江戸時代の天皇について語れ!

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1日本@名無史さん
さあ。スタート!
2日本@名無史さん:02/09/13 11:37
3@−H−G:02/09/13 12:02
枠順馬番・ 馬 名 ・ ・ ・ ・ ・騎手・ ・・・予測
1枠1番_大室デムパ 〇害_孝明・明治帝___〇
2枠2番_女 帝/\ァ/\ァ _ 明正・後桜町帝__
3枠3番_幕 朝 関 係 _ _後水尾・光格帝__▲
4枠4番_なぜか近代化 __明治帝______
5枠5番_なぜか大戦_ _ _昭和帝_______△
5枠6番_なぜか存続論___愛子内親王______
6枠7番_なぜか嫌韓 〇害 _今上帝______×
6枠8番_A A ス レ___徳仁親王_____●
7枠9番_d a t 落 ち__(騎手乗換)____◎
7枠10番_ウヨサヨ 貼 り_ (騎手乗換) ____
7枠11番_【^▽^】軍団 _ _(騎手乗換)____
4日本@名無史さん:02/09/13 12:47
5日本@名無史さん:02/09/13 17:36









6日本@名無史さん:02/09/13 21:20
江戸時代の天皇は民衆に無視されたってほんとう?
7日本@名無史さん:02/09/14 17:37
>>6
ていうか、「神社(神主さん)の棟梁」のように思われていた。
8日本@名無史さん:02/09/14 18:45
京都所司代の最大の任務は
天皇を京という牢獄から
絶対に出さないことであった
9日本@名無史さん:02/09/14 19:29
>>7
あながち間違ってないね。
10日本@名無史さん:02/09/14 21:58
age

11後水尾天皇:02/09/14 22:01
辞める!!
12日本@名無史さん:02/09/14 22:41
江戸自体の天皇って今以上に窮屈そうだ・・・
食事もゲロマズだったろうし。食えない物を大量に並べていたんでしょ?
で、喰わないように紙を貼っていた、と。

現在の御苑のエリアからは出られなかったってホント?
13日本@名無史さん:02/09/14 23:13
後西天皇は当麻寺に行幸されてますが何か?
当麻寺の庭園はそのために片桐石州が作り直しました
14日本@名無史さん:02/09/14 23:19
後桜町天皇萌え
15日本@名無史さん:02/09/14 23:30
>>13
それは在位中か?退位後か?
16日本@名無史さん:02/09/15 00:26
>>11
多くのお子様方を不本意な形で亡くされたと伺っております。
御無念お察し申し上げます。
17日本@名無史さん:02/09/15 02:26
光格天皇は6尺5寸(195センチ)あったとさ。
18日本@名無史さん:02/09/15 02:56
幕府の皇子暗殺説ですか?
>>16
19日本@名無史さん:02/09/15 03:01
>>18
後水尾院が退位を望まれた一因と言われてますね。
20日本@名無史さん:02/09/30 01:29
傍系の光格天皇の血統はどれくらい正確に証明されているのでしょう?
21日本@名無史さん:02/09/30 02:40
>>13

後西院が御幸したのは退位後。
退位後だったら、修学院のお茶屋に行ったりすることはあった。
在位中の行幸は後水尾院の二条城行幸から、孝明天皇の賀茂社行幸まで約230年間無かった。
幕府は、朝謹行幸や院の危篤の際の行幸さえ認めなかった。
唯一認めたのが、御所が焼亡したときの非常の行幸。
22日本@名無史さん:02/10/11 20:18
後西院天皇が、後西天皇になったいきさつをどなたか教えてください。
23日本@名無史さん:02/10/25 23:09
院を院政当時の後置詞と同じだと思った人が、
院を無条件に消しちゃったんだよね
24 :02/10/29 10:42
はまぐりごもんage
25日本@名無史さん:02/10/31 00:30
桃園、後桃園、桜町、後桜町、東山(象を見た像)
なんか平和な贈名だな。
26日本@名無史さん:02/10/31 01:15
おいおい、それらは全部おくりな(諡号)じゃないぞ
27日本@名無史さん:02/10/31 01:18
それらは全部「院号」だ。
明治になってから院の字をとってかわりに天皇とつけて歴代の呼び方を統一しただけ。
後西院なんかはそれを機械的にやったためちょっと意味不明っぽくなってしまった例。
28ベンゼン中尉 ◆zydmbsoahk :02/10/31 01:39
江戸時代の天皇家は長男以外は皆、坊さんになったそうですね。
だから、今みたいな宮家も少なく、幕府も上手いなあと感心しましたよ。
でも、中世から天皇家はある意味有名無実だったような感じですね。
29日本@名無史さん:02/10/31 07:05
江戸時代以前のやり方が一番柔軟でいい。
皇族が増えたら、減らす。増えたら、減らす。

明治以後、皇族が多くなりすぎた。減らさなかった為。
戦後は皇族を減らしすぎた。しかも増員できない。

なんか硬直してるよな。
前人の知恵をつけよ。アホ政府よ。官僚よ。
30日本@名無史さん:02/10/31 07:19
生かさぬやう殺さぬやう
31日本@名無史さん:02/10/31 13:03
>>21
じゃぁ、江戸時代の天皇さんって、
その2人を除けば、即位した後は、
皇居から、一歩も外に出られなかったの?
私的にも。
32日本@名無史さん:02/10/31 23:49
だからさ、上皇になると、羽が伸ばせるわけよ。
退位すれば、もう玉体じゃなくなるから。
まあ、京都御苑から一歩もでられないことには変わりないがね。

将軍だって、江戸城から外にでることなんてないだろ。鷹狩以外に。
それとあんま変わらんと思うが。
3331:02/11/01 01:17
>>32

そうなんだ。。。
京都御苑から出られないとは・・・

34日本@名無史さん:02/11/01 03:02
天皇なんてなるもんじゃ無いね

なれないけど
35日本@名無史さん:02/11/01 03:26
修学院のお茶屋は、京都御苑内(昔の公家町)じゃないよ。
36日本@名無史さん:02/11/01 20:50
後水尾天皇の忍の書は有名
37日本@名無史さん:02/11/01 22:59
>>8 >>32
へー、そうだったんだっていう感じだね。
だけど、幕府がそこまで天皇を見張るってことは、実はとても恐れていたからかもね。
38日本@名無史さん:02/11/13 18:02
後桜町天皇に結婚をゆるすくらいの度量を江戸幕府はみせるべきだった
39日本@名無史さん:02/11/25 05:12

崇道天皇って何年から何年まで在位ですか?
40日本@名無史さん:02/11/25 05:34
>>39

在位なんてしていない。
謀反の疑いを掛けられて淡路島に流された桓武天皇の弟に対する追号。
怨霊を恐れて。
41日本@名無史さん:02/11/25 07:04
光圀のアホが皇位に加えた天皇
 ・弘文天皇 ・・・大友皇子 壬申の乱ののち自決
 ・淳仁天皇 ・・・大炒王  孝謙上皇により捕縛、殺害された 
42日本@名無史さん:02/11/25 07:20
淳仁天皇って、天智天皇の血を引いていましたっけ?

他は、持統から孝謙まで天武朝といえども天智天皇の血を引いているのですが
43日本@名無史さん:02/11/25 10:03
まあ神主の親玉扱いであっても、当時の迷信や信仰がもてはやされる時代に
は下手をすると収拾がつかなくなるという恐れがあったのかもしれない。

44 ◆ANDOozB1sE :02/11/25 12:08
御伊勢参りが盛んになって、その神様の子孫ということで注目される心配もあっただろうし、
まあ何かと用心しておくのにこしたことはないっつうことっすかね。
45日本@名無史さん:02/11/28 19:59
>>42淳仁天皇の父舎人親王の母は天智天皇の皇女新田部皇女
持統天皇と元明天皇は天智天皇の皇女 したがって孝謙天皇まですべて天智天皇の
血を引いている
46日本@名無史さん:02/12/06 22:55
とすると、天武王朝といえども、天智の血を引く子孫でなければ皇位をつげなかった?
47日本@名無史さん:02/12/11 22:10
明正天皇 萌!
48日本@名無史さん:02/12/11 22:26
光格天皇(1771〜1840、在位1779〜1817)は、理念的な天皇像を
求めた人でした。在位は39年、譲位後も院政を23年敷きました。彼は典仁親王
の第六子として生まれました。当時養子にいけなかった皇室の男子はほとんどが
出家させられましたので、祐宮(さちのみや、光格天皇の幼称)もまた聖護院に
送られることになっていました。

しかし、後桃園天皇が男子を残さないままに崩御、急遽祐宮が後継に選ばれました、
時に9歳。宮家から来たため、回りの人間から軽く扱われることがあったといいます。
そのため母代わりとなって見守ってくれた後桜町院(女帝でした)から学問をする
よう諭され、うち込みました。長じてこれが役に立ちます。
49日本@名無史さん:02/12/11 22:27
天命の大飢饉による食糧不足に対して京都の町民は京都所司代に対策を求めましたが
全く反応はありませんでした。京都所司代を見限った町人達は、1787(天明7)年
の夏、京都御所の築地塀を廻り、御所に向かってお祈りをし、門から賽銭を投げ込み
始めました。やがて上方中から人が集まり、数万の民衆が御所千度参りを始めました。
出店まで出て、たいそうな賑わいだったと言うことです。

これはこれまでの常識からして、大変なことでした。正式な政府である幕府権力を
民衆が見限り、朝廷に救いを求めたのです。

16歳の光格天皇は彼らを何とか救済できないかと考え、関白と武家伝奏を通して
処置を京都所司代に申し入れました。朝廷の方から幕府に政治の指示をするなど、
前代未聞のことです。案の定関白と武家伝奏は「前例にない」と心配し、恐る恐る
京都所司代に提案しましたが、案外あっさり受け入れられ、千五百石のお救い米が
支給されました。朝廷は特に前例が物を言う世界ですから,この前例が出来たこと
によって、朝廷が幕府に政治で口を挟む道が開けました。
50日本@名無史さん:02/12/11 22:32
光格天皇は、強い君主意識を持っていました。君主は仁を第一として、一身を顧みることなく、
天下万民に仁を施さなければならない、そうすれば神の加護により天下泰平を維持することが
出来る、という趣旨のことを書いています。

光格天皇はまた強烈な皇統意識を持ち、綿々と続いた天皇歴代に連なるという意識がいろいろ
なところに出てきます。

これらの意識は、若いときに学問に熱中したことから身についたのでしょう。

現在の御所は、1854(安政元)年4月に焼けて再建された物ですが、これは1788(天明8)年
に焼けて、1790(寛政2)年に造営されたものをほぼ再建したといわれています。したがって、
現在の御所は光格天皇のときに造られた物とほぼ同じです。

御所の焼失に際して、光格天皇は復古的な御所の造営を幕府に要求して、松平定信との粘り強い交渉
の末、要求通りの御所を作ることを勝ち取りました。

ただし、その仕返しから、父親の典仁親王に上皇位を与えることは幕府から拒絶されてしまいました。
51日本@名無史さん:02/12/11 22:34
また1807(文化4)年幕府はレザノフとラックスマンの事件(通商を要求したレザノフに
対して、当時の日本人も非礼と糾弾したような扱いをし、ラックスマンには通称許可をほのめ
かしたくせに全面的拒否解答。これに対してロシア艦隊が樺太・択捉・利尻の日本側施設や
船を攻撃)の報告を朝廷に行っています。今にもロシアが日本に攻めてくるといったような、
流言蜚語が飛び交っていてそれを否定するのが理由でした。これを前例にして、朝廷は対外
情勢の報告を幕府に求めるようになります。やがて外交に口を出し始めます。

1817年光格天皇は譲位しますが、このとき天皇号を第62代村上天皇(摂関時代の天皇)
以来900年ぶりに復活しました。この間冷泉〜後桃園は「院号」が与えられていました。
しかし院号は、金を出せば庶民でも戒名としてもらえるもので、ありがたみに欠けていました。

そして死後には、醍醐とか白河といった地名を使った追号ではなく諡号が与えられました。
これまた第58代光孝天皇以来900年ぶりのことでした。天皇号も諡号の復活も幕府との
交渉の結果実現したものです。

光格天皇以降、天皇には、天皇号と諡号が贈られています。

天皇と公家の教育軌間として学習所(学習院とも、明治の学習院の基)を計画し、死後に
実現されました。学習所では「六国史」などがゼミ形式で講義され、公家の政治的自覚を
高めました。
52日本@名無史さん:02/12/11 22:34
水戸学の栗山潜鋒は「保建大記」において、「天皇は、保元・平治の乱のときに
悪逆非道の行いをしたので、徳を失って政権を失ったのだ」と主張しました。
また潜鋒の同僚三宅観欄は、後醍醐天皇の失政を遠慮仮借なく批判しています。
しかし、彼らの主張が持つもう一つの意味は、「もし天皇が前非を心を改めて
徳を持った君主に戻ったならば、政権は天皇に戻るはずである」となります。
光格天皇が潜鋒や観欄の著作を読んでいたかどうかは不明ですが、もし読んで
いたとしたら自ら理想的な君主たることで朝廷に実権を戻そうと考えていたの
かもしれません。潜鋒は元々皇族に見せるために「保建大記」を記しましたから、
その可能性は高いでしょう。

このように、光格天皇は近世の天皇像を一変させました。光格天皇によって、
天皇は理論上だけではなく、実際に君主としての容貌を帯び始めるのです。
53日本@名無史さん:02/12/12 02:38
>>48‐52
こらこら他人のHPの丸写しはイカンぞ。
54日本@名無史さん:02/12/23 14:46
傍流の光格天皇へ皇位が回らない可能性はあったのでしょうか?
55日本@名無史さん:02/12/23 15:04
おまいらとりあいず久保貴子「近世の朝廷運営」読めや。
56日本@名無史さん:02/12/23 15:11
つーか、光格はじめ今の天皇家に至る流れの始祖の
貞成親王って誰の子なのよ?
崇光天皇の子・栄仁親王の養子・貞成親王の子・後花園天皇になるんだが
どこにも貞成親王の実の父が誰なのか書いてない
57日本@名無史さん:02/12/23 15:27
貞成親王(後崇光院)は栄仁親王の2男。
兄の治仁王が早世したため、その猶子となり伏見宮を相続。
58日本@名無史さん:02/12/23 15:31
実系だけでいくと、かなり遠い傍系が皇位を継いだわけですよね。

とすれば、若い男性皇族がいない現代にも適用できるのではないでしょうか?
59日本@名無史さん:02/12/23 15:37
江戸時代の天皇って、
幕府からまともな生活費をもらえずに、
お隣さんの施しで食いつないでたとか。
要するにコジキだったのだ。
60      :02/12/23 16:19
そんな惨めなさ生活をさせた徳川幕府は、維新のときに有無を言わせずに
倒されました。
61日本@名無史さん:02/12/23 16:43
62日本@名無史さん:02/12/23 21:22
>>60
徳川幕府は正すい
63mog:02/12/23 21:27
自分の人生もう終わり、と思う方は見ないで下さい!!
いやこれからだ、まだまだと思う方のみ、ご覧下さい!!
あなたの意欲を現実に展開していく方法論をお見せ致します!!

http://www.dream-express-web.com/mog.htm
64日本@名無史さん:02/12/30 18:40
降格天皇 
65日本@名無史さん:03/01/03 13:49
バック桜町天皇
66日本@名無史さん:03/01/05 18:22
最も天皇を神格化しなかった時代ではありますな
67山崎渉:03/01/11 16:56
(^^)
68日本@名無史さん:03/01/13 07:24
>>66
てゆっか、天皇という称号すら使わなかった。
69日本@名無史さん:03/01/13 10:22
でも京都って寒いネェ 昔の教科書副読本に蚊帳をマトッテ知人に面会する
公卿の図をみた。実際漏れもやって見たが結構ストーブ無しでも暖かいでした。
70山崎渉:03/01/16 08:48
(^^)
71日本@名無史さん:03/01/17 03:17
京都盆地での生活が天皇家には長かったですからね
72日本@名無史さん:03/01/17 06:00
>>66
違う。神格化しつつあったから閉じ込め政策をとったんだよ。

最も天皇を神格化しなかった時代は14世紀から15世紀。
73日本@名無史さん:03/01/18 00:00
>>72
何をもって神格化と言えるのか。
民衆意識の問題なのか、幕府側かなのか。
そもそも「神格化」とは?
それを答えずに14〜15世紀を神格化しない時代とは言えないのでは?
74日本@名無史さん:03/01/18 10:50
>>73
非常に適確な意見だと思いますが
それは72よりむしろ66に聞くべきでしょう。
75日本@名無史さん:03/01/19 22:34
>>74
あ、その通りです。スマソ
76茶々丸:03/01/24 21:10
<<57
貞成親王(後崇光院)は栄仁親王の長男。
弟の治仁王が早世したため、その猶子となり伏見宮を相続。
77日本@名無史さん:03/02/06 23:49
78日本@名無史さん:03/02/07 00:13
弟が死んで長男が親父の猶子になるってどういう意味?
79日本@名無史さん:03/02/11 22:14
なんかへんだな
80日本@名無史さん:03/02/11 22:35
後光明天皇の暗殺は真実なのですか?
81日本@名無史さん:03/02/11 23:48
貞成親王のホントの親父はわからないんじゃないの?
現皇室の直接の祖先だけどさ
82仁孝は南朝正統論者、光格は北朝正統論者:03/02/12 00:00
孝明天皇の本当のおとうちゃんは光格天皇なんだよね。
83日本@名無史さん:03/02/12 00:12
紫衣事件おこすような幕府が神格化してた
ようにはおもえんが
84日本@名無史さん:03/02/22 14:05
神格化していたため、せいぜい紫衣事件くらいしか幕府も起こせず、
朝廷廃止や皇位簒奪などへは発想すら思い浮かばなかったというのが事実らしいです。
85日本@名無史さん:03/02/22 14:22
後継者問題や、改元は、幕府の助言と指示のもとに行われてたようだが。
神格化はしてないでしょう。儀式化はしてたとしても。
86世直し一揆(コピペ推奨):03/02/23 11:18
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的でファイト満々(キモイ、自己中心、硬直的でデリカシーがない)
●妙にプライドが高く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと
する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に
はたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、
世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ) 
●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)  
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。包容力がなく冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
87日本@名無史さん:03/03/02 19:42
江戸時代と言えば、智子内親王ですが、みなさんはどう考えますか?
88日本@名無史さん:03/03/04 15:35
それより尊号問題が重要かと。大御所とかも関係あるんだけどな。
89日本@名無史さん:03/03/10 20:21
江戸時代の宮廷も平安スペクタクルが展開されていたの?
即位式は唐風だったらしいけど
90日本@名無史さん:03/03/10 22:36
>>76 >>77 >>78 >>79 >>81
おまいらとりあいず横井清「室町時代の一皇族の生涯」読めや。
91元常連 ◆QOYuzJdqhs :03/03/10 22:39
ほほー
92日本@名無史さん:03/03/14 23:39
その室町の皇族ってだれよ?
93エドン国:03/03/15 15:28
エドワードミト王子
94日本@名無史さん:03/03/15 15:53
>>92
伏見宮貞成親王、人呼んで後崇光院上皇。
95日本@名無史さん:03/03/16 01:53
京都所司代の最大の任務は
天皇を京という牢獄から
絶対に出さないことであった
96日本@名無史さん:03/03/16 01:56
霊元天皇とか地味に好き
97日本@名無史さん:03/03/16 04:53
3代将軍家光から最後の将軍慶喜まで、正室は全て皇女や公家の娘。そして、
5代将軍綱吉の母は京都西陣の八百屋の娘。
98日本@名無史さん:03/03/16 07:41
>>95

京ではなく御所でしょ。
99日本@名無史さん:03/03/16 09:18
霊元天皇 1654‐1732(承応3‐享保17)
第112代に数えられる天皇。在位1663‐87年。名は識仁(さとひと)。
後水尾天皇の第19皇子。誕生の年に兄後光明天皇の猶子となり,早くから
皇嗣に予定されていたが,1663年(寛文3)10歳で後西天皇の譲りを受けて
践祚した。
87年(貞享4)皇子東山天皇に譲位したが,93年(元禄6)まで院政を行った。
ついで1713年(正徳3)落飾,法名を素浄と称した。英明剛毅で学問を好み,
文芸の才に富んだが,ことに歌道にすぐれて詠歌は6000首を超え,
歌道関係の著述も30余種に上る。そのうち《一歩抄》《作例初学考》
などは天皇の歌論を述べたものである。歌集を《桃蘂(とうずい)集》
という。また広い教養と学殖,文才の一端は《乙夜随筆》《修学院御幸宸記》
などによってもうかがうことができる。
天皇はまた克己心が強く,夏も容易に扇子を用いず,冬も火鉢を使用
しなかったという逸話もある。
その在位中に多年中絶していた立太子礼の再興を見,譲位後に同じく
大嘗祭の再興を見たが,これら重要な朝儀の復興は,天皇の事跡として
特記される。天皇の追号は,古代の孝霊・孝元両天皇の諡号(しごう)の
各1字を採り併せたもので,生前の勅定によるが,勅定の理由について
は所伝がない。  
100日本@名無史さん:03/03/21 20:52
江戸時代の天皇は民衆に無視されたってほんとう?
101日本@名無史さん:03/03/21 20:55
>>100
征夷大将軍の根拠が天皇を中心とした朝廷であることも、
また民衆がお伊勢参りする先のアマテラスが天皇家の祖先であることも知っていました。
102日本@名無史さん:03/03/22 01:33
天皇なんてなるもんじゃ無いね

なれないけど
103日本@名無史さん:03/03/22 01:34
>>100
無視されてたというよりは、知名度自体が低かったのでしょう。
104日本@名無史さん:03/03/23 02:54
江戸自体の天皇って今以上に窮屈そうだ・・・
食事もゲロマズだったろうし。食えない物を大量に並べていたんでしょ?
で、喰わないように紙を貼っていた、と。
105日本@名無史さん:03/03/27 19:36
京都所司代の最大の任務は天皇を京という牢獄から絶対に出さないことであった
106日本@名無史さん:03/03/27 21:19
皇族が増えたら減らせ。
107日本@名無史さん:03/03/27 21:37
>>101
江戸時代のお伊勢参りは外宮を目当てにいった。 参拝者が少ないので
内宮の神官が外宮の所にまで客引きに行ってたのは有名な話。
江戸時代には9割以上の人間は天照大神や天皇のことを意識してなかった
のは間違いない。 地方では富農や大商人で教養として国学や和歌を
嗜む階層は知っていたが、人口の1〜2パーセントだろう。
あと三都(江戸・都・大坂)では講談(太平記読みなど)や
公家・高級武士の存在などでかなりの人が知っていたが、都市人口は
5パーセント(三千万のうち百五十万)。都市にDQNも居たろうし、
江戸時代に天皇・天照大神を知っていたのは人口の5パーセント位。
民衆のほとんどが無視していたというのは正しい。
(ただし有力な階層では知られていて、明治維新につながったが)
108日本@名無史さん:03/03/27 23:24
>>107
改元などはどう捉えられていたんだろうか?
いちおう天子(朝廷)が司っているものだと思うけど。
109日本@名無史さん:03/03/27 23:36
天皇なんてなるもんじゃ無いね

なれないけど
110日本@名無史さん:03/03/28 00:03
>>108
改元は幕府が発議し 朝廷が選び承認して、幕府が公布するのが慣例。
事情通以外の民衆は幕府がやってるとおもってた。
暦も同じように、計算は天文方でやって京都に送って朝廷(土御門家)が
手を加えて承認し、江戸に戻して幕府が公布。 独自の地方暦もあったが。
111日本@名無史さん:03/03/28 10:44
>>99
遺諡ですか
2ちゃん用語でいうところのジサクジエーンですね
112日本@名無史さん:03/03/28 10:48
そうね
天皇の代替わりでも改元されない例がある一方で
将軍の代替わり改元は結構ありましたね
113日本@名無史さん:03/03/28 11:22
>>107
101は伊勢には外宮と内宮があることも知らないと思う(w
114元常連 ◆5bPHc0xjTw :03/03/29 09:21
>>107
伊勢御師はどう説明するの?
伊勢講はどう説明するの?
115日本@名無史さん:03/03/29 17:02
神社(神主さん)の棟梁
116日本@名無史さん:03/03/29 19:55
江戸自体の天皇って今以上に窮屈そうだ・・・
食事もゲロマズだったろうし。食えない物を大量に並べていたんでしょ?
で、喰わないように紙を貼っていた、と。
117日本@名無史さん:03/03/29 21:56
最も天皇を神格化しなかった時代ではありますな
118日本@名無史さん:03/03/30 10:20
度会神道(伊勢神道)や両部神道などに神道界がセクト化されてた中世の前半のほうが
天皇と神道のむすびつきは弱かったと思うなあ
だって天皇って基本的に仏教徒だしね神道には興味無し
朝廷だって奈良時代以後ずっと仏教を国教化してきたんでしょ
えげつない吉田神道が台頭しはじめてからだんだんおかしくなっていったんじゃ
ないかな
119 :03/03/30 10:55
まあ庶民が手習いのために用いた教科書には
仁徳天皇の故事や万葉集や百人一首の歌が出て
そういや国名尽しは五畿内山城から始まり
神武天皇から今上皇帝までの略年表を書いた刷り物や本は
非常に多くあるとはいえ、識字率は低いし、
武士でもないものが人と世間話をするなどありえないし。
知識人が村にいるわけでもないし
閉ざされた農村で生活に追われていたんだから
実際に知ってたのは小数だったわけで..
120日本@名無史さん:03/03/30 12:29
バック桜町天皇の肖像画がないのは何故?
121日本@名無史さん:03/03/30 21:59


枠順馬番・ 馬 名 ・ ・ ・ ・ ・騎手・ ・・・予測
1枠1番_大室デムパ 〇害_孝明・明治帝___〇
2枠2番_女 帝/\ァ/\ァ _ 明正・後桜町帝__
3枠3番_幕 朝 関 係 _ _後水尾・光格帝__▲
4枠4番_なぜか近代化 __明治帝______
5枠5番_なぜか大戦_ _ _昭和帝_______△
5枠6番_なぜか存続論___愛子内親王______
6枠7番_なぜか嫌韓 〇害 _今上帝______×
6枠8番_A A ス レ___徳仁親王_____●
7枠9番_d a t 落 ち__(騎手乗換)____◎
7枠10番_ウヨサヨ 貼 り_ (騎手乗換) ____
7枠11番_【^▽^】軍団 _ _(騎手乗換)____


122日本@名無史さん:03/03/30 22:19
NHKで「妹背山女庭訓」の解説をやってるが
庶民が奈良時代の天智天皇や中臣鎌足、蘇我入鹿について
理解できるはずがないだろうに。
123日本@名無史さん:03/03/30 23:45
>>122
人形浄瑠璃や芝居をよく見る階層の人なら
ある程度歴史の流れを把握してたんじゃないの?
いちおう「王代物」っていうジャンルが成立してたようだし。
124日本@名無史さん:03/03/31 18:53
宗教的親玉の一種。そんなに偉いものでもない。
125日本@名無史さん:03/04/01 02:20
生かさぬやう殺さぬやう
126日本@名無史さん:03/04/06 02:23
生ごろし
127日本@名無史さん:03/04/06 03:10
>>122
江戸時代の庶民文化をバカにしたらアカンよ
現代人なんかよりよっぽど故事来歴に詳しい
128日本@名無史さん:03/04/06 03:15
ははあ横丁のご隠居ですか
129日本@名無史さん:03/04/06 05:08
>>114 元常連さん
久しぶりに見たら、107への質問とあったので遅レスですが。
伊勢御師というのは、外宮に属していた人々で豊受大神のご利益を説いて
参拝するように勧めていた人々のことです。 この御師が組織した講が
伊勢講であって、外宮とその門前の宇治山田が参詣で大いに栄えたのです。
そして内宮には参詣する人が少なかったので、余慶に与かろうと内宮の
神官が外宮のところまでいって参詣客を引いていたという107の話になる
のです。 中世・近世には、伊勢神道は豊受大神を中心とするものであった
のです。(豊受が記紀にあるような女性の神から、天下の中心である男性神
に変化していったというのは神道史の常識、そして天照は余り頼りに
ならない神になっていた。) この状況が変化したのは江戸時代後期の
ことなのです。 水戸学や国学の影響が広まっていく過程で、徐々に天照
大神の地位も回復していき、そのイデオロギーによる王政復古とともに
国家神道で突然、伊勢の主人公に帰り咲いたのです。 それまでは伊勢と
いうのは庶民にとっては外宮のことだったのです。
(江戸末期の神明の話は略します、伊勢といえば天照大神がいつも中心で
あったというような知識しかない人に言っても仕方が無いので)
130日本@名無史さん:03/04/06 06:47
129の追加:江戸時代末期になると、国学の影響が広まってきます。
また内宮側の宣伝もあり天照の地位が向上したのは確かです。
それで近江の多賀神社がイザナキであることを使って参拝客を
得ようと、お伊勢お多賀の子でござるなどといって宣伝を始めた
くらいですから。 しかし、こういった参拝者のどの程度が、
天皇の祖神として天照を意識していたかというと、天皇の御所
自体を参拝したりしようといった運動は、抜け参りをするような
一般大衆には皆無でしたので、天照大神も富士講・金毘羅さん等
と同様に流行神だったといえるでしょう。
天皇の御所を拝んだ人は珍しく、高山彦九郎のように銅像になる
くらいでしたから、江戸後期でも天皇崇拝は知識人に限られていた
といってよいでしょう。
131日本@名無史さん:03/04/06 06:57
天皇が明治以前から国民全般の敬愛を集めていたなんて主張するのは
贔屓の引き倒しだなぁ
別に明治になって復興したってことで問題ないのに、過去を改竄して
までマンセーするから余計反感を買うだけじゃん
132日本@名無史さん:03/04/06 09:07
>>114
やいG家

睦っちゃんは実は中山慶子の子ではない。
慶子が流産したから人攫いに頼んでとりあえず誘拐してきた子を睦と言う事に
した。(中山忠能の意向)
だから孝明天皇がなくなって睦仁が即位した1867年1月頃から御所の政治は
波乱の幕開け。(つまり御所内が大混乱した。これが明治維新の幕開けで
御所の政局が混乱して収拾がつかなくなった。睦仁はとりあえず即位したに過ぎない。)
1月13日には睦仁が中川宮や中山忠能に政治を任せて自分は御所の中山忠能邸に引っ込む。
睦仁のほうがとりあえずの替え玉だったから力がなかった。明治天皇記は1867年1月13日までの記録
しかのこっていないのはそのため。
この混乱を解決するために中川宮は上皇に東武皇帝を天皇にしようとしたし
鳥羽伏見の頃は中川宮を上皇に大室寅之祐を天皇にしようとして事態の打開を
図ろうとしたが失敗。慶喜が軍艦にのって大阪脱出との知らせを1868年1月8日?9日?
頃京都御所で知った睦仁が慶子とともに1月10日早朝、御所から出発比叡山(岩倉らが鬼門にあたるから尊攘派が一番嫌った)
の某寺に向かった。1月10日に寅之祐が御所に入って戦後処理。反対勢力を一掃。このとき
わけのわからん革命家連中が有栖川宮になりすましたり公家に成りすましたり皇族に成りすましたりした。
1868年1月15日に正式に寅之祐が明治天皇に即位して17日に新体制スタート。新暦2月10日でこの日が仏滅
だから2月11日を建国記念日にしたのか?

