1 :
日本@名無史さん :
2006/03/14(火) 10:33:01 水戸史学(大日本史)以降やたら持ち上げられていますが、 同時代の貴族からは「新儀の非法」と非難されていた 聖天子・後醍醐天皇の実像を語りましょう。
2
3 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 13:03:07
逆賊高氏信者必死だな
4 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 13:56:19
【稀代の暴君】 廃帝尊治スレッド 【乱倫の性帝】
5 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 16:38:08
○晏子対曰、君使服之於内、而禁之於外、猶懸牛首于門、而売馬肉於内也 晏子は答えて言った。「わが君は後宮では婦人の男装を許し、民には禁じておられる。 これでは牛の頭を門にかけて、店の中では馬肉を売っている肉屋と変わりませぬ」
6 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 16:56:34
確かに建武の親政も詐欺みたいなもんだ。
7 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 20:51:32
, ノ) ノ)ノ,(ノi ( (ノし ┐) ∧,∧ ノ いまだ!7GETいける! ..|( ( ....:::::::) (  ̄⊂/ ̄ ̄7 ) (/ 川口 /ノ  ̄TT ̄
8 :
日本@名無史さん :2006/03/16(木) 21:31:08
一言で表現するなら「ろくでなし」
9 :
日本@名無史さん :2006/03/16(木) 21:54:11
誇大妄想狂
10 :
日本@名無史さん :2006/03/17(金) 12:25:31
後○峨天皇よりはまし
11 :
日本@名無史さん :2006/03/18(土) 09:40:26
あーん!尊治様が死んだ! 尊治さまよいしょ本&尊治さまF.Cつくろー!って思ってたのに… くすん…天皇薄命だ… ・゚・(ノД`)・゚・うっうっう…ひどいよお…ふえーん!! この間「今、時代は後醍醐の尊治すさんだ!」の葉書きを出してまだ1週間じゃないですか! どーして、どーして!?あれで終わり!?嘘でしょ!? 信じられないよおっあんな逆賊高氏ごときに殺られるなんてっ!! 光明天皇と差がありすぎるわっ!!生き還りますよね?ね?ね? ……泣いてやるぅ・゚・(ノД`)・゚・
12 :
日本@名無史さん :2006/03/19(日) 00:23:59
「花園天皇宸記」は北朝側の人物の日記の割には後醍醐に同情的らしいね。
13 :
日本@名無史さん :2006/03/19(日) 00:32:22
花園天皇はあの時代を代表する一級のインテリで、人格者だよ。
14 :
日本@名無史さん :2006/03/19(日) 00:53:25
学校の先生について。 君の学校の先生は、毎日偉そうにしているね。 まるで、自分たちは社会の厳しさを知っているかのように。 だけどね、先生たちっていうのは大学の教育学部を卒業してから 一度も民間を経験していない人がほとんどなんだよ。 つまり今も学生気分のまま。社会の厳しさなんてほとんど知らないよ。 だから、大人なのに子供っぽい人が多いでしょ? しかも、先生たちは、君のお父さんやお母さんの稼いだお金から 徴収した税金で信じられないくらいリッチな生活しているんだ。 例えば、君たちのお父さんの給料が50万円だったら、 約10万円ものお金を税金として奪われているんだ。 民間人は給料を下げられてボーナスもカットされても、 地方公務員の先生たちは超一流企業の給料と同額の給料やボーナスがもらえるんだ。 不景気でも関係なく貰えるんだ。君たちのお父さんお母さんが稼いだお金から 奪い取った税金でね。 それに、先生は遊んでても何してても給料やボーナスどころか、 将来の年金も保証されているんだ。 君たちのお父さんお母さんは夫婦で毎月10万円しか貰えないけど、 先生たちは共済年金っていう制度で毎月90万円ものお金がもらえるんだ。 もちろん共済年金はお父さんお母さんから奪い取った税金で賄われている。 先生は地方公務員だから忙しいフリをするのが得意だけど、 君たちのお父さんやお母さんに比べると、信じられないくらい暇だよ。 土曜日とか日曜日に部活で暇つぶししている人もいるけど、 そういう人は、ロリコンな人が趣味と実益を兼ねている場合も多いね。 だから、部活動は先生たちの性犯罪の温床になっているね。 君たちのお父さんやお母さんから奪い取った税金で 先生たちはのうのうと生活しているんだ。 君たちの家庭がお金の問題で苦しもうが崩壊しようが、先生たちには関係ないんだ。 学校の先生は税金生活者 ⇒ 君達の家庭を苦しめている
15 :
日本@名無史さん :2006/03/19(日) 01:08:45
>>12 >>13 ともに一代限りの中継ぎとして即位したという経緯から、花園天皇は個人的には
後醍醐天皇にシンパシーを感じる部分もあったらしいってことだよ。
(持明院統の正系は後伏見系、大覚寺統の本来の正系は後二条系だから)
16 :
日本@名無史さん :2006/03/21(火) 15:31:36
天皇家を滅ぼしかけた失徳の廃帝
17 :
日本@名無史さん :2006/03/21(火) 23:01:29
いっそ滅ぼしてしまえばすっきりしたのにな
18 :
日本@名無史さん :2006/03/26(日) 20:57:18
ほしゅ
19 :
日本@名無史さん :2006/03/29(水) 19:21:08
エロ王
20 :
日本@名無史さん :2006/04/02(日) 21:40:20
結局、後宇多法皇は晩年には大覚寺統を後醍醐系が継承することを容認しちゃったんだよね。 邦良親王が夭折したってこともあって。
21 :
日本@名無史さん :2006/04/03(月) 23:41:03
俺は天皇家の日本における功績を称えてる立場だからあんまりキツくは言わないが、 それを踏まえてもこの後醍醐天皇は時代を逆行した考えと言うか。。 この時に諸外国に攻められたら日本は終わりだったろうね、考えると国内を混乱に陥れた責任はある。
23 :
日本@名無史さん :2006/04/04(火) 00:40:19
24 :
日本@名無史さん :2006/04/05(水) 22:02:04
宇宙の中心はどこか? 宇宙にはどこにも中心などありはしない 中心は無数にあり 君も宇宙の中心なのだ・・君にとっては! あらゆる生き物にとって 自分は宇宙の中心であり それぞれが宇宙の始めであり宇宙の終末である 世界には本当は区切りなどなく富士山も月もない 人間が自然を勝手に区切り名付けているにすぎない 事物は心の中にしかなく 事物には矛盾などない 矛盾は心にしかないからだ
25 :
日本@名無史さん :2006/04/05(水) 22:02:36
時間もその意味で無く空間も無い 物質もなくエネルギーもまた無い ということは心=空間=時間=物質=エネルギーということ もともと区切りがないのだからイコールであたりまえだ 区切りはすべて人間の心が創りだしたものである したがって諸相はそれぞれの衆生の業の観る諸相にすぎない 時間は業相続の形式であり 空間またしかりである すると宇宙の中心はどこにあるか? 宇宙の中心であると感じているところにある 天皇のお心は全宇宙にある したがって宇宙の中心は天皇なのである すべての人がそのことを認めたとき 天皇には宇宙の中心たる神力がはたらく 雨土くれをくだかず天下泰平の世がうまれる 人類が天皇を中心として 君臣一体の道をつくるとき そこは宇宙の中心として宇宙を統御することができるスメラミコトは全宇宙をすべられるのだ
26 :
日本@名無史さん :2006/04/05(水) 22:44:06
>>20 邦良には康仁という立派な息子がいる。
さらに邦良には邦省という弟がいて、出家せずに元服して親王宣下を受けている(当時の常識では将来の天皇候補と認められたことを意味する)。
後宇多が後二条の子孫に皇統を伝えることをあきらめていたとは思えない。
27 :
日本@名無史さん :2006/04/06(木) 00:40:40
夢窓国師は時々談義をするだけで、あとは何もしないで、尊氏から多大の領土や給与を受けていたので、 尊氏をできるだけ賛美せねばならない立場にあった。夢窓国師と尊氏とは互いに賞め合い、もちつもたれつの 関係にあった。だから夢窓国師が賞めたからといって、そのまま受けとるわけにはいかない。 第一のことも武将であれば皆その通りでなければならない。ひとり尊氏に限らないことである。 「第二に慈悲天性にして人を悪み給事をしりたまはず、多く怨敵を寛宥ある事一子のごとし。」とあるが、 既に吾が子直冬を放置して顧なかったことだけでも慈悲心があったとはいえない。また義貞を終生の敵とし、 また後で、弟直義を毒殺し、吾が子直冬を討たねば止まぬと気負っていたことを考えても、弟や我が子でさえ 悪んでいたのである。ただ敵を許したことがあったかもしれないが、それはそうすることが自分にも利になる時であった。 第三に、御心広大にして物惜の気なく……諸人の進物ども数知れずあったけれど、皆分かち与えたとあるが、 これも特別賞賛することでもない。一般の人でも、多くの品物が集まったときは、「お裾分け」とも言って、 知人や近所へ分けてしまうのである。食物であれば直に処置しないといけないし、食物でもない器物にしても、 既に自分の家にあるものが多く、邪魔になるだけであるから、持ち去ってくれると有り難いのである。 然し、尊氏も価値のある物には大いに物惜しみしたのである。その例の一つは、名刀恩丸、鬼切のことである。 斯波高経が新田義貞から奪った恩丸、鬼切を、尊氏は、これは末流の源氏などが持つべきではない。 急ぎその二振りの刀を我れ(将軍)に渡してほしい。足利将軍家の重宝として、本家筋において相伝えると 言って強要したという。そして高経が渡さなかったので、戦功のあった高経を敵に廻して討とうとまでしたのである。 そのため高経は直義側について、尊氏側としばしば戦った。尊氏は価値なき物は惜しまず、価値ある物は 惜しんだのである。また少し価値あるものも、それを渡すことによって自分に利になる場合は渡した。
