
10〜20年と考えるべきじゃないかな
161 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:40:34
★初代天皇=神武天皇(じんむ天皇)
(在位:紀元前129年1月1日〜紀元前92年3月11日=37年)
(空位・・・・・4年)
第2代天皇=綏靖天皇(すいぜい天皇)
(在位:紀元前88年1月8日〜紀元前72年5月10日=16年)
第3代安寧天皇(あんねい天皇)
(在位:紀元前72年7月3日〜紀元前53年12月6日=19年)
第4代天皇=懿コ天皇(いとく天皇)
(在位:紀元前53年2月4日〜紀元前36年9月8日=17年)
(空位・・・・・2年)
第5代天皇=孝昭天皇(こうしょう天皇)
(在位:紀元前34年1月9日〜紀元前9年8月5日=25年)
第6代天皇=孝安天皇(こうあん天皇)
(在位:紀元前8年1月7日〜43年1月9日=51年)
(空位・・・・・1年)
第7代天皇=孝靈天皇(こうれい天皇)
(在位:44年1月12日〜82年2月8日=38年)
(空位・・・・・1年)
第8代天皇=孝元天皇(こうげん天皇)
(在位:83年1月14日〜111年9月2日=28年)
第9代天皇=開化天皇(かいか天皇)
(在位:111年11月12日〜141年4月9日=30年)
第10代天皇=崇神天皇(すじん天皇)
(在位:142年1月13日〜175年12月5日=33年)
162 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:47:28
応神天皇の母=神功皇后(じんぐう皇后)
(在位:308年〜357年4月17日=49年)
(空位・・・・・1年)
第15代天皇=応神天皇(おうじん天皇)
(在位:358年1月1日〜378年2月15日=20年)
<生没年201年〜310年没>
第16代天皇=仁徳天皇(にんとく天皇)
(在位:381年1月3日〜424年1月16日=43年)
<生没年257年〜399年没>
第17代天皇=履中天皇(りちゅう天皇)
(在位:425年2月1日〜428年3月15日=2年半)
<生没年319年?〜405年没>
(空位・・・・・1年)
第18代天皇=反正天皇(はんぜい天皇)
(在位:429年1月2日〜431年1月23日=2年)
<生没年336年?〜410年没>
(空位・・・・・2年)
163 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:48:38
第19代天皇=允恭天皇(いんぎょう天皇)
(在位:433年12月〜454年1月14日=20年半)
<生没年 ?年〜453年没>
第20代天皇=安康天皇(あんこう天皇)
(在位:454年12月14日〜456年8月9日=1年半)
<生没年 ?年生〜456年没>
第21代天皇=雄略天皇(ゆうりゃく天皇。418年生):【注】この天皇の代から歴代天皇の寿命が正常になる。
(在位:456年11月13日〜479年8月7日=23年)
<生没年 ?年生〜479年没>
第22代天皇=清寧天皇(せいねい天皇)
(在位:480年1月15日〜484年1月16日=4年)
<生没年444年?〜484年没>
第23代天皇=顯宗天皇(けんぞう天皇)
(在位:485年1月1日〜487年4月25日=2年)
<生没年450年〜487年没>
第24代天皇=仁賢天皇(にんけん天皇)
(在位:488年1月5日〜498年8月8日=10年)
<生没年449年〜498年没>
第25代天皇=武烈天皇(ぶれつ天皇)
(在位:498年12月〜506年12月8日=8年)
<生没年489年〜507年>
164 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:50:30
第26代天皇=継体天皇(けいたい天皇)
(在位:507年2月4日〜531年2月7日=24年)
<生没年450年生?〜531年没>
第27代天皇=安閑天皇(あんかん天皇。466年生)
(在位:531年2月7日〜535年12月17日=4年)
<生没年466年生〜536年没>
第28代天皇=宣化天皇(せんか天皇。467年生)
(在位:535年12月〜539年2月10日=4年)
<生没年467年生〜539年没>
第29代天皇=欽明天皇(きんめい天皇509年生)
(在位:539年12月5日〜571年4月15日=32年)
<生没年509年生〜571年没>
第30代天皇=敏達天皇(びだつ天皇。538年生?)
(在位:572年4月3日〜585年8月15日=13年)
<生没年538年生〜585年没>
第31代天皇=用明天皇(ようめい天皇。生年不明)
(在位:585年9月5日〜587年4月9日=2年)
<生没年 ?年生〜587年没>
第32代天皇=崇峻天皇(すしゅん天皇。生年不明 )
(在位:587年8月2日〜592年11月3日=5年)
<生没年 ?年生〜592年没>
第33代天皇=推古天皇(すいこ天皇。女性天皇)
(在位:592年12月8日〜628年3月7日=36年)
<生没年 554年生〜628年没>
165 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:55:48
第14代天皇=仲哀天皇(ちゅうあい天皇)
(在位:289年1月11日〜307年2月6日=18年)
(空位・・・・・1年)
応神天皇の母=神功皇后(じんぐう皇后)
(在位:308年〜357年4月17日=49年)
第15代天皇=応神天皇(おうじん天皇)
(在位:358年1月1日〜378年2月15日=20年)
<生没年201年〜310年没>
第16代天皇=仁徳天皇(にんとく天皇)
(在位:381年1月3日〜424年1月16日=43年)
<生没年257年〜399年没>
第17代天皇=履中天皇(りちゅう天皇)
(在位:425年2月1日〜428年3月15日=2年半)
<生没年319年?〜405年没>
(空位・・・・・1年)
第18代天皇=反正天皇(はんぜい天皇)
(在位:429年1月2日〜431年1月23日=2年)
<生没年336年?〜410年没>
(空位・・・・・2年)
第19代天皇=允恭天皇(いんぎょう天皇)
(在位:433年12月〜454年1月14日=20年半)
<生没年 ?年〜453年没>
第20代天皇=安康天皇(あんこう天皇)
(在位:454年12月14日〜456年8月9日=1年半)
<生没年 ?年生〜456年没>
166 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:59:15
>>161の続き
第10代天皇=崇神天皇(すじん天皇)
(在位:142年1月13日〜175年12月5日=33年)
第11代天皇=垂仁天皇(すいにん天皇)
(在位:176年1月2日〜226年7月14日=50年)
(空位・・・・・1年)
第12代天皇=景行天皇 (けいこう天皇)
(在位:227年7月11日〜257年11月7日=30年)
第13代天皇=成務天皇(せいむ天皇)
(在位:258年1月5日〜288年6月11日=30年)
(空位・・・・・1年)
第14代天皇=仲哀天皇(ちゅうあい天皇)
(在位:289年1月11日〜307年2月6日=18年)
167 :
tr:2006/07/29(土) 13:01:32
強くて優秀な男に導かれることは女の本能だ.
韓国女は日本男をバカにするが
日本女性には韓国の男が偶像だ.
女達の目は正確だ.
日本人は劣等だ.
168 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:11:04
第11代の垂仁天皇の時代=178年頃に、天日矛が日本に来たらしい。
この時点では、まだシラキは倭人が支配していたようだ。
やがて、魏が建国されて、公孫氏の楽浪郡を攻撃した頃から、シラキの政治情勢は不安定化し、
北方のワイ人がシラキに流入し始めたようだ。
3世紀から4世紀初頭にかけて、シラキ領内のワイ人が急増し、
やがてシラキは、ワイ人国家=新羅に変質してしまう。
169 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:14:46
>>167 そんなことはドーでもよろしい(W
重要なのは、日本古代史を研究すればするほど、
日本人と朝鮮人の<無関係性>が明らかになっていくことだ。
朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないことが分かる。
170 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:25:39
第10代天皇=崇神天皇(すじん天皇)
(在位:142年1月13日〜175年12月5日=33年)
第11代天皇=垂仁天皇(すいにん天皇)
(在位:176年1月2日〜226年7月14日=50年)
(空位・・・・・1年)
第11代の垂仁天皇の時代=178年頃に、天日矛が日本に来たらしい。
この時点では、まだシラキは倭人が支配していたようだ。
やがて、魏が建国されて、公孫氏の楽浪郡を攻撃した頃から、シラキの政治情勢は不安定化し、
北方のワイ人がシラキに流入し始めたようだ。
3世紀から4世紀初頭にかけて、シラキ領内のワイ人が急増し、
やがてシラキは、ワイ人国家=新羅に変質してしまう。
171 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 13:28:02
天オタの自作自演の場所なら他にいっぱいあるでしょうに
まじめな議論をしているスレまで学問とは関係ないイデオロギーで荒らすのは止めましょうよ
172 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 14:09:24
173 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 15:15:39
174 :
日本@名無史さん:2006/08/03(木) 20:48:54
175 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 18:01:28
>>174 やっぱり、大和朝廷が百済建国に関与していたか!
176 :
ぴくぽぽでみ:2006/08/10(木) 13:52:28
日本書紀紀年法研究家さん、始めまして。
ネットでいろいろ思いつきを書き込みしている、ぴくぽぽでみと申します。
ちなみに日本書紀の原文はちょっと読めない程度のものです。
よろしくお願いします。
どうも先生は紀年が多系列になっている理由は、その時代の王権の構造に関連すると考えておられるようですね。
つまり、政治軍事外交に実権をもった王と、日嗣の王の二系統があると考えておられるようだと推察します。
実は私もそのような考えに至っています。
理由は記紀の系図に関する考察です。
実は景行天皇の異常な異世代婚について考えて見たのですが、この異常はもしや古い系図を後に改変したせいではないかと気づきました。
そこで、景行伝説の核心部分に当たる系図、オシロワケ、ヲウス、オオウスの三人の婚姻関係に着目して、天皇系図の女性との世代関係を調べてみると、景行の世代を、崇神と同世代とすることで、矛盾がもっとも少なくなることに気がつきました。
それでもハリマノイナビノオホ郎女などとは世代が逆になるのですが、記紀本文に見える、百襲姫を叔母とよび、タケハニヤスを我之庶兄と呼ぶ状況から、7,8,9代の天皇に後の一代追加があることを想定すると、同世代となり問題がなくなります。
そこで、古い記紀の物語では、王統が二系であったとして、それぞれの王統の性格をみてみると、崇神、垂仁は主に祭祀を行い、自らは戦地に赴かず誰かを派遣しますが、景行以下仲哀にいたる系図は、成務を除いて自ら戦地に出かけてゆきます。
成務も景行紀には、自ら警備をした話が出てきます。
このあたり、祭祀を司る王と、軍事を司る王が別であったというふうに思えるんですね。
177 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 20:41:28
>スサノオは、黄泉国に行く前に、姉のアマテラスに別れの挨拶をしようと天上に昇る。
>スサノオが天に昇るとき、海は轟きわたり、山も鳴りひびいた。このあまりの猛々しい登場ぶりに、
>アマテラスは、スサノオが国を奪いに来たのかと男の姿で武装してのぞむ。
★日本神話におけるアマテラスとスサノオの関係★
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/min/1067010993/148-150 古代日本の二大勢力、日向族と出雲族の戦争が、神話に投影されている。
>スサノオの行いがひどかった。
>アマテラスが機殿で神衣を織っているところに、屋根に穴を開けて皮を剥いだ馬を投げ入れるという
>スサノオの暴挙に対し、それまで我慢していたアマテラスもとうとう怒る。
>アマテラスは天の岩屋戸に閉じこもり、世界は暗闇につつまれてしまう。
スサノオが日本神話の中で、アマテラス(日向族の神)を困らせる悪神にされているのは、
この神話を書いた日向族が、ツクヨミのエピソードを、スサノオのエピソードに書き変えた
せいでもあるが、戦勝部族である日向族が、敗戦部族である出雲族の神=スサノオを、
神話の中で意図的に悪役として描いたためである。
アメリカ軍占領下の日本で、日本人を悪者扱いする<歴史教育>が行われたのと同じことである。
日本書紀紀年法研究家さん、質問です。
仮説には反証可能性がないといけないわけですが、
日本書紀紀年法研究家さんはご自分の仮説に対してどのような反証があり得ると想定されていますか?
179 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 13:33:39
>>177 >スサノオが日本神話の中で、アマテラス(日向族の神)を困らせる悪神にされているのは、
>この神話を書いた日向族が、ツクヨミのエピソードを、スサノオのエピソードに書き変えた
>せいでもあるが、戦勝部族である日向族が、敗戦部族である出雲族の神=スサノオを、
>神話の中で意図的に悪役として描いたためである。
>アメリカ軍占領下の日本で、日本人を悪者扱いする<歴史教育>が行われたのと同じことである。
スサノオが高天原で暴れて追放される話と、出雲で八岐大蛇を退治する話は、もともと別個に存在した話だ。
高天原で暴れ回る悪神の話は日向神話であり、出雲でオロチ退治する英雄神スサノオの話は出雲神話である。
そして、オロチ退治する英雄神こそが本来のスサノオの姿であり、この神話は4000年以上前の古代から
出雲に伝承されてきた神話であろう。
一方の、高天原で暴れる悪神スサノオの話は、日向族が創作した神話であり、
日向族がこの神話を作った時代は、日向族が出雲族を征服したBC200年前後であろう。
つまり、オロチを退治する英雄神スサノオの物語のほうが古い神話である。
高天原で暴れて追放された悪神スサノオと、出雲に降りてオロチを退治した英雄神スサノオでは、
とても同じ神とは思えないほど、性格が異なるが、これは別個に存在した出雲神話と日向神話を
強引に一つにしたためである。
八岐大蛇は河の氾濫=洪水を神格化したものだが、この洪水を鎮めるスサノオは「水の神」であり、
水霊(ミヅチ)である。ミヅチは聖なる蛇=龍に通じるから、スサノオという神は、もともと龍神なのだ。
つまり、スサノオの八岐大蛇退治の神話は、龍神がオロチ(愚霊=愚かな悪蛇)を退治する話なのである。
180 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 17:02:25
根拠のない想像を膨らませても虚しいだけ
181 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 17:09:46
人生の最大の幸せは何か?
どうせ、80年もしたら死ぬんだよ。
ならば、人生好き勝手に、若い女でも囲って、
朝昼チンポをしゃぶらせて、濃い精液をドバッとかけようではないか!
所詮、人間は食欲、性欲、睡眠欲だ。
その中でも、性欲だけは人生の勝利者だけに与えられる。
女を自由に弄び、男の願望を全うできる。
つまり、チンポを如何に喜ばせるかが人生の勝負だ。
だから、日々若い女を求め、精液を口の中に注ぎ込め。
それでこそ、生きている証になるというものだ。
182 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/08/24(木) 22:27:12
てst
可哀相なチョン州人
可哀相なチョン州人
錦旗に向かって唾吐くか?朝敵チョン州
朝敵チョン州
悔しかったら靴なめろ。
錦旗に向かって唾吐くか?
185 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 16:28:36
★日本神話と稲作文化は中国南方に起源がある★
【諏訪春雄教授プロジェクト】
『東アジア地域の演劇形成過程の比較研究』
Study of a formative period of the East Asian's drama [Prof. Haruo Suwa]
■学習院大学・人文科学研究所=ホームページ■
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/let/rihum/project_suwa.html 中国の長江中流域で一万年以前に始まった稲作は、長い年月をかけて、
日本などのアジア諸国に伝来した。稲作は、農耕の技術だけが単独に広まったのではなく、
稲作に関わる祭祀も併せて伝来させた。
そうした祭祀の中で、演劇の発生・展開と深く関わったのが来訪神の祭りである。
複数の先祖の神々が、仮面をつけたり、蓑笠を着たりする異装の姿で、子孫の許へ訪れ、
文化を授けた始原の時間を再現する祭りは、稲作の誕生地に始まり、アジア各地に伝わった。
来訪神の祭りは、海を越えて日本にまで到達した。
186 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 01:00:39
>>1がいなくなったみたいだからこのスレ終わりじゃねぇ?
今年度中にもう一度始まるんじゃないかな
「もう一度始まる」って姉妹漫才がか?
190 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 20:28:55
朝鮮には、9世紀以前の古文書がない。
歴史書も無ければ、万葉集のような「歌集」も無いのである。これは実に不思議なことである。
朝鮮人の主張によれば、
「朝鮮(古代では新羅であり、その前身であるワイ州)では、古くから文字文化が栄え、
日本よりも高度な先進文化があった。日本人に文字(漢字)を伝えたのも、我々朝鮮人
(ワイ人)だ」なのだそうだ。
もし、彼らの主張が正しく、朝鮮(ワイ)に文字文化が栄えていたならば、その事実を示す証跡が
あるはずである。
日本においても、中国においても、インドにおいても、またギリシャ・ローマにおいても、
文字文化が栄えた国々では、その事実を示す古文書や石碑などが残っているものである。
ところが、9世紀以前の朝鮮には、文字文化の繁栄を証明する古文書が一つも無いのである。
百済や任那、志羅紀は日本人が建てた国であり、朝鮮(ワイ)とは関係ない。
また、高句麗もフヨ族が建てた国であり、朝鮮人(ワイ族)とは関係ない国である。
けっきょく、朝鮮(ワイ)の文字文化を証明する物は、何も無いのである。
191 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 22:47:40
192 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 22:49:55
>191つづき
B.C130年はさすがに古すぎる気もするが、
中国では夏王朝13世16王⇒殷王朝18世30王で親子相続⇒兄弟相続になった例もあり、
途中で違う一族が政権を奪取したと考えれば可能性もあるのか?
193 :
日本@名無史さん:2006/09/06(水) 20:14:20
初代から16代まで553年、1代平均34.6年間。
これは、相続が末っ子相続、親孫相続を常に行わないと不可能な数字。
いかに非現実的かわかるだろう。
俺の知る限り、世界の王朝で一代の平均年数が長いのは清王朝(在位60年が2人いる)。
12代268年平均22.3年間。このあたりが限界だろう。
わかってくれ!
194 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 15:07:34
★西尾論文、お見事!★
『新しい歴史教科書をつくる会』の設立者の一人であり、
文学博士である西尾幹二氏が、朝鮮民族の性質について鋭い意見を述べているので紹介します。
【外が見えない可哀そうな民族】−西尾幹二氏−月刊誌『正論』より
我々はイスラム教徒が毎日時間がくると一斉に座して、手を前につき、アラーの神に祈りを捧げる風景を見て、
我々とは異なる宗教社会の存在をありありと感じることが少なくないであろう。
しかし、朝鮮半島となると、これは近隣で生活上の見かけも似ているので、我々とは異なる宗教社会が
あそこに存在するとは、なかなかに気がつかない。実は韓国人と韓国社会は、イスラム教とイスラム社会と
同程度か、あるいはそれ以上に、日本からはへだたる異質な社会なのである。
(後略・・・)
【外が見えない可哀そうな民族】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1148778771/76-79
195 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 19:00:43
【国引き神話】
国引きの神話は、出雲国風土記の、意宇郡名伝承『八束水=臣津野命(ヤツカミツオミヅノ命)国引き』として
風土記神話の中でも最長篇で語られている。風土記の記述によると、出雲国はその昔「狭布の稚国」といって、
細く長く未完成の国であったという。
そこで、大水主=臣津野の命(オミヅのミコト)が、出雲は狭い若国であるから、広く継ぎ足そうと言われて、
遠い志羅紀の国の余りを「国来い国来い」と引き寄せたのが杵築の岬で、その時に使われた綱は園の長浜、
そして、引いて来た国を動かないように継ぎ止めた杭が三瓶山(佐比売山)であるという。
その風景は、稲佐の浜から現に見ることが出来る。
出雲国風土記に記されている「志羅紀の余った土地を引き寄せて杵築の岬を造った」という記述が
何を意味しているのかは、一目瞭然である。古代出雲人が、出雲地方だけでなく志羅紀も支配していた、
という事実を示しているのだ。つまり、志羅紀人は出雲人と同族だったという事だ。
志羅紀人(シラキ人)は日本民族だったのである。彼らは朝鮮人ではなかった。この事実を頭に入れて
考えなければ、天日矛(ツヌガアラシト=都怒我阿羅斯等)の日本への亡命、そして、それに続く天日矛の子孫
=神功皇后による<新羅征伐計画>の理由を理解することはできない。神功皇后の<新羅征伐・政策>は、
息子の応神天皇に引き継がれた。なぜ、当時の大和朝廷は、<新羅征伐>を何度も繰り返したのか。
なぜ、それほどまでに『シラキ=志羅紀』にこだわったのか。
理由は明確である。当時の大和朝廷は出雲勢力によって牛耳られていたのであり、彼ら出雲人は、自分たちの領地
である志羅紀を異民族=朝鮮人に奪われたため、失地回復のために<新羅征伐>を断行したのだ。
すなわち、当時の出雲人は、朝鮮人(志羅紀の北方に住んでいたワイ族)と敵対関係にあったということだ。
出雲人は、「シラキは我々の領土だ」という意識があったので、朝鮮人に奪われた<シラキ>を、何が何でも
取り返したかったのである。
196 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 21:27:52
糸冬 了
197 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 01:53:21
何でそんなムチャクチャな記録の仕方をする必要があったの?
つーか、まず聞きたいんだけど、日本書紀が書かれた時点で、舎人親王らの著者は
「今後、日本書紀に記載された時代のことを書いた歴史書は書かれないだろうし、
書かれても、日本書紀以上に信頼されることは絶対にない」っていう確信でもあったの?
日本書紀がそんな出鱈目な年代記録をしていたら、
そういう確信がない限り、せっかく書いた日本書紀が後世、
出鱈目扱いされて無視されると考えるだろ?
それとも、著者は出鱈目扱いされても良かったのか?
今後、日本書紀に記載された時代のことを書いた歴史書がタマタマ無かったコトをいいことに、
ムチャクチャ強引な解釈をしているようにしか見えない。
198 :
197:2006/09/15(金) 01:55:11
>>197 自己レス。下から2行目訂正
× 今後、日本書紀に記載された時代のことを書いた歴史書がタマタマ無かったコトをいいことに、
○ 以降、日本書紀に記載された時代のことを書いた歴史書がタマタマ無かったコトをいいことに、
199 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 20:39:40
韓国人と愚かな日本人学者が『日本書紀』について妄言を宣伝している。
『2ちゃんねる』で見つけた情報である。
【新刊】森博達著(シム・ギョンホ訳)『日本書紀の秘密』(牡牛座)/原著『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』(中公新書)
まず第一に、これは「任那日本府説」などを含む韓日古代史の謎を一挙に明らかにしてくれる本ではない。
題名の「秘密」とは「日本書紀」の内容そのものではなく、それが記された過程、特に誰が書いたのかという謎を指している。
韓・中・日3ヵ国の言語を研究した著者は、それら3ヵ国の言語上の歴史や習慣を比較し、「日本書紀」という森を探検する。
著者はこの研究を通じて、「日本書紀」が2つの部分、すなわち完ぺきな中国式の漢文を駆使した「アルファ群」と、日本式の漢語や
単語選択の誤りが目につく「ベータ群」が混在していることを明らかにした。
そのため、文化背景が異なる複数の著者が執筆を行った可能性が高いと主張する。
著者は中国から渡ってきた学者が執筆したアルファ群(第14〜21巻、第24〜27巻)と、新羅に留学した日本人僧侶が書いた
ベータ群(第1〜13巻、第22〜23巻、第28〜29巻)、そして、どちらにも属さない第30巻に分けられると結論づけている。
これを手がかりに、著者は『日本書紀』が執筆された7世紀末の状況を推理している。
同書は日本で第54回毎日出版文化賞を授賞した。
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/09/03/20060903000001.html
200 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 20:42:52
『日本書紀』より引用− ※『古代史資料』
http://kodaishi-db.hp.infoseek.co.jp/ 天智天皇五年(666)十月・己未《廿六》
◆冬十月甲午朔己未。高麗遣臣乙相奄■等進調。大使臣乙相奄■。副使達相遁。二位玄武若光等。
↑
この記録に注意してほしい。高麗と書いてあるが、この国は高句麗ではなく、百済北部地方=漢城(コマ。狛国)の
ことであろう。若光は高句麗の使者ではなく、狛国の使者なのである。日本書紀の記者は、狛国と高句麗を混同している
のである。この事実は、日本書紀の記者たちが大和人であり、日本国の外に一度も出たことがない人間たちであったことを
示している。彼らは、半島の地理に疎かったのである。だから、百済(クタラ。5世紀まではコマと呼ばれた)と狛(百済北部=コマ)、
高句麗(満州地方の国。コマではない)を混同して、日本書紀を書いているのだ。
古代日本は、百済を通じて高句麗と同盟を結んだが、あくまでも間接的な同盟であり、高句麗との直接的な結びつきは無かった。
高句麗の使節団は古代日本に来なかったし、日本も高句麗に使節団を送っていないのである。
201 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 21:06:44
202 :
サガミハラハラ:2006/10/13(金) 19:01:33
応神紀の原稿を読み直してみた。
どうも、三国史記の年紀は一年ずれているが、応神紀の元の年紀はずれがなかったのではないだろうか。
そのため、紀の編者は諸資料を合致させるために苦心しているようだ。
自分の原稿を読み直してみたが、書いたときは意味がとれていたのだが、
1週間もしてよみなおしたら、判読できなくなった。こまったな。
203 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 20:29:54
新手のあらしかも
204 :
サガミハラハラ:2006/10/13(金) 23:01:28
あれ?私のことご存知ないのですか?
かなりの自惚れやなのですが。
私はよく知っていますよ。
五所川原のご出身で、ウチの近くの相模川のそばの
下九沢にお住まいでしたね。
小城公園に卑弥呼の墓があるとか。
206 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 16:32:20
いろいろ推測して西暦1年即位だと思う
当時の平均寿命は50〜60
辛酉の年
親子関係の継承
神宮皇后が4世紀中ごろ
14代天皇の年齢を当時の1年を2年と考えていた
だから200歳の人はいない
207 :
サガミハラハラ:2006/10/14(土) 22:42:41
出身は青森県の青森市北金沢です。
甲田小学校卒業、甲田中学校卒業、青森高校卒業、弘前大学教育学部卒業。
神奈川県相模原市小学校教員。2000年4月病気のため中途退職です。
208 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 00:37:14
神宮皇后?
209 :
唐松山:2006/10/17(火) 19:01:31
日本書紀の年号は ホツマ伝のアスス暦を単純に直訳したもの
アスス暦の干支の計算式を発表
ジャーン
=CHOOSE(MOD((B3+49),10)+2," ","き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")
&CHOOSE(MOD((B3+51),12)+2," ","あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","ウエ","ウト")
B3欄に入力された数字を干支(キアエ以下)に直します。
11,12年目 不明です正しい干支がわかりましたら訂正したい
たぶん 11,12年は、うるう年 1ヶ月が1年
よって 単純に現在の年号に合わせるだけなら
アスス暦 12割る5 =現在暦 これでどうでしょう。
210 :
唐松山:2006/10/17(火) 20:07:28
早速 訂正
アスス暦 5割る12= 現在暦
式の中の ウエとウトを ”のメ”と”のネ”に直してください。
意味はありません(わからないという事では同じ)
211 :
唐松山:2006/10/17(火) 20:14:19
ほつまは後世に書かれた物
213 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 20:46:19
そうだな、唐土のことを支那って書いてあるし
214 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 22:24:09
とこで太国は自説を潰されてGIVE UPか?
215 :
太国:2006/10/18(水) 22:29:30
ここには書きこまないぞ。あの婆あは礼儀知らずだからだ。
これはその説明だから、やむを得ず書きこんだがね。
216 :
サガミハラハラ:2006/10/18(水) 23:19:30
日本書紀中の春夏秋冬の季語であるが、1年を春の年と秋の年として記録していたグループと、冬の年、夏の年と記録していたグループがあったのではないだろうか?
217 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 23:41:04
暦が混在していた可能性はある。
古事記と書紀を比較すれば、古事記は1年暦と半年暦が混在している事が判る。
218 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:32:16
>>215 プ…
研究家さんにはかなわないので
逃げ出したくせにw
219 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 13:21:44
『古代の日朝関係と日本書紀』 笠井倭人
紀年論語るならこれくらい読まないと駄目だろ
220 :
唐松山:2006/11/03(金) 14:58:18
記紀およびアスス歴の読み方
2倍歴は、無理がありましたので‘増し‘で考えました。
天皇に成った時、治世中、死亡時、とありますが、とりあえず‘前‘と‘後‘で表示します。
安寧と懿徳 15年、15年
孝昭 15年、40年
孝安、から崇神まで 30年、40年
垂仁 30年、45年
景行 45年 ?ねん
この‘増し‘の40年は 60歳(天皇となった時の‘増し‘も含む)を100と数えた為30年が40年となる。
そしてこの30年は、次の天皇の実年齢に加算される。景行の加算は45が正しい?
表 にしたのですがうまく張り付かないので。...。
妃等の年齢と比較してください。 例外子供の歳 そうでないと31歳の乳飲み子。
これで、神武1年から景行が天皇になるまで335年位。
221 :
サガミハラハラ:2006/11/03(金) 16:36:35
百済阿シン王は応神3年に即位したとの説があります。そしてこれは三国史記の記事から西暦392年のことであるとされます。
の日本書紀には、三年冬十月三日の記事のあとに、「この年百済の----。それで百済国は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰らは阿花を立てて王として帰ってきた。」
とある。
三国史記と全く食い違うのであるが、百済は高句麗に攻められ辰斯王は戦死。阿シンが後をついだが、その季節は秋遅く、または冬の初めであった。
ところが書紀では、王に立てて帰ってきた。とある。
となると、阿シン王の秋遅くの即位は動かないので紀らの件は春のことと考えられる。(紀らが到着したときには全ては終わっていたと考えられる。よって紀らの報告は虚偽である)
となると書紀の記事は392年の春のこととなる。
となると、阿シン王の即位は391年の秋のこととなる。これでは困るようであるが、実は、三国史記の年代は1年ずれているのである。
だから、阿シン王の即位は本当は391年秋のことである。
となると、紀らの百済の話は392年春のことであうことになる。
となると、日本書紀の紀年は三国史記のような1年のズレはないことになる。
よって応神3年は392年春年となる。
と考えましたがいかがでしょうか。
222 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 23:42:14
>>220 気になるので上手く表にして欲しい
出来ないなら分かりやすく教えてください
223 :
唐松山:2006/11/04(土) 10:22:08
表です 生んだ年、太子を立てた年は計算上です。
治世 太子に成、天君成、太子産む迄、産だ歳、立太子、 死亡
崇神 68年間 19才 52歳 28年間、 80才 101才 119才
‘‘‘‘‘27年間、、、‘‘‘、、22才、 18年間 40才 61才 49才 天君に成った時の増し30、 死亡時40
垂仁 99年間 21才 42才 17年間 59才 59才 140才
‘‘‘‘‘58年間、、、‘‘‘‘ 12才、 7年間、 19才 59才 70才 同上30 同上 45
景行 60年間 40才 81才、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、137才 同上45 同上 30
‘‘‘‘‘26年間 ‘‘‘ 36才 5、、、、、、41、、、、、、、62才
224 :
唐松山:2006/11/04(土) 11:01:56
訂正
垂仁が太子を立てたのは、99歳のときです。
スイニン死亡65才 景行死亡52才
太子を立てて、程なく死亡このつもりで‘増し‘の数を決めました、。
妃の出産年齢等の整合性も...
最大の問題 この‘増し‘を実際の年表のどこに置くか?です。
225 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 20:50:21
ここの研究家というのは引退したのか?
226 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 10:26:20
歴史研究において留意すべき点
・説と結論の混同
・化学のように再現実験で事実を確かめられない事
・主観が入り込みやすい
227 :
唐松山:2006/11/05(日) 13:05:42
ホ15160 クニおさむ ワレみるススキ チヱヨタビ わがミもコトシ フソヨヨロ いまたさかりの
カキツハタ のちモモヨロを ふるもしる
国治、、、、、稲穂、、、、、4年目、、、、今年、24歳、今だ盛りの初夏、、、、、、、、、、、、、、、、、、百、万、は振り
ホ18059 ムソトシの ズはヱもムモに ソヱタをゑ ムヨトシチヱに つきかるゝ うえつぎヰモの のちのハツ ヰモツギアマの
マサカキを キミのミワザと もろともに マサカキフソの あまるコロ
うえつぎヰモ これが‘盛り‘、、、、マサカキ20の アマル頃‘‘‘40年は、盛り
こんな読み方は、間違い?邪道?
正しい読み方を教えていただければ、幸と もうひとつ 書記に出てくる‘是歳哉‘特に日本武の記事の近くにあるヤツ
228 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/07(火) 05:43:43
ちょっと閃きました
>>56-57の絡みですが
185=37*5
481=37*13
と整理出来ますね
んでは
19*7=133
15*4=60
17*4=68
11*9=99
11*11=121
こう考えると欽明以降の133も狙ったんでしょうか
19と17と11は6代までにも使われてますね
230 :
唐松山:2006/11/07(火) 18:00:21
掛け算でみたとき 妃11才...どうすんの? もう少し‘増し‘な考えない?
ホ16158 ヱナのめくりも なそらえて やがてうまれん オオンカミ コソムツキます このコヤネ モモツキませり タチカラオ ミソムツキます
ホ16163 サルタヒコ ソムトシをれど これはまれ
サルタヒコが 胎児のときに 代代り、15年の‘増し‘
ホ16096 ハラヲビのヰモ つゝしみよ アモトにまねく アラミタマ
芋の食いすぎ注意 でなく
アモトに招く アモト<=暦60年 と看みると
「60年の‘増し‘はないだろう 新天皇よ」と たたねこが 憤慨している。
ホ40390 ときアスス ヤホヨソミホの
ホ40391 アキアメカ これたてまつる
秋アメカ=天かわる=景行の死...843年 書記では、この5年後が代がわり
そうすると843年は、 ‘増し‘のなかの年であり 虚 たたねこ やってくれるねー
ホ00099 オオカシマ フモヨソナトシ 247歳 人間の年にしたい。
231 :
サガミハラハラ:2006/11/07(火) 19:03:22
232 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 23:26:49
>>231 スレ立て人の「日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCkさん」の事。
あなた自意識過剰?
233 :
サガミハラハラ:2006/11/08(水) 19:16:44
>>232 そうです。私は紀年論に関しては、日本随一であると自負しております。
景行帝即位年から雄略の貢献年までの紀年を算出することに成功しました。
これは、日本古代史研究上の歴史に残る快挙です。
234 :
サガミハラハラ:2006/11/08(水) 19:21:52
上のように書くと、自意識過剰ですという風にとられるな。
相模原(下九沢)の恥にならないようにおながいします。
236 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/08(水) 21:31:16
>>233 算出値と算出方法とそれが正しい根拠をどうぞ
237 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 12:33:33
てst
y=3x-830
239 :
サガミハラハラ:2006/11/10(金) 14:36:49
話せば長いことになるので、この件については、来春出版の予定ですので、それをお読みください。
240 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/10(金) 20:00:30
そうですか、仕方ありませんね
では、
>>238のy=3x-830の件の続きを始めたいと思います。
前スレの795で書いたy=3x-833を修正して
崇神天皇の実年代崩御年を268年にした場合を基準にせず
崇拝十年を247年に設定してみました
そうすると後漢書の
>建武中元二年(BC57)倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
が、日本書紀の#01神武天皇治世元年のBC660と完全に一致します
更に、
>安帝永初元年(BC107)倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
が日本書紀の#04懿徳天皇治世年BC510と完全に一致します
241 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/10(金) 20:21:34
それと、
>>56-57でも指摘しましたが
神武治世元年から懿徳治世末年の翌年の空位までを足すと185年、
孝昭と孝安の治世年間を足すと185年、
つまり185年の両者はペアで日本書紀で設定されて居ます
この事と先ほどの事からこう云う仮説が成り立ちます
日本書紀作成企画段階では当初、
建武中元二年を想定する初代神武天皇と、現四代目の孝昭天皇の間には、
安帝永初元記事を想定する1人の天皇しか想定していなかった。
それで両者は当初、二代で185年ずつだったが
なんらかの事情で安帝永初元記事に対応する天皇を分割する事で、代数を二つ増やした。
如何でしょうか?
242 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/10(金) 21:11:26
スイマセン、
>>241の訂正です
×現四代目の孝昭天皇の間には、
○現五代目の孝昭天皇の間には、
んでは、続きを
―――――――――――
勿論日本書紀等の天皇系図を重視するなら、神武即位年は
より一層BC60やAD1年付近に持って来る方が適切になって来ます。
しかし、前にも系図の不整合に付いて、
>>117で少しだけ触れましたが、
確か勘注系図などと、天皇系図との世代不整合から、天皇系図の側の、
2〜4代の内2代ほどの天皇を親子関係ではなくて兄弟関係にする考えが存在します。
しかし、もともと1人だったのを3人に分割したと考えれば、
綏靖、安寧、懿徳は3人で1人の合成天皇を想定するのが適切かもしれないです
そこで当初案を想定すると、神武天皇治世年間に生まれて立太子する筈の
現・綏靖天皇の生年と立太子年をそのまま使って、
現・懿徳天皇末年の日本書紀BC477まで寿命までの天皇を想定して居たかもしれないです。
現日本書紀の元案段階では。
そう考えると、現日本書紀と勘注系図などはどちらが早く出来たのでしょうか?
先行していたのはどちらでしょうか?
243 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/10(金) 22:18:54
んー、元から1人だったのを
107年に合わせて元年になる天皇を新たに作った
こうのもいけますね
244 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 18:22:20
征東大将軍さん
崇神末を268年にもってくる理由はなぜですか?
245 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/12(日) 17:20:43
先ず訂正から
>>240は、BCじゃなくてADですね。私がコピペに手入力した時に間違いました。
>>243は、こう云うのもいけますね。です。
では、本題
>>244 古事記没年干支に関する先行理論があるのですが
前スレ以前での私が考えていたのは、古事記没年干支年の設定については、
古事記の15箇所の没年干支年に全てに措いて、こう云う事が全て成り立つんじゃないかと
古事記天皇没年干支年 ≦ 実年代天皇崩御年
これを前スレの時点でその仮説を進めて、更に条件を限定的な範囲にする為に
古事記天皇没年干支年 ≦ 実年代天皇崩御年 ≦ 古事記天皇没年干支年+10年
とすべきじゃないかと思って、違法な手を排除しようと試した結果の産物な訳です
おっ!?+10年で268年で計算すると、248年と崇神十年が合うじゃないか!?、と
が、
>>240等で書いた様に、
新しい説の方が日本書紀の設計思想としては、より相応しいと思います
因みに新しい方では実年代崇神崩御設定年は267年に成りますね
246 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/12(日) 17:53:07
それから、サガミハラハラさんが、
古事記干支二倍年暦でしたか
そう云う事で本を出されるようですのでそれに関して
「古事記・日本書紀」総合スレの方に、サガミハラハラさんは
垂仁天皇の崩年は314年で確定だと書いて居られるので
以前に2倍年暦スレで書かれた内容と大きく変わってないと思うので
触れておきます
先ず、『住吉大社神代紀』に「崇神天皇没年戊寅の年、在位年数六十八年・
垂仁天皇没年辛未の年、在位年数五十三年」という記事があるそうです
古事記干支二倍年暦では、30年に60干支が一巡します
古事記崇神没年干支年は、258年戊寅なので、基準年を設定して
一年に二干支ずつ配布します。
すると、二巡目の辛未が314.5に成ります、314年の後半と云う意味です。
本来はここで行詰まりそうですがココからが面白いです。
新たに別の基準点を設定する二倍干支年暦を
想定する事でこれを解消しています。
247 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/12(日) 20:28:07
>崇神天皇没年戊寅の年、在位年数六十八年・
これは日本書紀そのままの値で
>垂仁天皇没年辛未の年、在位年数五十三年」
これは日本書紀が99年と設定されてるのに53年あると云う意味にとって
水増し分が46年分あると云う意味にも解釈すると
丁度治世40年〜86年の47年分の空白が飛ばす根拠に使えそうな感じですね
248 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 02:14:33
質問ですが白川旧時記は飛鳥に書かれたとする説はなぜですか?
249 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/13(月) 05:35:29
250 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 07:37:02
251 :
唐松山:2006/11/13(月) 10:45:35
ほつま でみた 各天皇の治世年数と 増し
立太子を以って世代交代(基本)とみる。、
‘増し‘は 前、中、後、と 三つに分けました。
前 は 太子から天皇に成ったとき、
中 は 任期中(太子に引き継がれるときと、引き継がれないときがあります。)
後 は 太子を立てて死亡するまで(次の太子が天皇となって新しい暦を立てた前年)
天皇 治世 前 中 後
綏靖 20年間 35 0 12
安寧 12年間 12 0 25
懿徳 9年間 25 12 12
孝昭 12年間 12 40 18 孝昭は懿徳の子供ではない。
孝安 31年間 22 45 26
孝霊 27年間 26 8 30
孝元 25年間 38 0 32
開化 27年間 32 0 33
崇神 32年間 33 20 15
垂仁 27年間 28 30 41
景行 26年間 60 ? ?
崇神から景行の時代を生き延びた たたねこ 85才以上 もう少し。
懿徳、孝昭 でみると、
懿徳 立太子8才 就任11才 死亡20才
孝昭 立太子18才 就任19才 孝安誕生23才 死亡43才
こんな結果になります。
252 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 14:49:06
継体が28年間の場合
開化宝算63歳に対応する件について
254 :
唐松山:2006/11/14(火) 18:34:49
ほつまつたえ
異書 として無視するほど悪書とは、思えません。 記紀に無いデーターも沢山ありますし...
特に 暦 に関しては、無視すべきではないと思います。
アスス暦 キツオサネ アミヤシナウ 酒 作 御 種 天養う の農事暦ですが、きつね=稲作 のもとですから
しかも 記紀とかなり合致する。 そして暦には、`増し`があると 書かれています。
もう一度 増し を説明します
孝安 のところで
成太子から成天皇迄が`増し前‘...`増し中`...立太子から死亡迄が`増し後‘
書記の年数で(ほつま 中間1年の誤差 たぶん私の算数が間違っている!!)
治世 成太子 成天皇 <間> 世継誕生 立太子 死亡
102年 20才 35才 49年間 84才 111才 137才 これから`前14` ‘中40‘ ‘後26‘ を引く
36年 20才 21才 9年間 30才 55才 55才 次の太子26才
<間>の増し 40としましたが、妥当かどうか? という事です。
255 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 22:44:00
ほつまは西太ごう?だったかな
日本に来た発言があるけど
それは中国の資料を読んで付け加えたんじゃない?
