検索しても無かったので。
稲荷山の鉄剣についての話、江田船山の鉄剣についての話、「倭王武」
についての話もありということで。
3 :
的外れ:2005/12/01(木) 21:57:57
雄略天皇は倭王武に間違いはない。しかし倭の五王の中で唯一即位年と崩御年の確定していない天皇である。
4 :
太国:2005/12/01(木) 21:59:20
間違い。
5 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/02(金) 23:42:27
>>3 他の四人の王の年代はわかるということですか?
6 :
的外れ:2005/12/03(土) 07:46:09
もう確定しているということを聞きましたが。
7 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/03(土) 12:43:35
>>6 もし年代の資料があるなら、貼ってもらってもいいですか?
8 :
的外れ:2005/12/04(日) 13:06:06
東アジアの古代文化を考える会の討論室のず―ッと前のほう、181のところに、古事記天皇没年干支等
があります。また、この2チャンネルの「二倍年暦は存在したのか、」のスレにものっています。
9 :
的外れ:2005/12/04(日) 13:27:16
2チャンネルの「二倍年暦の真実」でした。訂正いたします。
10 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/04(日) 15:35:06
ありがとうございます。
11 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/04(日) 15:45:01
稲荷山鉄剣の「ワカタケル」は大泊瀬幼武皇子で確定ですよね?
12 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 22:45:35
記紀と宮が一致しないから違うと言いたいが…
門脇禎二によると
允恭、顕宗…飛鳥
安康、仁賢…石上
雄略、武烈…泊瀬
清寧、継体…磐余
という様に宮が繰り返されているから、
これらは必ずしも信じがたい。らしいので、
確定です\(^-^)/~オメデトー
13 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 22:49:05
しかしタケルなんて今の人名にも使われるよね。1500年前の人名が現代でも有効なんて恐ろしい国だ。
14 :
日本@名無史さん:2005/12/04(日) 23:12:10
ヒコなら1700年以上だな
>>13 貴国の場合も約2000年間継承する立派な姓があるじゃないか
15 :
日本@名無史さん:2005/12/05(月) 05:48:03
>14 捏造だよ。半島の歴史は半万年。笑
昔の姓は2字姓。新羅が統一する過程で、全てを唐風に改めた。
姓も例外ではなく、この時、創氏改名をしたんだな。
>>15いや、高句麗時代の姓を受け継ぐ人がいるらしいからなんだけど
この場合例外だから関係ねーか。
2字姓てのは高句麗百済系の複姓だな(木羅とか姐弥とか)
新羅は下代まで地縁関係に基づく部族制社会だから、
姓なんて帰化人か外交とかでしか使わなかったんだよ。
つーか現生コリア人は三韓に住んだ古代の人々とは
何の関係もないモンゴル人の末裔なんだから古代史に口を挟むなよ(わら
>記紀と宮が一致しない
一致してます
19 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 05:59:08
どうやら一致しているようだ
稲荷山鉄剣…「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」
記紀…「長谷朝倉宮」
20 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/10(土) 10:48:10
>>19 ん?「斯鬼」と「長谷朝倉」は違うんじゃないんですか?
信長みたいなイメージだな。
切れやすい性格
好奇心旺盛
今まで以上の宋への上表分
有能な物は渡来系だろうと優遇
>>20 「一致」というより、「矛盾はしない」と言うべきだな。
垂仁記の「倭者師木登美豊朝倉曙立王」という人名から、
朝倉は師木(磯城)に含まれていたことが分かる。
生まれついての殺し屋
皇位への異常な執着心
旧来の豪族の否定
という点から見れば
天智と通じるものもあるな
25 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 17:18:44
age
26 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 17:22:19
そうです。朝倉は磯城郡です。
27 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/11(日) 17:25:46
そういえば、「磯城県主」というのがいたような希ガス
大悪天皇
29 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/11(日) 17:29:41
有徳天皇
31 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2005/12/12(月) 11:16:49
雄略天皇の残虐行為は14年ごろまでです。19年にはアンコウ天皇の穴穂部をもうけています。
どうもこのあたりで改心したようです。
蚕と児を間違えて大笑いの記述とか
ほのぼのとしていてイイ
33 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 00:43:16
神功が架空の存在なら飯豊姫は最古の女帝?
34 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 14:23:24
ワカタケルの名はまさしく雄略と符号するが・・・
斯鬼宮は欽明天皇の「磯城島金刺宮」では、など稲
荷山鉄剣銘の辛亥年五三一年説も捨てがたい。さら
に六十年下して崇峻説もあるそうだがこれは無理か。
欽明は「元興寺縁起」とか「法皇帝説」では辛亥年
かその翌年即位とある。その即位も安閑・宣化との
二朝並立など複雑ないきさつがあったという説がある。
稲荷山の鉄剣が、その即位劇の記念品だったと見て、
さらにワカタケルをある種の称号とみなせば、欽明
説もかなりいける。
無理。氏姓制度の展開を考慮すれば。
36 :
ごるごるもあ ◆753Z/RLFiY :2005/12/14(水) 19:34:12 BE:40236342-##
//
_//
/ ||_ノ __________________
\/// ̄\ /
|> <_> \ | 我々の要求は、沖縄県における最大規模の大図書館の建設だ。
く\___| <
|∇ \ | 明日宮内庁を爆破する。
\__/ \
|≧||≦ ̄|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
天皇制と文明論 〜恐るべき国民統制のカラクリ〜
天皇制の実質的な地位は、明治政府の意図した絶対的権力に基づく国家思想そのもので
あり、社会整備や、教育現場における最高権力であった。しかしながら、その時代背景
には、権力者が独占的に政治と資本を支配し、その結果、国民の無権利や、不平等格差
が非難され、政治家への暴行、及び暗殺事件が多発していたことからも示されるように、
天皇制絶対主義という位置づけがなされたのである。
さらに、日本が軍事国家として巨大化していくうちに、天皇制絶対主義はこれとは違うもう
ひとつの様相を有してきた。それが世界でも有名な、植民地支配の象徴である。日本国民
はそれまでの不平等格差を政治家や天皇に向けるのではなく、侵略することによって解消
し、それこそ子供だけでなく大人までもが、天皇制の意義を見出すようになったのである。
世紀の大混乱の中で支持された天皇制絶対主義とその思想文学は、現代においても侵略的
意義(琉球民族とアイヌ民族の国家的侵略)の組み込まれた大和民族のアイデンティティー
そのものであり、他民族圧殺という民主主義プロパガンダを脈々と流しつづけているのである。
37 :
日本@名無史さん:2005/12/14(水) 22:32:05
もう一つの邪馬台国それは大和朝廷のスレをご覧ください。
38 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 18:50:43
>>35 その氏姓制度史を成り立たしめる、重要な基準点に
なっているのが、ほかならぬ稲荷山鉄剣銘の辛亥四
七一年ワカタケル雄略説でしょうな。
だがその基準自体たとえば辛亥年の比定が、考古や
文献史の発見なり解釈で、五三一か五九一年に移動
する可能性はあると思う。
氏姓その他制度史が、それらに応じて変容する側に
なることもありうる。
39 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 18:57:12
稲荷山鉄剣の辛亥年は四七一年とみていいとおもいます。
471年 乎獲居臣
503年 「開中費直」穢人・今州利
41 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/17(土) 11:19:16
お久しぶりです。ええと、稲荷山鉄剣の年代は、土器の形式とかから471
年に確定したんじゃないんですか?詳しくは知りませんけど・・・
そんなことより雄略を主人公にした身狭村主青と檜隈民使博徳の
三角関係を題材にしたマンガか小説ないの?
43 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2005/12/17(土) 11:48:45
471年で確定です
45 :
日本@名無史さん:2005/12/19(月) 18:15:08
>>41 土器は、鉄剣でた礫槨と、より古い粘土槨のどっちに付随したものか
判然としないんではなかったかな。森浩一は、礫槨の遺物から見て五
三一年は包含しうると書いてたと思う。
あと五三一年説でいうと、乎獲居臣の前の加差披余が「日本書紀」の
安閑紀に出てくる笠原直使主にあたるという説がある。
これは銘文発見からほどなく大野晋が唱えたが、井上光貞が名と姓を混
同してるとして否定した。しかし大野は、もともと銘において名と姓は
不分明の時代と見られるとして反証している。
531年だったら、名と姓を混同している点はなおさら疑問でしょ。
47 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 11:51:15
>>46 名と姓の混同というか、その表記のしかたが六世紀では後世より
アバウトだったというのが、大野の井上への言い分だろう。
これらの表記の六世紀以前の例、まして東国武蔵でのそれは他に
遺例が皆無だから、四七一年と五三一年の僅か六十年の差は、こ
の点からは判定できんと思う。
六世紀には中央で「帝紀」「旧辞」などできていたというが、そ
れを引き継ぐ「古事記」「日本書紀」は、所詮は位階の制定や官
僚機構が整った八世紀奈良朝に書かれた。過去の時代に関しても
名と姓など峻別整理して書き直されてるのは事実だろう。
まあ井上は大野に一本とられたとはいえる。
「ワカタケル」が誰を指すかが問題ですね。もしかしたら普通名詞かもしれ
ません。
49 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 17:33:46
あげ
50 :
日本@名無史さん:2006/01/16(月) 17:36:27
実は、古代の2ch語です
ワカタケルw
51 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 15:54:12
書紀で雄略に割いてるページ数って多いから目立つ
それだけ記憶に残る(ぶっとんだ?)大王だったんだろうな
万葉集や霊異記の冒頭は雄略朝。 書紀においても、
雄略紀とそれ以前では暦法や文章に相違が見られる。
古代人にとって、雄略朝は歴史の画期と捉えられていた。
倭王武の上表文から考えると、とてつもない軍事力を持った大王だったようですね。
54 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 07:17:17
鉄製武具に身を包んだ万規模の軍団。
>>54 それもありえますね。騎兵はともかくとして、歩兵は少なくとも六千ぐらいは
いたと思っています。(中期古墳からの短甲の出土が多いため)
ヤマトタケルのモデルだと思ってた。
57 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 20:07:10
雄略天皇はワカタケルというよりバカタケルです。女好きだし。
58 :
太国:2006/02/15(水) 20:10:04
女好きというのはバカなのかい?
