1 :
日本@名無史さん:
武田勝頼に対する評判はよくないが
されど、彼の死後、数ヵ月後にして
本能寺の変が起きたことを考えると
天下取りに近かった存在といえる。
勝頼対秀吉
なんてこともあったかもしれない。
みんなで武田家滅亡を検証しようぜ。
2 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 10:59:27
信玄の犠牲者
3 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 12:04:08
不器用だっただけで、ザコではないと思うが…
強いていうなら、手をかける順序を間違えたのと、
名門武田家っていうプライドが、捨て切れなかったんだろ。
4 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 12:10:35
12:10:30
5 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 14:28:38
「捨て切れなかった」のではなくて「捨て切らしてもらえなかった」のである。
俺は勝頼は非常に優秀な武将だと思う。
長篠の戦いの負けの原因は誰にあるかという論議は今はしないが、彼はその戦いの負けから武田家の弱点を悟った。
そして、それを改善する政策をいくつも実行しようとしているが、周りのアホどもが「御館様の時代は〜〜〜」とか抜かしてことごとく反対している。
6 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 14:47:20
負けから悟っても遅いだろ
家を潰したのは事実。まあ結果論だけれど
長篠なんかより御館の乱の対応が問題じゃなかったのか
謙信の跡継ぎ問題に巻き込まれて北条とも仲が悪くなるし、やっぱりダメだな
7 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 14:48:45
>>6 嫁が北條家だから、仕方なかったのではないか?
8 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 14:56:25
だから、景勝を応援する事になったのが問題でしょ
あんなとこ行かなきゃ良かったのさ
優等生みたいな答えだけど
>>5 >俺は勝頼は非常に優秀な武将だと思う。
一武将としては優秀かもしれないが、当主としては失格だろ。
>それを改善する政策をいくつも実行しようとしているが、
戦国大名ならどこでもやってたことをやろうとしてただけの話。
>周りのアホどもが「御館様の時代は〜〜〜」とか抜かしてことごとく反対している。
誰?
10 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 16:33:45
講釈師見てきたような嘘を云い
11 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 16:51:34
御館の乱もだが、手を組んで信長を討とうみたいな書状を
毛利に出したり、織田との和睦のチャンスを、2回とも潰したりと、
外交政策には、かなりの問題点有りじゃないかな?
長篠後に、穴山を処刑しなかったという家臣への甘さもまずいがね
12 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 17:08:49
どうせ三戦板のスレのように、議論ループして終わるんだよ。
三戦スレの議論用テンプレ貼っとけ
13 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 17:09:39
>>12 「がな」とか「だな」「ですが」と言いながら無限ループ
現在三戦の勝頼スレは無い模様
15 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 18:32:52
景勝>勝頼=信忠>>>>>>>>>(越えられない壁)>>>>信康>>秀頼
16 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 08:55:28
>>6
家康だって負けた戦いからいろいろと勉強して成長していってるだろ。
自分の苦虫を噛み潰したような顔を書かせてのこしたり、、、、。
勝頼もそうしたことをしようとしたんだと思う。
というか、そもそも武田騎馬隊ってのがそもそもそんなに強くなかったんだと思う。
三方が原以外で武田が圧勝した戦いってあるか???
家臣たちは武田騎馬隊が最強だとかいう愚像を勝手に抱いてただけ。
信玄は甲斐と信濃を平定したから、平定後に神格化されて反則的に信望があった
だけで、もし勝頼と信玄が生まれる順番が逆だったらお互い全く逆の立場になって
評価も全く逆になってると思う。
長文になってまじすまん。
結論としては勝頼はかなりの武将だったが確かに日本全国を治められるような
器ではなかったと思う。
そして、非常に運の悪い武将だったと思う。
17 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 09:10:20
勝頼は嫡男では無かったため、家臣の信頼を得られなかった。
これが、武田家滅亡の最大の原因だろう。
18 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 16:33:40
>>9 よ俺は5だが
俺は当主としても申し分ないと思うぞ。9のいう優秀な当主とは自分の国を守って善政をしく当主
のことかね?毛利元就のような。
それとも、他国を取ってどんどん国を大きくしていく当主のことかな?信長のような。
どちらにしても、勝頼は後の方を選ばざるを得なかった。それは武田騎馬隊最強と信じる
家臣達が戦いたくて戦いたくてしかたないからだ。
家臣の意見をまとめて方針を決定していくのが当主の役目だ。仮に、勝頼が戦わずに国を
守ると言い出したところで三方が原で大勝してして「敵は無し」と勘違いしている家臣を
もう止められるわけがない。誰であっても。
さらに、御館様が隠せと言っていたその死は3年どころか数ヶ月も経たない内に全国に広
がっている。
しかも、その3年間の間武田家では事実上真の当主ともう死んだ当主と2人の当主の2人
がいる形となったおかげで大事な就任直後の時期に勝頼は当主としてうまく力を発揮する
ことができなかった。
その時期の混乱がのちのちの武田家にさまざまな形で悪い影響を及ぼしている。
つまり、信玄の時期が虚像に包まれた武田バブルの絶頂期だった。
信玄が背負った借りを勝頼が背負わされただけだったんだと思う。
ちなみに反対してるのはほとんど全員だけど、例えば高坂昌信
19 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 16:37:23
ちなみに15の方は理由を教えてくれるとうれしいんだけど、、。
最後の秀頼はいいとしてもこういう順序で評価してる人をはじめてみた。
ぜひとも、理由が聞いてみたいです。
>>18 >どちらにしても、勝頼は後の方を選ばざるを得なかった。それは武田騎馬隊最強と信じる
家臣達が戦いたくて戦いたくてしかたないからだ。
そういう根拠は何?
21 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 00:37:46
妄想で反論するなら、三戦へカエレよ
20氏とダブルが、戦いたくて仕方ないとか、敵は無しと勘違い
している家臣って具体的に誰?
22 :
18:2005/05/30(月) 11:14:10
なんかここには、こすい奴しかいないんだな。
20、21よおまえらはちょろっと人につっこみをいれてるんじゃなくて
おまえらはどういう風に考えているのかを述べてからそれのおまえらの好きな
具体的な根拠とやらで考察しろ。そうした後に20、21のような意見を書き込め。
正直、2ちゃんとかで俺の今までしらなかった知識とかをつけれるかと思って
いると現れるのは見るからにこずるそうな社会の隅でおいしい汁でも吸って生きて
いけたらな系のばかりがでてきて、まったく為にならん。
特に21は妄想も・現実でも何にもしないでいきなり挑発的な言葉であきれ返るばかりだわ。
ちょっとだけ、ヒントをやると信玄が死んだ後の武田家の状況をよくよく考えてみろよ。
あの状況で「自分らは強い、京までいける」と考えない奴がいるか?
そのときの武田家の主力な意見が「侵略」でなくて「保守」であったおまいらの好きな
「根拠」をあげて言ってみろ。
人の批判をする前に自分の意見を言え。
負けてるのは、信玄も信長も家康も滅亡しても不思議でない負けは数度経験してるでしょう。
武将としてザコではないが、大国同士の削り合いによる併合戦という新しい戦いに対応出来
なかった人。あるいはその家臣団。
24 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 12:36:03
結構、戦上手ではあったらしいねぇ
>特に21は妄想も・現実でも何にもしないでいきなり
>挑発的な言葉であきれ返るばかりだわ。
2ちゃんねるってそういう場なんだが・・・
26 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 12:43:22
義信事件の黒幕が旧諏訪家臣?で
そのときの感情的なしこりが
のこってたんじゃないのかな?
あと山県内藤馬場高坂とかが
「所詮、諏訪の子だろ?」という
態度で接していたとか。
まあ妄想だけどね。
27 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 12:43:56
上杉景勝は感謝してると思うよ。
御館の乱で生き延びることができたのは勝頼のお陰だし、嫁さんくれたし
織田信長に対する盾になってくれたし(勝頼から援軍要請あったけど無視したし)
勝頼討死後、弟の武田信清が家臣になったおかげで武田家の主君になれたし
28 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 13:09:15
>>22 信玄はともかく、勝頼に上洛目的があったという
説はいまのところないと思ったが・・・
仮に家臣団が、そう思っていたとしても、最終決定権は(陣代だが)勝頼。
勝頼が、やると言わん限り家臣団は動かんよ。
それとも、領土拡大は全て家臣団の暴走から始まり、
勝頼はそれを止めることができなかったにすぎないということなのか?
29だけど、間違って空白のまま書き込んでしまった。スミマセヌ。
>>28 勝頼情けない
31 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 14:01:04
情けない以前の問題だろw
32 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 18:59:36
勝頼が対陣した長篠の戦いは、天下人の信長、秀吉、家康の豪華メンバーが揃っていたわけで。
そこへ強行突入を命じた勝頼は、狂気の沙汰としか思えないね。
33 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 20:31:04
>>32 >天下人の信長、秀吉、家康の豪華メンバーが揃っていたわけで
この部分は、結果論に過ぎないと思われ
34 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 22:05:02
なんか日本史板とは思えないほどレベルの低いスレだね。
三戦板以下。
だって三戦板の連中が日本史板の住人巻き込んでやろうと立てたスレだけど、結局三戦板の住人だけでやってるスレだから
36 :
18:2005/05/31(火) 16:01:08
>>22 たしか、信玄が死ぬときに「必ず京に武田の旗をなびかせろ」のような
ことを言ったと思ったのだが。
それから
自分ら最強と思ってるやつらが初めて遠征のような形で外にでる
↓
当時相当勢力を伸ばしていた織田・徳川連合軍に圧勝する。(織田は主力ではないが)
(当然、俺らやっぱ強いと自信が深まる。)
↓
さあ、これからという時にやむなく引き返すことになる。
この流れで国内の意見が「保守」になるとは絶対に考えられない。
それに、武田は反信長同盟の盟主的な立場にいる。
あらゆる状況から勝頼は打ってでなければいけない立場にあったと思われるのだが。
例えば、家康だって序盤のころは酒井忠次なんかの自国内で勢力の強いやからには
手を焼いているわけで
ある程度家臣の意見を入れてそしてまとめていかねば組織なんてものは維持していけない
のではないかと俺は思うのだが。
結局武田家全体も信玄の時代に見せかけ上まとまってただけの気がするんだが。
まぁ内部の意見がそこまで分裂しなかったってのは、それを作った信長
と、名家を受け継いだ家との差だろうな。武田の内部分裂も仕方が無い。
信玄の遺言の「喪にふくせよ」ってのも嫌がらせに近いし。
38 :
クラウンライター:2005/05/31(火) 21:26:03
武田勝頼は、やはり戦国大名としての器量に欠けていたと言わざるを得ない
それに運も悪い人ですよね
仮に死んだ信玄の後を、親族の穴山梅雪あたりが継いでいたら
武田もあんな滅び方はしなかったはず
信玄がが亡くなったとはいえ
信玄以来の宿将と強力な騎馬隊は残っているのだから、
それらをうまく使えば、覇権を争うとまでいかなくとも
上杉や伊達のように大名として生き残ったかもしれない
それを思うとやはり長篠の合戦は痛かったという気がする
あそこで我慢して自重しておけば・・・・
太平洋戦争の日本軍におけるミッドウエイ海戦のように
完膚なきまでに回復不能な致命傷を負いましたよね
>>36 >この流れで国内の意見が「保守」になるとは絶対に考えられない。
厳しい軍役負って新たな領地を得るよりも所領安堵と軍役から逃れることが第一だった当時の国人の事情理解してないね。
信玄最後の遠征ですら軍役が厳しくて家臣は一杯一杯だったの知ってる?
長篠前後の勝頼の書状みても勝頼が主戦派でなかったというのは無理ありすぎ。
>>結局武田家全体も信玄の時代に見せかけ上まとまってただけの気がするんだが。
親父のせいにするだけで勝頼の評価が上がると思ったら大間違い(勝頼贔屓はいつもそれしかできない)。
勝頼が当主としてどこが優れていたのか具体的に説明してくれ。
信玄死後9年も持った、とかいう変な論理も無しで。
40 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 22:28:46
長篠の合戦までは良かったんだけどね。
信玄の頃より、家康追い詰められてるし
この、北条ウジムシめ!
42 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 08:40:16
ループ
43 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 08:57:52
長篠の戦は本当はどういう戦いだったんですか?
一般に信じられてる「ひたすら突撃する騎馬隊を鉄砲隊が全滅させた」
などという単純な内容だったんですか?
44 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 09:35:14
>>43 大軍が立て篭もる、堅牢に作られた野戦陣地と
元々数の上で劣勢の武田軍との攻防戦
そもそもセオリー的に勝ちはない。
武田軍は散会形式で各自撤退したので、一見壊滅に見える。
加えて信長の戦後宣伝工作&江戸時代の家康マンセー伝説により、
誇大気味に今日伝わる。
ただし、武田軍の旧閣僚&中堅将校らが多数戦死しているのは事実。
(さーこい。)
45 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 11:57:12
義信が生きていれば天下は取れた。
46 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 12:03:10
古いイメージの騎馬隊が集団自殺をしたような戦いならともかく
武田家滅亡の原因はなんだったのか?
長篠の戦いは決定的なものだったようには見えない
実際、信長に解体された。武将は殺され、再起不能にした。
・・・というか、実は有能な武将は徳川家に抱えられて、家康に使われた。
勝頼が自害した今、いまさら騎馬隊を再編成して対抗するやつなんていなくなったてオチ。
48 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 16:34:51
49 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 23:58:53
五郎盛信が継いでいれば…。
50 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 00:12:53
四郎勝頼
三郎景虎
あいつ何しにに来たの?
勝頼様意外に当家を継ぐべきお方はおられません
52 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 00:45:37
>>49 盛信が、武田家の家督を継いでいたら、滅亡せずに繁栄したであろうと
当時噂されたと、書いてある本があるよ。
勝頼と盛信は、仲が良かったというから、信勝が元服するまでの間、
勝頼が全てを引き受けるのではなく(多分荷が重すぎた)、
統治関係は盛信・戦関係は勝頼って感じで、うまく役割分割を
すれば良かったのかもと、結果論からの愚考
戦闘は無能ではないと思う。信玄でも落せなかった城を抜いているし、
最大の版図を作ったのは彼だ。
ただ外交手腕がなあ。
織田徳川と敵対しているのに、北条を敵に回してどーするつもりだったのやら。
北条が織田徳川と懇意になってしまったし、あれで完全に終わった。
ちょっと妄想。
北条と協力して、景勝を撃破、速やかに上杉領を安定させる、
実際景勝が治めたあとも、反乱は減らず、織田に能登越中を奪われているから、
ここで上杉影虎と強力な同盟関係を築けておれば、この失態もなかったはず。
そして北と東を安定させてから南下。北条の援軍も宛てに出来るし、
上杉が北陸で出て織田軍を分散、北条が敵に回らなければ、史実よりずっと早めに、
進出できるから、織田が多方面への対処で忙しいときに、動けたのではなかろうか。
>>53 北條と協力しようにも、氏政相手では一緒じゃね?
景勝を討って、上杉領を安定させたところで、
影虎は、元は北條云々とか言って、結局もめそうな感じもするが・・・
だいたい何で氏政はとっとと救援に来なかったんだ。
遅くとも7月ぐらい迄の時点で共同戦線でサクサク押しまくれば勝てたんじゃないのか。
勝頼の外交のまずさを言う人が多いが、そういう氏政への根深い不信もあったのでは?
>>54 そう思う。
結局は北條に呑み込まれるのがオチなんじゃねーか、と警戒するだろう、普通。
だいたい越後の宿年の膿がドロドロの奔流になったようなあの御館の乱で、
景虎死後も数年も続いた乱が、逆に景虎の勝利だったとして、
たとえ北條の援護があったとしても、速やかに終息したと云えるのだろうか?
雪降って来たからって帰ってたら、その間にまた盛り返されるし。
そのうち織田が攻めてきて・・・てな展開はそう大きく変わらんのでは。
氏政としては織田との関係向上に考えていたから
織田と敵対していた上杉武田両方と縁を切りたかったというところだろうね。
57 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 00:40:46
>>53 なにをやっても、当時の織田の物量には勝てない。
どんな英才秀才な大将をもってしても、最初から負けは確定。
もう「どうやって負けるか」しか残ってないと思う。
それもこれも信玄が悪い。
58 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 00:49:41
>それもこれも信玄が悪い
跡目については同意するけど、他に例えば何がある?
>>57 それならなぜ、織田に従う道を選ばなかったのかという話になる。
60 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 03:14:24
っていうか、なんで信玄入道や四郎は右府様に土下座して命乞いをしなかったの?
61 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 04:17:18
>>58-59 三戦板で出尽くしてるじゃないっすか。
わかっててループを煽るなwww
62 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 05:23:42
右府様だとw
63 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 08:18:54
甲斐のアナグマ最狂!
>60
その右府サマは天正元年に信玄入道が死んでくれて、ようやっと、
ホンマにわいが首もつながったぎゃ〜、とホッとしておられた訳ですわ。
それまでは右府サマが信玄入道に土下座外交しまくりだった訳ですわ。
自分もどっちかっつーと信長スキーだが、日本史板の勝頼スレにまで出張る織田厨うざw
>>64 天下様への道を驀進していた信長
田舎の山猿春信
猿が天下様の首をどうやって取るの?
67 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 02:47:32
あのな、61や66他のニート君たち。
社会一般の人たちは君たちみたいに暇人じゃないから
ずっと2ちゃんにはりついてるなんてできないんだよ。
なにも、することなくて暇で2ちゃんばかり見てるからって他の人をおまえらと
一緒にすんな。
スレを一つか二つとかしか見てないやつもいっぱいいるんだよ。
暇人
68 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 03:07:28
↑
おちつけよ。
こんな時間にカキコしてるとは、君こそリアルニートなんだろうなw
69 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 05:45:43
勝頼はザコ。
信玄は肉親に恵まれなかったな。
70 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 06:03:12
物語ではなく史実から判断すると
やはり信玄は突出して優秀だったんだと思うよ。
家康が天下とったあと信玄の武田軍の人間を重要ポストにつけたことからそれはわかる。
家康は周辺諸国に睨みを利かせなければならなかったが
それができたのが信玄の武田軍の武将だったということ。
事実から判断するとね。
逆に史実から判断すると勝頼はザコと言わざるをえない。
当時は弱い国に攻め込むのは嫌悪された。とくに当主が死んで弱ってる国なんかにはね。
つまり勝頼率いる武田軍は
周辺諸国からどうしようもなく弱いと思われていたということ。
信長は当時としては珍しいリアリストなので例外で弱い勝頼率いる武田軍と戦うことを選んで圧勝した。
71 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 06:08:38
当時は弱い国に攻め込むのは身内からも嫌悪された
という基礎的な知識がない似非歴史研究家が
勝頼は実は強かったのではと言ってるだけのことで
大昔から言われてる勝頼ザコ説が素直な見方なんだよ。
72 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 07:27:58
信玄が攻め込んだ今川は?
おまえ、しったかが多すぎる。
もすこし、まともなこと書け。
それから、徳川の下に行った旧武田家臣はもう必死こいて働くしかなかった
だけだよ。
武田バブルがはじけてしまったので。
当時、武田家は現実が見えてないやつが多かった。
>>72 今川に攻め込むためにイロイロあったんじゃなかったっけ?
上の方のレスはそういう意味もあるんだと思うけど。
>>70 >やはり信玄は突出して優秀だったんだと思うよ。
>家康が天下とったあと信玄の武田軍の人間を重要ポストにつけたことからそれはわかる。
誰?大久保長安なんかは信玄の時代雑魚だったしな。
江戸時代旧武田家臣の土屋氏なんか老中を多数輩出してるけど信玄関係ないし。
>>74 >大久保長安なんかは信玄の時代雑魚だったしな
は?雑魚w
76 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 13:32:11
ってかみんなアホな71は相手にすんな。
じゃあ、織田や徳川が武田家に攻め込まなかったのは武田家が弱すぎるからというんだな。
当時、浅井・朝倉・本願寺を相手にしてた信長が。
勝頼に押しまくられて領地けずられてた家康が。
どっかで、なんかの1文献かなんかにおまえのいってるのが書いてあったのかなんか
しらんけど、あまりにもふざけたことを平然と言うな。
どこの国でも弱くなった国が攻め取られてるなんておきてることだろ。
ほんとに、顔が見えない発言の場だからってあまりにもおまえみたいなのが
いるってことがなさけない。
徹底的に弱いところ、攻めやすいところを
攻めたのが信玄なのにね。面白いことを
書くね71って!
78 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 01:17:41
とりあえず71は死ね
たしかに
>>71氏は頭悪すぎw
もう少し学を身につけてもらいたい。
80 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 14:48:07
71があまりにもアホなこと書き込んだから急にみんなの発言がとまたったな。
俺、勝頼きらいだけど71にはほんとビックリした。
勝頼も家臣達もこいつみたいなんばっかだったんだろうな。
81 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 16:05:42
当時は弱い国に攻め込むのは身内からも嫌悪された
という基礎的な知識がない
人たちが必死になっているようですね。(笑)
82 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 16:08:45
71氏は痛いが、71=勝頼は言いすぎだろう
83 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 16:14:29
なんか本屋で売ってる初心者向けの歴史本では
「勝頼は本当は雑魚ではなかったのだ!」って説が流行ってるから
それに影響されてる人が多いのだけでは?
84 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 16:16:27
まともな研究家の間では
「勝頼は雑魚だった」でFAされてるけどね
85 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 16:29:16
しかし、先代が反信長だった勝頼はどうすればよかったんだろ?
86 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 16:31:04
信長に土下座して全国お詫び行脚
勝頼がザコと言われる理由は、武田家を存続させれなかったからなのか?
正直、勝頼だけを悪くいうのは酷というものではないのか?
勝頼だけが悪い
89 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 17:13:48
信長が武田ほどの大大名をそのまま残すとは考えにくいし
対立しても先が見えてるし
いくら優秀な武将でも長篠の合戦で信長にあんな鉄砲の使い方されちゃ誰も勝てないよ
並の武将でも長篠の合戦であんな負け方はしないでしょ
信長に勝てないまでも、せめてなんとか信長と折り合いつけてないとね
>>92 無理だよ
勝頼は武田家の当主ではなく後継人にしか過ぎない
先代の政策にケチをつけられませーんw
いやあ、それでもなんとかしてないとね。先代はもう死んでるわけだから
95 :
1:2005/06/08(水) 18:54:24
俺思うんだけどな、はじめから天下を取れる器の武将なんてのはいないんじゃないかと
思うんだよ。
信長才能はあったと思うんだけどああいうやり方だからああいう死に方するのは半ば
運命であったといえると思う。
秀吉だって家康だって育っていく過程ですこしずつ成長してあそこまでの人材になったと
思うんだよね。
家康だって若いころから苦労して、そして戦いを経て失敗や成功からすこしずついろいろ
と得て天下人へとちかずいて行っている。
そして、忘れないで欲しいのがそうした人材は譜代の家臣の忠誠というものに
とても恵まれている。
どの時代でも覇者になるやつはそうだろ?
この点はどんな歴史学者でも否定できないと思う。
96 :
2:2005/06/08(水) 18:55:16
そこで、勝頼をみてみたい。
勝頼が当主になった当時の年齢は家康・秀吉・信長もみんな一介の田舎の大将
としての資質しか持ち合わせていない年齢だと思う。
この3人や他の勝ち組武将もそうしたところから経験を得てすこしずつ大きくなって
言っているわけだ。
その、田舎侍の年齢での勝頼の活躍は他のやつにけして見劣りしないものだと思う。
そして、譜代の家臣の忠臣という観点でみていくとこれが勝頼には圧倒的にない。
信玄がのこしてしまた間抜けな遺訓、信玄信仰の信者達、諏訪家からという血筋、
それに付随する親類集のわがまま。それから武田家家臣全体にどうも必死になって
家を守るといった心が見えない。これは寄り合い所帯の甲斐という国柄にも原因が
あると思う(最後の小山田を武田家臣の裏切りまくりが見事にそれを物語っている)。
それから、もう一つ忘れないでもらいたいのは信玄の時代には豊富な財力があった。
それは、金山によるものだがちょうど勝頼の代になるころにこれが底をつきだしている。
おとなりの徳川・織田・上杉には親父が散々喧嘩を吹っかけている。
97 :
3:2005/06/08(水) 18:56:09
こうした悪い条件をすべて背負い込んだ形で勝頼の代ははじまっている。
もちろん広大な武田領、最強の騎馬隊とやらは残されてたのかもしれないが、
さらに不幸なことにこの時代ちょうど騎馬隊は時代遅れなものになる時だった。
そんな中での勝頼の戦いはどうだろうか。彼は善戦したと思う。
はっきり言ってあの武田家をついでなんとか命脈を保てる武将はいないのでは
ないだろうか。
唯一86のような手があるがそんなことは家臣の誰もが許さないしそれこそほん
とうのヘタレだ。
勝頼はいろんなジレンマや悔しいおもいを必死にこらえて戦っていたはずだ。
何せ彼は当主であって当主でない立場に最初に追い込まれている。
最初の印象というものはとても重要なのはいうまでもない。
そして、勝頼は実は逃げようと思えば逃げられる立場にいた。
けど、勝頼はそれを最後まで選ばなかった。
勝頼は男の中の男だと思う。
>>94 何とかしていたよ
内政面では勝頼の側近を重用したり
軍事面では高天神城を攻略して徳川家に圧力をかけたり
でも、
当主代行者と馬鹿にして合戦で逃亡する親族達
信玄を盲目的に信仰して合戦で死に急ぐ重臣達
こいつらが足を引っ張るんだようw
99 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 19:06:44
81よ。身内から嫌悪されたのは事実かもしれないが
どこの戦国武将もそんなことはやってるんだよ。
ってか当時でなくてもそんなのは嫌悪されるわな。
お前のその、インフォメーションとこのスレは全く関係ないんだよ。
おまえみたいなのはただの荒らしっていうだよ。
わかったかな。あさはかくん。
教室に帰って何にもしらんやつに知識ひけらかしといてね。そして嫌われて。
100 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 20:26:05
甲陽軍艦によると
長篠の合戦の軍議とき、山県、馬場、内藤などは退却を主張したんだよ。
なかには、退却しながら信濃に誘い込んでそこで迎撃(大反撃)するという
作戦まで出されたのだ。
今で言ったらナポレオンのロシア遠征をクツーゾフが退却して補給路を伸ばして
大反撃したあの作戦に似てるあのやつだ。
なのに勝頼は長坂という非軍人の建策(総攻撃をするべし!退却は不要)
を支持した。(大勝利==信玄と同じ名声!!)
長坂がいけねんだよ!なんであいつ軍議なんかに参加したのだ?
勝頼は軍人だけで固められた軍議を非民主的なものとおもったのだろうか?
101 :
日本@名無史さん:2005/06/08(水) 20:29:40
甲陽軍艦 ... orz
素人の俺でも信じられん。
102 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 04:48:18
95-97
ほんとにいいこと書いてる。
三戦版にもはっとこ。
103 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 05:20:44
>>95 家康は経験の中で成長した凡人だと思うが、
秀吉は「天才」だと思う。
農民の小倅で、大名や武将の子のような英才教育を受けていない
彼が常勝将軍になったことのは「天才」としか思えん。
戦国時代に名を残した武将はさすが激動の時代だけあって、島津、
長曽我部、伊達という連中はもちろん、やや小大名だった津軽、
最上、上杉(景勝)らも有能な武将たち。
しかしこういう連中を見ても、秀吉との「格の差」を感じる。
やはり秀吉は義経と並ぶ日本史上最高の「天才」と思う。
104 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 06:29:42
毛利も伊達も島津も秀吉だから存続できたような気がする
105 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 06:47:28
勝頼を評価する連中は言い訳が多すぎるよ。
信玄はクーデターをおこしたわけだから
勝頼よりずっと厳しい立場からスタートしたがあそこまでなってる。
何もできなかったやはり勝頼はただの駄目武将。
106 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 06:49:36
>81よ。身内から嫌悪されたのは事実かもしれないが
>どこの戦国武将もそんなことはやってるんだよ。
どの戦国武将がやったの?
当時の武将は誰もそんな汚いことやってないけど。
107 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 08:30:14
>>105 言い訳ではなくて事実。
ちなみにクーデターは家臣、領民の大多数の望みであったわけだが、、、。
それから、信玄のスタート時は周りが圧倒的に弱い。
108 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 08:41:36
勝頼ファンもアンチ勝頼も106にはただ唖然の一言。
まあ、干しとこうや。
こういう妄想家はどこいっても浮いてるだけだからさ。
三戦板でやってりゃいいのに日本史板に出張までしてくる低脳ぶり・・・
なんだ?ファンとかアンチとか?春先からこういうアホどもが住み始めたよな・・・
>>109 君の言葉は君自身対しての言葉だよw
日本史板なんて三戦板とたいして変わりはしない!
111 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 11:46:46
それとも、日本史版の住人は特別だとか思っていたいのか?
ほんとエロいな。
112 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 11:49:52
ファンとかアンチとってのは一つの表現として使ってるだけだろ。
尻の穴の小さいことしてないでまともな文献の一つでもちゃんと
出典付でさらしてみろ。
住み分けも出来ないニワカが逆ギレかよw
114 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 12:10:12
住み分けだってよ。
やっぱ自分らはエリートかなにかかと思ってるのか?
あと、誰も切れてないけど。
それに逆切れっていってるけど別にここはおまえらの所有物でもない。
日本史板の住人が特別ではなく三戦板から出張してくる低脳(代表例
>>110-112)が特別痛い。
さらに必死加わって厨をアピール。
●板の主旨に合うスレッドをたてましょう。
ここは「学問・文系」の日本史板です。
戦国時代・武将をネタとして楽しむ→戦国英雄・三国志・戦国時代
住みわけはマナー
逆ギレしてる厨はここは天下の往来よろしく、不特定多数が利用する場所すらわからんらしい
消防並の思考w
117 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 12:51:22
結局三戦でも歴史でも同じことかいてるんだから一緒なんじゃないの。
とくに、歴史版だからってまともな文献にそった史実とかがでてきてる
わけでもないし、同じことやってる人間がただちょっと違う場所に
いるだけだろ。
まあ、おまえら仲良く論議しろや
ヲイヲイ、日本史“板”でも歴史“板”でも版にしてるからバレバレだぞ厨
掲示板の“板”なw
同じことやってるとわかってるなら巣に帰れ
120 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 13:00:00
それがどうした???
どうもここにいるやつはほんとにレベルの低いことにしか突っこめないな。
ようするに自分は特別だ気取りしてる臆病者しかいないってことな。
あっでも一人のアホで全員を指すのもよくないな。
とりあえず、俺はもう書かないので。
書く奴のレベルがあまりにも低い。
知能も知識もないのにでてくる言葉は「三戦版帰れ。」 ださっ。
120が特別バカなのに気付いてない...あ、だから特別なバカなのか!
厨理論炸裂してるけど、こんな輩相手にしてるのもどうかと…。
生温かく見守ってやるのが親心というものですよ。
釣られてみるか。
私(
>>110)はかなり昔からの日本史板の住人ですが、
>>109 >>113 >>115 >>116 何でそんなに必死なの?
日本史板と三戦板、私から見れば同等だよw
あとスレの流れを戻すが、
勝頼は雑魚とは言いがたいな。
ただ坊やではあったと思うがw
織田信長と戦うには外交戦略が弱い。
本願寺や毛利家と連携しているわけでもなさそうだし。
高天神城を攻略して自身を見失ったかなw
>>123は何でそんなに必死なの?
かなり昔からと書けば、重みが出ると勘違いするわ
私から見れば同等だよと、個人の主観で板の主旨すら変えるわ
厨らしさ満載でつねw
装っても思考レベルが同じだから、レスに低脳っぷりが滲みでるなw
125 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 14:22:03
ちょっと見ない間になんか別の板になってるな。
>>124は人を攻撃してるんじゃなくてちゃんとまともな意見を言おうな。
お前のはただの荒らしな。
まず認めてほしいなら三戦板と日本史板がどう違うのか説明しみなよ。
>>123 かなりいいことを言ってると思う。確かに外交の重要度に気がつくのが
すこし遅かったのはたしかだと思う。
ただ、彼も大敗戦いらいそういった方面でもいろいろと努力してるし、それに
向けての人事一新などの政策をとろうとしている。
彼は敗戦から学べる1流の武将であった。
ところがここでまたご親類集が邪魔をするわけだ。
126 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 14:37:12
●板の主旨に合うスレッドをたてましょう。
ここは「学問・文系」の日本史板です。
戦国時代・武将をネタとして楽しむ→戦国英雄・三国志・戦国時代
文盲?
