1 :
日本@名無史さん:
導尿カテーテル2げと
新スレに水をさすようだが
なんか、後北条氏を研究してる学者って
過剰に「北条の夢」とやらに思い入れてる人が多くて
ちょっと嫌なんだよね。
「関八州に理想の国をつくろうとした」とかさ。
なんぼ奇麗事言ったって、相模以外の関東地方人から見りゃ
北条は侵略者以外の何者でもないよ。
4 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 00:59:01
自分の先祖は北条家臣で、今でも神奈川に住み先祖伝来の地に
住まわっているんで、物心ついた頃から北条ファン(?)。
秀吉憎さで今までやってきました。w
確かに「北条の夢」思想はちょっと・・・そう云う気もするけど、
何やかや言っても内政と家臣制御に長け、軍事のバランスも良かった
のは明らか。
当主が歴代優れていたせいも有るとは思うが、有力な勢力の無かった
関八州に勢力を扶植して行ったのは当然じゃなく必然だったと思う。
逆に本来の在地勢力であった、千葉氏や上杉氏などの混乱をうまく利用して
勢力拡大をしていったとも言えるのかな?
5 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 01:18:04
誰も語れません
終了
6 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 03:12:28
┌─────┐
| ,,,,,,,,,,,, | 小田原評定では新スレ建立の決議が
| [l,,,,▲,l] | 満場一致で採択されました。
| (__・∀・) |
|/´~ V:V~ヽ.|
└─────┘
,,,,,,,,, ,,,,,,,,,,,
[|,,,▲,,|] [|,,▲,,|] ,,,,,,,,,,,
( ・∀・) ( ゚Д゚,,) [|,,▲,,,,,|]
,,,,i^i ̄(iノ '^:^') /~^:^~ヽ (∀` __)\
[|,,,,▲,,|] | ,l/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\l:`´ [|,,▲,,,,,|]
/(, ・∀) _/ \ (∀` __)\
[|,,,,▲,,|] `´:l/ \l:`´ [|,,▲,,,,,|]
,/(, ・∀) ,/ \ (∀` __)\
[|,,,,▲,,|] `´:l/ \l:`´ [|,,▲,,,,,|]
,/(, ・∀)⌒/ \ (∀` __)\
i^i ( `´:l/ \l:`´ ~,) i^i
| | ( ⌒ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |⌒ ,),,| |
| | ̄ ̄(__|
>>3 太田道灌
足利義明
が、生き残ってた方が関東にとっては幸せ。
>>7
例えば、どういう点で幸せなんですかぁー?
>>3 天下布武、風林火山、百万一心とか、そういうスローガンみたいでいいじゃんw
理想の国云々ははともかく、税の簡素化や納税のガラス張りなど善政を布きつつ、
関東を強力に志向していたのは事実だしね、何より分かり易くて良い。
首尾一貫している関東の統一。その割には氏政が甲斐・信濃に手を出したのは解せない。
西が混乱している隙に関東を統一しようと考えても良さそうなものだが。
甲斐に関しては関東府管轄国だから是が非でも欲しかったと見る。
信濃は、上杉に押さえられる前に押さえておいて、上野・甲斐の安全保障の担保にするくらいだと思うが。
むしろ、武田がチョッカイを出してくるのを防ぐための牽制では?
信濃からヘタレ管領の上野を度々侵犯してた(というか真田氏の
応援?)し。
小田原の役の結末?
ああ、家康が関東入りして北条の政治を継承、
日本の中枢にしたって事か。
関東にとっては幸せな事じゃないか。
おかげで関東の武士は帰農したり浪人せざるをえなかったがな(w
帰農したといっても、関東の豪農は下手な武士よりも裕福だがな
関東の豪農=武士
結局、本社がアボーンしちゃっても半自営業だから問題なかったわけだ。
うちの先祖なんかもそうだけど。
初期の豪農も江戸時代の荒波に揉まれて、没落していったりが多かった。
特に平野部は土地集積した新興百姓が、のし上がって来たりするから。
関東じゃないけど、酒田の本間家はそういう類の家。
もちろん、幕末以降まで勢力を保ってた家も北関東とか多いが。
馬鹿な親族とか時代の流れでだいぶ土地を失ったけど、それでも親族全体を
合わせたら相当な面積になるなぁ。
東京の上野だか日暮里だかで牧場やってた人もいたらしい。
まぁ、枝葉のさらに枝葉だから関係ないんだけどね。
20 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:38:45
日暮里や上野で牧場を・・・・すごいなあ
即死回避あげ
21 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:50:21
小田原城主の大森氏頼って知ってるかな?
22 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 19:36:18
>21ここに来る人は皆さん知ってるだろ
23 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 20:19:19
北条氏が独立するまでは伊豆、相模は今川の分国と考えて良いのでつか?
基本的な質問で済まんが
早雲は別に北条を名乗ってはいなかったよね?
どういう由来でいつから北条を名乗るようになったの?
25 :
21:2006/05/24(水) 21:18:14
我が家は大森氏頼の子孫って言われてる。
最近になってこの武将について知って
北条早雲に騙されて小田原城を追い出された事を知って
物凄く憤慨している。
しかもくだらない嘘みたいな作戦で城の中に入られて追い出された。
そりゃ大森が悪いわな
大森が山内方に寝返ったのが悪い
大森の暴虐非道な悪政で塗炭の苦しみに苛まれていた民の怨嗟の声を聴き
ついに立ち上がる決心をした正義のヒーロー早雲寺殿が極悪人大森を追放した
29 :
21:2006/05/24(水) 22:56:36
ほえー。
そうだったんだ。ありがとう。勉強不足でした。
北条の家臣で大森いるよね。
小田原市史で読んだ記憶が・・・。
北条家が豊臣政権に臣従する徳川外交路線
豊臣秀吉が小田原を征伐する上杉外交路線(石田・佐竹・宇都宮・結城らが支持)
北条家の名胡桃城攻略で結論が出てしまいましたが
この辺の外交折衝をひっそり語っていきませんか?
名胡桃直前では、北条に有利な条件で落ち着いている。
徳川家康の働きかけは大きかったと思うが千利休とかも働きかけとかしていたのかな?
山上宗二が小田原にいたからパイプはあるよね
名胡桃の一件が無ければ上杉外交は敗北していたと思うのだが
或いは、名胡桃は上杉側が起死回生の為に仕掛けた、
(挑発したり軍備を整えたりして北条側を釣りだした)謀略の類だったりしてな。
とか与太話を切り出してみる。
上杉や佐竹は勿論、石田、大谷、真田が組んでいてもおかしくはないですね。
名胡桃事件後すぐに羽柴秀長が病魔に襲われたことも影響ありかな?
徳川と縁戚関係がある北条は豊臣政権では邪魔にしかならなかったんでしょうね。
それは千利休や徳川家康に対しても同じ。
小田原征伐後、徳川家康には旧北条領に転封、千利休には切腹を命令。
徳川派は大打撃を受けてしまったかな?
徳川派といえば、伊達政宗の減封も。
まあ、徳川−北条−伊達の三者連合は400万石を越えるからな・・・。
それに長曾我部や信雄が加われば、政権運営どころじゃないね・。
ああ、400万じゃないな、三人で500万越え。
1万石300人として、15万動員可能な派閥か。
北条の外交は明らかに強硬派と和睦派に分裂してたよねぇ
事件から半月程度の内に動員開始して伊達との音信とっておいて、交渉しても受け入れられるわけない
挑発も同然だったんだからもう
そいえば織田信雄も小田原征伐後に所領没収の憂き目にあっていたな
徳川家康は豊臣政権内の穏健派をまとめて大名連合構想を目指していたが
石田三成が考える豊臣家の中央集権構想と対立したんだろうな
大名連合構想の仮メンバー
羽柴秀長、徳川家康、織田信雄、北条氏直、伊達政宗、長曾我部元親、千利休かな?
41 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 16:52:30
守護代(家)に殺された守護(家)ってそんなにいるか?
長尾為景→上杉顕定
上杉景勝→上杉憲政
追放
斎藤道三→土岐氏
織田信長→斯波氏
陶晴賢→大内義隆
44 :
日本@名無しさん:2006/05/30(火) 14:39:06
さぶろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ〜〜〜〜〜〜っ!!!
以上、北条氏照の雄叫びでした。
45 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 15:11:51
藤田信吉ひいきな漏れは北条アンチ
太田三楽斎好きなおれは、後北条も大好き。
つか関東武士は軒並み好きだな。
>>46 オイラも同じ意見
別に派手な逸話があるわけでもないが平凡なオイラとしては関東の武士に好感が持てる
大石源三
坂東武士こそ真の武士ぞ!
東えびすの謗りもなんのその!!
ちうか、土豪クラスのマイナー武将が面白い。
しかし織田→豊臣の間に上方で確立した検地による土地把握を基盤とした大動員体制にはかなわなかったんだな
51 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 05:43:23
聚楽第行幸の時に親子で上洛してれば生き残れたでしょ
本当に九州まで平定した秀吉相手にどうにかなると思っていたの
元は今川の客将であった事を考えればそれだけでも儲けモンだと思うけど
早雲はこれぞ戦国武将って感じで好きだ
それこそ、天下様とはいえ氏素性の怪しげなことでは日本一の下克上男に
頭下げるのが素直にイヤだったんだろ。
53 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 12:34:26
>>51 >早雲はこれぞ戦国武将って感じで好きだ
実際には京都の幕府と今川のいうとおりに動いていただけじゃん。
54 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 13:34:40
>>53 幕府の思惑と早雲の思惑が一致しただけだろう
幕府の言う通りに動いたというには厳しいな
今川は早雲の後見を受けて当主が家督を継いだからな
伊豆乱入、というよりは茶々丸討伐は幕府の意向だと思うぞ。
意向を受けていたとしても、実際の行動を策定し実施したことは別に霞まないだろう
意志をほのめかすのとそれを実現する事の間には大きな落差があるんだから
伊豆や相模に幕府や今川家が関与する施策が無い以上
早雲が幕府の意向を利用したと考えた方がいいだろう
>>24 亀レスですまんが北条を名乗ったのは氏綱の時だ(周知と思うけど)
今単身赴任先なんで、ソースが手元に無いので元号をはっきり
書けないが、大永年間で春から夏に掛けての間で伊勢→北条と
変えているらしい。
箱根権現棟札と寒川神社棟札の大檀那の記名が相州太守伊勢から北条と
数ヶ月の間で変わっているのが初見との事。
うろ覚えですまん。
北条と名乗った理由は@統治の為執権北条氏の後継者を自認A伊豆に居た北条氏
の子孫の女性を娶り、等諸説あり。
どなたか補強宜しくお願いします。
>>21 駿河の葛山氏や武田氏に仕えた御宿氏も大森の
一族だろ?
葛山氏時って本当に北条家から養子に入ったんだろうか?
話は変わるけど俺の家の近くに大森氏頼開基のお寺があるよ。
隠居屋敷を寺にしたって言われてる。
裏山には簡単な砦跡らしきものも発見されてる。
60 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 23:16:36
>>57 >伊豆や相模に幕府や今川家が関与する施策が無い以上
そう断言できる根拠は?
61 :
24:2006/06/01(木) 00:14:45
63 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 07:16:56
54に禿同
幕府(大義名分)や今川の力を利用して勢力を伸ばしたのでは
64 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 11:33:51
後北条氏は戦国末まで京都にいる幕府重臣の伊勢本家とも親戚付き合いを続けている。
後北条氏が室町幕府体制からの独立を指向していたなんてのは誤り。
65 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 12:21:34
後奈良天皇の即位式に費用を献上してるしな。
朝廷でも声を掛けたが応じたのは毛利と武田、それに北條氏
だけだったらしい。結構勤皇でもあると思った。
幕府系の家臣は、伊勢の他に大草、大和、はが(変換できない)氏
辺り?
66 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 12:42:49
伊勢宗瑞の伊豆侵攻だって、幕府と古河公方の双方が承認した上で、両方の意を
受けて行われたというのがもはや常識だしな。
これは宗瑞に伊豆に侵攻されて困るのは、茶々丸(将軍義澄の母や弟を殺害)と、
伊豆守護の上杉<山内>顕定(古河公方成氏と仲が悪い)だからね。
伊豆平定も北条五代記書くようにすんなりは行かなかったんだろ?
実際は。
>>65 石巻氏も奉公衆出身と聞いたが?
つ垪和伊予守氏続
「氏」を許されてるのは玉縄北条氏以外じゃ
珍しいな。
太田氏資
成田氏長
上杉氏憲(深谷)
平山氏重
吉良氏朝
平山って氏もらうほどの一族だったの?
他のはもらえる理由は分かるが。
73 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 00:27:11
後北条の「氏」は古河公方の偏諱って本当?
伊勢氏綱は、今川氏親からの偏諱だろうな。
75 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 12:16:41
氏親の「氏」は古河公方から?
何故そこまで古河公方にこだわるんだ
北条を名乗ったのは氏綱以降なのに「北条早雲」とか呼び始めたのっていつから?
しかも盛時でも宗瑞でもなく早雲。
早雲寺殿天岳宗瑞
出家号が早雲庵宗瑞だから
で、なぜ北条早雲と呼ばれたかは不明だが、『朝倉宗滴話記』の中に
「…但 伊豆之相雲は…」と宗滴が連歌師の柴屋軒宗長から聞いた話に、
早雲として登場している事から、当時から宗瑞より早雲と呼ばれてたと思われる
80 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 02:48:30
北川殿って伊勢宗瑞の姉妹なんですよね?
なんか系図類とかだと、今川氏親について「母備中守盛時女」などとなってたりするのを見たこともあるのですが。
そう。
ただし宗瑞の年齢説によって、姉説・妹説が別れる。
あと従姉妹(京都伊勢氏の出)という説もあったような気がするが、
ともかく近親者には間違いない。
昔、松代の真田博物館に行ったら「地黄八幡」の実物が
展示して有って驚いた・・・てーか感動したことがある。
やけに奇麗だったけど本物だったのかな?
姉でも妹でも萌えればいいジャマイカw
84 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 12:42:23
85 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:29:36
北条氏規についてですが、地味ながら評価は高い人物だと思います。
氏規は、北条五代の3代目である北条氏康の四男です。
氏康には、目ぼしいトコロで男児が7人程います。(諸説有り)
五男・氏忠(佐野氏忠※佐野宗綱の養子)
六男・氏堯
七男・氏秀(上杉影虎※上杉謙信の養子)
の3人は、養子で他家や支城の城主となっていた為に主だった戦歴や活躍は見られない。
七男の氏秀は、謙信に可愛がられて上杉景勝の姉(妹とも)を婿にして上杉一門に列している。
謙信亡き後に景勝との跡目争いの御館の乱で討ち死にして名が知られている。
末弟の3人は以上のとおりだが、長男・氏政、次男・氏照、三男・氏邦、四男・氏規は、初代・早雲から続く勇将の血を引いた武将だった。
氏政の代を支えた4兄弟と言っていい。
86 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:32:00
北条氏政
長男・氏政は、4代目当主として領土拡大と北条家悲願である関東制覇を着々と進めた人物である。
確かに先見の明に欠け、北条家の力を過信して豊臣秀吉の対応を誤り滅亡へと傾けてしまったが、一地方大領主としては有望だったと思われる。
残念ながら、早雲・氏綱・氏康の比べると落ちるのは否めないが、戦国時代に安定した領土拡大で繁栄した4代がいたかを考えれば優秀だったと言ってもいいはずだ。
(ただ、天下を望める雄ではなかった)小田原の役で秀吉に降伏して切腹。
87 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:32:53
2、北条氏照
次男・氏照は、一時、大石定久の養子となり大石源三と名乗っていた。
北条家の役割としては、北関東への進出を担当して領土拡大を図り活躍した武将で、兄・氏政の片腕だった。
残念ながら、有力武将としては優秀だったものの、兄同様に政情判断を誤り小田原の役後に切腹した。
88 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:36:59
3、北条氏邦
三男・氏邦は、一時、藤田康邦の養子となり藤田新太郎氏邦と名乗っていた。
北条家の役割としては、上杉方との交渉責任者と上野侵攻を担当し活躍した。
小田原の役では、要所である鉢形城を守り豊臣方に抵抗したが、前田利家に説得され降伏する。
後は、これが縁となり、利家の客人(与力)として前田家の世話になった。
89 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:38:41
4、北条氏規
四男・氏規は、他兄弟とは少し異なる武将だ。
幼きときに、今川・武田・北条の三国同盟により、今川方へ人質へ出されている。
このときに同じく松平家から人質に出された徳川家康と知り合い幼馴染になっている。
こういう生活で北条兄弟の中では外への見聞経験があるだけに、北条家の外交担当として活躍した。
主に上杉謙信・武田勝頼・伊達輝宗&政宗父子・芦名盛氏などへの同盟などを成功させた。
5代目・氏直時代には豊臣方との交渉担当だった。
氏規は早くから豊臣秀吉の力を冷静に判断し、北条家では珍しく敵対には反対で臣従を進言したが認められなかった。
小田原の役では、韮山城にて豊臣方に抵抗し約3ヶ月の間、豊臣方の大軍を足止めして武勇を発揮した。
昔馴染みの徳川家康の説得により、降伏ではなく小田原城への撤退で城を明け渡し小田原城での決戦の為に戻るが…
既に小田原評定と秀吉の工作により、北条家は戦意喪失で開城降伏してしまっていた。
このとき氏規は大変悔しがったという。
小田原の役後には、5代目当主・氏直父子と共に高野山へ入るが、氏直の死去や秀吉と馴染みだったコトもあり、所領をもらい子孫は徳川政権下で狭山藩として明治に至る。
90 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:39:12
このように、氏政・氏照・氏邦が侵攻・統治に力を発揮したのに比べ、氏規は戦だけでなく外交・統治にも力があったと思われる。
残念ながら活躍する機会は、短かったものの北条家を残した功績等も含め、一番兄弟の中では戦国大名に適していたかもしれない。
長くなりスンマセン!
91 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:43:11
ご説明ありがとうございま。m(_ _)m
私は個人的に北条氏政も含め北条兄弟がさほど優秀とは思いません。
確かに戦国時代に4代に渡り主家を繁栄させた武将はそうはいないし、偉大な父や祖先を持った男の悲しい性とでもいうのか?
特に父氏康が優将と名高いだけに、残念ながら歴史的にどうしても評価は下がってしまいます。
確かに上杉、武田、佐竹、里見、等の有力大名と対等に戦い領土拡大させた評価はしますが、
各々でかなりショボイと思われる判断があります。
特に僕は氏康のファンなので尚更そう思ってしまうんですよね〜(笑)
92 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:44:09
実は、オレも北条五代では…北条氏康が一番好きです!(笑)
統治よし、攻めてよし、守ることもよし、策略等の駆け引きよしとケッコー好きです!
ただ、賢すぎて強い相手と正面から戦ったコトもない。
上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・織田信長・徳川家康は、一度以上は強い相手や大きな相手と対峙してるのですが…氏康はリスクが大きい戦いは、ホトンドしない。
川越の夜襲くらいなものです。しかも相手の上杉勢は多数でも強くはなかった。
氏康が、強い相手と戦場で正面から戦っていたらどうなっていたかと考えてしまう。まぁ〜たらればになってしまうので、意味ないのですがネ(笑)
93 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:45:14
氏康の時代より氏政の時代の方が遥かに領地を増やしているのに
なんで氏政は評価が低いのだろう?
たしかに「名将言行録」には、氏政が飯を食べてるときに氏康が
「お前の飯の食べ方を見ていると、当主としての器量があるかどうか
心配になる」よ〜なことを言ったと書いてあるが、
これは与太話であり、真実性に乏しい。
やはり時代の流れを読めずに最後まで秀吉に抵抗して、
北条氏を滅亡させたことが影響してるのだろうか?
それとも他にも理由があるのかな?
94 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 21:46:20
確かに氏康は強い敵と真正面から戦った事はないけど、
戦略としてはかなり有効だと思います。
上杉が攻めては退き、退いては攻める、
そうやって実際領土を確実に拡大していきましたし。
戦で1度も背を見せたことのない「氏康傷」の名前もあるように、決して臆病で戦わなかったのではなく、
確実に領土を拡大する意味では、これ以上の戦略は無いと思います。
確かに家の存亡を賭けた一代決戦は戦国時代の魅力ですが、
個人的には一番確実な戦略だと思います。
氏康は謙信に野戦で唯一土をつけた男だぞ
小田原篭城作戦⇒攻めあぐねた敵を追撃、という手を使ったのは2回だけ
別に避けてないだろう
むしろ、四兄弟で一人前(w
しかし、混沌の坩堝と化していた関東を切り取って版図を広げられたってのは
やっぱり優秀なんだろうな。
関係ないが、信長の野望シリーズで横瀬成繁・由良国繁の能力が不当に低い
のが気に入らん。一応、先祖筋だし。
98 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 01:54:40
由良氏って主家を乗っ取った自称「新田嫡流」なんでしょ?
明治維新後、南朝の遺臣を華族に取り立てた際に、岩松氏が華族になれたのに
由良氏は却下された理由は、明治政府も由良氏の系図にかなり疑念を
持っていたかららしいね。
99 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 02:18:09
氏政・氏直は潰れた時の当主だから評価が低い
実際先代達に比べて特別劣るところはない
対豊臣では誰が当主でも同じ結末になっただろう
相手が悪すぎただけ
空気読んですなおに降伏してりゃ、五大老の一角にはなれただろうに
まあ氏直は豊臣には逆らいたくなかったようだが
101 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 02:38:21
さすがに北条の領国安堵はないんじゃないか?
どのみち難癖つけられて大減封受けるしかないかと
秀吉の直轄地より大きいしw
103 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 15:06:11
>>99 今川義元が評価低いのと似たようなものかと。
実際には今川の全盛期を築いたのは義元なのに、評価は氏親>義元っぽいし。
>>93 勝頼と一緒だろ。
信玄より、領土を広げているのに、
評価は信玄より低い。
105 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 15:48:30
>>103 その義元だが合戦で勝った試しがあるのかよw
せいぜい吉良氏を討ったときくらいだろ
106 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:00:37
107 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 13:59:05
早雲が切り取った領土位は安堵してもらえなかっただろうか?
小田原征伐はもう少し粘れば伊豆・相模・武蔵安堵されるはずだったのでは?
109 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 21:22:29
幕末の長州藩士・北条瀬兵衛は、北条就之とひめぢ(氏忠娘)の子孫なのか?
110 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 22:16:17
>>107 服従してた佐竹・上杉はもちろん、一旦は敵対した長曽我部や島津も
本領は安堵されたんだもの。
うまく立ち回ってれば、少なくとも豆相二国、または+武蔵くらいは
安堵されたんじゃないか?
安堵というか、秀吉が降伏条件として
>>108に書いてある条件出す予定だったから。
112 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 23:49:13
安堵しても北条領を分轄して4兄弟を別々の大名として扱いそうな感じ。
あと武蔵は一国全てが北条領に残されるのは難しいんじゃないかな。
相模も鎌倉周辺は秀吉の直轄領にされそう。
113 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 07:31:19
三国合わせて60〜70万石くらいか?
秀吉は家康か景勝のどちらかを関東に転封させたかったのでは?
115 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 12:23:23
秀吉はフカシが多いからなあ
117 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 19:01:34
秀吉は調子のいい性格だから言っていることはコロコロ変わる
小田原征伐の時に富田月山攻防戦(大内vs尼子)のような策略が欲しかったよな
戦略的に優位なら逆手に取られる可能性がある謀略より正攻法が良い
ほとんど天下統一完遂の政治的パフォーマンスに終始するほど余裕だったわけで
余裕があるとかの話なら大内も余裕がありそう。
大内は戦に失敗して無気力になった当主が謀反でアボンだから
余裕があると見えても内実は…
豊臣の内実もあまりいいとは言えないような気がする
弟の秀長は病に倒れているし利休は秀吉との確執がありそう
佐々は処理したけどまだ家康や信雄といった胡散臭い奴等もいるし
そこで氏直は正面突破を試みたのか
正面突破ならかっこよかったが引篭もってしまったからな。
125 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 02:42:27
その北条氏康さえ怖れさせた武田信玄公が率いる武田騎馬隊が最強。
126 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 03:48:02
>>125 武田の騎馬隊は江戸時代にできた講談。
創作話だよ。
引き篭もりたくて引き篭もったわけじゃないだろう
支城で敵兵力を分散させつつ本城を攻めあぐねた相手を追撃、というパターンを成功させられなかったからそう見えるだけで
松井田城を守ってた大道寺がヘタレだったせい。
ちうか、関東全域なんて守りきれるはずがないのに、愚かだったな。
>>128 大道寺は奮戦していた方だと思うよ
前田利家や上杉景勝相手に後詰が無いのに四月二十二日まで持ちこたえたんだからな
まあ降伏後は弁護する気にもならないが
追記
他にも北条氏規や北条氏邦をはじめ支城を担当していた人たちの奮戦ぶりには敬意を払いたいね
同意。
大道寺政繁は粘った方だよ。
>>128 そうか?
