【江上】騎馬民族説は今。。。vol.6【波夫】

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1日本@名無史さん
☆前スレ
【江上】騎馬民族説は今。。。vol.5【波夫】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1143731063/

騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ     江上波夫
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121001478/qid=1068485710/sr=1-4/ref=sr_1_2_4/249-2208796-7626727
騎馬民族は来た!?来ない?!               江上波夫・佐原真
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4096260665/249-2208796-7626727

騎馬民族は日本を征服したか
http://inoues.net/mystery/kibaminzoku.html
辰王の系譜、天皇家の遠祖     −騎馬民族は来なかったか?
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku1.htm
第208回 新春講演会「騎馬民族は来なかった」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku208.htm
第209回 特別講演会 「古代日本の馬文化   『江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を考える』 」
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku209.htm
是か否か「騎馬民族征服王朝説」
http://www5.ocn.ne.jp/~vorges/sub19.html
2日本@名無史さん:2006/05/24(水) 21:58:10
3日本@名無史さん:2006/05/25(木) 00:41:00
vol.5 、もう1000まで埋まってたのかw
広島牛ちゃんも来てなかったのに。
4日本@名無史さん:2006/05/25(木) 00:58:48
無理して盛り上げようと一人芝居やってるヤシ見て
なんだか悲しくなたったよ、vol.5 の最後の方。
過疎るんだよなあ。。。
5日本@名無史さん:2006/05/25(木) 01:17:55
日本人が馬を飼い始めたのはいつの時代ですか?
6日本@名無史さん:2006/05/25(木) 14:59:24
日本の貴族はどうして牛車に乗っているのですか?

7日本@名無史さん:2006/05/25(木) 16:14:55
愛国心テスト

 1 国家斉唱・国旗掲揚の時は必ず起立する
 2 センター試験の日本史で7割以上とれる
 3 演歌・歌舞伎・日本舞踊・琴など、日本の伝統的な技を一つ以上特技として持っている
 4 公務員、特に警察官に対して反抗的な態度をとらない
 5 徴兵を断らない
 6 与党の政治家を批判しない
 7 教師に対して反抗的な態度をとらない
 8 国語のセンター試験で7割以上とれる
 9 公務員に尊敬した態度をとっている
10 愛国心を持たない者に対しては、それが例え肉親・恋人でも制裁を加えられる

○が10個の人・・・文句なく日本人です
○が7〜9個・・・施設で再教育が必要です
○が4〜8個・・・犯罪です。刑務所に服役することになります
○が1〜3個・・・死刑です。官憲によって、刑事手続きなしに即射殺されます
○が0個・・・三族皆殺しです
8日本@名無史さん:2006/05/25(木) 17:01:21
>>6
牛車はモンゴルにもあったよ。遠征の時、司令官は牛車に乗っていた。
9日本@名無史さん:2006/05/25(木) 19:08:15
関西人は牛肉を良く食う。
牛車をはじめ、牛が大量導入されていたからだ。←うそかも
10日本@名無史さん:2006/05/25(木) 20:16:47
源氏物語を見ると、平安の貴族は意外と馬に乗る。
夕顔が死んだとき、源氏は一人で馬に乗って帰った。
なにかの祭りのとき、主だった貴族がみな馬に乗ってパレードする。
11日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:47:31
馬冑は伽耶地方の古墳からも出土している。短甲も日本のものと共通する部分が多い。
12日本@名無史さん:2006/05/26(金) 09:37:36
>>11
> 馬冑は伽耶地方の古墳からも出土している

どころか、いままでに出土している20個ぐらいの大部分が伽耶地方で、
残りが日本で出土した。
13日本@名無史さん:2006/05/26(金) 11:25:37
伽耶から馬、馬冑、短甲、招聘された馬の飼育の専門家がやってきた可能性は高いか否か?
日本列島における馬骨の出土が偏っているということは、征服じゃなくて、技術者として
招聘されてやってきた可能性が高いのではないか?とか思ったりする。
馬に不慣れな倭人に対して、招聘された技術者が手取り足取り教えていたのではないだろうか?
それで、ある程度低くない地位に上り詰めたりもしたのではなかろうか?
14日本@名無史さん:2006/05/26(金) 13:55:07
短いようで長い世紀のスパン。
100年前の日本の自動車普及率はどのくらいだよ?
15日本@名無史さん:2006/05/26(金) 14:37:50
スメラ、シッラ、スバラしいのラ
全部サンスクリット語の借用。

理想のもの、理想の人、理想の国
そういう意味でつけた当時の極東アジアの
流行の一言、「ラ」
16日本@名無史さん:2006/05/26(金) 15:35:41
崇神は扶余。
高麗扶余語が崇神の時代、山口から東北一体に広がる。
17日本@名無史さん:2006/05/26(金) 17:18:48
>>15 スメラは統べるの名詞形で日本語そのものだ。なう>なわ、なる>
なら と同じ造語法による。
18日本@名無史さん:2006/05/26(金) 18:11:02
相変わらずココはバカの集会場だw
19日本@名無史さん:2006/05/26(金) 18:35:11
イタリアーノ、カプチーノ・・
当時の倭、韓人は西域の言葉に言いようのないあこがれがあった。
そして受け入れたのが
サンスクリット語の"la"
「ラ」である。
そしてむやみやたらに語尾に「羅」、「良」をつけハジメタ。

間違いなし!
20日本@名無史さん:2006/05/26(金) 18:46:10
高句麗と日本には数詞に共通点がみられるのである。
どこかでこの謎を解明する説を編み出さねばなるまい。
21日本@名無史さん:2006/05/26(金) 18:50:34
>>15
>サンスクリット語

すみません、どこから入ってきたんですか?
22日本@名無史さん:2006/05/26(金) 19:54:18
日本書紀と古事記は具体的にどう違うのですか?

日本書紀:神代〜持統天皇
古事記:神代〜推古天皇
なんだけど岩波文庫では

日本書紀:5巻
古事記:1巻
↑差がありすぎなんですけど
23日本@名無史さん:2006/05/26(金) 22:41:41
>>18
奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が
奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が
奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が
奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が奴隷民が
24白馬青牛:2006/05/26(金) 23:52:25
>>8
モンゴルでは、馬は乗馬用であり、農耕や牽引と労働させる物ではない。
牛車文化は、モンゴル〜高句麗〜西日本。西洋〜漢人は馬車文化とも
云える。
>>9
その通りじゃと思う。現在でも、山陽、近畿地方は、牛肉消費率が
東日本より高いが、それは江戸時代、更に中世でも喰うておったので、
伝統もあろう。
食肉には日本国内でも地域差があり、西日本の牛肉。東日本、琉球、
南島の豚肉。九州の鶏肉。琉球の豚肉文化は中国文明の影響であろう。
西日本の牛文化と興安嶺以東の牛飼育、扶余の牛の蹄占いや西洋、
西アジア〜新羅、伽耶のリュトン(牛角杯文化)の関連までは難しい。
扶余に近い靺鞨は、牛飼育民では無く、豚飼育民であった。扶余や
高句麗はモンゴル的要素(牛飼育)を持ったツングースであったと思う。
25日本@名無史さん:2006/05/27(土) 00:18:18
>>24

近畿で最も牛肉消費量が多い県は和歌山県。
しかし、和歌山県は魚が多く取れるし、明治維新まで(昭和30年頃でも)牛肉を食べる伝統はない。
従って、牛肉を食べる文化と牛肉消費率は関係ないな。
江戸時代・中世において紀伊の国で牛肉を食べていたという文献とかあるかい?
俺は存在しないないと思うが、あったら提出してくれ。
和歌山県の伝統の主食は「魚」だ。
26日本@名無史さん:2006/05/27(土) 00:21:29
倭人伝には牛馬と他にカササギが居ないとあります。
これは正確です。
カササギは中国朝鮮には大量におり、移動性はないとされます。
しかし、17世紀に福岡で人為的に繁殖され現在では
鳥栖・筑紫野有料道路を「カササギロード」というまでに
なっております。
27白馬青牛:2006/05/27(土) 02:43:42
>>25
紀伊の国は解らんが、中国地方では、喰うた地域が多い。
元文三年に石見、備後、美濃に禁令を出したが、逆に喰うておった
ことじゃ。松坂牛の牛肉の産地である伊勢桑名藩の下級武士渡部平太夫の
日記、天保十年十二月の条に、孫の誕生祝いに牛肉二百文買ってやった
こと等多々ある。広島県の草戸千軒遺跡でも、犬、牛、馬、鹿、猪を
喰うておった。また瀬戸内地方でも食肉消費が減少傾向にあるが、全体的な
地域傾向を言うとる。広島県でも江戸後期、沿岸部の主食は魚と甘藷じゃ。
命を賭け、闘うて捕った野生動物や魚と違い、保護しとる家畜動物を
喰うのは、捕虜を殺し喰うのと同じような、罪の意識もあったようじゃ。
それが、被差別民への差別に繋がった部分はあろう。
28日本@名無史さん:2006/05/27(土) 13:01:21
  
29日本@名無史さん:2006/05/27(土) 13:56:57
>>24>>27広島牛ちゃんよ

近世も東馬西牛。
中国は牛、九州は牛馬。

それはそうと、例の軍スレ
総レス数981越えてるし、早く埋めないと落ちちゃうよ。
30日本@名無史さん:2006/05/27(土) 16:05:23
本貫と姓をつなげる事でお互いを区別してきた面もある。
たとえば金姓の場合、金海伽耶(駕洛国)王族系と新羅王族系と全く血統
の違う氏族が在るために本貫は氏族を区別する為の有効な手段であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/本貫

金管加羅金氏系が崇神扶余系、
新羅金氏系が安東金氏(後の秋田氏等)系か
www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kin_sei.htm
金、今、昆、紺、今野、近野、金野、昆野などみな
新羅系帰化人の子孫。
 古代豪族・安倍氏も同族。

ヒボコは新羅に居たとき
牛を殺していた人を捕まえて罰を加えようとしたとある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/アメノヒボコ
アメノヒボコが安東金氏、
牛殺しを咎められたのが扶余、金管金氏。
ではないか?!
31日本@名無史さん:2006/05/27(土) 16:30:38
http://ja.wikipedia.org/wiki/タヂマモリ

田道命、大屋田彦、大彦
時代がピッタリ重なる、重なる、重なる
32日本@名無史さん:2006/05/27(土) 19:46:04
そういえばマキムクの初期の前方後円墳に木郭墓があったな。
33日本@名無史さん:2006/05/27(土) 20:06:05
>32
種類が違うんだろ?
34日本@名無史さん:2006/05/27(土) 20:11:46
>>30
どこにも扶余なんて書いてないけど
35日本@名無史さん:2006/05/28(日) 00:00:15
>>27
青牛さん

扶余の牛革なめしについて、何かご存知ないですか?
36日本@名無史さん:2006/05/28(日) 00:10:18
前スレの、
999 :日本@名無史さん :2006/05/24(水) 19:45:51
どっちにしても土器程度で崇神が扶余じゃないという
証拠には全くならん。


どんな論理なんだ?w
37日本@名無史さん:2006/05/28(日) 00:57:45
ウィキなんか持ち出しちゃって笑った
今でも2チャンはアホどもの主会場のようだ
きっとこいつらって他所ではロムってるんだろうな(逃
38日本@名無史さん:2006/05/28(日) 02:00:05
>>37
主会場???
キムチラーメンでも食って頭おかしくなった?
39日本@名無史さん:2006/05/28(日) 02:35:19
ウィキを書換えた俺様が来ますたよ
さあソースにしたまえ漏れ様を!さぁどうぞw
40日本@名無史さん:2006/05/28(日) 02:53:33
おまいをソースにしたって、食える焼きそばなんかねえよ。
41日本@名無史さん:2006/05/28(日) 04:22:45
ウィキソースコウリョクゼロザンネン
42日本@名無史さん:2006/05/28(日) 07:05:14
随書には、倭は大国で、百済、新羅は(倭を)敬仰している、と書いてある。
倭が日本でないとすると、加羅諸国のどれかということになるが、どれも大国ではない。
倭は日本しかありえないし、大国だというのだから九州限定の王朝でもない。
広開土王がが百済、新羅を属国扱いして、倭を破ったことを大きく書いてるのもそれを裏付ける。
宋書には、倭国王武が「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍」に任じられてる。

43日本@名無史さん:2006/05/28(日) 07:09:05
「後漢書」の馬韓については「その北は楽浪と南は倭と接し、辰韓の東にあり」と記している。
また弁韓についても、「辰韓の南にあり、その南また倭と接す」とある。「三国志」も同じく
「馬韓は南で倭と接す」とある。さらに「弁辰は十二国のうち、讀盧(どくろ)国は倭と界を接す」
とある。 http://www.searchnavi.com/~hp/rekishi/omoide/10.htm

1. 韓は帯方郡の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接して 
 いる。韓の広さは4千里四方ほどである(韓伝)。
2.弁辰の国々から鉄を産出する。韓族・わい族・倭族が皆鉄をとっている。
 どの市場の売買でも、みな鉄をもちいていて、それは中国で銭を用いるのと
 同じである。(中略)男女の習俗は、ともに倭に近く、また、男女ともに文
 身(いれずみ)をしている(第一弁辰伝)。
3.弁辰の涜廬国は倭と境界を接している(第二弁辰伝)。
5.帯方郡から倭にゆくには、郡を出発して、まず海岸に沿って航行し、韓族
 の国をへて、しばらくは南に、しばらくは東に進んで、その北岸の拘邪韓国
 に到達する。その間の距離は七千余里である(倭人伝2)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm018.html

『魏志韓伝』によれば「韓は帯方の南、東西は海を以て限となし、南は倭と接す」と
書かれてあり、朝鮮南部にも倭があったように認識されています。
  同様に、かの『魏志倭人伝』でも倭の北岸は狗邪韓国、現在の金海市とされており、
弥生時代に朝鮮半島にも倭があったのは間違いがないと思われます。
http://www1.jca.apc.org/aml/200001/15493.html

「広開土王碑文」辛卯年条
広開土王が逃げる「倭」を追って「任那加羅従抜城に至」ったという記述から考えれば、
そこ(任那)が「倭」にとって逃げ帰るべき拠点であることが分かります。
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/history/iwai_3.html
44日本@名無史さん:2006/05/28(日) 07:11:16
>>43

>「広開土王碑文」辛卯年条
>広開土王が逃げる「倭」を追って「任那加羅従抜城に至」ったという記述から考えれば、
>そこ(任那)が「倭」にとって逃げ帰るべき拠点であることが分かります。

その通り。それが重要なところだ。
しかも「任那加羅」は地名あるいは国名であって人や軍隊の名前としては
出てこない。考古学からはこの当時の金官はまだ大きな軍事的要素であるのに。
対照的なのは安羅であって、ちゃんと軍隊の名前として出てくる。
また従抜城は降伏するが、逃げ込んだ倭軍がどうなったのかよくわからない。

要するに広開土王碑は倭と金官(任那加羅)を区別していない。一体のものとして
書いている。
45日本@名無史さん:2006/05/28(日) 07:16:12
>>44

加羅諸国と一口に言っても、金官は倭との関係において特別の地位にある。
なぜなら倭の畿内と共通する筒型青銅器や巴型青銅器は、金官からのみ出て周辺加羅諸国からは出ないからだ。
筒型青銅器や巴形銅器など倭から持ち込まれたと推定できるものが多い。

筒型青銅器は矛の石突きらしい。
矛と言っても、祭祀用で筒型青銅器のなかに舌を仕込んで矛を突き立てたときにじゃらんじゃらん鳴らすものだ。
巴型銅器は木製盾の飾りらしい。
すなわちどちらも武器ではあるが祭祀的武器。

いっぽう、金官固有のものはこの時期の倭にはない騎馬戦術用の鉄製甲冑、鉄矛など実用武器を埋めた。

46日本@名無史さん:2006/05/28(日) 07:22:43
>>44

日本府というのは奈良時代の漢語。
実際にあったのは「倭宰(やまとのみこともち)」。

宰(みこともち)って、どんな意味か知っている?
47日本@名無史さん:2006/05/28(日) 07:41:31
「宰(みこともち)」とは、天皇の命(みこと)を受けて任地に下り、地方の政務をつかさどった官人のことをいいます。
「宰」は飛鳥時代から見られ「大宰」のほか「国宰(くにのみこともち:国司)」などがあった。
大宰は、筑紫のほかに吉備などに置かれたことが知られている。


「大宰(みこともちのつかさ)」或いは総領などと呼ばれる行政機関らしきものはは国内にも後の大宰府だけでなく吉備や伊予などにも置かれていた。
恐らくはこれらの地域の首長も同様に大和朝廷に対してもともとはゆるやかな同盟を結んでいたものと見られる。
特に吉備地方については大和の王権に匹敵するほどの巨大古墳を残しており、強い自主性を有したことが遺跡面からも推測される。
48日本@名無史さん:2006/05/28(日) 07:52:24
松本清張氏は倭と倭人が使い分けられていることに着目していますね。
で支持している者ですが

夫余伝………夫余は長城の北に在り
高句麗伝……高句麗は遼東の東千里に在り
東沃沮………東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東に在り
韓伝…………韓は帯方の南に在り
倭人伝………倭人は帯方東南大海の中に在り

倭人伝以外は同じ形式で、国名の後、その位置を書いていますね
韓伝は「東西は海を以って限りとなし、南は倭と接す、方四千里ばかり、
三種あり、一は馬韓といい、二は辰韓といい、三は弁韓という」
と続きます。
弁辰伝に「其のトラク国、倭と界を接す」と記されています
これは同じ内容をより精密に語ったもので
倭人伝の冒頭に「倭人は帯方東南大海の中に在り」と記されていますから、
魏志倭人伝の著者、陳寿は、よく似た国ではあるが、朝鮮半島に在ったで似比倭と
区別するためにも、大海の中に在るものを倭人と表現したようです。

49日本@名無史さん:2006/05/28(日) 08:07:42
>>46

『釈日本紀』には「任那日本府」のことを『任那之倭宰』と註釈しており、「日本府」とは「倭宰」(ヤマトノミコトモチ)という意味だと平安・鎌倉時代は考えられていたようです。
「ミコトモチ」とは「御言持」で、天皇の使者を指します。
『日本書紀』には「在安羅諸倭臣」の記述が見え、「倭」から使者が在駐していたと考えられます。

「日本府」という表記は『日本書紀』が完成したころに日本名が正式に遣われるようになり修正されたものと考えられています。
『日本書紀』には「在安羅諸倭臣」の記述が見え、「倭」から使者が在駐していたと考えられます。

そこで「任那日本府」の実像は、安羅に駐在する諸倭臣が大和朝廷と連絡をとりつつ、任那諸国の早岐(代表・首長)と外交上の問題を協議しつつ、百済王とも連絡している安羅の倭臣駐屯地のようなものとして解釈されています。

「任那日本府」の「日本府」は、当然6世紀当時のものではありません。
後代、「倭から日本へ」国号が改められたときの語が使用されていると思われます。
『日本書紀』は、古来からの伝承などを日本書紀編纂時の言葉で当時の読み手にわかりやすく伝えようとしているのではないかと思います。
50日本@名無史さん:2006/05/28(日) 08:22:37
>>47

「宰(みこともち)」が置かれた地域は、『任那・筑紫・吉備・伊予』だけなの?

他に「宰(みこともち)」が置かれた地域はないの?
51日本@名無史さん:2006/05/28(日) 08:30:23
「大祓詞」にも“みこともち”が出てきます.

『高天たかまの原はらに 神留かむづまります 皇すめらが睦むつ 神漏岐かむろぎ・神漏美かむろみの命以“みこともち”て
八百万やおよろづの神等かみたちを 神集かむつどえに集つどえ給たまい 神議かむはかりに議はかり給たまいて 我あが 皇御孫すめみまの命みことは
豊葦原とよあしはらの瑞穂みづほの国くにを 安国やすくにと 平たいらけく 領しろし召めせと 言依ことよさし奉まつりき。』
52日本@名無史さん:2006/05/28(日) 08:30:47
>>48
その場合は「内倭」と「外倭」という意味になるのか?
半島にいる倭と列島にいる倭のどちらが「内倭」になる
のかしらんけど。
53日本@名無史さん:2006/05/28(日) 08:37:46
日本のシャーマンのことを「みこともち」といいます.
“みこともち”の“みこと”とは言霊のことです.
言霊を手の平に受けて,それを他者に差し出す.
シャーマンの場合は自分を取り囲んでいる人たちに差し出すわけですが,それが“みこともち”です.

54日本@名無史さん:2006/05/28(日) 08:40:18
国司などの為政者は古くは「みこともち」(神意の代行者・伝達者)と呼ばれた。

『記』の「ここに天つ神もろもろの命(みこと)もちて」という記述などが、それに当たる。

この「みこともち」は現在も神社神道の「敬神生活の綱領」などに、信仰者一般のあるべき姿として広く使われている。
55日本@名無史さん:2006/05/28(日) 08:49:23
「みこともち」は古代の日本を理解するための言葉の一つだ。

折口信夫は天皇の祭祀を「みこともち」論で説明した。

神意を口走る憑霊という現象がなくとも、神学的には天皇は天津神と同一だと考えられる。
天皇=神という図式になる。
祀られる神と祀る者は同一視されやすいのである。
天皇が天津神を祀るという行為によって天津神の権威が天皇を通して地上にもたらされるとすれば、人々は天皇に天津神の姿をみることになる。

つまり、天津神−天皇−臣下という関係を折口信夫は「みこともち」論で説明したのだ。
「みこともち」は「御言持ち」で、神の言葉の伝達者という意味である。
そして、折口は「みこともちする人が、その言葉を唱えると、最初にそのみことを発した神と同格になる」と言っている。
神主は自ら祀る神の、天皇は天津神の御言持ちである。

哲学者の和辻哲郎は、「神命の通路」という表現を用いている。
ここでいう通路は折口の「みこともち」と同じでいいと考えられる。
和辻の場合は、通路は地上ではなく、高天原にもあることを指摘した。
つまり天津神にも卜占をし、何者かに神意を問うているのである。
和辻は「祭祀も祭祀をつかさどる者も、無限に深い神秘の発現し来る通路として、神聖性を帯びてくる。
そうしてその神聖性のゆえに神々として崇められているのである」と言っているのである。
56日本@名無史さん:2006/05/28(日) 08:52:38
実家は神社なんだけど、「宮司」ってなんて読むか知っている?

「宮司」 = ぐうじ は漢語読み。

正しい日本語は 「宮司」 =「つかさみこともち」
57日本@名無史さん:2006/05/28(日) 08:57:09
「みこと(命・尊)」は、「みこともち(御言持・命以)」の短縮形。
58日本@名無史さん:2006/05/28(日) 09:09:21
宰(みこともち)という言葉は折口信夫が言うところの言霊の思想につながるということですよね。
広辞苑を調べると「古代、天皇の命をうけて任国に下り地方の政務をつかさどった官人。国司」とありますが、
この言葉は「宰」または「司」という漢字ではわからないが、「御言持ち」と書くと意味が見える。
つまり国司は天皇の言葉を代行するものということになります。
さらにそれは言霊の思想につながる言葉の一つだと折口信夫が言っているのですね。
59日本@名無史さん:2006/05/28(日) 09:14:00
>>50

「宰(みこともち)」が置かれた地域は、『任那・筑紫・吉備・伊予』以外には、
周防がある。
関東にはないらしい。
60日本@名無史さん:2006/05/28(日) 09:24:59
王のコトをミコトと言います。
王のミコトを持つことがミコトモチ、つまりメッセンジャー。
折口信夫は「如何なる小さなミコトモチでも最初にそのミコトを発した者と少くとも同一の資格を有するといふことである」と伝えていますが、
王の言葉を伝え、媒介する者にも同様の力を付与させている。
ここに介在するのが「コトダマ」です。


司馬遼太郎さんは『空海の風景』の中で、古代ギリシアや中国においてワケのわからないことを喋る連中をバルバロイや鴃舌(けつぜつ)と呼称していたように、
古代日本においてもアイヌ系の一族がサヘギと呼ばれていたのではないか、という“サヘギ騒民説”を展開していますが、
この「サヘキ」「サヘギ」という言葉の周辺からさまざまに興味深い仮説が成されてきました。

時の朝廷はこのサヘキの一族に連(むらじ)・直(あたい)の姓を与えていることが証明された。
王権に服属した民であることを示す部(べ)も形成している。
61日本@名無史さん:2006/05/28(日) 09:39:18
>>59

関東に「宰(みこともち)」が存在しないということは、
当時の朝廷の支配が、任那・筑紫・吉備・伊予・周防などの西国限定だったということか?

確認のために聞くが、大和には「宰(みこともち)」は存在しないよね?
62YAP?:2006/05/28(日) 13:31:32
上代日本語(大体、6〜7世紀ごろの記紀万葉に記録された日本語だ)と、
三世紀の『魏志倭人伝』に記録されている倭人語とは、語頭にラ行音・濁音が
立たない、開音節構造など、共通性が多く、倭人語は古代日本語とでも
言うべき存在であることは確かだが、この倭人の自称と考えられる「倭」が、
古代日本語のどの言葉(語彙/単語)を、(中国人が)音写したものか、諸説が
あることは諸兄も御存じだが、わたしは、「ヰ」(ワ行のイ。つまりwi)か
あるいは「ワ]wa、「ヲ」woといった音を写したものだと考えている。

「ワ」だとすると、日本語一人称複数形で話し相手を含まない「我々」(exclusive)
である「わ」(我々)の音写の可能性が高い。
これに対し、「聞き手をも含む一人称複数形」がおそらく「あ」(吾、inclusive)で
あろうが、既に上代日本語では、「あ/わ」の複数形の区別が失われていたと考えられるが、
琉球諸方言(とおそらく八丈島方言にも?)には、この区別が認められることから、いわゆる
日琉祖語Japonicの段階では、本来、一人称複数形のinclusive/exclusive
の区別はあったのだろう。

問題は、「倭」が「ヰ」の音写であった場合だが、その場合、日本語のnative speaker
であればすぐ、思い当たる語彙がある。
それはもちろん「猪」の古語「ゐ」wiだ。
ところで、所謂、高句麗語とされる語彙で、’pig’(猪と豚双方を指す可能性が強い)は
「烏」だ。この発音もおそらくワ行音であろう。九大の板橋義三氏は、「v」としている。
ところで、琉球語で「豚」は「ワ」化それに近い音だったように思うのだが。
63日本@名無史さん:2006/05/28(日) 13:35:14
>>44
私の文章をこぴぺするな。
しかし主旨に賛同してくれるならありがたい。
64日本@名無史さん:2006/05/28(日) 13:35:33
だれか南扶余の扶余が倭に移住し倭の王になったという
ソースください!!
65YAP?:2006/05/28(日) 13:38:16
「倭」が「猪」の意味であったとすれば、「扶余」が、満洲=ツングース語派
の「buyu/buyo」といった「鹿」の意味を表わす語彙であったことから
考えて、騎馬民族が列島に上陸したとされる古墳時代中期ではなく、弥生時代に
江上波夫氏の説く「北方(騎馬)民族」の特徴とされるもののほとんどがすでに、
「倭人」とともに到来していたという説明で十分だ。
66日本@名無史さん:2006/05/28(日) 14:31:00
鮮卑に南扶余を追われた扶余は海を渡り
倭の王となった(崇神)
これは本当か?
67日本@名無史さん:2006/05/28(日) 15:05:23
>>62
あのぉ、じゃあ『論衡』に出てくる「倭人」は何者でしょう?
中国大陸に「倭人」と呼ばれる集団が暮らしていたようにしか聞こえない
んだけど、あれも倭人が「我」と言っていたのを漢字に表したんだろうか?
68YAP?:2006/05/28(日) 15:18:10
67氏へ

『論衡』の倭人も、勿論、列島に移住した倭人の内、大陸(主に遼河
流域)に残存した倭人の部族でしょう。
このあたりは、長田夏樹氏が昔『邪馬台国の言語』(学生社、S54年3月9
ですでに、論じています。

ただ、当時は弥生時代の開始が、紀元前2世紀前後と考えられていたこともあり、
氏は、『論衡』の倭人は、列島への移住途中の倭人集団のことを指すと考えて
いたようです。
69日本@名無史さん:2006/05/28(日) 15:54:49
>>68
遼河というのは、内モンゴル自治区や東北を流れている河ですよね?
そうすると、倭人は強いて言えば何系の民族だったんでしょう?

『論衡』の方では越裳と同列に書かれていて、香草を献じたように書かれて
いたので、東北よりも南なんじゃないかと思うんですけど。。。
70YAP?:2006/05/28(日) 18:22:48
長田夏樹氏は、前記書の中で、『論衡』の「別通篇」に引用されている
『山海経』の「海内北経」の中の、例の有名な一文

蓋国は〈金巨〉燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。

を挙げて、この蓋国が、高句麗の「蓋馬大山」の地で
あろうと言う清末の考証学者の説を論拠としています。

私は他に、ずっと後代の史書ですが、隣国朝鮮の『三国史記』
高句麗本紀の国祖王宮の記事に表れる「倭山」記事も
倭人が、遼河流域にいたことの証拠だろうと考えています。
長田氏は、是には触れていませんが、『後漢書』鮮卑伝の
〈シ于}人国記事にはhyre手織り、鮮卑の領域に接して、
〈シ于〉人=倭人の国があった例証としています。

71日本@名無史さん:2006/05/28(日) 21:05:10
遼河流域の倭山の話、それと魏志倭人伝等を照合してみる・・

もうわけわからん。。
72日本@名無史さん:2006/05/28(日) 21:54:59
>>70
上野の国立博物館の解説にあったように、倭人は中国南部から(時には混血しながら)
北上し、中国東北部から半島南部に到ったて、一部は日本列島に達したということ
ですか?
73日本@名無史さん:2006/05/28(日) 21:59:07
倭人ってのは南方から文化を伴い渡来し半島西部、倭国に
勢力をもつ、遼東の先進的土着民の文化を吸収し
遼東、半島、倭国の
一大勢力圏を構築。
その後、扶余、鮮卑、マッカツの侵略に
さらされ南下。
74日本@名無史さん:2006/05/28(日) 22:10:02
甕棺、支石暮、鶏とかの倭人のアイテム。
扶余、鮮卑、マッカツの牛馬あたりの出所を丹念に
調べていけば有る程度のことはわかると思うけどな。
あ〜、漏れ考古学者になってればよかった。
75日本@名無史さん:2006/05/28(日) 22:42:24
>>74
高句麗にも太陽を抱く鳥の構図があった希ガス。
鳥と太陽は北方伝来じゃないから、

江南→華北→半島→列島

の順で、人も物も移動したと思われる。
倭人は長旅をした可能性高し。
76日本@名無史さん:2006/05/28(日) 22:50:30
http://ethol.zool.kyoto-u.ac.jp/kura/JapanEemp/FameleEmp/1-3.files/image003.jpg
http://ethol.zool.kyoto-u.ac.jp/kura/JapanEemp/FameleEmp/1-3.htm
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1119965238/l50

遺伝子真っ赤っか厨で有名なミトコンドリアではなく
Y染色体の分布です。
これから察するにもう単純な答えは出せないということは
間違いなさそうです。
77日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:44:42
華北人+縄文人(或いはチベット人?)+ポリネシアン+モンゴル人

って感じか?

すげー大雑把だが、解析によるとそういう事だろう。
78MMR将軍:2006/05/29(月) 00:01:09
私「は」の「は」は、hwaだった

だからhaと書いてwaと読む
79白馬青牛:2006/05/29(月) 00:55:44
>>35
扶余の牛革のなめしについては解りません。文献や遺物からも
確認出来ません。
>>7475
甕棺は、北九州と朝鮮南部の弁韓地域に多いが、アイテムは漢人であろう。
支石墓も同じく。鳥と太陽が南方とも断言出来ん。
北ユーラシアにも分布しておる。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/oldkino/Tao626.html
の『邪馬台国』大林太良著の項に、【エーバーハルト説】に、朝鮮半島の
諸民族の要素は、A中国高文化、B華南(越)、C粛慎(ツングース)、
D匈奴チュルク(トルコ)要素に太陽崇拝を挙げておる。ただし、わしも
朝鮮の古アジア的(ニブヒ等)の要素が欠けておると思う。
補足として、中国の地方文化領域、エーバーハルト(1977)に、
越文化は、朝鮮南部と九州に影響を及ぼし、ツングース文化は本土日本
にも影響を及ぼしている。
80日本@名無史さん:2006/05/29(月) 01:01:38

          (())        +
  +    ,〜((((((((〜〜、
      ( _(((((((((_ )       +
     (/ ~^^^^^~^^~ヽ )
+    (  ;;;;;;;;  ;;;;;;;;  )         +
     (  -=・=  =・=- )   +
     (    (oo)    )       信じられぬと嘆くよりも
      (    )3(    )         人を信じて傷つく方がいい
      (____二二二_____)            
     / \ `ー- '"ヽ`ヽ、
  ,-'"~ i   ヽ   /,,\||  ` ::
  ;;,,   フ  ヽ. 〈/ヽ, |   ::''
   '';;,, \   ヽ |  ヽ |,,::''
     '';;,,\   ヽ|,,;;;;;::::'''
81日本@名無史さん:2006/05/29(月) 01:06:39
そうやって傷心してろw
82日本@名無史さん:2006/05/29(月) 07:09:01
>>79
残念ながら、二羽の鳥が太陽を抱く構図は、長江流域が発祥くさい。
海娒渡遺跡からも、太陽を抱く二話の鳥の象牙の装飾品が出てるよ。
これを「双鳥太陽図」という。
高句麗の鳥は、南方起源だろう。
83日本@名無史さん:2006/05/29(月) 07:29:31
>>79
弁韓地方は、漢人と言うよりも厳密には越系人種では?
84日本@名無史さん:2006/05/29(月) 08:40:56
ん〜、日本の朝廷でもよく見られる日の中に三足鳥、月の中に蟾蜍は
論衡等に儒教の教えとして載っている。高句麗壁画にも三足鳥はあるが、
南方北方はわからんが儒教の教えを導入した際に土着の太陽信仰と結び
ついたのではないか?扶余に太陽信仰は無かっただろうが。
85日本@名無史さん:2006/05/29(月) 10:47:39
太陽の中のカラスは北方じゃないよ。
太陽の中に鳥のモチーフは雲南とかに多くないか?
NHKの教育番組かなんかで見たことあるぞ。
86日本@名無史さん:2006/05/29(月) 10:51:13
「あやひと」が先にあって、それに適当に「漢人」という漢字をあてた
のではないか?
ちょうど「はた」に適当に「秦」をあてたように。
とすれば、「あや」は「安羅」であり、「あやひと」すなわち「漢人」は
安羅から来た人たちなのではないか?
87日本@名無史さん:2006/05/29(月) 11:12:06
三足鳥はスリランカにもあって、結構あちこちにある。


雲南と言えば、崇聖寺の大鵬金翅鳥だろう。ちなみに三塔だ。
88日本@名無史さん:2006/05/29(月) 13:59:05

三足鳥(八咫烏・ヤタガラス)の日本で色濃く残っている地は紀州熊野って知ってた?
日本サッカー協会が認定している八咫烏(ヤタガラス)の地は熊野三山のある熊野の地だ。
神武の東征の時に、熊野に八咫烏(ヤタガラス)が現れて、神武を大和まで案内したという伝説がある。
和歌山県は太平洋側の黒潮沿い。
つまり、八咫烏(三足烏)は南方から来た可能性が高い。
89日本@名無史さん:2006/05/29(月) 14:11:45
>>84
「双鳥太陽図」は6500年前のもので、物凄く古いよ。
高句麗の壁画などによく似た構図のものがあるけれど、新しいでしょう。
9088:2006/05/29(月) 14:13:38
天皇は朝鮮半島からやって来たという人は八咫烏(三足烏)と朝鮮半島を結びつけたがるが、
熊野に朝鮮系の豪族はいない。皆無だ。
近江・山城・大和は朝鮮系の豪族が混在している。

ちなみに、俺は高校卒業から奈良・和歌山・大阪・京都・奈良に住んでいる。
住んだ地域の伝説や神社・仏閣を巡ることにしているが、近江・山城・大和は渡来系豪族に支配された痕跡が見えるな。
日本には渡来人の影響を受けたと思われる文化はたくさんあるが、渡来系豪族が支配したという地域もある。
熊野には渡来系豪族が支配したという地域はない。
91日本@名無史さん:2006/05/29(月) 14:15:02
>>88
さすがに黒潮ルートからの渡来はないでしょう。
三足鳥は江南発祥、半島経由だと思う。
直接江南から来た可能性は、証拠がないので不明。
92日本@名無史さん:2006/05/29(月) 14:33:42
>>91

どうして黒潮ルートを否定できるのでしょうか?
その根拠は?

稲作も黒潮ルートを通って長江周辺から直接、伝播したことが有力です。
あなたは船に乗って、潮の流れを体で感じたことがないから否定できるのでしょうね。
熊野から船に乗って黒潮まで出て行き、エンジンを切ってそのままでいると東京沖まで行ってしまいます。
千葉にある勝浦という地名は、熊野にある勝浦からとったという公表があります。
帆船の時代でも、それほど潮の影響を受けたということです。

逆にあなたに質問しますが、
八咫烏(三足烏)が朝鮮半島から来たという証拠はありますか?
93日本@名無史さん:2006/05/29(月) 14:39:02
始皇帝の命を受けて、日本にやって来た徐福の上陸地としては“熊野”が有力です。

和歌山県新宮市波田須町矢賀には矢賀の蓬莱山とも呼ばれる丸山という山があり、その頂上には徐福の墓と徐福の宮が祀られています。
明治の神社合祀令により波田須にあった4つの神社は波田須神社として統合され、敗戦後まで合祀されていましたが、
氏子たちの徐福への信仰心は消えるはずもなく、合祀されていた期間においても密かに、中国人を神として祀っていることを隠して、
徐福の宮を祀りつづけたようです。

徐福の宮には神宝として徐福から与えられたという外来技術で作られた須恵器のすり鉢が伝わり、
また丸山からは焼物の破片や秦代の通貨「大型半両銭」などが出土されています。


http://www.mikumano.net/meguri/jofuku.html
http://okukumano.at.infoseek.co.jp/kumano/jofuku.html
http://www.kumanokaido.com/jofuku/
http://www.jofuku.or.jp/004-2.html
http://www.jofuku.or.jp/004.html
94日本@名無史さん:2006/05/29(月) 14:54:57
>>91

「すべての文化は朝鮮半島を経由して来た。」って言う人がいるけど、それは間違いだと思う。
現在は稲作も長江周辺から直接伝播して説が有力です。
93の人が言うように、徐福も船に乗って直接日本にやって来た。
つまり朝鮮半島を経由してない。
徐福は朝鮮半島を経由する必要がなかった。
三足烏も江南から直接来た可能性は高いですね。
95日本@名無史さん:2006/05/29(月) 15:05:10

仏教壁画の発祥と言われる「インドのアジャンタ石窟」は日本の高松塚壁画にそっくりです。
http://www.wastours.jp/tour/IN0036_4_05S/

つまり、朝鮮半島を経由したとしても、それはストローみたいなもので、朝鮮半島を通っただけです。
それでも朝鮮人は「日本に文化を教えてあげたのは朝鮮民族だ。」って自慢する。
「奈良県の奈良はウリナラ(我が国)のナラだ。」とか
「大和朝廷は百済人が建てた国だ。」とか、20前後の韓国人留学生の友達が言ってるけど気にしないです。

だって、高松塚壁画も稲作も漢字も仏像も朝鮮半島で生まれたものではないから。
やっぱり日本に影響を与えた文化の発祥はインドや中国です。
それに個人的な意見ですが、韓国って国に興味はないです。

http://www.saiyu.co.jp/world/india/india_visit/ajanta.html
96日本@名無史さん:2006/05/29(月) 15:13:19
>>93

「三国志・呉伝・孫権伝」には徐福の後日談がある。
西暦230年孫権は配下の衛温、諸葛直に命じて夷州、せん州(いずれも日本をさす)の探索をおこなわせた。
その時、土地の古老は「徐福が神仙を求めてこの地に来た。
彼は死んだが一族は数万人に増えた」と語ったという。
 
また後周時代(10世紀中頃)の「義楚集(六帖)」には別の記述もある。
いわく「日本には富士山という山がある。またの名を蓬莱山という。徐福はこの地に辿り着き、子孫は秦氏を名乗っている」というもの。

後周時代の「義楚集(六帖)」では徐福の子孫が秦氏だということです。
97日本@名無史さん:2006/05/29(月) 15:25:03
>>93
>>96

和歌山県史蹟名所誌の秦徐福之墓の項から抜粋します。

「往昔秦の始皇帝の時、徐福は童男女五百人を率いて、五穀の種、耕作の農具を取揃えて日本に渡来し、
熊野の浦にあがりて耕作をなし、童男童女を養育して、その子孫は熊野の各地の長となり,安穏に暮せりといい伝えられている。
又、徐福が不老不死の仙薬を求めし地なりと称する蓬莱山は、ここより東方三町(三〇〇メートル)許りの所にあり、
樹木繁茂し山杉椀の如く、自ら仙境の観をなす。」とある。

捕鯨の基地として有名な太地町は、秦地とも書く。
捕鯨の歌の一節に”大島原からよせくるつち(槌鯨)を 二十艘秦氏がさしてとる〃 とある。
また太地町は、昔は「秦地」と書いていた。

このように紀州・熊野には中国からの影響が意外と多く残っている。

「三国志・呉伝・孫権伝」に「孫権の配下の衛温、諸葛直が日本に来た。」という記述があるくらいですから、
当時は熊野と江南は私達が思うよりも、近くにあったようですね。

八咫烏伝説(三足烏)も江南から直接来た可能性は高いですね。
98日本@名無史さん:2006/05/29(月) 15:29:58
1990年代に入って細川政権は崩壊。
続いて総理大臣に就任したのは、羽田孜だった。

羽田氏の出身は長野県。
今でこそ、羽田という文字を使っているが、ご先祖は、もともと秦氏を名乗っていた。
羽田氏の本家には、古代からの系図がきちんと残っており、それを見ると太祖は秦始皇帝である。
といっても、秦氏が秦始皇帝の末裔と称すのは、いつものこと。
いうなれば、オーソドックスな秦氏一族にも思える。
しかし、興味深いのは、羽田氏の祖先は、たんに秦始皇帝の末裔と名乗るのではなく、そこから徐福を登場させている。
徐福とは、ご存知のように、秦始皇帝の命を受けて東の蓬莱山へ不老不死の薬を求めて旅立った方士であった。
徐福の一団が向かった先は、この日本であるとされる。

だが、文字は変わっても、秦氏は秦氏である。
羽田孜氏は、自らが秦氏であることを誇りに思っており、今でも毎年、京都太秦の秦氏の氏寺、すなわち広隆寺参りをしているという。
99日本@名無史さん:2006/05/29(月) 15:32:21
秦氏と除福が同じではないにしても
同じルーツを持つという説は有力だよな。
秦氏を半島に残った除福の末裔だという人は多い。
従って、4、5世紀の秦も秦時代の除福秦氏も
最初に日本にきたか半島に居座って日本にきたかの
違いで大きな違いはないのかもしれない。

そもそも秦氏が日本を目指したのも除福縁の地を
求めていたのかもしれない。
100日本@名無史さん:2006/05/29(月) 15:36:58
>>96

>「三国志・呉伝・孫権伝」には徐福の後日談がある。
>西暦230年孫権は配下の衛温、諸葛直に命じて夷州、せん州(いずれも日本をさす)の探索をおこなわせた。

え!?
夷州、せん州って日本のことなの?
魏志倭人伝では日本の場所は不明だったよね。
「三国志・呉伝・孫権伝」では日本の場所は判明しているんだ。
「三国志・呉伝・孫権伝」が成立した時代はいつ?
101日本@名無史さん:2006/05/29(月) 15:39:40

孫権の配下が日本に来ていたってのがビックリだね。

当時の人にとっては、江南と日本って近かったんだな〜。
102日本@名無史さん:2006/05/29(月) 15:42:54
>>99

徐福の上陸地点は太平洋側が多いんだよな。
富士山も太平洋側にあるしな。
朝鮮半島を通ったら、日本海側だよね。
103日本@名無史さん:2006/05/29(月) 15:45:50
『紀伊続風土記』によると
「徐福の墓は、永山の東、上熊野地の申の方田中にあり。その地を楠の薮という。旧楠数株あり。今皆枯れて朽ちたる株あり。
速玉大社修営の棟札に“築徐福之墓逮千古之名書如王始皇之曽弁万世之徳”とあり、又寛文雑記に楠薮の地は徐福の廟なりと申し伝うとあり。
同記に新宮の末社を書きし中に徐福祠あり、南龍公の時、碑を此の地に建てられ碑面に秦徐福之墓という五字を刻めり。
近き頃新宮城主水野忠央、碑を立てて徐福の事を書せり」とある。


http://homepage2.nifty.com/iitoma/shiryoushitu/jyofuku.html
104弥生の侵略者・徐福:2006/05/29(月) 15:53:02
>>99

朝鮮の徐福伝説は済州島だけにしかない。
また済州島の徐福伝説は、歴史書の中に記述はなく、伝説でしかない。

1、朝日が上がるのを見た徐福が、無事に到着したことを記念して海辺の岸壁に「朝天」という文字を刻み入れたと言われる朝天浦
2、西帰市の海岸にある「正房瀑布」という滝
この2つである。

童男童女を連れた徐福の一行は、三神山のひとつ瀛州(済州島)の漢拏山に上陸し、自生している不老草「岩高蘭」を捜した。
しかし、結局は見つけられないままこの地を去る時、正房瀑布に心打たれ、絶壁に「徐市過此[徐福(徐市)がここを通った]」という言葉を刻して、惜しみながら西方の日本へ向かったという。
済洲島には「西市過此(中国語で西市と徐市は同音)」の地名が残っている。
韓国 済洲島 徐福通過遺跡
韓国 南海島 徐福通過遺跡

つまり、「徐福(徐市)が済州島を通った。」という伝説があるだけである。
105弥生の侵略者・徐福:2006/05/29(月) 16:02:08
『史記』は、「徐福は童男童女を引き連れて脱出する時、稲を含む五穀の種子と進んだ農耕機具や生産技術を持って(五穀百工)東渡した。
かれらは広い平野と沼地のある土地へたどりついた。」と述べている。

これはまさしく「稲作の伝播」を暗示する記述である。
イネはやはり朝鮮半島経由ばかりでなく、中国大陸から直接北九州や太平洋沿岸(鹿児島、四国南岸、和歌山等)地方に伝わるルートもあったのだ。
加えて最近の研究では、イネが朝鮮半島・日本列島に伝わったのはほぼ同じ時期であるという見解もある。
だとすれば、従来言われてきた朝鮮半島経由というイネの伝播ルートは今後見直す必要性が出てくる。
東シナ海を突っ切って、江南地方から済州島を経由して日本の九州西岸にたどり着くルートがあったのかもしれない。
そのためには高度な船舶製造技術と確かな渡航技術が必要で、弥生時代初期すでに中国大陸にはそのような技術が存在していたとみるべきだろう。

http://inoues.net/mystery/jyofuku.html
106日本@名無史さん:2006/05/29(月) 16:11:21
東三河にも徐福に関する伝承があります。

"国史より観たる豊橋地方"(大口喜六)によれば、
「東三河に於いて、宝飯、渥美両郡は極めて秦人に関する伝説の多い処である。
 特に宝飯郡の御津地方には、秦の徐福が始皇帝の命を受け、不老不死の薬を
求むるにあたり、木の国から転じて、三河湾に入り、ここから上陸せしものと伝へ
られて居る。 元来 徐福が長生不死の薬を求めて、蓬莱島に到ったといふ説は、
独り我が国のみならず、支那に於いても頗る古くから伝わって居る。 さうして宋の
欧陽修の日本刀歌にもそのことは言われて居る。 我が国では最初徐福が来航し
たのは紀伊国の熊野であると伝へ、今も新宮にはその墓と称するものがある。 
ただこの伝説は頗る汎く、且つ古いにも拘らず、何ら拠るべきものがない。 併し、
我が宝飯、渥美両郡から、多くの銅鐸を発見せられたることは事実である。 秦人
の伝説と銅鐸、この関係は結局離るべからざるやうに思はれる。」とある。 これは
非常に貴重な証言である。
107日本@名無史さん:2006/05/29(月) 16:18:31
三重県熊野市の波田須という土地は、秦氏が住んだという意味で、秦住と書いたとも言われており、
上陸した徐福が焼き物を作ったと伝わる釜所という地名と合わせて、地域の人々にとって、徐福渡来の証となっている。
また、秦代の古銭である半両銭や、徐福が助けられた褒美に与えたという擂り鉢が、区長や総代によって保管されている。
また、波田須顔とは中国系の顔を意味し、地域内外でその言葉が使われるなど、地域の人々の日々の営みの中に、徐福伝説が息づいている。
108日本@名無史さん:2006/05/29(月) 16:21:57
「秦氏」について
『新撰姓氏録』(815年奉進)には、秦氏は、「諸蛮」の中国に属しており、その出自を秦始皇帝の後裔とする説もあるが、考証は得られておらず、新羅系の渡来人とする見方が多い。
「秦」は族名で、朝鮮語の「海」(パタ)を意味するといわれ、畿内から九州まで各地に広く分布し、養蚕、土木、金属精錬技術を伝え、文筆、算術に長けていたことが知られている。
秦氏は、仏教よりも、「不老不死」や「生まれ変わり」を奥義とする神祇信仰(神道)を崇拝し、
そのために、上加茂神社、松尾大社、伏見稲荷、宇佐八幡(八幡信仰)等の建立に尽力した。

109日本@名無史さん:2006/05/29(月) 16:32:39
捏造され続けた日本の古代史

「日本の古代史には定説や常識はない」といわれてきた。
『古事記』『日本書紀』などに書かれた公認の歴史、国史は、大和朝廷の支配、天皇家、公家勢力の支配を正当化するため都合のいいように偽作されたもので、真実を語っていない。
古代人は、われわれの考えているイメージよりも、はるかに広域的に、そして頻繁に移動してきた。
縄文人とは何か。どのような生き方をしていたのか。エミシとは何か。どのような人々であったのか。どのような社会に暮らしていたのか。どのような文化をもっていたのか。どのような言語を話していたのか。
大和朝廷とはどのような国家なのか。なぜ「蝦夷征伐」を敢行したのか。なぜ、武力だけでエミシを屈服させることができなかったのか。明らかになっていないものが数えきれないほどある。
エミシを征服しようとした大和朝廷とはいかなる存在なのか。彼らは本当に日本列島から出自した万世一系の正当な継承者なのか。日本の伝統文化の正当な継承者なのか。
110日本@名無史さん:2006/05/29(月) 16:36:02
扶余被差別民説を唱えていたヒサベツ君は、京都の「余部(天部)」が平安時代には
「余戸」と書かれていたことがわかったら、さすがに出てこなくなったな。
111日本@名無史さん:2006/05/29(月) 16:50:37
>>90

確かに、滋賀には朝鮮渡来系豪族の影響が残っている。
湖東の百済寺や西明寺は言うまでもなく、伊吹山の麓の伊福部もそうだ。

製鉄や製銅を行なう古代氏族に伊福部(いふくべ)氏というのがあった。
製鉄製銅はたたらと言って、鉱石を高温で溶かすプロセスがあります。
小型の溶鉱炉を作り、そこへ鉱石を入れて薪をくべる。
これを燃やすために「吹く」そうです。
伊福部の福は「吹く」という意味だそうです。

伊吹山あたりは古代から製鉄製銅のさかんな場所で伊福部がいたそうです。
鈴鹿山脈は鉱物がたくさん採れましたし、伊吹山あたりは年中風が吹いているのでたたらには絶好の状況です。
伊福部はアマノマヒトツの神をお祭りするですが、その神の山がイブキ山(伊福=伊吹)だったというわけです。
で、注目なのはこの氏族の祖先伝説です。
それは徐福伝説というものでした。
始皇帝は、永遠の生命を手にいれるために徐福をホウライ山へ遣わします。
ホウライ山には永遠の生命の妙薬があると言われていたからです。
このホウライ山が湖西にある蓬莱山だと言われています。蓬莱駅もありますよね。
徐福は一族をつれて日本へ渡ってきたそうです。
伊福部氏はその子孫だということです。
その後、彼らのうちの一部は秦(しん)からやってきたので秦(はた)氏と呼ばれました。
秦氏の祖先伝承はこのほかにもいろいろあるので、全部が伊福部であるわけではないです。
徐福伝説は秦氏のような渡来氏族の祖先伝承のひとつというわけです。
112京都の新羅神社:2006/05/29(月) 16:59:06
京都府には北部から南部まで新羅の神々が祭られている。
北部では丹後地方、南部は山城地方の宇治市である。
南部の京都盆地には「新羅牛頭(ごず)山に座す素盞鳴尊」を祀る八坂神社や新羅系渡来人秦氏とつながりの深い賀茂神社がある。
丹後地方は古来、大陸や半島との往来が頻繁にあり、弥生時代には王国があったといわれている。
特に弥栄(やさか)町の新羅明神(溝谷神社)は渡来の人々(特に新羅系、或いは秦氏系の氏族)が祭ったといわれる。
丹後地方は但馬の出石郡に隣接しているが、出石郡は地理的には丹後の一部であり、新羅の渡来人、天日槍(あめのひぼこ)と縁の深い土地である。
また、京都府の太秦や園部町から続く丹波地方も新羅系渡来人の痕跡が非常に濃い。


113日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:04:01
>>98

始皇帝〜徐福〜秦氏〜羽田孜ってこと?

その系図を見たいな。。
114日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:13:05
>>110
いえ、なんだか同じ事ばっかになるんROMってました。
まず、姫路に定着したって話を前スレの最後のほうでしましたよね。
あなたが言う「余戸」は地名でしょ?
俺が言う余部は部民名ですから。
115日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:14:08

秦氏と言われる人たちは新羅の国から日本に渡来してきた人たちと言われています。
氏名の由来として、「ハタ」の語源は、新羅語であり、新羅語で「ハタ」は、海を意味し、
朝鮮半島から海を渡ってきた人、ハタビト=海人こそが、源義であるという説があります。
また、平安時代初期の815年に編纂された「新撰姓氏録」に、「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載がありますが、
これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっています。
つまり、秦氏が中国から来たというのは誤りです。
また、秦氏と徐福の関係もないでしょう。
羽田孜氏の系図も秦氏まではさかのぼることはできるでしょうが、始皇帝〜徐福との関係はないでしょう。

秦氏の歴史的な活動が顕著に認められるのは、推古天皇の頃の秦河勝(はたのかわかつ)からです。
京都盆地にも5世紀代から朝鮮系の人々により開発と定住が進み、
この人々が「秦」姓となったのは6世紀以後からであり、秦河勝が広隆寺を造つた8世紀は、この国家統一事業の完成期でした。

http://www.kyotokanko.co.jp/hata/index.html
116日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:24:57
新羅系豪族・秦氏が、未開拓地であった嵯峨野の地域で灌漑を造り農業をひろめました。
大堰川に「葛野大堰」と呼ばれている堰をつくり、嵯峨野の地域で灌漑を営んだことは、秦氏が高い技術水準を持っていたことを物語っています。
秦氏とは、このような高度な技術を持っていた集団の一族で、5世紀後半に渡来してきたといわれています。
けれども秦氏は、他の古代豪族が天皇を中心に権力争いをしたようなことはしていません。
(私的には蘇我・物部・入伴などの豪族は、渡来系ではなく、古くから日本にいた豪族だと思っています。)
秦氏は、京都・太秦という土地を中心に、農耕・機織などの労働を中心とした実力豪族として、その姿が残されています。
117日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:26:19
系図を信仰こと、これ即ち中華に毒されてる証拠ニダ
まるで脳内チョンコロw
はい、妄想の域から脱するのは何時のことやら?w
118日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:28:26
かれらはあくまで脳内秦氏です、はいw
119日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:29:21
秦さんは勝という文字が好きそうだね。
勝浦等
120日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:32:11
古代の日本には朝鮮半島から土器製作,農工技術,土木技術,養蚕,機織り,漢字,仏教,医学などの新しい文化や技術を持って多くの人たちが渡来してきた。
「渡来人」と呼んでいるが,実は渡来人こそがわたしたち日本人の祖先でもある。
彼らから伝えられた技術や知識によって,それまでの人々の生活が大きく変化し,また,政治の中心地である都もつくられていった。

最初の渡来人たちは,紀元前にさかのぼるが,日本(九州を中心として)に米作りや土器などを伝えた人たちと考えられる。
日本書紀・古事記が伝えるところによると,応神天皇期が最初の大規模な渡来とされている。
このころ朝鮮半島では大きな動乱が起き、それから逃げるように日本に渡来し,製鉄の技術や鉄製の農具,灌漑(かんがい)技術などを伝えた人たちがいた。
かれらがもたらした道具や技術によって,それまでの生産方法や労働形態を一変させる一大改革が起こった。
また,馬や馬具ももたらされ,乗馬も行われるようになった。
この後続く渡来人たちによって,政治にも影響を与えるような知識や文化,技術がもたらされた。
彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。


http://www.asuka-tobira.com/toraijin/toraijin.htm
121日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:32:22
日本にチャンコロ帝国を作ろうとしたわけじゃないんだから
秦さんは尊敬に値するとおもうけどね

それより物部とか藤原のような北方ツングースの方がうざくね?
122日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:33:52
そんなに怒らなくってイイと思うよ。多分それすら妄想なんだからw
123日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:38:03
イルボンは支配されてたのだ!だのこの奴隷民めが!
とか何時ものようにファビョれよ、見ていて楽しいからw
124日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:38:40
>>95 「大和朝廷は百済人が建てた国だ。」とか、20前後の韓国人留学生の友達が
言ってるけど気にしないです。

 その百済を滅ぼして建国したのが今の朝鮮だということをどう考えているのかな。

 百済は楽浪郡の影響でシナ文化を受容しそれを日本に伝えたのだが、新羅も日本
と同様に同時期にシナ文化を受容したのだろう。

 朝鮮が百済、高句麗を自国のことのように言うのは歴史のパクリと言える。
125日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:39:06
日本人の苗字なんて朝鮮由来のものばかりだ、
それは古代氏姓からしてそうだ、連綿と続く渡来人の国だ。
神社なんてみてみろ。
あの源氏(実は元氏)は朝鮮の白旗と白装束を身に纏い
賀茂神社、八幡神功、新羅明神という
朝鮮の三大氏神に守られ
日本を支配したではないか?
126日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:43:12
>>116

蘇我はよく渡来系だと言われているが、そうは思わない。
物部は古くから日本にいた豪族だろう。
逆に藤原氏(中臣氏)が渡来系だと思う。

日本書紀はかなりの部分で改ざんされていると思うが、日本書紀を指導したのが「藤原不比等」だ。
以下略
127日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:43:24
>>92
うーん、それを言われると、弱い(汗)証拠はないです。
確かに、長江下流域から舟を出し、海流に乗れば2日足らずで日本にたどり着く
と聞いたことはある。長崎あたりに中国の漂流者が多い事も知っている。
ただ、江南から直接黒潮に乗ってたどり着いたという証拠がないのだと思う。

鳥取県淀江町角田遺跡の土器に描かれたいわゆる羽人については、詳しいですか?
微妙〜に気になる土器もあるんですよね。←コレどう思います?
128日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:47:26
物部は穂積(朝鮮の地名)、金偏の金令、
尼子亀井を名乗ってるので
朝鮮系の可能性が高いだろう。

天皇家が畿内で娶った出雲系の后はほぼ出雲系だが
やはり朝鮮由来の文字が随所にみられる。
物部は当然だが出雲は本州の朝鮮の窓口なので
極めて朝鮮の血が濃いと思います。
事実古浦弥生人、出雲古墳人は極めて渡来形質が強いとされています。
それは現代山陰人にも引き継がれています。
129日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:51:08
源氏が八幡神を手厚く祭ったのは祖に縁があるからか?
白旗と白装束を身に纏えば=チョン?
やっぱりちょー哂えるなこいつw
130日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:52:06
出雲族(イソタケル、スサノオ、スクナヒコナ)
と丹波族(いわゆる天孫族=アメノヒボコ族)との
熾烈な抗争があったと思われる。
131日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:53:45
>>108
秦=海は中期朝鮮語が「parol」なのでガセ。
秦氏を新羅からの渡来人とする説があるのは知ってるが、
確定したわけではないだろう。新撰姓氏録を鵜呑みにするわけではないが、
だからといって否定する根拠もまたない。皇別には新良貴氏というどう見ても
完全な新羅系渡来人が記されているが、出自において稲飯命が新羅国の王
に成った、としている。神皇正統記などにもあるように、この時代出自を偽装
する渡来系は多く、恐らく虚偽だろう。ただ三国史記新羅本紀などを見る限り、
新羅と倭の関係は新羅→倭、との一方的な関係では無かったのかもしれない。

>>112
>「新羅牛頭(ごず)山に座す素盞鳴尊」

確かソシモリのおわす所?だったか。現代朝鮮語でsoshi=牛、mori=頭であるから、
soshimori=新羅の牛頭山と結びつけ、また偶然にスサノオとインドの牛頭天王が
習合されたことから、スサノオは新羅牛頭山出身の神であると結論を下している
らしいが、中期朝鮮語で牛=syo、頭=mariであり、更に遡って高麗語となると頭=madi
となる。つまり古代の朝鮮語においてsoshimoriが牛頭の意味を持つことは有り得ない
し、また牛頭をsoshimoriとも読まなかったと考えられる。そもそも現代朝鮮語と古代
日本語の語彙を比較し、やたらとその関連性を問うのは時間の無駄だとしか思えん。
132日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:56:56
>>130=人に騙されるタイプ
133日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:57:07
>>129
白旗、白装束だけではなく賀茂、八幡、新羅、
安東金氏等々源氏(皇族の最終形)の
朝鮮文化の関わり方は尋常じゃない。
134日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:57:25
>>日本人の苗字なんて朝鮮由来のものばかりだ

あなたは“姓”と“苗字”の違いを理解していないようですので、説明しておきますね。

「日本の“姓”と“苗字”の違いについて」
日本人の姓は源・平・藤・橘・在・菅・清・伴の8種類に分けられる。 (例外はある)
苗字は多彩で、住んでいる地名から取られる例が多いという。

例えば、足利尊氏。姓は源で苗字は足利だ。つまり、「源尊氏」。
新田義貞も姓は源だ。「源義貞」
源頼朝は「伊豆頼朝」と呼ばれていた。
信長は平信長。
家康は源家康。
信玄は源信玄。
北条は平氏なので。「平氏康」
伊達政宗は藤原氏の子孫を名乗っていたので、「藤原正宗」

羽柴秀吉が太閤になった時に朝廷から新しい姓が下された。
その新しい姓は「豊臣」。
秀吉の苗字「羽柴」「木下」である。

伊藤という苗字は「伊勢の藤原」に由来する。「地名+藤原」である。
佐藤や工藤、遠藤などの類似した苗字も同じことが言える。

この苗字のどこが「日本人の苗字なんて朝鮮由来のものばかりだ」と言えますか?

