1 :
日本@名無史さん :
04/04/28 08:35
2
3 :
日本@名無史さん :04/04/28 08:58
乙。 罵倒や論破が目的ではない(つーか不可能)な邪馬台国ネタだから マターリ頼みますよ、みなさん。 突っ込みも、ある程度言葉を選ぶようにしましょうよ。 どの説もある程度しか根拠が無いつーか、示しようが無いのだから。 それでも明らかにおかしな香具師は、シカトの方向で。
4 :
世界@名無史さん :04/04/28 11:21
昔、恩師が 「このテの話は決め手になる資料が無いから専門家でも答えが出せないし 逆に資料が少ないがゆえに素人でもガンガン参加できるから盛り上がる」 みたいなこと言ってたよ。ホントそうだね。
5 :
日本@名無史さん :04/04/28 13:24
5年前の1999年にココの邪馬台国スレ参加してたけど レベル低下はまあ良いとして、畿内厨の思想化?主義?には辟易するよ 畿内説を一つ一つ矛盾や虚偽や間違いを指摘していったら レッテルを貼ることで議論を拒絶し自作自演に走りトンデモ畿内説に頼ってる 今、確かに九州説の方が説得力が有り自然に考えると邪馬台国は九州となる まともな畿内説は逃げないで出てきて欲しい。
6 :
日本@名無史さん :04/04/28 13:41
出てきて欲しい。と書いたが 纒向を土台に虚偽と妄想で邪馬台国を騙る畿内厨はもう出てくるなよ。 嘘の例(己の都合の良いように数値操作) 「畿内には○○が沢山出てくるが九州には○○が全く無い」 妄想の例(文献からも古跡からも陰謀や交易権などわからない) 「畿内が東海吉備出雲と手を組み陰謀を駆使し交易権利をちらつかせ九州制覇」
7 :
日本@名無史さん :04/04/28 14:26
>>纒向を土台に虚偽と妄想で邪馬台国を騙る畿内厨はもう出てくるなよ。 九州を土台に虚偽と妄想で邪馬台国を騙る九州厨は出てもいいのか。
8 :
日本@名無史さん :04/04/28 15:30
素朴な疑問なんだけど、神武東征っていうのは、単なるつくり話なの? 畿内説のエロイ人教えて?
9 :
日本@名無史さん :04/04/28 15:42
>>8 九州の民を慰撫するため物語上そうしたとしか考えられん
記紀で九州を持上げて畿内は名より実を取ったというところ
むしろ考古学上
神武西征の跡しか出てこないんだよ。
10 :
日本@名無史さん :04/04/28 15:53
>>9 もともと大和(畿内)にあった(畿内を故郷とする)政権が、なぜよりによって、
九州起源にする作為が必要だったのか?九州の民を慰撫するといっても、そこまで
やるもんでしょうか?実を取るために、そこまで名を捨てなければならないのはなぜ
でしょうか?
あと考古学上の征西というのは具体的に・・?
11 :
日本@名無史さん :04/04/28 16:01
>>10 九州が鉄交易ルートなど戦略上重要拠点だったから作為したんだと思う。
それから、具体的には高地性集落の分布など。
神話では高千穂が起原。宮崎県の高千穂峡谷か鹿児島の高千穂山かは 別として、北九州が起原などとは、神話はいっていない。
13 :
日本@名無史さん :04/04/28 19:01
神武サーガというのはある時代のある地方(宮崎から三重) の各種の物語の総集編のようなもので、非常に重要なもの だと思う。他にもオオクニヌシの話などがあるがこれとは 地理的に重なりがない。オオクニヌシの話との接点は スクナヒコナという言葉であるが、これは籠神社の海部氏 系図に出てくる倭宿禰、神武に出てくるシイネツヒコ(これは シキという言葉がなまっているようだ)、これが要するに 奈良県知事ではなかったんじゃなかろうか。いずれにせよ 神武の話は極めて大事なものには間違いない。和歌山県 でのシャーマネス殺しは統一の過程で巫女王殺人が広く 行われていたことを物語っている。リストラだね。
14 :
日本@名無史さん :04/04/28 22:37
>>5-7 いきなりマターリしてない粘着レスの応酬ですか・・・。
考古学サイドでは畿内説有利(すくなくともここ5,6年ほどは)なのは
散々既出だし、かと言って(発掘結果が)倭人伝の記述に必ずとも一致していないというのも
これまた散々既出なのは誰もが十分認識していることでしょう?
論敵を罵倒することで自己を正当化する卑しさにはもう辟易しているので
その辺で終わりにしないかい?
「いや、相手がしつこいんだ」と言うのなら、無視すれば良い。
2世紀末に畿内に広範囲な交易圏(王権とはあえて言わないが)が 発生した事実をつきとめたのは、考古学の大きな成果なのだが 仮に邪馬台国が九州にあったとして、この勢力との関係や影響 また後の大和朝廷との関連を推理するのが、当スレの主旨。 そこで倭人伝だけではなく記紀や隋書、宋書などの古代文献の手掛かり を検証する作業(@捜査で言うなら供述調書の洗い直し)と 九州、近畿のみに限定しない各遺跡の発掘結果 (A広範囲にわたる物的証拠の提示)それと 当時の国情や経済状態から推測する国家の成り立ち(B動機の確定)が 必要になるわけだ。 仮説提示には、少なくともこの3点が必要だろう。
16 :
日本@名無史さん :04/04/28 23:19
>>10 邪馬台国もそうだけど、もともと連合政権なのだから
大王(首長代表)はたびたび入れ替わっていると考えるのが自然。
倭人伝でも卑弥呼の後、男王が政権奪取に失敗した様が記されている。
最終的に九州の首長が連合を制したせいで、それが神話体系に反映したのではないか。
出雲神話の異様なウェイトにしても、先行支配していた首長および部族以上の
正当性を主張するために必要だったのかもしれない。
17 :
日本@名無史さん :04/04/28 23:23
八重山の先、カレンの山中、タラコ渓谷は高千穂を大きくしたようなものだし、 台湾の南のランユイ島には出雲の加賀の潜戸の洞窟のような愛人洞とか いうのがあり、縁結び(出雲の鳥居様)のような役目をしているようだ。 神武は燧灘で頭に鳥の毛をつけた人の乗ったボートに遭遇しているが こんな恰好をしてカレンで若い衆がいまだにドル稼ぎで踊っている。神武さん もなんだか都会人であらせられたような感じだなー。しかし、それらの台湾人は アミ族というから、昔は天孫なんてゴロゴロいたんじゃないかって気がするんだ。
18 :
日本@名無史さん :04/04/28 23:27
しかし神武さんが和歌山で女酋を誅されたあと熊が仄かに出てきて 全軍がばったり倒れるというのは限りなく見事にアイヌ、北東アジア 各地に残された熊シャーマネスの実体を表しており、神武記は 実に見事な古代史だと思う。
19 :
日本@名無史さん :04/04/28 23:29
>>10 西征と言い切るにはまだ資料不足だが
例えば唐子・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、妻木晩田遺跡、
吉野ヶ里遺跡、平塚遺跡、原の辻遺跡など
西日本の弥生中期を代表する環濠集落が期せずして3世紀初めから中頃にかけて
環濠の埋設や人口減少、墳墓の貧素化、果ては集落放棄などの事態にみまわれている。
これらのことから、少なくともこの時期に
何らかの大変革が西日本一帯に起こったことは容易に推測される。
20 :
日本@名無史さん :04/04/29 00:13
>2世紀末に畿内に広範囲な交易圏(王権とはあえて言わないが)が 交易なら縄文時代から黒曜石など盛んに交易されていたことはわかっている 2世紀末に始まったわけではない。
21 :
日本@名無史さん :04/04/29 00:31
>19 後漢の衰弱により、半島鉄をめぐって極東諸国の独立が 始まったのが3世紀。極東諸国の軍国主義時代のはじまりだ。 当然倭人の国も「のどかな海洋国」ではいられない。 鉄器が国の領土・戦争・生産を左右し始めたのだ。
22 :
日本@名無史さん :04/04/29 00:35
>10 権威は九州邪馬台国にあったから、貴人の系譜を自慢して当たり前。 神武も天武もニニギの系譜を高らかにうたっている。
23 :
日本@名無史さん :04/04/29 01:01
>19環濠の埋設や人口減少、墳墓の貧素化、果ては集落放棄などの事態にみまわれている。 西征の結果だとしたら征服者が堀を埋め民衆を追い散らし集落を放棄させ大量殺戮を行ったということになる 堀を埋めるのが殺戮の痕跡とでもいうのか?考えられないね。 九州が政治的に統合され環濠の必要性がなくなったと考えるのが自然だよ。
>>23 いや俺も西征だとは思っていない。
あまり強固に否定するのもなんなので、こういう表現になった。
>征服者が堀を埋め民衆を追い散らし集落を放棄させ大量殺戮を行った
御指摘のとおりそのような痕跡はどこの集落遺跡からも見受けられない。
どうも「遺跡から謀略や統合の証明は出来ない」と繰り返し発言する香具師がいるが
戦乱の跡がないにも拘らず、同時期に衰退化する遺跡がこぞって現れるのは
軍事力以外の要因、つまり経済格差や謀略といった
政治的要因としか考えられないだろうというための前振りだった。
>>21 のいう半島情勢の混迷化も主要因だろうが
列島がそれに直接巻き込まれた形跡は、今のところ北部九州にさえない。
更に言うなら、北部九州にとって半島の混迷は隣の火事どころでは無かっただろう。 なぜなら倭人伝に言う狗邪韓国も北部九州連合の一員だった可能性が極めて高く 火の粉を受けるどころか、半島&大陸ルートを断たれたに等しい一大事だったろう。 通商先進地域として永らく倭国のオピニオンリーダーだった北九州が 生き残りをかけて畿内連合に接近し統合したのか また逆に畿内連合の傘下に下ったのか どちらに主導権があったかは多数の議論があるとしても 恐らくこういう過程を経て西日本の主要部族が連合したのだろう。 ここからが倭人伝にいう邪馬台国の時代になる。
26 :
日本@名無史さん :04/04/29 02:28
まあ連合政権による政治的統合らしきもの、という点では一致してるわけだ 九州説は九州内の統合、畿内説は日本全体の統合 と規模は違うが
27 :
日本@名無史さん :04/04/29 02:30
>24-25 3世紀の半島の動きに伴い、邪馬台国は北九州から有明海に都を移転する。 半島からの直撃を避けたかと思う。有明海を軍事港と見込んでのことだ。 これで半島西岸を急襲する作戦を好んだのではないか。 当然新羅とは縁遠く、畿内政権は親新羅、邪馬台国は親百済となっていく。
>>26 そうだね。
九州内統合(山口県辺りも視野に入れて)と畿内統合が並立していたのか
それとも西日本のほとんどが連合化していたのか。
邪馬台国の位置所在が重要項目なのは、これを明らかにする為だものね。
>>27 当時半島進行を見込めるほどの戦力が北九州にあったかどうかは
まだまだ熟考の余地がある。
同様に半島各国も然り。半島からの大量帰化説(騎馬民族説も含む)が
下火になったのは、大量戦力を確実に輸送できるほどの船舶技術と
基になるはずの経済基盤の脆弱さを指摘されたからだよ。
>>28 リンク先読みましたが・・・ノーコメントで勘弁してください。
高句麗好太王碑で戦っている倭人の存在を否定して歴史を語るのもおかしい。 九州邪馬台国はそういう国だったと見るべきだろう。
31 :
日本@名無史さん :04/04/29 04:41
>>30 倭人そのものの概念が現在でも不明なのは知ってる?
少なくとも日本列島のみに限定されるものではない。
北は朝鮮半島中部から
南は下手すると台湾やフィリピンに至る東南アジア在住民まで
一緒くたにして倭人と呼ばれていた事が
後漢書や魏志、隋書に至るまで記載されている。
また好太王碑が伝えるところの倭人は、侵攻や渡海などの派遣を思わせる
記述が無く、領地争いに終始しているところから
半島在住の倭人(倭種)であるとの見方が主流です。
32 :
日本@名無史さん :04/04/29 05:39
>>31 その見方に一部賛成。
倭軍は新羅で敗れると「任那加羅」(すなわち金官)の城に逃げ込む。なぜか?
しかも高句麗はその後、その城を落とす。
つまり金官は倭と一体になって戦っている。
そのくせ「任那加羅」は地名として一回出るだけで、交戦主体としての金官加羅
の記述はない。
倭の同盟軍と思われる安羅軍は何回も出てくるのに。
これは金官加羅=倭であったと考えるのが最も妥当である。
33 :
日本@名無史さん :04/04/29 11:19
割り込んで失礼。 神武45才の時の東遷宣言は主人公の言葉ではなく作者の 言葉であろう。そこまでニギハヤヒのことなど知っているというのは おかしい。倭直の祖椎根津彦がワザワザ豊予海峡までで迎えに 行くのはナクサトベ、ニシキトベ等を虐殺し、天下に声望を失った 邪馬台国男王(ホケノ山被葬者)がその犯罪を神武天皇の業績とし 、もってその子孫の邪馬台国における統治に支障のないようにする 政治的トリックである気がしてならない。神武とは男王の禊の身代わりと なる架空の人物で、神武軍団の実体は戦死する兄五瀬の尊、虐殺される 実子タギシミミなど住吉系海人族の傭兵たちであったんじゃないかな。
34 :
世界@名無史さん :04/04/29 11:28
>>31 わしらは学校で、半島には任那日本府っちゅ日本の直轄地があったって
習ったもんなんですが、半島在住の倭人ちゅうのはその事をさしとるんですか?
35 :
日本@名無史さん :04/04/29 11:37
ヒミコの死後崇神が (1)元首的巫女王 トヨスキイリヒメ (2)譜代というか旧邪馬台国担当巫女王 ヌナキイリヒメ(過労死1号) (3)ヒミコの本来の職の後継者 オオタタネコ という新しいアドミニストレーションで出直しを開始したが、このオオタタネコ というのが河内の人であるが、和歌山とも関係が深いようだ。 これは崇神の時代と神武の時代は直接的といっていいくらいつながっていて 和歌山県に対する政治配慮が相当あったのではないかと思うんだけど。 祟りじゃー。祟りじゃー。の時代だったんじゃないかね。
36 :
日本@名無史さん :04/04/29 12:05
簡単に「東征」とかいうけどさ @畿内「首長」に婿入りした人物 A大阪で畿内勢力と交戦(敗北?)した人物 B熊野に勢力を持っていた人物 C畿内勢力を滅ぼした人物 D畿内に王権を確立した人物 E九州からやって来たとされる人物 これみんな同じ人か? 二つ以上あてはまるひとなら ニギハヤヒ、神武、応神、継体、天智、天武、・・・
ひどいスレだな
38 :
日本@名無史さん :04/04/29 14:37
>31 倭人は、半島倭も列島倭もいたことは常識。 双方が民族的一体感を持っていたから ある程度政治的にも、一体と捉えるべきだろう。 また中国側からみても、倭国伝とは表現できず、 倭人伝とせざるを得なかったほど弾力的存在だった。 首長国連邦のような、部族集団国家で 国家としての概念では実態が掴めなかったのかもしれない。
39 :
日本@名無史さん :04/04/29 16:49
倭人はイレズミ者のことだろ?
40 :
日本@名無史さん :04/04/29 17:55
倭面土国ってのがあったな。 異面人というのも。 倭と異は読みが同じ。 つまり顔に刺青をしたのが倭人。 顔に刺青した久目族、阿曇族は九州だから倭人がいた倭国というのは九州にあったことは間違いないな。
41 :
日本@名無史さん :04/04/29 18:12
降臨神話というのは異民族がどこかからやってきて先住民を支配した事を示す話。 尚且つその際に多少でも争い、対立が描かれていれば間違いない。
42 :
日本@名無史さん :04/04/29 18:59
高句麗好太王碑に「倭が海を渡って云々」とあるから、 倭人の主体は列島にいると認識されていたと思うが。 半島内に倭人がいたのは確かだと思うが。
43 :
日本@名無史さん :04/04/29 19:54
(1)筑紫から物部を率いて近畿に入植したニギハヤヒ、ウマシマデ、ナガスネヒコ これが先住民(ここれ以前、大阪、奈良は海だった)。 (2)丹波から南下してナガスネヒコ、ナクサトベ、ニシキトベ等紀伊半島周辺を攻撃 した倭の宿禰、ウズ彦等のアズミ族。 (3)九州南部、出雲の勢力と共にアズミ族に巻き返しに出た吉備、ヒミコ。 (4)アズミ族の崇神の倭国中興。 次第にこういう線が出てくる気がするんだがね。
44 :
日本@名無史さん :04/04/29 20:00
しかし今では「新羅以爲臣民」の主語は高句麗で倭ではないと言うのが常識となっている。 「臣民」という言葉を敵の民に使う筈はない。高句麗の民だからこそ「臣民」なのだそうだ。 そしてその前後の情勢を見ると新羅は確かに高句麗の属国になり、百済は倭と結んで高句麗と対抗している。 判読不能の文字を勝手にでっち上げる事は改竄と同じだから気をつけよう。
45 :
日本@名無史さん :04/04/29 20:07
>>43 かってに妄想を膨らませるのはどうかな。
考古学的裏付けが必要だ。
四隅突出墓とか積石塚とか前方後円墳、前方後方墳、土器、鏡の分布などから何が推測できるか。
みんなで考えよう。
46 :
日本@名無史さん :04/04/29 21:38
>>44 >しかし今では「新羅以爲臣民」の主語は高句麗で倭ではないと言うのが常識となっている。
漢文の流れ、碑文全体の主旨からは決してそうならない。
現に中国人の学者でそんな解釈をする人はいない。
それに現在の判読は碑文の原状よりも、石灰塗布以前の古い拓本に基づいている。
47 :
日本@名無史さん :04/04/29 21:55
>>44 漢文読めない半島人の妄想。
「倭渡海」とあるので、倭が主語に決まってるだろう?
文法めちゃくちゃな読み方だ。
48 :
日本@名無史さん :04/04/29 22:05
正確に書くと、 而倭以辛卯年来渡海、破百残○○新羅、以為臣民 而して、倭は辛卯年以来、海を渡り、百残(百済)、○○、新羅を以って臣民と為す。
49 :
日本@名無史さん :04/04/29 22:15
その文章の前から読むと、
百残新羅、旧是属民、由来朝貢、
百済・新羅は旧より属民であり、由来、朝貢す。しかるに…
と続くわけだ。
>>48 のように読まないと意味が通じないだろうが。
50 :
日本@名無史さん :04/04/29 22:19
>>48 訂正
而して、倭は辛卯年以来、海を渡り、百残(百済)、○○、新羅を破り、以って臣民と為す。
51 :
日本@名無史さん :04/04/29 22:20
>>40 余談だけど、台湾の原住民とかアイヌも、つい前々世紀まで
顔に刺青をしていたな。
顔に刺青する民はかなり広範囲い存在する。
52 :
日本@名無史さん :04/04/29 22:34
高句麗好太王碑では、「倭」と「倭人」が使い分けられていると思う。 「倭」は列島倭で「倭人」は半島倭ではないのか?
53 :
日本@名無史さん :04/04/29 23:00
今の考古学的状況からすると、半島倭の主力は百済にいたと思うんですよね。 とすると、「任那日本府」というのは、伽耶地方の「一大率」のようなものだったと 思うんです。
ムー大陸にあるんだよ
55 :
日本@名無史さん :04/04/29 23:41
いや別に、めちゃくちゃな事を言っているわけではないです。
>>53 これの根拠は、韓国内で見つかっている前方後円墳はほとんど百済南部
とされているところにあるからです。つまり、3世紀に金官・伽耶地方にあった
「狗邪韓国」は、扶余の残党の侵入等によって、小国分立状態になり、倭人の
主力は、百済南部に移動したんじゃないかと。
56 :
日本@名無史さん :04/04/29 23:50
基本に戻って おまえらちょっと福岡市の地図を逆さまに見てみろ 右足が志賀島、左足が糸島半島、福岡市がマンコ、能古島が赤ん坊に見えないか? このように地政学的に多角面から考察すると福岡が日本の発祥という結論が導き出される。
57 :
日本@名無史さん :04/04/30 00:03
>>55 >倭人の主力は、百済南部に移動した
この背景としては、やはり、倭の五王による朝鮮侵略・百済の属国化
があるんじゃないかと思います。
>57 黄巾の乱以後、楽浪・帯方は無政府地帯と化し、 しかも山陰地方で砂鉄たたらが生まれる前だったので、 鉄資源を求めて半島の覇権争いが始まった。 4世紀中ごろから、極東300年戦争がこれだ。 つまり倭の5王の時代、都は博多湾から有明海沿岸へ。 さらに7世紀初頭に大宰府へ遷都。
59 :
日本@名無史さん :04/04/30 02:05
前スレの>990 >日本人が発した国名を中国側が >「の」は音写して奴、「くに」は意訳して国と書き取ったとすると >邪馬台国は邪馬台奴国となりそうだが 倭人は国を当時の中国語の発音で呼んでいたのでは? 「国」の当時の発音は分からないが、彌奴國姐奴國蘇奴國鬼奴國烏奴國狗奴國(華奴蘇奴國) これらを倭人は○なコク 「な」は連体助詞の「な」 今でも一文字の国を言う時は「○のくに」となる(きのくに、ひのくに、漢の倭の奴の国王) 邪馬台国は「やまとコク」の音写ではないでしょうか?
60 :
日本@名無史さん :04/04/30 02:25
前スレの>967 >963 >当時の倭人が「かのくに」など言わない、直接敵対している国の名前くらいある >クマ国(熊襲国)と敵対していると言っていたのを狗という当て字を使ったのです。 現代日本人(一部の嫌韓厨)も直接敵対している国の名前を書かずに「彼の国、かの国」と2ちゃんに書いている 例 かの国の法則、彼の国の法則=韓国の法則
61 :
日本@名無史さん :04/04/30 03:01
>>13 「巫女王殺人」かどうかはわかんないんだけど、書記には山門の女首長殺しの
話もあるよね。
書記→書紀
>>60 口に出したくもないほど敵対していたのか?
口にも出したくないほど嫌いだったのか?
65 :
日本@名無史さん :04/04/30 17:52
百済、倭、高句麗これはよく似たもの。すると、純粋に韓国的なものって、 つまり、新羅的なものって言うのは何なんだあろう。ワイバクなんていう やつなのかな。
66 :
日本@名無史さん :04/04/30 21:15
>>51 >余談だけど、台湾の原住民とかアイヌも、つい前々世紀まで顔に刺青をしていたな。
>顔に刺青する民はかなり広範囲い存在する。
台湾やアイヌの刺青と倭人の刺青は意味合いが違うだろ。
倭人の刺青は海でサメに襲われないためのおまじないだ。
台湾やアイヌの刺青は主に女が結婚適齢期になった事を示すためのものだ。
結婚適齢期になった事を示す刺青は沖縄にもあった。
顔ではないがな。
ところで倭人は男が刺青をして海に潜っていた。
伊勢の海女とは違う。
佐賀県では今でも男が海に潜って漁をしている。海士というんだ。
1800年前の漁方を今でもやっているのだ。
面白いだろ。
67 :
日本@名無史さん :04/04/30 22:37
佐賀県というのは兵庫県と立地条件が非常に似てるなー。
「邪馬台国論争は考古学ではなく文献学」とどこかのスレで言ってたやつに まず1票。 各自、熱くならずにおもいっきり妄想を語れば良い。
>>68 でも論破されたら考古学的権威云々言い出す香具師が出て来るんだよな
70 :
日本@名無史さん :04/05/01 00:24
畿内説信者の一部は、考古学妄想なので、文献学をちゃっかり軽視
71 :
日本@名無史さん :04/05/01 00:44
北九州説信者の多くは、たんなる妄想なので、考古学と文献学の両方をちゃっかり軽視
>>66 南洋とかに刺青する部族ってよくいないっけ?
73 :
日本@名無史さん :04/05/01 01:24
橿原関係者と西都君、誰かが呼んでるよ>70-71
74 :
日本@名無史さん :04/05/01 01:36
>>70-71 畿内説信者の多くと北九州説信者の一部は、
妄想ではなく、考古学と文献学の両方をしっかり重視
75 :
日本@名無史さん :04/05/01 01:39
76 :
日本@名無史さん :04/05/01 02:33
邪馬台国は漢籍学 大和朝廷は国内文献学と考古学 同列ではないわな
古来、朝鮮族は戦乱を逃れて畿内に住み着き中心部纒向に自らの都市を建設した 纒向は銅鐸を祭る朝鮮族の首都 しかし源日本人の血が濃い南九州の天皇家に纒向は滅ぼされたが 朝鮮人の血と気質は関西に染み付いたとさ
78 :
日本@名無史さん :04/05/01 02:38
朝鮮民族が形成されたのは、ずっと遅いのでチョト違う
79 :
日本@名無史さん :04/05/01 08:56
纒向は漢鏡の配布と国産鏡サイズの管理、前方後円墳の許認可なと 後世の許認可、家元のような概念を持っていたようだ。現代でいえば ファーストフード業界のフランチャイズ制のようなものだったのかな。 周辺国で当時こんなことをやれるのは安定した漢王朝のようなところだろう。 こうした金儲け主義は縄文人、朝鮮人のものではなく、どちらかといえば 現代の華僑系、失礼だが、キョウホ系のような感じがするんだけどね。 やはり楽浪郡経由でやってきた何者かなのかな。
80 :
日本@名無史さん :04/05/01 10:00
しかし、根っからの列島人でなくては全国規模の古墳、鏡制度の受入れは できなかったであろう。又、鏡などの輸入品にかぶれるというのはそれを受 け入れたのはワカタケル型の大王もふくめて根っからの列島人であり、大陸 との交渉、進出は青銅製品、鉄素材の確保のためであったのかもしれない。
81 :
日本@名無史さん :04/05/02 03:16
>>80 「根っからの列島人」が縄文人を指すのなら?だが
3世紀の交易文化圏を形成したのが渡来人主体の国家ではないという説なら同意。
半島から先進の知識や技術を伴ってやってきた渡来人が
国家形成に大きな役割を果たしたのは事実だろうが
主体となるほどの多人数が一挙に押し寄せたというのはありえない。
文献どころか各遺跡にもその痕跡は一切ない。
82 :
日本@名無史さん :04/05/02 05:20
>>81 >主体となるほどの多人数が一挙に押し寄せたというのはありえない。
それはゲルマンの大移動のような民族移動を想定しているかも知れないが、
例えばノルマン人がイギリスを征服してその「主体」となったり、
マケドニア人の一派がエジプトを征服してその「主体」となったり、
モンゴルの一派がインドを征服してその「主体」となったりしたのは、
一握りの集団によって行われている。
「主体」となるのは多人数であるとは限らない。
古代の国家とは一つの「家」であり、領土や人民はその所有物であるからだ。
83 :
日本@名無史さん :04/05/02 05:26
いやさ「東征」とか「滅ぼされた」とか 皆さん勇ましいこと書かれてますが 3世紀以降の遺跡から戦乱の痕跡が一切出ないと言う事実は (鏃跡や刀傷の跡が見られる遺体は、2世紀後半まで) どう説明されますか? 最近の主流説が軒並み政治的理由とか連合(東遷もそのひとつ)を 提唱しているのは、まさにこの為なのですが。 (小規模精鋭部隊による、ゲリラ的暗殺&乗っ取りという説もあることはあるが)
84 :
日本@名無史さん :04/05/02 05:31
>>82 しかしそれらは文献記録も残っており
なおかつ発掘によって裏付けられたものじゃない?
邪馬台国でも大和朝廷でも、はたまた銅鐸文化族でもいいけど
仮に文献からは意図的に抹殺したとしても
一切それを匂わせる出土品が出ないと言う事がありうるのかな?
85 :
日本@名無史さん :04/05/02 06:34
前方後円墳てさ、高麗尺っていう尺度で作られているんだって。 少なくとも高麗人が全国の前方後円墳を設計指導していた事は間違いないと思われ。 高麗人が各地に出張してその地の首長の注文を受けて前方後円墳を設計指導していたんじゃないか?
86 :
日本@名無史さん :04/05/02 07:09
どうして高麗に前方後円墳が無いんだ? 朝鮮半島の前方後円墳は、建設当時は倭人勢力圏内だった半島南部に限られてるんだろ?
87 :
日本@名無史さん :04/05/02 09:16
>>81 >>82 >>83 古代、万景峰号はなかったとすることに賛成(w
>>84 文献記録の作者が白村江の戦い以後の倭国人で唐の
漢籍知識を売り物にしていたものたちなだからなー。倭国古代の
実像など眼中になくもっぱら史記等漢籍の記述をよりどころと
していたものと思う。上っ面の恰好いい官僚たちが必死で古来からの
語り部の伝統を伝えてきた弱者を踏みにじって出世する。そんな時代
であったのだろう。
>>85 動いたのは棒っきれの尺であり人じゃない。メートル法が入って
きたのはフランス人が移住してきたことではない。
>>86 宋がワカタケル倭王武の上奏文を正式に認めたということは
半島南部が安東大将軍の版図であったことを認めたことであり、
そこの住民がワカタケルの許可する墓制に服するのは当然。
88 :
日本@名無史さん :04/05/02 11:28
>>85 高麗尺って後から付けた名前だろ
どこの誰が使い始めたのかはわからん
銅剣が大正時代の命名であるように
後から作った言葉でモノの実態を測るのは
大いに危険なのだよ
89 :
日本@名無史さん :04/05/02 12:02
>79 岡山県の古墳のほうが立派だったりするので 許認可説は破綻している。
90 :
日本@名無史さん :04/05/02 12:28
>>89 許認可制かどうかは別にして
吉備は前方後円墳文化形成のの重要な担い手であることは間違いない。
なにしろ初期型前方後円墳で使用された特殊器台が
吉備型のデザインなのだから。
91 :
日本@名無史さん :04/05/02 13:34
>>89 「キビ」しい処を突かれた。キビは箸墓の建設者であった可能性があり
親の親というステータスと考える。
92 :
日本@名無史さん :04/05/02 16:27
>>84 >仮に文献からは意図的に抹殺したとしても
>一切それを匂わせる出土品が出ないと言う事がありうるのかな?
この時代に、それが常に期待できるかどうかということもある。
例えばイワイの乱などはたしかにそれらしいものが残っているが、
景行仲哀の九州親征とか、神功皇后の新羅征伐とか、「文献」に
残っている事件について、「それを匂わせる出土品」が出ているのか?
