1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 00:34:57
2ゲット
3 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 00:50:32
乙一
前スレ991
範季ていどの貴族が実権握れるわけねー
4 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 00:58:00
>>3 動員数3騎の、小豪族の北条が、頼朝の妻の実家の立場で実権を取れたではないか。
ならば、(頼朝が死んだという仮定でだが)
範頼の養父で、九条家ともつながりがある、範季にも、その可能性はある。
少なくとも、範季がそう考えたとしても不思議ではない。
5 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 01:00:49
もうちょい貝と子
範季なんかがちょっと武力を持ったところで九条家の家司にすぎず
院や天皇の寵臣でもなんでもないんだから意味なし
前スレは最悪な終り方ですね。ワーオ
神木かわいいなぁ。覚日に色々されたんだろうか?
7 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 03:22:53
静と手古奈の二人旅…。
余りにも危険すぎるぞなもし。
演出ですので・・・ご容赦ください。
>>5 寵臣かどうかはさておき、治承三年の政変で清盛に解官されてるし、
後白河の近臣ではあったと言える罠。そもそも当時は陸奥自体が院の知行国だし。
ま、指摘の通りそれ以上でも以下でもないが。
でも前スレ989(=
>>4?)は前後関係わやにして範季を評価し過ぎヨネー。
範頼および陸奥関係って事で本吉隆衡や城長茂はまあ認めるにしても、
頼朝挙兵以前に範季が東国武士と関係を持ってたなんて話は聞かぬし。
10 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 23:13:24
>>5 彼の娘は後鳥羽天皇の子供を生んでるし
源通親のように天皇の外戚として権力を振るえた可能性もあったが
彼にはそこまでの才はなかったみたいだな
11 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 23:29:54
>>9 別に、範季を高く評価してるわけじゃないよ。
範頼を養子にしたのは、そんな思惑があったんじゃないか・・・って推量を示しただけだし。
だけど、
>>3の>>範季ていどの貴族
とか
>>5の>>九条家の家司にすぎず
て、評価は、逆に低すぎと思わん?
後に、陸奥の国司、鎮守府将軍になり、
九条兼実の失脚の片棒を担ぎ、後鳥羽天皇に娘を嫁がせた男なのだが。
それなりに実力と野望を持っていたんじゃないかと思う。
前スレの954さんへ
現代語訳を載せているサイト読みました。やっぱり、土肥実平、宇佐美実政も、馬を引いているようです。
土肥実平は5月に造営の材木調達の奉行になっているようで、鎌倉には適当な大工がいなかったため、7月には浅草から大工を招聘し、造営を始めたとのことです。浅草寺に付属した大工を呼んだんでしょうか。
このように招いた大工になら、実平らと並んで馬を引いたところで恥ずべきことではないし、オウ飯などをみても頼朝の一門から選抜されるのは、むしろ当然だったようにも思います。
下手を引くよう言われたのが気に入らなかったのか、馬を引くこと自体が(大河のように下人のすることと)気に入らなかったのか、実際のところ、どっちなんでしょう。
ちょっと大河とはズレますが、同日条に長佐六郎の郎等左中太常澄なる人を見つけました。
長狭六郎といえば確か、上総介広常の縁者でしたよね。広常の父親の名前も常澄だったと記憶しますが、ここら辺の名付け方は案外ルーズだったんでしょうか。
安房も三浦氏の勢力圏で、和田氏や多々良氏が発祥したともいいますし、広常の弟金田某が三浦氏に属していたともおもいますので、三浦義澄と広常の父常澄にも、何か関連がありそうですね。
↑↓また取りとめもなく、長くなってしまった。
>下手を引くよう言われたのが気に入らなかったのか は誤読っぽいな。前スレで言われた、義経と馬を引いたのは重忠と佐貫、の意味も取り違えていました。
よく解からないんですが、頼朝が義経に馬を引くよう命じた⇒すると義経が、本当に適当な家の子がいなかったのか、拒むための言い訳かは分かりませんが、自分には下手を引く者が居りませんと返答⇒
⇒そこで頼朝が、畠山重忠、佐貫四郎に義経の下手を命じ、「これで文句はないだろう。まだ何かあるか?」と義経を問い詰め⇒ビビッた義経が観念して馬を引いた。で、あってますか?
挙兵当初からの参陣でない畠山重忠の、当時の御家人内での序列が分かりませんが、重忠を下手にするのは破格の待遇ともいえませんか?
>>12 横レスでスマヌが
>安房も三浦氏の勢力圏で、和田氏や多々良氏が発祥したともいいますし、
てのは言うところの苗字の地って意味? 思うところを 詳 し く
ちなみに、三浦義澄の「澄」が上総常澄からの一字付与ってのは某西遷研究者に
「『吾妻鏡』における人名表記」って論文があるな。
なお同氏には「鎌倉政権の成立と長狭氏」てのもあるぞなもし。
16 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 12:53:20
>>12、13
すみません、もう前スレが落ちてしまったので何年何月何日の条なのか教えていただけませんか?
17 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 17:31:22
18 :
日本@名無史さん:2005/05/03(火) 19:03:59
>>15 >>12さんは勘違いをされてますね。
和田、多々良、金田ともに三浦半島の地名です。
・和田は三浦市初声和田町
・多々良は横須賀市鴨居(多々良浜というところがあります)
・金田は三浦市南下浦町金田
>>18 いけずだなー。もそっと
>>12の反応を生温かい目で見守らないとツマラン
じゃないか。
ついでに言うと最近じゃ「和田」は金沢区六浦の和田とする石井進説がほぼ
定説だろ。さらには『天養記』に見える和田太郎助弘に着目して大和市の
上和田・下和田に比定する伊藤一美説もあるぞなもし。
>>19 >>12を泳がせるなって
非常、に、見難い、(醜い、とも、いう)幼稚、な、文章、は、見たく、ない、。、
>>18 追記
「金田」もさー、木更津市の金田とか長生村の金田といった風に
房総半島に求める考えの方が妥当じゃないかねぇ?
>>16 ミ【養和元年(1181)七月二十日条】
22 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 01:53:06
>>22 まぁ必ずしも一ヶ所に特定すべき(し得る)ものでもないんだろけどねぇ。
ちょっとイヤンな匂いのするカキコだったので煽り気味に書いてしまった。ゴミン。
ただ、「和田」=三浦市初声和田説の根拠として
>初声和田町には和田城跡がありますが
ってのは書き方というか主張のしかたとして稚拙だと思うぞなもし。
菱沼一憲『源義経の合戦と戦略』
終盤、義経郎党の誰かは「き〜みを、まもりてぇ〜」と歌いながら討死にする。間違いない!
27 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 22:41:09
ところで、このドラマには鎌田某はでてこないの?
親爺さんの重臣のガキなんだからいいネタになりそうなんだけど・・・
>>14 ケータイじゃないっすよ。文字サイズ最大で使ってるから、長文になると改行位置によっては今以上に読みにくくなるので、こんなんなってます。
>>15>>18>>19 俺泳げないから、つっこまれたら速攻陸に上がって降参しますよ。
ありませんでしたっけ?安房の多々良、和田と、在庁安西氏ひっくるめて、三浦氏が房総半島にも影響力を持っていた、とする説。
常澄と義澄は、やっぱ関係ありそうなかんじなんですね。
>>20 自分で言うのもなんだけど、幼稚なのはしょうがないとして、句読点は結構気をつけたんだけどまだ多いですか?
いいわけさせてもらえば、杉本が近くにあるところが一番妥当だろうし、俺自身、和田氏が安房発祥だとは思ってないです。
要は、安房にも和田や多々良といった地名があって、そこを名字の地としたとする説((俺が捏造した説かも知れんけど)で三浦氏と房総の関係、平常澄と三浦義澄の関係に話を持って行ければ良かったんで。
でも和田氏の発祥がどこかより、長狭六郎の郎等が常澄と名乗れたことの方が興味あって、こっちの話か、
それなりに大きな寺社(浅草寺)に付属した工匠を「大工如き」とみなし、頼朝の一門として(前スレでも書きましたが、オウ飯みても、沙汰人の一門が引いてる例は珍しくない)馬を引いた義経を侮るような事があったのか、のほうで話を聞きたかったんですよね。
で、大河の話に戻りますが、義経が引く馬の下手として重忠を出し、以後も重忠を義経に近い存在として置けば、同年代?の景季と重忠も対比できて、義経と景季、ひいては景時との関係も一層活きそうなもんだけど。
正直、スレ開いて
真柴幌(あいくるしい)「(どえらい事になっている)ワーオ」で
水島龍作(冬輪)「なにぃ〜、お前らそろって俺が間違ってるって〜のかぁ〜?うぅっ、許してくれぇ〜、この通りだっ」てなカンジでドキドキしてんですけどね。
こうゆうくだらないことグダグダ書くから、また怒られるんだろうけど。
30 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 03:03:14
>>29 >>義経が引く馬の下手として重忠を出し、以後も重忠を義経に近い存在として置けば、同年代?の景季と重忠も対比できて、義経と景季、ひいては景時との関係も一層活きそうなもんだ
このあたりは、まあ同意だけど。
ドラマの脚本家は、そんなことに興味なくて、
義姉のコントロールで兄弟の仲を引き裂き、
義弟をいじめる家庭劇に捏造しようとしているようだから、
そんなのは、望み薄。
>>28 >ケータイじゃないっすよ。文字サイズ最大で使ってる
おまえ、は、IE、厨、か?、。、
>>30 >ドラマの脚本家は、そんなことに興味なくて、
>義姉のコントロールで兄弟の仲を引き裂き、
>義弟をいじめる家庭劇に捏造しようとしているようだから、
そういうのは捏造といわない
時子が清盛の遺言を「代弁」(それこそ捏造だよなw)
ってのは宮尾の原作?読んでねーんだけど。
>>33 NHKを見ている馬鹿ジジィ、馬鹿ババァにも分かるようにという宮尾の配慮
今回の義経は全て「伏線」をうまく表現しようとしている
時子が頼朝追討と遺言を捏造→平家滅亡のきっかけ
他にも
・幼し義経と幼い宗盛、知盛などが遊ぶ
・幼い宗盛が屏風に穴を開ける
などなど
35 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 02:23:17
↑、何が言いたいの?
36 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 02:32:18
常陸坊海尊が出てこない件について。
37 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 02:43:13
待たれよ!
墓前に頼朝の首を供えよという遺言は史実じゃないの?
>>35 伏線、だ、と、いいたい。、
>>37 所詮ドラマだろ。
宮尾は、平家物語の驕る平家を具現化した清盛ではなく、
義経が慕った父であり時代の先駆者であり、
一門とのすれ違いに苦悩した清盛像を描いているってこと。
39 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 03:02:49
伊豆の一介の小豪族の庶流の娘があんな格好していたのだろうか
第十八回「清盛死す」をごらんいただきまことにありがとうございます。
さて、39様のご不満の件につきましては、製作担当者にきつく言い聞かせ、
皆様の期待に沿うよう、日々、改善の努力を積み重ねる所存です。
尚、今回の考証は以下の通りです。
時代考証・・奥山敬之
風俗考証・・二木謙一
建築考証・・平井 聖
衣装考証・・小泉清子
芸能考証・・橋本博之・野村万之丞
お支払いは、便利な銀行引き落としをご利用下さいませ・・・
いつのまに、伊勢三郎と駿河次郎は元服したんだ?
時代考証・・奥山敬之キター(゚∀゚)
>>37 史実かどうかはさておき、『平家』(巻第六、入道死去)には見えるね。
長いので引用は止めとくケド。
でも『平家』では時子が聞き取ったとされる遺言を、時子の涙ながらの大演説に
仕立てあげちゃうのはいかにも腐女子的発想ヨネー。
清盛没後の時子の政治的立場の強調って点ではすごく面白いんだけど。
>>42 烏帽子かぶると元服でちゅか?
承久の乱の時の政子の大演説があるから
腐女子的発想ヨネー、とまでは思わんかった
>>44 承久の乱の時の政子大演説は、
ガセネタだというのが最近の学会における主流ですが?
>>46 正しくは奥「富」敬之だヨネー
【奥富敬之】(1936〜)
日本史の研究者。尤もとっくに研究なんぞはうっちゃってしまい、
最近では過去の遺産を手を変え品を変えて懲りずに出しまくる
印税生活者。
つい最近の業績はテレビの小道具としての「十月宣旨」の模造品、だそうな
(本人談)
>>43 (´-`).。oO(烏帽子をつけない元服があると思ってるのだろうか・・・)
50 :
:2005/05/09(月) 19:40:21
草刈正雄が演じていた「平○○」って人はどーいう人なんですか。
清盛と血縁関係はあるの?
51 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 19:48:03
タッキーの演技はどうも辛気臭くていかん。
時代劇には向いてないのかな?
それと、なぜうつぼを出すのか?
52 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 19:51:26
朱の玉が出ました…、うちどめですか?
__,,,,,,
,.-'''"-─ `ー--─'''''''''''i-、,,
,.-,/ , !,, \
( ,' _ノ ヽ-、,,/''ー'''"7
`''| ' } ``ー''"
! '、 i
'、 `-=''''フ'ー''ヽ、 ヽ、-─-、,,-'''ヽ
\_/ ヽ--く _,,,..--┴-、 ヽ
``" \>
>>50 平知康。後白河院の北面下臈。平姓だけど清盛とは関係なし。
のち検非違使に任じ、鼓の上手だったので鼓判官と称される。
義仲が院を攻撃した寿永二年(1183)の法住寺合戦では院方の将として大活躍w
ちなみに北面下臈ってのは院の近臣の中でも下っ端で、夕べみたく宗盛に
チョーシこいた口きけるような身分ではないので注意。
…ってーか、知康ってば治承五年の正月に清盛にとっつかまってて、釈放
されるのは清盛死んでからジャン。
54 :
:2005/05/09(月) 20:41:42
55 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 20:53:18
時代考証するとどのくらいのギャラが1年でもらえるの?
ごくわずかと思われ。
しかし本当に歴史が好きなら金の問題ではない。
57 :
43:2005/05/09(月) 21:15:12
>>55 むしろ「大河ドラマの時代考証」って肩書きがオイシイのでは?
試みに本屋で奥富氏の名前を探してみたら非っ常に実感出来るヨ。
>>49 オモッテナイヨ。
>>42をナンチャンとうじきが初めて烏帽子をつけて登場した事を受けての
カキコと判断して
「するてーと烏帽子かぶってないヤツはみんな元服前ですかそうですか」
って書いたつもりだった。スマソ。
>>57 いや、からむつもりはないので。
もちろん一生童姿でいるやつもいるわけなんだが、
童姿から烏帽子をつけるように変化したとすれば、それは
「元服した」としかいいようがないのでは?
というのが
>>49の趣旨。
実際、室町時代の話ではあるが、皇族が40歳で「元服」した例もあることだし。
結局、悪いのはナンちゃんとうじきを童姿で登場させた脚本家か演出家。
59 :
57:2005/05/09(月) 23:14:29
>>58 どうも。
>>49も含めて仰せの旨はよく分かる(つもり?)どす。
でも、前回までのナンチャンとうじきのアレは童形だったのかなぁ?
単に義経の従者=有象無象ってんで、わけワカメなナリをさせてただけな気が(笑)。
伊勢三郎・駿河次郎って名乗りは一応元服した人間のソレだしょー?
(もっといえば国名+輩行ってのはウゾウムゾウの名乗りじゃないのだけど)
なんか 必 死 だ な 俺(泣)
と、ここで先週の感想を。
現在を治承五年二月と説明していたが・・・弁慶かわいいよ弁慶(o^o^o)
先週みたいなノリは嫌いじゃない。今までで一番好きかも。
手古名と静、演者を入れ替わっていれば・・・。絶対、上原美佐のほうが立烏帽子、水干、緋の長袴が似合ったとおもう。
さとみタンを悪くゆうな。さとみタンは悪くない。
悪いのは脚本家と演出家。
どうでもいいが松坂慶子綺麗だな
どうでもいいが静の母親と俺は同郷
どうでもいいが最近エロいコテトリさん来ないね
どうでもいいがエロいコテトリが気になるな
66 :
教えてちょ:2005/05/10(火) 14:35:50
藤原秀衝が任命された、鎮守府将軍とは、
階位でいうと、正、従?位に当たるのか
教えて下さい。
従五位
68 :
教えてちょ:2005/05/10(火) 15:05:52
義経の検非違使の階位は、正従?位に当たるのか 教えて下さい。
>>68 義経の官職の「左衛門少尉」は
本来正七位上相当。
もっともこの頃は
検非違使を兼ねている場合、
五位の者も多い。
義経は
「大夫尉」と呼ばれている
事から分かるように
従五位下。
俺が昔から不思議に思うのは
なぜ頼朝は朝廷を抹殺しなかったんだろうな
けっきょく征夷大将軍という官位も守護・地頭も朝廷から授かるという形式
それが日本の歴史だっていってしまえばそれまでだが
このときなら頼朝なら可能だったかもしれんのに
頼朝がこのとき朝廷を抹殺しなかったために
義満も義教も信長も秀吉も家康も朝廷を抹殺しなかったと思う
71 :
日本@名無史さん:2005/05/10(火) 18:09:08
↑朝廷の怨霊に祟られるのが怖いからです。
72 :
日本@名無史さん:2005/05/10(火) 18:23:29
>62
うん、確かに綺麗。
でも、あの演技は鼻につかないか?
73 :
日本@名無史さん:2005/05/10(火) 20:44:15
>>71 武士が怨霊ですか・・・はぁ・・・
なら泰衡はどうなるんでしょうか・・・
義朝を殺した父子はどうなるんでしょうか・・・
>>74 怨霊に祟られるのが怖いから朝廷を抹殺出来なかったってのはもとより論外だけど・・・
武士=怨霊なんか恐れるわけない、って決めてかかるのもいかがなものかと・・・
71はネタでしょうが、頼朝は奥州征伐後、「数万之怨霊」を慰める為、永福寺
を建立しており、その後も乱や元寇の後、鎮魂が行われています。
足利尊氏の天竜寺建立による鎮魂も有名でしょう。
古くは承平・天慶の乱の後も、敵味方の霊の為に法要が行われています。
70への突っ込みの方は、よりお詳しい方にお任せしますか。
>>76 >よりお詳しい方にお任せしますか。
山野先生にそうおっしゃられては、誰も突っ込めないと思われ(w
>>70 頼朝は価値観的に不可能、義時は出自・官位が低すぎて無理押しできず
義満はやる気満々で惜しいところまで行ったが画竜点睛を欠き
信長は義昭による包囲網に対抗するため朝廷に借りを作ってしまった
家康は先人の失敗に鑑み、自分の余命と相談して妥協した
と、こんなところでいかが?
朝廷に代る機能を持った体制・世界観を提示出来ず、期待されていた頼朝の役
割が「失われた神剣の代理」であった、武家と公家とが補完的役割を負っていた
などと、いちいち述べても、馬脚を現すのが関の山。
とりあえず、承久の乱までは鎌倉政権の影響力は越後・信濃・遠江以東中心で、
乱後も国衙領は最低でも全国の四割を占めており、他に朝廷とは運命共同体の
貴族・寺院の荘園がありましたよ・・・と言ってみる。
鎌倉時代を通して幕府の権力は強化されますが、せいぜい国家内国家といった
ところで、取って代われたものではありません。
ましてや、頼朝存命中など、土台無理な相談です。
朝廷が滅ぼされなかった理由として一番強いのが、天皇とその周辺の人々が神
の子孫であり(中世に神と言えば仏教的世界観がついてまわる)、日本の国土も、
仏や神(と一体の朝廷)無くしては存在しえなかったという世界観でしょう。
朝廷が滅ぼされるとすれば、日本人の過半数がキリスト教などの他宗教の世界観
を受け入れる事であったでしょうが、これは現代でも無理な話です。
もっとも、現代では宗教的権威自体が昔ほどのものではありませんが。
朝廷を滅ぼさなかったということのが日本史最大の謎なわけだが
>>77 大丈夫、十分突っ込まれてる場合もある(w。下↓はトリビアスレよりコピペ。
つーか、
>>70は三行目のことだろ。
86 :山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :慶長410,2005/04/02(土) 14:40:20
源頼朝の死後
征夷大将軍の地位は、三年間空だった(頼家が将軍となったのは建仁2・1202年)。
87 :日本@名無史さん :慶長410年,2005/04/02(土) 15:24:24
えぇと、頼朝は生前、建久五(1194)年に征夷大将軍を辞任してると思うのですが・・
81 :
77:2005/05/11(水) 00:46:19
>>80 三行目ですか…細かい間違いはスルーする癖がついてしまって…(守護地頭…苦笑)
なぜ頼朝に朝廷を潰すことが可能だと思ったのか不っ思議〜てのに気を取られてしまいました…
orz
んでも建久5年の辞任の申し出は、朝廷は受理せず、結局頼朝は死ぬまで将軍ですよね?
…そういう話ぢゃないのかな?(わからん事だらけだ…うかつに口出すと恥かくだけだな)
今週結構よかったんじゃない?今際の渡清盛やばすぎ。平家一門もよかった。平家主役にすればよかったのに。
福原にいたときもそうだったけど、時忠は清盛の一番の理解者で、よくできた義弟っぽいね。「平家に非ず〜」はいらなかった起臥す。
で先週なんだけど、清盛生前だから当然2月なんだよね。弁慶は真冬の海で何してんだか。よく死ななかったな。迷わず飛び込んだオセロ中島もたいしたもんだ。
>>34 あの遺言は時子に言わせたからこそ、ドラマ的にいいんじゃん。聞いてた平家の面々も、清盛の遺言じゃないこと分かってて。
時子の遺言演説は
>>43にレスつけるほうがよかったかな。
平家の邸宅に放火してやる!って息巻いてたお爺ちゃんは、その後どうなりました?それと、安徳天皇の即位やった?
先週、義経に嫁取らす云々で静を帰京させといて、これも放置されてる。実際問題、河越氏が嫁ぐのは3年半後だから仕方ないんだけど、だったらなんで先週あんな話を入れたのか。
加納随天VS丹後局。コワ。
84 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 00:46:31
>>55 漏れの師匠も大河の監修したことがあるけど、NHKは謝金は皆無に近いそうだ。
仕事も時々NHK職員が来て「こういうふうにしたいんですけどどうです?」と聞きに来て、「いや、史料があまり残ってないから何とも言えない」
と言うと満足そうに帰って行くそうだ。そして放送を見ると仰天の捏造ドラマ・・・。
途中で嫌になって辞退したんだそうだけど、最後まで名前が出されていた。
85 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 02:48:54
加納随天=北条重時=後白河法皇→佐久間良子の前のダンナ。
後白河同様、男色という共通項が大きく配役に関与したのかと<ry…
86 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 04:24:10
経盛・教盛・頼盛・忠度の弟たちはどこに蒸発したんだ。
時忠より弟だろ。
>>84 まだ学者としての良心がある人だったようですね。
奥富さんはry
>>83 本人すら忘れてた書き込みに亀レスありがとうw
ドラマ的にいいかどうかはさておき、時子に言わせちゃう発想と松坂時子の
ねちっこい演技が相俟って腐女子臭プンプンなのがあたしゃどうも駄目。
んで、史実や時間軸はおろか季節感すら華麗にスルー。それが大河クオリティ。
平治の乱の時の青葉は目に滲みたぜ。
>>84 「誰それは第何回(一桁w)で匙投げたけど、私は何回まで堪えたぞ!」って
大河需要の講演会で笑いが取れるような世界ヨネ。
>>87 お抱え「研究者」軍団の一人ですから。
>>84 >>そして放送を見ると仰天の捏造ドラマ・・・。
捏造とは言わない
学者やこのスレのマニアのいうこと聞いてたらドラマ作れなくなるよ
>>82 承久の乱のときの北条政子を彷彿させまつ('A`)
91 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 14:10:02
最近の大河は、現代的な平和主義やら、「女はいつも殿方の争いの犠牲になります(涙」やら
妙な価値観が紛れ込んでるのが多くてウザかったから、
「頼朝の首を我が墓前に供えよ」
をあえて松坂時子に言わせた脚本を俺は高く評価する。
92 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 15:48:05
腐女子臭てなんなの?
93 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 16:56:29
そうよ、腐女子臭って何なのさ!!??
94 :
84:2005/05/14(土) 17:47:41
宗盛は頼りない人物として描かれてるが
実際はどうだったの?
清盛が指名したからにはあそこまで頼りないとは思わんのだが
>>84 よく読むべし。87もそんなことは思ってない。
96 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 18:38:21
重盛が死んじゃったからなー。
重盛の子達がまだ幼かったから、自分の子の中から長幼の序で選んだだけで、
別に器の問題ではなかったのでは?
徳川九代将軍も家重だしなぁ('A`)
98 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 19:09:58
次の 大河は誰をやるのかな
99 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 20:09:56
また幕末だろ。
100 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 20:25:13
来年は天才的戦略家で政治家の山内一豊が信長、秀吉、家康を指導して天下を取らせるという美しい話し
また利家の路線かよ('A`)
天智天皇〜持統天皇の時代とか、小田原北条氏とかはやってくれんのか
102 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 21:58:36
>>96 重盛は側室の子
宗盛は正室の子。
本来は宗盛が跡取りになるべきだが。。。
重盛が選ばれたのは長男だし、人物も優れていたからだろな。
22世紀までには、大河ドラマ『紀貫之』、『赤染衛門』、『大江匡房』の実現を!
104 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 22:15:39
基盛も優秀だったが若死。
家盛が生きてたらなあ。
当方、「腐女子」の意味を履き違えておりました。801限定の意味だったノネー。
ご迷惑をおかけした各方面に陳謝いたしますと共に、「腐女子」の箇所は
全て「同人女」と読み替えて頂きたくお願い申し上げます。
>>102 重盛も正室の子だろ。
時子より身分が低い女性ではあったが。
108 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 01:54:36
基盛も優秀だったが若死。
家盛が生きてたらなあ。
あと忠正が生きていたらな。
109 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 01:57:00
基盛と宗盛の差は大きい。
7歳違う。
戦争経験者なんだよ重盛・基盛兄弟は。
111 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 02:31:28
112 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 02:37:45
重盛も宗盛も大差ないと思うがなあ。
重盛が長生きしても壇ノ浦は避けられなかったと思うよ。
113 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 02:49:59
114 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 03:27:11
重盛は早死にしたお陰で晩節を汚さずにすんだな
>>114 そういう説が無いわけでもないし、俺もそう思わなくも無いが
少なくとも、重盛は保守的で当時の公家衆に受けが良い人物であったらしいので、
法皇や朝廷との関係は決裂しなかったんじゃないかな?
まあ、源氏に滅ぼされなくても、時子のバックアップが得られずに
一門が分裂、衰退して終了だったかもしれないし
案外、鎌倉幕府の様に制度さえ整ってしまえば
後を継ぐべき人物が適当でも、なんとかなったかもしれない。
歴史に「もし」や「だったら」は禁句です
が「もし」や「だったら」がなければ非常につまらなくなる
117 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 13:31:37
いっそ知盛が棟梁だったら?
118 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:10:34
なると大使キター!
中井貴一の源頼朝が、回を重ねるごとに武田信玄にダブって見えてきた。
120 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:15:29
弁慶サンバはまだですか。
121 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:27:10
義円はとうとう無視でした
ついに、いざ鎌倉だな
大姫やるんだな
これは・・・全成も出てくる見込みはねーな〜。
なんか今年の義経は、面白いエピソードを抜かして、
つまらん恋愛ざたを入れる傾向があるねぇ。
125 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:54:40
大河ドラマって歴史をやるんではなかったのか?