山中と松井田で粘れていれば、あそこまで一方的な展開にはならなかったろう。
あと、相手が悪かった。
兵站重視型の秀吉は考えつく限り、北条にとっては最も相性の悪い相手。
>>125 >三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
>関東衆馬上の功者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
騎馬武者記述が関東衆小幡一党だけの件。
ttp://www2.ttcn.ne.jp/~history/collaborate/nagashino/07.htm 一番、山県三郎兵衛、推太鼓を打つて懸り来り供鉄炮を以て散々に打立てられ引退
二番に正用軒、入替、かゝればのき、退ば引付、御下知のごとく鉄炮にて過半人数うたれては其時引入るなり。
三番に西上野小幡一党、赤武者にて入替り懸り来る。
関東衆馬上の功者にて、是又馬入るべき行にて、推太鼓を打つて懸り来る。
人数を備へ候身がくしをして、鉄炮にて待請けうたせられ候へば、過半打倒され無人になつて引退く。
四番に典厩一党黒武者にて懸り来り候。
かくのごとく、御敵入替へ侯へども、御人数一首も御出しなく、鉄炮ばかりを相加へ、
足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ引入るなり。
五番に馬場美濃守、推太鼓推にてかゝり来り、人数を備へ、右同前に勢衆うたれ引退く。
>>132 どこにも騎馬だけなんて書いてないじゃん
当時の軍役から考えると、騎馬何人・槍何人・旗何人…と引き連れてくるわけだから
騎馬だけの編制があったとするのなら日本の軍事史がひっくりかえるw
>>133 騎馬だけなんて『信長公記』太田牛一は書いてない件。
>関東衆馬上の巧者にて
>是又馬入るべき行にて
>推太鼓を打つて懸り来る
135 :
132:2006/06/08(木) 20:54:35
>>133 騎馬だけなんて書いてない。
騎馬武者記述と書いたんだが。
>>131 最大の失点は山中落城があまりに早すぎたことだな。
北条の戦略は、東海道方面の敵主力を箱根で足止めしている間に、
中山道から下ってくる北国勢を各支城で消耗させて、攻勢限界に
達したところを小田原城に温存した予備兵力で叩く。
しかし箱根をああも簡単に突破されると、戦略の根本から覆されて
しまうわけで。
そういう問題じゃねえべ
末期の太平洋戦争思い浮かべればわかりやすいと思うが、
戦術でひっくり返せるようなレベルじゃない
>>138 それは間違っている。
仮に北国別働隊を小田原城に温存した予備兵力で叩いたとしても豊臣本隊は叩けまい。
>>139氏が書いているように戦術でひっくり返せるようなレベルじゃない。
北条家の戦術はできるだけ長く籠城し時間を稼ぐ。
豊臣軍の兵糧がそのうち底を尽くので、士気が乱れ大軍の維持が困難になる。
徳川軍・織田軍が豊臣軍から離反し、伊達家は援軍を派遣する。(妄想)
そしたら和議に持ち込み北条家・徳川家・織田家・伊達家と豊臣家の対等和睦を結ぶ。
これが基本じゃないのか?
名胡桃城を攻めるって展望があって喧嘩売ったわけじゃなくて
明らかに豊臣の東国介入の意思を舐めてた機会主義の産物だからな
なし崩しというのも
上野の西牧は多米家が城代だお♪
飛び地だお♪
小幡は南牧じゃなかったけか?
お馬さんはイパーイいるお♪
143 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 06:58:48
後詰めの期待出来ない篭城戦は無謀では
機を見るに敏な徳川が離反する訳ないよ
したたかな伊達が後詰めに来るわけないじゃん
144 :
138:2006/06/10(土) 11:20:04
>>140 北条家が考えたのは、上方勢に合戦で勝つということよりも
いかにして、上方勢を分裂させるかだった思う。
あなたのレスの(妄想)以下の部分をより積極的に実現
させるために、敵の支隊を潰走させるという軍事パフォーマンス
で上方勢に動揺を与えるつもりだったと思うんですよ。
北条家の戦力配置や、野戦指揮官のトップたる氏照が小田原に
入っていたことを考えると、単純に篭城のみでやり過ごすつもりは
なかったんじゃないかと。
ただし
>>139のいうように大きな視点からみれば、開戦しないこと
がベストであったことは否定のしようがないですけど。
このあたり、戦国にどっぷり浸かった北条家の限界を思うと同時に、
次代を担うはずであった氏直の英邁さを妄想していしまいますね。
>>144 敵の支隊を潰走させるという軍事パフォーマンス
これを本気で狙うなら野戦指揮官のトップたる氏照が小田原にいる必要は無いような気がする
むしろ八王子城でもどこでもいいのでより近い拠点で情報収集を行いそこから出撃した方がいいよ
そこで信濃や甲斐から侵攻してきた敵の支隊に対して遊撃すべきでしょう
野戦指揮官のトップたる氏照が小田原に入ったのは和平派を押さえ込むためだけのような気がする
146 :
144:2006/06/10(土) 12:32:11
北国勢により近い拠点には、まず氏邦がいるでしょ。
前線の情報収集などは、彼を中心にした上野勢が担当するのが順当。
138で書いたように前線の各支城で、敵戦力を拘束・漸減させながら
領内の奥地に誘い込む。小田原に近づき攻勢限界に達した所を、
氏照率いる数万の機動兵力でもって叩くのが分かりやすいような
気がするが。
開戦決定時点で和平派はおさえこまれている。実際、小田原城内での
謀反や和平の動きに対して、氏照の動きは見られない。この辺りは
むしろ氏政の役目かと思う。
本来軍を率いて出陣するために小田原にきた氏照が、思いに反して早々
に上方勢に取り囲まれてしまい、ただ陣地の守備のみを黙々とこなして
いたのいうのが、小田原入城後の氏照について、何の話もでてこない
理由のような気がする。
>>146 北国勢により近い拠点には、まず氏邦がいるでしょ。
氏邦は松井田城の後詰に行ってないと思う
正直言って氏邦の軍勢だけでは無理だと思うよ(基本は鉢形城で籠城だし)
それに領内の奥地に誘い込むなら松井田城で粘るのは得策ではないな
氏照率いる数万の機動兵力でもって叩く
それこそ氏邦と共同戦線と思うのだが
まあ氏照と氏邦にその意思があったとも思えんが
小田原城内での謀反や和平の動きに対して氏照の動きは見られない。
氏政の動きも見られないよ
そもそもたいした動きは誰もしていないしな
やはり氏照が小田原城にいる必要性はないよ
>>147 悪い、引用にはアンカーをつけたり、
要点を纏めてから書くなり、少しは読み手を配慮してくれ。
二人だけで議論していれば差し支えないだろうけど、第三者はわかりにくいから。
>やはり氏照が小田原城にいる必要性はないよ
いや、そうとも言い切れまい。
北条の腹づもりとしては、山中や松井田を始めとする支城群で支えつつ、反転攻勢なのは疑いない。
小田原があそこまで即座に包囲されなければ、あの兵力を活用できる人材が必要。
また何もしていないから必要ない訳ではないよ、
目に見えない働きも考慮に入れた方が良い。
>>148 >少しは読み手を配慮してくれ。
スマソ
>北条の腹づもりとしては、山中や松井田を始めとする支城群で支えつつ、反転攻勢なのは疑いない。
箱根峠方面と碓井峠方面の両面作戦なら北条側は早急にどちらか一方を確実に仕留めるべきだと思う
ましてや北関東の諸勢力の軍勢も考慮したら完全な包囲戦なので各個撃破していかないといけない
そうなると北国支隊だけを領内深くに誘い込んでから反転攻勢する作戦は時間かけすぎ
あと小田原と松井田の距離では情報伝達も行軍日程も時間がかかると思う
八王子城じゃ駄目な理由を教えてくれ
みんな、背後の佐竹・結城連合とか上野の隙を伺っている土豪の存在を忘れてる
んジャマイカ?
>>149はこれは駄目だ何だ言ってるだけでしょ?
史実で取った行動と取ってない行動にはそれぞれ理由があるんで、それを探るのが史学なんで
駄目だ何だといってる時点でおかしい
だから質問も何もないの
史実の動きから状況や情勢を探るのが史学で、
何をどう知ってるかもわからない
>>149が何をもって史実の行動を否定して、
こうすればああすればと語っても、否定も肯定も何も答えようがないんだよ
こういうIFは史実を全て把握してる人にしか出来ない行為だから
諸将の信頼関係や相性、諸城や各地の動員事情など把握して、
初めて語れる事だし
机上の空論で語り合っても結論も何もだせないから
宇都宮の博物館で、八王子城出土の
ベネチアンガラスの花瓶(?)の展示をしているそうだ。
今日からどうすれば北条家が豊臣政権に勝てるのかを
小田原評定するスレになりますた。
漏れ的には、風魔一族にがんがっていただきたい。
なぜかうちの近所に風間という苗字の人が多い・・・
そもそも豊臣と敵対する必然性がないのに戦争しちゃったのが…
九州すら豊臣に屈した情勢では開戦しても展望が無い
沼田がそれほどのリスクを犯してまで取らないといけない土地か?
上杉派の陰謀説に一票
あのまま北条が豊臣政権に下っていたら、徳川派の東国への影響力で劣ってしまう。
起死回生の一打。
>>154 言っていることは立派だが
>>149の人だけを否定している時点で公平さに欠けているよ。
ここでは全てが机上の空論で語り合っているのをお忘れなく。
>>152で言う史学を本気で学びたければ学校に進学するべきだよ。
>>154の人も北条のことを語らず文句ばかり言っている時点で説得力に欠けている。
北条を語ってマターリ行こうぜ。
「関八州古戦録」なんかだと、最初の評定の大勢は駿河への全力出撃策に傾いてたそうだ
豊臣勢が揃わないうちに戦略的な厚みが無く防衛は地形頼みの箱根で防ぐよりは・・・と
でもこれはかなり博打だよな、他方面での積極行動を放棄するわけだから
163 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 16:18:33
>>161 その策も悪くは無いけど勝ち戦にするには厳しいよな。
関八州古戦録の創作話だから。
ギリギリまで家康へ秀吉との仲介交渉してた北条が駿河進撃したら、
秀吉との和睦を取り持ってくれる相手がいなくなるしな。
165 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 17:33:58
豊臣軍は上杉や武田とは全く質が違う軍隊
物量は言うまでもないが、質でも両者より遥かに上
信長以来の兵站重視システムを長束正家を奉行とする近江衆からなる直臣団に統括させ、言質調達という戦国の軍隊が手間を一番取られる仕事から前線を解放した
陣立書のような統制方も用いているから万単位の軍勢でも比較的円滑に機動できる
北条の計算はあくまでも旧来の軍隊を元にしたモノだから、相手の限界について読み違うのも必然
北条にどんな天才軍師が付いていようと、
降伏する以外道はなかったと考えるのが当たり前
167 :
日本@名無史さん:2006/06/12(月) 08:37:24
氏政が早死にしていたら、和平派が主流となってたとか・・・
168 :
日本@名無史さん:2006/06/12(月) 10:08:33
早いうちに水軍を持って
長曽我部や島津と同盟してりゃ良かった。キリシタンを何匹か連れて来てかくまっておけばよかった。
海岸を、守りの為には要害として使うが自ら海に回る発想がない。
北条は水軍を持ってたよ。
それよりなにより、多賀谷が水軍を持っていたのは興味深かった。
170 :
日本@名無史さん:2006/06/12(月) 11:34:00
史実どおり各個撃破されるのがオチだべ。
例え島津・長曽我部と同盟して豊臣と対立しても、
侵攻先はいきなり同盟国の徳川だべ。
それに、里見水軍相手に自分家の庭である東京湾の制海権も取れないのに、
早いうちに外洋に出れる水軍持つなんて無理だべ。
なんとなく坂東の気風として、
上方勢に対する侮りみたいなものがあったような妄想はするけどね。
空気の研究みたいな話になるけどさ
172 :
日本@名無史さん:2006/06/12(月) 12:24:22
北条はかなり水軍の整備に頑張ってる。
わざわざ紀伊から梶原氏を招聘して、大型船の建造に力を入れている。
しかし、ハードウェアを整備してもソフトウェア(航海術など)が揃わないと、海軍は力を発揮しない。
今で言う大型戦艦を有してハードウェアに勝る北条水軍が、
小型船中心の里見水軍に苦戦を続けてたのは、ソフトウェアの違いがあるのだろう。
んで、地上軍の進撃で東京湾を事実上の内海化させて、
1577年にようやく里見から東京湾の制海権を奪取できた。
早雲が三浦半島を占領して水軍を手に入れてから、
50年以上かけてようやく東京湾の制海権を押さえたわけで。
つまり、陸軍は結構短期間で建設できるけど、
海軍の整備というのはすんごく金と時間がかかるわけ。
決して北条が水軍の整備をサボってたわけじゃない。
里見にしても元々は内陸の豪族だったんだけどねw
まあ、正確に言うと里見方の水軍VS北条方の水軍って感じか。
そもそも、里見自体、北条と同様よそ者だよな。
結局、当時の水軍なんてものは水運業者なのか漁師なのか海賊なのか、
わけのわかんない連中の集まりで、単純に房総にはそういう海に慣れた海上民が沢山いて、
それを傘下に治めた里見が優勢だったんだろうな。
そして全員の一致した結論は北条は豊臣には絶対勝てないだな
北条は外交能力や情報収集が例え良くても氏政がダメだから何してもダメ
そういや、小田原戦役では、北条水軍の活動って聞かれないね。
包囲軍の補給は海上輸送によるところが大きいわけで、
制海権さえ保持していれば、兵糧切れで撃退できる可能性もあったわけだよね。
現に篭城戦は兵糧切れを狙っていたわけでしょ?
圧倒的な戦力差で戦う前から沈黙しちゃったのかな?
頭数がそもそも違うから、下田に追い込まれて篭城してた
50日ほど粘った後に開城だから健闘したほうだろうけど、戦略的には最初の時点で無力化
氏康なら、なんとかなったかなあ。
一方を足止めし、降伏を偽って、韮山城を奇襲
179 :
日本@名無史さん:2006/06/12(月) 14:29:36
自分の死後を見越して武田と同盟・上杉と手切れを遺言したという氏康ならそもそも戦わないことに全力を尽くすんじゃ?
はっきりいえばもう小田原戦は関東一勢力対ほぼ全国なわけで
戦術どうこうでひっくり返せるレベルじゃない
180 :
日本@名無史さん:2006/06/12(月) 14:35:10
地理的に多賀谷が水軍を持っていてもおかしくないと思うけど。
関宿の価値は、関東の河川交通上における最大の要衝だから、の一言に尽きるわけで。
北条の水軍は梶原水軍だろ
永禄年代に紀伊有田郡広荘から梶原吉右衛門尉を347貫350文で招いてる
利根の河川流通なんて江戸期からだろ
このスレには昔から利根川の存在を否定する訳がわからん奴がいるからな
↑
スマン
姉のコテを使ってしまった
姉弟揃って2ちゃんとはおめでてーな
姉ちゃん紹介しろゴルァ!!!
>>184 比較にならんほど規模は小さいだろw
江戸に物資を送ることで水運の重要地になったんだが
当然江戸以前は水運の規模が小さい、解かった?
江戸に比べて小さいが、それでも重要な水運の要所であった事実は変わらない
>>184は規模を問題にはしていないし、規模の問題ではない
当時から見れば、大規模な水上交易ルートなのは事実なのだから
規模を問題にしなくていいのなら尚のこと多賀谷水軍の実在も認められんな
舟が数艘あったていどで多賀谷水軍とかいわれたら適わんw
水運が盛んな所で船数艘とはどーいう発想なのか謎
↑江戸以前から関宿の水運が「盛んであった」ということにして何言ってんだこいつ
幕府が整備して開かれたこと知らないんじゃねーのw
>>193 ???
江戸以前から「水運」の要所であるというのはどこに載ってるんだ?
そもそも江戸の街の開発以前にどこに何を大量に運搬する必要があるんだよw
>>193 明日までに「大規模な水上交易ルート」であったというソースを見つけてくること
いいか、宿題だぞw
利根川の東遷以前から、利根川・荒川鬼怒川・渡良瀬川・常陸川・etcが
関東に網目のごとく流れてて、古代から水運等に利用されていたってのは
関東人なら常識だと思うのだが・・・
関東地方の平野部で川沿いに城が多いのも、河川流通(湊)の監視や
兵の移動の中継などの目的で建てられた物が多いし。
とりあえず、
利根川図志、利根川東遷、利根川事典、利根川荒川事典、利根川の歴史、
関東河川水運史の研究、群馬の水運史、利根川の洪水、利根川・荒川流域の生活と文化、
利根川の水運、利根川流路の変遷、利根川物語、それと日本城郭大系の4・5・6巻
あたりを読んでみるといいよ。
日本中世水軍の研究も忘れてたw
下妻水軍だけでなく水海道城にいた田村氏の水海道水軍ってのもいるな。
>>196みたいに専門的な本を読まなくても
氏康が「一国に匹敵する」といった関宿城も、関東の水運の要所だった
から重要だったわけで、なんで戦国期の水運を否定する奴がいるのかが
分からないな。昔は道路よりずっと便利な面もあったわけで、関東に
限った話ではないよね。
それと北条水軍は梶原氏ではなく山本氏が有名。
北条vs里見の水軍対決は山本水軍の活躍よって、後北条氏の勝利に
終わったはず。ただし詳しいことは知りません。
関宿城の件は193で既出でしたか。。
ちなみに昔、手賀沼の近くに住んでて、何でこんな狭い所に
大量に城跡があるんだろうと思って調べてみたら、手賀沼だけでなく
利根川や荒川、その他大小河川の湊と街道が近い場所には、通行の監視・
湊の保護・監視のために城が置かれたってことがわかった。
戦国時代は大量消費・大量生産が始まって経済的に好況だったから、
土豪や大名の領地ごとに湊や関所を作ったりしてたんだろうな。
ちうか、日本城郭大系の関東地方の見てたら、本当、川や湖沼沿いに多いな。
防御上も経済活動上も有利な立地だったんだな。
以前、戦国期関東の再現地図をどっかでみた(日本城郭体系だったか?)が、
霞ヶ浦を初めとする湖沼の広さや、利根川の支流群に驚いた記憶がある。
あれを見れば、関東における河川交通の重要性を理解して貰えると思う。
204 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 17:41:12
氏直は籠城派?野戦派?和平派?
>>193見て理解しないのは単に認めたくないと言うだけの輩でしょう
>>203 順番が逆
江戸という大量消費の場が誕生したことで関東一円から物資食料を運搬する必要が生まれた。
その中継地点として関宿の重要性が高まった、故に物資運搬の任にあたった家忠がそう評した。
それ以前の河川流域で大規模な市井は見られない。自然物流が発展する道理もない。
また城の近辺に船着場があるから物流の監視ポイントだったというのは推理の飛躍。
なんか一人だけ必死でつねw
順番が逆という理屈は家忠日記の日付と運河工事の時系列からいってそれこそありえないよ
そんなに後北条以前の水運を軽視したいのか
戦国期が経済的に大発展の時期だってことを無視してんな。
それとも、関東人ではないから認めたくないのか?w
確かに京・大阪なんかの上方ほど大規模ではなかったが、
それなりの規模の市はあったし、網目のように張り巡らされた
水上交通網と街道でかなりの経済活動が行われてたんだぞ。
>>207-208 何をどの程度の規模で運搬していたのかだけでも挙げてみてくれ。
それが出ないから信用できんのだよw
それなりの規模の市があったというのなら地名と規模よろしく。
淀川や琵琶湖の水運もなかった事になるのか?
利根川地域はなくて淀や琵琶湖はあると?????????
当たり前とする根拠ながないから話にならんな。
>>215 何が言いたい?
畿内周辺に大規模な物流が在った事は事実だろ?
利根流域でも在ったのなら早く出せよ
>>218 なんだ
お前が知ってるわけじゃないのかw
馬鹿の相手して損した
どっちが馬鹿はスレ見れば一目瞭然
一人が電波飛ばしてるだけ
憶測で違う違う言ってもなw
相手してあげただけでも感謝して欲しいもんだw
>>220 悔しさ満点の馬鹿だなw
他人の褌で相撲取ろうとした馬鹿は早く死んでくださ〜いw
さぁて、馬鹿が死んだところで飯にでもするか
楽しかったよお馬鹿さんプッ
水運が無ければ街道があるわけでもない流域の人間はどうやって物資を行き来させてたんだ?w
>>224 街道だってw
ゲームのやりすぎなんじゃね〜のプッ
水運の存在を否定するのなら、当然なぜ江戸に本拠地を移転したか?とかがわけわからなくなるし
江戸期以前の町宿の存在すらまず否定しなければならないわけだが
>>226 江戸以前の利根流域の宿場町を挙げてみろ
どうせ大した規模の物はないんだろ
以前からこのスレに利根川関係のレスがつくと決まって江戸時代からの話だからと語る人がいる
そして自説に固執し偏った主張を展開するからそのうちみんなは放置する
一生懸命頑張って水運の存在を語っている人には悪いがそいつに何を言っても無駄だから止めておきな
水運否定者
昔から必死だよな
またやってしまったよ
俺も進歩が無いよな
情けがあるならスルーよろ
>>229 俺も後悔してるよ
お前みたいな腰抜け相手にしちゃって
あんまり気にすんなよ
傍証からによる検証もなく、ひたすら否定するだけだからね。
徳川マンセー史観の害毒が未だに・・・
姫ちゃんは仔犬で、ねーちゃんがうんこ食ってるわけじゃないんだな。
235 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 01:27:12
本能寺の変がなかったら、信長が天下に王手をかけたら、北条はどうなっていたか。
236 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 07:26:37
喪前らマターリしる。楽しく楽しく♪ご大途様が
悲しむよー^^
話題変えていいですか?
明応七年八月二十五日(西暦1498年9月11日)に発生した、
静岡県南方海中を震源とするマグニチュード7.2の地震についてです。
房総半島から紀伊半島まで大津波が発生したとのことですが、
静岡県以外の地域の被害状況を教えてほしいです。
数日前の産経新聞に、その記事なかったか?
239 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 12:07:47
>>237 鎌倉大仏の大仏殿が津波で流されたのはその地震じゃ
なかったっけ?(以後露座)
240 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 13:05:01
信玄の頃より勝頼の時に領土が増えてるとか、氏康よりも氏政の頃が増えてるとか言うけど、
信玄が120万石まで増やして、勝頼の頃に10万石追加した程度だろ。
勝頼擁護はスレ違いだからしないが、
氏康→氏政なら確実に増えている、家督を継いだあとか、氏康死後と見るかで差はでるだろうけどね。
242 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 16:57:33
>>241 信長が死んだ後に上野取ったんだよね。
実力者がどんどん死んでやりやすいよね。
織田と隣接していた武田より謙信死んで北の脅威がなくなり武田と切って織田&徳川と結んだ北條のほうが遥かに有利
佐竹を降せなかったのは氏政の力不足か?
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と比べたら力不足といえる
毛利輝元・長曾我部元親・上杉景勝・武田勝頼と比べたらいい勝負だろう
佐竹義重一人だけなら何とでもなるだろうが宇都宮・結城・真田なんかが組むと厄介
伊達と北条に挟まれてあそこまで戦った佐竹義重が凄すぎる。
でも佐竹の活躍は北関東の諸大名の協力あってこそ。
北条はもうすこし他大名に寛容にしていれば・・
関東小勢力の取りこぼしも問題
結城の離脱は意外に痛い
由良や足利長尾の反抗も時間のロス
由良と足利長尾は仕方ないだろ
248 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 01:48:02
>>237>>239 浜名湖が太平洋に繋がったのもその地震。
現在の浜名湖は汽水湖だが、古代には「遠つ淡海(とほつあはうみ)」と
呼ばれたように、かつての浜名湖は淡水湖だった。
「遠江(とほたふみ)」の語源も
「とほつあはうみ」→「とほつあふみ」→「とほつあはうみ」。
ちなみに「近つ淡海(ちかつあはうみ)」は「近江(あふみ)」、つまり琵琶湖。
249 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 01:49:43
訂正
× 「とほつあはうみ」→「とほつあふみ」→「とほつあはうみ」。
○ 「とほつあはうみ」→「とほつあふみ」→「とほたふみ」。
250 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 02:31:52
信玄に、駿河を切り取られたのは痛いよね>氏康
251 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 03:01:13
甲州軍率いる信玄に連戦連敗だったんだもん。そりゃ氏政に遺言して死んで逃げるわなw
252 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 12:05:52
まあ、北条フリークの俺としては、信縄・信虎時代に
武田領を自由に荒らし回っていた時代も有ったと溜飲を下げてみる。
信虎時代は、今川北条>>武田ぐらいの感じだったのに
信玄が出てきたとたんに立場が逆転したからな
信玄の駿河侵攻の成功の三要素
信長と同盟して西の安全を確保
謙信が積極的に信濃侵攻をしなかったため北も安定
反北条派の佐竹や里見の存在
家康との連携も成功の一つだったが後で決裂してしまったので除く
逆にこれをきっかけに氏康・氏政は家康と同盟し謙信とも和平を結び巻き返しを図っている
信玄は窮地に追い込まれ駿河侵攻は泥沼化し貴重な時間を費やす
信玄と氏康の両方とも名将だよ
255 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 15:13:07
しかし信玄の駿河侵攻は、この時期の全日本的な政治環境から見れば、
後北条・今川・上杉の信長・家康への接近を招き、将軍義昭が模索していた
信長包囲網が、東国ではあまり機能しなくなってしまった一因という側面もある。
そこらへんは信長の方が一枚上手だった
北条・上杉・武田さらに徳川まで巻き込ませて互いを牽制させあったんだから
信長の一人勝ちだよな
信長も勝ってはない
まあ天下餅のいいこね役としての役割は果たしたな
258 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 16:04:15
基本的に信玄は氏康との決戦を避けているからな。
戦略で大敗してるよ。主軍同士の戦いは氏康がかなりかっている。
259 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 16:49:49
しかしこの時期の後北条は親信長なのか反信長なのか、いまいち分かりにくい。
武田は、三方が原以降は勝頼の滅亡まで一貫して反信長。
上杉は、御館の乱で景勝が勝利したことで、反北条&親武田という感じが
強くなった気がする。
その後上杉は、信長とも対立関係になるが、本能寺の変後は親秀吉に転じ、
その結果、後北条は反秀吉になったって感じかな?
まだ三方ヶ原の頃は中央をそこまで意識していなかっただけなのかも知れない。
特に因縁とかもないしね。
261 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 18:44:56
>>259 信長が武田討伐の旗を揚げた時点で明確に親信長に
宗旨変えしたよね?