127 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 15:03:52
っと書いてはいても実際にやってる内容は一緒だよな。
このスレに限らず他の日本史板にあるスレもな。
つまりこの2つに対した違いは全くない。
ついでにいうとここにいる住人にも学問として歴史を語るだけの知識が全くない。
三国志・戦国にいるやつのほうがよっぽど知識もってる。
そうだ。おまえ「三戦と歴史は違う板か?」っていう議論するスレ
たてろ。そして、そこにいてくれ71と同一人物の124君。
違うやつだとしても頭の悪さと生産性の無さのレベルが全く一緒だからバカって意味では一緒。
はい、この話はもう終わりな。
勝頼の話に戻ろうな。
書いてる内容が一緒なのは書いてるアホが一緒だから
板の使い分けしろと言われても理解できず、知識知能がと
>>120と同じ内容w
脳内フィルターですべて同一人物認定してしまうぐらいの低脳っぷり
装っても思考レベルが同じだから、レスに低脳っぷりが滲みでるなw
129 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 15:13:06
俺は書かないからと言いつつ悔しくてまた現れたんでつか?
一つ理解できたのは
必死になってる約一名は、三戦板が馬鹿にされてる!!!
日本史板もレベル変らんし、三戦板住人の方が知識も豊富だぞ!!!
と言いたいだけだと。
知識関係なしに板違いだし、以前は三戦板でやってたのを持ってくるなと
しかるべき板でやれ
というのを理解できないと。
なるほど、納得!
>>125 穴山信君、武田信豊などの武田一門は長篠合戦で無傷です。
彼らに期待はできまい。無念だな勝頼。
あと外交の重要度に気がついたかどうかは、
勝頼は御館の乱で北条家を敵に回してしまっているから厳しいな。
弱体化した上杉家(景勝派)と新たに結ぶより、
強国の北条家と同盟継続の方が、
駿河・遠江方面の徳川家に対する攻防が有利だったであろう。
それに織田家に敵対する勝頼にとって上野を死守するのは無意味。
>>131に付け加え
天正四年九月に勝頼が毛利に書を送っているのも確認はしています。
前にも書いたが、氏政では、結局一緒だろ
いずれ裏切られたよ。
>>133 北条家が裏切ることはないよ。(裏切るのは武田の方だがw)
武田勝頼は上杉景虎を支援して北条氏政との同盟維持をするべきだったよ。
武田勝頼一人では織田信長・徳川家康に対抗できない。(史実でも滅んだしなw)
>>134に付け加え
織田信長も別所長治と荒木村重が敵対はしているが毛利水軍を討ち破っている。
これ以降は毛利家・本願寺も劣勢にまわっている。
景虎を支援したところで、もし負けたらどうするんだ?
>>136 もし負けても上杉景勝に武田勝頼を攻める力は無い。
上杉景勝も織田信長と敵対しているのだからいずれは救援を求めてくる。
長篠合戦で敗北したとはいえ武田家に内訌が起きた訳ではないから力がある。
しかし上杉家は御館の乱で内訌を起こして力を落としている。
それにその時点で織田家と交戦中は上杉家の方で、
柴田勝家がすぐに加賀を平定している。
天正八年に本庄秀綱と神余親綱を攻め落として御館の乱は終結するも、
石山本願寺は織田信長に降伏してしまうので上杉家の孤立化は決定的になる。
まあこんなところでどうでしょう?
>>136 よく考えれば武田勝頼がつけば負けないだろうw
139 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 01:46:37
いい加減、自演はやめてくれないか?
>>134 北條が裏切らないという根拠はあるのか?
氏政は、結局援軍を送らなかった人間だぞ。
>>141 北条家が武田家を裏切って意味があるのか?
当時の情勢的に、織田と確執がある武田と組んでると、
その火の粉が、北條にまで飛んでくるとも限らない。
あと、勝頼が氏政に不信を抱いたのは、武田に援軍要請を
しておきながら、肝心の北條からは援軍が来なかったからとも
いわれている。
こんなでは、勝頼でなくても不信を抱くのは当たり前だと思うが。
>>143 北条家はすでに三方ヶ原合戦で武田家に援軍を派遣して、
織田家と徳川家に敵対行動をとっているよ。
あと、言われてるレベルの話なら、
御館の乱において、
5月に武田軍が派遣され、
6月には勝頼も出陣している。
この時点では上杉家の内訌の調停が目的。
この援軍は合戦が目的ではない、むしろ圧力が目的。
ここからは憶測ですが、
勝頼はこの調停を成功させ北条家に恩を売っておき、
さらに上杉家にも恩を売っておこうと考えたのかもしれませんね。
しかしここで武田家は景勝派に肩入れをし始める。
8月に甲越同盟が成立する。
どちらにしても、
勝頼が景勝と同盟するのは早計と思うし武田家にとって意味は無かったよ。
景勝は勝頼に援軍を一回も送っていないしね。
145 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 03:33:27
言い訳しながらしか勝頼を高く評価できない時点で・・
146 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 05:35:10
>>131 御館の乱の時北条は自分ではあまり手を下さないが武田が援軍をだせといいた趣旨の態度だったはず。
北条の態度がそんな感じの流れだったと思う。
もし、武田が景虎を支援して景虎が勝ったとすると事実上、北陸も関東も北条家とういうことになる。
そしたら、武田は完全に北条の植民地状態・織田徳川への盾として生きていくしかなくなる。
もちろん、勝頼がこれを選択できるはずがない。
そして、景勝側の態度だがこれはとても誠意のこもったものだった。
何もしないだけで金をだす。当時の財政難の武田家にとってありがたい申し出だ。
さらに、景勝はその後も武田家に誠意をもった態度で接している。
そうした、心理的な点や人間性といった点でも景勝擁護は必然ではなかったのかと思うのだが、、。
>>146 上杉家が北条家の植民地状態になることはないよ。(歩調は合わせると思いますがw)
上杉家という家の立場があるし、千葉家や佐野家、大石家、藤田家の場合とは異なる。
それに織田・徳川への盾は仕方あるまい。勝頼自ら選んだ織田・徳川との抗争だ。
北条家が武田家側ということに感謝しなくてはならないはずだね。(上杉家も織田・徳川と戦闘状態だよw)
あと、いくら誠意をもった態度で接していても、
景勝は勝頼に対しての援軍は一回も送っていない。(送れる訳がないがw)
勝頼、景勝の甘い言葉に騙されているよw
148 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 09:06:34
景勝にそんな余裕はないし、
「出さなかった」というのは結果論だし
そういや勝頼が景勝に組したのは、後を北条に取られるのを恐れたというけど、
(だから無能じゃないという論法をよくみる、小説家とかでもね)
いやそれならそれでいいけど、その場合織田徳川と講和しないと駄目だろ。
で、北条と戦う。勝ち目は薄いが、織田よりはあるだろうし。
俺がよくわからんのは、織田と戦っているのに、北条を敵に回すこと。
それも上杉と同盟を組んでだよ?
正気の沙汰とは思えない。内乱で力を落としている上杉にどれだけ、両者と争う力があるというんだ。
>>148 結果論・・・それが重要なんじゃないの?
>>149 勝頼は徳川家と北条家との戦いですでに苦戦。(遠江、駿河、上野方面)
景勝は織田家の武将の柴田勝家に苦戦。(能登、越中方面)
これで織田家の主力が投入されたら滅亡必然!(武田家は滅亡しましたがw)
双方とも力は無いし、正気の沙汰ではない。
凄い単純思考で進んでるな・・・ここの戦国時代はw
153 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 12:36:44
>>147 誤解を与えてしまったかもしれないのだが俺は一応「武田」が「北条」の事実上の
植民地状態になると言ったのだが。
「上杉」が「北条」の植民地になることはまずないだろう。。
でもそれで東海・岐阜方面は完全に敵だから、北陸・関東が敵になったら完全に周り全部が
敵になってしまう。だから、それ以後一切北条家に対して頭が上がらなくなる。
上杉と北条は歩調を合わせるだけといってもその合わせ方は半端じゃないのは間違いない。
それから、まともに考えてくれ。北条に半植民地状態で生きていく。
たしかに、これで武田家の命脈を保てる可能性は高まるかもしれないが果たしてそんなことを
武田家の家来が許すと思うか?あの親類衆はいうまでもなく、勝頼が信頼してた真田昌幸だって
反対するだろう。
「甲斐の名門武田」この肩書きが引っかかってそれは実現しえない。
もちろん、勝頼自信もそんなことをするつもりはさらさらなかったと思うが。
あと、この文気に障ったらごめんな。はっきり言って何人かとてもいいことを書いてくれる
やつがいるからけして俺はそういうやつとこの板でケンカをしたくない。
途中変な小学生みたいなのがしつこくいついておかしくなったからな。
>>153 それが理由で織田家に滅ぼされる道を選んだのね。
もう少し時代背景を考えた方がいいよw
あと、最後の3行の文は意味無いよ。
>>153 あの〜家を残すのが、当時の最大にして、唯一の目的。
天下取りより、確実に家を残すことを考えている武将が当時の大半でしょ。
毛利なんて何度も可能性があったのに、全て捨てて、家を残す事に終始している。
勝頼には、氏政同様変なプライドにこだわった結果、国、家を滅ぼしたとしかいえん。
157 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 13:02:13
もう少し時代背景を考えた方がいいよw
↑これは誰に向かって言ってるんだ?
158 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 13:06:59
長篠の戦いで大敗をしたあととはいえ
その当時まだ甲斐は領内を踏み荒らされていない。
そんな無条件降伏みたいなことをあの段階でできるはずがない。
勝頼が一人そんなことを言っても全く無意味。
159 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 13:09:07
毛利の場合は元就が家訓のような形でそういう風に遺言を残している。
武田家は全く別。
160 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 13:15:49
三戦(厨隔離)よりレベル低くてどうするのか
162 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 13:41:54
>>153 普通、戦国大名は生き残りをかけて戦うはずだ
武田は四方に他国に囲まれているのだから
どこかと同盟しないと生き残れないぞw
あと、オマエがケンカしたがっているように見えるぞw
必死な弁明に、いと哀れ
>>157 オマエに言っているんだろ?
もっと勉強しろよw
163 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 13:44:03
まあ北条だって影虎が勝ったらすぐに武田を裏切る可能性があるわけで、それを見越して苦汁の選択をしたつもりなんだろうけど
信玄ならうまく切り抜けられた気がしないでもないな。
結局は織田に頭を下げるのがいちばんだったってことだ。
松姫なんて武器もあるわけだし
164 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 13:52:45
>>163 信玄も単独では無理だなw
甲駿同盟→三国同盟→甲三同盟→甲尾同盟→甲相同盟
(他に本願寺とかとも手を結んでいるが・・・)
まあ誰であろうともきついなw
165 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 13:58:51
桶狭間並みの奇跡を起こすしかなかったな。
しかし、もし勝ったとしても信忠しか死なないだろうと思われるので意味がないな
166 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 14:43:58
こうしてみてみるとたしかにその時点では織田と同盟ってのが
一番だったかもしれないな。
秋山信友の妻をなんとかしたりしてな。
それが、実現可能なのかいまいちなんとも言えんが。武田家は反信長同盟の盟主だったからな。
織田には勝頼と同盟のメリットなんかあるか?
>>163 北条家がすぐに裏切るのか?
関東に敵を抱えて背後の武田家を襲う理由が無い。
天正五年に桂林院を輿入れさせている氏政が、
織田家と徳川家の動向を気にしているのかなw
松姫・・・ワロタw
まあ、北条家を敵に回したために、
しなくてもいい上野・駿河方面の軍事行動をさせられて、
挙句の果てに徳川家に高天神城を奪われている。
あと、この頃になると欠落も激しくなっているしなw
上杉家は御館の乱のゴタゴタと織田家との戦闘状態の継続で、
信濃・上野に援軍を送る力も無い。
どう考えても景勝擁護は失策だろうな。
>>166 織田信長が武田家と和議を結んでもいいかなと思ったのは上杉謙信が目障りなので。
謙信が死んで、なおかつ御館の乱で国力を落とした上杉家には脅威は無い。
したがって、織田家に武田家との同盟はメリットは無い。(これは武田家滅亡後の北条家の立場と同じ。)
下手に残すと武田家と北条家と徳川家が合力しそうで怖いよ。
これが豊臣秀吉だったら気前よく許しそうですがw
169 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 20:24:32
俺もそう思う。だから現実的に織田との同盟はありえない。
北条は裏切るとか裏切らなくても武田を下に見た態度ででてくるだろ。
それに武田すこしやばくなったら裏切るのはそれまでの行動をみてれば明白。
当主の考え方がそうしたこすい戦略をずっとしてる。
だから、景勝擁護は最良の策。
景勝擁護でなければ資金繰りがもっとやばいことになってる。
170 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 20:26:40
ん。
今書いてて思ったんだが北条が下の方から徳川をけん制してくれたりする
可能性とか北条に対する利点とかってあるのか???
それが、強い確率であるなら景勝擁護は失敗かもという方にもなるのだが。
>>169 最良の策が越後以外の国との全面戦争かw(遠江・駿河・上野の三方面)
この事が領内の民衆に圧迫を加え、甲越同盟以降の武田領内では欠落が急増していく。
人がいなくなれば資金繰りも厳しくなり国力消耗を加速していく。
甲越同盟から三年後の天正十年に武田家は見事に滅亡w
>>170 武田家は北条家との同盟の利点はありますよ。
駿河・甲斐の安定。(放置状態の岩殿城を修築する必要もないしw)
上野での共同歩調。(まあ、上杉家が攻めてくることがあるとも思えませんがw)
遠江への援軍は厳しいと思いますが、
北条家との合戦がなければ高天神城の陥落があれほど早くはなかったと思います。
さすがに駿河が危なくなれば援軍を送るでしょうね。
あと、北条家との同盟維持は上杉家においても景虎擁護という事になります。
信越国境も安定するでしょうから武田勝頼は遠江だけを攻めればいい。(場合によっては美濃に攻め込んでもw)
ここ一日ほとんど同じ人が書き込みしてるような
気がするんだけど…
>>172 まっ、生暖かく見守ってやろうや(笑)
厨に何言っても始まらないからな
174 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 01:18:32
ここは、北条厨に占領されました。よってこれにて終了させて頂きます。
w多用の人はやはり単なる北條厨だったのか。
三郎景虎サマを裏切ってしまったから武田は滅びてしまった訳ですねw
つうか、御館の乱より勝長返還の方が問題じゃね?
実際、何のためにあの時期に返還したのやら…
人質の意味がなくなったという説を良く見かけるが、
あの状況だからこそ、勝長の存在は重要だったと思われ
177 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 01:51:59
>>176 ・いてもいなくても、信長はもうやる気満々。関係ない
・逆に、手元にいると物騒
・ジャ、イラネェ
プラス、優しみ。
ほほう、当時の人質についての新説だな
通説では、勝長が返還されてきたから、
信長は武田討伐を決めたわけだが…
179 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 03:54:06
どこの通説ですかと。
180 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 09:23:34
今日休みで図書館行ったら偶然ながしのの戦いの詳しい本があったわけよ。
多分、普通のファンが足元にも及ばないような研究家達がまじめに書いたやつな。
それによると、勝頼の代の武田が一番良い形で残るには勝頼が当主になった瞬間くらいに、武田が奪った駿河を徳川に
美濃は織田に、信濃の上の方は上杉にただで差し出してそれぞれと講和することなそうな。
それで、思ったんだけどなんで信玄は西上作戦なんてしたんだ?そんなのしてなければもっと
講和だってしやすいと思うんだが、、、。
>>180 上洛するため。
地方政権なんか幾ら大きくしたって意味がないでしょ?
朝廷や周辺貴族を押さえずして権力を増大させるのって相当難しいと思う。
よほど大きな経済力があれば良いだろうけど
関東地方だけだと苦しいものがあるんじゃないかな。
西上というよりは交易を図る港がまず欲しかったと考えてます。
講和云々は織田家の毛利家に対する講和条件を見て、
研究家?が勝手に夢想してるだけじゃないかな。
可能性については良く分からないのでコメントは控えます。
182 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 12:48:22
いえ、俺は研究家を持ち出して煽りたいんじゃなくてまともな論議がしたいだけな。
この板荒らしみたいなの多いからさ。181の気にさわってたら謝るよ。
その研究家ら曰くその時点で時代が織田を中心に動いていくのは明白だからそれを
みこして同盟しておいて力のたまった時点で関東方面をすこしづつ落としていくのが
一番版図を広げられるし、滅亡の可能性の少ない選択だった。
みたいなことが書いてあった。あと、戦国武将で優秀といわれるやつは
常に滅亡の確立の低い方向を選び続けているといろいろと例をだして書いてあった。
ちなみに、全体的に「勝頼はダメ武将」的な意見が多いやつだった。
これが正しいとしたら、信玄の時点で相当時代を読み違えたことになる。
あと、さらにこれは俺が思った事だけどもし信玄が死に際に勝頼に「もう一度上洛して
今日に武田の旗をたてよ。」みたいなことを言ったとしたら信玄は最後まで時代を読めなかったということになる。
それから「もう、国の外に打って出るのはやめて国力を蓄えよ。」みたいなことを言ったとしたら
自分はやりたい放題やっといてただ尻拭い、責任転換を勝頼にしたことになる。
もし、ほんとに勝頼や武田家を思うなら全家臣の前で「俺の方策は間違っていた。これからは国力を蓄えよ。」
などと自分の間違えを認めておかなければならない。
ようするに、晩年の信玄は豊臣秀吉よろしく全然時代というのものが見えてなかったんじゃいかと
俺は思うのだが。
家臣は信玄信者だから、武田家全体も時代の見えていない方向に行く。
それが、あの時代の武田家だったんじゃないかと思うのだが、、。
183 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 14:19:03
184 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 15:02:04
183はどうでもいいこと書くなくていいから
185 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 15:04:02
181の発信者の名前をみてみろ
186 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 15:41:34
北条を敵に回さずに、
織田と講和のチャンスを逃さずに
勝永を返さずに
あのまま徳川を殲滅してればよかったんだよな。
難しすぎないか?
187 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 17:15:42
徳川を殲滅してても厳しい気がするんだが。
状況にもよるが。
188 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 17:22:29
織田が徳川を切って武田とつくってことですか?
それは、現実的にはないと思うが。
189 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 17:42:20
武田勝頼は所詮、無位無官だから相手にされないのです。
190 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 18:21:34
>180
そんな事したら皆は「もっとよこせ〜」と言うだろうな。
>>188 妄想の範囲だけど、織田と徳川の蜜月は、
信康事件あたりを境に翳りが出てきていたのでは?
192 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 22:22:24
>>191 こっちも妄想。
それは董承のクーデターに巻き込まれた劉備が、曹操を
裏切って逃亡し、徐州代理の車冑を殺害した時点で、
曹操と劉備の蜜月関係の終焉したのと似てるなと思われ。
>>191 信康が自害してから武田家と組むのは考えにくいですよ。
自害させてまでも織田家との同盟を維持させているわけなので、
危険を冒してまで武田家と組んでしまったら信康があまりにも無念。
で、私も妄想ですが・・・
それより武田家はこれを機会に信康が生きている段階で徳川家と和睦し、
あわよくば同盟にまで持ち込めたら面白かったのにね。
武田家は北条家との戦いに集中できたかもw
>>191 そもそも信長が家康に命じて信康を葬ったという説は近年否定されつつあるよ。
岡崎衆が信康を担いで浜松の家康に謀叛を企てたため、家康サイドから信長に、
信長にとっては婿である信康の処分について異存がないか尋ねた。
「信長へ内証をえらるところ、左様に父臣下にみかぎられぬる上は是非に及ばず、
家康存分次第の由返答あり」(『当代記』)
つまり信康処分は家康の決定したこと。信長はそれに口を挟まなかっただけらしい。
195 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 23:56:17
>勝頼対秀吉
むしろ反徳川で手を結んだかも。
秀吉も勝頼をそれなりに評価していたようだし。
勝頼を配下に加えれば東国を瞬く間に平定できると
秀吉が信長に進言したので、
信長はそれまでの方針を改め、勝頼に破格の条件での
講和を呼びかけた。長篠の戦よりもあとのことだ。
196 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 04:56:34
えっいつ?
どんな条件?
ちなみに根拠は?
>>195 勝頼が北条家と対決するために大人しく織田家の配下になるとも思えないが・・・。
まあ、配下になったとしても伊勢北畠家の二の舞になると思われw
養子縁組をして信長の子の勝長が武田家を継いで武田一族は幽閉ですね。
家は残る可能性はありますが血は絶えますねw
198 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 05:55:50
ザコ中のザコそれが武田勝頼
199 :
191:2005/06/12(日) 08:46:06
>>193>>194 俺が言いたかったのは、
>>188がいう、織田が徳川と手をきって
武田とくっつくことは、現実的にあり得ないという意見に対して、
そうかな?という意味合いの反論。
言葉足らずで悪かったけど、信康事件あたりを境に翳りが出たというのは、
家康が信康のことで信長に対しではなく、その逆という意味合い。
それから、他スレでも少し議論になったけど、
家康は信康死後、一年も経たずにどういった経緯かは不明だけど、
武田側から側室を迎え、同年子供が生まれている。
彼女の父親は、甲府にいた武将で、今川家経由ではない。
(一説には信玄もしくは武田一門の娘とも言われているが)
ただ、これが勝頼の許可の許なのか、家臣(穴山あたり?)の
独断なのかまでは、わからないけど…
200 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 09:12:44
私は個人的にだいたい歴史学者だが、そうおもう。
201 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 09:23:15
199は結論としては何がいいたいの?
前半では織田と同盟の可能性があったといいたい風にみえるけど
後半では密かに徳川との同盟の可能性があった敵的なニュアンスにとれるのだが。
あと、200も何がそう思うのかよくわからん。
>>199 確かに意味のよくわからない文章だな。
家康が信長の娘を妻とする信康を自らの意志で切腹させたので
清洲同盟に陰りが出た言いたいわけ?
203 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 10:01:15
>>200 >私は個人的にだいたい歴史学者だが、そうおもう。
さらに意味不明な文章だ。
「個人的にだいたい歴史学者」って
どういう意味なんだろう?
204 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 10:03:43
「私は歴史学者だ」という断定刑に
「個人的に」と「だいたい」という
表現をやわらげる言葉を二つも重ねているという事は
はっきり言って歴史学者より素人に近いという事だな?
>>201 鷲は199氏ではないが、きちんと文を嫁。
〈それから〉と区切りを入れているだろうが。
それからより前は、
>>188へのレスの意味
それから以降は
>>193の信康死後云々に対してと鷲は読んだ。
鷲の妄想だが、信長の中で武田>徳川に傾き始めていたんでは?
>信長の中で武田>徳川に傾き始めていたんでは?
朝廷を絡ませて考えると有りだろうな
素人且つ知識不足なんで間違ってたら訂正してください。
織田家が関東以北に勢力を伸ばそうとする場合、
関東平野に大兵力(権力)を展開したいですよね?
そうするとどうしても北条家は潰すか無害化しておきたい。
対北条への切り口は滝川一益が行ったように
反北条勢力が存在する上野が望ましい。
そのための補給ルートをどうするか。
何れにせよ、当時の輸送手段を考えれば陸路です。
越後の上杉家の勢力と比較して、どちらかと
手を結ぶことは可能性としてありえるかも知れません。
とはいえ、手を結ぶ相手の勢力が大きいので、
あくまでも一時的なものになると思いますが・・・。
208 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 11:19:35
>>206 現に武田を滅ぼしたんですが?
それを徳川を敵にするのは
無理があるんですけどね。
209 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 11:41:41
>>207 >家康は信康死後、一年も経たずにどういった経緯かは不明だけど、
>武田側から側室を迎え、同年子供が生まれている。
武田側(おそらく穴山あたり)から、織田との宥和を求めていたってこと
でしょう。その橋渡しを家康に期待した。
210 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 11:52:01
>>207 天正9年の11月に、信長は娘と氏直を婚約させて、
北條と手を結んでいるよ。変が起きて結局うやむやになって
しまったけど、政略結婚に娘を使うことに関しては消極的だった
信長が婚約させるぐらいだから、一時しのぎではないと思われ
>>208 また結果論厨が沸いてきたなw
>>206が言ってるのは、多分天正8年ごろの話
同年には、甲江和与も絡んでくる。仮にこれがうまくいき、
武田と和睦したら、信長の中で徳川の意味はなくなってくるよ。
211 :
207:2005/06/12(日) 12:53:37
みなさんありがとう。
ちょっと興味が沸いてきたので、時間を見つけていろいろ勉強してみます。
212 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 13:05:00
えー、マジ凡将!?
スゴーイ
_,,. -‐‐‐‐‐‐‐- 、 /\;;::::::::::::::::::ヘ .。 。 。 。
lヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ /,,;;;;;;\.;;;;;;;;;;;;::./;ヽ | ヽ / ヽ ./ ヽ / |
l } | | | | | L::;;,__ ヽ、::..ノ;. ..:::ゝ. |: V V V |
l } | | | | | //;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;|l. |: |
|ニニ''" ̄ ̄○ ̄ ̄`| |l l;;;;;;;;;;;;;:::::::::... ...:::::::;;;;;;|l |________|. / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ //  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \ .〔l lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll〕 / \ / \
/ // ヽ j/ ヾ、 ヽ ヽ
l:::::::| |. |::||:::: |l:::::::: |::::: |
|:::::::| |: (●) (●) |::||:::::::.. (●) (●) ||::::::::: (●) (●) |:::::: (●) (●) |
|:::::::| |::::::: \___/ .|.:||::::::::::::: \___/ ||::::::::::::::::: \___/ |::::::::::::: \___/ |
ヽ::::::| |::::::::::. \/ ノ \:::::::::::::::.. \/ ,ノヽ::::::::::::::::::. \/ ノヽ:::::::::::::. \/ ノ
平凡暗愚と言われて平気なのは
僕たちだけだったのにねー
キャハハハハハハ
213 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 15:02:49
ちょいまて、その武田から徳川に行った側室とやらの情報を詳しく書いてくれ。
はっきり言ってこれは重大なことだ。
いいだしたやつでも、知ってる奴でもそれが乗ってる文献だとか
そうじゃなくても行った姫の名前とか、、、。
これだけのことを言ってるんだからしっかりと最低限の責任はたせな。
214 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 15:07:42
>>205よまずはしっかり国語の勉強からしてきてくれ。
まず、鷲とか嫁とか勉強しなおせな。
あと、そういうのを抜きにしても<それから>と書いてあろうがなかろうが
意味がわからない(いいたい内容がいまいちはっきりしない)文であることにはかわりない。
意味がわからんから質問してるんだよ。
>>199は織田、徳川、武田の三すくみの同盟が可能だったっといいたいのか?
勝頼の最期って切腹と戦死の2つあるが、どちらが正しいんだろう?
跡部と長坂は諏訪に逃れたと天目山で戦死とこちらも2つあるし。
しかしよく、天目山に落ち延びる途中に落ち武者狩りや野伏に襲われて、
戦死とかにならなかったね。勝頼を討ち取って織田から恩賞を貰おうと
いう人間だっていたと思うけど。
217 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 16:43:53
なぜ?
以前、同じようなTHREADがあったけど
そこでは
信玄が死んだ直後、兵を引かずに徳川だけでも攻略する
って言うのが一番良い結果だろうと言う意見が多かったな
219 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 03:22:41
220 :
>1:2005/06/14(火) 05:03:45
>されど、彼の死後、数ヵ月後にして
>本能寺の変が起きたことを考えると
>天下取りに近かった存在といえる。
??どういう意味?
>>219 199さんではないですけど、家康の側室や妻女等のキーワードで
ネット検索すれば、彼女のこと出てきますよ。
家康の女性関係の本にも書いてありますから、図書館で調べてみては
いかがでしょうか?
因みですが、家康は、武田関係の側室を何人か迎えています。
天正8年に振姫が生まれており、彼女の母親はお竹の方、又は下山殿といわれますが、
どちらかははっきりとしていませんが、振姫が天正8年生まれなのは、
家系図等でも確認できますので、確かだと思います。
また、お竹の方も下山殿も父親については諸説がありますが、
武田方の人間であることに変わりはなく、振姫の母親がどちらにしても、
振姫の生年から、天正8年の段階で武田家関係の人から側室を迎えたのも、
確かだと言えると思います。
全く関係ない話ですが、この2人の側室を迎えるにあたり、
実は松姫の身代わりだったと書いてある本もあります。
信憑性はなんともいえないのですが、
松姫は、信忠の婚約者(寛政家譜では妻)であり、
同家譜には、2人が想いあっていたという伝説を裏付ける?
記述もあることから、織田と武田と徳川の関係を考える上で、
なかなか興味深い話だなとも思います。
222 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 16:56:45
なるほど、丁寧なレスサンクス。
ここからは199にできたら答えてもらえたらうれしいんだけど
その「側室」と「信長が徳川をきって武田とつく」というのはどういうところから
結びつくのかな?
松姫が徳川家にいくはずだったのに織田のとこにいっちまったのがなんたらって部分が関係
あるのかな?(だとしたら199のレスは余りに説明不測過ぎだが)
でもそしたら信長は信忠の愛とやらで徳川を切るのか?信康はきらしといて。
その辺、わかるやつでもいいからレス頼む。
>>222 >>199じゃないけど
>>199読む限りでは
「側室」と「信長が徳川をきって武田とつく」を結びつけた発言は無いよ。
9行目の「それから」以降の話はまったく別の話。
この側室についての話を出したのは話の流れから見て
>>193が
徳川と武田が和睦同盟が出来たらよかったのにというのに対して
可能性がまったく無かったわけではない例として出したんじゃないかな。
って書いてから気づいたけど、これって
>>205ですでに指摘されてるんだね・・・
225 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 08:20:25
@ということは、今は織田と武田同盟対徳川がありえた、
という意見と
A織田対徳川、武田同盟がありえた
とう意見があるんだな。
それとも、もしかしてB織田、徳川、武田3国同盟がありえたといいたいのか?
どちらにしても、ではどれが一番実現可能でどれが一番よかったのか話してみよう
じゃないか。
226 :
日本@名無史さん:2005/06/15(水) 14:18:04
っていうか@とかありえるのか?
Bならまだありえそうな気もするけどな、、。
もしも・・・という話になってしまうが、信繁が生きていたらもう少し
ましな展開になっていたと思うが。
武田の跡継ぎの証である「信」の字が勝頼に無いのも痛かったのでは。
228 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 23:49:40
竜宝が生きてればよかったんだよ
竜宝なら勝頼が死んだ後まで生きてるじゃんよ!!
たしか勝頼の死を知って後追い自殺だっけ?
230 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 12:05:51
竜宝がまともな武将だったらよかったのにな。
231 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 12:17:31
フジチク古川元久フジチク古川元久フジチク古川元久
フジチク古川元久フジチク古川元久フジチク古川元久
../⌒ヽ /⌒ヽ
( ^ω^) ( ^ω^)
久元川古クチジフ久元川古クチジフ久元川古クチジフ
久元川古クチジフ久元川古クチジフ久元川古クチジフ
../ ⌒\
(^ω^ )
フジチク古川元久フジチク古川元久フジチク古川元久
フジチク古川元久フジチク古川元久フジチク古川元久
./ ⌒\ /⌒ヽ
(^ω^ ) ( ^ω^)
久元川古クチジフ久元川古クチジフ久元川古クチジフ
久元川古クチジフ久元川古クチジフ久元川古クチジフ
/ ⌒\
(^ω^ )
フジチク古川元久フジチク古川元久フジチク古川元久
フジチク古川元久フジチク古川元久フジチク古川元久
良雲院・市川氏、妙真院・秋山氏は松姫の身代わり、
またそういう家康好色伝承の類を・・・w
松姫厨がなりを潜めてると思ってたら、こんな所にいたんだね!