93 :
日本@名無史さん :04/05/02 17:18
そういうこと言い出したら日本中の地面を邪馬台国当時 まで掘り下げるしか証明しようがなくなるなw まあ、東〜北日本はおいといても今じゃ大都市になっている 所は大規模な発掘は望むべくもないじゃん。 結局遺跡が見つかるような所って、今ド田舎で単に発掘 調査しやすいような所か、後世のしっかりした記述がある所 だけみたいだな。
94 :
日本@名無史さん :04/05/02 17:44
>>93 考古学なんてそんなもん
三内丸山は野球場を作ろうとしてた所だし
荒神谷は道路工事やってた所
吉野ガ里も工業団地のために整地してたんだよね
対馬で坂遺跡っての見たことあるけど
民家が建て直すんで家を壊して下を掘ったら出てきた
もし隣の家が建て直そうとしてたら隣が遺跡になる
ほとんどマグレの世界だからな
95 :
日本@名無史さん :04/05/02 17:48
96 :
日本@名無史さん :04/05/02 20:19
>>83 「東征」が1〜2世紀にあったなら何の矛盾も無いが。
97 :
日本@名無史さん :04/05/02 23:43
>>93 その通り。
だから「遺跡が出ないからその事件はなかった」とは言えないのだ。
98 :
日本@名無史さん :04/05/03 05:11
>>93 ホケノ山古墳の木郭が楽浪郡と関係があるという説については
どう思う?
99 :
日本@名無史さん :04/05/03 11:15
横から失礼。倭には木郭なしとか、南北に長しとかは後漢時代の データを参照して、時代考証を無視した倭人伝を作ったのではな いかとの感がするなー。記紀の編者たちと余り変わらないんじゃ ないかな。
100 :
日本@名無史さん :04/05/03 11:28
楽浪海中に倭人ありというのは倭の海人族が楽浪の群島を 支配下においていた。そしてその末裔の一部が出身地の瀬戸内海 沿岸に漢、遼寧の影響を受けた墓制を持ち帰ったとも考えら れる。
中国の歴史書執筆に関する執念を知らないのか? 司馬遷みてみ、
>99 倭は甕棺式だから木郭なしが今日的にも正確。 太平洋岸の中国人による調査がなかったこととや 倭人が里程や方位による地理把握をしていなかったため、 南北に長しとの記述は後世まで続いた。 べつに記紀のような歴史改ざんの作為があったわけではないだろう。
103 :
日本@名無史さん :04/05/03 15:24
>>100 ホケノ山古墳は支配者の墓と考えられる。
纏向の支配者は海人族の末裔だったのかな。
104 :
日本@名無史さん :04/05/03 16:30
ホケノ山古墳がウズで名高い鳴門、萩原1号墳と楽浪出土の 鏡を分け合っているウズ彦の別名が椎根津彦というが、海部 系図などにいう倭宿禰であろうとおもわれる。2つの名前は 別人でその間柄は神武-五瀬命の関係であろう(神武記で脚色 があったのか)。ホケノ山古墳からは山口県の壷が出るが被葬者 出身地を表しているとの説あり。壱岐-伊都ー奴ルートから 対馬-沖ノ島-関門ルートに変わる時代瀬戸内海人族も、出雲など のアズミ系同様台頭していったのではないか。いずれにせよ倭人伝は 男王は長続きせず女王になったと伝えるし、事実吉備の文化の流入 また大量の東海からの土器(アズミ系か)流入があり、邪馬台国が 成立して行く。
邪馬台国がそのまま大和朝廷になったんなら 親魏倭王の金印が、先祖伝来の大切な宝物として扱ってると思うんだけどな。
106 :
日本@名無史さん :04/05/03 21:54
邪馬台国がそのまま大和朝廷になったんなら 三国志〜新唐書の国交を、列島の立場からありのまま記載すれば 立派な日本国史となる。卑弥呼がもらった百枚の鏡も国宝として保管。
107 :
日本@名無史さん :04/05/03 22:34
漢倭奴国王金印は志賀島の聖域ではなく人目に触れないところに 秘匿された。つまり神社が保管していたが何時の時代か中央の 目の届くのをはばかり、秘匿したのだろう。親魏倭王の金印の場合 未だ三輪神社はできていなかった。古そうなものとしては七枝刀 等の出てくる石上神社あたりが臭い。古墳に埋蔵したり、三種の神器の ようにそれを持っていたら大王の地位が保証されるなどといった ものではなかっただろうと思う。
108 :
日本@名無史さん :04/05/03 22:41
ヤタノカガミだって平安時代の火事で何度も消失してるのに 各地に配った卑弥呼の鏡なんて残ってなくて当然だろ
109 :
日本@名無史さん :04/05/03 22:47
一回の船積みで同型のものが10枚セットで来たんじゃないか という専門家の説があり。多分ほとんどは宮内庁の管轄下の 有名古墳にあるのかも。
110 :
日本@名無史さん :04/05/03 23:53
>108 金印インチキ説か。 鏡を配った証拠も知りたいところ。
>>105 卑弥呼が死んだらまた国が乱れたといった状態だったのでは、
金印なども無事保管してられなかっただろう・・・
112 :
日本@名無史さん :04/05/04 01:11
いまの法隆寺が建ってから 国が乱れたことは一度もないと・・・
>>112 東大寺大仏殿だって何度も焼けてるぐらいだから、
法隆寺が原型を留めているのはむしろ運が良い。
114 :
デマスキー :04/05/04 16:14
鎌倉の大仏殿なんて津波で流されたんだろ、たしか。 立地によっては日本のことだから、地震・台風・洪水・津波・火事でなくなってても不思議じゃないな
115 :
日本@名無史さん :04/05/04 20:09
>>105 親魏倭王の金印は「仮授」されたので、卑弥呼が死んだときに魏に返したのでは?
「仮授」ってのは正式に授けたということ。 べつに現代語の「仮りに」という意味ではない。
117 :
日本@名無史さん :04/05/04 21:51
仮節なんてのも「かりに」じゃないけどなぁ・・・・ けどこういうのって本来temporaryの意味がそのうち変質してったんじゃないのか? 「仮授」の場合、『「仮りに」という意味ではない』と断言できるのか? 正直、おれはよくわからん。
118 :
日本@名無史さん :04/05/04 21:54
本来ならば当事者間、皇帝-女王間で直接に受け渡し すべきところを遠路のために第3者を経由して渡すというように 勝手に解釈していたが、どうかな。
119 :
日本@名無史さん :04/05/04 22:27
漢の四年、韓信が斉平定後、劉邦に斉の仮王にしてくれと申し出て、 劉邦は激怒したが、子房他の諌めを受けて、「仮王とは何事か!真の王となれ」と いってその場を取り繕ったという話があるけれど、 このときの「仮」は、やっぱりtemporary=一時的なという意味だろ。 で、「仮授」っていうのはどういう意味なのかってのが長いことわからない。 「一時的に授ける」なのか、「正式に授ける」なのか。どっち? 時代による用法の変遷などもあげて、議論してくれるとありがたい。
120 :
日本@名無史さん :04/05/04 23:16
金印が「仮だから要返却」なら 難升米の「假銀印青綬」も返却しなくてはならない。 「今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。 其綏撫種人、勉爲孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞、 今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。」
121 :
日本@名無史さん :04/05/04 23:47
正式でも要返却なんだろ。本来は。 通交が途絶えたとか、中国本土が混乱の極みになって返せなくなってしまったとかはあるだろうけど。 だから、返した返さないは無意味だろ、議論として。 とりあえず、 >「仮授」ってのは正式に授けたということ。 が正しいかどうかに絞って議論してほしいな。
122 :
日本@名無史さん :04/05/05 00:08
「仮授」っていう単語が、実は使用されていな点もポイント
123 :
日本@名無史さん :04/05/05 00:15
字源を引けば簡単にわかることだが 「仮」には「くれてやる」の意味がある。 目上の者から目下の者に物を GIVE すること。 「授」も物を与えることだが「手渡す」の意味を含む。 だから「仮授」は皇帝が直々に卑弥呼に(の名代の難升米を通して) 金印を与えたことを指すと思う。
124 :
日本@名無史さん :04/05/05 16:48
>>123 辞書っていうのは、長年の用例の集積だから、あとで転化した使い方っていうのは
辞書にはのってても、古い時期には使われていないってことはあるよね。
それに、同じ辞書でも、藤堂では『一時だけかし与える』になってるから、
『与える』という意味ではあるけど、“一時的に貸す”というニュアンスが付いている。
史記を検索すると、どうも“与える”意味で假(仮)を使っている例はなさそうだ。
漢書もなさそう。
数が多いし漢文読めないから、見落としてるかも知れないけど。
ところが三国志になると幾つかある。たとえば、魏志武帝紀にはこんなのがある。
太祖遂至洛陽,京都,暹遁走.天子假太祖節鉞,録尚書事.
これは董卓誅殺後の混乱の後に、曹操が天子と洛陽で面会した時のようだけれど、
曹操に節鉞が假されている。
節は軍事上の懲罰権の象徴、鉞は軍事統帥権の象徴だったと思うけど、
これは危機に臨んでの一時的な付与とみたほうがいいんじゃないかな?
仮節なんてのも、これは軍事懲罰権に使持節・持節・仮節の三段階あるなかの一番下で、
“仮節”っていうのはもともと緊急時に臨時に設けられていたものがそのまま恒久化したような気がするんだよね。
証拠はないけど。
で、こっから先が問題なんだけど、拜とか假とか授で検索すると膨大な量が引っかかってしまうから、
なかなかこうだって詰め切れない。
用例的にはどうなんだろう。
“かす”とか“一時的に”とかいうニュアンスを含まない純粋なgiveの意味ってあるのかな?
125 :
日本@名無史さん :04/05/05 18:05
藤堂は中共におもねるところ多大だったように 学者としてはDQNだと思う 一時期上古音と中古音の中間の失われた音韻を再構築したと自慢したが 邪馬臺國=ヤマト国から発想して 「臺」を「ト」と読むのを基礎にしてたんだからお話にならない 古田が三国志では邪馬壹国だと指摘してから言わなくなった
126 :
日本@名無史さん :04/05/05 22:55
『一時だけかし与える』というのは常識的におかしい。 しかし、貰った方とすれば呉れた国が滅びたら意味ない。 却って中国みたいな国は反動で今までおべっか言ってたのは 敵だ、なんてことになる可能性があるし、そこに来て日本の馬鹿が その尻馬を担いで騒ぐこともあろう。志賀島で秘匿されても 当たり前じゃないか。
127 :
日本@名無史さん :04/05/05 23:00
一時的ではないでしょ。 「本来なら『王』は中華の国にだけいるんだけど、我々が特別に王を称するのを許してあげるよ。 だから謹んでありがたく受け取り、我々を敬いなさいよ」 って意味でしょ。
128 :
日本@名無史さん :04/05/06 00:02
>>127 だから、その用例があるかどうか聞いてるでしょ。
用例がなけりゃ、そんなこと言えないじゃない。
129 :
日本@名無史さん :04/05/06 21:38
「正式に与える」と「仮に与える」の区別などない。 どんな権限でも本来は天子(=中華皇帝)のものなんだから。 正式に与えられた権限であっても、本来は天子のものなのが 「仮に」与えられているわけ。
130 :
日本@名無史さん :04/05/07 00:36
>>129 でも、後漢書では、「倭奴國王印」を「仮授」するとは言っていない。
倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。
131 :
日本@名無史さん :04/05/07 00:52
>>129 『三國志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷傳全体でも、「仮授」と言っているのは、倭人の条だけだ。
132 :
日本@名無史さん :04/05/07 11:02
手元の魏志倭人伝の原文によると 今以汝為 親魏倭王 假 金印紫綬 装封付帯方太守 假授 汝其綏撫種人勉・・・ 金印紫綬を「假し」、装封して帯方太守に付し「假授」せしむ・・・ 一応正確なところをかいときます。 岩波「新訂魏志倭人伝他三篇」。
倭人の側が受け取ったかどうか不明で、中国が一方的に授けたからじゃないの?
う、がいしゅつか・・・
最新の鈴木説が主流
136 :
日本@名無史さん :04/05/07 16:34
>>131 三国志全体では他に幾つかある罠
>>131 >>132 假が問題なんだから、いいじゃない。細かいことは。
假す、という行為がどういう意味を持つかってことでしょ。本題は。
>>129 だから、金印も本来は皇帝のもので、形式上は一時貸与ってことかな。
けど、假の使い方がかわるのは晋書ぐらいからって話もあるよね。
もう少し、具体的な史料をあげてほしいな。
このままじゃ、私(=129)を信じなさいっていう信仰の世界だもの。
わたしゃ宗教者じゃないから、悪いけど信用できないのね。証拠がないと。
いろいろあって学習したからね、証拠をあげずに結論だけを連呼するヤツは信じるなって。
水槽のタコでも赤い皿に電気ショックを与えると青い皿の餌にしか 寄ってこなくなるそうだが。 「羹にこりて膾をふく」という諺はタコのためにあるのだろうな
138 :
日本@名無史さん :04/05/07 22:23
最近の考古学の成果を見るに、想像以上に百済と倭の結びつきが強いことが分かった。 九州の豪族の多くが、百済に渡ったのではないか?
逃げましたな
141 :
日本@名無史さん :04/05/07 23:24
丹波の出身者が新羅脱解王になったとの伝説の ある一方で浦島太郎は帰国したような話でもある。 同様に楽浪方面に進出していた倭奴(朝鮮人は日 本人を軽蔑してウェーヌと呼ぶという話を読んだ) 倭人であるが、最終的には百済共々日本に引き 上げたのではないかという気がする。要するに 倭奴というのは日本ではオニ、ワニ、韓国では ウェヌと呼ばれていたが海人族ということでは とおもう。ただし、オニ以外の海人族もいたような 気がする。狗奴国が臭いのだ。
142 :
日本@名無史さん :04/05/08 05:48
倭奴というのは漢籍からとった名前だから 韓国人が日本人を倭奴とよぶようなことが始まったのは ずっと新しい時代のことだよ 韓国人の支配層に漢文教養は定着してから。
144 :
日本@名無史さん :04/05/08 07:58
飛躍ばかりで失礼だが、金印の委奴、これって、伊都と読ませるのは 奴は「の」又は「ぬ」という倭国語に当てはまっているので無理がある。 「わの」と読ませるのは余りにも倭国的すぎておかしい。「倭奴」という 言葉に倭国の総称の意味をもたせたものとすると「倭奴」という古代 国際語の存在が出てくる。かの大英帝国ももともとは海賊の国、ましてや 倭国には高地性集落、吉野ヶ里、桃太郎の鬼が島、九鬼を初めとする水軍 、大江山伝説、ねぶた、ネプタ祭り、なまはげ、倭寇等、(論理にかけるが) 感覚的には海賊を思わせるものが多い。その子孫とおぼしきもので秀吉に によって差別扱いを受けてものと重なる点もおかしい。
145 :
日本@名無史さん :04/05/08 08:14
縄文時代から黒曜石、ヒスイを交易する海人族はいたはずで 精神的にも弥生の「一所懸命」、「村八分」等の概念と対立し、 経済的には米作りを生業とせず、食生活においては狩猟、漁労 を生業としたものがあった。それは佐賀、島原、天草、薩摩の線、 伊予から吉備にかけての瀬戸内、紀州から北陸に至る(信長と 戦った浄土宗)等の深層心理に残っていたんじゃないか。
146 :
日本@名無史さん :04/05/08 10:33
古代中国には津波が大河を逆流して山を崩したという伝説があるが 今から6300年前喜界が島カルデラは地球規模の噴火を起こし、北海道 東北を除く日本列島は深い灰に埋もれた。倭人とはこの時世界各地に 離散した縄文人のことであり、そのうち、東シナ海、東部シベリアから 故土に向かって帰巣するものがでてくる。そうした流れの最後のものが 今から3000年前の弥生文化であるという仮説はどうかな。
147 :
日本@名無史さん :04/05/08 21:40
>>105-106 どういう立場での発言なのか真意を測りかねるが
邪馬台国がそのまますんなり大和朝廷になったと考えている香具師は
畿内説論者でもごくごく少数派です。
むしろ記紀編纂時までのいずれかの時代に王権が交代した可能性が高いとの
仮説を提唱される方がほとんどです。
(これは水野氏の三王朝交代説とはまた別のものであり
その時期や規模、内情については諸説あり)
最近では九州出身の部族が最終的に王権を確立したとの見方が多いようです。
“そのまま”という文言が何をさしているかを詰めないと すれちがいの議論になる罠 そうそう。 大和朝廷の定義もきちんとしておいたほうがよいな、きっと。
149 :
日本@名無史さん :04/05/09 00:06
>>148 >大和朝廷の定義
これまた難しい問題だなあ
なにせ成立時期が諸説プンプンだし、このスレ自体がそれを探ってるようなものだし
最近では卑弥呼の邪馬台国と台与のそれとは別物だと主張する大和岩雄みたいなのもいるし
記紀編纂時の大和朝廷(天武帝)と邪馬台国との関係を問うともなれば
すべてにおいて仮説の域を出ない(しかもそのすべてに反論可能)になるし
今更だけどホントに難しい問題なのね、大和朝廷って。
>>148 >大和朝廷の定義もきちんとしておいたほうがよい・・・・
いつも拝聴だけのROMなので、生意気な提案ですが、
歴史をうしろから削って遡り、ぎりぎり残った治世を大和朝廷と定義できないでしょうか?
さすれば邪馬台国はこう違うと言えませんか、大和の地であろうがなかろうが・・・・
生意気言ってスミマセン。
151 :
日本@名無史さん :04/05/09 01:28
>>150 いやいや建設的な意見ありがとう。
しかし
>>149 の言うとおり難問であることは確かだわな。
文献史学的に言えば、数少ない資料であるにもかかわらず
記紀と中国側の史書とで記述が一致していない点が多々あるとか
6、7世紀の古墳にしても被葬者が確定できないとか
挙句の果てには唯一の手掛かりのはずの天皇陵が調査すら出来ないとか
問題だらけだよな。
更にややこしいのは、発掘結果がこれまた記紀と一致しないなんてざらにあることだし。
現段階では継体天皇までくらいしか遡れないようにも思う。
その継体もご存知のとおり陵墓指定が間違っていたしね。
152 :
日本@名無史さん :04/05/09 01:42
多少強引だがスレタイに沿って定義するならば 魏志倭人伝に言う「邪馬台国」はその後・・・ @大和朝廷に発展していった。支配者(天皇)は記紀の語るとおり 連綿と続いていった。 A大和朝廷に発展していったが、支配者(天皇)は幾度かの交代を経ており 記紀の内容そのままで発展したのではない。 B邪馬台国は滅んだ(または元々傍流だった)。大和朝廷は邪馬台国とは 別の勢力である。 Cもともと邪馬台国という勢力そのものが列島には存在していなかった。 故に明らかに大和朝廷とは別物。 今ではAとBが有力だが、その中にも九州説や畿内説があるわけだ。 自説を述べる際にどういうスタンスかも一緒に書いてくれるとわかりやすいのだが。 ちなみに俺は「今の段階ではなんとも言えない」との卑怯な立場です。
153 :
日本@名無史さん :04/05/09 01:57
いつまで経っても決着しない邪馬台国。 もう、いい加減にしてホスイ。
154 :
日本@名無史さん :04/05/09 06:12
いや殆ど畿内で決着はついている。 民間の研究者や畑違いの言いたがり学者や小説家が頑なにそれを認めないだけ。 確かに100%とは言いがたいが、それを言うなら 義経がジンギスカンになった可能性や 関が原以降の家康が実は影武者だった可能性とかが 0%ではないといった程度のもの。
155 :
日本@名無史さん :04/05/09 08:20
畿内の銅鐸が破壊されている説明もできなくて畿内? 阿蘇山があった国が畿内? 金印をもらったのに出てこない畿内? 吉野ヶ里遺跡や大宰府は何?
156 :
日本@名無史さん :04/05/09 08:39
著作者、出版社にとっては決着がついては困る。学者というものは 弁護士や検事であって裁判官ではなく、本来大学の先生のような 人が多いんだがなにか主張を始めると引っ込みがつかない。 横綱のようなもので引退しかない。だから先生は、常識のある人の場合、 邪馬台国は決着などとは絶対にいえない。みんな政治家なんだ。 ところが2チャンネルではこんな金の亡者、蛆虫はいないんだね。 ころころ、なんでもいえる。これがいいとこなんだね。のびのびやろうぜ。
157 :
日本@名無史さん :04/05/09 08:42
阿蘇山なんて中国人が来るようになったのは最近のことだろ。 なんかあるんか。
>>154 逆だろう、ほとんど九州で決着はついている
今の問題は九州の邪馬台国と後の奈良の大和朝廷への移行過程や関係など
159 :
日本@名無史さん :04/05/09 13:59
決着はついてないんとちゃう? どの論にも確実な証拠がそろってないでしょう?反論の余地があるんだもん。 どの説を支持している学者が多いか少ないかの多数決で決着が付くというん なら決着はつくんだろうけど、多数決取ったからって真実とは言えないでしょー。 ここでは、唱えている人の数をどうこう言うのではなく、あくまで論理が成り立って るかどうかを見た方が実際的なんじゃないのかな?
皆様。日食警報です。 スルーでよろしく!
ある意味では国家の連合体だったんじゃないのか? 交代で議長国を務める連合体。EUとかアセアンみたいなもの。 だから首都なんかなかったというか、常に議長国みたいなところ がそうなってたんじゃないのか。
162 :
デマスキー :04/05/09 16:54
邪馬台国が畿内にあったなら、卑弥呼が神政をしたであろう場所を教えとくれ。 九州にあったなら、行程表の矛盾を説明しとくれ。 魏書の著者は日本に行っていないし、記載情報は又聞きだ。 もしも決定的証拠があるなら、たらたらやってないで、出しちゃぇばええやん。 学術に虎の子はきかんで
163 :
デマスキー :04/05/09 17:10
学問板なんだからさ、明らかな場合以外は厨だとか警報だとか言わずにしといたれ。 ハン板じゃあるまいし
164 :
日本@名無史さん :04/05/09 17:14
九州だ、近畿だというのは碁や将棋にある無限小数というのか 堂々巡りだ。みんながもう、いい加減にしてホスイなんていうのもわkる。 九州の邪馬台国と後の奈良の大和朝廷への移行過程や関係などが ポイントというのもわかる。ところで記紀を読んでもあれが統一国家だ 朝廷だというのは変だ。古墳でも2つ続く親子型は珍しい。大体、女系社会 であり、誰の子か母親もよくしらないというのが実際のところだろう。こういう状態が 平安時代まで続いているではないか。足利、藤原、曽我、物部なんていう実力者の 歴史といった方が早い。
165 :
日本@名無史さん :04/05/09 18:57
北九州には縄文時代から女王がいたのね。 その伝統が邪馬台国の卑弥呼につながったと考えられる。 畿内には縄文時代の女王はいたのかなあ?
166 :
日本@名無史さん :04/05/09 19:03
邪馬台国は畿内と九州、両方にあったんです。 畿内説も九州説も間違い。
邪馬台国はやはり連合体でたまたま議長国だったと推測する方が 無難じゃないのか。議長国が邪馬台国を名乗る。だからEUやアセアン みたいなもの。それが次第に統一して国家としての構造に発展した。 また九州と奈良を結ぶのは瀬戸内海。海運を通じて同盟強調関係 を結んでそういった段階まで発展した。そういうほうが理に適う。 そういう意味ではギリシアやローマが地中海を通じて広がったの と似ている。
171 :
日本@名無史さん :04/05/09 21:37
話変わるんだけどさ、伊都国は糸島半島近辺で確定なの? なんか「伊都国」って書いてある遺物とか出たんだっけ? 末盧国を松浦半島にすると、糸島半島あたりまでの道が見あたらないんですわ。 方角も魏志と合わないし。 松浦半島から内陸は難所だし。最初から壱岐から糸島に向かえばいいじゃんと思っちゃうくらい。
ちと、スレ違ったみたい。 失礼。
173 :
日本@名無史さん :04/05/09 23:08
>>171 >最初から壱岐から糸島に向かえばいいじゃんと思っちゃうくらい。
その突っ込み畿内信仰の馬鹿と古田宗教の阿保には通じないよ。
「伊都国」は方角に従えば吉野ヶ里だ。
174 :
日本@名無史さん :04/05/10 05:16
>>171 >松浦半島
どっちの松浦半島?
伊万里の北にあるのが東松浦半島(唐津、呼子)
伊万里の西にあるのが北松浦半島(松浦、佐世保)
175 :
日本@名無史さん :04/05/10 06:15
九州がなぜ近畿より早く王権が始まるかというと青銅器の到来が 近畿より先だからなんだ。そこで伊都国、奴国といった大きな国が 初めて近隣の国々に君臨する「高天原」てきなものができるんだ。 しかし、伊都国にせよ、奴国にせよ、はたまた後背地の甘木朝倉 方面を全て合わせても成長力において台頭する奈良、大阪地方、 それを何重にも支える列島中心地としての地理的条件には及ば なかった。とはいえ重要なことは、伊都国、奴国ではじめて国々 のつながりの動きができたことで、このパターンが東遷するのだと 思う。しかしこの青銅器時代で既に九州と近畿は武器型と銅鐸型 といった風に分かれており、古墳時代は近畿から始まる。その時に 魏との通交があったのだ。
冷静に考えて魏が当時地方王権の一つに過ぎない畿内をそこまで詳しく知る必要性は無い やっぱり畿内は「海を越えて東に倭種有り」だったんだよ
177 :
日本@名無史さん :04/05/10 07:20
鋭い視点だなー。その時、そこに何があったのか。公孫に 続き、三韓も魏の奇襲を受けている。この影響で九州に三韓の 逃亡者を隠す必要が出てきたのかもしれない。列島は二面外交 策をとり、奈良県を「ネオ山門」として取り繕ったのかも判らない。 これとは別に東瀬戸内海(讃岐、阿波、吉備、播磨)辺りが沖ノ島 経由の新ルートを開発したということもありえる。いずれにせよ 九州代表のような物部、久米、大伴等更には甘木、朝倉を始めと する地名が近畿入りする。非常に複雑であり、ブラジリア建都の ようなものがあったのかねー。
178 :
日本@名無史さん :04/05/10 07:34
和歌山県の伊都、那賀なんていうのは九州を真似たような感じだけど 飛騨と日田が似ているのは逆に九州に進出した縄文人例えば板付 に進出した雀居の東北の亀ヶ岡文化人(弥生初期)のようなものが いたんじゃないかと思う。縄文の中心は東北だからね。鹿児島の 上野原に行くとよくわかる。
179 :
デマスキー :04/05/10 12:15
縄文は一極集住しないから、中心地とかはないだろ。 50000〜100000規模の都市がどこかにあれば、話は別だろうけど。 関東とか旧来から大都市の地域は遺蹟の損壊が多いし。 その関連で以外と関東や近畿に中心があったとしてもおかしくない。 記紀に言うニギハヤヒは縄文勢力の化身的存在ともいうし
180 :
デマスキー :04/05/10 12:17
縄文は一極集住しないから、中心地とかはないだろ。 50000〜100000規模の都市がどこかにあれば、話は別だろうけど。 関東とか旧来から大都市の地域は遺蹟の損壊が多いし。 その関連で以外と関東や近畿に中心があったとしてもおかしくない。 記紀に言うニギハヤヒは縄文勢力の化身的存在ともいうし
>>174 唐津、呼子の方。
壱岐から近い方ね。
>>173 たしかに、唐津当たりから方位と距離あわせると鳥栖あたりになるよね。
でも海に出られる不弥国がよくわかんなくなる
182 :
日本@名無史さん :04/05/10 12:57
>>181 それは簡単だよ。有明海は当時もっと内陸まであったから。
>>182 いや、ほら、不弥国って、奴国から東に100里でしょ?
内陸に進んでまた西(海の方)に戻るってヘンなのかなと思ったモンで。
一度船に乗ってしまえば、南には下れるのだろうけど、奴国から乗ればいい
じゃんと思って。
カシミール3Dって言うソフト使ってんだけど、海進があった場合の海岸線が
ある程度イメージできるんですよ。
そうすると、吉野ヶ里あたりも海に近くなってたもんで。
磐井の岩戸山古墳と吉野ヶ里の当たりに、大きな入り江ができてる感じに
なってました。
>磐井の岩戸山古墳と吉野ヶ里の当たりに、大きな入江が・・・ →岩戸山古墳と吉野ヶ里の間に、大きな入江が・・・
185 :
日本@名無史さん :04/05/10 13:46
エー、次は「八女台国」、「八女台国」。最近かさの 忘れ物が多いので気をつけてください。・・・当時の 車掌さん(もう赤字路線はヤメタイなー)。
186 :
日本@名無史さん :04/05/11 10:19
邪馬台国東遷説は正しいの? 神武天皇はヤマタイの王だったの? 教えてキモいオタ
188 :
日本@名無史さん :04/05/11 12:51
あれは邪馬台国より2-3世代前じゃないかな。相当古い、神代(弥生)の 時代のようだ。メドレーの話を地理的に東遷に結びつけたのは 大和に進出した物部のニギハヤヒ等の伝承と一致させたものだと思う。 ニギハヤヒ等は東進したのは事実としても神武記にあるように 侵略したのではなくスカウトされたんじゃないかな。(神武を海賊と 考えるとそれも捨てられないけど。) 神武のときのように別府の辺りまでスカウト団がお出迎えに 出たのかもしれない。甘木、朝倉辺りにあったプロトヤマタイ国から お出ましになったんだと思うんだがね。
189 :
日本@名無史さん :04/05/11 13:04
いずれにせよ最初男王を立てたがうまく行かず女王にしたというのだから、 夫婦なんてない時代のこと、イスケヨリヒメが初代の女王かも知れない。
190 :
日本@名無史さん :04/05/11 13:31
九州から大和に来て一番キモイのは銅鐸だったので、というのは、 九州は銅剣銅矛だったので、銅鐸は邪宗であるとして禁じ、その 代りに九州と共通である鏡の宗教は奨励。この辺に対する反発が 狗奴国などの反乱だったんだろう。ハニヤスなんていうのはセラミック 会社の社長みたいなもので販売禁止命令とか所払いで持って処分されたもの だから、反旗を翻し、東方に新天地を求めたのかも。老女をシャーマンとする 関門、金海近辺の習慣も持ち込まれたのかも。
191 :
日本@名無史さん :04/05/11 14:44
その姫が依り代となった伊助さんって誰?