薩長が完全に圧勝したため、例えたら小泉、橋本頂上決戦(総裁選)で
総裁は小泉派、幹事長は橋本派からとの要請に小泉が蹴って山崎が幹事長になったのに似ている。
さらに大室が東武皇帝をうちやぶって完全に天下統一。
功山寺挙兵からわずか4年で奇兵隊の足軽から天皇までに上り詰めたが
維新後当初は木戸や西郷、伊藤、岩倉らの操り天皇人形だった。
133日本@名無史さん:03/04/06 09:48
国学の話が出たついでにいうと,伊勢松坂の本居宣長にとってはいわば地元なわけだが,
民衆たちの伊勢参りについて宣長は何のコメントも残していない.
江戸期の伊勢参りが天皇信仰とは無縁のものだったから,宣長の関心をひかなかった
のだと考えられるだろう.
134日本@名無史さん:03/04/06 10:38
君は本より真に尊し その尊きは徳にあらず もはら種によることにて
下にいかほど徳あるひとあれども かはることあたはざれば、
万万年の末の末の代までも 君臣の位 動くことなく 厳然たり   

本居宣長は冷静です。
135日本@名無史さん:03/04/06 10:52
元常連て奴は、いろんなスレに出没して荒らしまくってるな。
質の悪い下郎めが。氏ね!
136元常連 ◆5bPHc0xjTw :03/04/06 12:59
>>135 まあまあ、そんなにしつこくからむなよ(w
137日本@名無史さん:03/04/08 00:03
光格天皇は6尺5寸(195センチ)あったとさ。
138あぼーん:03/04/08 00:03
             ∩
        ∧_∧   | |   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       (  ´Д`)//  < 先生!こんなのを発見シマスタ!
      /       /    |
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  __| | .|    |         \
  \   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\     \_____________
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     .||              ||
139あぼーん:03/04/08 00:06
          ┌┬┬┬┐
    ―――┴┴┴┴┴―――――、
.  . /  ̄ ̄ ̄//. ̄ ̄| || ̄ ̄ ̄||| ̄ ||    __________
  ./    ∧// ∧ ∧| ||      |||   ||  /
 [/____(゚_//[ ].゚Д゚,,) ||___|||   || <  こんなのが有りますた
. ||_. *  _|_| ̄ ̄ ∪|.|.       |ヽ.__||  \__________
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   ̄ ̄`ー' ̄   `ー'  `ー'   `ー'
http://saitama.gasuki.com/2ch/
140日本@名無史さん:03/04/13 23:35
>食事もゲロマズだったろうし。食えない物を大量に並べていたんでしょ?
「幕末の宮廷」によると、昼には毎日目の下一尺の鯛の塩焼きが必ずついていた
とか。
「御所はとほうもなく好いことはございませぬけれども、貧乏で天子様の上がる
物がないというようなものではありませぬ。…(略)…。天子様もなかなか御馳
走を上がってござる、…」

室町時代(末期でしょうが)については、
「失敬な話ですが、自分の三度の食事もしかねておる。なかなか天子をお養い申
すどころの話でありませぬ。従って御上においても、恐れ多くも、殊のほか御難
渋を遊ばされまして、召し上がる物がございませぬ。(後略)」
と伝わっているようですが。
141日本@名無史さん:03/04/14 21:05
ほー、じゃあ精進日だらけだった将軍家より食べ物はましそう。
142日本@名無史さん:03/04/15 00:11
>>137
光格天皇は縄文人系なの?
143日本@名無史さん:03/04/15 04:49
光格から明治までは天皇ってデカいんだよ。
大炊御門幾麿は侍従の中で飛び抜けて巨漢だったが
明治天皇から下げ渡された衣服はこの人しか着れなかった。

伊勢神宮で内宮の参拝者が外宮を上回るのは昭和30年代以後。
観光バスでのスピード参拝が増えてから
神宮は1箇所参拝で→それなら天照大神の内宮でとなった。
144m:03/04/15 04:59
145山崎渉:03/04/17 13:23
(^^)
146日本@名無史さん:03/04/18 01:46
147山崎渉:03/04/20 01:58
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
148日本@名無史さん:03/04/20 09:07
鷹司輔平…東山天皇の皇子閑院宮直仁親王の子
子孫
鷹司:輔政で断絶。他家から養子
菊亭:輔政の弟脩季の子孫(当主は存命だが女子のみ)
華園:政通の子摂信が興正寺を継ぐ。子孫存命分家4家あり
梶野:華園澤称の子行康が継ぐ現在大阪長野神社神職
徳大寺:政通の子公純が継ぐ。子孫有り。分家あり
高千穂:徳大寺実則の子宣麿が継ぐ。子孫不明
西園寺:徳大寺公純の子公望が継ぐ。男系は養子が継ぐ。
中院:徳大寺公純の子通規が継ぐ。子孫あり
末松:徳大寺公純の子威麿が分家。子孫不明
住友:徳大寺公純の子友純(吉左衛門)が継ぐ。子孫あり
149日本@名無史さん:03/04/20 09:07
残念ながら鷹司家の本家はまた養子が継いだので輔平の男系の血筋は流れておりません。
それに鷹司平通は昭和天皇の皇女との間に子孫を残せず松平家より養子を迎えています。
だから鷹司本家はもう皇統とは関係ございません。
150日本@名無史さん:03/04/20 09:08
 
http://myhome.naver.com/purendo/cin.gif

おめでとうございます!!臣民としてお慶び申し上げます!!

天皇陛下マンセー!!



151日本@名無史さん:03/04/20 09:13
徳大寺の本家が美術評論家で
分家が音楽家(徳大寺元麿の子孫)(神戸市灘区在住)
152日本@名無史さん:03/04/20 09:17
華園茂に男系子孫がいるかは誰にもわからないみたいだね
これ以上先へは話は進まないってことか
153日本@名無史さん:03/04/20 09:17

華園家がだめなら梶野家がある。神道の祭主としてなら大阪長野神社の
プロの神主さんだし祭祀面なら彼が適任では。
154日本@名無史さん:03/04/20 09:20
鷹司さんの仕事は、なんだったの?
155日本@名無史さん:03/04/20 09:26
>>154
鷹司さんとこの本家は松平家から養子が入っているので対象外
156日本@名無史さん:03/04/20 09:28
関白
157日本@名無史さん:03/04/20 09:56
なんで閑院宮に伏見宮の者を入れたかな?
こんなことをしなければ揉めなかったのに
158日本@名無史さん:03/04/20 09:57
>>157
その当時は天皇の皇子には夭折する者が多く桂宮さえ皇子が継いでもすぐ死んで
挙句の果てには淑子内親王が継ぐ事態になったほどで天皇家にコマが無かったの
で止む無く伏見宮の王子を入れざるを得なかったのです。
159日本@名無史さん:03/04/20 15:38
そういや、桂宮は淑子内親王が当主として継承してたな。
いまなら、高円宮が亡くなったので、承子女王が継承してもよいことであろう。
160日本@名無史さん:03/04/20 15:46
そのかわり一生独身だぞ。
まあ、本人は国費で生活できるから、そっちの方がいいだろう。
161日本@名無史さん:03/04/20 15:49
>>160
それは承子女王が可哀想すぎる。
婿入りしようと心に固く決意した。
162日本@名無史さん:03/04/20 15:51
ヘンな男と一緒になる方が可哀想だろうw
163日本@名無史さん:03/04/20 18:10
淑子内親王も寂しそうだったので、ぜひ承子女王は婿を取るべき。
164日本@名無史さん:03/04/20 18:12
婿なんぞ取らんでもオトコ遊びはできる。
165日本@名無史さん:03/04/20 18:18
文久2年に淑子内親王が桂宮を継承したわけですが、
独身だったために子がなく桂宮家は断絶してしまいました。

高円宮家の断絶を防ぐためにも、承子女王の婿取りが重要と思います。
166日本@名無史さん:03/04/20 18:22
婿取ったら、もう皇族じゃないだろ
167日本@名無史さん:03/04/20 18:26
ツグコは独身のまま、ホスト遊びしたいんだって言ってたよ。
168日本@名無史さん:03/04/22 18:12
おまいらもういっぺんスレタイ読み直せ
169140:03/04/23 23:15
話を戻して…。140と同じく「幕末の宮廷」からです。

 食えない物といえば、儀式の時の御膳には食べられない物を形だけ出して
いたそうですね。
「食べれば食べられましょうが、食べる人はありませぬ。大根も生、昆布も
生、何から何まで生です。」
とか、
「(前略)朝廷の晴の御膳を掌る。食べられる物はありませぬ。生の大根や、
生の鯣、塩鯛、そういう晴の御膳の方を掌ります。」
といった具合だそうで。
 お正月の雑煮も、表向きの物は「菱形の生餅、生大根、鮒の生を生きてお
る形に串に刺してつけたもの」等々で、見るだけで食べないものだそうな。
 で、「内証で、御末が別にほんまのお雑煮を拵えて差し上げます。それは
白味噌を湯で溶かしたのに餅を入れ、小芋、焼き豆腐、大根を薄う切って入
れて、(中略)。表向きの烹雑は食べることはできませぬから、内証で拵え
て上げます。それはほんまに上がります。」

 まあ、こういった型通りのものはわざわざ紙など貼らずとも承知なんでし
ょうが。
170日本@名無史さん:03/04/27 14:35
女 帝/\ァ/\ァ
171やまも:03/04/29 17:16
淑子内親王て・・・。
和宮・孝明天皇の姉の・・敏宮淑子内親王ぉぉ・・・。
172動画直リン:03/04/29 17:17
173日本@名無史さん:03/05/05 10:52
>>171
泉涌寺にお墓があります
174日本@名無史さん:03/05/16 09:10
175山崎渉:03/05/22 03:17
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
176日本@名無史さん:03/05/23 10:05
177日本@名無史さん:03/05/24 15:28
|














|
178山崎渉:03/05/28 11:06
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
179日本@名無史さん:03/05/28 21:55
3人ぐらいかな
180日本@名無史さん:03/05/28 22:04
>>165
桂宮家が断絶したのは、当主が未婚の皇女だったからじゃないよ。
皇族が養子をとることが禁止されていたからだよ。
181日本@名無史さん:03/06/05 22:22
猶子は?
182:03/06/05 22:32
ヌルポ
183日本@名無史さん:03/06/06 20:47
>>181
明治以後は猶子の制度はなくなったろ?
ちなみに皇族の養子が禁止されたのも明治になってからだけどな
184名無しさん@お腹いっぱい。:03/06/06 21:19
古本屋の目録にこんなんが
振りだしが江戸日本橋で上がり京都という双六...幕末のやつ
(京都は御所の門の絵で貴人が歩いてるという図)

広重が源氏物語の桐壺の場面を描いた錦絵

             ........どっちも高くて手が出ない




185日本@名無史さん:03/06/15 04:08
当時も天皇・朝廷は一目置かれていましたしね。
186日本@名無史さん:03/06/25 00:35
徳川家綱が危篤になって将軍後継者問題が出てきたとき、
大老の酒井忠清は有栖川幸仁親王を宮将軍として迎えることに主張。

しかし、堀田正俊との争いに破れて失脚。実現しなかった。残念。
187日本@名無史さん:03/07/06 02:07
鎌倉幕府のように宮将軍という手があったのですね。
188日本@名無史さん:03/07/06 06:00
>>183
明治天皇は皇后との間に子ができなかったので、典侍の柳原愛子(やないはらなるこ)
を側室にして設けたのが大正天皇だね。大正天皇は男子に恵まれたが、昭和天皇は
今上天皇ができるまでは女子ばかりだったので、一時は側室をと周囲が進めた。
189山崎 渉:03/07/12 12:31

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
190日本@名無史さん:03/07/12 22:27
>>186
5代将軍綱吉の生母(桂昌院)は京・西陣の八百屋の娘(お玉さん)ですから、
京の血が入ったことになりますね。
191日本@名無史さん:03/07/12 22:56
天皇は仏教徒だった。
192日本@名無史さん:03/07/12 23:34
>>191
現在もそうです。天皇家の宗旨は真言宗です。
193日本@名無史さん:03/07/12 23:43
>>190
どうして八百屋の娘が将軍を産んだの??
194日本@名無史さん:03/07/13 00:12
>>193
お玉さんの母が二条家に奉公していた時、徳川家康の側室であった於万
の方が部屋子を求めているということを聞き、大奥へ奉公に行ったので
す。この時、お玉さんは16歳でした。彼女は将軍家光の目にとまり、
側室となって徳松(後の綱吉)を生みますが、既に家光の別の側室であっ
たお楽の方が竹千代(後の4代将軍家綱)を生んでいました。家光の死後、
お玉さんは落髪して桂昌院となり、徳松は館林30万石の藩主となります
が、異母兄の家綱が若死にしたため、徳松が5代将軍綱吉となります。
ただ、桂昌院が町人の娘であることに難色を示した大老酒井忠清は徳松
が将軍となるのに反対し、京の宮家から5代将軍を立てようとしました
が、これを恨んだ桂昌院は酒井を失脚させたのです。
195日本@名無史さん:03/07/13 22:24
徳川将軍時代の天皇は、
清朝ラストエンペラー愛新覚羅溥儀が紫禁城内だけで皇帝位で居られたのと同じだな。

カワウソでつ。
196_:03/07/13 22:24
197日本@名無史さん:03/07/13 22:36
将軍代替わりのときに、次の将軍を幕府の言う通りに任命しなかったらどうなったのかなあ。
それとか、征夷大将軍な訳だから、夷の征伐状況を報告させたりして、実際に将軍をアゴで使ったり
したらどうなったのかなあ。

スカっとしたろうなあ。気持ち良く屁が出たろうなあ。
198山崎 渉:03/07/15 11:39

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
199日本@名無史さん:03/07/17 04:16
そういや、桂宮は淑子内親王が当主として継承してたな。
いまなら、高円宮が亡くなったので、承子女王が継承してもよいことであろう。
200日本@名無史さん:03/07/18 06:21
>>197
幕府の言うことをきく人間が代わって皇位につくだけですな。
201日本@名無史さん:03/07/19 17:02
幕末ではどうだたんだろうね。将軍の代替わりは、幕府の言うとおりにしない訳には
行かなかったのかいな? 例えば慶喜さんの時に思い切って宮将軍を任じちゃうとかね。
202日本@名無史さん:03/07/20 01:41
>>201
孝明天皇は佐幕派だったし、あとを継いだ明治天皇はまだ年少、摂政の
二条斉敬や実力者の朝彦親王も佐幕派だったから、宮将軍という発想
自体が生まれなかったと思う。
203日本@名無史さん:03/07/20 02:18
宮将軍では諸大名や外国(特に朝鮮)が納得しないような気がするのだが。
204日本@名無史さん:03/07/20 03:30
江戸時代を見習って、妾を持てるようにするべき。

そもそも宮家を継承する事自体が無意味なんだよ。
皇統が次代に移ったら、皇位継承権を失うでしょう?2代目までは良いけれど、3代目は無意味。直系ではなくなる。

愛妾おいて、数人の子供を作るのは、天皇としての義務だろうな。
今の皇太子は潔癖な人柄だそうだが、皇統を守る義務を放棄するのは貞淑ではなくて我侭。世襲制を舐めるな!

ところで江戸時代の天皇って、3万石だったって、本当?
参勤もないんだし、結構良い暮らしが出来たのかな?
205日本@名無史さん:03/07/20 22:19
>>203
でも、やっちゃえば気持ちよかったかもね。
206日本@名無史さん:03/07/20 22:21
>>204
味噌をさかなに酒を飲むような生活とか。
207日本@名無史さん:03/07/20 22:24
>>4
>しかし、乱世の戦国時代が過ぎ、江戸時代へと入っていくにつれて、天皇の存在はだんだん希薄なものへとなっていった。
色川大吉によると、徳川幕府の300年続く安定した時代においては、天皇は京都御所にほとんど軟禁状態であり、すぐそばの二条城に徳川幕府の目付役がおり、監視されていた。
そして、半失業状態の公卿たちが、天皇を囲んでひとつの親族共同体のようなものをつくって細々と暮らしていた。
禄を与えられてはいたが、その禄もわずかで儀礼的な体面を保てる程度のものであった。
そして、徳川時代の天皇の中で、京都から外に出たのは、江戸時代の初期と終期に天皇であった後水尾天皇と孝明天皇だけであった。
他の天皇は京都から外に出ることは無く、中には、皇居から一歩も出ることなく死んだという天皇もいるほどである。
天皇の存在は放置され、ほとんど無視されていた。

明智光秀をそそのかして、織田信長を暗殺した報いだね。
公家と天皇家はざまぁみろ。


208日本@名無史さん:03/07/20 22:25
>>207
やっぱみんなわかってたんだろうね。
豊臣秀吉も公家=天皇家にかなり酷い仕打ちをしているみたいだし。
209日本@名無史さん:03/07/20 22:25
>>207
やっぱみんなわかってたんだろうね。
豊臣秀吉も公家=天皇家にかなり酷い仕打ちをしていたみたいだし。
210日本@名無史さん:03/07/20 22:28
>>207
>天皇の存在は放置され、ほとんど無視されていた。
逆では? わざわざ二条城を置いて監視しなければならないほど幕府は恐れていたと思う。
211日本@名無史さん:03/07/20 22:38
>>210
300年間恐れっぱなしかよw
えらく忙しい徳川幕府だなw
たぶん徳川家も、自分も織田信長のように暗殺されるんじゃなかろうかって、警戒はしていたんだと思うけど。
212日本@名無史さん:03/07/20 22:44
260年間恐れっぱなしだったと思うよ。
天皇自身が物理的に恐いんじゃなくて、天皇を担ぐやつが現れることが恐かったと思うよ。
そうでなければ、二条城なんて置かずに、放置して無視しておけば充分だった訳だわね。
213日本@名無史さん:03/07/20 22:46
>>212
なにしろあの織田信長暗殺の黒幕だから、それなりに恐れてはいたろうね。
214c:03/07/20 22:46
☆yahooアダルト検索ページ☆やっと見つけました☆
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215日本@名無史さん:03/07/20 22:49
大都市江戸に天皇系を祭る大神社もなかったし。
216日本@名無史さん:03/07/20 23:00
江戸時代、将軍だけでなく、諸大名もその家臣も、官位・官職は天皇からもらっていた訳だし、
毎年の暦を決定していたのも天皇だ。現実の日常の中で、天皇の権威は確認されていた。
到底無視できるものではなかった。
217日本@名無史さん:03/07/20 23:04
暦を決定していたの?
どんなふうに決めていたんだろう?
218日本@名無史さん:03/07/20 23:09
>>216
天皇の裁可が必要なのは暦ではなく、
年号だろ。
219日本@名無史さん:03/07/20 23:18
暦のことは、詳しいことはかなり難しい。現在の太陽暦でも深いところは難しくて素人には理解できん。
基本的には天文学とルールに従うもので、恣意的なものではないようだ。

しかし、太陰暦の場合、非常に難しいところがあった。
毎年、大の月小の月は変化し、閏月をどこに入れるかも毎年変化した。さらに、
太陽暦の要素を取り入れて農作業の基準となった24節季が何月何日にあたるかは、
毎年甚だしく変化した。これらも、基本的には天文学とルールにしたがうものではあるが、
これを決定し発表することは、天と地の支配者としての権威を示すものだった。
それは、天皇とそのもとにある朝廷であった。
220日本@名無史さん:03/07/20 23:19
朝廷に対する幕府の統制は、18世紀後半より緩み始める。天明の大飢
饉による深刻な食糧難は京にも及び、町衆は京都所司代に対策を求めた
が反応が全くなかった。そこで町衆は所司代を見限り、1787年に御
所の塀を回って天皇に救いを祈り、賽銭を投げ込むということを始めた。
これに大坂の町人たちも集まり、数万の人々が天皇に助けを求めたので
ある。これを御所千度参りという。当時16歳だった光格天皇は民衆の
救済をすべしとの要求を、関白→武家伝奏→京都所司代のルートで伝え
たところ、幕府はあっさりとこれを受け入れ、1500石の米が供給さ
れた。朝廷が幕府に政治的な指示を行い、幕府がそれを受け入れたこと
で、この時代より天皇の力が再び強化されて行くこととなる。
221日本@名無史さん:03/07/20 23:24
天文博士は幕府にいただろ、
222日本@名無史さん:03/07/20 23:30
光格天皇は、御所の再建においても自分の意志通りのものを造営するよ
う幕府に要求し、老中松平定信との交渉の末これを勝ち取っている。ま
た、幕府は1807年に起こったレザノフ事件、ラックスマン事件に際
し、ロシアが今にも日本に攻めてくるといった流言蜚語を防止するため、
これを朝廷に報告したが、朝廷はこれを前例として対外情勢の報告を幕
府に求め、天皇が本来有している外交権・条約締結権の強化をはかった。
223日本@名無史さん:03/07/20 23:42
幕府にいたのは天文方。
224日本@名無史さん:03/07/21 01:51
>>210-212
江戸時代初期は、後水尾や後光明と幕府は何かにつけて対立してたし、幕府
が朝廷を恐れなければならない局面も多かったと思うけど、江戸中期あたり
はどうかな。
尊皇思想を公家たちに説いた咎で朱子学者の竹内式部が処罰された宝暦事件
にしても、朝幕関係の悪化を恐れて公家たちを謹慎させ、竹内を所司代に
処罰させたのは一条道香ら摂関家の当主たちで、幕府側は竹内や公家たち
の動きの危険性を充分に認識していなかったふしがある。
このころになると、朝廷のことも天皇を担ごうとする動きのことも、幕府
はかなりなめてかかってたように思えるのだが。
225日本@名無史さん:03/07/21 05:11
かつての最高位の天使ルシフェル(織田信長)は、神(天皇)に反旗を翻したが、負けましたとさ。
ミカエルが明智光秀。
豊臣秀吉がイエスキリスト、徳川家康がパウロ。
226日本@名無史さん:03/07/22 00:02
>>224
平和ボケですな。
百年も二百年も平和が続くと物事の本質が見えなくなるんだね。
現代も、天下分け目の戦から僅か50年そこそこだけど、すっかりボケてる訳だからね。
227日本@名無史さん:03/07/22 00:15
江戸時代の泉重千代について語れ!
228日本@名無史さん:03/07/22 22:17
徳川幕府は日本を統一してはいなかったからね。武家による軍事政権だから、
どうしても敵が存在する前提での緊張感が必要だったんだね。
229日本@名無史さん:03/07/29 00:41
230日本@名無史さん:03/07/29 03:00
暦を作ってたのは土御門家
もちろん廷臣だから暦の作成権は朝廷にあるが
あまりにもズサンなので江戸中期以降は
幕府が天文方を置いて観測に基づく改暦案を作り
土御門家の名前で出すようになった
231日本@名無史さん:03/07/29 06:13
幕府が朝廷を恐れていたなんてそんなバカな(w
恐れていたら、ハリスがきたときの条約勅許が簡単に得られるなんて思わないだろう。
朝廷が幕府に逆らうなんてあり得ない、と当時の幕府は考えていたわけだろ。
232日本@名無史さん:03/07/29 22:18
恐れていたと思うよ。ただし、閉じ込めている限りは恐れてはいない。
そのために二条城で頑張ってたんじゃん。ちゃんと見張っている限りは恐くない。

ライオンは恐いが、檻の中のライオンは恐くない。
233日本@名無史さん:03/07/29 22:31
条約勅許を求めることで、幕府は自分で朝廷の檻の鍵を開けちゃったんだなあ
234aya:03/07/29 22:31
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235日本@名無史さん:03/07/29 22:53
徳川幕府にとって鎖国は重要な策だったね。
国内だけなら天皇を御所に閉じ込めておけば将軍がトップで通るからね。

ところが、異国と交流すると歪んだ体制が忽ち顕わになる。
やっぱり将軍は天皇の下だったんだとね。
236日本@名無史さん:03/07/29 22:55
江戸時代は長いからね、初期と後期ではパワーバランスが
違うだろ。
237日本@名無史さん:03/07/29 23:00
幕府が朝廷を恐れるようになったのは、せいぜい井伊直弼が死んだあとからだろ。
それまではなめてかかっていたと思うよ。実際朝廷にはその程度の実力しかなかったわけだし。
238日本@名無史さん:03/07/29 23:34
>>237
その頃から、檻のカギが少しづつ傷んできはじめたからね。
239山崎 渉:03/08/02 01:25
(^^)
240日本@名無史さん:03/08/02 19:56
241日本@名無史さん:03/08/08 00:35
242日本@名無史さん:03/08/08 01:02
>>237
朝廷に対する幕府の統制は、18世紀後半より緩み始める。天明の大飢
饉による深刻な食糧難は京にも及び、町衆は京都所司代に対策を求めた
が反応が全くなかった。そこで町衆は所司代を見限り、1787年に御
所の塀を回って天皇に救いを祈り、賽銭を投げ込むということを始めた。
これに大坂の町人たちも集まり、数万の人々が天皇に助けを求めたので
ある。これを御所千度参りという。当時16歳だった光格天皇は民衆の
救済をすべしとの要求を、関白→武家伝奏→京都所司代のルートで伝え
たところ、幕府はあっさりとこれを受け入れ、1500石の米が供給さ
れた。朝廷が幕府に政治的な指示を行い、幕府がそれを受け入れたこと
で、この時代より天皇の力が再び強化されて行くこととなる。
243日本@名無史さん:03/08/11 21:53
どこかで読んだ文章だな
244山崎 渉:03/08/15 13:06
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
245日本@名無史さん:03/08/15 22:23
246日本@名無史さん:03/08/20 15:02
247日本@名無史さん:03/08/20 15:07
後水なんたらいう紫衣事件時の天皇、昨日が命日らすい。
248日本@名無史さん:03/08/20 15:14
後水尾院だろ。昭和天皇が1位になる前は歴代天皇のなかで最長寿だった
249日本@名無史さん:03/08/23 14:14
後西天皇,光格天皇,桜町天皇がいい天皇だった
250日本@名無史さん:03/08/26 07:59
「いい天皇」の判断基準がわからん
251日本@名無史さん:03/08/26 08:00
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252日本@名無史さん:03/08/29 21:28

江戸時代の天皇は夜な夜な
孝謙×道鏡の春画
(巨根がMANに挟まってる図)
&エロ本をみて手淫していたって本当?

253日本@名無史さん:03/08/30 11:54
後西、光格、桜町天皇は、学問に優れ、穏やかな貴公子然とした人だったらしいな。
特に桜町天皇は、聖徳太子の生まれ変わりだって言われていたそうだ。(誕生日が一緒だっただけって説もあるが)
254日本@名無史さん:03/08/30 12:22
京都のおっさん
255日本@名無史さん:03/08/30 13:05
光格天皇には漁師の血が流れていると言うのは本当か?
だからがタイがいいんだな。
256日本@名無史さん:03/08/30 13:17
今の天皇には大工の血が流れていますけどね。
257日本@名無史さん:03/08/30 13:18
もともと朝鮮人だし。
258日本@名無史さん:03/08/30 13:20
なんでそんなに必死なの?
259日本@名無史さん:03/08/30 13:30
天オタですから。
260日本@名無史さん:03/08/30 13:32
天皇が「ゴ公務に復帰しました」ってニュースで言ってたから、
へー、どんな仕事かなと聞いていたら、

「昼食会」だとさ!