256 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/14(火) 23:57:46
>>250 イエイエ、そう云う「素材」を根拠にしてると云うような意味です
まぁ、日本書紀の設計は依存関係がありますから
白河本が日本書紀の設計方針を知らずに、、
日本書紀を見ならがら、書紀に欠ける所を勝手にでっち上げたのか
共通資料から忠実に計算してるかは、
将来的に白か黒かがハッキリする類の事じゃないですかね。
それまでは偽物なんて簡単に言って切って棄てるのは時期尚早でしょう
未だ嘗て、そう云う計算に基づいた研究はされてないんですから
天皇系図と諸豪族との世代数の不一致や、
十巻本の記紀と異なる記述の側に信憑性がある事だって、
>>57や
>>240-242で計算上の根拠が与えられて初めて
現日本書紀の側から、客観的に裏付けられたと言えるんじゃないでしょうか
(本当に合ってるとしたら)
偽書、偽物のちゃんとした定義をどうするかは知りませんが、
その部分に関しては日本書紀は、後付けの偽物を公式にしてると言えるかもしれないです
まぁ、日本書紀が公式なんだから、他の側が全部間違ってて、日本書紀が正しいんだとか
そもそも、他の部分も全部、適当なんだから全部偽物だとか、イロイロ言えますが
真書、偽書が、本の解く本編の内容ではなく、成立由緒と成立年代の正しさによるなら、
諸本に偽書と呼べるものが拓さんあるでしょうが、個々の内容の信憑性は、それとは独立した問題でしょう
そのぐらいストライクゾーンは広く行きたいです
その方が、横に広く繋がれそうですしね
因みに
>>211のサイトだって実年代の年代観は殆ど違わないですね
257 :
唐松山:2006/11/15(水) 21:44:15
正しい 暦 の読み方
今後 正しい暦の回し が出てくる可能性は、ほとんど無いと思います。
理由 当時 暦は 天皇以下一部の秘匿事項 であった。
なぜならば 当時 この特権階級は、種と共に作事暦を作って 民に貸し与える。
その 揚がり で営まれていたからです。
1年が365日であることが、知れ渡ってしまえば、この制度が行き詰まってしまうから
‘増し‘ をいれて(なるべく複雑に)防止した
もし暦が盗まれれば
ホ28407 ナガスネヒコはそのクラを ひそかにあけてうつしとる
ホ29043 シホツチノ オキナすゝめてニギハヤか いかんぞゆきてむけさらん
こんな結果になります。
景行の頃から1年が365日であることが知れ渡る (2種類の暦)
だから 屯荘が営まれるようになる。
こうゆう事だと思うのですが如何でしょう。
258 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 08:20:18
西王母ウケステメ、ニシノハハカミ)が来て、菊桐姫(天照大御神の父イザナギ尊の姉か妹
又はイザナギ尊の親の世代のもよう)と会って「神仙の秘法」を授けたら喜んで帰った
また西王母は少なくとももう1回来て、仁々気根尊に山巡りでも斜めにならない輿を
奉ったので、お返しに三千実(ミチミ)の桃を賜ったら国苞(クニツト、みやげ
)にして持ち帰った。
2.驚嘆!中国の古文献と符合。
中国の古文献の幾つか(補足2参照)には、西王母が前漢の武帝(在位BC140-BC87)に
たいして三千年にいちど実が成る桃をあげたとあります。
西王母は一般には支那伝説中の仮想的人物とされていますが、
1.ホツマ伝の記録とは対応しています
http://www.k3.dion.ne.jp/~yamas/kodaiy2k/hotumika/shinsyo.htm 当時、日本にそんな簡単に移動できるはずがない
これは江戸時代に中国の文敵を読んで付け加えたんだろ
259 :
唐松山:2006/11/17(金) 19:37:20
江戸時代ですか
ホ07067 シラヤマカミぞ イサナキは
これは コエネのクニ ネ=北です の白山 白頭山
私は上記の時の事だと思って思っていました
でも
伊勢国風土記 より
「逆ふる黨(ともがら)、膽駒(いこま)の長髓(ながすね)を早く征ち罰(きた)めよ」とのりたまひ
(今井似閑採択)
こんな所にも気を使い
イリヒコ の秘密も 挙げ
すごいですね。 でもこんなのは、まだ序の口
これをあげてほしかった。
景行の時代=九州女王国の衰退とその死
14才イヨの 事とか...
>>259 景行の時に九州制覇はほぼ一致してるな
ん?結構あってる?
261 :
唐松山:2006/11/18(土) 19:31:50
外見は、おおむね同じなのですが、叛いた連中
クマソは、 次いで ウサ のミミタレ や クロマロ
名前だけで どういう立場の人間か おおむね見当が、付くでしょう。
262 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/19(日) 00:25:39
讖緯説でBC660年を書紀の紀元にしたから、
そこを倭の年譜が打ってる最も古い記事のAD57年の建武中元二年にしたって事か
最初に等倍暦で作ってる事を前提にするなら、逆に考えて
等倍AD57を、三倍BC660にしたって事か
それと、AD266年が崇神六十五年記事になるよね
外交記事で合わせたのか
諡号も旨くいく
263 :
サガミハラハラ:2006/11/19(日) 19:01:15
百済武寧王の生年が461年であることから、安康天皇の即位年が459年の秋であることがわかった。
461年の武寧王生年が雄略5年であるから、雄略元年は459年秋(安康と同じ)であっておかしくない。
なお雄略元年から5年までは、2倍年暦である。
264 :
サガミハラハラ:2006/11/19(日) 19:02:27
百済武寧王の生年が461年であることから、安康天皇の即位年が459年の秋であることがわかった。
461年の武寧王生年が雄略5年であるから、雄略元年は459年秋(安康と同じ)であっておかしくない。
なお雄略元年から5年までは、2倍年暦である。
なんじゃこのスレは・・・!
気違いのはきだめみたいなスレだな
266 :
サガミハラハラ:2006/11/19(日) 21:59:11
やっぱ、説明なしだと意味不明ととられますね。
しかし説明すると本一冊分ぐらいかかってしまうし、困ったね。
267 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/19(日) 23:49:57
データが飛んでしまったので今直ぐは無理ですが
サミハラハラさんの説は本が出る前に解る範囲で私が解りやすく解説します
御本人にはそれから解説して貰いましょう
ただ、倭の五王の時代は、干支を無視してるぽかったですが、
V類とかだったんでしょうか
268 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/19(日) 23:50:42
おっと失礼、
サガミハラハラさんですね
269 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 00:06:38
↑こいつ、ニートだぜ
270 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 00:22:32
説明されればされるほどサッパリ解らない件に付いて
紀年論って、少なくとも崇神以降の各天皇の実在を
認めないと意味ないですよね。
逆にいえば、崇神以降の王統譜の正当性を語るためには
紀年論をクリアする必要がある。
景行も応神も後世の造作だという立場にたてば
むずかしい数の操作は必要ない。
頭悪いのでどうも造作論にひかれてしまう
272 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 03:28:17
応神天皇は百済の王と同じ即位だから391年と考えていいんですね?
273 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 06:07:08
まきむく遺跡が大和王朝だから
九州の邪馬台国と別物となんで考えないのかね
274 :
サガミハラハラ:2006/11/20(月) 08:03:44
百済阿シン王の即位は三国史記では392年とされています。しかし三国史記のこのあたりの年代は正規の年代より、1年ずれているといわれています。
例えば、好太王碑文では好太王即位は391年となっていますが、三国史記では392年となっています。そうすると、阿シン王即位も1年ずれて、391年即位となります。
日本書紀では、応神天皇3年に阿シン王の記事があります。
神功皇后摂政元年を356年秋としますと、応神三年は392年春年となります。しかし阿シン王の即位は秋遅くです。一方の紀の記事は春で、紀角スクネらが、阿シン王を位につけて帰ってきたとあります。
となると、スクネ等が帰ってきたのは392年春で、阿シン王が位についたのはその前年の391年秋となります。
紀には三国史記のようなズレはなかったことになります。
応神元年は391年です。
275 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 12:30:00
何を根拠に、一箇所一年ズレているから全ての年代が一年ズレると断言できるんだ?
そこだけ間違えたという可能性は無いのか?
276 :
サガミハラハラ:2006/11/20(月) 16:03:10
一年のズレはわたしは二ヶ所(碑文と阿シン王即位年)あげていますが、あなたは正しいということを何箇所あげれますか。
4〜5世紀でお願いします。
277 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 18:54:08
神功皇后は356年でいいの?
夫が早くに死んだのは間違いないと思う
妊娠してる時の369年三韓成敗だよね?
278 :
サガミハラハラ:2006/11/20(月) 19:08:50
夫の仲哀天皇は355年春年になくなっています。
355年秋年に新羅遠征を行っています。
356年春年に東征を開始、明石の海戦と逢坂の戦いにて忍熊王軍を破り、
356年秋年に摂政の位に着き、政権を掌握しております。宮処は稚桜宮です。(住吉大社神代記では最初は橿原となっています)
279 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 20:27:30
>>278 それじゃ近畿地方は敵勢力だったんですか?
280 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 21:28:35
二倍年暦スレが沈んで基地外が去ったかと思ったら、ここでまた基地外の独り言が始まってるよw
281 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 21:52:20
>>280 具体的に何がキチガいか説明しないとただの基地外だよ
282 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 22:35:26
研究家さんに帰って来てもらって、
ここらへんの連中を蹴散らせてもらいたいと思う。
283 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/20(月) 23:06:56
生年
神武031 57年倭奴国
┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
綏靖061 安寧061+ 懿徳061++ 107年倭國王帥升等
┏━━━━━━━┛
孝昭091
┃
孝安121
┃
孝霊151
┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
孝元181 開化181+ 倭迹迹日百襲姫181++ 卑弥呼遣使239
┏━━━━━━━┛
崇神211 崇神十年箸墓/卑弥呼死247.67
>>116を改良して綏靖、安寧、懿徳を一世代、孝元、開化を一世代に改良。崇神の父は開化のままとした。
これで四道将軍も二世代に収まるし、
倭迹迹日百襲姫が孝霊の娘で崇神の姑と云う条件も満たせてる。
これで神武即位57年と懿徳即位107年の設定に無理が無い。
でも神武なんかの即位時の年齢を考えれば、あと10年生年を前倒しした方がリアルかもしれない
倭迹迹日百襲姫が10年前倒して171年生まれだとすれば、霊帝光和年間後の185年で15歳、
台与が13歳で王になったと云う記述からも、年齢上問題は無いと思う。200年頃でも20歳か
倭迹迹日百襲姫が247年死亡で享年76歳。
これが長寿過ぎると云うなら、卑弥呼が共立された時の年齢は台与よりもずっと幼い。
或いは、大乱が終結して女王になる時期まで、割と年月が経過するのか
どうだろう
284 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 00:34:52
>>278 書紀の紀年を絶対としているようだけど、『帝紀』を元にした『上宮聖徳法王帝説』
の欽明の在位41年が、書紀の32年と食い違うのはどう説明するの?
285 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 00:46:31
57年倭奴国は大和朝廷じゃない違う国でしょ
286 :
サガミハラハラ:2006/11/21(火) 07:20:07
>>279仲哀天皇が九州に熊襲征伐に行ったとき、都の高穴穂宮には正妃とその子
カゴサカ王と忍熊王がのこっていました。皇后は子のホムタワケを皇位につけるために、彼らを排除したのです。
287 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 22:36:21
神武ースイゼイ
|
安寧ーイトク
|
|ー孝昭ー孝安―――|
| | |
| 孝霊ー孝元 |
| | |
| モモソー開化――| 崇神ー垂仁ー香坂
景行ー成務ー仲哀=神功 |
| クワイリスキ
応神
288 :
唐松山:2006/11/22(水) 19:22:28
垂仁天皇と景行天皇 の世継ぎ のときの ‘増し‘
ホ37191 コソホキサラギ ミコトのり カグをもとめに タジマモリ トコヨにゆけよ わがをもふ クニトコタチの ミヨのハナ
ホ37195 コソコホサシヱホ アフミハヒ キミまかるトシ モモミソナ
ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ
ホ37212 ...トトセぶり...
ホ38005 うけつぎて イムナタリヒコ オシロワケ アメスメラギの トシヤソヒ ...ミカザリを タミにをかませ
ワカミヤの ハツコヨミなる フホヤヨヒ キビツヒコがメ たつキサキ
垂仁90年夏6月(秋 会稽で開かれる市)に出発した タジマモリ 約10ヶ月後 翌年3月に戻ってみると 景行2年に成っていました。
暦では 10年ぶり... トコヨの暦は皇帝が変わっても変わらないのに 我が暦は...
たたねこ 本当の暦を知る。
289 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 20:13:14
ウラシマは3ヶ月後日本に還って来ると、100年の年月が経っていました土佐
290 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 20:49:34
日本は百済の後裔。
ゆえに、百済滅亡の西暦660年をイエスが厩(=聖徳太子のモデル9で誕生した年から鏡向けに反転させた
西暦紀元前660年が神武即位になったというわけさッ!
291 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:06:46
結局、古代史なんて証拠物件がすくなすぎるので何とでも言えるんだよね!
糸冬 了
292 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:09:04
俺の友達に昔、日本書記は、日本の書記長が書いた。
すなわち当時の日本は共産主義だったと言ってる奴がいた。
293 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 21:10:52
そして、古事記は、資本主義の最底の奴が書いたと言っていた。
すなわち乞食が……
294 :
太国:2006/11/22(水) 22:03:33
>>292 プッw
そんじゃぁ、古事記は乞食が書いたのか〜?wwwww
295 :
太国:2006/11/22(水) 22:10:12
>>289 超古代(神武よりずっとずっと以前)の1年は今の1日だったかもしれんぞ?
そうなると浦島太郎のその件は合っていることとなる。3ヶ月だと90余日だから
90余年に相当して100年に近い。つまり可能性がありうるということだ。
365日分が現今の1日だな。 以前は1$が360円だったが今は200円台かな?
296 :
太国:2006/11/22(水) 22:11:21
いけない、このスレは書きこみ止めてたんだっけ。オサラバ。
298 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 22:40:25
200円台なんてプラザ合意の前の噺だぜ
299 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/23(木) 00:34:29
倭奴国が筑紫だろうと、大和だろうと
57年を神武即位年に設定して書かれてたんじゃないかと云う事です
それと、実際計算したら
>>283で書いたのと違って、
全体に10年前倒しじゃなくて、全体に10年手前に来ますね
300 :
唐松山:2006/11/25(土) 10:30:24
倭迹迹日百襲姫
ホド を突いて死ぬ
これって 堕胎に失敗して死んだ。 でしょ。
もし 崇神 の時代なら
おおものぬし(たたねこの親父か) と 結婚
孝安のむすめ ヤマトモモソヒメ とっくの昔から婆さん
孝元のむすめ トトヒメ とうの経ったおばさん(出産可かも)
301 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 11:32:14
モモソは7代孝霊の娘。
よって7代、8代は同世代
9代、10代は同世代
302 :
唐松山:2006/11/25(土) 12:50:03
親子を 同世代 とは 言わんでしょう。
5代 考昭 治世24年間 死亡47才
6代 31年間 48才
7代 23年間 50才
8代 17年間 47才
9代 24年間 42才
10代 崇神 24年間 44才
11代 27年間 49才
12代 景行 28年間 49才
景行 28年春は、同40年秋になります。
もし 同世代なら どんな年齢になるんですか?
303 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/25(土) 13:12:28
唐松山さんだって、孝昭は懿徳の子供ではない。とまで認めて居る訳じゃないですか
実は7代〜10代までで、その内少なくとも一代は親子関係じゃないと考えるのが相当です
そうすると世代モデルがピッタリ合います
綏靖、安寧、懿徳を一世代に扱うだけでは
世代モデルが合わないのです
304 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 13:38:47
>>301 在位60年以上の大王は干支周期を間違えたとして60年短縮して下さい。
更に、1年を2年として記録していたとして年数を半分にしてください。
すると前王と15歳未満の年齢差は親子関係ではないことが分り、
第一世代 神武、スイゼイ
第二世代 安寧、イトク
第三世代 孝昭、孝安
第四世代 孝霊、孝元
第五世代 開化、崇神
となります。こうすると色々な矛盾が解決します。
このスレ読んでると昔の日本の知識人って、年もろくに数えれないようなドアホウ揃いに思えてきますね。
アホウが無い知恵絞って年代をいじくり回して出来たのが「書紀」ってわけですか?
306 :
唐松山:2006/11/25(土) 18:06:51
100歩ゆづって
2年続けて同じ季節が出てきたら 間違いとしても
妃 11才から15才 この年齢を半分にすることは、 不可能
書記の 是年哉 (総て 掲載されているわけではないが) ‘増し‘と考えたほうが合理的
浦島太郎 の 物語は、‘増し‘の 話 倍歴では、無理
倭武 の話を 景行28年春=同40年秋 として 読み直してみてください
春九州から帰る 休むほど無く 関東下向 話の内容とっぴたり。
307 :
唐松山:2006/11/25(土) 18:26:45
オオウスが 尾張に出向く (10才は間違い)可
倭武26才 熊襲武と力比べ(女装のだまし討ちでなく)
春九州から帰る 休むほど無く 関東下向 話の内容とっぴたり。
ついでに 景行 の年齢
天皇即位 21才 子作り>九州>倭武死亡>関東下向
死亡49才 総てクリア
308 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/25(土) 18:33:03
そうですね、各天皇の記事の空年がバースト的に開くので
元年と没年以外ではそう云う事も考えないといけないですね
元々等倍で作ってた物を、引き伸ばし作業の後に、
元記事を分断した物を前半から順に貼り付ける部分と、
大量の空年を挟んでその後の部分に貼り付けた部分とになったとか
309 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/25(土) 18:45:53
じゃあ崇神48、60、62、65、68
これを18、19、20、21、22にしましょうか
そうすると書紀の治世68を/3で22.67なので
これが他にも使えるなら合法手ですね
310 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/25(土) 20:54:37
それとも単に30年増しとかでスッキリして良いんでしょうか
311 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 00:28:35
俺は1世25年と考えて
西暦1年即位です
312 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/26(日) 06:29:09
閃いた
治世元年記事からは引き伸ばす前の等倍年譜をそのまま使い、
次にバースト的なインターバルがある記事からはn倍年譜のを貼り付けてるんじゃない?
日本書紀崇神元年がAD-96、末年がAD-29
これをY=3X-830で算出すると
実年代X 元年 244.67/元年267.00
三倍年譜で算出した
日本書紀崇神治世元年(AD-96年)が実年代で西暦244.67年になる
ここを起点に等倍年譜ままを使って記述しているとすると、
日本書紀崇神治世17年(AD-80年)は実年代西暦260.67年
バースト空年後はn倍年譜で、崇神のこの場合はそのまま3倍と設定とすると
日本書紀崇神治世48年(AD-49年)は実年代西暦260.33年
日本書紀崇神治世68年(AD-29年)は実年代西暦267.00年
こう考えれば治世17年と治世48年を同一年代と見る数式上の根拠ができ
且つ治世年間中のバースト空年が説明できる
これで行くと17年までは引き伸ばし前の等倍年譜、それ以降は48年〜68年までは各1/3
で治世トータルは68/3の22.67のまま
崇神以外の区間では、3倍だけ、3倍と2倍だけ、2倍だけ、2倍と等倍、等倍だけ、こう云う組合せが考えられる
だから単に、増し+何年とかじゃない筈
接続年で日付が前後してるし、この仮説が正しいかどうかはこれから検証
313 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/11/26(日) 06:32:06
訂正
誤:実年代X 元年 244.67/元年267.00
正:実年代X 元年 244.67/末年267.00
314 :
唐松山:2006/11/26(日) 12:49:38
伸びきったパンツのゴムひも 少しくらい結んでもどうにもならんで賞
ふんどし に 履き替えてください。
つゝしみよ ハラヲビのヰモ
315 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 10:26:15
吉野ヶ里が邪馬台国でほぼ決まりでしょ
西暦4世紀初頭に滅びる
これが景行天皇の時?
316 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 23:45:42
廃れたな・・・・ 16のアホ謝れよ
317 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 12:30:44
日本書紀のキネンに関する書が来春出版されるそうですから、それを待ってということでしょう。
318 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 04:41:23
>>315 吉野ヶ里って宣伝がうまいけど、たいしたもの出てないし、専門家でもあそこが邪馬台国なんて言ってるのは
あまりいないよ。
319 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 06:45:16
>>318 そうなんだ
写真を見る限りではかなり大きい都市に見えたけど
320 :
サガミハラハラ:2006/11/30(木) 07:57:16
卑弥呼が、吉野ヶ里から小城に引越しをしたときに、たいしたものをごっそり持って引越したからです。
321 :
唐松山:2006/12/01(金) 20:43:20
卑弥呼は アマテラスを祭る巫女
四六時中 民の豊作を祈っている(表向き)
誰かほかに 適当な奴はいないか?
322 :
日本@名無史さん:2006/12/01(金) 22:03:40
卑弥呼が共立したのは、大和諸国が出雲への朝貢を拒否するため、シンボル的
アイドル的存在が必要だったのだ。彼女は後に天照大神として奉られる
後を継いだトヨは豊受大神となるが記紀ではカット
323 :
唐松山:2006/12/01(金) 23:40:26
トヨ は イヨ(記紀では 五百野姫)の後
ほつま では
ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ ...
ヰオノヒメ クスコウチミコ イセノカミ まつるいわひは ツクシむけ ヒメコトシソヨ
ヤマトヒメ コトシモモヤツよろこびて ヨハヒいたればワレたりぬ
わがヤソモノべ ソフツカサ ヰオノにうつしつかえしむ
クスコヲカミのミツエシロ タケノミヤヰに つゝしみて つかえはんべる
さすが後継者 すごいボディーガードだね。
家系図にはアマテラスは神武の祖先にあたるから
卑弥呼ではない
つか、中国の資料を鵜呑みにするのはおかしくないか?
325 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/02(土) 08:41:11
326 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 19:45:45
>>325 GJ
お気に入りに入れておくよ
俺は神武西暦1世紀即位支持者
西洋と東洋は微妙にリンクしてる
アレクサンドロス大王の東征 → 100年後に始皇帝支那の統一
ローマ帝国異民族の侵入で崩壊 ほぼ同じ時期に晋も異民族の侵入で崩壊
西洋が大航海時代 明がほぼ70年前に鄭和の大航海
このように微妙にリンクしていた
日本人は西洋人に近いと言われる
同じ人種ではないが何か偶然にリンクしてるものがあるんじゃないだろうか
それが西洋人の西暦と日本人の暦が同じと考える理由です
はい、オカルトです
327 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 01:50:47
唐土・鍵遺跡はどういうものと理解してますか?
328 :
日本@名無史さん:2006/12/03(日) 08:37:57
>>305 :日本@名無史さん :2006/11/25(土) 14:45:34
>このスレ読んでると昔の日本の知識人って、年もろくに数えれないようなドアホウ揃いに思えてきますね。
>アホウが無い知恵絞って年代をいじくり回して出来たのが「書紀」ってわけですか?
というか、日本書紀の編纂者は謙虚で
自分たちの推量だけで物事を書かないようにしている。
だから、無理やり年齢を正しい年齢に合わせようとせずに
言い伝えの年齢(暦の違った時代で計算された長い年齢)
のままで書いてあるんだろう。
古事記と日本書紀は、殆ど同時代に書かれた史料であり、
一般的に
古事記=祭祀者・自然崇拝者が神話的に書く、日本人向けに書かれた書物
日本書紀=朝廷の官僚・学者たちが、対外(中国)に日本を主張するために書かれた書物
神別と正史に分けることによって、神話的な世界は事実上、排除している。
329 :
唐松山:2006/12/03(日) 12:00:09
崇神の時代 倭国乱れる が有りませんが?
軍を四道に使わす 縄文の平定と地方の引き締め
ハニヤス との戦だけなんですが。
これが 倭国乱れる なら 景行の クマソ は なんですか?
当時の九州は 近内 の外 九州王朝の要請を受けて 軍の出動...
330 :
唐松山:2006/12/03(日) 14:40:34
倭迹迹日百襲姫命没
これは 箸でホドをつく 堕胎に失敗して死ぬ。
卑弥呼は 老衰
なぜ 同じ 人なんだ?
331 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 03:27:46
>>329 その中国の資料が絶対に正確というわけではないが
332 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 07:14:50
『旧唐書』に「倭国伝」と「日本国伝」を併設することにも表わされている。
「日本国は倭国の別種である。その国は日辺にあることから、日本と名づけられる云々」
に始まる日本国伝は、「倭国は自らその名の雅ならざることを悪み、改めて日本と為す」
および「日本、昔は小国だったが、倭国の地を併合した」
との二説を記し、主客問答の場における張りつめた空気をありありと伝えてくる。
333 :
唐松山:2006/12/04(月) 21:09:21
もし 景行が 西暦239年からだとすると
治世 成太子 成天皇 <間> 世継誕生 立太子 死亡
60年 18才 81才 5年目 86才 126才 140才 これから`前57` ‘中20‘‘後10‘ を引く
29年 18才 24才 5年目 29才 49才 53才
増し 景行の年号より次の年を引く
6,7,8,9,13,14,15,16,28春=40冬、47より51、55年死亡より60
崇神 西暦184年 24年間 後5年くらい縮められる
垂仁 西暦219年 27年間 後7年くらい縮められる
景行 西暦239年 29年間 後8年くらい縮められる
後漢光和年中(西暦178〜183年)、倭国大乱起る。 崇神の 国内引き締め
239景初三年、女王卑弥呼、魏に都市牛利(かしくい)、難升米(なしま)らを遣わす。
タジマモリ トコヨの国に行く
247倭女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載斯烏越(倭世子大江)らを遣わして郡に相攻撃する
景行による クマソ討伐
檄を為りて之を告諭す。狗奴国対女王国海戦は難升米将軍の大勝利となる。直後に卑弥呼死す。大いに冢を作る。
ホ38232 18年 ソヤヤヨヒ ...クマノガタ ヲサクマツヒコ...さとさしむ しかれどこばむ かれころす
ホ38273 アフミヨカ ツクシチのチの タカタミヤ ヲホミケたをれ
卑弥呼の宗女壱與(いよ、比売多多良伊須気余理比売)
ホ38300 20年 フソサミヱ キサラギヨカに ヰオノヒメ クスコウチミコ
28年コウス16才九州へ 休むまもなく 関東下向
これが 増し でみた 景行です。
334 :
唐松山:2006/12/04(月) 21:31:53
訂正
増し中=6年より40年までの 20年
増し後=47年より 55=60年の 10年
途中までは二倍年暦だろ?
336 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 21:49:59
天孫降臨なんだから、神武のおばあさんが天照大神。
神武のおばあさんは、トヨ。宇佐の比売大神。
337 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 23:29:11
景行239年は早すぎでしょ
この時代は崇神でほぼ一致してるんじゃ
景行は後の世の架上だとわりきれば
もっと巧く絵が描けるのではないか
339 :
唐松山:2006/12/05(火) 19:26:39
古代天皇の しのぎ はなんですか?
私は、 農事暦(月の満ち欠けに合わせた 6から8ヶ月程度のもの)と共に籾を貸し付け
その あがりで 成り立っていた。
倭国大乱とは、
ホ38116 シヅヤマの サカキをぬきて カンツエに ヤツカノツルギ ヤタカガミ シモマガタマや
シラハタを トモへにかけて わがタグヒ たがはずアメノ メグミえん
暦を持った たたねこのような類が 自分は、‘天である‘ と主張して 独立した。
是を阻止する為、卑弥呼との間で 戦となった。
この上下関係の乱れこそ 倭国大乱
崇神の時代は、その走り
増し でみた垂仁時代の暦 (掛け算では、このみだれは、わかりません。)
九州の現状を知った景行は畿内への波及を恐れ たけうち を 東北、関東の現状視察にだす。
九州から帰ったばかりの武尊を関東へ出向させる。
その後 景行自身も 関東下向
成務天皇による 屯倉の経営につながります。
もし 景行の時代が無かったら...
340 :
唐松山:2006/12/05(火) 20:50:56
ちなみに
籾の貸付から、屯倉の経営への方向転換を考えたのは、
トコヨへ行ったタジマモリとタケウチです。
唐松山さん以外の
紀年論についての意見がほしい
342 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 08:55:55
343 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 18:29:15
倍年暦で考えたら、神武天皇は
女王卑弥呼よりも少し前の時代の人物なんだよね。
ということは、神武天皇〜崇神天皇までは、
この神武王朝は日本統一政権ではなく、地方の有力政権であり、
おそらく、女王卑弥呼が誕生した国が日本を主導していたのが
崇神天皇の時に、この卑弥呼の出身国を倒したのでは?と思われる。
日本書紀の記述から考えて、女王卑弥呼の国は出雲の可能性が高い。
344 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 20:14:48
出雲の女王伝説って聞かないけどな
345 :
唐松山:2006/12/06(水) 20:37:54
増し で暦を作っている皆様へ
征東大将軍様の言うとうり 親子でない処が見つかりました。
孝元は 孝霊の子供ではなく孫でしたので
太子の生まれるまで、 は 18年でよろしいかと
ホ32131 ヤマトクニクル アマツキミ アメノミマゴの タメシなり
346 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 20:42:33
神武天皇は、卑弥呼より少し前の時代の人。
ほぼ、西暦1世紀〜西暦5世紀は、室町時代〜戦国時代までの歴史形態にそっくりらしい。
中国の学者や、最近の日本の一部の学者に言わせれば
日本書紀の編纂者は、持統天皇周辺のこと以外では
極めて客観的に公正に歴史を記そうと努力しているとか...
逆に皇国史観を作り上げたのは、古事記とそれを評価した
江戸時代の本居宣長だと...
古事記・・・祭祀者主導の歴史観・原始宗教的・神話的・皇国史観
日本書紀・・・律令体制の官僚主導の史観
持統天皇や藤原不比等関連以外の記述は極めて
客観的に歴史書を記そうと努力している。
347 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 20:45:05
中国の考古学者は、邪馬台国は北九州だろう?
って怒ってたな、誰だったか知らんけど...
ただし、その邪馬台国が畿内政権に変化したかとは言い切れないらしい。
普通に、邪馬台国は大和王権に滅ぼされたんじゃないのか?
348 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 20:55:33
>>344 卑弥呼の記述から考えて
女王というよりも、占いをする巫女のような存在だったわけで。
彼女の弟らしき人物が政治を行っていたみたいなので
本当の国王は弟と書かれている人物じゃないか?
それと出雲とか書いてあるけど、大分のあたりかもしれんしね。
とにかく、邪馬台国は畿内ではなくて
邪馬台国は、その後の日本全国政権にはならなかったのでは?と思う。
349 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 21:31:02
紀元前660じゃなく紀元前60年ぐらいなら
それなりに信憑性がもてるな
邪馬台国が中国との国交がなくなったのは
そこで滅びたんだろうね
350 :
唐松山:2006/12/06(水) 22:04:39
神武 の頃 暦を持っていたのは、
九州では、天照と出雲 この二人
畿内に ひとつ
合計3人
畿内は、天照より分けて貰った
ナガスネは暦を書き写して畿内へ逃げた
これを出雲(おおものぬし)が討とうとして兵を差し向けたが討てずに失敗
兵の一部が九州へ帰れず カワチや奈良方面に 住み着いた。
>>283 神武57年倭奴国 懿徳107年倭國王帥升等
偶然かな?
343 :日本@名無史さん :2005/05/12(木) 14:47:30
淡海三船は中国(漢)=神(カム)から承認された天皇に特別に神という字を与えた
徳という字を与えた3人も中国と関わり深い
語頭にスイの音を与えた3人もか?
神武天皇 57年 漢(カム)委(ヤマト)奴(ノ)国王(スメラミコト)
後漢に初めて朝献した
崇神天皇 239年 卑弥呼が親魏倭王に
魏に初めて朝献した
応神天皇 413年
南朝に初めて朝献した
懿徳天皇 107年 倭国王帥升等『スキ(ト)』 (おおやまとひこ『スキ(ト)』も)
初めて倭国王に任命される
仁徳天皇 421年 倭国王讃 宋に朝献し安東将軍倭国王の除綬の詔うけた
初めて安東将軍倭国王に任命される
聖徳太子 600年 遣隋使を送る 阿毎多利思比孤
初めて隋に遣使し、倭王に任命される
綏靖天皇 すいぜい 神武の子
垂仁天皇 すいにん 崇神の子 266年 西晋に朝貢し女王台与と共に爵命を受ける
推古天皇 すいこ 摂政は聖徳太子
「漢」は中古音・上古音ともに[han]
語頭の h は漢字音導入時にはカ行音で写されている 語尾の n は m になる場合がある
例「簡(中古音[k∧n]上古音[ ka~n])」をカミ、「蝉」をセミ、「文」をフミとして中国語から借用し日本語化させた
352 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 02:42:32
神武天皇って、やはり近畿地方の狭い地域の国王だったみたいだよ。
そして、その当時、日本主導的な政権は、出雲政権。
崇神天皇の時代になって、ようやく出雲、吉備、筑紫(北九州)を支配した。
353 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 05:10:57
>>352 俺も神武は奈良あたりだけだと思うね
そこでの戦闘の話はわりとリアル
九州から移動したのも本当のような気がする
別に嘘を書かずに近畿で生まれたとか本当のことを書けばいいだけだからね
崇神で筑紫?
その後のような気もするが
>>347 滅ぼされたんじゃなく婚姻による統合だと確信している。
伝承には戦争より政略結婚もどきの話が多いんだが。
日本書紀よんでもさ、そう思わないほうがおかしいよ。
355 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 07:33:55
だってさ、邪馬台国2人目の女王がトヨ(豊)だと読むとすると
日本書紀に豊(トヨ)がでまくり、邪馬台国の女王がイヨだとすると関係なくなるんで自然消滅も
信じられるな・・・
中国の先生にぜひ見てもらいたい。
その理由は今の日本人より中国語に近い感覚で
書いていたんじゃないかと思うから。ここは大きいと思うよ。
当然、反対の意見をいわれたほうは荒れるだろうが・・・w
357 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 09:49:14
>>354 政略結婚はあるだろうが
国交が消えたから滅ぼされたんだろうと考えたんでしょ
358 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 14:00:58
「旧唐書」で、日本の使節が唐の役人に「我々は倭国ではない。
もともと小国だった日本国が倭国を併合する形になった。
だから、我々の名称を倭国から日本国に改めろ」とか言っているだろう。
これって、神武天皇〜崇神天皇までの間
天皇家の所領が、大和盆地周辺に限られていたということ。
日本書紀を見れば分かる。その狭い範囲の話しか出てこないから。
しかも、この間の天皇の妃は、出雲国関係の人だ。
つまり、倭国は出雲王家が主導し、天皇家は出雲王家の女性を妻に向かえ
政略結婚で親戚関係になることで、出雲に従属していた。
それが崇神天皇の代になって、河内(現在の大坂)に拠点を移し
出雲・吉備を制圧し(出雲から倭国指導者の座を剥奪・国譲りの話として後に神話化)、
関東も制圧し、四道将軍を配置し
筑紫も制圧しその直後、半島の任那に朝貢を強要している。
日本書紀では崇神天皇は初めての天皇らしい天皇だといっている。
つまり、神武天皇と崇神天皇は同一人物ではない。
神武天皇は天皇家の最初の確認できる男系の先祖で畿内王権の最初の国王だった。
それ以前の畿内王権の国王は、天皇家の男系の先祖ではない。
そして、崇神天皇の代になって、倭国指導者の出雲国を倒し、
更に、九州北部から関東まで勢力を拡大、任那にも朝貢を迫るようになった。
まさに、崇神天皇は始めての日本国皇帝らしい人物だ。
359 :
唐松山:2006/12/07(木) 19:37:19
関東も制圧し、
は どうかな 元々畿内から派遣された人々が住んでいるんだから
四道将軍を配置し だって 一回見回りに行っただけで 畿内から離れるわけでもなし
筑紫も制圧し は無理 一応親の地であり 分家の畿内が口出しできない
その直後、半島の任那に朝貢を強要している。
これは、まあ 有りか
筑紫は 九州国内が ザワ付始めた頃だから 九州政権としては、任那より軍の出動を要請されても
出来なかった。 替わりに畿内政権から軍の出動 代価としての朝貢
360 :
唐松山:2006/12/07(木) 19:52:18
でも この任那へ軍の出動により
やっと 畿内も 鉄の時代を迎える事が出来た。
(崇神以前は、鉄 がずっと少なかった)
鋤や鍬が鉄に変わる 民が崇神を誉めないわけがない。
これで 大きな塚が作れるぞーーーーー
361 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 20:32:20
>>359 分家とは確証できないでしょ
あくまで推測かな?
362 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 11:36:33
今後の歴史学会では
神武天皇は一応、実在しただろうという説が有力になるかもね。
神武・崇神同一人物説も消し飛ぶだろう。
今後の焦点は、古代の天皇の生きた時代が焦点。
東京大学の井上光貞氏は、崇神天皇を270年-290年ごろの人
安本美典は、崇神天皇を360年前後の人
この両者の意見によって、邪馬台国論争にも大きく影響すると思う。
自分は井上氏の意見を尊重したい。
安本氏は古事記のほうを重視しているように見られ
古事記というのは皇国史観の原因になった書物だと思うから
あまり尊重できない。
363 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 11:49:50
古事記による崇神天皇の没年干支は戊寅(258年、318年、378年)
安本説が一番しっくりくる。
378年没とすると、神武は270年から280年頃となり、卑弥呼没年248年
からの連続性が自然だね。
364 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 12:13:52
なぜ、古事記が皇国史観の原因なったかというと
古事記って、日本書紀と大きく違って
内容も少なくて、独自解釈がしやすい。
逆に日本書紀は内容が難解で量も多く
これは皇国史観にもっていくのは不向き。
365 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 12:32:54
古事記と皇国史観を一緒にされてもねえ。
古事記書いた人がそんなこと意識して書いたわけじゃない。
366 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 13:07:14
606 :日本@名無史さん :2006/12/08(金) 13:03:22
中国の学者は、日本書紀のほうを支持しているな。
だいたい、古事記って一人の人間が書いた書物じゃないか?
そんなもんに、頼ってどうするの?って感じ。
稗田阿礼がいったのを太安万侶が記述したんだろう?
逆に、日本書紀のほうが時間をかけて、
いろんな人を動員して編纂している。
ほぼ同時期に書かれた書物なのは間違いない。
古事記は稗田阿礼から分かるように神道系の書物。
逆に、日本書紀は律令体制の官僚が書いた書物。
367 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 13:29:15
中国の学者が支持してるって一体なんの話だ。
>>606ってちょっとオカシイね。
368 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 14:12:04
369 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/08(金) 19:09:14
googleのクローラーが来た形跡がさっぱり無い件に付いてorz
http://www.geocities.jp/kodaishi2006/zu1.png http://www.geocities.jp/kodaishi2006/index.html 図と補足文を掲載しました。ちょっとだけ更新
>>326 有難う御座います
えぇ、神武は一世紀で構わないと思います。
貴重な神武一世紀論者が増えて心強いですね。
日本人が何たるかは知りませんが、始皇帝陵の陪葬墓から見つかった骨が
ペルシャ系だと鑑定された話がありましたよね。
始皇帝自体が青い目の〜なんてネタにも興味があったので
私はほほうと思っていましたが。日本板なので此処では盛り上がらなかったようですが。
倭人こそが弥生人そのものだとしたら、我々も渡来系と云うトコロでしょうか。
どうなんでしょうね。
新羅本紀にしても一世紀にはなかなかの航海技術を倭人は持っていたようですし。
前一世紀でも所謂漢書地理志にしても
それよりもっと以前からもそうだったかもしれないですね。
徐福伝説にも興味があります。
仮に中世の倭寇の侵攻地域と同じ範囲に、紀元前に倭人が居たとすればどうですか?
はい、妄想です
370 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/08(金) 19:28:05
>>345 先代旧事本紀を見ると孝霊と孝元を同世代にした方が上手い手なのかもしれません
>>351 これは凄いですね
応神が413年まで居たかは解りませんが、面白いです
年代特定を諡号からだけ推測して一致性があると云う事は
付けた側はそう云う解釈だったかもしれませんね
特に懿徳天皇を107の帥升等と特定するのは
普通に考えれば一番難しい筈です
帥升等はスキトと読めるかは解らないですが
等は藤原不比等のトですよね
私がHP上で107年に関して、倭国王帥升でなく、倭国王帥升等と「等」を入れているのは
スメラと読んだ人の解釈が面白かったので(いや、そう読めるかは知りませんが♪)
単に帥升でも良い場合でも、帥升だけでないと云う意味で通りそうなので等まで入れてたんですけど
スキトモのスキトかもしれないですね。
でもこう云う言い方をするとスキトモがスキトになったみたいですから
スキトがスキトモになったと云う事でしょうか
日本書紀は徹底して一元史観で書かれているようなので。
因みに、漢(カム)委(ヤマト)奴(ノ)国王(スメラミコト)←これだと
日本書紀製作者達は金印の文面を知って居なければならないですね
さてどうでしょうか
371 :
サガミハラハラ:2006/12/08(金) 19:37:16
帥升は上古音でsyu-sengです。シュセンまたはシュシェンです。ただしこれは北部九州弁をそのまま感じにあてたものであって、
なまっていない音はスセンです。
私はこれはニニギノ命の子のスセリの命のことだとみています。
372 :
サガミハラハラ:2006/12/08(金) 19:45:38
syu-sengはshu-shengの間違いでした。
373 :
唐松山:2006/12/08(金) 20:26:22
増し で暦を作っている皆様へ その2
太国さんの言うように 1日がン年というところが見つかりました。
孝安の 76年=92年=102年 の可能性がありますので見極めて下さい。
ほかに気になるところ
ワカタリヒコを ヨツギミコ タケウチスクネ ムネノトミ ミコとタケウチ ヲナヒドシ
たしか1歳か2歳ちがうはずなんだが?
キサキに男子誕生 寿ぎに 祝1年かな垂仁も同じような事をやっているようだし...
374 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/08(金) 20:42:44
サガミハラハラさんはAD107年が神代だと思っているんですか?
375 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/08(金) 21:50:11
うーん、帥升等→スキトモ説の方が居らしゃるようですね
懿徳107年は固定ですから、この説は取って措きたいですね
376 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 21:57:49
纏向遺跡の発掘で崇神は3世紀初頭だと思われ
377 :
サガミハラハラ:2006/12/08(金) 23:08:53
天岩戸事件以降の説話は史実の反映だとみていいと思います。
378 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 03:07:34
>>377 ただ、日本書紀の研究によると
天照神話は比較的に新しい時期に作られたらしい。
また、天皇家は当初は天照に拘りが薄かった。
よって、天照は史実の反映だが
それは天皇家とは関連性が薄く、
別の王家のものを天皇家がいただいた可能性が強い。
379 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 03:14:56
>>378 なんか発言してることが破綻してないか
>天照神話は比較的に新しい時期に作られたらしい。
この理由を明確に説明しないとおかしいよ
380 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 03:35:44
381 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 03:36:37
382 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 04:44:44
武光誠氏の発言も推論でしかないわけですね
383 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 05:06:25
>>382 そう。武光氏の発言も推論でしかない。
ただ、天皇家がもともと天照大神や伊勢神宮に対して
対して思い入れがなかったというのは、よく聞く話。
熱田神宮ですら、当初は天皇家とは関係が無かったけど、
崇神天皇の時代、関東制覇の時に、天皇家の神にしたのでは?と思われる。
>>377 >天岩戸事件以降の説話は史実の反映だとみていいと思います。
前から思ってたがサガミハラハラは小説でも書くほうがいいと思うよ
385 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 06:57:13
>>383 よく聞く話で事実認定ですか
他の人は思い入れがないという話を聞いたことがありますか?