29 :
日本@名無史さん :2006/04/06(木) 02:36:31
____ /三ミミ、y;)ヽ、 /三 ミミ、ソノノ、ヾ、} ,':,' __ `´ __ `Y:} ./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ }::! { : :`、 ,´: : j !:! < ちょっと、アンタ〜人生終わってるわよ {:| -=・=i ! =・=-'|:} | 「( / しヘ、 )j │ g ! ` !-=‐!´ ,ノg │ \._ヽ _´_ノ ソ \__________________ __,/ ヽー ,/\___ |.:::::.《 ヽー/ 》.::.〈
30 :
日本@名無史さん :2006/04/06(木) 03:00:48
31 :
逆賊高氏 :2006/04/06(木) 03:07:49
ドウモ〜〜〜ッ!!お〜o(⌒0⌒)oは〜♪ハジメマシテ〜〜〜ッ☆☆(*⌒ヮ⌒*) 俺様は室町幕府の将軍してるのぉ〜〜〜っ♪(#⌒〇⌒#)キャハ うーんとー、私征夷大将軍の座がすっごくすっごく欲しくってー、\(⌒∇⌒)/ 探してたら(◎_◎)なんσ(^_^)とっ!☆彡(ノ^^)ノ☆彡ヘ(^^ヘ)☆彡(ノ^^)ノ☆彡 素敵(゜□゜;ハウッ!な天皇♪を発見!!!!(^o^)//""" パチパチパチ あやしい人(゜□゜;ハウッ!とか…{{ (>_<;) }} ブルブルすごい数の人がいますけど、 これ俺様が管理して \(^o^)/ いるんですよ〜vv(@@;)すごすぎ … てなわけで、ついついσ(^_^)書いちゃったC= C= C= C=┌(^ .^)┘ のらー(o^v^o) エヘヘφ(`∇´)φカキコカキコ♪ 将軍に、させてσ(^_^)くれるよねっ。(*^-^*) お・ね・が・い♪(* ̄・ ̄)ちゅ♪ッ え?くれないのぉ〜?(;¬_¬)そんなのいやい♪(#⌒〇⌒#)キャハ や〜〜、ガ━━━(゜ロ゜)━━━ン なってくれなかったら、( `_)乂(_´ ) 勝負! \(^o^)/ ☆○(゜ο゜)o ぱ〜んち、☆(゜o(○=(゜ο゜)o バコ〜ン!!♪(#⌒〇⌒#)キャハ ( ゜▽゜)=◯)`ν゜)・;'パーンチ (>_<) いてっ!ダメ!! ゛o(≧◇≦*)oo(*≧◇≦)o″ダメ!! 素敵(゜□゜;ハウッ!な掲示板♪ガ━━━(゜ロ゜)━━━ン を発見!!!!(^o^)//""" パチパチパチ (☆o☆)きゃ〜〜(@_@;)やられた〜〜(o_ _)o ドテッ ガ━━(゜Д゜;)━━ン! (+_+) 気絶中。。。。・゜゜・o(iДi)o・゜゜・。うぇぇん <(゜ロ゜;)>ノォオオオオオ!! (゜□゜;ハウッ! なあんて(#⌒▽⌒#)こんな♪(#⌒〇⌒#)キャハ 私っ!σ(^_^)だけど、(///▽///) 将軍σ(^_^)にさせてm(_ _)mくださいませませ♪('-'*)フフ ドガ━━━Σ(ll◎д◎ll)━━━━━ン ということで。(^-^)vじゃあね〜〜〜♪(⌒0⌒)/~~ ほんじゃo(゜▽゜ヽ)(/゜▽゜)o レッツゴー♪ 影]ω ̄)ノ それでは、今から他の人(゜□゜;ハウッ!にも色々言ってきまーすC= C= C= C=┌(^ .^)┘ (*^-^*)ノ~~マタネー☆'.・*.・:★'.・*.・:☆'.・*.・:★
32 :
日本@名無史さん :2006/04/07(金) 16:51:20
【逆賊厨】 廃帝尊治に喝だ! 【ホイホイ】
33 :
日本@名無史さん :2006/04/07(金) 22:42:42
34 :
日本@名無史さん :2006/04/07(金) 23:42:38
今の天皇家って北朝だよね だったら、何で後醍醐天皇を持ち上げるんだろ
さあ行くんだ その顔を上げて 新しい綸旨に心を洗おう 古い先例は 置いて行くがいい ふたたび始まる 親政のために 資朝俊基は 思い出だけど 君を遠くで 見つめてる そうさ 君は気づいてしまった 御和談よりも 素晴しいものに 笠置山に消える瞳には いつしかまぶしい男の光 定房の目がうなずいていたよ チクリも愛のひとつだと
36 :
日本@名無史さん :2006/04/08(土) 22:15:31
>>34 ホンモノの三種の神器を所有していた者こそ正統の天皇だという理屈らしい。
北朝の天皇たちは後醍醐からニセモノの神器を渡されていたというのだ。
もちろん嘘っぱちだが。
隠岐に流される時に後醍醐の手から神器は没収されて光厳の手に渡っているし、
後醍醐が吉野に逃げるときも神器を持ち出すことができたとは思えない。
もっとも観応2年(1352)に南朝軍が京都を占領したときに北朝から神器を没収しているから、
南北朝合一までの40年間だけは、ホンモノの神器を南朝が握っていたことになる。
それでも神器の所在が正統かそうでないかの根拠にならないことは当然。
それならば光厳天皇も正統でなければおかしい。
37 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 01:05:31
昭和20年8月15日の時の天皇が昭和天皇ではなくて、後醍醐か後鳥羽なら 現在の日本はどうなっていただろうか?考えただけでも鳥肌が立つ。 尊治みたいなキティガイは去ね。
38 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 06:14:23
>>37 そんなバカはイラネってことで天皇制廃止でしょう。
>>37 今も信濃あたりの山奥で子孫が戦ってるんじゃないか
40 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 12:53:47
元徳院
41 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 13:15:22
真言立川流にハマっていたというから まちがいなく変態性欲者だね
42 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 15:05:53
43 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 15:54:09
ゴダイゴてシナかぶれの吉外だろ、こんな主に従うのは 一発逆転狙いのクスノキなど賎民だけ
44 :
日本@名無史さん :2006/04/10(月) 16:12:55
霜月騒動までは大覚寺統のほうが親幕府なんだよな。 それ以後は大筋で持明院統のほうが親幕府だが。
45 :
日本@名無史さん :2006/04/10(月) 16:46:05
>>44 そうだったんだ。でも皇位は順番に継いでるわけだし、幕府よりとかは皇位継承に影響なかったんじゃない?
46 :
日本@名無史さん :2006/04/11(火) 01:40:32
安達泰盛は後嵯峨院や亀山院にかなり友好的だった。 しかし霜月騒動後、鎌倉幕府は後宇多の後継として 後深草院の皇子(のちの伏見)を立太子させたり、 久明親王(これも後深草の皇子)を鎌倉幕府の将軍に立てたりした結果、 持明院統が幕府と急速に接近する一方、大覚寺統の幕府に対する感情は微妙に なっていく。
47 :
日本@名無史さん :2006/04/11(火) 01:52:08
>>46 そうだったの?なんかある本には、後嵯峨が亀山の皇太子に後宇多をたてたため、後深草が激怒し出家すると言いだしたため、幕府が同情し、後宇多の後継に伏見をたてるようにしたって書いてあったが。
48 :
日本@名無史さん :2006/04/11(火) 02:36:00
>>47 そんな単純なものではないと思うよ。
この時期の朝廷は、朝廷の運営を院主導にするか摂関主導にするかで、
亀山院と摂政鷹司兼平の関係が微妙になっていたりもするし。
これが幕府側での安達泰盛と平頼綱の対立なんかと絡み合った結果が
伏見の立太子だったというべきだと思う。
まあ霜月騒動と関連付けるのは想像の域を出ない気もするが、後宇多の後継者に 伏見を擁立することで、朝廷内で一番得をするのは鷹司兼平だったのは事実。 だから鷹司兼平が亀山上皇の権力基盤の弱体化を狙って幕府に伏見擁立を 働きかけた可能性は高いかも。 実際この時期の朝廷では鷹司兼平の存在感が急速に高まる。
しかし亀山→後宇多の流れのままにしておけば皇統は大覚寺統だけで 確定していたのに、余計なことをして問題を複雑化させてしまったような気も するな。 もっとも仮に皇統が大覚寺統だけになっていたとしても、のちに後醍醐が 出てきて大暴れすれば、結局別の天皇が立てられて皇統分裂になった可能性も 否定できないが。
51 :
日本@名無史さん :2006/04/11(火) 12:46:52
なんで後宇多は後二条の皇太子の恒明親王を退けてまで後醍醐を皇位につけようとしたのかが分からん。
52 :
日本@名無史さん :2006/04/11(火) 19:25:37
後二条の皇子は邦良親王だ。恒明親王は亀山の皇子。
>>20 それでも、邦良親王の弟は
光厳天皇の即位と同時に皇太子になった。
隠岐から帰った後醍醐天皇が光厳天皇を否定したときに、
セットで否定されたんだよな。
ある意味、これも大覚寺統内部の抗争でもあった。
>>35 >定房の目がうなずいていたよ
>チクリも愛のひとつだと
腹が痛い
55 :
ニセモノ皇族(長州藩部落住民系)に関する学術論議 :2006/04/17(月) 07:25:55
56 :
日本@名無史さん :2006/04/17(月) 10:26:23
質問いいですか?鎌倉当初の支配力は東日本で、承久の乱のあと支配力は西日本にも及ぶじゃないですか?なのになんで承久の乱の前に九州の軍事・裁判を統制する鎮西奉行が置かれるんですか?大学受験生です(−_−メ)
>>56 質問いいですか?
