1 :
ゆきだるま ◆2eAi0OJQSA :
信長が健在だったら、家康はどう生きたのだろう。
>>1 多分信長の天皇をも蔑ろにした専制政治に屈し、小大名でその半生を終えたかな
それよりも我が客将となりませぬかな?
寿命からいって歴史通り、秀吉死後天下を獲る
4 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 18:27:22
.
つまり
曹操=信長
家康=劉備
客将という立場だから、家康の天下は多分無理。
家康が先祖代々の土地を放棄して放浪するオチとなる。
テスト
7 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 10:01:36
.
孫権=伊達政宗
家康=劉備+司馬懿
信長=曹操+董卓
輝元=孫権+公孫康
10 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 23:43:39
家康の野望
狸の皮算用
12 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 03:23:31
案外馬鹿にしてたんじゃね
北条=孫権
1575年、場所は岐阜城…
日本版英雄論で信長と家康は酒宴を兼ねて語り合ったそうな。
信長「家康よ、この日本で英雄といえるのは誰のことかな?」
家康「さあ…わたしはそういう事項に疎いから…」
信長「いいからお前が個人的に感じたことを言え!命令だ!」
家康「それなら…安芸の毛利輝元はどうでしょうか?若年ながら…」
信長「あぁ?あの若造か。所詮、祖父の遺産を受け継いだに過ぎん。
はっきりいってまだ統率力が未熟だ。全く問題はないわ」
家康「それなら、小田原の北条氏政はいかがでしょうか?」
信長「ふふ…やつは生きた屍よ。日和見主義で親父の氏康からも
見放された、器量の小さい才人物よ。いつか俺が滅ぼすわ」
家康「それなら越後の上杉謙信はどうでしょうか?越後の龍と謳われ…」
信長「あやつは戦略は勝れ、あの信玄も手こずったやつだが考えが古い。
時代錯誤ともいえる勤皇に全力を注ぎ、また家中の内紛が絶えんな。
多分、統率力がないのだろう。その上極端な潔癖性で天下は無理よ」
家康「では武田勝頼はいかがです。亡父信玄に期待されておりますが」
信長「はーっはは…確かに武田軍は畏しい。だがやつは信玄を神格化した
家老と親族との確執が絶えん。特に穴山梅雪とは犬猿の仲らしいのう
器量は氏政よりはいいが、ある意味謙信と変わらん。天下は無理だ」
家康「それなら常陸の佐竹義重と奥州の伊達輝宗と最上義光らは英雄とは
いえんでしょうか?わたしでは判断はできません」
信長「いえんな。やつらは亡き室町幕府の門の守る犬に過ぎんな」
家康「もうそれ以上、わたしの思い浮かぶ人物はおりませんが…」
信長「いや、おるぞ。この日本に英雄といえる人物がな」
家康「それは誰でしょうか……?」
信長「君と余だ!それしかあるまい」
この時、空が突然光り出し、奇妙な音が鳴り雷雨となった…
家康「うわっ!雷だ。あわわわわ…」
信長「どうした?そんなに雷が恐いのか?家康よ」
家康「は…はい。わたしは幼い頃から苦手でして…」
信長(どうやら俺は家康を買い過ぎたようだ。畏れるに足らんやつよ。
クッ…ククク…ウワーッハハハハハハハハハハ!!!!)
…と信長の高笑いが、雷雨に覆われた岐阜城にこだましていたそうな…
16 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 00:35:15
14,15三戦板ばりだがワラタw
17 :
ぷち小栗:2005/10/15(土) 03:51:49
横田光輝氏の「伊達政宗」で家康が信長を回想している場面がありました。「信長公は恐ろしい人だった家臣もわしも皆彼を恐ろしいと思った。しかし、彼は戦を誰よりも嫌った。」うる覚えですが。
18 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 09:21:41
家康が信長をどう思ってたかについてはあまり意味があるとは思えない。
(信長存命中には家康にそうそう選択権があったと思えない。ただ従うしかなかったのでは?)
むしろ信長が家康をどう思っていたか、本能寺の変がなければどう扱われていったか、
の方がよっぽど意義があると思う。
19 :
日本@名無史さん:2005/10/15(土) 20:32:04
age
>>18 そだね。
武田攻めの功で駿河を与えられたことで2人の関係が
同盟者から主従関係に変化したらしいが、あのまま信長が
生きながらえてたら、家康は始末されてただろうという見方が
最近多いようだ。
それは秀吉と光秀が粛清される見方も当て嵌まると思う。
曹操が荀ケを粛清したように。
桁外れの独裁者にとって有能な家臣は若い頃は共にできても
いづれは、処分しないと自分の子孫に禍を呼ぶから。
22 :
日本@名無史さん:2005/10/16(日) 12:53:45
>21
だから俺はリストラされたんだな。納得した。
三国志の話となるが
共通の敵の呂布が滅ぶと、曹操と劉備の同盟関係は
微妙になってきたと思う。
劉備は董承の曹操暗殺計画にたまたま加わったために、
曹操の猜疑を恐れ、口実を設けて徐州に去った。
もし、あのまま都にいたら劉備は曹操によってどうなっていたか、、、
>>18と
>>20を見本として。
24 :
日本@名無史さん:2005/10/30(日) 02:45:27
>20
詳細希望
信長にとっての家康の存在意義って、ひとえに東方の武田・北条への防護壁であり、敵性勢力との
緩衝地帯だったわけでしょ。本能寺直前の武田敗滅でその必要性は既にかなり減殺されていたから、
もし本能寺なかりせば、とか考えると色々面白いやね。北条領攻略くらいまでは
織田軍に軍勢と軍需物資を供出するという責務があるからそのままの立場を維持できるだろうけど、
それが終わったら、さてどうなるか。「必要不可欠の強力な防壁としての家康」から「いち従属大名としては
広大で強力に過ぎる(しかも織田領心臓部に近接する)領土を持つ家康」に存在が変わったと、
少なくとも信長がそう考えるとすれば。――粛清、とはいかなくても、転封くらいはあったかも知れんて。
家康が唯々諾々とそれを受けるか、反撃に出るか。ま、あんまり意味ないIFですけど。
コーエーの太閤立志伝3だと
本能寺の変を起こさないようにすると
家康が反旗を翻し秀吉が鎮圧して
エンディングだったな
27 :
24:2005/10/30(日) 23:39:19
>25
説明サンクス。
やっぱり豊臣政権下のように関東国替えって感じなったんですかね。
28 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 04:21:30
その場合の「if」を考えると、豊臣政権がありえなくなるね。
29 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 04:44:39
信長なら東国は家康、西国は秀吉に任せて自分は海外に打って出たろうよ、
なんて某漫画のような妄想を言ってみる。
30 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 04:47:52
そうか、じゃあ、今の首都は東京じゃなかったかも知れないな
本宮ひろ志の漫画の『夢幻の如く』だな。
信長がヌルハチを息子扱いして
最後はアメリカ大陸まで進出した物語だな。
>>1 家康は本音では信長を軽蔑していた
家康が尊敬していた人物は源頼朝と武田信玄
この二人は信長とは正反対と言って良い人物
家康の寿命を史実通りとして、信長が家康より
先に死んだ場合、織田信忠を打倒する方策を
家康は考えたと思われ
結論
坂本竜馬は信長を尊敬していた。
以上!
34 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 14:16:21
同盟は徳川が天下を取った後に偽造したのであって、実は信長に服従してたのではないかと推測してみる。
同盟とは言うものの、@信長の居城である清洲で結ばれた事A姉川の戦で信長の命令で三河から出兵するB武田征伐のおり信長の命令を仰いでから動いたC駿河国御拝領D安土城下に屋敷を与えられる
これらを推察しても家康は信長とは同盟者ではなく、主従関係にあったのではないかと思われる
35 :
日本@名無史さん:2005/11/11(金) 14:19:49
そういえばE武田に通じてるとして築山殿、信康を殺させた。ってのもあったから追加。
>>35 それは概出だが、もう過去の定説。信忠が信康より劣るというのは、
滑稽にも甚だしいというのが最近の定説。
実際は二説あるが…
@は筆頭家老酒井忠次と信康の確執で忠次が信長に讒言して、
信康とその母の築山御前を死に追い詰めたこと。
A徳川家臣の派閥争いが苛烈に極めて、織田・武田の両家に板挟みとなった、
家康自身が最後には『泣いて馬謖を斬る』の心境で信康を処分したこと。
この二説で共通してるのは、信長が女婿の信康処分に一切口を出さなかった。
何故なら、娘の徳姫とその幼い娘達の将来を憚ったから。
まあ、それでも信長と家康の主従関係だったことは変わりはないが。
37 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 09:32:29
>>34 言われてみればそんな気もする。
でも光秀を使っての(結局彼ははずされたけど)
他の衆に対しては見られないまでの接待ぶり、気の使いようや、
後の秀吉の(北条が愚痴ったぐらいの)気の配り様を思えばどんなもんだろう?
おそらく信長とは決定的に肌が合わなくて、
氏真をかついで将軍にして自分は管領とか言うほうが家康の気質にあってたんだろうな。
でも氏真があまりにアレだったから、仕方なく信長と従属的同盟を結んだんだろうな。
信玄とはタイプが似ている分うだつがあがりそうにないって思ったのかも?
39 :
日本@名無史さん:2005/11/13(日) 13:31:53
家康の長男は信長を暗殺しようする書が見つかり、
信長から切腹させられていますね。
41 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 09:48:59
>>38 信長が特異だっただけで、家康に限らず大概の大名の「天下」の意味ってそんな感じだったんじゃあない?
将軍、(もしくは天皇を頂いて、)その執権として覇権を振るう・・・松永や細川の二番煎じが皆いいとこだったんじゃない?
(まあ、信長も最初はそんな感じだったと言えなくも無い。)
義元あたりは本気で将軍になりたいとか思ってもそう無茶じゃないな。
信玄もチラッと頭の片隅浮かんでも許されるよね。
あと佐竹とか最上とか。
南部あたりになるとかなり怪しげで、里見になると多分源氏じゃないよな。
徳川なんて松前以下の信憑性。
細川は家臣になって久しすぎたのかな。
43 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 08:46:43
意外と傀儡政治の方が自分がTOPでやるより楽なのかもな(充分に操れる分には)
44 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 10:58:00
そりゃそうだよ。名誉欲と権力欲
人間はこのふたつのどちらが強いかでタイプが決まる。
名誉欲<<権力欲の場合には、傀儡操る方が楽。
院政、執権みんなそうだ。
45 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 18:55:49
信長が本能寺で死ななかったとしても
天下はいずれ秀吉に移り、最後には家康が幕府を開く。
これ歴史の定説。
46 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 19:11:03
本能寺が無かったのなら信忠も死なずにすんだであろうし、(彼は決して暗愚ではなかった。)
血縁も多く、少なくとも秀吉の出る幕は無かったんじゃあないか?
家康も秀吉の時の例を見る限り、一度従うと決めた限りは本人が死なない限りは無理に動なかったと思う。
秀吉の出る幕は無かったと書いたが、秀吉にせよ家康にせよ結局は信長がいつ死ぬかによるな。
ただ、本能寺の変が無かったならば、歳のそこそこ近い秀吉にそうそうチャンスがあったとは思えない。
47 :
日本@名無史さん:2005/11/16(水) 19:37:37
いや、信忠は信康よりもずっと優秀。親父から帝王学も受けてるし。
・・・というよりも推測としては秀吉が信忠を葬ったという読みが感じられる。
もし信忠が生きていれば、秀吉も家康も干される可能性は充分大だと思う。
武将を中華人に例えんな。根本思考立場が違う。
49 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 08:22:19
>>47 それは ”本能寺の変に秀吉も1枚かんでたんじゃあないか?”って言う説を前提に言ってるの?
この場合の”葬ったという読みが感じられる・・・”とはどういう意味?
50 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 10:37:29
信康暗殺命令が出た時、家康が抗戦しておれば面白くなったがね
>名誉欲<<権力欲の場合には、傀儡操る方が楽。
>院政、執権みんなそうだ。
太政天皇は天皇より上の立場であり、「治天の君」こそ天皇家の家長。
天皇よりも上位者にそのたとえはあてはまらない。
52 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 16:17:04
>>49 その通り。
それは光秀の謀反に秀吉が一役買って絡んでいるという意味で。
また葬ったという意味は秀吉が信忠が在命した場合に自分の事業の
障害となる意味で。
まだ定説の域の段階には入ってないが・・・
53 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 16:35:16
家康は信長の先見性や独創性に引かれていたと思われる。
秀吉も家康も本気で信長に心酔していただろう。
まして天下平定後、信長が有能家臣を粛清などとは思っていなかった。
その団結がなければ天下など無理。
54 :
日本@名無史さん:2005/11/20(日) 17:25:45
家康が20前後で義元が信長に討たれた後、念願の独立は必然だったろうが、
仮に氏真が父の仇を討つために今川家を再興する考えがあれば、今まで、
今川の武将として、信長との同盟はあり得なかったかも知れん。
もしかしたら家康は今川家の影の実力者になったとも・・・
いくら幼少時に信長と付き合いがあっても、いきなり同盟約定はないし、
親父の広忠が織田方の将の佐久間全孝の刺客である近侍の岩松八弥に
暗殺されてるし。そのことは家康の脳裏に刻んでいたと思う。
55 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 19:41:38
>>53 同意。流石の信長でも有能家臣をさよならするなんてことはしないだろう。
56 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 20:43:21
独立というが今川家からするとれっきとした謀反だからな。それで桶狭間の後今川館にいた人質は処刑されたんだし
>>53 いや、実際にその団結がなかったから、事実天下は無理だったわけだが。
58 :
日本@名無史さん:2005/11/22(火) 20:57:07
氏真がそれだけの決断力があったのだろうか?
或いは側近の庵原安房守忠胤か朝比奈泰朝か安倍忠真らが
松平家の人質の処刑を煽ったのだと思われるが・・・
まあ近所のおぢさんぐらいには思ってたろうさ
60 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 02:13:24
そんなんですむかよ。
当時は命握られてる、って言っても過言じゃあないのに。
今川氏真も織田信雄も不甲斐無いね
てst
63 :
日本@名無史さん:2006/01/05(木) 12:53:01
age
>>61 その二人の親の代の最大領土からの減少率は同じくらいなの?
>>36 >この二説で共通してるのは、信長が女婿の信康処分に一切口を出さなかった。
>何故なら、娘の徳姫とその幼い娘達の将来を憚ったから。
ありえないと思う。
信長にとって重要な同盟者(家臣?)の家が二つに割れて
どちらかが勝てば敵の武田側についてしまうという時に、
娘の将来を考えて、その争いに一切口を出さないなんてありえない。
なんか、糞女子の歴史解釈って気がする。
66 :
匿名希望:2006/01/05(木) 19:20:06
娘の将来を考えれば、口を出していたかも。
徳川が割れても武田につく選択肢はほとんどないと思う。
浅井・朝倉・足利・長島一向一揆が滅んだ上に、長篠の戦いの後では、
武田についた途端に徳川滅亡してしまう。
うむ。
どなたか信長の辞世の句を
教えてください。
69 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 00:29:08
これは1965年の3月14日にニューファンドランドの海岸で、アメリカ海軍と
カナダ当局との間で交わされた実際の無線の記録である。
カナダ 「衝突の危険あり、貴艦の針路を15度南に変更されたし」
アメリカ 「衝突の恐れあり、そちらの針路を15度北に変更されよ」
カナダ 「出来ない。衝突の恐れあり、
そちらの針路を15度南へ変更せよ」
アメリカ 「こちらアメリカ海軍の軍艦の艦長である。
もう一度繰り返りかえす。 そちらの針路を変更せよ」
カナダ 「NO、それは不可能だ。もう一度繰り返す、
貴艦の針路を変更せよ」
アメリカ 「こちらはアメリカ海軍太平洋艦隊最大級の航空母艦
エンタープライズである。 我々は駆逐艦八隻、巡洋艦四隻と
多数の艦船を従えている。我々はそちらの針路を 15度北に
変更するよう要求する。もう一度繰り返す。そちらが15度北に
変進せよ。 我々の要求が容れられなければ、艦の安全の
ために対抗措置をとる用意がある」
カナダ 「エンタープライズ、こちら灯台である、どうぞ」
70 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 02:13:15
てゆうかさ、
あれほどの織田の力の時代下、
信長が死んで、親族郎党、、、、ああも大人しく政権をあきらめるものなのかねぇ
信雄も多少はゴネタようだが・・・・・
どうも煮え切らん・・・・・
>>70 逆らう奴は皆秀吉がブチ殺しましたが何か?
信忠が生きていれば・・・
73 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 16:12:44
>>70 それがそれほど殺してないのよ。
秀吉に比較的スムーズに従っている。
>>73 秀吉は信長の三男である信孝を自殺させている
因果応報、秀吉は自分の子である秀頼と孫を
家康に自害・処刑されている
>>1 家康は内心漢文もろくに読めない
信長を馬鹿にしていた
家康が尊敬していた人物は源頼朝と武田信玄
だから武田家の浪人を家臣として召し上げ
井伊直政に預け、武田の赤具えを継承させたのが
井伊の赤具え
76 :
日本@名無史さん:2006/01/06(金) 20:45:05
天竺を制圧するのが目標だからそれまでは誰も殺さない。
>>73 旧織田家の家臣連中のこと?
織田家は全然人望なかったからね、強いからついていただけ。
信長と信忠が死んで織田家が弱くなればもうつき従う義理はない、
秀吉が強くなってくれば普通にそっちにつくさ。
まあ、戦国時代じゃあ良くあることで織田家に限った話じゃあないけどね。
78 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:12:57
家康が恐れた男たち
信長>>>>>信玄>義元>>>>>>>>秀吉>>>>>幸村>>三成>>>>>>>>>>>>>>>>>政宗
79 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:32:11
家康がてめえの家臣の前では、
信長のうんこ!ちんこ!ま○こ!
と言ってたのは有名な話。
80 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 03:36:57
信長を評価していたと思うよ。尊敬かどうかは別として・・・。
浅井・朝倉・武田信玄・石山本願寺と手を結んで、尾張国を攻めることを決してしなかった。
きっと、信長なら包囲網を突破できると考えたんだろう。
>>80 確かに尊敬はしてなかったと思うけどね。
評価というよりも畏怖の対象だったのではないかな?
>浅井・朝倉・武田信玄・石山本願寺と手を結んで、尾張国を攻めることを決してしなかった。
きっと、信長なら包囲網を突破できると考えたんだろう。
突破できると考えたというよりは一緒になって責めたとしても、
ほかの勢力に先んじて信長に自分が真っ先に滅ぼされることは
間違いないと思ったのではないかな?
漫画ではあったのかもしれないが、家康が信長をどう思っていたか
後から何か言ったことってあるのかな?聞いたことないなあ。
家康が秀吉をどう思っていたのかの方が興味深い。
82 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 11:21:47
>>81 >武田ほかの勢力に先んじて信長に自分が真っ先に滅ぼされることは
間違いないと思ったのではないかな?
信玄が病死するとわかっている俺たちだから、それはいえる。
徳川軍の兵力は1万弱。
強敵相手の多方面作戦を強いられていた信長にとって、家康・武田連合軍の
尾張攻めは脅威だろう。
なぜ足利義昭は、家康に信長追討の御内書を出さなかったのかな?
83 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 00:46:03
義昭は家康にも信長追討の御教書を送りましたよ
84 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 00:51:40
下手すりゃエグイ殺され方をされるの分かってたからでは?
家康の心を予想してみる
義元…ぎょわーっはっはっはw見よ!天罰じゃ!
信長殿…お主が天才なのは認める!義理もあるしな!じゃが最後はワシが天下を取る!
秀吉殿…腹黒い禿げ鼠め!賢い事は認めよう!じゃが最後はワシ(ry
光秀…お主では将軍は務まらん わしは秀吉につく!そして最後は(ry
武田!…おのれ!ワシに脱糞させおって!
毛利…稀にみる名将じゃな その実力認めよう!
政宗…こいつアホよのぉw利用するだけ利用してやるかのぉ
86 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 01:16:41
織田家の軍団長(明智とか秀吉とか)と家康ってどっちが偉かったの?
同盟者の格とかじゃなくて実質的に。
>>86 もろ同格。
本能寺の変の時点での大雑把な支配兵力は
信長31500 近江、西美濃
信忠45000 美濃 尾張 信濃 甲斐
家康21000 三河 遠江 駿河
信雄17000 伊勢 志摩 伊賀
信孝15000 摂津 河内 若狭
勝家43500 越前 加賀 能登 越中
一益20000 上野 信濃佐久
光秀31500 丹波 丹後 山城 大和
秀吉32400 播磨 但馬 因幡 東伯 備前 美作 淡路
88 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 01:46:51
同盟者はあくまで同盟者で実質性は求められないんじゃない?織田軍長が政治・軍略が立案して、そこで徳川に依頼(命令)。だが一応は徳川の武力は考え礼は守る形。内心はどうあれ同格かもしくは徳川を上にしていると思う。わからんけど
>>86 家康じゃないかな
3カ国実効支配の大大名と
名目だけの数カ国支配の
信長家臣とじゃ
比較にならないよ
>>88 そうだね。格はあくまで家康が一番上だろう。信忠とは微妙な
関係かな。官位からいって信忠が既に上だったかもしれん。
91 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 02:31:52
信長は家臣には自分の嫡子の腹を切らせるとかそういう無理難題を
つきつけたことはあったのかな?
家康って織田家内部の相続争いの賤が岳の戦いのときどうしてたんだっけ?
92 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 02:36:00
93 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 02:44:58
家康が織田家の人質時代、信長と遊んだ、
という説がまことしやかに伝わるけど
これって史実なの?
>>91 信長は家康に対して信康殺させた時は、あれそもそも家康を
潰す気満々だったんだろうね。なにせ長篠の後で武田の脅威
はないから家康の存在意義もあの時点ではない。むしろ邪魔。
だから家康は泣く泣く嫡男を殺すしかなかったのだろう。
賎ヶ岳の時は甲斐信濃切り取り中じゃないかな。北条や上杉
と対峙してたころだね。
>>93 いや、確かな史実としては確認されてないはず。
家康は信長のことをどういう風に思ってたとかあまり書いてないしな。
97 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 12:17:18
信康切腹時にいた家康の息子は、秀忠、秀康の二人だけだ。
しかも秀康は5歳で、秀忠は生後数ヶ月だ。字も大して読めない赤ん坊だ。
信康は戦がうまい武将で、家康も安堵していた。
家康は信康が切腹した後、徳川家の将来が心配だったと思う。
しかも当時は人間50年の世の中。
家康の趣味が「薬の調合」であることが納得できる。
>>96 最近徳川家の子孫が、家康の残した言行を詳しく著述した
著作を発表したが、信長のことはほとんどコメントなし
だったとかw
絶対に良い感情をもってなかったろうね。というか、正直
畏怖と憎悪の対象以外のなにものでもなかったのでは?
>>97 家康が本能寺に巻き込まれて死んでたら、徳川家は確実に
滅んでたろうね。
そんな状況だから、薬の調合にも励み、後家さんと子作りに
励んだんだろう。
家康>信長
あの方は何をしでかすか分からない・・・。怖いな。
信長>家康
あいつは今のところ従順だが、将来はどうかな?そのうち瀬踏みしよう。
信康は粗暴な人物として家中の評判が良くなかった説もあるが
とくに家康は、武田義信と信玄の争いを近くにあったから、思慮に欠ける信康が親今川派を率いて謀反を起こすことを警戒した可能性も捨てきれない
信長は逆に身内にはすごぶる甘い面があるから、信康を斬って良いかと家康に聞かれて内心驚いたのではないか?
103 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 00:35:06
>>96 そりゃあそうだよ。
「信長公の前に出る時は、いつも怖くてションベンちびりそうだったよ」
なんてこと、かっこ悪くて、
家来や子供には、絶対に言えない。
憎かった、とか
好きだった、とかなら言えるが、
怖かった、だけは絶対に言えない。武将の面子にかけて。
家康が、信長の話題を話さなかったのは、昔の恐怖がよみがえるからだった。チャンチャン
>>100 晩年は幼女専門とは夢のようだ!!
15才位とやってたのかな
うはーー。。。たまんねー
105 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 05:07:28
親今川派なんていないべ。家畜並に扱われたんだから…
親武田(反織田)派じゃね?
>>102 以前読んだ本(タイトル忘れたorz)にこんな記述があった。
家康が忠輝(六男)と初対面したした時に、言った台詞。
「怖ろしい面構えだ。死んだ信康に似ている。捨てよ。」
これが本当なら家康vs信康ってのもあり得そう・・・
107 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 02:06:19
家康派(表向きは親織田.実は親武田)と、信康派(武田に内通したとされたが本来は親織田)の暗闘もあったのでは?
信長が家康派を除こうとしたが、家康が機先を制したと…
108 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 02:26:24
信長のチンポは意外に大きかったらしい
>>108 画像と木像見る限り鼻がでかい。
鼻がでかいやつはあそこもでかいことが多いからなw
秀吉はでかいらしいな
家臣が温泉かなんかに一緒に入って
「太閤殿下のアレは龍のようだ」
みたいな事を言ってたらしいな
111 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 13:37:30
政治力を備えた天文マニア。
地球儀を一瞬で理解したんだから
普段から空を眺めていて、雲の動き、星の動き、
太陽の動き等に(;´Д`)ハァハァしてたとしか思えない。
>>111 日本人の大半はキリシタンでないので、特に平らとはオモテなかったよ。
宣教師、外人の商人からすればスゴイとオモタかもしれんが…。
信長も家康もそうふうには思ってないと思うよ。
日本人なら、なるほど道理で…ってところだろ。
海みれば丸いし、小牧城に上ればわかるはずだしね!
お日様もお月さんも丸いし。庶民でもそういう風に理解してたはずだよ。
ただ、説明すると大抵は仏教的宇宙観になってよくわからなくなってしまうと思う。
信長も家康もしきりに宣教師が平らっていっても聞かないと思うね。また僧侶が途方もない宇宙観を説明してもふーんとは思うが納得しないね。
だって丸いお!って感情は否定しきれない。それが日本人の感性。
ただ、天主に金シャチホコ作った事でその説明ができるね。
雷につおいね。地球儀を理解したという説明では全く意味をなさない。
そうではなくて、天文マニアぶりはシャチホコで説明できるね。
天文気象は戦略と戦術の基本だね。マジメで忠実という事だね。
家康は今川からは大事に育てられた筈なんだよね。
人質っていうけど、今川が庇護しなかったら松平はとっくに滅ぼされていたような
小国だから。
対等な形ではなくって、自分の子飼いの武将として育てた形だけど、主筋である
筑山殿を正室として与えてる辺りで、どれだけ重用しているかわかると思う。
ただ、信康が筑山殿の子供だということを考えると、信長の娘(徳姫だっけ?)と筑山殿、そして
信康が上手くいくわけがないということはわかる。
筑山殿の側仕えは確実に今川方の家臣だろうから、今川に仇名した織田の娘は針のむしろに
放り込まれたようなものだろう。
信康も築山殿の元で育ってるわけだから、今川よりの考え方をしている筈で、ならば織田の娘なんか
大事に扱う筈も無い。
家康としては、今川の血を引く血統の良い、そして出来の良かった信康に跡目を継がせたかったとは
思う。今川の血が入っていれば、ただの下克上でも成り上がりでも無いから。
だから2重の意味でショックだったんだと思うんだけどね。
114 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 00:54:10
>>114 出来が良い説を読んでたんだが、どっち?
でも後々を考えると、確実に筑山殿と信康には生きていて欲しかったと思うな。
今川と繋がっているのなら、吉良の系図なんていらないじゃん?
家康は相当なワルだ
今川家に監禁されていたから相当グレてしまったようだ
光秀に信長を討たせ、光秀は南光坊天海として自分の手中に匿い
秀吉に光秀の影武者を討たせた
信長が悪という観念を日本人は植え付けられているが、実は全くの嘘
徳川幕府時代に、戦国武将歴伝は家康のいいように書き換えられた
武田信玄を最高の評価にし、信長を悪と定めた。好き嫌いを基準に
秀吉は死んでからだが謀反を犯してしまったため、謝罪の意を込めて改ざんしなかった
実際、信長は権威などどうでもよく、ただ日本を統一し平和にしたかっただけという説がある
それに比べて家康は、統一された日本をも自分の欲のために破壊したと考えてもいいだろう
秀吉は信長と家康の中間的存在だろうな
日本がまだ落ち着いてもいないのに朝鮮出兵を行ったのはあまりにもうつけだったが
と、早起きした朝から妄想してしまった
117 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 07:31:28
>>112 なるほど離れたところから海を見たら確かに丸いわ
ところで信長と家康との間には衆道関係は無かったのかしらん
119 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 20:49:40
120 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 01:23:24
>>112 >天文マニアぶりはシャチホコで説明できるね
これ、意味がわからんかったんだけど、どうゆう意味?
121 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 01:41:01
畏怖の念。信長には絶対敵わないと思ってたろうな。
生き長らえてたら鎖国と規制の江戸幕府は普通に無かったはずだ。
122 :
吉村裂痔:2006/02/11(土) 01:45:47
>>118 あくまで部下ではないので強要はできないだろう。
家康にその手のエピソードは聞かないし
125 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 15:29:34
多分信長が生きてたら家康を前面にして小田原征伐をさせ、関東に移封。
その後の奥州、蝦夷の制圧のたびに前線に出され、結局領地は段々北の
方に移されっていったのではないでしょうか?
126 :
日本@名無史さん :2006/02/13(月) 15:40:34
滝川一益・徳川家康・上杉家を滅ぼした柴田勝家の連合軍で小田原城包囲になるのかな。
信長生きてたら、家康は仙台平野中心に100万石くらいかな。
周りを柴田と瀧川に包囲されるような感じで封じ込まれてた
ろうな。関東と越後、家康領以外の奥羽は柴田と瀧川の二分
って感じか。まあ柴田の方が多いだろうが。
九州が明智と羽柴、四国が信孝、あとは信長、信忠親子の
直轄だろうな。こりゃ誰も逆らえんわw
128 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 01:02:54
129 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 09:31:33
北条に嫁をやってんだから、されで討たれるよ!