安土に使者は送るわ、兵糧を贈るは駿河に攻め込むは・・・。
火事場泥棒的に露骨だけど。
なんか「関東のことは北条にお任せを!」みたいなこと言ってた気がする。
>>261 御館の乱終結後に、徳川と結び、その徳川を通じて織田に接近している。
少なくとも、天正八年には氏直と信長の娘との婚姻を約束している。
武田領に進行してから急に織田に靡いたわけではない。
>>262 「御縁辺相調え、関八州御分国に参る」だっけ、上の婚姻に際してだな。
264 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 23:12:35
浜名湖→遠つ淡海(とほつあはうみ)→とほつあふみ→遠江(とほたふみ)
琵琶湖→近つ淡海(ちかつあはうみ)→ちかつあふみ→近江(あふみ)
ぶっちゃけ臣従しようとしてた訳だよね。
266 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 02:01:59
どうせなら信長に対した時の態度のように、秀吉にも
うまく対処して、なんとか滅亡は避けて欲しかった・・・・。
江戸期を20万石程度の大名でもいいから生き延びて欲しかったな。
267 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 04:15:55
狭山じゃ規模が小さすぎて
>>266 豊臣との交渉はほぼ終わっていた。
名胡桃事件で全てがパーになったけど。
このスレでも出てたが、あの件は上杉派の巻き返しという疑惑を持ってしまうな、
出来過ぎてるよ。
270 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 12:19:51
>>269 同感。
しかし氏政の命で有ったと言う文書が発見されたとかも聞いたな。
上杉氏の工作とかそんなのはあくまで二次的なものに過ぎない
決定的だったのは氏政の傲慢さだよ
家康と組んで秀吉を小田原表で討ち取ろうとしてたもんな
それは中央の情勢に疎すぎるな
結果は北条の惨敗だけど秀吉も内心穏やかではなかっただろう
信長の速攻戦略の六角攻めの箕作城や北畠攻めの阿坂城、朝倉攻めの手筒山城・金ヶ崎城と同様に秀吉も山中城を即日攻略している
一夜城の築城も八王子城攻略の指示も悠長に開城を待つ姿勢ではない
家康や信雄は北条に内応しているという噂も正直不安要素だろうし秀吉自身もかなり苛々している
実弟秀長も病気で倒れて支えになる人もいないしな
そもそも、由良とかは北条寄りじゃねぇし。
むしろ出遅れたから。
>>275 名胡桃城攻略直後の猪俣邦憲にだしたと思われる手紙に、
贈り物もらったお礼と「そこ元の仕置き油断無く致すこと専一に候」
と書かれていて、それが氏政の命令があったのではという
推測につながっているらしい。
ちなみに猪俣邦憲は上野の地にあって、氏政の直臣だったようだ。
つまり邦憲に命令をだせるのは氏政ということ。
鉢形衆なら氏邦だ、と一応突っ込んでおく。
すまん、ボケきってたorz
まあ、うじうじうじうじなので、そう云うこともあらぁな。
中世関東の水運の件、kittyがウザかったんでとりあえず図書館で調べてみた。
「利根川・荒川辞典」の利根川・荒川流域河岸一覧
「近世利根川水運史の研究」
などなど。
あと、「江戸・東京の川と水辺の辞典」
この本の第三章 中世の江戸水系と湊によれば、〜戸とか〜谷、〜方と付く地名の所は
古くから水運に関する地点だったらしい。
ほかにも「第六章 利根川東遷物語 - 戦国末期の河関」によれば、北条氏照が栗橋や
関宿城主だった頃に出した書状の事や、天正15年頃に布施美作守宛てで「通行する船が
えらく増えたから、誰の船が通るにしても検査して俺の許可を受けろよ」って感じの内容
の書状を出してたりするんで、かなりの物流お通航量があったみたい。
ぶっちゃけ、合戦とかの書状は多いけど経済関係の書状って重要なわりに目立たないから、
結構大変っつーか、どっかの大学の教授にでも成れそうなくらい大変そうだ(w
>>282 あれ〜スルーするんじゃなかったの〜nencyaku君w
それとも悔しくなって蒸し返しちゃった?w
忘れた頃に話を蒸し返し、稚拙な推論とソースのこじ付けで勝利宣言ってのはお前の常套手段だよな。
必死に調べてもそれしか出なかったって、恥の上塗りして本物の馬鹿なのかお前はw
>〜戸とか〜谷、〜方と付く地名の所は古くから水運に関する地点だったらしい。
らしいかよw断定はしないってわけだな。それだと説明不十分だろ。
そりゃ河川周辺には漁師も居れば渡し守も居るだろうさw水運に依存した物流経済が確立されていたソースになってないぞ。
>通行する船がえらく増えたから、誰の船が通るにしても検査して俺の許可を受けろよ
あのな〜、船の往来の増減なんか訊いてないんだよ、こっちが訊いてんのは畿内のような船に依る大規模物流が
利根流域でも確立されていたのかってことなんだぞ?お前はなんでも「あるある」の一点張りと船の往来があったとしか
言わないじゃないか。そりゃ大型河川があれば行商を乗せた船の往来ぐらいあるだろ、だからといってそれがそのまま
物流経済の確立とは呼べないだろうが。行商が担いで運べる程度の物品の往来なら戦国以前から全国的に見られるってのw
その程度で利根ウォーターフロントとかいわれたら何でもありじゃないかw
俺が否定してる根拠は
1、利根流域に大規模な市井(非食糧生産商業地帯)の存在が確認できないこと。
(無いものは証明できない)
2、江戸(非食糧生産商業地帯)の開発が始まったことで食糧確保の必要性から大規模物流が始まった事実。
(お前が挙げた家忠日記の記述についても2に該当する)
お前が提示しなければいけないのはソース付きで
1、利根流域の大規模な市井の存在。
2、どこにどれだけ何をどの程度の間隔で運搬したかなど利根の物流に関する詳細な記録。
簡単なことだろ?これが出たら俺の負けでいいよ。出なかったらお前みたいなnencyaku馬鹿は死ねってこったw
それとも
>合戦とかの書状は多いけど経済関係の書状って重要なわりに目立たないから、結構大変
と、泣き言ほざいてるところを見ると腰が引けちゃってるのかな〜?プッ
おにいちゃんかっこいい
河川での輸送は古来より重要なものであり、
関東でもその重要性は高かった。
しかし、関東で大規模な物流が必要になったのは江戸以降であり、
それまでは今までとかわらぬ河川輸送が重要視されていた。
これでこの一件は一件落着?
>>283 普通に否定すればいいのに何故そこまで必死になる?
↑
成長しない俺って・・・
でたー!マヌケな自演3連発wwwwwww
何故そこまで必死になるんだろうねぇ〜
明日は朝一で図書館行って顔真っ赤にしながら資料漁ってくるんだぞw
草が沢山生えてるから青臭い香りが漂ってきます
もう夏ですね。
ほんとだね。
馬鹿の頭の中は一年中春だもんね。
そりゃ草木も生えるよw
>>283 私も普通に否定すればいいのにと思いますよ。
もう少し冷静に書かれてはいかが?
小田原城内の市立図書館、
夏場にいくと蝉しぐれが聞えていい気分だよ!
>>283 俺は家忠日記で粘着してるヤツじゃねぇっつーの(w
>水運に依存した物流経済が確立されていたソースになってないぞ。
依存しているとは一言も言ってないぞ。鎌倉街道やその他の街道も使ったし、川と川の間を馬や牛で輸送も
してただろ。
>畿内のような船に依る大規模物流が利根流域でも確立されていたのかってことなんだぞ?
大型の高瀬舟は中瀬までしか登れないのに、機内のような大型船での大規模輸送ができると思ってんのか?
まさか、外洋航海するような船でしか大規模輸送はできないとか思ってんじゃないだろうな?(w
ちなみに、中瀬までは1000俵、中瀬から倉賀野までで500俵、倉賀野より上流では300俵以下しか積めなかった
んだよ。
とりあえず、喪前の要求する物を書き出したらスレがいくつあっても足りないんで、
>>196であげた本以外に
↓のも読め。
★関東河川水運史の研究、★新・利根川図志上・下、★中世関東の内海世界、
河岸に生きる人びと−利根川水運の社会史、群馬の水運史、上利根川水運史の問題、海の道、川の道、
近世利根川水運史の研究、中世東国の世界1北関東・2南関東、常陸風土記、新編常陸国誌、
関東地方の中世城館2 埼玉・千葉、新編埼玉県史、群馬県史
それと、些末な事やさらなる詳細な事は↓の会報に詳しく書いてある。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~tonebun/index.htm とりあえず、漏れが上げた資料を読みもしないで、関東や利根川には交易・交通・流通網が無かったと吼えるのは
やめていただきたい(w
283はおかしい奴だから気にするな
いやいや、283にはもっと頑張って貰いたい。
282や296の様に、知らなかったことを知る機会になったしね。
関東における河川水運の重要性は認知していたが、
具体例を目の当たりに出来たことは望外の喜び。
今、水上の銚子河岸から江戸の港や銚子の港までのルートや湊をリストアップしてる。
しかしまぁ、鬼怒川や渡良瀬川、荒川とか多摩川なんかが縦横無尽に走ってるから
大変だな・・・。
まぁ、物資輸送の書状とか許可状、保護をお願いする書状なんか探すよりは楽だけど(ww
中世水運史の研究、図書館にあったかな?
>>296 また頭の悪そうなレスだな
>外洋航海するような船でしか大規模輸送はできないとか思ってんじゃないだろうな?(w
頭悪すぎて読解力もないのか?w
大規模物流=大型船輸送と連想してる馬鹿はお前だけ
>>210の淀川琵琶湖を引き合いに出してんだろ。
淀川はそのまま遡るが琵琶湖の場合は日本海側から塩津、今津まで陸運なのは常識だろうがw
それともお前は琵琶湖に外洋航海船がそのまま入ってきたとでも想像してたのか?プッ
馬鹿に教えてやるけど淀川の河状係数は104、利根川は850、これだけでも馬鹿なお前にも違いが理解出来るだろw
しかも、てめえの知識がショボイもんだから関連書籍を羅列する事しか出来なくなってやんのw
そんなことだから東国闘戦見聞私記鵜呑みにして「多賀谷が水軍を持っていた」とか騙されちゃうんだよwwwwww
ま、自演しか能のない厨ちゃんは死んだほうがいいねぇ〜w
>>302 せっかく面白いネタ振ってるんだから余計な煽り文句付けないで
普通に書いてくれないかな。
>>303 顔真っ赤にして面白がってる振りですか?w
悔しかったら早く市井の所在でも提示しろやwwwwwwww
wの数だけ強くなれるよ〜
>>305 強がってないで早く出せよ低脳wwwwwwww
度が過ぎると相手にされなくなるぞ(既に手遅れか)
>>307 大丈夫だから心配すんな
>>282みたいな蒸し返しnencyaku君が居る限りまだまだ続くよwwwww
>>309 それはお前の「有効」でいいよ
果たして一本取れるかな?
ところで、河状係数って東遷前のデータなんですか?
計測場所は?
312 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 00:41:59
まあ、お前らマターリしる。
313 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 07:34:24
皆さん、歴史群像6月号の戦略分析「後北条氏の本土決戦」読んだ?
北条ファンとしては結構萌えな内容と思ったが。
>>254-265あたりを読んで疑問に思ったので、ちょっと質問です。
上杉謙信の七尾城攻略あたりでは対立してなかったのかな?
その不在を狙って、氏政が上杉方の関東勢にちょっかいを出して、
それを謙信が怒って関東出兵しようとしたけど病死したとか。
でも、ちょっかいってどんな事?
ネットでみたら、その時期の氏政は、里見や佐竹と同盟したりとか。
しかし、それだけでは、親信長、反甲相越同盟にはならないよね?
謙信も死ぬ直前にしようとしてたのは、関東出兵じゃなく、織田征伐だったという事になる。
それとも氏政、何か他にやってたのでしょうかね?
里見や佐竹の派閥に介入したり切り崩ししたとかあるんでしょうか?
上杉の後継争いで、景虎を支持して上杉の感情を悪化させたのは、
これは甲相越同盟には失敗だったというのは分かるんだけど。
その辺りの事、教えていただけませんか?
315 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 11:29:15
>>313 読んだよ。
箱根の屏風山という所に、決戦用の陣城を築いていたと
いうのは初耳。開戦直前に氏直が視察してたというのだから
箱根での迎撃は史実以上に大規模に行う予定だったのだろうか。
316 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 11:38:12
>>315 俺も初耳だった。
遺構があるなら、今度行って来てみようかと
思ってる。
トンデモ雑誌といわれてるが歴史群像は萌え企画をたくさん出すよな。
一般受けしないマイナー企画や、まだ史学会でも議論中の新説も躊躇なくだしてくる。
唯一の欠点は30過ぎが買うには、
表紙がちょっと恥ずかしいこと。
甲相越同盟って無かったの?
義昭の上洛と織田征伐の要請に、
甲相越が休戦と同盟して織田に当たったが、
氏政の領土欲で崩壊したっての。
里見や佐竹あたりまで加わってたとしたら更に凄いと思ったんだけど。
誰が言ったとか、どこの資料とかってのは知らないんだけど。
ああ、そういえばあったよ。
その崩壊が、七尾城の戦いのあたりだったのか、
御館の乱のあたりだったのか、どっちだったのかなと言う事です。
しかしまぁ、あれだ、基地外のおかげで古代〜近世の関東の水運や交通史
にだいぶ詳しくなってきたな。
とりあえず、北条氏の経済活動とか領国支配なんかにも繋がるから、
利根川荒川事典と江戸・東京の川と水辺の辞典あたりを読んでおくと(・∀・)イイッ!
利根流域の大規模な市井の存在もだいたいわかったんで、後でうpしとくわ。
物流に関する詳細な記録はポツポツ見つかってるが、「詳細な」ってのが面倒だな。
品川湊にいた鈴木道胤関連の書状や、中継地点の河岸にあった問の記録が見つかれば
完璧なんだがなぁ。
今更ながらに何故、伊勢から北条に変えたんでしょう?
足利でも良いのではないかと思ったんですが。
…(゜Д゜)…
足利ではダメに決まっているではないか何を寝ぼけているのだよく考えたまえ。
足利→存在してる
北条→滅んでる
既存の公方(足利)−関東管領に対抗するには、足利では不当。
それに伊勢氏と執権北条氏は、一応平氏繋がりだしね。
足利ダメなら平はどうよ?
そ、それはひょっとしてギャグで言っているノカー
平と北条の区別をつけなさいというかもっと歴史の知識を身につけたまえ。
>>325 返レスあり。
その辺の事情は一応わかっているよ。
ただ今更北条っていうのもね。
足利でもいいんじゃないかなと思ったのは、
古河足利の権威を利用するくらいなら何のための北条かということね。
まあ足利じゃなくてもいいんだけどさ。
>>326 次は、源はどうよ?とか言わないよね?
釣りだと思うけど
いやわかってねえな。
伊勢が北条と名乗らなければならなかったのは、管領の上杉を牽制するためと、
もともと長い歴史を持つ関東の豪族にそれなりに浸透するためだ。
当時の伊勢が半ば独立して勢力を保つためには
上に足利を持ってこなくてはならなかったっつー事情がある。
上杉や里見が公方を頂かなきゃならなかったのと同じ理由でな。
関東とあまり関係のない苗字の伊勢ではあまりにも不利過ぎる。
幕府の権力も関東ではあんまり役に立たなかったしな。
つーわけで北条は鎌倉時代の執権だし、上杉に対抗するためにはこれ以上ないいい選択。
同じ平姓である点、そして上に公方(足利)を頂くのに非常に都合がいい。
氏政の頃になると、ほぼ完全に自力で独立できるようになっていたので、
公方なんか放っておいても問題なくなったけどな。
ついでに北条、伊勢は苗字。平、源は姓。北条も伊勢もは平氏なのですでに平。
>>330 >いやわかってねえな。
スマンがよくわからんから質問な
>もともと長い歴史を持つ関東の豪族にそれなりに浸透するためだ。
どの本にも書かれているようなことだがどんな効果があったのか?
北条というありがたい家名に関東の国人が北条の家来になったのか?
>つーわけで北条は鎌倉時代の執権だし、上杉に対抗するためにはこれ以上ないいい選択。
そんな誰も見たことがないような執権北条に誰がありがたがるんだ?
そんなに北条の家名は関東では評判がいいのか?
>>331 >北条というありがたい家名に関東の国人が北条の家来になったのか?
北条改姓は、あくまで補助的な役割に過ぎず、氏綱が行った伊勢家強化政策の一貫。
或いは伊勢家の方針、関東制覇を掲げたと見ることも出来る。
>そんなに北条の家名は関東では評判がいいのか?
大坂で秀吉が未だに評判がいいようなものだ。
何処で聞いたか忘れたけれど
豊臣方は鉄甲船を持ち出していたという話を聞いたことが有るな。
もしこの大黒丸が鉄甲船なら、北条水軍では歯が立たないだろうよ。
335 :
330:2006/06/29(木) 19:56:45
当時の北条家の人々はこういう効果を考えて改名したんじゃねーかと。
・室町時代の関東は長年、幕府とのあいだでの確執があった。
そして伊勢盛時は幕府の命令で伊豆に討ち入ったことはこのスレでもよく知られているとおり。
つまり伊勢のままでは坂東の衆から「コイツラいけすかねえ京都の連中の回し者じゃねーの?」
と思われるかもしれない。
そこで「我々は確かに京都のほうから来ましたけど、ほら北条とかに名前変えちゃって
もう伊勢なんて遠い昔のことですから!坂東のことよく考えてるでしょ?」
という意思と政治的効果を狙った。
・伊勢が北条に苗字をかえる頃、氏綱は武蔵への進出を企図していた。
言うまでもなく武蔵は上杉の領域。そして上杉は関東管領。
どこかの偉い人が「ひょっとして北条と名乗ったら結構いい感じじゃねえ?」と思った。
何故なら北条氏は鎌倉時代の執権(=管領)、そして北条氏は相模守や武蔵守になっている。
「我々は上杉氏と同格っぽい感じだしー、しかも相模も武蔵も我々が国司なんじゃい」
という政治的効果を狙った。
>北条というありがたい家名に関東の国人が北条の家来になったのか?
>そんな誰も見たことがないような執権北条に誰がありがたがるんだ?
>そんなに北条の家名は関東では評判がいいのか?
なるわけないよね。でもかつては北条家に恩を受けた家々が残っていたのは事実。
関東は室町後期になっても他の地域ほど戦国化が進まず、古い記憶がまだ残っていた。
そういう連中には北条という名前はそれなりに安堵感を与えたかもしれない。
もっとも勝手に北条とかいってんな!という人々もいただろうけど。
>>333 引用先に小田原北条記とあったので、手元のものを見てみたけど
そんな記述はなかった。
でも他の本をよく読むと、北条方の水軍と豊臣方の水軍が戦った
のは事実っぽい。
>>330 返レスあり。
>>335も読んだけど、その程度ならやはりわかるよ。(このスレの住人ならね。)
そして
>>335を読むかぎり北条にしなければならない理由もないと思う。
>北条という名前はそれなりに安堵感を与えたかもしれない。
これって一体どんな安堵感なんでしょう?
>もっとも勝手に北条とかいってんな!という人々もいただろうけど。
こっちの方が多数派でしょう。
しかし読めば読むほど北条と名乗ることは失策になるね。
関東の国人は呆れていると思う。
伊勢姓では関東管領になる大義名分にはならないが、北条姓ならばなりえる。
どっちにしろ他国の凶徒ならば、関東諸将になじみの深い姓を選んだのだろう。
また北条改姓だけをみるからおかしく思うのだろうよ。
まあ、何を言ってもお前さんには通じないと思う。
これまで見る限り、結論ありきなのだからな。
改姓に関しては「同じ名前ばっかじゃやだ」って自己主張の面もかなりあると思う
いくら名門でも、同じ苗字の奴がウジャウジャいて
脚光を浴びない立場にいれば嫌になるよ
有象無象のうちの一匹とか見られないし
それなら改称して別家をたてたほうがいい
元の姓によるネームバリューも得られてある程度もてはやされるしね
>>338 >伊勢姓では関東管領になる大義名分にはならないが、北条姓ならばなりえる。
何故?
>>338 確かに話は通じそうにありませんね。
私は文献重視派ですから結果ありきです。
貴方の思考は妄想の範疇から抜け出せませんね。
それに貴方のレスは品性が無い。
しかし、北条姓なら関東管領になりえるって一体・・・。
うわ。すごいレッテル貼り。
343 :
日本@名無史さん:2006/06/30(金) 20:57:16
改姓はノリじゃないの?羽柴が豊臣になったみたいに
自分でこれがいいやと思ったからじゃないの。
北条のほうが、過去に鎌倉を支配した実績があるから、
そうなりたいなーって感じじゃない?
こんなん言ったら議論にならんか。
>>343 >羽柴が豊臣に
羽柴は名字で、豊臣は姓なので別物
藤原姓から豊臣姓への改姓(賜姓)です
345 :
日本@名無史さん:2006/06/30(金) 23:22:36
>>330 >関東とあまり関係のない苗字の伊勢ではあまりにも不利過ぎる。
一応、鎌倉時代に足利本家が上総の守護だった頃には、伊勢氏が守護代だった
こともあるらしい。
>氏政の頃になると、ほぼ完全に自力で独立できるようになっていたので、
>公方なんか放っておいても問題なくなったけどな
公方がどうでもよくなった最大の原因は越相同盟だろう。
それまでは、後北条と上杉が互いに公方の取り合いをやって、挙げ句の果てには
公方家の分裂まで引き起こしたわけだが、越相同盟の結果、後北条氏は最早
公方を戴く意味を失った。
その後は、古河公方家に対しては、積極的にこれを滅ぼす気もないけど、
ほぼ放置プレー状態。
346 :
日本@名無史さん:2006/06/30(金) 23:25:52
>>331-332 伊豆の北条は、源頼朝が世に出るきっかけになった場所でもあるし、
堀越公方なんかも一次史料のなかで「北条御所」とか「北条公方」とか書かれる
ことがあることを考えると、伊豆の北条を苗字の地にするってことには
それなりの意味がありそうな気もするな。
>>336 小田原北条記の記述は
『一方、北条方も予期していたこととして大鉄砲を一度に撃ち放す〜』
の部分ですね。それ以前の記述はどこに記載されているのか・・・
他の本とはどんな本ですか?詳細を教えてもらえませんか?
348 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 02:37:48
秀吉って箱根から攻めたの?それとも北関東から回り込んだの?
349 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 10:35:59
346と同じだが、北条改姓は分国とした相模と伊豆の存在、鎌倉と
前北条氏の苗字の地を領したと言うのがやはり大きいのでは?
それ以前に相模に根を張っていた三浦氏を筆頭に、その周辺の国人達も
事実上、執権北条氏にわずか100数十年前には従っていたわけだし。
上の守護や公方はいざ知らず、国人は西遷(って言うかな?)して
来た者より、鎌倉以来土着している家系が多いし、そういう国人を支配
するなら、やはり彼らの5、6代ほど前の祖先には眩しかった「北条」の
家名の方が有利と考えたのでは?
関東公方には上杉氏が、鎌倉幕府には北条氏が管領として、執権として存在
していた訳で、相模進出時から当面の敵となっていた上杉に対抗する意味でも
北条姓は意味が有ったのだと思う。
ちなみに上杉の家宰長尾家などは、もろ鎌倉北条氏の家人だったし、そんな所も
改姓の理由の一端かも・・・。
長レスすんまそ。
350 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 11:07:31
>>338 関東管領になりうる大義名分が北条姓にありえるとか言うなら足利姓の方がよっぽど可能性があるよなw
しかも関東管領上杉より優位になれるし。
>>349 滅び去った家名に惹かれるほど悠長ではないだろう。
逆に力がある者側についた方が有利と考えた方が自然だろうな。
351 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 11:19:49
>>347 ごめん、よく見たら小田原北条記の「韮山・下田両城での合戦」
にある記述だね。これってあくまでも下田城攻めのみの記述だと
思っていたけど、豊臣勢対北条勢の海戦も要約してるのかもしれないな。
そう読めなくもないような、微妙な文章だ。
下山治久氏の「小田原合戦」に、獅子浜城で大石越前守、長浜城で
大川兵庫助、丸山城で富永山随、田子城で山本家次、安良里城で梶原備前守
が城主として交戦したが、四月中旬頃に行われた合戦で次々に落城したとある。
>>333にあるように海戦があったのかもしれないが、実態はその当時ですら
あまり知られていなかったのではないだろうか。地元の人には語り継がれていた
のかもしれないね。
>>349 伊豆・相模経営のための北条改姓となると領地経営がうまくいっていなかったのかな?
353 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 12:12:35
>>350 >関東管領になりうる大義名分が北条姓にありえるとか言うなら足利姓の方がよっぽど可能性が
>あるよなw
室町時代には将軍家と関東公方家以外の家が足利の苗字を名乗ることは
禁止されていますよ。
室町幕府が禁止する以前には、足利氏の庶流で足利の苗字をそのまま
名乗っている家もあったが、そういう家も室町時代には足利以外の苗字を
名乗るようにさせられた。
足利尾張家→斯波
足利上総家→吉良
など。
354 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 13:16:18
>>350 乱世と言えども家名や血筋はまだまだ尊重されていたのでは?
>>352 小土豪の集団だった伊豆の平定に比較して、相模守護をも務めた
名門三浦氏や、上杉と関係が密接な大森氏を攻略しての入国だから
国人統制も油断が出来なかったと思う。
天正になっても、家康が関東に入国する際には北条家の統治が長かったと
言う事で警戒してるくらいだから・・・。
領地経営がうまくいってなかったと言い切ることは出来ないだろうけど、
それなりの苦労はしていたと考えても良いのではないかな?
>>354 それなりの苦労はわかるけど伊勢から北条に改姓しないといけないほど?
あと北条に改姓したら丸く収まるほど効力があるの?
356 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 13:38:46
ある程度の効果は狙っているだろうが、最終的には氏綱の趣味だろう。
357 :
330:2006/07/01(土) 15:26:59
ていうかよー、そもそも北条への改姓はどういう効果があったか、
なんて言う方向から切り込んでいくからわけがわからなくなるんで、
改姓した理由ってなんなの?ていうところから入っているわけ。
改姓した場合としなかった場合の比較なんて不可能なんだからさ。
358 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 21:54:41
>>355 どう考えても伊勢より北条の方が関東(特に相模・武蔵辺りでは)においては
ハバが利く苗字じゃないか?330の理由もある。
20代〜10代の巨人ファンがたくさんいるところに、突如岡田さんが入り込むより、
長嶋さんか王さんと言う人が入り込む方が、現役時のプレー知らないファンでも
なんとなく親しみ持って迎えてくれるだろう、中には名前だけで従いたくなるファン
もいるかも知れん(って、メチャクチャな例えだけど・・・)。
丸く収まろうが無理やり収めようが、伊勢で無理するより、北条改姓を朝廷にも周囲にも
認知させた上での行動なら、後北条氏お得意の「天道」には背いてない、、、ようには
見えるだろうしな。
360 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 23:55:22
足利を名乗ればいいとかいってる
>>350はかなりDQN
361 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 01:03:29
後北条氏って官途名なんかも鎌倉北条氏を念頭にしているんだっけ?
362 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 01:17:53
今度は池田に改名してほしい。
363 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 06:58:56
>>361 左京太夫と相模守を受けるが、当主の相模守の官途は
鎌倉執権と同じだもんね。
ただ小田原が相模だからと言う理由でもらったかも知れないから
最初から意識していたのか、はたまた「おお!鎌倉執権と同じだ^^/」
って思ったのかは・・?