年代が違ってるからダメです。
>>56 守護地頭を設置したものの、乱以前は反幕府の豪族もいたが、乱以後は完全に幕府に恭順したという意味で九州まで支配力が広がったと書いている。
>>56 鎌倉時代史スレで簡単に答えておいた。
とりあえずマルチポストならやめましょう。
60 :
日本@名無史さん :2006/04/18(火) 22:18:23
>>55 この電波説を朝まで生テレビで真顔で言っているバカがいたけど、そんなに浸透しているのかな?
61 :
日本@名無史さん :2006/04/18(火) 22:43:09
>>60 してねえよ。
2ちゃんでネタになってるだけだろ。
62 :
日本@名無史さん :2006/04/19(水) 00:58:15
>>61 しかし朝まで生テレビの出演者がいうってどういうことよ?
63 :
日本@名無史さん :2006/04/19(水) 01:14:32
東京明治天皇は、なるべくしてなった世界希有の指導者であった。 もし、南朝の血を引く大室に変わらなかったなら、日本は、当時の列強によって 瞬く間に分断され、今日の日本はなかったであろう。 なぜなら、末期の幕府、その縁戚関係にあった貧弱な心身の天皇家にはもはや日本を纏め 列強に対抗する力は皆無であった。 京○明治○皇は、弱々しく、字も下手で、馬にも乗れず、心身ともに貧弱で、東京明治 天皇とは雲泥の差であったという。 天界は、南朝の血を守ってきた長州の地を中心に来たるべき世に活躍する若者を輩出し、 来るべき時代に日本をリードする人物をこしらえていたのである。
いやはや、救いようがないバカが大繁殖してるなあ。 明治天皇が南朝の子孫だとよ
65 :
日本@名無史さん :2006/04/19(水) 18:35:13
そんな偽天皇いらねえだろ。もう廃止しろよ。
66 :
日本@名無史さん :2006/04/20(木) 00:51:36
>>62 朝まで生テレビに出演を依頼されて応諾した時点でそいつは知識人・言論人としてはもうだめだと思う。
傍系からの天皇は諡号に『光』の字がつくけど 北朝の天皇の追号に『光』がついているのは偶然にしては凄いと思う。
68 :
日本@名無史さん :2006/04/22(土) 17:30:42
長慶天皇には皇子がいたようですが、なぜ弟に皇位を譲ったんですか?
69 :
日本@名無史さん :2006/04/23(日) 00:14:07
>>68 譲ったというよりは「譲らされた」んだろうな。
長慶は北朝との和平に反対。後亀山は賛成の立場だったらしい。
もっとも長慶や後亀山の弟の某親王が皇太子の地位にあったという説もある。
とにかく当時の南朝のことは史料が残っていなくてわからないことが多い。
明治時代までは長慶が実際に在位していたのかどうかを歴史学者が大真面目に議論していたほどだ。
今年、バンド結成30周年を迎えた伝説のバンド、ゴダイゴが再始動
することが決まり、4月25日(火)に都内で会見を行った。
1999年に期間限定で活動を行った彼ら。今回は、特に期限を決めず
あくまで“自然な形”(ミッキー吉野)で再始動を行う。
元々、いい作品が出来なくなったという理由で活動を休止したゴダイゴ。
ミッキー吉野は「1年半前から何か出来るかも? と思うようになった」と
再始動の理由を説明。さらに「やる限りには最低3年はやりたい。バンドは
やっぱり“売れなきゃ損!”ですからね」と力強く語った。
そして、タケカワヒデユキは5月4日(木・祝)に奈良の東大寺で開催する
『特別コンサート 轟きin東大寺』について、「歌う事に関しては心配して
いませんが、いざ本番になると体が勝手に動いてステージ中を走り回りそう
なので、今から体力をつけておかないと・・・。コンサート内容も、旅に
行って戻ってくるようなライブ構成になると思いますよ」と、1980年の
中国に続き“シルクロード”の終着点で開催するコンサートに対して、
特別な思いで臨むことを静かに語った。
なお、5月17日(水)には再始動第1弾シングルとして自身の名曲をカバーした
「MONKEY MAGIC 2006」をリリース。さらに、秋以降にはツアーも企画し
年末には通算4度目となるNHK紅白歌合戦の出場も目指す。
http://www.oricon.co.jp/news/music/19790/
72 :
日本@名無史さん :2006/05/03(水) 18:47:51
長慶は出奔、崩御の地は今も未確定・不明ということ?
73 :
日本@名無史さん :2006/05/04(木) 23:49:15
>>72 そのとおり。ちなみに死去した年月日も不明。埋葬場所も不明。いま長慶天皇陵とされているものは長慶の遺児である禅僧海門承朝が住んでいた寺院の跡地であるというだけの由緒しかない土地。
米軍が日本に駐留することはアメリカ自身の極東防衛の前線基地を確保出来ることで 米国にとって相当な利益があるにも拘わらず、在日米軍の再編成費用3兆円を日本からせびり取る積りらしい。 本来なら、基地使用料を米国が払っていてもおかしくない。 それでもそう言うことをしようとするのは、民主主義が未発達で未定着な 国を米国が負担までして守りたくないからだ。 本当は軽蔑しているからだ。 下っだらない天皇なんか信奉しているからそう言うことになるのだ。 世界中のどの国だって日本を本気で尊敬してる国なんてありャしない。 民主主義の発達を阻害している天皇制は日本の国益を著しく損ねている。 こう言うところで本音が見え隠れする訳だね。
75 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 00:31:23
都で暮らしていたひ弱な皇族公家が山奥で暮らせたのか? 道路だって未整備だから、馬があっても乗れたわけ無いと思うから徒歩で山道だろう。
76 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 00:42:42
>>73 死んだのって1394年じゃなかったっけ?
>>75 御村上天皇の御所は賀名生(現・西吉野村)だからそれほど山深いって訳じゃないと思う。
77 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 00:44:07
おまえ、後醍醐天皇や護良親王は、バリバリです。弱い公家のイメ−ジないで。
78 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 12:15:32
後村上や長慶がバリバリ全国を転戦してたってホントかね?
79 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 13:35:57
各地に派遣された後醍醐天皇の諸皇子も、実は遥任であったという可能性は無いの? 本体は比叡山かどこかの寺で、地方に下向したのは錦旗もった従者だけだったりして。
80 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 13:36:43
熊沢天皇と、熊沢蕃山は全然無関係の電波?
>>79 義良親王を奉じて奥州下向の北畠顕家が奥州武士全てを騙すつもりだったなら替え玉は可能。
同じく、成良親王を奉じて鎌倉下向の足利直義が関東武士全てを騙すつもりだったなら替え玉は可能。
ばれたら奥州関東の武士が即離反だろうな。
宗良親王は所在の不明な時期はあるが、派遣先から都に歌の贈答をしているからそれはない。
越前金ヶ崎落城に尊良親王は自害。恒良親王は捕虜。
懐良親王の九州下向と大活躍に異論を差し挟む余地はない。
82 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 14:16:57
懐良親王は日本国王を僭称してるね。
83 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 15:50:03
>>82 僭称じゃなくて、明だかからそういう称号を受けたんじゃなかったっけ?
84 :
日本@名無史さん :2006/05/05(金) 20:29:54
『明史』に「日本国王良懐」って書かれてる。 確か洪武帝が明を建国した際に、建国を通知する使者が日本にも送られて きたのだが、そのときに懐良親王のほうが自分が日本全体の王であるかのように 装って、その使者に会った。 しかしこのときの問答を見てると面白いよ。 偶然にもその使者の姓が趙だったから、かつてフビライの使者としてやってきた 趙良弼の子孫と疑われたりして。 結局、明側もそのうち懐良親王が日本国王でも何でもないことに気が ついたらしく、そのうち京都の北朝&室町幕府と直接接触しようとしてくる ようになるが。
85 :
日本@名無史さん :2006/05/06(土) 02:27:47
父の後醍醐天皇さしおいて日本国王を僭称した不忠不孝
86 :
日本@名無史さん :2006/05/06(土) 20:57:26
廃帝だから放置しても差し支えない。
87 :
日本@名無史さん :2006/05/07(日) 05:29:38
吉野の山民、熊野の海民が南朝を支持したのはなぜ? 徳川が新田末裔を称したのは、民衆の判官びいきの世論のような感情を利用したということ?