青山学院の今年の問題で「ワカタケル」漢字で書かされた。
書けなかった…orz
>>59 まじですか?そんなマニアックな問題出たんですか・・・
>>56 実際そうなんじゃないんですか?「タケル」が共通してますし、上表文の内容
も「征伐」について熱く語っていますしね・・・
私大世界史は無駄にマニアックだが
それは流石に悪問杉
中大の入試の時
黄埔軍官学校の「ほ」が書けなくて
悔しい思いをしたのを思い出した。
柬埔寨の埔だ
63 :
59:2006/02/20(月) 16:26:46
書けなかったけど史学科受かりましたw
おめでと
65 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 07:11:40
66 :
481:2006/03/01(水) 18:04:56
社会版:
http://society3.2ch.net/test/read.cgi/soc/1139132859/ の投稿222を読んでいただけないでしょうか?
社会生態学的に分析した場合、
オーム真理教が「皇室犯罪」と仮定した時には
東京大学農学部にて、サリンが製造され、
地下鉄で多数の命を奪っていた可能性も考えねばなりませんが、
万一その場合、毒物製造を担当した東京大学農学部の教員陣は
殺人罪で検挙されるべきかと思うのですが、
この点の検証は行われつつあるのでしょうか?
オーム真理教が「皇室犯罪」か否かで
地下鉄毒物殺人事件の当事者が違ってきます。
東京大学農学部がサリン製造を担当していたかどうか
慎重な検証が必要と考えます。
埔
68 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 23:39:24
>>24 雄略天皇紀によれば、姦通した池津媛を姦夫婦石川楯もろとも焼き
殺したらしい。
雄略二年秋七月、百濟池津媛、違天皇將幸、婬於石川楯。
【舊本云、石河股合首祖楯。】天皇大怒、詔大伴室屋大連、
使來目部張夫婦四支於木、置假[广技]上、以火焼死。
70 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 08:47:18
なんか知らんが名前がカッコいい天皇
倭王武とか中国の歴史書の中の名前までカッコいい
71 :
J.Lee:2006/03/29(水) 09:47:23
私たちの血管には半日と 嫌日という赤血球が歩き回って!!
それが私たち韓国人の精神だろう!!
いつかは日本列島を征腹してそのまま返すつもりの!!
半日は韓国を発展するようにする.
半日は韓国スポーツを発展させる.
半日によって韓国野球が日本を 2番(回)勝つほどの実力になった.
今度大会を通じて半日の数字が 90%越したことは良い収獲だった.
韓国人の政治,外交的半日は歴史のためだが..
スポーツの半日はIchiroのためだ..
今度大会の最大の収獲---->全世界に半日だけ増加させた
今度大会を通じてアジアの日本に対するイメージがもっと悪くなった
半日教育をまた財政費しなければならない.
半日が必ず悪事ではない. - 結果はいつも良かった.
スポーツに引き継いで経済面で
三星電子の 'ソニ?を勝とう'
半導体 ' 日本を勝とう'
朝鮮(船舶) '日本を勝とう'
LCD '日本を勝とう'
鉄鋼 ' 日本を勝とう'.........
半日精神が暮してある限り敗北はない
日本人の最後 1人になるその日まで... 韓国の半日は永遠だろう.
日本が滅亡するその日まで私たちは仇を討つ.
ここの日本人を見れば半日の価値もない
ただ嫌日感情だけ生ずるだけ
72 :
ゴジンム:2006/03/29(水) 09:52:00
萬世一系 皇統護持
73 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 07:47:50
確かにワカタケルも雄略の呼び名もイカス。
しかも覇王気質。
さらにその息子は白髪皇子という腐女子も飛びつきそうな展開。
白髪皇子の名前に「白眉」の影響があるんじゃないかと感じるのは私だけでしょうか?
75 :
ニセモノ皇族(長州藩部落住民系)に関する学術論議:2006/04/17(月) 02:54:03
ほ
77 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 15:45:23
しゅ
78 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 07:09:11
兄弟を殺して廻り、女を焼き殺し
なかなかへヴィーな天皇だぜHA!HA!
79 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 00:43:39
あ
80 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 00:07:36
倭王武が三輪王権から連綿と続いていたなら、宋への上表文にその旨を記載すると考えるのが普通かな?
すみません、素人の妙な思い付きです。
81 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 16:45:06
しかし、この人はほとんど語られないな
治天下大王を名乗るワカタケルが幼武なら
飛鳥以前の古代の大王の中では物的証拠では一番多い事になる?
おそらくその通りかと
84 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 16:01:05
内政も外政も読んでて面白い天皇だけどね
85 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 16:28:04
>>42 少女漫画なら古墳〜平安を舞台にした
漫画も色々あるみたいだけど
男向けの漫画で古墳時代が舞台ってのはあまり聞かないな
雷火っていう邪馬台国が舞台の漫画なら知っているが。
てかホモ漫画かよ。
86 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 18:31:51
>>80 逆でしょう。
あれだけ誇らしげに東西海北の征服事業を語っているのだから、
前王朝を倒していたとしたら、それこそを一番の手柄話として上表するはず。
イナリ山の鉄剣にしても、8世代といったらその祖先は三輪時代にまで遡る。
そこまで古い先祖の名前を載っけて「代々朝廷に仕えてきた」って、
王朝交替があったとしたなら、もっと違う書き方であったでしょう。
87 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 19:43:56
雄略はロリだろ
籠もよみ籠もち
雄略の説話は神話的で信憑性に欠けるか?
90 :
日本@名無史さん:2006/06/21(水) 18:14:21
雄略紀の埴輪馬の話に出てくる渡来系の人は
加竜とか伯孫とか何か漢人系の渡来人っぽい名前だな
書首(加竜)は西文氏系(王仁の子孫)だから、渡来系でOK
田辺史(伯孫)は表向き毛野氏族だが、渡来系の色彩が濃厚
80です。
86さんの意見になんとなく合点しました。
自分は多少の血縁はあるかもしれなくても、三輪王権に変わりホンダワケより別王権になったのかなと思ってました。
で武の上表文から類推できないかな?と思いましたので・・・
確かにワカタケルなら近い代で王権交代があったら、誇らしげに書くような気がします。
稲荷山鉄剣銘のオオホコからの系譜を考えると、王権交代なしとしても良いかなという気がしてきました。
ホンダワケの出生記事がこれ以後の王統の起源が朝鮮半島にあることを暗示している気がして王権交代を信じたかったのですが。
93 :
太国:2006/06/22(木) 09:49:50
畿内朝廷の皇統と倭の五王朝の王統とは別物です。後者は短期王朝であります。
呉=宋
95 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 01:07:44
歴代天皇の中で
素手でのガチンコ勝負なら一番強そう
96 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 20:33:49
残忍度でもな
武烈にはかなわないお
98 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 15:04:49
武烈が今の天皇ならスキャンダルを隠すのに宮内庁職員は
苦労するだろうな
やってることがやばすぎるしな
妊婦と馬の話には
逆に信憑性を疑いたくなる
今年は武烈天皇1500年式年だが、
ご進講や御陵参拝はあるんかね。
100 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 23:11:47
101 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 02:26:17
>>94 やはり素直に倭王武が雄略で
呉への往来の記述が宋の事でいいよな。
102 :
太国:2006/07/09(日) 07:53:33
武王は雄略天皇にあらず。
103 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 08:59:03
ん?
ho
105 :
日本@名無史さん:2006/08/24(木) 21:11:47
保守
108 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 19:23:40
保守
戦時中、島嶼では玉砕と称して日本兵はお互いに足を引っ張り合いながら団子になって死んでいった訳だが、
生き残った人が「彼らの死を無意味だったとは遺族には言えない」と言っていた。
どうすれば彼らの死を無駄にさせないことが出来るか、思い悩んでいる様でもあった。
日本では、未だに戦争の張本人、責任者である天皇の戦争責任が問われていない。
これを明らかとし、二度とこの様なことが起きない様に天皇制を廃棄する事こそが、彼らの死に報いることではないだろうか。
そうして初めて、戦争で死んでいった数百万の日本人の死が無駄ではなくなるのである。
110 :
太国:2006/10/28(土) 19:57:51
>>109 刑事責任の意味では天皇に戦争責任はありっこな〜い。
これがあるとイの一番に米軍に逮捕され、とうの昔に巣鴨でご臨終になっている。
日本の将来に天皇が必要だから生かしておいたなどという論理はありっこない。
そうならサダムも逮捕せずに生かしておけばいいのに穴倉で逮捕されている。
つまり逮捕されてない先帝陛下にそういう責任はな〜い。
まあスレ違いで書きにくいねぇ〜。
111 :
日本@名無史さん:2006/10/28(土) 20:03:12
戦争犯罪は刑事事件じゃないだろw
戦争犯罪に時効無し。
112 :
太国:2006/10/28(土) 20:20:04
>>111 太平洋戦争のほうが一般の殺人事件よりもっともっと桁外れの人間が
戦死している。しかし一般の事件は通例だと1人〜数人であるが、今は
甘くなったとはいえ死刑判決があ〜る。前者の数の戦死者を出して、責任
があるなら(←刑事の意味の)当然逮捕されて死刑は免れな〜い。
だからサダムは逮捕され、今は公判中でもはや死刑の判決が出ることは、
裁判官がサダム隠れたひいき者だったら別だが、もはや疑いはな〜い。
オウムの浅原もかなりの数の殺人の刑事責任で死刑の判決が出ている。
だから、もし昭和天皇にそういう責任があれば、当然逮捕されて巣鴨
定住になるのは火を見るより明らかのはずが、なっていな〜い。
アメさんは当然万の米兵が戦死してるので責任あれば死刑台にもって
行くのは簡単予期できるはずだが、天皇は逮捕されてな〜い。
通常の殺人より規模の桁が違うのに逮捕されな〜い。つまりそういう意味
の戦争責任はな〜い。あれば当然とうの昔に巣鴨でお陀仏様だ。
サダムは死刑判決が当選確実であ〜る。←戦争等での責任
浅原も最高裁までで死刑確定であ〜る。←サリンでの責任
天皇はこれは逮捕もされず巣鴨いかない。←だから責任はな〜い。
ほ
114 :
サガミハラハラ:2006/12/21(木) 17:11:30
倭の5王の中で、最もなぞの多い天皇である。
かれは雄略天皇であるとほぼ全員に認められているので、5王の中でもっとも簡単に年代等
特定できると思いこんでいたが、もっとも難しい天皇であった。
115 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 16:57:51
ほしゅ
116 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 06:31:26
117 :
サガミハラハラ:2007/02/23(金) 07:44:36
釣られてかきこみます。
天皇の没年は、書紀では479年となっています。ところが、古事記分註天皇崩年干支(2倍年暦)では
478年秋年となっており、半年から1年の違いがあります。
即位年については、安康天皇の在位と重なることから(安康天皇の即位を認めていない記録もあった)算出にてまどった。
118 :
太国:2007/02/23(金) 07:51:49
雄略世は等倍暦。
次代の繼體世等を2倍暦でやらないと雄略以前の年数合わせは失敗。
殆どの人はこれで失敗している。倉西女史もこれで間違っているようだ。
雄略を倭の五王の一人として年数合わせをやるのも自滅。
119 :
サガミハラハラ:2007/02/23(金) 08:13:21
補足いたします。
書紀では雄略紀の5年までは2倍年暦で、以降は普通暦です。
安康即位年は459年秋年で、書紀では同年に雄略の即位年となります。つまり、書紀の雄略の在位年数は安康の即位をみとめていない
記録を使ってしまったのです。真の雄略の即位年は461年春年となります。
120 :
太国:2007/02/23(金) 08:24:37
461年だと拙者のと9年差です。拙者は雄略即位470年と算定しています。
雄略と安康の在位が重なるということはおかしいわけで、重なっているの
ならば、天皇と観ていた片方が九州所在の倭の五王朝で、固定して
いたほうが大和朝廷の数字で、これでは重なりあうわけで、そこから在位
の重合の結果に陥ったんではありませんか?