386 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 08:57:08
伊勢参りが盛んになったのは江戸時代からだよね。
そういえば、皇室って
熊野詣はしたけど、伊勢詣でなんてしなかったよね。
>>380 律令では皇族は4世の孫まで。
5世孫は「格」での話。平安時代にはまた4世に戻る。
この人ホントに日本史の先生?
388 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 11:41:19
389 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:35:46
あくまでも一つの説であり事実ではない
390 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 12:51:26
>伊勢参りが盛んになったのは江戸時代からだよね
これは庶民のこと?
391 :
唐松山:2006/12/09(土) 20:51:19
懿徳 を祭る神社の数 0社
マニアックな所に目を点けたなー
8歳で太子 20歳位で死亡 2才下の弟が後を継ぐ
壇君古記の紀年法と日本書紀の紀年法を比べると色々と発見があるよ。
393 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 21:21:33
>ハツクニシラススメラミコトとの称は、神武天皇(『日本書紀』では
>始馭天下之天皇:はつくにしらすすめらみこと)にも贈られており、
>初めて天下を治めた天皇という意味であるが、
>はじめて国を治める天皇が二人いることになる。
>これについては、神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は、
>崇神の称号にみえる国という具体的な語より上位の観念であり、
>また、後に出来た新しい観念でもあるので、神武は崇神より後に
>「帝紀」「旧辞」の編者らによって創られたと考えられ、
>国をはじめて治めたのは崇神であると考えられる。
>『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある。
結局、崇神天皇は実在性があるが、
神武天皇は新しい時代に作られた創作の可能性がある。
崇神天皇を徳川家康に例えるなら
神武天皇は徳阿弥・松平親氏みたいなものか?
394 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:55:44
崇神は大勢力にしたが
それは神武から代々作った基盤があったからでしょ
395 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 00:11:20
>>394 日本書紀だと、九州から関東まで勢力範囲に置くのは
崇神から景行の間で、景行天皇でほぼ完成される。
景行天皇は二倍年暦では4世紀初頭の人物で
前方後円墳が九州から関東まで広がるのも、それくらい。
遺跡のは発掘だと、崇神のちょっと前の王権の形も分かっている。
まあ、いずれにせよ、神武の存在は別として、
崇神が一介の浪人から王になれるわけないのであって、
その少し前の代から豪族として権力をためていたと考えるべき。
富本銭や無文銀銭が日本最古の貨幣であると誰か証明してくれ。
富本銭や無文銀銭が日本最古の貨幣であると証明できれば、
日本の貨幣の歴史は凄く古くなるね。マジ凄い。
元号でも大化と大宝の間が欠けている部分があるというけど
だれか欠けている部分の元号を発見してくれないかな。
そうすれば大化と大宝の年号がつながって元号の歴史がはっきりと
大化まで遡ることが出来るのに。
大化と大宝の間の元号は欠けている部分があったが、
実は欠けていなかった、というふうにならないかな?
誰か頑張って発見してくれ。
399 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 01:17:52
>>395 その少し前の代ではなく
それなりに9代ぐらいは蓄えてたのではないかと思う
崇神のちょっと前の遺跡とはどこですか?
崇神の墓ってそもそも
何処ということになってるの? ここの人たちは
401 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 03:09:37
402 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 04:36:27
纏向遺跡の年代から
崇神天皇から3代の天皇は、二倍年暦で
あっていたということですか?
古代の天皇の年齢って、数え方によって
いろいろ、あるから困ってしまうよ。
記紀のミササギ記事って信用できるのでしょうか?
鳥越氏とかは信用してるみたいだが
404 :
唐松山:2006/12/10(日) 10:51:47
古代の天皇の年齢 増し で読むべし
405 :
唐松山:2006/12/10(日) 11:15:54
稜 の位置は、宮の西方向にあれば、男 東は、女
406 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 11:19:29
大市=大一=太一
407 :
唐松山:2006/12/10(日) 11:37:24
崇神は、考霊 に継ぐと
総て うまくせつめいできる
考霊36年 富士山噴火=>崇神5年 大凶作
考霊53年 西中を得ず=>崇神10年 四道将軍
モモソ姫殿 老いさらばえて 堕胎に失敗 この不名誉な記録から逃れますぞエ
マキムク元年=西暦50年頃
408 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 13:44:46
>>407 過去の富士山噴火って、地質学の観点で分かるの?
分かるのなら、記紀の記述から
古代の天皇の生存時期を探る一つの手がかりになるかもしれない。
409 :
唐松山:2006/12/10(日) 15:39:06
んーん 出ていないんだよね
阿蘇も 神代の時代 田が、埋まったと出ているんだけど
410 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 16:17:48
地質学だけじゃ、いつ噴火したとか
分からないのか?
411 :
唐松山:2006/12/10(日) 17:21:15
現在 この火山灰の地層は、、暦に出ている ン年のものだろう
という 状態です。
412 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 02:15:08
>>410 そういうの調べると分かると思うね
渤海は火山で大ダメージを受けたそうだ
413 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:14:21
日本書紀の二倍年暦って
いつから計算したら良いんですか?
一応、継体天皇の崩御年から計算したんですが、
その以後の天皇も二倍年暦使ってそうで分からないです。
誰か、そのへんの情報を教えてください。
414 :
一応九州王朝説:2006/12/11(月) 22:24:18
継体頃は太陰暦が入ってきているのは確度が高いから、もう二倍年歴
じゃないと思うよ。ならその頃の天皇の生没年を2で割ったらどんな
ことになるかってことで。それにある程度歴史事象との整合性も出来
ている頃だし。
二倍年歴自体まだまだ試論の段階だが、初期のやたら没年齢が高すぎ
る天皇の頃がその対象になる。
415 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:53:10
>>414 継体天皇の年齢は以上に高いですよ。彼の時代は
まだ二倍年暦じゃなかろうか?
その次の天皇も高齢で死んでいて妃が多いのに
子供の存在が確認できないというじょとは二倍年暦だったのではと思う。
いずれにせよ、継体より少し後にならないと等倍暦に変化してないのでは?
その辺のどこから暦が変わったのか、それが分かる記述って
記紀に載ってないのだろうか?
416 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 22:55:31
あと、自分は三倍年暦の計算方法には反対なんです。
というのは、日本書紀の編纂者が操作したという決め付けから
そのような解釈になるんでしょうが...
二倍年暦は、春耕秋収で1年という考えで容易に想像つくんですが
三倍年暦は、何を基準にそうなるのか?
417 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 23:03:45
2倍暦で単純に計算すると507+660で1167
583,5か
正確ではないがわりと近い数字が出るのではないか
418 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 23:35:50
いつから二倍暦から通常暦に変わったのだろうか?
419 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 23:40:08
欽明の途中からだろ。
又この頃から国記の編集が始まったとされている
420 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:03:03
>>419 欽明天皇の途中からか...
ややこしいな...
どこから二倍年暦に設定したら良いものか...
421 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:33:36
174 本当にあった怖い名無し New! 2006/12/11(月) 19:09:09 ID:F0l707JR0
少しだけ話が変わるが...
今度、日本と中国がはじめて歴史の共同研究をするが
今まで近代史しかテーマにならなかったのに
はじめて近代史以外がテーマになる。ここがポイントだ。
特に、古代史と現代史がポイントになってくる。
現代史に関しては、中国側は「これからも研究し続ける
ことが重要だ」と提言している。これは要するに
「現代史は、日本が中国に対して友好関係にあったのは認めてやるが、
これからも日本は日中友好に努力しろよ、じゃないと、
現代史の評価は覆るぞ」という脅し。
古代史に関しては、明らかに高句麗問題。
そこでセットになってくるのは、任那日本府だ。
中国社会科学院の教授たちは、日本の記紀の通説は正しいと断定している。
また、正しいとしなかったら、中国の高句麗主張の整合性もとれないから。
422 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:34:53
175 本当にあった怖い名無し New! 2006/12/11(月) 19:11:14 ID:F0l707JR0
中国の考古学者は、日本書紀に書いてある継体天皇以前の歴史は
ほぼ二倍年暦(春〜秋で1年、秋〜春で1年)の計算で正しいと思っている。
神武天皇は紀元直前ぐらいの人で
おそらく九州王朝が畿内に派遣した軍司令官では?と思われている。
神武〜崇神の間が欠史八代なのは、
地方の軍司令官程度の存在だったのがばれるからだと思われる。
それが10代目の崇神天皇の時、マキムク(奈良県桜井市)から
全国制覇に向けて動き出したように思われる。
ちょうど、女王・卑弥呼と同時代だ。
そして、西暦300年頃、北九州から関東くらいまで制覇する。
それが景行天皇の時だ。ちょうど、息子の日本武尊の活躍で
全国平定に乗り出した頃だ。
423 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:36:09
201 本当にあった怖い名無し sage New! 2006/12/11(月) 21:47:42 ID:GxMEkATZ0
>>192 言っては悪いが、そんなものは「たかが」レベルの枝葉末節に過ぎない
これは構造的な問題でね
日本では史学系の古典研究者は学位を取っても、大学教員としての就職先が
見つかるかどうか分からないのさ
東大はじめ有名国立大学文系では、一人前の研究者を育てるのに時間がかかる
先行き怪しい古典をも効率化と称して削っているんだ
せっかく最近の遺構発掘調査で日本の古代史の実像が徐々に明らかになるような発見が
相次いでいるのに、それを解釈し、研究する人材をなくしてしまいそうな状況に陥りつつあるんだ
これに加え、日本古代史は漢文=中国語文語文で書かれている史料が多い
中国共産党の上層部はこれに目をつけて中文・中哲系の大学院の中国人留学生に記紀や
万葉集研究を推奨させて、『古事記』『日本書紀』『万葉集』で学位を取らせ
日本史ではなく、中国史の分野から日本史の論文を提出させ海外の国際学会における
古代日本史の定説を中国の言うとおりにコントロール可能なよう資料を改竄・捏造してるのさ
中国の日本学研究の大物は留学・客員先の高等研究機関でも、この中国政府が求める立場を貫いて
「日本の文化は中国文化の模倣である」と国際学会で口にしている
本来なら文科省が日本の文化を専攻する研究者を一定数確保する努力をすべきだが、
日教組や赤い方面から邪魔されて思うに任せない状況にある
このまま行けば将来、日本の古代史研究者は中国人が中心になるぞ
424 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:39:14
日本の学者や愛好家が一番駄目なのは、最初から
中国の史書の記述(57年の奴国、107年の師升、239年の卑弥呼)と
日本書紀の天皇とを無理やり関連付けしようとするから
混乱しまくるようになるわけで。
中国の史書というのは、重要な手がかりにはなるんだけど、
しかし、あまりにも記述が曖昧で、どこまで日本のことを分かっているか怪しいわけで。
こういうことは、中世以降にもあって、中世以降も日本の文献が豊富だから
それが中国側の勘違いだと分かるが、もし、その時代も日本側の文献が無かったら
これまた歴史論争で混乱していたはず。
425 :
423の続きのコピペ:2006/12/12(火) 00:40:01
>>208 漏れは元大学事務で研究ドロップアウト組(しかも実は日本史系ではない)
危機的というより、このまま行けば危機に至る可能性が出だしていると言うべきかな
だが、エライひと含め危機感抱いてる香具師らがマジ準備中と聞いてる
実働始めたら手伝いには行くとオモ
>>209 上の事情で漏れがある程度知る話も数年前になるんで今とは状況がずれている
ただ全般傾向は余り変わってないとオモ
ただ国外の場合、個々の学者の人格や学術に対する良心とは別に、
家族が郷里にいたりするからな
特亜方面に限らず汚い話出ることもあるよ・・・
426 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:42:42
>>420 『帝紀』を元にした『上宮聖徳法王帝説』の欽明の在位41年
書紀の在位が32年。
この食い違いは、2倍暦から1倍暦に切り替え時差によるもの。
実際の在位は、22年間
427 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 00:42:49
428 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:18:47
429 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:19:57
430 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 02:24:15
>>426 それを参考して計算したら、
神武天皇が即位したのは紀元前49年くらい?
431 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 16:05:20
研究者は数多くいる。
だが皇国史観の代弁者は少ない。
学界では事実が重要視される。
神話に事実を合わせようとする皇国史観は史学ではない。
432 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 16:20:49
とにかく、応神天皇〜欽明天皇の間だって
暦の年代が混乱した時代のような気がする。
ちょうど、この間で倭の五王があった時代でしょう?
>>431 おまえ、神武天皇の時代を言っているのか?
神武天皇は記紀には神話って書いてないぞ。
記紀から考察して、畿内の小領主だったみたいだから
考古学的に実証するのは難しい。
433 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 22:10:53
434 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 23:21:51
>>430 いや、干支周期の繰上げもあるから3世紀後半だよ。
邪馬台国は暦をつけていなかったことが倭人から分る。
よって神武が即位したのはその後のことだよ
436 :
434:2006/12/13(水) 00:07:05
>435
俺はやっさんの説は、参考にしてないよ
しかし、紀元前の資料を8世紀の記紀の編集者が持っていたとはとても思えん
437 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 21:42:42
古事記の干支崩年で計算する考えがあるけど、
あれって、通常暦に修正した考えた干支なのか?
それとも、倍年暦のままで考えた干支なのか?
どちらなの?
438 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:03:41
>>437 俺の考えでは『帝記』を編集した時点で倍年暦だった。
記紀が編集された時点で干支の周期が数周追加され、更に皇紀元年が引き伸ばされた
439 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 22:33:52
>>438 いや、皇紀元年は置いておいて...
とりあえず、崇神、景行、応神〜雄略あたりを探らないと
このあたりは外国の史書にも頻発してくるし。
もう、なんか訳が分からんな...
結局、中国・朝鮮の史書とかちあう年代をあわせて、考えるしかないわけで。
でも、日本書紀・古事記の中には当然、ヒントがあるわけだ。
ああ、それと、朝鮮の史書って、
あれって10世紀以降に書かれた新しい書物みたいだが、
ちゃんと通常暦に修正して書いてあるのか?
それとも、倍年暦のところは、そのままにしているのか?
誰か教えてくれ。
というのは、高句麗好大王関係・百済辰斯王関係で、
西暦391年、西暦369年ってあるが、あれって通常暦で書いてあるの?
440 :
438:2006/12/13(水) 22:49:42
西暦391年、369年は修正した年代記にすれば、欠史八代に当たるよ。
空白の4世紀にも少しは光が・・・・
441 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:04:38
でも、西暦391年、西暦369年は
そのままじゃん。
あれは、あれでOKでしょう?
もし、違うかったら、中国が半島を植民地にしていた時代と
かちあうけど、あれには、そんなこと書いていない。
442 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 23:31:53
443 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 06:00:43
日本書紀や古事記って、一ヶ月が15日までの倍年暦の
可能性があるって聞いたことがあるけど
どうなんだろうか?
444 :
サガミハラハラ:2006/12/14(木) 08:44:40
>>433大変よいところに気がつきました。
あれは、二倍年暦でかかれた干支なのです。
古代史研究史上このことに勘ずいたのはあなたで二人目です。
445 :
サガミハラハラ:2006/12/14(木) 08:47:23
446 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 13:18:07
>>444 日本書紀とか、古事記とか、年代がごちゃごちゃに
なっているせいは、倍年暦〜通常暦への移行が大きな要因みたいですね。
編纂者も頭が混乱したのかも?
あと、応神天皇の例の出生の経緯も、
古事記は淡々としているけど、日本書紀はそうではない。
おそらく、8世紀に日本書紀を編纂した人たちが、
倍年暦にうとい人たちで、本当に先帝の子か?って疑問を持って
あういう出産を遅らしたみたいなエピソードを作ったのかも?
447 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:22:43
血縁のない人間を血縁者に仕立て上げるためだろ。
448 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:41:12
欽明天皇から倍年暦計算して
どうしても年代がかちあわないのが
倭の五王のあたり。
449 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 16:43:49
>>447 応神天皇の出生は
通常暦として考えたら、どうしても若干無理があるw
でも、倍年暦で考えたら、別に不思議でもなんでもない。
古事記では、応神天皇の出生に何の疑問も持っていない。
しかし、日本書紀は中国系1世が書いたのか?
そこに不自然さを感じたんだろうね...
>>351 安○ 弟即位?
03 安寧 04 懿徳 ?
20 安康 21 雄略
27 安閑 28 宣化
○化 ?
09 開化 10 崇神
28 宣化 29 欽明
○明 ?
29 欽明
31 用明
34 舒明
37 斉明
43 元明
451 :
唐松山:2006/12/15(金) 20:45:12
ほつま では、
孝昭は 懿徳の子供ではない 懿徳の早死が原因
孝元は 孝霊の子供ではない 孫 と書いてある
崇神は 何かがあるが まだ解りません
増し でみると うまく繋がらない
452 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 20:48:35
12 :日本@名無史さん :2006/12/15(金) 20:42:01
神武天皇の即位年は、干支を意識したものだから信じられないが
(そもそも、彼は皇帝というよりは、三輪山の一領主で人生を終えた)
古事記、日本書記を倍年暦で計算して
また、日本書紀の仁徳天皇の即位が、神功皇后の生存期間を
卑弥呼にぶつけるためにやったことを考慮して計算したら
一応、紀元前106年の日向の国で産まれたことが分かった。(誤差はあるかも?)
いつ即位したのは分からん。というか、彼はただの地方豪族。
だから、日向からの遠征前に即位したみたいな訳の分からんこと言ったんだろう?
ちなみに、崇神天皇の在位期間だが、西暦206年から240年だ。
彼が生まれたのは、西暦156年。
マキムク遺跡の古墳が3世紀後半だから、彼の死後
古墳が作られるのと見事に合点が行く。
453 :
唐松山:2006/12/15(金) 21:03:20
↑少しだけ賛成
神武は、ナガスネを討つための 先発隊 フロッグにも 勝ってしまった
すぐに本体(大物主)がやってきて 一緒に都作りを始めたのだが、
神武はすぐに別の所に都を移す。
日向は 阿蘇の噴火の後で作物の出来が悪かった為 塩じいに奨められて
遠征隊に志願した.
454 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 21:25:17
サガミハラハラさんは、日本書紀の年代は
清寧天皇の年代から通常暦で計算されていると踏んでいるのか?
その根拠は何だろう?ちゃんと調べたのか?
455 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 04:56:17
唐古・鍵遺跡は築造時期は紀元前220年ごろ〜200年
同じ奈良でありこの後にマキムクに移動したと考えられるね
456 :
サガミハラハラ:2006/12/16(土) 07:03:00
日本書紀の年代は雄略天皇6年(AD462)から通常暦となっているとみています。
根拠の一つはAD461年雄略5年、百済武寧王誕生です。
日本書紀応神紀では、雄略元年は459年秋年となりますが、これは安康天皇の在位中にかかり、真の雄略元年は461年春となります。
なぜこんなことになるのかというと、安康天皇の治世に関して複雑な問題があるからです。
つまり、安康天皇の即位を認めない人たち(雄略天皇ら)がいたということです。
一方、認めた人たちもいます。その際たる存在は宋王朝であるわけです。
457 :
サガミハラハラ:2006/12/16(土) 07:08:19
訂正
真の雄略元年は461年春は461年秋の間違いでした。
つつしんでお詫びいたします。
458 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:00:50
あれあれ?
日本書紀では雄略天皇は256年からの即位じゃなかったけ?
ということは、雄略天皇の在位の途中に
倍年暦→通常暦に変化したということ?
459 :
458訂正:2006/12/16(土) 08:05:58
ちょっと間違えた。
日本書紀では雄略天皇は256年からの即位は正解だった。
で、サガミハラハラさんは、雄略天皇の即位を少し遅らせたと...
つまり、日本書紀では雄略天皇の途中から暦が変化したと?
あと、古事記の雄略天皇の異様な高い年齢はどうなんでしょうか?
あれは、倍年暦でも合わないような気がする。
古事記の著者(少数で書いている?)が、計算で混乱したのかな?
460 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:10:04
>>455 移動していない。記紀をちゃんと読め。
神武東征は日本の中心が移動したわけではない。
あれは、出雲と畿内の戦争に、
出雲の同盟者だった日向(熊襲)の援軍の将の一人(神武天皇)が
その功績を認められて、出雲王権から畿内の領主に認められただけ。
461 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:17:19
>>460 俺は崇神の時に鍵遺跡からマキムクに移動したんじゃないかと
462 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:41:28
>>461 どう考えても無理。
なぜ、神武天皇以降が欠史八代だったのか?
なぜ、日本書紀は神武天皇以降、数代にわたって出雲王家から
妃をもらっていたことを隠し続けたのか?(古事記は隠していない)
神武から崇神の間は、天皇家は出雲王家の従属するような立場だった。
そして、出雲王家から妃をもらって姻戚関係になることによって
身分保障をしていたのである。
たとえれば、出雲が北条家、天皇家が足利家みたいな関係。
それが崇神天皇の時代にこの関係を終わらせた。(出雲・吉備制圧)
実は、崇神天皇のちょっと前から、出雲王家からは妃をもらっていない。
その時代には、天皇家は独立を歩み始めていたと思われ。
足利尊氏が母方に北条家の娘をもたない久しぶりの足利家当主だったようなもの。
雄略5年の実年代は本当に461年でしょうか?
神功39年記事に景初三年を盛り込む事でAD239年と見えるのと同じような
トリック記事じゃないですかね?
もし雄略6年以降から所謂通常暦になるなら
雄略の古事記没年干支設定年は479年になっている筈ですよね
>>459 456年ですね
464 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:50:20
>>462 >神武から崇神の間は、天皇家は出雲王家の従属するような立場だった。
途中から急に結論づける人ですね
それも一つの説
俺が馬鹿なのか460の言ってることが分からない
455は神武の時に唐古・鍵遺跡を征服して崇神の時に槇向に移動したと言ってるんだよね?
460は>神武東征は日本の中心が移動したわけではない
と言ってるが
中心が移動したわけではない? 何の中心が移動したわけじゃないんだ?
455の意見に答えてるの?
466 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:15:53
>>464 結論付けるのは良くないが、あの記紀の内容を読んだら
普通にそういう解釈になると思うが...ああ、決め付けは良くない...
ただ、神武天皇が日向でどういう立場だったのか分からん。それは謎。
出雲王家から妃をもらうぐらいだから、
日向のほうでは、それなりの地位じゃないと無理なような気がする。
お供もそれなりについているし。
あの戦いで、神武は兄たちを失っているんだよね。
彼は神武東征軍の司令官ではないような気がする。
おそらく、兄貴のほうがそうだったのかも。
467 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:23:50
>>463 :征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2006/12/16(土) 08:47:59
>雄略5年の実年代は本当に461年でしょうか?
>神功39年記事に景初三年を盛り込む事でAD239年と見えるのと同じような
>トリック記事じゃないですかね?
同じようなトリックだが、雄略5年と神功39年が決定的に違うのは
雄略天皇・継体天皇と百済王武寧王がほぼ同時代に生存していて
武寧王が人質として日本ですごしていたのが確実だということ。
日本の記紀に出てくるから、その人物が。
逆に、景初三年の場合、その倭の邪馬台国の女王・卑弥呼が
いったい、どういう人物なのか全く謎だらけなことだ。
日本の記紀には卑弥呼なんて出てこないわけで。
だから、照らし合わせようが無いわけで。
それを無理に照らし合わせようとしたから、おかしなことになった。
468 :
太国:2006/12/16(土) 09:30:41
>>463 それがしの考えでは、宣化以降が普通暦(等倍暦)使用なので、雄略5年が
461年相当にならないと観てます。雄略前代の安康世以前のみで倍暦使用ならば、
当然461年にはなりましょうが、安閑までは等倍を含めての倍暦使用があり
ますから、実年代は動いていますので461年から外れます。
>>466 兄が司令官なのは
たぶんそうでしょうね
神武はそれなりの力のある人だったと思う
民族移動のような移動なのか
派遣された将軍なのか
どちらかは分かりませんが
470 :
太国:2006/12/16(土) 09:32:28
すみません。このスレは書きこみしないつもりでしたが、他スレと間違い
ました。倉西の隠居さんから逃げます。
日本書紀には出雲や吉備が特別な地域として出るが
考古学からもこの地区は発展してたのが分かる
資料が間違ってるわけでもないんだよな
472 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:58:30
>>469 民族移動ではないでしょう。
感覚的に言ったら、関が原の戦いに九州南部の島津氏が出かけていくようなもの。
あの神武東征のメインは、あくまでも出雲VS畿内なわけで。
神武は出雲の同盟者として、それに加勢したに過ぎない。
だからこそ、彼の軍は少数だったし、河内上陸戦で多くの犠牲者を出し
20人ほどしか生き残れなくて、和歌山の裏手から入るしかないのに勝てた。
そのあと、出雲から妃をもらうんだけど、領地は大和盆地の南半分だけ。
日本書紀では神武は「まだまだ全国を平定し切れてない」って強がっているが
何のこと無い、出雲VS畿内の戦争で恩賞をもらって、
畿内の狭い地域に領地をもらっただけである。
>>472 その論だと近畿勢力は滅びたと考えてるんですね?
474 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 10:08:20
とにかく、当時は二倍年暦から通常暦への以降がすんなりいかなくて
記紀の編纂者も混乱したのではないだろうか?
今の世の中みたいに、交通と通信が発達していたわけではなく、
朝廷が暦の改定をしても、それが様々な階層や全国津々浦々まで
慣れるのには年月が必要だ。
そのために、編纂者のほうも混乱してしまった。
だから、日本書紀の編纂者たちは、通常暦の使用が長い
外国の書物を引用する引用する必要があった。
よって、日本書紀の編纂者はいたって公正だった。
唯一の不正が卑弥呼の記述を神功皇后に合わせようとしたこと。
しかし、その合わせようとした年代が、二倍年暦と通常暦で
食い違っていることを全く考慮してなかったとw
>>473 前の畿内王権の国王はナガスネヒコ。
彼は、神武東征で、出雲によって滅ぼされ、畿内は出雲に併合された。
そして、彼の領地の中で大和盆地の南半分だけが
日向(熊襲か?)からきた神武天皇の所領になった。
>>467 神功紀は、景初三年と云う漢籍で確認可能な決定的一句を盛り込む事で
日本書紀での239年が、正に実年代の239年だと云う錯覚を誘うトリック記事でしょう。
しかし、書紀の神武元年(BC660)を、倭奴国遣使のAD57年であるとして、
書紀が三倍区間だと計算して見てください。
崇拝十年の倭迹迹日百襲姫命没(BC88)が、卑弥呼没のAD247年中にピッタリ一致します
コチラは実年代側に乗っていると見て間違いないです。
>>475 前の畿内王権は饒速日命じゃないのか?物部氏一族だと思う。
ナガスネヒコはその最高司令官みたいなもんだと思う。
まあ、いずれにせよ、神武以前に畿内王権が存在したということだな。
後に、それらは全部、神話時代に繋がっていることにしたが
それは、あくまでも作り話で、
だからこそ、日本書紀は、神武以前と神武以降で、神代と正史に分けた。
>>476 自分は、神武を倭奴国遣使のAD57年にあわせる必要はないと思うんだな。
倭奴国遣使だけの記述だったら、日本国王の性別をこだわる必要が無い。
しかし、卑弥呼を合わせる必要があったのは、女王だということだったから。
その時の日本の時代の国王が男王ではまずいということだった。
もし、卑弥呼のあたりの記事に女王が出てこなかったら
こんなことする必要が無かったんだと思う。
■では書紀の雄略5年(AD461)は、実年代のAD461と断定出来るでしょうか?
AD462年には宋に倭王興が認められる訳ですよね。
つまりAD461年の時点では、まだ武=雄略が成立しない時代です
そしてAD478年には宋に倭王武が認められる訳ですよね。
雄略の書紀での治世年間は*(457〜479)です。
雄略の古事記没年干支設定年はAD489年です。
■現時点での検証結果から、
古事記で没年干支が打っている全天皇には次の法則が全て成り立つと見て居ます。
「A天皇の古事記没年干支設定年 ≦ A天皇の実年代崩御設定年」
古事記での天皇没年より以前に、実年代での天皇没年が設定されている事は無いのです。
つまり、書紀の雄略没年が479年は、古事記での没年より古いので、
書紀の側が年代操作をしている事に成ります。雄略年間は通常暦と断定するのは疑問です。
■それに倭王興が安康なら、462から478まで(460〜477まで)安康ですから
雄略治世五年(AD461)は、実年代でのAD461には当たらないでしょう
実年代のAD461年の記事を、書紀の見かけ上のAD461の雄略紀に記録しただけと云う
神功紀と同じトリック記事と見るのが妥当ではないでしょうか?
まぁ、実際は、神功三十九年や、雄略五年の外事記事の年代は操作してなくて
書紀の内政記事の側を年代操作して居る訳ですから、
外事記事が正にその記録位置にある事自体はトリックではなく、
正直な記録位置。と云う事になる訳ですが
>>479 サガミハラハラに聞いてみないと分からないけど、
彼曰く、皇位継承のつなぎ目というのは
いろいり混乱があって、それぞれで独自解釈があるから
一部でだぶっていたり、空位だったりするらしいから。
その安康天皇の即位の経緯と短い在位での暗殺は
その時代、朝廷内で凄まじい争いがあったのは容易に説明がつくと。
古事記の干支年も二倍年暦もあるから、さらに事情が混乱している。
とにかく、サガミハラハラの本を待とうw
>>479 日本書記では、雄略年間は、途中から
暦の改変があるということではないのか?
だから、雄略年間がまるまる全部が通常暦ではないと。
>>479 どうだね、サガミハラハラの説だと
倭の五王の康が雄略天皇ということになる。
おい、サガミハラハラ、本を出すということだそうだが...
おまえの説は破綻しているぞ。
そもそも、その10世紀以降に書かれた半島の書物って正しいのか?年号がw
結局、宋書の倭王の変遷で
ある国王の話でどの天皇に当たるかで大混乱をきたいしているということか?
倭は日本ではないでしょ
倭の5王から大和朝廷と考えるべきじゃないかな
>>484 倭は一応、日本列島だよ、卑弥呼の時代も。
ただ、大和朝廷(畿内政権)は、倭の五王からでしょう?
ただし、当時、天皇家の皇位継承がすんなり、いっていない。
風土記なんかでは、記紀のほうでは天皇になっているのに、
ただの皇子扱いだったりしている。
それは記紀以降だってあった。
壬申の乱の大友皇子は、長い間、皇位を継承したとは見なされてなかった。
それが明治以降、弘文天皇で即位していたことになった。
南北朝時代なんてそう。
北朝と南朝のどちらが正当かなんて、史書によって違っていたし、
江戸末期までは、南朝の天皇は、ただの親王だということにされていたw
二倍年暦→通常暦の話なんだけど、
暦法の変更って古代政権にとっては一大事だよね。
暦って「支配の象徴」だと思うんだよ。その暦を使って
いる地域が支配地というか・・・。
たとえば、朝鮮半島なんてシナ歴代王朝の暦を使って
いたわけでしょ? あれは支配下にあるってことだよね。
「歴法変更」は、そのくらい大きな事件なのに、古事記にも
日本書紀にも変更宣言が無い・・・。
ってことは、次のような可能性があると思う。
(1) 政権交代があり、そこで暦法が変わった。新政権の面々は、過去の
政権の「名」を受け継ぐため、自分たちの歴史とつなぎ合わせようとし
たが、途中で安易に理由も無く暦法を変更した、という記述を入れる
ことができず、チグハグな流れになった。
(2) 編纂者が、自分たちの一年を過去に使われていた一年と思い込み、
単純に昔の暦法を用いた言い伝えをつなぎ合わせただけ。
>>486 ああ、ごめん。法律用語で言うところの (1)=悪意 (2)=善意 って意味ね。
(1)は、編纂の時点で、過去の出来事(言い伝え)が鮮明に残っていた。
(2)は、すでにゴチャゴチャのカオス状態の言い伝えしかなく、編纂者自身も
「???」って感じで書いていた。
まあ、どちらにしろ「二倍年暦」が事実であればの話だけど。
488 :
サガミハラハラ:2006/12/16(土) 21:44:40
雄略5年が461年である件について、
書紀に雄略5年に百済武寧王がカカラの島で生まれた。
ります。武寧王の墓碑から、王は
461年に生まれたことがわかりました。
書紀の5年に生まれたとの記事がただしければ、雄略5年は461年となります。
雄略6年(462ねん)から普通年で在位23年であるから、没年は479年となります。
ただしこの計算は私の作為がはいっています。つまり、私は479年雄略天皇没年と決めて、
そこからさかのぼって、調整したわけです。
その結果、雄略5年以前は2倍年暦であるとみたわけです。
そうなると、雄略元年は459年秋になります。
これは、安康天皇の即位年と同じになります。しかし、当時二人の天皇が同時に即位したということはありません。
これは、雄略天皇は安康天皇の即位を認めず、允恭天皇のあとはただちに自分が即位したということにしたためです。
しかし、書紀の編者は安康の在位を認めたことからちぐはぐなことになったのです。
今度の本では雄略天皇の没年については確定しておりません。今後詳しく調べていくことにしています。
とりあえずはここまでを本にしてみることにいたしました。
倭王武は雄略天皇と誰もが認めているので簡単にきまるだろうと考えていたのですが、もっともてこずった天皇でした。
489 :
サガミハラハラ:2006/12/16(土) 21:59:44
458年秋允恭天皇の使者出発。
459年春允恭死去
459年秋安康天皇即位
460年春允恭の使者中国の都に到着。宋書に倭国貢献の記録あり。
460年秋安康の使者出発。安康死去。
462年 安康の使者到着。 宋書に倭王興貢献の記事あり。
490 :
サガミハラハラ:2006/12/16(土) 22:17:53
どういうわけか、上記のはじめの部分が消えてしまいましたので再録いたします。
安康天皇の時代の前後の貢献についてシミュレーションするとこうなります。
を初めにいれてください。
サガミハラハラさんのでは
ヤマトタケルの実年措定とかも明らかになってるのでしょうか
492 :
サガミハラハラ:2006/12/16(土) 22:50:49
倭健命は307年誕生の337年死去となっています。
寿命の30歳は普通暦です。両方の暦が混在している例といえます。
これは、命の記録が民間伝承等にかなりよっていることからきているとみられます。
しかも後世につけくわえられたものともおもわれます。
742 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:34:56
天照大神とは誰か
>天文学者によると、BC138年、158年、247年、248年、454年に
>日本で皆既日食が観測されたというのである。
http://www.nagaitosiya.com/a/amaterasu.html 743 :日本@名無史さん :2006/12/16(土) 23:36:44
>>742 安本は、247年、248年って騒いでいるけど
もし、本当にアマテラスが実在の人物をモデルにしたものなら
BC138年のが一番、可能性ありだな。
495 :
唐松山:2006/12/17(日) 09:54:39
ほつま 増し で年表を作りました。 考慮中ですが
チ=治世年数...タ=太子に成る...ア=天皇に成.ウ=世継ぎ誕生...リ=立太子...シ=死亡 年齢です
m=増し前...天皇に成った年よりり引く(=前の天皇と同じ)
n=増し中...太子が生まれる前に引く
g=増し後...立太子から死亡まで
太子が生まれてから立てられるまで よく解りませんのであまりいじってありません。
キサキは11才とか在りますので 増しは 適用されていないようです(子供だからか?)。
1年の誤差、訂正されていない所は ご容赦
神武 チ 76 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。シ127。。。。。。。。。m..n..g35
チ 18
綏靖 チ 36。。タ 17.。。ア52.。。ウ 56.。。リ 72.。。シ 84.。。。。。。。。。m.35.n.00.g12
チ 25。。タ 00.。。ア17.。。ウ 17.。。リ 37.。。シ 37.。。
安寧 チ 38。。タ 21.。。ア33.。。ウ 36.。。リ 45.。。シ 70.。。。。。。。。。m.12.n.00.g26
チ 12。。タ 21.。。ア21.。。ウ 25.。。リ 32.。。シ 32.。。
懿徳 チ 34。。タ 08.。。ア36.。。ウ 00.。。リ 57.。。シ 69.。。。。。。。。。m.26n.12.g12
チ 10。。タ 08.。。ア10.。。ウ 00.。。リ 00.。。シ 19.。。
496 :
唐松山:2006/12/17(日) 09:55:21
孝昭 チ 83。。タ 18.。。ア31.。。ウ 75.。。リ 95.。。シ 113.。。。。。。。。m.12.n.44.g14
弟 チ 25。。タ 18.。。ア19.。。ウ 24.。。リ 43.。。シ 43.。。
孝安 チ 103。。タ 20.。。ア34.。。ウ 85.。。リ 110.。。シ 137.。。。。。。。m.14.n.46.g26
チ 32。。タ 20.。。ア20.。。ウ 25.。。リ 50.。。シ 51.。。
孝霊 チ 78。。タ 26.。。ア52.。。ウ 71.。。リ 88.。。シ 127.。。。。。。。。。m.26.n.4.g37
チ36。。タ 26.。。ア26.。。ウ 44.。。リ 57.。。シ 61.。。
孝元 チ57。。タ 18.。。ア60.。。ウ 69.。。リ 85.。。シ 117.。。。。。。。。。m.37.n.5.g34
孫 チ 19。。タ 18.。。ア23.。。ウ 25.。。リ 40.。。シ 41.。。
開化 チ60。。タ 16.。。ア51.。。ウ 59.。。リ 78.。。シ 111.。。。。。。。。。m.34.n.4.g33
チ 24。。タ 16.。。ア17.。。ウ 21.。。リ 39.。。シ 40.。。
崇神 チ68。。タ 19.。。ア52.。。ウ 81.。。リ 102.。。シ 119.。。。。。。。。。m.33.n.19.g18
チ31。。タ 19.。。ア19.。。ウ 29.。。リ 49.。。シ 49.。。
垂仁 チ 99。。タ 21.。。ア42.。。ウ 62.。。リ 79.。。シ 137.。。。。。。。。。m.18.n.13.g60
チ 27。。タ 21.。。ア24.。。ウ 32.。。リ 49.。。シ 50.。。
景行 チ 60。。タ 18.。。ア81.。。ウ 86.。。リ 126.。。シ 140.。。。。。。。。。m.60.n.20.g10
チ 30。。タ 18.。。ア21.。。ウ 26.。。リ 46.。。シ 50.。。
これで 崇神から景行までほぼ90年 たたねこ 長生きしすぎ
497 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 10:18:56
こういう「お遊び」って面白い?
>>489 の筋書きはなんかオカシクないですかね
漢籍で年譜が打ってる記事は、基本的に
1、倭王が死んで新倭王が送った遣使記事
2、新倭王に対する詔勅
がセットで
460年の帝紀に書かれる「倭國、『遣使獻方物』 」は、1のパタンで
蛮夷伝での「濟死丗子興、『遣使貢獻』 」との対応してるんじゃなかったですか
>>489だと
允恭=濟が死んだ事を、允恭が死ぬ前に出した使者が告げる事になる筈
どうなんですかね
499 :
唐松山:2006/12/17(日) 11:29:10
増しで 景行 を精査
西暦 239年から 268年
西暦 239年 景行 天皇に成る...60年の増し
西暦 242年 タケウチ生まれる..尾張行幸..ワカタリヒコ生まれる...景行4、5、6,7,8、は同年
西暦 244年 景行12年 熊襲叛く(九州王朝に対し)要請を受け8月15日出立...景行12,13,14は同年
西暦 247年 景行17年 再度出向 九州各地を転戦
西暦 248年 景行18年 クマノガタ平定、閏7月4日筑紫のオオミケ死亡
西暦 250年 景行20年 五百野姫14歳を伊勢より筑紫に入れる(約100人の兵隊、付き人共)
西暦 257年 景行27年 熊襲また叛く 12月コウス下向...景行28=40
西暦 258年 景行40年 武尊(コウス)2月九州と穴門平定、より帰都、10月伊勢、関東下向
西暦 259年 景行41年春 武尊 尾張に帰る、同武尊死亡、
西暦 264年 景行46年 ワカタリヒコを太子とする...景行46、より51年は同年
西暦 266年 景行53年 景行関東下向...(景行52年は、53年と同年として見た方が自然)
西暦 268年 景行55年秋 景行死亡...景行55年、=景行60年
しかも入宋と入れ違いになったからと
安康=興の初の遣使が462年だとし、且つ、また入れ違いに没していると考えてる。むむむ
501 :
唐松山:2006/12/17(日) 11:39:47
これを お遊び というのは、まあ許す。
では、記紀に 閏月が無い 理由を 述べよ
502 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 14:42:42
どっかの神社の延喜式で開化のときに初めて外国から攻撃を受けたと書いてある
そうだが、知っている人は教えてくれ!
503 :
唐松山:2006/12/17(日) 15:21:57
考霊から崇神は、
私にとっても????の時代
九州を除くイヅモ、カワチ、畿内統一の時代
海部氏系図について、どう思いますか?
また、その神社には、前漢や後漢の銅鏡が
収められていたんでしょう?
海部氏系図は先代旧事本紀と共に重要視していますよ
書紀の年代引き伸ばしに伴う系図書き変え部を、
年代復元計算と云う内的手段以外に
先代旧事本紀と海部氏系図によって確認できますし
不整合部があっても相互に参照する事で復元を試みる先行研究もありますし
書紀研究にとっては必須じゃないでしょうか
書紀の神武元年はAD57と算出しましたので、それを前提にすると
海部氏が書紀の神代に相当する前漢鏡を持って居る事は
神代に当たる時代も安易に棄ててはいけないと云う事になるので、神代は神代でなくなりますよね。
それに3倍引き伸ばし/AD57年設定説を取らない人や
先代旧事本紀/海部氏系図なんかの記紀以外の史料を重視しない人は、
書紀の上位十天皇に付いて実年代復元を試みても、天皇の父子関係に注目すると
・年代算出が間違っていて、上位十天皇の直系十世十代の世系は正当なのか
・年代算出は正しくて、上位十天皇の直系十世十代の世系が不当なのか
と云う最終的な結論が得られないんじゃないでしょうか?
