1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:04/12/01 12:43:27
3 :
日本@名無史さん:04/12/01 12:44:12
「吉備、山陰、東部四国、丹後、河内、奈良盆地、東海、琵琶湖周辺、越、南関東など
これらの公益圏が倭国大乱(2世紀末まで)終結後に連合化して、原ヤマト連合を形成した。
(但し連合化の順番や内部での力関係は諸説ある。)」
これを3世紀の列島情勢だとする通説を採用したい。それを踏まえて
@(畿内説)この連合が倭人伝に言う倭国であり、邪馬台国連合である。
また後の大和朝廷の基礎となったのであろう。
魏への朝貢は、北九州を併合又は合併した後に行われたと考えられる。
卑弥呼は畿内纏向に居たとの説が中心だが、それ以外の土地に居た可能性も十分にある。
A(九州説)倭人伝に言う邪馬台国は、本州連合とは別の九州連合であろう。
後の大和朝廷との関連については、継続説と断絶説がある。
魏への朝貢は、狗奴国(南九州説と本州連合説がある)との対立や貿易権確保が目的である。
卑弥呼擁立時には原ヤマト連合とは合併していないとの見方が多数。
少数ながら原ヤマト連合を支配下においていたとの見方もある。
なお、卑弥呼の居館及び邪馬台国の位置は諸説ある。
なお大和朝廷との繋がりにおいては
a)邪馬台国は原ヤマト連合に滅ぼされたか吸収された。
b)九州連合と本州連合合併後、イニシアチブを執ったのが九州連合。
c)連合に際して血縁関係を結び、同族として融合化したのち派閥化した。
d)あくまで合併を拒み7世紀頃まで自治独立化した(九州王朝説)。
などが主な説であるが、畿内説論者でも邪馬台国と大和朝廷の断絶を支持する
考え方をしている者も少なくない。
また後世の壬申の乱や大化の改新などによる大和朝廷内の派閥争いの結果
記紀編纂時に恣意的な編集が見られると指摘するする動きも、九州、畿内支持に関わらずやはり根強い。
(神武東征、欠史八代、倭人伝の神功紀注釈への挿入、各天皇の即位状況、継体天皇問題
聖徳太子と蘇我氏、物部氏の役割、藤原氏の意図など、問題は山積である)
このため単純に畿内説や九州説といったカテゴリーでは括れないのが現状である。
1行目、切れてしまいました。スマソ。
5 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/01 13:24:01
おお!昼メシから帰ってきたら新スレが・・・お疲れ様です。
それでは簡単な畿内纏向説をまとめておきます。
それと質問者は畿内説全般への疑問を箇条書きにしていただければありがたいです。
おそらく九州説の方もそちらのほうが答えやすく、便利だと思いますので同様にしましょう。
6 :
日本@名無史さん:04/12/01 13:39:15
4世紀の九州の状況を考古学的に検証する。
2世紀までは鉄貿易で繁栄を遂げていた北九州は、
4世紀になると急激に没落する。
代って、日向に多くの古墳が作られている。
3世紀の畿内からの鉄器出土は少なく、
北九州〜畿内間の土器の移動も少ない。
ポイント1:2世紀まで、朝鮮半島と鉄貿易をして繁栄していたのは北九州。
ポイント2:4世紀になり、北九州の既得権益が、大和朝廷によって奪われた。
ポイント3:北九州勢力が畿内に東遷したとしても、北九州が没落した理由にならない。
ポイント4:北九州と畿内とは貿易は少なかったが、日向に大和朝廷と組んだ勢力が台頭した。
これらの事実は、北九州勢力は、畿内の大和朝廷と親密な関係ではなく、
畿内の大和朝廷が九州進出のために、日向の勢力と手を結んだことを示す。
そして、魏の使者が邪馬台国訪問のために訪れたのが北九州であったなら、
邪馬台国は北九州の勢力であり、畿内の大和朝廷とは無関係であると結論付けられる。
反論があれば、どうぞ。
7 :
日本@名無史さん:04/12/01 14:02:46
畿内説では、3世紀にすでに、畿内の大和朝廷が北九州を管轄下に置いていたと主張している。
しかし、畿内の3世紀の遺構からの鉄器の出土が少ないことを説明できない。
溶けたというが、跡形も残さず消えたいう主張は無理がある。
纏向から、北九州の土器がほとんど出てこないことも、
北九州と纏向が直接の繋がりが無かったことを意味している。
さらに卑弥呼が女王になったのは、2世紀末と考えられるが、
その頃の北九州の優位性は歴然としており、
畿内が北九州を管轄下に置いていたとは考え難い。
北九州が畿内に平伏し、連合しなければならない事情も想起できない。
その頃、北九州は、朝鮮半島貿易のみで、十分国力を維持できていたのである。
3世紀の時点で北九州が畿内と平和的に連合していたとしたなら、古墳時代になってから、
北九州で古墳がほとんど作られないことも説明できない。
巨大古墳は、北九州ではなく、むしろ日向に作られいる。
8 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/01 14:05:03
【邪馬台国畿内纏向説テンプレ】
@各地の有力首長が以前から存在した通商ルートを基にして、2世紀頃から徐々にまとまり始めた。
Aこの首長連合が畿内纏向に置いた物流基地&神託機関がヤマト、すなわち邪馬台国である。
B3世紀前半頃には老舗の北九州(玄界灘グループ)と連合したか傘下においたか、少なくとも圧力を掛けていたと思われる。
C狗奴国については、東海、近江、関東、南九州などの説あり。
D銅鐸消滅については、小部族祭祀から権力者祭祀へと変遷する過程で失われた。
この文化再編成は列島規模のものであり、同時に銅矛や銅剣も姿を消している。
E倭国大乱と称される2世紀には高地性集落などから緊張状態が考察されるが、実際に大規模な戦闘は行われていない。
この冷戦とも牽制とも取れる状態が逆に物流や人的交流を刺激し、連合を広域化させた。
F倭人伝に記載された邪馬台国(卑弥呼、台与)の時期に纏向において最古の前方後円墳建造が始まる。
【卑弥呼の正体についての仮説テンプレ】
@倭人伝記述通りの倭国連合の女王。連合内にて共立された巫女。
それを踏まえて、
a)ヤマト(畿内、九州問わず)土着のよく当たると評判の巫女。
b)特殊器台から考えて、吉備出身の巫女(畿内説限定)。
c)連合各地の首長ゆかりの女性を一箇所に集めた、神託専門の機関の代表。
d)北九州の女王国を連合のシンボルとした(九州説限定)。
e)連合運営の為に首都「邪馬台国」を新設した際に、意見調整及び司法担当の役割を与えた。
A男王(大王、為政の代表)とワンペアの巫女(皇后、祭祀の代表)。
B男王が実質的な支配者で、あくまで卑弥呼は神託系のアドバイザー。
C東方の「女島」伝説を拡大解釈した、魏の勇み足。
9 :
日本@名無史さん:04/12/01 14:25:01
高地性集落について。
2世紀の倭国大乱の時期に現れる瀬戸内海の高地性集落であるが、
その分布は、瀬戸内海から畿内に向かって広がっており、
北九州の沿岸にはほとんど見られない。
防御し「のろし」をあげて中央に伝達するという目的であれば、
中央とは畿内のことで、対峙していたのは北九州勢力である。
北九州と向き合うため、吉備・畿内連合が築かれたという図式が伺える。
しかし、実際に瀬戸内海を巻き込んだ大規模な戦乱があった証拠は無い。
魏志倭人伝の伝える「倭国大乱」とは、九州の中での、
局地的な覇権争いと考えるしかない。
そして戦乱を収めるために共立された女王が卑弥呼であるなら、
邪馬台国は、戦乱の外であった遠くの畿内というより、
九州の中にあったと考えるべきである。
10 :
日本@名無史さん:04/12/01 14:25:16
今更いうのも何ですけど、まとめるなら、このスレで争いになってきた論点に沿った方がよくないですかね?
1 倭人伝の解釈
2 考古学上の根拠
3 その他(記紀などの文献、神社等)
11 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/01 14:36:35
>>6-7 まとめご苦労様です。そうやってポイントをまとめていただくと非常にお答えしやすい。
呼びかけの賛同にまずは敬意を表します。
>2世紀までは鉄貿易で繁栄を遂げていた北九州は、4世紀になると急激に没落する。
この没落傾向は2世紀中頃には遅くとも始まっています。唯一3世紀まで繁栄したのが
伊都国と見られる平原・三雲です。それも3世紀後半には見るかげも無くなります。
>代って、日向に多くの古墳が作られている。
日向に前方後円墳を含む大古墳群が発生するのは事実ですが、これは全国的な傾向です。
北九州でも副葬品は減少しますが、那珂八幡のような巨大前方後円墳も建造されます。
なお初期型前方後円墳の出現は、纏向に続いて豊前、肥前、筑紫、日向、吉備、伊予、讃岐、丹波、山城、近江、西上総で確認されます。
>3世紀の畿内からの鉄器出土は少なく
この鉄器については別項目にまとめます。あまりに誤解が広まっていますので。
鉄器が酸化して現存していないとの説の物的証拠を提示します。
>北九州〜畿内間の土器の移動も少ない。
3世紀中葉における(つまり邪馬台国の時代)福岡県の比恵・那珂遺跡群では100器以上の庄内式甕(畿内形式)が出土しています。
また同じく3世紀後半の福岡県西新町遺跡における出土土器の割合は
「在地系63%、大和25%、出雲9%、伽耶2%、吉備1%」です。
ここは在地系と外来系に住居も分かれており、対等な関係であったことを示す「市」の跡もあります。
また三雲遺跡でも同様の交流を示す土器流入が確認されています。
それぞれ伊都国、奴国と目される地域は3世紀中葉から後半には
濃密な経済及び人的交流があったことは動かしがたい事実ではないでしょうか。
12 :
6=7=9:04/12/01 14:41:25
>>6=7=9は、邪馬台国九州説で東遷は無かったとする。
邪馬台国の場所は北九州のどこかで、決め付けはしない。
少なくとも、畿内ではない。
3世紀初頭に、畿内が、北九州を支配する力がどこにあったと言うのだろうか?
4世紀に、吉備と連合した畿内大和朝廷に北九州勢力が屈したと見る。
3世紀に、北九州勢力(邪馬台国)と同時に畿内に大和政権が誕生しても、何も不都合が無い。
考古学的データは、3世紀中まで鉄貿易で北九州の圧倒的優位を示している。
これが、考古学的に最も矛盾の無い答え。
畿内派は、「鉄」の問題をぜひ解決して欲しいものだ。溶けたなどと言わずに。
13 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/01 14:54:23
続いてポイント1〜4へのアンサーです。
1、「繁栄」に関してはご理解のとおりかと。ただ(これは私もよくやりますが)北九州とひと括りにはできません。
2世紀中葉から少しずつ斜陽化するのは、かつて栄華を誇った「玄界灘グループ」です。
感覚としてはバブル崩壊に近いものがあります。同じ北九州でも豊前や壱岐・対馬は影響を受けていませんので。
2、4世紀ではなく遅くとも3世紀中葉でしょう。根拠は前レスです。
3、これは・・・論理展開としてはおっしゃるとおり「なりません」が、そもそも東遷そのものがあったとは考えにくいのです。
この「東遷否定」についてもまた別に述べることにします。
4、貿易が少なくなかったのは前述の通りです。ただ、日向を初めとする南九州と畿内は、間に安芸、吉備をはさんで
2世紀から通商と文化交流があった形跡も指摘されています。「長頸壺」が日向から畿内に向かって流通していること。
また土器の櫛描き文様が畿内、瀬戸内、南九州に顕著に見られることなども挙げておきます。
14 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/01 15:24:42
【鉄器についてのテンプレ】(前スレ590氏のまとめを補足します)
@現在の出土例は北九州500余り、近畿100余り
Aその時代区分は北九州が1〜3世紀中頃までが多く、近畿は3世紀末から4世紀が多い。
ただし畿内遺跡のうちホケノ山などは従来4世紀と考えられていたのが、年輪年代法によって
土器編年が遡られたので3世紀に区分されるとの説が有力視されている。
B九州、近畿以外の地域(関東、東海、上越、山陰、中部など多数)で1世紀の弥生遺跡から
鉄製品による木材加工跡が次々と報告されている。
C出土する鉄器の多くは、台地上の遺跡跡か墳墓石室内等の比較的保存条件の良い場所にて発見されている。
低湿地に隣接する遺跡からわずかに出土する鉄器は、ぼろぼろに錆びている。
具体例をあげます。低湿地である福岡の板付遺跡、平塚遺跡では鉄器は発見されていません。
わずかに板付で鉄斧?らしきものが一片出土しました。北九州を代表する弥生遺跡でさえも
低湿地に位置する集落跡や墳墓では鉄器は出ません。
逆に高台に位置する遺跡からは、列島中と言っていいほど鉄器が発掘されます。
もちろん高地、低湿地にかかわらず、鉄器での加工跡のある木製品や遺構は出土しています。
また鉄器が溶けてなくなった例として、大阪の土保山古墳(鉄の鎧の60%が酸化消失)、
同じく大阪の亀井古墳(90%が酸化消失)。いずれも4世紀後半から5世紀と思われる古墳です。
溶けたのになぜ鎧だと解ったのか?まわりに塗った漆がそのままの形で残っていたからです。
また酸化跡と思われる土痕跡も、地下水の量の為か残ったり残らなかったりです。
確かに副葬品としての鉄製品は、3世紀前半までは玄界灘グループ以外はあまり出ません。
しかしそれ以降は一気に広まります。
この事実も踏まえて北九州の連合参画を3世紀前半と仮定しているのです。
D全国的に未調査墳墓が多数あり、特に陵墓指定された古墳が多い近畿では十分な調査が行われていない。
よって鉄器の発掘分布データから、当時の貿易状況や各クニの国力を推測するのは極めて困難である。
15 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/01 15:41:59
>>9>高地性集落について
1〜7行目まではお互い同様の解釈をしていますね。
この瀬戸内で大規模な戦乱がないというのは非常に重要です。
ただ北九州でも戦乱の跡は無いのですよ、2世紀には。
鏃の刺さった人骨が出土するのは前1世紀からせいぜい2世紀入り口まででして
2世紀は高地性集落が大きな抑止力を発揮したと見られています。
これらが一気に解体され、各集落の環濠が埋められるのが2世紀末から3世紀前半。
この2世紀末から3世紀前半というのは、大きなターニングポイントだったようですね。
私の考えはテンプレのEになります。
それでは現場行って来ます。
16 :
6=7=9=12:04/12/01 15:48:15
他の人の説も伺いたいので、とりあえず、
老教授@畿内説纏向派氏のストーリーの中身をお伺いしたい。
>>14 >この事実も踏まえて北九州の連合参画を3世紀前半と仮定しているのです。
1、卑弥呼の共立の時期は、どうお考えになってますか?
3世紀前半では、遅いような気がしますが。
2、瀬戸内海の高地性集落では戦乱の後が見られないのは承知の通りですね?
では、「倭国大乱」の規模はどのようなものだったのか?
男王を立てても収まらずに、女王を立てて収まったというわけですが、
北九州勢力は、女王が誕生したという理由で、遠くの畿内に従ったと考えているのですか?
3、北九州が畿内との連合を受け入れたのは、「倭国大乱」と言うからには、
平和的な連合ではなく、当然武力による圧力が理由ですよね?
少なくとも筑紫平野を押さえるほどの軍隊を、畿内から派遣して常駐させていたと?
それが、3世紀初頭に可能だったと考えているのですね?
17 :
6=7=9=12:04/12/01 16:06:03
>>15 >ただ北九州でも戦乱の跡は無いのですよ、2世紀には。
「倭国大乱」は、瀬戸内海は含まれないという指摘に対して、
北九州も含まれないと、返してきましたか。
では、卑弥呼が共立されたのは、戦乱を収めるためだと魏志倭人伝にありますが、
どういう整合性をお考えなのか?
それとも、大乱があって、卑弥呼が共立されたという、
魏志倭人伝の記述自体も間違いだと言っておられるのか?
高地性集落が消えても、即、北九州が畿内と連合したとは言えないでしょう。
畿内・吉備連合が力を付け始めて、まず北九州勢力の進入を瀬戸内海から排除した時期があったはずで、
それが、2世紀末から3世紀前半ではないですか? それとも、もっと前からですか?
402 名前:出土地不明 メェル:sage 投稿日:04/11/23 15:20:28 ID:4BqyT6Lw
文献の解釈的な話は他所の板ですることにして、
考古学的に3世紀前後の列島の様子はどうなのか語ってください。
405 名前:出土地不明 投稿日:04/11/24 23:56:00 ID:DtQ8p52B
>>402 だいたい、北部九州、山陽、山陰、四国、近畿、東海くらいに
ブロックとして分かれるけど、北部九州がすごいのは、概ね
2世紀半ばくらいまで。その後3世紀後半くらいには、近畿
系土器と思えるものが、山陰経由で入ってくるらしい。
片田舎の集落を除くと、九州は近畿系の人たちがたくさんきて
いた可能性がある。近畿では、大和(現在の桜井市あたり)が
中心で、そこへは、ほぼ全国の土器があつまるが、東海系
の勢力がかなり入り込んでいた可能性がある。これは、大和の
独特な状況。九州系が直接入り込むことはないが、一方、鹿児島
の土器が入ったりしている。
九州は、卑弥呼の時代とされる3世紀前半からだんだんと近畿
系に浸食されて、3世紀後半くらいには、九州の王国のような
集落、吉野ヶ里とかそういうところが放棄されて、のちに、4世紀
になって、復活する。ちなみに、九州説で多く出てくるものは、
ほとんどが、2世紀中の遺跡で、3世紀はかなり規模が小さいか、
あるいは、放棄されているものが多く、その中で唯一残っている
っぽいのが、伊都国とされる、前原市あたりの遺跡だ。
これがざくっとした考古学的な結果だから、結局、考古学者の目と
しては邪馬台国九州説はほとんど無理だということになる。
卑弥呼の時代は、ほぼ完全に九州は近畿系に席巻されているし、また
主立った遺跡の年代は2世紀ごろまでで、3世紀はあまりぱっとしな
い。ところが、大和の纏向遺跡などは、3世紀後半から本格的なもの
になり、発展し、4世紀半ばまで続く。4世紀半ばといえば、大和
の政権はある程度確立しているし、部分的には、歴史文献資料と
付合するものも出てくる(あやしいが)。
19 :
日本@名無史さん:04/12/01 16:45:56
三世紀ころの半島の土器で楽浪土器と呼ばれる美しい土器がある。
これが日本では九州にしかないんだな。
平壌付近で製作されたらしいが平壌で見つかるものより九州で見つかるものは、土の選別やその焼き方が丁寧で、いかにも外国の使者に与える為に作られたという雰囲気が漂う立派な土器だ。
これが九州でしか見つからないのは邪馬台国が九州の証拠だろう。
なお、瀬戸内ではこれを真似したらしい土器が見つかったことがある。
この土器がいかに憧れの土器だったかを示すものだ。
20 :
日本@名無史さん:04/12/01 17:00:42
21 :
日本@名無史さん:04/12/01 17:34:48
>>20 箸墓築造が3世紀なら、
北九州より50年早く、畿内に乗馬の習慣が持ち込まれたわけか。
捏造の匂いがぷんぷんするな。>畿内説
22 :
日本@名無史さん:04/12/01 18:16:44
箸墓古墳の周濠から、馬具が出たから、乗馬の習慣の年代を繰り上げようとするのは、
安本氏の批判する通り、乱暴だと感じます。
しかし、だからといって、このことから、纏向を4世紀とするのも早計でしょう。
纏向説の中では、箸墓が卑弥呼、あるいは台与の墓だとする見解も有力ですが、
大勢はむしろ纏向のどこかという程度しか考えていないはずです。
3世紀前半ないし中葉とされた石塚古墳やホケノ古墳の発掘結果もありますし、
また、比較的最近の箸中イヅカ古墳の発見のように、
纏向にはまだ未発見の古墳も多いと考えられますから、
仮に、箸墓古墳の築造が4世紀に繰り下がったとしても、
纏向3世紀説が否定されるわけではありません。
23 :
日本@名無史さん:04/12/01 18:29:34
>>22 >纏向3世紀説が否定されるわけではありません。
邪馬台国が纏向にあったという証拠にもなりませんよ?
24 :
日本@名無史さん:04/12/01 18:50:10
25 :
日本@名無史さん:04/12/01 19:09:27
乗馬の習慣は大陸では紀元前からあったが、日本には三世紀に馬がいなかったから。
倭人伝にも書いてあるからね。
当時の船舶では馬が運べなかった事もあり、4世紀前半の馬だって怪しい。
ところで鐙は乗馬の習慣のあった大陸でもかなり遅い時期だ。
4世紀初め、中国南部の墓の陶俑にその痕跡が見られる程度だ。
鐙はこの頃に発明されたと言われている。
馬のいなかった日本で鐙が発明される訳もないし、中国南部で発明された鐙が空を飛んでやって来る訳もない。
高句麗では4世紀後半の墓に箸墓からでた輪鐙とよく似た形の金張木製輪鐙が出ている。
朝鮮半島南部では5世紀前半の墓からやはり似た形の金銅張木製輪鐙が出ている。
この順番で行くと日本は5世紀後半に現れるのが妥当と言う事だ。
現実に鐙が日本の古墳に副葬されるのが5世紀後半。
4世紀後半としても箸墓の鐙は飛びぬけて早い事になる。
ちょっと考えにくいんじゃないかな?
26 :
日本@名無史さん:04/12/01 19:19:23
画文帯神獣鏡と言えば萩原一号墳からでた鏡は平壌からでた鏡の踏み返し。
橿原考古学研究所長は何ていってるの?
新スレご苦労様ですw
私は巻向説氏のテンプレは公正で良くできており、異論を差し挟む余地もないと思います。
ただ、王朝(権力主体)の形態、推移については別に箇条書きで入れて貰ってもよいかな、と。
形態や所在地までは複雑なので無理かも知れませんが。まとめて見ます。(簡明化のために邪馬台国・壱与以後のみ)
<権力の推移>
1、邪馬台国畿内説
(1)邪馬台国以後ずっと血統・所在とも同一王朝(後の神武、祟神、応神、継体、天武朝とも同一血統)
(2)邪馬台国以後権力中枢は同一だが、血統は異なる(神武、祟神、応神、継体、天武朝のどれか、あるいは全て)
(3)邪馬台国以後、別の国(畿内)が邪馬台国を併合、それが以後続く(神武、祟神、応神、継体、天武朝およびその先行王朝も含む)
(4)邪馬台国以後、別の国(九州)が邪馬台国を併合、それが以後続く(神武、祟神、応神、継体、天武朝およびその先行王朝も含む)
(5)邪馬台国以後、別の国の血統を導入、その国と連合関係(主従も両説あり)
2、邪馬台国九州説
(1)邪馬台国以後ずっと血統・所在とも同一王朝 → 最終的に滅亡
(2)邪馬台国以後権力中枢は同一だが、血統は異なる → 最終的に滅亡
(3)邪馬台国以後、別の国(畿内)が邪馬台国を併合、それが以後続く →最終的に滅亡
(4)邪馬台国以後、別の国(九州)が邪馬台国を併合、それが以後続く →最終的に滅亡
(5)邪馬台国以後、別の国の血統を導入、その国と連合関係(主従も両説あり) →最終的に滅亡 (本説は可能性は薄い)
28 :
鳴海孝之@四王朝交代説:04/12/01 22:02:59
ここまでの最有力説
・邪馬台国は宇佐を中心とした北九州
・倭人伝の水行10日陸行1月は邪馬台国へ
いたる全日程のこと。
・卑弥呼=日巫女=天照大神。宇佐神宮に祭られている
比売大神と同一説も有力視されている。
・邪馬台国のその後については、4世紀後半に
大和朝廷と合体した説が有力。神武=応神は
邪馬台国王であり、畿内大和朝廷から大王に
なることを要請されそれに応じた。ゆえに応神と
いうおくりなが後世につけられた。
<九州と畿内の関係史>
1、畿内が九州を併合
(1)邪馬台国後すぐ
(2)その後のどの時点か(応神、磐井、景行etc)
(3)半島戦争敗北、唐軍進駐後
(4)派遣した地方軍が逆に大国化、反乱(神武東征、応神東征を前提)
2、九州が畿内を併合
(1)征服
(2)王統を分流(請われてか強要か、諸説あり)
(3)文化的影響に止まる
3、完全並立
(1)長らく同盟関係
(2)時に争い、時に同盟、複雑な国際政治力学
(3)常に対立
各項互いに被るところもあります。
これもテンプレに入れて貰えたら、議論がしやすくなるのでは無いでしょうか。
ちなみに私の考えは、権力の推移は2-(4)、関係については2-(2)だと思っていますがあくまで現時点での
考えです。
あと、考古学的には九州が早期に衰退したという調査は、非常に疑わしいと思っています。あまり土器編年に
信をおけないもので。実際近年いろいろ報告されているようですし、九州の遺跡や遺構についても弥生晩期以
後も連続しているという14C結果もあるそうで。
藤村氏の事件の教訓もそこにあるのではないでしょうか。一つの発掘結果で全てひっくり返ってしまうというの
は学問としてどうかと思うし、偉い先生がこの土器が出たからこれは何年頃、とか言ってしまうのはかなり引く
物があります・・・・・。
30 :
鳴海孝之@四王朝交代説:04/12/01 22:53:57
教授とかいうHNの人がいるが
本当に大学教授がこんなとこに
いるんかいな・・?w
頼むから、公務員試験の勉強に集中してくれ。
32 :
豊前説:04/12/01 23:28:03
テンプレ作成お疲れさまです。
>豊前説氏や一応九州王朝説氏も、まとめを次スレに記載したいのではないかと思いますので。
いやはや、そのような能力は自分にないのですが、なんとか作ってみました。
まずは総論で自説のみですが。また、皆さんのご意見をお伺いして、おいおい
変更していくことになるかとは思います。
あと、話は戻りますが、一応氏、前スレ
>>941 >私はこういった視点は後世の人間の考え方(水戸史学以来の朱子学)だと思います。
聖徳太子の「日出づる処の天子・・・」をお忘れではないでしょうか?
考古学的な史料に対しては私も、一応氏と同意見です。
前にも出ていますが、馬具の件やC14較正曲線の信頼性などに疑問があるので、もう少し
見ていく必要があると思います。
33 :
豊前説:04/12/01 23:30:21
【邪馬台国九州豊前説テンプレ・総論】
@北九州には、稲作の流入と共に弥生時代初期には既に大陸との交流があったと考えられる。
A大陸からの渡来人は、北九州に稲作・潅漑をはじめ、青銅技術などを伝え、当時の日本において
北九州を文化の先進地とした。
B北九州での政治・経済の中心は、筑紫平野にあったが、一方、秦氏を中心とする渡来人は、銅を
産出する筑豊の香春を経由し、宇佐を含む中津平野、国東半島へと広がり、様々な文化・技術を
広めていった。
C秦氏の進出は、5世紀ともいわれるが、宇佐の弥生後期の遺跡で銅鏡や銅鉾、朝鮮式小銅鐸などが
発掘されており、大陸と香春・豊前の繋がりは実際は更に遡るのではないかと考えられる。
D筑紫は、男王を中心としたいくつかの小国家が点在し、絶えず混乱が続いていた。
E狗奴国については、南九州を基盤とする熊襲(後の隼人)と考える。
F一方、渡来人によりもちこまれた道教や政治を取り入れた豊前(邪馬台国)では、比較的政情が安定
していたが、熊襲の北進により筑紫勢と共同戦線を張る必要性が生じた。
Gその結果誕生した緩やかな連合国家が倭であり、紆余曲折して豊前の卑弥呼がその女王となった。
H連合国家を形成した倭は、それなりに安定したが、あいかわらず熊襲との対峙が続き、後ろ楯として
魏との交流進めた(渡来人一族に魏の有力者と繋がりがあったのかもしれない)。
I卑弥呼の死後、秦の始皇帝陵などを参考に現宇佐神宮の自然丘陵を利用して古墳を築造し卑弥呼を
埋葬する。これは前方後円墳の原型とも思われ、亀のような首をもつため後に亀山と呼ばれる。
34 :
豊前説:04/12/01 23:30:54
J卑弥呼の死により倭は一時混乱するが、台与により再びまとまる(後に台与(豊)の国と呼ばれる)。
K3世紀末には、その一族の墓として九州最古級の前方後円墳となる宇佐赤塚古墳や苅田石塚山古墳が
築造される。
L同時期、2代後の王もしくは孫にあたる人物を中心に邪馬台国は熊襲を日向以南まで後退させる。
邪馬台国は主力軍(あるいは首都も)日向におき(天孫降臨)、熊襲を監視下に置くが、やがて
和解・姻戚関係などで同盟関係となる。
M4世紀前半は日向が繁栄し、西都原付近で古墳が数多く造られるようになる。
Nこうして、日向をはじめ宇佐勢は九州内に領土を拡大し、その土地が後の宇佐神宮の荘園
「本御荘十八箇所」として引き継がれていくことになる。
N日向では政情が安定するが、更に領土拡大を目指し、3代後の王もしくは子孫にあたる人物(神武)が
東へ向け、進出をはかる。
O神武による畿内との併合は、多かれ少なかれ武力を背景にしたものであったと考える。
35 :
日本@名無史さん :04/12/02 00:31:30
できれば、6=7=9=12氏もコテハンにしてテンプレにしてくれないかな。
ロムの無責任な意見だが。
プロフェッサー纏向氏なら全部相手しても大丈夫だろw
夜な夜なご苦労様です(眠い・・・)
それでいいと思います。たたき台ですから、異論はそれに対してのレスで良いわけでw
>聖徳太子の「日出づる処の天子・・・」をお忘れではないでしょうか?
さて、遣隋使ですが、このときの中国側の記録と日本の実情の違い、また記紀に無いことなどから、
この点については古田説に従いたいと思います。いくら記紀が疑問と言っても、これだけ相違が大き
いのに無理にこじつけるのはどんなもんかとw その後の唐は、隋を倒したとはいえ後継王朝であり、
李淵なら直接煬帝からそんな無礼な国の話も聞かされていたかも。
或いは、日本の古代学者と言われる人たちは、庶民は所詮バカだからこんな事しらねーだろ、と思っ
てるのかどうか、でも学校の先生達までがどんな顔でアメタリシヒコ=聖徳太子と言ってるのやら。
まともに文字の読める先生はいないんでしょうか?
これも大義名分論として、女帝では具合が悪いからというならいにしえの卑弥呼は何なのか。こんな
説の方がよほど俗説に見えます。誰が言い出したのか知らないが、そんな見え透いた嘘を誰あろう
煬帝について、ばれたらどんな目に遭わされるか。高句麗に200万も動員したのは、次はお前の
ところだぞと恫喝も入っていたのかどうかw
・・・・・と、もっとらしいことを言っても、これが仮に九州のタイ国王・阿毎多利思北孤であっても無礼で
より中国に近い分世間知らずなのは変わりないですがw いくら南朝を正統として、そこと外交を通じ
ていたとしても、ちょっとなめすぎ・・・。宿敵・高句麗を滅ぼそうとしていたわけですし、半島情勢的にも
むしろ協力者として遠交近攻策に乗った方が良かったのではないでしょうか?そのご先祖の卑弥呼が
そうして魏の覚え目出度く金印を授かったように。
とういうわけで、遣隋使=聖徳太子の派遣というにはまだあまりに解明されなければならないことが大
杉ではないかと思うんです。
37 :
日本@名無史さん:04/12/02 00:57:58
>>24 26
橿考研は卑弥呼の証拠を探せと言われて、中山大塚、下池山、黒塚と掘ったが成果がなく、
最後に予算をひねり出して貰って背水の陣でやったのがホケノ山。
ホケノ山の画文帯神獣鏡が件のガガミだと言うしか無いわな。W
確かに三角縁神獣鏡なんかより彫りが深く細部にわたり精緻な作りだ。
まあ中国でも最高級の鏡には違いない。
ただ、後漢末期(AD180〜)とも言われている(彼らが言っている)が、魏鏡でなくても良いのかな?
38 :
日本@名無史さん:04/12/02 01:54:09
出雲は?
39 :
日本@名無史さん:04/12/02 07:20:49
>>20 鐙のことは、纏向氏の意見が聞いてみたい。
鐙の輸入の時期が早まることを支持しているのかどうか?
うがった見方をすれば、纏向研は、最初から鐙の存在を知っていて、
古墳築造年代合わせに都合が悪いから発表を伏せてたとも受け取れる。
石器捏造の体質が日本の考古学会にはあったわけだしねえ。
そこまで酷くは無いにしても、年代測定方法や見解によっては、
簡単に50年くらいの誤差は生じるだろう。
遺跡Aと遺跡Bについて、一方は50年古く見せて、一方は50年新しく見せれば、
その差は100年にもなる。
どういう年代測定法によって、遺跡の年代を決めてるのか、
年代測定の信頼性はどうなのか、という問題がある。
纏向研の調査は、間違いが無いと言い切っていいものなのか?
40 :
パチャ:04/12/02 12:22:57
そして熊澤天皇になった
41 :
天皇家:04/12/02 12:25:42
そして熊沢天皇があらわれた
42 :
豊前説:04/12/02 12:49:26
>>36 失礼いたしました。確かにアメタリシヒコと書く方が正確でしたね。
ただ聖徳太子ではなかったにしろ、当時の日本からそのような書簡を
送った王がいた訳で、やはりいつの時代であっても、人間の普遍性の
性として、配下というのは面白くはなかったのではないかと。
(特に王なる人物においては)
よって、記紀の編纂においても、後世に読まれることも意識して
あのように書いたのではないかと思います。
邪馬台国や卑弥呼と全く関係がなかったとすれば無視すればよかった
訳ですし、関係があっても忘れ去られたならば(私は、あれ程の女帝が
先祖でありながら忘れられるというのはどうにも考えがたいのですが)、
堂々と卑弥呼や邪馬台国の名や倭人伝の引用をするなりして、正直に
不明だと記せばよかったのに、小細工のように思えて納得がいかないん
ですよね。
テンプレ各論の一部をアップします。
続きはいつになるか分かりませんが後日ということで。
43 :
豊前説:04/12/02 12:50:43
【邪馬台国九州豊前説テンプレ・各論(倭人伝位置編)】
@帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里。帯方郡から末盧国(唐津)まで約一万里。
よって末盧国(唐津)から邪馬台国まで二千里程度と考えられる。
韓国南端−対馬、対馬−壱岐、壱岐−唐津の間が、それぞれ千里余で50-100kmに相当。
したがって、最遠200kmでしかも直線距離としても広島県を出ない。
一方、唐津から宇佐までは、直線距離で100km程度、筑紫山地があるため、小倉を経由する実際の
陸路では150km程度であり、二千里として距離的につじつまが合う。
A月日での距離表示については、隋書などの「東西五月行、南北三月行」を採用。
当時の日本の範囲として長崎−愛知を五月、対馬−鹿児島を三月とすると、一月は約150km。
不弥国以降邪馬台国までは、放射説で考え、「水行十日または陸行一月」と解釈すると150kmで
里数とも整合性が得られる。
B末慮国から伊都国への方向や、後の中国の地図より、当時の認識として確かに45-60度程度の
狂いがあったと考えられる。
この狂いを当てはめると、玄界灘から関門海峡は南東に進むことになり、関門海峡から周防灘
へはまさに南に進むことになる。
そして、その左岸、つまり中国側が投馬国、右岸(豊前)が邪馬台国として説明可能である。
しかも、邪馬台国は「水行・陸行」より、陸づたいでも行けることが分かる一方、
投馬国は「水行」のみでの記載となっており、関門海峡をわたる必要がある中国地方を見事に
言い表している。
C水行二十日の投馬国は、もし陸行なら二月=約300kmとなる(ただし潮流の違いなどで
誤差が出ると考えられるが)。
よって吉備あたりと推定されるが、出雲や丹波などの中国地方を包括していたかもしれない。
D豊前(あるいは豊後も含め)を邪馬台国と比定すると、まさにその国の東(国東半島)から東に渡航
すると「女王国の東、海を渡る千余里」で、四国に上陸し「また国有り、みな倭種」となる。
E南には狗奴国として有力な熊襲があり、裸国・黒歯国は薩南・琉球諸島と考えられる。
44 :
豊前説:04/12/02 13:49:30
>>11 >ここは在地系と外来系に住居も分かれており、対等な関係であったことを示す「市」の跡もあります。
具体的にどのような遺跡があったのか教えていただけますか?
45 :
鳴海孝之@四王朝交代説:04/12/02 16:12:14
もー長すぎて読む気なくすよww
46 :
日本@名無史さん:04/12/02 19:37:51
>>11 >ここは在地系と外来系に住居も分かれており、対等な関係であったことを示す「市」の跡もあります。
>また三雲遺跡でも同様の交流を示す土器流入が確認されています。
>それぞれ伊都国、奴国と目される地域は3世紀中葉から後半には
>濃密な経済及び人的交流があったことは動かしがたい事実ではないでしょうか。
3世紀後半なら、卑弥呼の時代より後でしょ。
北九州の邪馬台国勢力が畿内に押され始めた時期と考えれば問題ない。
それに、4世紀初頭ではなく、3世紀後半とした根拠は何ですか?
47 :
日本@名無史さん:04/12/02 20:31:37
一番重要なのは出雲との関係。
出雲が鉄を握っていて、それが邪馬台国と深い関係がある。
ちなみに、伊勢神宮のトヨウケはトヨの事では?
アマテラスが卑弥呼。
邪馬台国は連合国家で日本各地から王を招集していたのかも?
48 :
日本@名無史さん:04/12/02 20:39:47
「イセ(伊勢)」は、「ウサ(宇佐)」の東国訛りだろうな。
49 :
日本@名無史さん:04/12/03 00:10:44
淡海三船は、すべてを知っていたのだろうか
だとしたら、それはどのように伝えられたものだったのだろうか
50 :
日本@名無史さん:04/12/03 00:16:36
51 :
日本@名無史さん:04/12/03 06:43:28
大和の遺跡からは中国と交易していた証拠と見られる文物も多く発見されるわけだが、
「倭の五王」が朝貢してた時代の遺跡からは、中国の文物は出てこない。
なぜ?
52 :
日本@名無史さん:04/12/03 06:54:06
魏史という本が中国では歴史書としてどの程度の信頼性の在る物なの。
53 :
日本@名無史さん:04/12/03 07:03:44
54 :
日本@名無史さん:04/12/03 07:07:55
>>53 三国志って歴史的読み本なのになんでヤマタイにだけ拘るんだろう?
55 :
日本@名無史さん:04/12/03 08:36:06
>>51 倭の五王は、九州王朝(タイ国)の王だから?
56 :
日本@名無史さん:04/12/03 08:56:04
昔のスレでは、畿内説の人は、九州から畿内への東遷を否定するために
「畿内からは九州の土器が出てこない」ことを挙げていた。
それが今では、九州から畿内へ鉄が持ち込まれなかったことを否定するために、
「畿内からも九州の土器が出ている」ことを挙げている。
どうでもいいが、九州から大量の鉄器が畿内に持ち込まれていたことを示すほどに、
多量の九州の土器が畿内から見つかっているわけではないということは認めるべきだ。
57 :
日本@名無史さん:04/12/03 10:04:51
卑弥呼は中国から渡ってきた太平道・五斗米道の
初期道鏡の巫女。
58 :
日本@名無史さん:04/12/03 10:14:19
倭の五王は、朝鮮半島南部(任那)を支配していた地方首長。
日本型の前方後円墳を築造したのも彼ら。
時代も丁度合う。
59 :
日本@名無史さん:04/12/03 10:24:41
>>58 NO.
それなら九州に天孫降臨する神話など作らないし、
宇佐神宮も歴史にでてこない。
60 :
日本@名無史さん:04/12/03 10:28:25
>>三国志って歴史的読み本なのに
読み本とはあんまりだろうw
61 :
日本@名無史さん:04/12/03 10:31:12
任那の王族と九州の邪馬台国一族が
連合して、畿内大和朝廷を打ち破ったのだろう。
任那代表の王族と、邪馬台国代表の神功が
結婚してその子供が応神。
62 :
日本@名無史さん:04/12/03 11:12:36
>>59 倭の五王が、大和朝廷になったとは言ってない。
大和朝廷の分家の任那の王が、倭の五王として朝貢していたということ。
朝鮮半島支配の称号を欲しがっていた理由も説明付く。
63 :
日本@名無史さん:04/12/03 11:27:05
64 :
日本@名無史さん:04/12/03 12:36:21
また阿蘇厨か。
>>57 渡って来たという文献、資料等はどのようなものかね?
66 :
日本@名無史さん:04/12/03 16:03:40
鏡を使った鬼道は道教の典型。
67 :
日本@名無史さん:04/12/03 16:21:35
銅、鏡、道教、巫女といえば、やはり宇佐か…。
68 :
日本@名無史さん:04/12/03 16:24:22
鏡、銅、道教、巫女といえば、やはり宇佐か…。
69 :
日本@名無史さん:04/12/03 20:42:48
卑弥呼=日巫女=天照大神で決まりでしょ。
こう仮定するとすべてが一本の線につながる。
248年の日食は天照の岩戸隠れ。
天照の子供の天忍穂耳命の妻は万幡豊秋津師比売命。
この名前の中に入ってる、豊=トヨ=台与。比売=宇佐神宮の比売大神。
その4代後が神武。年代的に見て応神と一致。
神功皇后は邪馬台国の巫女。応神は名前のとおり
崇神王朝の血統が絶えたので大和朝廷の大王になることを
要請されこれに応じた。ゆえに応神天皇。
仁徳は日向の髯長媛を妻に娶っていることから日向との関わりも深い。
70 :
日本@名無史さん:04/12/03 21:27:17
天孫降臨が紀元前100年・・・天照大神の時代
紀元後238年の魏への朝貢・・・卑弥呼の時代
天照大神と卑弥呼が同一人物だったら大変だ
徳川家康と小泉首相を同一視するようなもの
71 :
日本@名無史さん:04/12/03 23:23:52
天孫降臨を紀元前のことと単純にとらえた場合でしょ。
実際はどうかわからない。
72 :
日本@名無史さん:04/12/03 23:26:09
73 :
日本@名無史さん:04/12/03 23:34:35
しばらく見ないうちに電波&お花畑満開になっとるな。
三国志を読み本呼ばわりしてるのまでいるし。
やはり纏向説氏が出てこんと議論が進まんのか。
74 :
日本@名無史さん:04/12/03 23:53:20
電波呼ばわりの唯我独尊にも困ったものだ
纏向説氏には、
>>20についての見解を聞かないと。
話は、それからだな。
77 :
日本@名無史さん:04/12/04 11:19:08
天孫降臨など新羅伽耶の降臨神話のアレンジ。
違う所は伽耶神話ではその降臨は民衆に歓迎されているが、日本の降臨神話では敵対する勢力があった事を示している。
神武東征も敵がいたし、降臨神話にあるクシフルと神武が即位した橿原との音の類似も気になるところ。
伽耶の降臨神話の亀旨峰(きじほう)とクシフルの類似は昔から言われている。
考古学的には応神王朝以後の新羅系遺物の増加が気になる。
伽耶が関係している事は間違いない。
邪馬台国が(ありえないとは思うが)畿内にあったとしても邪馬台国と現天皇家は関係ないだろう。
78 :
日本@名無史さん:04/12/04 12:16:36
桃太郎が鬼退治するときに配る団子が「吉備」なのは偶然ではない。
宝を隠してる鬼が島=鉄貿易をしている九州邪馬台国
桃太郎=モモソヒメ
犬・猿・雉=畿内大和連合
79 :
日本@名無史さん:04/12/04 13:01:23
童話を無理やり邪馬台国の時代にあてはめて解釈かww
聖書の暗号とか言ってるやつと変わらんな。
80 :
日本@名無史さん:04/12/04 13:20:11
>>79 童話?
桃太郎は、浦島伝説と同じく、いつの時代から伝承された話か不明なんだよ?