121 :
サガミハラハラ:2007/02/23(金) 08:51:23
雄略の即位年の算出においてのポイントは雄略5年にのっている武寧王の誕生です。
王の誕生は墓誌の発見により461年に間違いはないでしょう。そうなると、単純に考えると(普通暦では)、雄略即位は457年となります。
其の点いかがお考えでしょう。
122 :
サガミハラハラ:2007/02/23(金) 08:58:15
重複の点は、允恭の死後の混乱が、安康の死後まで続いたとみる記録があったとみていいでしょう。
ですから安定した雄略の時代が允恭の時代に続いたとして安康の即位を抹消し雄略の即位年を遡らせたのです。
123 :
太国:2007/02/23(金) 09:25:39
>>121 武寧王の誕生は475年です。あの碑の干支とやらは日本製ですよ。
繼體世等の倍暦でも干支は合います。研究家は繼體世等を等倍で干支
を見ているから461年になっちゃうんですよ。
武寧王は日本で生まれて2倍暦の繼體世まで生存しており、日本の
倍暦での干支で碑文となっていますよ。この王は日本で生まれた特異
な身分のことで日本の暦法での文字が碑に書かれているわけで、半島のではありません。
124 :
サガミハラハラ:2007/02/23(金) 09:34:36
墓誌からは武寧王は523年に62歳で没しているのではないでしょうか?干支は中国も朝鮮も共通だと思いますが、
日本製とはどういうことでしょうか。
125 :
太国:2007/02/23(金) 10:22:25
>>124 武寧王を523年没としたのは半島側と日本側の双方が通常の等倍暦
だと疑わずにかかって決めこんだ間違いだと思います。
王の実際の没年は529年で、繼體世が2倍暦だからあの時点で数年
の短縮があるわけです。
外国原産のものを日本で使用する事例はあるわけで、例えば漢字も
大陸製で日本側が使っているだろうし、核心の干支でさえ向こう
から来たとされていて日本の記紀が使っているんだから、逆に日本
ものを半島とかで使っていたということは当然ありうることだと
考えるべきです。2倍暦でやって現今の半年毎に干支が変わって
いくことは当然考慮されるべきです。
半島出土の碑なら半島側の暦法年で碑に書きこまれるのは通例
ですが、王が日本生まれで日本びいきなら、その碑に日本の倍暦
干支で書かれていてもおかしくはありません。
いまの研究家は金科玉条の如くあの碑文から461年が真であると
即断したのが失敗の始まりです。王は日本人に準じるお人なん
だから、繼體世の2倍暦干支で書かれていることを知るべきです。
126 :
太国:2007/02/23(金) 10:50:52
サガミハラハラさん
今の考えはいったん保留にします。
というのは、半島側の等倍での碑文を合っていると固定して
おいて、紀の編者側が紀の文内に入りこませた箇所に狂いが
あるかも知れません。もう一度検討をやってみます。
127 :
太国 :2007/03/02(金) 17:32:09
サガミハラハラさん
武寧王墓誌は武寧王の没年に改刻の痕跡があるのを古田先生が見つけて
いることで、『発卯』のところ『甲辰』の改刻があると分かり、遡る461年は崩れ
るんじゃぁありませんか?
繼體世が2倍暦なら双方は前半の半年と後半の半年となり、どちらでも同年に
なるようですが。
128 :
サガミハラハラ:2007/03/02(金) 18:50:54
墓誌に改刻の痕跡とありますが、発掘後誰かが改刻したということでしょうか。
改刻したものが発掘されたとしたら、誤刻を修正したのであり問題ありません。
129 :
太国 :2007/03/02(金) 20:19:20
130 :
サガミハラハラ:2007/03/02(金) 22:27:04
確かに三国史記の好太王時代は1年のずれがあるが、それがいつごろまで続いていたかとなると。
131 :
太国 :2007/03/02(金) 22:37:07
古田先生は百済とこちらの暦法干支に1年のズレがもともとあったような説明
のようで、なにか数え年と満年齢の違いを想起させます。
だが〜2倍暦が見え隠れしている感じがしてきますよ。裏に隠れていた2倍暦
の真相が氷山の一角のように出てきたのが、この二つの干支の二重記載では
ないんですかな?
132 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 00:15:46
この大王様、出雲系の神々(一言主と大物主)を軽く小馬鹿にしていますな。
当時、葛城氏が滅亡したことと関係があるのかな。
133 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 22:17:25
稲荷山古墳の近くの資料館にワカタケルと刻まれた鉄剣が
展示されているんだけど、あんなに貴重な物、何故国立博物館とかに
移さないのかな?国宝でしょ?田舎だからわわざわざ見に来る
人も少ないだろうし…
昔は、幼武は「ワカタケ」って読まれてたんだよね。
稲荷山鉄剣で「ワカタケル」って読むんだって解ったの?
>>133 悪かったな、田舎で。
天気のいい休日だと、家族連れとか古墳公園内は賑わってるぞ。
それから、県の施設再編で、去年の春から資料館は博物館に名前が変わった。
やっぱそうだったのか。
でも「日本武」は昔っからヤマトタケルなのに、変なの。
江戸時代には「ヤマトダケ」と訓まれてたんじゃなかったっけ? >ホツマツタヱ
/⌒ヽ γ´⌒`ヽ
/ ● ヽ ./Oo〇oOヽ ,-''"¨ ̄¨`'‐、
(●/⌒ヽ●) (Oγ⌒ヽOo) (,,(,,i,,,i,,,,,,,,i,,,,i,,),)
ヽ| ´∀`|ノ )) ヾ( ゚Д゚)゚ノ )) ) ( ))
.ゝ___ノ ゝ_ノ. ( ゚ー゚*)
 ̄ ̄
ヤマトダケ…?
この人の皇后って履中天皇の皇后と同一人物なの?
同名異人
履中皇后は応神の皇女
雄略皇后は仁徳の皇女
というのが無難な解釈。
143 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 14:54:00
大悪天皇雄略の子孫である今の天皇家の奴らは極悪人だ!
わかたけるの大王
145 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:02:45
>143
この時代の大王は、自ら甲冑を身につけ、
武力で周囲を支配し、兄弟叔父甥と殺し合いをして大王位を奪い取るものなのに、
何を今更・・・・・
後世の公家というより、戦国武将みたいなもん。
146 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:04:52
>>143 そう思ったのか戦時中は雄略御乱心はすべて封印されていたんだよなw
147 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 19:18:41
戦時中は日本書紀が読めなかったってこと?>大悪天皇
戦前生まれのばあちゃんは、尋常小学校の授業で、
神武からはじまる天皇の名を十代目ぐらいまで暗記させられてたみたいだが
武烈の部分も結構削られてたようだけど
149 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 14:12:07
武烈は説話そのものの信憑性が薄い
中国史書の影響だの、
継体美化の産物でもあるしな
薄くはない。天皇の大悪的状況を隠匿せず記載しているから、充分信憑性がある。
武烈を悪逆非道の暴君として描いたのであれば、
継体は仁徳の様な聖天子にしないと拙くないか?
いや戦時中に説話の信憑性云々なんてことは議論にならないから。
単に醜聞だと考えられての削除。
153 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/14(月) 22:19:52
繼體を美化したけりゃ、嫁いだ先の連中も素行がキレイだと尚美化
になる。中学から新しく高校に入学したが、そこの先輩が醜聞を
やればその自分は甲子園出場ができなくなる。そいつもかぶるわけ
だからな。
考え過ぎんなよ。ww
>この時代の大王は、兄弟叔父甥と殺し合いをして大王位を奪い取るものなのに
だから仁徳系が自滅して、
滋賀か福井あたりから継体天皇を迎えるハメになる。トホホ・・・
155 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 22:46:35
銘文の「獲加多支鹵大王」だが、先頭字の『獲』は原文ではクサカンムリが
無い。「加多支」は 勝たし とか カタキ(仇)とか読めることから、安康
天皇の大草香皇子殺害の作者の示唆なのであろう。
名の末尾のほうの『鹵』は原文は口の中が『九』字に近いから 仇 を示唆
したのではあるまいか?しかも『支』の字の上部は『十』字なるところから
『十九』の数字が脳裏に浮かんで来る。19代允恭天皇の黙示であろうか?
なお銘文の辛亥年は倍暦計上での 471年=雄略元年 に当たっていることを
余はつきとめている。
156 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 21:49:50
age
脇本遺跡からまた出たらしいな
NHK、聖徳太子や中臣鎌足をドラマにしたんだから
次は雄略天皇辺りやってくれ。
159 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 11:31:25
保守あげ
オリックス社代表の宮内義彦という政商がいた!! オリックス社代表の
宮内義彦は、外貨獲得で大貢献していたトヨタ社の社長よりも政治発言
がはるかに多かった!!
在日華僑、宮内義彦の会社が何か日本に貢献していたことがあったのか!!
宮内義彦という在日中国人のたんなる実業家が、なんであれだけ多くの
政治発言を日本国内でやっていたのか!!
華商であった宮内義彦の最後がITバブルの大黒幕だったという噂だけで、
華商の宮内義彦がどれだけ巨額のカネを持ち逃げしたのかがわからない
ままだ!!
日本の警察と防衛省は、何もやっていない!!!!
税金ドロボーの日本国政府!真面目に仕事をやれ!!!!!!