135日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:58:18
>>109

力で屈服ってあーた、普通に現地人と結婚して混血したから、YAP+保持者
なんじゃないの?皇室だってそうだよ。古墳時代の人の顔なんて、縄文と
弥生を足して二で割ったようなクドイ顔だもん。
136日本@名無史さん:2006/05/29(月) 17:58:56
>>126

>逆に藤原氏(中臣氏)が渡来系だと思う。

ソースをプリーズ!!!
137日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:02:36
もち付けw
138日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:04:57
>>134
それら全部古代の渡来人の姓じゃねーか。
今の苗字も同じ。マンドクサー
139日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:05:05
>>131
気にスンナ。政治が働いてんだよ。

ある時期突然、関晃が著書『帰化人』の中で秦氏のプロフィールを否定してから、
日本中が全否定の時代に突入し、波多はpataだとかhataだとかいう話になったの。
金沢庄三郎とかが「波多は古代朝鮮語のpataだ」とか言い出したのだ。
140日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:06:42
ヌルハチ時代の女真にハダ部というのがあって
どうもそれも秦氏系らしいよ。
141日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:07:39
もう病院池よと
142日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:09:30
菅原天孫教、橘=但馬モリ=アメノヒボコ
143日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:09:45
>>134

>源頼朝は「伊豆頼朝」と呼ばれていた。

確かにこの可能性は高いな。
もし、木曽義仲があのまま幕府を開いて、平和な時代に築いていたら「源義仲」と呼ばれていたと思うよ。
そうなれば、頼朝は「伊豆頼朝」だろうな。
昔は「源義仲」って言ってた本もあったんだけどね。
今は「木曽義仲」が多いね。
144日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:10:56
やはりココって妄想バカの溜まり場なんだね!
145日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:11:31
>>138

>それら全部古代の渡来人の姓じゃねーか

源・平・藤・橘・在・菅・清・伴のどこが渡来人の姓なんだ?
その根拠は?
証明しなさい。
146日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:13:08
>>139
続き

それまではそんな事が無くて、みんな普通に『新選姓氏録』を信じていたの。
波多さんpataさん説が盛り上った理由が知りたいね。
金沢らがパタ、パタ言い出してから、韓国の学者も追従するように「波多さん
朝鮮説」をいい始めたの。韓国の学者、梁重海が、「大きい」や「多い」を意味する
hataだと言い出して、日本の世論がそれを支持して(本当か?)今日に到っているのだ。

まぁ、理由を知りたいよね。
何故このような運動?が盛り上がったのか…。
147日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:15:38
>>145

そりゃ、正統派の歴史本には書いてないでしょうけど
古代史関係の本みればだいたいわかりますよ。
もううんざりするほどいくつもの証拠がある。
今更、ここで一言二言説明しても無意味でしょう。
古代史関連のスレ
読みあされば?
148日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:17:49
>>147=チョン的言い逃れ
149日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:18:58
>>147

源のどこが渡来系なのでしょうか?
根拠を示しなさい。
それに対して意見しましょう。
150日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:26:59
>>112
>>131
>>139
>>146

古代朝鮮語は解明されていない。
現存する最古の史料としては三国遺事などに新羅の時代のものと伝えられる郷歌25首しか残っていない。
実際。この郷歌25首から古代朝鮮語をすべて解明するのは不可能な作業だ。

郷歌は万葉仮名のように漢字を朝鮮語の表音文字として使用した郷札で書かれている。
また、郷札と同じように漢字を朝鮮語の表音文字として使用したものに吏読というものがあり、三国史記や、金石文字に残っているという説もある。
しかしながら、三国史記、三国遺事も基本的に高麗王朝時代の史料であるし、他に残っている資料にしても基本的に高麗時代以前に書かれた史料はほとんど無い。
なぜ残っていないのかといえば、新羅が朝鮮半島を統一した時に、すべての書物を焼いたからである。
しかし、現在の韓国の教育では「壬申倭乱で日本人が焚書した。」と教えているらしい。
したがって、現在に伝わる古代朝鮮語の史料はとても少なく、詳しいことはほとんど分かっていないのが現状である。

余談ながら、朝鮮半島ではほとんど忘れられていた郷歌を発掘したのは京城帝国大学教授の小倉進平である。


参考
http://jpnkiryaku.hp.infoseek.co.jp/chosen.html
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/siru/kodai.html

ついでに言っておくと、韓国語と日本語の語彙を比較した結果、
文法構造は似ているが共通の語彙が相対的に少ないことから近縁性は低く、
分岐したのは有史以前のはるかな昔の事であり、直接の関係は疑問視されている。
151日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:32:50
>>131
>>139
>>150

百済語 Damuro(淡路)を Awajiでも読んだが,これは awa(阿波) + ji(路)です.
ところで apaは現代韓国語で Yapa(淡)と関連があります.
すなわち apaが複母音化したのです.
jiは慶尚道方言, 言い替えれば 新羅語,
もっと正確に言ったら 韓語 Jilで lが離れたのです.
したがって 淡路は元々韓国語です.
152日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:33:46
すなわち apa(淡) + ji(路)が日本語 awajiで移り変わったのです.
日本の古代歴史書をのぞき見れば韓国語と係わる言語があまりにも多いです.
Sachi(矢)も韓国語です.
Satsu-yaという言葉ご存じですか?
Sat(古代韓国語) --->sachi(日本語), sal (韓国語)です.
Sachiは鉄器矢先意味します.
153日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:35:37
古代の日本の貴族たちは韓国に憧れ・尊敬してのようなさじとはしと御箸を使用
その言葉は韓国式食べ物を食べて,韓国の服を着て韓国式建物を建てて暮しながら韓国の歌を聞いて韓国語を話していたと考えられる.
154日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:37:26
>>147

秦氏pata、hata説は、日韓同時に盛り上がったのだ。
ここが最重要。

私としては、秦=波多=機織の機が一番しっくり来ると思うのだが、
どうして無理をして、古朝鮮語のpata(海の意味)やhata(大きいの意味)
をこじつけ始めたのかが知りたい。
秦さんが、hataだとかpataだとかというのは、日本の古文書にも、中国の
古文書にも、朝鮮半島の古文書にも書いていない事なのだ。

ぜったいに政治が絡んでいると見たよ。
155日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:38:38
馬鹿プラム呼んでこいよ
156日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:41:51
韓国語と日本語は基礎的な 5000個の共通語根を持っています.

日本書紀は偽書証明ですね.w
百済の王呼称はそのまま三国史記 / 支石と呼称一致.
大和はてんからなくて一致しないですね.
これで大和歴史は虚構で証明ですね. 虚しいね :)
悔しかったら天王が書かれている碑石や刀を持って来てw

韓国に記録のない理由は幾多の記録たちを残念ながら日帝時代時日本人たちがすべて燃やしてしまったからです...
157日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:44:16
>>151->>152
なんじゃこりゃ。ネイバーでよく見るコピペの一種じゃんかよ。(笑

中期朝鮮語、道=ki?だったか。
apaとyapaもよくわからんが、最も意味不明なのは
何故か古代日本語で矢=sachiとしていること。
158日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:46:37
>>153
考えられない。言語的に。

それから、韓国人は秦さんが土着新羅系だったと思っているようだが、
秦氏は秦からの移民で秦韓に住んでいたのだ。
そこから日本へ渡来したと考えられるのだが、何故否定する?
秦氏は漢人だが、新羅から渡来した。
だから半島の言葉も文化も堪能で、日本と半島の間に立つ事
もした。



韓国人は、中国系の人間に何か恨みでもあるのか?
159日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:46:51
>>156
アフリカ言語学専門の清水先生ね。(笑

>韓国に記録のない理由は幾多の記録たちを残念ながら日帝時代時日本人たちがすべて燃やしてしまったからです
ははは。(w
160日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:48:04
はやく馬鹿プラム呼んでこいよ
161日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:55:35
>>157

ネイバー?
ここはネイバーではないのご存じですか?
翻訳softを使えば こうなるのです.
あなたbakaですね.
あなたはbakaという日本語をご存知ですか?
162日本@名無史さん:2006/05/29(月) 18:56:29
damul, asadal, seorabul, komanaru, koni, kemoki, moro, garo, marichi....
なんか数え切れないが古代言語はたくさん復元された.
小倉進平がこの二つの解釈に出発点だったとして古代韓国語の多くの部分が日本語に借用されたという事実には変わりがない.
古代日本語の場合にも完璧な解釈は古代韓国語の形態が分からなくては解釈されない.
163日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:00:34
あはは。(笑
巣にお帰り。
164日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:00:41
さむらいの語源は韓国が当たります...
侍=samuraiでどうして読まなければならないかを正確な根源が日本人は分かっているか?
韓国語 "サウルアビ"=Ssaul(争うfighting)+abi(父man)が samuraiの語源だ.
日本人は言うのは途方もない主張だ.
侍でも分かるように Servantの意味が強い.
韓国語で servantを現わしたら強い表現になるでしょう.
韓国語 "仕える" [syum-gi-da](serve)の古代語形容詞変形形態と "この"[i] (manを現わす韓国語の 接尾語)の複合形態ではないか考えて見る.
165日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:02:21
もう、バカだね。此処まで来ると。
166日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:07:20
>>150

郷歌が解読にならない?
郷札式赴L吏読式赴Lになっている.
それは日本人たちが認定をしないのだ.
認定をするようになれば日本歴史書を再解釈しなければならないから.
郷歌の解釈は歴史学者がするのではなく国文学者がしなければなりません.
いや. 歴史と国文学. 皆に上手い人がしなければなりません.
郷歌は意味と発音を同時に使ったからです.

25木とは言うが現存しています.
郷歌の存在を認めるようになれば日帝時代時民族抹殺政策によって用意された狭小な韓半島文化を告ャするのにあって入れ込んだ '任那日本府説' などが反転されるようになります.
郷歌と言う(のは)日本語ではない韓国の今現存在するハングルの 'うーん' を中国の漢字の '文字' を借りて保存したから '日本語' を使う日本人が韓半島を支配したという話が反転されるからです.

実は韓半島地に日本人が支配をした暮した日本に韓国人が去ったなら韓半島全体や日本列島全体を支配したことではないからとてもずいぶん前自国の人々を他国に送って定着させるほど仲が良かったと解釈することもできないか思いますが.
韓国でも別儀に気を使っていないですが一部右翼たちと民族主義者たちはすごく気を使っているようにします.

新羅は三国時代時存在していました.
任那日本府説の証明も 5C位になると聞きました.
郷歌は垂オ上げたことと一緒に韓国語を勉強しなくてはならない分かるのです.

167日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:08:38
解釈のならない部分は極めて少しでそれは韓国固有の言語日数もあるから外国ではよほど韓国語を勉強しなかったら不可狽セろう.
しかし韓国では民族文化養成に基づいて '郷歌' の研究が本当に活発に成り立ったし大部分の部分が研究を終えた状態です.
それで話の内容等や作家等を土台として連帯が分かるのです.
168日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:12:36
あのね、郷歌が解読にならないんじゃなくて、古代朝鮮語の資料が少なすぎて、
まったくというわけではないけど、殆ど明らかになってないんだよね。
例えば扶余系言語と韓系言語が異なっていたことは明らかになっているし、現朝鮮語が新羅語の子孫
であることは大凡判明してるけどね。
169日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:15:30
>>164

>韓国語 "サウルアビ"=Ssaul(争うfighting)+abi(父man)が samuraiの語源だ.

(笑)
「争う+父 = 侍」 なんて、そんな方程式は成立しないよ。
しかし、戦う父ちゃんがサムライの語源だとは知らなかったよ。
戦う父ちゃんなら「サラリーマン」の方がシックリくるね。
それって、侍の語源じゃなくて、サラリーマンの語源の間違いじゃない?
170日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:19:14
>>164

サラリーマンの語源は韓国が当たります...
サラリーマン=Salarymanでどうして読まなければならないかを正確な根源が日本人は分かっているか?
韓国語 "サウルアビ"=Ssaul(争うfighting)+abi(父man)が Salarymanの語源だ.
日本人は言うのは途方もない主張だ.
171日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:39:50
>>114
>まず、姫路に定着したって話を前スレの最後のほうでしましたよね。
>あなたが言う「余戸」は地名でしょ?
>俺が言う余部は部民名ですから。

姫路の「余部」がヒサベツ君最後のよりどころだな。
その姫路の余部が、和名類聚抄で見ると、揖保の郡、飾磨の郡のいずれも
「余戸」と書いてあるのだが、これはどうする?
172日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:40:00
            ┌─────────┐
            |な ん な ん だ   ......|
            |                  |
            │..    こ の ス レ は|
            └────┰────┘
           <l ̄`丶、   ┃
         ___`>' ´ ̄`t、 ┃
       <ヽ   '     fj  ・ Y(,)
  | ̄ ̄ ̄7 ` ̄7  ,.-、  マ ノ/
  L -‐ァ /   ,ム  `ー′ イ/
     /   ̄7 /    、 \   /
     ̄Z''''''/ム    `ー'゙ /
       `ー〈      _, イ
  ( ( ( ( (     ヽ Y´ ̄ヽ,,ノ
            `''′

173日本@名無史さん:2006/05/29(月) 19:43:17
>>171
だからあなたが言ってるのはその時代の土地の名前でしょ?
俺が言ってるのは渡来系牛皮なめしの部民の名前。
それが扶余だったから、余部と言われてるのじゃないかと。
「よべ」でも「あまべ」でも関係ない。
174日本@名無史さん:2006/05/29(月) 21:07:44
古代日本には半島からの渡来人とか帰化人が渡って来ているが、その大半は半島
南部に残っていた倭人系の人間が同族として日本へ来たのではないか?

 半島に残留していたので百済や新羅との混血や倭人でない者もいただろうが、
大半はイングランドに渡って来たデ−ン人やノルマン人のようなものだろう。

 日本語と朝鮮語の関係の薄さから見れば渡来人に新羅系(朝鮮系)の人間は
少なく渡来人の主流ではなかったことの証明になると思う。

 2000年前に半島から渡来した集団が多数派だったら日本語と朝鮮語には一目で
同起源と分る単語がいくらでもあるはずだが、そんなものは助詞の「が」と疑問詞
の「か」くらいしか見当たらない。これでは渡来人は極少数で日本人にたちまち
同化されてしまったものと見るしかないだろう。

175日本@名無史さん:2006/05/29(月) 21:24:48
渡来デンパなんとか言えよ。
おもしれーからw
176日本@名無史さん:2006/05/29(月) 21:57:12
>>渡来伝播へ

それに、日本語と一番近いのは琉球語(琉球方言)だよ。
琉球方言が日本祖語から分岐して独自の道を歩み始めたのは、2〜6世紀頃だと
言われている。方言化が促進したのは、12世紀頃ジャマイカ?

標準日本語に一番近いのが琉球方言で、文法だけじゃなくて、語彙の面でも
共通点バリバリなのは疑いようがない。

ところで、新羅や百済の言葉は、遠く離れた琉球地方の言語どんな影響を与えたというのかね?
日本祖語というものは、新羅人や百済人が渡来する前に日本列島で話されていて、南方の琉球人
も日本祖語を話していたのだよ。
177日本@名無史さん:2006/05/29(月) 22:36:26
少なくとも弥生時代には九州と沖縄は一つの
文化圏にあったのは間違いなさそう。
178日本@名無史さん:2006/05/29(月) 22:39:28
ということは、
邪馬台国があったころ、沖縄が邪馬台国連合か
狗奴国連合に入ってた可能性はゼロではないと
いうことだろう。
179白馬青牛:2006/05/29(月) 23:25:11
>>8283
その他。
構図よりも、動物や鳥に先導されて征服や移住した概念のことで、
太陽的モチーフも、特に太陽の光に感生して天子が生まれるという、
北方遊牧狩猟民に多い感生型神話である。越地域、東南アジアにおける
太陽モチーフ神話、説話を述べて貰いたい。
弁韓地域の甕棺を越人種とするのは如何なものか。越要素の強い民族と
すべき。
黒潮は、弥生〜古墳期、漂流ルートであって航海の軸線ではないのに、
まだ妄想を繰り返す。ようも、漢人崇拝厨が連続して書いとるのう。
>79のサイトにあるよう、漢人商人と倭人の間に《強い民族的圧力》と
いう環境は、漢民族の精霊の憑依となったかも知れん。朝鮮の楽浪帯方郡が
漢人の陸の領土、面的支配で、九州あたりは漢人の海洋的な点と線の支配
(港市)構造で、弥生期の倭人は、確かに漢人の隷属奴隷民じゃったが、
漢人の倭人に対する優越感にひたりたいんかのう。
180日本@名無史さん:2006/05/30(火) 00:00:55
説明力をもっと養え爺さん。
181日本@名無史さん:2006/05/30(火) 00:15:08
白馬青牛氏はよく倭人は漢人の奴隷だったというが、根拠は「生口」や「漢委奴國王」だけか?
魏志倭人伝の記述から推し量る事は出来ないが、倭人国家には奴隷等のカーストが存在しそれを
献上したとも考えられるのではないか?何故に倭人全体に「奴隷」を一般化するのかわからん。
同じく韓伝には「韓と濊は漢に滅ぼされ、属国となった」とあるがこれは倭と同じ奴隷状態と
見て良いのか。何を根拠に一方的に「奴隷」と卑下するのかわからん。
>特に太陽の光に感生して天子が生まれるという、北方遊牧狩猟民に多い感生型神話である。
即ち、扶余の卵生神話は北方遊牧民とは相容れないということか?以前、神話の類型は特定民族や
人種的な北方南方に起因するのでなくて、地理的環境要因に起因すると弁していたと記憶しているが。
太陽の中の鳥、という事に関してだがヤマトのそれの直接の由来はわからんが、アレは民族の征服、
移住の類の話では無いだろう。熊野〜大和は目と鼻の先だし、しかもヤタガラスは漏れの記憶では記紀神話
の中では太陽と結びつけられてなかったのではなかったように思う。後に太陽と結びつけ、三本の足になった
のはやはり大陸から来た儒教の教えに影響されてではないか。
182訂正:2006/05/30(火) 00:17:58
>しかもヤタガラスは漏れの記憶では記紀神話の中では太陽と結びつけられてなかったのではなかったように思う。
しかもヤタガラスは記紀神話の中では太陽と直接結びつけられてなかったように思う。
183白馬青牛:2006/05/30(火) 01:33:32
>>181
奴隷制カーストというより、港市と後背地の関係であろう。
贈物の交換で価値の高いものを与えたほうが優位に立つ。
奴隷も東南アジアにおいて、港市の者が後背の山地で奴隷狩りして、
売り飛ばすのと同じ類型であろう。
まだ韓の方が、『魏志』韓伝に「我等漢人名戸來 我等輩千五百人 
伐木為韓撃得 皆断髪為奴」あるよう、韓人が漢人を捕らえ断髪を強制し
奴隷としたが、「興兵伐韓濊」と楽浪軍は、韓濊征伐をした。
抵抗を繰り返した訳で隷属度は低い。倭人は鏡を貰い、男女の奴隷を献上
しており隷属度も高かったろう。
『魏志』の扶余伝に、「殷正月祭天」「有軍事 也祭天」の記述、
高句麗伝の「以十月祭天」高句麗神話の朱蒙の母は日光に感生して妊娠し
卵を生んだ。類似はモンゴルのアラン・ゴアの「光が腹のなかに透き
とおった天の御子に違いない」やトルコ系ウイグルの「松の木の塚に
天から光が注ぎ懐妊した」説話と類例が多い。それを遊牧地帯に多い
獣祖神話の地理、地域性の話と混同しとる。
八咫烏の話は距離的な問題でもなく、儒教のは、北方狩猟遊牧民に
共通する天子(テングリ)の影響と思えるが。
184日本@名無史さん:2006/05/30(火) 08:19:26
>>173
>だからあなたが言ってるのはその時代の土地の名前でしょ?
>俺が言ってるのは渡来系牛皮なめしの部民の名前。
>それが扶余だったから、余部と言われてるのじゃないかと。
>「よべ」でも「あまべ」でも関係ない。

なるほど、地名とは関係ないのか。
それだったら別に「余部」や「余戸」に住む必要もないわけだ。
とうとう全てが仮想の話になったな、ヒサベツ君。

断って置くが、和名類聚抄は10世紀だ。
君が10世紀の「余戸」より後に扶余の住む「余部」が生じた
と言いたいのなら、10世紀以降に「扶余」と呼ばれる一般民の集団が
やって来て、その人達の「部」が作られたことになる。
そんなことはだれも信じないだろう。
10世紀の 播磨の「余戸」と現在の姫路の「余部」はつながっている、
というのが一般の考え方だ。
185日本@名無史さん:2006/05/30(火) 08:24:55
>>179
二羽の鳥が太陽を抱く構図は、南方です。

それから、「漢倭奴国王」は倭のごく一部にしか過ぎんのですが。
それに生口は定期的に捧げていたものだと思うんですが、奴隷商人が
奴国以外の倭人を売り飛ばしたりもしていたんですか?
玉印の次の金印を授かった奴国の待遇は、そもそもどのようなものだった
んでしょう?

「古事記」をアタマから読めば、南方的要素の方がはるかに濃いのに、
なぜ無理をして北方に結び付けたがるのか?
北方においては、太陽の女神が竜神よりも上位に位置するような神話が
ありますか?
中国では、黄帝は竜神で炎帝が太陽神兼農業神ですが、地位は、

黄帝>>>炎帝 
186日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:02:24
http://www.rurubu.com/pref/index.asp?KenCD=45
「貝の道」は沖縄→西九州→北海道のルートであり
おそらく西九州人が中心的役割を担っていたと考えられる。
従来、黒潮文化圏などという妄想が蔓延っていたが
どうやらそういったものは存在しないと考えられる。
187日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:12:22
九州の弥生人が今と同じ北東向きで埋葬されていて
土井が浜の人が半島に向いて埋葬されていたというのは
この二つの弥生人が別の文化を持っていたという証拠だろ
188日本@名無史さん:2006/05/30(火) 10:43:09
>>184
>君が10世紀の「余戸」より後に扶余の住む「余部」が生じた
>と言いたいのなら、10世紀以降に「扶余」と呼ばれる一般民の集団が
>やって来て、その人達の「部」が作られたことになる

5世紀あたりに扶余が来ても、すぐに地名が余部になってはいなかったというだけ。

で、5世紀にすでに播州にいたと言われる、
この渡来系牛皮なめし民を、
あなたは誰だと思われるのかな?
189YAP?:2006/05/30(火) 11:00:15
ちょいと二日半あけて読んだら、えらく荒れてるなあ。

日本語と韓国朝鮮語との関係については、まともな日韓両語同源論
を唱える学者は韓国人でも、共通基語は、6000年前ぐらいに
おいているのではないか?(金芳漢、金男徳ら。李基文もそうだったかな?)

どちらにしろ、いわゆるアルタイ語族〜ウラル・アルタイ語族的な文法は
まあ、共通だが、そんなものは、韓国朝鮮語以外にも、くさるほどある。

最大の相違点は、日本語の「開音節構造」(語彙の母音終り)だ。
文献に残る限り日本語の開音節は、最初から変わっていない。
日韓共通基語を想定する場合、その語系を開音節と仮定するか、それとも
閉音節と仮定するかが大問題だが、「開音節」と仮定する学者も結構多いように思う。

日韓共通基後が、もし存在するとして、それが「開音節」なら、韓国朝鮮語は、
日本語が「崩れて」閉音節になったという解釈をすべきだろう。

実際、閉音節語だとされる満州語や、モjゴル語にしても、実際は、語末母音の
弱化によって、閉音節のように聞こえるだけで、本来はどうも開音節のようだという。
(早田輝洋「東アジアの言語層と日本語」、『月刊・日本語論』1994,11号)
190日本@名無史さん:2006/05/30(火) 12:48:48
>>189
>>日本語が「崩れて」閉鎖音節になったと言う解釈をすべきだろう。

日韓語が同源であると考えた場合、琉球方言との関連からも、
日本語が崩れて閉鎖音になったと解釈した方がよさげに思います。
韓国語→日本語ではないと思う。
191日本@名無史さん:2006/05/30(火) 12:56:02
>>188
>5世紀あたりに扶余が来ても、すぐに地名が余部になってはいなかったというだけ。

ではいつごろ地名の「余部」ができたのかな?
その「余部」と、律令時代から少なくとも10世紀まで存在した飾磨、揖保の
二つの「余戸」との関係は?

>5世紀にすでに播州にいたと言われる、この渡来系牛皮なめし民を、
>あなたは誰だと思われるのかな?

「5世紀の播州の渡来系牛皮なめし民」とは何に書いてあるのか?
引用してくれれば有り難い。

192日本@名無史さん:2006/05/30(火) 13:06:52
>>189
>日本語が「崩れて」閉音節になったという解釈をすべきだろう。

日韓共通語の開音節的特徴が、韓国語では崩れ、日本語では保存された
と言うべきでは?
193日本@名無史さん:2006/05/30(火) 13:24:13
>>191
>ではいつごろ地名の「余部」ができたのかな?

それはわからない。
江戸時代には余部村っ言われてたと前スレで言ったよね。

革なめしについては、これも前スレで言ったけど、
http://www.vzhyogo.com/vzevent/dentou/himejisirokawa/rekisirokawa.html

あと、京都の渡来系皮革民「あまべ」という話を、
どなたかが紹介してくれてた。
194YAP?:2006/05/30(火) 14:27:00
192氏の仰るとおりだが、なにしろ、韓国語→日本語という
主張ばかりが目立つので、ちょっと、皮肉ったまでです。
195日本@名無史さん:2006/05/30(火) 15:45:42
今、リンク壊れてるの?
クリックしても飛ばないね。

皆さんも?
196日本@名無史さん:2006/05/30(火) 16:23:24
>>195

ちゃんと飛ぶよ。
197日本@名無史さん:2006/05/30(火) 16:27:27
白馬青牛氏は天皇は万世一系でないといいたいのか?
198日本@名無史さん:2006/05/30(火) 17:02:36
余部の旧名が余戸だから、扶余の事ではないと言ってるみたいだが、
高句麗、つまりコマが狛、駒と転じ、現在も駒戸などとある地名を見れば
戸、部の漢字はその意味と同じある特定の集団を指し、それが地名に成った
と思われる。寧ろ戸を部に言い換えているのを見ると、「余」の字が何かを
現していたのは確実だ。扶余と関係があるのかは知らんが、まず間違いなく
百済から渡来し帰化した「余氏」に関係があると見てよいと思う。
199日本@名無史さん:2006/05/30(火) 18:00:45
200日本@名無史さん:2006/05/30(火) 19:36:36
>>198
苦しくなって、今度は「余戸」も扶余だ、と言い出したわけだ。
以前に、「余戸」は関係ない、「余部」が「扶余部」だ、「よべ」と読む
「余部」は姫路にしかないからこれが扶余だ、と言っていたのを忘れたのか?
201日本@名無史さん:2006/05/30(火) 19:53:45
>>193
読んで見たが、「5世紀」という文字も「牛」という文字もない。
唯一関係ありそうなのは「神功皇后の三韓征伐」だが、これが根拠か?
202日本@名無史さん:2006/05/30(火) 19:58:42
訂正。「牛」はわかった。「姫路白なめし革」のなかに「牛」が含まれている。
203日本@名無史さん:2006/05/30(火) 20:05:38
>>200
何か勘違いをしてるようだが、俺は以前から君と議論してる人間ではないし、
「ヒサベツ」の言い出しっぺでもないぞ。ついでに>>193氏でもない。「余戸」が
扶余に関係があったかは知らんが、渡来系百濟王族である「余氏」との関係
はあるだろう。戸、部は意味としては同じだし、扶余系である百濟王族はその
当時から「余」、又は「扶余」を姓としていた。
204日本@名無史さん:2006/05/30(火) 21:00:45
>牛ちゃん
軍スレ落ちちゃったのね。
205日本@名無史さん:2006/05/30(火) 21:13:50
>>201
http://www.himeji-kanko.jp/benrinavi/omiyage/index.html

●姫路革細工
4〜5世紀頃姫路地域で始まったといわれる「姫革なめし」は…
206日本@名無史さん:2006/05/30(火) 21:28:18
>>189
古代日本語と古代韓国語はかつては同一だった
それが分かれたのは辰韓にテュルク系部族が流入して
新羅王朝を作り新羅が朝鮮半島を統一してからだと思われる
さらにその後漢人や、モンゴル人、満州族が半島に侵入して
さらなるクレオールが進んで日本語と韓国語は離れていったのだろう
207日本@名無史さん:2006/05/30(火) 21:38:38
>>201
これも前スレに貼ったんだけどなぁ…
http://www.castle7.com/白なめし革細工について/歴史.htm
208日本@名無史さん:2006/05/30(火) 22:01:16
>>206 日本語と朝鮮語が同系だと仮定しても分離したのは7000年以前と
言われているが、新羅が統一したのは7世紀中頃で1300年前のことだ。

 日本語と琉球語が分れたのが1700年前頃とされているが、日本語と琉球語
は方言程度の違いしかなくアクセントの対応まで認められている。

 新羅語と日本語が1300年前に分れたのなら朝鮮語は沖縄語より日本語に
似ていなければならないが、母音数、有気音、無気音、パッチムなど
日本語と全く別言語だで、シナ語、トルコ語、モンゴル語、満州語とも全然
異なる言語だ。クレオールなら日漢蒙満語やトルコ語の痕跡があるはずだが、
かすかにそれらしいものがあるだけで、とても千数百年前の痕跡とは考え
られない。
209日本@名無史さん:2006/05/30(火) 22:08:57
>>206 まあ、朝鮮語はシナ語の影響を強く受けて固有語が消失してシナ語に入れ
代っていることを見れば、シナ語とのクレオールとだけは言えるのかも知れないな。
210白馬青牛:2006/05/30(火) 23:19:24
>>185
南シベリアでも、パジリク古墳出土の遺物に鳥が爪で太陽を運んでおる
図形がある。円形や十字形の太陽のシンボルが描かれており、
パジリク第五号墳のフェルトの女神の図文は、女神は全てを生み、太陽は
それを育てる思想を表し、トゥエクタ第一号墳のグリフォンが太陽を
運んでいる図文もある。「鳥の引く太陽の車」という観念であろう。
生口の献上記録だけで無く、奴隷売買は、『新唐書』新羅伝の漢人の海賊が
新羅人を捕らえ奴婢とするんが頻発した事からも、文献で表れるのは、
ごく一部に過ぎんのです。奴隷民の待遇は、漢人に献上された東南アジアの
崑崙奴と変りないでしょう。
国産み神話の類似はアムール(沿海州)地方にもあり、ハダウとアマルデイ
が、イザナキ、イザナミに当る。日本神話において海神の娘トヨタマヒメは
夫(山幸彦)の住む陸上で出産しており、南方習俗では無く、明らかに
北方系でしょう。まあ長江文明・縄文文明=植物文明を唱える。
安田善憲氏らは、西洋文明・漢文明=動物牧畜文明は、日本における神話
・習俗を比較する必要なしと無視され、渡来人は家畜飼育による疫病を
日本へもたらした存在としておられるが、縄文や東南アジアの漁撈稲作
社会の奴隷制等、悲惨な部分は無視し棚にあげて、畑作牧畜民は奴隷社会と
決め付け、独善的価値観に酔う。日本と北方アジアの関連や反論は無視し、
江南と少しでも類似を見つけ日本を長江文明と結びつける。
老荘・道教・朱子学・日本の国学と、江南文明的国粋的解釈でしょう。
現実性を無視した桃源郷的妄想と云うべきか。
211日本@名無史さん:2006/05/31(水) 00:02:21
>>206

>古代日本語と古代韓国語はかつては同一だった


古代朝鮮語は解明されていない。
現存する最古の史料としては三国遺事などに新羅の時代のものと伝えられる郷歌25首しか残っていない。
実際、この郷歌25首から古代朝鮮語を解明するのは不可能な作業だ。

その解明されていない古代韓国語と、古代日本語はかつては同一だったと言えるのは、どうしてだろうか?
もしかして、タイムマシンに乗って古代朝鮮半島に行ってきたのか?

余談ながら、朝鮮半島ではほとんど忘れられていた郷歌を発掘したのは京城帝国大学教授の小倉進平である。

212日本@名無史さん:2006/05/31(水) 00:10:28
韓国人の姓名について質問です。
古代においての朝鮮半島からの渡来人の名前は「画部因斬羅我」や「医博士奈率王有僚陀」など長い姓名が多いです。
しかし、いつの時期から中国風の「李」「金」「朴」などの一字姓に変わっています。
なぜ韓国の伝統ある姓を捨てて、中国化したのでしょうか?

姓名を変えるということは、古くからあるオリジナルの文化を捨てることです。
今でいうならば、日本人が「田中」や「佐藤」を捨てて、「ブッシュ」や「ラムズフェルト」に変えるということです。
よく考えると滑稽です。

当時の朝鮮人はなぜ独自の文化を捨ててまで、中国のご機嫌を伺う必要があったのでしょうか?

新羅が半島統一してから急速に中国化が進んだとありましたが、なぜ新羅は独自の文化を捨てて中国化を進める政策をとったのでしょうか?
213白馬青牛:2006/05/31(水) 00:10:29
>>197
江上波夫氏は、万世一系を北方民族的要素とされるが、あなたの考えでは
北方起源か、あるいは南方起源か?
>>204
そう、落ちるんが早いもんじゃと思うたよ。
214日本@名無史さん:2006/05/31(水) 00:12:02
>>212
朝鮮は独立国ではなく、下関条約締結まで中国の属国だったからです。
215日本@名無史さん:2006/05/31(水) 00:15:11
>>212

中国文明が卓越していたのは事実ですが、朝鮮族を除く中国に隣接した諸民族は、民族独自の名前を維持していました。
朝鮮族だけが民族独自の名前を捨てたのです。

朝鮮の自主的な改名を考えるには、同じ地続きである満洲やベトナム、モンゴル、ウィグル、チベットと比較して、どうかと考えるべきです。
ベトナム人は、19世紀までは漢字を使い、世界史に出てくるグェン朝は阮朝ですし、レ朝は黎朝と書きました。
中国風に見えますが、ベトナム語は中国語と同族であり、実はベトナムのオリジナルです。
満州族は、中国に入って、清朝を建国してから、だんだん中国に同化されていきましたが、名前は民族独自の名前を使っていました。
ラスト・エンペラーの本名は愛新覚羅溥儀です。

モンゴルの南半分は、内モンゴルとして、ウィグルは新疆ウィグル自治区として、チベットはチベット自治区や青海省として中国に併合されましたが、
モンゴル族も、ウィグル族も、チベット族も、民族独自の名前を維持しています。

結局、朝鮮族だけが、民族独自の名前を捨てて、中国風の名前に自主的に改名したのです。
小室直樹氏は、朝鮮族の民族性には、事大主義が組みこまれていると言っていますが、それが当たっているような気がします。
216日本@名無史さん:2006/05/31(水) 00:28:45
>>215

中国に隣接した諸民族の中で、独自の文化を捨てたのは朝鮮族だけですか!!

朝鮮族だけが伝統の姓名を自主的に捨てて、中国風の名前に改名したのですか。
強制されたワケでもないのに・・・。

同じ地続きである満洲やベトナム、モンゴル、ウィグル、チベットなどは独自の姓名を保持しているのに対して、
確かに、朝鮮族だけが中国風の「李」「金」「朴」などの一字姓に変わっていますよね。

朝鮮伝統の「画部因斬羅我」や「医博士奈率王有僚陀」など長い姓名を名乗る文化は、もうありません。

朝鮮族だけが、強制されたワケでもないのに、簡単に伝統の姓名を捨った。
しかも、自主的に中国風の名前に改名した。

これはアジア民族の中でも、例外的な行為ですね。

なぜ朝鮮族だけが、こんなにアッサリと独自の文化を捨て去ることができたのか?

謎は深まっていきます。

重要なご指摘ありがとうございました。
217日本@名無史さん:2006/05/31(水) 00:32:16
>>215

中国に隣接した諸民族の中で、独自の文化を捨てたのは朝鮮族だけです。
朝鮮族だけが、強制されたワケでもないのに、簡単に伝統の姓名を捨った。
これはアジア民族の中でも、例外的な行為です。
なぜ朝鮮族だけが、こんなにアッサリと独自の文化を捨て去ることができたのでしょうか?
218日本@名無史さん:2006/05/31(水) 00:40:54
説明が不十分なので補足します。
新羅統一後の朝鮮族はほとんどの伝統文化を捨てました。
まず公用語を中国語に指定し、宮中では中国語を話していました。
そして、官発行の書物はすべて漢文体で書かれています。
そして古代朝鮮語で書かれた書物を焼き捨てました。
従って、朝鮮族には民族の古典がありません。
そして、政治体制に中国の科挙をそのままコピーしました。
つまり「小中華(小さい中国)」になろうとしたのです。

今の日本に例えるならば、
1、日本国民全員が「Bush(ブッシュ)」や「Clinton(クリントン)」などに改名。
2、公用語を英語に指定。
3、政府の発行物はすべて英語で書く。
4、以前に日本語で書かれた書物を焼き捨てる。
5、政治体制を大統領制に変更。
6、日本を否定し、アメリカになろうとする。

ということを行ったのです。
従って、朝鮮族には民族古典がありません。
日本にはカナで書かれた民族の古典「万葉集」「古事記(フルコトノフミ)」「古今和歌集」「源氏物語」「土佐日記」などの次々に生み出していったのに対して、
韓国人は民族のオリジナルの古典を焼き捨てることを選んだのです。
韓国が認める最古の古典は「三国史記」であり、まとめられたのは、古事記に比べてはるかに遅い12世紀です。
もちろん三国史記は漢文体で書かれています。
訓民正音(ハングル)が官製されたのは15世紀です。
また朝鮮族は中国の科挙という政治体制をそのままコピーしたのに対して
日本は幕府と諸藩による幕藩体制という地方分権制の独特の政治体制を生み出しています。
219日本@名無史さん:2006/05/31(水) 01:03:19
>>218

中国に組み込まれながらも、同化に抵抗し、独自の名前を保った民族はざらにいます。
例えば、ロロ族とか、チュワン族などの、雲南省や貴州省の少数民族です。
少数民族と言っても、何千万人もいますけどね。
青海省のチベット族も、同化されないように頑張っています。
ベトナムは漢代から、中国に組み込まれては、撃退するということを繰り返しています。
中国の直接支配下に置かれた期間は、ベトナムの方が長いですが、12世紀には字喃という文字を作り出しています。
ベトナム人は、元は揚子江のあたりにいた越と呼ばれた民族であり、漢族と同系統なので、ベトナム語は広東語とよく似ていますが、
ベトナム人の漢族に対する対抗心は伝統的に非常に強いです。

こうして見てくると、小中華を自慢にしていた朝鮮族は、他の中国周辺の民族とは違うなと思います。
220日本@名無史さん:2006/05/31(水) 01:13:52
>>218

《1900年頃の韓国》
http://photo.jijisama.org/OldKorea.html

この国に明治維新のような革命が起せると思うか?

「朝鮮紀行」("Korea and Her Neighbours")に書かれている李朝末期(約100年前)の朝鮮の姿は凄まじい
・貨幣制度が(ほとんど)ない。
・ソウルは下水がなく、世界有数の汚く悪臭のする都市。
・一般民衆の住む場所は藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えない。
・道はとにかく悪い。

胸を露出している女性の服装は、現在の韓国の民族衣装であるチマチョゴリの原型です。
家の跡取りである長男を出産した女性にしか胸の露出は許されず、乳出しは当時の女性の誇りだったようです。


http://photo.jijisama.org/OldKorea.html

221日本@名無史さん:2006/05/31(水) 07:28:58
>>210
神様が安田で米を作っている時点で、純粋な遊牧民ではないと感じますが?
それから、海や水に関わる話があまりにも多すぎです。
一番重要なのは、アマテラスの神話が中国の黄帝の神話の真逆になって
いる点です。(ある程度中国大陸の神話の影響を受けたのかもしれない。)
それから「底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷椽高しりてましましき」
邇邇芸命ですが、千木を太陽に向けて高く掲げる建築様式は日本の神社に
見られますが、中国南部や東南アジアに最も特徴的なものだと思います。
白馬青牛氏さんは、伊勢神宮などを見て「なるほど騎馬民族的だ!」と感じ
ますか?

私は、(人口の多少は別にして)日本の母体は原住民や南方にあって、そこに
北方的要素(人間も含め)が後から加わったのではないかと思います。
また、皇室に姓が無いことなどから易姓革命も起こらず、両者が融和するような形
で今日に到っていると考えるのが最も自然だと思います。
222日本@名無史さん:2006/05/31(水) 09:19:15
>>220

《1900年頃の韓国の写真》
http://photo.jijisama.org/OldKorea.html

この写真を見る限り、日本人と韓国人は全く違う人種って感じだよな。
韓国人はやっぱり遊牧民族だね。
日本人は農耕民族。
この写真を見れば一目瞭然!!
223日本@名無史さん:2006/05/31(水) 09:29:14
>>220

朝鮮人って乞食みたいだな。
日本人とは違う人種だ。

真ん中くらいの写真にある“猫車”って何?
日本に“猫車”に乗る文化ってあるの?
224221続き:2006/05/31(水) 11:01:53
>>210
それから、鳥居を建て、太陽に向けて千木を高く立て、しめ縄を綯い、
神事に米が登場する騎馬民族の伝統文化があれば教えてください。
スキタイですか?アルタイですか?モンゴルですか?
ちなみに、半島南部で、刺青をして野良仕事をしていた人々は「騎馬民族」
ではありませんよ。

日本の文化はかなり複雑で南北どちらか一辺倒のものではありません。
が、基層は南方にあると思います。そして、さまざまな人間が積極的に
融合した結果こうなったんじゃないかと思います。
225日本@名無史さん:2006/05/31(水) 12:16:34
イスラエルですな。
226日本@名無史さん:2006/05/31(水) 13:17:05
>>203
あまりにもいいかげんなことを書くからヒサベツ君かと思った。

>「余戸」が 扶余に関係があったかは知らんが、渡来系百濟王族である「余氏」
との関係 はあるだろう。

恐らく全国に二十くらいはあるだろう古代の「余戸」がすべて「余氏」と
やらと関係があるのか? 
それなら古代に余(あまり)氏だか余(よ)氏だかの氏姓がなければならないが、
聞いたことがない。
多氏が「あまる」ではないかと書いていたのはあなただろうが、多氏の読み
は「おお」だ。後の太安万侶(おおのやすまろ)もその系統だ。

>戸、部は意味としては同じだし、

「意味としては同じ」ではない。
「部」は律令時代以前に行われた人民支配の単位だし、「戸」は律令時代の
最小の行政単位だ。(ただし「余戸」が「戸」なのではなく、余りの戸を集めた、
と言う意味の「里」名である)
227日本@名無史さん:2006/05/31(水) 13:22:03
>>224
>日本の文化はかなり複雑で南北どちらか一辺倒のものではありません。

その通り。天皇がセンソするとき、フェルトにくるまって地面に寝転がる、
というのはいかにも騎馬民族的だね。
228日本@名無史さん:2006/05/31(水) 13:42:39
>>226
あまるという意味の漢字が、なぜ「余」なんだろう?
229日本@名無史さん:2006/05/31(水) 13:44:58
騎馬民族が猛烈な勢いで南下をはじめた場合に、真っ先に押し出されて
列島に流れ込んでくるのは、半島南端に陣取っていた倭人だと思われ。
彼らが、古代日本の基礎を築いたと思うのだが。
230日本@名無史さん:2006/05/31(水) 14:00:14
>>227
日本の文化で北的なのは儒教や仏教など
でしょう。センソがどうのとかそういうのは、
どうでもいい事のように思うし、全体的な
流れの中ではチッポケなことのように思う。
231日本@名無史さん:2006/05/31(水) 14:05:21
「日本」国の起源説について     騎馬民族征服説説 / 「日本」と名乗った経緯 / 天皇と名乗るまでの歴史
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/kigen/index.html

松岡正剛の千夜千冊『天皇誕生』 遠山美都男
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1071.html
232日本@名無史さん:2006/05/31(水) 16:44:49
>>228
>あまるという意味の漢字が、なぜ「余」なんだろう?

それは「たべる」という意味の漢字がなぜ「食」なんだろうというのと同じ。
普通の音、訓の関係だ。ただし「余」は「餘」の略字。

>>230
>センソがどうのとかそういうのは、 どうでもいい事のように思うし、
>全体的な 流れの中ではチッポケなことのように思う。

全体的な文化の系統を論じるのならその通り。
しかし古代の征服はもともと一握りの集団に関することである。
だから征服や支配を論じるのなら「センソ」は無視できない。
233日本@名無史さん:2006/05/31(水) 16:59:15
>>226
>あまりにもいいかげんなことを書くからヒサベツ君かと思った。

おいおい。
姫路の白革なめしが、
4、5世紀には始まってたらしいから、
これが扶余ではないかと思ったんだけど。

一応、根拠はあるわけだ。
あなたの河内王朝簒奪説にはどういう根拠があるんだ?
234日本@名無史さん:2006/05/31(水) 18:20:05
網野が、中世職人の由緒書を調べると、
たいがいが天皇の部民からの流れと
書いてあると。
235日本@名無史さん:2006/05/31(水) 19:34:12
>>233
>姫路の白革なめしが、 4、5世紀には始まってたらしいから、

そんなことはどこにも書いてない。
「白革なめしは1000年の伝統がある」と
書いてあるだけだ。1000年前とは10世紀だ。

>>234
>中世職人の由緒書を調べると、 たいがいが天皇の部民からの流れと
>書いてあると。

それはあり得ることだ。 で、それがどうしたの?


236日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:17:03
>>235
>>205>>207を見てくれた?
237日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:28:08
>>235

http://www.vzhyogo.com/vzevent/dentou/himejisirokawa/rekisirokawa.html

>この革の起源はいずれにしても、播磨風土記の編纂された八世紀初頭には
>市川沿いの高木地区にも皮なめし技術が定着していたものと考えられる。

と言う事は、かなり早いよな。
8世紀以前だろうから、5、6世紀には定着してたんじゃないの。
238白馬青牛:2006/05/31(水) 23:44:21
>>221
漢人及び江南崇拝嫌韓厨が、またヒステリックな連続書き込みしとる。
米を遊牧民が作る訳ないでしょう。遊牧民と江上氏の云われる騎馬民族、
海と水の文化は南方と勝手に前提条件を付けとられるが、北方には海は
無いんですか。古代日本の船文化・造船技術は江南越系の大型構造船で
無く、百済系の半構造船で、江南から直接船文化は伝わっておりません。
日本の母体は南方と云われるが、人種的にはそうでは無く、縄文・弥生人も
南方要素の強い民族とするべきでしょう。古墳期に北方民族要素が強まり、
日本民族が出来たと云うことです。両者が融和と云う異文化間の平和
主義的解釈をされますが、軍事、経済、技術において、お互いの共通利益が
無いと友好関係は結べません。後に渡来した側が弱いと現地民に喰われ、
文化は残せず、殺されるか奴隷民となったでしょう。他国、他地域に
移住することは武力経済等、優位に立つ条件がないと成立せんでしょう。
239竜之介 ◆87xY9YGmUQ :2006/05/31(水) 23:51:03
江上って
山川の世界史の教科書を書いたな!!!
240日本@名無史さん:2006/06/01(木) 01:37:50
ボートピープルで受け入れ成立。
241日本@名無史さん:2006/06/01(木) 02:04:12
白馬青牛に質問だが、
《1900年頃の韓国の写真》 http://photo.jijisama.org/OldKorea.html

で、チマチョゴリを着た韓国女性は乳をボローンと出している。
日本人は乳を露出する習慣はない。
この他にも、日本には古くからお歯黒や刺青などの文化はあったが、朝鮮半島にはない。
この生活文化の違いをどう説明する?
242日本@名無史さん:2006/06/01(木) 02:30:59
>>210
別にこのスレで「縄文、南方マンセー」してる香具師は居ないだろ。
何を敏感になってるのかわからないが、「別に縄文や南方を卑下した
り否定したりしているわけではない」と主張する割に、貴方のレスから
は明確に北種と南種の差別化が優劣と結びついているように感じられ
るなあ。前にも言ったけど悲惨とか野蛮だの一体誰がどんな基準で判断
するのか、是非とも知りたいんだが。

>>183
港市と後背地の関係というのが具体的に何を指すのかよくわからないが
後背地から奴隷狩りしてきた人々が、奴隷狩りを行う集団より「カースト」
のピラミッドの上部に位置していたというのは理解しにくいな。倭は国家として
奴隷を献上したのだから当然国家のカースト的なものから言えば、下層に
位置するのは当然だと思うんだが。韓やワイが抵抗をくり返したから隷属度
が低いというが、実際には滅ぼされ、倭と共に冊封を受けている。抵抗すれ
ば奴隷状態でないというが、征服されて結局服するなら、中華的な冊封シス
テムから言えば、後の琉球と朝鮮の扱いで見られたように、冊封後の扱いが異な
ったと見ても良いのではないか?事実後に韓は楽浪郡の直営状態になっている。
何れにしても倭が突出してあの地域で「奴隷状態」であった、というのはあまり
聞いたことが無いし、説得力のある話とも思えんのだが。
あとやたらと扶余の北方的特徴を強調するようだが「天を祭る習慣」そのものは扶余
南下以前の韓にも存在しており、扶余やツングース系だけに特有のものだったのか
は不明。「金の蛙」など高句麗以前の東扶余にも南方の特徴は見られる。また朱蒙
が卵から生まれるなど、どう見ても南方の類型は排除できんと思うが。
ヤタガラスの話だが記紀神話においては太陽とは直接結びつけられていないから
何ともいえないな。後に三足鳥になったのは、儒教の影響が強いと思うけど。
儒教の日月信仰、三足鳥、蟾蜍が北方の影響ってのは何か根拠が?
243白馬青牛:2006/06/01(木) 02:38:08
>>241
日本人は乳を露出する習慣は無い?最近の若い者は知らんのう。
昭和40年代まではバスの中で、母親が赤子に乳を与える光景は
見られたが、西洋人の眼から見て野蛮と写ったかも知れん。韓国人が
高麗時代まで、同族婚をしとったのに、李朝期の儒教の影響で日本人の
同族婚を野蛮とするんと対して違わんことを云う。いつから日本人は
他地域の風習、文化を野蛮視する中華思想的偏見を持つ民族に成り
下がったんかのう。風が悪い(恥ずかしい)わい。鯨を喰らう日本人は
野蛮という、西洋人に諂いたいんか。奴隷根性よのう。
まあ、朝鮮の習慣は戦前に半島におられた方から伺っておるので、
全く知らんことは無いよ。戦前、満洲で日本女性が痴漢に会う場合は、
着物が原因じゃったんかのう。向こうは清朝以来ズボンじゃし。
日本女性の着物が野蛮に映ったんかも知れんよ。
244日本@名無史さん:2006/06/01(木) 03:00:41
>>226
「余戸」「余部」がいくつかあるのか知らんが、いくつかは関係あると見て良いだろうな。
特に余戸→余部の変化は面白い。戸は大蔵省の高麗戸などの職能集団としての意味合い
だろうが、それが後に部という少数集団となり職能的な意味を失っている。これは古代から近代
にかけて渡来系の立場と役割が変化したということではないかな。まあ部にも職能集団としての
意味はあるか。あと何度も言うが、渡来系百濟系王族が天皇から下賜された姓は「余」で、百濟滅亡
以前から百済王族は「余」又は「扶余」を姓としている。故に天皇も「余」という姓を下賜したのだし、
現在も「余さん」は日本にいる。中国人とよく間違えられるようだが。また狛部、狛戸という集団は革の染
作を担当しているらしく牛革なめし、革製品などやはり扶余系は革に強いようだ。多氏の話は
俺ではないが、余氏=多氏というコピペならあったが余氏の余はどう見ても扶余のことだから
たぶん違うだろう。

>(ただし「余戸」が「戸」なのではなく、余りの戸を集めた、と言う意味の「里」名である)
それこそ何か根拠があるのか?革に関係しているのを見ると、少なくとも姫路の「余部」とやらは
扶余、或いは渡来系百濟王族「余氏」に関係していると思うが。
245日本@名無史さん:2006/06/01(木) 03:02:22
>>243
まあ横槍だが、貴方は非常にわかりやすいな。
何というか考え方の類型がね。別に悪い良いとかではなく。
246日本@名無史さん:2006/06/01(木) 06:30:54
>>183
同感。

倭人を奴隷民と思い込みたいようだが、やはりそれは違うだろう。
ちなみに日本の天皇家も、列島土着の倭人か、半島南端の倭人かは
分からないが、ベースは倭系だと思う。
それは、当時琉球を含む日本列島で話されていた言葉と、日本に伝わる
古文書が全て日本語か漢文で書かれていることなどからそう想像する。
もちろん、百済や新羅の豪族はやってきただろうし、扶余も来ただろうし、
烏丸も来ただろうし、楽浪漢人も亡命して来て高い地位に着いたとは思う
が、それはあくまでも「列島の支配権を奪取した」という猛々しいもの
ではなくて、「亡命し、帰化した」という程度ものであったと思う。
247日本@名無史さん:2006/06/01(木) 06:32:39
>>183
訂正
→「白馬青牛氏は」倭人を奴隷民と思い込みたいようだが、
248日本@名無史さん:2006/06/01(木) 08:38:30
>>237
>この革の起源はいずれにしても、播磨風土記の編纂された八世紀初頭には
>市川沿いの高木地区にも皮なめし技術が定着していたものと考えられる。
>と言う事は、かなり早いよな。
>8世紀以前だろうから、5、6世紀には定着してたんじゃないの。

8世紀以前なら5世紀か。おおざっぱなもんだな。

8世紀の根拠は「播磨風土記」にあるようだが、播磨風土記は最も
初期の風土記で、こじつけの地名起源説しかない極めて簡単なものだ。
その中には「余部」もないし、いわんや「革なめし」など出てこない。
ただし「漢部」はある。これあたりが根拠だろうが、ただし「ある」と
言うだけで、なんの説明もない。
じぶんで読んでごらん。どんな図書館にもあるだろう。

要するに、君が根拠にしているページそのものが、郷土史家が書いた
極めていいかげんなものなのだ。

249日本@名無史さん:2006/06/01(木) 09:26:44
>>246
帰化人の地位は高くても、そこまでだと思う。
新羅の秦氏などは、単に亡命を認められ、能力を認めれられた
帰化漢人に過ぎない。
もし、帰化人に絶大な力があれば、太秦中華帝国を築くことも
できたはずだが、実際にはそうはならなかった。
残念ながら、帰化人にできる事は、文化や技術の面で倭国の
発展に貢献し、外交面でいくらか力を発揮する事ぐらいだろう。
250日本@名無史さん:2006/06/01(木) 09:35:32
>>248
俺が根拠としてるのは、
牛と言う動物自体を渡来人たちが連れてきたと言う事。
当然、牛皮をなめすのも渡来人たちの技術であったろう事。
播磨風土記をいいかげんと君は言うが、
いずれにしても播州でかなり古くから牛革なめしがあったろう事。

その渡来人こそ、川べりに住み、殺牛祭典を行ってた扶余ではないかと俺は思う。

>要するに、君が根拠にしているページそのものが、郷土史家が書いた
>極めていいかげんなものなのだ

君の、扶余による河内王朝簒奪説には、
さぞかし万人を納得させる根拠があるのだろうな。
それを言ってくれ。
251日本@名無史さん:2006/06/01(木) 13:59:37
>>244
>>244
>何度も言うが、渡来系百濟系王族が天皇から下賜された姓は「余」で、

それにしては新選姓氏録に出てこないのはどうしたことか。
余で検索して出てきたのは記事中の「磐余市磯池(いわれしきのいけ)」だけ。
それと同じ記事中の膳臣余磯という人のセカンドネーム。

そうか!神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)の神武天皇は扶余だったのだ!
だって名前に「余」が入っている!

>(ただし「余戸」が「戸」なのではなく、余りの戸を集めた、と言う意味の
>「里」名である)
>それこそ何か根拠があるのか?

そんなことも知らないで書いているのなら、とにかくもうすこし勉強してから
書いたほうがよい。資料はネット上にいくらでもあるが、例えば「部」につい
ては:
http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q204C100.HTM

里・戸・余戸については:
http://www2.tokai.or.jp/hiramatu/onyak/tani-muk.htm

「戸」が一軒の家なのか、複数軒からなる集落なのかはあまり書いてないが、
「広辞苑」などは十数軒の集落としている。
かりに10軒の集落が戸、決まり通り50戸が里、とすれば1軒の人数が
5人として、「里」の人口は:5人×10軒×50戸=2,500人となる。
まあ妥当だろう。
252日本@名無史さん:2006/06/01(木) 14:07:46
>>250
根拠から「余部」が消えたな。あとはただ「だろう」だけだ。
もうそのくらいでいいのではないか?