>>229 お聖道様・竜宝は天正十年三月十一日に入明寺で自害。
その子信道が生き延び、子孫は幕府に高家として仕え、
昭和元年には山梨県庁より武田家子孫の正統と認定されました。
>>232 ここまでの粘着厨もキモだなw
こいつは、以後スルーで
234 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 05:51:55
竜宝をお聖道様と言ってる時点で、十分キモイけどな
竜宝は出家聖道の半俗生活者で「お聖道様」と呼ばれていたはずだが。
キモだなwとか言ってないで、少し調べたらわかる事だよ。
236 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 15:56:33
なんか方向が違ってきてるが、
結論として勝頼は並大抵の武将ではなかったってことでいいんだな。
武田が生き残るにはってのには実現不可能に近い意見しかでてこないし、
ましてや勝頼がダメ武将だったっていう意見も全くでてこない。
勝頼がこうすればよかったっていう決定的な意見もでてこないしな。
ようするに誰がやってもあの武田家は滅亡しか道がなかったと。
もし、異論があればその辺ぜひ書いてくれ。
>>235(=
>>232)
というか、
234は、そんなこと承知した上でレスしたんだろ
>>236 講談社選書メチエ(#184)
戦国大名の日常生活〈信虎・信玄・勝頼〉を一読することをすすめる。
この本の中で、著者笹本氏は、勝頼や武田滅亡についてなかなかいいことを
言ってるよ。もし、知っていたらスマソ
>>236 武田勝頼は有能でも無能でもかまわん。
(私個人の勝頼に対する見解は軍事が有能、政治が無能。)
しかし、武田義信が武田家の家督を継いでいたのなら武田家滅亡も無かったのかもしれない。
まあ所詮、ifの話だが。
239 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 17:47:50
>>238 >武田義信が武田家の家督を継いでいたのなら武田家滅亡も無かったのかもしれない
な ぜ ??
どのみち信玄のない武田が生き残るのって無理だったんジャマイカ?
部下が有能でもまとめられなければ意味ないしさ
長篠の合戦なんてただの集団自殺だしさ
>>237 「戦国大名の・・・」勿論とっくに読んでるよ。
242 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 22:09:15
雑魚すれ
243 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 13:02:15
>>238は多分相続などに関連する家臣とのごたごたなどが
なかったといいたいのだと思う。
そうすれば、長篠の集団自殺もなかったから有能な家臣も残ったみたいな
244 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 13:29:28
田町の駅そばには雑魚場公園があったよ。
245 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 06:37:04
そういえば、三戦と日本史がなんたらとか言ってたのは全然現れなくなったな。
結局、言うだけ言ってまともなことをかけない連中だったってことだな。
>>245 最初から、まともに相手にされていないことには、気づかないのか?
247 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 16:02:15
ってかまともに相手できるだけの知識もないくせに
ただ偉そうにしてるだけ。
余分なことを言ってるのはいっぱいみたがまともな意見は全く言えないからな。
こういうのは、まったく出世せずに将来リストラの大候補生である246以下数名
248 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 17:13:05
他人の意見に耳を傾けられないオマエモナー
武将の評価なんて史料の解釈や状況解釈によって人それぞれ
なのに雑魚だなんだとレッテル貼りするような低レベルな話したくないだけだろw
250 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 08:55:53
スレの名前が悪かったのはたしかかもな
251 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 18:15:38
もし武田家の滅亡が2年ほど延びていたら
「本能寺の変」のあと、明智光秀は毛利と武田
に同盟の呼びかけを送っただろう!
毛利への密使は、途中で羽柴秀吉に捕らえられ計画は頓挫するが、
武田への密使は、うまく、武田勝頼に届けられただろう。
そうすれば「秀吉 対 明智・武田連合軍」という図式も
生まれたのではないか?
どーしてIF厨ってのはつまんねー妄想話したがるのかね?
253 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 19:06:37
秀吉は、勝頼を家臣に加えたかったらしいです。
んで、信長が勝頼を滅亡させたのを、毛利征伐のときに聞いて、
私が武田征伐を任されていれば、信長を説得し、勝頼をなんとしてでも
降させて、家臣に加えたものを、と嘆いたそうである。
・・・本や歴史の雑誌(なんて本だったか、出所は忘れたので、事実か
逸話かはしらんww)にかいてあった事だが、それが事実なら、秀吉
もみとめるほどの戦に関してはそこそこ優秀な武将であったことはまちがい
ないことになりそうだが、真偽はさておき、いくら秀吉でも信長と勝頼を
説得なんてできるわけがないのでこれはただの秀吉の嘆きですなwww
>>253 バカ級勘違いは、すでに始まっていたのかw
後年、その秀吉は信玄や謙信が生きていたとしても
自分の太刀持ち、傘持ち程度だろうと言い放ったそうだ。
人間、老いると本性が出やすいそうだからね、
所詮、その程度にしか見てなかったんだよ、多分ね
信玄が勝頼を陣代にした時点で武田家の没落は決まった。
256 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 20:09:29
>>254 抑えきれる自信があったから、降させようってんだろ?
258 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 15:53:00
いやい254よ
そっちの方が酒の席やなんかのはずみで出てしまった発言だとどんなばかでも
予想できるだろ。
武田や上杉家臣が大勢生存してる中であのひとたらし秀吉がそんなそんな発言
するわけないだろ。
それに太閤になりゃ誰だって気がだかくなるわ。
普通に考えたら253の方が本音だろ。
その話って、酒でもはずみでもなく、寝る前に坊さんと語っている
途中に出た話で、その坊さんも調子が狂ってしまい困惑したってオチだよ。
ついでにいうと、信玄や謙信が早くに死んでくれて良かったよって
まずは言っていて、その後に傘持ちの話につながっていくよ。
詳しくは、関八州古戦録に載っている。
260 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 07:39:23
259サンクス
こういうところは、さすが日本史板というべきか。
でも、っていうことは見方によっては秀吉は信玄よりもかつよりを
高く買っていたと読み取れなくも無いエピソードだな
262 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 19:39:37
>>261 お前の気持ちは良く分かる。
踏み止まるんだ。
_
.ノ^ yヽ、
(。・-・)
./ l |
"""~""""""~"""~"""~"
家を滅亡に追い込んだのは事実
勝頼は統率力、カリスマ性、政治力がなかったが高いプライドだけはあった
雑魚以外の何者でもない
長篠に関しては、勝敗というより戦後処理の方がまずかったんだろうな
やはり、穴山は首刎ねるか腹を切らした方が、良かったんじゃないかなと…
普通ならそうするだろうし、信玄でもそうしただろうと。
結局、身内には甘い、あんなことされても満足に処罰もできないヘタレって
感じで、他国はともかく武田家臣団や領国内では評価されたんじゃないのかな?
その穴山も、勝頼が思うほど義理堅い人間ではなかったしね
265 :
& ◆d3P/lw/hxo :2005/06/28(火) 14:34:58
信玄が義信を自刃に追い込んだのが、そもそもの間違いだね。
(駿河侵攻で、武田家自体が滅亡の危機に瀕したしね)
義信は主スジだったけど、諏訪四郎だからね、同じレベルの同僚だ。
266 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 15:25:44
馬場って設楽が原で死ぬ必要なかったのに
わざわざ死んだって聞いたことがあるんだが本当?
他のやつと違って一人でずっと違うところで戦をみてて
最後に逃げることもできたのに死んだとかなんとか。
だとしたら何でそんなことしたんだろと、、、。
武田信玄が嫡男義信を自刃に追い込んだのは織田信長に唆されたから。
信長との同盟交渉直後に義信は幽閉され飯富は粛清される。
そして織田と武田はめでたく同盟する。
これにより織田信長は美濃を平定し足利義昭を奉じて上洛に成功する。
これに対し武田信玄は駿河平定に挑むが北条氏康と果てしない抗争を演じ無駄に時を費やす。
何故、武田信玄は織田信長との同盟という外交方針を選んだのか?
駿河という餌に食いついてしまったためであろう。
義信を自刃に追い込み、上洛という夢まで犠牲にしてまで得たものとは一体何だったのか?
嫡男義信の死により正当な後継者を失った武田家臣は信玄を盲目的に崇拝することで団結力を強める。
勝頼を助け武田家を盛り立てようとする老臣はこの時点で絶滅したと言えよう。
268 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 16:07:40
義信は病没
269 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 16:07:54
>>266 撤退というか、総崩れ時に殿(しんがり)を務めると、死傷率は非常
に高くなるので、べつに自分から死を選んだわけではないでしょう。
(逆に、追撃側の方死傷者が多かった最上領からの撤退戦での直江山城のような妙な例もあるが)
270 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 16:12:54
>>268 東光寺に幽閉中に自害(自刃)させられたというのが通説。
(一部には幽閉中に病没という説もある)
271 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 16:22:57
何を以って通説というの?
273 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 21:13:46
何を以って通説というの?
マジレスすると、「多数決」
通説もわからん奴は放っておきなされ。
>>273 世間一般の「通説」:(是非は関係なく)社会に流布している説を指す
史学会の「通説」:過去から(高柳氏など)唱えられてた、手付かずの説を指す
2ちゃんの「通説」:自分が知ってる話を正当化、肯定するために使われる
※例...これは通説だ、これを証明する論拠はどこにでもある、否定したければ反証だせ
277 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 22:24:39
カツヲリはザコだ。
これは通説だ、これを証明する論拠はどこにでもある、否定したければ反証だせ
277
誰だって?
↑
文盲か?カツヲリとちゃんと書いてあるだろうが。
カツヨリだろ?
ちがう。カツヲリ
282 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 23:20:09
281
勝頼=カツヲリって読むのか?
284 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 23:59:04
ともかく死に方は雑魚だね。
まともに戦ったのは仁科信盛だけだったし、戦場で死ぬのならともかく、天目山で自害とは。
細かいことをいうようだが、天目山ではなくその手前。
遣られ方はザコかもしれないが、天目山を死に場所に
選んでいたとすれば、陣代とはいえ武田家を背負って
いたのだから、立派といえなくもないだろ。
>>284 信盛・・・って、長野県の人?
井上靖「天目山の雲」は名作だ。
287 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 10:51:49
288 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 12:23:13
カツノリ?
>>287 ああ、そういう疑問じゃなくて、
長野県の県歌「信濃の国」では仁科五郎信盛と読み込まれてるので
盛信でなく信盛と書いた284は長野県の人かな?と思ったんだよ。
290 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 18:02:41
>>289 そうか、どっちが正しいのかな。(信盛、盛信)
ググルとどちらでも出てくるようだ。信長は長信ではないので、どちらかが
間違っているとは思うが?
ちなみに、生まれは東京。育ちは東北(主に秋田)、学生生活は京都でした。
291 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 00:39:36
勝頼を評価するか否かはさておいても、擁護するだけのものはあると思いますよ。
信玄死後の武田家が不安定であった要因には、信玄の配慮にあります。
幽閉された義信が歿したのは永禄十年(1567年)十一月ですが、それまでの
勝頼は永禄五年(1562年)に元服し高遠城主となってよりこのかた諏訪で過ごし、
殆ど一城主としての扱いにすぎず、信玄譜代の甲斐の重臣や国人衆とは、
繋がりがありません。
(俗に長坂釣閑斎(虎房)が信玄歿後の勝頼側近におさまり佞臣性を発揮したと
いわれていますが、長坂釣閑斎は天文十八年(1549年)から諏訪郡代として
高島城に移されている事、また長男・源五郎が義信側近として誅殺された事で
勝頼と大きく接近したといわれています。
ただし
>>100さんのいう、長篠での主戦派として開戦を主張した事に関しては、
当時の長坂釣閑斎は駿河におり、また勝頼から長篠合戦前日付の書状を発し
ていることから、創作であるといわれています。)
信玄が勝頼を甲府に迎えたのは、実に元亀二年(1571年)という遅さで、義信
死後から4年もの間、武田家は後嗣が不在であったという事になります。
当時の武田家中において勝頼はあくまで諏訪勝頼(一城主)に過ぎず、それは
信玄が権威づけのため、その前年に将軍義昭に、勝頼の官途・御一字をもとめ
ている事からも察せられ、それほど勝頼と家臣団との親密性が希薄であった事、
義信の死で家中の動揺が大きかった(信玄は家臣数百名へ起請文を要求した)
事からも察せられます。
そのような事情を背景に勝頼を甲府に迎えた信玄ですが、いまいち腰が定まり
ません。
信玄は連名で文書を発給するなどして勝頼が後嗣として認知されるように腐心
しましたが、その一方では義信が歿した永禄十年(1567年)に生まれた勝頼の子
には信勝と命名しており、勝頼の立場は終始微妙であったといわざるをえません。
更にいえば、信玄は、あくまで勝頼を信勝成人までの陣代として扱い、遺言に
おいても、信玄は勝頼に武田の旗の使用を認めず、大一文字の旗を用いるに
とどめさせ、その他にも発給文書など、あらゆる面で制約をうけた格好となって
しまい、厳密には最後まで勝頼は諏訪勝頼に過ぎなかった事が窺えます。
信玄生前の(家臣団の反対にあった益薄い)織田との外交政策、三国同盟の
破棄と駿河平定の長期化、軍役負荷、経済面の停滞、国人衆との関係、上杉・
北条間の外交失策、など挙げていけばキリはありませんが、これらを全て勝頼の
責任に帰すのは無理です。
勝頼も信玄に振り回された犠牲者というべきです。
往々にして対外政策(失策)に重点をおいて論じられますが、勝頼の立場が内部
で不安定であった事を忘れては語れません。
信玄・勝頼を論じるにおいて『甲陽軍鑑』を信用できないとして切り捨てるむきが
ありますが、その一方で、別説を披露しようにも『甲陽軍鑑』以上に信用のおけ
ない史料に拠っていたり、単なる主観や推論であったりもします。
長文となり、鬱陶しくてすみません。
294 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 14:02:01
292,293文うまいな?
なんかの形で研究とかしてる人?
あと95〜97の文について考察してみて欲しいんだけど、、。
なんとなく、いいたい事はわかるんだけどいまいち文章がよくわからん。
292,293時間あるときでいいのでよろしく。
295 :
95:2005/06/30(木) 14:03:08
俺思うんだけどな、はじめから天下を取れる器の武将なんてのはいないんじゃないかと
思うんだよ。
信長才能はあったと思うんだけどああいうやり方だからああいう死に方するのは半ば
運命であったといえると思う。
秀吉だって家康だって育っていく過程ですこしずつ成長してあそこまでの人材になったと
思うんだよね。
家康だって若いころから苦労して、そして戦いを経て失敗や成功からすこしずついろいろ
と得て天下人へとちかずいて行っている。
そして、忘れないで欲しいのがそうした人材は譜代の家臣の忠誠というものに
とても恵まれている。
どの時代でも覇者になるやつはそうだろ?
この点はどんな歴史学者でも否定できないと思う。
296 :
96:2005/06/30(木) 14:03:57
そこで、勝頼をみてみたい。
勝頼が当主になった当時の年齢は家康・秀吉・信長もみんな一介の田舎の大将
としての資質しか持ち合わせていない年齢だと思う。
この3人や他の勝ち組武将もそうしたところから経験を得てすこしずつ大きくなって
言っているわけだ。
その、田舎侍の年齢での勝頼の活躍は他のやつにけして見劣りしないものだと思う。
そして、譜代の家臣の忠臣という観点でみていくとこれが勝頼には圧倒的にない。
信玄がのこしてしまた間抜けな遺訓、信玄信仰の信者達、諏訪家からという血筋、
それに付随する親類集のわがまま。それから武田家家臣全体にどうも必死になって
家を守るといった心が見えない。これは寄り合い所帯の甲斐という国柄にも原因が
あると思う(最後の小山田を武田家臣の裏切りまくりが見事にそれを物語っている)。
それから、もう一つ忘れないでもらいたいのは信玄の時代には豊富な財力があった。
それは、金山によるものだがちょうど勝頼の代になるころにこれが底をつきだしている。
おとなりの徳川・織田・上杉には親父が散々喧嘩を吹っかけている。
297 :
97:2005/06/30(木) 14:04:47
こうした悪い条件をすべて背負い込んだ形で勝頼の代ははじまっている。
もちろん広大な武田領、最強の騎馬隊とやらは残されてたのかもしれないが、
さらに不幸なことにこの時代ちょうど騎馬隊は時代遅れなものになる時だった。
そんな中での勝頼の戦いはどうだろうか。彼は善戦したと思う。
はっきり言ってあの武田家をついでなんとか命脈を保てる武将はいないのでは
ないだろうか。
唯一86のような手があるがそんなことは家臣の誰もが許さないしそれこそほん
とうのヘタレだ。
勝頼はいろんなジレンマや悔しいおもいを必死にこらえて戦っていたはずだ。
何せ彼は当主であって当主でない立場に最初に追い込まれている。
最初の印象というものはとても重要なのはいうまでもない。
そして、勝頼は実は逃げようと思えば逃げられる立場にいた。
けど、勝頼はそれを最後まで選ばなかった。
勝頼は男の中の男だと思う。
まぁしいていうなら、信玄が勝頼に帝王学を学ばせてなかったからだろうな・・
もともと勝頼は諏訪の姫の子供だったからな、義信が在命中は諏訪を収めてたから無理もないが
実際は勝頼の子供信勝が信玄の後継ぎとされてて勝頼は陣代って言う風に決められたから滅亡も無理はない・・
家臣団との結束がなかなかできてかったし家督相続後に信玄のやり方を急に変えたから反発などがでた・・
結局は信玄の後継者の育成の失敗が武田家の滅亡に繋がった・・
まぁ義信を死なすなんて思ってなかったろうから・・
騎馬隊って時代遅れか?伊達の騎馬鉄砲隊などもあるのだが・・
300get!
>>299 伊達も時代遅れだろう。
301 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 13:58:55
302 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 16:22:30
↑
程度の高い君の御高説を聞かせろ。
すぐにだ。
296の意見には賛成だな、義信が跡目を継げば家臣みたいな立場から、義信自刃によって信勝の後継人=信勝の元服までの武田の総帥になったんだから信玄譜代の家臣は使い難い、かなり苦労したろうな〜
陣代バカは甲陽軍鑑に浸っていなさい
甲陽軍鑑なんて見てるのか?
>>304-305は何をたよりに御高説を披露してくれるんだろう
口だけじゃないことを願うばかり
どうせ自己中理論しか言えんだろ。
309 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 00:35:31
>>296 >そして、譜代の家臣の忠臣という観点でみていくとこれが勝頼には圧倒的にない。
根拠は?跡部勝資や長坂釣閑斎、土屋宗三は違うの?
内藤昌秀が喧嘩するぐらい親密だったはずだが。
長篠で殿になって死んだ馬場達も信玄信者ってことで違うのか?
長篠は集団自殺説でも採るの?
>それは、金山によるものだがちょうど勝頼の代になるころにこれが底をつきだしている
根拠は?
黒川金山以外にも金山あるよ。
そもそも金山を武田が直轄していたかどうか明らかでないのに見てきたかのように自信満々ですね。
>もちろん広大な武田領、最強の騎馬隊とやらは残されてたのかもしれないが
日本に騎馬隊はない。信玄の代からこれからは鉄砲が重要だから用意しろって軍役に載っている。
310 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 02:10:57
>>309 疑問なのは、なぜ高天神城の後詰にいけなかったのか?金山の採掘量
がへり、遠征費もひねりだせなかったのでは?
時期的なもんじゃない?兵士のほとんどが農民なんだからさ、田植えや刈り入れ時期は戻らなきゃ次の年はどうすんの?
>>310 救援にも行けなくなったのは誰かの浅慮で北条とも戦う羽目になったから。
まあ高天神城が完全に敵中に孤立した位置にあるのも原因だろうけど。
高天神城に戦略的な価値はあまりなかったんじゃないかな。
>高天神城に戦略的な価値はあまりなかったんじゃないかな
314 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 03:19:26
313
多分312はああなってしまった時点での武田家において
高天神城の戦略的な価値は俺らみたいな冷静で客観的に歴史を
検証できる立場のやつからみたら戦略的な意味はなかったのでは
と言いいたいんだと思う。
ただ、武田家には武田家の事情があるだろうからほいっと捨てるわけには
いかなかったんだろ。
313は、文のあげあしを取るような陰険なことをする前に
戦略的価値がどのようにあったのかをついでに解説していけ。
315 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 11:18:42
>>311 農兵といっても農民全員を率いて戦っているわけではない。
別に刈り入れで兵をひく必要はないし、刈り入れ時期に戦っていた例などは探せば
いくらでもある。働きざかりの農民全員を動員できるなら武田軍は10万人以上動員可能だ。
働きざかりの農民全員を動員できるなら、確実に20万いくよな。
しっかし、兵士のほとんどが農民だと思ってる無知な奴がまだ居るとは驚いたよw
20万?ぷっ( ̄▽ ̄)夢物語だな、
実際には無理。
日本語読解力の致命的な奴がおるな
戦国武将で最大動員数トップは誰なんだろ?
やっぱり秀吉?武田や上杉はどの位動員した事あるの?
320 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:04:41
>>319 小田原攻めでは秀吉は20万人、謙信は10万を動員した。
信玄が指揮した最大兵力は、多くても3万程度だろう。
321 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:31:19
久しぶりに見たら昔書いた俺の文がコピペされててびっくりしたよ。
>>309 明日から出張でしばらくレスできんが近いうちに必ずレスする。
すこし待っててくれ。
そして、俺もすこし知識が乏しいところもあると思うから
そのときはまたぜひレスして欲しい。
322 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 17:38:16
無知ですまんが、信長は武田家を根絶やしにしようとしてたんですか?
それとも和睦も選択肢のひとつにいれてたんでしょうか?
323 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 00:26:28
勝頼=旧日本軍
>>322 根絶やしにする気は無かったんじゃないかな?
竜宝は助かっているし(後追いしたけど)盛信の子が、油川の家に匿われていたけど
信忠は執拗に追いかけることもせずに無事だった。
勝頼の子供も信勝以外は皆助かっている。
あと、執拗に武田狩りしたというけど、これは徳川のプロパガンダっぽい。
もししていたとしたら、あんなに武田遺臣が残っているわけないだろうから。
>>322 合理的に伊勢を取った信長としては逆らわない限りは殺さないから
根絶やしはしないよ。逆らったら凄まじいけど
>>324 盛信の子供について詳しく教えてもらえないかな?
初耳だったんで…
>勝頼の子供も信勝以外は皆助かっている。
これも詳しく。
>>325 そういえば、信長って躑躅が崎館の再建を命令しているんだよな
河尻アボーンで頓挫したけど
根絶やしの話を書くサイトがあるけど、そのくらい憎かったら
そんなことするかなと・・・
話はズレるが、信忠の戒名も最初は景徳院だったというし(信長は天徳院)、
勝頼の院号と菩提寺が同じ景徳院。この寺にある信勝の戒名は織田家の戒名と
類似点あり。偶然にしてはなんか気になる
329 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 15:45:37
信長も勝頼も光秀も首見つかってないから、実は生きてて案外酒でも飲んでたんじゃねーの
>>329 周りの家族郎党が自害した後、
勝頼は、体力を消耗して鎧櫃の上に座っているところを、
織田の兵士に見つかって槍で胸を一突きされて首を刎ねられているよ
まあ、あの真田幸村だってそんな感じだったらしいから仕方あるまいよ
333 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:01:57
なぜ家来達は勝頼を見捨ててさっさと遁世しちゃったの?
なぜ勝頼はいざぎよく切腹しなかったの?
実は腰が抜け果てて震えてただけなんじゃないの?
334 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:39:12
結果論だが、徳川秀忠みたいな凡将だったら、武田はもっと
続いていたかもな 結構能力があったものだからハリキリすぎた
戦争をせずに、新府もつくらずに専守防衛で行ったら長持ちしたかも?
致命的なのは、黒川銀山の金が枯渇したことだろうな
長篠に敗けた直後とかならまだ再建の余地もあったが、
決定的なのは上杉の御舘の乱でしょ、この事件を契機に、
北条まで敵に回してしまった。
>>334 暴走するだけならノリでもできるわけだが。
>>331 更にいえば、当初の首実検では他人の首と取り違えそうになるところ、
討ち取った者の痕跡で漸くこぎつけた、という経緯だったはず。
338 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 00:00:06
足軽の首と間違われてたわけか。
貧相だったんだろうね、勝頼さんw
>>338 貧相というより取った首が多すぎただけ
でも、この記述は脚色の可能性が高いらしいけどね
340 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 01:47:30
上杉景勝のミラクルなのか
武田勝頼がダメダメなのか
景勝>>>氏政>>勝頼>氏真
北條を敵に回したというより、
敵に回るようにしむけたのは氏政の方。
逆恨みもいいとこだと思うが・・・
342 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 13:24:57
>>341 まっ、そのおかげで弟は死んで、妹まで勝頼と共に自害して、
最期の手紙でお恨み申し上げますとまで言われる始末。
信長も、本能寺が無ければ本当に娘を嫁がせたかは疑問なところだ。
343 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 23:32:04
氏政も同じように死んでるからいいんじゃねの
344 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 00:22:08
信長も家来に殺され、武田と同じあわれな末路。
それを言い出したら家康とか関ヶ原勝ち組とか以外キリがない。
しかし信長はともかく、
信長亡き後の織田家の酷いへタレっぷりはもはや失笑モノとゆーか・・・
一度は天下の覇権に手をかけた家がねぇ。
織田スキーな自分でさえ、武田の滅亡の方にまだしも心惹かれるよ。
たしかに、織田家には後継者がなさすぎ・・・。
信忠が生き残っていればどうだっただろうか。
345ですが、本能寺で官僚機構が一夜でほぼ瓦解、
死亡した嫡男以外の庶子は徹底差別化したゆえの継嗣問題etc
汲んだ上で云ってます。いちおう。スレ違いぽくなってスマソ
信忠生きてたらフツーに織田幕府成立だろう
毛利とはあのまま講和、秀吉は一代限りで織田に戻ってくるから問題無し
森長可や団忠正、斎藤新五郎あたりの信忠直属の若い世代も育ってきてるし
あと、信忠と松姫の間に男子が生まれれば一悶着ありそうな気もするが
親族筆頭は勝長になるだろうし、武田系遺臣も多く流れてくるだろうしなぁ
どのみち勝頼の評価は芳しくないだろうな。武田はともかく
>>350 >信忠と松姫の間に男子が生まれれば一悶着ありそうな気もするが
なんでだぽ?例えばどういったことがおきると思っているぽ?
>どのみち勝頼の評価は芳しくないだろうな。武田はともかく
意味がよくわからないぽ。むしろ逆ではないのかとも思うぽ。
少なからず、今よりもう少しまともに評価されているかもしれないぽ。
織田は信忠に男子が生まれていなかったら信孝でまとまった気もする。
フツーに後継ぎ問題おこすかも知れないってこと
家光、忠長みたく
最愛の女の妻の子
その妻のバックには(おそらく吸収されたであろう)武田系の家臣団
+親族筆頭になったであろう勝長(信澄は信孝に殺されるだろうし、その罪で信孝を牽制できる。
もともと信孝は親族衆として順位低いし、信雄はアレな上、信忠と仲がよろしくない。反面勝長は信忠直属で無能では無いようである)
まぁ、信忠もそこら辺甘い人間とは思わないが
勝頼の評価は
武田は強い(そんな強い武田を倒した信忠様スゲー)
→そんな武田が滅びたのは勝頼が無能だったから(俺たち旧武田は有能なんだ)
こういう流れになるかと
>>353 ますますわけわからないぽ。
誰と誰が後継者で争うぽ?
勝頼に関しては、あまりにも単純すぎだと思うぽ。
なぜ武田が、あのような滅びかたをすることになったのかの
理由が実際よくわかっていないぽが現実だぽ。
信忠や勝長が生きていれば、そのあたりの真実もわかっている
だろうから、そんな流れにはまずならないと思うぽ。
史実でも、勝頼が無能だったなんて、織田方の記録には無いぽ。
>>328 >信忠の戒名も最初は景徳院だったというし
どこかにその戒名の位牌や供養墓でも残ってるのか?
スレ違いだけど、はじめて聞いたので気になる。
織田信忠の戒名というと大雲院があるよね
>>355 漏れもその話については読んだことあるよ。
『織田信長総合辞典・岡田正人編著』雄山閣出版の後ろの方に
もう一つの戒名として、この話を小さく載せていた(出典は確か兼見日記)。
墓や位牌までは知らないけど、日記の中で天徳院・景徳院の記述があって
確か阿弥陀寺に行った時の話だったと思う。
記憶違いだったらスマソ
>>354 誰と誰って…吉法師と松と信忠の間に子供がだよ
行間からわかりそうなものだが…(どうせ煽りたいだけで流し読みしてるんだろうけど)
織田の記録にはないって…
これも少しはそっちで考えてほしいんだが
武田の神格化をしたのは、徳川に仕えた旧武田系の家臣だよね
それは本来的には信忠の家臣になる筈だったと仮定して話している(この仮定は順当な筈)
だから史実では徳川の下で行なわれたことが織田の下で行なわれると話している
だから史実でも徳川期における勝頼の評価が芳しくない以上、それは多少の変更はあれ(織田の武田への虐殺と侮蔑は無くなるだろう。元から存在しないし)変わらない
信忠と勝長による研究?なんで彼らがそんなことするのか判らないね
泰平の殿様なら暇人だし、文化事業の一貫としてわからんこともないが
本能寺の変の時点で信長の事業を引き継いだのなら信忠も勝長も四方を駆けずり回る必要があるし
戦乱期に生まれた彼らが過去の敗北者にじっくりと目を向けるとは考えづらい
358 :
86:2005/07/12(火) 09:49:39
297にある「86みたいな手」ってのが気になって
みてみたら
86 :日本@名無史さん :2005/06/08(水) 16:31:04
信長に土下座して全国お詫び行脚
だそうな。
アホか。86は。
>>357 なぜそこで吉法師?三法師の間違い?
仮に三法師なら、争いはまず起きないだろ。
正妻腹(松姫)と側室腹(塩川)だから、争うもなにもない。
例えば、伊達家がいい例。政宗の後を継いだのは愛との子で8男。
上に何人いようとも、正妻腹と側室腹というのはそれぐらい、
立場が違う。徳川家の奥関係と織田家の奥関係が同じ訳でもない。
家光と忠長みたく正妻腹同士の喧嘩も、結局、信長や信忠が
嫡男にどういった教育方法を取ったかにもよるし、仮に引き離しを
したとしても、松姫がどういう行動をとり教育したかで事態は変わる。
勝頼評価についても同じように、徳川の下で行われたことが織田家で行われるとは
限らない。354氏の文章で、なんで研究する?になるか疑問なところだが、
勝長みたく勝頼の傍にいた人間もいれば(実際仲も良かったといわれている)
松姫という妹もいる。その松姫の側には、盛信が一緒に落ちさせた勝頼を
見限った連中とは別の高遠城遺臣もいるし、勝頼が落ちる松姫につけた遺臣もいる。
これらの遺臣は、間違いなく信忠の家臣になっただろうし、
信玄を変に神格化し、勝頼を卑下した連中より、大事にしたろうから、
直に勝頼をそばで見てきた人間の目から見た勝頼ということで、
彼に対しての評価も、また違ったものになっていたとも思う。
松姫出産話にはついていけないので、サヨウナラ。
>>360 やはり現れましたな
松姫の話になると出てくるヒステリック粘着腐女子さんw
はいサヨウナラ
362 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 14:11:10
武田・織田スレに必ず現れて
2人は密会してて子供も居るんだと騒ぎ続ける奴がウザー。
そんなに自信がある説なら本でも書いて世に問うてみたら?
>>362 密会や子供については、三戦の本スレですらもう騒いでないやろ。
騒ぎ続けているのは、松姫の話が出てくれば文脈関係なく、
こうやって話を振っている、おまいみたいな椰子だと
いい加減に気づけや、ヴォケ!
364 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 14:46:03
>>357 妄想乙!
歴史を捏造するのはチョンの習慣病
>>362 秀信末裔の家では、そう伝っているらしい。
末裔の方が、その伝承をまとめたのを本にしていたような。
確か入手も可能だったと思う
>>363 同意。松姫という単語が出てくると362氏みたいな人が
出てくるような気がして、そういう話題外の松姫や信忠の話をしたくても
おちおちレスできない。実際、このスレでも於竹の方のくだりで
そういう話もあるってだけなのに、噛み付いた奴もいたぐらいだし。
366 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 00:16:05
>秀信末裔の家では、そう伝っているらしい。
大きく息を吸ってぇ・・・・・・・・・・・・・・・・・「 ハ ァ ? 」
バカ乙!
またループか・・・
366もバカという前に、少しはググれよ
一つはっきりと言えることは、密会や子供云々は別としても
当の織田家が、後年幕府に提出した家系図では松姫を
信忠の室と記載して、幕府もそれを認めたってことは事実だろ。
(寛永・寛政共に)
そして、一方の武田家側も、武田保存会の顧問で武田史研究の
第一人者である佐藤氏が子供の話に肯定的な記事を書いても、
保存会はなぜか抗議することもなく(織田家も同じく)、顧問を外されるような
こともなかった。保存会メンバーの家の中には、そう伝わる家もあり
実は認められているという奇怪な噂すらある。(真偽は知らん)
400年以上たった今となっては事実は闇の中
白黒つけたいなら、高野山奥院にある秀信の墓と信松院にある松の墓から
遺骨を拝借して、DNA鑑定するしかない。
勝頼の話に戻ろうよ…
370 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 10:53:41
>>367 大きく息を吸ってぇ・・・・・・・・・・・・・・・・・「 ハ ァ ? 」
バカ乙!