ジャニーズ板では万せーだけど
127 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 20:59:02
来週は、いきなり義高か…。
大姫はいつの間に生まれたんだ…。
129 :
日本@名無史さん:2005/05/16(月) 00:08:11
内容薄いドラマですね。
大河は、腐女子を意識して作るとダメになる好例になりそう。
今の女は、会社でキャリアにもまれてるから、政治の重さを
テーマにしてもついて来るハズなのに、『ジャニヲタ』の池沼
が理解できる設定にシフトダウン。来週から見るの止めよ。
夕べの義経みてたときに木曽義仲の家臣だかに樋口兼光て人いたけどあれはもしかして直江兼継の先祖ですか?
>>129 婦女子ターゲットにするのは今に始まったわけでもないし、今回は政治の話も多いだろ。
後白河にだまされ始めてる宗盛が面白いじゃないか。
愚痴だらけの歴史オタクは見なければ良い。
ここは歴史オタクが愚痴をこぼすインターネッツでそw
後白河院・丹後局・平清盛・源頼朝は、いい意味で印象に残りそうです。
婦女子系で無いせいか、役者の威厳か。
>>85 重時は男色家じゃないんじゃないですか。
隋天のときは土田御前(高橋恵子)に手を出していたような。
今週まださわりの10分ちょっとしか見てないけど、喜三太が末席に下げられたうえに、品庄の品川にチェンジされちゃったのかと。
三善と大江(中原)がカッパとタヌキでも、いい意味で印象に残りそう。
135 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 02:06:10
喪前は何処のお公家様?ってくらい平知康風情が偉そうな件について。
今週のは、1181年てことなんだろうが、
来週は義高が婿ってことは1182年か
まあ倶利伽羅峠くらいまでネタがないってのは分かるけど
さすがにねぇ
丹後局と後白河の子は出てきそうにないですね
>>131 別に面白くねえよ。
いくら何でもあれじゃ宗盛バカ過ぎだろ。
後白河の雰囲気はイイと思うが、
あくまで雰囲気だけね。
設定はクソ。
138 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 10:44:48
>>133 どうしょうもない昼ドラ展開を役者の技量でカバー。
有名声優ばかり使って中身はまったくない駄作アニメを今回髣髴とさせる。
139 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 10:49:14
このドラマ、滝沢君に救われてると思いませんか?
彼がいなかったら・・・ってカンジですね♪
>>119 今後、頼朝は政治家としての感情を抑えた演技が多くなると思うので、
さらに信玄っぽくなると思う。楽しみ。
DCカードとかのコメディー系もいいけど、やっぱ信玄系が一番だな。
そもそも信玄系なるものがあるかどうか知らんけど。
141 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 12:02:53
志田義広も登場してほしい。
関東の反頼朝的な源氏も少しでいいから描いてほしいな。
142 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 12:45:44
新田義重キボンヌ
143 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 14:24:53
タッキー、セリフはき出すだけで精一杯って感。松坂慶子がましに見えるぐらい下手。にしても清盛の着眼点は鋭い。貿易国家発想は、後の信長まで出ない。早すぎた出生だ。
144 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 15:49:28
日宋貿易は、別に清盛の独創ではないだろ。
比叡山もやってたし、、他のは知らんけど、おそらく北九州あたりの豪族とか。
あと、貿易国家構想ではなくて、あくまでも、平家一門が貿易利益を独占するためだから。
ドラマは、清盛の「夢」を美化しすぎ。
>>138 そして、主役級は何かコネで選ばれた感があるのも共通しています。
>144
九条兼実(いつもの事ですが)以下、公卿たちの反感を押し切って『太平御覧』
から羊まで輸入し、宋の寺院に寄進も行った眼は、それなりに魅力的かと。
青磁の「馬蝗判」は、映像だけ見てもほれぼれしますね。
146 :
日本@名無史さん:2005/05/17(火) 20:37:11
>>130 遅レスですいません。130さんそうですよ。
ちなみに私、樋口(次郎)兼光の子孫です。
直江兼継(兼続?)の子孫ではありませんが。
もしこの辺りの人物に興味がおありでしたら
長野の鬼無里村という所がありますが
面白い話がわんさかありますよ。
ここにも子孫厨が出てきたか…。
148 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 01:57:04
基盛も優秀だったが若死。
家盛が生きてたらなあ。
あと忠正が生きていたらな。
長盛・忠綱・正綱・通正兄弟でもいいが。
>>143 禿同
演技&セリフがヘタなため、毎週
「しかし」 「ですが」
が口癖
きっと長いセリフが覚えられないからかなり省略されたんだろうな
150 :
日本@名無史さん:2005/05/18(水) 22:39:43
原作が司馬作品なら、主役はタッキーでは違和感あり。どっちの方がより、義経像に近いのかな?司馬作品は、義経より法皇に思い入れを感じたけど。
範頼って結局どうなったんですか?
生存説も根強いですけど
>>136 ということは、来週にはもう加納隋天と丹後局の間に姫宮が生まれてるわけですね。こえ〜。
>>138 どうせ昼ドラ展開にするなら、冬輪の水島龍作を出してもらいたい(温厚院さんは結構大河に出てる)。配役は安達新三郎で。
今週墨俣合戦終ったね。義経の同母兄の戦死すら華麗にスルー。名前すら出なかった(途中までしか見てないから、この後出るのかもしれないけど)。
タッキー義経の相方さんが「義経の兄は?」と聞かれて、「義男」。身内なんだから見てあげて。
153 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 12:43:55
>>151 伊豆で死んだというのが定説ですが、
そこを脱出して吉見にてひっそりと余生を送ったという伝説と、
船で瀬戸内に行ったが暴風雨で難破し溺死したという救われない話があります。
広島には二箇所も範頼の墓があるらしいです。
全成を出してたらもっとピリっとした気がするんだがな
常盤を母にもちながら、頼朝への接し方が全く異なった2人
弟の栄華盛衰をこの兄はどう見ていたのか
うつぼなんて出してる時点で糞
ちゃんとやってほしかったな
155 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 13:47:30
静御前と女の二人が鎌倉から京へ帰るシーンで能天気に義経や弁慶たちが
手を振っていたが、宿屋もないこの時代 女二人で安全に旅が出来るものだろうか?
軽装でたいした荷物ももっていない。
なぜ護衛をつかないのだろうか?
>>155 友達は「二人はくの一」という説を立てていた。
157 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 17:36:14
範頼は、富士の牧狩で起きた、曽我兄弟仇討ち事件の首謀者の一人として、常陸の八田知家に預かりの身となったと言うことは知ってる。伊豆で死んだのは初耳。
吉見氏は南北朝期に中国地方に突然現れますが、吾妻鏡にもその先祖と思われる者が、幕府行事に参列している記録が見受けられる。
158 :
日本@名無史さん:2005/05/19(木) 20:31:22
159 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 00:52:39
ビデオ持ってる分・知ってる分だけ。
炎立つ(入間田)
太平記(永原・尾崎)
徳川三代・慶喜・新選組(大石)
時宗・義経(考証人09103)
太平記は後醍醐天皇がササミみたいにさっぱりしてた。
>>84さんのお師匠さまは入間田宣夫さんですか?
ついでに、面貌・盾完備の外人足軽出演の角川版天と地とは二木・花ヶ前。
天と地と燃えた!
燃えポイント1
八重隊が討って出る(テーマ曲流れる)。
画面前方を騎馬が流れる奥で八重隊が次々と討たれていき上杉軍を1人も討つことなく全滅。
燃えポイント2
典厩信繁と和泉守景家の組打ち。
信繁を羽交い絞めにした景家が信繁の首に腰刀を当て、刀を引いたところで信玄のアップ
景家の「典厩殿討取ったー!!」の声と上杉軍の鬨の声が聞こえる。
正しい正しくないではなく、あれだけの規模でやられると鳥肌が立つ
最後の上杉軍撤退のシーンで武田軍の間を一騎駆けする謙信殺しちゃえよ、とかいうのは野暮。
161 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 22:40:46
>>157 おいおい八田知家に預かりの身になったのは全成だろう
範頼が伊豆で死んだのは周知の事実
>>157は中国の歴史教科書で日本史を勉強したのか
162 :
157:2005/05/20(金) 23:14:27
そうだよ!
悪いか?
デモ起こすぞ
163 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 00:13:05
範頼なんてブサヨの弟だろ?存在価値無いよ。抹殺!
俺がゆうのもなんだけど、ステキに意味不明。
義円はぎりぎり最後の紀行に出たか。全成
>>154は紀行すらないだろうね。もう、誰なら出るか?のが早いな、これは。
丹後局の頭がチリチリしてるけど、史料に天パーだったって残されてるような人いませんか?
165 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 08:21:59
和田義盛も天然パーマ?
頼朝が「清盛」「清盛」って呼び捨てにするのが気になる。
行家の涙萌え♪(´・ω・`)
北条時政はパーマかけてたらしい
169 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 15:47:52
んなアホな。
中世では「爆発」させることによってパーマをしていた。
「漂流者」という名前の芸人集団がそのやり方を今に伝えていたのだが、
その伝統も今ではすたれつつある。
171 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 16:41:43
んなアホな。
172 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 18:04:10
中世、天然パーマは何と呼ばれておったのじゃろうか?
173 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 20:00:07
174 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 21:15:25
>173
回答かたじけない。
175 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 22:09:43
176 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 22:43:33
おぶすまさぶろう?
初耳だ。ググってみよう。
あれに似た表現は、憑坐の髪の毛にも見られます。
醜女も含めた、人外の表現でしょう。
178 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 02:34:09
北条時政のは…ズラ。
179 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 17:52:18
宗盛がやけにいい味出している件について
180 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 18:27:40
>>179 禿しくスレ違い。ここは中世のヘアースタイルを語るスレ
182 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 20:25:51
志太先生は名前だけで出てこないな
183 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 20:51:49
まだ五月なのに次々回?は宇治川かあ。
後半はさらに下らない捏造ネタが盛り沢山の悪寒・・・
なんか流れが慌ただしいな…。
185 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 08:16:27
>>181 うはwww
またまた女キャラ追加かww
186 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 08:26:49
>185
尾野真千子 美人だよ。
187 :
日本@名無史さん:2005/05/23(月) 19:23:10
>>181 ウホッ正妻美人すぎ。これじゃ石腹ぶさみじゃ駄目だな
今からでも遅くはない、静を加藤あいに変更汁!>NHK
天パーに関して色々ありがとうございました。
189 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 04:53:42
次回は倶利伽羅峠だろ?
となると次々回か次々々回あたりに宇治川
壇ノ浦は8〜9月くらいになる悪寒
190 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 05:46:32
合戦や政治の歴史ネタをすっとばして、お涙頂戴の
ギケイキのフィクションネタとオリジナルネタを
しつこくやろうとしてるんだろうな。
しかもやるのがあの大根ぞろいの義経主従で。
挙げ句の果てにはゲンギケイ汗で赤マフラーの悪寒?
192 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 10:42:00
話が戻って悪いんだが、螺髪って、
大仏さんとかの仏像の頭にあるプツプツのことじゃないの?
人の天パーをも螺髪と読んでいたの?
193 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 13:45:50
何のためにあるのか分からない警察天下り団体交通安全協会。免許更新時の詐欺まがいの会費徴収。以下伊丹免許センターでのやりとり。支払いは任意などと一切説明せず。
安全協会婆「では免許更新料と安全協会費で○○○○円です。」
私「はあ?安全協会には入りませんよ。」
安全協会婆「協力してもらえませんかね。」
私「脱税事件がありましたので協力できません。」
なんの疑問もなく払っている人が多い。こんな状態では日本では改革なんて不可能ではないかと思ってしまう。日本国民の意地を見せたい。
194 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 14:33:34
>>187 もう充分に遅いだろ。
第一、加藤あいだって美人じゃねぇしw
195 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 16:58:59
壇ノ浦のあと、義経が腰越で足止めされ、
京へ引き返したあと、なにやら女関係の話があるらしい。
ウワサによると、
正妻・静御前・うつぼの三角関係らしいな
196 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 19:41:35
>>192 うん。江戸時代の話になって悪いが、
炎天下の南の島で暮らしているうちにチリチリになった人の頭をそう表現してる。
スレ違いスマソ
197 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 21:32:26
静御前役、岡あゆみが良かったな
198 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 21:40:18
199 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 22:15:41
>196
ありがと。勉強になりました。
スレ違い、ごめんね。
200 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 23:48:42
>>196 >チリチリになった人の頭をそう表現してる
じゃあ、東野やくりぃむしちゅ〜の上田も、その時代に生まれてたら「螺髪」だったんだろうな。
>>197 一瞬、「え?」って思ったよ。
岡あゆみであって、岡まゆみじゃないのねw
オジサン、びっくりしちゃったよw
先週梶原景時に殺された家臣って広常がモデルなの?
202 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 07:25:38
>>200 >オジサン、びっくりしちゃったよw
40代のオサーン発見^^
203 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 09:49:45
>>201 その場面見逃した。
理由は何だったの理由は?タノンマスm(__)m
205 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 10:43:47
>>202 40代じゃなくて、20代なんだけどねw
206 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 11:02:16
>>201 先週殺された人なんていないぞ
釣りか?
207 :
日本@名無史さん:2005/05/25(水) 11:46:36
釣りか
クソ!ぼけがぁゴルァ
20代のオサーンと自ら言う奴発見。
209 :
201:2005/05/25(水) 21:54:27
>>203 >>204 >>206 すまそ。次回の予告と間違えてしまった。
>そんなある日、義高をめぐって“事件”が起きる。ある家臣が「義高を殺すべき」
>と頼朝(中井貴一)に進言したところ、頼朝は、梶原景時(中尾彬)に命じてその
>家臣を処刑させてしまったのだ。
210 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 00:02:49
今後の展開(NHKムックより)
・義経が平家の都落ちを見物
・義仲を説得
211 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 18:03:01
>>208 20代も後半になると、オジサンと呼ばれるようになるのさ。チクショー!!
それにしてもよく出来てるよね。歴史って。
頼家が生まれてなかったら、義高の婿入りもまた意味が違ってくるもんね。人質とはいえ頼朝の後継候補筆頭になるでしょ。
ということは、頼家が生まれる前は範頼、義経が後継者候補だったのかな。だとしたら、貶めることを目的に、義経に馬を引かせちゃだめじゃん。
比企氏が出ないせいか、頼朝が政子(北条氏)に促がされて動くだけの受動的な人に見えてきちゃうな。
せっかく頼家の乳母、範頼、義経の室を比企氏とその血縁で固めたのに、大河じゃいまのとこ完全スルーだもんね。
宮尾版義経では、
頼朝を現実主義者に描き、義経を理想主義者に描いているのかと。
来週の頼朝と義経との会話なんてまさにそう。(NHK大河ドラマ・ストーリー通りなら)
で、やっぱりというか政子・後白河・梶原を悪役に(w
>>211 それは個人差があることだ罠。
あなたの格好(服装、髪型、体形、行動etc)にも問題がある希ガスw
216 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 17:20:47
>212
後継者候補……というほど大袈裟ではなかったろうが、
万一の時の保険候補No.1は全成だったんでは?
北条政子の妹を妻に迎えているし、
後には実朝のメノトにもなっている。
217 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 20:11:06
うむ。
だから頼朝の死後、頼家に疑われて殺されたんだろうね。>全成
>>215 >>211 じゃないけど、
俺は25になったときから、妹から「四捨五入したら30だね!」っておちょくられとった。
周りが五月蠅いから意識するようになんの!
スレ汚しスマソ
>>216 全成の存在そのもが欠落してました。そっか全成が候補筆頭だったのかな。全成だけを北条氏との閨閥に入れたのはなんでだろ。
二位尼が政子のことを「御台」って呼んでたけど、これかなりヤバくない?御台って大臣、大将クラスの奥方をさす言葉でしょ?
新たな疑惑。黛りんたろうって人が演出すると、義経が空を飛んでるきが。効果音もウザげだし。
そもそもこのドラマには全成出て来るのか?
ヨシタカ君萌え♪(*´д`)
222 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 22:40:15
>>220 後の方にかすかに見えるエキストラが全成だとNHK関係者から聞いた
223 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 02:39:27
全成をエキストラにやらせてたの?
エキストラ‥‥駄目だこりゃw
で、義経が子供のお守役かよ?
どこまで「いい人」だけで押し通すつもりだろうね?
226 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 16:27:58
大鎧フェチの俺にはたまらん。
そうそう、一番若いので何才の奴が大鎧着るか知ってる?
227 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 16:36:39
>>220 エキストラって・・・
どの場面で出ているんだ?
そもそも義経が実兄と一言も会話を交わさないってのはあまりにも不自然すぎ。
228 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 18:03:21
>227
だよなあ。母常磐の思い出を語りあえる唯一の存在である全成には
会いにすら行かず完全無視、
そのくせ腹違いの兄(頼朝、範頼)や、いとこ(義仲)、叔父(行家、義広など)、いとこの子供(義高)らには細やかな情愛をみせている義経って
かなり変な香具師だと俺も思うよ。
あくまで一般市民相手のドラマだからマイナーな話はいらないんだよ。
義高のエピソードはドラマ性があるから採用しただけの話。
義経の娘婿の話も一般市民のイメージに合わないから当然カット。
230 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 20:19:23
>>227 本気にするとは思わなかったョw>エキストラ
甘っちょろい義経に理を説く頼朝。
いいですなー。
どっちが主役だろ?w
倶利伽羅峠orz
233 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 21:01:49
>>229 おいおい、上洛後に稲森いずみと昔語りするシーンが必ずあるはず。
その時今若、乙若のこともスルーかよ。それこそ一般人には不可解だろう。
平塚なんとかって聞いたことなかったなあ。
吾妻鏡にでてくる?
235 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 21:42:40
おいおい
壇ノ浦で義経が平家の女どもを助け、
スッコンバッコンするシーンは当然出てくるんだよな。
一般人には興味をそそるシーンなんだからな。
236 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 21:46:16
ありがと。じゃあ、いちおう実在の人物なのか。
238 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 22:02:44
>>235 その役を募集したら多数の女性ばかりか男性からも応募がありました(NHK関係者談)
>>237 やっぱり広常事件をモデルに創造したんじゃねーの?
どうせ広常が殺された理由だってよくわからんのだから。
役名は平塚良郷(よしさと)だってよ。
たしかに三浦の一族にも平塚っているけど、相模に限らず平塚っているし。
とりあえずフィクションの人物&ネタだヨネー。
つーか、やっと景時の汚れ役キター♪
>>239 いちおう ミ【『愚管抄』】
ところで、大三島の国宝類は無事なんだろうか。
242 :
日本@名無史さん :2005/05/29(日) 23:29:48
平忠度
1144年〜1184年2月7日
平安後期の武士。平忠盛の子、母は藤原為忠の娘というが不詳。平清盛の末弟。
熊野で生れ育ったともいう。右衛門佐、伯耆守などを経て、治承4年(1180)薩摩守。
反平氏勢力追討のために各地を転戦。寿永2年(1183)平氏一門の都落ちに従ったが、
途中から引返し和歌の師藤原俊成に歌を託したという。
一ノ谷の戦いで源氏方の岡部忠澄に討たれた。
家集『忠度集』があるほか、『千載集』『新勅撰集』などに入集。
>>229 全成がマイナー?
それをいうなら喜三太とか駿河次郎の方がよっぽどマイナーだろw
244 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 02:36:36
喜三太は義経記の中で土佐坊と戦うという見せ場もあるが、
駿河次郎は京都で捕縛されるだけだからマイナーなことこの上なし。
245 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 21:10:35
>>199 今日になって思い出しました。十寸髪(ますがみ)です。
>>245 また、古いネタを・・・。
昨日のラストでふと疑問。
義経が乗馬して、喜三太が馬の口取りをしてたとき、義経の大鍬形の兜を喜三太がかぶってたが、
なんか絵巻にそうゆう場面ってあったっけ?
口取りしてる郎党が主人の兜をかぶっている図。
たしか持って歩いている図はあったと思ったけど、かぶってるのはなかったような。
絵巻に詳しい人教えてください。
史実通りやれなんて堅い要求はしないから
建礼門院レイプと
平泉脱出してジンギスカンになるところはちゃんと採用してくれ
つのだじろう顔の建礼門院じゃ犯す気になれないだろうな>義経
251 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 23:46:51
志田義広の勇姿が見たい。
>>248 絵巻じゃないけど
小学館の歴史漫画で見たことがある。
重いものですから、普段は預けていた事は、『平治物語絵巻』、『承久軍物語』、
『蒙古襲来絵詞』などに出ています。ただ、被るのは・・・?
>253
建礼門院をレイプしたってホントですか?
いくらなんでもそれはないと思ってますけど・・
255 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 07:45:01
>>249 大河ドラマは貴様の下劣な妄想欲望を満たす場ではない。
エロマンガでも見てオナってろ
256 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 09:07:18
多田行綱の勇姿も見たい。
行綱なんて出たところでやらすぃ「風見鶏」に人物造形されるじゃろ
260 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 11:32:17
261 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 13:03:51
262 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 13:46:23
263 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 14:28:58
つ源平盛衰記
265 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 15:54:21
彼がセリフをいつも覚えられないので、
弁慶役がキレタッテうわさは本当かw?
266 :
日本@名無史さん:2005/06/01(水) 16:24:07
敦盛は誰がやるの??
元禄繚乱の時みたいに、今井翼??
>>254 『平家物語』に、義経が建礼門院をやたら丁重に扱ったとあり、近世には両者
の関係をテーマにした、今でいう18禁系の本が多数出されました。
時代劇漫画にも出ていた気がしますが、近世史をある程度知っている人間か
らすれば、それくらいメジャーな分野という事です。
川柳でも、いくつかこのネタで詠まれていますよ。
268 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 00:31:28
義経にしてみれば、母の仇を討ったということでそ
>>266 たしかV6の岡田だったような希ガス。
>>267 道鏡に
崩御崩御と
称徳言い
道鏡は
座れば足が
三つアリ
270 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 08:30:29
多田行綱を棟梁とする多田源氏は、義経軍の実質的な主戦力だったから、
多田行綱を登場させてほしいな。
271 :
日本@名無史さん :2005/06/02(木) 08:31:42
1184年
1月20日
源範頼・義経の軍が京都の宇治,勢多で源義仲軍を破り,義仲は粟津で戦死する.
4月
源頼朝が源義高(娘婿、義仲の長男)を暗殺する
義仲軍が義経・範頼軍を迎え撃つとき
どうして数千騎しか集まらなかったんでしょう?
273 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 20:15:33
>>272 元々義仲直属の軍勢は少なかった。
それが、色々な事情があった北陸方面の在地勢力が
義仲に付くことになった。
しかし、頼朝のように「ご恩と奉公」や「恩賞権の独占」
などのような緊密な主従関係を結ぶことができなかったことや、
配下についた在地勢力の利害を義仲はかなえることができなかった。
さらに、都に入る際味方につけた在京の武力勢力も
後白河院幽閉などで離反させてしまった。
また、その在京勢力にも鎌倉方からの切り崩しもあった可能性もある。
その結果最後には元々の義仲の直属勢力しか残らなかった。
274 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 22:21:21
木曾氏て義仲の子孫を称しているけど本当?
鎌倉時代は御家人じゃなかったの?
275 :
272:2005/06/03(金) 22:37:29
>>273 ありがd
もう一点いいでしょうか?
京入り後、義仲軍の素行についてよくない評価が多々ありますが
あれは事実なんでしょうか?
それとも義仲が滅んだのは自業自得のように
後世の人が脚色したのでしょうか?
276 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 22:47:06
義仲直属軍の不評は、 後世の人が脚色でしょう。
調べるのが面倒なので今はあたりませんが、確か『玉葉』ほかに、素行のよさ
は義経>義仲だという記述があった筈で、それなりに嫌われていた様です。
>素行のよさ
軍の規律の事。
>>267 はーい「壇の浦夜合戦記」持ってます。
江戸期にはこういうジャンルの庶民文芸があった、といくら説明しても
>建礼門院って義経にレイプされたんでしょ。
この類のカキコが多くて馬鹿らしくなりますが。
宗盛との兄弟相関も、平家物語の大原御幸で後白河に語った畜生道から
尾ひれがついて脚色され(源平盛衰記でしたっけ?)て、世間に流布したんですよね?
単純に兄弟相姦は史実じゃないのか、という輩がいて困ったもんだ。
能楽や歌舞伎、読み本にいたるまで、平家文芸の世界は広くて深くて
膨大な伝説や逸話の海が広がっているということでしょうかね。
思うに、日本人の精神や文化に長年影響を与えて来た文学作品は何かという
事になれば、『源氏物語』よりも、『太平記』よりも先に挙がるのではないでし
ょうか。最近は、そうでもありませんが・・・。
どこの国にでも、一国を代表出来る、様々な展開を見せた古典があります。
今はさほどでは無いにせよ、平家の名場面の多くは知られている。
史実と創作が混同される事が多い事自体、影響力の大きさを物語っている、と
言えるのかもしれませんよ。つまり、それだけ無視出来ないと。
281 :
日本@名無史さん:2005/06/04(土) 07:49:51
>>276 義仲軍は寄せ集め軍団で直属軍と言うよりも
義仲に従った軍の乱暴狼藉が酷かったのです。
>>280 確かに中学の古典の授業で最初に習ったのが、「平家」だったような気がする。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り・・・」
常識人なら覚えてるよなあ
>>282 そういえば、ミリオネアで
「祇園精舎」とはどこか?っていう問題があったな
たしか250マソか500マソの問題だった
厨房のときに習った教科書の欄外に「祇園精舎」の解説が載ってたから
俺は答えが分かったけど回答者は間違えたような覚えが
今週の感想っと。
平塚良郷ってなんか「良」のあたりが偉そう。平良文・維良なんかもいるにはいたけどあんま武士の使う字って気がしない。
あとしつこいけど、一の郎党だけが馬に乗れないのね。
なんか、スラダン三井の「馬に乗りたいです」とか、木暮の「一の郎党とか期待させるようなこと言うな」なんてゆうセリフを思い出しました。
我ながらくだらね〜。
政子と巴うるさいからイラネ。
政子と巴がいなくちゃ源平争乱の世界にならないじゃん。
>>282 あれと『方丈記』、『徒然草』の序文ぐらいは、憶えておきたいものです。
内容が集約されていますしね。他国に誇れる名文だと思いますよ。
万葉集は古代朝鮮語で読めるニダ
方丈記も平家物語もウリのコピーニダ
288 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 00:23:02
オイオイ σ(´ε`y━〜゜
先週からとうとうみるのやめた。
あのような義経像のどこに魅力があるというのか?
あまりにもつまらな過ぎ。
>>289 主人公が義経だと思うからつまらないのです。
来週
「義経と義仲」ニダ
平家が都落ちし義仲が京入りするニダ
義経は義仲と頼朝が対立しないように説得に行くニダ
こんなバカげたストーリーはおかしいニダ
それに以仁王の皇子「北陸宮」なんてすっ飛ばすニダ
>291
内政干渉にだ、教科書には載せてないにだ
>>292 再来週には宇治川がありそうニダ
展開が早い過ぎるニダ
政治的背景をすっ飛ばし
義仲=狼藉者、人望のない者と描くつもりニダ
夏木マリはハマリ役ニダ
建礼門院の春本ネタがけしからんという香具師らは
忠臣蔵や武蔵についても芝居ネタや講談ネタばっかりなのはけしからん
まともな資料通りにやれとメクジラ立ててるのか?
>>294 武蔵のどれが芝居ネタや講談ネタなんだ?
そもそも武蔵にまともな資料なんてあるんかいな
>>295 佐々木小次郎なんてネーミングからして
「仇討巌流島」が出典だぞ。
299 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 10:35:58
空から降る一億の保守。
義経300才
301 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 17:19:34
スタジオパークに見学に行った人の話で、
義経が直衣を着ていたということなんですが、
判官って直衣を着てもいいの?