神代から伝わっていた史実を反映していたとしてもおかしくない。
81 :
日本@名無史さん:04/12/04 14:23:33
素人考えだけど、
日本書紀の中に、壬申の乱の時、戦の勝利を祈願するため、
天武天皇が神武陵に馬や兵器を奉ったという記述があるんだよな。
しかも、その時、箸墓で戦った豪族のことも書いている。
箸墓が特別な意味のある墓だったら、後世に戦勝祈願に馬具を奉納して埋めたという
可能性はないかな。ほとんど盗掘されたけど、残っていたのが発掘されたとかさ。
高天原って「原っぱ」だったのかね
高原の原っぱ
83 :
日本@名無史さん:04/12/04 20:30:23
「原」は九州では「ばる」だ。
「ばる」は古朝鮮語で「伐(ぼる)」と同じだろう。
それで古朝鮮語の「伐」は「国」の事なんだ。
九州と古代朝鮮は三国志にも南部に倭人が居たと書いてあるように言葉もかなり似ていただろうからね。
判るだろ。
高天原が九州だったとしても、朝鮮だったとしても「原」は「国」なんだ。
安置朝鮮は九州の「ばる(国)」の事だと思えばいい。
>>83 「古事記」は九州の国生み前の、天地の初発に『高天原』の存在を書いている。
従って、すでに存在した『高天原』のあとに国生みされた九州が『高天原』というのは
間違いである。しかしながら「古事記」の文は第2次的の意味で『高天原』を指定している
ようであり、そういう第2次的意味合いでは九州のどこかに『高天原』があったと言って
もそれは間違いではないだろう。
85 :
日本@名無史さん:04/12/04 20:41:42
しかし原の付く土地はだいたい原っぱみたいな地形が多いぞ
それと唐津出身だが近所には「原」一字のところがあってハルと発音している
筑前のほうに行くと前原や春日原などがたくさんのバルがあるが
これらはほとんど後ろに付いているので「原」は地形接尾辞で発音上濁ったのじゃないかと思う
86 :
日本@名無史さん:04/12/04 20:54:33
九州の「ばる」が朝鮮語起源なのは確かみたいだね。
87 :
日本@名無史さん:04/12/04 21:40:07
>>85 >しかし原の付く土地はだいたい原っぱみたいな地形が多いぞ
海岸の狭いところに島原なんてあるし、谷間にも河原、竹原、山の上にも世知原なんてあるなあ。
>>86 >九州の「ばる」が朝鮮語起源なのは確かみたいだね。
タミル語の「palum」が起源と言う香具師もいる。語源は一緒でも起源が朝鮮とは限らないと思う。
国譲りってさぁ。
太陽の女神に征服される蛇神。
世界中にある話だ。起源はギリシャ神話かな?
89 :
日本@名無史さん:04/12/05 00:27:49
>>85 海岸の狭いところに島原なんてあるし、谷間にも河原、竹原、山の上にも世知原なんてあるなあ
猫の額ほどの土地でも人が住むことが出来るくらいの平坦な土地を原(はる)と言ったんじゃないかと
もっと広い平らな土地は野(の)と言うんだと思う
90 :
日本@名無史さん:04/12/05 00:39:04
朝鮮語の影響で「ハル」は「墾る」つまり「開墾」を意味します
開墾され人が住みついた土地に付けられることの多いですので
基本的にはある程度の平坦地があれば 広いところも狭いところもあれば海岸や山の上にもあります
91 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 01:14:48
>>20を拝読いたしました。
しかしこれを以ってして「乗馬の習慣」を証するとの論説は未だ未見です。
当の桜井市教育委員会もそうは考えていないでしょう。
実際に馬の飼育(これを「牧」といいます)が確認されるのは、5世紀中葉〜6世紀中葉まで待たねばなりません。
大阪府四條畷市の奈良井遺跡や長野県飯塚市の伊那谷地域、他には群馬県西部などですね。
さて、箸墓の周濠にて出土した木製輪鐙の破片ですが、形式としては大阪の蔀屋北遺跡、滋賀の神宮寺遺跡、宮城の藤田新田遺跡などと同系統のものです。
同様に木製の鞍も河内や奈良から10点ほど出土しておりますが、これらは全て環濠や廃棄場所などから発見されています。
5世紀に出土する初期馬具が、古墳の副葬品であるのに対して、非常に扱いがぞんざいなのです。
現在最も考えられる解釈は、一部の渡来人が持ち込んだものか、または実用品ではないが乗馬用具のみが伝えられたかでしょうね。
「牧」や「乗馬習慣」があったと主張する為には、牧草地や厩などの飼育及び管理施設、また交配や乗馬技術、調教用具などが発見されねばなりません。
しかもあまり耐久性のない木製馬具のみの出土からは、乗馬の習慣を主張するには無理があると考えます。
92 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 01:50:27
>>16 A1、後漢書に言う大乱時期が真に「桓霊の間」であるならばその直後、つまり2世紀末でしょうね。
但しそれ以前に瀬戸内に面する各クニごとに、この状況に対してかなり温度差が見られますので
発掘事実から鑑みると、2世紀末から3世紀初頭の高地性集落の放棄期間の内であろうと考えます。
A2、私は主に瀬戸内から東海、北陸にかけての「冷戦」と考えています。
と言いましても九州vs近畿といった2極の争いではなく、隣接もしくは近隣同士の小競り合いが発端ではないでしょうか。
この小競り合いは2世紀以前から連綿と続いていたものであり、高地性集落という極めて防御性に優れた施設が普及したことにより膠着状態になったと考えます。
実際、例えば一口に北九州、出雲、畿内と言っても、その地域内で東西や南北では習慣や文化形態に差異があります。
A3、2の後半部分も含めてですが、高地性集落の解体は北九州の瀬戸内側、つまり豊前から始まり瀬戸内を東に向かって畿内で終結します。
ここが最大のキモなのですが、玄界灘グループだけでなく武力的な圧力はどの地域にもほとんど無かったのではないでしょうか。
まれに武力衝突があったと考えられる遺跡がありますが、私の知る限りでは3箇所ほどです。
この解体現象に先立ち、各首長間で話し合いが持たれたのかどうかは遺物からは判断できません。
ただ解体したそばから異常とも言える勢いで、各クニや地域の土器が交ざり合います。
この状況から、一種の開放政策に近いのではないかと考えます。
玄界灘グループがこれに参加したのは、遺物からして3世紀に入ってからのようです。
93 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 02:22:54
>>30 もちろん教授などではありません。
前スレにて「かわす様がまるで老教授のようだ」と評されたのに爆笑したため、コテに使わせていただいております。
もし不遜ならば控えますよ。
>>44 >>46 福岡県西新町遺跡を例にとると、各地の土器が交ざり合って出土する地域が各住居跡とは別に確認されています。
もうひとつ象徴的なのが三雲、井原、平原から北西の加布里湾地域です。
御床松原、深江井牟田、神在横畠、補志、志登などの遺跡群からは楽浪系漢式土器、韓式土器、瀬戸内系土器などが在地系とほぼ同じ比率で出土します。
これらは3世紀中葉から末にかけて顕著に見られます。
西新町と同様に各土器がかたまっている地域と入り乱れている地域に区分されます。
その東隣の今津湾は志登から三雲、井原に向かって伸びる道路上の遺構が確認されています。
これも3世紀中葉と考えられています。
この志登、三雲井原ラインは4世紀初頭までのごく短い期間に最盛期を迎えます。
それまでの伊都国とは性格の異なる状況展開ですね。
なお今津湾沿岸は3世紀末か4世紀初頭から突如、御道具山古墳を始めとする前方後円墳が集中して建造されます。
私見ですが、ここが「一大卒」の置かれた場所であると考えます。
94 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 02:39:14
高地性集落について、少しばかり興味深い話をば・・・。
3世紀初頭には瀬戸内や山陰、北陸、東海からほぼ姿を消すのですが
例外的に3世紀中葉に突然発生して後半に姿を消す超短期型が確認されています。
南九州の瀬戸内側、つまり大分・宮崎の海岸線と新潟周辺の山間地、それと関東平野西部です。
時期的に倭人伝のいう狗奴国と女王国の関係が緊張し、檄文などが魏から告諭された時期ですね。
証拠とするにはまだ根拠が薄いのですが、面白い現象だと思います。
95 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 03:08:47
ついでに日食について・・・。
アスキーのアストロノーツによれば紀元後の列島内における日食は
001/6/10(皆既)奥羽北部、041/4/19(金環食・皆既)九州南方海上、
053/3/9(金環食・皆既)四国から中国、154/9/25(皆既)本州中部、
156/3/9(皆既)奥州、158/7/13(皆既)中国から四国、
179/5/24(金環食・皆既)奥州北部、200/9/26(金環食)奥州北部、
そして247/3/24が17時半頃より(皆既)九州西方海上、
さらに248/9/5が午前5時頃より(皆既)能登半島から奥州、
なんと254/10/29が午前11時頃より(金環食)奥州、
も1つ273/5/4が午後4時頃より(皆既)本州中部・・・あとは
301/4/25(皆既)本州北部、302/10/8(皆既)九州南方海上、
308/11/30(金環食)九州南方海上、328/5/26(皆既)近畿から中部、
384/10/31(皆既)奥州・・・以上が4世紀までのデーダです。
96 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 03:18:18
観測地が晴天だと仮定しての話ですが
247年が観測できるのは長崎県か熊本県の沿岸部に限定されます。
北部・中部九州だと欠けたかな?との段階で山岳に沈みます。勿論畿内では観測不可能です。
248年は奈良盆地ではよほど意識して待ち構えていないと、確認は難しいでしょう。
勿論九州での観測は出来ません。
もし日食が政変に直結するのならば邪馬台国は中部より北、特に奥州地方にあったとした方が良いかと思います。
97 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 03:49:06
もひとつついでに・・・
私は九州勢力のエポックメイキング的な東遷や東征はどの時代においても想定しませんが
入り婿や入り嫁もしくは一部グループの移動と言った「部族融合」は大いに有り得ると考えます。
記紀の神武紀やそれに続く八代の婚姻記事などがそれを示唆しているようにです。
出雲、吉備、讃岐、伊予、東海、近江などの原ヤマトの初期構成首長についても同様です。
これが余分とも思える八代の記述が必要不可欠だった理由ですね。
神武紀が征服譚としてはやや饒舌な上、終盤の盛り上がりに欠ける展開なのも興味深いです。
スレ違いになりますが、崇神以降も記紀の通り在位したとは考えにくいですね。
記紀や延喜式の陵墓記述が正しいのなら、王陵の築造年代順とは一致しませんし逆もまた然りです。
5世紀の佐紀古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群などは各々が並列して築造されていますので。
記紀はあくまで天孫宗家の記録であって、傍流が即位した事実を消し去ったかあるいは組み込んだか・・・。
考古学ではこれ以上踏み込めませんが、ひとつの考え方としてご参考までに。
98 :
日本@名無史さん:04/12/05 07:43:53
>>91 >現在最も考えられる解釈は、一部の渡来人が持ち込んだものか、または実用品ではないが乗馬用具のみが伝えられたかでしょうね。
木製輪鐙自体は無意味に渡来人が持ち込んで捨てたもので、
あくまで「箸墓築造は3世紀」だと言いたいわけか。
99 :
日本@名無史さん:04/12/05 07:59:01
>>95 >>96 多くの人が勘違いしているようだが、確かに奥州地方でも日食はおきている。
しかし、九州〜奥州〜北海道にかけて観測された日食は、すべて「部分日食」
「皆既日食・金環食」ではない。
欠け具合は、九州〜畿内は三日月程度で、奥州では一日月程度に欠けている。
たいした違いではない。
もちろん、この程度の日食は、日本でも数年置きに観測されるもので、
政変の原因とは考えられない。
>もし日食が政変に直結するのならば邪馬台国は中部より北、
>特に奥州地方にあったとした方が良いかと思います。
したがって、これは根拠が無い盲説。
100 :
日本@名無史さん:04/12/05 08:27:38
>>92 文が長いので読み下すのに苦労しました。
1、卑弥呼の共立時期は?
>2世紀末から3世紀初頭の高地性集落の放棄期間の内
2、「倭国大乱」の規模は?
>瀬戸内から東海、北陸にかけての「冷戦」
3、北九州が畿内との連合を受け入れたのは、武力による圧力か?
>武力的な圧力はどの地域にもほとんど無かった
>一種の開放政策
さて、老教授@畿内説纏向派氏、
貴方のストーリーでは、北九州は2世紀まで畿内と「冷戦」をしており、
3世紀初頭までに、「武力によらない方法」で北九州は畿内と連合し、
畿内の邪馬台国・卑弥呼に従う道を選んだというわけですね?
そのような、平和的な同盟関係を築きながら、北九州はなぜ没落したのか?
畿内と協力した北九州は、より発展し、多くの前方後円墳が作られるべきではないか?
実際は、4世紀以後、北九州は自治権を奪われ、王権が消滅したように見える。
あなたの答えは、ポイントごとに見れば考古学的事実に沿っているように見えて、
全体的なストーリーは、北九州がなぜ没落したかという疑問を何も解決していない。
違いますか?
眠たい・・・・・(赤ちゃん夜泣きで困ったなw)
K1も気分悪いんで一杯飲んで夜更かし。
あんまりスレコテ増えませんね。一時の荒らしさんもいなくなってるし、話がしやすくなってるのにね・・・。
公務員氏はいじめすぎたかな?彼は荒らしではなかったんだけど・・・。
老教授さん、二倍年歴ってご存じですか? 古田氏が言い出したことで、年齢を数えるのに収穫期を一年
として数えていたのではないか?と言う説です。最初はそんなことあるかなと思っていましたが、その後古
賀氏の詳細な研究によって、ギリシャ、中国、インドなど古代人はいずれも記録上は闕史八代の王達と同
様の年齢だったという事が示されるに及んで、結構信憑性のある話かも知れないと思うに至っております。
例えば有名な孔子の「15にして学に志し、30にして立ち、40にして惑わず、50にして天命を知る。60にし
て耳順、70にして心の欲するところに従って矩をこえず」なんかも、当時の平均寿命が30才ぐらいという説
もある時代で、50にして天命を知っても遅すぎ・・・というのも頷けます。顔回の没年も諸説あるそうですが、
有力な42才だったとすると、当時の平均寿命に照らせば、むしろ長生きとなってしまうw
天皇 古事記 日本書紀 在位 ÷2(書記) 在位
神武 137 127 76 68(63) 38
綏靖 45 88 33 22(44) 16
安寧 49 57 38 24(28) 19
懿徳 45 77 34 22(38) 17
孝昭 123 137 83 61(63) 41
孝安 123 102 102 61(51) 51
孝霊 106 128 76 53(64) 38
孝元 57 116 57 28(58) 28
開化 61 115 30(57) −
崇神
垂仁 153 140 99 76(70) 49
景行
成務 95 107 60 47(53) 30
(中略)
雄略 123 23 61(−) 11
平均 93 109 62 46(54) 31
これでも苦しいw でも、一応人間の枠内には入りますね。八代の合計が248年で、神武が紀元前後。
これだとやはり邪馬台国とは絡まないので、天照=卑弥呼の図式は成り立ちません。まあ弥生が引き
上がっており、光武帝への朝貢の時点でも天孫降臨のずっと後であることは間違いないので、卑弥呼
≠天照なら十分あり得る数字かなとは思います。それでも各年齢や在位が長すぎるようですが。
660年捏造説は、記紀で数字が相当異なっているのでそれもあるのかもしれませんが、八代の天皇
そのものが捏造されたというのは私的には反対です。何度も書きましたが、そんな畏れ多いことをやる
はずは無いと思います。神武記のリアルな記録とともに、実在したと思います。古墳との比定は、畿内
の発掘が不可能なこと、年代比定がまだ土器偏重に過ぎることなどから、考古学的指標としては白紙
といっては言い過ぎかな?
103 :
日本@名無史さん:04/12/05 09:07:55
150年代に日食が起こり倭国大乱勃発。
240年代に日食が起こり卑弥呼暗殺。
当時は太陽信仰が盛んだったことがわかりますなあ。
それにしても昨日のK1、日本最強戦士とやらが
あのざまでは卑弥呼も泣いてるだろうw
>>101 平均寿命30歳って・・・30で一斉に死ぬわけじゃないだろう。
新生児の平均余命のことだよ。
1歳で逝くのもいれば、卑弥呼みたいに年長大なのもいる。
105 :
豊前説:04/12/05 09:17:03
>>97 夜遅くまでお疲れさまです。
一つお聞きしたいのですが、考古学的には古代の戦いの跡というものは
はっきり分かるものなのでしょうか?
たとえば、畿内説にて倭国大乱に例えられる武埴安彦の反乱や熊襲との戦い、
朝鮮半島の白村江の戦いなど遺跡として存在しうるのでしょうか?
もし、ある古代都市が武力で征服されたとして、そこに征服者たちが
移り住んだなら、当然戦いの跡は消されてしまうと思います。
もし、渡来人により兵法などが伝わっていたとしたならば、戦いは
山間部の谷で起きたかもしれません。だとするとまだ発掘されて
いない可能性もあるかもしれません。
106 :
豊前説:04/12/05 09:17:50
以前、頭蓋骨の骨傷が証拠になるとのことでしたが、衛生状態が悪く、勿論
抗生物質もない当時は、ちょっとした傷でも破傷風や敗血症などを起こし、
死に至る可能性が高かったと思います。ならば敢えて標的となりにくい頭
ではなく、むしろ狙いやすい胴体を攻撃したことの方が多かったのでは
ないかとも想像します。だとすると、ほとんど骨傷は残らなかったと
考えられます。
頭蓋の骨傷がみつかった遺跡では、同様の遺体が他にも沢山見つかっているので
しょうか?
107 :
豊前説:04/12/05 09:18:16
それから、当時の戦争についての認識ですが、かなり現在と異なっていた
のではないかとも思います。
例えば、古代の中国においては、何万の軍隊であろうとも、その総大将が
やられるとあっけなく総崩れになっています。そして、敗残兵は簡単に
敵将に投降して、今度は敵方の部下となっています。つまり、武士道なる
ものが成立し、たとえ苦境に立とうとも死ぬまで戦うといったのは
ずっと後世の話で、古代の戦争では我々が思うほどに死者が出ていなかった
のではとも思うのです。(項羽が秦の章邯を降伏させた際も20万人も捕虜として
います。まあ、この際は後に項羽が心変わりをして虐殺していますが)
108 :
豊前説:04/12/05 09:18:38
記紀については、勿論全てを信用しているわけではありませんが、国家の正史と
して書いた以上、嘘八百ではなく、その虚偽も朝廷の都合によくするという目的が
あったと思います。
そして裏を返せば、それ以外の話には、何らかの原型となるストーリーがあったと
思うのです。
で、神武東征ですが、九州からやってきたとするのは必ずしも朝廷に都合のよい話で
あったとは思えません。むしろ都合が悪かったとさえ考えられます。
にもかかわらず記載されているのは、基となるストーリーがあったからではないかと
思います。
そして、その記載では、神武の兄弟、五瀬命、稲飯命、三毛入野命と3人もの兄が
命をなくしています。
これは、婚姻による「部族融合」などという生易しいものではなかったと思うの
ですが・・・。
109 :
豊前説:04/12/05 09:26:45
>>91 >現在最も考えられる解釈は、一部の渡来人が持ち込んだものか、
>または実用品ではないが乗馬用具のみが伝えられたかでしょうね。
ということは、鐙は3世紀末から4世紀初めで間違いないということですか?
馬のいない時代に、実用品でもない馬具が持ち込まれるというのは
こじつけのように思えるのですが。
110 :
日本@名無史さん:04/12/05 09:34:29
>>105 老教授は、戦法・戦術という視点を欠いているんだろう。
環濠遺跡から首の無い遺体が見つからなければ、戦闘が無かったと考えているらしい。
そもそも、集落を包囲されるまで攻めらるのが稀であって、
集落から離れた要所に兵を配置したり戦場になったりするものだろう。
海戦ともなれば、遺跡なんか残らない。
高地性集落の時代に海戦が無かったと考える方がナンセンス。
街道の無い時代に、陸上で兵を進めるわけがない。
111 :
日本@名無史さん:04/12/05 09:36:04
神武東征は応神東征を元に書かれたこと。
継体天皇が応神5世を名乗ってしまったため、
その後の天皇家では応神を美化せざるを
えなくなった。本当は血のつながりなんてないのにw
112 :
豊前説:04/12/05 09:37:36
>高地性集落の解体は北九州の瀬戸内側、つまり豊前から始まり瀬戸内を東に向かって畿内で終結します。
>例外的に3世紀中葉に突然発生して後半に姿を消す超短期型が確認されています。
>南九州の瀬戸内側、つまり大分・宮崎の海岸線
自説、天孫降臨(宇佐>日向)の裏付けになりそうな気がします。
>>108 青谷遺跡の発掘で、実際に相当な戦闘があったことが有力視されていますね。鉄の鏃による殺傷痕も
あり、鉄製兵器の存在も予想されます。
高地性集落といっても年代、分布も様々でまだ諸説確定していない模様ですが、やはり農耕の普及か
ら成熟期に入る時代にわざわざ高地に要塞を築く理由は、やはり後世の山城と同じような目的もあった
のではないかとイメージできますよね。
所謂防衛性高地性集落の分布から見ても、鉄器と生産力によって優勢な九州勢力が、東漸するに至っ
たのが2世紀頃ではないかと思うのですが。
神武の場合はその記録にもあるように、相当な苦闘の果てになんとか奈良盆地の南部に拠点を作った
程度で、本格的な九州勢力の拡大はその後で、その激闘の痕が高地性集落ではないかと思うのですが。
もちろん神武勢力自身勢力拡大も行ったかも知れないし、血族的な水先案内人になった可能性はあると
思います。実際どの程度の政治的脅威だったのかにもよりますが、それが巨大な物であったとするならば
恭順の意を表して婚姻を結ぶことも重要な政治的儀式だっただろうと想像できます。
114 :
豊前説:04/12/05 09:53:29
>>101 一応九州王朝氏、二倍年歴ですが
「魏略に曰く…其(倭)の俗、正歳四季を知らず。但々春耕、秋収を計りて
年紀と為す」。
と書かれていますよ。
また、欠史の248年をまるまる引いてみてください。
天照=卑弥呼(or台与)が成り立ちますよ。
115 :
豊前説:04/12/05 09:56:13
>>99 >したがって、これは根拠が無い盲説。
纏向氏は、それを主張しているのではなく、そういうことさえ
いえるといいたかっただけだと思いますよ。
116 :
豊前説:04/12/05 09:58:44
>>101 心配しなくても、「公務員氏」は、名無史さんで
顔を出しているようですよ。
天津神
↑
山神← →海神
↓
国津神
高地性集落は、天と地の争いじゃなくて山と海の争いの残滓じゃないか?
陸地の権力が、西から東へ移動することとは別に制海権の変遷が有り、
宗像、宇佐、三島、住吉とか各系統ごとの跋扈に対応して、
各地の陸上勢力が防御を固めた結果かもしれない。
なんだい、トンデモの巣窟だったのかよ。
118 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/12/05 11:22:01
なんだい、トンデモの巣窟だったのかよ。
(゚Д゚)y─┛~~ (久しぶりに涌いたか・・・・・)
120 :
日本@名無史さん:04/12/05 11:57:11
邪馬台国はなかった
ただしくは邪馬一国 三国志にはすべてそう書いてある
後漢より承認を受けていた北九州の倭国王の権威が、何らかの理由で失墜→倭国大乱
→卑弥呼共立という流れだったと思います。
この当時の倭国王に期待されたのは、そのブランド力、紛争調停能力だったのでしょう。
室町期の足利将軍のような。
「北九州勢力が畿内に東征し、畿内に王権を樹立した」のような大規模な遠征を想定する
のは、人口や当時の交通事情、国内の統一状況から考えても難しいのではないでしょうか。
大乱に疲れてどこかの人間を王として担ぎ上げようと
いうことになった場合、一応金印をもらっているあたりの
国の女にしておけば、権威付けとしても文句は出ない。
九州の王の未婚の娘を担ぎ上げて、マキムクに王都を
協力して作って手打ちという形にした。
123 :
日本@名無史さん:04/12/05 13:56:50
あ、またちょっと見ない間に工作員が強引に決めつけてる。
「ばる」は朝鮮起源だなどと。朝鮮古代語の文献がないくせに
決めつけるなよ、もう。
「ばる」はもっと南が起源だろ。
奄美とか沖縄に「やんばるくいな」って
鳥がいるけど、あの「ばる」と同じと思われ。
朝鮮に倭人がいたから、似たような言葉が違う方言として
残ったことはあろう。
どちらが先なんて、分からんのを決めつけるのは政治的妄想だ。
124 :
日本@名無史さん:04/12/05 14:23:31
>>123 おまえも決め付けるなよ。
じゃ、どうして「ばる」という地名は九州しか無いんだ?
日本古来の古代語なら、東北に残っててもいいし、
第一沖縄にだって「ばる」という地名は無い。
125 :
日本@名無史さん:04/12/05 14:31:13
おいおい、山原(やんばる)は有名だ。
126 :
日本@名無史さん:04/12/05 14:34:09
he who me you inner year coat
>>124 >123じゃないが、公式の地図には現れんよ。隠れてる部分もある。
128 :
日本@名無史さん:04/12/05 16:12:42
吉備・畿内に「ばる」という地名が無いのだから、
2世紀以前に東征があったとは言えないな。
129 :
日本@名無史さん:04/12/05 16:43:18
たしかに朝鮮語起源と断言はできんな
しかし南方語とも考えにくいと思うよ
ハルは九州全域で使われていて宮崎や鹿児島でも一部見かけるが 圧倒的に北部に偏ってる来ガス
漏れのすんでいた玄界灘沿岸の地方では原は90%以上ハルと読んでいる
「ばる」がもっと南が起源なら南でも8割以上の確率で読んでるはずだろ
だから、いい加減ハルとバルに使い分けがあることに気づけよ。
それに何でそんなに拘るんだよ。他のネタでやれよ。
131 :
日本@名無史さん:04/12/05 17:21:44
現代語の「ハヒフヘホ」は古代ではp音で始まり、
「パピプペポ」だったことが確実となっている。
原(ハラ)がバル・パルから変化したように、
博多(ハカタ)は、古代ではパクツであった。
パクツとは、当時の百済(パクツェ)の音を借りたものである。
132 :
日本@名無史さん:04/12/05 17:30:38
他国からの入植者が、入植地に自分達の名前を付けることはよくある。
ニューヨークは、イギリス・ヨークの人が付けた名前。
君らは認めたくないだろうが、北九州は百済の植民地とは言わずとも影響は大きかった。
言語もしかり。
133 :
日本@名無史さん:04/12/05 17:33:57
数詞の「ひいふうみいよう」も、元をたどれば、高句麗の言葉。
日本語は、朝鮮半島経由から、かなりの影響を受けている。
枝分かれしたのは、5000年くらい前だろう。
134 :
日本@名無史さん :04/12/05 18:22:25
すみません。初心者です。最近「倭国」に嵌ってしまいました。
須佐之男=出雲王朝による北九州諸国併呑→原倭国説は既出ですか?
私が読んだ説では
・須佐之男の渡来、出雲王朝設立
・北九州諸国併呑、卑弥呼(=天照)共立
・須佐之男死亡、大国主(婿養子)の登場
・卑弥呼死亡、大国主死亡
・出雲(建御名方)、九州(事代主)に分裂
・卑弥呼の息子天忍穂耳(もしくは瓊々杵)のクーデター、九州王朝交代
・近畿の長髄彦による饒速日の擁立
・九州王朝による出雲王朝・畿内王朝の併呑
・九州王朝の畿内への王城移転
などです。もしかして電波ですか?
ありゃりゃ、アヅマ人が入ってきちゃった
でも知識がないから現代朝鮮語関連でしか暴れられないのね
「ひいふうみいよう」はhe who me youで英語が語源って言ってる程度
136 :
日本@名無史さん:04/12/05 18:27:44
出雲は、新羅系渡来人の里だから、
百済系の北九州とは仲が悪かったろうね。
今でも、朝鮮半島の中で三韓時代の土地の人たちの間は仲が悪いもの。
137 :
日本@名無史さん:04/12/05 18:42:57
2世紀末、百済は新羅の攻撃にあって、防衛に力を入れたために倭国との鉄貿易が破綻した。
一方、新羅は、出雲と鉄貿易を始めたんだな。
こうして、3世紀に畿内吉備連合と九州の力関係が逆転したんだと思うよ。
朝鮮関係のレスのほとんどは釣りだろうから、反応しなくていいと思うが
139 :
日本@名無史さん:04/12/05 19:54:25
畿内大和朝廷が、2世紀末に九州を支配した経過を説明するには、
朝鮮半島情勢は無視できないだろ。
140 :
日本@名無史さん:04/12/05 20:13:44
「ひいふうみいよう....」は神様の名前だってことを知らないようだな。
141 :
日本@名無史さん:04/12/05 20:38:55
「ひいふうみいよう....」は物部神道の呪術です
「三国史記」あたりに出て来る地名とかいう話でしょ。
ただ、「元を辿れば高句麗の言葉」と断言できるわけではない。
高句麗語から日本語が分かれた、日本語から高句麗語が分かれた、
共通の祖語から両方の言語が分かれたという可能性が出て来る。
それ以前に、日本語と高句麗語には似てる単語が数十あるだけで、
音の対応が規則的なわけじゃない。
だから証拠不十分でどうにもならないってのが現状でしょ
144 :
日本@名無史さん:04/12/05 21:44:16
145 :
日本@名無史さん:04/12/05 22:40:33
アヅマはヤマトタケルが死ぬときに詠んだ歌からきてるんだぞ。
邪馬台国の時代とはなんの関係もないw
146 :
日本@名無史さん:04/12/05 22:45:39
イザナギ神話からきてるという説もあり、それも確かでないよ。
147 :
日本@名無史さん:04/12/05 22:49:51
>>109 箸墓周濠から見つかった輪鐙は実用品なんだな。
何しろ革紐を通す穴の部分が磨り減っていた。
だから使い古して壊れたから廃棄したのだろう。
橿原考古学研究所もこの輪鐙発見後、箸墓は卑弥呼や壹與の墓ではなく、壹與の後の男王の墓である可能性が高いと発表している。
壹與は250年ころ13歳で邪馬台国の女王になっている。
壹與は266年にも晋に朝遣しているから、当然生きていた。その後の男王の墓だから300年前後、もしくはそれ以後と考えるに至ったのだろう。
なにしろ、箸墓の輪鐙発見に際し、「4世紀の纏向を貴族が馬に乗って闊歩している様子が目に見えるようだ。」などという感想を述べている位だから、箸墓も4世紀と考えるようになったのではないか。
寺沢氏は昔から卑弥呼の墓は石塚か勝山だろうと主張していた。
いまだに箸墓を卑弥呼の墓といっているのは畿内説の学者でも極少数だと思う。
>橿原考古学研究所もこの輪鐙発見後、箸墓は卑弥呼や壹與の墓ではなく、壹與の後の男王の墓である可能性が高いと発表している。
壹與は250年ころ13歳で邪馬台国の女王になっている。
もはや狂人の妄想の域だな。それだけでそこまでわかるかっちゅうのw
うーむ、巻向氏の考古学的構成によれば、意外に記紀や倭人伝と調和的なんだな。
豊前勢力が東征(といえる程勇ましかったかは別として)して、山陽、畿内、
東海を統一し、大和政権を立てて、その後、南九州ないしは関東と対立する。
そうすると、倭人伝にいう卑弥呼は豊前で信仰されていた女性神(=比売大神?
当時天照という名前はなかったか?)のことで、共立したというのは、各地を
女性神信仰で統一したと考えてはどうだろう?
さらに、各地で信仰されていた神は、全部大国主と同一視されたという解釈も
できるな。大国主ってやたらと名前多いし。
卑弥呼が死んで男王が立つというのは、崇神が大物主を祀ったことをさすと考える。
しかし、塚とかトヨとか全く分からんな。所詮妄想か。トホ・・
150 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 23:14:19
一気にスレが伸びている・・・びっくり
K−1は消化不良でしたね。ガチと興業の兼ね合いの難しさを垣間見たような気がします。
>>100 >北九州がなぜ没落したか
玄界灘グループの隆盛の基盤がその経済力にあったと見ているからです。
寡占状態であった半島との交易、またおそらく半島在住の倭種との人的交流(つまり流通コネクション)
南国ルートから入るゴホウラなどの装飾品、本州各地との貿易。
特に本州との貿易はボロ儲けに近い状態と思われます。
金属器や装飾品の値(物々交換が基本ですが)は北九州の言い値で取引されていたのではないでしょうか。
弥生後期前半の北九州は東アジア最大の貿易地と言っても良く、まさにこの世の春といった風情です。
その頃本州は有力首長がクニをまとめ始め、小競り合いが始まります。
2世紀あたりから拮抗状態なるのが、倭国大乱の正体だと考えます。
同時に本州や四国、南九州が互いに北九州を介さない交易ルートを築きはじめます。
特に瀬戸内、山陰、近畿は金属器の普及により、飛躍的に生産効率が上がります。
151 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 23:14:58
これは北九州にとってボディブローのようにじわりと効いたのでしょう。
なにしろ生産キャパシティを超えた、いわゆるバブル状態に近い隆盛だったためです。
ここで話し合いなのか圧力なのかは不明ですが、本州特に近畿の北九州移入を認めます。
これを開放政策と例えたのですが、結果的に大失策だったのでしょう。
まさに庇を貸して母屋を取られるといったところです。これが3世紀の状況ですね。
ところが4世紀に入ってすぐ、高句麗の南下政策と西晋の滅亡という一大事が起こります。
その後も大陸は五湖十六ヶ国に、半島も高句麗により騒乱状態に陥ります。
ここで原ヤマト連合が大きく政策転換を行ったと見られますが
同時に玄界灘の古くから栄えた首長たちにとってはとどめの一撃でもありました。
これが私の考える玄界灘グループの興亡です。
ちなみに早くから原ヤマト連合に協力したと見られる豊前は、この間着実に勢力をのばしております。
152 :
日本@名無史さん:04/12/05 23:29:42
豊前の名前の由来は、
豊=トヨ=台与の前、
すなわち卑弥呼がいた場所を
示している。
153 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 23:33:22
>>147 本音を言えば輪鐙出土の一報を聞いたとき、オーパーツかよ!と思いました。
箸墓については合葬も視野に入れなければなりませんし、正直築造編年の限界をひしひしと感じます。
ああ、トレンチ一本でも良いから入れさせて欲しいです・・・。
>>148 >意外に記紀や倭人伝と調和的
そうかも知れません。なにしろヤクザに例えたら親が網干先生、伯父貴が森先生でして・・・。
現在は石野組系寺澤会と柳田会の狭間で細々と、といった感じです(笑)
154 :
豊前説:04/12/05 23:39:26
>>151 どうもです。
>ちなみに早くから原ヤマト連合に協力したと見られる豊前は、
豊前が畿内勢力に協力した考えられる理由を教えていただけませんか?
高知性集落の解体は、国力が増強し政情が安定したところから始まったと
考えるのが自然と思うのですがどうでしょう。
とすると、それが豊前から始まり畿内に終わるというのは、最後に畿内が
連合に加わったということではないでしょうか?
もし畿内の土器が豊前で見つかるというのが、仰る理由であるならば、
それは瀬戸内海で結ばれているがため、民間レベルでの貿易で、
中心国家であった豊前に畿内商人が流入しただけの気がします。
畿内勢力に協力したとは言えないのではないでしょうか?
155 :
豊前説:04/12/05 23:43:40
>>152 豊の国が豊前と豊後に分かれただけ。
(ただの釣り?)
>>147 >ああ、トレンチ一本でも良いから入れさせて欲しいです・・・。
なんとか頑張ってください。
156 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 23:48:39
>>101 かなり舌足らずな文章でした、申し訳ないです。
もちろん魏略逸文は知っています。
津田史観で指摘された部分を全て切り捨てるのではなく、再検討の価値は十分にあると言いたかったのです。
記紀編纂作業に際して伝承や系譜をどう当てはめていったのか?
切り捨てた部分は何か?また不明の部分が必ずあったはずなのにどう対処したか?
記述の事実確認もさることながら、編纂者の立場や当時の政治状況を推察する作業の重要性を感じています。
難しいのは、これが得てしてトンデモに嵌ってしまい易いため、慎重にならざるを得ないのですが。
157 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/05 23:56:35
豊前説さん今晩は。
リアルタイムで同席するのは久しぶりですね。
>>106-109のご質問にお答えさせていただこうと思いますが
かなりの長文になりそうですので、何か面白そうなネタがあればご提示ください。
それとちょっと愚痴とご質問・・・
日食データってアスキーのアストロノーツ以外で古代史に使われたものってありました?
部分日食まで入れたら書ききれないほどになりましたので金環食と皆既食のみ抜き出したのですが。
それともあれって質問した人はただのインネンなのかしら・・・。
庇って頂いた上に愚痴まで垂れて申し訳ないです・・・ええ、ワタシ飲んでます。
158 :
豊前説:04/12/06 00:04:41
申し訳ないですが、日食データについては私は無知です。
確かに他のソフトでも同様の確認をした方がよい気がしますね。
NASAやNASDA(名前変わったんでしたっけ)なんかで使用中のものが
手に入ると最強なんでしょうが。
159 :
日本@名無史さん:04/12/06 00:04:52
台与の後、すなわち3世紀終焉のころの
邪馬台国の場所こそ豊後のことである。
160 :
日本@名無史さん:04/12/06 00:07:36
>>150 北九州を介さない交易ルートって何処?
伊都国は北九州じゃないの?
変!!
161 :
日本@名無史さん:04/12/06 00:10:18
シベリアから蝦夷へいくルートがあったみたい。
162 :
豊前説:04/12/06 00:17:55
>>157 今、スレを見直してみました。
なるほど、アストロノーツと
>>99氏の結果が違うんですね。
99氏のデータの具体性がはっきりしないんで、利用ソフトと
もう少し詳しいデータを知りたいですね。
163 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/06 00:18:13
先に
>>154の方から
豊前はまず吉備&東出雲と協力したようです。
この吉備&東出雲は後に大和に伝わる特殊祭器を共有しています。
高地性集落が健在の頃からその結びつきは徐々に強くなり
特に土井ヶ浜あたりで弥生中期に匹敵するほどの盛り上がりを見せ、交易が活発化します。
吉備&東出雲は大和(特に奈良盆地南西部)とも結びつきが強かったようで
このラインが玄界灘グループに無言の圧力をかけたと考えられます。
豊前勢力にしてみれば、畿内に協力したとの意識は薄いと思われます。
これは豊前に限ったことではなく、おおむねこの時代の各クニに「統合」や「連合」といった
大掛かりな意思が確立していたのではなく、結果的にそうなったのではないでしょうか。
実は畿内説が一般にウケない理由のひとつに
この「無意識の経済連合」の概念が想像しにくい
むしろ軍事力などを連想した方が理解しやすいというのがあります。
あとで詳しく述べますが、強大な(侵略や軍事圧力が可能なほどの)軍事力が3世紀に確立していなかったことが
明らかになってきたため、考古学が畿内説の立場に立ったという側面もあります。
164 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/06 00:25:39
>>160 本当に私は文章が下手糞ですね。
北九州を介さない「国内における」交易ルートが2世紀内に発達した。
ではどうでしょうか?
それまでの国内貿易は、大なり小なり玄界灘グループの影響下にあったのです。
もちろん東海と関東、北陸と丹後なんて地域限定交流は省いてくださいね。
要するに玄界灘グループという「商社」を通さずに、西日本や瀬戸内で国内交易が活発化したということです。
165 :
日本@名無史さん:04/12/06 00:29:50
理数系のできない文系馬鹿が
あれこれ議論しても無駄w
166 :
豊前説:04/12/06 00:39:52
>>163 いつも貴重な生の話題を提供していただきありがとうございます。
>豊前はまず吉備&東出雲と協力したようです。
記紀に天照大御神が葦原中国にへ使者を送る場面がありますが
それを連想しますね。
(我田引水かもしれませんが、この辺の記述での葦原中国は
中国地方を示しているように思うのです。)
「無意識の経済連合」なるものについては、私も存在したものと思います。
ただ、経済が発達するとそこに生まれるのは貧富の差であり、
歴史的にそこには多かれ少なかれ争いが起こるものと思います。
そのことや記紀の記述を合わせて考えると、もちろん経済的な交流が
先にあったとは思うのですが、多少の武力衝突は起こったのではないかと。
167 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/06 00:48:50
>古代の戦いの跡
正直、判るものと判らないものがあります。
白村江の戦いなどはまさにそうですね。
現在ではあったとされるのが通説ですが、80年代には喧々諤々の議論が戦わされていました。
>>110氏のご指摘にも関係するのですが、近年の武器考古学では出土した遺物を復元して
戦争の実態をシミュレートする作業が盛んに行われています。
その結果、例えば吉野ヶ里で発掘された胸に鏃の刺さった人骨が多いのは
鎧を着けていなかったか、着けていても非常に簡素なものだったと考えられるとか
後期では頭骨に傷が集中するのは鎧が普及したためであろうとか
また頭蓋骨のない遺体などは、当時の剣の切れ具合からして死後切断の可能性が高いとか
何本もの矢を受けて、まるで弁慶の立ち往生のようだと讃えられた遺体が
弓矢の命中率と鏃の形状からして、縛られて射られたかあるいは死体に打ち込んだかではないかなど
まさに夢もロマンもへったくれもない鑑定結果が次々と出てきます。
168 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/06 01:03:12
こちらこそ有意義かつ楽しいやり取りに心底感謝しています。
>多少の武力衝突は起こったのではないか
これも判らない部分に相当しますね。しかし当然あったと思います。
つまりクニ同士の全面衝突が考えられないということでして・・・。
無血ではないが大量の血が流れたわけではないという、いわば大同小異の結託かと考えます。
この概念も判りにくいのは、同じ民族、同じ言語、ほぼ同じ文化同士での狭い領域での争いが
西洋史や東洋史に良く見られる殲滅戦や征服戦とかなり異なるためです。
かなり前のスレにチラッと書きましたが、記紀で随所に見られる「国譲り」という
特殊なタイプの従属(といって良いかしら?やっぱ連合ですか)を生み出したのではないでしょうか。
169 :
豊前説:04/12/06 01:15:36
>>167 なるほど、よって3-4世紀の遺跡には今のところ、そういった痕跡がないと。
ただ、やはり弥生前半ほどの壮絶な戦いはなかったのかもとしれないが、
東征を否定するものとも言えないようですね。
(前述しましたが、大将さえ討ち取れば、意外とあっさり勝敗はつき、
また広域経済で比較的平和な世だったからこそ、熊襲との対立で
実践経験のある神武側がそれ程大規模な軍事行動をとらずとも
よかったのではないかとも。記紀では最終的には長髄彦が毒殺でも
されたかのような記載に見えますし。)
170 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/06 01:20:44
それと胴体に矢が命中した場合、鏃は体内に残るんですよ。
これが上手くしたもので、鏃に薄い刃で出来た返しがついてまして
それと矢を引っこ抜くと鏃だけが残るような軽い固定状態にしてあるんです。
また体内で折れるくらいの強度に削ってあるとかの例もあります。
こういった凶悪wな実用武器は青銅、骨、石の素材に良く見られます。
ところが鉄製の鏃は返しが大きすぎたり(槍も同様です)重さのバランスが悪かったりで
実用には向きません。またこれらの鉄器が集落跡からではなく墳墓から主に出土することから
実際の先頭に使われたとは考えにくくなるのです。
第一使い捨てにするには高価すぎますものね。
唯一実用武器として考えられる鉄器は、主に北九州から山口県で出土する短剣、つまりナイフです。
ただ格闘時に使用したとはこれも考えにくい。焼入れをしていないので折れやすいのです。
実際は止めを刺したりするときに使用したのではないかと考えられています。
171 :
豊前説:04/12/06 01:23:26
>>168 >かなり前のスレにチラッと書きましたが、記紀で随所に見られる「国譲り」という
>特殊なタイプの従属(といって良いかしら?やっぱ連合ですか)を生み出したのではないでしょうか。
この辺りの解釈はおおむね同意で、「大乱(大いに乱れ)」なども
軍事的な側面よりも、政争的な側面が強かったのではないかと
思います。
172 :
豊前説:04/12/06 01:33:30
>>170 この辺の武器は、弥生前-中期のものと解してよろしいですか?
政変についてですが、「大化の改新」などの暗殺といった手法の原点も
どうやらこの辺にあるような気がしますね。
173 :
豊前説:04/12/06 01:43:44
この際にお聞きしたいのですが、遺跡の築造年はどこまで
信頼できるのでしょうか?