192 :
日本@名無史さん :04/05/11 15:09
これって神武の奥さん。系統的には摂津に勢力を伸ばしていた 近江のワニ族出身みたいだね。依り代の「イスケ」ってのは 斎宮(イツキノミヤ)なんかにもあるんだけど、個人的見解は 鋳鈴樹依媛、つまり、銅鐸を樹にぶら下げて御託を並べてい たんじゃないかと。ワニ>倭奴>ウェヌ>オニ>海賊・・・ これは弥生末期でその昔はカムイの親衛隊海人族で 鯱をトーテムとし、楽浪海中では徐福(ヒボコ、ホト)を悩まし、 始皇帝に鮫に悩まされと報告させたもの。平戸、佐渡で鳴らす オニ太鼓のリズムに当時の戦闘のシーンが残っている気がして いる。
193 :
日本@名無史さん :04/05/13 12:52
この前読んだトンデモではアマテラスが卑弥呼だって アマテラス=オオヒルメから
194 :
日本@名無史さん :04/05/13 15:04
アカルヒメ、シタデルヒメ等等の女神、火明命等の男神等ある時期 太陽崇拝ブームがあったみたいだが、ちょうど、銅鏡の輸入の時期に ソフトウェアとしてなんらかの類似する教理を持つ新興宗教があり、 ちょうど国家統一のときだから統一して味気のない国選のアマテラス を作ったが、既成宗教も多い中でなかなか受け入れてもらえず、遂には 現在に至るまで皇祖神であり、顔がなく、伊勢神社に鎮座する始末と なったんじゃないかな。統計的な神様で下品なところがなく、庶民には 好かれなかったのかも。弁天様のように女性自身を強調する訳には行 かなかったのでご利益が薄れたのかもね。一応崇神が持ち込んだという 話になってはいるけど。しかし、スサノオとペアーを組む、北東アジアの 熊シャーマネスと弟の形式を継承しているものとも考えられる。神様には 違いなく、卑弥呼との関係は薄いと思うんだけど。
195 :
日本@名無史さん :04/05/13 15:16
しかしアマテラスとスサノオに仮託して日本海方面と近畿 瀬戸内方面の対立とか、日本海方面の宗教指導者の新生 邪馬台国における処遇問題などに触れている感じがあり、 ある程度の史実も入っているのかも判らない。スサノオは 裏日本から東国の独立国王(狗奴国のようなものか)の 承認を要求したが、逆に邪馬に任ずるとの高天原政府の 命令を受け出身地に帰れずに号泣したといいうこともあろう。
196 :
日本@名無史さん :04/05/13 15:18
スサノオは邪馬台国官僚の海運大臣を命じるといわれたのだろう。
197 :
日本@名無史さん :04/05/13 17:56
神話説によるにも、 アマテラス=卑弥呼、とすると、日向三代を兄弟にしないと、 神武から開化までの格代の在位年数が二、三年になるという弱点がある。 また、イザナギが行った、化け物のいるヨミは、邪馬台国で、何らかの理由でイザナミがとらわれの身になった、という大和側の記述とする説もある
神話だろ、神話w
199 :
日本@名無史さん :04/05/14 09:07
最近は、神話を神話と断言できないこともあるのでは、という考えが出始めた。 欠史八代が創作なら、そんなに在位期間をのばすのでなくて、人数を増やせば良かったし、 創作なら、あんな小豪族から后をださず、中臣とかからにしててもいいはずだ。 そう考えると、不自然といえば不自然
200 :
日本@名無史さん :04/05/14 09:13
オオヒルメ=アマテラスって朝鮮半島出身。 朝鮮語で「日」は「イル」=「ヒル」 卑弥呼はオオヒルメなのか? スサノオは新羅出身だしアマテラスも新羅だろう。
201 :
日本@名無史さん :04/05/14 09:29
馬鹿か? ヒルメは大日靈女貴のこと。 靈の字の通り、巫に通じるのはわかる。ここからヒミコと読めるだろう。 ヒルメと読んだうえに、靈と女を合体させた字に置き換えたのは、作為的行為だろう、 また、古代は靈を、現代の霊の意味で使っていないのも注意すべき。
202 :
日本@名無史さん :04/05/14 10:42
イザナギ神話の黄泉の国がギリシャ神話のオルフェウスからの借用であるとすると
物理的接点としてはイザナギ活動地域の丹後の首長(又は妻木晩田古墳の首長
あたりか)が107年の帥升使節団に随行又は主席として引率し、後漢鏡を得た際に、
後漢の外交筋又は大月氏代表から仕入れた一連のギリシャ神話(ヤマタのオロチを
含め)を基にしている可能性があると思われる。いずれにせよ、神話の時代的編年は
イザナギ→オオクニヌシ→神武→スサノヲのような感じがするんだが。
参考
http://db.gakken.co.jp/jiten/ka/109150.htm
203 :
日本@名無史さん :04/05/14 11:04
神代、丹後塩土翁が粉河で天女と結婚し、酒造りを商売としていたという。 塩土とは英国から洛陽まで続く硬水又は塩分の強い地域のことであろう。 粉河、粉酒は現在西安(洛陽)の銘酒で白酒のようなもの、60°程度あり、 紛河、紛酒として有名である。こうした伝説が丹後に残ることと、内行花文鏡、 イザナギの活動地域を考えると107年の帥升使節団の線が出てくる。この鏡は ホケノ山からも出てくるという。
204 :
日本@名無史さん :04/05/14 12:06
こんなんあるぜ。神代記は輸入物っぽいといっている。
http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=5456 ---------------
『古事記の真実』 二宮陸雄さん(74歳)
サンスクリット語で解読
・・・
本書は興味深い新説に満ちている。たとえば『古事記』独特の表記法
として、漢字ばかりの神名や地名に、「上」など謎の「小字」が添えられ
ているが、これは日本語にないサンスクリット母音の発音を示している
のだという。神々や歴代天皇の和名も、古代インドのヴェーダーンタ哲
学思想をもとに、明快に解釈される。伊邪那岐命(いざなきのみこと)が
生み出した12神が、実は黄道12宮の星座であると解明されるところな
どは、読者も思わず息をのむ壮麗なシーンだ。
「ただし、全文をサンスクリット語で解読できるのは、天照大御神(あま
てらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、須佐之男命(すさのお
のみこと)の誕生のところまでです。そこまでは特殊な人々によって口
伝されてきたのではないでしょうか」
205 :
日本@名無史さん :04/05/14 12:57
そんな電波だすなよ。 サンスクリットで書く必要性がないし、書いても国書にゃしないだろ。 現実的に上代日本語として読んで、編纂時に入った中臣氏の操作について考えな
サンスクリットで書いてないじゃん、古事記は。見りゃわかる通り漢字で書いてるじゃん。 梵語のことよく知らないけど、サンスクリット語文化圏の神話と共通しているって可能性 があるということじゃないの? 8世紀当時の口伝か何かで残っていたものに梵語の影響が残っていたってことは考え られないの? もちろん、中臣氏の操作も否定しない。中臣氏の操作があったから梵語の影響が否定 できるって論理はよくわからん。
207 :
日本@名無史さん :04/05/15 01:06
つまりアマテラスとかスサノオの伝承は仏教が伝来したころに作られたもの。 と言う事だね。スサノオの牛頭天王なんぞ仏教そのものだ。
208 :
日本@名無史さん :04/05/15 09:01
牛頭でなくて、午頭でなかったか?
209 :
日本@名無史さん :04/05/15 10:46
>>206 だから、天照・ソサノヲ・ツクヨミまでは、サンスクリットで解読できる、って書いてあるじゃん。
それをわざわざ漢字化してまで、国書に残す必要がないだろ。
サンスクリットで読める!って説はたいてい電波。
普通に考えたら、そのときに、サンスクリットを読める人間がいたなら、仏教教典も原文で読めたはずだが。
なんで漢文訳を音読みなんてしてるんだ?
それは日本にサンスクリットできるのがいなかったからだろ
210 :
大和朝廷(ウソ) :04/05/15 19:44
大和朝廷ってさあ〜何してたの?いつに生まれたの??教えて〜!!
211 :
日本@名無史さん :04/05/15 19:49
http://www.asahi.com/culture/update/0515/002.html 「魏志倭人伝」には、邪馬台国の女王・卑弥呼が三国時代の239年、魏王朝に使いを送り、その返礼で金印と「銅
鏡百枚」を与えられたとの記述がある。三角縁神獣鏡には239年にあたる魏の年号が記されたものがあり、古代中国
の思想を題材にした文様などから中国製が多いと考える学者が主流だ。
一方、三角縁神獣鏡が国内の3〜5世紀の古墳などから500枚以上も見つかっているのに中国では1枚も出土して
いないことなどから、日本製と見る説も根強く、論争が続いている。
広川守・学芸員は「断定するには鏡をもっと多数分析する必要があるが、材質からは三角縁神獣鏡の一部が中
国産である可能性が高まったのではないか」と話している。
212 :
日本@名無史さん :04/05/15 20:53
私の研究では、日本で出土するレシプロエンジンの材質はほとんど オーストラリア産のボーキサイトが原料であることが明らかになった。 これってオーストラリア製エンジンなのか? 日本産のボーキサイトが原料でないと日本製でないのか?
213 :
日本@名無史さん :04/05/15 22:00
和同開珎は、国内産の銅を使ったから和銅とづけらけた。 大仏の鋳造も、そのころ初めて国内で産出された銅を使ったと言う。 北摂の一蔵ダムの近くの知明山(ともあけやま)には、 大仏の為に国内ではじめて銅を掘り出したと言う説が残っている。
材料としての銅はすぐに腐るから長距離の運搬には向かない。 中国産の銅で作られている以上、中国で製造された可能性が高い。
215 :
日本@名無史さん :04/05/15 22:17
半製品なら長距離OK
216 :
日本@名無史さん :04/05/15 22:37
鉱石のまま遠距離を船も使って運ぶなんて、よっぽどオツムが弱い人間だな
217 :
日本@名無史さん :04/05/15 22:39
大航海時代のイスパニアの船は、船底に鉛のバラストを積んで出港し、 中南米でバラストの鉛を下ろして砲弾に加工し、帰りは黄金をバラストにして本国に帰った。
218 :
日本@名無史さん :04/05/15 22:44
銅鉱石のメインはやっぱ黄銅鉱?
219 :
日本@名無史さん :04/05/15 23:27
オツムの悪そうなことを言ってみる。。。 リサイクルならどうする? くだらない中国製の銅製品を再利用したら中国産で日本製だな
昨日日本史の先生が「畿内にあった有力集団がその場に残ったのが 大和朝廷、九州に移転したのが邪馬台国」とか言ってた。 クラスの歴史ヲタと授業中に討論してた。 これは有りえない説なんですか?
>>220 あーイイなぁ
おれも学生時代に戻って先生とそんな話したいよ
222 :
日本@名無史さん :04/05/16 00:11
>>220 九州にあった有力集団がその場に残ったのが
邪馬台国、畿内に移転したのが大和朝廷
こっちの方が可能性が高いと思う
畿内にあった有力集団がその場に残ったのが本家の大和朝廷、
九州に移転した分家の邪馬台国から軍をを率いて本家を乗っ取ったのが
神武(祟神、応神)かもよ
223 :
日本@名無史さん :04/05/16 00:17
崇神は畿内の本家の家長 応神は九州の分家の家長
224 :
日本@名無史さん :04/05/16 00:27
というかさ、おまえらの頭単純化してるよ 卑弥呼の時代から大化の改新まで400年以上経過してるんだよ 大和朝廷がそのまま穏やかに発展とはいかないよ 挙句の果てに蘇我氏が所蔵していた歴史書である天皇記国記の焚書 焚書したからには当時の支配層天皇家にとって都合の悪い隠したい真実の歴史が書いてあったんだろう
九州 畿内
邪馬台国 大和
卑弥呼=天岩戸前の天照
台与=天岩戸後の天照 祟神天皇 同世代の人物
l l
天之忍穂耳命 垂仁天皇 同上
l l
瓊瓊杵命 景行天皇 同上
l l
日子穂穂手見命 日本武尊 同上
l l
鵜葺草葺不合命 仲哀天皇 同上
l
神武天皇 → 応神天皇 同一人物
神武=応神説は?
瓊瓊杵命の可愛の山稜が前方後円墳なのは
瓊瓊杵命が景行天皇と同世代の人物だから
>>197 にある神話説の無理を解決
卑弥呼=天照 卑弥弓呼=素戔鳴尊 出雲(狗奴国)の王
台与の代に狗奴国は大和(祟神)に攻められ弱体化
>>224 天皇記・国記は焚書したわけではなくて事故で焼失したんだよ。
国記はその時は助かったけど。
>>224 天皇になった蘇我は自分の正当性を主張するために天皇記を作った?
天皇になった天武は自分の正当性を主張するために日本紀を作った?
228 :
日本@名無史さん :04/05/16 10:55
古代にそういった軽い、不真面目な人間は生きられなかったのであろうか 一人も描かれていない。今の世でも不真面目なものはいずれその付けが回ってくる。
229 :
日本@名無史さん :04/05/16 11:35
帝記・旧辞ってホントにあったのか? あったなら何で書かれたんだ? 漢文? 万葉仮名?
サンスクリ(ry
>>224 「天皇に都合の悪い事=事実」とは限らんわけだが。
「蘇我氏が所蔵していた歴史書である天皇記国記」がでたらめだから焼かれた可能性もある。
>>229 あったんなら、はじめて漢字で書くことの苦労を
太安麿が序文でくどくど説明する必要がない。
あくまで語り部の口伝として存在していた、とでも考えるほかない。
233 :
日本@名無史さん :04/05/17 08:07
なら焚書はできないな。口伝だもの、関係者を大虐殺しないと抹殺できない。 なら、おそらくそれ以外でかかれた、というのが妥当だろうな
234 :
日本@名無史さん :04/05/17 10:19
中臣だかが漢字以前から文字を使っていた、 とどこかで読んだ事があるが・・・・
235 :
日本@名無史さん :04/05/17 10:39
記紀は「ある書に言う」を連呼→それ以前の資料を使用→しかし日本書紀は初めて漢字で記した苦労を説く→それ以前の資料は漢字以外?→神代文字か?→神代文字はデッチアゲ→だからある書なんてない。 うちの知り合いの史学者の論理。メチャ歪曲論。
236 :
日本@名無史さん :04/05/17 15:33
http://inoues.net/yamataikoku/mystery/3kakubuchi.html 上記URLの「3.三角縁神獣鏡の出土数」の表を参照し、
三角縁神獣鏡の出土数を邪馬台国高天原の議席数だとすると、
現在宮内庁によって発掘が禁じられている箸墓などの発掘に
よっては奈良県が0ではなくなる可能性もあろうが、大勢は
変わらず邪馬台国時代高天原は筑前出身議員の単独政党支配
であったといえる。
これは古墳時代に入っても続き、筑前は全国一であり、近畿、
中国の周辺がその後を追っている。ニギハヤヒの東遷を物語
るのだろう。要するに筑前が日本を作ったのだよ。
日向などがようやく出てくるのは古墳時代に入ってからである
から、神武の話は邪馬台国時代とは関係なくそれ以前のこととなろう。
一生邪馬台国と大和朝廷の間がわからないのかな? それだったらさびしい
238 :
日本@名無史さん :04/05/17 16:05
大和の方としては筑紫の反乱が怖かったので懐柔のために優先的に三角縁神獣鏡を配布したとか、 筑紫が伝統的貿易権を主張し、法外な100-1000%もの通行税を課したということもありえよう。しかし、 邪馬台国時代の筑紫は決して制圧されたような状態ではなく強権であったのではなかろうか。やがて 筑紫は増長し、次第に大和の足を引くようになる。これが景行、仲哀時代のことだろうか。
239 :
日本@名無史さん :04/05/17 16:10
筑紫は、今も叛乱をしているぞ! 電波を飛ばして半島の手先となっているじゃないか! 筑紫は昔から、大和朝廷の敵であったのだな。
241 :
日本@名無史さん :04/05/17 16:24
筑紫は奴国のすぐ東のフミから東は大和朝廷の味方であったようだ。 その辺から東海岸を大隈半島までが残余の列島と同じで、問題は この西の薩摩半島から伊都国に至る地方が東シナ海文化に入ること だ。だけど半島の手先というのは北朝鮮のことだろうと思うが、これは 高句麗のことじゃないかな。
242 :
日本@名無史さん :04/05/17 17:27
邪馬台国って存在しないんだろ?
>筑紫は奴国のすぐ東のフミから東は大和朝廷の味方であったようだ。 ありえませんというか意味不明、大和朝廷=筑紫なのに。。。頭大丈夫? 朝廷の中核は筑紫出身を忘れてるよ、君はもう一度妄想練り直しだ。
↑自説を主張するのに自説を根拠とするバカ
>>241 、〜あったようだ。
根拠は思いつき?ヒラメキ?
246 :
日本@名無史さん :04/05/18 02:00
素朴な疑問です。 魏志倭人伝の「魏」という国は、最近の 中国語の辞書によると”Wei”という発音です。なぜ日本では ”gi”と発音するようになったのでしょうか? 呉音ですか? そもそも卑弥呼の時代には、魏に朝貢していたのだから、向こうの音に 従って、”Wei”と呼び始めるべきではないでしょうか? もともと、それ以前の日本には「魏」という漢字はないのだし。 「ギ」という音は、どこから出てきたのか? 誰か判ります?
247 :
日本@名無史さん :04/05/18 04:00
>>246 おいおい、現代の中国語(北京語)の発音は、複数の北方民族によって
1500年間ものあいだ、めちゃくちゃに変質させられてしまった発音なのは常識。
人種的にも、少なくとも中国の北部は、魏の時代と異なるというのも常識。
例えば、いまでいう北京の付近が、魏のあと、どういう民族に
次々と支配されていったかを、基本事項として勉強しましょう。
加えて、現代においても、北京語以外での中国語の発音を認識しましょう。
文章はほぼ同じ漢字の文字列であっても、まるで違う言葉だとわかります。
249 :
日本@名無史さん :04/05/18 04:42
>>246 が全く関係のないWeiを持ち出してきているのがアホ。
この場合は北方中古音と日本語の発音を比較するならまだ意味がある。
250 :
日本@名無史さん :04/05/18 07:12
>>249 では北方中古音では魏をどう発音したん?
知っているなら、そこまで書いてくれると助かるのだが。
251 :
日本@名無史さん :04/05/18 07:49
倭と魏はヒトとオニの差だから人任せの国、鬼任せの国という意味か。 いずれにせよ字がよくないね。偉くなると年金も人任せ、北朝鮮は鬼任せ これも無責任だなー(w
252 :
日本@名無史さん :04/05/18 08:05
今日の新聞に載ってたけど、三角面神獣鏡は中国産で決まりなんだって?
253 :
日本@名無史さん :04/05/18 08:20
あの時代は全部輸入物だから国産はないし、朝鮮産は後漢より前の 古い時代のものだろう。いまさら何をかいわんや。
254 :
日本@名無史さん :04/05/18 08:33
>>249 三国時代の魏の発音は中古音ではあり得ない
魏の後の西晋が滅びて北方の異民族が大挙して華北に入ってくる
南北朝時代の北魏あたりから漢字にも異体字が増えてきて
発音も変わってきたと思われる
それが中古音で隋唐から元代までの発音
日本では「漢音」と呼ばれる一般的な漢字の読み方
三国時代の魏の発音は確定していない
中国の音韻学で上古音と中古音の間が再現できていないから
しかしおそらく東晋以後の江南で使われた「呉音」だろう
仏典の読み方がこれで日本の漢字の読みにもかなり残っている
255 :
日本@名無史さん :04/05/18 09:46
>>253 そうだけど、九州説論者はずいぶんと銅鏡国産説を叫んでたじゃん。
家の近所に天皇陵がイパーイ有るようなところに住んでいる為か 正直なところ某ゴッドハンド氏のような捏造とかは抜きにしても、 邪馬台国から古墳時代の変遷には興味がある。 ただしアホみたいに起源を追いかけるよりはそれによって生じた社会的な変遷とかを 考察するほうがより面白いような… (夏場は蚊が多いが、御陵さんの近くは堀部を伝ってくる風のせいで涼しい。)
>>246 なんか、アホが乱入して見苦しい展開になってるようだけど・・・・
>そもそも卑弥呼の時代には、魏に朝貢していたのだから、向こうの音に
>従って、”Wei”と呼び始めるべきではないでしょうか?
ご説ごもっともだけど、多数のコンセンサスが得られないと混乱の元になるだけだから、
もしどうしてもというなら、あなたが学界なり各研究者になり働きかけてそうなるように運動しないと難しいね。
それにこれは魏だけの問題じゃないでしょ。
他も全部、現代中国音にかえないといけなくなる。
めんどくさいぞ。中国史にかかわる語意全部・・・・気が遠くなるな・・・・・・
>「ギ」という音は、どこから出てきたのか?
中国語の辞書じゃなくて漢和引かないと。
手元の漢和だとギは漢音。
>>254 >三国時代の魏の発音は中古音ではあり得ない
またみてきたようにこんなこと言ってるヤツもいるし。
森博達は後漢初頭には中古音の体系に移行したと書いてたりするんだけどね。
確か、森の研究というよりは中国の誰ぞの研究を引用してたような気がするけど。
258 :
世界@名無史さん :04/05/18 13:22
しつもーん コンセンサスってなんれすか?
259 :
日本@名無史さん :04/05/18 14:42
260 :
日本@名無史さん :04/05/18 15:44
筑紫はミノーで降板しますた。
なんかえらそうに講釈タレてる奴が居るが、結局 畿内なのか九州なのか、それとも瀬戸内や出雲なのかどこなんだ まだ妄想にせよ自分の仮説立ててる奴のほうが笑えるだけましだ スレ住人からコンセントを得られるようになるまですくつにでも帰ってろ
262 :
日本@名無史さん :04/05/18 16:38
畿内か九州かとかいう大ざっぱな問題はどうでもいいので、
もっと個別の重要事項について突っ込んだ議論を重ねましょう。
>>254 つまり、六朝文化とともにやってきた音という理解でよろしいですか?
邪馬台国の後継あるいはプレ大和朝廷にとって、
最も近くで、かつ、魏などがあった中国北部の地域が、
あのように胡や北狄など異民族の支配下にはいってしまっていた時代に、
倭としては自分たちの位置付けをどのように意識して変化させたのか、
そのこのところにすごく大きなポイントがあると考えています。
「魏」の音 上古音[giued]中古音[giuei]近世音[uei]現代北京音[wei] [g]は普通のギではなくてng、つまり鼻濁音のギ。
264 :
日本@名無史さん :04/05/18 18:30
上古音でも中古音でも、ほとんど変わらないてことやね。 しかし北京音って、北方民族におかされ続けて変質しまくってるね。 なんでも、日本の方が古い時代の音をよく残しているとか。 日本こそが、古代中国の正当継承者という意識があったという説もあったね。
265 :
世界@名無史さん :04/05/18 18:34
266 :
世界@名無史さん :04/05/18 18:51
文化の中心地よりも、その周辺地域に古い文化が保存されているというのは よくあることだが・・・
267 :
世界@名無史さん :04/05/18 18:56
今の日本の音読みが古代中国での読みのまんまだったら笑うなぁ
実際かなりそれに近いだろ
269 :
日本@名無史さん :04/05/18 19:06
呉服だって日本が古風を保持してるわけで ごぼうの栽培も中国では絶えてしまった
270 :
世界@名無史さん :04/05/18 19:10
>>268 へーそうなんだ。すごいなぁ。
いつの時代のどのアタリの読みを色濃く反映してるとかってのは分かるの?
>>270 かなり詳しくわかってるよ
呉音(=百済音)は中古音の初期、漢音は中古音の中期を反映してる。
推古朝遺文などには「倭音」とよばれる呉音以前の仮名遣いがあり、
これは上古音を色濃く反映している。
272 :
日本@名無史さん :04/05/18 20:40
>>268 めちゃくちゃ似てるけど、日本語は必ず母音で終わるから、
今の北京語にはないけど昔はあった入声音には、余分に母音が付いてたりするね。
>>271 呉音以前の上古音を反映した「倭音」については、めっちゃ重要だけど、
古くからの大和言葉と思われている言葉にも、上古音から導けるものが多々あり、
とはいえ崩れたり訛ったりしているものも多くて厳密な判定が難しい。
一番幅広く解釈を取り入れると、大和言葉は大陸からの借用語が多い、となる。
とはいえ、聖徳太子の時代よりさらに1000年前とかだから判定微妙。
273 :
日本@名無史さん :04/05/18 21:13
>>272 >大和言葉と思われている言葉にも、上古音から導けるものが多々あり、
多々はないだろw
>崩れたり訛ったりしているものも多くて厳密な判定が難しい。
だったら「多々ある」なんて判定できないだろ?
>一番幅広く解釈を取り入れると、大和言葉は大陸からの借用語が多い、となる。
そんな結論にはならんな。
一部の借用語の存在を理由に「多い」とはいえない。
>聖徳太子の時代よりさらに1000年前とかだから判定微妙。
藻前は何をいいたいわけ?大和言葉なんてないっていう雰囲気作りか?
274 :
日本@名無史さん :04/05/18 21:31
広義の大和言葉は、狭義の大和言葉を中心に、加えて、 列島へ渡ってきた人々が齎した言葉からの借用などによって構成された。 ってところが、公平な見方であろう。 大和言葉はなかった、とか、すべての大和言葉が独自に昔からあった、 っていう両極端の見方からはそろそろ目覚めたほうがいい。
>>274 度合いの問題だろうが。両極端なことは272も273も逝ってない。
276 :
日本@名無史さん :04/05/19 01:52
馬(うま)←上古音mag 麦(むぎ)←上古音mog 丘(くが)←上古音kug 竿(さを)←上古音sau 針(はり)←上古音par 釘(くぎ)←上古音kug(鉤) 鍵(かぎ)←上古音kug(鉤) 顔(かほ)←上古音kep(頬) 胸(むな)←上古音mua(肓) 関(せき)←上古音sek(塞)
277 :
日本@名無史さん :04/05/19 02:06
竿(さを)←上古音sau 針(はり)←上古音par 胸(むな)←上古音mua(肓) ↑これは違うだろ
278 :
日本@名無史さん :04/05/19 02:13
針は現在「はり」だけど、どうせ、p→f→hと変遷してきたんだろうね。 すると、古代では「ぱり」ってことになるけど、「par」と妙に合うね。
そうじゃなくて「針」の上古音はparじゃないでそ
280 :
日本@名無史さん :04/05/19 02:28
銭(ぜに)←上古音dzien 牧(まき)←上古音muek
281 :
日本@名無史さん :04/05/19 03:57
上古音というと、周から春秋戦国時代にかけての発音ですね。 卑弥呼の時代より1000年以上前の大陸音が大和言葉の一部に封印されているとは。
>>281 弥生時代の始まりが500年繰り上がる説が正しければ
そのころの中国からの渡来人がもたらした言葉が大和言葉(倭国の共通語)になったのかな?
イタリア半島には8つ?の言語があったらしいから、
西日本もかなりの数の言語があっただろうし
283 :
日本@名無史さん :04/05/19 05:48
越人や呉人が戦国を避けて列島へ移住したという説ともすごく整合性が合う
284 :
世界@名無史さん :04/05/19 07:27
馬なんて最初列島にはいなかったんだろ。 そりゃ大陸の言葉を借りるわな。
285 :
日本@名無史さん :04/05/19 09:54
言語の借用と移住とは同じじゃないということか。が、生産性の高い 稲作農耕民族系がその子孫を増やす率がより高かったであろうことも 考えられる。が、基本的言語、文法などに影響はなかったということか。 しかし、近畿を中心とした関西弁は基本的なイントネーション、アクセント を逸脱しているように見えるがこれなどは外国の影響ではないか。
286 :
日本@名無史さん :04/05/19 10:02
つまり、移住してきたものが日本語のアクセント、イントネーション取得することに 難があり、なまっていたことがそのまま方言となって残ったんじゃないか。
287 :
日本@名無史さん :04/05/19 10:45
方言の部分だけは間違い。 まずは、どっから来たかの部族ごとに異なる言語がある状態がスタート。 (もちろん、同じ系統の似た言語同士という関係などもありうる。) 民族というのは、人種とは直交する概念で、言語を中心とした文化などを 共有する集団を指すわけで、まずは、徐々に大きな共同体となっていくなかで、 日本列島(の正確には西側かつ半島南部含むと思われ)内で倭語が生まれる。 もちろん、言語・文化の共有化が遅れた地域は、その意味で別民族となり、 例えば、隼人とか蝦夷とか、自分たちと異なる存在となっていく。 注目すべき点は、琉球語が、日本語の(極度な)方言として解明されていること。 つまり、統一された倭語の存在のあとに、琉球へ移住したということ。 (先住民がいたかもしれないが、少なくとも倭語勢力が主となっていった。)
うまい言い方がわからんですが 訓読みだと思ってたモノが実は遡れば音読みじゃ〜ん っつ〜のは驚きですた はい
290 :
日本@名無史さん :04/05/19 17:00
言語学もまた、いにしえの民族移動を示す史料になるわけだ。 その意味では、言語学でも、文法系に日本は力を入れたほうがいい。 日本語は、極度の省略癖があり、「可愛い!」という中に主語・動詞が存在しない。 これは、古典にも共通する。「あなにえし〜」もそうだろうし。 問題が、文法体系が甘い民族は、たいていいにしえの時の文献が残っていて、口伝でない、という特徴がある。 ラテン語も省略癖が激しいのが特徴だが、文献も多い。 中華も同じく。 その体系でいくと、何らかの文献がいにしえにあった(それが帝紀・旧辞だろうが)であろう。 どうだろうか……?
291 :
日本@名無史さん :04/05/19 17:33
大和言葉の話、なんとなく勉強になったような気がしるのだが・・・・・ これって、よくある発音が似た言葉を並べただけの○○起源説とか、 タミル語起源説とかよりも信憑性がある話なの?
293 :
日本@名無史さん :04/05/19 21:22
語彙を増やすにあたって、逆に言えば、 新たな文化・技術・概念・物との遭遇において、 もたらした人が用いていた呼び方を取り入れるは自然だと思う。 とはいえ、例えば大陸から大量同時移住などは現実的でなく、 一挙に押し寄せたというより少しずつしかも漂流先の各地に、でしょうね。 したがって、もとからあった基本語彙や文法その他などは、 影響を受けずに保持され続けたという見方は正しいことでしょう。
馬とか銭とかは有名だけど、丘・顔・胸なんていう基礎語彙はちがうだろ
295 :
日本@名無史さん :04/05/20 04:44
馬とか銭とかが大和言葉に組み込まれたのはいつ頃ですか? どこから来たどういう人たちによってもたらされましたか?
馬と銭では時代がちがうだろ
297 :
日本@名無史さん :04/05/20 12:07
>>293 縄文時代の終わりの人口はおよそ10万人といわれています。
一方、古墳時代の終わり頃の人口は500万人ほどだったことがわかっています。
国際日本文化研究センターの埴原和郎の推計によると、この間100万人規模の渡来民がやってこないと
この急激な人口の増加を説明できないということです。
前3世紀から7世紀頃までの1000年で100万人。
もちろん、人口増加率の予測などから、もっと少数だったとする研究者もいます。
(少なめの試算がどのくらいかは、スミマセンが把握しておりません)
大量同時移入というのがどの程度のこととお考えですか?
