江戸時代の天子様について☆

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1大五郎
江戸時代、人々に崇敬された
天子様について語りませう
2日本@名無史さん:04/09/11 20:45:02
岩戸神社には
徳川家の親衛隊たる直参旗本の
寄進した石ドウロウがあるそうですよ!
3日本@名無史さん:04/09/11 20:48:37
彰義隊は江戸の天子様たる
輪王寺宮とともに
戦いました。

将軍様はとっとと水戸に避難しましたとさ
4日本@名無史さん:04/09/11 20:51:01
アンチ天皇が政治的に悪用する
江戸時代=反天皇
の虚構を暴く
名スレの予感
5日本@名無史さん:04/09/11 21:01:19
所詮、徳川も家臣にすぎないわけで
6日本@名無史さん:04/09/11 21:10:01
かけまくもかしこき
天子様
7日本@名無史さん:04/09/11 21:12:53
義務教育で教えよ
8日本@名無史さん:04/09/11 21:24:44
江戸の人間にとっては徳川の方に親しみを感じてたよ
9日本@名無史さん:04/09/11 21:28:00
>8

地元に親しみを感じるのは当たり前だが
10日本@名無史さん:04/09/11 21:36:40
そうそう、江戸の人は上野の宮様に
親しみを感じていたね。
11日本@名無史さん:04/09/11 21:39:16
そうか。よくアズマの妄説を信じたやつが
関東には天皇の伝統
なんてなかった
とか言ってるがあれはあきらかに間違いだね。
12日本@名無史さん:04/09/11 21:42:02
天皇の伝統?
13日本@名無史さん:04/09/11 21:54:37
江戸時代、天子様は知名度ゼロだった。これが真実。
江戸時代の日本の国家元首は公方様。
ペリーも公方様のことを「皇帝陛下」と呼んでいる。
14日本@名無史さん:04/09/11 22:53:21
農民にも等しい階層まで尊王とか言い始める奴がでてくるわけだが。
特に幕末。
15日本@名無史さん:04/09/12 08:47:40
知名度ゼロって・・
下手な煽り方だ
16日本@名無史さん:04/09/12 08:49:41
まあ、一昔前ならここでもアズマや
その系列がムキになって徳川マンセー
言ってくるとこだが
いままでさんざん論破してきたからな
17日本@名無史さん:04/09/12 08:59:51
維新の原動力になった天皇のことは
じつは維新後の教育によってはじめて知った
なんておかしな話をよくも戦後50年も続けたものだ
18日本@名無史さん:04/09/12 09:47:09
もうもうワカルよねえ

天皇   ハレ
庶民   ケ
部落民  ケガレ

天皇制を廃止しない限りね、同和問題も解決しないの

     ワ     カ     ッ     タ     ?
19日本@名無史さん:04/09/12 09:53:56
天皇制を廃止するくらいなら童話問題解決しなくてもいいやん
20日本@名無史さん:04/09/12 10:48:52
西日本だけ独立すればいいじゃん
21日本@名無史さん:04/09/12 10:55:10
江戸時代天皇は庶民にとって雲の上の人であったが存在は知られていた
22日本@名無史さん:04/09/12 11:35:23
ひたすら続く一人芝居。
結論はもうすでに何度も出ているというのに。

江戸時代の庶民には天皇を知らなかった人「も」多かった。
尊皇攘夷は、幕府の「政策」。
23日本@名無史さん:04/09/12 11:45:53
天皇のことを充分に知っている武士は庶民と密接に結びついた生活をしている。
ここから導き出せる事実は「江戸や大阪や京都といった町の人々は天皇のことを知っていなければ不自然である」ということです。
また江戸時代は想像以上に人の往来が自由であった。よく「関所でもって往来を制限した」なんていいますが、
あれは「入り鉄砲」と「出女」を取り締まるためであり、許可さえ貰えば庶民は各地に自由に行けた。
 また「お伊勢参り」が江戸時代に大流行していたことから、相当人々の「情報の共有」が発達していたと見て言い訳ですね。
なおかつ伊勢神宮は当然「天子さま」「天帝さま」(どんな呼び方をしていたのか解りませんが)の関連だと皆知っていた訳ですね。
ですからかなりの当時の日本人が「天皇」の存在を知っていたのです。 なおかつ江戸時代の関東の人間は京都のことを「上方」といい、
この「上」とは天皇を指しているのは明らかですね。ですから当時の民衆が天皇のことを知らない、なんてことは絶対に有り得ないと思われる訳です。
 事実を検証した訳ではありませんが、江戸幕府の支配の形態=征夷大将軍も朝廷の一臣下という形式である以上、
支配の上で天皇の存在を隠すことなんか絶対に出来ない訳です。また江戸時代から邪馬台国論争が広く人々の話題になり、
日本武尊のお話などが御伽草子などに書かれ、子供たちにも知られていることなどから考えても「某氏」の言っていたことははっきりと事実とは違うと思われます。
 なにより江戸時代は農業さえやっていれば農民の生活は相当自由であった。男女の関係も同等というかむしろ女性は
子供を産めるということで相当立場も高かったと推察されます。また百姓一揆の文章も「だいたい武士ごときが農民様に
意見を言うなんて身の程知らずだ。本当に農民を皆殺しにして困るのはお前たち武士だろう。」というような内容のものがほとんどなんですね。

http://homepage1.nifty.com/1010/newpagesokatu.htm#ee
24日本@名無史さん:04/09/12 12:50:32
例えば、徳川家康は「源朝臣(みなもとのあそん)家康」と称した。
「朝臣」とは、「朝廷の臣下」の略称である。
25日本@名無史さん:04/09/12 13:00:54
東の人間が天皇を崇める必要もないし、
西の人間が尊重してればいい。
26日本@名無史さん:04/09/12 13:08:01
>>13

江戸に限らず、鎌倉公方にしても足利公方にしても公方が国家元首だったことなど一度も
ないんだが・・・天子様は知名度ゼロだったことが真実であると認識しちゃう人には理解できないのかな?

ちなみに外国は日本には皇帝が二人居る。という認識に途中からなってる。
27日本@名無史さん:04/09/12 13:25:50
幕府は毎年元旦に将軍の使いを上洛させ、天皇に年賀の挨拶を行った。
これに対して、朝廷は3月に返答の使いを下向させた。

格下の側が先に挨拶に伺うのは、今も昔も変わらない社会常識である。
28日本@名無史さん:04/09/12 13:45:24
朝廷の使いは常に下座に座らせられたそうだが。
29日本@名無史さん:04/09/12 14:15:47
そんなこといったら天皇に拝謁した将軍はみんな土下座じゃん。
30日本@名無史さん:04/09/12 14:30:14
>>24
>「朝臣」とは、「朝廷の臣下」の略称である。

まあ、間違いではないが、
「朝臣」は、八色の姓の第2よ。
真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置
31日本@名無史さん:04/09/12 17:10:46
ドイツ人医師のケンペルは天皇を宗教的世襲皇帝とし将軍を世俗的世襲皇帝と訳した
32日本@名無史さん:04/09/12 17:19:52
「江戸の皇帝」と「京都の皇帝」。ずばり言えば、米国側に最も欠けていたものは、これに尽きると思います。
当時の欧米列強は、徳川将軍を「Tycoon」(タイクーン:大君)と呼び、諸王(諸大名)の上に君臨する
日本の「皇帝」(Emperor)として、幕府を「Shogunate」(ショーグネイト)と呼び、日本を代表する
唯一合法かつ正統な政府(Government)として認識していました。その観点からすれば、「日本の首都」である江戸に赴き、
「日本の皇帝」である徳川将軍の裁可が得られさえすれば、対日条約は簡単に調印出来る、と米国は高を括っていたのかも知れません。
まして、「黒船」と言う軍事力をちらつかせれば・・・と。しかし、結果的には予想以上の交渉期間を米国側は強いられる羽目になった訳です。
確かに、慶長8(1603)年の「江戸開府」(幕府発足)以来、江戸時代265年間を通じて、江戸が政治の中心地として機能し、
徳川将軍が事実上の「日本の皇帝」として君臨してきた事は紛れもない事実です。隣国の李氏朝鮮も、将軍の代替わりや慶事に際して、
江戸に「朝鮮通信使」を12回も派遣しています。それを見た諸外国からすれば、将軍こそ「日本の皇帝」であり、
諸国(藩)を束ねる最高権力者であると思ったのも当然の事でしょう。しかし、徳川将軍の権力はあくまでも「日本の真の皇帝」である
天皇によって委任されたものであって、唯一絶対的な専制君主ではなかったのです。

33日本@名無史さん:04/09/12 17:20:13
それが証拠に、徳川五代将軍・綱吉は生母である桂昌院に「従一位」(じゅいちい)の位を賜る為に、朝廷(つまりは天皇)に対して様々な根回しと
莫大な献金を行いました。これが物語るものは、最高権力者として君臨する徳川将軍がたとえ事実上の「日本の皇帝」だったとしても、
最高権威者である天皇が「日本の真の皇帝」として上位に控えていたと言う事なのです。そして、この将軍と天皇と言う
権力の「二重構造」が欧米列強 ── 特に米国に誤った認識をさせ、ひいては幕末の混乱を起こしてしまったのです。
米国側が日本側と条約交渉を重ねるにしたがって、気が付いた事。それこそ、「天皇」の存在(意義)だったのです。彼ら米国側は、
日本側と交渉を重ねる中で、「日本の皇帝」徳川将軍が実は日本の真の主権者では無い事を初めて知ったのです。
日本側は、早期の調印を要求する米国側に対して、「条約の調印は幕府(将軍)の独断では出来ない。朝廷の勅許(天皇による裁可)が無ければ無理」と説明しました。
朝廷?天皇? 米国側にとっては、当初、日本側の説明が理解出来ませんでした。なぜ、最高権力者である徳川将軍が裁可出来ないのか? 
なぜ、「日本政府」である幕府が調印批准出来ないのか? しかし、時間が経つにつれて、米国側も日本の「国体」をようやく理解する事が出来たのです。
つまり、日本には「江戸の皇帝」(徳川将軍)と「京都の皇帝」(天皇)と言う二人の主権者がおり、徳川将軍は「日本の絶対君主」では無かったのだと。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/two_emperor.html
34日本@名無史さん:04/09/13 11:25:35
結局、勅許関係無しで条約結んでるけど?
江戸幕府は条約有効のために承認をもらいに行ったんじゃないよ。
他の大名を納得させるための箔づけに行っただけ。
そしたら孝明が、ああ勘違い。
勉強した人なら常識なんだけど・・・。

やはり1人じゃスレのびに限界があるわなw。
35日本@名無史さん:04/09/13 19:02:39
まあ、対外的には徳川君が
事実上の皇帝であったと言っても間違いではないわな。
しかし、その皇帝もおろそかにできない
ありがたいお方がいたということか。
36日本@名無史さん:04/09/13 19:07:53
>34
それって結局、世論を納得させるため勅許を
もらいに行ったってことじゃ。
まあ、事実上の幕府行政のトップが
次々と天誅くらったら官僚化した徳川武士じゃびびるわな。
37日本@名無史さん:04/09/13 19:59:01
幕末の勅許の問題は当時の人たちにとっては
単なる外交ではなかったんじゃな。
この神州たる日本の国土に関わる問題だったわけで
徳川家一人が勝手に裁決できるものでないというのが
世の大多数の意見だったのじゃ。
38日本@名無史さん:04/09/13 20:01:12
それは、即ち徳川家と言えども
天下をかりに預かっているにすぎない
本来の国土の所有者は天子様である
という共通の認識があったからである。
39日本@名無史さん:04/09/13 20:03:37
古墳時代から近代まで一王朝が継続したのはまさに世界の奇跡だな
40日本@名無史さん:04/09/13 20:09:53
世界遺産に登録予定!
41日本@名無史さん:04/09/13 20:24:41
神代からの国主の家系の方が
おられるとはまさに奇跡です。
現代人は天子様からお借りした国土を
もっと大切にすべきです。
42日本@名無史さん:04/09/13 21:11:59
>>41
おまえとこの財産も天子様にお返しした方がよいぞヨ。
何? 財産、無いって?
43日本@名無史さん:04/09/13 23:05:54
井伊大老は暗殺されるけどな
44日本@名無史さん:04/09/18 21:14:42
江戸時代の天子様は広く庶民の信仰を集めた
というのが最近の定説です
45日本@名無史さん:04/09/18 21:27:53
>>44
ソースは?
46日本@名無史さん:04/09/18 23:49:59
自分に都合の悪いレスにだけ「ソースは?」と言うのはやめよう。
47日本@名無史さん:04/09/19 00:07:32
定説というならソース示さなきゃ根拠がない
聞いた事がないぞそんな話
あとそれはお前が知らないだけっていうのもなしな
48日本@名無史さん:04/09/19 00:07:47
>>46
ソースも提示されないのに「ハイそうですか」と信用するのは馬鹿のすることだ。
根拠も示さずに軽々しく「定説です」などと言いきるのはもっと馬鹿だ。
49日本@名無史さん:04/09/19 00:10:44
まろゆき曰く
嘘を嘘と見抜けない人が2chをやるのは難しい
50日本@名無史さん:04/09/21 21:20:32
江戸時代の天子様は広く庶民の信仰を集めた
というのは嘘。というのがこのスレの結論です。
みんな見抜けたかな?
51日本@名無史さん:04/09/21 21:25:47
『鼻行類』はハラルト・シュテンプケによって架空の生き物「鼻行類」を解説している書籍のこと。1961年発行。フィクションではあるが、その完成度はかなり高い。
52日本@名無史さん:04/09/21 21:29:05
日本中の庶民から信仰され尊敬されてました。
ソースは「雛祭り」です。
53日本@名無史さん:04/09/21 22:10:08
庶民から信仰されていたことを
証明するソースなぞいくらでもあるが。
わざわざ言わないとわからないのかね?
54日本@名無史さん:04/09/21 22:10:23
天子様を見下したりする人間もいなかったとは思うけど、江戸の人々の意識の中に存在感がどれだけあったかは疑問だと思う
江戸や関東の幕領では公方様(将軍)の圧倒的な力を体感してる香具師のが多かったと思うけどな
近畿では関東と比べ物にならない位、天子様の権威があったのだろうが
55日本@名無史さん:04/09/21 22:14:57
>>35
徳川家も気の毒だな
こんな虫けらに君呼ばわり
56日本@名無史さん:04/09/21 22:16:36
なかったよ。飾りだけ。京都人て、いまでも天皇公卿嫌いが多い。
57日本@名無史さん:04/09/21 22:18:50
>>56
京都ってブラクとか在日とか多いもんね
58日本@名無史さん:04/09/21 23:15:17
たしかにハングルが増えてきたしな
59日本@名無史さん:04/09/24 22:18:36
くだらん煽りが続いたな。

江戸時代、大流行した稲荷信仰と
江戸時代の天皇信仰に密接な関わりがあったことは
知ってるんだろな。
60日本@名無史さん:04/09/24 22:20:43
>>53
言えるもんなら言ってみな。いいかげんなソースだったらみんなで藁ってやるよw
61日本@名無史さん:04/09/24 22:24:17
>>57
同和率
1位 高知・2位 和歌山・3位 鳥取・4位 徳島・5位 奈良・
6位 滋賀・7位 福岡 ・8位 愛媛・9位 岡山・10位 兵庫

京都は12位だけど。
http://members.at.infoseek.co.jp/trotzdem/data.htm
62日本@名無史さん:04/09/24 22:26:40
関東自体が蛮地扱いだったわけだが。
63日本@名無史さん:04/09/24 23:12:49
江戸時代の最後の天皇は明治天皇だ。
孝明天皇じゃないぞ!
64日本@名無史さん:04/09/24 23:26:35
たしかに
65日本@名無史さん:04/09/27 21:39:23
江戸庶民の多くは
お稲荷さんを信仰してたわけだが
これは一種の天皇信仰
66日本@名無史さん:04/09/27 22:00:18
なんで将軍様は江戸庶民を
見捨てて逃げたの?
67日本@名無史さん:04/09/28 00:14:54
以前この板で江戸庶民は天皇の存在しらなかったって言ったら
結構叩かれたけどな。今は逆説が主流なのか
68日本@名無史さん:04/09/28 02:15:17
将軍は毎年朝廷へ年賀の使いを上洛させ、朝廷はそれへの返答の使いを3月に
下向させていた。また、勅使・院使の江戸下向も多く行われていた。

こういう状況にあって、江戸の町を通る行列が何の行列かもわからなかった
とすれば、江戸の庶民は馬鹿としかいいようがない。
69日本@名無史さん:04/09/28 02:34:08
>29
>そんなこといったら天皇に拝謁した将軍はみんな土下座じゃん。

 秀忠、家光は上皇の格式で対面したとのことだが?
 ちなみに、江戸時代に将軍から朝廷関係に出す挨拶状等の宛書きは、天皇には同等、
摂家には将軍家臣筆頭の三家と同等の格式。
70日本@名無史さん:04/09/28 02:38:53
>>69
結局、将軍の方から上洛したわけで。
天皇が将軍に会うために下向したことは一度もないわけで。
格下が格上のところへ出向くのは、今も昔も常識なので。
71日本@名無史さん:04/09/28 18:35:09
>>70
皇女和宮は大奥では家茂の養母・天璋院に格下に扱われたようだが。
72日本@名無史さん:04/09/28 19:31:23
そら嫁いだからな
73日本@名無史さん:04/09/28 21:32:39
和宮降嫁という。格下のところへ嫁ぐのだから降嫁という。
因みに、和宮は仁孝天皇の八番目の皇女。将軍の正室が天皇
の第八皇女というだけでも、朝廷の方が格上とわかる。
74日本@名無史さん:04/09/28 21:39:30
>>67
主流というより事実です
75日本@名無史さん:04/09/28 21:45:50
「江戸時代の庶民は本当に天皇を尊敬していた」
への
「ソースは?」
に対して
「雛祭り」
と、答えたヴァカが立てた自作自演スレとはここですか?
76日本@名無史さん:04/09/28 21:49:06
江戸の庶民は天皇を知らず、尊敬もできないほど馬鹿だったと言っている
変な生き物がいますね。
77日本@名無史さん:04/09/28 21:56:09
>>75
そうです。日本中の庶民は天皇を江戸時代に尊敬してました!
78日本@名無史さん:04/09/28 22:08:15
アンチ徳川の触媒としての天皇信仰がかなりの広がりを見せたのは事実だろ?
江戸の人間がどう天皇を捉えていたのかまでは知らないが。
79日本@名無史さん:04/09/28 22:11:33
ペド時代の天使様について☆
80日本@名無史さん:04/09/28 23:37:53
尊敬はともかく知ってはいた
81日本@名無史さん:04/09/28 23:40:55
庶民レベルでいえばどうだろう。
司馬遼太郎が作品中で紹介した幕末一般庶民の天皇認識に関するエピソードは有名である。
維新を迎えたある日の庶民の会話。「今度の新しい将軍様は『天皇』っていうんだそうだ」「へぇ」というようなもの。
庶民にとってそれほどに天皇の存在感はなかったということらしい。 
この司馬遼太郎のエピソードは左翼史家お好みの話だが、眉唾である。
定期的に爆発的な大流行を見せた「伊勢おかげ参り」は何だったのか。
庶民は無知で、御祭神の天照大御神が皇室の祖先であるとも知らずに参ったとでもいうのであろうか。
また、江戸期、庶民の間にも大流行した「雛祭り」はどうか。何の「雛形」なのか知らずに
ただお祭り気分で浮かれていたのか。そんなことは考えられない。 

http://www.jiyuu-shikan.org/teachers/hattori/0307.html
82日本@名無史さん:04/09/28 23:48:21
馬鹿に反応するのもなんだけど
>庶民は無知で、御祭神の天照大御神が皇室の祖先であるとも知らずに参ったとでもいうのであろうか。

単に「有り難い神様」というだけで充分ですね。というか、実際に参った所の
祭神はアマテラスでなかったと聞きますが。

 とおもったら、ひっぱっているサイトが「自由主義史観研究会」ですか。
 この名前を聞く度に、昔あちこちにあった「人民民主主義共和国」を思い出して
しまうな。
 こういう風に自称するというのは、根本的な発想が「人民民主主義」な連中と大
同小異なんだろうね。
83日本@名無史さん:04/09/28 23:52:04
あくまで庶民は明治になって天皇の存在を知ったと言いたいわけね
84日本@名無史さん:04/09/28 23:59:23
>83
なんか、極論に走りたがる人がいるね。
「存在を知っていた」の根拠付けになっていない話ばかり持ち出してませんか、
という事を言ってるんですが。
85日本@名無史さん:04/09/29 00:09:04
1867年が明治維新。庶民はまだ「天皇」って何者かさえ知らず、
幕藩体制の「お殿さま」の方が偉いと思い込んでいました。維新の元勲たちは、
これでは「富国強兵」もおぼつかない、と苛立ち、
何も知らないまだ若い明治天皇を全国津々浦々を回らせたもので、その一環のものです。
皆さんの地方にも似たようなものがあるでしょう。

http://ww3.enjoy.ne.jp/~simoiti1329/images/ujinahijiyamar/12meijitennouhi.htm
86日本@名無史さん:04/09/29 00:12:22
一般書で申し訳ないけれども、藤田寛の「幕末の天皇」には江戸幕府後期に
御所お千度参りが頻発した様について述べている
「天皇」を意識してのお参りであるのは間違いないね。
「お千度参り」の人に江戸の住人がいかほどいたかは分からないけれど。
87日本@名無史さん:04/09/29 00:29:25
88日本@名無史さん:04/09/29 05:32:27
 日本史には詳しくないんで、厨房な質問をさせてくれ。
何で時代劇では天皇を無視してるの?
89日本@名無史さん:04/09/29 05:42:39
勧善懲悪に国政レベルの話は合わないから。
江戸が舞台だから。
ファンタジーだから。
テレビだから。
90日本@名無史さん:04/09/29 05:59:50
まあ時代劇で描かれる江戸時代は現実とはかなりかけ離れてるわな
91日本@名無史さん:04/09/29 10:14:18
雛人形ってどんな地域・身分でも御内裏様(天皇)がメンバーに加わってるワケじゃないんだよね。
92日本@名無史さん:04/09/29 18:41:50
>>88
そりゃ、たとえ善人に描いても
不敬だと言いがかりつける椰子がいるだろうからな。

江戸時代の俚諺。
「公方様を見ると目がつぶれる」
「禁裏様は目に見えない」
辺鄙な所を除いたら、両者の存在は庶民レベルでも知られていたが、
畏敬の念に関しては、格段の違いがあった。
ただし西国のアンチ徳川系大名などは、当てつけもあって、
より畏敬の念を抱いていたかもしれない。
93日本@名無史さん:04/09/29 19:51:55
現存してるから描けない

日本映画は長らく、近現代の天皇を描くことを避けているが、
「歴史的事件について、触れてはいけない『神聖なもの』など何ひとつない。
私たちは皆、歴史について考える権利があるのです」。

詩的映像で描く病んだヒトラー
−ソクーロフ監督の映画「モレク神」公開−
http://www.laputa-jp.com/moloch/news.html
94日本@名無史さん:04/09/29 20:36:01
>一般書で申し訳ないけれども、藤田寛の「幕末の天皇」には江戸幕府後期に
>御所お千度参りが頻発した様について述べている
>「天皇」を意識してのお参りであるのは間違いないね。

頻発したなどどこにも書いてない!この嘘つきが。
所司代に飢饉対策を頼んだが反応がなかったので、御所へ来ただけ。
しかも1度きりだ。
御所では、対応をどうぢたらいいか極度にへりくだって所司代に聞いている。
政治のことに朝廷が口を出すなど恐れ多いことだったからだ。

ついでに言っとくが、新年の勅使の交換もすべて幕府が、
幕藩体制引き締めのために決めたこと。尊王のフリをするためだ。
繰り返すが尊皇攘夷は幕府の政治手段に過ぎない。
95日本@名無史さん:04/09/29 20:57:32
朝廷の勅許がなければ条約結べないっていうのは、
引き伸ばしの言い訳にしぎないわけで、
96日本@名無史さん:04/09/29 20:58:46
幕府が本気で朝廷を初めから恐れていたわけじゃない。
9786:04/09/29 23:24:06
>頻発
これは引用ではないのでウソではない、当方の形容、イメージなのだから。
誤解を生むので以下は引用のみで。
>>94
『杉浦家歴代日記』には、七日は四、五千人という程度であったが、次第にその数を増し、
わずか三日後の十日には、なんと一万人もの老若男女が群集し、(御所の)筑地塀の周りを
廻ったと記されている。

 御所の廻りを廻る人の数は、日を追って増え、先の『杉浦家歴代日記』によると、六月十
八日の前後四、五日間には、とうとう一日七万人にまで膨れ上がったと言う。P55

 一日に何万もの人が御所千度参りの列に加わった六月十二日に、具体的な行動が始まった。
光格天皇の意向を受けた関白鷹司輔平が、武家伝奏の油小路隆前と久我信通を呼び、次のよ
うなことを指示している。
   世上困窮し、飢渇死亡の者数多これあるのよし、内院(天皇)はなはだ不便に思し召さ
   れ、毎々ご沙汰もこれあり候、施し米の 賑給などの事も、陣儀かれこれ相調いまじき
   か、関東より救い米など差し出され、貧窮を救われ候ようには相成りまじきか、お指図
   も遊ばされ難きか、此頃雑人日々御築塀内相廻り、拝礼相致し候、全く飢渇困窮につき
   折誓の趣に候、かれこれ甚だ宸襟を悩まされ候、因幡守(京都所司代戸田忠寛)への示
   談のこ致し方はこれ無きや、両人了簡を加え申し入るべきよしなり、先日命あり今日再
   三命じられる、(油小路隆前卿伝奏記)
 光格天皇と後桜町上皇は、飢饉により餓死者がたくさん出ているということを聞いて非常に
不憫に思い、なんとかならないのかとしきりに指図したという。その内容は、朝廷が行う窮民
救済である賑給はできないのか、幕府が米を出して窮民を救うことはできないのか、それを朝
廷から幕府へ指図できないのか、というもので、p66 

『幕末の天皇』藤田寛
98日本@名無史さん:04/09/30 00:02:24
江戸幕府は、参勤交代の西国諸大名の行列が京を通ることを禁止し、迂回ルートを
定めていた。西国諸大名が朝廷と結ぶのを何より怖れていたことがわかる。朝敵と
なることこそ、幕府が最も怖れたことだ。だが、皮肉なことに、その朝敵となって
幕府は滅んだ。
99日本@名無史さん:04/09/30 01:57:45
>>97
光格天皇以降、朝廷の実権が再び高まったんだね。
幕府はすんなりと救済米を出しているよ。また、
それ以降は国の重要事を朝廷に詳しく報告するよう
幕府に命じ、幕府もこれに服従しているね。
やはり、天明の大飢饉を堺に幕府の衰退はいっそう
強まったといえる。
100日本@名無史さん:04/09/30 08:20:39
江戸時代の役人はミドルネームに、朝廷からもらった役職名(それは実際の自分の役職とは関係ない)を付けてた。
って本当?
101日本@名無史さん:04/09/30 14:41:08
>それ以降は国の重要事を朝廷に詳しく報告するよう
>幕府に命じ、幕府もこれに服従しているね。
おいおい、命じても服従してもねーだろ。
ロシアが東北まで上陸して来たとの風評が立った事件のとき、
幕府側が一応ということで朝廷に一度報告した。
そしたら前例となったということだろ。
脳内変換すご杉
孝明天皇までは左幕派だっつーの。
102日本@名無史さん:04/09/30 14:43:15
ひんぱつ【頻発】
―する
〔事件・事故などが〕た び た び 起こること。

10386:04/09/30 17:33:03
>>102
一回をどう定義するかによって変わってくると思うのですが、
語彙の使用に誤解を生みやすい、適切さを欠いた点は認めます。
「頻発」は誤りでした、すいません。
しかし、>>86の趣旨は天明期には朝廷、天皇の権威が大衆
レベルにも広範囲に浸透していたとう点はご理解いただけるもの
と思います。
104日本@名無史さん:04/09/30 17:37:32
そうは思わない。
なぜ前にも後にも1度きりなのか?
民衆は、所司代に先に頼みに言った事実を忘れてる。
105日本@名無史さん:04/09/30 18:01:50
>>140
「お千度参り」は朝廷権威の高まりの証左で、それによって
パワーバランスに変化をもたらした、切っ掛けとなった点が
重要だと思います。所司代の件は本質だとは思いません。
106日本@名無史さん:04/09/30 19:17:22
さあ!今世界中が>>140のレスに固唾を呑み見守っています!!
107日本@名無史さん:04/09/30 19:28:38
天保の時の斉昭失脚に対して仁孝天皇が幕府に詰問したり、
佐幕ではあっても朝廷の幕府より水戸の贔屓の傾向はかなり強い。
108日本@名無史さん:04/09/30 21:02:56
「新撰組!」の孝明帝もかなり実像とかけはなれてるよな。
「徳川慶喜」の孝明天皇も相当美化されていたけど。
109日本@名無史さん:04/09/30 21:16:47
歴代天皇で君主らしい天皇は
天武、聖武、桓武、後鳥羽、後醍醐、後水尾、孝明、明治、大正、昭和だろうな
110日本@名無史さん:04/09/30 21:17:20
>>105
珍しい解釈。んなこと、どこかの本に書いてあるの?
なぜ1度きりの珍事なんだい?
ついでに言うと、藤田は左翼的な人だよ。
111日本@名無史さん:04/09/30 21:20:01
後鳥羽・後醍醐・孝明の共通点

武家に逆らうので公卿から嫌われていた。
112日本@名無史さん:04/09/30 21:33:46
「御所めぐり」か。
暑いので人々にリンゴを配っていいかどうか所司代に伺いを立ててるな。
答えは、よろしい。
あと、金やら投げ込まぬように取り締って欲しいと所司代に嘆願もしてるな。
113日本@名無史さん:04/09/30 23:50:40
幕府は滅んだ。天皇家は続いている。

結局は幕府の負けじゃないか。
114日本@名無史さん:04/10/01 00:29:08
朝廷は続いてるぞ
政府の前身は朝廷と薩長人だから
115日本@名無史さん:04/10/01 13:02:53
>>113
結局はアメリカ幕府に負けたくせに。
116日本@名無史さん:04/10/01 13:30:46
>>115
負けてはいないだろ
マッカーサーに天皇家擁護までさせたんだから
117日本@名無史さん:04/10/01 14:40:48
神さまはどうやら支持していないようだ。
珍獣もあと24匹で絶滅。
118日本@名無史さん:04/10/01 18:08:29
>>105>>140>>104の誤りでした。
>>110
引用著作から得た私の理解です。
千度参りがたった一度しかではなく、「今まで起こらなかったことが起こった」
こう理解してもよいのではないでしょうか。
「千度参り」の発生と原因、背景には大変興味を持っているのですが、
それを論じる力量は私にはございません、残念ですが。
ちなみに著者の思想に関心ありませんし、趣旨と関係ないと思います。
119日本@名無史さん:04/10/01 20:29:11
孝明天皇のジョウイ派だったのは
神代からこの国土を預かる家系のものと
して当然の立場。
なんら問題はない。
むしろ幕府の無能さこそ問題。
120日本@名無史さん:04/10/01 20:29:47
藤田の本に書いてあると思うが、京都所司代に飢饉救済を頼みに行ったが、
効果がなかったので、エネルギーがたまたま御所に向いた。
御所の権威が高ければ、最初から御所に行くし、その後も行ったはず。
ところが前にも後ろにも1回ぽっきり。

恐る恐るながらも武家に政治問題で発言しても処罰されないという
先例となったという言い方では正しい。

紫衣を無効とされて完璧に面目を潰され、無位無官者と拝謁させられるなど
散々侮辱を受けたうえでも、後水尾の譲位の件では処罰者が出てたと思うが?
幕府がその間に尊皇攘夷思想を高め広めていたともいえる。
121日本@名無史さん:04/10/01 20:39:18
>>94
偏見と捏造に満ちたあきれた書き込みだ。
庶民の救いの声にまったく無反応な為政者(所司代)に対し古来からの天皇信仰が沸き起こったのである。
この時代、天皇は政治的な権限がまったく許されなかったが
苦しむ庶民の声を拾ったお上がついに
無能役人どもを動かしたのであった。
122喝!:04/10/01 20:43:25
>>85
浅い見識だな。
庶民が知らなかったのは天皇ではなく
近代国家と近代君主制である。
123日本@名無史さん:04/10/01 20:45:58
>>88
無視はしてない。よく見ていればたまに関係者は出てくる。
テレ朝の一部の時代劇のように無理矢理
悪役にしようとしたものもある。
124日本@名無史さん:04/10/01 20:47:46
はい、はい、京都所司代が京都救済をしました。
京都所司代がね。

あとは>>120さんが書いたとおり。
125日本@名無史さん:04/10/01 20:51:48
>>120
たまたま?
無為無策の官僚と飢餓に苦しむ庶民が最後に拠にしようと
したとこがたまたま御所だったと?