88 :
日本@名無史さん :2006/05/07(日) 05:41:10
逆賊高氏信者が紛れ込んでいるな
89 :
日本@名無史さん :2006/05/07(日) 08:44:12
後醍醐源氏というのは無いの?
宗良親王の子・尹良王が源尹良になって子孫は尾張津島で神官になったそうな。 懐良親王の子・雅良王の子孫についてはわからん。
91 :
日本@名無史さん :2006/05/07(日) 15:44:50
>>88 逆賊逆賊言うけれど、当時の人たちで、尊氏ほどの尊王家は
居なかったって、話聞いたことあるな。ただ成り行き上ああ
なっただけだとか・・。
>>91 88は、昨年からこの近辺で暴れ回っている逆賊厨です。
尊氏は逆賊と、証拠も挙げないでひたすら連呼して、
いくつものスレで荒らしを繰り返す、危タガイの人です。
相手にしても無駄なので、放置してください。
93 :
日本@名無史さん :2006/05/08(月) 01:55:11
後二条帝の息子が皇位を継いでいればこんなややこしい時代にはならなかったのにね。
94 :
日本@名無史さん :2006/05/08(月) 22:49:43
>>93 でも大覚寺統って結構内部抗争してるから、
どの道ややこしいことになったんじゃない。
95 :
26歳大卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/05/08(月) 22:51:34
ボンクラ天皇ねw
96 :
日本@名無史さん :2006/05/09(火) 00:19:18
日向高千穂の土豪、奈須氏は江戸時代旗本? これは自称南朝残党?
嗚呼、天は何故この忠誠無比なる人物にこのような苦難を授けられるのか! 逆賊ばかりの世の中では忠の道を歩むことはつらい。 俺も君の怒りとそれによる苦しみはよく理解できる。 しかし、君は休んでばかりいられるのだろうか!? いや、そうではないはずだ。君の気持ち、君の辛さは痛いほどわかる。 だが、俺は君の立場を否認する必要がある。 なぜなら、逆賊高氏の存在を許してしまった我々一人が逆賊だからである。 我々は決して休むことを許された存在ではないのだ。 逆賊である我々は、つねに懺悔せねばならないのだ。 力乏しく逆賊高氏に敗れ去った吉野時代のことを君はどう思っているのか! 君もいま力乏しく逆賊高氏の時空を超越した逆賊エネルギーに敗れつつあるのだ! 君の気持ちは痛いほどよくわかる。だが俺は君を許さない。涙をもって、こういう他無い。君は逆賊だ! つらければ大楠公のことを想え。君がここで倒れては大楠公の御遺志を無駄にしてしまうことになるぞ。 大楠公万歳!万歳!万歳!
1326(正中3)年、邦良(後二条帝の子)が急逝したので、皇太子の座を めぐって、尊良(後醍醐帝の子)、邦省(邦良の弟)、恒明(亀山院の子)、 量仁(後伏見院の子)の4人が争った。鎌倉の裁定で量仁に決まったが、これ以降 大覚寺統嫡流(後二条系)は、量仁即位のとき皇太子を自派から出すことを条件に 持明院統と共同歩調をとることにしたようだ。 それからは、持明院統&大覚寺統嫡流VS大覚寺統庶流(後醍醐系)の図式になった。
99 :
日本@名無史さん :2006/05/13(土) 22:51:00
で、その大覚寺統嫡流はどうなったの?
100 :
日本@名無史さん :2006/05/16(火) 21:20:09
絶滅
諸悪の根源
102 :
\__________/ :2006/05/17(水) 16:16:37
∨ / ̄ ̄ ̄ ̄\ ←逆賊高氏信者 ( 人_____,,) |ミ/ ー◎-◎-) (6 (_ _) ) カタカタカタ | ∴ ノ 3 .ノ ______ ヽ、,, __,ノ | | ̄ ̄\ \ / \.____| | | ̄ ̄| / \___ | | |__| | \ |つ |__|__/ / /  ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
103 :
日本@名無史さん :2006/05/22(月) 21:19:24
このスレで逆賊高氏を擁護している方々に聞きたいです。 逆賊高氏の何がそんなに魅力的なのですか? この時代には逆賊高氏よりも美しい生き方をした人がたくさんいたというのに。 なぜわざわざ悪人を持ち上げようとするのですか? それとも、悪人をわざわざ賛美することで、ある種のスノッブを気取っているのですか?
>103みたいな、 「現在の価値観で過去(の人/事件)を断罪する」行為って、 つくる会の識者達が口を酸っぱくして戒めている愚行だったんじゃないか。 つくる会に反発する学者だって、この点だけは反発してないしな。
>逆賊高氏の何がそんなに魅力的なのですか? って、103が尊氏に一番魅力を感じているようにみえる。
106 :
日本@名無史さん :2006/05/24(水) 23:49:54
107 :
日本@名無史さん :2006/05/26(金) 20:10:26
逆賊高氏のこと考えただけで吐き気がします。。。 オ゛エ゛ーーーーーーーーーーーーーッ
108 :
日本@名無史さん :2006/05/26(金) 21:20:34
南北朝系のスレって気違い発生率がえらく高いな。 彼らは何がやりたいんだろうか・・・・・・・・・・
109 :
日本@名無史さん :2006/05/27(土) 03:47:41
>>103 別に魅力はないが、相手の尊治がもっと糞だから。
110 :
日本@名無史さん :2006/06/08(木) 00:44:31
神、仏、霊の三位一体の改革
111 :
日本@名無史さん :2006/06/28(水) 08:12:53
ぼんくら
112 :
日本@名無史さん :2006/06/30(金) 15:44:28
逆賊高氏信者は自分の父親が浮気して不倫女の所にいって 母親と一緒に捨てられてみればいいと思う
113 :
日本@名無史さん :2006/07/01(土) 02:32:03
114 :
日本@名無史さん :2006/07/05(水) 00:06:10
115 :
日本@名無史さん :2006/07/15(土) 13:48:22
なになに
116 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 12:56:27
逆賊高氏
117 :
日本@名無史さん :2006/07/28(金) 19:23:49
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | ちょ、ちょっとまって!!!今は南朝じゃないの?! , ,-;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:,. ヽ─y────────────── ,-v-、 /;:;:;:;:;:;:ミミ;:;:;:;:;:;:;:;:;:;`、 / _ノ_ノ:^) /;:;:;:;:彡―ー-、_;:;:;:;:;:;:;:;| / _ノ_ノ_ノ /) |;:;:;:ノ、 `、;;:;:;:;:;:i / ノ ノノ// |;:/_ヽ ,,,,,,,,,, |;:;:;:;:;:;! ____/ ______ ノ | ' ゚ ''/ ┌。-、 |;:;:;:;:/ _.. r(" `ー" 、 ノ |` ノ( ヽ ソ |ノ|/ _. -‐ '"´ l l-、 ゙ ノ _,-ー| /_` ”' \ ノ __ . -‐ ' "´ l ヽ`ー''"ー'" | : | )ヾ三ニヽ /ヽ ' "´/`゙ ーァ' "´ ‐'"´ ヽ、`ー /ノ ヽ `、___,.-ー' | / / __.. -'-'" | | \ / | l / . -‐ '"´ \ |___>< / ヽ
遅レスだが
>>112 おまいらが尊氏を叩いてる理由はそんなことじゃないだろが。
後醍醐に逆らった「逆賊」だからだろ。
尊氏叩きのためなら何でも利用するんだな、見苦しい。
119 :
日本@名無史さん :2006/08/07(月) 23:42:05
文観や真言立川流の話はしないのか? 後醍醐といえば真言立川流だろ
120 :
日本@名無史さん :2006/09/01(金) 03:25:51
「元徳院」という諡号は一瞬でも実際に使われたの? それとも企画の段階で流れて一案で終わったの?
尊氏を逆賊と呼ぶ連中は、なぜ織田信長や 徳川家康・秀忠親子を逆賊と呼ばないんだ? 織田は正親町帝を退位させようと武力で威嚇(結果は失敗だが)。 徳川は禁中並公家諸法度なるとんでもない代物を恫喝して押しつけ、 さらには後水尾帝に対する数々の無礼。 正親町帝や後水尾帝が後醍醐帝や大塔宮みたいな気概の持ち主だったら 織田も徳川も殲滅されていただろうがな。
>織田も徳川も殲滅されていただろうがな 織田は本能寺で殲滅されましたが何か?
124 :
日本@名無史さん :2006/10/09(月) 21:20:23
日本史上最悪の暴君だろ。
>>123 信長を討ったのは明智光秀。
それとも「朝廷黒幕説」かい?