302 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 17:35:00
だめです。しかし実は伊予守に任じられたので着ても良いのです。
303 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 19:01:02
>248
「前九年合戦絵巻」だったかで、源義家の兜を傍らの徒歩郎党が被ってる。
304 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 19:13:59
どの位階役職だと直衣を着るの?
基準は?
貴族の平服で、参内時の着用という事であれば、直衣姿が許されたのは、勅許
が下りた三位以上です。
室町時代には、一条家は特例として無条件で許可されていました。
306 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 20:20:11
つまり義経は着ていなかったってこと?
307 :
248:2005/06/09(木) 21:30:37
>>303 へー、そうなんですか。初めて知りました。どうもありがとうございます。
郎党が被るのはそれほど不自然ではなかったんですね。
308 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 08:54:48
309 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 11:05:41
志田三郎義広に登場して欲しい。
310 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 11:11:20
311 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 13:08:23
>>310 志田義広は、頼朝や義経の叔父で、源平合戦では木曽義仲の陣営にいる。
後3年のような昔の人物ではないよ。
312 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 13:36:58
313 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 17:27:49
現存「前九年合戦絵巻」は鎌倉後期でしたかね。「後三年合戦絵巻」は、
南北朝時代以降だったか。「後三年・・」の方はエピソードも絵柄も凄
惨で、ちと品が無い感じがしなくもない。よくわからんのは、武士たち
が被る兜鉢に、たてに結わいている白布。
314 :
日本@名無史さん:2005/06/10(金) 17:48:56
316 :
日本@名無史さん:2005/06/11(土) 18:35:50
317 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 20:59:44
平家が福原を焼いたってのは史実かい?
信州だからリンゴを食ってたんだろうけど、この時代リンゴは無いよな(w
319 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 21:29:26
今日、義仲がイイことを言った。
このドラマ、一族の争いをもっと主題に出せばよくなったのに。
320 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 21:35:05
>>318 平安時代の梨を演出するつもりで、リンゴっぽいのをつかったんじゃないのかな。
321 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 21:41:48
瓜をしゃぶらせた方が粗野で田舎者な感じがすると思う。
あのシーンを見て誰しも「あの当時、あんな梨あったのか?」という疑問が湧いたはず。
322 :
日本@名無史さん:2005/06/12(日) 21:44:45
義仲の直衣に冠、あれあり?
324 :
Ж:2005/06/13(月) 04:59:31
平家が落ちぶれたものだから頼朝は追討せざるを得なくなったと思うが‥
頼朝の性格からいうと鎌倉で自分の勢力を維持すれば満足というタイプではないか。
325 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 07:20:01
>>324 すまないが、「落ちぶれた」ではなく「、落ち延びた」ですね。
ごめんなさいな。
326 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 12:07:53
>>324 >頼朝の性格からいうと鎌倉で自分の勢力を維持すれば満足
奥州藤原氏がいるから動くに動けない状況だったわけだが?
武家で頼朝に匹敵する政治判断力を誇った人間は家康ぐらいのもの。
次点が泰時と信長か。
家康の政治的判断力ねぇ・・・
ほとんど選択肢のない人生を歩んでたよーな気がするが
328 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 14:40:45
平家随一の猛将 平教経は、登場しないのかな。
329 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 15:10:14
前回の放送で、平家随一は知盛ってことになってたような
頼朝って義経だけならまだしも一族を抹殺しまくった挙句自分も落馬して死に、結局北条氏に乗っ取られたマヌケにしか見えんが。
その点家康のほうがマシだ。ただ幕末にはそれも何の役にも立たなかったどころか逆に仇になったが、、、
331 :
これワラタ:2005/06/13(月) 15:48:16
もし平安時代に2chがあったら
1: 【院政】後白河uzeeeeeeee!!【イラネ】part 41 (546) 2: 蹴鞠がつまんねーと思う香具師→ (868)
3: 源氏>>>>>平家 (724) 4: 16歳以上の年増を娶ったヤシは負け組 (441) 5: 【牛若】義経
たん(;´Д`)l \ァ l \ァ【イケメソ】 (98) 6: おすすめの陰陽師教えれ。(101) 7: 紫の上タンのアイ
コラきぼんぬ (4) 8: 恋文キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!! (774) 9: 【腐女子】紫式部
アンチ総合スッドレ (547) 10: IDにkyoを出したヤシはネ申 その11 (524) 11: 大化の改新は捏造
(213) 12: 妾が入水しました (15) 13: 【タレコミ】烏帽子の下はハゲ頭【カミングアウト】その9 (275)
14: おまいら歌会始に何着ていく? (11) 15: 神が童貞のおまいらに十二単の脱がせ方を教えて
くれるスレ (601) 16: 【女御】あなたの屋敷の小町タンPART3【女官】 (28) 17: ようやくしおらしくな
ってきた菅原道真154 (456) 18: ここが変だよ藤原氏 (555) 19: 次の天子さまを予想するス
レ (992) 20: 空海が達筆だと思ってる奴は素人 (56)
332 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 22:08:34
333 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 09:04:43
>>330 政治史をよく読んでみると
北条氏ののっとりではないことは良くわかるし
途中まで北条の権力が大したことのないことが判ってきている。
利害に敏感な坂東御家人に微妙なバランスの上に乗っかって
幕府を作り上げたのは見事というしかない。
源氏が3代で潰れたことより
幕府が100年以上存続したことの評価の方が大切
334 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 09:08:20
>>327 家康にしても途中で信長との同盟を解消して武田と手を結ぶとか
信長の死後いくらでも選択肢はあったと思う。
あの時代
家臣は主君が替えしたり裏切ったりが当たり前の時代で
他の勢力とのせめぎ合いが激しく
潰されないだけでも大変な時代だったのに
小大名から天下を取ったという家康の力量はもっと評価すべきだと思う。
335 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 10:04:19
>>334 ×信長の死後いくらでも
○信長の死後の局面ではいくらでも
>>330 それいったら信長もマヌケということになるな
337 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 12:59:52
338 :
日本@名無史さん:2005/06/14(火) 16:06:04
子どもの時分から、チャンバラとか武道などは生理的に好きになれない性分で、
「合戦」もこれまでナマで見たことはありませんでした。やがて私は「合戦」に対する見方を微妙に変化させていきます。
数年前から、「合戦」は無節操な“戦争ごっこ”であり、戦闘・殺戮シーンを見世物化したもので、
エンタメにはふさわしくないイべントとみなすようになりました。
マスコミなどは「戦国絵巻」「戦国浪漫」などと美化しますが、ちょっと昔の戦場の場面を再現して見せていることにかわりはありません。
家康は確かに無能ではない。堅実派だろう。中庸好きの日本人にとっては理想的人物ともいえる。
「国家安康」で晩節を汚しさえしなけりゃ、日本史上の人物で最も人気者になれたかもしれん。
>>339 >「国家安康」で晩節を汚しさえしなけりゃ
はぁ?
家康の偉いところは最大のライバルを滅ぼし、
戦国時代に終止符を打ち、その後260年続く天下泰平の世を作った点。
おまいみたいな幼稚な考えの奴が、
きっと自衛隊反対とか9条改正反対とか吠えるんだろうな。
>日本史上の人物で最も人気者になれたかもしれん。
日本人好みの義経がいるので1000000%無理。
>>340 家康が偉いのには同意ですし、「国家安康」云々も言いがかりだけという気も
しませんが(それ以前からくすぶっていたのは慥で、良いきっかけではあっ
たでしょうが)、そこまで仰られなくても・・・。
清盛が頼朝や義経を生かしたことの反面教師として
家康は豊臣を滅ぼしたんだろ。
家康のやり方は確かに後世不評ではあるが、
政治的には偉かったとしか言いようがない。
>>341 >>342のいうように、豊臣を滅ぼしたからこそ江戸260年がある。
晩節を汚したからこそ黒船までの平和が訪れた。
これを
>>339が勘違いしているのでね。
飴と鞭を使い分けなきゃ平和には絶対にならん。
現に流血もなく話し合いで長い平和が訪れたことなんて歴史上一度もない。
俺は木曽の出だが
同級生のほとんどの家が樋口・今井の縁者と伝えておる
>>344 頼朝も知らなかったのに大抜擢されたな。どうせなら田中幸太朗(「あいくるしい」で梶原景季の庶兄役)も畠山役で出してくんないかな。すっごいいいやつそう。
「待たれよ、待たれよ」の巴さんは、源平の白旗赤旗も知らなかったようで。それでも、自分の役は調べたそうで「子供は生まなかった」だってw
>>「国家安康」で晩節を汚しさえしなけりゃ
>はぁ?
>家康の偉いところは最大のライバルを滅ぼし、
>戦国時代に終止符を打ち、その後260年続く天下泰平の世を作った点。
>おまいみたいな幼稚な考えの奴が、
>きっと自衛隊反対とか9条改正反対とか吠えるんだろうな。
はあ?「国家安康」こそ中国・韓国・在日の手口の露骨版だ。
その手口を褒め称える君こそが自衛隊反対とか9条改正反対と喚くんだろうな。
それとも中国・韓国・在日に対して何か組織にでも加わって具体的反対運動でもしているのか?
受信 よんよん 受信 よんよん 受信 よんよん 緑と緑
巴は当初思ったよりもいい味だしてるな
義仲は最初に出てきたときは結構いい奴だったのに、だんだんと単純で馬鹿になっていく・・・
350 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 16:10:56
なんかこのまんま物語が進んでいくとチンギスカンになりそうだなw
チンギスになるかはともかく、生死不明にするのはあり得る
352 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 17:25:51
>>345 俺の家は、義仲の孫の木曽義茂の子孫らしいw
353 :
352:2005/06/16(木) 17:26:45
ちなみに俺の苗字は、木曽。
俺は木曽の出だが
東京に出て来てから木曽出身だと話すと
我が家は義仲の流れだと嬉しそうに話してくれる
木曽さんや木曽川さんに5人は出会った
戦国時代の木曾義昌って木曾義仲の子孫?
356 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 18:18:47
>>347 エムス電報事件のビスマルクも中国・朝鮮・在日並みで片付けますか、そうですか。
藤原氏w
358 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 18:39:35
>>355 新田義貞スレのアラシクソと同じで自称。
多分妄想と思われる。
芦原検校の子息が木曽氏の家名を再興していたな
しかし
義仲、義昌、義利と
DQNな家名といわれても仕方ない
361 :
日本@名無史さん:2005/06/16(木) 23:26:38
大河では義経が建礼門院を犯すシーンは出てくるんでしょうか?
実妹をヤッてしまうシーンが出てきそうな希ガス(´・ω・`)
363 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 01:28:07
364 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 01:38:54
>大河では義経が建礼門院を犯すシーン
後世の妄想。
国母に武士如きが手出し出来る筈ない。
365 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 02:33:11
>>364 このドラマには、そんな常識は通用しない(www
366 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 09:47:52
>>365 ソレダ!!
・・・逆に徳子にタッキーが押し倒されちゃったり?w
367 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 09:51:11
那須宗隆を、翼がやるんだろ?
もー学芸会だね。次は誰だ?SMAPはさすがに出ないのか?
368 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 13:52:36
(´・ω・`)ショボボーン!
能登守教経は出ないんですかね?
新宮行朝は源行家の子孫?
>>364 妄想ではあるまい。第一あのころの武士はこと女に関しては節操などなかったのだ。
義経の場合飯でも食うような感じで徳子(門院)を犯したことだろう。
しかし、宗盛が徳子を犯したというのはどの古典に出てくるの?
372 :
日本@名無史さん :2005/06/17(金) 21:51:51
源通親(源氏長者のち関白)はスルーですかNHKは
>>372 >源通親(源氏長者のち関白)
嘘つき(ガセビア風に)
374 :
日本@名無史さん :2005/06/17(金) 21:57:11
375 :
日本@名無史さん :2005/06/17(金) 22:08:03
>権大納言でありながら源博陸(関白)とあだ名される権勢をふるった。
こっちの方か、なるほどね。源氏長者のほうかと思ったよw
通親は摂関家以上の権勢があっただけじゃないの?
義仲の直衣の色と、平家の牛車の座り位置はあれでいいの?
駿河次郎が首に巻いてる布が、徐々にねじれてきてるような。
377 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 07:01:05
次郎のマフラーが捻れてきたのには、景時のアドバイスがあったものと思われる。
378 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 10:02:03
>>371 己の妄想を正当化しようと必死だなw
宗盛・徳子の件は「平家物語」(延慶本)六道之沙汰の徳子の独白を強引に解釈したもの。
平家に登場する贔屓の女を持ち上げるために、徳子をおとしめたい杉本婆あたりが吹聴している。
今後の予定!
8月壇ノ浦
9月腰越
10月平泉
11月北海道
12月大陸で・・
来年正月、ついに宇宙へ!(特番)
むしろ平泉までたどり着けずに弁慶によって始末され、
影武者がという方向で頼むわ。
なんなら今すぐにでも。
義仲は何度も平家を破っていることからすると
いくさ上手のはずなのに
なんで義経には簡単に負けたの?
丹.後.局.で夏・きまり!
時子が語った清盛の遺言。どうも平家の人たちは、本当に清盛が言ったものと理解してるようですね。
物語としては、時子の創作だと知りながらも清盛の言葉として聞き、結束を固めたとするほうが盛り上がるし、当然そうなんだと思ってたのに。
こんなんじゃ宗盛なんかは怒り出すんじゃない?
平知盛氏が母と結託して父の遺言を捏造しているんです。
現に私が今こうして家督を継いでいるのに、叔父の平時忠氏などは小松殿の遺児を立てるよううるさいんですよ。
384 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 05:03:08
↑まじめに読んでりゃ、最後花田家相続争いの話じゃん。
385 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 08:33:36
>>382 義仲直属の軍というのは実は少数。
都に入京の後、後からついてきた兵の離反で軍の規模が小さくなった上
畿内にいる行家追討やその他に兵力を裂かれて(半分以上が遠征中)
都にいる兵数が極端に減っていた。
しかも、都は軍事的に守備するには
もっとも適していない地。
いくら名将でも、兵力が少ない上に地理的に不利な場所では
勝利することは不可能。
知康の活躍シーンなかったぽ
期待しーてたのに
387 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 15:21:37
>>385 京都は、防備に有利という点で都に選ばれたんではなかった?
北と東西を山に囲まれ、南には大きな川がある。
388 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 15:41:18
火の鳥の乱世編では
義仲は火の鳥取りに戻って死にました。
390 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 16:50:30
>>387 平安時代初めに防衛とか観念があるわけない。
まだ、武士もいないし。
京都はとにかく防衛には適していない都市で、ここを守りきった例は無いと言ってもいい。
一番悲惨なのは南北朝時代初め。
南朝と、直義直冬党と足利幕府の争いで、幕府は7度も負けては奪回し、負けては奪回という有様で
足利幕府の権威は失墜してしまった。
義仲がいいな。今一番魅力的な登場人物。
392 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 18:43:38
>>387 あそこに平安京が置かれたのは風水でいいから。
>>391が言うように軍治的理由では無い。
京を守るためには比叡山しか後詰めの城がなく、宇治川を突破されたら比叡山に逃げ込むしか手は無い。
つまりひとまず都をあけわたして再起をはかる
っていう平家の策は正しわけなんだね
「お助けあれ〜」と木曽にすがりつく
後白河法皇さま萌え
ヽ(;´Д`)ノ しってん♪
「しってん♪」てどゆ意味?
失点?
うん(´・ω・`)
京に固執したことが義仲の敗因という事でいいのかな。
>>390-392 京は西からの攻めに対しては防衛しやすくないかい
天王山と男山を押さえればいいわけだから。
あっ、光秀がいたかw
承平・天慶の乱で、宮城に櫓が設けられたぐらいしか、記憶にありませんね。>京都の防衛
10世紀以降、「国土は静謐であるべきである」という建前が普及したので、
敢えて口にされなかった雰囲気もある。
また、『紫式部日記』などに見られる様に、宮中に賊が入ったり、すぐ近く
で兵(つわもの)が暴れているにも関らず、貴族たちは物理的な防衛手段に
ついて、憂慮した形跡がありません。
宮城が物理的に襲われるという事態は想定の範囲外で、穢れなどの観念的
な防衛に専念していたというのが、角田文衛先生のご指摘です。
>あそこに平安京が置かれたのは風水でいいから。
11世紀初期には、北に山、東に川、南に池、西に大道という図式が成立
しましたね。元々は、周囲を山に囲まれた土地というぐらいの意味。
慈円によれば、延暦寺が鬼門の護りと意識され始めたのも、この頃です。
京都を攻めて逃げ帰ったのって、長州藩ぐらいじゃねーの?
とにかく、それぐらい攻められ弱い
足利尊氏も
402 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 23:37:24
大三輪龍彦他編『義経とその時代』発売age
朝日に義経評が載ってた
研究者は服藤早苗、他は放送作家とプロデューサー。
404 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 02:00:44
見たぽ
典型的な提灯記事ヨネー
唯一の良心たるべき服藤も例によって
アレな感じだし
>>400 >それぐらい攻められ弱い
って、よく言われていることなんだけど、でも実際どうなの?
じゃあ防衛に適した都市はどこなのか?となると、大して思い浮かばないし。
結局のところ、勢いに乗った大軍の来襲の前には、たいていの都市なんて無力なものなんじゃない?
つまり京都が攻めやすいっていうのも、それだけ京都が歴史上、争奪戦の舞台に数多くなっているっていう事実を示すものでしかないような気もするんだけどねえ。
>>401 鳥羽伏見での幕府軍も敗退組だな。
尊氏といい、こうして見るとまるっきり防衛不可能というわけでもないね>京都
やはり戦争はその時々の諸条件が左右するものであって、公式のようなわけには行かないってことか。
>>405 鎌倉や一の谷は要塞だと言っても、
新田や義経に攻め落とされました。
攻められ強い弱いなんていうのは、
陸の孤島だろうが絶海の孤島だろうが関係ありませんよ。
ようは攻めてくる軍の戦闘力と防御側の防衛能力によるんです。
408 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 05:01:56
あと、時の運ね。
スレの流れからちょいとズレっけど
鎌倉についても定説になってる城塞都市としての性格付けに
禿しく疑義を呈する岡陽一郎「幻影の鎌倉城」
(『中世都市鎌倉の実像と境界』 高志書院 2004年)
なんかがあるヨネー
410 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 10:24:16
鳥羽伏見ってえらいずれてる気もする
>>409 「鎌倉城」という単語は、頼朝存命中の一時期使用されていたものですが、
この時代に「城」というのは、恒常的な備えではなく、一時的に防備を廻
らせたものを指していたのであり、「鎌倉城」という単語も、鎌倉自体の
防衛性を指したものではない、という中澤克昭氏の説もありますね。
鎌倉が武威を見せ付けていた時代の空気を反映したものだと。
412 :
日本@名無史さん:2005/06/24(金) 12:47:04
鎌倉はまだ周囲を山に囲まれ、陣地として使えるからな。
孤立したら城も国家も防衛不可能です。常に外からの救援の可能性があるからがんばれる。
戦国期に鎌倉に後北条氏の拠点が置かれなかった点からすれば
防衛上、鎌倉が優れていたとは言えないかも。
不勉強で申し訳ないが、頼朝が鎌倉に拠点を置いた理由はなんなんでしょうか。
414 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 00:08:31
北条氏の先祖(とされる)平直方が、頼朝の先祖である女婿の源頼義に譲り渡し
た地が鎌倉であり、以後代々領有して来ていたというのが、南北朝時代の時衆
の僧の著作に出て来る説。
もっとも、鎌倉時代以前の意識はどうだったのか、よく分かりませんが。
なお、平直方は、頼義の父頼信が降伏させた平忠常討伐に失敗した人物。
直衣着てる人みんなが一年中同じ色のホウですが、あれは何色ですか?
417 :
Ж:2005/06/25(土) 17:23:45
最近は頼朝の評判が↑
義経の評判はというと↓になっている‥
いよいよ明日は宇治川〜木曾冠者討死ですか。
競輪場に小池栄子はもう出ないのかな…。
天養記所収の天養二年二月三日付け官宣旨案(『平安遺文』2544)では
「鎌倉之楯」(寿福寺が建てられた場所にあった義朝の館)について
「義朝称伝得」云々とありますわねー。
言われてるほど父祖伝来の本拠地とは(本人はさておき)認識されてなかったカンジ?
まあ頼朝以降、わけても平直方を重視すれば『鏡』以降かな。
頼義が、平直方に譲られて、
義家も、東国における本拠地としていた。
為義の時代はどうだったか、あれだが、
義朝も本拠地にしている。
頼義のときに、岩清水八幡宮の勧請もおこなわれた。
鎌倉は源氏累代の本拠地といっていいでそ。
421 :
Ж:2005/06/26(日) 07:17:31
スレ違いなんだが来年の大河ドラマは山内一豊の奥方の千代殿が主人公でおじゃる,
大河,大河,焦れっ大河!
先陣争いないのネー
423 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 20:14:49
平幹二郎と夏木まり最高!
424 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 20:25:15
みんなうまいねー。
タッキー以外は(W
泥田に馬をつっこませると後始末がたいへんなのか?
427 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 20:49:25
行家に説教しちゃあかんよな。
個人的には、舌先三寸で丸め込まれて、
行家「儂についてくれば、大丈夫。
父と思ってついて来る様に。」
義経「うん(・∀・)!!分かったよ、叔父ちゃん。」
ぐらいの痴呆な感じにして欲しいところだな。
>>425 抜け出せなくなって、最悪そのまま死にますよ。
多過ぎ連に萌えまつた(´・ω・`)
430 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 21:29:36
夏木まり 怖い。
>>427 じゃ平家物語に忠実に映像化すると動物愛護団体から抗議されるんだ。
滝沢義経のヘタレ具合にマジでうんざり・・
あんなに優柔不断でよく戦ができるね、大将の器じゃない
服藤早苗「女性重視を評価 描写に違和感」
軍記物にしては多くの女性を登場させている点を評価したい。男性の付属品ではなく、彼女らなりのネットワークで情報を集め、歴史に影響を与えていた。』
清盛の娘・徳子を天皇に嫁がせようと、妻の時子が一門の女を集めて知恵を絞る場面などは、史実かどうかはともかく、ありえない話ではないと思う。
ただ昨今の研究成果が生かされていない。積極的でおおらかで、たくましかった女性たちを、悪女やマイナスの存在として描き過ぎている。静やうつぼが男の足を引っ張るだけと身を引くのも、とらえ方が古い。
北条政子も頼朝の恋人の家を嫉妬にまかせて焼き払うが、当時はそれが慣習であり、特別なことでなかったと考えられている。感情的で意地悪な女性では決してない。
義経が親子や兄弟の情によって動かされているのにも違和感がある。家族という単位が揺らぐ現代に、家族愛を提示したかったのだろう。しかし当時はそれぞれが自立し、情愛に甘えるばかりでない時代だった。
ドラマとしては清盛や後白河法皇、丹後局らの深みある演技に見入ることもあるだけに、無理のない歴史解釈に基づいたメッセージを発信してほしかった。
切り抜いてとっとく程の物でもないしここに留めておく
』はエラーが出たから改行したとこ
>>432 同意。非常事態に、ああいう上官や指導者の下にいるなんてまっぴらゴメン被りたいね>滝沢義経
436 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 05:08:51
源平を語る上で欠かせない人物の麻鳥が出ない時点で今回の大河ドラマは大失敗をしてると思う。
源平を語る上で欠かせない人物の蓬子が出ない時点で今回の大河ドラマは大失敗をしてると思う。
新・平家のほうがよっぽどおもしれーじゃねーか。
てか、むりやりうつぼなんて作るなよ・・・
439 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 12:52:14
来週の義経 つまらなそう
440 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 13:06:01
オバサンによる視聴率が高そうだw
うつぼよりお徳とかナントカの翁とかの方がウザイ
442 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 16:57:56
そいや、前スレあたりで大人気だった重忠が出たね。
ほとんど名前だけだったケドw
安田義定も出てましたでしょうか
名前だけ
444 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:42:21
>>425 それに加え、義仲の馬は足の短い木曽駒だったから。
445 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:46:42
結局、保元の乱、平治の乱、源平合戦・・・・・・
全て後白河上皇の一人勝ち!!