本に書いてあることを吟味せずに
そのまま飲み込んでしまうのはよくないな。権威に弱いタイプだ。
126日本@名無史さん:04/10/01 20:55:37
>>124
ひらきなおりかよ。
所司代の小役人そっくりだな(藁
127日本@名無史さん:04/10/01 20:57:41
幕府擁護してるやつらは
たぶん公務員だなw
128日本@名無史さん:04/10/01 21:00:01
120 名前:日本@名無史さん :04/10/01 20:29:47
藤田の本に書いてあると思うが、京都所司代に飢饉救済を頼みに行ったが、
効果がなかったので、エネルギーがたまたま御所に向いた。
御所の権威が高ければ、最初から御所に行くし、その後も行ったはず。
ところが前にも後ろにも1回ぽっきり。

恐る恐るながらも武家に政治問題で発言しても処罰されないという
先例となったという言い方では正しい。

紫衣を無効とされて完璧に面目を潰され、無位無官者と拝謁させられるなど
散々侮辱を受けたうえでも、後水尾の譲位の件では処罰者が出てたと思うが?
幕府がその間に尊皇攘夷思想を高め広めていたともいえる。
129日本@名無史さん:04/10/01 21:20:13
>128
見苦しいぞ
130日本@名無史さん:04/10/01 21:25:12
俺は>>120に賛成だな
131日本@名無史さん:04/10/01 21:31:48
あっ、そ。
よっぽど自慢のカキコなんだね。
単なる本の受け売りが・・
132日本@名無史さん:04/10/01 21:46:28
大抵のレスは本なりサイトなりの受け売りだと思うが
133日本@名無史さん:04/10/01 23:45:49
江戸の庶民は、天子様よりも朝鮮通信使のファンだった。
134日本@名無史さん:04/10/02 00:05:54
揚げ大好きage
135日本@名無史さん:04/10/02 04:20:32
>>128
>後水尾の譲位の件では処罰者が出てたと思うが?

中院通村が武家伝奏を降ろされただけ。


136日本@名無史さん:04/10/02 04:27:44
徳川は天皇を一つの家職の地位まで下げたがやはり内心は敬っていた
137日本@名無史さん:04/10/02 18:30:28
朝廷では、一度出された綸旨を幕府の抗議で撤回はできぬと主張したが、
幕府はそれを認めず、紫衣剥奪が強行された。

「口宣一度に七、八十枚も破れ申し候。
主上この上の御恥これあるべきや。」
138日本@名無史さん:04/10/02 19:31:45
江戸時代の文学作品読んでみろよ。
王朝時代の文学の影響受けまくり。
というより、その詳しさには驚愕!
139日本@名無史さん:04/10/02 19:34:40
>>137
その後、
朱子学を官学に採用してからは
幕府もこのような横暴がしづらくなりました。
140日本@名無史さん:04/10/02 19:47:09
>>137
その後、
朝廷は、皇位継承・元号改正をふくめ、
すべて幕府に事前に伺いをたててから行動したため、
事件はおきなくなりました。
朝廷を操作するのは幕府だということがはっきりしたんだね。
141日本@名無史さん:04/10/02 20:05:35
結局朝廷は勝ち組、幕府は負け組というのが事実なんだね。
江戸幕府の衰退と滅亡は、江戸幕府のみならず鎌倉以来の
幕府そのものが滅んだわけだ。
142日本@名無史さん:04/10/02 20:06:16
偽紫?足利に山名か。影響というかパクリなんだけど・・・
143日本@名無史さん:04/10/02 20:16:33
明治の天皇制は、伝統ある日本の朝廷を滅ぼしちゃったね。
144日本@名無史さん:04/10/02 21:32:57
天皇は行幸もできず囚人同然であるなどと語った山県は死罪。
父の見舞いにも行かせなかったとは天皇に冷たすぎだな幕府は。
父の見舞いにも伺いが必要だったとは恐るべし幕府権力。
145日本@名無史さん:04/10/02 21:38:00
>>141
正確に言えば、秀吉の検地以来の大名知行制が廃藩置県によって滅んだという
のが正しく、天皇親政としての朝廷など、承久の乱でとっくに瓦解している。
146日本@名無史さん:04/10/02 21:38:53
伊勢神宮に勅使が使わされる許可が出たのは、
日光大権現に勅使派遣の見返りというのは本当ですか?
147日本@名無史さん:04/10/02 21:42:07
>>146
本当です。
つか、幕府が財源を負担してくれたから伊勢に勅使も出せるわけです。
江戸時代の朝廷は一から十まで幕府が頼りです。
148日本@名無史さん:04/10/02 21:53:01
>>145
承久の乱は上皇主導。
負けが見えてきて、仲間が逃げてきたら門を閉めて知らんぷりしたけど。

天皇親政っていつだ?
天武・後醍醐が突発珍事とすれば、神武?
149日本@名無史さん:04/10/02 22:02:01
>>147
サンクス。
そんなにお金がなかったんですか。
関白は儲かると聞きましたが?
150日本@名無史さん:04/10/02 22:11:07
>>149
関白の役料も幕府の支給。
武家伝奏、議奏も同様。
151日本@名無史さん:04/10/02 23:22:34
>>150
じゃあ、朝廷は幕府の操り人形になるしか道がないじゃないですか!?
152日本@名無史さん:04/10/02 23:43:38
>>148
平安時代では、桓武、嵯峨、村上、醍醐、後三条、白河の
各天皇が親政だったと思う。
後白河天皇も鳥羽法皇崩御後、譲位するまでは親政にあたると
思う。
153日本@名無史さん:04/10/02 23:51:40
>>151
そう仕向けたんだよ。
日本全国、将軍が管理するもので、
公家の知行地も将軍から与えられるもの。
よって、将軍の代替わりごとに所司代を通じて、券契受ける。
寺社や大名の場合は、直接江戸に行って受ける。
154日本@名無史さん:04/10/02 23:53:47
>村上
親政とはいえ忠平の子実頼、師輔らが政権に並び,皇后安子(師輔女)の
影響力も大きく、外戚の力は無視しえない

>醍醐
治世のはじめは父上皇の意志で藤原時平、菅原道真が並んで補佐の任にあったが、
まもなく道真は時平派により、天皇の廃立を謀ったとされて失脚。
時平の死後はその弟忠平が政権の中心となった。
155日本@名無史さん:04/10/02 23:56:33
>>151
現代だって政府のお人形さんだろうが。
156日本@名無史さん:04/10/02 23:59:50
>後三条
4年間?
157日本@名無史さん:04/10/03 00:05:02
>白河
10年位かな?

>後白河
2年間
158日本@名無史さん:04/10/03 00:33:32
親政ってなに
159日本@名無史さん:04/10/03 01:30:03
幕府も将軍親政なんかではなかったわけで。
160日本@名無史さん:04/10/03 03:18:21
>>158
親政‥君主自らが政治を行うこと
161日本@名無史さん:04/10/03 09:49:11
>>159
( ´,_ゝ`)プッ
162日本@名無史さん:04/10/03 10:10:52
将軍は君主ではないのでたとえ自ら政務を執っても親政ではない
聖上の臣下だからな
163日本@名無史さん:04/10/03 10:24:07
その後、
朝廷は、皇位継承・元号改正をふくめ、
すべて幕府に事前に伺いをたててから行動したため、
事件はおきなくなりました。
朝廷を操作するのは幕府だということがはっきりしたんだね。

天皇って深海魚のオスみたいだね。ぶらさがってるだけw。
164日本@名無史さん:04/10/03 10:27:58
>>163
深海魚のオスとはうまい表現だねw。
臣下に操られ食わせてもらってる聖上って・・・
165日本@名無史さん:04/10/03 10:31:42
天皇家を含む皇族には苗字がない
これは日本では苗字とは聖上が臣下に与えるものであった為である
つまり天皇は庶民と同じく名前だけだったのだ
166日本@名無史さん:04/10/03 10:34:26
古代から天皇は玉と言われてきた
これは玉を手に入れうまく操れば国を我が物にできるという表現
167日本@名無史さん:04/10/03 11:18:15
将棋の世界では
棋力の上の者が王の駒をとり、
棋力の下の者が玉の駒をとる。
168日本@名無史さん:04/10/03 11:24:51
今上陛下も苗字がない
169日本@名無史さん:04/10/03 11:35:34
継 明仁
浩 徳仁
170日本@名無史さん:04/10/03 13:32:13
>>162
泣いてるのかw?
171日本@名無史さん:04/10/03 13:34:22
??
172日本@名無史さん:04/10/03 13:35:04
test
173日本@名無史さん:04/10/03 13:40:47
泣いてる?
174日本@名無史さん:04/10/03 13:44:58
玉に意思なし
175日本@名無史さん:04/10/03 20:39:33
江戸時代の天皇って本当に力がなくて尊敬もされてなかったね。
176日本@名無史さん:04/10/03 21:15:53
権威も幕府しだいだったしね。
177日本@名無史さん:04/10/03 21:18:22
徳川幕府は一切の旧権力を統制下に置いたからね
178日本@名無史さん:04/10/03 21:23:53
違勅とかいう理由で路上で大老が斬殺されたわけだが。
179日本@名無史さん:04/10/03 21:30:51
水戸藩は、公方様第一主義を最後まで通したね
桜田門外では、将軍を狙うとは誰も夢想だにしなかったね
180日本@名無史さん:04/10/03 21:37:35
井伊は、水戸藩から勅諚を返上させるように朝廷に圧力をかけ、
この結果、59年12月に、勅諚返上の勅命が水戸藩へ下ったね。
181日本@名無史さん:04/10/03 23:08:34
朝敵になって滅んだ幕府を擁護する愚かなレスが続いていますね。哀れです。
182日本@名無史さん:04/10/03 23:36:02
>>179
すげえ新説!
詳しくご教授願いたい
183日本@名無史さん:04/10/04 11:46:13
>>179は普通だろ。
184日本@名無史さん:04/10/05 16:59:06
江戸時代を通じて
徳川家は圧倒的な武力で
民衆や天皇まで押さえ付けていたからね。
和宮降嫁を力づくで無理矢理実現した
幕府に対して
世論は非難ごうごうであった。
185日本@名無史さん:04/10/05 17:03:05
天子様をないがしろに力づくで
ものごとをごり押しする幕府に世論は強く反発。
遂に水戸浪士による老中に対する天誅未遂事件が起きる。
186日本@名無史さん:04/10/05 17:10:12
和宮婚儀から四ヶ月後、古代からの朝廷親衛隊である
薩摩隼人兵とともに
勅使大原卿が下向。

一橋慶喜を将軍補佐に、松平慶永を大老にせよ
との勅命がくだった。
幕府人事に対して勅命がくだるなど
江戸幕府はじまって以来のことである。
187日本@名無史さん:04/10/05 17:13:21
しかし、この時期世論は幕府をみかぎり
天皇様に政治的期待をよせるようになっていた。
これに屈した幕府は慶喜を後見職に
慶永を総裁職につけざるをえなかったのである。
188日本@名無史さん:04/10/05 17:27:09
幕府人事の他に
古代天皇のごとく薩摩隼人八百人を
ひきつれた大原卿は
将軍家茂に天皇にあやまりにこんかいゴルァ!と迫った。

辺境から来た神代以来の天皇家守護の蛮人薩摩隼人と
巷にひしめく志士浪士の天誅の剣にびびりきっていた幕府は
そくそくと家茂の上洛をきめたのであった。
189日本@名無史さん:04/10/05 17:39:37
明治になると
天皇より新しい暦が下された。
天照皇大神の子孫たる天皇の世にふさわしい
太陽暦である。

人々は古い暦を将軍暦として
捨てさった。
(実際には古い暦も天皇ゆかりの
伊勢御師が配ったものだったが)
190日本@名無史さん:04/10/05 18:50:30
幕府が天皇を江戸に来させた例は一つもない。
191日本@名無史さん:04/10/05 19:43:14
大原って低家格の下級公卿のくせに
身分不相応の官位貰って東下したんだよな
ハッタリが得意な親父だったって感じか
192日本@名無史さん:04/10/05 20:15:18
>>190
その代わりに明治政府が天子さまを江戸に拉致した。
193日本@名無史さん:04/10/05 21:19:56
>>184
公武合体に雄藩は好意的
>>185
降嫁は勅許後
>>186->>187
島津ら一ツ橋派の策動
>>188
何も謝ってない
>>189
日本の伝統の暦を西洋暦に変えた
>>190
京都どころか御所を出る許可を出さなかった

どこの国の歴史なんだろか?
194日本@名無史さん:04/10/05 21:31:04
江戸時代の公家は、油揚げがご馳走だったらしいが、本当かね?
195日本@名無史さん:04/10/05 21:34:13
味噌をツマミに酒を飲んだ天皇もいたし。
196日本@名無史さん:04/10/05 21:36:13
>>189
明治何年ですか?
197日本@名無史さん:04/10/05 21:44:26
>>196
明治政府がグレゴリオ暦に変えたのは明治5年11月19日。
198日本@名無史さん:04/10/05 21:49:18
>>197
サンクス。
じゃあ、明治になったから天子様が変えたんじゃないんですね!
199日本@名無史さん:04/10/05 21:58:50
>>198
天皇は現行憲法でいうまでもなく天皇は明治から象徴でしかないから。
200日本@名無史さん:04/10/05 22:05:59
じゃあ、この文は変ですね↓

189 :日本@名無史さん :04/10/05 17:39:37
明治になると
天皇より新しい暦が下された。
天照皇大神の子孫たる天皇の世にふさわしい
太陽暦である。

人々は古い暦を将軍暦として
捨てさった。
201日本@名無史さん:04/10/05 22:51:27
>>189
古い暦って?旧暦といわれる太陽太陰暦を制定したのは持統天皇だし。
202日本@名無史さん:04/10/06 01:51:17
大体、幕末の世論ってどうやって調べんだ?
203日本@名無史さん:04/10/06 02:04:53
早くタイムマシン作れよ
204日本@名無史さん:04/10/06 09:53:30
>正月に幕府が朝廷に挨拶に行き、勅使が返礼に来た。

将軍は行ってないから幕府の使いがね。
つか、これは幕府の周到な政策=政治的演技だね。
困るのはその理由を知らない人がいること。

幕府は伊勢神宮とか行かないけど、
朝廷は日光大権現に行かされてたね。
権威の差なんだろうね。
205日本@名無史さん:04/10/06 10:33:13
>ドイツ人医師のケンペルは天皇を宗教的世襲皇帝とし将軍を世俗的世襲皇帝と訳した

ま、要するに天皇は日本における神聖ローマ皇帝であり教皇なわけです。
将軍はシャルルマーニュなわけです。
206日本@名無史さん:04/10/06 10:34:36
というより神聖ローマ皇帝は西洋版の天皇であり
シャルルマーニュは西洋版の征夷大将軍なわけです。
207日本@名無史さん:04/10/06 10:37:16
天皇は教皇とはちょっと違うんじゃないかい?
あと、神聖ローマ皇帝と教皇って矛盾してるんじゃ?
208日本@名無史さん:04/10/06 10:39:06
>>207
どう矛盾?
209日本@名無史さん:04/10/06 11:45:52
矛盾もなにも、全然ちげーし。アフォカ。
210日本@名無史さん:04/10/06 13:22:06
>>206 てゆーか、神聖ローマ皇帝が征夷大将軍で、
天皇が教皇だろ。馬鹿。
211日本@名無史さん:04/10/06 15:47:13
文芸春秋「世界を見てしまった男たち」によれば、江戸時代、帰国をはたした
名のない漂流民が、幕府の調書に「一天万乗の天子さまの国への想い」を告白してます。
212日本@名無史さん:04/10/06 15:55:51
天皇も早く平民にならんといかんな。
213日本@名無史さん:04/10/06 15:57:43
皇位を簒奪する気か
214日本@名無史さん:04/10/06 15:58:44
天皇はプリーストキング
215日本@名無史さん:04/10/06 20:41:05
まあ、そうでしょうね、俗世間の権力などほとんど無いし・・・。
外国人に天皇の立場を説明するには、ちょうどいい言葉だと思う。
216日本@名無史さん:04/10/06 21:40:33
いや、幕末の外人の間では
天皇こそが古代からの絶対君主で
将軍が軍事を任されているうちに
実権を奪ったという
認識までもつにいたっている
217日本@名無史さん:04/10/06 21:44:51
「江戸の皇帝」と「京都の皇帝」 欧米列強の見た幕末日本

「江戸の皇帝」と「京都の皇帝」。ずばり言えば、米国側に最も欠けていたものは、これに尽きると思います。
当時の欧米列強は、徳川将軍を「Tycoon」(タイクーン:大君)と呼び、諸王(諸大名)の上に君臨する
日本の「皇帝」(Emperor)として、幕府を「Shogunate」(ショーグネイト)と呼び、日本を代表する唯一合法かつ
正統な政府(Government)として認識していました。その観点からすれば、「日本の首都」である江戸に赴き、
「日本の皇帝」である徳川将軍の裁可が得られさえすれば、対日条約は簡単に調印出来る、
と米国は高を括っていたのかも知れません。まして、「黒船」と言う軍事力をちらつかせれば・・・と。
しかし、結果的には予想以上の交渉期間を米国側は強いられる羽目になった訳です。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/two_emperor.html

218日本@名無史さん:04/10/06 21:45:57
>>198-200
何を否定したいのかね?
太陽暦は天照皇大神
の子孫たる天皇様から発布されたのは
紛れもない事実。

同時にセットで皇紀が発令された事実
を見るべし。
219日本@名無史さん:04/10/06 21:48:39
明治天皇の地方行幸は
明治天皇が江戸に行幸された際の
庶民の熱狂ぶりをみた
政府がこの人気を利用しようと画策したもの
220日本@名無史さん:04/10/06 21:52:17
まあ、今日のその時
を見れば
当時(幕末、明治)の天皇人気のすさまじさ
はわかろうというもの
221日本@名無史さん:04/10/06 21:53:19
天皇様なんて呼び方はしない
222日本@名無史さん:04/10/06 22:15:13
太陽暦も紀元節制定も太政官布告
で、2つの別の布告
正確には、明治5年に紀元節が祝日とされ、
明治6年に2月11日となった。
太陽暦太政官布告は明治6年。

安政の初めころ、天文方渋川景佑によって日本最初の本格的太陽暦
「万国普通暦」が刊行

天皇は関係ないね。
223日本@名無史さん:04/10/06 22:19:31
太政官布告は天皇の裁可が必要なのだが。

とっくに滅んだ幕府マンセーの諸君、馬鹿じゃないのww
224日本@名無史さん:04/10/06 22:21:12
「大統領」になり損ねた将軍 大政奉還の真実

さて、「大政奉還」によって政権を朝廷に「返上」した筈の慶喜ですが、実は彼自身、何一つ失ってはいないのです。
例えば、当時の列強諸国の認識動向です。慶喜は将軍に就任して以来、列強諸国から「日本の皇帝」(エンペラー Emperor)
として承認されていました。その彼が、12月9日の「王政復古」の政変による幕府廃止に伴い、将軍職を辞任
(と言うよりも更迭)させられた一週間後の12月16日、大坂城(大阪城)に各国公使を引見した際、慶喜は引き続き
「自分自身が日本の主権者である」旨を宣言しており、公使達もそれを支持していたと言う事実です。更に重要な事は、
「大政奉還」にしろ「王政復古」にしろ、朝廷=新政府(薩長主体の)には、発足当初、日本を統治する何らの実力も無かったと
言う事です。「大政奉還」を受理した朝廷は、国家の重要案件や外交問題の処理については「衆議を尽くす」事、
その他の案件については「召しの諸侯上京の上、御決定これあるべく」として、諸大名に対して朝廷から
上京命令が発せられたのですが、譜代大名(徳川家の直接の家臣)の多くがこの命令を辞退(無視)し、
朝廷より賜った官位を返上しようとした事実です。つまり、彼ら譜代大名にとっては、徳川家こそが自分達の主権者であり、
外様(とざま)である薩長が主体の新政権=朝廷に指図を受ける筋合いは無い、と考えた訳です。
だからこそ、上京命令無視・官位返上と言う挙に出ようとした訳です。これが意味するものは、
例え将軍職(列強諸国が言う所の「エンペラー」)を辞したとしても、慶喜が「日本の主権者」である事に何ら変わりがなかったと
言う事です。そして、その慶喜が最終的に目指したもの、それは将軍に代わる新たな地位 ── すわなち「日本国大統領」の座だったのです。

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/keiki.html
225日本@名無史さん:04/10/06 22:25:34
↑帝国電網省のページなんか参考にならん。
226日本@名無史さん:04/10/06 22:34:05
なら大室も否定するのか?
このサイトに載ってるが
227日本@名無史さん:04/10/06 22:43:56
>>223
今の憲法も法律も天皇のサインが必要だけど天子様にいただいたの?
228日本@名無史さん:04/10/06 22:50:50
>>225
そんなこと言ってたら殆どのサイトが役に立たないな
229日本@名無史さん:04/10/06 22:58:52
>なら大室も否定するのか?

当たり前だ。
大室説を信じている奴は電波。
230日本@名無史さん:04/10/06 23:02:49
それ以前に、「明治天皇」は孝明天皇の子ですらない【孝明天皇暗殺と睦仁親王すり替え事件】
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/816.html
231日本@名無史さん:04/10/06 23:05:27
↑大室スレへ行け。

狂人用の隔離スレだ。
232日本@名無史さん:04/10/07 00:23:26
>幕末の外人の間では天皇こそが古代からの絶対君主で
>将軍が実権を奪ったという認識までもつにいたっている

そのくらいの認識は持って当然。早くからシーボルトとかもいたし
戦国の宣教師が日本について書いた書物も当然研究してるだろ。彼らも馬鹿じゃない。
天皇が法王だなんてことはとっくに承知していながら、わざと分からん振りをして
幕府に強硬に迫ったわけだろ。当然じゃん。
ちなみにその時の日本にも法王のことを知ってる学者ぐらいいたに決まってるが
それが幕府上層部の政策決定に反映されたかどうかは別だな。受身の側だし。
233日本@名無史さん:04/10/07 00:30:56
天皇は祭祀王
234日本@名無史さん:04/10/07 11:10:23
江戸時代の天皇って、本当に権威も権力もなかったね。
譲位すると気が楽になってよかっただろうね。
235日本@名無史さん:04/10/07 12:43:17
>>234
権威はあったと思うぞ。
幕府が天皇を事実上の幽閉状態にしたのは、その権威を
恐れ、一人歩きしないよにするためだと思う。
過去にあの権威に否定的な織田信長でさえ、勅命を利用した
事例があるのだから。
236日本@名無史さん:04/10/07 13:42:49
権威がつくのを恐れた。存在してたわけではない。未遂の未来を慮った。
あと、勝ち馬で天皇を援助していた信長だから戦闘停止令を利用できたんで、
負け組み大名では利用もできなかった。
237日本@名無史さん:04/10/07 17:25:50
良くも悪くも結局は玉扱いだったんだよ
238日本@名無史さん:04/10/07 22:04:38
玉って実は交換可能なんだよね。

万世一系とか言いつつ、
日本的交換は「譲位」という形で行われている。
ある意味、日本的な陰湿さ。

正当性を誇示しつつ、裏で真の実力者たちの凄惨な権力闘争が。
ああ、麻呂はこんな歴史はいやじゃいやじゃ。
239日本@名無史さん:04/10/07 22:08:56
>>238
面白い発想だね
なるほどねぇ。。。
240日本@名無史さん:04/10/07 22:17:04
いる意味、天皇家が歴史のほとんどで権力を臣下に丸投げ
していたから、現在まで天皇が続いたと思う。
天皇自身が権力を手放すことがなかたら、中国みたいに
ちょくちょくと皇朝が交代しただろうな。
241日本@名無史さん:04/10/07 22:55:10
支那の場合は、異民族流入とその表層的拂底いう要素も無視できぬなぁ。
しかし皇室を今日まで永続せしめたのは、君臨すれども関知せず、
驚異の低血圧体質にあったことは、間違いあるまい。
242日本@名無史さん:04/10/08 09:00:35
>低血圧体質
ワラタヨ

しかし、中国パターンが世界標準。
日本のは今のいじめ体質につながる陰険な島国根性?
243日本@名無史さん:04/10/08 12:24:26
日本の何処に陰険な虐め体質があるんだ?>>242は国内外から虐めを受けたうえでの比較を述べているなら別に反論はないが・・・
244日本@名無史さん:04/10/08 12:50:39
そうか、日本人の異を排除しようとする地域・学校・会社の
いじめ体質の根っこは天皇制度にあるのかも!w
245日本@名無史さん:04/10/08 12:54:35
異の排除は夷の排除だからな
246日本@名無史さん:04/10/08 21:19:54
>君臨すれども関知せず
多くの場合は、君臨すれども関知させてもらえず。
親政の場合は、やばいときは、君臨すれども責任転嫁w。
247日本@名無史さん:04/10/09 00:36:28
>>220
公家が天皇より岩倉の動向を重要視していたこともわかった。
>明治天皇は依然マゲを結ったままなのに、岩倉がマゲを切った途端に追随する公家たち。
248日本@名無史さん:04/10/09 08:58:21
>>247
断髪積極論者 木戸
断髪消極論者 岩倉

249日本@名無史さん:04/10/09 11:45:15
岩倉は、アメリカで断髪積極論者に変身した。
250日本@名無史さん:04/10/09 12:26:57
岩倉の権威>明治天皇の権威
251日本@名無史さん:04/10/09 12:45:24
岩倉は当時公家の中心的存在だからな。
252日本@名無史さん:04/10/10 09:22:32
江戸時代の天皇って、尊敬されてなかったね。
253日本@名無史さん:04/10/10 14:03:48
明治の元勲ら、すなわち幕末の維新の志士ですら、天皇は神だと思っていない。
254日本@名無史さん:04/10/10 16:38:56
そもそも天皇が神聖視されたのは、
記紀編纂直後の奈良初期と明治〜昭和だけだろ。
255日本@名無史さん:04/10/10 16:57:10
>>254
明治中期〜昭和前期ね
256日本@名無史さん:04/10/10 17:02:36
明治の元勲=幕末の志士は、天皇の利用の仕方がうまかった。
伊藤は天皇家に生まれた子は不自由だと同情していた。

昭和前期でも、政財界軍部の上層部は誰も神だと思ってない。
田舎の小学生くらい。
257日本@名無史さん:04/10/11 13:05:04
いや、ボケ老人もだ。
258日本@名無史さん:04/10/11 18:53:12
否定派の意見はくだらん。