364 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 08:49:43
でも武蔵守を名乗らなかったのはなぜだろう?
一門でも美濃守や陸奥守は居ても、武蔵守はいたかしら?
365 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 13:51:42
366 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 16:59:48
右京大夫は細川京兆家当主が代々もらうような官途になって
いたようだけど、左京大夫はそこいら中にいるな。
367 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 00:33:45
でも室町時代で左京大夫っていうと、大内氏か一色氏ってイメージがあるけど。
368 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 00:55:29
北条伸作改め
池田左京大夫伸作
369 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 01:00:08
左京大夫は伊達や岩城も名乗っているな。
右京大夫に次ぐ官途だけにみんな欲しがって、幕府のほうは金を欲しがってかなり乱発したっぽい。
右京大夫のほうは京兆細川家のものなんだけど、岩松や小山や佐竹なんかも貰ってたりする。
ただしこれは関東公方が勝手に与えたものだけど。
ついでに北条得宗の官途の相模守はやっぱりちょっと恐れ多いということらしく、
全国的に使用例が少なかったりする。
370 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 01:31:32
相模守かあ・・・そう言えば少ない気もする。
江戸期にはそれこそ狭山藩主の何人かが相模守になってるな。
後北条氏のように実支配地域の受領名に拘る大名も居れば、甲斐武田家
のように甲斐守にそんなに拘った様子もない家もあり、結構面白いな。
やはり○○守なんかより、支配地(または攻略予定地)の守護職の方が
魅力あったのかね?
別に箔以外には役に立たない官位だけど、戦国大名は個人の趣味で
申請出来たから良いようなものの、後世の一括申請時代には、好みじゃ
ない官位をもらった大名もたくさん居るだろうね。
片桐且元の「市正」なんて、どう考えても嬉しくなかったろうと思う・・・。
371 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 02:10:53
貰えるだけましだったんじゃないのかな?
372 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 02:13:11
>>370 市正は戦国期くらいまで実収入が伴う官職ではあった。
織豊ではわからないが。
373 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 03:02:36
>>372 初耳。とっくに有名無実の官じゃなかったのか?
374 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 10:55:06
俺の調査研究では、後北条氏は、北条時輔の末裔のようだ。
375 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 21:31:17
>>373 官途請負制が普及した結果、下級官人クラスが任官する官職の多くは、
鎌倉・室町期には、官に付属する何らかの所領なり得分権のようなものが
あったというのが一般的な理解では?
376 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 02:37:58
>>375 室町期には消滅しかかってまふ。
残っていたのは座の庇護者のような形態で、公家の数家が
その座から収入を得たりするような事のみ。
377 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 21:51:57
>>376 消滅しかかってたという理解は見直されつつある。
再版荘園制と同様に、室町幕府が積極的に保護していたらしい。
378 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 01:10:25
官司請負って、公家じゃなくて地下官人レベルの家の話じゃないの?
かなーり出遅れたけど、北条氏って、古河公方だかの娘とか吉良氏の娘とか、
関東の由緒正しい家柄のおぜうさんとケコーンしてたんじゃなかったっけ?
380 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 01:23:31
>>379 こんなとこで確認しようと思わず
ちゃんとした本の家系図を見れ。
382 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 23:00:57
古河公方と世田谷御所吉良氏に娘は入れたが、北条氏は
そっちから娘をもらっては無いだろ?
吉良家に嫁いだ姫に幻庵が書き送ったものは有名。
384 :
日本@名無史さん:2006/07/07(金) 05:46:25
北条幻庵覚書
親戚関係になりゃ、かなりOKなんじゃねぇの?
吉良には蒔田もあるよ。
西条と東条もあるよ。
387 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 00:25:38
後北条と姻戚関係がある吉良は武蔵吉良。つまり蒔田。
388 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 07:52:24
横浜市の蒔田に領地をもらって以降、蒔田御所とも言われたでそ。
389 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 16:35:04
赤穂事件後、吉良に復姓。
390 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 20:55:59
大名の蒔田相模守家は一族?
391 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 02:07:28
誰それ?
京都見廻り組ではないよね?大名??
とか考えていたら、もしかしてそういえば伊勢に城がなかったか?と思いスレイプニル先生に聞いてみた。
でもほとんどわからない。。。
でこんどは自分のPCに聞いてみた。
あった。滝川左近研究の所に載ってますた。それ普通っていうか漏れ様も忘れるくらい
マニアだぞ。しかも碌にいまだ研究されてない分野だぞ!!
…ぐはっ!それ蒔田ではなくて蒔田じゃん!!
大名でなくて鎌倉時代の土豪の城ではないの!
まいったよ!いや、まきったよ…orz
とんでもない勘違いした。マキタではないね。
徳川期の浅尾藩で尾張の土豪の蒔田か。。。
眼が覚めてしまったので390にレスしますね。
足利吉良の一族では全くありません。
蒔田吉良のは北条氏綱が世田谷から移動させてから呼ばれたものだからです。
見廻り組みの蒔田家は、織田信長と秀吉の配下で尾張に土着したんでないかな?
この尾張の土豪身分の庶子侍は、北勢の蒔田マキタではなくて陸奥の蒔田を苗字にしているらすい。
ほんとかどうか知らぬが、事実とすれば藤原北家の流れの貧乏侍の庶子の末裔と言うことだね。
尾張蒔田藤原氏と蒔田足利源氏は氏族が違うということです。
ごめん、北家ではなく南家です。
394 :
日本@名無史さん:2006/07/11(火) 01:01:54
近代の蒔田子爵家は?
395 :
日本@名無史さん:2006/07/11(火) 07:14:56
396 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 08:32:07
今川氏真に嫁いだ早河殿の肖像画がアメリカで発見されたとか
某サイトで見かけたが、詳細ご存知な人いますか?
今まで考えたことも無かったけど、突然にわいた素朴な疑問。
早雲寺の五代墓は供養墓ということでよいのだろうか。
早雲、氏綱、氏康は畳の上で死んだのだろうが、埋葬は早雲寺?
あの墓域は当時からあの場所なのか?
氏政は開城時の切腹で、現在の商店街にある氏照との墓は
当時の埋葬地からの改葬・・・だったよね?
氏直は高野山麓で亡くなった後、遺体はどういう経路を辿ったのか?
上方で病死したカワイソス氏直は特に気になる。
お墓関係に詳しいお方、是非とも教えて下さい。
ちなみに佐賀県の伝・氏房墓には行ったことがあります。
398 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 04:07:57
創価学会に聞いてみろ。
399 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 04:20:54
そう言えば実際の埋葬地はどこになるんだろうな?
色々サイト見ても、手元の北条関係の本を見返しても
それに触れてる所は見当たらない。
早雲・氏綱・氏康は畳の上で亡くなったのであろう事は
確実だろうし、葬儀も早雲寺で行われているので、墓所も
早雲寺に有った事は間違い無いとは予想するけど・・・。
かつて早雲寺にはそれぞれの塔頭が有ったと聞いたが、
小田原役後の荒廃や災害などで失われて、さらに場所などの
伝聞も数百年の間に失われてしまったんだろうな。
考えてみれば寂しいものですなあ。
『北条五代記』
(徳川)秀康卿仰せけるは、関東侍は馬上にて達者を働く由聞き及びぬ。さぞ強き馬を好みつらんと。
朝倉犬也(北条旧臣能登守景隆,相州浦郷=現横須賀)承りて、関東の侍あながち強き馬を好まず。
ただ自力にかないたる馬をもっぱらに乗り候。
(略)
それ馬に乗りて遠路を行くは足を休めんため、軍中にて乗るは馬上にて弓・槍を用に立てんため
なるが故に、むかし関東にて戦場をいまだ踏まざる若き者は、広き野原へあまた伴い出でて、
敵味方と人数を分ち、旗をさし弓・槍・長刀おのれおのれが得手の道具を持ちて馬に乗り、
馬を試みんため鉄砲を鳴らし、矢叫びの声をあげて喚き叫ぶ時に、
勇んで進む馬あり、おくれて退り、驚きて横へきるる馬あり。
山へ乗上げ、岨の崖道を乗り、堀を飛ばせ、自由に働くようにと鍛錬いたし、先陣にぬきんで
駆引き達者にふるまい、勝利に得んことを専らにたしなみ候。
(略)
秀康卿聞こし召し、犬也も若き頃はさぞ馬鍛錬しつらん。昔の面影をそと学んで見せよかし
との仰せなり。
犬也承りて、愚老七十に及び馬上の振舞かない難く候。しかれども貴命辞し申すに
かえって恐れあり。御遊興にそといにしえを学んで御目にかけ候べしと、
(略)
馬も心あるにや後ろをしたい来るを、また打乗って一散に走らせ、槍を自由に使って
駆回るを秀忠卿御覧にあって目を驚ろかし、御感斜めならず。
犬也、お召しにてあるぞと呼びければ、馬を静め近く乗りよせ飛んで下り御前に候す。
(略)
403 :
397:2006/07/18(火) 02:23:01
>>399 そうそう、その辺に触れている研究書や知識本って無いですよね。
秀吉という大きな流れに押し流され、
徳川幕府に埋め立てられた小田原の歴史とはいえ、侘しいものです。
>>400 後年にまとめて合祀しました、という感じですよね。
ほんとに今思い出して書棚から発掘したのですがw
「早雲寺 小田原北条氏菩提所の歴史と文化」早雲寺史研究会
という本を自分は持っていたのでした。本の存在忘れてましたw
今、ぱらぱらと読んだのですが、
あの五代の墓は「河内狭山北条氏五代北条氏治の寄進造営になるもの」
だそうで、寛文十年(1670)の造営と書いてあります。
そのときに興味ある部分以外は読みもしないで積ん読く性格、
直さないといけませんね。失礼しました・・・。
氏邦とかの墓ならあるけどねぇ。
本家がわけわかんなくて、分家がよくわかるとは・・・
早雲寺とか早雲寺史研究会に、「お墓どこー?」とか聞くのが
早いかも。
405 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 20:39:22
早雲寺は近所だから、今度聞いてみようかな?
住職も知らなかったら、それはそれで大変な気もするが・・・。
もうちょっと上った所の住職をされてた岩崎先生は先年
亡くなってしまったしなあ・・・。
406 :
403:2006/07/19(水) 18:11:23
>>404 >>405 しつこく出てきてすみません。
自分が>403であげた書の記述の一部は岩崎宗純師です。
この本は箱根町の郷土資料館で購入したと思います。ご近所ですかね。
北条家と臨済禅との深いつながりが少しだけれど理解できて、
すごくためになりました。もっと早くきちんと読めば良かったよ。
早雲、氏綱(春松院)、氏康(大聖院)については、
天正十八年の焼亡で塔頭や墓域も荒廃したのでしょうね。
それを憂いていた河内北条家が、寺院の再興、墓域の整備に尽力した。
・・・と、同書を読んで自己納得しましたが。
氏直の埋葬地や位牌所等は、河内天野の寺院、または高野山高室院
または紫野大徳寺と推測するのが妥当なのかな?と思います。
憶測なんで、詳しい方がいたらご指摘ください。
>>403 寛文十年(1670)か…100年ほどあてが外れたよ、、
その時代の墓碑だと、板碑状で奥行きの薄いのが主流なんだが。
>>404 氏邦のは、寄居の正龍寺に夫人(大福御前)と並んであるね。
コピー持ってるけど、宝篋印塔に戒名「天室宗青居士」と刻まれてる。
>>405 箱根湯本に蒸し風呂の日帰り温泉があるよね。凄く混むw
>>406 特に秀吉は寺社に冷酷だからね。旧主筋系の織田剣神社でさえ(ry
408 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 00:58:14
>>407 早雲足洗いの湯もあるよ。なかなかいい湯です。北条家の方々も
良く箱根には湯治に来ていたそうで。
秀吉もその報いか知らんが、墓も同じくらい訳が分かりませんな。w
409 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 01:02:20
>>399 どっかの創価霊園じゃないの?今は。
あと家の仏壇じゃ戒名のないガラスの位牌なんだろうな。
かわいそうに。
410 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 01:05:03
ちょっと今思ったんだが
今の本家が「戒名」否定しているのに使ったりしていいのか?
411 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 02:54:48
>>407 >特に秀吉は寺社に冷酷だからね。旧主筋系の織田剣神社でさえ(ry
何やったの?
>>411 漏れも教えてほしい。
秀吉は大和から筒井氏を追い出して、その後に大和を支配した秀長が寺社や豪族を締め上げた。
413 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 09:59:15
秀長はいろいろなところで酷いことを平気でやってる。
>>409 他の板の北条スレでも、すぐに草加のこと言い出す奴いるけどさ、
戦国時代の北条家を語る上では関係ないだろ?
何の目的かはしらないけど、自分は草加大嫌いなんで不愉快だ。
もうここには来ないで欲しいんだけど。
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
416 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 21:23:46
>>413 大和郡山城の、有名な墓石や石仏転用の石垣の件?
>>414 まあマターリしる。
早雲も大徳寺で禅の修業をしたらしいし、代々臨在宗の保護に
熱心だった北条家の子孫が、○○学会の重鎮になっていたって
ギャップがすごくて話題になるんだからさ。
まあ閑話くらいで大目に見よう。
417 :
日本@名無史さん:2006/07/20(木) 21:30:21
あるスレで氏政と黄梅院の子作りが話題になっていたのだが
氏政は鬼畜という酷評まで頂きました・・・orz
>>411-412 ・織田剣神社
天正5年(1577)柴田勝家の検地、1500石弱が社領。
慶長3年(1598)太閤検地、社領なく除地のみ。
慶長8年(1603)徳川秀康、社領30石を寄進。
慶安3年(1650)大野松平氏、+21石を寄進。
豊臣は惨いよ・・・鹿島神宮も社領を2万5千石近く削られたようだし。
江戸初期まで、諸国の社家は苦労してるはず。
そう、大和国の寺社は入部した秀長に締め付けられた。
大和の由緒ある神社はそれ以前から長らく、興福寺に苦しめられてるけどw
>>407 早雲寺も江戸時代になってようやく、寺領細々ってところなんだろうなぁ。
閑話じゃなくてただの荒氏だろ。
ガカーイの話題なんて楽しい奴はいないしな。
420 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 01:15:16
>>418 それって、それ以前から実質的には不知行になっていた領地の分を除いた結果、
数字の上では突然大幅に削減されたように見えるとかってことではないの?
それとも太閤検地直前まで当知行だった領地を突然召し上げられたってこと?
421 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 01:55:41
>>420 大和国の神社の社領の場合、織田・豊臣氏進出以前からかなり目減りしていたようだけど、
織田神社の場合は、少なくとも柴田氏時代は「殿様の御氏神」という事で
崇敬され保護されていたんだろうと思うんだけど、空白期もあるし細かい事は知らない。
ただ、豊臣氏の織田社に対する心底は知れるんじゃない?
鹿島のは鹿島宮司の話。
422 :
日本@名無史さん:2006/07/22(土) 00:05:57
太閤検地は原則として当知行安堵だと思ってたけど違うんだ。
>>422 天正5年から慶長3年の間にどういった動向を辿ったのか知らないが、
織田家の没落によって、織田家先祖伝来の剣社も衰退していったという事なんだろう。
それには当然、秀吉の意向があったのでは。でも無税地の除地のみは酷いな。
徳川時代の社領51石余というのは、他と比較して平均的な数値といった感じもする。
大和国のある神社だと、秀長の入部時に社領を没収されてるようだ。
秀吉でも、鎌倉の鶴岡八幡宮は保護してるけど。
柳生は所領を没収された。
太閤検地ではよくあることだった? それとも例外?
北条と里見の水軍戦力は、ずっと里見>北条?
>>425 水軍とか水運関係の話をするとヤツが出るぞ!!wwww
海の水軍は同等か北条が上じゃね?時期にもよるけど。
河川の水軍は参加の土豪や大名任せで、自前のはあまり無い
きがする。
氏邦や氏照が出した書類は何通かあるみたいだから、持ってない事は
ないと思うけど。
427 :
日本@名無史さん:2006/07/22(土) 23:33:40
誰か八王子城跡見たことあります?
氏照関連のレポしなきゃならないんでいろいろ漁ってるんだが、いまいち行き方がわからぬ( ´・ω・)
428 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 03:18:28
430 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 08:15:49
>>426 例の鶴岡八幡宮が焼かれたり、三浦の郷村が半地だった頃
は明らかに里見側の方が優勢だったんだろね。
紀州などから水軍衆をスカウトしてきたのは、その強化じゃ
なかったっけ?
最終的には里見家を圧迫して家臣化まで今一歩だったけど、
里見もその頃には三浦にちょっかい出すほどの余裕が
無かったと思う。久留里ラインで陸側からの攻勢を防ぐので
手一杯だったろうし。北条家の主攻勢方面が北関東方面に
なっていたから最後まで長らえたけど、もしまともに里見討伐され
たら完璧にヤバかったろうと思う。
431 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 11:56:08
>>428 JR横浜駅を使います。とりあえず八王子駅まで行くみたいですが
>>427 大悲願寺過去帳。
氏照家臣の戒名が。この地域の戦国中小武士の名前がわかる貴重な過去帳。
討死しちゃった武士もイパーイ(T-T)
>>427 ふむふむメモメモ。
氏照は手紙多いですね、俗に言う氏照文書が。たしかに地域支配や家臣団の構成が読み取れますね。
あ、それから八王子城跡の行き方わかりますた。
>>433 下山治久著「八王子城主・北条氏照 氏照文書からみた関東の戦国」
これは既に呼んでるよね?
里見は義弘が挽回して、陸路でも義頼の代まで北へ領地を拡げていた。
北条側は氏康の死後に氏政が里見家と和睦して、その脅威を除くことに成功している。
八王子城に行くひと、清め塩とか数珠とか持って
気をつけて行ってきてねー。
440 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 23:27:32
>>440 八王子城址に限らず話だけど、そういうのは人による。
あいにく波長が合ってしまった人は見たり聞いたり感じたり。
合わなかった人は見ることも聞くことも感じることもないとオモ。
だが用心にこしたことはないから塩(食塩×)や酒はあった方がいいと思う。
行く時間も朝から午後前半ぐらいまでが良いとオモ。
それから、城址に行ったら出るとかの類は考えない方がいいよ。
それだけでよってくるのがいるから。
あと当たり前だけど、お邪魔しますとかお邪魔しましたとかのあいさつを
するだけでかなり相手方の感情も変わってくる。
そしてできるなら、城址に行く前に墓前にお参りしておくといいとオモ。
もしかしたら不思議な縁を持ってきてくれるかもしれない。
何はともあれ気をつけていってらっしゃい。
氏照の墓所に行くのなら、虫さされの薬もいるかもw
>>441 自分は八王子城で妙な体験をしたことが無いんだけど
(歴史に興味のない)多摩住民の間ででも、怪奇談は流布してますよね。
「戦国の終わりを告げた城」みたいな真面目な探求本にさえ
ちょこっと妙な逸話が載ってる。
まあ、あれだけの悲惨な落城話が残っている城なので、
早い時期からの怪奇談が伝承されていても不思議では無いわけで。
厨房の頃から城跡や古戦場巡りが好きで
お墓の写真もたくさん撮ってきているけれど
霊的なものを見たり、感じたり、写してしまったりした経験が無い。
いつも、「お邪魔します」とか「調べさせてもらってます」とか
念頭において歩いているからなのかなぁ、なんて思ってます。
でも数珠と線香、塩は携帯してる。念のためですが。
少し話が脱線してしまったかな?失礼しました。
心霊とかそんなのはプラシーボ効果みたいなもんだけど、この時期は藪コギしなくちゃ
ならないシチュエーションもあるだろうから(八王子城は公園化されてるからあんまり
ないけど)、虫除け蛇よけは必須だな。
あと、蜂に狙われないように、黒っぽい服装はしないほうがいいよ。
あと、水とか甘いものも忘れずに。
445 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 22:34:58
北条氏規ってさ、武田軍や豊臣軍の韮山攻めで活躍しているよな。
武将としての資質は買っているんですけど、みんなはどうなんでしょう?
>>445 名将だと思うよ。外交でも活躍してるし。
ただし氏照、氏邦のような宗家から独立した行政・統治権は与えられていなかったようです。
このニ名は自分の領地に加えて地方の城主・豪族の統括・経略も任されていました。氏邦が上野、氏照が武蔵の一部から下総というように。
氏規の権限はあくまで一城主のそれに限定されていました。駿河方面の戦や行政では駿河や伊豆の譜代の武将と同格に扱われていました。
上記二人の兄と官僚機構の頂点に立つ幻庵は一門の中でも別格です。
447 :
日本@名無史さん:2006/07/26(水) 02:49:44
八王子城も創価学会だよね。
因果かな?
草加ネタふる奴、来るなよ
>北条氏規
信長シリーズでは後継ぎ候補筆頭だけど、必死で高レベルの姫武将を出した後は
ただの軍団長か計略要員に成り下がる。
しかも能力値が微妙なんで、あまり使えない罠(w
糞ゲーム厨も来るな。
451 :
日本@名無史さん:2006/07/26(水) 18:13:30
逆に氏邦は鉢形城主で上野方面の総司令官ってな役割だったけど、
その軍事的・政治的才能はどうだったんだよ?そんな事を思って
しまう。
298 名前:名無し曰く、[sage] 投稿日:2006/07/15(土) 13:28:15 ID:HM+fvrSe
>>295>>296 氏直の後詰だけで言えば勝って当たり前だけど、
この合戦てよく見ると一益が氏邦の謀略にはまってる感じもする。
本心はどうだか知らんけど、少なくとも氏政は一益に対して本能寺発覚時点では、
二心は無い、安心して欲しいと書面で伝えてるんだから、
ここで悠然と本国へ帰るなり、厩橋城で静かにしてるならば、
北条家としてもさすがに何の根拠も無く手のひら返すのは難しかったろう。
だがここで一益は氏政に厩橋城を空にして光秀を討ちに行くから来るなら来い!と
何故かいきなり宣戦布告をする。これ自体が随分北条家に都合良く動いてて不思議だが、
ここで更に気になるのが、氏邦の動き。これを聞いて鉢形城から小田原の援軍も待たずに
全軍を動かすでもなく、厩橋を狙うでもなく、川を渡った金窪城に中途半端な兵を布陣して
何をするつもりだったのか?上州の兵力は少なく見積もっても2万近くはいる、
金窪だけで守りきれるわけは無く、あっさり金窪を取られて敗走する氏邦。
しかしこれで完全に一益は自分から宣戦布告をした上に自分から城を盗ってしまった訳で、
北条家の大義名分が完全に立つ形になって、
しかも信玄も攻めあぐねた名城厩橋からまんまと川を挟んだ出城の金窪城に引きずり出された形で
氏直の5万と対峙する羽目になってる、そりゃ勝てんわ。
氏邦の真意はわからんけど、何らかのやり取りがあったのでは無いか?
でないと一益程の武将にしては動きが謎過ぎる。
>>449 糞ゲーム会社の社員でつか?
潰れればいいのに。
直江と景勝が動いたからでしょう。
上杉勢は客将の藤田信吉を沼田に派遣してるだよ。広大な旧藤田沼田領は滝川家本知分に編入されているようだね。
左近は沼田に赴き城主を義太夫から、城代の真田方の矢田に任せて対応した。
それに連動して金窪の新興国人の斉藤が動いたのではないかな?
斉藤家は国人なので、成田等と同じく北条家にとって外様扱いではなかったか。
しかし一時的に織田家に帰参し左近の直参か外様扱いになってたのではないか?
それが滝川方から離れ北条方になった。というか藤田方になったといえばいいか。
で左近はこの擾乱を放置できず出兵した。で占拠滅亡してしまった。
藤 田 氏 邦 にとって信吉は叔父だし、御館の時に北条家は信吉を沼田城代にしているので
援軍は出していただろう。
沼田をなんとしても取りたい信吉と氏邦の策謀だろうか。
こうして考えると氏邦は戦は上手くはないが、戦略と外交、行政は北条家の中でもピカイチかも試練ね。
藤田信吉及び家中が武田家臣であり北条家臣であり上杉家臣であり独立した国人でもあるのに、
左近に従っていないところから起きたものと考えられますね。
>>451 沼田までイケイケゴーゴーで行ったんだから、かなりのものじゃねぇの?
それだけでなく、由良・桐生氏とか真田氏とか長野氏とか上杉氏とか、あちこちの
旧勢力と愉快な仲間たちと戦ってんだし。
>>454 斎藤氏は新興国人じゃぁないぞ。
自称、斎藤別当実盛の子孫(斎藤盛光で盛が付くし)だ。
妻沼が発祥の地で、埼玉の北西部から群馬の南部・南西部あたりで斎藤とか永井(長井)には、
自称・先祖が斎藤実盛って輩が大勢いるんだけどさ(w
ちなみに、金鑚神社の裏の御獄城も信玄に獲られる前は斎藤氏が城主だった時もある。
知っているよ!歌舞伎や謡曲を出さんでも有名人ではないか!
長井別当のだろ。義仲となんかやりあったんじゃなかったけ…?
長井庄ははたら郡で熊谷方でなかったけ?
金窪城は室町中期の寛正年間に横領して獲ったんじゃないの?
457 :
日本@名無史さん:2006/07/28(金) 07:23:50
てか、真田を結局追っ払えなかったのが残念。
さしもの北条でも多正面作戦は出来なかったと言うか、昌幸が
戦上手で有ったというべきか・・・。
名将とはいえ武田の部将上がりで、勢力は北条とは比較にならない
のに大したものではあるが。。。
459 :
日本@名無史さん:2006/07/28(金) 23:03:05
>>458 例の北条の夢・・・じゃ無いが、同時に常陸、下野方面で
佐竹や宇都宮・結城と三つ巴の争い中。
しかも館林長尾や由良が叛旗を翻すのを鎮めるわで、さしもの
北条も本腰入れられなかったってところでは?
もっとも徳川も結構真面目に攻めたが屈服させられなかったから
真田も決して弱くは無いのだろうが・・・。バックに上杉も居るしなあ。
北条を名乗ったのなら、鎌倉に城を作ったほうがよかったんじゃないの?
お寺とかいっぱいあって当時は不便だったのかなぁ
鎌倉が防御上・経済活動上・政治活動上不利なのは周知の事実だったから_
玉縄城があるじゃまいか!渋滞が酷いのでさっき通って来たが、
あすこも鎌倉だぞよ?