130 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 10:55:56
家康は、信長が長生きしていたら、秀吉政権下の利家のような存在になったの
ではないかな。
秀忠にはもういちど、別の娘を嫁に出すと思うし。
131 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 11:07:36
信長は征夷大将軍も断ってるし、独自の政権構想があったと思うが、
それだと長生きしたとしても1代のカリスマで終わっただろう。
信長の死後に秀吉・家康の次の世代の間で政権抗争が起きたはず。
そうすると年齢的に伊達政宗あたりが天下とった可能性がある。
江戸時代にすでに「伊達が10年早く生まれていれば…」という言説があった。
132 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 11:25:36
>>112 多分なんかのたとえだと思うんだが一応つっこんどくね
小牧城からは海は全然見えませんよ
133 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 11:30:09
>>131 伊達政宗は、上杉景勝を攻めあぐんでいる。
上杉を追い詰めた柴田勝家と同レベルor未満のレベルとなる。
明智と信長は、年上の激しいツンデレだが、
家康と信長はどうなんだ。
幼少のころの家康を誘拐監禁しているよな。
>>131 信長は、自分は良いから信忠の官位を云々とか朝廷の要請に
答えたりしている。
信長は自分は朝廷の埒外の立場に置いて、信忠を中心とした
政権構想を描いていたようだよ。そして信忠は軍人としても
政治家としてもかなり信頼度の高い存在だったので、本能寺
がなければ信長が一度くらい将軍ないし関白に就任してすぐ
その地位を信忠に譲ってという形で政権固めをしたと思う。
要するに後年の家康の大御所時代のようなもんだが、そもそも、
秀吉も家康も信長の施策を受け継いでいる部分がほとんど
なので驚くには値しない。秀吉も秀次に早い時期に関白を
譲って太閤として君臨したからね。秀吉の場合は秀頼が
生まれたことに全ての破綻の起因があるけど。
秀次か秀長が生きてれば家康の天下とりはなかった
137 :
日本@名無史さん:2006/05/18(木) 13:11:08
age
>>131 そもそも断っていない、
正式に答える前に本能寺の変が起きただけ。
139 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 10:00:42
光秀=天海説ってよくあるけど、それ以前に光秀が領民
一族郎党を見殺しにするとは思えない
140 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 14:45:26
信長のケチ
対武田の防波堤にされ脅威を受け続けて、窮地の時には形ばかりの援軍
自分は姉川の時にはほぼ全軍で援軍に出向いたのに
武田討滅戦の恩賞が駿河一国では割に合わない
甲信も貰って当然と腹の中では思ってたのでは
とにかく信長に疑われないように潰される理由を与えないように
細々と生きていくしかないな
>>131 伊達政宗なんて土人酋長は10年どころか20年早く生まれてたって天下に手をかけるところまでも行けないのは自明の理。
>土人酋長
ワラタ
143 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 22:59:20
ワラタ
144 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 19:50:51
いやdあ
145 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 11:11:50
>>140 駿河以外の武田領は押さえてあるから武田遺臣を松姫を餌に集めて抱える。
同じく松姫を使って穴山を徳川から離反するよう密約
北條には約束どおり娘を嫁がせて同盟。
↓
頃合いをみて、信康切腹で娘を不幸にし、武田密通を理由に処罰したくせに
舌も乾かないうちに、自分は武田縁の女を側室して娘を産ませている他
いい加減、腹の中では鼻についてきた徳川を東西北から挟み込んで滅亡させる。
なんて構想が実は信長の頭に中にあったから、駿河一国で留めてたりして。
146 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 14:24:36
信康の首って、実検のために安土に送られたのでしょうか?
送られてない。報告のみ。
148 :
日本@名無史さん:2006/07/04(火) 21:11:48
現代の日本とアメリカの関係ではないかな。
家康「また無茶言ってきたよ、でも信長に逆らうわけにもいかないし従うしか
ないのか・・・」
みたいな感じ。
149 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 17:45:06
昌幸なら家康殺せた
>>147 では実は生きていてしばらくは寺に匿ってもらってて
後に天海と名乗り家康に仕えてたとかw
151 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 21:15:16
ん?
152 :
:2006/07/31(月) 13:20:47
153 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 12:44:06
信長と家康を見てると米日同盟を思い出す。
154 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 18:56:25
某漫画の家康が変な三河弁つかってたのはマジ腹たった
155 :
元康:2006/08/10(木) 23:02:08
信長には逆らえんがや。
信玄に殺されるでや。
156 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 15:33:18
158 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 21:40:32
信長が生きてたら家康は20年間十分忠義を見せたし、隙が無くて長生きするタイプなので
東北で50万石程度の外様大名で生きたかな
159 :
元康:2006/08/13(日) 15:02:34
信長殿が幕府を開きよったら、次期将軍の信忠殿の補佐役として織田幕府の実権を握ればええこっちゃで。
鎌倉幕府の北条氏のように執権みたいなものよのう。ほほほ。
160 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 20:57:15
補佐役になれるとマジに思ってんの?
161 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 22:44:26
光秀が謀反するとき、兵卒は家康を打ち取りにいくと言われたと、いくつもの証言があるね。
少なくとも一般の人には信長は家康が邪魔になってきても不思議ではないという認識があった思われ
武田もいなくなってもう不用だもんな
精々、北条戦に使うくらいだ
163 :
日本@名無史さん:2006/08/14(月) 19:14:28
家康を日本だとすると
信長=米
武田=中国
ってとこか
164 :
日本@名無史さん:2006/08/14(月) 22:25:45
家康にたいしてもそうだが、
そこまで人間を合理的に割りきったら、
明智じゃなくても、いつか誰かが信長を・・・
だけどあれより後だともはやチャンスはなかったかも。
明智すごいのかも
165 :
日本@名無史さん:2006/08/15(火) 10:02:00
信忠が生きていたら、信忠黒幕説が主流になっていたに違いない。
育児板【独りで】虐待をやめたいと思う人 5【悩むな】
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/baby/1151998845/ 21 名前:名無しの心子知らず[sage] 投稿日:2006/07/06(木) 17:15:49 ID:C9eIZrXF
さっき、オムツ替えてる時に吐いたりしたからイライラが一気に爆発してかなり強くお尻と太ももの後ろ側を叩きました
ベビは物凄く泣いて真っ赤になって声が擦れて出にくいのに、泣きまくっています。
それに、またイライラして頬を力任せにつねりました。ベビは泣きまずにずっといます。
28 名前:可愛い奥様[sage] 投稿日:2006/07/06(木) 19:26:34 ID:ZMKP+FEy
毎日一緒にいると疲れてイライラしてひどい罵声とともに叩いてしまう。
外では優しいいいお母さんのところに生まれて幸せだね、何て息子に声をかけてくれる人がたくさんいる。
でもそれは外だけ、私は鬼母です。最近は息子はおびえています。さっきも頬が真っ赤になるまで叩いてしまった。
32 すぐカンシャクを起こし、ごはんを食べない一歳二ヶ月の赤を怒鳴りながらビンタしてしまいました。
61 赤のほっぺをつねってバタバタもがきながら泣いてる姿を見たら楽しくてスカッとした。
お尻もつねって青く腫れた。腫れた赤のお尻をまた指で弾く。
ギャン泣き通り越してひきつけ起こすかってくらい絶叫泣き。このまま、ひきつけ起こしてほしいよ。
78 赤は、叩いたりつねったりしたり眠らせなかったのでひきつけ?みたいな(過呼吸みたいなの)を起こし、
唇が紫っぽくなり顔が青白くなったので一時預かってもらえました。今は赤と離れてホッとしています。
149 夜旦那が仕事でいない間気持ちのコントロール出来ないで子供を蹴ったり殴ったりしてしまいます。
276 まだ産まれて12日目なのにイライラして叩いてスッキリしてしまった。あたしは心の病気?それとも育児疲れ?
既婚女性板【心の】旦那には絶対言えない過去【奥に】
http://human5.2ch.net/test/read.cgi/ms/1154259322/ ・援、風呂、整形、堕胎。言ってない ・経験人数40人以上
・中学の頃円光・整形・家出・乱交やりまくり・風俗・家庭内暴力 他多数
167 :
日本@名無史さん:2006/08/15(火) 11:47:44
信長は家康の長男を信忠より優れていたため切腹を命じたほど家康を恐れていた。
>>168 167は散々言われてきた説だけれど、否定する材料とかってあります?
講談が出典だったらそうなんだろう。
170 :
日本@名無史さん:2006/08/16(水) 17:34:49
徳川史観では、
都合のいい時だけ優秀キャラにされている信康であった
そもそも信康が優秀だった、という説はどこからきているんだ?
それを具体的に示すような信憑性のある史料があるの?
信康に関する資料って、殆ど残ってないんじゃないか?
信忠は別に暗愚じゃないだろ。信康の方が素行不良なエピソードが多い。
同意
あれは徳川家だけの問題
優秀説も素行不良説も、後の時代に書かれた徳川家資料にしか出てこない
176 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 19:38:47
信康が信忠より優秀かどうかはあまり問題でない
いずれにしても親バカの信長は、信忠にとって信康は将来邪魔になると考えるだろうから
この事件の本質は、徳川を庇護してやった分の代償を信長が要求したということ
アメリカが日本に無理難題を突きつけてくるようなもの
家康が悲痛な思いでその要求に従ったことは数々のエピソードに伝わるが、
いくら信長ヲタ、家康アンチでもそれを全部否定することはできないだろう
信長の親馬鹿は、単純に五徳に向いたものだろ
酒宴で酔って愚痴った家来の女房に慰めの手紙を送るくらい、女に
だけは優しい男だから、事が自分の娘だけに「五徳を泣かせるとは、
許せん!」って姿が容易に想像できる。
身内の女性がらみで信頼を裏切られた後の信長の恐ろしさは、浅井
長政の件と同じ。
マザコン信康に、弟信行をダブらせた面も、すくなからずあるだろう。
信忠の敵とは思わないだろうが、徳川の屋台骨を揺るがす存在とは
受け取っただろうね。
徳川が武田に対峙して重要な存在だった時期だから、徳川の内紛は
あってはならない。
一度許して、また裏切られた過去があるから、「厳格に処遇すべし」
と経験上の理由で家康に言うだろう。
「身内を裏切るものは、身内の温情を悪用するから信用に値しない」
>>176 織田信忠よりも優秀か優秀じゃないかは今となっては分からないだろうけど、
もし将来邪魔か邪魔じゃないかを考えていたとするならば、
優秀じゃなければ邪魔どころか信忠にとっては都合が良いのでは?
信長が本当に信康を誅殺する命令を出していれば、だけど。
どちらにしても、それを問題にする意味はあまり無いとは思うけど。
179 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 01:08:49
いくら家臣のような立場とはいえ、
信長が他人の嫡男を殺す権限なんてあるのか?
殺される側も、それでほいほい従うとは思えないんだが
180 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 07:25:04
信康切腹時の各人の年齢
信長44才 信忠19才
家康37才 信康20才
各人の年齢から推察するに、信長はまだまだ
十数年は、第一線でばりばり活躍する自信があったろう。
そうなると信康の優秀さは、信長にとっては、むしろ吉報のはずで、
殺害させる理由にしては弱すぎる。というか有り得ないっしょ。ましてや築山殿の
殺害に至っては、信康の才能と何の関係があるのか、これぞ摩訶不思議である。
しかも信長は、娘の徳姫を信康に嫁がせていたが、
信康にも母の築山殿にも、一度も会った事がないのである。
信康の能力を、当時の信長が完璧に見抜いていたとは考えにくい。
まあ、真偽は兎も角も、家康の妻子殺しを正当化するため、
後に創作された逸話というのが、一番可能性が高いと思うが。
1579年秋と言うのは信長の生涯の中で、1、2を争う血生臭い、
時期である。史料から信長の苛立ちがヒシヒシと伝わってくる時期だけに。
信長命令説を自信を持って否定できない、もどかしさがある。
181 :
日本@名無史さん :2006/08/18(金) 11:49:00
>>180 >信康にも母の築山殿にも、一度も会った事がないのである。
長篠の合戦の前後に会わなかったの?
石川数正が書いた記録があるらしいが、
どこにあるのだろう?
酒井忠次の陰謀という説もあるらしい
五徳から信長に送られた手紙の内容はかなり「ありえねー!」
なものだけど詰問された忠次が「はい、全て事実です」と
答えたので切腹が決まったとか。
何故そんなことをしたかというと徳川(松平)家はあくまで
三河衆の代表なだけで酒井家の主筋ではないのに信康は
自分を家来扱いして高圧的な態度をとるのが気に食わなかったとか。
184 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 23:16:37
>>178 本当に邪魔になるかどうかより、将来ライバルになりそうな信康を殺しておけば
信忠が楽できると考えるところが親馬鹿の親馬鹿たるゆえん。
>どちらにしても、それを問題にする意味はあまり無いとは思うけど。
信長と家康の関係を考えると、どうしてもこの問題が出てくるんだろ。
もともとは信長擁護派が家康の意思で殺したという説を出したことが発端。
>>180 いくら何でも、おたくの息子さん、将来信忠の邪魔になるといけないので
殺してください、とは言うわけない。
名目上は武田への内通ということなので、築山殿も一緒に処罰しないと
名目が立たない
家康は築山殿だけならうまくやれば助けられると思っていたらしいが。
>>184 国土的にも差は歴然だし、なにより暗愚なら嫡男で当主になれば信忠には得だと思うけど?
そんな事を言い出したら織田家中の家臣の優秀な嫡男の方が余程脅威だし、
他の息子もライバルとなりえるんだから寺に出した方が信忠には安全じゃん。
それに信長の命令なのか徳川家の内紛なのかまだはっきりとは分かってないんでそ?
186 :
日本@名無史さん:2006/08/19(土) 12:05:17
信長の命令で殺したわりには信長は首実験をしなかったし
家臣もたち合わせなかったよね。
武田内通の咎で信長の命令により妻と息子を処罰したくせに
半年もたたないうちに信長の目を盗んで武田縁の女を側室にして
同年内には子供まで産ませていたよね。
命令によって泣く泣く信康を処罰したならもう少し彼についての史料が
あってもよさそうだけど、その史料自体がほとんどないし
ここぞとばかりに悲劇的な記録を残しても良さそうだけど
その類もないよね。むしろ封印したいみたいだよね。
187 :
日本@名無史さん:2006/08/19(土) 12:08:43
蒲生氏郷は、信長の娘をもらってるけど
信長は氏郷をどうするつもりだったのかなー?
つーか単純に徳川の内紛(か反旗)を狙ってたんだろ?
国力的にはまだまだ大したことになってないよ当時徳川。
190 :
日本@名無史さん:2006/08/19(土) 18:57:44
武田さんと仲良くしようとしたのが、織田の兄貴にバレそうだったので
妻と息子のせいにして逃げました。
191 :
日本@名無史さん:2006/08/19(土) 19:11:27
いくら信康がかわいくて仕方がないって言っても自分の命とくらべたらなあ・・・
192 :
日本@名無史さん:2006/08/20(日) 22:13:45
家康と信康、それぞれの家臣達が暴走したのではないか?
家光と忠長の時も、それっぽい
二股外交は小領主なら安全のために普通に考えることだと思うのだが
バレた相手が悪かっただけの話じゃまいか
194 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 22:28:09
>>186 >信長の命令で殺したわりには信長は首実験をしなかったし
>家臣もたち合わせなかったよね。
織田と徳川は一応同盟関係だからそこまではやれないだろ。
たとえ虚偽の報告をしたとしてもどうせすぐばれるだろうし、
そうなれば織田に徳川を潰す口実を与えることになる。
>武田内通の咎で信長の命令により妻と息子を処罰したくせに
>半年もたたないうちに信長の目を盗んで武田縁の女を側室にして
>同年内には子供まで産ませていたよね。
武田内通が口実にすぎなかったということ。
家康としては精一杯の反抗。
>命令によって泣く泣く信康を処罰したならもう少し彼についての史料が
>あってもよさそうだけど、その史料自体がほとんどないし
>ここぞとばかりに悲劇的な記録を残しても良さそうだけど
>その類もないよね。むしろ封印したいみたいだよね。
将軍家としてあまり名誉な出来事ではないから、
積極的に残したいと思わないはず。
家康個人としても武将として戦った信玄のことは懐かしく思っても、
嫌な思い出に結び付いてる信長はあまり思い出したくないだろう。
195 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 01:43:41
徳川家内部で起こった事件だからこそ、資料がないんだろ。
織田家とか他家が絡んでたら、徳川家以外の資料だってあるはずだし、
もっと大騒ぎになってる
196 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 03:12:03
案外とこういう感じだったのかもな
親織田派・信康⇔親武田派・家康
で、バレそうになったから妻子になすりつけて保身
後年、武田が滅びこれが穴山を通じて事の事情が信長の耳に入り
ピンチにたって(以下略
a
198 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 20:06:24
家康は、死んだ妻子の供養を何もしていない。
石川数正が築山殿のために作った神社も、
水野家にブッ壊されてる
199 :
日本@名無史さん:2006/08/23(水) 20:41:07
家康ドス黒。
h
信長信者は救いがたい
徳川に残っている史料はすべて捏造と決め付け、
自分がせっせと信長擁護のストーリーを捏造する
信長を裏切らなかったのは俺くらいだったのに、
信者にそんな扱いをされたんじゃたまんね、と家康は思ってるだろう
202 :
日本@名無史さん:2006/08/24(木) 23:55:37
そんなに築山殿と信康が嫌いなら、岡崎に連れてくるなよ。
203 :
日本@名無史さん:2006/08/25(金) 23:50:18
家康は信長が嫌いだったということで
204 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 13:07:49
なぜ徳川は天下掌握後に織田を族滅しなかったんだ
羽柴は容赦なく族滅したんだから
織田も女子供にいたるまで根絶やしにすべきだったはず
205 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 13:11:11
何で羽柴は族滅されたんですか?
>>204 今更織田家の人間を担ぐ人間が居なければ、理由も大して無いからじゃないのか?
207 :
日本@名無史さん:2006/08/27(日) 13:10:17
>>202 氏真に側室&養子として与えたほうがよかったな
209 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 11:29:05
信康切腹のきっかけになった徳姫に、
徳川家は後年、知行を与えて厚遇している
これ一つ見ても、徳川家にとって不都合はなかった。
210 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 19:30:22
211 :
日本@名無史さん:2006/09/06(水) 10:11:09
徳姫を殺して当然なんて、書いてないと思うが?
信長が好きならそう思って当然と思い込んでいる
アンチ信長の考えの方が理解できない
>>211 アンチ信長に、理屈なんてないよ・・・
信長の上っ面しか見てない上に、自分の価値観でしか判断できない。
ただ、嫌いだから嫌いってだけだよ・・・
213 :
日本@名無史さん:2006/09/06(水) 20:05:09
>>209 家康は、信長の前で、信康の弁護をしなかった酒井忠次を重臣として優遇し続けた
214 :
日本@名無史さん:2006/09/06(水) 21:31:46
>>211 210だが、俺はアンチ信長じゃないな
秀吉はあまり好きになれないが、信長はどっちかというと好きなほう
ただ、信長信者が増長しすぎて築山殿事件の責任も家康に押し付けたりするので
信長信者をけん制したまで
215 :
日本@名無史さん:2006/09/06(水) 21:59:29
>>214 家康犯人説=信長信者ってワケではないぞ。
216 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 12:10:16
>>214 いや信康切腹は家康主導説が有力ではあるよ。
信康切腹が信長の命令だなんてのは江戸時代に書かれた三河物語などに見られる記述で
当時、書かれた信用性の高い安土日記や当代木には「信長は家康の申し出に許可を与えただけ」としか書かれていない。
あと他に松平ナントカ日記にも家康主導を裏付ける記述があったはず。
217 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 12:13:44
「信者信者」「信者信長」「信長信者」「信長信長」
218 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 12:23:24
何はともあれ信安の切腹の家康切腹説が
デムパ説だとかいう奴は無知だと思われ。
かなり有力な説ではあるわけだしな。
とはいえ、ちゃんと論争するのは良いのだが、
「信者」だの「アンチ」だのの言葉で
>>214 >>212 >>210 >>201のように
ろくに審議すらせずに論敵を葬りさろうとする態度は感心できない。
論争するんだったら、ちゃんと「論には論で」あるいは史料を明示して
反論して欲しいもんだ。
それで、安土日記、当代記には「信長は家康の申し出に許可を与えただけ」と書かれて、
徳川家臣の松平家忠日記には、信康騒動の時に家康と信安の対立が
てんてこまいのように書かれている我に信長がどうとかいう記事が全くないのはどういう事だろうね。
あと信長主導説の記述があるのは
徳川マンセーの三河物語だけというのも気になるね。
著者の大久保彦左衛門は「歴史書とは家や人物を美化して書くもの」と
高原しているような人物だし三河物語のほとんどは美化されたものと考えられる。
そもそも、あれは子孫に徳川への中世を書いた本で歴史書ですらないのだが。
219 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 12:24:53
何はともあれ信安の切腹の家康切腹説が
デムパ説だとかいう奴は無知だと思われ。
かなり有力な説ではあるわけだしな。
とはいえ、ちゃんと論争するのは良いのだが、
「信者」だの「アンチ」だのの言葉で
>>214 >>212 >>210 >>201のように
ろくに審議すらせずに論敵を葬りさろうとする態度は感心できない。
論争するんだったら、ちゃんと「論には論で」あるいは史料を明示して
反論して欲しいもんだ。
それで、安土日記、当代記には「信長は家康の申し出に許可を与えただけ」と書かれて、
徳川家臣の松平家忠日記には、信康騒動の時に家康と信康の対立が
てんてこまいのように書かれている割に信長がどうとかいう記事が全くないのはどういう事だろうね。
あと信長主導説の記述があるのは
徳川マンセーの三河物語だけというのも気になるね。
著者の大久保彦左衛門は「歴史書とは家や人物を美化して書くもの」と
高原しているような人物だし三河物語のほとんどは美化されたものと考えられる。
そもそも、あれは子孫に徳川への中世を書いた本で歴史書ですらないのだが。
姉川の戦いについてだが、
江戸時代に入って幕府が「弱い織田を徳川が助けて天下を取らせた」という
事にしたかったのでかなり捏造されてるらしい。
実際はもう少し楽な戦いで
徳川勢より美濃衆の奮戦が大きな勝因だったらしいね。
>>220 そうなの?
なんかの雑学本に、一番活躍したのは、厳密には三河衆ではなく岡部だか朝比奈だかの兵だった、
とは書いてたけど。
三河物語はそもそも歴史書ですらないし、
大久保彦左衛門の逸話にこういうのがある。
彼が配下の若衆と談笑中に
若衆が「こういうときは源義経殿はこういう見事な立ち振る舞いをしたそうですな」と言った。
それに答えて大久保はこういった
「ばか者! 義経が本気でそんな天才の聖人君子だと思っておるのか!
大体、歴史書なんてものは家や人物を美化するためにあるものなのだぞ!」
大久保の言っていることは、はっきり言って正論だろう。
しかし、そう公言するような人物の書いた歴史書がどれだけ信用できるだろうか?
実際、三河物語は徹底的に徳川マンセー、譜代マンセーに書かれている。
少なくとも太田牛一のような「嘘は書いてない」と言っている書物とは比べ物にならない。
あと大久保の信長公記批判も徳川やその家臣を誇るあまりの
歪みから出た発言ともとれる。
>>221 まあ一般本はあまり正しくないことも多く書いてあるしね。
224 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 15:16:00
>>223 「自分は嘘は書いていない」という人と「歴史書なんて嘘っぱちだ」という人の
どちらを信用できるかは微妙だな
それと、信長公記原本になくて、その派生本に書いてあるというのは、
信長厨が書き足した可能性大だろうな
226 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 16:38:06
日本も本土決戦をやって民族が絶滅していたらもっと酷い事を歴史書に
かかれたのかな。
松平家忠日記の記述を読む限りでは
信康切腹は連日の家康と信康(というか岡崎衆)の対立に果てに起こったものであり、
少なくとも講談で言われているような親子で仲良く平穏にやっていたところを
信長が突如、切腹の命令を下したというものではなさそうだ。
徳川家のお家騒動が一向に収まらないののを見て信長がしびれを切らして
処断を命令した可能性ならわずかにあるかもしれないが。
228 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 21:01:53
家忠日記って、信康が最後どうなったかは書いてないよね
>>228 「岡崎を出された」としか書いてないね。
231 :
信長:2006/09/09(土) 23:13:31
お笑いウルトラクイズで使いたいと思っていた
>>213 四天王で唯一、関東移封時に10万石もらえなかったのに優遇?
忠次が隠居後に、息子の禄高が少ないとこぼしたら、家康に「お前でも子どもはかわいいか?」と皮肉を言われた
のでメンヘルになったという伝説があるが。
>>232 その逸話はあくまで伝説ね。
史実ではない。
234 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 13:58:55
少なくとも、双方良い感情でない家康と瀬名が
なぜセックルしていたんだ?(Wツンデレ?)
朝日姫とは男女の関係じゃなかったのに
>>233 10万石もらえなかったのは史実。地位が井伊・本多・榊原に比べて低下していたということは言えないか?
236 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 19:42:17
>>233 「伝説」というのは「お前でも息子がかわいいか」の件ね。
なんにせよ、家康は自分よりずっと年上で外戚の叔父にあたり、
三方が原で自分が脱糞するのを大笑いしたような立場にある酒井を煙たいと思っていた。
井伊、本多、榊原をはじめとした自分より年少の世代での
体制構築をもくろんでいたので、年長で徳川家での権威も高い酒井は邪魔だったという訳。
237 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 23:25:10
信康は、本当に家康の子だったのだろうか?
成長するにつれ、家康にも築山にも似ておらず、
あってはならない人物に似てきたのではないか?
そのように考えると、
家康が妻と、そして息子と言われる人物の死を断腸の思いでやむ得ない、
信長が娘婿の死を遺憾だがやむ得ない、
真実を知った一部の家康の家臣らもやむ得ない、
そのように考えたのではないか?
あくまでも推測の域を出ないが。
あってはならない人物とは今川義元その人である。
鶴姫って今川の中でも相当な良血で
それを三河の家康に取られるのにむかついた今川なんとかがレイプしてるよな
そのお手つきが、結婚直前として
家康との結婚は1557、信康出産は1559・・・ん〜セーフっ
>>238 義元の妹婿である関口親永の娘じゃないの?
つうか、それ小説かなにかで見たけど、真実なのか??何の史料に記載?
240 :
信長:2006/09/12(火) 13:06:06
一緒にひつまぶしが食えるいい兄貴
>>235 それは、全てあなたの思い込みです。その粘着ぶりは伊達君でしょw
242 :
日本@名無史さん:2006/09/13(水) 20:23:47
>>236 酒井忠次が、家康の「外戚の叔父」?
酒井家は、松平家の初代親氏が隣村の庄屋の娘に産ませた子が初めで、
国人松平家が周辺に勢力を伸ばしていく当初からの家来の家だったから、
徳川家内での権威が高かったのだと思うが?
てゆうか、家康の母の実家は水野家だから、酒井は叔父になれないと思うが?
>>237 築山殿は、義元の姪で、養女として元康と娶わせられた。
さすがに、義元は手は付けないだろう。
氏真は、どうかしらんが・・・・・・・
245 :
松平三河守家康:2006/09/14(木) 11:33:39
信玄の騎馬隊最強だぎゃ〜!!恐ろしひっ!!!
信長殿に助けてもらわんと漏れの部下の首が飛ぶ飛ぶ首が飛ぶ!!
妻と長男2人に犠牲になってもらわんと、みなの首が飛ぶ飛ぶ首が飛ぶ!!
246 :
信長:2006/09/14(木) 11:38:45
わしのスペルマも('A`)
247 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 13:20:30
家康は忠次を若い頃は頼りになると思っても、
自分が歳食ってくるとさすがにウザイと
感じるようになったと思うよ。
248 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 20:18:43
>>244 ああ、そうか、サンクス
華陽院は、水野忠政の妻だったのが、
家康の祖父・清康に譲られて妻になった女。
家康の母・於大の妹は清康の娘だったっぽいな。
てことは、母・於大の異父妹の夫だから家康の義理の叔父
であり、また、祖父・清康の娘の夫だから家康の義理の叔父
ややっこしいな(w
小説なんかだと氏真は、心から築山殿を愛していて、義元の元へ嫁ぐ
彼女の姿を断腸の思いで見送っている。
家康と築山なら上手くやっていくだろうと努めて思い込む氏真と、
この先の地獄を悟って氏真をすがるように見つめる築山のすれ違い・・・。
家康の元に嫁ぐの間違いでした。
なにとぞお許しくだされ・・・。
251 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 02:57:08
妻子が死んだのは、家康に責任あるでしょう
本人は後悔なんかしてないだろうけど
252 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 09:42:28
一通り読んだがこのスレのレベルは日本史板にしちゃ恐ろしく低いな。
史実と小説、自分の妄想の区別もつかない馬鹿ばかり。間違って三戦板に来たかと思ったW
御託はいいからさっさと意見を言えよタコ助
254 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 17:50:19
喧嘩仕掛けといてカス呼ばわりとは。本当にレベル低いのはどっちかな?
まあ・・・所詮は狭い範囲の日本歴史にしか興味のない子供の悪戯として
流してやるべき。
256 :
日本@名無史さん:2006/09/24(日) 12:33:10
レベルが低いと煽った奴が自分の意見を言ったためしなし
257 :
信長:2006/09/24(日) 13:14:11
年に一回、弥富で金魚すくい世界大会がある時
わざと負けてくれるいい兄貴だった
258 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 19:43:31
いたって普通の関係
259 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 10:36:26
まあ、家康も最期は信長の一武将になりさがったが
家康って子供を溺愛してたの?秀忠?
子供を溺愛してたのはむしろ信長だろう
家康は肉親に対しては冷淡に見えるが
ぅゎ、まるで曹操と劉備の差があるな。
曹操―信長:子供を溺愛
劉備―家康:子供に冷淡
263 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 23:13:59
264 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 18:06:58
だって世良田二郎三郎だもん
265 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 08:26:33
本物は桶狭間で死にました
過疎ってる・・・
>>261>>262 晩年に作った孫のような歳の子達は溺愛したっていうけど>家康
跡目争いに対して神経質だったということなのでは?
268 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 19:50:00
>>267 昔は親として未熟だった。
年取ってからは成熟して親子関係を築けるようになったってことかもな。
竹千代は親の愛を知らずに育ったから(´・ω・`)
冗談半分で信長と家康の相性を占ったことがありますが、素直に仲は良かったと思いますよ。
家康よりも信長のほうがゾッコンだったでしょう。家康にとっては「乱暴なところもあるし、
妙なツッコミを入れられもするが、ツーカーで話せて何かと勉強になる兄貴分」だったかと。
271 :
日本@名無史さん:2007/02/19(月) 23:54:51
家康の思考から考えて信長の思考についていけたとは思えないけど。
272 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 00:06:20
家康の気質からして、本当は信長なんか嫌いだったんじゃないのか?
家康タイプの人って信長タイプの人とは友達になれそうにないと思うw
家康が信長についたのは、今川から独立するためにはそれしか選択肢がなく、
あとは行きがかり上、信長についていくしかなかったんじゃないのかね。
家康って内心では武田信玄とかを尊敬してて、信長とか本音じゃ嫌ってそう。
だから本能寺で信長が死んでくれてホッとしたんじゃないのかね。
273 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 00:21:18
ただ一つ気になるのが家康最大のピンチ、信玄上洛の時に寝返らなかったこと。
274 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 00:27:06
あの時点じゃ、織田と一蓮托生だし、寝返ったからって優遇されるとは限らない。
275 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 00:29:14
>家康は信長をどう思っていたのか
お兄タン!
>>271 信長の知性(思考)に関して言えば、芸術家のアレとか
革命家のナニとかいう性質のものではありませんよ。
単純に言えば、情報をぶち込み過ぎ、分析し過ぎな人。
ときとして詮索や邪推に嵌ってしまい、あっさり感情が破綻して
くぁwせdrftgyふじこlp!!!
になってしまうタイプです(笑)
構成力、企画力はありますけれどね。
先進的でもあるでしょうが、はっきりいって突飛ではありません。
家康の知性(思考)レベルからすると、そんな大層なことはなかったでしょう。
例えて言うなら、家康にとって信長は「ソニー研究所」の所長って感じ
だったんじゃないでしょうか。
>>272 信長と家康って直情型だが抑えるところは抑えるって感じで似たもの同士の感じ
むしろ信玄のように裏切りばっかのほうが心労になるだろう
その辺に比べると義元が一番好きそうだな、利を取ったというか氏真じゃ嫌だというか
278 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 03:33:44
家康が信長について語った文献とかは、残ってないのか?