126 :
日本@名無史さん :2006/10/27(金) 00:15:37
このスレ人気ないなあ。 まあ、後醍醐はただのアフォだからな・・・
俺は度胸ある闘士だと思うが・・・ 織田や徳川ごときに媚びへつらってた 持明院統の後裔どもとは大違いだ 正親町・後陽成・後水尾といった臆病者どもには 後醍醐院や後村上院の爪の垢をせんじて飲めといいたい
128 :
日本@名無史さん :2006/12/19(火) 20:50:40
アホは吉野で逼塞しとれということだ。
『止ム事ナキ賢帝タチ』の仲間入りをして、国家転覆の為に動いていらっしゃるのか………
130 :
日本@名無史さん :2006/12/27(水) 20:54:24
度胸と執念を兼ね備えた後醍醐帝と後村上帝は真の男だ
しかし、事が発覚すると「部下が勝手にやった」ってのはいかがなモノか。
132 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 21:27:30
いくら天皇にやる気があっても、自ら実務までやったらダメだろう
133 :
日本@名無史さん :2007/01/15(月) 21:39:37
実務がやりたいから挙兵したわけで、そうじゃなかったら傀儡に甘んじてる。
いくら実務やりたいからって、総理大臣が全国の土地登記をいちいちひとりで決済するなんてことはありえない だいたい実務というものは下働きから始めておぼえていくもんだ。天子様がそんなことはできない 個別安堵の方針自体は評価できても、自分でやればぱんくするわな
135 :
日本@名無史さん :2007/01/17(水) 00:05:36
正親町天皇にいくら気概があっても、後醍醐の長講堂領みたいに 経済的なバックは何もないわけで、当時の朝廷は物乞いでしのいでいた状況
136 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 10:48:21
まあ気概だけじゃ何も出来ないからなあ…。
137 :
日本@名無史さん :2007/02/22(木) 15:02:30
崩御なされた際におっしゃったセリフについてはどう思う?
138 :
日本@名無史さん :2007/02/25(日) 21:45:34
今MSNで後醍醐天皇ゆかりの寺が全焼したらしい。
139 :
日本@名無史さん :2007/02/25(日) 22:51:16
140 :
日本@名無史さん :2007/02/25(日) 23:19:05
テロだな。
141 :
日本@名無史さん :2007/02/25(日) 23:19:49
テロだな。
142 :
日本@名無史さん :2007/02/25(日) 23:29:57
143 :
日本@名無史さん :2007/02/26(月) 00:27:43
後 酉堤 酉古月
144 :
日本@名無史さん :2007/02/26(月) 00:38:08
>>137 織田だの羽柴だの徳川だのにヘコヘコしやがった腰抜けども(正親町〜仁孝)に聞かせてやりたい
後醍醐院の手にかかれば、いわゆる戦国三傑など全国規模の連係プレーで全滅だ
145 :
日本@名無史さん :2007/03/22(木) 23:36:25
21世紀に後醍醐天皇の再来はあるだろうか? 天皇親政の復活を夢見て武装蜂起し、 皇居を脱出して筑波山に篭城・・・
146 :
日本@名無史さん :2007/03/26(月) 01:30:49
後醍醐と護良。この親にしてこの子ありの見本だな。
147 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 23:08:42
後醍醐のの治世で評価すべきところってどこ? 水戸史観の影響か、悲劇の天皇みたいなイメージがあったんだが、 ロクでもないことしかやってないっぽいんだが 最初は好意的だった花園院とかにも批判されているし 親政の最初期にやったこと位?
148 :
日本@名無史さん :2007/04/15(日) 14:12:17
公宗が暗殺に成功していれば…
そもそも、なんで相続で大覚寺統と持明院統はあんなにもめたの?
150 :
衣笠宮 :2007/04/15(日) 18:21:22
>>149 :そもそも、なんで相続で大覚寺統と持明院統はあんなにもめたの?
もめた直接の原因は、
折角変わりばんこに即位していたのに、リリーフ登板した
後醍醐天皇(大覚寺党の末支流にすぎない)が身の程もわきまえずに
自己の子孫のみに皇位を伝えようとしたためである。
しかし、その原点は、
3世代前の四条天皇が廊下にいたずらして自ら転んで薨去された
あの日にある。四条天皇の系統が皇位を受け継いでいたなら、
またいとこの後嵯峨天皇(南北朝両統の祖)系に皇位が移ることもなく
南北朝時代も到来しなかったよね。
四条天皇のいたずらが南北朝時代到来の原点である。
>150 それについて天魔に憑かれたって逸話があったな。近臣に悪戯をしようとして自分がかかってしまったっていう。 後醍醐帝も死しては第六天におわしているが。
152 :
日本@名無史さん :2007/04/22(日) 21:32:26
後嵯峨天皇の優柔不断さも一因だが。
153 :
日本@名無史さん :2007/05/03(木) 14:12:13
足利時代を南朝と北朝とに二分し、それによって逆賊尊治の大逆の罪を相対化し、 挙句の果てに逆賊尊治も日本にとっては天皇だった、などという論があるが之は全くの誤りである。 又、光厳院が大覚寺統を不当に否定した、だから持明院統は間違っていたという論があるが之も全くの誤りである。 そもそも皇統の分裂というのは政治的混乱の過程に於ける京都側の自業自得であり、はじめから瑣末なものであった。 皇族の愚昧ぶりと其の政治の悪を見越した文保の和談の義挙ほど我々を感動させるものはない。 普通であれば鎌倉幕府滅亡後、世間知らずで、傲慢な院に振り回されるところだ。 にもかかわらず等持殿(尊氏公)があれほどの強い意志でもって皇道を示し悪逆の尊治に立ち向かった事は後世の我々を感動させてやまない。 もっとも之は不思議なことではない。 思い返せば、日本の歴史のなかでは、右大将軍(頼朝)の肇国の大業、鹿苑院の御統一、東照大権現の治世、何れも人臣の考えの及ばない、 まことに不可思議な力の働いた、言葉を以って説明することの難しい偉大なる意志があった。 等持殿の義挙もその文脈で語られるべき聖業である。 此の御意志こそが総ての心有る日本人が『常識』として他の何にもまして尊重してきたものであった。 等持殿の大御心を誰よりも深く受け止めた日本開闢以来最大の忠臣が其の人、高師直公であった。 こうして発せられた大御心の下、木像同然の吉野は滅び不当なる両統迭立は拝され皇道が打ち立てられることとなったのである。 だから等持殿が大覚寺統を不当に否定したというのは誤りである。
154 :
日本@名無史さん :2007/05/03(木) 15:01:37
後醍醐天皇(尊仁親王)の「尊」の字は、足利尊氏から貰ったらしいね。 その後の顛末(尊氏の離反)を考えると、面白いと思う。
155 :
日本@名無史さん :2007/05/03(木) 17:29:36
>>154 離反したにも拘らず尊氏は後醍醐天皇を本気で尊敬し続けていた節がある。
後醍醐崩御を聞くと北朝に交渉して諒闇にさせたり
言うまでも無いけど天龍寺を建立して後醍醐の霊を弔っている。
後醍醐には「己が意の儘に振舞った天皇」というイメージが強いけど
直に接した者にしか分からない何かしらの魅力はあったのだと思う。
156 :
日本@名無史さん :2007/05/03(木) 18:17:39
後醍醐天皇の名は「尊治」だよ。
そもそも後醍醐“が”足利高氏“に”尊の字を与えたから尊氏となった訳だが
158 :
日本@名無史さん :2007/05/08(火) 03:11:33
ただの時代錯誤の誇大妄想だろ
159 :
日本@名無史さん :2007/05/08(火) 09:38:15
足利尊氏は元服の時に、北条高時から「高」の字をもらって「高氏」と称しているね。 ついで、後醍醐天皇から諱の「尊」の字をもらって「尊氏」と改名。 忠誠の証? この時代普通だが。
160 :
日本@名無史さん :2007/05/08(火) 10:23:26
そういえば大覚寺統は「仁」つかないのが多いね
後醍醐の息子は、尊良・世良・護良・宗良・恒良・成良・義良・懐良。 後二条(後醍醐の兄)の息子は、邦良。「○良」がブームだったのか?
大覚寺統で仁がつくのは亀山、後宇多の恒仁、世仁だが、 命名されたのは後嵯峨が健在で分裂前か 持明院統は後嵯峨に連なる仁の字にこだわって正統性をアピールしようとしたのかもな
163 :
日本@名無史さん :2007/08/04(土) 00:20:33
takaharu
164 :
日本@名無史さん :2007/08/04(土) 00:40:01
165 :
夏厨 :2007/08/04(土) 17:02:08
北畠顕家って奥州下向前で武功も立ててない16歳くらいで従三位参議に なってますよね、摂関家なみの破格の待遇だと思うんですが、それほど までに父の親房の権勢が強かったのでしょうか? よもや後醍醐のご寵童だったなんてことないでしょうか?
166 :
日本@名無史さん :2007/08/04(土) 21:59:24
アッー!