>>458 ん?子孫?滅亡したのではなかったのかw 失礼w まぁもれなんかも似ているよ。
漏れのは源平で義経と一緒にヒヨドリ越えした地下人で、義経裏切って知行地を深谷にもらうけど、
直系は太平記にしか出てこないですぐ滅亡するよ…orz。
しかも爺さんのクセに赤坂城で早駆け仁王立ちで初っ端討死。最悪…。
一応猛者らすいので英雄百人一首にはでてくるけど…。
あと戦国期だと英雄佐竹家の奉行に庶子の名前が見えるぐらいで、
武蔵にも少しは残っているはずだけど役長にも出てこない侍w
古い実家みたけどやはり徳川期に帰農してると思う。名主っぽいけど。
珍しい苗字だしな。
そういえば漏れは腰越にも住んでたな。。先祖は裏切って頼朝に逝ったけどwww
母方の方が明治期の三笠艦長の家柄だから、ずっといい!!
駄目だね。漏れも。若いうち企業したが解散して現在引篭もりだしww
人見四郎入道恩阿
人見さんなら武蔵七党の猪俣党だけど、上杉氏に追い出されたような配下に組み込まれた
ような・・・
466 :
日本@名無史さん:2006/08/04(金) 20:58:49
北条氏康と綱茂主人公の小説が出たみたいだな。
467 :
日本@名無史さん:2006/08/04(金) 22:27:44
801?wwwwwwwwwwwwww
しかし、北条氏は地味なうえに負け組みだからなぁ・・・。
801じゃないだろ、
小説月刊誌の連載されてた作品じゃないの?
炎ミラの読み杉なんじゃね?
471 :
日本@名無史さん:2006/08/08(火) 01:51:38
>>85 一部では氏秀を幻庵実子説がある。
更に少数説で千葉直重を氏政の子ではなく氏康7男とする説もある。
472 :
日本@名無史さん:2006/08/08(火) 08:24:53
蒲原で討ち死には氏隆だったっけ?
474 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 01:59:11
お万の方の母はいくつか説があるみたいだが、氏尭娘あるいは氏政養女という
説があるそうだ。
むーん、横瀬氏の水上交通支配関係の論文読んだけど、結構深いな。
北条氏のは無いのかな?
476 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 02:15:06
北条の家臣で清水っていなかった?
477 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 06:43:26
早雲もまさか子孫が創価学会会長になるなどとは…
478 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 14:25:13
北条氏綱の肖像画がどこにあるかご存知の方、教えてください。
早雲寺
480 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 16:24:13
氏綱も早雲寺だったっけ?
481 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 00:07:38
>>480 北条早雲〜氏直まで5人全員の肖像が早雲寺に残っていたはず
>>476 清水康英とかいますね
あっても見れない罠
司馬遼太郎の箱根の坂を読んで、ここに立ち寄りましたが
予想外の利根水系に関するレスやリンクが面白いです。
利根川東遷でゴハン三杯はいける。良スレだなぁ〜
中世・近世の土木スレを誰か立てないかな…
>>483 そういうことを研究してる人や詳しい人は2chなんかみないですからぁぁぁぁぁぁ!(w
ぢつは、mixiにも同じようなコミュ作ったんだけどね。
いきなり脱線したけど、関東の水運は奥深いYo!
あれから利根川・荒川辞典に載ってる河岸とか渡しなんかを日本城郭大系と見比べて
みたんだけど、河岸や渡し、交通の要所であったり領地の境だったりするんで、しっかりと城や砦が
作られてんのね。
北条氏に降伏した横瀬氏が何故か茨城の水海道にある城を攻めたりしてるってのも知らなかった
んで面白かった。
それはさておき、誰か北条氏の水上交通や陸上交通の支配に関することを書いてくんないかな〜
とか思う今日この頃。
>>478 小田原城内の展示に、五代揃った複製画があったはず。
>>484 下山治久とか黒田基樹とか池上裕子とか(敬称略)
戦国史研究会の会員の論文とか研究発表とかには無いの?
著作としては無くても、発表論文としてあるんじゃないのかね。
水運の話したら、ヤツが飛んでくる
別に飛んできてもいいんジャマイカ?
香具師も多少は調べただろうし、漏れも以前挙げた資料をよく読んで、それなりに
資料があることがわかったし。
まぁ、香具師が関東、しかも流域に住んでなきゃわかんねーだろうけど。
488 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 02:00:37
北条氏次について語りましょう。
>>484 レスありがとうございます。水運についての議論ですが、素人なりに書いてみます。
後北条家の実効支配って、武蔵の川越・忍が北限だと思います。
それより上の毛野地方(厩橋・古河)は、中国本土における旧日本軍のような
拠点防御かと…(武漢とか)
水運を振興するほど、北条ワールドを構築していたか疑問です。
徳川の巨大家臣団が入植して初めて、利根川の利用が一般化したと考えます。
北条家の年貢が安かったのは有名ですが、
結果的に公共投資財源とマンパワーに欠け、河川の利用や改修するだけの
実力はなかったのかもしれません。
江戸時代の重課税を暗黒時代みたいに言う学者もいますが
ケインズを先取りしてインフラ投資をするには、重課税以外に手段が無いと思うニダ。
中世の利根川って、とんでもねぇ暴れ川だったし
下るぶんにはいいけど、流速が速くて上流に帰れないとかwww
利用する前に「逃げるニダ!!!」って感じじゃなかろうか?
川越なんて今ではノホホンとした衛星都市だけど、
縄張り図を見ると、トンデモな水城だし。
>>490 滝川一益が逃げた後は上野北西部あたりまで支配してたけどね。
上野南部は由良氏が頑張ってたし、降伏後も自治状態だたし。
ただ、栗橋に入った氏照から利根川を往来する船を取り締まる旨についての書状
とか出されてるし、北条氏が落ちぶれる前後あたりの頃には既に中瀬河岸にあった問屋
についての文献があったりするし、下流や支流の武将や豪族も水運や河川交通をかなり重要視
してたみたいなんで、判断が難しいよ。
>水運を振興するほど、北条ワールドを構築していたか疑問です。
河川水運はイマイチわかんないけど、海上水運は頑張ってたみたい。中国からの交易船が来てた
っつーし。
>徳川の巨大家臣団が入植して初めて、利根川の利用が一般化したと考えます。
よくわかる文献が多いのは東遷してからね。
それ以前にも下流のあたりは平安時代あたりの文献とかあるけど、上流の方のとかが
なかなかみつからない。
まぁ、しょっちゅう流路が変わってたりしてたのが影響してるんだろうけど。
493 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 01:45:38
>>461 政治都市としての鎌倉の地位は、享徳の乱で完全になくなるからね。
白粉、お歯黒のイメージしかないや。
っていうか、それ以上に語ることあるの?
北条五代が、>白粉、お歯黒 のイメージwwwって、
誤爆か、ニワカちゃんの可愛い勘違い?
496 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 22:00:33
あまりの窮状をみかねてage
497 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 22:02:53
ageてみます
498 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 01:21:32
>494晒し
499 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 09:58:17
↑2chにしか居場所のないアホ
500 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:13:57
501 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 00:33:33
502 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 20:16:14
三戦板クオリティー
504 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 01:25:56
北条氏次について語りましょう。
505 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 01:32:38
506 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 16:15:33
北条五代age
507 :
日本@名無史さん :2006/10/12(木) 21:07:09
岡きよしage
508 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 23:18:31
北条氏系譜人名辞典
戦国期東国の大名と国衆
age
509 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 11:10:24
北条氏繁って、逆井城に入った後に水軍を率いて、結城・山川・多賀谷と戦った
んだね。
北条家に縁のある女性でレスを進めてみませんか?
511 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 00:57:47
甲斐姫をおいて他は無し。
しいてあげるなら、諏訪部定勝の妻?w
甲斐姫なんて史料的にはネタ無しだからな。
妄想しかすることないだろ。
513 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 02:55:24
北条ゆかりの女性というと
黄梅院(氏政正室)
北条院殿(武田勝頼後室)
早川殿(氏真正室)
督姫(氏直正室)
あたりは有名だし人気もあるよね。
514 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 11:10:29
あとは北川殿(早雲の姉妹・今川氏親母)くらいかなあ
515 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 16:46:08
516 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 22:52:25
優秀な男子を重ねて産んだ瑞渓院も入れてちょ。
518 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 10:10:00
>>515 最新の研究では、姉って説が有力らしい。
>>518 本家の娘で、本家の養子になった宗瑞とは直接血のつながりのない姉弟、という話も有るな。
どちらにしても断定までには至らず(今後も難しいかと)
北川殿の生き様は不遇だったらしいが?
521 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 11:34:53
俺的には、氏邦とか氏照の子供が氏政の子を養子としてもらったってのが疑問
なんで疑問?
氏照は男児に恵まれなかったようだし
兄弟の子を養子にするのはちっとも珍しいことじゃないよ。
北条氏康の正室の瑞渓院殿は北条家の中でも発言力があったと聞いています。
>>523 そりゃ、あるあだろうよw
今川家の姫で、出来のいい男児をあれだけ産んでるんだからさ。
遠山関連に出てるネ
北条陣営から結城が離脱したのは痛かったと思うのだがどーよ?
まあ代わりに小田が北条に泣きついてきたわけだがw
527 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:30:16
小田は、土岐原とか近藤と争って青息吐息。
528 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:19:19
実家が名門の有力大名で、長男から四男までいずれも優秀な男子を出産。
これ以上正室として不動の地位を築いた女性は他にいないな。
529 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 03:49:03
出来のいい子供って母親の能力が重要なの?
父親の遺伝子の能力かと思ってた。
530 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 06:02:29
両親の能力はどちらも関係ないだろ。
名将の子にとんでもないバカがいたりその逆もある。
信雄とか直家な。
531 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 08:18:25
直家? 宇喜多?
532 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 09:15:16
>>531 宇喜多直家。親父の興家は暗愚で知られた人物。
直家の祖父の能家は名将だったらしいけどね
能家と興家も名将から馬鹿が生まれた例だな。
秀家も勇猛だけど経済感覚や家中の統率は馬鹿殿に近い。
535 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 13:26:27
>その逆もしかり
ってのを見逃してた。
確に直家は名将だ。ブラックだけど。
536 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 19:40:49
暗愚というより、ヤバイから馬鹿を装ってたって話じゃん。
537 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 19:43:19
直家はそうだけど興家はホンモノっぽい
538 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 11:33:24
北条が今川の客分だった頃は征服した伊豆や相模は今川領として回りから
認識されていたのでつか?
539 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:10:45
いや、早雲の領地だと認識されてた。
540 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 16:21:00
今川家早雲領
541 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 23:13:15
>>538 伊勢宗瑞(幕府政所執事伊勢氏一族)を現地代官とする幕府の御料所と認識されていた。
542 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 23:55:59
早雲の頃の鎌倉北条家ってどういう状況だったの?
落魄した名家って感じで一応続いていたの?
543 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 00:51:12
>>542 1333年(南朝元弘3年/北朝正慶2年)5月22日に滅亡しました。
544 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 14:24:15
北条時行の子孫がいたはずだが
545 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 15:17:39
氏康は好きだけど早雲は嫌いなの
546 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 17:30:31
早雲〜氏康までは好き。
それ以降は嫌いではない。
氏房が好きだな。
九州・名護屋陣で病没・・・
548 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 01:36:48
>>544 北条時行って文和元年に鎌倉で斬首されたと思ったけど、子孫いたっけ?
549 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 04:26:58
確か北条高時の息子と新田義貞の息子が仲良く並んで首を切られたんだよな。
早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直
北条家の興亡を演じる5人それぞれが好きですね。
逆に北条一族で嫌いな人はいないです。
語り部は北条幻庵で
552 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 12:57:49
553 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:33:23
>>552 それらは単に鎌倉北条氏の末裔を自称しているだけでなく、北条時行の子孫で
あると言っているのですか?
554 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:38:09
>>552 どうしてその系図に局務家の清原氏(舟橋家)が出てくるの?
555 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 13:46:03
>>553 見ての通り、時行から系図が一応ね。
>>554 平野権平の父親が舟橋家からの養子、という説があるため。
いちばん出世していない、扱いの小さい平野ごんべーですが、
実は高貴な七本槍だったのですよ。
あと、鎌倉北条氏の各分家は地方でまだまだ頑張ってたようで。
http://www12.ocn.ne.jp/~sakumo/soturon2-1.html それぞれに子孫がいてもおかしくはない。
ただし、江戸〜近世に至るまで「北条子孫」という
成り済ましが多いのも事実。
なんせ滅びてるんで、誰も事実が確かめられない上にちょっと偉そうだから。
あえてスレタイと絡めるなら、
豊島氏の伝記に「時行の隠し子を養子にした」というのがあります。
これも「うちは実は鎌倉執権家の子孫」という権威利用の伝承じゃないですかね。
小田原北条氏の家中にも、鎌倉北条子孫がいたような気がします。
誰だっけ・・・?
558 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 17:47:42
氏綱さんはマイナー。
しかし、私は好きだ。
なぜなら、周りの全てが敵の状態で領土を広げたからだ。
559 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 19:25:50
氏綱とか氏康の兄弟、それらの子孫がまだ出てきてない件について。
560 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 00:41:18
>>555 しかし朝廷では地下官人の筆頭程度の家系が一番高貴というのもなんだかなぁ・・・。
八王子城の地下トンネル、25日に地裁判決が出るんだってね。
まあ国が負けるわけないし、勝ったところで元に戻るわけでもないけど
先祖が400年間守ってきた遺跡も、土建屋モドキの政治家たち―国指定史跡と国定公園の地下にトンネル通すってんだから相当な政治力があるんだろうが―にチョチョイと壊されちゃうんだね。
562 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 14:45:09
>>559 兄弟といえば、氏政の弟ばかり目だっているね
古神道その他いろいろ2 他山の石 より
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1160815450/ 821 :太国 :2006/10/09(月) 07:59:17
余も「神道体系」が欲しかったが、あまりにも高額となるのであきらめていた。
最初から最後まで完読は容易ではないだろうから、図書館等で見つけて必要個所
を読めば足りると考えた。当然大学の神道関係の部署ではあるはずだな。w
無理はしないことですな。それは入手可能な財力あれば購入を否定しないけど。
822 :名無しさん@京都板じゃないよ :2006/10/09(月) 09:54:00
古神道の最高権威太国様は神道体系も持ってないの?
「古事記・日本書紀」総合スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1150629621/ 186 :太国 :2006/09/23(土) 22:14:36
精一杯だと?w 笑わせるな。 余が古神道の最高権威だぞ。
余が臥海に崩れたら、臥海に神社界は面子が丸つぶれになるのだ。
そうはならんぞ。
これだけの真を、お前は余から教えてもらってるんだから
有り難く思え。
二朝並立は、おおむね祟神の時代から文武の時代までの間だ。その間は
畿内の朝廷と九州王朝は並立にあったのだ。
824 :太国 :2006/10/09(月) 14:35:09
>>822 神道と古神道は違うんだよ。古神道の最高権威とは、最高機密『卜』を確実に
知悉することなのだ。そんなの持ってたって学者にはなれようが、こいつは
分かりはしないと想うぞ。余は神道のほうは権威者ではない。
QQQQQQQQQQQQ この人明らかな馬鹿ですよね! QQQQQQQQQQQQQ
564 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 15:19:07
相模の獅子と恐れられた北条家
北条家(一門)3大武将
▽北条氏康:3代当主であり、戦場では敵に決して背を見せぬ勇猛としてしられる。
▽北条幻庵:北条5代を行き抜いた。
文人としても知られ、『幻庵おほへ書』という心得書を著した。
▽北条綱成:武勇の誉れ高く、その旗印より『地黄八幡』と呼ばれ恐れられた。
565 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 21:27:01
>>564 なぜそれを「3大」などというDQNカテゴライズする?
北条の素晴らしい人材、数え挙げたらきりがないぞ?
3で済むわけがない。
惜しむらくは資料が散逸していることであり。
北条ってさ、思ったより領土拡大してないよね
関東一円って言うけどさ、里見も結城も宇都宮も佐竹もばりばり現役だったし
早雲以降は凡将とは言わないけど、名将とは言えないか・・?
川越夜戦とかは凄いけどさ
568 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 02:04:52
有名な大名だけでなく、国人だの土豪だのも抵抗してたしな。
まだまだ足利・上杉ブランドが効いてたってことだろうけど・・・。
569 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 05:03:29
てか後北条氏の関東経営の根本姿勢は、関東公方としての古河公方家の
ネームバリューを利用して自らを関東執事(関東管領)に見立てることに
支配の正統性を求めるというやり方。
しかし上杉(山内)氏にとっては、後北条氏のこの主張は自らの地位を否定する
ものであり、受け入れがたい。
結局、どっちが正当な関東管領かという争いの側面が強い。
しかも永禄末年以降になると、その両氏が同盟関係(越相同盟)になったりも
したから、最終的にすべてが中途半端に終わる。
570 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 14:27:36
結局、何もかも半端だったから秀吉に滅ぼされたと言うことか・・・
中庸こそ最上だと思ってたんだけど・・・w
当時の秀吉に勝てると思ったのかな?
正直その辺が気になる。
572 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 00:22:13
実態は上杉が秀吉の小田原攻めを誘発するために後北条を徴発したって説もあるな。
>>571 氏政としては秀吉に負けないと考えていたんでしょうね。
秀吉が大軍で攻めてきたら小田原で籠城。
それで秀吉は攻めきれずに退却、もしくは和睦。
小牧・長久手合戦直後の徳川家と同様(豊臣家と対等)の存在を目指したかと。
最悪、豊臣政権下における家康並みの臣下の地位を得るところまでかな?(氏政が認めるとも思えませんが)
長曾我部や島津、さらに徳川までが豊臣の臣下になったわけですから、そこに油断が生じたかと。
ただ氏直は秀吉との戦に否定的だったので、勝てるとは考えていなかったと思いますよ。
そんな馬鹿な。氏政がそんな阿呆とはとても思えない。
氏政が秀吉と戦っても無事でいられると思っていたとしたら、
そもそも氏邦が自分の家中での権威の失墜を懸念するほどの
とんでもない額の銭を領国から集めてまで氏規を上洛させたりしないし、
自分だって同じような上洛の準備をしたりしない。
沼田攻めは氏邦の家中の北条全体に対する自立性の問題で、
そうした意識を氏邦が持っていたことを氏邦自身が上のように
「権威の失墜」という風に言っている事でも理解できる。
で、小田原攻めの直接の原因は沼田領問題の採決をするという名目で
氏政が上洛準備中だったにも関わらず、弁明の使者として石巻を先に
上洛させてしまったこと。
秀吉としては氏政が上洛して弁明に当たるべきだという論理。
ということが『戦国時代の終焉』に全部書いてある。
外に頼みがない籠城は成功したためしがない、ってことじゃないの。
政宗はじめ奥羽諸武将が平伏したところで、望みは薄かったのではないか?
>>574 『戦国時代の終焉』は読んだよ。
でもそれが全て正しいと言われてもね。
それに「負けない」であって「勝てる」ではないし。
信玄にも氏康にもバカにされた逸話が残るくらいだから
あまり賢くはなかったのではないかな?>氏政君
氏真の類かもな
謙信や信玄相手のときって、外に頼みあったんじゃないか?
三国同盟時と越相同盟時のときだろ?
580 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 19:13:15
むしろ、野戦で蹴散らしたり一発脅かしてやるつもりが、キッチリガッチリ引きこもられたんで
渋々引き上げたのでは?w
581 :
日本@名無史さん :2006/12/28(木) 20:11:29
まず、NHKは大河ドラマで山内やら武田なんてやる前に
北条をやれ。
絶対面白いって。戦国を網羅!
583 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 03:55:30
士気の急低下に原因があったのでは?
小田原城を見張る様に作られた【一夜城】
家臣を殺害(理由とかは忘れた)
しかし、籠城中にもっと『深夜の奇襲作戦(闇に紛れて小隊で切り込む)&忍者活用』してれば勝機はあったはず。
>>583 北条の支城がことごとく開城・落城したことも大きいですね。
氏邦が小田原に派兵した部隊はがんばってはいたんですが多勢に無勢。
>>578 謙信⇒越後本軍ははるばる越山しての大遠征、補給線は伸びきり疲労の色も濃い。また参集した関東諸豪族に関しては全く統制がとれていない完全な寄せ集め状況。囲んではみたものの、とても長期の攻城戦に耐えられるような状態ではなかった。
しかもこの時は同盟者である信玄がしきりに信州方面を脅かす姿勢を見せ北条を支援、謙信としては悠長に関東に腰を据えていられるような状況ではなかった。
信玄⇒始めから小田原攻略が目的では無く、あくまで野戦に引き摺りだしてひと叩きし武威を見せつけ、駿河攻略を有利に進めようとした信玄の戦略。
事実、鉢形も滝山も攻囲はしたが落とそうとはしていないし、三増峠で勝利を拾った後はさっさと甲府に引き上げている。
秀吉⇒海陸共に水をも漏らさぬ大攻囲戦、ピストン輸送による完璧な補給網、別動軍による関東諸城の攻略による奥羽諸勢との軍事的遮断、etc、etc…
開戦前から死角の全く無い緻密な戦略が立てられていた。
以上を見ればわかる通り、謙信・信玄と秀吉では攻略に望む際の政治的・軍事的・外交的規模が全く違う。よって両者は比較の対象とはならない。
586 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 08:52:13
秀吉ってムカつくね。
なんで関東で善政を敷いてた北条家を
自分が農民で禿げネズミの天下人だってことを気にして滅ぼすんだよ。
ふざけてやがる。おまけに、その後は
狸家康に統治を任せてるし。
こんなことおかしなことするから一代で終わったんだよ。
種なし、キモ容姿で女遊びなんてすんな。
史ねじゃなくて死ね。
588 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 16:32:37
早雲と氏康が好き
589 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 05:00:45
>>588 ここは別に貴方の好みを書くスレではないですよ。
ほう
山中城の遺構を見て、正直貧弱にしか見えない。
592 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 17:45:27
大河ネタでスマソだけど氏綱が出てきてうれしかった。
593 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 19:33:19
早雲寺って宝物館みたいなのないんだよな。
展示してくれれば行きたいんだが。
歴史読本だったかで
氏綱と氏康も束帯姿の肖像画があるって載っていたけど、
これって公開されたことあるのかな?
594 :
祝・氏綱公 大河ドラマ初出演:2007/01/09(火) 00:56:09
>>592 北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直 テレビ出演 【】=大河ドラマ
北条早雲(伊勢長氏・伊勢宗瑞)
=S39「天下を取れ」、S55「若き日の北条早雲」、H3「戦国の暴れん坊斉藤道三」
北条氏綱
=S55「若き日の北条早雲」、H19【風林火山】
北条氏康
=S39「戦国の剣豪」、S44【天と地と】、S61「おんな風林火山」、S63【武田信玄】、H19【風林火山】
北条氏政
=S39「徳川家康」、S44【天と地と】、S48「新書太閤記」、S58【徳川家康】、S60「真田太平記」
S61「おんな風林火山」、S63【武田信玄】
北条氏直
=S39「徳川家康」、S58【徳川家康】、S60「真田太平記」、H10「家康が最も恐れた男真田幸村」
秀吉のやられやく氏政公の出演は断トツ。氏康公は信玄・謙信絡みですな。
早雲公だけが依然として大河ドラマ未出演とはどういうこっちゃ!!
「若き日の北条早雲」というドラマ見たことないけど、画期的なドラマもあったんですな。
大河の氏康がマヌケな顔してた。
596 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 02:41:18
おとなりの今川だって、やられ役(しかも多くは桶狭間の回のみの登場)の
義元が、大河露出率ではダントツ。
それに対して氏親・氏輝は信玄がらみ、氏真は家康がらみ以外では
ほとんど出たことないと思う。
因みに戦国ではないので番外だが、駿河今川氏初代の範国は『太平記』のときに
配役付きで大河に出ている。
597 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 09:14:02
氏綱が好き
598 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 20:07:16
で?って言う
599 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:49:02
若き日の北条早雲は確かテレ東作品で主演は北大路欣也。一番印象に残っているのは
堀越公方の家臣に男装の麗人がいたこと。(設定としては男だったかもしれない。)
自分としては裃姿ではなく直垂姿の侍がズラリと並んでいたこと、大広間が畳敷きではなく板張りであったこと。
この二つが驚き。(なぜならそれまでそんな設定の時代劇を見たことがなかったから。)
横浜の道灌
江戸の道灌
越生の道灌
道灌メインでいいよ道灌で
601 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 22:54:36
前記訂正、テレ東→テレ朝。
602 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 23:26:58
>>557 鎌倉北条の子孫は
板部岡江雪さんです。
603 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 16:33:18
>>600 越生の道灌
とか
五十子の道灌
も忘れんといて♥wwww
同感
605 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 13:06:36
小田原の役で
伊達・徳川・長宗我部・島津が北条方について挙兵したら勝ち目は幾分かあった?
>>603 じゃ、河越は道真でいいよ。市役所前の銅像は道灌だけどw
607 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:24:52
道灌もいいけど、成田氏長の娘の甲斐姫もね♥
甲斐姫を出すととたんにヲタ臭い画面に。
そんなんより、氏房と夫人の小少将の逸話だろう。
>>605 細かい状況によって変わってくるとは思うけど、結論から言えば『勝算アリ』だと思われ。
何より家康が離反するのは大きい。
秀吉が小田原に着陣した後にこの状況になったら面白い事になりそうだね。尻に火が付いた秀吉は上方に戻るだけで手一杯、無事戻れたとしても天下統一事業は大きく後退…第2の金ヶ崎になりそうな悪寒。
610 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 08:40:47
無理無理
そもそも北条家自体が秀吉恭順派と強硬派に分かれて主導権争いしてたんだから
名胡桃城襲撃にしたってそうだけど、秀吉に家康を介して弁明する一方で総力戦体制整えてりゃ世話無い
他の大名がその尻馬に乗って動くメリットが無いよ
611 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 09:14:57
しかも豊臣方は石垣山に城を作る余裕があった。
既に戦時体制が整った後で北条討伐に動き始めている。
日本の過半を制圧していた秀吉なんだから
仮にいくつかの有力大名が敵に回っても各個撃破がオチ
だからこそ百万石を超えていた上、信長の同盟者で筋目としては完全に秀吉より上の家康すら従属を選択したんだから
614 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 20:56:15
鉢形城は立派になって復活しますた(´∀`)
615 :
561:2007/01/19(金) 01:08:55
自己訂正
地裁判決×→地裁結審○
後北条家臣団人名辞典の採録リスト教えて。
616 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:58:08
はじめまして
関東管領について調べています。
北条氏康が足利義氏により関東管領になったという記事をネットで見ました
北条家では、氏康以降の当主(氏政・氏直)も管領職に付いたのでしょうか?