371 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 13:38:51
勝頼は決して暗愚な武将ではなかったと思う。
ただ父信玄があまりにも大きすぎただけ。
いい加減に汁!
少し↑のレスも読まない奴もいれば、罵りあったり、煽ったり、
当人以外は冷めた目で見てるって気づけば?
374 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 15:20:44
武田家が滅んだのは、誰のせいでもないだろ。時代の流れ。
武田家に限らず、朝倉、浅井、齋藤、北條、豊臣、
滅んではいないが家臣に乗っ取られたも同然の織田etc
結末が似たり寄ったりの家は、他にあるにも関わらず勝頼ばかりが
責められるような風潮は如何かと・・・
いちいち誰かに責任を押し付けるようなことではなかろう
376 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 17:16:26
これから以下の3つのタイプの低レベルは完全に放置でいこう。
@370みたいに自分の意見と根拠も持てずにただ人を小ばかにするだけの低脳。
A374みたいに自分の意見と根拠も説明できないような無職スレか童貞スレにでも
行った方がいい低脳。
B上の2つよりは幾分ましだが、371のようなすこし上のレスも読んでない
めんどくさがりや。
そんな書き込みはあってもなくても一緒だ。
正しいかどうかは別として367乙ね。
370は悔しかったら小学生みたいなことしてないでしっかり
根拠をもった反論をしてみろ。
377 :
376:2005/07/13(水) 17:23:04
自分の意見は書かずに他人の論評しかしない
>>376も放置してくれ。
376がどいつかはだいたいわかるけどな。
>>375 同意。勝頼を武田家滅亡で非難するなら、乱暴な言い方だが、
浅井長政あたりは、非難されて然りかもしれん。
>>377 おまい本当に376氏か?もしそうなら、結局何がしたいんだ?
>>375、379
それは感じ方の違いでしょ。
悲劇の将ではあると思うけど、長篠の戦いがある限り名将には程遠いし、馬鹿評価されるのも仕方ないとすら思っている。
人物の評価は結果に依存せざるを得ないものだから。
381 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:28:06
>>380 結果に依存せざる得ないのなら、なぜ勝頼ばかりが非難されるのか?
>>375や
>>379が言いたいのは、そういう意味じゃないのか?
俺もそこは前から疑問に思っていることだけど。
結果的に生き延びることが評価基準では今川さん以下になってしまうが
仕方ないのかな
383 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:39:51
384 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 00:41:16
今川氏真はアホの代名詞みたいに言われるが、あの時代に
一応は家系を存続させ、自身は畳の上で死んだのだから、
それはそれでいいじゃないか。
>>381 別に勝頼ばかり批判されているなんて感じないってこと。
>>382 結果=お家存続、なんて言ってません。
長篠、戦略、内政外交、家臣統率の結果が悪いという意味です。
386 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 01:51:15
>>385 結局、結果=滅亡させたといいたいんだろw
勝頼はヨーゼフ2世となんとなくダブル
言い得て妙だな
>>384 漏れも同意。下手になにかすれば自分だけでなく、一族郎党皆殺しにされた
かもしれないのだから。自己満足のために迷惑をかけるよりも恥をさらしながらも
生きたのはそれはそれでいいと思う。後世に汚名を残すぐらい気付いてたと思ふ
390 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 14:03:09
今川の落日を見てたし、
(それも徳川でなく)織田の臣下に入る辛さも聞き及んでいただろうし。
391 :
日本@名無史さん:2005/07/14(木) 14:37:57
その意味では織田信雄の後半生もなかなかのものだ。
傑物として逝ったものや
頂上で散ったものも格好いいけど、
時代に抗って無念の死を迎えた奴や
しぶとく、又はしたたかに生き延びた奴のほうが好きだけど。
自分はね。
>>356 遅くなったけど、レスありがと。
スレ違いで申し訳ないんだけど、お礼がてら・・・。
自分でもあれから阿弥陀寺ついて検索してたら
天正十年九月の言経卿記に阿弥陀寺での戒名・景徳院(信忠)云々の
記事があるらしい。(今度読んでみよう)
同年十月の秀吉主催の大徳寺葬では大雲院の戒名で行われた。
阿弥陀寺住持と秀吉の間に確執があったのは寺伝にもあるけれど
戒名の変化については伝承もなし・・・・のようです。
でも、阿弥陀寺の墓誌は大雲院なんだよね、
同寺は天正十五年に同志社の東側から西へ移転してるけど、
墓標はその当時のものと言われてるらしいです。
8月には京都に行くんで阿弥陀寺にも行ってくるよ。
勝頼の事じゃないのに長文だった、ゴメン、もう逝く。
394 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 19:34:23
阿弥陀寺は一応、信長と信忠の遺体(遺骨?)を回収して寺に葬った事になってるじゃん
396 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 19:49:54
>>392 好きなのは結構だけど評価まで変えるのはやめてね。
偉大な先代の遺産をパーにしたのだから
どんなに勇猛な武将でも当主としては評価されないか
399 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 02:02:58
だから、このスレのいくつかの意見の一つとしてだがその
偉大な親父とやらが実は大したことなかったのかもっていう
感じになってるんだよ。
勝頼を後継者と指名してからの彼への態度とか義信のこととかな。
そういえば、信玄の西上はなんとなく秀吉の朝鮮出兵となんかかぶるな。
400 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 02:05:42
主体的力量を無視した暴挙
あれだけ勢力広げれば、大したもんだと思うがな。
勢力広げ維持するには、最低でも為政者として指導者として司令官として有能じゃなくては出来ないのだから。
402 :
青猫:2005/07/16(土) 02:21:16
初めまして〜。
武田勝頼はザコ武将ではないです。
但し、総大将としての器はなかったみたいです。
現に犀ヶ谷の戦いで
山県軍(山県昌景)が13の首級しかとれなかったの対して
勝頼軍は63の首級をあげて、高坂昌信は「軍艦」の
中で「強過ぎる大将」と批判しています。
実は武田信玄が勝頼につけさせた(側近)が軍事面に疎く、
信玄が決めた側近ということで勝頼が信頼を置きすぎたこと
がのちの悲劇につながったということです。
義信が生きていれば猛将として活躍していたかも
しれませんね。義信の元には山県昌景の兄(飯富虎昌)が側近でしたしね。
勝頼の評価としては、やっぱり長篠が響いていると思う。
信玄についてなんだけど、駿河方面から西上するのではなくて
あくまで、三国同盟は維持して、美濃方面に勢力を伸ばしていくのは難しかったんですかね。
織田が武田に攻め入ったのとは、逆のルートで。
輸送がきつくない?
信長が美濃から信濃へ入れたのは、三河・遠江を家康が押さえ、北条も上野に侵攻し
多方面から侵攻したから、迎撃受けなかったのであって
単独侵攻は狭い場所なだけに、迎撃受けやすく、軍勢の多寡がさほど有利にならずに厳しいかと。
406 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 09:55:22
>>402よ。
勝頼には総大将としての器はなかったのか?
彼は総大将としても十分に様々な政策・外交策を試みてると思うのだが。
特に長篠以降真剣に取り組んでいるのがよくわかる。
勝頼は負けて外交の重要性を勉強したと言える。
ところが、謙信の死や北条の手切れを申告しているような不誠実な態度
など、あまりに不足の自体が多すぎたし、
家臣や得に親族集がまとまれなかったのは信玄の政策の失敗のつけ
によるところが多い。
っと、これは俺の意見だが反論・意見などのレスよろしく。
今書いててふと思ったんだけど本能寺の変で一番助かったのって上杉景勝だな。
407 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 10:02:42
信玄は弱いものいじめしかしてないな。
まあ、そういう時代だったんだろうけど強い奴には一回も勝ってない。
(上杉謙信・北条氏康・さらには長野業盛)
局地戦では勝っても領土を切り取るまでに至っていないというか。
挙句の果てには弱体化今川いじめと、義信殺しの暴挙。
戦国争乱の世の「弱い者いじめ」って・・・www
409 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 12:29:48
いじめ、かっこわるい。
信玄=最低のダサ男
410 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 13:49:04
雑魚ではないと思うよ。父が偉大過ぎただけ。武将派参謀役か、切り込み隊長、殿軍の力量がありそうな武将。総大将向きではないだけ。
もう過去のレスも読んでないレスばかりでうんざりなんですが。
412 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 01:13:45
だから言ったろ?ループばっかりで、そこから先へ進まないんだよ、と。
>>406 その北条を敵に回した外交が駄目ポとたたかれているわけだが、
織田徳川と戦っているのに、後背の北条と敵対してどうするのよ。
そして手を結んだ、上杉は全く頼りにならんし。
むしろ北条と一緒に潰せば、北も安定したかもしれんのにさ。
北条を敵に回したいなら、織田徳川と和睦でもしないとやってけないだろ。
414 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 02:53:23
>>413 影虎は氏直の弟だから、北条の力が関東+越後・越中と強大になるのを
恐れたというのが理由っぽいが、手っ取り早くは軍資金として春日山城
の黄金が欲しかったんだろう。長坂長閑、跡部大炊助が景勝から賄賂を貰った
という話もあるが、真偽は不明だ。それに、一応、景勝は自分の弟になるし、
力になってくれるかも?
只、上杉が柴田を筆頭とする佐々成政、佐久間守正、前田利家、の柴田軍団
はては、信忠軍団の越中への攻撃をささえるのに手がいっぱいで、あまり力に
ならなかったのは誤算?だ。
>>413 何回か出ている意見だが、北條と敵対したのは
勝頼だけに非があるわけではなかろうが。
敵に回したいというより、氏政が勝手に逆恨みしただけだろ
いい加減、氏政側にも非があったことに気づいたらどうだ?
北條を敵に回したから北條を・・・って
ホントいい加減、何度話題をループさせれば気が済むのか。
北条にしたら逆恨みどころか敵に回ってくれて
ありがとうぐらいじゃないのか。
>414
長坂、跡部が景勝に約束の黄金50枚を
渡すように催促してる書状が残ってるのでこの同盟で
黄金の取引きがあったのは確かだが
巷で言われてるように1000枚とか200枚の賄賂って
いうのはさすがに誇張され過ぎだろう。賄賂っていうのもこの2人を悪く書いてる
甲陽軍鑑からだから信憑性は…。
あと氏直の弟じゃなくて氏政だな。
賄賂出典は甲陽軍艦だったのれすか!!
ん?違ったっけ?
確認の為「上杉年譜」読み返してたらこっちにも
書いてあるな。黄金の枚数は書いてないが。
あの2人に賄賂贈って勝頼を味方にしましょう的内容。
もっとも上杉年譜自体、軍記を参考にしたような内容が多いから
史料としてはあまり信用できないけど。
参考までに年譜から引用
「勝頼ノ寵臣跡部大炊介 長坂長閑斎ハ寵遇他二超過シテ
甲府ノ政務ハ此両士帰スル由 兼テ其沙汰アレハ 彼両士二
厚ク賄賂ヲ与エ」
「跡部 長坂ハ天資貪欲ノ者ナレハ 賄賂ニ耽リ
委細ニ唯諾シテ勝頼ニ達スヘキト云」
天資貪欲ノ者って跡部、長坂はとことん悪役ですな。
420 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 12:36:44
>>419サンクス
武田の次は間違いなく上杉、そしてすこしだけ時間稼ぎはできるだろうがそのあと
北条が織田に潰されるのは必至の流れだった。
上杉は北陸軍だけで十分だろうし、北条は滝川・川尻に散々押されまくって
小田原にこもってるところを毛利討伐から帰った信長が加わった織田軍によって
一気に終わりってな流れだろう。
その時点ではなんとか織田・北条が友好関係を保ったとしても豊臣にも臣従が我慢できずに
反抗して潰された北条のことだからこのケースでも同じことをやるのが落ち。
本能寺の変という全く予想のできない事故によって織田に潰されるのをまのがれたから北条は
織田の武田討伐戦の勝ち組みたくみられるかもしれないが全くそんなことはない。
北条・武田・上杉は3人で結束して織田・徳川にあたるしかなかった。
勝頼はそれをやろうとしていたが、
まったく不幸なことに肝心な北条に将来をみすえられる目や氏政に一国の大将
としての、器・能力・誠実さがまったくなかった。
でも、信長級の真の天才だったら謙信の死をも予測して動いたりするのだろうか、、、。
>>420 豊臣に臣従しなかったのは、信長以上の成り上がりである豊臣だからだろw
一種のプライドみたいなもん。
本能寺の変も起きず、信長の娘が氏直に輿入れしていたら、
氏政といえど、そんなバカはしないだろう。
織田へも氏政から接近しているし…
422 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 15:07:42
1番の逆賊は秀吉なのかも知れないな。
もちろん光秀もだけど。
423 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 07:36:21
たしかに氏政は一国の大将どころか、
一武将としての能力も危ない気がするね。
>>415 非があるとかそういう倫理的なもんじゃねーの。
国を残す為には、鬼畜生なことでもしなければならないんだからね。
相手にも非があるからといって、両面作戦を強いた勝頼は馬鹿以外のなにものでもない。
信玄が領土を割譲して、和平を求めたのはなんだったんだ。
信玄が今川を攻めたことで結ばれた越相同盟
勝頼は、その同盟を基に仲裁しようとしただけであって
馬鹿ではない。むしろ義を重んじた筋の通った方法。
↑
ごめん、意味わかんない。
>>426 お館の乱時の、勝頼仲裁案のことかと思われ
結局さ、氏政にしてみれば武田は上杉と仲悪いし、同盟相手だし、勝頼は義弟にもなるから
自分の思い描くような対応をして、動いてくれるという根拠のない自信と変な甘えがあったんだろ。
>>421 秀吉が成り上がりだからって言うのは違うだろう。
秀吉の行った長宗我部、島津への甘い処置を見てしまったから
従うのなら一戦交えてからという考えが北条家全体に生まれたのだろう。
>>429 氏直は別としても、従うという選択は最初から無かったと思うが…
430 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 16:31:11
>>427 全くだ。北条がもうすこし時代というのがみれる連中だったらな。
>>429 もちろん、従うなんていう選択肢はなく織田との同盟という形でいこうとして
いただろうな。
でも、信長はああいうヘタレ一家には必ず厳しい態度で臨んでいる。
だから、いつか臣従をせまるかほぼ配下としての扱いしかうけないかのどちらかだ。
そしたら、あのおぼっちゃま氏政は堪えられなくなって同盟破棄なんて流れだ。
それから、秀吉の実力も見抜けず成り上がり者だからなんていうどうしょうもない
理由で従えない奴はもはや戦国大名としての資格は完全にない。
>>430 武田という名家の看板を背負っている関係上、おいそれと織田に臣従できなかったように、
伊勢の流れの北條という看板を背負っている氏政が、どこの馬の骨とも知れない奴に、
臣従できるはずもなかろう。
>>429 普通に考えてるだろ。
というか、北条以外が豊臣に従ってる状態で独立貫けるなんて
甘い幻想を氏政が抱いてたなんて考えるのは氏政を馬鹿にしすぎ。
まあ、下っ端なら何も考えずに徹底抗戦の人も居たかもしれないけど
上の人間は従うタイミングをうかがってたに決まってる。
長宗我部、島津への甘い処置が
負けても改易は無いという甘い考えを生んでしまったのだろうけど。
433 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:32:09
>>431 そうだろ?
だからこそ、あのとき武田・北条はしっかりとくむべきだった。
俺は、本能寺がおきなかった時の展開を言ってるだけな。
氏政が勝頼のように先の展開をよめるやつであれば
武田もああはならなかったんだよ。
434 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:34:09
ついでに、もう書いたがもう一回説明しておくと
武田・北条の同盟→2家とも守り通せた可能性がかなりある。
北条が武田と組まずに本能寺も起きなかった場合
→両家とも滅亡
ってのを説明したのな。
435 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:47:27
>>432
馬鹿にしすぎって言っても現にやつは考えてたんじゃないのか。
そもそも、氏政は勝頼との同盟のことや御館の乱などで物事が自分の
都合のいい方に傾くとなぜか妄想している癖があるような気がする。
多分、そんな感じで織田との同盟も対等な立場で続けていけると妄想
してたんだろ。
もう一回言っておくが、織田はああいうヘタレ大名には容赦ない態度で
常に望んでいる。
中国・北陸・北関東あたりが制圧された時点で間違いなく北条は臣従か
滅亡かの選択肢を選ばなければならなくなる。
>>433 組むべきであっても、氏政にその気がなかったのだから組めるわけがないと
何人かが指摘しているだろうがw
いつのまにか氏政スレに・・・w
とにかく家康が上洛しちまった時点で北条は対中央戦略練り直すべきったよ。
てか、せっかく氏規上洛させて一時期はいちおう臣礼の形とったのにな。
秀吉にしたってギリギリまで催促しまくり、家康まで口きいてくれていたのに、
氏政も氏直も上洛はせんわ、あげく関東惣無事令ブッチ切って名胡桃城事件。
天正16年の九州征伐終了で、もう残る大国といったら全国に北条家のみ、
雪崩をうって進軍してくる大軍を前にまだ改易はないと夢想して、
一戦のうえで矜持を保持しつつ、なお降伏のタイミングを計ってたというのかい?
やはり氏政は小田原城を頼んでの過信、状況判断のすべてが甘過ぎたとしか思えんよ。
また、伊勢氏以来の名血の誇りが最終的に秀吉の下風に立つのを許せなかったというならば、
それこそ切腹開城は本望でしょう。惜しむこともない。
まぁ後世から俯瞰して言いたい事言ってるが、家を守るというのはホント大変なことだよな。
北條討伐の話は別スレでやれ
北条の態度がどうであれ勝頼はなぜ自分から先制攻撃しかけてんだろう
家臣の支持失うきっかけの一つになったと思われるし
440 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 01:21:52
氏政は勝頼が徳川と、景勝が織田(柴田軍団)と戦って、押し込まれているのに、
対岸の火事だったわけだ。
むしろ火事場どろぼう
失敗したけど・・・
>>436 その組む気をなくさせたのは、勝頼だろうということだが。
あくまで織田と戦うなら、どんな犠牲を払っても口説かなければならない相手だからな。
>>442 >どんな犠牲を払っても口説かなければならない相手だからな。
口説けた時点で武田滅亡だと思ふ
>>442 勝頼のどんな態度が組む気を失わせたんろうか?
そのどんな犠牲を払っていてもというのが、臣従もしくは領土をよこせであってもか?
北條よりな考えみたいだから仕方ないことだが、勝頼が悪かった、氏政は正しかったみたいな
一方的な見方のレベル発言は、如何かなもんかな?
445 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 03:34:05
頼むから100くらい前のレスまで読んでそれからすこしだけ真剣に
考えてからレスしてくれ。もちろん、レスはありがたいんだがな。
>>436。お前よりたった2つ前の人のレスのコピペを3行はるが
武田・北条の同盟→2家とも守り通せた可能性がかなりある。
北条が武田と組まずに本能寺も起きなかった場合
→両家とも滅亡
という、ことに氏政が気がついてなかった。ってな話をしてるんだよ。
そこでもって余談で氏政がいかに先を見据える目がかけていたかという
話について北条の、特に氏政の話題がでてるわけだ。
だから今、氏政の話が展開されてるのは別にスレ違いではない。
446 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 03:38:15
つけたしだが、だからこそ北条に組む気がなかったとかの話ではなく
組むしかなかったのだ。
っていうか、あのときの状況を冷静に考えれば武田も上杉もなくなったあと
北条もやばくなるってのは簡単に考え付くことだ。
しかし、氏政が自分贔屓の妄想をしていた為にそれに気がつかなかったってなことな。
おまえ、どこまで何様状態?
組むしかなかった組むしかなかったっておうむ返しみたく繰り返すだけでは議論にならんな
そもそも氏政のあやふやな態度等について指摘したのはお前じゃないだろ?
それに、豊臣の北條討伐の話はするなと指摘されただけで、氏政の話をするななんぞ
誰も言ってない。
いちいち言い訳ばかりしてないで、444氏への回答もきちんとしような
具体的な話でなw
>>444 国を亡国から救う為なら、その選択もありだ。
北条に従うのが嫌なら、織田に領土を割譲して、臣従してでもするべきだな。
(つか俺は、413というかもっと最初から、和睦するのはどちらでもかまわんと言っている)
北条よりとか、そういう意見ですらない。
国を守るという、もっとも大切な目的を、つまらないプライドで駄目にした、
戦国時代稀にみる馬鹿=勝頼ということだ。
>>447 両面作戦をしても、生きていけるほどの能力が勝頼にあり、
それだけの国力があったというのか。
織田、北条、どちらも武田よりも国力は上だぞ。
なら、敵をどちらかに絞り、生き残りにかけるのが、正常な人間の思考。
それが出来ない勝頼は馬鹿。
氏政でいえば、豊臣と対立しているのに、東北の伊達にも喧嘩を売るような状況。
449 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 13:58:08
>>447へ
すこし書き方が悪かったかな申し訳ない。
ただな、君も小学生ではないだろうから頼むからすこしは文を読んで理解する
とうい努力をしてみてくれ。
俺は鸚鵡返しではなく何度も理由つきで説明している。
氏政という人間の性格ということから派生して豊臣の討伐戦の話になって言ってる
わけだ。
だから、氏政の話と豊臣の討伐戦は関連のあることだから君がわざわざ
「それに、豊臣の北條討伐の話はするなと指摘されただけで、氏政の話をするななんぞ
誰も言ってない。」
と噛み付く必要はどこにもない。
これらは上のレスをしっかり読めばわかることだ。
さらに、極めつけはどうしたら俺が444のようなレスを書き込む意見を持ってる
やつだという思考にたどり着くのか全くわからない。
まったくレスを読まずにゲリラ的に書き込んでるか、理解力が著しく欠如してるかの
どちらかだな。
とりあえず、文を理解する努力と能力を付けてから言ってくれ。
さらに言えば人に噛み付いているだけじゃなくてしっかりと自分の意見を言って
話を展開させてみろ。
そうした、ことができないやつとは話しにならん。
450 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 14:03:03
家を守る為なら守る為ならというが、名さえ残れば北畠シナリオみたいなことになっても良いと言いたいのかな?
北条も、正妻腹である黄梅院との間には氏直以外にも男子がいるし。
結局、両家に良いように翻弄されるのがオチじゃね?
武田家臣従→甲斐のみ安堵→家臣不満爆発→信長介入→織田一門が勝頼の養子になり後を継ぐ→元の血筋は信濃で一万石の小大名
>>449 >そうした、ことができないやつとは話しにならん。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
話しにならんw
凄く遅レスだから見ているかわからないけど
>>393 どういたしまして&こちらこそ訂正をありがと。
阿弥陀寺の伝承は、俺もあれからいろいろ調べてみたけどやはりわからなかった。
言経はなぜそのように書いたのかね?
肝心な部分が寺に伝わっていないからどうしようもないけど、一時とはいえ
院号まで同じとは、信忠はつくづく武田と妙な縁があるんだなとw
こういうのが、歴史の埋もれた部分のおもしろさという感じかな。
まじに暑いけど、京都を満喫して来いよ!
454 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 05:34:21
武田と北条の同盟が崩れていったのは
北条の読みのミスということでいいようだな。
本能寺が起こらなかった場合武田も北条も大名としては無くなるという意味でな。
悔し紛れのあらししか出てこない以上この話題はこの結論で終わることにしよう。
455 :
日本@名無史さん:2005/07/20(水) 05:38:42
勝頼が駿河を譲渡でもして氏政と同盟を結んでいたら
よかったかもと
フラッと書いてみる。
>>454 勝手に仕切るなよ
北条との同盟破棄の話は学者の間でも見解分かれてるし、
甲陽軍鑑の捉え方だって人それぞれなんだから
反論=悔し紛れのアラシとしか捉えられないようなガキは相手にしなくてヨロシ
本能寺の変が起きなければ武田もと、変時点では既に滅んでいる武田の名を
出すようなレベルだしw
まあ北条は小牧長久手でも、ひたすら自己の権益を拡大しようとしていたしね、
徳川に援軍を送るとか上杉を牽制するとかしていれば、秀吉の天下統一も遅れて
その分、北条に有利になった可能性もあるし。
甲陽軍艦は江戸期に書かれた武田マニアのおなぬー小説
鵜呑みにすんな
>>450 当時は、残すのは家であって、血筋じゃないんだけど。
極論になるけど、
もし、織田に臣従して武田家が残ったとしても、それはそれで叩かれるような気がする。
家を残す為とはいえ、信玄様があれほどに対立した信長にくだるなんぞとか、
武田の血を引かない者に名門武田家の家督を譲るなんぞとかね。
信玄が納得しても家臣が納得しないんじゃない?
464 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 06:49:02
北条も実際には家も血筋も大阪で残った訳で・・・
そういや、勝頼って武田の家督は継いでないと思うが
諏訪の家督だけ継いでたんじゃなかった?
>>459みたいな奴って時折みるけど、けして自分で根拠のある意見なんか
言えないんだよなぁ……恥ずかしくないんだろうか
生天目仁美は勝頼の部下の子孫だったのか・・・
珍しい名字である生天目について本人は「ご先祖が武田勝頼の部下だったらしいです。
その武田勝頼が天目山(てんもくさん)ってところで敗れたときに、我々武田軍はまだ生きているぞ、
負けてないぞって意味でご先祖が生天目と名乗って……。」と言っていた。(週刊少年マガジン04年29号48P談)
467 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 12:17:18
小山田の岩殿城に向かうより、弟の景勝をたよったほうがよかったのではないか?
越中で柴田軍団の侵攻を受けているとはいえ、勝頼+裏切らなかった一部の将が
客将として越後に来れば、相当な戦力になったハズ。(まるで村上義清だが)
他家を頼るよりも潔く切腹しそうだが。
469 :
日本@名無史さん :2005/07/21(木) 13:11:12
>>467 新府城から上杉領までは遠すぎ。
織田の追撃部隊が迫ってるし、従者も侍ばかりじゃないんだから
落ちる先はなるべく早く到着できる場所に設定すべきだろう。
で、一番近場の小山田領に決定したと。
勝頼には上杉にも北条にも頼る考えはほとんど無かった
んだよ。(ただしその考えに不満の家臣は多かった)
だから新府城を建築していた。
当時の織田だって一枚岩じゃないんだし周りに
敵もいたから篭城して機を伺う方針だったんだろ。
ただ内部分裂がその計画を狂わせただけ。
織田の軍勢だって1年、2年も勝頼を相手にする
余力はないと思うよ。
471 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 14:01:08
>>469 真田昌幸は自分の城の上田城へ向かうべきだ(勝頼の意向はともかく)と
主張していたようだし、上田と越後はそう遠くは無いので可能性はあったのでは?
新府城を捨てた時点では木曾義昌が松本平らを押さえていたようだが、善光寺平ら
はまだ進出していないようだし。
上田行くのに碓氷峠はいかんの?
473 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 14:21:27
>471
小山田は一門だから、それを信用したのでは?
474 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:45:43
それなら一人で馬に乗って逃げるべきだったね。
袋に金銀や兵糧やらを入れておけば、逃げられるだろうし
もちろん小山田の方に逃げたと嘘をついて、目をかわすべき。
475 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 17:46:50
>>470 1577年の佐代姫を正室に迎えたことや上杉・北条との三国同盟などは?
新府城を建築したのは1581年だよな。
ほんとは3国同盟で行きたかったがその間の氏政のあやふやな態度によって
1581年頃には北条と組むという選択肢を捨てて別の方策(新府城での篭城)
を考えたとは考えられないのかな?
その時でも、上杉とは依然として仲いいし。
だから、頼るというより早くから3国で結んで織田に対抗していこうと考えていたと
俺は思うんだがどうだろう?
>>475 1578年の御館の乱の対応で勝頼は北条と事実上の
手切れとなっていますね。
以後は北条と上野をめぐり対峙しています。
御館の乱でとった行動からすれば三国同盟で
織田に対抗する考えは強くなかったんでしょう
>>475 おいおい、佐代姫なんて名は実際に伝わってるものでは無いのでは?
478 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 21:18:25
アホみたく三国同盟になんでそこまで拘るんだ?
↑
そんなもんアホだからにきまってんじゃん。
そんな事もわからないの?お前アホ?
釣れたw
481 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 23:33:44
負け惜しみ乙
へへヘ、ばれちった…ボリボリ…
483 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 00:36:52
当事、敵対関係にないのは上杉しかないので、途中で捕捉される可能性は
あるが、一か八かで上杉に向かうしかないね。
岩殿城がいくら堅固な山城だといっても、織田(もしかして北条も)軍に
囲まれては、難攻不落というわけには、いかないだろう。
末弟は、高野山経由で上杉を頼って生き延びれたもんな
上杉頼って落ちてどうするの?
その後は、越中から柴田、信濃から森、
上野からは滝川、奥州から葦名、国内
では新発田で上杉も四面楚歌で終わってたよ。
戦国武将は戦争指揮力よりも外交能力の方が圧倒的に大事。
2:8ぐらいか。
織田との対立を解けなかった勝頼は武将としてだめでしょう。
486
対立を避けて譲歩に譲歩を重ねてどうすんの?1武将で生きろってか?
488 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 04:01:40
>>476 たしかにその通りだ。
でも、御館の乱までは3国同盟で切り抜けようと画策(外交政策)していた
と思うのだが。
そこに、突然御館の乱という上杉対北条みたいな戦いがはじまってしまって
、さらにそこで氏政の不誠実な態度が続いたために北条をだんだん信用できなく
なって行ったっていう感じだと思うのだが。
このスレの前のほうでも御館の乱で上杉の見方をしても北陸と関東を北条に挟まれる
形になって、しかも北条のあの態度では最終的に臣従のような形で生きていくしかなく
なるっていう形になってたな。
しかも、生きていけるかも謎。(北条なら生贄として差出すくらいのことはする)
つまり流れとしては
三国同盟→御館の乱→氏政の不誠実な態度→北条と組んでやっていくという考えを
考え直す→その後の政策
となっていると思うのだが。
>>475 佐代姫はドラマ「おんな風林火山」での創作上の役名だぜ。
ここは日本史板なんだがな。
一応日本史板内だが、ここは三戦厨隔離スレですよ。
491 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 17:19:25
>>489 諏訪頼重の娘も「湖衣姫」となっているが、同じく、実際は不明。
でも、通称佐代姫なんて書くのはめんどうだから佐代姫でいいんじゃないの。
つうか、そんな通称があったなんて知らんし、そんな通称が世間に浸透しとるとも思えんし、
仮に浸透してるとしても、学問板で使うべき名前だとは到底思えん。
なぜわざわざそんなワケノワカラン名前を持ち出すのか理解不能。
御館の乱の時点で3国同盟は武田と上杉はともかく
北条にとってメリットあるの?
ここで同盟組めても北条は織田と対立すると
なったらさくっと切りそうなんだが。
494 :
日本@名無史さん:2005/07/22(金) 23:42:44
>>492 それでは、名前について学問上の疑問がわずかでも存在する場合は、
そういう名前は使わないように!
発給文書などで一度でも使用されたことが確認できればOKとします。
>>487 理屈を言うならその通り。
だから外交が大事。
できるだけ高く売れる時機を捕えて対立を解くべきだった。
実際、長篠後武田の周辺で武田を滅亡させる力があったのは織田だけ。
故に、外交は対織田を主題にすべきで、
対立を続けるなら上杉、北条とは相当良好な関係を維持する必要がある。
良好な関係を維持できないなら、対立を解くべく立ち回らないと。
>>491 湖衣姫は新田次郎が「澄んだ諏訪湖の湖水のような麗人」を
イメージしてつけた名前。
新田自身がはっきり書いてることだよ。
(武田信玄連載終了後の歴史読本)
>実際は不明・・・、
でも何でもない、小説上の命名だとはっきりしてるんだけどな。
>>491 ついでに。
湖衣姫は甲府の信玄公祭りで「湖衣姫コンテスト」なんて開催されて
世間に流布もしてるが、
「諏訪御寮人の名は伝わっていないが、井上靖の小説では由布姫、
新田次郎の小説では湖衣姫と名づけられた佳人」みたいな説明つきだな。
佐代姫という呼称は歴読とかの戦国女性特集でも出てこないよな。
通常は北条夫人なんじゃない?
