【邪馬台国は】魏志倭人伝等を読む【どこですか15】
通り過ぎていったコテハン達: 通りすがり@論客と言うよりコーディネーター、中年オヤジを装っているが実は女性研究者。 法師@九州説の論客 鹿苑寺@漢文のオーソリティーらしい。 「黒板教授」他多数@通称「西都クン」、邪馬台国は西都原説の信奉者、荒しの大家。
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、 始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。 土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。 方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。 又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。 好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。 東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。 東南至奴國百里。官曰ji[冠凹脚儿]馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。 東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。 南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸。 自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、 次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、 次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、 次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。 自郡至女王國萬二千餘里。
男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。 今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。 計其道里、當在會稽、東冶之東。其風俗不淫、男子皆露[糸介]、以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。 婦人被髮屈[糸介]、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、[糸兼]緜。 其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。 所有無與tan[偏人旁右澹]耳、朱崖同。倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。 以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飮用hen[冠竹脚邊]豆、手食。 其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。 已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去[虫幾]蝨、衣服垢汚、 不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。 若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。出眞珠、青玉。 其山有丹、其木有[木冉]、杼、豫樟、楙櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠[冠竹脚幹]、桃支。 有薑、橘、椒、zeu[冠艸脚襄]荷、不知以爲滋味。 有bi[扁犬旁爾]猴、黒雉。其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、 其辭如令龜法、視火[土斥]占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒。 【魏略曰:其俗不知正歳四節、但計春耕秋收爲年紀】 見大人所敬、但搏手以當跪拜。其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。 婦人不淫、不to[偏女旁戸]忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸。 及宗族尊卑各有差序、足相臣服。收租賦、有邸閣。國國有市、交易有無、使大倭監之。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。 王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。 下戸與大人相逢道路、逡巡入草;傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、爲之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、 年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食、傳辭出入。 居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。 又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。 其年十二月、詔書報倭女王曰: 「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、 女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。 今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉爲孝順。 汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。 今以絳地交龍錦五匹【臣松之以爲地應爲[糸弟]、漢文帝著saup衣謂之戈[糸弟]是也。 此字不體、非魏朝之失、則傳冩者誤也】、絳地suu[扁糸旁芻]粟kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]十張、 sen[冠艸脚倩]絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。 又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、 銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。 悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。」
正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、 錦kei[冠网厂垂中扁炎旁右剣]、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。 其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青[糸兼]、緜衣、帛布、丹木、 hu[扁犬旁付]、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。 其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。 其八年、太守王kui[扁斤旁頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、 烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。 卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun[扁犬旁旬]葬者奴婢百餘人。 更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。 政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺、獻上男女生口三十人、 貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。
倭人伝どおり行ったら海の中という意見は秋田
明帝紀 青龍元年/十二月、公孫淵斬送孫權所遣使張彌、許晏首、以淵爲大司馬樂浪公。 四年/秋七月、高句驪王宮、斬送孫權使胡衛等首、詣幽州。 景初元年/秋七月丁卯、司徒陳矯薨、孫權遣將朱然等二萬人圍江夏郡、荊州刺史胡質等撃之、然退走。 初、權遣使浮海、與高句驪通、欲襲遼東。遣幽州刺史毋丘儉、率諸軍及鮮卑烏丸、屯遼東南界、璽書徴公孫淵。 淵發兵反、儉進軍討之、會連雨十日、遼水大漲、詔儉引軍還。 右北平、烏丸單于寇婁敦、遼西烏丸都督王護留等居遼東、率部衆随儉内附。 己卯、詔遼東將吏士民爲淵所脅略不得降者、一切赦之。辛卯、太白晝見、淵自儉還、遂自立爲燕王、置百官、稱紹漢元年。 二年春正月、詔太尉司馬宣公、帥衆討遼東。/秋八月/丙寅、司馬宣公圍公孫淵襄平、大破之、傳淵首于京都、海東諸郡平。 三少帝紀齊王 (正始)四年/冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
スレ立てorz
民俗学・考古学・漢籍+記紀研究 み〜んなカモン
>>11 さん。
簡単な質問で申し訳ありませんが。
陳寿はどうして
『まさに會稽東治の東に』などと 敵国である(呉)地名を使用したのでしょうか?
場所説明だから大義名分とちがい、何でもアリ
魏の配下の国が、呉の向こうにあって挟み撃ち状態。 これは軍事的に価値がある。
15 :
日本@名無史さん :05/01/09 14:15:03
>14 意図的かどうかわからないが、倭人の勢力分布を実際より南にシフトさせることで、 卑弥呼の朝貢実現が、対呉戦略において多大な成果であった、といってるわけです。
ようするに、はったりかまして(誇大宣伝?)おいた。 そうゆうことですね
17 :
日本@名無史さん :05/01/09 16:50:19
>16 そうかもね(w
魏は船行1年の黒歯国まで間接的に「国威」が及んでいるのが自慢なんだろう。 そこまで魏の使役が通じないにせよ。
まるで子供の自慢大会のようだね。 そうなると、魏側が女王国を取り込んだとなると、呉側も対抗して、琉球や女王国と敵対する狗奴国あたりを垂らし込めても、不思議じゃないな (そんな文献あるのかな?)
20 :
日本@名無史さん :05/01/09 18:59:30
>19 ???話がちょっとズレてきてしいましたが・・・・ この場合、『自慢?』をしているのは、三国志が書かれた時代(晋朝統一後)にでしょう。 しかも、『自慢話』の類なんだから、滅びた呉側の話は作られようがないっすね。
>19 実際の話、三国時代、東夷の地に君臨していた公孫氏は、 対魏戦略の一環として呉・孫権に朝貢している(232年)くらいだ。 倭が公孫氏に従属していたとすれば(東夷伝序ではそうなっている)、 卑弥呼の魏に対する朝貢は、呉に対する寝返りであって、 これを取り付けた帯方太守にとっては、大手柄ってことですね。
>>21 卑弥呼が呉をすて、魏にくら替えしたとなると
その後、呉が卑弥呼に対してなにもしなかったのだろうか?
その頃の、台湾や琉球は魏や呉の影響は受けなかったのかな?
>22 対呉戦略上の功績といっても、結局のところ、後世の『自慢話』だからね。 倭が呉側の勢力と言うのは公孫氏の『支配』を通しての話。 それも、東夷伝における『建前』ですから。 倭が直接的に呉と通好があった記録は無いし、『自慢話』なんて大概そんなもんでしょう。
24 :
日本@名無史さん :05/01/09 20:15:16
そんな感じの東夷伝でしたら、倭人伝の中に書かれている『會稽東治の東』にしても 余り 方角などもこだわらず、単なる『東の方』(四分割方位)と、とらえる程度でいいように考えられる。
>24 ”単なる『東の方』(四分割方位)と、とらえる” そうですね。 現代の地図に倭人の国を当てはめる作業では、その程度の価値しかない記述です。 『會稽東治の東』に価値を見出せるのは、三国や晋代の政治上においてでしょうから。
それなのに、なぜ目くじら立ててまで『方角の訂正』をしなければならないか理解に苦慮します。
>26 それは、『現代の地図』とは、異なる三国・晋代の中国人が描いていた『倭地』の上で邪馬台国を求めなければならないからでしょう。
28 :
日本@名無史さん :05/01/09 22:33:09
学会では畿内説以外は滅亡しました。
創価学会ですか?
畿内説を唱える大きな学会が一つとその他の諸説を唱える小さな学会いっぱい有るんです。
という妄想が畿内説
>>27 陳寿にしたところで倭人国の地理なんかしっかりと把握してないでしょうからしかたないことでしょう。 ただ、倭人伝に記載されてる『方角』なんかは全て、当時版世界地図見ながら執筆してるはず無いでしょうから
当時だって、狭い範囲の地図や現地人の情報は結構正確だったと思いますよ
だったらそうゆう所から上がってくる情報を元に、書かれた書物は(方角・距離など)ある程度信憑性あるんじゃないかなと、思いますが?
>32 そう。 『ある程度』は『信憑性』がありますね。 だけど、具体的にどこの記述が正でどこが誤なのかと言うと百論のある次第です(w
34 :
日本@名無史さん :05/01/10 11:50:33
倭人伝を繰り返し読んでみると、この文章がおおざっぱに二つの文に別れることにきずく。 前半が、倭人国に行く道筋案内版 後半が、女王国とその周辺案内版 文章の分かれ道になるのが『壱岐 → 九州島』ではないだろうか? ようするに、この部分の解釈を誤ると後の解釈に、大きな誤解が生じるようになるのではないか!
35 :
日本@名無史さん :05/01/10 11:52:50
>30 古田の学会なんてのは学会とは言わない。
36 :
日本@名無史さん :05/01/10 11:59:16
今までの論争内容を、客観的に眺めてみると、必ずと言っていいほど『九州島』に、上陸してから『方角の訂正、距離の妥協』が目立つようになる。
37 :
日本@名無史さん :05/01/10 12:09:28
>>35 古田学会の是非について一般の人にはよく理解できません。
批判するいじょうは、何処がいけないのか 説明していただけないでしょうか?
何も知らない人にとっても、これからの判断材料になりますので
>34 倭人条を二つに別けるなら、先ずは「〜周旋可五千餘里。」までの地理的叙述と 「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡」以下の外交史部分でしょう。 外交史部分だけは、魏代になってからの記録で、全くの新規の情報だけで出来上がったいます。 しかし、地理的部分については、「三国志」に先行する「魏略」や「魏書」等、漢代からの知見を もとに新規の情報を加味した資料によっているところが多く、新旧の情報が錯綜していると思います。 そのため、叙述の順番も若干不自然になっているようです。
>>35 古田は学者連中の100年に渡る固定概念=思い込みを排除したので、
学会騒然、権威に安住したプロの面目丸つぶれ。
東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)真贋論争で、原本を保有している
と主張していた和田氏はついに古田に見せることなく他界、学会やマスコミは
古田をペテン師扱いにして叩くことで、盛り上がった。
>34 地理的部分を更に幾つかに別けると 先ずは、「倭人在帶方東南大海之〜漢時有朝見者、今使譯所通三十國。」(A)。これは、漢書の引継部分。 次いで、「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國〜郡使往來常所駐。」(B)の帯方郡から伊都國までの行程部分。 ここの部分は、「方位+距離+目的地」の順で位置関係が記述されていたり、簡単な国ごとの風俗記事があったりして、 明らかに、後続の部分とは文体が異なります。この違いは、榎説が生み出された原因でもありますが、 単に別系統の資料(文章)を接いだためのようにも思えます。 その後に、「東南至奴國百里。〜自郡至女王國萬二千餘里。」(C)の女王國までの行程及び各国の国名記述。 さらに、「男子無大小皆黥面文身〜城柵嚴設、常有人持兵守衞。」(D)の風俗・制度記事。 風俗・制度記事は、倭人全体への説明であり、末盧國等の国別詳細とは重複した部分もあるので、 前述の二系統の資料が混在していると思われる所以であります。 そして、段末にやや広域な地理説明である「女王國東渡海千餘里〜、或絶或連、周旋可五千餘里。」(E)の文章。 この部分の位置記述は、(B)と同じく「方位+距離+目的地」の順に戻り、「人長三四尺」等の風俗記事も混じるので、 伊都までの行程部分と同系統の資料でしょう。 私見では、成立のやや古い(A)(B)(E)が同系資料で、それよりは新しい(C)(D)系がもう一つの系統と考えます。
邪馬台国とやらがもしも畿内にあったのならば、 大和朝廷と邪馬台国は九州と較べ非常に近距離にあり隣接していたことになるし、 または双方が同一的ものであるということになるのに、記紀には全くと言っていいほど 邪馬台国と卑弥呼の記述がないし、少なくてもタラシナカツヒコかワカタラシヒコ という人物の記載がない。そのことは、卑弥呼が神功皇后ではないということの 結論、確信につながる。それが隣接していない極めて遠方にある中国の魏志倭人伝 という書物には、記紀の無記述に対照的に相反して非常に詳細に卑弥呼の女王国の 記述がなされている。これだけ考えても邪馬台国が畿内にあったという説は破綻を きたしているのだ。即ち女王国は確実に邪馬壹国として九州にあった事を意味する。
>>41 距離≒0 または 距離=0 で女王国の詳細が具体的に分かる利便な位置に
ある(畿内説)のに殆どと言ってよいくらいその記述が無い。大和から
距離=極遠方 である外国たる中国に女王国の記述がある。
ということは九州説が正解であることが歴然と分かるのだ。
43 :
日本@名無史さん :05/01/10 15:01:59
>>42 魏にとってみじかな女王国でも、大和朝廷にしてみれば遠い昔遠方にあった、朝廷には縁もゆかりもない国かもしれませんね!
邪馬臺国 ⇒ 大和朝廷と、結び付けた方がロマンがありますから
でも、当時としても現実とロマンは、別物でしょうから。
当時九州の倭人たちにしてみれば、大陸や半島は身近な国。
でも、東にある畿内は月に行くような感覚じゃないかな
44 :
日本@名無史さん :05/01/10 15:13:20
当時、九州と朝鮮半島南部は一つの政治圏であった。
>37 「古田説」の代名詞にされてしまっている「臺」と「壹」の問題ですが、 これは、当時の論争が、類似地名捜しに終始していたことで、注目されすぎてしまった論点です。 当時、「邪馬臺」どう読んでいたかも不詳なのですが、「邪馬臺(ヤマド)」=畿内大和を 主張した「畿内説」への反論としてセンセーショナルに扱われました。 しかし、「壹」の字を使う現存魏志が、10世紀末の刊本(印刷媒体)である「紹興本」、 「紹煕本」等のコピーであるのに対して、9世紀以前に成立し、魏志の影響を受けた「後漢書」 「隋書」「梁書」や「太平御覧」の引用部等が、全て「臺」の字を用いていることから、 写本時代の魏志にも同様に「邪馬臺」と記されていたと言う校訂を覆すものでは無いでしょう。 ただし、『貴字である「臺」を蛮夷の国名に使うのは不自然、』『倭人条の中でも「因詣臺」の ように正しく「臺」の字を用いてるところもあり誤植・誤写の可能性は低い』等の指摘は慧眼である と思います。 然るに、現在の「畿内説」の要旨が、その後の考古学的知見によるものに遷移してしまった結果、 地名論に拘る「古田説」とは、論点が全く噛合わない状態なのが、如何ともしがたいことです。
>44 魏志東夷伝韓条によれば、当時、楽浪・帯方郡域でない朝鮮半島の南半には、 月支国の辰王等を中心に漢人の影響の強い「馬韓」、それとは別種ながら辰王と密接な「辰韓」、 辰王に属さず、其々に王を戴く「弁辰(或るいは弁韓)」が居たとされています。 最後の弁辰が、「鬼神を祠祭し」等の風俗において「倭人」との関係が近いように思われますが、 「政治」的にどのような関係があったかは不詳でしょう。 ただ、倭人条の對馬國の記載などから「交易」関係があったことは、確実のようですね。
>>45 さん
よく理解できました。
たった一文字の解釈によって大問題に発展する世界が一般人には理解できかねます。
その、一文字にこだわるのもまた、学者の性なのでしょうけど(三世紀の固有名詞なのに?)
こうゆうことも言えますね!
『目先の一文字にこだわり過ぎて、大局をみあやまる』
『森を見すぎて、個々の木がみえず。』
この邪馬臺国論争には、どちらがいいのやら
>43 日本書紀編纂当時の大和朝廷には、ちゃんと史記や論語、それに三国志も伝えられており、 当時の官僚たちは、その内容も承知しています。 例えば、日本書紀の神功紀分注には「魏志に曰く」と言う表現で景初や正始の朝貢記録が 紹介されています。 ただ、これを本文(正史)として記載することは、「朝貢」外交の事実を認めることであり、 「日出る処の天子」として対中国関係の対等化を目指してきた当時の大和朝廷の外交方針とは、 相反するものです。 日本書紀の編纂自体も煬帝から蛮夷と嘲られて以来の政策である国家体制の構築と 対外的な国威誇示(だから漢文でかかれている)が目的なので、本文記載は容認できるものでは、 無かったのでしょう。 ところで、いささか旧説に属し、現在では年代感が一致しないため、支持者はいませんが、 「卑弥呼=神功皇后」説というものが有りました。 この説の出所が、この「神功紀分注」なのです。つまり、書紀の編者は「邪馬台国時代の記事」を 分注と言う形で神功紀に置くことで、「卑弥呼=神功皇后」と言う比定を示唆していると言うこと。 編者の意図は定かではありませんが、そういった小細工も、ありそうな話ではあります。
>>41 訂正
(誤)少なくてもタラシナカツヒコかワカタラシヒコという人物の記載がない。
(正)魏志倭人伝の中に少なくともタラシナカツヒコかワカタラシヒコという人物
の記載があってもいいはずだ。
>>48 旧唐書と新唐書を見れば、大和朝廷=日本国が九州国=倭国を併合したことがわかる。
ただし日本国は倭国を継承したのだと主張して譲らないので、中国側はいぶかしがっていた。
後に武韋の禍が沈静化したあとで、日本国も新羅も唐に公認されることになる。
日本の倭国継承も公認してもらったようである。
>>48 さん。
このようには考えられないでしょうか?
邪馬臺国論争は書紀編纂の時から始まっていた。と
三国志を知っていた当時の学者たちが書紀の編纂に当たり利用した?
(勝手な妄想ですが) 大和朝廷の過去=徳川家の過去。 ま、当時としても天皇家を未来永劫盤石にする為にはどんなことでもするでしょう。 権力者の常套手段。 根拠なんてまったくないけど、このほうが、人間臭くていいな
倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。 世與中国通。其国居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘国、皆附属為。 其王姓阿毎氏、置一大率、検察諸国、皆畏附之、設官有十二等、其訴訟者、匍匐而前地。 多女少男、頗有文字、俗敬佛法、並皆跣足、以幅布蔽其前後、貴人戴錦帽、百姓皆椎髻無冠帯。 婦人衣純色、裾長腰襦束髪於後、佩銀花長八寸左右各数枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。 貞観五年、遣使献方物、太宗矜其通遠、勅所司無令歳貢。又遣新州刺史高表仁、持節往撫之。 表仁、無綏遠之才、與王子争禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。
日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。 或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。 或云、日本舊小国、併倭国之地。 其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。 又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。 長安三年、其大臣朝臣真人、来貢方物。 朝臣真人者猶中国戸部尚書、冠進徳冠其頂為花分而四散、身服紫袍、以帛為腰帯。 真人好読経史、解属文容止温雅則天宴之於麟徳殿授司膳卿。放還本国。 開元初、又遣使来朝、因請儒士授経、詔四門助教趙玄黙、就鴻臚寺教之。乃遣玄黙、闊幅布以為束修之禮題云。 白亀元年、調布人亦其偽此題所得錫賚盡市文籍泛海、而還其偏使朝臣仲満、慕中国之風因留不去、改姓名為朝衡、 仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年、好書籍放帰郷逗留不去。 天寶十二年、又遣使貢。上元中、擢衡為左散騎常侍鎮南都護。 貞元二十年、遣使来朝、留学生橘免勢、学問僧空海。 元和元年、日本国使判官高階真人上言前件、学生藝業稍成願帰本国、便請與臣同帰従之。 開成四年、又遣使朝貢。
>>54 最初に記した
『日本国者倭国之別種也』気になります。
永徽五(654)年倭國獻琥珀・瑪瑙、琥珀大如斗、瑪瑙大如五斗器。
長安二(702)年日本國遣使貢方物。
唐での対日呼称は、七世紀末から八世紀初頭にかけての間に「倭」から「日本」への変化します。
変化の理由について旧唐書は、
>>54 冒頭のとおり三論併記として結論は出しておりません。
1 日本国者倭国之別種也。『日本国は倭國の別種なり』
2 倭国自悪其名不雅、改為日本。『倭國、其の名の雅らかならざるを悪しきとし、日本と改める』
3 日本舊小国、併倭国之地。『日本は元小国、倭國の地を併せたり』
ただし、倭国と日本国の二条をもって語られていることから、旧唐書編者は1を正当としているように
思われます。
57 :
解釈人 :05/01/10 23:49:08
要するに、大和朝廷の言い分は 畿内王統は九州倭国出身の神武に由来する。 天武は九州倭国から出て畿内日本国の王になった。 畿内日本国はもともと小国だったが(神武時代)、 九州倭国を併呑したのである。 しかし九州倭国を引き継いでいるのである。 という事ではないか。
58 :
日本@名無史さん :05/01/11 00:24:55
>57 その解釈には「2 倭国自悪其名不雅、改為日本。」が抜けてますね(w
59 :
解釈人 :05/01/11 01:02:25
>>58 倭の語のニュアンスが嫌だったというのは一面に過ぎないでしょう。
郭務宗が2千人連れて九州に来たとき、唐の属国化を図って
倭国の行政府として都督府を置いたが、これに反逆したのが天武。
いわば、畿内日本国は反唐=親新羅の立場となった。
しかしこのころ郭務宗と高宗=則天武后間は通信網どころでなく
連絡不行き届きで、筑紫都督府は現場の勝手な判断で作られた模様。
武韋の禍として一括処理された後は、唐に反逆した天武の罪は問われず
2国間の争いは婉曲な表現にする「両国の合意」があったように見える。
大変勉強になり助かるのですが、これ以上話が盛り上がってしまうとスレ違いになってしまいますので、話の続きは、別スレにてお願い出来ませんでしょうか?
61 :
日本@名無史さん :05/01/11 12:36:20
元に戻して
>>38 ・40さんが、地理的に分けた(B)の部分が同一文とすると
末盧⇒伊都 の方角と距離は、訂正することなく進めた方が自然です。
62 :
魏略逸文 :05/01/11 21:47:32
>61 「方角」については、「合わないものは合わないので無理に合わせない」ことも大事ですね。 事実と異なっていても、それには「理由」があることですから。 ところで、このスレの常連さんは、ご存知のことですが、「魏略」は、晋の魚豢が書いた史書。 その成立は陳寿の「魏志」よりも若干早いだろうと言うのが通説です。既に原本は散逸しています。 下の一文は、大宰府天満宮に伝えられる張楚金撰の「翰苑」と言う書物で使われる引用部です。 この「魏略」においても〜伊都までの位置説明は概ね「方位+距離+目的地」の順で記されており、 おそらく「魏志」と同一の資料によっていると思われます。 從帯方至倭、循海岸水行、暦韓國、到拘耶韓國七"十(「千」の誤写)"里。 始度一海千餘里、至對馬國。其大官曰卑拘、副曰"卑奴(「母離」脱落)"。無良田、南北"布(「市」の誤写)"糴。 南度海、至一"支(魏志「大」が誤写)"國。置官与對同。地方三百里。 又度海千餘里、至末廬國。人善捕魚、能浮沒水取之。 東南五"東(「百」の誤写")里、到伊都國。戸"万(魏志「千」との真贋は不明)"餘。置曰爾支、副曰曳渓觚・柄渠觚。 其国王皆屬王女也。(魏志では「世有王皆統屬女王國」)
63 :
日本@名無史さん :05/01/11 21:54:18
まだ唐に占領されたなんて寝ぼけたこと書いてるヤツがいるのか?
64 :
日本@名無史さん :05/01/11 22:16:17
>>62 さんがおっしゃることは充分理解できます。
私としても、測量する二点が確定してる場所において、その方角に対して文章記載に誤りがある場合は、訂正するのが当然だと思いますから。
ただ、 今取り上げた二点にしても、(学者諸氏の研究合意)
(学者諸氏の研究合意)=真実 と、言うことでしたら私どもの口を挟む余地などありませんからすぐに降参します。
>64 呪文のような倭人伝を頼りに無限の荒野や大海の中を彷徨うのも一興、 しかし、苦難の末に辿り着いた処が、真の出口かどうかは確かめ難し。 一旦、呪文の世界から離れて、視認できる情報を基に出口の目星を付ける、 ただし、これも正解かどうかは、呪文の謎の解き明かし次第ではあるが。 そして、呪文は、所詮呪文、そこに真実が記されていることは稀であろう。
>>65 別に、考古学の研究成果を非難してる訳じゃないさ。
毎日_単位の地道な作業には、頭の下がる思いだ!ただ、そんな苦労の末に生み出された研究成果を、まだ100%解明されない文献記載内容に当て嵌めないでほしいと、主張してるんだ。
だから、定説になている場所に対しても、疑問があれば直ぐさま『意義あり』と、してしまう。
伊都に、しても(文献的)にまだ100%じゃないはずだ。
そこに、大事な考古学研究資料を安易に上乗せしてほしくない。
68 :
& ◆FC4h7F/wV6 :05/01/12 10:56:36
68は、私の書き込みです。 名前がおかしい。
70 :
日本@名無史さん :05/01/12 15:49:35
本田さん。 ご説明ありがとうございます。 ところで、何世紀の様子を書いた物であるかわかりますか? 三世紀の様子でしたら素晴らしいですね!
日本を選ぶか中国を選ぶか二者択一を迫られれば、アジアの9割は日本を選ぶだろう。 インドネシアもマレーシア、シンガポール、タイ、フィリピンも日本を選ぶだろう。
72 :
& ◆FC4h7F/wV6 :05/01/12 20:15:39
>>70 > ところで、何世紀の様子を書いた物であるかわかりますか?
私の学力では、あの漢文(もちん白文)はとても解読できません。
>66 「文献記載内容に当て嵌めないでほしいと、主張してるんだ。」 おっしゃてることの意味が、よくわからないのですが・・・ 考古資料の豊富な有力遺跡の所在に合わせて文献資料を読み替えるな、と言う御主張でしょうか(南を東へとかですね) だとしたら、考古の知見と文献の知見を擦り合せる作業の中では、そう言うことも必然でしょう。 文献独自の検証でも、矛盾する二つの資料を刷り合わせる作業の中では、当然行われていることですよ。 それとも、まだ、考古の知見は不足しているので、擦り合せにより結論めいたことを出すのは拙速であるとの主旨でしょうか。 未だ、「結論」なんて出てくるような状況じゃないのは、皆さん承知のことかと思います。 「定説になている場所に対しても、疑問があれば直ぐさま『意義あり』と、してしまう。」 こちらも、よくわからないのですが・・・ 単純に定説を疑ってはならないと言う意味でしたら、どうなんでしょうかねえ。 ところで、「伊都」ですが、私は、当然「前原」だろうとの想定で、考えてしまいます。 自分自身、細かい検証をしているわけではなく「定説」に流されているだけなんですが・・・ >66氏は、背振産地超の地に「伊都」を仮定されているのでしょうか?
72は、私です。
75 :
& ◆FC4h7F/wV6 :05/01/12 20:35:07
>>73 >未だ、「結論」なんて出てくるような状況じゃないのは、皆さん承知のことかと思います。
日本と中国の文献だけでなく、朝鮮半島の文献もすり合わせると、
結論は出しやすいそうだ。
75は、私です。
77 :
日本@名無史さん :05/01/12 21:21:07
『在新羅東南大海中』 なら奈良じゃないよね。慶州から東南なら九州だろ。 奈良だったら東だもの。
78 :
日本@名無史さん :05/01/12 21:22:59
>>73 さん
(末盧・伊都…)定説については、疑問を持ってもいいんじゃないか。
そのように考えてます。
私が言ってる伊都国は、卑弥呼のいた三世紀の伊都国のことです。
(私の伊都国ですか?)
私には、まだはっきりとは見えて来ませんが、今の所、関門海峡が気になってしかたがありません。
大胆な妄想ですが
伊都国は、三世紀頃九州の東側にあったが、時がたつにつれ何らかの事情で西に移動した!
>78 いやー、私には想像もつかない着想ですが(大胆すぎて)、 何時か論証課程の一端だけでも御披露ください。
80 :
日本@名無史さん :05/01/12 22:34:55
>>79 さん
あくまでも妄想ですので気にしないでください。
私が、伊都国は前原付近ではないと仮定しているのは、
(考古学は、抜きで)
地理的要因ですね。
北側に玄界灘を望み、三方山に囲まれ古くから人が定着するには最高の場所でしょう。
想像ですが
この土地に住む人はかなり古くから壱岐島を経由して大陸との交易が行われていたでしょう。
ただ、この国の最大の欠点は三方山に囲まれ 地続きの他国の情報が他の土地に比べ入りにくい。
と、ゆうことは
暮らしには最高だが 九州島の情報基地には向かない場所 (一大率)
>>79 さん
『余りにも大胆な妄想』
の、考えの一部ですが
普段何処にでもある、長閑な村も、
こと、対(半島・大陸)の戦略的要因になると、この辺一帯は、攻守において九州島の最前線になりますから
こんなところでよろしいですか?
82 :
& ◆FC4h7F/wV6 :05/01/12 23:33:19
> 伊都国は、三世紀頃九州の東側にあったが、時がたつにつれ何らかの事情で西に移動した! 3世紀には「倭の大乱」があった。 北倭(満州や朝鮮半島の倭人)が、南倭(九州の倭人)を追い出し、 伊都国を建国。 南倭は本州に逃げて、別倭となった。 別倭の国は、秦王国(伊勢国)です。 これを、国史では神武大和に建国と記してるらしい。 神武の死後、また「倭の大乱」が起こったらしい。
82です。
84 :
日本@名無史さん :05/01/12 23:45:21
本田さん、どうして名前の & ◆FC4h7F/wV6 と 本田 が交互に出てくるんですか?
85 :
& ◆FC4h7F/wV6 :05/01/12 23:51:35
>>84 ブラウザをlunascapeからfirefoxに換えてから、
2chだけはそうなるんです。
85です。
87 :
日本@名無史さん :05/01/13 00:29:47
>80-81さん 確かに関門海峡は、当時も今も海陸の交通の十字路で、 対外的にも、列島内でも戦略的要所で、何らかの勢力が いてもおかしくありませんね。 ところで、前原の評価で気になるところは 『最大の欠点は三方山に囲まれ・・・云々』と言う点。 海路で朝鮮半島に対峙し、三雲・井原遺跡群で 集中的に出土する楽浪系土器などから判断して、 ここは古くより楽浪人の渡来集団が居住する文化的な 先進地です。 例え、陸路が峻険で閉ざされていたとしても、 海路のネットワークは、国内にも開かれていますので、 情報の集積と言う点で劣るところは無いと思います。 弥生期の準構造船の部材なども出土しているそうです。 因みに、三世紀前半とされる(私は考古も素人なので、 最新の年代感には疎いのですが)潤地頭給遺跡では、 山陰や佐渡の原材料を使用する碧玉や鉄石英の工房跡も 発掘されているそうです。
>>88 『伊都国検証』
確かに、遺跡の魅力を目の前にぶら下げられたら誰でもぐらつきます。
自分もそうでした
一度、遺跡を忘れて大陸から九州を眺めてみることも一考かと思いますが。
なぜ、大陸の人達はそこに常駐したり一大率を置のでしょうか?
私の考えではやはり倭人国の情報が知りたくてそのような施設を作ったのではと…
なぜ人口が多く、百里しか離れていない奴国に作らなかったか?
前原が発展したこと、過去にありましたか?
福岡や小倉がなぜ城下町に
90 :
日本@名無史さん :05/01/13 12:47:48
89続き
>>88 さん。
なぜ、マキムクや吉野ヶ里…その他大規模遺跡…
などが、必ずと言っていいほど現在、町外れや人けの無いとこにあります。
なぜ、人けが無いんしょう? 不思議です。
周りに住宅があっても、中世からずっと続いてる町じゃなく、開発による新興地じゃないですか。
弥生の頃栄えた集落でも、狭い範囲で物事を考えて暮らした証明が、今現在過疎地として現れているのじゃないかな!
古くから、交通、情報、軍治に欠かせない場所は、今現在も弥生の頃からずっと都市として機能してるのではないのでしょうか。
>89-90 確かに現在の糸島地方は、博多や佐賀に比べて、平野部が矮小で「発展」しているわけではないですね。 三世紀の海岸線は、現代よりも内陸部に深く食い込んでいたらしいのですから、平地はさらに少なくなります。 ところで、伊都が前原で奴が博多だと仮定すると、その領域面積の違いから、千戸と二万戸と言う人口比も 納得のいく設定に思えてしまいます。 ただし、それだけでは、「一大率」が、博多(仮・奴国)では無く、前原(仮・伊都国)に何故常治していたかの 説明にはならないですね。 請売りですが、前レスでも書いたように、楽浪系土器の存在が理由なのだそうです。 三世紀前半になると、博多からも若干の出土が確認されるそうなのですが、それ以前は、対馬・壱岐・前原 の三箇所以外では、全く出土しないそうです。 楽浪では無く、韓系の土器であれば瀬戸内にも進出しているのですが、楽浪系は前原までしか入ってきていな いらしいのです。 この楽浪系土器の分布は、集中的な出土の状況から、通常の交易関係に伴うものでは無く、直接的な人的 移動に伴う痕跡だろうと、言われています。 ここからは、ますます根拠が弱くなりますが、人的移動の一例が、倭人伝の「郡使往來常所駐」なのではない でしょうか。 つまり、(私の憶測ですが)帯方郡側の駐在事務所が存在したわけですね。一大率は、これに対応するためにも 伊都に居る必要あったのでしょう。 で、地形上の問題なのですが、中国側が博多や唐津を選択せずに前原を選択したのは、当時は前原の方が 交通の要衝であったのでは? 陸路のでは無く、海路の良港としてです。今より海進期であった当時は、博多湾 や唐津よりも前原の方が便利な地形だったのでしょう。 ここらで、話が多少循環してきてしまいました。自分の考えが、まとまっていないので旨く説明できないのです。 すいませんです。
92 :
& ◆FC4h7F/wV6 :05/01/13 23:22:23
> なぜ、マキムクや吉野ヶ里…その他大規模遺跡… >などが、必ずと言っていいほど現在、町外れや人けの無いとこにあります。 >なぜ、人けが無いんしょう? 不思議です。 先住民の居る地域に割り込むには、 最初は条件の悪い土地に植民地を作るからなのか?
92です。
94 :
日本@名無史さん :05/01/14 18:20:18
『伊都国検証』 楽浪土器が、有力手掛かりとかですが? 土器は、ほとんどが生活用品として使用されると考えます。 文献に『土器を伊都国に運ぶ』と、でも書いてあれば別ですが 大陸と交易があれば楽浪土器があっても不思議じゃないですね! 楽浪土器=一大率 ちょっとくるしいですね。 ま、考え方は百人十色ですから、一概に否定出来ませんけど 前原(伊都国)に、一大率置くなら壱岐に置いた方が機能性高いんじゃないかな。
95 :
日本@名無史さん :05/01/14 19:41:30
>94 そう。土器は生活用品です。 前原の楽浪土器も交易品になるような高価なものでも、交易品の運搬に用いるものでもないそうです。 と言うことは、そこに中国製品を使う定住者が、いたことになります。 前原では、代々中国かぶれが多ったのかもしれませんが、公孫氏の時代より渡来した定住者や帯方郡使の関係者の生活痕跡のようにも思えます。 前原でも極限定的な場所からしか出土しないそうです。
いい加減考えることに疲れてしまうことがある。 ほとんどの人が定説にしている、(前原付近=伊都)に妥協すれば簡単なんだがと。 これからも大勢の人がこの論争に新規参入してくるだろう、その時安易に、定説だからと通り過ぎられることが一番つらい。 今も、結構いるんじゃないかな 全然当たり前な感じで(壱岐 ⇒ 奴)間、素通りしてしまうヤシ ま、学者諸氏や研究員達なんかもう見向きもしなくなった箇所だからな。 もー何の躊躇いも感じてない、 そんな感じだよ それじゃいけないんだけどなー
97 :
日本@名無史さん :05/01/14 21:58:03
>>96 私も伊都国=前原に懐疑的な一人です。こうも、邪馬台国論争が収集つかないのは
九州の上陸地が間違えてんじゃないの?と素人的に考えてしまうわけです。
距離的に見ても対馬〜壱岐と壱岐〜松浦が同じ千余里ってのは誤差を考えても無理があるのではないかと。
むしろ方向指定をしていないことからまつら国って東の方に行った博多湾かもう少し東の方、もしくは
ずっと南に下ったたとえば伊万里とか平戸とか佐世保とかのほうが距離的にあってるのではないかと。
そうすると、必然的に伊都=前原じゃなくなるのではないでしょうか?