C14に関しては、較正曲線が西洋(ヨーロッパ?)のものを基準にしているため、
距離の離れた日本では必ずしも一致しないため、独自のものをデータを
もっと集めてつくるべきというのも見たことありますが、実際のところ
どうなんでしょう。
ああ、夜も更けてきたのでいつでもよいのですが。
(自分は勤務の都合上問題ないですが、無理なさらないでください。)
174 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/06 01:48:50
>>169 >東征を否定
畿内にそれを示すような物的証拠が見当たらないというのがこちらの立脚点なのですが。
しかしご存知のように文献的には非常に示唆に富んだエピソードがてんこ盛りです。
ナガスネヒコの「この世に王が二人もいる筈ないがな!証拠見せんかい!」に対し
イワレヒコが「たくさん居るんだyo!」って答えるあたりは大変興味深いです。
「たくさんですか・・・?」と戸惑ったナガスネヒコが最終的にどこぞの経理課長のごとく責任を取らされるのは哀れですね。
ニニギのある意味狡猾な振る舞いには、宮仕えの悲哀満載です。
脱線しました・・・「たくさん居る」と言うのがこの話のキモです。
あとイツセが真っ先に討ち死にするのが、先導する海の王(兄)の死を示唆し
陸路に至るまでに更にイナさんとミケさんがまるで持衰のごとく散り
最終的に陸の王であるイワレヒコが覇権を制するというストーリー仕立てになっている点など
もっと詳細な検討を加えてもいいと思います。
あと、イワレヒコをそそのかしたインチキコンサルタントのシオツツノオジイと
住吉三神の筒男との関係なんかも、どこかに話が残っていないものでしょうか?
175 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/06 02:14:13
時間は大丈夫です。お気遣いかたじけない。
>>173 ぶっちゃけC14は幅がありすぎるんです。
最低でも前後20〜30年、下手すると50年までも。
それと遺物が多すぎて測定が追いつかないとの実情でもあります。
スプリング8による銅鏡の成分分析も同様です(台風でぶっ壊れたままです)
そこで時代を細分化するために用いられるのが
一部では悪名高き土器編年です(笑)
多々批判はありましょうが、決して耳を塞いでいる訳でも強弁している訳でもなく
精緻になるべく自己批判しながら検討しております。
言い訳がましいのですが、考古学が「現時点では」を枕詞に
「・・・と考えられる」を結詞に使うのは、明日何が出てくるか判らないためです。
そういう意味では立脚点の脆弱な学問であるとの批判は甘んじて受け、過去の失敗を省みながらやるしかないですね。
「弥生時代の実年代―炭素14年代をめぐって」
春成 秀爾 (編集), 今村 峯雄 (編集) 学生社、2004
C14の成果については恐らくコレが最新の発表になります。
図書館などで閲覧してください。買うと高価いです。
176 :
豊前説:04/12/06 02:17:55
>>174 >畿内にそれを示すような物的証拠が見当たらないというのがこちらの立脚点なのですが。
舌足らずで失礼しました。もちろん、それを根拠に東征が存在したという
つもりはありません。
今のところ、現実にはどちらともいえずといったスタンスです。
それにしても自分は2chでは自分の領域の板には顔を出したこともない
のですがプライベートの時間まで専門領域に時間に費やすとは敬服です。
五瀬が高千穂・日向と、三毛入野命が豊前と関わりのある記述だとは
確信しているんですが、稲飯命はどこと関係があるのでしょう?
住吉三神の筒男あたりも分からないのですが、おいおい紐解いていきたい
ですね。
177 :
豊前説:04/12/06 02:35:48
>>175 >そこで時代を細分化するために用いられるのが
>一部では悪名高き土器編年です(笑)
なるほど。とすると、結局考古学的には、土器編年の方が、
今のところ信を得ているということなのですね。
そして、もし一地域の遺跡でみるならば、その変遷を細分化して
みることが出来ると。
ただ、他地域との遺跡と比較する場合、当時の交通手段として
流行の時差が生じたと思うし、流行の伝播した方向により、
解釈が違ってくるように思えるのですが。
178 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/06 02:55:48
>プライベートの時間まで専門領域に時間に費やすとは
えーと・・・どうリアクションすれば・・・
なんちゅーかまあ、好きだからと言うのもありますが
まわりにちゃんとした九州説を唱える方がいらっしゃらないんですよ。
最近このスレにお邪魔している大きな理由ですが
豊前説さんや一応九州王朝説さん、6=7=9=12さんなどの論旨が実に見事で
非常に刺激になるのです。
また論者としての人格も申し分なく、全く楽しい時間を過ごさせていただいております。
>稲飯命はどこと関係が
安芸か吉備ではないかとの説を聞いたことがありますが・・・
それとウサツ彦&姫と天種子命(中臣氏の遠祖)のエピソードも興味深いです。
ここで記紀が言いたいのは2つ。中臣(藤原)氏がごく初期からの重臣であると書いていることと
宇佐と中臣が古くから婚姻関係にあったことをにおわせている点。
あとは熊野で病み伏してからあとの構成が、前半とがらりと変わること。
ストーリー的にではなく、歌が詠まれたり「天つ神の御子」を自称したりと、前半の写実性が失われることなど。
こういうのは森浩一先生が得意でしたが、いくつかの伝承をつなぎ合わせたとも考えられますね。
179 :
豊前説:04/12/06 02:56:54
話が前後して申し訳ないですが、
>>154 >高知性集落の解体は、国力が増強し政情が安定したところから始まったと
>考えるのが自然と思うのですがどうでしょう。
>とすると、それが豊前から始まり畿内に終わるというのは、最後に畿内が
>連合に加わったということではないでしょうか?
(高知>高地)
について、もう少し詳しく見解をお聞かせください。
いつでもいいです。
申し訳ないですが、私もそろそろ失礼しますので。
180 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/06 03:11:03
>解釈が違ってくるように
その差を埋めるのが、こういった徹底的な議論ですね。
今のところ100%なんてとても有り得ませんし
私も自信持って書いているように見える部分でも
信頼度70%みたいなところもあったりします。
輪鐙の件などまさにそうでして
箸墓の築造年代が振り出しに戻ったなというのが正直なところです。
立場的には
>>147氏の書かれた如く、卑弥呼や台与と墓とは想定していなかったのですが
今後輪鐙が山ほど出てきたり、墳墓内で出土したりなどすれば考えを改めざるを得ません。
敗北宣言ととられると困るのですが、これも偽らざる心境です。
181 :
豊前説:04/12/06 03:17:27
>>178 こちらこそ、大変勉強になり、楽しませていただいてます。
稲飯命の件はどうもありがとうございます。自分でも調べてみます。
(東征で訪れた地を根拠としているのでしょうか)
ほんとうに、いろいろなことが示唆されているようで、
興味がつきないですね。
まだまだ、考えるべきことが沢山ある気がします。
どうもおつきあいいただきありがとうございました。
182 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/06 03:32:33
>>180 了解です、私もコレにて打ち止め。
畿内の高地性集落の大きな特徴は、他に比べて大規模なんです。
これはより防御力に優れているのでは決してなく、むしろ平和ボケに近い。
本来最前線であるはずなのに、ムラとして機能しているのは大きな矛盾です。
解体に時間がかかった形跡もありますし、不思議なのは淡路島に高地性集落が見られない点です。
この河内型高地性集落の解体とほぼ同時に纏向の建設が始まります。
そうしてみると畿内とひとくくりには到底出来ず、後の前方後円墳の分布と同様に
奈良盆地東南部(三輪)や山城南部が初期には大きく関わり、磯城や河内はそれに追随する形になったのでしょう。
残った質問に関しては次回にて・・・
海戦の実態や青谷上寺地遺跡の解釈などですね。
183 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/06 03:49:26
おまけ
>>134 どういう本をお読みになったかわかりませんが
電波か否かはその内容よりも、論者である貴方自身の心構えによるものが大だと思います。
このスレにはそういった真摯な態度で臨む方に対して理解ある論者が多いように感じますので
そういった方たちの主張も参考にされて、ぜひとも積極的に参加してください。
ちなみに私もきっかけは松本清張の「古代史擬」と梅原猛の「隠された十字架」
あとは何と言っても諸星大二郎の「暗黒神話」です(笑)
電波丸出し・・・
184 :
6=7=9=12:04/12/06 13:49:48
纏向派氏が、語ってることは、
北九州と対する畿内連合があったということであって、それは否定しません。
しかしながら、畿内連合=邪馬台国という論拠に直結しません。
畿内連合=邪馬台国とするには、卑弥呼の共立された年代から、
2世紀末には、畿内連合は北九州を支配していなければならない。
大規模な戦乱が無かったとするなら、それこそ2世紀中頃から、
北九州は畿内からじわじわ圧力を受け、
2世紀末に、畿内からの支配を受け入れるほど弱っていたということになる。
4世紀の北九州の弱体化を見れば、「連合」ではなく「支配」なのは明らか。
なぜ、鉄器で優位に立っていた北九州が畿内の「支配」を簡単に受け入れたのか?
185 :
6=7=9=12:04/12/06 13:51:02
纏向派氏は、
>>150「2世紀あたりから拮抗状態なる」
>>151「庇を貸して母屋を取られる」
>>163「無意識の経済連合」
と、語っているが 「仮説」にすぎないし、そんな証拠はどこにもありません。
バランス感覚のよさそうな纏向派氏が、どういう経緯でそう考えられのか?
苦し紛れの思いつきのようしか受け取れませんね。
畿内連合=邪馬台国という論拠は、いまだ仮説の上でしか成り立たず、
考古学的に見れば、容易に受け入れられないことです。
纏向派氏は、鉄貿易で優位に立っていた北九州に対して、
鉄を保有していない畿内が2世紀の段階で「拮抗」していた。
本当は、鉄を保有していたが、溶けて消えてしまった。
北九州が畿内に「無意識の経済連合」を許した結果、
畿内に「庇を貸して母屋を取られた」と言う。
そのような仮説を幾重にも積まなくとも、3世紀中期まで、
「北九州=邪馬台国」「畿内=大和朝廷」が並存しており、
3世紀の間に力をつけた畿内大和朝廷が、4世紀初頭までに、北九州邪馬台国を滅ぼしたと、
そう考えるほうが、ずっとシンプルです。
前方後円墳が畿内以外に急速に浸透するのは4世紀からです。
3世紀ではありません。
186 :
6=7=9=12:04/12/06 14:00:57
纏向派氏が、
>>150「2世紀あたりから拮抗状態なる」
>>151「庇を貸して母屋を取られる」
>>163「無意識の経済連合」
このような回答を用意してきたのは、
やはり、「畿内に邪馬台国ありき」が念頭にあるからでしょう。
纏向派氏は、畿内説の立場でディベートを楽しんでいるのかも知れないが、
当方が知りたいのは、「真実」です。
纏向派氏は、知識があるなら余計な憶測は排除して、考古学的物証を示して欲しい。
決定的な物証があれば、当方はいつでも畿内説を受け入れる。
物証が無いからこそ、議論に決着が着かないのだと言えるけれども、
議論を続けるために憶測を交えた個人的解釈など評価したくは無いし、時間の無駄。
187 :
日本@名無史さん:04/12/06 15:36:31
纏向氏が、考古学上の研究成果を基に2世紀以降の日本列島の姿を構成して見せたのは脱帽だが、
確かに肝心の3世紀の姿がややあいまいに見えますね。
>>6=7=9=12
でもまぁ、そう言わずに気長に参加してくださいよ。
わたしゃ、アンタの投稿を大変興味深く読んでますんで。
188 :
日本@名無史さん:04/12/06 16:25:58
6=7=9=12氏は、邪馬台国北九州説、三世紀は畿内、北九州の王朝が並立、
かつ、東遷は否定という立場のようですが、その立場の人は
東のヤマト国、西のヤマタイ国という類似名称の国家が並立していたのを、
偶然にすぎないと考えるんですか?
189 :
日本@名無史さん:04/12/06 16:33:17
広範囲にわたった倭国大乱は無かった
ttp://www5b.biglobe.ne.jp/~NOTO/bbs_NOTO_new/706022526909695.html 弥生中期の争いの性格
瀬戸内海地方から東海地方にいたる各地の弥生中期の戦闘用石鏃を比較すると,瀬戸内,
畿内,東海の3地域ごとに特色あるものを発達させており,別の地域で作られた石鏃が入り
混じって出土する事はない。このことから,戦闘は,地域内部の争いであり,地域を超えた
広域戦争は考えにくいという。(松木武彦1989「弥生時代の石製武器の発達と地域性ー特に
打製石鏃について」『考古学研究』35巻4号)
北部九州もまた,石の短剣や石鏃,青銅短剣や鉄戈,そして鉄鏃を発達させているが,こ
れらが九州以外の地域の戦闘に使用された形跡はない。
弥生中期の戦闘は,小さな地域集団どうしの争いだったことがわかる。
190 :
日本@名無史さん:04/12/06 16:40:47
纏向遺跡には、瀬戸内海、山陰、北陸、東海地方などから多くの土器が集まっている。
4世紀以後、東海地方で高地性集落が作られるようになる。
3世紀に畿内と東海は、良好な関係だったのに、
4世紀に連合解消したように見える。
なにがきっかけだったのでしょうかね?
191 :
日本@名無史さん:04/12/06 17:53:11
192 :
日本@名無史さん:04/12/06 17:56:10
高地性集落は朝鮮人が多く渡来したからだろう。
193 :
日本@名無史さん:04/12/06 18:13:24
>>188 >類似名称の国家が並立していたのを、偶然にすぎないと考えるんですか?
魏志倭人伝によると、
邪馬台国と別に、邪馬国があるし、奴国も2個ありますが?
それに、邪馬台ではなく「邪馬壹」ですよ?
194 :
日本@名無史さん:04/12/06 21:07:59
(≧∇≦)ъ ナイス!
195 :
日本@名無史さん:04/12/06 22:33:24
316 名前:日本@名無史さん :04/12/05 18:13:03
大和政権はたいして武器を使わずに相手を殺したのさ。
酒を飲ませて酔っ払って寝込んでいる所を襲った。
いわゆる寝首をかくってやつで。
317 名前:日本@名無史さん :04/12/05 20:18:04
そのころ畿内には、優れた酒造技術がないので、不可能
318 名前:日本@名無史さん :04/12/05 20:34:45
しかし大和朝廷の戦い方はいつもセコイよな
はじめて畿内に侵略してきたときには 和をのぞんできた地元有力者を集めて宴会で 変装した部将が皆殺しにしたし
ヤマトタケルは熊蘇の大将に女装して近づいて暗殺してるし
もうなんつぅか卑怯の雨あられ・・・・もっと正々堂々とやれよ
319 名前:日本@名無史さん :04/12/05 20:44:50
大和朝廷の征服の仕方で一番多かったのが、敵の集落の井戸、飲用水に
毒を投げ込む方法、これで全員皆殺し、ちょっとエグイよなあ
いくら勝てば官軍といえどもなあ あまりにもヒドイやり方
196 :
豊前説:04/12/06 23:29:14
>>182 ご回答、ありがとうございます。
うーん、やはりまだ、畿内の勢力が北九州勢力を取り込んだと
する説には疑問があります。
畿内の集落が大きく防御能力が高くないのは、以前にも書いたことが
あるのですが国家形態の違いではないでしょうか?
つまり、九州が連合国家形態であったに対し、畿内では纏向を中心とする
中央集権体制が出来つつあったと。
そして、国家形態の違いの記述が
>>174の
>ナガスネヒコの「この世に王が二人もいる筈ないがな!証拠見せんかい!」に対し
>イワレヒコが「たくさん居るんだyo!」って答える
ではないてしょうか?
その違いが集落の大きさや防御能力の違いとなっただけであり、
高地性集落の解体が、豊前から始まり畿内に終わるというのは、
最後に畿内が連合に加わった考えた方が自然ではと思います。
197 :
志賀島:04/12/06 23:38:20
九州の人間からすれば北九州とは北九州市の事以外はない。
邪馬台国北九州説なるものは最近まで北九州市に邪馬台国
があったという説とばかり思ってた。
北部九州と言ってくれないと九州の人間には通じない。
198 :
日本@名無史さん:04/12/06 23:44:58
そんな説はいまだかつて存在しないから、信じるほうが●●(伏字)
199 :
豊前説:04/12/06 23:48:39
6=7=9=12氏(コテハンつけていただけると助かりますが、
説の形態上難しいでしょうか)、鋭い論理展開を楽しませて
いただいてます。
>>議論を続けるために憶測を交えた個人的解釈など評価したくは無いし、時間の無駄。
自説を主張するには、お互いに憶測も含めないと論理展開が難しいので
まあ、マッタリといきましょうよ。
ところで、貴説では北九州と南九州の政権を断絶したものと考えて
おられるようですが、それは北九州が衰退したというほかに
なにか理由があるのでしょうか?
私としては、熊襲との対立の歴史があるにも関わらず、宇佐が日向・
大隅にも広大な領地を有していたこと、大隅正八幡が反乱を起こした
ことを考え、同一政権と考えているのですが。
200 :
豊前説:04/12/06 23:52:01
>>197 歴史的には北九州市の成立の方がずっと新しいわけでねえ。
まあ、最近は北九州=市を意味することの方が確かに多いですが。
201 :
志賀島:04/12/06 23:54:28
>>197 ●●(伏字)は書き込みしなくていいよ。
202 :
日本@名無史さん:04/12/07 01:14:50
馬鹿に花を持たせて伏字にするのは温情
203 :
6=7=9=12:04/12/07 09:42:16
>>199 たぶん、当方の考えと纏向派氏との違いは、
畿内大和連合が北九州を支配したのは3世紀以前か4世紀以後か、それだけだと思います。
憶測もある程度まじえないと、論が進められないというのもそうですが、
事実から離れすぎてると、ただの空想になってしまう。
なるべく、事実に基づいた推察を提示する方が建設的でしょう。
>私としては、熊襲との対立の歴史があるにも関わらず、宇佐が日向・
>大隅にも広大な領地を有していたこと、大隅正八幡が反乱を起こした
>ことを考え、同一政権と考えているのですが。
宇佐〜日向に同一政権があったかどうか、興味深い話ですが、
当方としては、畿内説よりは可能性がある説の一つと思えるという段階です。
204 :
6=7=9=12:04/12/07 10:08:55
纏向派氏は、
>>15で、2世紀末から3世紀前半が、
大きなターニングポイントだと考えているようですが、
歴史上の大きなターニングポイントは、
前方後円墳が急速に築造される4世紀以後。
倭国が、朝鮮半島との貿易関係から一歩進んで、
朝鮮半島に出兵するという方針転換をしたのも4世紀。
倭国の政治形態が大きく変わったのは、どうみても4世紀以後なのです。
北九州勢力が衰退したのも、中国の混乱により後ろ盾を失ったからで、
それに乗じて畿内勢力が北九州を潰しにかかった。
朝鮮半島に出兵したのも、北九州の貿易利権を介さず鉄資源を確保するためでしょう。
纏向派氏は、2世紀からの、争いの無い北九州〜畿内連合を想定し、
戦闘経験の乏しい平和ボケした倭人像を描いていますが、
ならば、なぜ、4世紀に突如海を渡って、鉄器の本拠地だった朝鮮半島に兵を送り、
中国に軍事所轄権を認めさせようとしようとしたのか?
4世紀初頭に北九州を支配した勢力は、十分な戦闘能力を有し、
勢力圏拡大に積極的だったと考えるべきです。
北九州の衰退も、外部からの侵攻によるものでしょう。
よって、3世紀に、北九州〜畿内に穏やかな連合国家があったとは考えらないのです。
>>151 >ここで原ヤマト連合が大きく政策転換を行ったと見られますが
「大きく政策転換を行った」の一言で済ませられる問題でしょうか?
武力による制覇という経験なくして、外国に兵を送ろうという発想は生まれないのでは?
205 :
日本@名無史さん:04/12/07 11:54:02
倭人伝には「倭人はその俗淫ならず」と書いてあり、淫乱な大和朝廷が邪馬台国の後裔であるとは考えにくい。
大和朝廷 太陽の直系
207 :
日本@名無史さん:04/12/07 19:08:47
>>157 >>162 ステラナビゲータVer.7で確認すると、
248年9月5日の日食は、皆既日食とは呼べません。
日本で最も欠けて見えるのが奥州です。
247年のはどうなの?
248年のは、卑弥呼死んじゃってるからいいじやん
209 :
日本@名無史さん:04/12/07 20:32:29
>>208 247年3月24日の日食は、日本では地平線下で見られません。チベットの方で観測される日食です。
247年9月17日の日食は、オーストラリアで観測される日食です。
日本で2年続けて日食があったという説は間違いです。
210 :
日本@名無史さん:04/12/07 21:21:32
部分日食は数年おきにみられる。首長(卑弥呼)が殺されるほど、珍しい現象ではない。
大きく半分以上欠ける部分日食を取り上げてみても、以下の通り頻繁に起きている。
皆既日食も(卑弥呼在任中でも)結構な回数が起きている。
日食が原因で卑弥呼が死んだという説は、いまや迷信にすぎない。
200年9月26日午前9時に皆既日食。
201年3月22日午前11時に部分日食。
210年3月13日午前10時に部分日食。
221年8月5日午後6時にかなり皆既日食。
222年7月26日午前8時に九州で完全な皆既日食。
232年1月10日午前11時に部分日食。
233年6月25日正午に部分日食。
248年9月05日午前8時に部分日食。(卑弥呼以って死す)
254年10月29日午前8時に皆既日食。
261年6月15日午後7時に部分日食。(266年、壹與が普に朝貢)
271年11月20日午後1時に部分日食。
275年9月7日午後5時に部分日食。
276年8月27日午後7時に部分日食。
283年4月15日午前10時に部分日食。
286年2月11日午前10時に部分日食。
298年6月26日午前6時に部分日食。
298年12月21日午前8時に部分日食。
最近では2002年6月11日午前7時に部分日食が起きていたが、気がついた人はどれほどいただろうか?
>200年9月26日午前9時に皆既日食
秋分の日の朝には太陽の光を鎮座させる祭祀があったから、
皆既日食がおこると超不吉だったと思われる。
あちこちから、銅鐸の人々の悲鳴が聞こえる様だねぇ。
212 :
日本@名無史さん:04/12/07 21:45:07
そういうわけで、卑弥呼をアマテラスと結びつけるのも根拠が薄弱だと思い知りなさい。
213 :
日本@名無史さん:04/12/08 03:27:30
>>203 >畿内大和連合が北九州を支配したのは3世紀以前か4世紀以後か、それだけだと思います。
ご回答ありがとうございます。
あとは、両王朝のどちらが邪馬台国と呼ばれたかという問題というところですね。
畿内が北九州を支配したのに変わりはないということで。
>>207 同一ソフトでも、バージョンが違うと結果が違うということでしょうか?
だとすると、新しいバージョン7の方が信憑性が高いでしょうが、裏を
返せば それさえも誤っている可能性があるということですね。
やはり2000年近く前になると、一般の市販ソフトでは対応できない
のでしょうか?
214 :
豊前説:04/12/08 04:32:57
↑も私です。
さて、日食とは別のアプローチをしてみたいと思います。
ところで、なぜ大和朝廷の大切な皇祖神が、わざわざ山を越えた伊勢に
祀られているのでしょうか?なぜ、大和ではだめだったのでしょう。
しかも、斎宮という大宰府にも匹敵するような行政府まで置いて
皇女と500人もの役人を送り込んでいたわけですから、かなりの
経費がかかったはずです。
大国主と一緒だと嫌がるからだとされていますが、しっくりしません。
倭姫命が祀るべく土地を探していた際に「天照大御神が気に入った」
と言ったためと言われていますが、こじつけの様であるし、
なぜ気に入ったのか疑問です。
伊勢、志摩は天皇に食料を奉納する国ということで、「御食(みけ)つ国」
と呼ばれていました。一方、宇佐の北隣の中津、耶馬溪付近もやはり
三毛(御毛)と呼ばれていました。毛は豊かさを意味するものであり、
語源は同じではないでしょうか。そして、それが豊(台与)とも関係が
あるものとも考えられますし、伊勢神宮の外宮の食を司る神、豊受大神にも
つながると思われます。
豊受大神は天照に食事を司るという、本来ならば下級の神ではとも思われるの
ですが、天照に匹敵するほどに祀られ、台与を彷彿させますし、卑弥呼の
亡き後、争いや旱魃などで荒廃した時に、台与は祈祷により豊作をもたらし
飢饉を救ったと考えられたのかもしれません。
215 :
豊前説:04/12/08 04:33:25
また、志摩といえば、リアス式海岸、海女、海産物、真珠などを連想しますが、
大分県南は海部(あまべ)といわれ、やはり海産物、真珠が取れます。また、
豊前の国東半島は、鳥羽の国崎を彷彿させ、この地域でも潜水漁法が
行われています。
検証したわけではないですが、豊国と伊勢には、他にも小波瀬−尾鷲、
四日市(同一)といった地名の一致性や、豊富な食材、文化風俗などの
一致が感じられ、よって「天照大御神が気に入った」のではないで
しょうか?
誰かが書き込んでいましたが、伊勢は宇佐の東国訛りというのは
的を射ているかもしれません。
(以上、憶測に過ぎませんが・・・)
216 :
豊前説:04/12/08 04:41:23
補足
なお、真珠は中国では古代より漢方の原料として用いられたため
かなり古くから貴重品と考えられ、貿易で高く売買されたようです。
よって、真珠や豊富な海産物により伊勢地方が重要視されたのは
確かであったでしょうが、神宮をつくる理由としては、
それだけではないような・・・。
217 :
豊前説:04/12/08 04:49:27
>>215 >四日市(同一)といった地名の一致性や > ・・・一致性がある。
218 :
日本@名無史さん:04/12/08 09:26:53
>>214 伊勢と宇佐が関係あると見るのはいいけど、
伊勢が本家で、宇佐が分家と考えないのはなぜ?
歴史的にも伊勢の方が古いのに。
逆。伊勢にそんな古い遺跡も無く、一方宇佐はいわずもがな。
また、伊勢は三輪神社が東に春分点を延長したと言う説もあり、一部の学者が勝手に宇佐が
記紀以後と捏造してるだけ。
こういうでたらめが随所に横行しているのが日本史学の現状。
221 :
日本@名無史さん:04/12/08 10:12:32
宇佐が大きくなったのが8世紀以降とされてるだけだろ。
なかったとは誰も言っていない。
222 :
日本@名無史さん:04/12/08 10:34:41
>>220 伊勢遺跡を知らんのか?
宇佐遺跡なんてあるか?
223 :
日本@名無史さん:04/12/08 11:45:18
224 :
日本@名無史さん:04/12/08 12:28:48
宇佐のどこに弥生後期の遺跡があるの?
225 :
日本@名無史さん:04/12/08 13:17:57
宇佐 つまり中津平野にはいやというほどあるぞ
226 :
日本@名無史さん:04/12/08 13:23:49
伊勢遺跡は違うだろうがw
227 :
日本@名無史さん:04/12/08 13:25:09
しょぼい竪穴住居がいくらあっても、伊勢遺跡には勝てないね。
228 :
日本@名無史さん:04/12/08 13:31:31
「美味しいです」「嬉しいです」も間違った文法なわけで。
「です」は名詞に使うもの(例:これはパソコン「です」)であって、
形容詞の後には使わないそうです。
正しくは「美味しゅう御座います」「嬉しゅう御座います」だそうです。
学者とか精通している人は違和感を感じるらしいですが、現在においては
一般化してきているので指摘しないそうです。
学校教育ですらそれを直そうとしないとウチの教授がボヤいておりました。
229 :
日本@名無史さん:04/12/08 13:41:09
国語の部屋か、ここは?
230 :
日本@名無史さん:04/12/08 13:43:25
やっぱり北部九州だ決まりだな
遺跡の数が段違いだもんなぁ〜
231 :
日本@名無史さん:04/12/08 14:14:53
>>228 違うと思う。
「美味しいです」「嬉しいです」は、
「美味しい”料理”です」「嬉しい”こと”です」と、
もともと名詞があったのが、省略された形と見るべき。
けして、最初から形容詞に「です」をつけたわけではない。
「です」にしても「で+候」の省略された形なのだ。
232 :
日本@名無史さん:04/12/08 14:40:08
九州の地図を見て考えるに、海の幸が豊富な有明海沿岸に、
有力なクニが生まれたと考えたい。
やっぱり、吉野ヶ里の近くに邪馬台国もあった気がする。
遺跡の上に佐賀市が出来ちゃったから、見つからないだけだろう。
233 :
日本@名無史さん:04/12/08 14:42:28
くそぉ〜〜〜佐賀市め〜〜!
234 :
日本@名無史さん:04/12/08 14:43:32
佐賀?アホか。東京都や大阪市のど真ん中からも遺跡は見つかってるだろうが。
235 :
日本@名無史さん:04/12/08 14:49:37
北部九州には倭人伝の時代すでにヒナモリが置かれていたんですよね。
という事は、北部九州は邪馬台国からから遠く離れた場所にあったのでは?
したがって、魏誌倭人伝の記述では少なくとも邪馬台国は北部九州では
ないと思います。奴国はもちろん邪馬台国ではないですし。
236 :
日本@名無史さん:04/12/08 14:52:52
地図で考えると肥前と肥後の国境にあり
筑後川の水運を利用して上流部または豊と流通が可能で
筑紫平野とそのまま行き来できる筑後平野こそ最有力だとおもう
そう昔も今もこのあたりは交通の要衝だし
遺跡の上に鳥栖市が出来ちゃったから、見つからないだけだろう
237 :
日本@名無史さん:04/12/08 15:00:48
くそぉ〜〜〜鳥栖市め〜〜!
238 :
日本@名無史さん:04/12/08 16:07:27
239 :
日本@名無史さん:04/12/08 16:11:12
>>232 >九州の地図を見て考えるに、海の幸が豊富な有明海沿岸に、
>有力なクニが生まれたと考えたい。
残念ながら、弥生後期になると、筑後平野でも西部の遺跡は
ぐっと減ってしまうんだなあ。
240 :
日本@名無史さん:04/12/08 16:11:57
筑紫平野だった。スマソ。
別に残念じゃないから>土器編年如き
スレとは直接には関係ないけど、今日の「その時歴史が動いた」は大化の改新。
記紀による歴史改竄の発端だから、何か参考になればいいな
ま、期待するだけ無駄な気はするが
243 :
日本@名無史さん:04/12/08 18:48:13
はっはっは。九州説諸氏の断末魔の叫びの様なレスばっかりだな。
244 :
日本@名無史さん:04/12/08 21:39:26
245 :
日本@名無史さん:04/12/08 21:44:28
大化の改新て本当に日本であったのか?
なんだか、朝鮮史のコピーのような気がするが・・・・・
246 :
日本@名無史さん:04/12/08 21:49:43
明治維新で逆賊呼ばわりされるのを予防したのが
実際には存在しなかった「大化の改新」宣伝。
本当は壬申の乱が、日本建国の曙。
247 :
日本@名無史さん:04/12/08 22:02:10
蘇我 蝦夷 入鹿 卑字のオンパレード
よっぽど後の権力から嫌われたんだなぁ
249 :
日本@名無史さん:04/12/08 22:04:57
250 :
日本@名無史さん:04/12/08 22:16:31
日本書紀の記述だけ拾って、自分勝手に妄想してただけじゃん。
もっと考古学的物証とか神社に伝わる文献が出てくるのかと思ったが。
大学の先生なら、程度の低い妄想でも許されるのか。
九州説もその例だけどな。
251 :
日本@名無史さん:04/12/08 22:28:56
妄想だけなのが畿内説の最大特徴
252 :
5王朝交代説:04/12/08 23:12:55
神武王朝=葛城氏を王とした畿内連立政権
崇神王朝=三輪の豪族が葛城氏の力を上回り王位を奪取
応神王朝=日向に都をおいていた邪馬台国の一族が
三輪王朝の仲哀天皇を九州で殺し
その勢いで東征して王朝簒奪。
継体王朝=武烈天皇が愚鈍だったため、大伴氏等が
北陸から豪族をつれてきて成立。
天武王朝=壬申の乱で勝利した天武により成立。
実は天武は天皇家の血筋は引いていなかった。
のちに血統が天智系に戻りそこからは万世一系。
253 :
日本@名無史さん:04/12/09 06:58:27
あのさあ、現実として考古学者の9割が畿内説支持してるのに、何故、未だに
どこまでも面の皮厚く、九州説に固執するのかなあ・・・・?
現在の日本史では邪馬台国の存在した時代は古墳時代初期だよな。
”一応九州王朝説”に ”豊前説”のコテハン妄想コンビよ、卑弥呼の墓が
何故北九州の地に発見されないのか、否、それらしきものでいいから
それがどの古墳にあたるのか、東京人で最近邪馬台国に興味を持った
この俺に教えてくれよ。
魏志倭人伝の記述には、卑弥呼の墓の大きさは「径百余歩」とあるぞ。
これは150メートル前後だからかなりの大きさだ。これがいつまでたっても
北九州に見当たらないんじゃあ、どんなに鉄がたくさん出土しても、なんの説得力も
ないぜ。
神武東征は鉄の武器で成し遂げたなんて言っても誰も信じないからね。だって中国の
都市を模して造られたっぽい池上曽根遺跡が吉野ケ里遺跡の建物よりも200年
も古い時代のものであることが証明されている以上、北九州と近畿の二つの文化圏
の間にあるアドバンテージに鉄の武器がなりえるとは全く思えないんだわ。
取り敢えず、九州派がそれを拠り所としている根拠とその理由を簡潔に
この俺に教えてくれ。それなりの説得力があれば、喜んで支持派に
回るから。
俺は一応聞く耳は持っているつもりだから、頼むから教えてくれよな。
ただ一言断っておくが、このスレの二人のこれまでのどの発言も妄想全開で
全く説得力が無いからね。
キミ達のプライドにかけて頑張って下さい!
大和だったら、日本書紀の作者と取り巻きの耳に同国と卑弥呼の情報がいっぱいあるので
日本書紀にそれらの情報の内容が、沢山沢山載るはずですよ。
邪馬○国が日本にあるのに卑弥呼が日本人であるのに、日本の書えある日本書紀に殆どとい
っていいくらい同国と卑弥呼の書き込みが無いことは、同作者等がそれらの存在を知らなかった
気づかなかった、すなわち、同国、卑弥呼が作者等の情報の届かない大和から遠方に
有った、住んでいたということを意味するわけだ。さらに
皮肉にも、日本の書でなく中国という他国の書たる文献にかなり具体的に情報が記載されおり、
他国の書に記載あり他国でない日本の書に同国、卑弥呼の記述がないということは、何を言お
うともこの国、卑弥呼が九州に位置していたということを意味するのだ。
皮肉ではないか、日本の中の国、日本人が日本の書に記述なく、中国のほうにある
ということは・・・。本来逆であるはずべきものだ。よって邪馬壱国は九州にあったのだよ。
255 :
日本@名無史さん:04/12/09 08:56:53
>>253 >池上曽根遺跡が吉野ケ里遺跡の建物よりも200年
>も古い時代のものであることが証明されている以上、
スレ読んでいるのか?
箸墓での鐙が土器編年との矛盾が生じている以上、畿内の
古墳の古さはまだ当てにならないんだよ。
256 :
日本@名無史さん:04/12/09 09:05:54
>>253 >魏志倭人伝の記述には、卑弥呼の墓の大きさは「径百余歩」とあるぞ。
>これは150メートル前後だからかなりの大きさだ。これがいつまでたっても
>北九州に見当たらないんじゃあ、
あれ、畿内に対応する墓なんてあったっけ?
まさか箸墓とか言わないだろうし。
考古学者が9割畿内支持だから畿内に間違いないって?
一昔前は、9割が九州支持だったのに?
見解は時代によって変わるだろ。また、いつ新しい発見でころっと
変わるか分からない。
多いから正しいという考えは浅墓。
>>254 誤記→日本の書えある 正→日本の書である
巻向はオシロワケノミコトの場で、卑弥呼の墓なんて無いよ。
258 :
日本@名無史さん:04/12/09 10:37:44
>>254 俺はそんなに悪いとは思わないけど、そういう態度だと聞く耳すら持たれないと思うよ。
前スレでもアンタよりもう少し態度の良かった人がアラシ扱いだったような気がする。
その氏が言ってることも本筋とはあまり関係ないような事だったけど。
259 :
258:04/12/09 10:39:58
260 :
日本@名無史さん :04/12/09 11:10:56
>>134にも書いたが、「出雲王朝+九州王朝→畿内併合」説はダメですか?
僕は元九州説でしたが最近この説を知り転向しました。
神話学的にも整合性が取れているので良いと思うのですが
(当然「記紀」は天照マンセーなのである程度は無視ですが)
最初の大王が須佐之男と言うのも触手動かされるし・・・
261 :
日本@名無史さん:04/12/09 11:39:20
>>259 っていうか、なんか
>>253って勘違い甚だしくないか?
いろいろな説の人からいろいろなことを教えてもらい、
皆参考にしていろいろと学んで考えることができるのに
教えてもらう立場にありながら、何様のつもりか?
素人なら素人らしく謙虚な態度とれよ。
人間としてのレベルが低すぎ、まったく。
262 :
日本@名無史さん:04/12/09 12:08:01
所詮みんな素人だけどね
263 :
日本@名無史さん:04/12/09 12:25:43
↑=253
どうせいつものなりすまし粘着厨だろ?
よくねちねちと批判めいた長ったらしいレスを書くよなあ。
コテハン叩きで荒しケテーイ。
以後スルー。
264 :
日本@名無史さん:04/12/09 13:21:06
>>253よ
考古学者や古代史学者の収入を考えろよ。
多くの学者は飯を食うために、学閥の師の説を
固く支持しているふりをしているんだよ。
その結果、畿内説で食わせてもらってるだけさ。
観光・研究所・古墳・遺物など畿内は飯の種がある。
だが多くの学者は、なんちゃって畿内説であり
本心は九州説。
265 :
258:04/12/09 13:41:57
>>262は俺なんだけど。
何でそんなに怒りを爆発させてるんですか?
>>265 このスレには、熱狂的に九州説を支持する大分県出身の郷土愛に溢れた人が常駐してるんだよ。
活発になるとウザイからあんまり弄らんでくれ。
267 :
日本@名無史さん:04/12/09 15:55:45
考古学に詳しい人に聞きたいんだけど、今後、纏向や唐古、吉野ヶ里、妻木晩田級の規模の遺跡が
出てくる可能性はどれくらい何ですか?
268 :
263:04/12/09 16:20:59
>258
スマソ。
つい同一人物かと思った。
しかし、プロさんもいるぞよ。
269 :
日本@名無史さん:04/12/09 21:09:09
伊場遺跡から金印発掘
270 :
日本@名無史さん:04/12/10 01:21:10
「径百余歩」
倭人伝は短里、短歩
271 :
日本@名無史さん:04/12/10 14:27:58
以前西都原の発掘調査の関係者の方の
「ぼやき」を聞いたことがあります。
「西都原の古墳を発掘するとね、朝鮮との関係、被葬者が朝鮮からの渡来民であるとしか
考えられないような物が出てくる。つまりは『天皇家のルーツは朝鮮にあり』って言ってるみたいな物だから、
西都原の本当に調査されなければいけないような古墳は発掘許可が下りない
272 :
日本@名無史さん:04/12/10 14:46:40
西都原は、もともと斎殿原。
つまり斎氏が治めていたというだけで、西の都の意ではない。
また、西都原古墳群は4世紀はじめに栄えた場所。
で、今のところ九州最初の前方後円墳は3世紀後半の宇佐の
赤塚古墳か苅田の石塚山古墳でいずれも豊前=とよの国。
しかし卑弥呼の墓は、これらではなく赤塚古墳のそばの
宇佐神宮の可能性が高い。
で、西都原が邪馬台国とは関係なかったかというと、そう
いうことはなく、ちゃんと関係があったと思う。
それは、卑弥呼・台与の代で北部九州が安定した後、邪馬台国を
はじめとする連合国家は、狗奴国(熊襲)と対峙するため日向に
連合軍を送ったと思われます。そして、この頃より豊前をまねて
西都原にも前方後円墳が作られるようになったのだと思う。
熊襲を退治したか、和解が成立し、連合軍は今度は東征を開始したの
です。
だから、大和朝廷が成立し、伊勢神宮を建立した際に、日向の斎氏を
守護として任じたのです。
よってこういう事情で、日向から多くの人が畿内に移ったため、確かに
神話には日向の逸話が多いのだが、邪馬台国自体の地名や人名では、
むしろ豊前の方が、一致が多いのである。
273 :
日本@名無史さん:04/12/10 14:52:10
なんで九州説の人は見てきたように語るのかねー
九州説を聞いていると
小説や漫画の設定の様に聞こえるのは気のせいでしょうか?
275 :
日本@名無史さん:04/12/10 15:29:38
1.邪馬台国=卑弥呼の墓=前方後円墳=大和朝廷
と、考えると、邪馬台国は畿内にあったということになる。
しかし、鉄文化で北九州勢力より遅れていたことという矛盾がある。
2.邪馬台国=卑弥呼の墓=円墳
つまり、「丘」と思っていたものが実は「墓」ということもありえる。
大和政権と邪馬台国は無関係。
邪馬台国の可能性は日本全国に広がる。
3.古墳時代の日向勢力=大和連合≠弥生時代の北九州勢力
北九州は、弥生時代に繁栄していたが、古墳時代に衰退する。
日向は、古墳時代に繁栄を始める。
九州南部には、天皇家に縁のある地名が多く、神代三代の墓もある。
九州北部には、天皇家に縁のある土地は無い。
4.北九州の貿易港を管轄していた勢力≠古墳時代の日向勢力=大和連合
邪馬台国は、北九州の貿易港の管轄していた。
邪馬台国は、南の狗奴国と不仲だった。
1〜4から、邪馬台国は北九州勢力のことであり、
日向勢力(狗奴国)が、畿内勢力と連合し、北九州勢力(邪馬台国)を滅ぼし、
大和朝廷となったと考えれば、すべての謎が単純に解ける。
276 :
日本@名無史さん:04/12/10 15:48:43
なるほど これでスキリしました
つまり狗奴国が大和朝廷になったんでつね
そして後になって当時国際的に認められた国家である倭を併合したとかいって
外交や神話を盗んで邪馬台国の跡継ぎのフリをしたんだなぁ フムフム
277 :
日本@名無史さん:04/12/10 17:11:29
狗奴国東遷説以外に、天皇家の神代三代の墓が、南九州にある理由が説明できないからね。
278 :
橿原一派:04/12/10 19:10:50
いつもスルーされますが、ヤマトタケルの元の名が熊襲タケルということも、クナ国東遷を暗示しているように思う。
279 :
日本@名無史さん:04/12/10 19:23:28
紀元前1世紀にクナ国が東遷して池上曽根ができたんだろ。
邪馬台=大和=ヤマト
これは全土を表す地名。 ヤマト統一=天下統一。
邪馬台国=ヤマト連邦。
卑弥呼は畿内において30の大名を従えてた大統領、将軍、書記長。
卑弥呼死後、外様の誰か(狗奴国?)が勢力拡大、全権掌握。
「我こそはヤマトの支配者なり。天皇と呼べ。」=大和朝廷。
281 :
↑誤り:04/12/11 11:51:08
金印と阿蘇山は畿内じゃなくて九州。
倭人の代表国は九州。
282 :
日本@名無史さん:04/12/11 12:00:48
狗奴国東征?
なぜ東征などする必要があったの?
本拠地の兵力を東征に裂いて自国の
警備は大丈夫だったの?
283 :
日本@名無史さん:04/12/11 12:03:09
中国と同盟関係にあった邪馬台国が
狗奴国に負けるとは思えない・・
284 :
日本@名無史さん:04/12/11 12:17:23
倭人伝からヤマタイコクの場所をきっちり特定出来ないのに 大和朝廷からの時代のサカノボリは無謀だと思う。大和統一国家にはヤマタイコクやその他の国を記した文献が皆無なのだから ヤマタイコクを語るには 倭人伝からが必須
285 :
日本@名無史さん:04/12/11 12:21:25
その倭人伝には邪馬一国と書いてある訳なんだが・・・・
286 :
日本@名無史さん:04/12/11 12:26:00
現段階では古墳やその他の遺跡群は裁判の時に使う証拠 まだ犯人捕まってないのに 早く皆で犯人探そう
287 :
日本@名無史さん:04/12/11 12:42:29
いったいいつの頃からヤマタイコクの存在を知ったのか?日本で最初にヤマタイコクのことを文献に記載されたのはどんな書物でいつ頃なの?教えてください。
288 :
日本@名無史さん:04/12/11 14:24:22
>>282 狗奴国が東征したわけじゃないだろう。
ただ、大和朝廷成立に、狗奴国が関与したことは間違いない。
記紀神話には、あまりに多くの南九州の記述が有る。
邪馬台国は狗奴国と戦っていたのだから、
邪馬台国が大和朝廷になったとは考えられない。
289 :
日本@名無史さん:04/12/11 17:43:43
>>288 邪馬台国が南に移ってそこから東遷したんだよ。
290 :
日本@名無史さん:04/12/11 18:00:42
耶馬台国が南に移って…。って何処から南に移ったんだよ!