>さぞかし万人を納得させる根拠があるのだろうな。

その一つの例は上に言った。はんぶん冗談だが「余部」の「余」よりは
ましだろう。
253日本@名無史さん:2006/06/01(木) 14:25:29
>>248
>>250

>その渡来人こそ、川べりに住み、殺牛祭典を行ってた扶余

あなたは“穢れ”という思想を知ってるか?
部落差別の源流となった思想だ。
京都の鴨川・桂川で牛などの皮を剥いで、革製品などを作っている人間は“川原者”と呼ばれ、差別されていた。
特に天皇・公家が“川原者”を嫌っていた。
日本人は血を嫌う。
特に天皇・公家は血を嫌う。
常に動物の血の穢れに触れている“川原者”を特に差別したのは天皇・公家だ。
古今集などを読んでいると公家が川原者を指して「穢れじゃー。」と言っている。

また天皇・公家は決して皮の鎧を着ていない。
天皇が皮の鎧を着ている絵を京都の博物館などで探したが一枚もなかった。

動物の血を嫌い、皮の鎧を拒否する天皇・公家は扶余ではない。

>>248は扶余による河内王朝簒奪説を支持しているようだが、
では、どのような過程で遊牧民である扶余が動物の血・皮を嫌うようになったのか説明してほしいね。
254日本@名無史さん:2006/06/01(木) 14:32:36
ちなみに、日本人は卑弥呼の時代から血を穢れとして嫌っていることは証明されている。
日本では祭祀などの儀式では絶対に血を使わない。
逆に朝鮮半島は祭祀などの儀式で血を使い、祭壇を血で“汚す”。
“汚す”というのは我々日本人の感覚で、朝鮮人のとっては血は神聖なものだから“汚す”ことにはならない。
だから、朝鮮人は皮の鎧を着るし、革製品を作っている者を“川原者”と呼んで差別することはない。
天皇・公家は皮の鎧を着ないし、革製品を作っている者(動物の血に触れているから)を“川原者”と呼んで差別する。
なぜなら、血を穢れとして扱い嫌うからだ。
255日本@名無史さん:2006/06/01(木) 15:06:05
>>251
だから扶余が住んだ姫路や京都では、
当初、十数軒の集落である余戸だったのだろう。
のち、彼らの人口が増えて、部民を意味する「余部」が地名になったのだろう。
だから?
256日本@名無史さん:2006/06/01(木) 15:28:49
>>248の扶余による河内王朝簒奪説が正しければ、扶余は今も天皇として君臨していることになる。

>>250>>253が正しければ、扶余は差別を受け、部落差別の対象となっている。

まさに天地の差だな。
本当はどっちなんだろうな。
257日本@名無史さん:2006/06/01(木) 15:55:04
「河原者」

古代・中世の河原は,現在のそれより広く,しかも農業に適さず無税地であったため,各地から集まった逃亡農民や飢民が居住し,川の流れや河原そのものを利用して生活を営んだ。
とくに,京都・鴨川の河原は,これらの人々の活動の舞台となった。
ところで,こうした河原に人々が住みつくようになったのがいつごろからか不明であるが,
『左経記』長和5年(1016)正月の条に,〈牛一頭令労飼之間,昨慮外斃之,河原人等来向,剥取件牛之間云々〉の記事があり,
このころすでに,斃牛馬を処理し皮革を扱う「河原人」のいることが知られる。
皮なめしには,大量の水と皮干し場が必要なため,河原を利用したものであろう。

http://www.tabiken.com/history/doc/E/E020L100.HTM
258日本@名無史さん:2006/06/01(木) 16:15:33
朝鮮人に遊牧民族の風習、文化が何か残っているのだろうか?
狩猟採集民族ではないか?
259日本@名無史さん:2006/06/01(木) 18:49:08
>>253
皇室では、基本的に牛馬を掻っ捌いて神に捧げる習慣がない。
中国大陸や朝鮮半島では、これがあった。
やっぱり日本はお百姓と船乗りの国だと思う。
260日本@名無史さん:2006/06/01(木) 19:30:42
>>255
>だから扶余が住んだ姫路や京都では、
>当初、十数軒の集落である余戸だったのだろう。
>のち、彼らの人口が増えて、部民を意味する「余部」が地名になったのだろう。

人の出した資料を利用するのなら、せめて良く読め。
十数軒の集落が「戸(へ)」、それが50集まったものが「里(さとorこざと)」、
50に満たないものが「余戸(あまりべ)」で、余戸は基本的に里の一種なのだ。

それから「余戸」が「余部」になったのが江戸時代なら、もはや「部民」という
概念は存在しないのだから、それで説明するのはおかしい。
261日本@名無史さん:2006/06/01(木) 21:43:05
>>260
ごちゃごちゃ細かいやつだな。
姫路であれ、京都であれ、渡来系の皮なめしの人達の事を言ってるんだ。
姫路の皮なめしが始まった時期には諸説あるみたいだが、
渡来人による伝播を疑う人はいない。

誰だと思うのだ?
ずっと聞いてるのだが。
262白馬青牛:2006/06/02(金) 00:01:04
>>242
港市と後背地の関係が解らんのなら>79に挙げたサイトを見ても
チンプンカンプンじゃろう。東南アジアの歴史、南海海上交易を
知っとらんとのう。
後背地の山の民(野人)は港市の者から物資や奴隷の供給者と見られた。
つまり武力を行使し、奴隷狩りを行い、拉致した野人を転売する。
正規の交易と並行して民間の海賊行為も活発となる。
「多く奴婢を買う。船舶は人を以て貨と為す。」
海上交易は船なので、大量に奴隷を運べる利点があったわけじゃ。
また奴隷は、港市周辺の稲作労働力にもなる。
倭人の世界も、港市の漢人商人、倭人と後背地の倭人、あるい原住縄文系の
関係にあてはまる。「卑弥呼に憑依したのは漢民族の精霊だったかも
知れない。」大林氏が指摘されるよう、精神的にも隷属民であったろう。
263日本@名無史さん:2006/06/02(金) 00:39:51
>漢民族の精霊だったかも 知れない。

漢民族の精霊ってwww
264日本@名無史さん:2006/06/02(金) 01:11:41
良い倭人も居れば悪い倭人もい居るさ、極東沿海部を荒島わっていたのは
倭寇の源流でもある古代海賊倭船団だ!!ちなみに奴隷狩りなどで主に
韓人などが犠牲になっていた、と新羅本記どに記されている。
265白馬青牛:2006/06/02(金) 01:17:25
>>242
儒教の影響を強調しとるが、エーバーハルトの中国の先史文化の考察でも、
華北は、トルコ・モンゴル・ツングース・チべット諸文化複合で構成され、
江南・華南は、ヤオ・タイ・越の諸文化複合で構成される。
江上波夫氏も、儒教の天の概念が北方遊牧民の影響とされる。
華北の現実的な北方思想に対し幻学・空想的な南方思想の江南は、
老荘・法家・道教・儒教の朱子学(江南的儒教解釈)と分類出来ると思う。
日本では、現実的解釈をする西日本と桃源郷的理想社会を求め空想的に
解釈する東北日本との違いは、形質人種的にも日本の南北逆転現象と
関連して面白い。「縄文・南方マンセー」の安田善憲氏や梅原猛氏も、
詩人は東北(日本の)だとされ、江南でも詩が発達し共通項も多い。
創造よりも想像で空想的思考する人達のことを言うたまで。
優劣じゃのうて思惟方法の違いじゃろう。悲惨や野蛮は解釈の仕方で違う。
対馬の永代奴(脱走して逃げても、船を操る技術が無かったので、
捕らえられ家内奴隷の境遇から抜け出せん)や東北の隷属名子制度を
理想社会と捉えられるかどうか。わしは、封建制の薄かった広島の者じゃ
けえ、とうてい理解出来んよ。現在の北朝鮮を理想社会と思えんのと
同じことじゃ。それをわしの偏見とされるは如何なものか。
266日本@名無史さん:2006/06/02(金) 03:13:09
267日本@名無史さん:2006/06/02(金) 05:31:41
>>262
縄文人のことではないかと思う。
倭人も結局は大陸のどこかから移住してきた連中で、とりあえず縄文人の
文化よりは、ある意味先進的なものを持っていたのだと思う。
268日本@名無史さん:2006/06/02(金) 08:00:11
>>261
>渡来人による伝播を疑う人はいない。

別にそれを否定してはいない。可能性はあるだろう。
ただ扶余に結びつける根拠がないと言っているだけだ。

>誰だと思うのだ? ずっと聞いてるのだが。

だから播磨國風土記の飾磨の郡に「漢部の里」があることを教えてあげた
ではないか。
269日本@名無史さん:2006/06/02(金) 09:02:20
>>268
秦氏に管理される形で来日した連中のなかに、
皮なめしの扶余がいたのではないかと思う。
むろん、説なんで証明する事はむつかしい。
しかし、君の扶余・河内王朝簒奪説よりはよっぽどヴィヴィッドだ。
270日本@名無史さん:2006/06/02(金) 09:06:16
元宮内庁雅楽部の東儀氏は秦氏の末裔と
ダイレクトに言ってるよ。
中国系を強調してるけど
271日本@名無史さん:2006/06/02(金) 11:07:44
三輪山と天香久山との対立で、河内王朝の侵略で新旧の対立があって
河内王朝は騎馬民族の流れをくむので深刻な対立があったというのだが、
なんで3世紀に北九州に来てそこでうまいこといってたのにわざわざ機内に移住するのか。
それに北九州をいろいろと発掘しているが、馬の墓など馬がいた形跡がない。
なぜなら大陸を走り回っていた民族が舟に馬乗せて北九州に来れるはずがないからだ。
272日本@名無史さん:2006/06/02(金) 13:29:23
>>253
>また天皇・公家は決して皮の鎧を着ていない。

そんなことはない。
倭の五王の先祖は「自ら甲冑を貫いて」各地を転戦した。
平安時代の公家は渤海渡りの黒貂毛皮を争って身につけた。
南北朝時代、後醍醐天皇は京都奪還戦でみずから鎧を着て指揮した。
同じく、村上義光は「護良親王の御鎧」を着て身代わりになって死んだ。
古代〜中世の天皇・公家は意外に革まみれなのだ。

>どのような過程で遊牧民である扶余が動物の血・皮を嫌うようになったのか

まず扶余は遊牧民ではない。
それは置いて、けがれタブーは習慣よりも宗教に関することだが、
征服者が統治のために被征服民の宗教を採用することはざらにあることだ。
マケドニア人はギリシャの神を捨てて、征服したエジプトの神を拝んだ。
ノルマンジーを征服したバイキングはオーディン神を捨ててキリスト教に帰依した。
中国を征服した満洲族は彼等の宗教を捨てて、蒙古人のラマ教、中国人の儒教(?)
を採用した。
273日本@名無史さん:2006/06/02(金) 13:39:22
>>269
なんで文献にある「漢人」ではだめなのか?

>>271
>それに北九州をいろいろと発掘しているが、馬の墓など馬がいた形跡がない。

ないどころか、北九州に5世紀の騎馬遺跡が多いことは有名だ。

> なぜなら大陸を走り回っていた民族が舟に馬乗せて北九州に来れるはずがないからだ。

いつも言っているが、扶余は河の民だ。なぜなら満洲は河しか遠距離交通手段が
ないからだ。扶余は馬の水上輸送の経験があったに違いない。
また、狗耶韓国を支配したのだから、被支配民の倭人に船のことをまかせること
ができる。
274日本@名無史さん:2006/06/02(金) 15:17:07
>>273
狗耶韓国を支配したなんて、言い切れないぞ。
275日本@名無史さん:2006/06/02(金) 16:32:16
上の方の何とかさんと同感なんだが
馬を持ちこんだ騎馬民族が列島に入ったのは
古墳時代ではなく、すでに弥生時代には倭人とともに渡来していた。
のだと思う。

あと扶余は河の民ではなく革の民、
漁労の民であり船乗りを得意とするのは倭人が占める海人族
こやつ等との同化が進んでいたならば渡来は可能だが
当然、扶余的要素は薄まる。
276日本@名無史さん:2006/06/02(金) 16:36:20
>>274
考古学上の事実だからどうしようもない。
277日本@名無史さん:2006/06/02(金) 16:40:34
実際列島に渡来して着たのは、扶余や倭人といった特定種ではなく
それらの雑種だろう。
278日本@名無史さん:2006/06/02(金) 16:43:21
出土=支配は成り立たないのも考古学の常識。
279日本@名無史さん:2006/06/02(金) 16:49:07
騎馬民族は列島を支配した!
とか何とか威勢のいいこといってさ
馬を船に乗せ簡単に海峡を渡れるものなのか?
地勢学的に騎馬民族は列島で有効なのか?
とか指摘されまくると
河の民だったのだ!だって?マジ哂わせるよw
280日本@名無史さん:2006/06/02(金) 18:10:26
>>276
韓国人の一人の学者の説が、なぜ事実になる?
もっと検証が必用だろう。
たとえば倭人に隷属してた可能性とか。
281日本@名無史さん:2006/06/02(金) 18:22:04
>>270

新羅は漢人のたまり場だったので、東儀も先祖は漢人だろう。
新羅の前身は辰韓だが、秦韓とも書いた。
ちなみに、辰韓と秦韓は朝鮮語の発音では非常に近い。
これは、秦からの亡命者が大挙して居て、現地の言語や風俗に
影響を及ぼす程だったからだ、と「後漢書・東夷列伝」とかには
書いてあったと思う。半島の文書にもそう書いてあったと思う。
秦氏は、新羅の事情の他に進んだ漢文化の伝播などでも活躍
したのだろう。ただそれだけだが。
282日本@名無史さん:2006/06/02(金) 18:29:46
>>279
騎馬民族は渡来したが、支配はしなかったと思う。
第一に言語、そして風俗、宗教、皇室の儀式などなど、騎馬民族
的要素が非常に少ないように感じる。

筋骨隆々とした大柄な日本人の先祖が、モンゴルの大草原を
馬で走り回っているような姿を想像する事は、はっきり言って
全くできない。
古文書は全て日本語か漢文でしか書かれていないし、皇室は、
牛や豚を生贄として神に捧げない。
腰が曲がるまで野良で働く農夫や、潮風に吹かれて赤銅色の肌
をした船乗りなどが、日本の古典的イメージであろう。
そしてこれは、魏志倭人伝の時代より、あまり変化していない
ように思う。
283日本@名無史さん:2006/06/02(金) 18:37:18
じゃそこまでして騎馬民族が日本に来た理由は何?当時の日本列島はそんなに魅力だったの?
284日本@名無史さん:2006/06/02(金) 18:55:25
暇つぶしに遠乗りでついついじゃないの?
285日本@名無史さん:2006/06/02(金) 18:57:03
>>283
寒冷化と戦争の影響だろう。
んで、列島に亡命したわけさ。
286日本@名無史さん:2006/06/02(金) 19:19:47
江上波夫によればオリンピックで日本人が熱狂するのは騎馬民族的な要素があるかららしいぜw
287日本@名無史さん:2006/06/02(金) 20:33:30
>>272

>>また天皇・公家は決して皮の鎧を着ていない。

>倭の五王の先祖は「自ら甲冑を貫いて」各地を転戦した。
>南北朝時代、後醍醐天皇は京都奪還戦でみずから鎧を着て指揮した。
>村上義光は「護良親王の御鎧」を着て身代わりになって死んだ。
>古代〜中世の天皇・公家は意外に革まみれなのだ。

まず古代の鎧は金属製だ。皮ではない。

>倭の五王の先祖は「自ら甲冑を貫いて」各地を転戦した
倭の五王は金属製の鎧を着ていただろうな。
それどころか、奈良時代でも金属の鎧は着ていただろう。
実際に、博物館などで金属製の鎧を着ている絵を見たことがある。
しかし、“皮製の鎧を着ている天皇の絵を見たことがない。”

>南北朝時代、後醍醐天皇は京都奪還戦でみずから鎧を着て指揮した。
>村上義光は「護良親王の御鎧」を着て身代わりになって死んだ。

後醍醐天皇が着ていたのも金属製の鎧だ。
儀醍醐天皇が動物の死皮を着るのを拒否したという記述がある。
京都の博物館で見た護良親王が着ていたのは金属製の鎧だ。

>古代〜中世の天皇・公家は意外に革まみれなのだ。
平安時代以降の天皇が皮の鎧を着ている絵を探したが、見つからなかった。
すべて金属性だ。
あなたが「意外に革まみれなのだ」というならば、その証拠になる絵や記述を示してくれ。
288日本@名無史さん:2006/06/02(金) 20:38:52
>>272

>>どのような過程で遊牧民である扶余が動物の血・皮を嫌うようになったのか
>征服者が統治のために被征服民の宗教を採用することはざらにあることだ。

あなたが言いたいことは
征服した者は、住民を統治のために、土着の宗教を採用するのは、よくあることなので、
もともと動物の死体や血を恐れなかった扶余が、動物の皮で作った鎧を着るのを止めて、血を穢れと扱うようになった。
ということか?

全く説得力がないな。
289日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:17:30
>>287
>倭の五王は金属製の鎧を着ていただろうな。

その通り。しかし君が考えているような鉄板製ではない。あれは歩兵用だ。
倭の五王は桂甲を着て馬に乗っていただろう。桂甲は鉄の子札を革ひもで
綴じたものだ。その上から革のベルトを閉めた。これはバックルの出土で
わかる。さらに馬に乗るための馬具は革づくめだ。

>儀醍醐天皇が動物の死皮を着るのを拒否したという記述がある。

引用してくれ。

>京都の博物館で見た護良親王が着ていたのは金属製の鎧だ。

京都のなんという博物館にあるのか、教えてくれ。「見た」というんだから
間違いないだろう。

>あなたが「意外に革まみれなのだ」というならば、その証拠になる絵や記述
>を示してくれ。

源氏物語を読んでごらん。末摘花は黒貂の毛皮を着ている。紫式部はこれを
「古風」だと描写している。古風だということは以前に流行った、という
ことだ。
290日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:20:07

>>288
>扶余が、動物の皮で作った鎧を着るのを止めて、

金属製の鎧こそ、扶余が日本に持ち込んだものだ。古墳時代の遺跡から
出る蒙古型兜、鉄板製の鎧、馬兜などはすべて金官の扶余に起源がある。
上記の倭の五王の武装も、伽耶と日本に共通して出る上級者用の武装から
想像したものだ。
革製の鎧はその後に出てきた。恐らく白村江戦あたりが分かれ目ではない
だろうか。 革製に変わった事情はわからない。教えて欲しい。
291日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:28:28

今ふと思ったんだが、縄文人て革着てなかったか?

かなり昔に「縄文まほろば博」ってのがあっただろう?
そのパンフに確か、縄文の衣装を復元した図があったのだが、
革着ていたぞ、縄文人は。しかも、なめしたやつ。

革着るのは、案外日本の伝統かも知れんぞ。
292日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:30:40
>>287
早速あった。
http://urano.org/kankou/nosegawa/nose01.html

大塔宮護良親王の大鎧姿だ。「銅像だから金属性だ」なんて言うなよ。
293日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:33:43
>>289

>儀醍醐天皇が動物の死皮を着るのを拒否したという記述

儀醍醐天皇が動物の死皮を着るのを拒否したという記述が載っているのは「太平記」だ。
その「太平記」の記述を梅原猛が引用している本を読んだ。


>京都のなんという博物館にあるのか、教えてくれ
京都国立博物館だ。
行って探してみるといいよ。

>源氏物語を読んでごらん。末摘花は黒貂の毛皮を着ている
あなたは黒貂の毛皮を引用に出すが、それはファッションだろう。
黒貂の毛皮を輸入していたのは、高校生の日本史で習う。
そんなことは知っている。

>古代〜中世の天皇・公家は意外に革まみれなのだ。
と、あなたが言う“革まみれ”は、黒貂の毛皮をファッションとして身に付けていたから、革まみれと言いたいのか?
それは根拠にはならないな。

俺が言っているのは、平安時代の天皇・公家は皮の鎧を着なかったということだ。
黒貂の毛皮をファッションとして身に付けていのとは、論点が違う。

他に
>古代〜中世の天皇・公家は意外に革まみれなのだ
の根拠はないのか?

古代〜中世の天皇・公家は“意外に革まみれ”なんだろ?
“意外に革まみれ”とは面白い表現だな(笑)
こんど使わせてもらうよ。
294日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:42:24
>>292

(笑)
いやいや。面白いね。
奈良県五條市大塔町にある護良親王の馬上像が、皮の鎧を着ているから護良親王が皮の鎧を着ていたという証拠になると思うか?
まさか、そんな画像を見せられるとは思ってなかったよ。
ありがとう。

奈良県五條市大塔町にある護良親王の馬上像が皮の鎧を着ているから、実在した護良親王も皮の鎧を着ていたんだね。

例えば、和歌山県田辺市に「弁慶」の像があるから、弁慶はそっくりそのままの格好をしていたんだね。
上野の西郷隆盛像のように、西郷隆盛はいつも犬を連れていたんだね。

見事な一級資料だな。

295日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:44:54
平安時代の天皇・公家は皮の鎧を着ないという説を言い出したのは、確か梅原猛だったと思うぞ。
俺もその本を読んだことがある。
296日本@名無史さん:2006/06/02(金) 21:59:40
>>290
>金属製の鎧こそ、扶余が日本に持ち込んだものだ。

だから、なぜそう決め込むのだ。
倭人が文化受容した可能性も高いだろう。
日本で扶余の墓なんて出てこないんだし。
297日本@名無史さん:2006/06/02(金) 22:14:34
小野春風様
ご注文の羊革甲(よろい)

騎兵用としてお使いください。
Madein陸奥
298日本@名無史さん:2006/06/02(金) 22:25:49

武田信玄が鎧に付けていた子袋は柿の皮で作られていたらしいぞ!!1
299日本@名無史さん:2006/06/02(金) 22:34:21
山名さんは九十九髪を鎧に付けて戦ったそうだ。
300日本@名無史さん:2006/06/02(金) 23:44:02
>>298

それは事実っぽい。
柿の皮を乾燥させると、ものすごく丈夫になる。
長野県の田舎の住んでいるが、老人は未だに家にある。
301白馬青牛:2006/06/02(金) 23:48:29
>>267
倭人の形質人種の様々なので、大陸型のみ倭人と云えん。
縄文系形質人種の弥生期九州西部の集団は漁撈集団であり、一方的に
縄文系側が奴隷化されたと決め付けられん。弥生期では、大陸から
渡来した北方新モンゴロイド型渡来人種は、北九州・山口〜山陰の特定の
地域に多く(近畿地方や関東の相模で北方系新モンゴロイド型の
人骨が出ておるが埴原和郎氏の云われる斥侯的存在であろう)、
全国的に北方系渡来型人種が増えるのは古墳時代となる。
日本列島の人口弥生期の人口約60万人から古墳期の約540万となるには
世界の農耕民族の紀元後1000年間の年平均人口増加率0,044%では
考えられん。やはり古墳期に、多くの人達が渡来したのであろう。
302日本@名無史さん:2006/06/02(金) 23:54:57
>>243

http://photo.jijisama.org/OldKorea.html

胸を露出している女性の服装は、現在の韓国の民族衣装であるチマチョゴリの原型です。
家の跡取りである長男を出産した女性にしか胸の露出は許されず、乳出しは当時の女性の誇りだったようです。

>日本人は乳を露出する習慣は無い?最近の若い者は知らんのう。
>昭和40年代まではバスの中で、母親が赤子に乳を与える光景は見られたが、西洋人の眼から見て野蛮と写ったかも知れん。

韓国では文化として家の跡取りである長男を出産した女性は胸の露出した服を着ていた。
日本で母親が赤ちゃん授乳するために胸が見えるのとは根本的に違うだろう。

日本でも長男を出産した女性は胸の露出した服を着る文化があったのか?
そんな文化はない。
面白いことを言う人だ。
303日本@名無史さん:2006/06/03(土) 01:51:32
>>251
新撰姓氏録だけ検索して無いから「どうしたことか」と言われても
そっちの調査能力を疑うだけで何とも言えん。『続日本紀』
巻八養老五年正月甲戌”正六位上余秦勝。”巻廿天平宝字
二年六月甲辰《辛丑朔四》六月甲辰。大宰陰陽師從六位下余
益人。造法華寺判官從六位下余東人等四人賜百濟朝臣姓。朝臣姓。
「余姓は壬申の乱で亡命してきた百済王の余豊璋に関する氏族、
もしくは元興寺伽藍縁起に見える余臣に関係するおそらくは渡
来系氏族とおもわれますが、余真人については、『武智麻呂伝』
には聖武天皇への功臣として先の背奈行文、百済公倭麻呂とと
もに、余氏が記されており、陰陽職の官職でみえています。」

あと和妙抄には「余部」と記された地名もあるようだが。まあ
余戸=余部なのか。余戸については正直知らなかった。ただ、
「余戸(あまるべ・あまりべ)」は、大化の改新後の律令制度で
50戸を「里」とした際、それに満たなかった小集落をいうとする
のが通説だが、日本全国の「余戸」がすべてそれで説明でき
るのか、高橋氏は疑義を呈する。舞鶴の余戸はむしろ「海人」
とのつながりが深く、凡海(おふしあま)郷は海人たちの住み
着いたところであった。」と未だ全ての餘部が杓子定規の意味
で通るかというとそうでもなさそうでこの場合の海人が扶余と
結びつくかはわからんが、
304303 続き:2006/06/03(土) 01:52:28
「雑戸と非人とに関係して、考えてみるべきものは、「あまべ」と
いふものがある。京都の三条通からは南、加茂川からは東に当
つて「あまべ」という一つの部落があります。字では「天部」又は
「余部」とも書きまして、もとは皮田とも越多とも言はれて居りま
した。(中略)一体どういふのかと申すに、先輩の間に種々の説
がありまして、普通には余つた家即ち一郷をなすには多過ぎるし、
さりとて其の余つたのも独立の一郷とするにはたらぬから、それ
で余戸というものにしたと云うのでありますが、恐らく農民以外の
雑多の職業に従事する雑戸であらうと思います。」また、「ならば、
なぜ雑戸を「あめべ」といつたかという理由はよくは分りませぬけ
れども、思ふに普通の郷の仲間に這入らず、余つた村落と云ふ
事ででもありませう。余戸の説明をした古文を見ますと、京都の
栂尾(とがのお)の高山寺に伝はつて居た「和名抄」という書物が
ありまして、その中に、「班田に入らざるを余戸という」とあります。
班田というのは大化の改新の時の御規則に依りまして、日本の
土地をみな国家の有に帰せしめ、それを均等に良の人民に分ち
興へる、これを班田と申し農民は悉く、その班田を受ける仲間に
入つて居る訳であります。処が「班田に入らざるをば余戸という」
とあるのを見ますれば、田地は貰はないものの、即ち農民以外
のものということになります。種々の職人や雑役に従事するもの
は、耕作致しませんから、土地を貰わなかった。土地を貰う権利
を与へられなかったのであります。」

とあるように「餘部」に済む人々は本来、差別的要素が強い生産手
段を生業としていたのだろう。これは皮田という地名が関係あるのか
どうか不明だが、恐らく皮、革関係も含まれていたと思う。つまり餘部
村にヒサベツ部落があるのは、後にそうなったというよりも昔からそう
であった可能性が高い。故に彼等は「餘部」とされ、エタとか非人の類、
常に部外者として「穢れた者」と位置づけられたのだろう。狛系、扶余系
が革に強い事を考えても、姫路の余部という地域に住むヒサベツ部落の
人々が扶余と関係があったとする説には説得力がある。
305日本@名無史さん:2006/06/03(土) 02:01:09
>>301 琉球人は古墳時代以前に九州から琉球に移住したらしいが、言語は日本語
の分派だ。古墳時代に異民族が大量に渡来したのなら、日本と琉球で言語が相当
違ったものになっていたはずだが、双方とも日本語族として共通性を保っている。

 これは渡来した民族も日本語族だったか、異民族の大量移動はなく日本列島内で
人口爆発があったということではないか?

306日本@名無史さん:2006/06/03(土) 02:10:34


>扶余は馬の水上輸送の経験があったに違いない。

こんな主張は全く当てにならん。実際に輸送したとする根拠はあるのか?(笑
307日本@名無史さん:2006/06/03(土) 02:16:45
>>272
上段と下段の主張が矛盾しているよ。天皇は革を嫌わなかったのか?そうであれば扶余は何故「穢れ」という概念を
(そもそも人心を得る上で必要かどうかわからんけど)受け継ぎ、革を嫌ったのか?どっちなわけ?
308日本@名無史さん:2006/06/03(土) 05:55:53
>>295

平安時代の天皇・公家は皮の鎧を着ないと言ったのは梅原猛です。
「日本学事始」という本ですね。
309日本@名無史さん:2006/06/03(土) 06:27:21
>>305
>琉球人は古墳時代以前に九州から琉球へ移住したらしい

マジか?
だったら、日本祖語から分岐した方言を話している理由がよく分かる。
ところで、古墳期以前に琉球列島に住んでいた人間は何人種なのだろう?

琉球方言と日本語の差は、単なる地理的な要因が大きいと思っていたのだが、
渡来人の影響もあるのかな?ちょうど3〜6Cに分岐が始まったらしい。
それにしては、変化が緩やか過ぎる。渡来人の流入も、言語の根本を左右する
ような事態ではなかったと想像され。一度にドッと来たというよりも、三々五々
やって来たのではないだろうか?
310日本@名無史さん:2006/06/03(土) 06:36:59
あんたら、形質と島津にだまされてないかw
311日本@名無史さん:2006/06/03(土) 11:34:51
>>309 分離したのは今から1750年頃前でちょうど邪馬台国時代に当たり、倭国の
大乱と関係あるのでは?狗奴国の人間が難民になり逃げて行ったのかも知れない。

 しかし、卑弥呼は古墳を作っているので古墳時代以前とも言えないな。

 琉球語には日本語で説明できない単語もわずかにあるらしいがその起源は不明で
先住民が何なのかも分らないが、台湾の先住民語とも言われている。

 日本語と琉球語のような関係が保たれているのなら渡来人とは半島倭人(日本語族)
が大半だったということになると思う。または少数民族だったので日本語に同化
されたのだろう。

312日本@名無史さん:2006/06/03(土) 13:15:47
しばらく来ないとスレも進んでなぜか荒れているんだが
>>265
この意見には賛成だ。華北はモンゴル、ツングース、テュルク、チベットなどの
民族が多数住んでいる一方で華中・華南には苗族やタイ族など長江文明を
作った民族のテリトリーであったと思う。呉越楚人はこの両者の混血ではなかったかと
思うのは前スレも含めて書いた。例えば殷はモンゴル系とタイ系の混血であるが
周はチベット系であったと思う。この両者が南下して長江文明人である
タイ族と混血してビルマ系部族や苗族となったと考えられる。そして華中で
山東や河北にいたツングース系部族と混血して呉越楚人=倭人となったと
思っている。だから弥生人=倭人に北方系の風習があったとしてもおかしくはない
安本美典氏は弥生人を「ビルマ系江南語族」と読んだが、正しくは
ビルマ系ツングース語族だったのではないだろうか?ちなみに大陸に残った
このビルマ系ツングース人は秦の奴隷にさせられた後、始皇帝の死の
混乱に乗じて逃亡したり北に逃れたりして後の高句麗や百済を作ったと
考えられる
313日本@名無史さん:2006/06/03(土) 13:20:16
連投ですまないが
>>208
それは知らなかった。既に7000年前から日本語と朝鮮語は分離していたのか
だとしたら北方系の倭人が満州・北朝鮮に逃れて扶余や高句麗を建国した時に
後に朝鮮語の基礎を作る先住民と混血したので大和朝廷が百済と高句麗に
使者を送る時に百済は通訳が必要なかったが高句麗は必要だったというのも
理解できる
314日本@名無史さん:2006/06/03(土) 13:54:59
>>303
>造法華寺判官從六位下余東人等四人賜百濟朝臣姓。

古代に百済出身の余さんがいても別に不思議ではない。今日、在日の金さん
や李さんがいるのと同じだ。しかし上記の引用文は、その余姓が「天皇から賜った」
ものである、というあなたの意見の証拠にはならない。
上記の文章の意味は「余東人ら四人に百済朝臣(くだらのあそん)姓を賜った」
ということだ。

>あと和妙抄には「余部」と記された地名もあるようだが。まあ余戸=余部なのか。

「あるようだ」とは「ある」という意味か。あるのなら倭名抄のどこの國に
あるのか、はっきり書いてくれ。ないのなら未練たらしいことを書くな。
また「余部=余戸」ではない。余部という地名は後世に生じたものだ。
315日本@名無史さん:2006/06/03(土) 13:58:06
>>304
●日本に余姓の人がいた、あるいはいる。
●余戸の起源は律令制(班田姓)の余戸ばかりではないかもしれない。
●余戸という地名は一部が後世に余部に変わった。
●余戸という制度は差別につながりやすかった。

以上は別にどうということはない。当たり前のことだ。
しかし以上をいくら詳細に論じても、それが:
「姫路の余部という地域に住むヒサベツ部落の人々が扶余と関係があった」
という君の結論に結びつくわけではない。
当たり前のこと、常識に属することを大量に引用して、その後にまったく
関係ない上記の結論をちょろっと付け加えて、それで「証明された」と称する
のは、あなたの常套手段だ。
316日本@名無史さん:2006/06/03(土) 14:01:20
>>293
>黒貂の毛皮をファッションとして身に付けていたから、革まみれと言いたい
>のか? それは根拠にはならないな。

例外をこしらえてはいけない。主旨は「日本の天皇、貴族はけがれを遠ざける」
ということではないか。毛皮のほうが、なめし革よりももっと生々しいから
より大きなけがれであるはずだ。

>京都国立博物館だ。 行って探してみるといいよ。

大塔宮護良親王の「金属製」の鎧が京都国立博物館にあるのか。
南北朝時代の「金属製」の鎧、と言われてもちょっとイメージがわかない。
古墳時代のような鉄板製か。大鎧の小札が鉄になっているのか。はたまた外国製か。
しかしあなたはそれを自分の目で見たのだ。
ぜひ皆さんのためにも、それがどんなものか描写してくれ。

>俺が言っているのは、平安時代の天皇・公家は皮の鎧を着なかったということだ。

用心深く、南北朝は除外したか。平安時代に天皇・公家は革であれ、金属であれ、
とにかく鎧を着る状況がなかった。
しかし少し下って源平時代はどうか。平家は公家であると同時に武士であり、
したがって革の鎧を着たではないか。平家は特殊だ、と言ってはいけない。
なぜなら、私兵を持つ貴族集団が天皇家の外戚として栄える、というのは
古代の蘇我一族の姿を再現したものだからだ。

要するに古代には貴族も武士も分離していなかった。その時代には「けがれ
だから革の鎧を着ない」などと悠長なことは言っていられなかった。
だいたい、戦争をする以上、「流血と死体」という最大のけがれを避けられない
ではないか。
壬申の乱では、天皇候補者がその最大けがれに放り込まれているのだ。
317日本@名無史さん:2006/06/03(土) 14:07:31
>>315
何も証拠がない、君の河内王朝簒奪説よりましだが?

318日本@名無史さん:2006/06/03(土) 16:50:17
>>272
>>316

上段と下段の主張が矛盾しているよ。天皇は革を嫌わなかったのか?そうであれば扶余は何故「穢れ」という概念を
(そもそも人心を得る上で必要かどうかわからんけど)受け継ぎ、革を嫌ったのか?どっちなわけ?
319日本@名無史さん:2006/06/03(土) 17:19:25
>>316

>護良親王の「金属製」の鎧が京都国立博物館にあるのか。
やれやれ。俺の文章をよく読んでいない証拠だな。
>>253で、天皇が皮の鎧を着ている絵を京都の博物館などで探したが一枚もなかった。
と書いている。
護良親王が金属製の鎧を着ている絵が京都国立博物館あるのだ。
今度からきちんと文章を読んでから反論してくれ。


>用心深く、南北朝は除外したか
やれやれ。私は最初から「平安時代以降のまた天皇・公家は決して皮の鎧を着ていない。」と言っている。
勝手に‘南北朝時代は除外したか’など、私の主旨を変えるようなことはやめてほしい。


>平家は公家であると同時に武士であり、したがって革の鎧を着たではないか
>平家は特殊だ、と言ってはいけない

‘蘇我氏もそうだから、平家は公家だから革の鎧を着ていたのだ。’とは、まるで話にならないな。


320日本@名無史さん:2006/06/03(土) 17:21:47
>古代にはには「けがれだから革の鎧を着ない」などと悠長なことは言っていられなかった
>壬申の乱では、天皇候補者がその最大けがれに放り込まれているのだ

私は最初から「平安時代以降のまた天皇・公家は決して皮の鎧を着ていない。古代の天皇は金属製の鎧を着ていた。」と断言しているだろう。
自分の都合の良いように勝手に論旨を入れ替えない。
議論する時の最低限のマナーを守れ。


>例外をこしらえてはいけない。
>毛皮のほうが、なめし革よりももっと生々しいからより大きなけがれであるはずだ。

「毛皮のほうがなめし革より大きなけがれであるはずだ」
それはあなたが勝手に思っているだけだろう。
平安時代の天皇・公家がそのような思想を実践していた記録だあるのか?
自分勝手な思い込みで「毛皮のほうがなめし革より大きなけがれであるはず」と言ってはいけないな。
>古代〜中世の天皇・公家は意外に革まみれなのだ。
と、あなたが言う“革まみれ”は、黒貂の毛皮をファッションとして身に付けていたから、革まみれと言いたいのか?
それは根拠にはならないな。

俺が言っているのは、平安時代の天皇・公家は皮の鎧を着なかったということだ。
黒貂の毛皮をファッションとして身に付けていのとは、論点が違う。

黒貂の毛皮をファッションとして身に付ける以外に
>古代〜中世の天皇・公家は意外に革まみれなのだ
の根拠はないのか?
革まみれなんだろ?
321日本@名無史さん:2006/06/03(土) 18:18:37
>>313
それよりもはるかに以前かもしれないが、「日韓共通祖語」を主張する学者は、
6000〜7000年前だと主張していると思う。
実際には、それ以上前に分岐したかも知れないし、基幹語自体が存在しない
かも知れない。現在の韓国語と日本語は、文法以外にあまり共通性が感じられない
希ガス。
322日本@名無史さん:2006/06/03(土) 18:24:51
>>96

>「三国志・呉伝・孫権伝」には徐福の後日談がある。
>西暦230年孫権は配下の衛温、諸葛直に命じて夷州、せん州(いずれも日本をさす)の探索をおこなわせた。

え!?
夷州、せん州って日本のことなの?
魏志倭人伝では日本の場所は不明だったよね。
「三国志・呉伝・孫権伝」では日本の場所は判明しているんだ。
「三国志・呉伝・孫権伝」が成立した時代はいつ?

孫権の配下が日本に来ていたってのがビックリだね。
当時の人にとっては、江南と日本って近かったんだな〜。
323日本@名無史さん:2006/06/03(土) 18:25:44
>>321

古代朝鮮語は解明されていない。
現存する最古の史料としては三国遺事などに新羅の時代のものと伝えられる郷歌25首しか残っていない。
実際。この郷歌25首から古代朝鮮語をすべて解明するのは不可能な作業だ。

郷歌は万葉仮名のように漢字を朝鮮語の表音文字として使用した郷札で書かれている。
また、郷札と同じように漢字を朝鮮語の表音文字として使用したものに吏読というものがあり、三国史記や、金石文字に残っているという説もある。
しかしながら、三国史記、三国遺事も基本的に高麗王朝時代の史料であるし、他に残っている資料にしても基本的に高麗時代以前に書かれた史料はほとんど無い。
なぜ残っていないのかといえば、新羅が朝鮮半島を統一した時に、すべての書物を焼いたからである。
しかし、現在の韓国の教育では「壬申倭乱で日本人が焚書した。」と教えているらしい。
したがって、現在に伝わる古代朝鮮語の史料はとても少なく、詳しいことはほとんど分かっていないのが現状である。

余談ながら、朝鮮半島ではほとんど忘れられていた郷歌を発掘したのは京城帝国大学教授の小倉進平である。


参考
http://jpnkiryaku.hp.infoseek.co.jp/chosen.html
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/siru/kodai.html

ついでに言っておくと、韓国語と日本語の語彙を比較した結果、
文法構造は似ているが共通の語彙が相対的に少ないことから近縁性は低く、
分岐したのは有史以前のはるかな昔の事であり、直接の関係は疑問視されている。
324日本@名無史さん:2006/06/03(土) 18:38:45
>>323
むぅ・・・・・・、となると「日本・朝鮮語」と括るのは間違いかも
知れないな。
一部の学者が近縁性を主張しているだけなのか?
325日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:24:36
>>319
>護良親王が金属製の鎧を着ている絵が京都国立博物館あるのだ。

ではその 護良親王の「金属製の鎧」について改めて聞こう。
その絵の金属製の鎧とはどんなものか。
古墳時代のような鉄板製か。大鎧の小札が鉄になっているのか。
はたまた信長の鎧のような外国製か。
ぜひ読者の皆さんのためにも、それがどんなものか描写してくれ。
326日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:24:53
>>323 古代朝鮮語どころでなくてハングルができる以前の中世朝鮮語も
あまり分っていないのでは?

>>324 日本語と朝鮮語の近縁性など言語学者は誰も証明しておらず、高句麗
語と日本語に数十の単語の類似性があるというだけだろう。

 韓国人の非言語学者が書いたトンデモ本ならいくらでもあるが。


327日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:49:29
>>325

>護良親王の「金属製の鎧」とはどんなものか
>ぜひ読者の皆さんのためにも、それがどんなものか描写してくれ


専門家でもないのに詳しく描写できるわけがない。
素人でも金属製の鎧か皮製の鎧かは区別できる。
あなたはピカソの「ゲルニカ」を描写できるか?
「蒙古襲来絵詞」を描写できるか?
あなたが「ゲルニカ」と「蒙古襲来絵詞」を描写できれば、私も努力しよう。
それに読者の皆さんは興味ないと思うぞ。


>例外をこしらえてはいけない。
>毛皮のほうが、なめし革よりももっと生々しいからより大きなけがれであるはずだ。

「毛皮のほうがなめし革より大きなけがれであるはずだ」
それはあなたが勝手に思っているだけだろう。
平安時代の天皇・公家がそのような思想を実践していた記録だあるのか?
自分勝手な思い込みで「毛皮のほうがなめし革より大きなけがれであるはず」と言ってはいけないな。
>古代〜中世の天皇・公家は意外に革まみれなのだ。
と、あなたが言う“革まみれ”は、黒貂の毛皮をファッションとして身に付けていたから、革まみれと言いたいのか?
それは根拠にはならないな。

俺が言っているのは、平安時代の天皇・公家は皮の鎧を着なかったということだ。
黒貂の毛皮をファッションとして身に付けていのとは、論点が違う。

黒貂の毛皮をファッションとして身に付ける以外に
>古代〜中世の天皇・公家は意外に革まみれなのだ
の根拠はないのか?
328日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:54:38
>古代〜中世の天皇・公家は意外に革まみれなのだ
ってどうゆうこと?
329日本@名無史さん:2006/06/03(土) 19:58:34
俺のチンポも皮まみれだけどな。
330日本@名無史さん:2006/06/03(土) 20:50:58
モンゴル人やカウボーイは革製品を愛用しているイメージはあるが、
日本の公家が革製品を愛用しているイメージはないな。
331日本@名無史さん:2006/06/03(土) 22:37:03
>>316

梅原猛「日本学事始」より引用

鎧を例に取ると、古代の天皇の鎧は布や金属製だが、武士の鎧は動物の皮などを用いている。
日本には、血や動物の皮などを扱うことを穢れとする感覚があるが、武士たちは比較的それが希薄である。
日本以外の国では狩猟文化が主流であり、儀式などにも生贄を捧げるような流血を伴うものが多いが、
農耕文化を主とする日本の天皇家の行う祭祀にはそのようなものはない。
332日本@名無史さん:2006/06/03(土) 22:54:07
>>316

穢れとは、人の死や誕生など不安定な時間の総体、また災害、天災など人に災いをもたらすものの総体。
この穢れ観念の発達により、天皇や宮中に穢れが及ばないように細心の注意が払われ、その結果、組織外から穢れを処理する人が必要とされるようになる。

また、平安貴族が自分達を守ってくれた武士団に対して、武士が獣の皮で作った鎧を着、死人や血に接触する事を穢れと考えた事に差別の一因があると考えられる。

333白馬青牛:2006/06/03(土) 23:30:56
>>302
西日本には、長男を生んだだけで、特別に乳を露出することはないが、
長子相続の東日本と意識も違う。長男を強調しとる処、西日本人は、
東日本や朝鮮と違い、長男を尊重しとらんので、けしからんのか?
極東朱子学隷属社会の三国(中国・朝鮮・東日本)で西日本を包囲したニダ
と云いたいんか。面白いことを言う人じゃ。
>>305
日本語族という概念は、想定出来んので解らんが、日本列島で人口爆発と
されるが、同時代に大量移動でなく、人口爆発した事例はあるんか。
例えば英国は、アングロ・サクソンの大量移動でなく、英国ケルト系の
人口爆発じゃと、される様なもんじゃ。
>>312313
エーバーハルト説では、呉越は越文化人で楚人はヤオ(瑤)文化人に、
含まれる。瑤苗は、瑤の龍犬伝承、苗(ミャオ)の犬祖神話等、瞬典の
三苗から華北の要素もあり、北方民族の影響も考慮する必要があるが。
チベット語とビルマ語の間には、羌系の言語もあるので、ビルマ語が
広まったとも思えん。江南語族がタイ系語群かモン・クメール系語群か
明確でもなく、高句麗に通訳が必要だったという資料は知らんが、
高句麗語と百済語は同系言語で新羅語が違うたんでは。
日本語と高句麗語は、数詞等の類似もあるが、高句麗語が僅かしか残って
おらんので、判断出来んのが現状であろう。
334白馬青牛:2006/06/04(日) 00:12:01
>>331
佐原真氏が、本土日本人は、縄文期から狩猟民でなく、植物採集民族で、
北海道のアイヌ人や琉球人(家畜食)は肉食民族とされておられる。
(本土縄文人でも、内陸民は兎も角沿岸部の動物タンパク質の高さは、
無視されとる問題もある)縄文期を含めると農耕よりも採集要素の比重が
強くはなるが、わしは、仏教の要素も強かったと思う。民間の肉食は
かなり根強く、江戸期に至っても度々禁令を出しておることも、法の建前と
は違う。日本に狩猟文化要素が少ないと思えん。逆に西洋の狩猟儀礼とは
何かと問われても、明確な答えは出せんと思う。
また、モンゴルで羊を殺し、解体するとき、大地に血を一滴も流さない
(漢人やイスラム教徒の牧畜民と違う)のは、モンゴル型のケガレの
概念とも考えられる。つまり諸文化要素は、広く比較することによって、
考察出来ると思う。
335日本@名無史さん:2006/06/04(日) 05:40:12
>>333
>極東朱子学隷属社会の三国(中国・朝鮮・東日本)

東日本が「朱子学隷属社会」だったら、江戸の風紀はあそこまで猥雑にはならなかったろうし、
江戸の女性は個人で店を切り盛りしたりして、社会的地位が低くはなかったと思う。
隷属するほど浸透していなかったと思われ。
336日本@名無史さん:2006/06/04(日) 11:15:45
>>327
>専門家でもないのに詳しく描写できるわけがない。
>素人でも金属製の鎧か皮製の鎧かは区別できる。

上記が「私はウソを言っています」という文章であることは素人でもわかる。
しかしあなたはウソのつき方を間違えた。もっといいつき方を教えてあげよう。
それは:
「見たところ普通の大鎧で、 金属製か革製かは判別できない。それが金属製と
わかったのは、『この鎧の小札は鉄でできています』と説明されてあったからだ」
というのだ。これなら太平記絵巻など見られてもばれないし、私が博物館に
問い合わせるまでの時間がかせげる。

>「毛皮のほうがなめし革より大きなけがれであるはずだ」
>それはあなたが勝手に思っているだけだろう。
>平安時代の天皇・公家がそのような思想を実践していた記録だあるのか?

まったく逆にも言える。革の鎧はけがれだが、黒貂の毛皮はけがれではない、
というのはあなたが勝手に決めたルールだ。そうでないと言うなら、平安時代
の天皇・公家の間にそのようなルールがあったという記録があるのか?
337日本@名無史さん:2006/06/04(日) 11:17:47

>>327
>俺が言っているのは、平安時代の天皇・公家は皮の鎧を着なかったということ

日本史上、最も平和な時代であった平安時代に限るのはなぜか。
あなたは>>253では:
「また天皇・公家は決して皮の鎧を着ていない。」と言っているだけで、
時代を限ってはいない。
だから原点にもどって時代限定をはずせば、倭の五王に想定される武装の
桂甲の革の綴じひも、革ベルト、革製の馬具はどうするのか。革製鎧以外
はOKとか、少量の革なら0Kとかいうルールを作るのか?

また、平家の上級の武士達は天皇のお側に出入りする、れっきとした公家だ。
「落ち行く平家の公達あわれ・・」と歌に歌われる通りだ。その公家達が
革製の鎧を着て源氏と戦っているではないか。これはどうするのか。
専業公家に限る、というルールを作るのか?
338日本@名無史さん:2006/06/04(日) 12:17:00
>>333
>瑤苗は、瑤の龍犬伝承、苗(ミャオ)の犬祖神話等、瞬典の
>三苗から華北の要素もあり、北方民族の影響も考慮する必要があるが

もしかしたら苗族は殷人の末裔だったのかもしれない。実際貴殿の言うように
苗族には北方系要素もあり華北から来たという伝承もある一方で兄妹が
国を作ったという神話等南方系要素もあるが、これは殷が遊牧民族系要素と
刺青等南方系要素があるのと共通している面がある

>チベット語とビルマ語の間には、羌系の言語もあるので、ビルマ語が
>広まったとも思えん。江南語族がタイ系語群かモン・クメール系語群か
>明確でもなく

ビルマ語は南下してきたチベット語族(羌系語族)と長江の先住民であるタイ語族が
クレオールされ(混血して)出来たと思う。それは雲南を見ればわかると思う
面白い事にアイヌは和人を「シャモ」と呼ぶがこれはタイ語族を示す
「シャム」に酷似している。おそらくタイ語族系要素を持つチベット語族、
これがビルマ語族ではなかっただろうか

>高句麗語と百済語は同系言語で新羅語が違うたんでは
高句麗と新羅は通訳が必要だったというソースは残念ながら失念してしまったが
高句麗も百済も同じワイ系部族集団だったので同一言語だった可能性はあるだろう
高句麗や百済、倭は同じワイ系部族だったので同一かそれに近かっただろうが
新羅はテュルク系部族集団だったので通訳なくして通じなかった可能性は高い
339日本@名無史さん:2006/06/04(日) 12:56:20
オマエラ歴史オタが上から見下したような言い方するのはキモい
だからキモオタって言われるんだよ・・・
340日本@名無史さん:2006/06/04(日) 13:01:00
>扶余、アンチ扶余
変態気にせずバトルバトル
341日本@名無史さん:2006/06/04(日) 13:32:09
>>333 イギリスでは今ではケルト語は辺境に追いやられて使われず、ゲルマ
ン語に乗っ取られたが、日本では本土も沖縄も日本語のままだった。

 大量の異民族移動があったのなら言語の交代もあったはずで、沖縄に
アイヌ語のようなものが残っていなければ、おかしいのではなかろうか?

 考えられるのは民族移動は同じ日本語族の移動で大陸文化を吸収した
半島倭人が列島に入って来たということではないか?半島にいたために
人種も漢人や北方種族の血も混じっていて容貌も異なる人種になっていた
のだろうが言語は日本語だったということか。



342YAP?:2006/06/04(日) 13:55:49
また4日ほど、読まないうちに、コメントをつけたい書き込みが多くて、書ききれない
ので、とりあえず、感想を。

まず、騎馬民族説でしばしば根拠とされる天皇の即位儀礼が、北方系のそれと類似している
というものだが、「フェルトで新王の身体を覆う」とか「真床覆衾」とかいうのは、実は
周初の新王の即位儀礼でも、同様であったことは、白川静博士が説くところだ。
周は、チベット系の姜姓諸族と通婚していたので、牧羊民たる羌族の影響を受けていた
可能性もあるが、先行した王朝の商(殷)の即位儀礼を継承していた可能性もある。

すくなくとも、「真床覆衾」が、騎馬民族の「習俗」だとは簡単には言えない。
スキタイ人に始まる遊牧〜騎馬民族はせいぜい前10世紀くらいにしか溯れないが、
殷周革命は、前111世紀の話だ。
343YAP?:2006/06/04(日) 14:06:43
更に「血の穢れ」についてだが、商、周を含め歴代の中国王朝は、北方諸遊牧民
同様、供犠として、動物(場合によっては、或いはしばしば、「人」も含む)を
殺して、捧げたものだ。
おそらく日本でもかなり古代ではそうだったのだろう。
つまり、「血の穢れ」をいむようになったのは、神道の教義がほぼ成立した後代の
話であろう。
どちらにしろ、供犠荷動物を含むか否かでは、その集団の帰属を決定できないと思う。

尚、苗族だが、これは北方から南下した集団だが、商(殷)とは、明らかに別系であり、
商の人身供犠の対象として(「南」と言われていた)、「羌」とともに、狩られていた
野は有名な事実だ。
344日本@名無史さん:2006/06/04(日) 17:12:13
甲冑の話が出てるが、今日のサンケイに河内の黒姫山古墳の話がある。
仁徳天皇陵と同じ頃に造られたとみられるこの古墳から、
24もの甲冑が出てるらしい。
埋葬者は大和政権を軍事面で支えてた丹比(たじひ)氏らしい。
多治比とも書くらしいが。
この氏族と扶余が何か関係あるのかな?
345日本@名無史さん:2006/06/04(日) 17:28:34
そもそもの三波晴郎の説はどうなったんだ?
間違いでいいのか。
346日本@名無史さん:2006/06/04(日) 17:44:35
>>345
もう、誰も言わないだろう。
これからも消えていくだけだろう。
347YAP?:2006/06/04(日) 19:14:28
多治比真人は、バリバリの皇別氏族だが、
きっと熱狂的な騎馬民族説論者だと、この氏族も
扶余系だというんだろうなあ。
348日本@名無史さん:2006/06/04(日) 19:19:28
騎馬民族説はハッタリだよ
オカルトチックなトンデモン説を
飯の種にしている香具師は今でも沢山いるしな
でもって騙されるアホがいるから商売が成り立つんだよ
人間、疑って掛かるよりも、信じて傷つく方がしマシ
とか逝ってるアンポンタンもイパーイいるくらいだからな。
まあ傍目には愉しいけどw
349日本@名無史さん:2006/06/04(日) 20:19:31
>>342
大嘗祭で行われる真床覆衾は元はチベット系部族の儀式だったと
いうのは初耳ですな。真床覆衾と同様の儀式は北方系民族にも
見られるがおそらくチベット系部族が起源なのだろう
しかしHLA遺伝子ではモンゴル東部の遺伝子が日本人の三割を占めているから
ツングース系との混血も無かったとは言い難い。しかも越文化圏とツングースの
源郷たる山東半島は重複しているという点も注目したい
鳥居龍造氏はニニギ神話を持ってきたのはツングース系部族と語ったが
おそらく弥生人(倭人)にツングース系との混血もあったとは考えられよう
しかしそれが騎馬民族征服王朝を作ったとは言えないのもまた事実だろう

>>343
血の穢れは神道によるものではなく天武朝による国家仏教から
派生したものではないだろうか?貴殿の言うように日本でも
古代は動物犠牲の儀式はあったのだろうが国家仏教普及により
それらの儀式は全て無かった事にされたのだろう。そして縄文・弥生問わず
動物犠牲を守ろうとした一部の民が国家仏教の名の下で被差別階級に
転落したのだろう。苗族は殷人の末裔だと思っていたのだが違うとは
知らなかった。おそらく苗族となる北方系部族は殷人とは別の部族だったのだろう
(テュルク系かツングース系?)
350日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:04:43
>>349

あんたって、あちこちで珍説披露してる人?
某スレの120・161とか。
(http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1145427487/l50)
何か似てるよ。
351日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:22:16
>>350
ちょーwwwその文章、俺のコピペやんw
あのデムパ120じゃないと思うぞ。
352白馬青牛:2006/06/05(月) 01:10:37
>>335
何をもって風紀の猥雑とされるか解らん。女性も厨房に立たん、
中国・台湾女性と台所で炊事する日本・朝鮮の違いもあるが、
社会的地位をそれだけで解釈するフェミニズム考察には同意出来ん。
社会制度において、横社会の西日本と縦社会・親方子方隷属的東日本の
違いは、西日本人から視れば、封建的東日本が中国・朝鮮と五十歩百歩と
思えるのは無理がない。
>>338
殷は、木槨墓の北方的要素もあるが、あなたの云われるよう南方要素も
強い。羌語系は、青海・四川・雲南とチベットと漢人の中間地帯であり、
ビルマ語との関連は、定かでないが、中国西南部は羌・苗・タイ系と
様々な要素が混在しておるので、言語影響はあったろう。
353白馬青牛:2006/06/05(月) 01:41:46
>>341
高句麗語が、古代日本語と近かったかどうか想定出来んが、
日本語や琉球語が江南の影響が強いのであれば、モン・クメール系や
タイ系の言語を話しておったろう。これらの地域は文法的には、
アルタイ系膠着語と違うし、日本語族の概念も解らんよ。
四、五世紀の世界的な北方民族の大量の異民族移動でも、言語が漢人化した
五胡、支配者のゲルマン言語が浸透した西洋の例もあるが、何れにせよ、
気候変動期であり、日本列島にも大量民族移動があったろう。
半島倭人という概念も解らん。倭人は後世の倭寇の様に中国朝鮮人を含む
エスニック集団で、古代の倭人も人種的概念でなく、山東・朝鮮・
渡来弥生人・在来縄文系弥生人を含む集団であったろう。
354白馬青牛:2006/06/05(月) 02:26:59
>>349
HLAのモンゴル東部起源のそれは、西日本に多いが13%ぐらい。
鳥居龍蔵氏は、大正七(1918)年に、「我が国の民族中に
インドシナ族のある者に類似するものがあり、その一例として倭人の
文身の事を記せましょう。私はこの倭人と称する者は当時日本の九州の
一隅にのみ分布して居ったので、全日本民族には余り関係無いものと
考えます。而して彼らの支配者は固有日本人で北方系に関係あるものと
存じます」と書いておられるが、支配者は倭人でなく固有日本人
(ツングース)とされる。ツングース=固有日本人=国津神が、
弥生期に成立したとは思えんが。
355日本@名無史さん:2006/06/05(月) 04:18:02
武田騎馬軍団というのは存在していないというのは聞いたことがあるが
騎兵は存在しているだろw
つまり、騎馬軍団=騎兵だけで組織された大規模な軍団
騎兵=騎馬武者
騎馬武者が日本の歴史上存在しなかったか?
よく考えて書き込めよ、知ったかぶりは恥ずかしいぞw
356日本@名無史さん:2006/06/05(月) 06:49:52
騎馬民族が本当に来たんならなんで日本は稲作中心なんだよ。騎馬民族が征服したんなら自分たちの食文化を押しつけりゃいいのにそれがない。
それに本来騎馬民族は羊や山羊がいてなりたつのに、羊や山羊が日本にいない。
もっとも江上によれば騎馬民族は何でも食べるらしいが簡単に食生活をかえれないだろう。
357日本@名無史さん:2006/06/05(月) 11:15:53
「大塔宮の鎧」について調べたことをまとめて置く。
太平記によれば、村上義光が身代わりになった吉野の戦いのときの
大塔宮の装いは:
「赤地の錦の鎧直垂(よろいひたたれ)に、火威(ひおどし)の
鎧のまだ巳の刻なるを透間もなく召され、竜頭の兜の緒を締め、
白檀磨きの脛当に・・」
要するに革製の、普通の鎧である。なお「まだ巳の刻なる」とは
「新しい」という意味だそうである。
大塔宮の鎧直垂と言われるものが伝わっており、東京国立博物館にある。

大塔宮の鎧姿の絵が、土佐千代という狩野派の女流画家によって
描かれている。「大塔宮出陣図」と呼ばれる。
この絵の一部は下記のページにある。
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic/6531/hate.html
土佐千代は16世紀の人であるから約200年後の絵である。
358日本@名無史さん:2006/06/05(月) 11:18:46
>>356
満洲族の支配した清国で、中国人の食べ物が満洲式に変わったのか?
359日本@名無史さん:2006/06/05(月) 11:44:33
>>353 異民族大移動が日本列島へ入ったとするとその前に朝鮮を通過してくる
はずだが、朝鮮語もモンゴル語やツングース語との関連が不明というほど薄い。

 古墳時代という比較的新しい時代に民族大移動があったのなら中国が記録して
いるのではないか?魏が倭人伝を記録したのだから、それ以後に大移動があれば
かすかにでも記録があるはずだと思う。




360日本@名無史さん:2006/06/05(月) 12:39:50
>>358
清国で満洲族が中国人を支配したのは事実です。
それを日本と同じに例えられても困ります。
天皇は記紀によれば日向です。
それを扶余なんて言うからには、あなたにそれ相当の根拠があるはず。
そんじょそこらの根拠ではだめです。

それを言ってください。
361日本@名無史さん:2006/06/05(月) 14:21:06
>>360
あなたは「騎馬民族が日本を征服したのなら、日本の食文化が騎馬民族風に
変わったはずだ」という主旨の発言をしたのです。
それに対して私は、満洲族の中国征服に照らせば、征服者と被征服者の
人口比によってはそのようなことは起こらない、だから食文化が
変わらなかったことが(否定の)根拠にはならない、ということを
言ったのです。
とりあえずこの問題についてはここまでです。
362日本@名無史さん:2006/06/05(月) 14:35:48
>>359
扶余による征服があったとすれば4世紀だが、その4世紀の末の広開土王
と倭、百済との戦いを中国は「かすかにでも」記録していない。
だからこそ広開土王碑の記録があれほど貴重視されるのである。
記録の主体である中国じしんが、「存在しない」と言っていいような時代に
あたっているから、記録がないのも仕方ない。
363日本@名無史さん:2006/06/05(月) 15:04:01
>>362 中国でなくて高句麗や新羅、百済でもいいが、日本へ民族移動した
というような記録があるだろうか?
364日本@名無史さん:2006/06/05(月) 15:57:21
>>362
先ず日本語の勉強しろ。
365日本@名無史さん:2006/06/05(月) 16:33:33
>>361
その当時の馬具など、装飾品が日本各地で大量出土しています
それらは騎馬民族征服説の根拠にはならないってことを言いたいのですか?