宜しくお願い致します。m(__)m
617 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 13:00:49
実質的支配下に置いてあるんだから、当然でしょう。
有名無実ですが。
618 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:10:27
>>614 kwsk!!
かつて埼玉県農林試験場になって見るも無残だったのだが…
関東管領として有名無実なのはむしろ上杉のほうじゃねえの?
かつての上杉の所領を実効支配してるのは北条だし。
620 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 20:03:33
そんなことより、スレのタイトルの北条早雲ってのは、やめたら?実際に北条姓を名乗ったのは、氏綱からだからさ
>>620 鉢形城は城の中を川が流れる構造になってるのか。
日本の城では珍しい。
朝鮮の城に多い形態だ。
即ち鉢形城は朝鮮人よって建てられたという結論に達する。
623 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 21:27:40
>>622 ( д) ゚ ゚
工エエェェ(´д`)ェェエエ工工
625 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 00:25:45
626 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 10:52:08
包茎式山城だと?!
627 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 06:47:44
山田大学助
┌―┐
|槍|
├―┘
>>621 一応史板で、こんな今さらなことを偉そうに言う奴、痛い。
北条氏は徳川家康と同盟を結んでいたという説もあるよね。
630 :
日本@名無史さん:2007/02/05(月) 20:38:26
シュメール文明もウリナラ起源だそうですからw
質問
小田原の役で作った石垣山城は
役後どうなったんですか?
>>629 もともと家康の先祖が松平氏の中で台頭したのは、三河にある
足利将軍家の所領を管理する執事伊勢氏に取り入ったからという
説があるから、ありえるね。
633 :
日本@名無史さん:2007/02/06(火) 20:04:43
しかし、新田岩松氏庶流の徳川氏の血筋ではないのはガチwww
いいかげん、あの看板は変えたほうがいい希ガス・・・
まあ、江戸大名のほとんどは嘘っぱち系図だから。
池田光政とか
「林大学に系図作らせてるところ(・∀・)」とか自分でネタにしてたな
636 :
日本@名無史さん:2007/02/07(水) 17:29:29
その中で安治の親父の代から書いた系図を出し、「藤原かな?」という和歌を添えた脇坂
偽者の癖に、源氏を称してる南部と藤原を称してる伊達・上杉はキモい。
638 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 17:43:42
↑アホ
南部は甲斐源氏で鎌倉御家人、上杉は藤原北家勧修寺流、
ついでに長尾は鎌倉氏族で相模国高座郡発祥。
640 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 19:18:49
俺んちは藤原魚名
>>639 > 南部は甲斐源氏で鎌倉御家人
それは遠野南部だろ。盛岡南部は偽源氏だよ。
上杉だって途中で佐竹になったり長尾になってるから藤原とは言えないだろ。
伊達なんかも駿河や但馬の伊達は藤原だけど、奥州の伊達は実際どこの馬の骨やらw
642 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 22:19:03
伊勢氏なのに北条を名乗るパチ者は、滅びた
643 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 22:23:01
早雲の妹?が今川の側室になっているのが よくわからん
この縁がなかったら、早雲は只の坊主のなりそこないで終わっていた
645 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 23:27:28
全然関係無いが。
俺の実家茶々丸の墓のある寺院の近くにあるんだが
寺院の隣の八幡に犬の散歩に行った時、ふと隣を覗いたら
茶々丸の墓の前でずっと立ってる女の子が居てさ、
実家に犬帰した後も同じ場所に居るのが見えたから
気になって寺院に入ってこっそり覗いてきたんだが
その子泣いてたんだよな。
墓にずっと手を合わせてさー。
何でかスッゲー気になるんだけど。
茶々丸の子孫…ではない‥よな?
>>1 たまたま上がってたから言うのだが、
「後北条氏」という便利な言葉があるみたいだぞ。
この言葉作った人偉いよな。俺もそう思うわ。
>>643 幕府の要職を務めて名声のある伊勢氏の娘を娶ることに何の問題もないと思うが
648 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:31:56
>>641 ちょwwwおまwwww
そんな事言い出したら、日本中の直系である名家の人たちだって
わけわかんなくなっちまうだろw
649 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:53:29
北条時政
>>648 > わけわかんなくなっちまうだろw
実際になっちまってるじゃん。
652 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 18:03:49
>>645 そこで口説いて俺の女モードになぜしないのか
あっあっあっご主人様! 茶々丸はせつのうございますなんて
プレイもおkwwwwww
653 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 20:11:38
BLでつか?w
(キャプチャ:MSPゴシック:9P)学術板もVIP化は止まらない
655 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 21:23:15
>>652 どんなプレイだよw
でもなかなかの美少女だったぞ。
髪は短かったが松○菜○子似で。
オッサンにもう少し勇気があれば声かけてたんだけどな。
しかしマジで気になる…
656 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 23:24:41
ぢつは幽霊でした。
657 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 23:55:23
>>655 ほんのわずかの勇気で、君の人生が変わったのに
ヘタレじゃのう。
せっかくの歴史オタの知識をここでいかさずして
なんにいかすんじゃ。
もうないチャンスとは思うが、今度は勇気出してチャレンジ汁!
658 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 23:56:35
>>654 うはwwwww
どこのスレにさらしたんだwwww
痛いニュースblogとかwwwww
659 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 12:30:04
茶々丸の妻の亡霊だったりしてw
660 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 13:10:57
茶々丸を慕っていた奴の子孫じゃねーの?
661 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 14:17:16
北山殿は伊勢新九郎の妹ではなく、伯母だと書いてる本があるよ
「中国兵乱記」1615年に書かれている本だが、
著者の中島元行は伊勢氏と親戚のようだから、信憑性は高いと思われる
662 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 15:31:52
足利茶々丸って、悪人的に伝わってるよな?
それで慕う奴は居たのか?w
まあ歴史が全て事実ではないだろうけど。
663 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 16:32:36
早雲が女を頼って駿河に逝ったのは50歳くらいの時
早雲の伯母?子供(のちの氏親)がまだ小さいところからみても 30歳くらいだろうから
年下の叔母という可能性はあっても、伯母ではないだろう
664 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 17:17:58
備中(岡山県井原市)は早雲の出生地ということで「早雲の里」
ということでサイトも作っているが、そこに
>4 1468年 応仁2年 37才 妹の嫁ぎ先である今川家に請われて駿河に下る。
>1470年 文明2年 39才 この頃故郷に帰り法泉寺の改修・造営を行う。
と書かれてあるが、備中兵乱記には今川氏親の妻が長氏の伯母と書かれている
「早雲の里」の記述は小和田なんとかさんの記述から引用しているようだが
やや中国兵乱記の記述とは食い違う部分がある
「伊勢新九朗長氏は、近郷の名家の子どもの内藤、笠原、二階堂
大道寺、松田、井上、平井、清水など30人くらい引き連れて
諸国の武者修行に出た」と中国兵乱記には書かれている
足利幕府の高級官僚というようなことでは無いだろう
>>645 ネタとしか思えない・・・茶々を美少年に描いた漫画でもあったのか
666 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 22:04:47
それだけではわざわざ墓に出向いて泣かんだろ
667 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 01:57:25
彼氏との思い出の地…とか?
それじゃ墓の前で手を合わせる併せる理由が無いか
自分もめちゃくちゃ気になってきたよw
668 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 02:00:41
669 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 02:07:43
つーか茶々丸って結婚してたんか
801の対象でもなさそうだし・・・謎だ
って北条スレをのっとるか!茶々丸!
672 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 13:00:56
茶々丸でヤオイとやらは考え難いな。
そもそも女=ヤオイ好きと考えるのもどうかと思うけどな。
俺の元カノはヤオイが大嫌いだったよ。
そういうのが嫌いな女も居るってこった。
何にせよ、謎だな。
673 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 20:41:10
801は嫌いだけどレイプ・乱交願望アリw
674 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 22:40:44
本当に茶々丸って奥さん居たの?
元服もしないまま亡くなったのに奥さんは居たの?
675 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 23:08:00
どっかに夫婦の墓があるって聞いた事あるから結婚してたんじゃない?
676 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 00:48:25
昔の人なら10代半ばくらいで結婚しててもおかしくはないだろ。
677 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 18:00:34
とりあえず今回の大河ドラマの配役だけはガチで渋くていいと思う。
今までの北条のなかでは一番ぴったりくる。
それにしても、2代目以降の通字「氏」の由来が分からない
伊勢家の通字は「貞」や「盛」だし(遠祖・平貞盛が由来?)
宗瑞の諱も盛時だから、「氏」は誰かからの偏諱なのかな?
わからないと考える理由がわからない。
尊氏→関東公方→後北条氏
680 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 13:01:58
北条が秀吉に臣従して残っていたら、家康が将軍になったとしても、
江戸に幕府は開けない。
伏見城が家康の管理下になっていたようだから、伏見幕府か?
681 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 13:07:36
氏政か氏直が上京して秀吉に従っていたら、関東の領土は
そのままになっていた可能性が高い。
そして、北条氏は6大老?の一人として、家康並の地位を与えられていただろうに
つまらん見栄で家を破滅させた氏政は阿呆
682 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 13:08:44
683 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 13:38:28
> それにしても、2代目以降の通字「氏」の由来が分からない
たぶん、早雲の元の名前、伊勢新九朗長氏の氏だろう
盛時つってんだろ。氏親だ氏親。
今川家あっての北条家でございますってやつだ。
685 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 17:51:18
長氏なのか盛時なのか、はっきりしてくれ。
,ィ⊃ , -- 、
,r─-、 ,. ' / ,/ } ち
{ ヽ / ∠ 、___/ |
城 ヽ. V-─- 、 , ',_ヽ / ,' ょ
ヽ ヾ、 ',ニ、 ヽ_/ rュ、 ゙、 /
ま \ l トこ,! {`-'} Y っ
ヽj 'ー'' ⊆) '⌒` !
で , 、 l ヘ‐--‐ケ } と
ヽ ヽ. _ .ヽ. ゙<‐y′ /
来 } >'´.-!、 ゝ、_ ~ ___,ノ
| −! \` ー一'´丿 \
い ノ ,二!\ \___/ /`丶、
/\ / \ /~ト、 / l \
伊勢新九郎長氏って久々に見た
つーか、盛時だろーが
688 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 19:42:55
でも、俺は伊勢新九郎長氏って言った方が耳になじむな。
盛時ではピンとこない。
よし、お前の名前はこれから「ながうじ」だ
みんな!あたらしくこのスレにきた「ながうじ」だ!
仲良くしてやってくれよ!!!!
691 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:51:29
もとは今川の家来のようなものだったから
北条は今川から氏の字をもらったんだろうと想像してみる
692 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:52:23
足利高氏
足利義詮
つい最近出た南原幹雄の「北条早雲」読んでるんだが、近親相姦は真実なのか?
あまりの生々しい描写にエロ小説かと思った。
足利晴氏
696 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 19:43:58
>近親相姦は真実なのか?
昔なら普通だろ・・・
叔母が甥の筆下ろしをしたり父親が娘の処女を奪う風習のあった土地も
あるっつーしw
697 :
694:2007/02/20(火) 23:18:10
まあ腹違いの姉なら勢い余ってやっちまうこともあるか
伊達成実の両親は叔父姪だし、島津義久の正室は叔母、
長曽我部元親は嫡子の信親の娘と信親の弟を結婚させ
ようとした。
いずれも、ややこしい相続問題を手っ取り早く解決する
ためだったみたいだけどね。
699 :
杉 良太郎:2007/02/21(水) 04:24:15
松田、康郷。そちたち氏政に、天下取らぬは北条家の名折れなどと申しておるのか?
701 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 21:55:27
異母兄妹で子供を作りまくっていた一族がいたらしいぞ
その一族の末裔は 今も生き残っているらしい
702 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 02:31:54
>>694 南原は普通の小説も書いていたのに、
いつの間にかやっつけみたいな筋に、サービスエロ描写入りの傾向。
他の作品でもエロいのは多いぞ。
と、言うか小説の設定をいちいち真に受けるなと。
703 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 18:36:54
曾祖父まで500年間下総在住なので、千葉氏に興味を持ち、最近北條氏にも興味を持ってる。
先日黒田基樹氏の『戦国北条一族』読んだ。
氏綱の氏は今川氏親の偏諱らしいね。
よく分からないのは、なぜ近衛尚通のようなやんごとない人の娘が氏綱に嫁いだのか。
黒田氏によれば、氏綱と近衛氏との間には子はいなかったとのことだが、
その前に読んだ『関東管領上杉一族』や各家成員リスト
http://nekhet.ddo.jp/people/japan/gohoujou.html には、足利晴氏室は近衛氏所生とある。
>>698 北條(千葉)重直も姪と結婚してるね。
ところで氏康9男光胤が粟飯原氏を継いだってのはどの程度信憑性あるのかな。
704 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 19:33:42
後北条氏が伊勢氏の一族ならわざわざ北条氏を名乗らなくても伊勢氏
のままでも十分関東の豪族に通用したと思うのですが
705 :
703 :2007/02/24(土) 21:23:34
>>704 北條氏政と上杉謙信(山内上杉継承後)は
お互いを「伊勢」「長尾」と呼び合ったそうな。
つまり「北條」「上杉」という名字が持つ関東支配の正統性を、相互に否定しあったということらしい。
706 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 23:36:53
鎌倉以来、将軍=執権(鎌倉公方=関東管領)のラインが
東国に君臨する正当性を持っていた。
要は義氏を古河公方として擁立する北条氏と
藤氏を推戴する上杉氏の争い。
よそ者の伊勢氏じゃ、つぶしがきかないんだよ。
北条執権家の名跡を継いだら400年の歴史の重みがあろう。
山内上杉家より、古くて正統な家柄だと言い張ったわけだ。
伊勢家と長尾家はともに桓武平氏。
伊勢氏政と長尾景虎の最も近い共通の男系祖先は誰になるんですかね?
>>705 > 北條氏政と上杉謙信(山内上杉継承後)は
> お互いを「伊勢」「長尾」と呼び合ったそうな。
何か、腐れ縁のようなツンデレな仲の良さを感じてしまうw
710 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 23:21:35
711 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 00:09:16
>>662 茶々丸が「悪」になったのは、継母を殺した後で京都にいた継母の子供・義澄が将軍になったからじゃないの?
義材が将軍だったら、そのまま公方だったろう?
712 :
707:2007/02/26(月) 00:41:11
>>710 ありがとうございます。
しかしたまげたなぁ、こんなに遡らねばならないとは・・・
713 :
703 :2007/02/26(月) 00:51:53
>709
うまい表現w>ツンデレ仲良し
で、実際越相同盟に動くと「上杉弾正少弼殿」、締結すると「山内殿」
と、謙信宛書状の宛名が丁寧の度を増していくそうだ(by 黒田氏)
実際には越相同盟は破綻するし、北條滅亡の引き金を引いたのは上杉らしいが。。
714 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 01:02:49
鎌倉・室町幕吏の伊勢家が執権北條氏の名跡を継いだり、千葉介一門が将門公後裔の相馬家を嗣ぐのは、同じ(桓武)平姓だからさほどの違和感はない。
しかし、佐竹氏が『新羅三郎源義光公直系』を名乗るのは…
上杉一族のくせに!
画像を見ると、髭面で豪放な氏政と坊ちゃん風の氏直が好対照ですな。
氏政、氏直を描いた画工は土佐派の画人。
そういう画風の個性ってものがあることも考慮したほうがいいよ。
桓武平氏かどうか疑わしい北条家(俺は平氏一門だと信じたいが)より
系譜がはっきりしている伊勢家や長尾家のほうが本来は格上なんだろうな
>>717 716だけど。
ソースも何も、普通に北条氏政、氏直画像として掲載される、
よく見かける画像のことを言ってるんじゃないの?
おれ眼力ないから715の言ってる違いがわからん。
721 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 18:03:40
>>718を要約すると、
天下一統を果たした尼御台こと江間某女(北条平政子)はどこの馬の骨なの?
伊勢新九朗(伊勢平盛時)の方が出自がはっきりしているし身分が上ではないの?
と言ってる。これは同意せざるを得ないな!
>>715 そっくりなので、同意できない。
722 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 20:47:30
>>722 江戸時代の軍記物にしか出てこない名前なので、信憑性はゼロ
724 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 00:14:05
725 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 07:16:20
今時長氏とか氏茂とか・・・・
もう伊勢盛時でいいんじゃね?弱点若干有るけど、
ほとんど説得力有る学説だと思ふ。
726 :
715:2007/03/01(木) 11:30:19
>>721 氏政は酒もちながら「うわっはっはっは」と笑ってました。ちなみにマッチョでした。
氏直はおどおどしてました。
絵を見る限り、かなり性格が違う親子という感じだった。
>>726 そんな画像見たことないな。
何かの軍記物語の絵草紙の挿絵か何かだろ。
728 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 22:42:38
>>727 しかも明治頃の挿絵じゃね?
でもそう聞くとその726の絵見たくなるな。
早雲寺所蔵の、いかにも親子って絵以外見たこと無いわいな。
>>726 ちょwwwそれって「花の慶次」じゃね?!www
花の慶次だろうな
慶次だと氏規は隠居ジジイ
そのうち、戦国無双とかBASARAの画像を基準にモノ言う人とか出てきそうな悪寒
それは確かに悪寒が走るような事態だ
733 :
日本@名無史さん:2007/03/02(金) 20:54:21
734 :
730:2007/03/02(金) 22:04:08
735 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 15:31:51
小田原北条は関八州の太守である。
736 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 15:43:10
737 :
721:2007/03/04(日) 17:39:28
>>715 何か誤解しちゃったのかな?もう一度画像を良く見てみてね!
それは本物の親子でなくて実は泰山妖拳蛇交帯の使い手が、
氏政役で 友 情 出 演 してるんですよ!
絵を鵜呑みにしてないできちんと漫画の内容を把握しようね。
またいろんな書物や日本画もみようね♪
そうそう、幻庵和尚は絵画や鞍作りの名人だったそうよ!
738 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 04:54:35
>>705 最初は確かにそうだったけど、越相同盟締結後は普通に「山内殿」「北条殿」って書いてるよ。
739 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 06:00:31
>>705 ついでにいうと、それ氏政じゃなくて氏康だよね?
氏政の家督継承は越相同盟締結後。
>>711 それはあるかもな。
元々9代将軍義尚の存命中から、政知の後妻の子である義澄と潤童子の兄弟を
時期将軍と関東公方に擁立する計画が存在してたわけだし、そういう意味では、
10代義材としては、自分が将軍になるときに既にライバル的な存在だった
義澄とその一派は邪魔な存在。
茶々丸が潤童子とその母を殺害したところでお咎めなしだろう。
実際、茶々丸の継母と異母弟殺害から明応政変&早雲伊豆侵攻までの2年間、
義材は茶々丸を咎めたり討伐しようとしたりした形跡はないね。
ただ茶々丸を関東公方として公認するなら、偏諱を与えて元服させてやっても
いいのにって気もするが。
740 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 07:27:01
当時の管領細川政元の養子の澄之(実父は九条政基)と将軍足利義澄は従兄弟同士。
何故なら九条政基の妻と足利政知の後妻が姉妹。
さらにこの時期の関白は、九条政基の嫡子で細川澄之の同母兄の九条尚経。
この辺りのコネクションが明応の政変の伏線。
742 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 20:31:37
伊勢家には北条家の血が男系女系問わず
多少なりとも入っていたんですかね?
長尾家には上杉家の血がちゃんと入っていたそうですが。
はぁ?
744 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 20:52:45
ここは北条スレなんだが。
長尾氏について興味あるなら、まずは横浜市栄区長尾台に行ってきなさい。
大船からすぐだから。
745 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 00:54:11
>>742 女系もOKなら、入っている可能性はあるかも。
足利一門出身の大名の大半には、鎌倉期段階で鎌倉北条氏の一族の家との婚姻関係がある。
で、伊勢氏は、そうした足利一門出身の守護大名達との閑院関係がかなりある。
746 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 11:45:25
為昌はなぜ為昌と名乗った?
一族で「為」を使ったのは為昌だけ
「昌」は烏帽子親大道寺盛昌の諱だけどもう一つを「為」にする必要はないと思う。
通字から「氏昌」
父の諱から「綱昌」
兄の諱から「康昌」
祖父の諱から「時昌」
などとすることはできなかったの?
もし氏昌だったら氏政は氏政じゃなくなっちゃうけど
747 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 23:18:06
相模三浦氏の通字が「為」だからそれと関係あるのかもよ。
748 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 03:01:43
何度か小田原にも来ている、冷泉為和が加冠親になった
可能性も指摘されてる。
天文五年に、小田原城中で開かれた為昌主催の和歌会に、
今川氏輝共々為和が招かれたと、為和の伝記にも記録が
有るとの事。
749 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 10:59:42
その頃、北条勢に占領された浜松城本丸では
「ギャ!グッワ!待ってくれ!待ってくれ!」
家康は、叫んだ。
「許してくれよ!秀吉が恐かっただけなんだから」
「バキッ!ボコッ!」
氏直はかまわず殴り続ける。
「ヒッー!助けてー!助けてー!」
家康が悲鳴に近い叫び声をあげた。
「お前みたいな奴がいるからいけないんだ!」
氏直が叫びながら殴り続ける。
「ギャー」
家康の血があたりに飛び散った。氏直の籠手も血で染まっている。
「世の中!狂ってんだよ!狂ってんだよ!」
氏直の形相は、もう尋常ではなかった。その様子を見ていた、督姫も小太郎も言葉を失ってしまっていた。思わず督姫が言った。
「新九郎さま!それ以上やったらお父さんが死んじゃう!」
「ガッシ!ボカ!」
氏直には、まったく聞こえていない。家康も失神したのか動かなくなった。
「キャー、やめて!」
督姫が叫んだ。
「あっ……はい」
小太郎が後ろから氏直を押さえた。
日本語でおk
751 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 19:27:00
為昌・・・笠原信為からの「為」って説も有るけど、家臣から
主君筋へ一字書き出しってーのは有りかいな?
烏帽子親になるほどの人物であれば或いは
>>749 この「あっ…はい」コピペ、元が何のコピペだったか思い出せない……
755 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 18:49:31
>>752 烏帽子親で一字を与えるとしても、下の字を主筋の子息に
与えるもんだろうか?上の『信』なら、有り得るかも知れんけど・・・。
756 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 00:45:21
757 :
現代歌舞伎の源流は北条氏の生き残り:2007/03/27(火) 22:32:40
豊臣秀吉の北条攻めで降伏した北条家ですが、本拠地の小田原城は攻め滅ぼされたのではなく降伏して開城しました。
その為、小田原城にいた北条家の者も、その家臣も多くの者が生き延びています。
攻められ落城したのはその他の支城です。
また、小田原城の降伏は7月5日であり、八王子城の落城は6月23日です。
北条家四代目当主、氏政は切腹しましたが、その子で北条五代目当主、氏直は高野山に隠居させられた後、
その後、豊臣秀吉に許され一万石を与えられて大名に復帰しています。
四代目、氏政の弟、氏規も氏直と同じく秀吉に許され、8980石を与えられています。
亡くなった後を、その子、氏盛が後を継ぎ加増されて1万石の大名となり、その後、狭山藩藩祖となりました。
氏規と同じ四代目、氏政の弟、氏邦は前田利家に1000石で召抱えられました。
二代目氏綱の次男の血筋である氏勝は徳川家康に1万石で召抱えらました。
北条家の家臣も多くが新たな主人に召抱えられています。
安土桃山時代、豊臣の世に反抗した傾き、演劇風刺のようなものが歌舞伎に発展したのです。
特に、豊臣に攻め滅ぼされた北条ゆかりの者たちが、江戸や浪速などで積極的にこの演劇をやっており、
そこに徳川が目をつけ、北条ゆかりの者の演劇は、寛容に対応した方針を出したとされます。
徳川は思想的動向には厳しく、出雲の阿国などの女歌舞伎の系統は、様々な規正をかけられて衰退していきました。
反豊臣に傾く北条のゆかりのものだけが現代に残ったのです。
758 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 19:27:17
>>757 攻めてきた相手が秀吉で良かったね。
惣無事令に逆らった島津も、織田(→羽柴)方の武将、十河存保を四国から追い出した長曾我部も許してるし
もし攻めてきた相手が秀吉の先代の信長だったら、絶対不寛容だから相手が「ゴメンなさい」と謝っても容赦なく斬るだろうし。
759 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 20:57:23
信長だったら傘下に入ってたんじゃね?
有能な武将は家臣になれたろうけど家が残るかどうかは・・・
甲斐の虎、越後の龍、独眼竜、海道一の弓取り・・・
相模の亀
762 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 21:20:32
長尾(エセ上杉)なんか戦わずに羽柴の家臣に成り下がりやがった・・・
伊勢(エセ北条)も北条みたい華々しく戦って消滅したほうがまだ良かった
763 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 12:19:31
北條の武将・猪俣邦憲が名胡桃城を攻めた件で完全に秀吉の惣無事令をコケにしてるわけで、攻められても仕方ないね
でも、同じ事をしてる島津は領土没収もされなかったこの差は何だ?
平安末期以来の家柄(島津家は近衛家の末裔)なのと、伊勢平氏(北條は元・伊勢氏)とでは家柄が違うから扱いも違うのかな?
単に挑戦、民攻めを念頭に置いていたからでないの?
戦は馬鹿みたいに強いし、大陸側の海路に精通している。
無理に滅ぼして薩摩の統治に厄介事を抱えるより、大陸で
大消耗させるつもりだったんじゃないか?
>>763 >同じ事をしてる島津は領土没収もされなかったこの差は何だ?
ああああ?
島津攻めの時は、まだ敵対勢力もいたから、早めに戦を終わらせたかったんだろう
それに、島津は本領に攻め込まれていないうちに降伏した
北条攻めの時は、もう敵対勢力もいなくなっていたし、ろくに戦いもしないで
無礼な北条は許せんだろ
じゃあ、もしも秀吉に攻められる前に、氏直が頭を丸めて箱根の関辺りで秀吉に降伏してりゃ相模・伊豆・武蔵・上野は安堵されてた可能性は高かったの?