とことん無能なゴクツブシだと思ったね。

261日本@名無史さん:03/08/30 13:35
あんたネタそれだけ?よそでも読んだよ
262日本@名無史さん:03/08/30 13:39
済深法親王って、柱に縛り付けられて出家させられたんだよな。
そしてその祟りが、天皇後継者以外の皇子がことごとく死ぬって事だよな。
263日本@名無史さん:03/08/30 14:15
仁孝天皇は、光仁、光孝の一文字づつ、
孝明天皇は、光孝、光明の一文字づつとってでいいのか?
しかし、江戸時代になって急に古臭い尊号になったなw
264日本@名無史さん:03/08/30 14:18
>>256
>>252
詳しく聞かせて
265日本@名無史さん:03/08/30 14:29
264です。
訂正です。
>>256
>>262
詳しく聞かせて下さい
266日本@名無史さん:03/08/30 14:32
江戸時代の人はこいつらを知らなかった
267日本@名無史さん:03/08/30 15:39
>>264
済深法親王は、霊元天皇の第一皇子だったが、父が弟の朝仁親王(後の東山天皇)を気に入っていた。
そこで、嫌がる済深を無理やり、柱に縛りつけ剃髪をし法親王にしてしまったらしい。
確か、母の出目とかが原因だったかな。
しかし、本来付くべき皇位に付けなかった済深は、その事を呪い続け、呪詛をかけた。
その影響かどうか、東山天皇はかろうじて直仁親王が成人したが、中御門天皇以降は、天皇後継者以外の皇子がことごとく死んだ。
中御門→桜町→桃園→後桃園
直仁親王・・・光格→仁孝→孝明→明治とそれは続く。
大正は4人とも成人して、その呪いはとけたと思われたが、昭和二皇子、明仁二皇子、徳仁は女だけって言うところで、まだ、残っているかもしれない。
大正の子供たちも、秩父宮、高松宮は子なしだったし、常陸宮も子なし、秋篠宮も女ばかり、子供がいた三笠宮は、三親王いるが、孫の代は女王ばかりといった所だしな。
268日本@名無史さん:03/08/30 15:44
済深法親王のことは、天皇と日本人だかって本や、歴史系の雑誌に乗ってるぞ、確か。
うろ覚えだから、違う所もあるだろうけど。
269日本@名無史さん:03/08/30 16:09
264です
>>267-268
俺にはまさしく20ヘエでした!
ありがとうございます!!
270日本@名無史さん:03/08/30 16:24
>>266
江戸時代の天皇は夜な夜な
孝謙×道鏡の春画
(巨根がMANに挟まってる図)
&エロ本をみて手淫していたって本当?

271日本@名無史さん:03/08/30 16:30
    |::| | |_|,,,,,|.....,;;;;;;;;;;;、‐''''''''""~~ ̄|:::|
    |::| | |. |  | {;;;;;;;;;;;;;;}.: . .: . : .. .: |:::|
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    |::| | | ̄|,r''''"~    ""''ヽ. : .: .: ..|:::|
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   |::|―-- |             'i,二二|:::|
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          'i, `'i'''―--―''''i'ニ-'"   ノ// ̄~""
        ヽ.i' "'    '''"';  _/ // _,,..i'"':,
        ===`ゝ_,.*_   _,;..-'"_//  |\`、: i'、
                  ̄  ̄ ̄/,/   \\`_',..-i
                     /,/      \|_,..-┘
272日本@名無史さん:03/08/30 17:04
>>263
光格・仁孝・孝明の3天皇は追号じゃなくて諡号だから
273日本@名無史さん:03/08/30 17:07
>>256
大工の子孫の話、どなたか詳しく聞かせて下さい
274日本@名無史さん:03/08/30 17:11

江戸時代の天皇は夜な夜な
孝謙×道鏡の春画
(巨根がMANに挟まってる図)
&エロ本をみて手淫していたって本当?

275日本@名無史さん:03/08/30 17:19
>>273
良子皇太后の曾祖父島津久光の生母お由羅の方は江戸の大工の娘。
276日本@名無史さん:03/08/30 17:22
降格天皇に漁師の血が入ってるって話は本当?
医師の血ではなく?
277日本@名無史さん:03/08/30 17:26
光格天皇の生母大江磐代(?)って、あんまり身分が高くなかったから、
どっかで入ってるんだろうね。
278日本@名無史さん:03/08/30 17:29
江戸時代の貴人は側室の子ばっかりだからな。
正室の子のほうが珍しい。
その正室にしたって母親は側室だったりするし。
意外と庶民の血が濃く入っているんだよ。
279日本@名無史さん:03/08/30 17:40
でも天皇の実母が貴族以外というのは極めて異例。
280日本@名無史さん:03/08/30 17:52
まあ、天皇といっても本来は閑院宮の息子だからね。
281日本@名無史さん:03/08/30 18:00
273です
>>275
有難うございます!!
あの、>>280さんの話にでた閑院宮が大工に養われていた?とか何かそんな話も耳にした事もあるのですが、どなたか詳しく教えて下さい
282日本@名無史さん:03/08/30 18:07
>>281
そりゃ伏見宮貞致親王のことじゃねえのか?
このサイト見れ。↓

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6188/seuden/seuden03.html#boutou
2835:03/08/30 18:09
いやー人気AV女優が簡単に流出するようになっちゃいましたねー。
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これで人気が出ないほうがおかしいですよね。
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284日本@名無史さん:03/08/30 18:45
281です
>>282
ありがとうございます!!
すっきりしました!!
285日本@名無史さん:03/08/30 21:05
江戸時代の天皇は夜な夜な
孝謙×道鏡の春画
(巨根がMANに挟まってる図)
&エロ本をみて手淫していたって本当?
286日本@名無史さん:03/08/30 23:02
在原業平の色話じゃないのか?
287日本@名無史さん:03/08/31 00:57
後清和天皇、後淳和天皇
288日本@名無史さん:03/08/31 10:51
後水尾院、後西院
289日本@名無史さん:03/08/31 13:01
後陽成天皇・・・誠仁親王(陽光太上天皇)第一皇子
後水尾天皇・・・後陽成天皇第三皇子(御母・正室)
明正天皇・・・後水尾天皇第二皇女(御母・正室)
後光明天皇・・・後水尾天皇第四皇子
後西天皇・・・後水尾天皇第八皇子
霊元天皇・・・後水尾天皇第十九皇子
東山天皇・・・霊元天皇第四皇子
中御門天皇・・・東山天皇第五皇子
桜町天皇・・・中御門天皇第一皇子(御母・正室)
桃園天皇・・・桜町天皇第一皇子
後桜町天皇・・・桜町天皇第二皇女(御母・正室)
後桃園天皇・・・桃園天皇第一皇子(御母・正室)
光格天皇・・・典仁親王(慶光太上天皇)第六皇子
仁孝天皇・・・光格天皇第六皇子
孝明天皇・・・仁孝天皇第四皇子

参考までに
明治天皇・・・孝明天皇第二皇子
大正天皇・・・明治天皇第三皇子
昭和天皇・・・大正天皇第一皇子(御母・正室)
今上天皇・・・昭和天皇第一皇子(御母・正室)

ま、江戸時代はこんな感じだな。
290日本@名無史さん:03/08/31 15:09
正室の子供ってあまりいないんだな。
長男じゃないってのが、何かを物語っているな。
そして、長男なのに柱に縛り付けられた・・・。
さぞ無念だったろうな。
291日本@名無史さん:03/08/31 16:35
江戸時代の天皇は夜な夜な,孝謙×道鏡の春画(巨根がMANに挟まってる図)
&エロ本をみて手淫していたって本当?


292日本@名無史さん:03/08/31 16:48
誰か>>291に答えてやれよ。
それともネタ?
293日本@名無史さん:03/08/31 16:49
しかし、江戸時代は皇子某とか皇女某が多いよな。
名前が付いても、成人せずにとか
294日本@名無史さん:03/08/31 19:24
済深法親王と生母の実家・小倉一族(済深を天皇にしようという陰謀を
巡らせたと霊元天皇から難癖つけられて流刑にされた)は、江戸時代の
皇族・公卿としては珍しく、御霊として祀られている。
295日本@名無史さん:03/08/31 19:38
皇室は生まれてから何日か たってから命名の議で
皇子、皇女の名をつけるから、なんとか出産して生まれたが
命名されることもなく、すぐに死んだ子が皇子某、皇女某。
当時の医療状態では出産は母も子も死の危険が大だったので
皇室に限らず、出産後数時間で死ぬ子供が多かった。
296日本@名無史さん:03/08/31 23:23
栄養学のない当時は、良く精米された飯を食べる身分の高い人はビタミンBが不足して
脚気になることが多い。それに高貴な方は一日中家の中にいるので、日光浴ができない。
そのために死亡率は高かった。
297日本@名無史さん:03/08/31 23:43
>>289
慶光天皇は太上天皇じゃなくて天皇号を追贈されています。
298日本@名無史さん:03/08/31 23:44
>>292
ネタというより煽りだろ。
煽りとしても完全にはずしてるけどな。
299日本@名無史さん:03/08/31 23:58
もし自分が江戸時代の天皇だったら、一年ぐらいですぐ
譲位するだろうな。
天皇在位中、禁裏(御所)から365日出ることが出来ない
のは耐えられないなあ。食事も毎日同じ様な物らしいし、
やることがなさそうなので、毎日後宮で侍女とセックス
ばかり、やってしまいそう。
300日本@名無史さん:03/09/01 00:00
>>294
小倉実起父子を御霊として祀った神社ってどこ?
301日本@名無史さん:03/09/01 00:06
>>299
実際、息子が幼いうちに早々と譲位するのが天皇の理想形だったようだね。
息子のために皇位継承を確定させておくのが目的。
また、中近世には院政こそが理想的な政治形態と考えられれていたようでもある。
302日本@名無史さん:03/09/01 00:10
>>300
@佐渡の大膳神社
A京都の上御霊社

「小倉実起 神社」で検索しちくり。
303日本@名無史さん:03/09/01 00:12
>>302
Thank you,sir!
304日本@名無史さん:03/09/01 00:14
江戸時代の天皇は仏教で葬式してるよね。
305日本@名無史さん:03/09/01 00:56
神仏混交がほんらいの日本人共通の宗教のあり方だ。
神社本庁などの国家神道ごときはたかだか100年の歴史しか持たない新興宗教に過ぎない。
306日本@名無史さん:03/09/01 01:08
>>305
神仏混交がほんらいの日本人共通の宗教

宗教という理念自体がキリスト教的でしょ。
日本の二重論理は西洋的哲学では批判されたのだよ。
307日本@名無史さん:03/09/01 02:13
でも、火葬ってあんまり環境によくないんだぜ?
火葬された死体が一番自然に還るのが遅いらしいし
そうそうに土に返りたいならやっぱり土葬にすべき。
土葬は楽だし、吸血鬼とかそういったアンデットにもなれるしな
火葬じゃ骨だからアンデットにはなれないし
308日本@名無史さん:03/09/01 02:16
>>307
日本は基本的に土葬ですよ。
309日本@名無史さん:03/09/01 02:42
>>292
おれ、2ちゃんでこんな頭の悪い書き込み久しぶりに読んだ。

>>291

これでいいか?


310日本@名無史さん:03/09/01 23:50
>>301 皇位継承には派手な儀式のために先立つものが必要だし、
仙洞御所が空いてないと出来ないしね。
若いうちに息子に譲位して院になれるのは確かに大したものだな。
幸運とも言えるね。
311日本@名無史さん:03/09/06 11:20
>>216
>江戸時代、将軍だけでなく、諸大名もその家臣も、官位・官職は天皇から
>もらっていた
徳川吉宗は官位叙任制度の調査・確認を行わせ、収入源とならぬように規制している。
約100家の大名のうち、将軍家から上位20大名の家格は、官位・官職でなく、
将軍家との近さや石高や江戸城での役職などで決まっていた。
それ以下が、官位による序列。それの始まりは綱吉で熱心に行ったのは吉宗。
狙いは、平和時の将軍家を頂点とした序列の確認。儒教的引き締め政策。
幕末にこれが、朝廷復活の一要因となってしまったが、幕末は他の要因も多いから、
これだけとはいえない。
ちなみに、このときの桜町は朝廷行事が武家のおかげでよくできてと感謝に
近い念を抱いていた。
大嘗祭を京都民衆は意識してくれないので、大嘗祭に向けて僧や穢れ民の
京外追放まで、自力でできず、幕府に頼んでやってもらっていた。
312日本@名無史さん:03/09/06 11:22
>>216
>毎年の暦を決定していたのも天皇だ。現実の日常の中で、天皇の権威は確認
>されていた。到底無視できるものではなかった。
天皇にわずかに残された権能である官位授与権・元号制定権・暦制定権すら、
形式的・名目的な範囲を出なかった。幕府による象徴天皇の国事行為のようなもの。
逆に、朝廷内部の公卿・廷臣らの支配さえ、幕府の干渉をまぬがれることが
できなかった。

313日本@名無史さん:03/09/06 13:08
桃園天皇の死が不可解なんだが、もしかして・・・
314日本@名無史さん:03/09/06 13:39
後光明天皇の急死も気になるな・・・
315在原通平:03/09/06 13:40
後桃園天皇も父と同じ22歳で急死ってのが気になるな。
316後水尾天皇:03/09/06 13:59
後西は霊元を早く皇位に就けたい余り、
退位させました。後西スマソ。
朕を隠岐に流さない様に、説得してくれた
家光殿、どうも。
317日本@名無史さん:03/09/06 14:05
「後西天皇」て呼び方はどうも締まらないなあ・・・
318日本@名無史さん:03/09/06 14:49
確か、後水尾天皇が譲位したがっていたのは、幕府に対する抵抗もあったが、淋病が痛くてお灸をしたかったというのも聞いたことがあるんだが、どうなんだろ?
後西天皇の皇子有栖川宮幸仁親王が将軍にと推されたのは、綱吉の母が卑しい身分で、有栖川宮家は松平氏が嫁いでいる家で、尚且つ幸仁親王の父が帝で、尚且つ皇統は来ないということも影響したものだと聞いているんだがその辺は?
319日本@名無史さん:03/09/06 15:43
後西天皇も「後西」は淳和天皇の退位後の別称「西院」から
取ったと聞いたことがある。 
320日本@名無史さん:03/09/06 16:12
霊元天皇が、一番後水尾天皇に似ていたって事かな。
321日本@名無史さん:03/09/06 16:17
東山天皇の肖像が、少○隊の○山紀○に似てると思うのは俺だけか?
桃園天皇は、なんか徳川家茂とダブるんだよな、時代は違うけど。
322日本@名無史さん:03/09/06 16:23
俺は小さいときに、坊主になった後の後水尾天皇の肖像画が、霊元天皇だと思っていたぞ。
323日本@名無史さん:03/09/06 18:19
桃園天皇の赤い頬に萌えだな。
324日本@名無史さん:03/09/06 20:37
後西天皇の二枚目顔はカッコイイ
325日本@名無史さん:03/09/06 21:20
桃園天皇今にも泣きそうだよ。
後桃園天皇は丸い桃園天皇って感じだな。
326日本@名無史さん:03/09/06 21:38
>>319
そう。
だから、元々は後西院。
それを明治以降無理やり院号を取って天皇をつけたからおかしくなった。
327日本@名無史さん:03/09/06 22:03
淳和天皇は西院帝。
だから、院て言うのは院号じゃないと思うが。
328日本@名無史さん:03/09/06 22:05
>>327
後西院という追号をつける段階ですでに間違えてたんだろ。
329日本@名無史さん:03/09/06 22:10
自分の皇子に皇統が来なかったが、立派に中継ぎを果たし、という境遇や、人物が穏やかだということ、住んでいるところが同じということで、淳和帝とダブったんだろうね。
330日本@名無史さん:03/09/06 23:23
後水尾天皇の「水尾」も どの天皇かは、忘れたがその天皇の
別称だったね。
331日本@名無史さん:03/09/06 23:30
>>330
清和天皇。
御陵のある場所が水尾だから。

清和天皇と後水尾天皇の性格は、余り共通点がなさそう。
332日本@名無史さん:03/09/06 23:35
霊元=孝霊+孝元だったなw
333近世日本史探索:03/09/06 23:53
 上御霊神社に小倉実起、小倉公連、中納言典侍局、小倉季伴それに
藤原利子を祭神として加えたのは、明治天皇の願いによることまでは
わかりましたが、なぜそこに藤原利子が入っているのかまではわかり
ません。
 金沢藩主前田綱紀の女にして関白二条吉忠の正室、青綺門院の母に
して後桜町天皇の祖母に当たる女人が、そして他からみれば栄耀栄華
に包まれていると見られてもおかしくない女性が、なぜにして非業の
死を遂げ、祟り神となるような霊をまつる上御霊神社に祭られねばな
らなかったのか、その理由を知っている人いるかな?
334日本@名無史さん:03/09/07 03:34
江戸時代の天皇って、歴史のなかで脇役より端役
といったほうがいいのかな
それとも、しかり存在価値をアピールしていたのか。

335日本@名無史さん:03/09/07 12:34
京都のオッサンにすぎない。
336日本@名無史さん:03/09/07 12:40
先祖の遺産も食い尽くした祈とう師の末裔が現在は無為徒食ながら
有力金満家のお布施でかろうじて生計を立てている、といったところ。
337日本@名無史さん:03/09/07 13:56
>>331
共通点は子沢山なところ。
338日本@名無史さん:03/09/07 14:13
>>337
でもその境遇は、清和天皇というより、陽成天皇に似ているような気がするけど。
長生きだったとか(陽成天皇は85歳まで生きた)
親父と追号が逆ならよかったのにな。
339日本@名無史さん:03/09/07 14:17
>>332
明正は元明+元正
340日本@名無史さん:03/09/07 14:20
東山、中御門、桜町、桃園の追号の由来は何なの?
341日本@名無史さん:03/09/07 14:59
>>340
御所だった場所じゃないのか。
東山も中御門も桜町も上皇になったから。
桃園はわからないが。
342日本@名無史さん:03/09/07 15:48
桃園天皇の赤い頬に激しく萌え
343日本@名無史さん:03/09/07 15:49
弟がアレだから、きっとバック桜町天皇も綺麗なんだろ。
肖像は無いのか?
344日本@名無史さん:03/09/07 15:51
遺骨から顔の再現は出来ないものか。
皇室って言うか公家は一般人より面長と聞いたが、例えれば園楽みたいなものか?
345日本@名無史さん:03/09/07 18:37
>>340
遐仁天皇(桃園院)の追号問題では「後称光院」も候補にあがっていた。
346日本@名無史さん:03/09/08 10:54
江戸時代後半に、朝廷権威が幕府と逆転した理由が今ひとつわからん。
何かよい本はないですか?
347日本@名無史さん:03/09/08 11:17
>>344
三条実美や近衛文麿の写真から想像されたし。
歌舞伎役者でいえば中村橋之助のような顔。
348日本@名無史さん:03/09/08 11:31
>>346
藤田覚の『幕末の天皇』とかは?
349日本@名無史さん:03/09/08 12:23
>>344
現在の宮内庁の考えが変わらない限り、無理だな。
歯髪塚や火葬塚でも陵なみに厳重に管理している
からな。天皇の体は一部でさえ御神体と言う考え
だからな。
350日本@名無史さん:03/09/08 12:37
>349
現天皇家をごらんになって
なにを楽しい萌え妄想ができるんだか???
今そこにある天皇家を見れば、夢から覚めるでしょう。



351日本@名無史さん:03/09/08 12:47
キモオタ顔ってことね。
352日本@名無史さん:03/09/08 12:49
ひとりだけでしょう。
あとはみんな普通
美形がいないだけでぇ・・・
353日本@名無史さん:03/09/08 12:51
いつから皇族に美形がいなくなってしまったのか??

日本史の謎  天皇家の謎


美形皇族がほしい


354日本@名無史さん:03/09/08 12:53
信長は足利将軍を追放した
其の九年目に本能寺で暗殺されるのだが
あのママ行く所にまで行っていたら天皇廃位もわけなかっただろう
しかしこの頃までに天皇の子孫が京都中に溢れていたので邪魔臭かったのだろう
結局質よりも量って事で
355日本@名無史さん:03/09/08 12:55
>354
>>353の解答になっていませんよー

356日本@名無史さん:03/09/08 12:59
やはり。貞明皇后と香淳皇后が原因だと思う。
明治天皇や大正天皇は天皇らしい顔だが昭和天皇やその兄弟
のちょっと目が怖い顔は貞明天皇の血だなあ。
今上天皇から皇太子、愛子のあの目の細い顔は、香淳皇后の
血だなあ。
357日本@名無史さん:03/09/08 12:59
>>352
内廷皇族に限定しても、
ナルヒト、ブサヤコ、ぐったり豚と3人もいますが、何か?
358日本@名無史さん:03/09/08 13:04
>>356
島津系の良子女王は糸目だけど面長のお姫様顔ですよ。
庶民的丸顔の孫たちとは全然別の輪郭。むしろ丸顔は邦彦王の血でしょ。

昔の浮世絵美人や東映のお姫様女優と同系統の顔で、
キモオタ系のナルヒト兄妹とは明らかに別系統ですよ。
359日本@名無史さん:03/09/08 13:09
>>358
系統を変えてほしい
なーんてね。
ま、実際問題愛子天皇が誕生して婿を迎えたら
系統が変わるわけだ。
そうなると、男系女系どちらがいいのか分からなくなるなあ。


360日本@名無史さん:03/09/08 13:10
  


  ここは江戸時代の天皇を語る場所です。限定付きですよ。




361日本@名無史さん:03/09/08 15:08
>>330
清和天皇も後水尾院の共通点は、兄がいたのに即位したこと。
両方とも母は女御で、兄の生母は更衣と典侍で正室ではなかった。
後陽成院が後水尾院の追号を決めたと何かで読んだことがある。

>>340

東山院は陵の場所の地名だったと思う。
中御門、桜町、桃園は仙洞御所の名前だったような・・・
いい加減でスマソ
362日本@名無史さん:03/09/08 23:24
>>348
ありがとう。参考にします。
江戸時代の将軍は、天皇の勅使に対して下座しなかったそうなんですけど、
これが変わったのは1863年の孝明天皇の加茂行幸への将軍の付き添い?

光格天皇の天皇号復活は権威復活というより、宗教観の変化の気がする。
孝明天皇の1862〜63年あたりが公武逆転の時期とされるが、幕府が朝廷に自らの
威光を求め、墓穴を掘ったか?時代の動きでどうしようもなかったことか?
363日本@名無史さん:03/09/13 11:15
遐仁ハアハア
智子ハアハア
興子ハアハア
364日本@名無史さん:03/09/13 11:18
セックス セックス ちんちんちん!
セックス セックス ちんちんちん!
セックス セックス ちんちんちん!
セックス セックス ちんちんちん!
セックス セックス ちんちんちん!
365日本@名無史さん:03/09/13 12:00
>>345、それは俺も聞いた事がある。
称光自体があまりぱっとした印象のないみかどだしな。

>>350、今の系統は閑院系、智子、遐仁姉弟とは、別系統。
本当こっちが続けば、今の皇室も(ry
366日本@名無史さん:03/09/13 12:04
多分、ここまでブサイクにはなってなかったはず。
367日本@名無史さん:03/09/13 13:16
光格、仁孝、孝明の三天皇も、歌舞伎役者系のいい男なのに、今の(ry
368日本@名無史さん:03/09/13 13:51
結局、久邇宮家系統の遺伝のせいということで、よろしいか?
369日本@名無史さん:03/09/13 13:59
伏見宮は、江戸時代になったら、祟光源氏とでもしたほうが、良かったのでは?
370日本@名無史さん:03/09/13 14:05
万一のための保険だろう、多分…。
371日本@名無史さん:03/09/13 14:34
それなら、財政難の為に法親王になった皇子が、宮家になって、伏見の宮を源氏にした方がよほどいいだろ。
法親王=子孫を残せないなんだからさ。
ながいきした法親王もいただろうに、もったいない。
そうすれば、今の皇(ry
372日本@名無史さん:03/09/13 14:36
今の皇族の容姿も改善されたと言いたいのか?
373日本@名無史さん:03/09/13 14:58
まあそういうことだ。
智子、遐仁姉弟を想像するとそう思うよ。
374日本@名無史さん:03/09/13 15:12
智子!(*´Д`*)ハァハァ…
興子!(*´Д`*)ハァハァ…
375日本@名無史さん:03/09/14 08:55
聖徳太子の生まれ変わり、照仁天皇
376日本@名無史さん:03/09/15 14:34
高仁親王が成長すれば、お市の方の血が入った美男子の系統になったろうに。
377日本@名無史さん:03/09/15 16:08
だいたい幕府ってのは、公儀とよばれていて、つまり
政府、朝廷と同じことだったんだな。
 誰も、幕府とは呼んでいなかったが幕末に政府のことを
軍事的に日本を統治した簒奪者であって正式な政府ではないと
いうやからが現れ、そういう連中はみな公儀のことを
軍事政権だという意味を明確にするために陣幕政府つまり幕府と
呼んだわけだ。
 さらにこの幕府という呼称は討幕派のみならずそれに同調して
庶民もすき好んでそう言い出した。
 明治維新が成功したのは庶民が文字を読めてプロパカンダをなが
しやすかったため豪農や豪商やそこに働くものたちをすぐに味方に
つけた。豪農や豪商が権力を握り殿様たちは添え物に過ぎなくなっ
ていたのも一つの原因。
そういった全体のうねりが明治維新になり、つまり前政府は幕府と
呼ばれつづけることになったわけだな。
378史学生:03/09/15 17:34
お公家さんの親分。
379日本@名無史さん:03/09/16 16:33
>聖徳太子の生まれ変わり、照仁天皇

桜町天皇の生まれかわりは、いつ生まれるんだろうね。
380日本@名無史さん:03/09/17 22:39
なんか天皇家の系図を眺めてると
古代で久しく絶えていた女性天皇が江戸時代にぽーんと現れるのが面白いね。
しかも明治になるまで二人も出現したのがおもしろいと思った。
(幕府との)政治上の理由、皇室の事情があったにせよそれは
平安〜中世にも存在しうる理由や事情だし、江戸時代になって復活した
というのは、なにか運命があるのか?

381日本@名無史さん:03/09/18 07:59
>なにか運命があるのか?