>>97 さん
やっと同じような疑問抱く人に巡りあいました。
この関連スレで、こんな説書いたりしますとすぐ妄想野郎と、罵られます。
(自分が無知だからしかたないんですが)
海面が高かったとか
今、邪馬臺国の場所が何処だったかは後回しにして 徹底的に自分が気が済むまで『壱岐 ⇒ 奴』の、矛盾点探りたい。 ほんの一角でも光りが射せば、後もかなり変わるはず
101 :
日本@名無史さん :05/01/15 01:23:28
狗奴国が当に会稽の東にあるという記述から探ってみると、 会稽の東には九州南部しかないから、ここが狗奴国として、 邪馬台国はその北、すなわち九州のどこかとしか考えられない
102 :
日本@名無史さん :05/01/15 01:44:23
九州説って学会で滅亡したのに素人には人気だね・
103 :
日本@名無史さん :05/01/15 02:16:41
誰も知らないマイナー学会か・・・
104 :
日本@名無史さん :05/01/15 05:50:44
邪馬台国の距離は中国の史書に捏造されて書かれたんだよ。 それは西の大国月氏国との距離や戸が邪馬台国のそれと並んでることからも、 意図的な捏造を感じる。 西と東に同じような大国があるように史書に記さなければならなかった動機があるはず。 古代から倭を不必要に重要視していたのはなぜか考えないとね。 金印や倭という一文字国号。しかも人偏。もちあげすぎ。そうしないといけない理由があったはず。
105 :
日本@名無史さん :05/01/15 07:51:36
>>101 >会稽の東には、南九州しかない。
それは、現代の地図を眺めているからじゃないかな?当時そこまで正確に把握出来たのでしょうか
参考までに
>>24-25 -26
を、参照してください。
このような考え方も出来ますよ、と
会稽の真東は屋久島の南海上であるから、南九州は「東の方」でいいのではないかと それ以外の地域は「東の方」とは呼べない。 もはや「当に」の範疇から外れてしまう
直訳すれば「その道里を計ると当に會稽東冶の東に在り」ですね。 これは、倭全体の風俗記事の中にある文章ですので、「その」が何を指すかと言えば「倭」です。 邪馬台国や狗奴国などの特定の国ではありません。 しかも、風俗記事冒頭の「文身」の説明にでてくる「夏后少康之子封於會稽」を根拠にした推定です。 ですので、地理的記述とは分けて考える必要があります。 ただし、倭人伝が倭地の所在を何処に想定していたかを見る場合には重要な文章です。
>>107 >「夏后少康之子封於會稽」を根拠にした推定です。
ちがうだろ。
「道里を計るに」、つまり、行程の方角と距離から推し量ると・・・・ということ。
そして、東冶の東あたりだとすると「夏后少康之子封於會稽・・・」という話とも合うね、
といってる。
入り口と出口が逆だよ。
109 :
日本@名無史さん :05/01/15 11:40:45
>>106 三角関数を、思い出して下さい。
測量点で1度ズレると1000q先でどのくらいの幅ズレが出てしまうか
ま、その人それぞれの感覚の問題ですが?
>109 別に測量したわけじゃないでしょう。
111 :
日本@名無史さん :05/01/15 12:23:33
>>110 当然だ!
当時、横長な地図を見て観測地点より
右側は東
左側は西
遠くにあればあるほど、それでじゅうぶんでしょう。
だめだね。 会稽東冶という南北の基準が示されているのだから、そのほぼ東に限定される。 遠くても近くても関係ない。 ただし、それが現実と合っているかどうかは別問題だから、 それにこだわる必要はない。 倭の地理について十分な知識を持ち合わせていない中国の誰かがそう思った というだけのことだから。
会稽東冶は、確かに南北の基準(緯度)だね。 当時の会稽郡東冶県は、今の福建省福州付近にあたる。 当時も今も然したるランドマークではない。 倭地との比較において、この地名が採用されたのは、単に倭地と同緯度だからだろう。 「会稽山の頂より東に眺む」とか言う表現であれば、その場合の東はかなり広範囲を指すことだが。
114 :
日本@名無史さん :05/01/15 14:51:37
同緯度を表す物だとすると、当時の文化水準に頭が下がる思いです。 これが、香港、海南島あたりならチョット首を傾けますが とにかくすごいの一言です。
116 :
日本@名無史さん :05/01/15 16:00:35
私の推理だと多分アメリカのモリマン州だね。
117 :
日本@名無史さん :05/01/15 16:19:52
>>115 かなりしっかり入ってますけど!
それが、何か?
118 :
日本@名無史さん :05/01/15 16:22:36
モリマン州だと一生懸命言ったつもりだったのか?しかしながら。
>114 いや、「福州」なら「凄く」て「香港」なら「首を傾げちゃう」あたりが、ちょっとプラムなんでな。
120 :
日本@名無史さん :05/01/15 16:59:48
サッカーの話します。推理だと一生懸命に鬼畜を尊敬する者を抹殺したの!だから、我が家を利用できる。推理だとね。
121 :
日本@名無史さん :05/01/15 17:10:38
>>119 香港・海南島辺りだと緯度とゆうよりも
気候的にかなり違うからだよ
それから、
『プラム』出さないでくれ
それよりか こんな所で、方角修正することじたい信じられない。
>>123 確かに、海岸沿いのフーチョウは冬でも温かい。
でも、その奥のナンピンはさぶ〜い
仕事で二度ほどフーチョウ近くまで行ったが、海岸沿いは温かいナー
でも、少しでも山の近くに行くと何にもなくてさぶ〜いよ!
でも、航空写真が無い時代に、大陸の右側にあれだけ細かく日本の位置を認識してるとは 恐るべき中国!
全然、認識できてないわけだが・・・
126 :
日本@名無史さん :05/01/15 19:19:54
位置
128 :
日本@名無史さん :05/01/15 20:02:51
>>127 貴方の邪馬台国理論聞かしてもらいたいな!
無いよ。 ただ、沖縄じゃないと思ってるだけ。 それより、あなたの「認識」の方をもそっと詳しく。 他にも読者がいるかもしれんよ。
チラシの裏認定だからなー 認識らしき認識は無いかな ただ、自分で決めたルールは持ってるよ。 @文献(倭人の条)の改正は出来る限りしない。 A『紀・記』と考古学資料は、参考資料程度にする(自分は専門家じゃないから) B一大国 ⇒ 奴国間の定説を崩す、出来なければ邪馬臺国から手を引く。 まだ半年も経ってないド素人、邪馬臺国スレでは『トンデモ妄想家』と、言われてる
131 :
原田大六 :05/01/15 21:26:15
馬鹿もん!畿内だっちゅうにぃ!!
132 :
日本@名無史さん :05/01/15 21:38:14
わざと間違えたに決まってるだろ。
133 :
日本@名無史さん :05/01/15 21:43:55
裁判資料 公判で、科捜研の化学検出班員が証人として呼ばれた。 同人は、「サリン」と認定したのは私ではない。室長では無いか?と答えた。次に室長が 証人に呼ばれた。室長は、「サリン」と認定したのは私ではない。部下ではないか。と答 えた。サリン検出の謎は解明されないまま、裁判は次の問題に進んだ。誰もサリンと認定 していないでは ないか? 東京地裁、ある日の出来事 (2001年1月31日)滝澤に対する弁護側質問 弁護人 「塩酸基はどこに行くのですか?」 検察官 「一つ一つ聞いていくと、時間もかかるし、関連性もない。」 弁護人 「主尋問で聞いていない。この部分については立証しない、ということか?」 検察官 「そうではない。」 阿部裁判長 「証人ができた、と言っているんだからいいじゃない。」 弁護側 「そんな!!」と声があがった。 こんなものは、裁判などと、とても呼べた代物ではない。ふざけるな。
>130 一つだけアドバイス。 倭人伝は、何故、倭の地を会稽東冶の東とするのか? 中国大陸の概ね東にあることを表現するだけなら、単に華の東でよい。 特定の土地からだったら、もっと高名な、例えば洛陽の東でもかまわないだろう。
135 :
日本@名無史さん :05/01/15 22:24:08
ヒントは、会稽は呉の都市で、魏の首都(洛陽)から見ると、 呉の首都(建業)の先にある、ってことなのかな でも「孫権さんよ、おまいは囲まれている」と言いたいのなら、 倭ではなく、台湾の方と手を結びたくなるなあ 台湾では小さすぎるのかな
136 :
日本@名無史さん :05/01/15 22:35:15
台湾は呉によく知られててたいした敵になると思われなかったから。 倭は台湾より巨大で、大月氏並みだぞと。
ふぅ。 まあ、人生は長い、末永く頑張れ。
138 :
日本@名無史さん :05/01/15 22:38:57
>>131 大六センセは鬼籍に入られてから趣旨換えしたの?
貴重な出土物を民間に売り払ってまで平原を掘ってらしたのに。
おかげで柳田センセを筆頭に九州の考古学者がどれだけ苦労したかw
>>134 さん
アドバイスありがとうございます。
私の考えは、
魏としては敵国呉に対して、自分の友好国『倭』を呉の真東に置くことにより
(北に 魏)(西に 蜀)
(東に 倭)(南に 海)
四方囲い込み戦略の為と、考えていましたが
間違ってましたか?
では、私の自問自答を披露。 (一問目) 中国は「航空写真が無い時代に、大陸の右側にあれだけ細かく日本の位置を認識」できていましたか? (回答) いいえ、中国は間違えていました。韓地を方四千里と過大に、倭地はその南に垂れ下がるように認識していました。 (二問目) 倭人伝の地理記載は正しいですか。 (回答) いいえ、大きく南にブレた地理感に基づいて記載されていました。 (三問目) 倭人伝の地理記載だけで邪馬台国の所在を確定できそうですか。 (回答) それは(ry
では、私の自問自答を披露。 (一問目) 中国は「航空写真が無い時代に、大陸の右側にあれだけ細かく日本の位置を認識」できていましたか? (回答) はい、中国4000年(当時は2000年)の歴史をなめてはいけません (二問目) 倭人伝の地理記載は正しいですか。 (回答) はい、概ね正しいです (三問目) 倭人伝の地理記載だけで邪馬台国の所在を確定できそうですか。 (回答) 凡その地域までは推定可能です
では、私の自問自答を披露。 (一問目) 中国は「航空写真が無い時代に、大陸の右側にあれだけ細かく日本の位置を認識」できていましたか? (回答) 楽浪郡などから貿易してたので位置は正確に把握してました。 (二問目) 倭人伝の地理記載は正しいですか。 (回答) 正しいけど、わざと意図的に変えてる箇所あり。 (三問目) 倭人伝の地理記載だけで邪馬台国の所在を確定できそうですか。 (回答) 確定は無理。意図的に変えてるから。
143 :
日本@名無史さん :05/01/15 23:51:27
>139=>141だとしたら・・・ ふぅ。
>>140 ありがとうございます。
広い範囲で日本の正確な位置が認識出来ていなくても、それを九州島に上陸してからも、ずーと方角ズレを持ち込むことは間違いだと考えてますが
どうでしょう?
>>144 >>139 =141は、同一じゃない。
考えは概ね似ているが、最後がちがう。
概ね割り出せると思うが、最終判断はやっぱり考古学的根拠の裏付けが不可欠と考えるから
それに、
>>139 は最近、邪馬(台)国じゃなく(臺)の漢字使ってるし 地理のあとに的を入れる癖がある。 地理的と
>>139 魏が意図的に敵国呉に対して、自分の友好国『倭』を呉の真東にあるように
認識させた可能性は大いに考えられるな
それで呉が亶州夷州の征伐を考案し実行して失敗した可能性もある
亶州夷州はモロに『倭』が存在すると思われるべき方向だから
また、遠征が失敗したのも『倭』の位置の誤認と関係あるかもな
普通に遼東の公孫淵まで使者を送れるほどの航海術を持っていた呉が
亶州の位置を探し当てられなかったのは
『倭』の位置の誤認とも何かしら関係あるかもしれん
亶州夷州に兵を送ったのは魏に謀反を起こした公孫氏を支援するためで倭を意識したのもではないでしょう。
質問します 倭の使者は洛陽(でいいの?)まではどういうルートを使ったのでしょうか? 日本海→黄海→黄河といった、オール水路なのか 半島を迂回して楽浪郡に上陸して陸路とか。 やっぱり所々で補給しながらのオール水路なのでしょうか?
150 :
日本@名無史さん :05/01/16 01:47:07
>>148 二三〇年 呉が亶州夷州討伐に失敗する。
二三三年 遼東の公孫淵が呉に帰属したいと申し入れ、呉は張彌、許晏を使者に遼東へ送る。
よって、呉の亶州夷州討伐は公孫淵の謀反以前の話であり、
公孫氏を支援する為云々は関係無いと思われ。
>149 「倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。」 とあるので素直に読めば、倭人が自力で行けるのは帯方郡まで。 そこから先、洛陽までは郡吏の取次ぎ。 臺與の代に張政の帰国に随行した掖邪狗等が「因詣臺」したのが唯一の洛陽行きでしょうか。 帯方郡までは、おそらく「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東〜東南陸行五百里、到伊都國」の逆コース。 郡から洛陽までは陸路か海路か不明。どちらも考えられるコースでしょう。 ところで、「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東〜東南陸行五百里、到伊都國」の行程って言うのは、 倭地側から帯方郡に向う場合のコースを逆に書いただけじゃないのかな。 海峡を渡るときの海流を考えれば、下りよりも上りの路程に向いている。 郡から倭地を訪れる時は、海峡横断の出発地と到着地には、それぞれ別の場所が望ましいと思う。
>145 想像の倭人の国が、実際より極端に南にずれてるんだよ。 倭人の土地に入ってからも「誤解」しつづけなきゃ、陸地から飛び出しちゃうようにも思える。 貴方が、頑張って「飛び出さないように」納めてくれればいいけど(w
別に機械で方角はかってるんじゃなくて、太陽みて計ってるんだから 方角を間違うわけがない。距離は少々間違うだろうが。
熊本あたりが邪馬台国とすれば会計の真東から千里と離れていない。 普通に緯度をあわせて都市名を載せただけだろ。 その正確さは当時の測量としては恐るべきである
155 :
日本@名無史さん :05/01/16 09:25:24
>154 熊本と東冶の南北方向が千里ですか? 東冶の所在をどこか特殊なところ設定されてますね。 それはどこですか?
>>153 太陽で方角測っても
太陽だって朝や昼や夕方で高さや方角も違うんだから
無学の人間が太陽だけ見ても方角判らんだろ
その頃の『倭』の人間に方角測る技術があったかどうか
157 :
日本@名無史さん :05/01/16 14:49:42
>>145 『倭人の条』の記載に
狗邪韓国⇔対馬
壱岐⇔九州島
の、部分に方角指定が無いのは、行きと帰りの航路が違うために、あえて方角指定がされなかったように思える。
半島に行くときに重要な港が、
(呼子や唐津)(金海)
半島から九州島に行く場合、交易内容や目的によって行き先の港が変わるはずだよ!
その分かれ道になるのが、壱岐の島じゃないかな。
東冶ではなく「東治」だろう。会稽郡の東という意味
>>159 自分でビックリする位、しっくり来る考えでも、現在の定説の前では完全否定されてしまうのが現実です。
これがなんの組織も持たない個人素人の泣き所
(妄想、根拠が無い、考古学の裏付け無い)と、否定されるよ!
>>161 さん
とてもじゃないけど一人じゃ無理。
何か良い知恵が浮かんだときには、御協力賜りたい。 よろしく
163 :
日本@名無史さん :05/01/16 17:22:58
『伊都国(前原付近)検証』 畿内説諸氏が伊都国の場所を否定しないのは、何故なんだろう? 畿内説諸氏にとって前原は、けして都合のいい場所じゃないはず 東京からフランスへ行くのに、途中のロスで贈り物の確認して、フランスの情報ロスで仕入れるかな? 不思議な感覚の大陸人
>東京からフランスへ行くのに、途中のロスで贈り物の確認して、フランスの情報ロスで仕入れるかな? 江戸時代のオランダ商人がジャカルタから江戸に行くのに、途中の長崎で贈り物の確認して、江戸の情報を長崎で仕入れる。 とか
>>164 それだけは、出してほしくなかったなぁー!
『伊都国検証』 「東南五百里到伊都国(萬)余戸」 「東南五百里到伊都国有(千)余戸」 誤記としてとらえられているが、果たしてそうであろうか? こんな妄想を描ける! 卑弥呼が王位になる前、伊都国は戸数一万を超えるそれなりの王国だった。 しかし、何かの事情で国乱れ王権が弱体し、その隙に女王国に侵略されてしまう。 伊都国王は卑弥呼に恭順し、伊都国千余戸と一大率統括を安堵される
>160 ビックリしたのは渡海ルートのことですか? だとしたら、倭人伝の路程記載の順番だけが、倭地への渡海ルートだなんて「定説」は無いでしょう。 海峡の渡海ルートは、弥生時代の初期から複数あったはず。 公孫氏時代から、楽浪や三韓と倭の間の往来は、頻繁。 魏略弁辰条「國出鐵韓、ワイ、倭皆從取之。」同「トク廬國與倭接界。」 倭人伝「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露」 こういった、関係の上で、特に伊都や奴までの倭人の国は、よく知られており、 相互の位置関係も周知のことだったと思います。 あの路程記事は、既に漢末ごろには、出来上がっており、多分近い順に記述されてるだけなのでしょう。 外せないのは、対馬と壱岐だけ。出発点・到着点は、季節風や海流、船の所属ごとに違っていたと思う。 そう言う風に考える方が普通だし、実際、多数意見になってると思うし。 他のスレでのレスを見て思うに、「定説」だと考えていたのは、貴方の方だと思いますよ。 貴方は、路程記事を一回目だか二回目のだかは、よくわかりませんでしたが、 ひたすら「魏使の通った行程に違いない」と思い込んでたように見受けられました。 そんな自分の思い込みを「定説」呼ばわりして、今度はそれを理由に他説を批判ですか? 他の方からも忠言されていたと思いますが、そう言う思考方式、態度はどうなんでしょうかね? 「うーん」、私は思わず唸っちゃいます。
>158 「東冶ではなく「東治」だろう。会稽郡の東という意味」 原文は「當在會稽東治(冶)之東」だよ。 貴方の読み方だと、「東の東」になっちまうし、その場合、「治」の意味は何なんだろう? 「東冶」じゃなくて「東台」だって言う意見もあるが、その方が貴方の説より、説得力があるな。
>>167 さん
貴重なご意見ありがとうございます。
今でも、魏の国使が通ったルートだと思ってますよ!しかし、あのレスで国使ルートには限定していませんので、そこのところヨロシク
それに、貴方は博識で全てを極めてしまったのかしりませんが、
自分の場合、チラシの裏認定の厨房ですから 一日日が経てば、本の少しずつ考え方も進歩するんじゃないかと…
定説と言ったのは、最初の上陸地末盧国が(呼子・唐津付近)に比定されてることです。
あれは、確かプラムが言ったことですが
>>167 さん
自分は、素人ですから自分で決めたルール
>>130 が、不可能な場合、邪馬臺国関連スレからは消えますので 多少のことは大目にお願いします。
始めた時から、五分に渡り合えるなんて思ってもいませんよ
>166 ちなみに、渡来土器の出土状況から、交易における糸島・前原地方の拠点性は三世紀に入ると衰退し始め、 中葉には、博多湾岸・吉備・河内方面に朝鮮半島との直接的交易ルートが成立したかのようにも思える。
「東治」は「東冶」の誤りとする説もある。三国志版本は 「会稽東治」とするのに対し、後漢書列伝倭条(范曄撰)、 晋書・翰苑は「会稽東冶」と記している。後漢書列伝倭条は、 「其の地は、大較会稽.東冶の東に在り、」となっている。 梁書・隋書・北史は単に「会稽」と記している。「会稽間川」と もあり、記載無しの例もある。 問題は、「会稽東治」と「会稽東冶」では大きく意味が 変わってくることにある。「東治」の場合は、会稽山を中心とす る会稽郡のことで、「當に會稽の東治の東に在る」は、日本 列島を会稽山の東方海上に位置するとしてしていたことになる。 これに対し、「東冶」の場合は、台湾対岸の福建省「東冶」(福建 省びん候県付近にあった県名)の東方海上に位置するとしてして いたことになる。こうなると、沖縄から台湾北部の範囲が該当する ことになる。ちなみに、福建省東冶は永安三年(260年)以降は 会稽郡に属していない。
173 :
日本@名無史さん :05/01/17 08:36:00
>>171 さん
直接交易となると関門海峡の動向しだいとなりますがいかかでしょう。
海峡が、北九州勢に抑えられていたら、いかに半島の船でも自由に通過出来なかったでしょうから
それに、三世紀ごろから東の方に大陸系土器が移り、前原付近の衰退が見られるとなると
やはり前原付近に、一大率を置く意味が無くなると、考えられるのではないでしょうか?
前原は前原独自の王権が有ったと思うのですが
ただ単に、文章に記載されないだけの話かと。
一度大局で歴史を見てみると、 倭人の条に登場する『親魏倭王卑弥呼と臺与』の邪馬臺国にとって、三世紀が最もピークな時と思われる。 この国を仮に『大和のマキムク』に当て嵌めてみると、大和盆地内で二度も、三度も文化的?(王権?)ピークが訪れる。 これは明らかに、おかしな歴史の流れである! 準備期→繁栄→衰退 そして、場所を移動して 準備→繁栄→衰退を繰り返すのが歴史じゃなかろうか 大和盆地内は、それほど特殊性があるのか
>173 確かに、関門海峡ルートの確保は、どのような体制で行われていたのか気になりますね。 畿内説の見解であれば、玄海諸国とセットで一大率の統制下にあるのでしょう。 三世紀以降、前原の交易上の拠点性(独占的地位)は薄まり、三韓土器の出土地は分散化していきますが、 もう一つの特性である楽浪土器の集中(楽浪・帯方との強い関係=私見では渡来集団の生活痕跡)は、 倭人伝の時代には、まだまだ続いています。 渡来集団の生活痕跡が、帯方郡関係者の駐在施設のようなものであれば、それに対応するためには、 一大率は、まだ前原に所在しなければならなかったのではないでしょうか。 ずっと後世の太宰府の時代になると、筑紫に置かれるようになってしまいますが。、 ところで、「一大率」の設置主体について、変わった意見があります。 「特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。」 この文章には、主語(設置者)がありません。 通説では、女王國が置いたとなるが、実は帯方郡の出先機関ではないか、と言うものです。 言われてみれば、その所管地域は「自女王國以北」です。 つまり、一大率を「畏憚」する諸国には、女王國も含まれるわけです。 現在では、ほとんど顧みられることのない旧説ですが、私は面白いと思います。
つまらん
>>175 さん
このような考えは、いかがですか?
私も、国産一大率じゃなく帯方郡の威光がかなりあったとおもわれます。
女王国が伊都を制圧したとき、一大率も女王国が支配しようとしたが、帯方郡の強い圧力により
伊都王族の安堵と一大率の支配をあきらめた。
帯方郡 > 親魏倭王
178 :
日本@名無史さん :05/01/17 22:21:11
>>177 訂正
伊都王族の安堵 ×
伊都王族の抹殺 〇
つまり一大率=伊都国と!
>>197 90%同国内
10%同国の飛び地
伊都国紹介文のなかに、
『郡の使の往来しつ常に駐る所なり』だけで、一大率に触れず
後の文に
『女王国の北に…一大率……常に伊都国に治す。』
本文には、伊都国の中に置くとは、書いてないとこが少し気になる。
181 :
日本@名無史さん :05/01/17 23:12:05
間違った!
197じゃなく
>>179 だ
失礼しました
182 :
日本@名無史さん :05/01/18 14:26:25
一大率という官制が魏になけりゃ話にならん。
183 :
日本@名無史さん :05/01/18 14:44:29
「一大率」って、どういう発音するの? 「いちだいそつ」ないですよね?
184 :
日本@名無史さん :05/01/18 14:44:43
>>182 魏にそのような官制が無ければ
純国産でしょうか?
それとも
単なる作り話?
岡田英弘著 『倭国 東アジア世界の中で』 って本はどれだけ信用できる?
186 :
日本@名無史さん :05/01/18 14:55:48
>>184 帯方郡の出先だというなら魏にそういう官制があるはずということ。
なければ、邪馬台の機関と読まざるを得ない。
確か梁書かなんかの倭条で魏志の一大率を紹介してるのがあったと思う。 そこでは、設置主体は邪馬台国であるとの前提で叙述されていた。 倭人伝の記述を後世の中国人が読んでいるわけなのだから、 まあ、文章としてはそう読めるのだろう。 でも、気に掛かるとこだ。 特に置いた官なのなら、別に本土に例が無くてもおかしくない。 ところで、一大率の中国語として意味だが、これも諸説ある。 私は一つの大率と読みますが、「一大」の率(一大国の率)とも読めて、これもまた面白い。
188 :
日本@名無史さん :05/01/18 20:08:04
魏が特に倭国だけにおいた機関だったのなら、倭人伝の記述の仕方も違ったはず。 結局、邪馬台国の機関としか読めない。
189 :
日本@名無史さん :05/01/18 21:05:43
この一大率が、大陸からのお声掛かりで置かれたか?それとも、国産なのかは大変重要ポイントですよ 大陸側の設置なら 伊都国内に、一大率があったと、とらえられる 倭国独自の設置の場合 伊都国内だけじゃなく、飛び地に置いたとも、とらえることが出来る。
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。
其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。 其王姓阿毎氏。置一大率、検察諸國、皆畏附之。
一大率が、倭国で独自に設置されたと仮定すると 『郡の使の往来して常に駐る所なり』 『王、使を遣わして……皆津に臨ん捜露す。文書……することを得ず。』 この文が、けして同じ場所じゃなくても良いことになってしまう。 どうだろう?
>182 「一大率」 卑狗、卑奴母離、爾支等とは、異なり「倭風」の官職名ではない。 市場を管理したと言う「大倭」とも異なるが、一応は中国語だと思われる。 また、そもそも職名では無く、郡から臨時に派遣されていた官吏の職能を説明しただけの言葉かもしれない。 「特置」 普通に読めば女王國以北に限った所管が「特」の意かとは思うが、「特設官」かもしれない。 「自女王國以北」 一大率の管轄=邪馬台国を含む諸国 「検察諸國、諸國畏憚之」 邪馬台国も検察され、之を畏憚している。 「常治伊都國」 本拠が所管地域の北側に偏った伊都国である。 このあたりが、やや不自然なのですが。
194 :
日本@名無史さん :05/01/18 23:32:40
195 :
日本@名無史さん :05/01/19 00:03:13
ところで @『伊都国に至る。……世王有るも…皆《女王国》に統属す』 @『《女王国》より北のかたには、特に一大率…』 B『《女王国》の東、……復国有り』 C『邪馬臺国に、至る。(女王)の都する所なり』 この倭人伝の文中に、しばしば出てくる(女王国) この文章中の、女王は全て同じ意味でしょうか?
196 :
日本@名無史さん :05/01/19 01:23:58
>>183 イワレと読みます
当時の北部九州では一般的な名前です
で、どこにあった説が一番優勢なんですか・・・?
>>196 イワレって読むの?そういえば前原にイワラって地名があったな
199 :
日本@名無史さん :05/01/19 13:36:52
つーことは、イワレヒコは一大率の官だった可能性もあるのかね?
200
>>199 イワレヒコが何を指すかにもよるんじゃないかな
一大率の官に、なった人は全て『イワレのヒコ』なのか?
個人名なら、可能性は薄いと思うよ!
ところで、
『一大率』は、
(一大率)それとも
(一大の 率)?
一大率とイワレヒコで盛り上がってるところ、申し訳ないが、どう転んでもイワレとは読めないんだが・・・
203 :
笠置シズ子 :05/01/19 21:29:39
アイレかわいや
イーダーリチと呼んでほすい。
205 :
日本@名無史さん :05/01/19 22:02:54
中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語 中国語と日本語と英語とアラビア語とロシア語の起源は朝鮮半島の高句麗語
>>205 キーボードたたきながら
何かんがえてるの?
???楽しいかい???
お疲れ様
>195 『女王』は『卑弥呼』と、『女王國』は『邪馬臺國』と、それぞれ同義でしょう。 ただし、次の段落の侏儒國の位置説明に出てくる『女王』は、女王『國』の省略形でしょうか。 まあ、どちらでも意味は通じますが。 『女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。 又有侏儒國在其南、人長三四尺、去※女王四千餘里。 又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。 參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。』 因みに、この段落は地理的記述の最後を占めるところですが、 この段に書かれている倭地は、普通に考えれば『九州』そのもです。 文献上、畿内説とは、もっとも矛盾する部分です。 私は、この部分の原資料は、中国側が、まだ九州島の倭人についてしか知見を持ち合わせて いない時代(おそらく漢代)に作成されたもので、その後の新規情報を加えて補筆した時、 新旧の知見が錯綜してしまったための齟齬ではないかと考えています。 具体的に検証しようもないことですが、倭人伝と言う継ぎ接ぎと省略だらけのこの一文を 読んでいると、そう思えてしまうのですね。
208 :
日本@名無史さん :05/01/20 12:36:55
倭人の条を読み通していくと、張り合わせ的なところがかなり見受けられる。しかし、集められた情報をランダムに貼付けたとも思えない。 限られた資料を出来る限り解りやすく忠実にした結果が、 東夷伝じゃなかろうか 不彌國の次に投馬國、その次に邪馬〇國 この順番だって、意味あっての記載じゃ無かろうか かといって、投馬國の南に邪馬〇國と、言うのは別問題だけれども。
209 :
日本@名無史さん :05/01/20 21:09:19
『伊都国検証』 (郡の使の往来して常に駐る所なり。) と、ゆうことは半島から来た人は、少なくとも伊都を中心に、周りの国々の方角や距離などを日数かけて、定点観測することが出来るはず そういった観測資料は、国史編纂(魏志)のときにも利用されたと思う それのになぜ 末盧国以降の記載に改正を必要とするのか、理解に苦しむ
『伊都国検証』 (世王有るも皆女王國に統屬す。) 畿内説を主張する人達はどのように論理的に解釈するのだろうか? 女王國=卑弥呼(邪馬〇國)と、仮定すると 畿内〜九州にかけての西日本統一王朝が当時には成し遂げられているこを、定義しなければやらなくなる それとも、大和王朝は北九州に飛び地を設けていたのか。 疑問の残る所である
211 :
日本@名無史さん :05/01/20 21:58:47
考古学で、 土木建築の大きさだの、交易力だの、街の大きさなどで 邪馬○国をマキムクに比定するのは、やっぱり無茶だ。
212 :
日本@名無史さん :05/01/20 22:10:28
そうか?未だに候補遺跡すらない九州より まともな説だと思うが。 あっ断っておくけど漏れは日和見だから。 でもだからこそ候補地じゃなくて候補遺跡を提示してほすい。
213 :
日本@名無史さん :05/01/20 22:48:38
>>212 氏へ
何故、候補地を比定しなければならないのか?
遺跡は現物を目視出来る。しかし、その後は確たる文献が無ければ分析だけで終わってしまう。
(例えば)
研究者の大多数が前原付近を、伊都國と比定している
確かに、考古学的に見てもそれらしき出土品もあるし“糸島”とゆう地名も有るしかし、文献(魏志)を検証すると
何とかして前原付近の遺跡にたどり着かせようとして、かなり無理をするアリサマ
そんな状況なのに、考古学研究者までこぞって 後押しする様子は、考古学に対して不信感を覚えてしまう。
>>213 続き
考古学研究者ぐらいは、文献によるものが理論的に実証されるまで冷静に見守ってほしい。
考古学研究者にとって前原付近の遺跡が伊都国じゃないと困るのか?
それとも、何らかのブランド名が必要なのか
間違いなく前原付近の遺跡が伊都国の遺跡ならいいんだが、万が一伊都国じゃなかったら…せっかくの…
215 :
日本@名無史さん :05/01/21 00:00:58
『伊都国検証』 国内の四世紀以前でもっもメジャーな国は、伊都國じゃないだろうか? 現在人気は、断トツ邪馬〇国であるが (ここからはお得意の、チラシの裏認定大妄想) 邪馬〇国って、卑弥呼が抜け出してくるまで 《倭人國伊都國県邪馬〇國村》じゃなかったのかな? 最盛期の伊都國にしたところで、せいぜい福岡県ぐらいの広さかな。 ようするに、大陸の認識として (始め) 倭人國奴國県邪馬〇國村 ↓ 倭人國伊都國県邪馬〇國村↓ 倭人國邪馬〇國県伊都國村極狭い範囲の物語
誕生日ナンバーGET
>209 倭人伝の方位記載に対する畿内説の考え方も百人百様ですが、 基本的には、狗邪韓國から邪馬臺國までの路程記事について 右回りに約90度のブレを認めるところです。 その理由については、 1 東夷伝全体が司馬懿の功績を顕彰するためのものとしての体裁を持ち、 その記述には政治的修飾がほどこされている。 東夷伝序で公孫を誅し、韓伝では方四千里と誇大な表示を行い、 広大な東夷を屈服させた旨の主張が為されている。 倭地の所在についても、 当時の敵国呉の近縁にあるものとした方が、大きな功績となる。 2 漢書以前の史書・地誌類には、「倭人」を南方民俗を持つものとして 表現しているものが多く、倭地の所在を実際より南寄りに認識していた。 倭人伝でも、その風俗はタン耳、朱崖と同じとされる。 倭人伝における倭地そのものの所在は、在會稽東冶之東と沖縄付近と想定されて おり、これは、上記の二つの理由により、倭地からの報告が、帯方郡若しくは洛陽の 官人層の先入観や政治的目的により誤解又は意図的に粉飾されたことによると 思われる。 方位に90度のズレを認めることにより、對馬國、伊都國、奴國、邪馬臺國等 については、それぞれ比定地として大勢となっている対馬、前原、福岡、大和等 と整合性が認められる。
>214 「文献によるものが理論的に実証されるまで」とは、どう言うことですか? 倭人伝の記載が「文献史学だけで「理論的」に実証されることは不可能だから 何百年間も「論争」が続いているんでしょう? 「冷静に見守ってほしい。」と言う表現は、「部外者は口を出すな」と同義ですが、 如何なものでしょう。 考古学が史実の探求に口も出せないとなると、私のような単なるマニアは、 息もしてはならないように感じますが・・・
>214 伊都は王や、帯方郡使、一大率が所在する場所だからね。 前原クラスの遺跡じゃないと困る。 で、現在は、前原以外にそのようなものは、発見されていない。
>>218 さん
そこまで極端なことは言ってませんよ。
もし、前原付近が末盧や奴国じゃまずいと、考古学資料が言ってるのでしょうか?
>>217 さん
それはあくまで、東アジアの全体地図の話じゃないですか?
その全体地図を 個々の部分地域にまで当て嵌めてしまうのは不自然だと言っているんです。
それに、貴方の認識している地図は、魏に書かれた地図でしょうか?
私も見たいです。
223 :
日本@名無史さん :05/01/21 01:27:02
簡単に言うと 記載文に、末盧から東南に五百里陸行と書いてあれば、だいたい東南の方に進んでみて 将来掘っても遺跡の臭いもしない所に進んでしまったら、それはもう末盧上陸時点での誤りじゃないか! それとも、もっと違った解釈が有るのかもしれない
イトは数千戸の小さいところじゃなかった? 奴国がおおきかったんじゃなかったっけ
吉野ヶ里遺跡が奴国とかじゃないの?