幕府はそもそも天皇大権の一つである
軍事を委任されることでなりたっている。
259日本@名無史さん:04/10/11 18:57:21
江戸幕府は天皇に残された軍事以外の
中世宗教的な力をおそれそれを封じることに
なかば成功した。
しかし、その頃から天皇のもう一つの側面であった
古代神話的な力が噴出しはじめたのであった。
260日本@名無史さん:04/10/11 18:59:27
江戸中期頃から幕末にかけての神道ブームがそれである。
261日本@名無史さん:04/10/11 19:00:44
天皇と教皇は似すぎている
262日本@名無史さん:04/10/11 19:05:50
最近は明治の元勲はおろか志士までもが
天皇を敬っていなかったという妄説を
唱える輩が増えたが
よく検討してみれば噂や誤解から出たでたらめであることは明白である。
当時の人にとっては尊皇は空気と同じくらい当たり前のこと
だったのだ。
263日本@名無史さん:04/10/11 19:08:44
安重根は伊藤博文が孝明帝を暗殺したので
明治帝に変わり天誅を喰らわしたと供述したそうだ
264日本@名無史さん:04/10/11 19:12:29
神話が復活した時に神話の時代の天皇親衛隊であった隼人が
台頭したのは偶然ではない。
わずか八百人の薩摩隼人を連れた勅使の姿は
人々に神話さながらの強烈な印象を与えた。
だからこそ
幕府はひたすら平身低頭して
将軍はパシリのごとく京までかけつけ
天皇に詫びをいれたのだった。
265日本@名無史さん:04/10/11 19:15:35
>>263
慶喜は将軍になるため家茂を暗殺したそうだが?
266日本@名無史さん:04/10/11 19:19:20
家茂と孝明帝は同一勢力に暗殺されたという説もあるが
267日本@名無史さん:04/10/11 19:21:21
ちなみに江戸期でも
仏教の最高栄誉である
国師号は天皇から出された。
やはり将軍では仏教者を評価するものとしては
役不足だったのだ。
268日本@名無史さん:04/10/11 19:23:17
>>266
だから噂なんだよ。
それとも新たな資料でも発見されたか?
269>>267:04/10/11 19:27:17
>やはり将軍では仏教者を評価するものとしては
>役不足だったのだ。

「役不足」この程度の日本語も使えないとは?
力不足と書くべきでしょうね。意味が反対。
270日本@名無史さん:04/10/11 19:45:16
>>268
大室もうわさか
271日本@名無史さん:04/10/11 19:52:20
大室は噂の域を越えて電波といえます。
272日本@名無史さん:04/10/11 21:16:07
伊勢ブームは天皇と全然結びつかなかったね。
273日本@名無史さん:04/10/11 21:17:56
>仏教の最高栄誉である
>国師号は天皇から出された
幕府に先に内諾をとってから決めてたね
274日本@名無史さん:04/10/11 21:21:51
>幕府はそもそも天皇大権の一つである
>軍事を委任されることでなりたっている

逆だね。
朝廷はそもそも、
江戸幕府の政策で残された。
275日本@名無史さん:04/10/11 21:24:07
>>264
>将軍はパシリのごとく京までかけつけ
>天皇に詫びをいれたのだった。
誰が誰に
何を詫びたんですか?
教えてください。
276日本@名無史さん:04/10/11 21:35:40
江戸時代の天皇って本当に権威も権力もなかったね。
まさに、玉。
尊王攘夷は幕府の政策だったね。
277日本@名無史さん:04/10/12 02:49:13
幕府は天皇に一指も触れられなかったというのが事実。
278日本@名無史さん:04/10/12 02:53:26
[禁中並公家諸法度]

一 天子御芸能の事、第一御学問也。
一 摂家たりと雖も、其の器用無きは三公摂関に任ぜられるべからず。況んや其の外をや。
一 器用の御仁躰、年老に及ぶと雖も、三公摂関、辞表有るべからず。但し、辞表有りと雖も、再任有るべき事。
一 武家の官位は、公家当官の外たるべき事。
一 改元は、漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし。
一 関白、伝奏並に奉行職事等申渡す儀、堂上地下の輩相背くに於ては流罪となすべき事。
一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。


279日本@名無史さん:04/10/12 09:52:28
幕府は、完全に天皇を御所に閉じ込め、飼い犬化するのに余裕で成功した。
父親のお見舞いに行くのさえ御所を出る許可を出さなかった。
280日本@名無史さん:04/10/12 10:20:21
問題はなぜ犬を飼い続ける必要があったのかということですよ。
281日本@名無史さん:04/10/12 10:28:00
便利だったから
282日本@名無史さん:04/10/12 10:54:28
そう、エサ代は安くて、使い道はあり、便利な道具だった。
283日本@名無史さん:04/10/12 10:55:07
>>264
>将軍はパシリのごとく京までかけつけ
>天皇に詫びをいれたのだった。
誰が誰に
何を詫びたんですか?
教えてください。
284日本@名無史さん:04/10/12 11:54:22
天皇は生かさず、殺さず。
神輿は軽くてパーが良い。
285日本@名無史さん:04/10/12 12:25:21
>>284
うまい!
パーというか、無口がいいw。
286日本@名無史さん:04/10/12 21:05:57
玉って実は交換可能なんだよね。

万世一系とか言いつつ、
日本的交換は「譲位」という形で行われている。
ある意味、日本的な陰湿さ。

正当性を誇示しつつ、裏で真の実力者たちの凄惨な権力闘争が。
287日本@名無史さん:04/10/12 21:47:04
というお話だったのさ、というAA
288日本@名無史さん:04/10/13 12:08:32
家茂って1度目の行幸は付き合ったけど、
2度目のはさすがに断ってるね。
理由は何にしたんだろう。病気かな?
289日本@名無史さん:04/10/13 14:02:11
万世一系なんてぬかしてもまだ200代にも行って無いじゃんw
290日本@名無史さん:04/10/13 15:52:13
歴代で200代を超える王家などエチオピアくらいしかないだろ
他は100すらいってない
291日本@名無史さん:04/10/13 18:04:51
125代天皇の中身

架空の天皇
役立たずの女(10代、8名)、子供の天皇。
残虐天皇。
キチガイ天皇。
血統の繋がっていない天皇。
ボンクラ天皇等、ろくな奴はいない。
292日本@名無史さん:04/10/13 18:08:20
後白河や後鳥羽は政治指導者としてはかなり問題ありと思うが、
個人としては面白いオッサンだと思う。

いまの天皇や息子たちよりはガッツもエネルギーもあるw
293日本@名無史さん:04/10/13 18:41:03

血統自慢なんて、
犬、ネコと同じレベルだナ。
294日本@名無史さん:04/10/13 21:04:51
>>293は雑種
295日本@名無史さん:04/10/13 21:09:47
296日本@名無史さん:04/10/13 21:11:03
ワロタ
297日本@名無史さん:04/10/13 21:13:15
桜町とか桃園とか軟弱な名前なのがイイ
298日本@名無史さん:04/10/13 22:11:16
>>294
昔からの血統書つきの飼い犬だって雑種と交わったら、
いくら取り繕ってもその子犬は品評会では通用しない。
299日本@名無史さん:04/10/13 22:18:34
皇統だけの話じゃないんだよね。国家とか伝統格式、精神性とかそれに付随する民族とかその歴史とかも大切なんよ。いや、皇統も大切だけどさ。
300日本@名無史さん:04/10/14 10:48:23
天皇家の歴史って、民族の歴史と無関係なくらい関係ないね。
天皇かがなくなってても、日本独自の文化文明精神ってできたよね。
301日本@名無史さん:04/10/14 10:59:19
天皇が不法移民して来る前はもっと平和に暮らしていたわナ。
302日本@名無史さん:04/10/14 14:01:12
>国家とか伝統格式、精神性とかそれに付随する民族とかその歴史とかも大切
北方と南方の民族の交流
そこに大陸や半島の民族の交流
その上に生まれた民族の伝統や精神性
それは1万年近い民族の歴史

天皇って天武から1300年ぽっち?しかも人間宣言でもう神性ないしw
終わってるボ
303日本@名無史さん:04/10/14 18:31:14
>>300
根拠がないな
具体的にどうできたわけ
304日本@名無史さん:04/10/14 20:39:42
神性を求めてる奴って・・・・・・


まごうことなき人間。それで全然OKだろ。
305日本@名無史さん:04/10/15 09:46:02
>>303
はあ?天皇なんかいなくたって日本の歴史はどうにかなったろう。
日本人をなめるなよ。チョソか?

>>304
だから、いらないじゃん。つか現実には神事ばかりやってるんだけどね。
306:04/10/15 19:21:47
おんしらなんの話しとるんや。スレの主旨から脱線しとるだろ。
しかも、低レベルな話で。
307:04/10/15 19:27:44
>>300
>>305
宮中行事の流れを汲む民間行事がどれほどあるか調べて
いわんかい。
王朝文化の影響を受けている古典文学、芸能がどれほどあるか
調べてからいわんかい。
煽りだろうが、ごるあぁぁ!
308日本@名無史さん:04/10/15 19:32:01
>>283
うむ、天下の将軍様が苔むした天子様に
神州を守りきれなかったことを
土下座して詫びたんですな。
309日本@名無史さん:04/10/15 19:34:51
>>274
浅いな。
310日本@名無史さん:04/10/15 19:37:27
>>269
いや間違ってない。
むしろ爾は己の学識の甘さを恥よ。
311:04/10/15 19:40:32
明治以降の皇帝的天皇観に
囚われている右や左の愚かものどもに
目を覚まさせるために
このスレを立てたのである。
312シャグマ:04/10/15 19:48:22
しかし、いくら錦旗が怖かったとはいえ
天下分け目の大戦での東軍(徳川幕府)の有り様は
あまりにも情けない。
敗軍としては関ヶ原の西軍のが
よほど立派であった。
313日本@名無史さん:04/10/15 20:10:14
佐幕ヲタは同じ時間帯に書いてても
絶対にリアルタイムで絡むのを避けている。
幕末の官僚旗本と同じで腰抜。
314シャグマ:04/10/15 20:17:39
慶喜は尊皇家だからこそ
鳥羽伏見からさらには江戸まで捨てて
逃げつづけたんじゃないのか?
違うなら単なる腰抜けじゃろが。ゴルァ!ハッスルせんかい!
315日本@名無史さん:04/10/15 21:40:35
>>308
>うむ、天下の将軍様が苔むした天子様に
>神州を守りきれなかったことを
>土下座して詫びたんですな
何をどう詫びたんですか?
316日本@名無史さん:04/10/15 21:42:19
天皇って日本文化に別にいらなかったよね
317日本@名無史さん:04/10/15 21:48:45
過去に存在したものが不要であったかどうかを問うのは、歴史学の仕事ではない。
318ハッスル!シャグマ:04/10/15 21:49:43
>315
>316
腰抜けは出てくんなゴルラオァ!
319日本@名無史さん:04/10/15 21:54:09
佐幕ヲタに天誅!
320日本@名無史さん:04/10/15 21:56:42
うむ佐幕ヲタのびびりようは
まさに天誅におびえる幕末の徳川そのもの
321日本@名無史さん:04/10/15 22:00:38
佐幕ヲタは文弱の臭いがするな

バリバリ硬派の浪士、志士、薩長を嫌うわけじゃ
322日本@名無史さん:04/10/15 22:04:23
薩摩、土佐は豪傑の地→佐幕ヲタの理論なぞ聞くものなし

長州は天才的狂信的理論派の地→佐幕ヲタのへっぽこ論なぞ一蹴
323日本@名無史さん:04/10/15 22:14:57
佐幕とか勤王とか
そんな1世紀以上も前のイデオロギーが議論に必要ですか?
そんなものは抜きにして話をしませんか。
324日本@名無史さん:04/10/15 22:15:52
何をどう詫びたんですか?
325日本@名無史さん:04/10/15 22:37:17
ひとつ面白かった本を紹介。
「幕末の宮廷」下橋敬長(しもはしゆきおさ)述
一條家の侍(諸大夫に次ぐ上級家臣)だった下橋の大正期の回想録。
博覧強記の述者による話は、史料的信頼性が高く読みやすい。
平凡社の東洋文庫に収められているので、入手は用意と思われる。
御所のお約束や面白いトホホな話が満載で是非一読されたし。
326日本@名無史さん:04/10/15 22:39:54
何をどう詫びたんですか?

327日本@名無史さん:04/10/15 22:55:48
>>325
俺もずっと欲しいんだけど、
出版社にも在庫ないんだよね。
328日本@名無史さん:04/10/15 22:58:03
普通の中規模図書館ならあります。読みやすいです。

で、何をどう詫びたんですか?

329日本@名無史さん:04/10/16 21:29:51
孝明天皇は評価が極端だけど、光格天皇は好きな人が多いのかな?
330日本@名無史さん:04/10/17 20:51:34
役行者に神変大菩薩の号を贈った
のは光格天皇でした。
こういうことは将軍では役不足でできない。
331日本@名無史さん:04/10/17 20:55:20
江戸時代の庶民にとっては
天皇様のが偉大なる将軍様より親しみがあったようだ。

江戸期の文学、芸能に偉大な将軍様が登場する作品はほとんどない。
332日本@名無史さん:04/10/17 20:58:27
>>331
将軍は現実の権力者だから出版・上映に際していろいろとタブーがつきまとうのは当然だね。
それに対して天皇は実権も存在感もないから筆禍事件に巻き込まれる心配がない。
333日本@名無史さん:04/10/17 21:11:00
>>332
やはり甘い認識だな。将軍様ロマン派は。
徳川幕府はかりにも武家政権。タブーではなく現実に厳しい統制取締をかけてたんだ。
もっとシビアなんだよ。
334日本@名無史さん:04/10/17 21:14:27
将軍様の名のもとに
粛清弾圧された庶民がどれだけいたと
思ってるんだ?

都合のいい夢みてんじゃねえぞ。
335日本@名無史さん:04/10/17 21:15:39
役行者w
こんなのに将軍がかかわったら笑われ者だろう。
つか、幕府の許可をとってから号を贈ったんだけどね。
336日本@名無史さん:04/10/17 21:18:29
剣術と漢詞を愛好し
た硬派、後光明天皇は
幕府に恐れられ毒殺された
337日本@名無史さん:04/10/17 21:20:42
>335
その的はずれなカキコのが
笑われものだ
338日本@名無史さん:04/10/17 21:24:29
江戸の庶民の信仰を集めたお稲荷様に
位をさずけたのも
天子様だったわけだ
339日本@名無史さん:04/10/17 21:27:34
>将軍様の名のもとに
>粛清弾圧された庶民がどれだけいたと
>思ってるんだ?
そんなにいますかね。
一揆を処罰するのは領主ですし。
340日本@名無史さん:04/10/17 21:29:08
>>336
>後光明天皇は幕府に恐れられ毒殺された

ソースは?w
341日本@名無史さん:04/10/17 21:30:44
>>338
正一位だから信仰を集めたわけではないのだが。
342日本@名無史さん:04/10/17 21:33:35
>339-341
キミは単なるああ言えばこういう君だろ。
ちゃんと自分の意見ももちたまへ。
343日本@名無史さん:04/10/17 21:35:55
まだアズマのがはりあいがあったな。
344日本@名無史さん:04/10/17 21:42:15
>>340
そうではないというソースは?ww
>>341
信仰を集めたから正一位を賜ったのだがねww
345日本@名無史さん:04/10/17 21:44:26
>>339
天オタの彼は幕藩体制って知らないんだよ。
江戸時代の一揆って本当に死傷者が出なかったね。
特に天領の農民は他と比べたら極楽。
346日本@名無史さん:04/10/17 21:47:14
>>344
鎖国スレにいた人かな?

何かを主張するなら、まずは根拠を示すのが常識かと。

また>>341に対する言及は、反論にも何にもなっていない。
正一位を賜る前から、信仰を集めていたと言うことを私は指摘しただけなので
あなたの言っていることと私の言っていることは全く同じだ。
347日本@名無史さん:04/10/17 21:47:30
>>344
疱瘡が定説ですが。新説でもお持ちですか?
348日本@名無史さん:04/10/17 21:49:58
>>338
>お稲荷様に位をさずけたのも天子様だったわけだ
幕府の許可をとってからねw。
349日本@名無史さん:04/10/17 21:58:22
江戸時代の川柳

道鏡に崩御崩御と称徳言い

天皇家、江戸の庶民に思いっきりバカにされてますな。
350日本@名無史さん:04/10/17 22:10:42
道鏡に 根元まで入れよと 詔
351日本@名無史さん:04/10/17 22:14:40
>>348
お稲荷さんに正一位の官位が与えられたのを江戸時代と思い込んでる
無知蒙昧の貴方にお線香をあげましょう。
352日本@名無史さん:04/10/18 11:51:55
伏見稲荷大社は、942年です。
353大五郎:04/10/18 21:12:04
わしの他に二人もいるのか?紛らわしいので
適当にコテつけられたし。
354大伍:04/10/18 21:15:34
くだらん争いは大御心に反するので
煽りは却下
355日本@名無史さん:04/10/19 19:34:53
少し前までは戦後でも
天孫降臨の地、高千穂に新婚旅行に
出かけたものだが、
江戸時代の旅行ブームの時に高千穂に出かけた庶民も多かった。
356日本@名無史さん:04/10/19 19:40:02
高千穂には剣のモチーフが刺さってたんだってな
357日本@名無史さん:04/10/19 19:50:58
↑それは詳しくしらぬのでよかったら教えてたもれ
358日本@名無史さん:04/10/19 19:54:11
江戸期の天孫降臨の地高千穂ブームは
やがて天之岩戸の神鏡をおさめた石棺が発見されるという
現象まで引き起こした。
359日本@名無史さん:04/10/19 19:55:47
江戸時代には邪馬台国論争がすでにあった
360日本@名無史さん:04/10/19 20:05:52
江戸時代てじつは歴史ブームの
時代でもあったんだよね。
そんななかで京都に軟禁中の天皇が
クローズアップされてきたんだね。
361日本@名無史さん:04/10/19 20:08:01
生活に余裕が出てくれば人々は精神的な満たしを求めるもの
江戸期の庶民はすでに豊かだったんだよ
362日本@名無史さん:04/10/19 20:29:53
↑まあ前の時代よりはてことで。あんまり美化しすぎるのもどうかと。
何度かあった飢饉のこともお忘れなく。
363日本@名無史さん:04/10/19 20:32:10
飢饉があったのは事実だが、当時の世界でここまでの自給率をはじき出す国はなかった
364日本@名無史さん:04/10/19 20:37:03
しかし、安定した平和な時代を
実現した徳川幕府にはやはりそれなりの評価を与えてもいいだろう。
その平和的徳治主義の方針はまさに
王朝時代の遺風を受け継いだものだったから
たとえば幕末の孝明天皇も幕府をなくす気はなかったんだね。
365日本@名無史さん:04/10/19 20:42:41
まあ、おもしろおかしく
西の天皇と東の将軍とかってやたら
対立ばかりとりあげて
煽る輩がいるが、たしかに対立もあったけどそれ以上にもちつもたれつだったんだね。

八代将軍吉宗なんかもベトナムから像が
きたということで
さっそく天子様に見ていただこうと
御所におくったこともある。
366日本@名無史さん:04/10/19 20:45:35
江戸期にも皇統の危機は何度かあったから
幕府はその気になればなくすこともできたものを
なんとか存続させようと奔走している。
367日本@名無史さん:04/10/19 21:04:31
でも町人文化は上方主導だったね
368日本@名無史さん:04/10/19 21:21:27
しかし、幕府はともかく、
歴代将軍家をみると



病弱
犬基地
短慮
マザコン

じいまかせ

短慮、わがまま
無能
奇行
十四
十五
369日本@名無史さん:04/10/19 21:23:58
>368
正直、二、三もあやしい
370日本@名無史さん:04/10/19 21:26:23
歴代天皇家は文化に多くの功績を
残しているのとくらべると
371日本@名無史さん:04/10/19 21:55:31
かかってこいや!
372日本@名無史さん:04/10/19 22:03:40
↑白痴
373日本@名無史さん:04/10/19 22:04:44
>372
他には?
374日本@名無史さん:04/10/19 22:05:17
>>366
でも岩倉が皇統を断絶させてしまった・・・
375日本@名無史さん:04/10/19 22:07:00
>374
大室スレにでも失せろ
376:04/10/19 22:18:48
>>368-370
四代将軍家綱が世嗣のないまま危篤
になった時、時の大老はじめ幕閣の多くははじめ
「鎌倉の例に倣い京都から宮将軍をお迎えしたい」
と主張しました。
まあ、将軍といえども一つの御輿にすぎなかったわけですね。
377日本@名無史さん:04/10/19 22:31:30
>少し前までは戦後でも
>天孫降臨の地、高千穂に新婚旅行に
>出かけたものだが、
その前は熱海でしたがw?

>江戸時代の旅行ブームの時に高千穂に出かけた庶民も多かった。
それほどいません

>でも町人文化は上方主導だったね
化政文化って知ってるよねw?
378日本@名無史さん:04/10/19 22:42:06
953 名前:日本@名無史さん :04/10/19 22:09:23
明治天皇に対する人々の考え方ってどうだったの?
あとなんで大正天皇っておかしいの?


379日本@名無史さん:04/10/19 22:42:45
宮将軍といえば近代でも皇族が首相になったりしてたな
380日本@名無史さん:04/10/19 22:46:02
>>308
>うむ、天下の将軍様が苔むした天子様に
>神州を守りきれなかったことを
>土下座して詫びたんですな

何をどう詫びたんですか?
381日本@名無史さん:04/10/20 04:56:42
歴代将軍
1.極悪
2.軽率
3.神輿
4.病人
5.吉外
6.偏屈
7.幼児
8.暗鬱
9.痴呆
10.優柔
11.色魔
12.凡人
13.白痴
14.軟弱
15.冷淡
382日本@名無史さん:04/10/20 08:55:21
>>381
歴代天皇と同じだな。
383日本@名無史さん:04/10/20 16:25:47
>>377
下手なつっこみいらん
>>380
肝っ!
384日本@名無史さん:04/10/20 16:28:23
>>382
マジレスすれば
歴代天皇は多くの
文化作品を残してますよ
385日本@名無史さん:04/10/20 16:31:21
>>379
そうですね。日本国民は多くのピンチを
天皇様、宮様に助けられた
恩を忘れてはなりませんね。
386日本@名無史さん:04/10/20 17:39:10
天皇ヲタって質問に対し何の説明もせず妄想を垂れ
流すだけだな。
キモい事この上ない。
387日本@名無史さん:04/10/20 18:12:44
>>385
迷君のお陰で敗戦も原爆も体験できたし。
388日本@名無史さん:04/10/20 19:18:02
>387
じつに間違った認識だ。
なにも明治天皇は望んで歴代千年住み慣れた京都をはなれ
立憲君主の地位についたわけではない。

当時の時代情勢から世と天の要請を引き受けて
我が国の近代化と国際地位の向上に貢献してくださったのである!
389日本@名無史さん:04/10/20 19:19:41
はやく皇位を安定させねば
天変地異がおさまらぬぞ!
390日本@名無史さん:04/10/20 19:38:54
東叡山寛永寺。言うまでもなく、京都の比叡山延暦寺を模した寺院である。
1655年、後水尾天皇の第三皇子である守澄法親王が江戸に下向し、初代の
輪王寺宮として寛永寺門主となる。寛永寺門主は、同時に日光東照宮の主
も兼ねていた。以降、明治期の第15代公現法親王まで、寛永寺と東照宮は
代々皇族が主となった。
391日本@名無史さん:04/10/20 19:46:03
八王子。言うまでもなく、大正天皇の多摩御陵・貞明皇后の多摩東御陵・
昭和天皇の武蔵野御陵・香淳皇后の武蔵野東御陵が集まる地である。
これらの御陵への参道、陵墓地内には美しい木々が植えられている。
しかし、それは東京の木であるイチョウではなく、京都の木である北山杉
なのである。
392日本@名無史さん:04/10/20 19:50:40
「上司は思いつきでものを言う」橋本治著
を読め。天皇とはいかなるものかということが書いてある。非常に納得感があった。

将軍には徳がない。徳がない以上、頂点にたつことはできないのだ。
なぜ誰も天皇を超えられなかったのか?それは自信がなかったからだ。
だれもがどんなにがんばっても天皇の「徳」をこえることはできないことを知っている。
それは、天皇が政治に関与せず、生涯を「徳」を磨くことに精進していたからだ。
中国の天子との一番の違いは、日本の天子は「得を磨くために勉強する」
ということだそうだ。徳で誰もかなわないから、易姓革命は起こりえない。
暴君がいかかったことも天皇の特徴である。武烈と陽成を除けばな。
393日本@名無史さん:04/10/20 21:16:21
>>392
まったく同感です。
天皇は学を修め、徳を磨き、また日本を代表する
祭主として神神を斎祭ってきました。
また、皇子や上皇は仏門に入り国家鎮護と悟りを目指す修行をされてきたのです。

まあ、将軍とはそもそも次元が違う存在なわけですな。
394日本@名無史さん:04/10/20 22:07:18
>>390
>寛永寺と東照宮は代々皇族が主となった。
まるっきり幕府に使われていたんだね。

>>393
>そもそも次元が違う存在なわけですな
そうです。次元が違います。自分の意見を出さないのが大切なんです。
出すと譲位させられますからw。
395日本@名無史さん:04/10/20 22:11:39
「徳」も「仁」も無いくせに、やたらと名前に「徳」「仁」を使う
 香具師。さっさとクタバレ、ペテン師ども。
396日本@名無史さん:04/10/20 22:30:49
>>392
近親相姦や妾制度、親族殺し合いで生き延びて来た、とんでも一族にどんな徳があると言うんかいな?
397日本@名無史さん:04/10/20 22:32:54
>>394
幕府は皇族に下向していただかないと、寛永寺や東照宮を格の高いもの
にできなかっただけの話。幕府権力は、しょせん朝廷の権威に寄生しな
いとやって行けなかった証拠。
398日本@名無史さん:04/10/20 22:45:04
>>391
>>東京の木であるイチョウではなく、京都の木である北山杉なのである。

落葉樹は秋の掃除が大変だからと言う、現実的な理由によると思われ。

399日本@名無史さん:04/10/20 22:53:44
>>398
そのような理由は無意味。
それでは、なぜ京都の北山杉という特定の木なのかが説明できない。
400日本@名無史さん:04/10/21 01:28:54
大正以降の天皇陵は、なぜ八王子に造営されるのだろうか?
401日本@名無史さん:04/10/21 02:58:47
>>400
土地があるから。
402日本@名無史さん:04/10/21 03:02:07
>>399
北山杉という杉の品種はありません。
秋田杉と同じような土地名産のブランド名です。
403日本@名無史さん:04/10/21 03:03:09
北山から移植した杉でしかない。
404日本@名無史さん:04/10/21 14:27:15
>>397
>幕府権力は、しょせん朝廷の権威に寄生しないとやって行けなかった証拠。

朝廷は、日光を拝まされていたけど、
幕府は伊勢神宮を拝んでなかったねw
405日本@名無史さん:04/10/21 14:33:19
井伊直弼の願文ってなかったけか
406日本@名無史さん:04/10/21 14:36:09
途中で買い込んでしまった(’・c_・` )ショボーン

幕府じゅないし、幕末だから事情はことなるけれどね。
スレ全部よんでないからあれだけれど、
江戸時代を「江戸時代」で一括して論じるって無理ありすぎ。
政情、世相なんて十年で変わる。
407日本@名無史さん :04/10/21 15:03:47
関係が比較的良好なのが 江戸時代の良いとこでしょ
維新はみかどの政治利用
408日本@名無史さん:04/10/21 15:12:44
幕府から食い扶持(1万石〜3万石の米)支給されてた朝廷に
権威があったなんてとても思えんな。

409日本@名無史さん:04/10/21 15:36:04
身分制度の頂点にいるからさ。
410日本@名無史さん:04/10/21 20:55:35
江戸幕府は天海が作った
411日本@名無史さん:04/10/21 20:57:26
>>408
少なくともおまえより権威はあるだろう。
412日本@名無史さん:04/10/21 21:31:40
正確には、「頂点にいさせられた」ということね。
413日本@名無史さん:04/10/21 21:33:41
幕府の政策だね。
幕府は皇子や天皇をしなかった親より、
関白を上位においていてたんじゃなかったかな?
414 ◆s3FoGJ0c0I :04/10/22 13:08:32
大正天皇ってキチガイだろ。
415日本@名無史さん:04/10/22 13:57:44
いや、脳炎をわずらった鬱屈気質だが、
巡幸や別荘に行くと元気になったそうだ。
家庭では意外に良き父親で、昭和帝は遊んでもらった記憶があるそうな。
しかし、政府の都合で、昭和帝は明治帝の王権創話を刷り込まれた。
政府からは弱い大正帝は疎んじられた。
416日本@名無史さん:04/10/22 15:08:41
>>414
皇太子の頃は活発だった。
天皇になってからは鬱になった。
417日本@名無史さん:04/10/22 16:22:28
そらそうだろまさに籠の鳥だったんだからな
418日本@名無史さん:04/10/22 17:47:25
来月デンマーク女王が来日するそうだ
419日本@名無史さん:04/10/22 21:03:28
天皇ってほとんどが、かごの鳥だね。
特に江戸時代は完璧。
420日本@名無史さん:04/10/22 22:04:04
草莽の臣高山正之
421日本@名無史さん:04/10/23 03:51:58
智子ちゃん天皇がいれば、何もいらない。
ムふっ
422日本@名無史さん:04/10/23 14:25:51
江戸時代の天皇について語れ!
http://www.2chdat.net/data/html/10211940/1031881781.html
423日本@名無史さん:04/10/23 21:42:05
かたじけない
424日本@名無史さん:04/10/24 20:28:30
政治形態に関わらず天子様を奉ることは
この国の正統な政府であることの
重要な要件であるから
幕府もないがしろにはできなかったのです。
425日本@名無史さん:04/10/24 20:37:50
家光あたりが勇気を出しとけばな・・・
426日本@名無史さん:04/10/24 21:59:23
かなーりないがしろにしてたよねw>日本の歴史全般での天皇の扱い方
江戸幕府は特にないがしろにしてたね。実質は。
427日本@名無史さん:04/10/24 22:03:51
>>426
ないがしろではない、利用出来る所は利用しつつ押さえつけいただけだ。
そのおかげで江戸時代には天皇を担ぎあげるような事件は250年間も
起こらなかった。