イヤな言い方になっていたらスミマセン。他意はないのです。
私も基本語彙はけっこう保存されると思うのですが、その具合を
定量的に把握したいと思ったもので…。
298 :
日本@名無史さん :04/05/20 12:41
願望としては、縄文時代のどこか途中で日本列島において源大和言葉が完成し、 その後の新たな文化とともに渡ってきた語彙を増やして大和言葉が成立。 しかし現実を考えると、隼人や蝦夷をはじめとして、記紀などにも 言葉が異なる民族がごろごろたくさん出てきている。 つまり、日本列島において、西日本に限っても、言語統一は未だなかった。 とはいえ、ある程度の大きな集団が広域で言語を同じくしていたというのは ありえるとともに、それが日本語の母体になった蓋然性はありうる。 しかし、その時期や規模を明確にしようにも現状では無理というもの。
縄文人口は35万だろ? 東日本が20万、西日本が15万。西日本は人口集中地に縄文時代にも街があったとみられ、まだこれでも少ないとか。
300 :
日本@名無史さん :04/05/20 13:23
日本語が完全な開音節語だというのは大きな特徴で、大野晋はこれをポリネシアに くっつけて南方要素だと言っていたが、果たしてそうだろうか。 ラテン語は子音の語尾を多く持つ閉音節語だが、その直系の子孫であるはずの イタリヤ語は日本語に次いで二番目くらいの完全さで開音節語だ。 思うに、これはローマ帝国が異民族に開放された帝国であったために 多くの異民族がラテン語を共通語として話し、その過程でラテン語がピジン化した のではないか? もしそうであれば同じような現象が日本語に起こった、つまりピジン化の 一つの現れとして開音節化が起こったのではないか? と言うことも考えられる。
301 :
日本@名無史さん :04/05/20 15:06
ラテン語が本当は開音節語だったのに 文字表記上、閉音節語として表記しただけじゃないの? ヘブライ語には母音表記が無かったでしょう。
そんなことはどうでもいいからさー 邪馬台国は近畿でFA?FA?近畿だ。
303 :
日本@名無史さん :04/05/20 15:36
邪馬台国は、火山が関係するものの、近畿に火山がない。
>>302 せっかく面白く読んでたのに本道に戻さんでくれ
>>299 そうでしたか。すみません。
資料が古かったか(2001年)。
306 :
日本@名無史さん :04/05/20 17:19
>>300 日本語がピジンてゆっかクレオール言語だと想定すると、
ピジンというのは二種類以上の母語を持つ人々が接触し、
かつ、それらの集団の間に言語的支配を持つほどの関係がなく、
しかし、両者の間の交流がそこそこあって交流のための言葉が必要とされ、
どちらの母語でもなく簡略かつ混成されたものがピジンなので、
日本においてもそういう関係が生じている必要がある。
さらに、ピジンがクレオール言語として発達成立するには、
子供たちがそのピジンを母語とするようになる環境が加えて必要となる。
例えば、なんらかな強力な政権のようなものが成立後では、
上述のようなことは生じないので、少なくともそうなる前にしか可能性がない。
307 :
日本@名無史さん :04/05/20 20:57
要は横浜の中華街だの、大阪の東成区だっけ、そういった中国、 半島系ゲットーの大きなものでもない限りおかしいって事か。 飛鳥にも帰化人系の古墳の多いところがあったりするようだが そういうのは大勢に影響はしなかったであろうということか。
308 :
日本@名無史さん :04/05/20 20:59
ピジン化について言えば、異質な言語を持った多数派の文法と 少数派だけど地位の高い少数派の単語がちゃんぽんになるわけだ。 この2派が征服・被征服であっても、交易における客と商人であってもよい。 強力な権力があるとは限らない。
309 :
日本@名無史さん :04/05/20 21:20
世界で日本語ほど膠着語多い言語ってほかにあるのか おれはそれが気にかかるんだが
310 :
日本@名無史さん :04/05/20 21:35
さて、話は変わるが、平原1号墓、西谷3号墓、楯築墳丘墓、ホケノ山古墳などで古墳建設の ノウハウ儀式を研究して纒向で箸墓古墳が建設されるのだが、こうした技術移動に なんらかのトップクラスの、いわば大名行列のような、移動、まー、首長弔問外交 ともいうべきか、そういうものと、オリンピック、国体並のそういう関係者を収容する 迎賓館のようなものはどうなっていたのか気になる。
311 :
日本@名無史さん :04/05/20 21:57
中国人で日本語を学ぶ人は韓国人が日本語の「は」、「が」の 使い分けを覚えるのが早いのに感心しているが、日本人として これを印欧語で説明するとなると簡単ではない。「黒海」の出た グルジア、スペイン独立派のバスクなどに「能格」というのがあるが これは単に他動詞の場合の主格の代理のようなものだが、以後の 発言を限定する意味では日本語の「は」、「が」と似たところがある。 シュメール、タミール、ウラル語などに膠着性が強いらしい。非常に 古い時代に農業が中東から一極的に伝播した際の名残かもしれない。
312 :
日本@名無史さん :04/05/20 21:57
>>309 言語の分類として、屈折語、孤立語、膠着語があるのはご承知の通りだが、
膠着語はなぜか中国を囲むように分布している。
東アジアはもともとは膠着語圏だったが、
そこに孤立語を話す集団が中華の名のもとに勢力を拡げ、
人種的には周辺民族を巻き込み混血しまくった漢民族になったという説が有力。
313 :
日本@名無史さん :04/05/20 22:02
>>311 やっぱ日本のルーツはシュメール文明だね。
スメラミコトって言うからね。
314 :
日本@名無史さん :04/05/20 22:05
出雲大社には」八百万の客神の休憩所のような建物があり、 楯築古墳には環状列石がある。いまでも近所の神社の柱は 氏子の寄進者の名前を刻む。古墳を囲う特殊器台もこうした ものだったのかな、それとも殉死してものの首級を載せたの かな。なぞがなぞを呼ぶ。
315 :
日本@名無史さん :04/05/20 22:12
スメラミコトに座布団3枚。
316 :
日本@名無史さん :04/05/20 22:16
漢字の発明が却って足枷となり、孤立語が膠着語に成長するのを妨げた、 乃至は、退化させたということも考えられよう。四声が表音表記を妨げるように。
317 :
日本@名無史さん :04/05/20 22:16
石川九楊氏のとなえている『二重言語国家・日本』の説では、 膠着語とは漢字の圧力によって変形された言語だと断言している。 さらに、中国語とその周辺の言語が孤立語的形態をとったのは、 漢字の特性ゆえだという。
318 :
日本@名無史さん :04/05/20 22:20
初期天皇の皇居に、師木水垣宮とか玉垣宮とか、 今の瑞垣・玉垣の結界を思わせるね。
>>317 石川九楊は100%デンパ。『二重言語国家・日本』も駄本。
膠着語は朝鮮語と日本語しかないと思ってるらしい。
321 :
日本@名無史さん :04/05/20 23:19
>>320 そんなこと日本書紀の編者に聞いてくれ。
322 :
日本@名無史さん :04/05/21 03:29
>>320 肯定することも否定することもできない
BC660は縄文時代だからありえないと言われていたが、弥生時代が500年繰り上がり
BC660に何らか事実が含まれていることも考えられる
神武は弥生文化の王、長すね彦は縄文人王朝の王かもなー
323 :
日本@名無史さん :04/05/21 04:24
神武も長脛彦も饒速日も、同じ言語を使っていたんだよね。 少なくとも西日本の広範囲においては相当前から同じ言語圏を構成ってかんじ? もちろん、部分的には異言語集落もあったんだろうけど。土蜘蛛とか?
畿内説はいまどう扱われているのか? 年輪年代法(怪しい)で弥生時代中期が百年遡り、畿内説が完全にペケ、と言うわけでもないらしいのだが(記事を信じれば)。 週間読売2000.1.23号の記事より一部抜粋。 「今では考古学者の大半が、邪馬台国畿内説を取っていますよ」 (明治大学名誉教授・大塚初重) わたしの経験から言って この手の自信たっぷりの引用の為された記事は 非常に 胡 散 臭 い (笑) 古墳時代と邪馬台国時代がリンクすれば九州説は成立せず、箸墓規模の古墳は卑弥呼か台代の墓と言うのがこの説の骨子のようだが…。
>>323 >神武も長脛彦も饒速日も、同じ言語を使っていたんだよね。
ソースは?
326 :
日本@名無史さん :04/05/21 08:21
ホケノ山古墳出土の壷が山口県産で被葬者の出身地を物語る というが、神武東遷と一寸引っかかる。神武を豊予水道まで出 迎える椎根津彦を山口県出身と仮定するとホケノ山被葬者に持 ってきてもよさそうだ。というか神武は血統書のようなもので実質 この一行は宗教的な集団であったのかもしれない。 神武が筑紫の岡(岡田)の水門に出向いているという辺りも何か あるようだ。これは平原1号墓の葬儀に参列したと読み、次に 吉備で楯築古墳建設に参加し、イザナギ文化圏ともいうべき 東瀬戸内地方の古墳建設に影響を及ぼす。 この神武グループを山陽線とすると山陰線を同様に動いたのが オオクニヌシで椎根津彦(倭宿禰=スクナヒコナ)と兄弟格、で 兄貴分と見る。その圏内の出雲の西谷3号墓の葬儀には吉備から 特殊器台が出ているからスクナヒコナも出席したかもしれない。
327 :
日本@名無史さん :04/05/21 09:02
「最初に男王を立てたがうまく行かず、女王を立てた」ということは神武遠征隊が 大和に入ったが保守的な土地柄で旧態然とした女系社会が残っており手がつけ られなかった。「ヒミコ」という神がかり的存在の下に昔ながらの氏子のような共同体が 存在する環境に各地から派遣された代表者が武家屋敷のような集落を構えた。 いわばスカートの下の政治体制であったのではないか。
オオヒルメなる女性は、イワレヒコと同時代の人間、というせつがある。 直系継承を語る系図が嘘で、オシホミミ・ニニギ・ヒホコデミは、履中・反正・允恭みたいな兄弟間継承だとしる。 また、オオヒルメがフキアエズのころまで生きていたというのも、あるから、だいたいこうだろう。 また、イワレヒコはフキアエズの従兄であるという話を言うのも聞くんで、あるかも。
329 :
日本@名無史さん :04/05/21 09:42
フィリッピンでは「呼び込み屋」のことをバークマン、吠える人というらしいが 薩摩隼人の隼人はバークマン(吠える人)らしい。古代にはキャバレーなどはなく よく似てはいるが、熊だの、狼だのがうようよしていた。だから、吠える意味が 脅かすということで勧誘するという意味ではない点が一寸違うが、さて、ニニギ の命のために多分島津が建てたのだと思うが可愛山陵という古墳のようなものがある。 これは古代薩摩のどこかにあったが大和朝廷によって破壊されたものを復元したの ではないかとみられるが、神武時代にニギというと熊襲の連中を手なずけるのには 恰好の系図であったのであろう。現在は伊勢神宮のように宮内庁の警備員のような人が たっているが、地元のガードマンなのかな。
330 :
日本@名無史さん :04/05/21 09:55
オオヒルメを平原1号墓被葬者、平原の女王とすると、神武がその葬儀に 立ち会うのは当然というか、葬儀委員長の立場であったかもしれない。 オシホミミだけどオシホというのは「噴火」の意味で「脱穀」ではないと思うが。 「噴火」とすると薩摩、肥の国とはうまくあうが、「ミミ」を首長という意味だとすると 「オシホノクニノミミ」が短くなったのかなーなんて考える。
寝呆け頭でかいたら間違えた。ヒホコデミでなくてヒコホホデミだったヨ。 ホホデミを穂穂出見とすると農業的だが、火火出見とすると、突然火山的になる。 史学では記紀をとって穂穂出見らしいが、正直いうと火火出見かもしれない。 すると、やはり九州だろうか。 あとは、ウガヤなるものの植生がどうだったか、とかだろう。 邇邇杵も別字があるのだが、携帯からなので、手書き入力できない…… 神代の名前は漢字は確実に当て字なので、操作ができる点、ややこしい。 音で判断するか、別字を全部調べあげて、選び出すかしないと無理かもしれない。
332 :
日本@名無史さん :04/05/21 11:09
官はイキマ、次はミマシ、次はミマカキ、次はナカテというが: イキマ(国防大臣、ナガスネヒコのポストでトミヤマ近辺の 生駒山に監視通信センタをおいた) ミマシ(観松彦、孝昭>(ミマ<宮廷の)+津>通商産業大臣) ミマカキ(ミマ<宮廷の)+垣)(近衛師団長) ナカテ(農地国税大臣)。 後世のミマキイリヒコとは宮廷のイリヒコ=大王。 相当外れてるだろうなー。
333 :
日本@名無史さん :04/05/21 11:35
日穂出見(峰から登る太陽の方角を読んで農業暦を述べ、 凶作を占い、好天豊作を祈るシャーマン)ということで、 本来ヒホデミの字面であるはずが、母音調和でホホデミ となるんじゃないかとも思えるんだがね。
ことば遊びが流行ってるみたいなので、も一ついきます。 巫をカンナギと読みますが、巫女は後世のよみで、カンナミかもしれない。 なぜなら、イザナギ・イザナミと似てるから。 たぶん、イザナギも、イサナギで、諫+ナギ(男性を示す接尾語)かもしれない。 だとすると、イザナミ・イザナギは荒れ狂う神を諫める最高神官だったかもしれない。
335 :
日本@名無史さん :04/05/21 13:11
KAN-NA-GI ->KAN-NA-NGI ->KAN-NA-MI IZA-NA-GI ->IZA-NA-NGI ->IZA-NA-MI ナギ、ネギ、ニギ・・・これらはカンナギと同じナギでシャーマン、 ハヤヒ、ハヘ、ハヤ、ホエ・・・音声によるシャーマン、 イタコ、アタゴ、イタキ・・・託宣によるシャーマン、 カミメ、カンメ、カメ(熊女の意があるかも)・・・女性シャーマン、 カグ、カゴ・・・竹に関連するシャーマン。 イザ、イソ、イゾ、イセ、・・・アイヌ語、現代日本語の「えさ」等にも残るようだが 狩猟、漁労、農耕の獲得物。 こういう風に考えると古代はまさに八百万のシャーマン時代か。
上まあ、言葉は言霊、を地でいってますね。
>>316 基本的に北京官語は四声であっているんだが、南方中国語や呉松(上海)語
等にはそれ以上のものも存在するけどね。 近代以降の外来語の怒涛の如き
進入にもめげず、中国語はいまだ根幹が変化しないのはさすがというべき
なのか…
アレキサンドリアの図書館みたいなのが敦煌の様に中国の片隅にでも存在していて
そこにミッシングリングを埋めるものでもない限りこの話題は
永久ループしそうだが。
言語が神であるのは、日本の特徴。 言霊信仰は今も続く。。。 言葉狩りは言霊信仰がある証拠。
338 :
日本@名無史さん :04/05/22 09:09
イザナミは檀君天皇の子孫ニダ。 偉大なる大百済帝國が倭人を植民地に拘留するために派遣したニダ。 今こうやって万世一系の檀君朝が日本を統べているニダ。 皇國史観は天皇が檀君の子孫であることを隠すための情報操作ニダ。 さあ 檀君の末裔なる天皇に叩頭平伏するニダ!
339 :
日本@名無史さん :04/05/22 16:27
歴史的に民族の通り道というのが現代の南北朝鮮だね。それでいて何とか 国体を維持しているのはえらい。さて、神武を徐福の末裔とする神武の東遷 ルートを作ったのは多分秦氏の子孫の学者であろうと思う。御先祖は三韓から 佐賀県南部に招聘された半島系工人だろう。その後応神朝に夕月の君が来日する がこれが徐福の中核であり、彼らは半島に約6世紀住み着いていたんだろう。 ということは徐福は難破で漂流し日本に流れ着くものも多少あったにせよ 日本には直接来ていない。徐福が身ぐるみをはがされ、平原広沢を得たのは 朝鮮半島だと思う。で、なぜ神武が東遷したかと言うと漢の拡張主義を見抜き 北九州に首都を置くことに危険を感じたのだと思う。当時の倭国は連帯していた と思うんだ。
340 :
日本@名無史さん :04/05/22 18:17
「シキシマの大和心を人問わば銅鐸の鈍き響きかな」・・ ・倭人というのはメンタリティーとして銅鐸が象徴する複雑で 温和なものであったが、神武と共に入ってきたのは銅剣・ 銅矛「うちてしやまむ」の好戦的精神であったが、このバック ボーンは兵主神信仰でこれは吉野ヶ里で激しい戦闘を繰り 広げた渡来系部族が持ち込んだのだと思う。しかし、古墳時代 という土木建設、窯業、冶金等の新しい時代を建設したのも、 又、4世紀に入り半島に侵攻し、前方後円墳体制を持ち込んだ のも彼らが主役ではなかったのではなかろうか。仲哀天皇こそ 倭人であり、オキナガタラシヒメを担いで独走したタケシウチ グループは渡来系の感じがする。彼らにはウリナラ(我らが祖国) を高句麗から防衛する使命があったのではないかと思う。
341 :
日本@名無史さん :04/05/22 23:34
342 :
日本@名無史さん :04/05/23 07:30
、「銅出徐州、師出洛陽」 ->「銅出徐州、師出遼東」->「銅出徐州、師出楽浪」 こうなるとインゴットは江南から沿岸沿いに山東半島、楽浪といったルートが 手っ取り早いが、こうなると倭国の海人族、特に吉野ヶ里に近い平戸、松浦 あたりのものが関与していたのかな。
343 :
日本@名無史さん :04/05/23 08:03
仮説で恐縮であるが、沖ノ島に霊験あらたかな巫女を置いて 戦勝を祈願させ、筑紫制圧のため大和から出馬した仲哀天皇を 暗殺し、三韓征伐を行なったのがワカタケル倭王武が祖先とする 敦賀出身の応神、だがこれは偽名を使って上陸してくる連中の ルートである感じがする。そして何代も後の継体も同じく舞鶴海上 保安庁の厳重な監視下にある福井県で、牛飼いの子孫という なんとも不自然な経歴の持ち主。仲哀天皇は有事の際の避難民 の流入を恐れていたのが、遂に応神のもとで現実のものとなった。 が、皮肉にも神国は三韓を征伐、安東大将軍が誕生。だがそれも つかぬま百済の難民が逃げ込む。なんと、敵の高句麗まで逃げて くる。そして唐の時代に入る。ここで「日出る国の天子」が登場。 日本に天皇が誕生する。
344 :
日本@名無史さん :04/05/23 08:47
要するに 応神は金官加羅から来た傭兵隊長、継体は北陸の在日オヤジ
345 :
日本@名無史さん :04/05/23 09:43
という風に読めるように記紀が書かれている。書いた人は マジであったと思うんだがなー。
346 :
日本@名無史さん :04/05/23 10:16
347 :
日本@名無史さん :04/05/23 11:04
河内王朝、倭の五王というのは闇社会のように次第に仁義が落ちてきて、 気合を入れるために継体が出た感じ。中には殺人鬼、暴力、変態、恐妻、 聖人など様々な天皇が登場し現代と価値観が異なり、古墳とされるものも 何系統もあり、万世一系どころか後継者選びも仁義なき戦いであったようだ。 日本人らしくないのも当然、未だ日本ができておらず、倭国だったんだからなー。 男女関係についても当然未だルールはなく、弱肉強食であったと思う。 パーティーでいい女を見つけると亭主に外国行きを命じてその女をものにする 天皇が偉かった時代だ。
348 :
日本@名無史さん :04/05/24 19:20
末慮国=肥前北部。現在の長崎県松浦及びに佐賀県北部 伊都国=筑前北部糸島半島 奴国=筑前全域。現在の筑後豊前を除く福岡県。幕藩体制の黒田藩領と同じ。 不弥国=筑前北部。現在の福岡県宇美。 投馬国=前頭詞さ・つま(投馬)薩摩の南部および大隅全域及び日向南部 狗奴(くま)国=肥後全域及び薩摩北部 邪馬台国=筑後全域豊後全域豊前南部肥前南部日向北部。戦国時代の大友家領土と ほぼ同じ。 倭国動乱の際邪馬台国は奴国を滅ぼし金印は志賀島に隠された。 卑弥呼即ち天照大神は(天の岩戸に隠れたとき)狗奴国に殺されたのでは? その後狗奴国の圧迫に耐えかねたか豊後水道から瀬戸内海を押さえ近畿を突き 大和(大いなる倭)朝廷を建てた。 豊後は地形が複雑で攻められ難く周囲を攻め易く戦国時代さほどの力も 持たない大友家も持ちこたえた。また豊後から近畿を押さえることも可能で 西南戦争時の薩軍野村忍介はしきりにこれを唱えた。
349 :
日本@名無史さん :04/05/24 20:06
AD200年頃倭国乱のような不安定があったといわれているがこの際金印を隠したりする意味はない。 卑弥呼歿する頃、肥後全域及び薩摩北部は残余の列島各国同様自国の土器を持参して纒向建設に 参加している。佐賀長崎、静岡西部が参加していないようだ。それでも狗奴国は肥後全域及び薩摩北部 だろうか。
350 :
日本@名無史さん :04/05/24 20:46
卑弥呼がもらった金印=志賀島の金印 でつか?
351 :
日本@名無史さん :04/05/24 20:55
国が違いまつ
三角縁神獣鏡の成分は中国の鏡と同じ成分って聞いたんだけどマジですか
もしも邪馬台国が、住葬分離型の集落文化なら、古墳から位置を割り出せなくなるよな。
354 :
日本@名無史さん :04/05/25 13:40
こういう計算がある。↓ 「大林組が箸墓古墳の造営についてつぎのように算定しています。 前に述べた古墳の規格で、五段に盛り土をして高さ20mに積み 上げると、30万立方mになるといいます。そしてこの造営の作業 のために動員された人数を、延べ170万人とみて、一日8時間、 月25日作業したとすると(道具は鉄製もしくは木製の鋤・鍬・モッコ) 毎日500人働いた場合は12年、毎日千人働くとその半分の6年 かかるという計算です。またこの墳墓の造営にどれほどの費用 がかかったか、埴輪製作と石室の築造を別にして、用地伐開除根、 測量、客土工事、宿舎仮設、現場管理などの費用を合算すると、 現在の金額に換算して約215億7千万円余になると試算してい ます。」 問題はこうした人夫への衣食住供給、更にそれの伴う土器などの 日用品の供給、そうしたものの輸送などを考えると古墳の所在地 だけでなく各地の協力がなくては古墳建設はできない。つまり、 古墳のあるところには相当各地からの協力があったということに なる。当時の列島にいかなる形にせよこれほどの人口集中の形跡は 他に見られない。
355 :
日本@名無史さん :04/05/25 14:18
古墳が更地に盛り土して作ったモノなら大変な労力が 必要だが、丘陵を削って(整形)作ったモノなら そもそもそんな大工事でなくても造営可能だと思う。
356 :
日本@名無史さん :04/05/25 14:18
まさに天下普請ですな
357 :
日本@名無史さん :04/05/25 14:29
則(すなはち)箸に陰を撞きて薨りましぬ。乃(すなは)ち大市に葬りまつる。 故、時人、其の墓を號けて、箸墓と謂ふ。是の墓は、日は人作り、夜は神作る。 故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民相踵(あひつ) ぎて、手遞傳(たごし)にして運ぶ。時人歌して曰はく、 大阪に 繼ぎ登れる 石群を 手遞傳(たごし)に越(こ)さば 越しかてむかも
359 :
日本@名無史さん :04/05/25 22:40
鵜葺草葺不合命 ‖────神武天皇 玉依毘売命 ‖──────綏靖天皇 媛蹈韃五十鈴媛命 ‖────安寧天皇 五十鈴依媛命 この辺じゃないかと思うんだけど、なんせ、誰も顔を見たことないもんでね。 代替わりされてたりしても下々にゃー全くわからないもんなー。ただし、 男系はいい加減なもんだと思う。それに、モモソヒメという岡山県的な ひともいるんだなー。
360 :
日本@名無史さん :04/05/26 00:49
>>359 ヒメは高貴な女性、ヨリは依代にとりついて神の託宣を受けることだわな
神武の母はタマに依る呪術的女性、安寧の母は五十鈴に依る呪術的女性
伊勢神宮の横に五十鈴川があるのは何か皇室と関係があるのかもしれん
361 :
日本@名無史さん :04/05/26 01:58
卑弥呼が子を産んだという事はなかった様だが、 依代という特殊かつ神聖な任務を負った女性と結婚・出産は結び付かないな。 そもそも神と結婚してるのが巫女だろ。 単なる皇女じゃないか。
362 :
日本@名無史さん :04/05/26 07:21
(0)縄文経済地域(九州南部、南西諸島、熊野、中部山岳、東北、北海道等) に存在したであろう弟の部族長とペアを組む熊シャーマネス (1)動けなくなるまで島(東シナ海北東、玄界灘、瀬戸内海、その他列島沿岸 の干潮時に陸とつながる陸繋島)で働かされる老女(珍島物語で有名) (2)7人程度の乙女から選別され一生聖職に捧げる巫女王(かぐや姫)((1)より 派生してものか)(ヨリ代的なのは勾玉(玉よりヒメ)、銅鐸(五十鈴木ヨリヒメ)等はこれか) (3)皇女がなる斎宮((2)より発展したものか) 卑弥呼、神功皇后などの選出の際の倭国首長連合の「高天原」コンセンサス作り においては(0)、(1)等が深層心理的に働いたのか、乃至は倭国乱、神武東遷、 日子坐などによるそれらの武力的リストラが働いたのではなかろうか。
363 :
日本@名無史さん :04/05/26 08:00
日本には古来から齋宮の伝統があったが、途中で中華文明の影響で中断された。 ヒミコは齋宮、というのは考えられないかな。
というより、卑弥呼の時代なら古墳の造営は丘陵整形型が一般的なはず。 もともとは山に偉大な人物の亡骸を磐座(だったっけ?)に入れて、山と共に神として祭るんではなかったか。 大三輪はニギハヤヒの墓らしいし。 卑弥呼の時代が自然の山や丘陵を、そのまま使うか整形するかは分からないが、盛り土であることはないと思う。 前方部はこの時代なかったが、前方部にあたる祭祀場はあったと思われる。
365 :
日本@名無史さん :04/05/26 10:09
社務所の本ではいわくらの底まで掘ったようなことを書いてあるが 土器が出てきたりして支石墓みたいなこと全く感じられないね。 沖津、中津、辺津という石の並べ方は住吉系ではなく安曇系だな。 神武遷都調査団が吉備楯築でトライアルを行なった後全国の首長を 総動員し箸墓を建設したと見てるんだけど。
366 :
日本@名無史さん :04/05/26 10:23
神武遷都調査団だがこれって(1)伊都国->(2)筑後(3)->豊前(4)->豊後 ->安芸(5)吉備->(6)大和というのがフルコースだったんだと思うよ。 要するに漢の難民が増加をたどり、やばいという気持ちだったんだろう。
なんの検証もなく思い付きを垂れ流せる神経がまず信じられないな
神武遷都調査団ってなんだ? 聞いたことない。 日本にはケガレの宗教観があり、それが日本の葬儀の始まりである。 死をケガレとするか、現世をケガレとするか、しかしいずれにしろ、葬儀という儀式は現世から分離されねばならない。 古墳に埋葬者が入ったときにそういう儀式はあったであろう。 だとすれば、死者に対面する形であり(死者を祀る、という意味で)、円墳部に対面せねばならない。 そこから葬儀の場も現世から隔離、という意味で前方部が成立したと思われる。 しかし世には、出雲系と天孫系の合併の象徴として前方後円墳ができたという説もある。 だとすれば卑弥呼は天孫系のかなりの大人物のはずだが……
369 :
日本@名無史さん :04/05/27 08:15
けがれから避けるには地中深く埋めなくてはならない。しかし、被葬者は天に近く円頂部に 埋葬しなくてはならない。ここに矛盾が生じる。そこで鏡の辟邪能力が必要とされる。 現世からの隔離は前方部という二重構造。今でも神社にはよく真ん中に橋がある。彼岸、 結界という言葉があるがそういうことか。 出雲系(吉備も近い-これは四隅突出墳、諏訪神社の御柱)と天孫系(楯築にあるストーン サークル、この場合天孫というのは縄文地域の多数派ということになろうか)。卑弥呼は たんなるシンボルであり、多くの黒子がいたような気がするね。
縄文系より圧倒的に弥生渡来系が多いそうだね>DNA検査統計 つまり、東斬は長期的にあったと考えるのが普通で、神武東征みたく一回ではそんなに 歴史は変わらないってことだよな。 少なくとも漢書地理誌のころは大和はまだ湿地帯で大生産地はないから、弥生的なクニの先進地域は 九州と考えるのが普通。一方で、神武東遷と言っても一気に全軍&全住人の移住とかありえないから、 下のような図式で考えるのが普通。 九州勢力 −−−−−(邪馬台国)−−−−−−−−−−−−−− ・ ・ ・ ・ ・ 大和勢力 ・ ・ ・ ・ ・−−−−−(祟神以降)−−−−−−−−−大和朝廷−−−−−− 問題はいつまで九州勢力が力を保持していたかと言うことだが・・・。 日朝・日中交渉史見ると、かなり後まで力はあったんじゃないかと思う。だって九州−奈良より九州−半島 の方が遙かに近いし、南部は倭人も入り乱れてるし。更に、中国の動乱の影響(漢、公孫氏、高句麗等の 難民や三国の角逐)もモロだし。従来は北九州の衰退期がかなり早かったように言われてたけど、吉野ケ里 見てもそうでもない。
西都原の円墳群は天孫系という。なかに一つだけ方墳がある。 方墳は出雲系というが、根拠は聞かない。 円墳が天孫系なのは、宮崎の地に多いからか。 いずれにしろ、卑弥呼は円墳である。 これはケガレの意識と葬祭体系がまだできる前であると思われる。 たしかに卑弥呼の時代は古墳時代以前である。 しかし、後世に前方部が付加された可能性も否定できない。 その点からいって明らかな前方後円墳以外は卑弥呼の墳墓である可能性がある。
372 :
日本@名無史さん :04/05/27 10:02
山東半島->遼東半島->楽浪->三韓へと青銅器鋳造工人が動く。 徐福グループが大きな役割を果たした可能性もあろう。北九州が 工人を招聘、夜臼(野洲同様鋳型の集落)から筑後に居住。この 集団は(1)徐福、ジョフツの個人崇拝。フツ、ホト、フト(これらは市)、 ボコ(福)を含む宗教。 (2)朝陽礼拝習慣。日峰出見(ホホデミ、航海、古墳、神社立地 方位策定のための太陽観測)。 (3)仙薬、葬礼埋葬用錬金鉱石探索、山岳宗教(ニニギ、 アオニヨシのニは丹の類、現代用語のレアアース)。 一時的に筑後に定着したこの集団が後続集団の圧力か、宗教的 理由かにより方角的に東を求め動き出す。この集団が熊野から 吉野に縦走することや、後世においても葛城山で山岳行軍儀式が 行われていること、役の行者、空海にもその伝統が受け継がれて いることは(2)の航海方位策定と合わせて考えると徐福ドクトリンの 影響を受けているものと見られる。 この集団は筑後から真直ぐ東に抜け豊前にはいる。この辺で出雲 に武頭神の神話を発生させる原因を作る。更に豊後のウガヤフキ アエズ、上伽耶「福」グループとの会津にいたグループと合流、 東遷を始める。この時瀬戸内海を進む本隊の分流で四国の中央 構造線沿いにレアアースを求め、壬生川、別子、高越山等を探索 した別働隊がいたのかもしれない。
>>367 検証もなしにったってな、遺物調べたって歴史は出てこないし、資料調べても詳しい状況なんて分からないんだよ
374 :
日本@名無史さん :04/05/27 10:40
前方後円墳と前方後方墳というのは違うのは○と■という形であって、 儀式は違っていないのだろうな。そうするとこれは土師集団いわゆる タケハニヤスのようなものの戦い、トヨタ、日産といった違いかな。 ノリタケとか日本碍子が京セラ、村田から離反した、彼らはもともと 唐津から来て信楽焼の近所にいた。それが政府の発注を巡って 大喧嘩となり、近畿銅鐸、三河遠州銅鐸という2つの窯業冶金会社 に分かれたということだな。
それはどうかな。。。 単なる文化の違いかもしれない。 見てのとおり、古代中国の皇帝廟のほとんどが方形だ。 中国に影響を受けたなら、方形である可能性が高い。 逆に円形は日本古来の聖山信仰に元を持つと思われる。 その点からいって、縄文系が円墳、弥生系が方墳、大陸文化系倭人が前方後円墳もしくは前方後方墳と考えられる。 古墳時代に近く、かつ文化中心地であるところに、大体の前方後円墳などの合体型古墳があることから、時代がおりて大陸と交流のある地域がこのような合体型を作るのだろう。 もしもヤマタイが単純に血統を守り時代を生き残ったなら、広範囲な時代で円墳が確認できる地域である必要がある。
376 :
日本@名無史さん :04/05/27 14:38
水前寺公園の富士山、銀閣寺の砂山に造園の際の要素として丸い山を いれる傾向はある。衣笠型の山は信仰の対象となることが多い。であるから 聖山信仰が出たというわけか。円墳分布の時期、地域というものはないのである から合体型時代になって初めて後円部をつける案を出したものと見られる。 これには後方型の地方及びその首長を地祇として差別し、天孫の優越性を謳う 神話に成立と同時代なのだろうか。
377 :
日本@名無史さん :04/05/27 15:00
ヤマトタケル、四道将軍というのは政府の任命した税金取立人が 上納の滞っている地方で今風に言えば軍用犬を使ったりして上納物を 取り立てたのであろう。ヤマトタケルは行く先々で女攻めにあい、死刑が ミエミエであったため、伊吹山に木枯らしの吹く日を狙って軽装で山越えをし 白鳥になって大和を見ようとしたのかもしれないぞ。
378 :
日本@名無史さん :04/05/27 19:24
崇神の頃、四道将軍を吉備辺りに派遣していたら 当然ヤマトトトビモモソヒメは卑弥呼ではあり得ないな。
普通にあり得ないだろ。 遣唐使が書物を買いあさったと記録にあるが、間違いなく国史関係はあっただろう。 それに、倭と呼ばれたこと、かつての女王国の事についてもちょっと中国の知識階級 と接する機会があればすぐにわかること。そして、魏の時代の古くから交渉があった 倭国の正統後継者と言うことは、唐との交渉上明らかに有利。 にもかかわらずそのような捏造を行わなかったのは、明らかに古事記(帝記?)以前 の大和の記録に無かったということ。
だとすると、縄文系はヤマタイ、弥生系がヤマトか。 国号剥奪なんてのはよくあること。 ヤマタイとヤマトに共通性があっても国号剥奪・王統乗取りされてたら、何の関係もない。 卑弥呼の円墳のありかは分からないが、大きさからいって今もかなり大きいはず(侵食されても、って意味)。 ホタテ型に改造されてても不思議じゃない。
だとすると、縄文系はヤマタイ、弥生系がヤマトか。 国号剥奪なんてのはよくあること。 ヤマタイとヤマトに共通性があっても国号剥奪・王統乗取りされてたら、何の関係もない。 卑弥呼の円墳のありかは分からないが、大きさからいって今もかなり大きいはず(侵食されても、って意味)。 ホタテ型に改造されてても不思議じゃない。
おっと。やまと・やまたいって読みもまだ不確定。気をつけよう! 「邪馬台国」が「邪馬壹」という説(つうか魏誌ではそうなっている)、或いは「臺」をタイとは普通読まないとか いった根本問題もあるし。それをやまとと読ませたのが誰かぐらい知っとかないとw 年代的には邪馬台国は弥生の中期以後(つうかもし最近の絶対年代の修正がほんとなら、 晩期)だから、縄文人は九州ではとっくに駆逐もしくは同化している。 また、畿内説によるとしても、やはり奈良盆地が耕作できるようになった時期は既に弥生系もしくは弥生人が 優勢。銅鐸文化は弥生文化である。多分。
383 :
日本@名無史さん :04/05/27 22:59
狗奴国は肥後にあったことは間違いない。菊池彦は菊池川周辺の出であることを意味する。なお南北朝時代肥後の菊池氏は北朝勢から攻められ南朝の北畠氏を頼って東北に落ちる。その伝承以来東北に菊池性が多くなる。
384 :
日本@名無史さん :04/05/27 23:00
狗奴国は肥後にあったことは間違いない。菊池彦は菊池川周辺の出であることを意味する。なお南北朝時代肥後の菊池氏は北朝勢から攻められ南朝の北畠氏を頼って東北に落ちる。その伝承以来東北に菊池性が多くなる。
385 :
日本@名無史さん :04/05/28 01:59
箸墓古墳に祭られている姫はヘビ(男性器)を見て膣を箸で突いて死んだ。即ちレイプされて死んだんだろ。婆さんのヒミコのわけがない。
386 :
日本@名無史さん :04/05/28 02:34
蛇に象徴される磯城族の殿と恋に落ち、産んではいけない子を 身籠ってしまった事を後悔して陰部を突いて死んだ。
387 :
日本@名無史さん :04/05/28 08:05
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1044029517/ ヒメタタライスズヒメがAD230年頃に歿し、箸墓建設が開始される
(布留0式土器を最新のC14調査に従いこの頃と見る)。予定される
箸墓古墳の竣工に間に合わせ鏡調達使節団を楽浪に送る(AD238年)。
箸墓はAD240年頃には竣工するが誰が日嗣の儀式を行い次期後継者
になるかで前方系と後円系の間に対立が生じ、後円系のモモソヒメが
立つ。しかし、これまた老女でありAD248年に没。この後崇神の皇女
トヨスキイリヒメが斎宮として入る。これではどうだろう。
邪馬台国が弥生中期だとかアホばかりだなこのスレ。
389 :
日本@名無史さん :04/05/28 17:30
3世紀の中ごろが弥生中期、なんのこった?
