1 :
>>1:
徳川家について語るスレの3です。
基本的に徳川家について語るスレですが、松平氏の話題を
出してもかまいません。
荒らし、叩きは禁止です。平和的にやっていきましょう。
固定ハンドルは自由ですが前スレなどで固定ハンドルがどういう運命
をたどったか考えてコテハン書き込みしてください。
2 :
>>1:2006/02/22(水) 17:17:26
「女聞き書き 徳川慶喜残照」に書いてあった慶久が侍女に女の子を二人産ませた話しと
実枝子女王が役者の子供を産んだという話しは本当なのでしょうか?
侍女に産ませた女の子は榊原に嫁に行った人とその妹のことでしょうか?
「うむ」
で〆た前スレ・・・・・
5 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 18:39:10
>>1へ
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,. ―┴゙ーく:/ / } .:.:ヽ
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/`二¨二 ̄´ヽ::ヽ. | ..::.::|
/ 二ニ二 ヽ. } :::}. l ..::.::|
l__ _ _ _ ,.へ;リ | ..::.::|
{テテ! fテテ、_ ,.-、ヽ.___ |..:::.:::|
厂:r| -、 ̄´ノ ! :}:::::入ゝ--"
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スレ立て乙
6 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 19:01:31
家広なんて架空のオッサンは余の子孫ではないと、権現様が仰せになっておりますです。
ウィキに書かれていても信用しないのか?
低脳め!!!!
もう家広の話題はやめよう。こんな馬鹿どもと対等に話せるわけがない。
もう明治以降の話は禁止の方向で
9 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:18:50
明治以降は重要でしょ。個人情報保護の立場から変えないかもしれないが、
私たちと同じ時代の人よ、
10 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:29:49
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 00:40:48
慶喜→家達→家正→恒孝→家広
↓
慶久→慶光→慶朝→慶敬
11 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:31:02
慶敬様についてよろしくお願いし
12 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:31:58
私人のプライバシーを晒して楽しむスレはここですか?
明治以降については近代史板でやれ
14 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:54:27
いいじいたいんだよ。しりたいよね。
15 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:56:32
家広さま ところで直子様は?
16 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 23:01:54
堀田備前守との婚約が成立した
17 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 23:24:24
今生きてる人たちのこと写真アップとかまずい?
>>17 私人の写真を勝手にアップして問題ないとでも思ってるの?
19 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 23:57:46
徳川家広は私人じゃないよ。翻訳家だから公人
20 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 00:00:14
研究者も公人
21 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 00:00:44
だから写真アップしろ
22 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 00:17:13
いい加減、家広なんて架空の捏造人物でオナるのはやめましょうね。
23 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 00:18:35
徳オタは、ありもしない幻影で妄想三昧w
24 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 00:49:58
25 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 00:52:52
堀田備中の末枝は京大法学でいつも図書館に2リトルペットボトルに自分で沸かしたコーヒーを飲んでいた
誰か宗家分家の今の若殿若姫を全部アップせよ。
徳川家広 は廃嫡すべきだね。こいつが征夷大将軍だったら共産党政権だね。
やはりほか若様いないのか
29 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 01:06:03
架空の人物で妄想乙w
だからキリがないからやめろって。阿呆には何見せても変わらん。
挑発にものるな、みっともない。
てか家広否定厨は全部一人の自演ですね。このスレを荒らしたい
なんか思いがあるんだろうな。結城の馬鹿な復讐?w乙ですww
http://www.tokugawa.or.jp/ 〒171-0031 東京都豊島区目白3−8−11
03−3950−0111(総務部)
財団法人徳川黎明会は、尾張徳川家の第19代当主の侯爵徳川義親が
、「美術並ニ史学ノ研究ニ資スル為 尾張徳川家伝来ノ什宝ノ保存 其
ノ他美術品ノ蒐集保管公開ヲ為シ 且ツ之ニ関スル指導奨励ヲ為ス」
ことを目的として、昭和6年(1931)12月に設立されました。
現在、本会では、東京都豊島区目白にある総務部の統括のもと
、徳川美術館(愛知県名古屋市)、徳川林政史研究所(東京都豊島区)
という2つの施設を置き、上記の目的を達するため、美術史・林政
史の研究をはじめ、展覧会や各種講座の開催、所蔵史料の閲覧・公開
など、多くの公益事業を展開しています。
[ 自分ごと ] / 2006年01月27日
余計な心配だったみたい・・・の巻
合コンその後・・・、徳川さんからメールが来た。
どうやら徳川さんは、Iポンを気に入っているらしい。。。なーんだ、余計な心配だったのね。別に何ともないが(こっちも気持ちが無いので)、ちょっと複雑。
できれば女性全員の連絡先を教えてほしい、こっちも男性全員の連絡先教えるから、とのこと
ところで徳川家に養子いけるなら相手が330代までOKだよ。
>>33戸田家の若は今富山大学講師 ちなみに徳川姫と名古屋で1キロ以内に接近
直接姫に拝謁されておらず。
私が25日宗家様に謁見するぞ。
徳川セックス禁止令
姫には4月までにはお面かかりたい。
18代様に25日謁見するぞ。
徳川姫30代優秀人 、俺養子に入りたい。
42 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 13:37:00
ここは『日本史スレ』だ。現代の徳川について語るのなら別板でやれ!
語る・・・といっても、経歴や事績を書きつらねるだけなら、意味はない。
日本史に興味のない者にはわからないだろうが、このスレの面白みは、
歴史にはグレーゾーンがあり、いろんな史料や各人のイマジネーションで
あれこれ憶測したり、仮説をぶつけあったりするところにある。
あるいは個人で渉猟できる本や史料には限りがあるから、知らない事実を知り
得たり・・・
現存する人物のプライバシーにノゾキ週刊誌的な興味を持つのは勝手だが、
歴史スレで語るのは筋違い!
>>42徳川宗家18代様のありがたいお話が25日新宿で御講演がりますよ。
だから現代の徳川家に大いに感謝すべきだ。
江戸時代についてのお話が
45 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 14:03:36
徳川恒孝・家広父子や現代の徳川氏について語るのは、
本人の自由だが、あまり粘着すると反感を招くだけ。
基本的には日本史スレなんだから・・・
スタンスを考え直すべきだな。
44 :ぽかり参謀:01/10/03 11:39
それにね、傷つけたんだよ
45 :ぽかり参謀:01/10/03 11:41
俺はね、やくざものにね、責任とらせようとは思わない。背後の張本人が
あなただから、
46 :ぽかり参謀:01/10/03 11:41
あなたとは、結婚するよ、え、徳川直子、
47 :ぽかり参謀:01/10/03 11:43
新しい車買えよ。
48 :愛と死の名無しさん :01/10/03 12:48
今わかってる徳川n
今わかってる徳川家の人々
徳川家広様 徳川直子様 徳川
放送日時 開始時刻 番組タイトル
2006年2月24日(金) 6:00 まんが日本史
MANGA JAPANESE HISTORY
『#42 徳川家康の政治〜江戸幕府の基礎固まる〜』
豊臣氏を滅ぼした家康は、幕府の基礎を固めるために貿易に力を入れ
、財政を豊かにした。さらにキリスト教を禁止した。そして、徳川氏
末代までの繁栄をはかって大名たちを抑えるための法律「武家諸法度
」を作った。しかし、その家康も1616年、75歳でこの世を去った。
二代将軍家忠は家康の教えを引き継ぎ、武家諸法度を忠実に守り、三代
将軍家光の代には封建制度は完全なものとなり、幕府の基礎は固まった。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4911a516922501460e78b88494b39ec5 今日は「日本初飛行の日」
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大
尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。
1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行に成功したのを知った軍が「臨時軍用気球研究
会」を設立し、1910(明治43)年4月、飛行機研究と購入のために、日野熊蔵歩兵大
尉をドイツに、徳川好敏工兵大尉をフランスへ派遣した。この2人が同年10月に操縦術を学んで帰り、12月11日から19日にかけて、東京・代々木練兵場で、2人による「日
本での最初の飛行」公開をするすることになり、12月14日は、地上滑走試験の予定だったが、日野大尉の操縦するグラーデ単葉機は2メートルの高さに浮上し、100mの距離
を飛んだ。しかし、徳川大尉のファルマン複葉機はエンジン不調などで飛べなかった。そして、ようやく、本飛行予定の19日の朝、高さ70m、距離3000mの飛行に成功した。
この午後には、日野大尉の乗った機も高さ20m、距離1000mを飛んでいる。
だから、本当の初飛行は、12月14日の日野熊蔵がしたことになるのだが、日本の航空史では、日野熊蔵の飛行は、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤っ
て離陸」したものとして記録は認められず、徳川大尉を「日本発の動力飛行者」としている。
徳川好敏工兵大尉は、1884(明治17)年生まれ。徳川篤守(清水家・旧御三家)の長男であり、陸軍が徳川に名をなさしめたいと願ってのこという説もあるが、とにかく、
ライト兄弟が初飛行に成功してから、わずか、7年後に徳川、日野の両名によって日本で初めて動力飛行に成功したのは記念すべきことである。
その後、徳川好敏は、飛行学校教官、飛行連隊長等々を経て、航空仕官学校長で敗戦を向かえ、1963年4月死去している(78歳)。
51 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 16:41:34
徳川義崇
徳川宜子
徳川斉正
53 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 18:47:21
どうでもいいが、脳内人物で妄想するのは大概にしとけよ。
このスレを見ていると、暇さ加減とバカさ加減は比例することが
よくわかる。
55 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 21:16:15
と、馬鹿で暇な中年ニートが、厳しく批判しておられる
>>55 2006年2月24日(金) 6:00 まんが日本史
hヒストリーチャンネルだから地上波じゃないよ。どうしてもみたいやつイ町田のメディアカフェポパイでも行けば見れるぞ。
徳 川 義 真
徳川家広は41歳だね。
徳川直子姫は今いくつ
徳川18代さまの
(
>中年ニート
>中年ニート
>中年ニート
>中年ニート
徳 川 義 真
徳川家広は41歳だね。
徳川直子姫は今いくつ
徳川18代さまの
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 00:40:48
慶喜→家達→家正→恒孝→家広
↓
慶久→慶光→慶朝→慶敬
誰かあっぷしt
徳川慶朝氏(徳川 慶喜 家 現当主)
江戸末期、まだ神戸の港を開く前、日本は欧米列強に神戸開港を迫られた。徳川慶喜公は、欧米公使とまともな外交政策を試み神戸の開港に一役かった。
慶喜公は新しい欧米の食文化に接し興味を持ち、外交のために外国人使節団をフランス料理やコーヒーでもてなした。一万五千両を使いフランス人のコックを雇い食材調理器具を横浜から取り寄せた。そして、日本国の公式行事に初めて登場することになるコーヒー豆も。
当時、世界のコーヒーは「モカ-ジャワ時代後期」(ジャワ全盛期)でオランダのコーヒーが世界を席
徳川直子様日本一です。
徳川直子様あなた様は日ノ本1の方。人類の未来に必要方。人類史今後1000年の未来の世界へ。
これからは江戸時代の出来事禁止ということで、
家康の父松平氏のことか明治以降という方向で
〜1603年 1867年〜という事で
メインは21世紀の徳川一門について
やめろ。つまらん。また低脳厨が沸くだけだ。
現代ネタはやめろ。
69 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 14:58:20
大賀弥四郎と岩松なんとかの名前って何すか?
松平清康と広忠が2代にわたって暗殺されている件
71 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 20:15:12
>>65 理研のマーボ茄子について語ってもOKでしょうか?
くぁwせdrftgyふじこ
くぁwせdrftgyふじこ
くぁwせdrftgyふじこ
くぁwせdrftgyふじこ
くぁwせdrftgひゅじこ
くぁwせdrftgyふじこ
くぁwせdrftgyふじこ
くぁwせdrftgひゅじこ」」
くぁwせdrftgyふじいk
くぁwせdrftgyふじこlp
74 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 21:50:44
このスレって、どうしてこんなふうになっちまったんだあッ!?
75 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 21:53:58
水戸黄門を史実と思い込んむようなレベルの腐女子かガキがねえ。
76 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 22:04:26
覚えておけ、皇太子・・・・・・
天皇はもう日本の象徴ですらねえんだ
天皇をそんなに尊敬するやつはもう日本にはいない・・・・・・
ただ一部の皇室ウォッチャーが追っている・・・・・・
人なみはずれて皇室にくわしい奴に慕われているだけだ
奴に出来ることはテレビに顔を出すことぐらいさ
>>68何かまずいか?
>>71何か徳川氏と関係があれば語ってください。
>>68現代ねたは興味はみんなが持ちうでしょう。古臭い爺だけでなく若者も
これでみんな歴史ずきになる
葵の御紋>>>>>>>菊の形
81 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:13:32
徳ヲタって、薩長嫌いだけど、
皇室との関わりからすると、
天皇家にはシンパシーを持ってると、思ってた。
それって・・・歴史を知る人に限るんだと、ようやく知った。
82 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:33:58
>>71 大河内正敏って家康子孫?なんとなく松平?
83 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:41:25
大河内家は一応大河内信綱が長沢松平を継いだことになってるので何となく松平ではないが、血縁関係はない。
ちなみに大河内正敏は間鍋詮勝の男系の孫
明日 神聖不可侵のお方の講演が新宿で14:00からある。g
18代様の講演が江戸時代の社会システムですよ。
だからそれまでは江戸時代禁止という方向で
86 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:15:01
おちょくってるように見えて、
ちゃんと裏づけ取ってるジャン>71
血縁がなくても、しっかり松平と関わっている。
第23回文化講演会
平成18年2月25日(土)
「江戸250年の天下泰平を支えた仕組みと心」
徳川恒孝(当財団 理事長)
88 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:48:47
結局先祖自慢なんだよな
もういいかげん飽きた。
コテハン釣って叩こうぜ
講演は無料らしい
92 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 10:34:16
93 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 11:05:29
もういいかげん飽きた。
94 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 11:51:03
越智清武、清水重好、松平斉民。
彼らが将軍になっておれば、徳川幕府の運命も変わったはず。
95 :
松平上総介:2006/02/25(土) 12:36:46
…
96 :
五郎八:2006/02/25(土) 14:04:00
……
97 :
長福丸:2006/02/25(土) 14:23:11
・・・
98 :
駿河大納言:2006/02/25(土) 15:30:40
……
99 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 15:41:59
竹千代はおらんのか?
100 :
徳川竹千代:2006/02/25(土) 15:55:06
家斉の長男です。
生まれてすぐあぼんしますた。
長生きしていれば…
101 :
長福丸:2006/02/25(土) 17:28:19
コテハンカキコ
家斉の三男です。かわりに将軍になりました。
103 :
松平下野守:2006/02/25(土) 18:57:44
104 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 20:16:42
家慶は次男だろ。
てかなんだこいつら?w
105 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 21:55:31
徳川家って本当は何氏なの?
106 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 21:57:27
松平氏
その前は藤原氏なんだろうが
家康は源氏だといいはって将軍になりますた。
107 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:06:54
家系図の偽造は当時の常識。
それを専門とする公家もいたとかw
108 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:30:06
ウジと名字を混同してる。
松平氏というのは名字で藤原氏はウジ。
松平氏のウジは賀茂氏だと言われているが、家康の頃には藤原氏を称していた。
109 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:34:52
三河守になったときは藤原氏としてなっていたのに、
征夷大将軍になるときには源氏で・・・・・・
ウジの変更なんぞ普通に行われている
文句があるなら、当時の天皇に言え!
111 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:07:34
天ちゃん、あんた節操がないよ。金になる話なら、なんでも転ぶのかYO!
豊臣氏も名乗ってたな
113 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 09:59:14
賀茂氏の初代って誰?神別の家系かな。
徳川家が太陽系パトロール隊征夷大将軍太陽系連邦大統領より、
徳川重工製の宇宙艦隊、 徳川宇宙船研究所 徳川航空研究所
その他 21世紀の徳川家 徳川宇宙艦隊より
21世紀の徳川家
徳川航空研究所 TAL 徳川宇宙船研究所TSL
ひとくちゲロ
にぎりっ屁
118 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 13:30:39
忌部氏の分家
徳川好敏様はじめ 徳川航空隊 徳川航空研究所 TAL 徳川宇宙航空機構
TAXA
徳川外交問題部 徳川家広
徳川家は未来です。
家広様を次期将軍に。19代様。万歳
121 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 14:09:20
家広は徳オタの心の中にしかいない幻影。
122 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 14:32:40
このスレがおかしくなったキッカケは、
前スレの後半で、唐突に現代ネタの波状書き込みがあってからだが、
レスが不自然に活況になる場合、大概は自作自演。
これに同じ徳川系の別スレではびこってるような、ワンフレーズ連呼バカが便乗。。。
こういう手合いはバイ菌みたいなもんで、
一旦粘着されると、過疎スレ化する。
無視の一手しかない。
124 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 14:40:53
すばしっこいが・・・哀しいかな、いつもワンパターンの反応!!!
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4911a516922501460e78b88494b39ec5 今日は「日本初飛行の日」
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大
尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。
1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行に成功したのを知った軍が「臨時軍用気球研究
会」を設立し、1910(明治43)年4月、飛行機研究と購入のために、日野熊蔵歩兵大
尉をドイツに、徳川好敏工兵大尉をフランスへ派遣した。この2人が同年10月に操縦術を学んで帰り、12月11日から19日にかけて、東京・代々木練兵場で、2人による「日
本での最初の飛行」公開をするすることになり、12月14日は、地上滑走試験の予定だったが、日野大尉の操縦するグラーデ単葉機は2メートルの高さに浮上し、100mの距離
を飛んだ。しかし、徳川大尉のファルマン複葉機はエンジン不調などで飛べなかった。そして、ようやく、本飛行予定の19日の朝、高さ70m、距離3000mの飛行に成功した。
この午後には、日野大尉の乗った機も高さ20m、距離1000mを飛んでいる。
だから、本当の初飛行は、12月14日の日野熊蔵がしたことになるのだが、日本の航空史では、日野熊蔵の飛行は、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤っ
て離陸」したものとして記録は認められず、徳川大尉を「日本発の動力飛行者」としている。
徳川好敏工兵大尉は、1884(明治17)年生まれ。徳川篤守(清水家・旧御三家)の長男であり、陸軍が徳川に名をなさしめたいと願ってのこという説もあるが、とにかく、
ライト兄弟が初飛行に成功してから、わずか、7年後に徳川、日野の両名によって日本で初めて動力飛行に成功したのは記念すべきことである。
その後、徳川好敏は、飛行学校教官、飛行連隊長等々を経て、航空仕官学校長で敗戦を向かえ、1963年4月死去している(78歳)。
では未来ネタで行きましょう。 徳川宇宙艦隊
徳川宗家20代様21代 ~~30代様 宇宙艦隊司令官 、銀河連邦帝国立憲君主制
象徴 徳川31代様
128 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 14:54:00
怒った場合に現れる、お決まりのコピーと、
稚拙な話題のすり替え。
相手の精神状態も知的レベルも丸わかり・・・
129 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 15:16:42
バカの退治法ーーー
ネタの内容は、無視!
出現したら、即叩く!
モグラ叩きの要領で・・・
130 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 15:23:23
とりあえず、家広なんていないんだよ、
と叩いておく。
131 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 15:31:17
ネタに反応しちゃあ、ダメだって・・・
また関連するコピーを貼り付けてくるから・・・
132 :
>>1:2006/02/26(日) 15:48:52
・・・・・・・・・・・・・
叩きは禁止だと言っているのに・・・・
スルーすればいいものを・・・
133 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 15:56:01
スルーするにも限度がある。
事態は一向に改善されないから!
俺は過去スレの≫1には敬意を払っていたが、
このスレの≫1は文体から同一人物とは思えないんだが・・・如何?
134 :
>>1 ◆FdL1jBqM3g :2006/02/26(日) 16:03:31
さすがに私も怒っているから。
ちなみにコレは私のトリです。
いざとなったときにこのトリつけて出現します。
普段は名無しですが。
135 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 16:08:43
なら、結構です。失礼しました。
俺にはできないから、ノートンのように常時監視していて下さい。
136 :
>>1 ◆FdL1jBqM3g :2006/02/26(日) 16:18:08
わかりました。
みなさんもできるだけルールは守っていただきたいです。
お願いします。
家斉の子供は、尾張家や清水家で兄が弟の跡継ぎになってますが、
いきさつなどご存知の方、教えてください。
138 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 21:08:20
養子入りのタイミングの問題。
各大名家が後継ぎを必要としているときに、将軍家に残っていた子が養子に行った。
だから、弟が兄より格上の家や条件のいい家に養子に行くこともありうる。
また、御三卿は将軍や御三家を継ぐまでの腰掛けポストという性格が強かったので、
尾張斉温が没したあと、兄の田安斉荘が尾張家の養子に行った。
とくに清水家がその典型といえる。
139 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 21:16:56
清水家は初代重好が没したあと、しばらく空き屋敷となった。
その後、家斉の子が4代続けて相続している。
2代敦之助は夭折、3代斉順は紀伊家に養子に行き、4代斉明、5代斉彊と続いた。
斉明は当主のまま没し、弟の斉彊が後を継いだが、これも兄の紀伊斉順の養子となり、
清水家は幕末までいったん中断する。
141 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 21:56:50
家広厨ウザス
144 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:17:06
家広にこのスレ見せたらどう思うだろうな。
自分の存在否定されてんだぜ。
145 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:22:56
>>143 それは流石にないよ。
誹謗の対象が家広君じゃなくて不特定な「家広厨」だから、名誉毀損にも当たらないだろう。
>>140 現在生きているひとは日本史の対象外だろ。
逝け、低脳。
歴史の教科書は現代まで来てるでしょ。日本史も世界史も、
だから現代生きてる人は重要よ。歴史は未来を占う鏡のようなもの
まあ誰か現代の徳川家の人の年齢と職業と現代までの系図をアップしてみては
>>147 現代史板でやればいいことだ。
同じヤツの開き直り連投は見苦しい。
徳川現代の人すべてアップしたら気が治まるのでは?
152 :
>>1 ◆FdL1jBqM3g :2006/02/27(月) 18:56:02
これは私の勝手な考えかも知れませんが、
現代ネタは別のスレ(板?)でやった方がいいと思われ・・・・
153 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 21:20:48
将軍の家族扱いの御三卿も下屋敷など所有していた目的は何ですか?
154 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 21:35:37
別荘として利用したほか、火災のときの避難所としての目的もあった。
155 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 21:42:33
なに別邸?厄介(部屋住み)の分際でか?
>>151 21世紀の徳川家のことが知りたいだけなのでしょう。誰かおしえあげたら
158 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 22:47:35
家広なんていない、とだけ言っておこう。
綱吉ってチョンだったのか?
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/4911a516922501460e78b88494b39ec5 今日は「日本初飛行の日」
1910(明治43)年12月19日、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大
尉が日本初飛行に成功した。飛行時間は4分、最高高度は70m、飛行距離は3000mだった。
1903(明治36)年、ライト兄弟が初飛行に成功したのを知った軍が「臨時軍用気球研究
会」を設立し、1910(明治43)年4月、飛行機研究と購入のために、日野熊蔵歩兵大
尉をドイツに、徳川好敏工兵大尉をフランスへ派遣した。この2人が同年10月に操縦術を学んで帰り、12月11日から19日にかけて、東京・代々木練兵場で、2人による「日
本での最初の飛行」公開をするすることになり、12月14日は、地上滑走試験の予定だったが、日野大尉の操縦するグラーデ単葉機は2メートルの高さに浮上し、100mの距離
を飛んだ。しかし、徳川大尉のファルマン複葉機はエンジン不調などで飛べなかった。そして、ようやく、本飛行予定の19日の朝、高さ70m、距離3000mの飛行に成功した。
この午後には、日野大尉の乗った機も高さ20m、距離1000mを飛んでいる。
だから、本当の初飛行は、12月14日の日野熊蔵がしたことになるのだが、日本の航空史では、日野熊蔵の飛行は、公式の飛行実施予定日ではなかったため「滑走の余勢で誤っ
て離陸」したものとして記録は認められず、徳川大尉を「日本発の動力飛行者」としている。
徳川好敏工兵大尉は、1884(明治17)年生まれ。徳川篤守(清水家・旧御三家)の長男であり、陸軍が徳川に名をなさしめたいと願ってのこという説もあるが、とにかく、
ライト兄弟が初飛行に成功してから、わずか、7年後に徳川、日野の両名によって日本で初めて動力飛行に成功したのは記念すべきことである。
その後、徳川好敏は、飛行学校教官、飛行連隊長等々を経て、航空仕官学校長で敗戦を向かえ、1963年4月死去している(78歳)。
徳川て輝かしいだろう
164 :
結城@秀康:2006/02/27(月) 23:43:30
徳川ってすごい!
徳川直子様てすごい。
では21世紀の徳川家について語りますか。22世紀、23世紀
167 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 06:24:38
168 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 10:22:58
綱吉=朝鮮説・・・どうせ三田村鳶魚の俗説だろ!
何で誰も知らないんだ。ここにいる擦れの人間は大体21世紀に活躍するすごい徳川家の人は
170 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 13:13:53
172 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 18:45:22
>>171 父方の1/4は浅井1/4が徳川だろうが。母方の1/4が八百屋で
残りの1/4が向こうで買われた朝鮮人奴隷
173 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 19:09:49
妄想乙
ぽかり参謀<><>01/10/03 11:41<> 俺はね、やくざものにね、責任とらせようとは思わない。背後の張本人が <br> あなただから、 <>
ぽかり参謀<><>01/10/03 11:41<> あなたとは、結婚するよ、え、徳川直子、
175 :
江:2006/03/01(水) 00:10:42
徳川直子様について語ってください。
徳川様なので、この方に命を預ける形で語ってください。
すばらしい方。人類の鏡のような方。
徳川直子様21世紀22世紀の人類の鏡のような方。理想の人類
178 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 00:21:24
なんで源氏の落ち武者部落ないんだろ?
t徳川慶朝(写真家)
180 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 12:19:05
おっめえ、うぜえなあ、ホントにィ!
