1 :
日本@名無史さん:
スレタイの通りです。
001〜100・・・毛利家
101〜200・・・長曾我部家
201〜300・・・島津家
301〜400・・・伊達家
401〜500・・・宇喜多家
501〜600・・・佐竹家
601〜700・・・真田家
701〜800・・・五奉行(浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以、石田三成)
801〜950・・・豊臣家(羽柴家、木下家)
951以降のレスは次スレの戦国大名を選出ということで。
前スレ
戦国大名の失策を語るスレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1124340863/ 毛利家からよろしくお願いします。
乙カレー
前スレ同様の方向で
4 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:47:50
乙!!
さて毛利興元について語る時がきましたね
毛利の失策と言えば、
高松城後に和睦をし、それを守った事だろうか。
破れば織田家は分解必死だから、さらに勢力を伸ばせたと思うが。
まあ、輝元では無理だろうけど。
7 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 07:28:23
てか照本なんかに家督をゆずるからいけないんだよ。吉川タンにすればよかったのに…(;´Д`)
次男に継がせれば、却って荒れるでしょう。散々強引な手を使って今更とは
いえ、吉川家を相続させていた訳ですし、反故にもしがたい。
それに、ゲームで能力欄を見る様に器を知る訳にも行きませんからね。
未来も考えられたでしょうし、下手に好戦的な性格の者より、ああいう優柔
不断な態度の方が家も滅ぼさずに済む。高松後の追撃、しなくて正解。
周防・長門のみ残されてからは、楮栽培などで収入も上げた様ですし。
ただの無能扱いも無いでしょう。
9 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 07:50:44
いっその事尼子義久にカトクを譲れば尼子家再興できたのに
10 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 08:17:56
そりゃ秀吉や家康と比べたらカスに見えるかもしれないが輝元もなかなか立派なやつだと思うよ
11 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 08:34:42
だったら関が原までちゃんとこいや・・・
12 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 08:55:29
13 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:06:52
初期の毛利家は女に淡白な人が多かったような。
正室在世中の元就は側室持たなかったし、
3人の息子にも子供が少ない。隆景なんか子供いないし。
元就にとってなにかと頼もしい3人の息子達だったが、
後継者生殖に関しては「頼りにならん愚息どもめ!」
と晩年老骨に鞭打って自ら6人の息子をなしている。
14 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:18:12
元春のブス専・・・。
ブス専も徳川吉宗のようにブスが好きで好きでたまらん!
ってなら何の問題も無いのだが、
元春は「かわいい女は競争率も高いし、苦労して気をひくのはマンドクセ('A`)。
別にどんな女でもいいや」ってタイプだったらしいしなぁ。
15 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:28:47
>「かわいい女は競争率も高いし、苦労して気をひくのはマンドクセ('A`)。
別にどんな女でもいいや」
これはいつまでも二次元に逃げているお前らにも見習う必要があるところだな。
16 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:42:22
幸松丸について語るスレはここですか?
17 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:34:47
毛利って元就が長生きしすぎ
18 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:54:13
>13
中国地方全域を治めるにはそれなりの数の一族が必要、と
子作りをがんがったのに、関ヶ原の敗戦で防長2国に逼塞。
結果、30万石強の領地に万石級一門家老がわんさか存在することに・・・。
19 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:52:29
吉川がいたらん計略なんかしなければ関ヶ原勝ってたのにね
20 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 12:52:46
小早川隆景とか吉川元春って結構凄いやつなんだな
21 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 13:46:34
まあ元就亡き後は元春、隆景の2人で持ってたようなものだからな
秀秋養子の一件でも隆景が秀吉の先手打ったからよかったものの
秀秋が毛利宗家の跡取りになってたら間違いなく潰れてたぞ
22 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 15:49:33
傾国の烙印を買おうとしたけど近所じゃあ売ってなかった。
23 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 19:12:10
しかしなんだな。
三男と四男の歳の差が20歳近くも違うと四男が「第2の長男」
って感じになるのかな。五男以下は四男を「長兄」としてまとまとまるし、
毛利家でも元就四男以下の子孫が四男の子孫を中心にまとまって
長男隆元と次男元春の子孫がいがみ合ってる間隙をついて江戸時代の毛利家の
中核勢力になっていく。(三男隆景は子無しだったので子孫無し)
24 :
e:2006/02/19(日) 20:56:40
元就の失策は業績に比べてたいしたことない。
親族を一致団結させようとした努力は尊敬に値する。
失策ではないが、肝心な人物が肝心なところまで生きなくて死ぬのがイタイ
隆元がもう少し長生きすれば輝元も代飛ばしで家督相続しなくてもよかたったし
隆景も関が原まで生きていたらもうちょっと毛利家がマシな状態だったかも
隆元はいうほど能力が低いわけではない。厳島の戦いは彼がいないと存在しなかったかもしれん。
信憑性は高くはないかもしれないが。
自分も、元就に失敗がなかったとは言わないが失策があったとはちょっと思いつかない。
ただ厳しいことを言うと、これは元就の能力として中国制覇までが限界だったという事
でもあるが。
まあ幕末までは有力大名として過ごし、
幕末から戦後までは主役格として活躍した事を考えると、
成功した部類じゃねえの?とは思う
まあハイエナ的な成功って感じはしないでもないが
27 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 04:51:47
井上一族を粛清しなかったらもっと強かったんじゃない?
28 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 05:59:41
>27
その場合、防長2国の主は井上家になってたかもしれない。
29 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 06:09:58
隆元死去後に突然支出が増えたから、横領か何かと内部調査を行ったら、
実は隆元がうまく運営していたために支出が減っていたという話を聞いたことがある。
出典は忘れた。
30 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 07:02:24
>>23 本家は虫の子孫に乗っ取られたわけで・・・
吉川は最後まで広家の子孫?虫から養子押し付けられ?
31 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 09:21:04
北九州において大友に敗北したわけだがこのへんは毛利家の失策にならんの?
33 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 11:51:57
大友のファインプレー
34 :
e:2006/02/20(月) 15:53:50
>32
失策といえば失策かもしれないが、合戦で負けたのは本人の意思ではないからしょうがないのでは?
あえていうなら大友と同盟を結んで両面作戦を避けたほうがよかったかもしれないですね。
それはよく考える。
長宗我部への100は遠いのう〜
今更毛利について語る事もないしな…
平安〜室町前期あたりの毛利について語ろう
まあ、俺は全く知らんがな
36 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 17:18:13
戦国大名の失策を語るスレだからそれより以前は別スレを立てるべきだろう
>>34 尼子・大内残党の蜂起は大友の策動だからね。毛利に両面作戦取らせるための。
同盟なんて無理でしょ
隆元って手紙とかじゃ劣等感の塊みたいなんだが実際政治も戦争も達者で人望もあって
画も上手かったと聞くが何がそんなに不満なんだ?
39 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 19:59:54
毛利は九州や四国、地元の中国と多方面に関与しすぎ
大内を滅ぼした時、大友は干渉しなかったんだから
わざわざ九州に手を出すべきではなかったな
40 :
御前等:2006/02/20(月) 20:10:48
・荒木が謀反起こした時に,積極的に河内に兵士を送らなかったこと。
・別所が三木城篭城した時に援軍を送らなかったこと。
・秀吉と決戦避けたこと。
41 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:40:59
>>35 三浦についたのは大きな失策だったよな。
やっぱ北条につくべきだったと思う。
>>38 親父がスーパーマンというだけでも相当なプレッシャーなのに
弟二人が別の家で当主として独り立ちしている上に有能ときている
次期当主としていろいろ悩むことも多かったんじゃない?
>>40 それが不思議なんだよな。
三道併進策とかいって上洛を狙ったのならなんだってそんな中途半端な援軍派遣
しかしなかったのか。
>>43 >>40はほとんど隆景の判断だろうな。
安全策なんだろうけど、彼の器量を少し疑う。
別所や荒木が離反した頃って毛利軍が織田軍に第二次木津川合戦で敗北したからな。
翌年には波多野家の滅亡と宇喜多家の寝返りがあったわけだし。
毛利としても見殺しにするしかなかったんだろうな。
まあ結果論から言えば、あのとき毛利が積極防戦に出て秀吉に敗北しちゃったら、当然本能寺の変は起こらなかったわけで、毛利は間違いなく滅亡しただろうな。
47 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 06:48:26
毛利って一番強い時で動員力何人ぐらい?
俺が適当に答えてやる、二万五千!
49 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 07:23:28
>>47 陶晴賢に反旗を掲げた頃
5000〜6000人
このときの陶軍は2〜3万人だから
最盛期はそれ以上?
50 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 10:56:00
羽衣石城攻めの吉川は5万相当と碑に記載されていたが・・。
総動員なら8万ぐらいはいけるんじゃないか?
宇喜田とか含めてね
52 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 17:52:55
天正四年は石山合戦や木津川合戦など毛利にとっては勢いがある年だった
天正五年は松永久秀が織田家から離反したのに
上杉謙信が手取川合戦で織田軍に勝利のに
備前では親毛利派の宇喜多直家が頑張っているのに
この年の毛利は積極的な行動がないよな
安芸吉田郡山城から播磨は遠すぎるんだもん
54 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 19:49:08
このとき毛利家は備中の三村家と戦っていたんでしたっけ?
55 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:06:36
二年前の天正三年に毛利に攻められ松山城は落城してる
領地があんだけ広がっても本拠地移してないんだね。
57 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:25:02
小早川隆景は相当優秀な人なんだな
毛利で失策と言えばやっぱり関ヶ原関連か?
関ヶ原まではまあまあ順調だったからな
豊臣に屈しても大幅な減封はなかったし
いずれにせよ徳川政権下ではあんな大封維持は不可能だし
2国37万石維持しただけでも上出来かと思うがね
60 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:51:59
>>58 三浦の乱 のほうが危機的じゃない。一族で生き残り1人になったわけで
61 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:54:49
ゲームにされてしまった
62 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:56:10
優柔不断はダメということが証明されたと思う。
男からも女からも嫌われるタイプ
63 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:07:44
俺は輝元が好きだぞ
64 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:28:42
輝元いい人だよね
65 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:33:34
こういう人は自分の上司になったら苦労するよ。
66 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:40:33
いい人なんだけどね
関ヶ原後の財政再建策は見事だったと思うけどね
普段はダメだが追いつめられて開き直ると覚醒するタイプかも。
福本伸行の描く漫画の主人公みたいんだ。
68 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:45:27
安芸武田の子
安国寺恵瓊の重用
69 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:51:19
関ヶ原の合戦時
石田宇喜田大谷に苦戦する東軍
ふつうに毛利が後ろついたら勝ったわな
吉川軍を後ろから踏み潰してでも通ればよかった
宰相殿、恵瓊、宍戸元続だけでも一万はいるはず
後ろ固めるのは池田輝政に山内一豊の小大名
楽勝じゃん
でも毛利は恵瓊にはめられたのか広家が間抜けすぎたのか
70 :
e:2006/02/22(水) 01:42:31
>59
「2国37万石維持した」これは吉川広家が主君思いだったから
彼がいなかったら毛利は消滅してた。
広家が有能か無能か主君の為になる行動をしたかどうかは微妙で判断できない。
しかし、自分をなげうって主家の毛利を残そうとする努力は家康でなくても
心動かされる。土佐盛親の家臣久武内蔵助親直とは大違い。
こんな人物召抱えているから家康に加藤家つぶされたんじゃない?
101越えて長宗我部になったら真っ先に書くことだな
>65
ある意味、楽でもある。
信長の部下は気が休まらない。
信長信玄秀吉よりは輝元の部下になるほうが気が楽。
前者は長年使えていきなりクビ、血がつながってても殺されたりしそう。
毛利は減封になったときも部下が逃げなかったといわれている。
>>70 一応いっておくと、信長が嫌ったのは怠け者。長年仕えているからって働かなければ
権限を預けられない。当然だね。
もうひとつ、信長は血縁者には甘い。その分裏切られた(と信長が感じたとき)の反発が
凄いことになるのだが。
72 :
e:2006/02/22(水) 02:34:57
>71
おっしゃるとおり、書き方悪かったですね。
信長は「長年勤めてもクビ」、秀吉信玄は「親族に厳しい」
ひっくるめて書いたのが誤解を生みましたね。
確かに怠け者が嫌いなのはいいと思う。
でも数十年勤めた人には捨扶持ぐらいあげてもいいんでないかい
無能や少々怠け者でも数十年勤めた部下が裸一貫で放り出されるのみたら。
周りの人間は下で働くの考えるんでないかい?
あと、怠け者だといっていきなり切り付けて殺すなら、クビにすればいいじゃない。
女中むごいな...
裏切り者が多いのはそこにあるんじゃない?
家康が天下を取り、信長秀吉が天下を取れない理由はそこにあるんじゃないかと考えてしまう。
話がそれたここは毛利カキコ場所だった。
>>72 毛利スレなんであまり深くはやらないほうがいいとは思いますが、一応再反論を。
佐久間の折檻状をみると、その結びは「かつてのように気張って働くか、やる気が
ないのならいっそ高野山に引退してしまえ」というもので、佐久間には心機一転
して働くという選択肢もあった。それを選ばず高野山に行ったのは佐久間の決断。
女中に関しては、殺すのはやりすぎかもしれませんが、やったことを考えると重罰
は必要。やったことは「上司が出張でいなくなったから仕事放棄して遊びに出かけた」
というシロモノですから。
ちなみに、同じことを軍隊でやらかすとシャレになりません。
いきなり首じゃないし、世に言われてるほど
短気も出ない。追放で済んでるのだから、
これで厳しければ孫武のほうがもっと
厳しいと思う
女中達の件については初犯で桑実寺まで遊びに行くのは考え難いかな。
推測ではありますが女中達は常習犯だったかもしれない。
ところで織田と対立してからの毛利って腰が重いような気がする。
76 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 15:01:36
内部にまとまりを欠き始めてたのかもね。
漏れは、
小早川隆景→吉川広家
単純にこのラインで時の天下人から毛利家を守る為に盾になったと思う。(´・ω・`)
78 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 16:17:46
毛利の大ファンだが安国寺えけいだけは好きになれん
>>78 毛利ファンだからこそじゃないのか、それは
80 :
e:2006/02/22(水) 22:59:53
>73
織田家の殆どが信行を押すなか、一貫して信長を押していた信盛、
俺が同じ立場だったら、功なくても裸一貫で高野山に送ることはできないな。
家康はそういうところがないから人がついていくのだろうと思う。
部下を殺したり、追放したりしないから謀反や出奔が少ないんだろうと思う。
まあ、人間のスタンスだから論じても結論でないよ。
毛利って結構失策少ないから100は遠いな...
失策ではないが肝心な人が肝心な時期に死ぬ家系は天下とれないな。
隆元の早死、隆景の関が原前の病死はイタイ
>>80 三河一向一揆、本田正信、信康事件、大賀事件、石川数正出奔…。
少ないとみるかどうかは人それぞれだろうけどね。
信長だって敵対も罪も犯していない部下を殺してなどいない。
人間のスタンスの違いというより、両者のおかれた状況と目的の違いだろ。
それから、活動範囲の差というのもあるか。
たとえていうと
役員取締役会議で社長に推してくれたからその恩がある
というもので「社長に推す」というのは公私の公、「恩」と
いうのは公私の私。公私混同では栄えませんよ。
83 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 02:48:53
最大の失策は同考えても関が原といいたいところだが
これはこれで結果オーライ
輝が関ヶ原きても大阪で戦っても毛利が天下取れるとは思えん。
戦国時代再来がいいところだろう
だから結果オーライ
よって毛利に失策なし
84 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 20:25:47
謀多きは勝ち少なきは負け
の元ねたは何?
85 :
e:2006/02/23(木) 21:46:23
>81
三河一向一揆、本田正信、信康事件、大賀事件、石川数正出奔
確かにそのとおり。ただし
三河一向一揆一応妥協して収めているし
本田正信も帰参を許しているし、信康も考えた末にその時点で信長の命に逆らうわけにはいかない。
石川数正も結局は直線的に何かして(殺すとかイアヤガラセ)わけではない。
息子にも一応禄も与えている。大賀事件は知らんかったが...(簡単に調べてもよくわからんかった)
皆殺しの長島一向一揆と和解した三河一向一揆
頭蓋骨を便器か飲器された浅井長政無一文で高野山に追放された佐久間信盛
と
帰参を許して謀臣にさせた本多正信と子供に禄を与えた石川数正
同盟国の息子を自害させる指示をだす人間と
息子を殺さざるおえなかったことを悔やむ人間
比較すると私は家康の部下がいいっす。
>82
いいたいことはわかる。でも0はないでしょう。
せめて1万石ぐらいあげてもいいと思う..
まあ、私が無能だからでしょう。安心の老後は信長の部下じゃあ無理そう。
有能で年がいっても能力を発揮できて常に向上心のある人には信長がいいのは間違いない。
はよ100件になってくれ(笑)
86 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 23:04:21
eが毛利家の話題から離れている件について
>>85 信長は何度も本願寺と講和している。
浅井朝倉の頭蓋骨杯は小説。
佐久間は死んだが息子は帰参を許している。他にも前田利家など追放されてから
帰参を許されているものはいる。
信康事件に関しては家康主導という説もある。
ちなみに家康は天下をとってから配下大名家督継承について様々に介入している。
講談や小説だけで語るのはやめたら?
>皆殺しの長島一向一揆と和解した三河一向一揆
和解した三河一向一揆の主戦派を家康が騙し討ちした件
まだ信康切腹を信長の命令だって思ってる人いたんだ
90 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 02:54:00
↑思ってた 詳しく!
>>53 >安芸吉田郡山城から播磨は遠すぎるんだもん
出雲富田月山城から播磨に侵攻した人もいるんだよな。
92 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 11:36:30
395 :日本@名無史さん :2005/04/26(火) 21:01:31
信康切腹が、家康主導なんて話は、早い時期から言われてたよ。
なんせ、事件当時に書かれた、当代記や安土日記に
「信長は信康を切腹させる許可を与えただけ」ときっちり記述されている。
そして、江戸時代になり書かれた、三河物語などに突然
「信長の命令で信康を切腹させた」とか怪しい話が出始めている。
これは多分、天下人になり神君家康公とまで言われた家康にとって、
都合がわるい出来事はカバーしなければいけなくなったための、
作為が生まれたものとも考えられる。
あと、天正7年頃に、信長が家康の嫡男を切腹させるなんていうのも
おかしな話じゃないかな?
織田家の体制がほぼ万全となり、全国に信長に逆らう者も、
あまりいなくなったような段階ならともかく、
まだ武田家も健在で、徳川が武田側に寝返れば織田も危ないような時期に、
唯一、信頼出来る味方の嫡男を無理矢理、殺させるような馬鹿な真似を、
信長はしないと思う。
93 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 12:29:09
要は信康が武田と内通していたから腹切らせたってだけだろ
内通なんてこじつけだろ
なんでそんなことしなくちゃならんのだ
残り5レスくらいは毛利の話でいこうぜおまいら
と言ってみるテスツ
96 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 15:25:09
北就勝と二宮就辰について
97 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 16:37:16
小早川隆景は毛利輝元の教育を怠っているよな
輝元は隆景生存中は成長する機会がなかった
就職と就学について
99 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 18:25:43
毛利家は織田政権と協調路線を取っていたんだから足利義昭を迎え入れるべきではなかった
上洛する意思もないのに織田政権と対立しようとしたのは失策だな
100 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 18:53:39
まとめ…時勢的に毛利は天下は取れなかった
徳川政権下で120万石の維持は無理だった
したがって37万石を全うした毛利家に大きな失策はなし
101 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 19:17:04
失策だらけだから毛利家は転落したんだろw
次の長曾我部家の失策に入るで
久武親直(ひさたけ ちかなお) ????〜????
○彦七 内蔵助
◇父:久武肥後守昌源 兄:久武親信 子:久武千助
兄親信の戦死により土佐・長宗我部氏家老を継ぐ。
尚、親信は「自分が戦死しても、弟には決して後を継がせないでほしい。弟は腹黒く、必ずやお家の災いとなる」
旨言い残していた。しかし、政治力に優れたことから重用された。讒言を用いて家中を牛耳ろうとし、
長宗我部氏滅亡の遠因を作る。主家滅亡後、謀略、讒言多い佞臣と評判が立ち、再仕官の当てが見当たらずに
帰農したという。肥後・加藤氏に仕えたとも
久武親信(ひさたけ ちかのぶ) ????〜1579
○内蔵助 親定 肥後守
◇父:久武肥後守昌源 弟:久武親直
土佐・長宗我部氏家老。誠実な性格と、思慮深い知将としても知られる。有馬温泉湯治中に羽柴秀吉と知り合って、
その人柄に傾倒したという。南予の軍代としてその攻略の一切を任されたが、伊予・宇和郡、喜多郡攻めに出陣、
岡本城攻略の際に戦死する。
103 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 19:31:40
小早川隆景いい人なんだろ 将軍げまで保護してる 本家らる元就なんかに説教できないよ
ただ相当頭いい人だな
104 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 20:47:57
長曽我部は外交のまずさに尽きるな
しかし長宗我部元親は、信長の要求を蹴ってそれからどうするつもりだったのか?
本能寺で助かったのは完全な結果論であり自分とは無関係に起こった出来事。
まさか本気で勝てると思っていたのかなあ。
戸次川の戦いで嫡男信親が戦死してからは失策続き
107 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 21:12:35
嫡男信親の戦死以前も失策が多いな
やはり鳥なき島の蝙蝠か・・・
108 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 21:27:54
>>105 元親は、早い段階から信長と親しくしていた。
四国は元親のものと許可をもらっていたのに、信長が反古にした。
>>108 嫁さんは光秀の重臣斉藤利三の妹だし
嫡男信親の「信」も信長からもらっているしね
110 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:26:07
関が原の戦いで長宗我部軍は傍観するだけで戦いには参加せず、
西軍が敗北すると土佐へ逃げ帰ってしまいます。
ここまでなら西軍の上杉や毛利と同じように所領は減らされても
家は存続していたはずだけど、
土佐にもどった盛親は家康に謝罪しようとしますが、
この謝罪の前に兄の津野親忠を殺してしまい、
土佐を取り上げられ改易となってしまった。
家康を怒らせたのがまずかったね!
>>110 兄を殺さなくても、結局いちゃもん付けられて土佐没収は免れなかったと思うけど。
島津や毛利と違ってたいした国力もないし。
関ヶ原で長宗我部軍さえ動けば西軍は勝っていたんじゃないか?
>>108 そう、信長が反故にして長宗我部からしたら理不尽な要求をつきつけられた。
しかし、「そちらの言い分は理不尽です」では通らないのが戦国時代。
例えば家康は信長から理不尽に近い要求を出されても呑んできた。それは彼我
の立場の違いを認識した結果であり、その判断によって駿遠三の太守となった。
これは家康に限らず、大大名に従属した弱小の大名・豪族たち全てに言えること。
元親は、信長の要求を蹴ってその後をどうするつもりだったのか?
まさか要求を蹴っても何も起こらず同盟が継続すると考えていたわけではない
だろう。というか、そんな事を考えていたのだとしたら元親の判断力はゼロだ。
かといって「その要求は呑めない、せめてこのくらいは認めてくれ」というような
交渉をおこなった形跡もない。
元親は、それまで織田と敵対してきた武田や毛利と違い、長く友好を結んできた。
なのに信長の天下がほぼ固まった時期になってからわざわざ敵対したというはどう
理解するべきか?何を考えていたのか?
まさか信長が攻めてきても撃退できると考えていたのか?
>>111 単独でいたならいいが
毛利を筆頭に数万の軍勢と陣を張っていたから
長曽我部が進もうものなら背後から襲われて潰滅する
だから動きたくても動けなかった
114 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 02:31:27
国親の長生きが痛かった。
あいつだけは早く死ぬべきだった。
三スレ目はこうなる!
001〜100・・・姉小路家
101〜200・・・波多野家
201〜300・・・神保家
301〜400・・・二階堂家
401〜500・・・蠣崎家
501〜600・・・斯波家
601〜700・・・足利家
701〜800・・・宇都宮家
801〜950・・・伊東家
要するに仙石氏ね
117 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 07:46:02
>>113 >長曽我部が進もうものなら背後から襲われて潰滅する
>だから動きたくても動けなかった
関が原の戦いの陣形図を見ると長曽我部軍の背後を狙われる心配はないだろ!