>>496 実際は不明って、「実際の名前は不明」という意味なんだが。
日本語に不自由な人かね?
>>497 >佐代姫という呼称は歴読とかの戦国女性特集でも出てこないよな。
>通常は北条夫人なんじゃない?
確かに佐代姫と言われると誰それ?と思うが、北条夫人
なら俺にも通じるな。
つうか諏訪御料人では何か不都合でもあるわけ?
501 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 13:47:22
武田勝頼
東郷神社にでも祀られて安らかに眠ってほしいものだ。
大組織の後継者育成って難しいね。
ダイエーもファーストリテイリング、ユニクロも
同じ問題を抱えてるよ。
502 :
日本@名無史さん:2005/07/23(土) 13:55:41
>>500 不都合ではないと思う。
でも、新田小説や大河の影響が大きいから、湖衣姫の方が通じているだけかと
>>502 ごめん。やっぱり問題ないんだね。
日本史板で何を言い争ってるんだって思ったもんだから。
諏訪御料人の方が一般的だと思うが・・・
>>498 >日本語に不自由な人かね?
大映ドラマの役名を真面目に信じてる奴に言われたくないよwww
日本語に不自由な馬鹿が焦って捨て台詞を吐いたという事か?
それとも馬鹿は、日本語に不自由である事と、大河ドラマの役名をまじめに信じる事に関連性があると思っているのか?
ううむ・・・馬鹿の考える事は理解できない。
御免なさい。
反省しています。
みんな天目山温泉につかって「麗人」でも酌み交わそうぜ。
510 :
日本@名無史さん:2005/07/27(水) 22:43:24
別スレからだが、、。
「長篠日記」て読んでみたんだが、信長が勝頼に大勝したという「信長公記」
よりも臨場感あって、写本にもよるんだろうが、かろうじて勝ったという印象だ。
数値でいうと、織田・徳川連合軍の戦死者6000、武田は7000。
参陣してるのが織田・徳川30000、武田15000だとすると、数で勝った
だけなのかな。
512 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:38:28
>511
だったら、ぜんぜんザコじゃないじゃん!
そうなんだが、武田は軒並み有力武将が死んでる。
むつかしいところだよね。有力武将が死んだから完敗なら、川中島(永禄4年)
なんかも、武田の負けになるわけだし。
謙信が先に引き返したからこっちが勝ったとか言ったんじゃね?
516 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 10:24:12
有力武将というより、高名の武将、かな。
次世代将校は死んでないでしょ? ・・・真田兄弟がいたか・・・
長篠は、戦後の信長の情報戦が大きいよね。
「武田は退却しました!俺が追い払いました!
勝頼弱いんでやんの!あいつ泣きながら逃げてきましたよ!」
って感じで全国に触れ回ったから。
というか、武田は主目的たる長篠城が落せず
一方で織田徳川連合軍は防衛という目的を達成している
518 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 14:18:55
>>514 典厩信繁、諸角豊後守、山本勘助、初鹿野源五郎らが討死したから敗戦だ。
この戦いで典厩信繁が死ななかったら、勝頼を補佐して、武田家もなんとか
なっただろう。
>517
その通りだが、長篠合戦の通説というか俗説は「軍事革命」だとか
言うわけで、合戦の実態はふつうのスタイルの激戦だったはずなのに。
手駒の武将が何個潰されようが、逃亡した上杉の負けだろ。
>>518 油川彦三郎、三枝新十郎、安間三右衛門あたりも戦死してますね。
>>511 長篠日記は織田が三段撃ちしてっからなあ。
>522
三段の陣地を築いた、の間違い
>>518、
>>521に比べても長篠は戦死した武将多すぎだな。
宿老だけでなく次世代の武将も軒並み討死にしている。
これだけの敗北を喫しておいて名将の評価は得られないだろう。
いや、武田は重臣が戦死するのが伝統だから・・・
長篠日記ねぇ
戦死の数はとても信用できんが…
こんなに死んでたら、双方とも壊滅的な打撃を受けたことになるわけだが
長篠合戦の武田方に戦死者の数に関して、『多聞院日記』には「国衆千余」、
『兼見卿記』には「数千騎」、という記録もありますよ
当時の鉄砲の弾は鉛で貫通しないから、徳川の誰だったっけ?のように体内で
腐って、後々死んだ人も多いような気ガス
井伊直政じゃないの?
530 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 16:31:50
>528
家康4男松平忠吉だったと思う。
531 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 16:38:23
関が原の鉄砲傷だな。
意外とえげつないな、火縄銃
徳川・織田方はまったくといっていいほど戦死した重臣いないからなあ。
一方武田は壊滅に近い敗北だったのは否定できないだろう。
家康が信長に追撃戦を進言したけど却下されたと、
後に家康が語ってなかたっけ。
>>534 どこまで追撃するつもりなのだろう?
武田の戦死者は主に退却時の被害と聞いたが。
当時、鉄砲傷にはお湯で溶いた馬糞を飲むのが流行していたらしいがキツイな。
長篠敗北→うんこ摂取
武田兵辛いね
>>536 もう撃つなら一撃で殺ってくれって感じだな
馬糞汁についてもっと勉強してくれ。
↑
馬糞マニア登場かw
540 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 00:35:24
447=452=そのほかのただ荒らしのためだけだけに現れてたアホ。
君がどんな形で話を進めてくれるのかと思って何も言わずに
見てたんだが君は何もできなかったな。
ようするに、おまえはただ荒らしのためだけに現れてたってことが判明したな。
頭は小学生なみの癖に人の批判だけして遊んでるのは今後やめるように。
↑
とっ突然亀でどうしたの?
薬が切れて発作でも起こしたんだろ
岩村城行ってきたけど、信友の気持ち思うと泣けてきた・・・
544 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 15:38:24
>>330 首いっぱいあるから誰の首かわからなかったようなんだよね
しかも腐ってたらしいし
ようするに信長や光秀と同じようなかんじなわけさ。
もし勝頼は真田の進言を聞き入れて上野に退いて篭城していたら
武田家は存続できたか?
無理でーす
547 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 22:13:21
おい447よ話をしっかり進めてみせろよへたれ。
↑こいつ何なんだ?
真性厨の登場か?!わくわく
551 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:17:39
三国同盟を結んでいた大名家は全部滅びてるよねそういえば。
552 :
日本@名無史さん :2005/08/08(月) 15:47:00
>>545 真田もやぶれかぶれの美学に殉じた次男坊ならともかく
表裏比興な現実主義者の昌幸が当主だからな。
あまり長居は出来ないんじゃないか?
昌幸は織田との戦争になる前に勝頼を追い出そうとするな。
第一次上田戦の頃の徳川ならともかく、
全盛期の織田軍団を相手にする気にはなれないだろうから。
最終的に、勝頼は上杉を頼ることになると思うが、
ここで受け入れてもらえなければ真田領内であぽーんもありうる。
そうならないためには武田残党の再集結と、
勝頼もろとも上杉軍の指揮下に入ることが条件になりそう。
赤備え部隊とか大久保長安とかが上杉のものになるわけだ。
でも、前レスにもあったけど、武士だけじゃなく女衆まで連れて、
織田の追撃部隊が迫る中を上田まで辿り着けたとは思えないな。
結局、小山田領まで逃げるのが限界だったんじゃないかと。
553 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 18:46:43
おれも道灌だ。
真田領まで行けるかが問題だし行っても小山田とこ行くのと結果は同じ、武田氏滅亡と勝頼が死ぬのは決まっていた。彼は天運尽きていたのだ。
554 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 20:00:32
もう、城捨てた段階で、どこへ逃げたら良かったかなんて議論は無駄なんだと思うけどね。
じゃあ、どの段階でなにをしてたら勝頼は生き残れたのか、と。
もう何言ってもガイシュツすぎるかな。
府内を捨ててまで築いた新府城を焼いて出てきてるんだもんな。
554に禿同だよ。
何で新府城を捨てたのかな?
景勝を頼りに数ヶ月も持ちこたえてれば、光秀が信長をアボンしたかもしれんのに
>>556 武田が潰れたから信長あぼんの機会が生まれたわけで…
>557
いや、甲斐信濃を仕置きののち、毛利攻め・上杉攻めの準備でいったん上洛。
そこを光秀が襲うという筋書きも(もしもだが・・・近衛前久や細川藤孝も故謙信
と親交のあった人々なわけで)。
妄想は果てしなく膨らむ。
560 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 07:18:27
>>558 武田勝頼が生きている状態で信長が京都で小数の小姓とのんびり茶会なんて機会はなかなかない。
あと少なくとも信忠は前線指揮官として武田領に残ってると思われ。
信忠が京都にいたのは武田滅亡の功で信長が安心して
信長に家督を譲ってたからだしな。
ところでさ、
武田勝頼は長篠合戦での敗北後、
西国大名と共同歩調を取らなかったの?
長篠合戦後の勝頼は評判が悪かったのかなw
上杉謙信だって共同歩調を取っていたのに・・・。
安国寺への書状が残っているから、いちよ毛利とは取ろうと
したみたいだけど…。他はわからない。史料もないし。
結果論だけど武田勝頼は外交の失敗で滅亡したよな。
長篠合戦では本願寺と連携しないで単独で織田・徳川連合軍に戦いを挑んでいるし、
御館の乱では北条家との同盟を失って駿河・上野が戦場になるし、
上杉景勝と同盟しても対北条と対織田の援軍は送ってくれない(送れる訳がない)し、
人質だった織田信長の五男を返したら速攻で攻め込まれているし・・・。
外交面では散々だよなw
564 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 01:55:09
甲陽軍艦には次のような武将が国を滅ぼす、と書いてある。 強すぎる椰子…勝頼 ビビり過ぎな椰子…上杉憲政 あんぽんたん…今川義元
>>556 一言でいえば篭もれるだけの戦力も無くなっていたから。
新府城の存在意義と戦略プランは、甲府盆地の外に築き、信濃の諸城で
織田の侵攻軍を消耗させ、そのうえで甲府盆地に侵入させずに新府城で
打撃をあたえるというもの。
ところが木曽が裏切り、信濃の伊奈から諏訪にかけての武田方の諸城が
あっけないほどに次々に陥落し、味方の逃走が相次いで軍勢の体もなさなく
なって防衛戦略が完全に破綻。
たぶん篭もったとしても数ヶ月どころか数日も持たずに陥落したかも。
それに加えて信君が裏切ってるから、新府で防げたとしても、南から甲斐に侵入されて
おしまい。
少しスレ違いだが、御館の乱後の景勝の織田との戦いと
比べて、呆気なさすぎる。家臣に背かれて弱体化という
意味では、景勝もけっこうピンチだったと思うが。
両者の違いは奈辺にありや?
>>567 時の勢いと、重臣中の重臣ともいえる穴山の裏切りがあったこと、武田攻めでは織田主力に
徳川北条も参加、上杉はあくまで織田の一部としか戦ってない。
569 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 17:28:43
上杉家の場合は新発田のような反乱が下越に発生していたら危険だったと思う。
御館の乱の際に反乱分子が粛清されていることもプラスに働いているなw
あと、上杉家の弱体があまりにも酷かったから柴田勝家一人で充分と判断されていたことも大きいかな。
武田家の場合は木曾義昌や穴山信君、武田信廉、武田信豊がそのまま生き残っているからなw
上杉景勝は上杉家(長尾家)の血を認められているが、
570 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:07:24
どんな組織もその大将の個性が決まる!
織田信長、ナポレオン、
ダイエー、ユニクロ、鈴木商店、
571 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 18:37:57
>>569 続きです。スマソw
武田勝頼は武田家の血を認められていないし。
572 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 19:27:51
真田一族は何してたの?徳川とか織田に付いてたの?
573 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 19:39:02
武田家滅亡後は日和見っていましたよ。
武田→織田→北条→徳川→上杉→豊臣…最終的には徳川で落ち着く。
574 :
日本@名無史さん:2005/08/11(木) 20:17:17
というわけで、やっていることは真田も筒井も同じです。
575 :
日本@名無史さん :2005/08/13(土) 01:25:23
うん、幸村さんが漢のマロンで死ななかったら、
真田一族の後の評判は、けっこう悪役扱いだったかも知れないね。
マロンも大切だろうけどね。
一族郎党が路頭に迷わぬため
先祖の菩提を弔う灯火を絶やさぬため
一族の血脈を残すため
生き延びることは大事なことだよ。
単純な庶民から悪役扱いされようともね。
で、歴史の大きなうねりの中で、悪役とはいったい何ぞや?
>>576 その時代に都合の悪い人物じゃないかなと。
たたえるべき人物の敵方だな。
例えるなら
マッカーサーに対しての東条
ってとこかな?まあ、東条は元々キティー害だが
と、いうわけで10月9日の
武田の里まつり「武田勝頼公新府入城祭り」に行ってあげよう。
「岩殿山かがり火祭り」よりワケワカメの村おこしイベントだよな。
>>580 それはおかしくないか、仮にも日本史板なんだからもう少しまともな意見を。
>>582 漏れはおかしいとは思わなかったな。そんな漏れはやや右翼w
まあ軍人としてマッカーサー元帥との比較なら、フィリピンで戦った山下大将とかが適切だな、
軍人としては東条大将は直接的には関係無いだろうし。
また東条首相を政治家として比較するならルーズベルト大統領を比較として出すべきだろう。
マッカーサー元帥がGHQのトップとして政治家になったときは東条は政治家じゃないし。
580の例えでは信玄のライバルに上杉憲政を使うような違和感は確かにある。
585 :
584:2005/08/17(水) 02:17:32
右翼の人がキティーに反発しただけかもしれんが。
もっとも580がよくしらん人物をキティー扱いしたのが一番の問題かも試練がな。
まあ荒れるといやなのでこの話題は終了俺もこの件ではレスしない。
586 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 13:24:22
話を戻すが戦国時代の悪役は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に敵対した勢力であろう。
今川義元、斎藤義龍、六角義賢、朝倉義景、浅井長政、武田勝頼、明智光秀、北条氏政、石田光成・・・
代表的な人物はこんなところであろうな。
587 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 13:27:11
588 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 14:13:07
なんか、繋ぎとしての当主となったって、始まり方が
哲学的方向性の誤りを生んで、最終的に失敗した気がする。
589 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 16:03:19
確かに守る家があるのと無いのでは違うよな
織田信長も悪役になりがちだが。
謙信も武田厨には悪役だな。
593 :
日本@名無史さん :2005/08/20(土) 15:04:41
>>586 「歴史は勝者によって創られる」ってことだわな
>>591 信長は長島や比叡山ジェノサイドの印象が強すぎてな
いつのまにか悪役の定義スレになってる・・・
結果がすべてじゃないかな。
武田勝頼は雑魚な武将です。
595 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 18:16:44
すると徳川家以外みんな雑魚になってしまうが?
少なくとも大坂の陣が終わるまでに生き残れなかった大名家は、
結果的には雑魚だった、ってことかな
596 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 18:26:02
雑魚だからこそ強い勢力に逆らわず最後まで
生き残った大名も多いと思うがなぁ
武田勝頼は過小評価されすぎの武将の一人だと思うね
597 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 18:34:49
勝頼は、暴君
598 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 19:47:29
っていう亜k、勝頼って過大評価されすぎじゃね?
>>595 俺の基準は、大名として国を維持したまま死んだかどうか。
降格したサッカークラブの監督や、倒産した社長たちにくらべて、
戦国大名の評価は勝者に厳しく、敗者に甘すぎ。
(もちろん、サッカークラブの監督や社長さんも再起してほしい)
武田勝頼こそ、雑魚。
雑魚と言える程、俺達は立派じゃないけどな。
名将ではなかったのは確かだろ。
国を束ねる大名ではなくて、その下の軍団長くらいのポジションだったら
かなりの名将として名が残せたかもね。
ただ、与えられた地位とそれを受けたタイミング及び環境が悪過ぎた。
602 :
日本@名無史さん :2005/08/23(火) 03:54:22
実際、義信が死ぬまでは、勝頼に与えられてたポジションって「軍団長」だったわけだしな。
毛利の両川じゃないけど、次世代の武田家は義信が仕切って、
勝頼と盛信が両脇を固めるっていう構想だったはずだし、勝頼自身もそう教育されてきたと思うんだよね。
色々事情はあるだろうけど、この次世代構想をぶちこわしたのは信玄の失敗。
しかもそれからたった6年で逝ってしまうわけで、これもまた彼の不運。
前線指揮官・諏訪勝頼が帝王学や外交駆け引きを学ぶには、6年じゃちと足りなかったようで。
603 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 03:59:51
まあ、普通にザコだよな〜、勝頼って
604 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 04:50:55
っていうかさあ、ぶっちゃけ、勝頼って・・・
せいぜいもりたへえとか、後藤又べえ程度じゃね?
勝頼は雑魚ですか。
勝頼に限った事ではないですが、厳しい評価を与える人ほど、その対象を
殆ど調べもしていないのは往々にありますね。
このところ出没している人は言うまでもないでしょうが、
>>599さんなんかは
その典型です。
607 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 17:23:32
死に方が悪すぎる。
608 :
599:2005/08/23(火) 20:12:02
>>606 では、606さんの評価する基準を教えてください。
わたしの評価基準は、
「大名として国を維持したまま死んだかどうか」
です。
609 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 20:16:47
>>608 じゃあ聞くけどさ、武田信玄や上杉謙信は国を維持したまま死んだが、
あなたの見解では、信玄謙信は評価に値する武将だと?
610 :
599:2005/08/23(火) 20:45:57
先に評価基準を教えて欲しいな。
>>606 >>599でないがおれは勝頼について詳しい自信あるよ。
しかし勝頼については厳しい評価にならざるを得ない。
当主としては特にいいところがなかったんだから当然。
それに
>>602みたいに親父に責任転嫁するのを聞くのはうんざり。
>>610 まあ、待て。まず、君の答えを聞かせてもらおうではないか。
話はそれからだ。
>>608 そんなこと言っていたら、家康政権ができるまでに滅んだ大名は
みんな雑魚ってことだなw
国を維持するが国力もを含むなら、減封された大名も同じく
>>611 では、勝頼について自信があるという貴殿の
高尚な勝頼評をお聞かせ願いたい。
>>615 滅亡は当然雑魚。
減封は滅亡よりずっとマシ。
結局判断基準はないのかね?
>>608 私が言っているのは、評価する、という事ではなく、「雑魚」の一言で切り捨てる
安直な意見に対してです。
私とて勝頼を出鱈目に高く評価したり持ち上げる気はありません。
ただ経緯や情勢の推移などを全く顧みない意見に疑問を抱いているだけです。
私の意見は拙いながら
>>292-293で大方は述べさせて貰っています。
(長くなったので省いてもいますが)
また、
>>602さんの意見に倦んでいる
>>611さんの「詳しい」中身も、是非お聞かせ
いただければ助かります。
松永も雑魚か・・・
619 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 23:35:33
>>618 尼子、今川、齋藤、朝倉、浅井、六角、荒木
明智、柴田、北條、豊臣もいるぞ
>>619 「大名として国を維持したまま死んだかどうか」だから、当主。
>>617 「雑魚」の一言で切り捨てることが安直なのは認めますよ。
ただ、「結果」のみに着目するのもひとつの評価方法ではないでしょうか?
「滅亡しなかったこと」をもっと評価するべきです。知恵を絞った部分でしょう。
滅びの美学では困るわけで。
>>621 自分の意見がないから、スルーですかぁ?
>>622 では、あなたがいうもっと評価するべき人物はどなたなのでしょうか?
元就は十分評価されてると思うがな
だな。たまに「全部MAXに汁!!」だの本気で叫ぶ厨がいるがな
628 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 14:24:43
尼子経久も毛利元就も宇喜多直家も同類。
629 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 14:30:00
>>599 大名として国を維持したまま死んだかどうか。
毛利輝元や上杉景勝は国を維持したまま死んだが雑魚だろう。
家康に媚び諂っている時点で戦国大名ではないなw
これまでの議論(?)を見ていると結局、武田勝頼という男は、
戦国武将(軍人)としては、一流。
戦国大名(政治家)としては、二流。
という結果でFAかな?(で、信玄はどちらも超一流だった、と。)
優れた軍団長であるが大大名としての能力・教育・経験が不足していた
秀吉時代の加藤清正、福島正則に匹敵する
政略家としてはアレだけどザコ武将は言い過ぎ
スレタイがスレタイだからな…
635 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 21:24:30
信玄:気が付けば、周りじゅう敵だらけよ!な状況を自ら作ってしまった甲斐の生臭坊主。
最後っ屁が異常に高く評価されるも、
うつけ信長の美濃侵攻中、自称毘沙門天の化身な狂人・謙信の北信濃乱入を防ぐのに手一杯で、
混乱する美濃に十分な手を打つことが出来ず、その上、信長の懐柔策にまんまとハマり、
中央進出の機会を失う。金採掘と堤作りが好き。実は賊子。
勝頼:信玄嫡子義信の謀反あぼーんにより、庶子ながら父の死後、武田家の統帥権を得る。
父の無茶苦茶外交を整理し、当面の敵を織田家配下のウンコ垂れ徳川家一本に絞り、
領土拡大を図る。
対徳川一本に絞ったことで、兵力が集中出来、緒戦で大いに戦果を得るも、
織田本隊の出陣により大敗を余儀なくされる。
大敗時に老臣の多くが討ち死にしてくれたおかげで、
武田家中の組織改革にようやく着手可能となり、改革自体は順調に進んだが、
その間、一方の織田も畿内の反織田勢力を完全に駆逐。
そして、その織田家に、次なる敵は武田家、と定められ、命脈尽きる。
636 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 21:52:57
武田家を滅ぼしたのは信玄、勝頼は単なる盲腸ということで・・・
637 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 22:13:09
>>635 確かに晩年の信玄はちょっと可笑しいが、それでも長篠の戦で勝頼のように
大負けはしないと思う。当時の信長で信玄に野戦で勝てたかどうかは疑問だし。
実際、勝頼は慎重論をとる山県や馬場の意見を聞かなかったとも言われている。
天目山の時に小山田に寝返られるのは勝頼のリーダーとしてのカリスマ不足は否めない。
武田を滅ぼしたのは勝頼のリーダーとしてのカリスマ不足が最大の原因だと思う。
少し信玄を過大評価し過ぎだと思う。対謙信戦は北信濃の防衛ではなく、
明らかに越後への侵攻作戦。なのに中途半端にいつも終わらせたり、謀反を誘発させても
その後の作戦を完全に読まれ、外交と軍事で未然に防がれ逆に待ち構えられたり、成功したためしがない。
そもそも川中島の原因は信玄がいつも作っている。
武田、上杉、両方の書物を読み分析すると、誘き出されてのに気づいてないケースがほとんど。
倍近い兵で、地の利がありながら勝てない。そして作戦ミス。
政治面でも占領地に重税を課したり、逆らう者を皆殺しにしたり、滅亡の火種を作っていたのは他ならぬ信玄。
勝頼一人のせいとするには、あまりに酷だよ。
よく、勝頼のせいで武田が滅んだようにされるけど、それはあんまりだよ。
長篠の合戦は織田、徳川も同じ被害を受けて、一方的な敗北でも虐殺でもない。
事実、その年の八月には二万もの軍勢で遠州小山の後詰を行ってもいる。
長篠での敗北から、これだけの兵をすぐに集めれるのだから、軍事の才能はかなりのもの。
信長をみくびり、のさばらせ、巨大化させ子に任せた信玄の責任はどうなんだろ。
勝頼が過小評価されている一番の原因は、信玄の失敗を認めない人達(信玄ファン)が、
その責任を全部勝頼に被せているから、過小評価されているんじゃないんだろうか。
雑魚はあまりにひどいよ。
長篠合戦で老臣を多数失ったのが武田の滅亡原因という者もいるが、
生き残った高坂も、数年後に亡くなっているから、丁度世代交代の
時期で、棺桶に半分片足を突っ込んだような連中が死んだだけで、
大きな損失ではないだろう。
武田滅亡の原因を作ったのは信玄だと思う。
国人一揆を引き起こして、守護大名から戦国大名へ脱却を謀っていた
信虎を倒し、武田氏の甲斐での権力を減退させた。武田氏は甲斐国人
一揆の代表的立場に過ぎず、信玄没後の勝頼の経営に大きな足枷に
なったことだろう。これに対し、勝頼は穴山などの身内や、真田など
の信濃衆の力を借りて、武田氏の新時代への対応にとても努力したと
思う。新府の築城はその象徴であり、甲府を離れ、領土の中心近くに
居城を移す、信長のやり方を真似て、領内統治の効率化を図るととも
に、旧国人層の影響を弱めることになる。国内最大級の領主である、
穴山氏を、駿河とそれに隣接する地域に国替えしたことは、大名への
権力集中に大きく寄与することとなったと思われる。また当時の新兵器
鉄砲に対する防御の為、当時は城郭がたいへん発達した。新府築城で、
新しい時代の戦法に対応したのである。被差別的な立場にあった、信濃
の国人衆達を(真田など)を登用することで、信濃をも本国化し、領内
のまとまりを強め、巨大な周辺の敵国に対応しようとしたのだろう。
勝頼の脚を引っ張ったのは、保守的な甲斐国人、重臣層だと思われる。
わだすは信玄を絶対に崇拝しております。
いかなる理由があろうと勝頼が信玄の作った武田騎馬隊を崩壊させたのですじゃ。
641 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 23:26:44
伊達政宗
身長160cm弱
片目コンプレックスで対人恐怖症
小心者で引き篭もり
女子供を皆殺しにする残虐性
戦利品の馬や牛も皆殺しにする基地外っぷり
何もしていない弟を殺害する器量の小ささ
自分より力の強いものに絶対服従の情けなさ
下の二つなどは、信行を幾度と許し今川との対決に踏み切った信長と比べると政宗の人間の矮小さがにじみ出ています。
おそらくは弟に謀反を起こされた場合、秀吉に対抗した場合、誰も政宗にはついていかなかったのではないか?
政宗がいかに家臣に慕われていなかったが伺えますね。
642 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 23:38:29
2007年大河、井上靖「風林火山」
あの時代で身長160cmなら普通じゃねーの?
漢民族じゃないんだからさ・・・。
わざわざ人気の伊達ネタでスレ上げ&釣り、ご苦労様。
信玄ファンは反論できないとこうやって逃げるからタチが悪いな(苦笑
645 :
:2005/09/06(火) 00:13:23
てかね、武田くらいでかいと、
結局織田を食いつぶすか、
食われるか、しかなかったと思うよ。
武田が、伊達とか島津ぐらい田舎の大名か、もっと小さけりゃ見逃してもらえたかもしれんが。
信玄が織田を倒してればよかったが、できなかった。
結局その時点で武田の滅亡は決まってた。
上杉が残ったのは、謙信が信玄より長生きしていて(というか若かったし)、
いいタイミングで信長が死んだから。
北条なんかはでかすぎて、結局滅ぼされてるしね。
ある程度でかいと、滅ぼされる。
家康が賢かったのは誠実を売りにいきてきたから。だから、織田にも豊臣にも滅ぼされずにすんだ。
徳川は秀吉の時は戦闘で潰せないほど強くなってたでしょ
徳川を打倒する最も手っ取り早い方法。
関東大震災
648 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 17:41:04
>>645 そう言ってしまうと外交もくそもない。
関ヶ原前後で前田や島津が存続できたのはやはり外交の力でしょう。
特に前田なんて土下座外交だがそれでも堂々の百万石。
勝頼の場合は名門武田家の当主として、また信玄の後継として
外交において出来ることに限界があったのは同情すべき点ではある。
651 :
日本@名無史さん:2005/09/06(火) 21:15:23
甲陽軍艦によれば勝頼の評価は決して悪くはない
しかし、諏訪家の跡継ぎに過ぎなかった四男坊が嫡子義信の死と
父信玄の死で急遽当主となったことが、一門衆にとっては不満であり
老臣からも軽んじられる原因となったのであろう
諏訪も信濃衆の一部に過ぎず、武田家の中では低く見られていたのだ
設楽ヶ原の戦いで一門衆である穴山信君、典厩信豊が兵を引いてしまった
などということは信玄時代には考えられないことである。
武田の軍規が厳しいことは有名であったのだからなおさらだ
それだけ勝頼は軽く見られていたということだ
彼の生い立ちからして武田の不幸を背負わせられる運命にあったのだ
また、勝頼自身も一門衆や老臣から信望がないことをわかっていたので
彼らを遠ざけ、側近の跡部や長坂の言ばかりを取り入れ、
ますます溝が深まっていくことをどうすることもできなかった
652 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 00:06:59
>>638 >長篠の合戦は織田、徳川も同じ被害を受けて、一方的な敗北でも虐殺でもない。
>事実、その年の八月には二万もの軍勢で遠州小山の後詰を行ってもいる。
>長篠での敗北から、これだけの兵をすぐに集めれるのだから、軍事の才能はかなりのもの。
すごい解釈と評価の仕方だな
>長篠合戦で老臣を多数失ったのが武田の滅亡原因という者もいるが、
>生き残った高坂も、数年後に亡くなっているから、丁度世代交代の
>時期で、棺桶に半分片足を突っ込んだような連中が死んだだけで、
>大きな損失ではないだろう。
あの、、死んだのは老将だけではありませんよ。
653 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 00:13:23
>新府の築城はその象徴であり、甲府を離れ、領土の中心近くに
>居城を移す、信長のやり方を真似て、領内統治の効率化を図るととも
>に、旧国人層の影響を弱めることになる。
新府築城は防衛に力入れたぐらいの意味しかないよ。
それどころか旧国人層と対立が深まっただけじゃないか。
少なくとも築城したこと自体結果が大失敗に終わっているのに、評価していいものではない。
>勝頼の脚を引っ張ったのは、保守的な甲斐国人、重臣層だと思われる。
その甲斐国人、重臣層を信玄以上に重用してたのが勝頼です。
654 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 09:37:48
非常に有能な当主でした。
ただ相手にしたの強すぎただけの話。
外交能力が無かったんだろ
で、652は何を言いたいんだ?君が無知なのは分かったが。
揚げ足取りしかできない奴の書き込みは、見ているこっちが恥ずかしくなる。
俺は639の意見が割りと的を得ているように思えるが・・・。
657 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 21:43:07
長篠の戦いは戦死した武将の数からして武田の惨敗だったのは紛れもない事実だし、
親父の基盤があったからこそ二万集められたわけでなんで、都合のいいところだけ親父のせいにしている姿勢がありえない。
その二万にしたって長篠後、武田の兵の質が悪化したという話もあるし、老将だけ戦死したなんていうのも間違い。
勝頼が雑魚だというつもりはないが、親父のせいにしたり、敵が強いなんて理由で勝頼が評価されるのはおかしい。
その時の織田家が凄すぎただけ
織田家の強さは中央政府としては日本史上最強じゃないの?
織田家なら太平洋戦争にも勝てそうな気がする
661 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 22:52:23
662 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 23:10:06
>>659 そうなんだけど、信長が伸長したのは美濃に向かう下準備に武田と婚姻
結んで武田に「駿河ってどーよ?」と飛びつかせた事が大きい。
信玄の失敗は大きいと思う。
>>657 親父さんの基盤があったから二万もの兵を集めれたわけじゃなく、
上杉から分捕った1万両もの金があったからです。
信玄の経営は基本的に重税な上に余裕がありません。
「男は鉱夫、女は娼婦」だったかな、と言われるぐらいに。
長篠での大敗北は半分は嘘。負けですけどね。
実際は武田側の被害と同じ数の三河兵が死亡していたりします。
織田は援護射撃と挟撃。鉄砲は馬を驚かせるのが目的と士気の低下。
当時の鉄砲は命中率低いですから。馬防柵を破壊に接近してきたら殺す。みたいな。
あくまで鉄砲は副で、主ではなかったんです。
その後の情報戦、宣伝力、資金力、国内をまとめる軍事力、で、
この軍事力が親父さんの色々なゴタゴタのせいで一枚岩じゃなかった。
これが一番の原因。
あと、親父さんのせいもなにも、詳しく調べれば信玄の悪政って結構出てくるんですよ。
それが勝頼の代で噴出してる感じ。所詮は諏訪の出ですからね。まとめられるわけがない。
余談ですが越後の人口は戦国期に爆発的に増えてますが、一番多かったのが信濃民だったと聞いてます。
次が友好関係で同盟も結んでいた越前だとか。もっとも資料のない口伝ですけどね。参考までに
信玄の民政は本当にだめだったの?