226 :
日本@名無史さん :05/01/21 07:56:01
>222 魏志に『描かれている』地図だよ。 この『地図』は、やっかいなことに見る人によっては、向きが変わって見えるらしい(W 多分、この『地図』を書いた人の手元には、先ず日本列島の詳細が描かれていない世界地図があって、 後から入った情報を基に日本列島を苦労して書き直したんだね。 三国志のような正史が描かなければならない『地図』は、中華皇帝の偉が及ぶ範囲の世界だよ。 新たに中華の辺縁に書き加えられた邪馬台国がどのように『中華地図』に『描かれて』いるかが問題なんだよな。
別にどこでもいいけど ヤマタイと読んで、トヨと読むのは何故?
228 :
日本@名無史さん :05/01/21 12:04:30
ヤマタイが世間的に浸透してるんで、世間ではそう呼ばれるだけ。 畿内説では、ヤマト、トヨが正解と推測されている。 というか、畿内説派はあんまり名前とかにこだわってない。 そういう質問は某隔離スレにいる九州説たちにぶつけてくれ。
それよりか そもそも、邪馬〇國ってどちらが名付け親なわけ? 日本で呼ばれていた名前を大陸側の人が聞いて、漢字に当て嵌めたのなら読み方の議論があってもいいけど 大陸の人が勝手に付けた名前だったら 言葉や地名の類似を考えるのは????だね。
>>227 畿内王権一元史観の妄想者が
邪馬台国をヤマトと読みたくてウズウズしてたので
我田引水をやめなさいという意味で、ヤマタイと読んだんだろう。
まあ、ジャバダイと読んだほうがもっといいんだが。
トヨはダイヨでしょ。
231 :
日本@名無史さん :05/01/21 13:06:01
>>224-225 さん
基本は、東夷伝倭人の条ですから
そこから色々と探り出すほかないと思います。
やはり、
最終的には、考古学的根拠の後押しが必要かと思います。
232 :
日本@名無史さん :05/01/21 14:23:18
>>229 さすがに中国人が意味無く勝手に名前を付けたということは無いと思われる。
音を写すか、何らかの民族的特徴から名付けるのが普通。
邪馬台でも邪馬壱でも意味が通らないので音を写したと考えられている。
卑弥呼は上表してるんじゃなかったっけ? 卑弥呼も邪馬台国も日本側の当て字の可能性のほうが高いんじゃないの? まさか口述で上表はしねーだろ。
でも、韓伝や倭人伝に記載されてる、国名の漢字を見ると 中国側の意図的なものが伺えるんですが?
235 :
日本@名無史さん :05/01/21 18:38:57
国名の表記で気が付くことは、伊都の好字二つだけの組み合わせ。 それなりにセンスを感じさせるネーミングだ。 多分、自称だろう。 こいつらだけは、漢字の意味まで理解していたんじゃないのかな。
伊都は、帯方郡使が常に駐まるような場所だ。 他国に比べて、中国人(楽浪・帯方郡人)との接触は、ずば抜けて多いはず。 漢字の習熟度は、高かっただろう。
『伊都國検証』 私も、同感です。 伊都國だけがなぜか日本ぽいんですよ 官、副官の名前も伊都に来るとガラリと変わるし 日本で最初に漢字が普及した場所かもしれません。 私が、前原付近を伊都國として比定出来ないのも、この漢字のことがあったのも、一つの理由です。 そう、伊都國を比定しうる考古学的根拠の決め手は、土器や鏡や王墓などよりも、漢字(文字)に関する出土品だと思うのですが
仮に伊都国が佐賀市あたりにあったとしたら見つかるわけがねえな 古王国のかなりの数が今でもそのまま都市である可能性の方が高いと思うが 連続性は無いにしても都市が営まれるほどの場所なんて昔からそう変わらんだろ
>>240 さん
資料提供ありがとうございます。
そうすると、漢字の出土で判断するこは大変難しいですね
伊都國ならば、文章出土が期待出来ると思ったんですが…
242 :
本田 :05/01/23 13:11:05
243 :
日本@名無史さん :05/01/23 15:55:43
>>242 公孫氏だと?皇孫氏をそう言ったんじゃないのか?
『ヤマタイ』が『キマタイ』になっても 今の畿内説には関係ないんじゃないかい 彼らの殆どは『マキムク説』だから
245 :
日本@名無史さん :05/01/23 20:30:43
皇孫命となれば日本の皇統の人だよ。 大和朝廷皇女は当然それに含まれるし、九州王朝ならば王孫かもしれぬ?
246 :
日本@名無史さん :05/01/23 22:19:27
『伊都國検証』 ここに鳥〇氏著書の一冊の本がある (末盧國から伊都國へは東南と記されているが、実際は地図で明らかなように東である。…当時の漢族が地理観を間違えていたことによるものであった。すなわち日本列島が大陸の東方海上で、南北に連なっていると見ていたからである。) だから「東南」を「東」と訂正してもさしさわりがない。 おいおい。 何千万分の一の地図から唐津―前原間を見つけるの大変だよ あんたは仙人か? 大学の名誉教授がこんなこと平気で本にしちゃうんだもなー でも、これは鳥〇氏に限らず、
247 :
日本@名無史さん :05/01/24 02:03:02
邪馬台国は宮崎県の「都城」 地名からの類推ってのもあるけど 航路と陸路を正確にたどるとそこに行き着く。
>>247 あ〜、まだ言わないでくれ
実は俺も倭人伝読んでて「あれ?都城に当たっちゃった」となってしまった。
でもね、俺の出身地だから我田引水っぽいし、大した遺跡があった記憶がないんだよ
今年実家に帰ってないから、何の情報も得られないかもしれないけど、
肯定、否定につながる情報を探してるところだったんだ
まあ、盆地で地の利がいいし、ここから見る霧島の形はあまりに神秘的だから
古代人がここに大きなクニを置いてもおかしくはないとは思ってるよ
249 :
本田 :05/01/24 03:07:41
250 :
日本@名無史さん :05/01/24 10:09:18
公孫度 出身地不明? 中国人というより、日本から中国へ渡った皇孫の分かれの日本人ではないのか?
251 :
日本@名無史さん :05/01/24 12:32:10
邪馬臺國が公孫滅亡の情報を素早く入手したことがうかがえる。 そうすると邪馬臺国の場所も、半島から近い所に存在しなければならない。 そうなるわなー
252 :
日本@名無史さん :05/01/24 12:38:16
『伊都國検証』
>>251 を根拠として
伊都國 = 邪馬臺國
も、考える余地が出来たな
253 :
日本@名無史さん :05/01/24 12:54:45
『伊都國検証』 変なんだよね、大陸人が常駐しているような国が 一度も朝貢の記録に残ってないのが 奴國も行った。 邪馬臺國も、行った。 普通行くよね それとも伊都國は、半島の植民地か? でも?行くよね!
きっと、しょっちゅう行ってるさ。 実際、難升米や牛利は、伊都国人かもしれない。 漢代の奴国や三国時代の邪馬台国は、それぞれ倭を代表する地位にいるのだが、 伊都国は、それより格下なんだよ。 つまり、外交担当の実務者クラスの扱いしかされていない。
イト国は千戸余の小国
>>255 一行スレは、止めてくれ
一体何が言いたいか解らない。
千戸だか何なんだい?
千戸だからそんな小国に色んな大陸の異物があるのは不自然。 国と言う事は国と国は別の集団ということになる。邪馬台国というれっきとした王国があるのに、 外国人が寄留地にしただけで、そんなたいそうな物があるわけがない。 奴国みたいな1万戸を越える国じゃないんだ。小国が財宝をもっていても奪われるだけ。
>257 伊都が傑出して点は二つ。 一つは、平原の王墓。 これは、一〜三世紀の築造によるものがが主力。 漢鏡や有名な大形イ方製内行花文鏡などが副葬されている。 二つ目は、楽浪系実用土器の大量出土。 一〜三世紀に前原・三雲、志摩・御床松原等で局所的に見られる。 四世紀になると博多・雀居遺跡などへ移動する感もある。 「外国人が寄留地にしただけで、そんなたいそうな物があるわけがない。」 これは、どうかな? 例えば、難升米のケース。 「今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。」 難升米と伊都国の関係は不明なので、こういうこともあるだろうと言うくらいの例としてあげておく。 外交官レベルでもそれなりの役得はあったというわけだ。
259 :
日本@名無史さん :05/01/25 08:03:12
『伊都國検証』
>>257 さん
まだ、当時の『國』の概念がはっきりと区分けされていないと思うので
千戸だからどうのとは言えないと思う。
広大な領土の千戸
バチカンみたいな千戸
色々あるよ
>>258 さん
楽浪土岐は、前原だけの特異はないと思うんだが
確か 壱岐や対馬それに韓国でも出土してるはず
前原付近=伊都國は
マキムク=邪馬臺國
と、なんら変わりないと思うけど
いかがなものでしょう?
>259 それは違うでしょう。 確かに楽浪系土器は、当然三韓や壱岐、対馬でも出土しています。 ですから、土器の出土の有無をもって、それらの地に対して、「前原だけの特異」性等は主張できません。 だからといって、「須玖岡本」「吉野ヶ里」「妻木晩田」「纏向」等他の地域との差別化が否定されることはありませんよ。 「纏向」等には、楽浪土器の出土という中国人の定住痕跡が認められないのですから。 前原が、九州島内における中国系進出の橋頭保であることは事実です。 そして、このことは、前原が「郡使滞るところ」伊都国の有力候補であることの重要な考証材料なのです。
『伊都國検証』
>>260 さん
それは、十分承知の上でこだわってみました。
(これは私得意の妄想なんですが)
一大率は、伊都國管理の(役所?)ですよね。
そして、『倭国』の中で伊都國は大陸人が常駐する唯一の土地です。
ここで、一つの盲点に気付いたのです。
一大率は、日本に置いたのか?
確か皇帝などの贈物の最終確認する場所のはず、大陸離れる直前に確認するのが最も効果的じゃないかと。もしかしたら、一大率は韓国(狗邪韓国)の釜山か金海にあったんじゃないかと
狗邪韓国はこの時代『倭国』の、北限なはず
262 :
日本@名無史さん :05/01/26 08:00:37
『伊都國検証』 何故、当時奴國と邪馬台國だけが朝貢出来たかとゆうと やはり壱岐と対馬を抑えていたからと思う。 たとえ、九州島を抑えても海峡封鎖されれば大陸には行くこともできない。 誰もその辺りを検討しないのか?
263 :
日本@名無史さん :05/01/26 12:37:58
『伊都國検証』 何故、伊都(前原)に至る行程がしっくりこないのだろうか? 距離も合わない、方角も違う、なぜだろう? 全ての謎解きはこの文に集約されていた。 『女王國より北のかたには、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。………、皆津に臨んで捜露す。文書………を得ず。』 『そうだったのかー』 『それじゃいくら探しても見つからない訳だ』 『今まで何百年の間信じてきた人どうするの?』 『しらなーい』
264 :
日本@名無史さん :05/01/26 17:23:51
『伊都國検証』 七万余戸の邪馬台国がどこだかはっきりしないのに、千余戸の伊都国 から日本一大きな鏡が見つかるのはなぜ?
265 :
日本@名無史さん :05/01/26 18:12:01
>>53-54 にあった、唐書に関する自分の見解。
日本という言葉が指す対象が「やまと」であるなら、すべて解決すると思う。
ヤマトはそもそも小国だったが、
中国が倭国とよぶ倭国の地の全体を支配するようになった。
(邪馬台国は、九州または畿内の1国だったが、
倭国大乱後に盟主に擁立され、
その後も婚姻などの同盟政策と戦で支配地域を広げた。)
ヤマトの者は倭国人とは別種族である。
(ヤマトの人は刺青などの習俗から中国江南地区の人であろう。
倭国の庶民はヤマトの人を神と思っているのか、道端で会うときに
拍手打って平伏するほど、彼らと自分らとの間に違いを感じている。
鉄器を使うこともあるので、春秋戦国時代の負け組が
逃げてきて立てた亡命政府などと考えられる。)
そして、大和言葉の「や」には、「日」の意味がある。
(やのあさって、やのやのあさって・・・など。)
「本=もと」と「馬台=まと」は、似てる。超似てる。
ヤマトの発音を教えることに重点を置くと、
邪馬台とか雅じゃない文字を当ててくるので不愉快。
だから、ヤマトという大和言葉の意味である「日本」を伝えることに
重点を置いて、発音を覚えてもらうのを諦めたのだろう。
266 :
日本@名無史さん :05/01/26 18:34:53
>>264 さん
それは、その場所が伊都國じゃないから。
267 :
日本@名無史さん :05/01/26 19:30:23
>>265 >邪馬台国は、九州又は畿内の一国
それって意味がかなり違くないかい。
268 :
日本@名無史さん :05/01/26 19:41:57
後漢や魏の時代の倭国は四方が海なのに対し、 唐の時代の倭国は山を隔ててアイヌと国境を接している (つまり、陸に国境を持っている。)と書いてある。 唐の時代の倭国の勢力範囲は、九州、四国、本州の東北以外だから、 四方が海の時代の勢力範囲は、九州だけということになるね。 (可能性としては四国も含めて良いけど)
269 :
日本@名無史さん :05/01/26 19:52:20
>>267 いや、
>>265 の論点だけなら、
どちらにあっても構わないことだと思うが。
まあ、そもそもどこにあったかは、九州だろうね。
卑弥呼の時代にどっちにあったかは
とりあえず置いておくとして。
>265 『日本』は、『ヤマト』の当て字じゃなくて、やはり、最初は『ヒノモト』に当てたものだと思うぞ。 それが『ヤマト』ととも読むようになった経緯については、旨く説明ができないが・・・
271 :
日本@名無史さん :05/01/26 20:34:04
>>270 「ヤマト」と「ヒノモト」の関係は、
「マナジリ」と「目尻(めじり)」の関係と
ほぼ同じ(という考え)。
目の超古い言い回しは「マ」。
マナジリは目の尻という意味の古い大和言葉です。
同様に、ヤは日の古い言い回しの1つ。
するとヤモトはヒノモトの古い表現になりうるということ。
272 :
日本@名無史さん :05/01/26 20:35:56
大陸側が畿内の小国を認識しだしたのは、やはり空白の150年の後だろうな 畿内側の大陸意識は、かなり前からあっただろうが 壱岐と対馬を九州勢に抑えられていたら諦めるしかない。
273 :
日本@名無史さん :05/01/26 20:52:16
実は、岩手県という説があることを知っていたかな?
274 :
日本@名無史さん :05/01/26 20:54:29
岩手は、藤原氏が栄ていたとは聞いていたが…。
>271 マ>メの変化は、古代日本に起きた音韻変化の一つ。 現在「エ段」の母音を持つ語の多くが、この変動による影響を受けている。 例) 白髪(シラカ)の「カ」>毛(ケ) 風見(カザミ)の「ザ」>風(カゼ)の「ゼ」 ヤマト>ヒノモト説は初耳ですが(w
白髪の大倭根子命
277 :
日本@名無史さん :05/01/26 21:15:18
>>270 >『日本』は、『ヤマト』
って、日の本の大和の国 から来てるんじゃないの?
(和歌の枕詞)
飛ぶ鳥の明日香 と同じようなもんでは?
万葉集に出てるじゃん。たしか…
>>275 その音韻変化は知ってる。
とりあえず、ヤとヒには音韻変化は想定してない。
ただ同じ意味の古い言い回しの要素だけを指摘した。
だから、目尻=マナジリの方が繋がりが深いことは認める。
しかし、ヤマト=ヒノモトの繋がりを否定は出来てないと思う。
>>277 ああ、それがあった。気づかなかった。
ヒノモトはヤマトの枕ことばでしたね。
2つの繋がりは可能性として濃厚ですね。
『伊都國検証』 私は初め関門海峡付近に(一大率)を置き、北部九州の国々とそこを通り抜けようとする船舶を監視するものだと考えた。 でも、それが間違っていたことに気が付いた。 最も効果的に一大率を使うのは、やはり直接監視出来ない自国領土に置くことがもっとも合理的である。 それは、女王国の北に有りなかなか目の届かない場所同じ倭国の『狗邪韓国の港』じゃないか そう、 そこがすなわち『伊都國』じゃないか! 伊都國は、前原じゃ無く狗邪韓国の港町
『伊都國検証』 東夷伝倭人の条には、半島を離れるとき (始度一海…)“始めて”と、ことわり文字を入れてあるのに、九州島上陸を表すような文字や文章が全くみられない。 ようするに、邪馬台国に行くまで一度も、九州島に上陸していないとも推測出来る。
プラムはかしこいな
白い方が勝つわ
そんないい方、嫌いです。大人っぽくて・・・
負けた・・・_| ̄|○
285 :
本田 :05/01/27 06:29:26
>>253 > それとも伊都國は、半島の植民地か?
当たり。
286 :
本田 :05/01/27 06:38:44
>>265 大和は、九州の地名の山門の当て字説が有る。
日本は、新羅と同義の言葉で、白村江の敗戦後、使われるようになった。
287 :
プラム :05/01/27 07:59:09
『伊都國検証』 国それぞれに、官・副官の名前が記載されている。しかし、末盧國にはその名前が見当たらないなぜなんだろう。 このように考えてみる! ようするに、本国から離れて直接目の届かない所(対馬、壱岐、伊都、奴、不彌)に、置いた しかし、末盧だけは九州(本国の側)にあるからじゃないかと思う
288 :
日本@名無史さん :05/01/27 08:40:17
>>285 伊都国という国名は、
そこに王のいる首都であったことを表わすから
植民地というのは間違い。
この国は、たぶん「倭国大乱」で負けて卑弥呼の邪馬台国に従属
させられることになった。
だから「世世王あるも、皆女王国に統属す。」
289 :
日本@名無史さん :05/01/27 09:00:25
>>280 「ようするに、邪馬台国に行くまで一度も、
九州島に上陸していないとも推測出来る。 」
↑
できない。三国志東夷伝倭人の項には、
「始めて一海をわたる」
↓
「対馬に至る」←この時点で半島離れて南下してるよ(w
↓
「また一海をわたる(ゲン海)」
↓
「一大国(壱岐)に至る」
↓
「また一海をわたる」
↓
「末ろ国に至る」
↓
「東南陸行500里で伊都国」
と明記されている。
290 :
日本@名無史さん :05/01/27 09:06:50
>>288 だから当時
半島南部と九州上部が同じ王の国の圏内で
あっても変ではないが、王のいた都は、伊都。
291 :
日本@名無史さん :05/01/27 10:30:31
魏志に載ってる当時のアジア各国までの距離って正しいの? ほかの国までの距離が正しいなら邪馬台国までの行程も信用できるけど ほかの国までの距離がいい加減や誇張されてたりしたら 邪馬台国の距離も信用できないよね、
292 :
プラム :05/01/27 12:29:11
>>291 さん
それでは、正確に表された距離って何なんですか?
当時のことですから、余り神経質にこだわることないと思いますが。
記載の中に千里と書いてあれば、だいたい千里なんですよ。
それを現代の距離に換算するから可笑しなことになってしまうのではないでしょうか。
千里=千里なんです。
私の考えでは、『水行千余里』と書いてあれば
それは、当時一日で行ける範囲のことじゃないでしょうか?
『水行七千余里』なら、
だいたい七日位かかる距離そんなもんで十分と思います。
いかがでしょうか?
『伊都國検証』
>>290 さん
確かに倭人の条には記載されています。
こうゆうことじゃないでしょうか
女王國には卑弥呼
伊都國には卑弥呼の弟
だから、狗邪韓国の離地の管理が出来るのではないでしょうか。
弟が代々続く伊都國の王位を継承したと考えても不思議じゃないですよね。
294 :
日本@名無史さん :05/01/27 13:52:03
>>279 一大率があったのは、今の壱岐島だろう。
一大率があったから、一大国と、
魏志倭人伝に書かれているのだろう。
295 :
日本@名無史さん :05/01/27 14:06:26
>>293 卑弥呼の弟が伊都国を治めていてもいいけど、
伊都国は
>>289 の魏志倭人伝に明記されてるように九州北部。
296 :
日本@名無史さん :05/01/27 15:47:28
>>280-284 何これ?新興宗教の集団勧誘と同じバイブレーション(((( ;゚Д゚)))
>>295 さん
こんなトンデモナイ説言ってるのは、私ぐらいでしょうから理解出来ないのも無理ありません。
どうしても倭人伝の記載順列に不自然性(記載内容じゃなく)を感じるのです。
一見地味な末盧國、実は壱岐と伊都の間に入れることにより大変重要な文中役割があったのです。
『末盧國』 末盧國の記載には、 (又一海を渡ること千余里…) ようするに、方角も官も記載されていないんです。 これだけじゃとてもじゃないけど場所の比定など無理にちかいです。 でも、その前後の壱岐と伊都には距離・方角・官名がきちんと記載されています。 と、ゆうことは末盧の役割は前と後を分ける境界の役目の項目と判断しました。
倭人の条=倭国(狗邪韓国〜日本の一部)の記載と判断しています。 郡から一大國までストレートに書かれていて、途中の狗邪韓国の中身が無いのです。 ようするに、最初の文は郡から(九州島或は壱岐)までの道案内と途中二つの島国の紹介→(末盧国)→狗邪韓国内紹介(伊都〜不彌)と、しても不思議じゃないはずです。
300 :
本田 :05/01/27 23:25:49
> 伊都国という国名は、そこに王のいる首都であったことを表わすから >植民地というのは間違い。 伊都国の意味はともかく、 王が居たから植民地ではない、 とゆう結論には賛成できない。 公孫氏の女王卑弥呼の国では、 九州のたぶん倭人を奴隷化して、 生口として魏に差し出している。 国の支配層と非支配層が異民族なら、 王が居ても植民地だと思う。
301 :
本田 :05/01/28 00:24:08
302 :
プラム :05/01/28 00:33:12
本田氏 貴方は、定説通りですか? 私の比定地は、一大國から千余里(一日で行ける距離)の所です。 末盧は最後に見つけようと考えてます。
303 :
本田 :05/01/28 00:58:26
304 :
プラム :05/01/28 01:13:04
本田氏
かなり困難をきわめます。
でも、それがヒントで
>>297-299 の仮設が出来上がりました。
305 :
プラム :05/01/28 12:52:20
末盧國は九州島の何処かだと思います。 でも、どうやら遣使が上陸したような雰囲気のある場所じゃないみたいです。 (私も、誤りを訂正しなければ) 始めて上陸したのに、あの文章はいただけません。 公式記録じゃなく、人から聞いたくに? 伊都の次に記載されている奴國も、一昔前まで漢に朝貢した倭国代表の国なのにあのような扱いかた もしかしたら倭人の条に記載されている奴國は別物かも知れませんね。 不彌國なんて韓伝にも不彌國ありますから
あぼーん
誤爆ですな
308 :
日本@名無史さん :05/01/28 15:55:22
>>305 >末盧國は九州島の何処かだと思います。
どうして松浦じゃないと思うのだ?
309 :
プラム :05/01/28 17:25:27
>>308 さん
貴方が末盧國を比定する時の条件はいったい何なのか教えて欲しいです。
私の持ち合わせる資料は倭人の条だけなもので
何か末盧を比定出来そうな考古学的特長などありましたら、教えて欲しいです。
310 :
日本@名無史さん :05/01/28 18:57:43
>>309 末盧は、「まつら」と発音する。
松浦は、昔は「まつら」と読んでいたと、日本書紀にある。
地理的にも上陸地点としておかしくない。
他の土地の方が説明に困難。
これ以上の条件が必要か?
311 :
プラム :05/01/28 21:33:26
>>310 さん
日本書紀ですか約五百年後に書かれた国史ですよね
松浦は確か、長崎〜佐賀の北部辺りの地名ですよね
それに、長崎の松浦市や佐賀の伊万里市の方が距離的には合いますが!
ま、私の場合(平戸〜玄海町)の海に面した所の何処かとだけにしておきますが
それに、今の所末盧がエジプトにあった所で邪馬臺國探しに影響が出るとは思えませんので、最後に回してもよろしいかと
それに、余り後世の地名にこだわるとディズニーランドが東京都になってしまい浦安の住民から苦情がきます。
312 :
日本@名無史さん :05/01/28 22:42:10
>>311 >日本書紀ですか約五百年後に書かれた国史ですよね
だから、伝承が間違ってるというのか?
神功皇后が卑弥呼だって伝承があるんだから、
神功紀に松浦=まつら=末盧をほのめかす記述があることを重視すべき。
日本書紀を書いた人物は魏志倭人伝を歴史書としてきちんと研究している。
>>312 神功皇后が卑弥呼だという伝承がどこにあるのか?
伝承はないな。しかし、記紀の編者の捏造ならあるな。 神功皇后が卑弥呼だという捏造が。
じゃあ聞くが、魏志倭人伝の編者はどうなんだ? 畿内派ならばだ、『邪馬臺国』を『邪馬壹国』だとの捏造は?どうだな?
316 :
プラム :05/01/28 23:16:07
>>312 さん
今、誰がどんな解釈しようが真実なんて解りませんよ、証明のしようがありません。
それに、ほのめかす地名なんて、日本中イッパイあります『新東京国際空港』あそこは、東京の飛び地ですか?
瀬戸内海に棒突っ込んでグルグル掻き混ぜたら淡路島が出来た。そんなすごいことできるのなら 新潟にいって元に戻してください
だから『記紀』などは参考資料程度に留めておいたほうがベストかと。 それに、『記紀』の真偽は不毛の議論になりそうだから『別スレたてて』 行ってください。
318 :
日本@名無史さん :05/01/28 23:44:33
>>265 亀レスだが、ヤマトとヒノモトは同義で良いだろうね。
ヤマトタケルノミコトのヤマトも、
倭と書いたり、日本と書いたりする。
319 :
日本@名無史さん :05/01/29 00:05:36
末盧の場合、 (1)邪馬台国と、ほぼ同時代に編纂された 魏志倭人伝の「末盧」と 日本の古事記に書かれた「末羅」と 日本書紀の「松浦」が すべて「まつら」と読めて整合性がある。 さらに、 (2)日本の地名は、時代を経ても、最も変化しない情報のひとつ (千年たっても60%〜90%が類似の地名で残存) という要素が揃っている事から、 「末盧」=まつら=松浦半島 のどこかである可能性は高いです。
320 :
プラム :05/01/29 00:06:57
>>318 『倭人』『倭国』という名前の始まりは、日本特有のものじゃなく 漢族のおごりから、長江流域を原住地として各地分布した民族を総括してつけて、蔑んだみかた。
このことを知っていたのなら『倭』を『ヤマト』と呼ばせることは ほぼ有り得ないのではないだろうか
321 :
日本@名無史さん :05/01/29 00:13:18
>>320 >このことを知っていたのなら『倭』を『ヤマト』と呼ばせることは ほぼ有り得ないのではないだろうか
いかにプラムという人物が無知で実教養かが知れたな。
322 :
日本@名無史さん :05/01/29 00:14:51
>>319 続き。
従って、「末盧」=「松浦」としか考えてはいけない、
という事は勿論ないが、
>319の(1)と(2)に記した以上に優れた
証拠要因を複数提示できない場合は、
「末盧」=「松浦」という、現存の推論より
説得力を持たないだけです。>プラムとかいう方
323 :
日本@名無史さん :05/01/29 00:20:02
江戸時代から何百何千という学者が研究しているのだが、 畿内説も九州説も、「末盧」=「松浦」で一致してるな。 新解釈を提示する前に、自分の頭をまず疑うべきだろう>プラム
なるほどねぇー でも、以外と軽目の反論なのにビックリ もっとハードな反論、罵声が来るのかと覚悟してたのに それに、さっきの(1)(2)を越える優位性ある意見なんて無いよ それに、個人には限界あるから今の所これ以上のことは無理
325 :
日本@名無史さん :05/01/29 01:17:13
あっさり負けを認めるくらいなら、最初から妄言吐くなよな。
326 :
日本@名無史さん :05/01/29 01:20:28
先人と同意見だったら、邪馬台国は見つからないんじゃないだろうか? だったら、別な可能性も楽しいじゃありませんか。 プラムさん、歩みを止めないでください。
>>プラムさん 292で書かれた 水行1日=千里 って、大賛成です。 でも、 水行1日=千里 という大雑把なものさしで末盧国を 博多湾方向に動かすのは反対です。 方角を省略しているのは対馬−壱岐の 南と同じためと解釈できませんでしょうか。
328 :
プラム :05/01/29 01:40:29
>>325 別に負けを認めた訳じゃないさ
私に負けを認めさせるには『プラム』のコテハンを復活させた
>>279 以降のプラムレスに対して反論してくれ。
但し、学説の引用などを多様せず自分の考えでの反論を待つ『学説の引用など今更使われてもしかたない。そんなこと言われること承知でカキコしてるので』
329 :
プラム :05/01/29 01:53:45
>>327 さん
私は、今の所末盧國を比定するつもりなど有りません。
それに、書に『南』の文字がない以上その区間は自由でいいと思います。
>>326 さん
その考え方が自分の原点ですから
それに素人は自由ですから
330 :
日本@名無史さん :05/01/29 02:24:34
>>319 (と322)を書いた者です。
>325氏のような言い方は好きではないが、
プラム氏とそれを応援する人に言いたい。
いくら自由といっても、証拠要因を全く集めないままの
思いつきは、いくらその上に、また「思いつき」を積み上げても
「妄論」(「妄論」が厳しければ「ファンタジー」。)です。
仮説にもなりません。
だいたい末盧を比定しないで、
末盧から陸路だけで行く伊都の場所を
どうやって比定するのですか?
331 :
日本@名無史さん :05/01/29 03:54:54
証拠固めが完成したものは、2chに書くより学術論文に出せばいい。 仮説で十分でしょう。むしろ思いつき段階で気軽に書くのが2ch。 また、ミクロを固く重ねればマクロの真実にたどり着くとは限らない。 マクロからの考察もまた重要。
332 :
本田 :05/01/29 05:59:07
> 日本書紀ですか約五百年後に書かれた国史ですよね 違う、現存する最古の日本書紀は、13世紀ごろだから、 千年近く後に書かれたもので、 日本書紀を読んで古代の歴史を正しく知るのは困難。
333 :
プラム :05/01/29 07:47:09
>>330 さん
かなり誤解なされてるようで
末盧に関して松浦を否定していませんけど。
否定も比定もしないと言ってるんです。
>末盧を比定せずには伊都に進めない
それこそ貴方に聞きたいです 何故末盧から伊都に進むのか その根拠は(考古学的根拠ならなお歓迎)
私の根拠は
>>279 以降の『プラム』レスを参照下さい。それでも足りなければ、それ以前の『伊都國検証』を参照下さい。
私のレスですので。
334 :
本田 :05/01/29 09:30:25
>>318 新羅、日本、朝鮮は似た意味の言葉で、
大和の読み方は、山門からきている。
パート15建ってから、始めて荒れ気味の流れですね。 皆様 ここは、マタ〜リ意見交換スレですので、そこのところよろしく。 学説探求家の方もファンタジストな方もいますので、 それぞれ、気に入った方との意見交換を楽しめれば、よろしいんじゃないでしょうか。 自説の検証のためには、こまめなレスも重要ですが、単なる結論連呼はアラシと同じ。 また、意思疎通が、どうしても出来ない場合は、互いにスルーが一番だと思いますよ。 それと、ネタの選択はスレ進行の空気を読んで行ってくださいな。
(´-`).。oO(1さんはいいこと言うなあ)
337 :
プラム :05/01/29 12:41:27
このスレのテーマである『魏志倭人伝』 文中の記載内容を改正しなくても、解釈の視点を変えるだけで 専門家と違った解釈も可能であることを証明したいだけですから。 一般素人が専門家と同じ道を辿っても、新しい道は間違いなく開けませんから だったら ちょっと視点を変えて見るのも素人の素人だから出来る特権じゃないですか! まだ、私の仮説には十分な根拠の裏付けがありませんが 方角、距離、文中内容 の変更はしておりません。
338 :
日本@名無史さん :05/01/29 13:03:57
賛成。十分な根拠なんて、あとからゆっくり集めればいい。 学者の未開拓分野はたくさんあると思います。たとえば、自分の 専門外の全学問を援用仕切れていないでしょう。 考古学・比較民話学・文化人類学・文献学・化石考古学・植物学 気象学・地理学・海洋学・神社等の古文書研究などなど・・・ 仮説として、どこに一貫性を持たせるか、どこに力点を置くかなど まだまだやることはたくさんありますが、学術研究としては 慎重派の考古学がチビチビと研究をしていますが、邪馬台国問題 まではなかなか到達しません。 だから、素人はまだまだたくさんやることがある。 この分野の研究は、隙だらけなのです。
339 :
日本@名無史さん :05/01/29 13:15:22
>>333 何故末盧から伊都に進むのか その根拠は
>>289 に書いたように、それが魏志倭人伝に書かれている順番だからです。
もしかして、原文読んでませんか?
それに「いと」という地名も、末盧と同じように
倭人伝の「伊都」だけでなく、九州の地名としての
「小台・土」、「糸(糸島郡)」
いづれも「いと」と読めて整合性がある。
また、倭人伝の言うように、末盧から
陸路で東(正確には東南)の方向に行けば糸島郡がある、
という事実でも補完されます。
>279以降、何回か読み返してみたけど、あなたが言っている事が
よく判らないんです。
狗邪韓国の港=伊都国って、「国の中に国があった」ってことですか?
魏志倭人伝の路程は、海をわざわざ南下して、また(陸路で)半島まで
引き返す???
340 :
日本@名無史さん :05/01/29 13:25:07
341 :
日本@名無史さん :05/01/29 13:49:05
あは、それは仮説以前
>>339 さん
申し訳ありません。
まだ原文は見たことありません。
資料でしたら
ほとんど毎日、漢書〜旧唐書の倭伝文は目を通すようにしています。
いま、魏志韓伝の和訳を探しております。
もし、ご存知でしたら教えてください。
343 :
日本@名無史さん :05/01/29 14:15:59
>>338 そうして、疑似科学が台頭し、オームがサリンを蒔いた。
科学とファンタジーを同列に考えるアフォは氏ね。
344 :
プラム :05/01/29 15:56:30
>>339 さん
解らないのは無理ありません。
まず、九州島内の固定観念を忘れて『伊都國』中心に考えて下さい。
そして、倭国内の何処に一大率を置けば効果的か考えるのです。
>国の中に国
もうすでに倭国の中に伊都国や奴国有るじゃないですか
>>334 よく知らないんだけど、山門という文字は、
平安時代以降につけた当て字じゃないかな?
その文字だと母音の甲乙が合わないらしいので。
346 :
日本@名無史さん :05/01/29 17:22:47
まだ、母音の甲乙とか言うやつがいるのか。 一時期流行した学説だが、厳密に考える必要はないというのが最新の考え方。
>>346 「甲乙が違うから、山門は邪馬台じゃない」
と、それだけで断定するのは、僕もおかしいと思うけど、
(一方で、字が当てられた時期によっては正当な主張かもしれない。)
言葉の語源とか読みとかを考えるときは、甲乙は有用でしょ。流石に。
348 :
日本@名無史さん :05/01/29 17:40:20
>>347 以前は、「神」と「上」の「かみ」は違うものという定説だったが、
そこまで、厳密な区別を考える必要はないというのが最新の言語学。
当時の倭人が自分らの発音をそのまま漢字で残せるのであれば、甲乙も信憑性があるだろうが、 実際には中国人だったり、後世の人だったりするから、正しく伝わったかどうか分からないんじゃないの?
時代にもよるが、万葉集とかでは区別ははっきりしていた ように思われる(例外が出てこない)けどね。 ここで示すべきは、そういう理屈ではなくて、 「地名に山門という字が古くから使われているか否か」だと思う。 古くからこの文字使われているなら、 山門が国号の語源であるという説は有力になるし、 後世の人がヤマトという地名を聞いて、それに対して 山門という文字を当てたなら、その説は完全に否定される。 地名というのは、音は太古からあるけど文字はそう古くなかったりする ので微妙(おそらく山門の方が当て字)と思われる。 (これは風土記とか見れば分かるのかな?気が向いたら調べてみる。)
351 :
日本@名無史さん :05/01/29 19:03:35
>>350 >(おそらく山門の方が当て字)と思われる。
「山門」が当て字なら、「やまと」はもともとどういう意味だったのかね?