この上皇のおかげで日本は大混乱し多くの者が散った。
446 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:48:19
平(たいら)は皇族が臣下に下る際に賜る姓の一つ、「平朝臣」を姓とする賜姓皇族。
http://www.dgdgdg.com/ HPサーチ
源氏と同じく、皇子皇女の処遇として賜姓が行われたが、
天皇の孫以降の代に賜姓を受けた例が多いと言われ、そのため源氏よりも格は下とされる。
桓武天皇から出た桓武平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、仁明天皇から出た仁明平氏などがあるが、
武家平氏として子孫の活躍が知られるのは平氏政権を作った伊勢平氏や、
執権北条氏を輩出した坂東平氏などの桓武平氏のみで、
一般に平氏といえば桓武平氏を指すことが多い。
また、しばしば「東国の源氏、西国の平氏」と言われるが、
源氏の本拠地は摂津、大和、河内など関西であり、東国は平氏系武士の土着地であることから、
「関西の源氏、関東の平氏」と言う方が実態に近いと言えよう。また、平氏は早くから東国に移り、
地名を苗字としたため、平姓を残したのは伊勢平氏など数少なく、
その一つであり権勢を握った 平清盛の一族を特に「平家」と呼ぶ。これに対して源氏は、
源姓を名のった一族は多く、源家は複数になるため、通常は、源家総体という意味での源氏と呼び、
源家という言い方はあまり用いない。
>>434 服藤先生は、熱の入り過ぎたフェミニストで、女性の描写の信頼性については、
少々感情的(?)になられますね。
>ドラマとしては清盛や後白河法皇、丹後局らの深みある演技に見入ることもあるだけに
・・・他は(笑)。
義仲が矢で射抜かれて死ぬのは史実なんでしょうか。
眉間に矢が当たるなんて、死ぬほど痛かったろうな。
ほぼ即死なので、そうでもありません。
あんなに正確に射られる奴は与一かアーチャリー親父だけ
直衣の質問スルーされた俺の悲しみなど、その存在を妻子にすら忘れられた義朝に比べれば・・・。清盛様じゃないでしょうよ。
で直衣のホウなんですが「北条時宗」のときの切腹関白の印象が強くて、直衣とはいえあの色は限られた人ようなのかと思ったら、そうでもないんですね。冬用らしいけど。
>>442-443 佐々木高綱がずいぶん年取ってそうな声してたね。反対に、高綱の父親世代以上の渋谷重国の声の若いこと。
>>447 んー。アレが女性の率直な意見なんではないですか。
バカ女達が引っ掻き回してるような描写だからなあのドラマ。
454 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 09:50:52
>>443 安田義定は軍議のときに、けっこう義経の横にいるらしい。
やってる役者の真実一路のページに書いてあった。
しかし安田義定って、源平合戦では一番最初に平家方に勝
った武将だし、「愚管抄」によれば義仲よりも先に上洛し
てる。「吾妻鏡」読むと、義経なんぞよりはるかに悲劇の
人物だ。しかし仕事の割には全然持ち上げられないな。
まあ、ふた昔のパリーグで二千本安打打った名選手みたいなもんか。
455 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 11:18:59
>>448 平家物語、源平盛衰記にはそう書かれている。
木曾殿はたった一騎で粟津の松原に駆け入りなさったが、正月二十一日、日没
のことで、薄氷ははっていたし、深田があるとも知らずに、馬をざっとうち入れたと
ころ、馬の頭も見えなくなった。鐙で馬の腹をあおってもあおっても、鞭で打って
も打っても、馬は動かない。
義仲は今井の行方が気がかりなので、振り向き上を向いたその甲の内側を、三浦
石田の次郎為久が追いついて、弓をよく引いてひょうと射てふっと射抜いた。深手
なので、甲の鉢の前面を馬の頸にあててうつぶしなさったところに、石田の郎等二
人がその場においついて、とうとう木曾殿の首をとってしまった。
http://home.cilas.net/yunami/monogatari/monogatariheike.html (平家物語)
木曾は今井と分かれ、馬を歩ませ行った。元暦元年正月20日の事で、峯の白雪、
谷の氷も解けてはいない。深田に馬を馳せ入れるが、打てども馬は進まない。
馬も弱り主も疲れているので、その甲斐はない。木曾は今井があとに続くと思い、
後へ振り返ると、そこに相模国の住人石田小太郎為久(ためひさ)が放った矢が
かぶとに命中し、額を馬の頭に当て、うつぶせに伏せた。為久の郎等二人は馬か
ら飛び下り、深田に入って木曾を引き落し、やがてその首を取った。
http://www3.starcat.ne.jp/~koten/genpege/genp58.html (源平盛衰記)
456 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 11:34:24
史実に忠実な再現だったのですね
457 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 12:09:54
>>456 せめて深田に嵌るシーンはあって欲しかった。
ありゃCEROとおらねぇ残酷描写だ
義仲さんがのぼりなどに笹竜胆ではなく金の日の丸を用いていたのは
何か残ってるのでしょうか
このスレの方がドラマよりも面白いなw
>>455 ありがとうございます。
名のある武士に対しては一騎打ちをするものだと思っておりまして
違和感を感じたので質問した次第でした。
462 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 19:32:48
末期の義仲に立ちふさがったのは、甲斐源氏武田信義の長男
の一条忠頼の軍勢だったと「吾妻鏡」「平家物語」にある。
この忠頼は、義仲が信濃で城氏と戦ったときに協力したと
「玉葉」に見える「甲斐国武田党」にあたるのでは、と思う。
忠頼は、義仲戦死の僅か半年後に頼朝に殺される。義仲を北
国に脱出させる意図があったと疑われた、という説もあるそうだ。
463 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 19:41:02
>>462 何でも疑い掛けて殺すよな・・・・・・・あの夫婦。
>>461 一騎打ちといっても、組打・打物が増加した時代であったとはいえ、騎射も
行われていますけどね。もっとも、義仲は違った様ですが。
中世に矢を受けて死ぬ場合、顔面か首の骨をやられるのが、一番多い。
これに次いで、脇などの鎧の隙間といったところですか。
>463
夫婦のせいとも言えないと思いますが、主立った功臣は残りませんでしたね。
上総、梶原、畠山、和田、三浦、大江(毛利)と、大抵やられている。
>顔面か首の骨をやられるのが、一番多い。
>脇などの鎧の隙間
防弾チョッキで重武装した現代の歩兵も変わりないですね
>>455-456 厳密に言えば史実は「義仲が寿永3年1月20日に討ち取られた」(吾妻鏡、玉葉など)ってことだけ
平家、盛衰記における義仲の死の場面は、中国の歴史物語に仮託させた「創作」で「火牛の計」などといっしょ
物語文学では、物語として読者に与える感銘を与える創作>>>>>史実だから(鶴ヶ丘八幡での静の舞の時期とか)
ちなみに「田んぼにはまって矢で討たれる」っていう義仲の最期は『太平記』では新田義貞の最期として転用されてる
>>461 物語上、討ち取られたときの義仲は敗走していたので戦闘らしい戦闘はなかった
だから名乗りも一騎討ちも無いままであえなく雑兵に討たれてしまった、ということなんでは
実際、平家物語では『粟津のいくさはなかりけれ(粟津の合戦というほどのものはなかったのだ)』って書いてある
468 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 02:00:02
>>464 梶原、畠山、和田は頼朝死後のことだし
三浦、大江(毛利)は明らかにバカ夫婦のせいではありません。
469 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 22:23:43
>>462 >一条忠頼
も、頼朝に疑いかけられて討たれた。
今若と乙若は話題にもしないのか・・・あいつら
471 :
日本@名無史さん:2005/06/30(木) 00:46:19
>>467 『平家』には石田次郎為久という武士(三浦党?)が義仲の首を挙げたことになっているが、
この話も実は創作なの?
472 :
KM:2005/06/30(木) 01:14:22
>471
『吾妻鏡』に石田次郎が義仲を誅戮したとあります。
>>471 『愚昧記』に「義経郎従字石田二郎」とあるぞなもし
>>470 10年ぶりっだってゆうのに義朝ではなく清盛を偲ぶような母子ですよ。清盛種の女(妹)は出てこようとも、義朝種の息子(兄)は当然無視です。
義仲のことを源氏の武者にあるまじき、とか批判してた気がするけど、源氏の父ちゃんは気にも留めない義経くん。
今作のコンセプトは家族愛とかそんなんだったと思うんだけど。
475 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 02:00:00
IF、もしも、
木曽義仲がいなかったら、源平合戦はどう展開したのかな?
平家を都落ちさせたのは彼の功績だが、普通に範頼・義経軍が代わりにやっただけの違いかな?
476 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 13:56:04
いや、北陸方面に向かわせた大軍が無傷である以上、
頼朝・範頼・義経軍は苦戦すると思うよ。
仮に平氏・木曾・鎌倉の戦力比率が4:3:3として、
平氏vs源氏だと4:6で源氏有利だが平氏(・木曾)vs鎌倉だと7:3で頼朝は絶対不利。
範頼・義経軍だって北信越の方面に関わるどころか東国から出られない。
尾張知多(南セントレア)の土人は怖い。 お父さんをなぶり殺し。
478 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 15:58:33
479 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 17:43:02
>>475 ちなみに平家都落ちは、義仲の活躍のためだけではないと思う。
『吾妻鏡』によれば、頼朝は一ノ谷合戦の翌月に九州の武士に平家追
討の参加を求める書を送っている。その中に、
「去年の追討使、東海道は遠江守義定朝臣、北陸道は左馬頭義仲朝臣、
鎌倉殿の御代官として両人上洛するのところなり」
とある。義仲が自分を頼朝の代官だと考えていなかったことは明らか
だが、安田義定の場合も同様と思われる。義定は義仲とほぼ同時に上
洛して、ともに洛中の警護を行っている。しかし義仲戦死後は義経と
合流して、平家追討軍に参加している。
義定は、義仲とも頼朝とも不即不離の立場をとれるだけの勢力があっ
たらしい。おかげで頼朝に嫌われて、のちに殺された。
甲斐源氏勢が不遇だったのもやっぱ
苦労さんやKABAさんと同じ理由?
481 :
Ж:2005/07/01(金) 19:34:33
巴御前に巴投げされたい!
手の位置が重要で乳の方がいいな‥
482 :
木曾@名無史さん:2005/07/01(金) 20:15:02
>>478 「義仲がいなかったら、北信越はまるまる平氏の領域だよ」ってことだろ。
>>482 ま、ね。
直接には在地を押さえるのは越後城氏ジャマイカと思うケドねー
484 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 20:25:36
もし、義仲がいなかったら、
越後の城氏や甲斐源氏の活躍が、史実よりももう少し目立ったってところですか。
「知名度高め村PRに」「悪役イメージ広めた」
義仲は京都で乱暴狼藉(ろうぜき)を働いたと伝えられるが、「都での乱暴は、
義仲以前もあった。義仲だけに汚名を着せるのは適当ではない」との擁護論も
出ている。
ドラマで、俳優の小沢征悦さんが演じる義仲は、入京後、都での派手な生活に
おぼれ、兵たちを統制できずにいた。義経は、義仲軍の横暴を止めようとするが、
義仲が耳を貸そうとしなかった場面も描かれた。
県内外の郷土史家らでつくる「木曽義仲史学会」の千村清文事務局長(50)は
「田舎者という描き方で、視聴者が史実と受け止め、悪者イメージが広がったのでは」
と懸念する。実証的な義仲研究で知られる村の郷土史家、田屋久男さんの長男、
万芳(かずよし)さん(51)も「時代背景の説明が不十分で、義仲をそこつ者と
描きがちだったと思う」と残念がる。
一方、評価する声もある。日義村の今井元秀村長は「配役が良く、豪快な
武将として描かれた。登場回数も多く、村のPRになった。主役は義経だから、
引き立て役となりがちなのは仕方ない」と話す。
NHKによると、義仲入京を放映した6月12日から、26日にかけての
3回の視聴率(ビデオリサーチ社調べ)は、関東地区18・9〜20・9%、
関西地区14・5〜18・2%。義仲の知名度が高まったのは確かと言えそうだ。
日義村振興課は「義仲への関心を一過性で終わらせないため、何をすべきか
考えたい」とし、木曽義仲史学会も「今度は、義仲が主役の大河ドラマを」と
NHKに陳情する考えだ。
あーあ、とうとう新聞沙汰になっちゃった
487 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:30:18
>>480 甲斐源氏の場合
>>479さんのご指摘でもありますが
頼朝の配下に最初から入ったわけではなく
当初は状況にあわせて同盟していて、頼朝と同格という立場でした。
それが頼朝の勢力が伸張していくに従って
従属化したと考えられます。
そういった意味では最初から範頼や義経とは立場が違いますが、
頼朝に取って代わりうる血筋であったという部分で警戒された面もあります。
現に、梶原景時が失脚したあとは彼は武田氏を将軍に担ごうとしたようですし。
また、甲斐、遠江に勢力を持っていたという点でより一層警戒されいいた
というのも挙げられると思います。
488 :
日本@名無史さん:2005/07/01(金) 22:35:26
鎌倉体制の当初の目的は東国における自治権確立でしょ。
平家が挑発しない限りは、頼朝の性格も考えれば
上洛戦は当面しなかったんじゃないかな。
実際、平家は北国に兵を送ってるし。
序列的に
河越>安田>佐々木>畠山>渋谷>景季
でよろしいの
491 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 14:06:35
畠山は一番年下だし、何の職も与えられてないから、本来は一番最後に名乗るのが筋になるのかな?
492 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 15:02:30
>>490 安田が筆頭になると思う。
安田はその時点では独立勢力で頼朝の同盟者の立場
しかも、唯一「遠江守」の官職を得ている。
他の人々は無位無官
493 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 16:37:25
安田>河越>渋谷>佐々木>梶原>畠山で宜しいか?
ドラマで河越重頼が最初に名乗ってたのはやはり岳父としての配慮でしょうか。
安田義定ってちゃんとテロップもピンだししっかり軍議にも出てるんだね。
495 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 21:04:24
岳父って
まだケコンしてないやん。
佐々木>梶原って序列の根拠は?
あぁ、先陣争いの勝敗でっか・・・
497 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:39:18
郎党に対して
「かたがた、参る!」て科白でいいの?
「ものども、参るぞ!」では?と思た。
498 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 01:27:05
佐藤兄弟は一方が屋島で死んだのは分かるんだけど
もう一方はいったいドコで?
>>498 三郎継信は屋島で。
四郎忠信は義経主従が吉野山に逃れた時、
追手の僧兵相手に自ら義経と称して奮戦し、
義経一行を無事逃した。
その後京都にて愛人の密告により六波羅の
北条時政軍に攻められて壮絶な自刃。
歌舞伎「義経千本桜」で有名
>>499 さんくす
伊勢三郎や駿河次郎は一応実在の人物なんだよね?
キサンタはなんだ???
501 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 16:24:35
歌舞伎や軍記物に出てくるから実在とは限らない
駿河のじろさんよりは熊野のキサンタさんの方がそれらしい
人が実在したと思われますがいかがなんでしょう。
『義経記』に出て来る下人では。>喜三太
『吾妻鏡』には、弁慶や駿河兄弟は出て来ますが、兄弟再会、一の谷、腰越
状あたりは軍記文学の影響も受けている様な・・・。
なにやら安徳帝にはオチが用意されている
そのオチに能子が関わるようだ
これだからインテリ系女っていうのは嫌になる
ヘンに創作するのではなく今日の研究を元に史実に則ってやって欲しいな
>>487 「彼は武田氏を将軍に」の彼って誰ですか?
頼朝死去後に担がれたのって平賀朝政だから甲斐源氏じゃないっすよね?
>>493 根無し草の佐々木が一番下で、景季と重忠も逆じゃないですか?
8時からは教育のほう録画したから「義経」録画できんくて、おまけに「いまあい」みてて22時からの再放送も見逃した。土曜まで待たな。
教育の方は面白かったけどちょっと残酷。
「伝頼朝像」を頼朝と考えてる人をスタジオに呼んどいてあの構成はないですよね。
尊氏 高橋克美
義詮 尾美としのり
直義(伝頼朝像) 野茂英雄
に似てた。善光寺の頼朝木像の方は翁の面にでもなりそうな顔ですね。
精彩のないうちの普通のテレビでは翁の面のようにも見えた頼朝木像でしたが、そういえば手塚治虫の「火の鳥」の頼朝が結構似てたかも。
507 :
493:2005/07/05(火) 02:30:11
>505
安田以外は無位無官だと、どなたかが教えてくださっ
たので、まぁ年功序列で並べてみただけです。
佐々木と梶原では、佐々木が先陣争いで勝ったので佐
々木を上に。
梶原と畠山では、年令で梶原を上に。
てなカンジで。
508 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 03:13:22
義経の末裔って、一人くらい居てもおかしくないよね?
俺俺
510 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 04:22:09
モンゴルにいっぱいいるよ
511 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 05:11:26
義仲編はつまらなかったなー
血の気は多いが知恵が足らないっていう従来のイメージから全然出てないじゃん。
この際都での乱暴狼藉とかは敢えて無視していただいて、
田舎武士の純朴な美徳みたいなものを前面に出して、都への憧れと反発、
公家化した平氏の堕落や、公家や院の無責任な権謀術数に対する怒りを、
東国武士全体の意識とリンクしたかたちで出してくれたらよかったのに。
その方が頼朝みたいな冷酷なヤツでないと古い権威に対抗できないということに
説得力も出るでしょ。
512 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 08:52:04
513 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 12:15:01
梶原がかつごうとしたのは武田有義
514 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 13:04:48
>>511 俺は大河で「木曽義仲」か「巴御前」を見てみたい。
今までの大河で出てこなかった話は山ほどあるし。
特に斉藤別当実盛との話は義経の勧進帳にも負けず良い。
>>511 しかし、そこまで行くと創作になってしまいますから(今更ですが)。
歴史板ですので、出来るだけ史実に沿った方向で考えましょう。
>公家化した平氏の堕落や、公家や院の無責任な権謀術数に対する怒りを、
公家=堕落・無責任・陰謀家というのも、新井白石らが喧伝したイメージが
尾を曳いたもので、実像にそのまま当て嵌まるとは言い難い。
そういえばその後の巴御前は義仲寺を創建だとか尼だとなんとか
最後の方で言ってたな
そもそも義仲に都の雅に対する憧れやコンプレックスはあったのだろうか・・
安田義定の駿河守任官は義仲絡み?
↑済みません遠江守でした
519 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 19:14:10
>>516 巴御前は、その後頼朝に捕らえられ、その時に御家人の和田義盛が、頼朝に請うて妻としてもらいう
けますが、頼朝の死後、義盛が北条義時に挑発され挙兵し、討ち滅ぼされると、越中石黒で出家して
尼となったといわれています。(和田の元で義仲の子種を生んだと言う説もあり)
義仲討死後、一人の尼僧がこの地(義仲寺の地)へやってきて義仲の供養を心をこめて行いました。
その尼僧が巴御前の後身であったとする言い伝えがこの地の残されています。
そして、義仲を慕った芭蕉の墓は、義仲の墓と隣合わせに並んで立てられているます。
http://park3.wakwak.com/~be-yan/basyou/gityuji/gityuji01.htm 芭蕉の門人・又玄が次の句を詠んでいます。
「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」
義経ファンなわたしですが、祖は頼朝の家来衆で千葉氏か葛西氏だったそうです。
521 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 00:49:00
>520 ???
522 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 01:31:22
正しくは奥州葛西氏かその傘下に入った奥州千葉氏とのこと。
鎌倉軍の総大将頼朝より所領を拝したそうな。
524 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 08:44:38
>523 ???かor???
>>511 田舎武士=純朴
この前提からして間違っているような‥‥
526 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 09:52:49
>>517 安田義定は確かに木曽義仲と一緒に上洛して
その時に任官されたようですが
彼は義仲の「配下」ではなく「同盟軍」としての上洛でした。
つまり、当時は義仲、行家、義定、その他畿内武者というのが
「並列状態」で上洛したものと考えられています。
結論は義定は独特の都とのつながりを持ち単独の力で任官された
と見てよいと思います。
>>526 サンクス
当時の甲斐勢はある程度河内源氏さんたちに
拮抗できるポジションだったんだね
しかし今イチブレークしない家ですね後年の晴君にしても
義経没落の原因はなんだ?
>>522 >千葉氏か葛西氏かという時点で嘘ですね
?なして?
ま た 子 孫 厨 か !
偽 家 系 図 に 踊 ら さ れ て ろ
自称子孫さんでも、
うちは誰にこう繋がっている
とか
代々のこんな武具や品物がある
とか燃料投下してくれればまだいいのに
以外な発見が・・w
↑スミマセン・・
でも以ての外のハケーン・・ワラッテシマッタ
534 :
日本@名無史さん:2005/07/06(水) 21:28:30
>>529 千葉氏、葛西氏も村岡良文、忠頼の流れ(自称)ではあるが
何代も前に分かれており血縁的に遠すぎじゃないの
千葉氏か上総氏、葛西氏か豊島氏というのであれば
わからないではないけど
>>512-513 へぇ〜、確かに石和信光がチクリ入れてますね。
頼朝・景時にはあんま良い感情持ってなさそうなのに>有義
536 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 11:32:32
ドラマ本後編買った。義経の正妻が、落ちぶれた義経には同行せず、なぜか鎌倉に
帰っていく、という設定になっていた。ひどい、ひどすぎる!
静を義経の唯一永遠の恋人にしたいんだろうが、そこまで史実をねじまげちゃ、河越の娘が
可哀想すぎる。奥州まで赤ちゃん連れで苦労してついていって、一緒に死んだのは彼女なのに。
輿入れ直後に義経の館から追い出され(妾である平氏の娘と同居したい義経のせい)
実家は義経と縁続きという理由で御家人ではなくなってしまったのに。
畠山重忠役がスゴイおっさんなのにも萎えた。史実は義経よりさらに若いのに・・・・
時代考証無視しすぎ!
>>536 河越氏が御家人でなくなったてのは初耳。
詳 し く
538 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:04:33
>536
畠山重忠役の人って、なんていう役者さんですか?
ググって顔を確認したいので、教えてください。
>>536 吾妻鏡→妻22
源平盛衰記→平時忠の娘
義経記→久我大臣の娘(モデルは平時忠の娘らしい)
他に奥州で娶った妻の説もある。
ファンサイトや大河板で頑なに河越氏の娘と信じ込んでいる書き込みをよく見るが
それを史実と決めつける発言はやめたほうがよい。
>>536-537 ちょっと調べたら重頼縁戚(婿)の下河辺政義が同じ事由で
所領没収を鎌倉からくらってるようなので(吾妻鏡?)
それと混同してるのでは?
541 :
536:2005/07/07(木) 15:28:37
>>540 重頼が所領を返上して、かわって重頼の母親が預かる形になったと記憶していますけど・・・
とにかく重頼は御家人としての公式の席につならることが出来なくなった。(その後確か殺されてた)
畠山役の俳優さんはタイトルロール見逃したのでわからないんです・・・スミマセン。
義経は13歳くらいのときに奥州で女の子の父親になっていますよね、で、その子は
源三位頼政の孫(源有綱)の妻になっています。
義経と関係した女性は多いようですが、(時忠女とか)吾妻鏡では正妻は河越女ですし、これが
公式の記録とみて差し支えないのでは?
542 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 17:50:05
奥州に行ったのは誰かってのはよーわからんな
543 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:27:00
畠山は声と背中しか出てきてないよ。
土肥か誰かと勘違いしてるんじゃないの。
>>541 重頼のかーちゃんなんて初耳〜♪
あと、義経が奥州でケコーンてののソースよろ。
545 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 23:29:13
ゴミン。カーチャンいたわ。平伏orz
>>541 >河越の娘が奥州まで赤ちゃん連れで苦労して
>ついていって、一緒に死んだのは彼女なのに。
>義経は13歳くらいのときに奥州で女の子の
>父親になっていますよね
それ君の想像だから。
河越の娘が奥州についていった史料も
13歳くらいの時に父親になったという史料も無いから。
記録は義経とともに亡くなった女性がいたことと
源有綱が義経の婿と書かれたいたことだけ。
>>546(
>>541かな)
嫁さん関係で一番新しい論考は下山忍「義経の妻妾と静伝説」(『義経とその時代』)
あたりかな?
んで、有綱妻を最初の奥州滞在期にこさえた義経実子と考えて、特に史料的根拠も無しに
佐藤兄弟の姉妹と看做すのは野口実「義経を支えた人たち」(『源義経 流浪の勇者』)
あたりでおK?
548 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 03:56:37
佐藤兄弟には妹がいたけど恋仲にはなってなかったはず。奥州で義経の子を孕んだ姫様は身投げしてしまったけど子供はその土地で語り継がれてたみたいだから子孫いると思われ。
女連れで一年以上も各地を転々とする潜伏生活は難しい。
京に残した場合も河越重頼女には監視の目が光っているから奥州行きは難しい。
550 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 12:19:37
衣川で、義経と一緒に死んだ妻子がいたことは、確定なんですか?
もしそうだとすると、
鎌倉へ行く前か、京都から戻った後か、いずれにしても奥州出身の女性だろうと思いますが。
だって、義経自身必死の逃亡旅だったのに、女性の身で京都から奥州まで逃げて行けると思えない。
どうなんですかねえ
なんか昔から「定説」のように言われてますか・・・妻子一緒
>はその土地で語り継
口頭伝承は、あてになりませんよ。
>550
『吾妻鏡』に、「今日。於陸奥国。泰衡襲源豫州。是且 勅定。且依二品仰也。
与州在民部少輔基成朝臣衣河館。泰衡従兵数百騎。馳至其所合戦。与州家人等
雖相防。悉以敗積。豫州入持佛堂。先害妻(廿二歳)子(女子四歳)。次自殺云々」。
義経が死んだのは、文治五年。四歳なら文治二年の生まれでしょうが、義経
が奥州に身を寄せたのは、文治三年の事です。
554 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 16:37:58
義経可哀想、頼朝酷い奴を強調するための、吾妻鏡の脚色ってことはないの?
555 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 17:59:43
義経に北条氏が同情するかよ
556 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 18:36:11
同情っていうか、頼朝は酷い奴だったけど、
政子は静をかばういい人でした調にできるから
北条氏にとってはいいんじゃないの。
557 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 20:33:29
>>553 サンクス。
なるほど、それだと種を仕込んだのは京都にいた頃ってことですね。
乳飲み子を抱えて1年の逃亡旅か、、大変だなー。
よっぽど深く愛し合っていたんだろうなー。
静は有名なのに、こっちの女性は名前も素性もわからないとは、不条理だなー。
ところで、源有綱の妻の母は、どうなったんですか?
>>539 >>552が挙げているように、
『吾妻鏡』では、義経と一緒に死んだ女性を
「妾」などではなく「妻」と記している。
『吾妻鏡』が義経の妻と認めているということは
河越重頼の娘だ、と言われているわけで、
根拠がないわけではない。
『吾妻鏡』よりも信憑性のある史料が出てくるのなら
話は変わってくるけど。
559 :
日本@名無史さん:2005/07/09(土) 00:00:27
後世に中国の歴史教科書しか残ってなかったら
あの内容が史実になっちゃうんだな。
>>557 だーかーらー
有綱の妻自体、義経の実子でなくて、ょぅじょやも知らんじゃろがい
561 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 03:42:22
義経の子孫が朝青龍だって本当ですか?
562 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 04:20:58
みなさん安室奈美恵の性器を狙っているのですか?
>>550 んなこといったら、
義経がジンギスカンになったという話だって
可能性がゼロではなくなってしまうだろ。
年齢的には義経に子供がいても
若干厳しくてもありえない話じゃないし。
むしろ、養女であるというなら、
何で義経の養女である必要があるのか
根拠を聞いてみたいものだ。
565 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 13:15:33
養女を嫁に出すのはよくある事じゃないの。
566 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:31:21
嗅げ吸えは範頼軍だったのにな
567 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:39:38
義経自ら剣を抜いて闘ったなんて無茶苦茶だよなw
捏造もほどにしろよとNHk
568 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:42:45
>>567お前が見ているのは「ドラマ」 意味、わかるよね。
569 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:45:50
ええっと・・・
薩摩守忠度とかは出なかったのかな
570 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:46:32
ドラマなんだから自ら戦ってもおかしくねえだろ。
そんなことより、義経なんて卑怯なことしまくってるのに
あんなに平和主義者に描いたら平家がうかばれねえよ。
571 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 20:51:19
義経ってやっぱりいい人なんですね
平和的に村を立ち退かせましたよね
中国とは違うよな
村人なんか立ち退かせてるわけないやんけー
アホかー
思わず宗盛様と同じように呆然と画面を見つめてしまったよ・・・
>>572 老婆心ながらアホかーkアンカーはNHKねw
574 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:17:12
何の罪も無い村人の家に火をかけた上に
法皇様の和睦の書状も握りつぶしたんですかね?
摂津ですが、勝尾寺では焼き討ちその他、かなりの狼藉を行っています。>義経
非常時という事で、百姓は寺に財産を預けましたが、それも被害に。
京都での人気は高めでしたが、いざ戦の庭となると、どうだか。
>567
騎射が全く出て来ませんね・・・。それに、打物といってもああチャンチャンバラ
バラとやっていても、疲れるだけでしょう。演出もよくありません。
576 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:21:18
一ノ谷って、2月7日だったんですよね?
そうすると、旧暦なら日付=月齢ということになるわけだから、この日の月は
上弦の月のはずですね。
しかし、ドラマのなかで映っていた月はどう見ても月齢27日くらいに
見えたのですが、これってどういうことですか?
577 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:24:28
>>568 ドラマ板ならそれでもいいだろう。
ここは日本史板だ。我々は歴史学の高等教育を受けたか受けたいと志す者達の集団である。
我々が払った視聴料から作られたドラマに要望を出すのは当たり前。
578 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 21:47:16
>>568 生半可に見ている連中はこれが歴史だと思うが
579 :
院判官代:2005/07/10(日) 21:57:37
熊谷次郎直実と無官大夫敦盛のところが観たかったですね。
580 :
院判官代:2005/07/10(日) 21:59:57
薩摩守忠度の最期も観たかったですね。
581 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:00:55
義経が法皇をゆすって、自らの作戦を成功させるために
和睦の院宣を出させるシーンがなかったですね
私が見逃しただけですか?
582 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:03:17
>>572 私も唖然としました。
村民の了解をとったわけがない。
583 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:03:25
敦盛最期は平家物語でも出色の場面だと思うがな・・・
知盛もあっさり舟に乗っちゃうし、愛馬との別れの場面・・・
584 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:06:50
>>574 むしろ、義経がだましうちを決行したんです。
嘘の和睦の院宣を出すように法皇に迫ったのも義経です。
585 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:13:51
>>577ここは日本史板だ。
なら、ドラマの話をすること自体が場違いじゃねーか。
ネタにして歴史話に花を咲かせるならともかく、捏造だ!捏造だ!ってアホか。
まして視聴料がどうのこうの。勘違いもはなはだしい。
>>我々が払った視聴料から作られたドラマに要望を出すのは当たり前。
要望なら直接NHKに出せよ。
極端なこと言えば金を払ったんだから、どんな変態プレイにも応えてみやがれということか。NHKもたいへんですわ。
586 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:42:10
587 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 23:04:45
>>584 じゃあ、義経を美化するために法皇様を悪者にしているんですか?