390 :
日本@名無史さん :04/05/28 19:03
ガイシュツかもしれないけど、 当時技術先進国だった中国の、しかも国書に、 なぜ矛盾した記述があるのだろうか? 「地殻変動説」や「捏造説」のほかに、 合理的な理由はないのだろうか?
391 :
日本@名無史さん :04/05/28 19:24
放射線説をとればなんら矛盾はない。
392 :
日本@名無史さん :04/05/29 03:24
箸墓古墳の築造時期は、280〜300年(±10〜20年)か。 ちょうど、台与の50〜60歳くらいだな。 銅鐸文化の消滅時期や、古墳への副葬文化の九州からの伝達も、ちょうど その前の頃に来るし、箸墓古墳は邪馬台国東遷説の有力証拠になりそうだ。 もともと邪馬台国は豪族の軍事連合的な意味合いが強いし、 守る側に戦争の意識が低かったという面もあるだろうが、この早さは高く評価できると思う。 (早さは、箸墓古墳から日本最古の馬具が出てくることと関係しているかも。) 実は台与こそ、古代で最も評価されるべき人物なのかもしれない。 国内統一に力を入れた関係で、文献すなわち中国史への登場回数が少ないが。 日本列島をトヨアキツ島と呼んでいたことから考えれば、 当時の人はちゃんと高く評価していたようだが。
393 :
日本@名無史さん :04/05/29 04:36
とよ(豊)の國もあるしね。
詳しい人がいたら教えて欲しいのですが、三国志に出てくる数字の精度って どのくらいなのでしょうか? 演義だと、赤壁で十数万の軍勢を百万と号していたりするので、千里といっても 百里以上千里以下ぐらいの意味で使っているかもしれないと思ったので。 他の里程で千二百三十四里とかいう記述があれば、結構正確かと思うのですが。 あと、水行も十日とかきりのいい数字のようですが、実際は八日だったりするかも 知れないと思います。
395 :
日本@名無史さん :04/05/29 05:43
396 :
日本@名無史さん :04/05/29 07:00
卑弥呼の墓の記述が正しいとして「さしわたし100歩」をどう計ったかを考えてみよう。 上を歩いて計ったんなら直径は100メートル以下になるんじゃないの? 歩幅も狭くなるし、せいぜい50メートルくらいだったんじゃないかなあ。
397 :
日本史@名無しさん :04/05/29 09:00
>箸墓古墳の築造時期は、280〜300年(±10〜20年)か ソースキボンヌ。 ・・・いや、年代測定自体まだまだ揺れてるし。 それと、東遷説というのは、その時代にはまだ怪しすぎ。当時の生産力では 上部機構としての連合王権の委譲、それも九州から近畿という別の文化圏 というのはとうてい起こりえない。そのような広域政権はやはり5世紀を待た ねばならなかったのではないか。もし卑弥呼が本当に鬼道をもって統括した とすれば、それはせいぜい北九州とか大和一国とかいった範囲だろう。それ が、本貫を離れたら即死を意味するだろう。 まあ、台与が十万の軍勢を引き連れていたとでもいうなら話は全く別だがw
398 :
日本@名無史さん :04/05/29 09:30
トヨじゃないわよ。イヨよ。いいかげん、まちがえないでよヴァーカ!
399 :
日本@名無史さん :04/05/29 09:57
ヤマタイはアイヌ語で yam-atuy (冷たい海)じゃないか?
400 :
日本@名無史さん :04/05/29 10:06
ヤマトはマオリ語で yam-ato (山芋に囲まれた)
401 :
日本史@名無しさん :04/05/29 10:25
やまゐ国
402 :
日本@名無史さん :04/05/29 11:03
>>397 > 年代測定自体まだまだ揺れてるし。
> せいぜい北九州とか大和一国とか
まあね。260年までなら卑弥呼の埋葬時代で、畿内説が有利になるとは思う。
でも、箸墓からは瀬戸内沿岸で出土する特殊な土器や最古型式の埴輪が出てくるんだよ。
少なくともある程度は広域政権だった。「埋葬者卑弥呼説」自体に無理があるんだろうね。
> 当時の生産力では
魏や晋への朝貢を複数回したり、大量の古墳築造労働者を食わせていたくらいだから、
九州時代でも生産力に余裕はあったと考えられるよ。日本で馬を本格的に使いだしたのは、
かなり後の時代だけど、馬具出土の件も考えれば、少数ながら馬も貰ったかもね。
あと、卑弥呼時代から軍事顧問(もしや、こいつが馬の導入を推進したのか?)も呼んでる。
> 上部機構としての連合王権の委譲
委譲??? 何のことを言ってるのかよく解らない。
当時の畿内近畿にあった支配勢力が、九州の勢力に譲ったとでも考えてるの?
銅鐸消滅から考えれば、祭祀形式ごと支配勢力が滅ぼされたと考えられるが。
403 :
日本@名無史さん :04/05/29 11:06
>>397 > 九州から近畿という別の文化圏
いや、別の文化圏じゃないよ。幾つかの文化が伝播してきて
直前に同じ文化圏になっている。確かに銅鐸があった時代は別の文化圏だったけどね。
> もし卑弥呼が本当に鬼道をもって統括した とすれば、
> それはせいぜい北九州とか大和一国とかいった範囲だろう。
だから、卑弥呼じゃなくて台与だって。勢力を広げたのは。卑弥呼時代の
邪馬台国は九州の中北部くらいでしょう。あと、卑弥呼は豪族軍事連合の
宗教的カリスマによる盟主であるだけで、支配地域は一族の出身地だけ。
> 台与が十万の軍勢を引き連れていたとでもいうなら
大きめのものでも数百人単位という集落を闇討ちするのに、十万では逆に多すぎる。
闇討ちのための情報戦に優れていたんだろうね、邪馬台国の軍事顧問は。
九州王朝説は? 一番あれが納得できたんだけど?
406 :
日本@名無史さん :04/05/29 12:15
較正曲線は炭素年代測定の場合の話ではあるが、年輪年代法で遡ることが 確実視されているのだから無問題では?
408 :
日本@名無史さん :04/05/29 12:30
イヨであってトヨでないなんてことで論戦を張るのではなく、「大本教」、「天理教」、 「ユゴリ」といったスケールの論戦をはり、その副産物から突破口を狙い真実に 迫るのが思考試験というやり方であると思うんだ。武家は全国的に攪拌されているが 庶民は案外古いかも知れんぞ。「ユゴリ」>「都市牛利」<「十市ゴリ」こういった線で 色々考えているところだ。
409 :
日本@名無史さん :04/05/29 12:33
>>407 はっきりいわねーなー。ホケノ山の土器を調べろというのか?
410 :
日本@名無史さん :04/05/29 13:03
年輪は布留0-1をAD200程度まで引き上げてくれることもある。 一方学者は一意的な土器編年を行なう能力がない。だから アバウトな話だけど箸墓は労働力、特殊器台などの葬具等 の動員、集中の規模からして社会的、政治的に空前の結集 ということに大きな意味があるのでAD238の鏡調達団が泥縄 つまり古墳を作って掘り返し辟邪の鏡を入れたという仮説を 出す。マジだぞ。
411 :
日本@名無史さん :04/05/29 15:22
中山みきの母も大和神社の巫女の家系の長尾家の出だそうでなんと父方のばあさんも 同一のではないかもしれないが長尾家の出だそうで、あとは大和神社の由来に 何か無いかと探しましたがわかりませんでした。 ヤマトが気になりますね。
>>402 いや、漏れのは
>>392 の
>箸墓古墳は邪馬台国東遷説の有力証拠になりそうだ
へのレス。東遷などというエポックメイキングな政治指標などなかっただろう
というのが漏れの意見。阿蘇の大噴火でもない限りw
それに、畿内から九州への政権交代はさすがに無いでしょう。九州→大和の
時期が問題なわけで。最も早い説が初めから畿内説、最も遅い説がいわゆる
九州王朝説だと理解している。
>>410 そう。箸墓でさえ巨大な労働力を必要とする。なので、その後に続く巨大古墳群
を誰が作ったのかが非常に疑問な罠
漏れは、逆らったり倒した敵の本拠をそのまま埋めて、そいつらを人夫にして、
終わったら一緒に埋めてしまったんじゃないかと思う。大仙古墳なんか大きすぎ。
その前にあの下に何があったのか・・・・・。
413 :
日本@名無史さん :04/05/30 02:20
>>412 > 東遷などというエポックメイキングな政治指標などなかっただろう
これは、「わざわざ東遷をする動機がないだろ」って主張ですよね。
ならば、それは違います。東遷は必然なのです。
・邪馬台国は元から豪族の軍事連合で支配地域の拡大政策を採っていた。
・当時の交通事情の悪さ
この2点から東遷せざるを得ない理由が説明できます。
まず、邪馬台国上層部(豪族たち)は、まっとうに田畑を耕す人ではなくて、
武力を背景に王を名乗り、働かずに徴税によって暮らす人たちですよね。
基本的に「戦うこと」と「徴税すること」が全てなのです。
また、求心力を失うと内部で殺し合いが始まるほどで、常に求心力を必要としていました。
女性の盟主を立てることと、外部と戦って富(徴税)を増すことが、その求心力です。
それゆえ支配地域の拡大政策をとっていました。しかし、ある程度
支配地域が広がると、交通事情が悪いのに、列島の西端である九州にいるのは、
軍事行動のためにも、徴税のためにも、都合が悪くなってきたのです。
(徴税のためなら中央、軍事行動のためには東端に拠点を設置するのが良い。)
そして、現在の東端近く(未来の中央)近畿には、広い平野と肥沃な大地があるのです。
東遷しないと、これ以上の軍事行動もとれず、徴税も増えず、
内部崩壊してしまうのであれば、東遷する以外の選択肢はないのです。
414 :
日本史@名無しさん :04/05/30 07:43
>交通事情が悪いのに、列島の西端である九州にいるのは ここ違うんですがね。日本列島と考えると確かに近畿が中心だが、弥生世界ではまだ 東に寄っている。それと、半島、大陸との関係においては言わずもがな。1日で行ける 韓半島と3〜4日、途中に吉備王国、出雲王国などもあるし、当時の航海なら4、5日は かかる畿内とでは、どっちが有利か。 これはもちろん交易、大陸の情報、半島利権等でウエイトがまだ大きかったという前提 があるわけですが、5世紀ぐらいまではそんな状態だったんじゃないかな、と。そう簡単 に手放せる利権じゃなかったと。一方で、高句麗との戦争もずっと継続状態だし。 一方、高地性集落の分布などから、これは明らかに東→西となっている。これは、人口 動態とは逆だが、それは国の興亡とは相対的に別のものでしょう。東漸は1000年ぐら いのスパンで起こったことだし。もし畿内勢力が高句麗戦争を戦ったとしたら、これら高 地性集落を飛ばして、吉備や出雲も飛ばして行ったことになるが、そんな優秀かつ巨大 な水軍を持っていたという形跡は畿内勢力には全くない。 中国でも宋までは地域名が国号の由来になることが多かった。元でも、支配階級の数は 漢人に比べて圧倒的に少なかったが、やはりモンゴルという本国を持っていて、血縁も連 絡も密にとっていた。大都という遙か北方に都したし。 やはりその政治基盤をはなれてあちらこちらと都を変えるなどということは考えにくい。奈 良時代でもせいぜい大阪、滋賀までだし。
高地性集落が何世紀で高句麗と戦った時代は何世紀かわかってます? やはりアホばかりだ。
416 :
日本@名無史さん :04/05/30 08:29
魏志倭人伝の邪馬台国へのルートはあれは帰り道の工程を逆に記述したんじゃないか? 朝鮮から流されてくれば勝手に山陰にたどり着くのになんでわざわざ海流に逆らって まで九州を経由するんだ?
417 :
日本@名無史さん :04/05/30 09:00
そうなんだよなー。言い換えると周遊ルート。行きは親潮に乗る特急で出雲をスキップ、 丹波/但馬(投馬)から河川、内海水行南行、帰路は瀬戸内を干満を利用し西行と考えると 整合。
418 :
日本@名無史さん :04/05/30 09:03
>>416 交易も海流のせいで無かったの?
もう少し頭の整理したほうがいいよ。
そりゃ、朝鮮半島から「流されれば」敦賀あたりにたどり着くだろうけど、 当時の航海が沿岸航海であることを考えると対馬、壱岐を経て北九州に到達 するルートはむしろ自然。 問題は、北九州についてから邪馬台国までの旅程がひどく長く書かれている ということ。
420 :
日本@名無史さん :04/05/30 09:38
>>419 旅程が長い事も税を徴収しつつの旅であると考えれば
421 :
日本@名無史さん :04/05/30 10:12
今か今かと待っているんだけど 安本美典さんの名前が出てこないね。 彼の説ははだめなんですか? 自説に対する批判にたいして丁寧に反論を していてこの反論も十分説得力があると思うんだが。 正統的な歴史学者としての履歴をふんでいないから 相手にされないのかも知れないのかなぁ。 学問は経歴ではなく説得の体系だとおもうのだが。 私のような単なる歴史好きの素人に受ける学説というだけで 専門家から相手にされないのかもね。 そういうのって おかしいよ。
422 :
日本@名無史さん :04/05/30 10:20
>>414 ちゃんと人の意見聞いてます?
>弥生世界ではまだ 東に寄っている。
軍事拠点としては東端がベストと書いたでしょう。
当時は「軍事力の強い豪族=政治力の強い豪族」なので、
中央より東に寄らざるを得ないのです。
あと、近畿が肥沃な土地であることも重要な要素です。
>それと、半島、大陸との関係においては言わずもがな。
ええ、だから266年を最後に中国への朝貢の記述がなくなります。
滅んだのでなければ、朝貢重視の政策が転換する何かがあったのです。
あと、あなたがそれ以降に書かれていたことは、ほぼ全て間違っています。
突っ込みどころが多すぎて、突っ込みきれません。
ところで、朝貢重視の政策が転換した理由は何でしょうか?
・質の良い鏡を自作できるようになった。
・馬はまだ少ないが、国内で繁殖できる数にはなった。
・中国に頼らず、国内戦争に勝てるようになった。
などが考えられるところではないでしょうか。
423 :
日本@名無史さん :04/05/30 11:27
弥生末期の墳墓形式には九州北部、吉備(墳丘墓)、西本州(方形周溝墓)があるんだが、 この頃は本州が日向から熊本へと九州全体に拡大を続けている。日向への進出は土佐沖 経由の南海航路開発と関連している蓋然性が高い。奈良盆地に始まる古墳時代には 吉備古墳形式、九州北部の鏡埋葬、東方の前方後方墳がミックスした倭国形式というのか、 前方後円墳が誕生する。さて、朝貢重視の政策が転換という問題提起をするより、先ずは、 中国の政情不安と対韓政策へのインボルブメントに加えて、国内の鋳造技術の発達と儀式 における鏡への焦点が薄れていったこと。馬の話は任那経営中の百済との接触を通じ、 高句麗との戦闘用の共通兵器、何か現在の日米軍事同盟のようであるが、としての馬、 これは百済が万一の際、倭に退却するために、信濃の辺り、始めは飯田、後には、 長野市近辺に倭国政府の直轄地として、倭百済地位協定に従い、牧場を設置したのでは ないかと思うんだがどうかな。
424 :
日本@名無史さん :04/05/30 11:34
【国際】「資源独占の恐れ」日中境界海域にガス採掘施設、欧米企業も参加−中国★5
http://news13.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1085870819/ 2004年5月28日、中日新聞にて中国が東シナ海において、日中中間線ぎりぎりの海域で、天然ガスを採掘する施設建設を進めていることが報道されました。
この海域には豊富な天然ガス(1000億バレル以上=約640兆円以上)が埋蔵されており、中国はわざと日本との境界ギリギリに採掘場所を建設し、日本側の正統な権利までを根こそぎ奪うつもりです。
東シナ海の油田のみならず、尖閣諸島海域に眠る油田はイギリスの北海油田に匹敵すると言われています。イギリスは、北海油田の建設後、石油の輸入国から輸出国に変わりました。
この経済効果は計り知れません。不況による様々な問題や、エネルギー問題、年金問題などに大きな良い影響を及ぼすでしょう。
具体的には、報道の通り埋蔵量を1000億バレルと想定すると、
1リットル=40円
1バレル=159リットル=6400円
1000億バレル=640兆円!!!
日本の国家予算は約80兆円。国民全員が税金を一円も払わなくても、8年暮らしていけます。
425 :
日本@名無史さん :04/05/30 12:07
>>420 使節の出張旅費が距離と日数で支払われたんだろうよ。
官僚国家の木っ端役人のやりそうなことだ。
427 :
日本史@名無しさん :04/05/30 19:35
>>422 臭そうなヤシだな。研究者崩れだろw ここはお前の独り舞台じゃねえだろ?いろんなヤシが
いてもいいと思うぞ。まあ
>>414 のつっこみどころ満載はそうだがw
>>421 >安本美典さんの名前が出てこないね。
彼の説ははだめなんですか?
だめじゃないよ。むしろあの先生みたいな人が無視されるような日本の古代史学会の体質の
方が問題なわけで。
ただ、統計に必要な母数が乏しく、推定が多くなるので、まだまだ試論の段階ではあります。
あと古田と同じく、色々言い過ぎる部分も災いしてるかな?
428 :
日本@名無史さん :04/05/30 19:41
429 :
日本@名無史さん :04/05/30 20:49
古墳から出てきた埴輪見れば結構船は大きいだろ? でも手漕ぎなんだよ。潮に乗った方が早いって。 まあ邪馬台国が畿内にあった場合はだけどな。 帰りは生口がいっぱいいるから漕ぎ手に不自由しないけどさ、 行きは手が足りないんじゃないの? 潮に流されずに海を渡るには24時間漕ぎ続けなきゃならないんだぜ?
430 :
日本史@名無しさん :04/05/30 21:17
あれで長距離航海は危険イパーイが定説。
431 :
日本@名無史さん :04/05/30 21:44
「天の鳥舟」と言うのは、帆掛け舟だと思うんだけどね。 稲作の害ともなり得る風を逆に利用して航海する、まるで鳥のようだからさ。
432 :
日本@名無史さん :04/05/30 21:44
たしか福岡から韓国まで泳いだ椰子がいたな。
433 :
日本@名無史さん :04/05/31 03:37
卑弥呼の最期は、不気味だね。やっぱり、殺されたと解釈するのが正しいのかな? そうなると、似たような状況の大和朝廷の人って誰だろう?
434 :
日本@名無史さん :04/05/31 18:50
カグツチにホトの火傷を負わされて死んだイザナミ。 カグというのは銅山である香春山の香、冶金に関係 がある。
435 :
日本@名無史さん :04/06/01 10:38
>>405 >>402 が言ってるのは、
放射線測定による年代だけなら、まだ幅があって卑弥呼説も可能なのだが、
支配地域が少なくとも瀬戸内・近畿に及ぶ広域政権の王の墓だから、
(卑弥呼埋葬説は)ありえないということでは?
しかし、卑弥呼がどのような性質の人物(神官とか軍師とかああいうの)なのかすら、わかってないのに、広域政権だから可能性なしというのは早計でないかい? たとえば、豪族政権とは別に統一最高神官として担ぎあげられたなら、その葬儀にたくさんの副葬品がとどいてもおかしくない。 シャーマネスだと言い切れるなら、逆に可能性あり。
437 :
日本@名無史さん :04/06/01 12:13
とりあえず古墳を全部掘ってみて、 親魏倭王の印綬が出てきたところが邪馬台国ということで。
438 :
日本@名無史さん :04/06/01 13:34
国土統一、建国、三韓征伐などの有事、国難の際、 挙国一致内閣の必要とされる場合巫女王が共立され そのスカートの下で結束の固い、チームワークの よい体制ができているという感じがぬぐいきれない。 平時においては逆に群雄割拠し、ルーズな首長国 集合体であるといったものだったのだろうか。
439 :
日本@名無史さん :04/06/01 13:45
親魏倭王の印綬は首長連合に帰属するものであり、 連合において伝世されるべきものだから、仮に相手国 が崩壊したにせよ私有かすることは筋が通らない。 外務省のようなところで保管されたと思うんだけど。 戦争、内乱時には志賀島のように神社に秘匿をお願いする のが筋だろう。ありえそうなシナリオは石上神社の禁足地 に埋納するとかいうようなことではないか。
440 :
日本@名無史さん :04/06/01 14:17
石上神社からは名無し刀・・・じゃなくて、 七枝刀が出てきたな。 後、霊刀のフツセノミタマも禁足地から出てきたらすい。 まぁ、フツセノミタマは確か鹿嶋神宮にもあるらしいが。
古墳発掘許可があれば日本の古代史の解明がどれほど進むことか。 古墳でなけりゃ、イソノカミも掘れ。 真実は何よりも重要だ。 ちなみに明治維新まで出雲大社には「帝紀旧辞」もあったとか。
大三輪を金属探知なりなんなりしたほうがいい。 ただ、神体山や禁足地は宗教的なモノだからむやみに掘ってはならない。 マルクシズムな思考は過去の洗い出しという善行のようであっても、古来からの神への冒涜という背反する事態になる。 過去への尊敬のない好奇心だけの輩は排除していいと思うね。 それはまた天皇稜であり、また神体山でもある。
印綬て印鑑をぶら下げるヒモのことだろ? ヒモだけじゃ親魏倭王の印か分からないよ。 ところで親魏倭王の印は「親魏倭王」って彫ってあるのかなぁ。
444 :
日本史@名無しさん :04/06/01 19:13
>古代の神 そんなきれいなものじゃない。現在伝えられているものは、そのほとんどが素朴な神などではなくて、 権力を正当化したものがほとんど。 ・・・とかいうのもマルクシズムとかになるの? >石上神社からは名無し刀・・・じゃなくて、 七枝刀が出てきたな どう見ても捨てられたような状態だったけどねw >ちなみに明治維新まで出雲大社には「帝紀旧辞」もあったとか それってその後どうなったんですか?超1級資料ですね。あと、法隆寺の伏蔵も開けて欲しい。救済 観音だって見られてるんだし、もういいと思うけど。「世の中が滅びそうなとき開けても良い」って、あん たそんなこと現代で言ってたら、核戦争かはたまた隕石の衝突か、どっちにしても終わってるじゃん。
真実のために禁足地や稜をほるのは、たとえば、東郷平八郎の真実のために東郷家の物品を掠め取ったり、東郷家の私的情報を暴露するような、そういう印象がある。 真に古代のためにそうしたいなら、それだけの礼儀ある探求が必要だろう
446 :
日本史@名無しさん :04/06/02 17:49
>たとえば、東郷平八郎の真実のために東郷家の物品を掠め取ったり、東郷家の私的情報を暴露するような 無茶な例えだし、つうか東郷平八郎出すなよ。その時点で反論する気もなくすがw 古墳は国民全体の文化財で、もはや個人の所有どうこうといった時代はとっくに過ぎている。 むしろ、その意味をしって更に大切にすると言うことのほうが本筋である。 お宅の説を拡大すれば、弥生も縄文も全部墓あばきにしかならないし、法隆寺の宝物展すらできなくなる。かつ ては仏像を持ち出すこと自体禁じられてたんだよ?今だってかつての由緒ある神社がどんどん宮司不在や村 の経営放棄で無くなっていってる。これだって、権力末端としての神社機能が覆われて、よくわからなくなってし まった事が原因。だからといって、無くなって良いわけはない。神社の社会的機能として、実に多くのものがあっ たわけで、それを再確認することはその神社を残していくために必要。 法隆寺の場合、世界最古の建築で世界文化遺産でもある。その価値を減ずることはどのようなことがあっても あり得ない。ならば本当のことを明らかにするにしくはない。 >それだけの礼儀ある探求が必要だろう その通り。遺跡掘るときだってお祓いするよw
447 :
日本@名無史さん :04/06/02 20:57
447は馬鹿
第一、真実がなにより大切なわけないだろうよ。 そう思ってるのは歴史中毒な歴史学者だけであって、多くの国民には、地域のマツリの中心である神社、そして「天皇さん」などと呼ばれる象徴としての御陵のほうが大切だ。 マジョリティの振りして掠め取るのはやめろ。 お寺の物の展覧会だって、学者が一方的に持ってきてやってるわけでなく、裏でいろいろな儀式、手続きをしてるお寺さんのお陰なんだよ。 お祓いだって、申し訳程度だろ。信心あってやるならお祓い程度じゃないはずだしな。 目先の利益だけでポンポン掘ってお祓いすんでるから「次行こうぜ」じゃ、天皇さんやお神さんの冒涜だよ。 そんなやつらにうちらのお神さんを暴かれるなんざ堪忍ならねぇ
神さんなんていないじゃんか
唯物論者的歴史学者にとって、御陵や神社はどういうもんなんだ? 単なる史料でしかないのか。 歴史学が神社や天皇の精神的価値をそこなって初めて成立するのか。 いにしえを愛せずしていにしえの為という、そんなんだから見つからないんだよ、大事な真実が。 邪馬台国はみつからないだろうね。。。
>449 死者の霊魂は数十年で祖先霊に吸収されてしまうので 個人用の御陵は数百年後にはまったく大切ではない。 近代に急ごしらえした「国家神道」で考えては誤り。
453 :
日本@名無史さん :04/06/03 19:20
天皇であれ、神主であれ、唯物論によって思考し、心によって 祖霊を敬うことは両立している。日本国民と生まれこの程度の 常識も持てないのがいることは嘆かわしい。
なんか馬鹿ひとり粘着してるせいで糞スレ転落だな。 大勢奴隷扱いで働かせて作った巨大古墳に霊魂も糞もないだろう。あるとすれば 過労死した人たちや一緒に埋められた人たちの怨霊だろうよ。 クフ王の墓の故事も知らないのかよ。
>454 それが事実なら暴動が起きて王権転覆・・・>454は池沼
常識? 嘆かわしいのはそっちだ。。 信心無いだろうよ、唯物論者。 なんせ唯物論者だからな。 神も霊も存在しない、だからそれに関わるものは不用であり、 よって破壊・接収なんでもござれ、 って考えだろうよ、唯物論
458 :
日本@名無史さん :04/06/03 20:37
古墳や神社の神的価値観は認めんでもないが、古墳は 室町〜戦国期に破壊されたり平山城に転用されたり・・・。 幕末〜明治期にもいい加減な修復されてるしなぁ。 神社も大きいとこはいいが、田舎だったりすると適当に 統廃合されたりして、由緒もヘッタくれもないような のもあるぜ。
「○○天皇の古墳」とか言ってるけど、 それがほんとに○○天皇の古墳という根拠は何もないんだ。 明治時代に、言い伝えをもとに決めただけの話。 実際は誰が葬られているのか、調査することは必要だ。 権力が誰にあり、どんな勢力に支えられていたかを知る手がかりになる。 副葬品などで、その当時の生活の様子も明らかになる。 日本の歴史は、国家成立の時期が文献がないために不明のままになっている。 日本人として、こんな情けない状態には我慢できない。 天皇陵だからという理由で発掘を阻止するなら、 天皇(制)が、日本の歴史研究を妨害していることになるぞ。 国民共有の文化遺産として、 建造した当時の人々の労苦に敬意を払いつつ、発掘するべきだ。 そうして、歴史の真実を明らかにすることこそ、先人の恩に報いることになる。
古墳の埋葬者は33〜50年で個人霊として扱われなくなる。 だいたい100年〜300年で誰の墓やら不明になっている。
461 :
日本@名無史さん :04/06/04 09:00
観念論者が一人いる ここは唯物論観念論を議論する場じゃないんだよ 自分のしている事がスレ荒らしになってる事を自覚しな 古墳を掘る事を罵倒するなら考古学板のほうが本筋だろ、やつら本職だぜ おまえは二度と来るな。
462 :
日本@名無史さん :04/06/04 11:10
>古墳は国民全体の文化財で、もはや個人の所有どうこうといった時代はとっくに過ぎている まったく賛成だが、調査母体としての現考古学界は信用できない。 このまま後世に伝えた方がよい。
>>290 もういいから出ていってくれ。お前の考えに従うと、今のほとんどの人間は遺跡ほじくり返して
ビルや家を建てて住んでることも墓暴きになってしまう。中世の武士や江戸時代の百姓だって
ぎりぎりでやってたから古墳壊したりため池にしたりしたわけだろ?好きで暴いたわけじゃない。
エジプトだってメキシコだってイタリアだってみんな冒涜するためにやってるわけなのか?