扶余なる少数の征服者が、日本を平らげたと主張するには
それ相当の根拠があるはずね、それをはやく言ってください。

万人が納得するような根拠を期待します。
366日本@名無史さん:2006/06/05(月) 16:51:46
騎馬民族征服王朝説は江上が戦後の混乱に乗じてありもしないことを言って日本をさらに混乱させようとしただけだ。
まず日本語と朝鮮語は語源がちがい、別の系統の言語だ。
2 騎馬民族は馬の年にあわせて名前をつけてたそうだが「モンゴル秘史」、日本はそんなことはしていない。
3 儀式を行なうとき騎馬みをは動物を使うのに、日本の皇室は稲を使ってる。
4 三輪山と天香久山の対立で、河内王朝の侵略で新旧対決があって、河内王朝は騎馬民族の流れを組むので対立があったとされるが、なぜ河内に移住し王朝を築いたのか?
北九州でうまいけといってろのにいちいち移住する必要はない。
5 日本列島は前方後円墳があるが、朝鮮半島には存在しない。
最後 船に馬乗せてどうやって日本に来たの?何人来たの?当時の造船技術で船に馬乗せて日本に来れるはずがない!100%無理!
船に馬乗せてどうやって来たのかこれが説明できなければ何言っても無駄!
よって騎馬民族は来なかった。
367日本@名無史さん:2006/06/05(月) 17:33:32
>>362 4世紀は日本は倭の五王の時代で東と南北に向けて山野を跋渉して
いたという記録があり、シナに安東大将軍?の地位を求めて、属国に新羅
百済や朝鮮南部を含んでいたが、これと半島からの民族大移動説とは矛盾
しないか?
368日本@名無史さん:2006/06/05(月) 18:27:11
餃子は満州の食い物だったと思った
369日本@名無史さん:2006/06/05(月) 21:19:04
>>366
>船に馬乗せてどうやって来たのかこれが説明できなければ

継体天皇のとき40頭の馬をどうやって百済に送ったのか?

>>365
だから食文化の話は納得したのか、けじめをつけてから次の話をしよう。
370日本@名無史さん:2006/06/05(月) 21:32:42
>>367
まず古代の征服が民族大移動であるとは限らない。
アレキサンドルの征服を考えて見ればわかる。

次に上表文は矛盾しない。すでに征服後100年以上経った倭の大王
である立場で上表文を書けば、あのようにしか書けない。
371日本@名無史さん:2006/06/05(月) 21:40:31
>>365
その出土品は、半島南端との共通点が多いんだったけ?
372日本@名無史さん:2006/06/05(月) 21:41:33
継体天皇は、バリバリの倭人だろう。
373日本@名無史さん:2006/06/05(月) 21:57:38
韓国〜対馬 約50` 対馬〜九州 約150`

昔の小さな船でも子馬なら・・・
374日本@名無史さん:2006/06/05(月) 22:52:32
馬を運ぶって言ったって、
対岸に緊張関係がない時と、
そうでない時では違うしね。
375日本@名無史さん:2006/06/05(月) 23:05:50
馬は4世紀後半あたりから
徐々に運ばれてて来たんだろ。
376日本@名無史さん:2006/06/05(月) 23:37:11
継体天皇は、朝鮮半島の出自だと考えていたのですが。
377日本@名無史さん:2006/06/05(月) 23:40:18
>>376
近江、越前
378白馬青牛:2006/06/06(火) 00:09:17
>>359
文献に残るのは、ごく一部分に過ぎんよ。その文献も何を読みとるかじゃ。
『魏志』の倭人と比べ『隋書』の倭人描写では、服装や火を跨ぎ夫と相見る
等、習俗も北方民族化しており、倭に限らず、馬韓と百済にも当てはまる。
習俗の扶余・高句麗化とも云えよう。
>>366
ところで、2の馬の年にあわせ名前をつけたのは、何ページに書いて
あったか覚えてない。「モンゴル秘史」東洋文庫、平凡社は、
実家に置いておるので、暇な時確認しようと思う。何巻かでも良いので
教えて貰いたい。
379日本@名無史さん:2006/06/06(火) 01:12:08
何が騎馬民族説だよ
日本人は外から入った文化を自分のものにするのが上手いんだよ
これは古代から脈々と受け継がれた日本人特有の芸当だ。
380日本@名無史さん:2006/06/06(火) 06:45:02
>>376
騎馬民族「かぶれ」の前の天皇たちが暴政を繰り返したので、越前出身の
バリバリ倭系の継体帝が出てきて事態を収拾したんだと思うが?
381日本@名無史さん:2006/06/06(火) 07:03:10
>>378
隋書も魏志の倭人伝と記述がかぶっているはずだが、
内容的にいくらか『魏志』→『隋書』と変化したという事は、
どういう事だろう?

@北方人がやってきて、他を圧倒した(そこまで猛烈か?)
A倭人が他国の先進文化(ブーム)を積極的に取り入れた。
B北方人もやって来たが、土着民も当時の流行をそれなりに
 取り入れた。
382日本@名無史さん:2006/06/06(火) 09:35:29
>>378 「服装や火を跨ぎ夫と相見る等、習俗も北方民族化しており、」

・・・しかし、言語が変わったという記録はないので倭人語族には変わりはない。
服装や習俗という文化は数百年経てば流行で変わるだろう。

 中国史書は言語風俗の相違には敏感なので魏志倭人伝の記録と相違が生じていた
らそれを記録しただろう。
383日本@名無史さん:2006/06/06(火) 10:06:55
>>370 倭の五王が征服王朝なら倭国王と名乗る必要は何もないだろう。元の民族の
名を名乗るはずだ。

 アレキサンダー大王のようにあちこちにアレキサンドリアという地名も残した
だろうが、日本にそういう痕跡があるだろうか?
384日本@名無史さん:2006/06/06(火) 11:09:06
>>383
>倭の五王が征服王朝なら倭国王と名乗る必要は何もないだろう。元の民族の
>名を名乗るはずだ。

倭は地域名だ。倭王はその地域の王という意味で、妥当な名称だ。
ノルマン人がイングランドを征服してイングランド王を名乗るのと同じ。

>アレキサンダー大王のようにあちこちにアレキサンドリアという地名も残した
>だろうが、日本にそういう痕跡があるだろうか?

必ずそうするとは限らない。モンゴルは都市の名称を変えていないし、都市を建設
してもいない。

>>372
>継体天皇は、バリバリの倭人だろう。

金官の扶余が支配したのもバリバリの倭系だ。
385日本@名無史さん:2006/06/06(火) 11:11:05
>金官の扶余が支配したのもバリバリの倭系だ。

支配したという根拠が、韓国の一学者の見解じゃ弱すぎる。
386日本@名無史さん:2006/06/06(火) 14:49:28
>>384 東洋の征服王朝なら征服地の王を名乗ることはせず、国号を変えるのが
中華圏の慣例だろう。倭という国号を消し去るのが普通だ。

 朝鮮では馬韓、弁韓、辰韓という国名、地名を百済という征服王朝名に変えて
いる。
387日本@名無史さん:2006/06/06(火) 15:51:53
>>384
だから、モンゴルだノルマンだ清などの歴史的事実と、
日本を一緒にするなと何度も言ってる。
記紀では日向なんで、なんで扶余ごときが出てくるんだ。
388日本@名無史さん:2006/06/06(火) 16:46:38
>>385
なにを言いたいのかわからない。扶余が狗耶韓国を支配して金官を建てた、
という説に対抗して、どのような状況を考えるのか、それを言わないと
コメントできない。

>>386
当の扶余が、扶余本国では扶余王と称せず、ワイ王だった。これはワイ人
地域の王という意味だ。
また満洲族は中国を征服して「清国」を称したが、これは漢族向けの王朝名。
外に対しては「中国」を称した。すなわち国名は変わっていない。

もうひとつ、征服者が「継承」を重んじるならばあえて国名を変えない。
すなわち簒奪王朝である場合だ。
389日本@名無史さん:2006/06/06(火) 17:21:33
思うに、騎馬民族が「列島を征服してやるぞー!」という強い意志
を持って渡来したというよりも、寒冷化や戦乱によって「逃亡してきた」
というのが正解なんじゃないか。
その場合に、旺盛な征服欲を内に秘めて、騎馬民族が海を越えた
可能性があるかないかなんだけど…
食いっぱぐれて逃げてきた連中は、原住民にかなり気を使って、
溶け込もうと努力するんじゃないかと思うのだ、むしろ。
390日本@名無史さん:2006/06/06(火) 17:29:10
>>388 清は日本にも朝鮮にも清国と称していただろう。対外的に使用して
いるが。朝鮮は属国なので漢人向けとしてもいいが、日本はそうでない。

対外的に「中国」と称したとは、どこに対してなのか?
391日本@名無史さん:2006/06/06(火) 18:34:57
>>388
>どのような状況を考えるのか、それを言わないとコメントできない。

すでに倭に屈服してたとか。
392日本@名無史さん:2006/06/06(火) 21:20:43
>>390
康煕帝のネルチンスク条約に始まって、国際条約中の国名はすべて中国だ。
日本に対しても、日清修好条規で始めて中国を用いた。日本はこれに対して
国名を正しくせよと言って抗議したが通らなかった。

>>391
>すでに倭に屈服してたとか。

たとえそうだとしても、それは扶余王朝と倭王朝との関係であって、
扶余と狗耶韓国人との関係ではない。
私が言っているのは後者だ。

393日本@名無史さん:2006/06/06(火) 21:28:38
>>392
扶余と狗耶韓国人の関係についても、
まだはっきりとした事が分からないだろ?
394日本@名無史さん:2006/06/06(火) 21:37:46
>>392 日「清」修好条規という条約名は清のままのようだが、日中修好
条規が正式名称なのかな?

395白馬青牛:2006/06/06(火) 23:46:10
>>381
そのことについて大林太良氏は、「『隋書』において、新たにかなり
明瞭な北方系の文化要素が登場しているのは、朝鮮半島におけるこの動き
と対応するものであり、いわばその延長と見ることができるのでは
なかろうか?いいかえれば、それは岡正雄氏のいうアルタイ系支配者王侯
文化、江上波夫氏のいう騎馬民族の到来である。アメリカの日本学者レッド
ヤードは、四世紀における朝鮮半島南部の夫余化の延長として、日本への
騎馬民族の到来を考えるべき(Ledyard.Galloping Along with the
Horseriders.)だと論じている。」わしは、@に近いがBの要素で、
土着民が渡来系の流行を取り入れたのでなく同化した部分はあると思う。
>>382
倭人語族とは何か?AN(オーストネシア)語族のことか?
日本以外で、服装や習俗という文化が数百年経てば流行で変わるという
実例を挙げとらん。まさか、日本だけ特別に違うという選民思想では、
他国の方々が見られたら笑いものになろう。
中国史書が言語風俗の相違には敏感と云われるのであれば、中国史書と
他地域の史書を比較したうえの言と思うが、何処の史書と比較して敏感と
判断したんか?
396日本@名無史さん:2006/06/06(火) 23:52:46
白馬青牛ってぶっちゃけアホなのか?どうなのか答えよ。
397日本@名無史さん:2006/06/07(水) 00:01:53
結局、騎馬民族が征服なんてのはありえない話。
馬が本格的に騎兵に運用されるのは六世紀頃からだろうし、
なにしろ伝統的に畿内王権は軍事力が欠如してる。兵が弱い。
後世まで地方頼み。

継体は近江出身の大王家一族じゃないか。
398日本@名無史さん:2006/06/07(水) 01:30:03
>>395 魏志倭人伝の倭人の服装と、古代の神々という想像図の白装束の違いが
何なのか知らないが、奈良時代には呉服という呉の服が百済を通して入って来た
のだろう。チベット人が着ているゴという服と似ているので、大陸風の流行服だった
のではないか?

 倭人語というのは倭人伝に出て来る固有名詞しか分らないが、奈良時代の日本語
と連続性が認められ、半島の倭人も当然、しゃべっていたであろう言語のことで
当時から開音節語だったことは確かなようだ。

 卑弥呼=日巫女、爾支=禰宜、主?卑奴母離=鄙守り、などと推定されている。

 狗耶韓国の彌烏耶麻や百済の首都熊津クマナリというのも倭人語と思われる。
399白馬青牛:2006/06/07(水) 02:29:56
>>396
あなたが判断することで、わしゃは知らんよ。じゃが「どの部分が」と
いう具体的検証に欠けとる。
>>397
騎兵が運用されるのが、六世紀頃だろうと云う根拠は?
近畿王権の兵が弱いと云うのも解らんが、どの様な実例から判断したんか?
地方頼みと云うより、辺境地に奴隷兵を求めるんは世界的に普遍で
ないんか?違うと云われるなら実例を挙げるとよい。
>>398
胡服(筒袖、ズボン)のことじゃが、寛広なチベット服とは違う。
固有名詞だけでは解らん。文法においても連続性があるんか?
400日本@名無史さん:2006/06/07(水) 02:39:03
日本史上に騎馬隊は存在していないとか、武田騎馬軍団というのは存在していないというヤツいるが
騎兵は存在しているだろw
つまり、騎馬軍団=騎兵だけで組織された大規模な軍団
騎兵=騎馬武者
騎馬武者が日本の歴史上存在しなかったか?
だから、武田騎馬隊は存在したんだよ
よく考えて書き込めよ、知ったかぶりは恥ずかしいぞw

401日本@名無史さん:2006/06/07(水) 05:33:35

武田騎馬軍団は、この際関係ないだろう。
402日本@名無史さん:2006/06/07(水) 05:37:38
>>398
ちなみに「ゴ」と「呉服」を一緒にはしていないか?
呉服は唐の時代の影響だったと思うが。「東呉」の「呉」
のことだろう。漢人が着ていた衣装の影響だと思ったが。
403日本@名無史さん:2006/06/07(水) 10:43:05
>>394
>日「清」修好条規という条約名は清のままのようだが、日中修好
条規が正式名称なのかな?

日清修好条規はほとんど全面的に清国側作成の漢文草案に則っているが、
清国が提示した最初の漢文草案では、条約名が「中国日本国修好条規」、
条文中の国名が「中国」になっていた。

これに対して日本側が抗議した結果、条約名だけは「大清国大日本国修好条規」
になったが、条文中の国名は変わらず「中国」であった。
日本側は翻訳文のなかで国名は全て「大清国」とした。

なお、あなたの想像とは異なって、清国は朝鮮に対しても「中国」を用いて
いる。日清戦争の誘因の一つとなった、朝鮮との条約の名称は:
「中国朝鮮商民水陸貿易章程」である。

>>393
>扶余と狗耶韓国人の関係についても、 まだはっきりとした事が分からないだろ?

だから、扶余の支配の代わりにどんな関係を想定するのか、はじめからそれを
聞いている。
404日本@名無史さん:2006/06/07(水) 10:47:08
>>399 卑奴母離=鄙守り、とするとOV型の文法を持ち、動詞の連用形が名詞化
するという日本語と同じ文法を持っていることが分る。

 卑弥呼、卑弥弓呼などは固有名詞なのか一般名詞なのか分らない。ヒミヒコと
するとヒコは一般名詞になる。

 イキマ>イクメ入彦、都市牛利>栃木入彦、と後世に対応する人名があるという
説もあった。


405日本@名無史さん:2006/06/07(水) 11:31:23
>>403
仮に狗耶韓国が扶余に支配されたとしてもだ。
それが扶余による倭の支配に飛躍するのがおかしいと言ってるんだ、俺は。
406日本@名無史さん:2006/06/07(水) 15:31:33
>>405
狗耶韓国が扶余に支配されたことは認めるのか、けじめをつけてから
次の話をしよう。
407日本@名無史さん:2006/06/07(水) 16:04:05
>>406
認めるも何も、どこの誰が言ってるんだ?
408日本@名無史さん:2006/06/07(水) 18:31:18
>>狗耶韓国が扶余に支配されたことは認めるのか、けじめをつけてから
次の話をしよう。

討論する気ないだろ?おまえ頭沸いてのか?

409日本@名無史さん:2006/06/07(水) 22:19:37
>>399
だって、五〜六世紀の馬具なんて実用的じゃないお飾りでしょ。
ヤマトは諸豪族の連合だし、大王家自身は大して軍事力持ってない状況でしょ。
先進性を武器に、地方豪族の力を上手く使ったけど。

「為人勇み悍し」

島国日本の軍事制度は特殊。
律令の軍制が結局破綻したのも、地方頼りで中央の軍事力が弱いから。

それで、何が奴隷民なんだ?
410日本@名無史さん:2006/06/07(水) 22:49:39
しばらく見ないうちにスレがどんどん進んでいるな

>>350
そのスレを閲覧したのは今日が初めてだしどの部分が
私の文と似ているのかわからないが

>>353
おそらく倭人とは雲南同様羌・苗・タイ系の各部族の事を指していたのだろう
これに加えて山東半島や河北にいたツングースもこれに入るではなかろうか
倭国大乱はおそらくこれらの部族間の抗争によるものだったのだろう
彼等が呉越や楚として団結したのは外敵がいたからに他ならないが
日本列島では外敵は無きに等しかったのでこうした抗争が発生したのだろう

>>354
鳥居氏はおそらくまだ北方系=先進民族、南方系=後進民族という
戦前の価値観によるものから言われたものではないか?鳥居氏や岡氏のころは
まだ長江文明も発見されていなかったのでそう判断したのではないだろうか
HLAのモンゴル東部起源遺伝子はわずか13%のみでしかも西日本にしか
発見されてないとするならば倭人部族集団におけるツングースの割合は
それほどではなかったのだろう。日本人の北方系の遺伝子はむしろ
チベット系(弥生人)やブリアード(縄文人)から来たものと考えられる
もちろんタイ(弥生)、クメール(縄文)、オーストロネシア(縄文)の
遺伝子や言語もみられるのも付け加えておこう
411日本@名無史さん:2006/06/08(木) 00:15:20
>>404 都市牛利>豊鍬入(トスキイリ)彦・姫もありました。
412白馬青牛:2006/06/08(木) 00:24:13
>>409
馬具が実用的でないとするのは、鞍橋が狭すぎて乗れんと云うことか?
西洋鞍のように尻をペタッとつけて乗るんと違い、モンゴルでは、
尻を浮かし中腰で乗る。騎乗下手な平安期の武士と西洋の例を挙げても
しょうがない。
島国日本の軍事制度が特殊とは笑いが止まらんよ。真っ当な神経は
持ち合わせておるんかのう。そういう中華思想はどっから出てくるんか。
カルト新興宗教じゃあるまいし。世界の普遍性から判断するんが当たり前の
事じゃに、日本は世界と違う特殊な国か?韓国のナショナリストの人達と、
レベルは違わんようじゃ。遠征する際、イングランド人はウェールズ人を
使わんかったか。モンゴル人は西方遠征でトルコ人を、元寇では、女真、
高麗人を使い、日本でも征服した辺境地の兵を使う。
それが地方頼りか?支配者の軍は督戦だけでよい。近代の軍隊制度と
混同して妄想するとはねえ。つまり、近代と違い、辺境地奴隷兵を前線に
おいて、退却すれば後方の味方兵が撃ち殺すのは当然のこと。
20世紀においても、支那軍や露西亜軍は後退する際、兵隊の足を鎖で
つなぎ捨石にしておいたのに。古代なら尚更兵士は奴隷と変わらんよ。
413日本@名無史さん:2006/06/08(木) 00:32:30
相変わらず白馬青牛はアホだな。
414白馬青牛:2006/06/08(木) 00:52:01
>>409
409氏のような、こういう思い上がった独善思想が、先の大戦で
我が国を破滅に導いたんかと思うと笑い事じゃのうて、怒りを禁じ得ん。
>>410
長江のを文明と定義するのも、どうかと思う。B52−DR15は、
西日本に多いが、本土全域に及んでおる。遺伝子や形質で日本人において
北方系が優位であることに変わりない。南方系は少数派であろう。
チベット(弥生)ブリアート(縄文)と云われる根拠は?
弥生のタイの遺伝子?とは何かさっぱり解らん。弥生以降は概ね
北方新モンゴロイドが渡来した。古墳期と違い、弥生期の文化は
南方系ではあるが。
415日本@名無史さん:2006/06/08(木) 00:59:15
894年9月に対馬が新羅軍兵2500人・船45隻による侵攻を受けている。
この時は文室善友率いる日本軍が弩で新羅軍300余人を射殺して撃退。
新羅船11隻を拿捕。
416日本@名無史さん:2006/06/08(木) 06:01:19
>>412
山川草木の起伏の富んだ日本列島で、腰を浮かした中腰で
馬に乗るのは、非常に危険で命知らずな行為だと思われるが。
戦国時代の武将が、そのような乗り方をしたという話も聞かない。
417日本@名無史さん:2006/06/08(木) 07:04:20
>>414
弥生人の形質が北方なのに、なぜ文化が南方なのかについて、
今までに納得の行く話を聞いた事がない(涙)
たとえば、ツングースが渡来したが、周辺諸国の稲作文化に
従っただけとか、縄文人の生活スタイルを取り入れただけとか…
どれもこれも無理がある過ぎるような気がする。
北方渡来人が、高床式住居の建築技術をどこで学んだのかが
問題になると思う。
418日本@名無史さん:2006/06/08(木) 07:10:01
だから、形質の優位性だよ。
古モンゴロイド集団に、新モンゴロイド一滴と
新モンゴロイド集団に、古モンゴロイド一滴
それぞれの集団は、形質的にどう変化するw
419日本@名無史さん:2006/06/08(木) 08:12:04
>>408
>>407
「扶余が狗耶韓国を支配した、というのは怪しい」と言い出した
のはそっちだ。
それに対して「支配していないとすればどんな状況を考えるのか」と
私が聞いているのに対して、答えを提示できていない。
その段階で「支配したとしても日本を征服できない」と問題を拡散させて、
このスレの本質的な問題に進もうとするから、その前に自分の言い出した
問題:「扶余は狗耶韓国を支配したか」にけじめをつけよ、と言っている。
討論になっていないのはそっちだ。
420日本@名無史さん:2006/06/08(木) 08:49:37
>>417 弥生人というのは白装束にミズラを垂らしているスタイルだと
思うが、倭人のように文身してフンドシを穿いていたのだろうか?
421日本@名無史さん:2006/06/08(木) 08:54:05
魏志倭人伝に出て来るミミという役職はミズラを垂らした奴のことかも
知れないな。
422日本@名無史さん:2006/06/08(木) 09:27:48
>>418
知らんよー。

ただ、吉野ヶ里遺跡などでは、身分の高い連中が高床式住居に住み、
身分の低い一般人が縄文の伝統を受け継ぐ竪穴式に住んでいるので、
この辺がちょっと気になっている。支配階層は、どこの出身なんだろう?
(縄文時代の住居は円形の竪穴式で、弥生になると長方形や正方形に近く
なっていたと思う。)

>>420
弥生時代の人骨で、顔面にべったりと朱が付着したものがあったっと思う。
分身はしていたと思う。
423日本@名無史さん:2006/06/08(木) 10:28:32
>>419
支配したという根拠は何だとずっと聞いてるのだが?
424日本@名無史さん:2006/06/08(木) 14:02:16
>>423
君がそれを質問しているというのははじめて聞いた。
その根拠は何回も出ているが、労を厭わずもういちど書いてもよい。

ただし君が先に私の質問に答えるのが順序だろう。
もういちど聞く。
扶余が狗耶韓国を支配していないというなら、それに替わってどんな状況を
考えるのか?
425日本@名無史さん:2006/06/08(木) 18:17:02
>>424
>どんな状況を考えるのか?

とっくに倭の配下になってたとか。
426日本@名無史さん:2006/06/08(木) 19:13:30
>>425
どうどうめぐりだな。
私が聞いているのは金官の内部での扶余と狗耶韓国人との関係だ。
427日本@名無史さん:2006/06/08(木) 20:04:56
>>426
狗耶韓国自体がよく分かってないんで意味ないかもな。
428日本@名無史さん:2006/06/08(木) 20:39:52
狗邪韓国の彌烏耶麻国というのはどう見ても倭人の国だったのだろうな。

429白馬青牛:2006/06/08(木) 23:28:23
>>410
書き忘れたが、岡氏は、出血供儀、内臓供犠(心臓・肝臓・耳・鼻・
眼球・頭も含む)を南方系とし、無血供犠(馬の献納・白兎絞殺等)が
牧畜文化圏に見られる慣習とされる。(モンゴルの例で羊を殺すとき血を
大地に流すのは穢れるとし、チベット系遊牧民が羊を殺す方法は窒息死
させる。農耕民、例えば支那人家畜の咽喉を切って血を流すのは、羊が
長く苦しみ残酷を極まり、大切な血をこぼすのは勿体無い、そして大地を
穢す)岡氏は、殉死が北方系で人身供犠(人柱・耕作際における女、子供・
旅行者、乞食、奴隷の生き埋め)の風習は江南〜東南アジアの農耕地帯に
広く分布するとされる。これらの習慣を考察されて云われるので、偏見では
無い。喜田貞吉氏は「元来天孫民族は黥面を賤とし(中略)良民罪あり、
黥面して鳥養部となすこと雄略紀にあり。(中略)本来ウラル・アルタイ
語族間には、この俗なかりしものなるべく、わが天孫民族もまた夙に
これを賤しとして、土人と区別せし所似なるべし」倭人は呉越系統の民族で
大和民族と異なるとされる。それをふまえ岡氏は、「支配者の側には
これが乏しく、僻遠の取り残され、圧服されたような者たちにの間に、
これが行われた。日本民族を成立せしめたものは、満洲から朝鮮の方を
経由して列島に進出したものであり、それに従属させられていった一群は、
もっと古くからこの列島上に占めていた文化程度の低いもので」と誤解を
招く文もあるが、岡氏の昭和九年にウイーン大学に提出した学位論文
『古日本の文化層』(ドイツ語)の訳本が未だに刊行されてない。
430白馬青牛:2006/06/09(金) 00:39:47
>>416
日本では、普段の乗馬よりも重装騎兵の時の乗り方が、後世普遍化
したんか、判断は難しい。
>>417
弥生人の形質のごく一部が北方形質であった訳で、全体の事ではない。
渡来系弥生人も航海の軸線から江南から直接渡来した可能性は低い。
江南の大型構造船の船文化も伝えられてない。江南と日本の直接的な
航海ルートも唐代まで、待たねばならんし。行き帰りが出来、交易が出来る
航海ルートでないと。我が国に江南の文化影響が強いとされる伊藤清司氏も
江南〜山東〜朝鮮半島は往復至便とされ『「波立たず、油の如き黄海は」と
いう昔の軍歌の文句ではありませんが、黄海は比較的おだやかで、
江南から直接九州本島よりも、往復するのにはむしろ朝鮮を回った方が
楽であった。だから遣隋使でも朝鮮〜山東を経由させている。そういう
コースで日本は江南の南朝と交流をしている。』とされる。
倭人習俗が朝鮮半島南部にもあり、倭人自体も様々な民族も混合で
あったろう。山東自体で南方北方両民族、文化要素が混じったんかも
知れんが断定出来ん。
>>420421
ミズラ(美豆良)は、古墳期の北方系の髪型。モンゴル帝国時代でも
髪を二条に分け、耳の下に垂らすのは、ラシード「集史」の挿絵でも
描かれておる。南方習俗である『魏志』倭人伝の断髪とは違う。
431日本@名無史さん:2006/06/09(金) 01:03:54
このスレの人は枝葉の議論が好きだな。
432日本@名無史さん:2006/06/09(金) 01:09:38
>>431
枝葉を拾い上げて大樹と思い込ませる広島県人。
433日本@名無史さん:2006/06/09(金) 03:33:33
枝葉ばかりを見ていると迷路に迷い込むぞ。
434日本@名無史さん:2006/06/09(金) 04:21:22
>>430
ミズラだかタブサだか知らんが、
そんなもん一つのファションだろ?
七三分けの多い中国人のルーツは
七三分けが活発だった一昔前の日本か?
丸刈りにしていたら坊さん認定か?
パンチパーマが流行した時代のヤンキーらは
皆アフリカ人か?w
何度も言う、日本人は外から入ってきたモノを
自分のモノにするのが上手いんだよ。
論語読みより、答えは周りに幾らでもあるな。
435日本@名無史さん:2006/06/09(金) 05:03:31
>>427 >>428
狗耶韓国は発掘もされていて、吉野ケ里と共通する文化を持っていたことが
わかっている。
この國の人が倭系だったというのは私も賛成である。
436日本@名無史さん:2006/06/09(金) 05:57:03
列島ミズラのパイオニハ半島倭人です、はい。
437日本@名無史さん:2006/06/09(金) 06:36:19
倭人に採り立てられた売国奴の扶余人
倭人に採り立てられた亡国奴の百済人
倭人に採り立てられた売国奴の朝鮮人
倭人に採り立てられた亡国奴〜?

いやな悪寒・・・・
438日本@名無史さん:2006/06/09(金) 06:44:15
>>430
>弥生人の形質のごく一部が北方系質出あった訳で、全体の事ではない。

じゃぁ、やはり、渡来形弥生人は一種類ではなかったのか…
海路、江南→半島→列島と移動すると、「形質が北で文化が南」の理由
も説明が付くのかも。確かに、遣唐使船もそのコースを辿っている。

しかし、博物館に展示されている「のっぺり長顔」の弥生人は、
何なんだろう?博物館や文献によって顔つきが微妙に異なっているが、
復元者の個人的な思い込みが大いに反映されているような気がする。
特に古墳時代人。殆ど全ての復元図が、輪郭が縄文でつくりが弥生
(よって丸顔の一重瞼)というパターンばかりを描き出している。
当時の列島の住民が皆あの顔をしていたとは、到底思えないが…。

「ごく一部」の現象をあたかも全てのように紹介するのは、大きな罪
であると思う。
439日本@名無史さん:2006/06/09(金) 11:17:58
>>430 胡座をかくのも相撲が盛んだったのも北方系の影響かも。シナには古代から
相撲のような格闘技はなさそうだ。

440日本@名無史さん:2006/06/09(金) 19:11:43
体と体でぶつかり合う競技は世界中にある

日本 - 相撲
沖縄 - シマ
インド - クシュティ
チベット - チベット相撲
ベトナム - ベトナム相撲
モンゴル - ブフ
中国 - シュアイジャオ
朝鮮半島 - シルム
トルコ - トルコ相撲
ロシア - サンボ
ギリシャ - レスリング
イラン - コシュティ
セネガル - ランブ

それこそ部族や地方単位になると腐るほどあるんジャマイカ?
441日本@名無史さん:2006/06/09(金) 19:46:23
古代から服属癖があるのは半島人?か列島人か?
その逆をいくのは、つまりは滅ぼされるまで闘うのは
半島人か?列島人か?
大海原を恐れたヘッピリDNA、死をも恐れず渡海した列島DNA
の違いはあると思う。
もしかすると半島の倭人は列島を視野に入れていたフヨ人に服属したのかも
んで上記からいくと列島征服無理だったと、まあ簡単な推測。
442日本@名無史さん:2006/06/09(金) 22:09:29
>>438
「春秋・戦国時代人、前漢時代人(男女合わせて二九体)の中にはあっと驚くほど
弥生人に似た人もいて、一同とりあえず安堵。人骨を計測し、推定身長も算出し、
統計学的に分析したところ、きっちり縄文人集団のワクの中におさまった。〜略〜
mtDNAの抽出も成功し、分析にあたった遺伝学者の篠田(前出)によれば「春秋〜前漢
時代人と渡来系弥生人の配列がよく似ており、とくに春秋時代三体と弥生人が一致した。
ただ、解析できた固体数が少なく配列部分も短いので、確定的なことを言える段階には
ない。」
「日本最古とされる絹製品は福岡県有田遺跡から出土(二千数百年前)している。青銅製
武器(銅戈)に付着していた。〜略〜古代絹に詳しい京都工芸繊維大学の布目順朗名誉教授は
繊維断面を顕微鏡で約2000倍に拡大し、その扁平度から、この絹が華中の絹であることを
突きとめた。〜略〜北部九州の一部の地域では華中系の蚕を飼育し、その糸で絹を織っていた
ことが推定された。」
「勢いづいた呉はその後、大船団を率いて北進し、山東半島の斉の国をも討ったとされている
(BC四八四年)。山東半島まで広がっていた呉の人々は韓半島へ逃れた。この呉越の戦いには
大船団が活躍し、造船技術はかなり発達していた。実際、呉は黄河への運河を造り、越は海の
道を開いた。」(道方しのぶ『日本人のルーツ探索マップ』)


弥生人のルーツの「一つ」として華中は濃厚ではあるが、確定的なことはまだ言えない、
という感じらしい。その他の地も可能性に満ちているっぽい。
443日本@名無史さん:2006/06/09(金) 22:26:44
>>440 しかし、裸でまわしを付け、土俵があって、体の一部に土がついたら
負けというのは相撲だけだろう。

 外国のものはレスリングに近い。

 それから拳闘という殴り合いも世界中にあってもよさそうな競技だが、
日本にもシナにも無かったのが不思議だ。
444日本@名無史さん:2006/06/09(金) 22:39:32
>>442訂正
【誤】縄文人集団のワクの中におさまった。

【正】弥生人集団のワクの中におさまった。
445日本@名無史さん:2006/06/09(金) 23:13:12
>>443 あ、すまん、シナには拳法というのがあった。
446日本@名無史さん:2006/06/10(土) 00:37:17
>>399>>414罵倒牛ちゃん
最近罵倒が無いから、ちょっと釣ってみたわけよ。

戦犯とはなw
447白馬青牛:2006/06/10(土) 00:48:40
>>434
また、支離滅裂で具体性もない独善思想厨の戯言か。現代を例に出しても
意味がない。現代の判断基準の偏見で空虚な文を書いとるのう。
>>438
弥生期の北方形質は、北九州・山口・山陰では多く、遠くは関東でも
斥候的存在として少数の移住はあったろう。北方形質が全国的に増大する
のは古墳期。遣唐使は黄海を北上せず派遣した為、難破して大変な事
じゃった。博物館のは、特徴を強調し過ぎで、思い込みが反映されとる。
古墳人のは、広い範囲で北方形質の渡来と土着在来民の混血が視られるので
あのようなパターンとなった。北方形質と云うだけで、弥生期と古墳期の
渡来を合わせて弥生系とするのも、可笑しいと思う。文化要素が違う。
縄文晩期の人口7万6千、弥生期の人口60万、古墳期の人口540万と
して、世界の農耕民族、起源後〜1000年の年平均増加率0、04%の
自然増加率ではどうにもならん。現在の本土日本人の8割が北方系であり、
古墳期の渡来系が日本人の主流となったと考えられる。
448日本@名無史さん:2006/06/10(土) 13:56:21
>>441
では、倭に服属するのをいさぎよしとせず、唐には服属すると見せかけて
百済打倒に利用した後は武力で追い出した、新羅はどうするのか。
この新羅を中心としていまの朝鮮民族ができたのだが。

ついでに言えば日本の遣唐使は新羅海賊のお世話にならなければどうにも
ならなかった。日本人だけが航海に長けていたのではない。時代によって
変わるのだ。
航海能力において御朱印船時代の日本人と、幕末の日本人とを較べて見よ。
449日本@名無史さん:2006/06/10(土) 13:57:59
日本人は本当に枝葉の議論が好きだな〜。
450日本@名無史さん:2006/06/10(土) 15:29:55
>>449
そういうチミの意見はどうなのだ?
騎馬民族説をどう思う?
451日本@名無史さん:2006/06/10(土) 18:34:48
>>447 その北方形質というのが朝鮮顔のことなら、日本人にはそれほど強い影響は
なかったのではないか?

 日本人と朝鮮人は見分けがつかないほど似ているとは言えず、見分けられる人間
の方が多いと思う。8割が北方系といっても北方=朝鮮とは思えない。

452日本@名無史さん:2006/06/10(土) 18:49:32
そして言語が魏志倭人伝の時代から奈良時代まで連続しているということは
異民族の大量移住がなかったか、渡来したのは日本語族だったとしか、
説明不可能と思う。または満州人のシナ征服と同様に、列島の方が文化が
高かったために被支配層の言語が残ったということか。



453日本@名無史さん:2006/06/10(土) 20:24:46
454日本@名無史さん:2006/06/10(土) 20:34:35
455白馬青牛:2006/06/10(土) 23:32:06
>>446
わしゃは、罵倒するんが趣味じゃないよ。わしの方が根拠の無い罵倒を
受けとる方じゃし。釣りか、暇じゃのう。
>>451
北方形質の高顔が朝鮮顔になるんか。韓国の礼安理遺跡の出土人骨群には
高顔と低顔(縄文系列島在来人や中国南部・東南アジアの基本型)両方
存在する。朝鮮半島の土着民が北方系とは断定出来ん。
日本人に似た顔は、韓国より中国の朝鮮族の方が多いんじゃろうが、
満洲人が一番日本人と似とると思うよ。目が細いタイプの北方系は
満洲人より朝鮮人、特に南の韓国人に多いと思う。
北方系=朝鮮ではないし、北方系にも様々な容貌があることは、この板の、
【HLA】モンゴル人と日本人は同祖【HLA】でも書いたが、
1001まで行ってしもうたよ。
456日本@名無史さん:2006/06/11(日) 01:09:10
木を見て、森を見ず。
細部ばかりを見ていると、物事の本質を見失うよ。
457日本@名無史さん:2006/06/11(日) 06:20:59
>>451
同感。
漏れは関東出身で、数年間関西に在住した事があるが、特に京都などは薄顔だと思った。
が、いわゆる日本風の『しょうゆ顔』であって、エラが張って目の切れ上がった顔では
なかったと思う。典型的な京美人は、顔も小さく細い顔だと思った。四角くない。

実は個人的に思うのだが、関西人は、単純に弥生(倭人)比率が高いのだと思う。
これを言うと、関西人から激しいバッシングをくらいそうだが、邪馬台国(弥生系薄顔集団)
が東遷してきたとすれば、半島とは一味違う薄さの理由が説明できるような気がするのだ。
その後、朝鮮半島や中国からの帰化人が都に押し寄せて住んだとすれば、相対的に薄顔比率は
高まる事になる。
一方、九州、東北、四国に濃い顔が多いのは、単純に縄文比率が高いからじゃまいか?
それは、中世の絵画を見ても分かる。貴族が色白ぽっちゃり形に対し、武士階級は、色黒、
ゲジゲジ眉毛、堀の深いひげ面で描かれている。これは、地方での縄文比率が高いせいだと思うのだ。

よって、古代関西人=倭人≠百済人≠新羅人≠漢人 だと思う。
458日本@名無史さん:2006/06/11(日) 06:30:03
>>455 朝鮮人は北へ行くほど日本人に似てくるとも言われていますね。

 高句麗語と日本語のような関係が容貌にもあるということかも。

 百済、高句麗、渤海が日本と交流があり新羅を敵視していたのも人種のせいかも
知れない。
459日本@名無史さん:2006/06/11(日) 06:31:05
>>457【続き】
関西で弥生(倭人)比率が高いとすれば、もうひとつ納得ができる事があるのだ。
それは、古代より半島南端には、倭人(倭人によく似た集団)が住んでいた事が
分かっているが、時代が下ってからも、倭国や天皇家が、半島南端の倭人の生活圏
に対してだけ、異常なまでの愛着と親近感を見せていた事だ。
もしも、騎馬民族の扶余などの系統だとすると、南端の倭人だけに強い親近感を覚える
事は説明が行かない。
所詮、百済などは政治上の腐れ縁のお荷物でしかなかったのだと思う。帰化人が多くて

それから、言語。
琉球語が日本語と緩やかに分岐し始めたのは、3C以降だと思うが、百済や新羅や
高句麗から来た支配者が、言語に多大な影響を与えたとすると、全くつじつまが
合わなくなる。元々、日本人や皇室が倭系であって、大陸や半島の帰化人が
押し寄せて住んだだけだとすれば、つじつまが合う。
(もちろん、古文書は全て、日本語と中国語(漢文)で書かれている。)
460日本@名無史さん:2006/06/11(日) 06:39:47
>>458
どう考えても政治上の理由だろう。
特に、渤海なんて。

高句麗と倭国は、仲が良かったか?
悪すぎてイクサしまくったイメージがあるぞ。
国が傾いてからの亡命者は多かったと思うがな。
461日本@名無史さん:2006/06/11(日) 06:41:18
>>458
秦氏は新羅出身だが、盛んに新羅を攻めている。
漢人だから祖国に未練がなかったんだろうなぁ…と思う。
462日本@名無史さん:2006/06/11(日) 10:28:52
>>460
>高句麗と倭国は、仲が良かったか?
>悪すぎてイクサしまくったイメージがあるぞ。

白村江戦の前後の高句麗は、倭と同盟して唐に当たろうとしていた。
これなどは、年がら年中戦っていた、同じギリシャ人のスパルタとアテネが、
ペルシャが攻めてくるとたちまち同盟したことを想起してしまう。
そういえば広開土王のときは中国の力は弱かったな。

>>461
>漢人だから祖国に未練がなかったんだろうなぁ…と思う。

新羅の内部だって複雑だ。秦氏も、その出身地のハタンが新羅に
いじめられて恨みをもっていたかも知れない。
463日本@名無史さん:2006/06/11(日) 10:43:13
>>462
出身地のハタンなんて判明してるのかい?
464日本@名無史さん:2006/06/11(日) 10:50:47
>>461
中国人の「祖籍」意識は猛烈だから、
「秦」からの移民であることにこだわり続けたんだろ。
新羅は、漢人の裏庭みたいなもんだからな。

それに、「波多」っつう苗字は、天皇から直々に賜ったもんだ。
それに自ら、「秦」っていう漢字をわざわざ当てたんだよ。
『新選姓氏録』の記述では、秦織物に関係して「波多」を授けた事に
なっている、と思ったが。
465日本@名無史さん:2006/06/11(日) 10:54:47
ところで、馬韓や辰韓(秦韓)はともかく、
弁韓はきれいに無視されとるな。
466YAP?:2006/06/11(日) 14:30:07
またまた、3・4日ほど読まないうちに議論が進行しており、個々の書き込みに
コメントもできないので、感想ということで(パソコンに接近できるのが
週1〜2回が限界なので)。

まず、文身=南方系というのが、そもそも間違いだ。
白川静文字学の成果で、商(殷)が、文身の習俗をもっており、これが
本来北方系諸民族の習俗であったことは明らかだ。

ただし、「文身」といっても、「入墨/刺青」と言うよりも、いわゆる
「絵身(かいしん)」すなわち、成人式などの通過儀礼や祭祀に際して、
謂わば、「ボディー・ペインティング」を行うのが主流だったと考えられる。

北方系アジア人集団が起源であることの明らかなアメリカ先住民が、「絵身」
しているのは、昔の西部劇映画でおなじみなのだが、これが呉越の習俗が
入ったなどとは、まさか、だれも考えないだろう?

で、西方から入って伐殷を果たして、中原を制覇した周が、「文身」を行わない
民族だと言うか、そのような文化と無縁だったために、中原から「文身」の習俗が
消えた結果、南方や東方沿海部の「文身」が周以降の中国王朝の史書等に特殊な
風俗として記録された。

要するに「文身」の有無は、南北どちらかの移住の証拠にはならないと言うことだ。
467日本@名無史さん:2006/06/11(日) 14:42:11
>>466
なるほどー。

高床式住居などは南方チックですけどね。
弥生人が「薄顔」だとすると、完全なる南方の人では無いんでしょう。
倭人は、海にもぐる時の安全の為にイレズミをしていたようですが、
扶余とかには、こうしたイレズミの習慣はありますか?
468YAP?:2006/06/11(日) 14:44:43
更に、恒久的な「文身」すなわち、「入墨・刺青』についてだが、これは
「辟邪」の目的のために、恒に「文身」を必要とする集団、即ち「大魚水禽」
の害を避ける必要のある「水人(海人)」集団や、祭祀荷かかわる集団、例えば
「祭器」(おそらく最初は青銅器、或いは木器や骨角器もあっただろう)を
製作する集団、また、祭祀に際して「供犠」となる「人」(捕虜や、神聖な王族
や神官の出自であることも在っただろう)などで、成立したものと考えられる。

現代の日本で、神社で「お宮参り」の再に、頬や額に「朱」の点を打ったり、紅を
差すのも、「文身(絵身)」の習俗の名残りであり、平安貴族の「あやつこ」とか
「犬っこ」などという儀式もまさに「絵身」の習俗に他ならない。
469日本@名無史さん:2006/06/11(日) 15:01:07
漏れは、複数渡来説・混血説を支持しているので一元説には抵抗がある。
中国中部沿岸→山東半島→半島南部 は『交易』ルートとしては、絶好だと
思う。
「騎馬文化」に絞ると、建築などを含め、さまざまな面で説明しにくくなる
気がする。倭人は概ね北方系ではあるが、騎馬的ではないという感じがする。


誰か、この辺りを説明してくれ〜。
470日本@名無史さん:2006/06/11(日) 15:23:53

殷(BC1600〜BC1046)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7
471YAP?:2006/06/11(日) 15:31:27
467氏へ

扶余の「文身」記事には覚えがありませんが、アイヌ民族の入墨(手など)も有名であり、時代の変遷によって(特に中国中原文化との接触によって)
文身の習俗を失ったのは、日本人のみならず多くの東アジア諸民族で認められ、かつてはおおくの北方系諸民族に「文身」の習俗が存在したことは
確実だと思われます。

高床式住居は、南方習俗と考えて良いのではないでしょうか?
弥生時代早期或いは縄文時代晩期は、「民族移動期」であり、民族移動した集団は、北方遼河流域からの日琉祖語集団の他、
「越系海洋民」の一派も当然存在したと思われます。
その中で、高句麗など扶余系諸言語と接触・交流のあった「日琉祖語」集団が、列島内での主導的勢力となったため、弥生時代に
「日本語列島」が少なくとも西日本には、成立したのでしょう。
むしろ、遼河流域の倭人集団が列島に入るためには、その情報を持った「海人」集団の協力が必須であり、是を「ツングース水軍」などとするよりも
もっと南方の江南の海洋民〜沿海民と交流のあったいわゆる「渤海湾沿岸漁撈民」の先導があったと考えた方が良いと思います。
この渤海湾沿岸漁撈民の文化は縄文晩期には、朝鮮海峡・対馬海峡両岸に伝播しているとされています(甲元真之「弥生時代の生業問題」、『季刊・考古学』
第88号、p89)。

つまり、縄文時代晩期には、この渤海湾沿岸漁撈民文化の「逆T字形釣針」や「郭家村型結合式釣針」は、の分布などから、韓国南部沿岸地域と北部九州では、
縄文時代の後期以降に「環対馬海峡文化圏」ともいうべきものを形成していると考えられます。

このような「北方とのつながり」を持った「海洋民文化」が先行的に存在しているからこそ、北方からの「倭人集団」の列島渡来が可能だったのでしょう。
この先行した渤海湾沿岸漁撈民の言語自体が、実は倭人の言語と近いものだった可能性も考えられます。

472日本@名無史さん:2006/06/11(日) 16:03:30
>>459
>倭国や天皇家が、半島南端の倭人の生活圏
>に対してだけ、異常なまでの愛着と親近感を見せていた事だ。

半島南部に鉄があるからだ、等と言ってすましている人たちに較べれば、
あなたは「異常」だと感じる分、正常だ。
で、その愛着は、じぶんたちのルーツだからだ、と考えればなんの異常さ
もない。

>琉球語が日本語と緩やかに分岐し始めたのは、3C以降だと思うが、百済や新羅や
>高句麗から来た支配者が、言語に多大な影響を与えたとすると、全くつじつまが
>合わなくなる。

沖縄語は、恐らく平安末期から鎌倉時代前までの間に、日本語から大きな影響を
受けている。つまり非常に古い層と、その上にかぶさった上記の時代の貴族社会
の言葉との二重構造になっており、後者のほうが圧倒的である。
恐らくこの時代に日本からの征服を受けたのだ。
473日本@名無史さん:2006/06/11(日) 16:43:55
>>472 日本神話に出て来る「根の国」が文字通りルーツの国ということだろうな。

 それは洛東江流域の元彌烏耶麻国周辺、後の任那日本府だろうと思う。
474YAP?:2006/06/11(日) 18:18:08
彌烏邪馬国が、倭人集団の南下時、半島南部で成立していた倭人諸部族連合体、
おそらく祭祀同盟の中心的国家もしくは、祭祀の地を領域に含んでいた部族国家
であったことはおそらく間違いないだろう。

倭人諸部族の祭祀同盟=部族連合体は、基本的に天孫降臨(或いは民族の始祖の降臨)
する/し得る聖なる「やま」(山、本来は日本語のyamaなる語彙に[mountain」
の意味はなかったかもしれない)を中心に祭祀を行うことで、民族移動期に倭人諸部族の
団結・連合・同盟を維持存続させ、それが、日本列島への移住・他民族系の諸部族の制圧
を可能にしたのだろう。

或いは、時期的に弁辰彌烏邪馬国や、或いは『魏志倭人伝』にでてくる「邪馬国」は、
『魏志倭人伝』に記載された時期より少し前の時代の、その地域の(弁辰地域や、
或いは北部九州地域の)祭祀同盟の中心領域を含んでいたのかも知れない。
勿論3世紀の倭人世界では、列島倭人世界の中心的な祭祀の場所は「邪馬台国」、
つまり「やま(山)と」国の領域内にあった。

その様に考えると、倭人の主力の連合体の大首長(倭王)が恒に一系と考えられて
いたのも、説明がつきやすい。
中国の『後漢書』などでも、倭奴国から、邪馬台国さらに、同書編纂時の
倭王倭讃まで、一系と捉えているように思える。
475日本@名無史さん:2006/06/11(日) 18:20:44
>>472
しかも、支石墓のうち、直接のルーツである「碁盤式」の出土は、
半島南端に集中していると思った。北ではなくて、あくまでも南
であるところが、ポイントだろうと思ってます。
476日本@名無史さん:2006/06/11(日) 18:31:59
>>474
中国の『唐書』等にも「日本国とは、古の漢倭奴国のことである」
なんていう記述もあったように思います。
少なくとも中国人は「倭人は一貫して倭人なんだ」という風に何の
疑いも持たずにいたみたいです。
これがもし、百済系だったり、新羅系だったりすると、こういった
記述の仕方は無理だと思うんです。
477YAP?:2006/06/11(日) 18:46:27
全く476誌の言うとおりであり、基本的に、中国史書では「倭人」の
部族国家連合体の「王」(諸部族国家にも当然、王〜小王は=首長はいた
わけですから)、即ち「大倭王」が、「一系」に属することを疑っている
様子はありません。

この点で、「王朝交代」を考えることは無理だと思います。
勿論江上氏や岡氏の言うような日本の北方〜東北アジア的特徴も確かに
存在するわけですから、是を王朝交代以外で説明する必要はあります。

私はそもそもこの「北方的/東北アジア的」特徴の大半は、弥生時代早期に
移住してきた日琉祖語保持者が、北方出自であると言うことで大部分説明できる
と言う解釈をしていますが。
478日本@名無史さん:2006/06/11(日) 19:10:25
魏志倭人伝では邪馬台国の倭国連合から海を渡って東方地域の住民も皆、
倭種と書いていて、倭人以外の異民族が居たとは書いていないな。

 帯方郡使は国情視察に来たのだから異民族がいたのなら居たと書くだろう。

479YAP?:2006/06/11(日) 19:27:27
倭人が列島に移住してきて各部族が各地に割拠する状態になり、
それぞれの地域ごとにまとまって、「祭祀同盟」を形成し、更に
各祭祀同盟間の合従連衡もあるのは当然のことだ。
これらの各地域的祭祀同盟の盟主も、列島渡来に成功した氏族の
中から選ばれたと考えるべきだろう。
それらの地域的祭祀同盟が、より大きな連合体にまとまってゆく
過程の一つが、『魏志倭人伝』に現れる邪馬台国だろう。

日本語の起源を縄文語の求めるのならともかくも、弥生時代に
求めるのなら、日本語話者としての倭人(日本語に母語を取り
替えつつある東日本の倭種も存在しただろう)は、当然、
どこかから渡来した集団だ。

私は日本人の起源についての一元論者ではないが、日本語や
その主な神話体系を含めた習俗は、本来、主導権を掌握した集団
のものが、もっとも影響力が大きかったと考えているだけだ。
480YAP?:2006/06/11(日) 19:37:18
尚、異民族云々で言えば、『魏志倭人伝』には記載されていないとも思われるが、
(黒歯国や侏儒国記事の問題はあるが)後代の中国史書には、半島諸国の状態同様
日本でも、「秦王国」などの記事がある。

その帯方郡使の視察範囲内に、異民族の有力な集団が存在しなかったのか、或いは
倭人への同化が、進行した地域を通過したのだろう。
481日本@名無史さん:2006/06/11(日) 20:05:03
>>474
私の言った「ルーツ」の意味が取り違えられているようだが、伽耶の諸部族連合が
日本を征服し得るのなら、それが騎馬戦術を持つ扶余を戴いている場合は、もっと
容易に征服し得ただろう。
482日本@名無史さん:2006/06/11(日) 20:19:08
>>480 秦王国の人民は言語風俗、夏華に同じ、という記録が本当だったと
すると漢人の都市国家のようなものが、瀬戸内海辺りにあったことになる
が、候補地はどこなんでしょうね?