東福門院(徳川和子)が産んだ男子が育たなかったことには運命的なものを感じる。
徳川の系統は明正女帝一代限り。

後桜町女帝は、弟(桃園帝)が早世した後、幼い甥(のちの後桃園帝)の成長を待つ間の中継ぎだったし。
別に運命的なものではない。
382日本@名無史さん:03/09/18 08:52
江戸時代の天皇って、「日本書紀」を読んじゃいけなかったんだね。
これは、いつごろからですか?
「古事記」も?
383日本@名無史さん:03/09/18 15:26
【政治】「天皇が江戸城に入ったのは間違い。お移りいただく」 自民・亀井氏★4

1 :☆ばぐ太☆φ ★ :03/09/18 14:24 ID:???
★亀井氏、「天皇は江戸城から移っていただく」

・自民党総裁選に立候補している亀井静香氏は17日午前、党青年局主催の
 討論会で首都機能の移転について「首相になったら(天皇には)茨城でも
 京都にでもお移りいただく」と述べた。

 理由に関しては「天皇は文化的存在で文化の一部そのものだ。そういう方に
 権力の象徴である江戸城に入っていただいたことは間違いだ」と説明した。

 ttp://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20030918AT1E1700N17092003.html
384日本@名無史さん:03/09/18 15:31
亀ちやん、けだし「名言」ですなぁ。
385日本@名無史さん:03/09/18 15:36
地方でひっそり暮らすのなら、皇族の結婚難も解決か?
386日本@名無史さん:03/09/18 16:03
「日本書紀」も「古事記」も賎民の書だったの?
387日本@名無史さん:03/09/18 16:08
>>386
それはないでしよう<ぷ
388日本@名無史さん:03/09/18 17:55
>>383
ネタレスだと思ったらマジだったのか。やるな亀ちゃん。
389日本@名無史さん:03/09/18 18:29
>>386
幕末に兵庫開港勅許でもめた際、将軍慶喜が(開港に反対する)公家連中を一喝
したセリフが、「あなた方のように古事記や日本書紀から抜け出たような考えでは、
当世間に合わない」だった。公家連中には必読書のような存在だったが、
政権担当者にとってはトンデモ本のひとつといった認識が伺われて興味深かった。
390日本@名無史さん:03/09/18 23:22
>>389
そういう「トンデモ本」という意味の発言ではありませんでした
公家は日本書紀の天孫降臨の枠内秩序での朝廷の維持を求めていた事に対して、廷臣以外にも門戸を解放せよとの抗議の意です
書物の批判ではなく体質への批判です
舌足らずでしたら詳しくお答えします
391日本@名無史さん:03/09/19 04:45
>>383
京都はわかるが、なんで茨城?
392日本@名無史さん:03/09/19 09:07
宝暦事件は、日本書紀の天皇への講義を、関白か誰かが禁止したのに、
下級公家や竹内式部が天皇の希望ということで無視して実行し、
朝廷の秩序を乱したということで、朝廷内部で行われた処分事件。

天皇は徳を高める学習は必要だが、それは中国の本や、
歴代天皇の日記などで、日本書紀はタブーだったようだ。
皇孫意識は危険思想だったのかな?
実質として禁じられてたのは、いつからいつまで?
393日本@名無史さん:03/09/19 11:57
×皇孫意識
○天孫意識&古代の世俗権力の中心だった認識
394日本@名無史さん:03/09/21 12:38
江戸時代の天皇って、
幕府からまともな生活費をもらえずに、
お隣さんの施しで食いつないでたとか。
要するにコジキだったのだ。
395日本@名無史さん:03/09/21 13:22
>>394
お隣さんて誰だ?
396日本@名無史さん:03/09/21 13:34
京都のみなさんのことだろ。
397日本@名無史さん:03/09/21 13:34
コノエさん
398日本@名無史さん:03/09/21 14:01
灘の領主の近衛から酒を恵んでもらってたという話は聞いたことがある。
399日本@名無史さん:03/09/21 14:08
>>398
近衛家は伊丹の領主。
灘は明和6年まで尼崎藩領、以後は幕領。
400日本@名無史さん:03/09/21 14:45
>>392
他の六国史はどうだったの?
401日本@名無史さん:03/09/21 21:47
>>400
どうなんだろうね。
日本書紀は神代が特にダメなんだったと思う。
402日本@名無史さん:03/09/22 01:30
日本書紀はともかく「古事記」は物語として読むとロマンあふれていて本当に面白い。
筆力もすごくあるし。
これも禁止だったわけ?それとも昔の人は書いてあることすべてがノンヒクションだと
考えていたとか??
「源氏物語」はやらしいから読むとこと嫌がった天皇がいたとか
読んだことあるんだけれど、誰だっけ。




403kousuke:03/09/22 01:42
撤退
404日本@名無史さん:03/09/22 06:28
天下は将軍家のものではなく、京の朝廷からお預かりしているものなので、
民百姓を虐げるようなことがあってはならない。

天明の大飢饉から間もない頃、老中松平定信がこういうことを将軍に言上
している。京では光格天皇が朝廷の権限を強化しつつあった頃だ。
405日本@名無史さん:03/09/22 09:44
幕府の権威向上政策の一つの技。
松平定信は、光格天皇の父に太上天皇号を送りたいという申し出を断固拒否し、
一緒に騒いだ多数の公家を処罰している。

尊号一件
江戸後期、光格天皇がその父である閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろう
として幕府に拒否された事件。1789年(寛政1)天皇は、前大納言中山愛親に命じ
て先例を調べさせ、承久〜文安年間(鎌倉・室町時代)に2例あることを根拠として、
所司代を通じて尊号宣下の承認を幕府に求めた。
幕府では首席老中松平定信から関白鷹司輔平に書を送り、君臣の名分を私情に
よって動かすべきでないとの意見を述べた。その後数度の書信往復があって、
朝廷側では要求を撤回したが、91年関白が一条輝良に代わると、朝廷は再び
同じ要求を持ち出し態度を硬化させたので、幕府はあくまで拒絶の態度を決
め、老中松平信明が上京して事に当たり、天皇はついに尊号宣下の企てを放棄した。
93年幕府はこの事件にかかわった中山愛親・正親町公明の両縁を処罰し、さらに
多数の公縁を戒飭した。また閑院宮家には一代を限って1000石を増進した。
406日本@名無史さん:03/09/22 09:47
>>402
「古事記」は本居宣長が国学の聖典化するまでは
評価がムチャクチャ低かった。六国史とは比較にならない。
賀茂真淵も序文は偽作だろうと疑っていたし
上田秋成なんかも偽書説寄り。(←この人の場合はアンチ宣長なんだろうけど)
407日本@名無史さん:03/09/22 09:47
>>402
古事記もだめだった気がする。天孫・神武東征あたりがタブーかな?
源氏物語の話はおもろいね。何天皇だろ?女帝かな?男ならエロは好きだろw。
408日本@名無史さん:03/09/22 10:08
知らないの?
漢詩、剣術好きの
暴れん坊将軍ならぬ暴れン坊天皇。
幕府におそれられて暗殺された。
409日本@名無史さん:03/09/22 10:12
誰?キボンヌ。
410日本@名無史さん:03/09/22 10:20
江戸時代の天皇で暗殺説があるのはあの人とあの人ぐらい
そして暴れン坊天皇といえば・・・あの人か!
411日本@名無史さん:03/09/22 10:36
暗殺説のある親子だったかな?
子のほうだよ。
412日本@名無史さん:03/09/22 11:43
>>406
そうなんだ。日本書紀より古事記の方が面白いんだけれどね。
神功皇后の話が本物として扱われるのは明治になってから
なんだ。きっかけを作ったのは聖典化した本居宣長??
>>407
男帝だよ。名前は度忘れしたけど。

413日本@名無史さん:03/09/22 12:07
先祖の家康をヤルのかい?
414日本@名無史さん:03/09/22 12:32
素人には古事記のがおもしろいんだね。
415日本@名無史さん:03/09/22 12:51
日本書紀のおもしろさ教えて
416日本@名無史さん:03/09/22 13:06
後光明天皇?
417日本@名無史さん:03/09/22 19:24
>>405
ただ、その後は朝廷の権威が上昇していくことになるんだけどね。
418日本@名無史さん:03/09/22 21:20
日本書紀禁止で天孫降臨も禁止だったということは、
江戸時代の天皇自身は、天皇というものを何と考えていたのやら。
419日本@名無史さん:03/09/22 21:46
武家とうまくやれと教わってたんでないかな。孝明天皇も幕府よりだったようだし。
今の天皇も、なんと考えてるのやらと同じレベル?
420日本@名無史さん:03/09/22 21:49
隆慶一郎が未完に終わった「花と火の帝」のなかで、
後光明院の暗殺を描く予定だったらしいのだが・・・
421日本@名無史さん:03/09/22 22:00
孝明天皇は幕府とべったりの保守派
422日本@名無史さん:03/09/23 01:53
>>235
>ところが、異国と交流すると歪んだ体制が忽ち顕わになる。
>やっぱり将軍は天皇の下だったんだとね。
それは外国と交流した結果ではなく単に、幕府が弱体化した安政期だったから
というのが実情だろう。現にペリーの時は条約勅許問題など出ていないし、幕府も
朝廷には事後報告で済ましている。
また、田沼や定信がロシアとの通商を考えていた時代にも朝廷を意識しなきゃ
ならないことになるが現実にはそんなことは考えられない。外国との交流は
オランダとの通商もあったし、朝鮮通信使や清国、またラックスマン、
レザノフ、ビッドルとの交渉、さらには琉球やアイヌとの関係などもあったが
いずれも朝廷なんか無視して行なってきた。レザノフの部下が北海道襲ったときに
報告したのが朝廷を意識した最初の事件。これも幕府の弱体化と関係が
あるのだろう。
423日本@名無史さん:03/09/23 11:43
後光明天皇は疱瘡で死んだのでは?
この時期は、幕府が天皇を恐れる理由は全くなさそうなんだけど・・・。
424日本@名無史さん:03/09/23 12:29
孝明帝はともみに。
桃園帝は?・・・
425日本@名無史さん:03/09/23 13:13
>423
時期は関係ないよ。
幕府は武断的な天皇の存在そのものが怖かったんだよ。
天皇はあくまで平和的な人物でなければならなかったんだよ。
426日本@名無史さん:03/09/23 13:16
高仁親王が成長していれば、後光明も後西院も霊元も皇位に無かったんだろうな。
427日本@名無史さん:03/09/23 13:16
後光明院は病死。孝明天皇も病死。桃園院も病死。
428日本@名無史さん:03/09/23 13:24
4人の天皇の父になったのは後にも先にも後水尾院ただひとりだが、
本人はうれしくもなんともなかっただろうな
429日本@名無史さん:03/09/23 13:57
>>428
おまけに退位の本当の理由が「性病の治療のため」。とほほ。
430日本@名無史さん:03/09/23 14:01
>>428
欽明天皇がいるよ
431政仁:03/09/23 14:35
お灸がしたいから、辞めたい。
432日本@名無史さん:03/09/23 17:33
江戸幕府が天皇をそれほど恐れていたとは思えないけど・・・
天皇が幕府を恐れていたというならわかるけどね。
433日本@名無史さん:03/09/23 17:36
>>432
幕府も前期と後期では天皇の扱い方が違う。
434日本@名無史さん:03/09/23 20:14
>432
家康君とそのとりまき(天海とか)
けっこう過去の歴史に詳しかったみたいでゴトバやゴダイゴのような天皇の登場をおそれていたんだよ。
435日本@名無史さん:03/09/24 11:42
昔なんて顔写真なんてないし、途中で誰か別の人が
入れ替わってもわかるわけないだろうな
436政仁:03/09/27 15:58
淋病で苦しいから、お灸がしたいので、興子に譲位する。
437_:03/09/27 16:06
438政仁:03/09/27 18:04
良仁、もうそろそろ誠仁に皇位を譲らないか?
439良仁:03/09/27 19:12
その前に伊達と組んで幕府を(略
440日本@名無史さん:03/09/27 20:32
>後光明の他殺説
戦前に、一次資料から否定されたようです。
441日本@名無史さん:03/09/27 22:48
霊元天皇は幕府をメチャメチャ憎悪してた
関東は伏魔殿とも言っている
442日本@名無史さん:03/09/27 23:11
>>438
誠仁じゃなくて識仁だろう
443日本@名無史さん:03/09/27 23:17
鎌倉時代以降の天皇の御名は現代風だな。
自分の子供につけてもおかしくない。
444日本@名無史さん:03/09/27 23:33
445日本@名無史さん:03/09/28 11:55
>霊元天皇は幕府をメチャメチャ憎悪してた
>関東は伏魔殿とも言っている
あの時期に幕府に対抗は無理だろう。頭はよかったそうだけど、
酔っ払いで癇癪もちだった。
「武蔵野は根本魔所也」。院政で好きにやろうとしたのを、関白や幕府に
止められてるから、むかついたんだろうなw。
でも、幕府のおかげで大嘗祭が復活できたような。

桜町天皇なんかは、同じように朝議の復興をしてるけど、
ちゃんとわかってて、幕府に多くの朝議復興を大感謝して天に恐れ多いと譲位してる。
吉宗の政策だったけど。
446識仁:03/09/28 12:05
五宮に皇位を譲りたいが、一宮をどうしたものか。
なに、小倉実紀が謀反。
よし、一宮を坊主にしよう。
447統仁:03/09/28 13:13
南蛮夷に侵されるぐらいなら、睦仁か中川宮に譲って、辞めたい。
448日本@名無史さん:03/09/28 13:15
家康も尊成や尊冶を恐れていたのか。
449家康:03/09/28 15:55
尊成や尊冶みたいな事をしたら、先例にならって隠岐にでも流してしまえばいい。
450日本@名無史さん:03/10/06 21:13
451日本@名無史さん:03/10/08 12:38
あんたは大金持のお嬢さんだ
俺は貧乏人で両親もいない孤児さ
だからあんたのような世間知らずの苦労無しのお嬢さんをみると
本当は腹の底でムカムカしていたんだ
その鬱憤を晴らす時が来たと行ったら分かるかな?
大丈夫長く苦しませるようなことはしませんから
僕はこう見えても紳士なんだ
いや苦しませるなんてむしろその反対だ
あなたにはまず快楽を味わって貰わないと僕の気持ちが満足できない
この僕のような貧乏人の下で令嬢のあなたが組伏せられて歓喜の声をあげてお願いする
とっても絵になる構図だと思いますがね
やめて何するの?
これを注射するとあなたも人間の本性が出て身も心も社会の鎧から
開放されて自由になるんだ
だんだんと気持ちが良くなって来て僕に心から頼むしかなくなるんだ
あなたは牝犬になるんです
あああああっぁぁぁあううううううぁつううううぅぅぅ



452日本@名無史さん:03/10/11 20:11
天皇がいる日本が大好きです。
453日本@名無史さん:03/10/12 21:28
>>452
同。
454日本@名無史さん:03/10/12 21:37
>>453
同。
455日本@名無史さん:03/10/12 23:50
>>453−454

452だけど、ネタじゃなく真面目にそう思ってる。
日本史を勉強していて、天皇を悪の枢軸にして特に批難するような
具体的な「悪」が見つからないから。
むしろ、権力(思想や宗教も)の分散、集中を防ぐとてもいい役割を担ってもらっている感じすらある。






456日本@名無史さん:03/10/13 23:27
>>455
同。
457日本@名無史さん:03/10/14 12:23
>>456
同。
458政仁:03/10/17 16:52
459日本@名無史さん:03/10/19 20:00
銅。
460日本@名無史さん:03/10/19 20:07
胴。
461日本@名無史さん:03/10/19 20:15
462日本@名無史さん:03/10/19 20:19
下らないけどワロタw
463日本@名無史さん:03/10/19 20:35
464日本@名無史さん:03/10/19 22:12
465日本@名無史さん:03/10/20 21:00
466日本@名無史さん:03/10/22 06:59
>>1
江戸時代の天皇のチンコについて語れ!


次スレのタイトルはコレで
467日本@名無史さん:03/10/22 07:26
>>466
おまえはクズだ。
468日本@名無史さん:03/10/22 19:05
封建時代を終わらせ、近代への道を開いた
明治天皇がおられなかったら
こんな自由な社会はこなかったであらう。
469日本@名無史さん:03/10/23 23:56
明治天皇 昭和天皇
一番苦労された天皇だろうな。
こんなに苦労された天皇陛下の御子孫がまたご立派な人だし・・・
子供は親の姿をみて育つというのは本当だ。

470日本@名無史さん:03/10/24 01:03
明治天皇は苦労なされた
昭和天皇は国民を苦労させた
471日本@名無史さん:03/10/24 22:35
大正天皇は血縁関係のある皇族同士だったから、
知的遅れ気味になられてしまった。
472日本@名無史さん:03/10/25 00:12
>>「なられてしまった」って変な日本語。
なってしまわれた、じゃないか普通?
473日本@名無史さん:03/10/25 11:15

あんたが正解!
474日本@名無史さん:03/10/25 11:23
明治維新とは毒殺魔による宮中クーデタ。
孝明天皇と睦仁親王(本物)は岩倉と薩長の毒牙にかかって暗殺されたんだよ。
その後明治天皇(偽物)を担いだ薩長はやりたい放題の悪事をかさねるが、
結局、1世紀ももたずに薩長カルト帝国は崩壊してしまった。

明治維新がなかったら孝明天皇の御意志どおり公武合体による挙国一致が実現し、
明治天皇(本物)と幕府の俊英の協働によりよりまともな日本が実現できたはず。
475日本@名無史さん:03/10/25 12:05
いや公明天皇とかできて、ナンミョーホー(ryって
国民全員がやらされるような国になってたかも。
晩成一計・発行意中とかいう朝鮮神道やらされてた戦前よりは
ましかなp
476日本@名無史さん:03/10/25 15:20
>>471
大正天皇の生母は柳原伯爵の娘でしょ。皇族じゃない。
477日本@名無史さん:03/11/06 22:57
478政仁:03/11/08 10:09
ここは江戸時代の話をするところじゃ
479識仁:03/11/08 10:11
父の言うとおりだ。
あんな伏魔殿に行った奴らなど皇族じゃないわ
480良仁:03/11/08 10:12
麿の子孫を語った馬鹿がいるそうだが
481日本@名無史さん:03/11/20 21:48
江戸時代の天皇は鎌倉時代の天皇とくらべて
穏やかな生活を送れたのではないでしょうか・・・

482日本@名無史さん:03/11/21 17:51
穏やかっつーか、幽閉だろ。あれは。
483日本@名無史さん:03/11/21 18:39
外出する資金も意欲もないのが江戸時代の天皇だよ
484日本@名無史さん:03/11/21 22:55
ぁゃしぃリスト

後光明天皇
桜町天皇
桃園天皇
後桃園天皇
仁孝天皇
孝明天皇
485日本@名無史さん:03/11/21 23:28
>>483
資金は戦国時代の天皇よりあったのでは?w
486日本@名無史さん:03/11/22 00:27
>>485
財布のヒモは幕府が握っている
487日本@名無史さん:03/11/22 23:44
>>482
みんなヒッキー天皇だったんだね。
明治天皇でようやく引き篭もりから脱出したんかな?
しかも自主的というより、周囲からケツ叩かれて無理やり
ひっぱりだされた感じがする。。。
後醍醐・後鳥羽とは大違い。


488日本@名無史さん:03/11/22 23:45
天皇家が歴史の矢面に立った弊害を受けてしまったのが、昭和天皇ですね・・・
お気の毒。

489日本@名無史さん:03/11/22 23:47
しかも何か知らんがサヨ厨に悪人呼ばわりされるしね。
490日本@名無史さん:03/11/23 12:09
江戸時代の天皇と無関係の話題はヤメレ
491日本@名無史さん:03/11/25 01:32
>>489
昭和天皇は悪くない!!
492思うぞ:03/11/25 11:15
http://ex.2ch.net/korea/#1
ハン板でこんな事言われてるぞ
天皇は処刑するべきだって
493日本@名無史さん:03/11/25 19:05
>>491
近代の天皇に関する話はスレ違い。
494日本@名無史さん:03/11/25 21:03
>492
おまえのコピペもウザイ
495政仁:03/12/01 19:35
江戸じゃない話はやめなさい。
496識仁:03/12/02 21:19
詐欺の某宮じゃない
497日本@名無史さん:03/12/18 09:59
漁師の血を入れることによって、血の活性化を図り・・・
498日本@名無史さん:03/12/18 10:20
誰のこと?漁師って。
499日本@名無史さん:03/12/25 23:03
ラスト侍に出た天皇は明治天皇なの?
500日本@名無史さん:03/12/25 23:04
500分経過した処で出てくるの?

501あぼーん:あぼーん
あぼーん
502日本@名無史さん:04/01/09 07:33
江戸時代の天皇の話はどうなったんだ?
503日本@名無史さん:04/01/09 07:38
ゲイなんだろ
504日本@名無史さん:04/01/09 07:41
4人の天皇の父になるほど精力旺盛だった後水尾院がゲイだったとは思えない
505日本@名無史さん:04/01/09 17:23
>>504
精力旺盛なバイということならありえる。同性愛タブーはなかった時代だし、
男女とも性の対象として見えたのかもな。
というか、あの時代は大抵の人はバイの気がする。
506日本@名無史さん:04/01/09 18:41
精力旺盛な徳川将軍は娘を大名家に嫁に出し
息子は養子に押しつけて迷惑がられたが
精力旺盛な天皇はそうもいかない
門跡や尼門跡を量産するんじゃ子供が可哀相だよ
507日本@名無史さん:04/01/16 21:48
結局、徳川の血を入れなかったってのはスゴイ。
508日本@名無史さん:04/01/16 21:50
江戸時代も後半は天皇家も子ども不足になったけどな。
天皇の若死が増え、親王家当主や門跡に空席が多くなる。
最終的にはとうとう後桃園院の死でいったん皇統が断絶する。
509日本@名無史さん:04/01/16 21:54
>>213
根拠のない憶測は言わないように。在日君。
510日本@名無史さん:04/01/28 20:16
>>508
新井のおかげで天皇家は生き延びたわけだが。
511日本@名無史さん:04/02/07 15:09
>>508と新井と何の関係があんねん?
512日本@名無史さん:04/02/07 15:14
閑院宮家創設のことでは
513日本@名無史さん:04/02/22 03:55
新井により宮家増設が、どどーんと、あたったわけだね。
しかも、ちょうど皇統断絶しちゃったので、
新井がつくった宮家へと移行し、いまの天皇はその子孫。
514日本@名無史さん:04/02/22 09:52
なるほど。
では、そろそろ宮家増設の時期ですな。

ときに江戸時代と言えば上野の法親王様について語らねばなるまい。
515日本@名無史さん:04/02/23 02:53
嗚呼東武皇帝!
輪王寺宮法親王様は、元来幕府の人質としての役割があったそうだね。
516日本@名無史さん:04/02/29 09:54
法親王の殆どが伏見宮が多いな。
ここは霊元天皇の第一法親王の話だろ。
517日本@名無史さん:04/03/10 19:34
神仏儒の三徳を備えた法親王は江戸の良識。
幕府残党が最後の拠にしたのも無理はない。
518日本@名無史さん:04/03/10 21:22
江戸幕府が朝廷を怖れていたことは様々な事柄によって検証できる。
◎禁中並公家諸法度(正式名称は「禁中方御条目」)。
1615年発布。以降一度も改訂されていない。発布の年から見て、大名が朝廷と
通じることを警戒するために立てられた、しかし内容的にはルーズなものであ
り、朝廷に強力な統制を課したものとは言い難い。
◎御三家の配置
尾張・紀州の位置は、京都を警戒するためのものであることを如実に表してい
る。また、光圀以来尊皇の気風が強い水戸を京都の近くに配置しなかったのも
このため。
◎朝廷との縁が切れない
二代秀忠の正室が既に近江の女性だったが、三代家光〜十五代慶喜の御台所は
全て皇女や公卿の娘。彼女たちの嫡子が将軍になるのを警戒し、その可能性が
ある男児が生まれた場合は闇に葬られることも多かった。しかし、一方で五代
将軍の擁立に関しては、京都の宮家から擁立しようとする幕閣一派と綱吉擁立
派が争った。結局綱吉が擁立されたが、その母桂昌院は京都西陣の八百屋の娘
であり、綱吉自身も尊皇の気風が強い人物であった(浅野内匠頭の刃傷事件での
対応びりでも明らか)。なお、紀州出身の八代吉宗も尊皇心が強かったことで有
名。
519日本@名無史さん:04/03/10 21:26
>>516

霊元院の第一皇子は勧修寺宮でしょ
小倉事件の
520ruru:04/03/10 22:39
小倉事件??

521日本@名無史さん:04/03/10 23:24
>京都西陣の八百屋の娘
皇女ならともかく
八百屋の娘と尊皇がどこでどうつながるんだ(w
522日本@名無史さん:04/03/10 23:40
>>521
京の一般庶民は尊皇心が厚いぞ。天皇のお膝元なんだから。
523日本@名無史さん:04/03/10 23:49
牽強付会。
524日本@名無史さん:04/03/11 00:16
まあ、結局葵の紋は菊の御紋に滅ぼされたわけだが。
525日本@名無史さん:04/03/11 18:30
しかし、輪王寺宮の存在を考えると
江戸というのはおもしろい都市ですね。

日光、上野の徳川バチカン王国の教皇には皇族を迎え、
権力者の将軍と一種の政教分離が
できていたわけですね。
526日本@名無史さん:04/03/11 19:02
>>520

小倉事件

霊元天皇の一宮がほぼ儲君ときまっていたが、天皇の寵愛が五宮生母に移ったため
天皇が一宮を出家させようとした。が一宮の外祖父の小倉実起がこれに抵抗したため
小倉実起・息子の公連・煕季らが佐渡に流罪になり、一宮もむりやり頭を剃られ勧修寺に
入れられた事件

久保貴子の「近世の朝廷運営」に詳しく載っているよ
527日本@名無史さん:04/03/17 00:25
後西天皇の皇子は?
528日本@名無史さん:04/03/17 14:29
しかし、何故霊元天皇は、いるかいないかよくわからない孝霊、孝元の両天皇から、名を取ったんだ。
明正天皇は、まだ、意味がわかるけど。
529日本@名無史さん:04/03/18 21:28
生前やんちゃな帝だったから、せめて死んでからは
いるかいないかわからない位になって欲しいと思ったんじゃ?
530日本@名無史さん:04/04/02 17:44
531日本@名無史さん:04/04/04 12:21
天皇を国家機関の中枢に添えすぎるのは危険だな。
ましてや責任者の身分だと
戦争に負けたり革命に出会うと真っ先に
責任を押し付けられるのが天皇になる。
実際は天皇を陰で操ってる連中が一番悪いのに
532日本@名無史さん:04/04/04 12:29
>>531
近代の天皇の話はスレ違い。
533日本@名無史さん:04/04/09 19:04
孝明天皇は最悪のクズ!
534日本@名無史さん:04/04/17 17:49
最近「日本史研究」に江戸時代の天皇に関する論文がよく載ってるね。
関西ではブームなのか?
535日本@名無史さん:04/04/18 03:18
>>533
学習院の名付け親に失礼だぞ!
ストレートな命名だ
537日本@名無史さん:04/04/28 22:42
明正天皇って、幼女なんだよね?
538日本@名無史さん:04/04/29 00:32
幼女最高
539日本@名無史さん:04/04/30 21:37
庶民は天皇の存在をどれくらい知っていたんでしょう?
京都に天子様というのがいるってことぐらいは知ってたのかな?
540日本@名無史さん:04/04/30 21:47
>>539
ある程度の知識人じゃないと知らなかったと思うよ。
大政奉還後、明治天皇が京都と江戸(東京)を何回か
往復したのは、庶民に天皇の存在を知らしめるためだと
言われているし。
541日本@名無史さん:04/04/30 21:49
朝松健の小説で
庶民の娘が「天子さま? 誰ですか、そのひと?」なんて描写があったな。
542日本@名無史さん:04/04/30 21:55
学問のある武士・豪農や講談や浄瑠璃に触れる機会のある町人は知ってたでしょ。
543日本@名無史さん:04/04/30 22:17
寺子屋の往来物に天皇は出てくるっけ?
庭訓往来は貴族の話だけど。
544日本@名無史さん:04/04/30 22:46
>>535

学習院って院号があったらやだな。
545日本@名無史さん:04/04/30 23:02
小倉百人一首には天子様や宮様方がいっぱい登場するけど、
江戸時代の庶民層ならあれくらい諳んじることのできる人は
けっこういたんじゃないのかな。
546日本@名無史さん:04/05/01 13:24
江戸では京風が憧れの的で、庶民も京都や天皇のことは普通に知っていた。
547日本@名無史さん:04/05/01 18:59
江戸時代の学者太宰春台も、「今や江戸の言葉や生活習慣は京風になっている」
と書いている。
548日本@名無史さん:04/05/01 19:19
司馬遼太郎が「王城の鎮護者」のなかで、
「孝明帝は酒が好きだったが、町民ですら飲まないような水っぽい酒
しか飲めなかった」、といっているがそうなんですか?
そんなに貧乏にあえいでおられたのだろうか。
所司代の間部下総守はいったい何をしていたのか。
549日本@名無史さん:04/05/01 20:09
>>537
明正天皇@葵・徳川三代
ttp://asiaham.net/index.files/meisyou0001.jpg

ょぅι゛ょではないが・・・w
550日本@名無史さん:04/05/01 20:16
そういや明正天皇や後櫻町天皇の肖像画ってないんだよね、なぜか。
男帝はみんなあるのに。
551日本@名無史さん:04/05/01 20:34
幕末の宮廷を読むとそんなに酷い生活ではなかったようです。
うろ覚えなので表現は不正確ですが
「大変良いわけではないが、酷く悪いわけでもない」
と言うようなことが書いてありました。
まあ将軍や豪商よりは質素でしょうが、庶民以下ということはないでしょう。
なお同書によると近衛家はかなり裕福だったようです。
552日本@名無史さん:04/05/01 20:59
一応幕府って言うのは
蝦夷を牽制するために将軍が任命されて
その為の最前線基地って言う名目なんでしょ?

だから生かさず殺さずなんじゃない天皇は?
553日本@名無史さん:04/05/01 21:03
いまさらわかりきったこというな。
554日本@名無史さん:04/05/01 22:02
>>548
酒好きと酒に強いとは別の概念ですよ。
酒造株は石高で定められているので
できるだけ濃厚な酒を造り、それを水で割って流通させるのが近世の酒造業でしたから
今とは違って、いろんな濃度の酒が流通してました。
555日本@名無史さん:04/05/01 22:48
いや、江戸時代の天皇は
その収入の多くは
公家に分配されて
ご自分のとこにはいくらも残りません。
556日本@名無史さん:04/05/01 23:36
>>555
史料的根拠あるいは参考文献を教えて下さい。
557日本@名無史さん:04/05/01 23:47
551であげられているのは尊皇機運が
最高潮にあった幕末の話であって、
江戸時代全般にわたってはお上は貧しく、お上を慕う庶民、近所の農民や全国の崇敬者の供御により
生計を立てておられました。
558日本@名無史さん:04/05/02 00:10
           __,,,,_
            /´      ̄`ヽ,
            / 〃  _,ァ---‐一ヘヽ
         i  /´       リ}
          |   〉.   -‐   '''ー {!
          |   |   ‐ー  くー |
           ヤヽリ ´゚  ,r "_,,>、 ゚'}
         ヽ_」     ト‐=‐ァ' !
          ゝ i、   ` `二´' 丿
              r|、` '' ー--‐f´
         _/ | \    /|\_
       / ̄/  | /`又´\|  |  ̄\

皇太子様が当スレッドにご興味をもたれたようです
559日本@名無史さん:04/05/02 00:54
>>557
だから史料的根拠か参考文献をあげて欲しいのだが。
560日本@名無史さん:04/05/02 00:56
群馬に吉井という所がある。江戸時代に吉井藩があった所だが、吉井藩
は1万石の小藩で、藩主は江戸常駐で参勤交代もなかった。だが、この
吉井藩は大きな権威を持った藩なのだ。
吉井藩の祖は鷹司信平。三代将軍家光の御台所鷹司孝子の弟である。
将軍の義弟というよりも、五摂家鷹司という高貴な身分によって、吉井
藩は松平鷹司家の治めるところとなった。松平の名があるのは、信平が
御三家紀伊の徳川頼宣の婿となったからである。1万石の小藩である吉
井藩の藩主は、江戸城内では国主級の大広間詰め、後には御三家と同格
の大廊下詰めの待遇を受ける。将軍家の縁戚、御三家の一族というだけ
ではこのような待遇を受けられない。五摂家鷹司の威光である。
561日本@名無史さん:04/05/02 01:02
>>559 557はせいぜい時代小説あたりから引っ張ってきた情報だろうから
あまりアテにしないほうが良さそうだね。
562 :04/05/02 12:52
>>539
当時の本にもでてるが..字が読めるのは知識人 と思ってたけど
仮名ばっかりで書かれた豆知識の刷り物や本もいっぱいあるから、
知識人しか知らなかったと言ってると当時の人に怒られそうだ。

寺子屋でやる国名尽は五畿内から始まるし、往来物の口絵や挿絵に
仁徳天皇や天智天皇の故事が出てくるのが多いこと..
あとお寺やお宮の解説で○○帝の御代に..とあるけど当時の宗教の
影響力がどうだったか詳しく知らんので、わからないや。

563日本@名無史さん:04/05/04 00:09
564日本@名無史さん:04/05/16 15:48
このスレは何を語るスレなの?

565日本@名無史さん:04/05/16 19:43
権力を封じられ歴史の舞台に登らせて貰えなかった、
江戸時代の天皇達の知られざる実像を語るスレです。
566日本@名無史さん:04/05/19 21:37
千年の都でつつましく生活されておられました
567日本@名無史さん:04/05/19 21:42
来客と酒でも飲もうかと、つまみは味噌でいいかな。
568日本@名無史さん:04/05/19 22:04
今の宮内庁って
 江戸時代の京都所司代みたいだね。

霞ヶ関から派遣されたお目付けって感じ。
皇室のために尽くすのではなく、
 皇室を監視下においている。
569日本@名無史さん:04/05/19 22:11
>568
ずばりそのとおりでしょう!