ひどい話だ。
588 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 23:08:53
ドラマにしてもつまらんね
こんな、歴史でもなくつまらんドラマ
なんて作りなさんなNHKは
でも、2000年を過ぎてからロクなモノがない
まだ元禄繚乱は良かったよ
ドラマにしても、もしかしたらそういう史実が
あったかもしれないというIf?を提供してくれた
チャングム見れ。
元禄繚乱?ジェームス三木と西田・津川の加齢臭大河はイラネ。
590 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 23:14:04
別に史実どおりじゃなくてもいいんだよ。
創作にしても絶対ありえねーってのをやめてくれw
不自然なほど平和主義者なのはきもすぎるw
だいたい戦争屋なんだから平和主義者なわけねーだろ。
591 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 23:14:56
>>585 だったらお前はドラマ板に逝って「タッキーかっこいい」とでもカキコしていろ
592 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 23:28:00
>>587 法皇もノリノリだったか、いやいやだったか知らないけど、
法皇だけの策ではないことは確かです。
義経美化のため単独で法皇のせいにされてたのは気の毒です。
>>568 そう思うならば、大河ドラマ板にいきなされ
敦盛カットかよ。
名場面なのにな
>>592 ヒデーよな
全部法皇が仕組んでやってっることになってるもんな
ご丁寧にナレで「源 氏 軍 は 全 く 知 り ま せ ん で し た」・・・
>>588 『元禄繚乱』までは、なんとか我慢出来ました。以降はホームドラマです。
『北条時宗』以降は、ギャグとしか考えられません。
>>594 崖を馬で駆け下りたというのであれば、史実かどうかは怪しいにせよ、寧ろ
こちらの方を採用してもらいたかったですね。
>>596 スレ違いを覚悟で言いますが、新撰組は面白かったと思いますが…
598 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 02:08:34
えー!!!
599 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 02:12:56
>>591>>593 なんでそういう結論になるのかさっぱりわからん。
おそらく話が通じない人達なのだろう。
まあ、要望に応えて出ていくがね。
600 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 04:05:32
なんで敦盛がないんだ・・・
タッキー1人をヒーローとして描きたいからか・・・
義円は結局出ることはなかったがラストのナレーションで墓まで紹介していた・・・
敦盛は”あ”の字もなかったな・・・
信じられん
俺はもうとっくに見限って見ていないが、でもこのスレは面白いw
>599
NHKの職員の方ですか?
というくらい、あんたの発言は一般人としては不自然なものだと思うよw
602 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 06:05:00
どうでもいいが日本史板の主旨に則り、
学術的に語れない単なるアンチNHK信者は実況板やドラマ板へ行って欲しいな。
平家軍の乱暴狼藉もスルーして美化してるんだから
鎌倉&範頼&義経側の美化も仕方あるまい。
どうでもいいが学術的っていうなら、
子孫厨や伝承厨も追放して欲しいなw
伝承厨はまだ我慢できても子孫厨は痛すぎる
606 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 12:53:37
>>603 乱暴狼藉度
田舎者鎌倉軍>>>>|越えられない壁|>>>>平家軍
小学生の頃に熊谷直実、平敦盛の話から歴史にハマった
俺としてはとても残念です。。
608 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 20:48:37
>>602 お前、初心者スレでもそんなこと言って荒らしてたろ?
たかが「2ちゃん」で学術だのって……
それはもしかしてギャグで言ってるのか?
609 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 21:10:08
敦盛等はNHKがオーデションやったらしいけど結局不採用にしたらしいよ
じゃあ最初からやるな
610 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 21:11:38
>602
おまいよう、冗談は顔だけにせいよ
100歩譲って義円はいいとして、敦盛はなんでやらないかなあ。
NHKに抗議してもいいと思う。
612 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 00:25:31
昔の大河ドラマの新平家とか義経はいかがでしょうかね。
観てみたいけど、大枚はたいて総集編DVD買う価値あるかどうか…
>>609 納得できる子役がいなかったんだろ。
オーディション参加者の中で一番良かったからと選んだ静がアレだぞ。
614 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 01:10:26
>>613 静は広末の予定だったが
できちゃったケッコーンがあったのでボツ
人妻が静を演じるのは俺も嫌だが
代わりにホリプロ経由で連続ドラマ主役経験もある石原が選ばれた
という経緯があるが?
広末がボツになったからかどうかは知らないが、
静はオーディションで選んだと大河板に書いてあった
616 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 01:20:19
石原は事務所のごり押しだろ?
一の谷と言えば、平敦盛と熊谷直実
それに、鵯越で畠山重忠が馬を担いで下りるシーンは欠かせないと思うのだがなぁ
屋島は那須与一が出るらしいが、壇ノ浦もあっさりと終わらせちゃう悪寒
618 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 01:48:31
>>617 馬担いで降りられるわけないだろ、馬鹿!
619 :
NHK広報:2005/07/12(火) 02:50:48
>>617 すいません、敦盛と熊谷直実の件、畠山重忠のギャグはあえて外しました。
敦盛の件は主役であるタッキー1人を際立たせるため、
畠山重忠のギャグはNHKが誇るCGでも(w
それもこれも視聴者の皆様への配慮と思ってください。
なお、那須与一と壇ノ浦でのハッソウ飛びはご用意いたしておりますので、
今後ともNHKをよろしくお願いします。
那須与一はCGで面白くできそうですね。
マトリックスなんかでも弾丸が飛んでゆくのをゆっくり写して
迫力をだす、という場面があったし。
621 :
NHK広報:2005/07/12(火) 03:55:29
>>620 一昨年度のMUSASHI-武蔵-時の巌流島の決闘で、
武蔵が小次郎めがけて木刀を振り下ろしたシーン、
アレ、マトリックスからパクりました。
大変ご好評を頂きました。
今後は、スターウォーズの1シーンからのパクリを狙ってます。
明らかなパクリでも、今後とも温かい目でNHKをよろしくお願いします。
622 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 08:31:56
むさしは第1話からパクリで騒がれたな
623 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 08:57:19
>>619 埼玉県熊谷市在住の者としては、熊谷次郎直実が平家きっての美少年平敦盛を
討つシーンがカットされたのはとても納得いかん!!!ガキの頃から盆踊りとか
では俺たちは直実節を歌い踊ってたんだぞ!!!NHK!てめーらもう受信料払わねーからな!!!
時節柄、子供の首を斬るわけには・・
敦盛のシーン楽しみにしてたのに。経正も出てこなかった。
維盛はいつ入水するの?六代は出てくる?
>>624 でも義高は切られるみたいだよ。敦盛より下だけど。
626 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 12:08:35
敦盛→船に避難するところ、熊谷直実に「卑怯だぞ。正々堂々と戦え!」
といわれて、逃げられたのに健気にも戻ってきて討たれる。
義経→八艘飛びで教経に同じことを言われて、逃げまくる。
敦盛が出たら義経が卑怯に見えちゃうからでないそうです。
八艘飛びは逃げるというより、かっこいい見せ場と勘違い
しているようで、教経もでないのに八艘飛びだけやって
かわりに阿部知盛が追っかけるそうです。
627 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 12:33:38
君らは重大な勘違いをしている。
大河ドラマ義経は、タッキーの時代劇風のプロモーションビデオなのだよ。
よってタッキーの絡まない敦盛のエピソードが出る余地は無い。
628 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 12:44:52
タッキーはコンサートでも、義経の扮装しながらワイヤーでくるくる
回転してるらしい。タッキー、それがやりたかったのか。。
滝沢は「八艘飛びでは義経と一緒にすごいものが飛びますよ」って
言ってるらしい。それはイルカじゃないかといううわさ。
確かに平家物語に壇ノ浦でイルカの群れがいたという話は出てくる
けど、「ホラ、イルカも義経の味方♪」みたいに義経と同期して
ファンタスティックに飛ぶんだろうな。
629 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 13:20:05
シンクロナイズド八艘飛び w
630 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 13:24:13
で、背景では粛々と平家の皆さんが入水するわけだな。
イルカに乗った少年とか・・・w
阿部知盛は「見るべき程の事は見つ、いまは自害せん」は言ってくれるよ、ねぇ?
『平家物語』で一番印象的な台詞なんだが
633 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 20:08:08
>>632 いわないと思う。知盛が「無益な殺生するな」と命じた教経の代役として
義経&イルカと追いかけっこしてるはずだから。言ったら変。
634 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 23:09:36
壇ノ浦で裏切る水軍とかそういうのも全部スルーされそうな予感
635 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 23:12:29
それは出る。っていうかそれが勝因になるみたいよ。
そのかわり義経の汚点の漕ぎ手撃ちはスルーされることがムックに
書いてあった。
636 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 23:29:54
義経の魅力にメロメロになって平家を裏切る水軍衆。
637 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 23:51:29
<<635
しかし、その中心の伊予の河野氏は出ないと聞いたが・・・。
638 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 00:44:21
>>597 年寄りはろくに見もせずに批判するものだからさ。
「信長」もあれはあれで面白かったけど年寄りには受けが悪い。
信長が自らを神格化させていく過程や精神的に病んでいく光秀の描写など中々のもん
なにより撃たれても撃たれても死なない随天などネタドラマとしても楽しめた。
>>628 去年の糞CG連発みても分かるとうり冗談抜きで「ファンタスティックに飛」びそうなんですが。
639 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 01:08:31
オレ気づいたんだけど後白河法皇って黒いヤツいるじゃん?
あいつって後白河天皇が堕天した姿だと思うんだが・・・
640 :
NHK広報:2005/07/13(水) 01:22:43
盛り上がってますね。
近年、大河視聴率が低迷しておりましたので、
義経・秀吉・赤穂浪士の三種神器での起死回生がズバリと決まりました。
NHK視聴者はジジ・ババのDQNが多いため、
こういった分かりやすいストーリーがウケます。
さて、壇ノ浦での舟の漕ぎ手である非戦闘員打ち落としはやりません。
全国3千万人のNHKファンの方、タッキーファンの方、ご安心下さい。
今後とも、NHKをよろしくお願いします。
641 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 01:37:47
おじいちゃんたち『大河ドラマ&時代劇登場人物配役事典』へGO
新選組をちゃんと見た人の評価を読んでみよう
新選組は民放でやってたらこれだけ叩かれなかったのかも。
「竜馬におまかせ」みたいなドラマだしさ。
近藤と土方が黒船見物に行って褌姿で抱き合ったシーンで
こりゃ駄目だと呆れてそれ以降見なくなったが。
643 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 06:02:22
>>640 漕ぎ手狙い撃ちの卑怯な手を使わないで、どうやって源氏が平家に勝つの???
まさか潮の流れが変わったってだけか???w
644 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 08:20:26
全てご都合主義で解決
645 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 10:09:55
義経はスーパースターだから必ず勝つ。それだけのこと。
鎌倉方苦戦→タッキー祈る→天から白旗がヒラヒラ→
それを見て水軍衆裏ぐる・潮流も逆転→めでたしめでたし
とか?
そいや、逆落としの前の白馬がパカパカ〜ってのはどういう演出?
「ここを下りる!」て言ったものの、恐怖でラリってたのかなw
648 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 17:15:16
田内水軍が伊勢義盛によって寝返るとか。
河野通信とか熊野水軍とか全部田内にごちゃまぜ扱いと見たが。。
ところで日本史通のみなさんに質問です
逆櫓の争いは皆さん的にどっちが適切だったと思いますか?
ま、結果OKなんですが・・
逆櫓の逸話自体が義経と景時の対立の伏線で単なる虚構!
・・・てのは駄目?w
史実かどうかという問題もありますが、実際に利用されていた事を考えれば、
どう考えても逆艪があった方が便利でしょう。
船と船の戦いというより、舟に乗った人同士の戦いである以上、乗りこなせ
た方が勝利に結びつく訳で、屋島行き自体も、人数と荒れた海の事を考えれ
れば、やはり無謀であったと言えます。
屋島は無謀。一の谷や壇ノ浦では、範頼(苦戦したものの、九州へ上陸)も活
躍している訳で、義経の軍略については、文学によって過大評価された面も
ありそうです。他者(範頼や景時)の活躍が、無視され過ぎですね。
なお、裏切りについてですが、義経の注進状の中に、「民部大夫成良」を生け
捕ったとある事から、事実で無いとする論者も存在しますね。
当初は平家方であった事から、投降を表したものだとも言いますが。
652 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 20:10:18
>事実で無いと
あんたの知識にはいつも感心するがね。ただ日本語勉強したほうがいいよ。
「無」という漢字は「〜がない」という時にしか使わん。
つまらん事でスミマセンが
Which is correct
艪or櫓?
>>652 意味の無い突っ込みだな。
それによって文意が変わってしまうならともかく、
読み手にはきちんと文意が伝わってると思うがね。
655 :
654:2005/07/13(水) 20:27:24
私質問した人ですがみなさんアリガトウ
個人的にもリスクヘッジ取ろうとした平左さんがやはり適切だと
思ったのですが、義経さんの果敢なイメージを伝える逸話ですね
657 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 20:51:12
>>651 あなたが無謀だと思うからこそ屋島は成功したんでしょう。
文字だけの史料から想像して範頼を再評価するなら他の誰でも再評価できる気がw
>>657 すいませんが、日本に限らず、言語というものは古来から絶えず変化しとりますが・・・。
発音や単語の意味を含めてね。
コミュニケーションの道具ですから通じればいいのです。
・・・それくらい理解してくれよ。orz
びみょうにやばい
>>658 九郎判官の事はくはしく知りて書きのせたり。蒲冠者の事はよく知らざりけるにや、
多くのことどもを記しもらせり。
>>652 河千里而一曲也。「無し無しの君」とでもお呼び下さいませ。
後学の為になりそうな書をご存知でしたら、是非ご教授を。
>659
「その事させむとす」「言はむとす」「なにとせむとす」と言ふ「と」の字
を失ひて、ただ「言はむずる」「里へ出でむずる」など言へば、やがていと
わろし・・・と、草の陰から言われそうです(笑)。
>658
しかし、結果論でしょう。成功したからいい様なものの。
範頼の活動が、注目されていないのは事実ですし(有能とは言いませんが)。
664 :
659:2005/07/13(水) 22:56:40
>>663 草の陰から言われてもいいのよ。
もうちょっと柔らかくなりなされ。
たかだか記録用の言語にすぎません。
そこから当時の歴史に思いを馳せる想像力こそが重要なのでは?
解析や裏付けも大事なんだけど、所詮は人間同士のコミュニケーション手段です。
他人の共感を呼ばない言葉は残らない。
そういう意味ではくだらないレスでも時に心に残ることがある・・・。
>>664 有り難いお言葉です。しかしながら、やはり、正しい言語というものは、日常
でも必要になりますし、基本が分らない事には、解析も出来ません。
感性も重要ですが、それだけでは学問には成り得ない。私の失態です。
うん、また何か言われそうな事を・・・。
>どう考えても逆艪があった方が便利
なら すべての船に最初から付いてるでしょうな。
>>650に一票
800年以上前のこととはいえ
現在の一の谷は当時の地形を維持してるんでしょうか。
また、ここが義経が降りたところと伝えられてるような場所があるのでしょうか。
>なら すべての船に最初から付いてるでしょうな。
徴発された船に、軍事用の装備が付いていなかったとも考えられます。
もっとも、後世の戦船に設置されていたかどうかは憶えが無い為、発言は
あくまでも暫定的な推測です。
しかし、純友の乱や戦国期の海戦では、放火が重視されていた様ですが、
射殺・打物で終りそうですね>大河ドラマ。
地味ですが、海上で一番恐ろしかったのは、これでしょう。
>668
一応、現在「鵯越」と呼ばれている土地が、一の谷の10km先にあります。
獣道の様な所とはいえ、崖という訳では無い。
まず、「一ノ谷の戦い」という呼称に大きな問題があります。この合戦
の戦場は、この呼称から「一ノ谷」(現、神戸市垂水区)に限定されて認識
されがちですが、事実の上からは福原・輪田・須磨の全域が戦場になって
いるのですから、『兵庫県史』第二巻のいうように「福原兵庫合戦」とでも
呼ぶのが相応しく、「一ノ谷の合戦」は地理的に戦場を圧縮したもので、
鈴木彰先生の指摘されるように、『平家物語』における一ノ谷は、物語に
よって創出された架空の空間なのです(「「平家物語」と<一ノ谷合戦>」
『古典遺産』50)。
したがって「鵯越」を一ノ谷の後山とするのはフィクションであり、鵯越
の逆落としを実行した主体も『玉葉』2月8日の記事から、義経ではなく
摂津源氏の多田行綱であったことが明らかといえましょう。
ちなみに、本来の「一ノ谷」というのは、鉄拐山・鉢伏山の南東急斜面に
形成された三筋の浸食谷の一つで、南は海が迫り、その間を山陽道が貫通
しており、北と西からの敵を遮断するための城郭を構築するには適切な場所で
あることは確かで、平家がそれなりの防御施設を構築し、主要な戦場となった
ことは間違いありません。
地元住民から言わせてもらうと、鵯越より真っ直ぐ海の方に降りていくと長田。つまり福原に至ります。
坂ですが一ノ谷ほどではありません。馬でもなんとか降りられるかと思います。
>>668が言われているように地形の問題ですが、阪神大震災以前の大きな地殻変動と思われる地震は
兼好法師の日記や須磨寺の記録にあるように鎌倉時代に起きたと言われています。
地元の歴史家は鵯越説をとり、一ノ谷説は須磨寺が主張しており、いまだ解決しておりませんw
追加。
古来古戦場と言われている所に多く見られるように、鵯越は斎場と市営墓地。
そして刑務所と「しあわせの村」という施設があります。
すると、
現在、鵯越と呼ばれている場所は、まさに馬で逆落としをするのに適した地形だということですか?
しかし、そこから下りて来ると、範頼軍と知盛軍が戦っている正面戦場の脇に出てくるんじゃないですか?
それも有効だったかもしれないけど。
で、そっちには行綱に行かせたということなのかな。
一般的には、義経は、平家軍が東西の戦場に集中しているために手薄になった、平家陣地の中央あたりの背後から襲ったことになっているはず。
それだと、地名的に矛盾があるが、、
ただ、馬で逆落としができる地形なら、文献はどうあれ、一概に否定できないと思います。
>文献はどうあれ
>文献はどうあれ
>文献はどうあれ
>>617-621 一の谷は合戦というよりチャンバラでしたね。
>NHKが誇るCG、マトリックス
マトリックスといえば去年の「新選組!」の井上源三郎でしょ。NHKが誇るCG全開。
>壇ノ浦でのハッソウ飛び
八艘飛びって何メートルぐらいですっけ。今年は演出家次第ではワイヤーと変な効果音で、軽く二・三十メートル飛びそうな勢いです。
先週分の静の舞なんてまるで別人、「声まで変わって」。ナオミ・キャンベル?
>>646 >逆落としの前の白馬がパカパカ〜ってのはどういう演出
ヒラヒラ飛んだり瞬間移動同したり、そこが黛ってゆう演出家さんの持ち味なんじゃないですか。
屋島と壇ノ浦は違う人が演出だといいなあ。個人的には清盛、義仲が死んだ回を撮った人がいい。「しってん」も同じ人。
677 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 00:40:22
>>675 八艘飛びって、八艘の舟を、次々に飛び移って逃げたんだろ?
いくらなんでも、八艘の舟を、ひとっ飛び=2・30mてことじゃないと思ふぞ。
逆櫓は有ったほうがいいんでしょうけど、よく分からない流れだ。
よく分からないついでに、喜三太の位置付けも分からない。
ある時は馬子、またある時は馬上の武者。そしてまたある時は並み居る御家人と共に院の御所にも参じる。
その正体は義経の一の郎党にして末席に座る・・・なんだろ。
>>677 ありゃ勘違い。でも黛って演出家さんだと飛びそうな気も。
こうなったら勘違いついでに三十メートルジャンプ期待してみよっかな。
679 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 03:46:32
壇ノ浦の後、
建礼門院徳子と深い仲になっちゃって
それが頼朝との不和の原因のひとつだという説を見ましたが
信憑性はあるのでしょうか。
680 :
NHK広報:2005/07/16(土) 04:03:53
>>643 壇ノ浦の戦いでは、漕ぎ手狙い撃ちの卑怯な手を使わず、
・潮の流れが源氏に有利になる
・熊野水軍から大量の援軍
・平家方の寝返り
がポイントとなります。
スーパースターのタッキーに卑怯なことはさせません、ご安心下さい。
>>649 NHKの公式見解では、
タッキーが全て正しいのです。
>677-678
一跳び30mなら、そりゃモンゴルまで逃げても不思議はない罠w
>>679 質問する前に過去レスくらい読みましょう。
>>249-378 「建礼門院徳子と深い仲になっちゃって」は後世の作り話です。
建礼門院徳子は宗盛や知盛とも深い仲になっちゃいます。
これも後世の作り話です。
それらが流行って江戸時代には各種の春本が作り出されました。
例えるならば、
『平家物語』を読んだ人が「徳子たん萌え〜」となって
徳子たんがいろんな男に陵辱される18禁同人誌を作った。
その18禁同人誌は人気で似たような本が何冊も出版された。
と言えば理解しやすいでしょうか。
今の世でも実在する政治家同士絡ませたホモ創作をしてしまう恐ろしいオタク女が存在してますが似たようなものです。
何百年か後にはその政治家もホモだったの?と質問する人も出てくるのでしょうか。怖い。
オタクと言うよりは立派なヘンタイだな
684 :
679:2005/07/16(土) 14:10:12
>>682 既出でしたかこいつは失礼☆<m(__)m>
685 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 14:23:57
後白河をぶん殴りたい
686 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 14:26:57
合戦の時、最初から髪をほどいて大童になるのはもう少し後の時代ではないのか
もちろん戦闘中にほどけてしまう事はあったが
687 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 14:29:01
ちょんまげは南北朝あたりから
688 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 14:30:41
鎌倉時代からか、スマソ
教えてください。
義経が後白河法皇に迫って、偽の和議の院宣を出させたというのはどの資料に載ってますか?
出来れば日付とかも詳しく。
あと後白河は本当に平家を陥れるのが目的で、和議の院宣を出したんでしょうか。
三種の神器を取り戻すのが目的なら、本気で和議を結ぶ方が得策だったような気がします。
690 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 21:02:01
教えてください。
壇ノ浦の後、建礼門院徳子とデキちゃったって本当ですか?
691 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 22:33:17
692 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 22:26:20
本当は影時が重衡を護送したんだけどね
693 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 07:11:34
義経は二度と鎌倉に入れず、頼朝にも会わなかったのではなかったか?
簡単に鎌倉に戻ってきてしまったなあ…
694 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 19:09:41
所詮、ドラマだからな。
695 :
NHK広報:2005/07/19(火) 01:01:01
696 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 01:31:33
>>693 『延慶本平家物語』第六本「頼朝判官ニ心置給事」
とか言ってみるw
697 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 02:30:42
色々文献とか見てると「源有綱=源義経の女婿」というのを見かけます。
この「女」とは義経と誰の間に生まれた娘と考えられてるのでしょうか?
そしていったい義経がだいたい何歳のころ生まれたんでしょうか?
そもそもこのことはどの史料に出てくるのですか?吾妻鏡or尊卑文脈・・?
698 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 04:06:11
>この「女」とは義経と誰の間に生まれた娘と考えられてるのでしょうか?
母はうつぼです。
699 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 04:13:51
頼朝は肖像画で見るともっと鼻が大きいはずですが。
現在の技術なら撮影上、鼻を大きくするのは簡単なはずなので、
中井頼朝も鼻を大きくしてください。
700 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 09:22:00
「鼻の大きい頼朝の肖像画」
ってのは勿論釣りだよな?
つ頼朝の肖像画
あれは別人じゃないの?
703 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 20:43:26
神護寺の「伝源頼朝像」のこと?
あれは、足利直義説があって結構有力説だから、しばらく結論は出そうにもないよ。
704 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 21:16:45
山梨の善光寺?にある頼朝の彫刻が
「鼻の大きい頬骨の高い」という頼朝の特徴の所以らしいよ。
神護寺の「伝源頼朝像」はこの彫刻の特徴を前提に描かれたのではないか、
とも言われてるらしい。(「伝源頼朝像=頼朝」説を採るならばの話だが。)
ところで、
>>697について誰かマジレスくれませんか。
>>695 玉葉は読んだこと無いけど、一ノ谷合戦について書いた研究書はいろいろ読んだ。
でも「偽の和議は義経の差し金」と書いたのはなかった気がすんだけど、九条兼実は一体何て書いてるの?
というか後白河法皇は義経の言いなりだったってこと?
今週もめんどくさくてビデオまだ見てないから、またしょうもないこと書きます。
「義経」中途半端で面白くないよねえ。どうせなら政子の鎌倉ってな具合に、「女王の教室」みたく突き抜けてくれればいいのに。
御家人集めて都の公家に搾取されてる云々とアジったり、御家人たちが政子にびびりまくったり。え、藤子不二雄A?ってぐらいオーバーな演出で。
「女系家族」見てると橋爪功が景時、瀬戸朝香が政子、沢村一樹が頼朝でもいいなあなんて思ったり。相続争いに叔母まで出てきてて面白いし。
「義経」なんか嫡流なんて曖昧な概念持ち出しながら院や公家、平家どころか義仲までもが現役流人の頼朝を嫡流だと認めちゃってるし。
以仁王の挙兵以前に為義の子孫のうち、京で宮仕えしていたのって頼政の猶子だった仲家だけじゃありません?義賢が為義の嫡子だから自分が嫡流だと義仲が主張するぐらいじゃないと。
志田義広なんか絶対無視しちゃだめじゃん。
嫡流なんてゆうなら、義経が死ぬまでじゃ兼実が一人勝ちになっちゃうけど摂関家の主導権争いも出したほうが面白いでしょ。うつぼとかオセロ中島とか時間の無駄。
主導権争いってのはちょっと違ったかな>摂関家
でも平家、義仲、頼朝とそれぞれに近づき浮き沈みする兄弟とその家系も欲しいなあ。嫡流なんて無意味なことゆうなら。
>>697 有綱って多分義経なんかと同年代でしょ、これって長成タネの義経妹聟って可能性はないんでしょうかね。
>>704 テレビで見た感想だけど、神護寺の「伝源頼朝像」と山梨の善光寺にある木像はあんま似てると思わなかったなあ。
>>689 >義経が後白河法皇に迫って、偽の和議の院宣を
>出させたというのはどの資料に載ってますか?
そんな史料はありません。
>あと後白河は本当に平家を陥れるのが目的で、
>和議の院宣を出したんでしょうか。
それについては玉葉をどうぞ。
1184年 1月28日
また聞く。西国の事、追討使を遣わさる事一定なり。
今日すでに下向(去る二十六日出門)すと。その上
猶静賢使節を遂ぐべきの由仰せ有り。静賢辞退すと。
その故は、御使を遣わせらるは、彼の畏懼の心を
休ましめ、三神安穏に入洛せんが為なり。而るに
勇者を遣わし征討するの上、何ぞ尋常の御使に及ぶや。
道理叶わず。また使節を遂げ難きの故なりと。
申す所尤も理有るか。凡そ近日の儀掌を反すが如し。
>>705 九条兼実の日記は上記です。
「偽の和議は義経の差し金」は史実ではありません。
HNK大河のストーリーの和議については法皇の
独断だったはずですが、「和議は義経の差し金」なんて話は
いったいどこから出てきたのですか?