279 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 23:39:34
>>275 芸術家や革命家でないのくらい分かってる。
でも家康とは正反対だな。
280 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 22:16:23
家康は円満な常識人であり、よくも悪くも保守的な人物。要するに普通の堅実な人。
信長みたいな人物とは本来、そりが合うとは思えないが、人質経験で培った隠忍自重の精神で
ひたすら耐え忍んだのであろう。
281 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 22:58:46
あれだけ戦国時代では稀な長い同盟だったのに、家康が信長を語った事が
ないのは変に感じるな。内心尊敬はしてなかったという事なのか。
ただ信長には勝てないと悟ってはいただろうな。天下人になった後に語ればその事を
認める事になるから悔しくて語らなかったなんて想像してみる。
282 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:30:21
武田信玄につかないで、信長との同盟を守っていたことからして
かなり信長を評価していたことは間違いないな。
しかしマジで何で、信玄につかなかったんだろう・・・つくづく不思議だ。
占星術でも使って、信玄の寿命を予知していたのか
283 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 23:39:56
まぁ、武田についたらついたで、織田に真っ先に攻められるのは徳川だしな
どっちに滅ぼされるのが嫌だか考えると、俺なら信長にはやられたくない
信長だし1回ぐらいは許してくれそうだけど。
>>282 まだ若かったし、桶狭間を出来ると思ってたんだろう。
信玄討てたら、駿河ぐらいは手に入っただろう。
>>282-284 遠江の分捕り合いから一転して侵攻して来た武田に対し、
和睦や降伏はありえても同盟はありえないのでは(・ω・)
287 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 20:41:15
>>282 単純に、最初信長と同盟を結んだからだろ
寝返ればそれだけで武将としての価値が下がることをよく知っていた
>>287 それは確かにそうだと思う。
何はともあれ信義は守る・律儀な男、というイメージが強くあったからこそ
秀吉死後のあの強引な政権奪取もできた。
松永久秀やなんぞとは、わけが違う。
289 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 13:29:31
ま、本能寺で信長が死んだときは、家康ならずともほとんどの武将が内心では
ホッとしたんじゃないかな。
290 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 20:43:39
信長ってワンマンな雷オヤジで疫病神みたいなキティちゃんだからな。
291 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 00:12:53
神経質でいつも部下をいびっていた上司がある日部下の1人に殺された
みたいなもんだもんな・・・
293 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 13:14:42
294 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 13:45:05
国盗物語の読みすぎですよw
>>18 意味の無い事でも推測すれば又楽しかもよ。
『どう思う』には関係無いけど、家康が竹千代?の頃信長に遊んで貰った事あるんじゃなかったけ?
296 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 14:38:12
人質だった義元のことは結構話してたんだよな
しかし盟友時代の信長のことはまったく話さない家康
297 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 17:55:31
>>295 今川に人質で行くはずが、引率が裏切って織田にいったときのことか。
まぁ普通の若様なら遊ばないだろうけど、うつけなら遊んだかもね。
>>296 今川人質時代は結構もてなされてるんじゃないか。
人質にしては、だけど。
298 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 19:42:39
歴史学的には、現実にどう行動したかが問題なのであるから、
家康の本音とかは現実の行動に現れていない限り、空想しても無意味だろうが、
ネタ的には大いに興味あるな。
素の人間として見た場合、信長タイプの人間って難しいよ。
腫れ物にさわるような感じで、いつも周囲の人間はピリピリしていないといけない。
家康はいたって常識人というタイプだから、本来、こういう人間は嫌いだったと思うが、
子供時代からの人質生活で面従腹背の術を身につけ、本音を隠して上手に付き合った。
その辺が家康の偉いところで、だからこそ最後まで生き残って天下が取れたんだろう。
どうしても信長と合わない人間は、我慢の限界が超えたら、荒木村重や明智光秀みたいに
なっちゃうんだろうし。
確かに家康の我慢強さは異常
300 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 21:17:26
よくストレスで胃がズタボロにならなかったもんだ。
301 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:36:33
リアルで自分の周囲に家康や信長がいたら、絶対家康の方がいいよな。
よくもわるくも普通の人だし。
そうかな?普通の人って嫌だと思うぞ
普通の人だから自分と会ってる時はニコニコしてても裏で何言ってるか判らんしな
人間社会、大概が普通の人同士だけど、そんな日本社会でストレスをみんな感じまくってる訳だし
信長はツボさえ判れば御しやすいってタイプも結構いると思う。筆頭は秀吉
303 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 19:29:30
信長って一種のカリスマ性みたいのがあったのかもしれんね。
304 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:50:26
家臣として仕えるなら、家康の方が安心できる。
ビクビクオドオドする必要があんまりない。
305 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 22:35:14
でも家康は戦にへたくそだから、
恩賞とかはあまり期待できないし
信長は戦いにうまくてよく勝つから秀吉のように
出世できる可能性もあるよ
306 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 22:59:51
現在でも大部分の人間が平凡な勤め人であるように、戦国武士の大多数も平凡な武士だった。
出世するほど大きな手柄のない普通の武士にとっては、家康みたいな主君の方がいい。
信長が戦がうまいっつーのもどうかと思うけどな
天王寺合戦だって勝ってるからいいけど負けてたらえらい事になってたしな
308 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 00:27:15
意味わからん。勝ったんだからうまいんだろーよ
309 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 01:18:26
自分の妻(築山殿)や子供を平気で殺すような家康には仕えたくないな。
かつての主君の秀頼はいいがかりをつけて殺してるし、
千姫が生んだ子供(自分の孫)も殺させている。
嫁と子供はのぶりんに殺されたようなもんだし、
のぶりんは実弟や義母や義弟や甥を殺してますがな
それは説話でしょ?信長は信康殺しにはノータッチだよ
大体、信長は超が付くほどの親バカだし
>>310 確かその実弟の嫡男はよく面倒みたんじゃなかったけ?
>>312 実弟と言っても、2回も謀反を起こせば、
家臣への示しもあるし、殺さないわけにはいかないよな。
あと、義母ってだれ?
正妻の母親の、小見の方なら殺してないよな。
むしろ、岐阜時代は丁重に扱ってるようだし。
叔母なら処刑にされてるけど、東濃の要所である岩村城を、
信長裏切って敵に渡してるし、信長の実子を敵に送った訳だから、
(それも、信長が断ったのに無理を言って養子に貰い受けてるのに)
処刑されても仕方がないんじゃないか?
忠次よ、お主もわが子が可愛いか?ええ?
殺人鬼の信長厨にはうんざり
あんなのより家康に仕えたいわ
316 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 16:26:34
>>296 信長と秀吉については口を閉ざす
義元と信玄のことは引き合いに出す
共通項は何だ? 天才と普通人か?
>>316 尊敬できるかできないかだろ
家康は信長の事も秀吉の事も見下していた
尾張人質時代にホられまくってたんじゃね?
319 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:03:54
単純に不義のコだと分かったからじゃないのかな。
320 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 15:10:51
家康は信長よりは、はるかにマトモな人だと思う。
しかし、けっこう執念深い人でもある。
駿河の人質時代、隣家の武士から「三河のこわっぱ」呼ばわりで侮辱されたのを忘れず、
数十年後、武田滅亡の際に降参してきたその武士を切腹させている。
まあ、子供時代、辛い思いをさせられたんだから無理はないけど、ちょっと執念深いね。
そんな些細なことしかエピソードがない時点で家康は心が広い人物だといえる
信長なら一族郎党皆殺しだったろう
家康のエピソードといえば、将軍になったからの話と思われるが、
こんな話もある。
ある台所役人が、香の物をえらく塩辛く味付けしていたので女中連中から苦情が出た。
そこで家康がその役人に理由を聞くと、
「あの女中たちは、これだけ辛い味付けでも大食いです。これ以上、味を薄くしたら、
もっと大食いするでしょう」
と答えた。
それを聞いた家康は大いに納得し、その家臣を賞賛した。
323 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 19:14:13
>>321 信長なら使えるか使えないかで判断するだろ
324 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 03:06:34
信長や秀吉なら部下に領地を大判振る舞いだが、家康はケチだ。
325 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 03:13:25
信長は柴田を許してるがな
326 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 04:14:15
信長は裏切り者に対して随分と寛大なところもあるけどな
信勝→一度目は許される
林・柴田→帰参を許される
浅井長政→大和への国替えの条件を出す
松永久秀→茶釜差し出しを助命条件とする
足利義昭→一度目は許される。二度目も追放で許す
結果的には脇の甘いところを光秀に突かれてしまった
荒木村重も何か助命の条件あったっけ?
義昭に関しては将軍弑逆の汚名が嫌だった。
と、いう説もあるが、個人的には信長のイメージじゃないなあ。
328 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 04:37:15
荒木は何度か翻意すれば許すと言ってた
ホントか嘘かはわからん
とにかく最初は讒言かなんかだろと荒木謀反を信じず
とにかく釈明しにこいよと荒木を誘っている
荒木はこれに応じて城を出たが
高山右近が信長は信用できない。行ったら却って来れない
と止めたから結局翻意しなかった
その後黒田勘兵衛にも荒木説得させているな
329 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 04:37:59
とりあえず使えそうなのは許すという感じかな
330 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 04:54:13
●本能寺後、秀吉の信長評
「信長は残酷過ぎる。人間としての器量が駄目過ぎ。ただジャイアン。」
秀吉の家康評
「俺の死後に天下を狙える奴は二人いる。黒田と家康だ。しかし家康は温和で律義者だからそんなことはしないだろ
むしろやばいのは黒田。」
信長の場合、林、佐久間、安藤、丹羽の例があるから許されても全く安心できん
まあちょとでも成績悪いとあら捜しして追放だもんな>信長
333 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 17:33:53
秀吉なんかに対しては、内心自分より上とは認められなかったが
信長に対しては自分より上と思ってたと思うな
信長には自分より上の人間だなと言うあきらめの心境&こいつオッカネーよという畏怖
334 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 17:38:29
だから本能寺で死んでくれてホッとした。
335 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 02:00:28
当時本能寺を襲撃した明智軍の兵卒は「上様(信長)の命令で家康を討ちに行く」
と信じていたのが面白い。
信康事件は、彼の母方の人脈が大きな問題だろう?
関口家は、今川家の分家で名門だし、
織田についたことに反感があったはず。
ただ、だからといって、武田につくかな?
武田も今川を裏切ったわけだし。
そして、意外に語られていないのは、信康と家康の年齢の近さ。
信康が自害したとき、信康は21歳。家康は38歳。
二人は完全なライバルになりつつあった。
337 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 05:19:58
信虎VS晴信みたいなのを恐れたってこと?
338 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 00:15:01
信玄が息子の義信を殺したようなもの。
義信は名将だったようで重臣たちの信頼もあつかったので、
自分が父親の同じ目にあうかもしれないと夜も眠れなかった。
信康も独自の家臣団を持ち家康の制御も利かなくなりつつあった。
339 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 04:58:31
もはや源氏の伝統芸だな
340 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 12:03:11
>>336 当時の今川関係者がそんなこと気にする余裕なんてあるか?
341 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 18:39:48
今川の旧臣って、武田経由で家康の家臣になった者が多いのかな。
せいぜいママゴリラくらいにしか思わない
>>341 今川領における武田と徳川の分捕り合戦の過程で
家康の家臣になったものが多いみたい。
344 :
日本@名無史さん :2007/04/22(日) 10:02:28
まあ、家康の信長擁立の動機は、
家康の母・於大の影響が大きかったのかも(織田家臣・水野家の出)。
昔、大河ドラマの「徳川家康」で見たときは、
それほど気性の強い母上には見えなかったけど・・・
345 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 11:27:31
信長について最近では「中世において革新的な思想を持った近代人であった」って評価されてますよね。楽市・楽座とか兵農分離とかを欧米諸国の情勢に比較して。
でも、信長が近代人だったというのは何か証拠があるんでしょうか。
以前において散発的に研究されていた信長の業績を、最近の歴史家が状況証拠を積み上げて「彼は近代人だったと結論する」と評価しただけではないんでしょうか。
本当は信長だって宣教師から聞いた話を猿真似してっただけの「優秀な中世人」なに過ぎなかった気がします。
346 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 11:32:42
まあ、信長にとっては、武田家滅亡の後、家康は目の上のこぶに成り果てたんじゃないの?
家康との同盟はあくまでも武田家牽制の為だからね
あのまま信長が行き続けていたら、確実に家康は消されていたよ
347 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 11:46:55
まあそうだが、その前に信長自身が光秀とその黒幕と噂される人達にとって邪魔者になって消された
家康にとっては我慢のしがいがあったというもの
>>345 改革者の言うこととは、昨日今日出たような振って沸いたものではないのです。
いわゆる行政改革もそうですが、大半は十年二十年いや前の世代からずっと
考えられ、言われてきたことなのです。改革者とはそれを公約し実現した人のこと。
ある程度育っていた苗の花を咲かせた者、生まれそうな子を産み落とした産婆に過ぎません。
それでも大変な偉業なのですが。
信長とて同じことです。
ですから、もし欧米と比較して革新的だったというならば、それは彼の思想ではなくて
日本社会自体が革新的であり、近代を産む直前だったからというべきでしょう。
信長の前後が日本の中世と近代の分岐点であったという意見に異論はありません。
しかしそれが彼をして近代人であったと考えるのは誤りなのです。
楽市、楽座も信長以前から他の戦国大名とかもやっていたしね
350 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 13:45:39
まあ、信長については司馬遼太郎以来過大評価されたけらいがあるからね。
最近の歴史小説にも、明らかに司馬遼太郎の描写を史実と勘違いして用いている表現が見られるし。
ま、信長は武田も叩きつぶした天下の武将だから
352 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 18:40:12
ほぼ 秀吉がやりとげたんじゃないか!?信長の感覚は 日本の歴史を否定するところがあるから 朝廷黒幕説に一票。
353 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 00:14:58
いくつかの条件は他にもあるだろうが、信長は「非常識」の部分を持っていたのだろう。
そしてそれが、結果的にうまく作用したんだと思う。
非常識人が天才とも近代人とも限らないが。
ただ、あるタイミングで現れて、それが新しい流れを作ってしまい、その要素が現代にまで継続することがあれば、「中世における近代的な要素」と「現代人」が認識するのだと思う。
354 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 04:19:04
1980.4.2〜81.4.1生まれ
松坂大輔、キングコング、優香、朝青龍、チェ・ホンマン
1981.4.2〜82.4.1生まれ
滝沢秀明、今井翼、安達祐実、内山信二、ブリトニー・スピアーズ
1982.4.2〜83.4.1生まれ
宇多田ヒカル、倖田來未、オリエンタルラジオ、ザ・たっち
中島美嘉、三船美佳、椎名法子、北島康介、琴欧州
酒鬼薔薇聖斗(少年A)、イアン・ソープ、ウイリアム王子
1983.4.2〜84.4.1生まれ
上田竜也(KAT−TUN)、中丸雄一(KAT−TUN)、風間俊介、ベッキー
オレンジレンジ、土屋アンナ、寺原隼人、ヨンネ・アーロン(ネガティヴ)
1984.4.2〜85.4.1生まれ
速水もこみち、赤西仁(KAT−TUN)、えなりかずき、若槻千夏、石川利華
アヴリル・ラヴィーン、タトゥー
1985.4.2〜86.4.1生まれ
亀梨和也(KAT−TUN)、田中聖(KAT−TUN)、田口淳之介(KAT−TUN)
山下智久(NEWS)、上戸彩、斉藤祥太、斉藤慶太、ウエンツ瑛士、小池徹平
後藤真希、りあるキッズ、三倉マナカナ、大沢あかね、宮里藍
1986.4.2〜87.4.1生まれ
亀田興毅、井上真央、松浦亜弥、BoA、YUI、石原さとみ、沢尻エリカ
ダルビッシュ、フェリックス・ヘルナンデス(シアトルマリナーズ)
オルセン姉妹、リア・ディゾン
1988.4.2〜89.4.1生まれ
斉藤佑樹(ハンカチ王子)、田中将大、亀田大毅、福原愛
森本貴幸(サッカー)、山田弘喜(ヤクルト)
355 :
秀吉て、信長が死んでから織田一族に酷くねえ?:2007/04/24(火) 02:03:50
信長の息子たちを破局に追い込み織田一門の女子を抱いて最悪。
淀の方、(信長の五女)三の丸殿、(信包の娘)姫路殿、(蒲生家に嫁いだ)冬姫
男は信雄(改易)ほかにも・・・・ひどいね
家康にカマほられて当然だべ
356 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 04:35:58
むしろ率先して・・・
357 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 19:47:51
織田一門の娘を側室にしたのは、サルの単なるスケベ心というより、
旧主家を保護する意味合いもあったのでは?
ほったらかしといたら没落する一方だが、関白殿下の側室ということにしとけば、そ
それ相応の名誉も生活も保障されるわけで、一生食うに困らないしな。
実際、当時としては老人の秀吉がすべての側室と頻繁に交接してたとは思えない。
面倒をみるための口実として側室にしたわけで、最低一回は同衾したろうが、
あとは淀殿以外は儀礼的なつきあいだったんじゃないのかね。
一族の誰かに土地を与えるなり、化粧領あげればいいだろう
仏門入って、寺領付与でもいいわけだし
359 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 18:46:31
尼になるより、俗世間で着飾って贅沢したいのが女心。
秀吉は主家の女性を救済してやったと言える。
長嶋茂雄がタイムスリップして天下鳥
家臣「お屋形さま、お屋形さま!敵が外に・・・一茂様の謀反です」
茂雄「是非も無し・・・」
362 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 20:54:07
秀吉の側室だった前田家の摩阿姫は、醍醐の花見のあと(秀吉が死ぬ寸前)、
秀吉の許可を得て、公家に嫁いでいるね。
主家の姫を庇護する親心なら、親子ほど年の離れた姫君たちを、
自分の養子にでも嫁がせる親心を見せたらよかったのでは?
秀吉が死んでも帰る実家のある摩阿姫と違って、ほかは身よりのない姫君が多かったのだから。
363 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 07:43:01
秀吉の側室集めは、旧主家の織田家など名家の未亡人や姫の救済、生活援助としての側面もある。
苦労人だけあって何気にいいヤツだな。
364 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 08:46:23
戦国大名が滅ぼした大名の妻や娘、姉妹を引き取るのは、秀吉に限らない。
武田信玄が、滅ぼした訪頼重の娘を側室にしているし、
徳川家康も夫を戦死させた家臣の妻を次々と引き取って側室にしている(家康は後家好みの説有り)。
そういえば、戦国時代の女性は、再婚、再々婚が非常に多い。
お市の方(織田信長妹) 2回(1度目 浅井長政 2度目 柴田勝家)
お江与の方(お市の娘) 3回(1度目 佐治一成 2度目 豊臣秀勝 3度目 江戸幕府2代将軍徳川秀忠)
京極竜子(京極高次妹) 2回(1度目 武田元明 2度目 豊臣秀吉)
千姫(将軍秀忠長女) 2回(1度目 豊臣秀頼 2度目 本多忠刻)
徳川家康の生母お大の方も2回、祖母も3回結婚している。
戦国の女性は、庇護してくれる男を次々と乗り換えて、生き延びたわけだ。
365 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 19:07:39
日本男性と生まれ来て衆道の嗜みも無き者は
出来損ないの変態でしかないだろう。
366 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 19:39:07
時代違い
367 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 11:14:51
徳川の家臣団はまじで結束固くてカッコいいな。
それだけ家康に魅力があったという事だろうね。
368 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 15:03:26
>>367 大久保忠教(彦左衛門)の「三河物語」には、その辺の虚実が書いてあるよ。
>>357 つまみ食いが一番うらやま、じゃなくて性質悪いだろ
石川とか水野とか
>>367 良くも悪くも典型的な日本の田舎社会だからな
結束は堅いけど、集団からはじき出された時のイジメも凄まじい。
秀吉に精子があれば歴史が変わってただろうな
373 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 16:40:57
3人の甥の出来がアレだったから、実子がいても似たりよったりかと・・・
374 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 17:07:31
お飾りでもいい、秀吉が死ぬときに成人した男子があれば、
家康も迂闊なことはできんかったかもしれんな・・・
幼主秀頼すら、二十年近く生かしておいたわけだし。
375 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 18:13:50
>>374 その息子が信雄タイプか信孝タイプかによるな
実は最初に一向一揆と揉めたのは家康じゃないか?
三河一向一揆は1564年 伊勢長島一向一揆は1570年
皆信長が始めに一向一揆と対立したと信じているけど
本当は家康じゃない?
377 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 02:05:26
信長がはじめに一向一揆と対立したと信じてるやつなんかいない。
朝倉さんとか越後の童貞の親父さんもやってなかったか
細川も
歴史読本の今月号にまた
「信康切腹は信長の命令」なんて一昔前の通説が書いてある。
大体そんなこと、信長公記にも書かれていないし、
後世の徳川方から出た話でしかないのにな。
桶狭間の奇襲、長篠の3段撃ちと並ぶ信長に関する通説の
誤りの一つだな。
家康主導説は2chだけの通説だろ
六本木ヒルズで開催されている「大徳川展」に行かれた方いますか?
初花の茶入れも展示されてるらしいです。
名古屋でやってくれないかな・・・
総合的に見たら一番殺した人数が多いのが信長より家康じゃねー
一番三傑のなかで戦争した回数多いし織田豊臣家臣時代もいっぱい戦争してるし!
また家康が天下取ったわけじゃないし 実際天下を治めたのは豊臣だし
なんかどっかのスレで徳川が天下を治めたとか書いてあったが
秀吉が治めた天下をただこの男乗っ取っただけだろ
関が原は秀吉の急死と朝鮮出兵失敗と秀吉の各大名に対する改昜
があったから秀吉に反感持つ人間がいっぱいいただけで
勝てて当然の争いじゃない!
385 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 17:48:36
結果見て勝てて当然じゃないってwww
>>381 信康切腹命令説は家康主導はあきらか。
信長が信康の切腹を命令する根拠はない。
387 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 06:43:51
酒井忠次らの三河派重臣は信康と築山殿を排除したかったんじゃね?
家康が主導したって文献でもあるのかよ
ないなら「家康が主導した可能性もなくはない」程度にしとけ
だよな 織田厨はなんでも言い訳するから困る
なんだかんだで家康が一番嫌われ者だろ
家康なんか信長と同盟くまなかったら、とっくに武田にやられていたさ。
なのに信長に、自分の妻子の処分の罪おっかぶせて、恥ずかしくないのかよ。
結局、家康は信長の天才性がうらやましかっただけじゃないのか。
サリエリがモーツァルトに嫉妬したのと同じように。
「神よ。なぜ私にこの才能を与えてくれなかったのですか・・・なぜ
あいつに与えたのですか・・・」
>>388 徳川関係についてはかなり信憑性の高い史料である「当代記」は、
家康から相談を受けた信長が「家康存分次第」と答えただけだったと
する。
これは谷口克広によって紹介されたもので最近は小和田哲男も
賛意を示している。
一方従来の通説は徳川方の「三河物語」から出たもので、同書は
家康が人質時代どれくらい苦労したかをかなり誇張して書いたり
徳川贔屓は明らか。
もちろん「信長公記」にも信長が信康の切腹を命じたなんて話は
ない。
393 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 13:03:20
さっそく織田厨がわいてるな
>>386 あきらか?
あきらかにしてみてから吠えんかいコラ
反論できなくなると「織田厨」か。
自分が厨なことを認めてるようなものだな。
大体従来の説に固執してるヤシこそ史料的根拠は何?と
問いたい。
五徳の書いた12ヶ条とやらの内容すら明らかではないし
従来の説では信長に呼ばれてまったく申し開きをしなかった
酒井忠次がその後も重臣として重きをなしている理由が
説明できない。大久保彦左衛門の「三河物語」では皆が忠次を
憎んだとして彼を悪者にしてるのに何故・・・
その上岡崎衆が隠遁、左遷、蓄電などして潰滅状態になった
ことの説明も付かない。信長が信康の近臣まで処分せよなどとは
命じていないはずだが。
397 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 01:42:00
391が読んでるこっちが恥ずかしくなるほど痛すぎる件。
399 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 21:51:38
>>結局、家康は信長の天才性がうらやましかっただけじゃないのか。
>>サリエリがモーツァルトに嫉妬したのと同じように。
>>「神よ。なぜ私にこの才能を与えてくれなかったのですか・・・なぜ
>>あいつに与えたのですか・・・」
これを読んでも痛々しさを感じない
>>398の忍耐力は家康を超えた。
400 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 02:48:44
>>384 家康は無駄に民間人や非戦闘員を殺さない
「そこまでやる必要あるか?」というような逸脱した残酷さがない
民衆虐殺も主家討滅も現代人の俺にとっては比較できないぐらい逸脱した残酷さ
信長も秀吉も家康もみんな同類だよ
まあそりゃそうだな
まさに五十歩百歩
現代価値観で語るな素人どもめ
戦国の価値観で語るなら信長や秀吉のやってたこともそんなには非道くないんじゃねーの?
兵農分離がされてない頃に民間人や非戦闘員なんて概念ないだろ
家康自体織田政権下では全くうだつが上がらなかったらしいからなぁ
豊臣政権下では重用されたけど
>>407 信長の一重臣のレベルなんだから、委託業者と変わらん扱いだったとしても当然かと。
>>380 信長公記に信長の不名誉になるような記載がなくても当然
>>392 当代記は信長公記を底本として江戸時代に書かれたんだろ
底本に書いてないことがなぜ派生本に書いてあるんだ?
>>409 信長公記だけを定本にしたわけじゃないだろ
信長公記以外に何らかの史料なり口伝なりがあったんだろうな
当代記編纂の時代に信長の名誉を慮る必要はないんだし
ただ、
>信長公記に信長の不名誉になるような記載がなくても当然
これは全く同意
信長公記は確かに比較的信用性の高い史料だが、
安土城築城時の事故のことなど、恣意的に削除している内容もあると思われる
信長黒幕説を完全否定する根拠にまではならんよ
いや、信長が潰走したことも書いてるし、
ある程度の公平性が認められてるから、信長公記は信憑性が高いとされてるんだろ。
伊勢長島でのだまし討ちに近い一向一揆根切りも記してるんだし、
信長の不名誉なことは削除してるわけではない。
それに「謀反の疑いあり」ということで信康母子の死を命じたと
いうことなんだから何ら信長の不名誉には当たらない。
堂々と書いても何もおかしくない。
結構牛一って信長に対して辛辣なんだよな
安土城での事故のこととかは信長に気を使ったというよりは
他に書かなかった理由があったんじゃないかと思う
>>412 何ら信長の不名誉に当たらないなら、家康に責任転嫁する必要もなかっただろうにw
まあ事実を書く、と自分で先に言うような奴は怪しい
>>414 責任転嫁?誰が誰に?
信長が家康にか?そんな事実はなかろう。
江戸時代以来信長主犯説が通説とされてて
近年それに対して見直しの動きがあるんだろうよ。
仮に家康が主犯だったとすれば責任転嫁したのは
家康が信長にであって、その逆はない。
これまでの通説が正しいのなら、家康に責任転嫁してる
のは後世の学者等であって、信長ではない。
論理おかしいだろ
家康主導の場合=家康が信長に責任転嫁
信長主導の場合=家康に責任転嫁しているのは信長ではなく、学者
だから、信長生存中は家康が主犯か信長が主犯かなんてこと
論議されてもいないんだから信長が家康に責任転嫁しようもないだろ。
信長が家康に責任転嫁しようとしたというのは、
家康「信長殿のご命令で信康を殺しました」
信長「わしはそんなこと命じておらんぞ」
みたいなやりとりがあったってのか?
従来の通説がもし正しかったとしても信長が家康に
責任転嫁などしていない。
>>392 何故書いてあるんだ?と言われてもなあ。
実際に記載があるそうだから仕方がない。
そんなに疑うなら谷口氏に聞いてみてくれ。
しかしあんたはこれまでの通説を信じてるようだが
それに反する史料が出るとその存在を否定する。
これが正しいとは思えないがね。
普通ならその史料にそって通説を考え直そうと思う
んじゃないのか?
もしかして桶狭間の奇襲とか長篠の3段撃ちとか
未だに信じてるとかか?
家康主導説が広まってきたのは最近の信長人気の興隆と連動している。
ある学者が言うから正しいというようなものでもなく、
学者の説が受け入れられるかどうかは実際は多くの人の嗜好にかかっている。
時代の嗜好に合った説を提唱するのが有能な学者というもの。
最近の信長人気を考えれば家康主導説が広まってきたのは当然だし、
2chで家康主導説が根強いのも当然。
信長人気が高いのは最近のことではないと思うけど
それなりに根拠のある新説が出てくればそれに食いつく人間が多いのは当たり前
それが一過性のもので終わるか新しい定説となるかは今後の検証次第だな
家康主導説はもっと色んな方面から調べてみるべき価値のある説だと思うよ
個人的には、家康には信長に諛って嫡子を殺すような根性なしであってほしくはないな
>>420 信長にしても「桶狭間は偶然だった」って説が同時に広まってるし、
信長が人気だからだとかちょっと浅はかな発想じゃない?
従来の通説では理解できない点を挙げるとこんなところか。
・そもそも信長に他家の嫡男を殺せなどと命じることができたのか。
家臣ならいざ知らず。
・信長に対して申し開きをしなかった酒井忠次が何故その後も重臣として
徳川家にとどまっているのか。信康切腹の原因を作ったとされて追放
などされてもおかしくない。
・「松平家忠日記」にも、家康と信康の間が決して安穏でなかった様子が
記されている。家康は岡崎衆に誓紙まで取って信康と連絡することを
禁じている。
・信長が信康母子の処分を命じたという話は同時代の史料には見られず
徳川の天下になってから出始めている。これは神君とされた家康が
妻子殺しでは困るから「死人に口なし」をいいことに信長のせいに
してしまったと考えられる。
・命令するだけなら誰でもできる。相手が従うかどうかは別問題だが。
家康は従わざるを得ない立場だったということ。
・むしろ酒井のこの失策がなければ、関東移封時の冷遇が説明つかない。
この程度のことで追放したりしたら、家臣に殺された信長と同じレベル。
懐深いのが家康の家康たる所以だろ。
信長が家康に命令する理由がないだろ。
武田に内通というのもつくり話だし、信康の家臣と家康の家臣の対立だろ。
しかも信康死後、実家に帰った徳姫に対して、家康は生涯化粧料を払いつづ
けている。そのことからも信長には全く無関係であるということがわかる。
また、本当に信長の命令なら、信長の死後にでも家康が妻子の供養をしても
いいと思うが全くしていないところを見ると、家康の意思で抹殺したのはあき
らか。
>武田に内通というのもつくり話だし
あんたのつくり話じゃないの?
427 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 23:07:43
>>425 多分Wikipediaに感化されたお人なんでしょ
家康ってそもそも子供に対して妙に厳しいっつーか、冷たくね?
それなりの逸話もあるし、妙にってほどの印象ではないな
種無しの秀吉と比べれば一人一人への愛着は薄いんだろうが
>>425 家臣の対立があったとしても、酒井をほっとくくらいだから
家康にとって積極的に嫡男を殺す理由にはならないだろうな。
すぐ殺すという発想は信長と信長信者の発想だろ。
家康にとって信長はあまり触れたくない過去。
酒井に愚痴をこぼす程度で、盛大な供養もやらない。
徳姫には捨扶持与えておくのが一番波風立てないやり方。
431 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 01:50:08
殺された理由がハッキリしないから、
犯人もハッキリしない
>>430 >家臣の対立があったとしても
これは新説。
>酒井をほっとく
これは従来の通説。
2つを都合よくごっちゃにするなよ。
[家忠日記]を読むと、家康と信長の仲が非常にうまくいっていたことが
わかる。
毛利討伐にも信長に頼まれて出陣する予定でいたという。
また本能寺後も、光秀軍を討つために途中まで兵を出している。
自分の妻子を殺されたのに、供養もしないのは普通はありえないのでは?
信長死後なら、どんな盛大な供養をしても誰も反対するものもいなかったろうに。
>>430はなんで都合よく解釈してんだ?
しかも弁解しなかった酒井忠次を、重用し続けたことの理由になってないが。
信長に家康の妻子を殺す理由がそもそもあったのか?
信長主導を押すやつはその辺り、根拠のある説明ができるのか?