家広だ、直子だ…と、そんなに気になんなら、ストーカーでもしてろ!
おまえ一人でスレかき回すな。
「叩きは禁止」の禁を破ってでも、「荒らし」とみなしてとことん叩く。
大体おまえ、よっぽど家が卑しいか、イジメにあって、実社会から疎外されてんだろ?
権威を帯びたオノレを夢想して、マス掻いてんじゃねえ。キモチ悪イ…
自己実現したいなら、外へ出て、まともに人と話せよ。
そうすりゃあ、ちっとは常識ってもんが身について、ましなことが書けるようになるぜ。
日本近代史板へ逝け。
IDの出るスレは苦手か?
182 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 16:48:22
>>181 自作自演ができないからだろwwwwww
183 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 16:57:24
家広はともかく、直子なんて架空の人物まで捏造してアホ丸出しw
184 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 17:07:24
家広だって架空だろうが。
185 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 17:17:35
家光VS忠長、綱重VS綱吉、家宣VS清武、家重VS宗武etc
将軍とその兄弟、または御三家・御三卿の兄弟争いなんぞについて
語りませんか?
186 :
>>1 ◆FdL1jBqM3g :2006/03/01(水) 17:17:48
>>181 に同意です。
別の板で話し合ってください。
187 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 17:19:39
家宣VS清武は違うだろwwww
吉宗VS継友VS綱條VS清武
188 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 17:21:48
家宣は清武を冷遇した心の狭い兄貴
189 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 17:25:42
てか、こいつら兄弟はいつから自分達が兄弟だと気づいたんだ?
190 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 17:27:46
前スレを見ると、家宣と清武についても
両者の関係は微妙で、諸説あるようですが・・・
まあ、そのこと自体、おもしろいんですが。
191 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 17:29:37
頼重・光圀
192 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 18:19:16
綱豊vs綱教だろ
193 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 18:35:29
兄弟争いだけじゃなく、将軍家の跡目争いも
たしかにおもしろいですね。
まずはネタをどんどん出してから、できればもっと深く
互いに自説を披露して、突っ込んだ話題にしたいですネ。
194 :
未定:2006/03/01(水) 19:54:22
195 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 20:39:51
じゃあまずは秀忠VS忠吉(VS秀康VS忠輝)だな。
争いといえるほど表立ってはいないけど。
196 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 20:44:10
少なくとも家康の後継争いという、色合いはないな。
197 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 20:47:10
秀忠は別に家康の子の仲でもできのいい子ではなかった。
忠吉は武術にすぐれ、兄秀忠よりは利発な子供だったらしい。
198 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 20:52:09
秀康については、母親の貞操を疑って実子でないと疑念を抱いていたとも、
梅毒で崩れた醜い顔を嫌っていたからともいわれているけど、
家康は秀康をわが子と信じていなかったんだろうか?
199 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 20:55:04
家康がお万の素行に疑いを抱いていたのは事実だが、それにしてもギギウに似ているから於義伊などという、我が子を玩弄するような名をつけるとはな
200 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 21:10:49
家康が後継者を決定していたのは、早い説では天正十年12月、
遅い説では慶長5年。時期によって決めた背景は異なってくるだろうけど、
秀忠が戦上手でないにしても、人材論からいっても、必ずしも凡庸じゃなく、
治国の才(特に二代目として)はあると、家康が踏んでいたのは確かなようだ。
201 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 22:07:09
家光は竹千代時代から、お江与に溺愛される国松を傍目に、
かなり敵意を育てていたろうけど、
長じてから、忠長を切腹まで追い詰めたのは、家光の意志なの?
それとも兄弟の情愛は残っていて、土井利勝や酒井忠勝ら幕閣に
押し切られただけなのかね?
当時の幕閣に有力な忠長派がいてもよさそうなのに、いなかったんだろうか?
202 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 22:37:08
>>198 よく嫌っていたと言われるがどうだろう?
嫌っている子に越前なんか任せないと思うけどな。
越前松平はそれなりの家の格を与えられているし。
家康かた家光まで3代を扱った大河ドラマでは、家康は
秀康にそれなりの信頼を寄せている描かれ方をしていたが。
203 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 22:44:14
忠長を切腹まで追い詰めることがなかったら、と言うか、家光がもっと寛大な心で
忠長に接していれば、忠長も弟として将軍を助けその結果、駿河50万石は安泰であったのになっ。
幼少の頃の国松が大人になってもそんなに憎かったのかね。
忠長が自害しなかったら今の静岡市は名古屋なみにもっと栄えていたにな。
204 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 22:49:34
>>203 あんだけ憎まれたのは忠長にも原因があるだろう。
秀忠さえ忠長を罰したぐらいだから。
おそらく、兄を立てるようなことをしなかったと思われ。
兄に忠心を示した保科の待遇を見れば察しがつく。
205 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 23:30:31
同母弟で自分を脅かす存在だった忠長と隠し子で世を忍ぶ立場だった保科では、
同列に論じられない。
>>203 家光自身が絶対的な勲功を持って家臣の口を封じたわけでもないし
戦国の余燼が残るあの時代なら、長幼の序というのも武士の間に浸透してはいない。
それこそ野心ある誰かが、「大納言こそ次の征夷大将軍にすべし」と言い出して挙兵したらえらいことになる。
誰かがそれをできたかどうかは関係なく、そういう口実に使われる可能性があった立場だったこと、
そしてそういう口実を使われても仕方ない関係だったことそのものが忠長の罪だ。
家光をはじめ、幕閣の人々は、巨大な織田家をたった数年で潰した信雄信孝の骨肉の争いを
自分たちで再現する気にはなれなかったろう。
徳川氏て古臭いの? 新しいの?
徳川好敏大活躍。ここにいる人の大半が数学苦手、科学苦手?
徳川氏は科学者多いよエンジニアもだったら知りたくない?
だったら書けばいいのにみんなここにいる人は徳川家の人に会ったことがない人ばっかなの?
>>203栄えるわけないだろう。彦根をみろ田舎だね。草津は県庁所在地だが、
あほか?彦根32万石だが、ちなみに岐阜加納は2万石だが60万都市だぞ。
ところで京都は100万しか人いないし どうしもここの人たちは現在の徳川家の人のことかかれるのいやな人たちかい
211 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 00:05:13
≫207
わかんねえヤツだなあ。ここは歴史スレだ。
もともと古臭い話をするスレなんだよお。
・・・だから近現代板へ消えろってんだろうが!
212 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 00:10:17
言っておくが、家広だの直子だのと脳内妄想で捏造した人名は板違いだ。
妄想の続きはオカルト板でやれ。
213 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 00:26:59
忠長派には井伊直孝がいた。
家光を廃してまでも・・・という野望までは持っていなかったろうが。
214 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 00:28:51
妄想ってwww
だがスレ違い兼板違いであることは確定。
ほら、帰った帰った。
215 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 00:47:23
忠長の切腹は秀忠死後だから、家光がその死を待って、
積年のライバルを消した、という見方もあるが、
加藤忠広を巻き込んだ手口といい、土井利勝らの陰謀説もある。
主従のどちらが主導したかははっきりしないが、阿吽の呼吸みたいな
もんがあったと思う。
219 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 17:10:23
歴史上の人物の子孫が今どうなってるか?・・・
それを探るのは、たしかに歴史マニアの一ジャンルだ。
だがウンザリもののコピベとミーハーで幼稚なカキコが
みんなに嫌悪されるのだ。
そして、ここが重要だが・・・このスレを立てた≫1が
抑制の利いた書き込みではあったが、すでに現代の徳川氏
について語ることをはっきり封印している。
今のような立場に立つ限り、君は去るしかない。
220 :
214:2006/03/02(木) 18:29:16
>>217 家広が実在するのは知っている!!
だが現代ネタは板違いだから出て行け!!!
何度も関連するコピーはるな!!!荒らしめ!
221 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 18:30:31
以後、家広なんて架空の人物で妄想するのは禁止。
222 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 18:39:09
で、家光VS忠長については語り終わった?
じゃあ綱吉の将軍就任についてのいざこざを語ろうぜ
223 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 18:43:17
大老酒井雅楽守が綱吉の将軍就任に反対したのは、鎌倉時代の執権北条氏をめざしたわけではなく、綱吉の性格が執拗でえこひいきが過ぎる偏頗な気性とみなしたからである
224 :
>>1 ◆FdL1jBqM3g :2006/03/02(木) 18:44:28
てゆか私からも言いますが
家広の話題はキリがないし否定されるたびコピペするというのは
本当にウザいです。別の板・スレでやってほしいです。
今回はキレさせてもらいます。
家広の話するやつはカエレ!!!!!!!!!!!!
225 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 18:59:44
>>223 雅楽「頭」
綱吉が不適格だと見なしたからって宮将軍とゆー発想は…
御三家もいたろうに。
226 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 19:03:01
綱豊など
227 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 19:18:38
やっと最高裁判決も出たし、現代ネタ問題はこれにて結審!
それで・・・綱吉と忠清だっけ?
酒井忠清による有栖川宮迎立の真意は、
大奥女中だった沢木伝右衛門の娘・丸子が、
当時家綱の胤を宿していたから、無事出産となれば、
いつでも京へ戻ってもらえる宮の擁立を当座しのぎとして
案出したという説もある。
但し、綱吉には単に人物として疑いを持っていたというだげでなく、
おのれのリモコンが効きにくいという打算もあって忌避したとも考えられる。
228 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 19:42:06
なんかペース速くない???
なんも編年体で語る必要ないかもしれないけど、
秀康にせよ、家光・忠長にせよ、もっと語りたい人がいるんでは?
ネタ切れしちゃうよ。
大老の厩橋少将としては、お丸の方が無事出産すればそれはそれでよし、
流産の暁には宮将軍を担いで甲府、館林、御三家御家門を排除した譜代グループ
の政治路線を突っ走る目論見があった点では異論の余地が無いと解される
230 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 19:58:58
いやあ・・・そりゃあ、どうかなあ?
それじゃ、=北条執権説になっちゃう。
231 :
土井周防守利益:2006/03/02(木) 20:05:48
執権をめざしていたかどうかはともかく、譜代の合議で幕政を推進
せんとしていたことは否定できぬ
232 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 20:19:44
俺は三河以来の徳川家臣団ってものに、ほとほと感心してるんだけど、
主家を乗っ取ろうとか、蔑ろにしようという動きが見当たらないんだよね。
そりゃあ、忠清に限らず、権勢欲は誰しもあるから、
できれば傀儡を・・・てな野望はあっただろうが、
徳川一門をはずして・・・云々は?ね。
それじゃあ、何の譜代だか。
まして酒井忠清は下馬将軍といわれても、累代の徳川譜代、
それも四天王といわれた酒井氏の、名門「雅楽助」家の当主だしね。
233 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 20:34:00
酒井忠清は阿部忠秋には頭が上がらなかったようだが、忠秋死後は閣僚を稲葉正則や板倉重種ら側近でかため、賄賂を取り込みまくっていた点は事実のようであります
有栖川宮には女系で秀康の血が流れてるんだっけ?
235 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 20:46:36
そうなの?
236 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 22:48:59
興味が湧いたから、くぐってみたら、
有栖川宮初代の好仁親王妃は、秀康の孫、亀姫だそうだけど、
嗣子がなかったから、女系で繋がってないんだって。
>>232 つっても忠清自身は家臣一丸になって主家を盛り立てた世代でもなければ
名目上はともかく、彼の時代は徳川家に直接俸給をもらう立場でもなく
また、徳川という「家」と「家名」に忠誠心はあっても、その一員の徳川氏一人一人に忠誠心があったわけでもないだろう。
綱吉が、頭はいいが学問に淫するタイプの頭でっかちだったことくらいは把握していただろう。
そういう人間がある程度の独裁権を振るう立場になったときのデメリットはわかっていたように思う。
それに、鎌倉幕府の故事を草創期の幕府重臣が多く参考にしていたのは有名な話だが
彼としては、宮家との縁を結ぶことで承久の乱や、後の幕末のような公武対立を避けようとしていたのかもしれない。あくまで推測だが。
ほとんど無力なまでに力を殺いだとはいえ、幕府はあくまで朝廷の出先機関に過ぎない立場だからね。
徳川典子様についてかたりましょう。
徳川典子(徳川記念財団学芸員・徳川宗家十八代次女
現代ねた重要。全部系図上げただ出て行くぞ。徳川限定今いるすべて系図がわかればべ出て行きます。。
徳川典子のババーはどうでもいい。
242 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 00:36:15
綱吉に対して、忠清が好意的に見ていなかったのは確かだと思う。
累代の譜代として、「徳川家大事」(御説のとおり個々人じゃなくね)
の遺伝子が忠清に受け継がれていただろう・・・ってことも。
そしてキレイ事だけじゃなく、何より忠清の権威の源泉が、
その譜代の名門という家柄にあった。
まだ新任の老中だった頃でさえ、阿部忠秋や松平信綱が彼を丁重に遇していたという。
だから彼が宮将軍擁立を言い出しのは、あくまでも緊急避難、
前出の徳川家棚上げ説はどうか・・・と。
それにしても彼の晩年は悲惨だったね。
失意のどん底で憤死したという説もあって、綱吉はもし自害なら暴き立てようと、
検死役人まで送りつけたそうだけど・・・
徳川宗家だけでなく明治以降の徳川家の分家すべての系図だ
>>242 忠清のような官僚肌の人物にとって重要なのはあくまで徳川家と幕府というシステムだったわけだから
極端なことを言えば、名目上であっても独裁権力を振るえる将軍という存在は
自分たちの意のままになる(少なくとも政治に口を出さない)
ほどほどの才覚があればそれでよかったんだろうな。綱吉のような
「愚かな万民に余の作った新政治を示すのだ」という理想家肌のただのバカは邪魔でしかなかった。
その大言壮語に常識と実力が伴っていれば別だっただろうが。
ついでにいえば、仮に血筋に徳川の血が一滴も入っていなくても
宗家を継げばその時点で宮様だろうがなんだろうが神君の子孫、ってことにもなるし。
246 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 03:59:29
家広だの典子だの架空の人名で妄想するバカはキエロ!!
247 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 04:01:51
漏れは松平さんの家の近所に住んでいるぞぇ
東京の駒込だが
>>家広は実在する。 典子も実現する。
徳川直子様は最高の人、人類の未来を担うかた。
徳川典子は人類の過去を担う人
ここは言論お自由が保障されるべきだね。
徳川幕府体制が続いていたら徳川航空隊、徳川機甲師団 徳川宇宙艦隊があったよね。、
幕府旗本御家人、比率役所の比率2体だって、 今の官僚のキャリアとノンキャ伽離
粘着薄らバカが連投してるねえ。
言論お自由はそれにふさわしい板でやれ。
日本近代史でやれば見逃してやる。
>>248 住所を公表するのは問題だと思うので簡単に書きます
JR山手線・駒込駅または都営地下鉄・南北線駒込下車徒歩2分てところかなぁ
JR駒込駅を背にして巣鴨駅方面に線路沿いを歩けば直ぐ見つかるよ
大きなお屋敷が2軒並んでいる2軒とも松平だから。
地元でも有名だから道を歩いている地元民に聞けば直ぐわかるよ
住所は豊島区だから。
某系なのか本家なのかはわかりません。ただ、江戸時代から松平家の領地ですので徳川と関係している事は確かです。
詳しい事がしりたければお気軽にメール下さい。他には近所に太田道灌の末裔の家があります。
255 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 18:31:59
徳川家広と典子の母親は寺島家出身
256 :
土井周防守利益:2006/03/03(金) 19:20:00
言論お自由の報告は伺っております 従って近代板でやれ
257 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 19:52:37
家広だの典子だの直子だの、空想上の人名でよく盛り上がれるな(プ
258 :
>>1 ◆FdL1jBqM3g :2006/03/03(金) 20:55:52
家広の話題はやめろ!!!
せっかくいい空気が続いていたのに・・・・・
259 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 21:01:58
だから架空の人物でラリってるド阿呆が悪いんだろ。
260 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 21:27:35
徳川元子さんは駄目?
>>250 ああ、今が江戸時代で、かつ天皇家が武家の流儀に従うなら
そんなこともできるんじゃないの?w
公家の流儀と武家の流儀が同じだと思ってた?
264 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 23:09:50
家広厨房皆アク禁になれ。
>>264お前は基地外。 あなたは家広でプライバシーとか言うならいう権利があるが、
架空というのは家広様に対して無礼だ、 江戸時代であれば無礼打ち 明治だったら不敬罪だぞ。
あほ
それに徳川家についてというすれなのだから 、 江戸時代のとか付いていない
だからみんなにわかりやすい時代の徳川=現代の徳川だぞ。
徳川家広 徳川典子 徳川菊子だったけ、
もう家広はNGワード推奨だな
>>264>>268は大体徳川家広様は19代宗家様であらされるわけだし、18代宗家様であらされる、恒孝様にも無礼である。
徳川様の今の若様姫様がないをされてるのか、系図も含めて知りたいだけだ。荒らす気はない。
だから
荒らされる♪
荒らされる♪
ないをされてる♪
荒らされる♪
だから
271 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 04:19:55
徳川家出
とくがわいえで?
273 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 05:42:35
徳利家康
274 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 06:44:40
http://plaza.rakuten.co.jp/aiaifudousann/diary/200602100000/ 慶応3年11月15日、33歳の誕生日の日、龍馬は刺客に襲われ、凶刃に斃れた。
百数十年を経た今日、未だにその真相は分からない。
暗殺の真相が不明なため、その下手人や黒幕については様々な説がある。
下手人については、新撰組や京都見廻組が有力視されてきたが確証はない。
黒幕については、公儀つまり幕府説、薩摩藩や長州藩の武力倒幕派説、
伊呂波丸事件の紀州藩説、身内の土佐藩説などイロイロだが、どれも定かではない。
本書では、長崎・出島を本拠地とした武器商人グラバーを黒幕としている。
薩長同盟を後押しし、倒幕戦争を煽り、莫大な商機を目前にしたグラバーにとって、
無血革命を唱導し始めた龍馬は抹殺すべき存在だったという。
そしてそのグラバーの背後には、ユダヤ資本のロスチャイルドが・・・。
中国のアヘン戦争でしこたま儲けた次は、日本の内乱戦争だったというのだが・・。
『龍馬暗殺―捜査報告書』 小林久三、光風社文庫。
275 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 13:33:34
酒井忠清の跡を継い忠挙は、親父のせいで大迷惑。
減封や転封にこそならなかったが、ずっと冷遇されていたのが・・・
転機は柳沢吉保の嫡男、吉里の正室として娘を嫁がせてから。
遠慮していた雅楽頭を名乗り、大留守居という特別職を設けてもらって
幕閣に復帰、溜の間詰めにもなり、親父と同じ少将にも昇る。
親父と違って収賄側から贈賄側にまわる哀しさはあったけど。
徳川家は今どうしてるかかれて困るのか?
277 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 14:04:46
法律が、判例によってその行間が補強されるように、
タイトルは『徳川家について・・・』とあっても、
その後の≫1のレスによって、
このスレで“現代の”徳川家について語るのは禁止!となった。
そっから、内容なんて問題になんねえ。
キーも満足に叩けねえ、文章能力も常識も、
中坊レベルの学識もない野郎が、牛のヨダレみてえにダラダラ
駄文をカキコすんな!
徳川宗家19代家広 妹 典子 もう一人妹、 そこまであわってるw。
279 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 14:21:56
おめえは白痴だ!
ウダウダこいてるレベルのことは、フィールドワークすればすぐわかる。
それともおんもに出られねえ、イザリかなんかか?
頭ワリイうえに足萎えとは、首くくった方がいいぜ!
280 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 14:51:43
まだ家広や典子なんて架空の人物でウダウダ言ってるのか?
281 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 15:01:44
俺は、疑い深いんで・・・
今ようやく気づいたんだが、幼稚を装ったカキコと、
まともな文体で現代の徳川家を語る野郎と、
家広以下を架空とこだわる人物が
同一人物に思えてきた・・・
もしそうなら、かなり悪意のある荒らしだな。
282 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 15:10:09
徳川ゆうこりん
コリン星出身
初代萌将軍
>>277何様のつもり、 もし
>>1が家広さまであられ
たら徳川宗家19代様の命令なら命令は法より重いが、それも江戸時代だね。明治でもまあ華族様だから
、それに家広さまでないならなおさら 法律なんておかしい、よって
>>277吊るし上げということで
徳川特殊部隊が
>>277の駆除に乗り出すのだ。
徳川21世紀みらいだぞ。
285 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 15:23:40
よおーく、わかった。
正体晒すのが早いんだよ。
もっと間を置いて書き込めよ。
徳川家康左官工業株式会社 jr高円寺駅より徒歩10分
周辺地図
代表者 徳川家康
住所 〒166-0003 東京都杉並区高円寺南4-2-8 第2トリイビル
tel 03-3817-2100
fax 03-3817-2102
創立 平成14年1月1日
資本金 1000万円
従業員数 50人
業務内容 左官工事一式
許可番号 東京都知事許可(般-1)石第1111号
許可年月日 平成14年1月1日
許可業種 左官工事業・建築工事業
主任技術者 徳川家康(一級建築施工管理技師)
お問い合わせ
[email protected] url www.tokugawa.co.jp
http://www.koeki.net/sakan/koukoku/top01.htm
1級建築士 2人
2級建築士 1人
1級建築施工管理技士 1人
2級建築施工管理技士 5人
2級土木施工管理技士 1人
左官1級技能士 10人
左官2級技能士 2人
1級防水施工技士 2人
織田信長 豊臣秀吉 徳川家康
昭和56年
全国左官技能大会
優勝 昭和57年
全国左官技能大会
優勝 昭和58年
全国左官技能大会
優勝
自由権規約六条と死刑問題 (二・完)
徳川 信治
--------------------------------------------------------------------------------
289 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 15:32:52
だからなんだ???
それぞれの分野のエキスパートはいくらでもいる。
「ああ、あの徳川さん・・・」で終るレベルだ。
290 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 15:43:53
「幽霊の正体見たり、枯れお花」・・・
いつまでもサルみてえにマス掻いてろ!
291 :
>>1 ◆FdL1jBqM3g :2006/03/04(土) 18:56:09
私は家広ではない!!!!#
292 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:08:45
そもそも家広なんて、地球上に実在しないしな。
293 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:28:22
光圀は綱吉擁立にあれほど貢献したのに、
どうして綱吉が将軍になってから、
手の平を返したようにアンチ綱吉派になったの?
294 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:52:40
犬だから
295 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:52:41
>>292 それならそれでもいいから、ここは日本史板。
現代の話はするな。
296 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:03:37
ここは、徳川夢精について語るスレですか?
297 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:04:03
イヌだから・・・って、
皮肉じゃなしに、マジ笑ちゃった。
名回答です。
298 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:09:13
>>293 綱吉はあくまでも綱吉の兄筋である家宣が成長するまでのつなぎと
考えてきたから。
光圀は兄の子を自分の継嗣にしたように兄弟の順序を重んじる
人だったから。
299 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:16:48
なるほど。
綱吉と光圀と堀田正俊の間で、綱吉はつなぎで、
その後は綱豊って密約があったって噂もあるみたいやけど
書き物にしたわけでもないし、ほんとかな?
300 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:20:15
ちょっと意味不明な書き方だったね。
光圀は綱吉を綱吉の兄綱重の子である綱豊(家宣)が成長するまでの
つなぎと考えていた。
301 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:32:31
得意の「伯夷伝」か…
お陰で、実のムスコ以下、周囲はえらく迷惑したよなあ。
302 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:33:52
光圀が綱吉に、その点を言い含めた上で将軍に擁立したというならば
光圀の言い分も分かるが、そんな約束事は無いんでしょ?
303 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:41:19
あるんだか?ないんだか?
約束破って徳松を西の丸に入れたから、圀ちゃん怒ったって言う人もいる。
そん時、堀田は頬かむり・・・だから正俊にもひどくイカって、
正俊殺した稲葉正休の遺族を見舞ったんだった。
304 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:45:26
約束はしていないだろうけど、「本来は〜」とか綱吉に
口やかましく言っていただろうと思う。
綱吉が宮将軍擁立を退けて将軍になった理由を考えると、
綱吉も光圀の論理には反論できないだろうし。
綱吉が光圀だけに頭が上がらなかったのにそれなりの理由が
あるのだろう。
実際に光圀が綱吉に犬の毛皮を送っても綱吉は何も言えなかった
らしいしね。
305 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:50:39
「お〜おぅ、これは御老体。しかし甲府には譲らぬぞ」
306 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:51:27
自分もイヌ年だから、綱吉の肩を持つな。
約束があろうがなかろうが、将軍になった以上、跡継ぎは将軍が決める。
光圀って、なんかやり方が意地悪爺イだなあ。
307 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:56:34
綱吉将軍就任時にまだ家綱の側室に家綱の子を身ごもっていた者が
いたが、堀田が大奥の医師を使って流産させたと言う説があるね。
大河ドラマ「元禄繚乱」で描かれていた。
堀田は、綱吉の子孫が将軍職を継承するのを望んでいたと思う。
308 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:01:35
ウガッタちゃんの説を引き継げば・・・
そんな堀田も功労者然としていてウザくなり、稲葉そそのかして
殿中でヤッちゃった。
そのうえ死人に口なし・・・稲葉も老中たちに斬り刻ませ・・・
あとは寵童あがりをはべらせて。。。
諸悪の根源は家光なんだよな。尊敬する権現様が苦労して築いた幕府
を安泰たらしめるためには、世継ぎが必要。生殖能力が無いのなら仕
方ないが、男色に耽っていたのでは話にならない。
310 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:08:27
男色って、遺伝するの?