昭和に入ってからも起こっているだろ、それに比べれば。
428日本@名無史さん:04/10/24 22:25:11
利用してるってのは、ないがしろにしてるってことと近いと思う。
明治以後も、同じ。
429日本@名無史さん:04/10/24 22:27:41
>>428
そう天皇機関説はずーと生き続けている。
それでいいだろ。
430日本@名無史さん:04/10/24 22:30:45
明正天皇のとき、徳川王朝に取って代わればよかったのにね。
431日本@名無史さん:04/10/24 22:34:26
徳川将軍制は王朝制だよ。

欧州の感覚では、
天皇 将軍
 ↓  ↓
法皇 王 
432日本@名無史さん:04/10/24 22:59:00
王をとって民と成し
民をとって王と成す
433日本@名無史さん:04/10/24 23:03:29
>>431
×法皇
○教皇
434日本@名無史さん:04/10/25 10:41:33
天皇が教皇なら、政治にはイラねってこった。
435日本@名無史さん:04/10/25 13:43:04
>>434
マルクス・レーニン主義的にはそうですな。
436日本@名無史さん:04/10/25 13:55:49
天皇と教皇は全然違うだろ。
天皇が神道界の教説に一々回勅でもだすのか。
437日本@名無史さん:04/10/25 17:00:56
神道は明確な教義はない
438日本@名無史さん:04/10/25 17:37:32
天皇は土人の神輿
439日本@名無史さん:04/10/25 17:43:39
草薙の剣はあれどエクスカリバーは実在しないよな
440日本@名無史さん:04/10/25 17:48:13
>>437
吉田神道とか吉川神道とか復古神道とか垂加神道は無視ですかそうですか。
441日本@名無史さん:04/10/25 17:49:04
伊勢になんで剣があったんだ?
大陸渡来か?
442日本@名無史さん:04/10/25 17:51:21
三種の神器って現存するの?
443日本@名無史さん:04/10/25 17:52:21
>>440
それは脚色された神道だろ
444日本@名無史さん:04/10/25 21:51:49
神道はアニミズム。
国家神道は宗教ではないという建前でした。
土人の宗教だったけどねw。
445日本@名無史さん:04/10/25 22:09:27
天変地異を鎮めるため
皇位を安定すべし
446日本@名無史さん:04/10/25 22:13:19
江戸文芸の世界では
天皇やら皇子やらその子孫のオンパレードなわけだが
447日本@名無史さん:04/10/25 22:14:57
>>443
それこそ江戸神道なわけだが
448日本@名無史さん:04/10/25 22:17:19
>>446
もうそのネタ飽きたw。
庶民は尊敬してなかったよ。
ハイ終わり。
449日本@名無史さん:04/10/25 22:37:11
>>446
大事にされてないからこそ好き放題にネタにできるんだろうが。
一方、将軍や御三家はあぶなくてネタにできない。
この差は大きいよ。
450日本@名無史さん:04/10/26 20:13:40
>449
親しみがあれば
よくも悪くもたくさんネタになるな。

一方、江戸の将軍様については
北の将軍様と同じように畏敬されてたってことかな。
451日本@名無史さん:04/10/26 20:16:12
>449
わかってないね。
幕府はあんまり大事にしてなかったかも
知れませんが
庶民にはネタにされ人気者だったというわけですな。
452日本@名無史さん:04/10/26 20:21:22
江戸将軍制=昭和戦時下天皇制

もっとも昭和戦時下天皇制は
戦争を終結させるだけの能力があったが
江戸将軍制にはその力がなく、何年も国内を戦乱状態にした。
453黄門様:04/10/26 20:24:08
実は天下の副将軍の権威が最も高かった。
454日本@名無史さん:04/10/26 20:25:49
偉大な将軍様の悪口を言おうものなら
五人組や岡ッぴきなどの秘密警察組織が
だまっちゃいない。
人民は階級に応じ、服装まで統制され
将軍様に連なる支配階級には土下座することを強要された。
455日本@名無史さん:04/10/26 20:29:20
暴れん坊将軍に斬りかかる悪代官ややくざな岡引たちも先の副将軍たる御老公の前には平伏した。
456日本@名無史さん:04/10/26 20:31:37
そんな江戸将軍制社会主義に反発する
庶民が次第に千年の天子様に新しい世を期待したのは
改元の権限をもつ天子様には時代や時を替える力があると信じられていたことと
関係があったかもしれない。
457日本@名無史さん:04/10/26 20:31:41
何しろ、御老公はオーレンジャーとギンガマンを従えてるからな。
458日本@名無史さん:04/10/26 20:33:09
>>456
庶民が改元の権限が天皇にあると知っていたかどうかあやしいもんだけどね。
459日本@名無史さん:04/10/26 20:34:40
>453>455
うむ、ご老公は天子様の大事さを説いた
偉いお方であるからな。
460日本@名無史さん:04/10/26 20:38:40
>458
やいやい!江戸庶民をなめるんじゃないよバカヤロウ!
江戸庶民は世界最高水準の識字率だぜ。
世の中のことなんにも知らない愚民扱いするんじゃないよ!
461日本@名無史さん:04/10/26 20:39:11
皇国史観にとりつかれた馬鹿が粘着してやがる
462日本@名無史さん:04/10/26 20:41:10
副将軍なんて役職はないが
463日本@名無史さん:04/10/26 20:42:15
>>460
愚民はおまえだ、バーカ。
天皇の権威が上昇したのは明治以降に形成された人為的なもの。
464ご老公:04/10/26 20:42:18
偉大な将軍様派はぼろぼろじゃの。
助さん、もうよかろう。
カッカッカッカ!
465日本@名無史さん:04/10/26 20:44:14
悪人達は今の将軍には斬りかかっても先の副将軍に斬りかかることはまずしない。
この事例から見ても今の将軍より先の副将軍の権威の方が上だった事が覗える。
466日本@名無史さん:04/10/26 20:44:22
>461-463
見苦しいぞ!
武士なら潔く負け認めい!
467日本@名無史さん:04/10/26 20:46:23
ご老公もボケがひどくなったらしいよ。
自分が議論に負けていることにも気づかないとはね。
徳川光圀は当時はカルト宗教だった神道にハマった狂信者。
468日本@名無史さん:04/10/26 20:48:02
467=藤井紋太夫必死だなw
469日本@名無史さん:04/10/26 20:50:11
>463
もちろん明治以降の教育によるものもあるが
明治の初期の人たちは
完全に江戸時代生まれな人たちだったわけだが。
470日本@名無史さん:04/10/26 20:53:18
>467
ご老公はバリバリの儒教信者だったと
思うが
471日本@名無史さん:04/10/26 20:53:54
江戸の町には大きな神社がなかっただろ。
472日本@名無史さん:04/10/26 20:55:38
>>469
江戸時代には将軍様がタブーだったように、
明治時代には天子様がタブーになったんだよ。
将軍様から天子様に政権が交替したことがよく表現されているね。
473日本@名無史さん:04/10/26 21:00:08
大日本史の編纂により、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くをこの事業につぎ込むこととなる。

財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、光圀の養子である綱條が財政改革に乗り出すが、
水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。
これにより水戸藩は、幕閣や譜代大名から「綱條公は将軍の器にあらず」との認識を持たれることとなり、
1716年の徳川家継の後継者選びにおいては綱條が御三家の当主の最年長であるにも関わらず、
紀伊藩主の徳川吉宗が後継者に選ばれた。

以後、水戸徳川家からは将軍を出さず、将軍の補佐役として参勤交代を行なわず江戸に常駐することとなる。
このことから水戸徳川家は「天下の副将軍」と呼ばれるようになる。

結局、2代目藩主である光圀以降、水戸藩9代目藩主斉昭の子にあたる慶喜が将軍職に就くまで、
水戸徳川家からは将軍職に就く者はいなかった。
474日本@名無史さん:04/10/26 21:07:43
天下の風来坊と越後の御隠居のどちらが社会的権威が高いかは明かだと思う。
475日本@名無史さん:04/10/26 21:17:27
じつは水戸藩は朝廷が江戸に
置いた目付け役。
京都所司代の逆バージョンみたいなものかな。
もともと常陸は神代はタケミカズチノミコト、古代は親王任国として
朝廷が関東の拠点をおいてきたところであり、
水戸徳川家もその精神を受け継いだのだった。
476日本@名無史さん:04/10/26 21:20:12
江戸の神社はお稲荷さんが多い。
477日本@名無史さん:04/10/26 21:22:09
天下の副将軍は天下の御意見番でもあった。
478日本@名無史さん:04/10/26 21:26:56
弥七は御老公の飼い犬ではなく、思ったところを面と向かって言う気骨の人だった。
479日本@名無史さん:04/10/26 21:27:49
松平親氏が始祖なのか
480日本@名無史さん:04/10/26 21:31:43
江戸の街には輪王寺宮と水戸徳川家が
常駐していたのか。

江戸庶民と天皇の距離がぐっと縮まった気がするね。
481日本@名無史さん:04/10/26 21:36:39
江戸社会主義将軍共和国の偉大な将軍様の喜び組雄班
482日本@名無史さん:04/10/26 21:38:34
>>480
気がするだけです。
483日本@名無史さん:04/10/26 21:39:20
喜び組雄班は降参か?
天子様は殺生はお嫌いだから
命は助かるぞ(和良
484日本@名無史さん:04/10/26 21:41:08
明治維新によって天子様によって
解放された恩を忘れるな
485日本@名無史さん:04/10/26 21:43:23
御老公がいなかったら楠正成はマイナーな土豪の評価に止まっていただろう

486日本@名無史さん:04/10/26 21:45:48
知らないだろうけど今の日本の社会体制は社会主義に近いんだよ?
487日本@名無史さん:04/10/26 22:11:29
>>485
楠木正成はマイナーな土豪以外の何者でもありませんが何か?
488日本@名無史さん:04/10/26 22:12:52
>>483
荒らすだけ荒らして誰もいなくなったところで勝利宣言。
天子様マンセーの喜び組はやり方が陳腐だなw
489日本@名無史さん:04/10/26 22:19:38
>>456
>改元の権限をもつ天子様には時代や時を替える力があると信じられていたことと
>関係があったかもしれない。

関係ない。
改元はすべて幕府の要請に基づくもので、幕府が決定したものを朝廷が選ぶふり
をしていただけ。しかも、庶民に知らしめたのは幕府の情報機構。
庶民が幻想を抱きようもない。
490日本@名無史さん:04/10/26 22:22:32
>>475
>じつは水戸藩は朝廷が江戸に
>置いた目付け役。
>京都所司代の逆バージョンみたいなものかな。
>もともと常陸は神代はタケミカズチノミコト、古代は親王任国として
>朝廷が関東の拠点をおいてきたところであり、
>水戸徳川家もその精神を受け継いだのだった。

全文錯誤。
水戸藩は最初から最後まで、佐幕の尊皇攘夷。
将軍個人への敵対は、水戸学ではありえない。
491日本@名無史さん:04/10/27 04:57:51
英国元戦争捕虜問題

5月3日付英国紙「インデペンデント」では、「Can you forgive them?」と題して、
こともあろうに天皇陛下のお顔を凶悪犯罪者と同列に扱ったのである。 しかも、昭和天皇ではなく、今上天皇陛下である。
このような下劣な真似は日本国民として絶対に許すことはできない。 天皇陛下の訪英も中止にしてもいいほどだ。
政府は一応抗議をしたようだが、さらに強い調子での抗議を求める。

アメリカでも96年に旧日本兵の731部隊、慰安婦関係者16人を入国禁止措置にしたり、
最近ではかのアイリス・チャン氏と組むなど日本叩きに協力している議員がいたりと、
日本の過去を責めるムードが高まっている。 韓国から、中国から、そして米英から・・・ 日本だけがなぜいつまでも謝罪し、
補償金を支払わなければならないのか。 政府は頭を下げるばかりである。 もうそろそろ敗戦国の立場から抜け出して、
堂々と反論してはどうか。橋本首相の提案で始まった日英の元兵士の「合同巡礼団」が、タイで合同慰霊式典を行った。
その中の一人であるトミー・ケントさんは言う。 「公の謝罪や新たな補償は必要ない。
戦争犠牲者は我々元捕虜だけではないのだから」 英国にもまだ紳士的な人は残っているようである。
このような態度こそ、歴史を見つめる上での正しい態度ではないだろうか。
いまだ半世紀前の怨念を引きずって謝罪を要求する態度には英国紳士の片鱗もうかがえない。

http://oyaji.room.ne.jp/~sam36/opinion/o_13.htm
492日本@名無史さん:04/10/27 05:50:15
悪人どもは今の将軍には斬りかかり、先の副将軍には恐れ入るという事実を見れば、
御老公>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>>>暴れん坊将軍
ほどの権威の格差があったことは否定できない
493日本@名無史さん:04/10/27 19:23:54
>>489
たしかに江戸時代には幕府の同意や
介入もあったが、基本的に改元は天皇大権として宮中から
告げられていた。

して、その幕府の情報機構とは?
494佐々木十笹:04/10/27 19:31:27
>490
誰も敵対したとは
言ってない。
幕府が朝廷をないがしろにしないよう
働きかけた事実のことである。
495日本@名無史さん:04/10/27 19:34:23
まあ、本当のかごの中の鳥は将軍様の
ほうなんだがな。
496日本@名無史さん:04/10/27 19:41:27
将軍家宣の側近として活躍した
新井白石曰く
「平氏や執権北条氏は皇室の怒りにふれて滅びました。
もし武家政治を連綿と続け、将軍家の末永い繁栄をお考えになるなら、
皇室をなおざりになさらず、これまでの皇恩に
報いるべきでございます」
折りたく柴の記中巻
497日本@名無史さん:04/10/27 19:51:59
後水尾天皇の突然の譲位に幕府は驚愕した。
徳川家は外戚の権威で八百余年以来の
慣例を破り血縁のある
皇女を立てた形になってしまったからである。
朝廷を抑えつけていた
幕府が天下に向かって面目を失墜した事件であった。
498日本@名無史さん:04/10/27 20:03:55
1872年12月15日付の
太政官布告に
「今般太陽暦御頒布行、神武天皇即位をもって紀元と定められ候」
と太陽神天照皇大神、神武天皇の子孫にして
江戸期を通じても
改元と暦に関する権能を有していた
天皇により告げられた
太陽暦は庶民に天皇暦として受け入れられ、
それまでの古い暦は
古くて役に立たないものという意味で
将軍暦と呼ばれ捨てられた。
499日本@名無史さん:04/10/27 20:15:21
江戸初期の朝幕関係は
朝廷が滅び行く豊臣家やキリシタンなどに
好位をよせていたために
よくなかった。
さらに全国的に身分や土地によって人々を縛る江戸幕府の政策は
自由民の守護者だった天皇の方針とは
まったく相反する社会主義的統制国家政策だったのである
500日本@名無史さん:04/10/27 20:28:51
光格天皇は実父に
太上天皇の称号を贈ろうとしたが
幕府はなんやかんやと言い反対し、ついにとりやめになった。
世に言う尊号事件であるが、
その実態は同じような環境にあり、実父を
大御所の尊号を授けたいと思う将軍家斉の意向を
幕閣が封じるための策謀であった。
501日本@名無史さん:04/10/27 20:38:38
将軍厨君はリアリティーのない将軍に
幻想を抱いているだけ。
もし今、将軍ご一家が健在で江戸城から年貢で買った高級外車で
外出していたら、またぶちぶち文句を書くに違いない。

そんなに徳川好きなら
徳川家の末裔による
なんたら会て組織があるから
家臣にしてくれと
土下座して頼んできたらどうだ?
502日本@名無史さん:04/10/27 21:00:58
オランダ商館長ヘンドリック・ヅーフは
「内裏は日本古代の独裁君主で政教の全権を握っていたが
将軍職を設けて以来、内裏の絶対無限の
権力が制限され、将軍職が権勢を握るに至った」
と朝幕の関係をかなり正確に把握していた。
とすれば、このような認識は当時の庶民の間にあったもので
あると推定して間違いないだろう。
503日本@名無史さん:04/10/27 21:04:24
>>501
徳ヲタも天ヲタもたいして変わらない。
504日本@名無史さん:04/10/27 21:08:20
天朝から頂いた紫衣を
幕府がほごにしたことに抗議した
沢庵和尚は幕府に流罪にされた。
しかし、この正論を説いた和尚の前に
のちに将軍家光は
頭を垂れ教えを乞うことになるので
あった。
505日本@名無史さん:04/10/27 21:12:01
>>503
それは違うな。天ヲタこそ伝統ある正統ヲタだが、
反天皇徳川ヲタはマルキストの偽装した姿である。
506日本@名無史さん:04/10/27 21:18:49
>>493
>改元は天皇大権
幕府の予定通りにね。で、幕府機構なしにどうやってそれを全国に伝えたと?

>>496
尊皇攘夷は幕府の政策

>>497
幕府は権威失墜してない。上皇となり武家にしたがうよう天皇教育していた。

>>498
庶民は天皇暦なんて呼んでない。新暦です。

>>499
朝廷はお家存続のため、豊臣の次は徳川にしたがいました。

>>500
尊号事件は、公家TOPの天皇に規定を守らせたのがキモです。

>>501
天オタは、事実に弱い。事実を見ろといってるだけ。
507日本@名無史さん:04/10/27 21:28:48
滅んだ幕府にマンセーする馬鹿どもが曳かれ者の小唄を歌っていますね。
幕府は結局歴史の負け組だったわけで。
江戸幕府の滅亡は、幕府というシステム自体の滅亡だったわけだ。
508日本@名無史さん:04/10/27 21:35:23
このよなをしに
ええじゃないか

日本の世直し
ええじゃないか
509日本@名無史さん:04/10/27 21:36:18
徳川幕府なくなりゃ
ええじゃないか
510日本@名無史さん:04/10/27 21:38:18
京都で発見された
ええじゃないかは
庶民とともに踊る公家や僧侶の姿が描かれていた
511日本@名無史さん:04/10/27 21:41:12
その表現は諸刃の刃だな。こうも言えるわけだ。

天皇制国家は結局歴史の負け組だったわけで。
大日本帝国の敗戦・滅亡は、天皇制国家というシステム自体の滅亡だったわけだ。
512日本@名無史さん:04/10/27 21:41:52
藤沢のええじゃないかの絵には
徳川幕府の葬式の絵が描かれていた
(NHK、その時歴史が動いた)
513日本@名無史さん:04/10/27 21:43:11
>>506
全部、答えにも反論にもなってませんから
514日本@名無史さん:04/10/27 21:45:22
>>506
なんか一つくらい調べて書かんかい。
負け犬の遠吠え見苦しい!
515日本@名無史さん:04/10/27 21:47:28
>511
それで?
天皇制とやらと天子様は別物ですから
516日本@名無史さん:04/10/27 21:49:20
会津公の籠をええじゃないかが
とりかこみ、敵意を剥き出しにした!
会津、幕府なすすべもなし。
517日本@名無史さん:04/10/27 21:54:05
ええじゃないかは
まさに天祐だったのか。
日本の神神が天朝に味方して
徳川幕府を倒すのに協力したのであった。
明治元年ええじゃないかはこつぜんと消えた。
518日本@名無史さん:04/10/27 21:56:58
大正天皇、昭和天皇即位の時に
明治維新を助けた
ええじゃないかがお祝いに踊られた
519日本@名無史さん:04/10/27 21:57:20
また事実に弱い天ヲタがキレてる(w。
罵倒や中傷は敗北宣言に等しいな。
520日本@名無史さん:04/10/27 22:02:12
>>506
貴様にはここで語る資格はない。去れ!
改元も暦も江戸幕府の機構なぞ
関係ない。
自分で何も調べようとせずに
適当な反論で情報を得ようとする
その卑しい根性が気にいらぬ。失せろ、外道。
521日本@名無史さん:04/10/27 22:04:40

  ま た 、 武 田 か ・ ・ ・ 自 作 自 演 乙

522日本@名無史さん:04/10/27 22:06:11
>>513>>514
調べるも何も、自明のことですから。
どうやって、幕府にやってもらわずに改元を知らせたと思ってたのw?

>>517
>日本の神神が天朝に味方して
>徳川幕府を倒すのに協力したのであった。
そんなこと番組で言ってませんがw?
523日本@名無史さん:04/10/27 22:06:40
>519
どうやら貴様はたんなる
愉快犯らしいな。
524日本@名無史さん:04/10/27 22:08:40
>>522
それでその幕府の情報機構とやらを
教えてくれや。
525日本@名無史さん:04/10/27 22:10:24
>>522
岩倉がまさに神の助けだったと
書き残していただろ。
526日本@名無史さん:04/10/27 22:12:13
>>522
それで幕府は庶民に
改元や暦をどうやって知らせてたの?
おせーて。
527日本@名無史さん:04/10/27 22:15:35
幕府はなんでもできる
スーパーマンだから
偉大な将軍様が空から
まいたのさ。

そん時、間違って伊勢のお札もまいちゃった!だって慶信は尊皇家だもの(稿
528日本@名無史さん:04/10/27 22:16:26
慶喜だった
529日本@名無史さん:04/10/27 22:20:41
>>522
やいゴルァ!自明のことを早く書かんかい!
それとも必死こいて調べてんのか?
ケツまくって逃げてんじゃねえぞ。
530日本@名無史さん:04/10/27 22:23:30
ま、ちなみに拙者こと天朝派は
どうやって庶民に広まったかは
わかっているがな。
幕府は関係ねーよ。どちらかと言えば民間の組織だ。
531日本@名無史さん:04/10/27 22:26:16
>>522
謝罪文書けやゴルァ!皇居に向かって土下座せい!
532日本@名無史さん:04/10/27 22:29:24
>531
まあまあ、522のようなクズを
相手になさるな。
人の不愉快を愉快がる気の毒な方ですから。
533日本@名無史さん:04/10/27 22:30:43
>532
さようですな。主上も無益な争いは
喜ばれぬからな
534報告:04/10/27 22:32:19
522は泣きながら逃走した模様
535日本@名無史さん:04/10/27 22:35:26
自作自演乙
536日本@名無史さん:04/10/27 22:36:59
あ?
537日本@名無史さん:04/10/27 22:43:34
小泉、終わったな
538日本@名無史さん:04/10/27 22:50:40
もうぬるぽ
539日本@名無史さん:04/10/27 22:52:04
まともに相手にされていないことにすら気づくことができない天オタ哀れ
540日本@名無史さん:04/10/27 23:40:45
滅亡幕府基地外さんたちは、将軍様のいるかの国の熱狂的なファン。
541日本@名無史さん:04/10/27 23:51:11
やはり御老公の御威光が最も高いという結論になりそうだな
542日本@名無史さん:04/10/28 00:32:51
>>526
摂津・河内だと大坂町奉行が、山城だと京都町奉行が
すべての村に触を出して改元を知らせています。
543日本@名無史さん:04/10/28 12:07:23
新年号は将軍の内定を経たうえで天皇が形式的に決定するという方式が
室町幕府の下で固定化し、それが江戸幕府にも引きつがれた。
544日本@名無史さん:04/10/28 12:08:58
正徳の改元(1711)の場合のように、朝廷の内定した年号を無視して幕府
が正徳の年号を主張したため、改めてこの年号を勅定して改元が行われ
た例もある。
545日本@名無史さん:04/10/28 12:17:54
幕府→各藩→各村、幕府→奉行所→各村。

幕藩機構が改元を伝えなかったら
どうやって伝えたと思ってるのだろうか?
朝廷がお触れでも出したとか思ってるのかな・・・
546日本@名無史さん:04/10/28 12:59:17
幕府から僅かな食い扶持与えられていたに
過ぎない江戸時代の朝廷って何してたの?

547日本@名無史さん:04/10/28 15:44:41
おまいこそごくつぶし
548日本@名無史さん:04/10/28 18:47:53
>545
江戸時代のことなんも知らないらしいな
549日本@名無史さん:04/10/28 19:01:26
江戸期の天子についてわかるサイトとかある?
550日本@名無史さん:04/10/28 20:01:01
>>548
オマエモナー
551日本@名無史さん:04/10/28 20:12:13
新年の暦を買ったら、年号が変わっていた。その程度だと思われ。
552日本@名無史さん:04/10/28 21:43:43
>>548のご高説をみんなで待ちましょう。
553日本@名無史さん:04/10/29 00:24:59
>>551
例えば摂津国嶋下郡一津屋村に残された寛保4年の触留帳には以下のように出てくる。
引用文中の「Y」は「より」という異体字を示す。

 去月廿一日年号改元有之而為延享之旨、同廿九日御弘有之由従江戸被仰下候ニ付触知らせ、
 村々庄屋年寄リ寺社家令承知候段、致印形、郡切村継順々相廻シ、触留リ村Y大坂番所可持参者也
   延享元年子三月  河内
                美濃

 去ル二月廿九日於江戸年号改元左之通被仰出候
   延享
 右相触候村々承知可仕候、已上
   三月十日  芝村役所
 右廻状無滞令順達留リ村Y役所へ可差戻、以上

ここから大坂町奉行と領主の双方から改元を伝える触が出されていることがわかる。
少なくともこの触を受け取る村役人は
新年の暦が出るずっと以前(この場合は3月)に
幕府および領主からの触で改元を知っていた。

554日本@名無史さん:04/10/29 19:16:26
天皇(後水尾天皇)の文化活動の範囲は広く、
和歌・連歌・漢詩・茶道・立花・香道・古典学・儒学の外、
修学院離宮の如く建築・造園にまで及んだ。
「禁中并公家諸法度」を発布して公家の統制を目論んだ幕府に対し、
天皇は、公家の主体性保持を目指され、
特に第一条の「天子諸芸能之事、第一御学問也」を逆手に取って、
文化面で武家を凌駕しようとされたと考えられる。
天皇の時代に、江戸時代の公家社会の基本形態が形造られたのである
555日本@名無史さん:04/10/29 19:23:16
>>551-553

君が代や 寺へも配る 伊勢暦   一茶
556天朝派:04/10/29 19:42:36
伊勢暦の特色としては、
朝廷から伊勢神宮祭主藤波家(そういえば、藤波元官房長官も伊勢の人
です)が毎年、暦の原稿をいただき、それをおんしに下げ渡すという
システムになっていたこと。
しかも、伊勢神道をバックボーンに、
迷信を排除しており暦注は正確で、印刷技術もことのほか高く、
その他の地方暦より一段高い格調のものとして有難がられました。
なので、古い暦といえば伊勢暦のことをいう人もいます。

ということだ。江戸時代、庶民にもっとも広く使われたのが
この伊勢暦。たしかに教科書の歴史しか知らない輩にはなんでも
かんでも幕府がやっていたように思えるだろうが、
よく調べてみるとじつはそうでもないんだよな。
557天朝派:04/10/29 19:43:45
幕府厨は皇居に向かって土下座して侘びよ!
558日本@名無史さん:04/10/29 19:45:45
>>557
あまり強制はイクナイって陛下も仰ってたぞ
559天朝派:04/10/29 19:48:17
>>506
1898年 明治31年5月11日 勅令でグレゴリオ暦の置閏法に定めた。

      神武天皇即位紀元年数から660を引いたものという表現で年が定められた。

      それ以前の暦を太陰暦といわず徳川暦(将軍暦)といったりした。

 

560日本@名無史さん:04/10/29 20:33:43
>>559
それは知ってる
561日本@名無史さん:04/10/29 20:52:41
>>556は地方文書を見たことがないのかな。
借金証文の類を見ると
改元後はたいてい新しい元号が使われている。
新年の暦で改元を知ったとするなら、こういうことはできないはず。
君こそ「教科書の歴史しか知らない輩」のように思うが。
562日本@名無史さん:04/10/29 21:09:44
>561 は地方の石仏などを見たことがない
のかな?
改元を知らずに古い年号をよく使ってる例があるのだが。

教科書の次は
時代遅れな左翼的アカデミズ か
563日本@名無史さん:04/10/29 21:18:34
564草莽之臣高山:04/10/29 21:20:41
>556
幕府は幕府による幕府のための
日本の一元化支配を狙ってましたから
当然、天皇固有大権の一つである
暦の制定権を奪おうと画策しましたが
結局、幕府おしきせの官製暦はあまり広まらず、結局
朝廷流出の
伊勢暦のほうが庶民によく使われ続けました。
熊、
「八つぁん、この伊勢暦ってのは
じつは天朝様の暦が裏で出回ったもんらしいぜ」
八、
「そいつぁ、ありがてえや!威張りちらした幕府の暦なんざ使ってらんねえやい!」
565日本@名無史さん:04/10/29 21:22:24
江戸庶民の天朝信仰の現れの一つですな
566日本@名無史さん:04/10/29 21:28:14
>>562
もちろんそういう例があることは否定しない。
しかし石仏と借金証文とどちらの数が多いか、答えは自ずと明らかだろう。
567草莽之臣高山:04/10/29 21:28:44
鎌倉幕府成立以降
次第に政治の表舞台から遠ざけられた
天朝の味方は反主流のマイナリティーたちでした。
こうして、天朝は幕藩国家権力に虐げられた人々の
最大のよりどころとなっていったのです。
568日本@名無史さん:04/10/29 21:30:53
>566
借金証文全部がそうなんか?全部データとって数えてから言わんかい!
569日本@名無史さん:04/10/29 21:32:36
566は単なる負け惜しみだべ
570日本@名無史さん:04/10/29 21:36:58
http://library.nao.ac.jp/kichou/open/030/
貞享改暦の後は、暦は年々幕府天文方によって計算され、幸徳井家に渡され暦註を施された。認可された地方の暦師に渡された暦は、刷り増しされ広められた。ここではその中の伊勢暦から、改暦された際の頒暦の暦首に書かれていた注釈を紹介する。
571日本@名無史さん:04/10/29 21:40:02
>570
その文章は厳密には
間違ってるからな。
天朝派が出した文章をちゃんと読みたまへ。
572日本@名無史さん:04/10/29 21:43:26
まあ今幕厨は必死に検索で調べてるのだろうが
江戸時代にはいくつかの暦があったが
もっとも庶民によく使われたのが
朝廷流出本の伊勢暦。
573日本@名無史さん:04/10/29 21:44:46
江戸時代の天皇は極貧で腐った魚をたべてたそうだね。
司馬が小説に書いてた。
574日本@名無史さん:04/10/29 21:48:30
>573
みじめな負け犬発言おつ
575日本@名無史さん:04/10/29 21:52:46
禁中公家諸法度に縛られ、
江戸時代の公家はみじめな負け犬だった。
576高山:04/10/29 21:52:54
ちなみに幕府天文方初代渋川春海は
崎門下生で
大の尊皇家。
教科書には彼を機に幕府が暦制定の実権を奪ったように書かれてるかもしれないが、
たしか、朝廷に献上する形をとったはず。
577日本@名無史さん:04/10/29 21:52:58
司馬を引き合いに出すとはwwwww
578高山:04/10/29 21:57:37
教科書には幕末の混乱期に
たまたま天皇が担ぎ出されたような
書き方をしているがこれはウソ。