全部安堵は無理だね。
島津の場合だと、双殿体制(当主義久に加えて義弘も当主とみなす)になり、
九州征伐前から、停戦交渉に当たっていた伊集院忠棟は、半独立扱いになり
支配体制は、ズタズタにされた。
北条の場合、相模・伊豆に武蔵の三ヵ国残してもらえたら御の字だろう。
それでも、氏政の弟や氏直の弟、重臣等に分割だと思う。
768 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:31:10
>>763島津が近衛家の末裔? 惟宗姓だぞ
「伊勢平氏」ってのは平清盛の家系だよ
少しは勉強してからカキコしろよ!
769 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 21:02:46
さっさと上洛してたら全部安堵するね。
史上最高の戦略家の俺がいうので間違いないよ!
少なくしたら反目して戦いが起きるに決まってんじゃないか!
秀吉はそういった馬鹿はしないだろ!お前らが謀反を基本に考える中華的中央集権的
考えだからそうなる。秀吉は江戸幕府を知らないのでそんなのしない。
>>767 は重臣に分割は、直臣になることだろ。
氏照と氏邦は本知分の10万石程を安堵で秀吉直臣にするな。
あ千葉と佐野は直臣だな。いっている意味はわかるが、変な言葉使うな。
なにが重臣分割だ。言い換えるな。三ヶ国で御の字って馬鹿ですか!
他国衆における減俸は織田家も羽柴家もそんなことやったことがない。
むしろその後の歴史でも徳川家にもやりすぎってくらい加増してるし。
絶対に粛清的減俸はない。なぜなら天下一統が朝鮮まで含んでいるからだ。
秀吉は唐入りさっさとしたいんだもん!
770 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 21:10:18
>あ千葉と佐野は直臣だな。
多分、忘れ去られたまま気が付けば北条の一武将あたりに落ち着いてそうな悪寒・・・w
771 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 21:14:36
>>769 >重臣に分割は、直臣になることだろ
少し微妙だな。鍋島と竜造寺、毛利と安国寺の例もある。
実現はしなかったが、秀吉は伊達政宗の家臣・片倉小十郎にも5万石与えようとしたし。
>>771 直江も取り分指定だっけ?
自分の懐を痛めず、相手の歓心を買い、しかも相手の主家には不和の種を撒く……えげつねーなー。
弱点は、本当に寝返って来られると逆にマズーなところか(石川数正とか)。
>>772 織田信忠の家臣だった前田玄以を独立させて五奉行の1人としたり、丹羽長秀の家臣だった長束正家を独立させて五奉行にしたりと実力のある者は大名に取り立てるという姿勢だから、そういう意味では信長の精神を受け継いでると言える。
でもその一方では、丹羽長秀の息子の代になって大幅に減封したり、主家の織田信雄を改易したりと器量の無い者に対しては厳しく対処したね
信雄に関しては主筋に当たるから不安因子の除去で改易じゃないの?
775 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 23:34:35
またまた家康と組まれたら困るからな〜
776 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 23:48:29
島津は源頼朝の子孫
と言うのは
徳川は新田の子孫
と言うのと どっちが怪しいですか?
織田徳川北条連合ので敵対されるのが、豊臣政権初期の最悪のシナリオでさ
もっとも恐れる徳川の両翼をもぎ取り、加増しつつ国替えって
秀吉の理想のシナリオだったんじゃないかと思うよ
778 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 07:10:33
名胡桃城を攻めた猪俣邦憲は、本当に戦後斬られたの?
逃げ延びたとか、最後がはっきりしないようだけど・・・・。
779 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 12:24:55
邦憲は箕輪城にて防戦したが、箕輪城が落城するといずこともなく逃亡してしまう。
小田原城落城後、豊臣側の厳しい探索によって捕捉され、磔に処されたといわれているが、
実際は弟の富永勘解由左衛門と共に前田家に仕えたという。
780 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 02:58:59
-----------コピペ中-------------
オイオイ あまりの低レベルに呆れるよ
「あだけ丸(武士、漕ぎ手五十人乗り)」があったからこそ先の聖戦に勝てたんじゃん?
「軍船に無駄なリソースを注ぎこんだのは失敗」って?
ハア 一体なに言ってんの?
箱根攻防戦で莫大な戦死者を出して北条軍の屈強さに怯えきった秀吉が
秘密兵器の一夜城を2つも投入として
まだなぉ戦意煌々一片の恐れも見せぬ北条軍、関東民の精強さ!
それもこれもはるばる駿河湾まで勇躍進出し、
群がる敵水軍の大群を一撃、怒りの下に叩きのめして
その後、敵に鹵獲されるのを妨げるべく
サムライの切腹の如くに見事自沈して見せた
その尊艦の威厳によって全国民が勇気つけられた故だろうが!!
結局、これによって軟弱な豊臣どもは心胆恐怖に震えさせて
小田原強襲を断念せざるを得ず、八方手詰まりの面目丸つぶれに陥った。
最後は御大途の恩情をもって終戦の運びとなったわけだ。
このことひとつを取って見ても国家鎮護の聖霊の具現たる大戦艦「あだけ丸」が
北条の勝因の一大要因であったことは露ほども疑問の余地が無いっつーワケ
わかった?(苦笑)
-----------コピペ終ワリ-------------
そもそも北條氏が沼田城に猪俣邦憲を城代として配置したのが間違いじゃね?
秀吉によって裁定されてたのに、それを主君の命令を待たずして邦憲が名胡桃城を奪取したのが北條滅亡の起因だと俺は思うんだが
782 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 16:09:36
また通説に騙されてる方が一匹釣れましたw
そんなことより、『北武蔵を駆け抜けた武将たち』という何か地雷っぽい本の
VII 河川の水運と鎌倉街道――後北条氏と利根川流域の城――鎌倉街道(往還)
が気になる今日この頃。
あ、そうそう、来週の土曜に『寄居北条祭り』があるはず。
去年は一足遅れで鉄砲撃ったりするのに間に合わなかったから、今年は朝から行くかw
783 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 19:56:50
根拠もなく通説を否定して偉ぶってるよw
オタスケマン病は去ってくれないか
785 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 01:15:01
>>781 このスレのどっかに有ったような気がするが、氏政が名胡桃奪取を
命じてる文書が発見されたとか。
>>785 それって秀吉が北条を罠にはめるために作った偽物じゃん
ソースは池波正太郎の真田太平記w
伊勢宗瑞って何で北條早雲って呼ばれてるの?
彼が生きてた頃は苗字は伊勢であって、北條と改名したのは宗瑞の死後の1523年に氏綱が改めたのであって、彼が生きてる頃は北條ではないはず。
また早雲っていうのは早雲庵っていう号だから、この呼び方は間違いだよね?
武田信玄、上杉謙信みたいに苗字+法名で呼ぶのが慣わしなら、伊勢宗瑞が正しい。
>>788 君のレスは「今さらな事を知ったかぶってw」って分類にはいるんだよ!
いわれてみれば、たしかに変だ。
伊勢姓で呼ぶときは「伊勢宗瑞=vと呼ぶのに、
なぜ北条姓で呼ぶ場合は「北条早雲=vになるんだ?
791 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 06:50:31
>>790 いわゆる通称って奴だろう。
死後は『早雲寺殿』で、姓は北条になってるし、
大方その辺から後世名づけられたんじゃない?
語呂も良いしね。
北条早雲って変厨
真田幸村はいなかった厨
みんな大人で通史用語として容認してることを、
厨房さまが知ったかぶってご指摘。
はいはい、貴方は物知りですねー。とでも言われたいのか。
小田原城を本拠地としたのは氏綱の代からだよね?姓も北條と名乗ったのも氏綱からだし、氏綱が北條氏の始祖なんじゃないの?
>>791 支那史で言うと、漢から禅譲で皇帝に即位して魏を建国した曹ひが、父・曹操を太祖・武帝と呼ぶようなものか
794 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 15:53:41
早雲は、家康の先祖の長親に負けているはな。
795 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 16:59:13
どうでもいいが、北条祭りは14日だったw
ちうか、北条氏邦の正妻の大福御前って1593年6月9日に自害だか病死
だかしたけど、何で氏邦は前田家に再就職が決まった後に迎えに行かなかった
んだろ?
>>793 やっぱり伊豆一国という基盤を築いたからこその北条家なわけで・・・。
ある意味そーうんを神格化させて一族郎党の結束を図ったんじゃまいか?
>>796 伊豆一国を獲って基盤にしたとはいえ、相模に本拠地を移してるわけだから、やっぱり始祖は氏綱でしょ?
宗瑞と氏綱の関係は、清のヌルハチとホンタイジの関係と似てると思う
>>792 おかしいことをおかしいといって何が悪いんだ?
荒らしは消えろ
>>797 伊達家における9代政宗みたいなもんじゃね?
初代よりもクローズアップされるわけじゃない。
親が作った基盤勢力を隆盛させるよりも、
そもそもの基盤を作るほうが大変なわけで。
一城の城主になるだけでも評価すべきところを
一国の国主ではできすぎなくらいだし。
>>795 大福御前にとってみれば、故郷を去りがたしって事だろ?
801 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 23:00:47
しかし、氏綱は信仰心篤いは結構だが、相次ぐ寺社再建・造営で
財政は疲弊、家臣や領民の苦労は並大抵の事じゃなかったらしいな。
それで氏綱の価値が下がる訳ではないけど。
>>800 大福御前は家つき娘みたいなもんだからな。
氏照夫人の大石氏は、結局は生没年享年墓所不明なのだろうか。
一般的評価は
氏康>宗瑞>氏綱>氏直>氏政
氏政・氏照兄弟は強硬派だから、一族の命運をかけて秀吉に楯突いたわけで、もし氏政・氏照が世を去っていたら、氏直は秀吉になびいて関八州を治めてたに違いない
氏康は宗瑞を超えるのかな?
なぜか、日本史では間違って覚えさせられてる事って多くない?
○伊勢宗瑞
×北條早雲
○大坂本願寺
×石山本願寺
○やまうちかつとよ
×やまのうちかずとよ
○秀吉の苗字は羽柴のまま
×秀吉の苗字は豊臣に変わった
まあ歴史学も発展するし
仁徳天皇陵や源頼朝肖像、足利尊氏肖像なんて
俺が習った頃と違うんでしょ?
嘘って言うか・・・
嘘を教えていた訳じゃないだろう。
当時はそう思われていたということだ。
810 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 20:25:21
近代の慰安婦問題だの南京問題だのは大嘘だけどねw
他にも嘘が多いけど。
織田信長が上洛してから、関ヶ原の戦で徳川家康が勝利して羽柴秀頼が摂津・河内・和泉の3カ国の大名に転落するまでが安土・桃山時代っていうのも嘘なのか
812 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 00:46:02
北条氏が持ってた水軍に関する資料とか解説してるサイトとかって
無いですか?
813 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:37:38
北条氏ってなんで5代100年もかけて関東地方を統一できなかったんですか。
地形的には広大な平野がひろがっていて軍事行動は起こしやすそうだし、
他の有力大名と比べた場合、信長は別格としても毛利・長宗我部・島津などが
1〜2代で中国・四国・九州を統一してしてるのと比べても征服のスピードが
遅いと感じるのですが。上杉謙信が邪魔したからとか?
あはは・・・
相模の亀だから
軍事行動は双方同じ条件であれば平野でも山間でもあまり変わらんと思うが
関東管領山内上杉を関東から追った後は財政再建やら凶作の対応なんかで手間取ったからなー
謙信の関東遠征は挫折していたから時間の問題かと・・・
それより信玄の駿河侵攻に巻き込まれたのが痛かったかな?
甲相同盟が再締結されてからは比較的順調に関東制覇が進んだけど
佐竹・蘆名が和睦したことと御館の乱以降の勝頼の上野・駿東侵攻が痛いよなー
武田が滅んだ後は豊臣vs徳川・織田・北条連合の合戦で動いたから以前の佐竹や真田とはわけが違うし・・・
ここからは北条のレスじゃないけど
毛利元就・隆元・輝元はよく頑張ったよな(暗殺多用ですが)
ただ宇喜多に利用された感じがするから中国統一はどうだろうか?
長曾我部の四国統一は四国自体国土が狭いし他国は内乱状態だから逆に遅すぎのような気が
島津は龍造寺と大友に人望がなかったことが勝因かと
甲斐宗運と高橋紹運の二人がいなかったら本当に九州統一できたかもね
1971年、氏康死後の武田との同盟再締結って氏康の遺言なのかな?
819 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:14:29
>>819 >>武田が滅んだ後は豊臣vs徳川・織田・北条連合の合戦で動いたから以前の佐竹や真田とはわけが違うし・・・
後に徳川は豊臣に臣従してしまったが、それでも北条は真田・佐竹・宇都宮を追い詰めていた。
820 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 23:16:30
結局は豊臣に臣従したした徳川・その他の武将連合VS北条なったじゃない。
島津は忠良が宗家を襲ってから四兄弟が九州征伐されるまでに結構な年月が過ぎていると思うが
地方と中央の人口の差もあるでしょ。
中国なんて山で分断されまくって耕地も少ないだろうし
824 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 13:26:55
関東だって、大平原をイメージするけど、北条氏がブイブイ言わせてた時代
は、耕作可能な土地とかって思ってるより少なかったしな。
川はしょっちゅう大氾濫してたみたいだし、台地上は水がなかったし・・・。
825 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 01:10:56
>>817 長宗我部の場合、永禄〜元亀くらいまでは、勢力拡大したくても身動きが
とれないと思う。
この段階くらいまでは四国の東半分では三好(元は細川)の勢力が強い。
また伊予や土佐の小勢力(一条、西園寺、宇都宮、河野など)は、勢力自体は
弱小だけどいずれも前代からの名族とされるような家だし、永禄〜元亀くらいが
全盛期の毛利や大友とコネのある家も多いから、武力で滅ぼしてしまうことには
かなりのリスクが伴う。
結局、長宗我部の勢力が拡大し始めるのは天正年間になってからで、この段階に
なると、三好は畿内での織田信長との抗争の中でガタガタになっているし、
毛利や大友も国力を徐々に消耗し始めている。
そして最終的に本能寺の変後の権力の大きな空白が生まれた時期に
火事場泥棒的に長宗我部の四国統一が実現するってイメージ。
織田が急速に台頭しなければ毛利は中国統一、長曾我部は四国統一ができたかもしれないという事かな?
それに対して上杉・武田・北条は足の引っ張り合いで地方統一は厳しい状態という事だね
>>826 織田の勢力拡大がなければ、毛利が四国の統一に介入して、
長宗我部の四国統一は夢で終わるのでは?
また織田が弱ければ、勝頼の代になっても武田は瓦解しないかもしれない。
・・・たらればたられば。言ってもしょうがない事だが歴史の醍醐味でもあるw
できれば北条の話題で進むと嬉しいかな
毛利・長曾我部・島津はついでぐらいで・・・
そんでもって北条家が関東を平定するなら誰の時が可能性があったんでしょう?
私的には氏政かなと思うけど
たらればで大事なのは、何故できなかったか・・・・かな?
義元が戦死しなかったら三国同盟がもっと生きて、
氏康時代にもっと勢力拡大できたろうし。
信玄の関東侵攻もなければ、兵力を北と東に限定できるから
戦略的にも安定するだろうしね。
830 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 16:34:57
>>487 それを挙げてみろといってんだよ馬鹿w
お前の負けだボケ
なんだか知らんがちょっと落ち着いたほうがいいよ
>>813 > 地形的には広大な平野
おまい関東人じゃないだろ。地図帳だけ見てモノを言うくせは考えた方がいいぞ。
833 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 17:39:14
鉢形城の近くに住んでますが何か?w
834 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 18:08:44
>>831 時間はたっぷりやったのに腰抜けの馬鹿がいつまで経っても根拠を提示しないもんでなw
やっぱり馬鹿は馬鹿でしかないみたいだ
誤爆じゃなかったんだ・・・
836 :
813:2007/04/15(日) 18:50:04
>>832 いいえ、神奈川県民です。相模原だけど。
ちなみに近くの高層マンションに登ると
見渡す限りほとんど起伏のない平地が広がってます。
他の6都県は車でしか行ったことないので徒歩の感覚は分からないけど、
行軍の障害になるほど地形が険しいとは思えなかったです。
利根川とか霞ヶ浦付近の水郷地帯は別ですが。
いまさら8月の話題かよ!
>>813 史上最高の戦略家の俺様が答えましょう。
それは勢力圏というか版図を主語にしているからではないかな?
実質的支配と掌握自体は北条家伊勢氏の方が完全な知行地としているよ!
これは氏政と山角の功績がとても大きいよ。
商人と職人と寺社家もほぼ完全に把握しているよ!所領役帳でさえ他の群を抜いてるのに、
その後の評定衆と氏政の活動をみれば、それの数倍優れた行政を行っているのは一目瞭然だよ!
島津家、毛利家や長宗我部家は、版図でみると統一しているようにみえるが
国力の半分近くを占める「商家や寺家や職人衆や惣村」をちょっとしか掌握していないよ!
20万分の1日本シームレス地質図
ttp://www.aist.go.jp/RIODB/db084/ を参考にするとよいと思うよ。のっぺらに見える関東平野も沖積平野と洪積台地が入り組んでおり
それによって、北条家の関東進出も左右されていることがわかるから。
データーがでかいので非力なPC、回線だと辛いけど。
灰色のHの地域が沖積平野、薄緑のQの地域が洪積台地と考えて良いと思う。江戸期における、利根川、荒川の
付け替えよりも以前の武蔵は入間川、荒川、神流川、烏川、利根川(広瀬川)、渡良瀬川(太日川)、思川が
この灰色の地域を網の目のように乱流していたと考えられる。
現在のように利根川は一筋にまとめられていないので、後背湿地も利根川と直結しており
増水時にはこれらの後背湿地も連動して増水し沼沢を形成していたのだろう。
これらの灰色の地域を通過するには、川筋に沿って発達した細長い自然堤防上の道を通過し、
さらに網の目のように分流している川を何本か渡河せざるを得ず、増水期にはたびたび
不通になることを考えれば、灰色の地域を越えて攻め込んだり、支配領域に組み込むには、
なかなかの決断が必要になると思われる。
武蔵に進出して、まずは江戸城と川越城を押さえて入間川のラインまで進出。
北西に向かい上野方面の次の要地は松山城と鉢形城で荒川のラインまで進出。
北東に向かい武蔵の中央に浮かぶ巨大な島のような大宮台地の中心地は岩槻城であり、
その北西端は忍城、北東端は足利政氏の久喜の甘棠院か。
羽生城は武蔵だけれど、地形的には館林との関係も深く、上杉謙信の関東の最後の砦となったのも頷ける。
久喜からさらに北東を望めば、利根川低湿地帯の対岸の猿島台地に古河城、栗橋城、関宿城がつらなる。
歴代の古河公方はこの利根川低湿地帯を、大きな外堀として利用し、山内上杉、扇ガ谷上杉と争った。
栗橋城は、北条家の下野、常陸進出の橋頭堡ともいうべき城でこの方面の司令官である氏照が支配した。
隣の関宿城は常陸川低湿地の最上流部に位置し、利根川低湿地とにはさまれた細長い台地の上にある。
下野から下総方面へ陸路で南下する場合も、利根川筋から常陸川筋へ水路を利用する場合も通過する
四通の要地であり、「一国にも等しい価値」はあるのだろう。
江戸から東に向かった対岸は国府台城であり、北条方から見ればここを失えば下総、上総方面への
橋頭堡を失うことになり、里見方から見れば、ここから追い落とせば下総、上総は一安心という要地である。
などなど、妄想がふくらむ...長文失礼。
841 :
sage:2007/04/16(月) 20:34:19
だから早く北条の河川水軍のソース出せよボケ
>>840 深い考察楽しませていただきました。
今後もいろいろ提供してください
843 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 21:47:20
845 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 22:27:13
846 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 08:22:48
氏政のお気に入り女が”おしゃぶ”だってよ
えろ杉
847 :
839:2007/04/18(水) 09:24:39
839でつ。
実は、最近になってこのスレを見ました。熱い議論のログを見て「この頃に参加してー」と思っていましたが、
当事者の方がまだいらっしゃるようなので、ちょっと参加。839の地質図などを片手にご覧あれ。
昔から利根川の水運はあったよ。昔は暴れ川じゃなかったから。水軍は(゚听)シラネ。
中世の利根川水運の、一大商港として現在の鷲宮町八甫(はっぽう)があります。地質図では発甫と表記されていますが。
品川湊から「なまこ、たこ」などの海産物を運んでいたそうです。当然ながら内陸部では貴重品である塩も運んでいたものと推察されます。
ここで小型の船に積み替えるなり、陸路を進むなりして、さらに内陸の上野、下野などへと運搬していたのでしょう。
この付近には頼朝や義経も通った鎌倉街道中道(赤羽−岩槻−高野渡−幸手−元栗橋−川妻−古河)や、羽根倉道(奥州便道)
(武蔵国府−志木−羽根倉橋−上尾−久喜清久−鷲宮神社−川口渡−高柳−栗橋−古河)などの当時の幹線道路も通っています。
中世の利根川の治水の要は、中条堤による遊水機構です。上流で降った大雨は行田市酒巻より上流の
広大な遊水池に溜め込まれ、ゆっくりと下流へと排出されていました。当時の酒巻付近の川幅は狭くなっており、
利根川(広瀬川)、烏川、神流川などの水はこの付近で滞留してから、ゆっくりと下流に流れていきました。
有史以前の利根川は、前橋から広瀬川筋を流れて伊勢崎を抜け、深谷市北方からさらに南下して熊谷付近で荒川と合流し、
荒川筋をくだって江戸へと流れていました。地下深くの谷がそれを証明しています。
しかし、荒川上流からの土砂の堆積により熊谷付近が埋め立てられて熊谷扇状地が形成されると、利根川は
南への進路を阻まれてしまいます。滞留した水は、ついには東側の酒巻付近で館林から大宮へとつづく台地の上を
よっこらせと乗り越えて東流するようになります。加須付近は台地の上を利根川が流れて沖積地を形成した特異な地であり、
埋没ロームと呼ばれています。だから館林台地と大宮台地はもともとはひとつの台地であり、地下で繋がっています。
加須の台地の上を東流した利根川は、何本かに別れて渡良瀬川の谷を形成していた北川辺、大利根、栗橋、幸手、杉戸、春日部へと流れ込み
渡良瀬川と合流して江戸へと流れていきます。
したがって、酒巻で狭窄部を形成し、その上流で水を溜め込む中条堤遊水機構は自然発生的に成立したものであり、
無理がなく、中世の技術でも十分に治水が可能でした。もちろん中条堤の内側は大湿地帯になりますが、
酒巻から下流の埼玉東部から東京にかけての中下流域の利根川は安定していたと考えられています。
現在のように利根川の治水に苦労するようになる主な理由は東遷事業と浅間山の噴火、足尾鉱毒、中条堤論争です。
東遷事業の主な目的は、埼玉東部の広大な後背湿地の新田開発と、関宿での利根川と常陸川の連結でしょう。
まあ、仙台からの軍事的な意味も多少はあったのかもしれませんが。
東遷事業の第一歩としては1594年の羽生川俣の会の川筋の締め切りが有名ですが、それよりも前の1576年には
北条氏の手により幸手に権現堂堤が築かれて幸手市天神島城付近を流れていた支流を廃川にしたのが、本当の第一歩でしょう。
なにはともあれ、東遷事業により八甫は利根川本流と切り離されて、商港としての価値は消えて、現在ではただの農村です。
東遷事業により、利根川はひとつにまとめられてこの地域の広大な、多数の後背湿地は利根川本流から切り離されました。これにより
天領であるこれらの地域では新田開発が盛んになりましたが、これらの後背湿地は増水時に水が流れ込むミニ遊水池の
役割も持っていたために、中条堤遊水機構で捌ききれない水が出た時に決壊して被害を及ぼすようになってしまいました。
本来、幸手付近の傾斜は銚子ではなく、江戸方向に下っており、古利根川筋や庄内古川筋に沿って、水もそちらに流れるのが自然です。
しかし、常陸川筋と利根川筋を関宿付近で直結させて水運を便利にするという東遷事業のもうひとつの目的のため、
関宿からから猿島台地の間を縫って標高の高い常陸川筋へ流すようにしたために、幸手付近では水が滞留するようになってしまいました。
利根川右岸の権現堂堤が切れると江戸まで洪水が押し寄せるために、わざと左岸側が切れやすくなっており、
このため本来なら猿島台地の上に位置するため洪水がないはずの五霞町が、毎年のように洪水となり完全に荒廃してしまいました。
江戸幕府成立時の街道は幸手から五霞の元栗橋(栗橋城)へと利根川を渡って、川妻から古河へと至る鎌倉以来の道でした。
真偽のさておき、家康が小山から関ヶ原におもむく際に上杉景勝の追撃を恐れて、栗橋の橋を落としたというエピソードは元栗橋ですね。
東遷事業による五霞の荒廃で、元栗橋の住民は現在の栗橋町へ移住させられ、日光街道も現在の栗橋町へと付け替えられてしまうほどです。
それでも、まだ幕府の手で制御可能な程度の状態ではありました。利根川の治水が困難になる最大の原因は1783年の浅間山の大噴火です。
関東一縁に降り積もった火山灰により利根川は急速に埋め立てられて老朽化し、天井川となってしまいました。
有史以前ならば、埋め立てられた老朽河川は洪水の時に自然堤防のどこかで決壊して、後背湿地へと流れ込み、新しい川筋がつくられます。
決壊場所より下流の標高が高い老朽河川は廃棄されて陸化するわけです。このような廃河川の爪痕は航空写真とかでもわかりますね。
ところが、浅間噴火では、もう、人が各地に住んでいるので、新しい川を認めるわけにもいかず、またもとの天井川へと押し込められて
現在へと続くわけです。利根川が治水の困難な暴れ川となるのは最近のことなわけです。
明治に入り、足尾銅山の採掘が本格化すると、渡良瀬川の鉱毒が問題になります。行徳の塩田など、江戸を鉱毒から守るために
関宿から江戸川へと流れる水を遮って、銚子方面へと流す割合をさらに増やすようになります。すると幸手付近より上流は
ますます、水が滞留するようになり、五霞より上流の渡良瀬川筋までも洪水が頻発するようになります。しかも鉱毒入り。で、田中正造と。
一方、古来より利根川の治水の要であった中条堤では、上流側の住民が、「もう下流のために洪水になるのは勘弁ズラ」と訴えて大論争になります。
これらにより、明治政府は逆ギレし、中条堤遊水機構を廃止して、渡良瀬川筋の谷中村、下宮村などをぶっつぶして、渡瀬遊水池が成立し
現在の治水の原型が完成するわけです。
あれ?なんの話だっけ?あぁ、長くなりましたが、中世の利根川の中下流域は現在と違って安定していたんだよと。
不安定になるのは江戸以降の人為的な問題と浅間山の噴火だよ。だから水運も問題なかったよと。
利根川東遷に関してネット上で閲覧できる資料はこれがお勧めです。
アーバンクボタ No.19 利根川
ttp://www.kubota.co.jp/urban/pdf/19/index.html 書籍はこれがよかったかな
利根川の歴史―源流から河口まで 金井 忠夫 (著)
河川水軍はどうなんでしょうね?古河公方の城下が里見方の海賊に焼き討ちされたというのは見たことありますけど。
海賊が本当に海の賊ならば、里見水軍が江戸湾から利根川をはるばると遡って、やってきたってことですね。
すると北条方は浦賀城とかの水軍が、河川水軍を兼ねているってことですよね。
利根川流域を荒らしている河川海賊(川賊?)を海賊と表記しているなら、そのような野伏みたいな存在があり、
お金をもらって里見方に協力したってことなんでしょうね。
どうなんでしょ。
851 :
839:2007/04/23(月) 14:58:14
おいらはスレストッパー ヽ(´ー`)ノ
852 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 20:59:19
良スレage
渡河地点に勢力張ってれば、関所じゃないけど運上金みたいなものを取ったり、
できるんじゃないかなぁと愚考
>運上金みたいなものを取ったり、
それを関所っていうんじゃないの?