291 :
日本@名無史さん:04/12/11 18:21:44
神武は、畿内の邪馬台国から九州討伐に派遣された将軍のこと。
ところが、九州があっさり神武に降伏したものだから、
神武は欲を出して九州の王を宣言した。
自分で畿内の邪馬台国も倒せば、自分がオオヤシマの王となれると目論んだ。
そうして畿内に攻め入るも、邪馬台国の王は、神武を受け入れるわけもなく抵抗する。
このときの邪馬台国の王だった者がナガスネヒコだ。
そして、神武は勝利するわけだが、これが東征神話となった。
神武が畿内出身で、自国を裏切り造反したことを隠し、正当化するための捏造だった。
292 :
日本@名無史さん:04/12/11 18:36:53
神武の東征神話自体が虚構ならば、
天皇家を畿内出身に設定しなかった理由が無い。
ではなぜ記紀神話は、天皇家を九州出身として装ったのか?
1.神武は九州出身→当時の先進国の九州から東征する必要性が考えられない。
2.神武は畿内出身→畿内から九州征伐に向かい、畿内に凱旋したとき国を乗っ取った。
よって、神武は畿内出身なのだ。
>>291 なんかもう、グダグダやねw
>>292 どういうこと?
後進国→先進国しか征伐はあり得ないってこと?
294 :
日本@名無史さん:04/12/11 18:59:12
神武といえば今や誰も認識している、ご都合主義により誕生した架空に近い存在 それをよくここまで祭り上げたと感心している!これもすべて耶馬台国が未だになぞだからいけないんだな
295 :
日本@名無史さん:04/12/11 21:49:15
>>294の説は
津田左右吉がぽっと出に思いついた妄想をなぞっただけのヨタ話。
296 :
日本@名無史さん:04/12/11 22:48:40
>>290 邪馬台国は宇佐を含む豊前にあったが、
のちに日向に移動しているよ。
そこから4世紀に神武=応神の
東征が始まる。
297 :
日本@名無史さん:04/12/11 22:57:45
そうですか。同じ説を取る人がいますかー 心強いですね!教えていただきありがとう。 貴方たちの理論は正しいのかも知れないが耶馬台国が姿を表さないかぎりどんな正論も空想上の夢物語になってしまうんじゃないかな
298 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/11 23:37:10
うわぁ、九州説が元気ですね。
実は内心良い傾向だと思ってたりして・・・。
水を差すようですが、東征や東遷といった大規模な移動は無かったと思いますよ。
しかし
>>295さん、ヨタ話はひどいなぁ(笑)
一度津田氏の論文に目を通してあげて下さいな。
結論に同意するか否かは別にして、昭和初期とは思えないほど仔細に調べ上げていますよ。
7世紀あたりの考察はぐだぐだですけどね。
299 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/11 23:59:58
それと
>>209-210さん、ステラver.7のデータ有難うございます。
ウチも新しいのを購入するように申請しました。
よくよく調べたらver.2.01だったんですね、私のデータ。
さて宿題の青谷上寺地遺跡ですが・・・。
2世紀末ごろと見られる53体もの遺骨が環濠より出土しております。
年齢は乳児から50歳代までと幅広く、そのうち10体に殺傷痕が認められます。
骨盤に銅鏃が刺さったものや刺し傷、切り傷痕のあるもの。
女性の遺体にも後ろから刺されたと思われる傷跡が認められます。
発見当初は大量殺人、つまり相当な戦乱があったと考えられていました。
ところが次々に疑問点が湧き上がってきたのです。
まず、なぜ埋葬されずに環濠に捨てられていたのか?
遺跡内に焼き討ちなどを思わせる焼土痕が無いのは何故か?
その後も土器や埋葬様式にまったく変化が見られないのはどういうことか?
そもそも外敵との抗争ならばどこが攻めたのか?
これらの事から現時点での見解は、集落内での内部抗争ではないかとの見方が強いのです。
その理由として考えられるのは、連合に向けての賛成派と反対派の葛藤でしょうね。
結果的に連合反対派が勝利した可能性が高く、土器の流入が無いまま集落が消えていきますので。
300 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/12 00:38:02
ちょっと雑感をば・・・
>>250さん、>神社に伝わる文献
これがねぇ、全くと言って良いほど信用できないのですよ。
もう各神社ごとに自分史みたいな感じで都合の良い事ばかり書いてますし
比較検討のやりようがないほど、内容は無茶苦茶です。
今まで読んだ中で一番笑ったのは、陰陽師で有名な京都の神社の縁起でした。
なにしろそこに祭られている人の屋敷は「東は鴨川までの広さを誇っていた」そうです。
・・・ならば御所(大極殿)はどこにあったんですか(笑)
寺社縁起について興味を持たれたのなら、やはり原田大六氏の著書などは参考になりますよ。
氏は九州説(伊都国の南)ですが、結論は別にして非常な労作であり我々も必携の書です。
>>255さん
池上曽根は年輪年代法から割り出したもので、土器編年はそれにつれて修正されています。
ですので後期後半や終末期のものを否定する材料にはならないのではないでしょうか。
>>253さん
>>256さん
卑弥呼の墓の比定に「径百余歩」を根拠にするのは危険ですよ。
魏使が実際に邪馬台国に足を運んだ確率は、やはり低いと言わざるを得ないからです。
理由は長くなりますので簡単に・・・
「至」と「到」の使い分け(東夷伝や西域伝に共通した表記です)
一大率の業務遂行の確実性をことさらに強調している点。
里程記事が里数から日数に変化している点。
神託を司る者がいわゆる「見えない王」でなければならないとの宗教観が
おそらくは仏教伝来まで主流であり、その後も形を変えながら続いている点。
文献史学的には、これらより位置論争とは関係なしに伊都国駐留が通説ですね。
301 :
日本@名無史さん:04/12/12 00:44:53
>>298 津田左右吉は、欠史八代を単なる思い付きで言い放ったのでしょう。
「天皇の名前だけあって中身がないから実在しない」と決め付けた、
単にそれだけの思い付きですね。
どんな国でも、初代は話題のネタが多いけれども、2代目以降は
ほとんど伝承されるようなネタはないのが当たり前。
津田のこの論には当時のきな臭い政治思想の行き過ぎを牽制する意味
のほうが強かったでしょう。
302 :
日本@名無史さん:04/12/12 00:47:20
ええとね、距離にしろ日数にしろ、実際より数倍大げさに記述されてるわけだから、
「径百余歩」も大げさな記述と考えるべきだよ。
実際は三分の一くらいじゃないかな。
四国東部の古墳は時代も大きさもちょうど当てはまる。
303 :
日本@名無史さん:04/12/12 01:12:37
>>301 ありゃあ、そう来ましたか。
思いっきり簡単に書くと津田氏の欠史八代の根拠は
・名前の概念が新しすぎる、つまり7から8世紀風であること。
ヤマトタラシヒコとかオホヤマトとかネコヒコなんかがそうですね。
・八代の婚姻関係がそのまま初期大和朝廷創設に関わった豪族リストになっている。
この傾向は古事記の方が強く、書紀は数々の異説も取り上げています。
・年齢や治世の具体性が正確に語られていない。
これはご指摘の通りですが、古事記にも簡略にしか書かれていないと言うのは何故でしょうか?
真に内部文書なら、もうちょっと色々なことを書いても良さそうなものですが。
まあこれなんか古事記偽書説とも共通するネタですが。
304 :
日本@名無史さん:04/12/12 01:25:53
>>303 神武が土着したときは、流れ者の一人の過ぎず、べつに
後世一大国家になるなんて思ってもいなかったでしょう。
神武は単に小部落の長になっただけであります。
だから歴代の「王様の記録」なんか残していない。
初代の口承だけは残ったわけです。
津田左右吉は日本人の研究をするさい、混入していた
中国などの思想を分離・摘出するために中国もかじった
だけであり、決して邪馬台国研究や、天皇史研究がメイン
ではありません。所詮安楽椅子の学問を出なかったのです。
305 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/12 01:35:33
>>303は私です。
続いて海戦の実態ですね。
結論から言うと3世紀での海戦は不可能でしょう。
船の規模や構造からして、輸送以外の用途は考えられません。
これは後の源平の壇ノ浦においても実は似たようなものです。
武田の騎馬軍団が、実は騎馬戦目的ではなく輸送用であったあたりを連想していただければイメージが湧くのではと思います。
陸戦については仰るとおり、道路インフラがほとんどなされていない状態においては軍事移動はこれまた不可能です。
倭国大乱の正体がが九州vs近畿などではなく、近隣同士の小競り合いの集合である傍証でもあります。
鏃や矛先などの出土がが広範囲に渡らず、地域限定であることもそれを示しています。
306 :
日本@名無史さん:04/12/12 01:43:11
>>305 老教授@畿内説纏向派さん、貴方には失望しました。
>結論から言うと3世紀での海戦は不可能でしょう。
これは、貴方の思い込み、想像にしかすぎないでしょう?
「海戦は不可能だった」という研究論文でもあるのですかね?
あればぜひ目を通したいですね。
307 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/12 01:48:42
>>304 あれ?どうも既にお読みになっておられるようですね、失礼しました。
実は私も前述の通り津田史観には同意できない立場なのですが
記紀の系統をそのまま信用しているわけではありません。
むしろ架空の天皇より、削除された天皇(大王)が相当あったのではないかとの見方をしています。
特に倭の五王にあたる4世紀などが、古墳築造編年と全く一致しないのも先に述べたとおりです。
これは単なる比定の間違いでは説明がつかないほど、大きく食い違っていますので。
貴兄の最初の書き込みから、思想的な意見立脚と捉えてしまった小生のミスです。
これは本当に申し訳ない。
308 :
日本@名無史さん:04/12/12 02:02:43
広開土王碑によれば、倭は4,5世紀に朝鮮半島に出兵し、熾烈な戦闘を行なってる。
でも、考古学的な裏づけはありません。
遺物がありませんので。
老教授@畿内説纏向派 さんは、広開土王碑の記述もウソだと思ってますかね?
309 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/12 02:05:32
>>306 おお挑戦的なレスが・・・。
研究論文で言いますと5世紀以降のものになりますが、海戦については否定的です。
まず港の遺跡から考察しましょう。どれくらいの規模の港または砂浜があれば上陸作戦が可能になるかを考えてみてください。
北九州や瀬戸内において、一度に10隻以上(全長10m程度の建造船です)が係留可能な遺跡は二つしかありません。
加布里湾と河内平野南東部です。今後新たに発見される可能性は極めて少ないでしょう。
これが6世紀あたりから徐々に増えだすのですが、3世紀の時点で水軍を想定するのは困難だということが言えるでしょう。
また水上における戦闘も弓矢の精度からして効果があるとは考えられません。
例えに出した源平の頃でさえ状況はあまり変わりません。
那須与一の伝説などは、その不可能とも思える状況で奇跡を起こし全軍を鼓舞したという意味です。
ちなみに7世紀の建造船でも船中における激しい動き(戦闘などですね)には対応しきれず、転覆の危険性があります。
こういったことが根拠となっております。
>削除された天皇(大王)が相当あったのではないかとの見方
なるほど、それだ!
だって、削除の方が楽だもんな。
架空にしてはよくできた話だと思ってたんだ。
流れ断ち切ってスマソ
311 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/12 02:12:55
>>308 いえ輸送は可能ですよ、馬なんかを乗せない限り。
ただ大軍を送るには相当な往復が必要になるでしょうね。
>広開土王碑の記述もウソ
嘘とは思いませんが玄界灘を越えて大軍を送ったとの見方は否定します。
これは「倭人」の定義をどう解釈するかの問題ですね。
半島在住の倭種の応援程度の派兵は有り得ると思いますが。
312 :
日本@名無史さん:04/12/12 02:15:40
>>311 ようするに、広開土王碑の記述も信憑性なしという考えで良いですね?
3世紀に大規模な戦闘を経験したことの無い倭人が、
まさか、朝鮮半島南部を制圧できるほどの軍事力を100年では有し得ないでしょう。
313 :
日本@名無史さん:04/12/12 02:16:54
>>307 いえいえこちらこそ勉強になりました。
私は九州の倭人国の衛星国が、神武以降の畿内国だったと思っています。
神武らは慣海民で、船団を率いておりましたが、遠洋航海は苦手のようです。
極東の国際戦争が激しくなると、軍港を博多や唐津に置いては危険です。
そこで有明海に移ったようですが、神武らは糸島からなら目視航海ができても
有明海からの遠洋航海もできないし、有明湾で迷子になる始末だったでしょう。
こうして仕方なく、国際戦争を捨て、最終的に畿内に向かったようです。
畿内国は国際戦争を避けていました。鉄もなく遠洋航海も苦手だったのです。
新羅とは仲良くやっていた。それをよそに、九州の倭人国がどんどん国際戦争の
深みにはまって行ったのです。九州の倭人国は邪馬壱国・邪馬台国・タイ(人+妥)国
などと呼ばれたようです。
314 :
日本@名無史さん:04/12/12 02:24:34
老教授@畿内説纏向派 さんに問いただすべきことは、
広開土王碑の記述が誇張だとすれば、
魏志倭人伝の記述も誇張であると考えられること。
そもそも邪馬台国が7万戸を有するといっても、
そのような規模の遺跡すら存在しません。明らかに誇張です。
距離や日程も誇張でしょう。
では、邪馬台国が畿内の奈良盆地にあったという論拠はどのように導かれますか?
まさか、勝手に信憑性の取捨選択してるわけではありますまい?
315 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/12 02:30:51
>>310 削除説の根拠を簡単に書きますね。
原ヤマト連合がいくつかの首長の寄り合い所帯で、呪術師(卑弥呼など)を共立せねば纏まらなかったという事は
呪術師が変わるごとに為政を司る男王もまた交代したと考えるのが自然です。
これは武力支配の側面が強くなるワカタケルこと雄略天皇までは、ごく当たり前に起こっていたと見られます。
次に仁徳、反正、履中などの百舌鳥古墳群ですが、全く同時期に古市古墳群(応神陵やナカツヒメ陵)が平行して建造されています。
陵墓の規模からすると、どうも交代に政権を執っていた可能性が強まります。
しかし全くでたらめを書いたとも考えにくいので、古市側を省いたとすればしっくり来ます。
まあこのあたりはどうあがいても推論にしかならないのですが、今のところ有力な説です。
316 :
日本@名無史さん:04/12/12 02:32:57
ニニギ以来、畿内ですくすく育った国じゃないから神代を分けたわけで、
九州から神武のときに畿内に定着した不連続性をあらわしていると見るべき。
玄界灘をはさんで両側に倭人がすんでいただけのことで、全員九州にいたと
勝手に仮定しておいて、「半島への大量輸送は無理」とはこれいかに?
317 :
日本@名無史さん:04/12/12 02:38:24
邪馬台国は、水行二十日陸行一月の距離で、人口七万戸を有するという。
この記述はそのままでは日本のどこにも当てはまらない。
「遠隔地にある大集落」という意味で捉えるのが懸命でしょう。
結局、畿内説では、以下の2点のみでしか論拠が語れ無いのではないですか?
「遠隔地にある大集落」「邪馬台国と大和の音韻が似ている」
これだけで、邪馬台国が奈良盆地にあったという証明にはならないと思われますが?
何か他に論拠がありますか? まさか、いまさら三角縁神獣鏡とは言わないですよね?
318 :
日本@名無史さん:04/12/12 02:39:51
漢代・三国時代も含めて、中国では薄葬が主流。倭人国も基本的には薄葬。
ただし卑弥呼の墓だけは大げさに作ったので中国側は特記した。
畿内の古墳など言語道断。ただし反中国となってからは、倭人国も装飾古墳を
作るようになった。
319 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/12 02:50:49
>>314 >広開土王碑の記述が誇張
誇張では無いでしょう。「大軍」を送ったとは書かれていませんので。
しかしながら
>魏志倭人伝の記述も誇張であると考えられること
これにはおおむね同意です。
よく畿内説の論拠として「7万戸もの遺跡が九州では発見できない」といいますが
畿内どころか全国どこを探しても見当たりませんし、実数とは考えにくいですしね。
倭人伝の表記も九州島において少なくとも現地を見た地域においては
「有四千余戸」とありますが、投馬国や邪馬台国は「可七万余戸」と伝聞表記を用いています。
さらに言うと殉葬を実際行ったと見られる墳墓は、いまだ発見されていません。
畿内説を採択する根拠は、文献記載からではなく考古成果に基づくものです。
2世紀末から3世紀の土器の激しい動きと、それまでの環濠集落の再編成が畿内を基点に東西、特に北九州に向かって進むことは先に述べました。
これは畿内土着の首長だけでなく、広範囲の首長連合による再編成です。
その流れの中で玄界灘グループのみで共立した女王国が存在したとは非常に考えにくいのです。
基本的に畿内説と言うのは、消去法によって成立しています。
可能性の薄い地域から候補を外していくといった考え方ですね。
ですので、誓って言いますが「まず近畿ありき」ではありません。
320 :
日本@名無史さん:04/12/12 03:02:21
>>319 纏向からは、北九州の土器は出ていない(少ない)事実は、
例によって無視ですか?
321 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/12 03:03:35
>>311 >玄界灘をはさんで両側に倭人がすんでいた
そっくりそのまま倭の領土だったかどうかは疑問ですが、基本的にお互い同じ考え方ですよ?
>>317 これを言うと怒られそうですが・・・音韻は全くあてにならないと思います。
理由は散々過去に言われてきたとおり、当て字を繰り返し使われているからです。
三角縁神獣鏡がいわゆる「銅鏡百枚」の内に入るかどうかは今のところ全くわかりません。
むしろはっきりしているのは、4世紀に入ってから副葬品として特化したものであるということのみです。
オリジナルが魏鏡である可能性は非常に高いと見ますが、それがそのまま卑弥呼の鏡だとは言い切れないでしょう。
これはほとんどの考古学関係者はそう見ているはずです。
322 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/12 03:06:54
>>320 いえ、それが何故纏向説に反するかが判りません。
北九州の人的影響を受けていない時期に成立し、そのまま発展した遺跡だと考えていますが。
323 :
日本@名無史さん:04/12/12 03:09:23
>>319 3世紀に、広範囲の首長連合が、畿内から九州に及んでいたとして、
4世紀以後、物流の激しかった北九州より、日向で多くの古墳群が作られるという事実は、
どう説明されますかね?
4世紀以後、北九州では自治を許された豪族が滅亡していたように見えますが?
324 :
日本@名無史さん:04/12/12 03:15:47
>>322 >北九州の人的影響を受けていない時期に成立し、そのまま発展した遺跡だと考えていますが。
北九州には、最先端の鉄や文物が輸入され、畿内と連合してたのに、
輸入品が(北九州の土器と一緒に)搬入されることなく発展したと?
325 :
日本@名無史さん:04/12/12 03:25:53
>>319 >その流れの中で玄界灘グループのみで共立した女王国が存在したとは非常に考えにくいのです。
なぜ「考え難い」のか、もう少し語って欲しいですね。
北九州は、朝鮮半島と独自に交易をして栄えていたのだから、
本州勢力と連合する必要性はまったく無かったはずで、
「考え難い」と考える方が考え難いですな。
326 :
日本@名無史さん:04/12/12 03:26:10
>>323 前にも書きましたが日向のみの現象ではありません
西都原古墳群に見られるような大量の小規模古墳は特に関東に多く見られます。
それと西都原古墳群の築造時期に関して諸説があるのは、昭和4〜5年にかけての組織的な盗掘事件のためです。
ここから盗掘されたと称する遺物の年代があまりに広範囲なのと、その出所情報の不確かさが原因です。
売れ残った遺物については梅原末治氏が「持田古墳群」の題名で調査鑑定結果を残しておられますが
供述のあいまいさが指摘されており、今のところ真相は闇の中です。
4世紀以降の北九州は滅亡というより埋没に近いかと思います。
半島情勢の激化により、集落そのものの形態が全く変わるからです。
前に私が3世紀初頭をエポックメイキングと考えているとの指摘がありましたが
同様に4世紀初頭もまた大きな転換期であったのは間違いありません。
327 :
日本@名無史さん:04/12/12 03:33:27
>>326 >西都原古墳群に見られるような大量の小規模古墳は特に関東に多く見られます。
そんな事を聞いているのではない。
なぜ、北九州が滅亡(埋没でもいいが)したのか?ということ。
3世紀に畿内と連合していたなら、貿易港として重要な土地ということで、
多くの大和系豪族が生まれたはず。しかし、実際は衰退した。
半島情勢の激化という理由だけで、北九州の衰退は説明は出来ないと思われるが?
328 :
日本@名無史さん:04/12/12 03:46:30
>>324 土器が移動するのは人的要因もさることながら、その中身の問題でもあります。
北九州から本州各地に分布される遺物に、土器が伴うものは少ないでしょう。
基本的に食料関係がその中身でしょうから。
それと畿内土器が急激に普及した理由のひとつに、従来のものよりさらに薄手であるため
煮炊きにおける熱伝導性が高い点があげられます。ややコンパクト化して使い勝手が良いせいもありますね。
>>325 >>150にて書きましたように、玄界灘グループの経済的な没落が原因と見ています。
それと倭人伝記事が九州島の出来事であると仮定した場合
帯方郡から派遣された張政等は数年間は伊都国に滞在したと思われますが
すでに畿内の経済勢力が大きな割合を占めていた伊都国や奴国を見て不審に思わなかったのでしょうか?
これを隠し通せるとは思えませんし、その他の国でひと括りにはできないと見ますがいかがでしょうか。
329 :
日本@名無史さん:04/12/12 03:56:41
鉄器の少ない畿内こそ、消去法によって邪馬台国の該当地から消えます。
330 :
日本@名無史さん:04/12/12 03:57:19
>>328 >北九州から本州各地に分布される遺物に、土器が伴うものは少ないでしょう。
>基本的に食料関係がその中身でしょうから。
意味が読み取れないなあ。土器の中身は食料品で、
北九州は食料を畿内に持ち込んだわけじゃないから、土器が出ないと?
では、北九州と畿内は、どういう繋がりがあって連合したとお考えか?
>すでに畿内の経済勢力が大きな割合を占めていた伊都国や奴国を見て不審に思わなかったのでしょうか?
なぜ、不審に思うのか解りませんが?
物流がまったく畿内と北九州が分断されていたとも思えませんけどね。
商人同士の繋がりがあっても、国家レベルで繋がる必要は考えられません。
今でも、北朝鮮と人も物も行き来してますし。
魏志倭人伝にも、つまびらかに出来ないクニがあることを明記してますよ。
331 :
日本@名無史さん:04/12/12 04:00:04
>>327 いえ4世紀に入るとまた別の形で北九州湾岸地域が再編成されますよ。
ただしそれまでの独自貿易を行っていたかつての姿はありません。
対馬・壱岐ルート以外の沖ノ島ルートが活発化するのはまさにこの時期からです。
誤解の無いように申し上げておきますが、ここでかつての首長がどうなったのかは遺跡からでは判断できません。
しかし点の存在であった集落が、面として機能し始めるのが4世紀からの北九州の特徴です。
それも貿易主体ではなく徐々にですが戦略地点としての様相を帯びてきます。
貿易ルートが沖ノ島経由に変わったのもこの一環かと考えます。
332 :
日本@名無史さん:04/12/12 04:01:36
九州の倭人国は、半島戦防衛のため、北部九州から熊本方面へ
遷都しているようです。北部九州の遺跡の急激な変化はこのためでしょう。
333 :
日本@名無史さん:04/12/12 04:04:27
>>331 3世紀と4世紀の北九州勢力の連続性が不明という意味で捉えていいのだね?
334 :
日本@名無史さん:04/12/12 04:06:09
江戸期も畿内は列島の台所であったが、首都ではなかった。
古代も畿内は列島交易の中心地であったが、首都ではなかった。
335 :
日本@名無史さん:04/12/12 04:07:02
九州の倭人国は、半島戦防衛のため、北部九州から畿内方面へ
遷都しているようです。北部九州の遺跡の急激な変化はこのためでしょう。
336 :
↑誤り:04/12/12 04:12:48
神武らが畿内に逃亡しただけでしょう。
337 :
日本@名無史さん:04/12/12 04:14:44
>>330 >商人同士の繋がりがあっても、国家レベルで繋がる必要
なるほどそこがお互いの分岐点になっていた訳ですね。
各首長国にとって連合傘下という大局的な思想は薄いとは前に述べましたが
商売とクニを分けて考えるほど国家としての体制は確立していません。
この場合商人=クニと考えていただければ良いでしょう。
もちろん農業も武人も=クニです。そこまでの細分化された体制ではありません。
338 :
日本@名無史さん:04/12/12 04:15:16
神武らは、鉄器を持っていたので、畿内では有利な軍でした。
半島や九州じゃ、ショボイ軍隊だったと思います。
339 :
日本@名無史さん:04/12/12 04:28:41
>>333 慧眼ですね。
確かに畿内同様北九州においても連続性について不明な点が多いです。
これはどこに邪馬台国を比定しても必ず提出される謎です。
出雲や吉備もそうですね。濃尾平野などはもっと不可解です。
問題は3世紀に繁栄したと見られる遺跡がそれまでに比べて極端に少ない点にあります。
今後発見されるのかどうかも疑問です。
そのくせ倭人伝という詳細な記録が残っていたりしますので、よけいに難しい(笑)
さて、そろそろ落ちる時間でもありますので宿題がありましたらお願いいたします。
恒例の(笑)年末発表が相次いでおりますので、頻繁には書き込めませんが出来る限り頑張りますので。
お付き合い有難うございました。
340 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/12 04:33:49
あれれ?ハンドルが消えている・・・。
326 328 331 337 339は私です。
無駄レスして申し訳ないです。
>老教授@畿内説纏向派氏
もつかれ様でした。勉強になりました。
最近は九州説の諸コテが見えないのですが、どうしたんでしょう
名無しになったかな
ここまで読んできて思ったけど、九州説の人は余裕のない人が多いなあ。
「畿内の筈がない」みたいな発言が多いし。畿内説で確定できないのと同じように、
九州説にしろ、そこまで言い切れる確証なんてないだろ。
老婆心ながら、もっと柔らかい頭を持てよ、と思う。
>>330 >意味が読み取れないなあ。土器の中身は食料品で、
>北九州は食料を畿内に持ち込んだわけじゃないから、土器が出ないと?
>では、北九州と畿内は、どういう繋がりがあって連合したとお考えか?
328さんではないですが。
重くて相対的価値が低い食料品を、わざわざ九州から運ぶ必要が無かったということ
なんでしょう。
九州→畿内へと運ばれた物品は、主に当時貴重であった鉄やら舶来製品であって、
畿内→九州への見返りとしては、生口と穀物しか無かった。
文化的後進国は辛い。
畿内に九州系の土器が少なく、九州に畿内系土器が多く出土するのは、
そういう事なんだろう。
344 :
日本@名無史さん:04/12/12 11:52:26
>>337=老教授@畿内説纏向派氏
>この場合商人=クニと考えていただければ良いでしょう。
はぁ?
商人は、商人同士で販売網を築いた関係で、
政治的な思惑は介入せず、あくまで個人的な損得勘定の付き合いでしかない。
クニの付き合いは無くても、
隣接したクニの商人を伝って、物は移動するもの。
クニは、土地や水利といった、集団同士の抗争の原因を調整するために必要なもの。
そのため、近隣の土地を共有するクニ同士は連合する必要があるが、
海を隔てた遠方のクニ同士は、一人の王を立てて連合する必要性がない。
両者の形態はまったく違う。
老教授@畿内説纏向派氏の脳内の古代像がさっぱり計り知れなくなった。
老教授@畿内説纏向派氏は、
1.「個人商店」が細々と商売していただけの形態を「クニ」と定義し、
2.畿内から北九州までの物流の証拠だけを見て、「クニの連合」と推測し、
3.一人の王を共立していたと考えていたのか。
2と3には、驚くべき論理の飛躍があるわけだが、
自分で気づいていないのだろうか?
これが学者バカというやつかな?
345 :
日本@名無史さん:04/12/12 12:03:26
>>337=老教授@畿内説纏向派氏
どうやら、言葉の定義から始めないといけないようですね?
こちらは、一般的に百科事典などに載っている定義で話をしていたのだが。
老教授@畿内説纏向派氏は、違う概念をお持ちのようだ。
「商人」「クニ」「3世紀までの連合の形態と規模」「王の役割」
これらについて、貴方の考えている定義を知りたい。
>>344 老教授@畿内説纏向派氏ではないですが…
>政治的な思惑は介入せず、あくまで個人的な損得勘定の付き合いでしかない。
>クニの付き合いは無くても、
>隣接したクニの商人を伝って、物は移動するもの。
このような話は、我々が主題としている3〜4世紀には当て嵌まらないのではないでしょうか?
後代においても、市などの商取引の場が、堺などの境界線上に設定されたように、
古代における物々交換とは、もっとアニミズム的・宗教的視点が必要であったのではないか
と思います。
古代の商人は、やはり祭祀王が主体であったと。
347 :
日本@名無史さん:04/12/12 12:12:11
>>346 脳内妄想を語るなよ。
古代の商売は、祭祀王が主体で、宗教的に一元的に取引されていただぁ?
そんな事例が世界のどこにあるんだ?あれば示せ。
シルクロードは、アジアに一人の王が共立されてなければ、
存在できなかったと考えているわけではあるまいな?
>>307 >むしろ架空の天皇より、削除された天皇(大王)が相当あったのではないかとの
>見方をしています。
吉備の造山の被葬者も、大王だったのでしょうか。
梁塵秘抄でも「吉備津神社は恐ろしい」と言われているみたいだし、大王位を簒奪され、
子孫を戮されて、崇り神になったのでは?
>>347 お前は勉強不足。網野さんの著作とかちゃんと読んでるか?
350 :
教授じゃないよ:04/12/12 12:24:00
当時貿易商店なんてあったのかね
せいぜいいたとして行商人くらいか
貿易は国が取り仕切ってたんじゃないのかな
やはり商業(商人)=国 だったのでは?
351 :
日本@名無史さん:04/12/12 12:29:42
鉄器や塩、材木の交易は古代なりの商業が存在したと見るべきでしょう。
これらは、クニの為政者に関係なく、どんどん交易されていた模様。
352 :
日本@名無史さん:04/12/12 12:35:54
>>337=老教授@畿内説纏向派氏
このレスを、好意的に解釈しようと試みているが、
やはり理解できないなあ。
古代のクニの発展は、大雑把に以下の流れがあったと思われるが、
商人(個人)→豪族(物流の取りまとめ)→クニ(豪族間の利権の調整)
老教授@畿内説纏向派氏は、3世紀のクニ=豪族の段階と考えているのか?
それにしても、
「各首長国にとって連合傘下という大局的な思想は薄い」と考えていながら、
「畿内の一人の王を共立し、連合していた」と考えてるらしい。
しかし、「一人の王を共立しなければならない必要性」については、何も語ろうとしない。
>>346のように、「古代の商人は、祭祀王が主体であった」と考えているのか?
そこまでバカじゃないと信じたいけどね。
もっと、明確に古代像を語っていただきたい。
>>345の言葉の定義から、お願いしたい。
353 :
日本@名無史さん:04/12/12 12:39:09
354 :
日本@名無史さん:04/12/12 12:39:23
倭人の代表国は、金印を受け取り、阿蘇山が噴煙を上げていたというのだから、
邪馬台国=畿内国説は無理でしょう。これ、基本。
355 :
日本@名無史さん:04/12/12 12:52:14
商人が先か、国が先か
356 :
豊前説:04/12/12 13:00:55
>>272 >西都原は、もともと斎殿原。
これ、私が昔書いたもののコピペですね。
あの時は、西都原が西の都の意だとの主張に対しての
反論として書いたのだが、まあ、いいか。
補足しておくと、後に大和朝廷と宇佐の連合軍に対し大隅八幡=隼人が
反乱を起こしたこと、宇佐の荘園があったことを考えると、和解であった
としても豊前勢が支配的な立場にあったのではないかと考えています。
斎宮については、言葉が足りませんでしたが、豊鍬入姫あるいは倭姫命は
斎氏の血を引いていたのではないかと思っています。
この板で、網野善彦を知らない人間がいるのか…
>>352 >
>>346のように、「古代の商人は、祭祀王が主体であった」と考えているのか?
>そこまでバカじゃないと信じたいけどね。
人のことを馬鹿と言うからには、具体的に反論してもらいたいものだ。
まあ、出来ないとは思うけど。
現代の視点から古代を語っちゃ駄目だよ。
無良田食海物自活乘船南北市糴
國國有市交易有無使大倭監之
360 :
豊前説:04/12/12 13:10:08
>>300 >魏使が実際に邪馬台国に足を運んだ確率は、やはり低いと言わざるを得ないからです。
倭人伝自体を書いた人は、どうも邪馬台国には行ってはいないようですね。
しかし、倭人伝には「伊都国は郡使が常に駐まる所」と書かれているため
倭人伝を書いたのは、魏使梯儁よりも後の人であったと考えられます。
よって、魏使が邪馬台国に行っていないとは断言できないと思いますよ。
361 :
日本@名無史さん:04/12/12 13:10:51
>>346 >>358 百歩譲って、「古代の商人は、祭祀王が主体であった」と設定してやろう。
しかし、その場合は、鉄、金、塩、米など専売度の高いものに限られるだろうね。
各集落で自作出来るような、釣り針、織物、土器などは、
欲しがる人があれば、個人商人伝いで他国とも自由に交易されていただろう。
クニに制約を受けていたと考える方が無理がある。
そして、3世紀に鉄器・鉄素材を輸入していたのは、北九州である。
鉄の専売権を、わざわざ畿内の女王に委譲する必要性は何か教えていただきたい。
「祭祀」が関係していたからですか?
それは、あらゆる事例を矛盾無く解決できるワイルドカードであって、
取り扱いには慎重を期するべきものですよ。
古代、貝塚に見られるように、塩田だけでなく干し貝の形態で
塩(塩貝)の商品化がなされていたようだ。縄文時代の商業が
あったと見るべきである。山間部からは大量の薪や材木が
海岸地方に売られて、塩と交換されていた。黒曜石やサヌカイトも
後世の鉄も交易されていたはずだ。
「古代に商業無し」とするのは暴論だろう。
>>361 >集落で自作出来るような、釣り針、織物、土器などは、
>欲しがる人があれば、個人商人伝いで他国とも自由に交易されていただろう。
何も、近接する村落での交易、行商人の存在は否定しないよ。
九州⇔畿内のような遠隔地交易においては、国(祭祀王)が主体であっただろう
と言っている訳で。
>百歩譲って、「古代の商人は、祭祀王が主体であった」と設定してやろう。
お前、何様?
364 :
日本@名無史さん:04/12/12 13:21:37
>>363 鉄の専売権を、わざわざ畿内の女王に委譲する必要性は何か教えていただきたい。
365 :
日本@名無史さん:04/12/12 13:30:10
>>363 >九州⇔畿内のような遠隔地交易においては、国(祭祀王)が主体であっただろう
九州⇔畿内の直接貿易は無いだろう。
そんなデカイ商業船があったのか?
隣同士の集落間での行商で、物品が移動していったと考えるのが普通。
366 :
豊前説:04/12/12 13:36:44
>>319 >さらに言うと殉葬を実際行ったと見られる墳墓は、いまだ発見されていません。
宇佐神宮の百体神社では、複数個の甕棺が何度が発見されたらしいです。
由緒では、ここは720年の隼人の反乱の際の首を埋葬したと言われて
いるようでありますが、この反乱は遠く大隅でおこったものであり
わざわざ死体を持ち帰ったとは考えにくく、しかも首塚から甕棺が
出土するのは不自然です。
私は、元来百人の殉葬者がここに埋められたが、意図的か無意識的にかは
分かりませんが、いつの間にか、隼人の霊と置き換えられたのではないかと
思います。
367 :
日本@名無史さん:04/12/12 13:53:51
>>366 私見では、天武・持統・文武などの九州(畿内融合)系王権による
九州王本家の残党狩りに、宇佐神宮は協力したのだと思います。
きび政策によって唐の傀儡王を戴き、国家の建て直しをはかっていた九州本家に
あくまで列島倭人の純潔を守ろうとする宇佐神宮は、九州系畿内政権を巻き込み
バックアップしたようです。その際の戦没者の鎮魂は大事な任務でしょう。
368 :
豊前説:04/12/12 14:20:10
>>328 畿内の土器が九州に見られるとしても、まだ西新町などごく限られて
いますよね。市場のようなところで取引をしたような形跡があり、
かつそれぞれの集落が分かれていると。
九州中に普及していたわけではありません。
これだけでは、ただその地域で取引が行われていただけであり、
畿内が九州を経済的にであれ支配下に置いたとはどうも納得し
難いです。
>すでに畿内の経済勢力が大きな割合を占めていた伊都国や
>奴国を見て不審に思わなかったのでしょうか?
私も、330氏と同じく必ずしも不審に思う必要もなかったと
思います。
伊都国、奴国が倭連合の貿易都市として、日本中のあちこちから
いろんなものが集まっているな、ぐらいの認識だったのでは。
そして、魏としてはあくまで、相手国として倭連合を相手に
しており、畿内と貿易をしているという感覚がなかったのでは。
(伊都や奴が畿内から市場参加料を徴収していたかもしれませんし)
また、たとえ畿内が経済的なウェートを占めるようになっいたとして
邪馬台国の名にこだわらなくてもいいのでは。
>>339 >そのくせ倭人伝という詳細な記録が残っていたりしますので、よけいに難しい(笑)
考古学的見解はおいておくとして、倭人伝の解釈は,九州説に有利と
お考えということですか?
369 :
豊前説:04/12/12 14:32:25
>>367 ところが、ことの発端は大隅八幡が、我こそは正八幡だと名乗り
支配側にあった宇佐に対し反乱をおこしたところにあります。
(宇佐は大隅八幡に神主を送り込んでいました。)
つまり大和朝廷が隼人を倒そうとしたのではなく、大隅八幡(隼人)が、
宇佐に反乱を起こしたため、九州(宇佐)系の大和政権が宇佐を応援したと
考えるべきではないかと思っています。
370 :
豊前説:04/12/12 14:50:40
>>367 追加。
宇佐というか豊前は、元来大陸系の血筋の強いところで
唐人が移植してきたとも考えられる唐原もあります。
そこから倭人の純潔を守るという概念は生じにくいと思います。
>その際の戦没者の鎮魂は大事な任務でしょう。
私がそこでいいたかったのは、言い伝えでは首しか持ち帰ってない
はずなのに、全身をいれる甕棺が出土しているという矛盾です。
>>369-370 宇佐神宮+畿内王権(外圧排除を希望、組むなら新羅だけ)と
隼人+九州本家王権(武即天の支援で再建希望)の
一触即発状態ですから、どちらからの蜂起もありえたと思います。
倭人の純潔と申したのは、列島の王権がきび政策に屈しないことを指しています。
血統や民族のことではありません。
白村江の大敗北や九州本家滅亡などのリアルな描写・表現は後世はばかられ
万葉集や記紀では「遠の朝廷」程度のあいまい表現しか許されない時代にあって
当たり障りのない婉曲伝承のせいで「首しか持ち帰っていないはず」などの
矛盾が出ることもあろうかと思います。
372 :
豊前説:04/12/12 16:42:28
九州本家政権や熊襲、隼人についての見解は、異論がいろいろと
あると思いますし、自分もまだ確信を持つにいたってない上、
本論とズレが生ずるので置いておきましょう。
(唐・きび政策と隼人との関係については、存じあげないので
また教えてください。)
一つに宇佐と隼人の戦争は大隅で起こったとされています。
ここから首を持って帰ったとするなら納得が出来ます。
しかし、全身を持って帰ったとするならば、火葬にでも
しなければ到底無理です。火葬にしたなら甕棺は必要ありません。
骨壺程度のもので十分です。
また、いくら鎮魂のためといえ、何故敵の全身をはるばる持ち
帰る必要があったでしょうか?
それからもう一つ、一般に甕棺が使われたのは2世紀までと
言われています。
隼人と宇佐の対立は7-8世紀にかけてであり、百体神社から
甕棺が出ているならそれは、隼人とは関係なく、歴史が
ずっと遡ると考えられます。
また、比売大神の存在と石棺が目撃された亀山とあわせ、卑弥呼の
古墳として有力な候補になると思うのです。
373 :
日本@名無史さん:04/12/12 17:08:26
>>372 百人分(せめて数十人分)甕棺が出てこないと何とも言えん
374 :
日本@名無史さん:04/12/12 17:21:55
>>672 当然、宇佐=畿内王権側の戦死者の遺体でしょう。
「隼人の反乱」という婉曲表現で言葉を濁し、現畿内政権の成立過程の戦乱をぼかして、
相対峙した勢力も「隼人」として具体性を失わせた表現を選んでいます。
全体として、意図的に非常にはばかった表現にして、伝承されていますね。
甕棺は昭和の代にはいっても、対馬などでは使用されていました。
375 :
日本@名無史さん:04/12/12 18:09:23
甕棺で埋葬する風習は、今でも九州の田舎で残ってるんじゃないの?
377 :
373:04/12/12 20:04:17
>>376 かなり前から読んでるよ
でもな、1レスが長い本格スレで、とても覚えきれん
簡潔に教えてくれ
隼人の反乱の首謀者連中を連れてきて、首を刎ねたんじゃないの?
379 :
日本@名無史さん:04/12/12 20:52:06
どちらにせよ、倭人伝を見ると、邪馬台国は北九州からはおよそ、遠い所
にあるようですね。よって、北九州はないと思います。
奴国(博多)でさえ、邪馬台国への過程の一つの国にすぎません。
また、当時の遺跡からは出雲の荒神谷遺跡など、本州からも巨大な遺跡が
発掘されていますね。
380 :
日本@名無史さん:04/12/12 21:03:45
当時は藪だらけで、目と鼻の先でも遠距離でしょう。
海と藪では、平地の大陸に慣れた中国使節の案内には、
異常な遠回りばかりしたでしょう。
381 :
豊前説:04/12/12 22:52:36
>>374 >当然、宇佐=畿内王権側の戦死者の遺体でしょう。
うーん、それはどうでしょう。自軍の骨を埋めたなら、何も隼人の首
なんていう必要もないでしょう。
>「隼人の反乱」という婉曲表現で言葉を濁し、
ちょっとそれは、決めつけではないですか?
磐井の反乱の場合もそうですが、記録上、反乱と記されているものを
安易に「実際は反乱ではなく、云々」には疑問を感じます。
382 :
日本@名無史さん:04/12/12 23:03:37
>>381 大隈から遺体を運んだのが当然とお考えならかまいません。
実際は反乱がなかったのではなく、
反乱軍たる畿内分家王権+宇佐神宮勢力が、九州王本家を討伐したのです。
反乱軍が九州本家正規軍たる隼人軍に噛み付いたのであり、正賊が逆だということです。
>>382 なんか見てきたみたいだね。
ソースは?
>>381は大隅から遺体を運んだなんて書いてないんじゃないのか?
見てくるしか古代史は語れないと考えた根拠を知りたいね。
遺体を運んだことになってしまうことに頭を痛めておいでだったな。
385 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/13 00:44:25
今夜はあまり時間がありませんので要点だけ。
弥生中期から終末までのクニの形態、物流および生産についてでしたね。
まずクニの実態ですが・・・
まず大型環濠集落(吉野ヶ里や唐古・鍵など)が非常に稀有な存在であるとの認識を持っていただきたいのです。
なぜなら環濠を有する集落そのものがごく少数であり殆どの集落は竪穴式住居4〜5棟程度の小さなムラ程度の規模です。
ただしそれらは無数にあり、いわゆる農民層として機能しています。
環濠に囲まれた集落は、首長とその一族、神官、側近、衛士、渡来人、商人などで構成され
環濠外の農民層への市を開いたりしています。支配者層と労働者層ですね。
それとは別にガラスや玉や武器などを製造する工房をいくつか有しています。
これが主だったクニの単位で、唐古・鍵を例にとれば環濠内に2千人ほど、外に1万人ほどの比率です。
このクニ同士で食料や特産品、工具などを貿易していたのですが
どのクニにおいても全て自給自足していた形跡はありません。
例えば「塩」や「石器」「青銅器」は独自の特産品として近隣相互のやり取りの上に成り立っています。
これが小競り合いはあれど、全面戦争に発展せずに手打ちとなる社会ルールを産み出しております。
386 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/13 00:51:20
弥生期の手工業生産においては、おおむね3つに大別できます。
@環濠集落内での多種多様な製品
A専業工房での特産品
B農村における農閑期の生産
食料調達においては以下のとおりです。
@穀類の畑作や稲作
A狩猟、海産物などの漁業
B雑穀(山栗など)の採集
C牧畜(豚、犬、鶏など)
D他のクニとの交易
私は、日本列島が海洋民族の土地だと思っております。
どうしていきなり「農民層」なのかお聞ききしたいです。
江戸期の農本主義があなたを幻惑しているだけではありませんか?