江戸期を通じて天皇に対する密かな
庶民信仰があったからこそ
やがてそれが維新として結実したのだった。
579日本@名無史さん:04/10/29 22:10:11
>暦の原稿をいただき
原稿は誰が作っているのですか
580江戸時代の暦について:04/10/29 22:39:20
賀茂家はのちには幸徳井と名のり江戸時代の終りまで作暦に携わっていた。
一時は家が断絶したこともあったが、安倍家より養子が入って再興した。
1685年(貞享2)貞享暦が施行されて後は暦の天文学的部分は江戸の天文方の
仕事となり、賀茂家、すなわち幸徳井家は暦注部分のみを担当するようになった。
581江戸時代の暦について:04/10/29 22:40:40
渋川春海が日本人として初めて貞享暦を作って以来、江戸の天文方が作
暦に主要の地位を占めるようになったが、この天文方には渋川家のほか、
幕末までに猪飼家、山路家、西川家、吉田家、奥村家、高橋家、足立家の
計8家が任命された。
しかし一代限りの者もあって明治に変わるまで存続していたのは渋川家、
山路家、足立家の3家であった。
582江戸時代の暦について:04/10/29 22:42:27
貞享暦以後は暦は国家の事業としてきびしく統制され、民間でかってに
作成販売することは許されなかった。

天文方が計算して作られた暦の原稿は江戸から京都に送られ、幸徳井家

がこれに暦注を施し江戸に返すと、天文方がもう一度調べて木版におろし

それを校閲してから許可するというもので、それが所司代や奉行を通じて

免許をもつ暦師に渡され出版された。

暦師は渡された原稿以外のことを書き加えることはできなかった。
明治以後になっても暦の統制は続き、完全に自由になったのは第2次世界
大戦後のことである。
583江戸時代の暦について:04/10/29 22:51:12
暦については、幕府が管理統制していた。
江戸天文方→京都幸徳井家→江戸天文方→所司代や奉行→免許を持つ暦師

改元の情報
幕府の決定→関白→天皇の形式裁可→京都所司代→幕府
幕府→各藩、天領については奉行→名主またはお触書→領民
584日本@名無史さん:04/10/29 22:56:41
司馬を出しての自演乙。
正確には、

天皇には新しい鯛。
それが、関白や上級公家に下賜されて、
さらに下級公家に下賜されるころには腐りだしている。
しかし、下級公家ではそれでもありがたがっていただいたということ。

君の出した「幕末の朝廷」平凡社文庫に書いてあったでしょ。
585日本@名無史さん:04/10/29 23:13:19
改暦や暦の管理は、幕府がほぼ完璧におさえてたんですね。
疑問が解けました。
サンクス!
586日本@名無史さん:04/10/30 14:44:09
貞享暦について教えてください。
587日本@名無史さん:04/10/30 16:49:53
>>586
京都人の渋川春海が中国の授時暦を改良して大和暦と名付け、これが朝廷に
採用されて元号も貞享と改元され、渋川春海は貞享元年(1685年)に幕府天文方
となった。以降、天文方は渋川春海の家の世襲となり、またこの時から遍暦は
幕府天文方で、暦注は京都の賀茂家(幸徳井家)で行うという役割分担が確立さ
れた。
588日本@名無史さん:04/10/30 16:53:05
遍暦を行う幕府天文方は京都系の渋川家、暦注は京都の賀茂家が握って
いたので、事実上暦に関しては京都系が牛耳っていたと見ていい。
589日本@名無史さん:04/10/30 17:03:43
>>588
渋川家は幕府天文方だから、機構的には幕府の中に組み込まれている。
朝廷あるいは天皇が、渋川家とどういう関係を持っていたかを明らかにしないと
改暦に朝廷・天皇が関わっていたと主張することはできない。
590日本@名無史さん:04/10/30 17:23:50
貞享の改暦以降、暦の計算は天文方が行い、注釈は京都の幸徳井家が
行い、そして編集は京都の土御門家が行った。土御門家は暦の制作に
関する認可権を持ち、天文生という天文学者の認可状を発行した。
591日本@名無史さん:04/10/30 21:17:46
天文方が計算して作られた暦の原稿は江戸から京都に送られ、幸徳井家
がこれに暦注を施し江戸に返すと、天文方がもう一度調べて木版におろし
それを校閲してから許可するというもので、それが所司代や奉行を通じて
免許をもつ暦師に渡され出版された。
592日本@名無史さん:04/10/30 21:22:04
>暦注
暦注は弊害の多い迷信として江戸時代以来多くの識者に批判されてきた。
また古くは大同2年(807)に平城天皇によって禁止され、明治の太陽暦改暦
の詔書でも〈人智の開達を妨げる〉ものとしていっさい厳禁された。
しかし、戦後になって出版の自由は暦注の自由となり再び盛大に行われるようになった。
本場中国では、意義がないと、大昔にすぐに廃れてしまった。
593日本@名無史さん:04/10/30 21:24:35
江戸時代の文化の源流は
ほとんど天子様のおられた京都にありました。
江戸ッ子の代表的な精神のいきは
上方のすいから来たものでした。江戸ッ子がいかに上方文化に憧れていたか
よくわかりますね。
594日本@名無史さん:04/10/30 21:30:00
暦のお勉強は自分でやってくれ。
いちいち検索して自分がわかったことを
張り付けてもらっては困る。
天朝派一派にとっては最初から自明のことなわけだから。

それより過去の誤った情報をさも正しいように
ほざいた謝罪をせんかい!
595日本@名無史さん:04/10/30 21:34:51
>>594
間違ってるのは君1人なわけだが・・・
暦は幕府がにぎってた。OK?
596日本@名無史さん:04/10/30 21:39:09
結局、改元にしろ、暦にしろ
幕府は全部、自前でやりたいという
野望をもちながらも
結局最終的には
朝廷の名前でやらざるを得なかった、
それでなければ効力をもち得なかった
という事実を見なければ
江戸時代の朝幕関係の正確な姿は見えてこない。
597日本@名無史さん:04/10/30 21:41:32
そうだね。
うまく利用できてたね。
598日本@名無史さん:04/10/30 21:53:26
霰ふり
鹿島の神を祈りつつ
すめら御軍に
われは来にしを

常陸 大舎人部千文

万葉の昔から常陸は尊皇の地でした
599日本@名無史さん:04/10/30 22:10:20
もし、江戸の人々が天皇を知らなかったなら
太平記読みを聞いても
ちんぷんかんぷんだったわけだ
600日本@名無史さん:04/10/30 22:11:42
うほっ
601日本@名無史さん:04/10/31 02:15:38
「楠が御目見えをする講釈場」という句は、1701年に刊行された句集「寄太鼓」
にあるもので、この年は赤穂浪士の討ち入りの前年に当たる。「楠」とは楠正成、
「御目見をする」とは、楠正成が後醍醐天皇に御目見えをするということであり、
「太平記」の名場面の一つだ。
江戸時代には「太平記読み」といって、講談や芝居を通じて太平記が講釈され、
江戸庶民もこの太平記の名場面はよく知っていた。「仮名手本忠臣蔵」が幕府か
らの弾圧をかわすために浅野内匠頭を塩谷判官、吉良上野介を高師直、大石内蔵助
を大星由良助という名に替え、舞台を室町期に替えたのも、太平記が江戸庶民の
間に浸透していればこそであった。従って、江戸庶民が天皇の存在を知らない
ことなどありえないのだ。

602日本@名無史さん:04/10/31 02:21:44
周知の様に、江戸時代には勅使・院使や将軍御台所となる皇女や公卿の
娘の江戸下向があり、その行列は江戸市中を通って江戸城へ入った。
江戸庶民もこの行列を見たのであり、それが何の行列であるかは当然知って
いた。
603日本@名無史さん:04/10/31 03:39:50
>>601
私は近世の庶民が天皇存在を知らなかったと言っているのではありませんよ。
ただ改元を即座に庶民に知らせる手段を天皇は持っていなかったと指摘しているのみです。
こういう手段は幕府や領主が持っていたのです。
天皇も領主の一人ですが、禁裏領は京都代官が支配していますので
禁裏領への触は幕臣である京都代官が出しています。
604日本@名無史さん:04/10/31 03:44:18
このスレの議論はそこから始まったんだよ
最初は知らんかった派が電波垂らしてた
605日本@名無史さん:04/10/31 04:06:19
江戸の人は京が都だと認識してたんですよね?
606日本@名無史さん:04/10/31 04:08:54
>>605
それはあたりまえ
607日本@名無史さん:04/10/31 08:22:13
では、江戸天皇は
江戸庶民に崇敬されていたことは
間違いない
ということで
608日本@名無史さん:04/10/31 08:27:39
江戸天皇って何?
609日本@名無史さん:04/10/31 08:29:17
610日本@名無史さん:04/10/31 08:30:05
>>609
誤爆ったw
スルーしてくれ
611日本@名無史さん:04/10/31 15:30:48
話題を急に変えているから、
改元を朝廷が広めてたという過ちは理解できたみたいだね。

次は、また、庶民と天皇ですか。はぁ・・・。
・全国の庶民には天皇の存在を知らなかった人「も」多かった。
・江戸時代の庶民に、天皇崇敬思想はなかった。
OK?
612日本@名無史さん:04/10/31 15:41:17
>>611
この際、そのような空虚なレスは君の人品を自ら貶めるだけと思う。
613日本@名無史さん:04/10/31 19:34:26
>611
だれも朝廷が広めたとは言ってませんが

全国の庶民の中には天皇を崇敬してる人「も」多くいた

江戸時代に天皇崇敬思想はありました

よかと?
614日本@名無史さん:04/10/31 19:38:51
>>611
これを知るを知るとなし、
知らざるを知らざるとなせ。
これ知るなり。

よかと?
615だれも朝廷が広めたとは言ってませんが:04/10/31 20:57:52
520 :日本@名無史さん :04/10/27 22:02:12
>>506
貴様にはここで語る資格はない。去れ!
改元も暦も江戸幕府の機構なぞ
関係ない。
自分で何も調べようとせずに
適当な反論で情報を得ようとする
その卑しい根性が気にいらぬ。失せろ、外道。
616だれも朝廷が広めたとは言ってませんが:04/10/31 20:58:51
564 :草莽之臣高山 :04/10/29 21:20:41
>556
幕府は幕府による幕府のための
日本の一元化支配を狙ってましたから
当然、天皇固有大権の一つである
暦の制定権を奪おうと画策しましたが
結局、幕府おしきせの官製暦はあまり広まらず、結局
朝廷流出の
伊勢暦のほうが庶民によく使われ続けました。
熊、
「八つぁん、この伊勢暦ってのは
じつは天朝様の暦が裏で出回ったもんらしいぜ」
八、
「そいつぁ、ありがてえや!威張りちらした幕府の暦なんざ使ってらんねえやい!」
617日本@名無史さん:04/10/31 20:59:28
江戸時代は観光旅行ブームでした。今のガイドブックに当たる「京都名所図会」
が江戸でベストセラーになったのを皮切りに、江戸や大坂等のガイドブックが
次々と刊行されました。道程・宿場・乗り物・名所等が詳しく記されたものや、
旅行の用心集なども発刊されました。道中手形があれば、我々が思うよりも自由
に旅行が出来た時代でした。
618だれも朝廷が広めたとは言ってませんが:04/10/31 20:59:42
556 :天朝派 :04/10/29 19:42:36
伊勢暦の特色としては、
朝廷から伊勢神宮祭主藤波家(そういえば、藤波元官房長官も伊勢の人
です)が毎年、暦の原稿をいただき、それをおんしに下げ渡すという
システムになっていたこと。
しかも、伊勢神道をバックボーンに、
迷信を排除しており暦注は正確で、印刷技術もことのほか高く、
その他の地方暦より一段高い格調のものとして有難がられました。
なので、古い暦といえば伊勢暦のことをいう人もいます。

ということだ。江戸時代、庶民にもっとも広く使われたのが
この伊勢暦。たしかに教科書の歴史しか知らない輩にはなんでも
かんでも幕府がやっていたように思えるだろうが、
よく調べてみるとじつはそうでもないんだよな
619日本@名無史さん:04/10/31 21:09:28
>江戸時代に天皇崇敬思想はありました
尊皇攘夷は江戸幕府の政策だったからね。
幕府の文治支配政策のためだね。

庶民?
天子様を知らなかった人も多いからね。全国的に見るとね。

620日本@名無史さん :04/10/31 21:14:24
過去ログにもあるが

道鏡に崩御崩御と称徳言い
道鏡に 根元まで入れよと 詔

こんな川柳詠んでる江戸時代の庶民に、天皇崇敬思想
があったなんてとても思えんな。ネタにして笑いものに
してたんだろう。
621日本@名無史さん:04/10/31 21:37:00
江戸っ子は天皇を知らなかった!
622日本@名無史さん:04/10/31 21:44:56
>>621
でた!大學教授の自作自演開始!
623日本@名無史さん:04/10/31 21:56:12
レスを遡りますと、江戸時代の太平記読みのことを書いておられる方
がいらっしゃいますね。書かれている通りです。
「道鏡に・・・」の江戸川柳は有名ですね。弓削道鏡は江戸時代でも有名な
悪人の一人としてよく揶揄されました。称徳天皇もそうですね。道鏡に
法王位を与えた人です。称徳天皇は淳仁天皇に譲位した後も道鏡を益々
寵愛し、それを咎めた淳仁天皇を親王位に落としたのみならず、淡路島
に幽閉して死に追いやっています。ですから、江戸庶民の川柳を待つま
でもなく、称徳天皇は朝廷においても悪しき天皇として有名でありました。
624日本@名無史さん:04/10/31 22:00:27
>>623
自分にレスするの カコワルイ
625日本@名無史さん:04/10/31 22:03:10
太平記読みって講釈士のことって知ってるのかな?

太平記って天皇批判多いよね。
626日本@名無史さん:04/10/31 22:20:37
仮名手本忠臣蔵に始まる忠臣蔵の話には、幕府閣僚の間には様々な意見
があったにもかかわらず、浅野内匠頭を即日断罪した将軍綱吉への批判
があったのではないでしょうか。

田や沼や汚れた御代を改めて清くすむるは白河の水

白河の清き流れにもとの濁りの田沼恋しき
627日本@名無史さん:04/10/31 22:33:14
>>624
ここでは、他の方が書かれたものに賛同してはいけないのでしょうか。
>>625
語り芸を行う講釈師のみではなく、江戸の辻々で物語僧も太平記を講釈していました。
天皇批判は、大鏡や神皇正統記などにも見られます。
628日本@名無史さん:04/11/01 20:10:38
事実に弱い天オタ

520 :日本@名無史さん :04/10/27 22:02:12
>>506
貴様にはここで語る資格はない。去れ!
改元も暦も江戸幕府の機構なぞ
関係ない。
629日本@名無史さん:04/11/01 20:55:53
滅亡江戸幕府派の人たちは、まるで江戸幕府が天皇の政治権能を奪った
かのように必死になって主張しているが、日本の歴史の中で天皇が政治
権能を有していた(天皇親政)時期など少なく、現在もそうである日本の
象徴としての歴史であることを知らないのだろうか。
630日本@名無史さん:04/11/01 20:59:41
最高格である天皇が日本の象徴として君臨し、臣下(有力豪族⇒藤原摂関家
⇒平氏⇒鎌倉幕府⇒室町幕府⇒織豊政権⇒江戸幕府⇒帝国政府⇒日本国政府)
が統治するのが、日本の普通の姿。
631日本@名無史さん:04/11/01 21:09:13
鎌倉時代からうばわれ始め、室町で吸収され、江戸で幕府機構の一部になったね。
頼朝以前と以後って、越えられない壁があるね。
632日本@名無史さん:04/11/01 21:12:33
天オタ、必死だな
633日本@名無史さん:04/11/01 21:20:55
日本国政府って、臣下なんですねw。
日本通史の再学習をおすすめします。

あ、君の好きな中公は古いからね。
騎馬民族渡来説に権門体制論じゃなかったっけ、あれって?
634日本@名無史さん:04/11/01 21:27:16
>>629
>日本の歴史の中で天皇が政治
>権能を有していた(天皇親政)時期など少なく

>>630
>最高格である天皇が日本の象徴として君臨

この二つってなんか矛盾してねぇか?
635日本@名無史さん:04/11/01 22:15:45
やあ、たくさんレスがついてるな。
江戸天皇が江戸時代の庶民に崇敬されていた
事実は揺るぎもしてないが
636日本@名無史さん:04/11/01 22:17:13
天オタ乙
637草莽之臣高山:04/11/01 22:21:51
東台戦争落去之図
を見てみたまへ。
最後まで江戸庶民とともにあった
輪王寺宮の御姿が描かれているが
偉大なる将軍様の姿はどこにもない。
それもそのはず、偉大な元将軍様は
自分を慕って集まった庶民を見捨て
戦がはじまる前にとっとと避難しましたと さ
638日本@名無史さん:04/11/01 22:25:28
>>629
じつは天皇不執政は
王朝時代からの伝統です。
もちろん王朝時代にも親政をされた帝もおられましたが
639日本@名無史さん:04/11/01 22:29:10
天照皇大御神
640日本@名無史さん:04/11/01 22:29:50
今上天皇陛下
641日本@名無史さん:04/11/01 22:30:56
皇統とともに
日本国は永遠に不滅です
642日本@名無史さん:04/11/01 22:34:07
庶民に様々な統制を加え搾取のかぎりを
尽くした将軍から
私たちを解放してくださったのが
明治天皇でした。
643日本@名無史さん:04/11/01 22:36:30
当時の流行歌に
三千世界の烏を殺し
というのがありますが
これは抑圧者たる幕府が滅び去り
解放者たる天子様の世の到来を称えています
644日本@名無史さん:04/11/01 23:24:08
結局、将軍は天皇に頭を下げさせられなかった。
結局、将軍は天皇を江戸に呼びつけることができなかった。

645日本@名無史さん:04/11/01 23:34:50
将軍家は滅んでいないよ。北朝鮮に拠点を移しただけ。
646日本@名無史さん:04/11/01 23:37:47
天皇は「一天万乗の君」にして「天子」。


将軍は「天下人」ww
647日本@名無史さん:04/11/02 00:26:14
中華皇帝>>>>>>>>>>天皇>将軍
648日本@名無史さん:04/11/02 02:05:19
中華皇帝株ではない天皇は
まったく別物
649日本@名無史さん:04/11/02 06:10:50
天皇は将軍の許可がなければ、天皇に成れず。
650日本@名無史さん:04/11/02 06:17:05
暴力団の組長→首長→大王→権力を持った天皇(君主)→権力を奪われた天皇(象徴)
651日本@名無史さん:04/11/02 06:18:58
各地に誕生した国の王が連合して作った政権=大和王権
古代の大王とはマレーシアの国王と同じ
652日本@名無史さん:04/11/02 08:38:30
>>633
騎馬民族説と権門体制論しか知らないバカがここにも降臨!
653日本@名無史さん:04/11/02 11:27:39
>>637
輪王寺宮は、幕府機構の一部です。
幕府の寺社統御のための朝廷利用策の一つだね。

歴代の輪王寺宮は日光門主・天台座主となって、関東のみならず全国の天台宗
寺院を統轄するに至り、幕府の宗教政策を支えた。
654日本@名無史さん:04/11/02 11:33:21
>>644
>結局、将軍は天皇に頭を下げさせられなかった。
>結局、将軍は天皇を江戸に呼びつけることができなかった。

天皇を御所から出さないのは幕府の政策です。
勅使が、江戸城と日光東照宮に行かされました。
幕府は伊勢神宮に行ってません。
勅使は日光に行く代わりに頼んで伊勢に生かしてもらいました。
このネタ、あきた。
655日本@名無史さん:04/11/02 11:35:12
結局、江戸時代に庶民は天皇を崇拝してたというソースは一つも出ないね。
あ、一つ出たか、雛祭りw。
656日本@名無史さん:04/11/02 11:37:40
さすがに崇拝はしてないと思うが存在を知ってはいただろうな
657日本@名無史さん:04/11/02 11:39:51
寺子屋で教育を受けた人は知っていたでしょ。
往来物に仁徳天皇の故事とか天皇関係の記述なんていくらでもでてくるもん。
658日本@名無史さん:04/11/02 12:36:55
俺は崇拝については否定的だが存在を知っていたという説には賛成だな
659日本@名無史さん:04/11/02 12:43:31
庶民で存在を知ってたのは、2〜3割くらいかね。
660日本@名無史さん:04/11/02 12:44:52
農村部とかは知らなかったんじゃないの?
661日本@名無史さん:04/11/02 13:29:44
寺子屋の教師は手書きの教科書を子弟に与えることが一般であったから、
江戸時代を通じて各地で作られ、改修された往来物の数を把握すること
は容易ではない。
その中で主なものをあげると、《田舎往来》《農業往来》《百姓往来》
などは農事暦を中心に、農業の基本的な知識をまとめており、
町人の間で用いられたものとしては、往来物の中でもっとも多くの人々
に使用されたものとされている《商売往来》をはじめとして、《問屋往来》
《呉服往来》《万祥廻船往来》などがある。
662日本@名無史さん:04/11/02 13:39:50
庶民の往来物は、農民は農業知識、町人には商売知識が中心だったんですね。
663日本@名無史さん:04/11/02 20:43:24
江戸の庶民が天皇を知らなかったとか崇敬してなかったとかいうのは、
江戸の庶民は馬鹿な愚民だったと言ってるだけではないか。
幕府万世橋を装って江戸を煽ってる奴らが痛いな。
664日本@名無史さん:04/11/02 20:59:53
普通に考えて天皇の存在を知らないなんてあり得ないんだけどな。
講談物や和歌など天皇抜きには語れないだろ。
太平記を読んでいて、後醍醐天皇の事を知らない馬鹿がいるか?
665日本@名無史さん:04/11/02 21:12:32
江戸市中に限定しようとしてるのかなw?

1 名前:大五郎 04/09/11 20:42:24
江戸時代、人々に崇敬された
天子様について語りませう
666日本@名無史さん:04/11/02 21:14:50
>>665
>江戸市中に限定しようとしてるのかなw?

お前、自分から墓穴掘ってww
667日本@名無史さん:04/11/02 21:16:40
楠木正成を忠臣として崇拝し、足利尊氏を逆賊というのが江戸時代の価値観だった。
668日本@名無史さん:04/11/02 21:16:42
>>665
江戸に限定せず、「人々に」崇敬されていたのならいいわけですね。
669日本@名無史さん:04/11/02 21:17:29
江戸庶民が愚民でないから、天皇崇拝しなかったんだろうな。
今も天オタには低学歴が多いからね。
670日本@名無史さん:04/11/02 21:19:02
天子様は畿内の人々に崇敬されていた。ハイ、これで幕府派の負けね。
671日本@名無史さん:04/11/02 21:23:01
天皇を知っていた庶民は、3大都市レベルで2〜3割。
農村だと1割以下だろう。
672臣高山:04/11/02 21:24:25
>>663
まったく同感です。
彼等は江戸ファンをかたって
江戸時代や江戸庶民を愚弄する輩です。
その正体は日本史全体をおとしめ
日本人の誇りを奪おうとする
反日マルキストです。
673日本@名無史さん:04/11/02 21:25:30
京都って今も天皇・公家嫌いが多いよね。
昔からなんだよね。迷惑の根源だから。
畿内の庶民は天皇を崇敬していなかった。
674日本@名無史さん:04/11/02 21:25:42
大楠公の知名度・人気は足利尊氏を遥かに凌いでいた。
675日本@名無史さん:04/11/02 21:26:53
>>671
三大都市とは京・江戸・大坂の三都だな。
676日本@名無史さん:04/11/02 21:27:42
>>672
天オタは1人きりのようだなw
677日本@名無史さん:04/11/02 21:28:10
>>647
天皇という位は
中華皇帝に対抗すべく
編み出されたものです
678日本@名無史さん:04/11/02 21:28:40
幕基地が負け犬の遠吠えモードになりますた。
679日本@名無史さん:04/11/02 21:33:26
畿内では圧倒的に楠木正成の方が人気者。
足利尊氏の像は破壊されたりした。
680臣高山:04/11/02 21:34:23
安政の大獄は
世間の尊皇論の盛り上がりに
びびった大老井伊直弼が
尊皇派に加えた一大弾圧なわけだが。

天皇が崇拝されてなかったなら
こんな事件は起きない。
681日本@名無史さん:04/11/02 21:35:03
今日も、江戸時代の庶民が天皇を崇拝していたというソースが出ないね。
682日本@名無史さん:04/11/02 21:37:02
違勅調印の際には水戸藩では藩士だけでなく農民まで暴動起こしたが。
683日本@名無史さん:04/11/02 21:38:24
>679
偉大なる前将軍家
足利三代の首は
四条河原に晒し首にされました(稿
684日本@名無史さん:04/11/02 21:41:21
>安政の大獄の原因
将軍継嗣問題と条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争。
685日本@名無史さん:04/11/02 21:46:48
>>681
>江戸時代の庶民が天皇を崇拝していたというソース

江戸時代の庶民なら、日本の中のどこの庶民でもいいんだな。

ところで、江戸の庶民が将軍を崇拝していたというソースも出ないね。
686日本@名無史さん:04/11/02 21:46:53
>681
赤報隊の相楽は農民出身でしたが。
明治天皇の東京行幸には
元博徒池田勝馬こと
黒駒の勝蔵が
かけつけ護衛につきました
687日本@名無史さん:04/11/02 21:48:29
>684
教科書ではな(稿
688日本@名無史さん:04/11/02 21:50:24
藩士にたいする領主の統制が効いていれば桜田門外の変は起こらなかったわけだが。
689日本@名無史さん:04/11/02 21:53:18
>>687
>>688
意味が違うんだけど・・・
690日本@名無史さん:04/11/02 21:59:04
>>687
ほう。では真相とやらを教えてくれ。
おっと、あの暦みたいね嘘八百ならやめてておいてくれ。
691日本@名無史さん:04/11/02 22:00:23
御三家のうち
水戸はバリバリの尊皇の家柄だが
幕末には尾張まで尊皇の当主に。明治元年にはすすんで
御所の警備についた。
692日本@名無史さん:04/11/02 22:02:31
>690

>>680
693日本@名無史さん:04/11/02 22:09:11
幕府軍残党は
各地で略奪暴行を行い
ほとんど盗賊団化したので
民衆からはかなり嫌われた。
694日本@名無史さん:04/11/02 22:10:46
佐幕マルキスト
ぼろぼろやな(稿
695日本@名無史さん:04/11/02 22:13:05
>>692
将軍継嗣問題と条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争で、
勅許を言いがかりに一橋派から井伊派が攻撃された。
戊午の密勅が井伊を決断させたんだよ?