動きたくても動けなかったのは毛利、吉川が動かなかったためだろう
>>113>>117 そもそも南宮山の南側から関ヶ原に繰り出せばいいじゃん。
藤堂・京極の軍を側撃すれば東軍の左翼は一気に崩壊する。
119 :
御前等:2006/02/25(土) 20:40:57
斉藤利三の娘を嫁にもらったことが失敗だな。
浅野家から嫁もらっておけばこんなことになることはなかった。
そもそもなんだってそんなところから嫁をもらったのか理解不能なんだが。
結果的に信長が中央政権となったから中央への縁というか足がかりにもなった
けど、普通に考えれば政略結婚としてまず利益がないだろう。
121 :
e:2006/02/26(日) 10:07:32
長宗我部の失策は外交に尽きるな。
秀吉が家康と敵対関係にあるときに秀吉に付けばよかったし、
関が原の戦いで西軍に付けばよかった。
122 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 10:14:44
>87
もうすこし説得力あること書いたら?「されているものはいる。」
「という説もある。」とかいったらなんでも通るよ。
ましで。頭使ったほうがいいんじゃない?
>>121 >関が原の戦いで西軍に付けばよかった。
長曾我部盛親は西軍についているよ。
調べてみてね。
124 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 11:26:42
>>122 前田や佐久間など、ちゃんと例も出しているだろう。
「説もある」というのは、学会レベルで説が認められているということ。これ
だって例は示している。
一方そちらはすでに否定されている小説や講談の内容で論旨を展開。
そんなもの認められないよ。アタマ使ったほうがいいんじゃない?
126 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 14:33:19
家康しね!!
127 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 14:45:20
家康調子こきすぎ
ちょっと質問なんだけど。
関が原後に、盛親の兄弟を殺したことが改易の理由の一つになったといわれているえけど、
それって何で?
その兄弟は、家康と特別な関係なりよっぽど親しい間柄か、あるいは徳川家との交渉を受け
もっていた人物なんですか?
129 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 20:07:48
>徳川家との交渉を受けもっていた人物なんですか?
そのとおりです。盛親さしおいて勝手に徳川と交渉してた。
で、盛親に「漏れに敗戦責任とらせて自分が当主の座に就くことを狙っている」、
と疑われて殺されたと。
130 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:01:01
確か、はじめは東軍につくつもりだったけど、
家康への密書が途中の関所で土佐なまりの密使が捕まってしまい、
やむをえなく西軍についたという小説を読んだことがあるが、
現実はどうだったんだ?
131 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:01:52
久武親直が讒言して落とした相手は誰なの?
そもそも元親が原因なんだけどね
次男三男差し置いて四男に家督継がせたから禍根が残った
>>129 その兄弟が盛親の許可なり指示なりでなく、個人的に秘密交渉を行っていた
のだとしたら疑われても仕方ないよなあ。
もっとも家康からしたら長宗我部家を取り潰すいい口実にはなっただろうけど。
それにしても長宗我部って外交が甘いな。
134 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 01:59:32
>>133 毛利も従兄弟が勝手に秘密交渉してたよな。
135 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 14:31:25
長宗我部と福島正則は、幕府の見せしめで潰された。
理由は何でもいい。
136 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 14:44:08
丹羽長秀は、医学の知識もないのに自分で自分の腹をさいて病原を確かめようとした。
137 :
御前等:2006/02/27(月) 21:00:02
>>120 所詮土佐一郡の大名だからじゃないの。
それか一応信長の養女扱いなのかな。
138 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 21:20:11
国親て、40年くらい大名やってて、領土あんまり増えてない
>>138 そりゃ仕方が無いだろ、一時は0だったのに数郡支配までいったのだから
成果は残している
140 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 03:32:47
>132
>次男三男差し置いて四男に家督継がせたから禍根が残った
これは大きい。中国日本に関わらず。これで家が滅ぶとか内輪もめして
弱体化する例は数多くある。
たいがい、才能の有無ではなく、親が下の子がかわいいというだけの理由
だから、なおさら兄には不満が残り問題になる。
関が原で負けた時に島津家を見習って盛親隠居して津野親忠に代われば、
ましだったかも....
141 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 06:01:55
津野親忠が勝手に徳川と和平交渉して
盛親隠居、親忠当主就任、土佐半国安堵、の線で話がまとめようとしてたのは
疑われた、というより高い確率で真実だろう。
盛親にとって許しがたい背信行為かもしれんが大きい目で見れば長曾我部家存続に
成功した可能性が高いしその線に乗ったほうが良かったかもしれん。
難癖つけられてどのみち滅ばされたかもしれん、という意見もあるだろうが、
土佐一国接収の面倒くささ考えたら半国安堵は高い代償ではないかもしれん。
実際土佐一国接収に少なからず手間がかかった。半国を長曾我部に残して
もう半国をスムーズに接収する道を徳川が選んだとしても不思議は無い。
142 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 06:27:32
どうでもいいけど、高知に旅行に行ったのだが
土佐人はMなのか、山内の大量殺人などを誇っていた。
143 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 06:29:33
>142
今の土佐人は原住民の子孫ではなく、
残虐な東海人の子孫なんだろ。
144 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 20:42:43
>>143 土佐人に対抗するため、急遽大阪で浪人を大量に召抱え土佐に送る。
145 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:07:45
>135
マジで!!?
潰されたってことは殺されたの?
長宋我部と福島の子孫はいますか?
146 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:13:53
>>137 土佐は閉鎖社会だったので外からの血を入れるといい子が生まれる。
という都市伝説があった。
「夏草の賦」より
それにしても岐阜は遠すぎるよね。
四国、近畿、中国あたりから貰ってもいいのに。
久しぶりに覗いたらレスが止まっているし・・・。
それほど大きな失策が無いのか、それとも人気が無いだけなのか。
>>147 長宗我部の失策はほとんど家保存にミスったってことに尽きるからな。
天下を狙うのは元親の境遇ではまず無理だし、議論の仕様がない。
関が原後の外交がヘタ
島津同様強気で行ってれば
それほど余裕がなかった
家康に四国まで軍旅を催す
余裕はなかったと思えるので
土佐くらいは残ったかもしれない
結論すれば、長宗我部の失策というか問題点は外交が下手。
これにつきるな。
長宗我部の子孫って残ってないの?
152 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 03:12:16
>>151 そりゃ残っているでしょ
織田も明智も残っているくらいだし
元親の息子なら康豊かな
亡国の王子の割に結構おもしろい生き様だったり
154 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 22:00:33
やはりな
失策とはちょっと違うが実は四国統一しきれてなかったらしいな
一般に河野氏が降伏したといわれてる時期以降に発行された外交文書が残ってるんだと
あ、一応文脈で分ると思うが河野氏の発行した文書の事ね
157 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 12:47:07
長曾我部氏でネタ切れ?
う〜ん
小牧の時に、阿波の安堵を条件に秀吉と同盟してれば・・・
とかは
何にしても外交の失策が多いな
対織田対豊臣、そして最終的に関ヶ原時の対徳川外交で改易と
>>158 秀吉が家康とやりあってる時期に秀吉と手を組み、ついでに紀伊攻めに協力しておけば
あるいは阿波や讃岐も貰えたかもしれないのに
>>159 阿波讃岐は難しいと思う。
十河は秀吉に通じているし、三好は秀吉の甥だから
代わりに伊予の切り取りを申し込むとか
どのみち長宗我部の領地が増えるというより
支配する豪族が増えるってだけで土佐だけ
あればいいんじゃないかな
>>161 そんなことが可能なら争いは減るだろうな
普通、支配する豪族もひっくるめて領地じゃないの?
大名自体の本領・本貫地が増えなければ
豪族集団の頭程度。また大名でも本家分家とあって
かなり統制が取れてないと大名自身の発言権はかなり
弱まる。
大名自身は戦をしたくなくても重臣たち(元豪族)の反対
や豪族たちの突き上げでしぶしぶ要求を聞き入れざる
えなくなったり。要求を聞かない場合は別の豪族が自分
ととってかわって豪族の頭になってしまわれたり。
大きくなっても、それが大名の自由度とは比例しない
ことに留意したほうがいい。
>>164 その辺が織田や豊臣との敵対の原因かもね
豊臣との敵対はまだ微かな望みがあったかもしれないが
織田との敵対は絶望的な状況、本能寺が無ければ確実に負ける
浅井にもそんな説があったな。
長政本人の意思ではなく、織田との同盟に反対する家臣・豪族たちを抑えられなかったと。
毛利は分家が仕切ちゃったからな
168 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:21:33
長曾我部家ではネタ切れ?
まだ一ヶ月経ってないのんびりいこう
ある程度は予想していたが長曾我部家のネタは長期戦に突入だな
実際の秀吉との戦も長曾我部元親にこれくらいの粘りがあればなw
あと30レスもあるがマターリ逝くべや
長宗我部 国親-元親-盛親
1560 長浜の戦い 元親家督相続
1563-1575 土佐統一 四万十川の戦い
1582 阿波・讃岐制圧
1585 伊代制圧 ほぼ四国統一
1585 秀吉の四国征伐開始
降参 土佐一国安堵
1586 九州従軍 子 信親戦死
1588 比江山親興、吉良親実らに死を命ずる
1590 小田原従軍
1592 朝鮮従軍
1596 子 親忠幽閉
1599 元親死去
from Wiki ちょいまとめ
今日は長宗我部に落とされた讃岐の十河城址に行って来ましたよ
1585の四国征伐と
1586の信親の戦死
1599の元親の死
のあたりか長宗我部家にとっての
ターニングポイントだったのかもしれん
1585の四国征伐は山崎の戦い辺りから親秀吉じゃないと
たぶん不可避だろうし、九州で信親が死ぬのも、1599に元親
がしぬのも運天賦だから結局江戸時代まで生き延びるのは
無理かな
>>171 1570年代後半には三好一族は織田家に従っているから
それを攻めるとなるとやはり織田家からいろいろいわれることになるだろうな
>>173 江戸時代まで生きるのはそれほど無理なことじゃないと思うが
家康も最初は許す積もりだったらしいし。
よくよく考えると、そうだよなあ。四国の三好や十河は信長に従っていたんだよなあ。
にもかかわらず攻撃したのなら、それは長宗我部から織田への侵略にあたるよな。
長曾我部元親の立場で考えると織田信長の裏切り行為と感じたかもね。
高屋城を開城させて三好家を取り込んだ織田家の外交勝利かな。
少し話しがずれますが、毛利家は長曾我部家と同盟を結べばよかったのにね。
毛利家は織田家と対決するのなら、伊予への干渉はしない方がよかったと思う。
177 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 16:05:10
毛利としても篠原亡き三好に手こずっている長曾我部に魅力は無いよ
それに一条にも手こずって土佐統一に時間をかけすぎているし
こんな長曾我部ごときが織田に刃向かうなど片腹痛い
178 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 22:18:32
確かに、北陸柴田や中国羽柴に比べたら、
四国方面軍神戸信孝は荷が軽いな・・・
信長も、よもや負けはないと考えてそうだ。
阿波讃岐方面は捨てて、全力で伊予狙いにいってたらどう?
その場合はやはり毛利とぶつかることを警戒したんじゃないか?>伊予
>>179 毛利とぶつかることを警戒して織田とぶつかったってこと?
阿波の海部で弟が殺されたからとか
それとも交通の要衝の阿波の山奥が欲しかったとか
本拠からだと伊予よりも阿波のほうが近いとか
畿内に近い阿波讃岐のほうが将来性あると思ったとか
ただ、阿波讃岐を捨てて伊予方面に全力でいくというのは悪くないどころか
最良の選択だと思う。あくまで、長宗我部が四国全土支配の野望を捨てれば
だけど。
それなら、信長による毛利包囲の一環を担うわけで、将来の織田政権下でも
厚遇されるだろう。
>>182 阿波讃岐は信孝に土佐は安堵
伊予は働き次第で考慮
が本能寺前に付き付けられた条件というから
そっちのほうがよかっただろうな
実際、河野の援軍に来た毛利勢と何度か戦ってたけど、
長宗我部が勝ってるイメージがないや。
秀吉に中国をどんどん攻められて
毛利が伊予に手が廻らなくなったからこそ
伊予南部を取れたんだろうし。
だいたい四国は耕作地も人口も少ないから
余程の奇策を持って掛からないと本州に乗り出すのは辛い
一領具足でなんとか兵力を搾り出していたけど
領国は荒廃する一方だから限界がある
やはり四国統一で手一杯だな
あとはいかに領地を維持するかに専念するしかない
秀吉は四国や九州の牽制に仙石秀久を使っていたけど、
長曾我部や島津はその程度ってこと?
188 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 00:46:50
>>186 三好が活躍した時代と、信長と戦う元親じゃ条件が違う。
>>187 その程度って、島津には大敗してるじゃん。
明らかに秀吉の人選ミス。
四国は黒田官兵衛が補佐した。
結局、仙石秀久程度じゃ牽制は無理。
九州では長曾我部と十河も従軍しているが大敗。
元親は大隅一国を受け取っていれば良かったのにね。
三好長慶を見てると四国なんて畿内を支える為の基地程度
とも思えるな
仙石の派遣目的は牽制だろ?
何で真っ向から勝負を挑むのかな
猪武者だからしょーがないのか?
功を焦ったか、あるいはなにか勘違いしてしまった(軍権任せられたぜ、ひゃっほーい的に)か、
何れにせよ長曾我部にとっては迷惑極まりない人事
もともと追い詰められた大友への援軍として派遣されたのだから、島津の動きに
傍観してすごすわけにはいかないでしょう。
それと、仙石の役目は大将というより軍監でありもっというと督戦官のようなもの。
自分たちに余り利害が関係なく中央の命令で出兵してきたやる気のない外様大名の
連合軍に対して「お前ら戦え!」と見張るのが仕事。
長宗我部たちが「様子をみよう」なんて言い出したら、いやでも「ダメだ戦え」と指示
を出さなければならない立場。
大友救援のため豊臣本隊が到着するまでの時間稼ぎが戦略目標じゃないか
府内城や鏡城の守りを固め、島津を牽制すれば目標は達成できるのに
鶴賀城を見捨てられなかったのか
理由が何にしてもこの敗戦の結果、却って島津の豊後占領は早まったような
秀長・秀吉の本隊が来る前に目立つ手柄の一つも欲しいだろ
198 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 06:50:35
終了直前になって
長宗我部スレ名物の千石叩きじゃダメだろ。
そろそろまとめよろ↓
信長秀吉家康に対する外交が重要な場面で間違っていた
長曾我部:外交がな
p.s. 仙石氏ね
って所か。
↓以下島津
九州征伐時の対応と関ヶ原ぐらいか問題は
時期はずれになるけど、経済・財政は?
農耕に適さない土地が多いにもかかわらず、
籾殻でかさageして77万石としたから関が原以降は・・・。
毛利、長曾我部、島津は小早川秀秋以下
戦国大名として天下を狙い徳川と一戦交える気概は皆無
保身を図るにしても西軍に属し徳川に敵対し関が原で小早川のような英断もない
毛利、長曾我部、島津、失策というより無能だな
島津って血筋は古い割に戦国でのブレイクが遅いよな
一族の内訌で手間とったからな
もともとは島津家の一氏族とだからな
織田信定や信秀と似たような位置からだが
それと比べると時間かかっているか
島津って、責任が個人に帰すべき判断ミスってそんなにないよな。
強いてあげれば秀吉への対応だが。
でも秀吉に屈服した後の島津家はグチャグチャだけどね。
当主としての義久の責任はもちろんだが、決してそれだけではない。
秀吉への対応は戦前戦後、豊臣政権下での秀吉への対応と
あまりいいものはないな
島津の場合、戦相手の大友も竜造寺も仙石も無能だったから救われただけに過ぎないよなw
龍造寺も大友も無能ではないだろ
スレ伸びねぇな
島津は長曾我部以上に人気が無いのだろう
長期戦だな
宇喜多や五奉行あたりものび悩みそうだな。
島津家十五代当主 島津 勝久
島津忠良の嫡男、貴久を養子にするが
実久にそそのかされ、勝久、貴久を攻撃し
守護に復帰。実久と手切れし谷山で実久と
戦うが破れたため、国政を譲る。
国人衆に見放された勝久は大友氏を頼って
豊後へ逃げ、二度と鹿児島に戻ってくることなく
豊後で死去。
島津宗家守護大名の権威低下
国人衆、豪族、一門・分家をまとめきれず
薩州家、伊作家の対立が激しくなると
薩摩大隅の混乱を招いた。
薩州家 島津実久
伊作家 島津忠良・貴久
216 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 06:16:03
本当に、しまつが悪い
山田君、216のざぶとん2枚持ってって
島津も伊達もこんな調子だろうなw
早く宇喜多にならないかな
219 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 03:47:34
島津は伸びないけど伊達と宇喜多は失策が多そうだから伸びるかもね
特に伊達は失策の宝庫だ
>>219 伊達は親子同士の騒乱や積極策の裏目による失敗など
100で足りるかってぐらい豊富だろ
あと本音言えば南部家も欲しかったんだよなぁ
失策3スレでは南部家希望したいけどな
南部家なんて伊達以上の失策って言うか
失策しかない武家だし
221 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 12:19:23
日向・薩摩・大隅統一が1576年なのに、九州統一が秀吉がやってくるまでに終わらなかったところがダメだろ
>>221 まあそうだけど、1576年の時点ではまだ大友や竜造寺の方が勢力大きいからなあ。
そのあとの耳川や沖田畷の戦いで勝てたから島津の台頭があるわけで。
島津の拡大は軍事的冒険というか
かなり僥倖に恵まれてる気がする
大友はともかく竜造寺は大した勢力じゃないだろ1576年の時点じゃ
耳川の後だろ急成長するのは
島津の視野は九州だけだよな
本州に攻め込もうなんて全く考えていないよな
さあ攻め込もうというところで本州の大半を支配した羽柴が来てウギャーなんじゃないの
それどころじゃなかったような
228 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 06:32:29
なぁ、もう島津の話終わらない?
やめるくらいなら幕末まで含めてもおkの方がいくらか建設的な希ガス
あげようと思えばいくらかあると思うが
対秀吉外交征伐前に降伏しておけば肥後半国貰えた
戦後の歳久の行動とか
他には伊東氏に負けたこととか貴久が清水城から撤退することになったこととか
ただ当時の島津の体制で、下からの決戦要求を退けての降服はできないでしょう。
これは島津に限った話ではないけど。
島津の規模、勢いからすれば
一度も戦わずに降伏はあり得ない。
それよりも、秀吉がその後の朝鮮出兵を予定してなかったら
島津は取り潰されてたのだろうか。
秀吉は勿論だが豊臣政権下の家臣たちの中でも薩摩なんかに興味は無いだろうから別に取り潰されたりはしないだろう
長曾我部の土佐一国安堵と同じでしょうな
あと島津や長曾我部を取り潰すと大規模な一揆とか起きそうだしな
長曾我部に大隈与える予定もあったはずだが
長曾我部元親が辞退したんだよね。
佐々は哀れだよな
238 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:24:42
スレ違いだけど、尼子は元就排除で敵に回るよりは婚姻で取り込んだ
ほうがよかったね。
忠将の死が痛かった
>>239 ほぼ最上級の指揮官の戦死だからね、それもあまり意味無い戦闘での死。
日向からの撤退にも繋がるし、
伊東氏の薩摩大隈介入にもある程度影響を与えたかも。
>>240 あれで大隈の制圧が遅れたな
他に蒲生に負けたのも失策だな
貴久の守護就任が早すぎたのも失策かな
勝久を敵にまわす羽目に
>>242 勝久が地位を譲ったという話しだが、
その後の展開を見ると強引に譲らせた説の方が説得力ある
貴久が守護に返り咲いてか3州統一まで時間がかかりすぎたことかな
20年ぐらいだっけ
関が原で西軍についたことと
薩摩大隈60万石なんて大法螺吹いたこと
おかげで岐阜くんだりで土木工事させられて直接間接何人死んだやら
確かに領土が半減されたとかよりも更にキツイ気がする
それも250年もだし
島津で300までいくのかよ
いろいろ話題振っても一人ぐらいしか食いついてこないんだよな
239・241・242・244が自分だが
あんまり戦国初期に詳しい人がいないのでは・・・
つまり、忠良やら貴久なんてようわからん、
義久や義弘の話をしろってことかも。
しかし、2ヶ月近く島津で停滞ってのは大変だな・・・
義久は島津家全体の統制を執っていたのはわかる。
でも引きこもらずにもっと全面に出るべきだと思うんだよ、現場指揮は任せるとしても。
>>249 >240>243は俺w
やはり相手は一人だったか。
>>250 というより、伊東氏を滅ぼすまではあまり知られていないみたいですね。
自分もあまり詳しくはないですが。
>>251 確かに。
書いといて気づいたけど、
忠良は天禄末期、貴久は元亀年間に死去だから
むしろ戦国中後期の人と言ってもいいんだよな。
これはあれか、島津に失策などないという
島津ファンの無言の抗議か?
ってのは冗談だけど、俺も詳しくないが
何とか盛り上げたいなあ。
分家の未亡人がほしいばっかりに
実子(かな?)をないがしろにして、その未亡人の
子どもを迎えたという話で実子と正妻を火あぶりにしたという
部分は本当でしょうか?
久しぶりに来てみたら島津がまだ続いている・・・。
なんか島津のしぶとさをそのまま表しているみたいだ。
蒲生氏、肝付氏、菱刈氏との合戦は島津の不手際が目立つよね。
島津の場合、失策をいくら繰り返しても薩摩に攻め込む強敵がいなかったから、
何となく生き残ってしまったのが本音でしょうね。
>>255 >島津の場合、失策をいくら繰り返しても薩摩に攻め込む強敵がいなかったから
確かに多少は関係しそうだ
義久の秀吉家康への対応はどっちもまずいと思う、
義弘や忠恒が頑張ったおかげで表面化しなかったが。
>>256 それに九州の強敵が島津氏に敵対したとしてもだ
大友氏はデウス様にのめり込んで日向に楽園を求めたり
竜造寺氏はぬかるみにはまってさー大変な最期だし・・・
大友氏も竜造寺氏も島津氏以上の失策をしている
島津氏は運が良かったとしか言えないわな
259 :
228:2006/05/25(木) 02:50:18
1ヶ月ぶりに来てみたら、まだ島津かよw
だから>228でもう島津やめない?って言ったのに。
島津有理子が「おはよう日本」をあっという間に降板したのが、島津の失策。
これは
>>1の失敗だな
もう伊達に切り替えた方が良いんでない
つうか伊達だったらば100じゃ足りないくらい
失政だらけの大名だしさ
まぁここに挙がってないけど南部だったら
500でも足りないだろうな
>>255 不手際目立つね
それに時間が随分かかっている
背後に伊東や相良が付いていたせいもあるが。
>>260 ゆっくり進んでいるからいいと思うが。
失策は結構多いし。
島津は国力を補う為の政策はなにかやっていたっけ?
いつも寡兵で奇襲の貧しい軍隊というイメージがある。
263 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 13:19:15
>>262 >国力を補う為の政策
密貿易、奄美の植民地化、琉球の属国化、
DQNじゃん。
>>262 貿易していたし、貴久によるキリスト教の許可も早かった
指揮官クラスまで鉄砲装備という重火力
島津は何で3州統一後はあんなに強くなったんだ?
>>265 島津が強くなったというより大友や龍造寺が不甲斐なかっただけのような気が
岩屋城攻防戦・立花城攻防戦の長期化
伏見での伊集院誅殺・日向都城の反乱
このへんはどうよ?
>岩屋城攻防戦・立花城攻防戦の長期化
これは相手を誉めるべきだと思う
通常なら包囲して一部の兵で拘束してる間に他地域を占領して孤立させることも
できたかもしれないが、豊臣との決戦時に後方に敵対勢力残すのは危険だし、
力攻めしか無いのでは。
>伏見での伊集院誅殺・日向都城の反乱
誅殺反乱自体は島津兄弟の関係とか、中央政権での徳川と奉行衆の対立なども
絡んで島津家だけの責任とはいえないと思う。
伊集院は豊臣家とその奉行衆と仲良くて、いろいろ便宜を諮られ半独立の立場
竜造寺の鍋島や大友の立花、上杉の直江みたいな、外様大名の分断政策の一種
で半独立し、島津家中にとっては目障りな存在
誅殺は軽率だったかもしれないが
その結果、豊臣家から独立しようとして味方を必要として大名に恩を売りたがっていた
家康とコネを持つ結果となり、伊集院を降伏させ島津宗家の権限を高める結果になったのだから、
まあ良かったのでは。
家康とコネを持っても結局西軍についたが。
義久に男児がいればまた違う結果になったのかな?