まさか「大和」じゃあるまい?
>344 『もうすでに倭国の中に伊都国や奴国有るじゃないですか』 もう一度、原文を読み直してごらん。 ここでの君の思い違いは、「国」の意味。勝手に頭の中で『倭人』を『倭国』と読み替えてる。 現代日本語では「国」は「国家」の意味で使われることが多いが、陳壽の言う「国」は「地域」程度の意味。 魏志では、その『地域』ごとに分けて物事を記載している。総括的な表記では『倭』を使う。 だから、狗邪韓国とか邪馬台国の中に伊都や奴国は存在し得ない。 「”倭人”在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊”百餘國”、漢時有朝見者、今使譯所通”三十國”。」 ”倭人”は帯方の東南の大海の中、山島に依りて国邑を為す。 別れて”百余国”、漢のとき朝見するものあり、今、使譯の通ずるは”三十国”。 親魏倭王卑彌呼は、『倭国王』じゃないよ、『倭人の王』だろう。 中国側から見て倭が統一された一つの国家とされるのは、倭王珍が『倭国王』に詔除されたのが、初見。
『伊都國検証』 末盧國(港あり)唐津・呼子辺り ↓ (東南陸行五百里) ↓ 伊都國(港あり)前原付近(一大率) 港と港の間を山越陸路とは三世紀の人達は変わってますね。 伊都國を九州島の何処かと仮定すると 玄界灘に面した九州北部海岸線はおおざっぱに言うと東西にのびる『横線』と、とらえることが出来る。 その横線上にある末盧から『東南方向(みぎ斜め下45゜』 の、所に伊都國が! そうすると、伊都のいちばん近い港は海岸線より約三百五十里ほど内陸に入ったところにある
354 :
プラム :05/01/29 21:43:24
>>352 さん
やはり国の中に国は存在しませんか。
有難うございます。
自分でカキコしたものの、どうしてもスッキリとしなかったんです。
これで少しは狗邪韓國の位置取りが出来そうです。
やはりまだまだ不十分な所が多くて
『到其北岸狗邪韓国七千餘里』
『去其西北界狗邪韓国七千餘里』
謎が一つの解決しそうです。
『伊都(一大率)北西五百里倭の北岸に到。狗邪韓国なり』 『始めて倭の北岸狗邪韓国到、東南陸行五百里伊都國に到。』 これで多少スッキリ!
ここまでのおさらい 帯方郡より遣使一行は、皇帝からの下賜を届けに一路邪馬臺国へ ↓ (水行) 馬韓経由 ↓ (陸行) ↓ ↓ 辰韓・倭国境狗邪韓国 (盧國・狗邪韓 国国境) 東南五百里 ↓ ↓ 伊都国(一大率) 金海付近の港 ☆ここで皇帝からの下賜の 確認と倭の情報を入手 ↓ 九州に到
357 :
日本@名無史さん :05/01/30 01:03:56
つまり、イト国まで朝鮮半島にあったということ?
358 :
プラム :05/01/30 01:26:16
>>357 さん
伊都國までとゆうよりも
(伊都國・奴國・不彌國
狗邪韓国)
この四ヶ国が半島にあり、対馬国・一大国?を含め一大率が監視していた。
だからそれぞれの国に官や副官がいる
九州島からは余り目が届かないので
『東南至奴國百里』
の、『至』は、ナクトン川を舟で渡ると解釈し、
『東行至不彌國百里』
の、『行至』は徒歩と解釈しました。
359 :
プラム :05/01/30 20:29:45
『伊都國検証』 一大率はやはり朝鮮半島の南岸、ナクトン川河口の港町(金門)にあったのであろう。 倭の北限でもあり、大陸を離れる最終地 お互いにとってこれほどのベストポイントは他に見当たりません。
360 :
日本@名無史さん :05/01/30 20:59:40
気がつけばプラムは倭人伝を都合のいいように改竄しまくりだな(藁) そんなのありなら何だってありだよ。 しばらく、といい、プラムといい、ろくなのがこの板にはいないな。ほんまに。
>>360 別に『倭人伝』の記載内容いじった覚えないし
ましてや、倭人伝の正しい読み方案内書などの付録付いてなかったぜ
それに、それほど外れた読み方してないけど
362 :
日本@名無史さん :05/01/30 21:48:30
橿原マキムク教徒より、とってもマトモ
363 :
日本@名無史さん :05/01/30 22:55:32
>>361 思いきり外れてるだろよ
奴国や伊都国が洛東江沿岸かよ。笑わせるな。
>>355 では原文相当いじっているが?
364 :
プラム :05/01/30 23:26:22
>>363 さん
それじゃいったい伊都や奴や一大率は何処なんですか?
納得できる回答いただけるなら自説撤回しても構いませんよ!
365 :
プラム :05/01/30 23:39:10
>>363 私の勉強不足かも知れませんが。
私の記憶だと伊都國の一番古い資料は『魏書東夷伝』じゃないでしょうか?
366 :
プラム :05/01/31 00:05:33
『伊都國検証』 伊都國=一大率の置かれた場所と仮定すると 最低限の条件として ・ある場所から東南五百里 の所に、伊都の港がある ・伊都の港から北西五百里 の所に、観測ポイントが ある 九州の北岸に上陸すると、伊都の港は内陸部か?
367 :
日本@名無史さん :05/01/31 00:45:05
通説で普通に矛盾が無い。無いというと語弊があるなら、もっとも矛盾が少なく、考古資料と整合的。 倭人伝の文章だけで考察し、いじくりまわすから訳がわからなくなる。 逆切れしてごまかすなプラムよ。いい加減やめれ。
お前もやめれ
369 :
日本@名無史さん :05/01/31 01:15:00
奈良盆地には奈良時代まで盆地湖があって古墳時代の初期くらいまではかなり大きい湖だったらしいけど。 山辺の道ってのは湖に沿って歩いた道なりに出来たという話しだ。 すると奈良盆地の耕地面積はかなり小さくなり、7万戸の人口を支えるには不足していたのではないかな? むろん、大阪平野も大部分は海だったらしい。 どうすりゃいいのだ?
370 :
日本@名無史さん :05/01/31 05:33:36
>>365 私の記憶だと伊都國の一番古い資料は『魏書東夷伝』
↑
その部分を、ここに書き出してみて。興味あるから。
371 :
プラム :05/01/31 07:27:05
>>365 訂正
『魏書東夷伝』 ×
『魏志東夷伝』 〇
申し訳ない
372 :
プラム :05/01/31 07:59:39
>>367 文献と考古学の整合か
十分承知の上でカキコしてる。
君達や学会等は今更東リ過ぎたることはもう、検討の余地もないのかも知れないが
私みたいに最初からやり直す人が一人ぐらい居てもいいのではないか。
今、関連スレ見ても、最近始めた人が見たら何がなんだか解らない状態になっている。
それに、途中の過程に誤りがあるから、最終的にバラバラになってしまうのじゃないか
私みたいな考えを出してしまうのは、何処かにまだ隙がある証拠だよ。
373 :
プラム :05/01/31 10:12:27
>>367 さん
私のような自説に対して反論下さりありがとうございます。
私は以前から、伊都=前原を否定してきました。
その理由として『伊都國検証』を、始めたしだいです。
私も定説否定にまわった以上、それなりの自説を論ずるのが、礼儀じゃないでしょうか。
>プラム 漢文の話なんで私がレスするのも何だが、 とりあえずだね、『東南陸行五百里、到伊都國』の文章から、 また、話が半島側に戻ってしまう理屈をもう少しわかりやすくしてくれ。 君は自分の思考過程を他人に理解できるようには説明はしていない。 それとだね、狗邪韓國を半島の何処に置くのか? 黄海沿岸に比定しない限り、東南方面に陸地はないんだぞ。 わかってるかな?
375 :
プラム :05/01/31 21:48:26
>>374 さん
倭人伝が資料の寄せ集めであるがランダムでないことを前提に話します。
郡→狗邪韓国→(始めて)→対馬→(又)→一大→(又)→末盧
と、ゆうように連続した流れになっている
ここで一つ疑問が浮かび上がる。
倭人の国の紹介文なのに、比較的情報収集しやすく大陸から始めて離れる、朝鮮半島南岸(倭の領域)のことが全然紹介されていないことに気が付く(変だ)
でも、対馬、壱岐、末盧のことは紹介されている。
ようするに、現代の旅行ガイドブックでゆう(郡〜九州島)までの簡単なコース案内と、とらえました。
(続)
376 :
プラム :05/01/31 22:20:31
(続) 前Pの疑問 @倭人の国紹介なのに半島南岸の倭領の紹介がない 次に伊都國に進みます。 倭人の条で伊都を二度取り扱っています。 ・伊都國の紹介 ・一大率のこと そこで私は伊都國内に一大率は置かれたと仮定します。 一大率は、倭諸国の監視と情報センター的役目と解釈、だから大陸人(主に役人)の常駐があったんだろう。 もう一つ最も大切な役目 両国の遣使が必ず立ち寄り港にて贈物の最終チェックをする場所 ここでよく考えよう。 お互いに、何処で贈物のチェックをしたいか? やはりお互い自国内でチェックしたいと考える
お互い自国内チェックに限りなく近づける場所は、大陸側は、大陸離れる間際倭国側は、自領離れる間際これがお互いにとって最も歩み寄れる条件でしょう。そうすると自然に、半島南岸の金門港がベストポジションに。 (よって) 伊都管轄一大率=金門港 と、なる >狗邪韓国を何処に比定するか? 伊都が千餘戸と規模が小さいことから、金門港周辺の比較的小さな町と思う。 狗邪は、伊都の北側から西側をぐるりと囲むようにあったと考えます。 地図で見ると狗邪韓国の中に伊都が港の所にぽつんとある地図を想い描いて下さい。
>375-377 プラム君・・・熱論ご苦労様。 まだ、講釈の途中だったら申し訳ないが、聞きたいの伊都国の性格ではなくて、 末盧の段の後で、いきなり半島南部に話が戻ってしまって「かまわない理屈」を説明して欲しいのだ。 その・・・漢文法的にはどうなんだろうねえ。 君には、そのように「読める」と言っても、普通の人、多分晋代の中国人もそのようには読まないと思う。 まさか、陳壽は、千数百年後の君にしか読み取れないような「暗号」めいた史書を書いたわけじゃないだろう。 あと、『伊都が千餘戸と規模が小さいことから、金門港周辺の比較的小さな町と思う。』 君の言う「金門港」というのが、どこのことだか定かではないが、その次の「奴国」はどうするんだろうか?
つーか、
>>375 の『朝鮮半島南岸(倭の領域)』がそもそもの根っこだと思うが・・・・
>379 狗邪韓国=倭人国説は、一部電波系では根強い支持者がいるから、まあ、ここではスルーだ。 実際問題、「倭の領域」かどうかはともかく、濃密な交流があったことは、間違いないし・・・ ただし、陳壽が狗邪韓国=倭人国説論者でないことは確かだ。
確かに。 朝鮮半島南岸が倭と無関係なことを証明されれば 自説は完全に飛ぶね! 明日も仕事だからモー寝る後よろしく。
382 :
プラム :05/02/01 00:47:55
>>378 さん
今日は、疲れましたのでご勘弁を!
明日また改めまして
おやすみなさい
383 :
プラム :05/02/01 01:00:02
訂正 金門 × 金海 〇 失礼しました
384 :
本田 :05/02/01 05:14:09
385 :
プラム :05/02/01 12:37:17
>>378 さん
昨日の続きですが
>>384 で半分以上本田氏が説明してくれました。
つまり、
倭人伝の中に『到』と『陸行』が、それぞれ二回使われています。
『到』=到着する。
何処に到着したか?
それは、この書の目的地『倭国』の領域に着いたから『到』の文字を使ったと解釈しました。
郡から水行で『到其北岸狗邪韓国七千餘里』
と、したのじゃないでしょうか?
本田氏有難うございます。
386 :
プラム :05/02/01 12:54:45
もう一箇所の『到』 これは、伊都國の所ですが 郡から半島離れる港までのコースは、水行と陸行の二つのどちらかを選択することが可能です。 その、陸コースの紹介が 『東南陸行五百里到』じゃないでしょうか。 郡から陸のコースをとり倭の領域狗邪韓国に入り、東南の方へ五百里歩くと伊都國(一大率)に到着する。(その根拠 ) だから邪馬臺國の記載に、『水行十日、陸行一月』 と、見事に二つのコースを記載してるのではないでしょうか。 まだ発表する段階じゃなかったんですけど 不備があったらスイマセン
事の発端はこれだろ。
>>287 >国それぞれに、官・副官の名前が記載されている。
>しかし、末盧國にはその名前が見当たらないなぜなんだろう。
で、
>末盧だけは九州(本国の側)にあるからじゃないかと思う
になる。しかし一つ忘れてる。投馬国にも官副がいる。
プラムのいうとおりなら、投馬国5万も半島ということに。
奴国も二万だし、あわせて7万の倭人国が半島に!
これは、辰・弁24国の4、5万をしのぎ、馬韓10万余に匹敵する。
もちろん、こんな馬鹿な話はないわけで、何が悪かったかというと
『官・副官の名前が記載されていない=半島の国』というはじめの
命題が誤りだったということで、プラム説シボン
お疲れさまですた。
388 :
プラム :05/02/01 15:12:02
そんな簡単に、エンディングテーマ流さないでよ! それに、末盧は一番最後って言ったじゃん 厨房のチラシの裏認定が出した自説だもん 不備は沢山あるワナ それよっか、末盧の『官』載ってる書籍教えて! 勉強するから
389 :
プラム :05/02/01 15:20:38
お詫び 末盧じゃなくて投馬だったわ 失礼しました 投馬についてはまだ検討中コメントは差し控えます。
まぁ、俺は八木荘司についていこうかと思ってるw
演歌じゃないんだから・・・
>プラム コメントするにも訳わからなさすぎだ・・・ 自分でも、何言ってんだかわからんだろうが。 少し話を戻して、狗邪韓国倭人説でも弄ってなさい。
プラムさんは、畿内説スレに、殴りこみに逝っちゃいましたね。
訳解りませんか?
今までの常識からはかなり逸脱していますし
それに、自分自身文章能力低いですから
でも、
>>385-386 これは自信作なんです
これも意味不明ですか?
『其盧與倭接海』 これって、狗邪と盧の境界のことでいいのかい?
>395 これのことか? 魏志韓伝・弁辰段 弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。 言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施竃皆在戸西。 ※『其シ賣廬(トクロ)國與倭接界』。十二國亦有王、其人形皆大。 衣服潔清、長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。 『弁辰十二國の一国、シ賣廬國は倭と界を接する』とは書いてある。 君の言う『狗邪』ってのは、同じ弁辰の『狗邪國』のことではないよな?
>>396 さん
弁辰狗邪國ではなく狗邪韓国です。
失礼ですが
>>396 さんは、先日私にトクロ國の港を教えてくれた方ですか?
間違っていたらスマソ
漢書や魏志の『韓伝』和訳本を探しているんですが心辺りありませんか?
>>397 本なら、ちくま学術文庫に漢書も三國志も全巻ある。
↑ ありがとう。 助かります。
>397
「弁辰」狗邪國の「弁辰」は、雑居している辰韓系諸国との識別のために記述上振られた冠称、
知ってると思うが、通説では倭人伝の「狗邪韓國」と同一とされており、別だと言い張るのは特定の論客に限られる。
”漢書や魏志の『韓伝』和訳本を探しているんですが心辺りありませんか?”
何度も言うが、君は何故Googleを使わないのかな・・・まあ、いいか。
韓伝の和訳ならWEBでは下のサイトくらいか
ttp://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html#sinkan 書籍で安価なものなら、ちくま学芸文庫から三国志の文庫本シリーズが出てるよ。
一巻1500円くらいだけど・・・君の小遣いではキツイかな。
401 :
日本@名無史さん :05/02/03 00:01:25
そんなことありません。愛犬プラムの餌代より安いです。
>>400 さん
さっそく休日にでも、本屋と図書館をハシゴします。
この頃『ググッ』てますよしかし、本は中身調べられないから困るのです。
でも、遺跡検索には大変役にたってます。
403 :
プラム :05/02/03 22:24:52
>>369 さんがカキコした奈良盆地湖説が簡単にスルー出来なくて。
誰か詳しい人いませんか?ネタか、事実か
可能性高ければチョット面白いかな。
404 :
日本@名無史さん :05/02/03 22:44:24
405 :
日本@名無史さん :05/02/03 22:45:20
406 :
日本@名無史さん :05/02/03 22:46:38
>>405 これは、程度の低いというかなんというか、噴飯ものの出鱈目。
>>406 これは悪質な詐欺。
そこにでてくる達宗泰編『古代「おおやまと」を探る』(学生社、2000年刊)をみれば明らか。
そこにはこう書いてある。
『標高50m線(網目地域)以下の地域は網流地域と考えて、
厳密に水支配の境界が策定できないという判断で示していない。』
伊達先生は、倭六県の境界を策定する上で判断を保留しているところを
網掛けで示したにすぎない。
実際、網掛けの中には唐古・鍵遺跡が位置しており、弥生時代前期から人が住んでいたことは疑いがない。
湿地帯が残っていたとしても、唐古よりさらに低地のごく一部だけ。
皆さんのご協力に感謝 なるほど! 三世紀当時に、盆地湖かどうかは解らないけど、中央部に多数の湿地帯が残っていたことはかなり確率が高そうだね
409 :
日本@名無史さん :05/02/04 00:04:48
伊丹空港が潰れる理由
中部国際空港が便利。東上するのに憧れる。
神戸空港が出来て大変便利。
関空2期でフルパワー。
琵琶湖空港が未来に、そして新幹線新駅。白浜空港もある。
車社会が第二東名など高速化。リニアも出来る。
京都・・・中部や琵琶湖、関空にも高級特急電車で乗り換えなし。
神戸・・・神戸空港が三宮から16分と大変便利。阪神高速湾岸で関空へも早い。
奈良・・・中部・琵琶湖にも可能。名古屋や東京への東上は近鉄や新幹線が便利。
和歌山・・・関空・白浜など。
滋賀・・・中部が便利。琵琶湖が早くできて欲しい。東海道新幹線の駅も出来ます。
大阪・・・関空と伊丹とそこまで変わらない人も多い。
阪国は日本の恥や!!
http://marblog.net/osaka/20041207_73.html
日本語が理解できないヤツに,つける薬はないな・・・・・
411 :
日本@名無史さん :05/02/04 02:13:57
平安京にしても初めは湿地が多かったらしい。 秦河勝が誘致、灌漑をしたそうな。
>410 自分にとって都合悪いことも脳内では180度変換して格納されるらしい。
大和朝廷と邪馬台国は畿内で並立しており、 第8代孝元天皇のときに邪馬台国を滅ぼして併合した。 狗奴国が大和朝廷のこと、卑弥弓呼とは第5代の孝昭天皇のこと。
畿内で並立?
>>413 大和並立でも構わないが、その二つの王権を支える経済基盤はなんだい。
奈良盆地の中央部はまだかなりの湿地帯が残っており耕地面積も小さいはず
>415 並立なんちゃらは、ともかく、 当時は、調度、水稲栽培には最適な程度の湿地帯だったんじゃないの? 『日本語がわからない』奴って言われてるのは、おまえのことなんだぞ。
>日本語の解らない奴 藻れのことかい いいんじゃないの 解らなければ余計なこと知らなくて済むし まあ。 名無しでしか大きなこと言えないヤシよりは 日本語の理解力低い方が藻れ良いは。
>407 ところで、唐古は、何で放棄されちまったのかな? 戦火や自然災害に襲われた気配も無いし、人口急増対策で集団移住ってわけでもなさそう。 やはり、新興の商業都市纒向とそこに集まった新来技術者集団に押されて、普通の農村と成り果てたのか?
419 :
プラム :05/02/04 21:04:05
三世紀当時大和に敵対する二つの国が存在したとは考えずらい。 睨み合い続けると言うことは、お互い同じ位それなりの富を確保していなければならない。 それは当時の大和では無理ではなかろうか。 マキムクの大集落が当時の大和はド田舎の一地方都市であることを無言で語っている。 現在も当時も、都市の成り立ち等は似たようなもので、地方へ行けば行くほど人口は特定の場所に集中するものである! だから関西方面の弥生遺跡は、まばらにそれも規模が大きい遺跡がポツンポツン
420 :
プラム :05/02/04 21:19:44
何もマキムクが特別な遺跡な訳ではなく、田舎の地方都市だからこその特性ではないか 周りに何もないからこそ余計に色んな物がそこに集中して集まるようになる。 それが外来土器が三割以上も出土する理由ではないか奈良盆地の限られた土地では集団生活をしなければ、生活出来ない環境であることを物語っている。
そこえゆくと北部九州では、畿内方面とはまったく逆な現象が見られる。 北部九州の弥生遺跡は細かく満遍なく散らばりがあるそして、規模が小さくても大陸の臭いがし、それぞれに豊かさを感じる。 それは出土品を見ても感じられる しかし、お互い富を持つとゆうことは、そこに人の性である『欲』が生じ、小競り合いがたえず時々大きな戦に発展し お互いの国力を弱める結果となっている。
そんな小競り合いを続けていると必ず、漁夫の利を狙うやつが現れる。 それが大和のド田舎で十分な財を溜め込んだ勢力がより多くの財と大陸との直接貿易目指し、当時の中心地九州に出陣したのではないだろうか すると、当時の九州は分裂しつつあり まともに大和勢力と戦える勢力がなくあっさりと九州北部を制圧できた。
鉄は九州にしかなかったんでは?
>423 3世紀以前なら ∞>北九州>出雲・吉備>畿内>0 って言う傾向はある。 でも、相対的に少ないってだけで「0」ではないよ。
鉄の産地が半島だから、素直な分布だ。
426 :
本田 :05/02/05 10:05:55
重藤遺跡(wは、真贋定かでないので置いとくとして。 三世紀だったら、小丸のように吉備周辺で小規模な生産跡がある。 出雲の砂鉄製鉄は、それ以前の可能性もある。
>425 製鉄自体は別として鉄製品の使用と加工技術である鍛冶は、 紀元前から畿内まで伝播していたと思う。 遠賀川水系の土器が、瞬く間に瀬戸内沿岸を席巻したように 物流と技術の広域ネットワークは、「鉄」もルートに乗せていたはず。 ただし、土器生産とは異なり、輸入ものに頼る稀少性から、 九州以外では、本格的な普及に至らなかったのかもしれない。 滋賀の熊野本のような日本海経由と思われる例もあるので、 もっと有っても好いとは思うが
物部氏の持つ伝承では、氏族の起源を遠賀川流域に求めるとか・・・ 他の氏族にも言えることだが、物や技術と併せて人の移動(移住)もあっただろう。 九州が本家で河内・大和が分家みたいな感じ。 その後、生産性の高い土地に移住した分家が本家を凌ぐようになる。 宗主の英国を凌駕してしまったアメリカ合衆国みたいなもの。 アメリカは200年かからず、本家を抜いたが・・・
情報の伝達スピードは、物によってかなり違うと考える。 鉄など、軍事目的で使用できるものには必ずシークレットな要素が含まれるので、情報スピードも若干鈍くなるはず。 仮に、鉄の存在が情報として流れたとしても製鉄技術を流さないで置けばしばらくの間は地域限定になりうる
431 :
本田 :05/02/06 11:42:20
> 重藤遺跡(wは、真贋定かでないので置いとくとして。 発掘にした九州大学が、論文発表を、自主規制しているだけで、 画像を見てのとおり、真だよ。 さらに掘れば、もっと、年代がさかのぼる可能性がある。 そうなればますます、 「日本書紀」などの記述が当てにならないことが証明される。 あの紀元2600年も旧いのだから。 それを九州大学は恐れているのかな?
432 :
本田 :05/02/06 12:18:31
>>231 >あの紀元2600年も旧いのだから。
訂正。
あの紀元2600年よりも旧いのだから。
433 :
日本@名無史さん :05/02/06 18:49:00
通説では、奴国に比定される博多湾岸・那珂川流域。 比恵・那珂遺跡群や須玖・岡本遺跡群など大型集落も多く、名門国に相応しい地だが、 戸二万余の勢力を誇るには、隣りの遠賀川流域や山向こうの筑後川流域も含めないと、 帳尻が合わないように思える。
434 :
プラム :05/02/06 20:26:42
>>433 さん
『奴國…二萬餘戸』
この資料がいつの頃のものかにもよると思うが
三国志記載『奴』と後漢書記載『紀元57年…倭奴國』が同一となれば
二萬餘戸は、後漢書にある朝貢した頃の最盛期の戸数とも考えられますが
そうなると、奴一国の戸数ではなく、奴連合の総数が二萬戸かも知れません。
ただ、三国志『奴』と後漢書『倭奴』が同一の場合の話ですが
私が以前出した自説の中に、半島の金海付近に『伊都(一大率)・奴・不彌』があったとカキコしたが、奴國と不彌についてはもう少しじっくり研究しなければならないだろう。 ただ、伊都(一大率)についてはこのまま半島の港町で構わないと思うが
436 :
日本@名無史さん :05/02/06 20:52:59
結局、また枝葉の水掛け論の泥沼に落ちていく訳なのね・・・。
437 :
本田 :05/02/06 21:19:51
>>435 > ただ、伊都(一大率)についてはこのまま半島の港町で構わないと思うが
素直に文章を読めば、
狗那韓国も伊都も朝鮮半島には無いの明白だと思うけど。
こうして今日もプラムの脳内妄想は続くのであった、、、、
>>438 さん
ご苦労さん。
脳内妄想なら、何処のスレ見ても『五十歩百歩』だと思うけど
『脳内妄想』かもしれないが どうして魏志倭人伝の中に『到』の文字を狗邪韓国と伊都國の二カ所だけに使っているのか?
『脳内妄想』こそ学問の始まり
仮説と取るか、妄想と断ずるか
443 :
日本@名無史さん :05/02/07 01:28:58
妄想でも何でもかまわんが、文章だけはちゃんと読めるように書いてくれ。 他人の文章も「勝手読み」してないで理解できるようになってくれ。
444 :
プラム :05/02/08 21:38:00
『倭』と『倭人』の定義について何冊かの本やググってみたが、各人それぞれの考えがあり、どれが正しいのか判断しずらい。 『倭人』 倭人の文字の『人』とゆう字を人間ととらえず、倭の管轄する範囲ととらえられないだろうか?
445 :
日本@名無史さん :05/02/08 21:43:42
>444 人は人だろう。 地は地、別に人を地に読み替えても何もおこらんとは思うが。
>>444 「倭人」=倭国論って松本清張以外に誰かいるの?
東夷伝『倭人』と『韓』の繋がりにも興味が沸く 『韓伝』の最後を …トクロ國與倭接界… と、するとトクロ國の先にあるものは『倭』それとも『倭人』なのか? 『東夷伝倭人』の始まりは對馬國なのか?それとも弁辰狗邪國からなのか? うん〜 難しい!
>>446 さん
『倭人』とゆう文字、初めのほうにしか使われなくて後は、人を表す文字は『倭種』になってしまうんです。
松本清張ですか!
早速ググってみます。
サンクス
狗邪韓国が韓の領土だという記述はない
『東夷伝・倭人』であって『東夷伝・倭』じゃないんだよな? 『倭人在帯方…』で始まり直ぐに 『従郡至倭…』 なんだよなぁ?
451 :
日本@名無史さん :05/02/09 00:12:43
『倭』と言うのは、東夷の中の一種に与えた『族名』であって『国名』じゃないだろ。 だから、『呉』とか『蜀』とか『燕』とかとは、扱いが違う。 ただ、東夷伝の中では、『倭』をもって『倭人の居地』を表す場合もあれば、『種族』を表す場合もある。 『倭人』か『倭』かは、厳密には使い分けられていない印象を受ける。
452 :
プラム :05/02/09 07:29:25
>『倭』をもって『倭人の居する地』とゆうことは トクロ國より先が倭人の条本文と、とらえてもおかしくない訳だ。
>452 東夷伝から韓と倭の位置関係を説明した部分を抜粋すると次のようなところか。 1 「韓は帶方の南に在り、東西は海をもって限りとす、南は倭と接す」(韓条) 2 「三種有り、一を馬韓、二を辰韓、三を弁韓という。馬韓は西に在り」(韓条) 3 「辰韓は馬韓の東に在り〜馬韓の東の地を割きこれを興す」(韓条) 4 「弁辰と辰韓は雜居、〜其のシ賣廬國と倭は界を接す」(韓条) 5 「倭人は帶方東南大海の中に在り、山島に依り國邑を為す」(倭人条) 6 「郡から倭に至るには、海岸にしたがい南へ東へ水行し、韓國を暦て、其の北岸狗邪韓國に到る」(倭人条) 7 「始一海を渡り、千餘里で對馬國に至る」(倭人条) 簡単にいえば、 郡の南に三韓、その内、馬韓は西、その東に辰韓と弁韓(弁辰)が雑居す。 弁辰シ賣廬國と倭は界を接している。 倭は三韓の南で、郡の東南「大海の中」に在る島国。 郡から倭へ行くには、 先ず、韓の海岸を南へ東へ水行し、「北岸」狗邪韓國に到る。 次いで、一海を渡り、對馬國に至る。 まあ、キーポイントは 1 「接す」の意味、英語の「on」とは用法が異なる。 2 狗邪韓國に係る「北岸」の意味。倭の北岸なのか、海峡や大海の北岸なのか。 3 何故狗邪「韓」國と標記されているのか。 あたりでしょうかね。
454 :
プラム :05/02/09 22:37:57
(私見だが) キーポイントの1と2については、この(接する)(北岸)を入れたことにより『倭』の境が朝鮮海峡ではないことを意味してると思う。 3 の狗邪韓国については、判断し兼ねている 弁辰狗邪=狗邪韓国 ならば、韓伝→倭人の流れから又、弁辰狗邪國と記載すればいいのだが トクロ國のようにはっきりとしていないのか? 記載はないが 韓に属する狗邪(韓)國 倭に属する狗邪(倭)國 があったのではないか? この狗邪(倭)国こそが自説の伊都(一大率)ではないかと考えているんだが
(一大率)にしても、勢力範囲の変化によって その役割性から設置場所も移動すると考えた方が自然かと思うが。 自説の比定地においても、あくまで三世紀頃の考えであって、四世紀以降の場所については今の所解りません。
456 :
日本@名無史さん :05/02/09 23:29:30
中国の史書には倭族のことが書いてあって、倭族というのは長江流域にいっぱいいいた蛮族だったということでつ。
遠くの方で、三世紀頃、畿内王権が九州に一大率(太宰府感覚)を置き、大陸との外交、九州近辺の監視にあたらせたと述べているが それは、私の自説よりよりも(妄想)だろう。 一大率を維持していくにはバックにかなり強大な力が必要であり、 その力は、都と一大率との距離に比例すると思われる。それに、都から一大率までの区間は完全に掌握していないと成り立たない話である。 もし、畿内王権統治九州一大率が成立するのであれば三世紀に、日本は少なくとも『西日本統一国家』が出来上がっていることになる。それはいくらなんでも無いだろう。
458 :
本田 :05/02/09 23:31:10
>>453 >2 狗邪韓國に係る「北岸」の意味。倭の北岸なのか、海峡や大海の北岸なのか。
これは、
> 倭は三韓の南で、郡の東南「大海の中」に在る島国。
と合わせて考えると、倭とゆう島国の北岸。
>3 何故狗邪「韓」國と標記されているのか。
九州の唐津は、昔、韓津と書いたそうなので、
九州にある国に韓の文字があっても不思議じゃない
本田氏、間違ってたらゴメンナサイ。 そうすると、狗邪韓国は、九州の北部海岸沿いに有ったとゆうのですか?
「くやから」じゃなくて「くやかん」だからね。 そこんとこヨロシク。
461 :
日本@名無史さん :05/02/09 23:52:55
>>457 3世紀には西日本統一国家はできていたのでは?
そうでないと、箸墓古墳のような巨大古墳は作れません
なんで作れないの?
>>461 箸墓は確かに巨大な古墳だと思うけど
作れるか作れ無いかはやってみないと解らないだろう。
今、君が言ってるのはあくまでPC上のシュミレートだろう
464 :
日本@名無史さん :05/02/10 01:13:47
>>462 当時の技術であれだけの古墳を作るには、すごい人手と財力がいるはず。
一地方の豪族が作るには規模が大きすぎる
465 :
日本@名無史さん :05/02/10 01:19:24
一大卒て大宰府のことか?
まあ、古墳は夜つくられるとかいうからね
467 :
日本@名無史さん :05/02/10 02:40:50
魏志倭人伝を読む限り、邪馬台国の子孫はハヤトやクマソだろう。 機内にあったとは思えん。
468 :
プラム :05/02/10 07:51:04
『大海』とは、何を指すのか? @日本海・東シナ海・太平洋のことだろうか。 それとも A瀚海のことであろうか Aのことであれば、かなり範囲が狭まってくるが 半島→對馬→沖ノ島→(神湊〜豊浦) このルートもかなり以前から存在していたと思うが、四世紀以降の話しなのだろうか。 もっと古くから有ったと思うのだが
469 :
日本@名無史さん :05/02/10 08:09:47
>461 箸墓が卑弥呼の時代に築かれたと言うのは、畿内説の一部の派閥の意見だけど、 まあ、今や主流ではないね。実際にはもう少し時代を降る。 個人的には、あの程度の土木技術は、大規模環濠都市の存在を考慮すれば、 弥生時代の早期から有ったと思う。 問題は、アイデアだろう。 前方後円墳と言う極めて独創的な墓制を生み出し、各地に普及させた力だ。 そして、あの墳型の原初のものは、マキムクで造られた。箸墓より古い石塚などがそれに当たる。 だが、弥生墳丘墓からの進化を示す石塚以前の移行期の資料は少ない。 平野部の小規模墳は、後世に削平されやすく、多くは未発見なのだろうか。 「原前方後円墳」が、畿内で二世紀に発生していることが実証されれば 邪馬台国の場所は確定でしょう。
>「原前方後円墳」が、畿内で二世紀に発生していることが実証されれば 邪馬台国の場所は確定でしょう。 その二行だけでも電波満載な事について
>>470 例えばの話であって、本人も本気で考えているようには思えないが?