 帯方郡使なら半島人を知っていたはずが、半島人が居たと書いていない
のも不自然さがある。
 
483日本@名無史さん:2006/06/11(日) 20:33:42
稲作が朝鮮半島から渡って来たというのはウソ。
484日本@名無史さん:2006/06/11(日) 20:51:44
日本人で言い合う前に韓国人に真実の歴史を教えてあげて。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/list.php?board_id=thistory

本当に日本人は息苦しいですね..
果して日本が我が国の近代化のためにインフラ整備したのはウソです.
日本は自国の利益のためにだけで思いました.
我が国の開化を助ける口実でしかなかったでしょう.
米を奪って積んで運ぶためでも鉄道マンドンゴッで..
幾多の私たち国民を殺して飢えて殺して..
考えだけしても日本殺したい.
そして日本なくても近代化した..
是非侵略を正当化するな
485日本@名無史さん:2006/06/11(日) 20:52:59
国人の先祖は、韓人(からびと)ではない。
韓人は倭人だった。つまり、日本人の同族だ。韓人は日本語を話していた。
韓人とは、任那人=百済人、そして志良岐人のことである。
彼らは日本語を話していた。
古代のカラ半島東北部に住んでいた濊人(ワイ人)こそが、韓国人の先祖なのだ。
濊人が話していた濊語(ワイ語)が、現在の韓国語の元になったのである。

だから、日本語と韓国語はぜんぜん違う言語なのだ。
ワイ人が志良岐を乗っ取って建国したのが新羅。
建国者の金奈勿は、新羅が高句麗の属国してた頃に新羅の北方のワイ郷から、
さらに多くのワイ人を呼んで、新羅に移住させた。
相対的に新羅先住民だった倭人の比率は下がっていき、ワイ人が多数派となった。
こうして、新羅(元は志良岐=シラキ)はワイ化が進んでいった。
486日本@名無史さん:2006/06/11(日) 21:07:36
またまたしばらく見ないうちにスレが進んでいるな
私もYAP+同様仕事の関係でなかなかPCには接近できず
またどうしても長文になるので携帯からのカキコはあまりしない
>>414
少々誤解を招く文を書いてしまったようだ。私は北方系の縄文人は
樺太・北海道経由で日本にやって来てそれからポリネシア・東南アジアから
南方系の縄文人が来たと言いたかったのだが、どうも遺伝子などと
書かなくてもいい事を書いてしまったようである。これは謝る
ただGm遺伝子は縄文に遡ると貴殿は以前書いていなかっただろうか?
北方系優位なのは同意。ただ高床式倉庫や水田稲作など南方系的要素も
あるのを忘れてはならない。実際華南系遺伝子も日本人にはあるのだから
当然であろう
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/roots/root4.html

>>466
殷人の文身が絵身であったのは初めて聞いた。とすれば殷人は
北方系と南方系の混血ではない可能性がある。さらに弥生人の
文身も刺青ではない可能性も高くなる。しかし刺青の習慣は日本にも
あったのは否定はできない。実際アイヌや琉球でも手に刺青を入れる
風習はあったのだから。おそらく貴殿の言うようにその後は白粉等
化粧道具が伝わったのでその後は廃れたのが実情だろう

>>471
倭人はおそらくはチベット・タイ・ツングースの
混成エスニック集団だったと思う。魏志倭人伝やその後の発掘資料を
見ればわかると思いますが倭人には南方系と北方系との混成が
見られる。つまりいろいろなエスニック集団がいたのだと考えられる
その中で多数を占めていたのは
チベット>タイ>ツングースの順ではなかったのではなかろうか
487476:2006/06/11(日) 21:14:55
>>477
こういう言い方はあまり好きではありませんが、敢えて言えば宗主国(?)の
中国人は、漢倭奴国―邪馬台国―日本(大和朝廷)を、完全に一本のラインと
捉えているようです。古文書でも概ねそのような記述になっています。
少なくとも「倭人の倭人による国家」であったことは間違いなさそうです。
ただ、現在の宮内庁や日本人の大部分が、邪馬台国と大和朝廷の同根性を否定
しているようなので、その為、天皇百済説とか新羅説とかが盛んに言われる
ようになったのではないかと思っています。

「弁韓は苗の裔にして楽浪に在り」て言いますが、この「苗」は、越とも倭とも
言われていました。基本的には「倭人」の事だと思います。
こう考えると、南方風俗(苗風、或いは越風)の文化をもつ北方顔の倭人(弥生人)
だということで合点が行きます。

>>482
半島の辰韓は、もともと秦の移民が居住を許されて造られた国だったと思います。
だから、秦王国=秦の移民による王国だと思います。どこにあったのかは、分かりませんが。
488日本@名無史さん:2006/06/11(日) 21:21:29
>>485
百済は騎馬系であって、任那地方にいた農耕系の倭人とは違うんじゃないかな?
489日本@名無史さん:2006/06/11(日) 22:17:42
熱烈な騎馬民族説支持者が消えると普段出入りしない>>485の様な
コピペ房が突然沸いて出てくる、不思議だなあ。。。。
490白馬青牛:2006/06/11(日) 23:28:19
>>457459
四角い顔は、広顔でモンゴル人に多い。狭顔は満洲人や華北の漢人と
云える。弥生倭人も山口・北九州の北方形質と九州西部の四角い顔の
在来系があった訳で、倭人は人種集団でもなく、更に漢人や韓人も含め
倭人集団を構成したのであろう。貴族と武士の容貌の違いは、
後に、上級武士は高顔渡来系、足軽は低顔の在来系と埴原和郎氏の云われた
区別にもあてはまる。琉球は低顔で縄文在来系で、弥生系渡来人や古墳人と
人種が違うよ。
>>458
その通りで、北へ行くほど日本人に似ておると思います。
491白馬青牛:2006/06/11(日) 23:48:44
>>466
文身の習俗は、北アジアでもアルタイ地方のパジリク古墳のミイラや
黠戞斯族にもあったが一般的ではない。南方の方が一般的であるのは
近現代に繋がって、おることから明らかな事。ネイテブ・アメリカンが
北アジア起源が明らかなとされるが、遺伝子は別として、形質的に
北方系でもない古モンゴロイドである。神話でもオセアニアとアメリカ
大陸は古い形態を残しておるので、北方、南方と云える問題でもない。
殷の北方南方混合の習俗と違い、北方系の周人の文身忌避概念は、
北方起源と云うことであろう。
492日本@名無史さん:2006/06/12(月) 00:19:58
>>455牛ちゃん
まあ、いいやw
493白馬青牛:2006/06/12(月) 00:27:24
>>471
日琉祖語集団というても、形質が違うよ。民族移動期とは3500年前後の
気候寒冷期のことと思えるが、列島では縄文南方形質に変化もない。
>>476
そりゃあ、『新唐書』の記述であり、旧唐書は、倭国と日本国が別れて
おり、『旧唐書』の日本伝には奴国と云う漢人の奴隷民の末裔であったと
記されてない。記されておるのは『旧唐書』倭国の方じゃ。
>>477
説明と妄想とは違うよ。あなたの弥生早期に移住して来た日琉祖語保持者?
北方出目?で大部分説明出来る?あなたは説明したことも無いが。
現実的でない、空想的な抽象的論理を展開しとるだけでないか。
自己解釈による空虚な妄想論理で、説明出来ると言い切るのは余りにも、
独善的であろう。具体的な解釈とやらを伺いたい。
494日本@名無史さん:2006/06/12(月) 00:33:11
俺は東南アジアの大学に4年間いたが、国籍を顔で判断するのは難しい。
その大学には、中国・朝鮮・華橋・ベトナム・マレーシア・シンガポール・ラオス・ミャンマー・アメリカ・アフリカから来ていた。

白馬青牛さんは色々な国籍の人間が集まる場所で暮らしたことはあるか?
たぶんないのだろう。
経験がないから、490のようなことが書けるのだと思う。
国籍を顔で判断するのは愚かな行為だ。

例えば、俺の姉妹とソニン(在日)は瓜二つの顔をしている。
海外旅行に一緒に行くと、必ず韓国人から韓国人と間違われて声を掛けられる。
祖父は若いときはトルコのサッカー選手のマハダビキアような顔をしている。
俺はガレッジセールのゴリのような顔をしている。
先祖はずっと鹿児島だ。

留学先で俺とそっくりなヤツがいたが、そいつは中国の少数民族の出身だった。
ちなみにその少数民族は稲作もやっているらしい。
世界ふしぎ発見でやっていたが、顔も習慣も日本人そっくりだった。
夜這いの文化もある。

一緒に留学したやつは同じく中国少数民族のミャオ族出身に間違われた。
495日本@名無史さん:2006/06/12(月) 00:51:34
>>315
遅レスになるが、氏や姓はとりわけ渡来系に関しては天皇家が下賜していた筈(百濟王など)
どちらにせよ古代に余を姓か氏とする集団が居たのは確実だろう。ただ余姓、氏が餘部に関
係しているとするのは確かに無理があったかもしれん。あと>>304を何の証拠もない唯の憶測
やこじつけだと仰るがそれは貴方の手法そのものだろう。というより古代の事象がほぼ確定出
来ない歴史的事項であることは散々貴方の主張が述べてきたし、それ故に古代歴史に関して
ある程度推測と妄想で補完する必要が生じる。扶余が日本にやって来、平和的に「簒奪」或い
は「征服」したのか推測と妄想を積み重ねて「あった」と思うのも信じるのも否定すると信じるの
も扶余が差別民だったと論じるのも状況証拠や推測、妄想等の積み重ねに過ぎない。そうであ
ればまず餘部という制度、というよりその対外的な呼称が差別的な地位にあった人達特に皮・革
系を生業とする人たちの集団を「部外者」と見なす過程に置いて成立したこと、狛系、つまり高句
麗の人々が革に強く革の染作、皮細工として大蔵省に職能集団として存在していたこと、現在の
京都三条、姫路の余部地域に皮・革系を地域産業とする元ヒサベツ民がいたこと、これらはすべ
てある根拠の元に一つの説として推測、成立しうるものだろう。それが扶余の「征服」を論ずる貴方
と大して異なる論調、主張だとは思わないが。ところで「余り者」という言葉には「邪魔者」「部外者」
という意味があるらしく「余所者」という言葉を考えてみても「餘部」の「余」という字には地域のコミュ
ニティから見て「異質」で「部外的」な意味があり、その点からも>>304の解釈は正しいと言えると思う。
496白馬青牛:2006/06/12(月) 00:55:10
>>494
旅行した経験からで、様々な国籍の人と暮らした経験は無いよ。
民族集団を全体の集団として考察すると、>490の様な結果となる。
民族別と国籍は違う。わしは、国籍で判断したことは一度も無いのに、
わしが国籍で判断したとは、如何なる文からか?
中国の少数民族で稲作もやってるらしい、世界ふしぎ発見でやってたと、
自己感想のみで、具体性に欠け、抽象的で解らん。何処の民族か云えいや。
留学しても、抽象的言語の乱用で困ったことは無かったか?心配するよ。
497日本@名無史さん:2006/06/12(月) 01:32:42
>>495
読み難いが納得w
498白馬青牛:2006/06/12(月) 01:39:15
>>486
わしに対してじゃったか。Gm遺伝子が縄文期に遡るとされるのは、
Gm遺伝子を発表した松本秀雄氏であるが、縄文人は、北方説の尾本氏等
南方説は宝来氏等、遺伝子解釈は様々であるが、縄文人は形質的には
南方系であろう。
499日本@名無史さん:2006/06/12(月) 02:02:30
>>496

490では具体性に欠け、抽象的で解らん。
日常生活で抽象的言語の乱用で困ったことは無かったか?
白馬青牛の仕事場での人間関係を心配するよ。

具体的に聞くが、民族別に判断した場合
1、ソニン(在日)はどの民族なのか?
2、和田アキ子(在日)はどの民族なのか?
3、西城秀樹(在日)はどの民族なのか?
4、孫正義(中国系)はどの民族なのか?
5、王貞治(中国系)はどの民族なのか?

白馬青牛の主張は間違っていもいいから答えてもらおうか。
顔から民族を判断できるんだろ?

490では具体性に欠け、抽象的で解らん。
白馬青牛は職場で抽象的言語の乱用で人間関係に困ったことは無かったか?
500日本@名無史さん:2006/06/12(月) 02:50:31
顔で民族を判断できる???
白馬青牛はすごいな〜。
専門家でも不可能なことができるんだな。

そんな顔で民族を判断できると豪語する白馬青牛さんに教えて頂きたいのだが、
トミーズ雅はどこの民族なの?
本人は在日じゃないって否定してるんだけど、俺達の間じゃ絶対に在日じゃんって認定してるんだけど。

顔で民族を判断できる白馬青牛さんに教えてもらいたいな。
できれば詳しい説明もお願いします。
501日本@名無史さん:2006/06/12(月) 02:57:15
>>498
縄文人が南方系ってのは結構珍しい説じゃないか?
バイカル湖周辺の寒冷地適応前の古モンゴロイドだというのが通説の筈だが?
502日本@名無史さん:2006/06/12(月) 02:59:34
顔で民族を判断するなんて不可能。
野球選手でメジャーリーグに行った井口はフィリピン人に見える。
503日本@名無史さん:2006/06/12(月) 03:23:27
天皇は朝鮮顔とかよく言われるけど、その根拠はなんだろうな?

俺の友達は耳の位置が低いとか言ってたけど、日本人でも耳の位置が低いやつも高いヤツもいる。

外見で民族を判断するのは難しいよね。

例えば、和田アキ子はどの民族なんだろうね。

在日で有名だが、俺には日本人の顔のように見える。
504日本@名無史さん:2006/06/12(月) 03:45:44
明治・大正の皇族の写真を見ると
二重で南方系みたいな人が結構いたよ。
まぁ今の天皇や皇太子だけで判断してもしかたがない。
そもそも今の天皇の顔も
モンゴル・満州・朝鮮にみられる典型的北方系顔とは違うように思うが。
505日本@名無史さん:2006/06/12(月) 03:58:37
506日本@名無史さん:2006/06/12(月) 04:52:54
>>464
>『新選姓氏録』の記述では、秦織物に関係して「波多」を授けた事に
>なっている、と思ったが。

秦氏が持ち込んだ「織機」を、その持ち込んだ集団にちなんで「はた」と
呼んだ、ということも考えられる。
ちょうど、鉄砲をその最初の輸入の地にちなんで「種子島」と呼んだように。

もっと近い例で言えば、綾をなんで「あや」と言うか。これは「漢」氏が
その織り方を始めた、あるいは持ち込んだからであろう。
しかしその「あや」という「漢」の訓は「安羅」に由来すると私は思う。
これは必ずしも漢氏が安羅人であったことを意味しない。安羅経由で来たかも
しれないし、適当な外地の地名を持ってきてつけただけかもしれない。

507日本@名無史さん:2006/06/12(月) 06:04:55
>>493
そうでしたか?ごっちゃになっていたみたいです(汗)

ただ「日本国に国名を改めた」という記述の際に、古の倭奴国
と日本国をダイレクトに結んだものがあったと思っていましたが。
もう少し時代が下ってからの文献だったかなぁ…

すみません。ちょっとこれ調べてみます。

もしもわかる方がいれば、誰か教えてください!

>>504
これを言うとどうなんだろう?て思うけど、漏れは個人的に、
タイのタクシンさんと皇太子がかぶって仕方がありませんw;
508日本@名無史さん:2006/06/12(月) 06:08:04
>>506
本人が漢人だといっているのに、そこまで疑う理由はなんですかね?
純粋な新羅系だったらそう言えばいいのに。別にそれで差別される
理由はなかったと思う。
509日本@名無史さん:2006/06/12(月) 06:21:54
>>505
正直これは意外!

明治の天皇家は、顔が濃い!
薄いのは全て、婦人の方(殆ど似たような浮世絵美人の顔)。

漏れが思うに、美人の典型(浮世笑顔)と結婚し続けた為に
現在の皇太子などが薄顔になられただけかも…。本来は、
バタ臭い家系だったりして……。
510日本@名無史さん:2006/06/12(月) 10:25:17
秦氏も日本渡来前からすでに自分達のルーツ
(実際は混血もしているのでルーツの一つに過ぎなかったが)を秦人だと考えていたのでは?
中国だか朝鮮の史書だかに
半島に秦人の難民が流入し文化が発達した〜とか記述がなかった?
511日本@名無史さん:2006/06/12(月) 11:15:53
秦氏のルーツを朝鮮なん言ってる人は、
「弓月君」をどう解釈してるのだろう。
素直に弓月国と捉えた方がいいんじゃないの?
512日本@名無史さん:2006/06/12(月) 11:41:31
>>507 戦前だったら不敬罪で死刑になるところだったね。

513日本@名無史さん:2006/06/12(月) 11:53:53
>>505
男性も女性も鼻筋が綺麗な人が多いな。
有栖川熾仁親王の夫人と伏見貞愛親王の夫人は
これだけ美人なら、髪の毛を下ろせば今でも通用する。
514日本@名無史さん:2006/06/12(月) 11:59:32
>>505の明治帝を見て
「そういえばタレントのなすびって今どうしているんだろう」
と思った俺は
戦前だったら不敬罪で死刑になるところだったね。
515日本@名無史さん:2006/06/12(月) 13:17:33
>>510
『後漢書東夷列伝』のこと?
半島の古文書にもそのことが書いてあったハズ。
秦の始皇帝の暴虐に耐えられず逃亡した者の子孫がいたことにも触れて
いる。

>>513
有栖川家の男性方は、顔が濃過ぎてまるでベトナム人みたいだ。
そのぶん妃が薄顔美人。皇族の薄顔傾向は、ひとえにお妃の力と見た。

「有栖川家の縄文顔をナントカして上品な薄顔にしなくっちゃ〜(悲鳴)!」

な〜んて。

女性人が殆ど同じタイプの顔立ちなのは、そういう「美意識」が働いて
いたんじゃまいか?雅子妃も紀子妃も濃い目の顔だから、今後のロイヤ
ルファミリーは「縄文顔」の事大に突入すると思う。なぜなら、美意識
が変化しているから。
516日本@名無史さん:2006/06/12(月) 13:26:55
>>511
弓月氏と秦氏は、実際には同郷じゃないと思った。
517日本@名無史さん:2006/06/12(月) 15:43:31
http://yushodo.co.jp/pinus/6/meijiphoto/photom2.html
とりあえず張っておこう。
明治・大正期の皇族のバタ臭い顔を。↑
518日本@名無史さん:2006/06/12(月) 15:47:33
519日本@名無史さん:2006/06/12(月) 16:33:50
>>505に貼ってあるものを12レス後で貼りなおす意義は何だ
しかも>>513-514あたりのアンカー先だぞ
520日本@名無史さん:2006/06/12(月) 17:03:52
508 :日本@名無史さん :2006/06/12(月) 06:08:04
>>506
>本人が漢人だといっているのに、そこまで疑う理由はなんですかね?

別に漢人が中国人である可能性を否定していない。それを含めて言っている。
つまり、安羅を意味する「あや」が訓として与えられているからと言って、
安羅人であるとは限らない。中国人が安羅経由で来たかも知れないし、
まったく漢とは関係のない外国の地名を単に字にあてただけかも知れない、
ということだ。

そのくらい、外国の国名、氏族名に対する訓読みの与え方はいいかげんなのだ。
例えば高句麗の訓「こま」は百済の「熊川(こむなれ)」に由来するという説は
有力だし、後の「唐」の訓「から」は「加羅」に由来するのだから、何をか
いわんやである。
最も多い誤りは「秦」の「はた」、「漢」の「あや」などがこれらの漢字の
本来の訓だと考えることである。

521日本@名無史さん:2006/06/12(月) 17:09:38
逆に言えば「あやひと」は本当に「安羅人」なのであり、単に「あや」を表す漢字と
して「漢」をあてた、という可能性も同じだけある、ということになる。
522日本@名無史さん:2006/06/12(月) 18:32:50
>>506
>しかしその「あや」という「漢」の訓は「安羅」に由来すると私は思う。

正論。
523日本@名無史さん:2006/06/12(月) 19:11:13
加羅カラ・カヤも安羅アヤも半島の倭人居住地域を指す単語だということか。
524日本@名無史さん:2006/06/12(月) 21:11:00
>>520
ないと思います。

本人(秦氏)が「始皇帝の子孫」(←古代呉の民は等しく「太伯の子孫」を自称するなど、
古代の人々は、王様の子孫を名乗る事が多々ありました。直接の子孫ではありません。)
を名乗り、『新選姓氏録』にもそのように書かれています。
もしも、新羅人が倭国内で激烈な差別を受けていればともかく、わざわざ民族を偽る必要
がどこにありましょう?!ありませんね。敢えて疑う理由が知れません。
525日本@名無史さん:2006/06/12(月) 21:15:28
このスレは騎馬民族説は今?という事ですが、古代中原で騎馬戦が流行し始めたのは、
騎馬民族が中原へ流入し始めてからだと思いました。
騎馬民族が馬を乗り回しているのを見て、本格的な騎馬戦を取り入れたのだと思います。
個人的には、半島や大陸の連中が馬を乗り回してイクサを有利に進めているのを見て、
「オラも騎馬戦を取り入れてぇなぁ・・・」と羨ましがって、馬を導入した可能性があるん
じゃないかと思っています。
526日本@名無史さん:2006/06/12(月) 21:18:55
>>522
秦氏は「漢人」じゃなくて正確には『秦人』(新羅出身)でしたね。

私が勝手に「漢人」(つまり中華民族)と呼んでいるだけなので、
気にしないでください。m(_ _)m
527白馬青牛:2006/06/12(月) 22:35:53
>>499500
その他にも工作活動に熱心じゃのう。わしの言を受け売りし、抽象的で
解らんじゃカバチ(文句)たれとるわい。
http://www2g.biglobe.ne.jp/~gomma/data99b.html
の●関西顔?●作者から に、埴原和郎氏の引用が出ておるが、
『公家顔』『公家面』『瓜実顔』が北方系で、「弥生〜古墳時代に百済や
高句麗からの移民が多くあったことを指摘」された。薩摩型とは、
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/1041/kodai.html
の★ベルツ(明治期のドイツ人の医学者、)の日本人分類に長州型と
薩摩型が出ておる。昔の価値観で高貴な長州型(本州西南部や日本の
上流階級を形成する貴族的風格を持った高等なタイプとする)に
嫉妬し、>494のように薩摩人が、南方系不細工顔と思われるのが
不満で、このスレで面長、高顔が多い上流階級まで南方的じゃと偽って
熱心な工作活動を繰り返すよのう。
528日本@名無史さん:2006/06/13(火) 00:07:50
薩摩は、堀が深くて今風のいい男が多い土地ですよ。
細面で糸を引いたような細い目が流行る時代でもないでしょう。
529日本@名無史さん:2006/06/13(火) 00:12:14
>>527

だから、白馬青牛の説明は具体性に欠け、抽象的で解らん。
日常生活で抽象的言語の乱用で困ったことは無かったか?
白馬青牛の仕事場での人間関係を心配するよ。

具体的に聞くが、民族別に判断した場合
1、ソニン(在日)はどの民族なのか?
2、和田アキ子(在日)はどの民族なのか?
3、西城秀樹(在日)はどの民族なのか?
4、孫正義(中国系)はどの民族なのか?
5、王貞治(中国系)はどの民族なのか?

白馬青牛は顔から民族を判断できるんだろ?
判断できないなら、「私はウソを言いました。」って言いなさい。
上顔から民族を判断できるんだから、上の5人はどの民族なのか教えてくれよ。

俺は顔で民族を判断するのは不可能だと思っている。
しかし、白馬青牛は顔から民族を判断できるんだろ?
530白馬青牛:2006/06/13(火) 00:12:23
>>501
縄文人は、寒冷適応前の古モンゴロイドであろう。北方説・南方説と
様々あるので決め付けられん。
http://www.dai3gen.net/jinruigaku.htm
にも、様々な見解がある。
ほいで、明日は忙しいんで書けん。
531日本@名無史さん:2006/06/13(火) 00:16:33
白馬青牛は顔から民族を判断できるんだろ?
判断できないなら、「私はウソを言いました。」って言いなさい。
上顔から民族を判断できるんだから、上の5人はどの民族なのか教えてくれよ。
532日本@名無史さん:2006/06/13(火) 00:36:06
サッカーがこけたので漏れはヤケクソ気味です・・(ぶつぶつ)
守れよー(涙)!

いずれにしても、「公家顔」なので高貴な「騎馬民族顔」という
ような事はナシにしようと思いました。意外にも皇族にも濃い顔
が多いというようなことに気が付いたので。ソニンや和田アキ子は
女真顔なのか?とも思いますが、西城秀樹に到ってはわけわかりま
せん。孫正義が中国系だとは思いませんでした。北朝鮮だと思って
いたんですが…。
533日本@名無史さん:2006/06/13(火) 02:42:45
>>532
そもそも、韓国人=女真っていう認識がどうかと。
534日本@名無史さん:2006/06/13(火) 06:53:17
女真の血は入っているでしょう。
特に北の方は。
535日本@名無史さん:2006/06/13(火) 08:28:14
ん〜、清の時代にどれだけ交わったかどうかよくわからないけど、
韓国人=女真は明確に間違いですねえ。基礎語彙も一致せんし。
そもそも高句麗、百済の支配層は扶余系だし、新羅は半島南部の韓系。
現在の朝鮮人の基礎は韓系の人々でしょうねえ。
536日本@名無史さん:2006/06/13(火) 08:29:22
まあ女真というより、ツングースというほうが正しいね。
言語学的な区分じゃなく、人種的。
537日本@名無史さん:2006/06/13(火) 08:36:30
>>524
まあそうだけど、結構出自の偽造はあったようだよ。
このことは神皇正統記とかにも書かれていて、主に「天皇家」であると虚偽を付くのが絶えなかったそうだ。(笑
新撰姓氏録、皇別には新良貴ってのがいるけど、こいつ、どうみても新羅系だからね。で出自の欄見ると
案の定、新羅を建国したのは天皇家です、なんて言ってる。まあこれは三国史記等もあるようにかなり含みもあるかもしれんが。
三国で言うと、新羅と対立した時期は新羅人に対する差別は凄かっただろう。また三国出自の人々は基本的に身分が低く、
出自を尊くするために嘘をつくこともあったとされる。
538日本@名無史さん:2006/06/13(火) 09:20:44
>>531 民族の容貌は平均的な傾向という程度のもので特定個人が何民族か
などというのは意味がない。

 昔の朝鮮人が日本人よりやや背が高かったというのも平均値の話で、数人
の個人を比較した話ではないだろう。

 日本国内でも沖縄顔とか○○顔と呼ばれる地方別の容貌がある。
539日本@名無史さん:2006/06/13(火) 11:00:40
>>537
シラキ人てのは新羅人とはちゃうのか?
540日本@名無史さん:2006/06/13(火) 11:35:05
>>537
秦氏が帰化した時代に『新羅差別が激烈だった』 というソースをヲクレ。
それに、秦氏が倭国に協力して新羅攻めに精を出しているのも、漢民族
出身で、新羅という国家自体に未練がなかっただけではないか?

新羅は、元々秦の移民が住み着いた場所。その新羅の漢民族が圧迫され、
日本に亡命。←普通はこう考えるのが筋だと思うが、なぜに曲解を?
541日本@名無史さん:2006/06/13(火) 13:39:06
騎馬民族(扶余)に圧迫された漢民族が、祖国(新羅)を捨てて日本に
亡命したとすれば話がわかる。新羅に恨みこそあれ愛着が全く無いのも
わかる。
542日本@名無史さん:2006/06/13(火) 18:28:04
3王朝交替説とは、古代日本において
T、3C中葉〜4C中葉 三輪王朝(崇神・垂任朝)
U、4C後半〜5C    河内王朝(応神・仁徳朝)
V、6C以降        越前王朝(継体朝)
の3つの王朝が交替したという説で、ほぼ現在通説となっています。
3王朝交替説を取り上げる場合、その直前の時代(邪馬台国連合の時代)、その直後の時代(いわゆる欽明朝の内乱の時代)との関係も問題になります。

騎馬民族説とは、江上波夫氏(故人、つい最近ご逝去されました)が初めて唱えた説で、古代日本、ちょうど3王朝交替説の時代に大陸系騎馬民族による征服王朝が存在したという説です。
騎馬民族説は日本古代史を広く東洋史の視点から位置づけるもので、通説とはなりませんでしたが、画期的な説です。

後の調査・研究の進展により、3王朝交替説、騎馬民族説とも修正意見や異論も提起されています。
543日本@名無史さん:2006/06/13(火) 18:31:18
>>542

王朝渡来説には必ず「痕跡を消し去り」と文言が入ります。
逆に考えれば、この文言がなければ成り立たないとの事になります。
でも、王朝を立てるほどの民族なら消すことはないと思います。
なぜこそこそする必要があるのか私には疑問が残ります。
544日本@名無史さん:2006/06/13(火) 18:35:54
>>543

> 王朝を立てるほどの民族なら(痕跡を)消すことはないと思います。
> なぜこそこそする必要があるのか私には疑問が残ります。

王朝を立てるほどの民族だったからこそ、消さなければならない過去もある。
「タレントになるほどの人なら風俗嬢だった過去を消す必要はない」ってことはないでしょ?

おそらく、騎馬民族の漢民族に対するコンプレックスはすごく大きかったと思うんです。
明治時代の日本人が欧米人に対して抱いたものとは比べ物にならなかったんじゃないでしょうか。
なにしろ同じユーラシア大陸に住みながら、中国人は巨大な文明を築き、膨大な文化を蓄積していたのに対し、騎馬民族は文字さえなかったのです。
だから匈奴、鮮卑、突厥、扶余などが「自ら記した歴史書」が残ってないわけで・・・。

そもそも騎馬民族が王朝を建てるという行為は、主要産業を牧畜から農業へシフトし、定住化を目指すものですから、とりもなおさず「脱・騎馬民族」を意味しています。
だから、制度も風習も、次々に中国のものを採用していったわけです。

でも、ちゃんと大王の墓には馬の埴輪が祀られてたりする(笑)。
痕跡は残ってないようで、ちゃんと残ってると思うんですが。
545日本@名無史さん:2006/06/13(火) 18:39:54
>>544

騎馬〜遊牧民というのは、誇り高く農耕民をどちらかというと馬鹿にする・下に見ると司馬遼太郎氏をおしゃっています。
勿論農耕民も遊牧民を文字なき民、禽獣のごとき存在と感じていたことも確かですが、
一般的に騎馬民族の征服王朝が特に出自を隠したということもないように思います。
勿論鮮卑拓跋部〔北魏)は漢化政策を採りましたが結局それによる辺境守備の同族の反発を招き亡国を早めたのも確かです。
また唐公李淵は鮮卑か漢族かはまだ決していないように思います。
私個人としては鮮卑だろうと思っていますが、すでに隋末に漢民族化して自らを漢族と考えていたのではないでしょうか?
司馬遼太郎氏の著書などではモンゴル人は遊牧民族であることに強い誇りを持っているように書いてあります。
546日本@名無史さん:2006/06/13(火) 18:46:17
>>543
モンゴルも女真も「痕跡」を全く消していませんでしたね。
日本においてのみ、なぜに痕跡を消す必要があったのかがわかりません。
倭人て強くて有能だったのだろうか?それで、びびったとか(苦笑)
547日本@名無史さん:2006/06/13(火) 18:52:47
>>544

大量の弥生人が渡って来たと思いますが、それは一度にではないと思います。
例えば、一度に1000人と100年間に1000人とは事情が違います。
又渡海の目的が交流や亡命と軍事目的でも違うと思います。
軍事目的なら、まず朝鮮半島を占拠し、そこに前線基地を作ることが必要だと思います。
そこでは兵糧と武器のの確保、渡海用の多数の舟の造船、それ用の技術者や労働者の確保(元寇時と同じ様に)。
いざ進軍の時は、留守用の守備隊に戦力を分けなければならないでしょう。
戻るところがなくなる恐れもありますから。

タレントと王朝とはレベルが違いすぎますよ。
タレントとは、すでに完成されている芸能界という社会を前提として成り立ちます。
そして、その中の一員にすぎません。
コンプレックスも中国に対してであり、日本人に対してではないと思います。
ですから、もしそうであるなら、こそこそする必要はないのです。
コンプレックスの大きい人は、強い人には低姿勢だが、弱い人には威張るものです。
漢字を使用していても、日本人は中国人ではありません。
548日本@名無史さん:2006/06/13(火) 18:54:19
>>544
>>546

ジンギスカンの墓が未だに行方不明であるように、ある意味刹那的です。
彼らには、自らの痕跡を消すことに美意識があったのではないか、などと考えます。
それは、永続的なものに対し、軽い嫌悪感を感じざるを得ず、桜の散り際に美を見い出す、日本的な価値観とある種共通するようにも思います。

劣等感故に痕跡を消したのではなく、その高い誇りが、彼らの美意識を貫徹させたのだと考えるコトが可能です。
549日本@名無史さん:2006/06/13(火) 18:58:19
>>547

海の民にとって、海は障壁ではなく道路です。
しかし、騎馬民族にとってはどうでしょうか。
馬は海を怖がるそうですね。
そのため、馬を船に乗せるのは多くの人力を要すると聞きます。

一人あたま数等の馬を引き連れ、交代で乗るという扱いで、人より馬が多い騎馬民族にとっては、海は絶大な障壁です。

騎馬軍団を主力とする華北の王朝が長江を渡るだけでも、そうとうの難事業です。

対馬海峡は長江よりは広いんですよ。
550日本@名無史さん:2006/06/13(火) 19:09:42
>海の民にとって、海は障壁ではなく道路です。

そうなんです。
現代のわれわれは、車を常用しているせいか、ついつい「陸の視点」からものを見てしまいますね。
「海の視点」からみると、「目からうろこ」ということも、ままあります。

われわれサラリーマンも、スーツにネクタイ。
しかし、「西洋人」が渡来してきたわけじゃありません。

私自身は「騎馬民族王朝説」は「ちょっとねぇ・・・」という否定的な眼で見てしまいます。
「王朝」は建てなかったけれど、「騎馬文化」が渡来したことについては、どなたも異論はないと思いますが・・・。
551日本@名無史さん:2006/06/13(火) 19:21:45
形質人類学や遺伝学のデ−タから日本人、日本民族、日本語、日本国家の起源に迫れないかと考え、いろいろ思案して楽しんでいます。
HLAハプロタイプのデ−タから日本人とモンゴル人での最多ハプロタイプがA24B52DR2と言う共通性があります。
この集団の日本列島流入の時期が(数次に分かれて移住してきたのですが)古墳時代とは考え難く、
縄文晩期〜弥生時代初期がもっとも可能性が高いように思われます。

一時期日蒙共通祖語集団が蒙古高原東部に居住していたところに、
後のチュルク(トルコ)語の祖語を持つ騎馬遊牧民がおよそ6000〜10000年前に東進して、
この集団を南北に二分しその北方集団が騎馬民族化して後の(東部)モンゴル語集団の祖となり、
南方集団がいわば騎馬民族化を拒否して遼河流域に南下し(漁撈、採集、畑作に従事、ただし一部の支配者層は乗馬技術を採用した可能性あり)、
東夷諸族の中の一集団として(北方集団は北テキと見做される)3000〜4000年前ころには日本語の祖語を形成し『倭』と呼ばれるようになり、
殷周革命前後の民族移動期に遼河流域より南下を開始し、比較的短期間に朝鮮半島を縦断し日本列島に入って、
前後して列島に入った韓族、江南系諸民族〔越系)や先住の縄文人(北方系と南方系で出自が異なる)を圧倒して日本列島を日本語列島とし、
弥生時代を切り開き、後の国家形成の主力となったという仮説を立てたことがあります。

ただ証拠もなく証明不可能なので遼河以前については現在は仮説を放棄し、
前10世紀以降については一応いまでも成立し得ると考え、
韓国・北朝鮮・中国などの考古学や人類学のデ−タ集積を待ってもう一度再検討するつもりです。
皆さんのご意見も伺いたいのですが。
552日本@名無史さん:2006/06/13(火) 19:27:08
「古代に国境は無い」まったく同感です。当時は日本人も韓国人も居やしない。
民族としての日本人と韓国人が形成され始めたのは、663ADの白村江の戦い以降の話だと私は思ってます。

三王朝交代説については、

(1)日本列島に土着していた騎馬民族の出自を持つ一族の資産(領土・領民)を、
   朝鮮半島にいた同族が「乗っ取った」ケース・・・三輪/河内王朝
(2)日本列島に土着していた騎馬民族の出自を持つ一族の資産(領土・領民)を、
   同じく日本列島に土着していた、この一族の遠縁(と思われていた一族)が
   継承したケース・・・継体王朝

などと想像しています。あくまで想像ですよ。私は素人ですから。

神武天皇というのは、「騎馬民族の出自を持つ一族」の当主で、王権とまでは行かなくても、
大和の地方勢力としての基盤を最初に確立した人を象徴しているのではないか?
などと想像しています。
それが(実態はどうだったか分かりませんが)葛城王朝なんて呼ばれてるのかな〜、な〜んて。

継体天皇の出身地の北陸地方って(実は出雲地方もそうなんですが)、
高句麗と同型の四隅突出型古墳が多数出土してるんですよね。
私は継体天皇の出自に高句麗の影響を感じています。
(高句麗族は扶余族の末裔を名乗ってました。
553日本@名無史さん:2006/06/13(火) 19:35:01
>>547

軍を渡海させることは、その背景に国内の統一(動員力)があります。
統一なくして兵力を分散する事はできません。
軍を一旦渡海させると、国内で何かあったとき簡単に戻ってこれない。
まとまった軍を出兵させるには、出発と受け入れ地にそれぞれ前線基地が必要と思います。
その後の百済亡命者の受け入(多くは武蔵野国)れなどを考えると、統一国家がないとは言い切れないと思います。
又唐は、戦後の朝鮮半島処理で、日本進駐どころではないでしょ。
もし唐が日本に兵を送ったら、新羅に補給路を絶たれ、もっと簡単に朝鮮統一がなったと思います。
554日本@名無史さん:2006/06/13(火) 19:36:56
>>552
>高句麗と同型の四隅突出型古墳が多数出土してるんですよね。

あれは無視していい。
江上・森ご一行様に対して、
北朝鮮が国賓級待遇で迎え、「さぁ、見てください!」だったし。
考古学なんてない国ですから。
555日本@名無史さん:2006/06/13(火) 19:44:23
>>552

三輪王朝の箸墓古墳と、河内王朝の応神や仁徳の墓は、どちらも前方後円墳ですよね。
それぞれが民族の異なる王朝だったら、墓制もそれぞれの風習を重んじるはずだと思うのですが・・・。
556日本@名無史さん:2006/06/13(火) 19:54:38
伽耶地域では、3世紀末くらいにいきなり騎馬民族的な文化が出現したそうです。
ところが5世紀になり高句麗や新羅の圧力が強まると、
この騎馬民族的な文化をもった人々が突然、姿を消してしまったらしい。

新羅王室は朴・昔・金の三氏があったそうですが、一番新しい金氏には謎が多いらしい。
卵生神話を考えると、古い王(おそらく朴・昔氏)は船でやってきた可能性が高く、
このあたりが始祖は倭国から行っている、という話になっているんだと思います。
ただ、金氏に関してはスキタイ系遊牧民の流れを汲む騎馬民族ではないか?
という話もあるそうです。
よくは知らないのですが、百済や高句麗には見当たらない新羅独自の「黄金文化」や
慶尚道に残るコーカソイド風の石人像等が、このような説の背景になっているそうです。
557日本@名無史さん:2006/06/13(火) 19:55:53
>>549
>海の民にとって、海は障壁ではなく道路です。
>しかし、騎馬民族にとってはどうでしょうか。

遊牧騎馬民族ではないが、ここで言う「騎馬民族」である扶余は
あなたが言う「海の民」たる狗耶韓国人を支配したのです。
海に関することは狗耶韓国人にやらせることができます。

>一人あたま数等の馬を引き連れ、交代で乗るという扱いで、人より馬が多い騎馬民族
>にとっては、海は絶大な障壁です。

一人あたま数頭というのは後のモンゴルのことです。扶余の軍隊はそのようなものでは
なく、装甲騎兵、軽騎兵、歩兵からなる、ごく普通の軍隊です。
重要なのは同時代の倭に、騎兵というものがなかったことです。

>対馬海峡は長江よりは広いんですよ。

康煕帝が満洲北端のアルバジン城を攻めるのに、どうやって軍隊を
送ったか、ご存じですか? 内陸の吉林を基地として、第二松花江〜松花江
〜黒竜江と、延々千キロ以上の河上輸送を行ったのです。なぜか?
当時の満洲は山と湿地と密林で、とうてい陸地の通過が不可能だからです。
17世紀にしてこの有様。扶余のころはなおさらでしょう。
扶余は東部満洲の広い領地を治めるのに、河上輸送に頼ったに違いないのです。
もちろん馬も含めてね。

558日本@名無史さん:2006/06/13(火) 19:59:41
>>556

新羅の王家朴・昔・金三氏の内、最初の3代は朴氏で四代目が昔氏の脱解尼師今です。
彼は倭国の東北1千里のところにある多婆那国(但馬・肥後国玉名郡などの説あり)の生まれと「三国史記」に記載されています。
この他建国以来の重臣として瓢箪を腰にぶら下げてやってきた倭人「コ公」がいます。
どうも新羅の建国には土着の6部(韓族?古アジア族?)に倭人や扶余か馬韓人の支配者、中国の楽浪郡の遺民などが関わっているようです。
559日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:07:00
>>552

騎馬民族征服説では一般に河内王朝と目される倭の五王は征服王朝(扶余系騎馬民族)とみなされています。
しかし、中国南朝に朝貢した百済や、高句麗にしても皇帝への上表文で、王家の出自を堂々と扶余の出身と述べていますが、
倭王武の上表文では扶余の文字は全くでてきていません。

これはこの王朝が扶余出自でないことを意味していると思われます。
扶余の王家であれば東明・朱蒙説話(神話)を持ち、誰はばかることなく中国王朝に宣言したはずです。
数百年〜1000年以上前におそらく日本列島に入ったのでしょうが、
扶余〜ツング−スではなく、倭人(北方系)の出自だったと思われます。
560日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:10:39
>>554
すごくタイムリーなコメント、ありがとうございます!

漏れは、江上が北朝鮮に招待され、北の高官から「これからも頑張って
ください。」と言われた件について、ちょうど白馬青牛氏に尋ねようと
思ってたところですよ。


江上波夫が北朝鮮とズブズブな本当の理由て何なんですか?
561日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:15:41
鳥越憲三郎著書 古代朝鮮と倭族(中公新書)

以下引用

「稲作を伴って日本列島に渡来した弥生人は「倭人」と呼ばれ、先住の縄文人を
征して「倭国」を形成した。彼らの渡来は紀元前400〜450年ころの縄文晩期と
みられている。

ところが同じ倭人の称をもつ部族が中国大陸にもいた。「論衡」によると
紀元前1000年(今から三千年前)、周代初頭の記事として、例えば
「周時天下泰平にして、越裳白雉を献じ、倭人、ちょうそうを貢す」などの文が
3ヶ所にみえる。(中略)

中国大陸にいたという倭人は、一体どこに住んでいたのであろうか。その倭人の
住地を捜し求める調査研究の結果、長江(揚子江)上流域の四川、雲南、貴州の
各省にかけて、いくつもの倭人の王国があったことを知った。「史記」が記す
てん、夜郎、しょ蘭、きょう都、昆明、ずい、し、さく、ぜん、ぼう、蜀、巴などの国々
であるが、秦始皇帝と前漢武帝の征討をうけて、多くの王が殺され、滅亡していった。

彼ら倭人は新石器時代の初めごろ、雲南省のてん池か、または周辺に点在する湖畔で
水稲の人口栽培に成功したとみられる。生産様式の異なりは、それに伴って
特殊な文化を育成するが、その文化的特質の中でもっとも顕著なものは、
水稲農耕という生産様式から高床式建物を考案したことである。(中略)
562日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:16:24
彼らはその稲作と高床式建物を携え、雲南から各河川を通じて東アジア、
東南アジアへ向けて広く移動分布した。そうした文化的特質を共有する民族、
つまり日本人と祖先を同じくするものを、先年来「倭族」という新しい概念で捉え、
これまで幾多の論所をもって提唱してきた。

それら倭族の中で、長江(揚子江)を通じて東方に向かった一団の中から、
さらに朝鮮半島を経由して日本列島にまで辿り着いたのが、日本における
弥生人、すなわち倭人である。

長江を経て東方に移動した倭族については、約七000年前の長江下流域における
ホムド遺跡をはじめ、そこから山東半島に向けて北上し、その地でいくつもの王国を
築いていたことや、また東南アジアへ移動分布した倭族についても、すでに他の
論著で詳しく考証し、本書でも簡略に紹介しておいた。

しかし日本列島に渡来した倭族を理解するためには、径路となった朝鮮半島に
おける倭族の足跡について、ぜひとも学問的に論証する必要があった。
本書はそれを果たす目的で書いたものである。
563日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:20:24
>>561
>>562

「越」を蔑んで「倭」の字を当てたという説があります。
どちらも音読みで「wo」なのだそうです。
春秋時代の越が滅び、日本列島に落ち延びた遺臣が、北陸地方に越を再興。
中国がこれを倭(あるいは東倭)と呼び、それ以来、列島を「倭国」、列島の住民を総称して「倭人」と呼んだというもの。

私は、北陸の越の勢力が奈良盆地に達し、ここを「大越」と呼んだのが「大和」の始まりではないかと想像しています。
564日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:26:16
少し質問させてもらってもよろしいでしょうか?

二世紀末から四世紀中期までの遺跡である纏向遺跡の外来系土器についてです。
土器のうち、東海、吉備、山陰が主で、北九州の土器がほとんど出土していないのは何故でしょうか?(後半は多少増えてるそうですが・・)
民族が移動すれば、土器も移動すると思うのですが?

逆に北九州の遺跡からは大和系の土器が出土しているそうですが、その辺りはどのように考えたらよろしいのでしょうか?
565日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:29:14
>>564

纏向遺跡の搬入土器は総数の15%以上を占めるが、
この内半数は東海系、北陸と山陰で17%、河内10%、吉備7%、関東系5%、近江系5%、西部瀬戸内系3%、播磨系3%、紀伊系1%、他に韓式土器も出土。
北九州のデータはありませんでした。

また、白石太一郎氏によると
「最近著しく進んだ初期の土師器の研究では、この時期の土器の移動や影響関係が明確に東から西への動きを示し、
九州の土器が吉備や畿内へ動いた証はほとんどみられない。」
566日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:32:29
>>561
>>562

雲南省での水稲栽培云々は、かつての水稲耕作の起源地をアッサムから雲南のいわゆる「東亜半月弧」に求めた中尾佐助氏らの所説の影響下に成立したものだと思われます。
だが、現在水稲耕作・ジャポニカ米の起源は長江中下流域にほぼ決定し、黄河文明に先立つ「長江文明論」も盛んに議論されています。
「倭族論」を認めると、黄河文明の担当者だった「夏人(華人)」の出自もタイ族や苗族、南島語族も全て「倭族」ということになります。
そもそも人種や民族を東アジアで論ずること自体無意味になります。
せめて黄河文明成立後の長江流域の非漢族を「越族」と呼ぶならまだしも議論になり得ると思います。
「倭族論」は「倭」「倭人」の探究には無益だと思います。

「倭族」の代わりに「越族」という用語を使用するならば、「百越」という中国史上の語彙があり、議論の対象となり得ますが、
鳥越氏しか使用しない「倭族」を安易に使用すれば、ただ混乱を招くだけでしょう。
私は鳥越氏の意味するような「倭族」ではなく、「漢族」「韓族」「越族」「満族」「回族」といった文脈で使用される「倭族」は勿論認めますが。
567日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:35:13
>>566

東アジア、特に中国大陸で人種を論ずることにあまり意味は無いと思いますが。。。
http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-55.html
民族は文化・習俗の集合体ですので、まだ意味はありそうですが。。。

鳥越氏は「古代中国と倭族(中公新書)」の中で長江文明論について検証てましたね。
長江文明の担い手は倭族ではないか? と。
同書はまた、苗族は紀元前ニ四00頃に黄河流域から長江中流域にやってきた部族ではないか?と言ってます。
彼等は今でこそ水稲耕作民ですが、床式でなく土間式の住居やその他の生活習俗から見て、倭族とは明らかに異なるそうです。
苗族が長江中流域に土着した時点(苗族が長江中流域にあった倭族の王国を滅亡させた時点)で、
倭族文化圏は長江上流域と長江下流域に分割されてしまった、と言ってます。

現代中国でも上海語や広東語はタイ語系統の言語で、北京語とは言語系統が全然違う、
と岡田英弘氏は言っていたような気がしますが。
そもそも中国大陸で人種を云々すること自体、あまり意味はなさそうです。
http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-55.html

鳥越氏の著作を見る限り、倭族とは、
*水稲稲作
*高床式建物
*村の境界の結界門(鳥居の起源)
*注連縄・〆縄
等の一連の習俗を持つ人々であって、人種は決定的なファクターではないように思われます。
倭族が拡散した領域は大変広いので、倭族発祥の地(長江上流域)から遠く離れた地に住み着いた倭族が
人種系統が異なるグループと混血したのに習俗は捨てなかったとしても、別に変な話ではないと思います。
(なんせコメほど人の口を養えるものはありませんから)
568日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:36:18
>>566

鳥越氏はタイ人は倭族であると言ってますが、南島語族を全て「倭族」とは言ってなかったと思います。
南島語族の一部は倭族と同じ習俗を持っているので倭族である、とは言ってたような気がしますが。
言語に言及するのは気がひけるのですが(笑)、日本語にはタイやモン・クメール系の語彙が結構入ってる、
らしいじゃないですか。
(鳥越氏はモン・クメール族も倭族に分類してましたね)


>鳥越氏しか使用しない「倭族」を安易に使用すれば、ただ混乱を招くだけでしょう。

定義はしっかり書いておくべきでしたね。


>私は鳥越氏の意味するような「倭族」ではなく、「漢族」「韓族」「越族」「満族」「回族」といった
>文脈で使用される「倭族」は勿論認めますが。

それじゃ、「倭習俗グループ」とでも呼んでおきますか?(笑)
インド・ヨーロッパ語族と似た感じで。


>せめて黄河文明成立後の長江流域の非漢族を「越族」と 呼ぶならまだしも議論になり得ると思います。
「倭族論」は「倭」「倭人」の探究には無益だと思います。

鳥越氏ならおそらく、「越族」とは倭族の一バージョンで、「越族」には多くの下位バージョンがある、
と言い出しそうだ。
569日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:41:03
>>547
漏れは、弥生期以降における騎馬民族の襲来はなかったと思ってます。
というのは、弥生の集落は、主に堀を廻らすだけで、中国のような
馬鹿高い城壁を廻らす事がなかったからです。その他の時代において
も(奈良・平安)、高い城壁を廻らす習慣は根付かなかった。これは、
純粋な「騎馬民族」の「征服者」が来なかったせいだと思います。
内戦はあったが、基本的には、純粋な騎馬民族の征服者によるもの
じゃなかったんじゃないかと思います。素人だから、わからんけど。

>>548
満州族は、漢民族に風俗まで強制してますよ。
漢文化の継承者となる一方で、満州文字も使い続けていた。

>>552
漏れは、神武天皇は、単なる邪馬台国から派生した勇敢な開拓者だと
思ってます。騎馬民族の征服者などという御大層な出自じゃないと
思う。

あと、陵墓の出土品などから見て、継体帝は海にも関係してませんで
した?
570日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:44:54
>>566

>「倭族論」は「倭」「倭人」の探究には無益だと思います。

とりあえず背景知識として知っておいても損はないと思いますけど。
「倭国」「日本国」はいかにして形成されたか?
を知る上で、日本列島だけでなく、中国本土、満州、朝鮮半島での倭国形成に関連する
動きを幅広く知っておくことは、視野狭窄を避けるためにも有益だと思います。
571日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:49:15
>>565

レス、ありがとうございました。

纏向遺跡って、
外来系土器では、東海
古墳の特殊器台では、吉備
鏡の埋葬では、北部九州(?)
三輪山の大物主では、出雲(?)

多くの出自ルートが絡み合っていて初心者には、訳がわからない状態でしたので・・・

でもよく考えてみたら、在地系の土器が85%近くあると思えば、在地の人々が造った遺跡なのかなあ・・・
あと、朝鮮半島の土器が0.0%以下で、紀伊系1%なので、紀伊よりも少ないんですね。

詳しく調べるほど、朝鮮半島の影響は少ないですね。
572日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:55:03
>>566

岡田英弘氏の著作は、私も早くから読んでいます(「倭国」「倭国の時代」の他チンギズ・ハーン、妻も敵なりなど)し、
その黄河流域での後漢末期から隋唐までの間に人種交代が起こったとの主張は正しいと考えています。
しかし周辺諸民族(漢民族も含めて)の成り立ちを考える時、形質(自然)人類学や言語学・民族学的なことを無視してよいはずはありませんし、
私は岡田氏の著書からは、日本国の形成に華僑が大きな役割を果たしたが、民族を規定する最大要素とも言うべき言語については、
はっきり「倭人」の言語を(華僑や倭人の首長層など支配者が)採用したとしていると理解しました。
彼は倭人と華僑の二つのグル−プの異質性は明確に認めています。

是に対し鳥越氏の説は(狭義の)倭人も越人も南島語族系も韓族も一緒くたに「倭族」と称し、
自然人類学からの反論を予め受けないように、いわば「逃げている」と私には思えるのですが。
人種は基本的に形質・遺伝などの概念が重要であり、民族は言語と歴史的共同体意識が重要ですが、
ある程度古代に溯れば集団の人種的特徴が民族的なそれと重なる部分が多く、
言語記録などがない場合、人類学的、遺伝学的デ−タに基付いて定義された集団を民族集団と同一視しても
そう間違っていないと思っています。
573日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:01:27
>>569

失礼ですが、「思っています。」だけでは反論できないです。
その論拠を示してくれた方が、より具体的な反論ができます。
574日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:03:47
>>573
やっぱ、まずいっすかね?
問題があれば、ドシドシ指摘してください。
575日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:06:11
>>566
>>567
>>568
>>572

「倭」「倭人」が後漢書烏丸鮮卑東夷伝、三国史記高句麗本紀などで、部族名、国名、地名などの形で、列島外に現れ、
しかも満州〜朝鮮半島北部に比定されることは明白です。
列島の倭人とこれら北方の倭人がどのような関係にあったかが議論の対象になるべきです。
後漢書の「倭人国」は遼河流域に在り、且つ漁撈に巧みで、少なくとも1000余家以上
〔三国志魏書弁辰伝によると弁韓・辰韓24国の人口は大国4〜5千家、小国6〜700家)だったと記載されております。
北方からの倭人集団の南下と列島進入に同行しなかった部族と考えて良いと思われます。
これを側面から支持するのが、日本人とモンゴル人でのHLAハプロタイプA24B52DR2が最多グル−プであるという事実です。
日本列島から蒙古高原への移住が考え難い以上、蒙古高原、満州あたりに拡散の中心を想定(少なくとも列島への進出の前には)するのが合理的で、
満州、沿海州あたりの少数民族の同ハプロタイプの分布が確認されていない(将来の可能性は残りますが)以上、
日本列島に入ったこのハプロタイプ所有者は主に半島西海岸を通過して日本列島に入った蓋然性が大きいと考えられます。
要するに(北方系の)倭人が日本語(の祖語)を持ち日本列島を倭人の支配する地域と化したからこそ、
日本列島が「倭」「倭国」と呼ばれるようになったのです。
576日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:08:05
>>552
「古代に国境は無い」まったく同感です。当時は日本人も韓国人も居やしない。
民族としての日本人と韓国人が形成され始めたのは、663ADの白村江の戦い以降の話
だと私は思ってます。
・・・・
魏志倭人伝によれば3Cにはすでに日本列島は倭人だけの領域で日本民族は形成
されていたと思う。この時代に既に倭人と半島人の区別はあっただろう。対馬海峡
が自然の国境を形成していたとも思われる(半島南部には倭人も居たが)。

 朝鮮は新羅統一以前は三国時代で、それ以前には漢四郡が置かれていた多民族
地域だったので朝鮮民族の形成は7世紀以後のことというのには同意。


577日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:20:50
「倭」関係記事の表記について−新羅本紀の「倭」観−という論文が「東アジアの古代文化」113号(2002年秋)〔大和書房)に載っていました。
著者の糸永佳正氏はAD500以前の新羅本紀の「倭・倭人・倭国・倭賊」記事を分析して、
@新羅本紀には新羅来襲の主体について「倭人・倭賊」と「倭兵」の表記間に区別があり
A「倭兵」は東方の国家的勢力を、「倭人・倭賊」は北九州周辺の国家的勢力と非国家的勢力の両者を、指すのに使用されていると結論されています。

「倭兵」を派遣した「倭国」は大和朝廷もしくは新羅より東方の列島内勢力を意味し、「倭人・倭賊」を派遣した勢力は大和王権の連合勢力の一部なのか、九州王朝なのかは不明としています。
三王朝交代説をとるとしても(新羅本紀の年代修正が必要でしょうが)三輪王朝かそれ以前に列島東方の倭国?が新羅の東辺を襲い麦や人の略奪をしていた可能性があることになります。
皆さんはどうお考えでしょうか?
578日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:29:05
古代史の基本史料に『魏志』倭人伝と、倭王武の上表文があります。
勿論、『日本書紀』よりも遙かに信頼性があります。
仮に邪馬台国が大和にあった(纏向)としますと、
卑弥呼は畿内から九州までの諸王(?)から共立された倭王だったということになります。

一方、倭王武の上表文は、東西121国、海北95国を征伐したと主張しています。
一級史料だとしても、必ずしも史実を反映しているという保証はありません。
自分でそう言っているだけのことです。
しかし、ある程度は史実を反映しているとすると、倭王武に近い時代に征服戦争があったことになります。
つまり、五世紀の王朝は倭の諸国にとっても歓迎されざる王朝だったことになります。

どうも河内王朝は、邪馬台国・纏向の王権を継承するものではなかったようですね。
下克上か、騎馬民族の征服か、或いはその中間か、シナリオはいろいろ考えられますね。


579日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:32:06
>>577
>>578

江上波夫氏の騎馬民族説の根幹の一つは「倭」王の血統は全て同一氏族であるということにあったと思うのですが、この点についてはどうお考えですか?