しかし、江戸時代は一応まわりに
代々の廷臣がいたし朝廷もあったが
今は所司代の中に皇室があるようなもの。
570日本@名無史さん:04/05/19 22:26
宮内庁の役人はそうかもしれないが、
悪いのは元華族の宮内庁関係者だ。
571日本@名無史さん:04/05/20 01:24
阿部キュンが余計な事してくれたお蔭で
江戸時代末期には天皇家の株が上がったのですか?
572日本@名無史さん:04/05/20 09:18
光格天皇ががんばったから、天皇家の株があがったのです。
573日本@名無史さん:04/05/20 17:29
>>570
>悪いのは元華族の宮内庁関係者

だれ?
元華族関係は美智子皇后にアボーンされたんじゃないの?
574日本@名無史さん:04/05/20 17:52
まあ、あと半世紀もたてば天皇制自体があぼーんなわけだが。
575日本@名無史さん:04/05/20 17:59
>>574
まあ、あと10年もたてば在チョソがあぼーんなわけだが。プ
576日本@名無史さん:04/05/20 18:08
大正帝ってご自身は短命で存在感も薄いけど、よく側室もたないで
男児をあれだけ確保してくれたよね。
現状みるに実は偉大な天皇なんじゃねえの?
577日本@名無史さん:04/05/20 18:24
>>570
宮内庁の要職はすべてキャリア官僚で
占拠されてますが
578日本@名無史さん:04/05/20 18:41
>>577
事務方は確かにそうだが侍従長や侍従、女官長などの
「奥」は元華族が多い。
天皇家の私生活管理は「奥」が牛耳っていて、長官や
次長も奥向きに関しての問題はタッチできないらしい。
特に侍従長は宮内庁長官と同じ、天皇に認証される
認証官だから、長官なみに影響力がある。
579日本@名無史さん:04/05/20 18:52
女官はしらないが侍従長なんかも
生粋の官僚エリートだったはずだぞ。

ひと昔前とはだいぶ違うぞ。
580日本@名無史さん:04/05/20 18:53
皇室外交は「表」とやらが決めるのでは
581日本@名無史さん:04/05/21 03:46
江戸時代の話しないやつは(・∀・)カエレ!
582日本@名無史さん:04/05/28 19:21
age
583日本@名無史さん:04/05/29 14:23
>552
江戸時代も後半だと蝦夷=西洋人

というイメージだと思うが。
584日本@名無史さん:04/05/30 14:58
>>577
田中真紀子とイザコザがあった元外務次官川島裕氏も今宮内庁にいるね。
お決まりの外務省の天下りポストにいるらしいけど、
事務次官経験者がなるのはめずらしいってよ。
585日本@名無史さん:04/05/30 15:05
現代の話はスレ違いなり。
586日本@名無史さん:04/05/30 15:06
江戸時代の天皇を語るスレで、現代のキモブサ天皇家の話題はやめてくれや。
587日本@名無史さん:04/05/30 16:21
後水尾院、光格天皇、孝明天皇以外の江戸時代の天皇のことを書いた論文や
書籍ってなんかありますか?
588日本@名無史さん:04/05/30 23:07
107 後陽成天皇 ごようぜいてんのう 1586年11月 7日 〜 1611年 3月27日
108 後水尾天皇 ごみずのおてんのう 1611年 3月27日 〜 1629年11月 8日
109 明正天皇 めいしょうてんのう 1629年11月 8日 〜 1643年10月 3日
110 後光明天皇 ごこうみょうてんのう 1643年10月 3日 〜 1654年 9月20日
111 後西天皇 ごさいてんのう 1654年11月28日 〜 1663年 1月26日
112 霊元天皇 れいげんてんのう 1663年 1月26日 〜 1687年 3月21日
113 東山天皇 ひがしやまてんのう 1687年 3月21日 〜 1709年 6月21日
114 中御門天皇 なかみかどてんのう 1709年 6月21日 〜 1735年 3月21日
115 桜町天皇 さくらまちてんのう 1735年 3月21日 〜 1747年 5月 2日
116 桃園天皇 ももぞのてんのう 1747年 5月 2日 〜 1762年 7月12日
117 後桜町天皇 ごさくらまちてんのう 1762年 7月27日 〜 1770年11月24日
118 後桃園天皇 ごももぞのてんのう 1770年11月24日 〜 1779年11月 9日
119 光格天皇 こうかくてんのう 1779年11月25日 〜 1817年 3月22日
120 仁孝天皇 にんこうてんのう 1817年 3月22日 〜 1846年 2月 6日
121 孝明天皇 こうめいてんのう 1846年 2月13日 〜 1866年12月25日
江戸時代の天皇は14人か。
589日本@名無史さん:04/05/31 00:14
明治天皇も江戸時代の天皇のひとりですよ
590日本@名無史さん:04/05/31 00:32
東シナ海で調査活動を続けてきた中国が、日中中間線ぎりぎりの中国側海域で、
天然ガスを採掘するための施設建設に着手したことが二十七日、航空機からの本紙調査で確認された。

 資源が日本側にまたがれば埋蔵割合に応じて配分を中国側に求めることができるが、日本側に具体的な資料はなく、
中国側が独占する可能性が大きい。採掘には米国と英国・オランダの石油企業が一社ずつ加わっており、
日中間の新たな懸案に発展する恐れがある。 
(以下略)
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kei/20040528/mng_____kei_____004.shtml
こっから採掘吸い上げ全部中国へ
       ↑
       ‖|
       ‖|   
       ■|■■■■■■■■資源■■■■■■■■■■
       ■|■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
中国領土← | →日本領土
591ぷーすけ:04/05/31 01:51
孝明天皇は、やはり毒殺されたのですかね?
592日本@名無史さん:04/06/01 18:12
江戸時代の天皇はいわば日本を表す象徴的なもので、
現在の象徴天皇制と似ているところが多々ある。

やばくなったのは明治時代から。それまでとは違い、天皇
が国民を直接支配するようになり、現人神とされ、後の
戦争につながっていく。そう考えると、象徴天皇制という
のは実に日本の国体に合っている。
593日本@名無史さん:04/06/01 19:33
>>591
天然痘で亡くなったと言われるが、その当時京都では天然痘の流行は
認められないということだよ。
>>592
天皇の直接支配とは天皇親政のことだが、近代国家においてそのよう
なことは不可能だ。明治から敗戦に至る一時期に天皇制絶対主義が現
出したことはあったが、それとて天皇親政ではない。2・26事件を
起こした軍人たちは、天皇と国民の間にいる君側の奸を排除すれば天
皇親政が実現すると夢想してテロに走り、その結果昭和天皇を激怒さ
せて賊軍になってしまった。
594日本@名無史さん:04/06/01 19:58
俺が高校生だった時、孝明天皇は御所の天皇が使う便所のカメの中に
槍を持った刺客が隠れていて、孝明天皇がトイレのためにカメにまたがった時
けつをさされて死んだと聞いたが、本当なのか?
595日本@名無史さん:04/06/02 17:11
>594

惜しい!
596日本史@名無しさん:04/06/02 18:10
ほぼ本当らしい。尊皇攘夷とかいっても実体はそんなもの。黒幕は岩倉具視といわれる。
597日本@名無史さん:04/06/02 20:15
実質、天皇って江戸時代何万石の領主だったんだろう?
598日本史@名無しさん:04/06/02 20:21
皇室全部で10万石、内禁裏は綱吉の時代に加封されて3万石。その他公家全部で4万石。
各種統制や出費を考えれば、もう、悲惨の一言。
599日本@名無史さん:04/06/02 20:23
 >>596
やっぱり本当っぽいですね。確かに岩倉にとって孝明天皇はうざかったとおもう。
ところである歴史マニアの人から明治天皇も暗殺された可能性があるときいたが
本当なんだろうか?
600日本@名無史さん:04/06/02 20:46
>>598
中程度の大名並みの石高で軍役も参勤交代もないし、領地支配の責任もない。
どう考えても「悲惨」というのは言いすぎ。
601日本@名無史さん:04/06/03 00:42
大名はしょせん将軍の臣下だが、天皇は将軍の上に立つ天子様だからね。
602日本史@名無しさん:04/06/03 00:55
礼幣使なんて庶民に詐欺かましたり乞食したりして何とか日光までたどり着いてたらしいがw
603日本@名無史さん:04/06/03 17:31
>>602
それ時代劇の見すぎじゃ・・・
604日本@名無史さん:04/06/03 17:43
江戸歌舞伎の暫見てたら
おもいっきり天皇が登場していたが
江戸時代の庶民は天皇の存在すら知らなかったという説がほんとなら
庶民はあれを何者だと思っていたのかな??
605日本@名無史さん:04/06/03 17:45
歌舞伎には「悪公家」というキャラクターもあるからな。
知らんわけ無いな。
606日本史@名無しさん:04/06/03 19:39
礼幣使の話はちゃんと記録に残ってるよ。川柳とかもw
607日本@名無史さん:04/06/03 20:35
江戸時代は出版物が飛躍的に増加し、江戸庶民も様々な読み物や演劇などを
通じて天皇のことは知っていた。また、江戸には朝廷から勅使・院使が下向
し、さらには江戸の中心地域には上方の豪商の江戸店(江戸支店)もあり、将
軍の上に天子がいることは当然のように知っていた。
608日本@名無史さん:04/06/03 21:04
>>606
そういう議論をしようというなら
当て字はいかがかと思う>例幣使
609日本史@名無しさん:04/06/03 21:16
>>607のはただの推測。実際はほとんどの百姓にとって天子様=お天道様程度の
認識。トップは領主様で、次が将軍様。天皇なんてほとんど誰も知らない。日本の
歴史の中でも最も影の薄い時代で、出版物にも全くと言っていいほど登場しない。
610日本@名無史さん:04/06/03 21:21
>>609
>>607は、江戸の話をしているんだろ。
田舎はどうだか知らんが
611日本@名無史さん:04/06/03 21:29
>>609
>>562をご覧あれ。
612日本@名無史さん:04/06/03 22:37
>>609はただの憶測だな。
613日本@名無史さん:04/06/03 23:07
>>609はただの煽り屋にすぎない。京に都があることを知らない者など
いない。
614日本@名無史さん:04/06/03 23:53
だが幕府が天皇の御所からの外出を厳しく制限したのは
庶民に天皇の存在を知られたくないからでは?
当然、江戸や京の町人は知っていると思うが
地方の農民やかなり遠い地域の住民は知らないのでは?
地方の農民は将軍の存在も知らないかも。
615日本@名無史さん:04/06/04 00:03
江戸幕府がその全期間を通じて常に怖れていたのは、朝廷が大名たち
と結びつくことだ。
616日本@名無史さん:04/06/04 04:33
鳴物停止令の布告は全国規模でやってたんでしょ?
「天皇崩御につき、?日間服喪せよ」みたいな高札とかでたんじゃないの?
なら絶対、全国規模で天皇の知名度はあったはず。
617日本史@名無しさん:04/06/04 12:48
>京に都があることを知らない者などいない

ソースキボンヌ。
618日本@名無史さん:04/06/05 06:26
禁中並び公家諸法度
619日本史@名無しさん:04/06/05 09:46
百姓はしらんだろ、そんなもん。
620日本@名無史さん:04/06/05 17:57
>617
今日に都があることを知らない日本人はいなかったでしょう。
街道沿いの町などは上町、中町、下町などとついていたこと
を考えると京都が日本の中心と理解していなかったものはいなかったでしょう。

戦国時代ですら宣教師は京都を目指していたのだから。
ついでにただの倭寇にすぎない薩摩のアンジロウですら
都に法皇がいることを知ってるしね。
621日本@名無史さん:04/06/05 18:18
禁中並公家諸法度の内容は極めてルーズなもので、しかも江戸時代を通じて
一度も更新されていない。武家諸法度が何度も更新され、大名統制が強化さ
れて行ったのとは違う。
622日本@名無史さん:04/06/05 18:25
江戸幕府は、親藩である水戸家が光圀以来尊皇の気風が強くなっていて
も特に手を入れず、井伊直弼の殺害に関連して水戸斉昭を江戸城登城禁
止にした程度。それどころか、五代将軍綱吉や八代将軍吉宗は尊皇将軍
として有名だ。また、老中松平定信は「幕府は天子様より政治を委任さ
れているので、将軍が勝手なことをしてはいけない」と将軍家斉を諌め
ている。
623日本@名無史さん:04/06/05 20:10
だけどまあ定信は「尊号一件」がもとで老中を退くんだけどね。
624日本@名無史さん:04/06/05 21:39
結局は朱子学を学ばせた将軍の墓穴。
625日本@名無史さん:04/06/05 22:44
何で朱子学だったんだろう?陽明学でも良かったしそっちのほうが武士に似合っていた
気もするが
626日本@名無史さん:04/06/06 18:18
>>622>>623
朝廷も幕府も似た状況にあったからな。

光格天皇→父である閑院宮典仁親王を太政天皇にしたい
徳川家斉→父である一橋治斉を大御所にしたい

老中松平定信は、どちらも不許可→将軍の不興を買う→老中辞職
627日本@名無史さん:04/06/06 18:47
江戸時代の識字率は世界一だったわけで。
地方でも庄屋さんクラスの人なら
幕府が隠そうとしても書物を通じてわかってたはず。

ときにこの時代、暦はどこから出てたのかな?
628日本@名無史さん:04/06/06 18:55
貞享暦の制定以来、幕府の天文方が担っていたかと。
629日本@名無史さん:04/06/06 18:57
>>627
暦は伊勢神宮が独占的に発行していた。
630日本@名無史さん:04/06/06 20:05
>>626
定信は先例がないと、治斉の大御所にするのを反対したらしいが
家宣は父に、「贈征夷大将軍」を贈っているね。
天皇家も父に太上天皇号を贈った先例があるのにな。
(後高倉院や陽光院など)
631日本@名無史さん:04/06/06 21:20
>>630
定信は、治済のせいで本来なれたはずの将軍になれなかったから、贈るのを渋っていたんだろ。
もっとも、家基が死にさえしなければ、定信も家斉も出番が無かったわけ何だが、その辺は、後桃園帝が早く亡くなって、光格天皇になったのに似ていて、怪しいものを感じるな。
632日本@名無史さん:04/06/06 22:06
明治以前の日本の物語や歴史は天皇抜きには語れないんだから、
文字の読める人間なら間違いなく天皇は知ってたな。
633日本史@名無しさん:04/06/06 22:41
>明治以前の日本の物語や歴史は天皇抜きには語れないんだから

正気で言ってるとは思えないw
634日本@名無史さん:04/06/07 00:06
>>633
日本人みんなが歴代天皇の名前を暗記したのは
明治〜昭和(戦後除く)の時代だけだと思うけど‥
635日本@名無史さん:04/06/07 00:11
>>634
学校が国民学校と改称された1941年〜45年までだよ。
636日本史@名無しさん:04/06/07 00:43
天皇の暗記は国民学校だけじゃないだろw

とりあえず>>632には天皇の名前全部言って貰おう。
637日本@名無史さん:04/06/07 01:15
天皇も公家も武家も庶民もみんな集まって日本だろ。
638日本@名無史さん:04/06/07 01:47
>>622
江戸幕府というか、大老が暗殺された後、幕府の政治を壟断したのは慶喜や春嶽ら直弼の政敵なんだから
本腰をいれるわけがない。
慶喜なんかハナから井伊嫌いだったし彦根を減封するように働きかけているしね。
639日本史@名無しさん:04/06/07 20:14
諸藩の動向も公家のようすも全部政争の道具に過ぎない。
外様については半分は潰したが、天皇制は潰せなかった。ここが中国と比べて
まだ過渡的段階であるということ。後漢末と同じ段階。
640日本@名無史さん:04/06/08 05:09
歴史学にマルクスをもちこむはやめてね。「段階」とかキモイよ。
641日本@名無しさん:04/06/08 07:59
>>639
天皇制を潰しゃあいいと思っているの?
で、中国が日本より進んでいると?
フーン…やっぱマルキストって馬鹿だよな。
642日本@名無史さん:04/06/20 18:39
今時マルクスひきずってる人を相手にしても
しょうもないですよ。

ところでかの長谷川長官も「一千年前の【皇都】奈良を訪ねてみたい」(兇剣より)
って発言してますね。

やはり、江戸時代の人にとっても天皇は
普通に知られていたようで(藁
643親天皇江戸派:04/06/20 18:52
江戸ファン=反天皇
のような勝手な構図を流している人が
一部いるが
江戸時代も天皇なしでは語れない文化、出来事はいくつかありますよ。
644日本@名無史さん:04/06/20 19:44
具体的には?
645日本史@名無しさん:04/06/20 21:04
今頃マルキストとか行ってる馬鹿のスレはここでつか?
646日本@名無史さん:04/06/20 23:21
江戸時代の庶民が自由に旅行が出来なかったことは誰でも知っているが、
伊勢参りだけは許されていた。そこで、庶民たちは伊勢神宮に参拝だけ
して、すぐさま京見物に出かけるのが慣わしだった。江戸の庶民もそう
で、伊勢参りの名目で京見物をするのが大きな楽しみだった。この傾向
は、1780年に刊行され、我が国初の観光ガイドブックとして大ベストセ
ラーとなった京都案内書「都名所図会」によって更に拍車がかかった。
この「都名所図会」に倣って、その後「江戸名所図会」「五畿内名所図会」
などが続々と刊行された。こういうものを通して、江戸の庶民は京のこと、
そして天皇のことも知っていた。
647日本@名無史さん:04/06/20 23:26
ある程度自由に旅行できたでしょ・・・
648日本@名無史さん:04/06/20 23:47
>>647
出来ない。まず道中手形を発行してもらわねばならないが、この道中手形
は現在のパスポートやビザよりも遥かに厳しい条件と複雑な手続きが必要
だった。しかも行く先々には各藩の関所があり、そこでも面倒な手続きと
詮議を受けねばならなかった。「入り鉄砲と出女」と言われたように、幕
府も各藩も旅人を装った武器の運搬や隠密の出入りには神経を尖らせ、そ
れが自由な旅行を規制することとなった。
649日本@名無史さん:04/06/21 00:00
>>648
最近盛んになってきている
道中日記の研究でもご覧になればいかがかと。
あなたの書いているのはあくまで「建前」の世界ですよ。
650日本史@名無しさん:04/06/21 00:25
>こういうものを通して、江戸の庶民は京のこと、
 そして天皇のことも知っていた

捏造乙。こういう検証抜きの推定が捏造厨の常套手段だからな。
出版数、出版物の分布、他にもいろいろと推論して初めて歴史科学だろう。
お前のはただの願望。
651日本@名無史さん:04/06/21 04:35
伊勢の御師に関する新書が最近出てるでしょ
屋敷の豪壮なこと、供される料理の豪勢なこと
庶民の伊勢参りは御師の勧誘から始まってるわけで
皇室の氏神たる伊勢に参って天皇のことを知らないとは
到底思えないわけだがね
652日本史@名無しさん:04/06/21 12:24
>皇室の氏神たる伊勢に参って天皇のことを知らないとは
  到底思えないわけだがね

またも論証抜きの捏造か。とりあえず天皇家自身と伊勢の関係について調べた方がいいよ。
それと近畿の伊勢信仰についても、ね。
653日本@名無史さん:04/06/21 14:16
650・652はきちんと反論も出来ない無能厨。
654日本@名無史さん:04/06/21 15:05
「もっと勉強しなさいよ」は勝利宣言と同様の発言だからな。
他人の主張を否定するのは骨の折れる作業なのはわかるが、
そんなに面倒だったら最初から発言しなきゃいいのにとは思う。
655日本@名無史さん:04/06/21 20:36
捏造してるのは
江戸時代、ほとんどの人は
天皇の存在すら知らなかったって
願望からきた妄説のほう。

とりあえず歴史科学的に論証したまへ(藁
656日本@名無史さん:04/06/21 20:45
ちなみにかの
長谷川長官も石清水八幡に詣でたさいに
「かく言うわしも(中略)千年の昔から天皇家に仕えた
藤原家のすえだが・・」
と語っておられるが(輪頼
657日本@名無史さん:04/06/21 20:47
天皇の勅使を饗応する役目の浅野内匠頭が刃傷におよび、赤穂浪士が
その仇を討った。

江戸で起こったこの大事件を江戸庶民が知らなかったというのか?
658日本@名無史さん:04/06/21 21:18
まあまあ、とりあえず「知らなかった派」
の彼に論証してもらおうではないか。
歴史科学的に。
659日本@名無史さん:04/06/21 21:48
とりあえず
知らなかった派君
には少し猶予やるから今日、明日中には論証したまへ。

それ以上は論証できなかったとみなす。
660日本@名無史さん:04/06/21 21:50
>歴史科学的に
近世天皇無力説なんてのは
今や左の側でも骨董品だと思うんだが。
661日本@名無史さん:04/06/21 22:58
江戸時代の伊勢信仰は、外宮中心だけどな
662日本@名無史さん:04/06/22 14:21
江戸期の天皇は、多くの武士や町人にとっては単なる象徴天皇。公家や下層民、一部の武士にとっては崇拝すべき元君主。
663日本@名無史さん:04/06/22 21:13
知らなかった派の小僧、はよ論証せい
664日本@名無史さん:04/06/22 21:20
論証は不可能でしょう。教義なのですから。
665日本@名無史さん:04/06/22 21:25
「知っていた派」の論証もまだのようだが?
666日本@名無史さん:04/06/22 21:44
知ってた派は何偏も論証しちょるやろ
667日本@名無史さん:04/06/22 21:46
江戸時代の天子様は天上人です。
668日本@名無史さん:04/06/22 22:22
1、伊勢参りの人々は京都御所などへ全く立ち寄ってません。
2、天皇を尊敬対象と考えていたのは豪農層以上です。
3、奥羽人民告諭などでわかるように、とくに東日本の農民層は天皇を知らないことが
  割と多かったです。
4、近世史における体制委任論とは、あくまで江戸幕府の都合で、江戸幕府が奨励したものです。
  一般大名や武士が天皇に忠誠を誓うことは、幕末の末期までありえません。
5、近世史の天皇は、幕朝関係では出てきますが、一般政治論では、孝明天皇まで
  政治・文化に関与していません。光格天皇などは幕府の支持によってです。
  ですから、無力論は、江戸幕府の大部分の時期にとって過ちとはいえません。
6、天皇を知らなかった地方農民は多かったですし、将軍から一般民まで心から
  尊敬してた人は、ほとんどいませんでした。
7、尊皇攘夷は、江戸幕府の政策です。

以上、常識的なことを書いて見ました。「日本の近世」でもお読みください。
669日本@名無史さん:04/06/22 22:23
知らなかった派の人は江戸を煽っているんですよ。
「江戸の人間は天皇のことも知らなかった無知で閉鎖的な村人だ」とね。
670日本@名無史さん:04/06/22 22:24
確かに伊勢参りは京都へ寄っていないな。
この点では、伊勢信仰は、天皇信仰と全く別だ。
これは、ほぼ常識だろう。
671日本@名無史さん:04/06/22 22:26
>>668
>伊勢参りの人々は京都御所などへ全く立ち寄ってません。

爆笑しました。江戸見物の人々は江戸城に立ち寄ったんですかwwww
672日本@名無史さん:04/06/22 22:41
>668
つっこみどころ満載のネタをありがとう。

ま、ゆっくり料理しま

ちなみに豪農や商家は一般庶民にはならんのかいな。
やっぱりプロレタリアじゃなきゃダメ?(輪羅
673日本@名無史さん:04/06/22 22:41
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は、伊勢参りを思い立った弥次さん
と北(喜多)さんが京見物に行くという設定になっています。これは、
当時の江戸庶民の姿を反映したものです。ですから、この作品は多くの
江戸庶民に愛読されたわけです。我が国初の観光ガイドブックである
「都名所図会」が江戸庶民の間で大ベストセラーになったという事実
も、このことをよく表していますね。
674日本@名無史さん:04/06/22 22:53
そうそう。かの長谷川長官も京への墓参りのついでに
千年前の皇都奈良へ
見物に行ったわけだし(輪羅
675日本@名無史さん:04/06/23 01:25
普通は京都へ行っても奈良へはあまり行きませんね。
676日本@名無史さん:04/06/23 07:04
>>656
長谷川“平”蔵なのに藤原氏なんだw
677日本史@名無しさん:04/06/23 07:48
知ってたかどうかと言えば、畿内や中国、東海ぐらいは知ってたかもね。まあそれも「天子様」
ってお天道さまみたいなものだと思うけどw それ以上の付加的な説明なんて出来るわけない
し。

ただ、権力機構の頂点なんてのも、誰も思ってないだろうな。少なくとも年貢徴収などで戦う相
手は藩であり徳川将軍家だからね。天皇や公家なんて権力機構だとすら思ってないだろ。
678日本@名無史さん:04/06/23 14:23
伊勢参りと天皇崇拝とは全く別ものであることは事実な訳だがな。

御所の周りを飢饉の時に京都民衆がグルグルめぐりを大人数でしたときがあったが、
あれは京都所司代への米要求だったわけで、その後はおきてない。

豪農がどのぐらいの人口比で存在した超富裕層であることを知っていれば、
その問題は理解できるのだが・・・。
679日本@名無史さん:04/06/23 16:38
奈良を皇都と思ってる人って・・・
普通いないよなぁ・・・
大阪はどうするのかなぁ・・・
680日本@名無史さん:04/06/23 17:44
庶民が明治維新を「将軍様」から「天朝様」への政権交替と捉えたのは確かだろ。
681日本@名無史さん:04/06/23 18:59
>畿内や中国、東海ぐらいは知ってたかもね。まあそれも「天子様」ってお天道さまみたいなものだと思うけどw
>少なくとも年貢徴収などで戦う相手は藩であり徳川将軍家だからね
畿内を入れるのはいかがなものか。
山城には禁裏領があるし、摂津には仙洞領がある。
また山城・摂津・河内には公家領もある。
享保期以降には一国単位の村高帳がかなり作られるので
山城・摂津の農民は天皇家や公家を領主と認識している。
682日本@名無史さん:04/06/23 19:00
訂正
山城・摂津→山城・摂津・河内
683日本@名無史さん:04/06/23 19:09
江戸時代に天皇が庶民に知られてると何かまずいことでもあるのか?
684日本@名無史さん:04/06/23 19:29
単純に庶民・農民でも元号代わるときは天子様が決めちょるぐらい知ってたと思うのだが
685日本@名無史さん:04/06/23 19:37
>>684
その史料的根拠は?
686日本@名無史さん:04/06/23 20:40
>678
話をねじまげないように。
御所に祈願に来た人々を見て
お上が所司代に庶民を救済するよう頼んだという話
687日本@名無史さん:04/06/23 20:43
>>686
要するに当時の天皇は京都所司代に頭を下げないと何もできなかったと。
688日本@名無史さん:04/06/23 20:51
>>682
山城・摂津・河内の農民のごく一部、だろ。
天皇家一族や公家衆の所領を全部あわせてもせいぜい十数万石じゃないか。
689日本@名無史さん:04/06/23 21:15
>>686
天明の大飢饉の影響で困窮した人々が京都所司代に救済米を求めたが、所司代
は何の対策も行わなかった。そこで人々は御所へ行き、救いを求めた。この救済
願いは何日も続き、近郊そして大坂からも人々が集まってきた。光格天皇はこ
れに応えて救済米の放出を所司代に命じたところ、所司代はすぐこれに従った。
>>687
お前のような無教養の低能が来るところではない。
690日本@名無史さん:04/06/23 21:25
>>688
所領内に住んでる農民だけが領主を知ってるわけじゃないよ。
当然近隣の農村とは付き合いがあるわけで、相当遠方の情報まで
知っていたと考えるべきと思う。
情報があるからこそこそ農民は年貢が安いとこや新田のあるところに走るわけで。
691日本@名無史さん:04/06/23 21:37
>>688
村高帳って見たことないのかな。
どの村の領主が誰かを全部記載してあるのだが。
692日本@名無史さん:04/06/23 22:09
>>688
享保十三年の『浪花袖鑑』には
「大坂用聞并通路人」のところに
諸大名の用聞と並んで
法皇御所の用聞として「天満今井町河内や伊兵衛」の名が見える。
これを見た人には
法皇は用聞を必要とする領主であるということが認識できたはずだが。
693日本史@名無しさん:04/06/23 22:23
いろいろしょぼい資料かき集めるのも大変だなw

ご苦労さん。
694日本@名無史さん:04/06/23 22:38
>>693
史料に基づかない議論は意味がなかろう。
695日本@名無史さん:04/06/24 11:56
>>689
間違い。
命じていない。
担当がいくつもの筋(ライン)を通して、恐る恐る申し上げただけ。
おどおどしたまわりくどい依頼の文章だよw。
天皇が命じたという文献もしくは史料のソースキボンヌ。
これ以後、慣例ができたので、所司代に意見を「言えるようになった」だけ。
696日本@名無史さん:04/06/24 13:05
「封建領主であった」ということと「日本国王であった」ということを混同している馬鹿がいるようだな。
「庶民が天皇が領主であることを意識していた」からなんだというのだ?
それだけじゃそこらへんの武士一般と変わらないだろうが。
697日本@名無史さん:04/06/24 13:08
>>689
無教養で低能なのはおまえだよ。
おれの見解が間違っているのならきちんと筋道立てて反論してみな。
できないだろ?
698日本@名無史さん:04/06/24 19:24
六十余州は禁廷より御預かり遊ばされ候御事に御座候ば、かりそめにも御自身
の物に思し召すまじき御事に御座候、将軍とならせられ天下を御治め遊ばされ
候は、御職分に候