何にでも食い付いて脊髄反射するのはやめようよ
472 :
本田 :05/02/10 20:46:29
>>459 琉球の狗那国の九州の植民地が狗那韓国で、
狗那韓国の朝鮮半島の植民地が金官加羅で、
金官加羅からが独立した国が新羅。
>470-471 けっこう本気だったりして・・・ 「原前方後円墳」といっても弥生墳丘墓の円型タイプ、 周濠があって一箇所だけ陸橋が有れば私のイメージにピッタシ。 盾築と石塚では、デザイン上の一致点が少ない。 形態的な類似は、ただ、単に出っ張りが有る高塚ってことだけだろう。 だから、前方後円墳のデザインは畿内自生なのだと思う。
474 :
プラム :05/02/10 22:29:50
>>472 本田氏
ご説明感謝します。
私の『狗奴國』見解は、
昔、朝貢した倭代表奴國王は倭の大乱により邪馬臺國により国を追われ、南方に有った狗奴國(奴の子国)に逃れた。
(そんないきさつがあるので狗奴國は邪馬臺國に属さない)
奴國が二つ有るのは昔(全盛期)の名残で国名だけが残り、一つは半島に一つは九州北部に王のいない奴國が残った
その他『奴』の付く
弥奴國 姐奴國 蘇奴國 華奴蘇奴國 鬼奴國 烏奴國 奴國
これらの国は昔、朝貢した倭奴國の子国ではないだろうか
475 :
日本@名無史さん :05/02/11 08:35:23
>>467 >魏志倭人伝を読む限り、邪馬台国の子孫はハヤトやクマソだろう。
>機内にあったとは思えん。
ただ、我が国の国民性というか、趣味・嗜好というものが、
弥生時代からそう変わっていないとすると、
別の考え方もあるかな。
簡単に流行に流されるし、それのみならず、今までの習俗を簡単に改めるからな。
それがよくもあり、悪くもあるんだが。
476 :
本田 :05/02/12 08:26:09
-----------------------------------------
>★ 「桓檀古記〜高句麗国本紀」
> 陝父せんぷは、南韓に奔走して、馬韓の山中に隠り住居する。
> 将、革を知り、貝#水(鴨緑江)を下り海に出て狗邪韓国に至り、加羅海の北岸に住居する。
> 転じて阿蘇山に移住して多婆羅国の始祖となった。
> 後に任那を併せて聯政とし、治めた。そのうちの三国は海にあり、七国は陸に在る。
>★ 「桓檀古記〜高句麗国本紀」
> 多婆羅国には、もと弁辰狗邪国人が先住して、狗邪韓国といった。
> 多婆羅国は多羅韓国ともいう。
> 忽本より来たり、高句麗と早くから親交を結び、烈帝(廣開土境好太皇)が制した。
> 多羅国は安羅国と同隣して同姓である。旧、熊襲城を有す。
> 今、九州の熊本城がこれである。
http://homepage3.nifty.com/kiya/sehachi/kiya32_c.htm
>>476 桓壇古記なんて、近代の偽書じゃないか。
いろいろな歴史書や「学説」をちりばめた偽書だろが。
東日流外三郡史のウリナラ版だろ。
原田実センセイに降臨してほしいな。
(「熊本城」の記述がなんで古代に出てくるんだ、大体)
本田さんよ、鹿島の電波説を垂れ流すのはヤメレ
「狗」「邪」「韓」国となんで3つの国のイニシャルがならんでるの?
>>478 確かに学位はインチキだが本人も気づいて反省してるので許してやれよ。
とりあえず偽書バスターとしては認めるよ、漏れは
古田の寄生虫が、安本の寄生虫に乗り換えて、学歴詐称ですか。 そりゃ、目出度いね>480
古田って東日流絡みだけじゃなくて、邪馬台国論含めすべてが今は否定されてるんだよね。 つまり何の貢献もしてない、害悪を撒き散らしただけだったという評価でいいんですか?
それは和田だろ
486 :
本田 :05/02/12 19:19:13
> いろいろな歴史書や「学説」をちりばめた偽書だろが。 過去の歴史書のダイジェストが偽書の基準じゃ、 新唐書やも偽書だし、もちろん日本書記も偽書になる。 偽書もピンキリで正史より正確な偽書もある。
487 :
本田 :05/02/12 19:29:59
488 :
& ◆atpr8p5IFs :05/02/12 19:42:17
489 :
本田 :05/02/12 20:04:57
492 :
本田 :05/02/13 02:04:50
>>490 >>491 桓壇古記の成立が20世紀であるといっているだけで、
たとえば日本書記と比べて誤りが多いと立証されてる訳ではない。
ただあの本は、難解だと思う。
493 :
本田 :05/02/13 02:34:14
>>492 そんなのに依拠する方がおかしいだろ、ふつう
日本書紀における「誤り」と、
偽書としての桓壇古記のいかがわしさと、質が違うと思うが。
比較するのがナンセンスだが
まあ、信じてるやつに何を言っても無駄と思うが、、、
>>492 竹内文書を信奉するようなものだな、
まあ本田はあれもいいとかぬかすのかもしれんが
はるか後世の、一次史料でないものを用いても仕方ない。
後世のいろいろな解釈が入り込んでいる。
大体、高句麗語自体どれだけ解明されてるんだよ?
496 :
本田 :05/02/13 18:09:08
>>494 >>495 始皇帝の焚書坑儒は有名だけど、日本にも焚書があった。
13世紀から14世紀に生きた北畠親房という人物が書いた「神皇正統記」に、
「昔日本は三韓と同種也と云事のありし。
かの書をば桓武の御代にやきすてられしなり」とあります。
北条時宗焚書もあったそうです。
正史は、焚書の影響を強く受けるので、卑史とは別の意味でいかがわしい。
だから、正史と卑史は、一短一長です。
佐賀県と長崎県に東西南北の松浦郡がありますが、 大雑把にみると、現在の方角の認識とは90度ずれています。 そのことを踏まえて、魏志倭人伝を読むとどうなりますか?
498 :
日本@名無史さん :05/02/14 00:26:54
>>497 >佐賀県と長崎県に東西南北の松浦郡がありますが
ウソを言うな。
今残ってるところだけ見ても駄目だよ。 もともと唐津は東松浦郡、伊万里は西松浦郡でちゃんと東西に並んでる。 そもそも、明治に分割されてつけられた名前で三世紀を語れるはずなどない。
>498 どうでもよいが、そんなことで一々上げないでくれ。 ちなみに北と南も長崎にある。
>>497 さん
方位をいじるとまったくトンチンカンになり迷子になります。
それに、後々畿内説や九州説に別れ不毛の論争に入ります。
>>501 これこれ。人の名をかたるでない。
もともと広大だった松浦郡は廃藩置県後府県制に移行するなかで佐賀県と長崎県にわかれ、
佐賀県側が東西に、長崎県側が南北に分かれた、ということですね。
504 :
本田 :05/02/14 01:05:05
やれやれ。伝統のスレもすっかりレベルダウンしちゃって・・・。 とりあえず偽書々言ってるヤシに一言。どこからが偽書でそうでないか何て 線引きはない。一行でも真実が含まれていれば貴重だし、あるいはその時代 になぜそんなものが作られたかの分析対象にもなる。まして紙も貴重な時代 に営々と家伝として残してきたものはなんか理由があるだろう。 尾張氏系図、物部文書、九鬼文書、いずれにも偽も真もあるというスタンスが もっとも合理的である。 電波などと同様な低脳な2ch用語を振り回すなよ。 まあ原田とか言うフィクションライターなんかの責任でもあるがなw
>>502 おまいさん 民俗方位と自然方位を考えていますか?
って聞くまでもないことだよな・・・
で、邪馬台国はヒミコが九州から近畿へ遷都したんだろ?
>505 偽書は、やっぱり偽書でしょうよ。 偽書とは、その出自(成立時期や著者)を偽っているものでしょう。 その事実をもって明確に線は引けます。 確かに、正史であっても、その内容には問題が多々あります。 また、偽書であっても、その作られた背景や記述内容を専門に研究され、 学問としている方もおられます。 ただし、偽書がその出自を偽るのは、多くの場合、正当性を欠く記述内容の 権威付けが目的です。 つまり、その作者にとって都合の悪い先行資料が存在し、それを否定する手段として 対立する資料を作る。 そして、その成立年代を偽ることで、「同時代性」等を演出し、少しでも資料的価値を 高めることで、先行資料に対抗しようとするのです。 また、対立のない部分については、大概の場合、先行資料のコピーが利用されます。 そういった、偽書というもの性質を承知した上であれば、その作者の意図等を斟酌することで、 偽書として成立した時代の二次的資料としての価値はあると思います。 貴方のレスの念頭にある「偽書」が、具体的に何なのかはわかりませんが、 巷のほとんどの偽書については、既に評価は出尽くしていると思いますよ。
畿内派にしたら、大和国『邪馬臺国』を『邪馬壹国』と書き変わった『魏志倭人伝』
は偽書との判定にされても使用のない論となろうが、これで『魏志倭人伝』は偽書に
なるのか?
>>507 殿
test
>509 そのレスは、偽書なんかに跳び付く輩の知的レベルをあらわすのに 最良の見本だと思うな。 GJ!(w >508
古史古伝が偽書だというなら、国名という重要部分の『臺』を『壹』と偽記述 した魏志倭人伝も畿内派からは偽書と言われるべきではないのか?ということだ。
513 :
日本@名無史さん :05/02/15 00:00:10
魏志倭人伝を真に受ける考古学者はいないよ?
すると、考古学者は魏志倭人伝を「真にあらず。」、すなわち「偽書だ。」 とするのが全員の見解なのか?
まず偽書の定義をたのむ
皆ー、邪馬台国論争に初めて興味持った時のこと思い出してくれよ 最初から『魏書東夷伝』に対し(偽書)の疑い持って入った人など殆どいないはず。 それが、少し知識が広がり結果が出ないとなると『倭人の条』に『疑い』を持ち始める。 『疑い』は、最後の最後でいいのではないかい 結果が出ないのは、『倭人の条』の真偽ではなく『解釈』の仕方が悪いだけじゃないか そりゃ 約1700年前の唯一の資料だから 理解困難な部分が有ることは確かだ。 まずは初心に戻り『真』と判断しようではないか!
プラム氏は真と「判断しよう」と云っている。彼はそうなると九州派だな? 古史古伝は偽とするのかい?
なんとなく噛みあってたかと思ったら また罵倒合戦かよ? 結局「邪馬台国」スレは罵倒で終わるんだよなー。
自分には『古史古伝』を偽書と判断出来ない。 九州説です。 と、ゆうか 少なくとも、中国側の倭に対する認識は『倭』が『日本』とされるまで、全て三世紀の邪馬台國の延長だと認識されていたのではと、考えていますので 時は流れても、中国側の『邪馬台国』認識は時間が止まったまま。 そのように解釈していますが 畿内王権が正式に認められるのは『倭→日本』になったときでは?
>>515 『偽書とは、その出自(成立時期や著者)を偽っているもの』
>>507 参照
>>516 「偽書」は偽モノのこと、あなたの頭にあるのは「疑書」(こんな言葉は無いな)では?
倭人伝は、誤謬や潤色の多い文章だが、その出処は明かでしょうが。
>>520 さん
『偽書』と『疑書』を使い分けられるのは、あくまで文字で表現出来る範囲のみ。
一般的に使う『ギショ』は『偽書=疑書』なのです。会話のなかで説明無しに使い分けられますか?
>>522 何をわけのわからんことを・・・
そんなことは、説明してでも使い分けてくれよ。
自分の意思を相手に正しく伝える努力を惜しんじゃだめだ。
「偽」と「疑」と「魏」じゃ、意味が全く違うでしょう。
もともとは、誤謬のある古典には、真実で無い記載があるので、
後世の偽書と同レベルだと言い張るのは、如何という話なんだよ。
参加するなら、ちゃんと話の流れを読んでからにしてくれないかな。
>>519 それは矛盾しているよ。魏志倭人伝を『真』と判断するならば、『邪馬台国』なんぞ
の言い回しはありえないではないか『真』と判断するならば、『邪馬壹国』と主張
するのが当然ではないか?
>>523 会話においては、説明無しでも前後の内容で判断つくだろう。
おっと! 横道にそれそう
私見での真偽のほどは
>>516 の最後に書いたとうりだ
資料を取り扱う時に『偽』と判断したのならば、それを個人的に引用しなければいいだけの話し。
公に白、黒と色分けすることは無いと思うが
君がプロの鑑定士なら話しは別だが
『概ね真と判断したいが、一部内容に不具合な部分が見受けられる。』
それでいいんじゃないの
それより、コテハン付けてカキコしてくれないか!
後々判断しずらいので
よろしく
太氏へ まだそこまでのこだわりは持っていない 『台』 『臺』 『壹』と、意味は違ってくるのだろうけど それに、貴方が前からその違いを主張していた理由ものも存じております。
ヤマイ、ヤマタイでなくヤマト イヨでなくトヨ こう考えた方が九州説、畿内説ともに有利
>>526 まあ『台』と『臺』は同意味で前者は略字だから、また
『壱』『一』と『壹』とも同意味で前者中者も略字的だから、どちらを使用しようと
論には差し支えはない。
原文は『 』の部分は『壹』であるからして、魏志倭人伝を真と判断しようというなら
当然国名は「邪馬壹国」と、ストレートで認容せねば真とはならない。
何故ならば、国名の選定は論争においては最重要箇所だからである。
だからプラム氏がこれを「邪馬台国」「邪馬臺国」と書き込んでいるのは
矛盾であり、おかしいことになるわけである。
529 :
日本@名無史さん :05/02/15 09:48:08
そんな初歩的な指摘してどうすんの?
なるほど 太氏の意見ごもっとも。 以後きおつけて統一したいと思います。( 感謝 ) 『偽書東夷伝』原本無き物にたいし その『真偽』を答ても始まらない。 真と見なければ『邪馬壹國』は、目の前から消えて議論すら無意味になる。
だから畿内派は、「魏志倭人伝」は国名の「邪馬臺国」を「邪馬壹国」と書き換えた偽書 だとの主張をしているのと大して違わないことになる。
ようするに 倭とゆう地域が中国に認識されていたのはあくまで半島南部や九州の話し、 その他にも、同じような人種の国が有るようだが 朝貢にも訪れない国など知らない。 でも、こんど挨拶に来た連中は、前に来た連中よりもずっと東から来たそうだ 話に聞くと、『邪馬壹国』は無くなったらしい。 そんな処じゃないかな 間違っていたらご指示を。
邪馬壹国は九州に存在していたが、当然消滅したわけですな。
>>484 には「その評価の通りです」と答えてもよいの?
>>484 のいうとおりの評価に世間を信じ込ませたい
偏狭な皇国史観信者なら、たくさんいるというだけの話。
でもさ、ローマを「大秦」、パルティアを「安息」(ただこれはアルサケス朝だろうけど)なんて書いちゃう連中だからね。 そのくせ皇帝アントニウスを「安敦」と正確に書いてみたり、と一体どこまで信頼したらよいものやら
もともと文献史学は微に入り細をうがってる癖に神話の類は無視に近いからね。 そういう意味では神代の記録は全部偽書になってしまうし、実際大学者と呼ばれる人 でもいいかげんな考察しかしないし。 で、なんで筑紫とか出雲が始まりなの?畿内派の皆さん。東遷なんてよくわからない 説明でお茶を濁さず、ちゃん答えて欲しいな。まさか今更畿内の地名を九州に持って 行ったとか内政そっちのけで連年半島に出兵したとか言わないよね?
便所の落書きの書き連ねではなく、真に意見交換を楽しむと言うスタンスで スレを立てましたが、そろそろ限界でしょうか・・・ 自分の意見を相手に理解させる努力を惜しむ方や 明確な定義をした上で使われている他人の言葉を、 自己流の定義に置き換え、見当違いなレスを繰り返す人。 文章力や読解力の問題であれば、丁寧に説明し合えば解決するのですが、 昨日あたりからの流れは、明らかに意図的な「すれ違い」に思えます。 参加者の皆様、その辺のところ、今一度お考えください。
禿同。 1さんいいところで出てきましたな。
ズキーン! 確かにそのとおりかもね 反省すべき処多々あり 自分のレスは相当酷そうだし、 (頭の中は、トンデモ発想)ばかり ご迷惑おかけしてます。
プラム氏へ 見直しました。(ごめん) お互いこれからも真面目にやりましょう。 1殿へ ありがとうございます。
543 :
本田 :05/02/15 22:38:45
>>507 > 偽書とは、その出自(成立時期や著者)を偽っているものでしょう。
>その事実をもって明確に線は引けます。
> ただし、偽書がその出自を偽るのは、多くの場合、
>正当性を欠く記述内容の権威付けが目的です。
>つまり、その作者にとって都合の悪い先行資料が存在し、
>それを否定する手段として対立する資料を作る。
「魏志倭人伝」は偽書。
「三国志 魏書 東夷伝 倭人条」が先行資料。
「日本書紀」は偽書。
舎人親王が養老4年(720年)に作った「日本記」が先行資料。
ところで舎人親王は皇帝だったのか。
倭人と韓人を束ねる統一新羅の皇帝か?
>藤森神社
>京都市伏見区深草鳥居崎町609
>崇道尽敬皇帝(舎人親王)
http://kamnavi.jp/yamasiro/fujinomori.htm
>>542 さん
こちらこそ
私は、無学なため専門的な知識が欠落しております。よって、これからもご迷惑おかけすることが多々あるかと、思います。
間違ったレス等発見しましたならば、厳しいご指摘のほどよろしくお願い申し上げます。
545 :
日本@名無史さん :05/02/15 23:02:42
>>544 無学を指摘したら逆ギレするくせに何を言うか。
「俺、大陸からの使者だけど卑弥呼いる?」 「卑弥呼はいません」 「えー いないの? どっか出掛けた?」 「畿内の方へ引っ越しますた」 「それってどこよ?」 「すんげぇ遠いみたいですぜ 北九州から瀬戸内航路 岡山の玉野経由で大層な時間掛かるようで・・・」 「ほんとけ?」 「行ってみますか?」 「行くのマンドクセ!! 卑弥呼は人と会わないって事にしとくわ」 「了解しますた」
>545 >547 オイ、オイ、、、、
(伊都國) 邪馬壹國の後ろ盾(一大率)により、小国の港町である伊都は、半島南部に絶大なる影響力を持っていた。しかし、邪馬壹國が衰退し、半島にまでその影響力が及ばなくなり半島内で孤立してしまう。 権力を失った伊都王族は半島を追われ九州北部に逃れた。 半島に足掛かりを失った倭国は、それから百余年の間大陸へ挨拶に出向くことを行われなかった。
あ! 今日は、藻れの 誕生日だー
プラムさん、お誕生日おめでとうございます。
>550 オメ! ところで何回目のかな(w
日露戦争は知らないけど、二村定一は知っている。
藻れの、じい様が聞いたら喜びそう。 二村が出たらエノケンを忘れずに。 長嶋の入団は知らないが 阪神のカークランドは知っている。
昔、ジャイアンツファンの藻れは、後楽園球場のライトスタンドで王のホームランボールを追い掛けつつ阪神のカークランドに、声を掛けていた。(ファンサービス最高) あの頃邪馬壹國の邪の字も知らなかった。
2月16日ってーと、北の独裁者と同じ誕生日だねw
その昔、朝鮮半島で暮らしていた倭族は、中国による朝鮮半島植民地政策の影響を受け半島南岸の狭い地域迄、追いやられ。 その中の一部は、海の向こう側にある九州やその他周辺へ新しい居を探した。 半島に残った倭族は王を立て(伊都國の始まり)狭いながらも倭族の国を作った。
>>559 倭人は西南から海を渡って、玄界灘の両岸に定着したんだと思いますよ。
半島側は領土争いに負けが混んできたあげく、白村江で完全失地。
>>560 さん
そうすると、九州側から半島に食い込んだ形ですかね?
562 :
プラム :05/02/17 16:57:20
>>561 訂正
九州側…×
東シナ海…〇
でも、紀元前の時代にそんな航海できたのかな?
琉球方面から島から島へなら、理解できるが
>>559 続き
日本にはまだ国とゆう認識が無く、原始的な生活集団が各地に点在していた。
そこに、同じような人種の集団が半島から移って来て先進的な文化を持ち込み、あっという間に、現地の原始的集団を、国とゆう(軍事、生活)集団に作り上げた。(倭奴國の始まり)
国とゆう認識は大陸からもたらされものだろう。
564 :
日本@名無史さん :05/02/17 18:50:27
弥生遺跡から中国鏡・福岡(共同通信) 中国の史書「魏志倭人伝」に記された「伊都国」の中心部とされる 福岡県前原市・井原鑓溝地区の弥生時代後期(1〜2世紀)の遺跡から 中国製銅鏡が出土し、同市教育委員会が17日、発表した。 出土品の記録が残されていながら未発見だった3つ目の伊都国王墓の 場所を特定する重要な手掛かりになりそうだ。 市教委によると、出土したのは「方格規矩(ほうかくきく)四神鏡」と呼ばれる銅鏡1枚。 [共同通信社:2005年02月17日 18時20分]
565 :
プラム :05/02/17 21:47:52
ヘェー? 『方格規矩四神鏡』 中国前漢時代末期頃沢山作られた鏡。 日本でも多数出土している曲尺の謎もあったよなー プラムの鏡知識は、この程度です。
566 :
日本@名無史さん :05/02/17 22:08:46
>>559 >半島に残った倭族は王を立て(伊都國の始まり)狭いながらも倭族の国を作った。
そうですね。
最後まで残った倭国の半島の領土が任那で、
「倭の五王」は、任那から排出されたものだよ。
中国の影響を受けた名前だし、その時代の前方後円墳も任那にある。
>>566 さん
半島の倭族が『倭の五王』成る程。
私も、畿内の王権ではないと思ってましたが
やはり、中国の文献で『倭⇒日本』になるまでは、やはり九州や半島南部の出来事を記載したものだったんでしょうね。
『紀、記』にしても、その内容をうまく転用した。
その辺が真実臭いですかな?
えっ?倭の五王は熊本の装飾古墳の埋葬者でしょ?
>566 任那出身の王なら「武の上表文」みたいなものは書かないだろうね。
570 :
宋書倭国伝 :05/02/19 13:40:52
571 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/02/19 14:12:21
あれ、古墳と邪馬台国のスレはどこいった?
プラムさんは戻ってこないのかな〜
575 :
本田 :05/02/20 06:05:45
>>560 > 半島側は領土争いに負けが混んできたあげく、白村江で完全失地。
新羅は、韓人の国ではなく倭人の国だよ。
>>574 さん
そんなこと有りません
基本は『倭人の条』ですので
それに、このスレで『王権』の話題で盛り上がるのもスレ違いと思い
577 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :05/02/20 12:49:35
邪馬台国には稲と絹が矛があったと書いてあるんだから、 出てこない畿内は落第だな。 行程途中の対馬や壱岐島や松浦に文句つけられる学者は皆無だし。 糸島が圧倒的に有利だ。
578 :
日本@名無史さん :05/02/20 12:57:10
福岡人、必死だなw
>邪馬台国には稲と絹が矛があったと書いてあるんだから、 >出てこない畿内は落第だな。 静岡の登呂にも稲があったんだからどうだか
稲の伝わり方が名古屋辺りを境にスピードダウンするのが確認される(土器の伝わり方) と、いうことは 名古屋より東は明らかに、食生活文化が違っていたことが伺える。 たとえ登呂で稲を栽培しても、文献に記載されるまでには至らないのではないかな? チョット無理有るかな
581 :
日本@名無史さん :05/02/21 02:41:50
江戸時代でも、東北は蕎麦が主食ですよ?
三世紀それも、中国の書籍に記載された地名を現在使われている地名から探り出すことは、殆ど不可能でしょう。 末盧⇒松浦 伊都⇒伊覩縣主 奴 ⇒那 縣主 これらの地名等は、古くからあった地名では無く 『紀記』編纂の時、中国の書籍を参考に付けられたかなり曖昧な地名ではなかろうか
中国の書籍や国産書籍、それらしい遺跡の出土品。それら全てを総合判断した結果が げんざいの前原=伊都國 だと思われるが 残念なことに『糸島半島』とゆう地名が今現在使用されてるとゆうことで 確率的に 前原付近=伊都國とゆう説は成り立たないとみたほうが自然だろう!
仲哀天皇紀九年のところに 天皇は五十迹手(いとて)をほめられて「伊蘇志」とおっしゃった。 時の人は五十迹手の本国を名づけて伊蘇国といった。 いま伊都というのはなまったものである とあるけど、参考になる?
585 :
プラム :05/02/21 11:43:32
>>584 さん
『書紀』に書かれてるやつですね。
仲哀天皇が褒め言葉を言われる前は全く別の名前か、もしかしたら地名が存在していないか
資料提供(感謝)
三世紀の頃、日本で地名とをうものが『存在していたかしていなかった』かを研究なされた方は、いらっしゃるのでしょうか?
586 :
日本@名無史さん :05/02/21 11:53:20
>>585 >三世紀の頃、日本で地名とをうものが『存在していたかしていなかった』かを研究なされた方は、いらっしゃるのでしょうか?
魏志倭人伝に書かれた国の名前が、すなわち昔の地名なんですよ?
587 :
日本@名無史さん :05/02/21 11:58:11
それと、仲哀天皇の時代は実際は4世紀に入ってるはずなので、 書記にかかれた地名のいわれは、編纂者の創作か地元の伝承のパクリです。 松浦(めずら)もそうです。
倭人の条に書かれている名前は、『伊都』以外、編者が名付け親のように思えるのですが? 中国の正史に記載されている地名を元に『紀』の編者が適当に当て嵌めたように感じます。 正史に書かれた『伊都』が国内の書紀に『伊覩』と書かれることは不自然です。『伊都』と、付ければよくわざわざ『伊覩』や『糸島』と、書かなくても?
糸が本来の意味では?伊都は当て字で。 狗那国も、熊が本来の意味では?狗那国が言語が違うとはかかれていないから、 くな(くま)→くまそ(クマツォ?)→熊本
590 :
プラム :05/02/21 13:20:35
地名が確立され記録に残るようになったのは『大和政権』時代。 大和政権が『自生』であれなんであれ 『旧唐書』 (倭國自惡其不雅。改為日本) これ以前の地名は全て改められたのではないだろうか 『倭』に存在した地名は、すべて『倭』 『日本』になった以上それまでの地名は跡形と無く改めることが自然かと
591 :
日本@名無史さん :05/02/21 13:33:20
>>590 ならば、貴殿が信頼できる資料とはいったい何なのだ?
>>591 時系列が同じ書籍が複数存在していれば 使い分ければ良いけど
一つだけしか無いので有れば、とりあえずその書物を信頼するしか無いのでは
しかし余りにも不自然なものは取り扱わなくても
確か「続日本紀」に、地名改正指令が出ていたね。良い字で2文字にしろ、 というものだった。字地名まで変えてないようだけど。 「木」は「紀伊」にするなど、各地で苦労したと思う。
今度の平成大合併でも古い地名がかなり失われる。百年後の人は、殆ど古い地名など知らないはず 一部のマニアだけかな! 今はマニアがいるから良いけど あの当時マニアが存在したとは思えないからナー
地名の変遷っても、呼び方(音声)の話と文字表記の話は、次元が違うので、ちゃんと整理してね。 話題がどんどんズレてく気がする。
やはり地名を扱うのは止しておいた方が良いみたいだな! 深入りは禁物かな?
『糸島』の文字が登場したのは明治29年ですよ
そういえば、怡土城跡や志摩町があるね。
確か、怡土郡(付け根の方)と志摩郡(半島部)を合併させたんだよな。 ちなみに、倭人伝にも斯馬國ってものがあったね。 傍国群の最初の国だ。これが、今の志摩地方だって思う人が多い。 だとしたら、「遠絶」じゃないので、伝の記述と整合を欠くのだが・・・
『韓伝』の中にも斯盧國という国名が登場し、結構似通った名前の国が登場する。 (私見だが) 陳寿が正史を編纂するときに、便宜上付けた名前じゃ無いかと思う。 倭人の条に記載有る国名は実際の名前とは異なり(本当は名前なんか存在しないかも) それらの名前から、現在の地名を利用し探し出すのはいかがなものか。
>600(キリ番オメ!) 陳壽が便宜的に附けた、は無いと思うよ。 黒歯國みたいなネーミングならともかく、 名称不祥の国の整理番号代わりに音声記号でしか無い文字列を使うとは、思わない。 単に国名も不祥だと書けばよいだろう。
便宜上付けた国名じゃないとするならば 韓の延長線上にある国と、とらえることも出来そうだよ。
国名がそのままつかわれるのかな? スリジャヤワルダナプラコッテなら須里国とかになったりするんじゃないの
意訳・音訳・併用訳・略訳といったところか
>>603 そのくらい簡単ならいいんだが。
グループわけ出来そうなくらい文字の種類がすくないんだなー
>605 確かに音素は少ないね。 それと、ご指摘のとおり末尾の「奴」が多い。 これは、後世の「○○野」とかに対応するようにも見えるが、 和名抄で郡名を漁ってみると、「の」で終わるものは意外とすくない。 特に、九州では稀、筑後の「竹野」、豊後の「大野」、薩摩の「頴娃」ぐらいだ。 畿内・東海になると、もう少し増えるが、倭人伝での比率には程遠い。 「な」の末尾を持つものは、もっと少ない。(肥後「玉名」とか) 末尾の音素として一番多いのは、実は「た」のようだ。 となると、倭人伝で「奴」と表現されている音素は「な」「の」以外にもあるのか、 または、「紀の国」の「の」ような用法が、当時既に存在していて、 それが固有地名の一部として、中国側に認識されてしまったのかもしれない。
奴は匈奴と同じように、相手を見下す言葉だよ。 漢倭奴国王をかんのわのなのとかよまずに 倭奴国わなこくと読めばよい
なのくに、ではなく どのくに、ですね
609 :
日本@名無史さん :05/02/23 10:22:17
委奴国=イト国だろ。 なぜ、わざわざ曲解して読むんだ?
610 :
プラム :05/02/23 10:56:38
>>609 さん
(委奴)が(イト)なら
委奴國と伊都國は、まったくの別物になるはずですよね
でも、委奴=イトは、まだ意見が別れていて?のはずでは。
(私見) 委奴國=前原付近(後ほど邪馬壹國支配。伊都國とは無関係) これで行きたいけど問題有りかな? 『奴國は倭の極南界』
612 :
日本@名無史さん :05/02/23 12:56:44
>>610 >委奴國と伊都國は、まったくの別物になるはずですよね
どうして別なのか説明してからだろ。
ヰト≠ イト
>>612 さん
時代こそ違うが中国で付けられた漢字。
あそこまで文字を違えて書くでしょうか?
委奴には『蔑む』漢字を使い、伊都には『都』を使う、全く違った意味になりませんか。
同じとする意見を聞きたいものです。
委奴説は当時の音韻論的に否定されたのでは?
617 :
日本@名無史さん :05/02/24 02:53:53
>>615 音韻がどの程度あてになるの?
日本語の音韻だって変化するだろ。
それをいったら、卑弥呼の「呼」と、卑狗の「狗」は、違う音だろ。
中国の使者が、耳で聞いた近い音の中から選んだだけ。
618 :
プラム :05/02/24 11:56:57
固有名詞の読み方にこだわってしまうと、結局不毛の論争を一つ増やすだけ 読み方が定まらないときは(A国)とかで十分間に合うのではないかな
619 :
日本@名無史さん :05/02/24 12:07:53
>>618 じゃ、君は資料の何を信頼して検討してるわけ?
距離?日数?方角?風土?
>>617 あほか。ゼロか100かって問題ではない。
音価推定の確かさ・曖昧さは文字によっていろいろだ。
ほぼ間違いないものもあれば大雑把な推測しかできてないものもある。
だいだいこんな感じってのもあれば、少なくともこうではない、くらいはわかる。
『信頼』などと大袈裟にしなくてもよいと思うが つまり、『伊都國』は『イトコク』じゃなく『伊都國』それでいいんじゃないの『イト』と、読ませるのは自分だけの便宜上に使う読み方。 ここではそれで十分かと 細部まで研究したい人は、とことんこだわれば良いしそうでない人は、こんなもんで良いのでは。
委がwiで伊がyiとかじゃなかったっけ 奴はnagで 都はtu とかのはず
624 :
日本@名無史さん :05/02/24 15:16:37
>これを聞き間違う可能性が本当にないのかどうかは、私にはわからない。 ここに集約されてるな。 人間は聴き間違いをする。
卒業旅行で金印掘りに行ったなぁ。懐かしかったなー
626 :
日本@名無史さん :05/02/24 18:44:02
聞き間違いか。 でもね、一回限りの聞き取りじゃないからなあ。 倭人伝のなかだけでも国史が二回、郡使ならもっと頻繁にきてるだろう。 それに、伊都は単なる通過地じゃないよ。 他の玄海諸国にも言えることだが、帯方郡の成立前から知られていた地名だろう。 だから、漢人と倭人相互の音韻感覚の違いによる部分は大きいだろうが、基本的には適当に記録がなされていると思う。 Englishをイギリスとして受け入れてしまうことは、聞き間違いとはよばないだろう。 後は、必ず発生するであろう文献写本時の書き間違えもあるしね。
聞き間違うかー? 奴国とゆう國名は、奴の人達が付けた地名なの? それを証明できる資料とかあるわけ
628 :
プラム :05/02/25 00:03:33
訂正
>>627 聞き間違うかー? …×
聞き間違いかー? …〇
629 :
日本@名無史さん :05/02/25 02:17:01
>>627 >奴国とゆう國名は、奴の人達が付けた地名なの?
中国側が勝手に書物の中でつけたというのか?
630 :
プラム :05/02/25 07:17:47
>>629 勝手に付けたと、ゆうよりも(名ずけ親)って感覚でとらえたいんだが
ま、これに関しては肯定も、否定も出来ないのがミソなんだけど
631 :
日本@名無史さん :05/02/25 11:42:47
>>630 すると、北九州に残る地名は、魏志倭人伝を読んだ倭人が、
その地名を適当に地元に付けたのだな?
だから、魏志倭人伝の地名と現在の地名は一致しないというわけだな?
632 :
プラム :05/02/25 12:36:55
>>631 『適当』と、言う言葉は相応しくないと思うが、
地名をつけた人なりに考えてつけたのだから
>倭人伝の地名と現在の地名は一致しない。
当然政権が変われば地名なんかすぐにコロコロ変わる、変わらずずーっと残る方が奇跡だよ
百五十年前の『江戸』を探すのも、大変だ!
633 :
プラム :05/02/25 12:52:40
>>631 三世紀倭の九州に、倭の人が付けた地名が存在したとゆう実証でも有れば、何時でも白旗上げるよ
それに、倭人伝そのものが殆ど日本列島のこと書いた史書であるかも、まだ100%ではないだろう。
倭人の条は『倭人』について書いたもので『日本の条』ではない。
634 :
プラム :05/02/25 13:00:44
付け加えるなら 中国の史書で『日本』と初めと書かれたのは確か 『旧唐書』からじゃなかったかな
マツラ
636 :
日本@名無史さん :05/02/25 16:04:10
>変わらずずーっと残る方が奇跡 奇跡ではない。1300年前の国名や郡名でも容易に探せるものが多い。 >倭人伝そのものが殆ど日本列島のこと書いた史書であるかも、まだ100%ではない どういうこと? 1 日本列島以外のことを書いたもの 2 内容が虚偽 どっち?
>>636 『奇跡』は、オーバーかな訂正します。
1300年前の地名は『書』として記録に残っているので後世、似たような地名になって残ることもあるわなーでも、1800年前となるとどうかな?
>日本列島以外じゃなく『列島を含む』かな!
638 :
本田 :05/02/25 22:30:07
本田氏 いつも、補足していただき(感謝)
旧唐書は10世紀、三国史記は12世紀の成立です。
成立年代と正しさは、ちっとも比例しないのがこの世界
642 :
プラム :05/02/26 11:34:10
>>1 このあたりで
スレ主さんや住人諸氏の『倭人の条』についての各独自の読み方や解釈の仕方など披露していただけると、これから参加してくる初心者方の参考になると思われるのですが、いかがでしょうか?