855 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 04:20:28
東遷前や流路変更前の河港の場所がわかれば色々とわかるかもしれないね。
856 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 04:47:02
>>854 瀬戸内海の海賊が運上金取るのを関所って言うのかな〜?って思ったから
一応関所っぽいものってニュアンスで書いておいたw
858 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 04:01:10
>>858 ほほう、なかなかおもしろいね。
気になったのは、「大神」を昭島市大神と考え、荒川もしくは利根川筋を渡河できなかったと解釈しているけど、
「大神」は平塚市大神であり、相模川が渡河できなかったと考える方が自然ではないだろうか?
平塚市大神が小田原から小机へ向かう際の相模川の渡河地点だったんじゃないかな?
>>858 >>859 昭島市が実家の者です。
この斎藤氏は中公新書「戦国時代の終焉」の著書なので、
このスレの方には周知の人も多いでしょう。
多摩地区の歴史地理研究には欠かせない「多摩のあゆみ」
という(信用金庫が出してます)にもよく寄稿されてます。
でも、859さんの考察指摘どおり、
昭島の大神で足留めって何だか地理的に不自然のような。
ちなみに、大神から滝山城は多摩川をわたって至近です。
(正確には滝山城対岸は拝島かな、武田軍が布陣した地域です)
>>811 難しいが1568年は旧説、1573年が通説、1576年(信長安土入城)が少数説。
862 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 12:20:33
五代祭はどんなかんじですか?
明日行く予定
864 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 23:06:00
>常陸川と鬼怒川の水系は、関宿の手前で連結してたのかな?
「利根川と常陸川水系」の間違いかな?この問題は難しいよね。
ちょっと、GoogleEarthで考えてみた。やはり結論は出なかった。が、参考までに。
関宿広域
ttp://virtual.haru.gs/up/src/uho0989.png 関宿周辺
ttp://virtual.haru.gs/up/src/uho0990.png 緑色が台地、黄色は河川改修で削り取られた台地だ。
少なくとも、江戸幕府の東遷事業の途中で、上宇和田から境へ抜ける川筋が確立され、
それが「逆川」と名付けられていたというのは間違いない。
逆川という名前がついたのは、それまでの流れていた川の向きと反対に流れるようになったからであり、
ということは、それより前の時代には関宿城から上宇和田へ流れる川があったということだろう。
では、その川の水はどこから流れてきたのかと考えてみると、水源は釈迦沼と水海沼の水と山王沼の水を
足したものでしかあり得ない、という結論に達した。
大山沼の水は川妻から西へと流れて栗橋城の上流で権現堂川に合流してしまい、関宿城には流れてこない。
長井戸沼の水は無理をすれば関宿城の西を廻せなくもなくもないけど、境から常陸川筋に流れるのが自然だろう。
釈迦沼と水海沼の源流は古河市の丘里工業団地付近の雨水であり、水量的には微々たるものと考えられる。
このちょびっとの水が関宿城の上流まで流れてくる。ここからは3つの可能性がある。
1つ目は長井戸沼川と合流して常陸川筋へ流れるもの、
2つ目は関宿城のすぐ東を流れて、台町台地の東を流れて常陸川と合流するもの
3つ目が紫色で示した関宿城の西を流れ、山王沼からの流れと合流するものである。
3つに分流していたかもしれないし、2つだけに分流してもうひとつは廃川状態の湿地帯だったかもしれない。わからないw
紫色の流れは、もともと自然にあった流れかもしれないし、関宿城の北西の堀として開削してできた川筋かもしれない。
うーむ、これまたわからないw しかし、山王台地と台町台地の連続性を考えると、堀として開削したのでは?と考えたくなるところだ。
山王沼の水の水源は山王沼周辺の雨水だけであり、やはり水量は微々たるものと考えられる。紫色の流れと合流すると
また、ふたつの可能性がある。
ひとつは、元町台地と台町台地をの間を流れる川であり、もうひとつは上宇和田へと抜ける黄色の流れである。
黄色の流れが、もともとあった川なのか、流通のために開削した流れなのかは、またまたわからないw
ボーリング調査とかすればわかるのかな?
わからないことだらけなのだが、わかっていることは釈迦沼と水海沼と山王沼の水だけでは、水量がほとんどなく
そのままでは大型の船は通行不可能だったろうということだ。
すると、上宇和田の水量を増やし、水位を上げて黄色の流れを滞留させて関宿城周辺の全体の水位をあげて
川ではなくて沼のように水を滞留させるしか通船させる方法はない。そんなことが、中世にできたのだろうか?
1576年の後北条氏による権現堂の築堤と杉戸川の廃川には、そういう目的もあったのかもしれないな・・・
それをもの凄いスケールでやって、ついには逆流までさせてしまったのが江戸幕府ということなんだろうか?
それとも、後北条氏の時には、逆川が成立していたのだろうか?うーむ、またまたまたわからないw むなしいぜ
あっ、ちなみにオレは歴史も地理も地学も趣味であり専門家ではないので、鵜呑みには市内でね。
面白い!
後北条時代の関宿周辺は敵地であるから(攻略以前から水運があるということは・・・)
北条氏による河川工事はなかった物と思います。
また、それほど高度な工事をやっていると、何かしらの文献が残るのでは?
信玄堤のようにです。
逆川の地名は、海に向かうはずの河川が、土地の高低さから海と逆方に流れるさまを
言うのでは、と、私的には思っています。
ttp://www16.plala.or.jp/shimanto-yh/graphics/Gmap01.gif 四万十川などでもいえることですが、川の流れが海から離れていくのは、
地形を見ないで、方角だけを見ると不思議な感じがします。
>>865-867 面白いのう。
信玄堤も最近では、どれほど彼の事跡か疑問視されている(笹本正治など)
からな
方言?
投稿前に読み直す習慣をつけてくれんか
>>868
870 :
日本@名無史さん:2007/05/16(水) 16:44:13
あげますね
面
信
か
武田面信
失礼。
武田信面と餓え過ぎ麺信
\__ _______
|/ ,,,,,,, _
/'''' '';::.
/二⌒"''ヽ l ≡ );;;: / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〈i `'ヾ | ≧〒≦ :;/) | ツマラン!!
|こi .iこ ヾl iー/ i ー' k.l < おまいの話は
l / !.ヽヽ i6. l ノ‐ヘ iJ | ツマラン!!
. l,〈+ヽ ノ U乞 し ノ \_______
ヽー '/ `ー ‐
早乙女貢の『夜の蜘蛛は殺せ』は、小田原城落城の時に、
落ちのびた北条家のお姫様が、裏切った家臣たちに輪姦
されて孕んでしまうという話だったな。
スレの流れに関係ないけど。
876 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 15:43:13
877 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 20:23:31
ウジ政馬鹿杉。
浅井長政の親父をおなじ。
879 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 20:52:05
来週のNHK大河は河越夜戦だぞ
880 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 21:32:11
今週もなかなかオイシイ役所でしたなw
>>877 氏規が氏康の跡継ぎになっていたら北条も安泰だっただろうに。
それにしても、松田憲秀が憐れすぎる。
北条の行く末を願っての秀吉軍の池田輝政との内応だったのに秀吉に切腹を命じられるなんて・・・・
>>882 さあ、それはどうかな。
○○ならば・・・ほど当てのない話もない。
しょせん、たらればの世界。
武田信玄も今川を攻めた時、今川の家臣に今川を裏切って
味方になれば恩賞を出すと言いながらいざ今川の家臣が
裏切って来ると手打ちにして殺したということがあるね。
どこの大名でも敵の家臣を裏切らせておいていざ裏切るとあとで、
殺したり切腹させたりとかは良くあったみたい。
返り忠
886 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 20:01:39
>>584 実際には小田原本城と主要支城に兵をかき集めていたから、その他特に小田原から遠い武蔵東部や房総諸城では主力を抜かれて兵100で篭城なんてケースもあった。
異戦国志での北条氏の扱われ方は悲惨
888 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 23:23:18
五代の中で、氏政だけが性格的に異質な印象をうける。
大雑把な見方だけど早雲以来、氏綱、氏康と「動」の
イメージというか、分かり易い、いわゆる「英傑」が続く。
氏直も才覚的にはこっち。
氏政だけは非常に慎重で、実務家的な手堅いイメージが強い。
兄が早世しなかったとして、氏政が補佐すれば秀吉に対する秀長、
劉邦に対するショウカのような存在になったのではないかと思う。
889 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 19:32:06
氏政は、暗愚といわれています。
十人並なのだと思います。
さて、彼の「政」は、どこから取ったんでしょうか(イミナとして)。
上杉憲政の政・・・じゃないだろうね。
891 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 20:09:30
氏綱の綱はどうだろう。
氏康の康は、どうかな。
そして氏直の直は?
>>888 氏政は確かに暗愚とはいえないな。
攻守に優れた人物で治績は氏康よりも人間くささを感じる。
しかし補佐役というより、やはり人の上に立つ人材じゃないかねえ。
そりゃあ早雲、氏綱、氏康には色々と劣るが良くも悪くも突出した能力がない。
別に戦がそこまで上手くもなく下手でもなく、民政は氏康が作った官僚制を守っている。
それでいて版図は徐々にではあるが確実に拡大。
一芸に秀でていないだけに分を守るのてのは四代目にしては立派じゃないか?
まあ全部氏康の遺産と言えばそうなんだが別にそれを食い潰したわけでもないし。
イメージとしては氏康の能力を平均的に劣化させた感はあるが
安定成長期の戦国大名としては及第点を与えてもいいだろうね。
同族、家臣団の離反がなく、かつ退廃的でもないのは領国では名君だろう。
ここまで持ち上げておいてなんだが
まあ小田原の役は悔やまれる、最悪の選択だとは思う。
あの時期に秀吉に臣従しなかったこと、そしてあの時期に小田原開城したこと。
前者は秀吉の権力基盤を侮っていたのだろうし、後者については篭城を決めた以上
秀吉をもう少し侮ってもよかった。
実際支城はほとんど落ちたものの小田原があの時点で開城するのは不可解。
秀吉の調略にかかったとされるがどうなのかなあ。
最後の方なにいってんのかワカンネ
どうせ籠城するなら、もっと徹底抗戦しろってか?
援軍の見込みが無い以上
その内兵糧が尽きるだけだったと思うが。
>>895 後詰のない篭城はそこまで下策なのかなあ。
兵糧・武器・弾薬・兵力は篭城戦としてはまだまだ余裕があったわけだし
秀吉の諸将も長期戦になれば兵站を維持できたのかねえ。
秀吉軍も長期戦になれば内部分裂、あるいは有利な和睦もありえたのでは?
まあ内部崩壊のリスクは長期戦の場合、北条も回避できないんだが。
いずれにしろ、小田原の役は前後の外交から軍事まで全てが中途半端。
特にあの時期の降伏は、結果論だろうけど早すぎるんじゃないか?
>>896 秀吉軍の内部分裂させる工作は誰がやるの風魔党?
氏政らに内部分裂させる工作はできる見込みはほとんどないと思うし。
かつて幾多の城を落としてきた攻城戦の名人の秀吉より頭が良いのは、
北条側には見当たらないと思うが。
城を包囲している側と包囲されてる側とでは圧倒的に
包囲されてる側に裏切りや内通者が出る確率が高い。
899 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 17:55:46
豊臣軍は事前に準備した兵糧だけで30万石。
30万石とは単純にいえば30万人の兵士が一年間食っていける量。
つまり豊臣軍は事前に準備した兵糧だけで一年以上作戦継続が可能。
後から追加補給も可能で、もう一年作戦継続しようとするならば
五百石船で輸送するとすると、延べ600隻を動員すれば賄うことが出来る。
更には北条領のその年の秋の収穫は豊臣軍が手に入れる。
包囲された北条には一粒の米も手にする事が出来ない。
これらの要素は時間が経てば経つほど北条が不利になることを示している。
兵糧だけでない。武器・弾薬・兵員の面でも同様である。
うーん、やはり篭城は下策かあ。
小田原は三年分の兵糧、武器、弾薬があると聞いたことがあって
また開城は秀吉側の謀略に近いところがあったから
可能性を考えたがやはり、もう詰んでいたんだな。
いや、こちらの認識が甘かった。
何で幕府の名族伊勢をやめて北条って名乗ったんだろう
902 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 11:36:18
>>900 結末を知っている我々でさえ、色んな意見が出るくらいだから
当時の評定が長引くのもうなずけるね。
私見だが、氏政の関東統一の基本的な戦略は、恐らく「負けない事」
だった思う。わざわざ外敵(=謙信や信玄)に決戦で勝たなくても
負けさえしなければ、将来的には必ず関東を制圧できるという考え方。
そのバックボーンとなるのが、強固な領地・家臣の支配体制と支城網。
氏政の功績が合戦より内治で著しいのは、この基本戦略に基づいて
行動していたからだろう。
これは非常に合理的で、リスクが小さい。自国と周辺国の状況を
的確に分析した戦略ではないかと思う。
事実、関東の諸侯はじわじわと締め上げられ、北条家の関東統一は
ほぼ成っていた。問題は信長・秀吉のような、強大な勢力の出現が
予想外に早かったことだろう。
903 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 17:29:20
北条家滅亡が描かれた文庫小説ありませんか。小田原合戦なんかを題材にしてる文庫小説探してるんですけどないんですね。氏康はあるけど氏政以降がない。
904 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 18:30:45
小田原物じゃないけど津本陽の新陰流小笠原長治がいいよ
ページは少ないけど篭城した側の悲哀が伝わってくる
>>903 必ずしも文庫に拘らないなら『小田原北条記』上・下(各1000円)とかどうよ?
軍記物ゆえ史料としての価値は低いけど5分の1が小田原合戦に割かれている。
全10巻のうち7、8、9、10巻が氏政・氏直時代だから読んで損はしないだろう。
現代語訳だから文学性には欠けるが文章も平易だし『北条氏康』なんかもこれを
底本にしているんだな、とよく分かる。
原本現代訳「小田原北条記」、読み辛いじゃん。
907 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 17:08:48
ありがとうございます、とりあえず一度読んでみます。
亀レスでスマソ
小田原合戦の際、豊臣軍の状況も問題無しとは言い難いかな?
豊臣秀長・千利休を中心とした連合政権派と石田三成・淀君(鶴松が誕生したから)を中心とした中央集権派が対立している中、
豊臣秀長が病に倒れてしまう。
そこに徳川家康が豊臣政権に揺さぶりを仕掛けていたと考えるなら何とか逝けるかも・・・。
@徳川家康や織田信雄の離反の噂。(本当かもしれませんが)
A徳川家康の北条方への説得開城。(兵力温存とも考えられるし)
それに所詮、豊臣政権は連合政権だから前田利家・蒲生氏郷・織田信雄・丹羽氏重らがどう動くか解らないし。
ただ、もし徳川家康が離反したとしても徳川領国(三河・遠江・駿河)の城には豊臣留守部隊が入城しているから難しいかな?
豊臣秀吉一人が名誉の戦死さえして頂ければ北条家も豊臣連合政権の一員になれたかもね。
ついでに北条早雲(伊勢新九郎)についての本なら…
『奔る雲のごとく 今よみがえる北条早雲』
…が良いかな〜と。
911 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 17:22:02
「北条早雲とその一族」が発売されているようだけど
早雲に関して新ネタありなのかな?
長期戦は秀吉が有利。
北条が勝つとしたら、一か八かで野戦による短期決戦に持ち込むべきだった。
913 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 20:38:39
914 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 21:24:44
915 :
913:2007/07/22(日) 00:56:43
氏康wikiページの参考文献は、全て黒田基樹さんの著作ですね。
『定本・北条氏康』
『戦国大名の危機管理』
『百姓から見た戦国大名』
wikiの参考文献だから信頼性が高い本だと思うのですが
北条ファンとして読むべき本でしょうか?
>>wikiの参考文献だから信頼性が高い本
え
917 :
913:2007/07/22(日) 21:22:50
乗っている情報は信用するにあたいしないでお馴染みのWikiだぜ?
釣りにしてもひどいすぎる
>>917 もっとも信用できる参考資料は
>>916の脳内資料。wikiの参考文献なぞ信用に値しない。
>>915 黒田基樹は戦国時代の研究者の中では、堅実なほうだと思う。
『定本』と『危機管理』は読んだことないので分からんが、
『百姓から見た』はかなりいい本だと思うよ。
基本的に、所謂中世の惣村の有り方から
後北条領を中心にボトムアップで大名を見ていく。
だから例えば戦国板の連中のように、
「氏康公は流石一流のダイミョーじゃのう」とか、
「戦国サイキョーは武田家なんじゃ!」とか、そういうアホらしい
韓国式マンセー史観を体験したいのだったらアウトだ。
勿論、中世から近世にいたる戦国期の社会の有り様を
手軽に知りたいんだったらオススメだ。
手軽につーか堅実にじゃねぃか?
その三冊は読んでないが、黒田さんの本は初心者にはちときついような…
923 :
sage:2007/07/23(月) 20:10:32
きつくても
すきこそものの
じょうずなれ
ふじうじ
>>915 『定本・北条氏康』はどちらかといえば、初心者向けじゃない?
少し物足りなかった。
黒田基樹の論文は面白いかったけど。
925 :
915:2007/07/23(月) 20:44:49
>>921 『百姓から見た戦国大名』はamazonの書評を見て心配だったのですが
まずこれを読むことにします。
>>924 値段が高いので躊躇してしまいました・・・
機会があれば読みたいと思います。
スレの皆さま
ありがとうございました。
どこか都内のカルチャーセンターで、
黒田氏の戦国講座が開講されるよ。
自分は渋谷の東急?だったかのカルチャーで、
黒田氏の古文書講座を受講したことがあるけど
残念ながらあまり面白くなかったな。
生真面目でしゃべり下手な人なのかもしれん。
>915
Wikipediaは玉石混交もいいところだから、そこで参考文献に挙げられていたと
しても、その文献が信頼できるかどうかという点についての情報量はほぼゼロで
しょう。
>>927 wikiは確かに玉石混交で、内容は取り扱い要注意だけど
921の意見のように、黒田氏がちゃんとした研究者なのは確か。
ただ、北条研究者は昔から他にもたくさんいるので、
そのwikiを書いた人が単に黒田の著書しか読んでいないのだろう。
津久井城に行ってきた。ダムの方から登って、
神社で断念。城巡りは体力だなあorz
>>929 そんな峻険なのか?
涼しくなる秋にリベンジを!
931 :
929:2007/08/10(金) 00:11:51
>930
全然楽のハズ。45〜60分ハイキングコース。
自分の体力が落ちただけです(^^;
角度的には峻険かも。
次は反対側から楽なコースで頂上目指しますw
932 :
sage:2007/08/10(金) 11:08:48
鉢形城なら、すぐに本丸に行けるよw
933 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 01:14:05
今の時期の鉢形城なら対岸の某旅館で鮎料理を楽しみながら、関八州に隠れなき古城址を目の前を東に流れる往時と変わらぬ荒川の白波の先に望むのが通。
滝山城もバス停から楽々かもなぁ。
実力的には、
氏康>>>>>>>>信虎>信玄>謙信
なんだよなw
氏康は過小評価
そこまで氏康を評価することもないと思うが
937 :
sage:2007/08/11(土) 20:40:26
真面目にコツコツやる努力家タイプと秀才タイプと見栄っ張りで変態な天才タイプ
を同列で語るのもねぇ・・・
939 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 02:15:35
見栄っ張りで変態な天才タイプ ってガクト?
齋藤慎一著 戦国時代の終焉
なかなか読み応えのある一冊だった。
941 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 09:43:11
沼尻合戦のやつか
北条氏康のWikipedia見たんだけど、どこまで本当なのかな?
人物評価なんてもはや神同然の内容なんだが。
>>942 wikiは鵜呑みにするもんじゃないよ。
まっとうな研究者の本を何冊もよんで、自分の意見をまとめることだね。
wikiは虚実ない交ぜ、玉石混交。公正な記述も勿論多いが、
小説ネタでさえ書き込まれているもの。
深く研究している人は、好きな人物といえど美化しまくったりしない、
冷静に見ることができるから。
神同然に評価する奴のなかには中途半端な知識の奴も多いぞ。
944 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 19:32:52
まぁ、それでも凡人とは比べようもないが・・・w
とりあえず、上杉憲政や上杉朝定よりマシww
945 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 19:49:04
【武田・今川・北条】就職するならどこ?
71 :日曜8時の名無しさん :2007/02/20(火) 13:01:33.95 ID:9N1He7Tk
北条商事って「コネもない老人が一代で作り上げた」ってことになってるけど
実は創業者は中央官僚出身でバリバリのエリートだったって本当?
73 :日曜8時の名無しさん :2007/02/20(火) 14:43:28.87 ID:jXnZ/uZt
そうだよ。北条商事の創業者は霞が関では伝説の人。
父親は旧大蔵省の局長で、母方の祖父は官僚から政治家に転じて官房長官を務めた人。
母方の叔父も官僚上がりで政界の黒幕と言われた超大物だった。
収賄で何度か失脚したがその度に復活した化け物政治家だったな。
姉が今川商会の社長と結婚。その社長が出張先で事故死してお家騒動が起きた。
その時に大蔵省から行政指導に今川商会に乗り込んだのが、北条商事の創業者。
老人だったと誤解されるが、実際にはこの時は若干20歳だったそうだ。
今川のお家騒動を見事に収めて、中央官庁に戻り、義尚首相の時に首相秘書官を務めてる。
外務省の役人の娘と結婚する。これも長野県の名門の小笠原工業の親戚。
官僚として将来を嘱望されたが、今川商会でまたお家騒動が起きた。
姉を助けるために一念発起して官僚を辞め、今川商会に入った。
お家騒動を解決して、甥っ子を社長に就けた。これが今川の先々代。今川の重役になる。
その後、政府の要請で伊豆に本拠があった問題が多く不要になった堀越公社を潰す仕事を手がけ、
抵抗勢力を排除して公社を解体し、民営化して今川から独立したのが今の北条商事の創業だな。
当時は韮山に本社があって伊勢商事と言った。今の社長の時に「北条」のブランドを買い取った。
946 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 20:58:16
それ熱海市にある熱海城の所有者?この城も積年で古く取つぶしまじか。
947 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 10:55:40
秀吉の統一事業がもっと遅くて、北条氏の全関東制覇が達成された場合
北条氏はどういう行動をとったと思います?
関東の領国維持に精をだすか、東北に侵攻するか
はたまた、天下を狙っての動きを見せるか、興味があります。
早雲が野武士(山賊、強盗)って説は本当?
950 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 22:22:12
>>948 早雲は今川家と親戚だろ。早雲は小田原(対大森家)を切り取る時に兵500を借りてるからな。単なる駆け出し中のこわっぱ(早雲)に対し兵を貸すんだから特別な関係がないと無理。
>>948 山賊、強盗説の支持者である研究者や、
根拠や出典を述べてくれれば、少しは説明もしてやろうけどw
952 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 01:26:32
伊勢氏にもっと誇り持てよ。
953 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 06:42:52
>>950 早雲の小田原城接収の経緯は、一次史料からはほとんど何も分からないと
思っていたけど、その兵500っていうのは何を根拠にした数字?
後北条氏か…
1555年スタートの里見氏or深谷上杉氏でプレイしたら
序盤の中ボス的存在だな(ノブヤボ武将風雲録)
955 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 09:01:39
あああ、ゲーム厨が来ちゃったよ・・・・・・・・
956 :
sage:2007/09/16(日) 10:43:02
>深谷上杉氏でプレイしたら
出ないから。
しかも山内上杉の家臣というか同族だしw
957 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 12:22:30
>>953 小田原城隣接の資料館で売っていた本に書いてあった。学研の歴史群像本にも書いてあったと思う。
958 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 12:26:11
99.9パーセント今川家のおかげ
元々早雲配下の者など30名にも満たなかった
959 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 12:59:12
さすがに早雲でも動かせる兵がいなかったらどうにもなんないよな。
あと兵士もそうだけど、今川が後ろ盾してるっていうのも大きいと思う。
なんだかんだで今川っていうネームバリューは大きいと思う。
早雲の背後には今川がいるって思わせるだけでだいぶ違いそうだし。
960 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 13:14:33
早雲は元々坊主だったのか?それとも領主になってから坊主になったのか?どっちだったかな。
髪が抜け始めてからじゃね?
962 :
sage:2007/09/16(日) 16:03:31
早雲:最近抜け毛が多くてのぅ…
氏綱:それはお困りでしょう。唐渡りの妙薬があると聞き及んでおりますゆえ、早速手に入れませう。
氏時:某の知り合いに霊験あらたかな修験者がおりますゆえ、毛髪再生の祈祷させませう。
長綱 :そんな面倒な事しなくても、出家して坊主にすればいいお(´・ω・`)
早雲:長綱でかした!(・∀・)ソレジャ!
>>962 25年後、自分が同じ悩みを抱えようとは夢にも思わなかった長綱であった。
ちなみに、このときの心境を書きとめたのが有名な「おほへ書き」である。