単なる思い込みの妄想はなしだぞ。
ま、通説を押してるヤシはその根拠が「三河物語」だって
ことも知らないんだろうな。
この本は人質時代の家康と家臣がどんなに辛い目に合ったかを
書いてるが、近年それはとんでもない言いがかりであると
されている。その訳は恩のある今川氏を滅ぼした家康を弁護するため。
信康事件もこれと同種の話と考えてよい。
信康事件の信長主導説は、近世では高柳光寿が発端じゃないかな?
根拠もなく、信忠無能、信康有能で信長主導といったのが
そのまま流布したんだと思われる。
高柳氏に反論するなんて、当時は自殺行為だったし。
436 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 09:41:41
信康切腹の黒幕が、父家康家臣団との対立にあったとしても、
その母の築山殿までがまき沿いくうのは災難だったわな。
当時、家康は次男結城秀康を出生を疑って冷遇していたし、
のちに家督を継ぐ秀忠は生まれたばかりの新生児、
夭折せずに育つか、育っても馬鹿かもしれんし、
どうなるかわからなかったからな。
新説を唱えてる谷口克広は、岡崎衆が信康をかついで
クーデターを企てており、築山殿のその企てに加わったと
している。
これが正しければ築山殿成敗も理由のないことではないが。
元今川一門の姫が武田がごとき野盗と共謀するとは憐れよのう
439 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 14:03:36
夫家康を殺して(隠居させて)息子信康に実権を握らせる
そのためならば、どんな協力者とも手を握る
今の感覚なら不思議ではない
>>436 信康事件の真相は上にあるクーデター計画の他に
信康があまりに粗暴で、家臣団から除かれたという
見方もある。
これなら後の秀忠(さらにはその後の子たち)がどうあろうと、
信康に家督を継がせるわけにはいかなかったことになる。
>>419君は凄いな。
>>392氏は、419君の「もしかして桶狭間の奇襲とか長篠の3段撃ちとか未だに信じてるとかか?」
と同じように、「信康自刃への信長関与」と言う定説に疑義を示しているだけだと思うのだが。
長篠三段撃への定説への疑義と、信康自刃への信長関与の疑問は同じ物でしょ。
反論があるのなら資料を引用しながらでも、変な煽り入れないで反論すればよろしい。
てか、419君は392氏が信長への愛情から自分に反論していると思い込んでいるのだろうか?
392氏の文章には別に信長への愛情(笑)は感じないし、愛憎で歴史を語りたいなら三戦板の方が良くないかい?
少なくとも「○○への愛情(憎しみ)はないのか!」的な議論は不毛。
>>437 クーデターなんて明らかに家康主導にもっていくためのこじつけだろ。
家康ほどの器量人を倒して担ぎたくなる信康はどんだけの器なんだ?
大体、家康主導説では信康は家臣の信頼が有ったのか無かったのかどっちなんだ?
信頼無ければ家臣が担ぐわけないし、
家臣の信頼が得られるほど有能だったら
通説で言われるように信長は信忠の将来のために殺しておきたくなるだろう。
この事件は信長信者の気分を害するので家康主導にもっていきたくなるんだろうが、
どう見ても信長の命令だろうな。
たとえ家康信康父子の仲が険悪になっていて、
家臣同士にも抜き差しならない対立があったと仮定しても、
家康なら築山殿までは殺さない。
築山殿も一緒に殺されたということは、
通説の言うように武田内通の名目で処分されたことを意味する。
酒井陰謀説でも酒井自身には築山殿を殺す積極的な理由はない。
築山殿を殺す理由があるのは武田内通を工作していると判断された場合のみで、
それを咎めて処刑を命令できるのは信長のみ。
信長信者とかレッテル張りをする前に
信長の命令という史料的根拠を示してみろよ。
ただし「三河物語」以外でな。
信康に人望があったかなかったか?と聞かれてもな。
分からないから両説あるんだろうが。
信康をかついでのクーデターと信康が家臣団によって
除かれたの両説。
2つの見方があるから成り立たないって、それってどういう
歴史学なんだ?
歴史上2つ以上の見解が対立してる謎なんかいくらもあるだろ。
>>442 >どう見ても
こう言い切れる自信(?)はどこからくるんだ?
新説派は「当代記」「松平家忠日記」など根拠を
示してるのに対し旧説信奉派はこんなことを言うばかり。
信康が優秀なら信長が信忠の将来を思って殺したくなるだろう
って、そもそも自分が優秀なのかどっちなんだ?と言ってる
だろが。優秀と決め付けて話を進めるのは何が何でも信長に
結びつけたいとしか思えんが。
取り合えず従来の通説派は
>>423の下2つについて
説得力のある見解を示してくれ。
都合の悪いことはスルーして通説に沿った壊れた
テープレコーダーのような説明はもういい。
新説は別に不審なところはないと思うがね。特に
同時代の史料がないのは通説派には説明の付かないこと
のはず。
446 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 19:59:13
晩年の家康は信長のことについては
あまり語らなかったという。
>442
信長に、同盟者家康に対して築山殿殺害を命じる力があったというのがわからんのだが。
築山殿が、信長の人質として信長の手元にあったというのならばともかく、
他国にいる他大名の妻に死を命じるなど、信長はおろか、ほかのどの大名もやったことがない。
築山殿が武田に通じたというのならば、信長は、むしろ、まずその夫家康を疑っただろう。
築山殿殺害の命令を出すのは、築山殿を手元に置く夫家康でしかありえない。
>信長は信忠の将来のために殺しておきたくなるだろう。
ってなんで、信康が優秀なら信長がころさないといけないんだ?
信長は謀叛を起こした連中でも、許して取り立てて使ってる。
優秀だからと信長がいつ、誰を殺せと命じた例があるというんだ!!
>>448 その説は、
>>435でも書いたが高柳氏が言い出しっぺ。
かな〜り昔の、それも信長の事を論じている話しの中で出てきた訳ではない説。
信長はむしろ才気ある若者は大好きなんだけどな。
大体、信行の息子の信澄を重用してる時点で、あれは身内に甘い人間なんだよ
信康が言われるように信忠をしのぐ(って、当時の信忠の年齢を考えればアホみたいな評だが)才気を信康が持ってたら
岳父として多いに愛でたと思うんだけど。
信康暴君説も、いかにも暴君のテンプレなんで、これも誇張されて残った話だろう。
誰が誇張したかといえば、家康だろう。単純に家康からみて信康は政敵だった。
家康と信康は歳も近い上、隣接する武田で息子が謀反未遂起こしてるから、家康は怖くなったんだろう。
優秀な信康を怖れて信長が殺させたというのは
武田氏を滅ぼすなど信忠無能説が否定された今
最早成り立たない説だな。
そういえば新説派は通説をよく知った上でそのおかしな点を
認識して新説を支持してると思うのだが、通説派は新説の概要も
よく知らないまま批判してるようだ。
だから関連本をここに紹介しておく。
谷口克広「目からウロコの戦国時代」(PHP文庫)
研究者としては初めて通説に疑問を投げかけたと思われる書。
岡崎衆によるクーデターを想定している。
「深説戦国の謎100」(リイド文庫)
信康の死後、岡崎衆が隠遁、左遷、不自然死などしてることを
挙げ、通説に疑問を呈している。
この他、小和田哲男は最近出た文庫本(タイトル失念)の中で、
当代記の記事によって家康の意思であったことが明らかになったとし
真相は信康の無能ぶりが家臣団によって訴えられ信康が処分されたと
いう見解を示している。
通説派はこれらの本を読んだ上で反論があったらどうぞ。
>>446 通説派は妻子を殺された恨みがあって語らなかったということに
なりそうだが新説ではむしろ、妻子殺しを信長に押し付けた後ろめたさ
があって語らなかったとなる。
453 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 22:51:06
>>447 正確には家康は浜松、築山殿、信康・五徳夫妻は岡崎だけどね。
近年の説ではそのため岡崎衆と浜松衆の間に溝ができ、一触即発の
状況になって信康事件になったという。
特に家康と築山殿の別居はその始まりと言っていいのでは。
>>451 小和田氏の文庫新作は
「戦国時代は裏から読むとおもしろい!」(青春文庫)
>>453 「三河物語」が出たのは家康の死後だっけ?
だが前の話は通説派が言いそうな話だよな。
ま、信康殺しが信長の命でなかったとしても家康は横暴な
信長にいろいろ苦労させられたのは事実だろうから思い出したくない
というのも分かる。
>>451に追加。
鈴木眞哉「戦国時代の大誤解」(PHP新書)
谷口説を一般向けに分かりやすく紹介している。
鈴木の名前を出すと過剰反応するヤシがいそうだがあえて。
>>457 日本刀は万邦無比の神器。それが認識できない人が唱えるような妄説は世間からは認められないでしょ。
アイタタタ
460 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 21:56:38
新説派は三河物語を頭から否定する割に何も知らないんだな
気に入らないことが書いてあるからどうでもいいのかもね
>>458 あんた日本刀で斬られたことあるの?
斬られてみてから発言してほしいが。
ただし甲冑を着てな。
>>458 過剰反応と思ってたらさっそく釣れた。
妄説とか言ってるってことは読んでるんだろ?
勧める通り読んでみろよ。
で、通説派の史料的根拠マダー。
これ以上は鈴木・藤本スレでやるべきだが
鈴木は220点もの史料から負傷者の原因を拾い出して
結論を出している。
これに対して反対派は始めに結論ありき。
ケチを付けてるヤツは自分でちゃんと調べて
「日本刀万能論」を証明してみろ。
ケチを付けてるのは多分時代劇の見過ぎだろう。
何で今さらそんなサイトを・・・
そんなサイト見る気にもならんが「三河物語」の
信憑性が高いなんて・・・悪い冗談か?
すると家康が人質時代今川に散々いたぶられたってのも
本当ってか・・・
通説派ってこんなヤツばかりなのか?お粗末。
468 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 09:04:09
公開されていない資料とかありそうな気がする
>>家康が人質時代今川に散々いたぶられたってのも本当ってか・・・
これは絶対嘘だと思う。
今川家は落ちぶれ果てたのちに高家として取り立てられるなど家康から救いの手を
差し伸ばしてもらっているけど、嫡流で生き延びたている。
戦国時代の徳川と敵対関係にあった有力大名が嫡流での存続を認められるのは本当に珍しい。
一説によると義元の経済政策をモデルにしていたという。
戦後時代だから、離反や裏切りは正当化されたものだし、今川を見限ったのは
恨みばかりからではないはず。家康が今川家をそうやって庇護しているのだから、
そんなに悪感情はなかったとしか思えない。
いたぶられたというんじゃなくて、人質だからそれなりに辛い思いしたという話だろ
家康自身よりは家臣のほうが辛い思いしてるが、家臣の思いを家康に投影してるだけ
家康自身は義元よりも信長のほうでいろいろ辛い思いしただろう
だから、それは妻子を殺さざるを得なかったという
通説を信じての話だろ?確たる根拠はない。
一方人質時代辛い思いをしたというのも同じ
「三河物語」が出典。
片方は信じて何故もう片方は退けるんだ?
根拠あるけどな
何度か出てきているが、家康は義元のことはよく話に出したが
信長については口を閉ざしたという話
信長のことは思い出したくないんだろ
>>470 毛利隆元、宇喜多泳いで参った秀家、上杉影虎(北条氏政弟)
別に粗略に扱われて無い
家臣も岡崎城の奉行だったか城代だったかを任されてるし、家康個人にも三河のどこだったかを知行としてもらってる
当時の状況鑑みても松平の協力無いと西三河統治がスムーズに行かない
いい証拠に元康名義での安堵状だったかをわざわざ催促されるぐらい
単純に人質=可哀想とかいう思い込みでレスしてるんだろ?
家康はかなり期待されてたんだろうなあとは思う
後ろ盾は重臣・関口家で、しかも築山殿は義元にとっては姪っ子
準一族待遇と言っていいんじゃないか?
>>473 そっちこそ「三河物語」読まずにレスしてるだろ?
「竹千代様は駿府に7歳から19歳まで住んでおられたが、
その気遣いといったら言葉に表すこともできないほどだった。
例えば鷹を飛ばす時でさえも、いちいち周りに気遣いを
なされたほどだった」
「今川殿からは扶持を宛がわれるだけで、三河からの収入などは
すべて今川殿が横領してしまった。竹千代様に仕えていた譜代の
家臣たちは、十年以上も扶持さえもらえなかった」
「今川殿も、竹千代殿の譜代の者を殺し尽くしたならば、竹千代
殿を岡崎に戻す必要はなくなると思ったのか、あちこちの戦いで
譜代衆に先駆けをさせて、大勢の者を殺した」
このような記述を谷口克広は領地を横領した、主従ともども
いたぶったと評している。
また三河物語ばかりでなく、江戸時代に編纂された徳川氏の
創業記には、必ず今川義元は家康主従に苦労をさせた悪役として
登場しているのだが?
>>472 >信長のことは思い出したくない
だからって信康母子が信長の命令で殺されたとは断定できない
だろ。他に理由があったとも考えられる。
なんで通説派はこう自分に都合よく短絡するんだ?
また家康が義元のことは語ったというが、臣下が編纂した徳川氏の
創業記には義元は必ず悪役として登場しているのだが?
信長に対して何か言ったら政治問題に発展しかねないんじゃないの?
一部認めたくない者もいるようだが
徳川氏の創業記には今川義元は人質時代の家康主従に
さんざんな苦労をかけた悪役として描かれている。
そのわけは恩義を忘れ今川領の駿河を奪い取った家康を
弁護するため。
同じ徳川氏創業記を根拠とした信康母子を信長が殺させたと
いう説もこれと同類と考えられるのではないか?
もちろん家康主導説はこれだけを根拠としてるわけではない
ことも忘れるべきではない。
人質の立場の他家の嫡子に一族の姫を娶らせるのは政略結婚ではよくある話。
蒲生氏郷と信長息女の冬姫なんかもそう。
この場合は信長が氏郷の幼少期からその秀でた器を見抜いて娘をくれた、
なんてなってるけど、ようは家康の場合と一緒で、姻戚関係にして
裏切れないように支配下におく目的だったということ。
人質といっても他家の嫡男をお預かりしているのだから、丁重に扱うのが
慣習だったし、実際そうしてたろうさ。基本的人質は和睦の証でもあるのだから
そ慮悪に扱って両家に波風が起きたら意味のないこと。
今川を裏切った、築山殿をああいう形で追いやったことへの言い訳の材料として
今川の家康いじめをでっちあげたと解釈するのが一番自然だ。
>>475 そんな扱いの人間に重鎮の娘嫁がせて後ろ盾にしてやったりするわけないよなw
ソースは知らないけど、太原雪斎を教育係に憑けてやったりもしたって話もなかったっけ?
両親亡くして名ばかりの松平当主だった子供に対しては破格の待遇としか言えない
つーか、ここまでするメリットが正直あったのか?ってぐらいの扱いだ
>>475 徳川家臣の人質時代の苦労話にいかほどの信憑性があるというのか
>「今川殿からは扶持を宛がわれるだけで、三河からの収入などは
>すべて今川殿が横領してしまった。竹千代様に仕えていた譜代の
>家臣たちは、十年以上も扶持さえもらえなかった」
名主得分収取権も公方年貢徴収権も今川氏から認められております
今川がこれら権利を奪ったと言うことはありません
>「今川殿も、竹千代殿の譜代の者を殺し尽くしたならば、竹千代
>殿を岡崎に戻す必要はなくなると思ったのか、あちこちの戦いで
>譜代衆に先駆けをさせて、大勢の者を殺した」
大変な名誉じゃん
つか西三河は松平領で松平配下のもの使うのが変なことか?
>このような記述を谷口克広は領地を横領した、主従ともども
>いたぶったと評している。
領地横領してないし、いたぶったとも考えられんし、むしろ三河大浜郷に竹千代名義で与えられてる
今川支配下でありながら、松平に安堵状を求めたことから考えても松平の三河での政治的な影響力は大きい
そんな存在を粗略に扱って、仮に元信が反乱起こしたら三河は再び泥沼になるぞ
>また三河物語ばかりでなく、江戸時代に編纂された徳川氏の
>創業記には、必ず今川義元は家康主従に苦労をさせた悪役として
>登場しているのだが?
いるのだが?と言われてもな
豊臣秀吉は皇族の落胤とか、太陽の子供とかいってたが、真実なのか?
そりゃ知らなかった
>>481 >>475はそれらの話が真実であるなどとは一言も
言っていないが?
>>478と同じように家康を弁護するためのでっち上げに
近い話だろうということだ。
つーか、引用元の谷口克広にしてからがそういう見方なのだが。
>>482 なら
>>473へのレスとして不適当じゃん
どこにもでっちあげとか怪しいとかも書いて無いし
苦しくなったからと無理やり自分のレスを曲解して反論もどきするのはやめときな
484 :
475:2007/06/24(日) 13:33:01
確かに
>>473へのレスとしては不適当だったな。
>>473の下1行が「三河物語」などを読んでないものと
早合点した。
人質が可哀相じゃないとすれば各種の徳川氏の創業記が
書いてることは信じられないとなってオレと意見は
違わないものな。
謝る。
「三河物語」は創作歴史小説。
「功名が辻」みたいなもんだから。
>>476 >>信長のことは思い出したくない
>だからって信康母子が信長の命令で殺されたとは断定できない
>だろ。他に理由があったとも考えられる。
信長に対する悪印象が信康切腹の一件が含まれていないとしたら
家康は普段からどんだけ酷い扱い受けていたんだよ
自分に都合よく解釈してるのは新説派だぞ
ちょっと待て
「口を閉ざした」がいつの間にか「思い出したくない」に摩り替わってるぞ
全然意味が違うじゃないか
俺は元ネタ知らんのだが、誰かソース教えてくれるか史料の原文なりうpしてくれぬか?
488 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 01:10:41
>>486 >>信長に対する悪印象が
口を閉ざした理由をなぜ悪印象からと断言できるんだ?
口を閉ざす理由はいろいろあるぞ
で、通説派は事件の真相、つまり信長が信康を殺す
理由をどう考えてるんだ?
信康が息子の信忠より優秀だから、は信忠がかなり
有能な武将だったと考えられるところから最早なし。
とすると武田氏に通じての謀反しか考えられないが、
この頃の武田氏の衰えは著しい。今更武田氏を
頼んだところで信長の天下を引っくり返せるものではない。
通説派は信康母子が武田と手を結べば織田の天下を
引っくり返せると思うのか答えてくれ。
>>487 >>476がレスした
>>472が思い出したくないと
口を閉ざしたの両方を言ってるから摩り替わった
わけではない。
ただ
>>486は相変わらず無茶苦茶だがな。
家康の「信長に対する悪印象」と言ってるが
ソースも明らかではないし。
信康切腹は信長の命令という通説を前提に
家康が信長を思い出したくなかったという話を
捏造(?)してると疑われても仕方があるまい。
どうして通説派はこうまで旧説にこだわるのか
理解に苦しむ。
>>486のような通説派はまさに「ああ言えばこう言う」だな。
家康が信長を思い出したくなかった、口を閉ざした
(これが事実かどうかも疑わしいが)に他にも理由があった
かも知れないと反論されると今度は「家康の信長に対する
悪印象」(これまた疑わしい)などと言い出す。
通説を支持したいならもう少し論理的にやったらどうか。
このところの通説派はどうも1人っぽいが
こうまでなりふり構わずはみっともないぞ。
戦国期は親子でも油断なら無い関係だったからな。
嫡男と決めていても、親の一存で廃嫡も出来たし、
子供も有力家臣を味方につけて(祭り上げられる場合もあったけど)
父親と反対勢力を一掃するなんてこともあった。
武田家、斉藤家、あたりがそう。
伊達家、織田家は弟が兄の廃嫡を狙った似たような兄弟間での争いがあった。
徳川家では家忠日記を見る限り親子、それぞれの家臣の対立
が顕著であることがわかるし、家忠も信康に組しないように
念書の提出を求められているというあたりから、家康が大変信康と岡崎派の動きを
気にしていた事がわかる。
ただ切腹までさせたのは、別の要因があったはずだとは思う。
親子間の諍いだけなら廃嫡にして追放すればいいだけのことだから。
家康暗殺を狙った事が露見したとか、あるいは武田と内通して家康を
裏切ったことが露見したとか、家康への重大な裏切り行為が発覚した
からじゃないか?
築山殿はそのことが原因で病死、あるいは自害したのを
母親に元凶があると見せる意図もあって切り殺された、なんていう
話を捏造したのだと思う。
いくら家康の命があっても家臣が正室を切り殺すなんていう前代未聞のことが
あるはずがない。築山殿を亡き者にしろという命があれば、一服盛るとか
いくらでも自然に闇に葬る方法はあったろうから。
信康室だった五徳は信康の法要を終えた後に、家康に見送られるように嫁ぎ先を
去っている。姫二人を残したのは同盟維持の証だろうから、
家康と織田家の不和はまったく見られない。五徳は後に
徳川から化粧料をもらっているし、五徳に悪感情はなかったようだ。
家康にしてみれば正室腹の嫡男というものにこだわらなければ、後継者
はいくらでもいたし、お家の安泰のためには信康の犠牲は仕方がなかったんだろうな。
通説派が繰り返している家康が信長のことを
語らなかったというのが事実としても
別に信康事件に結びつける必要はない。
この話が事実とする立場で挙げるとすれば
例えば信長との同盟が実は家康の方が従属的
で、姉川などの戦いに家康が駆り出されている
なんてのも理由になるだろう。
天下を取った家康にそのような過去があったことは
胸を張って言えることではないからな。
まして本能寺後没落して子孫が小大名として
生き残ってる程度の織田家に。
494 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 09:49:09
>492
家康やその家臣が築山殿を切り殺すはずがない、と肩を持っているようだが、
築山殿は斬り殺されていると思う。
徳川に有利なように改ざんされたのちの史書で、
家康に不名誉となる正室殺害を、わざわざ悪い風に書く必要性がない。
病死なら病死、自殺なら自殺と書くほうが、家康は悪者にならずに済む。
たぶん、築山殿が夫家康の下を去り、長男信康との同居を選んだ時点で、
家康の築山殿に対する不信感は決定的なものとなり、
家康の意思を汲み取った家臣が、信康の最大の支援者として斬り殺したのだと思う。
だから、殺したければもっと穏便な方法がいくらでもあるだろう、ということだよ。
戦でもないのに無抵抗な女性を切り殺すなんて、不名誉この上ない話だ。
息子を自刃させ、正室としての権勢をはぎとってしまえばいいだけのことだ。
実家もなく、息子もいなくなった築山殿をあえて殺す必用はまったくない。
本来なら実家に戻すか、寺にでも押し込めて蟄居させればいいだけのことだろ?
たぶん、徳川家内部で、築山殿が権力を持ちすぎたんじゃないかな?
後世、大阪城の事実上の女城主であった淀君が、
自刃以外、方法がなかったように。
なんの政治権力も持たないただの夫人であったならば、
邸ひとつ与えて住まわせるなりしていただろう。
信康一人いなくなっても、
築山殿は亀姫の母であり、二人の孫娘の祖母でもあるわけで、
正室の座を剥奪する必要性すらないのだが。
で、家康が後年義元や信長について語ったというエピソードのソースは?
>>496 築山殿が権力を持っていたとしたら家康正室、嫡男生母という立場上
周囲からそれなりに大事にされたというだけだろうな。
実家は没落してたし、今川は言うに及ばず、実家の後ろ盾を失った
女性は夫や息子にすがるしか生きる道はなかったろうから、
そんなにえばり腐っていたとも思えないんだけどね。
その肝心の息子が自刃となったら、もう権力の拠り所は夫だけになって
家康の機嫌を損なわないように正室の座をまっとうするしかないから、
どっちにしても築山殿が公に手を掛けられる理由ってないと思うんだ。
>>497 いやいや、信長については語らなかったと一部の者
(通説派?)が言っている。
さらにはこれよりエスカレートして家康が信長に
悪感情を持っていたなどとも言っている。
こちらについても是非ソースを。
>498
淀だって、実家を失っていたのに権力を握っていた。
織田信長の妻濃姫、豊臣秀吉の妻ねね、
実家が滅んだり、実家がそれほどの家柄ではなかったのに
まして実子を持たなかったのに、正室として権力を持っていた女性は居る。
実家云々は関係ないよ、
支持する家臣団があれば、武家の正室は大きな力を持つ。
築山殿は病死か自殺だった、という根拠が希薄だな。
家康におべっかつかってたから、殺されるはずはない、ってだけではな。
史料もないし、根拠も不自然。
権力と政治的影響力は別
>>500 淀殿が権力を持てたのは豊臣家嫡男生母だったからだよ。
築山殿と同じ立場だろ?
違うのは、秀頼には指示する家臣団が大勢いたこと。
だから御袋様である淀殿は権勢をもって君臨できた。
家臣団は生母につくのではなく、あくまで嫡男についているわけだから。
築山殿は信康死後は当然信康派の家臣団は解散。
家康の正室という立場以上でも以下でもなくなった。
築山殿自身の権力なんてあるはずがないだろ?
嫡子もいなくなった築山殿を担ぎ上げる理由はなんだ?
濃姫が権力を持っていたとすることを示す史料はどこにもないんが?
それゆえ相変わらず離縁説、死亡説が払拭できないぐらいなのに。
「居る」と言い切っているのなら、ソースを教えてくれ。
ねねはなぜ大阪城を出る羽目になったのだ?
いくら秀吉の意向があったとはいっても、形式的には嫡男の母はねねだ。
側室は借り腹なんだから、本来なら淀殿の立場にねねがいたはずだ。
そうでないのは、秀吉死後は生前のような権力をもてなかったということ、
それを指示する家臣団もつかなかったということだ。
病死か自殺は俺の推察だが、築山殿が殺害される理由はない、ということが
一番いいたかったこと。
逆に絶対殺害されたとする信憑性の高い一次史料ってあるのか?
>>494 家康を悪者にしたくないのであれば殺害したことにしたほうがいいように思う。
病死、特に自殺なら家康など、周りのの影響があったあったと邪推されかねない。
反対に殺害であれば、裏切り者を排除した、といえると思うのだがどうだろう。
秀吉は信長のコトを結構語ってるね
それは個人的な思慕もあるんだろうけど、大名に織田系列の人間が多かったコトと
自分の政権が信長の継承だというアピールが必要だったという面もあると思う。
家康の場合、なるべく豊臣政権とは断絶する形で自分の政権を樹立している。
関白ではなく征夷大将軍、畿内ではなく関東、
秀吉が大名を懐柔したのに対し、家康は威圧を加えてる。
ココにいたって、自分が織田家の方面司令よりちょい待遇いい程度の昔を語ると家康の重みが軽くなるんじゃない?
>>503 つか、そんなに周囲の目が気になるなら信康に腹を切らせることなかったのでは?
松平家にとって正室が死んだことなんかより、嫡男が腹を切らされたことのほうが
はるかに一大事だし、諸侯からもそっちのほうが注目されたろうさ。
築山殿のことは恨みだ、呪いだ、というそっち系で有名になったようなもんで、
基本的に死後も家康から捨て置かれた前妻じゃん。
>>502 築山殿は生前、何の権力もなかったと?
そっちのほうが不自然だろ。
いくら乱世とはいえ、正室が刺し殺されるなど前代未聞、
武田家ですら、嫡男は殺されたがその生母三条は殺されてなど居ない。
築山殿が病死なら、病死と書くべき。
家康の正室が殺害されたことは、
周辺諸国にもれ聞こえ、隠しようのない事実だったからのせたのだと思う。
>>506 君のいう権力とは正室としての立場の強さであり、嫡男生母としての
家臣からの丁重な扱いであり、政治的権力とはまったく別もんだよ。
築山殿に軍隊を指揮する権限があったのか?
嫁ぎ先の領地を家臣に与えるだけの権限があるのか?
そういう力もない築山殿になぜ従う家臣がいるんだ?
勘違いしているようだが、政治的な権力を持っていたのは築山殿ではなく
嫡男の信康だ。
この時代の武士たちは当主への忠誠心よりも家の存続のほうが大事だから、
寝返り、裏切りは当たり前。だから家康が岡崎衆を警戒していたんだろ?
逆に信康をつぶせば岡崎衆が家康に服従してくるのがわかっていたから
そうしたんだろ?
第一周辺諸国で築山殿が惨殺されたと詳細に示す史料でも残っているのか?
徳川家で作成した史料にしか残っているはずがないだろ?
そんな内内の事。
家康の家臣の家忠日記にも一言も書いてないぞ。
その頃の家忠の日記に築山殿のことが触れていたのはたった一回だ。
天正6年2月4日に家忠の元に築山殿から音信がきていたというところだけ。
築山殿がそんなに権力を持っていたら別の史料にももっとそのことを示す箇所が
あるはずだがな。
>>500なんか淀殿のイメージを歪曲して認識してない?
淀殿が豊臣の総大将じゃないよ。
関ヶ原の総大将は三成だよ。
大阪の陣の時は秀頼だよ。
淀殿は秀頼の後見人でもないよ。
ただの御袋様。
わかってる?
根本的な戦国大名と正室と側室と嫡男の定義。
築山殿が殺害される理由がないとのことだが
信康事件が家康主導であったとすれば
信康が処分された時点で築山殿も同様の運命を
たどらざるを得まい。
信康を岡崎衆がかついでクーデターを企んでいた
とする説では築山殿もその企てに加わったとしている。
また別の見方では信康が無能・暴虐なためにそれを
家臣団から訴えられ、廃嫡・処分されたという。
前者では岡崎衆解体のため築山殿も信康と共に
処分されるし、後者では当然母として信康の廃嫡に
反対するだろうから家康には邪魔者。
もちろん自殺か他殺かを示す1次史料などはないよ。
ないからこうして論議になってるわけで。
>>509 その母娘共謀のクーデター説を記している一次史料はあるのか?
三河物語以外のソースはどこ?
>>後者では当然母として信康の廃嫡に
反対するだろうから家康には邪魔者。
邪魔ものもなにも、家康への反逆が露見したら切腹ものというのは当然のこと。
正室が反対しようが遂行させる権限を家康は持ってたよ。
そもそも築山殿と信康は別居していたし、信康は家康への面会も拒絶され
最期は二股城に移され自刃。
築山殿が泣こうがわめこうがまったく圏外で全てが終わっていった。
もし築山殿に殺害しけおかなければまずいほどの権力があるというなら、
岡崎衆を結集させ何かしらの行動に移したんじゃないか?
でも築山殿も岡崎衆もな〜んにもしてない。
>>511 またまた通説派のお出ましか・・・
以下はあんたを通説派として話を進めさせてもらうが。
1次史料なんてないよ。第一2つの説があると言ってる
時点で状況証拠からの説になる。
新説派だってやみくもにその正しさを信じてるわけでは
ない。通説には納得しがたい点がありそれに「松平家忠日記」
などから考えるとこの方がはるかに妥当性があると考えられる
ということだ。
通説に怪しいとことがないのならこうして見直しの動きなど
出なかったはずだろう。
で、通説派はこうして新説にケチを付けてるが、
>>488,
>>489,
>>497などへの答はどうなってるんだ?
自分が信じる通説への疑問にはまったく触れないのに
新説のおかしな点(?)ばかり槍玉に挙げるのは
間違っていないか?
512 :
511:2007/06/26(火) 18:59:21
>>511-512 悪いが俺は新説派なのだが?
だからどこにも信長のことなどまったく触れていないだろ?