当初は上杉(長尾)、次は織田に対向する為、
無理に無理を重ねて軍役衆増やしてるので、武田家の収入激減
軍役衆以外にも軍役課けてたり、参加しなければ罰金払えと仰って逃亡者続出してますた
勝頼は、当初はその路線を踏襲してたけど、軍役衆から毎年の出兵による経済的負担が大きすぎて
合戦の参加辞退の申し込みうけたりしたますですよ
そーしなければ、織田とまともに戦えなかったという事情はあるのだけど、
これで無能だといわれると微妙だね
>>664 民政もなにもあれだけ恨みを買うような非道な行いをしてりゃ
人心が離れてくのも無理もないだろう
信濃侵攻のときは捕らえた雑兵や非戦闘員までかたっぱしから
男は黒川金山の奴隷にしたり、女は女郎や奴婢として売り飛ばしたりしてたからな
恐怖でもって押さえつけるという効果は十分あっただろうが
その代わり落ち目になったときの反動はすごいだろう
それぐらいのことはどの大名もやっていたのでは?
政宗なんて牛馬の類に至るまで撫で斬りにしてるんだから
>>667 普通はしないぞ。関東東北の大名限定ではないか?
>>667 謙信の場合は、人口の数が最重要の流通経済だから殺さず移民させてたり、
難民を受け入れてたそうだけどね。
問題は移民させて放置。そのせいで家臣の間にいざこざが起きていたっつーのに、
本人は引き篭もり。おいおい
>>669 難民というより、労働力不足の越後の為に、わざわざ関東から人を
奪ってきていたような気もするが。
>>670 2chでよく強制連行してたみたいな事が言われるけど、証拠がなにもないんだよね。
まともなソースを見た事ないし、あるなら見てみたいんだけど・・・。
疑問を上げると
そんな事したら関東の豪族が黙ってないんじゃ?
撤退の速度が遅くなり、追撃されるんじゃ?
人狩りして雪山越えできたの?最低2mある雪道を?軍ではない民の軽装では無理じゃ?
兵糧が足りなくなるのでは?
相対費効果で大きくマイナスじゃ?
大義名分が立たなくなるのでは?
神に執拗に武田の悪政を書いて、「それに対して自分は・・・」と、呪ったのは何?
新潟の方言に近畿地方や長野の方言は多いのに関東系の方言がないのはなぜ?
上杉は戸籍を作って人を管理してたけど、連行した人の場合はどうしてたんだろ?奴隷?
連行してどこに住まわせたの?
移民させたのは謙信の直轄地が大半だけど、連行したなどそんな話し伝わってないよ?
移民者が先住民を皆殺しにしたって話しなら伝わっているけども(越前浜周辺にて)
色々と疑問が浮かび上がる。実際どうだったんだろ?
>>671 謙信が出した許可があっただろ。人取りの。
2chでその話が議論されているなんて知らないな。
>>671 調べ直す時間は無いからソースは出せないんだけど、
関東遠征時に現地で捕虜にした人間を人身売買してるはずです。
越後に連れて帰ったという話は知らないよ。
永禄9年の小田城攻略の時に人身売買の許可出してます。
越後に連れて帰るのも許可したのかは知らない。
この時はこの春限定での許可だったような。
すみません、よく判らないんですが。
関東で捕虜にした人間を誰が売って誰が買ったんでしょうか。
捕虜なら捕まえて上杉兵が越後に連行すればいいのでは?
676 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 09:48:57
豪雪の中を連行してくのが大変だったので、ヨーロッパの人質変換みたいに
兵士の家族に手紙でも出して、金を要求してたんじゃない?
「返して欲しくば金を出せ。さもなくばヌッ殺す!!」みたいな。
武田と違って金山を掘ってなかったから、連行しても働く場所がなかっただろうし。
雑魚
上杉は基本は人身売買より略奪ばっかじゃないか?
秋ごろに行って雪降る前に帰ってくるの繰り返し。
実際武田でも奪ってきた人間を金と引き換えに
交換してたりするし戦場での人身売買で稼いで生活してた
人も結構いるんでしょうな。
大体は男より女の方が高値だったようで。
>>678 知ったか厨ウザ
嘘吐く前にちゃんと調べろ。見てるこっちが恥ずかしいよ(苦笑
>秋ごろに行って雪降る前に帰ってくるの繰り返し
宿題ね。
>>680 雪降る前にではなく、雪が無くなったら帰っちゃう。
宿題がなくなっちゃったな。
682 :
日本@名無史さん:2005/09/12(月) 19:47:43
>>678 人身売買や略奪は武田家もよくやってます。
武田家の場合は、収穫前の季節に信濃に進出し稲を刈ってましたから。
この時代、略奪や人身売買はれっきとした政略・軍略です。
ただ北条家は家法で禁止してましたけど、
それは新興勢力勢力だったので、やりたくても出来なかったと見るべきです。
683 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 04:01:52
仮に北条を盟主とした三国同盟ができてたら、
かなりの大勢力になってたんでしょうね。
上杉(越後:39万石、越中:38万石)・・・77万石
武田(甲斐:23万石、信濃:41万石、駿河:15万石)・・・79万石
北条(相模・伊豆:26万石、武蔵:67万石、上野:50万石、下総:39万石)・・・182万石
合計で338万石(上野など入り組んでた国は北条領として):慶弔3年(1598年)の石高です。
おまけに駿河や信濃には、堅城が多いから織田家の軍勢もそう簡単に攻略はできないハズ。
>>683 >おまけに駿河や信濃には、堅城が多いから織田家の軍勢もそう簡単に攻略はできないハズ。
まじで??まともな城など一つも無いと思うわけだが。
685 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 04:41:09
対する織田・徳川は
徳川(遠江:26万石、三河:29万石)・・・55万石
織田(加賀:36万石、越前:45万石、美濃:54万石、尾張:57万石、
近江:78万石、若狭:9万石、)・・・279万石(西国除く)
合計で334万石:慶弔3年(1598年)の石高
しかも土地勘がないので、攻略は困難と思われる。
686 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 04:51:40
ネタ投下来たアア
687 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 04:55:31
すげー前のことに突っ込むけど608は考えが安易すぎ。
おまえ、武田信玄のやったことよく調べてみろ。
やつは言ってみれば借金して国大きくしてそれを勝頼が背負わされただけだ。
借金てのはげんなまって意味ではなくて外交政策とか対外関係ってことな。
一番いい例が何度もでててくどいが義信事件や駿河侵攻。
688 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 05:01:11
それと622へ。
当時の武田家の状況をしっかり調べるかもうすこし把握しなおせ。
降伏という選択肢を完全に消したのも親父だろ。
できもしない降伏を持ち上げて「滅びの美学で滅んだ」みたいな
こといってんな。
690 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 05:05:28
608 :599:2005/08/23(火) 20:12:02
>>606 では、606さんの評価する基準を教えてください。
わたしの評価基準は、
「大名として国を維持したまま死んだかどうか」
です。
622 :日本@名無史さん :2005/08/24(水) 00:22:13
>>617 「雑魚」の一言で切り捨てることが安直なのは認めますよ。
ただ、「結果」のみに着目するのもひとつの評価方法ではないでしょうか?
「滅亡しなかったこと」をもっと評価するべきです。知恵を絞った部分でしょう。
滅びの美学では困るわけで。
>義信事件
謀反ヲタクらんだ馬鹿息子とその取り巻きを電光石火の如く誅殺。
さすが信玄、見事な判断で獅子身中の虫を取り除く。勝頼もウマー
>駿河侵攻
馬鹿殿から駿河ゲットー!!
その後北条とも和解して駿河一国丸得だね。
もちろん勝頼もウマー
えええ??どこが借金なのかな?
>>687 具体的な評価基準を教えてくれないかな。
693 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 07:02:38
>>683 北条が182万石ってのは多すぎじゃないか?
九州や四国の一部も所領にしてた毛利家の最盛期よりも
石高が高いってのは、いくらなんでもありえないだろ。
694 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 09:15:22
>>693 上野は北条・上杉・武田で分割されていたので、
まとめて北条にいれました。あと下総は千葉氏や
その他の有力国人衆が上杉が北条家の傘下に入れば、
自動的に北条氏につくだろうと考えて書きました。
696 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 10:21:28
>>695 683と685に書いた石高は、
仮に、織田・徳川 対 武田・上杉・北条となり、
信濃近辺で全面対決をした場合、その合戦にどれだけの国から徴兵できるかを
私の独断と偏見で決めて書きました。
そのため695さんが言うとおり伊勢(57万石)、大和(45万石)、山城(23万石)は
当時の畿内の情勢から考えて、この決戦のため徴兵はできないだろうと思いカウントしませんでした。
ですから上杉領であった能登(21万石)もカウントしていません。
697 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 18:02:17
>>692 歴史を検証するのに定まった物差しがあるわけないだろ。
ただ、領主としてのものさしみたいなのはすこしあると思う。
その家や領土に対してどれだけ考えてたかとかな。
秀吉の朝鮮出兵、信玄の西上などはそのダメ例の典型例。
家のためを考えるなら西上などせずに甲斐に閉じこもってるべきだった。
信玄の西上の時に勝頼降伏という選択肢もなくなったともいえる。
勝頼はそういう土俵の上で最後まで戦いぬいただけ。
ちなみに、武田の家臣ってのはすこし特殊で家臣であって家臣でないような
部分があるからな。まあ、裏切りまくりもしかたないのかな。
っと思うのだが。
698 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 18:03:11
↑
自分に都合の悪い突っ込みは無視ですか。そうですか。
ぷぷぷ
701 :
692:2005/09/13(火) 20:23:26
>>697 勝頼が武田家を継いだ段階で防御に専念していれば、
信長あぼーんの可能性もあったかも。
702 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 21:46:28
>>697 >勝頼はそういう土俵の上で最後まで戦いぬいただけ。
だからといって勝頼は名将だったという評価につながらない。
勝頼の評価は甲陽軍鑑ぐらいが妥当。雑魚はあくまで煽りでしょう。
703 :
日本@名無史さん:2005/09/13(火) 22:50:48
>>697 アボーンはいくらなんでもありえないだろう。
ただ織田家と接してた信濃は、広大な山国で国人衆も各地に点在してる国だから
織田家も簡単には攻略できないと思う。
土地勘のある武田信玄ですら制圧するのに20年近くかかってる、
信長・家康が長篠の合戦後に一気に武田を攻めなかったのは、
山国の攻略っていうのは以外に困難だからといわれている。
まあ、この時代、どこでも合戦より調略の方が主流なんだけどね。
長篠はそういった意味だと大きな要因だな。
705 :
697:2005/09/13(火) 23:25:46
>>701 俺は君の(かは解らないけど)「領土を保ったまま死んだら優秀な将」
みたいな意見に対して書いたんだから先にそっちについてからコメント
するべきだろ。
自分の意見を簡単に忘れて人のつっこみをしていてはダメだよ。
706 :
701:2005/09/13(火) 23:47:22
705
707 :
701:2005/09/13(火) 23:49:39
>>705 >俺は君の(かは解らないけど)「領土を保ったまま死んだら優秀な将」
>みたいな意見に対して書いたんだから先にそっちについてからコメント
>するべきだろ。
その意見は別人だから。
勝頼についてのもっと積極的な評価は出来ないんですか?
親父に責任押し付けるだけじゃなくて。
>>707 論破してから物言いなw
できないから逃げるとはな
>>703 甲斐一国の武田だから信濃を攻略するのが難しかっただけじゃないの。
信長も尾張一国で美濃を攻略するのに時間かかってる。
その後の信濃はどうかといえば
織田や徳川といった大勢力が入ればすぐなびいてる。
逆に20年かかってる信玄は本当に名将なのかは個人的に
大いに疑問。
つーか
君ら、求めるハードル高過ぎやしませんか?
信玄も名将と言えるでしょ
勝頼だって国力の倍以上の相手と殆ど単独で争って10年保ってるのだから
無能扱いは厳しすぎる
信長がそれ以上だったっつーだけで
712 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 01:48:52
>>710 俺が言いたいのは信玄や信長が名将かどうかではなく、
勝頼が長篠の合戦後に徳川領や北条領にちょっかいを出さずに、
領国経営に重点を置き、閉じこもっていれば武田家は滅びなかったってこと。
実際、山国の攻略ってのは難しいと思う。
例えば天正伊賀の乱の前年、織田信雄が伊賀に進攻し兵数の上では
伊賀の国人衆の連合軍より上回っていたのに惨敗した。
このことから山国は基本的に攻略が難しく、守るのはそれほど困難ではないってこと。
713 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 02:33:58
信雄と比べれられても・・・
その山国にこもってたのに、織田の先鋒に軽くひねられちゃったのはどこのドイツだっけ?
715 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 03:56:37
勝頼。
いい男じゃないか。もっと陽のあたる存在でもいいとおもう。
大河ドラマにすれば ブレークするとおもうな。
二代目の悲哀、側室をもたなかった家族愛、組織のむずかしさ
悲劇的終末。 山本勘助じゃないな 今時。
甲府の人たちは興ざめかもしれんが・・
716 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 04:15:11
関東や東京の人はそうでもないんだろうけど、西の人間には、
山梨県て影が薄いんで、その山梨を有名にした武田はえらい。
勝頼って側室いなかったのか?
娘がいたとか勝親なる息子がいたとかいう話があるが。
718 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 04:42:25
中央をとって天下統一しようなんて本気で
考え実行した 信長が時代を超越した天才だったって
ことで、甲斐武田は 地理上、政治上でももっとも攻めやすかった
わけで、だれがやっても食い止められん。
>>712 >実際、山国の攻略ってのは難しいと思う。
史実だと織田に極短期間で占領されてますね。
本能寺後も徳川上杉北条に極短期間で占領されてますね。
伊賀も2回目は極短期間で終了
山国と言えば越前や若狭も山国だがあっさりと
飛騨も織田が侵攻するとあっさりと降服してる。
>>705 >「領土を保ったまま死んだら優秀な将」
秀吉は生きてる間は日本を統治し、朝鮮もあるていど占拠していたから
秀吉は晩年も優秀ですね
謀反ヲタクらんだ馬鹿養子とその取り巻きを電光石火の如く誅殺。
さすが秀吉、見事な判断で獅子身中の虫を取り除く。秀頼もウマー
721 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 06:13:53
山岳ゲリラ戦ていう概念がなかったのでしょうか。
楠正成や木曾勢や 真田とかはそれで勝ったけど
信長とかが本気でいったら やっぱり無理です。
>>696 何年の何月の状況を想定してるんだ?
それに北条がそんな大量の兵を率いて織田領にまで攻めて来れるのか?
723 :
692:2005/09/14(水) 07:01:58
信玄の名将ぶりを紹介しよう。勝頼とは違う!!!
上田原の合戦では村上義清に大敗を喫し、板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、
初鹿野伝右衛門などが戦死。 多くの兵を失う。
信玄も負傷し、佐久地方、諏訪地方の土豪が武田方を離反。平定に二年を費やす。
今度は、と信玄自身も偵察に赴き万全の状態で望んだ戸石城での戸石崩れの敗北。
客将に過ぎない真田幸隆の策謀により城を落とすも、結果として真田の増長を招き、
結果として十万石を切り取られる。
信濃平定後は謙信に内応した諏訪、仁科、山県が叛き根絶やしにする。家臣or息子に名を継がせる。
対長野業政となると、9年間に6回の遠征を行っているが、内容はいずれも、
雨宿り中に奇襲をかけられ撤退、夜襲をされ兵糧弾薬焼かれて撤退、背後を突かれて被害を出すわ、
仕返しとばかりに雉郷城を取り囲み攻めれば空城。長野業政はその間に部下に策を与えて帰還。
部下相手に鷹留城で反撃を受け撤退。
安中忠政に兵糧を奪われ撤退中に追撃を受け敗北。
よく長野業政は、武田の猛攻を防ぎきった名将、と紹介されるが明らかに業政のが信玄より上手ですよね。
対謙信戦でも、二回目の大塚の対陣では夜襲を受け被害を受け、仕返しとばかりに善光寺より
千もの兵で夜襲をかけるも失敗。
四回目の八幡原の戦いでは啄木鳥戦法が読まれ、山本勘助、武田信繁、諸角昌清などが戦死。
謙信が留守の最中に飯山城を何度も攻めるも失敗。
謙信の同盟者の本庄をけしかけ四面攻撃作戦を開始するも、外交で二面を速攻潰され、
飯山城さえ落とせず失敗。
なかなかの名将ですよね。
勝頼なんて足元にも及びませんね。
>>724 それが名将なのかよくわからんけど、勝頼ってそんな奴にも及ばないんだ。
全くのザコだね。
726 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 08:56:24
>>717 子供の数から考えても普通にいたと思うぞ。
(息子5人・娘3人、諸説あり)
状況から考えて側室ではないかといわれている【こうさま】なる女性あてに
長篠の陣中からだした病気見舞いの手紙は有名。
727 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 10:43:41
>>719 木曾義昌や穴山梅干などが
織田・徳川に通じてたことを考えると、
調略によって信濃進攻は成功したと考えるべき。
>>伊賀も2回目は極短期間で終了
いくら山国だっていっても
たかだか10万石程度の国に5万なんて大軍投入すれば、
さすがに守りきれんだろ。
>>727 木曽の領地は信濃の内でも基本的に木曽谷のみ、
穴山は甲斐南部で任地は駿河。信濃は無関係。
信濃が調略で落ちたなどとは到底言えるものではない。
馬鹿な考えは捨てるべき。
729 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 13:45:01
>>728 一門や譜代が敵方に寝返ったら、
士気の低下し、離反が相次ぐのは当たり前。
さらに言えば信濃進攻の手引きをさせれる。
信長が信濃に進攻した際に、殆んど合戦らしい戦いがなかったことから。
合戦で落としたとは考えられない。
730 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 13:58:33
信濃進攻が調略によるものかは分からんが、
山国の攻略が難しいってのは、正しいと思うな。
例えば甲斐が長年、外からの進攻を受けずにすんだのも
四方全てが険しい山に囲まれているからって言われてる。
しかし信濃攻略が20年近くかかったのは、武田の本拠地の甲斐が
四方全てを険しい山に囲まれて進軍に手こずったとも言われてるから
どちらがいいかは分からんな。
731 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/14(水) 14:16:05
勝頼が雑魚というよりも
相手が悪かっただけでしょう。
信長だし・・
勝頼自体はまあまあ程度の器じゃなかったんでしょうかね?
>>730 >例えば甲斐が長年、外からの進攻を受けずにすんだのも
長年外から侵攻を受けているんだが・・・
>山国の攻略が難しい
信玄も信虎も佐久の諸城を数日で落としまくっているが・・・
山県も飛騨をあっさり制圧してるし後に信忠軍が飛騨に攻め入ったときもあっさり制圧してる
また伊達政宗は数年で陸奥の過半を制したが・・・
>信濃攻略が20年近くかかったのは
単に信濃諸勢力との国力差が圧倒的では無かったのと、信玄の性格と謙信のせいだろ。
まあそれでも石高で考えるなら武田は信濃諸勢力より国力はかなり上だし、信濃の半分
取るのに10年近くかかってる様では毛利や織田島津と比べるとちょっとね・・・
>>730 甲斐が攻められなかったのは、北条は関東、今川は西に進み、そして武田が信濃を制圧したか
らであって山国は関係無いだろ。
現に史実では15世紀から16世紀の前半は何度も他国の侵入を受けてる。
ただ山国のほうが街道が狭く少なく、通行可能な地点も限られてるから、守りやすいのは同意。
もっともそれは攻めにくいと同義で相手も守りやすいわけだから、織田と戦うときにプラスに働く
わけじゃないが。
一門とはいえ木曽は所詮外様の家。
穴山は遥か彼方の江尻にいる。信濃の諸将が穴山の裏切りを知っていたかどうか。
堅城として名高い高遠城も瞬殺されたし、山国だろうが造作もなく制圧できる。
険しい山に囲まれていて侵入口が少ないと言うのは守りやすいけど、
相手も山からの出口を封鎖すれば簡単に守れると言ってるようなもんだな
736 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 23:25:31
とにかく701はその「領土をそのまま保って死んだやつが優秀」
とかいう意見をもっと根拠をもって示してみろ。
俺が言ってる信玄、秀吉はおまえの言ってることがおかしいっていう例だ。
おまえに対しては勝頼がなんたらって話をしてるんじゃなくて
おまえの節があほすぎるって事を言ってるわけだから勝頼のせいにしてないで
もっとおもえの間抜けな節をさらしてみせろ。
何でそんなにけんか腰なの?
君はいつもそうなのか?
738 :
日本@名無史さん:2005/09/14(水) 23:32:59
おこらない。
739 :
736:2005/09/15(木) 00:00:35
たしかに言い方はすこし悪かった。
でも、
608:「領土をそのまま保って死んだやつが優秀」とか何とか言い出す。
↓
俺:例をあげてそれを優しく否定した上で意見を求める
↓
701、707:俺の質問に答えるどころか人の揚げ足取り。最低限の
自分の意思の根拠を示す事もできない。
俺はこいつはどうしようもない無責任なやつだと感じたんだよ。
こういう、アホはおうおうにして優しくしてやってると図に乗った揚げ足取りしか
しないからな。
横レスだが
信玄、秀吉は一般的に優秀と理解されてるんじゃない。
特に秀吉が優秀ではないなんて大声で言えば
こちらの頭がおかしいと思われかねない程自明だよ。
741 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 00:09:34
↑いや違うんだって。
俺は秀吉はメチャメチャ優秀だと思うし、信玄もそこそこ優秀だと思うよ。
ただ、彼らの晩年にしたことはけしてそれぞれの子孫にとってみれば全く
もって迷惑千万なことだってことだよ。
ほんとに家や領土のことを考えてたかどうかは疑問。
「領土をそのまま保って死んだやつが優秀」とかなんとか言う意見がおかしい
ってことの例でだしたのな。
多分、横レスだからあまり読んでなかったんだと思うんだがもちろん君の言う事も
もっともだと思う。
691 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2005/09/13(火) 05:09:19
>義信事件
謀反ヲタクらんだ馬鹿息子とその取り巻きを電光石火の如く誅殺。
さすが信玄、見事な判断で獅子身中の虫を取り除く。勝頼もウマー
>駿河侵攻
馬鹿殿から駿河ゲットー!!
その後北条とも和解して駿河一国丸得だね。
もちろん勝頼もウマー
えええ??どこが借金なのかな?
>>742 おまえなんで
>>691の書き込みがスルーされたかわかってないだろ
もういちどこのスレ読み直せよ
744 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 14:46:11
読んだけどさっぱり。
745 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 18:28:14
742は勝頼、信玄に関する事を勉強してから出直せ。
信玄は天才型ではなく、
失敗から成功へのヒントを掴む秀才型だったと捕らえるべきじゃないかな?
ただ、気性は相当激しかったと思われ。
愛すべき人物だよ。
勝頼もまた然り。
失敗の屈辱の中で、必死に答えを模索する光景が目に浮かぶようじゃないか。
真の”庶民派”大名だな。
747 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 21:04:27
748 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 21:53:10
749 :
日本@名無史さん:2005/09/15(木) 22:52:20
>>748 知らんけど勉強してから出直せ、って言うくらいだから>>742を否定する何かすごい事実をしってるんだろう。
750 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 04:00:23
やはり弱虫608=701は逃げたか。
今後は適当な事ばかり言わないように気をつけて発言しろ。
以上。
751 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 04:01:59
608 :599:2005/08/23(火) 20:12:02
>>606 では、606さんの評価する基準を教えてください。
わたしの評価基準は、
「大名として国を維持したまま死んだかどうか」
です。
752 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 10:46:42
名将武田信玄が後継者教育をしていないはずはなく、武田勝頼は、信玄流の軍略、経国を教え込まれていた。
しかも武勇は信玄を凌いでいた可能性もある。しかし、信用がなく部下がついてこなかった。
長篠の戦敗北のあとはますます信用が悪化した。
真田昌幸が真田幸村に言った言葉がぴったり。
「お前はわし以上の才覚かも。しかし、豊臣家はお前を信用するまい。なぜなら、わしには過去に家康を二度破った実績があるが、お前には何の功績、手柄もない。ひとは過去の信用によって、皆が評価し、信用し、動くのだ」
○勝頼の場合、大敗北の過去があるので、いざというときの部下の信用度が今一歩だった。
753 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 16:14:52
>>○勝頼の場合、大敗北の過去があるので、いざというときの部下の信用度が今一歩だった。
それをいうなら家康だって
三方ヶ原で大敗北しているが、
後に天下統一を成している。
やっぱり、勝頼は凡将だったと思うけどな。
家康は運が良かった。小大名なので信長に警戒されなかった。
しかし勝頼は大大名なので、信長に警戒されてしまった。
信長がもう少し長生きして、家康の勢力が拡大すると、警戒されて
滅ぼされたかもしれない。
755 :
百地 三太佑:2005/09/17(土) 16:45:04
わしが天下人じゃ!!!ウヒョウヒョ
>○勝頼の場合、大敗北の過去があるので、いざというときの部下の信用度が今一歩だった
信玄は村上義清に二度も大敗をして名だたる重臣を殺しまくりましたがなにか?
長野業政に六度も負けましたがなにか?
757 :
日本@名無史さん:2005/09/17(土) 22:22:36
なにか?
758 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 02:18:45
おまえ下らないことしてんな。まず士んデこい
759 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 11:20:54
俺は勝頼が本拠地を新府城に
変えようとしていたことはもっと評価していいと思うけどな。
防衛や進攻では、躑躅ヶ崎よりも優れた土地だと思う、
ただ建設が遅れちまったけど。
そこいら辺が親父さんとは異なるよね。
信玄はどっちかってーと政治面での安定を指向していたと思う。
んー、もうちょっと親父さんが生きてたらどうなってただろうな。
そうなんだ。
氏政っつーと、例のご飯の逸話があるから勘違いされてるだけなの?
スレ違いだからあんまり聞かんけど。
>>762 秀吉が感嘆した小田原城の総構えは氏政が造ったもの。
764 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 01:31:39
いやいや、そんな例一つで氏康より氏政が優秀なんていわれても
こまるよ。
>>764 しかし北條氏の最大のウリは総構えだから。
総構えの無い北條は、並の大名。
スレタイ ...
んじゃ、武田家の城郭ってどうなのよ?
767 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 08:55:35
>>761 氏政は親父が築いたものを
ただ継承しただけだろ。
>>767 氏康が信玄や謙信と戦った時は総構えは無い。
氏政が秀吉を迎え撃つ時に関東中の大軍を収容する為に築いたのが
総構え。
>>753 負け方と引き際の問題。
家康は負けたにしても家の滅亡までにはいかなかった。
勝頼は取り返しがつかない負け方をしてしまったのが問題。
>>768 総構えなど造ってしまったからこそ北条は外交をおろそかにし、開戦した後は降伏が遅れ、ついには滅亡した。
長宗我部、徳川、島津、伊達らは北条などとは違って機をみるのに敏であり、
本城を囲まれる≒実質領土全てを失う などという状態に陥る事はなかった。
総構えは結局北条を滅ぼしこそすれ、守ってなどくれなかったのだよ。
771 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 09:58:36
風間小太郎は北条家だったのですか?
772 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 09:59:58
氏康は基本的に最初から敵対姿勢はとらなかった。
はじめは処女の如く相手に近づき、冷静に敵勢力を分析してから
行動を起こしていた。
もし氏政も氏康と同じように秀吉に近づき
冷静に分析をしていたなら滅亡はしなかっただろう。
773 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 10:37:35
>>756 つうか、信玄、家康はリターンマッチで勝ち、名誉回復してるからね。
世間は、そう見た。
勝頼は信長、家康にリターンマッチできなかった、すぐに戦線膠着にされて、そのチャンスを家康が与えなかった。
世間は、勝頼は、勝ててない、、、と見た。
>>773 信玄のリターンマッチって?
義清には最後まで勝てませんでしたが?
長野業政には一度も勝てませんでしたが?
775 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 12:23:31
が?
776 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 10:00:08
村上義清? 負けたから、領地から追い出されたから、越後の上杉謙信頼ったんでしょ?
長野業政? その子供の代に滅ぼしてると思いますが、、、、
結果、世間は信玄が勝ったと思った、見た、、、のでは
777 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 15:16:47
>>776 村上義清は、武田信玄じゃなく真田幸隆に負けたんだろ。
長野業政は、北条の助力を借りたことによって、辛勝したんじゃなかったか。
>>777 信玄厨の脳内では部下の自己判断、自己行動での手柄でも、辛勝でも
存命中に勝てなくても、 信玄が 勝った事になります。プw
なんでおまいらは、普通に、
「真田幸隆を使って勝った」
「北条を動かして勝利を収めた」
って思わないんだろうな。
そんなに荒らしに来て欲しいか?
>>779 >真田幸隆を使って勝った
客将のクセに、信玄が苦労して落とせなかった城を簡単に落として
その功績を要求され、領地のうち十万石を分捕られたからな。
家臣なら分かるが完全な武田家臣じゃなかったしな。
>北条を動かして勝利を収めた
問題のすり替えはやめれ。
問題は長野業政に六度も負け、一度も勝てなかった事実だ。
息子に勝っても意味はない。
なら勝頼を倒し、武田を滅ぼした信長は信玄に勝ったんですねw
信玄弱!www
781 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 10:06:47
なんにせよ、信玄公の勝ち、と世間は見た。
なかなかの知将である長野業政は永禄三年六月病死。
信玄の箕輪城攻めは永禄九年九月二十七日、
業政の子、長野業盛死、長野一族滅亡。
検索「長野業政」−「武家家伝。上州長野氏」
782 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 10:26:55
信玄が自分の死を三年間隠し兵を動かすなと勝頼に指示したのが信玄最大の失敗。
信玄が勝頼と重臣に後を任せ、勝頼も亡くなった親方様に京の地を見せようと志気を高めれば、兵力の面からも当時の信長には勝てただろう。
783 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 17:41:53
>>781 >なんにせよ、信玄公の勝ち、と世間は見た。
必死の答えがこれですかw
しかもソースがネットwwww
うはwwwwwちょwwwww待っwwwwwwwww
なら俺も一言
なんにせよ、信長は信玄公に勝った、と世間は見た
>>782 兵農分離が出来て無かったから、それは厳しいんじゃないの?
そういや、当時、武田家ってのは他の諸大名からどの程度評価されてたんだろうか。
>>784 >兵農分離が出来て無かったから、それは厳しいんじゃないの?
信玄時代の織田が兵農分離していたかどうかは賛否両論だから・・・。
>そういや、当時、武田家ってのは他の諸大名からどの程度評価されてたんだろうか。
フロイスの記述や各国の外交からして、名声は高かったと見るべきだろうね。
>>785 ありがと。
今ふと思ったんだけど、信玄の遺言って誰が聞いたんだろう。
勝頼をよく思っていない家臣が、それを言い訳にして命令を無視しただけとか?
自分の死を三年間隠し兵を動かすなという遺言が事実とすれば
信玄について戦国大名としての能力は大変低いと評価してしまうよ。
元々低いから
そういえば信玄にはパートナー的な家臣ていなかったの?
秀吉における秀長、家康における正信、政宗における小十郎みたいな
790 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 10:07:34
>>782 ていうか、あの時点では武田は徳川に圧勝しているし、織田はびびってるし、身動きできないし、
すぐに、また決戦して勝てると武田勝頼、皆が思っていた。
でも武田信玄のような強力な指導者を失うと、組織全体へのショックが大きいし、
西上は無理。
○「信長は武田家には勝ったと世間は見た」
791 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 10:13:16
>>789 山本管介。あるいは弟の信繁。
あるいは高坂弾上、彼は元が信玄のホモ相手だったので他の家臣が
言えないような事をズケズケ言ったので有名。
792 :
日本@名無史さん:2005/09/22(木) 11:23:35
信玄は家臣に恵まれてたんだな。
逆に勝頼とかはどうだったんだろう。
あんまり聞かないけど勝頼にも信玄のように、
パートナー的な家臣がいたのかな?
>>791 そう考えると川中島の合戦はかなりの痛手だったんだ
反対に謀反されやすいが上杉には直江がいたのが幸運だったね
>>792 長坂釣閑斎、土屋宗三、跡部勝資・勝忠あたり。
長篠で重臣のほとんどを失っているせいか吏僚系が多い気がする。
795 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 10:57:08
勝頼
て、いうか、有名な軍師を迎えるとかの脳みそはなかったのかな?、、、
劉備の諸葛孔明、秀吉の竹中半兵衛とか、、、
優秀な軍師と評判ある人を、ヘッドハンテイングするとかの、、、
信玄はやっていたようなふしがあるが、、、
当時、そんな脳みそを売るような連中は居なかったのだろうか?