311 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:27:19
美童を小姓に抱え込んでナニするのは、戦国時代以来のならわしだね。
ふつうは通過儀礼で終るのが、家光・綱吉は長じてからも卒業できなかった。
特に家光には真性説があって、春日局はひどく苦労したらしい。
312 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 21:32:19
そこで春日局ははじめはボーイッシュな女の子を近づけるところからはじめた
313 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 23:17:39
>>312 そうすると、「お万の方」「お玉の方」「お楽の方」はとってもボーイッシュだったのかな?
春日局ではお楽は「若村真由美」がやっていたけど・・・。当時は可愛かったね。
家光も、考えてみれば悲惨といえば悲惨なんだよなあ。
偉大としか言いようのない祖父と、若いころこそ躓いたものの
政治家として相当の業績を上げて名望を得て死んだ父の後を継ぎ、
周囲は父や祖父を神格化して批判する口うるさい老臣ばかりで、
祖父のように武功を立てることもならず、父のように政治に率先するだけの能力もなかった。
祖父が作り、父が整え、重臣が継承したシステムはほぼ完璧で、自分が手を出すところはない。だしても失笑されるだけ。
中途半端に戦国の遺風が残っているだけに、なかなか将軍としてプライドに傷がつき続けたんじゃないかな。
315 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 00:34:46
思えば、家光・綱吉父子ほど毀誉褒貶のごった煮将軍は
いないよな。
徳川綾子て誰?徳川現代の人はかなり表舞台だよ。
317 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 10:23:29
脳内妄想キャラはイラネ
318 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 11:50:08
綱吉が五代将軍に迎え入れられた件についてーーー
@光圀がこれに貢献したという事実は、裏づける史料が水戸側にしかなく、
「徳川実記」には、独り堀田正俊の建議によるものとなっている。
A家綱死去時、妊娠5ヶ月の遺児が側妾の胎にあったという説は、
「武野燭談」など複数の記述があって、どうやら事実らしい。
B家綱の遺命では、綱吉は家綱の養子という体裁で、将軍家相続は一代限り。
徳松には館林を継がせるとの趣旨だったという(堀田の自作自演としても)
これはたぶんに酒井忠清ら他の閣老や御三家を納得させるためとも、
遺腹の子が無事出産するかどうか、まだ不明だったからともいわれている。
Cこのため酒井らの反対で徳松の西の丸入りは遅延、家綱遺児流産ののち、
延宝8年11月にやっと西城に入り、その翌月酒井は大老を失脚。
彼の真意は、「御当代記」では宮将軍迎立後、遺児が育たなかった場合、
尾張綱誠の擁立を考えていたらしい。
徳川貴族議員長はなぜ総理にならなかったの?
ところでし史上最大の版図を支配した徳川さんはだれだかしってるか。
彼の使った乗り物で一番早いのもは3時間で1000キロ近く移動できたことしってるか。
東南アジアをしはいした、徳川さんがいたことを
321 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 13:56:56
旧姓徳川綾子なら明治大正昭和時代にいた
322 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 15:57:49
政治板でスレ立ち上げても、
誰にも相手にされない過疎スレになってるからって、
こっちへチョッカイ出すなよな。
結局、誰もおまえの戯言には興味ねえのさ。
いつ覗いても日本語の怪しいスレだな。
324 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 16:13:13
「徳川様江戸城なんとか」ってバカスレだろ。
初め鼻水がこびりついてると思って、よく見たら、
腐った脳が鼻の穴から溶け出したものだとわかって、
・・・そりゃ、もうキモいったらなかった。
糞レスの連投、ジサクジエンのオンパレード。
キモすぎて叩き・荒らしすら近づかない。
325 :
徳川大納言斉彊:2006/03/05(日) 16:42:55
いずれにせよ厩橋少将の目論見通りにはいかず、酒井厩橋少将、稲葉小田原侍従、板倉坂木侍従、土井大野侍従らは残らず失脚し、越後屋騒動も再審で覆された
326 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 17:17:07
家光は日光東照宮の大造営で大散財したし、大奥に勢威を持たせてしまった
し、ロクなもんじゃない。太平の世の始まりに質実剛健将軍が君臨して路線
を確立していたら、幕府は長く安泰だったはず。
>>326 つ[秀忠]
だから200年以上も平和な時代が続きました
328 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 22:16:23
テスト
徳川さんでもっとも大きな版図支配した人は敵対勢力天にまで届くや山を越えて補給した。
とこで名古屋城は12名の兵によって焼かれたが、
どちらも某国陸軍だけど。
陸軍
>>327 アメリカよる平和はいいとして 徳川による力の平和ですか。独裁政権の
徳川さんVSアメリカ陸軍 徳川よくたたかえりか、
アメリカの補給路ビルマロードたち、 結局 ヒマラヤ越えをアメリカ陸軍はしたね。
補給のため、ヒマラヤ越えの補給路はコスト高、
>>326 あの時点では秀忠や家康時代の部下がきっちり政権を握っていたから
本人が有能でも大して違いはないな。
むしろ中途半端に有能で尚武の将軍だったら、後の政治方針が大転換した可能性もあり。
徳川頼倫
旧紀州藩主の徳川頼倫公が大正6年に徳川300年を記念して和歌山市の和歌浦東照宮の下に建てたものが昭和43年6月に現在の亀池公園の中島に移築 ...
氏名 松方 冬子 (徳川)
フリガナ マツカタ フユコ (トクガワ)
職名 助手
所属名 史料編さん所
特殊史料部門
担当授業科目 学部前期課程
学部後期課程
大学院
研究分野 文学
/史学
/日本史
現在の研究課題 近世武家社会の研究
近世対外交渉史
研究内容キーワード 武家屋敷、大名、藩制史、武家社会
風説書、オランダ、海外情報
著書・学術論文 題目 田安家蔵書の伝存について
出典 田安徳川家蔵書と高乗勲文庫
徳川、戸田両君に起される、近衛兵の動きが怪しいとの事、すぐ起きて
御文庫の各所の鉄扉を厳重にお閉めする。侍従長、大夫、三井さん等も
詰められる。御警衛内舎人の武装を解除しろと近衛兵がせまった由。間
もなく田中静壱大将が来て総てを取静めて事は終る。馬鹿馬鹿しいこと
だ。久々で二、二六の時の事を思出す。午前十一時二十分枢密院本会議
、於附属室、途中正午の御放送を拝聴、涙が殺され、それを聴いた阿南
陸相は責任を痛感して自刃した由
大正タイショウ10年ネン(1921年ネン)11月ジュウイチガツ12日ニチ開催カイサイ、12月ガツ11日ニチ承認ショウニン
大正タイショウ11年ネン(1922年ネン)2月ニガツ6日ニチ調印チョウイン、8月ガツ17日ニチ効力コウリョク発生ハッセイ
議長ギチョウ: 米国ベイコク全権ゼンケンヒューズ
軍縮グンシュク会議カイギ全権ゼンケン委任イニン: 加藤カトウ友三郎トモサブロウ海軍カイグン大臣ダイジン
日英同盟ニチエイドウメイ存続ソンゾク全権ゼンケン委任イニン: 徳川トクガワ家イエ達タチ(いえさと)貴族院キゾクイン議長
野口中佐は内地の部隊に転任となり、徳川中将と旧交を暖め、
航空兵団司令部への配転を勧められながらも現場を選び、大佐へ
昇級すると同時に稲妻戦隊の指揮官を命ぜられる ...
日に代々木連兵場で日野(グラーデ単葉機)徳川(アンリ・ファルマン複葉機)が日本初の動力
338 :
徳川斉彊:2006/03/06(月) 20:40:12
意味不明な書き込みが続いていやがる
明治以降の徳川の活躍だね。 何でいやなのだろうか。近代化て嫌いなやつが多そうか?
>>332 どっかにあったな。
「もし家光が明の援軍要請にこたえていたら」という歴史ifもの。
その後の江戸文化はなかったかもしれないが、
腑抜けになりかけてた旗本に活をいれるにはよかったかもしれない。
まあ、秀吉の二の舞になる可能性のほうが高かったと思うけど。
さて、では次は6代将軍争奪編にでも行きますか
主な候補は以下の通り
甲府綱豊(綱吉の甥)
紀伊綱教(将軍綱吉の娘婿)
尾張綱誠(御三家筆頭、家光長女千代姫の長男)
そういや綱豊自身は将軍になるためになんかしてたのかな?
紀伊はいろいろしてたようなイメージがあるけど、
甲府はあんま動いてないイメージがあるなぁ
何でここはられでも知ってるバカな集まり多いね。こんなことみんな知ってるのと新しい知識発掘する場じゃないとおもしろくない。
〜1603 1867〜ということで知識の発掘というと面白いね。
>>341尾張が動いてたはず。まあどうでもいいよ。みんな知ってるから。
>>332幕府が明の要請これは面白い。明は秀委吉日本軍とモンゴルによって国力が弱まったわけで
これは面白い。 とこ
345 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 22:03:47
あぼーんヽ(゜▽、゜)ノ
みんなが知らないこと書こうよ。21世紀の徳川家とか 鎌倉室町時代の三河時代の徳川の待つ松平家のこととか。
あんまり知ってることかいても意味あるの?
347 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 22:43:36
どうでもいいが、架空の人物で妄想するのだけはやめような>家広厨
348 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 23:03:12
便臭システム北詰淳司をお粉砕しか
349 :
二条公爵夫人:2006/03/07(火) 00:30:52
トレンディ・ドラマ「抱きしめたい!」は見ていた。
>>347 どうして現代まで来るのがいやなの? 江戸時代の徳川は馬鹿でも知ってる?
351 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 03:29:52
>>340 家光は当時、巷に溢れていた浪人対策として遠征に乗り気だったわけで、大阪の陣で豊臣側についた十万の浪人が遠征軍の主力になるだけのような気がする。
>>350 お前は脳に障害でもあるのか?
現代の話は現代史板でやれ。
馬鹿はお前。
353 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 10:57:08
>>351もし明の要請にこたえていたなら、切り取らない限りどうするの。報酬は
、ちなみに、史上最大の版図を支配した徳川さん(彼の乗り物3時間で1000キロ移動可能、)
と違い、報酬がいるでしょ。明に派遣した場合、詳しくおしえて?
354 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 11:17:35
報酬はいらない。派遣して知らん振り。
355 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 11:18:17
報酬はいらない。派遣して知らん振り。国内から浪人が減ればよし。
356 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 12:58:28
派遣される人は石高がほしいだろう。どう思わせるんだ。シャム王国に行った山田長政の例はあるがあれは報酬として銭だったような気がする。
とりあえず、浪人は減ったがそのあと浪人を輸出しなくなったよね。
357 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 12:59:19
358 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 13:06:03
シャム王国はその後300年後徳川さんがその一体を統治する。
アメリカ陸軍はヒマラヤ越えで物資を運ぶことになるのだったけ
359 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 14:08:51
シャム王国は300年後,徳川さんがその一体を統治する。
アメリカ陸軍はヒマラヤ越えで物資を運ぶことになるのだったけ
360 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 14:34:49
家光が鄭成功の援軍依頼に前向きだったって、俗説でしょ?
いくら失業対策とは言っても、秀吉による朝鮮出兵のケーススタディは
しっかりしてただろうに・・・
仮に浪人を減らせても、そんな火遊びで劣勢の明に肩入れすれば、清の逆襲を招く恐れが。
家康〜秀忠を経て、鎖国を確立した家光の時代の政策とも合わない
361 :
絵島:2006/03/07(火) 14:54:49
浅野ゆう子に徳川家を再興してもらったら?
このスレの日中のレベルの低さはなんだろう?
Educationという言葉と全く縁の無い、文字通りのNEETが跋扈している。
363 :
三条の方 :2006/03/07(火) 17:04:14
徳川将軍家には、オーストリアに宮廷を築き、皇室は北朝鮮に移住して、
小泉家を将軍家に昇格させて、京都に現在のポルトガル王家の一人を日本国王にすればいい
>>360 ケーススタディがしっかりしていたのは家光本人じゃなく、当時の幕府そのもの。
家光本人が行きたいと駄々をこねても、周囲の幕臣が止められるシステムだったと言うことだ。
365 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 20:15:20
>>333 修士や助手なんて腐るほどいる。
「徳川」ってだけで・・・アホらし
366 :
三条の方 :2006/03/07(火) 20:18:55
オーストリア・ハンガリー帝国の一部に徳川宮廷を築けばよい
367 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 20:24:59
>>346 >みんなが知らないこと書こうよ・・・ただの妄想。
>あんまり知ってること・・・だが、おめえは知らない
368 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 20:29:04
>>350 >馬鹿でも知ってる・・・ことを知らないおめえは、馬鹿!
369 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 20:35:33
>>343 >尾張が動いてたはず・・・知ってるなら、根拠示せよ。具体的に!
>まあどうでもいいよ・・・って逃げんなよ!
370 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 23:53:53
371 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:17:24
372 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 01:00:12
家広存在否定はよくない。
>>371はいったいなにもの?
出てこなくていいよ。家広の子供は?
373 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 01:02:21
家広の子供が20代様それはいいとして、
ほかの徳川子孫は何をされてるのかな?
374 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 01:04:50
>>365、 徳川直子 大先生様をし知らないのか。彼女様は科学者なのだ。
主任研究員偉大なお方である。人類最高のひとである。
375 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 01:05:50
>>365、 徳川直子様偉大なる大先生様を知らないのか。彼女様は科学者なのだ。
主任研究員偉大なお方である。人類最高のひとである。
376 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 01:07:16
ここの家広厨の連中じゃないが、
戦時中のシンガポールの昭南博物館の館長として
生物学者だった徳川義親侯爵という人物が赴任してるんだな。
E・J・H・コーナー博士という英国人の『思い出の昭南博物館』のなかで絶賛されている。
378 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 03:47:27
家広だの直子だの架空の人名で妄想するな、ボケ
379 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 03:50:35
徳川幕府再興悲願!!
380 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 08:26:01
IDが表示されないなら連投規制でもきないものか?
381 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 10:58:10
382 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 12:16:50
>>1へ
「家広」「直子」で、あぽーん登録したら。
383 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 12:20:19
徳川冬子さんって皇太子妃候補になっていた人だよね。
女子学習院でトップで東大に入った。両親は大学教授。
徳川直子さんはその妹で、これも皇太子妃候補。
学習院大学の理学部だったんじゃなかったっけ。
顔はイマイチって感じだけど。
384 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 12:35:12
CamCanの徳澤直子
385 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 12:35:17
>>383ありがとうございます。 ところで年齢の教えてもれえますか。
386 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 12:40:54
女性週刊誌のバックナンバーでも読めや
387 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 12:55:06
>>383ありがとうございます。
あのれ、もうマンナリ化したネタではオナってもイケなかなったから、
あたらしいオカズほしかたの。
388 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 13:49:40
389 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 14:23:53
すっかりここもクソスレになったな
390 :
>>1 ◆FdL1jBqM3g :2006/03/08(水) 15:19:13
誰か現代史板にこの者達を誘導していただけませんか?
お願いします。
391 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 15:22:21
荒らしが目的だから。
しかもイカれた一人による自演。
392 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 15:32:57
「現代の徳川家」って過去スレがあるが、
政治板で変なスレ立ち上げるより、そっちを復活させたら・・・
そうすりゃ、ここにも平和が戻るし、現代ヲタも消える。
阿呆の荒らしが素直によっていくかどうかは不明だな。
394 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 16:06:00
395 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 16:11:03
>>393 たしかに。
その過去スレを読むかぎり、結構まともな論客がいて、
何より江戸時代をカバーするパースペクティブをちゃんと持っていた。
過去に無知なヤツが、現代を語るのはおこがましい。
イカれた文体といい、きっとすぐ村八分だな。
396 :
お美津の方:2006/03/08(水) 16:15:27
天皇一族にはオーストリア連邦王国に移住してもらい
千代田の中奥に徳川家、大奥に浅野ゆう子を置き
浅野ゆう子に御台所の役割をしてもらい
小泉一族を京都総督に決める「小泉家による世襲制」
397 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 16:16:55
「現代の徳川家って」は過去ログ倉庫入りしてるから、
日本史板で生き残りたいなら、パートUを立ち上げればよい。
398 :
お美津の方:2006/03/08(水) 16:19:01
浅野ゆう子が女将軍をすればよい
399 :
>>1 ◆FdL1jBqM3g :2006/03/08(水) 16:35:29
>一人による自演
実に見苦しいですな・・・・
どこかへ逝って欲しいです。
現代の話するなら、新しいスレ立ててやってください。
ここではやるな。
400 :
吉野ヶ里遺跡:2006/03/08(水) 16:39:53
101回目のプロポーズは浅野ゆう子じゃありません
浅野温子です!もう
401 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 16:55:30
ミーハーな芸能ネタ・・・
要はそのノリで、現代の徳川氏にも興味持ってるだけ。
とんでもないバイ菌に取り憑かれたもんだ。
402 :
エリザベータ:2006/03/08(水) 16:57:05
浅野ゆう子に徳川の養女になってもらえばよい
403 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 16:59:57
404 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 17:16:42
403は頭
406 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 18:47:52
>>341 甲府は熟柿作戦だったと思う。
幕閣、大奥、御三家(光圀亡きあとの)、そして何より綱吉本人と・・・
綱豊を取り巻く環境は当時きびしかったから、
下手に将軍職への野心を露わにすれば、
かえって反感を買うばかりか、綱豊一身の安全も脅かされる。
407 :
カロンヌ子爵夫人:2006/03/08(水) 18:52:33
浅野ゆう子がダメなら浅野温子を養女にしよう
408 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 19:07:22
>>405 ひでえ内容だなあ。全編ジサクジエン。
しかも、ここと同じことカキコしてやんの
409 :
フランス王妃・マリー・アントワネット:2006/03/08(水) 19:09:28
408さんは頭いいわぁ〜
徳川家養女は浅野ゆう子で決まり
410 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 20:23:30
ということは、徳川家が芸州浅野家に乗っ取られる訳だな。
411 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 20:36:53
>>406 綱豊の立場が厳しいのは綱重がアレだったからですか?
でも綱重がもう少しだけ長生きしてたら綱吉の出番はなく、家宣将軍
の誕生がもっと早かったわけですよね。
412 :
シッシーナ公爵夫人:2006/03/08(水) 21:34:21
綱吉の養女は浅野ゆう子で決まり
吉宗の養女に浅野温子
家重の正室に五十嵐淳子
413 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:07:25
>>412 冷静に考えろ。
親とはうまくやってるか?
親身になってくれる友人はいるか?
趣味と言えるようなものがあるか?
現実逃避ばかりしてないで病院に逝く勇気も必要だよ。
414 :
ウ゛ィクトリア皇后:2006/03/08(水) 22:09:53
五十嵐淳子が9代将軍正室に決定
415 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:14:42
>>411 綱重がアレだか、どうだかとういうより、よくご存知のとおり、
尾張には、野いちご喰って死ぬまでの綱誠と、
紀伊には、鶴姫に先立たれるまでの綱教というライバルがいた。
水戸は、綱條が専ら綱吉に恭順の体。
綱吉自身と桂昌院・お伝の方ら大奥の主流は援紀派。
幕閣には、井伊直該と姻戚関係で、長く水戸掛老中を務めた阿部正武を除いて、
綱吉に忠実な柳沢吉保に対抗できる人物がいない。
・・・という意味での、四面楚歌です。
416 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:24:51
尾張綱誠は暴飲暴食多淫の人格破綻者だったようだね。最後にはうどんや饅頭や野イチゴを食べ過ぎて突如頓死。徳川宗家を背負うゴロタ石にはなれませんでした
417 :
お美代の方:2006/03/08(水) 22:29:39
野イチゴを食べた浅野ゆう子は健在
418 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:30:19
諸侯の中には、甲府派も居たというけど、
荒療治をする綱吉にあからさまに反対したとは思えないし。
419 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:33:57
尾張でやぱーり最高の方は本寿院様でしょう
420 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:34:46
★甲府派★
井伊掃部頭直該
酒井遠江守忠隆
本多中務大輔政長
黒田右衛門佐綱政
毛利大膳大夫綱広
421 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 22:34:59
尾張光友を父に持ち、将軍家光を祖父に持つ、松平義行もお忘れなく。
422 :
お美代の方:2006/03/08(水) 22:36:38
桂昌院派
浅野ゆう子
浅野温子
五十嵐淳子
桜田淳子
篠ひろこ
小川知子
いしだあゆみ
424 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 23:01:58
>>420 徳松死去時の甲府派は、そんな顔ぶれだったかも?
しかしポスト綱吉が差し迫った問題になった頃、
酒井忠隆、毛利綱広すでに亡く、
跡を継いだ酒井忠囿や毛利吉広がどんな態度をとったかは不明。
本多政長、改め忠国は光圀の甥という血縁から綱豊支持だったかも。。。
425 :
お美代の方:2006/03/08(水) 23:04:50
426 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 23:24:04
本寿院・・徳川吉通生母ですね。
某ドラマで綱吉に吉通は悪くないが生母の本寿院が阿呆だとか
言ってますたが本当に阿呆だったんでしょうかね・・・
427 :
本寿院堅子:2006/03/08(水) 23:28:06
ワラワの息子は石田純一じゃ
428 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 23:46:35
以前東京新聞かなんかに連載されていた小説では、
本寿院は、お家騒動の元凶になっていた様子。
別の怪しげな説では、天樹院(千姫)の竹田御殿での醜聞と
似たような乱行が(千姫は冤罪のようだけど)・・・
湯殿に若侍を招き入れ、イチモツの大きさを検分してから、
ナニしたとか・・・ほんとかどうか?
ただ結局蟄居処分を受けたということは、それなりの悪行があったのでは。
429 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 00:15:31
石田純一=徳川吉通なのか?w
本寿院の醜聞については、鸚鵡籠中記に出てた気がする。
朝日文左衛門の耳に入るほど有名な話であれば、尾張家の出番はないね。
432 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 22:44:32
徳川泰子、徳川知子、徳川久子、徳川為子は美人だと思う
433 :
吉野大夫:2006/03/09(木) 22:56:29
浅野ゆう子が徳川を継げば安泰
434 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 04:21:43
殺虫剤で>433は氏ぬかな???
435 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 08:11:16
436 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 08:33:28
437 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 08:56:41
ついでに432も死ぬなwww
438 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 09:06:10
松平家の血を引く私が来ましたよ
尾張ですけど……
439 :
ルーマニア王妃マリー・:2006/03/10(金) 10:34:31
尾張を浅野温子に与えることに決定
440 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 11:10:35
小倉優子りんにしてくれ
若いほうがいい
オート姫と呼んで下さいまし
441 :
マリア皇太后:2006/03/10(金) 11:15:08
小倉優子を京都女王・浅野ゆう子が北朝鮮に追放して解決。
442 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 16:12:29
>>430 >>431の指摘どおり、本寿院の醜聞は、「鸚鵡籠中記」をネタ本にした
「元禄御畳奉行の日記」で読んだ記憶があります。
東京新聞連載の小説は「尾張春風伝」という本になっています。
徳川宗春の伝記小説で、吉通時代の藩内の混乱が詳しく描かれてます。
443 :
ルーマニア王妃マリー:2006/03/10(金) 16:15:16
吉道に浅野ゆう子を紹介しよう
444 :
↑:2006/03/10(金) 17:14:03
コイツ結城じゃねえの?
445 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 18:04:53
放置しとけ
446 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 18:19:15
浅野ゆうこの良さがわからん
逝き遅れの更年期婆では?
過去の栄光も知らん
447 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 18:36:10
本寿院がインランだろうが、なかろうが、
吉通は、家康から一親等遠くなるから、
やはり綱豊vs綱教だな。
松平義行はまず尾張家を継がない限り、初めからムリ。
448 :
13代将軍生母・本寿院:2006/03/10(金) 18:42:29
徳川を琉球に移住させ江戸に浅野ゆう子を将軍に迎える。
449 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 21:37:52
>>447 家光からの血統の近さの方が問題ではないか?
もともと綱教の名前が出るなんて犬将軍のわがままでしょう。
450 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 23:30:09
でも人情として、兄貴(それも仲の悪かった)の息子より、
やっぱ、かわいい娘の婿サンの方を推す気持ちは、よくわかるなあ。
451 :
ルーマニア王妃マリー:2006/03/10(金) 23:50:24
浅野ゆう子が家光の王妃
452 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 23:51:34
綱吉も学問に淫する偏執狂的な男だったが、綱重もかなり酒乱と女でやばかったというのは本当か?