それを前提に築山殿を殺害する理由は家康にはなかったろう、
という検証なのだがね。
俺のスレをまともに読まずに勝手に言いがかりをつけられても迷惑だ。
そういう態度は派を問わず問題行動だと思うがな。
今月号の「歴史読本」の別冊は信長記の特集。
そこに興味深いことが書いてある。
牛一の「信長公記」にはいくつかの伝本があり
内容が少しずつ異なっている。
その内最も古い「安土日記」には、はっきりと
信康に逆心があり、そのため家康が彼を国端へ
追い出したとの記述がある。
ところが後の写本になると信康事件の記述そのもの
が消えてしまう。
これは天下を取った徳川家への配慮であるとされる。
これによって過去レスにあった「信長公記」に、信長が
信康母子の処分を命じたという話がないのは信長の不名誉
にあたるからという見方は全くの見当外れであることが分かる。
徳川氏に配慮するならむしろそう明記して
信康切腹は信長の命令で、家康は被害者ということにするはず
だからだ。
それがないのはそうした事実がなかったからだろう。
勿論根拠はこれだけではないが。
515 :
511:2007/06/26(火) 19:30:52
>>513 早合点したのは悪かった。
だが新説派なら2つの見方があることくらい
知ってるはずだと思うのだが。
前者は谷口克広、後者は小和田哲男の説。
1次史料がないのも言わずもがな。あればとっくに
論争が終わってるだろう。
それから築山殿が殺されざるを得なかったという点も
撤回するつもりはない。第一
>>510には築山殿にそんな
政治力があったなんて書いてないはずだが。
>>515 築山殿に関しては書いている通りだよ。
家忠日記をみても一目瞭然。
正室としての影響力は家臣にはなにも反映していないことは明らか。
そんな築山殿をわざわざ殺す理由はないだろ、とずっと論じているんだが。
家康が築山殿が疎ましかったら難癖つけてまた築山殿と別居すればいいだけのこと。
逆らったら離縁すればいいだけのこと。
そもそも帰る実家も、頼れる息子もいないのだから、家康に対してそんなに尊大な態度で
いられるわけもない。
それに正室だからとって嫁ぎ先の家臣を掌握する権勢を持っていたというのは
誤った認識。正室だから、嫡男の母だから家臣が敬っただけなのに
知行も与えられないものが家臣を掌握できるわけもない。
三河物語なんていう歴史小説をまともに信じている人がいるのがびっくりだよ。
三河物語云々は誰に向かって言ってるんだ?
三河物語はおれに言わせれば通説派のバイブルで、
家康主導説の者には歴史小説のようなもの。
従っておれは三河物語など信じていない。
泥試合のようなことはもう止めようや。
519 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 03:37:44
>>517 家康と築山殿は桶狭間以降は事実上の離婚だったんじゃないか?
>>519 離縁してないよ。別居生活もあったけどその後岡崎で同居してたじゃん。
築山殿が殺されたのは武田の間者と不倫したから。
築山殿が岡崎城に入ったのは、
家康が浜松に移って信康が岡崎城主になってからでは?
岡崎郊外の築山御殿に住んでたから、築山殿なんでしょ?
家康は築山殿と離縁はしていないし、
築山殿の存命中、築山殿はずっと正室だった。
息子の信康は永らく家康唯一の男子だったし、
(次男秀康は当初、家康が出生を疑って認知せず、
認知後、秀吉の養子に出してしまう。
三男秀忠が生まれるのは、信康切腹の数ヶ月前)
当然、松平家内部で尊重されていたはずだが。
築山殿という名の由来は家康が今川に反旗を翻したので、
家康の妻子が人質になってしまい、その後人質交換で無事手元に
引き取る事ができたけど、岡崎城に迎えられたのは子供達だけ。
築山殿は家康が信長をはばかっとか、於大の方の命令と
諸説あるけど、とにかく同居を許されず、築山領にある屋敷に住まわされたので
「築山殿」と呼ばれるようになったとされる。
>524
その「同居できなかった理由」というのが希薄なんだよなあ、
信長をはばかったというのならば、
信長の娘五徳が築山殿と岡崎城で同居する筈がない、
再婚して松平家を出た家康の母お大に築山殿を城に入れない権限があるはずもない。
築山殿は、夫家康の領内で屋敷を与えられていたからといって、
冷遇されなければならない理由が見当たらない。
息子や娘だけが岡崎城へ引き取られたといっても、
愛妾の西郷局の養子や養女になったわけでもなし、
母親の築山殿に会うのは自由だったろうし。
526 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 09:01:06
一緒にいられなくなった妻を、わざわざ岡崎に連れて来るのも変だよなぁ
>>525,526
だよねぇ。
そこらあたりのことが書いてある史料ってなに?
まさか三河物語??
引き取ってわざわざ別居するなら子供達だけ引き取って築山殿は離縁して
今川に返しちゃったんじゃない?
信長のことがどうたらというなら引き取る行為そのものが問題視されるはず。
引き取ったけど一緒に住んでいませんからで、申し開きがたつものかね?
築山殿の親は自殺したということだし、親に気兼ねなく家康の元に戻りたい
という築山殿の意思もあってのことじゃないかと思ってるんだけど。
当時の婚姻制度だと離縁となると、男子は嫁ぎ先に残していくという制度
だったようだから、信康を手放し難く家康の元に戻ったとも考えられるかもな。
それに後ろ盾になってくれる実家もないし、今川一族の中では
肩身の狭い思いをして生きていくなら、家康の元にいくしかない、という
状況だったのかもしれない。
>528
家康は築山殿と子供たちを取り返すのに、人質交換までしている。
527さんの言うとおり、それならば
家康ははじめから妻の引き取りを拒んでいたはず。
築山殿が、幽閉されてまで夫のもとへ戻りたかったはずもなし、
それくらいならば、両親と一緒に自害の道を選んだだろう。
あるいは、築山御殿で自害していたかも。
妻が敵方の武将の娘であることなど、戦国時代にはザラ。
築山殿だけが特別に冷遇される説明にならない。
当時の婚姻制度って今みたいに法制化にあったものじゃないから、
事態が収まるまで形式的な離縁という方法をとったのかもよ。
ガラシャなんて光秀謀反の直後に丹波味明智領に移送され、そこに
あった明智の屋敷に放置?されてる。形式的に細川家がガラシャを明智に返した、
離縁したという意思表示だろうな。
その後同じの丹波味の細川領に移され、晴れて正室復帰。
でも秀吉のOKがでるまで幽閉同然の別居生活。
この話は事実かどうかは確定できないけど、そういう説もあるそうだ。
家康と築山殿の別居の話が事実なら、形式的には離縁したよ、という
今川と織田への意思表示かもしれない。
嫡男生母だから嫡男の側には住んでますけど、という言い訳付きの。
531 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 10:11:40
>>530 ガラシャの場合は、天下の謀反人、主君殺しの明智光秀のまぎれもない実娘であったから、
世の冷たい視線に耐えかねての行動であったかもしれない。
しかし、築山殿は、信長に討たれた今川義元の実娘ではないし、
父母に主君殺しの汚名が着せられていたわけでもない。
桶狭間後も今川家は存続していた。
ガラシャの例を持ち出して、敵方の武将の娘は、みな、こんな悲惨な目にあったのですよ、
と説明されても、当てはまらないと思う。
ガラシャの例が特異だから。
>>530 築山屋敷は尼寺の領内にあったんだよな。
松平家の敷地には住まわせてませんから、ということで同じように形式離婚を
演じていたのだろうか?
家康の奥さんが今川関係者だということが、
織田との同盟を結ぶ際のネックになってたとは思えないんだが…
そんなに邪魔な相手ならサッサと離縁して、息子ではなく自分が織田系の人(お市とか)と再婚したほうがはるかにメリットがあると思うけど
たぶん、別居も離縁もしてなかったんだと思う。
でも築山殿には悪役になっていただかないといけないので、
築山殿とは円満な夫婦だとなると、母子殺しの正当性がなくなってしまうので、
なんとか夫婦仲が悪かった、家康はすでに別居中も通うことなく事実上
形骸化した夫婦だった、ということを印象付けようとしただけだでは?
築山殿の名称がもし当時の一史料の中から見つからないなら、
築山に住んでいたこと事態が事実かどうかも怪しくなって
後年その話が創造されてからの名前である可能性が大ということになる。
むしろ、築山殿が自分の意思で、夫家康との別居を選択したんじゃないかな?
夫家康の行動のせいで実両親が死ぬ羽目となり、
築山殿は家康の元へ戻っても心が晴れることがなかった、
そのため、家康が妻のために別の屋敷を用意したのでは?
それは、ときに両親を弔うための、尼寺の敷地であったかもしれない。
築山殿が本当に冷遇されていたのならば、
家康が岡崎城を出るとすぐに、入れ替わりのように嬉々として岡崎城へ入城したことの
示しがつかない。
岡崎城には、信康の妻五徳がいる、信長が本当に築山殿を隔てていたのならば、
まさか自分の娘の義母として同居することを許すはずがない。
築山御殿で一生を終えたはず。
>>535 築山殿は家康と一緒に浜松城に入ったんだよ。
信康夫婦とは同居してない。
>536
それでは、五徳の手紙は、捏造?
五徳の書いた12ヶ条なんて、新説では存在すら
疑われているよ。
手紙のことは「松平記」と「三河物語」に書いてあるな。
これは俺の推測なんだけど、徳姫と信康の不仲の件は家忠日記で家康が
わざわざ岡崎まで仲裁に来たと記されるぐらいだから、
不仲であった時期があったのは事実だったのだと思う。
家忠が知っていたぐらいだからそのことは家臣の間には広まっていたとも思われる。
「夫婦喧嘩をしていたぐらいだから、五徳が信康や姑の悪口を
信長に愚痴ったとしても不自然ではない」というところから創作された
話じゃないかと思う。もちろん信康自刃の理由を信長に押し付けるため。
家忠日記には同じ頃信長も岡崎に来てなかったか?
仲裁の為とは書いてなかったように思うが。
家忠日記には、築山殿が浜松城で家康と同居していた、
という記載はあるの?
>>540 天正7年6月5日に「家康浜松より信康御□□□の中なをしニ被越候〜」
とある。専門家は解読不明の文字□を「(御)新造様」として、
信康の室であった五徳と信康の夫婦仲のとりなしに家康がはるばるやってきた
と解釈している。
信長が岡崎(三河の吉野)に鷹狩に来たときたのは天正4年12月22日〜25日、
天正5年12月15日、天正6年正月18日〜22日と信長公記に記されている。
天正6年正月21日には家忠の日記にも「御家門様(信長)岡崎〜」とあり、
岡崎のあとが不詳になっているが、文脈から信長が岡崎にいらした、
と解釈され公記の箇所を証明している。
鷹狩とあるけど、一ヶ後にまた岡崎を訪れているあたりから
天正6年の頃には深刻な夫婦間の問題が起こっていたのかもしれないとは
推測できるかな。
>>541 家忠日記には岡崎城詰だった家忠の元に天正6年2月4日に
築山殿から手紙があったとあるので、築山殿が岡崎城に住んでいなかったのは
確かだな。
信長が娘夫婦を仲裁しないまでも心配して訪れていたとしたら
五徳の手紙で信康に腹を切らせるほど怒るわけないと思う。
とっくに夫婦仲が悪くなっていたのだから、愚痴の手紙を鵜呑みにするのも
変な話。修復不可能とみたら、同盟のこともあるので離縁は無理でも
別居させるなりを家康に命令したという程度なら理解できるけど。
第一信康に切腹させてしまったら肝心の同盟関係が消滅してしまう。
そうでなかったから、信長も姫二人を家康のもとに残すことを認めて、
家康もそれを受けて同盟関係維持をはかったのでは?
信長なら五徳がそんな手紙をよこしたら逆に諭すと思うな。
ねねが秀吉の女癖のことで信長に愚痴ったらねねにいい手紙
くれたじゃん。ああいう細やかな気配りも出来るんだから、感情赴くままに
家康に対して信康に切腹を迫るようなことをいうかな?
過去レスにもあったが、通説通り
もし信康母子の処分を信長が要求したとしても
家康がそれを呑むとは限らない。
なら信長は家康の離反に備えて尾張に大軍を
集結させておかなければならない。
だがそんな事実は全くない。
546 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 19:14:34
家忠日記には、信康が最後どうなったかは書いてないね。
岡崎城を出たところで消息が絶えてる。
いや、通説の信長主導説にせよ新説の家康主導説にせよ
信康が二股城で切腹させられたことは認めていいのではないか。
築山殿も通説では家康の命を受けた者に殺害されたことに
なってるがこれも特に疑う必要はないと思うがどうか。
信長信者は信長を表面的に美化する余り、信長の本質に迫れてないし、
信長の本当の魅力や凄みがわかっていないようだ。
信長を「気の良いおじさん」にしてしまって、何の魅力があるんだか。
家康の本質に迫れる人も別の意味で少ない。
3人の中では秀吉が一番わかりやすいだろうな。
信長の信長たる所以は、最短距離で全国制覇に突っ走ること。
細かいこと気にしていたら疾走が止まると感じていた。
途中で裏切られたりしたら運が悪かったと思ってあきらめる(是非もなし)
家康は信長の中に自分と正反対のものを感じていた。
語っても理解できる人は少ないし、
できれば自分とは無縁の存在としてほっときたかったということ。
小説にでもそう書いてあったのか?
>>548のような通説信者はスルーしてもよいが、
別に信長が気のいいおじさんだと思ってるわけではない。
信長の残虐行為とされてるものを挙げてやる。信康事件に
信長が無関係だったら「気のいいおじさん」になると
思ってるようだからな。
・弟信勝謀殺
・比叡山焼き討ち
・伊勢長島、越前での一向一揆根切り
・荒木村重一族の処刑
・留守中に外出した侍女の斬殺
・朝倉義景、浅井長政、同久政のハクダミ
・高野聖500人処刑、続いて高野山包囲
・武田攻めで一族を徹底的に殺害、快山国師焚殺
・・・まだ続けようか?
・
相変わらず通説信奉者は自らの一方的な感想を
披露するだけで、通説への疑問とされることには
全く答えないのだな。
ここ100レスくらいでも散々挙がってるのに
どこ吹く風。
何故なら答えられないから。
通説が正しいと思うのならその史料的根拠を
示した上、疑問とされることに明快に
答えてみろ。
553 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 21:22:46
>>551 お前の書き込みスルーされるような内容なんだがなw
全て理由あっての行動だし特に>>留守中に外出した侍女の斬殺は俗説だろ?
別に信長が「気のいいおじさんである」と肯定はしないが、
「気のよくないおじさんである」と断定もできない
そもそも「気のいいおじさん」ってなんだよww
>>551 >留守中に外出した侍女の斬殺
これ、殺されてないでしょ?
一緒に、同じ罰を受けたって僧侶の記録が
本能寺の変後まであるそうだから、同じ罰なら
殺されるまでしてないってことじゃない?
縛られて、罰を受けたとまではあるけど、
殺されたなんて、一言も書いてないし。
555 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 21:27:24
>>554 確か成敗って記述があって=斬殺ってしてるのだろうが、
これは間違った解釈で、当時の成敗は縄目を受けるって意味だそうだね
「気のいいおじさん」は
>>548が言い出したこと
なんじゃない?
自分で書いたことも忘れたか?
>>553 だからそういう枝葉末節の話はいいから
>>552に答えてみろよ。
侍女斬殺はあの谷口克広も「戦争の日本史・
信長の天下統一への道」で首を斬ったと書いてるが
間違いなの?
558 :
553:2007/06/27(水) 21:40:28
・弟信勝謀殺 →政宗も同様
・比叡山焼き討ち →細川家でも以前寺の焼き討ちはやってる
・伊勢長島、越前での一向一揆根切り →秀吉・徳川のキリシタン弾圧
・荒木村重一族の処刑 →秀吉の秀次妻子皆殺し
・留守中に外出した侍女の斬殺 →惨殺ではなく「縄をうたれただけ」
・朝倉義景、浅井長政、同久政のハクダミ →密教界では髑髏信仰が当たり前
・高野聖500人処刑、続いて高野山包囲 →島原城包囲、皆殺し
・武田攻めで一族を徹底的に殺害、快山国師焚殺 →武田家の次男の直系は高家で存続
ようするに信長が際立って残虐だったというわけではないな。
恵林寺を快山国師ごと焼いたのは信忠が総大将でやったことだ。
560 :
553:2007/06/27(水) 21:48:59
>>557 読んだことないから今度読んでみるよ
で谷口氏はどういった根拠から首を切ったと断言してるか教えてくれ
本に書いてあるから間違いなのか聞かれても困る
本に書いてある=正しいのか?
561 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 21:53:05
スマン文が少しおかしかったから訂正
×本に書いてあるから間違いなのか聞かれても困る
○本に書いてある事が間違いなのかry
>>559 信長が残虐でなかったという見解は分かったが
信康事件への見解は?
通説派なら
>>552に答えてみてくれ。
>>559が通説派とは限らないが
>>548,
>>553は
通説派の自作自演にしか見えない。
問題の本質には触れずに新説派への煽りしか能が
ないという点でな。
563 :
553:2007/06/27(水) 22:00:14
>>562 俺は新説派だし自作自演なんてしてないよ
俺から見たら一見したらコピペを貼り付けた様にも見える
>>551が煽りに見えたんだよ
マジメな話谷口氏の侍女斬殺説を興味があるから教えてくれ
もしかしたら侍女斬殺=俗説だと思ってた俺が間違ってたのかもしれないし
>>560 本に書いてあるから正しいなんてこと
著者ごとに意見が違うこともあるんだから
あるはずがない。
但し谷口氏は信長研究では一目置かれる存在であり
その著書にあることは基本的に嘘とは思わない。
基本的にというのは例えば「武功夜話」への評価などは
賛成できない。
565 :
553:2007/06/27(水) 22:07:27
>>564 だからどういう根拠で谷口氏が斬殺説を述べてるのか教えてくれ
みんな信長が大好きなんだな、いろんな意味で。俺もだけど。
彼についてifやguessを語るほど楽しい事はない
「信長の天下統一への道」・・・留守中に外出したというだけで、
侍女大勢の首を切ったこともあった。
「歴史群像シリーズ・激震織田信長」・・・竹生島に参詣に行った
留守中、勝手に外出したというだけで、大勢の女房衆を殺している。
いずれもこう記述があるだけ。
根拠を知りたければ谷口氏に聞くしかないだろうな。
この他、大河ドラマで唯一主人公だった緒形直人の「信長」でも
信長が怒りにまかせて侍女たちを斬ったと言っていた。
だからおれは史実だと思っていたけど。
別にドラマだけを根拠にはしてないだろ。
谷口氏の記述に加えてこういうのもあると言ってる。
第一、このドラマは従来の説通り信康切腹は信長の
圧力だとしてる。これは嘘だと思ってる。
ドラマ=史実でないなんて言われるまでもない。
また通説派の煽りか?
『改訂信長公記』の原文を読む限り「御成敗」としか書いておらず、
侍女が詣でていた桑実寺サイドにも僧侶も侍女も殺されたとする記録は残ってない。
成敗とは斬り捨てることなんかにも使うけど、もともとの意味は裁いて罪人なんかを
こらしめる、処罰することであって、御成敗=処刑、ではない。
原文に「御成敗」としかないのに、なぜこの認識がいまだに改められないのかが
不思議だよ。寺側だって否定しているというのに。
信長と家康の仲がうまくいっていたのを認めたくない人がいるようだが、
「家忠日記」では、武田攻めの労をねぎらうとかで、信長が家康を安土に
招待している。信長自ら家康の膳を据え、家康家臣には「こかし」という
お菓子を目の前で挽いてふるまったという。そのときの様子が家康からの
書状でわかったと書かれている。
信長がいかに家康を信頼していたかわかる。
また、信長は家康に帷子ニ着を贈ったと書かれている。その一着は紅の
生絹で家康の女房への土産として贈られたようなことが書かれているらし
いけど、家康の女房って築山殿のことかな?
でも築山殿って、信康の切腹事件の時に殺されているんじゃなかった?
572 :
553:2007/06/27(水) 22:50:08
信長が残虐だと感じるのは
>>551の中にはどこにもない。
戦国大名ならみなやりかねんことだ。
おれは武田勝頼親子の首を京に晒したというところだな。
戦国期は敵方の首を取るのは重要なことだし、敵将の首となれば
何よりの戦利品だ。だけど、首実検の文献をみたら作法と礼儀があって、
敵方の首を丁重に扱い、確認終了後は丁重に葬るか、相手方の使者に
返すというのが慣習だったそうだ。
反逆者や罪人扱いなら晒首は当然だが、勝頼親子は敗戦国の敵将に
過ぎないから、勝頼親子の武士としての面子をつぶし、
武田家にとってもこれ以上内屈辱を与えたわけだ。
朝廷、西国への見せしめということだろうが、あまりにもひどいやり方だと思う。
574 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 22:56:43
>>537 浅井親子のはくだみのほうがひどくないか?
その後このお三方の黄金の髑髏はどうなったのか疑問なんだが。
どうでもいいが通説派と新説派と、個人の尺度で勝手に決め付けて
暴走している人たち。
どちらの説も100%正しい、100%間違っていると、
信憑性の高い一次史料で全て裏付けして断言できますか?
できないならどちらの説のことも攻撃する資格はありませんから。
>>575 浅井親子だって、信長を裏切ったんだから。仕方ないよ。
戦国時代なんだから、どっちがどっちに比べて残忍だとかなんとか
論じても無意味。この時代の大名は皆、似たようなことをやっている。
>>575 浅井家はかわいさあまって憎さ100倍って感じがする。
武田家は信玄時代からの恨み爆発って感じがする。
信玄には手出しが出来ずに低姿勢外交のままだし、御坊は強引に人質に
されるし、積年の恨みがあったんだろうな。
養女(実姪)の子供まで晒し首にするんだもんな。
このところ思うんだが
信長・家康を論じるなら関連書籍くらい
読んでおいてほしいものだ。
谷口克広の中公新書3冊を始めとした一連の著作。
今直接関係ないが本能寺関連。
鈴木・藤本「信長は謀略で殺されたのか」、
桐野作人「真説本能寺」、「だれが信長を殺したのか」、
谷口「検証本能寺の変」
そして歴史読本の今月号には別冊付録「信長記の大研究」
が付いている。信康事件への言及もある。
スレを読んでるとこんな本すら読んでいないのかと
思うことが多い。読みもせずに適当なことを書くなと
思うこともしばしばだ。
>>573 > 反逆者や罪人扱いなら晒首は当然だが、勝頼親子は敗戦国の敵将に
> 過ぎないから、勝頼親子の武士としての面子をつぶし、
> 武田家にとってもこれ以上内屈辱を与えたわけだ。
それはもしかして、信長には武士の情けってやつが無いと?
でもね、京で晒す意味ってのをよく考えてごらんなさい。
ただ、屈辱を与えた、優越感に浸るためだけかな?
>>576 そう思う。はくだみにこそしないけど、敵将の首を並べて宴会してたという
のは別に珍しくもなんともないという光景だったらしい。
むしろうじが湧いたり、異臭漂う遜色がひどい首を並べて酒の肴にされたら
祝杯どころじゃない。
ただ首を丁重に扱ったのは事実みたいだね。
女達が首実検の時に首の髪を整え、お歯黒を塗ったり、白粉を塗ったりしていたそうだ。
信長よりも怖い女達だな。
>>578 信長・家康を論じるなら〜
と言っておいて、紹介本のほとんどが信長関連ばかりじゃん。
家康の関連本は?
>>578 ワロスw 偉そうな事言っておいてレベル低すぎ。
>>579 >>573は最後に
>朝廷、西国への見せしめということだろうが
と書いてあるけど、違うの?
それ以外でどういう意図でしたのか知りたいんだけど。
>>581 悪いがあんたが紹介してくれ。
そして家康本を読んでないおれを笑ってくれ。
585 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 23:30:57
>>569 大体、谷口氏の話が全て正しいとは限らないだろ?
何をいきがっているんだ?
自分も信長は、自分の留守中に勝手に持ち場を離れていた侍女達に対して、
処罰を加えただけだと思っているよ。
なんでこの程度のことで、侍女達を殺さないといけないんだ?
根拠が薄いだろ?
587 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 23:59:02
圧切長谷部の逸話は本当だったんかな
黒田家御重宝故実
圧切御刀 弐尺壱寸四分 長谷部国重一名半阿弥
信長公御時クワンナイと云茶道坊主を手打にし給ふ、台所へ逃行、
膳棚の下ニかゝミけるを、振上切給ふ事成難刀を指入てへし入給ふに、
手に不覚切落し給ふ、是より圧切と名付らる、信長公より如水へ被遣と云々、
本阿弥の名物記にも長政公御拝之(ママ)由也
本当なら茶坊主どんな粗相をしたんだろうな
588 :
587:2007/06/27(水) 23:59:58
すまん下げ忘れた
だけど桑実寺の件にもあるように、信長って、前向きに真面目に働く人間
には優しかったろうが、隙あらばさぼろうとするようなズルい人間には、
厳しかったみたいだ。
相手が男だろうが女だろうが、関係なく処罰したらしいね。
でもその一方で、乞食や困っている領民を助けたりと、心温まるエピもある
し、謀叛をおこした者にも許したりと寛大な一面もある。
信長の部下としては大変だったかも知れないが、民衆からは人気があったような
気がする。
>>586 >>564も読まずに勝手なことを
書かないでくれ。ま、
>>564もおれだとは
一見分からないだろうが
関連書籍読んだらと勧めたら
>>582のような答。
どうやらここの住人は学者先生のいうことなんか
耳を貸さないで自分の見解を言うのが当たり前のようだな。
これって日本史板としてどうかな。
ただの妄想と言われても仕方があるまい。
>>578について釈明すればこのところの話題は
信康事件。それに触れた家康のいい本が挙げられなかった
だけだ。家康の本があっても中公新書(北島正元著)のように
旧説をそのまま載せてる本ばかりだし。
>>582に限らず本など読むかという姿勢では
まともな議論にはならないと思うがどうか。
>>567で教えてくれというから書いてるのに
感謝されるどころか悪口を言われる始末。
自分が本を読んでないのが悪いのに
それってないんじゃないか?
別に感謝などされたくないが、おれならまず
礼を言うけどな。
ここの住人ってどうかしてないか?勿論まともな人も
一部いるけど。
あえて特定はしないが、ここのスレに常駐している連中に
自分の主張に沿った本しか読まず、思い込みだけで
ミスリードしていくタイプが見られる。
反対意見にはただ激昂するだけで聞く耳もたない。
一次史料の原文にすらまともに目も通さず、解釈済みのものや、どっかの文献に
断片的にでてきたもんしか知らんのだろうな。
御成敗を斬殺と信じて、なんの疑問ももたないのがその証拠だ。
>>592 同感。
学者のいうことが全て正しいとは限らないんだから。
未だにあきらかに間違いだと思われる説が載っている本が出版されている。
自分で文献に当たったり、史料を調べたりして出した結論ならともかく。
歴史家といえども専門分野以外のことは、引用で軽く済ましている場合がほとんど。
信長の研究書はたくさんでていて、戦略のことや、人事面では
多方面からきちんと検証されているのに、どういうわけか
妻妾のことはいまだに偽書武功夜話の引用そのままの本が多いのも事実だ。
歴史の大家桑田忠親氏ですら、ねねの名前を署名から「ね」と断定する
粗相をして、これまた女性名の大家である角田文衛氏から指摘を受けている。
桑田氏は当時の女性は署名に頭文字のみ一文字を記すことが多かったという慣習の
ことをご存知なかったようだ。
だけど桑田氏の戦国時代におけるかずかずの書は興味深く、
特に消息文を検証してあれこれ事実関係を明確にしていく検証の仕方は
大変説得力がある。なんといっても当の本人の書いた手紙だから。
最近の著書には桑田氏のような研究家の検証結果を都合のいいところだけを抜粋して、
自論をかためるためにつなぎ合わせているだけの著書も多いからな。
>>587 刀に関する本を読んだが、刀には二種類あって実用的なものと
美術品収集目的のものとがあったそうだ。
一度でも人を切ると血の塩分と体脂肪で切れ味が悪くなり、武具で刀が
損傷したりするので、美術的な価値をなくすから、実用目的に名刀は使用しない。
名刀は宝物として眺めたり、資産価値があるので褒美に与えたりしたというわけだ。
実用的な刀といっても殿様が戦で持っているような刀は丁寧に仕上げ、切れ味
抜群だったらしいがな。
それに戦での死亡原因は刀では10%を切るといわれていて、ほとんどが矢ややり傷。
首をはねる時と至近線になった時に防御のために持っていたと言っても過言じゃなく
少なくとも攻撃するもんではなかったんだろう。
圧切長谷部は名刀なので、わざわざそれを持ってこさせて茶坊主ごときをぶった切る
とは考えにくい。第一棚ごと切ったら刀が痛むし、刀の価値が下がる。
それにどう考えても物理的に不可能だろうな。刀が2メートルぐらいないとw
「清地院殿潭月秋天大禅定法尼」
築山殿の法名なんだけど、位号にあたる大禅定法尼は
生前出家をしていたことを示すんだ。
婚姻関係にあるまま出家することはできない。
亡くなる前から何かしらの理由で家康の元を去って(離縁して)
出家していということになる。
もちろん築山殿は信康よりも早くに殺害されたとあるので、信康の死を悲観して
出家したわけではない。
築山殿の死の真相はまだまだ謎が多いよ。
戒名そのものは大名夫人として申し分のない格を示している。
>>596 築山殿が生前出家していたなら、なんで家康は築山殿を殺害したの?
信康の傍にいないなら別に殺す必要ないじゃん。
本当に築山殿の死因は、家康で間違いないの?
一番自然な考えは、築山殿が病などで死期をさとり、早めに出家していた
ということ。これは当時の身分の高い女性には多かったから。
そして信康のことなど心労もあってか、たんに寿命だったのかで
自然に亡くなったということだな。
>>595 圧切長谷部をわざわざ持ってこさせなくても、
いつも身近に置いていた刀が圧切長谷部っだ可能性はどうかな?
激昂してて刀の価値だとかなんて考えもしないで切ったとかないかな?
さすがに棚ごと切るのは物理的に不可能だから箔をつける為に
茶坊主を切った話を脚色したのかもね←あくまでも可能性で
茶坊主だけを切った話(棚は切ってない)ってあるのかな?
築山殿は、信康切腹の随分前に、
出家、病死していたということ?
だけど、築山殿が信康切腹前の、少なくとも天正6年
までは生きていたことが史料で確認できるんだよね?
築山殿が信康在世中になくなっていたのならば、
「家忠日記」に書かれるはずだし、記録がないということは、
信康没後、出家、病死、ってこと?
いずれにしろ、「病死だった」という明らかな史料がないのが不思議。
家忠日記だと築山殿から天正6年2月4日に家忠が手紙をもらっているとあるから
その時までは生きてたのは確実だな。
築山殿の命日が正しければ、天正6年8月29日に亡くなってるから、
病身で岡崎あたりのどこかの寺なり屋敷なりにいた時に信康事件がおきて、
信康がほぼ軟禁状態になった頃に亡くなったということになる。
翌月9月15日に信康自刃。
ただ築山殿の戒名はもうひとつあって
「西光院殿政岩秀貞大姉」
これだとかなりオーソドックスな大名夫人の戒名。
夫が亡くなった時の形だけの出家程度だと大姉の位号がつくから
大名夫人で一番多いパターンだな。
清地院と同一人物というのが解せない。
同一人物でも、寺や宗派が違うところで、それぞれ法名をつけられれば
別の法名を持つ事はあるから、どちらも築山殿の可能性はあるよ。
史料に残る事が少ないこの時代の女性は、別の法名だから別人と解釈されているが、
本当は同一人物という例も意外と多いのではないかと思う。
>>602 それはそうだけど、大禅定法尼と大姉だと、亡くなる直前の
状況が全然違うからさ。戒名は本来生前のその人の人柄、状態、立場を
示すためのものだから、きちんと出家してたとか、してないとかっていう情報は
無視されるべきことではないんだ。
それ以外の格を示す号は子孫の地位などで後日格があがって出世してくパターン
も珍しくはないけど、元々が院殿号で女性なら最高の格をもらっているのに
大姉と大禅定法尼を変えてしまうというのはとても不思議に感じる。
夫が亡くなって出家しただけでも、
宗派によっては大禅定法尼が一番格上だったり
院殿号+大姉が一番格上だったりするから、
それこそ格をあげる為に宗派によっては異なるんだよ。
清大姉が一番格上の宗派もあるしな。
だから、出家してる状況だけじゃなく
どこの宗派の法名かを調べる必要があるのさ。
築山殿に法名を与えた寺はどこなのかな?