皇天及び禁廷への御勤め、御先祖様方への御孝心に当らせらるべし

1788年に将軍家斉の補佐役となった松平定信が、家斉を諭すために書いた
「御心得の箇条」にあるものです。ここで定信が示している考えを大政委任
論といい、江戸時代初期からあった考え方です。幕府の安定期には影をひ
そめていた考え方ですが、幕府が衰退するに伴って浮上してきました。そ
してこれ以降の朝幕関係は、この大政委任論によって行われることとなり
ます。徳川慶喜が行った大政奉還も、この考え方によるものです。
699日本@名無史さん:04/06/24 19:28
>>698
江戸時代初期に大政委任論なんか存在しないだろ。誰かそんなことを書き残しているのか?
それに松平定信の大政委任論は将軍の個人的な独裁政治を抑えるための方便だろ?
まあ幕末になって大政委任論が急浮上したのは幕府が自らの弱体化を自覚した結果だけどな。
700日本@名無史さん:04/06/24 20:43
>>696
議論をすり替えてはいけない。

609 名前: 日本史@名無しさん [sage] 投稿日: 04/06/03 21:16
>>607のはただの推測。実際はほとんどの百姓にとって天子様=お天道様程度の
認識。トップは領主様で、次が将軍様。天皇なんてほとんど誰も知らない。日本の
歴史の中でも最も影の薄い時代で、出版物にも全くと言っていいほど登場しない。

これがここしばらくの議論の出発点。
「日本国王」だとか、そういうことを論じているのではない。
天皇の存在が知られていたかどうかが議論のポイント。
701日本@名無史さん:04/06/24 20:46
>>699
倒幕の志士達のバイブルとも言える「靖献遺言」を書いた浅見絅斎など
の朱子学思想や、中期では本居宣長の国学思想に大政委任論の考えが見
られます。

大政委任論は幕末ではなく、もっと前からあったのですよ。
702日本史@名無しさん:04/06/24 22:11
あったらどうしたw

そりゃ朱子学の方法論をふつーに推論すれば皇室が出てくるのは当然だろ。
でも、学者が頭の中でひねくったその結論を、幕府自身がどのように扱ったかが一番
大事な問題だろ? 明治維新でも、結局古くさい天皇なんてものしか国家原理として
発想できなかった事が、あんなゆがんだ近代国家を生み、未だに皇族が悩んでしまう
ことの原因だし。

その時代時代の緊張関係の中でしか、その組織や集団がどう評価されていたかは分
析できない。天皇をコワー ヒィー(((゚Д゚)))ガタガタ とか思ってたヤシなんて、百人もいない
だろw
703日本@名無史さん:04/06/24 22:33
大政委任的発想は家光頃から出ているよ。
家光は文治への転換者というのが最近言われている。

でもって、大政委任は、幕府の権威付けのためのものであって、
全く天皇のためのものではない。
天皇はただのダシ。藩主や武士が天皇に忠誠をすることはありえないことだった。

>東海道中膝栗毛
伊勢参りのあと、大阪に行ってからゴールの京都だよん。
伊勢参拝と御所崇拝を結び付けてないよ。
704日本@名無史さん:04/06/25 05:21
>>701
一握りの学者が大政委任的発想をしていたことと広く庶民が受け入れていたこととは別物だと思われ。
江戸時代には日本の支配者として意識されていたのは誰がどう見ても「公方様」だろ。
明治維新でそれが「天朝様」に政権交替した。
705日本@名無史さん:04/06/25 07:03
>>701
天皇の存在自体が知られていたかどうかという話をしていたと思うのだが。
706日本@名無史さん:04/06/25 07:11
天皇の存在は知られていた。
でも日本の支配者・国家元首としては意識されていなかった。
このへんがFAなんじゃないの。
707日本史@名無しさん:04/06/25 08:26
漏れも>>706の意見でいいと思うぞ。一人粘着がいるけど、どうしても
江戸時代に「日本国王 天皇」としたいのかなあ・・・・・。ちょっとキモい。
708日本@名無史さん:04/06/25 18:58
天皇にせよ将軍にせよ、それを日本という国家の元首として一般庶民が意識す
るには、一般庶民がどこそこの領民であることよりも、日本国民であることが
優越するという国家形態、つまり近代国民国家が成立していなければならない
のだが、江戸時代の日本はそのような国家形態ではなく、諸外国との緊張関係
が現出した幕末期において、ようやくその萌芽が見られるのである。
709日本@名無史さん:04/06/25 19:49
なんだ、庶民に天皇は知られてなかったってサヨの言説は嘘だったのか。
710日本@名無史さん:04/06/25 20:00
>>709
それのどこが「サヨの言説」なのかサッパリわからんが。
711日本@名無史さん:04/06/25 20:01
>>709
30年前ならそういう言説がまかり通っていたかもしれない。
しかし現在の近世史研究者なら
>庶民に天皇は知られてなかった
このように主張する人はほとんどいないと思う。
712日本@名無史さん:04/06/25 20:09
708に烈しく同意!
ウヨちっくな香具師は寺子屋の教本から京のある山城から始まる日本国名尽
や天智天皇の歌、女大学の紫式部の口絵なんかで朝廷や日本が認識されて
いたとか、領主が官位を朝廷からいただいて喜んだというが
大半の非知識人人民階級には「世界・この世」とは己の村であり、
領主の支配地域だった。
テンノウの有り難さより坊さんの説く阿弥陀様の慈悲に感銘していたのだ
713筆頭局長芹沢:04/06/25 20:10
ネット普及前は
堂々と「江戸時代は天皇は存在してなかったのに等しい」
って意見がまかりとおってたぜ。

つまり、天皇は明治時代にでっちあげられたに等しい
=日本のありがたい伝統でもなんでもないってことにしたいらしい。

今も明治期すり替説など
手を替え品を替え
日本の歴史を歪曲しておとしめようとしている。
714日本@名無史さん:04/06/25 20:27
>堂々と「江戸時代は天皇は存在してなかったのに等しい」
>って意見がまかりとおってたぜ。
大局的には等しいといえば等しいですが何か?

>つまり、天皇は明治時代にでっちあげられたに等しい
>=日本のありがたい伝統でもなんでもないってことにしたいらしい。
明治以降の天皇制は、伝統と全く違いますが、何か?
宗教的にも政治的にも全く違いますが、何か?
715日本@名無史さん:04/06/25 20:30
天皇制の歴史はせいぜい150年。そんなこともわからんのか。
716日本@名無史さん:04/06/25 20:32
>>712
私の書いたことを少し誤解している。
京に都があり、そこに天子様というど偉いお方がいらっしゃることは、
江戸期はおろかそれ以前の時代の一般庶民も知っていた。また、江戸
には武家の棟梁である将軍様がおられることも、江戸期の一般庶民は
知っていた。だから、朝廷や将軍家の存在は広く一般庶民レベルで知
られていた。だが、日本という統一国家があり、自分達はその国民で
あるという認識は持ちようがなかった。なぜなら、江戸期の日本は天
皇や将軍が支配する統一国家ではなかったからだ。それは大名を見れ
ばわかる。諸大名は幕府によって本領を安堵されているとはいえ、彼
等は幕臣ではなく、将軍との間に主従関係はなかったからである。
717日本@名無史さん:04/06/25 20:35
>>661
おっと、またもや適当なことを書き散らしおって。
御師の活動拠点は外宮だが
信仰の中心はあくまで
天照皇大御神
だぜ
718日本@名無史さん:04/06/25 20:36
おい!自演野郎のディスティ!
お前こんなところにも出没してやがるのか?

トリップつけたまま自演やっちゃったディスティについてはこちら
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1084186997/l50


905 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 14:57
生物を知らないのはあなたでしょう(笑)
あなたが詳しいというならナチズムとダーウィニズムの関係について語って欲しいな。
わたしより詳しいとはおもえないが。
言っておきますがわたしは生物の教師。本職です。
プロを相手にしてよく言える(苦笑)
近現代ドイツにかんしてはおそらくわたしが一番くわしいですよ。
でないとコテハンなんかにはなりません。
2ちゃんねるに書き込むのは初心者ですが、馬鹿が多いという噂は本当ですね(苦笑)


906 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 15:01
おれはディスティ・ノヴァにも一理あると思うな。
今騙りがはやっている。
彼もその被害者なんだろう。
本当に彼が書き込んだレスだけ見ればそんなやつとは思えない。
お前こそずっと彼に粘着していた張本人ではないのか?
ノヴァ、アホは無視してほどほどにがんばれや。
719日本@名無史さん:04/06/25 20:37
>ネット普及前は
>堂々と「江戸時代は天皇は存在してなかったのに等しい」
>って意見がまかりとおってたぜ。
少なくとも80年代以降になれば
研究者の世界ではそういう見解がまかり通るということはなかった。
一般社会にそうした情報発信を十分にしなかったという批判は甘受するが。
720日本@名無史さん:04/06/25 20:40
>714>715
たれも天王星の話などはなからしちゃいねえが。
721日本@名無史さん:04/06/25 20:40
>>717
天照と天皇がストレートに結びついてなかったって事実はどうするのさw
722日本@名無史さん:04/06/25 20:40
孝明天皇が条約勅許を拒否する以前の天皇は政治的には存在していなかったのに等しいと言ってまちがいないと思うがな。
723日本@名無史さん:04/06/25 20:44
>ど偉いお方
古代王の子孫という認識だけ。
ど偉いとは、誰が思っていたのか?史料は?
724日本@名無史さん:04/06/25 20:45
>>722
了解。前言を訂正する。
725日本@名無史さん:04/06/25 20:50
意外と思う向きもあるかも知れないが、歴代天皇で最初に伊勢参拝を
行ったのは若き明治天皇であった。そして、これは天皇の信仰から発
したものではなく、江戸市民に人気のある伊勢参りを利用した懐柔政
策として行われた。他にも、明治天皇は武蔵野国一の宮である氷川神
社(さいたま市)や、江戸の日枝神社・神田明神・根津神社・富岡八幡
宮・亀戸天満宮などに官幣使を遣わして江戸市民を懐柔している。
懐柔政策として始まった天皇の伊勢神宮参拝は、現代も続いている。
726日本@名無史さん:04/06/25 20:51
>714
ま、天王星の話はおいといて
大局的に見れば江戸時代に天皇は存在してなかったに等しい
とはどういうことか
もう少し詳しく聞かせておくんな。
「大局的にみれば」
って言われてもな。
大局的にみれば江戸時代は搾取階級の武士と
搾取弾圧された農奴しかいなかったってことか(輪羅
727日本@名無史さん:04/06/25 20:55
>>723
そのようなレスをつけてしまうと、君自身も「古代王の子孫という
認識だけ」ということについて史料を提示しなければならなくなる。
その用意はあるのか?
728日本@名無史さん:04/06/25 20:58
>725
やはり、それか。
使い古したネタだぜ。
天皇が天照皇大御神の子孫を名乗ったのは
古代のことだぜ。

江戸時代になったら突然、古代や中世の文書や記録が全滅したわけでもあるめえ。

ちなみに持統天皇も伊勢に行幸されてるんだがな
729日本@名無史さん:04/06/25 21:00
>>725
天皇家は氷川神社をなんだか恐れてたとか。挨拶にいったらしい。

>>726
君が孝明以前の天皇がどう政策決定に関与したかを立証した方が早いよ。
あと、奥羽人民告諭での東日本民衆の天皇への無知を立証する史料を
否定する史料も出した方がいいと思う。
730日本@名無史さん:04/06/25 21:03
天照信仰はあったがと天皇信仰とはほとんど別物。
事実だから仕方ない。
731重症の方が:04/06/25 21:04
まったくおかしなやつがいて
人の書き込みがちゃんと読めずに
自分の妄想をまぜなが読んで
勝手に江戸時代における天皇の政治的位置や重要性について
語りだしてやがる。
732日本@名無史さん:04/06/25 21:10
次の様な疑問を持った。
・後水尾天皇の女御東福門院和子は徳川秀忠の娘だが、彼女の輿入れ
 行列を江戸庶民は見物し、それが何の行列か知っていたはずだが。
・上洛する将軍の行列を江戸の庶民は見て、それが何の行列か知って
 いたはずだが。
・徳川歴代将軍のほとんどは京より御台所を貰った。その輿入れ行列
 を江戸庶民は見物し、それが何の行列か知っていたはずだが。
・江戸幕府は毎年正月に将軍の名代を上洛させ、天皇に新年祝賀の挨拶
 を行わせ、朝廷はそのお返しとして、毎年三月に天皇・上皇の名代で
 ある勅使・院使を江戸に下向させ、将軍に答礼をさせていた。この勅
 使・院使の行列を江戸の庶民は見て、それが何の行列か知っていたは
 ずだが。
733日本@名無史さん:04/06/25 21:11
外宮中心だって言うから
そりゃ違うって言っただけなんだがな。
734日本@名無史さん:04/06/25 21:24
天皇のことをまーたく知らない江戸の庶民は
上野の宮様
と慕われた人
は何者と思ってたのかな。

その正体不明の宮様の使いの坊主と名乗るものにだまされた
お武家様って一体・・
735日本@名無史さん:04/06/25 21:26
>>729
人民告諭は天皇の存在を知らしめるものではなく、日本が幕藩政治から
王政に代わったことを告諭するもの。だから、全国に告諭が出された。
京都府下人民告諭もある。京都府下の庶民が天皇の存在を知らなかった
ことなどありえない。朝廷領が多くあったのだから。
736日本@名無史さん:04/06/25 21:33
>>734
上野の宮様、つまり東叡山寛永寺の門主のことですね。寛永寺自体が、
京より皇族に降下していただき、住していただくために家康が天海に
提案し、三代家光の代になってそれが実現し、以降江戸期を通して門
主には皇族がなりました。山号や寺号自体が、比叡山延暦寺を模した
ものですから。
737日本@名無史さん:04/06/25 21:40
>735
お見事!

ちなみに維新後新しく発表された
太陽暦は天皇が太陽神の子孫であることから
天皇暦とも呼ばれたがな。

天皇のいない?江戸が好きなキミは
将軍暦でもつかいたまへ。
ちなみにこの暦も宮中つながりで伊勢の御師がおもに配ったがな。
738日本@名無史さん:04/06/25 21:57
セーラームーンが好きな俺様は太陰暦を使いまつ。
739日本@名無史さん:04/06/25 22:05
天皇をまったく知らない江戸庶民は
講談で太平記を聞いても
「ゴダイゴ天皇?タケカワヒデユキのことか?」
と思ったかもしれない(輪羅
740日本@名無史さん:04/06/25 22:22
>>739
当時の庶民はお前ほど無知じゃない。
今の庶民より日本の歴史は良く知ってたよ。
741日本@名無史さん:04/06/25 22:37
江戸幕府は大名が参勤交代で京都を通ることを禁じている。また、
江戸期を通じて何度も将軍家を訪れた朝鮮通信使のルートも、幕
府は天皇と謁見させないようにさせている。天皇が取るに足りな
い存在であれば、このようなことをわざわざするのは極めて不自
然。どう考えても、諸大名や外国使節が朝廷と結ぶのを怖れたか
らとしか見えない。
742日本史@名無しさん:04/06/25 23:11
なんか必死すぎて可哀想になるな。これでも研究者の端くれだけど、いつ
このスレの一部研究者もどきの言ってるような意見が主流になったのか、
十年ぐらいは問いつめたい気分だよ。
もっと他に大事な研究分野はあるというのに・・・・・。
743日本@名無史さん:04/06/25 23:14
>>742
研究者の端くれならば、それらしいことを書くべきですよ。
744日本@名無史さん:04/06/25 23:24
>>742
 二〇年前といまとでは、近世という時代のイメージは大きく変わっ
た。一〇年前とくらべても、違いは大きい。(中略)
 たとえば、戦後しばらくのあいだは、現実世界で克服すべきとみな
された封建的なるものの解明が歴史学の課題となっていた。六〇年
安保や七〇年安保の時代には、階級闘争論が花盛りになった。そう
した政治の季節をすぎると、階級闘争論は民衆運動論になり、「へそ
の緒」とされていた近世の天皇も将軍体制に不可欠な装置とみなされ
るようになった。いまでは、幕藩制国家ではなく、朝幕制国家ではない
か、とする意見まであらわれるようになっている。
(平川新「転換する近世史のパラダイム−「静かな変革」論へ−」(『九州史学』123、1999年7月))
745日本@名無史さん:04/06/26 08:26
「朝幕制国家」だろうと「幕藩制国家」だろうと、
江戸時代の政治体制の中で、幕府が主で朝廷が従だったことはまちがいないだろ。
746日本@名無史さん:04/06/26 09:39
>このスレの一部研究者もどきの言ってるような意見
これはいったい何を指すのかな?
>>755を読むと
どうも基本的に議論の流れを読めていないように思うのだが。
747日本@名無史さん:04/06/26 12:09
>>744
非常に政治的な学問ですね。
科学とは言えませんな。
748日本史@名無しさん:04/06/26 12:17
未だに水戸光圀とか本居宣長を補完することに一生を捧げるのもそれはそれで偉いとはおもうけどなw

やっぱり政治学だよな、所詮。初めにイデオロギーありきだし。
749日本@名無史さん:04/06/26 12:34
だから歴史学者は社会科学者から馬鹿にされるんだよな。
750日本@名無史さん:04/06/26 14:00
>>727
>>735
研究者さん。奥羽人民告諭や長崎のお触れの原文クグッテYO!
ちゃんと、天子様というのは天照の御子孫で・・・って感じのテクストだから。

太陽暦はM6年だよw。知らしめらされたずっとあと(爆藁

私は専門外ですが現役修士課程です。ちなみに旧帝大ですが。
751日本@名無史さん:04/06/26 14:55
>>750
天皇の存在が庶民に知られていたかどうかと
天皇が日本全体の支配者であると庶民が認識していたかどうかは
別の問題だろう。

天皇の存在自体はある程度は民衆にも知られていたが
天皇を日本全体の支配者と民衆(いわゆる草莽層)が認識し始めるのは幕末。
752日本@名無史さん:04/06/26 15:26
>>750
幕藩政治が王政に代わった事を告諭するのに、天皇が天孫である事から説き
始めるのは何等不自然ではない。日本の正統な支配者は天皇である事を認識
させるためなのだから。天皇が天孫である事から告諭したことを以て、民衆
は天皇を知らなかったからとすると、京都府下人民告諭がなぜなされたのか
が説明できなくなる。京都府下だけではない。全国の県に告諭されたのだか
ら、京都周辺の県にもなされているわけだ。
753日本@名無史さん:04/06/26 21:43
>天皇の存在自体はある程度は民衆にも知られていたが
「ある程度は」とは、、まさにそのとおり。
754日本@名無史さん:04/06/26 21:47
知らない人がいるという前提で書かれた文章です。
京都に出されてるとの件は、立論の要件を満たしませんねw。

奥羽人民告諭
天子様ハ、天照皇大神宮様ノ御子孫ニテ、此世ノ始ヨリ日本ノ主ニマシ
マシ、神様ノ御位正一位ナド国々ニアルモ、ミナ天子様ヨリ御ユルシ被
遊候ワケニテ、誠ニ神サマヨリ尊ク、一尺ノ地一人ノ民モ、ミナ天子様
ノモノニテ、日本国中ノフボニマシマセバ…

長崎御諭書
此日本ト言フ御国ハ、天照皇大神宮サマカラ御継ギ遊バサレタ所天子サマ
ト云ガゴッザサッテ是ガムカシカラチットモ変ワッタ事ノ無イ此日本国ノ
御主人サマヂジャ(中略)天子サマト云モノハ色々御難渋遊バサレナガラ
今日マデ御血統ガ絶ズドコマデモ偉ヒナキ事ジャナイカ…



755日本@名無史さん:04/06/26 22:13
>>754
天皇が日本全体の支配者であるということを知らしめる文章であって
天皇の存在を知らないということを前提にしているとは思えないが。
この文章のどの部分から
「知らない人がいるという前提で書かれた」と言えるのか。
もう少しきちんと説明して欲しい。
756日本@名無史さん:04/06/26 22:17
寛政三奇人というのがいたでしょう
あれは当時の有名人だよね
林子平はさておき
高山彦九郎と蒲生君平は強烈な尊皇論者だ
有名人が何で有名なのかを考えてみれ
それでも人々は天皇を知らなかった?
757日本@名無史さん:04/06/26 22:23
民衆がどうであったかを論じているのでねえ。
>>756は少しピンぼけかと。
758日本@名無史さん:04/06/26 22:30
三條大橋での禁裏遥拝って、
高山彦九郎だっけ?
759日本@名無史さん:04/06/26 23:14
>>754
単にこれまで領主、藩主しか意識してこなかった人民を、
天皇の元に日本国民としてまとめるという維新政府の
方針のまんまじゃん。これのどこがこれまで人民は天子様を
知らなかったということになるの?
そんな読解しかできないのなら修士課程なんて行くなよ。
就職ないから。
760日本@名無史さん:04/06/26 23:27
旧帝大で「修士課程」ということは
端っこ2つか横綱ですな。
横綱の読解力とは思えないから
>>754は端っこかな。
761日本@名無史さん:04/06/27 09:46
天皇の存在は知られていた。
でも日本の支配者・国家元首としては意識されていなかった。
これで結論出てるだろ。いつまでグダグダ言ってんだおまえらw
762日本@名無史さん:04/06/27 10:00
>>761
国家元首という近代の概念を江戸時代に当てはめるような詐術はやめ
るべきだ。天皇でも将軍でもかまわないが、誰かを国家元首として認
識するためには、日本全体を一国家として把握し、その成員が国民と
して意識されねばならない。江戸時代の一般民衆に、自分がどこそこ
の領民である以前に日本国民であるという意識などない。
763日本史@名無しさん:04/06/27 11:58
>>762

その通りなんだが。どうしても天皇が国王だとしたい捏造厨がいるらしいw
764日本@名無史さん:04/06/27 13:18
>>763
それは将軍が国王だとしたいアホと同じ。
765日本@名無史さん:04/06/27 14:56
告諭を始めて見たようだが、冷静に落ち着いて読めば、
知らなかった人「も」前提としているとわかる。
全国巡幸の意味でも考えると、興味深い。

〜君は、横レスが来ると急にくずれるなw。
孝明が毒殺かどうかの医学者の討論はどうなったの?暇だったら教えて。
766日本@名無史さん:04/06/27 14:59
おい!自演野郎のディスティ!
お前こんなところにも出没してやがるのか?

トリップつけたまま自演やっちゃったディスティについてはこちら
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1084186997/l50


905 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 14:57
生物を知らないのはあなたでしょう(笑)
あなたが詳しいというならナチズムとダーウィニズムの関係について語って欲しいな。
わたしより詳しいとはおもえないが。
言っておきますがわたしは生物の教師。本職です。
プロを相手にしてよく言える(苦笑)
近現代ドイツにかんしてはおそらくわたしが一番くわしいですよ。
でないとコテハンなんかにはなりません。
2ちゃんねるに書き込むのは初心者ですが、馬鹿が多いという噂は本当ですね(苦笑)


906 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 15:01
おれはディスティ・ノヴァにも一理あると思うな。
今騙りがはやっている。
彼もその被害者なんだろう。
本当に彼が書き込んだレスだけ見ればそんなやつとは思えない。
お前こそずっと彼に粘着していた張本人ではないのか?
ノヴァ、アホは無視してほどほどにがんばれや。
767日本@名無史さん:04/06/27 15:44
天皇様、こんなスレが立っております。
£*部落問題を解決するには天皇制の廃止を★B*
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1064519340/

男系子孫と皇室女性を結婚させてこいつらを追い払いましょう。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1060832767/
768日本@名無史さん:04/06/27 21:15
>諸大名や外国使節が朝廷と結ぶのを怖れたからとしか見えない。
禁止された結果、ある意味、取るにたらない存在となったということだ。

>朝幕制国家ではないか、とする意見まであらわれるようになっている。
形式システム論だね。それはそれでいい。
ただし、今の論点は、政策実態・民衆実態論。
区別してね。
769日本@名無史さん:04/06/27 21:36
まあ、結局は幕府が最も怖れた形で皇権が復活し、幕府は倒されたわけだが。
何のかんの言っても幕府は負け犬なんだよ。
770日本@名無史さん:04/06/27 21:47
>>769
その復活した皇権も、いまは象徴天皇制。
明治政府も結局は負け犬ということかな。
771日本@名無史さん:04/06/27 21:50
人間宣言で死んだ千数百年続いた神権天皇制。
みじめ・・・。
772日本@名無史さん:04/06/27 21:59
後陽成天皇:秀吉とは親密で家康とは不仲だった。
後水尾天皇:徳川秀忠の娘和子の強引な入内のみならず、和子の産んだ子
      以外が皇統を継ぐのを怖れた幕府によって、他の皇子女が殺
      されたり、天皇が妊娠させた他の女性が流産させられた。こ
      れに怒った天皇は、和子が産んだ興子に報復的な譲位を行っ
      た。幕府に無断で電撃的に行われたこの譲位に対し、幕府は
      何も手が出せなかった。
773日本@名無史さん:04/06/27 22:02
まあ、天皇制は今も健在なんだが、幕府はとっくの昔に滅んだわけで。
774日本@名無史さん:04/06/27 22:05
>>773
歴史に「勝ち犬」とか「負け犬」とか
そういう観点を持ち込むのが、何だかなあと思ったわけで。
775日本@名無史さん:04/06/27 22:12
>後水尾天皇
>徳川秀忠の娘和子の強引な入内のみならず、和子の産んだ子
>以外が皇統を継ぐのを怖れた幕府によって、他の皇子女が殺
>されたり、天皇が妊娠させた他の女性が流産させられた。
天皇と朝廷が実に無力な存在だったことがよくわかる事実だね。

>これに怒った天皇は、和子が産んだ興子に報復的な譲位を行っ
>た。幕府に無断で電撃的に行われたこの譲位に対し、幕府は
>何も手が出せなかった。
何度かの譲位希望を幕府に止められて、数度目。
もう、存在意義がなくなったので、好きにさせられた。
譲位って、止めてもらうから意味があって、止めてもらえないとただのバカ、
何の意味も効果もない。

しかし、この天皇は、紫衣事件で綸旨は撤回させられ面目丸潰され、
無位無官の家光の乳母には面会させられるわ、かわいそうなくらい惨めだね。
でも、院政が長いからいいか。
院政の方針は、幕府への恭順で、院政中は天皇に、恭順姿勢の大切さを
説いている。好々爺って感じw?
776日本@名無史さん:04/06/27 22:15
明正天皇:徳川和子は女子しか産まなかったので、日本の女帝の伝統に
     従い、ただの中継ぎでしかなかった。実権は院政を行ってい
     た後水尾上皇が握っていた。7歳で即位した明正天皇は73歳
     まで生きたが20歳で譲位。徳川の血が入った天皇は彼女一代
     で終った。
後光明天皇:中継ぎ天皇明正の後10歳で即位。実権は後水尾上皇にあった
     ので、学問にいそしんだ。幕府はこれを喜んだが、天皇は18歳
     で朱子学者藤原惺窩の著書に見事な序文を書いた。幕府は、朱
     子学が国学とともに大政委任論を生む土台となって行くことに
     気づかなかった。
777日本@名無史さん:04/06/27 22:21
>>775
幕府は殺したり流産させたりという野蛮なやり方をしなけらばならない
ほど怖れていただけなんだよ。突然譲位された幕府は面目丸つぶれで
惨めなことこの上ないんだよ。
778日本@名無史さん:04/06/27 22:23
>もう、存在意義がなくなったので、好きにさせられた。
だったら、なぜ武家伝奏の中院通村は
伝奏を辞めさせられたり、寛永寺に幽閉されたりしたのか。
779日本史@名無しさん:04/06/27 22:27
歴史の残りカスという意味ではどっちも同じなわけだが。かたや
ただの象徴、かたや宮内庁・・・。
780日本@名無史さん:04/06/27 22:32
まあ、結局幕府は天皇を殺すこともできなかったわけで、朝廷に依存し
て生きていたわけだ。全国の大名には尊皇の気風が強い藩もあったわけ
だし、それどころか身内である御三家水戸家自体が光圀以来尊皇の気風
が濃いところだったんだからお笑いだね。井伊直弼暗殺も水戸列公斉昭
が黒幕だったし、その息子の徳川慶喜が大政奉還して幕府はあぼ〜ん。
781日本@名無史さん:04/06/27 22:36
不利になったら戦後へと話をそらそうとする惨めな奴らは負け犬。
782日本@名無史さん:04/06/27 22:56
幕府は天皇を江戸に来させることもできかったんだよね。
783日本@名無史さん:04/06/27 23:01
天皇が江戸に行った時は、東軍敗北。
784日本@名無史さん:04/06/28 03:06
本気で天皇を殺そうとしたのは、禁門の変の時の長州ぐらいじゃないか
785日本@名無史さん:04/06/28 09:22
だから尊皇攘夷も大政委任も幕府が持ち出した持論なんだってば。
わかってくれよ。新井白石あたりで、すでにその功利性と危険性までも書いてるよ。
だから水戸藩は尊王で、かつ、将軍絶対支持だよ。
桜田門で、なぜ将軍を狙わずに井伊を狙った?君側の奸ということ。わかるよね?