雄略天皇の業績を非難する人にはこういってあげよう
「バカだなあ、神話での親族内のテロやら近親相姦やらといった"非道"の全ては、
王族の神権や聖性を強化するためのプロパガンダじゃないの!」
162 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 16:14:57
そもそも雄略紀の記述はおとぎ話や説話の類であって、史実ではない。
163 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/13(月) 19:58:14
史実でないことはどうやって実史搖されたのか?
164 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 13:37:16
太国の文章意味分からない
165 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/21(火) 15:08:52
実証されたのか?
166 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 18:01:59
ただの誤字だったのかw
167 :
すみれの花のような ぼくの友だち 実はサガミハラハラ:2007/08/21(火) 19:40:12
>>162諸文献から、雄略天皇の記述は大筋で間違いないということがわかっています。
168 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 09:57:33
169 :
日本@名無史さん:2007/08/30(木) 02:12:16
RANGE...・・・・ ★★★★★記憶はなくなったが、底に残るものが名前を呼ばせたのか?ありがちだが、それなり。最終回だし5
170 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 19:41:42
ら
171 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 13:28:51
マニアックなスレだな。
172 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 04:29:19
鉄剣の銘文はワカタケルではなく、ワカタラシヒコではないだろうか?
大彦までの系譜の代数に不合理が出るんじゃないの? 詰まっちゃうが?
「支」がラと読めるのかい? それとも次のシにあてるのかい?
ならば手前に1漢字が2音読むものがないとねぇ?
ワカタキロとしか読めねぇ
175 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 21:55:40
ここも実証的な議論が出来無そうだ
フトクニがいるんじゃw
176 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 23:56:30
それが目的でしょ
創価信者には参る
獲ってワって読むの?
そうだよ
179 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 05:39:59
世代が合わないのは垂仁から仁徳の間に創作天皇を突っ込んでるから
180 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/30(火) 07:13:13
合わないのは創作を介入したのではなく、その舎人の連中が大陸半島と日本の
暦法に大いなる相違があるのに気づかずに紀を編纂したことと、現今の研究家、
学者らも気付こうとせずに紀を観てるからだ。
相違とは、あちらが通常の暦法なのに日本側が倍暦を行使していたことだ。
だからまるっきり合わなくなるわけだ。
181 :
サガミハラハラ:2007/10/30(火) 07:23:59
そうです。
しkし、最近日本書紀の年代を修正して普通年に復元した本が出版されています。
182 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 15:52:37
>>180 >その舎人の連中が
何だいそりゃ???
創作するな
183 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/30(火) 18:21:41
紀の編者らのことだよ。
184 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 19:10:36
>>183 どのような思考過程で文献にもない舎人になるのか
後学のために教えてください
185 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/30(火) 19:41:29
>>184 だから創作突っこみをしたのは
>>179が遠回しに紀の編纂の舎人らだと言い
たいからなのだろう?
そうではないのか? お前は
>>179ではないのか?
186 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 19:53:07
>>185 再録
どのような思考過程で文献にもない<舎人>になるのか
後学のために教えてください
176は俺とは無関係
187 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 19:55:36
186です
176×
179○
188 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 20:06:06
>>185 ひょっとして<舎人>て舎人親王のこと?
ちゃんと書け
189 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/30(火) 20:08:33
紀を編纂したのは舎人らだよ。だから文献にもないというのは何かおかしな
言い方だねえ? 舎人らの一段後背側は原書群の編者らということになるわけ
だろうが。 結局原書記紀からの思考過程ということだよ。
だから文献だということだ。
190 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 20:29:02
>>189 <舎人>だけじゃ普通名詞かと思うよ
<舎人>は舎人親王のことでいいんだな?
orz
191 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 20:44:51
日本紀(not日本書紀)は舎人親王が編集長となって書いた
192 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/30(火) 20:56:11
193 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 21:13:08
あなたの知性と相まって紛らわしい、改善を求める。
194 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/30(火) 21:16:26
>>193 お前だって名無しコテだろうが? 誰が誰だかこっちも混乱してるん
だぜ。舎人と紀の編者といえば、頭がそれでピーンと来るようにしろ。
それがいやならお前もコテをつけて、誰が誰だか迷うことのないように
しろ。
195 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 21:19:33
ぴーん(笑
196 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 21:25:56
雄略紀は続か薩が書いたんだよな
このへんから話を進めよう
197 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:45:07
>>196 賛成
森博達先生の説だね
必然性にはちょっと乏しい気がするけど
執筆者の特定はオマケみたいなもの、
ある程度の資料を元にほとんど一人で書いたんだろうな
199 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 06:07:07
こういう話はコテハン連中は苦手だろ
200 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 14:36:35
目弱王の乱を鎮圧。
乱の鎮圧に非協力的だった二人の兄皇子を殺害。
以後も、ライバルの皇位継承者を次々に武力で葬り、天皇へ即位。
201 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 12:19:58
大悪天皇
ほ
も
ワカタケル×スガルとか?
アッー!
童女君を一夜で、、、
実は俺の子なんだ…
発覚したらまずいから、あんな嘘ついちゃった。単純な性格だからあっさり信じたよ、天皇は。
2ちゃんねらからもっと崇められてもいいのかもw
209 :
日本@名無史さん:2008/02/27(水) 11:26:01
age
白子因子の保因者であられる偉大なお方
清寧天皇以来の金髪・碧眼の親王殿下が誕生されたら宮内庁はどうするだろうか?
内親王妃殿下の可能性もある。皇室はかなり血の濃い血族結婚を代々重ねているから
清寧天皇以外にも白子の皇族がいても不思議はない
211 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 08:12:13
現代の皇室は近親婚じゃないだろうが
もっとさかのぼっても江戸時代や明治時代は近親婚していない
民法で禁じられている以上の近い近親婚はかなり以前に廃絶している
212 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 08:15:17
ちなみに白髪皇子(清寧天皇)の両親も近親婚じゃないんだよな。
同母姉の稚足姫皇女には障害はないし。
日本書紀の清寧天皇白子説は神仙思想の影響を漢籍から
受けて創作されたもんだな。円滅亡後に輿入れした韓媛韓生まれた
雄略の第三子というから星川皇子より幼いのは確定だろう。
清寧天皇の妹である稚足姫皇女の年齢はいくつなんだ?
214 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 17:54:26
稚足姫皇女は父雄略天皇が即位するとすぐ伊勢斎宮に任じられ、
雄略3年に廬城部武彦によって犯されたという疑いをかけられて自害している。
この時点で稚足姫皇女が懐妊を疑われる年齢に至っていたことは確か。
同母の清寧がこのとき何歳だったかは不詳。
215 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 18:10:52
>>213 清寧天皇が虚弱体質だったというのは事実だろうけどね
相応の年齢まで長生きしながら
妻も妾もいなかったのはこの天皇だけ
216 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 20:57:40
清寧天皇はふたなり
シラカを地名とする説が近年有力になってきたね。実は黒髪?www
もちろん非実在説もまだまだ健在だけど。
廬城部連枳莒喩の話は安閑紀に載ってるのと元は一体で、
斎王関係の部分だけ画期としての雄略朝に遡らせたとか。
年齢考察はナンセンスだなー。
記紀の紀年をあれこれ操作して「実」在位期間や「実」年齢を求めるのはナンセンスなのは同意だな
でも矛盾を明らかにすることはこれらの数値自体に意味がない事の証明にはなるでしょ?
219 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 09:26:18
雄略天皇ー春日山田皇女ー手白香皇女ー欽明天皇
清寧〜武烈まで非実在説
220 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/09(水) 10:47:51
>>218 ナンセンスなのはお前の豆脳だけでよい。
>>219 隅田八幡鏡の銘文
「癸未年八月日十大王年・・・」
は、八月十日と書くべきところを「日」と「十」を故意に置換している。
その理由は『十大』が
十 + 大= 本
の合字を示唆したもので、「日十大王」とは『日本王』を隠したものである。
その王とは 日本根子尊大王(清寧天皇)を意味している。こういう非実在説は
津田病の短絡的思考の伝播によるものが大多数と見受けられ、この説は
破折される。
221 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 10:49:37
雄略天皇は九州に居たんだね。
222 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/09(水) 11:19:20
>>220 続き
清寧と同名を持つのが開化天皇であり、双方 大日本根子 の御名である。
癸未年は 皇紀563年=開化崩御年 であり,同鏡の干支は暗に開化をも示唆して
いる。これは欠史八代が現存した遠回しの根拠になりうる。
倍暦で 皇紀563年=236年=青龍4年 に相当する。
223 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 12:48:59
黒媛
飯豊青尊
手白香皇女
山田赤見皇女
黄色はいないのかな?
224 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 16:58:05
>>220 「日本」という国号ができたのは天武朝のはず。
それに、清寧が「日本根子尊」とおくり名されたのは随分後の時代。
太国君ってとんでも説だなw
225 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/09(水) 18:03:57
>>224 Pu!
笑わせるな。ww お前自動車がその日突然にできるか? 前もって企画があり、
その時点で構想があって自動車の出来上がった状況が模型も使うんだろうが、
出来てるんだよ。ww ここの鏡はそういうものさ。そういう呼び方が非公式
で言っていたということ。その後、後代にて気に入られて正式となったもの。
発表されて売買する日じゃないの。お前人生経験狭小だろう。wwwww
226 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 18:24:30
>>225 史料無視かいw
遺物から確認できること
雄略=ワカタケル、反正=ミズハ
が正しい同時代の呼び名。
清寧は実在するとすれば名前はシラカ。
日本なんたらという尊号で呼ばれた大王がいるなら、
史料を挙げたまえ。
そもそも、日本〜は死後に贈られる完全な尊号で、
天武以降の天皇ですら生前の呼び名ではないんだが。
227 :
太:2008/04/09(水) 19:49:48
>>226 お前の言ってることは意味不明だよ。記紀を読んでないのか?w
だいたい記紀に
神日本盤余彦尊(神武)
大日本根子日子大毘毘尊(開化)
白髪大日本根子(清寧)
とあるわけだから、どうのこうのお前に言われる筋はなかろう。
それにお前の言い分から、鏡の銘文が「八月十日」とせず、なぜ
「八月日十」
としたのか? 他ににうまい事由があるんなら聴いてやるぜ。
それとも何か? お前、津田病にかかってるのか?www
228 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/09(水) 19:50:10
>>226 お前の言ってることは意味不明だよ。記紀を読んでないのか?w
だいたい記紀に
神日本盤余彦尊(神武)
大日本根子日子大毘毘尊(開化)
白髪大日本根子(清寧)
とあるわけだから、どうのこうのお前に言われる筋はなかろう。
それにお前の言い分から、鏡の銘文が「八月十日」とせず、なぜ
「八月日十」
としたのか? 他ににうまい事由があるんなら聴いてやるぜ。
それとも何か? お前、津田病にかかってるのか?www
229 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/09(水) 19:51:51
二重書きこみ失礼。PC操作の誤り。
230 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/09(水) 19:56:00
>>226 もう一度意味不明なので読んでやった。それはお前の思想にすぎない。ww
231 :
◆16/YXRFBRM :2008/04/09(水) 20:15:59
開化は「稚」日本猫大日日天皇ですよ
232 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 20:31:36
清寧の本名は妹にあわせて稚足彦じゃないとおかしくね?