あと、いい加減にして欲しいんだけど、
水戸学は、将軍支持が絶対条件ね。
696日本@名無史さん:04/11/02 22:14:33
庶民は天皇を崇敬してたよ。
ソースは雛祭りです。
697日本@名無史さん:04/11/02 22:19:41
光圀以来、朝廷と宗家(将軍家)が違えた時は潔く弓矢を捨てよというのが家訓だった。
698日本@名無史さん:04/11/02 22:23:43
>695
べつに将軍支持と尊皇は必ずしも
対立していたわけではない。
それを将軍対尊皇と
ことさらに対立点ばかりを
言うのが佐幕マルキストの手口。
699日本@名無史さん:04/11/02 22:25:52
>水戸学
水戸学の担い手は1853年(嘉永6)のペリー来航時には、表面では「攘夷」を主張
しつつ実際には「避戦」の態度をとり、通商条約調印後になると、幕府による
開国を追認するようになった。
700日本@名無史さん:04/11/02 22:26:50
佐幕マルキストは
東台戦争落去之図
は見たのかよ。
海外で高い評価をえた
河鍋暁斎の画だぞ。
701関鉄之助:04/11/02 22:29:10
>699
して、その担い手とは?
702日本@名無史さん:04/11/02 22:30:45
>江戸時代の代表的尊王思想水戸学の尊皇攘夷

日本の国家体制「国体」の優秀性を強調しつつ、尊王が説かれるが、
天皇―将軍―大名―藩士という各級の者が直接の上位者に忠誠を
ささげることが不動の前提とされているため、尊王はこの階層秩序
を維持しようとすることにほかならない。

つまり、各大名は将軍へ、各藩士は大名へ、それぞれ忠義を尽くすのが
尊皇攘夷。一面では将軍に尽くさせるためのイデオロギーだから、将軍
を飛び越えて天皇の忠義を尽くすことは成立しない。
703日本@名無史さん:04/11/02 22:33:37
列強四ヶ国の代表を
前に
神州と天朝の講釈を垂れた
宍戸正使

(稿
704日本@名無史さん:04/11/02 22:35:59
その階層秩序が天皇自身によって幕府を通さず直接水戸藩に勅錠を下したことで崩れはじめ、
水戸学自体も切羽詰って幕府か朝廷のどちらに味方するかと言う二者択一になったら朝廷を奉ぜよ
としているが。
705日本@名無史さん:04/11/02 22:37:15
>>701
会沢正志斎とか知らない?
706日本@名無史さん:04/11/02 22:37:27
>702
幕府安定期はな(稿
707日本@名無史さん:04/11/02 22:39:42
佐幕マルキは完全に劣性やな。
知識も勢力も人格も。
708日本@名無史さん:04/11/02 22:43:44
勅諚は10日に幕府へ下され、また8日には内密に水戸藩へも下された。
その副書で勅諚を諸藩へも回達するよう命じていたため、水戸藩では
それをめぐって藩論が分かれ、幕府は回達禁止を厳命した。
徳川斉昭は、幕府が老中を上京させて調印の経過を奏聞すると確約した
ため、尾張・紀伊両藩へのみ回達するにとどめた。
この勅諚降下に尊攘派の画策があるとみた幕府は、安政の大獄を決行
するに至った。
翌年、朝廷および幕府は水戸藩に勅諚の返納を命じた結果、水戸藩内
はいっそう政治対立が深まり、返納反対の藩士らによる大老井伊直弼
襲撃を生んだ。

井伊襲撃派も将軍支持は絶対条件。
709日本@名無史さん:04/11/02 22:46:44
水戸藩て戊辰戦争中もずっと仲間うちでケンカしてたね。
710日本@名無史さん:04/11/02 22:49:31
将軍支持は絶対条件というわけではなく、あくまでも朝廷に敵対しないという条件内においてであって、
朝廷には絶対に背いてはならないというのが義公の遺訓であった。
711日本@名無史さん:04/11/02 22:51:10
偏狭な幕府政府は
天才蘭学者高野長英先生を投獄。
しかし、先生は不屈の精神で脱走、日本のために二書を翻訳したが
居場所をつきとめ
おしかけた幕府役人により
十手で滅多打ちにされ虐殺された。
712日本@名無史さん:04/11/02 22:53:46
>710
すかさずの反論お見事!
713日本@名無史さん:04/11/03 08:32:19
>711
ひどい。
714日本@名無史さん:04/11/03 08:37:56
>>711
これが後に南京へと繋がってゆくのかにっころども(藁
715日本@名無史さん:04/11/03 11:14:20
>>710>>712
義公は、将軍支持者。その将軍が尊王譲位思想を持つということ。
義公が死んだ時代に幕朝は少しももめてないし、
力の差は桁外れ。意味違いというか滅茶苦茶。

水戸学が将軍を捨てろとか、誰が言ってるの?
ご教授くださいましな。
716日本@名無史さん:04/11/03 11:17:33
>>711>>713
>偏狭な幕府政府は
>天才蘭学者高野長英先生を投獄。
>しかし、先生は不屈の精神で脱走、日本のために二書を翻訳したが
>居場所をつきとめ
>おしかけた幕府役人により
>十手で滅多打ちにされ虐殺された。

高野長英は、襲われたときに自害したんですけど・・・
滅多打ち虐殺のソースは?
717日本@名無史さん:04/11/03 11:23:07
尊王譲位→尊皇攘夷
718日本@名無史さん:04/11/03 11:24:33

>>715
>>716
天皇支持派って、なんか間違いだらけだし、嘘も多いんですね。
やっぱりって感じだけど、ここまで酷いと思いませんでした。
つまるところバカウヨなだけなんですかね。
719日本@名無史さん:04/11/03 11:52:33
つか、1人だけだから。
そっとしといてやれ。各スレでやってる彼だから。
720日本@名無史さん:04/11/03 17:27:21
江戸時代の霊元天皇は夏でも扇子を
使わず、冬でも火鉢を使わず克己に
努められました。

夏の暑さをしのぐため、庶民を酷使して
富士山から氷をきりだし
江戸まで運ばせた
将軍にみならわせてやらたい話ですな
721日本@名無史さん:04/11/03 17:31:52
>>716
アホォ。おのれこそよく調べてみんかい。
自害説もあるが
撲殺説も有力だ。
出展は高野長英記念館だ。

相変わらず恥知らずな独善的性格だな。
722日本@名無史さん:04/11/03 17:36:17
>719
一人の自作自演はおのれやろが、ゴリャア!
723日本@名無史さん:04/11/03 17:40:24
幕厨マルキスト君は
江戸時代の
勤皇詩人日柳燕石
のことはご存じかね?
オラ、さっさと検索せんかい!
724日本@名無史さん:04/11/03 17:43:44
さらに憂國詩人
梁川星巌はしっとんのかい!
きゃつらは庶民じゃないのか?
皇居に向かって土下座して詫びんかい!
725日本@名無史さん:04/11/03 17:56:47
幕府の忠実な手下
目明かしの猿の文吉は
幕府の威光をかさにきて志士の弾圧や
スパイ、さらには
高利貸しまでして庶民を苦しめたが
尊皇派の志士により絞殺(斬殺は刃のよごれ)され
三条河原に全裸で晒された。
726日本史板委員会:04/11/03 18:03:31
名スレ確定!
727日本@名無史さん:04/11/03 18:09:30
353 :可愛い奥様 :04/11/03 17:11:26 ID:5Mrgitg0
そういう意味では正しく
日本の病巣を「象徴」しているけど
全く尊敬されない「象徴」はただのマスコットでしかない。
ウツだろうがドスだろうが人間以下、まるで人格は無視され
(例えばこういう所でw)おもちゃのように弄ばれるカナシイ存在。
728臣高山:04/11/03 19:06:12
後世に名高い江戸時代の大事件である
赤穂義士の討ち入り事件。
じつは原因は高家、吉良若狭守と吉良上野介が
幕府の意を受け、時の後西天皇に
暗に譲位を迫ったのを
伝え聞いた尊皇家、浅野内匠頭長矩が
吉良に天誅を加えようとしたことに
始まるのである
(三田村鳶魚、元禄快挙別録)
729臣高山:04/11/03 19:10:54
将軍綱吉が尊皇家であったのは知られているが
それは彼の母が京都の八百屋の
江戸時代の京都庶民の出身の影響からであった。
730日本@名無史さん:04/11/03 19:13:02
幕厨マルキストは
橿原神宮に向かって土下座して詫びんかい!
731日本@名無史さん:04/11/03 19:47:09
このスレ終わってるな。
732日本@名無史さん:04/11/03 19:47:58
>>721
高野長英記念館のサイトには以下のように書かれている。
http://www.city.mizusawa.iwate.jp/syuzou01/jinsei/12.html

江戸再潜伏1年あまり、長英はついに捕まり自殺して果てた。外国船の来航、諸外国からの開国要求のなか、鎖国政策をめぐって幕府が混迷を深める真っ只中であった。
そして、明治維新にむけた激動の幕末が大きく動きだそうとした時期であり、まさに長英が描こうとした日本の夜明けを前に、長英は西洋の実証主義的な学問研究を活か
すことなく歴史のうねりの中に散った。
高野長運著「高野長英傳」が紹介する2通の「高野長英御裁許書」写しは、長英の最後を次の様に伝える。
高野長英こと澤三伯、青山百人町の同心組屋敷、小島助次郎の借家に住んでいたところへ、10月30日の夜、南奉行所の定廻り、臨時廻り、隠密廻りが踏込み召し捕らえ
た。この時、配下の者3人に手傷を負わせ逃げようとしたので押掛け取押さえたが、長英は持っていた脇差で喉を突いた。ねじりとったが重傷だったので、役所へ召し連れ
た後、亡くなった。そして、長英の妻ゆき満38歳、娘のもと10歳、息子の融3歳と理三郎0歳、の母子4人が投獄された。また、松下壽酔と息子の健作、宮野信四郎(宮城信
四郎の誤記か)、御賄伊藤弥十郎の祖母ひでに遠島が言い渡されたとされるが、長英の世話をしたと考えられる内田弥太郎などの名前は見えない。

どこが撲殺説なのか。
733日本@名無史さん:04/11/03 19:59:55
>732
これは失礼した。
ちと手違いがあった模様。
しかし、撲殺説は間違いなくある。
734日本@名無史さん:04/11/03 20:01:33
>731
うむ、幕厨マルキストの完敗は
あきらかだからね
735日本@名無史さん:04/11/03 20:26:09
>日柳燕石
質屋・地主の息子。後に博徒の親分。

>梁川星巌
漢詩塾の経営者。

>>728
信じてるのか信じたいのか、ご自由にw。

>>729
綱吉の文治独裁政策は有名。彼の政策が尊皇攘夷策。
無位無官の母を強引に天皇に合わせ、天皇・朝廷に恥辱を与えたのは有名。
736日本@名無史さん:04/11/03 20:27:21
>>733
ならば出典を明記されたし。
737日本@名無史さん:04/11/03 20:31:59
将軍を捨てろと言ってる水戸学派は誰か?

高野長英、撲殺説のソースは?

水戸学派の中心的人物の会沢正志斎の将軍支持・条約承認の理論は理解できたのか?

江戸時代の庶民が天皇を崇敬してたというソースは?

1人で大変だろうが、待っている。
738日本@名無史さん:04/11/03 20:50:37
>彼の政策が尊皇攘夷策。
綱吉の時代に攘夷の対象は存在しないと思うが。
739日本@名無史さん:04/11/03 20:55:07
尊王も攘夷も、幕藩体制に本来そなわった考え方。
小中華的な鎖国政策。
740日本@名無史さん:04/11/03 20:57:37
尊皇攘夷策は、綱吉からというより、家光からと言われている。
741日本@名無史さん:04/11/03 21:36:41
>>739
鎖国という観念は近世後期になって生まれたというのが近年の通説だが。
742日本@名無史さん:04/11/03 22:26:18
慶喜自身、斉昭から義公以来の家訓として我が水戸家は宗家と朝廷が違えた時は
潔く武器を捨て、朝廷を奉ずべしとあることを心得よと言われたのだが。
743日本@名無史さん:04/11/03 22:30:47
>>742
その家訓はいつ生まれたのか、きちんと検証する必要があるかと。
744日本@名無史さん:04/11/03 23:03:58
天皇の為に戦った楠木正成を忠臣とし、室町幕府を開いた足利尊氏を逆賊と位置付ける
ことに価値の根幹を置いた光圀の尊王論と将軍家と命運を共にせよと遺言した保科正之の
尊王論は天皇の為に死ぬのか将軍の為死ぬのか、という意味では大きく異なる。
将軍絶対支持の尊王は会津であり、天皇絶対支持の尊王は水戸だろう。
745日本@名無史さん:04/11/04 07:58:56
746日本@名無史さん:04/11/04 10:42:52
>>742
>慶喜自身、斉昭から義公以来の家訓として我が水戸家は宗家と朝廷が違えた時は
>潔く武器を捨て、朝廷を奉ずべしとあることを心得よと言われたのだが。
ソースは?
斉昭は、佐幕派の尊皇攘夷派。条約締結開国にも最後は賛成している。
慶喜は、大政奉還後、何もできない朝廷が、自分を首班に押し立ててくるのを
予定していた。朝廷では、事実、奉還返却の動きまで起きていた。


747日本@名無史さん:04/11/04 10:45:36
>>744
ですから、何度も聞いてますが「だろう」という思いつきでなくて、
将軍を捨てて天皇につけと言った水戸学派は誰ですか?
748日本@名無史さん:04/11/04 10:46:51
将軍を捨てろと言ってる水戸学派は誰か?

高野長英、撲殺説のソースは?

水戸学派の中心的人物の会沢正志斎の将軍支持・条約承認の理論は理解できたのか?

江戸時代の庶民が天皇を崇敬してたというソースは?
749日本@名無史さん:04/11/04 12:35:58
徳川理事長 テレビ出演のお知らせ 

来る11月9日(火)、当財団の理事長である徳川恒孝がテレビ出演いたします。

2004年11月9日(火)午後1:20〜1:55(予定)
テレビ朝日(ANB)系 「徹子の部屋」

http://www.tokugawa.ne.jp/activity/index.htm
750日本@名無史さん:04/11/05 00:26:40
>>746
慶喜自身の述懐だが。
751日本@名無史さん:04/11/05 00:28:55
>>748
家訓を残した創始者の義公その人だが。
752日本@名無史さん:04/11/05 02:09:50
>>750
だからその家訓がいつできたのかと尋ねているのだが。
慶喜は斉昭から義公以来と聞かされたのだが
斉昭以前はどうなのか、そこのところが重要かと思う。

>>751
上に書いたように義公が残したという証明はあるのか。
後世の人である斉昭や慶喜の言の史料的価値は低い。
753日本@名無史さん:04/11/05 03:30:13
恒孝は愛子内親王が降誕した際のナントカって儀に武家の子孫ってことで呼ばれてたな
754日本@名無史さん:04/11/05 06:57:53
209 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 04/11/04 11:14:25
いやーでも確かに難しい問題だとは思うよ。
権力の源泉を君主としたまま統治する体制はどうすればいいのか、とか。
例えば日本の天皇は、摂関政治以降、自ら権力を握ることはなくても、権力者の任命権を確保し続けた。
征夷大将軍が日本を支配しているが、その征夷大将軍を任じるのは天皇。
権力はどっちが持ってるの?

210 名前: 世界@名無史さん [sage] 投稿日: 04/11/04 20:00:37
それこそ、君臨すれども統治せずの方式でいいんじゃない。
権威と権力を(ある程度を分離することによって政権交代をよりスムーズにできる。
結果的に国家も安定する。

211 名前: 210 [sage] 投稿日: 04/11/05 00:16:47
いやそうじゃなくて(笑
「君臨すれども統治せず」は在位年数に数え入れるのか入れないのかという話。
アンカーつけなかった俺も悪いけど、話の流れ読んでくれよ。

在位の長い天皇・王・皇帝は?
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1037846450/l50
755日本@名無史さん:04/11/05 10:28:59
徳川慶喜公の参内         勝海舟
参内の翌日に慶喜公はわざわざ俺の所へ、こられて天皇陛下に拝謁の際には
非常に御鄭重な御待遇に預かり、また皇后陛下に拝謁のときにも、陛下から
いろいろな御談があって、その上見事な銀の花瓶一対と、紅白の縮緬と、金の
御紋章を付した銀杯と、そのほかにも種々な品を下された事を申されたから
俺も生きている甲斐があったと思って、覚えず嬉し涙がこぼれた。
その時俺は公に「今後はどこまでも品位をお保ちになって昔の小大名などとは
あまりご交際なさるな、それは費用もいるし、また自ら品位を墜とすもとである。
・・・
また巣鴨の邸に御永住になっても、馬車などには乗らず、一人曳きの車でどこへでも
お出でなさい。また時々には御徒歩でもって市中のありさまでもご覧になさるがよろしい」
と申上げたら公も御示教は有難い。その通りにする。「どこまでも天恩の優渥なるを
記し奉って、祖宗の祀りを絶たないやうにする。就いてはこの絖へ『楽天理』と
書いてくれよ」と頼まれたから、俺はあまりの嬉しさに涙の落ちるのを押さえて
快く承諾したが、流石に水戸家で養育せられたお方だけあるとおもって、おれは今更
感心したョ。
756日本@名無史さん:04/11/05 12:35:35
>>755
慶喜は幾度かの要請にもかかわらず、参内しなかったね。
ようやく東京に出たのは、1897年。約明治後、30年だね。

これは、まさかソースのつもりではないのでしょうから、
早めにソースを出してください。
757日本@名無史さん:04/11/05 20:20:02
>>735

綱吉の母と春日局は同一人物かよ(稿

話にならねえ。帰れ!
758日本@名無史さん:04/11/05 20:21:49
「東照神君は天下のために幕府を開かれたが、余は天下のために幕府を葬る」(徳川慶喜)。
明治政府から一等旭日大綬章を授けられ、公爵に列せられて、華族として天皇の藩屏となる。
759日本@名無史さん:04/11/05 20:24:27
18代様がテッコの部屋でるのか。
見なくちゃナ。

18代様、日本郵船で出世したもんな。
760日本@名無史さん:04/11/05 20:25:01
レスを見ていれば
幕厨「らしき」やつは
日本史の基礎知識も危ういやつで
日本史を語りに来ているわけでなく
単なる「かまって君」だな。
761日本@名無史さん:04/11/05 20:27:20
1867年、将軍就任直後の徳川慶喜は、兵庫開港の勅許を得るために参内している。
762日本@名無史さん:04/11/05 20:31:36
>>756
ソースだとよ(稿
ここは日本史愛好者の板だから
基礎知識のない君は
別の板を探したまへ。

勝先生の必死の運動により
やっと朝敵の汚名がとれたんじゃねえか。
そんなこともしらねえやつが
ここで偉そうに語るなよ。
763日本@名無史さん:04/11/05 21:13:54
もう1度聞くが
義公以来の家訓が義公によって定められたという確証はあるのか?
764日本@名無史さん:04/11/05 21:26:04
>>757
ああ、桂昌院ね。訂正しとくよ。
極端な仏教徒だよ。
3代将軍徳川家光の側室、5代将軍綱吉の生母。
関白二条光平家司本庄宗利の養女。名は宗子。秋野、お玉の方と称す。
家光側室六条有純の女お梅の方の縁で江戸へ下り、家光の寵をうけて
綱吉を生む。
1680年(延宝8)綱吉が将軍となって後、江戸城三丸に住み、三丸殿と称された。
綱吉の厚い孝敬をうけ、1702年(元禄15)従一位に昇り、また弟本庄宗資を
はじめその一族中幕臣として栄進する者も多かった。
深く仏教に帰依し、僧亮賢、隆光等を信頼し、そこから生類憐みの令を
極端に助長するなどの弊害が生じたといわれている。
765日本@名無史さん:04/11/05 21:34:21
>>758
>「東照神君は天下のために幕府を開かれたが、余は天下のために幕府
>を葬る」(徳川慶喜)。
絶対王政か大統領制みたいなことを考えていたからね。
どっちにせよ、尊王家ではあっても、水戸学の遺訓がどうのは関係ない。

>明治政府から一等旭日大綬章を授けられ、公爵に列せられて、華族として天皇
>の藩屏となる。
何年か知ってるの?
勝がどうのというより、明治政府の大政奉還への評価の変化だよ。
1902年に家達が相続している徳川公爵家とは別に公爵を授けられ、
勲一等旭日大綬章は1908年!
766日本@名無史さん:04/11/05 21:40:38
だいぶ言葉が荒れてきたな。
断末魔の症状かな。
かわいそうだからスルーしてもいいんだけど、一応、貼っとこう。

将軍を捨てろと言ってる水戸学派は誰か?

高野長英、撲殺説のソースは?

水戸学派の中心的人物の会沢正志斎の将軍支持・条約承認の理論は理解できたのか?

江戸時代の庶民が天皇を崇敬してたというソースは?

767日本@名無史さん:04/11/05 22:03:52
>>766
>将軍を捨てろと言ってる水戸学派
創始者の義公であり、連綿と代々伝えられ9代烈公は慶喜にこの家訓を徹底的に叩きこんだ。
768日本@名無史さん:04/11/05 22:10:39
>>767
どういう内容なのでしょうか?
義公が将軍を捨てろと言った出展と、烈公が将軍を捨てろと言った出展
を教えてくれますでしょうか。
769日本@名無史さん:04/11/05 22:20:48
>>768
慶喜の述懐
770日本@名無史さん:04/11/05 22:21:12
>>767
何度も同じ事を書いているのだが
その家訓なるものがいつ成立したのか
それを明らかにしてくれる史料はあるのか。
斉昭が義公以来と言ったからといって
義公以来の家訓という保証はない。
771日本@名無史さん:04/11/05 22:26:37
>>766=770
>将軍を捨てろと言ってる水戸学派は誰か?
義公以来の家訓として烈公が慶喜に伝えたわけだが
772日本@名無史さん:04/11/05 22:28:42
>>770
徳川御三家である水戸家の家訓であるという事実だけで充分。
その家訓に対して、幕府は一指も触れられなかったのが現実。
親藩御三家に尊皇家を有する徳川家のことをどう説明するんだ?
773日本@名無史さん:04/11/05 22:31:43
将軍を絶対に支持しろという家訓を持っているのは会津だけ。
将軍家の盾となって最後までお供しろという家訓が会津に悲劇をもたらした。
774日本@名無史さん:04/11/06 00:29:15
>>772
幕末期の水戸藩が勤王でないというつもりはない。
ただ寛永期以降、一般的には幕府と朝廷の協調が進み
天皇の権威が表に見えなくなった時期に
すでに勤王の立場に立っていたのか
そこのところを問題にしている。

またてその協調にひびが入る契機とされる尊号一件の際に
水戸藩、とくに藩主治保はどう動いたのか
説明していただけると有り難い。
775日本@名無史さん:04/11/06 08:51:12
文公の運動もあって光格天皇が大日本史を正式な史書として認定した。
776日本@名無史さん:04/11/06 09:58:11
>>775
尊号一件との関係は?
777天朝派:04/11/06 10:37:54
杉山健吾
 上野村庄屋。特に皇道国学を研究し、「高千穂郷は天孫降臨の聖地で
あり、朝廷直属の霊地であるべき。」との信念を持っていました。
これは神孫領主・三田井家滅亡後、延岡藩支配下にあった郷民たちの世論であり、
岩戸の土持完治ら高千穂郷の庄屋達と共に神領として復帰させるための
策略を企てます(高千穂神領運動)。健吾は密かに京都に上り、尽力の
末、高千穂神領の勅許を受けました。
この密勅を携え帰郷しようとした健吾でしたが、
これを知った延岡藩は謀反者として豊後の鶴崎で健吾を捕え、
これにより高千穂神領運動は頓挫してしまいました
778天朝派:04/11/06 10:40:32
京都御所
明治維新までは天皇の住まいであり、
今でも天皇さんが京都行幸になると
「お帰りにならはった」と云う人も
いるぐらい親しまれる御所です。

今の建物のほとんどは、江戸時代末の
建築ですが、その歴史をたどれば、
鎌倉時代末、光厳天皇が藤原邦綱の
屋敷を里内裏(仮皇居)としたのに
始まります。
779天朝派:04/11/06 10:46:55
ひな祭りの移りかわり

「ひとがた」でけがれを祓う上巳の節句が、現在のような女の子
のおまつりになったのは、意外に近年になってからです。

室町時代の末頃から始まった3月3日のひな祭りは、
戦国の世を経て平和が訪れた江戸時代に華麗な女の子のための行事
となっていきます。
寛永六年(1629)京都の御所で盛大なひな祭りがおこなわれたのを
きっかけに、幕府や大奥でもひな祭りをおこなうようにり、
やがて武士階級から町人へ、江戸から地方へと広まってゆきました。
780天朝派:04/11/06 10:48:14
徳川城使上洛列、江戸  :大札、年始などに幕府が上洛させた城使列
781天朝派:04/11/06 10:55:02
もうひとつは、京都の都市民の文化としては、伝統的な公家文化と結び
ついた、ということになるが、その背景には幕府・江戸といった武士の
価値観に対する反発が潜んでいる。
それは大坂の街が商いの街として江戸に対抗していたのと好対照である
。京都の人々は江戸時代を通じて内裏を大事にし、関係をもってきた。
それはとりもなおさず、武家、具体的には江戸のやりように対する対抗
意識であっただろう。
そのことはもっと認めてよいことであろう。
たとえば、内裏に参入した能楽師は京都の町人出身で、
幕府に参勤する五座以外の者であることを要求されたことや、
能と同じ舞台で演じられる狂言が、
大名に対する風刺はあるけれども公家に対するものが一つもないこと、
それにまた祇園祭「長刀鉾」の長刀の刃が内裏に向かないように配慮し
て辻回ししたこと、
あるいは内裏に餅を届けるための特別の門が御所にあったことなど、
たんに形式的だけではなく、生活の細部にまで行き渡っていた。
ここには、あるいは現代の京都人の、権威に対する反発、
ひいては革新性をみることができるかもしれない。
782日本@名無史さん:04/11/06 10:59:58
>>772
全然不十分。
将軍を捨てろと言った水戸学の提示はまだかい?
水戸藩が尊王藩なのは別にちっとも不思議じゃないよ。
幕府自体の政策が尊王だからねぇ。
783天朝派:04/11/06 11:00:01
平安時代に入ると、桜は台頭する。
 内裏南殿(だいりなんでん)に橘(たちばな)と並んで植えられていた梅
は、いつしか桜(左近の桜)に植え替えられ、
花といえば桜を指すようになったのである。

天朝様が日本の庶民の好みをよくご理解されていたのか、
あるいは日本人の桜好きは天朝様にあやかったものかもしれませんね。
784天朝派:04/11/06 11:06:56
 『都名所図会』は安永9年(1780)8月、京都の本屋吉野屋為八より刊
行された。名所図会の嚆矢である。

京都に数多く存在する名所旧跡を、中心部、洛東、洛西、洛南、洛北の
順に、簡明な文章と独特の鳥瞰図と風俗図とによって紹介する。

造本や版面、挿絵の様式は、後の名所図会に長く受け継がれることにな
る。
好評により板木の消耗が激しかったためか、天明6年に再刻されている。
玉里文庫本は、この再刻本の後印である。

上の図は「内裏之図」で、巻之一の本文最初にある。
名所の解説は「上御霊社」から始まり、内裏に関する説明はない。
しかし、「内裏之図」の前後の丁付(各丁の喉裏にある)を確認すると
、「一 五」「一 六七八」「一 九」の順になっており、
内裏やその周辺についての解説が刻版の段階まで存在したことが推測さ
れ、幕府や本屋仲間の検閲などによって最終段階で解説が削除された
可能性もある。

『都名所図会』に挿絵として描かれた多くの名所は、天明8年正月の京都大火により大きな被害を受けた。(丹羽)
785天朝派:04/11/06 11:12:30
?@新暦重視型 (東京など)
新暦に変更し、「7月15日」という以前のお盆の日取りはそのまま使
った。結果として、以前よりも早い時季にお盆を迎えることになった。

特に東京では「天子様のお膝元」(天皇が同じ東京に在住)ということ
で、政府の決めた新暦に従おうという意識がつよかったようです。
786天朝派:04/11/06 11:16:24
明治元年(1868)9月20日 午前8時
《天皇は鳳輦(ほうれん)に乗られ、建礼門から出立された》
天皇通過のさいに注意すること(東海道沿道の諸藩に通達)
家の中の戸、障子は全て取り払い、二階の雨戸は閉めること。
看板、のれん、道の石仏、石塔は取り除いておくこと。
風呂屋など火を扱う店は休むこと。
砂を用意しておくこと。
民の実情を見たいので仕事は休まないでよい

東幸の供は天皇の官人だけで2000名をこえ、警備の兵士を含めると
3000〜3300名以上になった。
江戸時代の大名行列や朝鮮通信使の行列を遙かにしのぐ、
華麗で規律のとれた大行列であった。
この時、関東の士民は幕府の武性に慣れているため、
その意識を変えるため岩倉具視の発案で、朝廷風の衣冠で行列した。
江戸時代の行列と言えば参勤交代であり華やかさに欠ける。
唯一華やかな行列と言えば「朝鮮通信使」など限られていた、
天皇の行列はそれらをはるかに上回る華やかさであった。

天皇の行列は、全ての橋に船橋を架けさせ、鳳輦(ほうれん)に
乗られたまま渡ったのである。
その様子は、東幸の発表とともに、すぐに数多くの錦絵に描かれて事前
の予告となり、大勢の見物庶民が行列の通過を見物した。

787日本@名無史さん:04/11/06 11:24:21
>>782
義公の遺訓として慶喜に伝えた烈公は無視か?
788日本@名無史さん:04/11/06 11:25:42
>>775
1810年から朝廷に献納するようになっただけ

>>777
庄屋が何か?経済が絡んでいたんでしょ。

>>778
京都民衆に天皇公卿は不人気だよ。今も。

>>779
天皇崇敬のソースになってません。やりなおし。

>>780
幕府の政策ですね。正月の返礼の勅使は、日光大権現に拝礼。幕府は伊勢は無視。

>>781
>権威に対する反発、ひいては革新性
京都は共産党が強い土地だね。

>>783
古代の桜趣味は中国の模倣。
江戸時代は松に植え替えられたりもしたが、近代天皇制政府が「潔く散る」
と利用し各地に植えた。戦後、反動で、大いに桜は切り倒された。
植物文化史を通観しても、これほどまでに一つの国民が一つの植物を玩弄し
冒済した事例はほかに見当たらないであろうと思われる。
789日本@名無史さん:04/11/06 11:27:09
>近代天皇制政府が「潔く散る」と利用し各地に植えた。

大正期になってからな
790日本@名無史さん:04/11/06 11:37:05
>>777っていつの事件ですか?
幕末期の天皇権威の上昇はもはや通説ですし
幕末でないとしても高千穂という特殊性を無視すべきではないと思う。
>>781の京都も同様。

>>786
>この時、関東の士民は幕府の武性に慣れているため、
>その意識を変えるため岩倉具視の発案で、朝廷風の衣冠で行列した。
これこそ天皇・朝廷の存在が関東には知られてなかったことを示すものではないか。
自分で自分の首を絞めるようなことを書くべきではなかろう(w

791日本@名無史さん:04/11/06 11:38:49
>>786
各地で下賜金を配ったり、酒を振舞ったり、財政が大変でした。
近代天皇制の、見せる天皇・見られる天皇への一歩だね。

>>785
おおまかにいえば旧暦で行うところは東北・関東北部・中国・四国・九州地方に多く、
関東南部から中部・近畿地方にかけては少ない。
新暦7月に行うところは東京周辺や東北地方に稠密であり、八月盆は
北海道や、新潟・群馬・埼玉・千葉の諸県を結ぶ線以西の地方に顕著。
792日本@名無史さん:04/11/06 11:40:12
>>787
烈公以前はどうだったのかと再三尋ねているのだが。
将軍家を捨てろとかいう観念は、烈公の時代に生まれたものではないのか。
793日本@名無史さん:04/11/06 11:43:41
>>782=792
>将軍を捨てろと言う水戸学派は誰か?
という問いかけに烈公と言っているだけだが。
794日本@名無史さん:04/11/06 11:44:01
>>787
>義公の遺訓として慶喜に伝えた烈公は無視か?

だから、他の人も言ってるけど、義公の遺訓や、
慶喜に伝えた烈公の、きちんとした出展は何なの?