美少年→美青年なのは史料(舞御覧記)があるとしても 後醍醐帝に衆道の気ってあったのかなあ。 子だくさんだから絶倫であったことは間違いないけど 立川流真言の灌頂を受けたほどの者として、鶏姦に及ぶには思えないんだが。
169 :
日本@名無史さん :2007/09/07(金) 17:57:27
親房は、わずか12歳で即位した後村上天皇の、実質的なブレーンだった。 親房没後の、南朝の没落具合は酷い。 親房は、吉野で没した後醍醐天皇から息子を託されるほど信頼されていた。 後醍醐天皇が、親房の長子顕家を重用したのは当然。
170 :
日本@名無史さん :2007/09/15(土) 11:47:47
ふと思ったんだが、なんか鎌倉時代の朝廷と今の自民党って似てない? 大覚寺統と持明院統(自民党内タカ派とハト派) 五摂家、西園寺家と洞院家のように、分立する貴族各家(自民党派閥の乱立) 両統の皇位継承ごとに雪崩をうって擦り寄る貴族たち(総裁選の時の安倍支持と福田支持) 朝廷をコントロールする幕府(アメリカ) などなど
171 :
日本@名無史さん :2007/09/15(土) 12:03:52
172 :
日本@名無史さん :2007/10/16(火) 02:10:45
ゴクミ・・・
173 :
日本@名無史さん :2007/11/17(土) 08:54:55
顕家って何か恵まれてないね。 あれだけの功績がありながら、楠木正成や護良親王ほど知名度がない。 俺、仙台に住んでるのだけれど、多賀城に赴任した割に何も地元じゃ語り継がれてないよ。 何か、カワイソス。
俺は子供の頃、顕家の墓へよく行ったな 公園があってその中に墓があり、公園では子供がよく遊んでたりする 今でもたまに前を通りかかるね
>>169 やや後醍醐と北畠親房には温度差があったようだが、かなり
頼りにしていたようだけどね。あとは、南朝公卿の中心は
四条隆資や洞院実世くらいか。彼らが死んだ後になって
後村上天皇が五条良氏(頼元の子)に宛てた手紙をみると、
「いまや先帝の遺勅を果たそうとしているのは頼元しかいない」という
ないようが出てきて、南朝のじり貧具合がわかるけど、なんだか泣けてくる。、
親房→後醍醐は温度差を感じてたが(感じた上で行動してた) 後醍醐→親房は意外と脳天気だったような気もする その親房も他の貴族とは浮いていたのが何とも皮肉で(しかも武士からも浮いてたという孤立っぷり) 藤氏一揆なんて、後村上は抑えれなんだかといった感じだが
177 :
日本@名無史さん :2008/03/23(日) 18:49:00
功績といっても、後醍醐天皇を支えたことが功績になるのか、 南朝正統論の人以外にとっては、イマイチ疑問だし、 北畠の冷遇は仕方ないでしょう。
テスト
179 :
日本@名無史さん :2008/04/04(金) 03:11:27
>>176 常陸くんだりまで行ったはいいけど、親房はあまり武士の性格というものを
理解してなかったフシがあるような。
>>173 顕家の拠点は多賀城じゃなくね?
>>179 親房は時代錯誤ってレベルじゃなくて武士に幻想抱いてるレベルですらある。
「近頃の武士はまるで商人じゃないか。鎌倉の始まりころを見習え」とは何とも時代錯誤甚だしい。
しかも面と向かって言うんだもの。
国会で「女は結婚するまで処女守れ、男は親の仕事を継げ」と発言するようなもんだ
181 :
日本@名無史さん :2008/06/04(水) 18:36:27
182 :
日本@名無史さん :2008/06/05(木) 13:22:34
>>180 幻想抱くどころか、根本的に武士のことを何もわかっていない感すらある。
183 :
日本@名無史さん :2008/06/07(土) 21:17:26
分かろうともしてないでしょ・・・
他の公家よりは理解を示そうとしてたよ 他の公家が武士=平安時代の武士という認識なら 親房は武士=源平合戦の武士ぐらいの認識 五十歩百歩ですね
185 :
日本@名無史さん :2008/07/05(土) 12:06:57
吉田定房うらぎったなぁ。
186 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 21:09:55
北畠親房は後村上天皇のために神皇正統記を著したわけだが 血縁の護良親王(母北畠親子)に対しては感情的なものはなかったのかな?
187 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 02:39:18
もう死んじまったもん、しょうがないでしょ。
188 :
日本@名無史さん :2008/07/23(水) 21:08:17
>>186 護良親王の母については諸説ある
仮に北畠氏だったとしても親房とそれほど近い血縁ではなかったはず。
親房は別の後醍醐天皇の皇子世良親王の養君を任されていて、
世良親王が早世したときには出家したほどだったから
世良親王にかけていたみたいだったし。
親房と近い血縁と言えば、実娘の顕子が後村上天皇に入内し
女御になっている。
北朝側の公家には顕子のことを皇后と書いているものもあるから
後村上天皇の妃たちの中でも相当恵まれた処遇を受けていたようだが
なんと南朝方公家と密通して出奔、親父の親房を嘆かせている。
後嵯峨が悪いな 兄ちゃんの系統にだけ継がせりゃよかったのに何で弟の系統に継がせるかね? 後醍醐が何で正統なのか水戸納豆の脳みそは腐ってるよ!
後嵯峨院が悪いのは後深草院から亀山天皇に譲位させたことじゃあなく その後を何にも決めずに死んだことじゃないか? 一応、遺言らしきものはあったことになっているけど。 まあ亀山院も死の直前に末っ子に皇位を、と言って後に混乱させているから 決めれば良いってものでもないけど。 遺言というと太平記にある後醍醐のあれこそ史上最悪のものだったな。
>>188 へええそうなんだ。
で、その愛の逃避行の結末は?
192 :
日本@名無史さん :2008/08/27(水) 11:10:36
太平記ってどこまで真実が書いてあるんだろう。
>>122 信長が正親町天皇を退位を強要したかについては意見が分かれている。
そもそも、信長が仙洞御所を造営しなきゃ退位なんてしようがない。
公家諸法度の規定の多くはむしろ公家側が泣きついて家康が仲裁して決めてもらったもの。実際には制定以前に相当数の公家が家康から意見を求められたらしい。
もっとも最初の「天皇は学問だけしていろ」というのを忍び込ませたのは後の大政委任論の法的根拠になった1つだからその点では家康が頭が良かったわけだが。
>>192 真実と言うよりは、当時の人が真実と思ってた事が書かれてたのかもね
195 :
日本@名無史さん :2008/09/26(金) 02:42:25
うーん、文献て政治的意図とか色んなバイアスがるから トコトンの悪者に書かれている人って 本当は凄いってケース多いからね。 後醍醐天皇って余りにも悪く書かれている部分があるから 微妙に臭う部分があるけどね。
196 :
日本@名無史さん :2008/09/26(金) 22:53:01
凄いことは凄いが、凄い基地外。
197 :
日本@名無史さん :2008/09/27(土) 19:59:29
両統迭立の時代の天皇は在位十年交代と決まっていたのに、後伏見天皇は何で三年足らずで譲位したの?
>>197 確か伏見院政と鎌倉幕府の衝突が原因じゃなかったっけ?
そもそも、10年交替は文保の和談のことだから後の時代の話しだし、その合意自体の存在にも疑問説がある。
199 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 22:51:34
>>198 伏見院は第二の後鳥羽になるんじゃないかとヒヤヒヤするほど幕府嫌いでしたからねぇ
200 :
日本@名無史さん :2008/10/11(土) 11:49:40
♪モンキーマジック 尊治がモンキーなのか? どう見ても、ゴリラかオランウータンじゃんw
201 :
日本@名無史さん :2008/10/13(月) 12:50:04
>>197 京極為兼と西園寺実兼の対立が原因。
和歌の家元でもある京極為兼はもともと西園寺家の家司で、
西園寺家から嫁いだ伏見天皇中宮永福門院の支持をうけ、
伏見天皇や永福門院の和歌の師として天皇の傍に上がることになった
しかし次第に伏見天皇の意を汲んで政治に口出しをするようになり
持明院統のために動くことが多くなった
これが関東申次西園寺実兼との対立を生む原因ともなり幕府にも不快に映った
為兼は二度流罪となり最後には幕府は伏見天皇の院政を停止する事態となる
これを契機とみた後宇多上皇は一気に西園寺実兼と結び持明院統から帝位を奪回。
亀山ー後宇多のあと、西園寺家の庇護を受けて伏見ー後伏見と持明院統に有利だった皇位継承は、
一気に大覚寺統にとって代わられ、大覚寺統後二条のあとは花園をはさんで
天皇、皇太子ともに大覚寺統から出すという大覚寺統優位になる事態の前触れでもあった。
202 :
日本@名無史さん :2008/10/14(火) 21:41:41
邦良が死んでも、その息子の康仁とか弟の邦省がいたんだろ?
203 :
日本@名無史さん :2008/10/15(水) 20:17:13
ゴダイゴって時代が時代だったら不敬罪だよね?