または妹が手白髪命だったら…
233 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/09(水) 20:35:33
234 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 20:43:35
清寧の和風諡号が安閑・宣化風なのは新設の天皇だからかな?
それとも宮号のみしか伝わってなかったのかな?
白髪も埋葬地にあやかった追号的な名前だと思うがどうでしょう?
235 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 21:02:15
単純で素朴な国風諡号の天皇と奈良時代的な諡号の二種がある理由は
元にした原史料において諡号が同規格で命名されていたわけではないからです
やはり子孫の有無が重要な要素になっていると思いますよ
236 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 23:50:21
目って荒甲の親父だから雄略朝は本来継体の前だな
237 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 00:30:41
>>232 清寧(白髪)・武烈(小泊瀬)の系譜の位置付けが逆じゃないかという説はあるよ。
その場合、手白香と白髪が兄弟、大泊瀬と小泊瀬が親子になって(゚Д゚)ウマーと
雄略って、考えてみたら勇壮な名前だな。
ひたすら戦争・闘争に明け暮れたってイメージ。
あくまで字面だけの話だけどね。
そりゃ雄略とか漢風諡号つけたのは奈良時代後半だし
240 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 18:46:16
>>228 神日本盤余彦尊だの大日本根子日子大毘毘尊だの
生前に呼ばれた天皇が実在していたと考える時点で
お前の頭は完全に狂っているな。
神武も開化も非実在が学会のデフォ。
241 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/10(木) 19:42:25
>>240 Pu!
お前が津田病の重症だからそのように見えるんだよ。ww
だいたい天皇陵の数もあってるだろうが。間違ってるならその天皇級
の陵は誰の墓なのか? それを説明してから物事を云え。
津田の墓なのか??ww
242 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 20:28:58
>>237 どなたの説か詳しく知りたいです。
今まで武烈紀や継体紀に大伴室屋の名が出てくるのが不思議だったんだけど
入れ替えで矛盾は減りそう
243 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 20:53:10
大伴氏の上祖の武日は垂仁朝に登場してるので
その先代が初代天皇と畿内に東征して来たと考えるべきでしょう
欠史八代のモデルは史記でいえば夏王朝、東征王朝に先行して
畿内に存在した王朝の想像図というのはどう?
244 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/10(木) 21:21:19
>>243 夏に先行しただと? そんな時代に畿内に王朝はないよ。お前の妄想だ。
鏡に書いてあるのはあくまで「日十大」。
それを日本と解釈するのは単に誰かさんの想像に過ぎない(妄想とは言わんが)。
「本」という字を「十大」と表した例があるのか?挙げてくれたら自分も信じよう。
つーかそんなのあったらとっくにどっかの大学の先生が発表してるだろうな。
246 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 00:58:41
大乃国が妄想ぶちまけ大暴れ
隅田八幡神社は欽明天皇によって建てられたという社伝があるみたいだから
鏡の元の所有者は欽明ゆかりの一族か?祭神の丹生都(ニート?)姫は天照の妹から想像すると
この時期の始祖的女性は手白香皇女。この妹は橘仲姫皇女。
神功皇后に思い入れがあったと見られる石姫(陵が息長神社の側)が最終所有者かと思う
248 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/11(金) 07:44:39
>>245 >あくまで
そんなことは分ってる。だからそうならなぜ「八月十日」とせず「八月日十」
としたのか? そこをお前は全く説明していない。否定するだけで、その
否定の理由も具体性がまるでない。
中国なんか文字の分解遊びをやるそうだ。これもそうだろう。
大日下王というのもいたしなきにしもあらず
「十大」→「本」の例を挙げなければ、百万言費やしても無意味。
あと >そういう呼び方(日本)が非公式 で言っていたということ。
これも例を挙げてくれんか?そしたら信じるよ。
何も君の意見を否定しようってんじゃない。信頼するに足る根拠を出せばイイだけの話。
出来なきゃ定説の方を信じるだろ、フツー。
251 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/11(金) 14:43:19
>>250 じゃこれはどういう意味?「日十大王」?畿内にこんな大王は天皇以外なかろう
がね。天皇でないこんな大王がいるわけがないよ。いるんだったらお前も他に
根拠を出せばイイだけの話。其の定説とやらを披露したら?www
「十」+「大」=「本」
定説がドンだけ信じられるのか?w お前の豆脳とこっちは違う。「十大」は
「本」字の分解だよ。つまりだ、「日十大王」とは『日本王』を故意に分解して
くらませてるだけ。古代人のからかい。お前は単純だから解読できない。ww
252 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/11(金) 15:27:56
253 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/11(金) 15:33:23
まず記紀の天皇がすべて順番に実在したと考えるのが不味い
タリシヒコなどのように実在した大王でも奈良王朝に認められなければ
違う時代に飛ばされ記録される始末である
次に日本という用語の初出は七世紀を遡らない
255 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/11(金) 16:11:44
日本の記述は紀の原書から採ったものだから神日本磐余彦からそういう名付けは
結構ある。間接的に欠史八代あたりは倍暦計算から1〜2世紀であり、7世紀は
大幅に遡っている。初出は自動車の新車販売日のようなもので、新車の呼び名は
発売以前に企画で決まっているものだ。ということだから、7世紀前には
あったとみてよい。順番がでたらめではなおさら信憑性に疑義の論が他出する。
ならば、そういうことはよっぽどの具体的根拠、資料がない限り認容できない。
256 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 17:12:07
倍歴とかないから
>>255 私の小さい頭ではあなたの考えることが全く理解できませんが、
太国さんの言いたいことは分かりました。
否定も賛成もできませんので他のスレに消えて下さいませんか?
258 :
太:2008/04/11(金) 22:41:43
お前が消えればいいではないか?w
日本という単語は支那からみて日の昇る方向という意味だから
中華思想の枠組みに入った属国根性な国名だよ
そういうのを有り難がるのは売国奴であり戦犯だ
260 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/04/12(土) 07:28:44
日本は文字通りご本家。
支邦は文字通りご本家の分枝。分岐。
稲荷山古墳の主体部発掘してくれ。
どこの稲荷山古墳のこと?
ワカタケルの鉄剣出たとこ。
その鉄剣は主体部を発掘したから出てきたんだが…
天日嗣の王子ってマンガがウェブ上で公開されてるけど、あれ見て雄略怖えーって思ったwww
そして市辺押磐皇子に惚れた。
肖像も無いから妄想し放題だな。
268 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/29(木) 16:36:16
墓標を 出雲暦で見る 没年
63〜76 皇暦 神沼河耳命/綏靖A 壬子年5月10日50
77〜87皇暦 玉手見命/安寧B 庚寅年12月6日49
88〜91皇暦 鉏友命/懿徳C 甲子年9月8日65
93〜118皇暦 訶惠志泥命/孝昭D 戊子年8月8日67
119〜145年 國押人命/孝安E 戊午年1月9日77
145〜163年 賦斗迩命/孝霊F 丙子年2月8日55
164〜180年 國玖琉命/孝元G 癸巳年9月3日46
183〜190年 大毘毘命/開化H 癸卯年4月9日40
元年は、私の書記による編年 参考です。
ここからは責任もちません。
360年 品陀和気命墓(棺) 甲午年九月九日75
386年 大雀命墓、己未年八月十五日、83
399年 伊邪本和気命墓、壬申年一月五日64
405年 水歯別命墓(棺)、戊寅年七月五日59
423年 若子宿禰命墓、癸巳年一月十四日61
481年 木梨軽王命墓、甲午年五月十二日41
483年 穴穂命墓、丙申年八月九日41
506年 大長谷若建命墓、己未年八月七日62
雄略が倭王武になってしまうが?
妄想乙
270 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/05/30(金) 12:46:58
妄想の手助け
おなじみの式 b3の数字(西暦)を 出雲干支に 直す。 93=丙寅
=CHOOSE(MOD((B3+89),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")&CHOOSE(MOD((B3+89),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
太国さん推薦の墓標
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/GAZO2.html
271 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 12:44:24
保守
272 :
サムソン:2008/06/30(月) 16:36:52
現在、来年2月の大学受験に向けて
日本史を猛勉強中の者です
各大学の2次試験にて、弥生〜古墳時代の
倭、中、朝の関係についての問題が頻出だと聞いています
この時代についてあまり得意でないため
皆さんでいくつか問題を出していただけませんか?
○○を漢字で書け、というような内容のものよりも
時代背景を問うようなものを希望します
マニアなみなさんによる良問、お願いします!
大伴金村失脚にいたる政治過程を東アジア全体の国際連関を視野に入れたうえで
400字以内で論じよ。
274 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 08:01:32
そいやーなんで高句麗と組むっつー発想がなかったんかね。
275 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 08:08:13
あとあんま関東征伐の話がでてこない。
276 :
日本@名無史さん:2008/07/08(火) 20:31:11
>そいやーなんで高句麗と組むっつー発想がなかったんかね。
大昔の日本外交って「遠交近攻」の概念が希薄だよな。
当時の中国は先進大国だからどこと手を組もうと基本的には自由。
でも日本は半島から技術(者)とかをいっぱい導入する必要があるから
必然、隣の任那・百済と仲良くしなければならない。
仁賢天皇が高句麗に遣使して関係を結ぼうとしたのは、
紀生磐の反乱で任那経営が危機に陥っていたからか?