269 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 03:33:48
お前ら、島津とつけばなんでもいいから、あと31レスつけろよ。
とりあえず、島津有理子結婚おめ。これが失策とならないように願う。
>>268 関ヶ原合戦の際、島津義久は伊集院に怯え中央に派兵できない結果に。
伊集院は8万石とも言われたから目障りな存在だな
義弘の大口攻めで失敗して
義弘の代わりに川上が死んだこともあったな
274 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 18:17:33
なんだかんだいって結構失策多いんだな
そりゃそうだ、失策の無い家など無いだろ
島津は失策も多いがそれが滅亡に繋がっていないからそれで十分だろ
277 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 02:20:10
>>276 島津の失策が滅亡につながらなかったのは誰もが薩摩に興味を持たなかったから。
278 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 13:47:06
たしかに 機内や東海道に領地持ってたら潰されたろうね
義久に義弘の独断で西軍に加勢しただけって言われれば
わざわざ薩摩まで討伐軍だすメリットが無い
279 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 00:23:00
島津の失策は、一族の名前が覚えられないってこと。
信長の野望するとき面倒くさいから、全部切っちゃう。どうせ
九州攻めるときには、もう勝負見えてるし。
ついにフィナーレがみえてきたな
長かった。
282 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:12:19
ノ西南戦争
283 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:22:29
政府が西郷との争いを避けて妥協してたら…
その後の日本を想像するとゾッとするな。
大久保さん、ありがとう。
284 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 02:30:05
俺、鹿児島の奴が苦手なんだよなぁ。なんか苦手。
それじゃあどうすれば島津が天下取れたか
自分としては豊臣との和睦に応じて肥後半国貰っておけば
関ヶ原で九州を奪うくらいできたんじゃないかと思うが
関ヶ原で島津が動けなかったのは庄内の乱のせいだろ。
たとえ和睦してても戦時下でなくなったら領内再編は不可避だと思うから、
やっぱり伊集院が台頭→忠恒が手打ちで
庄内の乱は発生しそうな気がする。
島津で何ヶ月停滞しとるんだ…
二ヵ月半ですが何か?
長宗我部ですらほぼ一月で終わったのに。
289 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 23:55:03
あと少しだよ
歳久を庇いきれなかったことは失策にならないのかな?
歳久の家臣の暴走が原因と言われているが・・・
家中の統率がイマイチなままつっぱしたつけがそこで出たといったところか
後に義久義弘別々に安堵されたりとか、後々まで微妙だな
291 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 06:34:33
島津最強
まあ後年3州統一後は確かに強そうに見えるな
相手が大きな誤謬を犯してくれたおかげでもあるが
歳久だけでなく家久も若死にしたな
義久義弘はかなり長生きだが
秀吉による家久暗殺説は否定されているんだっけ?
肯定するに足る根拠がまず無いからな〜
秀吉から体調崩してるらしいから無理スンナと書状貰ってるほどだしな
歳久も家久も生きていても大勢に影響は無いだろ
むしろ島津領を更に細分化されるだけなんじゃ
>>297 細分化は難しいんじゃ
話し変わるが義久の娘婿と忠恒との間にお家騒動が起きそうになったことも・・・
伊集院の反乱の一因とも言われたりするらしいが。
細分化されたのが事実だし
義久・義弘・歳久と3人に安堵されてるから
豊久だって家久の所領を継いで、これも秀吉から安堵されてる
豊臣政権下での義久と義弘の主導権争いもあったから
生きていたら混乱の種だったかもね
ようやく伊達の失策ですね。
天文の大乱を招いたことが躓きの始まりかと。
よし、ようやく伊達藩だ。
伊達藩は失策の宝庫だから100なんってあっという間だな
つうか100じゃ語りきれないだろうから要約の部分だけになるだろうけど
ここの家って戦国時代期の親子4代で親子争いをしているって言う
凄い苛烈な行為を平然とやってるんだよな
303 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 13:18:03
おまけに、一番有名なヤツは親父が親交を結んだ中央の天下人政権にむやみに
ケンカを売るというか挑発を繰り返すし。
よくまあ近代まで生き残れたもんだ。
304 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 19:40:47
撫で斬り大好き〜♪♪
フンフフンフフ〜ン〜♪♪
松川の戦い
306 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 21:16:26
親殺しの作戦
308 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 23:09:13
南部家の領地を何度も攻め取ろうと
様々な謀略をあれこれ駆使しても
一片たりとも取れなかったヘタレ具合が
この伊達家の真の実力を全て示している
しかもあの当時の南部家は内部の親族同士の殺し合いが激しくて
内部崩壊も同然の状態だったにも関わらずにな
>>307 島津ネタは終了済みなので、続きは薩摩島津家スレへgo
伊達の話に戻すと
あれだけ子供を撒いたのに、次世代になると混乱が倍増しているように見えるのだが
わたしの気のせいか。
310 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 00:18:19
つうか伊達家に関しては子供を為すと不幸になってく気が
父親も母親も追放なんって凄い家系だ
追放される前に自ら隠居した輝宗は素晴らしい。
息子に撃ち殺されちゃいましたけど。
312 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 20:08:55
政宗の外人喰い。
あの時代で外人喰ってるなんて…
政宗は裏切りの名人みたいなのだから
どんな事でも平然とやってのける
まぁ戦国の世の中は出し抜いたものが勝ちだけど
それにしても出し抜き方がど下手って言うか何って言うか
314 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 22:59:57
種宗公、いちばん肝心な家督息子に裏切られるなんて…
子育ては政治より難しいんだろな。
315 :
日本@名無史さん:2006/06/23(金) 23:58:05
つうか伊達家の場合
存在そのものが一番の失策な気がする
戦国一の超過大大名との噂も高いし
過大評価では超S級だ
316 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 10:49:44
『ドン小西』並のファションセンス。
317 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 11:52:32
むしろ
伊達の場合、失策じゃなかった部分を挙げる方が早いんじゃないか?
318 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 16:40:31
成実ですら妻子を誅されてるんだよな
てか一揆扇動を除けば身内でしか戦ってない気がする
319 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 18:34:05
東北最大の蘆名氏を滅亡させて自分が最大勢力になってる。政宗が18歳で家督を継いだときは30万石だったのが25歳のときは120万石まで拡大している。
正宗にさっさと家督を譲った輝宗の判断は賢明だったよな
撃ち殺されたけどw
321 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 18:54:09
「父もろとも敵を討て」の命令も超適切。敵に弱みを作らせなかった。
わずか2日で20スレか
島津のときは死に体だった失策スレが
こんなにも生き生きとしている
伊達氏の力はすごいな
>>321 輝宗が「撃ち殺せ」と言っていない説もあるらしいね。
その場合、政宗テラヒドス。
324 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 23:23:29
伊達と南部って身内同士で殺し合いをするのがデフォだな
なんっつうかあぁ言うの見ると古代北アジア辺りの
遊牧民族の思想そのものって言うか
そう言えばアジア一体の遊牧民族なんかも
邪魔な父や母や兄をぶっ殺して自分が君主になる
って言う血生臭く荒っぽい行為を平然とおこなってるけど
伊達(&南部)の系列ってそう言う向こうの遊牧騎馬民族みたいな
感覚が入り混じってるんじゃないかと想像してしまう
戦国時代伊達と南部って争っていたか?
間に大崎葛西などの勢力あるから関ヶ原ぐらいまでほとんど関係無いかと
種宗晴宗の婚姻政策がほとんど役に立ってないんだよな
むしろ邪魔
養子に出して乗っ取らせても伊達家に従わなかったり・・・
政宗の初期にはそれらの一族叔父を敵に回してる
もっとも一族だからか政宗が葦名を滅ぼしたあとは一斉に従っているが
>戦国時代伊達と南部って争っていたか?
領土拡大の為に結構な小競り合いは有った
あと策略や裏工作で何度もしつこく南部領を掠め取ろうとした
みんな失敗したが
328 :
日本@名無史さん:2006/06/24(土) 23:53:07
>>322 島津の場合、家を失うほどの致命的なものが無いからだろ。
伊達の場合は、江戸時代の太平の世ですら超有名な伊達騒動が有ったくらいだし
何度と無く致命的に家を失う大失策をやらかしまくってるからな
>>327 具体的にはいつどんなことを?
>>326 毛利のようにはいかなかったな
あと大崎に出した養子は乗っ取りに失敗したり
>>328 伊達騒動もまた一族間の問題絡んでいたような
なんか団結力無さ過ぎ。
331 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 00:00:29
>>330 島津も大変ですけど。
ふつうの方はその止め方はなさらない。
332 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 00:10:56
>>329 一例に和賀一揆
あと九戸政実の乱も政宗が裏で糸引いてたとか
333 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 00:12:58
自分が目立たなきゃ気が済まない性格っつうのは
早い話が他に誰かが居るのを許さないって性格だからな
伊達家の場合それが酷すぎる
父親や母親で有っても邪魔なら殺す それが伊達家
335 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 00:16:01
和賀一揆の策略は情けなかったな
あれを利用してあわよくば内陸は花巻辺りまで
沿岸は宮古辺りまで獲ろうと策略したが
失敗したとなるとあっさり首謀者を殺して
自分は何にも関わってなかったと白を切るあたり
野望に見合うだけの実力が無いって言うか
つうか政宗って自分の実力を超えた行為を平然とやっては失敗ばかりなんだよ
だから後世「〜は伊達じゃない」とか「おまえの〜は伊達なのか」とか
虚勢や飾りって言う意味になっちまうんだよ
>>334 んだな
まぁそれはスマン
個人的にはここいら辺をもっとうまくやれば
岩手の南側あたりはもっと獲れたのになって思うんだが
337 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 00:33:29
>>328 >伊達の場合は、江戸時代の太平の世ですら超有名な伊達騒動が有ったくらいだし
島津家の場合はお由羅騒動があるよ。
しかし伊達家の失策のレスはみなさんの熱い想いが伝わってきますね。
松川の戦い(笑)
340 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 09:48:07
相去の話が本当だったら、伊達はペテン師だよな。
それに言いくるめられる南部も、正直過ぎるけどねw
341 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 11:45:47
>>340 あれは様々な策略をもちいても全く獲得出来なかった伊達が
悔し紛れに南部=馬鹿説をでっち上げるために流布した
ってのが実際のところ
もっとも南部=馬鹿ってのはそれを持ち出すまでもなく本当の事だが
伊達も南部に劣らない真性馬鹿揃いだからな
342 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 12:51:23
江戸時代もずっと、仙台と宇和島が仲悪かったし、
宇和島と吉田も仲悪かったんだよな。
ただ、血筋が絶えかけたときだけ、仲が良くなったけど。
というか、江戸時代の大名ではなく戦国時代なみに伊達の血に拘りすぎ
343 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 12:53:21
. -―- . やったッ!! さすが伊達一族!
/ ヽ
// ', おれたちに出来ないことを
| { _____ | 平然とやってくれるッ!
(⌒ヽ7´ ``ヒニ¨ヽ
ヽ、..二二二二二二二. -r‐''′ そこにシビれないし
/´ 〉'">、、,,.ィ二¨' {. ヽ _ _ あこがれもしない
`r、| ゙._(9,)Y´_(9_l′ ) ( , -'′ `¨¨´ ̄`ヽ、 どっちかと言うと引く
{(,| `'''7、,. 、 ⌒ |/ニY { \
ヾ| ^'^ ′-、 ,ノr')リ ,ゝ、ー`――-'- ∠,_ ノ
| 「匸匸匚| '"|ィ'( (,ノ,r'゙へ. ̄ ̄,二ニ、゙}了
, ヘー‐- 、 l | /^''⌒| | | ,ゝ )、,>(_9,`!i!}i!ィ_9,) |人
-‐ノ .ヘー‐-ィ ヽ !‐}__,..ノ || /-‐ヽ| -イ,__,.>‐ ハ }
''"//ヽー、 ノヽ∧ `ー一'´ / |′ 丿! , -===- 、 }くー- ..._
//^\ ヾ-、 :| ハ  ̄ / ノ |. { {ハ. V'二'二ソ ノ| | `ヽ
,ノ ヽ,_ ヽノヽ_)ノ:l 'ーー<. / |. ヽヽヽ._ `二¨´ /ノ ノ
/ <^_,.イ `r‐'゙ :::ヽ \ `丶、 |、 \\'ー--‐''"//
\___,/| ! ::::::l、 \ \| \ \ヽ / ノ
344 :
日本@名無史さん :2006/06/25(日) 13:40:57
葛西一揆
上杉謙信最強
346 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 14:54:27
上杉家に家紋もらったって言うけど、なんで使うかな?
将軍家とか桐の家紋なら分かるけどさ。
元々の伊達の家紋有るのに、なんで使うかな?
347 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 15:05:46
>346
貰える物は何でも貰う、貧乏性だからw
それが仇になっているよな
とりあえず約束を結んでおく、とりあえず養子を出しておく
とりあえず援軍に出てみる、とりあえず揺さぶってみる・・・等
とりあえずな真似をして中途半端な結果にしている
350 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 20:17:30
3日でもう50消費かよ
これでも遅すぎるくらいだがな
しかし
>>349の記事とか見るとホントに馬鹿だな
伊達ってDQN度が延々と続いてるんじゃないのか?
親族同士の争いはどうやら時代に関係ないようだしな
この一族に関しては
上杉謙信最強
352 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 20:32:12
>346
デザインが気に入ったからじゃねーのかww
功臣、伊達成実が出奔したときの事
屋代景頼に成実の一族郎党を皆殺しするよう命じて殺してしまう。
後に成実が帰参した時には政宗はその責任を屋代景頼のせいにしてあろうことか追放してしまう。
成実は屋代景頼に罪は無いと知っており彼と妻子たちの面倒を見てあげる。
戦国時代ではないが、伊達四十八館とか中世から全然進歩してないんだよな、伊達は。
一揆構造をずるずるひきずってるから当主も有力家臣の顔色を窺わないことには藩政もままならず、
伊達騒動も起きるし維新では右往左往の醜態をさらし、挙げ句349みたいな馬鹿な事も起こる。
伊達は天文の乱から進歩してないな。
355 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 19:18:42
>>315 それはやっぱり大河の『独眼竜政宗』のおかげだと思う
一般的な政宗のイメージはあの作品の渡辺謙だ
じゃあ伊達政宗は渡辺謙にお礼を言わないとダメだな
>>355 ヤンチャで馬鹿のエピソード満載だからなw
朝のテレビ小説並みの淡々とした家庭ドラマの
山 内 一 豊 と は 違 う わ な w
358 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 20:45:42
政宗ってさ、ホントは毒もられたって自作自演して、
邪魔な母親を追放して、弟を殺したんだろ?
小田原遅参の言い訳にもなるしな。
小田原行っても殺されないって云う確約あったと思うよ。
こずるい政宗が殺される処にノコノコ行かないってww
359 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 20:48:04
何って言うのか、よくドラマなんかの悪役のセリフに出てくる
「奇麗事など勝ってから言え」ってのが有るけど
それにしたって勝ったからこそ言えるセリフでまだ説得力有るよな
伊達家の場合汚い事しまくった挙句しかも失敗ばっかりって言う
5流の下っ端並の恥の上塗り行為ばっかりなんだよな
汚い行為でも勝つのであれば悔しいが仕方が無い
しかし汚い行為で負けばかりはみっともないのの最たるもんだ
>>358 実は大方そんなところだろうな
父親の事に関しても人質に取られ心を鬼にして泣く泣く撃った
と言えば天下大望の為の美談とも言えるが
実際のところウザいから都合良くぶっ殺しただけだろ
母親にしたって実は弟とともにウザいので毒殺嫌疑を掛けて
弟共々ぶっ殺そうとしたけど逃げられたってのが本当なんじゃないか
政宗ってとにかく大の策謀好きなんだが
それがまともに上手くいった試しがほとんどなくって
それでヤバくなると直ぐに他に擦り付けて斬殺って手口ばっかり
約束なんって政宗にとってはケツをふく紙みたいなもんで
裏切りや寝返りなんぞ息をするような感覚でしかないんだろうな
政宗は輝宗の死に間に合ってませんが?
どこの小説のお話で?
362 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 21:25:39
支倉常長(泣)
支倉常長に託したスペインへの国書
「自分は奥州王で皇帝(将軍)に次ぐ者である」
自意識過剰にも程があるな。
364 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 21:45:07
失策多々にもかかわらず取り潰されてないのはなぜだい?
365 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 21:57:58
2000年だか2001年だかに仙台市が
伊達開府400周年なんって記念をやってるくらいだから
他地域からすれば何を自意識過剰なと思っても
当の仙台からすれば当然って意識なんだろ
つうか将軍を差し置いて伊達開府何てデカいセリフを平然と言い放つ
その実力に見合わぬ超大国意識が伊達の過大意識の一つでも有るし
>358
だな。
毒盛説が本当なら政宗を毒殺する時に 保春院&弟(小次郎)派が
政宗毒殺後の政宗派に対して何らかの用意をするはずだ。
なのに、その後さほど争い事も無く、弟は誅されてる。
ただ単に保春院が政宗を殺したかっただけなら話は別だが。
367 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 22:01:40
仙台開府でぐぐると出るわ出るわの凄い状況
伊達家は何時から全国を束ねる支配者気取りになったのだろう
368 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 22:18:34
種宗さんは、田舎者って舐められて官位貰う時にボッタクられた。
しかも戦国時代に乱発された左京大夫。w。
大有康甫宛、虎哉宗乙書状で義姫出奔は文禄三年十一月四日とある。
小次郎殺害が天正十八年四月五日なので、実は四年後に義姫は出奔。
>>364 問題が起こった時期ってのが何って言うかたまたま
幕府の睨みの低い時期だったからってのも有るんじゃ無いか?
家光の時代に伊達騒動がおこったらどうなったか分かんなかったが
あと確証は無いけど幕府との癒着も有った気がするし
表政宗は伊達の血。
裏政宗は最上の血。
だと思うよ。
一週間かからず終わりそうな勢いだな>伊達
>>369 それは、親子の相克が酷いという事実を、少しでも印象を軽くしたいと思った当時の博物館長による文書捏造。
国分盛重の出奔時期も文禄年間に捏造したのを、出奔先の秋田に残った資料を用いた土居輝雄の小説(wにたや
すく論破されている。
ゴッドハンドの露見を待たずして、仙台人の捏造体質を物語る。
ま、仙台開府(wした人からして捏造体質の結晶物だから仙台人の美しき(w伝統だよな。
一人残らず滅びろよ、仙台人。
親子の仲が悪いのは伊達の伝統みたいなものなのになw
改変するだけ無駄。
375 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 15:42:56
>>373 それ本当なのか?>当時の博物館長による文書捏造。
小説に論破ってのが何とも言えんが、詳細よろしく。
>>372 それでも遅すぎるくらいだ
1日で終わってもおかしくないくらいの失策の宝庫だからな
それにしても、徳川と伊達の末裔の会合で
殿、100万石の約束の件は。みたいな笑い話を言ってたらしいが
人んちの約束を平気で破った上にやばくなったら暗殺するような
ロクでもない行為を平然とやる連中がよくそんな恥知らずな事言えるな
って思ったが元から恥なんってもの有る訳ないのか
377 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 19:27:42
>>355 「独眼竜政宗」は大河ドラマ平均視聴率が歴代一位。
渡辺謙にとっても「壬生義士伝」「ラストサムライ」と並ぶ代表作。
一般的な政宗のイメージは「遅れてきた英雄」「二十年早く生まれていれば天下を争った男」
大河がなかったらここまでいいイメージは浸透しなかったと思う。
378 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 19:52:01
子孫はドンゴリだけどな。
380 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 20:32:34
>>373 >国分盛重の出奔時期も文禄年間に捏造したのを、出奔先の秋田に残った資料を用いた
土居輝雄の小説(wにたやすく論破されている。
土井輝男のが捏造だよ。小説に引用している資料もほとんど講談本だし。
てか、おまえ、佐竹スレで論破された秋田人だろw
もう一度佐竹スレの国分関連の部分よんでごらん。捏造が暴露されてるから
381 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 21:07:27
政宗は、もっと留守政景に感謝すべきだ。
>>373 >それは、親子の相克が酷いという事実を、少しでも印象を軽くしたい
と思った当時の博物館長による文書捏造。
これも以前三戦スレで出てた話題だな。つうか、義子出奔の件は、その館長とやらが
紹介するずっと以前井に、そうした説があることが分かってる。新奇性の欠けらもないw
>>379 ああ、具足は格好いいよな、具足は。
でも小細工を失敗しまくってる中の人は・・・
384 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 21:46:08
伊達=弱い(口先だけ)は、どーなんだろか?
相対的に観ると、
一般的な戦さ上手:武田、上杉。
その武田と同盟を結び、上杉と常に戦ってた北条。
北条と戦ってた佐竹。
佐竹と戦って負けない伊達。
佐竹義重が鬼と呼ばれてたなら、息子が婿に入った芦名氏と、
伊達との決戦には本気出すのではないだろうか?
その決戦で伊達が勝ったって事は、
伊達=強い(口先も)では、ないたろうか。
385 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 22:22:53
373 :日本@名無史さん :2006/06/27(火) 09:05:43
>>369 それは、親子の相克が酷いという事実を、少しでも印象を軽くしたいと思った当時の博物館長による文書捏造。
国分盛重の出奔時期も文禄年間に捏造したのを、出奔先の秋田に残った資料を用いた土居輝雄の小説(wにたや
すく論破されている。
ゴッドハンドの露見を待たずして、仙台人の捏造体質を物語る。
ま、仙台開府(wした人からして捏造体質の結晶物だから仙台人の美しき(w伝統だよな。
一人残らず滅びろよ、仙台人。
↑
三戦板で論破された香具師、発見。ここに逃げ込んでたようだ(w
以前「秋田に残った資料」があると言い張ったものの、結局、ソースとして出せ
なくて、赤っ恥をかいて逃げ出した。土居輝男氏本人が「メモをとるのを忘れたので」
資料として出せないとか、言い訳していたログがあるよ。w
386 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 22:43:16
佐竹が鬼なら伊達は気違い
鬼は一睨みで常人を畏怖出来るが
気違いはどんなに睨んでも既に気が狂ってるから怖がらない
ケンカでも一番怖いのはヤクザや人殺しじゃなくって薬中や気違いやカルト信者だって言う
伊達は強いって言うよりもやってる事が気が狂ってるから
何やっても通じないって思われてるだけ
387 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 22:58:02
>335
>和賀一揆の策略は情けなかったな
あれを利用してあわよくば内陸は花巻辺りまで
沿岸は宮古辺りまで獲ろうと策略したが
なにを想像力をたくましくて「宮古辺りまで」と言ってるんだか w
和賀一揆の策略も何も、そもそも、伊達に積極的に接触してきたのは、
和賀忠親の方からなんだが。むろん、和賀家の再興の名目で。
妄想力に、久しぶりに笑わせてもらった。
388 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 23:43:22
389 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 23:53:16
妄想力がたくましいのは伊達や伊達厨だと思うのだが
幕府何ぞ開いてもいないのに仙台開府400周年とか
海外使節のデカイ文章とか
誇大妄想が激しすぎるんじゃない?
大体伊達ってセリフにゃ張りぼてって意味合いも有るが
まさにその通りだしな
>>384 武田はそれほど戦上手じゃないだろ
政宗は葦名攻めで見せた機動戦は十分戦上手の範疇に入ると思う
実際の戦闘では調略と数に任せてだが
あと大崎攻めは失敗したがあれは政宗の指揮ではない
大坂の陣はどちらかと言えばお粗末な気もするが
直接戦闘はそれほど強くないから戦闘指揮は普通レベルかも
391 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 05:40:11
>>373 >国分盛重の出奔時期も文禄年間に捏造したのを、出奔先の秋田に残った
資料を用いた土居輝雄の小説(wにたやすく論破されている。
初めて、このスレを読んだ人はわけがわからないと思うが、これは「国分盛重の出奔」
時期を、秋田の郷土作家の土居輝男氏の小説の中に「彦九郎」という伊達のものが
佐竹に出奔しており、それは小田原参陣前の天正16〜17年ではないか? と珍説
をとなえる秋田人がいた。が、国分盛重は天正19年にも伊達家の重臣として活躍して
伊達家に健在である。名生城攻めの際に蒲生氏郷と交渉をしたりしている。また秀次
事件連座の際の重臣達の誓書の中にも名を連ねている。国分盛重の出奔時期は慶長期。
アンチも、少しは歴史を調べて発言しないと赤っ恥をかくよw
結局、この「出奔時期」をいいだした秋田人と秋田の郷土作家、土居輝男氏の勘違で
一件落着したが(苦笑)
392 :
369:2006/06/28(水) 14:22:32
アンチでも何でもいいけど、詳細を知りたいんだが、何を見ればいいのか?
土居輝雄の小説←ってのもタイトルがわからないし
まぁ伊達には強烈なアンチがいるから、本当にこの件の話をしてるのかわからないけど
393 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 17:14:23
>>392 この日本史版の佐竹スレ「常陸―――――佐竹――――出羽」にあるよ。
>>137レスあたりから参照。
137 :日本@名無史さん :04/08/24 12:48
>>135 土居氏の代表作『常羽有情』の2巻で、佐竹から那須に届いた書状の中に天正18年の正
月の式典の記述があり、そこに「昨年伊達から亡命してきた義重夫人の弟彦九郎盛重」に
ついて「見慣れない名前だな。誰か?」という会話を枕に亡命の件が書かれています。
小田原降伏は天正18年の7月、天正18年の正月の式典の話題で「昨年」と書かれている
以上、土居氏は天正17年のいずれかの時点に国分盛重が常陸に亡命したと認識している
ということにはならないでしょうか?