453 :
ルーマニア王妃マリー:2006/03/10(金) 23:54:25
綱吉の母は野際陽子。
御台所は浅野ゆう子
側室に五十嵐淳子
紺野美沙子
がいる。
>>452 酒と女を適当に与えれば政治に口を出さない分、綱重のほうがマシだろうな。
綱吉の場合、
「高い理想と学識を持った俺様が政治をすればみんなハッピー」という傍迷惑な信念があった分
余計にたちが悪い。
455 :
甲府宰相徳川綱豊:2006/03/11(土) 18:58:35
次期将軍は甲斐国主たる当方から
456 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 19:57:18
浅野ゆうこ粘着厨房ウザスand趣味悪スw
粘着とか死ねとか書かれることに快感を感じる体質ですから。
普通のひとでは太刀打ちできまへん。
清水義範の尾張小説が伝記小説とは、清水本人がこそばゆいだろうな。
459 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 23:48:36
徳川家康=岡崎市。松平郷=豊田市。
って宣伝してるけど。
実は、徳川宗家は、安城市の安祥城時代の安城松平家なんだよね。
徳川譜代の家臣のほとんどが、安城時代から。
岡崎城の時代に臣従した譜代は少ない。
清康の代に新岡崎城を造って、三河1国を統一。
尾張にも攻め込んだが、守山崩れ。
岡崎の中心が、岩津や明大寺だったのを現在地に新岡崎城を造ったのが松平清康。
安城の存在を面白く思わない岡崎市・豊田市・愛知県などによる間違った徳川宗家史観に呆れる。
最初から、徳川が岡崎にいたと思われても。
460 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 00:08:19
徳川家康の家臣の両巨頭の石川氏は、安城の桜井あたりの豪族。
一方の酒井氏は、松平郷時代からの家臣で、刈谷の境あたりの豪族。
ちなみに家康を苦しめた三河一向一揆の総本山も安城の本証寺(城郭伽藍で有名)です。
三河三箇寺の残りの2つは岡崎だけど。
松平清康存命時に、安城松平家に匹敵する力があった桜井松平家も安城です。
古代の三川国の中心も安城にありました。三河で唯一、木簡が出土し、役所があった証拠です。
古墳も三河最古で、寺領・別郷廃寺という古代寺院もありました。
碧海郡の郡名発祥の地も安城の碧海郷からです。
もともと、碧海とは安城のことだったのです。
江戸時代に、岡崎、西尾、知立、刈谷、吉田(豊橋)などが城下町・宿場町として
整備されたために、あたかも大昔から都会であったかのように宣伝しているのです。
そして、安城は田んぼばかりの田舎だと誹謗中傷。
正史を調べれば真実は明らか。
461 :
シッシーナ公爵夫人:2006/03/12(日) 00:13:59
浅野ゆう子が徳川本家の養女になることに決定!
>>459 まー普通の人にとっては家康の出自が三河の田舎のどこだろうが
ぶっちゃけどうでもいい話。
463 :
春日局:2006/03/12(日) 00:35:45
三河を浅野ゆう子に与える。
464 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 09:59:59
館林家や甲府家には付家老はいたんですか?
御三家はもちろん駿河家にも付けられてますよね。
465 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 11:32:01
>>464 四代将軍家綱の弟、徳川綱吉が15万石で入るが、形式的なもので、藩主としての綱吉は30年の治政の間に、
日光での家康五十回忌法要の帰途、館林城に四泊しただけで、譜代の家臣もない綱吉家は、
館林にはわずか22名の家臣しかいなかったと言われる。
tp://www.ken-s.org/han/kantou/tatebayashi.html
御三卿にも付けられてますよね?
466 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 11:58:43
>>458 【伝記小説】ってカテゴリー、当然知ってるよな。
467 :
徳川お江与:2006/03/12(日) 12:31:14
「恋のパラダイス」は浅野ゆう子主演で放送された。
468 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:10:28
浅野ゆう子なんてトシ喰ったババアの話題で盛り上がるバカが居座る
スレはここですか?
浅野には世継ぎもいねえし、救いがたいリアルバカ。
469 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 19:16:43
W浅野時代にファンになった中年の仕業だろw
家広厨の次は浅野厨か・・・
471 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 22:07:22
同一人物なのはバレバレ
>>465 御三卿につけられていたのは幕臣で、彼らに代々直属する臣下はいないんじゃなかったっけ。
田沼時代、一橋家につけられていたのが田沼一族(弟だっけ)で
意次自身も田安屋敷で生まれたが身分は旗本。
473 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 08:30:45
御三卿につけられていたのは、確かに出向幕臣ですね。
清水家なんてすぐに当主不在になっちゃうから、その都度幕府に出向した
り復帰したり。当主も幕府からの出向みたいなものだしなあ。
474 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 12:37:00
浅野厨=家広が妄想と言っている。
475 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 12:45:44
浅野厨はココ以外の日本史板にもいるよ。アク禁に出来ないの???
>>473 御三家同様に独立経営でやらせたら将来将軍家の手綱が効かなくなりかねないし
諸大名の反発も大きかっただろうしね。
477 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:05:27
徳川宗家20代は今おいくつであられるか教えてくれ
家広公の御曹司様はおいくつになられたわけ?
>>476 新しい御三家を作ることを嫌って柳営に屋敷まで与えたことが
結果として一橋治斉と息子・家斉による独裁と、田安清水両家の没落を招いたんだから
何が幸いするか分からん。
家斉ってぶっちゃけ無能だし。
田安家から賢丸、後の定信を追放した黒幕は治済じゃないの?
黒幕は田沼じゃないか?
当時は家基もまだ存命中であり御三卿を維持する必要はとりたててなかったし
小康状態にあるとはいえ、基本ジリ貧状態の幕府財政からみたら十万石帰ってくるのは、幕閣にとっては大変魅力的だったろうし
481 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:40:03
御三卿家老は幕府の職制にもある。出向どころか歴とした幕臣です。
館林綱吉や甲府綱豊の家老に附けられた牧野成貞や戸田忠利は陪臣だけど。
482 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 13:17:05
>>479に同感。
実行犯は意次だとしても、表に出ず陰で糸を引いた黒幕は、
やはり治済では。
治済と意次では、役者の格が断然違う。
『続三王外記』がソースといわれる家基毒殺説にしても、意次の名は
出ても、最大の受益者=容疑者である治済の名は御簾の奥に隠れている。
483 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 13:57:43
以前、どこかの番組で宗家の法事に1,000万以上かかると言っていた。
大変だな。
>>482 定信追放当時は、彼らは田沼の弟を通じてある程度馴れ合っていたので、
どっちが実行犯でも問題なし。
485 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:05:38
前スレでも話題になった一橋重昌・重富の越前家への養子について。。。
越前松平宗矩の対幕府工作の成果という側面は確かにあったが、
正室(一条兼香の娘)の産んだ嫡男を養子に出し、早世するや、さらに次男
まで越前家に出す(この時は養子を懇願した松平宗矩も死んでいる)のは、
さすがに不可解。
重昌の時は大御所吉宗が、重富の場合は将軍家重・大岡忠光が裁許したとされるが、
どうも宗家は家重の血統(実子または清水家)でつなぐという、露骨な御両卿外しが
企まれていたと、一橋治済は考えていたらしい。
このため治済は家重の血統を嫌悪していたという。
だが彼は自家を襲った同じ手法で、やがて田安家を追い落としている。
一橋家と田沼意次については、意次の妻の父伊丹直賢がそもそも一橋家家老。
意次の弟意誠とその子意致が代々家老職を継いで所縁が深いが、
定信外しと家斉相続、そして田沼の失脚、さらに定信の登用と失脚の経緯を見ると、
田沼も定信も、そして政変劇のつど一橋側についた御三家も、治済の手の上で
踊らされていた感がある。
486 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:42:10
徳川家で最も男色好きだったのは誰であろうか?
将軍家に限らず、御三家・御三卿なども含めて
487 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:26:49
綱吉君
綱吉は両刀だから、あえて言えば家光か?
つーか意味の無い質問だよ。
紀州の元部屋住みだった吉宗や、初代の家康、二代目秀忠なんかはまだしも
その他の将軍はいずれも少年時代から男色にも女色にも慣れていたろう。
489 :
お願いします:2006/03/14(火) 22:42:56
中学の宿題の問題なんですが二つ分かりません。
@元禄時代になると減税が行われ、商品流通も盛んになり、徳川綱吉はこれまで禁止されていたことを解禁します。何でしょう?
A幕府は元禄バブルの崩壊で財政難になりますが吉宗は解決の為、リストラを行います。誰のリストラでしょう?
490 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:51:18
>>489 Aは大奥の女中だな。
しかし、中学生の日本史レベルの出題でないと思うが?
491 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:04:20
ネタってことですよ
492 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:09:40
>>489 @は荻原重秀の献策による金銀貨幣の改鋳(初回元禄8年)
493 :
492:2006/03/14(火) 23:12:07
@、A:いずれも教科書に載っている。自分で勉強しなさい。
494 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:15:42
中学の教科書には載ってなくてですね。
495 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:16:35
>>493 @はともかく、Aは中学日本史教科書に載っているか?
大奥自体、載っていないのでは?
496 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:26:11
@は貨幣のことじゃなくない??商品流通も盛んになり、禁止されていたことを解禁した。だから貨幣の質を落として貨幣を増やすじゃおかしくない?歌舞伎とか能を解禁したとかならわかるけど。誰か分かる人いるかな?
497 :
492:2006/03/14(火) 23:26:14
それが載ってるんですよ。
足高の制とか、定免制とか、そんなこむずかしい事より・・・
質問者自身が知ってるはず。
498 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:34:34
載ってないよ。大奥とか、禁止されてたのを解禁したとか。
499 :
492:2006/03/14(火) 23:42:33
単なるネタだから、みんなムキになるまでもない。
インフレなのにマネーサプライを増やすのはおかしいなんて理屈、
中学生のレベルで言えることじゃない。
500 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 19:17:16
≪489の問題の答えですが今日答え合わせがあったそうです。ちなみにこの問題は妹の宿題の問題で私自身は19歳です。@の答えは田畑の売買でした。Aは大奥の女で合っていました。
501 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 21:27:37
つまらんクイズを出すんじゃねえこの阿呆めが
502 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 00:14:32
徳川宗家発祥の地、安城市。
安城松平家。
トヨタや岡崎じゃないよ。
503 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 00:22:03
>>502 宗家は安城市なんだぁ〜。
ご近所(浜松市)なので今度探索に行ってみるかな?
504 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 00:45:22
岡崎市の今の場所に、新岡崎城を造って、本拠地を移動したのも
安城松平家の清康(家康の祖父、広忠の父)なんだよ。
明大寺城(旧岡崎城、東岡崎駅のとこ)、岩津は、
この時、岡崎の中心でなくなった。
もともと岩津が松平宗家だったが、衰退して、安城松平が宗家になった。
徳川宗家の本拠地移動の歴史。
安城(安祥城)→新岡崎城→浜松城→江戸城や駿府。
松平家の歴史。
松平郷(豊田市)→岩津(岡崎市)→安祥城(安城市)→岡崎城へ。
1471年松平信光が入城して以来、松平家の本拠地となり、
この流れは安城松平家と呼ばれるようになった。
1524年清康(家康の祖父)が岡崎城に本拠を移した。
50年間、安城が松平(徳川)の本拠地。
清康から世良田(得川)と名乗る。家康が踏襲。
清康の代で、三河国全域を始めて統一。家康よりも前に。
それから、徳川(松平)家臣団のほとんどが、安城時代からの臣従。
石川も酒井も碧海郡の出身だからね。岡崎というのは、ウソだよ。
岡崎時代は、2代目以降とかばっか。
三河一向一揆の本拠地の本証寺(城郭伽藍)も安城にあった。
安祥城は、旧岡崎城や刈屋城よりも築城が古いからね。
505 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 00:54:23
徳川宗家は家康を初代として考えるべきで、家康以前の当主は
松平であって、徳川ではないと考えるべきでは?
だから徳川家発祥の地は岡崎で正解でしょう。
自分は徳川と松平は別の家と考える。
506 :
エリザベート〜愛と死の輪舞〜:2006/03/20(月) 01:10:33
ハプスブルク王朝の終焉
1918年
507 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 01:39:01
三つ葉葵の家紋も松平清康からという説がある。
世良田次郎三郎と名乗る。
新田氏の庶流の得川氏の一族の世良田氏を名乗る。
徳川のヒントは、得川から。
松平(徳川)が三河国の領主と認められたのは清康からだし。
508 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 01:57:57
北条早雲は、伊勢新九郎長氏なんだけど。
北条氏を名乗ったのは、子の氏綱から。
氏綱を北条氏初代・発祥とは言わないでしょ。
家康が、元信・元康を改めたのも、祖父の清康を崇敬していたからであって、
得川(世良田);新田源氏の名乗りも清康からだし。
新岡崎城も清康からだし。家臣団も安城時代からです。
発祥とは始まりなので、徳川家康生誕の地は岡崎ですけど、
その前身である安城時代あってこそのものですけど。
徳川の家臣団のほとんどが、苗字を調べれば碧海郡出身者が多いですよ。
岡崎市の人間はその史実が信じられない・否定したいのでしょうか?
朝鮮みたいですね。
どうでもいい。
510 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 02:13:34
すみません、質問があります。
スレ違いだとはおもいますが、詳しい人が多そうなので…
ちょんまげの『ちょん』はなんのことでしょうか?
また、当時はちょんまげのことをなんと言っていたのでしょうか?
よろしくお願いします。
田舎争いはまちBBSででもやっとれ。
512 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 02:16:39
安城松平家というのは、岩津や岡崎の松平宗家ではないんですよ。
また、松平郷に残った松平家とも違います。
まあ、信光の息子が起こしてはいるんですけど。
清康の代に松平宗家(棟梁)の地位になったんですよ。
http://www.kakushin-club.com/history/tokugawa_1.html 岡崎にもともといた松平家は、駆逐されて、安城松平家が宗家になったのですよ。
よって、松平家発祥は松平郷(豊田市)。松平竹千代(徳川家康)生誕は、岡崎市。
世良田(得川)の名乗りは、清康からです。
家康の代に、得川を徳川としたのです。世良田の名乗りはそのままです。
源氏の一門であることを宣言した、幕府成立の要因。
清康の代に岡崎に引っ越したのと、家系図の関係から、安城時代の史料や痕跡が少ないだけです。
513 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 13:11:19
>>510 「ちょんまげ」の『ちょん』は朝鮮人のチョンから・・・
ってのは嘘でえ〜す。
髻を折り返した形が「ゝ」(ちょん)の字に似てるからだって。
514 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 13:31:20
誰かこのスレで徳川家っつーか、松平家の出自について
岡崎VS安城の議論ってしたっけ?
>>459 >>504が独りリキんでいるみたいだけど。。。
北条早雲云々の屁理屈は抜きにして、俺は
>>505が正論だと思う。
515 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 15:01:51
m9(^Д^)プギャー
516 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 19:31:10
m9(^Д^)プギャー
517 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 22:08:17
>>514 そうだと思う。
実際に、現在の徳川宗家は家康を初代としているし。
「徳川」を名乗ったのも家康以降の子孫であって、家康の兄弟従兄弟
では「松平」は名乗っても徳川は名乗っていない
(得川でなく徳川で話すべき)
518 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 22:26:40
m9(^Д^)プギャー
519 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 22:34:49
家康以降の徳川当主は家康の墓に参拝(紅葉山参詣も含む)を
やっているけど、それ以前の松平当主に対して墓参りや法要とか
やっていたの?
520 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 22:39:21
521 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 01:54:31
>>513ありがとうございます
なるほど、そういう事でしたか。
明日使えるトリビアがまたひとつ…
522 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 10:39:53
>>519 松平広忠の霊廟がある岡崎の松応寺や松平・徳川両家の菩提所である大樹寺を
自ら参詣したのは家康のみ。
「二世権現」の衒いを持つ家光が伊賀八幡宮や六所神社、大樹寺など松平家
ゆかりの寺社を再建したりと・・・幕府から手厚い加護と崇敬を得てはいたが、
岡崎城主が名代として参詣するならわし。
例えば綱吉時代の「徳川実記」には、広忠の月命日の3月に幕府が法要を営んだ
という記載はない。
523 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 11:08:50
>>522 補足
もっとも岡崎城主が伊賀八幡宮や大樹寺を参詣したのは、
家康命日の4月17日。
家康の父祖を拝むという意識はたいしてなかったと思う。
524 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 11:23:55
家康が松平家から独立して徳川という新しい一族を興したと考えている
のですが・・・
525 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 11:36:34
>>524 それが自然な発想でしょう。
豊臣秀吉の父とされる木下弥右衛門(弥助)の血筋を遡っても意味ないし。
松平発祥のエピソードなど『記紀』の神代記を語るようなもの。
どちらかと言えば松平からを重視するのは譜代家臣でしょう
大久保彦左衛門なんかその典型ですね
527 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 12:07:01
>>526 『三河物語』の前半では、家康に至る松平家の苦難が描かれ、
そこに彦左自身のノスタルジアが感じられるが、それは過去に武勲をたて
ながら、次第に文治政治が確立する中で、不遇を強いられていく旗本連中の
怨嗟の声、いわばマイノリティの考えでしかない。
柳営で執政する譜代の重鎮には、権現様以下しか眼中にあるまい。
528 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 13:34:59
でも一応、本多佐渡、本多上野という欝憤のはけ口をもっていただけマシか?
529 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 22:09:10
526 :日本@名無史さん :2006/03/21(火) 11:48:44
どちらかと言えば松平からを重視するのは譜代家臣でしょう
大久保彦左衛門なんかその典型ですね
527 :日本@名無史さん :2006/03/21(火) 12:07:01
>>526 『三河物語』の前半では、家康に至る松平家の苦難が描かれ、
そこに彦左自身のノスタルジアが感じられるが、それは過去に武勲をたて
ながら、次第に文治政治が確立する中で、不遇を強いられていく旗本連中の
怨嗟の声、いわばマイノリティの考えでしかない。
柳営で執政する譜代の重鎮には、権現様以下しか眼中にあるまい。
528 :日本@名無史さん :2006/03/21(火) 13:34:59
でも一応、本多佐渡、本多上野という欝憤のはけ口をもっていただけマシか?
m9(^Д^)プギャー
530 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 23:00:21
531 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 16:29:10
530 :日本@名無史さん :2006/03/21(火) 23:00:21
>>526 譜代筆頭 井伊 ・・・・orz
m9(^Д^)プギャー
井伊は譜代ではあっても松平重代の家臣じゃないからな。
533 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 20:14:33
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
534 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 20:25:39
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
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m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
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m9(^Д^)プギャー
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m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
m9(^Д^)プギャー
535 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 20:27:08
>>1-533 ___◎_r‐ロユ
└─‐┐ナ┐┌┘ _ ヘ____
/./┌┘└┬┘└┼────┘ロコ┌i
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536 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 00:23:58
19代徳川家広様 20代様 に控えろ
537 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 00:29:02
評議員
植村泰久 元(株)仙台放送 会長
大草省吾 牧之原開拓幕臣子孫の会 会長
落合偉洲 久能山東照宮 宮司
神田秀順 東叡山輪王寺 門跡 寛永寺 住職
菅原栄光 日光山輪王寺門跡
千 宗左 表千家第14代家元 (財)不審菴 理事長
寺島宗久 (有)カメリアプランニング代表取締役
徳川幸子
徳川斉正 (財)水府明徳会 会長理事
成田有恒 大本山増上寺 法主
根本二郎 日本郵船(株) 名誉会長 日本経団連 名誉会長
セイコー(株) 名誉会長
細川護煕 元衆議院議員 元内閣総理大臣
松平恒忠 日本英語交流連盟 専務理事
松平宗紀 (有)松平管理 代表取締役
538 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 13:16:26
妄想乙
539 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 18:22:42
家広なんて架空の存在なんだよ。ありもしない幻で妄想するな。
540 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 21:55:00
妄想厨・・・・・・
___◎_r‐ロユ
└─‐┐ナ┐┌┘ _ ヘ____
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541 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 22:41:33
使い古された顔文字とアスキーアート・・・
どうせ貼るなら独創性出せよ!
バカ丸出しで見苦しい。
542 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 23:04:13
541 :日本@名無史さん :2006/03/23(木) 22:41:33
使い古された顔文字とアスキーアート・・・
どうせ貼るなら独創性出せよ!
バカ丸出しで見苦しい。
m9(^Д^)プギャー
543 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 23:17:45
架空の家広で妄想中。
バカ丸出しで見苦しい。
544 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 01:33:16
__
タヒ
545 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 16:52:41
__
タヒ
546 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 17:54:42
__
タヒ ね
547 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 19:09:14
ここは初心者ASCIIの実験板ではない。
「プギャー」も、2chではもう死語だ・・・笑止!!
彼奴らDQN野郎は無視して、
確か・・・綱吉まで話題が進んだと思うから、次は家宣と参りましょう。
前スレでは、実の弟に冷たいという説と、
篤実で、長生きしてれば清武も厚遇していたであろうし、
幼い家継では治政は無理だと尾張吉通を迎え入れようとまでしたとか
って、まったく背反する説があったような・・・
本当のところは?
548 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 19:37:34
547 :日本@名無史さん :2006/03/24(金) 19:09:14
ここは初心者ASCIIの実験板ではない。
「プギャー」も、2chではもう死語だ・・・笑止!!
彼奴らDQN野郎は無視して、
確か・・・綱吉まで話題が進んだと思うから、次は家宣と参りましょう。
前スレでは、実の弟に冷たいという説と、
篤実で、長生きしてれば清武も厚遇していたであろうし、
幼い家継では治政は無理だと尾張吉通を迎え入れようとまでしたとか
って、まったく背反する説があったような・・・
本当のところは?
m9(^Д^)プギャー
549 :
◇dX1DfbrHpU :2006/03/24(金) 19:45:32
尾張吉通を迎えようとかってのは、
創作である可能性が高い。
550 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 20:57:02
実の弟ーーー脅威。
秀忠が忠長を、吉宗が宗武、宗尹をそうしたように、親の立場で引き立てのであって、
弟(清武)は当人(家宣)にとっては相続争いの種。冷たいというより当然の処遇だろう。
551 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 00:08:46
>>549に同意
吉宗に干された新井白石が、家宣時代を懐かしんで、
さも家宣が私心のない名君であったかのように仕立て、
同時に、おのが影響力が大きかったことを誇示するために、
「折たく柴の記」の中で作った話でしょう。
552 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 00:53:32
そんなことはないだろ?
徳川実記に記載はないの?
だいたい当時では考えられない前将軍の遺命に背いたこと自体
名君のあかしでしょ。
553 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 00:58:35
就任したての将軍が簡単に身内を優遇できると思っているのか?
できるのなら、家斉は実父を簡単に大御所にしたのだろうに。
554 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 01:35:37
>>552 時代劇や小説にも出てくるこの有名な、病床の家宣と白石のやりとりは、
すべて「折りたく柴の記」がソースです。
もちろん「徳川実記」にもそんな記述はありません。
万民から憎悪された“稀代の悪法”を廃止するのは、政権交代の最大の
デモンストレーション。人気取りには最高の演出。
>>553 家宣は清武より早く、寵臣間部詮房に5万石を与えている。
柳沢派=綱吉残党を幕閣から一掃し、先君の遺命をも即刻無効にできるのが将軍。
家斉の場合は松平定信がいたし、治済の大御所問題は、前将軍でもない者に
尊号を贈ろうとした前例のなさから悶着を起こしたので、別次元の問題。
いずれにせよ一般庶民の感覚で、権力者の兄弟仲を推し量るのは安易かと・・・
555 :
◇dX1DfbrHpU:2006/03/25(土) 07:52:32
家斉は実父の治済を大御所としようとしたらしいが、松平定信の反対にあい
実現しなかったらしい。
清武は、冷遇された・・・・っていうか、館林城主になれただけでもいい方だろう。
556 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 10:53:28
>家宣 在職わずか三年の病弱な将軍に名君も暗君もないだろう。
綱吉だって治世の初めは名君といわれていた。
557 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 12:20:10
治世の始めは、事の善悪に関わりなく先代の業績を躍起になって否定することから始まるのである
558 :
◇dX1DfbrHpU:2006/03/25(土) 12:57:52
559 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 13:33:25
家宣が、尾州吉通を西の丸にいれて将軍後見にせよといったというのは、確かに創作の公算が濃厚であろう。
尾州はかねて暴飲暴食の性格破綻者で、日頃から、酒、木イチゴ、饅頭などを大量に喰い漁り、家宣がこんな性格破綻者、精神分裂者を
一朝事あらば三百諸侯の先頭に立って戦の指揮をとる将軍の後見人なり継嗣にすることは考え辛い。
じじつ尾州は食べ過ぎに寄る食中毒によりにわかに頓死。
尾州の正室も淫奔で、藩士と交接を試す
560 :
◇dX1DfbrHpU:2006/03/25(土) 13:54:03
吉通の父綱誠も、イチゴ食って食中毒おこして死亡。
親子そろってしょうもない
561 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 14:19:15
尾張吉通が夕食時、突然吐血して絶命した件については、
その子五郎太の死とともに弟・継友派の毒殺説がある。
当時継友は天英院の姪にあたる近衛家煕の娘と婚約中。
家継生母・月光院の勢威を喜ばない天英院派の策動を疑う意見もある。
562 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 15:42:15
宝永〜正徳年間、
尾張吉通と五郎太、紀伊綱教と頼職、水戸吉孚、
そして家宣の子ら(家千代・大五郎・家継)の相次ぐ死。
不自然な急死もいくつか。
想像を逞しくさせる時代だね。
563 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 16:26:33
享保になってからだけど、松平清武、清方親子の暗殺を疑う意見もあったぞ。
たしか二人の死と、柳沢吉里の国替えと、家重の西の丸入りが同じ年で、
なんかクサイ。。。って穿った見方も。
564 :
徳川家康:2006/03/25(土) 16:26:59
あ〜、お前等全員打ち首な!