しかし、3倍引き伸ばし/AD57年設定説や、先代旧事本紀/海部氏系図等を重視する立場なら
記紀の欠史八代の系図こそが当初の物から改変されたと結論付けられますし、改変箇所も絞り込めます。
ですので、書紀研究の上でも重要な史料だと思います。
506 :
唐松山:2006/12/17(日) 21:02:48
大彦 考霊4年生まれ
大彦の娘11才で崇神の妃となる
崇神9年 大彦 越のオシとなる
モモソ姫 共????の時代です
507 :
唐松山:2006/12/17(日) 21:27:20
この間に 私として 入れたい物
崇神5,6年大凶作
伐休尼師今(ばっきゅうにしきん)十年
(193年)『六月倭人が大飢饉にみまわれ、食糧を求めて千余人も来た』とする。
出雲の国譲り
出雲の国王大物主にモモソ姫が嫁ぐ
モモソ姫?の子供堕胎に失敗
508 :
サガミハラハラ:2006/12/18(月) 19:06:43
アクセス規制のためご質問のおこたえできませんでした。
>>498 不明年と460年の記事とは出典がことなります。
460年の記事は宋書孝武帝紀で、不明年の記事は宋書倭国伝です。
460年の記事は王の名が不明です。となるとこの記事が不明年の前のことなのか、後のことなのかということになります。
紀においては、済=允恭天皇な在位は長く、興=安康天皇の在位はとても短くかいてあります。
となると、これは不明年の前に入るとみるのが適切であると考えます。
藤間生大氏の「倭の五王」(岩波新書p25)の年表では、不明年の次に460年の文がありますが、これは順序を入れ替えたほうが適切であるとおもいます。
509 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 05:10:53
サガミハラハラさん、
神武東征の舞台になった日向は
北九州の山門(ヤマト)の日向だというのは
正解だと思います。
ただ、サガミハラハラさんの「高天原は福岡の山だ」だという説は間違っています。
高天原は、奈良県の高天台です。
神武の先祖は、高天原(畿内)政権の王族の分家として生まれ
日向の国へ派遣されました。
そして、神武の代になって、本家の入婿になったのです。
>北九州の山門(ヤマト)の日向だというのは
これは面白い見方だけど
山門は後から言われた可能性もあるんじゃ?
>神武の先祖は、高天原(畿内)政権の王族の分家として生まれ
日向の国へ派遣されました。
そん説は始めて聞いたよ
新説?
511 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 23:02:29
>>510 普通に国文学で読んでいけば、そういう結論になる。
おそらく、後に九州南部が日向と言われるようになったから
後世の人間が大きな誤解をしたんだろけど、
普通に記紀には、筑紫(字はこれと違っていた?ちょっと忘れた)の日向
とかいう記述が出てくる。
神武東征の最近まで信じられていたルートも、日向から
わざわざ遠回りして、北九州の港に立ち寄っている。
実はそこにも日向あるんだよね。
山門の地名に関しては、福岡市以外にもあるんだけど、
大分だとか佐賀だとか、北九州ばかり。このどこかだろう?
畿内にあるヤマトは、いずれも、倭とか大和とか大倭だとか...
よって、普通に北九州の山門が、畿内に来て大和の字を当てるようになったと見るべき。
高天原が、近畿地方の金剛山高天台だというのは
新説でもなくて、これから徐々に言われるんじゃないのか?
これまで三王朝交代説を唱えた鳥越氏のせいで、敬遠されていた説だがw
自分は鳥越氏とは全く違って、イザナギから一応、続いていたと思う説。
記紀の神話の部分で、イザナギ以降を読んだら
おのずと、そういうことが分かってくる。
また、天皇家の大国主神に対するスタンスだとか
伊勢神宮軽視で、高木神を大切にする皇室の宮中祭祀だとか
明治天皇が東京へ行く前に高天彦神社に参ったとか。
>>511 日本は崇神の前にわりと統一されてたということですか?
513 :
サガミハラハラ:2006/12/21(木) 07:46:28
雄略天皇の紀年について
書紀の在位年は雄略天皇の中途から普通年であるとかんがえています。その根拠は、
安康天皇の460年代が確定している以上、頭はおさえられています。(武寧王誕生461年=雄略5年)
尻尾の法はどうかといいますと、これは三国史記の百済滅亡や諸王の動向などから、
470年代末に崩御と考えられます。そうするとその間20年くらいですから、書紀の
在位23年とあい、日本書紀の雄略天皇在位は普通年で記述されていたとわかります。
年齢については、古事記では124歳とありますが、書紀での記載は今の所みつかりません。
ただ、古事記では赤猪子の話があり、80年待った、ということから普通年40年だ
とすると、これは在位23年を大きくオーバーしてしまいます。
天皇の年齢についてはシミュレーションはしておりませんので、年齢についてはわかりません。
今後検討してみます。
サガミハラハラさん、邪馬台国の所在地について
本を書いてしまったのですか?
あと、神武天皇の東征地にもついて書いてしまったのですか?
たぶん、サガミハラハラさんの推理は少し違うのでは?と
古事記・日本書紀スレに来てください。
515 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 08:54:10
系図で分かりやすくすると
スサノオ(宇佐の王)━(数代)━┳神武天皇
┗━━(数代)━━卑弥呼
516 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:46:53
174 :日本@名無史さん :2006/12/21(木) 13:16:06
>>172 物部氏というのは、天皇家と同じで、イザナギの末裔を名乗っていて、
どちらも、元々は高木神を祭っていた。
そして、物部氏は日本全国に分家が多く居て
そういう意味では、神武天皇後胤の天皇家や蘇我氏や
中臣氏から分派した新興氏族の藤原氏を遥かにしのぐ勢力だった。
ひとつ違えば、神武天皇の後胤である天皇家を
屈服させる力があった。どちらも、同族だしね。
だからこそ、天皇家は自分の先祖にアマテラスという女神を挿入することによって
男系では物部氏と家系を断絶させる必要があった?
175 :174の続き :2006/12/21(木) 13:21:21
本来、高木神が皇祖だったはずの天皇家が
アマテラスという新興の女神を作り出すことによって
世間では、そちらのほうが皇祖ということにした。
そうすることによって、物部氏を皇祖の子孫から外した。
ただし、宮中祭祀では未だに高木神を皇祖と扱っている。
また、高木神のほうも昔と同じままではなく、
様々な神様を合体させることによって
高皇産霊神という意味合いが少し違う神様を作り出すことによって
元の原型を隠す必要があった。
>>516 高木神が徐福ってこと?
本家 物部出雲
分家 天孫日向
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかに馬鹿だと思いませんか? QQQQQQQQQQQQQ
520 :
サガミハラハラ:2006/12/24(日) 23:30:41
今一寸神武即位年を片手間に計算してみたら(試算といいます)、AD131年と簡単にでてしまった。長年の懸案がこんなに簡単にでてしまっていいのだろうか。
521 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:21:50
>>520 心配だ! あなた間違っている。
なぜ、倍年暦で記紀を素直に計算しない。
522 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:22:53
240 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 19:16:55
サガミハラハラさんの倍年暦補正計算で算出したら
西暦230年〜264年が崇神天皇の在位期間。
(計算間違っていたら、ごめんなさい)
これを信じるのなら、記紀では崇神天皇5年に飢餓が起こったということだから
倍年暦で補正したら、西暦233年くらいに飢餓が起こった。
ちょうど、その時代に卑弥呼が邪馬台国の国王になっている可能性がある。
つまり、飢餓のせいで、即位間もない崇神天皇が妹の御真津比売命に
祭祀政治をさせた可能性がある。
台与(とよ)というのは、崇神天皇の皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)で
初代・斎宮になった人物じゃないのか?
107年の倭国王・「帥升等」シシトは、
第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)の可能性あり。
孝安天皇の在位期間(サガミハラハラさんの倍年暦で83年〜133年)
の可能性が高い。
サガミハラハラさん、あなたの倍年暦計算を
崇神天皇以前は、日本書紀の即位期間を信じて愚直に計算してみるべきでは?
問題は57年の奴国王の金印ですね。これは、どういう意味を表しているのか?
523 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:24:32
>>520 サガミハラハラさんへ。
837 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 22:48:54
箸墓=卑弥呼の墓は確定。
ただし、記紀に書いてある孝霊天皇の皇女ではなく
妊娠した年齢から言って、孝元天皇の皇女だと思う。
孝霊天皇の皇女と孝元天皇の皇女は名前は殆ど似ているし...
記紀の編纂者がゴチャゴチャになったんじゃないのか?
あと、107年の倭王・帥升は、
倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
おそらく、第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)
524 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:31:22
252 :日本@名無史さん :2006/12/24(日) 23:04:23
>>250 自分は今まで、邪馬台国は九州で、別に畿内王権があった説だったけど、
でも、今はちょっと、邪馬台国=畿内王権じゃないのか?と思っている。
というのは、サガミハラハラさんの倍年暦を、崇神よりも前にあてたら
107年の倭王・帥升は、
倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)
と一致したから。
あと、崇神天皇のところで、飢饉が起こって、
遠い蛮族に謀反を起こされるというのが出てくるが、おそらく狗奴国の謀反だろう。
また、崇神は叔母に祭祀を頼んで宗教の力に頼る記述が出てくるが
この叔母こそ卑弥呼じゃないのか?倭迹迹姫命だ。
記紀には倭迹迹日百襲姫命で崇神の大叔母の名前が書いてあるが
名前が似ているから記紀の編纂者もゴチャゴチャになったはず。
あるいは、途中で入れ替わったのかも。
なんせ、妊娠したわけだから、年齢から考えてね...
問題は、57年の漢倭奴国王。でも、これは特定の名前が無く
しかも、冒頭に「漢」という字が着いている。
つまり、これは、倭国全体の国王ではなくて、奴国王。
しかも、後漢の州知事みたいな立場として認定されて
金印を貰ったんじゃないのか?
ちなみに、同時代の天皇は、サガミハラハラさんの倍年暦を愚直に追及すれば
孝昭天皇(41.5-82.5)。
おそらく、欠史八代の間に、畿内の天皇家の力が増大して
奴国王は追い込まれていったのかもしれない。
サガミハラハラさんの倍年暦を、崇神よりも前にもあてる。愚直に。
57年の漢倭奴国王が金印。これは、その名称のごとく
倭国全体の王ではなく、奴国の王の可能性が強い。
また、最初に「漢」という文字がついているから、後漢の州知事みたいな
立場で任命されたので、金印を貰えたのではないだろうか?
サガミハラハラさんの倍年暦で計算したら、
孝昭天皇(41.5-82.5)の時代であり、奴国王は、天皇に黙って、
使節を送ったのではないだろうか?
107年の倭面土國王(やまとこくおう)・帥升等(シシト)
=第六代孝安天皇(大日本足彦国押人命・オシヒト)(83-133.5)
崇神天皇の時代(230.5-264)
崇神5年(233年くらい?)飢饉・疫病が起こる。
そこで、崇神の叔母の倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)の宗教の力を頼る。
倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)=卑弥呼(ひみこ)
この時代に宗教祭祀都市、マキムク宮が建設、前方後円墳の建設も始まった。
実際、発掘調査では、住宅よりも祭祀施設ばかり発掘されており
マキムクの宗教的意味合いの強さが指摘されているが、これは
崇神時代の疫病・飢餓を宗教の力で克服する意味があった。
また、崇神の時代は各地で謀反があり、記紀の中で、
はるか遠い蛮族の謀反が登場してくるが、この蛮族は狗奴国(熊襲)の可能性が強い。
畿内から九州南部は遠いので、遠い蛮族だと思ったのだろう。
崇神の娘・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)が初代斎宮になる。
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)=台与(とよ)?の可能性が強い。
八木壮司が主張する『倍年説』がある。倭と中国から呼ばれていた
当時の日本では一年が今の半年として数えられたとする学説が
「魏略」を根拠にして存在する。これに従えば、神武天皇は127歳生きていたのではなく
その半分の約63歳で天寿を迎えたことになり学問的にも信頼性が高まる。
また神武天皇即位も紀元前660年ではなく西暦181年になる。
なんで181になるんだろ
もっと長くなると思うが
527 :
唐松山:2006/12/26(火) 17:46:18
倍暦で 閏月は、どうなるの??
増しで 景行の閏月を見ました。
景行元年=垂仁90年=同99年です
西暦239年 景行元年 垂仁99年 アフミ
西暦242年 同 4、5年 4年ネシモ=5年ネシモ
西暦243年 同 6,7,8,9,10年 該当記事なし
西暦245年 同 12,13,14,15、16年 12年アフミ
西暦247年 同 18年 18年アフミ
西暦248年 より西暦254年まで 該当記事なし
西暦255年 同 25年 25年ネシモ
西暦258年 同 28年=40年 40年セミナ
西暦259年より西暦263年まで 該当記事なし
西暦264年 同 46年=51年 該当記事なし
西暦265年 同 52年 52年アフミ
西暦267年 同 54,55=60年 景行死亡 該当記事なし
29年間で7ヶ所確認できました。
かなり 良い線 行っている(自我自賛)
>>526 八木説は、素直に倍年で計算してないから
そういうアホな数字になる。
(倍年暦だったことに気が付くまでは良かったが...)
日本書紀が倍年だけじゃなくて、それ以外に改竄しているところは
卑弥呼と神功皇后を無理に合わせるために
仁徳天皇の即位期間を二倍にしたことがあるらしい。
そういうのを考慮したら、神武天皇は紀元前1世紀の即位だ。
529 :
唐松山:2006/12/26(火) 19:22:55
倍暦って
ゴムひもに目盛りを刻んで 伸び縮みさせて 歴史の長さを謀る方法です
サイコロの方が まだマシ
530 :
唐松山:2006/12/28(木) 16:54:44
とりあえず 年号の干支は、でたらめ
では、月の えとは?
日々の えとは?
増し でみた時 日々のえとは、合っているようです
崇神を 日々の干支で見たとき 24年から26年の 治世です。
今 まとめていますので そのうち
531 :
唐松山:2006/12/30(土) 09:57:50
崇神の治世年数を日々の干支で診てみました。
まず 是までの私の予めの予想 27年間 この辺りの年数でみました。
最も妥当だと思った 26年 だけ 発表します。
崇神1年1月1日 ねしえ
垂仁1年1月1日 つあと
まず 太陽暦で
26年*365.25=9496.5
つぎ 太陰暦で
月の数26*12/2=156
大の月、小の月共156 とする
閏月 19年で7回とし26年で 9回
30*156+29*156+30*9=9474
9496.5-9474=22.5 誤差の範囲以内
崇神1年1月1日 ねしえ
垂仁1年1月1日 つあと
1を ねしえ として +9474=つあえ +1日で つあと
崇神 治世26年とするとピッタリ 細かい操作不要
なお68年で見た場合15日ほどずれます。
書記で1ヶ所 試してみたが合わなかった
この板はもしか
養豚場でつか?
そのようでつね。
黒豚はおいちいのでつか?
>>533 多分おいちいでチュ
アスパラ巻きでどうじょ
535 :
唐松山:2007/01/07(日) 08:22:41
日々の干支で年数を計算する 方法 最も 単純な 太陰暦です。
5行 B5から+1 AE5まで横に30 2段にしたら60年 3段...
6行 5行*365.25 太陽暦日数
7行 5行*6*30+5行*6*29
8行 閏 19年で7回 0,0,1,1,1,2,2、2 ...と言う具合
9行 8行*30 閏月の日数 (29日にすると調整が大変)
10行 7行+9行 太陰暦の日数(太陽暦の日数を超えない事)
11行 21 調整用 時々変える必要あり +−9の範囲内で 注意+−6で似た干支になります
12行 10行+11行
13行 干支に換算する式 下記の式をお使いください。
=CHOOSE(MOD((B12+69),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&
CHOOSE(MOD((B12+71),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
この式で1年365日の干支も計算できます。合わせて表を作ると便利
当時の 日暦は、全て1080日です
成務 元年春正月甲申朔戊子 仲哀 元年春正月庚寅朔庚子 二年春正月甲寅朔甲子
沢山集めて 挑戦して下さい。
536 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 09:06:11
当時の 日暦は、全て1080日です
遂に三倍に転向か♪
537 :
唐松山:2007/01/07(日) 09:40:00
上記の 干支 に依る年数割出し に使った 年数数字と 調整日数です
書記の 干支を 使いました
94孝霊 23
127孝元 20
152開化 19
175崇神 19
202垂仁 21 は2年度の2月の干支により算出
228景行 24
255成務 21
279仲哀 21
538 :
唐松山:2007/01/07(日) 09:43:54
1080日在れば どんな年でも使えるという事だと思います。
カレンダーの使いまわし
その様に書いてあります。
539 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 09:56:58
どこに書いてるんですか?
540 :
唐松山:2007/01/07(日) 10:50:21
当時(弥生 古墳時代)の暦を正しく再現したい人は、
ほつま を参考にしたら如何でしょうか?
ホ16084 みめくりすべて チヤソなり
この辺の 文章がそうだと思うのですが さっぱり解りません
3月か4月 最大39日(何年かおき) 5月新暦
私には、この辺までしか...
541 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 10:56:19
ホツマを作った人は、一旦日本書紀を自分の解釈で解いた筈でしょ
そのロジックをそのまま書いときゃ良いのに、ホツマ自体を解かなきゃ
作者の意思を汲み取れないなんて面倒な話だな
542 :
唐松山:2007/01/07(日) 11:23:39
書記に、書いてない事も 山ほど載っています
ほつま から 日本書記はある程度再現出来ますが、
日本書紀 から ほつま は再現できません
では キツネ=稲の神様 はどこから出来たか?
ほつまの暦 キツサネ からきたことは想像できても 日本書紀を暗記するほど読んでも
答えは、出ないでしょう。
543 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 11:28:18
それって日本書紀に書いてない事がホツマに書いてあるって事は
要するに日本書紀はホツマから出来てないけど
ホツマは日本書紀から出来てるって事だよね
544 :
唐松山:2007/01/07(日) 11:43:43
ぎゃくでしょう
日本書紀は 全てを採用していないと言う事
たとえば
書記の景行18年あたり 遣五百野皇女 と出ていますが
ほつまでは いおのひめ これ 筑紫向け と書いてあります
書記では意味がまったく解りません
545 :
唐松山:2007/01/07(日) 12:23:06
546 :
唐松山:2007/01/08(月) 16:41:57
このような 年表が 出来ました 私の年代感です。
神武 西暦 –12 橿原 飛鳥川に都
綏靖 西暦 6
安寧 西暦 25
懿徳 西暦 35 8才で天皇
孝昭 西暦 44 弟
孝安 西暦 70
孝霊 西暦 105 31年頃宝物庫火災焼失 領地を広げる
孝元 西暦 138 孫
開化 西暦 163
崇神 西暦 186 飢饉 出雲併合
垂仁 西暦 208 新都 巻向へ都を移す 三輪山も移動?(こちらは、崇神かも)
景行 西暦 239 要請により九州出兵 東海、関東以北を平定
成務 西暦 266 屯倉、国造の設置
仲哀 西暦 290
たたねこ 80才 人間に成れたが
ももそ姫殿が… 今しばらくお待ち下され…
天皇家の短命は、血液のせい だと思います
547 :
唐松山:2007/01/08(月) 20:45:46
早速 訂正を兼ねて
年次数は 西暦−9です 干支は、元年1月1日 調整日 です
神武 西暦 –12
綏靖 西暦 7 壬申 21
安寧 西暦 24 ?辛卯22 元年10月より59日2年乙酉より
懿徳 西暦 36 己卯 23 2月より30日
孝昭 西暦 45 丙戌 22
孝安 西暦 70 乙酉 22
孝霊 西暦 105壬辰 23
孝元 西暦 138辛未 20
開化 西暦 163庚午 19
崇神 西暦 186壬午 19
垂仁 西暦 212 戊申21 2年2月より−30日が壬寅
景行 西暦 238 ?壬申21 2年3月より−60日丙寅
成務 西暦 266甲申 21
仲哀 西暦 290庚寅 21
神功 西暦 298壬申 21
最も 頼りにしていた 景行が づれてしまった しかも誤差の少ない方へ
私の予想の 閏月からみると悪い方へ
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、
結局記紀は間違いだと認めているんですよね?
間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・
ちょっとおかしくね!
549 :
太国:2007/01/09(火) 22:32:52
>>548 712年に成った古事記を眺めて、不足分、誤認等の改正を必要な箇所の有無を
検討して紀の編者らは720年日本書紀を完成したわけであるから、記紀の歳の
相違では、後者である紀の修正化の記載の数字のほうがずっと正確だという
ことであり、こちらを選択すればよい。
550 :
太国:2007/01/09(火) 22:34:33
ここは倉西さんのスレだったので、〜早急に立ち去ります。
551 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:58:57
552 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 13:26:16
継ぎ目 発見
ついに 天皇の 継ぎ目 が判りました!!
まず 4代 懿徳 元年1月1日庚辰 10年か20年、末年1月1日戊寅(2月己酉と丁未でも同じ)
次 5代 (弟)孝昭 元年1月1日丙戌。 戊寅と丙戌 繋がりません
そして
8代 (孫)孝元 元年1月1日辛未 24年、末年1月1日戊寅
9代 開化 元年1月1日庚午。 戊寅と庚午 繋がりません
繋がるのは、懿徳 末年1月1日戊寅と 開化 元年1月1日庚午
注 誤差 数日あります(殆どの天皇の治世中も同じこと)
孝の字4代を抜くと
景行40年(西暦260年頃)から178年(ほつま)前に 神武東征 西暦80年頃
計算は1年 354日 閏1回30日
553 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 14:52:32
訂正
孝元末年1月1日 己巳
懿徳と孝昭 3年
孝元と開化 4年
これだけ ヅレています
>>548 孝元天皇
稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に、孝元天皇の第一皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇自身も実在の人物とみなす見方もある。
これは実在したと確定できる
神皇正統記は
仏滅後290年に神武天皇が即位したことになる事から逆算して、瓊々杵尊の初年に迦葉仏が
出現しウガヤフキアエズノミコト(瓊々杵尊から数えて5代目)の835667年に釈迦が誕生、
同835753年に入滅した事になるという。また仏滅後百年に阿育王(アショーカ王)が即位
555 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/14(日) 04:05:17
(87-20)/2=33.5
394+33.5=427.5
シンプルで良いかも
>>554 それなら金文に孝元の名もあるべき。
むしろ大彦が孝元皇子に接合されたのが、これより後の時代であることが明らか。
557 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 13:24:19
358 :日本@名無史さん :2007/01/07(日) 02:28:34
太国さんと、九州王朝大好きさんは、
九州王朝肯定派なの?
コテもジョークだと思ってたよw
冗談はさておき、
一体何時まで九州王朝があったと思っているんだい?
359 :太国 :2007/01/07(日) 08:05:20
文武世前後のころまでですよ。九州王朝大好きさんもそのはずですが。
>>557 自分の思うとうりにならないと気がすまないんじゃないか
560 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 22:11:33
358 :日本@名無史さん :2007/01/07(日) 02:28:34
太国さんと、九州王朝大好きさんは、
九州王朝肯定派なの?
コテもジョークだと思ってたよw
冗談はさておき、
一体何時まで九州王朝があったと思っているんだい?
359 :太国 :2007/01/07(日) 08:05:20
文武世前後のころまでですよ。九州王朝大好きさんもそのはずですが。
*****きっとジョークでしょうね*****
561 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 22:15:45
でもさ、神武天皇が御即位された2667年前の2月11日は
月齢が新月だったんでしょ?
>>1のが正しいとなると、その月齢の2月11日は新月に当たるのか?
562 :
太国:2007/01/14(日) 22:37:16
>>561 新月だったそうだ。いつぞやこれの過去スレ(06,5/19 No.3)での
ある方の解説だと、60の倍数で2/11かつ新月というのは B.C.660年を
除けばB.C.60年 か A.D元年しかないとのことだ。天文ソフトで調べ
たそうで、これは拙者の説が真であることが濃厚になり、恵也や後藤や
一応らがどう抗弁してもひっくり返ることはかなわぬ、動かぬということ
を意味して来る。ここはもう書きこまないが、重要なので書きこんだ。
驚くなかれ、神武即位元年は紀元元年のようだ。
「邪馬台国は大和朝廷になったのか part21」のスレ>411〜>499
に、断続的にそれがしの倍暦で、年表での記載あり。
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、
結局記紀は間違いだと認めているんですよね?
間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・
ちょっとおかしくね!
564 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 23:01:41
358 :日本@名無史さん :2007/01/07(日) 02:28:34
太国さんと、九州王朝大好きさんは、
九州王朝肯定派なの?
コテもジョークだと思ってたよw
冗談はさておき、
一体何時まで九州王朝があったと思っているんだい?
359 :太国 :2007/01/07(日) 08:05:20
文武世前後のころまでですよ。九州王朝大好きさんもそのはずですが。
*****九州王朝説の人が、なんで記紀を理由も無く信用出来るんでしょうね*****
>564
マルチポスト禁止!!
567 :
サガミハラハラ:2007/01/17(水) 19:33:23
神武即位年は130年代前半で間違いないようです。
2ちゃんねるはとかくいわれているが、ここで日本古代史上画期的な発見がなされたということは、古代史研究上のちのちまでも
特筆されるであろう。
それほどの快挙である。
568 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 20:00:39
>>567 それは間違い。
130年代は、おそらく孝安天皇。
倭国大乱の2世紀後半は孝霊天皇の時代。
569 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 20:15:43
>>562 ほう。新月だったのか・・・。
しかし、月齢は神武天皇御即位の年を考える上で重要なキーワード
だからな。
でも、本当に紀元元年が皇紀元年なのか??
>>567 130年代の2月11日で月齢が新月の日は有るのか?
570 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 20:21:15
>>562 その新月ってさ、天文学ソフトで調べたそうだけど
誤差は大丈夫なのか?
皆既日食の場合は、少しでも誤差があったら観測されないんだけど...
新月の場合は、どうよ?
>>567 130年代で間違いない理由を教えてください
572 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 21:46:25
>>571 サガミハラハラは前から言っているよ。
でも、理由はショボイと思う。
573 :
サガミハラハラ:2007/01/17(水) 22:23:36
574 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 23:08:02
2倍年暦とか欠史八代とかを提唱している人って、
結局記紀は間違いだと認めているんですよね?
間違いなのに、その他が信用出来るなんて・・・
ちょっとおかしくね!
576 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 23:47:17
2倍年歴は単純に時代の年歴方法が違うって事だから
問題ないんじゃねぇ?
年代の問題であって、何をしたとかってゆー事柄が問題ではないからな。
577 :
サガミハラハラ:2007/01/18(木) 07:28:31
>>575 2倍年暦については答えた。
欠史八代のなにを提唱している人ですか?存在を肯定している人ですか、否定している人ですか。
質問があやふやですからだれも答えないのですよ。
578 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 07:47:03
>>577 まともに相手しちゃダメ。
これ、他のスレでも見たよ。マルチポストだから、スレの流れに
沿った書き込みであるはずがない。
579 :
唐松山:2007/01/19(金) 18:11:49
日々の干支 の 見方 年の干支は、増しが有る
日々の干支だけで 診てみました。
まだ 閏に 問題あり
歴年 年度 誤差 閏 歴日
0, 綏靖天皇
1, 1年度 0日 429 壬申 綏靖天皇元年春正月壬申朔己卯
19, 66979 壬午 二十五年春正月壬午朔戊子
安寧天皇
23, 1年度 1日 8回 8723 丙戌 安寧天皇元年冬十月丙戌朔丙申
25, 3年度 0日 9回 8955 戊寅 三年春正月戊寅朔壬午
33, 11年度 2日 12回 11999 壬戌 玉手看天皇十一年正春正月壬戌
44, 22年度 2日 17回 16487 庚戌 三十八年冬十二月庚戌朔乙卯。天皇崩
懿徳天皇
45, 1年度 2日 17回 16546 己酉 懿徳天皇元年二月己酉朔壬子
45, 1年度 2日 17回 16723 丙午 元年秋八月丙午朔
45, 1年度 2日 17回 16753 丙子 元年(干支誤)》九月丙子朔乙丑
46, 2年度 2日 17回 16871 甲戌 二年春正月甲戌朔戊寅
46, 2年度 2日 17回 16900 癸卯 二月癸卯朔癸丑
55, 11年度 0日 21回 20204 丁未 二十二年春二月丁未朔戊午
50, 6年度 19回 同上
57, 13年度 2日 21回 21121 甲子 三十四年秋九月甲子朔辛未
孝昭天皇 観松彦香殖稲天皇 孝昭天皇
58, -1年度 3日 22回 21535 戊午 十月戊午庚午。葬
59, 1年度 0日 22回 21623 丙戌 孝昭天皇元年春正月丙戌朔甲午。
59, 1年度 3日 22回 21712 乙卯 夏四月乙卯朔己未
71, 13年度 2日 27回 26021 甲辰 二十九年春正月甲辰朔丙午
74, 16年度 3日 29回 27144 丁亥 六十八年春正月丁亥朔庚子
78, 20年度 1日 30回 28794 丁巳 八十三年秋八月丁巳朔辛酉
580 :
唐松山:2007/01/19(金) 18:40:29
当時 使われていた 暦は、太陽太陰暦
2月11日 当然 新月では、無いはず。
閏年に 空亡 ただし 閏月は、夏か冬 かなりアバウト
しかし 当時 2種類の暦を 使い分けていた? かも
581 :
サガミハラハラ:2007/01/23(火) 08:20:09
紀の年代の神武から崇神までの年代を調査しているのであるが、どうも不可解な点がある。
それは、あまりにもぴったりと数字が合いすぎることである。
否定派にいわせると、ちょっとでも合わないと否定の理由になるのであるが、かといってピタリとあいすぎるのも
おかしいのである。
582 :
日本@名無史さん:2007/01/23(火) 14:41:59
>>581 サガミハラハラさんは、崇神天皇の即位年は
どれくらいだと思いますか?
583 :
唐松山:2007/01/23(火) 18:49:40
書紀の 日々の干支は、信じても良いのでは?
綏靖天皇
歴年 年度 誤差 閏 歴日
1 1年度 0日 0429 壬申1.1.1
25.1.1
安寧天皇
23 1年度 1日 8回 8723 丙戌1.10.1
25 3年度 0日 9回 9195 戊寅3.1.1
33 11年度 2日 14回 12179 壬戌11.1.1
33 11年度 2日 14回 12503 丙戌38.12.1
懿徳天皇
歴年 年度 誤差 閏 歴日
35 1年度 1日 14回 12886 己酉 1.2.1
35 1年度 2日 15回 13123 丙午1.8.1
35 1年度 2日 15回 13153 丙子1.9.1
36 2年度 2日 15回 13271 甲戌2.1.1
36 2年度 2日 15回 13300 癸卯2.2.1
40 6年度 0日 16回 14744 丁未22.2.1
42 8年度 2日 16回 15661 甲子34.9.1
孝昭天皇
歴年 年度 誤差 閏 歴日
43 -1年度 3日 17回 16075 戊午?。10.1
44 1年度 2日 17回 16163 丙戌1.1.1
44 1年度 3日 17回 16252 乙卯1.4.1
56 13年度 2日 22回 20561 甲辰29.1.1
64 21年度 3日 25回 23484 丁亥68.1.1
68 25年度 1日 26回 25134 丁巳83.8.1
584 :
唐松山:2007/01/23(火) 18:54:24
孝安天皇
歴年 年度 誤差 閏 歴日
69 1年度 1日 26回 25282 乙酉1.1.1
69 1年度 1日 26回 25488 辛亥1.8.1
93 25年度 0日 28回 33866 己丑26.2.1
95 27年度 2日 28回 34753 丙子38.8.1
101 33年度 -3日 38回 36966 己巳76.1.1
102 34年度 2日 39回 37355 戊戌102.1.1
孝霊天皇
歴年 年度 誤差 閏 歴日
102 -1年度 2日 39回 37591 甲午 ?.9.1
102 -1年度 3日 39回 37680 癸亥 ?.12.1
103 1年度 2日 39回 37709 壬辰 1.1.1
103 1年度 -3日 41回 37793 丙辰 2.2.1
131 29年度 -3日 49回 47916 己亥 36.1.1
135 33年度 -1日 51回 49423 丙午76.2.1
孝元天皇
歴年 年度 誤差 閏 歴日
1361年度-1日51回49748辛未1.1.1
1394年度1日52回50901甲申4.3.1
1416年度0日53回51815戊戌6.9.1
1427年度1日54回51963丙寅7.2.1
14611年度3日55回53406己巳22.1.1
15520年度-2日57回56889壬申57.9.1
15520年度-2日57回56948辛未57.11.1
585 :
唐松山:2007/01/23(火) 19:10:17
開化天皇
歴年 年度 誤差 閏 歴日
156 1年度 -2日 59回 57067 庚午1.1.1
156 1年度 -1日 59回 57333 丙申1.10.1
160 5年度 0日 60回 58544 丁未5.2.1
161 6年度 -1日 61回 58898 辛丑6.1.1
???
172 17年度 -3日 65回 62910 癸巳28.1.1
173 18年度 -2日 65回 63353 丙辰60.4.1
173 18年度 -2日 65回 63530 癸丑60.10.1
開化天皇 治世18年とすると 崇神天皇の 治世年間の 干支の廻しが狂います。
開化 治世 8年間なら 大丈夫です。
586 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/23(火) 19:26:15
こう云うのも合法かもしれない
68-21*2=26
21年の治世年間を前後に2ブロックに分割した後に、
68年から引く事で、唐松山さんが言う所の増しが26年分発生
587 :
唐松山:2007/01/23(火) 19:27:49
開化
162 7年度 -3日 61回 59250癸巳
163 8年度 -2日 61回 59693丙辰
163 8年度 -2日 61回 59870癸丑
崇神
164 1年目 -2日 61回 59959壬午 崇神元年正月壬午朔
164 1年目 -2日 61回 59988辛亥 元年二月辛亥朔
167 4年目 -1日 62回 61317庚申 四年十月庚申朔
170 7年目 0日 63回 62174丁丑 七年二月丁丑朔
170 7年目 -1日 64回 62380癸卯 七年八月癸卯朔
171 8年目 0日 64回 62824丁卯 七年十一月丁卯朔
171 8年目 0日 64回 62853丙申 八年十二月丙申朔
172 9年目 -1日 64回 62941甲子 九年三月甲子朔
172 9年目 0日 64回 62971甲午 九年四月甲午朔
174 11年目 0日 65回 63709壬子 十一年四月壬子朔
175 12年目 0日 65回 64034丁丑 十二年三月丁丑朔
175 12年目 0日 66回 64241甲辰 十二年九月甲辰朔
185 22年目 1日 69回 67636己卯 四十八年正月己卯朔
185 22年目 2日 69回 67725戊申 四八年四月戊申朔
186 23年目 -3日 70回 68193丙申 六十年七月丙申朔
188 25年目 -2日 71回 68932乙卯 六十二年七月乙卯朔
189 26年目 0日 72回 69465戊申 六十八年十二月戊申朔
太陽暦=(歴日−429)/365.25+1 です
588 :
唐松山:2007/01/23(火) 19:34:02
崇神7年11月=8年12月
こういう 細かい 増しは どう対処したら
で 開化が8年なら モモソ姫も救われるのでは
589 :
唐松山:2007/01/23(火) 19:43:58
今気が付いた
崇神8年12月 7年11月=8年 とすると また元に戻って9年から?
590 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/01/23(火) 20:13:41
なるほど日の干支の側をベースにする訳ですか
これは新しいですね
591 :
サガミハラハラ:2007/01/23(火) 21:07:56
>>582さん
崇神天皇の即位年は272年だと思います。在位は紀では65年ですが、4倍されているので272年から288年までの実年17年です。
592 :
福寿草:2007/01/24(水) 13:41:52
サガミハラハラ氏は垂仁以前は4倍だというが、氏の説では垂仁は288年または289年から314年までとなるが、その間26年か27年となり、99年の4分の1の24.75(四捨五入して25年)
と1年ぐらい食い違うが其の点はいかがなのでしょうか。
593 :
唐松山:2007/01/24(水) 14:36:27
訂正 と 崇神 が174年目より で合いました。
孝安天皇
93年目 25年度 0日 36回34106 己丑
95年目 27年度 2日 36回 34993 丙子
孝元天皇
155年目 20年度 -2日 59回 56949 壬申
155年目 20年度 -2日 59回 57008 辛未
崇神
歴年 年度 誤差 閏 歴日
174年目1年度-2日65回63619壬午1.1.1
174年目1年度-2日65回63648辛亥1.2.1
177年目4年度-1日66回64977庚申4.10.1
180年目7年度0日68回65834丁丑7.2.1
180年目7年度-1日68回66041甲辰7.8.1
181年目8年度0日68回66484丁卯7.11.1
181年目8年度0日68回66513丙申8.12.1
182年目9年度-1日68回66601甲子9.3.1
182年目9年度0日68回66631甲午9.4.1
184年目11年度0日69回67340癸未11.4.1
185年目12年度0日69回67694丁丑12.3.1
185年目12年度0日70回67901甲辰12.9.1
195年目22年度0日72回71265戊申48.1.1
195年目22年度2日73回71385戊申48.4.1
196年目23年度-3日74回71853丙申60.7.1
198年目25年度-2日75回72592乙卯62.7.1
199年目26年度0日76回73125戊申68.12.1
太陽暦との誤差は、+−2ヶ月位
崇神174年より 164年の方が 誤差は、少ない。
594 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 19:36:49
日本書紀の年代で、雄略天皇以前の天皇で
15日以降が出てくる天皇の箇所は
無理やり年代を引き伸ばしているということか?
(つまり、二倍年暦の時代では、一ヶ月が15日くらいまでなのに
なぜか、一ヶ月が15日以降まで出てくるということは
その時代の天皇の箇所は、無理やり年代を引き伸ばした可能性がある)
サガミハラハラさんも、そのことに気がついたのか?
595 :
サガミハラハラ:2007/01/24(水) 19:58:50
>>592 崇神没年は古事記干支で288年春年です。あくる289年春から元年2年3年4年と1年に四つ年をいれてかぞえていきます。
そうすると、日本書紀での垂仁没年の99年は、313年秋年の前半となります。これは住吉大社神代記の没年の314年秋年とは2年近い違いがあります。
干支が正しいとして、空年を埋めていきますと、100,101,102,103,104,105,106が入り
垂仁在位は106年となります。
そこで小生はつらつらと考えました。
書紀の編者は古代天皇の在位年を2倍年暦や4倍年で引き伸ばしていったところ、偶然かどうか辛酉年に近づいたのです。(シンイ説は関係ない)
そこで編者は神武即位元年を辛酉年にするために調整することにしたのです。
ところが106年では辛酉年をオーバーしてしまいます。そこで垂仁の年代を7年縮めて調整したのです。
これが』小生が考えついた、書紀と神代記の差異なのだとおもいます。
596 :
サガミハラハラ:2007/01/25(木) 10:03:55
訂正2ヶ所
1行目あくる289年春をあくる288年秋に、3行目313年秋年の前半を313年春年の前半に訂正いたします。
597 :
唐松山:2007/01/25(木) 20:06:10
倍歴 の方々に質問
BC2世紀 頃の 中華 でも 人生100年が当たり前
百済でも 治世50年が何代か続く
我が日本では、記紀編纂時に 引き伸ばした。で宜しいんですか?
私は、神武なら神武治世中 死亡後は、次の天皇が...
だと思うのですが
598 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:21:52
百済は4世紀に日本人が建国した。
厳密に言えば、ヤマト朝廷の支援を受けて、
帯方郡の漢人・倭人たちが建国した。
599 :
唐松山:2007/01/25(木) 21:49:06
だから 暦の 増し(延長)は、その時点(実際の現時点)において行われた
であり
後の世の 捏造 では無い に成ると思うのですが 如何でしょうか?
600 :
唐松山:2007/01/25(木) 22:03:29
中華においては、 ケイショ など 年号を持っていたが
朝鮮や日本では、まだ年号を持っていない
中華では 改元=年号を変える
日本の改元=干支を変える。
BC の中華でも 最初は、年号を持っていなかった=>改元=干支を変える=>年号を
使い始めても暫くは、干支も変える。
このような事では??
601 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 22:10:02
別な観点からは、捏造の臭いもします。漢籍の出てくる卑弥呼・壱与に畿内の
女性を連想させるよう、時代操作をしているのではないか、と思います。
602 :
唐松山:2007/01/25(木) 22:20:19
卑弥呼・壱与 に関しては 私的には、景行に宛てますので 全く問題ありません
太歳=A天皇100年からB天皇1年 になること
是歳哉=甲子=>丁羊 増し だと思うのですが 数が少ない。
603 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 11:30:10
>>601 いや、そのような操作は無い。
卑弥呼に連想させているのは
明らかに神功皇后のところ。
モモソ姫に関しては、記紀の編纂者は
あんまり意識が無いよう思う。
何故なら、記紀の編纂者は、過去の暦に関して
気がついてないぽい。
604 :
唐松山:2007/01/27(土) 09:49:05
189年目26年度0日72回69465戊申
垂仁
歴年年度誤差閏歴日
190年目1年度-1日72回69494元年春正月,丁丑朔
???#VALUE!冬十月,癸卯朔癸丑
190年目1年度0日72回69790十一月,壬申朔癸酉
191年目2年度30日73回69908二年春二月,辛未朔
193年目4年度30日74回70883四年秋九月,丙戌朔
194年目5年度30日75回71296五年冬十月,己卯朔
196年目7年度0日75回71886七年秋七月,己巳朔
199年目10年度2日76回72832十五年春二月,乙卯朔
199年目10年度2日77回73039秋八月,壬午朔
201年目12年度-2日78回73803二十三年秋九月,丙寅朔
201年目12年度29日78回73863冬十月,乙丑朔壬申
203年目14年度-2日79回74334二十五年春二月,丁巳朔
203年目14年度-2日79回74364三月,丁亥朔丙申
204年目15年度-2日80回74895二十六年秋八月,戊寅朔
205年目16年度-1日80回75250二十七年秋八月,癸酉朔
206年目17年度-1日80回75663二十八年冬十月,丙寅朔
206年目17年度-1日80回75693十一月,丙申朔
208年目19年度-1日81回76136三十年春正月,己未朔
210年目21年度-1日82回77051三十二年秋七月,甲戌朔
212年目23年度0日82回77642三十四年春三月,乙丑朔
215年目26年度0日83回78675三十七年春正月,戊寅朔
218年目29年度-2日83回79764八十七年春二月,丁亥朔
219年目30年度-2日83回80266八十八年秋七月,己酉朔
221年目32年度-1日84回80857九十年春二月,庚子朔
223年目34年度1日86回81775九十九年秋七月,戊午朔
225年目36年度1日87回82660冬十二月,癸卯朔
605 :
唐松山:2007/01/27(土) 09:53:32
景行天皇
歴年 年度 誤差 閏 歴日 景行天皇
226年目1年度0日87回82866元年秋七月,己巳朔
227年目2年度1日87回83103二年春三月,丙寅朔
228年目3年度1日87回83427三年春二月,庚寅朔
229年目4年度1日88回83811四年春二月,甲寅朔
229年目4年度1日88回84077冬十一月,庚辰朔
232年目7年度3日88回85052十二年八月乙未,朔
232年目7年度2日88回85081九月,甲子朔
232年目7年度3日88回85170十二月,癸巳朔
237年目12年度3日90回86735十七年春三月,戊戌朔
238年目13年度4日90回87119十八年夏四月,壬戌朔
238年目13年度4日90回87149五月,壬辰朔
238年目13年度4日90回87178六月,辛酉朔癸亥
238年目13年度4日90回87208秋七月,辛卯朔
239年目14年度4日90回87621十九年秋九月,甲申朔
240年目15年度4日91回87798廿年春二月,辛巳朔
245年目20年度5日92回89777廿五年秋七月,庚辰朔
247年目22年度6日93回90338廿七年春二月,辛丑朔
247年目22年度6日93回90574冬十月,丁酉朔
248年目23年度6日94回90722廿八年春二月,乙丑朔
248年目23年度-4日94回90860四十年秋七月,癸未朔
248年目23年度-3日94回90949冬十月,壬子朔
249年目24年度-2日94回91039五十一年春正月,壬午朔
249年目24年度-1日94回91246秋八月,己酉朔
250年目25年度-2日95回91541五十二年夏五月,甲辰朔
606 :
唐松山:2007/01/27(土) 09:55:26
景行 続き
歴年 年度 誤差 閏 歴日
250年目25年度-2日95回91600秋七月,癸卯朔
251年目26年度-1日95回91984五十三年秋八月,丁卯朔
252年目27年度-1日95回92368五十四年秋九月,辛卯朔
253年目28年度-1日96回92545五十五年春二月,戊子朔
256年目31年度0日97回93638五十八年春二月,辛丑朔
258年目33年度0日98回94642六十年冬十一月,乙酉朔
607 :
唐松山:2007/01/27(土) 10:10:46
垂仁 時代
メチャクチャ とは思って居ましたが 月単位の 誤差
景行 時代
ほつま伝 に出てくる 暦
ミソコ ヤヨミカ
3月 弥生 39日
太陽に阿る太陰暦からの脱却
月(お月様)が 自分の朔望を 主張
かな?