私は倭人北方起源説論者ですが、倭人は騎馬民族化を嫌って遼河周辺より南下を開始して日本列島に入って邪馬台国連合などの諸部族(連合)国家を形成したと考えており
移動時には権力集中が必要なことから早くに倭人全体のいわば大君長家(王の氏族)は確立したのではないかと思っているのですが。
580日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:35:20
>>579

糸永論文によると「倭人」の新羅侵攻の最初は新羅建国の王赫居世の8年〔BC50年)に、
「倭国」記事は脱解尼師今元年の即位に関連して脱解が倭国東北一千里にある多婆那国の出身というのが初出で、
その3年6月〔AD59年)「与倭国結好交聘」とあります。

このあたりの新羅本紀の記事の信頼性については日本の記紀の開化天皇以前と同様かそれ以上に慎重に扱う必要がありますが、
ともあれ

@新羅建国の最初は倭人かその類似種族が馬韓よりの自立に協力した
(倭人コ公の記事)ことと王位にも脱解の即位に見られるように倭人らしき国の出身者が就いたこと

A新羅は東方の「倭国」(倭兵の出兵主体)とは当初友好的に見えること

B「倭人」が糸永説のように北九州勢力と仮定されればですが、この「倭人」とは建国当初より敵対関係にあったこと

C当初友好的だった(糸永説の)東方の「倭国」との関係が敵対関係に変ったのは倭王の求めた婚姻を新羅が断ったことが原因らしい、

といったことが「三国史記新羅本紀」から読み取れます。

新羅本紀の年代観の修正が必要と思われますが、糸永説の新羅東方の国家的勢力「倭国」と北九州勢力「倭人」の二分が成立するとすれば
邪馬台国問題や日本建国についての有力なてがかりになると思われます。
581日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:37:21
>>580

「同一氏族」という意味が解りませんが・・。
江上氏自身はどのように書かれておりましたでしょうか。

「倭王の血統」ということでは、扶余族の分流と理解しています。
しかし、江上説の、崇神・応神に関しては、両者とも虚構の人物と考えています。

「新王朝」は北陸から近江出身の可能性があり、その血統は、河内王朝とは異なり、HLA−B44−DR13ハプロタイプかも知れませんね。
結局、騎馬民族説は皇室、その周辺のDNA鑑定で決まってしまう問題だと思いますよ。
皇族のDNA分析が無理なら、次善の策として京都人のDNA分析も意味があると思います。
そのような研究はないのでしょうか?
582日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:41:52
>>579

倭人の主流は、呉越地方からの渡来稲作民である、というのは動かし難いと思いますよ。
そういう流れを否定されるわけではないと思いますが・・。
そこに北方系倭人を加えるわけでしょうか。
その場合、それは弥生のどの段階でのこととされるのでしょうか。



「黒竜江、松花江、遼河、鴨緑江、豆満江、(略)内陸河川における漁撈民というものが成立していて、それが船に乗った。船に乗ったときから新しい段階が始まる。
(略)これが高句麗国家の成立からのちの渤海まで全部続くひとつの柱になる」(梅棹忠夫)
これは、水谷慶一『知られざる古代』にありました『魚と人と海 漁労文化を考える』日本放送出版協会からの孫引きです。

一口に北方系と申しても、北方系海人というものもあるようです。
古代の海人族には宗像と安曇があり、水野祐氏によると、宗像は北九州から山陰、安曇は瀬戸内に分布するということですが、
もしかすると宗像は北方系かも知れませんね。

中国人には倭人=海人という観念があり、北方系海人を、非倭系であるにもかかわらず、倭人としたという可能性もありますね。
北方系海人族も追求しようと思っているのですが、そのままになっています。

騎馬民族説は馬賊の頭目が倭王になったようなもの、北方系海人説は海賊の頭目が倭王になったようなもの、と言えるかもしれませんね。
(仮に北方系海人が四世紀末に来たとして)
どちらであっても不思議はないと思いますがね・・。
乱世とはそういうものでしょう。
583日本@名無史さん:2006/06/13(火) 22:34:27
>>581
京都人のDNA鑑定は難しいと思いますよ。

弥生系に加え、縄文系、漢民族、新羅系、百済系、高句麗系、烏丸など色々な民族が
入り乱れていましたから。
584日本@名無史さん:2006/06/13(火) 22:39:35
>>582
倭人が江南から北上し、斉や燕のあたりまで来ていた事が考えられませ
んか?
倭人が献じた香草(ウコン?レイシ?)というのは、東北地方でも採れ
ますか?あまり北方の植物では無いように思いますけど。

ウコン=沖縄
レイシ=雲南

といったイメージですが。
585YAP?:2006/06/14(水) 16:42:39
またまた3日ぶりの書き込みであ、いちいち、コメントできないので感想という形になるがご勘弁を。

白馬青牛氏の「論拠を」(No493)というご要求は、ごもっともだが体力・気力・時間が許さないのでね。

ところが、どうも昔、私が投稿したのとほぼ同じ論旨の書き込み(Yahoo!掲示板など)が、あった。
551、566、572、575、577、579,580といったところだ。
心なしか、文体までそっくりのような気がするが・・・。

どちらにしろ、「倭人」を現在の日本人の祖型となった「民族集団」と考える場合、最重要な問題は「言語」即ち「日本語」の問題だ。
この言語の由来を北方におくか、或いは南方に置くか、又その形成時期を何時と捉えるのかが、論議の焦点になる。

板橋義三氏(九代)のように、南島祖語、日本語祖語、高句麗語などを含む扶余系諸語が、「中国中南部」に隣接して存在し、後二言語が、北上して、
列島や、満洲方面に入ったという考えも在る。
どつらにしろ、扶余系言語と日本語の「類似」は疑うべくもないが、それが「北方」(遼河流域〜大興安嶺周辺)とかんがえるか、「長江中下流域」と考えるか
と言えば、私は前者を採る。
で、その結果が、「倭人北方起源説」ということに成る。
扶余系諸言語の祖語と、日琉祖語の濃厚な接触(或いは同源?)を認め、且つ、『魏志倭人伝』の時代の「倭人語」が、開音節その他上代日本語荷連なる特徴
を持っており、すでに「古代日本語」であったと考える(森博達氏、長田夏樹氏ら)ならば、古墳時代の「扶余系騎馬民族」の征服など、仮定しなくとも、日本の北方的要素の
大部分は説明できると言うのが私の考えなのだが。

尚、「骨の形態」に拘りすぎるのは、無意味だと思う。
「思う」根拠は、医学生として解剖学実習で無味乾燥な「骨学」とやらを学んだ個人的感想だが。
586日本@名無史さん:2006/06/14(水) 18:06:28
YAP?さんの意見に一番近いサイトかも…
僕もここが分かりやすいと思う。

http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi/kibaminzoku/kibaminzoku1.htm
587日本@名無史さん:2006/06/14(水) 19:01:22
ある中国人によると魏志倭人伝の中の国名で「身弓」臣国というものだけが
日本語とは思われず、漢人の国の可能性がある、という説があった。
588YAP?:2006/06/14(水) 19:09:01
586さん、

ご紹介有難うございます。
時間さえ許せばぜひとも、拝読したいのですが、近日中に転居予定ですので、
ちょっと無理なようです。

589日本@名無史さん:2006/06/14(水) 19:14:57
>>585 日本語とトルコ語の文法上の類似を見ると北方系が強いのだろうな。

安本説の江南ビルマ語系というのは唐突な感じがする。インドネシア語、
カンボジア語との頭音の高い一致率というのはどれほどの信頼性があるの
だろうか。
590日本@名無史さん:2006/06/14(水) 22:04:54
>>585
「扶余系」の言語と日本語との関係は、本当に深いんですか?
当時の「扶余系」が、現在のどの民族に当たるのかも不明だそ
うですよ。
591日本@名無史さん:2006/06/14(水) 22:06:57
それから、魏志の倭人伝などを見ても、倭人を扶余系と見る
記述はありませんよ。全く関係のない?越風俗との近似性を
挙げています。
592日本@名無史さん:2006/06/14(水) 22:19:19
百済語=扶余語、
伽耶語=弁韓語

とした場合、倭人の言語はどちらになるだろう?
593白馬青牛:2006/06/14(水) 22:42:34
>>585
「民族集団」を考える場合、最重要な問題は言語と断定しとるが、言語
だけじゃのうて、民族集団を構成する様々な要素を多面的に考えんと
いけん。言語要素はその一部に過ぎんよ。日琉祖語があったかどうか断定
出来んが、日本、特に西日本と琉球では、形質、体質で大いに異なる。
耳垢の分布でも、琉球はアイヌ人や中国南部、アメリカ先住民並みに
湿型が多い。本土日本人は、モンゴルやツングース、中国北部、朝鮮と
似て乾型が大部分を占める。腋臭者の分布も琉球の27%〜35%は
台湾の22%〜48%と近いとして、本土日本人の10、5%華北人の
2,9〜3,2%等と較べると、琉球は南方体質であり、仮に琉球が
日本語族?であったとしても、民族(人種的)集団の形成に関与した要素
は、少ないと云えよう。骨学とやらと云う言で形質要素を低く見て、
「無意味」という言まで使う。こうなると、もうカルト的学問と云わざるを
得ん。あらゆる学問、分野の多様な要素から考察すべきものを、
自己の感想で、形質的考察を考慮せず遮断するのは、新興宗教のカルト
信者となんら変わらん。あなた自身が偏見や先入観でものを視とるんを
自慢したいんか?
あなたは、医学生であったと云うことは、専門家教育を受けた訳か。
学問とは様々な要素から総合的な判断するジェネラルなもので、
幅広い分野から考察する方が誤差が少ないであろう。しかるにあなたは、
特定な分野の見解は拒絶し、自己の研究室的?狭い見解から解釈しようと
する。専門馬鹿の状態に陥っておらんかと心配するよ。専門家を尊敬し、
一見識で妄想に発展する思考を持つ東日本的な考えと違い、もっと現実性を
重視する西日本と民族性の違いもあるとは思うがねえ。
594日本@名無史さん:2006/06/14(水) 22:56:36
カレー臭が漂うと元の駄スレに戻ります。
595日本@名無史さん:2006/06/14(水) 23:17:46
>>593
案外、独断と偏見に満ちた人ですねぇ。
倭人が奴隷民だとか、騎馬民族顔が高貴だとか、
鹿児島人が不細工だとか。東日本が妄想的だとか。
ひどい人種的偏見だ。

倭人が奴隷民とのことですが、当時の大陸が
不安定で極端な労働力不足にあったとすれば、
大量のクーリーが必要となったはずです。
現在の日本がアメリカのために自衛隊をイラクに
派遣しているように、労働力を提供する必要も
有ったのかもしれない。案外中国に泣きつかれた
可能性を疑っています。

現在の日本の対中無償援助もそうですね。中国
政府を崩壊させない為には、日本の金が必要だ
ったりします。
596日本@名無史さん:2006/06/14(水) 23:38:14
>>593
あなた自身が、新興宗教のカルト信者となんら変わらん。
あなた自身が偏見や先入観でものを視とるんを 自慢したいんか?
597日本@名無史さん:2006/06/14(水) 23:57:06
>一見識で妄想に発展する思考を持つ東日本的な考えと違い、
>もっと現実性を 重視する西日本と民族性の違いもあるとは思うがねえ。

何言ってんだかw
わけわからん。
598日本@名無史さん:2006/06/14(水) 23:59:45
マンネリ化?
599日本@名無史さん:2006/06/15(木) 00:03:56
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1135082630/l50

333 :白馬青牛 :2006/06/14(水) 23:47:43
>>329
恣意的な資料選択で粉飾されたと断定するんなら、東西武士団の構成要素に
差がないとする意見を聞きたい。どのようなものか?罵倒だけで、あなたの
意見や考察もない。
>>330
東国の習いに女子童子を捕らえ売買する族が多かったが、梅棹忠夫氏の
ような西日本=海洋国家、東日本=大陸国家とは違う概念。海上交易には
奴隷売買が不可欠であり、海洋国家=民主的とは言い難い。
東国の上下の差の激しく、村落の代表も世襲制であり、社会的に
隷属奴隷制度であったのと違い、西国の村落の代表は選挙制、
武士団も横の連合で構成される社会と違うと云うこと。
東西日本の社会構成を同一視するのが、そもそも可笑しい。
600白馬青牛:2006/06/15(木) 00:32:22
>>595596
倭人が奴隷民で無いなら、自国奴隷派遣民としたい訳か?
騎馬民族顔?が高貴とするのはベルツ氏見解。鹿児島人が不細工で
あったのは、貴族的で無い容貌やベルツ氏のような西洋人から見ての話も
あるが、わし自身も薩摩や東日本に美形が少なく、古モンゴロイド的
ギョロ目と思える目のパッチリした大きい人(小学校の頃ギョロ目は蔑視の
対象であった)は、美形とは思わんだけで、現代では様々な価値観が
あろう。苦力(クーリー)、奴隷は、東南アジアからの献上でも良い訳で、
中国に泣き付かれたと云う根拠は何処から出て来るんか?
まあ、四隅突出墳を北朝鮮の国家体制と絡めて、政治的問題として
否定したり、航海の軸線でもない江南から直接九州へ渡ったと
妄想要素が強いが、その人達に独断と偏見とされてもねえ。
仏教を弾圧した、朝鮮と同類の朱子学儒教国家の薩摩人が今日も吼えとる。
薩摩人の論理では、隠れ念仏でもしとれ。見つけたらただでは済まさん
と云うことか。朝鮮李朝のコピー国家(藩)が偉そうに云うとるのう。
601日本@名無史さん:2006/06/15(木) 00:39:02
>>600
典型的な広島人顔を挙げるとしたら誰?
602日本@名無史さん:2006/06/15(木) 00:59:09
>まあ、四隅突出墳を北朝鮮の国家体制と絡めて、政治的問題として
>否定したり

北朝鮮の四隅突出墳なんて発掘調査もしてねえのに何言ってるんだか…
603日本@名無史さん:2006/06/15(木) 00:59:12
>>593 例のGm型遺伝子とやらの図では沖縄も日本本土以上に北方系という
色分けがされているようですが。

604日本@名無史さん:2006/06/15(木) 01:13:12
じゃぁ、北方系とやらはどっから北方に移動したんだ?
時系列に移動経路の証明できてんの?w
605日本@名無史さん:2006/06/15(木) 01:54:17
アイヌ語地名研究者には沖縄西表島にまでアイヌ語地名が分布している
という説もあるな。
606日本@名無史さん:2006/06/15(木) 07:11:48
>>600
奴隷国家の証拠にはならないんじゃないですか?
古代中国では、ボトルネックとまでは行かなくても、何度か戦乱
などで、人口激減時期があったはずですです。生口の提供はその
前後に集中していませんか?属国風情には授けない「金印」など
を授けて、懐柔したんじゃないかと思います。何か余程の事情が
無ければ、「銅印」などで済ますんと思うのです。ある意味、南
方や西方は労働力を提供させるだけの信用が無かったんじゃない
でしょうか?その代わり、南方人や羌人が祭祀の生贄として首を
刎ねられた事が多々あります。弥生人の祖先らしき人の首が刎ね
られる記述はありますか?

卑弥呼も神武(この方は実在したと思ってます)も、倭系だと思
いますね。その後も朝廷は一貫して倭系。中国の古文書には、
「扶余系」とも「高句麗系」とも「女真系」とも書いてありませ
ん。そういった事実があれば、中国は客観的にそう記すはずだと
思うんですが。隠し立てする必要もないので。奴隷民の子孫で、
残念でしたね…

>>604
縄文人やアイヌ自体が北方古モンゴロイドだから、沖縄も遺伝子的
には北方傾向が強く、むしろ本土(大陸各地からの渡来があったの
か?)の方が南方的だったのかも?
607日本@名無史さん:2006/06/15(木) 08:26:56
古墳時代の倭人は騎馬、鉄製武器/武装、筒袖・ズボン式の服装、須恵器などを
伽耶から「文化受容」したと言う。
ではなぜ、魏志倭人伝時代の倭人は中国(帯方郡)から「文化受容」しなかった
のだろうか。
608日本@名無史さん:2006/06/15(木) 08:38:00
>>607
鏡なんてそうじゃないの?
609日本@名無史さん:2006/06/15(木) 09:45:26
>>607
半島南端が倭人の本拠地だったという話もあるしね。
半島のブームを列島の倭人が取り入れただけなのかも…
「これ今、隣でブームなんだぜ!」みたいに(笑)

>>608
古墳時代前期までの副葬品は中国色が強くて、徐々に
半島色が強くなる傾向にあったと聞いたことがあるけど、
あくまでも穏やかな変化で、急激な変化ではないとも聞
いた。単に、地理的な近さが原因かも知れんよ。
610日本@名無史さん:2006/06/15(木) 12:32:10
>>607 倭人の時代にはまだ帯方郡と文化の差が大き過ぎて受容できなかったが、
半島倭人が徐々に咀嚼していって文明開化し、それを列島倭人に広めていったと
いうことでは?
611日本@名無史さん:2006/06/15(木) 21:17:03
>>609
前期の「中国色」とはなにか。>>608も言うように、せいぜい鏡くらいだ。
中国の服装や武器を取り入れたわけではない。
倭の服装が中国式に変わるのは大化改新以後でなかったか?

それに較べて、中期に入ってからの変化は服装から武器までまるごと一式だ。
どのくらいの時間で変われば「急激」というのか知らないが、ともかく
まるごと変わったのは事実だろう。
612日本@名無史さん:2006/06/15(木) 21:45:45
>>611
大化改新以後、服装等が中国式に変わったんだから、
古墳時代もなにか改革的なことがあったんだろうね。
決して征服されたのではないと思うよ。
613白馬青牛:2006/06/16(金) 00:18:51
>>601
民俗・神話板蝦夷スレに書いとるよ。
その他、同じ言を繰り返す主張が多い。>530で縄文人が北方系か
南方系か断定出来ん、様々な見解がある。と云うたんじゃに、
Gm型という単一の遺伝子型だけで解釈する。全体的・総合的に判断せんと
云う意味でサイトを挙げたんじゃ。最新の情報や一つの理論でダボハゼが
如く喰らい付き、全体論から判断する解釈を放棄しちゃあいけんよ。
情報に操作され洗脳されて仕舞うよ。
人口減少期は岡田英弘氏の引用であろう。戸籍から文献だけでの解釈で、
城外の流民は考慮外か。金印も「漢委奴国王」で漢に隷属しとる。
同時代の「滇王之印」には漢の字が無い。これは倭人と違い、直属の隷属民
では無いと以前にも書いとる。他の奴隷倭人厨も、同じ言の繰り返しで、
馬鹿の一つ覚えで知能の低さを公表したいんじゃろう。
614日本@名無史さん:2006/06/16(金) 05:04:28
騎馬民族征服王朝説を支持している連中はすぐ民族の優劣をする。まるでヒトラーみたいな奴らだな。
615日本@名無史さん:2006/06/16(金) 07:12:11
戦後ナチスドイツのジェノサイドに人種区別が利用されたことへの反動から
人類学に対するタブー的見方が出てきているのだろう。しかし、ルーツ発見
という見方もある。ただIQとか、その他の特性を人種的に区別する方向も問題
があるし、取扱に注意が必要な問題かもしれない。
616日本@名無史さん:2006/06/16(金) 07:21:30
天皇のルーツがどこかはっきりしないならともかく、
日向となってるのだから、
何故、騎馬民族だなんだにしたがるのかな?
617日本@名無史さん:2006/06/16(金) 08:33:42
神武天皇は騎馬民族でなくて船で大和に東征したし、ヤマトタケルも徒歩と
船で東征していた。

 倭の五王も山野を跋渉したと言って馬に乗っていたとは書いていない。

 騎馬民族が来て支配者になったのなら、これはおかしいだろう。
618日本@名無史さん:2006/06/16(金) 08:45:04
>>612
>大化改新以後、服装等が中国式に変わったんだから、
>古墳時代もなにか改革的なことがあったんだろうね。
>決して征服されたのではないと思うよ。

「改革」したから変わった、というのは「変えたから変わった」というのと同じだ。
日本の歴史で服装ががらっと変わったのは問題の古墳時代を除いて、少なくとも2回ある。
大化改新後と、明治維新だ。
これらに共通するものはなにか。それは征服される危機にあったことだ。
前者は唐によって、後者は西欧諸国によって。
つまり、征服の脅威である相手と、文化的に同化することによって脅威を
克服しようとしたのだ。
とすれば、古墳時代の倭は、伽耶に征服されたのでなければ、征服の脅威
として伽耶を見ていたことになる。
619日本@名無史さん:2006/06/16(金) 09:54:43
>>613
南人は信用されず、逆に祭祀の生贄などにされていた。
金印を授けたのは、交通の要衝にあったからに過ぎず、重んじたからではない。
倭人に金印を授けたのも、何らかの「政治的配慮」があったからだと考えられる。
奴隷国家風情には「銅印」程度でいいのだが、何かあったので、玉印に次ぐ金印
を授けたのでは?

>>616
神武は、九州を飛び出したやる気満々の革命児(あるいは敗残者)だとオレは思う。
その後強大化して九州を襲ったんじゃないかと思うんだけど。もし「騎馬民族」なら、
中国の歴史書がそう記すが、そう記してはいない。「倭人」であり「倭国」である。
620日本@名無史さん:2006/06/16(金) 09:57:39
>>618
単純に伽耶と関係が深かったからだとは、考えないのか?
どうしても「征服」とか「脅威」にもっていきたいのかね?
621日本@名無史さん:2006/06/16(金) 10:16:45
>>618
昔から海の向こうの文化が大好きだったというだけだろう。
622日本@名無史さん:2006/06/16(金) 11:02:01
「倭国には牛馬無し」と魏志倭人伝に書いてあるから3世紀に騎馬民族が
いなかったのは確かだ。

 その後の倭の五王にも記紀にも騎馬軍団の話など出て来ない。大和朝廷が
騎馬軍団を持っていたという話も無いだろう。騎馬民族の形跡は何もない。

623日本@名無史さん:2006/06/16(金) 15:13:24
>>622
王様がテクテク歩いて戦争したり、クソ思い輿を担がせたりするのは、
非常に不便だから、戦術上馬の必要性を悟ったのかもしれないね。
半島南部と殆ど同じものが出土するのは、直接仕入れた可能性もある。
近いし。
日本列島には、当初、馬具を加工する技術がなかったのかも知れない。
624日本@名無史さん:2006/06/16(金) 15:55:59
>>616
筑紫に日向、つまり、当方に展望の開けた高山、高千穂は無数にある。日向には
奇勝の岩戸があるが、これも全国にある。弥生時代末期に人口が集中して王権が
あったと考えられるのは伊都国、奴国、古墳時代に権力が集中するのは大和だ。
記紀というものは奈良時代に編纂されたもので銅鐸など弥生時代の知識は皆無。
雲にそびゆる高千穂の♪というのは時代も新しくなり日本各地の名勝が全国的に
わかるようになってからのことであろう。
625日本@名無史さん:2006/06/16(金) 17:25:19
>>623 倭の五王は自ら甲冑を貫き山野を跋渉していたと言っているが、
よくそんな体力があったな、と思う。倭人はグルカ兵のような山岳兵だった
のだろうか。

 日本で騎馬軍団が登場するのは源氏の東国兵からではないか、関東平野の
ような平地でなければ騎馬は発達しなかったのだろう。

 平安時代には京都で牛車があったが馬車はなかったようだし。


626日本@名無史さん:2006/06/16(金) 18:31:55
>>625
少なくとも、弥生時代には騎馬戦はなかったからね。
博物館のミニュチュア展示も、歩兵同士の槍の突き合い、石の投げ合いだった。
古墳前期までは、馬はメジャーじゃなかったと思われる。
さすがに体力持たんと悟ったんだろうな、能天気な倭人も。
627日本@名無史さん:2006/06/16(金) 18:33:38
>>624
徐福伝説が日本中にあるようなものか?
628日本@名無史さん:2006/06/16(金) 18:44:02
騎馬民族は遊牧民だろ、だが日本の歴史に遊牧民がいたことはないし、本当に来たのなら日本神話に朝鮮の地名があったっていいのにない。
それに中国東北から蒙古方面の騎馬民族が朝鮮半島を経由してやってきてそれが皇室の祖先だとするならばなぜ朝鮮半島や経由してきた場所とかに前方後円墳などの古墳がないの?日本各地にあちこちあるのに。
629日本@名無史さん:2006/06/16(金) 18:56:28
>>628
韓国に向かい…てのはあったと思う。

が、「韓」とは扶余などの騎馬系の地ではなく、倭人の居住区である半島
南端などを指すと思われる。
また、大陸中国のことも韓(から)と読んだのではないかという人もいる。
大陸か半島南端がルーツであって(もっとも渡来系弥生人は全て列島外の
生まれなので)、扶余などではないと思われる。北方と言っても、騎馬的な
要素をあまり感じないしねぇ。
630日本@名無史さん:2006/06/16(金) 20:06:38
>>629 韓国とはカラクニ=加耶国で任那日本府のことだろう。そこから
出てきたということか。

 魏志にある狗邪韓国の彌烏耶麻国あたりを指すものと思う。
631日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:13:08
>>627
全国の徐福伝説は印刷製本などの技術ができないと生まれないのじゃないか。記紀
よりも遅いのではなかろうか。記紀は基本的に邪馬台国九州説の人間が作ったんじゃ
ないかな。神功を卑弥呼にあわせてある。記紀を編纂する頃に九州にたとえば平原
古墳被葬者の伝承とか女王伝説があったのかもしれないね。神功はその影響で
若干内容が膨らんでいるような感じもする。
632日本@名無史さん:2006/06/16(金) 22:20:05
>>631
なんじゃそりゃ?

徐福が来た可能性は低いとしても、日本海側と太平洋側に伝説が伝わっている
と言うのは、非常に興味深い事だ。
鑑真和尚が複数船団で渡来した際、漂流して、鑑真一行は沖縄から種子島を
経由して鹿児島にたどり着いたという。もう一つの船は、種子島から鹿児島へ、
そしてもう一つは、種子島から今度は太平洋側へ流されて、和歌山沖へ漂着
したそうだ。

という訳で、(徐福はともかく)中国から出向して、海流を乗り間違えると、
太平洋側と日本海側へ分かれて漂着してしまう可能性があるらしいのだ。
633日本@名無史さん:2006/06/17(土) 08:14:16
>>628 前方後円墳は百済領内に相当あるらしい。日本が百済に割譲した地域に
分布しているようだ。

634日本@名無史さん:2006/06/17(土) 13:27:54
>>628 朝鮮にも遊牧民がいたという記録はないし、騎馬民族が来たのはモンゴル
時代だろうな。
635日本@名無史さん:2006/06/17(土) 13:47:00
>>634
「三国志」には「扶余は牧農」と書いてあったと思った。

高句麗は扶余の一派だけど、扶余は、純粋な「騎馬民族」
というよりは「半農半牧」に過ぎないと思う。
636日本@名無史さん:2006/06/17(土) 13:53:38
最近、緊急停止するスレッドが多いなぁ…↓

http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1119646322/150
637YAP?:2006/06/17(土) 18:03:19
白馬青牛氏の、いろいろな観点から検討すべきだと言う主張は全く異論はないが、
それでも「民族」と言う集団を問題にする場合、「言語」の狗族が最大の問題で
あることは変わらないだろう。

縄文系・弥生系など起源の異なる諸民族集団が、現在は「ニッポン語」という
言語を母語とすることにより、「日本民族」と言う集団として、自他共に
認められていることで、そのことは、明らかだろう。

勿論、列島の「言語的統一」が為されるまでの紆余曲折が史料に十分に見えない時、
形質(骨の形態以外の耳垢型,Gm型、HLAなども含む広義の形質だが)や、考古学、
民俗学などの諸資料を使用せざるを得ないのは当然のことだ。
638日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:05:23
>>637
日本語と高句麗語に近いと言っても、数詞ぐらいらしいですね。(それも曖昧)
639YAP?:2006/06/17(土) 18:27:26
「骨の形態」は、余りあてにならないと言うことは、私の個人的な感想とでも言うべきことだが、
明確に遺伝することの明らかなGm型、HLA型、Y染色体DNA、mtDNA、ASPM、などを
言語のわからない時代の、民族集団の移動の指標、マーカー〜追跡子(トレーサー)として使用するのは
当然のことだし、考古学的資料を用いるのも当然だ。
まあ、骨の形態で言えば、「頭骨の形態小変異」は、おそらく遺伝すると思うが、頬骨の出る・出ないとか
長頭・短頭、顎の張り方などは、食習慣の影響や、母語ノ発音との関連など、環境要素が大きいように思う。

松本秀雄氏のGm型については、地域の医師会の講演会で聞いたことが在る(確かNHKの本の出版の直後くらいだ)。
HLAについては、ハプロタイプではなく、個々の型についての話だが、これも
大学同窓会で理学部出身者の研究者の講演を聞いたことが在る。

で、HLAハプロタイプのデータが例の「モンゴロイド・プロジェクト」の
成果として、『モンゴロイドの地球』にまとめられた時に、公表された徳永氏らの
データをもとに、弥生時代の開始は,遼河流域あたりから、南下した日琉祖語集団
(本当は日本語祖語集団の法が正しいように思うが、どうも言語学者は、Japonic
と言う言葉を使用しているようなのでそれに準拠している)の列島流入によって
開始されたと言う考えを、インターネットの掲示板に書き込んだこともある。




640YAP?:2006/06/17(土) 18:38:54
637氏へ

日本語の数詞に極めて近い形の語彙を持つのは、扶余系言語しかないと言って良いでしょう。
しかも、高句麗語の語彙の史料が極めて少ない中で、その日本語の語彙との類似性は
無視できないものでしょう。

扶余系言語である高句麗語で日本語の数詞との類似の示された3、5、7,10の他、
1・2、3・6、4・8の倍異数関係に似た数詞の造語法が、いわゆるアルタイ系諸言語
で認められ、特に「四」と「八」については、その語頭の子音dが、日本語のy(j)と
対応する可能性が高いことも、認められています。
641日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:40:56
>>639
倭人が遼河周辺出身というのは『論衡』を元に仰っていると思いますが、
別の場所から中国へ入るときの通路として使っていただけかも知れませんよ。
その場合も「属す」という言い方ができるかと思います。
倭人は一貫して「東夷」であって、「北狄」ではありませんから。
642日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:47:10
扶余系だけに特徴的なのか、他のアルタイ語系でも同じなのかで違ってきますね。
特に日本と近いとなると、何かあるんでしょうかね?

日本語は、数詞意外ではポド語などとの関連性も指摘されていませんでしたっけ?
643日本@名無史さん:2006/06/17(土) 20:34:20
>>620
>単純に伽耶と関係が深かったからだとは、考えないのか?

服装から武器・武装までまるごと変えたくなるような「深い関係」とは、どの
ような関係なのか、ちょっと想像がつかない。

>>621
>昔から海の向こうの文化が大好きだったというだけだろう。

海の向こうの文化が大好きなら、服装から武器・武装までまるごと変えたくなる
のか?
江戸時代、日本人はオランダ人と友好関係を結び、大好きな海の向こうの文化も
ずいぶん手に入れた。しかし、だからと言って支配階級が洋服を着たり、軍隊を
西洋式にしたりしなかった。
ところが米国が実力による恫喝外交をやると、がぜん幕府が西洋式の軍隊を
作った。そして明治維新を経て、支配階級全員が西洋式に服装を改めた。
644日本@名無史さん:2006/06/17(土) 20:37:42
>>625
>日本で騎馬軍団が登場するのは源氏の東国兵からではないか、

平家は馬に乗って戦わなかったとでも?

>平安時代には京都で牛車があったが馬車はなかったようだし。

車は牛車だったが、平安時代の貴族は馬に乗った。源氏物語を読めばわかる。

>>635
>高句麗は扶余の一派だけど、扶余は、純粋な「騎馬民族」
>というよりは「半農半牧」に過ぎないと思う。

その通りだ。扶余については東夷伝扶余条に、割と詳しく書いてある。
国民皆兵の、戦闘的な農業牧畜狩猟民だ。まあ後の満洲族みたいなものだ。
それが3世紀の末に狗耶韓国を支配したのである。
645日本@名無史さん:2006/06/17(土) 20:40:34
>>622
>その後の倭の五王にも記紀にも騎馬軍団の話など出て来ない。

という人は日本書紀を読んでいないことを白状しているようなものだ。
神功皇后に降伏した新羅王が「今後はあなたの馬飼いになります。毎年馬の鞭を
進上します」と言うのにはじまって、それ以後の日本書紀、つまり倭の五王時代
は馬の記述がたくさん出てくる。それを裏付けるように、日本各地に官営馬牧場
ができる。日本の5世紀は「馬の世紀」だった。
646日本@名無史さん:2006/06/17(土) 20:46:08
>>645
>日本各地に官営馬牧場ができる。
七世紀以降。
647日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:14:35
>>643
服装から武器・武具まで「丸ごと」変えたというソースを。
648日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:47:08
>>640 4と8の倍数関係が認められるのは日本語とハンガリー語だけだと思う。

 nyegy>nyolc これらの頭のnを取れば日本語ヨ、ヤに似てくる。>イェ、ヨ
 また5 o"t もイツに似ているとも言える。(ex.乙イツ、オツ)

 またハンガリー語の1,2,3はモンゴル語に似ているので日本語との類似は
偶然ではないと思う。

ハンガリー  egy,ketto",harom
モンゴル  negy,xoyor,gorban(gorab)

egyとnegyで頭音nの有無が認められるのもアルタイ語の特徴なのだろう。

649日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:50:27
あ、すまん。ハンガリー語はアルタイ系でなくてウラル系だった。

650日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:55:12
ウラル語でもアルタイ語でもどちゃらでもよろしいがな。
つまり、ハンガリー語に似ているちゅうことでっしゃろぉ?

匈奴や突厥は東北まで進出しとったからなぁ…
日本人には、ヨーロッパ人特有の遺伝子を持つ人がおるって
聞きましたが、どういうことだっしゃろか?
651日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:57:37
>>644 奈良時代にも聖徳太子が馬で法隆寺から奈良の都へ通勤していたと
いう話もありましたね。

 軽の皇子かが河内平野を月夜に馬で突っ走っていたという話も。
652日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:03:15
>>651
モンゴル語と日本語の関係は、せいぜい数詞の一部ぐらいなんだよねー。
あとは、遠い遠い…
653日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:05:14
>>650 ハンガリー語と日本語で似ているのはそれだけで、あとは塩が
足らんことをシオタランということしか知りません。

 ヨーロッパ人の遺伝子などは聞きはじめでした。匈奴というのは黄色
人種だったのでは?

654日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:06:05
江上さんが、北にご招待されて激励されている時点で、
騎馬民族説を支持している人って何かあるんじゃまいか?
と、思わず穿った見方をしてしまうよ…
655日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:06:12
>>618
というか、百済で環頭太刀が出土し、六朝様式の寺社が建てられ、中国の礼服を模倣するのは、
征服されたわけではないように、倭の各地で大陸様式の遺物が見つかったからといって、征服されたわけじゃないのは
当たり前なんですが。倭からは中華系の銅鐸や鏡などの遺物が見つかるわけだが、それは征服じゃねーと。(笑

論理が飛躍しすぎなわけですが。征服の脅威を克服云々も。
656日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:10:39
>>653
弥生時代に相当する時期の古代人骨の遺伝子レベルでは、トルコ人や欧州人によく似たのが
中国の山東半島などから出ています。ただし、形質は弥生人にそっくりです。しかし、現代
日本人が遺伝子レベルでは、ヨーロッパ風だという話は聞きませんので、他人の空にかも知れ
ません。
657日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:12:27
>>652 「モンゴル語の話」によればもう少しそれらしい類似もあったよう
ですが。

 美しい>クワシ、心、滝、山、味、幸、片、牛、犬 etc.
658日本@名無史さん:2006/06/18(日) 05:58:29
朝鮮半島南端から出土している、日本式の前方後円墳(5世紀後半〜6世紀)
については、どうなんだろうね。

なるほど、古墳時代の倭国は、半島をめちゃめちゃ恐れていたらしい(?)
659日本@名無史さん:2006/06/18(日) 07:53:13
日・韓・蒙同祖論をぶち上げているのは、やはり韓国の方々だったらしく、

http://plaza.rakuten.co.jp/prime4912/diary/200604150000/

”遺伝子マッカッカ”以来、何となくおかしいと思っていましたよ。
660日本@名無史さん:2006/06/18(日) 07:57:27
日本人は、ベトナム人などには比較的良い印象を持っているので、
あんまり「膨らんだ鼻…醜いナントカ…」などとは、やらないと
思ってました。

実際に、ベトナムをはじめとする東南アジアで工作活動をしていたら
と思うと、非常に不愉快ですね。東南アジアの人々に謝って欲しいで
すね。
661日本@名無史さん:2006/06/18(日) 10:26:05
>>659

>>〜韓・日・モンゴルの共通のルーツは「ジュシン族」〜

>>「ジュシン」という民族を知っていますか?
トンヤン大学のキム・ウンフェ教授は、最近発刊した著書で、モンゴル・満州・韓半島・日本を結ぶ
文明史的ベルトの主役であり北東アジア民族の共通の始原として、これら地域に金属文明を伝播した
「ジュシン」という遊牧民族を提示した。

消されたらまずいのでここに文章載せておきました。

比較的友好的なベトナム、台湾、香港、シンガポール人と同祖でも特別な感想はないけれど、
日韓同祖論で喜ぶのは、極端な反日思想に染まった、韓国人と北朝鮮人だけだからねぇ…。
662日本@名無史さん:2006/06/18(日) 11:16:43
>>646
>日本各地に官営馬牧場ができる。
>七世紀以降。

長野県に、浅間山の噴火で埋まった馬牧場の遺跡がある。突然の埋没だから、
蹄跡から馬の大きさまで分かると言われる遺跡だ。この噴火は500年ごろ
とされている。ということは、この牧場は5世紀からあったということだ。

>>647
>服装から武器・武具まで「丸ごと」変えたというソースを。

ソースなんか要らない。古墳時代中期の出土品を見ればよい。

>>651
ありがとう。平安時代でさえそうだから、奈良時代はもちろんのことです。
663日本@名無史さん:2006/06/18(日) 11:18:53
>>655
>論理が飛躍しすぎなわけですが。征服の脅威を克服云々も。

明治維新も白村江敗戦後も、征服の脅威を克服するために相手と同一化
しようとした(その結果服装が相手と同じになった)、というのが
なんで論理の飛躍か?

>>658
>朝鮮半島南端から出土している、日本式の前方後円墳(5世紀後半〜6世紀)
>については、どうなんだろうね。

日本の前方後円墳は少なくとも4世紀初頭からあった。全羅南道の約10基の
前方後円墳は倭の半島進出(あるいは逆進出)の結果だ。

>なるほど、古墳時代の倭国は、半島をめちゃめちゃ恐れていたらしい(?)

意味不明だが、私の脅威説をちゃかすつもりなら、6世紀の半島南部が
倭をめちゃめちゃ恐れた、と言わなくてはならない。
そしてそれは脅威と言うよりもすでに倭による征服だった。
664日本@名無史さん:2006/06/18(日) 13:50:24
>>663
>前方後円墳は倭の半島進出(あるいは逆進出)の結果だ。

逆進出は絶対にありえないと思いますよ、年代的に。
日本が本家で、5世紀後半から6世紀前半にかけて、集中して
造られています(半島南端の日式古墳。)

お願いしますから、電波飛ばさないでくださいね。
665YAP?:2006/06/18(日) 14:01:40
648〜650,652,653について
蒙古語の「4」が日本語の「4」と同源関係に在ることは確かだが、「8」については
東方の覚え違いだった。済まん。、

野村正良氏(名大名誉教授)は、『日本語の系統・基本論文集T』(和泉書房、
昭和60年6/30)所収の論文「蒙古語の系統と日本語・北方ユーラシア諸言語」
(p123〜139)の中で、数詞語根の比較、という一節を設けて論じている。

それによると、母音交替による意味の分化を来たしている事例の一つとして、蒙古語
数詞を例示している。蒙古語の数詞の最古形は、
1、nigen 2、qoyar、jilin 3、Gurban、4、do2rben
5,tabun 6、jirguγan 7、daluγan 8、naiman
9、ye2un 10、harban(←*Φarban)
と記載されている。kokode,o2,u2はそれぞれ、ウムラウトのついたo、uのことだ。
また、j、iも小さな∨が、上につけられているが底まで表記できないので、類似した音の表記と
いうことでご勘弁を。

これらの蒙古語数詞の語根2《jir−》、4《do2r−》はチュルク語の語根、《yigr−》、
《to2r−》と比較される等の操作後、再構されたモンゴル・チュルク両語派の共通基語の数詞語根
jir−《2》、Gur−《3》、do2r−《4》、tab−《5》、jirguー《6》、
dal−《7》、naー《8》、はそれrぞれ女真語の数詞の語根(の再構形というべきか)である
jir−《2》,guor−《3》,dur−(〜duー)《4》、tob−《5》、niー《6》、
nadー、dar−《7》,jaー,niuー《8》、と比較されると説く。
更にこの女真語の数詞語根をエヴェンキ語などの他のツングース語とも比較し、原アルタイ語の
数詞語根の再構を試みており、特に《4》と《8》については、それぞれ
《4》、+/do2−/、《8》*/daー/なる形を再構し、ここに、4と8が
/o2〜a/と言う母音交替の関係にあることを論じている。

そしてこの原アルタイ語のこの関係が上代日本語の/jo/《4》、/ja/《8》
にも反映していると説いている。
666日本@名無史さん:2006/06/18(日) 14:46:54
>>665 モンゴル語については4do"rben(トルコ語do"rt),7dalugan>
doloo(ツングース語nadan) がyottu,nanaと比較されていますね。

 5tabun は10towo と倍数関係があるのかも。
667日本@名無史さん:2006/06/18(日) 17:30:06
>>664
>逆進出は絶対にありえないと思いますよ、年代的に。

なんであり得ないのかな。想定される扶余の倭国征服は4世紀後半。
扶余はすでに古墳時代に入っていた倭を乗っ取った。
その後、扶余の支配する倭が5世紀後半〜6世紀に全羅南道に逆進出した。
というすじがきで、年代的に無理はない。
668日本@名無史さん:2006/06/18(日) 17:37:20
>>667
資料に書かれておりますの?
扶余が日本の支配者になったという資料がありますの?
易姓革命が起こったという資料がありますの?
中国の資料にありますの?半島の資料にありますの?
669YAP?:2006/06/18(日) 19:03:19
「5」tabunと日本語の「5」itsu/itsutsuの比較や、to”wo”がitsuと倍数関係
にあり、「1」fiと「2」fu、「3」miと「6」mu、「4」yo(jo)と「8」ya(ja)と
同列に論じられるかというと、難しいように思う。

ただ、これは妄想なのだが、日本語の「5」が、片手の指の数から転じたのであれば、「5」=「手」で、語頭に
母音のないte(〜ti)という語彙があり、それが母音交替により、「手」の意味から「五」の語彙を
生じたという可能性が考えられなくも無い。
で、「五」t*(*は母音なのだが、上代日本語では、「手」はteの他に、被覆形として「た」taという形がある。
「たなすゑ」「たなごころ」「たばさむ(手挟む)」などの語彙に残る古形があり、teよりもtaの方が良いような
気がする)が母音交替してto”「十」になったというものだが無理筋だろう。

所謂高句麗語彙の「十」である「徳」tVk(Vは母音だが、eかo?)の第二子音であるkが
wに日本語で変化する説明も必要だがまあ、70語ほど(最大百)の語彙では、
日本語w:高句麗語kといった対応の法則も発見困難ではないか?
670日本@名無史さん:2006/06/18(日) 19:35:31
>>668

>667は扶余病なんで放置してください
671日本@名無史さん:2006/06/18(日) 20:35:13
了解。

672日本@名無史さん:2006/06/18(日) 21:06:07
>>669 tabunのbunはgorban,do"rben,arban のban,ben とは違うような
印象なので、tabu なら towo に非常に近いように見えますが、何か傍証が
必要でしょうね。

 towo が tawawa を語源とするのなら関係ないのかも。


673日本@名無史さん:2006/06/19(月) 01:52:59
あの有名な「飛び地研」の親父も「騎馬民族征服説 」を信じてるらしい。
http://jbbs.livedoor.jp/study/1848/
674日本@名無史さん:2006/06/19(月) 09:54:26
>>668
年代的にあり得るということは納得したのか?
それともまだ年代について反論があるのか?
ちゃんとけじめをつけてから次の話題に進むように。
675日本@名無史さん:2006/06/19(月) 09:57:45
日本史の専門家はご協力ください。

http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_people[Japanese people]


この記事[Japanese people]を読むと、現代日本人は韓国人と縄文人の
混血でしかないように思えます。現代人同士の遺伝子的距離の近さまで
提示して同祖であることをアピールしています。
ドイツ語版なども、英語版の写しになっています。

Yayoi migrated from Korea to Northern Kyusyu.

縄文期以降は、ほぼKoreaで統一されており、Korean peninsulaという
単語も使われていません。
676日本@名無史さん:2006/06/19(月) 09:59:12
677日本@名無史さん:2006/06/19(月) 11:54:13
「有り得る」ってのは信仰を告白してるのと同じ。ならば「有りえない」事の信仰も許されるでしょう。
678日本@名無史さん:2006/06/19(月) 15:49:02
>>677
要するにすじがきの上で年代的な問題はないことを認めたわけだ。
679日本@名無史さん:2006/06/19(月) 16:54:53
>>678
違うよ。(笑
所詮は人文科学、在野が幾ら吠えようと信仰は信仰でしかない。
680白馬青牛:2006/06/20(火) 00:48:13
>>637639
言語を民族構成の重要視されるが、言語は政治的要素も強い。
英語を日常語に使うケルト系は、ゲルマン系民族か?という問題にもなる。
オセアニアのポリネシアンも英語を使うが民族集団としてアングロ・
サクソンになって仕舞う。頭長は環境で短期間で変化するであろうが、
顔高等が短期的に変化した例は知らん。HLAの徳永氏のデータと
弥生人がどう関連するんか?
681日本@名無史さん:2006/06/20(火) 07:15:21
>>680
移住先の言語に染まった、ていう可能性もありますね。
682日本@名無史さん:2006/06/20(火) 13:35:24
>>679
ある仮説が年代的に成り立つかどうかということと、その仮説を信じるかどうかは
まったく別のことだ。
「違うよ」というのは君が依然として年代的にあり得ないと考えているという
意味にとれる。
それならば私が言ったことに照らして、「年代的に成り立たない」理由を述べよ。
くりかえすがそれは扶余征服説を信じる信じないとは全く別のことだ。
683日本@名無史さん:2006/06/20(火) 13:49:48
>>682
あのー、679と668は「別人」だと思われます。

先日より、何を一人多方面相撲をとっているんだろうか?と困惑中。
684日本@名無史さん:2006/06/20(火) 17:02:48
私はずっとヒメ・ヒコ制論に興味をもってきました。

こんなリンクを見つけました。

http://homepage1.nifty.com/miuras-tiger/suiko-tennou.html

ヒメ・ヒコは王位の継承を安定させる仕組みでもあったのかなと思います。
表面的には女帝は継承になにか不安定要因があるときに表に出てくるように見えます。
中山千夏のように考えるかどうかは別として。
685日本@名無史さん:2006/06/20(火) 17:51:01
>>675
普段は、宝来聡のDNA解析を毛嫌いしてるクセに、都合の良い時だけは大々的に
引用して世界に向かって主張する韓国人がいるらしい。
686日本@名無史さん:2006/06/20(火) 20:24:09
>>675
で?
何を、どうしたら言いわけ?
せめて対応スレぐらいあげてくれないと、何とも言えないんだが。
おまけに英語で議論出来る奴なんて、少ないだろうし。
687がいやまん:2006/06/21(水) 11:20:14
>>675

Japanese peopleでは日本が高句麗、百済、伽耶の文化的影響を受けたとあるのは
事実です。しかし、基本的に稲作文化というものはすでに照葉樹林文化にあった
縄文人が九州北部において、南朝鮮に移ってきた水稲栽培文化を吸収することから
始まります。重要なのは日本が黒曜石の供給地であったということでこれが九州に
水稲文化が伝来することに大きく関係しているものと見られます。

問題は朝鮮族なのですが、これが漢の植民地となったために満州の夫与
族の地域及び中国北部から多くのユーラシアノマドが朝鮮半島に流入したことです。
朝鮮族は表面から姿を消し、日本にはユーラシアノマドが多く流入しました。

南朝鮮三韓には月氏族が多かったのですが、これは推古・斉明朝に日本に亡命して
います。これは白人でトカラ人であったようです。三韓の主要国の新羅にはスキタイ
系の古墳があります。こうした古墳文化が日本に流入する頃に日本の統一が始まり
ます。

ですから、朝鮮半島はまさにユーラシアと日本をつなぐ橋の役割を果たしたといえる
でしょう。つまり、日本に流入したのは朝鮮族の文化ではなく、ユーラシア文化そのも
のであったのです。
688日本@名無史さん:2006/06/21(水) 11:34:11
月氏ちゅうたら、トルコやイラン系ですがな。
689がいやまん:2006/06/21(水) 11:35:20
日本人は島国とは言われるが、相当国際性の強い面もあるようで、たとえば、中国、
朝鮮のように犬を食べないということがあります。この辺は中国朝鮮の文化まで模倣
下のではなく、教養とか宗教、芸術といったもののみを受容したようです。これは
日本人の特殊性かもしれません。
690がいやまん:2006/06/21(水) 11:51:41
>>688
冒頓(モードゥ)王は日本では松王、松尾となるのでしょうが、自分の妻を射殺、父を
射殺する信長の極地を地で行った人ですが、これがシルクロードの覇者月氏を討つ。
月氏は東西に別れ、小月氏は中国に入ったとされていますが、これが実は馬韓に入っ
たのですね。中国経由かもしれませんが。この人は漢を制圧した世界史上最大の英雄
といわれています。
691がいやまん:2006/06/21(水) 12:09:02
秦の亡民、匈奴の遺民がひれ伏す中に箸墓の頂上に立つ東方神国のハツクニシロス
スメラミコトの姿が現在の日本の作り上げているのだと思います。神国よ永遠なれと
民は歌ったことでしょう。
692日本@名無史さん:2006/06/21(水) 12:13:43
東夷伝に安息国と大月国ってのがあったよね
松尾って松王でモードゥーなのか

もう少しソースほしい。


693がいやまん:2006/06/21(水) 12:20:08
秋田のカラ・マツ神社は匈奴のヘレ区スル祭祀遺跡だ。
松尾神社の石柱とブリャーとモンゴルの石柱を比較すれば一目瞭然。
神社の裏のカブラヤの山、カブラヤは冒頓が妻、父を射殺したシンボルだ。
694がいやまん:2006/06/21(水) 12:24:51
中国語ではモートゥとなる。これに単于の中国語である王をつけ、倭人が発音すると
モートゥオウ、松尾となって当然だ。
695がいやまん:2006/06/21(水) 12:34:15
東夷伝の韓伝、馬韓「子が生まれるとその頭を平らにしようとし、皆これを石で押さ
えつける。」これが月氏特有の風習。
696日本@名無史さん:2006/06/21(水) 12:38:01
>>695え!
そうなの?
ソースたのんます
697がいやまん:2006/06/21(水) 12:49:27
王は寛衣を着け、大きな弓を脇に刺してた。肖像画ではヘライオスは顕著な頭骨
人口変形を行っているが、これは紀元1世紀のクシャン王朝肖像画、彫刻に見られ
る特徴である。
http://581.lb.wikimiki.org/en/Heraios
698日本@名無史さん:2006/06/21(水) 13:00:27
月氏系の末裔が東スラブか
699日本@名無史さん:2006/06/21(水) 13:36:25
江上説支持派は高天原馬韓説だといいたいわけ?つまり朝鮮にあると?
700日本@名無史さん:2006/06/21(水) 13:37:40
馬韓が辰韓の高天原であったような記述は
東夷伝、韓伝にあるよな
701がいやまん:2006/06/21(水) 13:50:18
洛東江上流、高霊、あたりに高天原があったとする説があるが、当時は朝鮮領土ではなく
満蒙秦亡民の国だからあった可能性はあるね。ただし、あくまでもローカルなもので、
たとえば丹波出身の倭人が支配していたにせよ、対馬などまでには影響力はなかったでしょうね。記紀にある高天原には天孫という政治勢力の合議の場という面もあり、一定の
場所とは限らなかったことも考えられる。高地性集落などは九州から関東まであるからね。
702日本@名無史さん:2006/06/21(水) 13:53:58
江上って唯物論者なんだろ?
703日本@名無史さん:2006/06/21(水) 14:09:04
科学に唯心論なんてあるのか
704日本@名無史さん:2006/06/21(水) 14:19:43
>>691
秦の亡民ていうのは、秦人ではなくて、中国東北にいた「韓」人のことじゃないの?
705日本@名無史さん:2006/06/21(水) 14:21:40
ついでに、トルコ系もしくはイラン系に特有な遺伝子って、日本人の間に見られます?
ごくまれに見られるらしいという噂は聞くけど、「ごく」稀な話でしょう?
706日本@名無史さん:2006/06/21(水) 14:31:06
前にも言ったけど現代の高天原が霞ヶ関であるように
古墳、奈良平安、鎌倉(関東)とこのような官吏派遣システムは
一貫して存在している。
高天原=渡来人の居住地というのではない。
707日本@名無史さん:2006/06/21(水) 14:47:33
秦の最大領土:遼東半島の北部、現在の北朝鮮領の一部から、ベトナム北部に至る
       広範な地域。当然ながら、海南島と台湾は含まれない。
       始皇帝の暴虐ぶりに疲弊し、死の混乱に乗じた逃亡者は数知れなかった
       と推測される。秦人や韓人の半島への亡命者は、半端ではなかったと
       思われる。日本への余波が無かったとは言い切れない。
708日本@名無史さん:2006/06/21(水) 16:38:15
>>707 海南島と台湾が含まれないのならもっと遠い日本は関係無いだろう。
709日本@名無史さん:2006/06/21(水) 17:59:53
>>708
秦の最大領土に海南島と台湾は含まれないが、始皇帝の死後、亡命者は多数出た
であろうということ。
710日本@名無史さん:2006/06/21(水) 18:02:11
辰韓の連中なども、もともとは始皇帝の暴虐から逃れてきた連中の可能性が高い。
711白馬青牛:2006/06/21(水) 23:48:03
>>689
犬は、日本でも喰うておりました。しかも日本は鯨を食する習慣も
あったので、国際的とは云えんと思います。まあ、欧米人が鯨を食する
のを、勝手に野蛮と決め付けておる訳ですが。日本だけが特殊とも云え
ません。
712日本@名無史さん:2006/06/22(木) 02:10:59
>>711 南洋でも鯨を取る種族はいるのでは?一頭取ると村中で数ヶ月の食糧になる
とテレビでやっていた。
713日本@名無史さん:2006/06/22(木) 02:39:51
ノルウェーは?
714日本@名無史さん:2006/06/22(木) 02:59:44
カタツムリやカエルを食う種族というのもあまり国際的とは思えないな。

 シナ人なら何でも食うようだが。
715日本@名無史さん:2006/06/22(木) 03:07:56
漏れは埼玉農家だが、犬は番犬、猫は鼠対策で飼うが
食う習慣はない。
716日本@名無史さん:2006/06/22(木) 04:49:38
漏れは九州の販売業だが、犬は番犬、猫は鼠対策で飼うが
食う習慣はない。
717日本@名無史さん:2006/06/22(木) 05:59:13
食人種は世界各地に居るので国際的かも知れない。
718日本@名無史さん:2006/06/22(木) 06:29:31
あぁ、だから日本人は非国際人なんだな。
719日本@名無史さん:2006/06/22(木) 06:34:58
白馬青牛は燃料。お前らは燃えカス。
720がいやまん:2006/06/22(木) 06:57:02
>>711

地域的、時代的にi犬を食べることはあったでしょうが、半島のように商業化したり、中国の
ようにグルメ化する以前に、基本的食習慣、仏教による二次的禁忌が働いていたのが
現実ではないでしょうか。(北方では非常食扱いするところがあるとか)

哺乳類であるという認識ができるのは最近のことで、魚へんのものであり、欧米、特に
米国は産業用に日本近海まで荒らしてきたわけですから、身勝手な捕鯨反対キャンペ
ーンを臆面もなく続けたものとは思います。ただ戦後の食糧難、ベビーブーマー
(現在の定年退職者層)の時代の大きな需要が問題視されたことはあったのでしょうが。
721日本@名無史さん:2006/06/22(木) 10:21:43
http://miyake.yaekumo.com/index.html
↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑

ホリが深くて目鼻立ちがハッキリした、ダンディー
な昔の皇族(男性) 
722日本@名無史さん:2006/06/22(木) 10:39:26
>>721

http://yushodo.co.jp/pinus/61/meijiphoto/photom2.html

もっとある。かなり濃い。(男性)
723日本@名無史さん:2006/06/22(木) 18:29:56
李氏朝鮮は、国の体裁をまったくなしていなかった。
今日、韓国では誰もが不思議に思うことなく、李氏朝鮮を振り返って、「ウリナラ」(わが国)という。
しかし、李氏朝鮮は中国の属国であったうえに、内でも国家の体をなしていなかったから、とうてい国(ナラ)
と呼べるような状態になかった。
李氏朝鮮は両班のためだけに、存在していた。両班は支配階級であったが、自らの繁栄だけを求めて、
民衆を文字どおり容赦なく収奪することに専念した。両班は勤労を蔑んだから、体を動かして汗を流すことを忌み嫌った。
両班たちは李朝500年を通じて、酸鼻をきわめた党派抗争に耽った。いったい、李氏朝鮮はどのような『国』だったの
だろうか?驚くべきことに李朝末期の19世紀末になると、両班が朝鮮の人口の半分を占めるようになっていた。
韓国の学校教科指導書に、李朝時代を通して、両班と常民の人口比率が、どのようなものだったのか、推定が載っている。
それによると、李成桂が太祖1年(1392)に李朝を創建した時には、両班が2〜3%、
常民以下が98%〜97%を占めていた。両班と常民の間にはさまれた中人は、かなり後になってから生まれた。
そして、1700年代には、まだ両班が5%に対して、常民が59%という比率だったのが、
1800年代に入ると両班の人口が増えて、両班と常民が半数ずつになった。
ところが、1900年代になると、両班が65%を占めていた。(後略・・・)

四方教授による大邱(テグ)の「戸口帳簿」を中心とした身分別人口分布の研究『身分別人口分布・単位% 』
  
  年度       両班   常民   奴婢・その他 計(人口・人)
1690年      7.8   49.5   43.1   100(13,913)
1729〜32年  14.8   52.8   32.4   100(15,266)
1783〜89年  31.9   52.2   15.9   100(12,300)
1858年     48.6   20.1    31.3   100(13,195)

【李氏朝鮮の体制】
http://toron.pepper.jp/jp/middle/syndr/kaikyu.html
724白馬青牛:2006/06/22(木) 21:57:21
>>712
南洋の鯨捕りについては、その番組を視てないので解らん。
http://www.saga-med.ac.jp/academic/meeting/anthrop/summary/e01.html
に、先史時代から日本・朝鮮半島・遼東半島の沿岸地域では、鯨を食用と
しておったが、「南中国・東南アジアでは、報告書によるかぎり、256
貝塚中0という結果」で捕鯨や海獣猟は北アジアに多い習慣で、南方は
想定し難い。
>>720
『料理物語』(寛永二十年、1643)でも犬の吸い物・貝焼きが
出ております。
http://www009.upp.so-net.ne.jp/society/inunikusyoku.htm
には、「まとまって売り出ていたものを購入した可能性が高い」とあるよう
犬の足ごと市場で売られておったのでしょう。現代日本で犬肉のスペアリヴ
を食えば、西洋人から野蛮人のジャップと呼ばれますね。
725日本@名無史さん:2006/06/22(木) 22:07:20
赤狗の肉を食えば、体が温まるという話を聞いた事があります。

ただ、私の親類縁者、知人のうちで、狗肉を食った経験がある人間は、
一人もいないようで、少なくとも「メジャーな食い物」ではなかった
ようですね。
726日本@名無史さん:2006/06/22(木) 23:11:18
>>724

>捕鯨や海獣猟は北アジアに多い習慣で、南方は想定し難い。

私は捕鯨で有名な和歌山県太地町の出身だが、どうして捕鯨を北アジアの漁と断定できるのか?
太地の遺跡を発掘すれば、 鯨の骨で作られた遺物がよく出てくる。
太地では縄文時代から鯨漁が行われてきたことがわかっている。

>捕鯨や海獣猟は北アジアに多い習慣で、南方は想定し難い。
などど、たいした知識もないのに断定するのは、甚だ遺憾だ。
それと、鯨漁と海獣漁は全く方法が違う。別物だ。
俺は鯨を撃ったことはあるが、野生の海獣などは見たこともない。
727日本@名無史さん:2006/06/22(木) 23:14:22
>>720
>>724

●日本の捕鯨
・原始・古代の捕鯨
石川県の真脇遺跡からは約5,000年前(縄文時代前期〜中期)のイルカの骨が大量に出土、
九州でも約4,000年前(縄文時代中期〜後期)の遺跡からクジラの椎骨を製造台にして作られた土器
(底面に椎端の圧痕を残しているので「鯨底土器」と呼ばれている)が多く発見され、
また長崎県壱岐の原の辻遺跡から出土した約2,000年前(弥生時代中期後半)甕棺に捕鯨図画描かれており、
712年成立の『古事記』にもクジラが登場しています。
このように大昔から日本人と鯨類との付き合いがありました。

日本では、仏教の伝来とともに、獣の肉を食べることが禁止されていたために、魚による食文化が発展してきた。
そのため魚の仲間と考えられていたクジラは、貴重な動物タンパク源として古来から利用されてきたが、
クジラが食品として広く普及し始めるのは、江戸時代に入ってからだった。
江戸時代には大量のクジラ肉が流通し、庶民の食べ物として普及してゆく。
約70の部位について料理方法を記載した「鯨肉調見方」などの専門書も登場し、
また各地でクジラの墓や供養碑が建てられて供養が行われるとともに、
唄や踊りなど芸能文化が発展するのもこの時期である。
728日本@名無史さん:2006/06/22(木) 23:19:28
>>726

「徐福と捕鯨」

産業事蹟考には
「熊野捕鯨業は世に聞ゆる所也。
相伝う斯業の振興は古書にありて、彼の徐福が当時秦の禍を避けて遠く日本に航し、紀州熊野浦に着し、初めてこの地に於て捕鯨の業を行い、是より後漸く本邦各地に伝播するに至れりと称す。
とあるが、この説果して実ならば、捕鯨業は秦代徐氏の遺法にして、我が国に於いては、 紀州熊野を以て開始とするは全くいわれなきに非ず。
而してその捕鯨の歌は、
 ”大島原からよせくるつち(槌鯨)を 二十艘秦氏がさしてとる〃
とあり、本邦に於て秦姓を冒す者は、総て秦氏の末族といういい伝えあり。
然からば徐氏も秦の人なれば、この歌の中の秦氏とは或は徐氏のことと言いしものならんかとあり、挿鯨の術を以て徐福の遺法なりとなすは古さ伝鋭なり。」
とある。

近隣の捕鯨の基地として有名な太地町は、秦地とも書く。

徐福紙 養老四年(720年)に、熊野徐福伝の唐紙様の紙を献じたと記されている。
江戸時代の見聞録に「上古秦の徐福日本へ渡り来りて熊野に在住し、紙をも教え漉かせて用いたり。」とある。
729日本@名無史さん:2006/06/22(木) 23:51:53
>>726

白馬青牛はすべての日本文化のルーツを北アジアに結び付けたがるバカ。
無視してもいい。

和歌山県南部の太地町は捕鯨で有名。
鹿児島・高知・和歌山県南部は南方系の文化が色濃く残る地域。

その南方系の文化が色濃く残る地域で縄文時代から捕鯨が行われていたことが証明される遺跡の発掘がされている。

従って、白馬青牛の捕鯨は北アジアの習慣説は否定された。
730白馬青牛:2006/06/23(金) 00:05:56
>>726
じゃけえ、捕鯨が北アジア起源でないとするんなら、東南アジアの捕鯨に
ついて言及するべきであろう。現在でも捕鯨は、イヌイット系等北アジアに
多い。わしを大した知識もないと罵倒し甚だ遺憾だとするんなら、
越文化と捕鯨の関係を云えいや。海獣が紀州に少ないんと関連させ、
断定する方が可笑しい。
>>727
仏教の伝来で、獣の肉が禁止され?法は建前で肉食禁止が一斉に普及した
根拠もない。文献主義に陥っとる。
>>728
秦は、元来羌系牧畜民じゃ。日本だけの解釈で妄想すなや。
731東京出身:2006/06/23(金) 00:18:55
>>729
>>730


>捕鯨や海獣猟は北アジアに多い習慣で、南方は想定し難い。

捕鯨は北アジアの習慣説?か何か知らないけど、初めて聞く説だな。
その根拠は何?
というか、クジラと海獣を一緒にしている時点で知識の少なさが露呈してるじゃん。
クジラと海獣は別の生物だよ。わかってる?
あなたの言う海獣って具体的にどんな動物???
732日本@名無史さん:2006/06/23(金) 00:23:05
>>729
>>730
イヌイットと日本人の遺伝子距離は遠く、イヌイットの捕鯨と日本人の捕鯨に
どんな深か〜い関係があるのかわかりません。

北方古モンゴロイドの縄文人と越文化は関係ありまっせん。縄文人は、越人じゃぁ
ございません。
733日本@名無史さん:2006/06/23(金) 00:23:41
鯨じゃなくて「イルカ」なら、沖縄でも食べます。
734日本@名無史さん:2006/06/23(金) 00:28:34
>>730

>海獣が紀州に少ないんと関連させ断定する方が可笑しい
>文献主義に陥っとる


1、トドなどの海獣が和歌山県にいると思っているバカ(白馬青牛)発見!!