565 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 16:52:03
権力のためなら身内を貶め、兄弟を害し、ライバルを消す・・・
事実なら、家康はそんな子孫をむしろ頼もしく思ったろう。
徳川一族やその側近らが据え膳食べたり、タナボタ喰ったりするだけの善意の人ばかりなら、
江戸幕府はもっと早く潰えたろう。
566 :
◇dX1DfbrHpU:2006/03/25(土) 17:35:37
清武、清方親子頃す理由って・・・・
別に殺す必要なかったのでは・・?
567 :
西尾豊後守:2006/03/25(土) 18:01:59
暗殺暗殺っていうけど・・・大名家当主や将軍継嗣などは四六時中御医者が
脈を見、健康状態を管理している状態。そうそう容易く続くかどうか・・・
568 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 19:53:22
将軍の場合、御膳番の小納戸役が毒見をし、暫時間を置いてから
三人分の膳が運ばれ、先に小姓二人が食事を摂り、それを見届けたうえ、
初めて将軍は箸をつけたという。
御医師の診察も毎日朝食後、内科だけでも6人位が二人ずつ御前に伺候して診察する。
将軍世子や御三家当主も、将軍ほどではないにせよ、毒殺への予防策は取られていたはず。
しかし一方では、家基のように御医師によってハンミョウを盛られたとされる説もある。
医師や近習、奥女中に内応者がいれば、不可能ではないだろう。
家康存命中の御三家は尾張家、駿河家、水戸家。
ただしこの時点で駿河家は頼宣。
秀忠は弟を紀伊に転封して息子を権現様ゆかりの駿河に配した。
570 :
土屋山城守:2006/03/25(土) 21:17:12
確かに、講談では御典医が買収されていて主君にどくを調合する話はあるけど、現実的に多いのかねえ?
571 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 22:23:06
>>570 家基の場合は、鷹狩りの帰途、品川東海寺で気分が悪くなり、
お供の典医池原雲伯の投薬で、さらに病状が急変し、帰城後3日目に死んだというもの。
松平武元の家臣石井蠡の著述とされる「続三王外記」では、この急死には不審があると、
医師を推挙した田沼意次に嫌疑をかけている。
宝永・正徳の頃の将軍候補者が次々逝った件を暗殺と片づけるのは、南條範夫の読みすぎ
って印象。中には謀殺があったかも知れないが。
572 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 22:39:21
>569はシンボリックな指摘だと思う。
西への備えとは口実で、体よく江戸から遠ざけた。
義直、頼宣、頼房クラスになると、秀忠とは親子のほどの年の差があり、
自身の脅威とはならなくても、やがて子や孫を脅かす存在になると危惧しての
自衛策。
家光が忠長を自害に追い込む一方で、甲府、館林両家を立て、
家重が宗武を謹慎にし、宗尹の家を空き家にしようと企む一方で、
清水家を立てる。みなライバルたる兄弟への備えだろう。
573 :
阿部和泉守:2006/03/25(土) 22:48:46
田沼主殿頭が将軍継嗣・家基を暗殺する実益があろうか?
たとえば、家基が独自の政見をもっていて、田沼と相いれないとかいうならばまだ判るが、弱冠17歳の彼にそこまでの意思があったかどうか
田沼としては、危険をおかして家基を暗殺し、背後に老獪な一橋民部卿治済が控える一橋豊千代を将軍に迎えるメリットが感じられないがねえ
574 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 23:18:30
>>573 鋭いですねえ。
一般には、意次は一橋家の家老だった弟や甥を介し、さらに老女大崎と結んで
一橋治済と結託していたとか、英才の誉れの高い家基では自在に操れないと踏んで
忌避したともいわれるけど、
実は、親の家治が厚く信頼していた意次を、家基が軽んじるとは限らない。
それに家基の生母お知保の方と意次は良好な関係にあったし。
毒殺説の一例として挙げてはみたが、田沼陰謀説自体はたしかに疑わしい。
単に医者の投薬違いで死んだのを、
体よく意次のせいにされた気もしなくもない。
だとすると、天明の飢饉しかり、干拓失敗しかり、
この人はよくよく運の悪い人だったとしか。
576 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 08:17:26
疑問に思ったんだけど、何で家継の次は吉宗だったんだろ?
会津松平家に秀忠の血統が残っていたのに。
綱吉→家宣の流れからいって、家継の次は松平正容でもよさそうなのに。
家継の実の叔父にして前将軍の実弟ですら早々に候補から外れてるっていうのに
会津からなんて迎えられるわけないじゃん
>>569 家康の言う御三家とは、将軍家、尾張家、駿河家
家光の代に将軍家を別格として、尾張、紀伊に水戸を加えて御三家とした
579 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 10:38:33
>>575 『続三王外記』の著者が「松平武元の家臣」ってのがミソ。
反田沼派か親田沼派かによって、それぞれバイアスがかかるから。
意次を柳沢吉保などとは違って、政治家として高く評価する向きもある。
水野忠邦の「上知令」と一緒で、「貸金会所の令」が命取りになったね。
580 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 11:21:35
>>576 松平正容はたしかに徳川一門と公認された最初の会津藩主だが、
ポスト家継の候補には一度もあがっていない。
理由は
>>577の言うとおり。
義行然り、清武然り、定信然り・・・いかに血筋は濃くても、
松平姓に下った者(御三家庶流なら本家を継がない限り)は
将軍の有資格者にはなれない。
581 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 12:20:08
会津藩は家格は家門でも、溜之間詰めで家臣扱い。
松平定信の久松松平だって、やっとこさ溜之間にしてもらった。
御三家連枝は大広間。清武だって後の代でようやく大広間詰め。
やっぱ大廊下に詰めなきゃ、次期将軍のお呼びはかからないだろ。
鷹司松平って陣屋しかもたない1万石の大名も、貴種ってだけで大廊下下之間
に詰めていようだけど。これは例外ちゅうもん。
582 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 16:10:12
水戸家って、将軍家を継げるの?継げないの?
どっち?
教えてください。
583 :
用部屋坊主:2006/03/26(日) 16:13:05
水戸様は天下の副将軍、尾州侯、紀州侯、清水卿、田安卿、一橋卿に候補がいれば水戸様には声はかからないのであります
584 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 16:24:22
副将軍って、ほんとにあった地位なの?
585 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 16:40:02
ないよ 自称していた
586 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 17:11:54
副大老は?
587 :
◇dX1DfbrHpU:2006/03/26(日) 19:29:44
水戸から直接は継げないだろうな。
他の御三卿にでも養子に入ってからなら
できるだろう。慶喜がいい例だ。
>>572 ライバルになる兄弟のため自分の息子に家立てさせても、
結局次代になったら邪魔になるんだな。
家重にとって田安と一橋が邪魔だったように、
家治は清水家を邪魔に思ったかもな。
江戸定府だったり家格がほかの御三家二家と比べて低かったり
いろいろ特殊だからね、水戸家は。
家康的にも、頼宣家の分家的な扱いしかしてないしな
>>587 それでも、いたほうがいないよりはマシ、ではあるんだよな。
こと徳川家という家を存続させるためには。
まあ実際には徳川家存亡の危機だった幕末の時点では
尾張、紀伊、水戸ともにアレなもんだったが。特に水戸。
家継の死後、尾張にも紀伊にも適当な人材がいなかったとしたら、当然
水戸出身の将軍が誕生したであろう。実際にそんな事態がなかっただけ
だ。徳川を名乗る家に初めから可能性が皆無などありえない。
592 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 11:54:49
水戸家は御三家の中で、なるほど特殊な扱いを受けていたが、
将軍家を継げないと、誰が定めたわけでもない。
「水戸藩党争始末」では、藤井紋太夫は徳松死後の綱吉の後釜に水戸綱條を
据えようと画策して、光圀の手討ちにあったとしている。
また、家継の後継争いが起きた時も、吉宗を推す綱條に家康からの親等がより
近いあなたこそ・・・と逆に綱條に譲ろうとしたが、高齢と家宣の遺言
(尾張か紀伊をと名指しした)を盾に辞退したといわれている・・・
かなり出来レースぽいが。
いずれも水戸家が将軍相続の埒外に置かれていたという説の反証になろう。
慶喜の一橋入りは、当時御三家より御三卿の方が、将軍職に近いと信じられていたから。
大奥の水戸アレルギーもあったので、一橋家を迂回した。
綱條自身、名君でもなんでもなくて評判も良くなかったみたいだしな
594 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 12:48:49
>>593 別スレで水戸家に詳しい方の指摘によれば、綱條の藩政は失敗だったとか・・・
>>592 慶喜が一橋入りしたのは将軍継嗣の問題だけでなく、同母兄慶篤が水戸家の
跡継ぎとして存在していたからでしょう。慶喜だって有栖川宮の外孫なのだ
から、一生部屋住みで終わるわけにもいかない。非常に都合よく一橋家が空
いていたし、時の将軍家慶の正室は慶喜の実母の姉だから、気に入られても
いた。
596 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 17:00:22
一橋慶寿(田安斉匡男、家斉甥)とその養子の匡丸(尾張斉荘男、家斉孫)が
相次いで亡くなり、一橋家が空いた頃、家斉の男子孫は極端に減少していた。
1840年代の中頃までに家斉の息子たちはほとんど亡くなり、残っていたのは、
将軍家慶、紀伊斉彊、津山の松平斉民、阿波の蜂須賀斉裕の4名のみ。
これに家斉の弟田安斉匡の息子を加えても田安慶頼、越前の松平慶永のほかは、
故尾張斉荘の養子に入った慶蔵がいるくらいであった。
このため、紀伊家に清水斉彊が養子に入ったときには、清水家の相続者がおらず、
清水家が空き屋敷になってしまったほどである。
一橋匡丸が早世したときも、家斉系から養子を入れたくても適当な候補者がなく、
将軍家慶の義理の甥(御台所の実の甥)である慶喜が養子となった。
597 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 17:11:39
この時期(嘉永年間)、紀伊斉彊も尾張慶蔵も早世している。
紀伊家は斉彊の兄である前藩主斉順の子、菊千代(慶福、のちの将軍家茂)が
相続したものの、尾張家では分家の高須松平家から水戸血筋の慶勝が相続して、
ますます家斉の血筋は減少していった。
いつか来た道だな、この流れは・・・
血筋ネタは馬鹿を呼び込むのでほどほどにね
家スレなんだから血筋は重要。養子を取るならなぜこのひとだったのか、
も重要な論点。江戸時代の徳川姓の人物に関するレスだから問題ない。
養子の事情なんて完全にプライベートじゃん
人んちのこと調べてたのしいか?
601 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 11:37:24
>>599 主旨は正しいと思う。
その方面にあまり明るくないので、勉強にもなります。
ただ、家斉の子らが絡むと粗製乱造で、正直どうでもいいという印象を持ってしまう。
本来は裏を読みたくなる養子縁組も、理由もヘチマもなくなってくるから。
そして何より嫌な予感がするのは、こうした話の延長線上に、これまで決まって
明治〜現代の徳川氏の話題が出てくるからです。
もちろん今回レス投した人の責任ではないけれど・・・
602 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 13:37:19
家斉の子供ネタは化政・天保期の大名政策や幕末の将軍継嗣問題にも関わっているから、
徳川将軍家の歴史を語る上では避けて通れない。
問題は近代以降の子孫ネタにつなげる厨であって、このスレでは廃藩後は禁止にすればいい。
603 :
◇dX1DfbrHpU:2006/03/28(火) 17:41:50
現代ネタにつながりそうだったらやめた方がいいかも
変なのが沸いてくるから困る
604 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 18:35:42
誰がどこへ養子に入った、という結果論より、
養子を押しつけられた側のお家の事情(当然歓迎派と反対派がいたはず。
中には家斉の子息が入嗣するせいで、廃嫡された者もいるぐらいだから)
まで掘り下げると、面白い展開になるかも・・・
もともと家斉の多淫の尻ぬぐいは、幕府の大名政策なんて高尚な次元の問題ではなくなっていた。
そのために専門の掛りが設けられ、武鑑を片手に四苦八苦・・・
605 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 20:00:36
越智松平家は一時的に家門になっても、基本的には譜代大名の扱いだった。
だからこそ、武元が老中になったり、武厚が寺社奉行になったりした。
だが、武厚は家格上昇をめざして家斉の息子斉良を養子にもらいうけた。
その結果、越智松平家は親藩になり、武厚は家斉の一字を拝領して斉厚と改名、
上州館林から石州浜田への国替えを願い出て許可された。
この国替えを願い出たのは浜田が税収の多い豊かな土地であると考えたからだが、
実際には館林より貧しい土地であり、とんだ見込み違いであった。
また、家斉の子斉良は家督相続前に早世しており、結局、この養子縁組と転封が
越智松平家にとってメリットであったかというと疑問である。
606 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 20:08:02
しかし、この越智家のケースを見てもわかるように家斉の子供を進んで受け入れ、
家格上昇のため利用した大名もいたわけで、個々の事例を見ていくと面白い。
607 :
松平越後守:2006/03/28(火) 21:40:53
越前系松平家の宗家・津山藩松平三河守も実子が居るにも関わらず家斉の子斉民を養子を迎え、5万石乍ら逆に10万石の格式が許され、
しかも斉民の後には先先代の子の慶倫が恙無く相続している。馬鹿が多い家斉の子の中では津山斉民はなかなかの人物だったとか。
608 :
☆明石侯松平左兵衛督の例☆:2006/03/28(火) 21:56:33
明石藩松平少将も徳川家康の次男・越前黄門秀康を祖とする名門だが、左少将斉詔には実子慶憲がいるにもかかわらず、
将軍家第二十五男斉宜を養子に迎え、結果、大広間席から大廊下席に移り、将軍の近親同様の待遇にかわったが、
この斉宜はとんでも無いドキュソで、行列を横切った幼児を殺戮した恨みを買い、父の猟師に火繩銃で頭蓋を打ち抜かれてあぼん、領土は慶憲が継承した
609 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 22:04:38
福井、津山、明石、川越と、越前黄門がらみは軒並み家斉の樹液が…
610 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 22:14:14
家老の新見の家で養育された綱豊が
ホンモノってどこまで保証できる。
甲府家ではこの件で騒動起こってるし。
611 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 22:47:56
>>610 長い道のりだったけど、
家宣まで話題が進んでいたから、本論に戻したわけね。
612 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 23:00:12
家老の三木家で養育された黄門様も、越智家で養育された清武も、
加納五郎左衛門に養育された新さんもホンモノかどうか怪しいな。
613 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 23:19:24
>>610 甲府家の宿老島田時之と大田吉成が老中土屋数直宛て、
虎松(綱豊)はすでに夭折、家老新見正信がわが子を虎松と偽って養育し、
主家を簒奪しようとしていると、訴え出たが、
若年寄久世広之が藩邸に赴いて実検したところ、綱重と瓜二つだったので、
島田、大田両名を糾問した結果、新見を失脚させるための讒訴だと白状した
・・・というもの。
以上は、ソースは分明でないが、南條範夫の本に出てくる話。
南條は指摘してないが、この騒動が起きたといわれる寛文11年は、伊達騒動が
裁断された同じ年。島田、大田らはそこからヒントを得て、新見を伊達刑部に
仕立て、陥れようとしたのかも知れない。
614 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 23:45:23
>>601 宇和島伊達なんかは血に拘って、家斉の息子を断り、小身の旗本の息子(藩主の従兄弟の子)を養子にしたって聞く。
615 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 23:52:42
616 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 00:05:20
家康の替え玉説まで逝ちゃうよお
家名と家格と家風を継承していれば、血そのものはどうだっていい。
618 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 08:58:59
>>613 虎松を預かったとき
他日このような事態が起こることを想定した新見が
幕閣に立ち会ってもらって
赤子虎松の身体的特徴(ほくろの位置etc)を
記録し写しを幕閣に預けた。
騒動の時も大老にあずけたこの書類が
綱豊のホンモノの証拠となった
という伝承があるな。
どこまで史実かな・
619 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 13:31:59
家宣、清武兄弟って、同母兄弟で似たような境遇なのに、兄と弟というだけで、
方や親藩甲府藩主→6代将軍、方や甲府藩士→旗本→譜代小大名・・・
清武、かわいそう。
兄より優れた弟などいねえ!!
ってことだ。
621 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 19:27:33
>619
清武は養子にだされ形式上は臣下だから
ある程度やむ得ない
家継がなくなったとき
6代と父母と同じくするこの人を後継にという論が
なかったわけではないけど・・・
>>620 おまえはジャギか?
家重の2人の弟は兄より優れていてけどな。
623 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 21:49:44
>620
そういえば 忠長って家光よりすぐれていたのだろうか。
大人になってからの暴走ぶりからみるとなんかアレ。。。
家光自身もそうたいしたこと無いからなぁ・・・
なんともいえん
忠長と家光ってやっぱり兄弟なんだなと思うw
すいません、徳川本家・御三家・御三卿以外で
家康の血を引く松平家(藩)は全部でいくつあったんでしょうか?
627 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 22:48:50
明石侯松平斉宜はドキュソだったんですか
628 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 23:00:14
下総古河の土井家も家康の血を引いている
629 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 23:17:51
http:// ▃▆▇█▓▓▇▆▃
http:// ◢███▓▓▓▓▓██◣
| ○。 |
ノノ) 从
( i从〓〓 〓〓.从
.从-=・=- -=・=-从
从从. l 从)
(从.l∴ ∨ ∴从人) かっこいい男が
(人人|∴ ヽ . )3 ./.∴..从人) きましたよ
(人人|∴∴!  ̄ !∴∴l从人)
(人人|∴∴! !∴∴l从人)
(人人人________.人人人)
630 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 23:34:14
>>626 血を引くって女系も含めて?
松平家って松平姓を賜った島津とか伊達とかも含めて?
それによって数は大幅に変わるけど
631 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 05:46:55
>>626 池田の鳥取および支藩や奥平松平や浅野も血はひいてるけど含めていいの?
俺は逆に家康の血を引きながら大名の妾とかになった娘がいたのかのほうに興味。
632 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 22:25:58
扨て話題は些か変わりますれど、
徳川家光の正室・鷹司孝子(「中の丸殿」)と日野権大納言資勝とが
親戚関係にあったという話を聞き及びました。
ために対馬の御家騒動「柳川一件」にて、
宗対馬守義成(その夫人が日野権大納言資勝の娘)は
「お咎め無し」と相成ったとか。
したが、日野家と鷹司家との親戚関係が、よく分かりません。
もしや中の丸殿の生母が日野家なりしや?
識者の方々の御教示を願い上げます。
何卒よしなに。
633 :
本理院孝子:2006/03/30(木) 23:05:05
御台所孝子→本理院孝子/三浦リカ→三浦真弓→岸田今日子
634 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 08:19:42
家光公の息子で将軍になり損なった甲府宰相・綱重の正室「隆崇院」
二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか?
また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」
となったのは、山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、
(伏見宮貞清親王の姫「顕子」とか、鷹司左大臣教平の姫「信子」と)
綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか?
たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れません。
識者の御教示を願う次第で御座居ます。
何卒宜敷く。
基地外にえさを与えないようにしましょう。
636 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 21:25:26
鷹司の件でキチガイな質問をする馬鹿美咲
637 :
ごろうまる:2006/03/32(土) 00:38:43
水野勝成って徳川家康のいとこってほんとうですか?
638 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 00:45:09
>>637 そうだよ。家康の母の実家が水野家だからね。
639 :
ごろうまる:2006/03/32(土) 00:55:59
そうだったんですね勉強になりました〜!
ところで少しずれますが水野勝成の子孫に藤井っているかどうかってどう調べればよいんでしょうか・・・。
徳川家康のHPとかに載ってますか?
>>639 姓が違えばなんとも言えん。武鑑なんかには載ってたっけ?
あるいは水野家の家系図のようなものを見ればわかるとは思うが・・・
直接に水野家から藤井家に嫁いだとかじゃない限りわからんだろう。
日向守の領地の備後福山や、子孫の領した下総結城とかにいけばわかるかな?
ちなみに家康の母の於大の方の弟が勝成の父。しかし勝成の血の気が多すぎて勘当され
結局勝成が帰参したのは関が原前夜だった。
話を聞くとこいつ無茶苦茶すぎ。
641 :
ごろうまる:2006/03/32(土) 02:28:32
ですね〜それは私も思いました。水野さん激しいですよね。なにやら色々。
武鑑ですか〜探してみます。
ちなみにひいばあちゃんの話によると水野さんのところの人がひいばあちゃんの家に来た(嫁いで来た?)
みたいに言っていました。戸籍を調べるしかないですかね?
642 :
ごろうまる:2006/03/32(土) 03:47:13
福山は実家なので帰って調べてみます。ありがとうございました。
643 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 06:07:15
重ねて御たずね致します。
家光公の息子で将軍になり損なった甲府宰相・綱重の正室「隆崇院」
二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか?
また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」
となったのは、山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、
(伏見宮貞清親王の姫「顕子」とか、鷹司左大臣教平の姫「信子」と)
綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか?
たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れません。
識者の御教示を願う次第で御座居ます。
何卒宜敷く。
644 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 07:43:18
重ねて問いますれど、
家光公の息子で将軍になり損なった甲府宰相・綱重の正室「隆崇院」
二條関白光平の姫(九條兼晴の養女)の名前は何というのでしょうか?
また彼女の没後、二條光平の養女として綱重の継室「紅玉院」
となったのは、山科言行の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
或いは中納言綾小路俊景の女(実名不詳)が正しいのでしょうか?
兄の家綱、弟の綱吉ともに正室(御台所)の名前が判明して居るのに、
(伏見宮貞清親王の姫「顕子」とか、鷹司左大臣教平の姫「信子」と)
綱重の場合は正配の名前が二人とも知られて居ないのでしょうか?
たんに日本史門外漢の私が無知なだけやも知れません。
識者の御教示を願う次第で御座居ます。
何卒宜敷く。
同じ電脳を使った別人の書き込みと誤解しないで下さい。
>>644 お前がバカであることは正確に理解しているから、心配するな。
646 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 23:33:23
松平清武は有力な八代将軍候補ではなかったが、
本人かそう周辺は、まんざら野心がなかったわけでもなさそうだ。
家継には外戚にあたる月光院の養家の勝田典愛を邸宅に招いて厚く饗応して
いたらしい。
初めは吉屋信子の創作と思ったが、桑田忠親監修の本にも同様の指摘があった。
月光院が使いを出して館林藩の老職をたしなめたというから、やや月光院の
美談めいているが、清武に関しては生臭い話ではある。
647 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 23:42:37
越智清行が八代将軍になっていれば、新井筑州がめざした政も軌道に乗ったであろう
648 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 23:48:17
林大学頭家にとっては迷惑な話だな。
649 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 09:52:59
清武も重好も実子がいないから、仮に将軍になったとしてもすぐに
また揉めるだろ。綱吉や家宣で懲りたんじゃないか?
650 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 11:39:45
吉宗が将軍になった享保元年から、家重が西の丸に入り、世嗣と公に決まるまで
8年かかっている。なぜだろう?
享保元年には、家重(長福丸)はすでに5歳。
吉宗と同じく外から入嗣した綱吉の場合、徳松の西城入りに一悶着あったわりに、
綱吉の将軍宣下後3ヶ月目に、わずか1歳半で西の丸に入っているのに・・・
家重の発育が心許なかったのと、尾張や館林にある程度遠慮していたのではなかろうか。
家重の西の丸入りは、清武の死後だしね。
652 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 12:11:07
即レス、ありがとうございます。
たしかに吉宗には、ほかに選択肢(宗武、宗尹)があったから、
成育を見守った・・・とは、もっともですね。
でも、そうすると、もっとわからないのが・・・家宣。
なぜ鍋松(家継)を死の直前まで西の丸へ入れなかったのかなあ?
吉宗と違って、自身の健康不安もあって、余裕はなかったろうに。
653 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 12:25:00
鍋松を西の丸にいれるかどうか、それとも御三家のどなたかを迎えるかで
迷っていたのでしょう
尾張侯、紀伊侯の動向を調査していたのであろう。
家宣としては自身と将軍の座を争った紀州綱教の弟・吉宗よりも
終始中立的だった尾張綱誠の子の尾張吉通に譲りたかったんだろう。
しかし吉通は酒、木苺、大福などを食べあさる人格破綻者だったから
判断に迷ったんだろう。
654 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 12:31:35
清武は最初から眼中になかったのか・・・
温厚篤実な人格者の名君なんて言われてるわりに冷たい兄貴・・・
655 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 12:36:04
ちょっと待って。
将軍職を争ったライバルがいるなら、
なおさらわが子を早く後継者に定めるのが、権力者の常道だ。
家宣が将軍になってからもうけた子の全部が夭折してるんだから、鍋松も長くないと思ってたんじゃない?
というか、本来西の丸に将軍世子が入るのって元服後とか決まりがあったんじゃないの?
657 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 14:26:48
だから先般来指摘されていたように、将軍になったからといって血縁者や側近をあからさまに大封を与えられるわけじゃないの。
いかに越智清武が家宣の舎弟だとしても家宣は大封を与えられなかった。甲府藩は傍系だし、幕府に金はないし、桜田から召し連れの側用人間部越前守に5万石、
越智清武に上州館林2万石、元甲府家老の戸田長門守、小出播磨守、井上遠江守に各々1〜2万石、侍講の新井筑後守を本丸寄合旗本千石にする程度で精一杯だったではありませんか。
658 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 17:31:09
尾張吉通暗君説に異議あり!!