古くは政宗が小次郎を粛清した頃、最近は文禄年間(秀次事件解決以降のいつか)頃と
言われている盛重亡命をこれだけ早期に設定した説は他に見たことがありません。
詳しい方で、土居説を補強できる資料をお持ちの方がいらしたらご教示ください。
国分盛重出奔時期のソースが示せず、土居輝男氏の単なる勘違いということで終了した。
政宗に野心と共に才気が備わってたことは確かでないかな?
頭を押さえられてるのに 中学生みたいなヤンチャするから小賢しいわけで‥‥
生まれて来るのが遅かったんだねw
馬上少年過 馬上少年過ぐ
世平白髪多 世平らかにして白髪多し
残躯天所許 残躯天の許すところ
不楽復如何 楽しまずして如何せん
10年20年早くても葦名に勝てず
30年40年早ければ相馬や天文の乱の後遺症に苦戦して
何もせずに終わるんじゃ・・・
って、いうか、漫画で丸っきりの創作だけど、「花の慶次」で一言のもとにぶった切ったセリフが全てだよな。
「なあんだ 餓鬼だな」
伊達と言えば騎馬鉄砲とか言う阿呆な部隊作ってたよなあ…。
雑賀とか長篠とかでいかにも鉄砲が革命的兵器で、その数が戦の帰趨を決めるような話もあったけど、
実際は間接砲撃が難しかったり弾薬不足だったり、修練にリソースが割けなかったりで、まだまだ改良の
余地が無数にあったような話も聞いてるけどな。
>>386 戦国時代「鬼」とまで言われた武将はそう多くないと思ったけどな。水野日向と福島丹波くらいしか俺は知らんなあ。
丹波の赤鬼・青鬼こと赤井直正と籾井教業を忘れちゃいけねえ
398 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 10:14:59
>396
鬼義重を知らないとは…
漫画ばっかり見てないで、たまに図書館でも行ってみれ。
伊達の失策を具体的に語るというより、伊達憎しのアンチが雑言を吐くだけになってしまったな。
400 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 12:38:25
糞伊達厨が必死なだけのウンコ
南部に勝てないヘタレ伊達
それにしてもこんなのに1週間もかけるなバカ
1日で終わるだろこの糞大名は
伊達も伊達厨もそもそも精神異常者
これが伊達の全て
以下何事も無く次は宇喜田家↓
401 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 12:42:10
播州弁てなんであんなに汚いの?
秀家に在坂ばっかりさせて、国衆と上方衆の亀裂を生じさせた秀吉が悪い。
あれ、宇喜多の失策じゃなくて秀吉の失策になってるな。
403 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 13:03:17
反論できない>>400が顔を真っ赤にしながら、カキコしている姿は
傍目から見てても面白い。
そもそも伊達は、南部なぞ相手にしてないだろw
和賀兵乱では、南部利直は、たかが一揆を鎮圧するのに「7ヶ月」もかかってるしw
404 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 13:57:08
宇喜田秀家の器量は小早川秀秋よりマシなのか?
405 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 14:13:37
>>403 宇喜田スレで御座います
精神障害伊達オタは帰った帰った
宇喜田の失策ってどうなんだろうな
関が原ばかりがクローズアップされるけど
406 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 15:55:40
>>400 >以下何事も無く次は宇喜田家↓
こらこら、負け犬、勝手に逃げだすな w
早く国分盛重の件のソースを出せや。
嘘をついたんだから謝罪しろ。
気長に待っててあげるよ。
アンチ伊達は低脳すぎる
>>404 秀秋はなかなかいい政治を行ったが秀家は贅沢三昧の悪政
宇喜多はやめて伊達の続きやろうぜ
410 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 17:45:49
>>308 >南部家の領地を何度も攻め取ろうと
何度も攻めたかあ?(笑)
直家が秀家を秀吉に預けたからor基家の早逝なんてな。
ま、秀家の元前田家臣&切支丹贔屓の所為で
家臣団が内分したのが不味かったんだろうな
伊達は次スレでリベンジやるようにすれば?
もしくは別でやれ、とりあえず今は宇喜多家
秀家の前田家臣贔屓やキリシタン贔屓も、豪姫さえ娶らなければ起こらなかったろうに。
諸悪の根元は、やはり秀吉だなw
413 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 18:34:48
宇喜田直家が、もう少し長生きしてたら、どーなったろうか?
ところで、直家って秀吉に暗殺されたんだっけ?
宇喜多の失策は関ヶ原以前の内部分裂にあるんじゃないか?
あれでかなり力を削がれた気がする
>>413 それはないでしょ
まだ毛利と戦ってたし宇喜多の力が弱まるのは秀吉としてもマズイ
>>393 > 国分盛重出奔時期のソースが示せず、土居輝男氏の単なる勘違いということで終了した。
当時、それを読んでさっそく土居氏に問い合わせてみたが、ご本人は勘違いだと言う自覚は全くお持ちではないようでつ。
おそらく、「土居氏の心の中の秋田県立図書館」のどこかには、きっとその文書があるんでしょ。w
417 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 19:58:12
伊達オタもアンチ伊達オタもキモいくらいの粘着だな
もう終わった事を何時までうじうじやってんだ馬鹿
今は宇喜田の話しだ
伊達オタもアンチも他所いって話せこの荒らし
>415
その逆もアリえるかも。
毛利と戦ってたからこそ、裏切られたらマズイかなと…
宇喜田直家ナル御人は一癖も二癖も有る御人みたいだしね。
兄弟でも直家と会う時には騙し打ちを怖れて着衣の中に、
鎖帷子を着てたらしいからな。
>>396 鬼吉川(経基)鬼吉川(元春)鬼真壁(佐竹さんと仲のいい)
鬼道雪、鬼武蔵、鬼柴田いろいろいるよ。
しかし鬼だらけだなw
420 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 20:39:30
妾の息子と妾の妹を掛け合わすって鬼畜だよな。ひできちって
421 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:42:19
サルは秀家の母親を見てヤリたく成ったから父親殺したんだな。
422 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:52:10
>421
違うよ!。秀吉は嫌がる秀家の母親と sexしたかったから、
宇喜田直家を殺したんだよ。
秀家の母親をレイプしたかったんだよww。
下っぱが出世して偉くなると、よく有る事例だよ。
鬼武蔵こと森長可はぶっちゃけ死に損だよな。あんな所で。
個人的には詮家の生涯も面白いと思う。
なにこのやりとり
421 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/06/29(木) 21:42:19
> サルは秀家の母親を見てヤリたく成ったから父親殺したんだな。
422 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2006/06/29(木) 21:52:10
> >421
> 違うよ!。秀吉は嫌がる秀家の母親と sexしたかったから、
> 宇喜田直家を殺したんだよ。
425 :
日本@名無史さん:2006/06/30(金) 06:35:29
373 :日本@名無史さん :2006/06/27(火) 09:05:43
>>369 それは、親子の相克が酷いという事実を、少しでも印象を軽くしたいと思った当時の
博物館長による文書捏造。
何か、根本的に勘違いしているようだが、その文書は、最上義姫が天正期に続き、
文禄期にも実家の最上家へ帰っていたことを単に示しているだけ。
小次郎の葬儀にからんで、旧古川市近辺に義姫の足跡が残っていることも史実。
「伊達・最上スレ」で以前にも論破された。
426 :
日本@名無史さん:2006/06/30(金) 12:03:53
>423
無理矢理って事を言いたかったんじゃねーの?
宇喜多直家や秀吉を誑かした美貌の後家・福久が
夫とともに死なずに宇喜多を頼ってきたのが宇喜多の敗因ですか?
しかし伊達関連の連中は程度低いな
ルール無視してくだらない煽り合いしてる奴ら
このスレ始まって以来初めてだよ
直家は邪魔者は片っ端から殺して主君でさえ殺害したのに
秀家は従順で忠義なんて言葉に躍らされるし
やはり育ちがよいと駄目なのか
ねねさが絡むと皆素直で一徹もんになっちまう件
431 :
日本@名無史さん:2006/06/30(金) 18:57:12
宇喜田家は毛利攻めの大将が羽柴筑前で良かった。
それで宇喜田家の運は開けたと思うよ。
なんてたって豊臣政権の大老だもんね。
秀家は特別可愛がられたが
逆にそれが仇となったとも言えるな
内部抗争がなければ関ヶ原ではもっと活躍できたと思うが
こいつの場合、残りの人生のロスタイムを考えると不憫で不憫で・・・
434 :
日本@名無史さん:2006/06/30(金) 20:23:30
八丈島での生活は辛いのかね?
>>434 約50年近く、延々島に留め置かれるのはきついと思うぞ。
前田家がずっと援助して、それでようやくってところらしいし。
能家がもうちょっと長生きしていれば直家の勢力拡大が楽だったんだろうけどな。
直家がその前半生において、浦上家中での勢力を広げることに腐心せざるを得なかったのは、
宇喜多の勢力の無さ故だし。
436 :
日本@名無史さん:2006/06/30(金) 21:47:33
宇喜田秀家って長生きしてんだね
437 :
日本@名無史さん:2006/06/30(金) 23:12:29
なんで秀家は、ねねの云う事を聞かなかったんだ?
ねねの元で育ったのに、ねね派じゃねーの?
常駐キチはわかりやすい
>>437 そりゃねねは思いっきり西軍派だからだろ
現にねねの側近と一族の大半が西軍についている
440 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 10:04:39
え、ねねって東軍じゃ・・・
西軍派は、淀殿じゃ・・・
>>440 西軍か、よくて中立だな
北政所の兄の木下家定の子供8人のうち
一人は出家、一人は細川忠興の婿のため東軍、一人(小早川秀秋)は裏切り
以外は西軍
あと北政所の側近中の側近である孝蔵主の一族もみな西軍で
孝蔵主は大津城を開城させている
秀家が関ヶ原前に豊国社に参拝した折には代理を派遣
ついでに関ヶ原後しばらくは北政所は福島加藤と絶縁状態という話しもある
更に言うなら北政所は三成が七将に襲撃された時、三成を助けた人物の一人でもあるし
関ヶ原後に三成の娘を養女にしている
442 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 13:00:19
>>441 返信ありがとうございまーす
そうだったんですか・・・
今まで、三成とねねは仲が悪いと思ってた
ねねと仲が悪いのは茶々ぐらいかな?
その逆の茶々と仲が悪いのは?
>>441 秀家は豊国社には二度参拝しているな
二度目はともかく最初のは会津出陣のための祈願かもしれないけどね
>>442 三成とねねは結構関係深い
他に津軽なんかも三成と関係深い
>>443 そりゃ俗説だろう
特に仲が悪いとされるような史実は無い
関ヶ原でも協力し合ってるし、大坂の陣でもねねは大坂城に入ろうとしていたし
ねねと仲が悪いのは福島や加藤なんかの武断派とか呼ばれるような連中でしょ
446 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 16:45:35
ねねは関ヶ原合戦終了後しばらくの間
行方をくらまして逃げ回るように転々と居所を変えている。
自分は敗戦側(西軍側)と自覚して逮捕・処罰を恐れていたからとも。
447 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 18:13:57
今、ものすごくおもしろいことを考え付いたのでまずはご報告。
夏の風物 戦国風鈴 「蚊惨」 一騎 2800両
涼やかな風鈴の音によってきた蚊は、その音に秘められた蚊絶滅波長でいちころです。
一家に10騎、どうぞ。 ご贈答、ご進物にもどうぞ。
有限会社 牛一
448 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 23:07:14
ねねが小早川秀秋を東軍に裏切らせたり、
武闘派を東軍の家康側に付かせたと思ってた…
449 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 07:26:00
ねねが東軍側なら豊臣氏は違う形にせよ存続できただろうな。
ねねの親族が豊臣氏を大きな顔して継いで存続していたと思う。
秀吉は元々木下家の婿養子であることもあって、木下家=豊臣氏の後継者を
木下家側=ねねの親族側(例:秀秋)から選定するのか、
木下家=豊臣氏を大きく発展させた功労者=婿養子の秀吉の親族側(例:秀次、秀頼)から
選定するのか大問題があったわけだが(秀吉とねねの間に子供がいれば問題無かったのだが)、
関ヶ原で両者が共倒れしてしまった。(狸の計算通りの結果なんだろうな)
450 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 07:35:34
451 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 10:09:12
大活躍した婿養子と嫁との間に子がないケースの後継者問題か。
立花家とかもかな。
漢の劉邦も呂氏の婿養子みたいなもんで、呂后との子の恵帝が
死んでから劉氏と呂氏の間で後継者問題がエラいことになってたし。
452 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 21:02:26
宇喜田もあんまし続かんなぁ
数日で半分消化したら十分早いだろ。
挙がってるのはほとんど秀家のことだけど、
直家は失策らしいものある?
浦上宗景追放して完全独立から死去まで六年ほどだし、
あらが見えないだけかな?
秀家(宇喜多家)の事と言うより秀吉の事の方が多いような気もするが…
直家に大きな失策があったら秀家まで続かなかったからなぁ
興家を謀殺した連中はいまや浦上家の家老・重臣で
そいつ等の目を欺きつつ勢力を拡大し、祖父の仇である浮田・島村を討ち
最終的に下克上だから。
最大の失策は秀家の母を匿って魅了されてしまったことだな。
宇喜田が東軍に付く選択肢は無かったのだろうか?
それと秀家が関ヶ原敗戦後に島津を頼ったけど、前田を頼って家康に詫びを入れたら
どうなってただろうか?
なんで島津を頼ったんだろうな?
船で逃げるのに都合良かったからか?
追い詰められた時に頼ったんだから、個人的な信頼度大だったんじゃないの?
巻き返そうと云々・・・て状況でも無いし。
朝鮮で仲良くなった
単純に(江戸から)遠くへ逃げたかったとか、
島津なら徹底抗戦するかもと判断したとか、
いろいろ考えられそうだけど。
そのまま島津領で隠れて暮らす事は出来なかったのかね?
結局なとこ、徳川には島津が通報したのかい?
宇喜多家臣進藤政次が秀家助命と引き換えに教えたとも
宇喜多は秀吉から分不相応に取り立てられたのが幸運でもあり不幸でもあった
結果的には不幸だろうね。
あれ以上の没落は難しい。
島津が通報したって史料はなかったような…あったっけ?
465 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 14:26:11
大老って何か職権があったのですか?
466 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 21:17:49
浮田?宇喜田?
467 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 22:48:29
宇喜田
468 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 22:49:15
あっ、ミス宇喜多だ!!
宇喜多が本家
浮田は分家
ちなみに三村家親を暗殺した遠藤又次郎が
浮田性を許されるなんてこともあった。
もともと浮田だったのを室町期に宇喜多に変えたと聞いたことがあるが
471 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 10:32:03
リトル松井みたいに、あて字で運気アップ狙ったんじゃね?
松井稼頭央w。変な漢字使ってるなw
472 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 21:38:09
宇喜多は人気無いね
宇喜田藩が無いならな
関が原の直前の内紛で、宇喜多三老のうち、岡と戸川が出奔した上、
一門の長老である忠家まで隠居したってのは痛かったな。
ちょうど代替わりの時期だったってのも有るから、
ある程度仕方が無いのかもしれないけど、
関が原の時に直家の頃からの譜代の臣が殆ど身を引いてたのは、
秀家にとって痛かっただろうな。
まぁ自ら招いた感が抜群だが・・・。
475 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 02:27:53
早く佐竹行こうよぅ
後30弱ガムバレ
477 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 15:18:51
秀家は裏表の無い真面目な素直な人だったんだろね。
裏表の有りすぎた直家と比べると面白いな。
まー育った環境が違うってのも有るけどね。
478 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 16:20:58
479 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 19:11:37
没収された宇喜多領には小早川が入ったんじゃなかったっけ。
反発あったろうね。
秀家の治世は微妙だったらしいが
秀秋の治世はごく短い期間にも関わらず良かったらしいから
反発があったとしてもすぐ収まったんじゃない
481 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 23:19:20
直家みたいな権謀術数に長けた武将の子供が秀家みたいな義理堅くて一本気な武将になる例って結構あるよね。
元就―隆元とか…
晴信―義信とか
信長―信忠もそうかな
>>481 隆元、義信、信忠・・・みんな早く逝ってしまった。
秀家はよくがんばった。
長生きだよな
484 :
日本@名無史さん:2006/07/11(火) 21:47:26
大河ドラマにならないかな?
…ならないよな
なっても前田や山内のような駄作になりそうな予感
50年間八丈島で生活する大河ドラマを希望
斬新だとは思うけど、視聴率は過去最低になりそうな悪寒…w
488 :
日本@名無史さん:2006/07/11(火) 23:01:28
単発ドラマでもいいから、秀家の八丈での生活とかやってくんないかな。
…やらないよな
でも、描き方によっては二時間もので面白く書けそうではあるよ。
年を重ねる毎に再起への想いが薄れていく、とか。
まぁ…おまいらが嫌いな歴史通りのヒューマンドラマ的になってしまうとは思うが…。
490 :
日本@名無史さん:2006/07/11(火) 23:48:18
「八丈島退屈男」なんて時代劇ならいけそうだ
今のNHKじゃできるんじゃないか
最近の大河はもう歴史なんて関係無いし
豪姫が夫が許されるのを待ちつづけるとか
遠くの夫を思うような話にすればできるんじゃないか?
492 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 11:47:28
八丈島での生活は、何人か世話する家臣も一緒に居たんでしょ?
まさか一人で自給自足?な訳ないよね?
息子二人も一緒に行った
嫁の仕送りもあった
長生きも出来た
幸せ?不幸?
でも五大老っていう権力の中枢に
いたわけだからなぁ。
そういう中央の世界にうんざり
してたなら別だけど。
495 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 21:01:01
五大老に宇喜多を入れるなんてヒデキチも、どーかしてるよw
496 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 21:08:06
大坂冬の陣の時八丈から脱走できなかったのか?
もうそんな野望はなかったんじゃないの
下手に逃げて捕まったら今度こそ殺されるしな
幕府から赦免されたけど拒否したって話もあったよね。
あれは何年ごろのこと?
499 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 21:15:54
秀家の豊臣家に対する忠誠は尋常じゃないぞ!
500 :
日本@名無史さん:2006/07/12(水) 21:31:05
宇喜多・終了〜!
右京太夫が三成への友誼に迷って国をまとめられず、常陸54万石が三分の一の出羽久保田18万石に減封。
渋江内膳政光を冬の陣で死なせたのも痛すぎ。
どっちにつこうとも関東から飛ばされるのは規定事項だったと思う
失策といっても義昭以前詳しくないからなー
伊達攻めの失敗葦名救援の失敗関ヶ原での選択
ぐらいしか失策が出てこない
504 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 11:16:55
上杉憲政からの関東管領職就任の打診を断ったのは失策といえないだろうか?
最大の失策は山入騒動だな
100年近くに及ぶ抗争でせっかく足利の下でつけた力を失ってしまった
義昭の早死にが痛い
常陸統一目前だったのにまた振り出しに戻った
山入騒動って何?
あと佐竹義昭について詳しく。。
508 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 21:00:09
人取り橋で政宗の首を、きっちり取っておかないから、
後々に政宗にデカイ顔されんだよ!佐竹さんww
>>507 10代当主義盛には男子がなく関東管領上杉氏から養子を貰う事になったが
一族の山入氏が強固に反対した
しかし宗家は強引に迎え入れてしまった
この事から関係が悪化し、当時鎌倉公方と関東管領上杉氏も劣悪な関係にあり
いわゆる上杉禅秀の乱が起きた
その関係で佐竹宗家は公方につき山入氏は管領はについてついに合戦に及んだ
管領家の敗北により山入氏も降伏するが関係は改善されなかった
その後山入氏は足利将軍家に近従していた関係で
ついに常陸守護を受けるに至った
一国に守護が二人存在する事態に陥る
更に将軍家と鎌倉府の争い
永享の乱が起こり宗家は鎌倉府に、山入氏は将軍家についてまたも合戦に至った
ここでは鎌倉府が破れ佐竹宗家は劣勢に陥る
そして15代義舜が若年で家督を継いだ為、本拠地・太田城を攻め落とされてしまう
居城を失った義舜は家臣の大山氏の元へ逃れた
その後義舜は山入氏の切り崩しを続け、太田城に返り咲き山入氏を滅ぼす事となるが
100年に及ぶ内訌により佐竹の勢力はすっかり衰えてしまった
佐竹義昭は1531年に佐竹義篤の嫡男として生まれる
1545年義篤(39歳)が急死し14歳で家督を継ぐ
1547年頃から江戸氏と交戦する
江戸氏は元々佐竹の被官であったが山入の乱に乗じて佐竹領を切り取り
佐竹宗家に対立するほどの力をもっていた
これを1551年に降し臣従させた
その効果で佐竹から離れていた南陸奥、下野東部、常陸西部の豪族達が佐竹に帰順して
再び佐竹の勢力を盛り返しつつあった
そしてこの年に関東管領上杉憲政が常陸に訪れ管領を譲る話しがあった
1557年には古河公方、北条氏康から当時本拠地を追われていた宇都宮広綱の救援を依頼され出陣する
そして宇都宮城を占拠していた壬生氏・那須氏を破り広綱を復帰させる
これによって宇都宮との固い同盟関係が築かれる
また、下野・常陸南部・下総の豪族達が佐竹と有効関係を結ぶようになる
1560年3月に那須に侵攻した白河・芦名連合を那須氏と共に退けた
6月には陸奥南郷に進出し白河・芦名連合と交戦した
(南郷も元々佐竹領だったが山入の乱により白河氏に奪われていた
古河公方の執り成しにより和睦するが白河氏から領地を割譲させた
翌年にも陸奥に侵攻し旧領を全て取り戻した
1562年には佐竹領に侵攻した相馬氏を打ち破る
1564年に大掾氏の救援依頼を受け上杉氏の助勢を借り小田氏を破り小田城を得た
また、大掾家当主の慶幹が死去し子が無かった為
慶幹の妹を義昭に娶あわせて、その子を大掾の当主とする事に決まる
その為に1565年家督を嫡男義重に譲り自らは大掾氏の居城・府中城に入り隠居した
隠居といっても実権は義昭にあり
府中は常陸南部の中心で前線にて諸豪族を束ね南進する狙いがあった
しかし翌1566年に35歳の若さで病死する
義昭の死により大掾との契約もなくなり(子は出来なかった
落ち延びていた小田氏も反撃に出て小田城を奪還
離反する豪族も出て常陸南部の足掛かりを失い
佐竹による常陸統一は目前で頓挫した
佐竹義昭って優秀だったのか・・・
佐竹は義重以前の数代(義舜・義篤・義昭)は
孫の顔が見れない短命続きだったからなあ。
優秀な当主が隣国まで影響及ぼす→若くして逝去
→従ってた豪族離反→やり直し
という見事な悪循環。
十代前半で親が死んで跡目を継いでる人もいるし、
まず健康に問題ありだな。
そら佐竹ヲタが書けば優秀そうに見える罠
実際は、どれだけ勢力拡大したかとか見ればわかる
義重ばかりが有名だが
義昭はそれ以上に名将かもね
関東管領を譲る話しを持ち掛けられた時は弱冠二十歳だし
いくら名門でも器量を見込まれなければ二十歳そこそこの若造に重職あずけようとは思わないだろう
家督を継いだ時は奥七郡やっと押さえた程度だったが
10年後ぐらいには陸奥、下野、下総にまで活動範囲を広げている
義昭が50ぐらいまで生きれば佐竹の家運も開けたかもしれないね
義舜も義篤も優秀だったけど何せ出だしが悪い
義舜に限っては本拠地すら失っていたからな
やはり山入一揆が痛い
あれさえなければ相当勢力拡大できたのに
それと
>>513の言ってるように短命すぎ
せっかく安定したと思うと主が死んでまた荒れての繰り返し
まあ、こればっかりはどうしようもないが
まあ、結果的に上手くやったと思うがね
常陸から飛ばされたのがちと痛いけど
関東に外様の大藩なんて居られるわけないし仕方ない
江戸初期の関東外様は6家
最大が大関の1万8000石
こんな状態なのに54万石の佐竹(与力大名合わせて80万石弱)がどうあっても飛ばされない道理がない
秋田21万石なら常陸に小名として残るよりか良かったんじゃないかな
誰かのマンガでそういう説明してたな。タイトルも思い出せないが。
なんか秋田にとばされた佐竹家中で城をどこにするかで争ってた話。
そもそも、転封に佐竹が頷くかどうか。鎌倉以来の土地だしね。
明確に東軍支持していたら家康はどうするつもりだったんだろ。
後日、いちゃもんつけるかどうかして取り潰そうとしたと思うよ。
加増という形で四国や九州に飛ばす
でも、実際に秋田転封は理由不明なんだよね
関ヶ原から一年以上経ってるし
それに関ヶ原では東軍加担の取り交わしをちゃんとやってる
一応義久が出兵して中仙道部隊と合流してるし
減転封する理由はこれと言ってない
ただ、義宣は西軍加担できなかったのが面白くなかったらしく
水戸でふてくされていた
徳川への交渉は義重と義久が勝手にやっていた感じ
義宣がすぐに家康の元に申し開きや機嫌伺いしてれば
減転封はなかったかもしれない
524 :
日本@名無史さん:2006/07/16(日) 17:28:25
美人とハタハタを常陸から持って行った佐竹イクナイ
>>519 岩明均の「雪の峠」って奴だな。上泉伊勢守の弟子、疋田文五郎がある女の仇討ちに協力する
「剣の舞」って漫画とセットになってる。講談社漫画文庫で読める。
>>525 おおありがとうセンクス。
岩明均って「寄生獣」の人だよな。ググってみたら歴史モノも描いてたんだ。
527 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 16:55:09
人取り橋で敵前逃亡の佐竹(笑)
528 :
日本@名無史さん:2006/07/19(水) 00:28:10
清水義範も佐竹家もんを書いていたと思う。歴史小説じゃないけど
詳しくないから何もかけん
530 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 20:28:36
人取り橋の時に、対伊達連合軍の旗頭は佐竹でOK?