現在墓地がある西来院は、
のちに関口氏の末裔が築山殿の墓を作ったそうなので。
八柱神社に首塚があるそうですね。
不遇な死であったり、生前、本人の意思があったときには、
死後に僧が髪を切り、法名を与えることもあるようですから、
築山殿生前出家を法名のみから裏付けるのは、
かなり難しいと思いますが。
大禅定法尼が一番格上の宗派ってどこ?
築山殿は西来寺に墓があるから、清地院は曹洞宗の戒名。
西光院は同じく曹洞宗か、徳川家の菩提寺に多い臨済宗の戒名かもしれない。
禅宗同士だし、そんなに戒名の定義に差があるとは思えないが。
「清地院殿潭月秋天大禅定法尼」は西来寺で曹洞宗。
曹洞宗では基本的に禅定尼は一番下の格になるんだけど、
院殿号付きで大禅定法尼だから、上から2番目の院号+大姉辺りの格なみかな?
「西光院殿政岩秀貞大姉」は松応寺西光院だから浄土宗。
浄土宗は院殿号付きの大禅定尼が一番格上で、その次が院殿号付きの清大姉
その下に院号付きの大姉がくる。
だから、その辺りの格だろう。
つまり二つの法名ともに、同じくらいの格で、最上位ではないんだ。
同じ浄土宗の家康の生母の「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」みたいに
誉号付きで大禅定尼という、最も格の高い法名に比べたら
どちらも、そこそこ。
まして、「清地院殿潭月秋天大禅定法尼」は後からつけられた法名といわれているから
家康が田舎大名じゃなくなってからにも関わらずってことだ。
法名からしても、あまり重きを置かれていなかったっていうのが分かる。
>>605 >>のちに関口氏の末裔が築山殿の墓を作ったそうなので
寺で埋葬するに際して新たに戒名を与えるか、宗派が一緒なら同じ戒名を
引き継いで埋葬するよ。西来寺の墓石に刻まれた戒名はどっちにしろ
西来寺が承認したもの。
>>八柱神社に首塚
神社は戒名を与えられないので、こちらはただの鎮魂のため供養搭
みたいなものだと思う。
>>死後に僧が髪を切り、法名を与えることもあるようですから、
この程度の出家なら普通に大姉の位号をつけてると思う
大姉には在家出家の場合も含まれるから、問題ないし。
大禅定法尼とつけてくれるほどの位号は本当に仏教に帰依した人しか
寺側も認めてくれないから、西光院は大姉なのに不思議だなっていう話。
書き忘れたけど、曹洞宗で一番格上は院殿号+清大姉
大禅定尼は本来は使わないが、戦国期には大姉くらいの意味合いで使われている。
>>607 でも歴代将軍御台所全てが最高格の戒名とは限られてないし、
それはまた別問題じゃないか?
3代将軍御台所までと和宮以外は格的には築山殿と同格だし
築山殿が重きを置かれていなかったとまでは言いきれないと思うが?
>>610 もちろんそうだよ。
ただ、両方の法名の格は揃っているってことを、言いたかっただけだから。
あと、曹洞宗は大禅定尼を本来は使わないけど、大姉と同じような意味で使うから
ようするに、浄土宗みたいに厳格に生前出家している人物だけ大禅定尼を与えたと
いうのとは、違うんだ。
仮に、院殿号がついていない大禅定尼なら、一番隠したの禅定尼にするには
大名夫人としておかしいから「大」をつけたとして、生前出家をしていた事が言える。
だが、院殿号付きの場合は、生前出家していた可能性もあるけれど、
大姉のような経緯の出家も十分あり得るし、むしろ戦国期によく使われた例とすれば、
そちらの可能性が高い。
>>611 一番隠したの禅定尼にするには ×
一番格下の禅定尼にするには ○
>>611 結局のところ、大禅定法尼とある以上は生前出家の可能性もあって、
それを完全に否定するだけの根拠はないということだな。
>>611はそんなに違和感のないことに思えても、私には大変違和感の感じる
ところだからな。長々と説明を書いてくれても、全部いままで
どこかで読んでいる内容の繰り返しだし、悪いが納得はいかないな。
築山殿に関しては家康と岡崎城内で同居していたかを明らかにする史料も
残っていないのだから、生前出家したのか?と思いたくなるのも当たり前だろ?
>>613 そうかな?
出家に厳密な浄土宗の方が大姉なんだから
生前出家していなかったと考える方が
しっくり来ると思うがな。
大禅定尼のイメージなんて、浄土宗のイメージが強いんだろうけど
禅宗じゃ、
>>613がイメージするようには、厳密に出家者につけていない。
戦国期には大禅定尼は曹洞宗でもよく使われたが、院殿号付きなら
生前出家していないと考える方が普通だと思う。
横は入りすまんが、家光死後出家し、あれだけ仏教に帰依した桂昌院が
「桂昌院殿仁誉興国恵光大姉」という戒名だけど、大禅定法尼とかつかないの?
それと
>>607の説明だと家康の生母よりも格下の戒名になるみたいだけど
それでいいの?女性で従一位という最高の地位まで登りつめた人だけど。
「桂昌院殿仁誉興国恵光大姉」は誉号入ってるからめちゃめちゃ格高いよ。
大体、八百屋の娘が、権現様のご生母様より格上の法名もらえる訳ないし。
あと、家光の御台が大姉なのに、それの上の格の大禅定尼は
もらえないと思う。
築山殿の墓地が、お大の子で家康の異母弟松平健俊らの眠る
西来寺に移されたのは大分後だし、
もともとは「西光院殿政岩秀貞大姉」だったのでは?
それが、松平家縁の墓地に移される際に、新たに法名をつけたとか。
しかし、築山殿は信康と文通できるぐらいの立場ではあったわけだし、
まるっきり遁世していたというのもなあ。
「家忠日記」にも、出家していれば「築山」ではなく、
法名で呼ばれるとか、尼君と呼んだりとか、ありそうなのに。
>>616 桂昌院は亡くなるまで江戸城大奥に君臨していたからじゃない?
ねねなんてすごい質素な戒名だったけど、俗世と離れて尼寺でひっそり暮らす、
生前出家ってああいうイメージだわ。
出家したのに一目で「私は大名夫人だったのよ!」
と誇示するようなのってそぐわない気がする。
徳川家って、3代家光以降
家康が権現様になってからは
御台様にも側室にも大禅定尼を
つけてないんだよね。
大姉しかつけてない。
桂昌院と、家康が権現様になる前の築山殿は
比べられないんじゃないかな。
出家には厳密なんだろうけど、格はもっと重視されそうじゃん。
>>617 でもさ、こういうのって出自よりも位のほうが優先されない?
いくら庶民の娘でも従一位って最高位だよ。
秀吉なんて百姓から関白になってそれ相応お戒名つけてもらってるし。
結局御台より側室の戒名の方が上というのはまずいということかな。
>>620 ねねは、けしてひっそりはないと思うんですが・・・
ねねは生前関白夫人として従一位を受けていますしね。
ねねが晩年を送った高台寺は、広大な寺。
遺品も残っていますが、「高台寺蒔絵」として有名なほど、
金銀をあしらった見事な調度品。
寺の出費は家康はもちろんですが、
尾張派などといわれた豊臣恩顧の大名が門を寄付していたり。
質素なイメージは全くないんですが・・・
>>621 築山殿の墓を後年関口氏の末裔が西光院から西来寺に移転したんだって。
だから清地院〜大禅定法尼はその時つけられたかもしれないし、
以前からの戒名だったかもしれない。
そのへんは不詳だけど、西光院に過去帳でもあれば確認できるかも。
>>623 だって戒名が「高台院湖月心公」ぽっきりよ。
それだけの肩書きと位をもちながらお飾りの位号すらついてない。
本当なら大阪城の巨大な城の表でも奥でも贅沢三昧、享楽に酔いしれ
ていられるだけの身分だったのよ?贅沢のけたが違うじゃないの。
大阪城の淀殿に比べたらもう、どんだけぇ〜質素な生活になっちゃったと
思ってるのよ!
>>625 死後の法名は、本人ではなく、子孫の意向でつけられることが多い、
子供がなく、豊臣家そのものがなくなっていたねねの場合、
子孫が高い戒名を望むことがなかったせいかも。
夫を亡くした未亡人が、贅沢三昧、ってことはないと思うよ。
嫡子の生母だけでしょ、そんなことができるのは。
秀忠の御台のお江与は、秀忠より先に死んだのに大禅尼なんだよね。
でも、その頃はまだ、家康は権現様じゃないんだよね。
そして、そのあとは、ぜ〜んぶ大姉。
清大姉でもなく、大姉。
そういう決まりになっちゃったとしか思えないよね。
>>625 >だって戒名が「高台院湖月心公」ぽっきりよ
高台寺って臨済宗だから、禅定尼はないんだよ。
男性の禅定門も本当はない。
一番格が高くて大居士と対になるのが院殿号付きの大姉で清大姉もない。
本当だったら高台院殿湖月心公大姉で、秀吉の国泰祐松院殿霊山俊龍大居士と
釣り合うんだろうけど、秀吉を埋葬したのが何しろ神社だし。
釣り合わせる必要がなかったのかも。
臨済宗は、戦国期から江戸初期までは、大姉と同じ意味で大禅定尼を乱発したから
反対に、生前出家して尼寺にいたからこそ、高台院湖月心公尼なのかも。
吸収王朝と同じだね
つーか日本人って議論と喧嘩の区別できないのかな?
秀吉の国泰祐松院殿霊山俊龍大居士という戒名はだれがつけたんだ?
戒名って仏式だから寺でだすもんだよな?
ねねの戒名は生前からついていたもんだろうから、本人がそれで良し
としたんじゃないの?
生前出家した場合院号〜戒名までで通し、立派な位号とかは死後子孫が
つけてくれるもんだと聞いたが違うのか?
ねねも豊臣家が残ってどんどん繁栄していたら飾りに立派な位号が
つけられたかもしれないけど、豊臣家は滅亡して直系の子孫で
法要してくれる人もいなくなっちゃったし。
豊臣滅亡後のねねの立場が一目瞭然でわかる戒名じゃないか?
秀吉の廟は破壊され、ねねの懇願で辛うじて神社の全壊を免れたが、
半壊のまま荒れ放題で江戸期放置されていたんだから。
そういう秀吉の正室であったねねには、それ以上格の高い戒名をつける
理由がなかったということだろう。
>>611 >曹洞宗はを大禅定尼本来は使わないけど
信長の側室の生駒の戒名が「久庵桂昌大禅定尼」というんだけど、
久昌寺は曹洞宗。以前から院号もないのに変だという一部のレスもついていた
話題なんだけど、やっぱり変ってこと?
>>632 おかしくないんじゃないかな?
院殿号がついてないから、生前出家しているのが分かる。
でも、信長の側室だったら、禅定尼だけの最下層の格には出来ない。
だから「大」をつけたんじゃないだろうか?
曹洞宗は大禅定尼は基本的にないけど、禅定尼はあるからね。
同じ禅宗でも、禅定尼もない臨済宗とはちょっと違うしね。
>>634 戒名だけでも本当に生前の故人のいろんなことがわかるもんだね。
ありがとう!!
もう一人の家康正室の旭姫の戒名は「南明院殿光室宗玉大禅定大姉 」。
臨済宗東福寺に埋葬されているが、どうなんだろう。
「大禅定大姉」というミックス型の戒名なんだが。
>>636 築山殿と同格ぐらいじゃね?大禅定のない大姉だけのもみたことあるよ。
信長の時代の松平家の頃、秀吉の時代の徳川家の頃、将軍家になってからの徳川家
では家の格が全然違うんだから、正室たちの戒名や生母の戒名と
それ以前に亡くなった家康の正室たちの戒名に差があるのは当たり前といえば
当たり前じゃないの?
徳川にしてみたら築山よりさらにどうでもいい秀吉妹の押しかけ女房だからな。
>>638 どうでもいい〜
はないだろ。旭姫だって好きで家康のとこ行ったわけじゃないし。
築山殿と縁組するのは当時の松平家にとっては生き残りのための策であったし、
今川という大家の一門になってとりあえず安定した状態になれたことで、
松平家の基盤を固めをすることもできたというメリットはある。
旭の場合は豊臣とは別に姻戚関係になる必要もなかったし、
秀吉にくだることを嫌だったのだから、デメリットしかない婚姻だったろう。
わずか数年で亡くなり、しかも最後は旭は京都に住んで死別。
豊臣との同盟関係を絶ちたいがゆえに旭こそ家康の命で一服盛られたのではないかと
すら思ってるよ。
タイトルの答えなら、
「苦手な人」
だと思う。
秀吉のことは
「大嫌いな人」
光秀のことは
「いい人」
かな。
>>592 >自分の主張に沿った本しか読まず
そんなことが可能か?「読む」ではなく「買う」なら
分かるけど。
立ち読みとか図書館で読んでから買うもので、
読む前から「自分の主張に沿って」いるかどうかなんて
分かりっこないと思うが。
それにその一部の人とやらは、「自分の主張に合った本しか
読まず」、つまり学者・研究者の意見を自分に合わせるのではなく、
「自分が学者・研究者の主張に沿って」、つまり賛成してだと
思うのだがどうか。
643 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 14:34:13
>>640 家康は豊臣との婚姻を断ちたい・・・・というのは疑問だがな。
家康の後継者秀忠の正室お江与は秀吉の養女だし、
家康はのちに孫娘の千姫を豊臣にやっている。
旭は殺してないだろう、
築山殿と違って、旭姫には兄秀吉がついている。
妹が不審死したとなれば、
身内思いの秀吉が決戦を仕掛け限らない。
>>643 確かに旭が不審死すればそれを口実に徳川撃滅できるからな
家康も口実与えるような馬鹿な事しないだろうな
だって徳川とドンパチしたくないから、妹や母親まで犠牲に差し出したんだろ?
ドンパチやって勝ち目があると思ったら最初から家康が従わないというのを
口実に戦を仕掛けてくると思うが?
そんなん時期による
小牧長久手の時、徳川とドンパチしたくなかったのは
後ろで四国や九州が限界来てたから
647 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 21:29:54
妹殺されて黙っているほど
秀吉が弱かったわけではない
徳川はこれ以後も豊臣と婚姻をしており、
旭姫が家康の正室であることは
けして徳川にとって不利ではなかったはず
もし家康も豊臣との姻戚関係を望んでいたのなら朝日が亡くなったあとすぐに
また姻戚関係を結びなおしたのでは?
かつて信長も遠山夫人が亡くなって武田との同盟関係が切れることを恐れ、
即行で幼い信忠と松姫の婚約をさせ、同盟関係維持をはかっているし
政治的により必用な方が婚姻の話をもっていくのではないだろうか?
1590年に朝日が亡くなり、1595年に強引に於江与が秀忠の元に嫁がされてくるまで
徳川と豊臣の関係はぷっつり切れている。
徳川では豊臣政権と姻戚関係を結ぶことを望んでいなかったとしか思えない。
千姫の時は、関ヶ原の勝利、征夷大将軍という圧倒的に有利な立場での婚姻だから、
秀吉生前の頃とは状況も違う。イニシアティブはもう徳川にあったのだから。
>>648 > 朝日が亡くなったあとすぐにまた姻戚関係を結びなおしたのでは?
> 1590年に朝日が亡くなり、1595年に強引に於江与が秀忠の元に嫁がされてくるまで
> 徳川と豊臣の関係はぷっつり切れている。
その間、領地召し上げて、関東に移封させちゃってるし、そんなの関係ない
僻地に飛ばせばOKだろうと思ったら、地の利をいかして台頭しちゃって
遠方ゆえにますます手におえなくなってしまったので
慌てて於江与を秀忠に嫁がせたってわけだろ?
651 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 22:30:02
秀吉にはそんなに持ち駒がなかったのだから、しょうがない。
家康も嫡男信康の死後、織田との婚姻関係が切れた、
家康にとって信長はなくてはならない同盟者であったが、
その後、姻戚関係は永らくなかった。
家康にとって、豊臣との関係も、織田との関係も重要だった、
だが、人間のやることだから、途切れることもある。
途切れたらすぐに戦争になるわけでなし、
政略結婚はあくまでも同盟の証であって、
同盟の必須条件ではないよ。
>>651 >>家康も嫡男信康の死後、織田との婚姻関係が切れた、
切れてないよ。
五徳は姫二人を家康の元に残してきてるから。
姫たちが人質代わりで同盟関係継続。
>>政略結婚はあくまでも同盟の証であって、同盟の必須条件ではないよ。
同盟を結ぶに際して婚姻、養子縁組、人質送り込みは必須条件だよ。
同盟を結んだという証がなくてどうして同盟関係にあると
いえるんだい?なんの抑止力がなくて同盟は成立するのか?
婚姻、養子縁組、人質送り込みをせずに円満に同盟を結んだ例を知りたいな。
豊臣とは同盟じゃなく臣従してるんだが
臣従関係だって何重にも婚姻関係を結んで裏切りをさせないようにしてる。
徳川と豊臣にはそれがない。
ゆえに秀吉はあせってあれこれ画策したけど結局無駄だったというわけだな。
されど太閤存命中は領地召し上げられても臣従したわけだ。
しょせん従者でしかない家康なら
強引に於江与を輿入れさせることもしなかったろうな。
遺言で千姫を秀頼の嫁になんていう話もなかったろうな。
関東におっぱらった家康にどうしてそこまで執着したのかねぇ。
家康は「逆らうなんてめっそうもございません」と従ってるのにねぇ?
秀吉はよっぽど家康が怖かったのかい?
>>642 屁理屈言うなってよく言われるだろ
>>656 関東統治任せるため
丁度室町の関東府のように
>>657 つうか、大宰府だろ?少なくとも秀吉はそのつもりだったみたいだがな。
>>657 鎌倉府だろ?
時代が違うからっていい加減に書かないようにな。
>>592 自分の主張に沿った本って、一体どんな偉いヤシなのかと。
普通は本に書いてあることに対して自分は賛成、反対を
するものだろ。自分で史料に当たって独自の意見があると
いうなら別だが。
>>642が言うように読む前から内容が分かるとしたら
超能力者だろ。「偽書武功夜話の研究」とか
「信長は謀略で殺されたのか」のように題名で
内容が推測できるのならともかく。
>>660 と
>>592&642本人が自演やってますだに 文体そのまま、誰が見ても
同一犯 誰からの賛同もなし 一生やってれば?
>>659 論文なんかでも関東府と表現されるけど?
言葉が何の為にあるか理解してからレスしようね
>>660って、「今日は熱がない」と誰かがいったら
「熱がないなら死んでるだろ?0度ってことだろ?凍ってるじゃん、何いってんの?」
と真顔で言い出して周囲から嫌われるタイプだな。
それを空気も読めずに何度も何度も言ってるやつ。
「自分の主張に沿った本しか読まず 」とあったら
「自分の主張に沿った本を好んで読み、違うものは読んだところでスルーする」
と普通なら解釈するもんだろ?俺は素直にそうとしか解釈したがな。
こういう人間は「推理小説しか読まないだ」と言っている人は
新聞も読まない、字幕も読まない、会社の書類も回覧板も読まない、
と本気でそう思っているのだろうか?
小学生の頃の俺を見てるみたいだ
それで相手が何も言い返さなくなると勝った気になる
そうだよ、いい返せないから何もいい返さなくなる。
だから勝った気でいてよかったんだよw
そんなの当たり前じゃないか!
666 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 10:45:23
>656
秀吉が臣従させたすべての大名と姻戚関係を結んでいるのかい?
家康が幕府を開く際、すべての大名は婚姻関係があったから、従ったの?
無茶苦茶だなwこれは
>>666 もう相手するのはその辺で。
屁理屈で返すばかりでキリがない
>>666 敵にまわしても怖くない相手ならいちいちそこまでする必用はないだろ?
敵にまわしたくない相手とは懐柔策として婚姻関係を結んで臣従関係を
結ぶのは戦国時代なら秀吉に限らず当たり前のこと。
家康は主要な大名家とは秀吉死後すぐに婚姻関係を結び関係を強化している。
「戦略上主要な大名」がポイントな。
「どうせ逆らってこないし、逆らっても怖くないような大名」は
そこまでする意味ないだろ?怖くないんだから。
>>668 じゃ秀吉も家康も互いに利があって婚姻関係を結んでるってことじゃん
クダクダと屁理屈抜かしてけっきょく指摘通りじゃんアホクサ
>>669 朝日死後は於江与が無理矢理輿入れしてくるまで数年間切れてるが?
家康の方に豊臣との婚姻の必要性があれば、家康から朝日死後すぐに
なにかしらの輿入れの申し入れをしてくるはずだ、と私は言ってるんだよ。
家康にしてみれば豊臣と婚姻関係を結んでしがらみのある立場になりたくないから
朝日が死んだあとはアクションおこさずいたんだろ?
秀吉はそれでは安心できないから再度婚姻関係を結ぼうとしてきてんだろ?
こちらの言いたいことをきちんと把握せずにいちゃもんだけをつけるのは
やめてもらえないかな?迷惑だ。
>>670 朝日との婚姻以後に臣従もしてるし、死後に再度婚姻関係を受け入れたのも
家康にも利があってのことだろ。わからんやっちゃなお前は・・・
>>671 だから婚姻がなくても家康は誰の目にも秀吉に臣従してただろ?
朝日死後は渋々ながら素直に江戸にくだって秀吉の命令を聞いていたじゃないか?
家康にしてみればそれで心の証をたててるだろ?
秀吉がそれでは安心できないと婚姻を押しつけてきてるんだろ?
家康にはなんの利もないだろうが。
秀吉死後妥当豊臣の構想をちゃくちゃくと進めていたんだろうから。
673 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 11:47:45
>>672 秀吉の妹との婚姻は、家康にとってそりゃあ、メリットがあったよ、
あれは、戦の和議の一環だったはず。
旭の死後は平和だったから、婚姻の必要性がなかっただけ。
家康と秀吉がまた一戦交えることになっていたら
話は別だが。
>>673 朝日を送り込んだのは家康に上洛させたかった=家康が臣下の礼を
とらせるためだったのに、上洛の要請には応じなかった。
秀吉が生母まで送ってきたのでしょうがなく上洛。
家康は秀吉にむかうつもりもないが、上洛するつもりもなかったのにな。
朝日との婚姻なんてメリットどころか迷惑なだけだったろうさ。
675 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 12:16:31
>674
まあ、そこまで言うのならば、
家康は、病気を理由にでも何でもいいから、
朝日姫を秀吉のもとへ送り返しただろうね。
築山殿と違い、朝日姫は帰る実家があるのだし。
何で送り返さなかったんだろうね?
それどころか、秀吉の養女を秀忠の嫁にまでしている。
なんで送り返さなかったんだろうね?
>>675 離縁=戦
これを避けたかったんだろ?
秀吉に付け入られる隙をむざむざ与えるか?
>>674 司馬遼太郎の『太閤記』読んだでしょ?w
家康が秀吉をとことん嫌っていたのはよ〜くわかったが、
信長のことはどう思っていたのか?っていうスレだったのではなかろうか?
おれ家康だけどさ、なに?ノブさん?どう思ってたか?
ん〜そだなぁ、敢えて言うと迷惑な奴かな、くたばり方とか。
鯛の天婦羅うま〜
徳川と織田ってただの協力者関係なだけだろ
信康殺した理由も武田と徳川が組んで織田家潰しに来られるの
まずいからだったからか?それか葉山と信康がうざかったかどっちかだろ?
協力関係、対等同盟とはいえ、それは形式的なものにすぎないと思う
手を組んだところで後ろからぶち抜かれるからな
性的な意味で
信長は食事も質素だったし秀吉みたいに派手な女遊び
しとらんけど天下とれず最後は死んだね 何が駄目だったの?
家臣を追放したり厳しく叱ったり秀吉も家康もやってるんだけどなぁ
どっかで慢心したのかな?
子煩悩過ぎた所が致命的だったんじゃないの?
「ウチの息子がね〜一人で武田潰しちゃったんだよ〜凄いでしょ〜」と
信忠を手元に置いて自慢するから、光秀に親子合わせて屠られた訳で
肉親に甘いのは戦国大名じゃ珍しいな
黒幕候補がゾロゾロ出てくるように敵を作りすぎた
なんだか変に好かれてしまっていたので困っていました。
安土で接待を受けたときも、夜の接待に信長殿が部屋に入ってきて
自ら接待すると言う事をききません。
仕方がないのでお相手をしましたが・・・
そんな方でしたから嫌いではなかったのですが、正直亡くなられたと聞いた
時はほっといたしました。
でも私が黒幕なんかじゃありませんよ。
とんでもない。
光秀の書状??
なんですか、それ。
なんにも知りませんから。
そろそろ霊界に帰ります。
ごきげんよう。
>>686 天下平定を目指す以上命を大勢の者から狙われるのは
むしろ当然。
黒幕候補がゾロゾロ出てくるのは本能寺謀略論者が
誰彼構わず候補を挙げたため。
秀吉、家康だって命を狙う者は多くいただろう。だが
信長が少数の警護だけにしたためあのような最期を遂げた
のを見たから、自分もそうならぬよう注意しただけ。
689 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 00:08:25
関ヶ原の後、それまでの思いを晴らすのはここぞとばかりに、
信長の嫡孫秀信を高野山へ放逐して病死させ、
残った信長の子達と、信長に最も信頼されていた弟の信包を悉く改易させて滅ぼしてる。
信高、信貞なんかは東軍に通じて、戦後家康を出迎えたというのに。
家康は多分、自分より上に行ってしまって、命令を下すような立場に立った信長に対して、
自分より実力が上なのが気に食わない、みたいな鬱屈としたものを感じていたと思う。
だからこそ晩年は信長について語らなかったんだろう。
天下人で神のような存在に上り詰めた自分が、卑屈な思いをもらすわけにはいかない。
今周りに対して思っていたことをもらしてしまうの憚られる、みたいな。
ならなんで氏真タンを生かしてたんだ?
>>688 敵は殲滅するしか能がなく、妥協・調略・取り込みなどの発想が乏しかった。
信長の失敗に秀吉・家康が学んだというよりはむしろ性格的なもの。
>>691 >>688をよく読んでレスしてるか?
秀吉・家康は信長がわずかな警護だけで京に
泊ったりしたため最期を遂げたので
自分はそういうことがないよう注意したと言ってる。
政治その他の話ではない。
また、信長は殲滅するだけが能というがそんなことはない。
秀吉が上杉・毛利などを傘下に収めたのに対し
信長は対立した大名、朝倉・浅井・武田など滅亡させている。
だが美濃攻略は斉藤氏と主力決戦を行って成し遂げたのではなく
調略によって敵方を次々と寝返らせ、最後には決戦を行うことなく
斉藤龍興を退去させている。
信長は調略・取り込みも行っている。
むしろ最初は全部調略から入ってるじゃん
初期はちょっと違うけど
妥協しないのは天下統一が見えた段階だからな
実は戦国武将ってあれほど殺し合いの連鎖を生み出した
癖に暗殺されたケースって少ない (ちなみに幕末の偉人たちはよく暗殺された)
信長はあまりにも有名だが実に多く暗殺されたのは松平家の
歴代当主だったということ、家康の祖父も親父も皆暗殺されている
親父はどうか知らんが優秀な祖父は織田氏との交戦中に家臣に
暗殺されたみたいだ、何故これほど立て続けに松平家の当主ばかりが暗殺された
のか?
谷口克広が今年2冊目の信長本を出した。
信康事件についても一項設けているが、
文章が既刊本とほとんど同じなのが残念。
その後新たな史料等は出てきてないから
やむを得ないが、信長が信康が嫡男信忠より
優秀なのを怖れて殺させたなんて高柳の説は、
信忠は十分優秀だから否定されるくらいは
書いてほしかったところだ。
また「信長公記」から、最後にはこの事件の記述が
消えてしまうということも、徳川将軍家に遠慮して
筆を曲げたということもこの事件が徳川家内部の
問題であったと考えられることにも一言及ほしかった。
697 :
日本@名無史さん:2007/07/29(日) 20:33:42
あの日信長や信忠に従って来ていた人たち
どういった役職や待遇の人たちで何人位だったんだろ
選りすぐりの寵臣ばかりだったんだろうな
戦没者合祀墓碑に並ぶ144名の内のどの位が偶々そこにいただけの人たちなのかな
信長や信忠に付いてきていたのに死ななかった人もいるのかな
698 :
日本@名無史さん:2007/07/29(日) 23:29:54 O
本能寺の変で光秀が信長を討ちとったのは暗殺じゃないよ。
699 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 20:20:33
>>696 どっちが優秀かなんて実際の戦争ではあまり意味ないことが多いし、
生き残り競争ではもっと意味がない。
信長より光秀が優秀で、光秀より秀吉が優秀で、秀吉より家康が優秀だったのか?
第一ノブヤボの能力値じゃあるまいし、単純に比較できるわけもない。
将来ライバルとなりうる一人の若者を未然に抹殺しておくことは
信忠の負担を軽くする上では十分意味がある。
普通、親が子にしてやれるのはその程度のことで、
信長に人間の本質を見通すほど人を見る目があったなら
家臣に殺されるような無様なことにはならなかっただろう。
同盟解消のリスクを背負ってまで将来の為に人一人殺すわけがない
またまた高柳光寿の亡霊に取りつかれてる
ヤシが出てきたか。
>>699は信康切腹は信長の命令という旧説を前提に
もっともらしく理屈付けしてるだけで、
何の根拠も示していない。
第一家臣の明智に殺されたことが何故信康を
殺させたことと関係があるのかまったく分からない。
家康主導説にはちゃんとした根拠があるんだから
まず当該書(中公新書「信長と消えた家臣たち」)
を読んだ上で発言したらどうか。
704 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 20:53:48
家康主導説論者の身勝手な論理と読みの浅さには恐れ入る。
信長の命令だったことを示す史料やエピソードを
一方的に家康を神君化するための捏造と決め付けておきながら、
根拠を示してないもないもんだ。
佐久間や林は無能だとかである日突然追放する。
そのくせ光秀のことは褒めちぎっている。
信康も邪魔になりそうだったから突然切腹命令下しただけ。
深い洞察力からではなく、単に邪魔に思われてくると
突然手のひらを返したような非情な仕打ちをする癖があったということ。
>信長の命令だったことを示す史料
ソースください。三河物語のような信憑性の無いもの以外で
706 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 21:35:04
>>704 林は自殺したよ。家康のせいではなく信長のせい
707 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 21:45:01
織田が天下人になって代々続いていたら日本の近代もまた違っていたことだろう。そもそも鎖国しなかっただろうから最初から列強で敗戦もなく...
708 :
偽朝:2007/08/01(水) 21:55:45
709 :
偽朝:2007/08/01(水) 22:02:52
なんだかすごうくまぬけなことをくちばしったようなきがする。おやすみなさい。
>>704 その本(「信長と消えた家臣たち」)は
読んだのか?
読んでないなら読みもせずに批判しないように。
ある本で平手政秀の自刃は、信長が自害させたのではないかとされてましたけど
これなんかはどうなんですかね?