2、イヌイットが捕鯨をしているから、捕鯨は北アジア文化だ!とほざいているバカ(白馬青牛)発見!!

3、質問者が越文化≠ネどと一言も言っていないのに「越文化と捕鯨の関係を云えいや」と、自分勝手なことを言うバカ(白馬青牛)発見!!
735日本@名無史さん:2006/06/23(金) 00:34:14
>>733

和歌山県でもイルカを食べます。
また、石川県能都町真脇遺跡の発掘調査によって縄文時代文化層からイルカの骨が多量に出土しています。
真脇遺跡では縄文時代前期後葉〜晩期の各層からイルカ骨が出土しており、合計すると少なくとも286頭分を数えます。
富山県氷見市朝日貝塚、千葉県館山市鉈切神社洞穴、北海道虻田町入江貝塚など、イルカ骨の出土が目立つ遺跡は多数あります。
736日本@名無史さん:2006/06/23(金) 00:37:44
とにかく、白馬青牛が言いたいのは、古代日本人はイヌイットなどの北アジア文化に支配されていた奴隷だから
縄文人はトド(海獣)を食べていたってことだよね?
737日本@名無史さん:2006/06/23(金) 00:38:59
古代日本人はトド(海獣)を食べていた!!とほざいているバカ(白馬青牛)発見!!
738日本@名無史さん:2006/06/23(金) 11:19:25
古代縄文人や沖縄人が伝統的にイルカを食べている時点で、北方起源ではない気がする。
739日本@名無史さん:2006/06/23(金) 12:57:25
白馬青牛はなにがなんでも日本文化のルーツを北アジア起源にしようという脳の持ち主です。
南方文化の影響を挙げると否定します。
そこには養老猛の「バカの壁」が存在します。
740日本@名無史さん:2006/06/23(金) 14:18:32
邱英漢さん(台湾人系)が、フンドシ一つにも、南方との繋がりを感じると
述べておられるが、イヌイットやモンゴルや女真との関わりだけで全てを
説明できるほど、日本人の文化は薄っぺらくないような。

てか、全くイヌイット的でもモンゴル的でも女真的でも無いものが多すぎて、
それらを全て「縄文の遺産」と片付けるのは、酷なような気がする。
そもそも、縄文の文化って言うのは渡来系を凌ぐほどの程影響力があったのか?
ということが、まず大きな疑問。

人口的にも、渡来系>>>>>>>>>縄文、正直こんな感じだと思うが。
741日本@名無史さん:2006/06/23(金) 14:49:16
隋書の最後に記す、「この後遂に絶つ」とあります。がその意味を解説できるでしょうか?

私が推測するに、記紀に記す倭国史とその天皇(大王:女王)は神武王から、用明王に至る迄、絶えることなく、連綿と継続して来ました。
其れも宗主国皇帝の認証と云う関連性を持ってです。
それが、隋煬帝と用明王の後継者「穴穂部皇子」後に途絶したと言うのです。「608年、煬帝の大業4年」
次に倭王が顕れるのは、唐太宗に認証された倭王舒明です。「631、太宗貞観5年」
ですから、608〜631間「実25年」は倭国に倭王無しの時代が実現したのです。

倭王とは何を云うか? 日頃、私は倭国史二元論を提唱して来ました。

 倭国盟主→筑紫・ヤマト「神武を始祖とする宇佐大王家」と、→政府
 倭王→「倭国の兵権を掌握する最高位の者=倭国将軍」です。→将軍府

の二元統治体制を云います。
猶、倭王は筑紫域からも→筑紫君、大倭域→大倭君:大倭王等々と尊称されていた形跡があります。故に、大倭王は「おおわのきみ」と読むのが正しいようです。「通説はだいわおう」。
元に還って、万世一系を証しする、記紀の選者は此処の25年空白をドンナ手法を以て、修繕したのでしょうか?
742日本@名無史さん:2006/06/23(金) 14:55:55
●「女王推古」考

推古は大和王太子の卑弥呼→A
倭国史に登場した女王・卑弥呼をモデルと成す女帝→B
の2点・二面性を推古天皇として、具現化しています。

Aについては書紀の完全な間違いです。訳は、
太子の卑弥呼は、菟道の磯津貝皇女「津和野地方の王系=欽明天皇の系列皇女」。
太子は倭王欽明に大和地方の都督として命され赴任する。本拠は斑鳩。
太子は畿内大和地方の一統に成功。敏達王の5年に、其の功を認められ都督から、初代の大和王に認証された。

是の倭国王敏達と大和王太子を繋ぐのが太子の聖母「菟道磯津貝皇女」です。推古ではない。推古と太子は無関係。
其れが何故か推古になった。
其の鍵を解くには、推古は「小貝蛸皇女」でもあると云う事。
菟道磯津貝皇女「宇治は津和野→益田を繋ぐ高津川沿の国を云う」
小貝蛸皇女は「豊浦郡豊北町田耕の皇女」。

一人は津和野地方の卑弥呼→Q。一人は豊北町の卑弥呼→Z。
*推古の宮「小墾田」は→Z卑弥呼の宮
*太子の卑弥呼は→Q。
というように、二者は交錯しているのです。

では、女帝推古は二者のドチラでであるか?

●「推古」
何故だか推古は日本の女子天皇の第一であると伝承さる。
しかし書紀には、推古前にも女王・卑弥呼は登場する。
倭人伝だけでも4人の女王卑弥呼が登場しているのですから、道理に合わないですよね?

そこで、私は試案として、推古は書紀に記す、「飯豊青皇女」だとしたい。
亦、倭人伝に記す、「邪馬壱国の女王・卑弥呼」でもあると提言した。
743日本@名無史さん:2006/06/23(金) 15:03:27
●「女王推古」考 その2
次に、敏達王と推古の関連を観ます。
※敏達王の治世は、「572−628」→A
※敏達后推古は敏達5年→21=「592」→B
※推古の治世は、「593−628」→C

年次は、Bの翌年から推古政権が開始された事を意味します。
しかし、天皇敏達は健在ですから、敏達崩御→推古即位とはなりませんよね。
故に是は太子の大和王元年と太子の大和王は倭王敏達の認証を得て成立した事を表意する。
この場合は推古は女王・女帝では無く、太子も倭王・倭国王では有りません。
倭国王は只一人「敏達天皇」のみです。

*太子の大和王としての治世は、「593-600」です。
ACから、敏達:推古の倭王:卑弥呼関係は「西暦628」で終わっています。
翌年「629年」には「舒明王:皇極卑弥呼」政権がスタートします。
唐の太宗は、敏達:推古」の親隋政権を嫌い、親交を舒明政権に期待したようです。
ともあれ、敏達→推古の関連性も希薄です。

最後に、太子との関係からも、敏達の関係からも推古政権や推古女王が生れる可能性は全くない。
加えて年次による実在性も忌避できる。

●書紀年次と推古女王の関連性は
*敏達王「572-585」 *用明王「586-587」 *崇峻王「588-592」 *推古「593-628」
と書紀はすまし顔で表記しますが疑いの余地あり。なぜなら其の訳は崇峻の実在が判明しているからです。
倭王・崇峻の真正の治世は「371-395」です。
元年、太歳戊申(371)在位、6年→25年(朝貢年に変換)試算、 371+25(-1)=395

此の位置、東晋年代にある倭王「泊瀬部尊」を切取り、崇峻と為して用明天皇と推古の間に貼り付けた人物です。
在位も6→5年に縮小した。故に、崇峻は創作天皇。
当然、創作倭王崇峻を前提とする推古の存在も虚飾・虚像に過ぎないものです。
推古の実在が全ての面で否定されるのに、天皇と呼称され伝承されるのか?
等々については其の3でとしましょう。
744日本@名無史さん:2006/06/23(金) 15:06:19
酢香手姫皇女は聖徳太子が亡くなったと同時に斎宮を解かれているわけですが、真相は倭王である「タリシヒコ」が亡くなったから。→W

★太子の逝去は「AD.600年」
酢香手姫の斎宮引退は「AD.607年」A
倭王用明の在位は「572-604」 B → 隋・文帝の崩御は、「804」
用明→上宮法王「605-607」  C
穴穂部皇子「607-608」    D
タリシヒコ・敏達「572-628」 E  
 推古     「593-628」 F

上記年表によれば、酢香手姫皇女は用明王の卑弥呼である事が判明する。
猶、煬帝とモメタ為に、倭王に成り損ねたのが穴穂部皇子。
其の卑弥呼は「間人皇女」。

穴穂部皇子の失脚は、倭国の宗家「三輪君」殺害事件に起因する。
因って、Wは正しくないと結論します。

以降は其の4で。
745日本@名無史さん:2006/06/23(金) 15:09:13
筑紫君磐井は清寧王の後継倭王であった。

★倭王・清寧(263-287)在位6年 X
★倭王・磐井(287-?) Y
★倭王・継体(290-316) Z

●磐井の乱。継体王二十一年(310年)W「干支は(丁未:庚午)」A
→XYZは全て西暦年です。

では、次に継体王21年を書紀年次で記すと、287年。
干支に変換すると、
(甲申:丁未)B
→ABから、干支(丁未)で一定します。

解説しますと、倭王・筑紫君磐井の乱は西暦287年であった。太歳甲申年。
書紀撰者は干支を周暦「三統暦」に変換して、「丁未年」とし、同干支の310年⇔継体王二十一年(太歳丁未)としたものである。

従って、筑紫君磐井は倭王であったの仮説は史実である事が証明された。
746日本@名無史さん:2006/06/23(金) 15:13:32
●卑弥呼共立の実体

「桓・霊の間、倭国大乱歴年主なし、一女子あり、名を卑弥呼という。共に立てて王と為す。
★*桓帝(147−167)
 *霊帝(168−188)
*桓・霊の間とは、上記、桓帝、霊帝の在位から回答を得るのは不可能です。
そこで試案を参照します。即ち、宗主国皇帝に並行する倭王の対比です。
●桓帝(147−167) ★孝昭王(149−166)→A
★孝昭王の検証、
即位元年、太歳丙寅(149)在位、其の68年立太子す。試算149+67/4=166 故にAが証明さる。

次に、霊帝に並行する倭王
●霊帝(168−189)  ★孝安王(172−190)→C
上記から云える事。
宗主国・後漢は桓帝→霊帝移行は滑らかです。其処に問題は有りません。
一方、倭国側の事情は、
孝安の皇太子推戴は(166)。だが、倭王認証は(172)です。孝安王の元年太歳己丑(172)。
在位は立太子其の76年→18年 172+18=190 故にCが証明される。

問題は、立太子166年と倭王認証172年の差額ではないか?
実年は7年ですが、朝貢年に変換すると29年になります。
「その国本また男子を以て王と為し、往ること七・八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年。」
*孝昭王の在位18年⇔72年
*相攻伐歴年は7年⇔28年
と推測できる。「卑弥呼が共立されることで安定した」(倭人伝)

●孝安王の卑弥呼
共立されて女王となった卑弥呼は孝昭の后で孝安王の卑弥呼である「世襲足媛」であると推察できる。
因って、孝安王の政権は、「卑弥呼・女王:孝安男弟王」体制である。
共立女王・卑弥呼の治世は、「172−190」です。
因って、魏・明帝少帝に出る女王卑弥呼は当然別人であることが証明された。
747日本@名無史さん:2006/06/23(金) 15:15:32
近日特に倭・筑紫大王家は宇佐市周辺と為す、議論が湧出してきました。
私は3年も前から、一貫してきた主張ですから、嬉しい事ではあります。が

警告 1、
其の為には、神武東征論をキッパリ否定しなくてはなりません。
神武東征後に、邪馬台国の母体となる勢力が生れたと云う説もあります。
が、空洞説を埋めるだけの為にする論旨に過ぎない。
だが、邪馬台国は宇佐市だ。で倭国史を語る事は不可です。

次には必ず解決しなくてはならない問題に直面します。
書紀に記す倭王・大王・女王・天皇等の実在と筑紫大王家とは別次元であること等です。
其処には、万世一系を目的として構成された、大王史が一人として、継続・継承されていないと云う矛盾です。
何故そんな事になったのか? 次に来る問題ですね?
748日本@名無史さん:2006/06/23(金) 15:18:22
古代史で是程面白い現象はあるでしょうか?
日本書紀は「万世一系」を目的として選定された。
だが、其処に記す大王・天皇の中に親子・兄弟」で継承された者は一人も居ないと云う事です。
勿論、其処には皇子・皇女とは書かれていますが、実体は無関係であると云う事です。

私は過去にも爆弾発言をしました。

古墳・大王陵は「産廃だ!」です。二年にもなるでしょうか?

この発言が間違いであると打破された試しは有りません。
時々にバカが顕れては誰の墳墓か不明なものを出しては是は○○天皇・大王の御陵だと云っては騒ぐ者が居ました。
私は全国民に提唱しているのですよ。
古事記や書紀に記す大王・天皇の名を挙げて、是が○○天皇の真正の御陵だ。
「産廃」に非ずと、堂々と論破して欲しいものですよね?考古学のプロさんよ?

ムシロ、私が明日香村の「石舞台古墳」は天武天皇の御陵だ。産廃に非ずとね?
昨日までは、蘇我馬子の墳墓だと伝承されていたのですよ?
私が始めて「NO」と云ったのですよ!
確かに度胸のいる発言だよね?

今回の提言は其れ以上の話だよね?
如何だ?堂々と私の提言を論破出来る者は居るかい?
「継承した」は「親子・兄弟間の」とだけは注文を付けて置くぞ。
749日本@名無史さん:2006/06/23(金) 15:25:33
>>741>>748


すみませんが、スレ違いじゃないですかね?




750白馬青牛:2006/06/23(金) 22:20:35
>>731732734737
その他、>724に、サイトを挙げたよう、捕鯨文化は遼東・朝鮮のことも
含め解釈せえ云うとるんじゃ。縄文人は、細石器の北方要素と玦状耳飾の
越文化要素と南北要素がある。越文化と関係ないとは云えんよ。
海獣は、明治期に乱獲されほぼ絶滅のニホンアシカの事じゃ。
古代日本人が海獣を食べた事を述べたんが何でバカ発見何んか?
わしゃあ可笑しゅうて、やれんわい。今でも笑いが止まらん。面白い。
昨日寝ずにおった方がえかったのう。
http://www.aoya.city.tottori.jp/kamijichi/tayori/tayori5.htm
に、「ニホンアシカ・クジラなどの骨も見つかっています。」と出ておる。
http://www.z-tic.or.jp/site/page/yayoi/aoya/info/haiken/030805/
にも、「ニホンオオカミやニホアシカといった今では絶滅してしまった
動物の骨も見られます。」
わしが馬鹿としても、あんたらは幼稚園児程度の知能じゃしのう。
あんまし、笑わせんといて、つかわさいや。
751日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:30:34
>>750
縄文人や沖縄人が伝統的にイルカやクジラ(縄文)を捕獲しているのだから、
やはり、北方に結びつける必要もないんじゃないでしょうか?

縄文時代に、のっぺり顔の北アジア人が、縄文人に混じってイルカ漁やクジラ
漁をしていた証拠はありますか?

玦状耳飾、漆、熱帯ジャポニカ、高床式…これらは、確かに越系かも知れませんね。
かも知れない…というだけだけど。
752白馬青牛:2006/06/23(金) 22:42:39
>>739
養老氏の「バカの壁」とは、あんたの様な、わしの見解を情報遮断する
人の事ではないんか?あんた自身の事と思わん神経が可笑しい。
http://www.aoya.city.tottori.tottori.jp/kamijichi/tayori/tayori5.htm
じゃったか。>750の前半部は。
753白馬青牛:2006/06/23(金) 23:07:50
>>751
日本国内の沿海の事例だけで、判断しちゃあいけん。と云うことですよ。
>724の遼東・朝鮮の事例を云うとるんです。南方に結びつけれる証拠
(歴史に証拠と云うのも可笑しい。様々な要素、類型から考察するしか
ない)はありますか?
754日本@名無史さん:2006/06/24(土) 00:26:19
バカの壁というよりバカ本体なんだけどな白馬青牛は
755日本@名無史さん:2006/06/24(土) 01:25:22
騎馬民族はモンゴルなんかを見ればわかるように、平原は強いけど海は苦手だろ?
そんな民族が捕鯨なんてするのかな?
756日本@名無史さん:2006/06/24(土) 02:03:46
広島県民とモンゴルを結ぶ糸。


これを模索し
でっちあげ
反論を罵倒する。
757日本@名無史さん:2006/06/24(土) 03:07:30
>>730
>>750

>海獣が紀州に少ないんと関連させ断定する方が可笑しい
>海獣は、明治期に乱獲されほぼ絶滅のニホンアシカの事じゃ

和歌山県にアシカはいない。
縄文時代に和歌山県でアシカの骨が発掘されたのか?
されていないだろう。
自分の間違いを認め、素直に謝ったらどうか?

それに何がなんでも北アジア文化に結びつけるのは、頭が固いと思うよ。
>>739がバカの壁といっているのも、そうゆう意味だと思う。
「古代日本人が北アジア文化圏から来た人たちの奴隷だった。」という根拠は何でしょうか?
758日本@名無史さん:2006/06/24(土) 06:10:45
>>757
支配層が、奴隷民である縄文風のイレズミして、縄文人の真似してイルカ漁してたら笑うかも。

朝鮮半島南端の支石墓が日本の支石墓のルーツだといわれているが、列島のは非常に小さい。

「おぃ、新入り。あまりでけぇもん造んじゃねぇぞ!」となんて、渡来形弥生人が縄文人に
睨まれた可能性もあるんじゃないの?
759日本@名無史さん:2006/06/24(土) 06:13:10
「舟形木棺」てあんまり「騎馬民族」的じゃないよな、そう言えば。
760日本@名無史さん:2006/06/24(土) 06:24:50
騎馬民族が山野を「跋渉」するのか?
761日本@名無史さん:2006/06/24(土) 07:57:56
>>730
>>750

>海獣が紀州に少ないんと関連させ断定する方が可笑しい
>海獣は、明治期に乱獲されほぼ絶滅のニホンアシカの事じゃ

和歌山にアシカがいると思ってるのか?
頭でっかちの典型だな。
知識よりも、その場所に行ってみればいいよ。
あんな暑い土地にアシカは生息できない。

あと、森林や山地が多い日本の地形では、騎馬は不利だよ。
頭でっかちさんは知識よりも、その場所に行ってみればいいよ。
762白馬青牛は「バカの壁」:2006/06/24(土) 08:05:17
白馬青牛はなにがなんでも日本文化のルーツを北アジア起源にしようという脳の持ち主です。
それに和歌山県にアシカがいると勘違いしているバカです。
そして、クジラ漁とアシカ漁を同じ方法だと思っています。
クジラとアシカは大きさが違います。
幼稚園児でも理解できることが、頭デッカチの白馬青牛には理解できません。
なぜなら、白馬青牛の脳には養老猛の言う「バカの壁」が存在しているからです。

縄文時代の南方文化の影響を挙げると否定します。
白馬青牛の脳には「バカの壁」が存在します。
しかし、本人は「バカの壁」の存在を気付いていません。
哀れなことです。先入観に犯されています。
763白馬青牛は「バカの壁」:2006/06/24(土) 08:23:35
例えば、田島陽子さんなどの左翼論者は、戦前・戦中の日本の「暗黒の歴史」に非常な関心を寄せて、
「旧日本軍の非道」を伝える情報のみを信じ、「日本は悪くなかった」というような情報は頭から否定しています。
彼ら・彼女らは、「歴史見直し論」に対して、「バカの壁」を築いていると言えるでしょう。

また、いわゆる「保守論者」は、朝日新聞などの左翼メディアの外交や安全保障に関する論調に対しては、無駄な情報だと認識しています。
つまり、「保守論者」は、朝日新聞などの論調に「バカの壁」を築いていると言えます。

小泉擁護論者も、「小泉さんは凄い」「小泉さんは大した政治家だ」という論拠になるような情報しか興味がなく、
「小泉総理を否定する情報」は頭から否定して、強固な「バカの壁」を築いています。

白馬青牛も「日本文化は北アジア起源」「倭人は漢人の奴隷」という情報には興味があり、脳にインプットしますが
「日本文化は南方の影響を受けている」「日本文化は北アジア起源を否定する情報」は頭から否定して、強固な「バカの壁」を築いています。


自分とは異なった意見というものは、自分が信じているものを妄想だとか、陰謀論扱いしている点において、腹立たしく、
また自分が信じていないものを信じているという面において、アホくさく感じられるものなのでしょう。
764日本@名無史さん:2006/06/24(土) 10:45:50
>「人は死んだら、魂は舟に乗って天国へいく」
http://www.kazokuso.popup/kaiyo/kaiyo_1.html

これが、古代人の死生観。「舟形木棺」から騎馬的な雰囲気は感じられない。

ps:私は、葬儀屋の回し者ではありません。面白いので、貼ってみました。
765日本@名無史さん:2006/06/24(土) 11:10:58
古墳時代の墓―舟葬墓

http://www2.city.tateyama.chiba.jp/Guide/?tpcid=39&stoid=366

墓は全て、海へ向かっているそうです。

古墳時代の騎馬民族は、「海」を激しく意識して遺体を収めたのでしょうか?
ちょっと、信じられませんね。
766日本@名無史さん:2006/06/24(土) 15:08:52
東南アジアの舟棺
http://oki-park.jp/ocean_park/kaiyo/d/d601000.html

四川、広西、福建の舟形木棺群
http://www007.upp.so-net.ne.jp/snakayama/history_2.html
767日本@名無史さん:2006/06/24(土) 17:34:12
白馬青牛氏は鳥葬されました。
768日本@名無史さん:2006/06/24(土) 18:05:40
和歌山県に野生のアシカがいるわけないじゃん。
俺も馬鹿の壁には気をつけるよ。
勉強になりました。
769YAP?:2006/06/24(土) 18:53:19
要するに、日本人が、南北両系の血を引くことは確かだが、現在の日本文化の
「主流」というか、言語や国家形成の主導権を南北どちらの出自の集団が、
掌握したかと言う点で北方説の方が基本的に優位に在るのではないだろうか?
しかし、古墳時代中期に扶余系騎馬民族集団が渡来したという江上説の
成立余地は少ないと思う。

この点で白馬青牛氏とは意見が分かれる。
また、月氏渡来説については、根拠がないように思えるのだが、がいやまん氏には
何か、別の根拠が在るのだろうか?

文献上は、印欧語族トカラ語派と考えられる月氏集団は、大月氏(中央アジアに西走)
と、甘粛方面に留まった小月氏に確かに分裂したが、小月氏が、東奔したという確かな
記録はなかったように思う。
770がいやまん:2006/06/24(土) 20:57:57
>>769
後漢書韓伝の月氏のくだりにある幼年期に頭に石を載せる習慣が大月氏の王族
を含む月氏の習慣であること、月氏は百済より推古・斉明期に頻繁に渡来している
ことから、馬韓月氏国が月氏であることは間違いないのではないかということです。
冒頓単于による月氏攻撃後中国に入ったとされる小月氏については文献による記録
はないものの、その一部が四郡経由で馬韓に入ることも無きにしも非ずでしょう。
771白馬青牛:2006/06/24(土) 22:52:23
>>757761
和歌山県にアシカはいない。と云うんは「現在」を付け加えいや。
>あんな暑い土地にアシカは生息できない。?またも、笑わすのう。
http://wiwi.co.jp/vwakayama/kankou/prefg/060200/kankou/kataribe/
yura_k.html
の、二、紀州、海獺島の「ニホンアシカ」を想う を読め。安政三年には
二百五十頭に増加した。
772日本@名無史さん:2006/06/24(土) 22:59:14
>>769
言語的には、こういった影響も見られるようですよ。

http://yamatai.cside.com/katudou/image/213-2.gif

日本語(上古、首里)、ポド語群、ナガ語群、クチ・チン語群、ビルマ語群

日本語は文法的にはアルタイ語系ですが、語彙の面では複雑です。
773白馬青牛:2006/06/24(土) 23:03:35
774日本@名無史さん:2006/06/24(土) 23:36:41
基本的なことを質問したいのだが、
鹿児島・上野原遺跡は9500年前から間断なく続いてるらしい。
そういう日本に、なんで「ルーツ」を探るのかな?
北方だ南方だ関係ないよ。
日本は日本だよ。
775日本@名無史さん:2006/06/24(土) 23:38:03
馬鹿は死んでください!
776日本@名無史さん:2006/06/24(土) 23:45:06
>>772 ビルマ語は文法(語順)も日本語と同じSOVらしいですね。助詞や
助動詞があるのかどうか知りませんが。

 安本美典説では日本語をビルマ語系と言っているが身体語だけではどうか
と思う。数詞はアルタイ系と関係が深いようだし。

 魏志倭人伝の倭人は南方的風俗をもちアルタイ的言語を使っていたという
奇妙な人種ですね。

777白馬青牛:2006/06/24(土) 23:52:46
>>757
自己の論拠が乏しいのに謝罪を要求とは思い上がった文化圏の人間
じゃのう。じゃがあんたの言は笑いが止まらん。
古代日本人とは、何を指すんか?弥生期の土井ヶ浜等山口・北九州の
高顔の北方形質で南方習俗を持つ種族か。南方形質の低顔の西九州の
集団か。低顔縄文人か。>750の青谷上寺地遺跡の集団を古代日本人と
するんか。古代日本人は北方系民族が主流ではないんか。
>>762763
養老氏の「バカの壁」「超バカの壁」(新潮新書)をほんまに読んだんか?
幼稚園児の理解できることとは、どのような事例から判断したことか?
「日本文化は北アジア起源を否定する情報」とは何か?具体的でない。
抽象的言を弄する。それゆえ情報を遮断して、「バカの壁」を築いとるん
は、あんたじゃ。しかも学説を、信じる、信じないと、宗教じゃ
あるまいし。
778日本@名無史さん:2006/06/24(土) 23:55:22
>>777 じゃが・・・ね
779白馬青牛:2006/06/25(日) 00:19:31
>>769
北方系が基本的に優位に在るのは同意するが、古墳時代の騎馬集団かは
兎も角、渡来したんが、成立余地が少ないと云うんは、どのような根拠
からか?具体的な言がない。弥生後期に北方的要素が増えるのは、
鳥取の青谷上寺地遺跡からも先兵的と云える部分もある。
780日本@名無史さん:2006/06/25(日) 00:50:56
>青谷上寺地遺跡

銅鏃に刺された間抜けな渡来人の遺跡ですね。
781白馬青牛:2006/06/25(日) 01:16:16
青谷上寺地遺跡の古墳時代に先駆け結核等疾病は興味深い。
http://www.z-tic.or.jp/site/page/yayoi/aoya/report/kenkyuhoukoku/
の、(3)にもある。更に興味深いのは、(8)で、青谷上寺地渡来系
弥生人は、山口・福岡の渡来系弥生人骨(山東系?)よりも、韓国金海の
礼安里古墳人に近い(礼安里の高顔集団であろう。礼安里の低顔集団の事
でなく)こと。「また、現代の韓国人とは類似性が少ないことがわかった」
とあるよう、韓人系よりもツングース系渡来人とも思える。また伽耶地域の
人骨と類似は、騎馬民族説とも関連しよう。青谷上寺地弥生人は、
鳥居龍蔵氏は、固有日本人(天孫民族)=ツングースで、九州の倭人は、
印度支那人。ただし支配者集団はツングースの固有日本人とする。
彼ら倭人は全日本民族には余り関係ないとされる。青谷上寺地弥生遺跡を
今は亡き鳥居氏が視たらこれぞ固有日本人の遺跡と喜んだんかは解らんが。
782日本@名無史さん:2006/06/25(日) 06:30:11
>>781
鳥居龍造博士は明治の方で、随分昔にお亡くなりになっていますね。

>固有日本人(天孫系)=ツングースで、九州の倭人は、印度支那人。
ただし支配者集団はツングースの固有日本人とする。

この場合の倭人というのは、縄文系のことですか?
倭人が印度支那系だとしたら、どのあたりの出身になるんでしょうねぇ?
783日本@名無史さん:2006/06/25(日) 06:44:45
>>781
【葬送の「船」出土 7世紀の史書裏づけ 奈良・巣山古墳】
http://www2.odn.ne.jp/kofun/suyama2.htm

>喪船(古事記)
>「遺体を船に置き、陸地を引いた」(隋書倭国伝)

>巣山古墳は全長200メートルで、有力豪族葛城氏の墓と見られている。

と書いてありますが、やはり「騎馬民族」ですか?

ちなみに、舟形木棺や舟葬墓は、畿内、関東、北陸、九州の至る所で
出土しています。
784日本@名無史さん:2006/06/25(日) 09:55:36
ついでに、皇族方の納棺式のことを『お舟入り』といいます。
785がいやまん:2006/06/25(日) 11:03:00
>>770
金冠伽耶首露王と許黄玉の婚姻が非常に現実味を帯びてくると同時に新羅にある
スキタイ系文化、ローマングラス、角杯等の意味が大月氏との関係においてきわめて
現実味を帯びてきます。クシャーナ・サカ王朝の前身バクトリアはアレキサンダーの
国ですから。
786白馬青牛:2006/06/26(月) 00:34:36
>>782
鳥居氏は、『大和時代』(1922年、訂正再板1925年)で、
「倭人を印度支那族、殊に苗族と見做し、治者階級ー女王と其官僚を
ツングース族と見做したいのである」と云う事です。
>>783784
船型木棺や船葬墓は、南方的要素が強い。北方系民族は積石の四角形の墓
四隅突出墳のような形態が多いと思うが、支配者の墳墓は現地民の影響を
受ける。高句麗が土塚を採用したように。墳墓の形態で断定することは
出来んよ。
787街道をゆくー中津・宇佐のみち」全集62:2006/06/26(月) 02:58:56
【司馬遼太郎が語る日本人の祖先】

3,4世紀ごろ、何回かに分かれて渡来した水田耕作民で、このグループのことを度外視しては、日本の古代は語りにくい。
日本民族は、世界から孤立してこの島々にいたわけではなく、
紀元前後、他のアジアの水田民族が、籾種を持って集まってきたボート・ピープルこそ、私どもの有力な祖先の一部といっていい。

そのグループの中には、長江下流のいわゆる呉・越の地からきた人々がいた。
彼らよりもだいぶ遅れて、朝鮮半島からきた人もいた。

その中に秦氏もいただろう。
秦氏は、おなじ朝鮮半島からきた漢氏とはちがい、ずいぶん農民くさい。
漢氏のあやとは、高い文化の意味である。朝鮮半島からきながらわざわざ漢の文字をあてているのは、その地の土着人ではなく、われらは漢族(中国人)である、という顕示だったろう。
アジアには、普遍性の高い文明は古代中国にしかなかった。

紀元前108年に、前漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡など、4郡を置いた。
この4郡がきらびやかな古代中国文明の遠隔地における基地になった。
遅れていた朝鮮の地に漢字や色彩絵画といったあざやかな表現がつたわったのは、楽浪郡などによる。
楽浪郡など、中国の直轄地がほろびるのは、4世紀初頭である。
以後、朝鮮半島は純粋に朝鮮民族のものになった。
それらの郡の中級以下の役人や、画工、仏師などは、すでに土着人で占められたはずである。
かれらにとって、「郡」とは、かがやかしい文明の牙城であり、そこだけが誇るべき国家でもあった。

漢氏の祖は、本来、漢族だったろうが、右のような役人だったはずであった。
郡が亡ぶと、かれらは民間に埋没した。
やがて日本に中央政権ができ、国家としての体裁をととのえはじめているのをきき、自分たちの文書技術や財政技術が生かされるということで、渡来してきたかと思える。
奈良朝ごろになると、自分たちは漢の帝室の裔だ≠ニいいはじめる。
おそらく法螺だったろう。
788街道をゆくー中津・宇佐のみち」全集62:2006/06/26(月) 03:00:43
秦のひとびとは、どうやら学問はなかったようである。
漢氏よりも、以前にきた。
弥生式農業のまっただなかだった。
かれらが、もっとも集中的に水田化したのは、山城国(京都府)と近江国(滋賀県)と、播磨国(兵庫県の瀬戸内海に面した平野)である。
それぞれの地に、神社の形で痕跡をのこした。
兵庫県でいうと、姫路市郊外の広嶺山の広峯神社(元祇園社といわれる)がそうである。
祇園祭をする京都の祇園社(八坂神社)も、この盆地を水田化した秦氏が祭祀した。
秦氏のハタは、ときに幡とも表記される。土佐の西のほうの幡多郡は、その一例である。

ともかくも、幡氏は圧倒的に農民で、大勢力をもちつつも、古代の宮廷に関係したひとで史籍にあらわれる名はすくなく、秦酒公、秦大津父、・・・ぐらいのものであった。
かれらの多くは政治に野心をもたず、ひたすらに山野をひらき、農に徹した。
現代日本人の遠祖のなかで、最大の功をのこしたひとびとだったのではないか。

水田というのは、他の農業とちがい、古来農業土木がともなう。
まず、他から水を導くための溝渠をつくらねばならず、また水を湛えるために田のふちに畦畔(あぜくろ)をつくらねばならない。
そうでない場合は、やや高所に灌漑用の池を掘らねばならないのである。
古代、秦氏は、たとえば川を分流させて勢いを殺ぎ、一方の流れを灌漑用水につかうといったふうな農業土木の技術までもっていたようで、
だから、築堤して池をつくるなどはなんでもなかった。

かれらは、掘った池を神としてお守りしつつ、その水を低地の集落にくばった。まことに池は神だった。
この池に、こもが自生する。"まこも≠ニもいう。
漢字にすると、真菰、真薦などといった文字をあてる。
真薦はイネ科だそうである。
水辺に自生し、古代以来、日本人はこれを刈りとって編み、むしろなどにし、暮らしの必需品だった。
・・・宇佐神宮(宇佐八幡宮)の最大の宗教行事は、神職たちが薦神社の池にやってきて真薦を刈ることである。
これで枕がつくられるのである。
その枕が宇佐神宮のご神体(御験とも神座ともいう)とされ、八つの神社を巡幸するのである。
行事は、6年に1度だという。
789鉄のみち:2006/06/26(月) 03:04:18
『古事記』の冒頭に国生みの話が出てくる。
「次に伊伎島(壱岐)を生みき」「次に津島(津島)を生みき」とあり、格別な記述はないが、この二つの島が上代から十分の認識をもたれていたことは想像できる。

日本に弥生式農耕がひらけたことで、倭国が成立した。
さらに朝鮮半島からの鉄器の到来(5世紀までは輸入)で農耕地が飛躍的に拡大し、「国土」ができあがった。
倭人が南朝鮮の一地方(弁辰)までさかんに鉄買いにやってくる情景が、『魏志』の東夷伝弁辰のくだりに書かれている。
「国(註・弁辰)鉄を出す。韓、わい、倭、皆従って之を取る。緒市、買ふに皆鉄を用ひ、中国の銭を用ふるが如し」。

この記述は3世紀ごろの情景である。
当時の日本は弥生式農耕の第一期飛躍時代ともいうべき時代で、農具や灌漑用工具としての鉄器が沸くようにさかんだったはずで、日本社会の成立はどうやらこのあたりからであるらしい。
朝鮮側に古記録がないのが残念だが、当時のかれらはのちに日本とよばれる地域(とくに九州、山陰、山陽)についておどろくほど知っていたであろう。
逆に、日本地域の居住者も南朝鮮の南端あたりのことは手にとるように知っていたと考えるのが素直である。
鉄につながって倭も韓も玄界灘を往来し、当然、未耕地の多い日本地域に、韓たちが集団をなしてやってきたにちがいない。
当時、人間の自由なゆききをはばむ近代国家というものはなかったのである。

ついでながら、鉄の国産は6世紀からだが、これは倭人の手でおこなわれたかどうか。
南朝鮮をハゲ山にしてしまった製鉄(たたら)の集団が、木炭をもとめ、梯団をなしてぞくぞくと日本に渡ってきたと見るほうが、無理がないかと思われる。
6世紀以後の鉄生産の飛躍で耕地がひろがり、人口がふえ、やがて緒方の豪族を圧倒する大和政権が成立する。

上代における鉄は農業および農業王朝と不離なものだし、それを活性化するものだが、上代日本ほどその関係が単純に図式的にみられる景観はない。
さらに大きくいえば、もし鉄という媒介がなかったら朝鮮から日本へ人間が移動するということもすくなかったであろう。
790任那と百済:2006/06/26(月) 03:13:18
百済・・・これはあて推量にすぎないが、クダラというこの朝鮮語にないふしぎな言葉は、古代に南朝鮮に住んでいた倭人がつかっていたのであろう。
倭人とよばれていた人種が韓民族とともに南朝鮮の原住民であった。
むろん倭人の居住地は南朝鮮だけでなく、その後日本とよばれるようになった地域、とくに対馬、壱岐、松浦諸島、北九州一帯に多数住んでいた。
この連中が、日本列島を東へ東へと弥生式の農耕方式による地域をひろげて行って、こんにちの日本国の原形をつくったという点では、
おおかたの古代史家も承知してくれるにちがいない。
791任那と百済2:2006/06/26(月) 03:18:03
南朝鮮の歴史は神話的古代はべつとして、いわゆる三韓の時代よりはじまる。
このうち馬韓といわれた地域は五十三という数の部族国家にわかれていたが、
やがてそのうちの白済という部族国家が力を得、一大統一をとげて百済をつくった。
南朝鮮における倭人社会は、中国の『魏志』によれば狗邪(くや、金海のあたり)を地盤として活動し、
東方の辰韓に鉄をさかんに求めていたというから、農具や兵器の生産力がひくく、そのためもあって、かれらの社会はさほどふるわなかった。
馬韓が百済国になったころに辰韓も新羅国になったが、倭人はそのあいだにはさまれて大いに難渋したに相違なく、
自然のいきおいとして、日本地域に住む同種の倭人にたすけをもとめることが多かったにちがいない。

南朝鮮における倭人たちは、やがて、「任那」という一種の国家をつくった。
一種のというのは王国ではな、族長どもの連合社会だったという程度であったかという意味である。
792日本@名無史さん:2006/06/26(月) 04:15:05
朝鮮人はどこからきたのであろう。
一般的な意見として考えられるのは、南下者であることである。
つまり、北方の満州からきた。
もっとも満州という地名は、こんにち中国では存在しない。
「東北」とよばれる。
しかしながらこの大陸に農耕者である漢民族があまり入りこんでいなかったころ、
満州は狩猟とわずかな農耕でくらしていた「ツングース人」の天地であった。
漢民族とは言語もまったくちがっており、その言語はモンゴル語と姉妹関係にある。

ツングース人にせよ、それとよく似た仲間であるモンゴル人にせよ、いずれも漢民族の言語をもって書かれた古代の史書にあっては、
この騎馬民族たちは動物同然のあつかいをうけ、胡とか狄とかいうふうに、人類以外のよばれかたでよばれていた。
人は礼儀と儒教的秩序感覚があってはじめて人たりうるという漢民族の思想では、かれら騎馬人は決して人ではなかった。
793日本@名無史さん:2006/06/26(月) 05:25:02
当時の日本の豪族たちの何割かが、「任那は自分たちと同種の民族である」ということを切実に知っていたという事であり、
任那の同種人―場合によっては親類であったということもありえたろう。
任那から新しい農具や馬具などを手に入れたり、あるいは任那人と同じ言語を話す技術者が玄界灘をわたってきて、
在来よりももっと有効な生産方法や技術を教えたりしたという関係もあったにちがいなく、

その任那人たちが、
「いま、東に新羅、西に百済という大国が勃興して自分たちの土地が奪われようとしている。なんとかたすけてくれまいか」
というようなことを、たえず言っていたにちがいない。

そういう任那人たちの危機をきいて、元来血の気の多い北九州の倭人たちは勃然と侠気を発して集団で渡航した事もあったろうし、
ときには任那人をなだめて、「いっそ日本のほうに移住してしまわないか」といったこともあったにちがいない。
神功皇伝説というのはそういう古代的状況のなかで成立したものにちがいなく、
以上のような程度の想像なら、ありうべきことへの想像というものさえ卑しむ古代史家でも許容するにちがいない。



794日本民族のルーツ:2006/06/26(月) 08:07:18
日本人はこの日本列島の山河のなかで自然に出たものではなくどこからかやってきたと思っている。
故郷はアジア全域にわたっているはずだが、紀元前3、4世紀、日本に成立した稲作ということに焦点をしぼり、
その故郷を探すとすれば、まず、渡来のための交通がたやすい地域を想定しなければならない。
当然、中国長江流域ということになる。

長江下流に春秋のむかし呉・越という稲作王国がさかえた。
はるかに江をさかのぼり、山谷の渓流の支流支流で発達した稲がやがて江をくだり、楚や呉・越という大人口を擁する勢力になったかと思える。
となれば、こんにち、四川省、貴州省、雲南省などの山谷でイネをつくっている多種類の少数民族こそ、古代楚文化の末裔ということになる。
長江流域の低地平野に降りてきて楚という古代稲作王国をつくったかれらは、
やがて中原に発達した漢文明に同化され、、紀元前の秦・漢帝国の成立で名実ともに中国の一部としての歴史に参加した。
そのころにははるか上流の渓谷に残留した同文化の者を蛮狄視するようになる。
このうちの稲作の蛮夷こそ、日本稲作の祖であったろうという推測は、大まかなところでは、たれも異論のないところだ。

雲南省だけで、22種の少数民族がすんでいる。
まさに民族文化の生きる博物館といっていいが、古代以来、山谷に集落をつくって稲作をしている民族たちを、私どもは自在に選んで日本稲作文化の祖にしていい。
民俗がおどろくほど似ているのである。
万葉の世のままの歌垣が生きている民族が多く、また平安期そのままの妻問婚が生きている民族もあり、その過程として当然、若者が夜、娘の家に忍び込んでゆく"夜這い≠烽る。
妻問・夜這いなどは、日本の農山漁村で明治期まで生きていた。
むろん、漢民族社会や朝鮮社会ではありえないことである。
795日本@名無史さん:2006/06/26(月) 09:56:31


読みにくいよー(涙
796日本@名無史さん:2006/06/26(月) 16:41:48
>>788 水田耕作技術が半島由来のものならその技術用語も日韓共通に残るはずだが
田、苗、畔、くろ、まこも、などが朝鮮語にあるのだろうか?
797日本@名無史さん:2006/06/26(月) 16:56:22
朝鮮側に古記録がないのが残念だが、当時のかれらはのちに日本とよばれる
地域(とくに九州、山陰、山陽)についておどろくほど知っていたであろう。

・・・魏志倭人伝にそんなことは一言も書いていないな。韓人が日本地理や
日本事情に精通していたのなら帯方郡使が日本偵察に来る必要は無かった
だろう。韓人の情報で十分だったはずだ。

 韓人が日本について何も知らなかったために直接偵察に来たと考える方が
自然だろう。


798日本@名無史さん:2006/06/26(月) 17:36:08
>>797

>韓人が日本について何も知らなかったために直接偵察に来た

魏志倭人伝にそんなことは一言も書いていないな。
それ以前の問題だ。
偵察に来たのは、おまえの脳内妄想か?
799日本@名無史さん:2006/06/26(月) 17:39:32
>>798 では帯方郡使は何のために倭国へ来たのだ?観光目的か?

800日本@名無史さん:2006/06/26(月) 17:53:16
観光ではないよな。
801日本@名無史さん:2006/06/26(月) 17:54:19
>>796
ないない(笑)
802日本@名無史さん:2006/06/26(月) 18:42:13
>>800 商用でもないだろうな。
803トリップ、持って:2006/06/26(月) 20:02:03
7si39OXKm2 <= #a'k_Ijj@
7si3vqELBk <= #0]3#qcvd
7si3EmJqFU <= #@UlAA9Ox
7si3BvNmpY <= #lj[v9b,+
7si3efel4Q <= #zj[_%Y^X
7si3.umOM2 <= #hT]IEQ7\
7si3lNv51s <= #MV.4erg^
7si3UVKC1A <= #22ydsugW
7si3YRTIlA <= #oIC**@cL
7si3rlBpnM <= #H,+EQ,U0
7si3LDsXVU <= #d8`HEVnS
7Si3XYAxsk <= #Py^YImf^
77si3MoYCA <= #,cW/@N|8
7SI3FOMOvM <= #65Y.glQE
7si3ZARQn. <= #LB7Kc6w^
7si3YbQhKA <= #0tXIu#ZN
7si3UTamT6 <= #j1[49}Ko
7Si3YJPvqY <= #_V'j!nEW
7si3p9arCs <= #\n*&Q.Qq
7SI3JnCdWY <= #Q^KZ}^wN
7Si3PMpY3I <= #1W$yi=mz
7si3gj0kls <= #gHn)!5_1
7SI3TWt5iE <= #{Wt6P-%k
7si38bOuAU <= #;G7!Zx76
7SI3McxmuM <= #tL8Y5e2_
804日本@名無史さん:2006/06/26(月) 20:12:53
ところで日本人はアジア人の中では毛深い人種らしいが、これは北方系なのか
南方系なのかどっちだろう?

 シナ人や朝鮮人は脛毛が生えていないそうだ。日本人も毛人の仲間ではないか?

805日本@名無史さん:2006/06/26(月) 20:49:21
胸毛も当然無いらしいね。

毛深いのは、縄文の名残だ。
沖縄人なんか、かなり毛深いだろう?
YAP+ホルダーで、縄文の子孫だからな。
勿論、本州日本人もだ。
806日本@名無史さん:2006/06/26(月) 22:06:05

朝鮮人はスネ毛が生えていない。
朝鮮人は本当に体毛が薄いよ。
807日本@名無史さん:2006/06/26(月) 22:09:36
眉毛も薄いよ。

薄くて怖かった(マジバナ)
808日本@名無史さん:2006/06/26(月) 22:55:44
相撲を見るとモンゴル人もあまり毛深いとは言えないな。日本人には背中
まで毛が生えているのも居る。
809日本@名無史さん:2006/06/26(月) 23:30:16
>>808

それは例外的なモンゴル人。
例外を挙げて、標準的なモンゴル人のように言うのはやめろ。

金髪で金色の眼を持っている色素が薄い日本人もたまにいる。
では、金髪で金色の眼を持っているのが標準的な日本人か?
違うだろう。
日本人は黒髪で黒い(茶色)眼を持っている。
810日本@名無史さん:2006/06/26(月) 23:43:15
>>809 金髪で金色の眼を持っている色素が薄い日本人もたまにいる。

・・・そんな奴おれへんやろ。

 日本人で背中まで毛がある奴も少数派だが、脛毛は多数派だろう。

 モンゴル力士は10人ほど居るが毛深いのは一人も居ないようだ。
811日本@名無史さん:2006/06/26(月) 23:59:01
>>810

高校の同級生でいた。
たまに色素の薄くて白いトラとかが生まれるだろ。
それと同じだ。
色素の薄い人間が生まれると、金髪・金色の眼になるんだ。

GOOGLEで調べてみたら?
812日本@名無史さん:2006/06/27(火) 01:30:03
まあアルビノはおるよな

しかしそれとこれとは話が別で
モンゴル力士が10人が10人アルビノ並の例外ばかりなんて
ありえないくらい確率低い
813日本@名無史さん:2006/06/27(火) 16:20:24
>>793
>その任那人たちが、
「いま、東に新羅、西に百済という大国が勃興して自分たちの土地が奪われようとしている。
なんとかたすけてくれまいか」

すでに扶余に奪われてるがな。
814日本@名無史さん:2006/06/27(火) 16:36:55
>>813
任那地方(半島南端)が扶余に占領されたのは、正式にはいつ頃?(年代)
815日本@名無史さん:2006/06/27(火) 21:25:01
>>814
3世紀末。
816日本@名無史さん:2006/06/27(火) 21:50:34
そうだっけ?
817日本@名無史さん:2006/06/27(火) 22:39:01
97 :出土地不明 :2006/06/27(火) 22:06:07 ID:jSfw0L5I
>>96
馬鹿なんじゃね?
おまえそういう風に思ってて九州の本場にくると
朝鮮との違いにびっくりして
一発で九州人ファンになるよw




98 :出土地不明 :2006/06/27(火) 22:28:09 ID:jSfw0L5I
行くことを来るは
九州沖縄と印欧語の共通点
818日本@名無史さん:2006/06/28(水) 07:00:59
>>817
だったら、日本の古語の方が、よっぽど印欧語だろう。
819日本@名無史さん:2006/06/28(水) 09:39:49
任那が金官だとか断定してるやつがいるが確かに朝
鮮側の資料ではそうなっているものの日本側では「四
県」とあるように単に半島南部を指す言葉になって
おりまた研究者の中には全羅道地域のかつて「慕韓
」とよばれる地域の事を指しているらしいが
820日本@名無史さん:2006/06/28(水) 16:20:12
>>819

三国史記は、朝鮮半島に残存する最古の歴史書であるが、【1145年】に完成させた紀伝体の正史である。

高句麗に留記。
百済には百済本紀、続百済記、百済新撰。
新羅には国史が存在したと言う記録があるがいずれも存在が確認されていない遺失書である。


三国史記に記されている内容。
1、紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。

2、紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。
馬韓王が瓠公に「【辰 卞二韓は、わが属国であったのが】、近年には貢物も送らない。大国につかえる礼が、これでいいのか」といった。
これに対して瓠公は「わが国は二聖が国をたててから人心が安定し、天の時が和して豊作となり、倉庫は満ち、民が互に敬い譲るので辰韓の遺民から卞韓、楽浪、倭人にいたるまで恐れ、かつ、したわないものはありません。
しかし、わが王は謙虚で、下臣を遣わして国交を結び交わそうとするは、過ぎたる礼というべきであります。
それなのに、大王はかえって怒り、兵を似ておどかすのは、これ何の意味でありますか」といった。
馬韓王はますます怒って瓠公を殺そうとしたが、左右の臣たちが諫めてやめさせ、許して帰した。
これより先、中国人たちは秦国の乱に苦しみ、東方へ亡命してくる者が多かったが、かれらは馬韓の東に多く住み着いて、辰韓人たちと雑居していた。
この時にかれらの数が多く、栄えたので、馬韓ではこれを忌み嫌って責めたものである。
瓠公という人は、その族姓がつまびらかではないが、元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。

500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。


【1145年】に完成した三国史記が600年前のことを記すことができるかは疑問だ。
2000年にを基準にするならば、1400年のことを書くようなものだ。
現代日本人が1400年の室町時代初期のことを正確に記すことができるのかも疑問だ。
821poor good:2006/06/28(水) 16:42:18
天皇はどこから來たの? 百濟じゃないの?
日本の紀元は韓國だよ。韓國から先進文明が
渡って來て百濟の貴族も渡って來たよ。
認めることは認めましょう

822日本@名無史さん:2006/06/28(水) 17:07:37
百済じゃないよ。
半島南部(南端)から倭人が渡来した可能性はあるが。
823日本@名無史さん:2006/06/28(水) 17:08:59
百済に熊津という熊襲を示す地名があるから
おそらく百済に倭の痕跡というか縄文的な痕跡があった
可能性は高いとは思う。
824日本@名無史さん:2006/06/28(水) 17:40:44
熊なら、楚に関係あるんじゃないか?
日本の熊襲はどうかしらんが。
古代半島南部には、南方人が跋扈していたくさいな。

>縄文的な痕跡

もし縄文人が半島にいたら、YAP+がもっと多くてもいいはずだよ。
まさか、ツングースに殺されちゃったんじゃ…(寒)
825日本@名無史さん:2006/06/28(水) 17:47:41
半島や大陸では中央モンゴロイドに進化したから。
826日本@名無史さん:2006/06/28(水) 18:04:16
進化したぐらいでYAP+消滅するか?
日本人の4割はホルダーだ。
縄文人が半島にいたら、韓国人もホルダーだ。
827日本@名無史さん:2006/06/28(水) 18:19:27
スグリっていう東日本人の名前は
韓国の族長という意味
828日本@名無史さん:2006/06/28(水) 18:35:15
七隈、雑餉隈から鹿児島県の大隈にいたる
西九州に集中的に大量にある字名、 隈
829日本@名無史さん:2006/06/28(水) 21:37:22
半島から渡来した人間て、よほど追い詰められて亡命してきたんだろうな。
半島主流の民族なら、そのまま半島でふんぞり返ってりゃ問題ないんだから。
だとしたら、半島土着じゃないな。
物凄く頑張って日本の為に尽くしているし。
830日本@名無史さん:2006/06/28(水) 21:51:38
>>スグリっていう東日本人の名前は
韓国の族長という意味
ずいぶんに新しい名前だね。
831日本@名無史さん:2006/06/28(水) 21:55:16
本当だw
韓国ができたのは、つい最近。戦後じゃん!
832日本@名無史さん:2006/06/28(水) 21:57:12
秦氏から孫正義まで、先祖代々半島土着の朝鮮人にしなくては我慢できない、
それは即ち、現在も進行中の半島における不治の病である。
833:2006/06/28(水) 23:03:30
三国史記(百済本紀)における倭・倭人関連の記載

14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
57年 4代王「脱解尼師今 立(一云吐解)時年六十二 姓昔 妃阿孝夫人 脱解本多婆那國所生 其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角千羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
121年 夏四月に倭人が東の辺境を侵した。
123年 春三年に倭国と講和した。
158年 倭人が礼物をもって交際に訪れた。
173年 倭の女王卑弥呼が使者をつかわして礼物をもって交際を求めてきた。(「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使来聘」)
232年 夏四月に倭人が金城を攻める。
233年 五月 倭兵が東辺を侵した。
249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。

295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。
冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
いわんや百済は偽りが多く、常にわが国を呑み込もうと野心をもっておりますから、かれらと共に謀ることは困難だと思います」と答えた。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
834:2006/06/28(水) 23:04:28
300年 春正月に、倭国と使者を派遣し合った。
312年 春三月に、倭国の国王が使臣をつかわして、息子のために求婚したので、王は阿?の急利の娘を倭国に送ってやった。
344年 倭国が使者をつかわして、婚姻を請うたが、すでに以前に女子を嫁がせたことがあるので断った。
345年 二月に倭王が、書を送って国交を断ってきた。
346年 倭兵が風島に来て、進んで金城を包囲して攻めて来た。
364年 倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。
393年 倭人が来て金城を包囲する。
402年 三月に倭国と通好して、奈勿王の子、未斯欣を人質とした。
405年 倭兵が明活城を攻める。
407年 春三月 倭人が東辺を侵し、夏六月にまた南辺を侵す。
418年 王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰った。
431年 倭兵が、東の辺境に攻めて来て、明活城を包囲したが、功なくして退いた。
440年 倭人が、南の辺境に侵入。夏六月にまた東の辺境を侵した。
444年 夏四月に、倭兵が金城を十日包囲して、食料が尽きて帰った。
459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(梁山)を侵して勝てずして去った。
476年 倭人が東辺を侵す。
835:2006/06/28(水) 23:05:06
477年 倭人が兵をあげて五道に侵入したが、ついに何の功もなく帰った。
482年 五月に倭人が辺境を侵した。
486年 夏四月に倭人が辺境を侵した。
500年 春三月 倭人が長峯鎮を攻め陥した。
663年 倭国の水軍が来て、百済を助ける。
670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。
698年 三月に日本国から使臣が来たので、王は崇礼殿で引見した。
703年 日本国から使臣が来たが、みんなで二百四名であった。
722年 日本の賊の路を遮断した。
731年 日本国の兵船三百隻が海を越えて、東辺を襲う。
742年 日本の国使が来たが、これを受け付けなかった。
753年 秋八月に日本国使が来た。高慢無礼なので、王は接見を許さず、すぐ追い返した。
802年 冬十二月、均貞に大阿?の官を授けて、仮の王子にして、日本国への人質にしようとしたが、均貞がこれを断った。
804年 夏五月 日本国が使臣を派遣して、黄金三百両を進上した。
806年 春三月 日本国使臣が来たので、王は朝元殿で引見した。
808年 春二月に日本国の使臣が来た。王は厚い礼で、これを待遇した。
864年 夏四月に日本国の使臣が来た。
879年 八月に日本国の使臣が来た。王はこれを朝元殿で引見した。
882年 夏四月に日本国王が使臣を派遣して、黄金三百両と明珠十箇を進上した。
836日本@名無史さん:2006/06/28(水) 23:32:28
2002年秋、日本国首相が使臣を伴って北鮮を訪問し、平壌宣言を結んだが
北鮮はこれを破ってミサイルを発射した。
837日本@名無史さん:2006/06/29(木) 00:24:46
コピぺウンザーシネ
838日本@名無史さん:2006/06/29(木) 02:47:28
金海金氏が倭人系ってほんと?
839日本@名無史さん:2006/06/29(木) 02:55:39
クダラというこの朝鮮語にないふしぎな言葉は、古代に南朝鮮に住んでいた倭人がつかっていたのであろう。
倭人とよばれていた人種が韓民族とともに南朝鮮の原住民であった。
むろん倭人の居住地は南朝鮮だけでなく、その後日本とよばれるようになった地域、とくに対馬、壱岐、松浦諸島、北九州一帯に多数住んでいた。
この連中が、日本列島を東へ東へと弥生式の農耕方式による地域をひろげて行って、こんにちの日本国の原形をつくったという点では、
おおかたの古代史家も承知してくれるにちがいない。
840日本@名無史さん:2006/06/29(木) 06:41:36
クダラは、クンナラが語源じゃないのか?
841がいやまん:2006/06/29(木) 07:31:22
842日本@名無史さん:2006/06/29(木) 07:38:59
ハンガリー語では、「塩味が足らない」ことを「シオタラン」と言うそうだ。

同祖だ。
843日本@名無史さん:2006/06/29(木) 09:43:56
>>819
>任那が金官だとか断定してるやつがいるが確かに朝
>鮮側の資料ではそうなっているものの日本側では「四
>県」とあるように単に半島南部を指す言葉になって
>おりまた研究者の中には全羅道地域のかつて「慕韓
>」とよばれる地域の事を指しているらしいが

狭義と広義ということを知らないのか。「やまと」だって「奈良盆地南部」「奈良盆地全体」
「日本全体」と、三つの領域があるではないか。
「みまな」は狭義では金官を指し、中義では金官と、これに直属する数国を合わせたものを指し、
広義では全羅南道を含めた倭の植民地全体を指す。
日本書紀を読めば、狭義、中義、広義が入り乱れて使われている。

844日本@名無史さん:2006/06/29(木) 10:35:03
>>841
>>842
マレーシア語の「アラマー」は日本語の「あらまぁ!」と同じ意味。
ドイツ語の「ナヌ?」は日本語の「なぬっ?」と同じ意味。

同祖です。

※似たような言葉を探すときりが無い。
845日本@名無史さん:2006/06/29(木) 15:41:49
>>844 ポリネシア語の「アノー」や「セーノ」も日本語と同じらしいが、同祖だろ
うな。

 フィンランド語のヨッパラッチ=酔っ払いというのも同祖なのだろう。
846がいやまん:2006/06/29(木) 16:35:52
847日本@名無史さん:2006/06/29(木) 18:10:43
ドルメンって世界中あちこちにあるよな。
フランスとかイギリスとか....あぁ、枚挙にいとまがない!