796 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 16:21:45
>>792 >>794 >>795 勝頼の幕僚が、才能のない奴ら、弱い愚臣・文官ばっかりだった、というのは
後世の捏造的・印象操作的な評価。
・そもそも信長〜家康ラインに滅ぼされた家は、悪く言われがち
・だけど家康家中に武田遺臣が多数いる。そいつらの言い分として
「俺たち武田は強かった!なのに滅びたのは勝頼が悪いから!」ということにしてある。
(俺らが生き残ってるのは「非・忠臣」「保身裏切り」なのではなく、悪主・勝頼を見限っただけ!)
・相手が悪すぎた(相手にならないぐらいの巨大勢力・信長)
797 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 17:52:06
>>793 直江は景勝もしくは謙信もしくはその両方と
男色関係だったので裏切る事は考えられなかったろう。
景勝とは生涯のパートナー。
翼くんと岬くんみたいなものだ。
798 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 18:11:41
そもそも信長や謙信や朝倉宗適のような
軍師不要の人物もいたんだけどな。
あと戦国時代の軍師というのは当初は我々の持つイメージとは違い、
方位学とか地相学とか日にちの吉凶判断とか、占いのエキスパートだったんだが。
まあ諸葛孔明とかチンギスの軍師のヤリツソザイもそうだったんだが。
武田滅亡寸前には
いろいろな神頼みとか占いに演技担ぎも行われてたなんだろうね。
有名な勝頼婦人の書いた起請文なんてものもある。
しかしそれらは全て無駄に終わったのだが。
起請文ではなく願文だろ。
>>796 >勝頼の幕僚が、才能のない奴ら、弱い愚臣・文官ばっかりだった、というのは
後世の捏造的・印象操作的な評価。
という以前に長篠で有能な重臣ほとんど失ってるじゃんw
>そもそも信長〜家康ラインに滅ぼされた家は、悪く言われがち
そこまで極端に捏造しないし、言われてない家もあるし、馬場みたいに絶賛される武将もいる。
武田滅亡時の財政破綻は織田方の史料だけ見られるわけではない。
>(俺らが生き残ってるのは「非・忠臣」「保身裏切り」なのではなく、悪主・勝頼を見限っただけ!)
実際、悪主でなかったと言い切れるのか?
悪主だったのかもしれないけどそうなったのは家臣衆にも責任があると思うよ
803 :
日本@名無史さん:2005/09/25(日) 12:40:45
結局、滅亡した代の当主は悪く言われるということだ。
朝倉義景、今川氏真、北畠具教、豊臣秀頼、斎藤竜興などなど・・・
浅井長政は悪く言われてないが朝倉に日和ったのは悪く言われてる。
北条家の場合は氏政が悪く言われてる。
当主が悪かったから滅びた。
極めて自然なことだと思うが。
当主が優秀なのに滅びた家があまりないのは日本らしいって言えば日本らしい。
優秀な当主がいる勢力とは決戦を避け、その人物が死んでから攻略しようとするわけだ。
斎藤、上杉、武田、豊臣などがその例。
ついでに長野も。もっとも死んでからではなく、死んだおかげで
やっと攻略できただが
>滅亡した代の当主は悪く言われる
平家物語の序を思い出した。
>>803 浅井長政は悪くは言えないだろ、秀忠の正室家光生母のことを考えれば
809 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 10:15:50
しかし、長篠の戦、あの時点で織田、徳川連合軍をおびき出して叩く、という発想は悪くないと思うが?
あのあたりで叩いておかないと、彼我の勢力差は拡大するばかりだし。
不思議なのは武田の情報網に、織田の陣の頑強さとか、鉄砲の数が伝わっていないことだよな。
また最初の攻撃で損害が出たとき、なぜ、中止して様子を見なかったか? 後ろに織田軍の一部が廻っていたとはいえ、中止は出来ただろう。
そのあたりの情報伝達の様子が、おかしいと思う?
810 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 14:47:59
勝頼は家臣からの信頼感が足りなかったと思う。
実際には、信玄の嫡男である義信は家臣からの有望が高かった。
そして、父を超えたいという思いがあせりとなっていたと思う。(長篠の敗戦の後は特に)
>>809 鉄砲が主戦力じゃなかったから勝てると思ったんだろ。
実際鉄砲に負けたわけじゃないしね。
812 :
大納言:2005/09/26(月) 17:09:41
正確に言うと勝頼は武田家の当主ではないです。
諏訪四郎勝頼は信玄の死により信玄の孫・信勝が16歳になるまでの間だけ後見役として武田家の代表代理を務めることになりました。
この事が原因で甲斐系武将と信濃系武将との間に亀裂が生じる事になったようです。
信玄以来の重臣の意見より信濃在地武将の助言を聞き入れ『御旗・楯無』に誓うことが多く、特に高天神城攻略後からは甲斐系武将の反対を無視して勝手に『御旗、楯無も御照覧あれ』と発言することがあったみたいです。
甲斐系武将から見れば勝頼は『信玄の子供ではあるが(いち外様)諏訪氏当主であって武田家の人間でない』との考え方があったのではないでしょうか?
…で、その結果『長篠』での大敗に繋がり、ひいては武田家滅亡の時期を早めたのではないでしょうか。
私が思うに『勝頼』とは、家臣が認める優れた“いち軍人”であって“政治家”ではなかったのだと思います。
813 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 18:15:59
814 :
大納言:2005/09/26(月) 20:03:40
813
新説とはどのようなものなのですか?
是非、教えて頂きたいです。よろしくお願いしますm(__)m
いや、それを今いろいろ議論してるんじゃないのか・・・?
>>809 >あのあたりで叩いておかないと、彼我の勢力差は拡大するばかりだし。
惨敗を喫した以上、言い訳に過ぎないよ。
「敵が打つ手に困っているのでこちらから攻めて今度こそ信長・家康の首を取る」
という書状から明らかに状況判断の甘さが読み取れるし。
軍人は結果で評価されるものだから長篠がある限り勝頼の再評価は無理。
817 :
大納言:2005/09/26(月) 20:49:08
815そうですか…(笑)
私はてっきり、勝頼を甲斐源氏武田家第20代目の相続を認める内容信の玄の花押入りの遺言状が発見されたのかと思ってしまいましたf^_^;
失礼したしたm(__)m
818 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 20:57:11
雑魚に決まっとるやろ。
ほう。新説を2ちゃんで作るのか。
感心感心。
820 :
日本@名無史さん:2005/09/26(月) 21:59:24
設楽原で大敗するまでは勝頼は負けしらずだったからね。
「闘いに持ち込みさえすれば勝てる」とでも思ってたんじゃないの?
まるで旧日本軍だね。
>>812>>817 まあ仰りたい事はわかるかな。
勝頼の立場が不安定であるという理由には
・永禄五年から元亀二年まで高遠城主に過ぎない事
・甲府に移ったのが信玄の歿する僅か二年前である事
・上記ふたつの影響によって、重臣連中との縁が薄い事
・義信の死後(永禄十年)、4年間の間、武田家は正式な後嗣が不在である事
・元亀元年に室町幕府へ勝頼の官途・御一字をもとめながら叶わなかった事
・(それ以前)永禄十年に生まれた勝頼の子には信勝と命名している事
・勝頼を信勝元服までの陣代に限定した事
・信玄死後、武田の旗の使用を認めず「大」一文字の旗を用いるにとどめさせた事
・対外用に信玄名義の発給文書八百枚が用意されている事
旧説っぽいものとしてはこのあたりがあるのかなあと。
要するに勝頼って死ぬまで正式には「諏訪勝頼」に過ぎなかったのかも……と。
822 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 04:31:57
>>817(大納言)よ。俺も815のアホさ加減にはビックリしたよ。ちょっと、期待してたのに。
まあ、多分中棒だから放置しておこうぜ。
大納言の812の中でもあるように信玄は勝頼を当主にしなかった、義信にしていることと
いいどうも信玄ってのは他のやつがすごいって言われるのを嫌ってるちっこい人間である節が
あるような気がするんだが。
西上だってどうしてもしなきゃいけないっていう何かがあったんだろうか?
もし、それがあるなら信玄の体調が悪くなったとき家臣たちは引き返すという選択をするだろうか?
結局西上も自分をすごいと思わせたかっただけって気がするんだが、、。
そうした、エゴがその後の武田家、特に勝頼に大きくのしかかってきているような気がするんだが。
823 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 04:45:02
>>812 君の言ってる事はすごく正しいとおもうんだが、一つ質問が。
っていうか、まともな住人みたいだから意見を聞いてみたいのだが、、、。
>>私が思うに『勝頼』とは、家臣が認める優れた“いち軍人”であって“政治家”ではなかったのだと思います。
についてだが、確かに長篠前は「いち軍人」という感じだったと思うのだが長篠以降の勝頼はどうだろうか?
りっぱに、「政治家」といえるよううな仕事もしているし、またそれに向かって努力しているのが
よくわかる。(新・三国同盟、新府城の建築、鉄砲の導入に対する研究、商業政策など)
つまり、彼は敗戦から自分に何が足りないのか見抜いてそれを実行できる優秀な大将であった
と思うんだけどどうだろう?
それらが、功をそうしなかった原因として必ず、信玄が残していった負の遺産(後継者選びで
優柔不断な態度でいたこと、これまでにいろんな人が書いているようなな)
が絡んでうまくいかなかったりしている。
824 :
大納言:2005/09/27(火) 10:01:00
821
大変分かりやすくまとまりのある文章に感服しました。
私も先のレスに至る経緯には[821]さんのご指摘のあった部分と共通する所が多いです。ありがとうございましたm(__)m
825 :
大納言:2005/09/27(火) 10:27:55
822
信玄の生まれた甲斐は元々、自立性が高く統制の取りにくいお国柄のようでしたので、信玄自身もそのような風土をよくわきまえていたのだと思います。
その為、配下武将達に武将としての能力や格の違いを示す必要があったのでしょうね。
…その結果[822]さんが感じられた様な“信玄=エゴ”との見方も十分出来るのだな…と思いました。[822]さんのレスを拝見して大変勉強になりました。
それから[822]さんの御意見に私も同感します。特に私が重視しているのは“義信死”と“後継者選定問題”です。
これが後の勝頼の、ひいては甲斐武田家の運命を決定付けたと考えております。
過去の歴史に『If』を持ち込む行為がナンセンスであることを承知のうえで且つ、非難覚悟で書かせてもらいますと
同じ“武田姓”を名乗って来た信玄の弟・刑部少輔信廉(逍遙軒)が後見役となっていたなら家臣団の結束が保たれていたのではないかと思います。
その結果、仮に長篠の合戦が発生したとしても史実で起きた様な自滅的、致命的大敗は免れたと思います。
…こんな妄想の話をしてしまってすみませんm(__)m
826 :
大納言:2005/09/27(火) 11:23:32
823
ご質問に対して私なりの考えをお答えします。
確かに長篠の大敗以降、内政や外交に力を注ぎ努力した経跡が多数見受けられますね。
しかしながら『何故そうなったのか』という根本原因を考えた時、外征できるだけの兵力を先の長篠の合戦で失った為に他ならないと思うのです。
そもそも戦争とは自国の国益の向上の為に行われる最後の政治判断な訳です
…が勝頼の場合をみると、“国益の為”というより“己の面目”という意味合いが強いように思われてなりません。
また、信玄の死後、再三繰り返して来た無理な外征により『武田家が得たものはの何か?』を考えた時、更には財政破綻をきたしたという事実をみた時、私は“いい政治家”とは言えませんでした。
しかし、だからと言って勝頼が雑魚で無能な武将という見方もしておりません。
何故なら父・信玄が棚あげにしていた“負の財産(後継者問題)”を抱えてのスタートだった訳ですから『滅亡』と『勝頼』を直接結びつけるのは適切でないと思っているからです。
827 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 11:44:46
大納言氏の意見はなかなかだが、僕は武田勝頼の大きな失敗のひとつは、上杉謙信が急死したあと、越後を手に入れ損ねたことだと思うが。このあと上杉景勝と北条家から来た景虎との後継者争いが起こった。
そのとき、勝頼は最初は景虎に味方しながら、後に景勝に味方して勝たせ、北条氏と決裂した。
このあたり自分は詳しくないのだが、、、
内紛につけこんで、越後と佐渡金山を手に入れるようなこと、出来なかったのだろうか?
そうすれば、かなり情勢が変化したのでは?
結局、鉄砲も金で買えるわけだし、、、
828 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 15:03:54
>>827 このときの関東甲信越の有力大名の力関係を表すと、
北条>武田>上杉です。仮に勝頼が影虎を勝たせても越後は手に入れられないでしょう。
仮に手に入れられたとしても、北条に奪われるのがオチです。
829 :
大納言:2005/09/27(火) 16:07:47
827
《御館の乱》について簡単にまとめておきます。
遺言の無いまま謙信は他界。これにより長尾政景の息子で謙信と叔父、甥の関係から養子となった景勝と越相同盟強化の為に養子縁組した北条氏康の七男・景虎との間に戦国名物の跡目争いが発生。
先手を取ったのが景勝で、春日山城の本丸にに移り国内外に『謙信生前の遺言を奉じるものである』旨の文書を発給し反景勝派の出端をくじいた。
一方、身の危険を感じた景虎は妻子をつれて春日山城二の郭から前関東管領上杉憲政の住居である『御館』に移り対決姿勢を明らかにする。
以上が御館の乱の概要です。そしてこの跡目争いのキーマンとなったのが勝頼だった訳です。
春日山城を占拠したものの景勝は兵力的にみて明らかに不利でした。というのも、景虎の背後には本家であり実兄の北条氏政が支援しており、更に甲相同盟により武田家の後詰があったからです。
しかし、事態は逆転します。金二千両※一両=約25万円と上野国の割譲を条件に景勝と勝頼が和睦し兵を引き上げてしまいました。
勝頼による景虎・北条ラインに対する裏切り行為で景虎は形勢が逆転、積雪により小田原からの援軍が得られないまま鮫ヶ尾城で自刃しました。
そこで私の考えなのですが、[827]さんが考えておれれた『春日山攻略&佐渡金山の掌握』の有無よりも
勝頼(甲)氏政(相)景虎(越)の強固な攻守同盟を選択肢を棄てて、
勝頼(甲)・景勝(越)不戦同盟及び金二千両&上野の支配権を取った勝頼の政治判断が残念でなりません。
近視眼的にみれば北条氏政の領土拡大を防いだ上に上野国と二千両の大金が労せずして手に入り国益に繋がったのかもしれません。
…が、大局的視点から見るとその結果、北条氏政を敵に回してしまい攻守同盟を手放したのは失策だったのではないかと思います。
>>829 その通りだね。
一つだけ残念なことは、文章が長い!
携帯電話で読んでる人もいるだろうから、もうちょっと考えて。
短い文章に説得力を持たせるのは難しいけど。
831 :
大納言:2005/09/27(火) 20:20:35 O
829の続き。
自刃しました。
そこで私の考えなのですが、[827]さんが考えておれれた『春日山攻略&佐渡金山の掌握』の有無よりも
勝頼(甲)氏政(相)景虎(越)の強固な攻守同盟を選択肢を棄てて、
勝頼(甲)・景勝(越)不戦同盟及び金二千両&上野の支配権を取った勝頼の政治判断が残念でなりません。
近視眼的にみれば北条氏政の領土拡大を防いだ上に上野国と二千両の大金が労せずして手に入り国益に繋がったのかもしれません。
…が、大局的視点から見るとその結果、北条氏政を敵に回してしまい攻守同盟を手放したのは失策だったのではないかと思います。
832 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 20:31:41 0
>>831 そうだよな。甲相同盟が破綻する前年までは、
武田家と北条家の仲は良好だったのに。
833 :
大納言:2005/09/27(火) 20:44:51 O
830
御指摘ありがとうございますm(__)m改めて自分のレスを確認してみて我ながら「長い」と感じました(笑)
更に829が途中で途切れてましたね(苦笑)
…しかし、そんな長文にも関わらず目を通して下さったことについて誠に感謝致しますm(__)m
北条上杉と良好な関係が維持できていたと仮定して、
それなら織田に侵攻されなかっただろうか。
時期的にはそんなに遅れることなく
やはり織田にやられただろうと思うんだが。
もちろん武田家は小田原で命脈を保てるだろうが。
835 :
日本@名無史さん:2005/09/27(火) 22:48:06
>>834 信長は結構、外交が上手だから仮に北条・武田・上杉が同盟を結び
本願寺以上の勢力になったら、力攻めなんて馬鹿なことはしないだろう。
おそらく秀吉が徳川家・北条家・伊達家の仲を裂いたように
外交でなんとか攻略しようとするだろう。
越後国内では兵力的には景勝のほうが優勢なんだが・・・
越後国内の重要個所は景勝が押さえてるし、謙信の側近は皆景勝派じゃないか?
上野は北条や憲政の影響か景虎派だけど、他の地域は景勝のほうが優勢だろ。
6月には猿毛城が落ちて景虎は御館に孤立していたし、景虎派最有力の武将上杉景信は戦死するし。
6月に勝頼が介入しなければ景虎は近いうちに御館を捨てることになったと思うが。
837 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 00:32:11
>>836 だから氏政は同盟を解消するほど激怒したのか。
>>836 上杉家中ではそうだろうけど国外事情を考慮するとまた違うだろ。
北条芦名は景虎派だし、織田も景勝派と戦っている。
>>837 一応言うと北条は勝頼が越後に出兵するのを見届けてから佐竹攻めを行っている、また
それが終わってからも越後に兵を出してはいない、出兵するのは勝頼が引き上げた後。
また武田は5月から8月終わりまで越後にいる、その間徳川に駿河を何度も攻撃されている。
6月に景勝景虎を停戦させて8月にそれが破られたため、景勝と和睦して甲斐に戻るのだが
その時点では北条は越後に出兵する気が見られないのだから、確実に景勝が優勢、だった
ら将来の越後の国主と同盟を結ぶのも当然のようにも思えるが。
北条側から見れば、越後まで遠征する余力は無かっただろう。
よって、調略で景勝を牽制しつつ、北関東の制圧を目指すのが現実的か。
氏政はある程度勝頼にも期待してたんじゃないか?
問題はわざわざ出張って行ったのに収められなかった勝頼の器量にあるだろう。
景勝が一枚上手だったのかも知れないが。
後ろ盾が無い景勝からすれば、短期間で決着させることが至上命題だったのだからね。
840 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 02:06:43
>>838 勝頼がこの当時争っていたのは家康だけだった。
信長も東国には興味を示していなかったし。
それに引き換え北条は佐竹家を中心とした、
反北条勢力と真っ向から対立していた。
どちらに余力があるかは言うまでもないでしょ。
841 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 03:02:27
勝頼はたしかそのとき北条を嫌ってたはずだ。
自分では兵をださずにまず人を動かす態度にな。
そこで、影虎が勝ったとしたら上と下から甲斐・信濃は挟まれることになるんだが
そうすると織田が攻めてきたときに起こることをまとめよう。
@織田が攻めて来たときに武田は北条をたよらざるをえず(越後も関東も北条という
状況がうまれるので)ただの、盾としてのみ使われて逆らえなくなる。
Aそうした、状況を考えるとたとえ織田を撃退しても、攻めてこなかったとしても
いずれ北条の言いなりにならざるをえなければいけなくなる。
=織田は関東に興味がなかったと誰かが言ってるが勝頼とは何度も戦っていてすこし
落着いたら攻めてくることは明白。
Bその当時、武田は財政難に陥っていて謙信からの金はとても重要なものだった。
ちなみに、信玄時代に大いに活用された金山が底をつきたからこれは起こっている。
つまり、勝頼の選択は当然の選択なはずなのだが、、、。
>>840 どっちに余力があるかと言ったら北条じゃないか、
武田徳川と北条反北条の国力比は若干後者のほうが差が無いかも試練が、
反北条勢力のほうが分散してる分相手しやすいし、佐竹は国人一揆の盟主みたいな存在、
北条から攻撃を仕掛けた場合はともかく佐竹から攻撃を仕掛けるのは難しいだろう。
北条に対しては攻勢防御にでるぐらいしかできないだろ。
>>839 景虎は武田北条が手を引いたら短期間で滅んでいるから、
勝頼に景虎派を勝たせるというのは困難だと思うが。
843 :
823:2005/09/28(水) 03:21:05
>>826
大納言さんありがとう。勝頼が気がつくのは遅かったのは確かだな。
スタートした時点で政策と戦闘に対する意識のバランスができていないな。
特に、勝頼が徳川を攻めまくって無駄に国力を消費しまくったのはたしかだわ。勝頼
は信玄の期待に応えることやや自分の実力を示そうと必死だったんだろうな。
信長とかはけっこう一気に攻めてぐわっと滅ぼすことが多いけど、武田家や上杉家では
ちょっと戦っちゃひいて、ってのをずっと繰り返してるのはなんでだろうな?
>>840 >どちらに余力があるかは言うまでもないでしょ。
徳川に対して防戦一方の武田と反北条勢力に攻勢かけてる北条とでは北条のほうが
余力あるに決まってるじゃん、別の時代と勘違いしてないか?
>>843 >勝頼が徳川を攻めまくって無駄に国力を消費しまくったのはたしか
天下とは言わないにしても織田を倒すまたは織田に降伏しない積もりなら徳川を攻めまくるしかないだろ
むしろ勝頼の初期戦略は徳川をもっと攻めまくるべきだったと非難するところだろ。
846 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 03:32:35
830さん。
ここは一応三戦版じゃなくて日本史版なんだよね。
だから、ある程度詳しく書いたりするってのも必要なことだと思うんだよね。
携帯からみてるのもわかるんだけど、ここは基本的に妄想を語るスレではないから
出典や根拠なんかを説明してるうちにながくなっちゃうこともあるから
すこし長い文も我慢して読んでくれたらうれしいなと思います。
あと、
815 :日本@名無史さん :2005/09/26(月) 20:10:58
いや、それを今いろいろ議論してるんじゃないのか・・・?
とかいうふざけたことを書き逃げしてくばかもいるだろう。
だから、大納言はそういう無駄な奴が現れないようにする意図もあってわざわざ
詳しく説明してくれてると思うんだよ。
>>843 大名の権限と大名の財政の差
兵士は各武将の財産であり犠牲を省みないで攻めるには大名の強い権限が必要
また遠征時の費用兵糧は数日は自己負担でもそれ以上は支給だから、長期の作
戦行動には、それを支える財力が必要。また付け城作るにも経済的基盤が必要。
>>846 というか大納言さんの文章は無駄に長くて読みにくい、しかも史実に基づいているのか?と
思う部分もあるし、あまり役に立つとは思えない。
とりあえずもう少し工夫して文章を書くべきだろう、これに関しては多くの人がそう思っている
と思う。まあ半年ROMれとは言わないけど、他の人の文章の書き方を少し参考にするべき。
引用とかsageとかも。
まあ、あなたにも言えることだが。
>>845 信玄死後に野田長篠奪われてるからねー、
反織田勢力が壊滅する前に国庫を傾けてでも攻勢に出ないといけなかっただろうな
織田を倒す積もりなら。まあその後の史実を知ってるから言える言葉だがw
>>848 この板なら別にsageる必要は無いと思うが、文章に関しては同意だな。
850 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 07:44:44
たしかに、やるのかやらないのか戦うなら徹底的にやるしやらないなら
しばらくずっと甲斐にとじこもってっていう感じだったんだろうけど
なんせ、親父がすでに開戦してまっているからなー。
851 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 08:58:14
>>827 佐渡金山の多くは江戸期の開発だよ。
それと佐渡はそもそも本間氏の領地で
上杉家の影響力はあったが上杉領ではない。
佐渡が上杉領になるのは1589年の佐渡平定以降。
852 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 09:04:24
>>829 上杉景虎は氏康七男ではなく甥だという説もある。
どっちにしろ北条家ゆかりの者なのは間違いないけどね。
そうだとすると氏政にとっては弟ではなく単なる従兄弟にすぎないから、
そんなには「助けねば」という思いはなかったのでは?
853 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 11:14:31
827です、どうも大納言氏意見をありがとう。
たしかに北条に越後とか影響もたれたら挟まれて困るかも、、、
ていうか、武田信玄だったら、内紛につけこんで、
あっさり越後をとったような気もするんだが、、、駿河なんて攻め取ってるし。
なんにせよ、武田勝頼が織田と対抗できる手はあまりなかったような、、、
何か、効果的な手、言ってる人はいますか?
>>853 信玄がたとえ死ななくても織田に勝つのは無理かもと言われてるぐらいだから、
勝頼の時にはもう無理だろ、可能性があるとしたら信長を討ち取れた場合ぐらいだろ。
北条上杉武田で同盟が結べたとしても、織田に対抗するのは無理だろ。
855 :
大納言:2005/09/28(水) 18:43:47
はじめに、私の長文レスを不快に感じた全ての方にお詫び申し上げます。すみませんでしたm(__)m
また、私のレスに関する様々な御教示、御意見誠にありがとうございますm(__)m
操作要領や編集等に配慮していきますので今後ともよろしくお願いしますm(__)m
長文でも全く問題ないよ
読みたくなきゃ読まなきゃいいだけだし
その通り。
歴史好きなら長文ぐらい屁でもない。
それに速報性のないこの板では
携帯で読んでる人間まで配慮する必要はないよ。
>>855 長文と言うよりも文章の書き方の問題だろうな、
長文でも読み易い文章は三戦の史実系スレでも叩かれたりしないし。
適度な改行と適度な空行をすればいいだけだと思う。
ほとんどの人間が適当な句読点のところで改行してるでしょ、
他には
>>847>>848のように文章の右端の位置を揃えて改行するとか。
あと他人へのレスを書くときはただ数字を書くのではなくちゃんと
>>858みたいな形にする、
文章の引用も
>>844>>845みたいな形の方が皆見なれてると思う。
ついでにこの板ならともかく荒れやすい板スレッドではメル欄にちゃんとsageと入れるように
そのほうが住人に喜ばれる、スレによってはsageを入れ忘れただけで荒らし扱いされるから。
>>853 武田が越後をとったところであまり意味無いと思うが、結局越後で増加した兵力は
織田の北陸部隊と対峙するだけで東海戦線には影響与えないだろうし。むしろ越後
奪うのに甲斐信濃越後が消耗するだけじゃ、しかも越後制圧した直後じゃ織田が攻
めてきたとき離反しやすいだろうし。
>>831 景虎を勝たせるって、
>>836達が言ってるように景勝派のほうが優勢なんだが、それ
でどうやて勝たせるつもりだ?短期間で終わらせないと高天神や駿河を失うぞ。
景勝でさえ乱を終息させたのは80年、新発田も乱の続きと考えると87年じゃないか。
景虎自身が死んだのは79年の初めだが。
下手したら景虎が勝つ前に織田が攻めてくるぞ。
860 :
858:2005/09/29(木) 00:51:30
>あと他人へのレスを書くときはただ数字を書くのではなくちゃんと
>>858みたいな形にする
これじゃ自画自賛みたいな文章だなw
レスを返したいときはちゃんと
>>○○○←数字を入れる
みたいな形にするということね
>>859 確かにその通りだな、武田が越後奪ったら北条も黙ってないだろうし。
861 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 11:00:28
ということは、長篠の戦で負けた後は、
どんな名将であっても勝頼に逆転の目はなし?
それはちょっと寂しくない?
なんか良い手はないかな?
862 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 11:12:30
>>861 信長に臣従するっつう手をあるけどな。
もちろん上野・駿河は奪われるけど、滅亡よりはマシだよ。
863 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 13:49:49
でも、ただ長篠に負けただけのときではそれは不可能だよな。
名門武田の血筋ってのもあるし、家臣もそれを許さないだろうし。
もちろん、勝頼にもそんんあ気はないだろうし。
>>861 73年の時点でどんな名将であっても難しいと思う。
基本的に相手が大きなミスを犯さない限り逆転の目はなし
78年に謙信が生きていて武田毛利別所本願寺と一緒に織田と戦ったとしても
戦力的には織田の方が上だし。
>>864 継いだ時点からなら遠江を取るぐらいならなんとかなったんじゃないか
>>866 家康というか、織田の援軍ね。
流石に家康滅亡の危機になったら織田の主力軍が駆け付けるだろう。
868 :
日本@名無史さん:2005/09/29(木) 18:16:34
>>867 信玄が家康を倒せなかったのは
信長が家康に大量に財政援助や食料援助をしていたから。
一般的に信長はただで家康をこき使っていたと言われているが、
信長もただで家康を、こき使っていたわけではない。
>>868 そうなんだ・・・。
ありがとう、勉強になったよ。
870 :
大納言:2005/09/29(木) 20:12:23
>>860さん親切、丁寧な御教示ありがとうございます。
長篠の戦いでは
天候が霧であったため
あそこまで武田は被害くらったわけで
天候がよければどうなってたかわからんよ。
と言って見るテスト。
反論が怖くて
と言って見るテストとか書いて保険かける奴は去れ
ここを読んでると、
信玄は死ぬ前に罪作りな事をしてるな。
織田と友好関係を保ったまま死ねば、勝頼も活躍できたのに。
上杉北条相手にだけど。
874 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 00:38:59
まあまあ、そんな言い方すんなよ。
でも、確かに長篠みたいに徹底的に将校クラスの武将が死んだ戦は世界的にも
珍しいらしいよな。
武田家の意見の不統一とか、871が言った霧のこととか、鉄砲の威力がそこまで
全国的に知れ渡ってなかった事(当時は一発討ったら終わりで援護として使われる
ことが多かった武器で、この戦い以降主力として使われることが多くなる)、
戦いもどっちが勝つか微妙な感じで武田にも勝つチャンスや可能性が十分あった
ことなどいろんな条件が織田・徳川方に行ってしまったことがあるよな。
875 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 01:07:25
>>874 武田は将校クラスの死亡率がやたら高い気がする
長篠に限らず上田原戸石川中島三増と
あと武田が勝つ可能性あったか?別働隊が背後に回って砦落とした時点で
どれだけ上手く退却できるかという戦いだろ
878 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 07:22:12
>>871 長篠の戦いの織田の勝因は鉄砲だけじゃないです。
数倍の兵力に堅固な野戦築城、鳶の巣砦を取られて背後を絶たれた。
どこにも武田が勝つ要素はありません。
強いて言えばもう少し織田・徳川を苦戦させる可能性はあったかもしれないが、
設楽原の闘い自体が織田の楽勝だったみたいです。
一部のいかがわしい史料には「武田の被害一万、織田・徳川の被害七千」とかいう数字もありますが、
織田・徳川がそんな大きな被害を出した形跡はなく名のある将も死んでいない所から、
楽勝だったとみるべきでしょう。
ちなみに信頼性の高い妙法寺記によると「武田二千程討死に」とあり、
戦争の負傷者は死者の三倍の法則として計算して、
実際のところ武田側の死傷者は八千くらいで、織田・徳川の死傷者は軽微だったと思われます。
一万五千の軍で半数強が死傷するとは壊滅的です。
879 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 07:58:27
それで忠誠度の低い農民から挑発された足軽・雑兵などは早めに逃げてしまい、
上級武士や武将が勝頼たちの退路を確保するために一兵卒として戦い討たれていった。
長篠の戦いで死んだ武将は実際はほとんど退却戦の時に討たれている。
馬場長房の死は見事なもので敵兵でも見た者は涙を流さぬ者はいなかったという。
この辺が耳川の戦いの敗戦で将士に見放され、一人で逃げ帰った大友宗鱗とは大ちがいなところと言いたいとこだが、
武田の武将は「勝頼のため」というより「武士としての誇り」のために討ち死にしたのかも、
880 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 12:22:41
>>879 その割には武田家滅亡の際には、
殆んど合戦らしい合戦もなかったな。
881 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 12:26:06
>>1 折角の本能寺の変まで自勢力を維持できないのが勝つよりの限界
882 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 12:27:28
>>879 武田の武将の大半は寝返り続出で進退窮まって天目山で自刀だったけどな。
883 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 12:30:05
>>873 お家存続がまず第一。毛利や上杉はそういう意味で本道。
北条や武田はアウト
884 :
大納言:2005/09/30(金) 13:12:22
真田の城へ行くか小山田の守る城へ行くかの選択で親族衆を信じた結果が天目山での自刃とは…哀れですな。
885 :
大納言:2005/09/30(金) 13:14:25
真田の城へ行くか小山田の守る城へ行くかの選択で親族衆を信じた結果が天目山での自刃とは…哀れですな。
>>878 『多聞院日記』 「甲斐国衆千余討死」
『兼見卿記』 「数千騎討死」
887 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 13:54:49
>>881 武田が滅亡してなければ、タイムスケジュールが狂う。
本能寺の変が起きたかどうも不明。そもそも起こす機会が生じないかもしれない。
仮に起きたとしても時期はずれるだろうし、
少なくとも、武田討伐の大将の信忠も同時に討ち取られる事はあるまい。
>>884 真田が小山田と同じ事をしなかった証拠はない。
実際、真田は織田・北条と連絡を取っていた。
おそらくのこのこと真田を頼ってたら勝頼の首、土産に織田の家臣になってただけ。
真田は結局、生き残りをかけて武田に属してただけ。
小山田も正確にはかつては独立していたが、真田よりは古いし甲斐の国人だし、姻戚関係もあるしで、
客観的に見て真田よりはずっと信用できる。
それと距離も問題ね。
当時の武田領は混乱してたから、武田に恨みを持つ者もいる信濃路はきつかったろう。
>>886 間を取って「二千討ち死に」は妥当。
>>882 重箱の隅だが、正確には天目山まで行けず田野で壊滅。
また信豊や信廉みたいに勝頼に同行せず自分の城で討たれた者も多い。
>>880 仁科盛信くらいだね。抵抗したのは。
例の北条婦人の願文を読めば当時の武田の状態はわかる。
890 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 15:08:01
>>885おまえほんとに大納言か?