388 :
日本@名無史さん:04/12/13 01:02:32
お休みする前に一言! 379さん。当時博多付近はまだ海の底か海岸沿いの湿地帯じゃなかったかなー
389 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/13 01:06:00
土器の生産はAの専業工房で行っていたと見られ、その移動(商業行為)においては
各クニの首長層の管理の元に行われており、商人による自治的な商業活動はまず考えられません。
それを許すとクニの経営基盤が根本から揺らぐためです。
食糧生産、特に稲作についてですが
弥生前期にはすでに菜畑遺跡や板付遺跡で乾田(農閑期に水を抜く、現在と同様の方式)が認められ
遅くとも百年以内には中部、北陸にまで浸透します。
しかし収穫の確実性は気候や気象(台風など)に大きく左右され
地域によっても水不足に陥りがちな北九州、逆に河川の氾濫が多発した河内
農地面積の少ない瀬戸内や山陰、冷害の影響を受ける東海や北陸など
それぞれの事情で古墳時代以降も安定した生産が難しい状況でした。
土器じたいが門外不出である理由などありません。
粘土の採取や弥生式土器の量産工程は管理したかもしれません。
どんぐりや栗、貝や海草のほうが、食の中心ではなかったか?
何で唐突にマイナーな「米」だけ取り上げるのだろう?
392 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/13 01:19:50
>>387 全く違います。漁業や狩猟のみでクニは維持できません。
お疑いなら弥生期の農耕遺跡をお調べください。
もともと弥生文化そのものが地域分業システムによる交流や交易を基本にして成立しています。
ひとつのクニのみで農具、生活具、工具、武器、工芸品などを自前で製作し
自給自足していた集落はこれまた古墳時代に至っても存在しません。
要するに相互依存による共生社会が成立、維持されたのが弥生時代と呼ばれる時期なのです。
それ故に統合や吸収といった繰り返しでクニが広域化することはあっても
征服や殲滅といった手段は、ごく稀なケースを除いて最初から選択肢になかったと言って良いでしょう。
393 :
日本@名無史さん:04/12/13 01:22:24
残念だが、日本で米中心の食生活が普及したのは、第2次世界大戦中のことですね。
394 :
日本@名無史さん:04/12/13 01:32:03
平安時代ですら、栗畑が重要だったくらい、米中心ではなかったのです。
稗は数年の保存がきき、不作の年対策として重要で、どんぐりも重要な
食料でした。昆虫も食べたでしょうし、米は数ある食料の、ほんの一部に過ぎません。
農業の一部に米もあっただけです。
>>389 >商人による自治的な商業活動はまず考えられません。
額面通りに受け取れば、「3世紀に商人はいなかった」ということになるが?
いったい誰の説(論文)を参考にしてるのか教えてください。
396 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/13 01:35:20
>>390 食料の移動を管理できずに千や万単位の人口をまとめる事は不可能です。
>>391 いえアワやヒエ、ソバなどもありますが基本的には農耕が主体です。
縄文後期にはすでに農耕主体に移行しています。
続いて大型集落に見られる「環濠」ですが
実際には防衛施設的な側面は殆ど無かったと考えられています。
導入当初の目的としては、その意図は多分にあったのでしょうが
すぐにゴミ投棄場所やトイレ代わりに使われるようになります。
また約20年ほどで土砂やゴミで堀が埋まってしまったようで
池上曽根などはその都度掘り直しています。
しかし新しい時代に掘った環濠ほど浅く狭いものになってゆきます。
吉野ヶ里や朝日遺跡(愛知)なども同様です。
さらに防衛施設として致命的なのは、掘り出した土で作った土塁が環濠の外にある点です。
土塁は環濠の中に作らねば防衛機能を発揮しません。
逆に攻め手に有利になってしまいます。実物は吉野ヶ里にて復元遺跡があります。
北朝鮮にもヤミ市があるのに、
3世紀はそれを上回る管理社会だったのか。
そんなわけネーダロ!
農耕といいましても、夜明けから深夜まで根をつめて農業にいそしむものと、
どんぐりを植えて採集し保存するような、のどかな農業があるわけです。
この辺を混同されて、人口の多くが高度な水田稲作農業ばかりやっている
ような社会を考えたら、たいへんな誤りです。
海にもぐって海草や貝を取り、岡に上がってどんぐりを拾う。湿地には里芋が
植わり、山芋も管理しているような、自然を生かした生活もあったのです。
一部の都市だけが列島のすべてではないのです。
399 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/13 01:45:43
>>393 >>394 米は食料であると同時に重要な貿易物資でもあります。
>>395 クニに属さずに独自に商売することはまず考えられないでしょう?
そこまでの自由貿易が実現するのはずっと後の時代です。
またこのクニが管理する貿易形態といった概念は、考古学では一般的な解釈です。
根拠は各集落における倉庫施設による一括管理以外の集積が全く見られないこと。
土器移動に伴って墓制や工芸品といった文化が同時に動くことなどです。
400 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/13 01:56:46
>>398さん
>>386の食料調達にそれは含まれますよ。
それと一部の都市ではありません。
少なくとも西日本全域と北陸、関東の一部では弥生後期にこの生産流通体制が確立しています。
それに属さない層も居たでしょうが、大勢に影響を及ぼすものではありません。
弥生期の生産流通実態は、ここ2〜3年で驚くべきスピードにて解明されています。
昔に習った素朴な弥生人像や、ここ20年ほど流行だった戦乱時代といったイメージは既に払拭されています。
>>399 >クニに属さずに独自に商売することはまず考えられないでしょう?
>そこまでの自由貿易が実現するのはずっと後の時代です。
をいをい。
戦争の無い世界なら、なおさら、収穫物を個人で物々交換しに行っただろう。
貴方の言う「倉庫施設」とは、
首長が、租税として農民からクニに徴収した穀物等を管理してただけでは?
すべての商売や市がクニレベルで管理されてたなどと、考古学者は考えているのですか?
証拠第一主義ならそういう結論になるかもしれないが、トンデモと紙一重だねこれは。
>>400 >弥生期の生産流通実態は、ここ2〜3年で驚くべきスピードにて解明されています。
入手・閲覧可能な資料・論文・書籍などはありますか?
ネット上になければ、問い合わせ可能な研究所とかを教えていただければ。
403 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/13 02:14:31
地域による特色を個別に見れば
広い平野や盆地に複数のクニが並立し、相互協力意識が強かったと見られる大和と尾張。
瀬戸内の海路を通じてまとまった豊前、吉備、伊予、讃岐、河内。
日本海ルートにて結ばれた出雲と北陸。
地理的要因で半島との貿易に特化した筑紫、肥前、肥後。
これに越と関東を交えた4大+αが2世紀の主な貿易グループです。
そこから瀬戸内を媒介にして経済圏統合が起こるのが3世紀あたりです。
その形成と体制維持に大きく関わったのが、宗教観統一ともいえる地方祭祀の放棄です。
これについてはまた後日詳細をば。
>>403 >これについてはまた後日詳細をば。
それより、元ソースを紹介してくれ。
405 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/13 02:20:18
>>401 ごく小さな取引はクニの勢力圏が隣接する地域では有り得たでしょうが、大きな流れにはなっていません。
>>402 ネット内にはあまり明るくないものでして・・・。
お近くの図書館か埋文関係、教育委員会などで閲覧できると思います。
ただ年内はどこも戦場ですので、年明けなら研究員が説明してくれるかも知れません。
>>405 図書館で閲覧するから、貴方がソースにした論文のタイトルか研究者の名前を教えてくれ。
407 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/13 02:33:51
>>404 歴博のHPに飛んでみましたが、あまり良いのがありませんね。
ごく簡単に書いてあるものでしたら、手に入りやすいものでは
『三国志が見た倭人たち』山川出版社 2001
これに私の書き込み程度のものなら載っています。
もし関西近郊にお住まいなら、橿考研博物館か関西大学図書館にて設楽博巳氏の論文が閲覧できるはずですが。
>>409 何が?
持論を展開するならソースを示す方が先だろう。
脳内妄想かも知れんのだし。
資料の無いヨタ話にはつきあいきれんのでね。
大多数の海洋民は除外して、特殊な内陸部の例外的なケースばかり論じて
いまひとつ説得力がありません。
ところで藤尾慎一郎って、考古学会ではどうなの?
考古学者には、
独自の洞察力を働かせて、大胆な仮説を展開する革新タイプと、
当たり障りの無い、誰からも批判が来ないような論に終始し、結果、
学会の主流から離れそうになると、結局「わからない」で終わらせる保守タイプといるけど、
どちらもトンデモと紙一重なんだなこれが。
読んでて、「ちょっとそれどうよ?」と思うところが多々あってさ。
邪馬台国を構成するだろう海洋民の話を、わざわざ除外して語る真意はなんでしょう?
414 :
日本@名無史さん:04/12/13 03:20:12
>>410 おまえ人間的に欠陥があるようだが
知識のほうもダメダメじゃんw
これって都出比呂志や寺沢薫なんかの典型的な弥生解釈だぜ
それぐらい読んですぐにわからんレベルで
よくもまあそこまで偉そうな態度を取れるもんだ
ある意味感心するぜw
エンゲルスみたいなひたすら平等な嘘の古代社会観も困るが
異常にガチガチに統制されていたとする見方も極端だなあ。
村落の境の峠に余剰物を置いておき、無人の物々交換が
行われていた可能性もあるし、山の民が材木を川に流して
河口の民に届け、塩を受け取る習慣も古くからあったはず。
何でも国家の統制と見るのは違うでしょう。
考古学者が論文を出すときは、ある程度新鮮味を加味しないと注目されないからね。
かといって、突飛な説を繰り出すと、自分の地位が危うくなるから、
地位の有る人は、従来の研究からはみ出ない中で論を展開する。
説明が苦しくなると、決まって出てくるのが、「古代の祭祀」なんだ。
古代人の行動原理に祭祀儀礼にもとめるのは、考古学会では割合ウケがいいらしい。
先輩もよく使ってた手法だからね。
でも、実際は何の説明にもなってない、ごまかしだったりすることが多い。
三内丸山遺跡の掘っ立て柱も、祭祀用のポールという意見が古参の考古学者では主流だったけど、
その後の調査で建造物だったことが明らかにされた。
それでも、古参の考古学者は納得しないものだから、復元された建造物には屋根がつけられなかった。
雨風雪を避ける屋根が無かったなどと、こんな常識を欠いたばかばかしい話があるものか。
何かと祭祀を持ち出す考古学者には注意した方がいい。
417 :
日本@名無史さん:04/12/13 03:32:21
>>414 そういや、寺沢薫氏は、
いまでも米の伝来ルートは朝鮮半島経由だって主張してるのかね?
>>412 ググって読んだ限りでは主流派の王道だと思われ
>>414 煽るな、放置しろ
正直マキムク氏が愛想尽かしたらスレが終了する
いや、こっちもマキムク氏には愛想がつきた(w
自分でものを考えられない、橿研の受け売りだけだったわけだ。
だったら橿研の論文を読んだほうが早い。
420 :
日本@名無史さん:04/12/13 03:56:31
なんだ橿研か〜〜
さんざんソース出せだの誰の論文かだの聞いておいて、
いざ示されると受け売りだ、か…あほか
「稲作から考える古代社会」とは
「熊の生息分布から考える現代ブロードバンド社会」と同様
本質はつかめません。
423 :
日本@名無史さん:04/12/13 12:24:06
かつて日本の総理は、自衛隊イラク駐留問題で
「サマワは安全だと言えるのか?」という問いに、
「自衛隊が派遣された地域は安全。」などとのたまった。
「仮定は事実と言えるのか?」という問いに
「事実だから、仮定ではない。」という返事をしたわけだ。
そんな答弁をされたら、誰だって呆れる。
邪馬台国論争も同じことであって、
「橿研の解釈は、事実と言えるのか?」という問いに
「橿研の解釈だから、事実である。」と返答されれば、
それ以上議論の進めようがないわけだ。
畿内説批判は、橿研の解釈を疑うところから始まっているのだから、
橿研以外の中立的なソースが欲しいところだ。
424 :
日本@名無史さん:04/12/13 12:43:24
確かにそうゆうこともあります。橿研チームの平均年齢が2000歳近い人達で構成されているのならば話は別ですが
425 :
日本@名無史さん:04/12/13 12:46:42
話はそれるけど、
「稲作の伝来ルート」は、どう思ってるんだろう?
1.華北から渤海湾の北をまわり、朝鮮半島南下
2.華中から朝鮮半島南下
3.長江下流域から、東海を越えて直接伝来
4.華南から南島経由で海上の島を渡って伝来
日本の考古学者は昔から圧倒的に「2」を支持している。
イネの遺伝子的な報告がされても、「朝鮮半島から日本に伝来した」という見解は変わらない。
南回りで日本から朝鮮半島に稲作が渡った可能性は、少しも考えられないという姿勢。
老教授@畿内説纏向派に見解をお伺いしたいけど、
邪馬台国論争からそれるから、スルーされてもかまいませんが。
426 :
プラム:04/12/13 13:17:41
農家である私がお答えを。確かに2が定説になっていると思われます。でも、定説=真実とはかぎらない!偶然流れ着いた可能性も皆無ではない。農家が過去から未来への運搬役になっていることは真実
427 :
日本@名無史さん:04/12/13 13:19:49
>>423 エェッ?
アンタの言うソースって、発掘資料その他の現物のことかと思ってたら、「解釈」のことだったの?
428 :
日本@名無史さん:04/12/13 14:04:51
炭化米でも期待していたんかい。ありゃマズイゾ 島国の日本では解釈より方法がなかんべ おらが伝えたベと、言ってくれる人待つか?
429 :
日本@名無史さん:04/12/13 14:19:49
>>426 最近3の米もちょくちょく見つかってなかったかいな
430 :
日本@名無史さん:04/12/13 16:30:42
纏向派の考えが、やっと見えてきたよ。
1.3世紀の交易集団=クニのこと
↓
2.交易は、すべてクニの王により管理され、商人独自の交易は体勢に影響しない範囲でしかない
↓
3.3世紀、すでに広範囲で交易が行なわれていた
↓
4.クニを越えて交易が行なわれていた=クニ同士が連合していた
↓
5.クニ同士の交易は(実利とは関係なく)祭祀王が権限を持っていた
↓
6.クニ同士が連合していた=一人の祭祀王がいた
↓
7.纏向は、交易の中心地=祭祀王がいた
↓
8.結論→祭祀王=卑弥呼、纏向=邪馬台国
ここで、1,2,3,4は、考古学的事実によるものとしても、
でも、「5」は、考古学的証拠は何も無いよ?
「5」を仮定しないと、「纏向=邪馬台国」の結論に至らないわけだけど、
いったい、どういう物証があって、「祭祀王が交易の権限を持っていた」と仮定してるわけ?
431 :
日本@名無史さん:04/12/13 16:35:13
>邪馬台国論争からそれるから、スルーされてもかまいませんが。
あのー、ここ邪馬台国論争だけじゃないですから
432 :
日本@名無史さん:04/12/13 16:39:57
>>430で、「5」の仮定を受け入れれば、
鉄貿易で、北九州が、交易権を畿内政権に委譲していても不思議ではない。
問題は、「クニ同士の交易は(実利とは関係なく)祭祀王が権限を持っていた」という仮定が、
どこまで信憑性があるのかということだろう。
論点がだいぶ絞れてきたと思えるが、いかがだろうか?>纏向派
433 :
日本@名無史さん:04/12/13 16:56:21
>>403 >その形成と体制維持に大きく関わったのが、宗教観統一ともいえる地方祭祀の放棄です。
詳しい説明が聞けることを楽しみにしています。
「宗教観統一」が、「交易」とどう関係するのか、興味があります。
それは、日本だけの事情なのか、世界的に見てそういう傾向があるのかどうか?
また、3世紀のアジア世界では、仏教、キリスト教(景教)、イスラム教、ヒンズー教、儒教と、
宗教観が入り乱れながらも、交易は発展していました。
現在でも、別々の宗教を持つ人々が、同じ狭い地域内であっても普通に交易をしているわけですが、
それとの整合性についても論証してもらわないと納得できませんよ?
434 :
日本@名無史さん:04/12/13 17:50:28
>>430 わざと曲解してるの?
小規模な集団ないしは集落単位の商業及び生産活動が徐々に拡大するにつれて、集落も大規模化し、
その過程で力を付けた集落のリーダーが各地の首長へと成長していったんだろ。
商業と生産活動と王権が無関係に発展することなんてあり得ないことを理解できれば、
キミの疑問は氷解するだろう。
435 :
日本@名無史さん:04/12/13 18:10:30
>>434 曲解はしていない。いいがかりはせ。
纏向派によると、3世紀の世界では自由な商人による交易は許されておらず、
クニの王により交易はすべて管理されていたという。
一応、そこまでは認めてもいい。(異論はあるが)
が、「体制の形成と維持」には、「宗教観統一」が関わり、
地方祭祀を放棄=中央集権的祭祀王の擁立が不可欠という論に持っていくつもりなら、
その点をさらに具体的に論証して欲しいということだよ。
436 :
日本@名無史さん:04/12/13 18:10:52
>>433 >また、3世紀のアジア世界では、仏教、キリスト教(景教)、イスラム教、ヒンズー教、儒教と、
>宗教観が入り乱れながらも、交易は発展していました。
>現在でも、別々の宗教を持つ人々が、同じ狭い地域内であっても普通に交易をしているわけですが、
>それとの整合性についても論証してもらわないと納得できませんよ?
九州派は、何でこの程度の知識もないのかね。
>>433よ、まずは↓このへんから論証して貰おうか。
>3世紀のアジア世界では、仏教、キリスト教(景教)、イスラム教、ヒンズー教、儒教と、
>宗教観が入り乱れながら
437 :
日本@名無史さん:04/12/13 18:14:01
纏向派は、これまですべて考古学的物証に基づいて論を進めてきたのだから、
>その形成と体制維持に大きく関わったのが、宗教観統一ともいえる地方祭祀の放棄です。
これについても、考古学的物証を提示してもらわないと困る。
438 :
日本@名無史さん:04/12/13 18:16:13
>>436 >九州派は、何でこの程度の知識もないのかね。
じゃ、あなたの知識を教えてくれ。
439 :
日本@名無史さん:04/12/13 18:22:58
>>438 気に障ったなら申し訳ない。
ただ、画期的な新説だと思うんで、考古学的物証はなくていいからソース付で
詳しく論証してくれないかな?
440 :
日本@名無史さん:04/12/13 18:32:46
えらく難解な話になっているな。
総社のように八百万の神を全部あつめて一括管理する、そしてそれを統一権力として実際の政治に
適用したとしても、更に生活必需品の全部を専売制にするなどと言うことが果たして出来たかどうか。
まあご先祖の霊を神として祭り上げる → その内の有力者の神が一族の代表的な神になる →
更に地域・・・・ → 覇者 → 大王 と、このような発展段階をどれぐらいの年数かかったのか、あ
るいは、中国の儒教や除福の影響?などで、一気に流行として広がったのか、そのプロセスも不明
だが、現在でも村に一つはほこらがあるわけことから考えても、普通は前者のような発展を辿っただ
ろう。日本の場合、墓ごと、所帯ごとに神はいるわけだから。
卑弥呼の時代ががそのどの段階かという論証も必要だが、環豪などの物理的境界がない限り全部
の制限は難しいと思うな。そこま極端な管理なんていうのはそれこそ近代のファシズムや全体主義
国家レベルの軍事・警察力がないと無理。また、卑弥呼が司ったイデオロギーも、そんなものではな
いだろうね。
441 :
日本@名無史さん:04/12/13 18:36:52
>>439 画期的な新説って、シルクロード知らんの?
宗教観統一って、崇神がいろんな神々を祭ったって話じゃねーの。
中央権力がわさわざ地方豪族の祭祀して来たものに干渉する、
(この大王の時に神社創設って所がやたら多いのだけれど)
社殿を奉献という形を取って実は祭祀形態の統一って裏がある気がする。
明治政府の神道政策みたいに国家管理の下に置いたという事に他ならない。
443 :
日本@名無史さん:04/12/13 18:46:12
しっかし、祭祀形態を文句言わずに統一したってのは凄いことだよな。
イスラム教徒には逆立ちしてもできそうにない。
でも日本人なら確かにやりかねん。それには新しい祭祀形態がよっぽど
魅力的である必要があるだろうけど・・・道教?
2世紀前に、銅鐸も銅剣銅矛も廃棄されるわけだけど、
それをもって宗教統一がなされ、なおかつ宗教的指導者(卑弥呼)が登場し、
日本中皆が従っていた?
纏研は、そういう説を展開していたのか。
早い話、宗教にゲタを預けたということだね。
445 :
日本@名無史さん:04/12/13 19:14:29
そんなことより、3世紀のアジアにイスラム教が存在したことを論証してよ。
そんな論証は他でやれ。
つか、くだらんことに無駄レスすんな
>>443 「○○に坐す○○大神」という言い方も画一的だ。
オラが神ならそんな言い方はしない、奉幣する中央側から見た呼び方だよ。
神社(或いは神籬)を作ってしまえば神はそこに常駐するからね、
祭りの場と祭礼日が特定すると、人心はそれ以外は神から離れるんだよ。
そして偶像化・可視化によって客観視する様になる。
これは、ある種の祭政分離だな。
天皇家でも天照を伊勢に奉還したり、その範を示してるね。
448 :
日本@名無史さん:04/12/13 19:42:02
もう。このスレには付いていけなくなったなー?専門的意見と妄想が絡み合っている。これで、実際耶馬台国が虚偽だったらここのスレ人達どんな仮説立てたり言い訳するんだろー まだ見つかってもいないのに
>>448 そう、そうなんだよ! 専門的意見と妄想が絡み合っている
それが信仰の本質だ。
それと邪馬台国は妄想好きの香具師らの神籬だ。
九州装飾古墳のどこが、畿内の古墳と同一宗教なんだ?
宗教的統一国家があったとすれば、中心地は出雲しかないでしょう。
考古学的にも(古代の社殿は、日本一高かった)
文献的にも(神無月・神有月)
ようするに、論点は、3世紀に
宗教的権威による支配が、九州〜畿内の広範囲に存在しえたか?
ということですね。
宗教によってクニを越えて民が統率されるという事態を信じられるかどうか、
これまさしく「宗教」の次元ですね。
巻研は信じてるわけだから、畿内説はある種の新興宗教=マキムク教といったところか。
考古学が基礎にあるから、一見して宗教には見えないけど、
幸福の科学や統一教会やオウムと似たようなもの。
科学の衣を着た宗教。
これで、巻研が畿内説に拘る理由も、巻研を胡散臭く思えた理由もわかったよ。
一神教ならともかく、日本は多神教だし。
>>435 何、ヒステリックになっているんだか。もっと冷静になれ。
>纏向派によると、3世紀の世界では自由な商人による交易は許されておらず、
>クニの王により交易はすべて管理されていたという。
だからこの当時は、商人=王だったんだよ。王たちは大王(倭国王)を共立しており、
大王は王たちの利害調整、紛争調停の役割を担った。この当時の王が祭祀王であった事は
異論がないだろ?
要は、王権の成立要因を何に見るかだと思う。
大陸との交易により先進文化を持ち込んだ人々(商人)が、倭国における富裕・支配層(王族)
になったと考えるのは自然だと思うのだが。
逆に言えば、彼ら以外に王になる資格を持つ者がいたのか、と。
>「体制の形成と維持」には、「宗教観統一」が関わり、
>地方祭祀を放棄=中央集権的祭祀王の擁立が不可欠という論に持っていくつもりなら
なんだかなあ。
3〜4世紀の倭国にそこまでの統一はないだろ。誰もそんな事言っていないし。
456 :
日本@名無史さん:04/12/13 22:39:47
古墳時代に入っても古墳の形状は、四隅突出方墳、前方後方墳、前方後円墳と、
統一されてたわけじゃあない。
2世紀から、日本中が宗教的にまとまっていたとは言えないだろうね。
貿易による経済的な結びつきがあったとしても。
457 :
日本@名無史さん:04/12/13 22:45:15
>>455 おまえも、おちつけよ。
>この当時の王が祭祀王であった事は異論がないだろ?
俺はそうは思わん。王は豪族出身で必ずしもシャーマンではないだろう。
王じゃ、調停できないほどクニが乱れたから調停役として卑弥呼が出てきたんだろ。
その卑弥呼の影響力が、どこまで及んでいたか?
北九州の中だけか、畿内から九州を含めてか、ということだろう。
ある程度の大きさの国では、王と祭祀者はたいてい別だな。
まあ畿内説は、マキムクがなければ、別なものを持ってきて
予定調和的なこじつけ論に走るんだろうなあ〜
460 :
日本@名無史さん:04/12/13 23:13:43
いや、マキムク氏が、2世紀の交易関係を祭祀という理由だけで説明するとは考えたくない。
もっと他に隠し玉があるんだろう。きっと。
倭人伝的にはこうなっているが・・・
「國國有市交易有無使大倭監之 自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之 常治伊都國於國中有如刺史」
国々には市が有り、交易の有無は大倭がこれ監せしむ。女王国以北には、一大率を特置し諸国を検察せしむ。
諸国はこれを畏憚す。 常に伊都国に治し、中国においての刺史の如きである。
×大倭がこれ監せしむ
○大倭をしてこれを監せしむ
・・・・でしょう?
だから、大倭は監督警備員みたいな感じかもしれない
祭祀王が交易まで支配していない感じだな。
463 :
日本@名無史さん:04/12/14 00:50:44
「生口」から奴隷が存在したのでは?
などと思ったりするのですが
464 :
日本@名無史さん:04/12/14 02:15:00
そもそも邪馬台国なんてあったのかと言ってみる。
地に足がついてない教典ならぬ魏志倭人伝を振り回す妄想野郎の多いこと多いこと
潜水漁は畿内の代表的な漁じゃないな。
やっぱり北部九州だろう。
468 :
日本@名無史さん:04/12/14 04:09:31
>>465は何が言いたいんだ?
魏志倭人伝にさえ準拠しないなら、何に準拠するのやら。。。
中国王朝という第三者によって書かれているし、
3C当時の倭国の様子を伝える貴重な文献だよ。
解釈が正しくない、って言いたいなら分かるけど。
469 :
日本@名無史さん:04/12/14 10:06:56
倭人伝の信憑性とか倭人伝の記述にどの程度重きをおくかとか初代スレからの
無限ループ争点なんだよね。
470 :
日本@名無史さん:04/12/14 11:54:55
倭人伝の地理的な信憑性は、30国の名前と、邪馬台国というクニには女王がいて、
30国を代表していたということだけだろう。
471 :
日本@名無史さん:04/12/14 12:13:43
西日本の、弥生時代末期の人口は、100万人程度だと言われる。
30国で割ると、1国あたり、3.3万人。
ひとつの集落群で、3.3万人も抱えられた大遺跡はありません。
弥生時代の西日本は、もっと多くのクニに分かれており、
30国といえば、九州の中だけのクニと考えたほうが勘定が合うのです。
では、複数の集落をまとめて一つのクニが成り立っていたのでしょうか?
平均3.3万人を支配下に置く王がいそうな住居の遺跡も多くはなさそうです。
472 :
日本@名無史さん:04/12/14 12:50:00
30といえば都道府県を少し減らした程度の数だな
備前備中備後とか当初は1つだった所もあるだろうし、北海道もなかったし
丁度いい感じだったりして
473 :
日本@名無史さん:04/12/14 13:06:26
金印と阿蘇山が特記されている倭人の国ですぞ。
×30国は日本列島全域
474 :
日本@名無史さん:04/12/14 13:42:27
都道府県なんか参考になるかよ。
北海道どころか東北も関東も甲信越も邪馬台国に属してないだろ。
越は微妙かもしれんが。
通信網などのネットワークを勘案すると、やっぱり邪馬台国が西日本全域を統治したというのは
難しいと思うな。どう考えても。
>>471の言うように、せいぜい数百〜数千人程度で一国だろ。そう考えると倭人伝の距離も実際
は案外近かったのではないだろうか。
しかし、その頃はどこにどうやって政治境界線を引いたのだろうね。
476 :
日本@名無史さん:04/12/14 20:10:45
とりあえず、橿原考古学研究所の説の、邪馬台国が西日本全域を統治したという論拠は、
強大な権威を振るった「祭祀王」の存在の是非ということで、OK?
祭祀王にそんなに権力があったとは思えんけど。
古墳の仕様が定まったのは4世紀以降だし。
>>455 >>「体制の形成と維持」には、「宗教観統一」が関わり、
>>地方祭祀を放棄=中央集権的祭祀王の擁立が不可欠という論に持っていくつもりなら
>なんだかなあ。
>3〜4世紀の倭国にそこまでの統一はないだろ。誰もそんな事言っていないし。
ということで、「祭祀王」による統一は無い、と。老教授の意見が待たれるところか。
478 :
日本@名無史さん:04/12/14 20:49:38
でも、設楽博巳や藤尾慎一郎や都出比呂志や寺沢薫の典型的な弥生解釈なんだよね?>祭祀王
魏志倭人伝から、卑弥呼が祭祀王だったという説は多いけど、
考古学的に祭祀王が実在したことが証明されてたとは、正直意外だった。
479 :
日本@名無史さん:04/12/14 21:16:23
>考古学的に祭祀王が実在したことが証明されてた
真っ赤な嘘でしょ。祭祀王がいたはずだという仮説で論を立ててみただけ。
480 :
日本@名無史さん:04/12/14 21:27:48
>>478 ん?都出や寺沢、それに石野や白石なんかの橿研主流派は
祭祀王が強力な王権を持っていたとの見方をしていないはずだが?
マキムク先生が橿研寄りなら物流的見地から話を持っていくのじゃない?
481 :
日本@名無史さん:04/12/14 21:30:50
なんにせよ、マキムク先生と愉快な仲間たちみたいなスレになってるなw
意外と偉大なコテハンかもしれないね>マキムク先生
482 :
日本@名無史さん:04/12/14 21:58:52
>>480 物流的見地なら、マキムク先生は、こう言ってる。
>>403 >その形成と体制維持に大きく関わったのが、宗教観統一ともいえる地方祭祀の放棄です。
>>392のようにも言ってるから物流の安定のために、クニ同士の絆を深め合った。
その結果、宗教観の統一が生まれたとでも言いたかったんだろう。
>自給自足していた集落はこれまた古墳時代に至っても存在しません。
>要するに相互依存による共生社会が成立、維持されたのが弥生時代と呼ばれる時期なのです。
でもねえ、相互依存が必要だったのは、瀬戸内海だけだったと思うんだけど。
九州の中だけでも、自給自足は出来たと思うけどねえ。
九州が、瀬戸内海方面に売ったのは鉄なのは間違いない。
その見返りは穀物だったろうけど、
九州が鉄を転売しなきゃ、食料が足りてなかったと考えるのはおかしいな。
そんな自転車操業しながら、九州が朝鮮から鉄を買ってたとは思えないのだが。
483 :
日本@名無史さん:04/12/14 22:05:12
そんなわけで、マキムク先生には、
九州が自給自足できていなかったことや、
瀬戸内海や畿内に、物流でどのように依存してたのか、
詳しく論証して欲しいのですよ。
畿内説は、九州は耕地面積が乏しく収穫が少なくて、大人口は養えない、更に3世紀には衰退したなどの
暗黙の大前提があるんだよ。
485 :
日本@名無史さん:04/12/14 22:45:57
>>482 >物流の安定のために、クニ同士の絆を深め合った。
その結果、宗教観の統一が生まれたとでも言いたかったんだろう。
それだ、きっと!
してみるとマキムク先生って畿内説の王道そのままだな。
九州説がここぞとばかりに叩きに回るのもうなずける。
>九州の中だけでも、自給自足は出来たと思うけどねえ
九州だけじゃなく各ブロックでも可能だろう>自給自足
先生が言いたいのはそのキャパをはるかに超えていたのが北部九州の実態だってことじゃない?
俺はそう取ったけど。
それと専売制は言いすぎじゃないかな?先生そこまで言ってないだろう。
>それに属さない層も居たでしょうが
>ごく小さな取引はクニの勢力圏が隣接する地域では有り得たでしょうが
とも書いてるし
>大勢に影響を及ぼすものではありません
とは考えてるみたいだけどね。
486 :
日本@名無史さん:04/12/14 22:47:44
第2次世界大戦以降の日本人は米が中心食という思い込みから
海に沈没する倭人の食生活が、米中心とは言い切れないことに気づかなかったのだ。
487 :
日本@名無史さん:04/12/14 22:58:01
>>485 >してみるとマキムク先生って畿内説の王道そのままだな。
そうなんだよね。
もっと客観的に考古学的資料を自分で精査した結果、
「やっぱり畿内できまり」と考えたなら、そのプロセスを聞きたかったのに、
元ソースが橿研では、いまさら感が強い。
橿研が出した資料を(仮説ではなく)事実として語れば、そりゃあ、畿内説に行き着くのは当然。
488 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:05:14
>>486 それはどうかな?だったら縄文初期から倭人は進歩していないことになる。
老教授は食料としてじゃなく貿易資源だともとらえているようだし
案外正解じゃないのかなって希ガス>米
考古学板では機内で決定だそうだ
反論求む
>海に沈没する倭人の食生活
漏れ遺跡には詳しくないけど、弥生時代にそれを証明する遺跡ってあるの?
魏志倭人伝のマツラ国のところにそうかいてるだけじゃない?
食べた食料の遺跡ってなんだ?
考古板よりドゾー
480 出土地不明 04/12/14 22:23:59 ID:ypCi4f/A
>>476 専門家っていうか、ここは考古学板だから、
考古学者から考えるならば、間違いなく、
邪馬台国は大和としかいえません。
九州説というなら、それこそ岡山説でも、
出雲説でも、九州説よりはもっともらしい
です。
理由は、この板の上のほうに書いてあります。
493 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:14:16
>>489 そうは言っても、北九州が鉄貿易で利権を独占してたのは疑いようが無いわけで、
いかに畿内と経済的に結びつこうと、
鉄の流通を北九州を介さずに簡単に畿内に持ち込めたとは考え難いわけで、
北九州が相応のピンハネをしていたなら、北九州に有力な豪族が育ち、
王権に育ったとした方が考えやすいのに、
どうして2世紀の段階で畿内勢力に利権を渡すようなことになったのか?
具体的に説明は、畿内説派から、いまだ聞いたことが無い。
北部九州の初期稲作は、いったん滅亡しているようだが・・・
改行が多すぎてはねられた
再びドゾー
↓
まず、遺跡としては、奈良県桜井市の纏向遺跡があります。
時代は、まさに邪馬台国時代というべき2世紀末から3世紀
さらに、4世紀近くにかかるものです。
卑弥呼の墓としては、サイズ的に、魏志倭人伝記述のものと、
寸分違わぬ160メートルの後円部をもつ箸墓古墳があります。
この築造時期は、卑弥呼の死亡したとされる247年か248年
と比べて、ほぼ完全に一致する3世紀後半です(築造は死亡後と
考える)。
纏向遺跡は、現在知られているかぎりにおいては、3世紀中葉
のものとしては、最大級の都市遺跡といってよいものです。
九州は3世紀段階ではほとんどの環壕集落が消滅、あるいは大幅
縮小しており、また、九州の重要拠点には、近畿系土器が山陰を
経由して入っており、当時の九州において近畿圏からの移住者が
いた、あるいは圧倒的な文化的影響があったとみられています。
一部、山間部などに九州伝統の要素は残りますが、非常にさびれた
状況です。九州が再び発展するのは、4世紀ごろに入ってからの
ことでしょう。
魏志倭人伝の記述と比べた場合、大和説の問題点はただ方角のみ
です。ほかには全く問題ありません。よって、考古学者は、一部
の(2名程度か)をのぞくと、ほぼ全員が大和説です。
鉄利権からあぶれた負け組は、畿内に集まり、交易立国(新羅とも国交)して生きていく
>>495 魏の「径100歩」は160mもないだろ。
これが箸塚が卑弥呼の墓でない証拠だ。
498 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:25:58
>>493 上手いことまとめるなあ、漏れもそれが不思議なんだ。
しかし実際は九州の豪族は4世紀には没落してしまうんだよね。
そこで東遷があったかというと、どうやらそれも考えられないらしい。
邪馬台国が九州にあったのなら、4世紀には滅びたというのが九州説のFA?
いや、最近になってその後も続いていたという結果が出てるよ
500 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:36:33
>>498 3世紀末に、畿内連合に押されて北九州が屈服し、衰退したというシナリオが、
単純に理解しやすい。
しかし、記紀神話の記述を重視すれば、クナ国東遷説もありえると思う。
クナ国東遷の途中で、宇佐や日向に豪族が生まれたのだろう。
豊前説氏は、違う考えを持ってるだろうけど、
そうやって九州説派が分裂する中で畿内説は着実に浸透していったのだろうな。
3世紀の倭国そのままだ。
501 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:37:20
>>499 詳細キボンヌ
もしかしてそれが九州王朝説ってやつですか?
502 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:44:29
人口が増えすぎたため、
鉄<大規模な水田開発に適した土地
鉄があっても食べ物がなければ生きていけない。
よって、どっかに移動〜
503 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:45:42
>>500 なるほど、説明アリガd
でも畿内説派は東遷の証拠になる遺跡や遺物が近畿から見つからないっていう。
伝承的に無理なく説明できるのは納得したけど、これについてはどうなんでしょうか?
豊前説さんも上手いこと説明するなあと感心していたのですが
やっぱり遺跡がネックなんですか?
504 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:52:31
>>503 東遷の証拠は無いというのが定説。
戦わずして、王だけすげ替えた、というなら考えられなくも無い。
ただ、そういう仮説を持ち出すと、畿内の王権に北九州が従ったという説も受け入れなくちゃならん。
諸刃の剣。
505 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:53:53
再び考古板よりドゾー(1)
出土地不明 :04/12/14 23:36:00 ID:OjqOoYqI
九州説の本は圧倒的に多いですが、読むときには、まず、
著者の略歴のところから読みましょう。
1)いわゆる作家。本業の文学でどうもイマイチな人。
2)一応大学などの教授とかであるが、経歴からして考古学や歴史学
の専門とは思えない、たとえば、数理言語学とかそういう人
3)有名大学卒、有名企業で部長とか役員をして定年退職した人
よく、神社仏閣巡りをしているうちに、邪馬台国九州説にめざめた
とか、特別な「法則を知った」とかひらめいた人。
4)なにやら、経歴的によくわからないフリーターっぽい人とか
世界を旅して、なにやら特別な民族とふれあったとたんに、
邪馬台国論争がわかった!とか思った人もいるかも。
5)一応、大学などで歴史学や文献学などをやっているとか、あるい
は、文化人類学とかそういう人文系の教授とか助教授ではあるが、
なんか、よくみると、その人の「軽め」の本があっちこっちに
おいてあるようなようするに「邪馬台国ネタで稼ごう」としている
文化人。
6)他の文化系の研究者として御大と呼ばれるべきで、しかも、
マスコミなどで名が知られているが、決して考古学や歴史学の
専門家とはいえず、ネームバリューで「邪馬台国本」を書けば、
それなりに売れる、という感じの人
506 :
日本@名無史さん:04/12/14 23:55:07
再び考古板よりドゾー(2)
だいたいこの6種類くらいの人が「九州説」の本を書いております。
で、前にも書いたように、1)とか2)とか5)6)のような人たち
は、マスコミとしても「売れる本」がかける人たちなので、書籍の
量はかなり多いです。
かならずしも、学界の通説が正しいとは限りませんが、多くの研究者
のコンセンサスがどのようなものであるかをきちんと知った上で、
邪馬台国論争を知るべきでしょう。また、最近の考古学は日進月歩です
ので、1995年以前にかかれた本は、かなり現在の最新の成果とは
違っています。土器編年も大きく変化しました。実際のところ、
1990年代の初頭くらいまでは、考古学の専門家の間でも、九州説
の人がかなりいたわけですが、最近の土器編年、年輪年代などと、
さまざまな整合性の検証をした上で、九州説をとる学者はほとんど
いません。まあ、狂信的な人が数人いますけれどね。
>>504 重ね重ねアリガd、すごくわかりやすいです。
そうですか、諸刃の刃ですかあ。。。
今のところどの説もどこかに弱点を抱えてるってのが正解なんですね。。。
断定的な書き方をしている時点で疑ってかかるのが一番いいみたいですね。。。
508 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:04:15
再び考古板よりドゾー(3)
名前:出土地不明 :04/12/14 23:57:15 ID:NMA3GzJP
ついでですから、「邪馬台国大和説」の注意点も書いておきましょう。
一応、考古学の専門家や、考古学関連博物館の館長とかいう肩書きの
ある人で、考古学者の間で違いに「XX氏の研究では」などと引用され
ている人たちがいて、かなり考古学の分野では御大であるような人でも、
今度は、歴史学、文献学、とくに中国歴書に関する文献学の知識や、
文献解釈などの点で、ぼろぼろで、とてつもなく古い「倭面土国」を、
「倭の伊都国」とか、「わめんど」は「やまと」だとかいう文献学的
にみれば、先史時代的解釈をしているような「考古学だけの人」が
います。
本当の考古学者は、「邪馬台国は、文献資料によるものであるから、
考古学によって場所を比定したりするには困難がつきまとう」という
判断基準により、明確に「大和説」などとうったえることはしません。
ただし、土器編年から、いついつの土器はどのような分布であるとか、
そういうことを丹念に研究していて、その結果から、邪馬台国とは
無関係に2世紀末から3世紀、さらには4世紀ごろまでの考古学的
に判明する、考古学的な意味での歴史を語るだけです。
ただし、こういうまじめな先生方でも、ときに「シンポジウム 邪馬台国
のなぞにせまる」などというものに専門家として呼ばれ、さらにパネル
ディスカッションなどになって、そのあとそのシンポジウムのテープおこし
が本になっていたりすると、そこで、文献学や歴史学の知識がないのが
ばればれで、とんちきな議論をしていたりします。
文献学のほうでも、非常に丹念な研究がありますので、そっちもしっかり
読んで(かなずしも邪馬台国とは結びつかないものも多い)、その上で、
自分なりの考えをもつべきでしょう。
509 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:08:02
>>507 >断定的な書き方をしている時点で疑ってかかるのが一番いいみたいですね。。。
そう。
奇しくも
>>506にあるとおり、
>また、最近の考古学は日進月歩ですので、
>1995年以前にかかれた本は、かなり現在の最新の成果とは違っています。
>土器編年も大きく変化しました。
考古学は日進月歩なので、この先どうなるかわからない。
畿内から金印が出るかも知れないし、西都原古墳の中に3世紀初頭の古墳が発見されるかも知れない。
断定して考えるのはよしたほうがいいね。
どういう遺物が出れば、自説が補強されるのか、またはひっくり返るのか、
そこも考えておいた方がいい。
510 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:23:21
>476氏
>>3を読んでごらん。
老教授が上手いこと纏めているから。
それと氏は
>言い訳がましいのですが、考古学が「現時点では」を枕詞に
「・・・と考えられる」を結詞に使うのは、明日何が出てくるか判らないためです。
とも書いてる。
氏の論調は原則的にこの主張から外れてはいないので
どの説を信じるにしても、こういう書き方をしているものを参考にすればいいと思う。
511 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:29:03
↑スマソ考古板の476氏宛てに書いたのに誤爆した。
こちらの507氏と同一人物かと思ったので。
板汚しスマソ
512 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:38:44
>>305では、
>結論から言うと3世紀での海戦は不可能でしょう。
などと、見事に結論つけてるけど、
高地性集落が生まれた要因については無視なんだよね。
高地性集落には戦いの痕跡が無いから、戦争が無いと思ってるみたいだけど、
兵隊を乗せた船の上陸を恐れたから、わざわざ烽火を上げられる高地性集落が出来たのであって、
しっかりと防御されたから、むやみに戦争が出来難くなったとはいえ、
緊張状態にはあったと考えるべきでしょう。
高地性集落そのものが、戦いがあった証拠であり、
高地性集落の存続していた時期は、ずっと緊張状態が続いていたはずだと思うけどね。
513 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:47:43
>>512 305じゃないけど海戦は考えにくいぞ。
>>309にあるとおり、まず港の有無を考えなくてはならないし
第一高地性集落で上陸を監視できるほど海に近いものは岡山あたりにしかない。
それも瀬戸内海の島々に点在しているだけだ。
>しっかりと防御されたから、むやみに戦争が出来難くなったとはいえ、
緊張状態にはあったと考えるべきでしょう。
これには禿同だけどね。
514 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:52:20
>>513 スマソ
港が無いと、何かマズイのか?
船を出すのも上陸するのも、砂浜があればOKだと思うが。
515 :
日本@名無史さん:04/12/15 01:04:22
>>309 ばからしくて、レスする気も無かったが、
>北九州や瀬戸内において、一度に10隻以上(全長10m程度の建造船です)が係留可能な遺跡は二つしかありません。
ねえ、漁師さんはどうやって魚とってたの?