どうせなら、“ゴダイゴ”じゃなくて、“タカハル”にすれば良かったのにね。
205 :
日本@名無史さん :2008/10/16(木) 11:49:53
そ〜くぉ〜にゆぅくぇぶぁあ〜♪ ど〜ん〜なゆぅむぇもぉ〜〜♪ くぁ〜ぬぁ〜うとぉお〜 い〜う〜よぉ〜〜♪
206 :
日本@名無史さん :2009/02/10(火) 22:30:44
>>190 義満の南北統一は強引なやり方だったけど、そんな有様じゃ止むを得ない事だな
207 :
日本@名無史さん :2009/02/11(水) 19:50:56
>>202 邦良親王が没すると、両統迭立により鎌倉幕府は
持明院統の量仁親王を皇太子にたてた。
量仁親王への譲位を拒む後醍醐天皇は鎌倉幕府討伐を思い立つも発覚、
正中の変で後醍醐天皇が隠岐に配流になると、
都では量仁親王が即位(光厳天皇)、
後二条天皇の孫康仁親王が皇太子にたてられた。
しかし、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇が再び入京、
光厳天皇と皇太子康仁親王を否定して自らの帝位を確認、
新しい皇太子にわが子恒良親王を立てた。
後宇多天皇の嫡流だった後二条天皇の系統は、
後二条の異母弟後醍醐天皇によって帝位から遠ざけられた。
208 :
日本@名無史さん :2009/02/11(水) 19:58:55
>>190 後嵯峨天皇は出家が約束されて僧房に預けられていたところを
四条天皇の急死により思いがけず鎌倉幕府に担ぎ出された天皇。
鎌倉幕府の意のままにわが子を初の親王将軍として幕府に差し出すなど
もともと幕府に従順な帝だった。
後深草のあとには亀山を立て、さらに亀山の子を皇太子に立てたものの、
帝位は鎌倉幕府の思い通りに、という意思であったらしい。
自分の帝位が鎌倉幕府が決めたものであったように、
その後の天皇家のあり方も幕府が自由に決めてよろしいと。
そこで幕府が好きなように決めたかというと、そんなことはなく、
後嵯峨が没した後その中宮であった大宮院にどうしたらよいだろうかと尋ねてくる。
大宮院が故院の志は亀山天皇にありました、と答えたので
亀山天皇が治天の君となった。
四条天皇が死んだときには公家たちの意見を無視して(公家たちは後嵯峨ではなく順徳皇子成忠王を押していた)
執権北条泰時が強引に後嵯峨天皇を擁立して、幕府の力を見せつけたが、
後嵯峨が没したときには幕府は天皇選びに興味を示さず、
鎌倉幕府の対応に一貫性がなかったのも原因。
しかし顕家をなぜ奥州などにやったのか。当時敵でもいたか?それともそんなに 魅力的な地だったか(天下を治めるのに)。どうみても南朝の失政だろこれ。
210 :
日本@名無史さん :2009/02/11(水) 23:30:19
関東は鎌倉殿の勢力圏なので、それ以外の土地を押さえたかったのさ。
sage
このおっさんの野心がなくても、遅かれ早かれ鎌倉幕府は倒されたのか?
sage
>>212 このオッさんの野心がなければ鎌倉幕府は続いていただろう。
得宗専制完成直前で、御家人達は北条被官となるか、没落するかの二者択一を突きつけられていた。
このオッさんは絶妙な時期に謀反を起こしたと言える。
215 :
日本@名無史さん :2009/04/12(日) 22:45:19
>>186 神皇正統記の作者は、養子婿の伊勢神官の荒木田国長ですね。
大塔の若宮興良を、奉じ常陸挙兵するも、大塔宮の旧臣に
ガードされ近ずけない、きかん坊の興良みきって、後の後村上天皇のために
関城で編集し完成 共同著者ですね。
216 :
日本@名無史さん :2009/04/14(火) 00:40:13
>>186 今は、国長の荒木田は、維新後久邇宮朝彦さんと、泉州の商家の娘とにできた末子男子の
久邇宮家が、継いでます。幕末江戸旗本預かりだが、 乳母を荒木田の娘がした縁で。
217 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 00:05:09
護良親王の実母は本当に北畠ですかねえ?1亀山上皇の手元で育つ後醍醐天皇は 亀山上皇の最後の側室を、腹まし護良生まれた 2異父子の兄に 正中の変の黒幕で、 隠岐で死んだ翌年 護良は環俗し挙兵 3中院や日野の可能性も大 4生母姉妹の一方に伏見系いるとも 5高氏は京の屋敷を 護良の母の実家を占拠 6鎌倉宮の創建の社は 幕末志士が 護良の母が出家先の 聖護院近く建てたものを移す 7軍国の戦前の大平記史観から 北畠にされた 8宮内庁は 生母を 特定してないが とりあえず東京帝大の編纂の資子の名前だす。
218 :
日本@名無史さん :2009/04/15(水) 21:51:01
>>170 豊田家の社長継承なんかみてると得宗家とダブって見える
日本人は進歩してないんだよね
219 :
日本@名無史さん :2009/04/19(日) 08:10:37
隠岐から逃げた後醍醐は神戸の福厳寺に入ったために頭痛に悩まされます。なぜ頭痛に悩まされたのでしょうか?その後近くの薬仙寺の井戸水がご利益があり、それを飲む事で頭痛は完治します。
220 :
日本@名無史さん :2009/04/19(日) 08:15:10
なぜ福厳寺に入った事で後醍醐は頭痛になったのか?また福厳寺にも仏像・井戸はあったにもかかわらず、なぜ薬仙寺のご利益のある水でないといけなかったのか?深い謎に包まれた歴史の闇があります。ご存じの方教えてください。
221 :
日本@名無史さん :2009/04/19(日) 18:20:47
222 :
日本@名無史さん :2009/04/20(月) 07:09:53
のろい
223 :
日本@名無史さん :2009/04/20(月) 07:19:48
頭痛の原因が呪咀、施毒に気付いた帝はあえて近隣の薬仙寺から安心できる水、食物を取り寄せたのが真実。
224 :
日本@名無史さん :2009/04/20(月) 11:58:04
住職は鎌倉幕府に厚く信仰された建長寺の蘭渓道隆の系統の大覚派。後醍醐を毒殺できる絶好のチャンスと考えていた。
225 :
日本@名無史さん :2009/04/20(月) 12:40:55
怨霊信仰から見て、呪われず、祟られないためには、魂を鎮め、顕彰しつづけ無ければならない。
226 :
日本@名無史さん :2009/04/24(金) 07:19:07
隠岐から逃げてきて、楠が迎えに来るまで兵庫の寺で帝は安心してセックスしていたんだろうな。立川流のセックスで!
227 :
日本@名無史さん :2009/04/26(日) 00:09:37
226さん 確かに立川流は邪教 少子化のおり うらやましい 産めよ増やせよ北朝滅ぼせですわ コスル気持ちいいは あかひげ○局だがやあ
228 :
日本@名無史さん :2009/05/15(金) 10:58:22
兵庫の福厳寺は禅の寺。側室と立川流淫乱プレイはダメだな。
229 :
日本@名無史さん :2009/05/15(金) 13:39:06
さぁー親政するぞ親政するぞ親(ry
230 :
日本@名無史さん :2009/05/15(金) 14:41:00
信長も本能寺でやってたはず。ホモとかも。
嫁が不作 義貞も女にかまけて
児島高徳の桜の木の話は結構好きだな。
233 :
日本@名無史さん :2009/06/21(日) 07:17:55
楠木もバカだ。 あんなミカドにつかえて。 バカだ。
234 :
日本@名無史さん :2009/06/21(日) 07:20:56
隠岐から後醍醐が還ってきたとき、楠木は兵庫の福厳寺に迎えに行かずにおれば、不幸にならなかったのに。あのミカドとも出会わずにすんだのに。
エッチで変態のくせに琵琶と歌は上手かったんだって。 生まれ変わってたらロックバンドでもやってるだろうね。 目立ちたがり屋だから。 息子にしたことのしっぺ返しを受けつつ。 嫌いだこいつ。
リアルに王子様で歌もうまいし、ギターもうまい。 そりゃもてるな… トークもうまいし、そりゃ騙されてついていくやつもいっぱいいるな…
でもエロで変態でカルトオタクで大魔王とか言われてて 往生際の悪いバカなヘタレ爺だよ? 忠臣の無駄遣いをどれだけしたことか。 人を見る目のない自己中のナルシストじゃないの?
238 :
日本@名無史さん :2009/06/25(木) 07:35:05
後醍醐は地獄で苦しんでいる!