おk。
義重はあの場面でどうしても撤退する必要があったのかね。
翌日に総攻撃を仕掛けてれば政宗に大打撃を与えられてただろうに。
里見・江戸の攻撃がガチとして、
常陸に残ったメンツで守りきれそうになかったのか?
というか義重が常陸にいたわけだが…
奥州に向かったのは小野崎義政
その義政が死亡しては撤退せざるを得ないだろう
江戸や里見が攻めて来たと言うのは何の資料もないし
元ネタになってる資料はかなりいい加減なものだから後世の創作と思って間違いない
あ、そうなんだ・・・
ありがとう。嘘広めるトコだった。
ちゃんと覚えときます。
534 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 12:55:31
少なくても当時の記録には義重の名前はない
常陸の資料にも義重の出陣を示す文書は残ってない
義政は佐竹の筆頭家老的な重臣で
度々義重の代理として総大将をつとめてるから
北条との緊迫した状況の中、義重は国を空けられず義政を向かわせたと思われる
536 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 18:33:37
総大将が討ち死にするって事は、連合軍側も苦戦したんだな。
伊達は弱いってイメージあったけど強いんだね。
もしかして、佐竹が弱いのかな?
佐竹は強いイメージあるのだが‥。
連合軍が圧倒的優勢だったのに討ち死にするわけないだろ…
義政は事故で死んだ
家臣と口論になって刺殺されると言う無惨な最後
この失態を隠すのに江戸や里美の侵攻云々を後に創作した可能性が高い
538 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 19:28:34
>>523 幕府にとって関東の入り口に外様をおいとくのはまずかろう
義政も有能だったのにつまらん所で死んだわな
これは失策と言うか失態か
540 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 19:46:58
家内の不統一と、観音堂で伊達成実に激しく叩かれたことで、連合軍の
意気が削がれたことで、佐竹の敗北が決定した。前代未聞の惨めな内ゲバも
発生し、おびただしい死傷者を出して撤退していった。
人取橋では、佐竹義重も出陣。岩城、石川、白石らと須賀川へ出て、伊達勢と
戦っている。この戦いで義重は政宗の名を全国に轟かせる役目を負ってしまった。
翌年、後ろ盾を失った、二本松城は一気に陥落。国王丸は会津へ奔った。
佐竹の罪は重いな。w
鬼庭が死んだことはどうでもいいのかよ
連合軍はあまり戦死者出てないわけだが…
伊達の戦死者は7百だっけか
政宗は本陣まで斬り込まれて政宗自身が刀を抜いて斬り防ぐほどの状態だった
鎧には4発の銃弾を受けた
車のオッサンやる気満々だったからな
失策と言えば和田昭為はやはり車の讒言にあったのかな?
和田の帰参、車の城の破却から見ると濡れ衣だったようだが
544 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 01:39:17
>>541 なんだかんだ言って、鬼庭は名将だったからね・・・。
彼の戦死が世代交代を促した一面もあると聞いたけど、やっぱりベテランが
死ぬってのは相当痛かっただろう。
545 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 06:38:02
いかりや長介か・・。
まあ、人取橋は貞山公の調略が珍しくはまったんだろうな。
さすが奥羽の覇者。切れる切れる。
546 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 10:29:38
伊達が絡むと伸びるねw
人取り橋で伊達を潰しとけば、北条と決戦できるぐらいの、
勢力を佐竹は持てたかも知れないね。
豊臣の政権下でも五大老ぐらい成れたかもね。
そうすれば会津は甥の領土だし、佐竹は一貫して親織田・豊臣だものね。
潰すって無理だろ…
太田から300`以上離れた土地を飛び地で支配するのか?
そもそも佐竹は援軍であってメインじゃないからな
あそこで政宗討ち取っても佐竹の領地に組み入れられるわけでもない
というか絶対潰さなかったろうな
知らない人多いようだが佐竹には親伊達派が力持ってる
義久なんかもその一人だし
人取り橋の時に捕らえた政宗を逃がしたのも義久らしい
義久ってくせ者?
550 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 12:33:16
佐竹の陣地で殺人が起こったのは、政宗側の謀略だろうな。
連合軍はガセネタ情報にも踊らされ、みすみす勝機を放棄してしまった。
>>550 それはない
伊達は連合軍が引き上げたのにも気がつかなかったぐらいだからな
つうか南奥州の連中ってどうよ
佐竹が引き上げたところで戦力的には全く問題ない
それに実際に問題に直面してるのは遥か遠方の佐竹じゃなくて自分達だろ
それなのに佐竹が帰っちゃったからお開きってないんじゃないか?w
義久はなかなか優秀だけどいまいち何考えてるのか分からんところがあるな
独断なのか義重の指示なのか知らないが義宣とは違う動き見せる事も多い
義宣は義久を疎んでたと言う話しも多い
実際秋田に移ってから東家は冷遇されるようになってる
もっとも常陸以来の譜代は疎まれてみんな冷遇されたが…
554 :
日本@名無史さん:2006/07/26(水) 01:28:37
正直
政宗ゴトキにこのザマじゃ
秋田の僻地に飛ばされて当然
負けるべく負けたゴミでしかねーんだよ
佐竹はある意味神懸かった強さだな
対伊達戦なんて千騎ぐらいしか動員してないし
北条戦の片手間に政宗追い詰めてるんだからなw
556 :
日本@名無史さん:2006/07/26(水) 13:10:17
佐竹は秀吉に早々と土下座しに行った後、留守の本拠地を伊達に
襲われると思ったのか、再び会津へ兵を出している。結果は、鎧袖一触。
赤子の手を捻られるように伊達勢に叩かれて、常陸へ逃げ帰っているw
妄想ネタは三戦板でどうぞ
558 :
日本@名無史さん:2006/07/26(水) 14:51:53
秀吉があと1年遅れたら佐竹も北条も政宗に滅ぼされていたのは間違いない
560 :
日本@名無史さん:2006/07/26(水) 16:07:21
秀吉も家康も泣いて懇願するほど政宗を恐れていた
政宗は手加減していたからいいものの
本気をだしたら佐竹など1日もかからずに滅んでいた
うん。まったくもって佐竹はしらないんだが、
信長の野望だとなぜか毎回つよ(ry
うん。ごめん。気にしないで。
562 :
日本@名無史さん:2006/07/26(水) 18:25:51
実質日本の支配者は政宗だったからね
豊臣も徳川も伊達の傀儡にすぎない
ブッシュも本当は伊達家出身だしな
車さんがが政宗さんを殺す気満々だった位しかしらんなぁ。
あと丹波一揆か。
565 :
日本@名無史さん:2006/07/26(水) 20:44:01
葦名の跡取りの件では、政治的に伊達に勝利してんだがな…
残念ながら強大な葦名の軍勢を佐竹は活かしきれなかったね。
もともと葦名家中では血縁の近さや義広が既に養子にでていることから
伊達が継ぐ方が有力だったらしいが
一部の家臣が強引に佐竹に継がせたため、そして相続後一部の近臣で政治を行い
伊達派の国人を遠ざけていたため
(まあ伊達が有力視されていたところを強引に継いだため義広の権力強化は必然か)
佐竹の家督相続後は実際には家中は分裂状態であったとも言われているから
仕方ないかもしれない
567 :
日本@名無史さん:2006/07/27(木) 08:45:36
じゃあ、佐竹の話も尽きた様だし、伊達の話に戻すか。
大崎攻めはやっぱり失策だったよな。
>>560 状況も理解せずに戦争に手を抜いていた政宗は、つまり阿呆だといいたいのですね。
なんか佐竹は芦名に対しては冷淡だよね
佐竹は救援要請があれば何の得にもならなくても足しげく救援にいくけど
芦名が援軍要請しても佐竹からは一兵もださなかったり
申し訳程度に数百ぐらい送ったりしかしてない
奥州方面は義久が受け持っていたけど
義久の動員できる兵力は与力含めても五百とかそんなものだし
人取橋以降は関東の対応で手一杯で奥州方面はもう捨て置いていた感じ
570 :
日本@名無史さん:2006/07/27(木) 12:47:55
佐竹義宣はプライドばかり高いチンケな小物だな。関ヶ原翌年の1601年、
家康の年賀の挨拶を、義宣はすっぽかし、老齢の父義重を困惑させる。
しかし、心の中はどきどきだったのだろう。1601年4月頃、秀忠が上方から
江戸へ到着したとき、義宣はそれが佐竹征伐軍と思いこみ、無様な狼狽ぶり
を見せている。その後、しばらく家康による放置プレーがつづき、お家安泰
かと思った矢先に、秋田へ左遷という末路をたどることになる。
家康らしい、佐竹を心理的に虐め抜いた上での処分であった。
なんの事はない
義久が宇都宮12万石加増を辞退して
義久一代は国替えなしと言う約束を取り付けた
義久は家康は年だから先に死ぬと見込んでそういう約束をしたのだが
翌年不運にも急死した
義久の死と共に取り決め通り国替えが行われた
572 :
日本@名無史さん:2006/07/27(木) 14:12:58
義久を抹殺したのは義宣だろ
茨城県民は黄門様一色だし‥‥佐竹って可哀想だな
秋田では人気あるんだよねぇ?
その黄門様のせいで水戸藩の財政はズタボロ、領民への圧政は苛烈
ほんとはとんだ疫病神なんだがなあ
茨城で肛門様なんて人気ないぞ
歴史好きは佐竹贔屓だし
歴史に興味ない人はドラマの水戸肛門しか知らん
徳川系で人気あるのは藤田東湖、徳川斉昭、慶喜、武田耕雲斎あたりだな
576 :
日本@名無史さん:2006/07/28(金) 05:21:42
571の話って本当なの?
秋田叢書
関ヶ原では陸奥に進出していたが家康の指示により水戸へ引き上げ
その後中仙道部隊への合流を命じられたが
義宣は動かず義久の手勢だけが向い秀忠軍と合流した
と、東軍に組した事実があるが為に関ヶ原後佐竹への処罰はなかった
その後2年近く経ってから義宣は転封を申し渡された
理由は不明瞭
家康は佐竹が蜂起するのではないかと危惧し軍が繰り出され
一時市中が騒然となったと義演准后日記にも記されている
580 :
日本@名無史さん:2006/07/29(土) 12:29:55
義宣に関する逸話で、
家康が関が原で西軍に組した義宣を
「この時代に稀な、頑固な忠義者」とか何とか評していたのを小説で見たことがあるが、
あれは全くの嘘なのね。
『佐竹は西軍に組して、普通に転封された』って歴史的事実だと思っていました。
えぇ、にわかですよ。
いや、それを言われたのは三成を匿った件
武断派と三成がもめた時に義宣が匿って徳川の屋敷に連れて行った話しで
後にその件について問われた
釈明するように促されたが義宣は
当時武断派が三成を追い回していたのは私怨であり
それを助けるのは当然の事だから弁明する事などなにもない
と言い切った
それを聞いて家康も
義宣は律義者だ、しかし律義すぎるのも困る
という事を言ったらしい
反伊達、親三成で、且つ親上杉じゃ、周りの見る目は西軍だな
583 :
日本@名無史さん:2006/07/30(日) 11:54:53
北条家との関係が、そのまま続いてるんじゃないか。
北条と争ってた同士が仲良くなる。
北条と交流してた同士が仲良くなる。
584 :
日本@名無史さん:2006/07/31(月) 11:44:21
佐竹に詳しい人に質問。
義昭、義重、義宣を業績順に並べると、義宣は必ず最下位ですか?
佐竹自身の支配地で言ったら
義宣>義昭>義重
だけどね
それに義宣は戦国時代の終結(小田原・奥州征伐)の時点で二十歳ぐらいだから
前の二人と比べるのは難しい
586 :
日本@名無史さん:2006/07/31(月) 20:41:30
佐竹だったら義重が一番好きだな。
なんてたって鬼だもんね。
義重の奥は輝宗の妹?晴宗の妹?
義重の正室は晴宗の娘
輝宗の妹だね
でも義宣が早く生まれていれば佐竹はもっと伸びたはず
義重は知勇兼備の名将だとは思うが
お人よしな性格と領土欲なさは戦国大名としては致命的
まあ、だから人望があったのかもしれんが
晴宗や輝宗にノチの「バカ」の自惚れとハッタリが有れば‥‥
それにしても和田さんちの親族を
全滅させてしまったのは・・・車の讒言こわいね。
でも本当に讒言なのかな?
和田が帰参してからもちゃっかり車は居座ってるし
ていうか車って何なんだ
岩城にいたり太田にいたり蒲生にいつの間にか混ざってたり上杉にいたり
だいぶ自由な人だな
591 :
日本@名無史さん:2006/08/03(木) 05:05:22
車は何故常陸に残ったの?
まあ、正直連れていってもらえなかったんだろ
関ヶ原より大分前に佐竹の家臣じゃなくなってる
蒲生家に移ってすぐに退転
岩城に帰参(車氏は岩城一族、元々岩城の家臣
関ヶ原で出奔して上杉に仕えた
戦後また岩城に帰参
が、岩城は改易
職も失ってしまったので不平分子集めて反乱起こしてみた
という顛末かと
しかし仮に水戸城奪ったとしてその後どうするつもりだったんだろ…
真田を書きたくてうずうずしているやつがイライラしてそうだな。
1には悪いが真田行かせてね
武田滅亡後織田の傘下に入るのは必然だと思うけど
本能寺後上杉を頼るという選択肢は無かったのだろうか
上杉はのど元にあたる北信をのどから手だし、説得は可能だろうね
御館の乱で弱体化していたとはいえ、上田合戦を見る限り北条への睨みは効かせられているよね
史実で北条に引き込んだように、上杉への引き込みと同時に武田旧臣を募れば
北信位は刈り取れたんじゃなかろうか?
列強に囲まれながら所領を保っただけで賞賛に値するんだけど
昌幸ならもう少しやれたと思われ
先走ったから真田は600までで終了
車丹波は一揆の際一体どこから人をかき集めたんだ・・・
しかもなんか佐竹一門まで混ざってるし。
597 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 12:28:07
車って当時の人格障害者じゃないの? 虚言癖はあるし。
佐竹が見放すのも当然だな。
俺、車のイメージ・・さ・・・司馬遼太郎ダターヨ
讒言とか聞いてビックラこいた
あぁ〜あの頼れるおいちゃんね。
人格障害者か・・・今日酔ったおっさんを注意した若者が
おっさんに逆切れされて最近のおまえお父さんやお母さんから
育ててもらったんだろ?一生懸命お前を育てたんだぞ!!
とかわけのわからない事言い出して仕舞いには奈良の殺人事件だとか
秋田の事件とか爺と婆がセックスしてお前の親が生まれたんだ
とか変な事を言っていたな。
車もこれの同類なのかと思うと鬱。
600 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 09:44:37
佐竹終了か
か
602 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 12:38:31
け
603 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 12:39:17
い
国家安康 君臣豊楽
真田か
失策も何も過大評価大名のナンバー1だと思うのだが。
特に信繁は「真田幸村」という芸名wの方が有名になるくらい持ち上げられ杉
同意、真田信繁は兄への情けない手紙と大坂でのギャップが好きだが、
真田幸村の薬にも毒にもならない聖人君子テイストな完璧超人っぷりが受け付けない。
あと真田クラスの小大名になると失策は滅亡に繋がるし、
ifを想像するにしても本能寺以後は真田がどうこうして天下の趨勢が変わるという情勢ではないからなあ・・・。
607 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 17:59:18
幸村は大坂の陣で政宗公にボコボコにやられて大坂城に泣いて逃げ帰った雑魚
608 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 19:53:24
正宗にぼこぼこにされた??
チンポとか言う奴のことか?
>>605 いやもう真田家の場合失策はないでしょう。
昌幸が物わかり良く徳川家康に臣従していたら、
「真田家」なんて知ってる奴殆どいないよ。
徳川相手に上田城や大阪城で激闘して武名をあげたから名前が残ってる。
ある意味戦国時代の勝者。
610 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 22:58:18
昌幸がもう少し長生きしていたら、大阪の陣も変わっていただろうなぁ。
まあ空想を抱いても仕方がないのだが、家康は実際、真田が大阪に入城した時
「親の方か、子の方か?」と言って、昌幸を恐れていたと言うしなぁ…。
大名家としては強くはないが、武将としては強い戦国大名だったのだろう。
昌幸や信繁の過大評価の反動のせいか信之は超過小評価なのな
しかし父や弟も実際は一家で一番の才が有るのは兄の信之だって言っていたし
何よりも武将としてもそこそこ良かったけど
信之の真価は家康没後の幕府からの改易狙いの監視を
一切の隙無く自分の家を守り通した事だよな
ただやっぱり何って言うか攻めてる方は華々しくって
守る方って地味な上に評価もされないんだけどな
612 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 05:08:11
信之の息子は大きな失策してるけどな。
613 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 09:13:35
607さん
夏の陣で幸村は政宗と戦って撃退したんじゃないっけ?
背丈の高い草に足軽を潜ませておいて、政宗の騎馬鉄砲隊に急襲かけたとかって。
違うっけか?
望月・海野・矢沢が同族だよな?
これら同族を真田がどう御したのか?
反乱とか起こされてたりすんじゃないのか?
騎馬に鉄砲を持たせる意味が分からないのは私だけですか?
政宗タン何したかったんだろ・・・
つか、そもそも馬は4本足。
手はついていないから鉄砲なんて持てるはずがない。
騎馬武者に鉄砲を撃たせるって、意表を突くぐらいにしか思いつかない。
そこまで当たるとも思えないし一発撃ったら終わりだし。
あれって確か短筒でしょ
だったら命中云々というより音で驚かせるものなんじゃね
619 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 20:32:01
>>613 朝から戦い続けて疲労困憊の伊達相手に苦戦して結局引き上げたのは真田の方じゃん
馬の頭の上で鉄砲撃ったら自分の馬がビックリしてひっくり返りそうだw
いきり立つなよ
遺児が伊達側に引き取られた 心温まるエピソードもあるじゃないかw
実際騎馬から弓を放つ場合も目の前で撃つわけだし
どんな短筒使ってたのか知らんが狙える射程なんて十数メートルぐらいだろ
だから使うとしたら槍が届かない程度の距離
せいぜい5メートル以内ぐらいで使ったんじゃないかと思う
槍振るうよりは使い勝手良さそうだよ
鞍に何本か差しておいて撃ったら離脱…
うむ、普通の鉄砲隊の方がよいな
623 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 01:06:12
鉄砲騎馬隊は足軽とセットで、撃ったら捨てて、足軽が拾う。
その後は普通に戦う。という画期的な見た目だけの作戦だったはず。
624 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 07:19:00
いくら下克上の時代でも戦争に強いだけじゃ
大大名になれない例の見本みたいだな。
625 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 08:23:34
戦った相手に娘を託すなんて、片倉を漢と見込んだんだろな。
626 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 08:30:04
敗軍の将の娘が略奪されて妾になっただけだろう?
よくあることだ。
島津は、騎馬武者でも馬上筒が標準装備だったらしいが。
628 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 10:02:34
幸村は、戦場に遅刻するという大失態を演じた。
一方、午前2時頃から昼頃まで、伊達の片倉隊は延々と戦闘を繰り広げ
後藤、薄田らを討ちとるなどの殊勲をあげている。
そこに、登場したのが真田隊だが、疲労困憊の片倉隊を撃退したものの、
伊達政宗が本隊をくりだしてくると、形勢悪しとすぐに退却してしまった。
真田隊と、伊達、水野勝成隊は、そのまましばらく睨み合ったままの状況
が続いたが、幸村はついに再逆襲もできずに、「関東100万もそろえど」
の負け惜しみを言いながら、退却している。
さすがに、伊達政宗との直接対決が怖かったのだろう。
>>628 道明寺の戦は主将水野勝成と後藤基次の戦略眼の差で、開戦前に勝負はついてた。
伊達は先鋒が蹴散らした後を草刈しただけだ。
あと、真田が遅刻したんじゃない。後藤基次が先走りしすぎただけ。大体、仕えていた
長政にあんなに露骨で徹底的な奉公構えを食らって、刺客まで差し向けられてるってことは、
相当に性格悪かったとも考えられるわけで。
あと、誉田の戦いは、真田にいいようにやられて伊達軍は本陣近くまで迫られて、道明寺
まで退却する羽目になってますが?
その後のにらみ合いでは、伊達軍は損害と弾薬の消耗を理由に大和口総大将の水野勝成の
戦闘参加要請を断り続けてますが?
おかげで本多忠政隊や松平忠明隊も二の足を踏んで、真田の「負け惜しみ」と相成ったわけですがね?
ちなみにこのにらみ合いの段階で終結した戦力は、徳川勢は豊臣方の倍近い兵数がいた事実から目を逸らさんでくれ。
630 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 15:27:06
後藤基次のところは空想以外の何者でもないな。
小人数の後藤ら相手に疲労困憊するのもどうかと思う
632 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 18:33:53
後藤基次と長政は、君臣というより兄弟みたいに育てられたので、
上下のけじめがなく感情的に対立したんだろうね。
633 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 18:54:25
どちらにしろ真田の方が退却したのは間違いない
逃げながら何言っても負け惜しみにしか聞こえないだろ
今日のところは見逃してやる
て言ってトンズラするやられ役そのままじゃんw
まあ、幸村もウケ狙って言ったんだろうけど
>>629 まあ黒田長政ってのも相当強烈な性格してて、友達無くしてるわけだけどね。
636 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 19:56:33
幸村って、変な顔だよな。
本来は小松山と大和川の間の隘路を押さえて迎撃するはずなのに
間に合ったのは後藤勢だけで、隘路を押さえて迎撃するはずの後続が遅れていたから
後藤隊は包囲殲滅されたんじゃ
講談の山崎の合戦風に言うならせっかく後藤が天王山を押さえたのにといったところか
だいたい石川を突破されるのにさえ間に合わないんじゃ真田や毛利等の後続は話にならない。
後藤の作戦で勝ったら面白くないから見殺しにしたんだよ
どっちにしろ夏の陣では勝ち目ないがな。
640 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 08:06:40
真田は、淀らに皆目、発言権がないからな。
外掘りと内掘り埋められているのを指をくわえて眺めてただけだし。
夏の陣は万に一つの勝利の可能性もなかった。
641 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 08:11:06
そりゃ、真田のような何の武功もない外様の小身者なんか誰も信用しんわな。
しかも表裏比興の者だし。
昌幸だったら篭城戦の実績があったからもう少し任されたかもしれないが、
幸村じゃあ信用されなくても仕方ないね。
昌幸でも信用されるかな。
結局大軍を運用した経験が無いし、
浪人衆にイニシアチブを渡すような豊臣直参衆だったら史実とは違った展開になっていただろうし。
644 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 15:25:58
うんのないだいみょうだったこと
645 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 18:00:12
結論。
真田は九度山にこもってゴリラ戦をしていればよかった。
646 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 20:18:34
真田幸村って言ったら川崎麻世だな。
真田の隣に並べると 胡散臭い姓名だな
648 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 22:06:11
川崎麻世といえば尾崎豊だね。
649 :
日本@名無史さん:2006/08/19(土) 22:22:06
真田は過大評価され過ぎだな。
特に幸村はな。
650 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 01:35:25
>>649 過大評価は幸村だけだろ。
幸隆、昌幸あたりは評価に相応しい実績を持ってる。
いやむしろ、後世の名声から言ったら過小評価と言っていい。
島左近、加藤清正、本多忠勝、柴田勝家、伊達政宗、武田信玄、上杉謙信あたりの方が名声でははるかに過大評価を受けてる。
相応しい実績って?