三国志は正史の中では珍しく前朝滅亡から編纂までの経過年月が少ない、同時代性に優れた史書です。 経過年月が少ないということは、公文書等の散逸も少なく、その他の資料も豊富に使えます。 陳壽自身もそうなのですが、三国の興亡に関与した生き証人からの知見も含まれています。 ところが、時代を降った後世の編纂となると、写本の際に生じる誤写の影響もあり、 文献資料の正確さが薄れたり、『魏略』のように資料そのものが散逸してしまいます。 このような場合で資料の引用をする時は、先ず原文を提示し、その誤謬等への考証行い、 自身の結論を記述するようなスタイルになりますので、手間のかかるものとなります。 しかし、同時代文書である三国志では、多くの部分をストレートに書けるため、とても簡潔です。 つまり「同時代性」とは、すごく「便利」なものなのです。 だけど、この便利な点は「成立年代を偽る」ことで悪用できるのですね。 原資料の提示や考証を省略し、いきなり自らの思惑だけで歴史を「見てきたように」書けるわけです。 そのような偽りをしないと語れないことは、語る必要の無いことだと思います。 文章を書くなら2chと言えども基本は同じ。 仮定・引用・考証・結論は、正確に使い分けましょう。 私の解釈は、まあ、そのうちに・・・
>>643 さん
さっそくのご賛同感謝します。
自分自身これから十分参考にして行きたいです。
畿内王権スレ、結構荒れてるね。 自説に必死な偏狭派(畿内説らしい)が排他的に荒らしてる。 コピペしまくり、暴言吐きまくり。
荒れてますなー。 今じゃ(九州VS畿内)ではなく(畿内 VS 畿内)だからね 根っこは深いよ 三世紀当時から広域王権が有ったこと事態無理があるんだよ 文章一つ残せない西日本王権なんて、普通に考えれば解るはず 何故あそこまでこだわるかな?
文章の残ってない王権なんて世界史にはそれこそ腐るほどあるわけだが。
>>647 それでは、二〜三世紀の西日本統一王権では、どのような情報伝達を(奈良⇔福岡間)行っていたのですか?
>文章が残っていない。
じゃあ。
残っていないだけで、当時文章は有ったのですね。
>646 「三世紀当時から広域王権が有ったこと事態無理があるんだよ」 えーと、貴方の海峡を挟んだ女王共立圏構想もけっこう「広域」かと思いますが。 まあ、「広域」の解釈は置いとくとして、海峡国家の件です。 次の一文はご存知のとおり、倭人伝の冒頭の記載です。 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。 舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、 古くから「其北岸狗邪韓國」を倭人の国に含めるか、否かで議論のあるところです。 「其」のが「倭人」を指すのか、「山島」とか「大海」を指すのか、と言うのが第一の論点。 「倭人」の場合は、地域名では無く、民族名ですので、「北岸」と言う陸地か水域の端を単語に ストレートに係ることは出来ません。 この場合、倭人在帶方東南大海之中の「倭人」は、倭人(の地)のような省略形だとも考えられますが、 「其」と言う既定の指示を表す代名詞の性格からは、省略説はやや文法違反かと思われます。 「山島」だとすれば、北岸は九州側になりますし、最も妥当な解釈は「大海の」と言うことになりましょう。 狗邪「韓」國であることと併せて、倭人の国に含めない論者が多い理由になっています。 ただし、倭人の国は総数30カ国、對馬國から邪馬台までで8カ国、旁國諸国が21カ国。 残りの1カ国を女王に組しない狗奴國とするのは「使譯所通」と言う記載と矛盾すると言う意見も有り、 そう言った意見の方は、冒頭の狗邪韓國を倭人30カ国に含めることが多いようです。 私は、壹與の代には、狗奴國も女王傘下にあったと考えていますが。 補足ですが、次は倭人伝の路程記事の末尾です。 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。←難儀な文章なので別の機会に解釈させていただきます。 又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。 參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。 冒頭の一行目と末尾のこの文面から見える倭人の地は、完全な島国だと思います。
>648 「文章が残っていない。じゃあ。残っていないだけで、当時文章は有ったのですね。」って >647氏は「文章が有る」とも言ってないでしょう。 そんな身勝手な決め付けでは、議論が進むとは思えません。 ただ、「王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」 と有るように、文書は女王のもとへ「伝送」されます。 当時の倭人が、漢文をどこまで使いこなしていたかは不明ですが、少なくとも「文章」はあったのでしょう。 ちなみに、「伝送」以外の通信手段としては、「狼煙」が有名ですね。 弥生の高地性集落の多くには、「狼煙台」のあったことが確認されています。
>>650 さん
詳しい説明(感謝)
まず、『倭人』ですが
自分の場合『地域』と、とらえてます。
地続き韓の南部に存在した『倭』の地域と、其南部の島々(韓伝より南地域)の『倭』を区別するための処置。人種ならば後に出てくる『倭種』だけで十分かと?
>『其』は、何を指すか
倭人地域を指します。海峡国家の北の海岸部(倭の地域)
続き 『狗邪韓國と弁辰狗邪國』全くの別物と判断しております。 『弁辰狗邪』 ご存知のとおり金海付近に有った国(都市) 『狗邪韓国』 陳寿が倭人の条を書くに辺り、利便性のために付けた半島南部の『倭』の地域のことだと、判断しています。 海峡国家については後日改めて。
653 :
プラム :05/03/01 01:22:51
>>650 さん
私は、身勝手ですか。
>>647 氏は、
『残ってない』と、カキコしたので反論しました。
『存在しない』と、カキコしてあれば反論しませんでした。
『残ってない』と『存在しない』では、意味が180゚違ってくるので
>>652 同じ国だよ。馬韓臣噴沽国を別の箇所で臣憤沽韓国と書かれている例がある。
プラムさん応援age
(狗邪) 半島南岸〜北部九州一帯を陳寿は便宜上そのように名付けたのではないだろうか? 「理由」 倭人の条に記載有る二大勢力国は、邪馬壹國と狗奴国その「邪」と「狗」を取り「狗邪」として、半島南岸地域を狗邪(韓)國としたのではないか? しかし、半島南岸の領域の区別ははっきりせず、弁辰領域と区別出来る所を「弁辰狗邪」としたのではないか? 『これは、殆ど想像だが』
658 :
プラム :05/03/01 15:01:16
『狗奴國』 ご存知のとおり女王国に属さず意に反する国。 位置としては(想像)女王国の南隣で一部は被ってる所有りかな? @何故、女王国に属さないかは、共立の時反対した為。 昔は、敵対せず平和だった A何故、狗奴国までの距離が書いてないか 書く必要が無く 『郡より女王国に至る、萬二千餘里』(狗奴国の後に記載) これで十分こと足りるのではないか 女王国と狗奴国は、同じような位置に有り、風習なども大差ないので狗奴国の記載が簡略なのだ
もしかしたら『邪馬壹國』と『狗奴國』は、元同一国かな? 卑弥呼擁立に反対し分裂した国 合わせた戸数が七万戸?
>652 >>『狗邪韓国』 >>陳寿が倭人の条を書くに辺り、利便性のために付けた半島南部の『倭』の地域のことだと、判断しています。 この考え方は、わかりにくいですね。 まず、「利便性」とは、だれにとっての「利便」ですか? また、「半島南部の倭の地域」を「狗邪韓国」と表現することで、いかなる「利便」が生じるのでしょうか? そして、倭や韓に対する知見の乏しい当時の中国人が、この文章を読んでそう思うでしょうか。 魏志は、邪馬台国の所在を探る現代の我々には不親切ですが、当時の読者には親切です。 かなり、詳細に注釈を入れ、「国中においての○○の如し」等とわかりやすい表現に努めています。 狗邪韓国の「韓」は、倭人伝中の韓人の国であることを示す、わかりやすい表現です。 倭人の国に「韓」を付すのでは、単に誤解を招くだけでしょう。
>>660 さん
細かい所を突かれると、正直痛いです。
まだ裏付けもとれない状況ですので
この海峡国家のヒントは、楽浪土器の普及範囲です。
662 :
日本@名無史さん :05/03/02 19:48:43
>661 何で、楽老土器の出土が、『狗邪』が海峡の両岸に別れて存在する説のヒントになるの? 普通に考えて、思いつくようなことじゃないよな。 実際の分布図とも合わないし、実は同じようなことを書いてる某トン〇モ本からのパクリじゃないのか?
>>661 ヒントとゆうよりちょっとしたきっかけ程度のこと
(半島〜前原)間の交易
>トンデモ本のパクリ?
同じ様に考える人が居ても不思議じゃないでしょう。その本の著者も伊都國(一大率)を金海に比定してるのでしょうか?
それに、トンデモ本とまともな本の区別はどのように区別するのかな?
取り敢えず貴方の自説を披露して頂けないでしょうか
664 :
プラム :05/03/02 22:49:26
>普通に考えて 『倭人在帯方東南(大海)之中…』 『…名日(瀚海)至一支…』
>>664 『狗邪』が海峡の両岸にある・・・のところが、「普通」じゃないんでないかと小一時(ry
>>663 ##トンデモ本とまともな本の区別はどのように区別するのかな?##
トンデモの第一条は、「漢文を漢文法どおりに読まない」だね。
だから、普通の人が読まないような「世紀の大発見」的読み方のオンパレードになる。
>>663 ## 取り敢えず貴方の自説を披露して頂けないでしょうか ##
俺の説なんか聞いてもつまらないよ。
極々普通の読み方だから。
陳寿の書いたまんまじゃ、邪馬台国は海の上。
後は、いろいろと想像するしかなんだよ。
えっ、「想像」の方を話して欲しいってか?
やだよ、恥ずかしいじゃないか!
668 :
プラム :05/03/03 07:40:09
>>667 さん
>倭人の条は普通に読んだら海の上。
では、倭人の条は『トンデモ資料』ですね(笑)
>『狗邪』が海峡を挟んで両側に?
半島側に『狗邪韓国』
九州側に『(狗)奴国』
『(邪)馬壹国』この両国は、元同一国と考えてるので
669 :
日本@名無史さん :05/03/03 13:58:45
帯方郡から韓国南端までが7000里と考えて、のこり海をふふめて5000里しかないと考えれば、決して海には出ない。 ただ割合をもとめさせるためだけに理数をもちいたかもしれないし、短里をつかったかもしれない。 短里は東夷伝のあらゆるところでしっくりくる。韓国が東西4000里もぴったり。 日本までの海里も3000里とほぼぴったり。 しかしその場合に問題になるのが、陸行1月とか水行1月とかだが、実はそんなに問題じゃない。 邪馬台国までの距離が12000里とされている。だから水行にしても、島のまわりを回っていったのかもしれないが、 どっちにしろ、帯方郡から12000里の実測は揺るがない
670 :
プラム :05/03/03 19:21:19
>>669 さん
距離の扱い方ですね。
藻れ自身も、最初の頃一生懸命距離を合わせることに努力し『足し算』いっぱいしたっけ(苦笑い)
今じゃ殆ど無視状態ですよ。
(水行1000里=一日で行ける距離)
(郡〜女王国 萬二千餘里=大変遠い)
こんなもんで十分ですよ。
671 :
プラム :05/03/04 21:55:49
邪馬壹國論争は何故『倭人の条』を軽視し、『紀・記』や『考古学』主流になってしまったんだろう? とても残念なことである。
672 :
敦也じゃないよ :05/03/04 22:49:42
う〜ん〜 古田氏も、距離を合わせる為に一生懸命『足し算』したんだー。 無理に合わせる必要ないのにね (短里)だ (長里)だ等と論議したところで余り意味無いと思うし
674 :
日本@名無史さん :05/03/05 00:52:32
675 :
日本@名無史さん :05/03/06 03:12:31
>>627 >>627 言葉が通じない民と遭遇して、正確に地名がわかるだろうか?
当時の日本なら広い範囲で、わ=我、な=汝、という言葉を頻繁に聞いたことだろうから、
国名を、Wana国 としてもおかしくはない(勘違いから名づけられたカンガルーのように)。
倭が中国周辺の国一般を意味するという説に従えば、
耳にした「わ」が偶然同じだったため、漢字で「倭」を当てた可能性もありうる。
尤もこれを証明するのは不可能。
地名や部族名はテキトーにつけられるケースが結構ある。
676 :
プラム :05/03/06 09:08:05
>>675 さん
>地名や部族名はテキトウに
私もその方が自然と考えます。
あるいは、
『倭の国での発音(一文字ないし二文字)』+『中国で付け加えた文字』
で、構成されている様に思われます。
何れにしても証明するのは困難ですから、あくまで想像ですが!
>675-676 証明するのが困難なことにして、想像だけで終わらしちゃいかんな。 例えば、『わ=我+な=汝でWana』・・・・まるで『大田区』みたいな発想だが、 当時の中国にAx國とBx國を合成して、AB國なんて合成地名を作る類例があったか検証してみたらどうだ? 『地名や部族名はテキトーにつけられるケースが結構ある。』 これも、『結構ある。』と言い切るんだったら、適切な例示をしたほうが余計な突込みを受けずにすむ。 また、『對馬國』のように現代まで寸分違わず存続している例については、どう考えるのか? 偶には、雑談モードで流すのもよいが、とにかくも学問板に書き込んでいるのだから、 もう少しレスの付け甲斐のある内容にしてくれよ。
678 :
日本@名無史さん :05/03/06 16:51:26
どうして、「わ・な」が適当に付けられたと思うのだろう? 福岡の港は、昔から「那の津」と呼ばれてるの今まで知らなかった? だったら、とっても恥ずかしいことだね。
>>677 さん
学問板を雑談板に利用したことは
スマソです。
>>678 『テキトウ』と言う表現の仕方は適切ではないと思うが 《那の津》の文字(読み方)が、いつ頃から使われたかは誰も証明できないので『テキトウ』と言う不適切な会話が出来上がってしまった。
《那の津》が、三世紀当時から(なのつ)として文献で証明されていれば 『テキトウ』発言も無かったはず
『那の津』を知らなかった訳では無いと思うよ。
681 :
日本@名無史さん :05/03/06 17:46:18
>>680 >《那の津》が、三世紀当時から(なのつ)として文献で証明されていれば 『テキトウ』発言も無かったはず
地名は、全く根拠にしないというわけか。
では、「那の津」は、偶然か、魏志倭人伝を見た人が、魏志倭人伝を真似て付けたというのだな?
>675 「言葉が通じない民と遭遇して、正確に地名がわかるだろうか?」 何か、未開の地に繰り出した探検隊の話みたいに思ってるみたいだが、 中国王朝と東夷諸国の関係ってのは、結構深くて長いよ。 一世紀の時点でも、それが一回こっきりの接近遭遇ってわけじゃないんだ。 魏志では詳細に書いてあるが、対馬と伽耶では、かなり日常的な通交が行われている。 例え言語が異なっていようとも、双方には相手の言語に長けた「通詞」はいただろうし、 これは、中国王朝との通交でも同じだったろう。 漢書の記録では、帥升は160人もの生口を送りこんでいる。 護送する要員は、これ以上いた可能性が高い。 かなりの大使節団だ、こんなものが行き成り渡航できるわけもなく、 当然のように、綿密な事前交渉もあっただろう。 双方の国情等は、そういった機会の都度、情報交換されていたものと思われる。 だから、地名のごときものもある程度正確に伝えられてはいると思う。 ただ、双方の言語が持つ音韻数の差によって、正しく表現されない場合もあるし、 (例えば、Englishがイギリスになるように) 観念的な言葉(例えば「韓」のように)で置き換えられてしまうこともあるが。
683 :
プラム :05/03/06 19:05:45
>>681 そうではなく
あくまでも参考程度に留めて置きたいと思う。
地名は、色々な諸事情によって全く共通性の無い地名に変わってしまうことがあるからだよ。
『那の津』が初めて文献に印されたその時は『那の津』だったろうけど、
極端な話その数年前までは違った地名だったかも(もしかしたら地名なんか無かったかも)しれないんじゃないかな。
684 :
プラム :05/03/06 19:20:41
>>681 それから、
『那の津』は(倭人の条)には記載されていないと記憶するが?
藻れの記憶違いか?
『…倭国皆臨津捜露…』
この記載文なら覚えあるが
685 :
日本@名無史さん :05/03/06 19:41:41
>>683 >>684 >そうではなく
だからプラムは、「偶然」に、「那の津」という地名が博多湾についたと思ってるんだろ?
なにが、「そうではなく」なんだ?
>>685 やけにからむねー
そうではなく=偶然
オレは『偶然』等とカキコしていないぞ
それに、そこまでカラムとゆうことは、『那の津』が三世紀当時から使われていたと示す何かあるのかな?オレは知らないから
教えてほしい。
687 :
日本@名無史さん :05/03/07 06:27:31
>>686 ハッキリ明言しないのはおまえだろ。
1、「倭ナ国」の金印が博多湾の島から出土している。
2、魏志倭人伝には、海岸の国として、「ナ国」の記載がある。
3、しかし、「那の津」という呼び名は、3世紀より後でつけられたもの。
という主張が、プラムの発言だろう? と、俺は、確認してるだけだ。
「ナのツ」が3世紀当時から使われてたかどうかは知らないし、関係ない。
>687 ループしそうなので、横レスする。 プラムの言わんとするところは、自説では魏志の『奴國』を九州島内に比定していないので、 後世の『那の津』との関係は何も無い、 だから、あなたの指摘など知ったこっちゃない、ってとこだろう。 自分に都合の悪いことは、梳かす、忘れる、軽んじる。 いつのまにかヤツも、こういう悪しきテクだけは、習得してるんだよ。
689 :
プラム :05/03/07 07:53:56
>>687 おはよう。
オレの発言ではないし、言葉の行き違いがあったらあやまる。
(1)金印の文字『委奴國』
(2)海岸の国?=オレは、玄界灘ではない
(3)『那の津』を自ら取り上げたことは、余り記憶にない。
それに最近、三世紀当時博多湾周辺を 邪馬壹國と狗邪國、入り乱れ地帯
伊都國を金海付近と仮定しているので、オレの自説とは掛け離れている。
>>688 >貴方の指摘なぞしったことない。
それはあまりの言い方だろう。
それに遅レスになっても、今まで自分に対する指摘や質問には、何らかの反応はしてきているぞ!(一部抜け落ちた所は有ると思うが)
691 :
日本@名無史さん :05/03/07 13:09:46
結局のところ、「那の津」が3世紀より前に使われていても、 プラムには関係ないってことだろ? しかし、「那の津」は3世紀後に付けられた名前としたほうが、 プラムにとっては都合がいいと。 俺の指摘は間違って無いよな?
卑弥呼の邪馬台国は北九州の女族長の山門だろ 元々畿内にヤマトなんて地名は無かったし 東征後に生まれた地名
693 :
日本@名無史さん :05/03/07 19:01:47
>692 築後山門だって、何時まで遡れるかわからんだろう。 何度も言われているが、ヤマトと読むなら自然地形由来の地名だから、 全国いたるところ在るヤマトが、それぞれ独自発生でもおかしくは無い。 畿内大和も地形要件で言えば、三輪山の麓なので申し分ないだろう。
邪馬壹國の 『邪』『馬』とゆう文字は当時中国では(蔑む)意味合いで使われたらしいけど確か、『奴』『倭』『夷』『卑』なども、同じような意味合いじゃなかったかな? 間違えてたらスマソ ところで、『奴國』とは正式にどのような読み方なのかご存知の方よろしく。 一般には(NA)と、読んでるけど
695 :
日本@名無史さん :05/03/07 19:34:03
ググれば解るだろ
696 :
プラム :05/03/07 21:07:41
>>691 遅レススマソ
関係なくないぞ
それに、都合なんか考えていないよ。
三世紀以前から『那の津』が存在していたら、そこは『奴國』の可能性がかなり低くなる。
三世紀当時は『那の津』じゃなくて『奴の津』じゃなくてはまずいだろう。
これはあくまで余談だが
松浦⇒怡土(糸島)⇒那
あまりにも出来過ぎの感じだよ
これらの地名は古くて4〜500年後の資料だろう。
スゴイ「論理」だな・・・・
糸島は無い。伊都はイータみたいな音だっただろうから、明確な意味をもつ「糸」とかにはならない
700 :
プラム :05/03/07 22:49:27
『那の津』と記載された当時の港(8世紀頃)は、人工的に整備された港ではなく、自然の地形を利用した港であると想像しても、妄想ではあるまい。 増してや三世紀となると完全に自然地形利用港と断定したい。 博多湾には、多くの河川が流入しており 3世紀の海岸線と8世紀の海岸線ではかなり変化していることは地質学の上でも証明されている。
>>700 続き
と、ゆうことは『那の津』と記載された当時の港は三世紀には存在せず、かなり違った場所に存在していたはず
場所も、地形も違った港を三世紀から変わらず『那の津』と呼び続けるだろうか?
『那の津』とは、文献記載当時に古しえを思い浮かべ付けられた名前の方が、自然だと考える。
プラム・・・独白中にすまぬが一言。 古来、博多湾岸を「な」と呼ぶ。 魏志や金印の「奴國」を別にすれば、仲哀紀の「儺県(なのあがた)」が初出。 後世、「那の県」とも言い、そこの港が「那の津」だ。 問題は、当時「那の津」と言う文字が使われていたかとか、 三世紀の博多湾岸の地形がどうしたこうしたと言うことでは無い。 当時、博多湾岸に「な」と言う音で呼ばれた地域があったかどうかだろう。 もちろん、同じ時代の資料は倭人伝と志賀島金印しか無く、 八世紀成立の記紀は500年以上後の資料だ。 ただ、それだけのことなんだよ。
703 :
p1203-ipbf21osakakita.osaka.ocn.ne.jp :05/03/08 06:59:04
q
704 :
プラム :05/03/08 07:22:31
>702 おはよう 了解したよ。 『紀』の仲哀帝殺人事件のころだね。 地名については肯定も否定も出来ないので 最初にオレが書いた『参考程度』に留め置きたい。 これでいいんだろう。 違うか?
705 :
日本@名無史さん :05/03/08 09:17:39
地名が参考程度なら、 プラムが重要視する資料はどれなんだよ?
>>705 ではなにか。
参考程度ではいけなくガチガチの100%で無ければ物事は全て始まらないとでも言うのか!
信頼する資料は、取り扱う内容によって全て違うんじゃないかな。
白黒なんかはっきりとはつけられん
707 :
プラム :05/03/08 10:34:06
強いてあげれば 『魏書東夷伝倭人』かな だからこのスレでカキコしてるんだろう。
708 :
日本@名無史さん :05/03/08 11:38:36
>>706 100パーセントとか極論を持ち出すな。
どの資料に何パーセントの信頼性を置いて、
論を組み立ててるのか知りたいということだ。
>>707 魏書東夷伝倭人の、どの記述に何パーセントの信頼性があると考えてるのだ?
信頼性の百分率かぁ 全体的には七割〜八割 漢書 や 魏書等からの抜粋記述が有ると思われるので判断しかねるところがある そちらから質問頼む。 どの部分が知りたいか解らん。
>704 『紀の仲哀帝のころ』じゃないだろう。 この場合、遅くとも紀が成立した八世紀には、博多は『な』と呼ばれていたと言える、だよ。 資料とは、そういう風に扱うものだろう。 いくら興味のない事項のやりとりであっても基本はしっかりこなしてくれ。 お互いのレベルアップのためにもな。
金印の「奴国」はナコクと読まれているが 国(コク)は漢読みなので 当然ヤマトでは違う発音がされていたと推測されるわけだけど ヤマトで国を指す言葉として使われていたのはおそらく"ら" いまでも日本語では地域や場所を指す言葉として"ら"が使われているからだ。 こち"ら" そち"ら" あち"ら" おそこ"ら" む"ら" そ"ら" どち"ら" つまり奈良ができるずっと以前から奴国(ナラ)は存在していたってことになる。 金印の「奴国」は 魏志倭人伝の中では邪馬台国と対立しているクナ国(クナラ)だろう。 クは、お"く" "く"ねる のクで 奥にあるもの、つまり古いとか旧という意味で クナ国(クナラ)は旧ナラという意味で 邪馬台国が新ナラということだ。
クナがなまってクマになったのだろう。 クマは熊、つまり現在の熊本のあるところあたりにクナラはあったことになる。 魏志倭人伝ではクナラは邪馬台国の南にあることになっているから 邪馬台国は現在の熊本の北あたりにあったことになる。 ここは日本の中で大陸と最も交流しやすい地域で 地域的にも邪馬台国があったところと考えるのは自然だろう。 奴国(ナラ)=クナラ=熊 が天皇発祥の地だろうな。 だから、熊という字のつく場所は天皇とゆかりの深いところが多いんだと思う。 日本の神話にもあるだろう。 「クマソタケルを殺した皇子がクマソタケルから名前を譲り受けて ヤマトタケルになった」という話が。 隆盛をほこっていた大国奴国(ナラ=クナラ=クマ)を倒したヤマトが 天皇制を奴国(ナラ=クナラ=クマ)から受け継いだんだよ。
だから、神社などを調べると 熊という字のつく場所や人はヤマトの神と対立してることが多いのに 天皇とゆかりが深いという混乱した現象があるんだな。 ちなみに日本語の"そ"には一代前という意味がある. "そ"ふ "そ"ぼ クマソというのはクマはヤマトの一代前の国って意味なのだろう。 神話に隠された意味がこれで明らかになったw
715 :
日本@名無史さん :05/03/10 03:50:08
ところで、投馬国ってどこに否定すればいいんだろうか?
716 :
日本@名無史さん :05/03/10 07:51:19
>715 投馬・・・「とま」「つま」、読み方はそんなところだね。 戸数は五万、玄海諸国からは水行二十日の地、「ミミ」と言う独自の称号を持つ。 書かれているとおりなら、邪馬台国に匹敵する大国なので、かなり一体感のある広大な土地。 中心地は別にしても、勢力圏には、一級河川の下流平野部を持つところが候補だね。 畿内説では、出雲、吉備、丹波、長門などで、特に決め手がないが・・・九州説ではどうでしょうか。
718 :
サガミハラハラ :05/03/10 09:09:11
>713 クナがなまってクマに ではなくて、そもそも奴はトと発音するのが正しいのです。よってクナではなくクトが正しく、宇土半島のウトにその名残があります。 投馬国は宮崎県です。都という字をトと発音していたとすれば、宮崎県には、都の着く地名が多いです。都城はミヤコノジョウではなくトジョウかトの城ともとはよんでいたと考えられます。どこかの都があったわけではありません。
719 :
サガミハラハラ :05/03/10 09:27:26
追記 クマについてですが、倭人伝に対馬、邪馬(台国)、投馬、斯馬とあります。これらは大きな地域になづけられています。 よって熊本県のクマのマも倭人伝の時代には馬であらわされ、狗馬であったと考えられます。他には鹿児島県西部はサツマ、遠賀川流域がカマ、大分県内陸部がアマ、朝鮮半島南部がミマ(ナ)です。
古代の発音の様だが、ゼンゼン時空列が解らねぇー オレだけが解らないのか? そのような発音が、いつ頃からいつ頃までそのような発音していたのか
721 :
日本@名無史さん :05/03/10 19:29:09
>717 但馬、丹波は、ともに『たんば』『たんま』などと呼ばれていた地名に当てはめた漢字ですよね。 後世、丹後も含めて三ヶ国に分国されていますが、本来は広大な地域だったのかもしれませんです。 だとしたら、有力な弥生遺蹟も多く、まさしく、五万戸の大国に相応しい土地です。 もっとも、東京の『多摩』地方のように類似地名が、全国に点在しているので 今はすたれていますが、何か地形由来の地名《和語には「山(やま)浜(はま)沼(ぬま)島(しま)天(あま)等「ま」で終わる地形名詞が多い》であって、丹波但馬の近接は偶然かもしれませんが。 >プラム 大和ことばの語源解釈に漢音とか呉音を用いるようなレスは「ネタ」だと気づけ。
722 :
日本@名無史さん :05/03/10 19:40:20
16 :世界@名無史さん :05/03/10 19:11:30 0 なに、簡単なことでさ。 アメリカが現在の日本をレイプするついでに、 朝鮮日本もレイプしただけのこと。 アメの愛人が二人もいると互いに夫の「夜の権利」を巡って遭い争う。 そこにつけこんで両者とも中悪くさせてるのさ。 その愛人の子供がタッグを組んで、夫に向かってきたら嫌だろう? \________________________________/ V ∧__∧ ________ <丶`Д´>/ ̄/ ̄/ ( 二二二つ / と) | / / / |  ̄| ̄
723 :
サガミハラハラ :05/03/10 23:24:25
>720 いつからいつまでかはわかりません。ただわかっていることは、倭人伝に記されている地名の字が現在ある音で発音されているならば、他の地名の同じ漢字も同じ発音であったということです。 例えば、好古都国はハカタと発音する、つまり都はタと発音していたとすると、伊都国はイタと発音するということです。 ただし古代中国の音が前代日本語のタと全く同じ発音とはかぎりません。かなり似ているという程度でしょう。
>>718 >都城はミヤコノジョウではなくトジョウかトの城ともとはよんでいたと考えられます。
地名としての「都城」は、14世紀までしか遡れません。
古くは「諸県(もろかた)郡」、中世には「島津庄」。
領主島津氏の本家が鹿児島に移転した後、分家北郷氏が入部し、
宮古島と言う小地名の場所に築いた城を「都の城」と呼んだのが「都」の字の初出。
つまり、「都」の由来は、小字名の「宮古(みやこ)」なんですよ。
>そもそも奴はトと発音するのが正しいのです うそをつくな。日本語の発音では、奴は「ナ」と発音するのが一番自然。
>熊本県のクマのマも倭人伝の時代には馬であらわされ 倭人伝の時代にはクマ(熊)はクナと呼ばれていたということ。 「ナ」に馬という字があてられるのはあまりに不自然。 狗奴=クナ=熊、だろう。
日本語では花はhanaだから華奴ホア・ナと意味もとおる当て字をしたとかみたいなことはないかな?
728 :
日本@名無史さん :05/03/11 05:49:04
なんでhanaなんだよ。 顔洗って出直して来い。
729 :
サガミハラハラ :05/03/11 08:25:07
問題は当時の中国で奴という字がなんと発音されていたのかです。そしてその音がなんという日本語の発音を元にしたものなのかということです。 そして私は奴という字は、日本語のトという音に中国語のトと発音する奴という字をあてたと考えます。 狗奴国と狗馬とはイコールではありません。狗奴国は狗馬の北半分です。ちなみに対馬は南島が対海国で北島が対蘇国です。
奴は「な」だね。「と」は音韻的にむりでそ。
斯馬 sieg-mag 已百支 di(e)g-pa[v]k-kieg 伊邪 i(e)[v]r-(g)ia[v]g 都支 tag-kieg 彌奴 mie[v]r-nag 好古都 hog-kag-tag 不呼 piu(e)g-hag 姐奴 tsia[v]g-nag 對蘇 tu(e)d-sag 蘇奴 sag-nag 呼邑 hag-i(e)p 華奴蘇奴 (h)ua[v]g-nag-sag-nag 鬼 kiu(e)r 爲吾 (h)iuar-(g)ag 鬼奴 kiu(e)r-nag 邪馬 (g)ia[v]g-mar 躬臣 kio(g)-ghien 巴利 pa[v]g-lied 支惟 kieg-diu[e]r 烏奴 ag-nag 邪馬台国の南か東にあるだろう国。好古都=はかたはむりがあるとおもう。 伊邪=屋久島も無理があるとおもう。 華奴蘇奴はなにか(花)のつく地名じゃないかな
>731 傍國諸国の上古音読みですね。 シマ、ヂパキ、イヤ、タキ、ミナ、ホカタ、プハ、ツァナ、トサ、サナ、 ハイ、ハナサナ、キ、ヤア、キナ、パリ、キヅ、ウナ・・・・ 中古音で読んでも、現存地名との関係を手繰れそうなものは僅かですね。 「爲吾 (h)iuar-(g)ag」 なんかは、和語が素になったとは思えないです。 これらは、玄海諸国と異なり、直接交流の無い諸国ですので正しく伝えられていないと考えましょう。
733 :
本田 :05/03/12 23:17:37
>>731 「好古都=はかたはむりがあるとおもう。」
読み方としては、さほど困難ではないでしょうね。
ただ、「はかた」の初出は、続日本紀759年の「博多大津」ですからね。
それ以前は、日本書紀の「儺県橿日宮」の記述から推定すれば「儺津」でしょう。
今の「博多」を三世紀まで遡らせるのは、無理ですが・・・
735 :
サガミハラハラ :05/03/13 08:51:35
>730 音韻的に無理もなにも、奴をナとよむようになったのは、マツロ国から海岸沿いにずっと来て、福岡市のあたりが奴国だろうとし、そこが那の津という地なので奴はナとよむのだとでっちあげたのです。 その背景にあるのは古代の地名は全て残存しているという思いこみです。必ずしも、古代の地名が残存しているとはかぎらなしのです。
>>735 の、考えに同意
そもそも、その辺りから考え直す必要が有ると思う。
>735-736 「考え」方を直さないとならないのは、どちらさまでしょうかね。 何で、議論の筋をはずすのでしょうか? 魏志は、中国人が、同じ言葉を話す同国人に向けて書いたものでしょう。 だから、論点は、「中国人」が、倭人の言葉を聴いて、どういう「音素」を持つ漢字で標記するかです。 しかし、中国語の音韻も時代によって変遷があります。 当然、テープレコーダーの無い時代ですので、正確な音素の記録はありません。 それでも、外国語との接触の記録を解析することで、おおまかな再現は可能です。 例えば、日本は何世代にも渡って漢字文化を受け入れてきました。 その漢字を受け入れるとともに読み方も受け入れています。 ところが、受け入れた時代によって、同じ漢字の読み方が違うのです。 漢字の「音詠み」で言うと呉音とか漢音とか宋音などと区分される事象のことです。 「奴」の場合ですが 「奴婢」と言う単語を現代の私たちは「ぬ・ひ」と読みます。 「奴隷」と言う単語では「ど・れい」と読みます これは、日本人がその単語を受け入れたときの「奴」と言う字の音素が違うからです。 「奴婢」は、記紀律令時代から日本で使用されている単語です。 「奴隷」はと言うと、中国でこそ6世紀北斉・顔推之著の『顔氏家訓』が初出ですが、 日本では17世紀初頭の『日葡辞典』まで登場しません。 こういった日中韓を中心にした中国語音韻に関する研究によって 「奴」と言う漢字を中国では、1世紀頃には「な」に近い音(nag)で発音していたとされています。 そして、「奴國」と標記される倭人の土地については、これを当時(1〜3世紀)の中国人が、 倭人側の呼称を音訳して定めたものであるならば、それは、「nag」に近いものだったのでしょう、と言うことです。
738 :
プラム :05/03/13 13:14:46
>>737 オレが同意したのは
有り得ることだからだよ
『奴』を『な』と読むことを否定したわけでは無い。比定地に係わる内容のこと
>738 何が「有り得ること」なのでしょうか? >735が言ってることを要約すれば『那の津を奴國にしたいがために読み方をでっちあげた』だけですよ。 つまり、「奴」を「な」と読むか「と」と読むかに対しての発言です。 だから、当時の中国人は「な」に近い音素を「奴」と言う文字にあてていたと推定でき、 逆に「と」と読む可能性は少ないことを>737で説明したわけです。 貴方の書き方は、考え方は、奴國の所在に対する現在の主要な解釈、 末羅から相応の距離にあり、後世に「な」と呼ばれ、 三世紀当時も2万戸クラスの領域であることが考古資料でも検証できるから、 と言う論拠を「地名は全て残存しているという思いこみ」から「でっちあげ」たと言う意見とどうちがうのですか?
>>739 さん
確かにご指摘のとおりだ。
何故か大きな勘違いをしていたみたいだ
>>736 >>738 のカキコを取り消します。
貴重なスレを無駄な勘違いの為に使ったことにたいし陳謝したい。
741 :
日本@名無史さん :05/03/13 16:39:28
>>740 なにが「勘違い」なんだ?
プラムの頭にあるのは「独断」だけで、
先人の研究は一切無視、それがプラムの今までの発言だろ。
>>741 誤りがあったから訂正したんだが 、完全無視のほうが善かったかな
下手に訂正するとこのように“突っ込み”入るんなら完全無視の方針も考えてみる
君のように完璧でないため、指摘されるまで気ずかないことが有るんだよ
先人の研究を無視しているわけじゃない。
>>741 聞きたいのだが
先人の研究を無視するとはどのようなことか教えてほしい。
先人と同じ考えをして、研究の範囲を超えないことが大事なのか?
何処かのスレでやっているような派閥争いが望ましい状態なのか?