ざまあ
240 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 07:39:55
後醍醐は地獄で亡者の一人として頑張っている。
241 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 08:00:43
ダイゴに生まれ変わったんだよww
242 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 08:07:55
島根だし、お坊ちゃまだし、目立ちたがりやで自称ミュージシャンだし・・・
243 :
日本@名無史さん :2009/06/28(日) 08:23:46
でも後醍醐の姉にホモ文学を書いた奴はいないし……
がちでウィーッシュ。
245 :
日本@名無史さん :2009/06/29(月) 15:17:36
カス帝
246 :
日本@名無史さん :2009/08/15(土) 09:53:38
先日電車で後醍醐の聖蹟、神戸の兵庫区にある福厳寺に行ってきました。駅の前には福厳寺の記念碑が。すごい。期待が高まりました。そして歩く事十五分、福厳寺に到着。そこには公民館のような建物がありました。それも、ぴったり門がしまったままでした。
247 :
日本@名無史さん :2009/08/15(土) 15:38:07
248 :
日本@名無史さん :2009/10/16(金) 19:51:01
後醍醐!後醍醐!後醍醐!後醍醐天皇ぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!! あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!後醍醐後醍醐後醍醐天皇ぅううぁわぁああああ!!! あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん んはぁっ!第96代天皇後醍醐たんの長い顎鬚をクンカクンカしたいお!クンカクンカ!あぁあ!! 間違えた!モフモフしたいお!モフモフ!モフモフ!髭髭モフモフ!ジョリジョリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!! 元弘の変の後醍醐たんかわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!! 隠岐から脱出できて良かったね後醍醐たん!あぁあああああ!かわいい!後醍醐たん!かわいい!あっああぁああ! 六波羅探題も攻略できて嬉し…いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ!! ぐあああああああああああ!!!六波羅探題なんて現代にない!!!!あ…正中の変も建武の新政もよく考えたら… 後 醍 醐 ち ゃ ん は 現代 に い な い?にゃあああああああああああああん!!うぁああああああああああ!! そんなぁああああああ!!いやぁぁぁあああああああああ!!はぁああああああん!!鎌倉ぁああああ!! この!ちきしょー!やめてやる!!日本史なんかやめ…て…え!?見…てる?教科書の後醍醐ちゃんが僕を見てる? 絹本著色後醍醐天皇御像の後醍醐ちゃんが僕を見てるぞ!後醍醐ちゃんが僕を見てるぞ!資料集の後醍醐ちゃんが僕を見てるぞ!! まんが太平記の後醍醐ちゃんが僕に話しかけてるぞ!!!よかった…世の中まだまだ捨てたモンじゃないんだねっ! いやっほぉおおおおおおお!!!僕には後醍醐ちゃんがいる!!やったよ経忠!!ひとりでできるもん!!! あ、天皇皇族実録の後醍醐ちゃああああああああああああああん!!いやぁあああああああああああああああ!!!! あっあんああっああんあ足利ぁあ!!な、長崎高資!!新田義貞ぁああああああ!!!赤松則村ぁあああ!! ううっうぅうう!!俺の想いよ後醍醐へ届け!!南北朝時代の後醍醐天皇へ届け!
249 :
日本@名無史さん :2009/10/30(金) 19:09:53
後醍醐氏ね
250 :
日本@名無史さん :2009/10/31(土) 08:24:25
後醍醐天皇、針の回し刺しでうつった、C型肝炎が悪化して肝硬変なってワイン飲んで氏ね。
251 :
日本@名無史さん :2009/10/31(土) 14:28:04
正成と尊治の初対面の場面 正成 帝、河内の住人、楠正成にございます。お言葉を賜りたくぞんじます。 正成に帝は言葉を掛けず、上の言葉をくりかえす。 やっときずいた 尊治 朕は難聴なり。
ガンダーラ
253 :
日本@名無史さん :2010/03/18(木) 19:16:32
歴史まったく興味なしの俺だけど、資料漫画みたいのに描かれていた後醍醐天皇 が魔人みたいでカッコよくて、歴代の天皇のイメージとかけ離れていると思った。 貴族と正反対のバリバリなのな。 関係ないけど、護良親王を殺したやつの子孫が俺の前カノだったんだけど、魔物だった。 金や社会的地位はあるけど、心臓に障害があって常に精神不安定で不幸な人だった。 因縁受けてるのかね。 本人は、「うちの先祖は天皇切り殺したw」って自慢げに言ってたけど。
254 :
日本@名無史さん :2010/05/25(火) 07:05:12
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。 また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。境内には 塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在 は福厳寺に合併されています。
255 :
日本@名無史さん :2010/05/29(土) 14:58:02
単なる時代錯誤で現実を直視できないおバカなオヤジ 建武の新政は建武の「失政」 よく知れば知るほど軽蔑に値する糞だな、このオヤジ
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。 また神戸の歴史においても重要な地位をしめます。兵庫城、兵庫津を取り囲む都賀堤の中心で、 兵庫の町を守る軍事拠点になってました。 境内には 塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在 は福厳寺に合併されています。
神戸市兵庫区門口町の福厳寺は後醍醐天皇の史跡として有名です。 また神戸の歴史においても重要な地位をしめます。兵庫城、兵庫津を取り囲む都賀堤の中心で、 兵庫の町を守る軍事拠点になってました。 境内には 塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺さ れましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりまし た。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在 は福厳寺に合併されています。
武士に頼らない直属軍を編成できなかったのが敗因
259 :
日本@名無史さん :2010/06/09(水) 23:44:49
髭面の僧兵紛いのむさい壮年だけ集めた近衛兵団とか、 逆に色白で端正な貴族師弟を集めた近衛兵団とか、 特色のある直属軍を見て見たかったですね
260 :
日本@名無史さん :2010/07/14(水) 19:40:57
西園寺公宗は後醍醐天皇を憎んでいた。 なぜなら彼の恋人であった西園寺禧子を寝取り、あまつさえ盗み出してしまったからである。 これを恨んだ公宗は光厳天皇に接近。やがてあの愛妾であったと思われる日野名子を身分違いにもかかわらず迎え入れ持明院統の一員になったのである
261 :
日本@名無史さん :2010/07/20(火) 08:28:15
南北朝で国を分裂させて内乱状態に陥らせ、多大な流血を招いた「愚帝」だな。
262 :
日本@名無史さん :2010/07/21(水) 05:42:22
当時の最先端である朱子学のカルト教義を 間に受けてしまったんだなぁ。 いつの時代も頭のいい人が陥りやすい魔境だよ。
>>262 じゃあ江戸幕府は(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
264 :
日本@名無史さん :2010/07/21(水) 18:07:08
↑江戸幕府は制度として採用しただけで信じてるやつはいなかった
そもそも大覚寺統の本来の嫡流は後二条天皇なんだから、後醍醐天皇も朱子学を自分に都合よく利用しただけだろう。
266 :
日本@名無史さん :2010/07/24(土) 05:10:30
>>266 同じ水戸学でも三宅観瀾は神器の所在を正統の根拠にすることの危険を唱えているけどね。
268 :
日本@名無史さん :2010/07/25(日) 22:56:01
朱子学が成立したのが、夷(えびす)に国土が蹂躙されていた南宋というのが 何とも言えないですね。 大義名分では人は動かないですからね。なぜ正当な漢民族の国家が夷に蹂躙 されたのかを考えれば分かるのに。 新法と旧法派による何世代にもわたる争い、文治主義による常備軍の形骸化。 何と日本の朝廷と全く同じことに気付く。 天皇や公家衆が『東夷』と罵る武士が、何故政権を造らざるを得なかったか、 そこが悲しいかな見えていなかった。 後醍醐が真に賢帝なら、『政治向きのことは足利に任せる。だが皇位はわが子孫が 代々継承するのだ』と言ったことでしょう。 更に大覚寺統の本流は後二条天皇の系統だから、後醍醐は2つのわがままを 充足しようとしてしまった。 1 武家に政治を取らせないこと 2 皇位を大覚寺統かつ自分の子孫で独占すること この点で引け目があるからこそ、朱子学という異国の学問を権威づけに利用 したというのが実相でしょう。 何事も欲張り過ぎてはいけないといういい例です。政治を捨てて皇位を取っていれば、 内乱なぞ起こらなかったでしょうに。
>>265 嫡流?
どういう意味の嫡流よ?
兄の家系という意味なら
そもそも持明院統が嫡流だろうし。
先帝の指定という意味なら常盤井宮が嫡流では。
270 :
日本@名無史さん :2010/07/26(月) 01:05:09
後嵯峨天皇の意思は亀山天皇にあったのだから、その意味で 大覚寺統の方が嫡流でしょう。 足利将軍の持明院天皇に対する態度を見ると、まさに張りぼてとしか 見ていないことが分かる。 例えば尊氏が『皇位のことは南方に全てお任せする』と言って 南朝に降伏したこともあった。
271 :
日本@名無史さん :2010/07/26(月) 08:05:42
本名に『尊』が入っている天皇は強烈な個性がありますね。 尊仁・尊成・尊治 左から順に、後三条・後鳥羽・後醍醐 終生何かを打倒することに命をかけて亡くなりました。 私も男の子が産まれたら、尊の字をつけようかなと思います。いじめには強いでしょう。 対抗勢力と真っ向勝負ができそう。勝てるかどうかは置いておきましょう。
大覚寺統もいろいろな系統にわかれてる。
>>270 が言うような意味での嫡流なら
嫡流は南朝でなく常盤井宮。
それは親房も認めている。
(南朝も常盤井宮も両方とも大覚寺統)
北朝も嫡流(伏見宮系)と後光厳統に分かれて両者は犬猿。
>>240 の言うような張りぼてだの足利の傀儡だのと言えるのは
先例無視して不当に擁立された後光厳統の方だけ。
(嫡流家も後光厳統も両方北朝)
>>270 そもそも、それも十分な根拠がある訳じゃない。
後嵯峨院崩御後に大宮院が亀山院に院の遺領を継承させる意思があると言った程度の話。
>>275 コピペでしかも既にツッコまれているじゃないかwww
昔の人が『自分の子孫に家を継がせたい』と思う気持ちは、 現代人の思考では理解できないほど強かったと思う。 儒教と仏教の思想が全盛で、家が絶えると自分の祭祀をしてくれなくなって あの世で浮かばれなくなるからかな。 私なら瓢箪から駒で天皇になれたのだから、後は持明院に譲位して優雅に暮らせば いいと思うけど、どうもそう単純にはいかない思想的理由があったようです。 結果としてそれが希代のワガママということになり、日本を戦乱に巻き込んだだけでなく、 天皇家を完全に衰退させてしまった。 『君臨すれども統治せず』に徹して、八条院領を守ってた方が得でしたね。