848日本@名無史さん:2006/06/29(木) 18:44:12
>>846
ブリヤートは、もともとウラル語系で、後にシベリアから南下してトルコ化し、
最終的に東進してモンゴル化したと聞いたけど、そうすると、トルコ人とかも
遺伝子近いんじゃないの?
849日本@名無史さん:2006/06/29(木) 18:46:38
ブリヤートは、モンゴル化する前にトルコ化したんだから、仮に弥生人になったヤツがいたとすると、
どういった経路を辿ったんだろうな?
850白馬青牛:2006/06/29(木) 23:28:46
ブリアートは、バルグート等を基幹とし、メルキトのようにサモエード
現地民が、トルコ語化、後にモンゴル語化された民族と混合した者で、
近世に成立した民族集団であり、弥生、古墳人と関連深いとは云えんよ。
851日本@名無史さん:2006/06/29(木) 23:34:21
ですよねー。
ブリアートは、民族として新し過ぎる。

ブリアート人には、トルコ人のような白人ぽい顔つきの人々もいれば、
モンゴル人のような平べったい顔つきの人々もいます。
「ブリアート」と一口に言っても、姿形からして、混血著しい民族で
あることが解ります。
トルコ語化したり、モンゴル語化したりと数奇な運命を辿ってきた民族
だからでしょうか?民族としてのドミナントな遺伝子が果たして多く存在
するのかどうかも疑わしい。
852日本@名無史さん:2006/06/29(木) 23:38:37
(続き)
旧石器人骨だか弥生人骨だかのDNA解析の結果がたまたま近かったからと
言って、ブリヤートと日本人が同祖という事は、簡単には言えないでしょうね。
853白馬青牛:2006/06/30(金) 01:32:43
>>852
ブリアートと日本人は、弥生人骨やDNA解析、HLAでも遠い集団と
云えるでしょう。
http://www.dai3gen.net/mt08.htm
にも、NHKスペシャルの作為について述べてあるが、所詮メディアとは、
そういうものです。
854白馬青牛:2006/06/30(金) 01:56:38
HLAでも、日本人とブリアート人は遠い。
http://www.saga-med.ac.jp/academic/meeting/anthrop/summary/b08.html
東北アジア5集団と離れた存在。
855がいやまん:2006/06/30(金) 07:44:23
現代のブリャートと日本人の関係が離れているということは国際的に認められて
いると思います。しかし、現在の日本人の遺伝子と同じものを持つ人々が、古代に
おいて、現代ブリャート人が住んでいる地方に住んでいなかったかどうかという
ことは別の問題だと思います。同地方の石板墓、外蒙赤峰の銅鐸類似青銅器、
遼寧の支石墓等が少なくとも文化的に日本に伝わった可能性はきわめて大きいと
思います。
856日本@名無史さん:2006/06/30(金) 07:57:21
>>853
日本は酸性土壌で骨が溶け易く、古代人骨がきれいな形で残る事は非常に困難です。
その少ない弥生人骨なり、旧石器人骨なりからDNAが抽出されたとしても、非常に
短い配列しか確認できないはずなのです。
ネットでチェックした結果、ブリアートと日本人の同祖を述べるサイトが多く見
られましたが、ちょっと気が早いなぁ…という印象を持ちました。

>>855
支石墓や石板墓は、世界中に沢山あると思いますが、支石墓で具体的に日本に伝わった
のは、半島南部か南端あたりのものだと思います。北部のものとは、タイプが異なるん
じゃないでしょうか?
同じような場所(例えば半島とか)に定住している間に、北方の影響を受けた可能性
はないですか?
857がいやまん:2006/06/30(金) 09:43:44
>>856
遼東から縄文時代の九州西部への支石墓伝来には長い歴史と、テーブル式から
碁盤式、すなわち、権力集中型から民衆型へという社会的変化をとどめています。
Y染色体遺伝子O47の流れは4000年前に開始すると見られていますからその一環では
内かと思うのですが。夏の時代に江南方面から出て、殷末に朝鮮半島、九州に入るの
でしょうか。外蒙赤峰の銅鐸祖形青銅器などもこの流れの上にあったのでしょう。
民放テレビ番組「ウルルン滞在記」で、ミャンマー山岳民族のドルメン建設行事を放映
しましたが、これは部族のマンパワー掌握力デモンストレーションとして祭礼にやって
いました。蘇我馬子の石舞台古墳などがこの政治権力誇示(古代的)と陵墓の両面を
兼ね備えたように思えますが。
欧州のドルメンの発生は各地でばらばらに始まったのではないかというのが現在の
結論のようです.(小河墓遺跡の棺を石材代用の木製の磐舟だとすれば形質上の
中近東人の東方移動、同時にそれ以前の地中海西部への移動もありえるかと。欧州
にも、東洋にもメンヒルと石棺がありますから。)
858がいやまん:2006/06/30(金) 10:59:37
赤峰
内蒙を間違って外蒙としていた。ついでに↓参照。
銅鐸について語ろう
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1066237353/menu:453
859日本@名無史さん:2006/06/30(金) 17:49:15
呉越系弥生人=倭人とも言う。が朝鮮半島南部に移民、彼らの勢力によって、
加羅、新羅、クダ羅(百済)、耽羅(済州島)、末羅(松浦半島)比羅(平戸)
と大和勢力(呉越系弥生人と縄文人のハーフ)による、連合国家樹立かな?
860日本@名無史さん:2006/06/30(金) 18:01:22
ヲーイ、百済・新羅は成り立ちが違うんじゃまいか?

新羅=華北系+ツングースorモンゴル系+倭人少々。
加羅、耽羅=基層南方系(もしくは倭人)+ツングース+モンゴル。
861がいやまん:2006/06/30(金) 18:17:33
タンラから森の石松のザンバラ髪で皮ジャンにパンツをはいたような人が舟で行商に来る
いるとかあったが、あれが満州系の姿なのかな。
862日本@名無史さん:2006/06/30(金) 18:31:29
ザンバラ髪だったら、越人じゃないの?
863がいやまん:2006/06/30(金) 18:43:34
頭を剃ってるとかなってたような気がする。ちょっと見直してみる。
864がいやまん:2006/06/30(金) 18:47:16
「馬韓の西、海上の島に州胡国がある。その人々は背が小さく、頭髪を
剃り、韋衣(革の衣)を身に着けるが、上だけで下は無い。
牛・豕(豚)を飼う事を好む。船に乗って往来し、韓の国内で売買を
行う。」皮ズボンをはいていないということであり、ノーパンということでは
ないだろうね。
865日本@名無史さん:2006/06/30(金) 18:48:51
>>843
狭義の任那というので金官=任那という認識は朝鮮側の真鏡大師宝月凌空塔碑
に書かれているということは知っているがそれが日本側にとって任那=金官だったという
根拠になるのか?実際に全羅南道にある前方後円墳は全て馬韓の故地に存在して
いてそこを任那と見るのが正しいのではないかという話もあるようだが。日本書紀の具
体的に金官=任那を指し示す具体例を教えてくれないか
866日本@名無史さん:2006/06/30(金) 20:48:28
新羅人、久太羅人、加羅人は「日系満州人」みたいな者か、それらが帰って来た。
帰って来て大和人に化けるから帰化人と言うのか、なるほど!
新しく来た人は今来の手人と言ったらしいな、ふうん。日系ブラジル人も居るよ?
867日本@名無史さん:2006/06/30(金) 21:29:58
>>862
間違えた。「ザンバラ髪」は、呉人のほうだった。越人は、束ね髪。

>>866
ほぉ!それは、興味深い。
新羅は趙・燕・斉の亡民がベースになっているのかな?
868日本@名無史さん:2006/06/30(金) 21:31:59
>>864
背が低いんだったら、モンゴル・女真系の大男じゃないな。
女真は特に背が高いから。
869日本@名無史さん:2006/06/30(金) 23:03:55
倭人が皮ジャンを着ていたとは思えないな。倭国に牛馬なしだったのだから。
ミンクのコートなら北方系だろうな(のちの渤海あたり)。

870白馬青牛:2006/06/30(金) 23:08:23
>>855856
バイカル地方を含め北ユーラシアからの文化流入は多くあったとは思い
ます。縄文以前の細石刃や荒屋型彫器も北アジア、バイカル地方の影響で
しょうね。現在、出土した人骨や現代人同士の比較で判断した結果と云う
ことでしょう。
被髪は、大興安嶺の室韋がそうですね。髠頭も東胡・モンゴルの習俗です。
『魏志』の州胡のそれは、「皆髠頭如鮮卑」済州島は鮮卑と似ております。
南方系は、断髪や魋結(つち形まげ)が多いですね。魋結は、『史記列伝』
に朝鮮と中国西南部の雲南に共通する習俗で面白い。
871日本@名無史さん:2006/07/01(土) 01:39:43
呉越系弥生人=倭人はアジアのバイキングらしいな!ほんとかな
百済も呉越人の植民地。
872日本@名無史さん:2006/07/01(土) 06:31:25
>>869
縄文時代の衣装の復元では、冬に皮を着ていたように思うけど。
背が低くて、冬場に革を着るのは、縄文人の風習では?
873日本@名無史さん:2006/07/01(土) 07:28:57
毛人の名は
蝦夷(がまがえる)の
服が由来。

倭人は毛皮をきてない
874日本@名無史さん:2006/07/01(土) 07:50:29
じゃぁ、東北にいたエミシか?
875がいやまん:2006/07/01(土) 07:54:35
>>872
魏志倭人伝で南北に市糴すとされる対馬の場合、肥前、筑後あたりと同じ縄文
的風習があったとしてもいいかも。州胡は対馬かな。
876日本@名無史さん:2006/07/01(土) 08:16:09
>>873
必ずしも、倭人=縄文人 じゃないよ。

「親魏倭王」の卑弥呼も縄文人じゃないだろう。
その後の「倭国」も(構成員として縄文人も含むが)たぶん縄文じゃないし、
「倭の五王」も縄文人じゃないでしょう。
877がいやまん:2006/07/01(土) 08:29:24
>>870
「皆?頭如鮮卑」、こうしたものが先進的農業地帯である九州北部で共存するとすれば
第3次産業というか、河川で漁労、水運に従事することとなり、それを農業者側からみた
姿が河童であったということでは↓
http://members2.jcom.home.ne.jp/ayano1/img028.jpg
対馬にも河童があります。
878がいやまん:2006/07/01(土) 08:35:40
>>877
日野葦平、花と竜でしたか、関東でも利根川水系の水運業と共に国定忠治のような
ものが起こるとされますが、古代においても類似したことがあったということでしょうか。
879がいやまん:2006/07/01(土) 10:03:24
神農氏はテキヤの神様
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/3654/jovol3/No8.html/#note1
ですが、雲南の羌族(姜族と同類ともいわれる)もこれを信じているようですが、
羌族はチベット、日本人と同様YAP+型で、日本のYAP+の祖形とされています。
日本に羌族が入り込むという記録はなく、たとえば、月氏が秦夕月君として入ってくる
といった際に一緒に紛れ込んだのではないかと思われます。YAP+は縄文人にあるそう
ですから、もう少し古い時代に入ったのかもしれません。
880がいやまん:2006/07/01(土) 10:07:10
テキヤのホームページがうまく出てなかったようですね。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/3654/jovol3/No8.html#top
881がいやまん:2006/07/01(土) 10:28:15
薬の行商人も神農氏を祀るようであり、テキヤの社会に入るのは行商という
類似した商売形態からの連想かも知れません。
http://www.eonet.ne.jp/~maxim/contents/column/column_AC052.html
882日本@名無史さん:2006/07/01(土) 11:28:19
>>877
いまいちわかりにくい図だけど、もう少しわかりやすいのありますか?
カッパ伝説は伴天連様の禿げ頭から来ているという話もあったかな。
883がいやまん:2006/07/01(土) 11:56:37
九州河童分布図
http://members2.jcom.home.ne.jp/ayano1/page030.html
これは無関係だが、参考までに。↓
河童伝説と孫呉の人々
http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/zatu6.html


884日本@名無史さん:2006/07/01(土) 12:59:21
>>883
「オレオレデライタ」→「呉人呉人的来多」というと、文法的に成り立ち
ますか?ポルトガル語っぽい響きがするんでだけど。現代ポルトガル語には、
オレオレデライタという言葉自体は無いみたいだけど、「オレオレ」はある
ね。呉人の場合は、北京語で「ウレン、ウレン」かな。

>呉書孫権伝の中に見られる「亶州(日本)の住民が会稽郡にやって来て
商いをしたり、会稽郡東部に住む者が漂流してタン州に流れ着く事があった。」
という記述

亶州が一体どこなのか?という事で、日本説、沖縄説、台湾説などがある
みたいですけど、場所が確定しているのに、探索を行うというのが、若干
何だかなぁ・・という印象が。
ただ、呉書が記された時代には、「亶州」の場所は明確だったみたいですね。
「亶州の住民が会稽郡にやって来て…云々」とバッチリ書いてあるから。
日本はかつて、亶州と呼ばれたことがあるのかな…
「姫氏国」とならんで、向こう側の情報が乏しい国名ですね。
(姫氏国に関しては、ぐぐってもあまりヒットしない。)
885日本@名無史さん:2006/07/01(土) 13:06:01
>>884
上海語で「人」は「ニン」になってしまうから、どうなんだろうなぁ。
886日本@名無史さん:2006/07/01(土) 20:50:27
対馬は朝鮮に近いのであるが
あそこの人は美人揃い。
マジ、綺麗な人多い。
縄文系
887日本@名無史さん:2006/07/01(土) 21:01:48
★朝鮮人が漢字を習得したのは日本人より後・・★

朝鮮人(新羅人)は10世紀まで、漢字の読み書きができなかった。
918年に高句麗人の残党が建国した高麗になってから、半島東南部=旧新羅でも
漢字が普及し始めた。
つまり、朝鮮人が漢字の読み書きを覚えたのは11世紀以降。
早くても10世紀後半から。

【在日コリアンとの共生は身近な国際化・・・】
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1150741452/662-688

888日本@名無史さん:2006/07/01(土) 21:32:58
>>887
一般の新羅人は漢字が読めなかっただろうが、知識人は読めただろう。
中国の影響が強い地域だからなぁ。
日本の一般人の識字率が急速に高まったのも、江戸時代以降じゃないか?
889日本@名無史さん:2006/07/01(土) 22:18:41
私ね倭人なんだけど、むかし新羅のプサンに住んでたの、
そんで銀座にオープンする、お店の名前
新羅かプサンにしようと思うんだけど、どう
890日本@名無史さん:2006/07/01(土) 23:07:28
この板に江南地方出身の方、居られませんか!
居られたら、教えてほしいんですが。
古代の発音で倭人と越人が同じ(WO)ヲニンと
発音すると聞いたのですが本当ですか。
891白馬青牛:2006/07/01(土) 23:20:19
>>877
後世の倭寇も髠頭と中国人は記しておりますね。日本の月代と関連するか
どうかまで、断言できませんが、頭を剃る習俗は、北アジアに多いですね。
テキヤ=香具師=野武士と、近世の武士の系譜は、昭和九年、
折口信夫氏の『ごろつきの話』から、猟師・漁師・祭りに農民を祝福する
芸能民、男は人形使い、曲芸を生業とし、女は売春を生業とする傀儡師等、
常民から賤視された集団から武士は生まれたと云う考察とも、
共通項がありますね。初期の都市民もそうでしょう。
892日本@名無史さん:2006/07/02(日) 00:09:39
>>887 日本の古事記、日本書紀にあたる書を作ったのも日本より相当遅れている
ので漢字の浸透が遅れていたのは確かなことだろう。

 新羅の言語などほとんど何も分らんような状態だし。
893日本@名無史さん:2006/07/02(日) 00:19:40
>>887 しかし、まぁ日本書紀は中国人が書いた部分と日本人が書いた部分の
文字遣いが相当異なるらしくて、中国人が主導していたらしいな。

 白村江で捕虜にした中国人らしいが。
894日本@名無史さん:2006/07/02(日) 06:57:55
>>893
『日本書紀』には、中国人が書いたα群と日本人が書いたβ群が存在する
と言う話を聞いた事があるけど、白村江での捕虜だといのは知らない。
後から日本人が書き直したようだが、『日本書紀』を書いた中国人は、
正確な漢文を書けたようなので、それなりに地位が高く、知識人だった
のではないかと想像するが、違うのか?
895日本@名無史さん:2006/07/02(日) 07:01:00
>>中国人が主導していたらしいな

そもそも、捕虜が主導すると言うことはあり得るのか?
896日本@名無史さん:2006/07/02(日) 13:28:58
>>894 「ロゼッタストーン」という方のHPより無断引用

実は、7世紀末から8世紀初めにかけて朝廷の官僚養成教育機関である大学において、
中国人が教授を務めていたことが当の「日本書紀」と、それに続いて編纂された
「続日本紀」に記載されています。

一人は、続守言です。 彼は、日本が百済と組んで、唐・新羅の連合軍と闘った
白村江の戦いで捕虜となり、661年に日本に連行されました。捕虜といっても,まあ
大学の教授になったのだから優遇されたと言えるでしょう。もう一人は、薩弘恪と
いう人で、「大宝律令」の選定に参加したことが「続日本紀」 文武4年の記事に
しるされています。

森先生は、α群を執筆した中国人は、かれらのうちどちらか、あるいは両方では
ないかと推理されています。

引用終わり。

 ということで推測のようですが、可能性は高いのでしょう。

897日本@名無史さん:2006/07/02(日) 19:38:08
>>865
>日本書紀の具体的に金官=任那を指し示す具体例を教えてくれないか

一例だが。欽明記の2年7月のところに、百済王の言葉として、「天皇、
詔勅を以て南加羅・トクコトンを立てよと勧めたもうこと、ただ数十年
のみにあらず」というのがある。

そしてそのすぐ後に、百済王が引用した天皇の言葉として、「汝しばしば
表(ふみ)たてまつりて、当に任那を建つべしということ、十余年なり。
まをすことかかれども尚し成らず」つまり、「おまえは十余年来、もうすぐ
任那を復興できますと手紙で言っているが、いまだに実現しないではないか」
というところがある。

「任那を立てよ」(任那を復興せよ)というのは欽明記を一貫するスローガン
であるが、上のことから、このスローガンでいう「任那」とは「南加羅」
すなわち金官を指すことがわかるのである。
898イザナミの墓所:2006/07/03(月) 02:49:32
『日本書紀』には「一書に曰く」として次のようなことが書かれています。

「イザナミノミコトは、火の神を生むときに、陰部に大火傷を負って死んでしまう。
その遺体は紀伊国の熊野の有馬村に葬られる。
村人は、この神の魂を祭るのに、花のときは花をもって祭り、鼓・笛・幡旗をもって歌ったり舞ったりして祭る。」

また、妻の死に逆上したイザナギに、生後間もなく斬り殺された火の神カグツチの墓もそこにあります。

女性の性器から火が出る神話はメラネシアやパプアニューギニアなどにあります。
火の起こし方が性行為を思わせたところからの発想のようです。
女性の性器から火が出る神話で、ちょっとおもしろいのがパプアニューギニアのマリンド=アニム族の神話があります。

日本の神話には南方系国と同じものが多いですね。

http://www.mikumano.net/setsuwa/izanami.html
899高天原ってどこにあるの?:2006/07/03(月) 03:00:51
「一書に曰く」として『日本書紀』には次のようなことが書かれています。

「スサノオの行いがひどかったので、神々はスサノオを高天原から追放した。
スサノオは、その子五十猛神を連れて、(1番目に)新羅の国のソシモリに降るも、「この土地にはいたくない」と、土で船を造って、それに乗り、海を渡ってしまう。
(2番目に)着いた所が出雲の国の鳥上山。そこに人を呑む大蛇がいた。
五十猛神は天降るときに、たくさんの木の種をもって降ったが、韓地では播かずに、すべて日本に持ち帰って日本の国中に播いて、国土を全部青山にしてしまった。
この功により五十猛神は、有功の神とされ、紀伊国に鎮座する大神となった。」

この文から推測するに、高天原ってどこにあるのでしょうか?
スサノオの移動する順番は、1高天原⇒2新羅⇒(船で移動)⇒3出雲⇒4紀伊

ということは、高天原は任那にあったということでしょうか?
900日本@名無史さん:2006/07/03(月) 03:08:05
>>898 >>899
いずれも初歩的な話題です。
901高天原ってどこにあるの?:2006/07/03(月) 03:08:54
また「一書に曰く」として、『日本書紀』次のようなことも書かれています。

スサノオがいうのに、「韓郷の島には金銀がある。わが子の五十猛神が治める国に船がなかったら困るだろう。」
(『日本書紀』では、スサノオと奇稲田姫の子が大己貴神〔大国主神ともいいます〕。スサノオに代わり地上を治め、葦原中国を作りました)。
そこで、スサノオ、ひげを抜いて放つと、そのひげが杉の木になった。
胸毛を抜いて放つと檜に、尻毛は槙に、眉毛は樟になった。」

「杉と樟は、船を造るのによい。檜は宮を造るのに、槙は現世の国民の棺を造るのによい。たくさんの木の種を播こう。」
スサノオの子、五十猛神、オオヤツヒメノミコト、ツマツヒメノミコト。この三人の神が木種を播いた。
その後、スサノオは熊成山を通って、とうとう根の国に入った。

この木の神としてのスサノオを祀った「須佐神社」という神社が、口熊野、和歌山県田辺市中万呂にあります。
そこは、スサノオが朝鮮半島の新羅というところから、この紀国に木の種を持ち来ったときの上陸地点だと口承されている場所なのだそうです。
この神社は古くは牛頭天王社と呼ばれ、明治4年(1871)に社名を現在の須佐神社に改めたそうです。

やはりスサノオは朝鮮半島から来たのでしょうか?
902日本@名無史さん:2006/07/03(月) 03:11:52
>>900

初歩的だからどうしたのですか?
回答になってません。
私は高天原はどこにあったのかを聞いているのです。
それに回答するのが筋でしょう。
無駄な回答は謹んで下さい。
あなたは高天原はどこにあったと思いますか?
903日本@名無史さん:2006/07/03(月) 03:20:47
お怒りはわからなくもありません。謝ります。
ただ「高天原はどこか?」問題について
あなたが提示されてる材料は宣長以来議論しつくされてるように
思いました。私見といわれても少々困ります
904日本@名無史さん:2006/07/03(月) 03:43:35
>>899
>>900

>スサノオは、その子五十猛神を連れて、(1番目に)新羅の国のソシモリに降るも
>この神社は古くは牛頭天王社と呼ばれ、明治4年(1871)に社名を現在の須佐神社に改めたそうです。

「日本書紀」の一書には、スサノオ尊が高天原から出雲に至る前に「その御子イソタケル神をひきいて、新羅国に天下りまして、ソシモリの処にまします」という一文があります。
「ソシモリ」とは不思議な地名ですが、何と朝鮮半島にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山が実際にあるというのです。
その山の名前は加耶山。
加耶山とは、仏教が伝わって以降の呼び名であって、古代には「牛の頭の山」と呼んでいたというのです。
「牛の頭」は韓国語よみで「ソシモリ」。
その山が「牛の頭の山」と呼ばれたのは、加耶山麓の白雲里という村の方から見た時、山全体が大きな牛が座っているように見えるからだそうです。
905日本@名無史さん:2006/07/03(月) 03:46:46
曽尸茂梨(ソシモリ)も初歩的な話題です。
906日本@名無史さん:2006/07/03(月) 03:54:04
高天原とは「任那」「南加羅」「金官」を指す。
天皇は韓半島から来たことがわかるのである。
907日本@名無史さん:2006/07/03(月) 03:57:47
しかし「高天原」「任那」「南加羅」「金官」に住んでいたのは倭人。
九州に住んでいたのも倭人。
908日本@名無史さん:2006/07/03(月) 04:08:15
>>905

あなたいい加減にして下さい。
初歩的だから何ですか?
私は高天原はどこにあったのかを聞いているのです。
それに回答するのが筋でしょう。
冷やかしなら結構です。
909日本@名無史さん:2006/07/03(月) 04:44:21
>>906>>897ではない。
>>907
高天原は「倭人」の故郷なのではない。「天皇族」の故郷である。
910日本@名無史さん:2006/07/03(月) 04:54:40
「任那」の意味についてもうひとつ。
日本書紀に、「任那」だけで「任那日本府」を表しているところがある。
人名からそれがわかるのである。

短縮形なら「日本府」と言えばいいのに「任那」と言う。
これは任那日本府が「任那」を代表していることを示している。
また、任那日本府は任那(狭義)にあるのではなく安羅にある。
これらのことから、私は「任那日本府」が、「任那」すなわち「金官」の
亡命政府であると思う。
911日本@名無史さん:2006/07/03(月) 11:03:44
>>909 高天原の神々は天皇族、天孫族だろうがその他の住民は倭人だろう。
新羅人と雑居していたというような記事はない。
912日本@名無史さん:2006/07/03(月) 12:47:35
>>911
『三国志』などでは、弁韓や辰韓と倭の風俗・言語の類似性が示唆されていたと
思うが。(ただし、明確に「同一」と指摘していたわけではない。)
辰韓や後の新羅は、倭人を含め、多様な民族が混交していた雰囲気がある。
913日本@名無史さん:2006/07/03(月) 12:56:19
武勇伝 武勇伝 風に煽られ皇居に落ちた 武勇伝でんでんででんでん
あっちゃん かっこ悪り〜♪
914日本@名無史さん:2006/07/03(月) 13:18:21
>>912 『三国志』などでは、弁韓や辰韓と倭の風俗・言語の類似性が示唆されていたと
思うが。

・・・その個所の原文をupしてもらえませんか。
915日本@名無史さん:2006/07/03(月) 14:13:55
>>907
>>911

倭人とは朝鮮半島と日本列島を自由に航海し交易をしていた海人。
その海人を統率したのが宗像大社を祀る豪族・宗像君の祖先「胸肩君」。

牛頭と朝鮮半島のソシモリ(新羅国の曽尸茂梨)
牛頭天王と祇園社の祭神
牛頭天王とスサノオ(須佐之男命・素盞鳴尊)
ソシモリと巨木信仰(御柱祭り)
『日本書紀』のスサノオの記述の真偽?
スサノオと紀氏(紀の国)と海人

キーワードはたくさんある。
やはり天皇家と朝鮮半島には深い繋がりがあるのだろうと確信する。

916日本@名無史さん:2006/07/03(月) 14:14:59
>>898

日本神話にポリネシア系神話、ユーラシア系神話の影響がみられるという説は、現在  主流になっており、日本語にはポリネシア語からきた言葉も残っています.ただ地名は あまり残ってないようです.

 ポリネシア語からきた言葉(↓ポリネシア語での意味)
 ・アリアリ−−きわめてはっきり.
 ・フラフラ−−踊り、筋肉がこわばる、疲労でふらつく
 ・トコトコ−−杖をついて歩く
 ・ハラ(パラ)−−広く平らなところ
 ・ワメク−−騒がしくする+しかる
 ・ガンバレ−−しっかり戦ってこい

917日本@名無史さん:2006/07/03(月) 14:16:24
>>898


南方からきた民話
 ・因幡の白ウサギ−−マレー半島、インドネシアの「うさぎとワニ」.ウサギがワニ をだまして川を渡るというもの.このワニは本物のワニ.
  ・古事記のトヨウケ姫の殺害−−口や尻から食物を出してもてなしたため、  スサノオ(または月読)に殺され、死体から稲等が発生するこの話は、  ニューギニア、ウェマーレ族の女神ハイヌウェレの神話から.
 ・瓜子姫−−これもハイヌウェレ神話と似ている.ただし、ハイヌウェレは
 戸棚にしまっておいた瓜ではなく椰子の実から生まれ、アマノジャク
 ではなく村人に殺され、死体からイモなどが育つ.
 ・海幸、山幸−−南方民族とされる、南九州の隼人族の神話らしい.
 ・浦島太郎−−ベトナムあたり.バリエーションはあるが、ほぼ同じ伝説が伝わる.

918日本@名無史さん:2006/07/03(月) 14:33:34
>>914
三國志魏志東夷韓伝でも読めばいいよ。

まあ初歩的というか、電波過ぎて誰も相手にしないかと・・・・(苦笑

ちなみにソシモリについては過去ログにも一応あったよね。ネタとして。

タカマガハラなんてのは「神の世界」なわけで、要するに地上に存在していない神界なわけで、日本神話の成立とともに、統治権を神格的に裏付ける
装置なんであって、何処か現実に存在している地域だとするのはどうも。つまり「どこにもない」。
チベットだとか満州だとかそれこそ任那だとかね。(笑
919日本@名無史さん:2006/07/03(月) 14:35:50
>>904

ソシモリは場所を示すというのが、一般的な考え方で江原道春川市の牛頭山をそれにあてるという説があります。
しかし、韓国の学者は場所ではないと言っている。
牛頭山というのは「ソシモリサン」「ソモリサン」でなくてはならない。
文法上「サン」を抜いては、特定できません。
例えば富士山を指す場合、「フジ」と言ってしまったら、藤の花か富士川かまたは会社の名称か分からないではありませんか。
固有名詞をはつきりと理解させるには、「フジサン」「ふじのやま」といわなければならないのです。
書紀がソシモリというのは、山ではないのかも知れません。
山ならそのように書きますから。

さらに、春川市のような半島の中心では、舟に乗るのにも困ります。
出雲に渡るため舟に乗るには、半島の東岸にいて、東に航海しなくてはなりません。

太白山脈の東側の地域は北の古新羅(東沃沮・穢・辰韓の国で構成された国・隋書)の領域で、昔から南の倭勢力と高句麗が覇権をめぐって激しく争っていた場所でした。
高天原からこの地に移動してきたスサノオに対して、この国の人はあまり親切でなかったのかもしれません。
戦争続きで荒廃していた土地にも嫌気したのか「おれはこの地にいたくない」と出雲に向かったのでした。
ソシモリが場所の名であるかどうかは、まだはっきりしません。

「ソシ」は蘇氏、「モリ」は頭領という韓語ですから、ソシモリは「蘇氏の頭領(長)」と訳すことができます。
蘇民に対し、蘇の氏族の長(王)というのは、スサノオが氏族と民をつれて出雲に来朝したことを示すような気がするのです。

蘇は牛だという人もいる。
スサノオはウシ王すなわち牛族の長であつたから、蘇=牛と考えると分かりやすいです。
ちなみに現代の朝鮮半島人名にも蘇を姓とする蘇氏の方がいます。
920日本@名無史さん:2006/07/03(月) 15:08:07
大石武氏著「伝説散歩・八幡の島」p191に次のような記述がある。
峰町の竜造寺辰馬氏の言葉として
「私は戦前長く朝鮮にいましたが、北朝鮮江原道の春川郡春川面というところに「ソシモリ」と呼ばれているところがありました。
ちょっとした丘が聖地になっていて、土地の人はそこの神様のことを大昔日本から来た神様だと伝わっていると申していました。
その丘をソシモリの丘と呼んでいました。」

また、現地では次のような言い伝えもある。
「素盞嗚尊が五十人の兵士と妹を連れて出雲へ渡ったと云う」

日本側の伝承とつなぎ合わせると、50人の兵士とは五十猛命、妹とは抓津姫,大屋津姫と考えられる。

また、日本書紀一書(第五)
「素盞嗚尊が言われるのに、韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」と。
そこで鬢を抜いて杉、胸毛から檜、尻毛から槙、眉毛を樟となしたとある。」

根國へ放逐せられたる素戔鳴尊は身から出た錆の報いで所々方々を流浪しながら其の子の五十猛命と共に 今の朝鮮へ渡られ、新羅國の曾戸茂梨と言う所に居られた。
此の曾戸と言うのは朝鮮の古い言葉で牛のことであり茂梨は頭と言う事であって今の江原道春川府の牛頭山であろう。よってスサノオの別名を牛頭天王とも書いてある。
此の牛頭天王が朝鮮に居られる間に「此の國には金銀が沢山有る。これを日本に運ぶ船が無くては叶わぬ」と仰せられて髯を抜いて散かれると杉の木となり胸毛は桧(ひのき)となり臀毛(しりげ)は披(まき)となり眉毛は樟(くす)となった。
そこで杉と桶とは船にせよと仰せられた。
桧は御殿を作れ披は棺桶(くわんおけ)にせよと仰せられた。
御子の五十猛命は此等の木々の苗を沢山朝鮮から持ち歸って九州からだんだんと東へ植え付けられた。
その木が紀伊の國で一番繁殖したので昔は紀伊は木國と言ったと伝えられてる。

これらの伝承をつなぎ合わせるとスサノオが出雲から朝鮮半島に渡り、朝鮮半島の先進技術を学び再び日本に帰ってきたことが伺える。
921日本@名無史さん:2006/07/03(月) 15:08:56
【物知り】なんでもきけ【インテリ】
http://science4.2ch.net/test/read.cgi/sky/1148635375/
922日本@名無史さん:2006/07/03(月) 15:20:12
まあ新羅は建国からして倭人が係わってる国なんで逆戻り説は有り得ない話じゃないとは思うけど。

ソシモリ=牛頭 説はデマだろうね。
923日本@名無史さん:2006/07/03(月) 15:59:24
>>918 魏志東夷伝

辰韓在馬韓之東・・・其言語不与馬韓同
弁韓与辰韓雑居・・・言語法俗相似

後漢書東夷伝
(弁韓と辰韓) 言語風俗有異

梁書百済伝
 言語服章 略与高句麗同

 これは見たことがあるが、弁韓、辰韓が倭人と言語風俗相似と書いてある例は
無いだろう。
 そんな記述があったらとうに有名になっていて必ず取り上げられるはずだ。


924日本@名無史さん:2006/07/03(月) 16:50:23
>>911
>高天原の神々は天皇族、天孫族だろうがその他の住民は倭人だろう。
>新羅人と雑居していたというような記事はない。

まったくその通り。だから天皇族が倭人であると言う保証はないのだ。

天皇族の出自を調べるために倭人の由来や習俗を調べることは、
清の皇帝の出自を調べるために中国人の由来や習俗を調べたり、
クレオパトラの出自を調べるためにエジプト人の由来や習俗を調べたり
するのと同じように意味がない。

もちろん天皇土着説に立てば意味はある。
天皇外来説に立ったとたんに意味がなくなるのだ。
そして「高天原」伝説じたいが天皇外来説をほのめかしているのである。
925日本@名無史さん:2006/07/03(月) 17:12:38
>>915

天皇家の伊勢神宮にたいして祇園社は別の系統であることが解ります。
因みに、天皇家直属の神社を「神宮」と言います。
「宮」と言う字が天皇の住まいを意味するにたいして、「社」と言う字は「その土地の神」または「村落の中心地」を表します。
つまり、神宮(伊勢神宮)、熱田神宮、鹿島神宮などは天照大神(=「神」)を祀る天皇家の直轄のところにたして「神社」はそこから分かれた地域のものと言えます。

私の知る限りでは明治になるまで、この「神社」を名乗っていなかった「社」は「出雲大社」、「祇園社」と「戎社」だけであると思います。
(住吉大社、諏訪大社など「大社」とつけていますが、それは明治政府の付けた社格であり正式名称はいまでも住吉神社、諏訪神社です。)
日本全国のいわゆる「お宮さん」のほとんどが伊勢神宮を頂点とする「神社」であるのにたいして、
「戎社」は「出雲大社」や「祇園社」と次いで独立系統の社(やしろ)の総社であるということがお解りいただけたでしょうか?
926日本@名無史さん:2006/07/03(月) 17:17:00
天上界から降り立った神である統治者の構図、なんのこたーない
一種の権威付けの補強材。
927日本@名無史さん:2006/07/03(月) 17:20:05
天存続を外来と決めつけるのもまた一つの説なわけですが。神話を史実解釈しようとするバカが後を絶ちませんなあ。
928日本@名無史さん:2006/07/03(月) 17:22:09
上の場違いなヤシはコピペ房だよ。相手するだけ無駄。
929日本@名無史さん:2006/07/03(月) 17:22:57
中国史書では,紀元前後から,日本のことを倭国と呼んでいたようである。
最初に記録されているのは「山海経」であるが,はっきりした記載ものは,「漢書・地理誌」である。
これは一世紀に書かれた書物であるから,日本を倭国と呼び始めたのは紀元前後ということになる。
それ以前に倭国という表現は中国史書には存在しない。
倭国の領域の一般的見解は,九州・中国・四国地方を指すようで,近畿地方以東は含まれていないようである。
つまり、近畿地方以東は別の国が治めてたということになる。
930日本@名無史さん:2006/07/03(月) 17:25:37
大石武氏著「伝説散歩・八幡の島」p191に次のような記述がある。
峰町の竜造寺辰馬氏の言葉として
「私は戦前長く朝鮮にいましたが、北朝鮮江原道の春川郡春川面というところに「ソシモリ」と呼ばれているところがありました。
ちょっとした丘が聖地になっていて、土地の人はそこの神様のことを大昔日本から来た神様だと伝わっていると申していました。
その丘をソシモリの丘と呼んでいました。」
931日本@名無史さん:2006/07/03(月) 17:36:33
>>926->>928

あなたいい加減にして下さい。
初歩的だから何ですか?
私は高天原はどこにあったのかを聞いているのです。
それに回答するのが筋でしょう。
冷やかしなら結構です。
932日本@名無史さん:2006/07/03(月) 17:38:12
>>929
別の国って言うよりも、縄文系か蝦夷とかアイヌとかの世界だったんじゃないの?
933日本@名無史さん:2006/07/03(月) 17:38:16
>>923
有名どころで
今、辰韓人、皆偏頭。男女倭に近く、また文身す。
国、鉄を出す、韓・[シ歳]・倭皆従いてこれをとる。

などがあろうなあと思うわけですが。

新羅については故其人雜有華夏ともあり、梁書には其言語名物有似中國人、辰韓の言語も華夏と似ているとの記述もあり
漢人が済んでいた事を思わせる。
934日本@名無史さん:2006/07/03(月) 17:39:39
和の精神や仏教の思想を日本人ほど残していない地域 ≒ 侵略された地域 = ガチ
935日本@名無史さん:2006/07/03(月) 17:55:28
>>934
それだと大陸や半島は壊滅だなw
936日本@名無史さん:2006/07/03(月) 18:00:11
>>933
住んでましたよ。『後漢書』などにも書いてあったと思いますが、
秦の始皇帝の横暴から逃げ延びてきた人々が辰韓に住んでいて、
辰韓の住民の言語にも影響を与えたので「秦韓」とも呼ばれたと。

それが後の新羅に発展しますが、ツングース系などの膨張に耐え切れ
なくなった漢民族(というか中国東北系?)の住民が再度逃亡…とい
うシナリオも想像されます。秦氏などがそのケースだったかどうかは
わかりませんが。
937日本@名無史さん:2006/07/03(月) 21:35:02
>>896
サンクス!
938日本@名無史さん:2006/07/03(月) 21:38:44
>>926
>>927
高天原は南加羅だというからそれに合わせて言ったのだよ。
ではなにかい? 天皇族は南加羅(金官)出身の倭人だと言いたかったのかな?

>>927
荒唐無稽の神功記を信じて天皇族を万世一系とするのもまた「神話の史実化」だわな。
939日本@名無史さん:2006/07/03(月) 22:47:44
>>938
高天原が南加羅だという根拠をどうぞ。文献学的、或いは神話学的にそんな結論は出されてなかろうと思うわけですが。

>荒唐無稽の神功記を信じて天皇族を万世一系とするのもまた「神話の史実化」だわな。
このスレの中で、天皇が神武から続く万世一系の存在だとしてる奴なんていましたっけ?
欠史八代を肯定する人間なんて今さら珍しいだろうなあ、と思うわけですが。
940日本@名無史さん:2006/07/04(火) 01:22:05
中国、高句麗の次は「扶余も中国史」

北扶余、高句麗、南扶余(百済が泗に遷都した際に変更した国号)、
統一新羅、高麗、朝鮮、韓国という伝承関係を通じ、
韓民族こそが遼河文明の完成者であるといえる。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/07/03/20060703000049.html
941日本@名無史さん:2006/07/04(火) 01:48:10
韓民族?
魏民族・趙民族とかいるの。
942日本@名無史さん:2006/07/04(火) 02:31:10
>>940

YAHOO!!CHINAの地図でも北朝鮮は中国の領土になっている。

中国の北朝鮮政策の一環だろう。
北朝鮮が中国に併合される日は近いな。
次は韓国か?
それにしても、どうして韓国政府は中国に抗議しない?
もう裏で話はついてたりしてな。
943日本@名無史さん:2006/07/04(火) 04:47:58
>韓民族こそが遼河文明の完成者であるといえる

シナともども逝けやクソチョン
944日本@名無史さん:2006/07/04(火) 05:06:30
まあ楽浪郡、臨屯郡、真番郡、玄菟郡は中国の版図なのだから、
北朝鮮を中国領土とするのは一理あるわな。
任那までそうだって言い出したら文句いわなあかんな。
945日本@名無史さん:2006/07/04(火) 05:10:32
テロ国家の人間どもと一緒にすなや、胸糞悪い。
946日本@名無史さん:2006/07/04(火) 05:16:31
チョンコ半島はイランよ全部くれてやる。
947日本@名無史さん:2006/07/04(火) 06:57:59
>>943
あの時代の大陸及び半島は、民族が入り乱れて領土も入り組んでいたから、
二カ国が仲良く共同調査するか、それぞれ勝手に研究するかのどちらかだ。
948日本@名無史さん:2006/07/04(火) 07:04:22
燕は、召公奭が建てた国じゃなかったのかな?
949日本@名無史さん:2006/07/04(火) 13:15:50
>>939
>高天原が南加羅だという根拠をどうぞ。

それは私が言ったのではない。スレをたどって見よ。
私は金官=南加羅(=狭義の任那)であると言ったのだ。

>欠史八代を肯定する人間なんて今さら珍しいだろうなあ、と思うわけですが。

だれもそんな話はしていない。神功記のことを言ったのだから、当然、神功の実在、
応神の正統性の話だ。
あなたは神功が実在し、応神が三輪王朝の正統な後継者であると信じているのかな?
950日本@名無史さん:2006/07/04(火) 13:56:13
神功皇后のお墓って、存在していましたっけ?
お弔い用のちっちゃなお墓みたいなものは、宇佐神宮にあったと思ったけど。
951日本@名無史さん:2006/07/04(火) 14:44:50
>>949
そんなものわからないよ。IDが無いから。辿ってみよと言われても。
定期的に発言なさってるようだし、扶余征服派は貴方と牛さんだけみたい
だから、コテにしたら如何ですか?解りづらいので。で、辰韓の話についてはもうよいので?

>あなたは神功が実在し、応神が三輪王朝の正統な後継者であると信じているのかな?
神話を素直に史実として解釈せよと主張する割に、事実でないことは認められないとする。
学問的に未詳な事を、ありていにいってしまえば妄想してるのがあなたなわけですが。
952日本@名無史さん:2006/07/04(火) 16:30:00
>>951
素直に答えよ。あなたは神功の実在、応神の正統性を信じるのか?
信じないのか?
953日本@名無史さん:2006/07/04(火) 16:34:07
騎馬民族の侵入した場所と、出立点を知りたいなあー
954日本@名無史さん:2006/07/04(火) 16:38:53
>>952
答えてくださいよー
955日本@名無史さん:2006/07/04(火) 17:02:33
>>952
・・・江上信者は伽耶からやって来たと言う、日本の古墳から伽耶と同型の鉄製品が
出土しいること、時代が重なることを、理由としてよく挙げる。
まあ実際のところ、交易や交流が我々が考えている以上に盛んだったというだけのこと。
956日本@名無史さん:2006/07/04(火) 17:09:02
新羅が攻めてきた時、戦乱を逃れるためその多くが
鉄の交易があり優遇してくれる日本に移住したというだけの話。
後世の百済も高句麗も似たようなもの。
957日本@名無史さん:2006/07/04(火) 17:13:46
>>952
学問的に未詳と答えるほかにない。
どうでもいいがコテハンにしないのか?区別が付かんぞ。
958日本@名無史さん:2006/07/04(火) 19:42:09
騎馬民族は来ていない。
しかし、騎馬文化は来た。
959日本@名無史さん:2006/07/04(火) 20:23:25
>>958
「騎馬文化」って言うほどの本格的な騎馬文化は、古墳時代全般を通じて、
どこにも来てないよ。
古墳前半は、副葬品などからも中国の影響が強く、その後も、舟形木棺や
舟葬墓などが特徴的だ。

ことさら騎馬・騎馬言っているのは、ある種政治の陰謀だと思う。
960日本@名無史さん:2006/07/04(火) 20:27:24

いい加減、古墳時代に関しては、騎馬民族(仮にそんな民族が東アジアにいればの話だが・・・)
とか馬具とか筒袖以外のものに目をむけようぜ。その他のより重要で興味深いものが、一切注目
されなくなる傾向にある。
961日本@名無史さん:2006/07/04(火) 20:33:13
何いってんだよ
騎馬民族=サイヤ人 の影響無しに北東アジア覇権は語れない
高句麗は中国を滅ぼし欠けたんだぜ!?
962日本@名無史さん:2006/07/04(火) 20:57:37
高句麗なんか、半農半牧で中国文化の影響も受けてるし、純粋な
騎馬民族なんかじゃないやいっ。
モンゴルなんかは微妙だな。あれは騎馬かも知れん。

>>高句麗は中国を滅ぼしかけたんだぜ!?

でも自ら滅んじゃったじゃないか。
963日本@名無史さん:2006/07/05(水) 13:43:12
江上波夫やここのスレで江上説を支持している人はかなり矛盾しているぞ!
ここのスレで騎馬民族が来たと言っている白馬青牛氏や江上説支持者は当然平泉澄の皇国史観を否定しているよね。
神武天皇が架空の人物だと疑っているわけだ。だがもし神武を否定するなら、なぜ崇神や応仁は否定しないのか?
騎馬民族征服王朝説は「満州方面からやって来たツングース系の騎馬民族で崇神天皇率いる騎馬民族が南朝鮮から
九州へ侵攻してきて王朝を建国して、神武遠征伝説は応神天皇と騎馬民族が九州→畿内へ
移動して王朝を建国した」
江上支持者は神武や皇国史観は否定しているのに、崇神や応仁はいたと考えるの?
あなたたちの立場ではむしろ崇神や応仁は架空の人物だと疑う立場じゃないの?
964日本@名無史さん:2006/07/05(水) 16:09:55
>>957
そんなことをいったら、4世紀、5世紀の全ては学問的に未詳だ。
すべてそれでかたづけるなら、この板そのものが成り立たないではないか。
君がそこへ逃げ込みたい気持ちはわかるよ。神功の実在を信じると言えば
「神話の史実解釈」のそしりを受ける。信じないと言えば新しいすじがき
を考えなければならない。
だからとりあえず判断保留しておけば安全、と考えるわけだ。

>>963
応仁ってなに? まあ応神のことだとして。
井上光貞は騎馬民族説に反対だが、その理由は「崇神が征服者だと年代的に
合わない」というものだ。そして「応神が征服者だというなら納得できる」
と言っている。私もこの立場に近い。
ただし井上がそう言っていたのは金海の扶余遺跡の発見以前のことだ。
どうせ扶余の遺物は出ない、とたかをくくっていたから、このような
思い切ったことも「安全に」言えたわけだ。
965日本@名無史さん:2006/07/05(水) 16:52:22
騎馬民族に征服されたという何の証拠もないよね…
アホくさいな。
966日本@名無史さん:2006/07/05(水) 16:53:24
騎馬民族とルーツが同じだとしても、何の親しみも湧かない。
それどころか、不愉快さが増すだけ。
日本人と同祖になりたいんだろうが、もう少し頭を使って、
日本人に受け入れられるような小粋なストーリーに変えた方が
いいかもしれないね。
これだけは言えるが、日本人は「騎馬民族」というものに馴染み
がないし、好きでもない。どちらかと言えば、嫌い。
967日本@名無史さん:2006/07/05(水) 17:21:29
963
>>964
応神でした。すみません。
968日本@名無史さん:2006/07/05(水) 17:44:31
神武は太白の末裔。
崇神は隼人と越人もしくは韓人のハイブリット。
応神は西九州の倭海賊。

いずれも筑紫。天孫降臨地は筑紫ばっーかり。
969日本@名無史さん:2006/07/05(水) 20:08:23
>>966
>これだけは言えるが、日本人は「騎馬民族」というものに馴染み
>がないし、好きでもない。どちらかと言えば、嫌い。

安心してよい。
扶余はあなたが考えるような意味での「騎馬民族」ではないから。
もうひとつ。征服されたとしても征服者はほんの一握り。
日本人ぜんたいの形質とは殆ど関係ない。
現に、天皇は祖先に百済の血、つまり扶余の血が入っていると
公言したが、そんなものはあなたと関係ないではないか。

970日本@名無史さん:2006/07/05(水) 21:41:23
朝鮮半島南部や日本列島みたいな照葉樹林帯では馬は使い物に成りません牛の方がまし
海、川は船さえ有ればフリーハイウエー「騎馬民族」の亡霊にとりつかれてますよ
古墳から出てくるのは飾り物、威儀物。
971日本@名無史さん:2006/07/05(水) 21:56:13
>>970
それだと、牛が少ない東日本は困っちゃいますw
騎馬民族説は亡霊だけど。
972日本@名無史さん:2006/07/05(水) 22:06:34
>>969
まあ扶余の血といってもかなーり前の話で恐らく仲間内で婚姻してなければほぼ倭人だろう。

個人的には扶余が日本に来て天皇になった?うん、それで?って感じだ。

寧ろこんなことに執着して四六時中こんなこと考えてるのかと思うと、

民族のアイデンティティが何らかの理由で危機なんだろうなあ、と思うだけだ。

ちょっと可哀想でもある。
973白馬青牛:2006/07/05(水) 22:11:33
>>963
わしの解釈か?1960年代の井上光貞氏の江上説への反撥は
>964氏が述べておられる通りであろう。わしは、世界史的な視点から
崇神天皇の頃が、疫病の流行、寒冷化による世界的民族移動期に
合致すると思う。弥生期60万人から古墳後期の540万の人口増加、
弥生人は、中国の黄巾の乱の人口減少と同じく、寒冷化による
人口低下減少も考えられる。寒冷期は日本の稲作農業にも被害を齎した
ろう。15世紀の小寒冷期でも、飢饉により京都洛中の死者は8万4千と
あるが、戦争と飢饉の時代、戦国時代になった訳じゃ。寒冷期に突入した
倭国大乱も気候環境の悪化による農業生産の減少も考えられる。
中国がその後、北方民族の五胡、北朝を経たように、日本も北方民族の
南下で、人口が増大したと思う。現在の日本人は、『魏志』にある倭人の
末裔の要素より、渡来古墳人の末裔という要素が強い。
974日本@名無史さん:2006/07/06(木) 00:10:17
騎馬民族は来ていない。
しかし、騎馬文化は来た。

975日本@名無史さん:2006/07/06(木) 00:38:30
>>973 しかし魏志倭人伝にある倭語と奈良時代の日本語の特徴に変化が無いという
ことは、渡来古墳人という集団が比較的少数で言語に影響を及ぼすほどではなかっ
たということでは?

 異民族が大量に流入すれば言語が入れ替わるのが普通と思うが、渡来古墳人は
倭人と同じような日本語を話していたのだろうか。
 
 朝鮮半島を経由してきたのなら日本語と朝鮮語に馬に関する共通語彙が残って
いてもよさそうなものだが、日本語のウマという単語そのものがシナ語起源と
言われている。

 ただし、奈良時代の日本語は母音が8個あって母音調和があるという北方的傾向
が認められるという説もあって、これが渡来古墳人の影響なのかも知れない。

976白馬青牛:2006/07/06(木) 02:33:01
>>975
『魏志』倭人伝の母離等はアルタイ系言語の要素か解らんが、
馬のM音は、maru,mori,maとモンゴル・満洲・朝鮮・日本・漢と
共通性がある。トルコ系の馬のato,ata等のA音とは、違いがあると
思う。何れにせよ、渡来形質と縄文形質の人間が混血したんは、
古墳期であろう。弥生系渡来人は九州北部に流入しても、古墳期には
縄文形質の強い人骨が北九州にあることから、少数派に転落したんで
あろうか。やはり、高句麗・百済人等のツングース系が、
日本人となったんじゃと思う。朝鮮半島の韓人は、樺太(サハリン)の
ニブヒ・ギリヤークや、越人の影響も強い。支配層はツングースであろう。
977日本@名無史さん:2006/07/06(木) 06:05:41
>>972
高野の新笠は、日本に帰化して15代目だっけ?
978日本@名無史さん:2006/07/06(木) 06:08:44
>>971
北海道では、アイヌの他に顔の平べったい人達が住んでいたはずだが。
アイヌが和服に毛が生えたような衣装を着ているのに対して、皮なめし
が得意だった。
979日本@名無史さん:2006/07/06(木) 06:44:01
>>976
馬は、u/maでしょうね。
maru 、moriから直接仕入れたものではないと思う。
980日本@名無史さん:2006/07/06(木) 13:41:22
匈奴などの騎馬戦を見て感動、漢民族の王朝が騎馬戦を導入
           ↓
     遅れて日本にも「馬(ma)」が伝わる。
981日本@名無史さん:2006/07/06(木) 14:21:58
>>976 高句麗地名は日本語40%弱、新羅語40%強の共通性があり、ツングース語
とは10%程度しかないそうなので、高句麗がツングース系とも言えないのでは?

 魏志倭人伝の倭人語が5母音で母音調和がないすると、奈良時代の8母音、母音
調和のある日本語とは方言差、または渡来人の発音の影響と考えられますね。

 高句麗地名が8母音で母音調和があり、魏志倭人伝の倭語が5母音で母音調和が
ないとすると、渡来人説の強力な証拠になりますが、それに言及している説はまだ
見たことがありません。どっちも数十〜100語程度なので解明不可能なのかも。
982日本@名無史さん:2006/07/06(木) 14:42:29
>>979
中国語のma から入った可能性は高いと思う。
なぜかというと、もうひとつ、梅ume (中国語mei)があるから。
外国語の子音の強さを表すために語頭に母音が入るのは、例えば
後世の「おろしや<ロシヤ」がある。
983日本@名無史さん:2006/07/06(木) 15:32:45
>>981
>高句麗地名は日本語40%弱、新羅語40%強の共通性があり

ゴメン、生まれてから一度もそんな説を聞いた事がないわ。
てか、高句麗語ってまともに復元されてないと聞きますた・・・
984日本@名無史さん:2006/07/06(木) 16:45:20
>>983 韓国の言語学者李基文がそう言っておりますが。

 高句麗語は地名しか分からず、魏志倭人伝では倭の固有名詞しか分らん
のと似たようなものでしょう。魏志倭人伝だけからでは3Cの日本語が復元
不可能なように、高句麗地名から高句麗語は不可能と思います。

985日本@名無史さん:2006/07/06(木) 17:18:06
高句麗語の研究を勉強する
http://www.dai3gen.net/kg0.htm
986日本@名無史さん:2006/07/06(木) 17:28:15
大三元さんは高句麗語も研究されていたのですか。アイヌ語専門かと
思っていました。図書館に「縄文語の謎に迫る」というようなタイトルの
本がありました。
987日本@名無史さん:2006/07/06(木) 18:05:23
アガ アカキ コロモボ コノミブム。
988日本@名無史さん:2006/07/06(木) 18:14:15
「三国遺事」安弘東都成立期を読むと、新羅にとって脅威となる国が、

1日本、2中華(唐)、3呉越(中国南部)、4耽羅(済州島)・・・の
順番であったことがわかる。半島の国家は、古代から日本と中国に挟まれ
て大分苦労したようだ。迷惑かけてすまなかったな…
989白馬青牛:2006/07/06(木) 22:38:17
>>979981
馬のmaが、高句麗語か漢語からの借用語かは解らんのですが、
モンゴル語、満洲語の「馬」murin、morinや朝鮮語のmalと、
青海モンゴル系のmaruやブリアート語のmal(家畜)の関連はあると思う。
ツングース系の馴鹿mulu、maroが日本語の丸や人名の麻呂に結びつくか、
までは解らんのです。
水は、古代日本語のmi高句麗語のmey 満洲語ではmukeで彼らの先祖の
中世女真語では、miで日本語と共通しておる。まあ何処まで同源とするか、
言語の問題は難しい。説明不可能であるのはその通りでしょう。
高句麗は言語的にツングースと断言出来ませんが文化・民族的には
ツングースでしょう。
990日本@名無史さん:2006/07/06(木) 22:55:12
>>989
ブリヤート語は、モンゴル・ブリヤート語、モンゴル語ブリヤート方言
と言いますね。方言なので似ていて当たり前かと思います。
991日本@名無史さん:2006/07/07(金) 00:08:57
>>989 日本語にはウマのほかにコマという語があり、狛、高麗もコマと読み、
百済の前身は馬韓という、何か馬に関係する種族がいたことの暗示かも知れませんね。

 またコマはクマという語から来ているとするとクマナリやクマソもコマを指す
のかも知れない(ここまで来ると飛躍しすぎ)。

992日本@名無史さん:2006/07/07(金) 05:08:08
次スレ

【江上】騎馬民族説は今。。。vol.7【波夫】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1152216234/
993日本@名無史さん:2006/07/07(金) 05:32:56
>>987
縄文語こそが、現代日本語の基礎となっているという考え方があるが、
縄文語も、高句麗語の影響を受けたということなのだろうか?
と、適当な突込みを入れてみる。
994日本@名無史さん:2006/07/07(金) 08:00:49
>>991
むしろ逆。クマナリに現れる南鮮の地名コマで、そのはるかに背後にある
高句麗を表した。これは加羅を意味するカラで唐を表すのと同工異曲。
そのコマが、同じ意味の高麗、狛の訓になった。
995日本@名無史さん:2006/07/07(金) 09:31:00
唐=カラ
韓=カラ
加羅=カラ

「カラ」だらけで、わけがわからん。
996日本@名無史さん:2006/07/07(金) 11:29:22
>>994 クマナリに現れる南鮮の地名コマ・・・これはウマの駒と関係が
あるのだろうか、単なる同音異義語だろうか?

 「馬」韓とコマは偶然の一致なのかどうか。
997日本@名無史さん:2006/07/07(金) 12:04:01
石川県にコマツがあり、後背地には白山神社(高句麗聖山白頭山)、キクリ姫
(高句麗姫)をまつる。大阪には西成、東成といってナリでもって港を表す。
熊ナリも同様、高句麗との窓口の港の意味であったのであろう。高句麗とか、狛
には馬よりも犬の意味が強いようであり、多分、犬を上手に使う民族であり、日本にも
相当の移住者があったのであろう。コグレなどという苗字も多い。ただ現在朝鮮とは
あまり縁はないのではなかろうか。
998日本@名無史さん:2006/07/07(金) 12:12:22
馬韓、辰韓は干支による方角的にあっている。辰韓と言うのは太陽信仰などと関係が
あるのかも。月氏を中心とする他民族集団であり、後の百済崩壊の際には多数の
月氏が日本に亡命を求めている。
999日本@名無史さん:2006/07/07(金) 12:52:28
高句麗とは犬戎、羌、匈奴などと肩を並べる超古代国家であり、紀元前1046年、
周武王が商を滅ぼすと、高夷氏は周朝の東方に本拠を置き、周朝の属国として
高句りと称した。後の東北の高句麗である。問題は現在の羌族のハプログループ
がD型であり、日本の(遺伝学者が縄文とする)山地に多いタイプである。
1000日本@名無史さん:2006/07/07(金) 13:01:42
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