んで過小評価なのは信之
結局家を守る為に長く地味に耐えている事なんて
その労力の多さに比べて世間の見る目はそんなものよ
信之は知名度が低いだけで知っている人には
ちゃんと評価されてると思うが。
654 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 08:25:22
>>652 長い間耐えてるのがそんなに偉いのか?
っていうか、そもそも信之って常人では耐え難い扱いを、しかも長い間受けていたかい?
信之が過小評価だというのならば、みじめな路上生活を長年おくっていらっしゃる
ホームレスの方々の方がよっぽど過小評価なのでは?
信之さんはなぁ
下手すると嫁の方が有名だったりするし…
656 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 19:58:31
信之の真骨頂は江戸初期を生き抜いた政治力だろう。
関ヶ原後に昌幸と幸村の助命にも成功してるし。
一族があれだけ徳川に反抗したのに、内通の疑いで失脚しなかっただけでも見事。
ま、戦に関しては目立った実績はないみたいだが。
657 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 20:09:15
>>654 >>652は後2行は
>>650に対する意見で、信之に関してのみ言ったことではないだろう。
ホームレスってwww
何の能力もないDQNの集合体じゃんw
大名として家を保つことと、残飯をあさって生き残ることの違いもわからんのか。
>>656 戦でも活躍してる
初陣で別働隊の大将やって
徳川の大軍相手に大勝利
無論作戦は昌幸によるものだろうが
指揮能力は確実にあると思う
>>657 家を保つことのできた大名って、室町、江戸を通じて何千人いるんだろうね?
全然たいしたことないジャン。
660 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 09:21:53
室町とか言い出してる
馬鹿だ
>>659 数が多いからって「たいしたことない」にはならないだろう
>>654>>657もそうだけど戦国大名とホームレスを同じ土俵で語ろうとするのが変
大名>ホームレスと言いたいわけではなく、比較物としておかしい
そもそも654だってホームレスも馬鹿にしての
>>654のレスだろうし
663 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 11:01:28
>>662 数が多いって事はたいしたことないって事だろ?
ありふれてるということだ。
>>663 だから〜、親兄弟が敵方に回ったのにってことだよ。物わかり悪いの。
一族こぞって家康のけつの穴舐めてでも生き残ったのならそりゃいっぱいいるよ。
江戸初期の改易の多さもロクに考えず
あんなもん誰だって出来るって妄言吐いてるヤツがいるもんだな
あの時代ちょっとしたミスにつけこんで改易された大名がどれだけ多いか分かってないんだろ
>>665 しかも真田の場合、2回の対徳川戦で煮え湯を飲まされたのが幕閣にいて、
1回目のには信之自身も出馬していたわけだし。
家康はその辺はさっぱりしていたが、家康の死後はよくある話だが譜代が私怨で外様や同僚を謀略にはめて潰してたし。
↑あの時代を生き残った大名がどれほど多いかわかっていない馬鹿
>>667 だから真田は恨みを買ってただろ。いい加減に理解しろ。
あの時代に生き残った大名は、みな生き残るための努力を払ったんだよ。
伊達政宗は己が老いたことを見せ付けるために老中に自分から相撲を挑戦して
見事に負けてお世辞をいったり。前田家の当主(名前忘れた)は江戸表に出ると
鼻水たらしたりして阿呆を装ったり。
将軍を吃驚させようと天井にしかけを作ったり
武士としての奉公を果たすため壊れた石垣を許可が降りる前に直したり
幕府に気に入られようと表高を10万石としキリシタンを取り締まったり
671 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 22:18:23
>>669 ああ、みんな努力してたのか。
なら真田なんか極々普通だね。
しかも田舎の小名だし。
で、真田信之の何処がそんなにすごいと言いたいんだい?
672 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 22:51:48
批判ばかりでつまんね
>>671 努力はしたが、かなわず改易に追い込まれた大名家はたくさんある。
詳しくは忘れたが、秀忠時代で100以上、家光時代でも80か90くらい。
(不確かなんで間違っている可能性はある)
親藩も改易されが、それ以上に潰されたのが外様。
ここまでいっても「たいしたことない」としか思えないのならもう言うことはない。
674 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 23:35:23
信之がすごいのは90を過ぎてまで孫を補佐して家を守り抜いた事にある。
弟やバカ息子は家を潰しているのにも関わらずだ。
>>673 家光の「俺は生まれながらの将軍だ」って言う台詞は
実は秀忠が家光に言わせたって説も有るらしいな
実際改易や断絶などの家を絶やす行為に熱心だったのは秀忠だったらしい
それに秀忠は家康ほどに真田家に一目置いてた訳でもなかったし
とにかく何かにつけて潰す機会を狙っていたからなぁ
>>674 伝聞なのでソースが出せないが、父の昌幸は長男の信之が家を安泰にすると見込んでたらしい。
徳川を苦戦させたって言う事で有名な昌幸も
晩年は息子の信之に何度も何度も金と飯の催促や泣き言ばかり言ってたものな
676 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 23:53:08
信之を批判してる馬鹿は一人だけだろ。
もうスルーしとけ。
>江戸時代の改易数を大名数でみると江戸時代全体では外様大名127名,徳川一門・譜代121名の計248名を数え,
>家康治政下に41名(うち外様大名28名),2代秀忠治政下に41名(うち外様大名25名),
>3代家光治政下に49名(うち外様大名29名),4代家綱治政下に29名(うち外様大名16名),
>5代綱吉治政下に46名(うち外様大名17名)とほとんどが家康から綱吉に至る幕藩体制確立期に集中し,
>有力な諸大名が多数改易される一方,大名の国替を伴い,諸大名に優位する幕府権力が確立された。
実は改易大名のうち、譜代と外様の率はそんなに変わらなかったりする。
しかも改易大名は、無嗣廃絶とか乱行とか、自滅した奴が多い。
当然取りつぶされた大名よりも家を保った大名の方が遥かに多いわけだが・・・。
っていうか、ちゃんと子作りできた大名ならば、家は保って当たり前、では?
ところで信之って特筆するような功績はあるのか?
無嗣廃絶はともかく乱行はでっち上げじゃないかと思える家もあるけどね
>>678 生き残ったことが功績らしい。
金吾は早死にして家を潰したから暗君らしい。
>>677 率が変わらないっつーか、外様の方が数が多いから改易率は外様の方が低くないか?
しかも幕政に携わる譜代は、政争その他で言い掛かりをつけられて改易されやすい。
秀秋は岡山を開発し領内を整備して
領民に慕われたというから普通に名君だけどな
前領主の治世がひどかったせいかもしれんが
3日で堀を作ったんだっけ?
しかし領民に慕われて板のにもかかわらず
「金玉蹴り」死亡説が流れるとは・・・。
685 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 01:01:39
>>684 「徳川史観」ですから。
・家康は秀頼に逆らったのではなく、逆臣三成が忠義の家康に逆らった。
・秀秋は家康に乗せられたのではなく、秀秋がバカだから軽挙で裏切った。
若いボンボンは酷い人だよまったくもう。
・どのくらい酷いかっていうと、その領内では(以下略
・つーことで、秀吉はともかく、その家臣や親戚はこんなにもアホバカでした。
・なので、秀吉死後は”しょうがなく”家康が天下を預かることになりました。
・ってことで、新しく来た殿様(徳川家臣)のほうが100万倍マシですよね。
・家康は秀頼を心から滅ぼしたかったのではなく、逆臣大野らに扇動されて
”平和な世を作るため”やむなく戦った。
秀秋自体は、秀吉政権の技術力、スタッフやマネーが流れ込んで
領内開発してるわけだから、そりゃ以前より格段によくなるよな。普通に。
>>685 だったら宇喜多時代でもよくならなきゃおかしい
687 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 01:29:13
真田はどこいった?
688 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 01:37:53
>>686 秀家時代は3つの要因がありまして
・”国人衆”とも言える諸勢力を、近代封建大名的に”家臣団”化する過程であり、
宇喜田家だけでは完全に統治し切れていない。
・ご存知、旧来の家臣(+国人衆)vs加賀系の対立。
これが激しくてそれどころではない。
・幼少期は所詮は子供。前期の理由もあり、なにもできない。
大人になったら朝鮮出兵で疲弊&上方での浪費。
挙句に関が原へ大軍投入して壊滅。
それでも町や街道の整備はやっているよね。
”秀吉力”が注入されて。
で、無傷の土台が整ってるところへ、秀秋さま御入城。
689 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 07:20:41
岡山の次の人って織田家臣だよ 徳川からすると親戚だけど家臣じゃないよ
690 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 11:40:17
豊太閤最大の失策は家康を滅ぼしておかなんだことぢゃて。
691 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 12:54:36
みなさ〜ん、まだ真田の時間ですよ!!
692 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 13:52:24
真田?スレ違いでは?
ここは戦国大名の失策を語るスレ。
真田は戦国小名。
>>692 つまんね。
大名は徳川の規定では1万石以上。徳川以前でも認識は大して変わらん。
真田は上田と沼田で10万石程度。
10万石以上だと江戸時代じゃ割とでかいほうだな
697 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 23:04:35
真田紐⇒サナダ虫だっけ?
これって真田氏にとっては失策じゃない?
698 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 23:07:05
699 :
日本@名無史さん:2006/08/24(木) 20:20:46
真田はG2レベルだな。
700 :
日本@名無史さん:2006/08/24(木) 20:22:24
五奉行の失策か
といっても石高も少ない、戦でのし上がったわけでもない官僚に家康を止められるわけないしな
秀頼や輝元を拉致ってでも関ヶ原に連れて来なかったことくらいか
武断派の不満だの家康の独裁開始だのは秀吉自身の失策になるわけだし
加増を断ったこととか
703 :
日本@名無史さん:2006/08/25(金) 01:45:58
4人のうち、浅野長政だけは成功しているじゃないか。
性格悪かったらしいのに。
増田もちゃんと西軍として戦えば少しはマシだったかもしれないのに
705 :
日本@名無史さん:2006/08/25(金) 05:16:03
まさしく、狼の威を借る狐だな。
増田も71にして切腹とは…。
707 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 17:46:54
やっぱり盛り上がりませんなー。
のんびりいけばいい
今までだってどれで何とかなったのだから
>>594という例外もいたが
709 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 22:59:36
5奉行っていうくらいだからその時代の三成なら
いろいろ失策あるんじゃないか?
武断派との対立とか
710 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 13:00:58
ちなみに五奉行は並列関係?
それとも筆頭に浅野?前田?増田?
石高で言うとダントツで浅野なんだろうけど。
浅野は一応親族として扱われていたんじゃないのか。外戚みたいな感じで。
だとすれば筆頭なんじゃないのか?
三成って禄高が50万石くらいあったら関ヶ原で何とかなってたと思う?
なんとかなるかはともかく
50万石という影響力があれば他の大名の反応もかなり違ってくるんじゃないかと思う。
50万石あれば考え方が変わるのが普通だろ
ていうことは三成を佐和山20万石程度にしておいた秀吉が布石の失敗ということになるか。
716 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 12:17:16
家康を五大老にしてたのがそもそも間違い
「格が違いすぎて申し訳ない」
とかいって、五大老外(政治の外)にでもしとけばよかった。
どうしても秀吉の失敗になるね。
やはり詰めが甘いとしか言いようが無い。
加藤と小西を一緒にさせるには競い合うという理由のほかに
なんか理由あったのかね?
お互い牽制させるとか
それを言い出したら終わってしまうぞ…。
>>716 徳川の押さえには前田がいると考えてたからな。
ただ前田利家が割と早い時期に死に、その2代目がヘタレだったということまでは計算が回ってなかったw
というか、秀吉って自分の死後ことは考慮に入れてなかったような気がするな。
自分一代のことしか想像が回らないあたりがやっぱり水呑百姓上がりの限界なのかも。
720 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 15:27:24
秀頼かわいさに、秀次を抹殺したのが、秀吉の人物の小ささを
物語るな。独裁者の末路っつーか、所詮、この程度の人間だったのか
と諸大名に知らしめたな。最上は駒姫殺され、伊達は濡れ衣きせられた
ことで、結果的に家康のもとに東国大名が結集してしまったのが痛い。
徳川は利家をおそれていない。なめきった態度で、堂々と伊達家と婚儀
を結び、挑発している。
秀長も利家も、もっと長生きしてくれると思ってたんだよ!
その間に秀家も秀秋も浅野のせがれも、w加藤や福島も成長してくれると思ってたんだよ!
>>721 いかんせん秀秋も浅野のせがれも、w加藤や福島も水呑百姓から足軽に毛が生えた程度の出身だったから、
御家大事という発想が感覚としてあまりなかった。お陰で秀吉死後はバラバラ。
殿様出身の宇喜多秀家が辛うじて理解してたかな。
なんせ加藤清正が晩年に忠義の何たるかを「論語」読んで理解して感動した、という程の酷さだからな。
724 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 19:37:45
自分の存命時の諸大名の当主を見て、誰があてになるとか言ってる時点で秀吉はダメだろ。
仮に秀頼の代を乗り切っても、諸大名の当主の代替わりが進んだらそれで政権崩壊も同然だし。
>>723 清正ダメダメじゃないか。
譜代がいないとダメだな。百姓だから仕方ないが。
>>725 譜代なら「論語」なぞ読まなくても忠義くらい理解できてるしね。
727 :
日本@名無史さん:2006/08/29(火) 20:58:35
秀長・小早川隆景・蒲生氏郷ら家康に対抗できる大名が秀吉任命中に亡くなってるしね
五奉行に何かしろというほうが無理なんじゃない?
>>722 >>725 俺の家は足軽大将程度の郷士です。
養父の竹阿弥は、三河水野氏出身で、織田信秀の近習です。
福島ん家も土豪階級です。
加藤の家も土豪クラスのれっきとした侍です。
いまどき秀吉の出身=百姓だの農民だの言うのは半島ぐらいです。
>>723 >>726 忠義とか言ってるのは「古臭い源平思考」もしくは「江戸以降のファッション武士道(朱子学)」です。
当時の武士の”忠義”というものがあるならば
「自分を高評価してくれる人に、評価への見返りを渡す」
ことです。
「先祖代々がどうのとかありえねぇwwwwwwww」です。
中堅の”スキルがある武士”はどんどん転職(仕官替え)してるでしょ?
丁度、現代に近い感じ。
スキルがある奴は高額で移籍して、そのギャラに見合った活動をする。
より高額なギャラと魅力的な仕事を提示されたら、そっちのほうが「評価してくれる(という恩をくれる)」
ので、移籍してギャラに見合う働きをします。
一部の古臭い家や、庄屋仕立の徳川家あたりは律儀になんかうだうだ言ってましたけど、
でも徳川家だって一揆でがったがたになったこともありますよね?
その痛い教訓があるからこそ、
江戸時代になって「武士は儒学!忠義第一!なによりも忠誠忠義!」と制定奨励したんですよ。
>>727 ・家康に、隠居を奨める
→ 秀忠に相続&その他の子供にも領土も家臣も分割相続(秀康含む)
→ 五大老も秀忠にチェンジ
・家康に、五大老以上の名誉職になってもらい、事実上政治から遠ざける
・”家康の子である”結城秀康を五大老に加えて六大老になってもらった上で(実際そういう動きはあった)、
秀家、秀秋と一緒に「豊臣家の家宰」をしてもらう。
・秀頼を早期に、正式に、”北政所の養子”にして大坂城に入れる(淀君は聚楽第か淀城か長浜あたり)
・五大老それぞれが相互に人質交換
・五大老といわず、奉行廃止(格上げ)&十〜二十大老ぐらいにして混乱を長引かせる
などなど、後出しじゃんけんのいまだから、いくらでも考え付きますやねぇ・・・
豊臣政治のシステム構築が遅れた(狂った)のが敗因だね。
>・家康に、隠居を奨める
その場合、秀忠に関東250万石、家康に隠居先として駿府を中心とした東海道一体を渡さなければならず危険
>・家康に、五大老以上の名誉職になってもらい、事実上政治から遠ざける
大御所・院政という言葉があるとおり名誉職なんてものに意味はない
最初は五大老だって名誉職に近かったわけだし
>・”家康の子である”結城秀康を五大老に加えて六大老になってもらった上で(実際そういう動きはあった)、
秀家、秀秋と一緒に「豊臣家の家宰」をしてもらう
秀康と秀秋が懐柔されたらお終いになり危険
>・五大老それぞれが相互に人質交換
諸大名が勝手に人質を取ってはいけないという決まりを正々堂々と敗れることになり家康にはむしろ有利
>・五大老といわず、奉行廃止(格上げ)&十〜二十大老ぐらいにして混乱を長引かせる
豊臣政権がより一層機能麻痺する。それに人数がいくら増えたところで実力が伴わなければ
家康にとっては付け入る隙が大きくなるだけ
後出しじゃんけんでも不可能では当時の豊臣家にはなす術がないな
加藤福島は単に秀吉の親戚と言うだけだからなー
ただいかに親戚と言えども秀長や北政所にも嫌われていたというのに
よく出世できたなという気がする。
ふつうに暗殺→狂った家臣に殺されちゃいましたゴメンね→お詫びに推恩の令で250万石分割
でいいじゃん
>>729 言ってることはわかるが、江戸時代の忠義は儒教によって体系化されたもので、
概念自体は古くから庄屋、土豪以上のレベルの家に存在していたと思う。
実際に平家物語あたり(平家物語の武士像は当時の知識人によって美化されたものだがそれでも)
を読めば中世の忠義がそれほどドライな関係でもなかったことが伺える。
それをぶちこわしてあなたの言う「自分を高評価してくれる人に、評価への見返りを渡す」忠義の概念が出来たのが戦国時代で
織田だの新興勢力で流行したし、その哲学が新興勢力の成功の要素の一つと言える。
徳川幕府の儒教奨励は元々三河時代の家風を引き継いだもので、
別に前時代を激しく反省して新たに思想を取り入れたものもないというか、
むしろ復古調だと思える。
ちなみに徳川家の一揆は宗教絡みで、忠義云々とはまた別問題と考えた方がいい。
三河時代の家風は儒学的忠義とは無縁だと思う。
そもそも忠義が宗教の上にあるなら、宗教が絡もうが裏切らない。
宗教の上にさらに儒学の忠義を塗り重ねて、反乱防御策にしたのが江戸幕府。
>>735の言うとおりじゃないの
家康の前の代とか見てると主君が弱かったり無能だったりと部下に見られると
容赦なく叛乱や抵抗が勃発して混乱してるし
前の代って言い方はおかしいな
つまり曽祖父の代とかその辺りの事な
だな西三河に限っても裏切りまくり
739 :
日本@名無史さん:2006/08/30(水) 22:31:31
>>727 秀長が生きていたら・・・・言いがかりをつけて徳川征伐
隆景が生きていたら・・・・関ヶ原で西軍が勝てたかも
氏郷が生きていたら・・・・関東で天下分け目
こんな所かな?
740 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 01:48:59
>>739 隆景は東軍に汲みするか西軍に汲みするかわからんな。
隆景が汲みした方が勝つのは間違いないが。
生きていても如水と同じく隠居の身だから国元じゃないのか?
742 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 03:57:28
五奉行の話から全く逸れてる・・・。
>>731 つまり徳川家の武力を背景にした家康の影響力は役に依存してるわけじゃないから
小細工してもどうしようもないと。
なるほど。
それでも「名分」は大事だと思うよ。
ま、秀吉がちゃんと「家康潰し」しなかったからいけないんだけどね。
745 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 19:07:15
>>741 国元にいても毛利・吉川・小早川の計6万超の軍の去就を決める権限くらいは持ってるでしょ。
家康は別として 『秀吉の次はオレだ!』 と
野心を持って関が原に臨んだ戦国武将って居たんかなぁ?
義理や お家大事で、東西見極めて参加しただけなんかなぁ?
747 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 19:54:54
>>745 輝元が無視するかも。
「いい加減に叔父さんから自立だ!!俺が毛利の当主だ!!!」こんな感じで。
隆景と家康は仲が良かったの?
>>746 伊達政宗みたいな誇大妄想狂なら居るんじゃないの?
>>746 秀家・・・「俺が豊臣家を支えるんだ・俺、豊臣秀家。」
秀秋・・・「養子に出されて田舎暮らしだけど、中継ぎでも関白になれる!」
751 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 05:29:24
隆景って本当に時代を読む力に優れてたのかな?
単に吉川と反対に行っていただけのような・・。
秀吉とか家康の方が何枚も上って感じ。
そいつも肝心な時に死んでやがるから、評価できないな。
753 :
日本@名無史さん:2006/09/02(土) 03:28:35
石田三成は毛利担ぎ出す前に、豊臣の旗印でももらって置けばよかったのに。
754 :
日本@名無史さん:2006/09/02(土) 06:23:45
浅野長政は、奥州の差配能力ゼロ。
葛西大崎一揆、九戸の乱で、かき回されすぎ。
まあ浅野は仕官年数と縁故によるところが大きくて
石田長束みたいに能力で取りたてられたわけじゃないからじゃないか
>>753 石田三成本陣には「豊臣旗本衆」軍がいて、
金の瓢箪の馬印
があった、という説もあります。
仮に事実だとしても、徳川史観のその後の世の中では抹殺されてしまったことでしょう。
浅野が”わざと”そういう風に動いていたのだとしたら・・・
そもそも北条征伐後の奥州仕置は長政の差配ではなかろう。
結局。 五奉行って会社組織で言えば 現場を知らない総務部みたいなモンでしょ?
現場で汗水たらしてる肉体労働者からしたら、
毎日。 便所掃除してくれるオバチャンに権力が生えた程度の認識しか無いわなぁw
>>727 黒田如水が残っていたんだけどね。秀吉が黒田を怖がりすぎずに
大きな領土を与えてやっていればね。
>>760 総務部と「日雇い?」現場肉体労働者との確執が
竃L臣土木が破綻した大きな要因だろ/?
5奉行は軍功もあるし民政もできる
むしろ現場を知らないのは福島とかじゃないの?
コネと血縁で出世しただけじゃん。
福島も加藤も現場からの叩き上げ、それは三成も同様
文治派と武断派が対立するのはよくある話
徳川政権でも家康・秀忠側近VS古参の武闘派での権力闘争はあった。
尾張派と近江派の対立。
東大閥vs早稲田閥みたいなもん。
徳川政権の武断派は、乱世が終っていらなくなった時には、もう老齢だし
大方死んでた。だから、家康はそれほど苦労なく文治へ切り替えられた。
豊臣政権の武断派は、太閤の死んだ時点でまだまだ若い。
おまけに、主君の命令ではなく同僚(文治派)の計画したリストラ案なわけで。
そりゃ武断派にとっては、黙ってリストラされてやる気にはなれんだろう。
769 :
日本@名無史さん:2006/09/06(水) 20:05:46
とりあえず
アゲとく。
尾張派近江派の対立は関係無いだろうな
東西ともに尾張近江出身者がいるし、
武断派文治派も微妙、東西に分かれている
朝鮮出兵者も東西にいるし
家康が専横を振るっても構わないor仕方がない→東軍
家康が専横を振るうのは我慢できないor放って置いたら自分が潰される→西軍主力
家康に付きたいのに足止めされて三成側に組み込まれてしまったどうしよう→西軍日和見組
家康?アホか! まだまだ戦国→政宗
周りが東軍だらけでどうしようもない→宇喜多の一部
五奉行で年越しか?w
所詮5奉行はただの政策実行者でしかないし
秀吉死後家康に徐々に無力化されていたから
どうしようもないと思う。
>>761 いや黒田はダメでしょう。
黒田長政は家康についたし、如水は白黒不明。
その頃の秀吉の人物眼は正しかったと思う。
黒田親子にしても蜂須賀親子にしても、切腹させた前野親子にしても
晩年の秀吉は、なんで古参をもっと大事にしてやらなかったのかとは思う。
山内・堀尾・中村にしても、一番付き合いの長いところにそっぽ向かれたし。
文治派との権力闘争で失脚させず、そのまま政権中枢に参加させ続けてたら、
黒田や蜂須賀あたりは十分親豊臣派として残っただろうに。
779 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 00:27:17
古参だろうがなんだろうが、秀吉がやってきたことを真似しただけじゃん。
780 :
秀吉:2006/09/20(水) 04:30:45
虎はともかく、市はあまりにもアフォ杉だぎゃあ。
下手に血がつながってた儂にはどにゃーも仕様がなかったきゃ、三成には
すまんことだったわいやあ。
しかしまあ流石の儂も、市のアフォが、折角儂が巨費を費やして家康への
備えに延々連ねた城や物資を全部家康にくれてやるとは思わんかったぎゃ。
ったく、儂もあの世で大笑いじゃったわいwww
>>779 代々仕えてる譜代の家臣でもないのに、古参や武断派を政権内で
冷遇すればそりゃ東軍につくさ。忠誠心の高い徳川譜代だって、
武断から文治の切り替え時には揉めたし抵抗したんだから。
豊臣恩顧の大名はもっと難しいに決まってる。それで関ヶ原ボロ負け。
徳川政権並に実権が官僚の手に渡っていれば問題無かったが
まだ移行段階で中途半端だったと言うべきか。
783 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 21:15:04
秀吉一人いれば官僚システム不要だったのも悲劇の原因
その点家康はそんな能力は無かった変わりに、「任せる」という人事については
抜群だったからね。
>>783 まあ秀吉は武断派を遠ざけて官僚体制に移行させよう思っていたのだろうが、
>>782の言うように中途半端というか、死んでは一番マズい時期に死亡してしまったからね。
結局、早死にした秀吉が失敗ということになるw
60越えて死んだ秀吉を早死にとはいえないでしょう。
普通、そういった文治への切り替えというのは二代目の役割。
豊臣政権の崩壊について秀吉の失敗を問うのなら、二代目・後継者とその体制の
引継ぎを整えていなかったことでしょうね。
初代が死んだ時点で、成年男子が一族にいないというのではもう終わったも同然。
一番重要な「守成」が出来ないのだから。
どうしてもいないのなら、次善策として重臣の中から名声と実力と能力と忠誠を
併せ持った人物を後見役に選んで一任するしかない。ただしこの策は、実力者に
簒奪下克上への道を開く諸刃の剣でもあるが。
一代で成り上がった土建屋のオヤジに
便乗して成り上がった子分の塗装屋はソレナリですよw
>>785 秀次を残しておくべきだった?