>>697 「源有綱(義経聟)」と書かれた文章があるのは吾妻鏡です。
上記からこう考えられたわけです。
「源有綱は義経の婿なのか?」
↓
「すると義経には源有綱に嫁がせた娘がいたのだな?」
↓
「ということはその娘を生んだ妻がいたのだな?」
誰が妻であったのか娘はいつ生まれたのかの史料はありません。
娘が嫁げる年齢であったか、娘は幼い年齢であったが
義経が有綱と同盟を結ぶために娘が成長したら
嫁がせると約束をしたのか、それは不明です。
ただ、吾妻鏡に「源有綱(義経聟)」と書かれていただけです。
>>707 義経妹とは吾妻鑑のこれですね。
>当番雑色宗廉京都より参着す。去る六日、
>一條河崎観音堂の辺に於いて、與州(義経)の母並びに
>妹等を尋ね出し生虜る。関東に召し進すべきかの由と。
常磐と一緒に捕らえられたという妹ですが、
この人は義経の弟の嫁という説も読んだことがあります。
711 :
697:2005/07/21(木) 17:11:11
>>709 ありがとう。
大河板では「偽の和議は義経が法皇に出させた。義経の策略だったのに大河はその史実を無視した!」って言われてたから、何か史料があるのか思って。
考えてみれば一ノ谷前の義経に、法皇に院宣を出させるような権限があったとは思えないんだよね。
法皇も源氏の総大将でもない一武将の言うことを聞くとは思えないし。
結局、アンチ義経の捏造だったってことかな。
>>710 なんとなく思いつき(てへっ)で「長成タネの妹がいてもおかしくないよなあ」てんで書いてみたんですが、そんな記事もあったんですね。
異父弟の良成は義経と行動をともにしいて1185年11月3日条では良成、有綱、堀景光・・・って順番で記載されてますよね。
710さんが上げた記事が1186年6月13日条で、有綱が義経聟としてみえるのが1185年5月19日条(「号伊豆冠者有綱者、為廷尉聟」)と1186年6月28日条、大和で有綱が討取られたのが同年6月16日ですか。
案外本当に妹聟なんじゃないですか。年齢的にも一番無理がないだろうし、一連の記事の流れからみても妥当なような。生意気なこといっちゃった(てへっ、てへっ
714 :
日本@名無史さん:2005/07/24(日) 00:19:02
さらしあげ
めげない(てひっ
今週てゆうかもう先週だけど、ま〜た千鳥とかどうでもいいとこやってる。義高の顔に見覚えあるとおもったら、ガッツ石松に似てるんだね、
↑の書いたあと、良成が出ても面白いなあとか思ったり。父を同じくしながらもすれ違う兄弟と、父は違えど運命をともにする同胞と。平家と家族愛結ぶよりいくない?
良成って最後どうなるの?義経と行動をともにしたと言っても、奥州までは
行かないでんでしょ?
誰かの本で、実際良成は公卿としてはまあまあの位に就いて、それなりの活躍はしてるんだとか。
義経が都落ちしたあと、また亡き後はこの人どうなったのだろうか。
玉葉なんかに何か記載あるのかな?
717 :
日本@名無史さん :2005/07/24(日) 02:36:29
義経は見てないんだけどおもしろい?
おれは次の功名が辻に期待してます。武田鉄矢、前田吟でるし。
>>713 保立道久『義経の登場』174頁以下では有綱嫁を長成タネの妹としてるね。
有綱嫁についての諸説の整理もしてあって興味深いよ。
…密かに713が著者だったら禿ワロスw
維盛クンは単にいじめられっ子の末路って感じでしたな。ツマンネ。
時に小松の後家さん「キシュウノクニ」って・・・
>>718 研究者さんもそうゆう説をとるってことは、そう突飛な思いつきでもなかったんですね。密かに嬉しいです。
>>716 ↑の記事のあと同年中に鎌倉に連行されてますね。子孫とかいるんでしょうか、いたら常盤の血は続いてるってことですもんね。
>>720 残念ながらホタテさんてのはけっこう突(ry
良成についてはせっかく「公卿として」って書いてあんだから『公卿補任』を見れ
こないだの義経、ビデオに撮っといてさっき見たんだけど、、、
後白河と丹後局にうまく言い包められた感じで検非違使任官になってたねぇ
義経VS頼朝もこのままだと後白河に踊らされる形で対立していくような・・・
実際は検非違使任官はどうなんだろ?
詳しいかたいます?
それ以前に頼朝は都に使者を送り
「御家人の任官に関しては全て自分が推挙しますから
それ以外は任官させないでください」と申し入れている。
それを知っての上で頼朝の推薦なしに「任官」させた法皇はやはり
「鎌倉殿の意向を踏みにじったもの」であると認識される。
また、ドラマのように法皇がじきじきに義経と話をすることは当時の常識として
まずはない。
法皇が女房にささやき、女房が義経にことずてをするという方式である。
もしくは、近臣が義経に意向を伝えるということになるであろう。
義経の身分だと、たぶん後者であろう。
ドラマのように断りきれないという状況ではない。
252 :日本@名無史さん :2005/07/27(水) 09:30:18
しかしながら、当時「院から直接官位をもらってどこが悪い」というのが常識で
義経のほかに「無断任官」をした御家人も多数いた。
彼らは特に悪気も無く頼朝の激怒を知って初めてことの重大さを気づいたというところである。
後日彼らは御家人として頼朝に仕え続けている。
また、義経も「京都守護」として鎌倉の代官としての立場や権限が何一つ制限されていない。
つまり、頼朝も「今回は仕方が無いこと」と有る程度黙認していたものともとれるのである
724 :
13男:2005/07/27(水) 17:24:27
いいかげん、クソチョンドラマ放送やめろ。
クソチョンドラマやめるまで受信料支払い拒否。
>>725 図書館で読みなはれ。
多分貸し出しはしてくれないとは思いますが。
(館内閲覧のみのところが多いと思う)
727 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 18:07:52
728 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 19:29:32
さすがに『吾妻鏡』くらいは見てるだろうよ
なぁ?
>>725
730 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 14:14:10
一の谷に壇ノ浦もいじられてるとなると
次は屋島まで改悪されそうな悪寒
731 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 15:39:45
熊野水軍は地鶏の内助の功で味方になるんだな・・・
ヤレヤレ
>>730 屋島は那須与一だけになりそうな悪寒
戦闘シーンはダイジェスト風味でお茶を濁すと
今週平家が着てたのが夏物の二藍染ですよね?伊勢三郎は真夏に毛皮羽織って暑くないんだろうか。
弁慶は2月の海で顔洗いながら溺れ、宇治川では皆が身じろぎもせずに1月の川に飛び込み、鷲尾三郎の妹は2月だってのに脚バンバン出しまくり。
昔の人は暑さ寒さに強かったんですね。
それと常盤死んじゃったし。これは他の登場人物もうかうかしてられませんね、頼朝も死にかねない?
常盤の早死にや時輔の赤マフラー・切腹殿下は、近藤勇と坂本竜馬のともだちんこよりタチが悪いと思うんですが、お父さん向けの週刊誌は怒らないんでしょうか。幕末は特別なんですかね、色々と。
無問題
>>733 逆に聞きたい。
常盤の生没年がわかっているのか?
>鷲尾三郎の妹は2月だってのに脚バンバン出しまくり。
これが一番理解できない。
猟師だよ?山だよ?山道歩いたら小枝で傷だらけになるし
蚊やダニ、毒虫に刺されるっちゅうの。
737 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 11:01:40
>>735 少なくとも壇ノ浦までは生きていたんじゃなかった?
>>735 義経が奥州への逃避行を続けていた頃、京で捕えられて尋問されているのですが。
その後の消息は不明ですが、義経よりずっと後まで生きていたかもしれません。
>鷲尾三郎の妹は2月だってのに脚バンバン出しまくり。
脚に何も巻いていないのですか・・・。
739 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 18:34:44
吾妻鏡の内容ってどの程度信用できるの?
740 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 18:44:44
もうね完全に飽きちゃった。
アイドル板で見たんですが
最終回
義経一行が蒙古へ渡るって
マジですか???
742 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 20:30:51
マジでやったら最悪だな
歴代大河のワースト1位に認定汁
やるんなら、何となく東北の草原みたいなところを走り去る絵図になるんでしょうか。
さすがにモンゴルとは言わんでしょ。(笑)
744 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 21:02:22
このスレは、歴史に詳しい人がおると見込んで質問。
よく、「清盛は、平治の乱後、義朝の遺児の命を助けたので情け深い。
頼朝・義経は、そんな清盛に反旗を翻したので、恩知らずである。」
と、言う人がいるけど、
平治の乱の後、義朝の遺児の処遇を決めたのは、本当に清盛なんですか?
保元の乱の時は、為義とその子供たちの死罪を決めたのは、朝廷だった。
であるならば、平治の時も、朝廷が決めたのではなかったのですか?
清盛は、後に天皇の外戚になり、
平家にあらずんば人にあらずの権力を獲得するけど、
平治の乱の直後は、まだ、そんなに強い権力を持っていないような気がするんですが。
745 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 08:36:27
つーかこのドラマの義経郎党ってろくに訓練もせずに合戦だといつも敵をバッタバッタ
倒してるけどそんなに強かったの?とか誰もつっこまないね
義経や弁慶はともかく喜三太や駿河次郎みたいな脇役キャラがケガの一つもしない不思議
そういう描写さえ入れればもっとリアリティあるのに
脇役キャラはわかんないけど、
大鎧纏った大将がマトモな格闘なんて出来るわけが無い。
747 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 08:53:09
>>745 義経自身も華奢で筋力が弱く、強弓を引けなかったと言う話をどこかで聞いたことがある。
実際には、義経主従はたいした戦闘はしなかったのではないか? 指図はしたろうけど。
指図しているだけでは絵にならないからなあ。
>>744 結論からいうと、まさにおっしゃるその通り。
「頼朝がなぜ助命されたのか」については、
・頼朝の母方の熱田大宮司家が、後白河の母、待賢門院の近臣だったこと。
・本人も後白河の同母姉、上西門院に蔵人として仕えていたこと。
・上西門院と池禅尼が親しかったこと。
以上のことが指摘されていています。
つまり、頼朝自身が上西門院系列の人脈に連なることが最近は注目されている、ということです。
「上西門院系列」=後白河系列であり、また、同時に閑院流(後白河の外戚で、
当時は内大臣と大納言を擁していました)に連なるわけでもあります。
で、なぜ池禅尼が表面に出てくるか、というと、
・頼朝を捕らえたのが、池禅尼の子(清盛の異母弟)頼盛の家人だったこと。
が指摘されていて、要は頼朝の身柄処分について発言権を持っていたから、
と考えられております。
>>744 >>748さんもおっしゃっておられますが、その通りです。
信頼・義朝とその一派は「朝廷に対する反逆」で追討され処罰されたのです。
よって、頼朝も「朝廷の正式な手続き」にのっとって流刑にされたのです。
ましてや、「従五位下」の位階を持っていた頼朝をまだ「参議」にもなっていない
清盛の独断で処罰をすることはできません。
(おそらく、「陣定」あたりで最終的に決定されたと思います。)
ただし、乱鎮圧の最高殊勲者だった清盛の意見が「朝廷の議決」の
「参考意見」として大きかった可能性はあると思います。
>>747 >義経自身も華奢で筋力が弱く、強弓を引けなかったと言う話をどこかで聞いたことがある。
屋島の流れ弓の事ですか。信用出来るかどうか、今ひとつ分かりませんが。
上西門院の話が出ていますが、八条院とも絡めて調べてみると、面白いですよ。
その辺りの人間関係については、一般にはほとんど知られていませんが。
>>748 >>749 レス、サンクスです。
頼朝の助命嘆願は、
熱田大宮司→待賢門院→後白河
上西門院→後白河
池禅尼→上西門院→後白河
で、結局、後白河が決断したわけですね。
ここからはまた推測ですが、
後白河は、女性たちの助命嘆願だけで、頼朝の助命を決めたわけではないような気がします。
源義家が武家の棟梁として全国の武士の信望を集めて以来、
朝廷・貴族の側の対武家政策は、対抗勢力を育成してそのバランスの上に乗ることだった。
源氏を後継問題で内紛させて、勢力をそぎ、院は平正盛を育成した。
平家が勢力をつけてくると、源義朝を育成して、対抗勢力とした。
平治の乱の結果、平家の一人勝ちになり、院・朝廷は危機感を持った。
平家に国の実権を奪われるかもしれない!
そこで、頼朝を助命し、義朝の勢力圏だった関東に流して、平家の対抗勢力に育つことを期待した・・・・(?)
だとすれば、平家の滅亡は、明らかに後白河の誤算で、
彼の理想的な形態は、奥州藤原を含め、源氏と平家がそれぞれ勢力圏を分けて、そのバランスの上に君臨することだった。
のかもしれないと、想像しています。
>源義家が武家の棟梁として全国の武士の信望を集めて
>源氏を後継問題で内紛させて、勢力をそぎ、
>平家が勢力をつけてくると、源義朝を育成して、対抗勢力とした
もちーっと新しい研究を踏まえた方がよいよ。
範頼・義経が助命されたのは、身分の低い女の子供だったから、処刑しなければならないほど気にされてなかったってこと?
でも寺に入れたのは?一応用心のため?
>>751 平治の乱については近年かなり研究がすすんでおりまして。
結論だけを言いますと、頼朝捕縛の時点では、まだ、戦後処理は
完全に終了したわけではなかったんです。
細かくいうと長くなりますので、簡単にいいますが、
信頼・義朝と組んで乱を起こしながら、彼らを裏切って
清盛に信頼・義朝を討たせた連中が、
処罰されるどころか、政治の中心にどっかと座っています。
彼らは後にささい?ないいがかりから流刑にされるのですが。
クーデターを起こした一味の片割れが、涼しい顔でいるわけですから、
首謀者たちはともかく、年端もいかない少年(とはいえ元服ずみですが)
だった、頼朝に押して死罪を言い渡すのも微妙な雰囲気だったのではないか、
と想像するわけです。
あと、
>>752氏のおっしゃっているとおりなので、
もし興味がおありでしたら、最近の全集ものなどお読みになったら
よろしいか、と。
>>754 裏切り連中の心情を考慮したってことでしょうか?
後で流刑に処したのは力関係が逆転したってことで・・・。
>>755 ヒント:元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』NHKブックス 2004年
>>755 いえいえ、裏切り連中は後白河への不敬行為という微妙な
罪状で、白昼公然捕らえられたあげくに後白河の面前で
拷問にかけられる、という相当異常な措置をとられています。
つまり、世論はかなり裏切り連中に批判的だった、と考えられます。
頼朝が助けられたのは、世上に、
「こんな小さな子まで殺すのに、あいつらにはお咎めなしかよ」
という雰囲気や、後白河の憤懣があったのではないか、と推測する次第です。
>>756 あら、タネ本ばらされちゃった。恥ずかしい・・・。
>>758 (・∀・) ニヤニヤ
「最近の全集もの」についてもご教示願わしゅう
ずいぶんお詳しいみたいなのでw
それでも結局は清盛の腹ひとつだったと思われる。
流刑と言い渡して、途中大井川でも天竜川でも富士川にでも
手足を縛って流すこともできたでしょ。
というか、北条は命令あればいつでも頼朝を殺したと思われる。
次回逆櫓キター(゚∀゚)
>>760 当時の流刑のやり方。
京都から七つ口までの護送は追立使(検非違使庁管轄)
そこから流刑地までの護送は送領使(流刑国の国守の管轄)
なので
流刑の執行には平家は一切関わっていないので
それは不可能。
それから平治の乱では主体はあくまでも
政権中枢にいた貴族達の勢力争いで
義朝は信頼に従っていただけ。
兵力も清盛の5分の1
官位、経済力も義朝は清盛に遥かに及ばない。
その遺児に過ぎない頼朝など清盛にとっては
「大した懸案事項」ではなかったと思われる。
河内祥輔「保元の乱・平治の乱」もお勧めです。
元木氏がこの本にショックを受け
「保元・平治の乱を読み直す」を執筆する際も
かなり河内氏のことを意識してお書きになっています。
>>764 ちゃんと読んだ?
お勧め出来る?
元木さんが受けたショックてのは(ry
>>765 「保元・平治の乱を読み直す」のあとがきに書いてあります。
直接読んだほうがいいと思いますが
ここに書いてもいい?
「氏(河内氏だな)の書物に対して、感謝と同時に不満を抱いたというのが
偽らざるところである。」(242頁)
ってあるわな。
感謝<<<(超えられない壁)<<<不満 なのは読めば明らかだろ?
>>767 確かに本文中にも批判めいたことを書いてありますね。
ただし、批判部分だけ読むのもなんですので
両方を読み比べてみればよろしいのでは?
河内氏の著作でも
保元の乱に関しては元木氏と見解がかなり異なりますが
平治の乱に関しては共通する部分はあります。
>両方を読み比べてみればよろしいのでは?
って、両方読んだからこそ書いてるんだよ(苦笑)
読んだ上で、後出しという点を差し引いても
河内著書<<<(超えられない壁)<<<元木著書
と愚考する次第。
768ですが両方読みました。
それぞれ良く研究しておられます。
また、河内氏の著書では平家政権成立まで書いてますので
その部分もおもしろいですね。
また、平治の乱や平家政権成立の元木氏の著作としては
日本の中世8(中央公論新社)
日本の時代7(吉川弘文館)
も良いですね。
>>769 確かに「保元の乱、平治の乱」に関しては
元木氏が第一人者ぽいですし
説得力がありますね。
実は私も元木氏の方に傾いています。
ただし、読む人によってどちらの意見を受け入れやすいかは
違うと思いましたので
あえて河内氏著書を挙げてみたしだいです。
>>771 諒解。こちらも煽り気味の書き込みでゴミン。
平治の乱関係の元木氏の著作では「伏見中納言師仲と平治の乱」
(『朱』48 伏見稲荷大社 2005年)も面白いね。
>>770 「日本の時代史」だろよ
>>772 こちらこそ
いろいろとありがとうございます。
また、訂正ならびに著作のご紹介ありがとうございました。
>>752 >>754 レス、サンクス。
おかげで疑問が解消できてうれしいです。
>源義家が武家の棟梁として全国の武士の信望を集めて
>源氏を後継問題で内紛させて、勢力をそぎ、
>平家が勢力をつけてくると、源義朝を育成して、対抗勢力とした
私の書き込みの↑の部分が、最近の研究と違うらしいのだが、最近の研究結果ではどうなのか?
私は歴史は専門外だし、調べるのは大変そう。
ごく簡単に教えていただければ、ありがたいのですが・・・・。
じゃあ簡単に
・源義家は全国の武士の信望を集める武家の棟梁などではない
・義家の後継問題は単に源氏の内部問題で勢力削減策などではない
・義朝は清盛の対抗勢力たり得ずその登用は平家への牽制策などではない
詳しくは上の方であげられていた元木氏の著作辺りを参照
>>753 確かにその通り、範頼、義経たちは処罰の対象外だったようですね。
もっとも上記に書かれている通り平治の乱自体が貴族たちの勢力あらそいで
義朝は主導的立場になかったというのが最大の原因だったので
義朝の庶子に過ぎない彼らはどうでも良い立場だったと思います。
個人的推測ですが
用心の為というよりは
その後の子供たちが生きていく道は出家くらいしかなかった
という部分も大きかったのではないかとも思います。
>>776 義経は一条長成の息子として生きていくことは出来なかったのかなあ。
貴族じゃないから無理?
779 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 20:00:49
源義朝は従五位下下野守という立派な貴族。義経はその御曹司。
一条長成の養子になって宮廷貴族として生きるという生き方も当然あったと思うよ。
まあ、平清盛が黙っていなかっただろうけど。
780 :
m:2005/08/01(月) 20:11:29
平維盛がもう少し出来る人だったらね・・・。
なにか当時の平氏は、豊臣家と似ている感がありますね。
豊臣も、親族に出来た人が秀長しかいなかったので。
781 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 20:43:04
九郎・ホーガン・義経
782 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 20:49:55
>>777 牛若は、最初から、7歳くらいになったらどこかの寺に入れられる命令だった。
長成も、下に男子が生まれているので、養子として家督を継がせる気はなかっただろう。
ただ、前スレにちょっと出たような、長成・基成・秀衡・範季のネットワークがあって、
長成が奇貨を確保しようとしたのなら、話としては面白いのだが。
>>779 義朝が立派な貴族、ねぇ・・・
侍品から生涯を懸けてやっとこさっとこ諸大夫層の末席に上がっただけジャン?
ついでに極官て意味で言えば従四位下行左馬頭兼播磨守ジャン?
784 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 22:04:02
牛若が寺に入れられた(とされている)のって幾つの時だっけ?
長寛元年(1163)生まれの能成がちゃんと育つ目処がついた時点で
長成の養嫡子となる一縷の望みも絶たれた、てのはどぉよ?
785 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 22:09:04
>>783 諸大夫だって立派な貴族だろ。貴族じゃないとでも?
786 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 22:10:40
>>784 長成の養嗣子になるなら3兄弟のいちばん上の今若じゃないか?
787 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 23:15:07
稲森いずみ美しかったな
788 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 23:16:02
789 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 23:22:00
義経は九男だし、母親の家柄が極端に悪いし、平治の乱がなくて
ふつうに生きてても、官位なんてもらえなかっただろうね
>>785 広義の貴族にゃ違いないけど、義朝の場合どうだろう?
嫁さんのコネを除けば武力しか取り柄のない体育会系
「貴族」さんたちの視線は忠盛へのそれの比でなく冷たかったと思われ。
しかも平治以降にあっては「大謀反人前下野守義朝」でっせ。
その庶出の末っ子が「宮廷貴族として生き」られるかねぇ?
791 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 00:05:33
>>786 >>貴族は三位公卿からじゃないの?
一条さんは正四位下だから貴族じゃないってことか?
大江さん三善さんは貴族じゃないのかな?
公卿は位階が三位以上または参議で
六位、七位であっても貴族は貴族でしょうが
>>738 ビデオ巻き戻して確認してみましたが、膝上までなにか巻いてました。
時代劇で太もも出てるのが意外で印象に残ったようです。
>>781 鼓バーボン知康
>>783 何が言いたいのかよくわからん。
そういう台詞は、三位以上のごくごく少数の超エリート公卿にしか吐けない台詞だってことに気づいてる?
795 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 10:04:04
>>788-794 「貴族」の分水嶺
公卿 三位以上 これになれるかなれないかが大きな差
変な例だが一の谷まで「公卿」は罪を犯して死んでも
首をさらされることは無かった
従五位下 この位を得ると身分的にかなり違う
これを得ると叙爵といっていわゆる「貴族」の仲間入り
796 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 10:10:44
>牛若は、最初から、7歳くらいになったらどこかの寺に入れられる命令だった。
よく言われていることだが
そんな権限清盛になかったと思うよ。
長成が常盤と結婚した時点で牛若らの保護責任は長成に移ったはずだし
清盛が出家強要するならば
常盤の再婚の時点で牛若を強制的にとりあげるしかなかったと思う。
長成はそれなりの官位を有する貴族。
清盛は1165年時点では二条天皇と後白河院の間をおろおろするだけの存在で
後のような強大な権力をもっていたわけではない。
長成に出家を強要させるだけの権限はない。
797 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 10:21:39
798 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 11:22:45
官位
一位 公爵
二位 侯爵
三位 伯爵
---胸を張って貴族といえる壁---
四位 子爵
五位 男爵
---見栄を張って貴族といえる壁---
六位以下 朝廷に仕える職員
799 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 11:30:58
>>796 782だが、漏れは、清盛の命令だったとは書いていない。
今若と乙若はすぐに出家させ、牛若は乳児だったのである程度成長してから出家させる。
後白河か、朝廷の会議の結果だったのではないか?
7歳になった時点で、その命令が発動したのだろう。
何で、長成が清盛に出家を強要される話になるのか?ワケワカメ
800 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 12:15:19
>>799 「出家」は刑罰ではありません。
もしも今若らが本当に「死罪」をまぬがれていたのならば
罪一等を減じて「流罪」になるはずです。
元服前でも希義のように「流罪にするために元服」させれば済むはずです。
希義と今若は1歳しかちがいませんし、5歳くらいで元服した子供もいます。
頼朝は従五位を持つ貴族、希義は同母弟でそれに準じる存在。
したがった「朝廷の議題にものぼる」
平治の乱の脇役にすぎない義朝の庶子にすぎない子供の
刑罰でもない「出家」のために「朝廷の会議」の議題に上ったり
「院」が命令を下すことはありえないと思う。
彼らが出家しなければ困る事情は朝廷にはない。
じゃあなんで今若乙若牛若は寺に入れられたの?