兵隊さんは、普段は漁師とかをやってて、
戦にいくときは自分達の船に乗っていったんじゃないの?
小舟じゃ戦は出来ないの?
相手が丸腰の漁民なら、槍一本でも威嚇するには十分すぎるよね。
516 :
日本@名無史さん:04/12/15 01:08:22
>>514 上陸や出航のみを考えたらそうなんだけど
出動しない状態つまり係留には不向きなんだ>砂浜。
いくら波の穏やかな瀬戸内海だといっても、高潮や台風は避けようがない。
戦争というか海上侵攻に必要な兵士を乗せられる規模の船を維持するには
やはり船着場の存在が必要だと思う。船を繋いどかなきゃいけないし。
壱岐の原の辻だったかな?小さいながらも人工の船着場を建設しているが
そんな施設でもう少し大きめのものがあちこちにあるのなら、この限りではないけど。
517 :
日本@名無史さん:04/12/15 01:13:29
>漁師さんはどうやって魚とってたの?
ヤスじゃないか?網はまだないだろう。あと潜水でアワビ取りとか潮干狩り。
>相手が丸腰の漁民なら
相手も同じように槍やヤスを持ってるとは考えないのか?
518 :
日本@名無史さん:04/12/15 01:16:13
>>516 だからさあ、普段漁師はどうやって船を管理してるんだっつうの。
古代の海軍=普通の漁民だろう。
なんで、でかい船でしか戦争できないとか、
戦争しないときは、船を繋ぎっ放しにしておくと考えるわけ?
弓矢だって、至近距離から打てば、当たらなくても相手はひるむわけだし、
古代の戦を過小評価しすぎなんじゃないか?
519 :
日本@名無史さん:04/12/15 01:16:53
う〜ん、丸木舟は丈夫だぞ。大丸木舟で戦争すると、転覆にも強く
船越地名があるとおり、丘にあげてしまえばいい。
520 :
日本@名無史さん:04/12/15 01:18:04
戦争=構造船という思い込みはやめれ
でもそのあたりもまだよくわかっていないんだよね。
実際の水上戦闘や戦闘員の輸送方法とか。いわゆる海の民ならそこらの漁民がたちまち
戦闘員だし、その伝統はずっと後の倭寇まで続いた。平家だって小舟に重武装の兵を満載
したわけだし。
それに、博多地方は今より海進がずっと進んでいたから(どこもそうだけど)今よりは繋留に
適した場所も多かった可能性もある。
現存の遺跡だけで論じるのはまだ時期尚早だと思う。
522 :
日本@名無史さん:04/12/15 01:22:17
と書きながら気づいたのだが
この時代に船を個人で所有していたなんてことあったのだろうか?
とすると普段は漁師で有事に兵士になるのなら
やはり国単位で管理していたと考えるほうがしっくりくる。
老教授はそれをいいたかったのじゃなかろうか。
大型丸木舟に、銛をたくさん積んだ猟師は、まんま兵士だな。
この当時の船ってどんな形なんだろう。
丸木舟が一般的で、中には準構造線もあったようだと何かで読んだ覚えがあるが。
>>521のいうようにきっとわかっていないんだろうね。
結局海軍は否定も肯定もできないわけだ。
525 :
日本@名無史さん:04/12/15 01:32:44
>>309 >3世紀の時点で水軍を想定するのは困難だということが言えるでしょう。
なんだか、ズレてるんだよねえ。
職業水軍なんて明治になるまで無かったんじゃないの?
>>522 構造船には船主がいただろうが、
丸木舟にまで船主がいたんじゃ、漁師はたまらんな。
北欧のヴァイキングだって、ふだんは漁民
528 :
日本@名無史さん:04/12/15 02:43:35
あのさ九州でも畿内でもどっちでもいいんだけど、
どっちがロマンがあるの?
あと、倭国と邪馬台国と大和朝廷とどれがどういう特徴を持つのか、
確かな時代とかもわからん。
教えてえろいひと?っていうか、定説すらないの?
529 :
豊前説:04/12/15 09:10:53
またまた、えらい進んでますなあ。
>>384 >遺体を運んだことになってしまうことに頭を痛めておいでだったな。
頭を痛めていたというか・・・。
対馬では昭和に入るまで甕棺が使われたというのは、本当でしょうかなあ。
しかし、一般的に考えて、甕棺といえば弥生のもの考えるのが普通であり、
それ以外は、あるとしても特殊なケースではないでしょうかね。
ましてや今どき、田舎であろうとも九州で・・なんていいががりでしょう。
>>375 日本全国火葬にしないと逮捕されるはず。
いずれにせよ、甕棺が遺跡から発見されれば、弥生時代にその地で、
人が土葬にされたと考えるのが普通であり、百体神社の甕棺も
同様に考える方べきではないでしょうかな。
530 :
豊前説:04/12/15 09:22:06
東大阪市の枚岡神社は、河内国一宮の由緒古い神社で、後に
春日大社にも神を奉じたことから元春日ともいわれています。
さて、ここで祀られている神は、天兒屋根大神と比賣大神なのです。
天兒屋根大神といえば、「天の岩戸隠れ」の際に祈祷をした神で
藤原氏とも関係の深い神ですが、なぜ、比賣大神と一緒に祀られている
のでしょうか?
社伝によれば、「神武天皇紀元前三年、天種子命が勅命により、
神津嶽に天児屋根大神・比賣大神の二神を祀った」とあるので
神武よりも比賣大神の方が歴史が古く、しかも、勅命とあるので
神武により祀られたということです。
ロマンを感じませんか?
>>528
531 :
日本@名無史さん:04/12/15 10:23:23
ミソもクソも一緒にすんなって。
枚岡の神様は比賣御神。
比賣大神とか言ったら宇佐と同じと勘違いする奴がいるだろう。
532 :
プラム:04/12/15 10:49:35
比賣大神が出た所で。宇佐神宮の真ん中でドカンと鎮座しているあいつ何者?でもあいつただ者じゃなさそう あとでこのテーマの重要課題に
533 :
豊前説:04/12/15 11:24:58
天兒屋根大神(天兒屋根命)
比賣大神(比賣御神)
配祀
齋主大神(齋主命)
武甕槌大神(齋主命)
とされております。
また、春日大社のおん祭りで演じられる細男舞は宇佐神宮の放生会でも
行われていること、枚岡神社を祖とする二宮神社でも比賣大神とされて
おり、同一と考えてよいと思われます。
534 :
豊前説:04/12/15 11:28:41
>武甕槌大神(齋主命)
→武甕槌大神(武甕槌命)
535 :
プラム:04/12/15 12:14:55
ますますただ者じゃなくなってきた感じ!そうとうな権力者または卑弥呼に劣らない祭祀者を祭った感じがあるね。
536 :
豊前説:04/12/15 12:30:25
もう一つ、
枚岡を建てた天種子命は、神武が東征する際に従い、
宇佐で宇佐津姫を嫁として迎えています。
また、天兒屋根命は宇佐氏の祖神とする記録もあります。
537 :
日本@名無史さん:04/12/15 12:30:43
そういえば、卑弥呼を祭った神社って聞かないけど存在するのでしょうか? スレ違いだったらすみません。
538 :
日本@名無史さん:04/12/15 12:43:09
まず、出雲で鉄が産出されていて、その鉄と大和がどう結びついたかが問題。
北九州では鉄は産出されたの?それとも、韓国南部からの貿易?
伽羅は金が産出したらしいから、金の交易で栄えたのかな?
黄金の国ジパングって、実は任那(伽羅諸国)の金が曲解されたのでは?
539 :
日本@名無史さん:04/12/15 12:49:49
>>537 卑弥呼がアマテラスだとしたら、伊勢にアマテラスが祀られてる。
トヨウケも。
昔の移動手段が船だったとしたら、伊勢や河内、阿波、紀の国などの
大和周辺部の沿海が重要だったのが納得できる。
また、重い荷物などを運ぶには人が運ぶより、船で運んだ方が効率的。
また、何故、大和でなく伊勢にアマテラスが祀られているのかも問題。
これは、4世紀、纏向遺跡が衰退する時に何らかの政権委譲があったのかも
しれない。そして、河内方面が栄えるのも北九州との交易が重要になった
からかもしれないし
540 :
日本@名無史さん:04/12/15 12:52:30
ところで、大和川って渓流のイメージがあるけど、船で大和迄遡れるのかな?
542 :
豊前説:04/12/15 12:57:32
>>537 存在しません。
よって、いろいろな神を卑弥呼に比定しようとする試みがあるのです。
有名なのが天照大御神を卑弥呼とする説。
また、神功皇后を卑弥呼とする説。
比賣大神を卑弥呼とする説。
自分は、3番目ですが、後に比賣大神が、大和朝廷によって
天照大御神にすり換えられたと考えています。
(天照大御神は歴史的に新しいと考えられます)
>>538 豊前(大分県)国東では古くから製鉄が行われたとされています。
いつから行われていたかは不明ですが、行われていたのは
間違いありません。
一説には、縄文時代からなんてのもありましたが、実際には
どうなんでしょう?
ご存じの方がいらっしゃれば教えていただきたい。
543 :
豊前説:04/12/15 13:04:16
544 :
豊前説:04/12/15 13:09:57
542に追加。
分かりやすく書くと
比賣大神=卑弥呼
天照大神、神功皇后=卑弥呼の化身・偶像
と自分は考えています。
そして宇佐神宮には、比賣大神と神功皇后の両者が祀られています。
545 :
豊前説:04/12/15 13:13:26
偶像よりは虚像の方が適切かな。
何度もすいません。
546 :
日本@名無史さん:04/12/15 13:27:13
>>540 >大和川って渓流のイメージがあるけど、
大和川は日本一の濁流です。
古代の大和川は、河内平野の湿原に流れ込んでいましたので、
当時、舟で奈良県内まで上ることができたかは不明じゃないですかね。
海から直接は無理っぽい。
547 :
プラム:04/12/15 14:13:47
544さん。比売=(卑弥呼又は台与)、皇后=壱与 応神は壱与の子又は孫で大陸の血を引く天皇 これはあくまで比売=卑弥呼又は台与が成立したときの仮説ですが? このほうが話がすっきりするもので
以前サラリーマンの人がゴムボートで大和川下って会社まで出勤する話やってたけど、
朝一に出て夕方までかかってたよw
特に信貴山の下の隘路は激流だから普通の舟は無理っぽい。
549 :
日本@名無史さん:04/12/15 14:34:54
>>533 本当に同一と思ってたのかよ。
>比賣大神(比賣御神)
前後から察するに(大神)←この部分は敬称みたいなモンじゃないの?
神社の縁起でたまに見るスサノオ大神とか月読大神みたいな。
春日大社は比売神だしな。
ま、要するに邪馬台国豊前説に基づく独自説ってことね。
ロマンってことで、紹介しただけかも知れないけど、縁起だの書紀だの持ち出してこんなこと言ってると
九州説自体がグダグダになるだけだろ。
550 :
日本@名無史さん:04/12/15 14:52:08
なんだ、比賣大神=比賣御神を示されると
>前後から察するに(大神)←この部分は敬称みたいなモンじゃないの?
って推測かよ。しかも説得力な−しw。
天種子命と宇佐と枚岡の結びつきもはっきりしたわけだし、同名で
同一と考えて間違いなかろう。
まともな反論できないのかよ。
畿内説、必死なわりにもろいな。
ぐだぐだなほうが、纏向派にとっては組みし易い相手。
考古学的名土俵で論説する纏向派には、考古学的に不備を突いていくべきでしょう。
交易によった連合が、畿内に強大な王権を作り上げたというのが畿内説なんだろうけど、
北九州の王が自分のクニの利権を捨ててまで交易関係を重視したという仮定が必要。
この仮定は、けして曖昧にしていい問題じゃない。
552 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:00:42
>>549 >春日大社は比売神だしな。
って、枚岡から春日にいったんだから、比売大神=比売御神=比売神だろ。
短絡だなぁ。
553 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:02:08
推測に決まってるじゃないか。
>比賣大神(比賣御神)
↑こんなのどこに書いてるのか分からないんだし。
>比賣大神=比賣御神
それと↑これが推測かどうかも分からない程のアホなの?
554 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:06:10
で、天種子命と宇佐と枚岡の結びつきは、どう説明する?
555 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:06:53
>枚岡から春日にいったんだから、比売大神=比売御神=比売神だろ。
>短絡だなぁ。
>枚岡神社を祖とする二宮神社でも比賣大神とされて
>おり、同一と考えてよいと思われます
↑この短絡さにあわせただけなんだけど?
556 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:09:40
相手にすんな。
大分県出身の郷土愛の強すぎる人なんだから、スレの無駄使いはやめろ。
557 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:10:43
否定するのは簡単だね。
558 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:13:31
九州説の人って、今後畿内説に転向することはあり得ないわけ?
と言うか、絶対なさそうなんだけど。
「不備を突く」とか、なんか相手を言い負かすのが目的になってるし。
畿内説の人の多くはもともと九州説の人が多かったわけだし、
今でも九州説から動かないということは、かなり腹のすわった人たちなんだね。
559 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:14:07
ははーん、554の答えに窮して556か。
560 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:15:22
おいおい、スレを見直せ。
言い負かそうとしているのは畿内説だろ。
561 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:16:16
「不備を突く」とかさ
562 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:18:45
>>558 なんかさあ、なんで畿内説ってそんなに自信満々なわけ?
九州説を一網打尽にするような決定打を放ったか?
考古学的根拠っていったって、いつひっくり返るか分からないっていうし
纏向派も鐙の件で考古学の限界を認めてるしな。
563 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:21:26
>>562 「決定打」とかさ、何というか、ちょっと違うような気がするんだよ。
まあ、一つの表現としてあるんだろうけど、ディベートでもないというか。
言い負かしても仕方がないというか・・・
564 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:21:29
で、天種子命と宇佐と枚岡の結びつきは、どう説明する?
565 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:23:10
>九州説の人って、今後畿内説に転向することはあり得ないわけ?
この自信こそどっから来るんだよ。
566 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:28:39
>>565 畿内説の人は総じて自信なさそうに見えるもので・・
九州にちょっと何かが出たらすぐに九州説に転向してしまいそうな
そんな雰囲気があります。(元々転向組が多いというのもあるか)
一方九州説の人はマサダ砦から一生懸命投石している姿が浮かぶ。
別にそれでいいんですけど、ちょっと感想をと思ったまでです。
567 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:29:18
>>554の答えね。
説明できる訳ないだろ。何で俺が説明しなきゃならんの?本当にアホなのか?
ま、無理矢理説明してやってもいいけどね。
豊前にあった邪馬台国の女王卑弥呼の数代後の大王神武がなぜか日向を出発点に東征し、
その途上の宇佐で侍臣の天種子と豊前の有力者宇佐津姫を結婚させ、さらに途上の河内で
天種子に命じて、天種子の祖父である天兒屋根を主神とし、神武の皇祖神たる比売大神を
第二神として祀る神社を建てられたのが枚岡神社である。
こんな感じでいいか?
九州説派が畿内説に転向したのは、何も畿内説有利だからじゃなくて、
宮内庁が管理してる古墳の調査の許可が下りやすいとか、
資料の閲覧を特別に許可してもらえるとか、会合に招待してもらえるとか、
そういう政治的な圧力によるものだよ。
569 :
日本@名無史さん:04/12/15 15:48:40
>>567 無理やりでなくても、
大王神武が日向を出発点に東征し、その途上の宇佐で侍臣の天種子と
豊前の有力者宇佐津姫を結婚させ、さらに途上の河内で天種子に命じて、
天種子の祖父である天兒屋根と比売大神を祀る神社を建てられたのが
枚岡神社である。
って、記紀そのままじゃん。
この文脈から宇佐と枚岡の関係はありありなのに、同名の比売(大)神を
違うという方が意図的。
大神って尊称ならなおさら。
>>567 >邪馬台国の女王卑弥呼の数代後の大王神武 PuPuPu!!!w まさか。
571 :
日本@名無史さん:04/12/15 16:04:06
>>569 邪馬台国豊前説の一環としての話なんだからオマエが勝手に都合良く端折るなよ。
それと、天種子が二神を祀ったくだりは記紀ではないだろう。短期記憶に障害でもあるのか?
572 :
日本@名無史さん:04/12/15 16:09:29
>>571 後半は社伝だったな。
だが記録されていることに変わりはないだろ。
だいたい余計なものを引っつけたのはそっちだ。
「この文脈から宇佐と枚岡の関係はありあり」なのは
変わりないな。
573 :
日本@名無史さん:04/12/15 16:17:40
575 :
日本@名無史さん:04/12/15 16:57:58
>>573 だから、その大神は誇張した表現だろ。
>>572 >だいたい余計なものを引っつけたのはそっちだ。
邪馬台国豊前説が前提じゃなかったの?
>「この文脈から宇佐と枚岡の関係はありあり」なのは
>変わりないな。
だから、それだと豊前説に都合が悪くなるだろ。
そうじゃなければグダグダになるだけ。
重ねて書くが、邪馬台国と全く関係のない話で宇佐と枚岡の関係を想像して
古代のロマンを楽しむだけなら文句ないから勝手にやってくれ。
576 :
日本@名無史さん:04/12/15 18:21:35
勝手にスレ内容を邪馬台国に限定しないでくれ。
どうしてもというなら邪馬台国スレ逝け。
577 :
日本@名無史さん:04/12/15 18:24:12
>>530 ロマンというか、あなたの熱意はカンジました^^
テンプレも読みました。15、16以外は概ね納得です。
ちょっと自分でも考えてみます。
畿内説で有利なのは、メシの種がたくさんあることだな。
魏志倭人伝など漢籍倭人記述を普通に読めば、
金印・阿蘇山が特記されるなど、九州しかありえない
>>539 >昔の移動手段が船だったとしたら、伊勢や河内、阿波、紀の国などの
>大和周辺部の沿海が重要だったのが納得できる。
>また、重い荷物などを運ぶには人が運ぶより、船で運んだ方が効率的。
中国の「南船」のように、倭人たちは船の移動を主にしていたのではないかと思います。
私の初期ヤマト政権のイメージは、畿内〜四国にわたる、古代フェニキアのような
海洋国家なんですよ。考古学的には否定されてしまうのでしょうが。
中世・戦国期の細川〜三好政権は、古代ヤマト政権の勢力圏とダブるような気が
します。
邪馬台国所在地論争は不毛だから。
582 :
日本@名無史さん:04/12/15 21:57:55
>>580 >中国の「南船」のように、倭人たちは船の移動を主にしていたのではないかと思います。
>私の初期ヤマト政権のイメージは、畿内〜四国にわたる、古代フェニキアのような
>海洋国家なんですよ。考古学的には否定されてしまうのでしょうが。
畿内説によると、考古学的には港の遺跡が少ないから、
物資を運ぶ船の往来も多くなかったことになる。
もう、その時点で「交易がクニの連合に重要だった」という説と矛盾する。
畿内説も、もうちょっとしっかり論を組み立ててほしいものだ。
583 :
日本@名無史さん:04/12/15 22:08:54
畿内〜四国間の航海経験程度
+
鉄器なし
これじゃ、半島で大戦争はできないな
584 :
日本@名無史さん:04/12/15 22:37:28
>>309 >北九州や瀬戸内において、一度に10隻以上(全長10m程度の建造船です)が係留可能な遺跡は二つしかありません。
>>385 >どのクニにおいても全て自給自足していた形跡はありません。
ねえ、物資はどうやって運んでたの?
自給自足出来ないほど、交易に頼っていたという物資の内容は? その量はどれくらい?
丸太舟使用なら、その船舶数や、往来の頻度も見積もって頂戴。
585 :
豊前説:04/12/15 23:00:27
>>575 ぐだぐだになりますかな?
台与以降、皇統は日向に流れ、豊前は墓守として、
祈祷師の家系、天兒屋根大神-宇佐津彦系に
任せていたと考えるのは無理でしょうかな。
586 :
スレ主 1様:04/12/15 23:05:34
自説を訂正します。
帯方郡から狗耶韓国までの7000里は
水上移動なので、これだと12000里で
水行10日陸行1月では少しつじつまが合わない気がして
きました。やはり伊都国からの放射説を支持します。
伊都国から邪馬台国まで南へ水行10日、または陸行1月と
いうことでしょう。ちなみにこれは邪馬台国までの距離ではなく
女王のいる都に至るまでの距離です。豊前一体が邪馬台国で
宇佐が都だと思うので伊都から宇佐までのことを言ってるのでしょう。
これでばっちりですね。
587 :
日本@名無史さん:04/12/15 23:07:41
試験勉強してろと何度言ったら
588 :
日本@名無史さん:04/12/16 00:18:27
http://www.nikkei.co.jp/kansai/history/23847-frame.html 弥生中期の環濠集落、方位合わせ?都市計画??──下之郷と池上曽根、建物群整然と
整然と並ぶ倉庫跡が発見された池上曽根遺跡(大阪府和泉市) 全国有数の環濠(かんごう)集落、
池上曽根遺跡(大阪府和泉市)や下之郷遺跡(滋賀県守山市)で、相次ぎ東西南北に方向をそろえた
弥生時代中期(紀元前2―同1世紀ごろ)の建物群跡が見つかり、国内最初の“都市計画”として話題
を呼んでいる。古代中国の思想を取り入れた可能性もあり、都市の形成過程や海外文化受容の実態を探る
資料として注目を集める。
池上曽根の集落のこの時代の人口は推定500―1000人。これまでに金属器の工房跡や、緑泥片岩を和歌山
から持ち込み石包丁に加工して搬出していた様子が見つかっており、「手工業の萌芽(ほうが)が見られる」
と大阪府立弥生文化博物館の金関恕館長は話す。
環濠の中心では9年前、この時代で全国最大級の建物跡が見つかり、神殿跡との見方が有力。近接する高台に
政治の中枢施設跡が眠っていると目されていたが、今回、大型建物群が発見されたのはまさにその場所だった。
建物跡は計4棟。調査担当の土井孝之・大阪府文化財センター主査は、周りから生活臭のある遺物の出土数が
少ないことなどから「収穫物など公共財を納める倉庫跡」と推察する。「首長居館か、その関連施設」との異論も
あるが、公共施設との見解では一致する。約100メートル離れた神殿跡を含め、建物群はすべて東西南北を向いていた。
589 :
日本@名無史さん:04/12/16 00:21:01
弥生中期にすでに都市国家が存在した畿内
590 :
日本@名無史さん:04/12/16 00:30:07
大集落が出てくるたびに邪馬台国が全国あちこちに移動するのか?
節 操 が な い ぞ
591 :
日本@名無史さん:04/12/16 00:32:14
だが環濠集落に芽生えた都市の系譜は、すぐに途絶える。鉄器の普及とともに戦乱の時代に突入した弥生後期には集落は平地から高地へ移り、様相が一変するためだ。東西南北を向いて整然と並ぶ建物群が再び登場するのは飛鳥時代後期(7世紀後半)。
592 :
日本@名無史さん:04/12/16 01:18:37
>>585 スマンが意味がわからん。
それだけだと妄想にしか見えない。
593 :
日本@名無史さん:04/12/16 01:42:16
女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を檢察せしむ。
諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。
畿内説の場合、伊都国はどこ?
前原
595 :
日本@名無史さん:04/12/16 02:26:46
>>593 奴国までは畿内九州の両説ともほとんど異論がない。
596 :
日本@名無史さん:04/12/16 02:44:53
そういえば、「女王国以北」は、
「遠絶していてつまびらかにできない」
「一大卒を置く」
と、相反するような記述があるが、どういう意味なんだろうね?
597 :
豊前説:04/12/16 03:04:33
>>575=592でよろしいですか?
ぐだぐだっててっきり、皇統と宇佐氏の関係のことだと思ったのですが。
他に何を指すのでしょう?
598 :
日本@名無史さん:04/12/16 09:45:41
>>594 唐津から東南に行ったら前原には行けんだろうが。
599 :
日本@名無史さん:04/12/16 10:17:50
邪馬台は
ヤマトと読む
台与を
トヨと読むだろ?
奈良にあったんだよ
600 :
日本@名無史さん:04/12/16 10:22:57
>>597 それも含めて、
>>585みたいなフィクションにさらにフィクションを重ねなければ
全部が成立しないってこと。
601 :
日本@名無史さん:04/12/16 10:29:26
599さん 奈良でもいいでしょう。でも?どうやってそこまで行ったの 京城からJALで関空にそして近鉄でも使うのかな ま、鹿に蹴られるのがせきのやま
602 :
プラム:04/12/16 10:38:10
皆さんはどうして上陸地点に松浦半島付近を設定するのでしょうか?その先の矛盾考えたら設定の誤りにきがつくはず 松浦半島の重要性は帰路にあるのではないでしょうか!
603 :
日本@名無史さん:04/12/16 10:47:52
>>600 フィクションって、決め付けるのはどうか?
>それも含めて
って、話を読めていなかったのにね。
比売大神と比売御神は違うとか、検証もせずに叫んでいながら
証拠を示されると、フィクションの一言で片づけか。
フィクションかどうかは分からんが、倭人伝もフィクション、
記紀もフィクションとか言い出したら、邪馬台国も卑弥呼も
否定することになるな。
現実かどうかは別として、文献上では、比売大神の歴史は神武を
遡る可能性が示されたのは確かとなる。
もうちょっと知識に基づいた上で、矛盾を指摘した「グダグダ」
発言かと思いきや、そのレベルか。
そんなことは誰でもいえる。期待して損した。
604 :
日本@名無史さん:04/12/16 10:51:07
結局、畿内説は考古学が唯一のよりどころで、文献的には「グダグダ」
以上だな。
605 :
日本@名無史さん:04/12/16 11:17:04
ハッキリとはいえないが、おおむね文献を拠り所にするのが九州説、
考古学を拠り所にするのが畿内説。
文献は多少解釈が変わっても文献そのものが変わらない一方、新たな
遺跡発見で見解ががらりと変わる考古学は軸足がぶれやすい。
そうやって考古学は、歴史的に見解をころころ変えてきたわけであり
九州説が強気になり、畿内説がふらつくのはある意味しょうがないのだろう。
しかし、文献的にも少しはうまく畿内説を説明できる輩はいないものかのう?
606 :
日本@名無史さん:04/12/16 11:26:49
また、ファビョり出したか。
>比売大神と比売御神は違うとか、検証もせずに叫んでいながら
叫ばれた覚えはあるが、叫んだ覚えはないんだが、ところで、比売大神と比売大神が
同一だってことは検証したのか?
>証拠を示されると
証拠って、書紀と枚岡の縁起のこと?
もしかして
>>585のこと?
>倭人伝もフィクション、記紀もフィクションとか言い出したら、
誰がそんな話をしてるんだ?悪いが、オマエの脳内の話にはつきあえないぞ。
それとフィクションかどうか分からんとか現実かどうかは別としてってオマエが言っちゃダメだろうw
>もうちょっと知識に基づいた上で、矛盾を指摘した「グダグダ」
とりあえず、オマエの見解は
>>567に整理してやっただろう。
それとも本気で
>>569だと思っているのか?
607 :
日本@名無史さん:04/12/16 11:47:30
>>603 606はいくら云ってもかみ合わん。スルーしとけ。
608 :
プラム:04/12/16 11:49:09
なるほど!この論争にかぎれば考古学はあくまで文献の検証材料でしかなく 考古学発見から耶馬台国を設定するのは余りにも無謀行為かと この論争の最初の出発地点は倭人伝の文献から始まったものだから
609 :
日本@名無史さん:04/12/16 12:12:10
そういうこと。
つまり、文献を軽んじる畿内説の輩(もちろんまともな人もいる)は
自己矛盾に陥っていることに気づいてない。
610 :
日本@名無史さん:04/12/16 12:20:39
それにしても、
>>606は答えがちぐはぐだな。
問われてる意味をまったく分かってないらしい。
611 :
日本@名無史さん:04/12/16 12:22:44
春日大社の神主さんに聞いたら
姫大神はアマテラスと言われてる、って言ってた。
612 :
日本@名無史さん:04/12/16 12:25:56
自作自演の勝利宣言なんぞせんでも普通にスルーしたらどうなんだ?
613 :
日本@名無史さん:04/12/16 12:31:13
もともと比売大神=比売御神だったかはともかくとして、
少なくとも現在は神社側もイコールを意図してる。
といったところで手打ちにできんか→両者
614 :
日本@名無史さん:04/12/16 12:34:27
決定だな。
卑弥呼→比賣大神→天照大御神
宇佐−天種子−枚岡と深くつながっているのに
両社でまつられている同名の比賣(大)神を別だという方がおかしい。
天兒屋根と比賣大神がいっしょなら、比賣大神=天照大御神
建立当時は2神で優劣がなかったのが、春日から2神を新たに迎えた際に
順番をつけたのだろう。
1殿が天兒屋根なのは、藤原氏が天皇家を凌ぐ力をつけたから。
以上で決着。
615 :
日本@名無史さん:04/12/16 12:37:18
>>613 神社の由緒で「比売大神=比売御神」とされているのに
「ともかくとして」はないだろう。
616 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/12/16 12:45:37
「欠史八代は実在しない」の
根拠で「天皇の名前が7〜8世紀頃の天皇の名前と似ている。」って言ってるけど。
これはね、古代の他の天皇なんかの名前と比べると「太瓊」とか「国牽」なんて
格好がわるいし、ダサくてとてもじゃないけど、天皇の系図には載せられない。
そこで、記が作られた時期に流行っていた「日本根子」なんてのを少し改良して、
もともと有った名前の上に冠した訳です。
するとどうでしょう。「太瓊」などとは比べ物にならないくらい格好良くて
厳かな「大日本根子彦太瓊」という名前になりました。
と、言う訳で7〜8世紀頃の天皇名と似ているのです。
617 :
日本@名無史さん:04/12/16 13:00:23
>>614 畿内説は、比売大神を歴史が新しい神としないと気が済まないんだよ。
今だ全国八幡宮の総本社であり、
秦氏や大陸文明と関係が深く、応神と神功皇后を両脇に従え、
鏡や銅と関係が強く、その聖地は古墳とされ、奴婢百人を連想させる
百体神社を持ち、道鏡事件や奈良の大仏建立で朝廷に多大な影響を
及ぼした上、神武よりも古くて、天の岩戸と関係があるとなれば、
ただ者でないのは明らか。
よっぽど比売大神の存在が怖いんだよ。
ほっときな。
618 :
日本@名無史さん:04/12/16 13:11:56
卑弥呼=日巫女=天照大神で決まりでしょ。
こう仮定するとすべてが一本の線につながる。
248年の日食は天照の岩戸隠れ。
天照の子供の天忍穂耳命の妻は万幡豊秋津師比売命。
この名前の中に入ってる、豊=トヨ=台与。比売=宇佐神宮の比売大神。
その4代後が神武。年代的に見て応神と一致。
神功皇后は邪馬台国の巫女。応神は名前のとおり
崇神王朝の血統が絶えたので大和朝廷の大王になることを
要請されこれに応じた。ゆえに応神天皇。
仁徳は日向の髯長媛を妻に娶っていることから日向との関わりも深い。
結論はすでにでています
619 :
日本@名無史さん:04/12/16 13:21:14
>>618 試験勉強は?
万幡豊秋津師比売命と比売大神は別神。
いつも自信もって断言するのにころころ意見を変えるもんな。
そのうち気づくんだろうが、その時は断言したことも
覚えてないんだろうな。
620 :
日本@名無史さん:04/12/16 13:28:35
>>617 だいたい、同姓同名の紛らわしい神とか他にいるのか?
比賣大(御)神に限って同一じゃないとするなんて、
畿内説の都合のいい解釈だよな。
621 :
日本@名無史さん:04/12/16 13:44:50
>>613 そんな中途半端じゃなくて、俺は結論これでもいいんだよ。
>大王神武が日向を出発点に東征し、その途上の宇佐で侍臣の天種子と
>豊前の有力者宇佐津姫を結婚させ、さらに途上の河内で天種子に命じて、
>天種子の祖父である天兒屋根と比売大神を祀る神社を建てられたのが
>枚岡神社である。
>>569参照
本人もたぶん文句ないだろ。
622 :
プラム:04/12/16 13:48:24
そもそも最初に使節団を松浦半島に上陸させたのは誰なんだ?そんなところで間違うから長年の論争になってしまうんだよ。この論争のA級戦犯だな!
623 :
日本@名無史さん:04/12/16 13:52:10
>>617 道鏡事件で半泣きになってたのはキミだったんだね。
かわいそうに、まだ道鏡事件があきらめきれないのか・・・・
哀れすぎて言葉も出ないよ。
624 :
617:04/12/16 14:21:23
残念ながら漏れではないな。
客観的にみて、全然決着ついてないのに、決着したとふれ回り
たしなめられていた情けない香具師は知っているが。
一連の論争を流し読みして、厨房の頃、自分のオナペットにしてたAV女優を貶されたヤツが必死になって
反論していた姿を思い出しました。
なんだか懐かしい気持ちにさせてくれたお二人に感謝します。
626 :
日本@名無史さん:04/12/16 14:35:48
>>617 比売大神=神功皇后=天照大神だよ。
だからこれ等の神様は5世紀だ。
天孫族が大陸からやってきたころ神功皇后=比売大神という信仰を作ったんだな。
その後日本書紀を編纂するにあたり、歴史を古く見せる為、天照大神という神様をでっち上げ、神功皇后=比売大神のイメージをダブらせた。
間違ーいない!
627 :
日本@名無史さん:04/12/16 15:05:36
>>624 おっと、これは失敬。
>客観的にみて、全然決着ついてない
つまり、道鏡事件で最終的に宇佐の託宣が事を決したのは、道鏡が宇佐を担ぎ出したからなのか
宇佐が皇祖神であるとの朝廷の記憶があったからなのか全く分からないと考えておられる貴方が
半泣きになる訳ないですよね。
628 :
日本@名無史さん:04/12/16 15:18:01
道鏡事件なら他の板でやってくれ。あんまり神様振り回すと明日、神社庁なら葉書くるよ 「会員登録ありがとうございます。〇月〇日までに 〇〇YEN振り込めって」
629 :
日本@名無史さん:04/12/16 15:40:00
>>625 そんな不謹慎なあなたに神罰(オナペットの飼主の人罰かも知れん)が下らぬことを心からお祈りします。
>厨房の頃、自分のオナペットにしてたAV女優
卑○呼のこと?
631 :
日本@名無史さん:04/12/16 19:13:32
老教授が逃げた途端にスレが荒れ放題か。
632 :
日本@名無史さん:04/12/16 20:55:32
正直なはなし、老教授があんなにハズシているとは思わなかったな。
633 :
日本@名無史さん:04/12/16 20:59:52
橿考研が、だろ?
老教授は、説をなぞってただけだし。
634 :
日本@名無史さん:04/12/16 21:25:42
天皇家の菩提寺だった京都の泉涌寺の過去帳によると
初代は天智天皇になってるそうだから 邪馬台国と
大和朝廷は年代が大きく離れてますね
ということで、邪馬台国と大和朝廷はまったく関係ない
別のものという結論になりますね。
635 :
日本@名無史さん:04/12/16 21:31:09
ロマンがあって九州説は好きだったんだけど、
やっぱり本当は、邪馬台国は畿内にあったのかなあって思ってた。
畿内説は豊富な考古学的資料の積み重ねで、すごく説得力があった気がしてた。
でも畿内説の中身をよくみたら、物証が積み重なってるだけで、
矛盾だらけでぐだぐだでした。
636 :
日本@名無史さん:04/12/16 21:34:51
誰が誰だかわけわかんね
637 :
日本@名無史さん:04/12/16 21:53:34
>>634 天智より前の大和朝廷とは関係あるかもしれない?
>>631 >老教授が逃げた途端にスレが荒れ放題か。
九州説の粘着が教授にしつこく絡んだから。
読んでいて、こいつ人格破綻者かな、と正直思った。
結果的に、我々は貴重な人材を失った訳で。
>>632はどう責任を取ってくれるのか…
しばらく読んでないあいだに、何があったの?
昨日の今日で「逃げた」もないだろ。それこそ彼に失礼だ。
あと、このスレを最初からきちんと読んだら、ループさせないためにいかに腐心しているかを
察するべきだと思う。
641 :
日本@名無史さん:04/12/16 22:39:42
>>638 でたよ。妄想君が。
>>632が何をしたんだ?
自分で勝手に妄想して他人を攻撃するのはよくないぞ。
642 :
日本@名無史さん:04/12/16 22:45:04
地方祭祀の放棄があったんだよね。
どういう過程で行われたんだろう。
でもみんながみんな前方後円墳にしたわけでもないと・・・
と、継体を連れてくるがごとくスレを遡ってみる
>>641 素直な気持ちなんだけど。
教授に絡んだ人は確実にいたし。
632がそうだったのかは分からないが。
あんたが632なのか?
644 :
641:04/12/16 22:49:26
>>643=638
俺は631じゃない。
教授に絡んだ人って誰だ?
>>632がそうだという証拠はあるのか?
どうして責任を取る必要があるのか、何の責任なのか論証してもらいたね。
自分の妄想による決め付けなら、
>>632に謝罪すべきだな。
645 :
641:04/12/16 22:51:34
×俺は631じゃない。
○俺は632じゃない。
647 :
日本@名無史さん:04/12/16 22:56:30
>>627は誰だよ。
スレを見直すと、九州説が絡むのも元はといえばいつもコイツが
つっかかってるもんな。そしていつもループ。
648 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:00:25
確かに教授の書き込みを思いこみだと決めつけたり「あなたには失望した」
とか、一般的な説を書いててもそういうふうに絡まれたらやりづらいよ。
それでも親切に論文名や書籍名を教えてくれる人で助かってたわけだけど、
あんまり偉そうにソース求めたり、出したソースをけなしたりでは、
基本的なやりとりに支障がきたされてしまうと思う。
言い負かすのが目的じゃないんだから、その辺考えてほしい。
またまた普段ロムの感想です。
>>644 余裕のない人だね。痛い所を突かれたから、ムキになってるんだろうけど。
教授に絡んでいた九州説の人は、素直に謝った方がいいと思うよ。
教授なら、多分許してくれると思う…
651 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:10:25
教授のことだから、とっくに許してるだろ。
挑発するのも、ディベートでは普通のテクニックだからな。
652 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:12:18
ドイツとの国力の差を痛感しますた。
653 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:17:57
ディベートと言うより、教授の授業中に騒いでる学生という感じ
隣の学生から「シーッ!」って言われてるの
654 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:21:39
教授への質問をまとめておきますね。
1.北九州のクニが、自給自足出来ずに瀬戸内海交易に頼っていたものは何か?
2.交易でクニが結びついたと説きながら、大きな港の遺跡が少ないのはなぜか?
3.地方祭祀の放棄がクニの結びつきの証拠なら、前方後円墳に統一されなかったのはなぜか?
655 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:23:03
>>651 挑発するっていっても、論理のある挑発ならいいが、
ただの難癖は何も生まない。
九州派
>>410とか畿内派
>>627って結局荒らしているだけ。
>>621でいいなら、なぜあんなにつっかかったんだろう。
理解に苦しむ。
俺もここを良スレと思い、普段ROMってるんだが一言。
老教授氏に乱暴な言葉でレスしてる奴、はっきり言って見苦しい。
内容がどうとか以前の問題。
こういう事を書くとよく返ってくる台詞に「ここは2ちゃんなんだからそういう(煽り・罵倒の類いは)当然だろう」というのがあるが、俺には下品で馬鹿なだけだとしか思えない。
もしもそう思ってるなら即刻改めてもらいたい。
その馬鹿さ加減は、「酒の上でのことだから〜」・「旅先でのことだから〜」の類いと一緒。
まさに厨房の論理。
632です。
老教授が民俗学に無知すぎて、丸木船こそ弥生の軍船であることや
西日本で宗教統一がされたとは到底いえないと、指摘したんだが
問題あったかな?
658 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:28:00
畿内説派は、足元が崩れはじめたからって、泣き言いわないように。
>>654に、レスしてくれ。話はそれからだ。
>>658 俺は
>>656だが、
「老教授氏に乱暴な言葉を吐いてる奴を非難したこと=畿内派の危機感の現れ」
と貴方が捉えてるのならば、その感性はそうとう鈍いな。
そうでないことを願う。
というかそうではないと思うが、念のため。
俺は邪馬台国が九州にあろうが畿内にあろうがどちらでもいい。
というか、むしろ宇佐かもなあと思っているくらいだ。
660 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:42:19
漏れも、文献などから邪馬台国は九州だと思う。
九州と畿内に国家が並立してあったと捉える方が納得がいく。
畿内にも邪馬台国に匹敵する国があったのだろうが、中国から
遠かったため、たまたま記録されなかった。
ただ、それだけのこと。
ただ、邪馬台国を畿内の国家に結びつけようとするのは、
無理な気がする。
>>657 要は、その反論の仕方だと思うよ。
だから人格破綻者とか言われてしまうんだ。
発言者に関する論争は煽り以下。
というか、老教授氏や豊前説氏がいかに素晴らしいか理解しているなら
しばらく黙っとけ。
663 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:45:27
たしかに、老教授は考古学以外の知識は弱そうだね。
>>309 >また水上における戦闘も弓矢の精度からして効果があるとは考えられません。
これなんか、イタいよなあ。
弓矢の戦法は精度じゃないのにね。
>>661 反論に反論できないからって、人格攻撃イクナイ
665 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:54:55
>>663 名無史で出ておいて、個人攻撃はずるいと思われるぞ。
神話にも触れてるし、考古学論者にしてはバランスを備えている。
666 :
日本@名無史さん:04/12/16 23:57:56
>>663 精度じゃない弓矢の戦法って、かなりの船団でないと実現しないぞ。
せいぜい近接戦になる寸前に打ち合うくらいだろ。
そうなると精度が問題になるが、瀬戸内ならやってやれんこともない
だろうが、船で弓ってのはどうかなー
>>664 少なくとも奴の場合は論を戦わす以前の「礼儀」の問題だとしか思えんのだがな。
無礼な態度で告白した馬鹿男に、それでも告白された教授子(仮名)さんは丁寧に受け答えをしていました。
それを見ていた人たちは、教授子さんへの態度に憤り、或いは不愉快になり、また教授子さんが可哀想になり、
「少なくとも教授子さんに告白するなら失礼な態度はやめろ」
と言いました。
しかし、
>>664はこう思いました。
「先に告白されて悔しいからって、人核攻撃イクナイ」
これと似たようなもんだろ。
>>667 君も必死すぎて見苦しい。そのへんにしておきなさい。
>>668 俺が必死だと思われようが、見苦しいと思われようが一向に構わない。
自分を正当化するつもりもない。
俺はただ、見苦しくない、実のあるまともな論争が見たい。
だから論争するとか以前に無礼な奴と、それを擁護する奴には引っ込んでもらいたい。
それだけだ。
丸木舟海戦はひょっとすると、毒矢+毒銛戦だったかもしれない。
遠くからは毒矢、近くでは敵船の転覆と毒銛突き。
671 :
日本@名無史さん:04/12/17 00:13:48
俺は邪馬台国が九州にあろうが畿内にあろうがどちらでもいい。
というか、むしろ沖縄かもなあと思っているくらいだ。
672 :
日本@名無史さん:04/12/17 00:15:41
>>669 というか、貴方は、老教授みたいなに知的な畿内論者に憧れてて、話をしたいんだけど、
遠くから見つめていたら、教授を困らせるヤツが出てきたから不愉快に思った、と、正直にいいなよ。
>>671,672
何だ、ただの構って君か。
一体俺を煽って、このスレ的にも邪馬台国or古代史論争的にも何の得があるっていうんだ?
だから、
>憧れてて
とか
>正直に
とか言われても、まともな論争が見たいだけの俺としては、反論する気にもならん。
阿呆らしい。
つうか、おまえ(ら?)ヒマだなw
海戦は、弓矢というより、ヤスで突付きあったんだろう。
相手も似たような装備しか持ってないから十分戦闘になる。
で、漁村を占領&略奪して帰る。
>632です。
>老教授が民俗学に無知すぎて、丸木船こそ弥生の軍船であることや
>西日本で宗教統一がされたとは到底いえないと、指摘したんだが
>問題あったかな?
お前みたいな奴は、社会一般では「精神年齢が低い」と言われるんだよ。
覚えておいた方がいい。
677 :
日本@名無史さん:04/12/17 00:27:38
>>672 俺もその一人だよ。
早く老教授の「地方祭祀の放棄」についての最新通説・有力説講義を聞きたい。
正直、静粛に願いたい。
>>632 九州説の粘着は、以後、書き込みを慎め。
お前が書き込むから良スレが荒れる。
もう少し社会で揉まれてから出直してくるように。
待ってるよ。
679 :
日本@名無史さん:04/12/17 00:31:37
>>674 そうやって大和は海戦に連戦連勝して2〜3世紀に北九州も傘下に入れたんだよね
半島で鉄器の戦いをしたのは、畿内勢力じゃないだろう。
ひどい誤りだぞ。
>>678 おまいさっきから偉そうだな。このスレの主か?