綱誠は光友の院政にあって、事績といえるものはないが、
吉通は藩祖義直譲りの尊皇家で、下級藩士のリストラに反対した情誼の厚さも備えていた。
治政の前半、藩内が乱れたのは本寿院のせい。野イチゴの件といい、綱誠のエピソードと
吉通のそれをゴッチャにしている本もある。
家宣が吉通を幼い家継の後見人に推した可能性は十分ある。
本来吉通に後見職を・・・という家宣の話を、白石が膨らませて、家継を諦め、吉通を
立てる事態まで家宣は考えていたなどと筆をすべらせるものだから、いかにも嘘っぽく
なってしまったが・・・
綱吉政権の長期化で、待機期間が長引いた家宣は、綱吉という反面教師に恵まれたことと、
侍講白石の影響を受けて、かなり政治を観念的に捉えていた形跡がある。
実際の治世が短かったからなおさら。甲府を継ぐ幼少の頃から綱吉の跡を争う時まで、
暗闘に身を晒してきた彼が、環境的に決して温厚篤実な性格を育んだとは考えづらいが、
観念論者として、幼い家継では治国は覚束ないと憂慮していた内心は想像できる。
659 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 19:12:25
やろうと思えば将軍は、
倹約家の吉宗が田安、一橋にあわせて20万石の家禄を与えように、
自分の身内を厚遇することは、何の造作もないこと。
ただ弟は(その血統を含めて)、何度も指摘されているように兄とその直系にとってはライバルだ。
特殊な事情があった保科正之の例を除き、兄が弟を厚遇した将軍の例はない。
660 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 19:20:01
横から突然ごめん、
徳川家康は自家の繁栄だけしか考えてなかったの?
661 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 19:24:40
当然天下泰平を考えていたでしょう。
但し、「徳川家の天下」という括弧つきで。
662 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 19:25:19
徳川の子孫ってなぜ増えてないの?
つまり、天皇家の子孫(例えば清和天皇の子孫、清和源氏や桓武天皇の子孫
桓武平氏)みたいに〜〜天皇が子供を48人作って、その子孫が繁栄した!
みたいな展開にならないのはなぜ?あとは、嵯峨天皇も子沢山だったね。
天下取ったのに、子孫作りまくらないのはなんででつか?
663 :
662:2006/04/02(日) 19:31:35
例えば、新しい苗字「花丸木氏」は第二代徳川秀忠の三男が、信濃に下って花丸木の地頭になり
花丸木を称したのが始まり。
現在も信濃地方の花丸木町では3人に一人が花丸木姓を名乗っている・・・・・
みたくさ?佐藤とか伊藤とか加藤とかは多すぎるくらい多いのに、天下を取った徳川氏の子孫が繁栄しないのは
おかしいと思う。
例えば、現在の日本はかなり危機的な状況にあるよね?
過去の歴史を見ると、過去天下を取った人や歴史上の偉人の子孫とかが颯爽と現れて、天下を平定する。
実は徳川の子孫なんだけど、野に下った無名の人物(劉邦みたいな)が政治家になって、大活躍して
「実は徳川の血を引いていたのじゃー」みたいな展開を期待してるのに、ならないのはなぜ?
664 :
662:2006/04/02(日) 19:35:24
坂本竜馬が実はあの明智光秀の子孫であるという説がある。
源頼朝が清和天皇の子孫である。足利将軍家も源氏である。
西園寺公望は、公家の名門、、、、、
なぜ、徳川将軍家の子孫は現在まで歴史の表舞台に全然出てこないの?
ノーベル賞取ったり、作家になったり、有名政治家になったりさー
もう、どっかの田舎の校長先生でもいいよ。
なぜ、徳川将軍家の子孫で、偉人は出てこないのか?
665 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 19:36:27
子孫繁昌を支える後宮制度そのものは、徳川将軍家の大奥は
成功例だと思う。
要は天皇家とは歴史に古さで比較にならない。
家康は、頼朝、尊氏、信長、秀吉と比べて、
血族支配の布石は磐石に近いものだった。
666 :
662:2006/04/02(日) 19:41:08
>>665 それでは今後の歴史(今から300年後とか)には徳川の子孫の活躍が期待できるという事かな?
667 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 19:41:24
668 :
662:2006/04/02(日) 19:44:13
>>667 無知で、無能で申し訳ないです。
本気でわからないのです。
天下を取って、最高の環境で、最高の遺伝子を残したのではないのですか?
よろしければ、ご意見をお聞かせくださいm(_ _)m
669 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 19:54:09
中国の易姓革命のいい例だ。
洋の東西を問わず、歴史は王朝交代(政権交代)のダイナミズムによって
発展してきた。
特定の一族の支配が長引けば、腐敗堕落は必定。
そして世俗の逞しさをやがて失い、そのDNAは高貴かもしれないが優秀ではなくなる。
670 :
662:2006/04/02(日) 19:58:29
なるほど!
面白いご意見ありがとうございます。
でも、現在本家筋以外の徳川の子孫は、厳しく辛い俗世の洗礼を受けておる人もいるはず。
そんな中からいずれは偉人や革命家や、リーダーが現れるかもしれませんね。
671 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 20:03:28
>>670 もし、そうなっても、それはもはや「徳川家」という看板とは無縁。
本人の研鑽と努力の成果。
672 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 20:07:00
>>671 でも、そうなった場合その100年後くらいの歴史家がその出来事をあれこれ
分析すると
「偉大な花丸木勝頼氏は、徳川14代目の直系の子孫であり、東大卒業後アメリカにわたって
独自の政治理論を完成され〜〜」
とかって記述になるのでは?
当時全く事実が明らかにされていなかった坂本竜馬ですら、現在から見ると
「坂本竜馬は明智光秀の血を引いていた!!」なんてあれこれ推測が飛び交うくらいだから。
673 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 20:15:09
そういう解説は、このスレでもしきりにアップする現代ヲタがいたが、
活躍している当人にとってはひどく迷惑な話だ。
血の為せる業とは一種の侮辱。本人の業績をもっと真摯に評価してあげるべき。
674 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 20:47:33
現代ネタに誘導せんとする662は万死に値すると思う。
消えて無くなれ!
675 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 20:51:57
現代ネタとは?
歴史とは過去のものではなく、過去、現在、未来全て一続きなのである。
こうしゃべっている間にも刻一刻と時間は過ぎ去り、現在は過去になっていく。
未来が現在になっていく。
676 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:14:11
>>675 それは屁理屈というものですよ。
歴史は過去の社会の変遷を記録したもの。
一時間前の出来事をを歴史とは言わない・・・ってことはカキコしている当人も知ってるはず。
このスレは、一応江戸時代を視野の中心に置いていることは、皆さんの暗黙の了解になっている
ようですので、あしからず。
677 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:29:33
678 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 21:36:49
>>676 すいませんでした。ちなみに100年後からみて現在がどういった歴史的
評価になるか、という観点から徳川家を切る、、、ってのも駄目ですよね、イってきまつ。
スレの流れの読めない厨房が湧いていたのか。
どうしても子孫について話がしたいなら、近代史板でやれ。
>>659 逆に10万石程度しか用意できなかったと見ることもできると思うんだ
だから、両人の権威を維持するために立藩させずに江戸城内に留めおいたのではなかろうか
681 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 22:33:10
代々の家臣もおらず、御三卿家老も、旗本からの出向組(しかも勘定奉行や町奉行よりもはるかに格下で、遠國奉行と同格だからな)
吉宗が将軍になったときに宗直はショートリリーフ、将来宗武を紀伊藩主
にする旨約束させる。宗春を隠居させたときに宗尹を尾張藩主に送り込む。
磐石。でもありえない。
683 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 22:49:04
御三卿の屋敷があった場所には元々何があった地域かが痛く気になる
田安門と一橋門と清水門がありました
685 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 23:24:57
家光の頃とは違って、大胆な大名のスクラップ&ビルドができなくなったこの時代、
指摘のとおり、宗武・宗尹に10万石(それもまとまった封地は用意できずに)与えるだけでも
精一杯という財政事情にあったという見方は正しいと思う。
しかし、将軍が身内や寵臣を取り立てるのに、周囲への遠慮があったとは思えない。
家宣の場合、実弟の清武とほぼ同じ5万石を、それも清武より早く間部詮房に与える・・・表高は同じでも
かたや一介の能役者上がり。親族に大封を与えるのに匹敵する抜擢。あきらかにバランスに欠けている。
綱吉に至っては、吉保に一族の封地甲府に15万石。桂昌院の弟本庄宗資の家に吉保同様松平姓まで与えて
7万石の諸侯に取り立てている。要は将軍の胸三寸ってこと。
家宣は、清武の厚遇を遠慮したのではなく、する気はなかったと見るべきだろう。
もともと家宣は、自ら老免を願い出た戸田忠利は別にして、甲府以来の近臣小出有仍や
町野三安を西の丸要職に就けながら、まだ養嗣時代に罷免する冷徹さを持っている。
吉保タイプで、さしたる政治的理念の持ち主ではなかった間部詮房を異例に重用する姿勢は、
吉宗が、将軍襲位に貢献した古参の老中たちが引退した後も、加納久通や有馬氏倫ら紀州以来の
近臣に1万石しか与えなかったのとは対照的だ。
686 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 23:43:28
柳沢吉保を甲斐國33万石の国主とし、牧野成貞を日向延岡7万石、本荘宗資を丹波宮津8万石にするとは、綱吉はやりすぎ
687 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 00:23:56
>>650 家重の成育を待ったというより、
宗武に継がせるべきかどうかという、吉宗の逡巡のせいだと思う。
宗武派の首魁とされる松平乗邑は家重が西の丸入りする前年まで
大坂城代であったうえ、同じく宗武擁立に暗躍したといわれる月光院も
乗邑との連携なしには表立って動けなかったと思われるし、
家重が小菅御殿に体よく軟禁されたとされるのは、一旦西の丸入りした後の
話だから、享保9年までの期間は、乗邑=月光院派の牽制や周囲への憚りというより、
吉宗自身の懊悩の歳月では。
688 :
御勘定奉行萩原伯耆守美雅:2006/04/03(月) 00:38:15
松平乗邑としては、徳川家重よりも宗武の方が、扱い易いと思って居たのだ。家重は言語障害はあったが、出来のよさでは宗武よりもはるかに優秀。松平乗邑としては、操り人形としては宗武の方が最適だった
689 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 00:43:50
>>688 珍説だね。
通説を覆すソースをぜひ知りたい。
690 :
774:2006/04/03(月) 00:50:38
691 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 01:11:47
>>690 非常に面白いですね。ありがとう。
田沼意次はすでに当時、御側御用取次という要職にあって、大岡忠光とともに
政治を主導していましたから、「小物」という評価は首を傾げますが・・・
将軍の事績というものは、誰にせよ、どこまで本人の功績か判断の難しいものですね。
ところで、これは誰の著作ですか?
692 :
御勘定奉行萩原伯耆守美雅:2006/04/03(月) 02:05:51
日本大学法科大学院法学研究科の租税法、行政法、憲法問題に造詣が深い甲斐博士の随筆です
693 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 13:16:13
694 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 18:01:06
松平本若とは?
江戸幕臣人名事典(江戸城多聞櫓文書を元にしたもの)に出てくる
松平本若とは誰でしょうか?
伯耆守養子とあるところから、たぶん本荘宗秀の養子ではないかと
推定していますが、確証がありません
本若の実名や実父も分かりましたらご教示ください
(安政六年一月十六日に没しています)
695 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 18:21:12
◆◆ 和漢共栄時代から三民戦争時代へ。カラ半島の古代史 ◆◆
3世紀以前のカラ半島は、半島北部地方は、漢民族が楽浪郡を置いて支配し、半島南部地方は、
倭人(日本民族)が、志良岐と任那を建国して支配していた。この時代が、『和漢共栄時代』である。
しかし、313年から314年にかけて、満州地方のフヨ人(高句麗人)が、漢人が支配する楽浪郡を
攻撃して滅ぼしたため、これ以降、『三民戦争時代』に突入する。
三民戦争時代とは、カラ半島北部の高句麗を支配するフヨ人、任那・百済を支配する倭人、そして、旧帯方郡の
東部地方に住んでいたが、356年に倭人国家=志良岐(シラキ)を乗っ取り、新羅を建てたワイ人(穢人。朝鮮民族の先祖)
が、カラ半島の支配権をめぐって戦争を繰り返した時代である。
当初、ワイ人国家=新羅は高句麗に朝貢し、倭人勢力と戦争していたが、433年に高句麗に対して反乱を起こした。
そして、倭人国家=百済・任那と同盟を結び、今度は高句麗と戦争した。
だが、550年代になると、ふたたび倭人勢力とワイ人勢力の関係が悪化し、新羅と百済の間で戦争が再開された。
643年には、敵対関係にあった倭人とフヨ人が反新羅で同盟を結び、ワイ人国家=新羅を攻撃した。
倭人とフヨ人は協力してワイ人国家=新羅と戦ったが、660年、唐と手を組んだワイ人勢力=新羅によって、
百済は滅ぼされた。
668年には、フヨ人国家=高句麗も、ワイ人勢力=新羅と唐の連合軍の攻撃により都を落とされ滅びた。
最終的に、カラ半島はワイ人によって統一された。このワイ人が、後の朝鮮民族である。
倭人=日本人勢力は、663年の白村江戦争で敗北した後、カラ半島の領土を手放した。
しかし、白村江戦争以降も、ワイ人=朝鮮人勢力は、海賊活動を中心に何度も日本侵略を繰り返した。
これが、古代カラ半島の真実の歴史である。7世紀以前のカラ半島は、三つの民族が領土戦争を展開して
いた地域だったのである。
696 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 19:57:13
697 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 00:34:57
現代ネタ禁止
8日まで港区増上寺の徳川家霊廰特別公開中!
701 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 18:40:04
鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱鬱
702 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 22:31:10
松平勇雄氏の母は平民?
703 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 23:23:35
>>688.690のレスのような通説を覆す指摘は、大好きです。
が根拠となる随筆を読む限り、これも推論の域を出ません。
議論の余地は大いにあります。
で・・・家重が果たして暗君なりや?否や?
皆さんの意見を聞かせてください。
704 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 23:43:54
根拠のない話…
前なにかでやっていたが明智光秀はじつは殺されていないというはなし。まず農民が明智を山中で竹槍で刺したという説があるが、農民が一武士を殺せれるかという話。徳川家が明智をかくまったという説が。(織田を殺したから)
家康と親密になり、裏で江戸幕府に関与していた可能性が…その証拠に2代秀忠、3代家光の名前、ほらぁ…光秀ができる…家康に忠をちかうというので。まぁ、俺は信じてないが(笑
>>704 >殺せれるか
日本史板に書き込む前に、まず日本語の勉強。な
706 :
北町奉行諏訪美濃守:2006/04/08(土) 00:06:34
松平乗邑に対する加秩の一万石没収、羽州山形への懲罰的転封は家重ではなく、じつは吉宗の置き土産人事だったというのは、こんにち複数の指摘がある。
乗邑が徳川への忠義一途であるなら吉宗の意向どおり家重に乗ったろうし、また通説のように家重が魯鈍ならば乗邑にはむしろ好都合で、
乗邑が事実上の執権職として家重時代も我が世の春を謳歌できたはずなのに、乗邑が、敢えて、嫡子相続の原則に抗して、
家重廃嫡・宗武推挙という危険で失敗の公算が強い行動に出たのかを考え合わせると…………
707 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 00:14:18
家重の代に勘定吟味役をはじめ、勘定所機構が整ったのは事実で、これが実現すると、松平乗邑ー神尾春央ラインには何か都合の悪い事が仮にあったとすると?
708 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 10:51:07
>>706 言語障害だった家重の言葉を唯一大岡忠光が解した、といわれる状況下で、
家重の治政がどこまで彼自身の発意によるものか?かなり怪しい。
腹話術師のような側近(忠光)がいる以上、いくら魯鈍でも乗邑の意のままには
ならない。
そもそも吉宗自身に迷いがなければ、乗邑とて宗武擁立を画策する余地はあるまい。
仮に魯鈍は言い過ぎとしても、ひねもす大奥で過ごした事実は公史の記すところ、
家重が政治に熱心でなかったという通説は否定できない。
709 :
御勘定奉行萩原伯耆守美雅:2006/04/08(土) 13:08:57
やっぱり家重暗君説は覆りませんか
710 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 13:28:37
大岡忠光が政治にあまり容喙せず、利己的な野心家でなかったので、
彼が家重を操ったと見るべきではないだろう。
しかし吉宗が創設した御側御用取次は、旗本の任とはいえ、既決事項のみを上申する
ふつうの側衆と違って、政治・人事への影響力は絶大だった。
将軍が暗愚だったり、老中が有能でなかったなら、なおさら。
家重治世下での田沼意次の役割は大きい。
少なくとも、大過なくすごしたというただその一点を持って
暗君ではないと言うことはできると思う
712 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 15:25:59
和蘭陀國カピターンのティティングが言った「大君は大岡出雲守という真の友人を持っていた」という表現はなんかすばらしい
713 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 15:44:27
家重も、将棋はかなり強かったそうだから、
魯鈍はひどすぎ。
変に名君気取りで、我を張る人物より、
将軍としては収まりのいい方だと言えるだろう。
家重は脳性マヒでしょ?
715 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 16:40:01
・・・といわれてますね。但し軽度の・・・
でも人格と脳性マヒは無関係。
大岡忠光もその気になれば柳沢並の栄達も望めただろうに
人格者だったんかねぇ
717 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 16:56:02
大岡雲州は過大な加増受けたりや権限を振り翳すことを厳に戒め、補佐に徹したわけで、本多正信に通じるところがある
718 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 16:59:43
「蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘る」・・・
自身の分(政治家としての才能はない)をわきまえていたんでしょう。
それに柳沢並みの栄達を実現するには、抜擢する側のリーダーシップも必要。
綱吉のような果断な人事を家重にできようはずもなく。
719 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 18:55:37
だいたい側用人を用いた将軍にマシなのいたのか?
側用人を使う将軍ってのは政治に積極的に取り組んでる人場合が多いからね。
その結果の善し悪しにかかわらず。
721 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 19:18:45
嘘でしょう。
お気に入りの寵臣が譜代の門閥じゃないもんだから、
側用人に取り立てただけじゃない。
結果より、だいたい動機が不純。
722 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 19:21:31
有能な人材を登用したっていうならまだわかるけど、
そんな側用人いたっけ。
723 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 19:25:51
★有能な側用人★
間部下総守詮房
724 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 19:29:06
彼が何をやったの?
大奥の人気取り・・・側用人共通の得意技。
正徳の治・・・なんてやめてよ。
あれは白石が起案者。
725 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 22:08:37
側用人=政策立案者、である必要はない。
もともと令外の官の側用人は執政の任にはないのだから。
親政を好む将軍にとっては、幕閣に自分の意志を徹底する
忠実なスポークスマンたればいい。
そうした将軍は、三奉行以下に門閥にとらわれない有能な実務官僚を起用した。
726 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 23:55:30
まったくもってそのとおり。側用人が有能でなくてはならないというわけではない
727 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 13:08:38
側用人を使ったのは他家から養子で来た将軍だ。
譜代衆によって自らをお飾りにされたくなければ、対抗策として
従前より知ってる家臣を重用するしかなかろう。
728 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:47:09
水野出羽守忠成
729 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 20:08:49
江戸中期以降になると、側用人も養子将軍が実家から伴ってきた側近
というイメージから離れ、
単に譜代大名が若年寄や奏者番から老中に出世する前に、
一階梯として就任するだけのものとなった。
特に田沼意次以後は、ほとんどがそれ。
730 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 20:37:54
中期以降は納戸頭が側用人なみ
731 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:42:13
今夜のNHK『その時歴史は動いた』
天英院煕子礼賛・・・嘘ばっか。
732 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:10:29
天英院は巻き返しの好機到来と見て、家宣の同母弟である館林藩主松平清武を擁立。
だが松平氏に降下しており将軍には適任でないと月光院から拒絶されると、すぐさま御三家筆頭である尾張藩から徳川継友を擁立する。
この天英院の動きに月光院は自らの保身のため詮房と共に、紀伊藩主であった徳川吉宗を擁立する。
家宣の遺言という形により吉宗は八代将軍に迎えられる。
このために吉宗は将軍就任後に逼迫した幕府の財政を立て直すことを急務とし、
大奥にも例外なく質素倹約を命じるものの月光院だけは特別扱いであり、月光院は従前通りの豪奢な日々を過ごしている。
また詮房を失脚せしめた吉宗は、月光院からの誘いを断りきれずに男女の仲になったとも言われ、
このことは、当時、かなり噂となっていたようである。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/retuden/retu00166.htm 番組の内容と正反対じゃないか
どっちが正しいのか
733 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:30:40
>>732 どちらともいえない・・・が正しい。
月光院は間部詮房と連携した尾張擁立派で動いたという説もあり、
天英院はただ家宣正夫人として、また家継の公式上の母として、
吉宗に宗家相続を申し渡しただけとする見方もある。
吉宗は将軍就任後、天英院にもかなり遠慮して、倹約令の例外扱いにしたのは
月光院同様だった。
734 :
ら:2006/04/13(木) 00:38:25
実は3代将軍家光の両親は春日局と家康だという記録があるみたい。
735 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:47:50
>>734 日光東照宮に奉納されている家光のお守袋の中に「二世権現」という
直筆の紙があったことから、揣摩臆測されているんでしょう。
736 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:10:01
諜報戦に長けた水野重上(この家系は権謀術数に長け、幕末には慶福擁立に
貢献した忠央がいる)らの活躍で、天英院、月光院両派とも紀州に取り込まれ
ていたという指摘もある。
対する尾張は、大奥や幕閣に後援者がいるとは思えないほど、家継の病状や
台閣の事情に暗かった。
737 :
間部甲斐守詮良:2006/04/13(木) 01:45:59
御三家筆頭だから徳川宗家が絶えれば、あとは寝ていても宗家を相続できるという慢心がなせる業と解される
そういや田安宗武の正室は近衛家。
田安宗武擁立に天英院はなんらかの関わりをしていたりするのだろうか?
天英院は何才まで生きたんだよ?w
>>739 寛保元年(1741年)、76歳で没
吉宗が将軍を辞める4年前だね
741 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 22:49:13
>>738 天英院は本心では姪にあたる近衛家煕の娘・安己君を正室とする尾張継友を推し
ながら、家宣正夫人という立場上、既決事項として紀伊吉宗に後継を告げただけ
という説はあるが、近衛家久の娘、つまり甥の娘、通子を正室とした田安宗武を
後援したという説は聞かない。
むしろ、逆に月光院が宗武を推したという指摘ならある。
742 :
奥祐筆 内藤左門:2006/04/13(木) 23:04:27
宗武が家重との比較でマシに映ったのは理解できるとしても宗武が名君だというエピソードを聞かない
743 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 23:09:35
寛保元年80歳で逝ったという説もある天英院はもう枯れていた、
といえるのかも。
比べて月光院は当時まだ60歳前、まだ生臭かったとみるべき。
744 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 23:18:46
前スレにもレスがあったが、御三卿に治政の事績をもとめるのは無理。
領国支配の経験はないのだから。。。
しかし彼が文武にすぐれていたのは史家の定評です。
宗武の場合は実父吉宗が在世で、家宣の遺言などと言えるわけもなく、
天英院の出番はない。
746 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 01:55:43
水戸綱條が吉宗を推挙した理由として、
尾張は御三家筆頭と雖も、家康から見れば雲孫にあたる五代五郎太で正系は絶え、
その叔父にあたり、傍系の継友が跡を継いだのは、もはや新家を立てたのと同様、
よって尾張より紀伊吉宗の相続が順当と説いたという。
>>746 それって甥から叔父だから問題なんかね?
紀伊家の場合は兄から弟だから問題なし?