誰か教えて
802 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 12:35:52
それから、平治の乱の内容(元木説に従う)
1)保元の乱の後急速に勢力を伸ばした信西に対する
院近臣、天皇親政派の反感
2)信頼が天皇親政派と手を結び、信西を殺害すべく三条殿襲撃
3)天皇親政派が政権の掌握を目指し清盛と手を組んで
二条天皇を内裏から六波羅に移す。
4)信頼が賊軍となる
5)信頼敗北
6)信頼処刑、義朝死亡、頼朝逮捕
7)天皇親政派の首魁経宗と惟方後白河院に圧迫を加える。
8)後白河院 清盛と手を結び経宗らを逮捕させる
9)3月11日経宗、惟方、頼朝、希義流刑となる
803 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 12:40:41
また、ここでの人物関係
清盛は信西とも姻戚関係にあったが
信頼とも姻戚関係にあった
天皇親政派からも院からも距離をおいており
最初の立場は中立
義朝は信頼に武蔵国の武士の動員、奥州からの武具の調達など
をかなり依存しており、
信頼の子分的な立場であった。
頼政、光保など他の源氏諸氏は
単独で色々な権門に仕えており
自分の思惑で信頼に同心しており
義朝とのからみは一切無し
清盛と義朝の実力比較
官位 清盛>>>>>>>>>>>>義朝
経済力 清盛>>>>>>>越えられない壁>>>>>>義朝
武力 清盛1000騎 vs 義朝 200騎
804 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 12:44:12
>>801 やっぱり生活の為かな
貴族として生きる道は絶たれたし。
それに、仏門=不幸ではない
かなり、上位にいる貴族の子弟も何人かは寺に入っている
つまり、子供が何人かいれば誰かが仏門に入るということは
当たり前のことだと思う。
805 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 16:06:21
>>804 てことは、今若・乙若の出家は、母常盤の意思だったということかな。
てことは、牛若は奥州へいく前に、兄たちと何度も会っている可能性があるかもだな。
>>803 清盛と義朝の実力比較について
3代にわたって院に仕えてきた清盛と、父の引き立てもなかった義朝では、官位に差があったのは当然。
年齢も清盛が7歳年長。
しかし、清盛1000騎、義朝200騎・・・・これは、双方とも最大動員力ではないだろう。
京都での局地戦の兵数だと思う。
義朝は関東へ逃げ切れば、そこに一大勢力圏を築く力を持っていたはず。
806 :
m:2005/08/02(火) 16:40:49
平維盛がもう少し出来る人だったらね・・・。
なにか当時の平氏は、豊臣家と似ている感がありますね。
豊臣も、親族に出来た人が秀長しかいなかったので。
へぇ、貴族って官位で決まるのか
正三位の息子でも、任官されるまでは貴族じゃないんだ
へぇ
808 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 21:48:39
>>807 正確には「なれる可能性のある官位」で決まる。
正三位の息子でも将来五位以上になれる可能性を絶たれたら貴族じゃない。
侍の息子でも五位以上に昇進すれば貴族。
809 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 21:49:38
>>805 >義朝は関東へ逃げ切れば、そこに一大勢力圏を築く力を持っていたはず。
ところが、坂東武者と源氏との関係の薄さが最近指摘されています。
源氏にとっての累代の家人はあくまでも京都近辺に住む武者たち。
坂東豪族との関係は義朝自身の都の人脈とそれを背景にした力による
紛争調停能力による一時的なものだったようです。
保元の乱の動員さえ、国衙からの呼びかけが無ければ動員できなかったとの
説すらあります。
したがって平治の乱の直後坂東に逃げ切っても
都の人脈から切り離された義朝が
そこで再起できたかどうかはわからない
せいぜい匿ってもらう位だっただろう。
810 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 21:51:47
809のつづき
そういった点からも
都において人脈を得続ける為にも都における動員力が重要であったと思われる。
811 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 21:52:06
>>805 いくら富裕な院近臣長成の家族とはいえ、元服もできずに部屋住みでくすぶっているよりは、
出家して寺に入ったほうが、まだしも社会的には見栄えが良かっただろうからな。
平家の圧力というよりは、長成と常盤が夫婦で相談して決めたんだろう。
>>807 時代によるし、あなたの「貴族」の定義にもよるね。
道長の時代までは正三位の息子でも、任官されるまでは貴族ではない。
たとえ正三位の息子でも六位では侮られる。
もっと前になると元慶元年に正三位大納言で死んだ南淵年名の子供は、
バクチうちにまで身を落とし、身ぐるみはがれてまる裸で暮らしていたそうだ。
院政期は、正三位の息子でも家によって、
同じ家の中でも叙爵してからの官職のコースによって、扱いが変わる。
鎌倉時代も後期になれば、
「正三位の息子で後に三位になるのがわかっている五位」と、
「これ以上は出世が望めない四位」とどっちがえらいのか、いつも争うことになるけどね。
813 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 21:54:46
確かに・・・。
大庭影親や齋藤実盛も平氏に寝返ったし、義朝自身も長田氏に裏切られて殺されているしな。
新田も平氏に近づいて、終生息子の頼朝への服従をモロ嫌がっていたからな。
814 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:01:25
>3代にわたって院に仕えてきた清盛と、父の引き立てもなかった義朝では、官位に差があったのは当然。
ところが、義朝は清盛だけではなく
その弟の教盛、頼盛息子の頼盛にも負けていたのです。
保元の乱直前の平家の官位
清盛 正四位下 中務大輔(その前に大国の受領を歴任)
頼盛 正五位下 常陸介(その以前に受領経験あり)
教盛 従五位下 淡路守
重盛 従五位下 中務小輔
義朝 従五位下 下野守(初めての受領しかも下国)
一方他の源氏一門では
頼政 従五位以上の位階で兵庫頭
光保 伊賀守で娘に鳥羽上皇の寵妃と二条天皇の乳母
がいる
という義朝より各上の人がたくさんいらっしゃいました。
815 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:03:09
816 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:06:01
それから最後に経済力の違い
保元の乱の後内裏の造営があった。
清盛やその一門は「建物を一つ」ポーンと建てた。
義朝は建物の内部の「北廊下」しか造営していない。
817 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:13:26
元木泰雄の受け売り大会が続いているな。
818 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:16:38
>>817 814だが
私のこの部分のソースは野口実
819 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:20:07
>>817 それだけ元木説が説得力あるということだろ
820 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 22:33:18
そういえば以前読んだことのある
文学者日下一さんの推薦する「平治物語」(古態本)の内容が
従来持っていた「平治物語」内容やイメージとずいぶん印象が違っていた。
「髭切の太刀」は出てこないし
やたらと頼朝を持ち上げる内容も無かった。
義朝一行の敗残行もやけにそっけないし
一般的に「源氏方勢揃え」として知られている段も
「信頼方勢揃え」という段になっており(つまり首魁は信頼という認識か?)
ここでも義平、頼朝らが「どんな鎧を着ていたか」の表現も無かった。
(つまり「源太が産着」も出番なし)
古態本は「平治物語」諸本の中で現存する最古のものらしい。
つまり、平治の乱を語る軍記物としてはもっとも事件と時代が近い。
従来もっている平治の乱のイメージは一般的な「平治物語」に負うところが多いが
意外とその虚像に踊らされていたところが多いのかもしれない。
そういった意味でも元木氏や河内氏の研究は意義深いものがあると思う。
>>813 頼朝が挙兵した際
東国武士が利害に乗っ取って頼朝についたというのは
川合康さんや野口実さんなども主張されていますね。
野口さんあたりは
頼朝が東国武士との譜代関係を「あったかのように作り上げた」
とまで言っていたようですし。
822 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 23:48:46
>>809 専門家の議論に反論するのはおこがましいが、もうすこし、このド素人に教えてやってくだされ。
坂東武士と源氏の関係の薄さ〜保元の乱の動員うんぬんは、そうゆう説もあるというだけだと思います。
>(坂東の武士たちは)義家殿に兵(つわもの)の道、馬の乗り方弓の引き方まで教えてもらった・・・・
>義家殿の御子なれば為義殿、その御子なれば義朝殿、その御子なれば頼朝殿に従う・・・
>「源氏再興の時に会ったこの身の幸せ」(頼朝に馳せ参じて89歳で戦死した三浦義明)
以前読んだ本のうろ覚えだが、上のような、坂東武士と源氏の紐帯を示す言葉を覚えています。
たぶんに美化されているとしても、それなりの実態があったのではないか。
でなければ、
伊豆国司の頼政の挙兵には、一切呼応せず、
流人・頼朝が挙兵すれば、我も我もと雪崩を打ったように馳せ参じて来たのは、何故だったのでしょうか?
もともと中央に対して不満があり、神輿を担いで「独立」したかったとしても、
頼政はそれに値せず、為義の三男義広も関東に居住していたけど、旗印たりえなかった。
頼朝は、義家−義朝につながる貴種であったから、坂東武士から神輿として仰がれた。
流人・頼朝に坂東武士の神輿になれるものが備わっていたとすれば、それは父から受け継いだもの。
すなわち、義朝にも、坂東武士の神輿たる資格があったのだと考えられます。(なんちゃってな(w)
>>814 だから、義朝は、父と仲たがいして、院に接近して官位を得た新興勢力だったんでつよ。(知ってるくせに)
823 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 23:56:54
>>821 頼朝が、坂東武士との主従関係を確立した上で、それが父祖からのものであるかのように捏造するということはありえるとは思いますが、
坂東武士にとって、
流人の挙兵に付き合うことに、どんな「利益」があったんでしょうか?
824 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 00:10:58
↓この説は、結構有力な説なのですか??
95 :日曜8時の名無しさん :2005/08/02(火) 10:58:13 ID:G3sUjcg+
「義経」「義経」って、漢字が先行するが、
当時は「音」も重要。
親父の義朝の「義」=「よし」
母親の常盤の「常」=「つね」(同音の源氏伝来の「経」に変更)
96 :日曜8時の名無しさん :2005/08/02(火) 11:08:04 ID:G3sUjcg+
あ、上の説はうちの大学の先生の説です。
>>91 系図のオンパレードでしたな。
当時は婚姻対象の範囲が狭いんだから、
多かれ少なかれ縁続きではある。それをああも意味ありげに
解釈されたのでは、、
とうちの先生は講義で爆笑されておりました。
ここ数日熱いですなぁ
>>824 >系図のオンパレードでしたな
ってのはホタテさんの『義経の登場』の事かな?
826 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 00:22:26
>>825 うん、そう。
自分は同じネッチケブックスなら「保元・平治の乱を読み直す」の
ほうが分かりやすかった。
同じ系図を二度載せたりしてっからなぁ。半ば確信犯なんだろけど
「系図遊び」の感は否めないよね。
時に
>母親の常盤の「常」=「つね」(同音の源氏伝来の「経」に変更)
てのは初耳。「うちの大学の先生」って誰だろね?
義経の周りには相談役はいないのか…
「弟だからこそ保身には注意が必要」と忠告してやれよ
自分も初耳。
読経三昧w よりは説得力あるが。
高氏
↓
尊氏
に似てるなw
831 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 02:56:40
>>822 ど素人なんでよく分からないけど、坂東武士が頼朝に馳せ参じたのは
関東の支配権は自分にあるぞって示したから?
>>831 822ではないが、当時の武士は貴種を重宝した。
頼朝よりも源三位頼政の方が源氏の棟梁と誰もが認めていただろうけど、
頼朝も義家直系の名門であり、無位無官の流人であるが貴種に違いない。
板東武士が頼朝の下へ馳せ参じたのは、
ドラマのように平家に陰りが出たとか、平家への不満だとかもあろうが、
頼朝は貴種なので担ぎ上げたというのが真実だと思う。
秀衡も義経という貴種のタニマチとなるのが目的。
833 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 05:54:09
>>823 頼朝の下に坂東武士が集ったのは
頼朝が「貴種」であったということがあったのは否定はいたしませんが
最大の要因は
坂東武士内部の対立にうまく付け込んだという点が大きいでしょう。
平家の家人となった武士に平家の家人になれなかった武士が圧迫されて、その圧迫から逃れる事を考えていた時に
(例平家家人大庭vs三浦・中村、平家方千田vs千葉など)
調度頼朝の挙兵があった。
いくら貴種でも、豪族にとってメリットがなければ
その下に奉じるということが無かった。
834 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 06:08:56
>822
あなたも最後のほうでご指摘の通り
義朝と為義が仲たがいして、義朝が院に接近したと
書かれているように
為義ー義朝の連続性がありません。
つまり義朝の「源氏の正当」というものはかなり怪しくないですか?
また、義家の頃源氏と関係があったとしても
六位検非違使にすぎない為義を東国武士が担ぎあげるメリットがどこにあったのでしょうか?
彼らは日々血みどろの争いを続け
より保護してくれる存在を求めていました。
東国に下向したこともなく、朝廷に発言力もない為義期の源氏は義朝のように「下向」した場合は「貴種」として利用する価値があっても
在京中の為義には東国武士には利用価値はありません。
「美しい主従関係」などではなく
もっと「現実的」な東国武士な要求の方が大きかったと思います。
835 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 06:20:53
>頼朝は、義家−義朝につながる貴種であったから、坂東武士から神輿として仰がれた。
頼朝を正当化させたものは
「以仁王」の令旨と「右兵衛佐」というもとの官位。それから、「一片の領地も家来も持たない」という
中立性
それから、平家独裁政権の下知行国主が平家系に変更になって従来の在庁の豪族が平家の家人に圧迫を受けるようになっていたところに
頼朝が「伊豆国目代」を打ち取ったという部分が共感を呼んだ部分が大きいと思う。
>だから、義朝は、父と仲たがいして、院に接近して官位を得た新興勢力だったんでつよ。
背景は背景として官位的に清盛一門とは遥かに劣勢だったのは事実ということですよね。
836 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 06:30:30
頼政の挙兵についてですが
頼政が直接東国武士に語りかけたわけではありません。
あくまでも「諸国の源氏」たる血統の人に挙兵するように語りかけたわけです。
つまりそこに頼政かその一族がいれば在地の武士たちも同心したでしょうが
「遠隔地にいる貴種」の呼び掛けにはとても応えられないといったところでしょうか。
「貴種」はあくまでも「在地にいてこそ」存在価値があったのです。
>>822>>831-835 >「源氏再興の時に会ったこの身の幸せ」(頼朝に馳せ参じて89歳で戦死した三浦義明)
↑はあくまでも建前
本音は↓
130 :日本@名無史さん :2005/04/19(火) 19:56:25
大庭景親が、平治の乱後に平家の有力な家人かつ相模国の在丁として国務を牛耳っていた。しかし対称的に源義朝について平治の乱に敗北し力を失った、三浦、中村党が失地回復をねらって成功したのが治承、寿永の乱。
主家の御ためは二の次。
167 :日本@名無史さん :2005/06/08(水) 02:24:11
三浦一族って、源 義朝にくっついて、隣接の鎌倉党、大庭を制躊し、三浦介としての在庁の権力を拡大していたけど、平治の乱で義朝が敗れてのちは、敗者として、大庭に相模国での権力を「平家の家人及び代官」となった大庭景親に牛耳られている。
三浦義明の成年〜壮年期は、まさに三浦一族が飛ぶ鳥を落とす勢いの時であり、義明の兄弟、息子たちの名字からわかるように、三浦半島全域から鎌倉に向かって、椙本、岡崎、石田、津久井(2説あり)に広がっている。
しかし、源義朝がコケたあと、成年期を迎えた義澄は「三浦次郎」義盛は「和田」と三浦一族の本拠地を名字にしていることから、相模国での三浦一族の勢力減退をものがたっている。
三浦義明が命を投げ打って、頼朝の旗揚げに協力したのは、「源家の再興」が行われることによって、三浦一族の在庁勢力の回復が目的。源氏再興は建前にすぎない。
今度は野口実の受け売り大会っぽいなw
>>837 >大庭景親が、平治の乱後に平家の有力な家人かつ相模国の在丁
>義盛は「和田」と三浦一族の本拠地を名字
チキンと中身を確認してから引用した方がよいよ
839 :
日本@名無史さん:2005/08/03(水) 08:31:49
>>822 そういえば、義広の本拠地志田荘って八条院領でしたよね。
そして、立荘の仲介をしたのが平頼盛。
この辺が義広が単なる八条院に仕える一豪族とみなされて
(周囲から見た)貴種性を薄まらせたのでは?
八条院領をあずかる豪族などからは「自分達と同じ」とみなされ
アンチ八条院(いたとしたら)からは敵視され、と。
話をぶりかえすが
義円(円成、乙若)って後白河院の坊官として皇子八条宮に仕えていたんだよね。
謀反人の息子としてはかなりいい扱いだったのではないだろうか。
少なくとも、俗世のままではこのような立場に立てなかったと思う。
訂正
義円が仕えていたのは 八条宮。
八条宮が後白河院の皇子という意。
842 :
822:2005/08/03(水) 21:14:38
レスをくれた方々、サンクスでした。
勉強になりました。
評判の悪い新選組は正月に続編が放送されるそうだ
義経も続編で承久の乱とかやってもらえんもんか。
>>843 義経は、
来年正月に東北・北海道編、
再来年正月にモンゴル編の予定となっております。
845 :
日本@名無史さん:2005/08/04(木) 09:59:42
ははは
朝青龍が弁慶Byモンゴル編
>>748>>800 蒸し返しかもだけど、上西門院―熱田大宮司家ラインで減刑されることと
熱田大宮司家の外孫=正室腹であることが罪科に問われる原因となったこととは
矛盾することにはならんの?
頼朝は義朝の「先妻の子」なんだってよ
ホタテさんによるとさwww
849 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 05:42:10
>>847 希義の流刑までの推移。(平治物語による)
駿河に潜伏。
母方の伯父範忠に身柄を拘束され、朝廷に突き出される。
兄頼朝の助命成功。
弟を殺す訳はいかず流刑にする。
何故、範忠が希義を突き出したのかの理由の考察。
範忠は義朝と同じ時期に任官したり
一時期「朝忠」と名乗ったりして義朝との親密さを
伺わせるものがある。
また、弟が熱田大宮司家を先に継いでいたのを
後からその職についていたりする。
(熱田大宮司家内部に対立が内包されていたのかも知れない)
このように、義朝との親密さが平治の乱の後彼との同心を疑われた可能性がある。
そこで保身の為、希義を突き出したのではないのかと思われる。
それによって、彼個人や、熱田大宮司家への損害を防ごうとしたのではないのかと思われる。
850 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 05:49:03
もう一つの可能性としては頼朝助命の交渉カードとして希義を利用した可能性もある。
上記のように義朝との関係が深かった彼が
その遺児を差し出すことによって朝廷への恭順の意を表する。
そのことによって、院、女院その他貴族の心証をー良くして
熱田大宮司家の頼朝助命活動の後押しをしたとも考えられる。
851 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 06:05:24
さて、義朝の遺児の中で刑に服したものの経歴をみると
義平 都に潜んでいる所を捕えられる(1月)
頼朝 近江(美濃説もあり)で平宗清に捕えられる(2月)
宗清が捕えた経緯は、目代として都と任地との往復の間に頼朝をたまたま発見したらしい(平治物語)
希義 母方の伯父に突き出される
というように、捕まった方がアンラッキーだったというような状況である。
つまり義朝の子供たちを「草の根別けても探せ」という状況ではなかった可能性が大きい。
常盤の子供達の場合
元服して戦闘に参加した頼朝が助命された時点で
少なくとも死罪になる可能性はない。
それまで大和に潜伏して、ほとぼりが冷めたころ都に戻ったと見て良いと思う。
それでも「流罪」にもならなかったのは
時期的にもう一連の乱の関係者の処分が済んでいたということと
やはり母方が微力だったということで
「連座の罪に問う程の問題」にもされなかったと見るべきではないのかと思われる。
852 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 06:32:56
私も頼朝母「先妻」説には反論がたくさんあります。
1)常盤を媒介とした九条院と義朝の関係を強調しているが
少なくとも近衛天皇の死後そんなに政界に九条院の力があったと思えない。
2)常盤の地位を証拠だてるに使った史料が後世のものだったり、平治物語複数の本のなかの一本(他の本との擦り合わせなし、
少なくとも古態本では常盤は単なる「思われ人」と書いてあり「北の方」と表記されているのは後出本)、
自分の論文で全く信憑性に乏しい
3)上記の通り熱田大宮司家の範忠と義朝の密接な関係が見られるし、保元の乱でも義朝は熱田大宮司家から兵力を出してもらっていたらしい。
ということは、妻(頼朝の母)との関係が良好でなければ熱田大宮司家との密接な関係や支援は受けられないはず。
4)保元の乱で後白河院方についたのは、鳥羽院からの関連もあるが、やはり後白河院との直接のつながりも無視できない。
また、その後の政界での後白河院の重みが増したことを考えるとやはり、後白河院ー上西門院のつながりが重要で、そこのポイントとなるのが熱田大宮司家の力は重要。
元木氏の説のパクリになるが
頼朝が朝長の官位を追い抜いている。
このことはやはり、上西門院ラインにつながる頼朝の方が、美福門院の娘である中宮に仕える朝長よりもこの時期有利だったことを伺わせる。
やはり、義朝の正室は1159年に死去するまで、熱田大宮司家の娘とみるのが妥当であると思われる。
853 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 06:53:30
>>847>>849-851 それで、ご質問への結論ですが
熱田大宮司家は頼朝の助命運動をするだけの実力があった。
しかしその同母の弟を匿い通すだけの力は無かった。
朝廷からみた「連座者」としても重みは
頼朝>希義>>>>>>越えられない壁>>>今若たち
854 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 08:45:05
>>847 希義について
保元の乱の際、死罪になったのは「直接戦闘に関わったものだけ」のようである。
「保元物語」で有名な乙若四兄弟が殺された話は
「兵範記」には出てこないので、フィクションの可能性がある。
また、保元の乱で処刑された頼賢らの遺児が八条院に仕えていたらしい。
ということは保元の乱で殺されなかったということだろう。
つまり、保元の乱の影響で「連座としての処刑」な無かったものと思われる。
一方保元の乱、平治の乱の首謀者とみなされた貴族たちの関係者は流罪となっている。
この流れにそっていけば
直接戦闘行為をした頼朝は死罪の可能性大
戦闘に加わっていない希義は悪くても流罪止まり。
ということでしょう。
熱田大宮司家が希義を差し出したとしたならば
どう見ても死刑にはならない希義を出して
頼朝の助命を願い出るという可能性もありだと思う。
一方常盤の子供たちの場合は彼らに比べると
「アッテモヨイガ ナクテモヨイ」
存在に過ぎなかったのではないだろうか。
それでも、頼朝の助命決定以前だったら流刑になった可能性があったかも知れない。
そういった意味ではある時期まで地方に亡命していた常盤の判断は賢明だったと思う。
855 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 11:50:38
そもそも、頼朝を流した先の伊豆の近くには、
隣の相模に山内首藤(頼朝の乳母)・波多野(朝長の姻族)・三浦
(河内源氏譜代にして義朝・義平と提携)、
対岸の千葉半島に上総と千葉(義朝と提携)と
義朝の息のかかった連中がいくらでも居たわけで。
まぁ、今挙げた連中の半分は石橋山で頼朝に弓を引いたわけだが、
三浦・千葉といった連中が挙兵の中心になったことを考えると、
そんなところに頼朝を流刑にするような連中が、後ろ立てのない
常盤の子供たちの行く末にそれほど関心があったとも思えないですな。
856 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 15:18:43
>>854 つまり、希義に関しては
本来死罪の兄貴が死なずに済んだんだからお前は流罪で我慢しろ。
ということでしょうか。
常盤の子供たちに関しては、
関心も持ってもらわなかったのかな?
熱田大宮司家としても微妙な立場だったでしょうね。
義朝と姻戚だったことは周知の事実で
痛くも無い腹は探られたくないし、
その遺児たちをあからさまに保護することは今後の宮廷活動にも影響する。
かといって見殺しには出来ない、と。
>>856 頼朝が流罪となって伊豆に行くとき
供をする郎党が皆無だったらしい。
見るに見かねて平家の一族が郎党を付けてくれたくらいらしい。
(あとは叔父さんが一人だけつけてくれた)
そんな状況だったので、この一門が復活することがあろうとは
都のだれもが思わなかったであろう。
859 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 17:36:10
頼朝の助命には
後白河院と頼朝に男色関係があったため
院の意向も強く働いたとの説もある。
>>824 かなり昔どこかの先生が口頭発表して気がするが。
(それメインじゃなくて寺院関係の報告のだけど)
なんで行政は狩衣に立烏帽子なの?
今週現われない山野さんがいちご100%の最終回にブチ切れ中で
漫画板に長期出張、義経どころではない。とかだったらオモロい。
反対に東城派を撃墜してまわっているということも考えられなくはない。
つかいちご100%を読んでない可能性が一番高いわけだがw
864 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 12:10:47
>>860 なんで義常じゃなくてわざわざ義経にしたの?
865 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 12:21:07
>>861・864
いやー、自分もうろ覚えなんだけど。
どこかの大学の内部学会的なとこ(都内は間違いない)。
「経」はやっぱり源氏始祖の字だから・・・じゃない?
あとで過去のレジュメあさってみるわ。
866 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 12:53:56
>>854 >>直接戦闘行為をした頼朝は死罪の可能性大
>>戦闘に加わっていない希義は悪くても流罪止まり。
ところが、頼朝は父の知り合いが多い関東へ、
希義は辺鄙な土佐へ流刑。
希義としては、かなり納得いかない結果ですね。
普通に考えれば、頼朝は佐渡か八丈島あたりが妥当だったと思う。
伊豆に決まったのは、単に頼朝が幸運だったのか?
それとも何らかの意図が隠されていたのか、気になります。
867 :
日本@名無史さん:2005/08/06(土) 21:36:11
>>866 そうなんですよね。昔から不思議に思っていたんですけど。
八丈は為朝がいたから除外された可能性が高いけど、喜界ヶ島とか隠岐や佐渡のほうがイイと思うんだけどね・・・。
だれか別な人がそこに流されたのかな?
永暦元年三月の流人一覧 典拠『清カイ(けものへんに解)眼抄』
藤原経宗:阿波国
源師仲:下野国
藤原惟方:長門国
源頼朝:伊豆国
源希義:土佐国
>>822を魔法律第98条「なりかわり」の罪により「魔元帥の刑」に処す。
ここんとこの継信カコ(・∀・)イイ!!
まあ来週死んじゃうんだケドな。
あれ摂津から出発だったっけ?
>>866 「平治物語」の脚注欄に載っていた記事
「平治の乱の際に発生した流刑者は120人くらい」
この記事の信憑性は判らないが
平治の乱で発生した流刑者は
信西一族、信頼一族、藤原経宗、藤原惟方、源師仲
など有名ところでこれだけいるのだから
有名でない人も加えるとかなりの人数に上ったと思われる。
そうすると、まだ若く
>>858のような状況の頼朝、希義の流刑先にまで細かい配慮があったとは思えない。
とにかく、空きのある流刑先に送り込めといったところではないでしょうか?
一方伊豆の大島や八丈島にかんしてですが
「伊豆国」に流罪と決定するのは朝廷ですが
「伊豆国」のなかのどこに配所を置くかを決めるのは
伊豆守と伊豆国衙です。
為朝を大島送りにしたのは恐らく伊豆の国衙の決定でしょう。
873 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 14:14:58
もういいよ、平治の乱後の処理の話は。
いい加減話題変えてくれよ。
う ん ざ り
興味無いのなら自分で別の話題振ればいいじゃん。
>>871 義経の屋島への出撃は摂津出発でOKだったと思うが、
史料で確認できた人よろしく!!
>話題振ればいいじゃん
すぐこういう言い方する人いるけど、
実際別の話ふっても、この流刑関連話を蒸し返されて、そのレスが続いてる。
>>876 >>874を意訳
興味無いのなら自分で
「皆が食いついて(ここ重要!)平治の乱後の処理の話なんか吹っ飛ぶような」
別の話題振ればいいじゃん。
て事だろw
>>877 だからそういうレスはいらんのよ、いちいち。
「じゃ、お前が別の話題ふれ」みたいなレスっていつもウザいなと思う。
>>873みたいなのが出てきたら、空気読んで話題切り上げときゃいい。
それにしても確かに熱すぎたよ<平治の乱後の処理話
正直飽きてきたとこw
879 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 22:49:18
>>872 >>とにかく、空きのある流刑先に送り込めといったところではないでしょうか?
しつこいようだが、全国60余国ある中で、たまたま空きのある流刑地が伊豆しかなかった・・・とは思えません。
父の義朝が東国の武士を引き連れていたことは、まだ貴族たちの記憶に新しかったはず。
前スレでも、義朝が東国出身であるために、貴族たちから蔑視されていた、という話も出ていましたし。
都では郎党は離散していたとしても、関東には、源氏に心を寄せる武士がいるかもしれないと予想することは可能だった。
再起の芽はまったくないわけではないと思わなければ、三善康信も京都の情報を頼朝に送り続けなかっただろうと思います。
また実際に、
流人生活中の頼朝は、近隣の豪族の狩りに招かれて参加したりしていたようですし、
千葉や三浦の息子が訪問したりなど、ある種の尊敬(と期待?)を集めていた感じがします。
なので、頼朝を伊豆へ流刑することは不自然さがあり、、誰かの意思、何らかの意図が隠されているのではないかと思います。
まあ、史料もなく研究する歴史家もいないのなら、素人としてはどうしようもないことですが。
>>為朝を大島送りにしたのは恐らく伊豆の国衙の決定でしょう。
やはり、頼朝を為朝と同じ島に送るわけにはいかなかったでしょうね。
蛭が小島に置くほうが監視しやすかった?あるいは保護しやすかったんでしょうか?
>>876 >>実際別の話ふっても、この流刑関連話を蒸し返されて、そのレスが続いてる。
レスが続いている→その話題に関心がある人がいる・・・ということだから、続けても無問題だろ?
880 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 23:19:38
考えられるのは義朝、義平が地盤を持っていたのは駿河以東で伊豆はギリギリ勢力圏外と認識されていた。
伊豆の国司、在庁官人が平氏の家人であったために絶対的信頼を持って配流した。
881 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 23:30:59
あくまでも推測だが、当時の観念として将門的反朝廷武力闘争の根は完全に絶たれたと認識され、平氏は朝廷と畿内を押さえていたので、東国を完全に軽視していたのでは無かろうか?
希義にしても、地元の武士とある程度の主従関係は築いているので、頼朝が生き残ったのは、目付役である北条を取り込み、もう一人の山木を初戦で討ち取ったことにあるだろう
882 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 00:15:42
祈祷ワッショイ!!