464 :
日本@名無史さん :04/06/05 08:47
九州と機内が一つの邪馬台国って範囲、ってのはないかな。邪馬台国内で九州と機内があらそって倭国大乱、みたいな
もちろんそういう説もあるよ。どっちが主でどっちが従かという議論がほとんどだけど、 両者が拮抗していたかもしれない。 ただ、畿内の古墳がでかいからっていって必ずしも畿内勢力が勝って卑弥呼の後を 襲ったとは限らないと思う。古墳がでかいから進んでいるとは限らないし。
466 :
日本@名無史さん :04/06/05 10:39
むしろ、九州か機内か〜って争いを当時もやってたとか。このスレみたいな
467 :
日本@名無史さん :04/06/05 20:21
アトランティス論争に似ているよ
468 :
日本@名無史さん :04/06/05 23:10
応神天皇とか、大和朝廷(またはその前身の団体?)の 古代の大王には、「九州出身」とされる人がいる。 これも、「東遷説」に有利な状況証拠だね。 その当時、都は近畿にあったけど、 実家の九州に残って、そこを継続して治める人も居て、 跡取りが必要になったので、新都に呼ばれたとか。
469 :
日本@名無史さん :04/06/05 23:13
>>464 彦命対姫命の正統争いの場合、どちらが九州でどちらが大和なのかな?
470 :
日本@名無史さん :04/06/06 10:12
「8時だよ、全国集合!」とばかり奈良県に集合したのが 倭国なのだが、饒速日命、神武天皇の示すとおり九州優勢 の話ばかりが残り、3種の神器となり、銅鐸は消え去った。 土器、方形周溝墓などのファンダメンタルズの動きは西進 であり、銅剣銅矛は未開地の伊予の南、土佐に進出してい るのみだから、当時は本州の基底文化が九州に侵入し、九 州の最新的知識が東進したようだ。筑紫と近畿の地名の類 似も相互作用的なことを想定してかからなくてはならない だろう。奈良県南部の神社古墳配置、古墳建設においては 九州の知識が、金属資源については出雲、山陰の知識が働 いたのではないだろうか。古代であるから戦闘もあったで あろうが、神武の話やヤマトタケルの話は戦闘ばかりをわ ざと集めたもので、実際には神武にもあるが、招聘といっ た形が主流であったのではないかと思う。
471 :
日本@名無史さん :04/06/06 12:56
中国から九州の国を呼称したのが「倭国」>奈良ではありません
472 :
日本@名無史さん :04/06/06 13:58
大八洲国は3000年前頃から水田耕作を始めるようになり、それは 2000年頃前には既に関東に達している。大八洲国においては例えば 青銅器なども筑紫から伝来し東進していくのだが、それは筑紫の 地理的な位置によるものであり、筑紫が残余の大八洲国とは別格で あるということはない。
473 :
日本@名無史さん :04/06/06 14:10
最近の教科書では、「邪馬台国」に「ヤマド」というルビも併記しているのですね。 私の学んだ頃は「やまたい」という読み方しか教わりませんでした。 では、なぜ古代の中国語でつけられた漢字を現代日本語で読むなどという奇妙なまねが何十年と続けられてきたのでしょうか?
474 :
日本@名無史さん :04/06/06 14:25
中国の発表する上古音復元の言語学的プロセスは国際的な検証を受けておらず 中国人でも日本語が発音的及びシンタックスにおいてに正しく継承しているのでは ないかと考える人が多く、ある上海の女性であるがお葬式で読まれるお経の意味が 判ったといっていた。
475 :
日本@名無史さん :04/06/06 14:39
応神天皇って金官加羅からやってきた傭兵隊長らしいね。
476 :
日本@名無史さん :04/06/06 14:55
どうしても大八洲国に何らかの文化的区分があるとするなら 初期の無文土器/突帯文土器時代に雀居遺跡に東北亀が岡 土器地方から入植者があることでも判るとおり三内丸山時代 から、その後は庄内浜に殷代の青銅製刀子が渡ってくること等から 文化的重心は東北にあったものと考えたい。そしてその担架者は 蝦夷熊襲系であり、一部は東北から九州南部に移住し熊襲となり、 時代が下ると沖縄に移住したと考える。一方北九州から能登半島 にかけての日本海沿岸は半島、満州方面との交流でこれらとは 異なる、エミシというべきか、ブリャート系が渡来したのではなかろ うか。
477 :
日本@名無史さん :04/06/06 14:55
>473 松下見林が、大和朝廷=邪馬台国:「やまと」=「やまたい」と妄想したのを 後世の学者が無批判に踏襲したから、100年以上無能研究の屍の山が出来た。
スマソ ×100年以上 ○300年以上
>>473 おまいだって、諸葛亮孔明をショカツリョウコーメーと読んでるだろ。
奇妙だと思う思考が奇妙なのだよ。
480 :
日本@名無史さん :04/06/06 17:08
大和建国後大八洲国の各国は帰国後、自国の一宮に凡そ 以下の通りの戦勝報告をした:「わが国の神は大和の国の とぐろを巻いた山の如き大蛇を倒し、その領民を圧制から 解き放ち、倒した大蛇の尾から名刀を得た。わが国の神は 大和の神を弟分、スクナヒコ、とした。」大八洲国の各国領民 は全て自国が大和の国で主導権をとったものとして大いに 溜飲を下げた。出雲の国の話が特に出来がよかった。九州 の筑前、日向等も五十歩百歩ではあるが、出雲よりはやや 常識的で、神武、饒速日命のようなものが降臨したり、覇権を 得たような話とした・・・こんなことでは。
>土器、方形周溝墓などのファンダメンタルズの動きは西進 であり ここチェックね。C14やってないから。 ちなみに、誰が教えたか韓国も土器編年で、日本と韓国は世界の孤児になっている。
482 :
日本@名無史さん :04/06/07 08:01
>>479 中国の人名は、本土での読み方が明らか(今での発音)だから、あえて日本音で発音。(毛沢東をマォツォトンと言わないでしょ?)
邪馬台国は単純に日本の学会の思い込みだよ
>>482 逆だろ。明らかだったらマォツートンでいいだろ、
>>473 の理屈なら。
だいたい、読み方が明らかでないのにどうやって現地読みするんだい?
論理矛盾だろ。
明らかじゃないから、日本語読みで代用してきただけ。
>邪馬台国は単純に日本の学会の思い込みだよ
いやいや。君の思いこみだよ。
484 :
日本@名無史さん :04/06/07 09:47
「邪馬台」「卑弥呼」「台与」とかは、 暴走族の「夜露死苦」と同じ、カナ感覚の表音文字なのだから、 「邪馬台」と「台与」の「台」は同じ読みのはず。 つまり「やまと」と読むのが、適切だと思うのだが。 もしかしたら、当時のやまと言葉では、発音に違いが あったかもしれないけど、現代日本語の「やまと」に対応 する言葉だろうから、「やまと」と読むのが適切だと思う。 ただ、この読み方は、邪馬台と大和は別物だと考える学説を 出している人たちには、受け入れがたいことだと思う。 だからヤマタイの読みは、学会の思い込みというよりは、 彼らに対する配慮による代用読みかと。
485 :
日本@名無史さん :04/06/07 10:35
あー、おいらここに書き込むのは初めてで、 このスレッドはおもしろく見てるだけの素人なんだけど、 日本の考古学界ってちゃんと炭素14やってないの初めて知った。 てっきりスタンダードにやってるものだと思った。
486 :
日本@名無史さん :04/06/07 13:51
どちらにしろ、邪馬台国の曖昧・過剰な表記は、魏の面子立てでしょうに。当時の大陸情勢を鑑みるとそう思う。 邪馬台国は人口数千の小国なんじゃないかな。そう考えれば、歴史に残らないのも納得できるよ。
>>485 炭素14もやるけれど、土器編年は役立たずで、素の土器でも
炭素14で年代測定できると思ってるアホしかここにはいない。
488 :
日本@名無史さん :04/06/07 18:12
>>483 中国人の外国語表記がいかにいいかげんか。
現在の状況を見ればわかる。シアウェイイー(ハワイ)、オールオスー(ロシヤ)、
これらから元の音はまったく想像できない。
当時の中国語の音をいくら調べても、それは一つの参考に過ぎない。
当時の中国語の音のさらに向こうにある倭語の音、それが真実なのである。
>土器編年は役立たずで、素の土器でも 炭素14で年代測定できると思ってるアホしかここにはいない こんなこと言ってるアホも日本にしかいない。あ、あと韓国w
邪馬台国は自らほろんだのか 邪馬台国に滅ぼされたのか いまだ未明。
なんのこっちゃ
「と」に「台」の字を当てたとしたら 伊都国の「都」は別の音かな
493 :
日本@名無史さん :04/06/07 22:05
>490 邪馬台国は唐の傀儡政権と、自主独立政権に分裂して 後者が勝った>天武天皇が勝利
邪馬台国は「ヤマト」さ。三輪山のふもとの遺跡群、鉄器などの出土物、三角縁神獣鏡でキマリ。
まあ、なんだ。 何を主張するかはまあいいとして、 意味が取れる日本語で書いてくれないかなぁ。 ワケワカメなレス、大杉。
496 :
日本@名無史さん :04/06/08 00:42
邪馬台国は本来、親魏〜王の称号がもらえるようなくにじゃなくて、ただ魏の国の内部が落ち着いてなかったから、権力の誇示のために授与したんだとおもう。 だから、邪馬台国は取るに足らない小国で、遺跡も実は、どこでほられて消されたかも分からないんだろうね。 どこにあったのか分からないんじゃなくて、わかる必要もないような国だったと。
>>492 いとう→伊都
やまと→邪馬台
都→とう
台→と
ゴロあわせで解く邪馬台国は 100年たっても似非学問>ちいちいぱっぱ
499 :
日本@名無史さん :04/06/08 01:09
当時は確か、明帝の死期あたりであったはず。
500 :
日本@名無史さん :04/06/08 10:10
>>492 当て字って、音の違いを意識する?
それとも、字の意の方を意識する??
どっちだろう???
(意味を無視して)音で合わせるから「当て字」というんじゃないのか?
502 :
日本@名無史さん :04/06/09 08:20
誰か面白いのいないの? 九州説が出れば日食厨、畿内が出れば畿内厨、新しいパターンが出れば基地外じゃ一行に進まないよ。誰もまともなのいなくなってるしなぁ。 ってことで、age
音で合わせるにしても 中国語発音で読まなきゃ無意味。 俺がずっと前に読んだ説では 中国語で読むと「ヤマドゥ」と聞こえて これは「ヤマダ」の転嫁だろうから 邪馬台国は全国の山田のどっかだろつーのがあったぞ。
504 :
日本@名無史さん :04/06/09 12:21
邪馬台国(一時的な名前だが)は九州各地を遷都しているのに 平安京的に固定していることを前提に考えると誤りではないか。 大遷都だけでも今の福岡→熊本→福岡と動いているし 小遷都もかなりやっているように思う。 海洋国家のせいか、港は選ぶが平野に執着はしなかったようだ。
505 :
日本@名無史さん :04/06/09 13:04
筑後/肥前で邪馬台国遷都を繰り返した勢力は当初は筑前の王中の王 伊都国、奴国の統制下にあったものがあるときその統制を離脱し、本州の 統一を求めて東遷を開始するのだと思うが、その契機となったのは後漢 滅亡による金印効力の消滅であり、これに追い討ちをかけて公孫などに 追われ楽浪からの難民が渡来、華北の政情不安により九州北部の有事の 際の安全性に危惧の念を持ち、本州全土の結束を固めようとしたのでは ないだろうか。
506 :
日本@名無史さん :04/06/09 13:37
山田さんじゃなく山本さんじゃありませんか。ねぇ山手線。
507 :
日本@名無史さん :04/06/09 15:38
>>504 熊本遷都の背景は、どういったものなのでしょうか?
もし、「新しい占領地の支配強化」、あるいは、
「戦いの最前線に主力部隊を置くため」みたいな理由だったら、
その後の東征で、福岡→・・・→出雲→・・・→畿内と
遷都していったことの傍証になるかもしれません。
508 :
日本@名無史さん :04/06/09 18:45
>507 4世紀中ごろ、極東諸国は鉄の利権=領土争いのため 軍国主義化したので、博多湾岸が直撃される港となった 有明湾はよそ者にとって迷路だが、倭人にとっては良港なので 軍港の引越しとともに熊本に遷都(4C中) 白村江のまさかの敗戦で停戦により大宰府付近に遷都(7C中) 倭国サチヤマ王の帰還により唐の傀儡倭国が大宰府に発足するも 畿内政権を簒奪した天武が畿内で本家取り宣言、九州倭国を攻略 持統天皇のダメ押し残党狩りにより、九州倭国は滅亡(7C末) なお出雲は紀元前1Cの宗主権剥奪により、権威のみの小国となっていた。
509 :
日本@名無史さん :04/06/09 20:50
宇治山田 内山田 牛窓 山田姓 関連ありや
>倭国サチヤマ王の帰還により唐の傀儡倭国が大宰府に発足するも 畿内政権を簒奪した天武が畿内で本家取り宣言、九州倭国を攻略 サチヤマ=天武という説もあるが? どちらにしても、無傷に近い畿内兵力が半島戦争で疲弊しきった九州勢力が勝てる可能性は かなり低いにではないでしょうか?
>510 畿内軍は統率力弱そうだけど、無傷に近いのは同意>勝って当然かも サチヤマは唐軍に連行されて帰国したから、唐とはとりあえず和合した形だが 記紀にはこのあたりの記述が隠蔽してある。これがサチヤマ≠天武の証。
512 :
日本@名無史さん :04/06/11 17:43
サチヤマについて詳しく知りたい。本かサイト紹介して下さい。
513 :
とりあえず :04/06/11 19:50
515 :
〜↑(ざー2より出張中) :04/06/12 02:13
眉毛がつばでべたべただあ! まあ、王仁三郎が超人的だったのは認めますけどね。
>515は誤爆?意味不明。
大和朝廷と邪魔大国は一切無関係です。
519 :
日本@名無史さん :04/06/17 10:12
出口をだすな。あれは竹内キョマロより胡散臭い。 俺的には三角寛にサンカを教えた人物が気になる。彼は日本書記を訓読みしたというし。ヤマトノオフミとかウエツコトノフミとか、文献側的に気になる。
江戸時代の国学者はみんな日本書紀をヤマトブミと訓読みしてたでそ 三角寛だって電波にはかわりないよ
521 :
帰ってきた24歳無職 :04/06/18 00:38
一つ聞きたいんだが日食って 肉眼でみてわかるものなのか? ガキのころ黒い下敷き使ってみて それでもなんのことやらわからなかった 記憶があるけど・・・
日食には部分日蝕、金環日食、皆既日食といろいろあるのよ
523 :
日本@名無史さん :04/06/18 02:35
世界的には大和王朝は百済の王子ホムダによって建国されたことになってます
未だにヤマタイ国がどうのこうの言ってるのは日本だけですよ
ttp://www.koreanhistoryproject.org/Ket/KETIndex.htm In the winter of 369 AD, Prince Homuda's expeditionary force landed on
the northern shore of Kyushu at Hakata Bay on the westernmost of
Japan's large islands (Figure 3). On the rich agricultural plain near
the present site of Fukuoka, the new arrivals from Paekche established
a foothold and began building settlements. They spent the next three years
repairing and refitting ships, making weapons, training, storing provisions and
getting ready to subdue the territory. Prince Homuda's army pushed eastward
for six years, encountering fierce resistance from many of the clans in its path.
After subduing its opposition by surrender,outright conquest, or death,
the expeditionary force finally halted on the rich agricultural plain formed
by the Yodo and Yamato Rivers at the head of Osaka Bay. Having gained
control over the central part of the country, Prince Homuda proclaimed the
creation of his new kingdom, taking its name from the surrounding region and
giving the country its first official "name" - Yamato.
倭人は周の成王(紀元前1002年没)に鬯草を貢献した。 百済が建国したのはその1000年以上後のこと。
525 :
日本@名無史さん :04/06/18 04:44
>>523 If you could provide us with the archaeological proof and
historic documents written by the third party about the
historic incident, it would be more fruitful.
526 :
日本@名無史さん :04/06/18 06:24
Paekche means "himdreds of people cross the river", that is, migrant people and nothing else.
527 :
日本@名無史さん :04/06/18 06:43
日本人では考えられない無知というか、情報不足の方面の 情報だな。
528 :
日本@名無史さん :04/06/18 08:50
国内じゃしがらみが多すぎてまともに研究できないからね 海外の方が研究が進んでるってのが皮肉
あほか 海外ならなんでも進んでると思ってるのは 明治で頭の中とまってんじゃないのか
ヤマタイ国と呼んでいる人は>523以外には多くない。 普通「邪馬台国」と呼んでいる。 列島の部族国家群が統一されていく過程で、一時期「邪馬台国」と 中国側から呼ばれただけのこと。「委奴国」「邪馬壱国」とも。 百済が歴史に顔をあらわすのがやっと13代近肖古王 (在位346〜375)時代であり、列島土器1万年、倭人1000年の 歴史を後追いした百済が、邪馬台国を建設しようがない。
531 :
日本@名無史さん :04/06/18 16:45
結論も出たしそろそろお開きかな? 1、邪馬台国は百済のホムダ王子に率いられた軍勢によって征服された有象無象の中の一国であった 2、大和王朝はホムダによって建国された征服王朝であった 3、よって邪馬台国と大和王朝には直接の繋がりはない
↑はぁ?
533 :
日本@名無史さん :04/06/18 17:14
倭と高句麗が極東の覇権を争った4Cに 百済は半島で指をくわえて眺めていただけ。 百済が倭や大和に人質を差し出したことはあっても 百済が日本列島を征服したことはない。 日本列島の力を借りていた歴史ばかりである。 滅亡後(7C)も倭国にすがって生きようとする弱小国であった。
じゃばだいこく
ヤマトの諸君
タイムマシーンが開発されないかな。 いやその時代を眺めるだけでいいからな。
>タイムマシーンが開発されないかな 最終的にはそれしかないが、少なくとも陵墓指定やめたら相当に大きいと思ふ。 それ自体タイムカプセルだし。 はっきりいって、あんな柵とか盗掘屋には無駄。ただふつーの庶民に「寄らしむな、知らしむべし」 ってアピールしてるだけ。世界的な文化遺産を宮内庁の狂信者が独占するのは異常だし。
538 :
帰ってきた24歳無職 :04/06/18 23:43
テレビの力にでてくる超能力者にでも聞けば 万事解決間違いなし。なんでも地球の裏側からでも すべて見通せるらしいし、残留思念とやらを感じ取れる みたいだから卑弥呼の残留思念を感じ取って 邪馬台国の位置も明らかになるよ
>>537 宮内庁は前例がないから、許可しないだけで狂信者ではない。
たぶん、役人どもは天皇、皇太子でさえ内心馬鹿にしている。
今回の、皇太子の発言でそれが良く分かった。
実際、天皇は学問のためなら、陵墓を公開したほうが良いという
意思だという話を聞いたことがある。
天皇や皇太子の意思さえ無視する宮内庁なんて存在意義あるのか?
>>540 そりゃあ逆だ。
宮内庁にさえ馬鹿にされる天皇や皇太子に、存在意義があるのか?
と問うべき。
つうか、とっとと陵墓を公開シル!
>>541 そうかな?小役人どもに何が分かるかと思うが。
前例がないから出来ないんだろ?
宮内庁にとって、学者というのはある意味「無法者」だからなーという意識はあると思う。 当然といえば当然。「前例」などという法を超えるのが学者の使命だと考えてもいるだろ うし、そのおかげで、時代時代で歪曲されてきたこともある。 ただ、そんな中で歪曲されてきた古代皇室史は、もう特別に守られなければならない ものではない。日本人みんなの共通認識、民族の財産として再構築する必要が現実 に来ているので、私は近い将来陵墓が調査公開されなければならないと思う。
いや、それもどうかと思うが。
↑ おまいは誰に何を言ってるのかと。
546 :
日本@名無史さん :04/06/19 13:24
普段は批判を一切受け付けないが 学者を含めた世間の意向に「重い腰を上げる」のが宮内庁 皇室を本家とし、国民を分家とする偽血縁社会幻想と 皇室を倫理の模範とする演出と 万世一系幻想が崩れないように、改革には腰が引けているのである
↑宮内庁がそんなご大層な思想まで考えてるわけないだろ 前例を盾に取ってよけいな仕事を増やしたくないというたんなる役所仕事だよ
548 :
日本@名無史さん :04/06/19 20:39
↑考えが浅いよ。
550 :
日本@名無史さん :04/06/19 22:00
「邪馬臺(台)国はなかった」 邪馬台国と言う国名は魏志倭人伝には[ない]と言うのである。 氏によれば現存する魏志倭人伝の最良の刊本は南宋の紹煕年間(1190――1194) に刊行されたものであるとして、この紹煕刊本を詳細に調査した。 そこには「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」とある。 そしてさらなる詳細調査の結果「三国志」全体の中に「壹」の字は86箇所、 「臺」は56箇所あり、この56の「臺」のうち「壹」の誤記は一つも無い。 また「壹」で「臺」と誤記されたものも一つもない。従って「邪馬壹国」があったのだと主張した。
551 :
日本@名無史さん :04/06/19 22:04
魏志倭人伝とは? 三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人 実は魏志倭人伝という書物はありません。 通例、魏志倭人伝と呼ばれているものは、西晋の時代に陳寿という人物によって書かれた 三国志という正史(中国の王朝が正当な歴史書と認めた書物)の中にあります。 三国志といっても、関羽や張飛が戦い、超雲子龍が野を駆ける三国志とは違います。 こちらは三国志演義という別物です。 本物の三国志は、起こったことだけを無味乾燥に書き連ねた本です。 この三国志は、魏書三十巻・呉書二十巻・蜀書十五巻の三書全六十五巻からなり、 280年代の前半に書かれたと考えられています。
552 :
日本@名無史さん :04/06/19 23:41
いまさら倭人伝の記事を根拠に位置推測してどうするんだよ(w 本居宣長に始まり、あまつさえ300年もの年月を重ねて 総ての研究者が一致した結論は何だったんだ? 「倭人伝(魏志、随書、後漢書その他を含む)からは邪馬台国の位置は判らない」だろ? 記紀との語呂合わせやご当地贔屓から一旦離れて 発掘結果と言う物的証拠をつなぎ合わせて考えてごらんよ。 そういった情報はわざわざ専門書や学会機関紙に目を通さずとも、ネットで十分調べられる。 現在ではかつての九州説やら畿内説といったカテゴリーでは括れないような 複合説(かつての東遷説でもない、強いて言うなら首長連合説)が最も有力かつ面白い。 学会でも現場でも、今が一番面白い時期だ。自説にこだわってる場合じゃないぞ。
結論はともかく、場所が解らないかどうかいつ確定した? つうか本居以来とか言ってる時点で痛すぎ。お前一人300年前で止まってろよ。
魏志倭人伝だけしか見ていないのは>551-552だけでしょう。 史記〜新唐書・資治通鑑・記紀・続日本紀もふつう見ますが。 さらに考古学・民俗学・民族学も併せて考えます。
>>553 それはもう確定してるといっていいんじゃないかな。
無視していいわけじゃないけど結論はでない。
たとえば、故・西嶋定生はこう書いている。
『この論争は『魏志』倭人伝所載の里程と方位とをいかに解釈するかという論争であり、
必ずやその内容に誤りを含んでいると考えられる史料をいかに合理的に理解するかという、
いわば永遠に解決が期待されがたい論争である。』
556 :
日本@名無史さん :04/06/20 00:42
>>553 言葉尻を取って上げ足取りするのは、そろそろやめにしたいのですが。
どの文献を照らし合わせても確定できないからこそ、現在まで謎なんでしょ?
お互いに発掘結果待ちで行きましょうよ。
>>554 いや普通に読んでる。読んで無いと上司に怒られる(w
しかし「資治通鑑」とはマニアックなところ突いてきましたね。
557 :
日本@名無史さん :04/06/20 00:43
>555 めんどくさいから、古田武彦の「邪馬台国はなかった」を嫁。 話はそれからだ。
古田電波キターーーーーーーッ!
559 :
日本@名無史さん :04/06/20 01:01
倭人伝の里程+方角論をここでやるのはめんどくさいからやらないよ>558 電波と思うならそれでよし、話は読んでからだ。
560 :
日本@名無史さん :04/06/20 01:02
>>557 たいていの参加者は既に読んでるはずだよ、無論安本美典氏のもね。
一人の研究者の著作のみを読んで発言している者の方が少数派ですわ。
過去スレにもオススメ本が何冊か挙がってましたが
一部を除いては(あえて言わん)実に理知的な考察を展開しています。
たいした量じゃないので一読してくださいな。
>永遠に解決が期待されがたい論争である 古田が電波かどうかはともかく、こういう事を大学者と言われている人が言うから ダメポという立場は大事なんじゃないかなあ。
大学者は学閥や学壁にさえぎられていたから、 素人よりオツムが不自由。 さらに古典的な祖述の風もひとつの悪の根源。
563 :
日本@名無史さん :04/06/20 01:16
>>561 いやいやこいつは「必ずやその内容に誤りを含んでいると考えられる史料」を
根拠に語ってもダメって言う意味だろう。
史学を志した事がある人なら、文献資料は総て疑えと教えられてきたはず。
だからトンデモじゃなくとも通説はしばしばひっくりかえる。
信長にしても比叡山焼き討ちや三段撃ちが俗説だと証明されたのは
戦後しかも80年代に入ってからだよ。
「魏志倭人伝」の時には「邪馬台国はなかった、邪馬一国があった」 でも、「後漢書倭伝」の時には「邪馬台国はあった」 と言うのが古田だよね。
566 :
日本@名無史さん :04/06/20 11:57
古代史研究の伝統として、「自分の読みたい文字に勝手に改ざんする学風」があった。 改ざんすれば、どんな脳内妄想も漢籍から引き出せる。 そういう理由で>552>555の結果が生じる。
567 :
日本@名無史さん :04/06/20 13:28
文献学界のゴッドハンド、自己顕示欲が強すぎて犯罪に走る、ションベン臭い犯罪者 だなー。安本とか言うのもそうなのか?
568 :
日本@名無史さん :04/06/20 13:29
ナメクジには塩をまけ!