795日本@名無史さん:04/11/06 11:45:47
>>791に同意。
>>781では京都の人々が天皇を慕っていたように書き
>>785で天皇中心の明治政府のもとで定められた新暦でお盆を行うとするが
京都は月遅れ、つまり8月15日がお盆です。
天皇を慕っているなら新暦7月15日がお盆となるはず。
796日本@名無史さん:04/11/06 11:50:24
>徳川斉彬
ペリーの来航直後、阿部正弘の推挙で幕府の海防参与となり、次いで
軍制、幕政にも参与する。

幕府派で将軍支持派なんだよね。
一ツ橋派だから、井伊にやられただけ。
水戸藩が反将軍についたことなど一度もないよ。
797日本@名無史さん:04/11/06 11:52:23
天皇の為に戦って死んだ楠木正成を忠臣として武士の理想像とされていた時代に
将軍家の為に戦って死ねなどという家訓を持つ会津の方がユニークな存在だったと言える。
798792=795:04/11/06 11:54:26
誤解のないように書いておくと
私は近世天皇無力説に立つものではない。
天皇・朝廷を組み込んだ形で幕藩体制は存在した。
その矛盾が幕末期の外圧のもとで爆発したに過ぎない。
私は幕府フェチでも天皇フェチでもない。
799日本@名無史さん:04/11/06 11:55:13
水戸の尊王敬幕論は会津のような命懸けの佐幕とは異なる。
800日本@名無史さん:04/11/06 12:05:42
江戸時代には、藩や武士は、天皇のために戦えません。
武士は藩主につくし、藩主は将軍に尽くします。
だから、将軍だけが天皇に礼をします。
それが江戸幕藩体制の尊皇攘夷の基本です。

天皇のために尽くすという藩や藩士は存在しません。
というか存在できません。
幕末は、天皇はただの玉。
多くの藩は情勢に従って、日和見してただけ。
801日本@名無史さん:04/11/06 12:08:10
私も792=795氏と同じ。
事実を確認しているだけ。
802日本@名無史さん:04/11/06 12:14:45
幕府・将軍の為に死ぬという価値観より朝廷・天皇の為に死ぬという価値観の方が
楠木正成崇拝に見られるように勝っていた。
803日本@名無史さん:04/11/06 12:55:49
>>802
まさっていません。つか、そういう価値観はありません。
楠正正成崇拝というのは、主君に尽くす忠臣崇拝と言うこと。
つまり、江戸時代においては、楠正成崇拝と言うのは、天皇のために
死ぬこと意味してるのではなくて、自分の直属の主君のために死ぬと
言うことが価値があることを意味している。多くの場合は藩主のため。
江戸時代太平の世の君臣論。
極論すれば、楠正成崇拝は、江戸時代においては天皇は関係ない。
藩命で死ぬことこそが至上の忠義。
だから、藩論が佐幕か勤皇かで、藩士たちはいっせいに行動した。
804日本@名無史さん:04/11/06 13:07:47
幕府はある程度恐れられてはいたがほとんど崇拝はされていなかった。
幕末の動乱の要因は朝廷の権威の向上だけでなく幕府の統制力、威圧観の低下も大きい。
805日本@名無史さん:04/11/06 14:01:37
>>695=794
義公の遺訓に疑いを投げかけながら一方で将軍支持が「絶対」などと断言できるその思考はどいうものなのでせうか?
不勉強なので義公の遺訓というものは聞いた事があってもこれは嘘で実は
会津のような命尽きるまで将軍に尽せなどという家訓が水戸にあったとは聞いた事がないのですが。


806日本@名無史さん:04/11/06 15:20:41
水戸藩はなぜ、戊辰で活躍できなかったのかね?

活躍できなかったどころか、西南雄藩に取り残され、
混乱の中に明治維新を向かえたのはなぜかね?
807日本@名無史さん:04/11/06 15:25:22
慶喜って大政奉還のあと権力を狙ってたね。
つうことは、大政奉還が遺訓を守ったからっていう慶喜の伊藤から渋沢への
又聞きは、?だね。慶喜は老獪だからね。
808日本@名無史さん:04/11/06 15:28:41
君雖以不君、臣不可臣

将軍を捨てろ??
尊王の意味には取れても、将軍を捨てろとまでどうとるの?
809天朝派:04/11/06 17:46:41
ちょっと目を離すとすぐこれだ。

>>803
>だから、藩論がだから、藩論が佐幕か勤皇かで、藩士たちはいっせいに行動した。

たわけものが!
その藩論が佐幕、勤皇で真っ二つに割れた藩がいくつもあるだろが。
出直してこい。
810天朝派:04/11/06 17:48:19
>>764
なんじゃそりゃ?訂正しとくよじゃねえだろ。
皇居に向かって土下座して侘びんかいゴルァ!
811天朝派:04/11/06 17:53:08
>>788
こいつは本当に救いようのないやつだな。

反論になっているのは一つだけだな。あとはみんな自分の感想と批評だろ。

それで、桜が古代中国の趣味ってのははじめて聞いたからお得意のソース
とやらを出してくれや。出さんかいゴリャア!
812天朝派:04/11/06 17:56:43
>>766
高野長英撲殺説があることはちょっと検索すればわかることやろが

長崎純心大学の宮坂教授
あるいは長英の最後について自殺説と撲殺説があるというふうに
長崎の宮坂教授は言っておりまして
813天朝派:04/11/06 17:58:34
というより、
貴様の書き込みは人をおちょっくりにきとるだけだろ。
そのなめた態度直せ
814792=795:04/11/06 18:14:55
>>809
どうして>>792には答えてくれないのかな?
答えられないのかな。
815日本@名無史さん:04/11/06 18:30:56
水戸義公が亡くなった直後に編纂された「桃源遺事」に曰く、

「我が主君は天子也、今将軍は我が宗室なり」と。
816日本@名無史さん:04/11/06 20:17:33
はやく桜は古代中国の模倣の
ソース出してね☆

訂正する時は一言謝りましょう。
マナーですよ。
817日本@名無史さん:04/11/06 20:18:44
>814
はやく桜は古代中国の模倣
のソースを出しましょう
818日本@名無史さん:04/11/06 20:22:30
>>810
そうですね。誤った情報を世間に開示
してしまったわけですから
一言くらい謝るのがマナーですね。
819日本@名無史さん:04/11/06 20:49:00
>>815
将軍を捨てよとは書いてないね。
820日本@名無史さん:04/11/06 20:54:53
中国の桜はわずかな種類しかない。中国といえば梅と桃である。
我が国では奈良時代に桜を愛でるようになったが、「万葉集」に
は萩の歌が140首、梅の歌が118首もあるのに対して桜の歌は
41首にとどまり、まだ梅の方が優勢であった。
平安時代になると、桜は我が国の花として定着する。「古今集」
の春歌134首のうち、ほとんどは桜の歌となり、梅はわずかしか
詠まれなくなる。さらに、仁明天皇の承和年間(834〜848)には
御所紫宸殿の前庭にあった左近の梅が桜にかえられ、「左近の桜、
右近の橘」となる。天皇の政務所である紫宸殿前庭のこの変化こ
そ、桜が我が国の国花となったことを象徴している。
821日本@名無史さん:04/11/06 20:59:41
「我が主君は天子也、今将軍は我が宗室なり」

副将軍を務めた御三家水戸藩の徳川光圀が天皇を主君とし、将軍を
宗室(徳川一族の本家)としている。この事実からは逃れられない。
822日本@名無史さん:04/11/06 21:03:34
>>809
家訓の字句はすでに>>808が引用している。
これは君臣の道を説いたに過ぎないのであって
>我が水戸家は宗家と朝廷が違えた時は潔く武器を捨て、朝廷を奉ずべし
と解釈するのは無理がある。
似たようなことはもっと後の書物に出てくる。
慶喜の述懐じゃないんだけどね。
天朝派なんだから答えられるだろ(w
823日本@名無史さん:04/11/06 21:06:50
>>821
それは宗室たる将軍を通じて、天子を主君と仰ぐという意味でしょう。
水戸家が天子の直臣なら、宗室は意味を失う。
そこんところが後代になって勘違いされたのが水戸家の悲劇かと。
824日本@名無史さん:04/11/06 21:14:45
「事に拠りて直書すれば善悪自ずから見はる」
光圀は事実を正確に直視することが道義的正しさを保証すると考えていた。
「大日本史」は朱子学の名分論史観に基づく誤謬の集積にすぎないが、
光圀なりに誠実に実証主義的正しさを追求したものであった。

しかし、後期水戸学になると、
記紀神話と史的事実をゴチャマゼにした噴飯もののカルト思想に後退してしまう。
基地貝の会沢が元凶だな。
825日本@名無史さん:04/11/06 21:26:39
>>823
そのような意味はない。
「水戸家の主君は天皇である。現在の将軍は徳川一族の本家である」と
しか訳せない。
日本は古来王道の治める国であり、覇道の者が天下を私する国ではない
ということが肝心だ。
826日本@名無史さん:04/11/06 21:31:24
>桜

7〜8世紀の日本律令貴族知識人らが先進国の中国文化を懸命に模倣=学習した
ことは周知であるが、〈葉緑園柳月 花紅山桜春〉も、じつは《文選》十四所収
の沈休文の有名な五言詩〈早に定山を発す〉の中の〈野棠開未落 山桜発欲然〉
(野棠は開いて未だ落ちず、山桜は発いて然えんとす)を下敷きにして換骨奪胎
したものにすぎなかった。
結局、日本の律令知識階級にとって、サクラを賞美する行為は、それが中国詩文
に見えていたればこそ模倣する値うちがある、というふうに了解されていたのである。
827日本@名無史さん:04/11/06 21:32:07
覇道の者って南朝のこと?
828日本@名無史さん:04/11/06 21:33:02
チンポ丸出しで大奥をふらついていた水戸斉昭は覇道だな
829日本@名無史さん:04/11/06 21:35:50
>>826
奈良朝では、まだ文化的にも日本は自立していなかった。
>>827
武力を背景にして統治することを覇道という。
830日本@名無史さん:04/11/06 21:42:02
>>812
ソースって意味わかる?
831日本@名無史さん:04/11/06 21:45:16
>>825
その解釈と
>我が水戸家は宗家と朝廷が違えた時は潔く武器を捨て、朝廷を奉ずべし
どう関連するの?
「潔く武器を捨て」などとは書かれていないのだが。
832日本@名無史さん:04/11/06 21:45:59
結論的には、水戸学では、誰も将軍を捨てろとは言ってないんだね。
遺訓は、尊王の道を説いた君臣の大儀名文論と言うことだね。
833日本@名無史さん:04/11/06 21:47:20
>>829
武力を背景にしない「統治」はありえない。
834日本@名無史さん:04/11/06 21:51:06
>桜(続き)

《懐風藻》このかた、古代の日本知識人は、中国にサクラがないなど
といった謬見を抱いたためしはなかった。
古代ばかりではない。中世随想家も、戦国武将も、彼らは一様にサクラ
を愛したことにまちがいはないが、しかも、ひとりとしてサクラが日本
にしかない固有の花木だなどと主張した者はいない。
日本のサクラの美しいのは絶対だが、もろこしにもこの美しい花はある
はずだから当然そこでも賞愛されているだろうと、そう思っていた。
西行法師の〈ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃〉
〈ほとけには桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば〉の和歌や、
長谷川等伯、久蔵親子の智積院障潅画〈桜図〉には、サクラを〈世界の花〉
として賞美する精神姿勢以外の狭小な志向はまったく感じられない。
サクラを〈日本国原産の花〉という謬見のほうへ引きずり込んでいったのは、
かえって近世の学者、それも一流の学者であった。
835日本@名無史さん:04/11/06 21:53:24
>>831
主君には忠。
武器を捨て云々などはこちらが言ったことではなく、そんなことは問題
にもしていない。徳川御三家水戸藩の尊王思想が、天皇を主君と仰ぐ光圀
以来の長きにわたって続き、幕府はそれを容認していたということが肝心
なのだ。
836日本@名無史さん:04/11/06 21:56:15
>>834
中国には桜の種類が少なく、中国の花にはなっていないということを、
中国には桜がない、桜は日本にだけあるということにすりかえるのは
何故だろう?
837日本@名無史さん:04/11/06 21:57:51
>>832
>結論的には、水戸学では、誰も将軍を捨てろとは言ってないんだね。

当然だろ。普通に考えればわかることだ。

後期水戸学の雄、会沢正志斎でさえ、尊王攘夷は幕藩体制の基本秩序
を再建することをねらいとしていた。
尊攘運動の高揚に面して、彼がそれに対立し、幕府による開国を追認
するようになるのは、このため。

ちょっとでも水戸学を学べばこういうのって常識。
838日本@名無史さん:04/11/06 22:01:30
>>835
だから何度もみんなに言われてんじゃん。
幕藩体制内の尊王思想だったからだよ。
水戸藩の尊王思想は、幕府尊王論利用のの権威向上に役立っていたから、
認められてたんだよ。
いいかげんにしてくれ。
839日本@名無史さん:04/11/06 22:06:27
>>838
それが公武合体で実現したということか。
840日本@名無史さん:04/11/06 22:09:49
四代将軍家綱の死後、将軍位継承をめぐって幕府内に京都から宮将軍
を迎えようとする一派と、綱吉を将軍にしようとする一派との対立が
あったわけだが、幕府内に宮将軍擁立派がいたということの説明を求め
たいね。
841日本@名無史さん:04/11/06 22:11:35
>>836
福岡藩儒医で、当時、日本最高の博物学者であった貝原益軒は、わざわざ
長崎へ行き、中国から来た貿易商人に会って質問し、中国にサクラがない
という情報を得、これをもとに記載をなした。
サクラが中国にないという新情報は、延宝年間の日本知識人に強烈な衝撃
を与えたらしく、もうひとり、同時代の百科全書的大学者である新井白石も、
近世言語学の古典と仰がれる《東雅》のなかに〈むかし朱舜水に、ここの
桜花の事を問ひしに、桜桃は此にいふサクラにあらず、唐山にしても、
もし此にいふサクラにあらむには、梨花海棠の如き、数ふるにたらじと、
我師也人は語りき〉と記述している。わが師なりし人とは木下順庵をさし、

842日本@名無史さん:04/11/06 22:12:16
朱舜水とは長崎に亡命してきた明の儒者で、のちに帰化して水戸藩で古学的
儀礼や農業実学などを講じた学者である。結局、亡命インテリ朱舜水は、中国
奥地にはサクラの自生地がいくらでもあるのを知らず、自分の狭い生活地域空間
のなかでの知識をもとにして、中国にはサクラがないと答えてしまい、
さきの貝原益軒著作に名の挙がっている何清甫の情報を正しいとする証言を行ったのである。

843日本@名無史さん:04/11/06 22:13:05
延宝年間から100年経過した明和・安永・天明ごろになると、国学者らによって、
サクラは日本にしかないという考え方が増幅され拡大解釈され、それを基礎にして、
まったく新しい命題の理論化が図られるようになる。本居宣長が、有名な〈しきしまの
大和心を人問はゞ朝日に匂ふ山桜花〉と歌いあげて、日本観念論の勝利を宣言する段階
では、もはやだれひとり中国にサクラがあるとは信じなくなってしまっていた。

844日本@名無史さん:04/11/06 22:13:51
もちろん、幕末本草学者のなかには、誤報=誤伝に基づく学説に訂正要求を突き付ける人
もあるにはあった。江戸幕府の命を受けて江戸医学館で本草学を講義し、
また大著《本草綱目啓蒙》(1803)の著者としても名高い小野蘭山は、弟子
の井岡冽筆記させた《大和本草批正(ひせい)》というゼミナール速記録のなかで、
貝原益軒の犯した誤呈をひとつひとつ指摘し、〈中華に桜と云ふは朱花なり。
欲然と云こと、桃及杏にも賦せり。然らば正朱色を云にも非ず。桜にも
用ゐて可なり。中華にては桜と桜桃とを混ず〉〈紅毛には桜あり。○どゝにうす、
図あり〉と明言している。ドドネウス Rembertus Dodonaeus《草木誌 Cruydt‐Boeck》
(1554)は、日本へはオランダ語版1618年刊と1644年刊と2種類のものが入ってきており、
一目瞭然(りようぜん)、16世紀以前のオランダ(ドドネウスはライデン大
学医学教授であった)に美しいサクラが咲いていた事実がわかる。
1659年(万治2)3月に和蘭(オランダ)商館長ワーヘナルが幕府に献上したドドネウス
《草木誌》を、小野蘭山は、江戸の医学館かどこかで手に取りたしかめたから、
自信をもって〈紅毛には桜あり〉といい切ることができたのであろう。

845日本@名無史さん:04/11/06 22:14:34
だが、幕末社会全体の文化動向としては、このときにはすでに〈国学の勝利〉のほう
が決定的なものになっており、また尊王攘夷の勢いのほうが日増しに強くなり、
サクラに関する科学的真理になどだれも耳を貸さなくなっていた。
誤報=誤伝に端緒づけられた〈サクラ日本原産説〉〈サクラ国民性論〉は、
明治近代ナショナリズムに受け継がれることとなった。

長レススマソ
846日本@名無史さん:04/11/06 22:18:20
桜は太平洋戦争で軍国のシンボルとして悪用された。
847日本@名無史さん:04/11/06 22:18:44
>>840
鎌倉幕府を参考にしての、江戸幕府体制の強化を狙ったのでしょう。
何か?
848日本@名無史さん:04/11/06 22:19:02
日本の国花は二つ。桜と菊だ。
849日本@名無史さん:04/11/06 22:38:11
>>835
742 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/11/03 22:26:18
慶喜自身、斉昭から義公以来の家訓として我が水戸家は宗家と朝廷が違えた時は
潔く武器を捨て、朝廷を奉ずべしとあることを心得よと言われたのだが。

これが問題の発端だが、これは間違いでということでよろしいね。
850日本@名無史さん:04/11/06 22:40:08
>>847
それはおかしい。
三代将軍家光以降、将軍御台所は京都の皇女や公卿の娘だ。しかし、
御台所たちは女子ばかり産み、男子を産まなかったことになっている。
これは極めて不自然で、おそらくは朝廷の血が入った男子は幕府に
よって始末されたのだろう。それが、五代将軍の擁立に際して急に京都
からという案が出てきた。この時だけではない。七代将軍家継には、それ
まで公卿の娘を御台所にしていた幕府が皇女を望んでいる。家継が夭逝
したので実現はしなかったが。
851日本@名無史さん:04/11/06 22:55:11
>695=708=849
間違いと決めつける一報で将軍絶対支持というのはあまりにも飛躍した解釈だが
852日本@名無史さん:04/11/06 23:25:26
>>851
>>849を書いた者だが、>>695>>708は私の書いたものではない。

なお、間違いでないというなら>>822に答えられるはずだが。
853日本@名無史さん:04/11/06 23:34:34
武器を捨てて朝廷を奉ぜよという家訓は慶喜のでまかせであるとしても、
身命を将軍家に捧げよという会津のような家訓が水戸にあったと断言するのは飛躍している。
854日本@名無史さん:04/11/07 00:02:18
>>853
私はそんなことを書いた覚えはない。
誰がそんなことを書いているのか。
855日本@名無史さん:04/11/07 01:16:06
十四代将軍家茂と皇女和宮との結婚で公武合体となったわけだが、
和宮親子は仁孝天皇の第八皇女。将軍御台所が天皇の八番目の娘
とは。
856日本@名無史さん:04/11/07 10:03:46
八番目っていったってほとんどの子供は夭折しているんだから、実質敏宮の
次の第二皇女でしょ
857日本@名無史さん:04/11/07 10:16:18
742 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/11/03 22:26:18
慶喜自身、斉昭から義公以来の家訓として我が水戸家は宗家と朝廷が違えた時は
潔く武器を捨て、朝廷を奉ずべしとあることを心得よと言われたのだが。

これが、間違いとして確認されたんですね。
858日本@名無史さん:04/11/07 10:55:25
>>857
まあここいらにはいろんな事を言う連中がいるが
孫引きの孫引きみたいなことをやっているのがほとんどだから
典拠は何かなんて答えられないのだろう。
859日本@名無史さん:04/11/07 13:04:46
855って笑える。ネタなのか無知なのか。
事実に弱い天朝派w

855 :日本@名無史さん :04/11/07 01:16:06
十四代将軍家茂と皇女和宮との結婚で公武合体となったわけだが、
和宮親子は仁孝天皇の第八皇女。将軍御台所が天皇の八番目の娘
とは。

856 :日本@名無史さん :04/11/07 10:03:46
八番目っていったってほとんどの子供は夭折しているんだから、実質敏宮の
次の第二皇女でしょ
860日本@名無史さん:04/11/07 13:09:24
和宮降嫁って、岩倉の朝権回復の口車に乗った孝明が、
賛成に回って、乗り気になったんだっけ?
861日本@名無史さん:04/11/07 14:22:32
和宮降嫁は幕府が願ったんだね。
862日本@名無史さん:04/11/07 14:52:33
>>859
本当だな。
確か、仁孝天皇には17人(?)の子供が居たけど、
成人したのは、孝明天皇、敏宮、和宮の三人だけ。

この内、敏宮は、閑院宮への輿入れ直前に閑院宮が死去。
→結局、結婚せず女でありながら桂宮家最後の当主となる。
863日本@名無史さん:04/11/07 17:44:42
>862
そうすると、桂宮宜仁殿下てのはどうなるの?
864臣高山:04/11/07 18:58:27
>>826
>その他中国の桜に関するコピペ

そのあまり有名でない漢詩が元で
日本の左近の梅が桜に変わったということですか?
はじめて聞きますが

その頃の中国では梅よりも桜が重視されたという
資料がないと模倣したとは言えません。

たんに中国にも桜はあったという事実だけで
日本の左近の梅が桜に変わったことに
どう関係しているのか
まったく不明です。
865日本@名無史さん:04/11/07 19:05:47
>>826

中国の詩にあったら模倣とはあまりにも
むちゃな見解です。
その詩が日本に与えた影響が
当時、中国でも重んじられていた梅よりも
大きなものだったのでしょうか?

自分の間違いをごまかすために
強引な解釈をしているようにしか見えません。
866日本@名無史さん:04/11/07 19:08:27
日本史を語る板なのであくまで
歴史的な出来事や資料をもとに語ってください。
867日本@名無史さん:04/11/07 19:36:47
742 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/11/03 22:26:18
慶喜自身、斉昭から義公以来の家訓として我が水戸家は宗家と朝廷が違えた時は
潔く武器を捨て、朝廷を奉ずべしとあることを心得よと言われたのだが。

これが、間違いとして確認されたんですね。
といって

水戸学は、将軍支持が絶対条件ね。
というのは飛躍した解釈だといっているのだが。


868日本@名無史さん:04/11/07 19:40:56
たしかに「7〜8世紀の日本律令貴族知識人」は山桜も歌ってるけど、
歌われた数からすれば梅や萩よりもはるかに少ない。
当時の「知識人」は外来種の梅を特に珍重した。

「さくら」は「咲く」に「ら」をそえたもので、要するに咲く花一般の俗称のようなもの。
中国から伝わった吉凶占いに用いる花として関心を呼び、やがて花見の習慣が定着した。

「敷しまの倭ごころを人とはば朝日にほふ山さくら花」
桜を日本のアイデンティティの象徴にように見なすようになったのは、
本居の皇国史観以後のことでしょ。
869日本@名無史さん:04/11/07 20:50:27
古代の桜趣味は中国参考と言うのは通説です。
>>868さんの言われてるように、江戸時代になって、桜は日本の花という
イデオロギーができました。
しかし、異説・新説はご自由ですから、ご判断はどうぞご自由に。

サクラが登場する文献のうちで3番目に位置する《懐風藻》(751成立)のサクラ
は2ヵ所、一つは近江守采女朝臣比良夫の五言詩に〈葉緑園柳月 花紅山桜春〉、
他は長屋王の五言詩に〈松烟双吐翠 桜柳分含新〉に見えている。
7〜8世紀の日本律令貴族知識人らが先進国の中国文化を懸命に模倣=学習した
ことは周知であるが、この〈葉緑園柳月 花紅山桜春〉も、じつは《文選》
十四所収の沈休文の有名な五言詩〈早に定山を発す〉の中の〈野棠開未落 山桜発欲然〉
を下敷きにして換骨奪胎したものにすぎない。
結局、日本の律令知識階級にとって、サクラを賞美する行為は、それが中国詩文
に見えていたればこそ模倣する値うちがある、というふうに了解されていた。
《万葉集》にもサクラの歌が44首見えるが、この数はウメの歌118首に比較すると
はるかに少ない。詩歌の手本になっている中国詩文におけるサクラの扱い方が、
ウメに比べてはるかに小さかったためと考えられる。
その後、勅撰三大漢詩集(《凌雲集》《文華秀麗集》《経国集》)の時代でも、
サクラはウメよりも軽い地位に置かれ、摂関期の《古今和歌集》になって初めて
数量的にウメを圧倒するに至る。
これをもって、日本化の自覚のあらわれと賞賛する論者もあるが、一方、平安
王朝文化が華美軽佻に流れた証拠だと見る論者もあり、
《古今和歌集》の美学的規範そのものは中国詩文的教養に根ざしていたことのみは
否定しようもない。
870日本@名無史さん:04/11/07 20:59:18
>>867
私はあくまで史料的根拠に基づいて議論がしたいだけなんですよ。
出典を出せない人はお話になりません。
>>742の出典を書いていただけませんか。
871日本@名無史さん:04/11/07 21:02:31
>>867
>742 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/11/03 22:26:18
>慶喜自身、斉昭から義公以来の家訓として我が水戸家は宗家と朝廷が違えた時は
>潔く武器を捨て、朝廷を奉ずべしとあることを心得よと言われたのだが。
>↑
>これが、間違いとして確認されたんですね。
>といって
>↓
>水戸学は、将軍支持が絶対条件ね。
>というのは飛躍した解釈だといっているのだが。

みずから間違いを認めるとは、天朝派も立派ですね。
さて、水戸学の尊王は将軍支持が絶対的な条件と言うか前提です。
ですから、後期水戸学を全国に広めた雄の会沢正志斎でさえも、
尊王攘夷は幕藩体制の基本秩序を再建することをねらいとしていました。
尊攘運動の高揚に面して、彼がそれに対立し、幕府による開国を追認する
ようになるのは、このためです。
872日本@名無史さん:04/11/07 21:02:51
>>695=870
水戸学を将軍絶対支持と断言する一方で慶喜の述懐を嘘と断ずる姿勢は如何かと
873日本@名無史さん:04/11/07 21:06:26
将軍家の為に水戸家が身命を捨てよなどという家訓があったなどという可能性は
朝廷には絶対に弓を引くなという家訓の根拠よりさらに根拠が薄いわけだが。
874日本@名無史さん:04/11/07 21:15:03
将軍家の為に身命を投げ打てという水戸学派は聞いた事が無いが、
朝廷に弓引くことなかれという家訓があったと慶喜は述べた。
875日本@名無史さん:04/11/07 21:40:13
すみません横から質問です。これは、どのレスの引用ですか?

>>873
将軍家の為に水戸家が身命を捨てよなどという家訓
>>874
将軍家の為に身命を投げ打てという水戸学派

あと、>>870さんの質問の答えを私も知りたいです。
876日本@名無史さん:04/11/07 21:46:11
慶喜の述懐に疑問を投げかけ、嘘と断ずる一方で水戸学は将軍絶対支持と断言している姿勢
877日本@名無史さん:04/11/07 21:57:39
>>876
ありがとうございました。
では、引用ではなくて、>>876さんの作った文なんですね。わかりました。

あと、>>870さんの質問の答えもお願いします。
878日本@名無史さん:04/11/07 22:09:01
>>877

695 :日本@名無史さん :04/11/02 22:13:05
>>692
将軍継嗣問題と条約勅許問題とをめぐる領主階級内部の政争で、
勅許を言いがかりに一橋派から井伊派が攻撃された。
戊午の密勅が井伊を決断させたんだよ?