まあまあ、みなさん、落ち着きましょう
684 :
日本@名無史さん:04/12/17 00:37:36
うひょー
あは、九州王朝大好きさんの天敵
橿原一派さん登場
686 :
轢死禍:04/12/17 00:39:35
邪馬台国は北九州に決まってるジャン。
筑前か筑後かどっちかだろうな。
その傍系の天皇家の始祖神武が、
追われるように、逃げるように、東遷し、
新天地大和盆地に活路を求めた訳だよ。
大化の改新の頃まで、九州王朝と大和王朝は並存していたのだろう。
どうしてそんな簡単なことが分からないかね?
>>656,659,667,669,673
が俺な。
なにやら俺のせいで勝手に誤解して
>>678氏に逆ギレしてる輩がいるようにも見受けられるので、念のため。
688 :
日本@名無史さん:04/12/17 00:41:31
橿原一派さんも、黙ってないで、
祭祀の統一と交易について語ってください。
おながいします。
689 :
日本@名無史さん:04/12/17 00:48:12
橿原一派さんの書き込みをいつも楽しみにしている普段ロムです。
今お忙しい時期でしょうから、無理言えませんけど、
お時間ある折りには、今後ともよろしくお願いします。
>>686 賛成! ところで名前が下山総裁みたいだな。
691 :
日本@名無史さん:04/12/17 00:50:56
昼間に論破されたからって、夜中に騒ぐってのはどうかね。
692 :
日本@名無史さん:04/12/17 00:54:20
お前ら こんなとこで具だ具だしてないで早く寝ろ 俺も嫁とナニしてから寝るから
693 :
轢死禍:04/12/17 00:55:24
>>690 >賛成!
だしょう?
アタボウよね。
>ところで名前が下山総裁みたいだな。
人生の重荷に押しつぶされそうって言うことにしといて…
694 :
日本@名無史さん:04/12/17 00:59:14
教授の説を補強する説を誰もカキコしてないのはなんで?
通説なんじゃないの?
九州説の粘着氏も少しは懲りただろうから、そろそろ叩きは止めようか。
祭祀の統一=「前方後円墳祭祀の始まり」なんだろうね。やっぱり。
ただ「中央が主導して地方神を排除した」みたいな大げさなものではない気がする。
当時の大王にそこまでの権威は無かった。あくまで有力豪族たちに共立されていた
段階だし。
同族意識の確立、共通の始祖王伝承、宗教・世界観の共有が起こった、と。
その要因とは、交易を通じた緊密な関係が長らく続いたからだと思う。
婚姻政策なんかも当然あっただろうし、それによる王族間の混血も大きなトリガーとなった。
完全な祭祀の統一は、おそらく8世紀の記紀成立まで待たなければならないと思う。
696 :
日本@名無史さん:04/12/17 01:07:21
>>695 畿内の祭祀王=卑弥呼ってことでいいね?
>>695 要は、なぜそのような同族意識の確立が3世紀初頭に起こったか、だよね。
倭国大乱が起こった原因も説明していないし。
>>695 倭人の代表国では、阿蘇山で祭祀してたことを忘れるな。
志賀島の金印という物証もからめて考えてみよ。
699 :
日本@名無史さん:04/12/17 01:46:14
お前ら、まだ寝ないで具だ具だやってるのかー 早くオナしてねろ!俺は今、嫁さんと営み終わった所だ。今日の嫁は大分湿り気あって腰浮かしてたナー これも卑弥呼の力なのか?じゃ。おやすみ
701 :
日本@名無史さん:04/12/17 02:01:26
>>695は、浅い知識で語ってるだけだから、スルーしる。
702 :
日本@名無史さん:04/12/17 02:33:45
魏志倭人伝には、倭国大乱のあと、卑弥呼が共立されたとある。
魏志倭人伝が伝聞にしろ、倭国で「大乱」が無ければ、このような記事にはならない。
中国では、本当に大乱があったわけで、「大乱」と表現するには、
それに匹敵するほどの大乱でなくてはならない。
倭国で「大乱などなかった」という輩は、邪馬台国も卑弥呼も否定すべきである。
なおかつ邪馬台国が畿内にあったなどとは妄言も甚だしい。
それこそなんの証拠もないのである。
宇佐が政治の中心だったことは間違いないね。
考古学から図れることは、集落の規模や様子だけであって、
意味付けは文献に頼るしかないしね。
704 :
スレ主 1様:04/12/17 08:53:59
まさかまさかの井沢説が1番真実に近かった・・
705 :
日本@名無史さん:04/12/17 09:07:30
邪馬台国畿内派は天孫族が北から来た事を認めないんだろうなあ。
しかも3世紀以後だ。
>>686 九州王朝と大和王朝
並存は豊祖父尊の世のころまでです。古田氏もそう言っていましたが、そのとおりです。
結局のところ九州説は電波全開のお花畑本にハマっちゃった人なんだから
そういう人とディベートが成立しないのは当然の理だよ。
>>707 お前様の言うのが正解ならば、なぜ日本の古書に独立して日本の邪馬○国と卑弥呼の記事
が詳細、かつ具体的に載っておらず、皮肉にも日本でない中国の古書に詳細、具体的に日本の
邪馬○国と卑弥呼の記事が載っているのだ?むしろ日本にある邪馬○国と卑弥呼の記事
は当然、日本の古書にこそ書かれてあるべきものではないのか?それが皮肉にも
逆となって、外国の古書に書かれてあるという現実を何と解釈するのだ?
他でもない。これは大和にある朝廷とその取り巻きが邪馬○国と卑弥呼のことについて
あんまり知っていなかったことを意味するのではないのか。ということは、邪馬○国と
その卑弥呼は大和朝廷のあった畿内よりもかなり遠くにあったと考えるのが自然であり
正解であることを示しているのだ。しかも神功皇后は三韓征伐で北九州に行っている事
が紀の記載からわかるから、北九州に邪馬○国と卑弥呼がいたのならば、当然あちらでは
大騒ぎとなるから、そのことが記紀のどこかに具体的、詳細に邪馬○国と卑弥呼女王と
その国民の驚いている状況が載っているはずなのに、それがない。
ということはだ。北九州にはなく、中九州か南九州にあったかそれとも北でも核心地方から
幾分はなれた所に卑弥呼のいます邪馬壱国があったことを究極的に意味しているのだ。
709 :
日本@名無史さん:04/12/17 11:42:42
邪馬壱国や邪馬台国にとって、畿内は東北地方同様に
治外の地だっただけでしょう。
イ妥国の時代には衛星国扱いだったかもしれない。
710 :
日本@名無史さん:04/12/17 11:48:55
考古学を完全に無視した発言ですね。
>>708 707ではないけれど、横レスご勘弁を。
>むしろ日本にある邪馬○国と卑弥呼の記事
>は当然、日本の古書にこそ書かれてあるべきものではないのか?
古書というのが正史をさすのであれば、このように断言できるのでしょうか。
そもそも書紀等の成立は日本は遥か昔より東アジアの冊封体制とは無関係に
天皇家が統治してきたことを主張するための書物である以上、冊封体制に
組み込まれていた事実を書かない方が「当然」ではないでしょうか。
712 :
日本@名無史さん:04/12/17 12:12:58
シンプルに考えれば分からなかっただけだって何回言われれば気が済むんだ。
文字による記録のない時代の話なんだから。
713 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/12/17 12:30:25
707じゃないけど
>708
>日本の古書に独立して日本の邪馬○国と卑弥呼の
>記事が詳細、かつ具体的に載っておらず
これはね、書けなかったから書かなかったんだよ。
天皇家の系図にも記紀にも邪馬台国の王だった卑弥呼や台与の事が書かれていないのは、
この二人を「王」ではなく「神」(卑弥呼=天照大神・台与=豊受大神)にしちゃった
からなんだよ。一度「神」にしたものを、後になって本当は「王(天皇)」だったんだ
なんて「神」から「王(天皇)」へ格下げなんてバチ当たりな事は出来ない訳です。
だから、天皇の系図にも、記紀にも卑弥呼の名前や事跡は書けなかったんだよ。
714 :
プラム:04/12/17 12:35:35
708さん
それは全くの逆じゃないかな。過去の経緯を知ってるが故にあえて歴史から消し去った。記紀は、後世の人達に遺した書、出来るかぎり純粋な日本種にしたかったのではないでしょうか? 応神が二分の一や四分の一であってはならない。そんな思いが…
715 :
日本@名無史さん:04/12/17 12:38:55
自説を開陳してオナニーするスレはここですか?
716 :
日本@名無史さん:04/12/17 12:46:46
>715
そうです!ここでぇーす!!
つーか
意識的に書かなかったんでしょ。
過去の人卑弥呼の影響力の払拭の為、「そんな奴は存在しなかった」と
言わんばかりに存在を意識的に記さなかっただけだと思うよ。
権威を持つものが、「神ががった者」から「神の子」になったわけで、別段
権威継承に前の権威者との関連を記す必要は無いでしょ。
むしろ、新たな権威者の凄さの宣伝は必要だが「比べてどうこう」って事に
なると、「前の方が良かった」ってことになりかねないから、比較をさせた
くない意図の表れじゃないかな。
邪馬台国が、そのまま大和朝廷になったとは考えていないけど、邪馬台
国が消滅(それにかかわるすべての者が死に絶えるような状態)したとも
思えないので、昔邪馬台国だった部分が新興勢力・大和朝廷に組み込ま
れたような感じと推定してる。
その時代の背景として、過去の人ながら伝説的な卑弥呼の存在が民衆
に色濃く残っていて、それを完全に無くしたい意図が初期の大和朝廷に
あったと思う。
718 :
紙様:04/12/17 12:50:30
もめている様なので、本当のことを話します。
紀元前100年くらい〜3世紀初頭まで、九州北部に大倭と呼ばれた国がありました。
不弥と伊都という国を統一してできた国です。
当時の日本は、九州に大倭と熊、本州に出雲、吉備、纏向という大きな勢力がありました。
2世紀末の大倭は卑弥呼と呼ばれた王が治めており、大陸の魏と呉という国と国交がありました。
国交といっても国力の差は歴然なので、必然的に従属に近い関係であったと思います。
なぜ魏と呉両方と関係を持ったかというと、両者は対立関係にありどちらかが倒れた場合のことを考えたのと、
大国に対して完全な従属関係にならずうまく大倭の独立をはかるためでした。
同時に卑弥呼は、先にあげた5つの大きな勢力を統一しいち早く大陸の大国に影響を受けすぎない国を作ろうとも
考えていました。早くから大陸の情勢を知っていたため、統一国家の必要性を強く感じていたのです。
3世紀初頭、卑弥呼は亡くなりましたがその息子がついに統一国家を建国しました。
場所は、大陸から遠い纏向のあたりに都を定めました。
その国の名前が、一時期、邪馬台国でありました。名前の由来は詳しくわかりませんが、
後に大陸文化である仏教が広まってから大和朝廷と名を変えたことから考えますと、それ以前にあった宗教
の占術によって決められたのかもしれません。
719 :
プラム:04/12/17 13:07:50
718さん
細かい所にはまだ異論がありますが、概略はそれで十分かと思います。卑弥呼の息子じゃなく卑弥呼の血の流れをくむのほうが?
>>718 無理がありすぎるなあ。
「邪馬台国が、大和朝廷と名を変えた」のは根拠が無いし。
「ついに統一国家を建国しました」としても、手段が明確じゃないし。
壱与が卑弥呼の後を継いだことを無視してるし。
九州から畿内に遷都したなどという証拠も無いし。
721 :
日本@名無史さん:04/12/17 13:47:12
考古学者の限界というのが、老教授の発言に浮き彫りにされてるよね。
2、3世紀に、倭国に大規模な戦乱の痕跡が無いから、
倭国統一は武力ではなく、平和的な首長連合だったというが、
それは考古学者としての、ひとつの見解にしかすぎない。
大きな戦乱の痕跡は、今後発掘されるかもしれない。
現実に、縄文時代は戦争が無かったとされながら、最近は戦争もあったという見方になった。
老教授は、出発点を間違えてしまってる。
2、3世紀に、戦争があり、武力によってクニを併合していき、
大きなクニへと成長していったと考えるべきだ。
環濠が役に立たないほど浅いとか盛土がおかしいとか言うが、
戦術の知識が無いからそのようなトンチンカンな指摘になってしまう。
外敵が首都まで襲って来れないように、周辺に砦を築いているものである。
瀬戸内海の高地性集落が、戦争を意味するものでないなら、
4世紀の東海方面の高地性集落はどう説明するのか?
クニの連合が進んでいたなら、高地性集落など不要のものである。
思うに、老教授は非常に視野が狭く、弥生末期の全体像を把握する能力に欠けているのだろう。
広開土王碑の問題も有る。倭国が朝鮮半島を攻めたという記述は、
そういう事実が無ければ、わざわざ書かれるはずはない。
日本本土で、戦争をして武力統一をしてきたという経験があってこそ、
朝鮮半島まで拡大戦略をとり、兵を送ることが出来るのである。
兵を輸送できるほど大きな船を係留する港が無かった?
それならば、交易物資も運べず、交易によってクニが結びついたという、
老教授自らの論旨と大きく矛盾するものである。猛省してもらいたいものだ。
722 :
日本@名無史さん:04/12/17 13:47:40
>>715 ここは、邪馬台国だの九州王朝だの比売大神だのをオカズにオナニーする変態達と
それを邪魔して楽しむ変態達のスレです。
目の前でキモイオナニーされたら気分悪いし、オナニーの邪魔をされたら怒りますよね。
そういうことです。
>>722 キモいのはオマエ。気分悪いならここに出入りするな。
724 :
日本@名無史さん:04/12/17 14:02:43
わずか8分で、さっそく一匹釣れたようです。
どのエサにヒットしたのでしょう?
725 :
紙様:04/12/17 14:07:15
>>719 レスを頂きありがとうございます。
統一国家建国は言い過ぎましたが、卑弥呼の息子でいいと思いますよ。
ちなみに、卑弥呼の血筋はそこで途切れています。
>>720 レスを頂きありがとうございます。
>「邪馬台国が、大和朝廷と名を変えた」のは根拠が無いし。
はい、無いです。
>「ついに統一国家を建国しました」としても、手段が明確じゃないし。
手段は、最終的には戦争です。
>壱与が卑弥呼の後を継いだことを無視してるし。
すいません。
名前が壱与かどうかはわかりませんが、纏向に都ができてから間もなく、卑弥呼の息子の妻が王位についています。
>九州から畿内に遷都したなどという証拠も無いし。
はい、証拠は無いです。ですが、遷都ではないのですよ。邪馬台国が建国されてからは、大倭という独立国は無くなりました
が、その地方では筑後川流域の北岸には大倭のころと同じような都市(?)があったと思います。
726 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/12/17 14:19:13
天皇家の系図は、「記」が書かれる以前までは、
初代崇神−垂仁−景行−成務−仲哀−−−−−−−−−−−
だったんだろうと思うけど、「記」が書かれるに当たり天皇家の厳威を増す
目的で、崇神よりもずっと前から天皇家は有った事にする為、崇神以前にあった
王朝の王の名前を持ってきて、崇神の前にくっ付けたんだと思います。
卑弥呼−台与〜初代神武〜(略)〜開化+++崇神−垂仁−景行−成務−−−
しかし!「記」に記された干支から考えると、崇神崩御は258年か318年
になりますが、いづれにしても卑弥呼崩御の248年から10年〜70年しか
経ってなくこの間に、台与〜開化までの王が立ったとするのは、ちょっと無理な
感じがしてならず。崇神王朝の前は、卑弥呼と台与の王朝だったと考えるのが
妥当な様に思えてなりません。
初代神武〜(略)〜開化−【卑弥呼】−【台与】−崇神−垂仁−景行−成務−−−
そうだとすれば何故、「開化」と「崇神」の間に「卑弥呼」と「台与」に当たる
天皇の名を系図に書かなかったのか?
>>713で書いたのがその理由になります。
728 :
にゃんちゅー ◆IcICQJaxBw :04/12/17 15:15:09
>>726の訂正。
「台与〜開化までの王が立ったとするのは」×
「台与〜崇神までの王が立ったとするのは」○
>>726 目のつけどころはいいが
【卑弥呼】+【台与】から初代まで続く間に、4代あるぞ。
>>711 貴殿はいわゆる古史古伝を偽書とみているか正史とみているか知らんが、
正史でないと思っているならば、これらに邪馬○国、卑弥呼の記事があるのかい?
記紀以外の古史古伝に詳細に具体的に載っていれば、記紀に載せなかった、朝廷に
都合の悪いので記紀の文から除去したという論は正当性があるということとなる。
このように思っているならば、その古史古伝のどこに詳細に卑弥呼等が書かれて
いるのか?古史古伝に卑弥呼等の記事が殆ど無ければ、記紀にも古史古伝の両方
にも邪馬○国、卑弥呼の記事が無いということで、意図的に大和朝廷がそこの部分
を削除したものではないということになるわけだよ。なぜか?古史古伝は非正史で。
>>713 あなたも 卑弥呼=天照大神 の等式を支持しているのか?
右辺は神武よりずっとずっと以前で成務、仲哀の世じゃぁないんだよ。
これは大きな誤りだぞ。ただ気を悪くするな。まじめに言っているんだ。
>>714さん
歴史から消し去るというなら、古史古伝のほうには卑弥呼らのその詳細
が具体的に載っていていいはずじゃぁないのか?
>>730のと同様に。
意識的だという
>>717さんにも同回答だな。
>>725 けっこうリアルだけど、大きな間違いがあるよ
>>718 いわゆる「神武東遷」とは、王様でもない神武が軍人として
役立たずなので九州内で更迭されたあげく、畿内に進入し
からくも小領土を得ただけに過ぎない。だから九州の倭人国は
極東に君臨し続けている。のちの畿内王権の、みすぼらしい
発祥譚が神武神話だ。
「大倭」という呼称は、ほぼ無関係だった大和と倭をつなぐ
目的で、故意に捏造した呼称であり、8世紀以降に考案されたはず。
邪馬台国スレでスレ違いと言われたんで、こっちに・・・。
<雄略記>
前津屋の乱、田狭の乱etc
内容は派遣した部下が背きかけたり、これは反乱とかいうものか?姻戚関係も込み入っているし、圧倒的な
ら人の妻を寝取ることもいらないだろ。むしろ同規模の王同士の衝突で、すっきり勝利!ってことでは全然無
いけど。雄略が自治を認め、それが初代吉備王だというなら、それに反乱されるって馬鹿みたいだね。つうか
そもそも吉備の巨大古墳のは河内の同類より古いっていう可能性も出てきているし、もっと以前から王権が存
在したのは明らかではないか?争乱勝利後やっと雄略の優位が確立した程度で、その権力の解体なんてでき
なかったんだろう。ということは直接支配はやっとその手前の播磨ぐらいか。
<継体記>
社稷の存亡、是に在り。
長門より東をば朕制らむ。筑紫より西をば汝制れ。
鉄を横領した犯罪者だから斬られて当然というのが通説。
しかし、6世紀でさえ半島の鉄依存度が社稷の存亡の危機というのは、遙か以前でも九州の鉄の独占は
大したことは無いという畿内派の意見と矛盾する。 それに、現代の常識で犯罪とか、キティガイといっていいな、
これは。 単に支配権が確立していなかった、もしくは無かったということだ。放置していたから地方の国造が
増長し たのに社稷の存亡でも無いだろうw しかも得たものは屯倉一つ(禿藁 このあたりマキムク先生のご意見キボンヌ
<皇極記>
東は遠江国、西は安芸国を限って宮室を造営する丁を徴発せよ
これもなあ。もう7世紀だというのに。九州は半島戦争への兵力だからというが、それも何かおかしくないか。
それこそ大中国が介入してきてくる社稷の存亡の危機なのに、安芸はいいのか?中国はおろか、近畿でさえ
大動員かけろよ、ふつー。というより、大和朝廷の西限が安芸だということではないのか?
前方後円墳=ヤマトの支配権なんて、なんの裏付けもない俗説だろ、所詮。時代、被葬者、相互の関係etc、
なにもわかってないのに。そんなあいまいなもの前提にするなよ。確かにでかい古墳は目立つが、子供じゃね
えんだから、見たままの雑感でしかないと思われ。 ・・・・・あ、マキムク先生とか書いてるし。そらスレ違いだわw
735 :
日本@名無史さん:04/12/17 17:57:43
↑
んなスレ此処でもいらん。
736 :
豊前説:04/12/17 18:03:01
737 :
日本@名無史さん:04/12/17 18:09:10
743
ここでも追い出されそうだね。しょうがないよ、あんたの知識見せびらかされてもつまんないもん。でも、本当にあんたの内容解りずらく皆、ひいてるよ
738 :
日本@名無史さん:04/12/17 18:14:30
743????
739 :
日本@名無史さん:04/12/17 18:15:42
734だろ。
740 :
日本@名無史さん:04/12/17 18:19:07
はい、34です。
>>726さん 威厳をかい?
そうだったなら崇神より手前を8代ぐらいでケチらずにだ。100代くらいを増やすよ。
8代ということは故意に代数を増加させたんじゃぁないということを物語っているのだ。
>>734 畿内王権の領有範囲を示すものとして、大変貴重な指摘ですね。
このことから帰納して、弥生期の畿内王権の西日本制覇どころか
本州の西半分も領有していないことが明らかです。
よって、北部九州を拠点として、半島で高句麗と戦ったのは
畿内王権たり得ないと断定できるでしょう。
743 :
日本@名無史さん:04/12/17 20:44:52
なかなか興味深いと思うがな>734
結局学者ってなんとなく「大和朝廷が雄略の時代に日本を統一」っぽい感じのことしか
言わないもんな。こういうのこそこのスレの主要な目的だと思うぞ。
むしろ
>>737の見解こそ聞きたいんだが。
>>730 711ですが、あなたは708なのかな?
>>708の古書というのが何を指すのか明確ではないので正史に限りましたが、
正史にしろ古史古伝にしろ、それが成立するにはなんらかの意図があるはずです。
主にそれを成立させた勢力の正統性あるいは優位性を主張するためですね。
ですから、あなたのいうところの史書に卑弥呼もろもろのことが書かれていなければ
いけないという前提はおかしいと言っている訳です。
なぜなら記紀成立当時の日本は中華帝国の冊封体制下からの脱却を指向していたからです。
あなたは史書とは出来事が客観的に記述されているべきものと思っているように
見受けられますが、それは非常に最近の考え方であり、そしてそれが現在に置いても困難な
ことはあなたもご存知のはずです。
朝廷に隠してしまっておいた古史古伝にも記述がないのならば、正史が卑弥呼等を
ひた隠しにする必要はない。隠すならばむしろ、朝廷のある大和よりずっと遠い九州
のほうが朝廷には都合がいいはずだ。遠隔にあるから朝廷関係者に卑弥呼の情報は
はいらず、周辺の畿内民の耳にも入る可能性は薄い。
邪馬○国が大和にあるならば、朝廷と邪馬○国との交流とか天皇と卑弥呼の面会
双方のあったならば戦争、騒乱等が朝廷と邪馬○国政府とその取り巻きおよび
双方の民の目、耳に沢山、数えきれぬほどそれら事象、情報が行き届いており、
古代の電気を使わぬインターネットのようなものだ。大和と同国が近隣ならば
かならず、彼らに十分に察知されている。
九州にあれば、邪馬○国の存在を隠したい秘密は容易であり、記紀が同国を
なんとしてでも隠匿したいのであれば、大和から遠い遠い九州のがずっと有利
ではないか。したがって、邪馬○国と卑弥呼を政治的な隠したということは、
九州説のほうのがもっと都合がよくなるのだ。
>>744さんのいうことは
可能性の問題として残るものの、失礼ながら、却下の論としたくなる。
>>745 下から3段上
誤→政治的な隠した
正→政治的に隠した
記紀に南米のことが記述されていない→日本と、記述者と取り巻きが遠隔で、行き来した事がなく
情報が入る可能性が殆ど無だからだ。
同様に記紀に邪馬○国の記述がなし→大和から邪馬○国が遠隔で交流、入る情報が無だからだ。
すなわち、邪馬壱国は九州にあったのが正解なんだよ。
>>745 いや、別にわたしは大和かもしれないし、九州かもしれないとも思って、
このスレをロムっているのだが。
大和が邪馬台国ならば記紀に卑弥呼らの記述があるのが当然だという前提に
たったうえで、記述がないことを根拠に何らかの論を立てるのはおかしいと
言っている。
>>708の
>むしろ日本にある邪馬○国と卑弥呼の記事
>は当然、日本の古書にこそ書かれてあるべきものではないのか?
そもそもこの前提がおかしくはないですか?
それとこの古書というのが記紀の元になった資料だとするならば、それらが
残っていない以上、書いてあったとも無かったとも言えないでしょう。
>>744 うそうそ、記紀の時代は「中華帝国の冊封体制下からの脱却を指向」
などしていないでしょう。則天武后(武則天)亡き後の、恭順姿勢の見せつけと
倭人の代表国家(邪馬台国の正規後継国)としての公認の取り付けが
主要な関心事だったはず。
749 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:20:08
老教授はやく帰ってきてくれないかなあ。
スレの質が目に見えて落ちているんで
ここらでそろそろマトモな説を聞きたいのだが。
変な絡み方をする香具師が出てきたら無視してもいいと思うし
だからといって老教授を非難する香具師は、まともなROMにはいないはずだ。
だから教授、そろそろ復活してください。
>>747 そういう意味ではそうでしょうなあ。
日本の柔道が他国のヘーシンクさんに優勝をもらわれても、それはありうるでしょう。
また、相撲も蒙古の力士に優勝を持っていかれても、確かにありうる話ですよ。
だから、可能性としては貴殿のいうことは上の優勝、横綱の話でありうることですが、
いままでの話で確率的には余の九州説のほうが強くありうるんじゃぁないんですかな?
あの話が絶対とは余は言ってはいませんが、ま〜ず間違いはないとは思いますよ。
もっと極端に
記紀に火星の世界の話が載っていない→日本から極めて遠方で行ったこともなく情報も入らない
記紀に邪馬○国の話が載っていない→かなり大和から遠方で行き来したこと殆ど無く情報も無い
大和から遠方ということは邪馬○国が大和にあったのではなく、遠い九州にあったという結論だよ
しかし、貴殿は九州説でも大和説でもあるという件。優柔不断ですなあ。
それじゃあ、貴下とのお話はいったん終了としましょう。またの機会に!
最後に、貴殿は可能性のうすいことを強調しすぎじゃあないんですか?
751 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:24:13
記紀に卑弥呼が載っていないんじゃなくて、
畿内の王族であると、強くほのめかしているじゃないか。
ただ、同一視させたいだけで、まったくの別人だから
破綻してるがな。
すいません 追記
>>747さま
それは男でもスカートをはくことはあります。それは可能性の問題。
貴下はそういうことを強調しているみたいで、順当ならば
男はスカートは通常はかないんですよ。余のいうことは通常一番起こりうる話
を言っているわけですが?それではこれにてご免。
753 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:28:33
何の根拠も無いが一番それっぽいのは
>>718だと思う。
754 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:32:46
でも
>>718のような「遷都」はありえないし、大倭という国名も後世の偽作。
755 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:43:57
>>749 はぁ?
老教授のどこがマトモなんだよ?
ベクトルが違うだけでデンパと同じだっただろ。
756 :
日本@名無史さん:04/12/17 22:52:54
>>755 老教授を非難する香具師って
どうしてこんなにも礼儀知らずというか
凝り固まっているんだろうか?
はぁ?とかいう前に自説を少しでいいからご高説賜ってくれんかな。
君がデンパかどうかはそれを読んでから判断するよ。
757 :
日本@名無史さん:04/12/17 23:10:24
老教授の根拠なき「宗教的統一」を前提とした「西日本統一」観は
お粗末ですが。
758 :
日本@名無史さん:04/12/17 23:15:39
僭越ですが、老教授の御高説は、納得できるものではありませんでした。
>>718のは中学(高校はさすがに無理か)レベルの教科書にはふさわしいかもな。
>>752 うーん、どうも話が噛み合いませんね…。
あやしげな前提を基にして論を組み立てて蓋然性が高いといったところで、
その前提が正しければという仮定の上でしかありません。
そこのところを厳密にやって欲しいといっているわけです。
>>748 それは対中華帝国の外交方針の話でしょう。向こうの資料による。
わたしは日本が日本列島を支配する正統性を何に求めるようになったか、
という話をしているつもりなんですが。
所詮わたしもギャラリーとして誰かの論に茶々を入れているだけのような
気がしますので、この辺でひっこみます。
761 :
日本@名無史さん:04/12/17 23:34:59
('A`)
ノヽノヽ =3 プゥ
くく
762 :
日本@名無史さん:04/12/17 23:44:23
>>760 この世でただ一人あなただけが、卑弥呼に相当する畿内人として
記紀が別人をほのめかしていること気づいていないんですね。
論理が大きく破綻しているのはその点にもあります。
あなたがまさに対中華帝国の外交方針の話をしたから
その話をしたまでで、弱点を指摘されたら引っ込めるのですか?
763 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/17 23:47:31
すさまじい勢いでスレが伸びてますね。
今夜もあまり時間が無く中途半端になりそうなのですが
宗教について書いたほうが良いですかね?
それともクニの概念をもっと詳細に書くか、水上運輸についてか。
それと論文がありそうなところをご紹介しただけで
私、橿考研とはそれほど繋がりが無いですよ。
アンチ橿考研=九州説とは知らなかった・・・。
むしろ歴博や奈文研や京大の方がアンチが多いだろうと考えていましたので
比較的資料閲覧が容易く、蔵書の揃っている所をと思いまして
関大と共に挙げたのですが、いらぬ誤解を与えたばかりか
なんか橿考研に悪い事しましたね・・・。
おお!教授降臨!
アンチの揚げ足取り的な曲解は無視して
宗教的統一について語ってください。
質問や反論にはその後にまとめて答えていただければ嬉しいです。
皆の衆、頼むから荒らすなよ。
まず教授の説を聞いて、反論はそれからだ。
でないとスレがマトモに進まない。
老教授、sageで書いたほうが良いと思います。
また礼儀しらずが嗅ぎつけてぐちゃぐちゃを狙うのがイヤなので。
767 :
日本@名無史さん:04/12/18 00:07:19
宗教について頼む。他は後でいい。
>老教授
では
>>403の続きをば・・・。
まず最初にお断りしておきたいのは
私自身が「祭祀王」の絶対的権限や権力の中枢に存在するとの考えを採択していないことです。
青銅器による地方祭祀が廃れ、あらたに寺沢氏などが言う「首長霊」体制に移行した理由が
各クニの再編成によってもたらされたものであり、そこには宗教的意義よりも
政治的なかけひき、つまり新形式の祭祀を推奨する側と従来のアニミズム的祭祀とのいわば妥協的着地点を想定したものです。
なぜ従来の祭祀が強制の痕も無く放棄されたか?
新形式に移行するメリットはどこにあったのか?
根底ある弥生期の信仰の本質とはいったいどのようなものなのか?
これが主題となります。
>>762 ???何を言ってるのかさっぱりわかりませんが…。
記紀あるは古史古伝に邪馬台国および卑弥呼のことが詳細に書いてないのが
おかしいというのを根拠にしている人に対して、「詳細」に書いてなければいけない
ということを前提とするのが問題だと言ってるんですが。
で、記紀の主張は天皇家は遥か昔より神によって統治を委任されているという
ことであり、まさにそれが記紀編纂の目的であるならば卑弥呼だの親魏倭王だのと
「詳細」に書かれていないのは別に不思議でもなんでもなく、書く方がどうかしている。
逆に何故「詳細」に書いてなければおかしいのかの説明がない。
ほのめかしてあるからといって以上のことが何か変わりますか?
教授帰還のようですので、呼ばれないかぎりは引っ込みます。
流通ブロックがいくつかに分かれたのは
>>403にて述べました。
この傾向が顕著になるのは弥生後半後期(2世紀前半)あたりからです。
各ブロック内での流通が発達し、隣のブロックにお互いが影響を及ぼし始めるのもこの頃からです。
このあたりは土器もさることながら、共通形式の工具や武器などが一定の地域において特徴があることが根拠になっております。
ここで流通に向けて大きく動き出したのが吉備、安芸、伊予などで構成されるブロックです。
便宜的に吉備ブロックと称する事にします。
まず西には@豊前、長州ブロックに、東にはA淡路、播磨、摂津ブロックに。
さらに中国山地を越えて出雲へと進出していきます。この出雲との連携が後に畿内に多大な影響を及ぼします。
本来なら出土物を列挙して説明すべきでしょうが、長くなりますので反論があった際に纏めて行います。
この時点では筑前、筑後の玄界灘グループと大和、東海グループには大きな変化は見られません。
青銅器祭祀にしても九州、畿内共に、大型化したマツリを維持していたものと見られます。
この流通網の再編成と共に祭祀形態に大きな変化が見られるのは
まず吉備、出雲、讃岐、次いで安芸、伊予、丹後などです。
ひとつは大型青銅器(平型銅剣、銅鐸にかかわらず)によるマツリに変わって出現する
土を高く盛った形式の墳丘墓。そしておそらくは半島南部の影響が強いと見られる横穴式の石室。
この石室については更に半島型に近づいたものが、ホケノ山の「石囲い木棺」でしょう。
それと吉備に発祥すると見られる特殊器台と呼ばれる祭器です。
正直なところ、なぜ吉備ブロックが流通拡張路線を目指したのか
その理由は遺物からでは想像しか出来ません。
国内瀬戸内商圏が自然に拡大に向かうのは、文明の道理から見て自然の摂理なのですが
何かの意思統一があるかのように急速に広まるのです。
そのスピードはそれまでの弥生期の常識をはるかに超えています。
恐らくはその急激な変化の中で従来よりあったクニ、妻木晩田や土居ヶ浜などが次第に過疎化します。
これは地域流通の拠点として機能しかつ発展してきたクニが
それよりも大きな流通ルートが台頭してくるにつれて求心力を失った為と考えられます。
ほとんどのクニはこの流れに逆らうことは無かったような形跡があるのですが
結果的には独自性を発揮して残るのではなく、再編成化されて行きます。
さてこれほどの急激な流れの原動力として考えられるのが
新形式とも言える特定の首長一族の祖霊を祭る行為ですが
それまでの青銅器祭祀が基本的に豊作や大量を祈願し、姿の見えぬ精霊に信仰対象を求めたのに対し
新たに広まる「首長霊」信仰は明らかに特定された人物(一族)に集約されます。
つまり「祈り」よりも具体的で効果の高い、つまり収穫成功確率を高める付加価値が認められます。
それが治水・灌漑を可能にした高い土木技術と、量産性を有した建築技術の存在です。
付加価値と言うより、むしろこの新技術がそれまでの宗教観を凌駕したと考えたほうが良いでしょう。
ここで従前より高い建築技術を有していたと考えられる玄界灘や河内、大和
特に渡来人の重要な窓口であった玄界灘をさしおいて、吉備グループにおいて
そのような高い技術が結集したのかは、まだまだ議論の余地があります。
と言うよりも今後の重要な課題でしょう。
同時に各地の環濠集落の解体及び再編成に伴って、高地性集落が第2のピークを迎えるのは2世紀後半からです。
これを再編成に与しないクニのものと見るか流通中継地と見るかですが
恐らくは両方入り乱れたものだったでしょう。
このあと半世紀以内にほとんどの高地性集落が放棄される事実から考えて
一過性の混乱状態の表れだと解釈しています。
さてこの再編成に多大な影響を受けたのが畿内、それも奈良盆地です。
新技術を積極的に取り入れたと見られる畿内の各クニは、最大の商圏であり文化共有地である東海と共に
他の地域よりも激しい変化が見られます。
水害の多い畿内にとって治水は積年の望みであっただけに、首長霊信仰と共に再編成を始めます。
まず大和川河口の東河内に高土型の墳墓と灌漑施設が登場します。(加美遺跡など)
それらのプロトタイプ的な変革の中、奈良盆地東南部に新設される東海と瀬戸内の中継地のひとつが
纏向遺跡であろうと考えています。
問題はそのような役割を果たした新都市が、纏向ひとつであったのかどうかですが。
大阪湾に面した大和川流域に倉庫施設や市があってもおかしくは無いのですが
現時点では後の時代の私市倉庫群やつばいち等が確認されるに留まっています。
この土木技術の浸透は各ムラの生産活動に対し、如実に変化をもたらします。
まず工事に必要な労働力はそのままそっくり「安定した収入源」となることから
それまでのクニの経営基盤を根本から変化させたこと。
これが流通ルートの再編成に拍車をかけたと考えられます。
新技術によってもたらされた首長霊ですが、そのまま吉備や出雲の首長が君臨したわけではありません。
再編成の中で首長の影響力が二極化し、有力首長達が台頭するに従い
各々の首長霊を並立存続させる機関がこれまた必然的に創設されます。
いわば総本山的なものですね。
そこに専任の神官として置かれたのが「卑弥呼」というシステムであろうと考えるのです。
「卑弥呼というシステム」と書きましたが、これは以前よりあったヒメ&ミコ制をベースにしたと考えられます。
為政を首長代表たちが行ない、祖霊を祭る役目を巫女に与えたものでしょう。
実はこのヒメ&ミコ制が具体的な制度として機能していたと見られるのが、伊都国です。
そういう意味では纏向成立の思想的支柱となっていたと考えても良いのですが
なにせ北九州の関与が現時点では認められませんので、保留しておきます。
また墳墓における死後の世界で使用するとの考えの下に副葬される数々の品についても
北九州、特に玄界灘グループの影響を感じるのですが
こと纏向に関しては吉備や出雲の影響を受けたと見られる痕跡のほうが強いですね。
卑弥呼制度の最大の特色は、世間からの隔絶にあります。
よく「見えない王」と比喩される卑弥呼ですが、神秘性の強調は後付の理由であり
本質的には「世間に交じらせてもらえなかった」つまり隔離状態に置かれたのでしょう。
これは首長霊信仰が後の神道形成の礎となる上で、非常に特徴的な「ハレ」と「ケ」の部分に共通します。
同じく「ケ」を受け持った持衰と同様に、世間から隔絶され自由行動を制限されることが神官の条件だったのでしょう。
これを「祭祀王」と呼ぶには抵抗があります。
さて続いて玄界灘グループの参加についてですが、これは畿内以上にややこしく
かなりの文章量になりますので申し訳ないですが後日にさせてください。
実は今日の夕方まで朝日遺跡にいました。銅鐸鋳造型も見せていただきました。
愛知県教委いわく「これで東海=狗奴国にはずみがついた」と考えているようです。
「いっそのこと=邪馬台国を唱えれば良いのに」とけしかけたのですが
ニヤニヤするばかりでその手には乗ってくれませんでした。
まだまだ何か隠し玉がありそうです、あそこ。
土日は報告書作成に追われ、来週からは福岡と佐賀に行きます。
どうやら宇木汲田と桜馬場で何か動きがあったようですので出来ればレポートしたいですね。
書き込みに間隔があきますが、平にご容赦願います。
次回書くときは、新スレになってそうな勢いですね。
お付き合い有難うございました。具体的な考古資料についてはこれまた後日に纏めます。
>愛知県教委いわく「これで東海=狗奴国にはずみがついた」と考えているようです。
そんな、バナナ・・・・
愛知県教委、電波杉。
777 :
韋駄天はふと考えた:04/12/18 02:36:36
より親しみやすい固定名に変えましたのでよろしく
完全理論武装論者→韋駄天はふと考えた
778 :
韋駄天はふと考えた:04/12/18 02:39:48
邪馬台国で生まれた制度は現代の日本の社会にも引き継がれている
邪馬台国が生んだ制度とは、それは争いや紛争が発生したら
問題解決を時間をかけて引き延ばしにすること
時間をかけて引き延ばすことで争いや紛争の当事者たちは熱が冷めてあきらめる
>>768>>771-774 基本的に土木から見た古代ですね。
思い込みとして畿内中心主義があって、歴史=土木の発達と錯覚したうえで
予定調和的に畿内に最高の土木が発達し、土木の畿内=列島中心国=邪馬壱国と
無理に誘導しているわけです。
ところが邪馬壱国は土木国家ではないのです。卑弥呼の墓だけの記述を拡大解釈し
巨大古墳乱立の邪馬台国を錯覚させてはいけません。径百歩とは数十mでしょう。
この程度ですら、非土木国家では、大いに塚を作ったことになります。
各地に首長霊が祭られても、地縁・血縁のない全国各地の霊が、総本山的に「卑弥呼」
システムに統合されるというのは、事実も根拠も必然性もないですね。
780 :
韋駄天はふと考えた:04/12/18 02:43:15
邪馬台国で生まれた制度は現代の日本の社会にも引き継がれている2
現在の裁判や政治で見られる、裁判の長期化や問題の先送り方法は
すべて、邪馬台国の時代に生まれた制度であり、この制度を必然によって
邪馬台国が取り入れたことにより、古代の倭国でも争いや紛争が静まり平和になった
781 :
韋駄天はふと考えた:04/12/18 02:46:02
邪馬台国で生まれた制度は現代の日本の社会にも引き継がれている3
邪馬台国がなぜ裁判の長期化や問題の先送り方法を制度として取り入れたのか?
それは邪馬台国の位置に深く関係していて、その邪馬台国の位置によって
裁判の長期化や問題の先送り方法の制度は必然となった
あんたスレ違いだよ>韋駄天はふと考えた
783 :
韋駄天はふと考えた:04/12/18 02:50:23
邪馬台国で生まれた制度は現代の日本の社会にも引き継がれている4
裁判の長期化や問題の先送り制度を取り入れれば、なぜ争いや紛争が
静まって平和になるのか?
それは当事者たちが争いや紛争の解決を第三者に委ねるからで、
第三者に委ねた以上当事者たちは結果が出るまで武力による行動を起こせない
民俗板逝け
785 :
韋駄天はふと考えた:04/12/18 02:52:42
>>782 邪馬台国の位置を特定するのに、当時の制度の側面から
発見してみようという、遺跡や遺物に頼らない画期的な手法だよ
786 :
日本@名無史さん:04/12/18 02:53:41
老教授もつかれさまでした。
ふと気づいたのですが、老教授って広瀬和雄氏や森岡秀人氏の主張に似てますね。
両者とも歴博系に属する人なのですが・・・もしかしてご本人?
787 :
韋駄天はふと考えた:04/12/18 02:57:21
邪馬台国で生まれた制度は現代の日本の社会にも引き継がれている5
邪馬台国ができる以前の古代倭国もまた、武力による支配地域拡張と
縄張り争いが活発で、いたるところで戦争が起きて倭国住民は
稲作や狩猟での食料、砦と兵士用の人員の略奪によって困窮していた
788 :
日本@名無史さん:04/12/18 03:00:20
>>786 また出たよ妄想君が。
>もしかしてご本人?
自分の憧れの人を美化すると、ここまで逝っちゃうんだねえ。
789 :
日本@名無史さん:04/12/18 03:02:33
民俗学には絶対年代がほとんど無いのだよ >韋駄天はふと考えた
だから歴史にならないから無意味
>治水・灌漑を可能にした高い土木技術と、量産性を有した建築技術の存在
うーん教授の隠し玉がそれだとは思わなかった。
だけどまだ邪馬台国に直接からむ話ではないみたいな気がする。
次回の北九州編とともに、文献とのすりあわせをぜひとも聞いてみたい。
どうもこの人、愛知県教委以上に隠し玉がありそう。
結構懐の広い人なんだ、さすが本職。
791 :
韋駄天はふと考えた:04/12/18 03:03:32
邪馬台国で生まれた制度は現代の日本の社会にも引き継がれている6
その倭国住民の困窮を救ったのが邪馬台国の位置による必然の制度だった
武力による縄張り争いの解決を邪馬台国に委ねることによって、女王卑弥呼からの
裁決が届くまで、争いの当事者たちは武力行動を起こせないので、紛争地域は
その間砦作りや兵士として略奪されることなく、平和的に稲作などの生産活動ができた
792 :
韋駄天はふと考えた:04/12/18 03:07:00
邪馬台国で生まれた制度は現代の日本の社会にも引き継がれている7
紛争当事者たちが女王卑弥呼に裁決を仰ぐまで、邪馬台国の位置が
紛争地からはるかに遠かったために、裁決が出るまで数年の時間を要した
そのために紛争地では、数年間という確実な平和を手に入れることができた
妄想 高度な土木国家で古墳だらけの邪馬壱国
↓
本当 ろくな道も無く藪だらけで移動が大変な邪馬壱国
794 :
韋駄天はふと考えた:04/12/18 03:10:44
邪馬台国で生まれた制度は現代の日本の社会にも引き継がれている8
紛争地では女王卑弥呼の裁決が出るまでの間、数年間の平和を手に入れて
倭国の住民たちは戦争で荒廃した国土の復興に取り組むことができた
稲作での食料の生産と貯蓄ができ、権力者たちは砦の補強と兵士の訓練に励めた
795 :
日本@名無史さん:04/12/18 03:13:07
やっぱり、老教授との議論はここまでだな。
老教授が語ってることは、畿内に文明が栄えたということだけであって、
邪馬台国があったという理由付けにはならない。
北九州と畿内という2大文明圏が存在したという方向に頭が行かないのはなぜか?