>>562 それ間違ってるから。
2月11日がほぼ新月になるのはBC60年かAD1年だけというのは
グレゴリオ暦で計算した場合そうなるというだけ。
神武即位の1月1日は太陰暦での話だから、グレゴリオ暦の
2月11日で計算するのは間違い。
つまり、神武即位の「辛酉年春正月庚辰」が本当に新月だったか否かを
求めるには、BC60年とAD元年の春正月が何月何日なのかを確定する必要
がある。
610 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 23:55:11
日本書紀紀年法研究家さんはもう戻って来られないのですか??
611 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 20:26:40
太国さんが、研究家さんを「婆あ」なんて呼び捨てにするから
いけないいんですよ。太国さんの子どもぐらいの年なのに・・・
[353]太国<>
2007/02/17(土) 17:02:59
>>351 あの女は拙者に何もよくないことを書きこんでいないのに
「出て行け。」と叫んだんですよ。ひどいのはあの女ですよ。あの
女の研究書まで買ってやったんですよ。おそらく
拙者について行けなかったのかも知れません。
しかしあの女の書の書き始めの一定部分は、当人の説の正誤は別と
して非常に学的でgoodですよ。ずいぶん教えられましたし、今でも
役に立ってます。いったんは捨ててしまおうと思った位ですが。
あの女は 卑弥呼=成務 説を言い出したので、臥海で笑われるから
やめたほうがいいと、みどもがアドバイスしてあげたんです。w
しかしあの時、なんでこんな珍説を言い出したのか、もしや〜?
ですが分かってきたような気がします。あの女は時代上限の可能性を
考えて成務世の人物か?と卑弥呼を観ていたんではないでしょうか?
卑弥呼の時代が成務にかかる可能性はあるかも知れません? それ
だけ、深くあの女は研究していたのです。間違っていても大したもん
ですよ。
[354]日本@名無史さん<>
2007/02/17(土) 17:06:48
実名出しちゃった以上、抑え目に
×倉西の婆さんは
○倉西の姐さんは ・・・ぐらいでよろしく。
[366]橿原一派 ◆6Zok7FAjsY <sage>
2007/02/17(土) 22:16:14
>>353 倉西先生の著作は私も持っています。
ネットに不慣れなせいもありましょうが、結果として彼女は匿名ではありません。
対して太国氏も私も匿名です。
特に太国氏は、私ども若輩者と比べれば人生の大先輩でもあるご様子。
>あの女
呼ばわりは、不適切に存じます。古神道の権威であると同時に、人生の先輩としても振る舞っていただくことを希望します。
スレ違い失礼しました。
[367]太国<>
2007/02/17(土) 22:20:26
はいはい。
それに対する大方の反応も常識的だし、太国も反省しているようだし、そろそろお出まし下さい。
615 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 20:58:23
倉西さ〜〜〜ん!!
616 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/02(金) 13:53:12
日本書紀紀年法にご興味のある皆様
ずいぶんと、ご無沙汰いたしてしまいました。
日本書紀紀年法につきましては、このスレットで、太国さんの二倍暦説をはじめ、
まだまだ議論が続いているようで、皆様のお説は、興味深く、拝読させていただいております。
しかしながら、日本書紀紀年法の研究者の一人として、わたくしも、わたくしなりに、
自説には説明力があるのではないかと思っております。
日本書紀の編年が、プラス・マイナス120年と多列・並列構造となっていると仮定いたしますと、
これまで矛盾してきた編年の多くを、きれいに説明することができることになるからです。
また、昨今の議論を見てみますと、神武紀から神功紀頃までの紀年問題が特に問題となっているようです。
神功紀はプラス・マイナス120年構想のマイナス部分となり、189年間を扱う神功紀において、
実年代と紀年との関係がきれいに解けているわけではありません(201年から389年までを
紀年に位置付けることができる何らかの構想が設定されているかもしれません)。
また、プラス・マイナス120年構想の範囲からはずれている紀年については、
万人が納得するような説は、まだもたらされてはおりません。わたくしも、仮説は立てていますが、
試行錯誤の段階です。議論すべき点は、まだたくさん残されているように思います。
また、既に、わたくしの氏名は明らかとなっていますので、せめて、「倉西の婆さん」 という呼び方
だけは、止めていただければ、うれしく思います。
617 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 14:19:50
>>616 じゃ「倉西のお姉ちゃん」「倉西のおばちゃん」「裕子お姉さん」「裕子さん」「オイ!裕子」「クーちゃん」「クラぴょん」
どれが良い?
馬鹿を家。枕詞などいらない。
「倉西さん」「研究家さん」に決まってるだろ。
>>616 お帰りなさい。またいろいろご教授下さい。
呼び方は倉西先生か倉西さん、研究家さん、あたりでよろしいですよね。
個人的には倉西さんと、本女界隈(除田中邸)でデートしたいです。
みずみずしい美女を捕まえて×××呼ばわりはいけませんね。 スレ違い失礼。
621 :
日本書紀紀年法研究家17235133:2007/03/03(土) 13:39:36
さて、皆様。
『日本書紀』では踰年称元法が用いられている理由を、どのようにお考えでしょうか?
二倍歴説などのいずれの説でも、称元法の問題をまず説明できなければ、議論は始りません。
これぞと思うお説があれば、ぜひ、ご意見をお聞かせください。
ちなみに、わたくしは、日本書紀紀年法が、いわば数字によって構成される構造物であることが、
大きな要因ではないか、と考えております。
すなわち、日本書紀紀年法には、史実を伝える年表としての役割と政治倫理思想(讖緯暦運説)
の数字化という二つの役割が担わされているからなのではないでしょうか。
622 :
唐松山:2007/03/03(土) 13:56:59
454年目 63日 166回 166206日 28.5日 13.99月齢 安康天皇 十二月,己巳朔壬午
458年目 65日 169回 167389日 16.0日 3.05月齢 雄略天皇 元年春三月,庚戌朔壬子
480年目 68日 177回 175626日 11.0日 9.98月齢 23冬十月,已巳
481年目 68日 177回 175715日 0.2日 1.00月齢 清寧天皇 元年春正月,戊戌朔壬子
486年目 69日 179回 177546日 5.0日 1.00月齢 顕宗天皇 元年春正月,己巳朔
489年目 69日 180回 178638日 1.2日 0.98月齢 仁賢天皇 元年春正月,辛巳朔
500年目 72日 184回 182714日 0.5日 3.01月齢 武烈天皇 元年春三月,丁丑朔戊寅
508年目 73日 187回 185578日 1.5日 0.99月齢 継体天皇 元年春正月,辛酉朔甲子
532年目 78日 196回 194378日 6.0日 1.99月齢 廿五年春二月,辛丑朔丁未
532年目 78日 196回 194408日 6.5日 3.00月齢 安閑天皇 三月癸未朔戊子
537年目 79日 198回 196209日 10.8日 1.99月齢 宣化天皇 二月,壬申朔
541年目 80日 199回 197627日 -2.8日 1.01月齢 欽明天皇 元年春正月,庚戌朔甲子
547年目 80日 202回 199929日 19.2日 3.96月齢 敏達天皇 元年夏四月,壬申朔甲戌
560年目 83日 207回 204625日 26.0日 1.98月齢 十四年春二月,戊子朔壬寅
561年目 82日 207回 204949日 14.3日 0.95月齢 用明天皇 元年春正月,壬子朔
562年目 83日 208回 205481日 33.5日 5.97月齢 崇峻天皇 六月,甲辰朔庚戌
567年目 84日 210回 207460日 38.8日 10.98月齢 十一月,癸卯朔乙巳
623 :
唐松山:2007/03/03(土) 14:00:19
258年目 24日 96回 94446日 5.0日 5.97月齢 景行天皇 元年秋七月,己巳朔
286年目 29日 104回 104485日 -35.5日 1.92月齢 五十五年春二月,戊子朔
287年目 30日 105回 104841日 -15.3日 0.98月齢 成 務 天 皇 元年春正月,甲申朔戊子
320年目 36日 118回 117066日 9.0日 5.96月齢 六十年夏六月,己巳朔己卯
317年目 36日 115回 115767日 -46.8日 0.97月齢 仲哀天皇 元年春正月庚寅朔庚子
317年目 36日 116回 116092日 -16.7日 10.97月齢 閏十一月乙卯朔戊午
325年目 37日 118回 118749日 -45.8日 2.95月齢 神功皇 后三月,壬申朔
363年目 45日 132回 132658日 -45.7日 3.95月齢 六十九年夏四月,辛酉朔丁丑,皇太后崩
364年目 45日 132回 132924日 -56.5日 0.96月齢 応神天皇 元年春正月,丁亥朔
403年目 53日 146回 147158日 -67.3日 0.97月齢 四十年春正月,辛丑朔戊甲
404年目 53日 147回 147571日 -49.0日 1.95月齢 四十一年春二月,甲午朔
402年目 53日 147回 146834日 -26.0日 1.00月齢 仁徳天皇 元年春正月,丁丑
432年目 59日 158回 157790日 -27.5日 1.00月齢 三十一年春正月,癸丑朔
438年目 61日 160回 160271日 -33.0日 11.01月齢 三十七年冬十一月,甲戌朔
432年目 59日 158回 157819日 -28.0日 1.98月齢 履中天皇 元年春二月,壬午朔
437年目 59日 160回 159620日 -23.8日 0.97月齢 六年春正月,癸未
438年目 59日 160回 159974日 -35.0日 0.96月齢 反正天皇 元年春正月,丁丑朔
442年目 60日 161回 161421日 -49.0日 0.96月齢 六年春正月,甲申朔
440年目 61日 160回 160713日 -56.0日 1.98月齢 允恭天皇 二年春二月,丙申朔
454年目 63日 167回 165852日 -1.0日 1.01月齢 四十二年春正月,乙亥
624 :
唐松山:2007/03/03(土) 14:02:18
歴年 誤差 閏 歴日 陽日差 月齢
12年目 -22日 4回 4674日 -4.0日 10.01月齢 神武天皇 十月丁巳朔辛酉。舟師東征
19年目 -22日 7回 6977日 7.8日 0.99月齢 神武天皇 春正月庚辰朔。天皇即帝位
38年目 -16日 13回 13889日 -20.0日 1.05月齢 綏靖天皇 元年春正月壬申朔己卯
59年目 -11日 22回 21863日 18.2日 10.08月齢 安寧天皇 元年冬十月丙戌朔丙申
66年目 -10日 24回 24166日 0.5日 2.07月齢 懿徳天皇 元年二月己酉朔壬子
80年目 -10日 29回 29243日 -6.5日 0.99月齢 孝昭天皇 元年春正月丙戌朔甲午。
106年目 -5日 38回 38722日 -24.0日 0.98月齢 孝安天皇 元年春正月乙酉朔辛卯
136年目 2日 50回 49709日 5.5日 1.03月齢 孝霊天皇 元年春正月壬辰朔癸卯
155年目 5日 57回 56648日 4.8日 1.01月齢 孝元 元年正月辛未朔甲申
176年目 10日 65回 64327日 13.5日 1.05月齢 開化天皇 元年 正月庚午朔癸酉、
195年目 16日 71回 71239日 -14.2日 1.11月齢 崇神元年 正月壬午朔
225年目 18日 83回 82545日 9.8日 11.97月齢 六十八年十二月戊申朔
226年目 18日 83回 82574日 -2.0日 0.95月齢 垂仁元年 春正月,丁丑朔
258年目 23日 95回 94297日 3.5日 1.93月齢 九十年春二月,庚子朔
625 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 18:09:59
626 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 20:35:52
スレを枯らす唐松山さん。そんな古い時代に、月日まで干支を使っているわけはないでしょう。
627 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 21:17:55
研究家さんへ
開化⇒・・⇒神功
崇神⇒垂仁⇒忍熊
景行⇒成務⇒仲哀
この辺の歴史は並列に展開しているのはないか?
と思うのですが、どうですか?
ウィキの日本書紀って誰が編集してるの?
629 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 23:40:43
答え:匿名の人物。
ウィキでは、二倍は否定されてますよ。
と言うよりも日本書紀自体を否定してる。左思想が編集してるのかな。
誰でも編集できるから。
631 :
唐松山:2007/03/04(日) 10:35:10
干支の 検証
陽暦差=太陽暦との差=(暦日/365.25−歴年)*365.25−月*29.5
月齢=1年を12等分=(暦日−8)/29.5306−歴年−歴年*12−閏
上記の式で合わせました。
朔を (300個程)全部拾い出し 全て計算 ?は、3ヶ程
全て書き出すと大変なので要約して 書き出しましたが 必要とあらば 書き出しますよ。
632 :
日本史@名無しさん:2007/03/04(日) 10:45:20
倍歴論とウヨサヨは関係ないよ
太国さんとかややこしい人がいるから2ちゃん的にそんなことになってる
だけ
633 :
日本書紀紀年法研究家17235133:2007/03/04(日) 13:13:13
唐松山さん
>>623と
>>624の唐松山さんの推定年代は、どのような式にもとづいて
算出されたのでしょうか?
634 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/04(日) 13:20:55
名前の欄を気を付けて下さいですよ><
635 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 13:24:15
■後漢書・東夷伝-【弁韓と辰韓の文化の違い】■
>『弁韓と辰韓は雑居しており、城郭などいずれも同じだが、言語と風俗は異なる』
「弁韓と辰韓には城郭がある」という記録がある。これは、弁韓(シラキ)と辰韓(シンラ)が戦争していたことを
示している。
【梁書における弁韓についての記録】
其の国(弁韓)は倭に似ており、身体に刺青をした者がひじょうに多い。
636 :
唐松山:2007/03/04(日) 13:26:59
西暦には、合わせてありません
書紀より 朔を拾い出し ひたすら 合わせていくだけ
5年毎に同じ様な(干支30狂い)感じになりますが ただひたすらに並べただけの物です
世継ぎの増し5年から10年位 その直前に立太子の寿(増し)
細かい 式は、次回
637 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/04(日) 13:35:59
627さん
わたくしは、崇神元年は西暦91年と考えております。その根拠は、
日本書紀の立太子の記述と古事記の崩年干支との間には、以下のような式が
成り立っているからです。
日本書紀の次帝の立太子の年代=古事記の前帝の崩年干支の年代
この式にもとづいて、日本書紀の崇神天皇の次帝の垂仁天皇の立太子の年代(崇神48)は、
古事記の崇神天皇の崩年干支(戊寅年=西暦138)と考えますと、
崇神元年は、西暦138ー48年という式で計算できます。
したがって、崇神天皇の即位年は西暦91年となるからです。
しかしながら、崇神紀から仲哀紀までの紀年問題については、宝算年差が、在位年数を
示しているのではないかと推論していますが、試行錯誤の段階です。
すなわち、日本書紀と古事記では、天皇の崩御時の年齢に大きな違いがありますので、
これには、何らかの意味があるのではないか、考えております。
638 :
唐松山:2007/03/04(日) 13:58:31
暦日を 日の干支に直すとき使用した式です (年で使う時は、訂正が必要)
=CHOOSE(MOD((B1+69),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")
&CHOOSE(MOD((B1+71),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
1年 354日 閏30日 年 29日、30日の繰り返しで1年
当時の暦では在りませんが、とりあえず…
当時の暦 大の年‘366日 小の年355日 余り6日… こんな数字を使ってほつま の暦
復元できないか?
639 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 14:41:41
x
640 :
唐松山:2007/03/04(日) 15:08:37
暦日=歴年(354*年数)+閏(30*回数)+偏差(誤差)
偏差(誤差)=29.53−29.5 *年数 及び使用された干支との差
641 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 15:20:14
642 :
唐松山:2007/03/04(日) 15:49:56
訂正
× 暦日=歴年(354*年数)+閏(30*回数)+偏差(誤差)
○ 暦日=歴年(354*年数)+閏(30*回数)+偏差(誤差)+月(29+30+29+...)
でした
>>637 いくらなんでも早い
その下の世代の年齢がおかしくなるだろ
644 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 19:19:55
>>627です。研究家さんへ
>>637崇神元年を91年と考えているようですが、
魏志倭人伝の記述から卑弥呼以前は、倭国に暦を記録する習慣がなかったと思います。
8世紀の学者がどうやって1世紀の事件(600年以上も前)の日時を知ることが出来たと考えですか?
>>644 俺は研究家じゃないが
魏志倭人伝をそのまま信用するのはおかしいと思う
書いてある資料が100%真実とは言えないだろ
合ったかもしれないし、なかったかもしれない
ない可能性のほうが高いと思うが
崇神天皇が実在したのならAD300年前後の人になると思います
647 :
サガミハラハラ:2007/03/04(日) 21:09:59
古事記分註天皇崩年干支2倍年暦では、崇神崩年は288年となります。
http://travel3.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
649 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 21:56:37
俺は、崇神は5世紀初頭だと思っている。驚いた?
俺は、崇神は10世紀初頭だと思ってる。驚いた?
651 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 22:26:48
俺は、崇神は架上だと思ってる。驚いた?
652 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 22:33:30
653 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/05(月) 09:49:39
644さん
649-651さん
日本書紀神功紀は魏志倭人伝を引いて、神功紀の扱う年代はおよそ3世紀に位置づけて
いるようです(マイナス領域として、実際は西暦201から389年まで)。
したがって、わたくしは、日本書紀紀年法の構想として、巻九神功紀以前の諸巻は、
3世紀よりも前の時代を扱っているのではないかと考えました。
そこで、魏志倭人伝の「其国本亦以男子為王」という記述や『後漢書』の「倭国王帥升」
という記述に注目しました。日本書紀は、卑弥呼以前の倭王たちについても、
何らかの記述を設けているのならば、崇神紀から仲哀紀までの歴代天皇
において扱っている可能性は高いのではないでしょうか。
654 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 12:15:49
記紀がボケ老人のうろおぼえを元に書かれたのならばどうする。
654は認知症の爺婆介護に疲れた、お父ちゃんの八つ当たりレスでした。失礼しました。
656 :
唐松山:2007/03/05(月) 19:09:00
魏志倭人伝の記述から卑弥呼以前は、倭国に暦を記録する習慣がなかったと思います。
是に対する 私の見方
魏志倭人伝では、 民に暦なし―>支配階級は、暦を使って 種貸し、農業指導 をおこなっていた。
倭国大乱は、崇神5,6年の大飢饉(古墳寒冷化時代の始まり)などの 飢饉をきっかけに
農民の支配階級配布の農事暦に対する不信も背景にあると想います。
そこで 農民は、本当の暦(1年365.25日)を知ろうとする
対する支配層は、 暦を悟られまいと (暦が無ければ誰も種を借りない) 増し を多用 崇神から景行時代
景行末から成務にかけて 種貸し から 屯倉に切り替え
日々の干支の99パーセント 使用できます (年の干支 0パーセント)
657 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 20:07:48
研究家さん、みなさんこんばんは。
応神天皇ですが、以前、ウィキペディア(Wikipedia)』に
>近年、「魏略」にある『倍年説』を基に歴史を再計算しその結果だと、
>仲哀天皇の皇子で間違いないと思われる。
>実際、古事記では応神天皇の出生には疑問を持っていないが、
>西暦8世紀の日本書紀の編纂者たちは、
>応神天皇時代の二倍年暦を知らずか、応神天皇の出生に疑問を抱き、
>神功皇后が出産を遅らせたというふうに書き足したと思われる。
とありました。
が、今は編集され削除されてるみたいです。
僕的には何で編集されたのかが分かりません。
神功皇后の出産が遅れたことで
色んな憶測よんでる天皇ですが、
実際、どう思われますか?
658 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 02:50:31
>>657 Wikiは編集合戦が当たり前なわけで。
659 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 06:36:44
出産を遅らせるための呪術表現は同型の物語にみられる基本要素でしょう
660 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/06(火) 09:06:19
654ー655さん
仮に、1世紀代以降の年代についての記録が日本書紀の編纂期まで、
残っておりましたならば、それは、干支紀年法によるものと考えられます。
現行の干支紀年法は、後漢の光武帝の建武二十六(西暦50)年から、
使用されているそうです。これ以前にも異種紀年法があったといいます。
『漢書』などに、わが国についての記述が見えますので、干支紀年法が、
将来していたことは、ありえることと思います。
661 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/06(火) 09:17:29
657さん
プラス・マイナス120年構想では、神功紀までがマイナス、応神紀以降雄略五年までが、
プラスの領域です。神功紀は、実際には189年間をカバーしていますので、神功元年が201年で、
応神元年が390年ということになります。
このことから、神功皇后から、神功皇后を卑弥呼や台与と考えますと、応神天皇とのつながりが、
たいへん悪いことになってしまいます。そこで、日本書紀では、そのつながりの悪さを示唆
させるために、神功伝説を設けたのかもしれません。
日本書紀紀年法の構造からは、このような一説を提起できます。
662 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 09:27:12
>654 倭人の老人が8世紀に400年前の話を正確におぼえてて話せるので記紀は正しいですよ
663 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 10:33:56
>>661 神功皇后は実在の人物だったんだろう?いちおう。
全く架空の人物だったら、
卑弥呼、台与の二人の女王がいたんだから
二人の女王の架空人物を作るはずだし。
664 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/06(火) 12:37:53
663さん
日本書紀の神功皇后には、少なからず、卑弥呼と台与、さらに、4世紀後半に
実在した応神天皇の母后の三者が投影されているようです。
201年から389年までの間に、三者が実在していたという意味において、
神功皇后は実在していたといえるかもしれません。
665 :
唐松山:2007/03/06(火) 20:13:25
歴年 偏差 閏 歴日 陽日差 月齢 氣長足?尊 神功皇后
320年目 37日 117回 116949日 -19.5日 2.99月 三月,壬申朔
320年目 38日 117回 116979日 -19.0日 4.01月 夏四月,壬寅朔甲辰,
320年目 38日 117回 117127日 -18.5日 9.02月 秋九月,庚午朔己卯
320年目 38日 117回 117156日 -19.0日 10.00月 冬十月,己亥朔辛丑,從和珥津發之
320年目 38日 117回 117215日 -19.0日 12.00月 十二月,戊戌朔辛亥,生譽田天皇
321年目 37日 118回 117333日 -0.7日 3.00月 三月,丙申朔庚子,命武?宿禰
321年目 38日 118回 117540日 -0.2日 10.01月 冬十月,癸亥朔甲子,群臣尊皇后曰-皇太后.是年也,太?辛巳
322年目 38日 118回 117924日 -11.0日 11.01月 二年冬十一月,丁亥朔甲午,葬天皇於河
323年目 38日 118回 117983日 -22.2日 1.01月 三年春正月,丙戌朔戊子,立譽田別皇子
325年目 38日 119回 118780日 -14.7日 3.00月 五年春三月,癸卯朔己酉,
333年目 40日 122回 121674日 -13.3日 2.00月 十三年春二月,丁巳朔甲子,命武?宿禰
335年目 40日 122回 122412日 -35.3日 2.99月 四十六年春三月,乙亥朔
341年目 41日 125回 124804日 -11.7日 8.99月 五十二年秋九月,丁卯朔丙子
358年目 45日 131回 130858日 -19.5日 4.00月 六十九年夏四月,辛酉朔丁丑,皇太后崩
358年目 45日 131回 131035日 -19.5日 9.99月 冬十月,戊午朔壬申,葬
666 :
唐松山:2007/03/06(火) 20:13:58
歴年 偏差 閏 歴日 陽日差 月齢 応神天皇元年 おうじんてんのう
359年目 45日 131回 131124日 -30.3日 1.00月 元年春正月,丁亥朔
360年目 45日 132回 131567日 -11.5日 3.01月 二年春三月,庚戌朔壬子
361年目 46日 132回 132128日 -22.3日 10.00月 三年冬十月,辛未朔癸酉
363年目 46日 133回 132807日 -14.7日 8.00月 五年秋八月,庚寅朔壬寅
377年目 49日 138回 137975日 -19.3日 10.00月 十九年冬十月,戊戌朔
380年目 49日 139回 138861日 -22.5日 3.00月 二十二年春三月,甲申朔戊子
380年目 49日 139回 139038日 -22.5日 9.00月 秋九月,辛巳朔丙戌
398年目 53日 145回 145358日 -41.0日 1.01月 四十年春正月,辛丑朔戊甲
399年目 53日 146回 145771日 -22.8日 2.00月 四十一年春二月,甲午朔
667 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 21:14:24
>>653 魏志倭人伝時代の倭人が、ちゃんと歴史を保存していたならば、その系図を
倭人伝に記載しなかったのは中国人ぽくないと思うのですが。
近い時代の倭人による金文が、全く無いのもおかしい。やはり歴史を記録する
習慣がなかったと考える方が、道理がとおります。
単なる伝承と後漢書を参考に書いたと思いますが
668 :
667:2007/03/06(火) 22:51:02
×後漢書
○当時の中国の資料
スマソ
669 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/07(水) 09:46:06
>>667さん
当時の中国の資料を参考としていたのならば、もっと中国史料と日本書紀との間に
整合性があってもよいように思います。例えば、後漢書に見える西暦107年の
倭国王帥升の遣使の記述は、日本書紀には見えません。
そこで、やはり、日本側資料というものが存在していた可能性があるように思います。
古事記崩年干支が、この問題を考えるにあたり、参考となります。
古事記崩年干支は崇神天皇から始まっています。神武天皇ではなく、崇神天皇の崩年干支から
始まっていることから、崇神天皇以降の歴史的事件に関しては、先にも述べた干支紀年法において
僅かながらも伝承があったのではないかと、考えられます。
魏志倭人伝は信用して日本書紀は嘘と断定か
671 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/07(水) 20:33:41
670さん
わたくしは、日本書紀を嘘であるとは考えておりません。
わたくしが提起させていただいております多列・並列構造説では、少なからず応神元年以降は、
各々の紀年に相当する実年代を位置づけることができます。
おそらく、神武紀から神功紀の紀年も、実年代を求めることのできる構造が設定されていることでしょう。
日本書紀は、日本古代史を比較的によく伝えている史書であると思います。
また、わたくしは、海外資料において信頼できるものは信頼すべきであると考えております。
せっかく、我が国のことを記録した歴史書が伝存しているのですから、
大いに活用すべきでしょう。
672 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 20:58:57
研究家さんへ
4世紀以前の倭製金文が発見されないかぎりそれ以前を歴史とすることは
出来ないと思います。
当時の倭人が漢文を使いこなした証拠が無ければなりません。
アイヌやインディアンの歴史を観ても明らかです(3、4代前までしか遡れない)
、口伝のみで歴史が残るケースは世界中でも無いでしょう。
正確な年号を保存する事は口伝は無理です。
673 :
サガミハラハラ:2007/03/08(木) 09:51:23
古事記干支は崇神天皇の没年からはじまっています。
これは、干支の到来が垂仁か景行の代であることを示唆しています。
実在は認めるけど干支はあまり合ってると思えない
675 :
サガミハラハラ:2007/03/08(木) 11:33:09
古事記干支は2倍年暦であるとすると、あてはまります。
676 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/08(木) 13:17:58
672さん
古事記の稗田阿礼については、実在には議論があるとは思いますが、
口伝を専門とするような人々が、当時、あったと考えることはできます。
持統天皇の時代にも、「しび」という女性の”しび語り”があったとされています。
風土記の撰録も、言い伝えを書き留めることが目的の一つとされ、
風土記の記事には、かなり時代を遡ることができるような記述が見えます。
また、魏志倭人伝の記述からは、魏朝と我が国との間には、活発な外交交渉が
あったことがわかります。漢文を使いこなせる人々があったことは、想像に難くありません。
干支紀年法の年代表示は、長文でもありませんので、口伝することは、容易であったと
考えることはできます。
677 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/08(木) 13:25:26
673/675 サガミハラハラさん
干支紀年法が、日本書紀の崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の時代には将来
していたと、わたくしも考えます。
しかしながら、サガミハラハラさんのおっしゃられるように、古事記干支が、
二倍年暦で説明できるとは思われません。
それでは、サガミハラハラさんは、日本書紀は、二倍年暦で編年されていると
お考えなのでしょうか。
679 :
サガミハラハラ:2007/03/08(木) 17:00:55
景行紀から安康紀までは、2倍年暦で編年されています。
これは西暦では、AD315年春年から461年までとなります。
ちなみに、神武から垂仁までの在位年数は2倍年暦を2倍しており、実年を4倍しております。
これは西暦では131年から314年秋年にあたります。
ただし、神武即位年をBC660年にするために、垂仁紀を若干短くして調整しています。
680 :
サガミハラハラ:2007/03/08(木) 17:07:24
書き落としました。干支の到来ですが、崇神天皇の前の開化天皇の崩年が
記されていないことから、崇神天皇の治世に渡ってきたとすれば、当然崇神の即位年はわかっているでしょうから、開化天皇の崩年は干支で記録されていたはずです。
よって、干支到来は崇神の時代ではないとみます。
681 :
唐松山:2007/03/08(木) 21:48:53
神武から用明、崇峻まで 前回より きれいに並びました。
神武時代には、ホツマ の暦が在った と考えた方が自然
神武元年から用明元年まで542年
参考資料は、 ホツマ
日の干支と年の干支 全てに渡って合致しません
これは、 年の干支には、 増し がある為ホツマには、その様に書かれています。
中華も韓国も同様に 日の干支で見直さない限り 日本の暦とは、合致しないと思われます。
682 :
唐松山:2007/03/08(木) 21:53:43
月 歴年 年度 偏差 閏 歴日 陽日差 月齢
1月 19年目 1年度 -22日 7回 6977日 7.8日 0.99月齢 神武天皇 春正月庚辰朔。天皇即帝位
3月 37年目 19年度 -19日 13回 13591日 -11.8日 2.96月齢 七十六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩
1月 43年目 1年度 -16日 16回 15749日 13.7日 1.04月齢 綏靖天皇元年春正月壬申朔己卯
1月 60年目 20年度 -14日 21回 21919日 -25.5日 0.98月齢 二十五年春正月壬午朔戊子
10月 64年目 1年度 -11日 23回 23663日 -8.0日 10.03月齢 安寧天皇元年冬十月丙戌朔丙申
1月 66年目 3年度 -12日 24回 24135日 -1.0日 1.02月齢 三年春正月戊寅朔壬午
1月 74年目 11年度 -10日 27回 27059日 1.0日 1.03月齢 玉手看天皇十一年正春正月壬戌
2月 76年目 1年度 -10日 28回 27826日 8.0日 2.01月齢 懿徳天皇元年二月己酉朔壬子
9月 88年目 13年度 -10日 32回 32401日 -6.5日 8.93月齢 三十四年秋九月甲子朔辛未
10月 89年目 -1年度 -9日 33回 32815日 12.8日 9.95月齢 十月戊午庚午。葬
1月 90年目 1年度 -10日 33回 32903日 1.0日 0.93月齢 孝昭天皇元年春正月丙戌朔甲午。
8月 115年目 26年度 -5日 42回 42234日 -5.8日 7.91月齢 八十三年秋八月丁巳朔辛酉
1月 116年目 1年度 -5日 42回 42382日 -16.5日 0.92月齢 孝安天皇 元年春正月乙酉朔辛卯
1月 145年目 30年度 2日 54回 53015日 24.3日 0.99月齢 百二年春正月戊戌朔丙午
1月 146年目 1年度 2日 54回 53369日 13.0日 0.97月齢 孝霊天皇元年春正月壬辰朔癸卯
683 :
唐松山:2007/03/08(木) 21:55:01
2月 164年目 19年度 5日 61回 59983日 23.0日 1.94月齢 七十六年春二月丙午朔癸丑。
1月 165年目 1年度 5日 61回 60308日 12.2日 0.95月齢 孝元元年正月辛未朔甲申
9月 185年目 21年度 10日 69回 67869日 32.2日 8.99月齢 五十七年秋九月壬申朔癸酉
1月 186年目 1年度 10日 69回 67987日 21.0日 0.99月齢 開化天皇元年正月庚午朔癸酉、
10月 204年目 19年度 16日 75回 74810日 4.0日 10.03月齢 六〇年十月癸丑朔乙卯
1月 205年目 1年度 16日 75回 74899日 -6.8日 1.05月齢 崇神元年正月壬午朔
11月 211年目 7年度 12日 78回 77404日 11.7日 10.87月齢 ??七年十一月丁卯朔
1月 226年目 22年度 19日 83回 82576日 0.0日 1.01月齢 四十八年正月己卯朔
1月 226年目 1年度 17日 83回 82574日 -2.0日 0.95月齢 垂仁 元年春正月,丁丑朔
9月 235年目 10年度 20日 87回 86119日 19.7日 8.99月齢 ? 秋八月,壬午朔
2月 258年目 33年度 23日 95回 94297日 3.5日 1.93月齢 九十年春二月,庚子朔
7月 258年目 1年度 24日 95回 94446日 5.0日 6.97月齢 景行天皇 元年秋七月,己巳朔
2月 286年目 29年度 29日 106回 104545日 24.5日 1.96月齢 五十五年春二月,戊子朔
1月 287年目 1年度 30日 106回 104871日 14.8日 0.99月齢 成 務 天 皇 元年春正月,甲申朔戊子
3月 298年目 12年度 33日 110回 108947日 14.0日 3.02月齢 四十八年春三月,庚辰朔
6月 320年目 34年度 36日 119回 117096日 39.0日 5.97月齢 六十年夏六月,己巳朔己卯
1月 312年目 1年度 36日 115回 113997日 9.5日 1.03月齢 仲哀天皇 元年春正月庚寅朔庚子
7月 313年目 2年度 36日 116回 114558日 28.2日 7.03月齢 秋七月辛亥朔乙卯
3月 320年目 1年度 37日 118回 116979日 10.5日 3.01月齢 神功皇后 三月,壬申朔
10月 358年目 38年度 45日 132回 131065日 10.5日 10.01月齢 冬十月,戊午朔壬申,葬
684 :
唐松山:2007/03/08(木) 21:56:27
1月 359年目 1年度 45日 132回 131154日 -0.2日 1.02月齢 応神天皇 元年春正月,丁亥朔
685 :
唐松山:2007/03/08(木) 21:57:55
1月 359年目 1年度 45日 132回 131154日 -0.2日 1.02月齢 応神天皇 元年春正月,丁亥朔
2月 399年目 41年度 53日 147回 145801日 7.2日 2.01月齢 四十一年春二月,甲午朔
1月 402年目 1年度 53日 148回 146864日 4.0日 1.01月齢 仁徳天皇 元年春正月,丁丑
1月 432年目 31年度 59日 159回 157820日 2.5日 1.02月齢 三十一年春正月,癸丑朔
2月 432年目 1年度 59日 159回 157849日 2.0日 2.00月齢 履中天皇 元年春二月,壬午朔
10月 437年目 6年度 60日 161回 159916日 6.8日 9.99月齢 冬十月,己酉
1月 438年目 1年度 59日 161回 160004日 -5.0日 0.97月齢 反正天皇 元年春正月,丁丑朔
1月 442年目 5年度 60日 162回 161451日 -19.0日 0.97月齢 六年? 春正月,甲申朔
2月 440年目 1年度 61日 162回 160773日 4.0日 2.01月齢 允恭天皇 二年春二月,丙申朔
9月 452年目 13年度 63日 166回 165350日 -8.5日 9.01月齢 十四年秋九月,癸丑朔甲子
1月 459年目 20年度 63日 169回 167682日 2.8日 0.97月齢 四十二年春正月,乙亥
12月 454年目 1年度 63日 167回 166176日 -1.5日 11.98月齢 安康天皇 十二月,己巳朔壬午
11月 457年目 4年度 64日 169回 167270日 26.2日 11.02月齢 十一月,壬子朔
3月 458年目 1年度 63日 169回 167387日 14.0日 2.99月齢 雄略天皇 元年春三月,庚戌朔壬子
10月 480年目 23年度 68日 177回 175626日 11.0日 9.98月齢 23冬十月,已巳
10月 480年目 -1年度 68日 177回 175626日 11.0日 9.98月齢 清寧天皇 冬十月,已巳朔壬申
1月 481年目 1年度 68日 177回 175715日 0.2日 1.00月齢 元年春正月,戊戌朔壬子
4月 483年目 3年度 69日 178回 176542日 8.2日 4.00月齢 ?? 夏四月,已酉朔辛卯
1月 485年目 5年度 68日 179回 177191日 15.2日 0.98月齢 五年春正月,甲戌朔己丑
1月 486年目 1年度 69日 179回 177546日 5.0日 1.00月齢 顕宗天皇 元年春正月,己巳朔
2月 488年目 3年度 70日 180回 178314日 13.0日 2.01月齢 三年春二月,丁巳朔
686 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/09(金) 12:48:34
サガミハラハラさん
サガミハラハラさんは、日本書紀は二倍暦で古事記崩年干支は普通暦であると
お考えのようですね。
それでは、どのような理由から、日本書紀は二倍暦、古事記は普通暦で編年したと
お考えでしょうか。同じく8世紀に成立している両書の編年に、なぜ、違いが発生したのでしょうか。
687 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/09(金) 12:52:00
唐松山さん
唐松山さんは、ご自身のお説を披歴されておられるようですが、おそらく読者の方々は、
どのような法則にもとづいて、お説が導き出されてくるのか、その説明文(説明式)がなければ、
唐松山さんのお説は、いいかげんであると見做してしまうことでしょう。
688 :
サガミハラハラ:2007/03/09(金) 13:01:09
いえ、古事記分註天皇崩年干支も2倍年暦で表されています。
いままで、倭の5王の年代が中国史料と合うようで合わないとされていたのは、皆さん古事記干支が2倍年であることに気づかなかったからです。
古事記干支が2倍年暦であることに気づいたのは、試しに2倍暦にして照合したら、ほとんど合致したからです。さらにそれらを修正して、
日本書紀の年代をわりだすことに成功しました。
古事記は伝承をもとにして、そのまま記述したところもありますので、
普通暦、2倍年暦、2倍年暦×2=4倍年が混交しております。
>>687の研究家さんに同意。
唐松山さんの数字の羅列は、荒らしのようにしか見えません。
ああ、ごめんなさい。唐松山さんは決して荒らしじゃありませんが、
まるでそう錯覚してしまうという意味です。
691 :
唐松山:2007/03/09(金) 18:49:17
私の 暦の読み方
かなり以前から ホツマを読んで 暦には、増しが有る と書き込んでいましたが、
相手が ホツマ の為か読み飛ばされたようです
ほつま には、干支が少ないので書紀の干支を使って 増し を検証しています。
以前の書き込みを見てください。
訂正
太陽歴との差 陽日差=(暦日/365.25−歴年)*365.25−月*30.44
こちらの式をお使いください。
なお 検証の為に ECL日食計算プログラム と言うソフトが ベクター辺りに
あると思いますので そのソフトを朔の確定に使えないか?(日食=朔)
692 :
サガミハラハラ:2007/03/09(金) 18:55:19
古事記と日本書紀の年代の食い違いは何故どのような事情なのか私も不思議です。
マエにもかきましたが、神武天皇の年齢が、書紀の在位年からおっていくと、なぜか古事記の137年となってしまうのは不思議です。
また、古事記干支も書紀の年代に合うのは不思議です。
古事記と書紀の関連はこれからの研究課題であると思います。
693 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 20:55:44
694 :
唐松山:2007/03/09(金) 22:40:33
ECL日食計算プログラムで 検証 に 成功
度々ですみませんが 陽日差=((暦日―〔調整 4〕)/365.25−歴年)*365.25−月*30.44
これで 日食計算プログラム に合う
崇神元年=西暦40年 にスライド
西暦43年2月 陽日差 −1.38 プログラム 2月28日 この場合足して30日1ヶ月に成れば OK
西暦55年1月 陽日差 16.06 同プログラム 16日 (立太子)
此処より
西暦588年 崇峻天皇5年11月 まで 大体45ヶ所で 2、3日 のヅレ範囲に治まり 大きなヅレありませんでした
695 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 22:57:26
しぇんしぇい!じぇんじぇん、わかりましぇーん?