それともほかの一族の誰かを指名しておくべき?
秀長が生きていれば話は別だけど、他にいないだろうなあ
>>787 秀次の殺生関白ぶりがウソなら残しておくべきだった。
本当だったら微妙。
秀次切腹がきっかけで心理的に反秀吉になった大名は結構多いと思う。最上とか伊達とか。
だが生き残ったところで豊臣家にとって禍根になった可能性もあるし。
790 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:49:45
秀次だけ殺せば良かったんだよ。
っていうか朝鮮征伐じゃなく、坂東征伐(徳川制圧)すればよかったんだよ。
完全根絶が難しいなら、家康周辺のみ追討して、残った家臣を秀康と秀忠に分割配分。
792 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 15:09:05
>>791 いや攻めたくても大義名分がない。
老獪な家康相手にいちゃもんの付けようもないし。
秀吉が家康を滅ぼすためには、雑賀・四国を制圧し、妹を送っても上洛催促に応じなかった時点で攻める以外にないよ。
お前等、五奉行の話じゃなくて
既に801からの豊臣家に入ってるだろ?
>>792 「大陸出兵命令違反」
大義名分がなくっても、あの当時で秀吉が家康攻めを号令したら、
それで家康側についてくる奴はいない。
おまけに秀康を擁立できるわけで。
戦後処理として秀忠なり、他の兄弟なりを使えるし。
>>790 どっちにしろ次は秀次だと思って肩入れしてた大名が秀次処分でビビりまくるだろうね。
こういう不信っていうのは結構後引くと思う。
秀次がダメなら秀頼にと思っても近江系が周りをガッチリ固めてて今更ゴマすっても外様扱いだから、
いっそのこと家康に接近して、という発想は自分も持つよ。
>>794 当時の家康は徹底恭順だから。
「大陸出兵命令違反」 で家康攻めを号令したら、家康のことだから多分秀康と秀忠に領地を分けて高野山にでも登ったと思う。
これで征伐の名目は失われる。それでもやると言ったら、豊臣政権分裂の危険もある。
上杉、前田、蒲生、島津、毛利などの大大名が「次は自分のところか?」と疑念を持つから。
秀吉政権が直轄領200万石程度だということを忘れてはいけない。
結果論だけど島津、雑賀の後にしか家康を滅ぼすチャンスがなかった。
>>793 それは確かに分かるが
正直五奉行の話しって言ってもな
結局根本をさかのぼると秀吉の話になっちゃうわけで
これは
>>1の失敗だろハッキリ言って
>>796 >家康のことだから多分秀康と秀忠に領地を分けて高野山にでも登ったと思う。
目標の半分は達成してるじゃん。
秀次処刑が出来るなら、高野山の家康だって処分できるよ。
「大領土の家康」だから手が出ないのであって。
>>798 いや無理ですよ。家康処刑したら後が恐い。
秀次のバックには秀吉しかいなかったが、家康は外様代表みたいなもの。
家康をどう遇するかが外様大名に対する豊臣政権の態度の表明だから。
大体、殺すだけなら殿中でも物理的には暗殺できた。
徳川の潰し方は家康の死を待ってから、秀康と秀忠に等分に相続させて、
対立を煽ってどちらかに肩入れして(秀康方だろうが)骨抜きにするくらいしかない。
勿論秀吉が先に死んだので不可能だったが、方針としてはそんな感じだったと思う。
家康をそこまで大物と見るのもどうかと。
801 :
日本@名無史さん:2006/09/27(水) 08:16:56
まあ家康の方が一枚も二枚も上手だったということだな。
大規模な外征を実行しつつ内では実力者の外様を粛清する、なんてこと
やれるもんかね。
どうしても無理って言いたいだけなんだろうな。
秀長の短命が失策
もともと秀吉は只のアダ花でしょ
秀長が長生きしていたら、
秀頼生誕前の跡継ぎは秀長?
で、秀頼が生まれた後はどうなってたんだろう
>>806 秀頼の後見役的な位置につけたんじゃない?
秀長が長生きなら家康も下手に動けなかったはず。
>>807 どころか下手すりゃ秀長から討伐されかねない。
秀吉と違って見栄とか外聞とかのこだわりがない人間だったから、
政権に必要だったら最後の力振り絞って家康倒しにいくだろうし、
(秀吉は、家康倒した後の外様からの不信を恐れたけど、
秀長は、そのマイナス自分が背負って、秀頼は無傷で関白に、のシナリオが出来る)
秀吉が死んだら、このおっさんの意見を止められる人間は存在しない。
へたれない利家(しかも能力・実績・政権内の格がケタ違い)が
110万石+220万石率いて立ったら家康にはどうにも出来ない。
というより、秀長が生きていたら、
秀吉は、足利尊氏が弟にさせたように、そういう悪名背負わせるの前提で
家康討伐をさせていたかもしれない。
>>802 家康だって島津・毛利を滅ぼすことはできなかったもんね
「将来反乱起こすかもしれないから今のうちに片づけておけ!」
なんてのは現実的には無理でしょう。
>>802 だから、
「明へ行かずに関東征伐、で数百万石分け与えてみんなでウマー」
これがよかったのに。
811 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 20:24:13
>>806 秀長に跡継ぎがいないので、秀頼が生まれても殺す必要はなし。
812 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 20:38:12
大河ドラマの利家とまつの茶茶とねねって誰が演じてたっけ?
>>808 秀長は戦そんなに上手くないでしょ。
利家は所詮槍働きだけの男。
秀吉さえ小牧で潰せなかった家康に到底かなうとは思えませんな。
>>814 天下の大軍を率いて、大なりとはいえ、一大名を討伐するだけなんだから、
総大将の戦の上手い下手などたいして影響ないと思われ。
>>815 関ヶ原みたいな野戦ならね。
国を要塞化して防御戦を始められたら戦略の巧拙がモロに出るよ。
しかし、秀秋見る限りは秀次いてもどれほど持ったか・・
少なくとも秀長は家康よか軍上手だろ
819 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 15:36:51
>>816 ただ秀長が率いていったとしたら、福島・加藤・黒田等の子飼いの大名たちも
裏切らなかったんジャマイカ。
大軍の運用では秀長はトップクラスじゃないか
家康でさえ関ヶ原では秀忠との連携が悪かったり
大坂の陣で兵糧を不足させたり、意外と苦戦したり。
秀長にはそのようなミスが無い。
まあそれは豊臣家の5奉行などのスタッフが優れているからでもあるだろうが。
秀長総大将で兵站など後方支援を石田長束大谷、外交調略などを黒田
先手に藤堂とそろえればその時代でも最高級の軍団になんじゃないか?
つうか、野戦の一発勝負ならば家康の方に分があるかも知れんが、
秀長がトップの豊臣政権対家康の総力戦になっちゃったら、
家康圧倒的に不利だろ。
その状況で、わざわざ家康に味方する大名がどれほどいるか?だな。
はなから戦にならんのではないか?
問題はそれだけの大きな存在になっている弟に秀吉が猜疑心を起こさないかだな
秀長の方に子供がいないから大丈夫かもしれないけど、家康が付け込むならそこしか
ないかも
825 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 20:52:57
秀長が生きていたら徳川征伐の前に唐入り総大将の重責が任されるんじゃないの?
826 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 21:10:35 BE:637889459-2BP(0)
俺には秀長があそこで死ななかったら、第二の足利直義になったと思うがね
足利直義って桶狭間で討ち死にした人?
朝鮮で李舜臣に敗死するということかね?
どっから来たんだこの鮮人・・・
>>814 つーか、1600年の時点に生きていたとしたら、
秀長は、十万単位の連合軍の指揮を執ってしかも勝利した
(四国&九州討伐で)唯一の大将となっている。
家康の最大指揮経験は小牧の時の一万五千。
関ヶ原前後のもたつきは、実は家康が
三万以上の連合軍を指揮したことがない経験不足によるもの。
その点では、秀長と家康は話にならないほどに差がある。
上手い下手とか言う以前に、実績と格がケタちがいだよ。
野戦どころか攻城戦ふくめた総力戦の最高指揮官として、
秀吉が死んだ時点で(生きていたとしたら)秀長以上の人間は日本に存在しない。
確かに俺の中のイメージでは何故か足利直義と羽柴秀長ってかぶるんだよ。
なんでだろ?
>>830 大河ドラマの影響?
「太平記」 足利直義=高島政伸
「秀吉」 豊臣秀長=高島政伸
>>829 買いすぎじゃないか?
勝利したと言っても相手が長曽我部と島津。強兵とはいえ所詮敵対的な一地方豪族。
上には秀吉の目も光っている。軍令違反などしたら仙石権兵衛のように改易される。
統制だってとりやすいでしょ。
では家康の実績は?
彼は単独で一地方大名を滅ぼしたことがない。
所詮一地方豪族である北条も滅ぼしていないね。
しかし島津や長宗我部を一地方豪族とはおそれいった。
>>832 その長曽我部と島津よりも楽な秀頼相手に
家康は戦場で多少失点を犯していると思うが。
秀長は有利な状況にあったとはいえそのような小さなミスも無いと思うが
秀吉でさえ長久手で戦術的失態を演じているのに。
>>833 一応家康は葛西大崎一揆の時に大将を勤めたことぐらいかな?
まあ落ち着け。秀長は秀吉より先に死んだのだ。
「秀長が生きてたなら」なんて設定は「秀吉が生きてたら」とか
「秀吉に成人した息子がいたら」の設定と同じくらいナンセンス。
確かに秀長が長生きしていたらという設定はナンセンスかもしれないが、
そう思わずにいられないほどの人物だったと言う事がこのレスの流れからも
伺える。晩年の秀吉の愚行も秀長が存命ならと思わずにいられない。
〔秀長あぼん=豊臣政権の基盤が間接的に傾いた、変わりも 〕
〔秀頼生まれるの遅すぎたよママン=家康の独断を許す所となった〕この2点ではないか
関係ない話だが武田信繁や島津家久等、弟君が名将だという例はどの
くらいあるのだろうか・・・。
>>812 ねねは酒井法子、茶々は解らぬ。
でも晩年の秀吉だったらば秀長のような人間は
何か下らない因縁を付けて殺したんじゃないかなって気がする
秀長が秀吉より早く没したのは豊臣家にとっては不幸なんだろうが
本人にとって本当に不幸とも思えないしな
秀次の粛清はまあ愚行なんだが、ああいう状況になってしまったら
まあどの大名豪族でも同じような結果にしかならんのではないか。
その点で秀吉が狂っただの呆けただのいうのはちょっと違うと思うけどなあ。
日本史世界史問わずあの手の事例でうまく処理した例があれば後学のために
教えてくれまいか。
>>839 失政という観点から言うと、秀頼を粛正すりゃ良かったんだ。
841 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 01:02:07
>>839 だから秀次一人を処断すれば良かったんだよ。
最上が敵に回るか否かだけでも、関ヶ原の帰趨は分からなくなる。
>>839 まあ、秀吉はもう少し長生きして事後処理するつもりだったんだよ。
秀次処断しなかったら、今頃「あの時の秀吉のミスは秀次を処断しなかったこと」とか2chに書かれてたかも。
家康は長生きの為に医学まで勉強したあたりが秀吉より一枚上手だったのかもなw
駒姫のことがなくても最上は家康についたんじゃないかな。
>>841 そうだな。最上が西軍なら伊達を西から拘束できるので上杉が関東になだれ込めた。
何か天下統一前後を境に秀吉の質が急速に別人化したかの様になったのが不思議でならない
千利休切腹事件も全く持って意味不明だったし
そもそも何で朝鮮なんぞを攻め込もうとしたのか全く理解出来ない
モロに法則発動してるし
>>845 朝鮮と仲良くすると失敗するって法則じゃないのか?
喧嘩売ってるんだから真逆だと思うが。
千利休切腹はともかく、朝鮮征伐は自然な流れだろ。
国内統一が終われば普通海外遠征に目が向くだろ。
てかむしろ参加しなかった家康が悪い。
参加しても兵站が持たなかったような・・・
朝鮮半島南部の沿岸部には物資が溢れていたが
前線では物資が滞っている。
日本と違い当時の朝鮮は超後進国で街道も碌に整備されていなかったため
輸送が滞り、その上、人夫として雇った朝鮮人は物資を持って逃亡、
日本のような信用社会では無かったと言う。
また戦役前半は僅かな期間で明との国境にまで迫る勢いで前進したため
当然補給が追いつかず、戦役後半は朝鮮義勇兵のゲリラに悩まされ補給が困難。
あまり兵力の問題じゃないような。
>国内統一が終われば普通海外遠征に目が向くだろ。
このココロがさっぱり分からん
つうか国内統一が終わったら普通は当然その権力維持と地盤強化だろ
国内は統一っつってもまだ単に統一されただけで
それを確固たる意識を植え付けてないんだからさ
やる事やりもしないで海外遠征だなんてバカの極みだとしか思えん
事実朝鮮なんぞに無駄な戦をした事でどれだけ貴重で大切な力がそがれたんだか
天下統一するちょっと前までの秀吉は本当に上手くやっていたのにな
人間高みに登る事でダメになってしまうヤツも居るけど
秀吉は正にその典型だとしか思えん
秀長が死んでからおかしくなったような
>>849 >つうか国内統一が終わったら普通は当然その権力維持と地盤強化だろ
それが違うのだよ、織田豊臣系の場合は。
彼らは諸候を報償で釣って働かせて領土を拡大する、諸候も織田豊臣についていれば自領が増えて嬉しい、
そういう利害関係で主君と家来が結びついていた。
さて、島津が従属し北条が滅び東北が支配下に入ってもう土地がなくなったとき、どうやって領土欲がみたされない諸候を臣従させるか?
最も簡単な方法は外征で領土を増やすこと。諸候がそれを望んでいたかはともかく、秀吉はそう考えた。
更に国内の不満を散らす方法として現代でもよく使われる手法はなにか?それも外征。
秀吉政権下で天下太平で上手くやってくことを望んでた諸候も多かった筈だが、
秀吉自身は疑心暗鬼に陥り諸候の心を繋ぎ止める為に昔から使って来た手法を復活させた、それが朝鮮征伐。
あ、だけどそれが失敗したから目も当てられない結果になったのね。
ちょうどフォークランド紛争に負けて政権がひっくり返ったアルゼンチンみたいに。
現代の中華に見られる政策ですね
855 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 20:30:06
>>847 家康は参加しなかったのではなく秀吉がさせなかったんじゃないかな
遠征に参加すれば、家康のポストは現地総司令官あたりだろう
功績が大きくなりすぎる(秀吉は成功を信じて疑わなかった)
秀吉自身が渡航したかったらしいが、家康・利家が反対している
たしかに秀吉は統一後は別人のように冴えを失っている
利休切腹、秀次の妻子を全て処刑、準備不足・情報不足なのに唐入り実行
いずれもかつての秀吉ならば考えられない、ちょうど秦の始皇帝のように
つ「影武者豊臣秀吉」
>>855 その考えはあったかもね。
外征軍の主将が英雄になって絶大な人気とともに帰国することはよくある。
ラファイエットもそうだし、ナポレオンもそうだ。
それに明智光秀じゃないが、野心のある男に強大な軍の指揮を任せるのは危険だ。
結局秀吉って戦上手な部分は有ったけど為政者としての才は無かったって事だな。
この様子だと仮に家康自体が居なかったとしても、
誰かが家康の代わりになって豊臣家を結局は駆逐していっただろうしさ。
何って言うか天下統一辺り以降の秀吉って、自分以外に優れてる人間を出したがらないって言うか
自分より上の人間を認めたくないって言う雰囲気が有るんだよな。
段々自分を過大評価しがちになってきたって言うか
>>858 単に秀頼に無理やり後を継がせようとしたからじゃないか?
後半は完全に妄想としか思えないが何か根拠あるの?
860 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 14:05:11
社員としては優秀だが社長には向かない人
家康を関東転封じゃなくて東北に転封させればよかったのにな
関東は上杉、佐竹くらいで備えると
秀吉の最初の政権構想ってどんな感じだったんだろ?
徳川を関東、毛利を九州に体良く追い払い、、
信頼できる家臣と親族を東海道と山陽道に配置、
そして近畿を自分で固めるって何かで読んだこと有るけどこれ本当なのかな?
>>861 当時の関東なんて酷いもんだよ。荒野と湿地帯が広がる不毛の地。
東北より酷かったかもしれん。
秀吉も「これで家康も終わりよ」と思ったことだろうさ。
それを土木作業で利根川の川筋まで変えて豊かな土地に変えたのが徳川。
864 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 19:54:03
人間は老いるし認知症は不治
百姓だし天下を取ることが最大の夢で目標で取ってその後に目的を見いだせなかった秀吉
>>861 家康が来たから関東が今日の首都圏として発展しているのであって
家康が東北に行けば今頃は東北のどこかが東京と名付けられているだけだ
866 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 21:53:44
秀吉は無学なイケイケタイプの営業マンで、経営者になるのが40歳過ぎて。
それでも織田武将の中ではずば抜けた才能。
>>863 最初に系統立てて整備してるのは小田原北条。
あと、延々と荒野や湿地だったりはしない。
東京に住んでればわかるけど、江戸とはむしろ山と谷。
江戸から明治になっても、江戸は密度の薄い森。いわゆる”武蔵野”だった。
郊外の原では確かに稲作(=石高)は発展していなかった。
しかし当たり前に畑作があり、普通にかなりの人口が暮らしていた。
商業においても、川や街道沿いに、今日とは違う場所に
かなりの規模の交易都市があったことが確認されている。
それも民間が、勝手に盛り上がって都市形成している感じ。
例えば鎌倉時代の群馬南部の新田衆とか、その関係だね。
そもそも本当に実入りの少ない土地なら、
両上杉や各種足利、太田とかそういった各種勢力が
抗争を繰り広げる余力もなかったはずでしょう?
「家康が東京を作った」というのは
・大規模干拓技術&資本を持ち込んだ。
・「利根、荒川、多摩川など各水運の”交流地”を押えた」=江戸。
・一気に「生産性のない大人数(武士)」が流入して、一気に関西式の町が出来上がった。
・家康が政策により、前述の近郊の都市人口(含・後北条遺臣団)を集めた。
こういったことが成功の理由。
常陸、安房、上総、下野以外、関東は後北条氏が百年近く君臨していたし
家康と言えども、治めにくいと思ったからじゃないか?
里見氏(安房上総)、宇都宮氏(下野)辺りが30万石前後で存在してたら
佐竹氏と合わせて強力な牽制になるかな?
>>863 阿呆か?関東は家康入府以前から生産力が高い地域だ。
870 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 15:25:40
>>869 何を基準に言ってるんだ?
三河と駿河より生産性が低ければ事実上左遷だろうが。
>>870 何を基準に三河と駿河が生産性が高いと主張してるのかわからんが、
荒廃していた肥後に転封された加藤清正や小西行長は、事実上左遷だったのか?
873 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 18:11:51
>>872 当たり前だか稲の品種改良を重ねたからこそ火山灰の大地をも農地に開墾出来た訳だが・・・
関東平野は広大だけどローム層なんですよ
濃尾平野は軍事的には不適格だが中世の生産性・経済性では蓄えるには優れておるのだよ
家康の経済力を削ぐのが一番の目的
秀吉は商人以上に経済通で計算高いしね
そもそも直接、武力を削ぐより簡単だし
経済は軍事を上回る軍事は経済の同等が下位に位置し上位では無いってのを理解出来ないのは芋侍
874 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 18:30:05
↑
家康の旧領が濃尾平野だと思ってる奴は豆足軽
>>873 古代の国別等級
大国
上野国・常陸国・武蔵国・上総国・下総国
上国
下野国・相模国・駿河国・遠江国・三河国・尾張国・美濃国
古代から関東では稲作が盛んだった。
当然のことながら、戦国時代には品種改良などしなくても、十分に稲は生育可能だった。
876 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 19:17:21
>>875 そんな律令時代のランキング持ってこられてもな。。
本気で家康が関東に移されて大喜びしたと思ってんの?
877 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 19:32:55
>>875 古代って・・・・・正気かよw
関東ローム火山灰を家康が嘆いていたってのは史実なわけだか
>>875 その時代から後に荘園もできてるし、開墾もやってるからあまり参考にならん。
荒川、利根川なんて酷い暴れ川だったし、江戸なんて井戸掘っても塩水が出てくるような土地だから
玉川からわざわざ水道通したし。
まあ、江戸東京博物館でも見てくるといいよ。
879 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:01:35
古代ですら大国なんだから後世においては言わずもがな。
つうか、そんなに痩せた土地の国が数十万石の大国になるわけがないだろ。
大国になるポテンシャルがあったけど、
当時はまだ開拓が進んでなかったということでしょ。
いい加減に理解してよ。
ほぼ同じ領国(伊豆・相模・武蔵・下総・上野と上総、常陸、下野の一部)の
後北条氏が最盛期に240万石、10万近く動員できたのだから
関東地方が不毛の土地とか生産性が低かったとかは無いだろう
たしかに、東海道の旧領の比べたら経済性は劣るかもしれんが
農業生産力は決して劣ってはいないと思う
むしろ、北条氏の残党や国人勢力の抵抗による
統治の失敗を期待しての国替えだと思う
「生産性の高い?」10万石の領地で取れる米と
「生産性の低い?」15万石の土地で取れる米
どっちが多い?
883 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:15:06
>>880 当時既に大国ですが。
いい加減理解したら?
884 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:29:21
なんか関東を未開の原野にしたくてたまらない人がいるみたいだけど・・・。
確かに武蔵野に原野は広がっていたが、それでも武蔵一国で66万石くらいの石高があるんだから、
開発がさらに進めばすさまじいことになるよね。
885 :
867:2006/10/09(月) 22:00:55
だからな
関東では稲作もやってたけど、
主力生産物は麦でした。
なので関東ローム層=米の取れ高が少なくても当たり前だし、
別に困ってもなかった、と。
これぐらいわかれ。この”ごはん原理主義者”どもが!
神奈川や東京に住んでれば、ちょっと郊外みればわかる。
丘が点在して、その周辺は畑作地で、川沿いだけが稲作をしている。
それで大人口を養えるだけの”畑作高”があったんだよ。
あと、濃尾平野が稲作に適した広大な水田地帯だったとしたら、
のちのち薩摩芋たちが河川改修にあんなに苦労することはないわけでして。
河川氾濫に悩まされる泥湿地&氾濫した川で荒れた河原、
それが当時の濃尾平野。
あと、名古屋あたりも江戸以降の干拓地はでかいんだぞ。
でも、ま、甲斐や信濃よりは稲作に向いてただろうけどね。
>>885 近郊農業によって畑作が盛んになった現代を持ち出されてもねえ。
濃尾平野の三川分流工事にしても木曽・長良・揖斐という、濃尾平野きっての大河川が合流する
河口付近での話であって、あんなので濃尾を語られてもねえ。
っていうか、
>>867 >郊外の原では確かに稲作(=石高)は発展していなかった。
>しかし当たり前に畑作があり、普通にかなりの人口が暮らしていた。
実際には非常に石高が高かった関東で、さらに畑作が盛んだったとしたら、
関東の収穫高はもの凄いことになるね。
>>886 おいチョソ、
「石高」ってなんだか知ってるか?
そもそも、濃尾平野が出てくることが違う気も駿河
>>887 おい白丁、「石高」ってなんだか知ってるか?