>>704 信長が残虐だったことは否定しないが、
それを今この流れで信康殺害の根拠とするのは見当外れもいいところ
そんなのただの印象論でしかないでしょう
今すべきことは「信長公記」よりも信頼性の高い信長主導説を記した史料を提示し、
なぜその史料が「信長公記」よりも信頼性が高いと考えられるのか立証することなのでは?
家康の政策って武家組織や地域自治体の秩序とか運営や管理に重点が置かれてるから
信長や秀吉の政策と比べるのは間違いだと思うけど
信長や秀吉の政策って戦国の世を早く終わらせることに重点を置いた
政策なんだよなぁ
家康政治の場合いかに法律で武士や一揆の反乱を抑えるかってことに
固執しすぎているからさ 初期江戸は犯罪の取締りが半端なく厳しそうだ
>>712 「信長公記」にも信長が信康殺害の命令を出したなんて
記事はないよ。
だから信長主導説は「三河物語」「松平記」など、
徳川方から出た史料にしかないから怪しいわけで。
しかも同時代でもない。
>>699 優秀とか優秀でないとか論ずるべきではないとの趣旨のようだが、
そうすると同じことは信康にも言えることになる。
将来の禍根を除くためというが、じゃ信康がボンクラでも殺すのか?
また高柳の説は信長が、嫡子信忠より優秀な信康を怖れて殺させた
ということなんだから、この説も成り立たないことになる。
>>699は高柳の説を否定しながら、結論だけに乗っかっているという
妙なことになるが。
信長主導説をどうしても推したいなら、理由は武田氏に通じた謀反の
疑いとでもしておかなければおかしいぞ。
それに、弟信行や久秀や荒木の謀反にも事後対応の信長が、将来が不安だったから
って同盟相手の息子や母親を殺させるのか??
全く理由もないしありえないだろ。
大体、信康が信忠よりも優秀だったというソースは?
しかも信康って信長からみたら娘婿だし、信長の娘婿は信忠よりも優秀だと
される人物もいるが、誰一人として信長に殺されたやつはいないが。
しかしまあ、家康主導説に反対してるヤシって
徳川厨なんだろうが、意外にも豊臣家を滅ぼしたことは
「簒奪だ!」とか言いそう。
家康を擁護するならするで首尾一貫してほしいものだ。
>>716 結局通説の刷り込みから逃れられないってことなんだろうな。
桶狭間の奇襲とか、義元の上洛説だって未だに信じてる
のがいるくらいだし。長篠の3段撃ちも然り。
>>714 あー、ごめん
「信長公記」は家康主導説の根拠として名を出したつもりで、
信長主導説を主張するつもりなら「信長公記」の記述を覆す史料が必要、と言いたかった
変な日本語になっちゃってスマソ
織田方から出た史料に、信長が信康切腹の命令を出した
とか書かれてるのなら、通説も肯定できるんだが。
だが「信長公記」にもそんな記載はない。
以前それをどこかで書いたら「信長の不名誉なので書いて
なくて当然」などという答があった。
が、それはおかしいはず。信康がまったくの無実なら
そういうことになるが、通説では「武田氏に通じて
謀反を企んだ疑い」で死を命じたということなんだから、
何ら信長の不名誉には当たらない。堂々と書いても
全然おかしくない。
信長公記の最も古いとされる「安土日記」には、
信康に「逆心(謀反)の雑説」があったとあり、
信康が謀反を企てたのは確かなのだろう。
また謀反は1人でできるものではないから、
岡崎衆もそれに加わっていたものと思われる。
その謀反とは家康に対してのものであり、
信康の処分も家康が決めたこと。
ところが徳川の世になると、権現様が妻子殺し
では困るから、家康への謀反を信長へのそれに
すりかえ、信康を死に追いやったのも信長という
ことにしてしまった。
これが真相なのではないか。
通説派には、信長が信康殺害の命令を出したとして、
家康がそれに従う保証はあるのか?
嫡男を殺すくらいならと、離反することはないのか?
また離反の可能性に備えて、信長は尾張に大軍を
集結させておかなければならない。がそんな形跡は
まったくない。これはどういうことか。
いつまでもスルーせずそろそろ答えてもらいたいものだ。
そもそも信長の命令で殺されたという説からして、
・五徳の12ヶ条の書状を読んで切腹を命じた(三河物語)
・母子共々武田氏に通じたとして死に追いやられた
・嫡男信忠より器量が上の信康を怖れて殺させた(高柳光寿説、
ただし根拠は示さず)
とあってどれが本当?と聞きたくなる。
>>704 佐久間信盛は突然の追放じゃないよw
もっと頑張れという叱咤激励の手紙出したら
なぜか勝手に高野山に蟄居しただけなんだがなw
>>722 確かに他家の嫡男殺害命令を出したら
命令を遂行させるためにも普通は大軍を国境に配置するなどして
プレッシャーを与えるものだけど、そういった形跡は全く無いんだよな
725 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 18:27:00
age
通説の信長命令説は苦しい。
家康厨もいいかげんあきらめたらw
京を追放された将軍義昭は、各地の大名に御内書を送って、
信長討伐をするように求めている。
その書状がなんと信長の同盟者である家康にも届いている。
これは無論部下などではなく、家康が信長から独立した
大名と見られていることを示している。
このことから見ても、信長が家康に嫡男殺害を要求し、
家康も涙を飲んで従うというのが当時の状況とかけはなれて
いることが分かる。
この筋書きが事情も知らない後世の徳川御用学者によって
捏造された何よりの証拠ではなかろうか。
義昭からの書状は、歴とした信長の家臣である光秀にも届いていた、という説もあるね。
まぁそれは実際に光秀が謀反起こしたからそういわれているのだろうけど。
だが元々光秀は義昭の家臣だったからな
実際届いていたとしても不思議はない
当時光秀は信長配下の武将であって大名ではない。
その御内書を送る対象からは外れているのでは。
本能寺の変に黒幕がいたとして、それが義昭だったとしても
(まあ有り得ないが)この時の御内書と光秀の謀反とは
かかわりないだろう。
変の少なくとも1年前までは光秀は信長に大きな敬意を
持っていたことが史料で確かめられる。その頃は謀反なんて
夢にも考えなかったろう。
ある家康についての本に、今日知られている家康の
言動やら何やらは徳川御用学者が粉飾したものだと
あった。
そう言われてみれば家康についての史料はほとんど
家康死後のもの。
今川の人質時代に家臣共々さんざんいじめられたとか、
信康事件などは御用学者が考え出したものと見ていいだろう。
まぁ見方によっては、今川からは結構厚遇されていたともいえる。
三河武士がこき使われていたのは、それは属国に近い小国にはよくあることだし。
見方によってはどころか厚遇されまくりでしょ
当主の姪を嫁にもらって重臣の後ろ盾を得、しかも烏帽子親まで務めてもらってるんだから
もちろん義元には義元の思惑があったんだろうが、普通ここまでされて裏切ったりとかしないよ
しかしその割には家康自身、それほど今川家に恩義を感じているようにもみえないが。
実際、義元が死ぬやいなや手を切って独立したし。
信長が死ぬやいなや独立した秀吉みたいなもんさ
>>735 それどころか通説でいう桶狭間の後、今川氏真に弔い合戦を
勧め、応じないとみるや織田氏と同盟したというのも誤りらしい。
実は桶狭間の直後からすでに今川氏と戦っていたという。
御用学者はそれを隠した上、後に今川の領土を武田氏と分け合った
ことを正当化するため、人質時代にいじめられた話をデッチ上げた
と見られている。
後世の我々をここまで騙した御用学者恐るべしだな。
戦国時代の人間に恩義とかの徳目を挙げても仕方ないと思うんだが
まぁ家康の変わり身の早さ(決断力があるということで、それは戦国武将にとって得がたい資質だが)は
秀吉が死んだ後の行動を見てもわかるか。
もっとも、ある程度死が予測できた秀吉に比べ、義元の場合はまったく突発性の事態(戦場に出たのだから、
戦死の可能性は常にあるとはいえ)だったのだから、そのへんの素早さはやはり驚嘆するな。
御家の大事、自分の一生の大事を即決したのだから。
>>738 当時の人たちも結構重要視してるよ
だから下克上するときはあれこれ理由をつけて自分を正当化するのに必死だった
忠義を全うした人物はなんだかんだで評価高いでしょ
信長、秀吉、家康の3人なんかはかなり特別扱いされてるけどね
>>740 それは大義名分の話で徳目の話じゃないよ
つーか小説読みすぎだから
みなが内心徳目を求めていたからこそ、大義名分が必要(有効)となるのだが。
なんで別の話になる?
小説じゃなく論文嫁
逃げたか
大義名分があって、それに基づいて行動するなら徳目が重視されてたんだろ
ただな、大概は行動があって、こじつけるように大義名分を探すんだよ
大義名分なんてのはどうにでもできるもんでしかない
それに重大な価値観を見出してる
>>742のほうがバカ
>大義名分なんてのはどうにでもできるもんでしかない
見方が浅薄。どうにでもできるようにみえる大義名分にも、どれだけ細心の気配りと工夫がなされているか
それが見えていないだけ。
正当性の問題なんだから理論武装すんのは当たり前だろ
その理論武装がどうにでもできるんだよ
お前の見方が深読みしすぎなだけ
どうにでもできるもんだからこそ、それがまかり通ってたことが重要なんだと思うが
価値観とかではなく、理論武装する必要性があったこと自体にもっと目を向けるべきかと
750 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 00:04:00
なんか大義名分スレになってるなw
きっかけは
>>738と
>>740あたりか。
どうなんだろうな?
江戸時代を経て儒教的道徳が広まった今の感覚から見たら,
やっぱ戦国時代は恩義やら忠義やらは低かったんじゃない?
素人だからよくわからんけどねw
儒教的道徳といえばもっともらしく聞こえるけど、
恩義とか世間体とかは人間の普通の感情で時代関係ないんじゃないかなあ。
当時下克上は普通のこととで恥ずべきことでも何でもなかったとか、
それこそ後世の幻想という気がする。
752 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 18:57:39
>>751 現在の日本の道徳は江戸期に形成されたというのは結構有名というか,
多くの学者が言ってることだと思うけど。
人間の普通の感情というけれど,それって君の感情から来る感想だよね。
昔の人も同じだったとする理由としてはあまりに学問的じゃなさすぎる。
>>752 加藤清正や福島、小早川なんかは関ヶ原後も堂々としてたのだろうか?
取り立ててもらった人への恩義と主君への忠誠って違うと思う
>>752 本気で蛙の面にションベンって感じだったら、
主殺しや仲間殺しをするときにいちいち大義名分必要としたりはしないと思うのよね。
自分の名声が地に落ち周囲からあげつらわれる可能性があったからこそ、
自分の行為を理屈で正当化するわけで。
755 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 22:36:58
>>753 小早川はともかく,加藤福島がおとなしくなっていったのは時代の変化でしょ。
後ろめたさとかそういうのではないと思いますが。
>>754 江戸以前にそういうのが全くなかったとは私は言ってないですよ。
>>751は学問的というような発言ではないと言ってるだけで。
例えば,江戸以前は切腹よりは逐電のほうが多かったですよね。
主君を変えるというのは別に悪いことではなかった。
そこに江戸期のような忠誠心は見られません。
そもそも戦国大名が形成された過程(毛利氏の研究が有名ですが)を見ても
恩義・忠義で構成されたものではないです。
あと,混乱していた戦国時代と,統一の方向性が見えていた安土桃山以降では
状況は大分違うと思いますよ。
>>755 >小早川はともかく,加藤福島がおとなしくなっていったのは時代の変化でしょ。
>後ろめたさとかそういうのではないと思いますが。
それって君の感想だよね。あまりにも学問的じゃなさすぎる。なんて。
>>本気で蛙の面にションベンって感じだったら
>>主殺しや仲間殺しをするときにいちいち大義名分必要としたりはしないと思うのよね。
へのレスが
>例えば,江戸以前は切腹よりは逐電のほうが多かったですよね。
>主君を変えるというのは別に悪いことではなかった。
>そこに江戸期のような忠誠心は見られません。
答えになってないと思うなあ
ポイントは大義名分じゃない?
ですな
>>755は知識自体が間違ってるというのではないが、根本的に流れからズレてる気がする
758 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 23:32:13
>>756 妙につっかかるねw
加藤福島がおとなしくなったのは徳川の力が強大になって抵抗しても無駄になったから
こんなの議論するレベルじゃないよw
江戸以前にそういうの(大義名分)が全くなかったとは言ってないって
>>755にあるでしょ?
読めないの?
それ以降は言葉足らずでしたね。
「例えば」に込めたつもりだったんですが,江戸以降の感情とそれ以前の感情の違いを説明したものです。
戦国大名が戦国大名たりえたのは大義名分があったからじゃないですよ?
正当性の証明は絶対に必要だったものではなかったというのが私の考えです。
久々に信康事件に戻りたいが、この事件を考えるに当たっては
「徳川家の史料に書かれてることは極端な話、徳川御用学者の
捏造である可能性がある。それが神となった家康に相応しくないこと
は尚更」ということを忘れてはならないと思う。
三河物語や松平記などは特にこの事件に関しては史料というより
俗書であると言えると思う。
元々信長が命令したという説は矛盾・疑問だらけ。例えば何故信康を
2ヶ月もあちこちの城へたらい回ししたのか。早く始末して信長に
報告しなければいけないはずなのに。
神となった家康が子殺し妻殺しではまずい。ではどうするかといえば
早い話その罪を誰かになすり付けること。
反対論者はまずこの可能性を考慮すべき。
信長時代の本願寺、比叡山延暦寺との抗争で宗教勢力の政治介入に釘を刺す事を力で示した事って
秀吉、家康以降の政権確立の障害の一つを取り除いた効果はあったのかな?
信長と和睦後に顕如と教如の親子喧嘩もあって本願寺勢力が分散されたのも大きいかな?
室町末期には一向一揆や法華一揆、さらに古くから比叡山の強訴や興福寺衆徒など
宗教勢力は政治に大きな影響力があっただけに、信長がこれらを手をつけなかったら・・・
(信長の政治心情から宗教勢力と対決は避けられないだろうが)
テスト
嫡男の裏切り、父親との確執なんてこの時代別に珍しくない。
武田家なんて親父を追い出しちまった。
斎藤家じゃ息子が親父と弟を殺してる。
背後に家臣の利権がからむとこうなる。
本当にこのことを隠蔽したいなら中途半端に記録に残さないはずだがな。
家忠日記にはこの件は完全にスルーだし。
764 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 19:42:39
大体、清洲会議の頃からすでに信長と家康は同盟関係の形で主従の関係にあったんじゃね?
例えば毛利元就が、熊谷家とは形的には同盟を結んでるが実質的には家臣化させてるのと同じやり方で
織田家が領土拡大していくにつれて、信長に臣従した阿波・讃岐の十河存保や備前の宇喜田直家みたいな外様大名よりは待遇が良いとは思うけど、家康には武田が織田本国に攻めてこないように東を守らせてるんだろ
あ、ごめん、清洲会議じゃなく清洲同盟ね
766 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 19:54:53
同盟から主従関係に移るのは厳島の合戦後で、決定打は隆元への安芸守護補任。
元就と熊谷氏の連携は天文初期だから約20年近く対等関係にあった。
>>766 毛利家と熊谷家は最初は対等同盟だったのか・・・
清洲同盟の話だけど、信長の居城である清洲城に元康が訪れるのは元康が今川家を見限って織田家に服従した事を意味するんでしょ。
だから武田を攻める時も信長の許可を得てから攻めてるし、1570年に起こった三河の一向一揆の最中にも浅井・朝倉攻めには信長から出陣の命令が下ってることからして、同盟はあくまで形のものであって実質上は主従関係だったと俺は思うよ
>>767 大名同士が直接会うのは極めて異例なケースだし
会うとしても普通は両者の領国の丁度中間点に位置する寺で会う
中間地点とか関係無しに、
しかも相手方の城に直接赴くという事が及ぼす内外への影響を考えると、
主従関係に極めてちかい形、上下関係がはっきりと分かる同盟だよね
主従関係というのとは厳密にはちょっと違うと思う。
信長サイドで姫二人を人質代わりに徳川に置いているので(信康の姫達)
同盟関係のままで、立場は建前上は同格だけど、勢力が圧倒的に織田>徳川
だから、逆らえずにいたんだろうってかんじじゃないかな。
信康が亡くなっても姫達によって同盟関係が継続されていたということだ。
家康を信長が饗膳して信長自ら菓子まで作ってもてなすなど、
かなり丁重に接待するあたりで、従と見なしていないと思う。
>>763 この事件を考える際は、他と違って家康が死後神とされたことを
忘れてはならない。
徳川幕府は神君と祭り上げ、支配のための道具にまでしていったのだから。
その家康が妻殺し子殺しではまずいんじゃないか?
そこで学者が考えたのは、家康は誰かに命令されて泣く泣く妻と子を
殺さざるをえなかったということだろう。
無論直接証拠はない。だが信長が命令したという話は同時代の史料に
見られず、徳川家が作った史料のみに登場している。
これは傍証にはなると思う。
>>769 だけど安土城下に屋敷が与えられてるって事は普通は家臣を意味してるんじゃないの?
甲州征伐後、信長による論功行賞で「駿河国御拝領」って言ってるくらいだし、家忠日記にも「信長様と家康」という表現も出てくるから同格とは言い難い
772 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 02:33:44
信長と家康は空気の読める大人の関係だろう
信長は公には家康を同格の同盟者のように扱っていたが、家康が調子に乗って
「よぉ!ノブッち!」なんて肩に手でも回そうものなら無言の裏拳で鼻折られるような
お互いの境界を長年の付き合いで認識した上で、その一線を超えないように両者空気を
読んでいた。もちろん、信長の天下統一が成されたおりには、正式に信長の家臣として
組み込まれていたと思う。しかし、本城惣右衛門覚書にもあるように、足軽レベルまでにも
信長が家康を殺してもおかしくはない、という空気が流れていた可能性があり、何らかの
いちゃもんをつけられて滅亡させられていてもおかしくない。
773 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 03:03:23
>>769 信長は、宣教師や、京童らにも、手渡しでお菓子をやったりとか
そもそもあまりそういう堅苦しい形式にこだわらない人だよ。
信長は娘を前田利家とか中川清秀とか丹羽長秀にやってるし
姫をやってるからというは見当違い。
>>772 ちょっと話は逸れるが、
(行動の迅速さから)秀吉は本能寺の起こる前から大返しの準備を整えていたのではないか、
という話が稀に上がるけど、あれは信長が、堺見物に来た家康にかこつけて暗殺、
もしくは暗殺未遂し、畿内が動揺する可能性に対するちょっとした備えだったのではないかと思っている。
>>774 if話ならどんな可能性も否定できないのは承知ながら、
ようやく中国・四国、切り取るべく本腰を入れだした
ところなのに、暗殺という遺恨残りまくる手段使って
まで徳川と事を構えますかね? それとも秀吉が勝手
に信長の心中を勘ぐって、ということですか?
本能寺が起こらず、信長があのまま天下一統していたら
家康はいずれ邪魔者になって消された、という見方は
研究者にもある。
そういえば秀吉は上杉、毛利などの存続を許してるが、
信長は敵対した大名、斉藤・朝倉・浅井・武田など
滅亡させている。
本能寺の時敵対していた上杉・毛利・長宗我部なども
信長が生きていたら滅ぼされただろうからな。
徳川家では織田家の家臣であったという認識ではないよ。
同盟関係を主張し、信長亡き後まで清洲同盟を遵守し続けたのは
徳川家の誉としている。
同格というのは対等というのとは違うよ。
婚姻関係による同盟だから、どちらかに服属させられているわけではないから。
勢力関係は織田家>徳川家だから結果的に織田家の意向のほうが強いのは
事実だけど、服従の関係を強いられていたわけではないってこと。
斎藤家と織田家も当初は圧倒的に斎藤家>>>>織田家だったけど
織田家が斎藤家に服従していたわけではない。
前田や丹羽みたいに譜代の家臣と一緒に考えるのもナンセンス。
もともとの家臣だったわけで姻戚関係をむすんで強化した、というだけだから。
だいたい家臣になら公に饗応なんてする必用ないじゃん。
信長の家臣が接待係を仰せつかって同じ家臣を丁重に饗応するってこと?
ちなみに他の家臣でそういうことされていたの誰かいたかい?
同盟関係と主従関係を混同している人が多いようだね。
もし主従関係がすでに成立していたとしたら五徳が娘達を家臣の家に
残して戻ってくるわけない。男子は嫁ぎ先、姫は実家に属するとされていたから
出戻るに際して嫁ぎ先には残してこないよ。あんな事情で出戻ることになったのに
大事な姫を残してきたのはなぜか?
両家の同盟を継続するためいたしかたなかったからじゃないか?
本能寺の変で、家康を討ちに行くと勘違いした明智の兵士がいたことは、
別にその頃信長が家康を始末したいと思ってたわけではないと思う。
単にこの時代、裏切り・暗殺・謀反が日常茶飯事だったからだろう。
明智の謀反にしても、深い理由もない下克上の一つだったかも知れない
のに、江戸時代になって朱子学が普及すると、理由のない謀反など
ありえないとされて、様々な怨恨話が捏造されたりしているし。
>>774 信長にとって家康ってそこまで脅威のある存在じゃなかったんじゃ?
暗殺する気があったら、安土で饗膳した時に一服もったろう。確実にやれる。
味方に甘い信長がそんなことするわけない
>>779 家康領入手のための暗殺ということはありうる。
ただしその後、3ヶ国を領する徳川軍団を相手に
戦をしなければならないが。
>>781 中央集権に成功してた徳川家だけど、
そうなったら石川数正とか酒井忠次なんかは独立してしまうかもしれんなw
>>781 あの時点ではどう考えても徳川領より西国が先だろう。
西国平定、天下統一後は、暗殺だなんだではなく合法的に
ものすごい難癖つけて改易やお取り潰しで直轄領を増やしていったと思う。
つまり徳川幕府がやった政策そのものだな。
>>776 >>そういえば秀吉は上杉、毛利などの存続を許してるが、
>>信長は敵対した大名、斉藤・朝倉・浅井・武田など
>>滅亡させている。
秀吉は上杉、毛利と敵対してないんだから信長と比較するのはおかしくね?
第一、信長が滅亡させたこれらの大名は滅亡させてもおかしくない理由があるじゃねえか
秀吉と毛利は本能寺の変前に敵対してるじゃん。
秀吉政権は信長政権を継承しているのだから、
上杉とも最初は敵対関係だったろう。
それがいつの間にか臣従させている。
北条氏にしても、初めは滅ぼすつもりはなかったが
ある事件をきっかけに滅ぼすことになった。
信長が死の直前に討伐しようとしていた長宗我部とも
戦って、滅ぼしはしなかったが土佐一国に押しこめている。
つまり言いたいことは信長は敵対した大名は必ず滅亡させた
のに対し、秀吉は北条氏を除いて存続を許してるってこと。
>>785 秀吉と毛利が敵対ではなく織田と毛利が敵対
>>785 まあ、信長は大勢力の戦国大名を残しとく意味がないと考えていたのかも。
毛利も総力で後詰に来ていた備中高松城を陥されていれば、
高天神城を陥された後の武田家のように、調略その他で有力家臣を引き抜かれて、
瞬く間に瓦解していたかもしれんし。
信長が滅亡させた大名
浅井・朝倉 浅井は織田に対して最悪の背信行為を行ったし(本当かどうか知らんが降伏勧告もしている)
周囲が敵だらけの状況で徹底抗戦してきた大名を存続させるのは難しくないか?
武田 信長が苦しい時期に親父の信玄がとんでもない裏切り行為をかます
斎藤龍興も普通は城を枕に切腹という状況だが、美濃国から退去するという条件で助命されている
上杉を臣従させたのも家康・北条を牽制するための処置でしょ?
毛利に関しても徳川が臣従する前から既に臣従しているのに滅ぼすとか不可能
まさか徳川が臣従していない時期に毛利まで敵にまわすのか?
羽柴家は内外に不安を抱えていたのだから大名の存続を認めることは必然だったこと
信長が敵対した大名を滅ぼしたのにはそれなりに理由がある
敵対した大名を滅ぼした=邪魔者は消す=いずれ邪魔者の家康を消すというのは強引すぎる
第一なぜ家康がいずれ邪魔者になるんだ?
信長存命中に家康が信長の意に反した行動は三方ヶ原で篭城しなかった事くらいで、
それ以外は再三信長に援軍を派遣するなど従順だったじゃないか
家康が邪魔者になるという考えの根拠を誰か教えてくれ
そう言っている研究者がいるというだけで、
信長が生きていれば必ず家康は始末されたとは
言ってないよ。
ただ天下一統が成れば、信長は信忠の代になってから
のことも考えて、自分以外の大名は全部消して
自分の家臣だけを全国に散らばせて支配しようと考えた
こともありうるだろうと自分も思う。
根拠?明智軍の兵の中に家康を討つと最後まで信じてた
者もいたくらいだから・・・というのは冗談だが。
大河ドラマとかの強烈なイメージの信長なら家康を殺すのもありだと
思うけれど、実際に信長について調べてみるとそうは思えなくなる。
>>789 当時家康が京都ではなく堺にいたことも知らないような
雑兵レベルの覚え書が根拠?
>>ただ天下一統が成れば、信長は信忠の代になってから
>>のことも考えて、自分以外の大名は全部消して
>>自分の家臣だけを全国に散らばせて支配しようと考えた
>>こともありうるだろうと自分も思う
この意見をよく見るけど、自分以外の大名をすべて廃止するって根拠あるのか?
羽柴・明智・柴田等の準大名も消すのか?
>>792 大名全部消すなんて信忠の代になっても無理そうだ
潰されるとわかってたらどの家も抵抗する事は必至だろうな
本城惣右衛門覚書をあげて、あくまでも低い可能性として信長が家康を討つかもしれない
と言ったのであって、その可能性が大いにありとは言ってないよ。
たかが雑兵レベルと言えども、家康を討つかもしれないという共通認識が芽生えていた
可能性を指摘したまで。案外こういう無意識の上に成り立つ共通認識は侮れないと
個人的に思う。信長が家康を討つという明確な根拠を史料でもって証明しろと言われたら
存在しないので無理。
>>792 IFの話をしてるんだから根拠など必要ないんじゃないか?
実際起こったことなら必要だが。
>明智・柴田・羽柴らの準大名
誤解がある。
自分で準と言ってるんだから分かってるとは思うが、
彼らはあくまでも信長の家臣であって独立した大名ではない。
例えば柴田は越前を任された時、信長は「預け置く」と言っている。
つまり越前は柴田が私有しているのではなく、預けられただけ。
従って柴田らは上で言う「消す大名」には当たらない。
>>795 IFの話?ここは根拠の無い話をするところではないよ
IFにしても根拠は絶対必要
なぜ信長が大名を全て撤廃すると思うのか根拠を示さないとダメだろう・・・
根拠が無くて妄想okなら、信長は選挙によって各領国の統治者を選出すると思うと書いてもokになる
明智・羽柴・柴田らの軍団長クラスの重臣は改易or僻地に左遷というのをたまに見かけるので、
彼等を家臣の中に含めているのか、大名として扱っているのかを確認しただけのこと
信長が生きていたら家康は消されたか否かなんて議論は、
本能寺が起こらず、織田政権が続いたらどうなったかということ
と同じで、肯定する材料も否定する材料もない。
例えば本能寺の時、織田軍は毛利・上杉と戦っていて
信長が死ななければ両氏とも滅ぼされてたと思う。
でその後、同じように他の大名も滅ぼしたかと言えば
これは想像の範疇。肯定する史料も否定する史料もない。
>>797 根拠はないですが家康を殺すと思います、家康を殺さないかもというのは史料がないから肯定も否定も出来ないです。
本能寺なければ毛利上杉は滅ぼされると確実に思います
他の大名も史料がないですがやっぱり滅ぼされると思います
まとめてみたけどこれで、おk?
>>797 信長が本能寺で生涯を終えるまでの
言動等を分析して全ての大名を滅ぼすという想像なら
このスレの許容範囲で議論もできるが、
何も分析せずただ想像するだけなら
このスレに書く必要が無いというか迷惑なだけだろ
これ以上続けるのもどうかと思うが、
「歴史上起きなかったことはなんとでも言える」ということを
教えておく。
信長が生き長らえたら家康は消されたと思う人はそう思ってれば
いいし、思わない人は思わなければいいだけの話。
どっちも史料がないんだし、結論なんか出ないだろ。
このスレとしての(?)統一見解を出す必要なんかないんだし。
それに自分は家康が消されたという見方に固執してるわけではないが、
消されたというならその根拠(史料)を出せという。
ならば消されなかったという根拠はあるの?
各大名を滅ぼしたという可能性にしても同様。滅ぼすという史料を
要求するが、なら滅ぼさなかったという史料はあるの?
「もしも」を話してるところで根拠を要求されても不可能と言う
しかないだけ。
>>800 史料じゃなくて、それまでの行動・言動などで推測すればいいのではないか?
それは根拠になると思うのだが。
あなたは何も提示せずに家康も他の大名も全部殺すと思うよと言ってるだけ
>>800 阿呆かお前は
当時臣従した小領主でもいい、悉く滅ぼして直轄地化した大名がいるか?
いわゆる天下人とそれに臣従した大名の関係なんて↑のスケールアップバージョン
当時それを行った人間がいないのに織田だけはそれをしたなんて言い出せばそりゃ何を根拠にと言われるわ
またその両者の関係性から、ある特定の臣従した大名を無理やり潰すようなことすればどうなるかぐらい分かるだろ?
豊臣がそれを断行したか?
そして全国を直轄地にして統治が上手くいくと思ってるのか?
現代ですら幾つかの行政区分に分けて政を行ってるのに、当時のシステムで全国直轄支配なんてできると思うのか?
徳川が全土を直轄地にしたか?豊臣が?
ちょいと勉強すりゃわかるだろ
>>800 だから信長の言動から分析した上で想像しろと言ってるんだよ
それくらいの事もできない・しないでするのは想像ではなくただの妄想
家康が消されなかった理由?
・家康に対して安土での接待、堺での旅など丁重に扱っている記録がある
・同盟を結んでから信長の意に反した行動は浜松城で篭城しなかったことくらいで、
信長が苦境の時期にも裏切らず、再三にわたって援軍を派遣
・意味もなく大名を取り潰していない
・長年の同盟者の家康がを消す理由が見当たらない
これらの事から信長が天下統一した後に家康が消される可能性は極めて薄いと俺は考えている
家康が消されると思うのなら、
信長の言動からそう思ったのか
信長の言動パターンから消されると思った等の理由を書けよ
信長が家康を消す可能性に対する根拠
北畠を消した。
ってのはどう?