武家伝送は公家ですよ。監督・連絡不行き届きという落としどころ。
最高責任者の関白や所司代はどうなったんでしょうか?調べてね。キボンヌ。
786日本@名無史さん:04/06/28 16:06
平岩弓枝さんの小説「御宿かわせみ」の時代は誰が天皇だったのですか?
787日本@名無史さん:04/06/28 17:03
まあ、遡れば朝廷と幕府は相容れない仲の歴史だったわけだしね。
788日本@名無史さん:04/06/28 17:40
江戸時代の朝廷は幕府の飼い犬。
789日本@名無史さん:04/06/28 20:16
788のような無知蒙昧低能愚鈍白痴がいるから駄目なんだね。
790日本@名無史さん:04/06/28 20:48
何が駄目なんだ?
791日本@名無史さん:04/06/28 20:51
>>790
平安京というのは「平安」の願いをこめて建設された「京=京都」とい
う意味だからだよ。
792日本@名無史さん:04/06/28 21:00
平安楽土
信長は京の移転計画でも考えていたのか
793日本@名無史さん:04/06/28 21:04
江戸時代の朝廷は幕府の飼い犬。
794日本@名無史さん:04/06/28 21:06
飼い犬が
突然気変わり
飼い主変更
東は嫌いだ
西がいい
795日本@名無史さん:04/06/28 21:08
>飼い犬
ある意味ではそのとおり。食い扶持は幕府しだいだったからね。
孝明という飼い犬に手をかまれ、その後・・・。
796日本@名無史さん:04/06/28 23:48
徳川の歴代将軍は、犬から征夷大将軍にしてもらったというわけか。

徳川秀忠は、自分の娘を犬に嫁入りさせ、娘が犬の子を産んだらそれがメス犬で、
そのメス犬が犬の位を継いだので大喜びしたというわけか。

そして、そのメス犬の伯父である家光以降の将軍は犬や犬の臣下の何番目かの娘
を正室にして、家継と家茂の時は犬の娘を正室にして犬と合体しようとしたわけか。

さらに、家綱の死後には犬の子を次の将軍にしようと考え、結果は犬の子でない
綱吉がなったものの、その綱吉の生母は犬の都の八百屋の娘だったというわけか。

そして遂に慶喜は犬に政権を返上したわけか。

犬以下の徳川歴代将軍であったww
797日本@名無史さん:04/06/29 04:08
江戸時代の将軍と天皇の関係は
マムルーク朝のスルタンとアッバース朝のカリフの関係に似てるな
モンゴルに攻められて逃げてきたカリフを迎え入れたスルタンは
なにしろイスラム教の教主様だから丁重に扱った
カイロ城の最上階に住まわせて崇め奉ったが
カリフが城の外に出られるのは年に1度くらいだったとか
798日本@名無史さん:04/06/29 04:16
徳川慶喜公の参内    勝海舟
参内の翌日に慶喜公はわざわざ俺の所へ、こられて天皇陛下に拝謁の際には
非常に御鄭重な御待遇に預かり、また皇后陛下に拝謁のときにも、陛下から
いろいろな御談があって、その上見事な銀の花瓶一対と、紅白の縮緬と、
金の御紋章を付した銀杯と、そのほかにも種々な品を下された事を申されたから
俺も生きている甲斐があったと思って、覚えず嬉し涙がこぼれた。
その時俺は公に「今後はどこまでも品位をお保ちになって昔の小大名などとは
あまりご交際なさるな、それは費用もいるし、また自ら品位を墜とすもとである。
・・・
799日本史@名無しさん:04/06/29 08:10
家康は屁ともおもって無かったそうだがなw

信長謀殺は皇室が黒幕説があるが、確かに信長なら天皇や公家も滅ぼしただろう。
実際上京したのもそれがらみの話らしいし。叙勲を拒否する、暦の改廃、年号の改廃
など、天皇の最後の政治的権能にも文句をつけて、実権の剥奪を行うのは、明らかに
天皇権力の否定である。京都派のうるさい光秀も追い払ったし。

そこで秀吉は軌道修正して公家に頭を下げまくった。天下取りのために必要でもあった
が。家康も路線的には踏襲したが、ただし首都は京都から離れたし、適度に距離を置い
て締め付けた。諸大名よりは多少丁寧だが、やはり難癖つけていることは同じ。
800日本@名無史さん:04/06/29 09:08
>>796
ある意味そのとおりだなぁw。飼い犬もしくは飼い殺しかね。

>>797
世界史も面白いね。

>>798
それは、明治中期以降の話だったかな?
慶喜は上京を拒否し続けていたんだけど、老齢になってやっと面会したね。
拒否していた慶喜が折れたんで、「慶喜の2度目の敗北」っていわれてるやつだね。
801日本@名無史さん:04/06/29 13:49
1900年頃かな・・・
802日本@名無史さん:04/06/29 20:36
>>799
>ただし首都は京都から離れたし

江戸が首都??馬鹿ですか、あんた。
803日本@名無史さん:04/06/29 21:07
1863年から、東京遷都・奠都までが京都の短い首都だね。
最高政策決定地域だったからね。
慶喜なんて京都にいっぱなしだったし。

ただ、それ以前は、政策決定都市の本来的意味として江戸が首都。
江戸後期に「京都は花の田舎」なんていう旅行記本もあったような・・・。
本の正式名知ってたらキボンヌ!
地図には、京都に中心線がひいてあるのもあったね。
あれは、学問の世界は尊王思想なんだろうねぇ。
804日本@名無史さん:04/06/29 21:14
【しゅと】
●その国の中央政府のある都市。(広辞苑)
●一国の中央政府のある都市、首府。(大辞林)
●その国の中央政府が置かれている都市(講談社日本語大辞典)
●一国の統治機関が置かれている都市(平凡社大百科事典)

>>802
バカはおまえ。
805日本@名無史さん:04/06/29 21:20
>>804
気持ちはわかるが・・・・・やっぱり無理があるな。
気持ちはよくわかるんだよ。
806日本@名無史さん:04/06/29 21:35
江戸時代の日本の首都は江戸だろ。
807日本史@名無しさん:04/06/29 22:42
つうか逆に当時の京都に政治的決定機構としてどんなものがあったのかを
書いてくれたら納得するよ。さあ、書いてくれよ。


話はそれからだ。
808日本@名無史さん:04/06/29 23:19
兵庫開港に際して勅許を得るような手続きにしてしまった以上、頂点は京ということになっちまうな。
実体としての首都は、開府以来ずーと江戸にあるとはおもうけどね。
809日本@名無史さん:04/06/30 08:45
幕末のみだけど、幕府は最高意思決定を京都でしてたよね。
8・18クーデターや大政奉還もみんな京都で決めていた。
大名屋敷は引き上げて、江戸は一時大いに寂れた。
遷都・奠都のいい建白を出したのは前島だっけ?
ただし、江戸時代のほとんどは首都は江戸だなあ。
810日本史@名無しさん:04/06/30 22:18
>>808>>809さん、丁寧なご教授ありがとうございます。やはり対外的な
問題が生じた幕末には、結局積み残し課題であった国王はどちらかとい
う問題が噴出してしまった格好ですね。まあ、中期頃の幕府が強力だっ
た頃だったら、それも問題なかったのでしょうが。

つうことで、是非>>802にも語って欲しいな。話はそれからだ。
811日本@名無史さん:04/06/30 22:46
外交問題が内政問題になてしまったって事かね。
812日本@名無史さん:04/06/30 23:19
江戸幕府の存在は、
朝廷の存在を隠すための鎖国と、
武家の存在意義を保つための建前としての戦国体制の維持と
の2つに支えられていたな。
813日本@名無史さん:04/06/30 23:23
>江戸時代の日本の首都は江戸だろ。

江戸にあったのは幕府。
幕府の長は将軍
将軍は天皇の臣下
天皇の住まう御所は京都にあった。
814日本@名無史さん:04/07/01 03:51
>>810
詳しい人がいると思うけど、国王という表現だと誤解をまねくね。
中国の皇帝に対する国王ということにでもなると・・・・もめるんだよね。
あと、詳しい人教えて。
815日本@名無史さん:04/07/01 12:07
統治機関があるところが首都。
だから、家康から家茂までは江戸が首都。秀吉の後半は大阪。
家茂から天皇東幸wまでが京都が首都。
その後は東京が首都。
816日本@名無史さん:04/07/01 19:34
>>815
東京も歴史を捏造するまでに落ちぶれたんだねえ。
817日本@名無史さん:04/07/01 20:05
首都論は別スレの話題かと。
818日本@名無史さん:04/07/01 20:19
江戸時代の天皇は日本の君主ではない。これが結論。
常識以前の問題だろ。
819日本@名無史さん:04/07/01 20:49
>>818
東京も歴史を捏造するまでに落ちぶれたんだねえ。
820日本@名無史さん:04/07/01 20:59
>>819
歴史を直視できない人は哀れだねえ。
821日本@名無史さん:04/07/01 21:15
>>820
将軍が君主?北朝鮮じゃあるまいしww
将軍が君主なら、なんで将軍は天皇から任命されたんだ?
822日本@名無史さん:04/07/01 21:20
>>821
天皇が武家の征夷大将軍任命要求を拒否できたとでも?
天皇にそんな力はない。
823日本@名無史さん:04/07/01 21:20
江戸時代の首都がずっと京都だったって言ってる学者は?
(´・ω・`)キボンヌ
824日本@名無史さん:04/07/01 21:23
>>823
江戸時代に首都と言う概念はない。
825日本@名無史さん:04/07/01 21:25
>>822
江戸時代の天皇は権力ではなく権威だということを知らないのか?
そして、日本では権力は権威に依存しないと成立しないということも
知らないのか?
826日本@名無史さん:04/07/01 21:28
>>825
おまえの脳内妄想なんか誰も知るわけないだろw
827日本@名無史さん:04/07/01 21:30
>>826
権威と権力の区別すらつかない低能の餓鬼かw
828日本@名無史さん:04/07/02 07:38
江戸時代の天皇には権力も権威もないよ。知らないの?
829日本@名無史さん:04/07/02 08:32
秀忠の娘が後水尾の夫人になってなかった。
修学院離宮と寛永文化知ってるの。
830日本@名無史さん:04/07/02 12:06
>だから、家康から家茂までは江戸が首都。
>家茂から天皇東幸wまでが京都が首都。
>その後は東京が首都。
この説が多いんじゃないの?
佐々木だっけ?「江戸が東京になった日」とか多数。
831日本@名無史さん:04/07/02 12:35
おい!自演野郎のディスティ!
お前こんなところにも出没してやがるのか?

トリップつけたまま自演やっちゃったディスティについてはこちら
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1084186997/l50


905 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 14:57
生物を知らないのはあなたでしょう(笑)
あなたが詳しいというならナチズムとダーウィニズムの関係について語って欲しいな。
わたしより詳しいとはおもえないが。
言っておきますがわたしは生物の教師。本職です。
プロを相手にしてよく言える(苦笑)
近現代ドイツにかんしてはおそらくわたしが一番くわしいですよ。
でないとコテハンなんかにはなりません。
2ちゃんねるに書き込むのは初心者ですが、馬鹿が多いという噂は本当ですね(苦笑)


906 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 15:01
おれはディスティ・ノヴァにも一理あると思うな。
今騙りがはやっている。
彼もその被害者なんだろう。
本当に彼が書き込んだレスだけ見ればそんなやつとは思えない。
お前こそずっと彼に粘着していた張本人ではないのか?
ノヴァ、アホは無視してほどほどにがんばれや。
832日本@名無史さん:04/07/02 13:13
堅苦しく考えると現在も都は京で、ただいま動座中なんて考えもあるらしいね。
そもそも「東京」とは、どういうふうに理解すべきなんだ。
「東京都」と名乗る根拠はなんなんだ。
833日本@名無史さん:04/07/02 13:18
立法府のあるところが首都なんですよ。
834日本@名無史さん:04/07/02 13:18
「東の京都」に決まってんだろうが
835日本@名無史さん:04/07/02 14:38
東京が首都だから「東京都」だろ。
京都は大阪と同格の「京都府」でしかない。
836日本@名無史さん:04/07/02 14:50
東京は東の京
837日本@名無史さん:04/07/02 21:18
>>835
>東京が首都だから「東京都」だろ。

すると、東京が首都になったのは1943年ということになるがそれでいいんだな。
838日本@名無史さん:04/07/02 21:25
>>830
佐々木氏の本は、まあまあ詳しいね。
幕末に京都が首都になっていく過程がよくわかる。
江戸が東京になったんじゃなくて、
江戸にも京が移されて、東の京というわけなんだよね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062582023/qid%3D1088770713/249-0049055-6657173
839日本史@名無しさん:04/07/03 22:47
明治天皇が出ていくときに、「いつかは帰るから待っててくれ」って京都人に言って東京に
いったそうな。

それはともかく、首都とは政治・経済・外交の中枢である。その定義からすれば、江戸なの
は明らか。対外的にも、鎖国という大号令を発して各藩の対外的交渉を禁じたのも幕府。
中国が鎖国していたので周辺諸国も比較的平穏だったわけで、日本も外交上の問題は、
西洋問題を除き少なかった。また、正式な外交をもっていた朝鮮とは、朝鮮通信使が国王
の使いとして来日した。もちろん将軍の就任祝賀である。

もし天皇が国王であり、日本の首都だったなら、通信使は江戸まで行く必要もなかった訳だ。

江戸幕府の権力は、隠蔽されており、表向きは各封建領主の連合の長であり、いわば卑弥
呼みたいなものであった。しかし、だからといって各藩と将軍の身分が同じなどと思っていた
者は皆無である。宮家も例外ではなかった。ただ、表だって押さえつけると信長や秀吉のよう
になることを恐れただけのことである。幕末の天領の石高を見れば、明らかであろう。(ついで
だが、天とは当時は将軍であり、幕府である。同時代人にとっては最高権力者以外には天は
あり得ない。宗教的権威が世俗的権威を超越してその上に存在する時代は遙か昔に終わっ
ているのである。)
840日本@名無史さん:04/07/03 23:51
>もし天皇が国王であり、日本の首都だったなら、通信使は江戸まで行く必要もなかった訳だ。
天皇が日本の首都というのは妙な表現だが、それはさておき
元和3年の通信使来朝の時には、将軍は伏見まで出向いている。
この意味は何なのだ?
841日本@名無史さん:04/07/04 10:52
自作自演キターーーーー(^^)ーーーーーーーーーーー

通信使が日光東照宮まで生かされている意味を理解できるのかな?
伊勢に言ってるとか嘘を言い出すなよ(爆笑!
842日本@名無史さん:04/07/04 11:07
>明治天皇が出ていくときに、「いつかは帰るから待っててくれ」って京都人に言って東京に
>いったそうな。
言ってない。

大久保らの目的は、どうにもならないほどの前例主義女性的朝廷から天皇を
救い出し、心身を鍛えなおすこと。当時の京都じゃ絶対に不可能だった。
化粧を落とさせ、自分の足で歩かせ、馬に乗らせ、世界情勢を叩き込み、
男性性を出させようとした。
843日本@名無史さん:04/07/04 11:17
俺は天子様派だが
江戸時代の天子様に政治的な力は
ほとんどなかったと思うぞ。
人々からの尊崇はあったけどね。
844日本@名無史さん:04/07/04 11:41
>>843
江戸時代を通じて尊崇の対象だったのは、徳川家歴代将軍さまのほうだろ。
天ちゃんのことは知っていても、幕末になるまでは存在意義がなかったわけだから。
845日本@名無史さん:04/07/04 13:00
江戸時代はいわば国内に皇帝が2人いるような時代だった。
象徴としての公家皇帝 =天皇
実権者としての武士皇帝=将軍
846840:04/07/04 13:11
>>841
将軍就任のお祝いに来るんだから
東照宮に行ったって別に何の不思議もないと思っているよ。
ただ最初の頃は
どうして江戸まで呼びつけないで
将軍が京都に出向いたのかと
まあ、それが少し気になるだけでね。
847日本@名無史さん:04/07/04 14:31
天皇も日光に例幣使を出していたな。
日光に行かせる代わりに、伊勢にも行かせることを
幕府に懇願して許可をもらった・・・。
力の差が凄かったんだなぁ・・・。
848日本@名無史さん:04/07/04 14:38
>>839
>明治天皇が出ていくときに、「いつかは帰るから待っててくれ」って京都人に言って東京に
>いったそうな。
言ってない。
どの史料?キボンヌ?
849日本@名無史さん:04/07/04 16:55
江戸幕府の上洛将軍は家康・秀忠・家光・家茂・慶喜か。十五代のうち
三分の一が上洛将軍か。
下向天皇は明治天皇だけ。しかもこの下向は江戸幕府を滅ぼすため。
850日本@名無史さん:04/07/04 17:11
>>849
4代家綱が幼少だから、京都まで行けません
って言って、江戸で将軍宣下を受けさせて、以後慣例化。
9代家重のときに大御所吉宗が上洛計画を立てるが、ぽしゃる。
851日本史@名無しさん:04/07/04 21:41
京都に帰ってくるって漏れも聞いたことあるな。ソースっていわれても、漏れの
おばあちゃんだけど。
非公式に言ったとかじゃねえ?他にも言ってた人いるし。とりあえず、京都の人
は、東京は仮住まいって信じてるみたい。
852日本@名無史さん:04/07/04 22:48
信ずる者は救われる・・・・かな。
天皇家なら今すぐにでも返却したいんだが、当人が田舎はいやだと言うんでね。
853落武者:04/07/04 22:54
信ずる者は足元をすくわれるのだ。
854日本@名無史さん:04/07/05 00:25
>>850
吉宗時代は朝幕関係が良好だったね。吉宗自身、尊皇の気風が強い将軍だった。
吉宗は武家諸法度を綱吉が改訂したものを用いるなど、幕政改革を行った。綱吉
も尊皇将軍として有名。
855日本@名無史さん:04/07/05 16:51
>帰ってくる
周囲がデマったのは、誰でも知ってる。
18歳の明治天皇が誰にそういったか史料があったら教えてくださいまし。
なければ、本人は言ってないということで却下。
856日本@名無史さん:04/07/05 16:56
天皇が江戸に来られるわけはない

父の病気見舞いに御所を出て、仙洞御所へ行くのさえ不許可。
ここまでいくと、人間として疑問を持つほど惨めだ。

つまり、幕府の許可が出なくて御所を出られなかったの。わかるかな?
申し出ること自体関白に押さえつけられて、不可w。
火事で焼け出された天皇が帰ったときだけが行幸。
次は孝明までなーし。オール不許可。
857日本@名無史さん:04/07/05 17:05
>尊王将軍
綱吉も吉宗も、幕府の政策として尊王の「ふり」をはじめた。
実は家光あたりから。いわゆる文治政策の一つだね。
幕府文治政策の一つの柱としての尊皇攘夷。
朝廷は絶対に逆らわないから便利なんだよね。

幕府→所司代→武家伝送→関白。これで朝議は思いのままだったからね。
関白がいなくなるようにこっそり祈願してた天皇もいたなw。

天皇の正式な使者が来ても、下座しなかったのは幕府の伝統。
所司代でさえも下座しなかったかもよ。
江戸で天皇の正式な使者に下座したのは家茂からかな。
858日本@名無史さん:04/07/05 18:32
まあ、将軍は天皇を江戸に呼びつけることなど不可能だったわけで。
859日本@名無史さん:04/07/05 18:54
>>844
わかってないね。
将軍家はたしかに畏敬されていたかも
知れないが、それはあくまで権力者に対するもので
ようはびびってたってこと。
その点、江戸時代の天皇は力がない分ほんとに庶民レベルからの崇敬があったと言える。
860日本@名無史さん:04/07/05 19:03
>857
幕府はたしかに自分が最高の権力者であると
ふるまってましたね。(実際そうでしたが)
時代劇ですが将軍が輪王寺宮と対面する時も上座に座ったままでした。

しかし、このような形的には主筋にあたる天皇家に対する
無礼な態度は当時の支配秩序たる儒教精神に反するもので、
まさに徳川幕府はこの一点から自滅していったのでした。
861日本@名無史さん:04/07/05 19:30
実際のところ、自分を天皇以上とか同等とか思っていた将軍はいないし、
将軍がそうだと思っていた幕僚もいない。
862日本@名無史さん:04/07/05 20:18
>>860
>時代劇ですが将軍が輪王寺宮と対面する時も上座に座ったままでした
TBSの年末ドラマ「忠臣蔵」では公弁法親王が綱吉の上座、大河「元禄繚乱」
では二人が対等の席だったという記憶があるんだけど、実際にはどうだったんだ
ろうね。
863日本@名無史さん:04/07/05 20:49
>>862
いやーよく見てますね。脱帽です。
私も忠臣蔵で見たのですが、
どの局のなんてやつかあまり覚えてないんですよ。

ただ宮様の方が新年のあいさつかなんかで
江戸城に出向いてた記憶があるような。
ただ話の流れもありますが、宮様のほうが重みがありました。
864日本@名無史さん:04/07/05 21:51
江戸幕府は天皇の権威が怖いから外様大名と天皇が結びつかないように
天皇を御所に閉じ込めたと思うが。
将軍は確かに権力はあるが天皇の権威には及ばないと思う。
865日本@名無史さん:04/07/05 22:10
>>862-863
公家諸法度で、「三公の下親王」ですから、
右大臣の将軍の方が上座でしょ、
866日本@名無史さん:04/07/05 22:26
権力は常に権威の下にある。権威に依存しなくては権力は存続できない。
このようなことは、徳川将軍家も幕府もよくわかっていた。
867日本@名無史さん:04/07/05 22:28
今幕府といってもいい内閣は、天皇制を廃止しようなどとは微塵も考えて
いない。たとえ共産党が政権を取ったとて同じこと。
868日本@名無史さん:04/07/05 23:33
えらい順
太政大臣>左大臣>右大臣(将軍)
869日本史@名無しさん:04/07/06 00:01
>権力は常に権威の下にある。権威に依存しなくては権力は存続できない。
  このようなことは、徳川将軍家も幕府もよくわかっていた

だから家康が人気ねえんだよw

あれだけ権力もってて、どこまでもせこい。
自分からは信長や秀吉みたいな理念の創造はしなかったし出来なかった。

まあ確かに250年はもったけど、それだけ。あとに残ったのは抽象的で役に立たない武士道、
そのくせ弱弱の軍団、無能な外交政策。家康と三河軍団がアフォだからこそあれだけいろいろな
ところの顔を立てながら、一方で上は譜代・親藩・外様・宮家から下は賤民に至るまで、過酷な
身分制度が必要だったわけである。それでも結局薩摩長州に仕返しされたというから情けない
よな。
870日本@名無史さん:04/07/06 00:49
>過酷な身分制度が必要だったわけである。
兵農分離をやるのは秀吉だから
近世身分制度の基本は秀吉の時に作られている。
これこそがキミの言う秀吉の「理念の創造」だと思うが。
871日本@名無史さん:04/07/06 01:41
>>869
身分制度はたしかにあったけど、過酷ってなんだ?
872日本@名無史さん:04/07/06 12:17
>>859
>その点、江戸時代の天皇は力がない分ほんとに庶民レベルからの崇敬があったと言える。
庶民レベル??新説ですね!
激しくソースキボンヌ!!

>>864
>江戸幕府は天皇の権威が怖いから外様大名と天皇が結びつかないように
>天皇を御所に閉じ込めたと思うが。
>将軍は確かに権力はあるが天皇の権威には及ばないと思う。

でもって、父親の病気見舞いにも行かせてもらえず、紫衣の勅許は取り消されるし、
尊号一件も潰されるし、権威のあったはずの天皇の願いどころか、
紫衣では出した勅まで事後に取り消されるという超不名誉ぶり・・・。
どこに権威がと小一時間(以下略
ああ、幕府が作ってあげた演技としての偽の権威はあったけどね(爆。
873日本@名無史さん:04/07/06 14:35
>>872
将軍の外孫である高仁親王が亡くなったときに
幕府は葬儀の挙行を所司代板倉重宗に指示したが
その時点ですでに朝廷側は葬送を済ませてしまっており
結局幕府の望む葬儀はできなかったという事実があるが。
874日本@名無史さん:04/07/06 17:04
>>873
必死に先例にもならぬ細かい突込みを探しているのは自由だが、
>>872に比べ、天と地とほども違いがあることは、常識程度の力で
十分お分かりと存ずる。

鎌倉時代から、天皇の後継ぎを幕府に確認するために、
帝位さえ秘密の空白にしてしまった日々が流れたことは、あまりにも有名。
江戸時代にも、帝位の空白があったような気もしたが・・・w?
875日本@名無史さん:04/07/06 19:19
将軍の外孫だからねえ
幕府は盛大にやりたかった筈なんだが
それが幕府の自由にはならなかった。
朝廷は自らの意志を貫き通したわけで
幕府の許可がなければ何もできなかったのではないという証明としてはこれで十分だろう。

876日本@名無史さん:04/07/06 20:56
>>874
桃園院が死んだときと後桃園院が死んだときだね。
朝廷は皇位継承者を誰にするかという朝廷の存在意義のかかった問題について自己決定権を持たなかった。
877日本@名無史さん:04/07/06 21:58
>>875
どうでもいい事項だから幕府も深く追求しなかっただけだろ。
878日本@名無史さん:04/07/06 22:28
>>877
負け惜しみいっぱいのレスだねw
879日本@名無史さん:04/07/06 22:29
>>875
全く不十分。
単なる連絡調整の問題。

>朝廷の意思
具体的に誰の意思?
天皇ってことはありえないし、幕府の代弁者の関白ですかw?
激しくソースキボンヌ。

ついでにこっちもタノンマス!
>>859
>その点、江戸時代の天皇は力がない分ほんとに庶民レベルからの崇敬があったと言える。
庶民レベル??新説ですね!
激しくソースキボンヌ!!
880日本@名無史さん:04/07/06 23:22
>激しくソースキボンヌ
幕府側の一次史料である「大内日記」に出てくる。
ただし刊行されていないので
内閣文庫に行ってもらわなければならないが。
881日本@名無史さん:04/07/06 23:39
あと『本源自性院記』寛永5年6月11日条と同月12日条を見ればよろしかろう。
こちらは刊行されているから、簡単に見ることができるだろう。
中和門院が大きな役割を果たしていることがわかるはず。
882日本@名無史さん:04/07/07 04:53
江戸時代の朝廷は幕府に従属していた。
尊号事件を見ればあきらかだろう、そんなことは。
高仁親王の葬儀ごとき些細な例をもって鼻高々に「朝廷には幕府を超える権威があったと主張するのは笑止千万。
883日本@名無史さん:04/07/07 08:07
江戸時代の天皇について書かれている
有名な論文や書籍ってありますか?
後水尾院はもっているのでいいです
884日本@名無史さん:04/07/07 08:14
久保貴子「近世の朝廷運営」(岩田書院)
藤田覚「幕末の天皇」(講談社)
885日本@名無史さん:04/07/07 10:20
>>880
>>881
中和門院?は?答えになってない。
「幕府の意向を敢然と無視した朝廷の意思」と、どうして読み取れるの・・・。


886日本@名無史さん:04/07/07 10:21
>>859
>その点、江戸時代の天皇は力がない分ほんとに庶民レベルからの崇敬があったと言える。
庶民レベル??新説ですね!
激しくソースキボンヌ!!
887日本@名無史さん:04/07/07 10:23
>>884
読みやすい本だね。
藤田はマルクス主義者だねw。
888日本@名無史さん:04/07/07 16:40
空位があったとは、朝廷の存在にかかわる大問題ですね!
天皇の後継者を決めてたのは幕府だったんですね!
こりゃあもう、決定的ですね!!