>>889 おいウトロ住民、
石高は米とは限らないし、畑作には麦が含まれるぞ
といま気がついた。目から鱗だありがとう
>>885
大体商業が比較的発展していて港も整備されてる駿河と未開発な湿地帯の武蔵では農業収入以外の旨味が違う。
しかも家康が「城を造れ」と命ぜられたのは江戸であって、「小田原に住め」と言われたわけじゃない。
江戸を開発して町を作り、洪水が起こらないように治水工事するのには莫大な金がかかる。
秀吉もそれを知ってて家康を転封したのだよ。
数字の上では加増なのに家康家臣団が激昂した理由はそこにある。
大体、転封時に本当に240万石の実高があったのかも疑問。
どうせなら蝦夷400万石に転封とかすれば良かったのに。
>>891 商業が多少発展してても米がロクに取れない駿河と
商業がそれほど発達していなくても、開発が進み
米が大量に取れる武蔵では、うまみが違いすぎる。
家康が江戸を本拠地にしたのもナイスチョイス。
もし江戸を本拠にすることを命じたのが秀吉だったのなら、
慧眼であるのと同時に、失策であった。
当時は 荒地=資源 だったんじゃねえの?
新田開発すればするほど実入りが増えるわけだし
会津から移された伊達も結構ラッキーだったのかもw
>>894 武蔵や下総は川が氾濫するから表高程米が収穫できるのかわからんよ。
そのために治水工事をしたわけだが。
>>896 いうまでもなく新田開発で短期間に収入を上げるのは難しい。
新田開発したら他所に転封なんてこともある。
秀忠、家光が散々やったように。
結果的にラッキーになるかもしれないが、未開発の時点ではとてもそうは思えないだろ。
一年、二年では結果は出ないんだし。
>>898 しかも秀吉に関東を貰ったということは「開発しろ」という意味だから、
収穫の上にあぐらをかいてたのでは心証が悪くなる。
初期の開発投資は莫大なものと思われるし、
そこで徳川の金銀を吐き出されることがそもそも狙いだったと思われる。
で、開発が終わったらまた移すつもりだったのかもしれないが、
その前に秀吉が死んだ。
>>899 関東は既に豊かだったんだから、その関東を与えられたって事は、
「金持ちになってくり」って意味だったんじゃないの?
しかも朝鮮征伐にも出陣を免除されてたし。
駿河15万石
遠江25万石
三河30万石
甲斐22万石
信濃40万石
相模19万石
伊豆7万石
武蔵67万石
上野50万石
上総38万石
下総37万石
下野37万石
常陸53万石
安房4.5万石
どう考えても関東のほうが豊かじゃないか
北条だって10万とかの大軍を用意できるのだし
>>891 江戸の立地は河川水運の要の土地であって、
小田原北条はできなかった干拓事業を行えば、
必ず凄まじい大都市に発展するだろうことは、”豊臣式思考”なら予想できる。
問題は、庄屋仕立な三河な思考でもそう考えることが出来たかどうか・・・
実際江戸は、河川水運によって発展したのに、
その後の街作りはおおよそ「貿易都市」らしくない。
これが家康ではなく、秀吉直参の大大名(秀次とか)だったら、
もっと違った発展を遂げていたのだろうと思う。
>>901 そんなに豊かな関東を「荒れ地」だの「未開発」だのといってる人はなんなんだろう?
頭大丈夫なんだろうか?
904 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:03:09
軍記物だが
関東じゃ10万の大軍とかでてくるぐらいだが
昔から相当豊かだったんだろうな
徳川は利根川の流れを変えた
伊達は北上川の流れを変えた
江戸品川は戦国時代には有数の都市だったんじゃないのか
だからこそ氏康や氏政が居城としたのだろうし
>>903 武蔵は江戸末期には110万石越えの石高を持つようになることを考えれば、未開だったと言ってもいい。
ちなみに戦国期では武蔵以上の石高の近江は、江戸末期でも六十万石代をキープ。
要するに上方に比べ関東の方が未開。
裏を返せば延びしろがほとんどない畿内に比べ二倍近い潜在性があった。
909 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 14:51:06
何だか転封のメリットデメリットが国そのものの豊かさ論議になってるが
そうじゃないんじゃ?兵農分離がそのころ完了してたってのは大いなる錯覚で
織田領だって丹波や越前では全然進んでなかった。
いわば家臣全員農場経営者かねてたわけで、手塩にかけた土地と従業員手放して
関東に新しいの用意したからって言われたようなもん。しかも向こうの従業員は
ほとんど全員ライバル企業の社員だったわけで、単純に名目上の生産高ふえても
喜べるわけないっての。
秀吉の誤算だったのは、堺屋太一も指摘してるけどこの転封によって、徳川家の
兵農分離が完成してしまったこと。北条が自国内に10万の軍勢展開するのと、
関が原や、信州という自国外に10万単位の軍勢を自家だけで派遣できるのは
わけが違うよ
910 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 18:12:07
>>908 66,7万石もある国が未開な訳ないだろ。
>>910 未開というより、豊かな地域だが、さらなる開発の余地があったってことじゃない?
まあ開けてるからこそそんなに石高があったわけだな。
913 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:05:15
関東て鎌倉時代以降人口の全国比は20〜25%あって
かなり人口稠密だった。(現在は35%)
関東不毛地帯論は現実無視だとしか思えないな。
関東に開拓の余地があるから家康を配して開拓させようとしたのでしょ?
で、開拓が終われば他の地に転封。それが読めたから徳川家は「鬱だし脳」になった。
いくら現状の取れ高がそれなりにいいからって、大規模な開墾への投資を強制されたら差し引きで駿府にいた方が収入がよくなる。
家康は経済官僚を充実させてそこを上手く乗り切ったし、秀吉が先に死んだので転封がなくて開墾したものがそのまま自分のものになって
結果的にはラッキーだったわけだが。
915 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:50:07
>>914 >関東に開拓の余地があるから家康を配して開拓させようとしたのでしょ?
>で、開拓が終われば他の地に転封。それが読めたから徳川家は「鬱だし脳」になった。
ソース希望
太閤検地から江戸末期の実高への伸び具合は
全国平均で1.6倍ぐらい
武蔵は太閤検地で67万石から寛永検地で84万石の伸び
関東に開発の余地があったとしても家康時代には関係無い
だいたい各種開発治水新田も多くは江戸時代に入ってから。
関東に開発余地があったとしてもその効果は
関ヶ原に間に合わないのだから関係が無い。
関東の家康領で江戸時代に大きく石高が伸びたのは武蔵相模下総だけど
それも全国平均ぐらい
畿内がほとんど変化無しというのは同意だが。
江戸時代に特に伸びたのは
陸奥出羽越後土佐でしょ
2倍以上の伸び
長州・周防は30万→120万らしいな
江戸時代の石高の伸びは
開発余地があった国と太閤寛永検地が緩かった国の2種類があると思う。
お前等どんどんスレのルール関係無しに話していってるなw
小牧は膠着状態だったから
別働隊派遣するならいっそ森滝川あたりに信濃攻めさせて甲斐信濃の徳川からの離反を
狙うとかは出来なかったのだろうか
ろくに地盤も確保できていなかったろう森滝川になにを期待するんだ。
伊勢方面はガンガン押してるんだから、
そのまま睨みあってるだけでよかった。
長対陣してたって、長宗我部は四国優先ですぐには畿内に出てこない、
越中の佐々や紀伊の雑賀はよもや突破してくるようなことはないと思う。
長対陣できなかったんだろ?小牧時点でまだ秀吉の支配力は充分ではない。
信雄の「三法師」への叛意ってことなんだから。
これは俺の推測だが、柴田が倒れて織田勢力内で秀吉に対抗できる大物は
家康しかいない。結果的に秀吉軍に多くがついているが、当時の人物評価
としては家康の方がやや上だったと思う。ここで、膠着すればするほど家康
の存在は大きくなってしまい、勢力はどう変わるかわからない。
当然家康の狙いもそこだったわけで、兵站の関係で家康が戦をあせったと言われ
るのも信じられない。同盟国の領国内なんだから。
>>921 んー、だから池田恒興や森長可が別働隊作って三河を攻めようとしたんじゃないの?
信濃を攻めようが本質的には一緒。戦略的には三河攻めた方が動揺が大きいから三河の方が正解かもね。
結局戦術的に失敗したのだが。
>>921 >別働隊派遣するならいっそ森滝川あたりに信濃攻めさせて甲斐信濃の徳川からの離反を
>狙うとかは出来なかったのだろうか
四月に上杉景勝が信濃に出陣し徳川家に属する小笠原氏を攻めているけど、
甲斐・信濃の諸将を徳川家から離反させることは出来なかったみたいです。
真田氏だけは離反しているけど、駿相同盟が原因ですからちょっと違う感じかな?
>>925 当時の上杉はそれほど大きな勢力じゃないからかね
北越後と越中に敵を抱えている状態でもあるし。
佐々も新発田も強いしな
つうか上杉は信濃に出兵するより佐々を早急に討つべきでは?
佐々の押さえに前田丹羽上杉はやりすぎな気がする
丹羽は小牧戦線に回しても佐々は押さえられるだろ。
それをしなかったのは能力的に前田が信用できなかったか、
信雄と戦わせるのに丹羽を信用できなかったか。
929 :
日本@名無史さん:2006/10/30(月) 22:29:16
>>928 後者じゃない?
織田氏をないがしろにする秀吉の振舞いを見て、信長の恩義に応えることができなかったことを悔いて割腹自殺したという説もあるくらいだから。
それと、邪魔な丹羽長秀に戦功を立てさせるのは秀吉の望むところではなかっただろうし。
>>929 邪魔な丹羽は佐々討伐の不手際を理由に所領を大幅に失ってしまうしな
前田も佐々討伐には苦戦してたけど所領の加増は立ち回りが上手かったか?
931 :
35:2006/10/31(火) 21:34:48
>>930 まぁのマンコが気持ちよかったからじゃないの?
932 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 22:28:54
小早川隆景や蒲生氏郷が関ヶ原前に病没したのは豊臣家にとって痛手かな?
933 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 17:04:25
>>932 小早川隆景については能力的にはそれはいえると思う。ただし、額面どおり
豊家の家老としてふるまえばね。本来の主家である毛利のために豊臣家に奉仕
してたんだから、関が原前後の状況では家康に味方する公算の方が大きいと思う。
むしろ隆景存命であれば、輝元を抑えることができるわけだから関が原自体が
無かったかもしれない。
蒲生氏郷については、能力的にどうかと思う。前評判だけは高かったが、見るべき
事跡はほとんどない。政宗との確執でもいいとこなしで終わってるからね。
そういう意味で痛手とは言えない。と思う。
934 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 20:17:45
蒲生氏郷は豊臣に使える義理はないじゃん。織田時代には豊臣より上の立場だったし
自分というか冬姫の息子が天下を狙ってもいい立場じゃん。
935 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 21:09:39
>>933 隆景は減封を受け入れてでも毛利本家の存続を優先するなら家康につくと思うが、
120万石維持か加増を狙うなら家康につかないだろう
秀吉のような大大名の存続を家康が認めると隆景が思うかな?
織田との和睦でも領地の割譲は一応認めたし、
もし西軍として戦って、負ければ普通は取り潰し。
勝てる保証がなければ、隆景は減封は受け入れても家康につくと思う。
隆景が西軍にいれば西軍与党は間違いなく史実より増えるだろうが、
そうすると隆景は否応なく西軍の中心にならざるを得ない。
「天下を狙わない」という元就の遺訓に反すると思うんじゃないかな。
>>936 しかし家康についたところで勝てる保証はないよ。
関が原の戦いって結局家康の政治力不足の露呈だと思うんだよね。
当時の情勢なら秀吉の時のように、局地戦何回かやって個別に反対勢力削いで
いけば、何も日本を真っ二つにして戦わなくても天下は転がり込んできたと
思う。根回し、政治駆け引きが稚拙で結局、力ずくになった、と。
逆に言えば、それほど家康の次期天下人はある程度確定的に見られてたんじゃ
あるまいか。西軍、という反対勢力が結集しただけでも反対派に取っちゃ金星でしょ。
でもそれに慎重な隆景がのったとはどうしても思えないんだが。
>>938 ・豊臣傘下の状況を引っくり返す為に一大イベントが欲しかった。
・反徳川的な大名から領土を削って勢力圏を拡大したかった。
では?
実際、毛利、上杉、佐竹、長曽我部から一気に領土を削り、
豊臣家の領土を恩賞として親徳川的な大名に分け与えることにより豊臣の力を削げたし。
関ヶ原にはちょっと賭けの要素もあったけどね。
>>938 実権なら既に握っていたけど、それはあくまで豊臣家の大老としての立場でな。
また反対派も多かったし、
それらを一掃しつつ徳川家が名実共に頂点に君臨するためには実にいい手だ。
誤算としては反対派が予想以上に多かったことだろうけど、
毛利輝元取り込みは東下以前からしているし、
長曾我部・島津あたりもどちらかと言えば家康派。
それらが西軍に荷担しなければもっと楽に勝てただろうに。
941 :
938:2006/11/08(水) 16:51:32
>>939-940 確かに結果から見たらそうだよね。でも当時の情勢で成功率どれぐらいあった
かな。会津征伐が関が原への布石ってのも徳川時代の神君礼賛の所産でしょ。
どう考えても蟄居中の石田があんな大軍プロデュースすることを予測できたとは
思えない。死ぬこと前提なんて後から苦しい言い訳してるけど、鳥居が伏見に
わずかな兵力で残ってたなんて普通に考えて察知できてなかった証拠だと思う。
ようは関が原は家康にとって「売られた喧嘩」で、結果それがいいほうに転がって
より大きな果実を手に入れたってのが実情だと思うんだけどなあ。
>>941 本気で会津征伐を考えていたのならば、あの東下の速度は納得できない。
また、西軍の予想以上の数に狼狽えていたのならば西上の速度は納得できる。
>>941 家康は裏工作はそれなりにちゃんとやってる。
吉川広家を抱き込んでたし、小早川にも色目を使ってたし、宇喜田の内紛を煽って戦力削ったし、上杉は討伐に追い込んだし、
石田は佐和山に蟄居させたし、黒田、細川、藤堂のは工作員として使ってたし、福島は変な動きをしないように関東まで連れて行ったし。
「漸次反対勢力を削いでいく」の方針で順調に動いていた。
状況からみて「西軍ができることはない」と踏んでたのかもしれないが、西軍ができても対処できる自信はあったと思うな。
さすがに真田に秀忠軍が上田でせき止められたのは計算外だったと思うけど。
>>943 そこまで書いているんだったら、
京極も入れてやっては貰えないだろうか?
いや、無理にとは言わないけどさ・・・。
945 :
938:2006/11/09(木) 10:39:46
レスとん
>>942 東下の速度については、威圧しつつ上杉の降伏を待つ戦略とも取れるし、それ
だけ西方に不安材料を抱えてたって解釈もできる。
「西軍」誘発のための戦略というのはやはり無理あるんじゃないか?
>>943 そもそも「西軍」という概念自体無かったと思うよ。おそらく、不穏分子が
蠢動するかもしれないくらいに考えてたんジャマイカ?そしたらあれまびっくり
連合軍できたんであわてて西上した、と。江戸にとどまりしばらく進軍しなかった
のも情勢の見極めのためで予想外であった証拠でわ。いざとなった関東で戦うという。
まあどっちにしても結果から見て、家康は常に冷静だったことは事実だけど、
それイコール全て想定内ということにはならんとオモ
>>944 好きなのか?京極・・・
関が原の戦いでは家康は当時の状況として出来得る事はやったんじゃない?
とは言え勝った後で冷静に事後反省してみるとやはりそれなりに穴や欠点も有った
豊臣家を滅ぼすのに10年くらいの間をじっくり掛けて行ったのもそれが有るんだろうな
ただ力を持って潰すって言うんじゃなくって、全体の雰囲気として
「徳川にはもう敵わないな」って言う空気や気配を全国に染み渡らせる期間って言うか
最後の最後でしくじる事って言うのは今まで何度も戦乱で経験してたからこそ
家康は関が原後は最大限間違えない様に自分の勢力と政権をじっくり浸透させてきた
若い頃は我慢のがも知らず超短期で猪突猛進して来て幾度も死ぬ寸前まで行ったから
そう言う部分に関しては尚更そうなったんだろうな
待て、だんだん関ヶ原スレになってきてるぞ。
後数レスなんだから、ぶった切って話戻すぞ。
秀吉死後、求心力が家康に一極集中するのが問題なんだから、
もう少し古参を取り立てて豊臣を盛り立ててくれるようにしないと。
三成らはもう少し下で我慢してもらって、
秀吉死後は黒田・浅野・蜂須賀あたりに政権任せるべきかと思う。
官僚政治は秀頼が成人してからで、
武断派と文治派の対立はもっと後回しにしたほうがいいと思う。
この方が下手に家康やその他の外様大名を転封したり攻め滅ぼしたり
するより不確定要素なくてよさげと考えるんだが。
いや、秀吉死語の時点で黒田辺りを急に持ち上げても全然役不足だろ。
大老連は全く納得せんと思うよ。
やはり秀吉存命中に彼らの権威上げとかないと無理なんだから、秀吉の失策
だな。政策などを個人の性格に帰するのはどうかとは思うが、どうも秀吉の
場合、己個人の権威を絶対化することに走りすぎた観があるね。
大老制にしても前田や宇喜多以外は外様の独立した、著名大名で彼らの権威
を利用して、その更に上に立つことで自分の絶対化を図った節もある。
天下を取るまでの構想・戦略は信長のトレースですんだが、政権の整備、恒久化
についてはやはり稚拙といわざるを得ない。
その辺が俺が秀吉に独創性はないと断じる根拠なんだが
役不足 - 正しい意味は、「素晴らしい役者に対して、役柄が不足している」という意味、つまり能力のある人につまらない仕事・簡単な仕事をさせるという意味
>>947,948
まあ、いくら秀吉が有能だったとしても無理だよ。秀吉は古参の手駒が悪すぎる。
宇喜田は秀家を子飼いにし譜代同然にできたけど成功例はこの人だけで、
豊臣秀次は粗暴だったし、小早川に送り込んだ秀秋は愚鈍だったし、
その兄の木下達は平凡だったし、浅野は頼りないし、黒田如水、蜂須賀家政は信用ならんし、
福島加藤は思慮が足りないし。
やっぱり大和大納言の早世がもったいなかったとしか言い用がない。
或いは黒田如水はもっと信用すべき人物だったのかもしれないが、わからんよね。
951 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 12:12:32
さて丁度次スレの大名選出になった訳だが
当然の事ながら南部家を出す
つうか何で今まで出てこなかったのかが不思議なくらい失策の宝庫大名だろ
数有る大名の中でも失策ならばBEST2以内当然の大名なんだからな
つう訳で南部家は800〜950に立候補
そうでなくても次スレには当然絶対入れるべき
一応前スレで取り上げた大名家挙げとくから、かぶらないようにな。
001〜100・・・北条家
101〜200・・・長尾家(上杉家)
201〜300・・・武田家
301〜400・・・今川家
401〜500・・・斎藤家
501〜600・・・朝倉家、浅井家
601〜700・・・六角家、北畠家、畠山家
701〜800・・・三好家
801〜950・・・織田家
>>951 いくらなんでも南部がトリってのはないだろ。
順当に徳川家800〜950でよかろうに。
残っていて有名そうなのは
大友竜造寺大内尼子若狭武田畠山山内上杉扇谷上杉葦名最上南部
あたり?
単独で100行くのは厳しい大名が多い気が駿河
伊東・肝付・河野・西園寺・浦上・山名・千葉・小田・安東・戸沢
足りないところでぱっと思いついたのはこのあたりか。
さすがに三スレ目だと中小が増えるが、それも一興。
これを機会に知ってみるのもまたよし。
>>953 >>954 大友竜造寺大内尼子南部
この辺は単独で
残りはある程度地方ごとか近い地域で2〜3の大名セットで
みたいな感じかな?
じゃあ南部外して西国編いくか。
と思ったが、951にキレられそうだ
957 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 17:24:41
南部なんて100でも足りないくらいだぞ
つうか絶対伊達の時みたいに荒れまくるだろうな
ほとんど南部vs津軽のネタになりそうで
でも南部は決定だな
じゃぁさぁ、南部はラス前で701〜800で良いんじゃね?
ただし荒れる可能性はかなり高いだろうがな
じゃあ先陣は蠣崎家でよろしく
里見家もひとつ頼む
前期、中期、後期、末期と失策ネタは尽きないと思うが
ほぼきまり候補は
1大内
2大友
3竜造寺
4尼子
5里見
6南部
7トリで徳川
あと二つ?
最上家と足利家(室町幕府)辺りはどうだろうか
じゃぁ順番は
001〜100・・・蠣崎家
101〜200・・・大内家
201〜300・・・大友家
301〜400・・・竜造寺家
401〜500・・・尼子家
501〜600・・・最上家
601〜700・・・里見家
701〜800・・・南部家
801〜950・・・徳川家
で良いんじゃないか
足利家はパート4のトリで使わないか?
南部は詳しくないのでそんなに失策があるのか興味ある。
マジで100レスに収まらないことが予想されるなら、
いっそ津軽とセットか連続させて200レス分にするというのもアリでは?
では関東公方+管領上杉家(山内扇谷)を押してみる
001〜100・・・南部家
101〜200・・・最上家
201〜300・・・里見家
301〜400・・・関東公方+両上杉
401〜500・・・尼子家
501〜600・・・大内家
601〜700・・・竜造寺家
701〜800・・・大友家
801〜950・・・徳川家
とりあえず北から順に並べてみた
967 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 02:32:25
俺は南部はラス前きぼんだな
始めから荒れるのやだし
968 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 02:34:38
>>964 南部の場合津軽抜きでも同族での喰い合いが凄まじいから
戦国じゃなくなるが江戸時代でも日本全国中最悪の藩政地域との評判も高いところ
969 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 02:37:36
ただの叩きスレになる可能性がある。
伊達の時がそうだったからなぁ
まぁ伊達の時はあっという間終わったが
>>966のとは逆に南から順番にやったらいいんでね?
001〜100・・・竜造寺家
101〜200・・・大友家
201〜300・・・大内家
301〜400・・・尼子家
401〜500・・・関東公方+両上杉家
501〜600・・・里見家
601〜700・・・最上家
701〜800・・・南部家
801〜950・・・徳川家
じゃあひっくり返して少し訂正
竜造寺は大友と、大友は大内と、大内は尼子と
関東公方は里見と
それぞれ因縁があるので繋げてみた
なんかトリの徳川が浮いてる感があるな。
まあ、戦国末期の大大名はやっちゃったからしょうがないんだけど。
>>971 せっかく因縁あるトコで繋げるなら、601〜700の最上は次に回して
南部と関係あるトコ入れてもいいんじゃね?
>>971 因縁がらみなら津軽家なんだが
さすがに津軽家じゃ100スレは厳しい気も
001〜100・・・竜造寺家
101〜200・・・大友家
201〜300・・・大内家
301〜400・・・尼子家
401〜500・・・関東公方+両上杉家
501〜600・・・里見家
601〜700・・・南部家
701〜800・・・津軽家
801〜950・・・徳川家
こうしてさ、南部の話題が701以降、
津軽にまで喰い込むのアリ、
ただし、750辺りまで行ったら自粛とかでどう?
徳川家に行く前に落ちそう
蠣崎は除外ですかそうですか
津軽は4スレでやりたいなぁ
その代わり最上を入れたいよ
やっぱり
>>971の案が一番良いな
4スレ目候補にトリ足利家、津軽家、蠣崎家で良いんじゃね
978 :
974:2006/11/11(土) 14:22:17
>>977 俺は奥州の方はよくわかんないからあまり参加できないし、
971のがいいというなら取り立てて不満はないよ。
まあ結局決めるのはスレ立てるやつなんだけど。
んじゃ
>>971の案
001〜100・・・竜造寺家
101〜200・・・大友家
201〜300・・・大内家
301〜400・・・尼子家
401〜500・・・関東公方+両上杉家
501〜600・・・里見家
601〜700・・・最上家
701〜800・・・南部家
801〜950・・・徳川家
で良い事にしよう
今回もれた足利、蠣崎、津軽は4スレ目予約って事で。
980 :
竹田芳晴:2006/11/12(日) 18:46:49
閉伊氏、阿曾沼氏、斯波氏、和賀氏、稗貫氏の出番はまだ遠いようやな。
981 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 19:26:19
波多野氏(丹波)、石山本願寺(摂津)、本間氏(佐渡)、筒井・松永(大和)
芦名氏(岩代)、姉小路氏(飛騨)、波多氏(壱岐)、尚氏(琉球)は?
983 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 02:23:35
埋めなくては
984 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 17:18:08
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生め
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