あと、いい加減にして欲しいんだけど、
水戸学は、将軍支持が絶対条件ね。


879日本@名無史さん:04/11/07 22:09:54
>水戸学

水戸学の尊王攘夷論は幕藩体制の階層秩序を根本的前提としている点で、
三家の一つとしての水戸藩の立場が刻印されている。

尊王攘夷論は水戸藩の枠を超えて普及するにつれて変化していったが、
水戸学の担い手は1853年(嘉永6)のペリー来航時には、表面では「攘夷」
を主張しつつ実際には「避戦」の態度をとり、通商条約調印後になると、
幕府による開国を追認するようになる。
880日本@名無史さん:04/11/07 22:13:42
水戸の敬幕論は将軍家に尽せと言っても会津のように身命を投げ打ってまで尽せとする
佐幕論まで将軍家への忠誠を唱えるものではない。
881日本@名無史さん:04/11/07 22:18:54
>>878
この>>695には、

>>873
将軍家の為に水戸家が身命を捨てよなどという家訓
>>874
将軍家の為に身命を投げ打てという水戸学派

という文はないですね。家訓とかも書いてないし。
僕は>>879に書いてくれているけど、
水戸学は、将軍を絶対に支持するのは、やはり前提で当然だと思います。
御三家の限界ですし、幕末のいわゆる尊王攘夷運動を水戸学は押さえてるようですし。
882日本@名無史さん:04/11/07 22:27:45
将軍を絶対に支持するというのは行動においては将軍家に身命を賭して尽すことではないのか。
将軍「絶対」支持という言葉が単なる言葉のアヤならべつだが。
こんな家訓をもったのは会津ぐらい。
883日本@名無史さん:04/11/07 22:30:09
>>872
>>870だが>>695は私の書いたものではない。
また私は慶喜の述懐が嘘だと書いたこともない。
慶喜は斉昭からそう聞かされたのだろうが
斉昭は誰に聞いたのか、
斉昭にそれを聞かせた人物は誰に聞いたのか
そこのところを明らかにしてほしいと言っているだけだ。
>>822に答えてほしい。
884日本@名無史さん:04/11/07 22:38:49
水戸学は将軍を敬うべきだとはしているが、
だからと言って会津のように身命を投げ打って「絶対」
に支えなくてはならないともしていない。
885日本@名無史さん:04/11/07 22:44:02
>>879
>水戸学の尊王攘夷論は幕藩体制の階層秩序を根本的前提としている点で、
>三家の一つとしての水戸藩の立場が刻印されている。
を読むと、
水戸藩が幕府絶対支持だから、当時の人々の思考回路だと
水戸学も、将軍支持が絶対となるね。

>>882は、もはや負け犬の因縁付けだね。
桜の件でも負けたしね。
この荒らしは続くぞきっと。
886日本@名無史さん:04/11/07 22:48:19
身命を賭してでも絶対に幕府・将軍家を支えよという水戸学派は聞いた事が無いが。
887日本@名無史さん:04/11/07 22:50:23
>>884
水戸学って大雑把に書くんじゃなくて
会沢でも誰でもいいからさ
誰がどう言っているかってきちんと書いてくれないかな。
888日本@名無史さん:04/11/07 23:03:40
光圀公が修史事業において意図してたのは、
あくまでも徳川幕府のイデオロギー的基礎を固めること。
そしてこれが本来の水戸学。
藤田幽谷や会沢は水戸学を歪曲した国賊。
889日本@名無史さん:04/11/07 23:09:57
義公の真意は計りかねる。水戸藩における尊皇論は義公の遺志ではなく
東照神君その人が倒幕を予見した際の徳川存続の保険とも見なされている。
890日本@名無史さん:04/11/08 00:20:25
>>889
また訳のわからんことを書く人がいますな。
何を根拠にそのようなことをおっしゃるのか
根拠をお示し願いたい。

歴史学の基礎は実証ですよ。
891日本@名無史さん:04/11/08 05:41:16
慶喜の言った義公の遺訓を疑わしい、あるいは嘘だと断ずる一方で、
何の根拠も挙げずにいきなり水戸学は幕府・将軍家を絶対に護れと唱えていると断言するのが実証というのだろうか?
892日本@名無史さん:04/11/08 08:21:13
水戸学は倒幕派の尊皇攘夷に反対し、
幕藩秩序維持の尊皇攘夷を唱え、
将軍・幕府支持のため開国にも賛成にまわっていますが。何か?

光圀の遺訓は解釈にも無理があり、
慶喜の話も、彼の大政奉還での権力強化を狙っていたような態度を見ていると、
随分と話が違うように見えますが。何か?
893日本@名無史さん:04/11/08 08:30:10
光圀の大日本史の三大特筆。
1、神功皇后を皇妃列伝に入れた。
2、大友皇子の即位を認めて大友天皇(弘文天皇)を本紀に立てた。
3、南朝を正統として本紀に列した。
それだけといえばそれだけ。

光圀は意外と仏像保存などが評価されている。
光圀など前期の学は、水戸学ではないという評価も戦前からもあり、今もあるね。
確かに、編纂に間が空きすぎ、人物も変わり、大日本史編纂者すべてが水戸学者
になってないからね。何より、歴史編纂と政治実践という壁がある。
894日本@名無史さん :04/11/08 15:07:06
義公の尊王論はそもそも伯父尾張義直に影響を受けたもの。
尾張義直の勤王論は 幕府へのライバル意識から生まれたもの。
大日本史編纂で 南朝を正統としたのは 歴史学の立場で正偽の判断をしただけで 深い意味はない。
大日本史編纂が重荷となり 破綻寸前の水戸藩に登場したのが 烈公。
藩政改革と慶喜を将軍継嗣にすることに一生をささげる。慶喜の絡みで幕政にも少々口をだす。
天朝を奉じて何かをするなんて考えてもいない。
水戸学を政治利用したのは 明治政府。

895日本@名無史さん :04/11/08 15:16:39
>>892
光圀・斉昭ともに、廃仏的な社寺整理を行っています。
896日本@名無史さん:04/11/08 15:52:02
義公は 「嗚呼忠臣楠氏之墓」 を建てた方ですよ
897日本@名無史さん:04/11/08 16:33:02
>>895
私も意外だったんですが、光圀の社寺政策で、次のようなのが目にとまり
ましたので、一応書いてみた次第です。>仏像保存

宗教行政としては社寺の大整理があるが、一方、神仏分離を推進して
名社名刹には特別の保護を加えた。
このときの1村1社制は後世長く守られた。
文化財については、那須国造碑(栃木県・国宝)の保存や侍塚(栃木県・史跡)
の発掘保存、遠く多賀城碑(宮城県)の修復などにも力を入れ、仏像などの
保護にも努めた点は、むしろ今日になってその成果が評価されるようになった。
898日本@名無史さん:04/11/08 21:09:39
>>896
裏面には明人の朱舜水による讃詩。
ま、光圀は学者ということで。
大日本史が刊行終了したのは明治39年なんですね。

将軍家の藩屏、御三家。
899臣高山:04/11/08 21:18:49
>>869
検索で見付けた文章を何の疑いもせずに
拝み伏すのは如何なものでしょうか。

古代中国で重んじられていたのは
あくまで梅だという
ことはその文章にも書かれているとおりです。
そして、日本でもその影響から当初は
梅が重視されていましたが
やがてその国風から梅が桜に変わりました。
これが模倣なら当時、中国でも梅よりも桜が重視されるように
なった事実を示す資料なりを出さないと
そのようには証明されません。
そのコピペ文章ではその肝心な部分をごまかして書いてあります。
もう少し分析、洞察能力を磨かれたし。
900臣高山:04/11/08 21:24:08
>869
>桜は日本の花というイデオロギー

もはやこの時点からしてすでに逝ってしまわれているようですが。
そもそもの話は日本では梅よりも桜がより親しまれ愛される
ようになった歴史的事実を述べているのであって
誰もイデオロギーの話なぞしてませんよ。
目を覚ましたまへ。
901臣高山:04/11/08 21:36:09
>>869
思い出していただきたいが
そもそもあなたは
>>783
の発言に対してそれは
中国の模倣というような主旨の発言をされました。
したがって王朝人が中国の歌を参考に
歌を作ったことが問題ではなく、
いかにして梅が桜よりも重んじられるようになったか、
それが中国の模倣であったのかということを
証明しなければなりません。
あなたのいままでのコピペや発言では
この肝心な所について一言も説明がなされていませんので
改めてその点についての説明を要求いたします。
902日本@名無史さん:04/11/08 21:45:10
>>899
私には定説を否定する知識はありませんので、
私は百科事典等にも採用されている定説に従います。
貴殿は、がんばって定説をひっくり返してください。

「齋藤正二・著作選集」 5 日本人とサクラ・花の思想史
目次
日本人とサクラ―新しい自然美を求めて(「日本のサクラ」と「世界のサクラ」
日本人にとってサクラとは何であったか
「サクラの社会科学」の樹立をめざして
サクラの植物文化誌サクラの象徴文化誌)
花の思想史(花の発見古代律令国家と"花木観賞")
903臣高山:04/11/08 21:47:23
>>869
このコピペ文中の
中国の桜の例はただ一つですが
日本の桜に関する歌や詩はまさか
みなこの一つの中国の歌わ模倣したわけではありますまい。
他にこの当時の中国ではどれほど桜が
とりあげられていたかを
もって、はじめて日本の王朝時代の桜趣味は中国を
参考にしたと言えるのではないでしょうか。
904日本@名無史さん:04/11/08 21:50:13
>869
異説、新説ではありません。
そもそもあなたが引用している文章は
おかしいし、
日本において桜が梅にとってかわった
ことの説明にはなっていないのです。
905臣高山:04/11/08 21:57:37
>869
当時の人に基本的教養に中国の文物
があったのは事実ですが
「古今和歌集の美学的規範そのもの」
がそうであったとは
初めて聞く新説です。
よろしければ詳しくご高説を
拝聴したい。
906臣高山:04/11/08 22:02:41
>>902
いえ、そもそも定説ではありません。
あなたは何をもって
それを定説と信じているのですか?

そして、あなたはその人の文章が正しいと
信じるならば
最後まで責任をもって回答すべきです。
907日本@名無史さん:04/11/08 22:08:06
>>902
あなたが挙げているのは
百科辞典でなく
著作集ですが
その人の発言のどこが
どの百科辞典に採用されていますか?
908日本@名無史さん:04/11/08 22:14:24
古今和歌集も中国の模倣そのもの

これ定説

(稿
909日本@名無史さん:04/11/08 22:17:05
>902
日本史や国文学史から
の常識からすると
定説どころか
かなりの珍説なのですが。
例をあげるまでもなく・・
910日本@名無史さん:04/11/08 22:18:24
>古今
選者の主張は序文に示され、〈やまと歌は人の心を種としてよろづの
言の葉とぞなれりける〉と仮名序の冒頭にいうように、創作主体としての
人間の心を基本に据えるものである。
両序は主として《毛詩大序》を基盤として書かれており、全体に中国文学
論の影響は大きい。

水戸学で間違いを指摘されたので、今度は桜ですかw?
少しは、ご自分で学ぶと言うのも大切ではないかと。
私は定説と思いますから、思わないのなら新説を提示してください。
911日本@名無史さん:04/11/08 22:19:08
>902
キミはその人が一体どういう人なのか
他にどんな著述をしているのか
もう少し調べてみたまへ。
912日本@名無史さん:04/11/08 22:20:58
>>907
楽しないで本読んだほうが身につくよ。
百科事典は平凡社百科事典だったとおもうがね。
913日本@名無史さん:04/11/08 22:21:00
>902
あなたは
権威に弱いタイプですな。
天皇に対する反感も権威コンプレックスからでしょうか。
914日本@名無史さん:04/11/08 22:26:32
>910
いや通説ではそこは
日本古来の言霊信仰に
基づくものだが・・

該当する中国側の文章を示されたし
915日本@名無史さん:04/11/08 22:31:00
>912
いやそんな無責任なやり方では困ります。 わざわざあなたの言葉を検証するため
百科辞典を買ってなぞいられません。
あなたなら私が言うままの本を指定され買いますか?
該当する部分を引用なり紹介するのは
あなたの責務です
916臣高山:04/11/08 22:35:09
>910
もっと具体的にお願いします。
そして、先にあげている我が国における
桜と梅の関係が
中国の模倣であることも
しっかりと答えなさい。

なお、水戸学についてやっているのは別の方です
917日本@名無史さん:04/11/08 22:40:12
>910
あなたは何か偉そうな人が書いているからと
その文章を崇拝するのではなく
一度自分自身でその文章を検証すべきです。
あなただけの世界では定説かも知れませんが
世間では定説ではありません。

もっと広い視野と自分自身で検証し考える
力を磨きましょう
918日本@名無史さん:04/11/08 22:47:57
なぜに桜の話が続いているのかよくわからん。
桜と江戸時代の天皇とどういう関係があるのか。
919臣高山:04/11/08 22:48:22
従来、賛成派も反対派も史的事実をもって
やりあってきたのだが
今回このような揚げ足のとりあいにも
等しい無意味なレスが続くのは誠に残念なことである。
原因は反対派の幕厨もどきに基本的な
歴史の素養がないため
あきらかにおかしな文章を持ち出してきては得意になっているからである。
それを普通におかしいよと指摘することが
議論になっているのだからたまらない。
920日本@名無史さん:04/11/08 23:08:29
>>919
>天朝様が日本の庶民の好みをよくご理解されていたのか、
>あるいは日本人の桜好きは天朝様にあやかったものかもしれませんね。
ここが全く証明されていないのだが。
921日本@名無史さん:04/11/09 10:54:15
>>920
これか。どっかのサイトのコピペじゃないか?文の配置が変だしw。

783 :天朝派 :04/11/06 11:00:01
平安時代に入ると、桜は台頭する。
 内裏南殿(だいりなんでん)に橘(たちばな)と並んで植えられていた梅
は、いつしか桜(左近の桜)に植え替えられ、
花といえば桜を指すようになったのである。

天朝様が日本の庶民の好みをよくご理解されていたのか、
あるいは日本人の桜好きは天朝様にあやかったものかもしれませんね。
922日本@名無史さん:04/11/09 10:58:16
>>天朝派=高山=名無しの水戸学

うちに平凡社の百科事典があったから「さくら」でひいてみたら、
コピペと同じような文がこってり載ってたよ。
中国説は通説でいいんじゃない?図書館でひいてみたら?
923日本@名無史さん:04/11/09 11:05:31
横から悪いが、ところでこれはこういうことでいいのかな?

>将軍を捨てろと言ってる水戸学派は誰か?→いなかった。

>高野長英、撲殺説のソースは?→ある人が自殺説と撲殺説があると
どこかの市の教育委員会の答弁か何かで言っていた。ソースは書いてない。

>水戸学派の中心的人物の会沢正志斎の将軍支持・条約承認の理論は理解できたのか?
→できたので、沈黙したのか、会沢を知らないのか、推測不能。

>江戸時代の庶民が天皇を崇敬してたというソースは?
→まだ、ひとつもでてこない。
924日本@名無史さん:04/11/09 11:20:00
天朝派という人のレスだったのに、なんで高山って人が粘着荒らししているんだ?
何か悔しいことでもあったのか?
あの桜の件のレスでの中国と日本のことは、ほとんど事典どおりの通説だったよ。
次は、多重人格さんが否定する番だね。
相手が文献から出したんだから、君もサイトじゃなくて文献がいいね。
925日本@名無史さん:04/11/09 18:19:20
>>江戸時代の庶民が天皇を崇敬してたというソースは?
>→まだ、ひとつもでてこない。

あるだろw雛祭り。
926日本@名無史さん:04/11/09 18:42:39
>>925
だいりびな【内裏雛】
三月節供の雛祭に飾る雛人形。内裏(御所)の貴人男女の姿になぞらえて作られた夫婦雛で
男女和合を表す。ふつう男雛は束帯姿、女雛は十二単姿。はじめは立ち姿の紙雛だったが、
のちに座雛が主流となった。内裏雛という名称は元禄頃から用いられ、雛人形はもっぱら公卿
の風俗にならって製作されるようになった。天皇・皇后の姿と考えられるようになるのは明治期
以降。江戸時代を通じて女雛をむかって左におくのが一般的だが、現在は天皇の即位式にな
らって右におく。雛の容姿にも流行があり、代表的なものに寛永雛・享保雛・次郎左衛門雛・親
王雛・古今雛などがあった。(山川出版社『日本史広辞典』)
927日本@名無史さん:04/11/09 19:18:42
>将軍家を捨てろと言っている水戸学派
慶喜の口述によれば他ならぬ義公自身なんだが。


928日本@名無史さん:04/11/09 20:45:38
>>927
烈公からの又聞きなんだよね。義公は「君雖以不君、臣不可臣」としか
言ってないしね。
慶喜の言葉は自己弁護のバイアスがかかってるとよく言われるよね。
確かに、大政奉還後、総裁を狙ってたようだし。
維新後は趣味に没頭してるように見せかけてたし。
この口述を書いたのは渋沢栄一?
929臣高山:04/11/14 11:07:00
なにやら妙なかまって君の
登場で神聖な天子様に関するスレが
すっかり汚されてしまった。

今上様の新潟訪問に感動した
国民は多い。
930日本@名無史さん:04/11/14 12:04:48
>>922
平凡社あったので
桜で見てみたが
中国うんぬんなど一言も書いてなかったが。 新装改訂百科辞典 マイペディア 平凡社
931臣高山:04/11/14 12:13:37
>926
あきれたな。
こんなところの教科書使ってれば
そりゃおかしな日本史覚えるだろ。

雛人形の右左は上方、江戸で違っていたし、
それは上方は伝統的な男の天皇を
江戸では徳川系の女の明正天皇を意識してたから。
932日本@名無史さん:04/11/14 12:17:31
天皇、皇后じゃないなら
『内裏雛』て名前はなんなんだ?
元録頃にはそう言われてたわけだろ?
933日本@名無史さん:04/11/14 14:02:09
マイベディアじゃな・・・
世界大百科事典全35巻ならでてたよ。
934日本@名無史さん:04/11/14 14:21:37
>>臣バカ山
で、庶民が天皇を崇敬してたソースは?

>>926さんを馬鹿にしてるけど、
山川がダメならどこの教科書がいいんだい?
まさか・・・
935日本@名無史さん:04/11/15 00:14:36
>>931
明正天皇を意識していたのなら、未婚だから男雛はいらないはずだが…
936日本@名無史さん:04/11/15 00:31:51
女雛を左に置くのは上方だけではない。

http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/saijiki/3/16hina/hina-ex3.htm
これは岡山の掛け雛だが、女雛が左。

http://www.wsnet.ne.jp/~hakodate/keijiban/00hina/00hina.html
これは函館の雛飾り。
幕末から明治初年の物と推定されているが
やはり女雛を左に置いている。

なお明正天皇云々が馬鹿馬鹿しいのは
>>935の指摘の通り。
937日本@名無史さん:04/11/15 10:20:14
臣バカ山=天朝派は、あいかわらず馬鹿っぷり大全開だなw。
こりゃ、2度と出てこられないだろう。
938日本@名無史さん:04/11/18 15:12:43
937 :日本@名無史さん :04/11/15 10:20:14
臣バカ山=天朝派は、あいかわらず馬鹿っぷり大全開だなw。
こりゃ、2度と出てこられないだろう。


939日本@名無史さん:04/11/23 06:22:25
江戸時代、庶民は天皇のこと(存在)を知っていたか?

知名度0%
ほとんど知らなかった

知っていたのは
1割程度
2〜3割程度
半数程度
7〜8程度

ほとんど知っていた
知名度100%

どのへんが主流?



940日本@名無史さん:04/11/26 22:41:49
1 :大五郎 :04/09/11 20:42:24
江戸時代、人々に崇敬された
天子様について語りませう
941日本@名無史さん:04/11/27 21:15:58
知らなかったと言いきれる
あんたは江戸時代の知識ゼロパーセント
942臣高山だが:04/11/27 21:24:06
>936
そりゃそうでしょ。上方の置き方が正しいというか本来の
置き方なわけで・・
で、江戸は明正帝を意識したのか逆なわけだが
完全な個人をモデルにしたわけでないから単体なはずもなく・・ 前から言ってるようにあなとは基礎的なレベルが違うから話にならない。 いちいちその都度詳しく解説してやらないとならないから話が進まないのだよ。 そもそも右左の意味調べてこいよ。
943臣高山:04/11/27 21:28:39
前から日本史板のレベルが落ちた落ちた
と言われてきたが
こんなマジ中学生みたいなのが
しゃしゃり出てちゃホントにおしまいだ。
中学生歴史しゃべり場板だな・・
944日本@名無史さん:04/11/27 22:33:05
931 :臣高山 :04/11/14 12:13:37

雛人形の右左は上方、江戸で違っていたし、
それは上方は伝統的な男の天皇を
江戸では徳川系の女の明正天皇を意識してたから。
945日本@名無史さん:04/11/28 19:13:37
明治天皇の地方巡行の様子を見ると
庶民への天皇への崇敬が
その時にわかに強制されてやったものには
見えないがな。
946臣高山:04/11/28 19:43:05
うむ、江戸時代に書かれた職業ごとの
由緒書きの多くは
その起源や許可の根拠を天皇にしているが
それは庶民たちが幕府に対して
我々はあなた達の許可を得る前から本来の国主である天皇様から
許可をいただいてこの仕事をしているのであるから
いまさら幕府にとやかく言われるものではないという意思表示なのであり、
現在の支配者である幕府に対して、庶民が幕府が必死に隠そうとしている
昔からの本来の国主のことを知っているんだぞという
メッセージでもあったのである。
これらの由緒書きを提出された幕府は
少しびびったであろう。
947日本@名無史さん:04/11/28 19:54:00
>>946
単に起源が古るさを主張したいだけではないのか。
本来の国主という認識があるんだかどうだか。
948日本@名無史さん:04/11/28 21:36:11
コピペ?に亀レス
>>33
綱吉の時代は五代将軍といえども家康の曾孫、江戸になってまだ80年かそこらだね。
この後の将軍も母の叙位を請ったならまだしも170年離れた幕末と同列にするのは乱暴じゃないの。
170年といえば鎌倉時代が丸々、室町も半分以上が入りますよ。明治から現在までよりも永いです。
それと江戸時代の絶対君主は天皇だったの?でも天皇の勅があっても鎖国できなかったんだよね。
もしかして日本の絶対君主は攘夷を盾に幼帝を擁し、幕府を打倒した後に開国した薩長の誰かなの?
靖國神社に大きな銅像のある人なんかがそうだったりして。当たってる?
949日本@名無史さん:04/11/29 21:57:19
>由緒書の1
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、鋳物師(灯炉供御人)、生魚商人(津江・粟
津橋本御厨供御人など)、地黄匙売など各種の供御人は、その特権の保証された
ときの時期と天皇を訴訟などの際に強調し、その系譜の確かなことを誇ってい
るが、これは事実であることが多い。

しかし室町時代以後、この特権を保証していた天皇の実質的な力が弱化するとともに、
この由来はしだいに伝説化し、不正確になり、正確な文書にも〈天照大神〉
〈神武御門(みかど)〉などが登場するとともに、こうした伝説に基づく由緒書
が書かれ、偽文書が作成されるようになってくる。
灯炉供御人の全国的組織解体の事態に直面した鋳物師を再組織した真継家が、
供御人の伝統を背景にしつつも、戦国時代、諸国にそれぞれ商圏をもつように
なった鋳物師の実情、当時の習俗に即しつつ、鋳物師に伝わる伝承を取り入れ
た由緒書を作成、さらに正確な文書を下敷きにしつつ偽文書を作ったのは、その好例である。

惟喬親王を職能の祖とする木地屋の由緒書と偽文書も、神梢官を通じて天皇に
属した轆轤師の伝統を背景に、江戸時代に入ってから全国の木地屋を組織する
ために作られたものと思われる。
950日本@名無史さん:04/11/29 21:58:07
>由緒の2
また被差別部落には、〈河原巻物〉ともいわれ、その職能・特権、差別の由来を
語るさまざまな由緒書が伝わっているが、そこにしばしば現れる〈延喜御門〉
(醍醐天皇)は、16世紀に塩売りとして活動した坂の者(非人)の正当な文書(〈北風文書〉
〈八坂神社文書〉)にも現れるので、この由緒書も単に江戸時代に捏造された
ものではなく、戦国時代のなんらかの事実・伝統を背景にしているのである。
このほか、近江保内商人の後白河天皇の偽綸旨とつながる由緒書をはじめ、
職人の伝える偽文書には由緒書が結びついていたものと思われるが、これらの
うち、またぎの〈山立根元巻〉が源頼朝にその特権の起源を結びつけているように、

東国の職人には頼朝や徳川家康にみずからをつなげているものが多い。そして
職人の由緒書は偽文書とともに、中世後期以降、江戸時代の社会ではそれとし
て認められ、実効をもった面もある。
951日本@名無史さん:04/12/01 01:39:23
>>23
上方って大阪のことじゃなかったのか。

>>24
例えば、匿名希望者は「日本@名無史さん」と称した。
「名無史さん」とは、「名前の無い人」の略称である。
真人・連以下は?朝臣と臣以外は朝廷の臣下じゃないともいえるな。

>>26>ちなみに外国は日本には皇帝が二人居る。という認識に途中からなってる。
国家元首じゃないのに皇帝と認識された公方はだれですか。

>>30
「道師」とは「天皇に道徳を説いた師」の略称ですか?
「連」(むらじ)とは「天皇と連れションした親友」の略称ですか?
952日本@名無史さん:04/12/01 12:17:35
>>946 :臣高山
なんだ、全部が嘘と妄想か。
953日本@名無史さん:04/12/03 11:26:33
臣バカ山=天朝派は、あいかわらず馬鹿っぷり大全開だなw。
こりゃ、2度と出てこられないだろう。


954日本@名無史さん:04/12/03 20:50:56
明治時代になって人民が素直に天皇を崇めた理由はひとつしかない。
明治天皇が徳川将軍の権力を継承した存在であることを熟知していたからだ。
955日本@名無史さん:04/12/04 16:38:16
と司馬遼太郎は申しております
956日本@名無史さん:04/12/04 16:50:33
もまえら、まずは山本博文著『徳川将軍と天皇』でも嫁!
957日本@名無史さん:04/12/05 00:43:35
>950
頼朝はわかるが家康の例は
ほとんど聞いたことないがどの職種?
958日本@名無史さん:04/12/05 01:32:35
世界の皇帝で最も怠けてたのが、日本の帝なわけです。
その分、貧乏だったけど。
959日本@名無史さん:04/12/05 02:06:10
>952
臣高山=「しったかさん」じゃないのか?そう読んで、つまらん釣り師だと
思っていたんだけど。
960日本@名無史さん:04/12/05 02:06:20
>>954
そういう洗脳教育をしたおかげ。
北朝鮮の国民が金正日マンセーなのも同じだ。
961日本@名無史さん:04/12/11 21:38:51
ネタ切れか>知ったか山
962日本@名無史さん:04/12/11 23:19:09
sittaka
963臣高山:04/12/12 11:25:46
江戸時代の人々は
様々な講なんかの横のつながりで上方とは通じていたから
京の天子様のことは
上からの幕府の情報統制にもかかわらずよく知っていたわけだが
964臣高山:04/12/12 11:27:48
>961
ネタは切れてないが
キミのおもりにはつかれた・・
965日本@名無史さん:04/12/12 12:19:49
由緒書きの件はどうなった?
966日本@名無史さん:04/12/12 13:44:39
「上方」とは、お上(天皇)がおられるところという意味で、まずは京都を指し、
やがてはその隣の大坂も含めるようになった。

東京が上方と呼ばれたことは一度もない。天皇がおられるのに上方と呼ばれない
東京・・・。
967日本@名無史さん:04/12/12 14:44:11
下るもの、下らないものって、
決定主体は上方でなくて江戸なんだよね。
968日本@名無史さん:04/12/12 14:52:16
>>963
969日本@名無史さん:04/12/15 12:25:40
ネタ切れか・・・
970日本@名無史さん:04/12/15 18:22:05
江戸時代、江戸相撲の番付は西が上位だった
谷風は西大関、小野川は東大関というように
これに対し大阪相撲の番付は東が上位だった
江戸から見ると西が、大阪から見ると東が
天子様のおられる所だからそうなったわけだ
971日本@名無史さん:04/12/15 22:04:10
で?
972日本@名無史さん:04/12/16 16:30:44
931 :臣高山 :04/11/14 12:13:37

雛人形の右左は上方、江戸で違っていたし、
それは上方は伝統的な男の天皇を
江戸では徳川系の女の明正天皇を意識してたから。


973日本@名無史さん:04/12/16 21:59:59
臣高山の嘘つき事件はどうなったんですか?
974日本@名無史さん:04/12/17 11:39:13
逃走シマスタ
975日本@名無史さん:04/12/17 12:29:47
江戸時代の天子様は誰にも尊敬されず、
腐った食べ物を食べてた。
976日本@名無史さん:04/12/17 14:21:47
931 :臣高山 :04/11/14 12:13:37

雛人形の右左は上方、江戸で違っていたし、
それは上方は伝統的な男の天皇を
江戸では徳川系の女の明正天皇を意識してたから。

977日本@名無史さん:04/12/17 19:52:08
臣高山=天朝派は逃げたか
978日本@名無史さん:04/12/17 22:05:53
あいつは嘘つきだからね
979日本@名無史さん:04/12/17 22:07:26
明治維新は公方様から天子様への政権交代。
明治時代になって天皇に対して払われた敬意はそれまで徳川将軍に対して向けられていたものと同じもの。
980日本@名無史さん:04/12/18 12:52:14
977 :日本@名無史さん :04/12/17 19:52:08
臣高山=天朝派は逃げたか


978 :日本@名無史さん :04/12/17 22:05:53
あいつは嘘つきだからね
981日本@名無史さん:04/12/20 01:01:34
テレビで忠臣蔵を見ていたら、赤穂浪士の処分をめぐって悩んだ徳川綱吉が、
輪王寺の公弁法親王(後西天皇の第六皇子)に助けを求めるシーンがあった。
その時、法親王が将軍の座にすわり、綱吉は下座で深々と頭を垂れていたよ。
史実なんだよね、これ。
982日本@名無史さん:04/12/20 07:49:55
次スレは?
983日本@名無史さん:04/12/20 10:17:20
977 :日本@名無史さん :04/12/17 19:52:08
臣高山=天朝派は逃げたか


978 :日本@名無史さん :04/12/17 22:05:53
あいつは嘘つきだからね
984日本@名無史さん :04/12/20 12:05:22
遷都の詔勅がない以上 今でも京は京
985日本@名無史さん:04/12/20 18:00:01
公弁法親王の任命権者は誰?
986日本@名無史さん:04/12/20 21:49:23
朝廷
987日本@名無史さん:04/12/20 22:36:19
法親王とは、出家後に天皇より親王宣下を賜った皇子のことである。
988日本@名無史さん:04/12/20 22:56:35
徳川マンセー
989日本@名無史さん :04/12/21 09:47:07
今上は護憲平和主義者
江戸期のみかどもことなかれ
990日本@名無史さん:04/12/21 13:51:47
ま、何でも決めるときの実権は武家やけどな。
991日本@名無史さん:04/12/21 20:13:21
武家政権は、朝廷の権威にすがらないと成り立たない。
鎌倉幕府⇒清和天皇を租とする源氏の将軍が三代で絶えると、朝廷にすがって
     親王将軍、続いて摂家将軍を立てて権威を保った。
室町幕府⇒幕府自体が京にあった。
江戸幕府⇒家光以降の将軍御台所を公卿の娘や皇女でかため、権威を保った。
992日本@名無史さん
 o。_。_lコ<o>     |l≡≡≡|ミ|_<o>_。≠_〇o
 。+ +。。。。。 |l|FFFFFFF|。 。 .。 +|l≡≡≡|ミ|EEEEEEEEEEE|lll| .。+
  * o  o.   |l|FFFFFFF / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     。。oo  |l|FFFFFF | 独りぼっち……。
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