744 :
日本@名無史さん :05/03/13 18:16:15
>>743 >先人の研究を無視するとはどのようなことか教えてほしい。
先人は「研究して仮説を導く」が、
プラムのはただの「思いつき」であって補強する材料も何もないだろ。
それは「学問」ではない。
「思想」とか「宗教」と呼ばれるものだ。
745 :
日本@名無史さん :05/03/13 18:18:11
プラムは、「科学・思想・宗教」の定義を理解するところから始めろ。 その上で自説を展開したいなら、しかるべき板でやれ。
そうゆう君らは『研究し仮説』を、たてたのかね それならオレがたてた自説をことごとく否定して見せてくれ 簡単な事だろう。 それに、『学問』と言う言葉を簡単に使わないでほしい。 『学問』に定義や束縛などは無いはず、『学問』に対し『学問』と言う言葉で制約を作ることは、最もしてはいけないことではないか。 ちょっとでも意にそぐわぬものがあれば切り捨てる それが君の『学問』か
747 :
日本@名無史さん :05/03/13 19:13:38
>>746 >ちょっとでも意にそぐわぬものがあれば切り捨てる
それは、プラムだろ。
こっちは、証拠を積み重ねて仮設を立てている。
意にそぐわないかどうかは関係が無いし、
いつ誰が「意にそぐわない」からとプラムの説を否定した?
>>742 「先人の研究を無視するとはどのようなことか」
わかりやすいのは、>735のような考え方のことだよ。
自説に都合の悪いことは、旧来の説の内容を吟味し検証したわけでもないのに、
そのタイトルや字面だけみて、勝手な「思い込み」で論証内容を捻じ曲げ、
または、「でっちあげ」の一言で否定する。
こう言う手合いは、プロに多い。
プロと言っても職業研究者のことでは無い、出版とか講演とかだけでメシを食ってる連中のことだ。
2Chなどでは、こういった「プロ」に影響された素人もウジャウジャいるね。
749 :
プラム :05/03/13 19:27:37
>>744 『思いつき』を、指摘しているようだが
俺の仮説で『思いつき』でたてたものにはチャンと『思いつき』と書いてあるはずだぞ。
過去のスレよーく読んでみろ『想像』に至っても、それなりの根拠は示しているはず
その根拠が『正』か『非』を決めるのはオレではない。
2ちゃんねるの『学問板』に『想像』は厳禁のルール違反とゆうならそれに従おう。
でも、その前に『学問板』に名無しで出席することのほうが問題なはず
750 :
日本@名無史さん :05/03/13 19:31:01
>>746 >『学問』に定義や束縛などは無いはず
まったく違う。もし、そう思ってるなら、即刻学問板から出て行くべき。
学問は空想とは違う。
証拠を集めて仮説を立て、その仮説が立証されて初めて多数に認められるという、
定義や束縛が存在する。
プラムが「奴国」を「ナの津」と違う場所と考えるのは、「空想」であって科学ではない。
なぜなら、プラムからは、証拠も提示されず、立証もできてないからだ。
「3世紀当時の地名が不明」というのは、そういう仮説は成り立つかもしれないが。
立証できなければ学問的とはいえない。
立証されない説は「独り言」と同じ。
学問板で意見交換を求めるのは、見当違いだ。
言論は認めるから、SF板とか、自分のサイトで自説を展開したらどうか。
751 :
プラム :05/03/13 20:19:51
>>750 『学問は想像する事が出発点』
違うのか?
出て行けとゆうなら出ていこう。
最後に、
今まで貴重なご意見をしてくれたスレの住人諸氏お世話になりました。
それでは失礼します。
752 :
日本@名無史さん :05/03/13 20:28:04
>>751 >『学問は想像する事が出発点』
それも認識が間違ってるな。
まず必要なのは、現存する資料を検証・整理することだ。
その上で新事実が見出せる可能性があるなら仮説を立てる。
仮説を立証するための証拠を集める。ここまで出来て、初めて他人に発表できるのだ。
「想像」だけじゃダメ。
753 :
プラム :05/03/13 20:36:42
>>752 そうか『認識』が間違っているのだな
ご指摘感謝するよ!
お世話になった
サヨナラ
historyとは厳密には「歴史書」のことである。 だからprehistory(有史以前)のような言葉がある。 その歴史をどこまでも信じられないのであれば、考古学にでも答えを求めるしかない。
755 :
日本@名無史さん :05/03/13 22:55:42
考古学者は捏造するし、電波な文献解釈するからなあ
朝から悪い知らせで有る。嘆かわしいことに〔2ちゃんねる〕が 一部のPTAママさん部隊に占拠されてしまい、自由な討論(最低限のrule内)が奪われつつ有る。 『何と嘆かわしいことか』 学問=科学 この論理も頷ける、 しかし ここは学会では無い〔2ちゃんねる〕だぞ、場を弁えてほしい 色々なヤシがいるから多彩な話題の討論が出来、活性化する
プラムの幼稚な発言は度が過ぎたけどな
頷けるな しかしながらROMる側からすれば、多彩なヤシが揃ってるスレの方がROMりがいがあるぞ 何を勘違いしているのか 学問板のタイトル付いているが、大元は2ちゃんねるだ 学識者〜幼稚者までが揃っている所が2ちゃんねる掲示板だよ、
759 :
サガミハラハラ :05/03/14 09:06:26
かつて古代史の本を読み漁っていた頃、買って読んだのか図書館から借りたのか立 ち読みしたのか忘れてしまったが、その中で、ある人が古代の言語の辞書の中に、 「奴」は「ナ」と発音するとしているのを見て、著者になぜ「ナ」と発音するのかと いう詳しい説明を求める手紙をかいたのだそうです。 そしたら返事に、考古学者や古代史研究の専門家が「奴」は「ナ」と発音するのだ といっているからそう採用して記述したのだとあったそうです。つまり定説を記し ただけだというわけです。ある先生は「ナ」と発音するということは、辞書にもか いてあるといっておりましたが、これはどうどう巡りになりますよね。学者さんは、 辞書にそう書いているといい、辞書の著者は先生達がそういっているとなるわけです。 >737にこういった日中韓を中心にしたーーーとありますが、中や韓の研究者も 日本の定説にひきずられて同調しているようにみうけられます。 このような経緯から(他にもあるが)、いかに「奴」は「ナ」と発音するといっても、 ふつふつとなぜ「ナ」と発音するのだという反論がでてくるわけです。
760 :
日本@名無史さん :05/03/14 09:38:27
中国では昔から古音の研究はされています。
陸法言が601年に編纂した『切韻』に代表される音系を中古音と呼び、それを基準
にしています。現在使われている中古音の再構音はスウェーデンの中国学者カール
グレンの研究に基づいたものです。
『詩経』など先秦時代の音を上古音と呼び、清朝に盛んに研究されており段玉裁の
『説文解字注』の付録『六書音均表』がよく用いられています。
現在ではさらに拡大してシナ=チベット語族の共通音を探る研究も行われています。
【各国語の漢字音比較】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/gengo/1061625854/l50 このスレより。
>>757 幼稚な発言の中にも実の有る発言も中には有ったぞ。(一大卒)に対する考え方には、正否は別として大変興味深いものを感じたし
彼は、幼稚発言ながらも名札を付けて発言していたことには共感が持てるが
彼も今まで散々非難されて来たのだから、最後ぐらいホローしてやらないと浮かばれないだろう。
ご冥福を祈る。
フォローしなくて、どうせそしらぬ顔で戻ってくるだろ。 プラム相手に暇つぶししたいのか知らんが、 もうすこし高尚なネタを用意してもらいたいということだ。
763 :
サガミハラハラ :05/03/14 13:54:55
>760「説文解字注」や「六書音均表」には「奴」は上古音でなんと発音したと書いてあるのでしょうか。 よろしくお願いいたします。
>>762 戻って来ればいいのだが
今だかつて立証や根拠を書き連ねた内容のレスなどお目にかかったことなど無いが。
大部分の書き込みは、何処かの研究報告、著書からの引用、某教授の代弁、それらを用いての立証や根拠としている。
自ら見つけた新しい発見等にはトンと見付けることができない、
優秀な引用代弁者を是とし、自らの可能性を見出だす者(時に脱線)を非とするか。
脱線者を受け入れてしまうのが2ちゃんねるではないだろうか。
>>764 >脱線者を受け入れてしまうのが2ちゃんねるではないだろうか。
雑談スレと混同しないようにな。
2ちゃんだって、最低限のマナーなりルールはあるだろ。
プラムの話にいちいち乗ってたら、どうなると思う?
ただのネタスレ電波スレになるだろ。
話に乗れとは言ってないぞ。 それに、最近の彼には目立たrule違反やmanner違反などは見掛けないが、 それより仮にも名札付けたヤシを追い出す行為の方がrule違反では無いか。 そのような行為が通ってしまったら、これから名札を付けるヤシ達が集中砲火を恐れ激減してしまうのではないかと言っている。
ROMリエさんとプラムさん応援age
>>767 勘違いしないでほしい。
別にプラムの援護をしているのではないぞ。
それに、和紙は本来ROM専門だからそろそろ退散する。
ROMリエとやらは、 そんなにプラムに同調してたんなら、どうして今までロムってた? プラムとかいうデンパの面白発言と、それを諫めようとする良識派の困惑する姿を ロムって楽しみたかっただけだろう。 違うのなら、君の見解を聞かせてもらおうか。
プラムはROMリエで戻ってきてるじゃないか、お疲れ
771 :
日本@名無史さん :05/03/14 16:29:36
>>759 いきなり上古音の中国語まで調べられなくても、現代中国語の発音を
EXCITE翻訳サイト等の中日辞書で、参考までに
見てみることくらい出来るでしょう?
そうすると、
【那】→ n a
《奴》 → n u
【奴隶どれい】→ n u l i
【匈奴】 → X i o n g n u
とでてきます。
少なくとも現代中国語では「奴」に「ど」とか「と」の音は
でてきません。これだけでも、「奴」が、古代中国語でも
「ど」より「ぬ」に近い発音をされていた可能性の方が高いことが
素人でも推測できますね。
上古音まで裏付けをとらなくてもいいですが、素人なりに、
その位の軽い下調べをした上での主張をしませんか?
それだけでも、全然調べない思いつきとは、一線を画すと思います。
カタカナの「ヌ」が、「奴」を元にしてることも調べればすぐわかる。 日本人も、「奴」を「nu」と読んでいたんだよ。
>>769 あえて釣られよう。
>ROMって楽しみたいだけ。
>>『だけ』ではないが、大いに楽しみたいね、ヌシの書き込みより彼の書き込みの方が『想像力』を掻き立ててくれるぞ
>『良識派』?
>>はて?何ぞや
>デンパ?
>>はて?何ぞや
ヌシのことか?
自分の事言ってりゃ世話無いな
774 :
サガミハラハラ :05/03/14 18:49:15
邪馬台国論争の初期のころは、「奴」をヌと発音していたのです。ところがこの読みは直に破綻しました。 なぜなら、倭人伝は漢音で発音しなければならないのです。ところが奴をヌと発音するのは呉音なのです。 そのことに気づいた人達は、那の津が奴国であることは間違いないとして、当時上古音でなんと発音するか わからないことをいいことにナと発音するとしたのです。
邪馬台国 発音はヤマト国に近い音だろうよ 場所は筑後川流域だろうけどな
宇佐で決まりだろう。 ヒメ大神は、ヒミコしかありえない。
【邪馬壹】(漢音)シャバイツ(呉音)ジャメイチ 【卑弥呼】(漢音)ヒビコ (呉音)ヒミコ
【狗邪韓】(漢音)コウシャカン【對馬】(漢音)タイバ(呉音)ツイメ 【一大】(漢音)イツタイ(呉音)イチダイ 【末盧】(漢音)バツロ(呉音)バチロ 【伊都】(漢音)イト(呉音)イツ 【奴】(漢音)ド(呉音)ヌ 【不彌】(漢音)フウビ(呉音)フミ 【投馬】(漢音)トウバ 【狗奴】(漢音)コウド(呉音)クヌ
もともと、呉音、漢音ってのは、日本国内での区分だわな。 まず呉音とは、6世紀ごろこから六朝仏教とともに伝えられた江南方言を日本語に取り入れたもの。 漢音は、7世紀に隋・唐へ渡った留学生たちが持ち込んだ華北方言がもとだ。 中国語の南北対立は、昔も今も顕著で、倭人伝の世界である魏・西晋朝は、華北系ではある。 しかし、華北方言も江南方言も、それぞれ時代による変遷が大きい。 三世紀の中国人が書いた漢文を読むんだったら、その時代の発音を復元したものを用い、 何百年も後の、そして、日本語に取り込まれた音で読んではならない。
780 :
日本@名無史さん :05/03/15 07:23:46
いずれにせよ『奴』の漢字が『な』の発音で中国から入ってきたことは有り得ないですね。 『な』の読み方は、日本側の事情で独自に付けられた読み方。 未だに辞書には記載無いけど 早い話『こじつけ』だな
781 :
日本@名無史さん :05/03/15 08:29:02
>>774 「奴」は「ナ」ではないと言いながら、
「那の津」は、3世紀では「ヌのつ」と呼ばれていたという可能性は論じないのか?
782 :
日本@名無史さん :05/03/15 10:25:17
邪馬台国論争さえ無ければ『奴』を『ナ』と読むことは無かった。 これ以上議論しても何も出てきやしない。 そもそも、博多湾付近を『奴国』と比定することに無理があったのさ
783 :
サガミハラハラ :05/03/15 12:30:11
那の津が「ねのつ」と訛った可能性はあっても「ぬのつ」と呼ばれた事はないと思います。
784 :
日本@名無史さん :05/03/15 13:35:29
【結論】 博多付近は『那(儺)国』であり、倭人伝に記載されている『奴国』ではない。
785 :
日本@名無史さん :05/03/15 14:03:48
泣きながら必死に強弁してる姿が哀れだなあ。
釣れたぞ
>>785 が釣れた。このネタには食いつく魚が多いぞ。
一匹釣っただけで、大はしゃぎするなよ、厨房。
「婆さんやぁ」 「何ですか爺さん」 「またぁ 魚が掛かったようじゃぁ」 「ほんとによう掛ますなぁ」 「アヤツのネタだと入れ食いじゃぁ」 「爺さん、そろそろ帰りますか」 「そうじゃのー、婆さん」
789 :
サガミハラハラ :05/03/15 18:58:23
となると、奴国が那の津でないなら、奴国はどこか?。というのと、那の津あたりは何と言う国があったのだということになりますよね。 私は奴国は肥前山口だとおもいます。地名にのこっているかという人には、付近に砥川という地名があります。 福岡市の博多湾沿岸は好古都国で南側は伊邪国だと思います。室見川流域は都支(タキ)国で金武、吉武のあるところです。
板違いかもしれませんが質問。 キクリヒメ(くくりひめか?) と ヨモツシコメの話って 詳しい人いませんか?
791 :
日本@名無史さん :05/03/15 19:39:10
杉の木で首をくくって死んだ娘 ヨミの国の女相撲取り
792 :
日本@名無史さん :05/03/15 21:13:52
>>790 さん
詳しくはないけれど。
『くくりひめのかみ』でしょうか?
「くくり」は「ききいれる」が語源で加賀の白山の女神じゃなかったかなー
シンボルマークが六弁の菊で 『日本書紀』にでていたとおもいます。
793 :
日本@名無史さん :05/03/15 21:23:27
ククリサンシマムか?
794 :
日本@名無史さん :05/03/15 21:27:16
『よもつひこめ』(黄泉津醜女) 桃太郎。 伊弉諾命が鬼に向かって桃の実を投げて追い払った。その時『よもつひこめ』と言いながら投げ付けると、よく命中した。
サガミハラハラ氏 那の津が三世紀当時何と言う国名であったか、奴国が何処に有ったかは私には解りません。 ただ、博多湾付近が奴国で無いことがかなり確率が高まったと感じています。
796 :
日本@名無史さん :05/03/15 23:21:43
それで?
サガミハラハラ氏 大和が三世紀当時何と言う国名であったか、大和国が何処に有ったかは私には解りません。 ただ、畿内付近が邪馬台国で無いことがかなり確率が高まったと感じています。
798 :
日本@名無史さん :05/03/16 00:48:51
陳寿が(弁辰狗邪)と(狗邪韓国)を使い分けた意図は何か。
799 :
日本@名無史さん :05/03/16 02:29:26
800 :
800 :05/03/16 02:29:46
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。 1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。) 2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。 3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。) 4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が 尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。 9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。 5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが 邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。 これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった 邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇 および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は 不快である。 6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。 7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。 人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。 朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に 後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。 記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。 これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。 西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。
誰にも嫌われている電波 西都君age
上古音ってのはッ!! たとえば奴がnagとかってのはよォ・・・・! 中国の史書をもとに、カール・グレンが類推したモノじゃねーのォッッ!??
803 :
日本@名無史さん :05/03/16 07:38:33
>802 そうだよ。 詩の韻律とかを中心に中古音から復元を試みたもの。 その手法自体は、かなり合理性があるんじゃないかな。 もっとも、奴國を『なこく』と読みたくないがために、 中国語音韻学は、日本の邪馬台国問題のために成立した学問ではないと言う事実も受入れられない人には、都合が悪いと思うが。 漢文板とか行けば関連スレがあると思うよ。
804 :
日本@名無史さん :05/03/16 09:35:31
福岡の八女には「八女津姫(やめつひめ)」という女王がいたと、景行紀に書いてあるんですが。 八女津(やめつ)=やまと/女王の国 こんな明瞭な事実をどうして誰も認めないのか?
805 :
日本@名無史さん :05/03/16 12:33:18
>>804 さん
誰も無視しているわけじゃないと思う。
『八女津姫』
日本書紀に登場(八世紀)矢部村の八女津姫神社(719年)
どうしても(八世紀)なんだよ
それに、八女は筑紫の君磐井(五〜六世紀)のイメージが残り
資料としてはそちらのほうが古い
間違ってたらスマソ
景行紀は九州王朝側の記録からの盗用っぽいので、慎重な取り扱いが必要。 はるかに古いかもしれない。
807 :
橿原一派 :05/03/16 13:26:25
景行は最初の九州統一王という感じがします。 九州説に立てば、時期の偽りにしか見えません。 806に同意しておきます。
809 :
日本@名無史さん :05/03/16 18:07:59
八女津姫は、磐井より古いんじゃないの? それに、神道の神の系譜にも無いから、間違いなく土着の女王だろ。 他にも、久津姫や神夏磯姫と、九州には女王が多い。 古墳の埋葬者にも女性がいる。 畿内では、伝統的に女王はいない。 箸墓という巨大古墳が、モモソヒメとかいう巫女の墓というのは、ただの伝説だろう。 そもそも畿内王統が男系であることと矛盾する。 むしろ箸墓は、オオクニヌシの墓と考えた方が納得できる。
>>809 私もそう思うけど
『思う』だけで、立証できない。
『八女津姫』はあくまで『日本書紀』に登場する姫で実在かどうかも解らないし、実在としても何時の人か立証出来ない。
811 :
日本@名無史さん :05/03/16 18:51:44
景行天皇十八年(戊子八八)七月丁酉 八女縣に到る。則ち藤山を越え、南のかた粟岬を望みたまふ。 詔して曰はく「其の山の峯岫、重疊りて、且つ美麗しきこと甚なり。 若し、神、其の山に有らんか」と。時に水沼縣主猿大海、奏言すらく 「女神有り。名を八女津媛と曰す。常に山中居す」と。故、八女國の名は、此に由りて起れり。 八女:今の福岡県八女郡・筑後市・八女市 (持統四年(六九〇)九月丁酉 大唐學問僧智宗・義徳・淨願、軍丁筑紫國上陽東S大伴部博麻、 新羅送使大奈末金高訓等に従ひて、還りて筑紫に至る。 持統四年(六九〇)十月乙丑 軍丁筑紫國上陽東S人大伴部博麻に詔して曰く(後略)。) 藤山:福岡県久留米市藤山付近 水沼縣:筑後国三潴郡。今の福岡県三潴郡・大川市 (『日本書紀』巻一第五段一書第三 即ち日神所生の三女神を以て、葦原中國の宇佐嶋に隆居せしむ。 今海北道中に在り。號して道主貴と曰ふ。此、筑紫水沼君等が祭る神、是なり。 景行天皇四年(庚戌七四)二月甲子 次妃襲武媛、國乳別皇子と國背別皇子と豐戸別皇子とを生む。 其れ、兄の國乳別皇子、是は水沼別の始祖なり。)
812 :
日本@名無史さん :05/03/16 19:35:34
>>810 卑弥呼が誰かを特定しなくても、
九州は、女王を立てていた国で、
畿内は、男王を立てていたという習慣の違いは無視できないのでは?
そのへん、考古学者や民俗学者はどう考えてるんだろうね?
813 :
日本@名無史さん :05/03/16 19:49:05
畿内が男王時代に移ったころも、地方ではまだ女王のところもあった。と考えている。 九州に限らず紀伊の名草戸畔・丹敷戸畔・荒河戸畔なども。 古くは倭国添郡の新城戸畔のように畿内でも。 後々も飯豊や春日山田のように、遺制として残った。 推古もかな。八条院は後々過ぎるかw
814 :
日本@名無史さん :05/03/16 21:02:30
>>812 女帝という意味では称徳(孝謙)天皇と卑弥呼の関係が興味深い。
称徳は史上唯一立太子を経ての女帝。
で、皇位継承に関して宇佐八幡(現宮崎県)にご神託を求めている。
宇佐八幡は卑弥呼であるとの説がある比売大神降臨の地であり、
建立したのが神功皇后でこれまた女性。
これは偶然ではあるまい。
815 :
日本@名無史さん :05/03/16 21:13:48
>>812 民俗学研究者達はどうでるか解らないが、すくなくとも考古学研究者達は『習慣』や『推定』などとゆう曖昧な言葉は認めないのではないかな
何と言っても考古学は『物証』だから
816 :
日本@名無史さん :05/03/16 21:47:42
>>814 宇佐神宮創建は古くても欽明天皇まで。
しかも、記紀神話にも出てこない。
延喜式でも、神仏習合として、八幡大神は、八幡大菩薩として登場している。
神名帳には八幡大 菩薩(ぼさつ)宇佐宮(名神大) 比賣神社(名神大) 大帯姫廟神社(名神大)とある。
もともと、応神・神功が祭られていたわけではない。
欽明天皇32年(571) 大神比義が、広幡八幡麻呂の 神託をうけ奉齋した。
広幡八幡麻呂は、渡来系鍛冶集団だが、誉田天皇の系譜を詐称したというのが定説。
817 :
日本@名無史さん :05/03/17 01:16:38
>>814 宇佐神宮は大分県だ
奈良時代には宇佐神宮は伊勢神宮より重視されていたことから
天皇家の祖先があの地域に住んでいたとか
邪馬台国があったとか
いろいろな説がでてきているが
その理由は宇佐神宮のHPを見ればわかる
>奈良の都から遠く離れた宇佐の八幡神が
>なぜこのような晴れがましい待遇(たいぐう)を受けたのでしょうか。
>聖武天皇は国家的大事業として東大寺を建立していました。
>日本は神の国です。
>天皇が沢山の費用を使って仏教寺院を建立すれば、
>貴族からどんな反対の意見が出るかもしれません。
>そんな心配のある時に、
>宇佐の八幡神から
>「われ天神地祇(てんしんちぎ)を率(ひき)い、
>必ず成し奉(たてまつ)る。銅の湯を水となし、
>わが身を草木に交(まじ)えて障(さわ)ることなくなさん」
>という協力の託宣が出されました。
>八幡神は天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、
>東大寺の建立を必ず成功させるというのですから、
>聖武天皇にとって、これほど心強いことはありません。
818 :
日本@名無史さん :05/03/17 01:17:17
817の続き 聖武天皇は各国に国分寺を建てたり 壮大かつ豪華絢爛な東大寺を建てたりして 仏教を国教とする政策をとっていた つまり宇佐神社が伊勢神宮に次ぐ地位を与えられたのは 聖武天皇・天皇家の宗教政策に正当性を与えたからであって 伊勢神宮のように天皇家と深い関係があるからではない (むしろ由緒正しい神社であればあるほど 聖武天皇に反発するだろう)
819 :
日本@名無史さん :05/03/17 10:50:08
820 :
日本@名無史さん :05/03/17 10:57:35
渡来系の技術集団・秦王国があったから。
宇佐の辛島氏(朝鮮系)との絡みはないのでしょうか?
そろそろこのスレも、死に体ムードの感じですな。 「本田」も「太」も「プラム」も消えてしまった。 周りを見れば「しばらく」もいない、 この頃「鴨ネギ」が少し頑張っているようだが コテハン消えて名無しばかりの掲示板。 まあ、何処のスレも変わらんがの
823 :
日本@名無史さん :05/03/18 00:22:31
成熟したってことだろう。 考古学的に考えたら、邪馬台国は、畿内でしかありえないし。
色々とレスありがとうございます。 やはりオンナの神様の名前みたいですね。 >>『くくりひめのかみ』でしょうか? >>「くくり」は「ききいれる」が語源で加賀の白山の女神じゃなかったかなー >>シンボルマークが六弁の菊で 『日本書紀』にでていたとおもいます。 すごい参考になります。
『よもつひこめ』(黄泉津醜女) これはイザナギノミコトの関係でしたっけ? おれの記憶だと キクリヒメが黄泉の国に使いに行って ヨモツシコメに追いかけられる って 違いますかね? ククリヒメは 番長皿屋敷 も同じ名前ですが なにか関係あるのかな?
キクリヒメが 聞き入れるという意味なら 吉兆かな?
827 :
日本@名無史さん :05/03/18 00:40:54
>>824-826 さん
申し訳ない。
俺の厨房頭脳ではこれが限界です。
お役にたてなくてすみません。
多分板違いだと思います。 スマソでした
神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十月辛酉 天皇親ら諸皇子を帥て舟師東征す。(中略)行きて筑紫國菟狹〈宇佐〉に至る。 時に菟狹國造の祖、號を菟狹津彦・菟狹津媛と曰ふものあり。 乃ち菟狹の川上に、一柱騰宮を造りて、饗し奉る。 〈一柱騰宮。此を阿斯毘苔徒鞅餓離能瀰椰と云ふ〉 この足一つ上がり宮こそ、宇佐神宮の初めなれ。
投馬=邪馬投国=大和国 常識だよ
常識の前の「非」が抜けてるよ
832 :
日本@名無史さん :05/03/18 08:11:19
意味深なタイミングで出現したお客様が帰られたところで『奴國』問題の総括。 『奴國』の表記発生の理由を考える上で、まずは、大前提となる仮定として 1 華人が倭人のコトバを聴いて音の近い字をあてがった。 2 倭人が自称として用いた文字をそのまま記録した。 3 表音では無く、「良質な生口を献納する」国などの意味で名付けられた。 この内1については、華北方言上古音の復元が、検証課題となり、 2については、1の課題に加えて、倭人の漢字理解が 3については、命名事由に係わる文献的裏付けが(欲しいところでしょうが不可能)求められます。 スレの流れでは1を中心に上古音の復元問題が焦点となっています。
833 :
日本@名無史さん :05/03/18 10:07:35
>>832 なんで、その1,2,3しか選択肢が無いのだ?
魏志倭人伝に、「まつろ」「いと」「な」「ふみ」と読める地名が、
近隣に存在し、かつ、
現在では「松浦」「糸」「那の津」「宇美・穂波」という地名が、
近隣に存在している。
これらを偶然と考えて「奴国」だけがどこか遠くの別の場所にあったと考えるのは、
確率的にも考えられない。
それを認めると、地名に基づく議論が出来なくなり、
邪馬台国は沖縄でもフィリピンでもエジプトでもどこでもよくなる。
ほぼ確定した部分に噛み付くのは、幼児の反抗期のようなものであって、
自分の稚拙さが原因で、理解力できない事柄への苛立ちを、
外部への攻撃という形で転化してるだけにすぎない。
そういう自覚があるのかどうなのか。
834 :
日本@名無史さん :05/03/18 10:17:30
>>833 それらの地名は(那の津は除く)どう遡っても八世紀まで
空白の五百年をどお埋める?
どんなに力説したところで、 邪馬台国は畿内にないと困るから、 都合の悪いことは放置なんだよ
836 :
日本@名無史さん :05/03/18 10:38:40
なるほど 立場が悪くなると“罵る”やり方だね。 陰湿の極みだな
確かに 俺も畿内説の陰湿さには辟易の極みだ
838 :
日本@名無史さん :05/03/18 11:54:02
>>833 >地名に基ずく議論
>>對馬の様に地理的な要因でも揃わない限り?マークは何時までも付き纏う。
>確率的に
>>歴史とは、過去に起きた出来事
確率云々で左右されることではない。
と、君達(良識派?)諸君が前に俺に言った事だよ
駄目じゃない。
あ〜言えばこ〜言うで、 絶対に切り替えせるんだから、不毛なんだよ もうそれぞれが良識と常識に基づいて推測しろとしか言えない
>833 マア、餅突け。 煽りに乗せられやすい奴だな。 アンタの言わんとするところは、俺が掲げた仮定の1だろ。 『なこく』と読まないと言う連中からは、議論をはぐらかすようなレスばかりで まともな反証も、どう読むのかとの意見の提示もないんだぞw
841 :
日本@名無史さん :05/03/18 14:03:50
『奴』は、漢音で(ヌ)呉音で(ド)とし、日本で区分された。 例え上古おんで(ナ)に近い発音をしていても それが当時日本に伝わり基になって『奴の津』が『那の津』になった事の証明にはならないだろう。
842 :
日本@名無史さん :05/03/18 14:37:01
古代の博多付近は倭国の表玄関 その表玄関を 倭人伝の伊都国と不彌国の間にただ一度だけ簡単に紹介された『奴国』とするほうがピント外れ 倭奴国は歴史的に立体感を感じるが 奴国にはそれがない。 倭奴国=博多付近としたほうが奴国=博多付近よりしっくりくる
843 :
日本@名無史さん :05/03/18 14:39:15
それにしても、倭人伝って魏誌にしか書かれていないのか? 呉誌には出てこないのか?
844 :
日本@名無史さん :05/03/18 15:06:16
>841 ウーン。 とても、ピントの外れたレスで困惑しますね。 あなたは、倭人伝の「奴國」と言う文字表記が、どう言う理由で作られたか考えていますか? 例えば、仮定の1は「奴國」と言う表記は、倭人側の表音【な】を聴いた当時の華人が、その音に近い文字を当てたんだよ(仮定の話だけどな)。 だから、この場合、倭人が「な」と呼ぶ地名が先ずあって、それに対して中国側が「奴國」と言う表記を決めたわけだ。 あなたが、出した検証もどきの例は、これと逆に「奴國」と言う表記が先に有って、 それを倭人が、どう読むか(しかも、8世紀や9世紀の読み方で)って言う理屈だ。 そんな見当違いも甚だしい屁理屈で論破した気になっちまうのは、 たとえ春厨クンだったとしても、とても恥ずかしいことだよ。
846 :
日本@名無史さん :05/03/18 19:10:38
馬山市議会、「対馬の日」条例案を可決 慶尚(キョンサン)南道・馬山(マサン)市議会が18日、日本の島根県議会の「竹島の日」条例制定に対抗し、「対馬の日」条例を制定、国内外で波紋が予想される。 馬山市議会は同日午後、第109回臨時会本会議を開き「対馬の日条例」案を上程、在籍議員30人のうち出席議員29人全員が賛成し可決した。 同日制定された条例は、「対馬が韓国領土であることを内外に刻印させ、領有権を確保することを目的にし、朝鮮朝の世宗(セジョン)の時に 李従茂(イ・ジョンム)将軍が対馬征伐のため、馬山浦を出発した6月19日を『対馬の日』にする」という内容を含んでいる。 チョソン・ドットコム
847 :
サガミハラハラ :05/03/18 19:17:02
>833 ほぼ確定した部分に噛みつくのは 確定しているのは、マツロ国だけです。イト国、ナ国、フミ国が確定していると、 考えたことが、邪馬台国位置論の最大の障害であったのです。
848 :
サガミハラハラ :05/03/18 19:36:23
ところで「奴」は何と発音していたのかについて、中国の資料では何と発音されていたのかということが述べられていない。 こんな本があるとかこんな研究があるとかは聞いているが、この資料にこう書いているという解答がない。 倭人伝等については、ここにこう書いてあるとか、時には写真などで明示したりするのに、この件に関しては、 この件に関しては、全くといってみられない。 つまるところ、中国側の資料において、上古音でなんと発音していたかはわからないのであろう。あったら明示して欲しい。
849 :
日本@名無史さん :05/03/18 20:02:13
ひとりで遊んでろ。
852 :
日本@名無史さん :05/03/18 21:55:19
そもそも、サガミハラハラは、>718で『奴』は『と』と読む、と電波しているが、 何故『と』読めるのか、そう読んだ実例があるのか等、自説について一切説明が無い。 もっとも、誰も『回答』など求めていないし、単なる一時の思いつきなので、 言った本人も忘れてるに違いないがな。
学研の漢和大辞典は4400円で買えるな。
たいがいの古書店でもっと安く買える
855 :
日本@名無史さん :05/03/18 22:14:43
>>845 もしかしたら
貴方の仮説が正しいのかもしれない。
しかし、あくまでも『かもしれない』の域をこえない
倭の人が発声した音を華人が聞き『奴』に当て嵌めた
華人が『奴』を倭の国に当て嵌め それを後の人が『な』と解釈した。
どちらも、確定できる根拠が無いことに変わり無い。
まるで意味が違うと言うなら
まず、根拠を示してほしい君達の得意な『根拠』だ。
856 :
日本@名無史さん :05/03/18 22:31:58
『奴』は、(ナ)でも(ヌ)でも(ド)でもない。 『奴』=(奴)と読む
857 :
845 :05/03/18 22:54:30
>855 おいおい 「確定できる根拠」は、ともかく「仮説の論拠」なら示してるぞ。 松浦に近く、二万戸規模だと言う領域に見合う一体性のあるのか遺蹟群、後世「な」と呼ばれた地・・・ それと、アナタに対するレスは、別に国名議論を振ったもんじゃないよ。 奴國の話は、単なる例えだ。 アナタに伝えようとしたことは、ものの考えただよ。 相手が言ってもいないことを理由にひとりよがりしててもしょうがないだろう、ってことだ。 ところで、アナタは「奴國」の表記の由来について何も考えがないのかな?
どこまで言っても並行線で、交わることは絶対ないからな
859 :
日本@名無史さん :05/03/18 23:19:11
>>857 『奴国』二万戸
貴方は、この戸数をまともに信じているのでしょうか?
そして、その戸数に見合う人口と規模は?
860 :
日本@名無史さん :05/03/18 23:42:31
二万の戸数となると、約六万〜十万戸の住居跡を残す遺跡群だ そんなとこ有るのか?
861 :
日本@名無史さん :05/03/19 00:59:05
3世紀の地名が7世紀に変わっていたということは、 九州以外の別の勢力に九州が支配されたということだな。 北九州は、畿内大和の地名で塗り替えられてるから、 「奴国」が「那の津」でないとしても納得だ。
中国の史書は日本書紀の時代には入ってきていたとおもわれるが、 その史書をもとに、その時代の発音で、奴国を捏造したらヌ国かドゥ国とかにするだろう。 ナの津はヌの津にでもなってるのが普通。もし唐代の発音をモトにして、上古音とかの研究もしてない場合。
畿内に邪馬台国がないと困るんです!!
>>860 奴国をおもいっきり広く考えたら?ありえるんじゃないかな。
福岡から佐賀あたりまでふくめた大国なら、別に巨大遺跡なんかなくても、
>>860 でなくてもいいんだが
スマソ 教えてくれ。なぜ2万戸だと住居数は6〜10万戸になるの?
2万戸じゃダメなの?