696 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/10(土) 09:54:46
サラミハラハラさん
古事記にも、在位年数が記されている場合があります。サガミハラハラさんは、
日本書紀も古事記も二倍暦であるというお説ですので、当然、古事記の在位年数も
二倍暦で計算されているとお考えなのでしょう。
それでは、なぜ、顕宗天皇の在位年数は、日本書紀では3年、古事記では8年なのでしょうか。
697 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/10(土) 09:59:36
唐松山さん
唐松山さんが、「陽日差=((暦日―〔調整 4〕)/365.25−歴年)*365.25−月*30.44
」という式を立てられて、紀年に相当する実年代を計算されようとなさっておられたことは、
わかりました。
それでは、唐松山さんの式は、帰納的に導き出されたものなのでしょうか。
それとも、演繹的に仮説として立てられたものなのでしょうか。
698 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/10(土) 10:12:29
695さん
日本書紀紀年法には、紀年法としての側面と暦としての側面があります。
暦として捉えた場合、日本書紀紀年法は、唐松山さんのように暦日を割り出す計算式によって
説明が試みられることがあります。
一見、難しく見えますが、暦による説明は、基本的には、日本書紀の各々の紀年にある
一定の数式をあてはめると、実年代を求めることができるという考え方にもとづいているようです。
695さんは、このスレッドで、しばしば数式の羅列の書き込みがあることから、わからないとおっしゃら
れているのではないかと、憶測してみましたが、もっと、初歩的に、日本書紀紀年法がわからないということで
したならば、どこが、わからないのか、ご指摘していただきたいと思います。
699 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 10:19:54
具体的に研究家さん説の各天皇の即位年を知りたいです
700 :
唐松山:2007/03/10(土) 11:00:09
私は、ホツマを読んで 暦には、年の干支の増し が有る
と 読み下したので 増し を引くと 本当の暦が出来上がる
この 仮説 にしたがい 増し をホツマの記事と干支(朔)の割出し
を行いました。
現在 (昨日より) 西暦に変換検証中
日食=朔
この事を利用して 他人様の作った(自分で作ったら インチキ在りかも)
日付 に すり合わせ中 全体で合っています
崇神元年=西暦40年
日食計算プログラム 何処に在ったか 忘れました。
ベクターでなければ 日食関連ページかも
かわりに 表なので使いやすい が真面目に日食を計算しているので 朔を探すのには、情報がすくない
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10553/jp3000/OS.html#r2 西暦285年9月16日(景行12年9月)17.04日、9.01月齢 日付、月齢共大きい
西暦302年10月8日(景行40年10月)5.35日、9.91月齢 日付、月齢共に小さい
つまり 使われた 干支 による誤差であり 良く 対応していると思います。
表と1ヶ月のヅレなら ほぼ同じ 日付になりますし 他は各自 計算してください。
701 :
唐松山:2007/03/10(土) 11:14:37
以前の書き込みの一部です。 この記事を 書紀の干支で証明しました。
垂仁天皇と景行天皇 の世継ぎ のときの ‘増し‘
ホ37191 コソホキサラギ ミコトのり カグをもとめに タジマモリ トコヨにゆけよ わがをもふ クニトコタチの ミヨのハナ
ホ37195 コソコホサシヱホ アフミハヒ キミまかるトシ モモミソナ
ホ37202 あくるハル ヤヨヒにかえる タシマモリ トキシクカグツ フソヨカゴ 時至9ヶ月24日後
ホ37212 ...トトセぶり...
ホ38005 うけつぎて イムナタリヒコ オシロワケ アメスメラギの トシヤソヒ ...ミカザリを タミにをかませ
ワカミヤの ハツコヨミなる フホヤヨヒ キビツヒコがメ たつキサキ
垂仁90年夏6月(秋 会稽で開かれる市)に出発した タジマモリ 約10ヶ月後 翌年3月に戻ってみると 景行2年に成っていました。
暦では 10年ぶり... トコヨの暦は皇帝が変わっても変わらないのに 我が暦は...
たたねこ 本当の暦を知る。
702 :
サガミハラハラ:2007/03/10(土) 16:25:54
書き落としがありました。日本書紀の神武から垂仁までは2倍年暦×2となっています。
雄略天皇以下の年代についてはまだ研究しておりません。
703 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 21:39:26
704 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 01:38:14
>>703 凄いですね。
是非、出版して下さい。
歴史が変わると思います。
704先生は何か出版してんの?
706 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 12:41:52
707 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 13:01:37
708 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/11(日) 13:54:31
699さん
>>1で述べたように、神功元年から雄略五年までは、プラス・マイナス120年構想と
さらに、崇神元年を西暦91年として、応神元年までの間にも、多列・並列構想が
設定されているのではないか、と推論いたしております。
>>637で述べましたように、日本書紀の立太子の記述と古事記の崩年干支との間には、以下のような式が
成り立っています。
日本書紀の次帝の立太子の年代=古事記の前帝の崩年干支の年代
この式にもとづくと、崇神天皇の即位から次帝の垂仁天皇の立太子までは
の年数は48年間ですが、一方、崇神天皇の日本書紀の宝算(享年)と古事記の
享年との年差も48年となります。ことから、当該天皇の記紀間の宝算の年差が、
実際の在位年数を表しているのではないかと、考えました。
すなわち、崇神天皇の紀年数の68年のうち、確定紀年が48年で、
延長紀年が20年と整理できることになります。
しかしながら、まだ、試論の段階ですので、プラス・マイナス120年構想や
多列・並列構造のような説明力には欠いているのではないかと、考えております。
709 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/11(日) 14:05:41
699さん
各々の天皇の即位年というご質問に対しましては、日本書紀紀年法では、
何々年に設定されているという回答しかできないかとは、思いますが
(史実としては、多少のズレがある可能性もあります)、
確実視できるのは、応神元年は西暦390年、仁徳元年は397年に設定
されているということです。このように考えますと、四世紀末から五世紀
の見通しがよくなるのではないかと、考えております。
710 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/11(日) 14:11:01
サガミハラハラさん
サガミハラハラさんは、神武紀から垂仁紀までは、四倍暦であると
おっしゃられているわけですね。それでは、日本書紀や古事記に見える
天皇の宝算(享年)は、どのようにお考えでしょうか。宝算も二倍暦や
四倍暦で計算されているのでしょうか。
711 :
サガミハラハラ:2007/03/11(日) 16:08:03
日本書紀の宝年と古事記の宝年は同じではありません。
何故このようになっているのか、私としては不思議におもっています。
正直なところ、まだ研究段階にはいっておりません。
ただ、神武天皇の宝年については、即位までは2倍年暦で、在位中(書紀)は4倍年であり、
宝年は、古事記の137年となります。古事記の年と書紀の年が混在していて、古事記の年になっているわけです。
尚、5月頃発行予定の拙著では、垂仁以前の年代については触れておりません。
712 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 16:25:31
研究家さんへ
記紀の収められたそれぞれの天皇の物語りは、「史記列伝」のように
元々はバラバラのストーリーだと考えます。
実際は崇神の在位は8年間で、その後4年間の記事は垂仁時代の事件ではないでしょうか?
現在の会社でも、社長引退=死ではなく会長に就任するのが普通です。
過去にも上皇のようなポジションがあったのではないでしょうか?
バラバラの話を一本の糸の様に繋いだので、非常に長い歴史になったと
考えます。
事績の多さと在位期間は、概ね比例するのでは?
714 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/12(月) 10:15:10
サガミハラハラさん
日本書紀と古事記は、七世紀末から八世紀初頭という同じ時期に編纂、成立しています。
そこで、わたくしは、やはり両書には密接な関連があると捉え、宝算が相違することにも、
何らかの構想があるものと、考えました。古事記の称元法は、在位年数と崩年干支の関係から
踰年称元法であるようです。日本書紀も古事記も同じ称元法であることは、このような推論を
補います。
また、サガミハラハラさんは、今年の5月頃にご著書を表わされるようでございますが、
お差支えないようでございましたならば、ぜひ、ご著書のご書名をスレッドの読者の皆様に
お知らせいただきたいと思います。わたくしも、サガミハラハラさんの二倍暦説が、
どのような理論や根拠にもとづくものであるのか、一読させていただきたいと思っております。
715 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/12(月) 10:25:35
712さん
>>1で述べた、多列・並列構想も、基本的には、没後継承ではなく譲位であるといった
考え方にもとづいています。多列・並列の理由は、まさに譲位問題にあると仮定すると、
多列・並列構造が、よく説明できます。
また、もう一つ重要な要因として、「天皇」号の定義問題があります。
神祇を担う「天」の立場が「天皇」であるのか、政治を担う「地」の立場が「天皇」であるのか、
といった議論があった可能性を指摘できます。これは、研究史上、「祭政二重統治」の問題として、
議論されてきたことと関連してきますが、多列・並列構造には、統治のあり方をめぐる複雑な
経緯が反映されているのかもしれません。
716 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/12(月) 10:33:10
713さん
そうとも限りません。例えば、成務紀には僅かな記述しかありませんが、
在位年数は60年と長期に設定されています。また、闕史八代なども、
事績と在位年数が比例しないことを示す事例です。
717 :
唐松山:2007/03/12(月) 19:19:12
暦の増し 神代の昔からの習慣です。
ホ00062 アマテラシマス オオンカミ モモナソヨロのトシをへて
ホ15160 クニおさむ ワレみるススキ チヱヨタビ わがミもコトシ フソヨヨロ いまたさかりの
カキツハタ のちモモヨロを ふるもしる 百万や 千枝、万は 振り
ホ16158 … オオンカミ コソムツキます このコヤネ モモツキませり タチカラオ ミソムツキます
96月=8年
天照オオミ神 の年齢は、170万歳
振りを 払う 70才
増しを 引く 62才
まだ本物の歳ではありませんが(天皇に成った時と死亡時の2回は、必ずあります。)
718 :
質問のいらつめ:2007/03/12(月) 19:54:44
>>唐松山さんへ
たいそう基本的な質問で恐縮いたしますが、唐松山さんが研究の
拠りどころとされておりますホツマとは、いったい、どのような
書物なのでしょうか?
719 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 20:32:17
>>711 古事記と書紀の聖寿が違うのは古事記は卑弥呼をトトビモモソ媛に想定したため。
そのため崇神は聖寿168歳というモンスター級の物になった。
これを奇異と思った書紀スタッフは、卑弥呼を神功に想定したため、両者に年代、
聖寿に大きな開きができてしまったと考えますが・・・・・・・
いずれにせよ、卑弥呼をモモソ媛より前の人物に想定しないと聖寿が長くなりすぎる
という事です
720 :
サガミハラハラ:2007/03/12(月) 22:26:11
>>714 ありがとうございます。今一生懸命校正をしております。今しばらくおまちください。
721 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 00:19:21
>>718 お待ちしておりました、質問のいらつめさん。私はファンです。
>>720 今度の本には、小城のことが出ているのですか?
722 :
サガミハラハラ:2007/03/13(火) 08:07:27
神功皇后のことと年代論が中心ですが、邪馬台国のことも付録として載せております。
723 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/13(火) 12:30:02
サガミハラハラさん
わたくしの紀年論では、神功紀は、プラス・マイナス120年構想のマイナスの
領域となります。このため、紀年数に対して足りていない実年代をカバーするために、
日本書紀では、さらなる紀年構想が設定されているのではないかと推論しております。
サガミハラハラさんの紀年論は神功紀を中心とされているようですので、
どのように神功紀の紀年や実年代が説明されることになるのか、たいへん興味がございます。
724 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/13(火) 12:36:20
719さん
現実離れした宝算は、崇神天皇に限ったことではありません。闕史八代を中心に、
かなりの長寿に設定されています。垂仁天皇なども好事例でしょう。
したがいまして、わたくしは、日本書紀と古事記の間に宝算の数字に違いがあることに注目して、
日本書紀や古事記の宝算の数字は、現実の宝算を伝えるという目的ではなく、
別の目的において設定されているのではないか、と考えました。
>>716 だから記録上、在位が長くても事績の少ない天皇は、
実際は短い在位だった可能性が有ると言ってる。
726 :
唐松山:2007/03/13(火) 17:29:58
現物です。
ホツマ伝 ミカサフミ
http://www.k3.dion.ne.jp/%7Eyamas/kodaiy2k/hotumika/hotumika.htm アスス暦 年号より干支を割出す 式。
=CHOOSE(MOD((B3+69),10)+2," ","き","き","つ","つ","お","お","さ","さ","ね","ね")
&CHOOSE(MOD((B3+71),12)+2," ","あえ","あと","みえ","みと","やえ","やと","しえ","しと","なえ","なと","うえ","うと")
ホ40390 ときアスス ヤホヨソミホの アキアメカ これたてまつる
ミワのトミ スヱトシをそれ つゝしみてそむ
たたねこ の 文章を ミワのトミ大鹿島が
アスス歴843年(景行55年)秋アメカ (天代わる)景行死亡 までを まとめた物
だと思っています。
727 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/13(火) 18:24:14
725さん
仮に、725さんがおっしゃれれるように、在位年数が実際よりも長期に設定されている
天皇がおり、それを示唆するために事績を少なく記載されてあるのならば、
日本書紀は、なぜ、そのような面倒な操作を行ったのでしょうか。
仲哀天皇、反正天皇、履中天皇、顕宗天皇、崇俊天皇など、在位が短いとされる天皇は、
多々おりますので、特定の天皇にのみ、延長化という操作を行ったことになってしまいます。
728 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 20:35:08
古事記崩年は変じゃないけど、寿命が長すぎるんだよな
10 崇神 戌寅 318年
13 成務 乙卯 355年
14 仲哀 壬戌 362年
15 応神 甲午 392年
16 仁徳 丁卯 427年
17 履中 壬申 432年
18 反正 丁丑 437年
19 允恭 甲午 454年
21 雄略 己巳 489年
26 継体 丁未 527年
27 安閑 乙卯 535年
30 敏達 甲辰 584年
31 用明 丁未 587年
32 崇峻 壬子 592年
33 推古 戌子 628年
729 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/13(火) 22:04:08
崇神戌寅は258年でしょう
サガミハラハラさん等の様に古事記の側もn倍歴や
n倍歴+虚構年とするならそう成りませんが
それを考慮しないのならば258年で構わないと思います
それから古事記の寿命は日本書紀に依存している箇所が多数あると思いますがどうでしょうか
記:雄略124歳、紀:雄略62歳
↑これは太国さんが二倍歴の根拠として指摘していたと思います
こう云うのを考えても雄略の生年から没年までは年代操作区間ですので
依存関係があるなら古事記の側が日本書紀の紀年計算を見ていそうですがどうでしょうか?
これも太国さんが既に指摘しているかも知れませんが
古事記の天皇の崩年記事に書かれる日付けを注目すると全て15日までですね
他にもイロイロ調べましたが成務〜崇神までの古事記の寿命の増加率の相関から
書紀の年代引き伸ばしに依存しているんじゃないかと考えています。
崇神以前に付いては、書紀の紀年が記依存しているのではと考える方も居るようですが
しかし古事記は本当に古伝承でしょうか?
古事記の側が日本書紀に依存していたとしたら逆になります。
記紀が共通原史料に基づき解釈の違いによってこうなったと云う考えも在りますが、それには疑問があります
730 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/13(火) 22:25:38
私の考えでは記紀の上位の天皇系譜には3世代の世代の水増しがあります
つまり現在の記紀の天皇系譜は七世代から直系十世十代に改変されている筈です
これら3代の天皇は日本書紀の年代引き伸ばし計算後に直系関係として挿入されたものと考えられます
しかし、本来紀年引き伸ばし計算に無関係な筈の古事記の天皇系譜は、書紀と同等の物を持っています
古事記の上位天皇の系譜が、日本書紀の紀年引き伸ばしの産物である直系十世十代に依存していると云う事は
古事記の成立の由緒が正しいのなら、
712年までに日本書紀の側の年代引き伸ばし作業がほぼ現在の形に終了している必要がある筈です
仮に、日本書紀の年代引き伸ばし作業が712年以降に開始されたものだとすれば
古事記は、日本書紀の年代引き伸ばし作業に伴う系譜改変に依存している訳ですから
古事記は成立由緒を偽った偽書、と云う事に成ります
何れの場合にも古事記の側が日本書紀の編纂に依存していると考えられます
共通の史料を別々に解釈したのでなく、
古事記サイドは日本書紀サイドの紀年計算の解釈に派生する問題に依存している訳です
古事記の作者は書紀の系譜以外にも、書紀の紀年も見ている筈なのです
古事記よりも日本書紀の年代の引き延ばしが注目されているが
崇神天皇の寿命に関して
古事記のほうが長くて(168歳)、日本書紀のほうが短い(120歳)んだよね。
これに関しては、皆さんは、どういう解釈をしていますか?
>>730 欠史八代の天皇の代数の水増しについてだが
普通に、国の中心となる人物を作らなきゃいけないので
天皇家は結婚が早くて、若くして子供を作っていたんじゃないのか?
崇神天皇も、開化天皇が15歳になる前に出来た子供みたいだし。
733 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 23:01:16
>これら3代の天皇は日本書紀の年代引き伸ばし計算後に直系関係として挿入されたものと考えられます
この考えは間違いです。
何故なら、記紀よりも古い帝紀を元に書かれたと思われる「宋史日本伝」には
記紀と全く同じ天皇の順列になっているからです(神代はかなり違う)。
年代の引き延ばしの理由については
>>719に書き込みました。
>>733 古事記は、百襲媛命を卑弥呼に想定?
その割には、古事記は、百襲媛について
何にも書いていないし...
年代も、2倍年暦の補正を全くしていない。
735 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 23:15:46
>崇神戌寅は258年でしょう
推古の後から大正まで(628年〜1926年)の間に93人の天皇平均14年
垂仁から推古まで24人(神功を含む)318年〜628年だとすると平均13年
こっちの方が可能性が高いと思われます。258年に設定するにはどこかに60年
はさみこまなければなりません。入れる場所が無いと思いますが・・・・・
736 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 23:24:15
>>734 やはりモモソ媛は卑弥呼とエピソードが全く違うしイメージも合わないので
書けなかったのでしょう。私も同一人物でないと思います。
そこが記紀の編集者の一番痛いところ。卑弥呼は地雷だったのです。
737 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/13(火) 23:39:11
『宋史』日本伝を良く見てください
そこでは神代に付いて凡二十三世、人代で凡六十四世
これは23代、64代と同じ事であって、此処での世は世代数の意味では有りません
この代数には神功も込みです
神武や欽明で漢籍との同期を取っていますが、この数字は日本書紀の年代引き伸ばし後の紀年に依存しています
計算結果にも誤差があります
また武内宿禰に付いても書いていますが、これも書紀の紀年引きのばし計算に依存する物であって
古伝承ではありません
『宋史』日本伝が引く年代紀は日本書紀成立以降の二次情報でしかありません
738 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 23:55:49
宋史は漢風し号だし後世の作ですな
739 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/13(火) 23:58:29
>>719 >古事記と書紀の聖寿が違うのは古事記は卑弥呼をトトビモモソ媛に想定したため。
>そのため崇神は聖寿168歳というモンスター級の物になった。
この一行目と二行目の関係が見えません
一行目でだから、二行目である。と云う話にはなっていないでしょう
>卑弥呼をモモソ媛より前の人物に想定しないと聖寿が長くなりすぎる
日本書紀は本来、倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼として設計しています
日本書紀の設計上の崇神十年の倭迹迹日百襲姫命没は、正始八年AD247年の卑弥呼没です
勿論古事記の崇神の崩年干支も設定年の想定もAD318年ではなくてAD258年が相当と云う事です
日本書紀の製作者こそが紀年操作を行なった張本人であって
その書紀の製作者の彼等が「奇異と思った」だの「上代が二倍年暦だったと気が付かなかった」
だの云う論理展開は成り立ちません
神功紀で百済関係の事跡と凡そ120年程度の同期ズレを発生させた彼等自身の手で
同じ神功紀に漢籍を引いて、
神功の虚構上の年代に対して、漢籍の真の実年代を同期させているのです
彼等は百済関係の記事で紀年操作を行なっているのですから、
彼等は当前神功紀が真の邪馬台国の年代では無い事を知っているのです
当然彼等は真の邪馬台国の年代が神功紀以前である事も解っているのです
勿論日本書紀製作者だけでなく、古事記製作者も記紀の真の想定年代を知っている筈です
古事記は、年代に関しては、操作はしていないと思う。
何故なら、古事記は基本的に
干支崩年という曖昧な記述しか書いてなくて
無理に年代操作する必要がない。
解釈の幅が出来るから、無理に年代操作する必要がない。
しかし、日本書紀の場合、かなり詳しく年代についても書こうとしたから
中国史書などとの整合性についても問題になりやすいために
年代操作する必要が大いにある。
日本書紀の年代の謎〜二倍年暦・辛酉年・卑弥呼・皇位継承の混乱
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/33783418.html
741 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 00:23:06
宋史日本伝
初めの主は天御中主と号す。 次は天村雲尊と曰い、其の後は皆な『尊』を以って号と爲す。
次は天八重雲尊。 次は天彌聞尊。 次は天忍勝尊。 次は贍波尊。 次は萬魂尊。
次は利利魂尊。 次は國狭槌尊。 次は角襲魂尊。 次は汲津丹尊。 次は面垂見尊。 次は國常立尊。 次は天鑑尊。
次は天萬尊。 次は沫名杵尊。 次は伊弉諾尊。 次は素戔烏尊。 次は天照大神尊。 次は正哉吾勝速日天押穂耳尊
次は天彦尊。 次は炎尊。 次は彦瀲尊。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
彦瀲の第四子を神武天皇と号す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。
即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。 次は綏靖天皇。 次は安寧天皇。 次は懿コ天皇。 次は孝昭天皇。
次は孝天皇。 次は孝靈天皇。 次は孝元天皇。 次は開化天皇。 次は崇神天皇。 次は垂仁天皇。 次は景行天皇。
次は成務天皇。 次は仲哀天皇、國人言う、今鎮國香椎大神と爲すと。
次は神功天皇、開化天皇の曽孫女、又た之を息長足姫天皇と謂い、國人言う、今太奈良良姫大神と爲すと。
次は應神天皇、甲辰の歳始めて百濟に中國の文字を得、今八蕃菩薩と号す。 大臣有り紀武内と号し年は三百七歳。
次は仁コ天皇。 次は履中天皇。 次は反正天皇。 次は允恭天皇。 次は安康天皇。 次は雄略天皇。 次は清寧天皇。
次は顯宗天皇。 次は仁賢天皇。 次は武烈天皇。 次は繼體天皇。 次は安開天皇。 次は宣化天皇。
次は天國排開廣庭天皇、亦たの名を欽明天皇、即位の十一年壬申の歳、始めて佛法を百濟國より傳う。此の土の梁の承聖元年に當たる。
次は敏達天皇。 次は用明天皇。 子有り、聖コ太子と曰う。
742 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 00:29:07
宋史日本伝は、神話時代が記紀と違い筑紫時代としている。
しかし、記紀以降の史書は全て記紀にのっとた内容になっているので、
これは、記紀以前のものから採用したと考える。
記紀を参考にしたら、日向以前に高天原宮時代があったはず。
宋史日本伝って、基本的に
記紀の内容を適当に書いただけだと思う。
神話の部分だって、筑紫時代にしているというよりも
淡々と書いて、勝手に筑紫時代と想像して
書いただけのような気がする。
いずれにせよ、かなり新しい時代の資料だから
所詮、古事記、日本書紀、旧事本紀の二次資料でしかない。
>>関係各位
松野氏系図に対する見解はどうですか?
745 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/14(水) 09:28:01
征東大将軍さん
日本書紀が二倍暦で、古事記が普通暦であって、日本書紀が古事記を参照したのであるのならば、
雄略天皇の宝算については説明できるかもしれませんが、顕宗天皇の在位について、
日本書紀が3年で、古事記が8年であることは、どうなのでしょうか。
在位年数と宝算の年数は、それぞれ別の暦で計算されていたのでしょうか。
746 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/14(水) 09:41:13
731さん
崇神天皇の宝算につきまして、古事記が168年で、日本書紀が120年であることに
つきまして、わたくしは、日本書紀と古事記の間には、いわば”宝算年差の法則”
というものが成り立っているのではないかと、考えております。
すなわち、
古事記の宝算−日本書紀の宝算=在位年数(宝算年差)
という式です。
このような式を想定してみますと、
>>637でも述べましたように、
古事記崩年干支の法則によって求められる崇神天皇の在位年数は48年ですので、
崇神天皇につきましては、宝算年差の法則と古事記崩年干支の法則の2つの法則
のいずれにおきましても、崇神天皇の在位年数は48年となります。
747 :
質問のいらつめ:2007/03/14(水) 13:45:09
>>726 唐松山さん
質問にお答えくださいまして、ありがとうございました。ホツマとは、
アスス暦に従って、神代から景行期までの出来事を記した書物であること
がわかりました。ところで、アスス歴とは、日食を基準に計算された暦と
考えてよろしいのでしょうか。
748 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/14(水) 20:24:04
>>745 研究家さん、御久し振りです
えぇーっと、今回は古事記が日本書紀を参照した可能性に付いて話してたんですが
伝わり難かったでしょうか?><
顕宗の問題も諸説あると思いますが
古事記は清寧・顕宗の在位を足した〜
古事記は当年称元法で四年と書きたかった所を二倍にした〜
云々カンヌン
ま、コレと言って決め手が浮かばないので、まだちゃんと取り組んで居ません
それに最近は紀年から少し離れて系譜の事ばかりやっていますので
研究家さんの『高倉宮祝部岡君氏本紀』に関心があります
イロイロお話してして貰えると有り難いです
749 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 20:25:08
>>746 崇神の在位年数48年は随分と長いですね。古代で長期政権の推古でも33年、
崇り崇神は遥かにそれを凌ぎます。
殆ど事件と呼べるものが12年までしかないのも気になります。
本当は半分の24年ぐらいじゃないですか?
750 :
カナカナボウシ:2007/03/15(木) 13:27:51
崇神の在位年は272年〜88年の17年間だそうですよ。
>>750 それは、サガミハラハラの説。
それと、干支に関して、本当に二倍年暦だったのかどうか
分からない。
干支がいつ、日本が作用しだしたのか
その最初から、中国の一倍年暦を無視して、二倍年暦を採用していたのか
それすら分からない。
752 :
唐松山:2007/03/15(木) 19:26:30
いらつめさん の 質問に対して
ホツマには、日食の記事が 一つもありませんので 日食を中央に据えることは、出来ません。
干支を並べて解った事は、太陽太陰暦である という事だけです。
では、なぜ 日食プログラムを 使うか?
ズバリ 太陽暦に合わせる為
本物の 歴史なら 太陽暦、太陰暦 共に 数えられる筈ですから
どちらか 片方でしか数えられない と言う事にはなりません
計算 その後
崇神を 歴年24年目(暦日+354*5+30)で 計算すると
崇神元年=西暦45年 になり 全体が5年 ズレます。
753 :
唐松山:2007/03/15(木) 19:42:02
訂正
崇神 ×
神武 ○
いつもの事で 毎度すみません
754 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 20:25:04
>>751 倭人伝に出てくる倭人の寿命の長さ、徐福の不老不死伝説等から相当前から
の可能性がある。
755 :
唐松山:2007/03/15(木) 20:33:25
756 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/15(木) 21:07:01
征東大将軍さん
古事記が日本書紀を参照したのならば、古事記のほうが成立が遅いとお
考えなのでしょうか(720年以降?)。
また、征東大将軍さんが、『高倉宮祝部岡君本紀』に、ご興味を持って
くださいまして、うれしく思います。『高倉宮祝部岡君本紀』は系譜として、
高倉宮神伝院に伝存していたものです。曾祖父、もしくは、大叔父が、
このように名付けたようです。大叔父が著わしました「高倉宮の研究
−筑前国遠賀郡(古代の岡ノ県)の宗祠(1)・(2)」(『神道学』
第百四五・第百四八号)「先代祝部譜図考 −『高倉宮祝部岡君氏本紀』の発見」
(神道学第百五五号 平成四年)がございます。ご一読いただけましたならば、幸いです。
高倉宮は、仲哀天皇の時代に創建されたとされ、墳墓もあります。
折を見て、本紀の内容をご紹介させていただきたいと考えております。
757 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/15(木) 21:17:31
>>749さん
昭和が63年間もあったように、一概に、48年間は長すぎると決めつけて
しまうことも、問題であるように思います。在位につきましては、長短がある
ほうが、むしろ、自然なのではないでしょうか。
758 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 21:27:00
>>757 推古以後で40年以上の在位の天皇は明治、昭和しかいない。
よって48年説は間違い!
759 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/15(木) 21:27:09
>>749さん
昭和が63年間もありましたように、崇神天皇の48年を、一概に長過ぎる
と考えなくともよいようにおもいます。在位年数に長短があるほうが、
むしろ、自然なのではないでしょうか。
760 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/15(木) 21:32:07
>>758さん
仮に、48年説に問題があるのでしたならば、史実の問題は別として、
少なからず、”日本書紀では、崇神天皇の在位年数は48年間と設定している”
と言えるのではないか、と思います。
また、757が書き込みエラーとなってしまったと思いまして、
同じような文章を759として、書き込んでしまいました。
761 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 22:23:36
>史実の問題は別として
の意味がわかりません?
762 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 23:53:18
日本書紀の設定上の在位期間≠実際の在位期間
763 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 23:59:26
結局、実際の在位期間は分からないわけですね。分かりました。
開化紀の崇神立太子を基準にすると119歳になりますが
これはどういうことなんでしょうか?
長い在位の場合は父親が早くに死んだと考えるべきだろうな
766 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/16(金) 09:22:14
>>761さん
日本書紀を編纂するにあたって、崇神天皇の在位年数を何年間として編年するのか、という問題が
あったと考えられます。崇神天皇の史実としての在位年数が、正確に伝わっていたと考える
ことは難しいことです。そこで、おおよその年数に設定したと推論できるのです。
このような意味において、史実の問題は別として、という表現を用いました。
>>762さん
762さんは、わたくしの言わんとするところを、よくご理解いただいておりますようで、驚きます。
761さんのご質問に対して、わたくしに代わって、お答えくださいまして、ありがとうございました。
767 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/16(金) 09:28:18
>>764さん
日本書紀では、立太子と即位が同義として扱われる場合があるようです。
崇神天皇は、19歳で即位され48年間ほど在位されて67歳ぐらいで、
譲位、もしくは、崩御されたと考えますと、現実離れしていないように
思います。
768 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 01:09:01
研究家の姐さんの次の本はいつ頃出るんでしょうか?
以前の著作を読ませていただいて、鋭い洞察力に
本当に、感心させられたました。
769 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 01:17:10
770 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 07:53:55
研姐の著作明を教えてください
771 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/17(土) 09:37:50
>>768さん、
>>770さん
これまでの拙著は、『日本書紀の真実 −紀年論を解く』(講談社選書メチエ 二〇〇三年)、
『「記紀」はいかにして成立したか −「天」の史書と「地」の史書』(講談社選書メチエ 二〇〇四年)、
『聖徳太子と法隆寺の謎 −交差する飛鳥時代と奈良時代』(平凡社 二〇〇五年)、
『国宝・百済観音は誰なのか? −実在したモデルとその素顔』(小学館 二〇〇六年)です。
次作は、出版がはっきりとは決定しておらず、書名についても仮題を提案させていただいている段階ですので、
まだ、書名は決まっておりません。また、いくつか、発表させていただきたいと温めている拙稿
や構想もありますので、いずれ、皆様に研究成果の全てをお知らせできれば、と思っております。
拙著に興味を持っていただきまして、たいへんうれしく思います。
772 :
768:2007/03/17(土) 22:35:39
実際のところ、垂仁・景行・成務・仲哀ぐらいの時代の
紀年というのは、研究家の姐さん的にどのような
感じでとらえられているのでしょうか。
崇神天皇とか応神天皇の紀年に関する論はいろいろな本でも
よく言及されてのですが、前者部分の紀年には敢えて
触れてないのが多いように思いまして...
近所に巨大な仲哀天皇陵がありまして、素人考えなのですが
「数年で死んだ天皇にこんな大きな墓作るのかなぁ〜」
とか、たまに不思議に思ったりもします。
773 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/18(日) 09:57:10
>>772さん
実は、現在、刊行いたしたく考えております次の拙著は、日本書紀紀年法に関してのものではなく、
救世観音像についてのものです。また、出版社に刊行をお引き受けいただけないか、これからお願いしようと、
ほぼ完成稿に仕上がっている拙稿も、『万葉集』や吉備大臣入唐絵巻についてのものです。
日本書紀紀年法については、概説書のようなものを、将来的に刊行いたしたいと思い改稿作業を行っている段階です。
崇神天皇の紀年については、元年を西暦91年と考えており、その根拠は、
>>746で述べたとおりです。
紀年法についての研究成果を、なるべく早くに、刊行できるよう努力してまいりたいと思います。
現在、ホームページの開設を準備しておりますので、紀年法についても扱いますので、ぜひ、
アクセスしていただけましたなら、幸いです。
774 :
唐松山:2007/03/18(日) 11:28:52
増し で 年齢推定
崇神が 太子を生むまで と 景行の九州及び関東下向
が 年齢面から 納得できます。
治世 成天皇 産太子 死亡
開化天皇宝算 宝61年間 51宝才 59宝才 111宝才
開化天皇実齢 実19年間 18実才 26実才 37実才
崇神天皇宝算 宝68 年間 52宝才 80宝才 119宝才
崇神天皇実齢 実21年間 12実才 30実才 39実才
垂仁天皇宝算 宝99年間 42宝才 59宝才 140宝才
垂仁天皇実齢 実32年間 10実才 22実才 42実才
景行天皇宝算 宝60年間 81宝才 86宝才 137宝才
景行天皇実齢 実29年間 20実才 24実才 49実才
成務天皇実齢 実25年間 26実才 0実才 51実才
775 :
唐松山:2007/03/18(日) 12:11:42
研究家さんへ 質問
崇神天皇は、19歳で即位され48年間
崇神が 19才即位だとした場合 妃(オオヒコの娘11才)
以外の 結婚や出産までが非常に長い
この辺の考察を 披露して頂けると 有り難いのですが
776 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/19(月) 09:27:20
唐松山さん
唐松山さんは、どのような理由から、>>妃(オオヒコの娘11才)以外の結婚や出産までが非常に長い、
とお考えになったのでしょうか。例えば崇神六年条に豊鍬入姫命に天照大神を祭らせたと
見えます。豊鍬入姫命の母は、遠津年魚眼眼妙媛です。幼女が祭主となったと
想定いたしましても、遠津年魚眼眼妙媛の入内は、崇神天皇即位後の早い時期であったと
考えられます。
777 :
唐松山:2007/03/19(月) 19:18:06
崇神の 子供
ホ34100 うむミコは トチニイリヒメ フソムトシ ネツキハツヒニ マキヒメ シギにうむミコ
トヨキヒコ イムナシギヒト フソコトシ ハツヒオウトに キサキまた うむミコイクメ イリヒコの イムナヰソサチ
ミソヤトシ アキハヅキヰカ キサキのト クニカタウチメうむミコは チチツクワヒメ
ヨソムツキ スエヤカコうむ イカツルの イムナチヨギネ
ヨソヤトシ ハツソカオアエ トヨギミと イクメギミとに ミコトのり
上記のように 崇神26年から40年 にかけて 誕生の記事が 集まっているからです。
崇神12年位までは、毎年記事があり 圧縮 出来そうにありませんので
皇子の誕生は、その後 と考えます。
778 :
唐松山:2007/03/19(月) 19:35:38
ホ33047 ヰトシゑやみす ナカバかる ムトシタミちる
コトのりに たしがたしかれ ツトにをき ツミカミにこふ フタミヤを さらにつくらせ
ムトセアキ ヲヲクニタマノ カミうつし ナツキソムカヨ アスのヨハ アマテルカミの
ミヤうつし トヨノアカリの イロもよし いざトモカミは くだります
ヲヲクニタマノ カミうつし 大国魂は、人間だと 思っています (国譲り)
アマテルカミの ミヤうつし 同じく 住まいを 丹後?から 畿内へ移す。
大林賢栄って
本当にプラ国に
そっくりだなw
真似できない
レベルで妄想こいているよw
782 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 23:32:57
記紀って秀真伝を元に書いたの?
783 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/20(火) 09:36:40
唐松山さん
崇神天皇の皇子・皇女の出生年については、「ホムツツタエ」に見えるわけですね。
「ホムツツタエ」を信憑性ある史書と考えるか、考えないかによって、大きく見解が
異なってしまうことになります。したがって、唐松山さんのご質問に対しては、
何とも申し上げようがありません。
わたくしは、「ホムツツタエ」については、研究しておりませんので、よくわかりませんが、
参考になるような記述もあるのではないかとは、考えております。
784 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/20(火) 09:39:27
782さん
紀・記と「ホムツツタエ」との関係は、「ホムツツタエ」が偽書であるか、いなかも
含めて、まずもって、「ホムツツタエ」の信憑性について検証を加えねばならないでしょう。
785 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 18:59:33
記紀もホツマも 年数が 間延びしている
記紀には、 何故 間延びしているか?書いてありません
ホツマには、寿 に事寄せて増しが有ると書いてあります
垂仁90年死亡と書いてあり 書紀の干支も 其れを裏付けています
景行55年死亡 こちらは、 60年死亡 現在どちら共考えられるので 保留
中華のBC200年頃は、人生100年の時代ですので 此方から暦の同一な使用方法
が 伝わった。 と考えています
世界の暦を正しく測ろうと努力している方がいます
注釈を読むと面白い
786 :
唐松山:2007/03/20(火) 19:03:21
大林賢栄のかいた
妄想本は
全く売れなかったそうですよ
788 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 07:59:39
唐松山 は荒らしか?
789 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/21(水) 09:03:05
>>785さん
歴代天皇の宝算をめぐって、「ホツマ」と、日本書紀、ならびに、古事記の間には、
どのような違いがあるのでしょうか。また、785さんは、紀元前200年ころより、二倍暦
が用いられていたとお考えなのでしょうか。
790 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/21(水) 09:08:00
唐松山さん
暦に関しましては、古代中国では、二倍暦ではなく通常の暦であったと
思いますが、「ホツマ」の暦は、二倍暦とお考えなのでしょうか。
「パトリオット 迎撃率低い」 湾岸戦争時「ほぼゼロ」 イスラエル元国防省発言記録
【ワシントン20日=坂口智】湾岸戦争でイラクのスカッド・ミサイル迎撃に効果を上げたと
される対空ミサイル「パトリオット」について、戦争当時のイスラエル国防相モシェ・アレ
ンス氏が「ほとんど役に立たなかった」と判断していることが、朝日新聞が入手した同氏の
発言記録で明らかになった。米国が日本に対し開発協力を提案している戦域ミサイル防衛
(TMD)構想では、パトリオットの改良型が迎撃ミサイルシステムの有力候補となっている。
アレンス氏は今年9月上旬、マサチューセッツ工科大のセオドア・ポストル教授らから成る研
究チームのインタビューに対し、「正確な統計はないが、迎撃成功率は極めて少ない。実際無
意味(なほどの数)だ」と発言。改良計画にも強い疑念を表明していた。
戦争直後、米国は100%に近い迎撃成功率を主張していたが、その後サウジアラビアでの迎撃成
功率は約70%、イスラエルでは40%と下方修正した。また、米会計検査院は、「迎撃成功の証拠
があるのは9%」との報告を出すなど、諸説が流れているが、イスラエルの軍事情報を掌握してい
た人物がパトリオットの「無能性」を公にしたのは初めて。
アレンス氏は、パトリオットが本来、対航空機用に開発されたシステムであり、「スカッドのような
ミサイルを迎撃できる可能性は非常に低いことを知っていた」と発言。同氏は「(戦争開始後)最初の
数日で、迎撃効果はゼロに近いことがはっきりした」と断言した。(朝日新聞 1993/11/21)
793 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 18:37:47
以上、2件は荒らしでした。
美人姉妹、研究家さんといらつめさんの対話は続きます。
794 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 20:37:17
795 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 21:14:08
796 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 02:14:35
上古代の日本が二倍年暦だったと推定し、
崇神天皇10年を魏志の卑弥呼の没年(247年前後)とし、
神武天皇の即位年を革命年にするために
欠史八代の部分を二倍引き伸ばして、
結果的に通常暦の4倍(二倍年暦×2)になっていると仮定したら
神武天皇が生まれたのが、西暦50年前後で
神武東征は、西暦70〜80年代ぐらいで
神武没年が、西暦120年前後だと
推定されました。
ということで、まとめてみると、
神武天皇が日向で生まれたのは西暦50年前後で
西暦57年の奴国(福岡市)の金印のちょっと前くらい
西暦70〜80年くらいに、神武天皇は東征して
畿内本家の継承争いに加わり、畿内本家を婿養子として継承。
西暦107年ごろ、面土国(吉野ヶ里)の帥升が奴国を占領(金印は志賀島へ)
西暦107年に、面土国は後漢に奴国の戦争捕虜160人を連行して
金印を求めたが認められなかった。
西暦120年前後、神武天皇は崩御。
いずれにせよ、西暦50〜西暦120年の間は
畿内も九州も混乱期だ。
797 :
カナカナボウシ:2007/03/23(金) 06:52:01
欠史8代が4倍になっているというのはあたっています。
798 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/23(金) 09:18:56
>>793さん
美人姉妹と褒めていただきまして、ありがとうございます。
現在開設の準備を進めておりますホームページにて、
アルバムを設定しておりますので(ほんの僅かですが)、
美人か、どうかをお確かめください。
また、本スレッドは、わたくしども姉妹の会話形式のスレッドではなく、
多くの方々が書き込んでおられます。どうぞ、皆様、日本書紀紀年法についての
様々な自説やご意見を、お聞かせください。
799 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/23(金) 09:21:39
>>796さん
崇神十年が卑弥呼の没年と考えますと、崇神天皇は、卑弥呼に対して、
どのような立場の人物であったと、お考えなのでしょうか。
800 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/23(金) 09:29:05
カナカナボウシさん
闕史八代が四倍暦と考えますと、綏靖天皇の33年、安寧天皇の38年、
懿徳天皇の34年という数字は、崩御の月まで、わかっていなくては、
計算できないのではないかと思います。
この点に関しましては、どのようにお考えでしょうか。
801 :
カナカナボウシ:2007/03/23(金) 09:37:54
いえ、4倍暦ではありません。年代を引き伸ばすために2倍年暦を2倍にしただけです。
802 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 13:49:44
>>799 崇神10年なんだから、言わなくても
分かるんじゃないのか?
803 :
唐松山:2007/03/23(金) 19:18:43
崇神10年 猶不受正朔
正朔=暦=太陽太陰暦 日々の干支で合わせると
崇神12年までは、其のまま 12年です
崇神治世は、21年、26年、31年 等が考えられます。
804 :
唐松山:2007/03/23(金) 19:35:53
中華の暦は、どこまで信用できるか?
平朔平気法は、前漢の太初暦から隋の大業暦まで使用されました。次表に、
中国で実際に使用された暦法のパラメータを示します。このうち玄始暦は、
律暦志に元期が記載されていない為、文献[1]から逆算して元期を推定しま
した。この元期を元にした c1$f.rsc による玄始暦の計算値は、文献[1]のデー
タと閏月の位置が6箇所ずれており、むしろ汪曰[木貞]古今推歩諸術攷 巻
上,22葉、等に一致します。これのもとネタは『開元占経』であろうとのこ
とです(−これも massangeana さんのご教示による)。文献[1]では閏月の
間隔が35ヶ月になることがあり、人為的変更を考慮した結果であろうかとも
推定されますが詳細は不明です。資治通鑑の暦日は計算値の方によく適合し
ます(これは資治通鑑プロジェクトの一貫として行われた計算によって元の
記録を置き換えたためと思われ、ある意味であたりまえのこと)。今後、北
史などの文献を調べてみる必要がありそうです。
805 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/23(金) 20:01:21
カナカナボウシさん
二倍暦、そして、二倍暦をさらに二倍した場合、むしろ月について、
何月に崩御されたのか、かなり正確に伝わっていなければ、年に換算
することができないのではないでしょうか。少なからず、1〜6月か、
7〜12月であるのかによって、在位年数が違うことになるのではないでしょうか。
このへんにつきましては、どのようにお考えでしょうか。
806 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/23(金) 20:06:45
>>802さん
少なからず、学術的なお説として、提起されておられるのでしたならば、
根拠を明確に述べていただきたいと思います。言わければ、わからないことは、
いくらでもあります。仮に、卑弥呼の在位中に、崇神天皇の在位があったのならば、
その理由は、複数考えられます。例えば、卑弥呼の弟で政治を担っていたのが、
崇神天皇であるとか、もしくは、狗奴国の王が崇神天皇であるとか。
このように、仮説はいくらでも立てられますので、きちんと、ご説明いただきた
いと思います。
807 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/23(金) 20:17:49
唐松山さん
わたくしは、中国の暦については詳しい方ではありません。また、
次表が記載されていないようですので、唐松山さんが、何を述べておられるのか、
よくわかりません。そこで、初歩的な質問をさせていただきますが、
玄始暦は、いつごろ使用されていた暦なのでしょうか。
そして、この暦と日本書紀紀年法との間に、どのような関連があると、
お考えなのでしょうか。それとも、『開元占経』という暦書?と日本書
紀紀年法との間に関連がある、とおっしゃられたいのでしょうか。
808 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/23(金) 20:24:46
内政記事の進行年を等倍だと仮定すれば崇神紀は21年ならピッタリなんですけどね
漢籍と古事記で
倍暦は閏月をどう処理したの?