>文献学界のゴッドハンド、自己顕示欲が強すぎて犯罪に走る、ションベン臭い犯罪者 だなー 古代史学者ご一行様全部そうだよなw 仮定を所与の前提にする文章が、どれだけねじ曲がって読みにくいか少しは読む側の気持ちも 考えてくれよw
570 :
日本@名無史さん :04/06/20 18:05
考古学者も500年分嘘ついてたしね。
571 :
日本@名無史さん :04/06/20 18:51
「邪馬臺(台)国はなかった」 邪馬台国と言う国名は魏志倭人伝には[ない]と言うのである。 氏によれば現存する魏志倭人伝の最良の刊本は南宋の紹煕年間(1190――1194) に刊行されたものであるとして、この紹煕刊本を詳細に調査した。 そこには「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」とある。 そしてさらなる詳細調査の結果「三国志」全体の中に「壹」の字は86箇所、 「臺」は56箇所あり、この56の「臺」のうち「壹」の誤記は一つも無い。 また「壹」で「臺」と誤記されたものも一つもない。従って「邪馬壹国」があったのだと主張した。
572 :
日本@名無史さん :04/06/20 19:01
木を見て森を見ず。漢籍に誤謬なし。そのおっさん中国人の俺俺詐欺にかかるぜ。
573 :
日本@名無史さん :04/06/20 19:07
利かみとおり 和かみとおり 利は和の誤字だということで、ほぼ決着でしょ (和語はら行が語頭にこない、わかみとおりという「跡継ぎ」という普通名詞がある、など) イヨよりトヨと読んだ方がすっきりくるし トヨの国はあってもイヨの国はないしね
574 :
帰ってきた24歳無職 :04/06/20 19:19
イヨか・・あれはいい女だったなあw
575 :
日本@名無史さん :04/06/20 20:17
>572 その反対さ。みんないじり放題だったのさ。
576 :
日本@名無史さん :04/06/21 12:11
邪馬台国論争って、推理小説マニアが実際の事件を論じてるみたいな気がします。 資料をダイイングメッセージ宜しく解読しようとしたり 人名や地名を暗号解読のごとく語呂合わせしたり フツーの事件を「見立て殺人だ!密室だ!機械トリックだ!」とややこしく考えたり まるで東野圭吾の「名探偵の掟」みたいです。 実際の事件の解決には指紋やDNA鑑定が不可欠なように 発掘された遺物や現場状況を重要視したほうが、圧倒的に近道だと思います。 でも多分・・・マニアにとっては面白ければそれで良いんでしょうね。 たいして面白くも無い真実よりも。
未だに新聞もテレビも「邪馬台国は○○か?」ってわめいてるもんなw そんなもん古代史の中では一部の問題だっちゅうのにね。どこにあったにしろそれから 大和朝廷までの経過だってまだ何にもわかってないのに。
578 :
日本@名無史さん :04/06/21 12:18
近代的な学問の手法が成立するまえに 記紀や中国の漢籍は散々「思い込み」読解され 明治期には万世一系、神国日本の色をつけられ 誤読・曲読が進んでしまった。 普通に読み始めたのは最近のことである。
579 :
日本@名無史さん :04/06/21 12:19
>>573 >イヨよりトヨと読んだ方がすっきりくるし
>トヨの国はあってもイヨの国はないしね
漏れもトヨだと思うけど、イヨ(伊豫)の国は四国にあったりする。
古事記や日本書紀にも神話の中ででてくるよ。
580 :
日本@名無史さん :04/06/21 18:54
問題は邪馬台国の位置なんかより そのわずか後に台頭したプレ大和朝廷(前方後円墳文化圏)の正体と そいつが倭の五王時代や奈良・河内支配者層と同一の物であるのか否か (九州に独立した王朝があったとは考えにくいが、畿内の支配力がとび抜けて強力だったとも思えない) また天皇を中心とした支配体系が本当はいつ頃確立したかの方が、よっぽど重要事項なのだがな。 このスレはそういう方向で進むべきだと思う。 語呂合わせは他のスレに任せちまえよ。
581 :
日本@名無史さん :04/06/21 20:18
記紀に倭の五王の朝貢記録が無いのはなぜだと思う? 俺は隋と対等の関係を結ぼうとした当時の大和朝廷が意図的に省いたと言う説に一票なのだが。 結果的に明らかな過信であり、政策的にも大間違いだったのだが 宋書の記述のみなら何とでも言いくるめられるとの甘い考えもあったように思う。 まさか碑文までもが残ってるとは夢にも思わなかったのだろうね。
583 :
日本@名無史さん :04/06/21 21:11
>581 2国間の関係が確定したので貢献記事は不要。 国交のなかった状態や途切れ途切れの状態のときに貢献記事を載せるのだ。 隋唐と対等外交したのは九州倭国=邪馬台国であり、衛星国の畿内王権ではない。
584 :
日本@名無史さん :04/06/21 21:24
スマソ、最後の1行は全く違う板に書いた文章が紛れ込んでいた。
メモ帳からのコピペミスだ。改めて謝る。
>>583 そこまで強硬に九州王朝を主張する理由が、正直判らない。
古田氏の本は一通り読んだ上での発言なので、煽りではない。
585 :
日本@名無史さん :04/06/21 21:31
>584 平壌には唐の安東都護府があったが、日本列島にはその下部組織都督府があった。 →どこにありましたか? 法隆寺の光背銘をしっかりと解読できますか?
586 :
日本@名無史さん :04/06/21 21:41
阿蘇山は畿内に無いでしょう。
587 :
日本@名無史さん :04/06/21 21:46
>>585 真面目に答えます。
大宰府及びかねてからの北九州に位置する外交施設の重要性は無視しません。
しかしそれは外交基地としての重要性です。
首都機能とはまた別のものであり、またここで言う首都とは
すべからく政治、軍事、宗教の頂点にあるものではありません。
わたしは九州王朝とまではいかなくとも、外交を一手に引き受ける勢力が
九州に存在したと考えています。いわゆる首長連合説です。
>法隆寺の光背銘
真面目な方だとお見受けしましたのであえて言います。
あれに信憑性を求めてはいけません。
反論はイヤと言うほど耳にした事があるでしょう。
588 :
日本@名無史さん :04/06/21 21:49
大宰府じゃなくて、都督府です。
589 :
日本@名無史さん :04/06/21 21:55
「防人」という存在(制度)の規定が大和朝廷内にないが 唐の府兵制には防人制度が存在する。 都督府は唐の府兵制を施行したので、防人を徴兵しているが、 大和朝廷側にはこの記録はない。
防人だろ?あったじゃん。
591 :
日本@名無史さん :04/06/21 22:06
都督府の場所は、筑紫の太宰府で良いでしょ。 あと、大和朝廷に防人制度は思いっきりあります。 あと、大和朝廷が中国の属国であったことを 隠蔽したと考えるのは自然に思えます。 例えば、第1回遣隋使は607年とされているが、 実際には600年にも行っている。
592 :
日本@名無史さん :04/06/21 22:13
>590 唐の制度にあっただけ。 大和朝廷の制度にはない。
593 :
日本@名無史さん :04/06/21 22:20
>>592 587ですが、ありますってw
ちなみに万葉集にも有名な歌が・・・ほら
あの読み人知らず氏は、一体何処から来たんでしょうね。
594 :
日本@名無史さん :04/06/21 22:32
>593 都督府に召集された防人たちは、たくさん歌を詠みました。 大和朝廷が防人を召集したことが一度でもありますか?
さきもりと言う訓は何故に?
596 :
日本@名無史さん :04/06/21 22:50
>595 よく知りませんが、きっと和語で「岬守」を意味するんでしょう。
597 :
日本@名無史さん :04/06/21 23:03
>>596 当時、「岬」と言う言葉は無いです。
平安後期のころ「御先」から転用されたと考えられていますが
この「さき」には当時「最果て」や「最前線」という意味がありました。
どちらかというとあまり良い意味ではなく、田舎をあらわす場合に用います。
同様の意味で「辺」を使う場合もあります。
もし九州に王朝があり、そこが主導して兵を集めたのなら
そのような意味は絶対に込めません。
都督府=太宰府だろ。電波垂れ流してんじゃねぇよ
599 :
日本@名無史さん :04/06/21 23:09
>>594 大和朝廷の税制って、
租・庸・調・雑徭・防人では?
大和朝廷の命令で、防人制が停止になったり、再開したりしているし、
後の時代に畿内での閲兵みたいなこともやってる。
もちろん、五王とか言ってた時代よりは全然後の時代の話だが、
五王の所属団体が大和朝廷に連続している
と考えるのに有利な証拠ではあるだろう。
600 :
日本@名無史さん :04/06/21 23:12
>598 根拠なし
筑紫都督府が唐の出先機関だっつー説は古田武彦か? 古田武彦はそこまで酷い電波だったの? 鹿島昇がいってたのは知ってるが、 いくら古田でも鹿島と同列にはできないと思ってたんだがな。
602 :
日本@名無史さん :04/06/21 23:14
なんだか九州王朝サイド旗色悪いな。 ガンガレ!
603 :
日本@名無史さん :04/06/21 23:17
>>601 おいおい、読んでから騒げよ。
古田説じゃないだろ。
604 :
日本@名無史さん :04/06/21 23:19
605 :
日本@名無史さん :04/06/21 23:21
>>597 九州王朝は「さきもり」なんて表現はしていないでしょ。
勘違いです、「防人」です。
唐が都督府をおいて九州を支配してたのなら 九州王朝はどこを支配してたんだ???
607 :
日本@名無史さん :04/06/21 23:28
>>599 当たり前ですが、衛星国=畿内政権は都督府に呼ばれて
東国の防人が九州に行くのを、知っていたわけで、
畿内を経由することもあったでしょう。
九州王朝出身の天武あたりで、九州王朝を滅ぼし
九州沿岸警備は政権交代して引き継がれたので
これ以降は別な話ですが(いわば第2九州王朝なわけで)・・・
608 :
日本@名無史さん :04/06/21 23:33
>>606 九州王朝が敗戦後(薩夜麻の帰還後)、そのまま唐の支配下になったので同じ領域。
筑紫都督府というのは太宰府のことだろ。 日本書紀の記述はそれで矛盾ない。 一方、中国側には九州を征服して都督府をおいたなんて記録はない。
唐が九州に都督府をおいたのならば 九州王朝はその段階で滅亡したはず。 唐の支配下になって生き延びたということはありえない。 それなら都督府は設置せず、九州王朝の王を倭王に冊封したはず。
611 :
日本@名無史さん :04/06/21 23:39
>>609 旧唐書と新唐書の記述の相違により、
大和朝廷の言い分を後世、中国側が飲んだだけ。
612 :
日本@名無史さん :04/06/21 23:39
>>611 意味不明。日本語で書いてください。
>>612 「まさにそうした」って?
倭王に冊封したなら都督府はなかったはずといってるのだが。
614 :
日本@名無史さん :04/06/22 00:23
話が少々混乱してきたので、新しく入ってきた人のためにも話を整理しますが、 倭の五王が、安東将軍・鎮東大将軍・征東将軍などの官位を中国(宋)から貰ったことは、 九州王朝説の人も、(私のような)九州王朝否定派も認めるところ。 極東は小国が乱立していて、主導権争いのために 中国からお墨付きを貰うことは昔からやっていたこと。 ただし、官位を貰ったからといって、 実効支配化に入る訳でもなれれば、援助がある訳でもない。 卑弥呼が親魏倭王になっても、そうであったように。 五王が立てた軍事拠点は、中国側から見れば、名目上ではあるが、 都督府であり、中国の歴史書などにも都督府として記載される。 未平定地の長官として、徴兵とか徴税とかの権威を中国は認める。 (もともと自分の支配地だから、中国に認められなくてもできるが。) なお、この制度は、大和朝廷でも真似していますね。征夷大将軍は、 地方に留まり軍事拠点を立てて、徴兵とか徴税とかの権威を朝廷が認める職ですから。 この制度を利用して、頼朝は幕府という徴兵徴税権をもつ地方の軍事拠点を立てたのです。
615 :
日本@名無史さん :04/06/22 00:25
>611 純粋に聞きたい。 旧唐書と新唐書の相違があると、 なぜに中国が大和朝廷の言い分を飲んであげることになるのかな? この場合中国側というのは、新唐書を作ったときの王朝? 宋?平安後期?
>>611 御都合主義な理屈だなぁ。なんでもありじゃん。
妄想ふくらましたいなら歴史板から出てけよ。
超古代史マニアはオカルト板に逝け。
>>614 基本的には実質が伴うケースが多いだろ
それと倭の五王は都督府じゃないでそ。
システムはともかく、都督府という名称自体勝手に奈路れる類のものではないから・・・。 ここで整理したいのだが、九州に王朝があったこと自体は別にかまわないよな? ・・・いや、昔の学者には「九州には王自体存在しなかった」っていう超観念的な輩もイパーイ いたし。そいつらの説明聞いてると、弥生時代後半以降自然に衰退したみたいな事言って たが、ちゃんとした大学の立派な先生達がこんなこといってたんだぜ?(禿藁w もちろん出雲だって、神話の世界だけの物語だなんて平気で抜かしてた罠 ただ、九州の王、或いは出雲や大和、河内、尾張、関東などの各地の地方の覇者が、どの ような規模で、どのような特質と歴史を持っており、それがどのように統合されたかということ は問題なんだよな。あくまで邪馬台(一)国論争はその一部に過ぎないと言うことで。 そして、それを分析するときに、たとえば「前方後円墳があるからここはこの時代に畿内勢力 が征服した」っていう古くさい方法は通用しないと言うこともいいよな?だってよ、ろくに放射年 代測定もやらず、第一陵墓参考地自体手つかずだし、これが時代の物差しにはならないって 言うこと、それに巨大古墳があるからってそれがイコール政治権力とか征服・被征服との相関 関係が不明なこと、これらをすっ飛ばしておいて前方後円墳を絶対的な物差しに使うのは、学 問的方法じゃないよな?
1)九州に王がいなかったなどといってる奴はいないよw 奴國王や伊都国王はどこいたんだっつの。へんな捏造はしないように。 2)王がいたというのと王朝があったというのは微妙に意味が違うかも試練名。 3)「前方後円墳があるからここはこの時代に畿内勢力が征服した」という 理屈はありうるだろ。むろん絶対的なものではない。具体的にそれがありえない という論証ができれば、個別のケースで否定していけばよい。 前方後円墳があるからここはこの時代に畿内勢力が征服した、 「ともいえるし、そうでないかも知れない」という段階なら、 蓋然性として十分推定可能な理屈だと思われ。
620 :
日本@名無史さん :04/06/22 00:48
武韋の禍のあと、極東の失政はなかったことになった。 それとともに畿内政権を認可した。 倭に勝利した当時の百済鎮将(極東最高軍司令官)は、その失政により四川省に配流されている。 百済鎮将が流された後、唐は九州倭国に傀儡政権を樹立したものの、列島内部で転覆させられてしまい 一連の顛末は武韋の禍による唐の都護府の勝手な行為として、中央政府の行為ではないと断定、 記録からはずしている。
621 :
日本@名無史さん :04/06/22 00:49
>>618 >九州に王朝があったこと自体は別にかまわないよな
いつまであったのかは激しく問題視したいのだが
>ちゃんとした大学の立派な先生達がこんなこといってたんだぜ
現代のような考古資料が無かった時代の説を、そこまで責める事もあるまいに
>前方後円墳を絶対的な物差しに使う
そんなことバリバリの畿内説論者でも今ではするヤツいないのだが
読んでる本が古いのか、あるいは釣りなのか・・・
>>620 なんで後世の王朝が唐の失政をかばって歴史を抹殺せにゃならんのだ?
唐書って唐が自分で作ったとでも思ってんの?
623 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:02
筑紫都督府は日本書紀にハッキリ記載されている。 金印は福岡県から出土している。 隋書倭国伝にに阿蘇山があると記録がある。 こういうことは無視してはならないでしょう。
624 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:04
625 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:11
>>623 >筑紫都督府は日本書紀にハッキリ記載されている
その通りだが、どの説を取るにしてもそれは邪馬台国の所在地を裏付ける証拠にはならない。
>金印は福岡県から出土している
奴国王のものだからね。
百歩譲って博多湾沿岸が邪馬台国だとの説をとっても、時代が合わない。
>隋書倭国伝にに阿蘇山があると記録
倭国にあるとは書いているが、邪馬台国にあるとは書いていない。
ちゃんと読もうよ・・・もう阿蘇山ネタはうんざり
>>624-623 いつまで屁理屈を蒸し返してんだ?
筑紫都督府が唐の出先機関だなどと書かれている歴史書は日本にも中国にも存在しない。
なにが「ハッキリ記載」だ、歪曲表現も甚だしい。
唐の時代より後に書かれた歴史書がなんで唐の失政をかばって
歴史を歪曲する必要があるんだ?
「いつの時代もやってる」んなら具体的に例をだせ。
627 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:22
あのさあ、君の主張する九州王朝説は古いんだよ。 ここで間違ってほしくないのは九州王朝説が古いと言ってるのではない。 あくまで「君の主張する九州王朝説が古い」と言ってるんだ。 古田センセの説にはいまだに毛ほども賛同できないが それでも「邪馬台国は無かった」の頃に比べたら理論武装してるよ。 事の真贋は別として、その熱意には頭が下がる。 出来れば21世紀に入ってからの古田本を読んでからにしようよ。 畿内説の立場のオイラから、こんなこと言わせるなよw
628 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:22
>>626 都督府って一体なんだか知らないで威張ってるわけね。
勝手に無知でいればいいでしょう。
唐の内部で「あれは唐の天子の命令ではなかった」と判定したから
列島側だけに名称が残った。近畿王権を承認した以後はこれを徹底した。
唐の内部資料自体に温度差がある。
629 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:24
畿内説は九州も領土としていたなどと主張するが、根拠がないんだよ。
630 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:25
>>626 筑紫都督府を設置した王権はどこだ?その根拠は?
>>628 だから自分勝手に歴史を捏造するなっつの
唐が筑紫都督府を設置したという記事は歴史書のどこにもない。
それなのに唐の機関だと言い張るために、後から取り消したといって辻褄合わせ。
ところが「設置したのだが後から取り消した」という記録が唐書にもない。
632 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:29
>631 じゃあどこだ?
633 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:30
筑紫都督府は、日本書紀には大和朝廷の地方機関として出てくる。 ふつうに読めば平凡な記事で、前後の文脈から判断して 後世の太宰府に相当する機関としか解釈しようがない。 それをむりやりな電波をまき散らしてトンデモ説に仕立てる奴がいるだけ。
635 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:35
>>629 やっぱ読んでないw
北九州でも近畿でも、はたまた南九州でも出雲でも良いが
先にあった国の支配者を駆逐して領土化したなんて、もう誰も言ってない。
2世紀末から3世紀中葉にかけて、そんな大規模な戦争は無かったの。
もっと政治的かつ経済的な事情で徐々に連合化していったと考えられてる。
明日あたり大きな書店にでも行って、最近の説を立ち読みしてみなよ。
>>635 畿内政権の領土は小さいから、2世紀末から3世紀中葉にかけて
大戦争など起こしようがありませんが何か?
637 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:43
>>634 ただね、倭の五王が安東将軍とかに任じられているのは事実でしょ?
そして、「都督府」とか「防人」とかは、その制度下の用語でしょ。
つまり、朝貢したとき、(親魏倭王とかと同じ感覚で)安東将軍の位とその取扱説明書をもらって、
「ほうほう、自分が立てる軍事拠点は都督府で、兵士は防人と呼ぶのだな」
とか学んだと考えられる。筑紫都督府は、中国の実効支配は及んでないが、
中国が任命した将軍が立てた都督府なので、名目上中国の都督府ということも可能と思える。
東洋の非常識 筑紫都督府は、日本書紀には大和朝廷の地方機関 筑紫都督府は、日本書紀には大和朝廷の地方機関 筑紫都督府は、日本書紀には大和朝廷の地方機関 頭大丈夫?
639 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:50
>>636 これはもはや宗教だな
キリスト教原理主義者相手に進化論を説いてるような気がしてきた。
別に畿内勢力が主導したとは言って無いよ。
しかし九州が畿内を衛星国とするだけの力も無いんだ。
吉備や出雲や南九州や越や丹後や東海の存在を無視してどうするんだ。
それとも全て北九州の衛星国だったのか?
そんな軍事力や経済力は、当時の列島には存在しません。
>>637 倭王が将軍に冊封されたのは南朝の宋で終わってるでそ
>>638 キチガイほど他人の頭を心配するもんなんだなぁ
藻前はもう痛々しくて見てられない
電波本ばかり読んでないで普通に漢文の勉強して普通に日本書紀嫁
641 :
日本@名無史さん :04/06/22 01:53
ついでに言っておきます。 そんな軍事力や経済力は、当時の半島にも存在しません。
642 :
日本@名無史さん :04/06/22 02:04
>>640 ええ、そもそも宋の時代の話をしていたんですよ。倭の五王の話ですから。
(途中から、なぜか唐の話が入ってきてしまいましたが。)
そもそもの話は、大和朝廷の連続性の話で、
昔、中国の名目上の支配下にあったことを隠蔽するために、
朝貢したことのある邪馬台国や倭の五王とかとの連続性を
大和朝廷が誤魔化したのでは?・・・って話。
そして、当然ながら、九州王朝説の人は反論という流れ。
>>642 中国に朝貢したこと自体がまずくて隠蔽したのなら、
なんで卑弥呼はよくて五王はいけないのか?
説明つかないじゃん。
644 :
日本@名無史さん :04/06/22 02:16
>>642 あなたは真剣に九州王朝の存在を論じているようなので、ちょっと聞きたいのですが
>>636 とか
>>638 なんかの存在は、あなたにとっても迷惑なんじゃないかな。
僕はあなたのようにきちんと理論立てて主張する参加者は、たとえ自説に沿わなくとも大歓迎なのです。
今夜はもう遅いのでこれまでにしますが、今度は成立時からの流れに沿って話したいですね。
>>643 >卑弥呼はよくて
日本書紀は卑弥呼も認めて無いんだよ。
しかしごまかしきれないとでも思ったのか
神功記にとってつけたような注釈をこっそり載せている。
ここで発言するヤシはそれくらい皆知ってるぞ。
>>645 意味がわからないな
ごまかしきれないと思ったのなら、ごまかさないだろ。
だからこそ注釈が入ってるわけで「神功皇后=卑弥呼」
とアピールしてるともいえるだろ。
倭五王についても注釈が入っていたとしてもおかしくないはず。
古事記や日本書紀にはいろんな素材があったろうが 根幹になったのは語り部の伝承。 しかし語り部が何を言い伝えるかという価値判断は 現代人と同じとは限らない。 語り部にとって重要な語り継ぐべきことは第一に天皇系図、 第二にその系図の登場人物にまつわるエピソードであって 大陸との外交という観点で選ばれるとは限らない。 一方、大陸との外交を担当してるのは帰化人を中心とする官僚グループ。 語り部とは水と油のような関係だろう。 そういうわけで古事記・日本書紀の原資料(=語り部の口承)には、 卑弥呼の話も倭五王の話もまったく出てこなかったのだろう。 神功皇后紀の注釈は奈良時代人の解釈にすぎない。 倭五王の記事も宋書から引用して注釈あってもおかしくない。 それがないのは「たまたま」以上の意味はないと思う。
648 :
日本@名無史さん :04/06/22 03:44
>>639 すごいね、唯一絶対政権でも妄想してるの?
畿内派の万世一系思想はやめてくれ。
>>648 罵倒してもなんにもならない。ちゃんと中身のある反論しないと。
イデオロギー的なレッテル貼りは、 歴史学の論争では負け犬がよくやる遠吠え。 やった方が敗北宣言と同じだ
>キチガイほど他人の頭を心配するもんなんだなぁ 藻前はもう痛々しくて見てられない 電波本ばかり読んでないで普通に漢文の勉強して普通に日本書紀嫁 久々に覗いてみれば、約一名狂犬がいるな。だれかIP抜いてやれよw マジ、それ以上荒らすと削除依頼出すよ。
>>651 誰の味方のつもりで、また誰を貶めるつもりか
いまいちはっきりしない煽りだがコレだけは明言できる。
>だれかIP抜いてやれよw
これは犯罪の教唆もしくは助長行為に該当します。告発されたら捕まるのはあなたです。
>それ以上荒らすと削除依頼出すよ
自分の発言に対して依頼を出すべきでしょう。
バーチャルとリアル、どちらの世界でも常識は同じ物なのです。
というか・・・ まだ妄言畿内論者いたのか・・・
いや今時九州論者の方が絶対マイナー。
機内派が追い詰められてこのスレだけで頑張ってるのはわかる、ガンバレ。
656 :
日本@名無史さん :04/06/22 16:47
>>646 何らかの、隠蔽があったのは確かでは?
例えば聖徳太子は、600年にも遣隋使を送っている。
しかし、日本史上では第1回遣隋使は、
例の国書を送った607年が最初となっている。
607年の国書が衝撃を与えたということは、
600年を含め、それ以前の大和の来訪は
臣下の礼をとっていたと考えられる。
隠蔽ね…いまいちメリットなり目的がわからんが。 別に大和朝廷なり倭国なりが中国に臣下の礼をとっていても 事実ならかまわないだろう。それで誰も困りはしない。 たとえばそういう事実があると具体的に誰がどういう事情で困るんだ? 豪族が反乱でも起こすのか?奈良時代に?
日頃は妄想説を垂れ流し、自説が有利とパラレルワールドに安住。 論破されると中身のない誹謗と脅迫。 …また九州説狂徒か…
659 :
日本@名無史さん :04/06/22 20:32
金印は志賀島から出土したのに、「委奴国」は異国だと詭弁を使い 中国側でも列島側でも倭人の国は一貫した政体だと認識していることを知らない。 都督府が都護府と無関係に、大和朝廷によって突然設置されるはずだと考えるのも異常。 古い列島の地図を見ると、九州が北になっていることがしばしばだが 倭国に阿蘇山があるというのに、都は畿内ですと言い切る不自然さ。 その場逃れでいままでやってきたんだなぁ〜、と妙に感心してしまう。
660 :
日本@名無史さん :04/06/22 20:57
>>657 例えば、アメリカ大統領が、
「日本はわが国の51番目の州みたいなものだ」
と発言したら、屈辱に感じる人もいるでしょう。
事実と納得する人もいるでしょうが。
どんな国も自分のところが一番だと思いたい訳です。
フランスとか見ると特にそんな感じじゃないですか。
(戦後の日本は、その感覚が薄いですが、
それ以前は、極東の盟主という感覚だったでしょ。)
当時は、「立派な都を立てて、やっと中国に追いついた。さて歴史をまとめるか。」
といった具合に天狗になっていた時代ですし、歴史をまとめること自体、
ナショナリズムの高揚を狙っているという面もありますから。
他の国に従っていた過去は、
あまり触れたくないというのは自然な思考に思います。
>他の国に従っていた過去は、 あまり触れたくないというのは自然な思考に思います それで済むなら朝貢貿易なんてあり得ない罠w それだけ超大国の周辺に住む人間は苦労したって事。 白村江の惨敗後唐の進駐軍が大量に入って来ている状態で、下手な隠蔽工作など 却って不審に思われる。まして漢文の国史を作るわけだから、或いは直接指導やアド バイスもあったかもしれない。 敗戦国と言うことを忘れてはいけない。ただ、日本書紀にそのことが表れないことが、 実に不可解な事実となっている。敗戦国を前提とするその後の遣唐使であるわけで、 半ば対中国向けに編纂された国史で特別隠蔽する必要もない。改訂版があるなら別 だがw
>>660 なにをいってるのかなー
「日本がアメリカの51番目の州のようなもの」ということと
「日本が実際にアメリカのひとつの州である」ということでは
ぜんぜん意味がちがうだろうに
>>661 >唐の進駐軍が大量に入って来て
あなたは困った人ですね
663 :
日本@名無史さん :04/06/22 22:02
唐から倭に2千人やってきてるね。 捕虜を含めて2千人。
664 :
日本@名無史さん :04/06/22 22:04
>656 遣隋使だって聖徳太子と無関係だったと思われる。 何しろ阿蘇山の国なんだから。
漢の倭奴国は、倭と呼ばれていた九州北部地帯と奴と呼ばれてた(であろう) 出雲地方を総括していた国だったのだよ。 後の宗像氏、出雲氏に流れが残っているが、出自は別で当時連合していただけ。 ★天啓によりて言上くだんの如し
>>663 そのうち捕虜じゃないのは何人ですか?
なんで捕虜を含めた数でしかいえないのよ?
倭が委になるのはどうして?
668 :
日本@名無史さん :04/06/23 00:14
また、大唐、郭務ソウ清等二千人を遣して来らむ 日本書紀
そうじゃなくて委だったのが倭になったんでそ
670 :
日本@名無史さん :04/06/23 00:32
672 :
日本@名無史さん :04/06/23 01:19
年表だからね
673 :
日本@名無史さん :04/06/23 01:30
674 :
日本@名無史さん :04/06/23 02:19
昨日もそうだったけど、夜になるとなぜか話が唐になっちゃうな。唐は関係ないのに。
>>661 > それで済むなら朝貢貿易なんてあり得ない罠w
607年の国書は、自らの朝貢の立場を否定するものですよ。
倭国は中国に従属する国ではないと初めて主張したのですよ。
そして以前の朝貢貿易の過去(600年など)を隠蔽したのです。
> それだけ超大国の周辺に住む人間は苦労したって事。
607年以前は日本もそうでしたね。でも、隋は大国ではあっても
超大国ではなかったのです。高句麗に苦戦していましたから。
隋は、倭国との友好を切れる立場ではなかったのです。便乗して、
中国皇帝に日本の天子の地位を認めさせることに成功したのです。
確かに、つづく唐は超大国で、天子を自称した日本の立場は
悪化しましたが、日本は(大宰府を固め)独立の立場を保ちました。
その後も臣下の礼をとったことはありません。
>>662 じゃあ、韓国併合とか、君が適当に思う例えに置き換えて読んでよ。
「自分の国が一番と思いたい人がいる」という、ごく当たり前
のことを言いたいだけだから。例えは削ってくれても結構。
>>664 それは、大胆な仮説だけど、朝廷で渡来人が重用され、
畿内に仏教寺院が建立されている時代背景から考えれば、
少なくとも大和朝廷は大陸と大規模な交流をしていた。
その記述が一切無くなる仮説は棄却されるかと。それに、大和朝廷の版図内に
阿蘇山はあるし、阿蘇山が何か矛盾を示しているとは言えないと思う。
675 :
日本@名無史さん :04/06/23 02:27
法隆寺などを九州から畿内に移転しなければ 畿内にたいした「文化施設」がなかったわけで 阿蘇山は九州なんですが
676 :
日本@名無史さん :04/06/23 02:32
畿内王権は天武に政権を簒奪されて、初めて列島第一国家になったので 唐を語らずして畿内王権→大和朝廷は語れないんですが。
677 :
日本@名無史さん :04/06/23 03:10
>>675-676 ああ、九州王朝説にとっては、重要な論点だった訳ですね。
それは、すまなかった。
でも、天武以前にも九州から皇位継承者が度々やってきて、
特に争いなく皇位に即位していることを考えると、九州勢力と
畿内勢力は、決して対立する立場ではないと思うのですが。
(東遷説ならば、この辺りを上手く説明できると思います。)
あと、阿蘇山の存在を示すことも、大和と九州は同一勢力内にある
と考えている人たちに対しては、矛盾を指し示したことにはならないよ。
その仮定の下では版図に入っているのだから。
678 :
日本@名無史さん :04/06/23 03:26
ちゃうのよ、九州が畿内を傘下に置いてたの
679 :
日本@名無史さん :04/06/23 03:30
>>674 高句麗に苦戦した太宗時代の唐も超大国ではないんですね。
680 :
日本@名無史さん :04/06/23 04:03
>>678 5世紀以降、大型古墳とかの遺跡は、畿内・近畿が
圧倒的に優勢になりますがそれは、どう解釈されるのでしょう。
それとも九州に匹敵する規模の遺跡があるのでしょうか?