北畠や神戸は息子が養嫡子になってるので、家そのものは断絶してないよ。
息子達が立派に家を継続してる。
そのあたりで根拠にはなってない。
806 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 06:20:00
北畠一族は皆殺しにされたけどな
807 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 07:11:43
わお♪何だこのスレ
えっとえっと
信長は若かりし頃、人質だった幼くて、しもぶくれのほっぺが真っ赤なお目めクリクリ坊やがかわゆくてかわゆくて仕方なかった
ずっとずっとそんな甘酸っぱい気持ちでいたと思う
だから老いたらまた一緒に旅行したと思うな
てすと
好きでした・・・
>>809 晩年、側近に信長の人間像を問われた時
しばらく考えたあと、言葉を濁したらしいけどね
811 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 20:49:20
>>810 信長は衆道が派手だったことも有名だから、
やっぱり、家康も食われていたわけか・・・
織田の人質だった頃、随分押さなかったのかもしれんが、
信長にキスされて性器ぐらいはいじられていたかも・・・
812 :
日本@名無史さん:2007/09/17(月) 03:00:50
家康は義元のことは悪く思っていなかったようだが、
信長の事は思い出したくなかったんじゃないかと覆う
>>810 きっと信長との熱い抱擁を思い出し、思わず勃起したのだと思う。
信康の肖像画を見る限り若い頃は家康もなかなかの好男子だったかもしれないしな。
信康事件後も同盟継続を遵守し、従っていたのは両者に深〜い絆があったからだ。
よほど信長のナニとテクはよかったのだろう。
814 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 15:21:03
あの気難しい盟主を相手にするのは大変な気苦労だったと思いますよ。甲州信州併合あたりから家康は肥満しだすが、それまでは胃が痛いくて大変だったのでしょう
815 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 19:40:33
まあ敵に回せば恐ろしい人間だが身内には甘い面もあるからな
だから家康も嫡男信康を犠牲に差し出したわけで・・・
家康主導説論者のみなさん、出番ですよ
816 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 00:07:16
>>803 佐久間信盛だって、そんなにたいした失態はないのに高野山追放。
松平と同じく織田の同盟者だった水野信元(尾張国知多郡、三河国碧海郡)は
武田と内通したと言いがかりをつけられて、切腹させられている。
気に食わないやつ、役に立たなくなってきたやつは潰すのさ。
817 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 00:45:27
家康は不要になってたしな。
武田征伐で総大将の信忠は与力武将の河尻秀隆が甲斐と信州諏訪郡、同じく与力の森長可
は川中島4郡を得るなど、信忠軍団は尾張、美濃、信濃、甲斐を領する巨大軍団(約200万石)
に成長、信忠付きの武将だった滝川は関東管領になり着々と北条を侵食。
東国の兵団には、いずれ上杉を滅ぼした柴田軍団が加わるわけで、
もともと信忠は出羽介、秋田城介に任官していたので、おそらく奥羽も
信忠に攻略させるつもり。
家康の出番はない、それどころかジャマな存在。
本能寺の変で、光秀軍の雑兵が上様(信長)の命令で家康を討つ
行軍だと信じ込んでいたのもうなづける。
818 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 02:00:56
佐久間の身分でのんべんだらりとしてたらそりゃクビにもなるって
819 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 10:55:12
信長に人格的異常があったのは間違いない
だってあれだけ味方から裏切られてる奴って歴史的英雄の中でもそうそういないぞ
「こいつには死んでも従えない」って思わせる何かがあったんだよ
信長の人格が理由で裏切った奴なんてそんなにいないだろ
822 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 00:04:27
急激すぎる成長が要因のひとつだな
823 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 20:29:12
>>820 光秀は天下取りのためだから人格が理由ではないが、
荒木、松永はそうじゃないか?あるいは浅井も。
824 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 12:46:45
>家康は信長をどう思っていたのか?
長いものには巻かれろ、と思っていた。
では、このスレは終了
そんな単純な結論で終了するならあれほど信長を裏切る勢力は出てなかった
それは「裏切った連中は信長のことをどう思っていたのか」で全く別問題
軍事的統率能力 家康<<信長
軍事的決断力 家康<<信長
内政能力 信長<<家康
政治的指導力 信長<<家康
経済政策能力 家康<<信長
侵略者能力 家康<<信長
忍耐力 信長<<家康
政略度 信長<<家康
卑劣さ 家康<<信長
戦略性 家康<<信長
人心掌握度 信長<<家康
828 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 02:20:22
感想はかかなくていい
829 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 23:27:26
尊敬してた。
根拠は、尾張の本拠地を名古屋としたこと。
名古屋は、信長が親父から城主として譲られた始めての城
それまでは、尾張の中心は清洲だったが、御三家の尾張家を
置くにあたり、居城を名古屋にわざわざしている。
830 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 00:00:32
831 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 00:44:03
秀吉よりは信長の子孫に優しいよね
832 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 00:56:25
それは信長と秀吉への好悪が影響してるんじゃないだろ
833 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 02:36:56
子供の頃に掘られてるんじゃないのか?
834 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 08:49:26
>>831 自分の地位を奪われる可能性があるから、
秀頼ー国松は誅殺したが、それ以外の秀吉系はそうでもない。
信長系統は、家康時代には逆らう力なく瀕死状態、
何をどうする必要性もなかったからな。
お市の娘3人の異常な出世を見ると、織田の血統になんらかの価値を見出してたふいんきがある。
で、信長は嫡統と一般では言われるけど、そのあたりの真偽を別にして、信長とお市は同母だったのではないかな。
もちろん状況からの推測でしかないのだけど、秀吉や権六がお市を欲しがったのは、美人だから、なんて説明よりもよほど
信憑性があるような。
秀吉の血統を殲滅したのは源平藤橘に次ぐ豊臣の姓を絶滅する必要があったからだけどね。
頼朝の故事をひくまでもなく血統が生きてる限りいつどこで復活されるかわからないし。
>>835 >信長とお市は同母だったのではないかな。
それはよく言われていることだね。信長公記に美男と書かれ、信長に付き従い、市親子を保護し
信秀正室土田御前の世話をした織田三十郎信包も、彼らと同じ土田御前の子という説がある。
最終的に信包は柏原で織田家の家名を保つことになったのだから厚遇といえるよね。
伝説として一人歩きしている市はともかく、彼ら兄弟は特別扱いされている雰囲気がある。
信長には子女が沢山いたのに、ここまではない。
となると、母親土田御前が当時カリスマを持っていた…と考えるほうが自然だよね。
でもこの人出自すら異説が多いのよね。謎。
>>817 本城惣右衛門覚書以外にも
本能寺近くにいた宣教師の書に
光秀の家臣たちが信長の命令で家康を打ちに行くと
思っていたのだろうと記している。
>>836 母親に価値があるんじゃなくて信長と同腹ってのに価値があるんじゃない?
複数存在する織田系図の中には
信長とお市は従兄妹って系図もあるらしいよ。
結果的に浅井を滅ぼした織田は低迷して、
滅びた浅井の血が天下を治めているのが面白い。
織田の血でもあるんだが…
>>839 いや、同腹であることに価値を見出すなんて古今を見渡しても例がないし実際価値があるとも思えん。
精々、皇位や家主の継承に有利なくらいじゃないのか?
>>836 へ〜、よく言われてるの?
10年ぐらい前に少し見かけたことがあるぐらいなんだが、良かったら関連情報教えてもらえるとうれしいな。
信行も秀考も美男と書かれるでしょう、これはうつけとの対比、つまり信長別腹、非嫡男説にもつながると思うのだよね。
公記ではまさか庶子信長が宗家に謀反、とは書けないからそういう牛一苦労の表現で。
そうなると信秀葬儀のあのうつけぶりも筋が通るし、なんであんな振る舞いをしたのか、の解答として
その葬儀に呼ばれてなかったから、という解釈も聞いたことある。
庶長子信広も葬儀には描写がないし、庶子とするならよばれないのもわかる。
葬儀に同行した平手の自害の理由も含めて公記首巻はかなりの創作というのもよく聞くし
桶狭間前後の方が信長に関しては定説に問題があるんじゃないかな。
道三会見の日付が書いてある本もみかけたけど、あれだって不明じゃなかったっけ。
話戻して信長には強力な武将としての価値、憧れがあったのだろうしそれが同腹としての市とその娘の
価値につながった、となるのだよね。
そういえば信長の兄弟に姉妹もいっぱいいたけどちゃんとしたとこ嫁いだのは市ぐらいじゃないか。
もちろん政略結婚だが当時としては普通だし信長自身が同腹ってこと知ってたのじゃないかな。
状況判断でしかないけど意外と話はつながる。
いくら庶子でも葬儀に呼ばれないってことはないんじゃないの。
信長が庶子だったとすると、弟の信勝とは別腹ってこと?
信長の生母は当時の文献には小島氏となっているけど?
確かに信長と信勝が正室腹で同腹なら、信秀正室が信勝と住んでいたというのは
違和感あるし。なんで長男と住まなかったんだろうって思ってた。
お市が同腹ならかえって政略結婚には使わなかった気がするけど。
信長は身内に甘い人間だし。自分の娘には家康の息子にやった以外は
全部家臣のとこに嫁がしてんだよね。
牛一が苦労して書く必要もないんじゃないの。もう主役の信長は死んだ後だし。
しかも見せるのは秀吉にでしょ。あんまり違うこと書くと秀吉からチェックが
入ると思うな。
信長の少年時代は牛一が見聞きしたというよりも、かなり後年になってから
関係者達に取材して書かれた物だし、逸話の類なんかもかなり入っていると思われる。
ので、信憑性は?がつくんだよね。
>>844 信勝ってのは知らないけど、母が一緒に暮らさなかったというのは前に話題になったことがある。
幼少の弟のほうと住むのは普通じゃないか、と言う意見があってそれもそうなんだけど、
後に権六とか組んで信長と戦った信行なんかは別腹じゃなかったかな、と。
当時は政略結婚は普通だし誰かのところには嫁がせなきゃいけない。
だったら少しでも名家のとこに嫁がせたかったのじゃないかなってね。
娘は上杉のとこにもやろうとしたんじゃなかったかな。
実現しなかったけどあの時の信長はそこまで追い詰められてたという傍証にはなるのかな。
公記首巻の信憑性はかなりの?をつけたいですな、同感。
ただ信長は秀吉の主君だったわけで、その主君の出自や織田家乗っ取りがひでぇやり方、とは
秀吉に対しても書きにくかったのじゃないかと。
秀吉だってそのあたりから加担してるわけだからね。
話戻して信広は庶子なのが明白だけどこれが葬儀の場面には出てこない。
というとよばれてないという解釈もできる。そこからの推論なんだけどね。
ま、史料重視の人から見たら推理小説なんだが公記の信憑性を論ずるなら
少年時代の信長における定説というのはそれ自体があやふやということだから。
846 :
日本@名無史さん:2007/10/13(土) 01:17:17
信勝=信行
で、あるか。
848 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 21:33:05
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
過疎スレ
家康は、自分が信長にされるかもしれないと恐れていたことを、
秀吉亡き後の豊臣家に対してやったんだね。
少なくとも、そこにはかなりの緊張関係があったんだろうね。
決してお友達、三国志みたいな血を分けた義兄弟というような関係じゃなかったんだろう。
家康は内心ビクビクしながら、信長に接してたと思うね。 少なくとも家康の側から友情のような人間関係を信長に感じることはなかったと思う。
851 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 23:15:48
実質家来っつーか織田家方面軍司令官
家康は信長の事を“上様”と呼んでたし、安土城下に屋敷を与えられてることからしても織田家の武将だね
甲州征伐後に駿河国御拝領とか言ってたのも、信長と家康の関係がこの頃は主従となってたことを意味してる
☆ 禿鼠猿吉は信長をどう思っていたのか ☆
信長は浅井に妹を、徳川に娘をそれぞれ嫁がせてる事からしても、永禄11年頃までは、長政>家康 という見解。
後に信長は秀吉にも娘を側室に差し出してるし、姻戚関係とはいうものの事実、忠誠を誓わせる為の手段でなかったと言う事だね
長政は死ぬ前、お市の方を織田陣中まで届けてるし、人質という意味はあまり無い気がする。
855 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 14:23:07
>>854 なんで妹を嫁がせただけで長政>家康になるんだ?
当時家康には正室の築山殿がいるから家康本人と直接婚姻関係を結ぶのは無理。
だから嫡男の信康に対してちょうど年齢が釣り合う長女の徳姫を嫁がせたんだろ。
浅井長政は最初の正室とは既に離縁していたから妹を正室に送り込んで婚姻関係を結んだ。
ただそれだけの事でなぜ長政>家康になるんだ?
血筋の点で考えるのなら実子>>妹なんだから家康>長政になるんじゃないのか?
まあ当時の織田家にしてみれば両家は等しく重要な地を治めていた同盟相手だろうけどな。
それから信長が秀吉に娘を側室にっていのは本当か?
三の丸殿は本能寺の後に秀吉の側室になったんじゃなかったっけ?
もしかして信長存命中に秀吉の側室になったの?詳しい人いたら教えてください。
856 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 18:57:04
三の丸殿はもちろん本能寺後。
生前は息子を養子に出してるだけでも十分だろ。
857 :
日本@名無史さん:2007/11/16(金) 20:22:12
信長が生前に娘を秀吉に側室に出したとかアホくさいこといってる香具師がいる
858 :
855:2007/11/17(土) 21:05:18
>>856-857 レスサンクス
やっぱり信長存命中に信長が秀吉に側室を差し出すなんてありえないよな。
身内大好きな信長が40過ぎたおっさんに娘を嫁がせるなんて考えられないし、
ましてや正室ならまだしも側室なんて有り得ないわな。
しかし、このスレまだ続いていたんだ・・
話脱線しちゃってるな。
860 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 00:36:34
日本史板でそうそうスレは消えないだろ常考
長男の切腹とかあったし信長を好きではなかったろうが、お家最優先という意味で武将としては評価
してたんだろな。
その点炯眼とはいえる。
>>861 何故長男切腹が何度も繰り返し出てくるのか。過去ログ読めよ。
むしろ、家康側の信長への反逆と見るべき出来事だろう。
>>862 過去ログ読んでるけど、長男切腹でもいろんな解釈があるんだね。
信長への反逆とまでいうのもすごいとは思うが。
ま、織徳同盟が最後まで続いたのを稀有な例として評価してるからね。
徳川実紀あたりでは結構ボロクソっぽくて思いしろいけど。
864 :
日本@名無史さん:2007/11/29(木) 21:22:59
正直信長と家康の同盟関係も賞味期限ギリギリだったよね・・・
まあ信長と織田家臣団の信頼関係にも同じことが言えるが・・・
正直死ぬべき時に死んだという感じで、突然死という感じが全然しない
865 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 02:14:57
徳川家康の松平家って
記録上は、事実上の祖である松平信光の頃から
足利幕府の伊勢氏の手下で高利貸業をやったり
松平氏の出自が、吉備氏系の陰陽道・賀茂氏らしいし...
そういうわけで、下克上といわれるわりには、
京都の旧体制と関係が深かったんだよな。
本能寺の変の時は、近衛前久、足利義昭、徳川家康、明智光秀の四者の
ホットラインが出来ていたらしいじゃん。
そこに秀吉加えた説もあるぞ。
姐小路だったかな。
867 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 00:31:35
つーかなんで信長は信頼を失ったの?
868 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 03:28:59
初めから無い
>>867 武力で屈服させるやり方に嫌気がさしていたとか
871 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 00:15:01
>>868 最初からないなんてこたぁないだろ
あれだけ成長したんだから
使えなくなった奴を難癖付けてどんどん切っていったからというのも
重臣だって将来「あのとき〜だったからクビね」と言われる事におびえていたであろう
特に柴田なんかやばい
林が「30年前に謀反起こしただろ、なんか腹立ってきたから追放だ」
って理由でクビになってるし
873 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 22:15:02
そうは書いてるけど案外尾張の平和な代官だから不正しまくってたんだろうよ
だから林は切られたと
874 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 14:23:54
佐久間や林が切られた頃から、信長の支配構想に
大転換があったという説を読んだ。
大身の譜代重臣に各地方を任せ政治に参加させる
体制から、大身の重臣を解体して信長と信長の
側近による独裁政治への転換。
大身の重臣として残れるのは自分の息子や身内だけ
ということになる。
それに危機感を抱いた光秀が、謀反を起こしたという説。
きっと家康だって、それに気がついてガクブルしていたと思うよ。
信康切腹命令は家康を身内として扱うかどうかのテストだったかもね
従来の説によればだが・・・と書かないと
>>862のような反論がくるw
876 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 19:13:35
>>1 さっさと氏ねばいいのに
にきまっとるだろうがw
877 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 19:23:12
信康切腹が信長の命令ならば、まず娘の五徳の身の安全を確保してからにするだろう。
身内に甘い信長のことだから。
信長がそんな命令を出せば、信康の正室で、信康と同居していた
娘の五徳は真っ先に殺されるはずで、
五徳が信康死後も徳川家に残り、2人の娘を家康に預けて平和に帰還するはずがない。
家康が信長の命令でしぶしぶ嫡男を斬ったのならば、
織田へ帰った未亡人五徳に知行地を分け与える理由も無い。
五徳が殺されるというか、つまり家康が同盟を破棄して
信長から離反するはずだよな。
武田氏に内通したという確たる証拠があったのならともかく、
通説ではそうでもないのに信康を処分してる。
だから信長の要求などはなく、家康がなんらかの理由で
信康を死なせたのだろう。
嫁さんに人質としての効果は期待できない
なんて論じてる人もいるらしい
>>877 「三河物語」によれば五徳が信長に夫婦仲が悪くなったことや
不行状を訴えて信長が信康の死を命じたとするが、
そんな理由で婿を殺そうとするかねえ?
信康が五徳の夫に相応しくないということなら離縁という手も
あるはず。
一足飛びに信康を殺そうというのは理解できない。
信長の性格ならありえるけどな
>>881 ねーよ。
史実の信長は、謀反を起こしたヤツも許す脇の甘い人間だ。
ねねに励ましの手紙を送ったりしてるもんな。
信長が慈悲深い人間だったと?
浅いなw
本能寺の変に参加した足軽が残した書物に
「みんな家康を討つものだと思っていたので、対象が信長様だと聞いて
びっくりした」と記しているが、これこそまさに信長の本質
>>884 慈悲深いというより甘い
苛烈だが情愛に弱いタイプだったんだろうな
情愛もないよ
信長が他人に向ける視線ってのは、人間が小さい獣を見るような視線でしかない
だからみんな信長に反感を持ち裏切っていった
それはそれとして信長って本能寺なかったら、
秀吉とかに大きく与えすぎた所領どうするつもりだったんだろうね。
「よし、猿には播磨30万石をやろう。
蜂須賀や黒田は儂が直臣に取り立ててお主の旧領を与えてやるから安心せえ」
みたいなことかな。
家康はなんだかんだで功臣の所領小さくまとめた点は上手かったよな。
>>888 秀吉は信長の息子を後継者にさせていたから、問題ないだろう。
その他は秀吉方式で、代替わりの時に、赴任地を変えるとかかな。
謀反の疑いのあった場合は、佐久間のように追放してしまうだろう。
890 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 01:31:13
司馬に毒されたバカが1名ほど沸いてるな
891 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 17:25:34
>>887 信長は甘いよ
敵将に嫁ぎ、夫を信長に殺された妹の市を、
敵将の娘ともどもなに不自由なく生活させてたくらいだから。
信康が信長の命で殺されたのならば、
事前に娘の五徳と2人の娘を織田方へ帰させるくらいの処置はする。
しかし、実際には五徳が返されたのは信康の死後、家康の意向。
しかも二人の娘は織田に返されることなく徳川にとどめられ、
織田と徳川の間に何かがあったとはとても思えない。
その場合、信康に男子がいれば真相に近づけたのにと思う。
お市の場合、実子ではない可能性が高いが男子(万福丸)は
信長の命で殺されている。
信康殺害が信長の命令だったとしたら同じようにその男子は
生かしておかなかった気がするからな。
893 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 17:50:56
>>892 浅井家は滅ぼされたため、浅井家長男万福丸(庶子)は殺害されたが、
(次男は寺へ入れられている)、徳川家は滅びていない。
仮に信康に男子があっても、家康庇護下で殺害される可能性は低い。
そもそも、他家の嫡男を殺したいのならば、信長は徳川そのものを滅ぼすはずなのだが。
未亡人の市をかくまったごとく、五徳をかくまったのもまた、信長の甘さだな。
未亡人となった五徳を、新たな徳川後継者となった秀忠の正室にねじ込んでいれば、
歴史は変わっていたかもしれない。
信長死亡時後の秀忠は4歳。
信長がもっと長生きしていればそういうこともあったかも
知れないが。
信康の死で織徳同盟は血縁の上では切れたようにも見えるが、
そこは2人の姫を残してきたことで継続ということなのだろう。
895 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 23:05:37
>>893 神のゲームだな
人質スタート
小国スタート
農民スタート
大名スタート
896 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 03:46:28
本能寺で露と消えた信長さんは家康はともかく
秀吉が信長の残された息子や娘にした仕打ちを
冥土で見ていて、怒鬼の形相になったのは間違いない。
897 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 05:17:37
信長は空気の読めないボンクラ。やったのは家康。
>>896 もし本当にあの世というものが存在しており、
秀吉が死後に信長のいる場所に昇天してしまったら・・・
秀吉オワタな\(^o^)/
>>898 信長も秀吉も仲良く地獄行き
地獄で子供みたいな喧嘩して、ふたりとも獄卒に怒られどつきまわされるだけ
死ぬ寸前は信長の夢を見てうなされていたとか
まあ作り話だろうけど
901 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 02:48:26
サルみたいだと
本能寺の変の後、家康は信濃と甲斐を占拠しちゃったけど、
これって問題にならなかったんだろうか。
家康とすれば、信長が死んでくれてラッキーと思っていたん
じゃないか。
903 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 03:23:42
904 :
日本@名無史さん:2008/02/16(土) 01:57:13
>>898 信長:こらはげ鼠。俺の息子に何をした?
秀吉:いつまでも上司面しないでくれる?
905 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 19:03:01
家康は分からんが
信長と秀吉は絶対地獄に落ちただろうなw
江原啓之も信長は死後200年間は地獄に落ちたと言ってたような・・
907 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 20:06:25
家康も秀吉の8歳の孫を殺しているから
地獄行き
908 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:38:04
そんなこと言ったら戦国武将の大半が地獄行きってことになるだろ
909 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 23:32:28
やはり信長は地獄に落とされたか
910 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 23:37:41
確かにオーラの泉の「江原啓之」が
織田信長は死後地獄に落ちスペインで奴隷として生まれ変わったと言ってたな
あの世では貴賎はない罪状のみ物をいう
>>908 いや、実際会ったら気さくで良い人ばかりだよ。
912 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 14:45:10
913 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 16:55:24
しょせん信長など家臣に殺された負け犬にすぎないわけで
914 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 17:01:31
徳川家も家臣の毛利と島津に負けて、信頼していた井伊家にも裏切られたにすぎないわけで
915 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 17:07:47
江原啓之wwwwww
916 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 17:13:26
家康は違うだろ
917 :
日本@名無史さん:2008/04/06(日) 17:26:28
今の東京の繁栄も家康公と天海様の業績
真に徳川は偉大なり
920 :
日本@名無史さん:2008/04/30(水) 20:29:09
信長=池沼
921 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 06:47:34
ツンデレ。。
922 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 19:21:36
家康は築山を軟禁状態にして岡山に戻らせなかったり次男秀康には会おうとも
しなかったりと基本的に家族に対して冷たい男
923 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 20:35:50
こんな基地外にはならないようにしようって思ってたよ
924 :
西尾城代大久保忠世:2008/05/02(金) 21:53:50
家康公は織田信長に対しては優れた心理学者のように振る舞い、家康の一挙一動が信長の過敏な神経を逆なでしないように全力をあげて振る舞ったのであった
925 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 00:31:22
信長は繊細な性格だったからキレやすかったのだろう。
また尊厳も強かったからプライドが傷つけられると鬼のごとくキレていたのだろう。
温厚な家康は信長がキレる事を恐れていたに違いない。
秀吉はさらに信長を恐れていたのだから。
信長は繊細だが恐ろしい!
926 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 15:41:46
信長は家康の反面教師になったよな
信長みたいなやり方をしてると嫌われて天下を取るのは無理と思ってたのだろう
927 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 16:03:52
家康の反面教師だな=信長
928 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 10:38:28
信長と家康は、義兄弟だったので、天下を二人で協力して治めた.
929 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 15:00:06
信長と家康はともに追い詰められると突っ込んでいくようなタイプだと思うんだけど、
突っ込んで桶狭間で大勝利した信長と、突っ込んで三方ケ原で大敗北した家康。
この経験が二人の最後に影響しているような。
かたや格上の今川家を下剋上で倒して、その勢いで本能寺まで止まらなかったが光秀の下剋上に倒れた信長と、
格上の武田家に散々な二度と立ち直れないような目に合わされたが、後に武田信玄との闘いから学んだ兵法で秀吉や三成を撃破した家康。
人生は局面だけじゃわからないね
なるほど、おもろい視点だね。
細かい論証はあるだろうけど、ミカタガハラの家康はらしくない、んだよね。
正史派の論も聞いてみたいもんだ。
932 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 10:24:42
信長と家康の個人で見るより、家康を慕っている家臣はたいへんな数だったことを含めて考えると、
例えば信長が有力家臣をぞんざいに扱い続けたら、相当数が家康に流れていったんじゃなかろうか。
ということで、やはり家康のもとに天下は転がってきたと思うのですが。
家臣をぞんざいに扱ってたらあそこまで人材が集まらないだろう
きれやすい=ぞんざいに扱うは違うと思うが
信長は神経質で部下に対する配慮も行き届いてたけど
同時にきれやすく部下に恐れらたって感じかな
家康だって酷いときは結構酷いしな
>>922 家族を平気で放置プレイしたり、阿斗(劉禅)を地面に投げ捨てた劉備モナー
しかし晩年に生まれた子たちには打って変って優しいように見える
後に御三家になった徳川 義直達3人に対してはそう言えるかもね。
940 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 12:55:45
>>933 >信長は神経質で部下に対する配慮も行き届いてたけど
刀の先に饅頭突き刺して、そのまま荒木村重に食わせた。
秀吉がゴマスリだから、木の上から小便かけた。
信濃守護だった小笠原家の肩書きを利用したけど、分け前は与えなかった。
朝倉攻める時は、浅井に報告するように約束したけど無視した。
家康の前で、「この老人が・・・」と松永久秀の悪口言い放題。
明智光秀の発言が気に入らないと、衆人の前で暴行。
そんな事を信じてどうするね
フロイスによると足蹴にした事があるらしいから
全て嘘とはいえんだろう
問題は、フロイスの記述がどこまで信用できるかだがな。
そんな大事件が、当時畿内にもいなかった(つまり知りえたとしたら伝聞情報)
人物の後日の報告書にしか出てこないという時点でかなりアレだが。
つか>940って講談ばっかじゃないか。
至極まともな人格者だったら講談とはいえここまでポンポンと生まれん気もするが
>>944 まぁそういうことだね。記事が事実かどうかは大したことじゃない。
「当時」そういう噂が「あった」ことが立証できれば、暴行する人じゃなかったという説は棄却してもいい。
当時は側近への暴行なんて珍しくもないしね、はあ左様かで終わる話。
>>945 >当時は側近への暴行なんて珍しくもないしね
んなわけあるか。まだ江戸時代のほうが可能性はあるにしても。
それにしても噂があれば事実認定って無茶苦茶だな。
947 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 13:37:13
お前ら深読みしすぎ。
至って良好な、仲のいい関係だったと思う。
948 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 13:41:15
良好な仲なら織田家の江戸期の石高はなんだありゃ
949 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 14:01:56
>>946 同意。
噂を鵜呑みにしたり、多数の意見だからと宣言し確証もなしに公言する。
日本史の話だからまだ実害がないが
皆が犯人だと言っているから犯人に違いない、なんていうのが陪審員になったら怖いな。
950 :
日本@名無史さん:2008/11/12(水) 16:41:58
>>946 単に信長と家康の仲がよかったってことでは?
951 :
949:2008/11/14(金) 10:55:27
949は、944-945の結論付けに呆れただけ。
信長と家康に関しては、
仲が良いという言葉が適当かどうかは知らないが
少なくとも嫌いあってはいなかっただろうし
信頼関係が成り立っていなかったとは思えない。
952 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 15:26:31
だな。
2人ともお互いにお互いの要求を過不足なく呑んでるし、
友好的なやり取りこそあれ、ネガティブな関係を思わせる記録もないしな。
>>948 直系の三法師が西軍側にいなかったらね〜
954 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 18:56:56
関ヶ原だと秀信だけじゃなくて信雄やその他の信長の子も西軍だからな。
東軍についたのは有楽だけ。
大阪冬の陣ではその有楽も豊臣方にいたし。
信長と家康は同志的な信頼関係にあったのではないかな。
その家族でも同じような関係を築けるような相手でないのなら仕方がないね。
信雄には小牧・長久手でお付き合いまでして充分義理は果たしたんだし。
その結果がアレだし。
956 :
日本@名無史さん:2008/11/15(土) 16:27:19
3万石の木下家より
下の席次に転落した
織田藩カワウソ
築山殿事件で信康を死なせたので、
信長に対する感じが内心変わったという資料もある。
ない!
ないな。
960 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 07:29:38
てか、最近は築山殿や信康の殺害は
家康の命令という説が強くなりつつある
実際、同盟者が嫡子と正室を命じたというのは
いかにも不自然だわな
961 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 07:30:32
言葉が抜けた
↓
「実際、同盟者が嫡子と正室を殺せと命じたというのは
いかにも不自然だわな」
>>914 今更だが幕末はもはや戦国時代の島津家とか毛利家とは違う。
幕府が負けたのは島津や毛利ではなく薩摩藩と長州藩だろう。
毛利家は長州では「そうせい公」だったしな。
>>957 築山との事件が信長の命令だと信じてる輩がまだいたのか。
あれは徳川家の内輪もめだ。
964 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 22:44:44
酒井や大久保らが
将来こんなドキュソに
仕えるのはイヤだと考え
五徳を焚き付け
右府様の威光をもって
ヤンキー小倅を始末した
965 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 07:39:01
築山と信康が残ってたら将来今川が幕府の外戚としてしゃしゃって来ただろうから、始末したのは賢明な判断だった
966 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 01:00:59
>914
井伊直政が幕末に彦根が官軍に味方して江戸城に攻め込む姿を見たら井伊直政は悲しむだろうな…
967 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 13:30:12
井伊家は元々は徳川家の家臣ではないし。
968 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 13:58:57
築山事件は信玄が嫡男を殺したのと同じ構図だな。
岡崎派を家康がコントロール出来なくなっていたし、
武田信虎が息子に追放されたように、自分も追放されるかもしれないわけなので。
息子の舅なので、信長の許可を貰いに行ったのが酒井だが、
信長は、実際に娘を通じて家康を追放させようと画策していたのかもしれない。
969 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 15:53:48
こいつ今に高転びに転ぶぜ それまでの辛抱じゃ by家康
970 :
ゆきだるま ◆2eAi0OJQSA :2008/12/11(木) 21:11:16
972 :
日本@名無史さん:2009/03/16(月) 19:08:28
973 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 16:37:42
晩年、信玄のことはよく語っていたらしいが、信長のこ
とは殆ど語らなかったらしい。冷ややかな目で見ていた
のは間違いないね。
974 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 17:41:11
秀吉曰く、信長は「勇将だが良将ではなかった」らしい。
信長が長生きしてたら、封建制なんか採用するもんか。
大名などという存在など許さんだろ。
信長は皇帝になって、家康やその他の大名連中などは貴族に祀り上げて領地は召し上げ。
日本全土を信長の直轄にする。
絶対君主制にまで突っ走る。
信長の生涯においてずっと封建制で
配下を大名にしまくってるのに
なぜこんな事が思えるのか意味不明だ。
>>976 信長のことが全然わかってないね。
信長は土地(所領)にへばりついてた部下たちを、転勤族に変えてることくらい気付けよ。
978 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 22:21:45
>>973 信康の事もあるし思い出したくなかったんだろうな
>>977 そんなの武田も上杉も北条もやってる事に気づけよ。
信長以外のこと全然わかってないね。
980 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 23:07:41
上条も能登・加賀担当になると喜んでたら
加熱具の讒言で信濃担当にされた
信長が生きてたら家康は成り行きでそのまま3〜5国ぐらいを支配する配下大名に収まってたんじゃないかね
関東へ転封されるかは分からん。既に本城は清洲から安土に移ってた訳だし
それぐらいなら家康もそこそこ満足なのではないかな。大大名な訳だし