748 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 10:43:20
尾張吉通の子五郎太は家康から見れば、耳孫(曾孫にあたる綱誠の孫)が正しい。
継友も玄孫だから、曾孫の吉宗より遠い。
継友は吉通の弟だから、ともに祖母は家光の娘千代姫になるが、これは女系の話。
まして兄から弟への継承ならともかく、吉通の子が一旦継いだ跡、叔父が甥の跡
を継ぐのは、家系上後戻り。
749 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 13:56:03
尾張の情けなさは落語のネタにもされてますね。
家継危篤の報せに慌てて馬を奔らせる継友。
紀伊吉宗、水戸綱條は先刻承知で悠々と登城済み。
途中、鍛冶屋の前を通ったところ、中から「テン、カン、トン」と音が・・・
これが「テン、カ、トル」に聞こえて幸先良しと勇んで登城すれば、
まさかの吉宗決定。。。
帰路、再び鍛冶屋の前を通った時、「ああ、そうだったのか」と納得する継友を
訝しがる家臣。
実は「テン、カ、トル」と打った後に、それを水に浸け「キシュー」と音が。。。
750 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 01:39:39
ビルダーバーグ会議は、ソ連打倒を目的として作られた、などとは、まるで見当が狂って居る。
本山美彦著
「売られ続ける日本、買い漁るアメリカ」(ビジネス社)。
この本に、「ビルダーバーグ会議」が出て来る(五十五頁以下)
「ビルダーバーグ会議は、一九五四年、ソ連打倒を目指してオランダのビルダー
バーグホテルで第一回の会合が開かれた」、とある。
この話は、誰の発言なのか、その、古典が示されて居ない。
ビルダーバーグ会議が、ソ連打倒を目指して設定された、
と言うことは聞いたことがない、そんなことはあり得ない、
ビルダーバーグクラブの目的は、
ニューワールドオーダー、
即ち、世界国家、単一世界政府の実現、である。
しかし、ビルダーバーグは、秘密結社、秘密の組織である。
彼らは、公開の出版物を持たないし、その会議についてのマスコミ上下の
いかなる報道も、認めない。
年に一回、会議を開くだけか、と言うと、そんなことはないだろう。
十名か二十名程度の、
常任運営委員会のようなものが設置されて居ると言う。
このビルダーバーグ常任運営委員会の、その核心は誰か。
それは、ロスチャイルドを中核とする、ロンドンシティー=ニューヨーク、
ウォール街の国際金融圏であるだろう。
751 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 01:40:14
しかし、この問題を深く知るためには、次の二つの初歩的文献が必読である。
(1)クヌース著「シティーの帝国−超世界国家」(一九四九年未邦訳)
(2)ラコフスキー調書(これは、永淵一郎訳があり、そしてその訳は、
ゲーリー・アレン著高橋良典訳)「ロックフェラー帝国の陰謀」(絶版)
に収録されて居る。英訳は、デス・グリフィンの著作に入って居る)
ビルダーバーグの取材を、二十五年間に亘って続けた、「スポットライト」紙、
「アメリカン・フリープレス」紙の記者、J・P・タッカーの「ビルダーバーグ取材
日記」(二〇〇五年未邦訳)も必読である。
本山と言う学者は、陰謀論は原則として否定する、立場のようである。
従って、必然的に、このひとの文章は、非常に浅く、一面的で、皮相と成る。
日本に於て今生じつつあることは、
日本の国家主権を抹殺し、
日本民族の存在を許さず、
日本民族を破壊して、
日本人も、バラバラのアトム的個人に分解して、
ニューワールドオーダーの支配下に組み込むこと、
以外の何ものでもない。
同じことは米国に対しても仕掛けられて居り、
その他、すべての国家、すべての民族に対してもその攻撃がなされて居る。
このひとは、日本から「公」の感覚が急速に消えつつある(まえがき、一頁)、と言う。
しかし、この言い方は正しい。
イルミナティサタニスト世界権力は、
彼らが作りつつある、NWOと称する世界国家=世界監獄=世界人間牧場のみ
を「公」として確立せんとしつつあることをいらなければならない。
破却した秀吉廟を参道から修復しろよ。
醍醐寺に有った襖絵、なんで切り刻んだの?
753 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 02:56:39
尾張藩の藩主生母はかなり淫乱な方いませんでしたか?
754 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 10:09:50
五郎太なんて乳飲み子が尾張藩主になったことが驚き。
吉通の次はすぐ継友が妥当。
>>754 嫡子相続の原則を無視すればお家騒動の元
756 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 10:45:12
>>753 ガイシュツです。前レスを読みましょう。
757 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 12:16:57
>>749 平戸藩主松浦静山の随筆「甲子夜話」をソースとした落語だね。
この件で、江戸家老水野弥次太夫が継友からひどく叱られたという。
家格とか家康との親疎なんてものは、たいがいあとづけの名目。
要は、政治的なかけ引きや根回しと情報収集の成否いかん。
その点、紀伊は隠密を尾張藩邸に放つ(朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」にもある)
など、周到だった。
758 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 16:05:03
ググっていたら、延宝6年11月7日に幕府が甲府綱豊の養父で国家老の
新見正信を蟄居処分にしているみたいだけど、事情を知ってる人がいたら、
教えてください。
延宝6年といえば、綱豊が家督を継いだ年
完全な想像だけど、新藩主の養父と言うことでデカい顔して藩政を牛耳ろうとしてたのを
事前につぶされたとか?
つか綱吉のとこの家老も同じ年に罰せられてるようだけど、
なんかあったのだろうか?
760 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 16:24:08
>>759 即レス感謝!!
館林藩の家老まで同年に処分されていた・・・とは知りませんでした。
なんかキナ臭い感じがします。
だったら、なおさら真相が知りたい。想像でもいいですが・・・
761 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 16:52:52
徳川家5、6って誰でしたっけ?
762 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 17:01:22
5代義量、6代義教、
いや5代孝昭、6代孝安だっけ。。。くだらん質問。
763 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 18:37:26
みなアク禁になれ
764 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 20:21:11
>>761は真面目な質問かも知れません。
やさしく答えてあげましょう。
五代将軍は四代家綱に子がなっかたので弟の綱吉が継ぎました。
綱吉にはもう一人綱重という兄がいましたが、家綱が死ぬ前に
亡くなっています。
五代綱吉も実の男子に恵まれなかったので、亡兄綱重の子、つまり
甥の綱豊が跡を継ぎました。綱豊は綱吉の養子になる時に改名して、
それが六代家宣です。
765 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 23:44:11
NHKの番組がマユツバ、ってあったけど、ホントそう思う。
家継の正室に霊元上皇の皇女吉子を迎えようとたのも、
天英院の方じゃなく、月光院の方でしょ。
尾張継友なんかにあと嗣がれては、天英院の実家の近衛家が
二代続けて外戚となっちゃう。そんで近衛と仲の悪い霊元院の
娘に白羽の矢を立てたんじゃあ。
昔の「歴史への招待」の方が格調高かった気が。
大きなメガネの、鈴木何某って禿げオヤジが出しゃばる頃からおかしくなった。
|┃三 人 _____________
|┃ (_ ) /
|┃ ≡ (__) < >1 糞スレ立てるな、蛆虫。氏ね。
____.|ミ\__( ・∀・) \
|┃=__ \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|┃ ≡ ) 人 \ ガラッ
767 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 20:59:15
家治、家慶、家定って影薄いんだ(登場回数も少ない)けど、
どう?
768 :
御用学者・林大炊頭:2006/04/19(水) 21:26:11
家治は一回だけ手をつけたお富という女中を一橋治済に下賜したが、その後、お富が治済の子・一橋豊千代を出産。家治は、豊千代が自分の子ではないかと随分悩んだらしい。
政治面では松平武元、松平輝貞、松平康福、板倉勝清、田沼意次らを登用し、日光東照宮参詣と印旛沼開削工事を断行した
769 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 21:35:42
そうなの。
で・・・ほんとはどっちの子なの? 家斉って。
770 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 21:56:35
>>768 横レスだけど、
板倉佐渡守勝清って、一族の板倉修理勝該に恨みを買って、
殺されそうになったのが、
勝該が勝清の巴九曜紋と細川越中守宗孝の九曜紋を見間違えて
殿中で宗孝を間違えて殺してしまった・・・って逸話で有名な人ですよね。
たしか松本清張の本で読んだ記憶が。
けど、板倉勝清は家重の代で出頭し、松平輝貞に至っては、綱吉時代の側用人で、
綱吉ファンの吉宗が老中に復活させた人だったんじゃあ?
771 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:14:11
>>768を訂正すると、松平輝貞ではなく、輝高ではないのかな。
770の指摘通り輝高や勝清は家重の代に登用されているから、
登用というより、重用が正確か。
772 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:01:35
家斉の多淫を見れば、やはり家治というより一橋治済の血を受け継いでいた、と見るべき。
お富の父岩本内膳正は治済のバックアップで出世しているし。
板倉勝清、松平輝高の件は
>>771の補足が正しいと思う。
板倉勝清は吉宗に登用され、家重の代でさらに出世して、家治に信頼され、
世子家基付きの西の丸老中になっている。
家治は田沼意次を筆頭に吉宗によって登用され、家重の代に引き継がれた
寵臣や、輝高をはじめ吉宗時代の閣老の次代をそのまま重用しているよね。
773 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 13:31:49
家治は、一旦就任した老中は、病死を除いて罷免する事はしないという姿勢をとり貫いた。
774 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 18:58:32
徳川家治が死去してから、松平定信が老中首座・将軍輔佐役になるまでの間
2年間も暗闘が繰り広げられているが、
確認のため伺いますが、
そのプランメーカーは、ことごとく、
一橋民部卿
であると見てよろしいな。
775 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 20:14:49
|┃三 人 _____________
|┃ (_ ) /
|┃ ≡ (__) < >1 糞スレ立てるな、蛆虫。氏ね。
____.|ミ\__( ・∀・) \
|┃=__ \  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|┃ ≡ ) 人 \ ガラッ
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____.|ミ\__( ・∀・) \
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776 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 21:22:15
今日は、徳川家光公の命日で、
地震があったのは、栃木県と茨城県・・
まさか・・・・・。
777 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 00:36:09
水府頼房は秀忠に将軍を譲って大御所になっていた家康の前で「天下を望む」と大言を吐いて、怒った家康に庭先に突き落とされたという話がある。水府頼房、尾州義直、紀州頼宣に対する
家康が死んだ年でも頼房は14歳、
頼房を大物だったことにしたい連中が
後世捏造したものだろう
家康が人格破綻者でない限り
孫のような末っ子が「天下を望む」と言っても
ニコニコ頭をなでるくらいが関の山
すでに秀忠の次の後継者(家光)まで指名済みだし
・・鼻たれ小僧の頼房なんぞry
地獄のような辛酸をなめて天下をつかんだ戦国武将が
そんな現代人っぽい反応をするとも思えないな。
782 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 14:42:21
尊号事件だけは褒めてやる。あとは全部ダメだよ定信。
頼房が一番可愛がられたんだけどね。
784 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 15:48:22
水戸頼房あぼーん
785 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 00:02:49
>>774 まさしく一橋治済がプランナーです。但し、松平定信失脚に至るまで。
定信が老中への足がかりとして溜間詰めになるため、田沼意次に贈賄したのは有名な話だが、
決定打となったのは、当時空き家の田安家に一橋治済の五男治匡を迎え入れる密約を定信が
治済と交わしたためといわれている。
自分は定信より田沼意次の方が政治手腕はあったと思うが・・・
特に定信が悪し様に言われるようになったのは、明治以降のこと。
彼は尊号事件で不敬を犯したといわれていることから。
これも、家斉が前将軍でもない実父・治済を大御所にしようとしたことに反対した
行きががり上、光格天皇が前天皇でもない実父・閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を
贈ろうとしたことに意固地に反対したもの。前者には前例がないが、後者には先例が
あり、にもかかわらず強権を以て阻止したのは不敬とみなされている。
いざれにせよ、この時代、治済の影が常にチラついていた証左。
786 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 00:50:06
>>785 父を大御所にした先例はないと言うが、家宣は自分の父に征夷大将軍の号を
贈っているから、別に先例がないことはないんだけどな。
それでも阻止した定信は立派だけど。(あれ以上、治済をつけ上げせると
何をするかわからんしな)
787 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 00:59:00
生前贈号と死後贈号とでは、政治的な意味合いはまったく違ってきます。
単なる贈号ではなく、治済を西の丸に迎え入れることに繋がる。
788 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 01:09:35
たかが、徳川15代で「先例」と言ってもねえ。
後三卿から将軍を迎えたこと自体、先例にないし。
789 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 01:19:31
御三卿が藩でないのはどうして?
790 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 01:28:00
>>789 徳川宗家の家族扱いで、独立した家系ではないから。
早い話は金がかかる、部屋住み。
791 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 01:41:55
やはり全ての元凶は一橋民部卿か。
しかし、かえすがえすも疑問なのは一橋民部卿はどこでそんな政争能力を身につけたのかだが…………
792 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 14:59:28
慶喜は一橋家当主のとき刑部卿だったけど、なんでもいいってこと?
793 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:27:42
御三卿の「卿」は、律令制では正四位から従三位がなる省の長官をいう。
一橋家も初代宗尹、六代慶昌は刑部卿。二代治済、三代斉敦、五代斉位は民部卿。
四代斉礼は兵部卿・・・と官名はまちまち。
田安家も民部卿、大蔵卿・・・清水家も宮内卿、式部卿・・・
武家への叙任は定員枠外とはいえ、先任の公家とのからみがあるのだろう。
御三卿の多くは左近衛権中将を兼務して極官を中納言とするが、例外があり、
一橋治済・田安斉虚ヮqがともに長生きして従二位権大納言まで昇っている。
794 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 16:57:30
武家官位は公家官位の枠外だし、「卿」は一般大名の「守」や「大輔」同様、
官位ではなく通称、名前の扱いなので、先任の公家とのからみは関係ない。
江戸幕府で武家官位というのは、侍従、少将、中将、参議、中納言などのこと。
795 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 18:11:03
>>794 俗に「○○守」といった受領名、国司名についてはそのとおりです。
これも幕府が朝廷に奏請する正式なのものと、勝手に名乗るものの違いはあるようですが・・・
「禁中並公家諸法度」で武家官位は公家当官の外と定められていますから、大納言、中納言も
定員とは別に、権官として御三家や御三卿が任じられています。
しかし八省の長官である「卿」、特に中務、兵部、式部の三卿は宮家親王の専任とされています。
先任の公家とのからみと言ったのはこの点で、「守名名乗り」といわれる守や介とはと違って、
憚りがあるものです。
家斉の息子たちを卿にして、御四卿でも御五卿でも可能だったということ
ですかね。
ホロ酔い気分なんでスルーしてください。
797 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 21:55:57
家重は結構凄い将軍だったと思いますよ!
798 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 22:14:05
796
幕府はもうずっと石高も禄米も余剰が無いから家斉の段階で新規に家族を創設するよりも
既存の御三家御三卿に養子としてどんどん押し込んだほうがいいと
水野忠成に進言されたらしい
799 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 05:41:46
「養子」送り込みは常に、身分が上⇒下、という関係・・・だったのか?
徳川・松平一門⇒譜代大名、旗本⇒外様大名というふうに。
800 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 06:52:17
>>799 譜代の堀田は、伊達から養子もらってるよ。
宇和島の伊達宗城は小身旗本からの養子だけど
実祖父は伊達からの養子だったりで
血筋優先の家は逆もある。
津山や川越の松平は、家斉の子を養子に迎えて加増されてますわな。
日中戦争時、抗日ゲリラに手を焼いた日本軍は、強圧的に拡大して
満州と中国との国境とした万里の長城線一帯を無人化する作戦を実施した。
指定地域内の住人を総て強制収容所に移住させ、ゲリラと住人との接触を断ち
ゲリラ出没地域での耕作を一切禁止するというものである。
その過程において、首を切り落とすなどして殺害した農民は8万1千人、
拷問のため施設送りの後処刑した者4万6千人。合計127000人を殺害した。
集落によっては村民が殆ど皆殺しになった所もある。
人囲いと言われる強制収容所は粗末なもので、宿舎は無く、移住させられた住民は露地に藁を敷き、露天で寝るしかなかった。
宿舎としてのバラックや要壁などは住民の手で作らされた。
農期には収容所近くの耕地で農作業を強制された。
収容所の環境は劣悪で、満足な食料、薬もなく、病気や飢えで何万もの人が命を落とした。
表題の三光とは、殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くすと言う意味である。
幾つか例を挙げると
豊潤県潘家峪では一度に1230人が虐殺された。
密雲西白連峪では、全村落を破壊し、最後に破壊から偶然逃れていた一軒を発見し、そこに居た70歳重体老人を家ごと焼殺、幼児2名を銃殺。
王廠溝、南大門一帯では、580人を逮捕し、380人を虐殺し、残り200人を強制労働の為、東北へ送り、内80%が死亡。
石柱子村では、村民700人中300人を虐殺。
興隆県秋木林、大莫峪では、全130戸から180人の青年壮年男を逮捕し、虐殺。寡婦の村とする。
興隆県ではその一帯に多数の寡婦の村が出来た。
更に寡婦の村を襲撃し、逮捕した者で使えそうな者を日本兵の慰め者にし、残りは処刑した。
興隆県では、人口16万人が戦後、10万人に減少していた。
大帽峪の村人など120人を後手に縛り、虐殺。
引っ立てて来た魯家峪住人を一人ずつ目隠しをして井戸の前に座らせ、
日本刀で首を跳ね飛ばしては井戸の中に放り込んだ。
803 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 13:56:26
チョン公やチャンコロは黙ってろ!!!
あいつらの勘定はいつも針小棒大でデタラメ。
804 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 20:42:08
実際人間的にも能力的にも優秀だったのは
2代、6代、8代、15代の4人でしょ。
805 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 21:07:07
家斉は政治家としては凡庸だが、一個人としてはバカではないし、タフガイだ。
ただのエロオヤジではない。
806 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 21:22:59
家斉は源実朝、足利義政タイプだな。
>>804 家康も優秀だよ。
807 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 23:49:10
家斉はそんなにエロ親父か?
俺だって、将軍なら最低週に1回はやるだろうし、女も自由に
選べるのだから数人の側室を抱えるだろう。
当時はコンドームのないから普通に生だろうし。
現在の正常な成人男性が将軍の生活を送ると普通に2、30人の
子供はできるだろう。
ここで家斉をエロ親父と言う人は女がいるのにオナニーや夢精で
我慢するの?
家斉が健康過ぎたんだよ。
808 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 00:46:11
それにつけても家斉には避妊の配慮は無いのか。
あのネバネバした液を女の中に放出すれば妊娠するという基本的知識は
あったはず。あまり子どもを作りすぎれば御家傾国の元凶になるという
意識は無かったのか
どなたか歴代将軍の正室を教えていただけませんか?
養女なら生家もしりたいんですけど。
調べたいんだけど、
PC修理中なんです…
811 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 19:39:15
>>810 PC修理中ならカキコしてもムダかもしれんがw
世の中には、「図書館」というところがあるんだよ
>>810 文春新書480
徳川将軍家の結婚 山本博文
814 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 23:57:14
>>808 堕胎する意思があればそうしてたのでは?
中国の皇帝も、妊娠させた女に全て出産させたわけではなかったらしい。
つまり、セックス回数が他人より多かったのではなく、わざと子どもを多くつくろうとした。
815 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:14:04
>>810 「徳川妻妾記」江戸時代選書
高柳金芳著 ¥2415
雄山閣 ; ISBN: 4639018088
>>814 まあ、母親と子供にとって、堕胎というのは結構なトラウマになるらしいしな。
当時の技術だと、死ぬ可能性すらある。
817 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 13:48:10
徳川家康子孫で大名未満(旗本かそれ以下)に転落?したのっているの?
818 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:21:56
そういえば家康の子を身ごもったまま側室を押し付けられた豪商がいたとか。
821 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 08:46:46
>>819 男系子孫ですよ?
苗字は松平のままですか?
>>821 子孫も何も、家康の息子忠輝だのひ孫の光長だの、大名未満に落っこちた人はいる。
823 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 22:05:32
松平残九郎ー架空人物?ーは「大給松平」と自称してたが貧乏御家人
>>821 有名どころでは上でも挙がってる、忠輝、忠直、忠直
マイナーどころでは、紀伊家分家の西条松平頼純の子の頼雄は廃嫡
あと、松平頼純の子で西条だったか紀伊だったかの家臣の子になってるのがいたはず
825 :
824:2006/04/27(木) 22:26:37
ごめん、一行目の最後は「忠長」ね
826 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:40:59
それ以前に、水戸家なんか頼房が子沢山で、家康の孫にあたる人でも、水戸家の家臣で終わってるのがいるよね。
>>823 娯楽時代劇の主役を>架空の人物?という程度の低さよ・・・
828 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 01:20:46
松平町七郎も架空人物
水戸家は本家の他に連枝が四家。
頼房は正室がいなかったから全て妾腹。
幕府もさすがに面倒見切れまい。
830 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 21:19:35
家康が松平から徳川に改姓したのはなぜですか?
信玄に殺されていたら一代で滅びたわけですが。
そこら辺の実証的な説明はほかの人に譲るとして、
素人の漏れなんかは、松平の中でも決して主流じゃなかっただけに
今川の庇護を失った中で、同族の中での優位を確保するためじゃないか、などと思ってしまう。
832 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 09:04:53
何を契機に「徳川」に改名したのですか?
別系統?の「徳川」ー江戸時代にも徳川と名乗っていたとかーとの関係は?
833 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 09:06:30
>松平の中でも決して主流じゃなかっただけに
大給や久松のことですか?
「主流の松平」というのは、どうなったのでしょうか?
834 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 09:09:17
家康が、ホンモノの三河土豪の「松平」の一族ではなく、
名跡を乗っ取った流れモノだったという奇説のことを言っているのでしょうか?
では、ホンモノの「松平」はどうなったのでしょうか?
835 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 13:25:34
655 :日本@名無史さん :2006/04/29(土) 11:06:25
三河は後南朝残党縁の地?
836 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:25:49
何かの本で正統な松平は奥平と久松と聞いたことがある
837 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 18:18:20
久松は家康の弟で松平姓をあたえられた3人だろ
奥平は長女の嫁ぎ先
正統でもなんでもないだろなんの本だよそれw
838 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 00:51:36
徳川は、家康が松平氏や家臣との結束を強めるために作った姓では?
松平親氏って人が初代でその人は、養子で世良田氏の出で、世良田氏は藤原氏をなのってたので、初めは藤原家康とも名乗ってたらしいよ。
徳川は源氏の出ってことだから変えたんでは?元々は得川って名前だった・・世良田氏と同属だったから・・
松平は清和源氏で新田氏の支流だったし。
やっぱ休みは無知な厨房が多いな。
親氏は賀茂姓、松平氏は在原姓。
源姓新田氏世良田流徳川氏は泰親。
松平信重の長女の聟が親氏で、次女の聟が泰親。
三代信光は親氏の子で、泰親の養子となった。
徳川家斉の逸話なんだけど
家斉は、御三卿の一橋家で生まれたが
この時、屋敷のあたり一面が真っ赤な光がただよっていて、その色がさめた時、家斉が生まれたという。
後に家斉が将軍家に迎え入れられた時、一橋家の人々は、例の赤い光はこの慶事の前兆だったかと噂したという。
オカルトチックなのだが
この赤い光の正体は解る人いますか
慶喜の子孫って問題児だらけだよな
ひき逃げ犯、詐欺師、嫁の不倫を苦に自殺、愛人と心中、家付き嫁が弟と近親相姦して除籍、旦那が居るのに不倫、旦那失踪
843 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 02:52:15
>>841 漏れはオーロラだと思っている
北海道でもごく稀にオーロラが見えるときがある
北海道で見れるオーロラは赤い
>>840 休みでなくても変なのばっかりです。
特に現代子孫ネタに執着する気持ちの悪いやつがいるです。
845 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 13:55:40
春厨ならぬGW厨
>>841 そんなこといったら東福門院和子が生まれたとき
江戸の町中、えもいわれぬいいにおいが漂ったと徳川実紀にのっているぞw
847 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 14:36:58
結局どうなるわけなんだ?よくわかんね。 一応得川も源氏の支流になってるから・・源氏でいいのでは?
>>842 松平斉男爵の奥さんって「うちの主人は私で男の喜びを知ったの」って言ってたのに男爵失踪。
本当なら爵位返上しなきゃならないのに、失踪を隠し通して息子に爵位を継がせたんだよね。
斉昭も兄嫁の侍女をレイ○したり、大奥の女中をレイ○したDQNだから遺伝
>>829 「側室」と「妾」は違うはずだが。
側室の出生でも妾腹にはならんと思う。
>松平の中でも決して主流じゃなかっただけに
は、安城家が、信光流惣領家が滅びた後で台頭したという話なんだろうと思って
ましたが。
それはともかく、
>842
>家付き嫁が弟と近親相姦して除籍
これまで「慶喜の子孫って問題児だらけだよな」にいれるのは気の毒なような。
慶喜の子孫は、婿養子として入った方だし。
852 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 21:48:15
>>841 低緯度オーロラの可能性が高い
ちょうど家斉が生まれた時期1770年代は太陽のフレア活動が活発で
日本や中国などからもオーロラが見えたという日記が数多く残っている
相当大規模なフレア活動だったために、空一面山火事のように赤く染まる日もあったそうだ
殆どの日記には、何か不吉なことがおこるんじゃないかと書かれていたけどね。
徳川厚(轢き逃げ)徳川慶久(カルモチン)勝精(カルモチン)
蜂須賀筆子(息子が放蕩で爵位返上)松平浪子(夫が失踪)大河内国子(不倫)
近代厨キモすぎ
855 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 18:15:29
>>853 轢き逃げ(実質慶喜の長男)は被害者に不誠実な対応を取り続けて新聞に晒された。
轢き逃げの息子が詐欺師。母親の実兄の元尾張藩主の地元で詐欺事件を起してタイーホ。
轢き逃げの娘は亭主の戸田さんがW不倫しちゃって出戻り。
その息子(母方の徳川姓)はアル中で、ペテン師につけこまれていつの間にかペテン師のボケた母親と結婚させられて家名を横領された。
蜂須賀筆子の娘は大名華族の性生活を赤裸々に書いた「大名華族」著者の蜂須賀年子(津山松平から出戻り)。
詐欺師と縁のある家だな
慶喜の子孫(徳川姓じゃない人)も交際相手の家族に「徳川慶喜の子孫なんです」って言ったら
結婚詐欺師と間違われたんだってな
858 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:55:46
秀忠直系は、滅んだんだろ・・7代将軍でおわりか・・
859 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 22:14:07
>>858 たしか会津松平家が雄一、男系で7代容衆まで秀忠の血を受け継いでいるはず。
女系では、前田利常に嫁いだ子々姫(珠姫)の血が、最後の藩主15代利嗣まで
連綿と続いてますし、池田光政に嫁した千姫の娘、勝姫の血も6代斉政まで
継承されてるはずです。
さらに女系をたどって、そのまた娘たちの嫁ぎ先まで数えると・・・!
>>859 女系でいうなら、東福門院の血が近衛家や二条家に継承されてるし
明正天皇以外の何代かの天皇にも血が入ってるはず
それらは、徳川家のひとたちじゃないだろ。
やれやれだな。
つか現在の皇室にも秀忠の血ははいってるのか
863 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 13:42:27
>>862 尾張中村の百姓の(秀吉の姉)の血も入っている。
864 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 14:14:17
直系の意味、知らないんじゃないの?