>>272 夏休みにでも魏志倭人伝読んでみれば? そんなに長くないし。
280 :
日本@名無史さん:2008/07/17(木) 13:39:05
眉輪王カワイソス
281 :
273:2008/07/17(木) 22:25:36
>>273 折角問題出してあげたんだから回答してよ。添削してあげるから。
保守
284 :
日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:12:25
万葉集の歌 「籠もよ み籠もち ふくしもよ・・そらみつ・・名のらさね・・」
鎌倉時代の慈円の『愚管抄』によれば 仲哀天皇の時代から敏達天皇の時代までは
「道理が道理として通らぬ世」とされている。
そのような時代背景というか社会背景を考慮する必要がある。
道理=仏教伝来以前なんだから当然。
286 :
日本@名無史さん:2008/10/07(火) 23:41:57
不思議なことではあるが 大和時代の大王の墓(古墳)は
大阪府羽曳野市や堺市近辺(摂南や河内あたり)に 現代にも残っているということである。
>>284 その歌は、万葉集の筆頭に雄略天皇の歌としてあるが、記紀での雄略の人物像や
歌と通じるものがあるね。
後の時代の偽作とするせつもあるが、あれは本物だな。
>>287 雄略の歌は情緒とか隠喩とか余計なものがないところが良いww
>後の時代の偽作とするせつもあるが、あれは本物だな。
学術的にはどっちの説が有力なんだろな?
舒明天皇の「この国ウマソー」ってのが、確実な中では最古ってコトだが。
「われこそ座せ」という自敬表現が引っかかるな
>>289 昔は偽作説が有力でしたが、あの時代は記紀の元になる伝承の文書化(国記など)が6C後半に
始まったとする津田説が有力だったという背景があります。
稲荷山の鉄剣により、雄略のころには文書化された伝承の伝達が始まっていたことが判明し、
倭の五王の上表文からは、5世紀の始めには伝承の文書化が開始していたことが裏付けられる
ので、雄略の歌が文書化されて残されてきた可能性は十分にあります。
万葉集の歌をみてみると・・・
57で定型化される以前の形式の歌であること、
内容も雄略の人間像に合うこと、
「雄略の歌」という伝承が存在し、その信用性もある程度あること、
万葉集の冒頭に置かれるほど有名な歌であったこと、
などから、本物と考える方がよいかと思います。
雄略っていうと、自由奔放で天然な憎めない強欲おやじというイメージがあるな。
いい女を見かけると、すぐナンパする。
しかし、それを忘れて相手がおばあちゃんになって文句を言いにきた。
「一度寝ただけで妊娠したのか」と疑うも、家臣に聞かれて「一晩に7回やった」と
答えて一同をあきれさせる。
歌には、情緒も品性もないが、なぜかリズムだけはいい。
女を口説く歌は、押しの一手のみ。
293 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 20:30:19
子毛予 美子毛知 福下予
名乃良佐根
空満・・・
>>291 400年頃に日本に来た新羅からの人質(みしこち)の和風表記などからは、
その当時の日本人が彼を呼んだ言い方が書面で残っていたことが窺われる。
紀では朝鮮文献の表記はそのまま用いて、日本文献にあった朝鮮関係記事からは、
和風読みの人名となっている。
295 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 13:49:07
保守
296 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 15:02:21
遅レスだが、埼玉古墳群の稲荷山古墳だったら、
主体部は未調査。鉄剣が出たのは主体部の表層の石郭。
被葬者に関係が深い人物の墓とされている。
本当の被葬者は、さらに地下の石室に眠っている。
ちなみに、その被葬者は兄多毛比(タケヒ)のミコト
(以前はエタモイと読まれていた)とほぼ断定されている。
それは大伴武日のことですか?
>>296 発掘する前にあの奥に主体部があるとは言い切れないのでは?
299 :
296:2008/12/26(金) 17:53:43
>297
ここで、その名前を出すところを見ると、
あなた、只者ではないね。
大伴武日と兄多毛比、何らかの関係があることは、
昔から言われていたが、それがどうゆう関係なのかは、わからない。
兄多毛比の腹違いの子供が跡目を争った
「武蔵国造の乱」が安閑天皇が即位した年だから、
兄多毛比は継体天皇と同世代と考えられる。
継体を擁立した大伴金村の四代前が大伴武日だから、
兄多毛比=大伴武日は考えられない。
ただ、兄多毛比の子孫と思われる豪族が祭っていた
武蔵国毛呂山の式内社「出雲伊波比神社」の縁起では、
その神社を創建したのは大伴武日とある。
しかし、兄多毛比は出雲族、
大伴氏は宇佐族(久米族)と記紀や国造本議に明記されている。
ということで、明快な証拠を示して、結論を出すことはたぶん不可能。
俺なりの解釈はあるけど。
>296
以前、稲荷山古墳は、前方部が破壊されたり、
かなり、粗末に扱われていた。
たしか、そのとろ、石室の一部が露出してたとか読んだ記憶がある。
盗掘者もそちらの方に目が行き、
表層の鉄剣が出た石郭が無傷で残ったのだと推測されている。
でも、主体部は盗掘されているだろうから、ろくなものは出ないだろう。
300 :
296:2008/12/26(金) 17:55:20
>296
以前、稲荷山古墳は、前方部が破壊されたり、
かなり、粗末に扱われていた。
たしか、そのとろ、石室の一部が露出してたとか読んだ記憶がある。
盗掘者もそちらの方に目が行き、
表層の鉄剣が出た石郭が無傷で残ったのだと推測されている。
でも、主体部は盗掘されているだろうから、ろくなものは出ないだろう
>その被葬者は兄多毛比(タケヒ)のミコト
>兄多毛比の腹違いの子供が跡目を争った「武蔵国造の乱」
兄多毛比が継体朝前後の人物だというソースは?
302 :
296:2008/12/26(金) 22:29:28
>301
日本書紀
303 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/26(金) 23:10:10
タケヒは、日本武尊が関東東征時の登場人物
もし本人なら ”ワカタケ”は日本武尊の子供若建王命
西暦312年出雲暦戊寅年55才没、若建王命/小碓子 戊寅年11月6日55
ホ39003 マキムキの ヒシロのヨソホ セミナツキ ホツマさわげば
サカヲリの タケヒのぼりて ミカリこふ
景行40年酒折宮のタケヒが上京し、関東遠征の支度が出来た事を上奏。
304 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 00:42:14
>>300 前方部はほとんど無くなったのを戦後に復元したので、前方部の埋葬施設と
埋葬品は無くなっていますね。
後方部は竪穴式石室なので、本当に主体部が奥にあれば、盗掘がされて
いない可能性もありますが、あるのかなあ?
生前に墳墓を作る寿陵の場合、雪の山古墳のように石槨を途中まで組んで
死亡待ちにして、死後の工事は多くしないようにするので、あまり深くに
埋葬施設を作らないことが多いのでは?
>>302 日本書紀のどこよ?
国造本紀では、成務朝の人物とされている訳だが。
306 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 02:02:35
>>305 国造本紀は、偏った引用のされ方が多いね。
学者の大半は、6Cまで「連合政権」だったなんて珍説で天皇中心の
政治体制の確立を最大限遅くしようとする。
要するに「連合」ってのは反天皇制イデオロギーだわな。
その結果、成務朝での国造の記事はお決まりの「後世の捏造」にされ、
その前段階のヤマトタケルも実在しない伝説の人物にされているし、
その前の四道将軍のオオヒコも実在しない伝説の人物とされる。
新羅を攻めて新羅の王子を人質に出させていても、ヤマトと目と鼻の先の河内の
豪族さえ屈服させれずに「連合」だったとか、トンデモってレベルじゃないねww
稲荷山鉄剣銘の「オオヒコ」は、実在の可能性は99%以上だわな。
今でも中国、韓国には10代以上前の祖先の名前を言える人が多数いるが、
血統主義の日本の古代人も10代前の祖先の名前くらいは当然暗誦できたはず。
幼少の頃からさんざん暗誦してきた本当の祖先の名前を書かずに「伝説の祖先」
であるオオヒコを書いたとかいうのは、オカルトも度が過ぎるね。
307 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 02:30:04
>>306のつづき
学者の大半は、崇神〜垂仁〜景行の実在は認めても、成務〜仲哀〜神功の
実在は否定して、それ以降は実在するという、バランスの悪いことをいう。
それは、成務を認めれば、国造本紀の史実性につながり、成務の時代に大量の
国造の設置があったとなれば、「連合」という御神体が守れなくなるから。
仲哀と神功の朝鮮出兵を認めれば、なぜ近場の河内や吉備を支配下に
置かずに朝鮮に出兵できたのかという問題が出てくる。
いまだに成務、仲哀、神功の実在性を認める学者が、ごく少数ってのは異常だよなあ。
倭の五王が国内統治もままならない連合政権だったとか、本気とは思えないような
学説が多すぎる。
何をもって実在したと主張してるの?
記紀に書いてあるから?
じゃ、イザナギもアマテラスもいたんですか?
309 :
日本@名無史さん:2008/12/27(土) 03:37:46
>>308 実在したと考える方が合理的だから。
372年頃に百済に七支刀をもらう(現物あり)。
391年に朝鮮に出兵(広開土王碑文)、
400年頃に新羅の王子が人質として来日(朝鮮と日本の文献)
5Cに倭の五王が朝鮮の支配権を主張して、付与される(中国の文献)。
この流れに反して、5Cに国内統一さえもされていないという「連合」ってのは、論外。
むしろ、4Cの段階において、
崇神→四道将軍を派遣して、支配地域拡大、引き締め
景行→ヤマトタケルを派遣して、国内統治を固める。
成務→景行の子らを大量に国造に任用して、地方の統治を確立。
という流れがあって、国内統治を固めてから、朝鮮に派兵したと考える方が合理的。
これを全部、捏造とか伝説に過ぎないとかいうのは、トンデモの部類に属するよ。
310 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/27(土) 19:08:50
>>309 七支刀考 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■
上記の空白を正しい数字で埋めると
十六日丙午=辛卯朔になります。一応5月辛卯朔を探すと、
326年5月辛卯朔 東晉明帝太寧4年 この数字は暦日です。
369年 東晉廢帝太和4年を使うため 吉祥句としました。
神功52年(326年)より、53年ほど前に”日食”が在ります。 西暦273年の日食。
>>298 地下レーダ探査が82年と98年に行われ、どちらも中央部と北東の2箇所に
埋葬施設があるだろうという結果になった。ただし、中央部は盗掘と思われる影があった。
『ワカタケル大王とその時代』21頁参照。
そうなると墳頂部施設と、底部の施設の設置時期の時代差が問題になる。
古墳の形は仁徳稜と類似する。 が、この地方はこの形が数代続いたようでもある。
形象埴輪は5C末〜6C初め、円筒埴輪は6C前葉頃。
須恵器は、鉄剣銘に引きずられて年代が揺れている。
墳頂部の遺物は、5C後半〜6C前半で年代幅が広く絞り込めない。
312 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/12/28(日) 14:03:03
312年壬申 出雲暦乙巳 皇暦918戊寅 若建王命/小碓子 戊寅年11月6日55
318年戊寅 出雲暦辛亥 皇暦924甲申
326年丙戌 出雲暦己未 皇暦932壬辰
この時代の干支は、3本立て。 出雲暦=古事記暦で伸長なし。
景行〜神功は6世紀末から7世紀中頃まで九州あたりを記録を
日本書紀が盗み、遥か遠い昔に飛ばして設定したモノと考えれば
不自然ないよ。
香坂・忍熊のモデルが天智・大友で応神のモデルが天武だよ
314 :
296:2009/01/05(月) 01:59:19
遅レス、すまん。
ずっと、別荘にいたので。
>304
>あまり深くに埋葬施設を作らないことが多いのでは?