866 :
日本@名無史さん :05/03/19 01:20:17
>>864 奴国がそれほどでかかったなら、
そこからさらに遠方にあり人口の大きい国として書かれてる邪馬台国は、
畿内でしか考えられないな。
>>865 同時期に建っていたのが2万なら、建て替えも考慮すると数倍になるってことだろ。
細かい数字の根拠はしらん。
>866 邪馬台国は女王・卑弥呼が居る形式的な首都であって、 人口や規模自体は奴国の方が大きいんだから
比恵那珂と須玖岡本を中心とした那珂川流域だけじや足りないだろうね。 となりの遠賀川水系は、文化的には、少し異質だからなあ。 でも、九州でこれらに匹敵する遺蹟群は無いよ。
870 :
日本@名無史さん :05/03/19 01:34:38
宇佐平野の駅館川流域からはボチボチ出てるから、 ここら辺が自然だろうな
872 :
日本@名無史さん :05/03/19 01:45:09
>870 ただ、六万から十万人と書くべきところを間違えただけだろ。
873 :
日本@名無史さん :05/03/19 06:21:54
874 :
日本@名無史さん :05/03/19 06:33:59
875 :
日本@名無史さん :05/03/19 07:22:02
>>860 だけど 書き間違いじゃ無いよ
>>867 の解説どおりだよ
倭人伝によると、隣の伊都と不彌まで百里 かなり狭い範囲だ。
そこにリアルタイムで二万戸?
当時は高層住宅じゃなく平屋が殆ど 遺跡としての住居跡だと十万戸前後の住宅跡 考えられんよ。
考古学無視と言われたおれが言うのも変だが
考古学の初歩だよ。
876 :
サガミハラハラ :05/03/19 08:13:18
ほらほら、相変わらずこんな本があるとか、調べてみたらとかを繰り返している。 私が聞いていることに何故直接答えないのでしょうか。調べて見てというと時間もかかるし、あきらめるだろうとか、 そのうちうやむやになってしまうだろうとの考えからなのでしょうか。 「奴」をト又はドと発音することについては、かなり昔から漢音ではそう発音すると学んでました。(近頃は違うのですか) 角川の中漢和辞典にも漢音ト、呉音ヌとでています。匈奴はキョウドと発音すると学びました。 (そういえば近頃キョウナとふってる本があったっけ) 奴とは国や戸口を表すに使われた字(当て字をしたのは中国人)です。倭面土国の土と同じで、本来なら倭面奴国となるべき でした。また狗奴国もクト国と読めば、宇土半島(熊本県北部)の宇土がそれにあたります。 倭人伝という書物に奴国への行程がしるされていますが、それによれば奴国は肥前山口あたりになり、 ナという地名はありません砥川というトのついた地名はあります。 以上からも奴はト、ドと上古音では発音すると考えます。
877 :
日本@名無史さん :05/03/19 10:33:10
『奴』の解釈については、サガミハラハラ氏に同意します。 確かに、何かを示唆する目的の為に『奴』を用いたとおもわれる。 東夷伝の中で『奴』を用いた国を数えると 韓伝(1) 倭人伝(9) 片寄りが表れる
878 :
日本@名無史さん :05/03/19 16:36:13
>876 いろんな人が、サイトを提示して、既に何度も答えるんじゃないの。 もしかして、繁体フォントの無料サイトとかを期待してるのかな? そんなサイトは、知らない(SINICAには無い)ので図書館で見てくれ。 アナタが、部屋から出れない体質の人なら、スマンが、学研のウェブに行けば一件250円で閲覧はできる。 それに藤堂版大漢和辞典の上古音は、中華書局版の古今漢字音表と概ね一致していると思うけどね。 何れにしろ、邪馬台国研究家の思惑で『奴』の上古音が推定されたわけじゃないことは認めてくれよ。 規則性の強い中国語で一つの文字の読みを変えると言うことは、 同じ音素を他の数千の文字の読みも変えることなんだから。 ところで、アナタが提示した角川の中辞典での『漢音』の表記、『と』と言うヤツ。 アナタが持ってるのは第何刷?どういう単語の読みとして掲載されているのか? とても興味があるので、教えて欲しいな。
まあ、四の五の言う前に、藤堂買ってきて 巻末の『中国の文字とことば』っていう解説(?)を読むのが一番かな。 その前に、岩波新書の『漢字と中国人』を読んでおくといいかも。
880 :
日本@名無史さん :05/03/19 18:16:24
サガミハラハラ氏は、中学レベルの国語の話をしてるんだろ。 漢音とか呉音とか言うが、3世紀の極東や朝鮮半島で どういう言語圏がどういう地域に広まっていたか、 調べたことも思いついたこともないんだろう。
881 :
日本@名無史さん :05/03/19 19:09:47
何故かこうなる。 今度のターゲットは「サガミハラハラ」氏 コテハン潰しの常連達が、何処からともなく湧いてくる。 ヤダヤダ
特にコテハンをターゲットにしてるつもりはないんだけど、 どういうわけかコテハンの人っておかしなことを言う人が多いから、 自然とそう見えちゃうのかな。
883 :
日本@名無史さん :05/03/19 19:37:55
>>877 当時中国東北部モンゴルで強勢を誇っていた匈奴も
漢人から「奴」の字を当てられている。
ちなみに前漢は、実は匈奴の冒頓単于に敗北して、
毎年匈奴に物品を贈答していた。
つまり自分が献上している上の相手でも、該当する音があれば、
「奴」の卑字を当てて、溜飲を下げるのが漢人。
たまたま当時の倭国の地名音に「奴」という漢字音を当てはめる
ことが出来る地名が沢山あったというのが「奴」が多い理由。
まあ倭人は当時から「事なかれ主義」で、戦争するより
生口を送った時もあるが、
同時に韓より勢力が大きかった事実も見落とせない。
(倭は57年の漢からの金印の時点で「委奴国王」。
つまり委奴国だけで「国」のサイズ。
韓は同時代の44年でも「韓邑君」。
つまり「邑=村」のサイズしかなかった。)
885 :
日本@名無史さん :05/03/19 19:46:25
ところで匈奴と倭奴は、関係があったという事はないかな? 日本語で「ふるさと」を意味する「きょうど(郷土)」が、 「匈奴(きょうど)」と音が同じだ。 妄想だけど、日本人のDNAが、大陸東北部の 胡族と共通性が高い、という話は説明できる。 匈奴は場所柄、鮮卑や扶余とも混血していったんだよね?
886 :
日本@名無史さん :05/03/19 20:45:28
>>883 遠く離れた東の国
なにがしかの事情にて韓よりも大きく見せる
そのような意図は無かったのかな?
887 :
日本@名無史さん :05/03/19 20:56:49
>881 サガミハラハラがターゲットになったのは、何の根拠も示せないくせに 他説を「でっちあげだ」などと中傷し、反論されてもとぼけ続けて居座る態度が原因だろう。 こう言う手合いは、ここに意見交換を楽しむために来ているわけじゃない。 普通の時期ならスルーも有りだが、今は春厨も多い、締めるところは締めさせてもらう。
888 :
日本@名無史さん :05/03/19 21:14:19
>>887 サガミハラハラ氏はコテハン付けてカキコしているから特定出来るが
無名のワンポイントヤシ達のほうが、ずーとたち悪いと思うがな
奴らのカキコに『根拠らしい根拠』など微塵もない。
まだプラムの方がマトモだ(暴走するが)、あの手のワンポイントヤシを締めるのが先だと思うよ。
889 :
日本@名無史さん :05/03/19 22:06:51
>>888 コテハンだろうが、名無しだろうが同じことだ。
890 :
日本@名無史さん :05/03/19 22:25:27
『根拠らしい根拠』と、言えば 最近流行りの(紀・記)から探る古代史 あれこそ『根拠』示せないんじゃないか?
>>888 そんなこと言いながら、
プラムを追い出したの藻前だったりしてな
892 :
日本@名無史さん :05/03/19 23:25:29
プラムプラムと煩いやつだな。あんなデンパと友達になりたいのか?
いいやつだと思うよ、プラム氏。俺は好きだね。サガミハラハラ氏も。
894 :
日本@名無史さん :05/03/19 23:43:57
雑談がしたかったら、ラウンジにでも逝けよ。
895 :
日本@名無史さん :05/03/20 08:10:27
どうしてプラムやサガミを、そんなに嫌う? 何か怨みでもあるのか 彼等はそれなりスレを活性化させているし 質問にも答えている 正直な所、彼等がネタを振り撒かなければスレが凍結した状態が多々有ったし けっして他所のスレと比べても、彼等をデンパとは呼べない。 君は、高レベルな議論を望んでいるようだが 望むだけで、君からネタふりはしないのかい。 ここには、初級レベルのヤシ達も大勢いる 大勢のヤシが参加出来るネタも必要じゃないか?
>>895 おまえな
邪馬台国スレは2chができた頃から延々と続いてるスレなんだよ
俺が最初に見たのは1999年だよ、あの頃は過去ログ全て残ってたので
楽しみながら過去ログ全部読んでた。
別にバカにネタ振ってもらわなくても邪馬台国論争は延々と続く
レベルが高ければ高いほど白熱するのが邪馬台国議論
バカの相手させられると逆にあほらしくて過疎化するよ
とりあえず二匹のバカは消えろ。
897 :
日本@名無史さん :05/03/20 09:06:37
>>894 閉鎖的な高等議論がお望みならば
別スレ(畿内閉鎖的スレ)へ案内しようか?
このスレでは君には物足りないだろう
獲物(厨房ヤシ、コテハンヤシ)が来るまでじっと待っていてもしかたのないこと。でも、その獲物がいなくなると一番困るのも君だよね
君の博識は十分理解した。君の頭脳は天才的だ。
君の意見は総て正しい。
これでいいだろう。
898 :
太国 :05/03/20 09:35:23
畿内に卑弥呼の国があたというならば、当然記紀に大々的に大和朝廷の隣接国として の記事が掲載されるはずだ。それが無い、記紀という日本の古書に全くといっていい くらい何も書かれておらず、皮肉にも日本のでない外国の古書の倭人伝に詳細に 具体的に卑弥呼の国の状況が載っている。これはどういう事を意味するものなのか? 女王の国は朝廷近隣の国でなく、そこから遠隔である九州にあったということを 物語っているのだ。もし、それでも畿内だと言うのならば、この女王の国は2chで いうコテハン・ネームのない無名で畿内存在にした国之御名無しの国ということに なる。無名であった為としてこの女王国を無記述とするものなのか? そんな筈はない。そうでも無名コテハン国の状況を在る限りは記紀は具体的に記載 するに違いない。畿内説者よ。女王国は無記述の記紀の「無コテハン国」なのか?
899 :
太国 :05/03/20 09:37:35
900 :
日本@名無史さん :05/03/20 10:09:51
>バカの相手させられると逆にあほらしくて過疎化するよ 匿名の掲示板ではありえないこと。 あほらしいなら参加しなければいいだけ。 低レベルの議論が展開していようが、気にすることは無い。 それを批判するのは、あなたの自慰行為でしかない。 反論できるかな?
901 :
900 :05/03/20 10:12:35
すみません。 最後の一文は撤回します
902 :
日本@名無史さん :05/03/20 10:25:58
現在、大阪⇔博多は新幹線で4時間弱 それでも遠い場所だ。 言葉も、生活習慣も違うよその土地 ましてや三世紀 感覚的には東京⇔昭和基地情報は 東京⇔アマゾン奥地 じゃないかな
>>896 おまえな、相変わらず何様気取りだ
1999年からレス読んでるからどうした?
古参気取りの日本史板の長老気取りか?あ?
おまえが楽しみながら過去ログ全部読んでた?そんなのおれには知ったこっちゃねえよ。
誰かに消えろとかいう資格は、おまえには全くねえよ。
ここはいろんな人が集う開かれた掲示板なんだよ。
この概念が理解できなんならしょうがねえな
904 :
太国 :05/03/20 10:46:02
畿内説が成立するには、女王国が記紀に記載されていないのだから、 畿内の前人未到の山奥の南米アマゾンのような秘境に人的UMA卑弥呼の国が あったということになる。そこは畿内なる周辺という外界と隔絶した奥地 にあるため、真近の同じ畿内へ情報がパーフェクトに届き難く、この為に 記紀に女王国の情報が登載されなかったんだろう、とこういうことに 論が行き着く。そして、もっと遠い中国にその情報が届いた一応合理的考察 として、伊賀甲賀は近隣だから、何らかの利害のための秘匿としてそこの 忍びの者を当時存在していたと仮定して、その者を呼び出して、大和朝廷他 周囲の民に絶対分からぬよう頼んで遠行させ、中国渡海をさせ、もって その情報から倭人伝に女王国の記述がなされたか、もしくは女UMA卑弥呼か その取り巻きが強健の伝書鳩またはこれこそオーバーながら超飛来可能な UMAのプテラノドン類似鳥によって文書を中国まで飛行により到達させ、 これにて朝廷とその住民に分からぬまま中国の倭人伝に掲載させる事が 出来えた、ということになって来る。そんな事が実際ありえようか? これは極めて無理困難であるに違いない。即ち畿内説は成立しえないのだ。
905 :
日本@名無史さん :05/03/20 10:47:41
>>903 言ったって無理だよ、話の解る相手じゃ無い
このスレで自分の知識高さを披露することが奴の目的だから
本当のデンパは奴さ
他のヤシを煽り、デンパ扱いにし
デンパを退治する正義のヒーロー気取り、だから自分は常にウルトラマンじゃなければならないのさ
奴は最初から登場しない
場を見計らって登場し、正義のヒーローウルトラマンになる。
906 :
日本@名無史さん :05/03/20 11:05:44
でも、そろそろ奴にもエンディングを知らせる使者が忍び寄ってくるだろう。 奴が最も嫌う暴走タイプ (しばらく・プラム・鴨ネギ…ETC…) が、今年に入って暴走しはじめた。 そう。 彼等が擬似ウルトラマンを倒す『ゼットン』だ
たったさっき、 邪馬台国およびその支配下一帯で、地震があったよ これだけハッキリ感じられる地震は近年なかった。恐かった。余震に気をつけて
908 :
日本@名無史さん :05/03/20 11:53:49
ここ何のスレ?
909 :
日本@名無史さん :05/03/20 12:02:37
>>898 記紀に邪馬台国の記述が無いのは、畿内王権と九州王権が別れて存在し、
畿内は九州の情勢を知らなかったということだね?
つまり、九州王朝の存在は認めるが、
応神天皇と、記紀製作に関わった継体天皇一族は、
九州王朝とは関係ないという説だね?
910 :
日本@名無史さん :05/03/20 12:06:57
スレ主さん そろそろこのスレも、残り僅かとなりましたが 個人的には『魏志倭人伝』は邪馬壹国研究の基本書 ぜひともPART16を希望します。
911 :
太国 :05/03/20 12:26:30
>>303 だいたいそのとおり。強い関係は無いと考察します。
九州近隣の皆様の安寧をお祈りします。地震はすごかったでしょう?
912 :
太国 :05/03/20 12:29:22
訂正 >911では × >]303
○
>>909
913 :
日本@名無史さん :05/03/20 12:41:48
>>911 じゃ、九州王朝=邪馬台国は、神功・応神のクマソ征伐で滅ぼされたわけだよね?
九州王朝が生き残ってるわけないよね?
倭の五王は、畿内王権ということになるね?
記紀に朝貢の記載や、大規模な朝鮮出兵の話が無いのはなぜ?
914 :
太国 :05/03/20 12:51:07
>>909 あわてていて、あいすみません。さて、
畿内王権と九州王権が別れておらず、一致するものだとすれば、
女王国の卑弥呼姫は神功皇后でなければ、ま〜ずモモソ姫以外本人に該当する女性
は見当たらない。神功皇后が卑弥呼姫ならば、少なくともワカタラシヒコとか
タラシナカツヒコとかホムダワケノミコトの系列の説明が倭人伝になければ変で
あり、物足りなさすぎるが、これの記載が伝にはない。
天皇級の人物の名が載っていないということは、卑弥呼姫は神功皇后ではないと
いうことの結論に達する。記紀でのモモソヒメの記述では地味すぎてこれも
物足りない。イメージも合わない気がする。このことは推理作家の高木氏もこれの
小説の中でそう説明している。
これらのことはどういう意味を有するのか?先のとおり、系列にて人物の一致が
どうも少なすぎると強く感じる。ということは、大和朝廷は女王国とは一致しない
別物だという考えに至るのである。
なれば、両者は別々の地域に位置していたことになるから、
>>904 で説明した
ように、女王国は九州に存在したのだという結論に至るのだ。
915 :
太国 :05/03/20 12:58:24
>>913 記紀のどこに邪馬台国が滅ぼされた記述があるのか?
倭の五王は畿内王権ではない。さらにだ邪馬壹国の王権でもない。
つまりだ、大和皇朝と女王国の王朝と倭の五王朝とはオール別物
であり、古代の一時期この三者は別々の地域に3つ並行して存在
していたのが正解なのだ。
916 :
日本@名無史さん :05/03/20 13:06:05
917 :
太国 :05/03/20 13:17:06
>>926 否、残り二者は大陸の半島にあったのではない。当然日本の中だ。
918 :
日本@名無史さん :05/03/20 13:43:59
他に有るのかな? 対馬海峡及び玄界灘の制海権は邪馬壹国が抑えているだろうから 残るは、比較的航海技術が進歩してると思われる、琉球か クマソぐらいしか思い付かん。
919 :
太国 :05/03/20 14:02:19
倭の五王朝のことか? これが最も俺の研究の中で難しい箇所だ。琉球ではないと思う。 江戸幕府、東京所在の現政府、それから畿内の大和皇朝、平安京平城京さらに 鎌倉幕府の位置から考察して、長い王権等は大平野にある。そうでなければ 盆地なども考えられよう。それが読めれば女王国の位置解明にある程度の特定 が可能になって来よう。倭の五王朝はまあ應神朝頃から雄略清寧顕宗朝くらいまで で滅んだことから、後世の鎌倉幕府の位置が参考にはなろう。 とにかく、五王朝は大和朝廷からかなり遠隔にあったことは九州王朝の如く である。地味な目立たない一回り狭い領域に存在したものと考察している。
920 :
日本@名無史さん :05/03/20 16:18:19
>>919 九州王朝と邪馬台国が並立で存在していたのか。
九州王朝はクマソだと考えているのだな?
玄界灘は、邪馬台国が押さえている。
神功皇后は、クマソ(九州王朝)征伐に同行し、朝鮮半島に出兵したが、
邪馬台国はどこに消えたんだ?
921 :
日本@名無史さん :05/03/20 18:13:08
(文帝紀) 元嘉十五年夏四月…武部王・阿南国・高麗国・倭国・扶南国・林邑国並遣使献方物 倭国が高麗国と扶南国の間にあるけど 別に意味は無いのかな?
923 :
太国 :05/03/20 19:41:04
>>920 記紀にあるべき記述の邪馬壹国はどこへ消えたんだ?
神武の東征で、邪馬台国ごと畿内大和に移ったんじゃねーの
925 :
太国 :05/03/20 19:50:04
>>920 神功皇后の通過した九州のその地域には邪馬壹国はなかったことになる。
だから、通過していない九州の土地に、厳に女王国が存在していたということが
完璧な上で必然となって来るのだ。
当然、神功皇后は卑弥呼姫に非ず。
926 :
太国 :05/03/20 19:51:21
じゃあまず、いきなり畿内に移ったんじゃなくて、 九州内でいくつかの地を転々とした後に、畿内に行った
928 :
太国 :05/03/20 20:03:54
邪馬壹国は畿内に移っちゃいないよ。
929 :
日本@名無史さん :05/03/20 20:09:13
>>925 神功皇后がクマソ征伐に同行して訪れた北九州は、
邪馬台国でもなく、倭の五王につながる九州王朝でもないわけか。
すると、南九州には、邪馬台国と、その南にクナ国があり、
さらに、九州王朝があったのか。それとも九州王朝=クナ国なのか?
大雑把でいいから、九州の中がどうなっていたのか説明求む。
930 :
太国 :05/03/20 20:17:42
まだそこまでは断定は出来にくいが、まあ『阿蘇』あたりかも知れないぞ。 これは『邪馬壹国』の話だ。倭の五王朝は全然別だ。貴殿はごっちゃ煮か? 『阿蘇』の理由は秘密でこれ以上公開できにくい。 ここまで教えれば、参考にしてあとは自分で研究しろ。
931 :
日本@名無史さん :05/03/20 20:21:59
>>930 >ここまで教えれば、参考にしてあとは自分で研究しろ。
参考になる以前に、言ってることがさっぱりわからん。
邪馬台国・クナ国・倭の五王・九州王朝は、
おまえの頭の中ではどう繋がってるんだ?
すこしは辻褄の合う説にまとめてから発表しろ。
太国がいい夢みてるんだから、 もうこれ以上は聞くまいw
933 :
太国 :05/03/20 20:36:42
0 倭 四国 1 壹 九州 2 天 畿内→大和朝廷 3 東京→現在 4 青森→これは2〜3000年後の首都の場所だ。年数は推定。 5 札幌→これは流動的、首都は北海道のある地域かもしれぬ。 6 外国→亜細亜あたりのある地域へ移る。万の年数を経るだろう。 ここで1壹と2(仁)は崇神〜文武世まで並行に行くのだ。 残りの1は神武以前だ、日の女神誕生から1の時期は始まる。 貴殿はよく食いついて質問してきた。これは最后の回答だ。
邪馬台国自体が 唐津湾〜博多湾〜菊池あたり〜大宰府あたり に遷都してるんじゃないのか?
935 :
日本@名無史さん :05/03/20 20:44:56
邪馬壹国は徐々に勢力を縮小 やがて半島南岸の一部に
半島は663年に完全撤収したでしょ
937 :
日本@名無史さん :05/03/20 22:27:28
>太国 叩かれまくったせいか、ちょっとキレ気味の君に一言。 君はたぶん一生懸命なのだろうけど、結論の連呼に終始するあまりに 持説の根拠や組み立ての過程がすっぽりと抜けているんだ。 君の書き込みは一方通行すぎて、ツッコミも同意さえも読み手は入れられない。 名無しに戻っていまだに書き込むプラムなどもそうだったけど 意見のやり取りを望まないのなら、ブログでも借りて心ゆくまでやればいい。 言っておくが、コテハンだから責められているのじゃないぞ。 かつて関連スレで見事な論説を展開した豊前説氏や老教授氏などは 常に読み手との双方向を心掛けていたように思う。 だからこそ彼らは多大な支持を受け、その復活を待ち望むものも多い。 実際両者が書き込んでいた時期は、そこらの小説の何倍も面白かった。 彼らのごとく圧倒的な知識は、ハナから望むべくもないが せめて順序立てて説明できる程度の文章力と 多少なりとも納得できる論拠の提出を行うべきではないか。 君の書き込みが単なる落書きになるのか、それとも支持者を集めるのかは君次第だ。
938 :
太国 :05/03/20 22:37:42
ぷぷぷ!だいぶ夜もふけてきたので、長話はやめるが、 そう言っておれの回答を引き出そうというのだろう。 ずいぶんサービスして教えてやったのに、まだそんな甘ったれたこと を抜かすのか?別におれはきれてはいない。あとは秘中の秘。 これ以上、そんな簡単に理屈を教えられるか?どうしてかは自分で考えろ。
939 :
日本@名無史さん :05/03/20 22:53:45
誰にでも、「俺は古代史のすごい秘密を知った!」と舞い上がることがある。 勉強を重ねると勘違いだったことに気がついて冷める。
>>938 自説を普通の人が読んで分かるように説明する気がないなら撤退されたい
941 :
日本@名無史さん :05/03/20 22:58:43
>あとは秘中の秘 >そんな簡単に理屈を教えられるか すごい!すごすぎるよ!その根拠なき自信が! でも大丈夫、あんたの理屈なんて誰も参考にしないから安心してくれ。 つーか、教えたくないのなら何故ネットで世界中にバラすのだろうか? どうやら破綻しているのは文章でも持説でもなく、彼の頭の中らしいね。
コテなんだから、NG登録すりゃいいじゃん・・・
倭の五王朝ってなんだ?
944 :
日本@名無史さん :05/03/20 23:50:49
>>943 ハッキリ言えば、日本の王朝じゃない。
半島での覇権争い。
5つか・・・ 平家、源氏、足利、徳川・・・一つたりないな・・・・織田を入れとくか。
九州が衰退した4世紀あたりで遷都したんでは? 王権なんかは大和側にゆだねて、領土だけひろげる画策で。
948 :
日巫女 :05/03/21 00:51:26
クマソは球磨(熊本)・曽於(鹿児島)を指す言葉よね、 ここは平定すべき敵国(隣国)なの。 紀記では、邪馬台国のあった年代に神功皇后をあてているけど 実際には彼女はこの年代には存在しないのよ。 紀記の天皇在位年数は「陰陽五行讖緯説」の思想に基づいて綿密に 編まれたものだからこの年代を邪馬台国発見に当て嵌めるのは無理。 倭の五王は5世紀のお話でスレ違いもいいとこ・・ それと、「倭人伝」の渡航距離と日数だけど あれね、魏の役人が渡航日報書いたときに 日当を上乗せするために遠くに行った事にしただけだから 真に受けて地図上で場所探しをするのは、やめて頂戴。
>948 最後の4行以外は、とてもクリアだな
950 :
日本@名無史さん :05/03/21 01:00:18
>>937 君の意見は確かに正論だ。しかし、ひとつだけ大きく間違っていることが有るよ
>人の意見を聞かない一方通行
>>違うよ
それより、何故君はこのスレに正面から参加しようとしないのかい?
951 :
日本@名無史さん :05/03/21 02:14:03
あの時代九州は先進国家 北九州邪馬台国と南九州クマソの覇権争い 北九州側が先に東遷して 未開の原野畿内を制したから南北優劣の勝敗がついた 畿内土着の王権は豪族として臣従した 大王家の権威は他所からの流入だからこそ 畿内土着勢力同士なら争いは絶えなかっただろう
952 :
日巫女 :2005/03/21(月) 06:46:15
出雲王朝との絡みで説明できる人、居ますか?
953 :
日本@名無史さん :2005/03/21(月) 09:16:11
>>948 >地図上で場所探しするのは、止めて頂戴
>>じゃあ、何で探せばいいのかな?
電話帳かい
記載されているとは思えないが。
>距離や方位で見つける事は × だ
>>それは個人の自由だろう。君が決めるべき事では無い
それに(×)になる根拠が無いよ
954 :
日本@名無史さん :2005/03/21(月) 09:33:04
>>951 よく邪馬壹国の畿内東遷という文字を見掛けるが
何故東遷せねばならないのか?
当時、広い範囲の交易(間接貿易)が有りおぼろげな情報は持っていたろうが
それでも、遠い畿内の地
どうして畿内な訳だい?
東遷が有ったとしても、普通近い所から順番に遠くへ行くだろう。
ましてや、情報の乏しい当時 いきなり遠方の畿内へ東遷など考えられない
ドラえもんの『どこでもドア』でも使ったのか?
955 :
太国 :2005/03/21(月) 09:52:47
>>940 世の中、企業秘密というものがある。
「ここの店は極めて料理がうまいが、どんな隠し味を使っているのかね?
その食材は何かね?教えてくれ。」
と言って、その店は教えてくれるのかね?教えてはくれないぞ。
昔、俺の家の近くにも、飲んだことのないような美味の珈琲を飲ませてくれる
喫茶店があった。その店で出した珈琲のブレンドのやり方を知りたかったが
教えてくれないことは自明であった。当時その店で時価7万円の珈琲カップで
その珈琲をのんだものだ。気品ある最高の味だった。
まあ、そんなことで、譲れないものもあるということをお前様も認識するべきだ。
味舌(阿自説)を披露できないのならば店じまい(撤退)しろとは、言いすぎ
だろう?今度は俺がお前様の自説を聴く番だ。お前様も利害なければ、積極的に
ここで論を張ったらどうか?俺もかなりの量の解説はしたはずだ。
ところで、橿原のどこらへんに周囲から隔絶した前人未到の秘境が存在していた
のか?まさか、伊賀甲賀とは言わないだろうが?どうだ?
普通の人が聴いても分かるように解説されたい。
956 :
サガミハラハラ :2005/03/21(月) 09:54:09
ちょっとみない間に話がどんどん進んで、奴の話はどっかへいってしまったようであるが、 今一度ぶりかえしておく。 相変わらず答えをぼかされて、上古音では何と発音するという解答がないようである。 邪馬台国研究家の思惑で{奴}の上古音が推定されたわけじゃないことを認めてくれ、とあるが、 {奴}をナと発音するとの推定は邪馬台国研究家の思惑なのです。私の角川漢和中辞典が第何刷かと のご質問がでるということは、最新版では「ナ」という発音がのっていると解釈してよろしいのでしょうね。 これは重大な問題をはらんでいると思います。「うそも百篇いうと本当になるという諺があります。 「奴」はナと読むといいつづけたために、辞書や言語学のほうにまで影響をおよぼし、古代史学者 や考古学者がそういうなら「奴」はナとよむのだろうと認めて(騙されて)しまったということです。 しかもこのことは、中国等の外国にまで影響をおよぼしていると聞いたことがあります。 この「奴国ナ国論」は、「旧石器捏造」「東日流外三郡志」とならぶ古代史研究の三大捏造事件の一つ であると考えます。 このままでは、日本の古代史考古学研究は冷笑をもって迎えられることとなってしまうことを懸念す るものであります。
>>878 氏は
>ところで、アナタが提示した角川の中辞典での『漢音』の表記、『と』と言うヤツ。
>アナタが持ってるのは第何刷?どういう単語の読みとして掲載されているのか?
と漢音の『と』の音がどこに載っているのかと尋ねている。それがどうしたら
>最新版では「ナ」という発音がのっていると解釈してよろしいのでしょうね。
になるのだろうか?
意図的な曲解というより、言語機能が麻痺してるとしか思えない。
958 :
日本@名無史さん :2005/03/21(月) 10:43:13
>>952 倭迹迹日百襲姫を卑弥呼と考えると
大物主命(出雲系)との関係上
邪馬台国は出雲系に乗っ取られた可能性が高い
>サガミハラハラ氏 今日本では『奴』を(な)と発音しなければいけない時代になってしまった。 仮に(ヌ)や(ド)と決まってしまったら大変困ってしまう。 (奴国の港=那の津)が飛んでしまい 博多付近=奴国が消えてしまう。 その結果多大なる経済損失を被ることに 今や『奴』=『な』は、たんに学問だけの問題では無くなった。
>959 心情的にヤツの味方をしたくてしょうがないんだろうが、 場違いなツッコミを入れるのは逆効果だよ。 論点は、三世紀の中国で『奴』と言う字にどういう音価を与えていたかなんだよ。 応援をするならヤツが主張する『奴』を『と』と読む類例を探してやるとか、 ヤツに代わって角川の漢和中辞典を引いてやるとかしてやれよ。 もっとも、一番なのは、これ以上生き恥を晒すことは無い、と諭してやることだな。
961 :
日本@名無史さん :2005/03/21(月) 11:41:04
那は熊野にあったんだよ そして邪馬台国は古代の巨大先進都市巻向の宮 倭迹迹日百襲姫が卑弥呼ですよ
962 :
日本@名無史さん :2005/03/21(月) 11:48:59
倭迹迹日百襲姫 中国の古代史研究の古代言語学者「金明徳」の研究によると 倭迹迹日百襲姫ヤマトモモソヒメ 上古音の発音で言えば 卑(ヤマト)弥(モモソ)呼(ヒメ)になる つまり本場中国でさえ畿内を邪馬台国と認めてるわけで これだけでも十分満足です。
奴はドでなくてドゥだとおもう。漢音ドゥ。呉音ヌ。 上古音はおそらく詩経などをもとにしたものだから、母音はかなり確立できる。 桃之夭夭 有墳其実 之子于帰 宜其家室 詩経の詩であるが 実と室で脚韻を踏む、ということはこの二つの単語の母音イツは同じと断定できる。 こういうのを繰り返して、膨大な詩から音素をぬきとっていくわけだ。 奴がnagと推定されたのもその結果で、おそらく子音はDかNかは定かではないだろう
964 :
太国 :2005/03/21(月) 13:00:10
畿内にあるならば、記紀に大和朝廷と近隣にあることになる女王国との交流の関係 が魏志倭人伝の記述より以上に、さらに具体的詳細に掲載されていますよ。 それに百襲姫が女王国のqueenであることも、どんなタイプの女王であるかも とことん倭人伝以上に記紀に記述されますよ。 それが記紀にないということは、九州に女王国があったという事じゃぁないですか?
965 :
日本@名無史さん :2005/03/21(月) 13:09:14
>>964 記紀は、万世一系の男系天皇の日本統治の正当性を主張するもの。
女王の存在の記録は炎書されたのだ。
966 :
太国 :2005/03/21(月) 13:13:40
じゃぁ、江戸幕府将軍の記録は炎書されたのか?
>963 中国語舌音声母[n]の次濁化[d]は、北方民族の唐代の長安方言が起源じゃなかったっけ? だから、上古音の復元にあたっては、より古形に近い南方が主張されているんだろう。
968 :
太国 :2005/03/21(月) 13:18:40
>>965 仮に炎書したって双方の王権は近隣にあったことになるのだから、
そのへんの地域住民には女王の存在が十分に認知されているはずだから
女王隠匿の効果はない。貴殿の思い込みということになる。
969 :
日本@名無史さん :2005/03/21(月) 13:27:55
>>960 三世紀当時の中国での音価を調べる辞書を紹介してほしい。
ただし、リアルタイムだよ
ようするに、どんな研究を積み重ねても近ずくことは出来ても、答えはでない
それに、心情的に応援などしていない。
今の所、彼の解釈が最も理にかなっているからだ!
>>960 よ
お前何時になっても懲りない奴じゃのう
噛み付く事しか知らんのかお前の博識は、よく解ったからもう帰れ(暗くなるぞ)
2ちゃんねるの掲示板は、今いる住人たちに任せて
お前は執筆でもしていろ、場が荒れる
畿内の豪族は、九州邪馬壱国(邪馬台国、イ妥国)から、 真人や朝臣の姓をもらっていたんだから知らないわけはないだろう。
>969 だから、『奴』の上古音の事例が見れるのは、学研の大漢和が一番身近な印刷物だよ。 何度も同じ話が出てるだろう。 その推定方法は963や967を見ればイメージできるかな。 アナタは携帯ユーザだから過去レスで紹介されてるリンク先も見てないんだろうが、 もう少し、詳しい説明もされている。 それとも、アナタお得意の100%の結論ってーのがお望みなら、 それは、勘違いも甚だしい。 提示したのは、中国上古音の研究とは、六世紀より始まり、清朝代に至る歴史と 現在では欧米にも専門家がいる国際的な学問だということだ。 また、基本的な考え方は、一つの文字をどう読むか、ということよりも、 一つの音素がどう変化してきたかにあるので『奴』と言う字の音価を意図的に変えると 同じ声母や声調を持つ全ての字の読みを変えてしまうことになる。 そんな大それたことを日本の古代史の一学派ができるわけがないと説明してるんだよ。 つまり、ヤツの『奴國の読みは、邪馬台国研究家のでっちあげだ』と言う、 それこそ「でっちあげ」な屁理屈に対する反論なんだよ。 それにな、サガミハラハラが批判されているのは、奴國の読みの解釈がことなることが理由じゃないだろう。 他人の説を誹謗中傷するだけで、厚顔無恥にすましきって、まともな議論に一切応じない、その態度だろう。 アナタもヤツと同じ流儀がお好みのようだから、これを最後に今後は同じ対応をさせてもらおう。
973 :
日本@名無史さん :
2005/03/21(月) 15:59:49 >>972 資料提供感謝します。
リンク先や書籍等は見られる範囲はチェックしている
でも自分は、誹謗抽象している相手でもその解釈内容に理解できる部分が有ればその解釈を指示しますし、
ましてや、その目標が自分自身でも変わり有りません。
特定個人と和気あいあいするつもりはない、各個人の知識を取り入れたい