せめて民法上の「親族」の範囲内で語ろうよ。
865 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 15:25:24
日本全国に葵の紋章が入った神社がいっぱいあるけど徳川家康を祭ってる?
866 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 15:34:14
家光の姉、勝姫(千姫の娘とは別人物だが)。
恐ろしい女傑だな。
松平忠直の正室で、越後騒動で有名な松平光長の母、
旦那も子供も改易の憂き目、不幸といえばそのとおりだが、
光長改易後も、越前藩主光通とそこに嫁いだ孫娘の国姫を
おのが権勢欲のために自害に追い込んでいる。
まさにカマキリ女。
おかげで越前家は、一橋家から養子を迎えるまで凋落の一途。
867 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 15:43:29
>>864 民法上だと 今上陛下は神武天皇の親族じゃないし
徳川家康の親族も全滅だぞ。
>>865 賀茂
868 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 15:50:12
>>867 秀忠の直系は?って話から始まったはずだったよね。
それについて、言ったつもりなんだけど・・・
869 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 16:13:33
葵のもともと賀茂神社の紋章です
870 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 16:34:41
加茂明神信仰に関係なく、純粋に広忠以降、
家康以後の徳川氏を祀った神社はいくつもあります。
ただ徳川氏の葵紋が加茂神社に由来する事実は、『徳川実記』
でも公認されていますから、間違いないでしょう。
大中黒の家紋を用いないことで、新田氏僭称の馬脚が現れています。
871 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 16:55:13
大河内国子(不倫)とは?
あと筆子は次女も離婚しているね
872 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 18:04:58
近現代に登場する徳川一族のゴシップ話なんか、どうでもいい。
近現代について語ること自体、このスレではタブーなのに、
まして次元の低いゴシップなんか。。。
873 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 18:08:48
同一人物のカキコだよ。
ほっとけ!
874 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 18:10:18
ドウモ〜〜〜ッ!!ハジメマシテ〜〜〜ッ!!!!
私は14歳の女子中学生してるのぉ〜〜〜っ♪(#⌒〇⌒#)キャハ
うーんとー、徳川さん大好きなの〜
だって秀吉さん×家康さんがすっごくすっごく好きになってー、
探してたら(◎_◎)なんとっ!
徳川さんの素敵なスレッド♪を発見!!!!(^o^)//""" パチパチパチ
てなわけで、ついつい書いちゃったのらー(o^v^o) エヘヘ
同じ徳川好きな人、友達に、なってくれるよねっ。(*^-^*)
え?くれないのぉ〜?(;¬_¬)そんなのいやいや〜〜、
なってくれなかったら、( `_)乂(_´ ) 勝負!
☆○(゜ο゜)o ぱ〜んち、☆(゜o(○=(゜ο゜)o バコ〜ン!!
(>_<) いてっ!
(☆o☆)きゃ〜〜(@_@;)やられた〜〜(o_ _)o ドテッ
(+_+) 気絶中。。。
なあんて(#⌒▽⌒#)こんな私っ!σ(^_^)だけど、
お友達になってm(_ _)mくださいませませ♪('-'*)フフ
875 :
菅貫太郎俳優座元構成員:2006/05/07(日) 21:01:28
家斉の子で浜田藩越智家に養子になった人物と、明石藩越前家に養子になった人物はともにドキュソだったの?
876 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 00:14:10
松平氏が在原姓・・・ってウソだろ。
「旧考余禄」をソースとするこの説、
今じゃ、かなり疑問視されてるぜ。
877 :
明石半紙:2006/05/08(月) 01:40:09
明石藩への押しつけ養子はすんごいバカだったそうで さっさと死んで無事、前藩主の息子が跡を継ぎました
あまりのバカ殿ぶりに藩による暗殺説あり
>>868 直系というなら、確かに家継でおしまい。
それ以後、徳川将軍家の継嗣に秀忠の直接の子孫が出てないから。
>>871 >大河内国子(不倫)とは?
大河内輝耕氏との性生活の不一致で、家の外に不倫相手を作ってしまった。
輝耕氏は身体の一部がとても大きい人で花柳界では評判の人だったらしい。国子さんは小柄な人だから・・・
不倫相手への恋歌を慶喜に添削させたこともあるって。
>あと筆子は次女も離婚しているね
次女も離婚してます。
長男は鳥の研究で有名な人。もっぱら異種交配と解剖とかが好きだったらしい。
散財で家産を傾けて、派手な女性関係、闇取引にかかわったり政治犯としてタイーホとか色々あって爵位返上。
>>866 結局明治維新まで貧乏藩だったよ。一橋家からきた養子も自分では借りられないから、実家の弟に代理で幕府から借金させてるし。
880 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 22:56:03
国子と輝耕に子供がいないのはこのこともあるのか・・・
対照的に輝耕弟の戸田氏秀は年上先妻に六人(三番目が遠いうたの著者)、後妻(先妻の異母妹)に四人、愛人に三人子供がいたらしい
881 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 00:56:53
むかしは中国カブレだったよね。周辺諸国は。
漢字も訓読みでなく、音読みするのがカコイイとされた。徳川家をトクセンケと言ったり、明治期の慶喜を「ケイキ様」と呼んだりな。
882 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 10:59:42
学校でパワーポイント使ってスライド
作ってるけど家康の話にした。今川義元が
上洛の兵をあげたとこまで出来た
883 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 01:30:07
884 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 03:24:20
885 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 17:14:33
やりてー
886 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 15:51:00
間部宮内、戸田、小出、井上、新井勘解由
887 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 22:47:46
徳川葵と徳川機関長は子孫なの。
>>881 ちょっと中華を奉れば、自国の権威付けになるわ貿易で大もうけだわ進んだ技術は得られるわ。
逆につっぱろうものなら蛮族扱いの上下手すれば侵略を受ける。
別に伊達と酔狂で好き嫌いを決めてたんじゃないがね。
日本の場合は非常に例外。
889 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 05:16:56
日本国王と日本国大君の相違点についてなんですが、
文昭院殿政治顧問の新井筑州によれば大君という名詞は朝鮮では王族に過ぎないということ、対外的な意味が不明だということ、これである
890 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:01:04
新井白石や、その献策を用いたわずか在職3年余の家宣を
持ち上げる意見があるようだが、噴飯モノ。
彼の施策など、吉宗によってことごとく否定されている。
日本国大君を日本国国王に改称させようとした件然り、
武家諸法度を和文調に改めた件然り。。。
891 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:14:28
46歳で息子を産んだ督姫はすごい
892 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:17:20
>>891 生ませたほうもすごい。お家存続のために
現代でもきついからな。よくやったと思うよ。
>>889 国家における身分制度の最高位としての国王には天皇という該当する存在がいたわけで。
世界でも珍しい権威的な最高位者と実権力での最高位者が別個に存在するという状況を
外国にうまく説明できなかっただけかと。
894 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 23:15:51
これら議論を踏まえると、新井白石主導の正徳の治は、プラグマティスト的で現実に即したもので、在任期間は短かったが、その後幕末までの政治の大道をひらくものだったことがよくわかった
895 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 13:59:50
896 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 23:16:36
>>894 どこがプラグマティックだか?
名を取るか、実を取るかという点では、
「日本国国王」より「大君」の方がずっと現実的。
それまでも、なんら通交に支障なかったんだから。
朝鮮国王とのバランスを考えたんだろうが、
むしろ元首でもない相手に、国書を奉じて使節を遣る朝鮮の方が
面目のない話だ・・・いかにも学者の考えそうな名分論、観念論。
吉宗によって旧来どおりの「大君」に戻されなければ、尊攘運動が
起きたとき、きっと物議を醸しただろう。
評価の高い財政にしても、インフレ後のデフレ策・・・別に画期的でもなんでもない。
897 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 23:41:32
幼少の頃から、暗い翳を負い、
長じてからも幕府から邪魔者扱いされた家宣と、
不運・不遇の境涯を送ってきた白石。
陰鬱で、理屈こき同士、妙に気が合ったんだろ。
898 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 05:12:35
甲府宰相が新井白石と間部の補佐で善政を施し、インフレを抑え、物価の安定と生類憐れみ令を廃止した結果、人心と経済が安定し、庶民の生活も生き生きとして明るくなったという
899 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 00:28:24
初期の一橋家は正室腹の長男が養子に出されるぐらいだから一橋家はどうでもよかったのか?
900 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 01:12:55
家宣が父親の綱重に認められず新見左近として育てられた話はドラマにぴったしだと思う
>>899 どうでもいいわけじゃないけど、将軍後継として田安家も一橋家もさほど重要視されてなかったってこと。
当初の御三卿は、将軍家のスペアと言えるほどではなかったんでしょ。
だから本来家の跡継ぎになるはずの、松平定国、松平定信、松平重昌、松平重富らが養子に出されてる。
902 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 02:27:35
いやいやいや定信に限ってはかなりプンプンものだぜ 一橋家と田沼の陰謀が臭う臭う
定信の養子入りが、一橋治済と田沼の陰謀って話は、定信自身が言ってることだから眉唾だよ。
松平重昌(越前藩)の養子に、一橋家の重富(重昌の実弟)が選ばれたのと同じで、
松平定信の養子入りは、白川藩の本家(松山藩)に、田安家から定国(定信の実兄)が養子入りした先例があったからでしょ。
904 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 21:06:32
>>903 当主がピンピンしている場合とそうでない場合は、扱いが違うべきでは
ないかな。一橋家から越前家に養子に行ったとき、当主宗尹は健康その
もの。田安家から定信が白河家に養子に行ったとき、当主治察は病死の
数カ月前。
905 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 00:38:19
しかし一橋民部卿って田沼、御三家、松平定信、松平信明、水野忠友らを手玉に取る悪党だな
>>904 重昌が養子入した時点では宗尹に他に男子はおらず
当主自身が若くピンピンしていたとしても次に男子が誕生する保障なんか何にも無い
また、当時はまだ田安家にも男子はいなかった
なので当時、田安家や一橋家を一代限りで潰そうと言う思惑が
吉宗か家重か幕閣に少なからずあったのではなかろうか
907 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 08:21:33
重昌が養子に行ったとき既に重富は生まれていたはずだが(ただし一歳か二歳)
重昌の養子入りは1747、重富の誕生は1748みたいだけど?
可能性絶無の田安家と可能性があり結果的にうまくいった一橋家は
事情が全く違うよ。白河家なんて越前家に比べれば大した家でもな
いし、田安家を潰す危険?を冒してまで養子にやる必要ない。
定信を邪魔にした勢力があったように思う。
910 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 12:24:13
一橋家の嫡男重昌が越前家に養子に出された時(1747年)、
次男重富が生まれていたかどうかについては諸説ある。
翌年に誕生したという説と、すでに2歳だったという説がそれだ。
いずれにせよ嫡男とはいえ、一条兼香の娘の子、つまり公家の血が
入ってるうえ、生来病弱で、現に早世した重昌を一橋宗尹があまり
有望視していなかったことは想像に難くない。
しかし次男重富の場合は別。
将軍家重、大岡忠光、田沼意次の政治的意図があったのはあきらか。
中でも御側御用取次として実際の権力をすでに握っていた意次は、
家重の血統を重視。
その点、貴公子の田安宗武より、野心家の一橋宗尹をむしろ警戒していた。
一橋家家老伊丹直賢の娘を妻に迎えた所縁はあっても、一橋側が
成長株の意次を青田買いしたのが真相で、治済と蜜月になるのは
もっと後のこと。しかもこうした経緯から、治済は意次を信用せず、
使い捨てにしている。
定信の件については、兄定国のケース同様、松山藩の松平定静と
白河藩の松平定邦が死没する10年〜15年以上前に婿養子に
出され、二人とも急いで養子縁組する理由などなかった。
まして定信の場合は、当時唯一のお控えだったわけだから、
「田安家はずし」は明白。
このケースは、仕掛け人(田沼)が前回(一橋家の場合)と同じだから、
展開はそっくり。そのうえ策謀家の治済が絡んでいる。
ちなみにこの陰謀説は、定信独りが唱えているわけではない。
911 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 15:37:16
>いずれにせよ嫡男とはいえ、一条兼香の娘の子、つまり公家の血が
>入ってるうえ、生来病弱で、現に早世した重昌を一橋宗尹があまり
>有望視していなかったことは想像に難くない。
当時、公家の血が入っている事にそんな偏見があっただろうか?
公家=病弱という認識は無いのでは? (むしろ、現代の偏見で。)
水戸家とか公家の正室腹の子がフツーに藩主になってるよ。
912 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 19:46:38
家正の後外孫といえ会津松平家から養子をとったのは何故だろう
明らかに慶喜家か御三家御三卿を優先すべきだと思うが
>>911 どうだろう?
公家の血=病弱と言うよりは、まかり間違って京の血をひく奴が将軍になった際に
朝廷が外戚として力を増すのを警戒してたとかそんな感じもあったんじゃない?
914 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 20:28:58
家達の孫って女性は多いけど男性は少ないね
915 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 21:01:51
まあ、普通に考えれば立場上、厚男爵家が一番の身内だね。
家達(宗家)慶喜養子
厚(宗家分家)慶喜4男
慶久(宗家別家)慶喜7男
誠(宗家別家分家)慶喜9男
>>911 特定の公家と大名家の過剰な癒着は避けたかったろうな。
親藩となれば特に。
基本的に徳川幕府は鎌倉幕府同様、朝廷とは一定距離を保ちたかったわけだし。
917 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:24:40
>>913に同意。
「朝廷を外戚にしない」・・・これは、幕府草創以来の方針で、
大奥の中にあっては、春日局以来、武家出の間の不文律。(幕末は除いてね)
一方、幕府の政策的な意図だけではなく、実際に正室が子を産めなかったり、
育たなかったのも事実。
現に宮家公家出身の将軍家正室で子を産んだのは家宣、家重、家治、家慶の
4人の正室だが、いずれも夭折し、成育していない。
唯一の例外は、家治を生んだお幸の方、だが残念ながら正室ではない。
しかも正室自体に若死が多い。
偏見でもなんでもなく、統計的に実証できること。
側室に比べ、みな身体が華奢で細腰なのは、増上寺発掘調査でも立証済み。
あと、水戸家?・・・あの家は尊皇が売り。例外でしょ。
それもたった3人だけじゃないですか。
918 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:27:56
>>913に同意。
「朝廷を外戚にしない」・・・これは、幕府草創以来の方針で、
大奥の中にあっては、春日局以来、武家出の間の不文律。(幕末は除いてね)
一方、幕府の政策的な意図だけではなく、実際に正室が子を産めなかったり、
育たなかったのも事実。
現に宮家公家出身の将軍家正室で子を産んだのは家宣、家治、家慶の
3人の正室だけ。しかもいずれも夭折し、成育していない。
唯一の例外は、家治を生んだお幸の方、だが残念ながら正室ではない。
しかも正室自体に若死が多い。
偏見でもなんでもなく、統計的に実証できること。
側室に比べ、みな身体が華奢で細腰なのは、増上寺発掘調査でも立証済み。
あと、水戸家?・・・あの家は尊皇が売り。例外でしょ。
それもたった3人だけじゃないですか。
919 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:34:18
間違えて連投になってしまいました。
ゴメン・・・>917は無視して下さい。
920 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:44:05
家達は○○だからしょうがない。
>>918 突っ込み。
歴代の御台所で増上寺に葬られている公家・皇族出の正室は
天英院と静寛院宮のたった二人のはず。
公家・皇族出の御台所の墓所はほとんどが上野東叡山。
調べてみればすぐわかること。
922 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 20:10:37
天英院は四十歳ぐらいで息子を産んだけど死んでしまった
あと越前藩?広瀬藩?で内親王を生母にもつ伏見宮の姫が藩主を産んだはず
それと閑院宮の姫が生母の田安匡時はなんで廃嫡されたの?
923 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 20:18:49
大名は正室も側室も三十歳でお褥さがりで参勤交代があるから妊娠の確率が低いのはしょうがない
公家は正室腹が大名に比べ多いけど晩婚や一生独身の公家も多い
正室が死んでもあらたに正室を迎えることも少ないし
924 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 20:57:10
寛永寺って、発掘調査されたのかね?
でなかったら、増上寺の結果で比較するほかないだろう。
根拠のない世迷言を言うよりは・・・
なお増上寺には家斉正室の広大院と家定の最初の正室の天親院も
埋葬されている。
もっとも、広大院はその実島津の娘だけどな。
925 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 21:31:53
茂姫の母は側室
任子の母も側室
和宮の母も側室
熙子の母は内親王
御台所の母が正室なのは意外と少ない(ていうか正室腹の御台所は熙子以降は天璋院のみ?)
926 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 00:23:13
将軍の正室になるって、
宮家や摂関家の娘にとっては、そんなにうれしい事ではないもんね。
実家に実入りはあるだろうけど、その実家にしても、娘が中宮になることに比べれば…
お飾りで、愛されことなく寂しい一生を送るって、哀しい。
家治に愛された五十宮のような例外もあるでしょが。
929 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 17:43:53
930 :
日本@名無史さん:2006/05/31(水) 22:22:49
天親院こと、鷹司政熙の娘、有姫任子は、
間違いなく増上寺に葬られています。
931 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 16:35:52
次スレどうする?
932 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 19:46:31
家達夫人泰子は正室腹なのか?
>>912 慶喜家とは仲がよくなかった。他の御三家御三卿には適当な男子が居なかった。
松平忠永を養子にしたけど、早く世継ぎが欲しい家正と軍人の職務に専念したい忠永の考えが合わずに離籍。
934 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 20:52:00
水戸家には数人息子がいたはずだが慶喜の外孫ということで除外なのか?
もし忠永が離縁していなかったら家正の娘と結婚していたのか?
次女と三女には「婿養子を迎えることになるかもしれないがいいか?」「葵の紋の家じゃなきゃだめなんだ」って話したんだってね。
936 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 20:11:24
最近過疎スレ化してるしィ、
ガイシュツのネタ多いしィ、
変な近代ヲタ貼りついてるしィ…。
次スレはやめるか?
ループは仕方ないけど近代ネタは確かにウザい。
「近代」「近代」って喚いてる厨房ってお前一人だろw
徳川家康しか知らない僕ちゃんは三戦でも行ってろよ
939 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 23:23:31
末期症状・・・!?
このスレに相応しくない話題だと思うなら削除依頼でも出せよ
941 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:06:31
削除依頼よりも手っ取り早く千までお梅の方
942 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:33:00
>>941 そういやァ・・・お梅の方って、
やっぱ吉宗の側室で一橋宗尹を生んだ彼女が一番有名かな。
家斉の側室にもいたけど、産後すぐ死んじゃった。
「徳川家について語るスレ」なんだからいつの時代だって徳川家の話題ならよかっぺよ
埋めついでに質問!
家光側室のお万の方は、家光死去後
お万の方→お梅の方(orお梅の局)と改名して
大奥に君臨した…でOKですか?
>>943 過去ログくらい読まないのか?読めないのか?
近代のことについて語りたければ近代史板でほざけ。向こうでも追い出されるかもしれないが。
ここは日本史板、江戸時代までが管轄だ。
946 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 18:28:11
>>944 OKだと思います。大奥総取締という役職にあったかどうか?は、
はっきりしませんが。
ちなみに、前レスでも話題になった公家が外戚になるのを恐れて・・・云々は、
そもそも六条家出身のこのお万の方への家光の寵愛を、春日局や幕閣が危惧して、
懐胎を禁じた、という逸話に象徴されます。
948 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 20:06:15
いつまでたっても影の薄い家定って、どう?
949 :
日本@名無史さん:2006/06/12(月) 22:36:27
家斉は子供が多いのに子孫は随分少ないな
というか子供のいない人が多いのもあるけど
950 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 00:20:11
子孫ネタって面白いのかなあ?
誰それの子が、どうしたこうしたって話題。
家斉の血を引く有象無象についてはガイシュツだよ。
951 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 22:35:08
衛生状態や栄養状態が悪い上、過保護に育てられたので虚弱児が多かった。
西洋の医学や食生活が取り入れられる明治まで、上流家庭でも子女の夭逝は普通だった。
952 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 01:05:18
既出でも、いいじゃん。
家斉ネタでも歓迎。
でも家斉というと、決まって斉民などが出て来るけど、
近代ネタは僕もゴメン。
953 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 01:11:10
家斉の子で明石藩に入った斉詔(菅貫太郎)あげ
954 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 21:24:10
955 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 22:06:24
時代錯誤も甚だしいネ。
徳川・伊達現当主二人とも、お呼びじゃないよ。
君たち自身には、なんのニュースバリューもないんだから。
956 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 01:54:14
有名税って、いやいや払うものだと思ってた。
誇らしげに見せびらかされちゃ、周りは辟易。
「徳川」って看板の重みに苦労するなら同情するけど、ひけらかされちゃあねえ。
権力者の座から転げ落ちた末裔の現況なんて・・・語る価値なし。
957 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 16:30:55
忠長が兄に従順であったなら、
家綱または綱吉の継嗣が無事成長していたら、
水戸家は御三家になれなかった。
958 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 20:22:53
徳川の当主はまだしも
伊達の当主はほんと目立つのが好きそうだw
959 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 20:32:59
忠長が兄に従順であったなら、長さんはどうなるんだよ?
爺は家老なのか?
960 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 03:27:36
961 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 08:50:09
忠長は大納言で50万石だから、兄と仲良ければ尾張家すら抜い
たかもしれない。
綱豊が将軍家宣にならず甲府殿であり続けたら、水戸家より上に
なってしまう。先に石高35万石になったのは甲府家。水戸家は
加増もないのに無理矢理の高直しで35万石。
忠長の領地は駿河だけど、駿河だけで50万石もいくの?
義直の領地は尾張だけど、尾張だけで61.95万石もいくの?
頼宣の領地は紀伊だけど、紀伊だけで55.5万石もいくの?
は愚問だと思わないのかいな?
964 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 23:33:27
>>957 御三家は、家康在世中に確立されたってものじゃないから、
綱吉までの幕府初期、たしかにその後の情勢によっては、
水戸に限らず、落っこちる家が出てきたかもね。
けど、忠長がいくら家光に従順でも、
彼自身やその家が存続できたかは怪しいな。
965 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 00:27:20
珍妙な話を一席・・・
懐胎を禁じられていたお万の方は、家光の寵愛の下、
実は密かに子を産んでいた。
一旦その子は大奥から外に出されたが、一時はお万と犬猿の仲で、
後に和睦して親しくなった家光正室孝子の弟、鷹司信平の
養子になった。
信平は紀伊頼宣の娘を正室に貰い、先の関白鷹司信房の子である血筋の尊さから、
一万石以下なのに大廊下下之間に詰め、少将になった。
だが実は、それも家光の実子の養父になったから。
966 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 01:47:18
>>965 鷹司松平については、いろいろ噂がありますね。
吉屋信子の「続 徳川の夫人たち」では、信平と於万が恋仲だって。
案外、元ネタは同じなのかも?
967 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 02:09:28
忠長って、忠直に似ているね。
>>965 保科正之の例もあるしね。ありえるな。
>>966 どんな噂でも「お台場大奥」設定よりはマシに思える。
吉屋は昭和の女流作家の大家。文学的な理想をもって執筆している。
パクリのデパート的な現代の脚本家と同じ土俵に乗せるもんでは無い。
970 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 14:10:43
971 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 21:49:51
仮に鷹司松平家の初代信平が家光とお万の方の子を養子にしたとして、
その子は、二代信政のこと?
信政は紀伊頼宣の娘、松姫の子ってことになってるけど・・・
でも、家光没後のお万(お梅の局)の権勢や、永光院となってからも、
桂昌院や綱吉の殊遇を得たこと、さらに家宣の代にも、信清が1万石の大名に
取り立てれる一方で、家光の血筋が絶え、吉宗が登場してからは、羽振りが悪くなる
といった経緯からすると、ひょっとして・・・
972 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 23:32:15
ウィキぺでは、信平は松平長頼(長七郎)の実子って説を紹介している。
鷹司家の養子に出されたんだと。
さすがに俗説だろうと、ウィキぺ自身、眉にツバつけてるけど。
どっちにせよ想像の産物だろ。
973 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 01:59:00
尾張藩主徳川継友がまだ、部屋住みのころ、松平通顕と名乗っていたころの
正徳2年に2万石を賜ったというが、どこの領地なんだろうか?
974 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 18:26:12
多分尾張藩内じゃないか?
975 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 19:14:33
ということは、幕府より賜ったというより、実質は尾張藩よりの
分知ということであろうか。
同様に、尾張藩主徳川宗勝もまだ、藩主で無い松平友相(あるいは友淳)と
名乗っていた享保11年に1万石を賜ったというが、これも分知なのだろうか?
こういうのって別に立藩してるわけじゃないんでしょ?
例えば松平頼方が賜った3万石が実質は5000石しかなかったように
格付けの為に実際の石高よりも過大にされてるって事は無いのかな?
977 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 20:27:03
松平頼方の3万石は、実質5000石であろうと
越前丹生郡に領地を与えられたということはわかるが、
前掲、松平友相や松平通顕はどこの領地なのか不明。
978 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 20:39:24
高須藩は藩邸のあった場所に由来し四谷家と呼ばれた。
川田久保家ってなにに由来?
979 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 23:34:57
松平千秋ってどこの松平だ?
980 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 01:01:42
>>978 川田久保も地名に由来、現在の新宿区市谷柳町。
981 :
日本@名無史さん:
知行地を与えられたのではなく、禄米を賜ったのでは?