大型前方後円墳で、それはないだろ。
特に、このあたりの前方後円墳は、
立派な石室、石棺を持っていると考えるのが普通。
そらから、前にも書いたとおり、
主体部が露出していたこともある。
>311
そういえば、そんな事(地下レーダ探査)もあったね。
ところで、埼玉古墳群の主たる3古墳(稲荷山、丸墓山、二子山)だが、
季刊・考古学だったかに公表された、
当時、H高校の教諭だったS氏の論文で、
その主被葬者と築造年は、決着がついたと思っている。
加えて、日本書紀の記述の正確性も明らかになった。
S氏の論旨だが、こんな風だったと思う。
・「武蔵国造の乱」前後は、浅間山、榛名山が数年おきに噴火していた。
・日本書紀に噴火した年が記載されている。
・火山灰層の科学的検証や年輪法で、その記載がほぼ、正しいことが明らか。
・古墳の下にある火山灰層と、古墳の上に積もっている火山灰層により、古墳の築造はその間の数年に絞り込める。
・日本書紀に兄多毛比の没年、埋葬年の記載があり、稲荷山の築造年とつじつまがあう。
・同様に丸墓山は小杵、二子山は使主が被葬者と推定。
・鉄剣が作られたのは稲荷山が築造される40年前。
>日本書紀に噴火した年が記載されている
>日本書紀に兄多毛比の没年、埋葬年の記載があり
ない。
>同様に丸墓山は小杵、二子山は使主が被葬者と推定
小杵の本拠地は南武蔵だろ、屯倉の所在から考えて。
早く天皇陵を調べてほしい
317 :
日本@名無史さん:2009/01/05(月) 23:44:21
>>315 >>314ではないが・・・
たしかに噴火の記載は無いね。
火山灰層(FA)は6C初頭だった記憶。
武蔵国造の乱はたしか530頃だからFAとは時期がずれるはず。
その後年輪年代で絞り込めたのかは知らない。
鉄剣銘に先祖からの繁栄を書いているので、南武蔵の国造(首長)が北に
移動した可能性はあるとは思うが、小杵は時期が違うね。
北に移動したとしても5C後半頃。
318 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 21:49:53
誰か息子の清寧天皇スレ立ててください
319 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 23:18:04
雄略スレなのに、コテハンの妄想年代論やら雄略に関係ない話題ばかりが続いてるな。
いい加減にしろ。
白髪の皇子とか男の俺でも美形で想像しちまうぜ。
321 :
日本@名無史さん:2009/01/14(水) 15:04:53
遺伝病だろ
322 :
日本@名無史さん:2009/01/15(木) 00:54:51
目弱(眉輪)とかも遺伝的な問題だろうな。
ただ、彼が安康を殺したっているのは、雄略の言いがかりで本当は
雄略がやったんじゃないか。
安康もその他の王子もその関係者も葛城も全部雄略がやったとした方が
一貫性もある。
この時代の王族の名は地名を冠してることが多い。
「白髪」も桜井市白河(しらが)の地名じゃないかな。
白河の南が岩坂で、こっちは磐坂皇子を連想させる。
>>323 ナルホド、それもあり得るかも。
ただ、たしか「白髪」の屯倉とかもあったはずから、白河が元とも言い切れないなあ。
子供も居ないし、ロマンスグレーまで長生きした感じでもなさそうだから、
遺伝的な白髪の可能性も捨てきれないね。
そういう人が生まれても不思議じゃないからね
この人が一族を殺すから断絶したんだよな
仁徳〜武烈の男系子孫が一つも残ってないし殺し杉
328 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 00:29:35
あげ
雄略は大陸で皇族同士の殺し合いが横行していることを知っていたんだろう
330 :
日本@名無史さん:2009/04/14(火) 13:20:53
>>310 太=泰はむずかしいんじゃなかったっけ。
331 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2009/04/14(火) 15:53:56
>>330 それがね〜 拙者もそう思ったんだが、どうやら当時、泰を太で書いてたんだって。
某人からの書きこみでそういう話だったので、どうやら泰は太を使ってたと
いうことは本当のようだよ。
んなこたない。他にも例があったはず。
333 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 13:51:22
雄略天皇の皇女は仁賢天皇に嫁ぎ、その間に生まれた娘は継体天皇に嫁ぎ欽明天皇を産んでいる。
欽明天皇は現天皇家の直系の祖先だから、現天皇家は女系で雄略天皇の血を引いているのかな?
334 :
日本@名無史さん:2009/05/13(水) 08:26:33
>>324 > 遺伝的な白髪の可能性も捨てきれないね。
いまでも皇族は白髪系であって禿げ系ではないでしょ。
335 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 07:10:30
清寧天皇は日本書紀によれば生まれつき白髪だったとあるから、
アルビノだったのでは?
336 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 07:15:39
皇族は若白髪の人も伝統的に多い。
ハゲより白髪のほうが見た目いいから
古代においては権威付けにプラスに働いたのだろう。
手白髪皇女も白髪だというのか?
338 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 03:48:10
白髪だらけということはなくても
若いときからちょこっと白髪あったのではないだろうか?
339 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 18:35:54
白髪だったと記述があっても赤い目だったとは書いてないね
アルビノは白髪と赤い目で産まれるはずだけど
清寧の場合は黒目だったのだろうか
340 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 20:36:02
今の天皇も30代から白髪が目立っていたらしいが。
ライバル殺し過ぎ。
343 :
日本@名無史さん:2009/08/10(月) 15:16:44
保守
344 :
日本@名無史さん:2009/09/05(土) 22:01:23
保守
雄略天皇みたく、ひと晩に7回を目指したけど、
俺はどうあがいても5回が限度だった。
いや、たいしたもんだろ。
ところで、雄略さんは強いのに子供が少なかったな。
ひと晩に7回やって生まれた子も、
物部目大連を始めとする周囲の人たちから言われて、
渋々認知したような雰囲気だし、
実は認知してない子が大勢いたのかも。
タケルは先住民族の言葉で「勇敢な男」を意味する。
出雲タケル、熊襲タケルなど
英語だと、a manではなくて the man
イギリス皇太子がプリンス・オブ・ウエールズと呼ばれるのと
同じで(英語的にはプリンス・オブ・イングランドが正しいはず)
先住民から賛辞の名称をもらうことは彼らを服属させた証だったと思います。
雄略が祖先の征服事業をシナに述べていますがそれが成功して
「タケル」の名を貰ったのでしょう。
349 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 03:14:45
違うよ。プリンス・オブ・ウェールズのプリンスってのは、
王子様のことじゃなくて君主って意味。
ウェールズの民を宣撫するためにイングランド王が
王子にその称号を与えたの。
間違った知識を前提にしても間違った結論しかでないぞ。
350 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 12:18:06
だからプリンスは皇太子でいいんじゃないの?
351 :
日本@名無史さん:2009/10/15(木) 21:42:24
皇太子はクラウン・プリンスでしょ。
352 :
日本@名無史さん:2009/12/04(金) 14:35:23
>>221 倭王武が雄略なら
とても九州いたとは思わんが
178 :名無しさん@十周年:2009/12/01(火) 12:36:57 ID:Bou0HzcB0
四道将軍
『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。
教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。
なお、崇神天皇は実在したとしても3世紀から4世紀の人物とされている。
598 :日本@名無史さん:2009/11/19(木) 11:20:09
倭の五王武(=雄略)の宋に宛てた上表文(5世紀)
「我が封じられた領土は遠く、外に藩を作ってきた。先祖より武力闘争し、山川を越え、休まなかった。
東は毛人五十國を征し、西は衆夷六十六國を服し、渡り、北の九十五國を平定した。道は百済を経て,船も使い、ゆくも高句麗に難渋した云々。」
466 :日本@名無史さん:2009/11/27(金) 09:06:33
宋書倭国伝(全文)
ttp://www2.plala.or.jp/cygnus/R7.html
>>348 ヤマトタケルの戦い方は、いずれも卑怯なやり方!
354 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 13:54:34
古代人は結果オーライと考えたんだろうな。
儒教思想が伝わる前だからね
雄略は殺されたんじゃないの!畿内の豪族に。
雄略のあとヤマト大権は急速に動揺しだす。雄略で実質的に断絶した見方ができる。
>>356 雄略は将軍としても権力者としても力が強すぎたな
息子の白髪は先天性の病気で、子作りも政務も十分見ることができなかったようだし
暗殺説はともかく、武力による圧政が雄略の死去により、一時的に均衡が解けて
しまったのは確かだろうな
358 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 04:53:39
なんだかんだいっても大王家を支えるはずの葛城氏を滅ぼしたのもまずかったな。
葛城氏は円大臣で宗家は滅んだと見られるが、蘇我氏は葛城氏から改名した可能性はないのか?