よほど唸らせる物証があるのだろう。
次の老教授のレスで明かしてくれることを願うが。次スレになるだろうけど。
よそでやってくれんか>韋駄天
ちなみにあんたの内容は読んでない
読む価値も無いからだ
あんたの妄想でスレが消化されるのがもったいない
ここ以外の隔離スレで思う存分語ってくれ
797 :
韋駄天はふと考えた:04/12/18 03:15:22
邪馬台国で生まれた制度は現代の日本の社会にも引き継がれている9
やがて数年間の時を経て、邪馬台国から女王卑弥呼の裁決のが言い伝えが
紛争地に届く頃には、倭国の住民たちは領地拡張による争いの憎しみも消えうせて
平和に時間に酔いしれていた、結果邪馬台国は武力によらず倭国を治めることができた
たしかにそのとおりだな
近畿圏に商業や文化圏が発展したのは遺跡その他からみて証明できるのはいいとして卑弥呼や邪馬壱国にこじつけてるだけじゃないか
なぜ別系統として複数の文化圏が併存してることを考慮しないんだろう
しょせん答えが先にありきで南を東をいいくるめる江戸時代から一歩もすすんでいないな
803 :
日本@名無史さん:04/12/18 04:21:53
唯一神明造りの両端、棟木の下には鞭掛けと呼ばれる突起がある。
これは騎馬民族が鞭を掛けた場所ではなく、ムチ(神)の依り付く傘型木製品を立て掛けた突起なのだ。
祭りの日、鏡で太陽の御魂を傘に迎え入れ、そのまま渡御して来て
社たる高床式建物の軒先で中に移してお鎮まり頂いた。
不作の年は神の鎮まりが悪く、社から抜け出してしまうものと考えられた。
卑弥呼は天に帰ろうとする神を我が身に憑依させて連れ戻せた。
トヨスキイリヒメやヤマトヒメもその能力があった。
ヤマトヒメの行幸は、さ迷う御魂を追い求めた軌跡であり、最後は伊勢に鎮まった訳である。
804 :
日本@名無史さん:04/12/18 06:12:44
なんか教授の太鼓持ちで畿内説に塗り込めようってウザがいるが。
お前がスレのレベル引き下げてる元凶だ。どっか逝けよ。
教授氏もそんなの臨んじゃいまい。
次書くとレスアンカーつけて晒すぞ。
横レスですみません
私は「日本文学の革命」という文学運動を行なっている関場というものです
これは「インターネットから日本文学を変革しよう」という文学運動です
一人でも多くのネット・ユーザーの皆様に知ってもらいたくて書き込ませてもらいました
2ちゃんねるの文学板でもスレッドを立ち上げているので
是非一度ご覧になってください
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1103114788/l50 邪馬台国は北九州のおそらく久留米あたりにあったと思います
久留米を中心とした北九州連合と南の薩摩が同盟を結び
「東征」をして大和に根拠地を遷してそこから全国を統一した、それが大和政権だと思います
実はこれは日本の歴史で一度実際にあったことなのです
明治維新がそれに他なりません(北九州圏にある長州と薩摩が結びついて起こしたものです)
韋駄天は考古板に行った模様
そしてNG登録…っと
↑ こいつもNG
>>795 >老教授が語ってることは、畿内に文明が栄えたということだけであって、
>邪馬台国があったという理由付けにはならない。
勿論そうなんだけど、「栄えた畿内が邪馬台国であった」という蓋然性は高いと思うよ。
文献だけなら九州優勢なのは認めるけれど、倭人伝もいい加減でどうとでも解釈できるし、
文献からの邪馬台国比定地論争は、所詮「言葉遊び」、読んでいて不毛というのが正直な印象。
何か画期的なものがあれば別だけど。
「邪馬台国はどこにあったか」は荒れるモトだから、とりあえず保留した方がいいのかも。
>>808 >「栄えた畿内が邪馬台国であった」という蓋然性は高いと思うよ。
>倭人伝もいい加減でどうとでも解釈できるし
>所詮「言葉遊び」、読んでいて不毛というのが正直な印象
・・・・・こういうのはチラシの裏に書いてくれ。お前が一番いい加減だ。
>>809 じゃあ、あなたがまともな事を書いてみて。
>>804 >なんか教授の太鼓持ちで畿内説に塗り込めようってウザがいるが。
>お前がスレのレベル引き下げてる元凶だ。どっか逝けよ。
>教授氏もそんなの臨んじゃいまい。
>次書くとレスアンカーつけて晒すぞ。
お前、本当に気色悪いな…。
>>804 お前がこのスレの諸悪の元凶であることを認識した方がいいよ。
大人になれよ…
815 :
日本@名無史さん:04/12/18 13:09:13
九州説必死だな。
老教授先生は、俺達畿内派の代表としても素晴らしい論客だ。
九州派のぐだぐだな説が100こ束になっても畿内説には勝てない。
あきらめろ。
816 :
日本@名無史さん:04/12/18 13:15:23
考古学に身を置きながら、忙しい仕事の合間の息抜きもかねて最新のデータを基に、
妄想激しい九州派の目を覚まさせてやろうとしたんだろうな。
それなのに宇佐がどうの鉄がどうのと、きゃんきゃん煩いこと。
(´-`).。oO(畿内派ってガラが悪いなぁ・・・・)
818 :
日本@名無史さん:04/12/18 13:44:30
畿内では、非常に整然とした緻密な土木工事が行なわれていた。
このことは、大陸の高度な知識が伝来していたことを示唆する。
もちろん知識だけで工事が出来るわけもなく、熟練した技術者も育っていた。
大陸と直結した文明が畿内に栄えていたということだ。
北九州で遅れた環濠集落を造営していたころ、畿内ではきらびやかな文明が花開いていた。
大陸の文明を受け入れていたからこそ可能になったこと。
魏に朝貢していたのは、畿内であったのだ。
つまり、邪馬台国とは畿内の王権に間違いはないわけだ。
異論の多かった三角縁神獣鏡の件も、結局は卑弥呼の鏡ということで決着してよい。
最新の考古学を現場で見聞きしていれば、簡単に理解できるだろうが、
素人はどうしても、巷のデンパ本に目が行く傾向があるからな。
空想して楽しむのは個人の勝手だが、きちんとした学者に食ってかかるのはよせってことだ。
819 :
日本@名無史さん:04/12/18 13:56:48
>>775 >世間から隔絶され自由行動を制限されることが神官の条件だったのでしょう。
現在までの天皇のあり方そのままですね。鋭い考察だと思います。
>これを「祭祀王」と呼ぶには抵抗があります。
いえいえ、いわゆる祭祀王の解釈でよいと思います。
(断言すると、また荒らされてしまうので慎重に言葉を選んだのでしょうが。)
もっとも、老教授先生のレスは、荒らしにはまったく動じていないようなので、
本当に確固たる自信の表れだと思います。
つまり、九州説の妄言を完全に跳ねつけられるほどの資料や知識を、
ふだんから目の当たりにしているからでしょう。
この期に及んで、まだ九州説を持ち出せる人がいたとすれば、
その人はとても悲しい人生を送っているのでしょうね。
820 :
日本@名無史さん:04/12/18 14:19:36
畿内がいくら栄えていても三世紀には朝鮮や中国の遺物が殆どないからね。
それに4世紀にも大きい墓と三角縁神獣鏡がいっぱい出て来るだけ。
5世紀からはすごいけど・・・朝鮮のものが。
人格破綻者の粘着九州説はどうしようもないとしても、
もうちょっとまともな九州説の人の反論を聞きたいよね。
決め付けでなく、冷静な発言をお願いします。
822 :
日本@名無史さん:04/12/18 14:34:45
>>804 >なんか教授の太鼓持ちで畿内説に塗り込めようってウザがいるが。
なんか被害妄想が強いね。畿内説に個人的な恨みでもあるの?
みんな別に、君の教授に対する反論内容に対して、苦言を呈している訳じゃないんだ。
発言の下品さとか、頭ごなしの決め付け発言とか、名無史でありながら教授個人に対して
執拗に中傷するなど、そういう礼儀的な部分で、考え直して欲しいと思ってるんだよ。
824 :
日本@名無史さん:04/12/18 15:14:06
邪馬台国=大和朝廷は、2世紀の畿内で成立してたということでいいだろう。
以後、九州説はスルーで。
825 :
日本@名無史さん:04/12/18 15:16:36
老教授のおっしゃることを自分なりに解釈すれば、
高い土木技術をもった首長霊(後の天皇霊?)を頂く集団がいた。やってきた。
もっとはっきり言っちゃっていいのかどうか分からないが、
「高い土木技術を持った一族が渡来して天皇家のもととなった。」
邪馬台国どころの話じゃなくなってくるぞオイ、俺の勝手な解釈を止めてくれ
そりゃ宗教哲学振りかざされるより最新テクノロジーくれる方になびくわな。
その他にも色々最新情報いただけてごっちゃんです。
考古学って凄く面白い局面を迎えてるんですね〜
教授への反論?らしきものもぜんぜん的を射て無かったし、無様な醜態晒しただけだよね。
正直、九州説はどこか隔離スレでオナニーしてもらいたい。
>>825 >「高い土木技術を持った一族が渡来して天皇家のもととなった。」
いや、そういうことでしょ。
渡来系の技術者が王家に仕えた場合、王が技術者に指導を仰ぐということで、
権威の失墜になりかねない。
王家が渡来系技術者集団じゃないと、計画的な都市造りは指揮できない。
こうなると、鐙の問題も、謎じゃなくなる。
本当に3世紀に馬を乗り回していたとしても不思議じゃないね。
箸墓=卑弥呼の墓が、がぜん真実に迫ってきたわけだ!
829 :
日本@名無史さん:04/12/18 15:34:37
830 :
日本@名無史さん:04/12/18 15:35:52
神武東征の経路を冷静にみてください。
日向から宇佐にたちよってさらに北九州の
岡田宮に1年滞在しています。宇佐は
宇佐神宮があり比売大神(卑弥呼)が祭られている場所。
岡田宮は伊都国があった場所。どちらも
邪馬台国に関連するところですよね。
これは単なる偶然とは思えません。
やはり邪馬台国一族が徐々に力を蓄え
豪族を味方にしながら10年以上かけて
東征し、大和朝廷をのっとったと見るべきでしょう。
>>830 往生際が悪いぞ。
記紀神話は捏造だろ。
三国志に匹敵する創世神話が欲しくて、7世紀に創作したんだよ。
832 :
日本@名無史さん:04/12/18 15:44:11
>>831 あれが全部捏造なら、作者はものすごい大作家ですなあw
ある程度、事実をもとに書かれたものだと思われますが・・
創作だとしても宇佐と伊都を絡めてくるあたり
やはりこの2つの地は大和朝廷にとって縁があった地だと
見るべきでしょう。
833 :
日本@名無史さん:04/12/18 15:45:40
九州コテハンは消えちゃいましたね。
あんな醜態を晒したらしばらく出てこれんだろう。
>>832 東征は、三国志読みながらパクっただけだろ。
中国の地名と西日本の地名を入れ替えれば出来上がり。
神代の神話は南方系神話のパクリなのは常識。
九州コテハンには、教授のツメの垢をくれてやる資格も無いな。
二度とくんな。
837 :
日本@名無史さん:04/12/18 16:04:14
>>832 記紀の元になった伝承は、
大和が、出雲・九州を吸収合併するときの合併比率が
表されているんじゃないの
大和:九州:出雲=60:25:15
九州→首長の先祖は九州から来たってことで、大和に吸収合併
出雲→首長に国を譲ったってことで、大和に吸収合併
cf. ギリシャ神話(タイタン神族→オリンポス神族へ政権交代。各都市の
守護神(や王家)はゼウスとの血縁の近さで序列化)
なんだ、九州派は一晩で総崩れか(w
839 :
日本@名無史さん:04/12/18 17:12:29
>815 :日本@名無史さん :04/12/18 13:09:13
>九州説必死だな。
>老教授先生は、俺達畿内派の代表としても素晴らしい論客だ。
>九州派のぐだぐだな説が100こ束になっても畿内説には勝てない。
>あきらめろ。
>
>816 :日本@名無史さん :04/12/18 13:15:23
>考古学に身を置きながら、忙しい仕事の合間の息抜きもかねて最新のデータを基に、
>妄想激しい九州派の目を覚まさせてやろうとしたんだろうな。
>
>それなのに宇佐がどうの鉄がどうのと、きゃんきゃん煩いこと。
九州説派も確かに口の悪い香具師がいるが、畿内説派もちょっとね。
こういう香具師は畿内説でも少数だとは思うが、以前からやたらと
執着して煽っているし、内容も稚拙。
せっかくいい意見がでても、それを潰し、スレ本来のレベルを
落としているだけ。
(同一人物なのはバレバレだしね)
畿内説、九州説以前の問題だ。
教授も畿内説に絶対の自信があれば、こんなところには
顔を出さないだろう。
納得のいかないところが多分にあるから、ここで幅広い意見に
耳を傾けに来ていると思われる。
教授の威勢を借りて、ただ九州説をたたくことに終始する香具師は
結局は教授の邪魔をしているだけ。
>834 :日本@名無史さん :04/12/18 15:51:28
>あんな醜態を晒したらしばらく出てこれんだろう。
>
>835 :日本@名無史さん :04/12/18 15:51:48
>
>>832 >東征は、三国志読みながらパクっただけだろ。
>中国の地名と西日本の地名を入れ替えれば出来上がり。
>神代の神話は南方系神話のパクリなのは常識。
>
>836 :日本@名無史さん :04/12/18 15:53:13
>九州コテハンには、教授のツメの垢をくれてやる資格も無いな。
>二度とくんな。
3連投かよ。以前、九州説によっぽどひどい目にあわされたんだね。
>>840 おいおい、煽るな。
実社会では相手にされないかわいそうな人なんだから。
ここで鬱憤を晴らすのが唯一の楽しみなんだろう。
>>839 >178 :老教授@畿内説纏向派 :04/12/06 02:55:48
>まわりにちゃんとした九州説を唱える方がいらっしゃらないんですよ。
>最近このスレにお邪魔している大きな理由ですが
>豊前説さんや一応九州王朝説さん、6=7=9=12さんなどの論旨が実に見事で
>非常に刺激になるのです。
843 :
プラム:04/12/18 18:12:05
関西畿内説を唄ってる人達の仮説を傍観していると なんだか、焦りを感じるのは自分だけでしょうか?
後は、きちんと関西までの旅程を理論的にきちんと説明できれば誰も異論がないと
844 :
プラム:04/12/18 18:17:42
でも、この課題をクリアー出来なければ 今までしてきたことがすべて水の泡
さあ、関西畿内説諸君の健闘を祈ります!
>843
昔から「きちんと」説明はされてるよ。
基本は「倭人伝の路程記事では邪馬台国にたどりつけない」ってこと。
あなたがそれを納得できるかどうかは別問題。
>>842 刺激?
九州派のお前達は教授に遊ばれてるのがまだわからんか。
なんとか王朝説は論外だからスルーされてたのが笑える。
>>843 吉備までが水行十日。
奈良盆地まで陸行一ヶ月。
何か、問題あるか?
848 :
スレ主1様:04/12/18 18:55:25
南は東?w
849 :
プラム:04/12/18 18:56:05
845さん
行けないのなら 耶馬台国事態抹殺しなければなりませんね。ようするに、倭人伝の過ちを指摘してるんですから
九州王朝=古田氏の説は論外でないと思う。
九州説が成り立つなら、クナ国東遷か古田氏説だろう。
古田をはじめ九州説派は、考古学の主流から落ちこぼれた落第組み。
畿内説を唱えても、研究の進み具合が早すぎて、
自分の頭じゃついていけない、論文書いても注目されない。
だが、九州説を唱えれば、素人から一定の支持が得られる。
所詮九州説は、オカルトや疑似科学と同じだったってことさ。
主流から取り残された社会の落ちこぼれ、負け組みの遠吠えなんだよ。
ふーん。
記紀が邪馬○国、卑弥呼の記述を隠匿したとぼやいておる者がいるが、卑弥呼の国が
大和朝廷の近くに隣接してあるならば、双方の交流、貢献、戦争等話題は一般市民にまで
山積みのため、たっぷり流出しているのが自然、隠し通せるわけが無い。記紀に載せざるをえまい。
記述を隠匿して大和朝廷真近にあった卑弥呼率いる国を外部に漏れないようにしていたなどと
いうのは、推理小説や探偵小説の世界で成立する話であって、現実に即していない考え方
なのである。火星の世界、環境のことは記紀に載っていない。当たり前だよ。
極めて遠方にあり隔絶しており、情報が全く地球上の大和の国に伝達されていないから
自明だろう。それと同じくだ。九州に卑弥呼の国があったからこそ、遠く隔絶して
大和、畿内に情報が流入してこなかったから、記紀に同国と卑弥呼の記載がないのだ。
隠し通すをしていたというならば、先述のとおり、畿内から離れている九州のが有利
なので、そういう論を主張するならば、九州説を認めたことになろう。
正直、老教授氏が個人のHPに王朝説氏や豊前説氏なんかの論理的な九州説諸氏を
招いて存分に意見を交換された方が建設的かもしれない気がしてきた。俺なんかは
それを覗き見させてもらうだけで充分だよ。
畿内説も九州説もない。低俗な煽りはスレの無駄遣い。でも、2chだから仕方ないか。
856 :
日本@名無史さん:04/12/18 19:21:59
邪馬台国など無かったということが、偉い人たちにはわからんのですよ。
>>856殿
そのとおりだ。古田氏の言うとおり、無かったんだよ。
あったのは、当然『邪馬壱国』なわけだよ。
>>854 邪馬台国=ヤマト国
卑弥呼=オオヒルメムチ
ちゃんと伝承されてるでしょ?
>>858 邪馬台国=山門
台与=豊
あ、本当だ。確かに伝承されてるね
>>858殿
宮城県と宮崎県は別物。福井県と福島県は別物。
邪馬壱国と邪馬国も別物。東京都と京都は別なんだよ。
卑弥呼はオオヒルメムチに非ず。時代が全然ちがうよ。
後者の方がきわめて古い。
861 :
日本@名無史さん:04/12/18 19:32:39
チェジウが卑弥呼に見える
862 :
日本@名無史さん:04/12/18 19:33:58
卑弥呼などただのお飾りの名称だということが、偉い人たちにはわからんのですよ。
>849
あるガイドブックに「新宿駅から新幹線へは南に3駅先で乗り換える。」と書いてあったとしましょう。
あなたは、それをひたすら信じて、いろいろ試行錯誤を重ね、渋谷に行ったり、神田に行ったりしました。
でも、新幹線には乗り換えられません。
親切な誰かが言いました。
「これはガイドブックの記載が間違ってるんじゃないのかな、新幹線なら東京か品川乗換えですよ。」
しかし、あなたは、こう応えました。
「行けないのなら 新幹線事態抹殺しなければなりませんね。ようするに、ガイドブックの過ちを指摘してるんですから」
>>855 >2chだから仕方ないか。
こう思ってる奴こそがこのスレの癌だ。
866 :
日本@名無史さん:04/12/18 19:45:06
筑後川の南方の邪馬川、その近くで生まれた台与というオナゴが八咫烏に乗って纏向に降り立ち持ち前の美貌で
王をたらしこみ国を乗っ取った。そして邪馬台国がうまれたということが、偉い人にはわからんのですよ。
868 :
プラム:04/12/18 20:00:18
864
その仮定はものすごーく矛盾してる。そこに出てくる親切な人いったい何歳なの?今、耶馬台国を証明できる推定1800才の親切な人ダーレ 新幹線なら俺でも教えてあげられるよ!
>>864 実社会でかまってもらえないカワイソウな人。
871 :
プラム:04/12/18 20:16:52
864
それに、新幹線の存在じたいを教えてくれるのは この世にたった一冊のそのガイドブックだけなんだから!まさか他に時刻表や他社のガイドブックなんか出てないよね。 よく、その親切な人新幹線の存在知ってたねー。 あ!その人もしかしてドラえもんか?
872 :
日本@名無史さん:04/12/18 20:22:45
864が自爆して逃げ出した。早く捕まえてアルカイーダに引き渡せ
873 :
日本@名無史さん:04/12/18 20:26:16
纏向の遺跡からは、魏と関連のある鏡などが出土しているんですけどね。
もし、纏向が中国と関係を持っていなかったら、何故、鏡が出土するのであろう。
しかも、魏の文字が刻んである鏡が!
あっ、そう。
875 :
日本@名無史さん:04/12/18 20:37:46
すなわち、魏の時代には纏向と魏は何らかの関係があった。
そしてその事は魏誌倭人伝にも記載されている筈です。
すなわち、纏向=邪馬台国
で?
877 :
プラム:04/12/18 20:44:49
畿内説=倭人伝の旅程で は、無理
耶馬台国=倭人伝
畿内説の方はもし、倭人伝に旅程が書かれていなくても この研究をしていましたか? 少しでも倭人伝の旅程を利用しましたか?
もう一度よく考えて
878 :
日本@名無史さん:04/12/18 20:51:46
>873 875
>女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里
>又有裸國黒齒國復在有東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲之上或絶或連周
>旋可五千餘里
> 訳:女王国から東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある。みな倭と同じ
> 人種である。その南には小人の国がある。身長は三、四尺である。女王国
纏向から東に行くと山脈にぶつかるだけ、南に行っても山脈にぶつかるだけ
だから纏向は邪馬台国ではない
邪馬台国の住民は裸足で生活してたんだぞ 奈良盆地の寒い冬に
裸足で生活できるのか?
879 :
日本@名無史さん:04/12/18 20:52:21
>>877 倭人伝が無くても、考古学的に畿内に王権が生まれたことは事実なんだから、
畿内の王権がその後の大和朝廷に繋がったという研究成果が得られるでしょう。
倭人伝があれば、その王権の古代の名前は邪馬台国で、卑弥呼という祭祀王がいたと、
確認されます。そういうことです。
880 :
プラム:04/12/18 20:52:27
倭人伝の記載旅程では耶馬台国に辿り着けないと考えてる方。倭人伝の記載が不十分ではなく自分達の考え方が間違っていると思わないのですか?
881 :
日本@名無史さん:04/12/18 20:58:01
魏志倭人伝の邪馬壱国は
どう考えても 土 木 国 家 じゃないがな
土木国家畿内王権は邪馬壱国じゃないぞ
倭人の代表国は
金 印 もらって 阿 蘇 山 で祭祀をしたことも忘れるな
883 :
日本@名無史さん:04/12/18 20:59:53
>871
ガイドブックが何冊あろうが関係ない。
ただ、なかなか目的地にたどり着けない人に「もっと他の考え方があるんじゃないのか」と助言してるだけだよ。
親切な人だろう。
貴方は、畿内説の路程解釈についての概略くらいは判ってるだろう。
貴方が、自分で自分に手かせ足かせを掛けて、物事を論ずるの一つのの方法だと思うし、
他人の「仮説を傍観していると なんだか、焦りを感じるの」のも貴方の勝手だけど、
自分で作ったルールのみに固執して、他人の方法論を認めないような人に何度も同じ説明は出来ないよ。
貴方とは、他のスレでは、幾つかの真面目なレスの応答もしてきたが、
自分から「さあ、関西畿内説諸君の健闘を祈ります!」などと煽っておいて逆切れするとは呆れましたよ。
885 :
日本@名無史さん:04/12/18 21:13:58
>>877 まったく無理ではないと思います。
まず、邪馬台国は北部九州から1ヶ月もかかる遠い距離にあるという記述。
船で行くという、海を渡るような記述。
また、邪馬台国の東には伊勢湾があり、海を渡ると東国です。
>>878 また、裸足云々に関しては、北部九州も日本海に面しており、冬は畿内と
たいして変わらない寒さかと思います。
また、伊勢志摩には海女がいて、真珠とか貝とか採って生活してますよ。
886 :
日本@名無史さん:04/12/18 21:14:54
九州説派は、隔離スレつくってオナニーしててください。
伊勢志摩は畿内なのか?
畿内には橘の木が普通にみられるのか?
海女は久慈にもいるな。畿内じゃなくてもいいな。
889 :
プラム:04/12/18 21:18:07
879さんは、大和朝廷成立から時代を少しずつ遡っていった。そう考えていいのですか? もし、そうならば何も反論することはありません。それは、正しい考え方だと自分は思います。
890 :
日本@名無史さん:04/12/18 21:21:30
>885
>また、邪馬台国の東には伊勢湾があり、海を渡ると東国です。
>魏志倭人伝 訳:女王国から東へ千里ほど海を渡って行くと、また国がある。
魏志倭人伝には女王国から東へ海を渡っていくと書いてるだろ?
大和から東へ海を渡っていくことは出来ない 山脈にぶつかるだけ
大和から伊勢湾へ行くのに東に海を渡って行けるのか?
国語の読解力に問題があるようだな
891 :
日本@名無史さん:04/12/18 21:21:45
>>889 はい。
畿内で誕生した王権は、その後途絶えることなく、古墳時代を迎えます。
直系の王権ですので、東征などもありえませんし、
邪馬台国も畿内の王権を指すものだと解釈できます。
892 :
日本@名無史さん:04/12/18 21:25:02
>>890 方向が違うんだよ。
東は北のこと。
若狭湾から北へ行けばエミシのクニだろ。
893 :
日本@名無史さん:04/12/18 21:29:45
>>885 昔の人は、今より寒さに強かったんだよ。
東北の猟師も冬でも素もぐりで漁をしてたぞ。
894 :
プラム:04/12/18 21:39:13
884さん
少し誤解をさそってしまって申し訳ありません。私が言いたいことは 自説にいきずまり、ぽん飛びで畿内説に乗り換えた人達のことを指しています。大和朝廷から少しずつ時代を遡っていった畿内説の人達の考え方は尊敬に値するところも多々あります!
895 :
日本@名無史さん:04/12/18 21:48:14
>>890 大和から東へ行くと鈴鹿峠があるんですよ。
また、静岡には弥生の登呂遺跡とか有名ですが、伊勢とかを中心として
東国と交易していたんじゃないですか
896 :
プラム:04/12/18 21:51:42
884さん
もう一つ。手枷足枷と言っても、自分は方角だけは修正出来ないと考えているからです。現代人より方向感覚、距離感覚は想像を絶するものがあったはず それだけがたよりと、言っても過言では それを訂正することは失礼に当たると思い
897 :
日本@名無史さん:04/12/18 22:03:35
あーID付けたいw
899 :
プラム:04/12/18 22:17:04
897
ん〜。半泣きじゃない!五分の三べそ
ベソより紀行の続きを頼む > プラム
901 :
日本@名無史さん:04/12/18 22:24:24
泣澤男神っていうのは無いよな?
902 :
日本@名無史さん:04/12/18 22:34:12
>>896 方角なんて修正できるよ。方位磁石もない時代なのに。
もっと、あいまいな感じだったとおもうよ。
903 :
プラム:04/12/18 23:11:06
そうかなー?古代の人達がそんなに曖昧とは思えないんだが。エジプト、ユタ、それに中国の八罫に占星… 一年通して太陽は東南東〜東北東の間で昇るだろ
904 :
日本@名無史さん:04/12/18 23:13:31
中国では、日本列島は、実際に南北に長い島だと思われてたことを知らんのか?
905 :
日本@名無史さん:04/12/18 23:28:04
中国人は、日本列島で、実際に南北に長い島だと信じて、太陽も影も無い夜にしか来訪しなかったことを知らんのか?(嘘)
906 :
プラム:04/12/18 23:28:47
いつの時代の感覚ですか?もちろん魏の感覚ですよね
老教授さん、とても興味深く拝読いたしました。
また次のレポートを楽しみにしております。
次スレでは、九州説は出入り禁止にしようぜ。
ウザイだけだから。
窮地の畿内さん、苦しそうですね。
次スレでは、老教授以外の畿内説は出入り禁止にしようぜ。
ウザイだけだから。
賛成 > 911
913 :
これでも貼っとくか:04/12/19 00:49:29
722 :日本@名無史さん :04/12/17 13:47:40
>>715 ここは、邪馬台国だの九州王朝だの比売大神だのをオカズにオナニーする変態達と
それを邪魔して楽しむ変態達のスレです。
目の前でキモイオナニーされたら気分悪いし、オナニーの邪魔をされたら怒りますよね。
そういうことです。
723 :日本@名無史さん :04/12/17 13:55:31
>>722 キモいのはオマエ。気分悪いならここに出入りするな。
724 :日本@名無史さん :04/12/17 14:02:43
わずか8分で、さっそく一匹釣れたようです。
どのエサにヒットしたのでしょう?
もはや次の話題は、「いかにして畿内に邪馬台国が誕生したか?」だな。
>815 :日本@名無史さん :04/12/18 13:09:13
>九州説必死だな。
>老教授先生は、俺達畿内派の代表としても素晴らしい論客だ。
>九州派のぐだぐだな説が100こ束になっても畿内説には勝てない。
>あきらめろ。
>
>816 :日本@名無史さん :04/12/18 13:15:23
>考古学に身を置きながら、忙しい仕事の合間の息抜きもかねて最新のデータを基に、
>妄想激しい九州派の目を覚まさせてやろうとしたんだろうな。
>
>それなのに宇佐がどうの鉄がどうのと、きゃんきゃん煩いこと。
九州説派も確かに口の悪い香具師がいるが、畿内説派もちょっとね。
こういう香具師は畿内説でも少数だとは思うが、以前からやたらと
執着して煽っているし、内容も稚拙。
せっかくいい意見がでても、それを潰し、スレ本来のレベルを
落としているだけ。
(同一人物なのはバレバレだしね)
畿内説、九州説以前の問題だ。
教授も畿内説に絶対の自信があれば、こんなところには
顔を出さないだろう。
納得のいかないところが多分にあるから、ここで幅広い意見に
耳を傾けに来ていると思われる。
教授の威勢を借りて、ただ九州説をたたくことに終始する香具師は
結局は教授の邪魔をしているだけ。
916 :
日本@名無史さん :04/12/19 00:58:37
>>903 定点に立って、そこから見える範囲の方位は古代から正確に知ることができたと
思われるけど、長い距離を移動しながら出発点からの正確な方位を知ることは難しいよ。
それができれば、かなり正確な地図を作ることができる。
キミも近世以前の地図くらい見たことあるだろ。
コピペ厨のほうが、よほど荒らしだろう。
918 :
日本@名無史さん:04/12/19 01:04:14
>>903 人の方向感覚なんていいかげんなものだよ。
イギリスが北海道よりはるか北にあるなんてほとんどの日本人はしらんだろ。
921 :
日本@名無史さん:04/12/19 02:12:43
このスレも終わりに近づいたので一言言わせて貰おう。
荒らしだのなんだのと外野が騒いでいるけれども、オレが見た限りでは
コテハン諸氏に対する質問や指摘の中には見るべきものもあったと
思うんだがね。
中には下らん煽りもあったかと思うが、そんなのも含めて異論反論は
コテハン諸氏も望むところだろう。だからこそテンプレみたいな
労力使う作業もやってるんだと思う。しょせん玉石混交になるのは
ネット上の議論の性であり防げないことだしね。
むしろ、そういった質問や指摘を荒らし呼ばわりして横から茶々入れしてる連中の方が
見るに耐えないバカでスレのレベルを落としていると思う。
できれば、次スレ以降の教訓にしてもらいたい。
スレ汚し失礼。それでは皆さんオヤスミナサイ。
はいオヤシミ〜〜!
私は九州説だが、老教授の力作カキコに敬意を表したい。
賛成反対ともに、たたき台があってこそ、全体像としての論が深まる。
>>921 おまえが一番荒らしてたくせに何を言うか。
926 :
ブラム:04/12/19 06:58:29
916
私は古い地図見るたびに感心している!現代感覚では確かに「変な地図」だが、航空写真の無い時代によくもあそこまで広範囲の地図を作れるなと 方角だって何千キロも離れればくるって当然 日本がちゃんと中国の右にあるよ
927 :
プラム:04/12/19 07:22:34
今、必要なのは日本や女王国の正確な地図「位置」じゃなく 次の國までの方角と距離なんだよ!次の國までとなるとかなり正確な位置関係を知ることが出来るはずだよ。自分も最初の頃は、この現代人の落とし穴に何度も落ちた
928 :
プラム:04/12/19 07:38:00
私が方角の修正をしてはいけないと、こだわった理由が少しは理解していただけたろうか!郡から耶馬台国、倭人、投馬、などの遠方に関しては、このかぎりではない。韓国⇔対馬、対馬⇔壱岐、末盧⇔伊都…。は、かなり正確だよ
韓国⇔対馬⇔壱岐⇔末盧⇔伊都
までハッキリし照るじゃないか
壱岐からは方向が南とは限らないなんて言う馬鹿がいるがたわごとだ
壱岐から500里の範囲に陸地は呼子〜唐津しかない
まさか加唐島や加部島や神集島を末盧と言うつもりじゃないだろうな
930 :
プラム:04/12/19 09:22:36
929
自分が持っている資料では「又一海を渡ること千余里…」に、なってるんだが?考え方以前に手持ちの資料の真偽が必要だね! 君の資料では「又一海を渡ること五百余里…」かー
931 :
プラム:04/12/19 09:59:16
いまさら末盧国が何処にあろうと証明できないよ!倭人伝には上陸したあたりが末盧だと書いてあるんだから、その程度でいいじゃん。ただ言えることは、末盧国は「又一海を渡ること千余里…」にあったと言うこと 「海も人任せで渡った論説者達がかってに末盧国決めるな」
932 :
日本@名無史さん:04/12/19 10:32:03
邪馬台国は静岡県浜松市の伊場遺跡です。
金印もあそこにあります。
>>921 九州粘着は社会勉強してから、出直して来るように。
東海=邪馬台国なら、伊勢の斎女=卑弥呼になるんだろうね。
935 :
日本@名無史さん:04/12/19 11:47:22
933
いい加減によせよ。社会勉強ってなに?エロサイトワンクリして会員登録、架空請求され個人口座に金振り込むことかい?
>921
みんな別に、君の教授に対する反論内容に対して、苦言を呈している訳じゃないんだ。
発言の下品さとか、頭ごなしの決め付け発言とか、名無史でありながら教授個人に対して
執拗に中傷するなど、そういう礼儀的な部分で、考え直して欲しいと思ってるんだよ。
939 :
プラム:04/12/19 12:51:10
そろそろお昼になったことだし九州に向かいましょうか! まず「又一海を渡ること千余里」ここで解ることは距離のみ 違いますか?
940 :
プラム:04/12/19 13:14:09
ごく自然に船を進めると壱岐水道の早い潮流に流されて東に押し流される 上陸してから東(東南)の方向に移動 出来るかぎり潮を利用して東方向の湊へ上陸した方が自然かと
暴論だろうか?
【考え方のヒント】
1 行程には、行きと帰りがあり、其々海流の影響はうける。
2 倭人伝の記述は地理誌としての体裁を持つ。
中国との位置関係、倭国内相互の位置関係を述べているのであり、旅行記の表現とは異なる。
3 記載事項は、張政遣使一回だけの見聞によるものではない。漢代からの情報の蓄積である。
942 :
プラム:04/12/19 14:20:38
海路で日中いっぱいで辿り着けなるべく安全に行ける最も東側の良港。
帰りは、その港から出来るかぎり潮の流れにに影響しない海岸沿いを通り現在の呼子当たりから壱岐の島に向かう。
福岡県玄海町にある湊
943 :
日本@名無史さん:04/12/19 14:25:04
938 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/12/19 12:42:07
>>937 お前、救われない奴だな。
(゚Д゚)ハァ?
944 :
日本@名無史さん:04/12/19 14:52:05
941さんの3 見解
926-928の文章が私の漢代から受け継がれた方位の正確性 あと、しつこいようだが耶馬台国使節団に必要な地図は、正確な世界地図じゃなくて、次の國へ行く為の正確な情報(距離?。方角…)じゃ、ないだろうか!
945 :
プラム:04/12/19 14:54:04
944の見解はプラムです
>>944 >次の國へ行く為の正確な情報
そんなもの不要。
地元のガイドに聞いたほうが早い。世界の常識。
948 :
プラム:04/12/19 15:03:15
地元のガイドに聞いたり案内させるのも 正確な情報を得る為の《手段》じゃ、ないかな
いちいち答えるのめんどくさくなっちゃった
949 :
プラム:04/12/19 15:18:20
確かにスレがズレてきそうなので移動します
耶馬台国はどこですか14
耶馬台国論争に終止符
そちらに行きます! スレ汚しすいませんでした
これでやっと静かになるな。
時代遅れの不毛な比定地論争は他でやれ。
これからは、畿内の邪馬台国がどう誕生したかを語るべきだ。
プラムは馬鹿だ!ちゃんと三國志を読んでなから基本から間違ってる
壱岐から末盧は5百里
海流があるから今の島根県に行ったんだ
つまりイズモこそ末盧国だ
距離なんかキニスルナ!!
950 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/12/19 15:31:24
これでやっと静かになるな。
時代遅れの不毛な比定地論争は他でやれ。
これからは、畿内の邪馬台国がどう誕生したかを語るべきだ。
↑ 消えるのはお前だ、チンカス
954 :
プラム:04/12/19 15:56:53
951
ここではほかの人に迷惑かかるので《耶馬台国はどこですか14》に、移ってくれ
海流があるから今の新潟県に行ったんだ
北朝鮮の航路もあるように行きやすいんだよ
畿内説をよく知るにはどのような本を読んだらよいのでしょうか?
橿原研副所長という経歴から石野という人の本を図書館から借りてきたのですが、
この人は自分から辞めてしまったようですね。
また、始めから畿内説ありきで、なぜ畿内説なのかもよく分からないし。
でも、仁徳陵の最下層から昭和の焼物が出たという話には驚いた。
>>957 『三国志が見た倭人たち』山川出版社 2001
959 :
日本@名無史さん:04/12/19 17:44:39
>>957 >仁徳陵の最下層から昭和の焼物が出たという話には驚いた。
それはオーパーツというものです。
オーパーツは、世界中に沢山あります。
決して珍しい物ではありません。
>>958 何たる偶然!それも借りてきて、今手許にあります!
魏志倭人伝の文言から当時の生活を検証していく内容みたいですね。
先日の老教授氏の書き込みを読んで興味が湧いたもので。
>>959 なるほど、そういえばオーパーツという単語もありました。
>>960 その本いいよね。
妄想全開の九州説が、霞んでみえるよ。
962 :
世界@名無史さん:04/12/19 18:14:25
戦後占領期の盗掘・・・
心機一転、宋書でもやりましょう。
『宋書』列傳 夷蠻 (宋 何承天 初撰、梁 沈約 完成)
倭國 在高驪東南大海中世修貢職
高祖永初二(421)年詔曰「倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」
太祖元嘉二(425)年讃又遣司馬曹達奉表獻方物
讃死弟珍立 遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正
詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽
元嘉二十(443)年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王
元嘉二十八(451)年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡
済死世子興遣使貢献
世祖大明六(462)年詔曰「倭王世子興奕世載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王」
興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
順帝昇明二(478)年遣使上表曰「封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬函カン甲冑跋渉山川不遑寧處
東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳
臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道經百濟裝治船舫
而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考
濟實忿寇讎壅塞天路 控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣
居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧
若以帝徳覆載摧此彊敵克靖方難無替前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節」
詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
武上表文読み下し
『封国は偏遠にして藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑を貫き山川を跋渉し寧処に遑あらず。
東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、
王道融泰にして土を廓き、畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆ず。臣、下愚なりとも忝なくも先緒を胤ぎ、
統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙て、船舫を装治す。
しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。
毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むといえども、あるいは通じあるいはしからず。
臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、
にわかに父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。むなしく諒闇にあり兵甲を動かさず。
これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。
義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。
もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。
窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸な仮授して以て忠節を勧む。』
武の上表文にある「祖禰」の時代が四世紀のことなのか、五世紀のことなのかは結論のでない話ですが、
どうなんでしょうかね。
966 :
日本@名無史さん:04/12/19 19:14:56
なんかまた荒らしがわき出したね。
ここは別に何処の説が優勢とか何派をやっつけるとかそう言うことが目的じゃないよ。
もし粘着クンが学者とかだったらそういう世界でやって貰いたいし、ただのアマチュアだったら
偉そうにしない方がいい。特に自分の意見も全く出さずに誹謗中傷や決めつけに終始している
君は、ただの荒らしだよ。君よりは勉強してる人も沢山いる。
私は別に畿内とか九州とかこだわらない。でも勉強になるからロムってるが、君みたいなのは、
出ていってくれないか。もちろんさぞ立派な意見をお持ちのようだから、それを語ってくれること
は大歓迎だよ。まあそれだけ他の人をこき下ろしておいて今更無理と思うけど。
形勢が不利になると、ロムを騙って畿内説批判かよ。
>>967 俺には966が畿内説批判してるようには見えないが?
何かのコンプレックスですか?
969 :
日本@名無史さん:04/12/19 20:49:53
俺もそう思う。俺みたいなシロートでも参加出来るかなと来てみたが ただクダクダ文献書き連ね難しい単語並べながら相手の誹謗抽象の連発 ダメダこりゃ
970 :
日本@名無史さん:04/12/19 20:58:11
きちんと勉強してる人=九州説は支持しません
畿内説、九州説にこだわらない人=ただの無知
971 :
日本@名無史さん:04/12/19 21:04:56
なんだかんだいっても、
誰も教授に反論できないじゃん。プ
これで九州説畿内説こだわらないもないもんだ。
972 :
日本@名無史さん:04/12/19 21:13:08
そういえばプラムも派閥(説無し)無かったな だから締め出されたのか
でもさーまだ耶馬〇国見つかって無いのに畿内説VS九州説だって バッカじゃないの みんなキモすぎ
なんか不思議なこと言ってます
974 :
日本@名無史さん:04/12/19 22:05:31
文字が読めないのか、哀れだな >971
975 :
日本@名無史さん:04/12/19 22:19:14
>>974 邪馬台国が宇佐に無くて残念だったな。プ
976 :
日本@名無史さん:04/12/19 22:28:25
質問。
老教授って何者?
それに群がっている付和雷同型コバンザメあいつら何?
977 :
日本@名無史さん:04/12/19 22:36:32
橿原研=卑弥呼
老教授=男弟
取り巻き=生口
>>976 気持ちの悪い罵倒合戦は、次スレではやめてくれよ。
980 :
日本@名無史さん:04/12/20 00:08:16
もはや二極分化しつつあるようだな。
すなわち、
・実のある議論がしたい人(畿内/九州説・中立にかかわらず)。
・議論を妨害するだけの荒らし(表面上、畿内/九州説・中立の何れであるにかかわらず)。
もちろん迷惑であり、邪魔であり、癌でありなのは後者。
人としての評価まで疑われるレベルである。
このような匿名の議論の場での限界すら感じてしまう。
無論、匿名だからこそ行動から品性が見透かせるのであり、このような場ですら自律できないここの荒らしが、実社会でどのような生活を営んでいるかさえ推察できてしまう。
想像通りの荒んだ人生でないことを願う。
また、実社会ではまともだと言うのなら、ここでもそれを実践してもらいたい。
ここでのみ「まとも」を放棄するいかなる正当性も存在しない。
万が一精神疾患をお持ちならば、治療を受けられる事をお勧めする。
当方、そういった人を差別するほど愚かではない。
一刻も早い治癒を願うのみである。
それから
>>954氏。
貴方は「レスアンカー」というものを御存知か?
これをつけていないと、貴方のレスを見る側が不便を感じ、結果として議論の支障を来す(貴方のレスに返信がつきにくくなる)可能性がある。
以後、「>>」・「>」・「>」を数字の前に付けていただければ有り難い。
ex:
>>954
新スレに老教授氏来てくれたよ。
ユダヤな人が暴れまくってて来てくれないんじゃないかとおもたよ。
うめたてするか
くくお
邪馬台国でぬるぽ
くくみ
>989
過去レス見る為に残してあるんだよ
このスレは埋めんなよ
もう遅い。埋めなくてもすぐに落ちるよ。
でも、どうせなら埋めようぜ。その方がすっきりする。