810 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/23(金) 23:36:18
前の話に戻りますが今更ながらフォローします
>>732 いいえ、そう云う考えで押し進める訳にいかない事情が在ります。
取り敢えずここでは神武〜崇神に相当する氏族伝承の世代数の合計が、
計十世代の物なら十世代系伝承(本当の意味で『伝承』かはさて措いて)、
計七世代の物だったら七世代系伝承、等と呼ぶ事にします。
天皇系譜以外の諸氏族の現存史料は、ほぼ七世代系伝承や六世代系伝承で占められているようなのです。
例えば先代旧事本紀は日本書紀や古事記からの引用が見られ、成立由緒を偽った偽書と言われて来たようですが
先代旧事本紀の記紀に拠らない伝承である尾張・物部系譜も七世代系伝承なのです
私は一世約三十年説と書紀三倍説を併用する事で世代の重複箇所を検出しました。
この計算結果から記紀の天皇系譜には凡そ三世代の世代重複がある筈です
この検出箇所は先代旧事本紀が要求する天皇の世代数や重複箇所と
極めて高い一致性があります。紀年復元は最終的に系譜の問題に手を付けないと行けないと思います
天皇系譜がそもそも七世代だとすれば、先代旧事本紀の成立が記紀以降であっても
先代旧事本紀の当該箇所の情報の記述した側の人間は、
現・記紀系譜以前の天皇系譜に付いても知っていなければならなかった筈です。
或いは、現・記紀系譜以前の段階での史料が手元に無ければならなかった筈です
先代旧事本紀は物部系の伝承と云う事で良い様ですが、
他の氏族も七世代系伝承(或いは六世代系伝承)の史料を残していると云う事は、
現在の記紀の天皇系譜が出来上がる以前に
やはり紀年引き伸ばしを行なう以前の七世代系の天皇系譜の原型が存在して居たのではないでしょうか?
811 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/23(金) 23:40:11
【その2】
そう考えると、七世代系(或いは六世代系)の天皇系譜の原型は、八世紀の書紀完成前などではなく、
例えば推古朝の国史編纂段階には既に存在していたかもしれないです
でも天皇記や國記自体にはどう云う構想で書いてあったのでしょうか?
実は此処で既に十世代系伝承だったとすれば、推古朝では年代の引き伸ばし構想があったのでしょうか?
通説の様に、讖緯説の原点を推古九年に求めるならそう云う考えも成り立ちそうですよね?
では、その場合太歳干支等が振られて居たのでしょうか?
紀年が振られて居たでしょうか?
神武〜安康までは書かれていたのでしょうか?
歴法は如何したのでしょうか?元嘉暦の筈ですよね?
でも現行日本書紀の研究では、安康3年辺りを境に、
それ以前は儀鳳暦で統一されていると云う事で良かったと思いますが、
ならば折角、天皇記・国記編纂の居りに元嘉暦で暦を振ったものがあったとすれば、、
にも関わらず書紀編纂段階で、既に出来上がってるものがあるのに儀鳳暦で書き直したんでしょうか?
動機がちょっと見えません。
そう考えると、そう云う事はそもそもなかったと云う事の方が自然かもしれません。
そこからもっと考えると通説の讖緯説の推古九年(601年)原点説の信頼性もちょっと揺らがないですか?
これが疑いなく成立するのは、
推古期に、元嘉暦で紀年延長を含む国史を作っている必要があると考えられますから。
このハードルは割と高いと思うんですけど。
原点があると考えるなら661年説ももっと有力視されても良いと思うんですけどね
812 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/23(金) 23:41:44
【その3】
それにそもそも儀鳳暦が使われるのが持統以降ですよね?
例え神代〜安康まで含む史書が過去に編纂されていても、
やはりそこでは紀年引き伸ばしまではなかったんじゃないでしょうか?
そうなれば、天皇記や國記は七世代系伝承等を前提に書かれて居た筈です。
他の現存氏族伝承と同じように。
他の氏族伝承がどの段階で成立したかによっても、
七世代系天皇系譜の成立年代の上限も上がる筈です
ですから、
十世代系伝承は日本書紀の紀年引き伸ばしに起因して
突如出現した後出しジャンケンじゃないのか?
紀年延長に無関係な筈の古事記が日本書紀と同等の系譜を持っていると云う事は
古事記も日本書紀の系譜を見ている必要があるんじゃないのか?
だとしたら古事記が成立する以前の段階で、
日本書紀の年代引き伸ばし作業の大枠が現日本書紀と大差ない形で
終了している必要があるのではないか?
それは本当に712年までに可能だったのだろうか?
813 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/23(金) 23:42:51
【その4】
と、まぁ今は大体こんな具合に考えて居ます。
如何でしょうか?
こう云う世代の重複論を切り口にした依存関係からの推理は、
他の方が検討していないようなので、
結構新鮮な問題提起だったんじゃないかと思いますが。
もう少し短く纏めたかったんですが、ちょっと長かったですね。はい。
>>732 >崇神天皇も、開化天皇が15歳になる前に出来た子供みたいだし。
アレ、そうでしたっけ?
814 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/24(土) 00:03:38
>>735 古ければ何時の時代の天皇から構いませんが、
実年代の生年が確実に解る天皇から例えば今上天皇の生年の1933年との差、
即ち生年差数を求めてこの生年差数を経過世代数で割ると、正統天皇一世代当たりの平均生年差数を算出できます。
この値は凡そ27〜33年程度でサンプリングが長いと28年の側へ、
サンプリングが十数世代と短いと32年程度が出たりする程度で、凡そこの範囲に収束する筈です。
ただ、書紀の設計者が現在の我々のような長期のサンプリングを
実測しているのならば三十年弱程度で設計する筈ですが、
彼等が当時所持出来た筈のサンプルから実測して、正統一世平均を算出するような真似が出来たとは思いません。
現在の辞書的な意味では一世は三十年と云う事のようです。
コレが何時の時代からそうなのか大陸での「世」の原義からそうなのかは知りませんが、
彼等も経験則的に一世約三十年とする考えぐらいあったんじゃないか?ぐらいに私は考えて居ます。
因みに天皇「一代」当たりの年数と云うのは、「一世」平均三十年とすれば
一代当たりの在位年数は、当該一世代に何人の天皇が在位したかに依存する訳ですから
一世に二人居る場合は凡そ一代十五年程度、
一世に三人居る場合は凡そ一代十年程度になると言うようにモデル化出来ますよね
318年説にしてしまうと、天皇の世代数を、崇神から応神までの間に、ざっと二世代削減する必要があります。
これは合法でしょうか?こう云う事は他の氏族系譜から否定されるんじゃないかと思いますが如何でしょうか?
日本書紀編纂者にとって重要だったのは
中国史書に登場する倭の女王という存在と
神武の即位年の干支を革命年にあわせること。
そのために、日本書紀の編纂者は年代を改竄した。
日本書紀の編纂者は、古代の二倍年暦を知らず考慮せずに記紀を書いた。
そのために、卑弥呼と比較的に年代が近いほうになった神功皇后を
卑弥呼の年代にあわすために、神功皇后の後の時代の天皇の即位年を
引き伸ばしたりしている。
また、崇神天皇の即位年に関しては、一つの起点になったみたいで、
真実の年代(といっても、二倍年暦を考慮していない年代)にあわすために
神功皇后の後を引き伸ばしたりした分を修正するために
崇神天皇の即位年を短くしている可能性が高い。
しかし、それから神武天皇の即位年が革命年の干支にあわす必要になり
まず、欠史八大の部分を二倍に引き伸ばし(二倍年暦×2=実質的に4倍年暦)
それで行き過ぎてしまった部分を、神武天皇の在位期間を短くして
神武即位年を革命年にあわせた。
816 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/24(土) 00:43:34
【その2】
318年にすると古事記ではなくて、書紀の設計上もイロイロ問題が出そうなんですけど。
そもそも318年没相当だった崇神を258年に繰り上げた、なら解る話ですけどね。
陵墓の考古学上の年代判定にしても(但、崇神陵と景行陵の取り違え説があるようなので一応)
でも、書紀の設計の問題はそれとは独立していると思います。
書紀の設計に従うなら、古事記は258年でなければならないはずですよ
もっと上の方でレスの応酬があったようですが、
稲荷山鉄剣にしても古事記での崇神没が318年であった方が
孝元裔の大彦から世代的に雄略の到達出来ますが
崇神が258年没だと到達出来ないと思います。
この丁度二世代分(良心的に見れば一世代分)足りないんですよね
ただ、先代旧事本紀と同系の系譜を持っている海部氏勘注系図では
系図上の同期関係が丁度二世代分ズレがあると思われる箇所が幾つもあるんですよ。
この勘注系図のズレと思われる側こそが、古伝承だったとすれば
古事記の崇神没の318年を肯定出来そうです
しかしです。先代旧事本紀には、尾張氏・物部氏の系譜の中に記紀に見られる
尾張/物部系の后妃を書いてあるんですけど、この后妃の関係を整合させると
神武〜崇神を7世代に修正した天皇系譜とほぼ完全に一致するんですけど
しかしこの場合318年説を取ると、これらの后妃や母子関係を全面的に否定しなければならないと思われます
まぁ、後々勿論勘注系図こそが古伝承に忠実であると結論付けられれば、否定されてしかるべきですが。
先代旧事本紀の方が書紀との整合性が取りやすい云う事は、伝承体系として新しいかもしれない訳ですし
悩みどころです。うーん
でも、まぁ、今は取り敢えず勘注系図側は修正可能なので先代旧事本紀を軸に考えています。はい。
>>816 崇神天皇に関しては、日本書紀の在位期間は
古事記のよりも短めにされた可能性が高いと思います。
日本書紀は120歳、古事記は168歳でしたね、崇神の寿命は。
古事記のほうは、崇神の在位期間は書いてませんが
おそらく、年齢同様、日本書紀のものよりも長かったんでしょう。
たぶん、神功皇后を卑弥呼に合わせるために、
神功皇后の後の天皇の年代を引き伸ばした分
崇神のあたりは年代を短くしたと思われ。
818 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/24(土) 08:38:01
>>756 現記紀系譜の上位十代の系譜の改変の原因が
日本書紀の紀年延長後に発生したと仮定した場合に
「書紀と同等の系譜を古事記の側も持っていると云う事は、
712年までに書紀側の紀年操作の設計の大枠がほぼ終了している場合でも
その結果に依存して古事記の側が日本書紀に準拠していないといけない筈だし、
712年までに、書紀の紀年操作の設計が終わってないとすると、
古事記は712年以降に出来た偽書の筈だ」
と云う成立過程の推理ですよ
記紀系譜が今の形になったのはどう云う順序か?と云う思考実験です。
それから岡君氏本紀の事なんですけど、国会図書館からコピー請求しないと駄目そうなので。
切迫してきたら取り寄せたいと思います><;
ちょっと研究家さんの記述をスッキリ区切って書くと
「第八代孝元天皇-長皇子大彦命-次男彦背立大稲輿命-三男彦屋主田心命-長男大伊賀彦命」
とすると要するに孝元天皇四世孫の大伊賀彦命が初代祝部なんですよね?
世代経過が「順当」に行けば景行と同期ぐらいの筈ですよね?
次の、仲哀〜仁徳までに奉職していた八代の祝部たち、云々カンヌンと云う研究家さんの表現が解り難いです。
これは初代の大伊賀彦命が仲哀と同期で、八代目の祝部が仁徳と同期と云う事でしょうか?
もしそうなら、初代の時点でここでも二世代のズレですね。
そうではなくて八代目の方が1人で仲哀〜仁徳と同期だったと云う事でしょうか??
819 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/24(土) 08:38:54
武内宿禰の系譜も二世代ばかり少ないですよね。
これも稲荷山鉄剣の事でレスの応酬をしてた人のように、
孝元に対して接続したのが誤りの始まりなのか、
それとも318年崇神没相当が最古伝承でこれとピッタリな伝承体系だったのに
崇神没を258年へと二世代分繰り上げさせられた為に、
孝元も二世代上がったのに、孝元後裔氏族の系譜が古形を護ったまま放置されていたのか…
書紀の設計上はAD247年は崇神十年で良いと思うんですけど
神武をAD57年にした所為で、崇神十年が繰り上がったと云う事もあるかもしれませんし。うーん。
ちゃんと調べれば他も此処が二世代分少ないかもしれないですね
820 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/24(土) 09:10:57
>>796 >>797 当たり外れを云うカナカナボウシさんがサガミハラハラさんで
サガミハラハラさんの説、そのまま(二倍年暦×2)と言ってる方が
http://yamatonokuni.seesaa.net/の作者さんで間違いほぼ無いと思うんですけど 如何でしょうか?そろそろ固定ハンドルにして貰いたいところです
お二人とは以前にも「2倍念暦」スレでお話したと思いますけど
そもそも、サガミハラハラさんが二倍年暦を二倍すると言い出したのは
欠氏八代を虚構年無しに二倍で消化しようとすると、
神武元年が紀元前に突き出してしまうからですよ
そうならない為に、二倍年歴の二倍だと言ってる訳で、
それ以上の紀年操作上の根拠は無い筈です
垂仁没年で挫折した為に、一貫性を棄ててしまったのです。
そう云う文脈での、(二倍年暦×2)をそのまま使っている訳ですから
これ自体に妥当性があるかと云えばそうは思えませんし
本当は虚構年を求めて、二倍で押し通すべきなんですけどね
太国さんの研究なんかでも、欠史八代の内政記事は二倍が有力だと思います
虚構年が求めなれないから、二倍の二倍と云うのは紀年操作上の根拠の無い話なんじゃないですか?
根拠があるなら教えて欲しいものです
821 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/24(土) 09:33:51
征東大将軍さん
元嘉暦であっても儀鳳暦であっても、1年は1年ですので、紀年法としては同じなのです。
ここに、暦法と紀年法の違いがあります。したがって、「讖緯説の推古九年(601年)原点説」
には、問題がないのです。
また、豪族たちの間には、七世代系譜が作られていたという点は、わたくしもそのように
考えております。例えば、『高倉宮岡君氏本紀』は、大伊賀彦から八代の後裔が、先祖七代の系譜を
記録したとも考えられ、この場合、七世代を意識していたのではないかと推論できます。
また、本紀では、大伊賀彦は仲哀天皇の時代、第八代の水久幾は允恭天皇の時代の人とされており、
日本書紀と同様に、仁徳紀が長く設定されています(仁徳天皇の時代に三代)。
九州遠賀という地方豪族の系譜に、日本書紀と同じような紀年法が用いられていることは、
興味深いことです。本紀は、日本書紀成立後に、日本書紀の紀年法に合わせる形式で、
伝承などをもとに録されたか、もしくは、書き改められたものであるのかもしれません。
大伊賀彦の祖の「おおひこ」と稲荷山古墳鉄拳の「おおひこ」が同一人物でしたならば、
七代系譜と「おおひこ」との関連は、興味深いものとなってきます。
武内宿禰の「宿禰」って
個人名じゃないでしょう?
宿禰ってのは、皇別氏族につけられる姓。
823 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/24(土) 11:47:48
えぇーっと、1年は1年と理解しているので、微妙に話がズレている気もしますが、
推古九年AD601を原点にする動機なんてのは
推古朝で既にBC660を神武元年にしていたと云う以外のケースはホントに在るのかと云う話です。
もしそこまで手の込んだものを一度作ってたなら、
推古朝は元嘉暦でやってたんだから、書紀で儀鳳暦に変えて作る必要なんかないんじゃ?って話です
ま、この辺で
>また、本紀では、大伊賀彦は仲哀天皇の時代、
>第八代の水久幾は允恭天皇の時代の人とされており、
大伊賀彦命が仲哀と同期と云う事は、
記紀の天皇系譜どうりだとやっぱり二世代分合わないですね
うーんっと、仲哀紀の伊賀彦が大伊賀彦命なんですね。
今頃やっと頭の中で繋がりました
それから八代目の「水久幾」が孝元何世孫なのかって云う事なんかは解らないでしょうか?
初代が仲哀で、八代が允恭なら全部直系と云う訳では当然無いと思うんですけど
>日本書紀と同様に、仁徳紀が長く設定されています(仁徳天皇の時代に三代)。
この仁徳の三代は同世代だとか、そう云う事だったりするんでしょうか?
稲荷山鉄剣のオオヒコや、大伊賀彦命の祖の大彦命、書紀での武内宿禰の祖の大彦命も同じですけど、
子孫の段階では記紀の天皇系譜に対して、
世代の同期関係が仲良く二世代分合ってないようなので、その点を持って同一人物と見る事が出来そうですけどね
武内宿禰の祖の大彦命って、
男系系図でみたら、崇神天皇の叔父(開化天皇の異母弟)だけど
母系系図見たら、崇人天皇の異父兄なんだよね。
(つまり、開化天皇は、父親の故・孝元天皇の側室を妃にしたw)
ここが、まずポイントだよ。
つまり、武内宿禰の祖の大彦命は、
開化天皇の歳の離れた弟であり
代数で見たら開化天皇と同じでも
天皇家本家の崇神天皇(開化天皇の息子)とほぼ同世代と見たほうがよい。
ちょうど、越前松平家と徳川宗家と徳川御三家の
代数と世代に大きな開きが出来たようなもの。
家康から5代前の家宣のほうが、家康から4代目の吉宗よりも
ずっと年上だったように。
必ずしも、天皇本家と代数と世代が一致しなくても良いような気がする。
825 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 12:42:05
開化⇒・・・・⇒神功(ネコ家丹波系)
崇神⇒垂仁⇒忍熊(イリ家大和)
景行⇒成務⇒仲哀(タラシ家筑紫)
と考えると古事記と日本書紀の矛盾が解決します。
1.武内宿禰 古事記 孝元の孫(崇神と同世代)
日本書紀 景行の息子(成務と同世代)
異常に長い寿命
2.景行天皇 古事記 親征無し
日本書紀 親征有り
親征を書き落すなんてことはありえない
826 :
カナカナボウシ:2007/03/24(土) 16:21:07
崇神以前については、月日については、正確なところは時代をさかのぼればさかのぼるほど
わからなかったと思われます。年についても、各個の天皇のなかには、即位(初期の天皇は即位などという意識はなかったであろう)の
年もわからない天皇もいたでしょう。紀の編者はおぼろげな断片的な記憶や記録をあわせて、憶測で各天皇の在位年をきめたのです。
そして、BC660年神武天皇即位年にあわせるために4倍にしたのです。
では、神武元年(131年)が恣意的なものかというと、どうもそうでもないらしいのです。これはかなり正確であったような気もします。
827 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 16:22:18
↑これ結局何にも言ってないのと同じじゃ無いか大林君w
ずっと大林賢栄VS大林賢栄で
やってればいいのですが
ついつい寂しくなると他に手を出します
迷惑を掛けているつもりはありませんが
書くだけで荒らしと言われてしまいます
何故でしょう?
829 :
唐松山:2007/03/25(日) 00:03:35
大伊賀彦の祖の「おおひこ」と稲荷山古墳鉄拳の「おおひこ」が同一人物
12分に考えられます
オオヒコ→武沼河→武沼河阿部(伊賀に入る)→高橋=ムツカリ(景行に同行)
ハテヒ=ヒノ国九州→カザハヤ=風早国(成務か神功?の頃伊賀に在った)
神功=七支刀、応神=辛亥年
ついでに 雄略に辛亥年 在りませんでした。(私の見立て)
古事記と日本書紀の違いに
系図の相関図がある。
その一つが、近親相姦による婚姻。
古事記のほうは、全くの兄妹(同父、同母の兄妹)が
婚姻しているケースが目立つ。
崇神天皇と妃が兄妹だったりとか。
でも、そういうのは日本書紀では改変している。
831 :
唐松山:2007/03/25(日) 00:22:44
歴年 年度 偏差 閏 歴日 陽日差 月齢 崇神
246年目 1年度 22日 89回 89839 -5.9日 1.00月齢 崇神元年正月壬午朔
246年目 1年度 22日 89回 89868 -7.4日 1.98月齢 元年二月辛亥朔
249年目 4年度 23日 90回 91197 -17.6日 9.98月齢 四年十月庚申朔
252年目 7年度 24日 91回 92054 -12.9日 2.00月齢 七年二月丁丑朔
252年目 7年度 23日 92回 92260 10.5日 7.98月齢 七年八月癸卯朔
252年目 7年度 18日 92回 92344 3.2日 10.82月齢 ?8年?七年十一月丁卯朔
253年目 8年度 24日 92回 92733 -3.5日 12.00月齢 八年十二月丙申朔
254年目 9年度 23日 92回 92821 -6.8日 2.98月齢 九年三月甲子朔
254年目 9年度 24日 92回 92851 -7.3日 3.99月齢 九年四月甲午朔
256年目 11年度 24日 93回 93589 0.2日 3.98月齢 十一年四月壬子朔
257年目 12年度 24日 93回 93914 -9.6日 2.99月齢 十二年三月丁丑朔
257年目 12年度 24日 94回 94121 14.8日 9.00月齢 十二年九月甲辰朔
29年垂仁誕生
267年目 22年度 25日 97回 97516 0.8日 0.96月齢 四十八年正月己卯朔
267年目 22年度 26日 97回 97605 -1.5日 3.98月齢 四八年四月戊申朔
274年目 29年度 27日 99回 100233 -21.6日 6.97月齢 六十年七月丙申朔
276年目 31年度 28日 100回 100972 -13.1日 7.00月齢 六十二年七月乙卯朔
282年目 37年度 30日 102回 103305 -23.8日 12.00月齢 六十八年十二月戊申朔
832 :
唐松山:2007/03/25(日) 00:25:50
歴年 年度 偏差 閏 歴日 陽日差 月齢 崇神
246年目 1年度 22日 89回 89839 -5.9日 1.00月齢 崇神元年正月壬午朔
246年目 1年度 22日 89回 89868 -7.4日 1.98月齢 元年二月辛亥朔
249年目 4年度 23日 90回 91197 -17.6日 9.98月齢 四年十月庚申朔
252年目 7年度 24日 91回 92054 -12.9日 2.00月齢 七年二月丁丑朔
252年目 7年度 23日 92回 92260 10.5日 7.98月齢 七年八月癸卯朔
252年目 7年度 18日 92回 92344 3.2日 10.82月齢 ?8年?七年十一月丁卯朔
253年目 8年度 24日 92回 92733 -3.5日 12.00月齢 八年十二月丙申朔
254年目 9年度 23日 92回 92821 -6.8日 2.98月齢 九年三月甲子朔
254年目 9年度 24日 92回 92851 -7.3日 3.99月齢 九年四月甲午朔
256年目 11年度 24日 93回 93589 0.2日 3.98月齢 十一年四月壬子朔
257年目 12年度 24日 93回 93914 -9.6日 2.99月齢 十二年三月丁丑朔
257年目 12年度 24日 94回 94121 14.8日 9.00月齢 十二年九月甲辰朔
29年垂仁誕生
267年目 22年度 25日 97回 97516 0.8日 0.96月齢 四十八年正月己卯朔
267年目 22年度 26日 97回 97605 -1.5日 3.98月齢 四八年四月戊申朔
274年目 29年度 27日 99回 100233 -21.6日 6.97月齢 六十年七月丙申朔
276年目 31年度 28日 100回 100972 -13.1日 7.00月齢 六十二年七月乙卯朔
282年目 37年度 30日 102回 103305 -23.8日 12.00月齢 六十八年十二月戊申朔
長めに 見立てています。 1日=0.034月齢
踰年改元についてなんですが、桓武帝の崩後平城帝が即位して、
同年に改元したことが、日本後紀で「非礼」「孝子の心に違う」と
非難されてますよね。
単にそういうことじゃないんですか?
それと、新嘗あるいは大嘗を執行した天皇が翌年の支配者になる、
とも考えられます。
ただの思いつきですが。
834 :
カナカナボウシ:2007/03/25(日) 08:25:05
>>826 つまり、古い時代の分は丼勘定のところもあったということです。
835 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 11:31:36
>>834 ぴったり4倍にしたら丼とは呼ばないんじゃないの?
2倍暦と干支の繰り入れ増しの併用と考えた方がいいんじゃないの?
赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄 赤い大林賢栄
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が自作中
404 :日本@名無史さん :2007/03/25(日) 14:34:32
狗奴國の官は
魏志では、「狗古智卑狗」
魏略では、「拘右智卑狗」
どっちが正しいかだ。
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi4.html 普通、あういう木簡で字を記したものが後世に残る場合、
字が欠けることはあっても、字が突き出すことは無いだろう?
ということは、「狗古智卑狗」の「古」は間違いで
「拘右智卑狗」の「右」のほうが正しいんじゃないのか?
838 :
唐松山:2007/03/26(月) 19:04:20
古代 天皇家は、血液が濃い
その結果は、 ふたご、みつご の存在から正しいと思われる
その時 天皇の寿命は 短くなる 又は 関係ない
どちらと 採りますか?
ほつま では 40才位 と書いてあります。
ホ18064 マサカキフソの あまるコロ
まさかき=天皇1代紀 20の余る頃=60−40
839 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/26(月) 22:37:50
ちょっと閃きました
【その1】
研究家さんのプランと高城修三さんのプランを検証してて思ったんですが、
研究家さんのプランを拡張して考えて、
仁徳列で応神没年394年以前までを想定すると
応神五年〜二十年ぐらいまでの外事記事を中心に仁徳列で大量に処理出来そうです。
一例。まずこれを見て下さい。
■史記・近肖古王23年
>二十三年 春三月丁巳朔 日有食之 遣使新羅 送良馬二匹
近肖古王23年は368年になります。
■書紀・神功52年
>五十二年秋九月丁卯朔丙子 久?等從千熊長彦詣之 則獻七枝刀一口・七子鏡一面 及種種重寶
これを応神列で処理すると神功52年は372年になりますよね?
■書紀・応神15年
>十五年秋八月壬戌朔丁卯 百濟王遣阿直伎 貢良馬二匹
これを応神列で処理すると404年なんですが、仁徳列で処理すると368年で、三国史記と完全に一致します!
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
でも、書紀の復元に使う年代列が違う事で、
「神功紀」で七枝刀と七子鏡を貰ったの年代が後(372年)で、
「応神紀」で良馬二匹を貰った年代が前(368年)と、順番が逆になってますよね?
840 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/26(月) 22:39:49
【その2】
この関係が古事記では如何書いて居るかと云うと↓
■古事記・応神記の渡来系の記述箇所
>亦百濟國主照古王 以牡馬壹疋 牝馬壹疋 付阿知吉師以貢上【此阿知吉師者阿直史等之祖】 亦貢上横刀及大鏡
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
書紀で年代列を違えて逆の順番になって復元されたものが、
古事記の一文の中での順番とピッタリ同じで、馬が先で刀と鏡が後!
ここは古事記の伝承体系こそがほぼオリジナルに近くて、
書紀の側はこの一連の関係を年代列を二つ使って記録位置を隔てて分割したんでしょう。
(記)照古王=(紀)肖古王=(史記)近肖古王で、在位が346即〜375没ですから、
応神記の一文のそのままの順序で、
照古王(346即〜375没)が、
(記)阿知吉師=(紀)阿直伎を遣わして牡馬1と牝馬1の合わせて2匹を368年に献上し、
(369年に七枝刀が作刀され)、372年に七枝刀一口・七子鏡一面が献上した。
しかも、古事記の対象年代が実年代通りに書いているとすれば
これらは全部「応神の在位年間」の出来事ですよ。
つまり、実年代上の応神元年は応神列で求められた390年より前から始まっていると云う事に成る筈です。
841 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/26(月) 23:02:26
【その3】
応神五年〜二十年の外事記事を中心にと書きましたが
例えばちょっと応神八年を見てください。
百済人の来朝を書いていますが。
これだけでは応神列と仁徳列のどちらでも意味が取れそうですが
割註で書かれてる、百済記の引用だけを注目すると
阿花王(392即〜405没)について書いて居ますよね?
これなら、取り敢えずここだけは応神列と見て、応神列で397年で良さそうですね
(注意深く言えば割註だけは)
でも他の応神五年〜二十年あたりの記事を見てください。
外事記事に百済王の名前が書いて居ません
百済王が〜と書いている所もありますが、
古事記での応神治世の照古王などになってる所を誤魔化してるんです
つまりこれは、トリック記事だったんです
応神記で外事記事だけでも特定できるものは大量に在りますが
外事記事に限らず古事記の応神記に書かれているものは、
394年の応神没までに納まるように、応神列だけでなく、仁徳列も使って求めるべきです
842 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/26(月) 23:37:27
【その4】
こう云う推理が出来ます。
古事記は崩年干支が実年代に忠実なだけでなく
古事記は意図的な書紀のような紀年操作に左右されず
A天皇の記に、A天皇の事跡として書かれている事柄は、
オリジナルの年代観に近い形で記述されている
古事記製作者が紀年引き伸ばしに前の正しい(狭義)年代観を知っていそうです。
そう云う意味から崩年干支も当初から在ったと見ても良さそうですね。
記紀で記録位置が違う話なんかもフラグ記事になりそうですね
仁徳と応神も話のプロットが記紀を越えて移動しているようですが。
応神以前でも年代列の基準年を探す手掛かりになるかもしれないです
系図の錯綜問題もこう云う事が原因かも
逆に天皇記、国記の段階で引き伸ばし紀年が付いてが既に付いていて、
それを参考にしているような感じは受けませんが。うーん
843 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/27(火) 00:42:10
【その5】
ここで最初に言った高城さんのプランは、高城さんの著書の『紀年を解読する』に書いてある
二倍年歴説なんですけど、
そこでは、日本書紀の神功52年と応神15年と、古事記の応神記を引いて
三国史記で362年に新羅に良馬二馬を送ったんだからこの年代は
高句麗との戦いを前にした百済が送ったんだから
倭にも二干支繰り下げでの応神15年の404年ではなく、
新羅に送ったのと同じこの時期に良馬を送った筈だ、と云う前提で書いているんですね。
高城さんは倭に送った時期は計算上369年の後期だとしているんですけど
これの考えに沿う形で研究家さんのプランを拡張させてみたら?と思って計算すると
近いんですよね。この二つは水と油の筈なのに
私自身も高城さんに近い1〜3倍込みの立場で来てるんですけど
研究家さんのプランをこのまま拡張させて行った方が上手く行きそうな気がしてきました。うーん。
でも研究家さんのプランも高城さんのプランもここから年代を遡ると問題が
844 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/27(火) 10:03:36
「倉西先生のご学問所」というホームページを開設いたしました。
http://につづいて、www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/でアクセスできます。
>>1で述べたわたくしの紀年説については、日本書紀紀年法入門をご覧いただければ、
わかりやすいのではないかと思います。
ぜひ、皆様、アクセスしていただきたくお願い申しあげます。
845 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 11:09:33
研究家さん
さっそく拝見しました。(余談:きれいな人だなあ〜)
研究家さんと「いらつめさん」とで、同一人物かと思うくらい
息がぴったり合っている原因がやっとわかりました。
論文はこれからじっくりと読ませていただこうと思います。
掲示板が積極的、建設的で協調性ある意見でいっぱいになる
ことを楽しみにしています。
846 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/27(火) 12:16:15
>>845さん
さっそく、「倉西先生のご学問所」にアクセスしてくださいまして、ありがとございました。
拙いホームページですけれども、古代史について考えたり、学んだりされる際に、
皆様のお役に立てるものとなっておりましたならば幸いです。
掲示板は、現在設置の準備を進めておりますが、ホームページに不慣れなこともあって、
まだ、開設することができません。なるべく早くに開設できるよう、
努力してまいりたいと思います。
いつ発見されたん?とりあえずおめーー
綺麗な方でびっくりしました。もっとガリ勉風のイメージだったのですが・・・。
研究家さんというより、これではまるでモデルさんですね。
(研究内容と関係ない記述でごめんなさい)
849 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/28(水) 10:57:36
>>848さん
綺麗とほめてくださいまして、ありがとうございます。
わたくしの人となりを、知っていただけることになるため、プロフィールに
興味を持っていただけたことは、うれしいことです。恥ずかしながら、自己紹介として、
プロフィールコーナー設けました。
ついでながら、日本書紀紀年法入門を(本当はこちらがホームページ開設の目的なのですが…)、
ぜひに、ご覧いただければ、幸いです。
>>1で述べたことを、わかりやすく説明いたしております。
850 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 11:46:11
あのころ、早稲田からよく日本女子大のラウンジに出かけたものです。
あのとき、研究家さんといらつめさんが仲良く学んでおられたんですね。
ポンジョの学生さんには、楚々とした学究肌の人が多かったけど、
お2人にはちっとも気がつきませんでした。とっても残念。
851 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 14:02:45
( ^^ω)ホマホマ
852 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/28(水) 14:13:37
>>850さん
850さんは、わたくしと妹と同世代のかたなのですね。
そのうち、ホームページのアルバムに女子大時代の写真を掲載してみたいと
考えております。日本女子大学でも、双子の学生は、たいへん珍しかったそうです。
また、ぜひ、日本書紀紀年法入門と歴史発見物コラム、ならびに、妹の政治学コースも
ご覧いただければ、幸いです。
853 :
850:2007/03/28(水) 14:42:30
>>852 ありがとうございます。貴HPは頻繁に拝見いたします。
私は研究家さんよりやや上の学年です。学習院にはやんごとなき方がおられ、
川村女子学園には山田邦子が在籍していたころだと思います。
日本女子大は、「娘を入学させたい大学」のナンバーワンだそうですが、
私が週2回ほど通った印象では、むしろ「学問の府」でしたね。
たわいもない日常会話に、さらりと学術的な内容が織り込まれている感じでした。
研究家さんといらつめさんの印象そのままです。
854 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 20:34:53
流石にお上品なスレになってきましたね
あっ お紅茶がはいったようなので失礼します イソイソ イソイソ
855 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 22:23:11
古事記から崇神の崩年を258年にする説があるけど
書紀の在位年数から、仁徳、神功、成務、垂仁から一還暦引けば
崇神の崩年は259年になり、古事記とほぼ同じになるね
これって偶然?
857 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 07:40:23
>崇神の崩年は259年になり
239年の間違いです。 スーマン
858 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/29(木) 09:46:53
>>850さん
いろいろとお褒めくださいまして、ありがとうございます。
ぜひ、ホームページをご覧いただきたくお願い申し上げます。
わたくしも、歴史発見物コラムは、1か月に一度ほど更新し、多くの人々が、
興味を持つような話題を提供いたしたいと考えております。
また、コラムのテーマについては、紀年法に限らず、ご要望があれば、対応
いたしたいと思っております。
859 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/29(木) 10:04:19
本スレッドの読者の皆様へ
わたくしと妹で、ホームページ、「倉西先生のご学問所」を開設いたしました。
アドレスは、hppp://www3.plala.or.jp/kuranishigakumonです。
歴史学コースは、わたくしが担当しており、日本書紀紀年法については、
日本書紀紀年法入門を設けました。
>>1で述べたわたくしの説について、
わかりやすく説明いたしましたので、ぜひ、参照してみてください。
また、歴史発見物コラムでは、昨今の歴史的発見物をテーマにコラムを
掲載いたしました。わたくしのこれまでの著作についての内容概略のコ
ーナーもあります。
ぜひ、ご覧いただきたくお願い申し上げます。どうぞ、よろしくお願い
申し上げます。
860 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/29(木) 10:15:04
>>855さん
>書紀の在位年数から、仁徳、神功、成務、垂仁から一還暦引けば
崇神の崩年は259年になり、古事記とほぼ同じになるね<
とのことですが、60年引いて、仁徳紀(87−60=27)、
神功紀(69−60=9)、成務紀(60−60=0)、
垂仁紀(99−60=39)、という数字になります。
これらの27、9、0、39というを、どこからどのように引くと、
西暦239年となるのでしょうか?
861 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:31:28
>>855 春厨の戯言です
華麗にスルーしてくださいまし
862 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/30(金) 10:45:27
>>861さん
日本書紀の紀年と60年(一還暦)との関連には、興味深いものがありますので、
日本書紀紀年法と60年に注目しようとするお考えは、否定的に捉える必要はないと
思います。わたくしも、60年に注目して、プラス・マイナス120年構想が、
設定されていることに気付きました(
>>859の「倉西先生のご学問所」の日本書紀紀年法入門
をご参照ください)。プラス・マイナス120年構想は、神功元年から
雄略五年までをカバーしておりますが、そのほかにも、別の構想が設定されている
可能性があります。60年について、考察を続けてみては、いかがでしょうか。
863 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/30(金) 10:57:50
征東大将軍さん
>>821で述べたことについて、『高倉宮岡君本紀』においては、仁徳天皇の時代に
3代が入っています。わたくしは、このことから、日本書紀紀年法は、二倍暦で説明
するよりも、一倍暦による延長と考えたほうが、よいのではないかと、推論するに
いたりました。プラス・マイナス120年構想は、一倍暦によって、どのように考えれば、
日本書紀の編年の矛盾に、蓋然性の高い説明ができるのか、という問題意識を
スタートとして、たどりついた結論です。
864 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/30(金) 20:16:39
HP見させて貰いました。
研究家さんは仲良し姉妹(・∀・)人(・∀・)だったんですね
>>863 年代列構想はイケそうですけど、プラスマイナス120年構想は頂けません
神功元年201年は雄略列そのものであって、実年代側に乗って居ないでしょう
>>839以降の続きです。ちょっと読んで見てください。
仁徳列で応神15年が368年とし、仲哀古事記崩年干支設定年が361年と事を考えると、
応神列だと神功13年が333年になって仲哀の崩年以前になってしまいますから
神功元年〜神功13年記事までは応神列ではなさそうです。(勿論雄略列でもありません。)
その次の漢籍引用記事三連続は、雄略列ですのでコレも応神列ではありませんよね。
神功46年記事が応神列ですね。応神列で366年で仲哀没の五年後です。
神功47年記事に百済からの貢物の話が出ますし、丁度良いタイミングになっています。
とすると仲哀紀、或いは成務紀、はたまた景行紀あたりから神功13年までをカバーする
別の年代列が一本ある筈です。
基準年が特定出来ませんが、仲哀没を361年するような年代列に近いものでしょうか。
崇神十年も西暦247年でほぼ確定と思われますので、これを基準年とする年代列がある筈です。
崇神十年も西暦247年だとすると、崇神元年が238年(景初二年)で
崇神21年が西暦258年ですので、これ以降が延長紀年でしょうか。
とすると垂仁元年を258年(或いは259)とする年代列がある筈ですね。
後は垂仁紀で36年分記事が飛んで居るトコロや、
唐松山さんが指摘する、日本武尊物語の記紀で時間差(垂仁紀の橘の件もかな)も
年代列の切り替わりがありそうですね。
865 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/30(金) 20:28:55
>>863 仁徳ついでにもう一つ。
研究家さんは著書の中で仁徳55年を仁徳列で451年にしていると思うんですが、
これ自体の計算はあってると思うんですけど
「冬十月呉國高麗國並朝貢」の記事の日本書紀での記録位置は仁徳55年ではなく
仁徳58年ではないでしょうか?仁徳58だと仁徳列では454年ですよね?
これって底本に違いでも在るんでしょうか?ちょっと確認して下さい。
866 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 22:29:53
ゆーこタン先生に質問です
±百廿年構想がよく解りません
結局仁徳はいつからいつまで即位していたのですか?
867 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/30(金) 22:47:24
研究家さんのプランによると
仁徳の即位年は応神の古事記崩年干支設定年の394年から
皇位を譲り合った為に発生したと考えられる空年を2年分挟んだ397年を元年とし
古事記崩年干支設定年である427年までの累計31年間を在位年としています
397年を元年として、仁徳紀の元年記事から一年ずつ当て嵌めると
仁徳31年の立太子記事の「立大兄去來穂別尊爲皇太子」
がピッタリ当て嵌まると云う訳です
こう云う訳だから古事記の没年は、書紀では立太子記事になってるケースが在る!
と云う寸法です
±120構想に付いては、
研究家さんが云うところの雄略列と、研究家さんが云うところの応神列の差が
等倍論ですので、当然日本書紀の書紀年代上でも実年代上でも
両年代列の差は常に120年差になる訳ですが
これを研究家さんは早とちりしてしまった。と云う訳です
◆この板はボキュの物だ宣言◆ なんだかんだ言ったって、この板の殆どはボキュがレスしているんだから、ボキュの物だ!
|ミ/ ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(6 (_ _) )< ボキュは還暦の大林賢栄だ!もっと優しくしろよ!
|/ ∴ ノ 3 ノ \_______________________
\_____ノ,, ∩_
/,|┌-[]─┐| \ ( ノ 総ての野郎が、ボキュの説に同調しないと、徹底的に荒らしてやる!