とつぜん、発言のしかたも書いてあるないようも幼稚レベルに落ちたわけだが、、、。
891 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 15:17:02
長篠の武田の勝つ可能性だが、俺はない事はないと思うのだが。
どっか、一箇所が崩れていたらそこにカバーに回らなければいけない
わけだし、武田は一箇所さえ崩せばそこに漬け込むのがうまい。
だから、土屋が敵陣をもうすこしかく乱できていれば少しでも可能性
はあったんじゃないかと思うんだが。
沢山の武将が集団自殺的に敵に突っ込んだってよくいわれるが歴戦の
猛者達が全く勝ち目もなくそんなことするはずもなく、そいつらも少し
だけでも、崩せたら一気に勝てると思ってたからこそ、歯を食いしばって
突撃して、、、そして長篠の悲劇は起きてしまったのではと思うのだが。
もし、土屋がとっぱしていたら山の上で見てた馬場も一気に降りてくるだろうし
アホしょうようけんと気持ち悪い野不気味も兵を動かすだろうし、そうすると連鎖
的に他のやつの持ち場も楽になる。
まあ、だから一つの例として土屋の突破が長篠勝利の唯一のチャンスだったのかと、、。
892 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 19:44:32
誰か、子供たちがどうなったか知らない? 教えて
>>892 子供って誰の?
信玄の子供なら次男が子孫を残して武田の嫡流と認定された他。
七男の信清が上杉家で生き残ってる。
>>891 無理だと思うよ。崩した所で数がちがいすぎるし、家康、信長がいるからそうはいかない。
実際に姉川の闘いで浅井に陣形を突破されながらも織田は勝ってる。
少ない兵力で突破しても横槍を入れられてヤバくなるだけ。
特に家康はそういうのうまい。
長篠の戦では、信長の本軍来ると分かった時点で一旦兵を引いて
本願寺や上杉が後方の織田領を突くまで待つ戦略をとればよかったのに。
おそらく是が非でも家康と信長の首を同時に取りたかったんだろうな。
>>893 > 実際に姉川の闘いで浅井に陣形を突破されながらも織田は勝ってる。
姉川の戦いは、隊列の伸び過ぎた
朝倉陣営への横撃が成功したからで、
長篠の環境とは違う気がするがな。
896 :
大納言:2005/09/30(金) 20:55:02
>>892さんの疑問について私が知っている知識を書き込みます。
先ず、結論から言いますと武田の系譜は受け継がれています。
武田信玄には正室・側室を含めて七人の男子をもうけています。列挙すると次の通りです
嫡男・義信、二男・信親、三男・信幸、四男・勝頼(諏訪)、五男・盛信(仁科)、六男・信貞(葛山)、七男・信清。
天正十年三月の武田家滅亡後での生き残りは七男信清と二男信親の子・信道(信玄の孫)の二人でした。
越後の上杉景勝の庇護を受けた七男信清(側室の子)と江戸幕府から『高家衆』とされた系統=二男信親→信道→信正→信興の二系統が存在しました。
平成の世になった今日も武田の血統は引き継がれているとの事です
※信親系統or信清系統のどちらなのか迄は勉強不足で知らないのですが
>>894 >おそらく是が非でも家康と信長の首を同時に取りたかったんだろうな。
戦前・戦後の書状からしても勝頼は明らかに主戦派で、状況判断も甘い。
長坂釣閑斎は参戦していなかったにせよ、馬場・内藤等と軍議で対立したというのも事実とするのが妥当だろうね。
馬場・内藤等信玄以来の宿将がこぞって撤退を主張したことが
かえって勝頼を依怙地にさせただろうね。
899 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 22:34:58
ちょっとしつこい書き込みになってしまうんだけど長篠の話だけど、俺は武田の優秀な武将達が勝算が
完全に0であったらさすがにその戦いに望むということはしないと思うんだよね。
苦しい戦いで勝てる確率としては少し分が悪いけど、もしその賭けにかったならば家康・信長両方もしくは
片方だけでも取れるという勝算が少なからずあったんじゃないかと思うんだよ。
前にも書いたけどだからこそ、全員引かずに突撃を続けたのではないかと、、、。
もし、本当に宿将たちの反対を完全に押し切って自分のわがままだけで御旗・楯無に開戦を誓ってしまって
そしてあの大敗北が起きたとしたら、、、。
はっきり言って陣代ふぜいの勝頼がそのままの地位にいられるだろうか、、、??
俺は、長篠のときにも信玄の負の遺産が色濃く影響してたんじゃないかと思うんだが、、。
900 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 22:37:07
祝! 900get
☆ ∵∴∴☆※☆∴∵∴ ./
\ ※∵☆☆★☆★☆★☆☆∵※
*∵☆★☆☆*☆*☆☆★☆∴*
※∴★☆☆*°°|°°*☆☆★∴※
*.∴☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∴ *
*∴☆★☆°\°☆☆★☆☆°/°☆★☆∴
.. ※☆☆*°°★°° 人 ★ °°*☆☆※ *
∴☆★☆°°☆ (__) ☆ °°☆★☆∴
∴☆☆*°°☆ (__) ☆°°*☆☆∴
※☆★☆――★ ∩ ・∀・)∩ ★――☆★☆※ ⌒★
∵☆☆*°° 〉 _ノ °°*☆☆∵ *
∵☆★☆°°☆ ノ ノ ノ ☆°°☆★☆∵
※☆☆☆*°°★ し´(_) ★ °°*☆☆☆※ *
*∵☆★☆°/°☆☆★☆☆°\°☆★☆∵
∵☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∵ うんこーーー!!!
※∵★☆☆*°°|°°*☆☆★∵※
*...☆∵☆★☆☆*☆*☆☆★☆∵☆ .ζ
※∴∵☆★☆★☆★☆∵∴※ ☆
∴∵∴☆※☆∴∴∵
901 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 22:37:54
付けたしだが、だから勝算ってのもあったんじゃないかと思うんだが。
902 :
日本@名無史さん:2005/09/30(金) 22:46:28
>>899 そういうのは状況や戦力のわかりきっている現代の人間だから言えるのであって、
武田が完璧に織田・徳川軍の戦力を把握できていたとは思えない。
あるいは勝手に遠方からやつてきた「疲れきった兵」とか思ってた事も考えられる。
まあ、あんたの言うのが「勝頼の命令とはいえ100%勝つ見込みがないのに突撃を命じられた」からといって、
武田の将兵はまともに戦わないだろうという意味ならわかる。
とはいえ、武田の将兵にどうして織田・徳川の戦力や状況を完ぺきに把握して分析できるんだ?
って事だ。
>>899 あと「わずかでも確率ある」とか言ってたら、ほとんどの合戦の場合にあるだろう。
武田の鉄砲や投石が信長、家康を直撃して殺す可能性もあるわけだし。
>>894 上杉はこの時期織田とは敵対してない
>>897 >>898 一体何を根拠に、家臣がこぞって反対したなら、それを覆すような権限は普通の大名には
無いだろ。
長篠の地形について教えてほしいのですが、
前面に織田徳川の堅陣があり、背後の鳶の巣砦がとられてた状況で
甲斐に安全に退却することができるのでしょうか。
退却戦のあまりの不利を慮って突撃を選択をしたということはないでしょうか。
>>905 確か、鳶の巣砦の陥落は、両軍の主力部隊が交戦を始めた後じゃなかったかな?
>>896 武田宗家は信親系だが残念なことに続いているのは家名のみで
血統で見ると続いていない。
>>906 織田から攻撃していなかったか?
織田が攻撃武田が撃退、織田陣城にこもって武田の追撃を防ぐ、武田攻めきれず兵を引く
織田が攻撃 以下ループだと思ったが
>>905 安全に退却する方法などもう無い、少しでも犠牲を減らす方法としては
常道だと敵勢に一旦攻撃して突き崩したところで退却だろうけどね
909 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 00:28:42
>>902 相手の戦力と言うのはぶっちゃけ今の俺らよりも当時の人間の方が詳しく把握できてると
思うんだが。
機密情報だから文献なんて形では残らないものの方がほとんどだと思うし。
相手の兵力なんてのは今までの戦いの推移や情報の含蓄である程度把握できるだろうし。
出陣してる武将の名前とか武将の人数とかでもな。
実際この時代忍者みたいな奴じゃなくてもスパイのような兵隊はお互いの部隊に沢山
いるのが普通だし。
それから、長篠に勝つ確率ってのも紙のように薄いものじゃなくて35とか45とかなり
半分に近い確率であると読んだんじゃないかな?
まあ、その辺は俺らにはわかりにくい戦の呼吸みたいなのもあるだろうし。
すこし、俺の推測がかなり入ってるから勿論激論みたいなのはするつもりはないんだけど。
でも、俺は一番の原因は結局、意識・意見の不統一だと思うんだよね。ここでも。
>>909 明智城高天神城で信長は城が落ちたらさっさと退却した、織田は武田と消耗戦をする気は無い
長篠城落としたら、さっさと徳川残して兵を引くはず、長篠はすでに兵糧が尽きて数日で落ちるはず
数日設楽が原で粘れば勝てると武田は考えていたのでは
武田は今まで自分より多勢と戦ったことは無いから織田と戦うことは考えていなかったと思う。
あとは浅井朝倉伊勢長島が滅んだ今となっては、少数の兵で信長家康を戦場に誘い出して
いちかばちか野戦で討ち取って逆転勝利を目指すと考えたか、
この時点で織田と武田の戦力差はどうしようも無いところまで来てるから。
>>909 その意見は無理ありすぎ。
歴史を見れば「何でこんな勝算のない戦いを?」「なんでこんな勝算のない謀反を」なんてゴロゴロある。
君自身、「俺の推測」と認めてるし、
客観的にはかなり無理のある理屈だと思うし、
議論はしない。
敵の数なんて近代戦でも誤認する事があるのにね。
WW2のヨーロッパ戦線でも、日本の海戦でもいくらでもそんな事例はある。
でも
>>909の意見で少しありえるなと感じたのは
武田が勝算が高いものと勘違いしたというのはあるかもしれない。
それも近代戦でよくある事。
実際は織田、徳川は数倍の大軍と堅固な野戦築城、信長・家康の指揮、それに鉄砲もそこそこあったろう。
そんな敵に突撃して勝つのは無謀だ。
連合艦隊はミッドウェーを奇襲したつもりで
暗号を解読して万全の準備を持って待ちかまえてたアメリカ軍にやられたよね。
空母が三隻もいると聞いてびびってたし。
それと今、思いついたが武田が設楽原に誘い出されたのは
佐久間信盛の偽の裏切りに騙されたという説があるね。
それなら少しはわかる。
>>913 >佐久間信盛の偽の裏切りに騙されたという説があるね。
それは説じゃなくて講談小説のたぐいだ
915 :
日本@名無史さん:2005/10/01(土) 03:04:14
>>899 >>もし、本当に宿将たちの反対を完全に押し切って自分のわがままだけで御旗・楯無に開戦を誓ってしまって
そしてあの大敗北が起きたとしたら、、、。
はっきり言って陣代ふぜいの勝頼がそのままの地位にいられるだろうか、、、??
これは最もだな。でもそしたら長篠は勝頼の意思だけでおきたとは言いがたくなるわけだから勝頼=雑魚武将。それは長篠で負けて武田家滅亡の流れを作ったからってのは成り立たなくなるよな。
↑
勝頼って開戦に反対したの?してないんなら
勝頼=雑魚武将。それは長篠で負けて武田家滅亡の流れを作ったからってのは成り立つね。
917 :
大納言:2005/10/01(土) 12:46:34
>>916さん
雑魚か?雑魚でないのか?のについて疑問に思う事があります。
そもそも『雑魚武将の定義』とは何なのでしょうか?
スレタイでは『武田勝頼はザコな武将か?』となってはいますが、タイトル=論点では無いと思います。
その理由として当スレの1レス目に『武田家滅亡を検証しようぜ』とあるからです。
この文面から前向きに解釈するならば『武田滅亡の(無数にある)要因』を住民諸氏の間で提起しあい、互いの認識や知識を深め合う場とするのが狙いだと思うのです。
従って、定義の明確になっていない『雑魚か否か』についてこれ以上の論争は意味を持たないと思います。
レス数が残り少なくなった今、武田滅亡要因の『結論』は出せないまでも『次に繋がる』建設的で活発なレスを住民諸氏に期待しております。
※偉そうな事を言ってすみませんm(__)m
918 :
大納言:2005/10/01(土) 16:47:42
設楽ヶ原における織田・徳川軍の馬防柵について触れてみます。
『〜ヶ原』とは山と山の間にある緩やかな丘陵地帯との意味を含めて表現されます。
そして、その丘陵地に簡素な空堀を掘り、残土を盛り上げた土居を作り、更にその土居に柵を組あげたのが馬防柵の実態だったようです。
一組の馬防柵の長さは約50b程であり、その柵内に鉄砲組を中心とした小隊を配置。武田軍の襲撃に備えさせた模様です。
三重の馬防柵とは一段高くなった第二の柵、第二の柵より更に一段高くなった第三の柵が設置されていた様で、第一の柵は戦闘用、第二の柵と三の柵は予備隊の待機場所及び前衛が崩された際の補助的な側面を有していた様です。
三重の馬防柵とは連吾川を前方に見下ろし、空堀と土居、馬防柵を備えた陣地…つまり『陣城』の様なものだったとの事です。
武田の忍びは川中島で一方的に全滅させられたりと優秀ではないからな〜。
それに関所をやたら作り、戸籍を作り移民を防ぎ、で鎖国してたから情報なんぞ入ってこない。
そのくせ民の流失は多い。
誤認情報が入ってた可能性は高いと思われ。
920 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 01:32:18
まあ、だから誤認情報のためかそのせいでないかはないかは別として
武田方が勝てると踏んでた可能性はけっこうあるんじゃないかな。
勝頼だけでなく、家臣もそう思ってたのかもな。
921 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 01:55:35
>>916 勝頼が設楽原の開戦に反対したなんて事はありえないだろうな。
論議は家臣が賛成したか反対したかであって。
922 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 02:52:55
武田が強いは、捏造。
実力は、南部あたりと変わらない。
だろうな、数が敵と同規模になると苦戦が目立つしそこらと同程度だろな。
やはり兵質は勝手な予想で越後>>三河、薩摩>甲斐>>>北条くらいだろう
924 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 13:01:48
信長がいなければ武田幕府が甲斐にできてほうとうが国民食になっていたのに・・・・・
>>924 武田信玄は室町幕府を形骸的に維持しながら、
自分は管領のような立場で中部地方と京都周辺あたりを支配しようと考えてただけ。
徳川や織田、豊臣のような全国統一みたいな事は考えてなかった。
ちょうど信長に先駆けること50年前に将軍、山口に亡命してきた義種を報じて上洛し
管領補に任じられた大内義興のようなタイプ。
武田信玄のような古くさい男に全国統一みたいな先進的なアイディアはなかった。
というか信長ですら無かったかもしれない。
なんせ信長は義昭が彼の元を去る時、止めたくらいだし。
926 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 13:33:32
スレの趣旨とはかなりズレるが、
最終的に徳川の江戸幕府のような強固な中央政権が出来たのは
織田→豊臣→徳川と中央権力が変わっていき、その家庭でいろんな戦乱や紛争が起きて、
巨大な勢力をを持つ大名が淘汰・整理されていったからだろ。
つまり偶然の要素が大きい。
なんせ豊臣政権まで行っても協力で独自性の強い外様大名がゴロゴロ残ってたし。
江戸幕府みたいな強力政権を一足飛びに作るのは信玄はおろか信長でも無理。
仮に武田が京都上洛しても、
そのあと、滅ぼせるのは織田、徳川、上杉くらいで、
北条、一向衆、浅井、朝倉みたいな友好勢力と共に立場上、足利将軍家を形式的でも立てなくてはいけないし、
毛利、大友、島津、伊達、長宗我部など僻地の巨大な外様もなかなか攻め滅ぼすなんてわけにもいかず、
放置に近い形になるわで、
ほとんど武田政権とも言えないような脆弱な形での天下取りになってしまうわな。
それだったら足利将軍家の下で管領職でも貰って、室町政権の下でなんかするのが一番良いかもしれない。
信玄ならともかく、
勝頼に天下を切り盛りするような。
政治能力はあるまい。
仮に京都に何かの間違いで上洛しても、
木曾義仲みたいになるだろう。
928 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 15:45:16
何で東海地方の信長秀吉家康だけ天下統一をかんがえたんだろうね。
>>928 待ってりゃーよ 見てりゃーよ 天下を 取るでよー
930 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 23:55:41
武田も真田も実は弱い。野戦に弱い。
真田よりも、長野業正のほうが強い。長野16槍には、上泉がいるしな。
島津や徳川のほうが強いだろ。
徳川は、2万で、10万の豊臣軍に勝った。
島津も、5千で、竜造寺の3万や大友の4万を倒しているしな。
931 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 03:14:43
>>930 いや長久手の戦いはあくまで局地線での勝利だし。
2万で10万を撃破したわけではない。
島津の場合も誇張されてるぞ。
それに耳川は島津2万対大友3万くらいだし、
沖田畷の島津家久勢5千はあくまで援軍で有馬主体なんだけど、
>>928 秀吉、家康は前任者を引き継いだだけ。
信長も「なしくずし的」な要素が強い。
上洛した後、本来滅ぼす気もなかった勢力(友好勢力含む)が
次々と刃向かってきたからそれを滅ぼしてるうちに
巨大勢力になっただけ。
織田は尾張守護代の家臣筋の傍系でしかなかったので、その成り上がりぶりゆえ
上洛するとあちこちから反対勢力が出たが
逆に言えば武田は名家すぎるし、往来から将軍家や一向衆とも仲が良すぎたので、
上洛してもうまくはやってくだろうけど、
滅ぼす勢力も少なく、他勢力との協調を主とした小さな権力に留まると思われ。
そういや信長は朝倉ですら当初は友好的に対処しようとしてたな。
935 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 10:47:37
勝頼には武田信玄がやったように信長包囲網を作る才覚はなかったのだろうか。
たとえば、上杉・武田・北条同盟をつくり、中国の毛利、四国の長曾我部と組む。
そして同時期に、信長を攻めるとかの。
外交的な策を信玄は教えていなかったのだろうか、、、、
第一次信長包囲網は信玄が案出したというか、
足利義昭の策だが。
それに利害が一致した勢力が参加しただけ。
ただ信玄は本願寺と婚姻関係があったのが大きかった。
それと勝頼そんな政治手腕や信頼なかったし、
そもそも織田が強大になりすぎてた。
せめて上杉謙信が長生きしてればね。
937 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 11:15:01
信玄の対外政策はチグハグで有名だしね。
信長包囲網もたまたま都合が良いので参加しただけ。
信玄がまとめあけだわけではない。
若い時からあんなデタラメで行き当たりばったりなな対外政策してて、
信長包囲網の主力になれたのは幸運というのもあるが、その強大な力を見込まれてだけどね。
信玄のピンチの一つに相越同盟締結があるね。
甲相駿三国同盟を破棄し今川を攻めたためにこうなった。
あの時は家臣も動揺したらしい。
しかし信玄はそのピンチを積極的に打って出る形で切り抜けた。
勝頼はむしろそういう信玄の姿勢を見習って破滅したのかも。
あの時とは状況が違うって・・・
はっきりいえば「包囲網」を作った人物なんていない。
結果的にみてそうなってるだけ。
>>939 でも一番の立て役者があちこちの大名に信長打倒の
書状を送りつけた義昭なんだよな。
941 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 21:29:57
領土も増やせず家名も潰した。雑魚だな。
領土は増えたじゃん、すぐ減ったけど。
943 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 11:13:40
しかし、信長を誘い出して、合戦で討ち取っていればなんとかなったかもね。
例 毛利元就、たしか敵の中心人物、陶 晴賢を合戦で討ち取ったら、
あとは総崩れして、大きな領土が一度に手に入ってない?
合戦では信長の討ち取りは不可能。
秀吉がそんなことを言ってなかったかな。
945 :
日本@名無史さん:2005/10/04(火) 23:00:21
従う家来がいないなら武将やってられねぇよな
946 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 08:34:45
>>943 それが出来れば苦労しない。
それと多分、それをやろうとしたのが長篠だが、
結果は・・・
数年かけて大内義長らを責めて周防・長門を攻略してるね。
中心人物を倒せば領土が手に入るってのは「信長の野望」の、しかも最初のバージョンだけだと思うが。
仮に信長を討ち取ったとしても、後継者信忠や秀吉、柴田、丹羽、明智、池田、前田その他の家臣や従属勢力いるので、
武田が一気に肥大化するなんてありえない。少しくらいは領地を掠め取る程度だろ。
むしろ秀吉あたりが天下を取るのが早まるかも。
それと中心人物を倒しても領地が手に入らなかった例としては、桶狭間とか沖田畷があるが。
949 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 10:19:21
状況にもよるだろうね。謀略で家臣同士の内乱とか、起これば話は簡単かも。
ま勝頼には、毛利元就みたいな、ねちっこい謀略の才能はなかったみたい。
950 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 14:25:07
>>944 秀吉が天下を取る(取った?)時の話し、(信長の戦ぶり、仕様を振り返って家臣に対し・・・)
「仮に信長様と蒲生氏郷殿(信長の娘婿)が戦ったとする・・・
わしならどちらに付くか・・・、
わしなら信長様に付く。何故ならいざという時、氏郷殿と戦になった場合には
主だった武将5人も討ち取ればその中には必ず氏郷殿の首があるだろう、
だが、信長様相手の戦の場合、
何人武将を討ち取ろうが首は決してその中から見つかる事は無いだろう」
−的な話を何かで読んだ事がある・・・。その事かなあ・・・?
(信長がいかに慎重で用心深かったかの例え話として記憶している・・・
まあ、結果的には本能寺であんな風になっちゃたけどね・・・)
951 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 15:13:18
>>949 そうそう。仮に信長が死んでも、
勝頼に信長領を巧みに併合していくような政略・智略は彼にはない。
毛利元就ですら、大内領併合に苦心している。
あれは彼の才覚あっての話しだろうね。
あと「話は簡単かも」なんて言ってるがそれもない。
実際、本能寺後に織田が分裂した後も羽柴、柴田など武田の手に余りそうな勢力に分裂しただけだし。
>>950 いや。
実際、本能寺でも、
主だった大将をことごとく討ち取った中に、
信長の首は入ってなかったでしょうが。
晋でも首は残さないってだけじゃ、
いささか意味がないけどね。
953 :
日本@名無史さん:2005/10/06(木) 10:37:35
武田勝頼、どう見ても情報戦がおかしい気がする。
長篠の戦だって、相手の陣地の構造くらい、
ちょっと間者を使えば解るのでは。
ま、ちょっと考え方を間違えたのかも。
長篠の戦では、織田信長軍に一戦、ある程度の損害を与えて恐れさせ、退く。
と大決戦とする気はなかったのかも、、、、、、
それがずるずると、、、、となったのかな?
>>950 それそれ。
信長の慎重さを言ったのではなく、秀吉は恐らく金ヶ崎の退却を念頭においた
発言で、信長の見切りの速さ(逃げ足の速さ)を言ったんだと思う。
だから、信玄があのまま西上して尾張辺りで信長と決戦して勝ったとしても、
(私見では勝てたとは思っていないが)信長の討ち漏らし確実。
信長と家康を生かしたまま入京は不可能。美濃入りも難しそう。
早々と甲斐に戻るしかなっかたと思う。
955 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 10:38:00
ただひとりの逃亡、、、、それも時と場合によりけり、
ここぞという決戦で全軍を捨てて逃げたとかなったら、
部下たちの不信、不忠は確実。
あいてが信玄なら、そのことで大宣伝確実。信用失墜。
もともと寄せ集め、傭兵の織田は、大軍でもすぐ崩壊するかもしれない。
あの武田信玄西上のときは、どうでも逃げずに大決戦するしかなかったのでは?
>>954 岩村あたりをすんなり奪還できなかった史実からみて
ガチ決戦してたら信長は正直負けたかもしれない…。
信玄が死んでくれてやっとこさ奪還できたっぽい感じもある。
>>955 曲解。金ヶ崎と同じように信長が行動するとは書いてない。
『信長は見切りが早い人、と秀吉は評価してる。その秀吉の評価の
判断資料となっている一つが金ヶ崎である』というのが私の考え。
そして、『信長は見切りが早い人ということを前提にするなら、
もし信玄と決戦して、もし信玄が勝ったとした場合に、信長は討たれるような
事態になるまで戦場にいることはない。
故に
>>943の言うような信長の討ち取りは不可能』と私は考える。
>>956 決戦の有無およびその勝敗についてはさまざま意見のあるところですが、
ここではご勘弁。
958 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:07:52
名家、諏訪家の血をつぐ勝頼だもの…。決してザコなんかじゃない!しかし新武城建設は無駄だった。
959 :
日本@名無史さん:2005/10/08(土) 09:59:12
信長が逃げおおせたとしても、、、、、
そのあとにどれくらい軍を集められるかで決まるわけで、、、、
野外決戦で負けた場合、あとは篭城になると思えるわけで、、、
すると将軍足利義昭、浅井、朝倉、本願寺が健在だから、、、
ほとんど、尾張と美濃以外は守れないだろうと、、、、
もともと寄せ集めの傭兵部隊だし、、、
妄想通りに行けば西上も可能でしょう
巣にカエレ
961 :
大納言:2005/10/08(土) 17:17:25
本格的な信濃経営に着手した武田晴信にとって彼の誕生は極めて重要な意味を持つものであった事は住人の皆さんも御承知のことだと思います。
しかし『武田の家名存続(武田の後継者)』という視点から見た場合、勝頼の存在価値はその重要性が期待されていなかったものと思われてなりません。
その理由として『勝頼』という名の命名を挙げておきます。
当時の命名は『偏諱(へんき)』といって“一字授け”の習慣がありました。これは政治的意味合いが強いもので、元服の際に烏帽子親の名前の一字を貰い受けていました。又、『先か後か』で優劣を付けていました。
(例)武田晴信の嫡男の場合
晴信の『信』の字を与え→義信。※足利将軍・義輝より偏諱を賜った為に“義”の漢字が先に来ています。
信玄は七人の男子をもうけましたが、“信”の字を与えていないのは勝頼だけで、元服当初は『武田の者』という考えではなく、あくまで諏訪氏の跡取りとして考えていた事は命名された名前からも察する事ができます。
又、『武田が勝ち+頼重は負け』=『諏訪氏は武田の所有物』という思いから“頼”の前に“勝”の字が来ているようにも思えてくるのです。
「大納言の強引な“こじつけ”だ」とのお叱りがあろうかと思いますが『偏諱と政治』を同一化してみると、どうしても上記の考えに至りました。
※勝頼滅亡と直接の因果関係が無いですが、論点を戻す意味を込めて書き込みしました。m(__)m
穴山梅雪マンセー
>>961 いや、俺は十分面白いと思った。参考にもなる。
古い風習やしきたりを重んじる武田ならその推測は間違っていないような気がする。
>>961 それ、既出といえば既出ですよ。
信玄は勝頼を諏訪から甲府に迎える前年の元亀元年(1570年)、将軍義昭に
勝頼の官途と御一字をもとめていますが叶っていません。
スレ違いかも知れんが、武田信玄よりも毛利元就のほうが
力量が上だと思うの俺だけ?
そう思ってないのは信玄厨のみ。漏れも元就のが上だと思う
967 :
日本@名無史さん:2005/10/11(火) 09:59:34
長篠の戦は、信玄の旧家臣団が、諏訪勢力を重んじる武田勝頼にわざと失敗させて、
このあと自分たちの言うことを、政治軍事に聞かせようと
わざと前線の情報を与えなかった。
しかし、武田勝頼が引かず、さらに織田の攻勢が激しかったので
思った以上の損害になった、、、
という推理は?
968 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:32:39
当たっているかも?
971 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:25:23
何しろ長男武田義信に信玄は謀叛の疑いをかけて消しているからな。
信玄の死後、そのことがぶりかえされていても不思議ではない。
972 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:46:48
義信の失脚?の黒幕が諏訪系のヤツらだったんで
勝頼と仲が悪くなった、なんて説もある。
973 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 16:40:56
佐竹義重と伊達輝宗と最上義光
>>972 それは誰の唱えてる説?
外交上、人脈上含めて、義信を後継者にしたくない派というのも
あるだろうけど、それが諏訪系だという根拠は?
975 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 10:42:51
武田義信の妻おつねは今川家出身、、、
で、義信は信玄の駿河侵攻に反対し、反乱を企てたとして処分された
とする本を読んだんですが
真偽のほどはどうなんですか?
>>975 細かいとこスマンが、まず
義信室(離縁後剃髪して貞春)の名は伝わっていなかったと思う。
その説はわりと頻繁に紹介されてる通説の一つみたいなモノで。
真偽・・・と聞かれても義信の死の本意については謎も多いから
どれが正しいかなんてわからない。
重要な理由の一つに数えられる・・・くらいでいいと思うけど。
977 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 14:12:42
>>907確かに柳沢吉保の子孫というのが正しいからね。
後北条は丹羽・真田・奥平と同様に今は政宗の子孫だけど、明治維新まで残ったことから考えると
>>883のところではむしろ、上杉が忠臣蔵を見れば解かるようにアウトで、むしろ後北条の方が本道だな。
978 :
大納言:2005/10/14(金) 15:02:39
>>975さんの疑問ですが、ほぼ間違い無いと思われます。
しかし、外交問題における親子間の『意見の対立』という単純な見方をすると事の真意を誤ってしまうと思います。
…このクーデター未遂事件は『譜代衆の信玄に対する反目』という側面が強いからです。
義信に付いた譜代の武将達は『信虎追放事件』に関与はしていましたが、信虎追放後の発言権は功績のあった外様衆に移行しており信玄も彼等の意見を尊重していることから譜代衆の不満が溜っていったものと思われます。
上記の理由から、義信の取り巻きの者(飯部兵部、長坂源五郎、曽根周防)からすれば『義信を利用して成り上がる』可能性を期待していたであろうし、信玄の立場からすれば『自分が逆の立場(追放される側)になる危険性』がある…と各々、複雑な思惑が絡む事件だった訳です。
この事件から派生する延長線に『譜代と外様』又は『甲斐衆と信濃衆』の意見の対立があり、ひいては結束力の低下(家臣団の分裂)を招き“武田家滅亡”へと繋がって行ったものと思われます。
だから、原因の一つでいいんじゃないの。
980 :
日本@名無史さん:2005/10/14(金) 17:21:09
武田勝頼は政治面はかなり長けていた武将ですよ。
>>978 >義信の取り巻きの者(飯部兵部、長坂源五郎、曽根周防)からすれば『義信を
>利用して成り上がる』可能性を期待していたであろうし
その三家、かたちは異なりますが結果としては家中での地位を高めていますね。
飯部兵部は弟が有名な山県昌景ですし、長坂源五郎は長坂釣閑斎(虎房)の
長男で、釣閑斎は諏訪郡代からやがて勝頼に接近しましたし、曽根周防は成敗
されましたが、子の昌世が三増峠で戦死した浅利信種の部隊を立て直して奮戦
し、駿河興国寺を与えられました(後に信長に内通したようですが…)。
もっとも滅亡に至った理由には、対立というよりも勝頼が集権化を図ったため
という事の方が有力みたいですが。