\\ 祈祷ワッショイ!! //
\\ 祈祷ワッショイ!!/
プス ( ) ( ) ( ) プス
プス( )从( ) ( )从( ) ( )从( ) プス
( 从 从 )) ( 从 从 )) ( 从从 ))
( 从从从) ( 从从从) ( 从从从)
/ ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄\
|.. |.. | :::|
♪ |:::: ●) ●)|:::: ●) ●)| ●) ●) :::|
♪ヽ ::.....∀....ノヽ ::.....∀....ノヽ....∀. ...::ノ 悪霊退散!悪霊退散!
(( (つ ノ (つ 丿 ⊂ ⊂ ) ))
ヽ ( ノ ( ヽノ ( ( (
(_)し' し(_) (_(__)
883 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 00:19:42
下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所
早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討すべき事
右前の伊豆守正五位下源の朝臣仲綱宣べ、最勝親王の勅を奉って称く、清盛法師並
びに宗盛等、威勢を以て[帝王を蔑し]、凶徒を起こし国家を亡ぼす。百官万民を
悩乱し、五幾七道を虜掠す。皇院を幽閉し、公臣を流罪す。命を断ち身を流し、淵
に沈め楼に込む。財を盗み國を領し、官を奪い職を授く。功無くして[恣に]賞を
許し、罪非ずして[猥り]に過に配す。[これに依って巫女宮室に留まらず、忠臣
仙洞に仕えず。]或いは諸寺の高僧を召し誡め、修学の僧徒を禁獄す。或いは叡岳
の絹米を給下し、謀叛の粮米に相具し、百皇の跡を断つ。抑も一人の頭、帝皇を違
逆し、佛法を破滅す。[その振る舞いを見るに誠に]古代を絶する者なり。時に天
地悉く悲しみ、臣民皆愁う。仍って吾は一院第二の皇子たり。天武皇帝の旧儀を尋
ね、王位推取の輩を追討し、上宮太子の古跡を訪い、仏法破滅の類を打ち亡ぼさん。
ただ人力の構えを憑むに非ず。偏に天道の扶けを仰ぐ所なり。これに因って、帝王
三宝神明の冥感有るが如し。何ぞ忽ち四岳合力の志無からん。然れば則ち源家の人、
籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、勇士に堪うる者、同じく輿力せしめ、清盛法師並
びに従類を追討すべし。もし同心せざるに於いては、配流追禁の罪過に行うべし。
もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、兼ねて御即位の後、必ず乞いに
随い勧賞を賜うべきなり。諸国宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行う。
治承四年四月九日 前の伊豆守正五位下源の朝臣
884 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 00:20:16
下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所
早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討すべき事
右前の伊豆守正五位下源の朝臣仲綱宣べ、最勝親王の勅を奉って称く、清盛法師並
びに宗盛等、威勢を以て[帝王を蔑し]、凶徒を起こし国家を亡ぼす。百官万民を
悩乱し、五幾七道を虜掠す。皇院を幽閉し、公臣を流罪す。命を断ち身を流し、淵
に沈め楼に込む。財を盗み國を領し、官を奪い職を授く。功無くして[恣に]賞を
許し、罪非ずして[猥り]に過に配す。[これに依って巫女宮室に留まらず、忠臣
仙洞に仕えず。]或いは諸寺の高僧を召し誡め、修学の僧徒を禁獄す。或いは叡岳
の絹米を給下し、謀叛の粮米に相具し、百皇の跡を断つ。抑も一人の頭、帝皇を違
逆し、佛法を破滅す。[その振る舞いを見るに誠に]古代を絶する者なり。時に天
地悉く悲しみ、臣民皆愁う。仍って吾は一院第二の皇子たり。天武皇帝の旧儀を尋
ね、王位推取の輩を追討し、上宮太子の古跡を訪い、仏法破滅の類を打ち亡ぼさん。
ただ人力の構えを憑むに非ず。偏に天道の扶けを仰ぐ所なり。これに因って、帝王
三宝神明の冥感有るが如し。何ぞ忽ち四岳合力の志無からん。然れば則ち源家の人、
籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、勇士に堪うる者、同じく輿力せしめ、清盛法師並
びに従類を追討すべし。もし同心せざるに於いては、配流追禁の罪過に行うべし。
もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、兼ねて御即位の後、必ず乞いに
随い勧賞を賜うべきなり。諸国宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行う。
治承四年四月九日 前の伊豆守正五位下源の朝臣
885 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 00:22:05
| ちょ、ちょっと待って!
| ここは平治の乱スレか!
ヽ─y────────── ,-v-、
/ _ノ_ノ:^)
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ / _ノ_ノ_ノ /)
/ \ / ノ ノノ//
/ ヽ ____/ ______ ノ
l::::::::: \,, ,,/ .| _.. r(" `ー" 、 ノ
|:::::::::: (●) (●) | _. -‐ '"´ l l-、 ゙ ノ
_|:::::::::::::: \___/ | . -‐ ' "´ l ヽ`ー''"ー'"
|ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ`゙ーァ' "´ ‐'"´ ヽ、`ー /ノ
ヽ `、 / / __.. -'-'"
| | \ / | l / . -‐ '"´
886 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 00:24:18
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
/ \
/ ヽ
l::::::::: / \ |
|:::::::::: (●) (●) |
|::::::::::::::::: \___/ |
ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
⊂二 ̄⌒\ /⌒ ̄二⊃
)\ ヽ / /(
/__ ) ( __\
//// / \ \\\ヽ
//// \\ヽ ヽヽ
///(/ \)ヽヽ ヽ
((/ \))
大河ドラマ「義経」を見て、
そのドラマの主要人物である頼朝の流刑地の謎や坂東武士について、
日本史的に語り合うのは、このスレの目的に合致しているだろう。
>>879 >しつこいようだが
自覚してるなら控えれば?
>>885 【保元の乱】河内祥輔vs元木泰雄【平治の乱】
スレでも立ててそっちに誘導するとか?w
>>887 このスレの目的に合致してるか否かじゃなく、一つの話題に集中して
しかもそれがえんえん続いてるから、しつこいとか言われ出したのであって、
確かにそういうのが嫌だという人もいるんじゃないですか。
マジに専用スレ立てたら?
>>889 おーそれいいじゃん。ま、ここは大河ドラマ「義経」だからな。
また保元の乱絡みで申し訳ないが
頼朝が伊豆へ流されたのは源三位頼政の計らいと言われている。
頼政敗死後は時忠が伊豆の国主になった。
でふと疑問が。
頼政が国主のときに政子と兼隆の件があったことになっている
なぜ頼政のときにバリバリ平家側の兼隆がいるんだろう?
893 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 08:30:34
頼政も平家方だから
兼隆も流人として伊豆にいた。
目代になったのは時忠が知行主になって以降、つまり治承四年になってからだろ。
ちなみに兼隆は治承元年まで京都で検非違使をやってる。
ついては「政子と兼隆の件」は治承元年以降、乃至は全くの・・・
ってこったね。
895 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 09:53:57
>>894 サンクス
政子と兼隆の件はまったくのフィクションでFA?
山木判官討ち入り=大逆転劇の始まりなので創作したに1000点
897 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 11:50:31
>>892 >>頼朝が伊豆へ流されたのは源三位頼政の計らいと言われている。
おお!私の疑問にぴったりの回答です。
ソースがあれば教えていただければ、うれしいです。
頼政の意図は、なんとなくわかる気がするけど。
頼政は伊豆国司だったのだから、自分の保護下(監視下)に置きたかったてことですかね。
898 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:17:26
頼政が「伊豆守」の典拠って『平治』だっけ?
『公卿補任』の尻付にはないよなー?
899 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:31:17
>>896 訂正
兼隆さんは治承三年正月十九日に検非違使を
解官されたご様子(『山槐記』)
だから例の逸話は益々アレだな。
900 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:46:37
逆櫓で一モメ
頼政じゃなくて仲綱じゃなかったか?-->伊豆守(ウロ憶え
それにしても大河の景季は郎党連以上にワンコ状態だなぁ。
>>901 ぐぐってみたら、伊豆守は仲綱のようですにゃ。
ドラマでは、宗盛に馬を取られて侮辱され、それが挙兵の原因になった仲綱。
伊豆には行ってなかったのか?仲綱。
903 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 22:26:05
当時の受領は現地に赴任しないのが常識。ただし陸奥守は例外。
904 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 22:26:56
>>898 知行国主と国司の区別のついていない香具師ハケーン
>>906 世襲ではねーでそ。
つーか、
>>898以降の論点は永暦元年年春の段階で頼政が伊豆の国司乃至は
知行国主でないと
>頼朝が伊豆へ流されたのは源三位頼政の計らいと言われている
てのは成り立たない、って事でねの?
>>879 >しつこいようだが、全国60余国ある中で、たまたま空きのある流刑地が伊豆しかなかった・・・とは思えません。
国は60余州あっても、
重大政治犯を送り込める「遠国」は限られている。
律令に定められているのは5つ程。
その原則は、崩れているようだが「遠流」扱いにできる国はそんなに無かったはず。
>都では郎党は離散していたとしても、関東には、源氏に心を寄せる武士がいるかもしれないと予想することは可能だった。
再起の芽はまったくないわけではないと思わなければ、三善康信も京都の情報を頼朝に送り続けなかっただろうと思います。
源氏と東国武士との関係についてはガイシュツの元木説、野口説などで
否定的意見が出ておりますので
過去レスをご参照なさるか、著書をおよみになられてはいかがでしょうか?
三善康信の書状については
頼朝の乳母の甥であったということ、
可能性はわずかであるが、頼朝が赦免されて中央官界に返り咲く可能性もあったのでは
ないのかという点で情報を送る必要があったのではないのかと
個人的に考えております。
この話題蒸し返しは申し分けないので私はこの話題はこのスレでの投稿は
このレスで撤退します。
続きは当該スレでお話しませんか?
909 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 18:22:10
康信の話はどうなんだろ。
典拠が『鏡』だけど、編纂の中枢にいたのがヤシの子孫だから、ねぇ…
横レスすまそ。
誘導厨ほどウザイのはないな
スレタイが仮に「信長」だったとして
話の流れで信長から秀吉へ、秀吉から明智へ、明智からガラシャへ
ということもある
話題が流れるということはそれに興味がある人が多いから
なのに自分だけ「もう秋田」とばかりに誘導w
そういうのって普通「こっちでもっと話しません?」と参加者が振るもんだろw
あ、そういえば夏休みかw
913 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 23:45:58
>>910 根拠や年次を示していないところを見ると、知行国主と国司を取り違えている可能性が大。
誘導厨はどこにでも出てくる。
マターリしつつあるんだからスルーしろ。
それから話題が少々スレタイから脱線するのが悪いと言われてるんじゃないだろ。
ログよく読んでみろ。
ウィキペディアはあまりアテに(ry
>>914 スルーしろ、
と言っている奴がスルーできていない件についてw
てゆかコイツをスルーできない俺も俺だがw
やはり弓流しもスルーされる件
義経第三夫人も無視される件
揉烏帽子てゆーの、あれから垂れた武者たちの髪にシャギー入ってたら面白いだろうなあ。
天パー気味の梶原景時はハミゴちゃん。で、揉み合い。
ツンデレ=政子
萌
電車男
ウホッ
これが今年の大河
15%台・・・
>>921 やばいです。
マジやばいです。
屋島、壇ノ浦とこの8〜9月が一応のクライマックスなので、
このあとはあまり期待できません。
頼みのジャニヲタも義経が落ちていく壇ノ浦後も見てくれるかどうか・・・。
なので、壇ノ浦を9〜11月と3ヶ月に渡ってやろうかと会議を開いております。
今後ともNHKをよろしくお願いします。
>>922 9〜11月だと12回分か…
今まで散々歴史捻じ曲げて、平家物語などで有名なシーンもカットしてきたのに
いきなり詳細に壇ノ浦を再現しちゃう、ってことか
奥州の高橋秀樹や渡辺いっけいには了解とっておいた方がいいかも…
924 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 23:05:52
与一が放った矢には、鏃のところに何か丸いものが付いていたけど、あれは何?
あんなものが付いていると、普通の矢よりも重くて、的中率が下がるような気がするが、
何故、普通の矢で射なかったの?
925 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 23:08:20
ごくフツーの鏑矢でなかった?
926 :
日本@名無史さん:2005/08/15(月) 23:11:11
>>924 鏑矢ですな。
音がなるので鳴矢とも呼びます。
まあ、儀式的なものなんでないのかなぁ〜。
弓の引き絞り方がなってない!
あれじゃ当たらないよww
>>927 ああ、ものすごーくショボイ強弓の引き+鏑矢の飛び(CG)でしたなぁ・・・。
せめて放物線を描いて飛ぶ鏑矢を今井翼の背後から写す構図にして欲しかった。
あれー
平家物語だと那須与一が扇を射った後、
源氏平氏双方が称えあっている最中に、
平氏方の者が三郎の命で射られるんじゃなかったっけ?
と思い出し中学時代の教科書を再びめくってみた。
弓流しもカットみたいだね。
930 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 02:07:07
扇の的のエピって実際どうだったのかな。
創作?それとも似たような出来事がやっぱり実際あって、語り継がれてて
そして平家物語にも盛り込まれたのだろうか。
伝説って、中には真実も隠れてるってことあるだろうし。
もし那須与一の扇の的の話が本当なら、与一は今なら五輪で金メダル取るぐらいの
兵だったんだな。
坂東武者は本当に精鋭部隊だったんだろうな。
そして扇を射る方も扇を持った平家方も本当に命がけだったんだろうな。
射られた平家方はものすごーく嫌な気分だったろう。
吉川の新平家物語(原作)では独自の解釈でこのエピソードを描いてた。
このエピが本当だとして、扇を射させる実際の目的は何だったのだろうか。
単なる合戦の合間の雅な出来事とも思えない。
おとといの大河見てて真偽のほどがすごく気になりだした。
あの弓の引き方は弓道ではなくアーチェリーのようでしたなw
>>929 教科書に「御諚であるぞ。」って無かったかな。
言ったのは三郎だけど、命令したのは義経。
あくまで義経は常に清く正しくなくてはいけないので
スルーされましたw
でも、扇の的のエピは与一の技を讃えるのが目的ではなく
舞うおやじを射殺してしまうという、理想的な古の兵からは
ほど遠い戦いの変化に対する反論なんだという説もあるそうです。
こういうマナー違反の戦い対する批判が
>>930の「伝説の中に
隠れている真実」の一つかも。
933 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 20:11:52
与一の出番あれで終了っていう噂、本当?
934 :
日本@名無史さん:2005/08/17(水) 21:55:13
>>926 >>鏑矢
儀式用ならばなおのこと、的中率は低いと思ふ
誰か800年前に行って本当のことを調べてきてほすい。
そもそも屋島はエピソード満載。
これを一話に収めようとすること自体無理がある。
>>931 そうそう。アーチェリーなら照準がついてるけど、和弓は矢羽と目線合わせないと
当たらないし、引き絞りは一旦途中まで引いてから矢先を的に合わせるもの。
>>932 >でも、扇の的のエピは与一の技を讃えるのが目的ではなく
>舞うおやじを射殺してしまうという、理想的な古の兵からは
>ほど遠い戦いの変化に対する反論なんだという説もあるそうです。
初耳、というかなるほど。
平家物語は奢れる平家の滅亡っぷりをこれでもかというぐらい強調しているから、
射殺された人=調子こきすぎた平家
射殺した人=調子こいてる平家を懲らしめる源氏
なので、扇の的を射って源氏平家ともども
「ふなばたをたたいて感じたり」「えびらをたたいてどよめきけり」でいいのに、
なんでわざわざ射殺も挿入したのかずっと不思議に思ってた。
俺的にはずっと勧善懲悪を象徴する事件だと思ってたし。
939 :
日本@名無史さん:2005/08/19(金) 15:19:14
美学を知っていた平家
勝ちさえすればなんでもいい源氏
・・・てことか?
で、爺を射殺することは、戦いを勝ちに導くのに、どんな意味があるのかな?
今さっきまでガンダム見てたんだけど、寝るの忘れるくらい面白いね。それに比べて・・・。
継信死んだけど、ランバラル、リュウには遠く及ばず、脇役中の脇役ミハルとかゆーのよりも酷い死に様。
ガンダムと比べちゃだめだ。
ガンダムがかわいそうだ。
942 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 19:41:58
943 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 20:24:11
今井兼平の死に様を知らないのか。ランバラルが真似したんだぞ。
ガンダムTV版の放送やってたころの大河は岩下志麻の北条政子だったらしいな。
946 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 20:15:00
マヂに帝すりかえやっちゃうのか?
947 :
初心者:2005/08/21(日) 20:37:31
シツモン ノミ
1.義経もとい源氏は平家より海戦が下手なんだよね?
戦略的に見て海で戦しようというのがアホに見えてしょうがない。
陸におびき寄せるか、包囲戦やるかしなかったの?
2.義経の戦がほとんどスタンドアローンで戦術的には成功してるが
戦略的にはどうなのかという件
千鳥のふとももに発情
フォーーーーーーッ!
>>947 包囲戦やるかしなかったの?
→やろうとかしなかったの?
950 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 22:07:38
>>947 壇ノ浦では平家の軍は彦島にいて、陸上戦に持ち込むことなど出来ない。
しかしその戦いでは、海岸沿いに源氏の陸上部隊がいたといわれていて、
つまり方位戦になっていたとは言える。
952 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 10:04:01
>>950 でも、そこで陸にあがらざる終えなくするように考えるのが、
戦術家のすることだとは思うんだけど。
といってもないで頭考えても浮かびませんでしたw
953 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 13:12:00
>>952 だから陸に上げないように範頼が九州でがんばっていたんだってば。
義経の戦略ではないですよ。全ては頼朝の戦略。
>>953 あ、そうか。戦略自体は頼朝だもんね。
んで戦術の型破りが義経ね。
>>954 横レス失礼。
そもそも頼朝の戦略は「講和を前提とした戦争」。
一気に雌雄を決すると、安徳以下を逃したり
三種の神器を失ったり、といった、その後の
「国家の再統一」に不都合な事態が発生してしまう可能性が高い。
現在、一番トンガッた説では、「義経の屋島急襲は、頼朝の軍令違反。
義経が最終的に鎌倉を追われたのは、これが原因で、
無断任官はそのための口実にすぎない」という主張もされている。
956 :
日本@名無史さん:2005/08/22(月) 20:18:24
素人だけど、俺も
>>955の説を聞いたか見たことあるなー。
ソースって言われても、小説?談話?特集?思い出せんけど。
>>956 ソースっつっても、学術論文だよ。
一応だしとこか。
宮田敬三「元暦西海合戦試論」(『立命館文学』554号、1998年)
959 :
956:2005/08/22(月) 22:01:20
>>958 サンキウ!
だってさぁ、ソースが書いてないと、検証のしようもないのは史料も論説も一緒だしょー?
つーか、この論文読んだ筈なのにナ…orz
割と有名な話だと思いますが、やはり論文を読まない一般人の認知度は低い。
『徒然草』の『平家物語』評にもある通り、範頼の評価が低過ぎますね。
いっそ、梶原景時や源範頼を主人公にして制作して欲しい。
屋島も壇ノ浦も頼朝の意思に反したものだとしたら、
義経の他にも多くの東国武士が参戦していたのはなぜでしょうか。
頼朝は平家は追い詰めて孤立させればよし、実際には攻撃を仕掛けるなときちんと命令していたのでしょうか。
>959 名前:956 投稿日:2005/08/22(月) 22:01:20
>
>>958 >サンキウ!
>だってさぁ、ソースが書いてないと、検証のしようもないのは史料も論説も一緒だしょー?
>つーか、この論文読んだ筈なのにナ…orz
豚に真珠。馬鹿にソース。
豚が真珠くれとは言うのは見たことないが、
馬鹿のくせにソース出せと言うのを見るとなんかむかつく。
もうそのまま士ね。
ガンダムさんごめんなさい(((;‘∀‘)テヘッ
>>948 熊野の皆さん弁慶でーす。湛蔵さんに会いにきましたフゥーーーーーーーーー!!!
965 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 00:16:46
弁慶に萌えた
>>955 屋島の「軍令違反」がそんなに問題なら、直後に指揮官を解任してしまうのが筋だろうに、
その後も壇ノ浦で指揮執らせているのは何故だろう?
軍令違反だったら吾妻鏡の筆者が腰越えで一月放置プレイされた義経の心情を想像して
「この時の義経の頼朝への恨みは古(平家へ)の恨みより深かっただろう」なんて書きやしないさ。
>>966 頼朝は平家討伐の功績を幕府のものにしたかったんだな。
法皇や奥州藤原氏に近い義経は政治的には邪魔でしかないので、
利用できるだけ利用して使い捨て。
だから壇ノ浦までは義経の行動を追認していたけど、
平家滅亡後に処分した。
てことは、三種の神器を取り返せて平家も滅亡させられればラッキーだから、取りあえず義経にやらせてみるか。
でも上手くいかなかったら全部お前のせいな、って頼朝は考えてたってこと?
頼朝は、平家とは交渉で三種の神器を取り戻すから、壇ノ浦で攻撃を仕掛けるなよ!って考えはどこまであったのかな。
>>969 >頼朝は、平家とは交渉で三種の神器を取り戻すから、壇ノ浦で攻撃を仕掛けるなよ!って考え
仮に応じれば、安徳帝は帝ではなくなり代わって三種の神器無しで即位した後鳥羽帝が
真の帝になってしまう。つまり平家は賊軍に成り下がる。
だから、頼朝には交渉で取り戻すという考えがあったとしても、
平家は断固拒否するだろう。
971 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 08:07:25
三種の神器が一つずつしかなかったわけでもあるまい
972 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 08:25:59
ま、結局紛失したから新しく作るんだけどな
973 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 11:32:14
三種の神器って、いつごろからあるのかな?
それと、誰が作ったのか、教えてYO
>>970 でも頼朝はそれをやろうとしてたのに、
義経が勢いあまって壇ノ浦で平家を攻撃して三種の神器を失わせちゃったから、義経を討伐しようとしたんでしょ(という説が有力なんでしょ)。
自分も平家はいくら源氏に囲まれて孤立しても、三種の神器を手放すくらいなら最後まで戦って滅ぶ道を選ぶような気がするけどね。
頼朝は交渉で神器を取り返せる見込みがどこまであったのかどうか。
>>975 あくまでも伝説
鏡 ニニギノミコトが天孫降臨する際天照大神から賜った
現在は伊勢神宮に祀ってあるとのこと
剣 スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した際
その体内にあった剣
現在は熱田神宮にあるとの事
勾玉については私は知りません。
ちなみに平家が所持していたのはそのレプリカだとだと思います。
>>974 交渉のやりかたしだいではないだろうか
安徳天皇と平家は無事に都に帰還する。
安徳天皇と平家一門の身柄の安全は保証。
安徳天皇からあらためて後鳥羽天皇に譲位するということで
両者の正当性を保障する。
経済的にも有る程度保障するが一門の官位は返上してもらう。
もちろんただで平家はこの条件を呑むとは思えんが
九州を範頼、四国を義経に抑えさせて
「君達はかんぜんに包囲されている」
という状況にすれば可能だったと思われる。
ところが、義経は四国に留まっていなかった。
>>976 頼朝の最終目標は将門以来の関東独立だったと思われ
だから三種の神器を我が物にして朝廷と取引しようとしていた
それなのに平家はあっけなく滅んでしまった
平家を滅ぼした義経も勝手に難破して落ちてくれた
そんな義経に自分を追討する院宣を勝手に出してくれた
それをエサに(ry
と思うんだが、ツッコミよろ
978 :
日本@名無史さん:2005/08/24(水) 17:28:20
最終目的が関東だけでいいならわざわざ西国に出なくてもよかんべ
そのりくつは(ry
朝廷にとっては、すでに後鳥羽天皇を立てていたから、
3種の神器が京に還ってくればよかった。
宝剣と神鏡はレプリカだから、最悪、神璽だけでも奪還できれば何とかなる。
(史実では宝剣は海底に沈んだが、神鏡と神璽は源氏軍が確保した)
しかし頼朝にとっては安徳天皇の身柄を何としても確保する必要があった。
義仲は以仁王の遺児北陸宮を擁していたから、安徳天皇に死なれても支障はなかったが、
以仁王生存説が嘘とばれてしまっていた頼朝には、代わりに擁立する皇子がいなかったという事情による。
頼朝の構想では平家の敗北は既定路線であり、
戦後における法皇との権力闘争に備える必要があったのだな。
>>976 それでそれまで必死で戦っていた東国武士は納得するのかな。
東国の自治権を認めて欲しいってのも大きな目的の一つだけど、
手柄を立てて平家の没官領地をもらうってのも、目的の一つだった訳でしょ?
平家は都に帰ってもいいけど領地は全て源氏軍が取り上げるじゃ、平家暮らしていけないじゃん。
かといって平家にも領地を残しておけば、後一歩で平家を滅ぼせて、没官領をすべて自分たちのものに出来そうだったのにと、源氏軍内で不満が出そう。
あ、変換ミスしてるし聞こうとしたこと書くのも忘れてる。
弁慶、覚日、湛増はなんで頭剃ってないの?
>>982 僧侶だからといって剃髪するとは限らない。
しかも剃髪は仏教特有のものでもないし。
的外れな質問だったらごめんよ。
平幹次郎の後白河法皇は法衣を着てないように思うんだけど。
出家したから上皇から法皇になったんでしょ?だったらあの着物はどうなの?
それともあれ法衣?
草燃えるの尾上松ろく(だっけ?)の後白河法皇は法衣を着てたよ・・。
>>985 >平幹次郎
平幹二郎ね。
>法衣を着てないように思うんだけど。
丹後局の髪型、平家女方の名などツッコミどころは満載。
ドラマをドラマと(ry
法衣とは?
袈裟のこといってるんじゃね?
>>991 法衣って”ほうえ”って読むのか…知らなかった…
>>974 >義経が勢いあまって壇ノ浦で平家を攻撃して三種の神器を失わせちゃったから、義経を討伐しようとしたんでしょ(という説が有力なんでしょ)
なんでそんな説が有力になるんだろう?
もしそれが義経討伐の本当の理由なら、腰越なんかでちんたらやってないで、
さっさと鎌倉に入れて身柄を拘束し、堂々とその理由を唱えて処断してしまえばいいだけの話じゃないか?
>>993 974ですが、自分もその説には疑問を持ってる。
でも、義経が追われたのは無断任官が原因とする説はもう古く、
今一番有力な説は、壇ノ浦が頼朝の意向ではなく、義経の独断だったからだという説だとどっかで読んだんだよ。
頼朝は三種の神器を無事取り戻すため、平家を取り囲んで孤立させ、
神器を取り戻せたら平家は別に滅ぼさなくてもいいと思っていたと。
なのに義経が勇み足で平家を滅ぼして神器の一つを失わせてしまったから、頼朝は怒ってしまったと。
でもならば壇ノ浦に多くの東国武士が参加してたのも疑問だし、
玉葉によれば頼朝も本来は屋島で平家を滅ぼすつもりだったみたいだし。
壇ノ浦義経独断説については、詳しい人の説明がもっと欲しいな。
このスレ終わるから、次スレでお願い。
義経の独断で兵を動かせるのか?
974の
>頼朝は三種の神器を無事取り戻すため、平家を取り囲んで孤立させ、
>神器を取り戻せたら平家は別に滅ぼさなくてもいいと思っていたと。
これってねー、「争いはしたくなかった」と頼朝を現代向けの
平和な政治家像にするために考えられた美化説だと思うよ。
>>983 僧位・僧官を持ってるような僧でも剃らないの?
1000取るのに気の利いたネタでもないかなあ。
ハードル上げてなんも思いつかんかった(((;‘∀‘)テヘッ
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。