/ ヽ| |大 林 | '、/\ / /
869 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 09:58:12
征東大将軍さん
ホームページ「倉西先生のご学問所」をご覧いただきまして、ありがとうございます。
まず、
>>864につきまして、多列・並列構造について、ご理解いただきまして、
うれしく思います。しかし、プラス・マイナス120年構想は、神功元年の201年から、
雄略五年までの間に、数学的に、きちんと整合してきますので、むしろ、プラス・マイナス
120年構想のほうが、理解し易いのではないかと考えておりましたので、意外です。
もし、HP「倉西先生のご学問所」に、もう一度アクセスされることがありましたならば、
歴史学コースの日本書紀紀年法入門をご覧いただければ、幸いです。
数学的に、整合することを図示しております。
870 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 10:21:53
征東大将軍さん
また、仲哀天皇の古事記崩年干支を、わたくしは、361年とは考えておりません。
巻九神功紀の前が巻八仲哀紀ですので、201年以前ではないかと推論しております。
さらに、景行紀から神功13年あたりまでの間に、もう一本年代列があるのではないか、
という点につきましては、わたくしも、そのように考えております。
「『紀』・『記』間における歴代天皇の宝算の年差をめぐる一考察」
(『東アジアの古代文化』120号)にて、試案を提起させていただいております。
この論文では、崇神元年を西暦91年に位置づければ、応神元年390年となるなど、
さらなる年代列構想の存在を示唆しております。ご一読いただければ、さいわいです。
さらに、仁徳55年についてですが、これは、『日本書紀の真実』の150ページ
の表U−8のことですね。ご指摘を受けるまで気がつきませんでした。
まったくの、うっかりミスです。論旨に影響はありませんが、重版になった時にで、
訂正いたしたいと思います(むしろ、仁徳58年のほうが、允恭天皇の崩年干支の454年
と一致いたしますので、倭の五王をめぐる国際情勢の反映とも推測されてきます)。
いずれにいたしましても、誤記につきましては、この場で、お詫びして、訂正いたします。
871 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 10:32:26
>>866さん
プラス・マイナス120年構想につきましては、昨今、ホームページ、
「倉西先生のご学問所」を開設いたしましたので、歴史学コースの日本書紀紀年法入門を
ご一読いただければ、さいわいです。アドレスは、
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/です。
ご一読いただきても、まだ、よくわからないようでしたならば、具体的に、どのような点がわかり難いのか、
ご指摘いただきたいと思います。
仁徳元年は397年で、仁徳天皇の「確定紀年」は397年から426年まで、
さらに、「延長紀年」として、483年まで在位が設定されています。
「確定紀年」と「延長紀年」の相違については、「天皇」の定義は、神祇をつかさどる立場
であるのか、執政者としての立場であるのか、など「天皇」の定義の問題や、
複雑化していた倭の五王の時代の情勢が、関連しているのではないかと、推論いたしておりますが、
まだまだ、研究段階です。
872 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 10:41:18
大林さん
多くの人々は、学術的な議論の発展のためにスレッドを立てていると思います。
日本史版のいわゆる「スレ主」はテーマを提供するのみで、そこで、活発な議論が
行われることに、掲示板の意義があるのではないでしょうか。
日本史版のスレッドを自分のものという大林さんの主張は、理解に苦しみます。
また、説というものは、論理的、合理的なもので、多くの人々が納得して、
はじめて定説として確立されてくるものです(時間がかかる場合もあります)。
脅しでは、説は、確立されないのではないでしょうか。
873 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/03/31(土) 11:16:05
>>870 研究家さんは2ページ先の152ページで仁徳55年=451年として論考しているので
そこも修正もお忘れなく
それから11ページの4行目の
>神倭伊波礼比古命
これは古事記での名前なので『書紀』を引用して使うには問題ですね
もう一つ、196ページの上段8行目の
>先代旧辞本紀
この書名も大丈夫でしょうか?
――――――――――――――――――――――
【訂正です】
>>864で言った
>仲哀没を361年
は362年の誤りですね。
>>870で研究家さんが引用された仲哀没も362年です。
――――――――――――――――――――――
>巻九神功紀の前が巻八仲哀紀ですので、201年以前ではないかと推論しております。
研究家さんは、年代列算出論に純粋にしたがって、通説通りの
古事記仲哀362年没辺りに当て嵌まる年代列を求める方が、
応神列以降の研究家さんの論説をも強固にする事に繋がる筈なんですけどね
875 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 12:34:32
征東大将軍さん
仁徳55年をめぐる間違えは、允恭天皇(済)の崩年干支の454年=仁徳55年(仁徳列)と、
「済」の遣使年の451=仁徳58年とを、取り違えてしまったことから、起こりました。
仁徳列が五世紀の倭の五王の時代に位置づけられることを示すために、
国際情勢と関連した記事を、あればあったで、というように、よく検証を加えずに、
論述してしまったことに、わたくしの落ち度があります。
『日本書紀の真実』の150ページから152ページにかけては、訂正しなくてはなりません。
しかしながら、仁徳55年問題は、プラス・マイナス120年構想、多列・並列構造の論理には、
まったく影響のない記述です。ぜひに、「倉西先生のご学問所」の歴史学コースの
日本書紀紀年法入門をご覧いただき、プラス・マイナス120年構想についても、
ご理解いただきたいと思っております。
876 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 12:37:48
>>859にて、わたくしのホームページ、「倉西先生のご学問所」のアドレスについて、
hpppは、httpの間違えです。お詫びして訂正いたします。
877 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/03/31(土) 19:28:01
征東大将軍さん
>年代列算出論>とは、どなたの論のことでしょうか。
わたくしの説の年代列算出法ですと、仲哀天皇の古事記崩年干支は、362年にはなりません。
先ほども述べましたように、巻八仲哀紀は、巻九神功紀の前に位置づけられていますので、
西暦201年よりも前の年代と考えております。
それから、ひとつ訂正させていただきますと
>>870にて、崇神元年を91年に位置づければ、
応神元年が390年になるのではなく、応神天皇の立太子年の神功3年が390年になります。
すなわち、390年は、応神天皇の立太子の年代であるとともに、即位の年代でもある
という不可思議な関係が成り立っていることになります。
879 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/01(日) 09:41:42
>>874さん
忠告をいただきましてありがとうございます。
880 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/01(日) 09:50:38
>>878さん
王仲殊氏は三角縁神獣鏡の研究をなさっておられたかと思いますが、
どのような点において、台与の活躍を再評価すべきと考えておられるのでしょうか。
狗奴国戦争?倭諸国30ヵ国の統合?
魏志倭人伝は、台与の遣使のところで筆を置いていますので、その後、日本が
どのような経緯をたどったのか、まったくと言ってよいほど、わかっておりません。
これを解く鍵となる人物であるかもしれませんので、いずれにせよ、台与について、
もっと、研究を進めるべきなのでしょう。
881 :
征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/01(日) 09:51:43
研究家さんの話ですよ。
研究家さんの年代列算出法は本来±120年説に「無関係」に存在可能なのにも関わらず
プラスマイナス120年説を介在させようとして誤った結論を導いてしまっています。
仁徳列や応神列を導くのに±120年説が必要だったでしょうか?
そうではありませんよね
一端±120年説をポーンと脇に退かして下さい。ポーンっと
±120年□ヽ(・д・≡・∀・)ノ==■ポーン
882 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 10:51:28
189年間の記事を69年間に圧縮するというのはかなり不自然な気がする。
系図や登場人物はどうなるのだろう
883 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/01(日) 12:38:50
>>征東大将軍さん
なぜ、プラス・マイナス120年構想であるのかといいますと、応神元年の西暦
390年がマイナス領域とプラス領域の接点となっているからです。
たしかに、多列・並列構造は、プラス・マイナス構想とは無関係に算出することができます。
しかしながら、神功紀や応神紀の紀年の実年代への位置づけ問題を考えた場合、
プラスマイナスの問題も重要ではないかと思います。
884 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/01(日) 12:46:50
>>882さん
圧縮しているのではありません。西暦201年から389年までの189年間
を神功紀でカバーしているのです。このため、少なからず、神功紀には、神功元年を
西暦201年とする年代列(雄略列)と西暦321年を神功元年とする年代列(応神列)の
2本の「年代列」が設定されています。神功紀の紀年不足をカバーするためのさらなる構想が
日本書紀には、設定されている可能性があります。
885 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/01(日) 12:48:43
>>880 王仲殊氏は三角縁神獣鏡は国産説を唱えて
九州説論者を喜ばした人ですね。
九州説論者からは神のような扱いを受けた人。
王仲殊氏は中国社会科学院のトップの人だから。
しかし、その後、王仲殊氏は
三角縁神獣鏡は日本製だけど、
邪馬台国=大和だろうといって
九州説論者をガッカリさせた。
で、三角縁神獣鏡は卑弥呼の時代ではなくて
台与の時代のものだろうという考え。
彼は、巻向に物凄く関心を持っている。
王仲殊氏は、中国社会科学院の偉いさんで。
おそらく、中国政府の意向もあり
日本の起源を徹底的に調査している人だと思われ。
当然、彼は、日本考古学の研究で
中国の文献、日本の文献を照らし合わせて
考えているように思われ。
中国の学者では、当初は邪馬台国=九州説がやや優位だったんだけど
もう最近は、邪馬台国は畿内だろうという考えが強くなっている。
そして、その考えを強くしているのが、例のマキムク。
日本記紀の崇神時代の記述と、中国史書の邪馬台国の記述との
類似性に着目している。
あと、彼は、107年の帥升の記述にも興味を持っている。
う〜ん、王仲殊氏を私流に翻訳するとこうなるんですが。
→ 原材料の銅は中国製だけど、こんなヘンチクリンな鏡は
野蛮な日本しか作りませんよ。
でも機嫌悪くしないでくださいね橿原のみなさん、邪馬台国は
九州に決まってますが、畿内説を支持しときますから許してね。
王仲殊先生は畿内説だよ、この人。
この先生は、三角縁神獣鏡は日本国産製の可能性が
高いといっているんだけど、
邪馬台国に関しては、大和のことだろうという意見に
そうとう傾いている。というか、断定してきている。
だからこそ、九州説論者に当初、肯定されたのに
その直後、物凄く不評を買った。
王仲殊先生に言わせれば、三角縁神獣鏡が魏志に
書かれた100枚の鏡でなくとも全く問題ないらしい。
何故なら、その魏から貰った鏡100枚は普通
他の日本の豪族たちには安易に配らないだろうって。
それを元に独自に鏡を作って、そちらのほうを
日本国内の権威付けにするほうが可能性が高い。
王仲殊さんが三角縁神獣鏡が日本国産説を提唱したのが1981年。
その時点では、邪馬台国がどこだかは
彼はあんまり断定していなかった。
それから二十年がたって、彼の中での一つの結論として
邪馬台国=大和説に固まってきたんだろう。
また、彼は、後漢書に登場する
107年の帥升にも強い関心を示している。
橿原考古学研究所にへつらってゴマをすることで、
研究所の逆鱗に触れなければ、
中国人が日本の古代をいろいろ語ってもおK。
このスレ一応ざーと読んだけどAA1個しかないね。
俺は携帯だし、技術もないんだけど、テーマが堅いんで、AAでイメージさせたら、やわらかく伝わるかも。
古墳・干支・古代人・研究家のAAがかける人よろしくりん!
》893 2個あったのね。
すみませんでした。
それならもう充分だわ!
895 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 09:45:15
>>886-891さん
王仲殊氏は、三角縁神獣鏡に魏年号などが見え、卑弥呼の時代に鋳造されたと考えられること、
魏年号に景初四年などありえない年紀があるなど、日本で造られたと推論できること、
そして、三角縁神獣鏡の分布状況が畿内に偏っていることから、畿内説を唱えて
おられるのではないかと思います。
また、王氏は、纏向遺跡に注目されているそうですが、わたくしも別の観点から、
纏向遺跡に注目しています。考古学的に、纏向遺跡は、2世紀代が最盛期で、3世紀
まで、存続していたそうですが、このことと、垂仁天皇と景行天皇の宮が纏向にあったという
日本書紀と古事記の伝承との間には、何らかの関連があるのではないかと考えております。
崇神天皇の元年を古事記崩年干支と垂仁天皇の立太子年から逆算して、西暦91年と
推定するわたくしの説の根拠の一つは、纏向遺跡の考古学的年代に拠ります。
896 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 09:47:36
>>892さん
AAとは、何を意味しているのでしょうか。
897 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 09:55:11
>>893さん
>>183と
>>868は、いわゆる”あらし”という意味不明の内容です。また、
このスレッドでの学術的議論を阻害するものであって、読者が不快に思う
内容であると思います。大林賢栄氏という人物が、いくつかの名前を使って
自作自演を行って議論を混乱させようとしているそうですが、困ったことで
あると思っております。「太国さん」や「プラムさん」を別人と考えておりましたので、
これらの人物が、実は大林氏であるということには、わたくしも驚きました。
898 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 10:05:27
「倉西先生のご学問所」にて、昨日開設いたしました歴史学コース掲示板が、
利用不能となってしまいましたことをお知らせいたします。
まだ、原因がわかりませんが、歴史学コース掲示板が再開できますように、
努力してまいりたいと思います。
899 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 14:10:28
ホームページ、「倉西先生のご学問所」の歴史学コース掲示板が、再開いたしました。
>>1で述べたように、日本書紀紀年法は、プラス・マイナス120年構想、
多列・並列構造によって、きれいに説明することができます。
ぜひ、ホームページの日本書紀紀年法入門をご覧いただきたいと思います。
また、ご質問やご意見、ならびに、歴史発見物コラムにて扱ってほしいような
テーマの要望がございましたならば、歴史学コース掲示板にお寄せいただけたならば、幸いです。
「倉西先生のご学問所」のアドレスは、
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/です。
>>897 AAとはアスキーアートです。 簡単にゆうとまあ絵ですね。
901 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/02(月) 17:21:43
>>900さん
AAとは、絵のことなのですね。
しかし、このスレッドで絵を用いている書き込みは、”あらし”のようです。
このスレッドは、わたくしが立てたものですが、
>>868では、大林賢栄なる人物が、
このスレッドを、自分のものであるという奇妙な主張を行っており、困っております。
スレッドを立てた理由の一つは、わたくし自身の説もふくめて、さまざまな紀年説について語り合い、
どの説に、説明力、説得力があるのかを判じてゆこうとすることにあります。
読者参加型の議論のほうが、よいのではないかと思ったからです。
大林氏が、かってに多くのスレッドで、どのような書き込みも、大林氏の自作自演だと読者が誤解するように
仕向けて、議論が成り立たなくなってしまうことは、たいへん残念なことです。
研究家さんも、ご存じの事と思いますが、荒らしには一切反応しない、スルーをするしか対応の仕様がありません。
あまり期待は出来ないかもしれませんが、飽きるのを待つしかないのです。
ホストさんとしては、ストレスを感じる場合もあると思いますが、華麗にスルーねがいます。
よって私も今後は、この様なレスはしません。
それと、ほむぺ拝見しました。
商業媒体の本を数冊だされている、プロの先生だったんですね!たじろぎました。
まだ120年の表のとこまでしか読んでませんが、わからないところがあったらレスするかも、可能性として・・・かなり質問レベルが低くても、ご容赦願う!
904 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/03(火) 09:23:01
>>902・903さん
荒らしの件につきまして、アドヴァイスいただきましてありがとうございます。
スレッドでの議論が混乱して、スレッドが成り立たなくなるのではないかと心配して、
ついつい苦言を呈してしまいました。
また、ホームページをご覧いただきまして、うれしく思います。
ご質問でも、ご意見でも、ぜひ、このスレッド、もしくは、ホームページの
歴史学コース掲示板に、お書きいただければ、さいわいです。
905 :
唐松山:2007/04/03(火) 17:47:37
前回 暦のページを載せましたが 裏まで読まれていないようなので
景初暦 の 西暦へのすり合わせを書きます。
現在の干支を辿っても素直に景初暦に辿り着けません
では、どのようにすり合わせしたか
景初元年(237AD)は元首のを離れること4046年と書いてあるので,
元首は237−4046=−3808年すなわち3809BC(壬辰歳)の正
月の前の甲子夜半朔旦冬至(ユリウス暦3809BC1月6日[グレゴリオ暦
では前年12月6日])です。これだけのデータがあれば,あとは漢代の暦と
同様にして計算できますね。
今から1800年辿る事が出来ないのに 1800年前には 4000年前まで素直に辿れるそうです。
906 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 17:56:25
神武天皇は実在の人物だろう。
王仲殊氏も徐々に考えを変えていっているけど
卑弥呼=百襲媛命、台与=豊鍬入媛命
で考えが固まっているような感じだな。
これに関しては、自分も同意。
しかし、一方で
彼は、帥升にも注目していて、帥升等と読んで
生口が160人もいたということから
孝安天皇(オシヒト)と解釈しているみたいだけど
(たぶん、卑弥呼=百襲媛媛から逆算して二倍年暦でそう考えたのかも)
これに関しては、自分は同意しないな。
>>907 >孝安天皇(オシヒト)と解釈しているみたいだけど
この王仲殊氏の見解、ネットで読めますか?
909 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/04(水) 11:54:29
唐松山さん
唐松山さんがおっしゃる暦のページとは、
>>831・
>>832のことでしょうか。
唐松山さんがお説の根拠とされている「ホマツツタエ」という文献からは、
>>831・
>>832のような在位状況が考えられるということなのでしょうか。
また、
>>905の
>景初元年(237AD)は元首のを離れること4046年と書いてあるので,<
についてですが、何という史書に、このような記述があるのでしょうか。
910 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/04(水) 11:58:48
>>906さん
わたくしも、神武天皇は実在の人物と考えております。しかしながら、日本書紀と古事記の
神武天皇についての記述は、日本国の統合過程において発生した、さまざまな事件が影響を
与えているものと推測され、神武天皇の実像を求めることは、難しい課題であると
思っております。
911 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/04(水) 12:08:36
907さん
わたくしは、卑弥呼は、成務天皇に投影されているのではないかと、考えております。
『日本書紀』は、成務天皇には后妃が無く(独身)、また、大臣の武内宿禰によって、
輔弼されていたと記しています。このような状況は、夫婿なく、弟に政治を任せていた
という卑弥呼を想起させるのではないでしょうか。また、日本書紀も古事記も、
成務天皇陵と神功皇后陵をまったく同じ名の陵と伝えています。
>>908 王仲殊は、倭王・帥升等(帥升とせずに帥升等で人物名)は
畿内だと言っているんだわな。
その理由が、卑弥呼でも生口は30人程度なのに
生口160人というのは異様に多いから。
それと、面土国は後からつけた名前であんまり意味がないとw
魏志に面土国が出てこないのも理由らしいw
要するに、彼は卑弥呼=百襲媛命と思い始めているから
そこから正しく二倍年暦で逆算して
孝安天皇(オシヒト)と帥升(彼は帥升等で名前だと解釈)との
年代が被るのと類似性から、そう解釈しているのは丸分かり。
この説は自分も当初は支持していたけど
最近は違うだろうと思う。
邪馬台国畿内説は支持するが、帥升は吉野ヶ里の王だと思うね。
というのは、欠史八代の年代は、単純に二倍年暦では計れないと思うから。
実際に日本書紀には年代改ざんの後を思わせる記述がある。
913 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 18:29:35
>>912 >邪馬台国畿内説は支持するが、帥升は吉野ヶ里の王だと思うね。
なんでそこで「吉野ヶ里」なんだよ?
914 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 20:19:38
ところで、なんで神武元年がぜん660年に設定されているか、なんだけど・・
『史記』の『呉太伯世家』を読むと呉は前473年に越の勾践に滅ぼされている。
どうしても書紀の編集者はこれより前に設定したかったんじゃないかな?
》911 稚足彦天皇とは、おもしろい案ですね。
子がなく直系が途絶えたと言う程度しか情報がありませんでした。orz
稚足彦は女性だったんですか?
日本武尊とは兄弟でしょうか?
後をついだとゆわれている壱与(台与)に比定されるかたがいたらご教授下さい。
質問のレベルが低いのはゆるしてね!
>>916 吉野ヶ里の王というよりも
米多の国王という意味だろう?
米多(めた)は面土(めた)だから。
漢和辞典で、上古音、中古音を調べてみい。
面土国の面土は、「メタ」と読んだ可能性が高い。
917 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/05(木) 09:56:53
>>912さん
わたくしも、帥升は、畿内にあったと考えております。
魏志倭人伝は、2世紀中頃から後半にかけて発生した倭国大乱以前に70〜80年間、
男子王があったと伝えております。その男子王こそ、帥升であって、崇神天皇として
日本書紀に扱われているのではないかと推論いたしております。
倭面土国は、「やまと」と訓んだかもしれないのではないでしょうか。
918 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/05(木) 10:00:19
>>914さん
>『史記』の『呉太伯世家』を読むと呉は前473年に越の勾践に滅ぼされている。
>どうしても書紀の編集者はこれより前に設定したかったんじゃないかな?
とは、狗奴国の問題と関連してのご発言でしょうか?
919 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/05(木) 10:07:43
>>915さん
稚足彦天皇が女性であることを示すために、日本書紀は神功皇后の陵と同じ名としたり、
雄略元年条に、稚足姫皇女を伊勢神宮の斎宮となした、とする記述を載せたのではないか、
と推論いたしております。
また、台与については、卑弥呼とは違い行動的な側面が見られます。そこで、神功皇后の事績は、
むしろ台与に投影されているのではないか、と考えられます。卑弥呼が稚足彦(姫)であるのならば、
台与は、息長足姫であるのかもしれません。
920 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/05(木) 10:15:05
>>916さん
邪馬台国論争などと関連して、弥生時代最大の政権が、九州にあったのか、畿内にあったのか、
という謎は、面白い課題であると思います。
わたくしは、帥升については、機内にあったと考えておりますが、吉野ヶ里説も米多説も、
それぞれ、ありえない仮説ではありません。時代は下がりますが、継体天皇は、米多と関連があった
ようですので、
>>916さんのお説は、興味深いと思います。
>>919 ご教授ありがとうございます。
予想通りww 息長足姫が台与に比定されますか、日本書紀の中では
稚足彦以上に大活躍してますねww
確かに、彼女は実質後を継いだ様な感じはしますね。
しかし、稚足彦には2人の妃がいたと記憶してますが、その点は魏志倭人伝との
相違点ですね。
日本武尊とは、異母兄弟(姉弟?)だと思いますが、
そう考えると古代のロマンがますます広がって楽しいですね。
>>919 ご教授ありがとうございます。
予想通りww 息長足姫が台与に比定されますか、日本書紀の中では
稚足彦以上に大活躍してますねww
確かに、彼女は実質後を継いだ様な感じはしますね。
しかし、稚足彦には2人の妃がいたと記憶してますが、その点は魏志倭人伝との
相違点ですね。
日本武尊とは、異母兄弟(姉弟?)だと思いますが、
そう考えると古代のロマンがますます広がって楽しいですね。
↑まちがって 2つ やっちゃいました ごめんなさい
>>912 解説ありがとうございます。
王仲殊氏は二倍年暦説に立っているのですか?
日本書紀の欠史八代の部分が二倍年暦×2で
実質的に四倍年暦になっていると思われる記述。
↓
孝元天皇は、孝霊天皇2年に生まれて
立皇太子が孝霊天皇36年で歳は19歳であったと、
19歳が34年間にすなわち約2倍の年数誇張を認めている。
おそらく、日本書紀の編纂者が改ざんし忘れた部分。
つまり、日本書紀の編纂者は欠史八代の部分を
元々の二倍年暦だった部分を更に二倍に倍増させてしまっている。
日本書紀の編纂者は、
卑弥呼が誰かという部分だけじゃなくて
神武天皇の即位年(革命年での即位)も異様に拘った。
しかし、実際の暦だと、そこには合わせられないので
欠史八代の部分を二倍にし(二倍年暦×2で西暦年の4倍)
行き過ぎた部分は、初代の神武天皇の在位機関を逆に短くした。
だからこそ、神武天皇の年齢に関しては、
古事記のほうが日本書紀よりも長かったりする。
927 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 16:34:08
「二倍年暦」なんていってるアホウがいるが、そんな暦は存在しない。
世界のどこに、1年を2年と計算する暦があるんだ?
あれば教えて欲しいな。
記紀の記述がおかしいからと、勝手に「二倍年暦」なんてものを想定するな。
編纂者が、適当に年代をサバ読んだといったほうがまだ信憑性がある。
現実的に考えて、魏(中国)と国交があり使者が往来していた国同士で、
暦の計算方法が違うなんてことはありえない。
「来年」が一方の国では「2年後」とか「半年後」なんて概念を持ってたら、
国交に支障が出る。
三角縁が、国産として、「景初」を採用してることからも、
倭国が、中国の暦法を古代から採用していたと考えるべき。
だいだい、中国から伝来した「干支」で計算をしてるのに、
倭人が勝手に二倍に計算するわけないだろ。
「二倍年暦」が事実だとするなら、今度は「干支」が捏造ということになる。
928 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 16:41:08
「二倍年暦」が事実だとするなら、今度は「干支」が捏造ということになる。
もっと詳しく指摘するなら、「二倍年暦」が事実だとするなら、
その当時の倭人は、「干支」を採用していなかったはずである。
「干支」と「二倍年暦」を同時に採用したら、それこそ中国人との国交に支障が出る。
中国と倭の「干支」がどんどんズレていくからな。
そんな状態がありうるはずがない。
したがって、「二倍年暦」が事実だとするなら、倭人は、「干支」を採用していないはずだ。
記紀の古代の干支表記がすべてデタラメと考えべき。
天皇が長生きすぎるとかそういう問題以前の問題になる。
>>927 二倍年暦は世界どこでもあった暦だよ。
この説を提唱したのは、英国の歴史家。
欧州でも初期は、二倍年暦だったんだよ。
中国でもそう。
古代の中国人もアホみたいに寿命が長かったりする。
中国の歴史家・考古学者も、日本の歴史を研究しているけど
古代の日本が二倍年暦だったのは、ほぼ定説だよ。
930 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 16:43:10
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
貴方の研究は悪くないと思う。
しかし「二倍年暦」は空想にすぎない。
研究課題にあげるべきではない。
931 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 16:44:04
>>929 はぁ?欧州や中国が二倍年暦だったなんて、聞いたこともないね。
ソースがあれば出してみろよ。
932 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 16:46:35
>>929 一応ググってみたが、
「古田武彦」のサイトしかヒットしねえじゃねえか。笑わせるな。
933 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 17:10:59
>>929 >この説を提唱したのは、英国の歴史家。
それで、その「英国の歴史家」って誰?
二倍年暦が定説なら、有名だよな?
たのむから教えてください。
>>925 >孝元天皇は、孝霊天皇2年に生まれて
>立皇太子が孝霊天皇36年で歳は19歳であったと、
>19歳が34年間にすなわち約2倍の年数誇張を認めている。
>おそらく、日本書紀の編纂者が改ざんし忘れた部分。
目にうろこの部分。
936 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 18:25:26
>>935 その記述のどこが、二倍年暦の根拠になるんだ?
妄想もいいかげんにしろ。
937 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 18:48:58
>>933 英国人の名はウィリアム・ブランゼンです。
2倍年暦については「2倍念歴の真実」をごらんください。
>>925 >孝元天皇は、孝霊天皇2年に生まれて
>立皇太子が孝霊天皇36年で歳は19歳であったと、
>19歳が34年間にすなわち約2倍の年数誇張を認めている。
>おそらく、日本書紀の編纂者が改ざんし忘れた部分。
まじで目にうろこの部分だな。
日本書紀の編纂者は改竄し忘れた部分か!?
上古代の日本は二倍年暦だが、
神武の即位年を干支の辛酉年(革命年)にするために、
欠史八代の部分を倍増させ(結果的に二倍年暦×2で四倍年暦計算に)
行き過ぎてしまった部分を神武天皇の在位期間を短くすることで調整した。
(だからこそ、日本書紀の神武の年齢は、古事記よりも10歳短い)
939 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 18:53:16
940 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 18:55:23
>>937 「2倍念歴の真実」をググると、サガミハラハラの立てたスレしかヒットしませんが?
まさか、サガミハラハラがソース元ですか?
ふざけんな。
941 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 19:19:35
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
一応、親切心から助言しておきます。
「二倍年暦」なんてのは、ごくごく一人の「古田武彦」という歴史空想家の思いつきでしかありません。
ググっても学会系論文はヒットしないでしょう。
貴方の説は、意義深いと思いますが、「二倍年暦」と絡めてはいけません。
一気に、信用を落とすだけです。ご注意を。
ウィリアム・ブランゼン ってのは明治期の
西欧人の学者だろう?
当時の日本人が真面目に古代の天皇の寿命は長かったと語るもんだから
やんわりと、暦が違うかったからだろうと言った。
今でも、未開の奥地の原住民なんか
年齢が見た目よりも異様に高かったりするが
そういった理由がある。
上古代の日本の暦が二倍年暦だったというのは、たしか学会では
2003年には発表されたはず。
これから、この研究が活発化するだろう。
943 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 21:14:39
英国の歴史家の名を教えてくれといったから教えてあげたのになんだその態度は。
もう教えてあげないよ。
944 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 21:31:32
二倍暦の可能性が高いのは倭人伝の記述から、倭人の平均寿命が80〜90年
長い者は100年とあるからだろ
日本列島でも、かつて春と秋に新年をカウントしてたなんて、知識人の常識でしょ。
バイブル読めば、月齢暦すらあったことがわかる。
946 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 21:57:08
>>944 本当に倭人が二倍暦をつかってて、寿命が長かったら、
中国人が不審に思うはず。
明らかに子供の年齢が20歳とかなんだからな。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
どう考えたって、中国人が不審がる。
そして、魏志倭人伝に倭人の風習として二倍暦について記述するだろう。
しかし、記述が無いのは、倭人が二倍暦を使っていなかったということだ。
947 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:01:02
トヨが14歳で卑弥呼の後をついだという記録がある、
倭人が二倍暦を使ってたら、トヨの実年齢は7歳だ。
誰がみても、7歳の少女と14歳の少女は区別できる。
二倍暦なんてものは無い。
トヨ?壱与でしょ?壱与の年齢が2倍暦どうかしらないが、
大勢の従者に支えられ守られた宗教的巫女的首長なら7歳でも十分でしょ。
のちの文武天皇だって子どもだったし。
949 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:20:27
春分の日と秋分の日を祝うのは昔正月が2回あった証拠
欧米には無い習慣
950 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:23:26
キリスト教普及以後は消えたかもしれないけど、それ以前は西洋にもあった可能性がある。
951 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:26:43
>>944 本当に倭人が二倍暦をつかってて、寿命が長かったら、
中国人が不審に思うはず。
明らかに子供の年齢が20歳とかなんだからな。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
どう考えたって、中国人が不審がる。
そして、魏志倭人伝に倭人の風習として二倍暦について記述するだろう。
しかし、記述が無いのは、倭人が二倍暦を使っていなかったということだ。
言い返せるものなら、言い返してみろ。
952 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:34:05
>>948 中国人が、実年齢7歳の壱与を見て、
倭人から「14歳」と告げられたら、不審がるということだ。
頭の悪いやつだな。常識で考えろ。
953 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:38:57
倭人と交流のあった朝鮮人も大勢いただろう。
倭人が二倍暦を使ってたら、朝鮮人が気づかないはずはない。
朝鮮人も二倍暦を使ってたら、中国人が気がつかないはずはない。
どこかで二倍暦について、記録に残る。
記録が無いってことは、二倍暦は無いってことだ。あきらめろ。
955 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:48:18
956 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 22:52:28
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
倭人が、どこの国とも国交や人的交流が無ければ、
あるいは、二倍暦の仮説は成り立ったかもしれませんが、
実際にと朝鮮、中国と交流があり、
魏志倭人伝にあるように、使者が頻繁に往来しています。
倭人が二倍暦を使っていたら、必ず知れ渡ります。子供が20歳という年齢なのですから。
そして、特異な風習として記録されるでしょう。
記録が無いということは、二倍暦は無かったということです。
どうか、二倍暦などという空想に無駄な考察の時間を費やさぬように、お願いします。
>>952 お前、頭が相当悪そうだな。
倭の習慣としてそう書いてあるんだから、現地人の呼称として理解するだろ。
鯨尺で何尺何寸と現地人が呼称したのを、その数字のままインチやフィートだと思うわけないだろ。
958 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 23:09:15
>>957 子供は壱与だけじゃない。
中国の使者で、倭国に長く滞在してるやつもいるだろう。
倭人が二倍暦を使ってたら、
倭人の子供の成長をみて、早く歳をとることに、必ず気がつく。
959 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 23:12:11
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
ここで、二倍暦にこだわってる人たちは、
「古田武彦」信者です。
他に、二倍暦を説いてる人はいません。
貴方を利用して、「古田武彦」の二倍暦説に信憑性を与えようとしてるのか、
もしくは、わざと謝った情報を与えて貴方を陥れようとしてるのかもしれません。
二倍暦は、考証の価値の無いものです。常識的にかんがえてください。
バイブルの寿命からみて、今の360余日が一年でないことは明らか。
>>959の妄想に惑わされず、科学的な思考を持つことが大切です。
961 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 23:29:57
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
サガミハラハラや、二倍暦を盲信してる人は、ほっとけばいいのです。
相手をしてはいけません。
アラシと同じ。
貴方の貴重な考察の時間を無駄にしないでください。
二倍暦信者は、サガミハラハラのスレで語り合ってればいいだろう。
こっちにくるな。迷惑だ。
「信者」・・・この言葉を乱用している人に、学問が語れた験しはない。
そもそも二倍年暦は、人間の年齢を数えるためのものと、人間に関係なく
時間を表すための概念とがあるだろう。これは年齢と時間の概念論。
研究家さんが語っているのは、一見バラバラに見える記紀の年呼称が
人為的作為的に一定の操作により、ずらしてあると結論づける、
年呼称定型人為操作論。
この2論は、はっきり言って土俵がまったく異なる研究であり、ミックスして
語る意味はない。飴と雨、柿と牡蠣をミックスして語るな。
963 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 23:58:31
記紀の年号は一致しないが、共に寿命が常識の2倍ある事は一致している
964 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 00:13:42
大和朝廷と九州王朝では倍暦の使用が異なっていただろう。
九州のほうはまず二倍暦だと思い、3倍暦はないかもしれない。
九州を「竺紫」というが、『竺』の字には二倍暦の『二』の字が
中にあるし、豊の国の「豊日別」はトヨ日別つまり「十四日別』と
読める。1ヶ月が14日間だったということだろう。
2倍暦の朝廷のほうの繼體天皇の時代のこの天皇の号の「體」には、
字のヘンに十四の『豊』がある。
965 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 00:15:25
ありゃ、間違ってこのスレに書きこんでしまった。サラバ。
なんかさ、二倍年暦だったことに
異様に拒否反応をしめす奴が居るけどさ。
そいつって、日本の記紀が文献として復活することを
異様に恐れているんじゃないの?
967 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 10:15:42
二倍暦につきまして議論の応酬があったようですので、ここで、問題を整理させていただきたいと思います。
そもそも日本書紀紀年法を二倍暦によって説明しようという考えは、日本書紀の各々の天皇紀に配布されてある
紀年数が、非現実的なまでに多い場合がある、という問題から生じています。
実証主義史学の観点から、このような天皇の在位年数を、長寿であったという理由で説明することには、
無理があるからです。
そこで、ウィリアム・ブランセンというかたが、明治時代に、二倍暦説を唱えました。紀年数を2分の1に
縮めれば、現実的な数字となるからです。『魏略』という『魏志』倭人伝が参考とした私撰の史書にも、
倭人は、「春秋をもって年紀となす」という記述があったことも、二倍暦説を支持する研究者を増やす
要因となりました(今日でも、皆様もご存じのように、二倍暦説の支持者はかなりおります)。
このような意味において、二倍暦説は、長過ぎる在位年数を説明するための
ひとつの説であるということになります。→
968 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 10:20:20
紀年数を2分の1に縮めるよりも、
干支が60年(120年)ずれてると考えた方が説得力はある。
969 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 10:24:12
→ したがって、長過ぎる在位年数を説明するためには、別の説があってもよいことになります。
そこで、わたくしが、唱えている説が、多列・並列構造における「延長紀年」という考えです。
日本書紀の編年は、神武元年の紀元前660年から持統十一年の697年まで連なる
一本の年代列によって構成されてるわけではなく、複数の年代列が並列しており、
しかも、各々の天皇紀に配布される紀年数には、「延長紀年」が加えられてある場合がある、
と捉えてみると、日本書紀紀年法の多くは、数学的にも、きれいに説明できるようになります。→
970 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 10:31:40
→ わたくしの説につきましては、
>>1で述べましたが、先月、「倉西先生のご学問所」という
ホームページを開設いたしました。HPの歴史学コースの日本書紀紀年法入門で、
プラス・マイナス120年構想、多列・並列構造、確定紀年と延長紀年について、
わかり易く図も加えて説明しておりますので、ぜひ、ご覧いただきたいと思います。
アドレスは、
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/となります。
二倍暦も、長過ぎる在位年数を説明するための方法ですが、延長紀年という考えも、
十分に、日本書紀紀年法を説明する説となっているのではないか、と思っております。
971 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 10:50:25
>日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
二倍暦は、現実的に存在できません。
なぜなら、倭人は、朝鮮や中国と国交があり、
互いの国で1年の長さが違えば、当然、不都合が生じます。
二倍暦信者は、文献しか見ていませんが、
古代に、外国と人的交流が実際にあったことを考えに入れていないのです。
倭人、朝鮮、中国の使者が、互いの国を訪れ、
それぞれの歳や、子供の歳を聞きあったとき、
倭人だけ二倍暦を使ってたら、必ず問題になります。
問題になれば、倭人の風習として二倍暦の存在が記録されるはずです。
しかし、そんな記録はありません。
972 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 10:54:07
ウィリアム・ブランセンという人は知りませんし、
その人が本当に「二倍暦」を提唱したのか?
確認もとれません。
ソースがありません。
古田信者だけが、そういってるだけです。
ウィリアム・ブランセンの論文が本当にあるなら、それを見せてもらいたい。
確かに、論文があったとしても、後世の学者が100年も追認していないような説を、
検討する必要は無い。
973 :
唐松山:2007/04/06(金) 11:17:18
974 :
唐松山:2007/04/06(金) 11:51:54
景初元年(237AD)は元首のを離れること4046年と書いてあるので,
この 文章は、 左の 暦の説明 辺りから
massangeana(益山 氏)より
暦関係→暦入門→暦入門4
に出ています
975 :
唐松山:2007/04/06(金) 12:02:32
参考文献の 1番下に在ります
976 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 12:08:45
977 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 12:12:35
>>971さん
誤解をなさらないでいただきたいのですが、わたくしは、二倍暦論者ではありません。
>>967、
>>969、
>>970で述べましたように、多列・並列構造における「延長紀年」
という考えによって、日本書紀紀年法の長過ぎる在位年数を説明しています。
むしろ、わたくしは、二倍暦説に異議を唱えているのです。
978 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 12:28:19
>>972さん
ウイリアム・ブランセン(William Bramsen)の論文につきましては、1880(明治十三)年、
英文で"Japanese Chronological Tables"という論題で発表されています。
辻善之助氏という研究者が、日本書紀紀年法についての、本居宣長などの江戸時代以降の主要研究者の論文を、
『日本紀年論纂』(1947年)としてまとめておられます。
日本書紀紀年法の研究史を辿るうえで、たいへん便利なものですが、
その附録に、ブランセン氏の論文が掲載されています。
979 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 13:30:11
レスポンスが、979まで延びましたので、新しいスレッド、
「日本書紀紀年法がついに解明されました[part5]」を立てようと
いたしましたところ、「新このホストでは、しばらくスレッドが立てられません」
というエラーメッセージがでました。
理由は、”グループ”とういものに、関連しているようで、
そのグループわけについて、以下のように、記されていました。
>グループの決め方
>スレ立て人のIPアドレスを$1.$2.$3.$4とする。
>グループの決め方→ ($1 % 4) * 256 + $2 で得られる数字。
>つまり、$1を4で割ったあまりを256倍して、$2を足した答えの数字。
>ちなみに言うと、
>AAA.BBB.CCC.DDDとEEE.FFF.GGG.HHHのIPアドレスが同じグループである
>⇔BBB=FFF かつ (AAAを4で割った余り)=(EEEを4で割った余り)
どうもチャンネル2の管理者側によって、グルーピング化が
行われているようなのですが、これは、いったいどのようなことなのでしょうか。
ご存じのかたがおられましたならば、教えていただきたいと思います。
980 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 13:42:14
981 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 13:53:29
>>978 どうもありがとう。
「Japanese Chronological Tables」の原文を見つけました。
ざっと読んだけど、たいした内容では無いね。
しっかりした論証があるでもなし、
独り言に近いような、そんな感じ。
982 :
日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk :2007/04/06(金) 14:42:19
>>980さん
「日本書紀紀年法がついに解明されました[倭の五王編]」というスレッドが
立っているようですが、これは、ご親切に次のスレッドをお立くださったということなのでしょうか。
スレ主は、わたくしのコテハンの「日本書紀紀年法研究家」となっておりますし、
また、わたくしのトリップもついています。
どうして、わたくしのトリップを知りえたのでしょうか。一度、「#」マークをつけ忘れて、
コテハンの数字を公開してしまったことがありますので、その数字から
憶測されたのでしょうか。
いずれにいたしましても、これでは、誰でも、日本書紀紀年法研究家、すなわち、
わたくしに、”なりすませる”ということになってしまいます。→
983 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 15:00:35
→ 歴史研究の議論において、誰の説であるのか、という点は重要です。
先ほども、わたくしは、二倍暦論者ではなく、多列・並列構造論者であると
あれほど、主張してまいりましたのに、
>>971さんは、わたくしのことを二倍暦論者であると
勘違いなさっておられました。
誰が、どの説を唱えているのかが、わからなければ、議論は混乱するだけなのです。
そこで、トリップを変えたいと思います。
ご親切に次のスレッドを立ててくださったのかもしれませんが、
”なりすまし”ができるような方法となりますので、問題があると思います。
また、わたくしは、ちゃんねる2のスレッドでは、倭の五王編というテーマよりも、
日本書紀紀年法全般にわたって、議論いたしたいと考えております。
>>982 以前にトリップを漏らしたことがあるんじゃないですか?
もしあれでしたら、トリップ(#*********の部分)を変えられてみては?
その上で新しいトリップ(◆********)の方はHPの方で明示しておくのが良いでしょう。
私は別人でありますが、研究家さんが2度ほど#を漏らして入力され、
「トリップ丸見え」だった瞬間を知っておりました。そのとき誰も忠告する人は
いませんでした。
上品な研究家さんに対して、これを悪用した人間はいなかったと思います。
987 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 15:56:20
>>986さん
スレッドが立てられないことについてのQ&Aをご案内いただきまして、おそれいります。
スレッドが立てられない理由がわかりました。たいへん参考になりました。
ちょうど、どなたかが「日本書紀紀年法がついに解明されました[倭の五王編]」という
スレッドを立てたようですので、しばらくは、様子を見てみようと考えております(
[倭の五王編]のスレッドは、コテハンは、わたくしのコテハンになっていますが、
わたくしが立てたスレッドではありません)。
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
989 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:45:11
ここうめてから、次のスレ使わへん?
1000ゲト誰かな?
アピの為あえて上まつ
990 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:04:02
992 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:59:41
>>990 いまさら善意とか言うなら、他人のトリップ使うなボケが。
993 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:06:09
それは立てた本人に言えば?ボケ!!
994 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:16:35
995 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:22:35
冗談じゃないぞ、俺は観察者だ。第一エラーが出てて不可能だったので、
>>986を書いただけ。
996 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:29:40
>>995 善意でやったことなら、気にするな。二度とするなよ。
997 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:40:39
本人に言えよ、馬鹿が。
998 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:42:18
>>996 お前が犯人なんだろ!!このトリップ荒らし!!
999 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:49:22
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。