(1) どちらも外交関係に強い
(2) 円大臣が殺害されたすぐ後に蘇我氏が現れて、韓子が朝鮮半島征討に派遣されている
(3) 蘇我馬子が推古天皇に葛城県はかつて一族の領土であったから返せと言っている
雄略に滅ぼされた円大臣と韓子との関係が気になるな
360 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 14:40:01
蘇我氏は葛城氏から改名したというより
家系はつながっていた可能性ならあると思う。
361 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 20:13:29
雄略天皇・・・処女と、一晩に7回やった人。
362 :
日本@名無史さん:2009/12/13(日) 21:40:04
武内宿禰(実在したとは思わんが)系の氏族をいつから称したのかしらんが、
系譜上は蘇我も葛城もつながってるよな。
襲津彦と石川宿禰が兄弟だから、その孫の代の円大臣と韓子は又従兄弟になる。
363 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 07:13:09
こう統譜のながれ…ゆうりゃく男系Yいでんし→ゼロ、てんむ系Yもゼロ
あばれ者系・臣下に流されたり切れたり〜→文民系 理知沈着・将来悠久思考〜への流れ…こんごもきっと
365 :
日本@名無史さん:2009/12/14(月) 16:19:24
>>363 政治家は歴史については無知が多い
小沢に限ったことではない
先の大戦についてきちっと反省できない政治家だって同じだよ
特定の政治家を叩きたければ他の板でどうぞ
366 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 06:35:32
年始あげ
ヒミコ様 ご子孫 倭王武 あげ
368 :
日本@名無史さん:2010/01/10(日) 17:09:39
大倭・大和王ヤマタイ王 武
369 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 21:05:48
騎馬民族雄略は朝鮮人よろしく殺人鬼
370 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 04:16:21
nn
371 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 12:27:33
即位のときに殺した兄貴の名前が白彦、黒彦で対になってたり、
雄略関連の記事は、史実というよりはおとぎ話や神話のレベルだよな。
文字史料で信を置けるのは宋書倭国伝と稲荷山鉄剣だけ。
記紀は、参考程度にしかならない。
うむ
373 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 20:18:29
大体、武王の方が南朝に朝貢していたのに、雄略紀を見る限り、
呉国(南朝)と対等につきあってたような書きぶりだもんな。
むこうから機織り工女が来倭した記事はあっても、こっちから朝貢したような記事はない。
さすがに推古朝の遣隋使の記事だと、編纂当時から近すぎてごまかしようがなかったのか、
隋の国書(皇帝、倭王に問う)が引用されていて、倭国が朝貢国扱いだったのが丸わかりだが。
374 :
日本@名無史さん:2010/03/12(金) 07:44:56
落ち目の南朝と、勢いある隋では違ってくるでしょ。
375 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 04:30:09
7発は凄いな。
376 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 21:21:27
誇張だろ。
377 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 21:58:53
子毛予 美子毛知 福下予
378 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 23:02:19
二倍暦年を応用すれば3.5発になって
これなら現実的と言えよう
>>359-360 武内宿禰を同祖とするのだから、少なくとも同族を名乗っていたことになるんだけど
蘇我氏が現れるのは氏族制度が整う前後の話だから、「改名」というよりも、
元々葛城氏内の本家に近い分家筋が氏族制度の成立と共に蘇我を名乗るように
なったんじゃないかなって気がする。
渡来人系かもと言われているけれど、そんなのがあれだけ天皇家と通婚できるものなのかな。
私としては葛城本家が百済の武寧王/聖王あたりの姻族になっていて、本家が滅ぶと
蘇我氏が百済利権を引き継いで台頭、朝鮮半島絡みの紆余曲折を経て専横するに至ったと。
380 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 06:49:41
>>379 > 渡来人系かもと言われているけれど、そんなのがあれだけ天皇家と通婚できるものなのかな。
黒岩重吾さんは「蘇我=百済王族」説を主張していた。
王族なら通婚できるでしょ。
蘇我は葛城族の分家だよ。
本家が無くなって殆ど本家扱いになったけど
彼らが発言力を持ってたのは葛城系天皇の末裔だから。
それに、海部系図によると『日女命』という祟神の叔母がいたらしい
日女命はのちのヤマトトヒモモソヒメなんですけどね・・・卑弥呼?
382 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 18:41:17
ヤマトトヒモモソヒメ=卑弥呼 説ってのはイマイチ賛同しかねる。
383 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 19:29:54
雄略に本宗家を滅ぼされた後、葛城系の顕宗・仁賢の時代に
葛城氏が復活できなかったのはなぜだろう?
蘇我氏は入鹿が韓人に殺された後も壬申の乱までは政権のトップに
一族を送っていたというのに。
あと皇族の系図をみると蘇我氏と並んで名門の扱いを受けてる
息長氏が日本の歴史に血統以外の活躍した記録が出てこないのは
なぜなんだろう?
384 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 20:00:38
>>383 鋭い指摘だが、いずれも史料が少なすぎて本当のところはわからないでしょ。
それは息長氏の血統が捏造だからだよ。
386 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 21:10:46
継体天皇が息長系だっけ?
仁賢武烈継体安閑宣化の時代は連・臣たちの対立が激しかったようだからなー
抗争のなかで葛城氏らは消え、息長氏は表舞台に引っ張り出されただけの氏族だったのかも。
南北朝時代の祖形?元を正せば仁徳以降からだと思うんだけれど、あの雄略天皇が(ry
388 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 21:54:47
>>383 葛城氏の傍系って誰がいたんだっけ?
葛城円が雄略朝に滅んでからすっかり消えてしまっている。
蘇我と葛城の関連性は昔から言われることだけどね。
蘇我馬子が祖先の土地だからと言って推古天皇に
葛城県を蘇我氏に呉れるように言っているし。
389 :
日本@名無史さん:2010/03/31(水) 00:08:41
武内宿禰は紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏などの中央諸豪族の祖とされており
自身は実在が疑わしいけど、当時これらの氏族は同族と見られていたのだろうか?
雄略朝の葛城氏衰退後の平群氏や蘇我氏の台頭は葛城氏とも関係あるのだろうか?
>>389 逆に考えるんだ。
抗争の中で「その同族/別族意識が芽生えたからこそ、氏姓制度が定められた」と考えるんだ。
391 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 22:14:20
>>389 >当時これらの氏族は同族と見られていたのだろうか?
もともと同族でなくても、幾重にも婚姻関係があったのではないか?
392 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 19:39:02
雄略天皇の雄膣を攻めたい
393 :
日本@名無史さん:2010/04/13(火) 20:43:26
394 :
日本@名無史さん:2010/05/16(日) 06:23:56
保守
395 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 07:04:04
この人の皇居跡は現在どうなっているの?
397 :
日本@名無史さん:2010/06/09(水) 10:50:47
当時は皇居といっても「でかい神社を木柵と警備兵で囲んだ」程度の
ものではなかったか?
>>397 烈しく同意!!
WikiPediaでも皇居で統一されちゃってるけどさ、古墳時代の大王の宮殿は
「皇居」というより、「御所」と言った方がベターだね。
なにしろ現代人のイメージでは、皇居=江戸城だからw
399 :
日本@名無史さん:2010/07/19(月) 22:03:59
「大王宮殿」と呼ぶとかっこいいぞ。
400 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 16:09:54
401 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/20(火) 16:18:07
>>371 JRの東京山の手線の駅には目白駅、目黒駅がありますが、これは神話では
なく現実にこの駅がありますぜ。
また東京には中央大学白門というのと黒門町の黒門というのもあったと
思いますが、これも神話じゃぁないですぜ。東京大学は赤門でしたな。
402 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/20(火) 16:30:42
>>400 雄略の代は通常暦法をメインとして行使していました。
古事記はこの天皇の寿命は124歳と為し日本書紀ではその丁度半分の62歳と
なってますから雄略は2倍年暦行使の時代のように想うでしょうが、これ
は2倍年暦をメインでなく側面的の補助で一部行使していたことを、この
両者の記載年齢は意味しています。主体は通常暦であり、先々代の允恭の
時に、允恭が病弱で新羅の医者に治してもらったことで、回復の縁起担ぎ
のためか、この代に2倍年暦を行使していたことを同代の途中でこれを廃
し、允恭元年に遡って通常暦法の書き替えて以後武烈の世まで通常暦法を
メイン暦法として行使したということです。
403 :
日本@名無史さん:2010/07/20(火) 17:02:17
404 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/20(火) 17:06:21
雄略は武王ではないですよ。後者は九州王権とかの王だね。
また倍暦キチガイが
うんこ垂れてんのか
406 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/07/21(水) 14:20:48
オマエもたらふくクソをするだろう。www
407 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 20:32:04
関西(あくまでも、名古屋〜三重〜奈良〜京都〜大阪〜兵庫までを示す。岡山はセーフ。和歌山はアウト、残念!)
自己顕示欲が強すぎて嫌い!
あのイントネーションが大嫌い!
関ヶ原の戦いで負けたんだから、
東京弁で話してほしい
(・ω・)
関西は犯罪と貧乏な地域だから、日本から
きり離してほしい。
唯一、日本の汚点。言わばゴミ。
関西人は書き込まないでほしい!
関西人からパソコンを取り上げてほしい!!
もはや生きる価値無し!
とりかく関西は犯罪者の巣窟。
(゜Д゜;;)
オソロシイ
408 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 23:15:34
履中天皇の子供の市辺押歯王を雄略は殺してしまった。
一族を殺し過ぎて最後に身内がいなくなる、源頼朝みたいな人ですね。
子孫に子供が出来ないのも似てるし。
この時代の人物の名前は、体の特徴を捉えているのが多いですね。
押歯ってどんな歯の生え方なのだろう?
ソトオリヒメ なんて見てみたいですね。今で言うとどんな感じだろう?
夏目雅子とか。
雄略が盛んに南朝に使いしたのは、国内統一よりも韓半島経営のためでしょう。
きっと国内では権力の頂点を極めたのでしょうね。だからこそ後継者が重要で、
それが結局、君主制の限界なんでしょうね。
409 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 00:31:26
>>408 > 押歯ってどんな歯の生え方なのだろう?
デッパなんだろうか?
410 :
日本@名無史さん:2010/07/28(水) 00:32:57
>>408 > 雄略が盛んに南朝に使いしたのは、国内統一よりも韓半島経営のためでしょう。
ただ南朝が弱体だったので、期待したほどの効果はなかったと思う。
押歯って八重歯だろ?
412 :
サガミハラハラ:2010/08/26(木) 23:12:28
雄略天皇の子の清寧天皇はミュータントであったようである。
その様態の不気味さのために、皇后や妃になるものは皆無であった。
それが祟りのように当時の人には思われた可能性はありますね。
雄略は敵対する人間を殺し過ぎたから。
結局雄略の血筋も絶えてしまうばかりか、継体というわけのわからん
他人のような人を迎える羽目に。
414 :
サガミハラハラ:2010/08/26(木) 23:36:13
そうですね、けど、星川皇子様ちとあせりすぎましたね。数年待ってれば
皇位がころがりこんできたのにね。
415 :
日本@名無史さん:2010/09/02(木) 16:31:07
吉備勢力がせっかく水軍持っているんだからそれをうまく使えばいいのに、
宮廷クーデターみたいな せせこましいこと やったのがまずかったね。
記紀であれだけ暴君扱いなんだから720年の時点から見れば何の関係もない傍流なんだろうな