親王の葬儀がどうのなんて、全く比較にならないですねw!
889日本@名無史さん:04/07/07 16:52
庶民レベルの崇敬がなければ御所千度まいりはおきないんじゃない?
890日本@名無史さん:04/07/07 17:24
御所千度参りはあとにもさきにもあれ一度きりだろ?
庶民レベルの崇敬が一般的に存在した証左にはならないと思うな。
891日本@名無史さん:04/07/07 18:00
>>888
もちろん私は天皇や朝廷が幕府を上回る権威をもっていたとは考えていないし
そんなことを主張した覚えもない。
>父親の病気見舞いにも行かせてもらえず
こういうことを言って
何でもかんでも幕府にお伺いを立てないと駄目だった
天皇・朝廷は何一つ自由にできなかった
と主張する向きがあるが
寛永前期あたりだと、必ずしもそうではないということを示したかっただけだよ。
誤解しないように。
892日本@名無史さん:04/07/07 18:16
幕府のとって一番恐れていたのは反幕府勢力に天皇を
担ぎ出され、幕府が「朝敵」になることだと思う。
だから、幕府は天皇が外部と接触しないようにこと細かく
行動を制限し、御所から出さなかったのだろう。
幕府にとって天皇とは幕府自身の権威づけの錦と幕府を
崩壊させる爆弾の要素をかねそろえていたと思う。
天皇がどうでもいい存在なら、あそこまで幕府が天皇の
行動を制限したり、朝廷に口出ししないと思う。
893日本@名無史さん:04/07/07 18:41
権威と権力を、建前上切り離すことはとても大事なことです。

ヨーロッパ史を研究してみると、ローマ法王とヨーロッパの各王家の権力の
駆け引きの関係など、結構、日本と類似している部分があります。


894日本@名無史さん:04/07/07 18:59
カノッサの屈辱の例にもあるように、ヨーロッパの諸侯が最も怖れて
いたのは、ローマ法王から破門されることだった。
895日本史@名無しさん:04/07/07 19:33
巨大な体系のキリスト教と、それによって作られたキリスト教的世界の話を、
アニミズムの親分と比較する乱暴なスレはここでつか?
896日本@名無史さん:04/07/07 20:57
>>御所千度まいり
あれは飢饉の時に京都所司代が何もしなかったんで、御所へ行ってみたんですよね。
集まった人々に暑いのでリンゴを配っていいかどうかとか、お金を投げ入れるのは
やめさせて欲しいとか所司代に頼んでいるよね。
お金は儲かってイイいのに、だめなんだねw。
朝廷は宸襟お悩みにつき米を民衆に配ってあげたらいいのではと所司代に恐る恐る陳情して、
良い返事をもらっている。陳情でご機嫌損ねると、関白や武家伝送のクビが
ふっ飛ぶからね。こわかったろうね。
897日本@名無史さん:04/07/07 21:13
>>891
>もちろん私は天皇や朝廷が幕府を上回る権威をもっていたとは考えていないし
了解。同意見。
ただし、仙洞御所への行幸不許可は慣例化したのでは。
「勅」取り消しの紫衣事件は寛永6年だし・・・。

>>892
ほぼ同意見。ただし、爆弾になるとは、新井白石など一部の学者しか
予想だにしなかった。食い扶持を与えていた主人だからね。
でなければ、幕府みずから尊王を説くわけもなし。
ただ、外圧と制度疲労などが情勢を変えて、幕府の得意技の尊皇攘夷が、
幕府最大のアキレス腱になって爆弾になっちゃたねw。

>ローマ法王
おもしろいけど、アナーニ事件で教皇は国王側に暴力を振るわれ、その後死んでるしw。
近代天皇制に対置される奇妙な制度はできなかったしね・・・。
898日本@名無史さん:04/07/07 21:29
>「勅」取り消しの紫衣事件は寛永6年だし・・・。
もう少し文章を正確に読んでもらいたい。
>必ずしもそうではない。
と書いたはずだ。
寛永前期に天皇・朝廷が幕府の規制を受けることなく
何でも自由に決められたなどとは言ってない。

ただしなぜな幕府が天皇・朝廷の「封じ込め政策」をとらねばならなかったのか。
取るに足りない存在なら、自由にさせてもよかったはずで
このあたりが微妙なところだろう。
899日本史@名無しさん:04/07/08 00:17
>ただしなぜな幕府が天皇・朝廷の「封じ込め政策」をとらねばならなかったのか

だからそれが「生かさず、殺さず」だよw

>>897氏も言うように、尊皇攘夷といういざというときの安全装置が、自分の意志で動き出すのは
困る。各藩の文句が大同団結になって向かってきたときに、ガス抜きとして空疎な天皇制を保存
しておく。
かといって、やりすぎると万が一反旗を翻され無いとも限らないから、陰湿な形でじわじわ首を絞
めたわけ。もちろん、朝廷自身には「いつでもアボーンできるんだぞ!」とわかるような恫喝も含ませ
て。
900日本@名無史さん:04/07/08 00:28
>尊皇攘夷といういざというとき
幕藩初期の段階で、こういうことは想定されていないはずだが。
901日本@名無史さん:04/07/08 00:36
>>899
何とも手前味噌なこじつけで笑える。幕府が朝廷を怖れていたことを
認めたくないという焦りだけが伝わって来る、まさに取るに足りない
レスの典型だ。
902日本史@名無しさん:04/07/08 00:39
すばらしい煽りだなw 取るに足らないなんて、自分でも思ってるよ。
ただし、

>幕府が朝廷を怖れていたことを

この部分、しっかりと証明してくれ。話はそれからだ。
903日本@名無史さん:04/07/08 00:47
>>902
幕府が安定していない時の家康・秀忠・家光の三代と、幕府が衰退した
時の家茂・慶喜は上洛した。都合の悪い時には上洛するのが将軍家の
実態。衰退期になると公武合体や朝廷への領地寄進をやったのが幕府。
幕府が朝廷を怖れていたことはこれだけでも充分説明できる。
904日本史@名無しさん:04/07/08 00:48
まず、幕末と初代三代を一緒くたにするのは無理があるな。
905日本@名無史さん:04/07/08 00:49
>>902
じゃあ、なんで幕府は天皇を御所から出さなかったのか?
あなたはどう思う。
自分は天皇が外部と接触を持たないようにだと思う。
906日本@名無史さん:04/07/08 01:04
ちょうてき てう― 0 【朝敵】

朝廷にはむかう賊。

「幕敵」という言葉は無い。幕府であろうが何であろうが、朝敵にされ
たらそれまでなんだよ。
907日本@名無史さん:04/07/08 01:11
江戸幕府の全盛期は17世紀の数十年間だけ。四代家綱の死後、幕府内か
らは京より親王に下向してもらって将軍位を継いでいただこうという動き
があり(これは鎌倉幕府の真似だね)、また七代家継と何番目かの皇女を
結婚させて公武合体を行うという計画もあった(家継の夭折で実現せず)。
908  :04/07/08 01:31
時代劇とかを見ると、下々のものが天皇の事を帝(みかど)と
呼んでいますが、何故明治以降はミカドと呼ばれなくなったん
でしょうか?
909日本@名無史さん:04/07/08 01:33
>>908
帝よりも、天子様とかお上、主上の方がよく使われたよ。
910日本@名無史さん:04/07/08 09:30
>>必ずしもそうではない。
>と書いたはずだ。
便利だなぁw。
911日本@名無史さん:04/07/08 19:01
幕府が朝廷を怖れていたのは確かだね。
912日本@名無史さん:04/07/08 20:29
つか、松平定信が大政委任論を幕府の公式イデオロギーに採用する以前の朝廷なんて、
吹けば飛ぶようなもんだろ。幕府から俸禄をもらって存続を許された存在。
913日本@名無史さん:04/07/08 21:49
寛政以後も飼い犬朝廷に変化なし。1863年ごろまで変化なし。
つか孝明天皇は最後の最後までも大政委任論者。
で、殺された?w。
914日本@名無史さん:04/07/08 21:50
>>859
>その点、江戸時代の天皇は力がない分ほんとに庶民レベルからの崇敬があったと言える。
庶民レベル??新説ですね!
激しくソースキボンヌ!!
915日本@名無史さん:04/07/08 21:55
>>914
3月3日には内裏を模した人形を飾っていた。
916日本@名無史さん:04/07/08 23:44
1680年に徳川家綱が亡くなった時、京都から親王将軍を迎えようとした幕府。
1713年に徳川家継が将軍になった時、京都から皇女を御台所に迎えて公武合体
をはかろうとした幕府。
既にこの時期から幕府は朝廷依存を深めていた。
917日本@名無史さん:04/07/08 23:51
>>916
三代家光の御台所を鷹司家から迎えた時点で,
朝廷依存を深めている。
918日本@名無史さん:04/07/08 23:56
歴代将軍の御台所をみても幕府が朝廷の権威に一目置いていたのが
わかるなあ。
朝廷と関係ない御台所は家康と秀忠と家定だけでしょ。
919日本@名無史さん:04/07/09 00:11
秀忠の御台所(家光の母)は浅井長政とお市の方との間に出来た娘で
淀君の妹だから関西系。三代家光以降の御台所は朝廷関係ばかり。
家定もそうだよ。鷹司政煕の娘で鷹司政通の養女となった任子
(有姫・天親院)が最初の御台所で、任子の死後に御台所になったの
が一条実良の娘である秀子(寿明姫・澄心院)。これらの御台所と
過ごした日々が、家定にとっては最も幸福な時期だった。
920日本@名無史さん:04/07/09 00:16
家定の御台所って、島津家出身ではなかったっけ?(公家の
養女になっていたが)
921日本@名無史さん:04/07/09 00:16
>>918
13代家定の3番目の御台所も島津出身だけど近衛家養女。
11代家斉の御台所も同様。
922日本@名無史さん:04/07/09 00:26
なぜに養女という形をとるのかね
923日本@名無史さん:04/07/09 00:29
>>922
将軍家の御台所として島津じゃ家格が低い。
そこで、五摂家の近衛家の養女にする。
幸い、近衛と島津は鎌倉時代からの付き合いだから、
どちらにとっても都合が良い。
924日本@名無史さん:04/07/09 00:33
>>923
江戸時代を通じて琉球を媒介に清国と貿易を行っていた島津を幕府が
どうすることもできなかったのは、近衛家と深い関係にあるからなん
だね。
925日本@名無史さん:04/07/09 00:34
反対に将軍家の養女にしてから諸大名に嫁がす例もあるね。
926日本@名無史さん:04/07/09 00:35
>>924
それはちょっと違うような。
927日本@名無史さん:04/07/09 00:39
幕末の島津の台頭は,近衛家との関係も大きく影響しているよな。
京屋敷地も近衛家の側に移転しているし。
928日本@名無史さん:04/07/09 00:49
これは読み応えがある。東福寺にある即宗院は、南北朝時代から島津
の菩提寺だった。
http://homepage2.nifty.com/airman/
929日本@名無史さん:04/07/09 07:40
>>923
つまり将軍家ってのは
しょせんは五摂家と同格ということだわな。
930日本@名無史さん:04/07/09 08:29
慶喜の母親は有栖川宮吉子とあるよ。広辞苑
931日本史@名無しさん:04/07/09 08:30
一目置くとか曖昧な表現やめないか?
何も説明できてないよ。

天皇の事なんて江戸時代の百姓はしらねえだろ、ほとんど。
京都ぐらいだと思うぞ。
932日本@名無史さん:04/07/09 08:35
江戸時代の朝廷は幕府の飼い犬。
尊号一件の顛末を見れば一目瞭然ではないか。
933日本@名無史さん:04/07/09 09:01
なんで、吉良が高家なんだよ。
934日本@名無史さん:04/07/09 09:22
>>931
あなたの御維新の時の先祖の地を言ってみそ。
都市か天領か藩か、殿様は誰よ。
935日本@名無史さん:04/07/09 09:36
無関係だがオレは多摩。
天領だったそうだ。
天領の場合、殿は将軍か。
936日本@名無史さん:04/07/09 11:01
武州三多摩の百姓でも、萌えよ剣をすれば
鹿島、香取神宮の由来はしってるべ。
937日本@名無史さん:04/07/09 13:25
1人芝居、乙!
尊王を深めたのは、幕府の政策です。
依存とか頼ってるとか、そういうことでは全くない。

では、幕府の走狗の関白に天皇・朝廷を支配させた理由は?
尊王なのに天皇より、関白=武家伝送ラインを重視した理由は?
938日本@名無史さん:04/07/09 13:34
>>859
>その点、江戸時代の天皇は力がない分ほんとに庶民レベルからの崇敬があったと言える。
庶民レベル??新説ですね!
激しくソースキボンヌ!!

(先生)雛人形の一般化はいつからでしょう?
(生徒)先生!明治以降です!
(先生)正解です。江戸時代ではごく一部の階層です。

(先生)鹿島や香取の由来を江戸時代の庶民は知ってましたか?
(生徒)はい、知ってました。でも、天皇と結び付けて考えてはいませんでした。
天皇を知らない庶民も少なくありませんでした。
(先生)正解です。
939日本史@名無しさん:04/07/09 14:52
天子様=お天道さまor将軍様


天皇・・・?(゚Д゚)ハァ?  おひさまのことだべ?
940日本@名無史さん:04/07/09 16:41
庶民は将軍様を公方様とは呼んでなかったの?
何と呼んでたのでしょうか?
941日本@名無史さん:04/07/09 18:45
>>938
雛人形の一般への普及は18世紀。享保雛という豪華な雛人形が作られるよう
になり一般に普及した。よほど普及したと見えて、幕府は奢侈禁止令を出し
て取り締まるほどだった。
江戸時代の庶民が天皇を知らなかったとしたいらしいが(なんで君がそのよう
な歪んだ精神を持つのかわからないが)、嘘と捏造を重ねない限りそれは無理
というものだ。
942日本@名無史さん:04/07/09 18:50
江戸時代の庶民が天皇の存在を知らなかったとすれば、それは庶民が
京の都を知らなかったことを意味する。江戸開府の1603年時点でも、
京の都ができてから既に809年経っている。それなのに江戸時代の庶民
が天皇の存在を知らなかったなどというのは、彼等を愚弄することでし
かない。
943日本@名無史さん:04/07/09 19:57
>>938
芥子雛もしらんのか?
944日本@名無史さん:04/07/09 20:24
>>931
往来物に天皇が登場することや
天皇が亡くなると全国に鳴物停止令が出されたことが
すでに指摘されている。
過去レスを踏まえて、議論してもらいたいものだ。
945日本@名無史さん:04/07/09 20:34
>>942
説得力があるレスですね。
946日本@名無史さん:04/07/09 21:13
>>944
天皇の死に際しての鳴物停止の期間は将軍や御三家当主より短期間だったそうですが・・・
947日本史@名無しさん:04/07/09 21:30
じゃあ漏れの精神はゆがんでるんでつねw

別にいいよ、そう思われても。
948日本@名無史さん:04/07/09 22:10
価値観がいかに事実を見る眼を曇らせるかという良い例証のスレだな。
歴史学が政治性を排除できないかぎり、進歩はないな。
949日本史@名無しさん:04/07/09 22:18
それは、むしろ、重箱の隅のような記録だけで天皇が崇拝されたと捏造したがっている、
新しい教科書一派に言えることなわけだが。
950日本@名無史さん:04/07/09 22:23
どっちもどっちだな。まあ歴史学なんて科学じゃないし、
まともな学問じゃないからな。
951日本@名無史さん:04/07/09 22:25
>>946
今私が問題にしているのは天皇の存在が知られていたかであって
どのような存在として知られていたかではない。
952日本@名無史さん:04/07/09 23:14
>>950
科学とは無縁の人ですね、あなた。科学という言葉の意味も知らないと見える。
953日本@名無史さん:04/07/09 23:21
江戸中期から、女子の初節句を祝う行事となって、雛段に飾る雛人形の贈答も
盛んになった。雛段がまだ一般化されない以前には、毛氈などの上に紙雛と
内裏雛だけを並べるのがほとんどであったが、段飾が様式をととのえてくるに
したがい、江戸末期には雛段の最上段に内裏雛を置き、階下の段に付随する
諸人形を飾った。
江戸末期以後、江戸では京都形式の官女、随身をとりいれ、これに江戸式の
五人囃子を加えたものを決りの雛人形とした。
内裏雛は寛永雛、享保雛、次郎左衛門雛、有職雛、古今雛など美術工芸的にも
優れた作品が続出した。江戸幕府はその華美に対してしばしば製作の禁令をだした。
京都の典雅な次郎左衛門雛と並び、江戸製の写実的な古今雛に人気があった。
雛人形類を売買する市は江戸初期からみられ、雛市と呼ばれた。雛人形を飾る
雛祭行事は、日本独特の人形遊び行事であり、明治以後全国的に普及した。

>>859
>その点、江戸時代の天皇は力がない分ほんとに庶民レベルからの崇敬があったと言える。
これのソースは?というツッコミへのソースが「雛祭り!」という大ボケなわけだが、
雛祭りが庶民の天皇崇拝というのは、全くの根拠のない嘘のわけだが、
そもそも雛祭りの全国の庶民への普及が、明治以降ということは事実なので、
変えようがないわけで・・・。
954日本@名無史さん:04/07/09 23:25
江戸時代の庶民が天皇の存在を知らなかったとすれば、それは庶民が
京の都を知らなかったことを意味する。江戸開府の1603年時点でも、
京の都ができてから既に809年経っている。それなのに江戸時代の庶民
が天皇の存在を知らなかったなどというのは、彼等を愚弄することでし
かない。

これに反論をしてみてよ。
955日本@名無史さん:04/07/09 23:26
>雛祭
3月3日の(三月節供)の行事。
この日の行事は雛人形を飾り祭るものと、山遊び・磯遊びとに大別できる。
雛人形を飾り祭るのは、中国伝来の3月上巳の行事と日本に古くからある
人形(ひとがた)によって身をはらおうとする考え、および貴族の幼女の
人形遊びとが結合して、室町時代ごろに一応の形を整えたといわれる。
そして江戸時代に五節供の一つに加えられるに及んで、上流社会において
現在みるような雛壇での飾りつけが完成するなどいっそうの整備がなされ、
しだいに華やかになり、かつ地方や民間へも普及していったのである。
雛人形は現在ではもっぱら観賞用の玩具として扱われているが、古くは
それで身をなでて穢(けがれ)を移しはらい去ろうとした呪具としての性格
を強く持つものであった。しかししだいに精巧な物がくふうされると、
保存されて玩具として扱われるようになり、内裏雛を中心に三人官女や
五人囃子などの雛および各種調度類が加えられていった。
それでも現在、鳥取県をはじめ各地には流し雛の風習があるし、関東地方
などで古い雛は単に捨てるのではなく道の嶋や祠などに納めて小正月の
火祭のときに燃やしているのなどは、雛人形に対する古い心意を伝えるもの。
静岡県や愛知県などには子どもたちが好みの雛人形を持って山や磯に出て
遊ばせる所がある。またこの日だけとは限らず、七夕や八朔にも簡素な
雛人形を飾る所がある。雛には赤・青・白のひし蛭や白酒、桃の花を供える
ほかに貝類を供える所も多く、ヒナアラシなどと称して、子どもたちが
これら供え物をもらい歩いたり盗み歩く風も各地にある。
雛飾とは別に、この日重箱に馳走を詰めて近くの山や海辺に出かけて食べたり、
そこで炊事をし共同飲食して終日暮らす山遊び・磯遊びも全国的に行われている。
花見や潮干狩りもこの一種と認められるが、これらは本格的な農事に先がけて
戸外で物忌の生活を送り、田の神祭の資格を身につけようとした古い信仰に
基づくものとされている。
956日本@名無史さん:04/07/09 23:30
>>952
未だに歴史学が科学(反証可能性という意味で)なんて思ってるのは
お馬鹿な東洋人だけ。
957日本@名無史さん:04/07/09 23:37
じゃ、ひとまず、雛祭りは、庶民の天皇崇拝のソースだというのは、
大間違いまたは大嘘ということでケッテー!

958日本@名無史さん:04/07/09 23:39
>>954
歴史学と程遠い意味のない感情論の文章。反論する価値も意義もない。
愚弄も尊敬も関係ない。
事実は唯一つ、
江戸時代の庶民には、天皇の存在を知らなかった人「も」いた。

ということで、

>>859
>その点、江戸時代の天皇は力がない分ほんとに庶民レベルからの崇敬があったと言える。

という嘘はやめろと言うことだ。
話題を変えたければ、1人芝居で変えなさい。
959日本@名無史さん:04/07/09 23:44
>>958
日本は広いからな。
天皇を知らない江戸時代の人間がいても仕方あるまい。
そのかわり、知ってた人や崇拝者もいたってこった。
東北や九州は京都から遠いからな。
琉球や蝦夷アイヌは、こりゃ知らんだろうなぁ・・・。
960日本@名無史さん:04/07/09 23:50
>>958
>江戸時代の庶民には、天皇の存在を知らなかった人「も」いた。

その「も」の人は京の都の存在を知らなかった人だね。そうする
と知恵遅れか何かの人だね。でも、そういう人は将軍の存在も知
らなかったのでは?
961日本@名無史さん:04/07/09 23:52
京に都があることを知っていた人は天皇の存在を知ってるんだよ。
962日本@名無史さん:04/07/09 23:53
地方の農民は知らない人はいたと思うよ。
字が読めない人も多かったから(農村では)情報も
入ってこないしね。
963日本@名無史さん:04/07/09 23:56
>>962
では、そういう人は将軍の存在も知らなかったわけだね。
964日本@名無史さん:04/07/10 00:05
>>963
知らなかったと思う。一番偉いのは殿様だと思っていたのでは。
965大河の見過ぎ:04/07/10 00:10
>>964
一番偉いのはお代官様だと思っていたのでは?
966日本@名無史さん:04/07/10 00:11
>>962は近世農村の識字率をどれくらいと思っているのかな?

http://library.u-gakugei.ac.jp/lbhome/tenjikai/koenkai_H15.html
利根啓三郎『寺子屋と庶民教育の実証的研究』(雄山閣出版、1981年)によれば、関東地域の手習塾の就学者は、
純農村で2割、商業的農業が展開した村で4〜5割、宿駅農村では4割くらいが、おおよそ庶民教育を受けていま
した。もちろん直接ではなくて間接的に教育を受けたり、日常的に家の中で教えられたり、いろいろなスタイルの教
育があるので、残りの人々が全く字が読めない、書けないということではありません。
また、篭谷次郎「幕末期北河内農村における寺子屋の就学について」(『地方史研究』第122号、1973年)には、関
西の北河内地方で8割の就学率が示されています。下総国葛飾郡藤原新田(千葉県船橋市)の手習塾安川舎の
場合、文化8年(1811)以降、32か村896人が就学し、柏井村では村民の約4割が入門しています(石山秀和「江戸
近郊農村にみる手習塾の展開と地域社会」『千葉史学』第35号、1999年)。
まだまだたくさん研究があるのですが、これらを見てくると、江戸時代後期は地域や身分をこえて、国民的規模で
教育が普及していった姿がみられます。こうした動向を基礎に、宝暦〜天明期(1751〜89)、文化・文政期(1804〜
30)には、江戸を中心に庶民文化が花開きます。
967日本@名無史さん:04/07/10 00:22
>>966
都市部近郊の一部の地域の資料を出されてもなあ。
東北地方の山奥とか四国とかはどうなの?
968日本史@名無しさん:04/07/10 00:28
>>960

自説のためには他人は池沼か。大変だなw

識字率が高いとか、京都を知ってるとか、いずれも傍証ばかりなので、そこから天皇をしっていた
というにはまだ飛躍がある。京の都と言っても、江戸、東北、九州と近畿ではまた知ってる中身も
違うし、識字率が世界と比べれば高いと言っても、程度問題。日本の歴史どころか、その地域の
歴史をどれだけ知っていたかと言うことも怪しい。
969日本@名無史さん:04/07/10 00:41
>>967
「日本教育史資料」に府県別の寺子屋の数が出ていたと思う。
これを見れば、識字率の推測はある程度可能と思うが
この本はいま手元にない。
誰か代わりに調べてくれると有り難い。

970日本@名無史さん:04/07/10 00:52
>>968
近世後期には、いろんな地域で民撰の各種地誌類が刊行されている
そこでは当然地域の歴史も述べられているのだが。
刊行されるということは、ある程度売れる見込みがあったからで
近世農村の住民は郷土の歴史に興味がないとか無知とかいうのは間違っている。
971日本@名無史さん:04/07/10 00:52
NHK「おしん」でおしんの両親は字が読めなかったけどな。
972日本@名無史さん:04/07/10 00:54
鳴物停止令は全国に出される。
だから少なくとも村役人は天皇の存在を知っている。
村役人が一般農民に触の内容を伝えていれば
たとえ字が読めなくとも
天皇の存在は知られていただろう。
973日本@名無史さん:04/07/10 01:13
天皇陵に平気で田畑と開墾したり、木を伐採する農民が天皇とは
どういう存在か知らなかったのでは?
974日本@名無史さん:04/07/10 01:16
しつこいようだが
どういう存在として認識していたかを問題にしているのではない
存在自体が知られていたかどうかを議論しているのだが。
975日本@名無史さん:04/07/10 01:50
江戸時代の天皇を語るスレだから、別にどうでもいいじゃない。
どういう存在か存在自体は。
976日本@名無史さん:04/07/10 04:08
>鳴物停止令は全国に出される。

天皇は7日で、将軍は30日だっけ?
977日本@名無史さん:04/07/10 07:36
江戸時代の天皇は幕府の飼い犬。
978日本@名無史さん:04/07/10 08:26
近世において、天皇の存在自体が民衆に知られていたかどうかと
民衆が天皇をどのようなものと認識していたかは別の問題ですよ。

畿内や江戸周辺以外の地域で、天皇の存在が全く知られていなかったなどというのは、あまりに乱暴な意見ですね。
すべての民衆が天皇の存在を知っていたわけではないが
すべての民衆がその存在を知らなかったのでもない。

それに天皇の存在が知られている=将軍よりえらいもの(権威・権力のある存在)として知られている、ということでもない。
979日本@名無史さん:04/07/10 08:27
将軍も幕府も天皇の宣旨。
980日本史@名無しさん:04/07/10 08:31
江戸時代に新聞やテレビがあったと思ってるヤシのいるスレはここでつか?

2千万だかの人間全てが一様に均等に知ってたわけないちゅうの。
しつこさに、大概鼻についてくるけど、しょせん天皇を知ってたとしても、せいぜいあれや
これやの中で知ってた、って言う程度で、権力関係の中で捕らえられていたわけでもな
い罠。まして将軍より恐れられたなんてあり得ない。
981日本@名無史さん:04/07/10 08:32
寺子屋の往来物にも仁徳天皇の故事とか出てるんだから、
字が読める奴ならまず天皇の存在は知ってたでしょ。
字が読めない奴なら将軍の存在すら知らなかったんじゃない?
982日本@名無史さん:04/07/10 08:51
>>981
鳴物停止令が出たことを
村役人は全村民に知らさなければならないことになっているから
字が読めない者でも、何だかえらい人が死んだという理解はしていただろう。

ただどの程度えらいと認識していたかは、別の問題。
だから知っていたかどうかという話は、このあたりで打ち止めにした方がよいと思う。
983日本@名無史さん:04/07/10 10:42
1人芝居熱演中お邪魔すますw。

明治初期に来日した外国人による調査。
日本人の識字率は男43%・女10%で平均約26%。
どの程度読めたかではないので、きちんと読めるは、20%きるかな?
それでも世界で上位だが。

江戸時代の絶対多数の農民にとっては村が世界。
領主や殿様が一番偉いと思ってたと考えるのが普通。
鳴物停止令も、幕藩ルートを通じてしか広まらない。
元号が、幕藩権力ルートのおかげで全国に広まるのと同じ。
京都の天皇どころか、京都も知らない農民がいても普通。
伊勢人気と京都・朝廷人気が全く無関係だったのは広く知られたこと。
膝栗毛がとか変な話はやめてねw。

>その点、江戸時代の天皇は力がない分ほんとに庶民レベルからの崇敬があったと言える。
ところで、このソースはまだだろうか?

打ち止めにしたければ、ご自由に。君のスレだからねw。
984日本@名無史さん:04/07/10 10:51
元号って、幕府から所司代、そして伝送から関白に通達しておいて天皇のチョイス演技。
つまり、幕府が決めていたらしいですね。
朝廷内部でやってたことは、幕府が決めたことを誰も知らないフリをして、
ものすごい長時間をかけた大演技大会だとか。。。
朝廷って、今の感覚だと不気味というか気持ち悪いですね。
985日本史@名無しさん:04/07/10 12:12
さっさと信長が取り上げ解けば良かったんだよ。光秀もしょうがなかったんだろうけど、
やれやれだな。

下手に天皇制なんて残すから、徳川特有のうじうじねちねちした体質が日本のキャラに
なっちまったわけだろ。
986日本@名無史さん:04/07/10 12:56
>>983
君、パラノイアだね。
987日本史@名無しさん:04/07/10 12:58
↑ また湧いてるな w
988日本@名無史さん:04/07/10 14:07
>>986
>その点、江戸時代の天皇は力がない分ほんとに庶民レベルからの崇敬があったと言える。
のソースは?へのレスが
>雛祭り

>鳴物停止令
で、
それが、否定立証されたら、レスが>>986なんですね。

スレのレベルを了解しましたw。
989日本@名無史さん:04/07/10 14:11
天皇家の朝ごはんは、まず巨大饅頭?が3つくらい出て、
食べず食べた演技をして下げてから朝ごはん。
戦国からはじまって、300年くらい続いてたらしい。

この変わった風習は、明治にフランス料理になってからは止めたのだろうか?
知ってる人、教えて。
今もやってるの?
990日本@名無史さん:04/07/10 14:17
>>988
君、精神異常だね。
991日本@名無史さん:04/07/10 14:18
庶民が京に都があることを知らなかったという証拠が全然挙がらないのはなぜ?
992日本@名無史さん:04/07/10 14:22
>>990
>君、精神異常だね
は、「もう私には反論不可能です」と読むのですね。了解させていただきます。

828 :日本@名無史さん :04/06/28 21:44
保守しとくけど、このコピペはなんの意味があんだ?これも保守なのか?

829 :日本@名無史さん :04/06/29 09:14
おい!自演野郎のディスティ!
お前こんなところにも出没してやがるのか?

トリップつけたまま自演やっちゃったディスティについてはこちら
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1084186997/l50

905 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 14:57
生物を知らないのはあなたでしょう(笑)
あなたが詳しいというならナチズムとダーウィニズムの関係について語って欲しいな。
わたしより詳しいとはおもえないが。
言っておきますがわたしは生物の教師。本職です。
プロを相手にしてよく言える(苦笑)
近現代ドイツにかんしてはおそらくわたしが一番くわしいですよ。
でないとコテハンなんかにはなりません。
2ちゃんねるに書き込むのは初心者ですが、馬鹿が多いという噂は本当ですね(苦笑)

906 名前:ディスティ・ノヴァ ◆o42sEUlX0o 投稿日:04/06/18 15:01
おれはディスティ・ノヴァにも一理あると思うな。
今騙りがはやっている。
彼もその被害者なんだろう。
本当に彼が書き込んだレスだけ見ればそんなやつとは思えない。
お前こそずっと彼に粘着していた張本人ではないのか?
ノヴァ、アホは無視してほどほどにがんばれや。
993日本@名無史さん:04/07/10 14:26
>>992
江戸時代の庶民が京に都があることを知らなかった証拠を早く挙げてよ。
994日本@名無史さん:04/07/10 14:31
>>991
すりかえですかw。
文盲率70%以上の時代なんですよね、江戸時代って。
伊勢参りした庶民が、なぜ京に寄らなかったかを考えてみたらいかがかな?
江戸時代には京も天皇も知らない人「も」少なからずいた。

「庶民の天皇崇拝のソースは雛祭り!」の方が面白かったのになぁ。
995日本@名無史さん:04/07/10 14:34
995
996日本@名無史さん:04/07/10 14:34
>>994
文盲の人は耳も聞こえなかったのか?

>江戸時代には京も天皇も知らない人「も」少なからずいた。

証拠をどうぞ。
997日本@名無史さん:04/07/10 14:35
スレたて人は必死ですw
998日本@名無史さん:04/07/10 14:36
結局994の惨敗
999日本@名無史さん:04/07/10 14:36
え!理解できないの?
1000日本@名無史さん:04/07/10 14:37
994の惨敗で終了
10011001
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。