九州勢力がより優勢だった遺跡は、3世紀ごろまでではありませんか?
古墳がでかいから進んでいたって ( ´,_ゝ`)プッ むしろ九州の装飾古墳の方が大王墓かもしれないしw >九州勢力がより優勢だった遺跡は、3世紀ごろまでではありませんか? 土器編年とか「古墳編年( ´,_ゝ`)プッはやめてね。ちゃんと放射年代データで 見せてくれる?
>>680 それは3〜4世紀に大規模な東遷があったことを示している。
683 :
日本@名無史さん :04/06/23 08:02
684 :
日本@名無史さん :04/06/23 08:23
コピペ「ただ、その後の纏向遺跡の出土品をみると吉備、播磨、讃岐、北九州の 習慣が色濃く残っているので、近畿勢力と北九州勢力は、どちらかの圧倒的な 勝利に終わったのではなく和解して統一されたものと見られる。 つまり、九州にあった一部の勢力が近畿地方に移ったり、吉備、播磨、讃岐、 出雲などと連合し、北九州を含む西日本の支配権を奪い取ったのが、二世紀末 から三世紀始めにかけての騒乱だったのである。この支配体制と宗教的統合の ために邪馬台国と卑弥呼が現れたと考えられる。 近畿にいた邪馬台国の卑弥呼が、238年の朝鮮半島の公孫淵の滅亡とともに、 翌年の239年には魏に使節をおくり国交交渉を行っている。このことは、当時の 邪馬台国が、朝鮮半島勢力や中国勢力の脅威にさらされていたことを示してい る。九州勢力が作った邪馬台国だからこそ外国の脅威を身近に感じていたの ではないだろうか。 また、纏向遺跡には、鏡を墓に入れるなど北九州の習慣がそのまま取り入れ られている。つまり、邪馬台国の纏向遺跡は、九州の習慣を中心としながら、 連合国家の首都という意味もあり、全国的な物産品や習慣が取り入れられた ものと思われる。このことが、纏向遺跡に多くの遠隔地産の出土品が見られる 理由になっている。」 更に、銅鐸が消滅している。しかし、三種の神器にどちらかというとヒスイの原産地 ヌナカワこと北陸地方のものが玉という形で残されたこと、前方後円の意味も天孫 すなわち九州系と地祇すなわち方形の墳墓の地方の合体と見られることから九州 の天孫色を色濃く残した妥協、少なくとも祭祀のレベルにおいては、であったのかと 思うんだがね。 ・・・勢による・・・勢の制圧などといった政治レベル、地域意識が発達していたとは 考えられない。例えば、九州から大和に到着すると最早九州人ではなくなるほど 移動も大変であったであろう。ホームステイを許すだけの米倉ではなかったはずで 移動は備蓄した保存穀物、種籾を携帯しながら、入植地で開拓する方式で、戦前の 満州、ブラジル移民のようなものであったのだと思う。
685 :
日本@名無史さん :04/06/23 08:32
神武は出発に先立って大和の状況を研究しており、長髄彦が先に入植していることを 承知していた。香具山の土という、甲子園の砂を取るようなシンボリックな行為でも、 プータロに身をやつし、泥棒させている。墓地も纒向の中心から離れた辺鄙なところしか あてがわれていない。当時の入植というものは容易ではなかったことを物語る。
687 :
日本@名無史さん :04/06/23 08:59
歴史は考古学の上に立つもの。これを誤ると電波になる。
688 :
日本@名無史さん :04/06/23 09:48
コピペ「九州勢力が作った邪馬台国だからこそ外国の脅威を身近に感じていたの ではないだろうか。 」 「九州勢力は外国の脅威を身近に感じていたからこそ邪馬台国作りに積極的だった」 という風の考えると彼らが背振山脈北麓玄界灘沿岸から南麓更には東方宇佐方面へと 移動する心理もそこにある、つまり、迫り来る北方蛮族への警戒ということか。
689 :
日本@名無史さん :04/06/23 10:02
「在日」の結束同様、吉野ヶ里などの集落への周辺からの襲撃は熾烈を極めた ようであり、これは彼ら自身の内部の闘争と共に土地を奪われたと感じた先住縄 文文化人の襲撃もあり、かれらはイスラエルよろし心ならずもく「選ばれた民族」 としてコミュニティーを作らざるを得なかったのでないか。「物部」はモノノフ(武士) の起源でもあろうが、更にその起源はといえば、生業を農業以外の窯業、土木、 建設、呪術などとするものの集団という意味であったのではなかろうか。大物主、 三輪なども甘木地方で成立したことも十分に考えられると思う。
690 :
日本@名無史さん :04/06/23 11:24
奈良県東南部に突如「ヤマタイ国」が登場するのは非現実的東遷を思わせる。 「ヤマタイ国」を中心として衛星状に倭国連合をコンフィギュアしてゆく国家設計 思想は突然降って沸いたものではなく、一度北部九州に存在してテスト済みで あった様式を取り入れたものである。ではこうした複雑なシステムをどのようにし てコピーしたのであろうか。それにはかつて北部九州に存在した平原を中心とし た後漢鏡配布システムがあったこと、さらには、魏の金印の扱いとそっくりな後漢 の金印の扱い、金印受領後の属国としてのプロトコールが存在し、そのノウハウ が移転されたのだろう。難升米等は公孫に朝貢しようとして帯方にいたり、180° 回転して魏と修好する。ウルトラCである。大和の山猿にできる芸当ではない。 つまり、歴代外交官としての家柄に生まれ、中国語の素養などのあったもので あろう。こうした連中は伊都国大卒の監督下にあり、伊都国を離れなかったのか もしれない。こうした外交官は別にして鏡を配布したと見られる黒塚、椿井大塚山 等の政治家は手馴れた九州出身でもなければなかなか難しい役目である。ヒミコ の顔を人に見せない理由は単に宗教上のことであろうか。例えば、三輪神社にあ るように、初代のヒメは三島ミゾクヒの娘、イスケヨリヒメということとし、これを途中 でこっそりするかえるということにしないと、辰韓の人間とか、九州の人間とかで あっては大もめの可能性があろう。鬼だといわれかねない。
691 :
日本@名無史さん :04/06/23 13:40
阿毎多利思比孤が大和朝廷の天皇だって? 推古天皇はレズビアンだったわけだ・・・畿内説は
692 :
日本@名無史さん :04/06/23 13:44
中国人がだろ。畿内説がなんていうなよ(笑 外人だから大目に見てやれ!
693 :
日本@名無史さん :04/06/23 13:48
でも、彦と発音したのは日本人だから、その人間の感覚では天皇は彦だった。 とすると記紀に誤りがあるってことか。
694 :
日本@名無史さん :04/06/23 13:58
「朕が女性なること、唐国の言葉にて悟られるべからず。汝、心して当たるべし」といった 帝の命を受けた遣唐使が比孤なんてあいまいな表現では性別が割れることはあるまい とでも思ったのかね。
倭王(男)は対中国向けの代表だから スメラミコト(女)とは別の人物が倭王でも問題ない。
696 :
日本@名無史さん :04/06/23 15:18
倭人伝に記された時代でも 真の意味で卑弥呼が女王だったかどうかは議論の余地がある。 為政実務は男王が行っていたとの記述もあるが 当時の経済状態や軍事力ではとてもひとつのクニのみで 他の地域を圧倒していたとは考えにくい。 実はほとんどの九州説も畿内説も、この点では一致している。 後の世で例えると、為政機関としての議会(各クニの首長連合)と 最終決定機関の天皇(この時代では卑弥呼などの祭祀集団)があったのだろう。 このシステムは、魏に限らず中華思想を持つ大陸からは奇異に見え 女王が統治する国家として映ったのであろうし 当事者である倭国は、必ずしもそう思ってはいなかった。 後の国書に女王国の時代が記されていないのは、こういう理由ではあるまいか。
697 :
日本@名無史さん :04/06/23 15:41
国記編成時の国益に反する: (1)初代女王の魏への朝貢、 (2)中国鏡分与による封建と銅鐸地方、集団の粛清、 (3)王権世襲制度の不在/女系制度の存在、 こうした事実を神話化した結果、欠史8代のようにスリムな内容になったと思うが。
698 :
696の続き :04/06/23 15:53
この連合の直接及び間接的支配地域が九州島及びその周辺であり 古来からの半島や大陸などの貿易によって先進国であり続け かつ強力な経済力と高い文化によって、中国地方、四国、近畿などの瀬戸内地域や 山陰、南九州なども含めて、少なくとも3世紀中頃までは 貿易圏として対等以上の関係にあったというのが、九州説の骨子。 対して上記の関係が他地域の経済力向上によりその均衡が崩れ 2世紀中頃には群雄割拠となり、徐々に連合化を始め、首長間での利害の一致を図るため 中国地方、山陰、北陸、丹後、東海、近畿などの中心部となる奈良盆地に 祭祀もしくは流通の拠点を新設し、最終的にそこに託宣機関である巫女を置いたというのが畿内説。 後に九州勢力とも連合化し、原始連合国家として魏に朝貢したと考えられている。
699 :
日本@名無史さん :04/06/23 15:56
その根拠として例の鏡の分布などがあるわけだが これを現時点で畿内説の有力な証拠や根拠とするには、正直あまりにも不確定要素が高く これだけをもって論拠とするにはいかない。 むしろ2世紀末に突如として現れた纏向遺跡に見られる特異性のほうが、証拠としてふさわしい。 運河建設や東西南北に至る道路に見られる高度な土木技術と経済力。 環濠(防衛)施設を最初から有しない設計。 住居や倉庫を持たない、居住目的とはおよそ考えられないこの遺跡が 何らかの明確な意図を持って建設された都市である事は明白だ。 現在、纏向については @市としての貿易施設 A祭祀目的の巫女たちのコロニー B墳墓建設のための建設基地 などの説が提示されている。 念のために言っておくが、仮に卑弥呼がここにいたとしても どの首長勢力からの出身なのか、また中庸を取るためにあえて無関係な地域から選んだのかは一切不明である。 記紀に見られる神話や冒険譚、各天皇のエピソードがどの部族のものなのかが不明なように。 むしろ西日本がゆるやかな連合を築き 巫女(卑弥呼)による託宣で利害対立を回避していた邪馬台国時代以降の内部権力争いにこそ 記紀伝承の鍵があるのではないか。 長文申し訳ない。かなり簡略に書いたのだが概要だけでもこのボリュームになった。 個々の検証については、個別の質問に答える形にさせてください。
700 :
696−699 :04/06/23 16:09
>>697 十分考えられます。
おそらく記紀編纂時には
@あまり言いたくない、出来れば闇に葬りたい事実が色々あった。
Aそれ以前に、実のところ本当はいつ誰が行ったのか不明なエピソードが
山積みされており、無理にでも時系列に並べざるを得なかった。
B天皇家(当時)のみの伝承を採用することが政治的な力関係から不可能立った為
有力部族たちの伝承も混ぜざるを得なかった。
C中国資料(魏志や宋書など)と伝承の整合性が取れず、相当苦慮した。
これ以外にも、様々な要因があったと思われます。
その結果、古事記は内部資料扱いとなり
後に外交文書としての日本書紀が新たに作成されたのではないでしょうか。
書記で神話部分を大きく削っているのはそのためでしょう。
701 :
日本@名無史さん :04/06/23 16:37
>695 中国側の国使が来てしまった時点で 外交に支障をきたしますがね。
なんで?倭王がでてれば問題ないじゃん
703 :
日本@名無史さん :04/06/23 16:55
>>697 >(3)王権世襲制度の不在/女系制度の存在
これは十分考えられるな、いや証明する資料に乏しいことは承知だが。
基本的に生存率が低い時代に
親子や兄弟の世襲がスムーズにいったとは考えにくい。
何人もの姫に種付けせねばならんだろうし
それも手当たり次第とはいかず、権力維持のためには
ある程度の家柄同士でなければならないので
女性の数も不足がちだったろう。
そういった事情からも、首長間の連合がおこなわれたという説は面白いな。
704 :
日本@名無史さん :04/06/23 16:56
権限のない王が国書を出して中国が納得したという脳天気説=畿内説ですね
権限がないなんて誰もいってないじゃん どうして倭王に権限がないんだ??? 自分の理解をこえると「能天気=畿内説」と早速罵倒ですかいw
706 :
日本@名無史さん :04/06/23 17:13
九州王朝説って、6世紀か7世紀までその王朝があったって主張しているの?
そしてその王朝が列島の支配者だったって事ですか?
間違って解釈していたらごめん。
でもそう解釈しないと
>>704 の主張がわからないのですが。
もしそうなら根本から歴史はひっくり返るし
邪馬台国論争どころではないような気がしますが・・・。
機内説に聞くけど 今の福岡地方の地域政権の那国が金印貰ってて マキムクを中心とした西日本を統括する巨大連合邪馬台国も同じ大きさの金印貰ってるのか? 卑弥呼の時代に喜んで金印貰ってて聖徳太子の時代には対等外交ですかね ほとんど支配地域は変化してないのに。
>>706 邪馬台国時代に九州王国があったという説は面白いと思うが
倭の五王が実は九州王朝だったとか
アマタラシヒコ=聖徳太子までもがそうだったという説には
漏れも賛同できないのだが・・・。
この辺り詳しく教えてyo、九州王朝のエロイひと。
709 :
日本@名無史さん :04/06/23 17:23
>708に訊くが 「アマタラシヒコ=聖徳太子」に根拠あるの?
710 :
日本@名無史さん :04/06/23 17:25
マキムク王が金印もらって阿蘇山で祈祷してたの? その説、どうやって信じればいいんだろう?
711 :
日本@名無史さん :04/06/23 17:27
>>709 いや、九州王国説がそう言ってるのかと思ったので。
違うのかな?
違うのならその頃九州にはアマタラシヒコが居て、近畿には聖徳太子が居たって事ですか?
712 :
日本@名無史さん :04/06/23 17:30
磐越線辺りまでの国の中心を博多辺りで維持できるか、食料とか、天候とか、 輸入鏡の出土とか、古墳とか考えてみると幼稚園児でも判ると思うがナー。 幼稚園の子供に歴史とか、考古学の説明をするときに電波の見本として教える というてもあるがね(xxx
713 :
日本@名無史さん :04/06/23 17:33
>>707 畿内説は確かに矛盾が多いと思うが、
東遷説なら、その辺りの疑問は全て解消できるよ。
東遷説に不利な証拠として、過去に挙げられてものは、
「マキムクの年代が遡りそう」
というのがあるが、根拠にしていることが
「○○○年以降」という「以降」がつく推定なので、
(○○○=212なのかな、今は。)
東遷説が矛盾している訳ではないし、
今後、○○○=247という証拠が出てくれば、
畿内説は破滅し、東遷説が圧倒的優位にたてる。
714 :
日本@名無史さん :04/06/23 17:36
個人的には、○○○=212でも畿内説は既に破綻していると思う。 まず、出雲や四国の秩序だった恭順と卑弥呼共立の間に 70〜80年に渡る騒乱の時期をとることができない。 70〜80年というのが大げさな表現であったとしても、 後漢書にも『倭国大乱、更に相攻伐、暦年主なし』ともあるし、 ある程度は長い期間の騒乱がなくてはならない。 しかし、その期間がない。出雲や四国の無血恭順は騒乱でなく、 その時点での大きな求心力の存在を示している。 また卑弥呼共立後も、長期に渡って南方の狗那国に敗北に近い苦戦を 繰り返している。その勢力の大きさを西日本統一連合と見るには無理がある。 逆に卑弥呼時代の邪馬台連合が九州で、 西日本の連合化が卑弥呼没後なら、以上の事実は都合が良い。
715 :
日本@名無史さん :04/06/23 17:37
>>707 >マキムクを中心とした西日本を統括する巨大連合邪馬台国も同じ大きさの金印貰ってるのか?
言葉尻を取るわけじゃないけど、「統括」までは行ってないでしょう。
あくまでも対等に近い連合。だからこそその提携基盤はかなり脆弱。
それと逃げるわけじゃないが、発見されていない金印の大きさは分かりません。
九州説には、3世紀には西日本が「支配下」にあったと考える人が居るが
畿内説はそこまでの強固な権力は成立していないと考えています。
一応の広域権力体制が出来るのは、早くとも継体天皇以降。
結局複数王朝並立説ってとこですか?
717 :
日本@名無史さん :04/06/23 17:52
>>714 煽ってるのではないと前置きして
>『倭国大乱、更に相攻伐、暦年主なし』
後漢書も魏志もそうだけど「倭国大乱」がどこまで真実なのかが問題なのですよ。
弥生後期に多数出現した高地性集落は、確かに戦争の危機を感じさせるのですが
ここまで多くの集落遺跡が発掘されながら、そのほとんどから実際の戦乱の跡が無い
むしろ放棄か自然消滅した形跡ばかり出るのです。
しかも「まだ出ていないだけじゃないのか?」とは考えられないほど
多くの集落跡が次々に発掘されているじゃないですか。
勿論学閥や学会の陰謀なぞ入る余地も無いほど広範囲かつ様々な立場の人達によって。
近畿の銅鐸もそのひとつです。
だからこそ「統一」や「支配」でなくあくまでも連合なんですよ。
718 :
日本@名無史さん :04/06/23 18:00
>>716 言葉にこだわって申し訳ないが「王朝並立」でもない。
しかし議会に似た為政機関の設置や祭祀を統一する動きは
各クニの利害に密接に関係するため、不可欠なものだったろう。
その連合化というか体制の維持の道具として鏡(特に踏み返し鏡)の配布や
前方後円墳のような各地域の特色をミックスした墳墓形態があったのではないか。
>>698 >貿易圏として対等以上の関係にあったというのが、九州説の骨子。
九州で貿易圏として対等以上の関係にあったという場所はいったいどこだろうか?
博多あたり、前原あたりがそうであったことは疑いがない。
しかしここは邪馬台国ではない。
邪馬台国九州説が成立するためには、博多湾岸以外にもう一つ
貿易圏として対等以上の関係にあったという場所がいる。
ところがいくら探してもこれがない。
九州各地の発掘が進んで九州各地の状況がしだに明らかになるにつれ、
どうあがいても九州で主導的立場だったのが博多湾岸のクニであるということが動かせなくなってしまった。
また、九州からは大陸系遺物が多数出土しているために、交差編年により年代は他の場所に比べてはっきりする。
このため、弥生後期の年代見直しは九州からまずははじまり、
九州の弥生後期は全国に先駆けていちはやく繰上論が主流となり現在の編年と大差ないものになった。
これにより、邪馬台国の時代である三世紀前半は弥生終末ないしは古墳時代初頭と見なされるようになった。
弥生時代後期中頃あたりまでであれば、他の地域に比べて九州(ただし博多湾岸)が
主導的立場であったことは疑いがないが、後期後半、それも終わり近くではダメだ。
出土遺物は乏しくなり、王墓という点からは吉備や山陰に大きく水を開けれれることになる。
そうしてついに、九州説は九州の考古学研究者から真っ先に見捨てられてしまった。
これが80年代の初頭頃の話。
720 :
日本@名無史さん :04/06/23 18:22
確かに九州王朝説は、畿内説へのアンチテーゼとしてはよく機能していると思う。
畿内中心の継続的な一元外交 → 北九州を押さえる必要あり → 畿内勢力デカ杉。(矛盾)
当時の近畿勢力は小さい → もし継続的な一元外交できる勢力があるとしたら北九州
→ 邪馬台国は九州 → 今後も同一勢力が朝貢を繰り返している → 九州王朝に発展
・・・ってことですよね。言ってる部分に特に矛盾がある訳ではないけど、
考古学的証拠が乏しいのと、見逃している可能性があるよ。
それが東遷で、東遷を挟めば、最後は「大和朝廷に発展」ということになる。
倭国は、倭の5王の時代の初期には、朝鮮半島で主導権争いができるほどの大勢力なんだし。
新羅や百済をアウェイでも圧倒できる程に勢力を拡大してなければならない。
それに東遷は遺伝子の類似度(半島=北九州=畿内)からも裏付けられるのですよ。
>>717 仮に争乱が殺し合いでないとしても、「仲たがいして相手の言うことを利かない」
(連合として機能しない)ぐらいの対立は必要でしょう。
無ければ、卑弥呼共立の動機も失います。そういう対立期間が必要なのです。
>>719 ええっと、あなたは東遷説ということでよろしいですか?
一貫して東遷に有利な証拠を挙げられているように思います。
つまり北九州は邪馬台国に含まれないということですね
722 :
日本@名無史さん :04/06/23 18:46
>>717 小競り合い的な対立は勿論あったでしょうね。
ただ否定しているのは国家間レベルでの物理的な戦争です。
基本的には弥生中期から後期にかけて、いち早く王権支配を始めたのは
おそらく北九州でしょう。その頃ほかの地域は、まだまだムラの段階。
もしかすると例外的に東北で独立王権が誕生し始めていたかもしれないが
それは半島や大陸との関係という表舞台には出ていないでしょうね。
そういった弱小のムラ達が次第に経済力をつけて大同小異し
いくつかの地域を代表する存在になった時点で
圧倒的先進国だった北九州の優位性にひびが入りだした。
この状態が「倭国大乱」つまり九州勢力から見て絶対優位が揺らいだどころか
強力なライバルがあちこちに出現したのでしょう。
>>719 氏の挙げる証拠は、九州王朝存続を否定する立場からだと思われます。
必ずしも東遷に有利ではないでしょう。
私は一貫して畿内説なのですが、邪馬台国時代以降の内部権力闘争によって
九州勢力の一派がが最終的に権力を握った可能性は十分あると思っています。
九州勢力が近畿に遷都したのではなく、連合内での権力交代です。
もしかするとこれも一種の「東遷説」かもしれませんが
少なくとも「東征」はなかっただろうと考えます。戦乱痕跡の跡が無いことが主な根拠です。
同じだけの可能性として吉備や近畿が主導権を得たとも考えられますので
これは今後の発掘結果待ちですが。
>>720 東遷ではないですよ。
後期前半までは博多湾岸の国が主導権を握っていた。
古墳時代初頭以降は、倭国の中枢は奈良東南部にあった。
おそらく、これに反対するものはおそらく学界にはいないし、
市井でもまともな思考回路を持っているものは反対しない。
畿内説、九州説、東遷説のどの立場だとしても。
>>719 ではここまでの話しかしてない。
大和岩雄などもどうしても九州にしがみつきたいわけけど、
結局ここまでは認めざるをえず、二都論に走った。
問題は、
・畿内に中枢が移る古墳時代初頭とは実年代で何時か?
・弥生時代の九州の国と古墳時代の国は、政治基盤が連続するのか。
この二点。
第一の実年代については、初頭の開始は2世紀末〜三世紀初頭でこれはとくに異論はないだろう。
(ただし、同じ時期を古墳時代初頭と呼ぶか弥生終末と呼ぶかという呼称の問題はある。)
だから、仮に東遷があったとしても、それは二世紀までの話なので、東遷ではなく畿内説をとる。
次に二番目の問題については、畿内王権の中枢に九州の人間が入っていることを否定はできないが、
九州の墓制と古墳祭祀は明らかにその性格を異にするものだから、九州からの東遷では説明できない。
古墳祭祀は各地の首長祭祀を融合して初めて出来るものであるから、東遷ではなく、
各地の勢力の連合により、九州の国とは全く別の新たな国が成立した、と考えます。
724 :
日本@名無史さん :04/06/23 18:55
>>721 いわゆる(ゆるやかな)倭国連合のなかには含まれますよ。
北九州の貿易や外交ノウハウや
絹などの高価な生産物の朝貢ははすべて北九州の協力無しには不可能です。
邪馬台国とはイコール「女王の都する所」(卑弥呼の居る場所)程度のものでしょう。
ついでに言うと万世一系などは連合形成の過程から見て
あり得ないと考えているのも畿内説です。
・・・ああ、荒らさないでおくれよ、頼むから。
>>724 >絹などの高価な生産物の朝貢ははすべて北九州の協力無しには不可能です。
これですけどね、甕棺以外から出土した絹ってどれだけあるんですかね。
甕棺ていうのは極めて保存性がいいから絹のように簡単に分解されてしまう
遺物の話をするときにはちょっと気をつける必要があると思うんですよね。
726 :
日本@名無史さん :04/06/23 19:13
>>722 > 少なくとも「東征」はなかっただろうと考えます。
> 戦乱痕跡の跡が無いことが主な根拠です。
「東征」というものを、血を流した軍事的な征服と決め付けないで
いただきたいです。北九州勢力の出兵に対し、出雲勢力や四国勢力は、
血を流して抵抗するという選択はせずに、婚姻などを通して
連合内の1豪族として同盟に加わる道を選んだのです。
(この件をモチーフにしたと思われる物語も残っていることですし。)
山陽のいくつかの勢力も、後に文化的に融合しているので、
徹底的に叩かれる前に恭順したのでしょう。ただし、1箇所だけ
文化的に断絶している所があります。銅鐸文化の畿内です。
ここは大きな戦闘があり、死ぬなり出て行くなりしたのです。
そうでも無ければ、畿内だけが他地域を圧倒して後の世に半島系の
遺伝子を残すことは難しい。畿内だけ元から半島の遺伝子が多かった
とは考えにくいので。なお、吉備とはは遺伝子的な類似度が低いん
ですよね。畿内に入ったのは、半島勢力か北九州勢力なのです。
727 :
日本@名無史さん :04/06/23 19:15
>>725 激しく納得しました。
これをして北九州以外でも養蚕が盛んだったとは勿論断定しませんが
そういう考え方を紹介していただいた事に、深く感謝です。
728 :
日本@名無史さん :04/06/23 19:34
>>726 まず最初に・・・今久々にすごくイイ雰囲気なので嬉しいですよ。
そこで質問ですが、確かに銅鐸文化は忽然といっていいほど唐突に消えます。
これに対しいかなる説もまだ仮設の段階です、勿論わたしも。
ただ、北九州勢力の進行によって畿内の銅鐸文化圏が民衆ごと駆逐または
壊滅したとは考えにくいのです。
確かに神話的エピソードには出雲などにそのような話がありますし
それが実は近畿のことであったとの説明も、不都合はありません。
しかし畿内原住民が居なくなった後で、どれだけの人間が入植すれば
すぐ後に始まる古墳文化が可能になるのでしょうか。
また河内や奈良に拠点を構える各部族(後の物部など多数)も
同時に入植してきた勢力とお考えですか?
遺伝子上の問題は、非常に興味深いのですが
その時代から更に千年以上もかけて、徐々に西日本一帯
特に半島や北九州からの人口移動による混血化だと考えます。
この移動には自主的なものもあり、また強制連行も有り得たと思います。
729 :
日本@名無史さん :04/06/23 20:06
>>728 まず答えやすいものから。
> また河内や奈良に拠点を構える各部族(後の物部など多数)も
> 同時に入植してきた勢力とお考えですか?
基本的には、Noです。渡来系の豪族のいくつかは、
出身国や渡来時期がある程度の確度で想定されている人たちもいます。
主に、400年前後に百済や新羅に進出した時期から、
660年の百済滅亡までの時期と想定できると思います。
例外的に来ていた人はいるかもしれませんが、少数でしょう。
730 :
日本@名無史さん :04/06/23 20:08
>>723 > 2世紀末〜三世紀初頭でこれはとくに異論はないだろう。
思いっきり異論はあるでしょう。
「現在こういう見方が主流だ」と主張されるなら、異論はないですが。
あと、「東遷説有利に聞こえますよ」といった理由は、
博多湾岸はその後もずっと重要度が高かったのに、
遺跡から想定できる王権的な勢力が激減していることを仰ってくれたからです。
更に、「畿内大和郷の三輪を中心とした地名順列は、
博多湾岸の地名順列と一致している」という東遷説の主張や
遺伝子類似度の調査の結果などを合わせると、
その勢力が畿内に入ったということに説得力が増すからです。
731 :
日本@名無史さん :04/06/23 20:15
>>728-729 あっ、質問の意味を取り違えちゃったかな。
渡来系の豪族に限定した話でなく、大和朝廷を豪族一般の話でしたか。
それならば、九州勢力の有力な豪族が複数やってきたと想定しています。
「東遷の動機は何なのか」ということが現在まだ判ってないので、
ハッキリとしたことが言えないのですが、
私の考えでは「更に東征するため」(実際にやっている)なので、
軍事力が強い(=発言力のある)有力な豪族が複数来たと想定しています。
その結果の東遷と考えている訳です。
732 :
日本@名無史さん :04/06/23 20:22
>>729 回答有難うございます、その内容については同意です。
またそれ以前からの畿内土着豪族も多数居たと考えておりますが
それらは北九州の進行に対して恭順したとのお考えだと受け取りました。
>>730 での主張が分岐点ですね。
地列順名に関しては詳しくまとめてから、反論提示させていただきます。
ただひとつだけ・・・住吉(大社)を引き合いに出さないほうが良いです。
本来大阪におけるあの一帯は「すみえ」であって後の時代に
「墨江」「住之江」の字が当てられています。現在も地名として残っています。
「住吉(すみよし)」の名で呼ばれるのは、恐らく6世紀以降でしょう。
住吉三神というのは宗像三女神に対しての対抗馬として
意図的に創設された可能性が極めて高いのです。
3世紀に東遷があったと仮定しても、無関係です。
733 :
日本@名無史さん :04/06/23 20:28
コピペですが、地名順列のモデルケースはこれで良いでしょうか? 畿内大和郷の地名を大阪湾(難波津)から右回りに1周してみると、 住吉神社(近くに、額田−日下)−三笠山−春日−笠置山−田原−山田−上山田− 鳥見山−クズ((略))−天ヶ瀬−高取山−天の香具山−ミズマ(水間)−久米− 朝倉−賀美−長谷山−高田−雲梯−三輪−織田−三井−池田−平群−住吉神社 北九州の夜須町の地名を博多湾(那の津)から右周りに1周して並べると、 住吉神社(近くに、野方−草ヶ江)−御笠山−春日−笠置山−田原−山田−上山田− 鳥屋山−クズ(玖珠)−天瀬−鷹取山−香山−ミズマ(三潴)−久留米− 朝倉−加美−長谷山−高田−雲堤−三輪−小田−三井−池田−平群−住吉神社
734 :
日本@名無史さん :04/06/23 20:42
>>732-733 東遷説否定派にわざわざフォローしていただいて、申し訳ない限りです。
安本氏も、住吉(墨江)神社と書いています。墨江を省いてしまったのは私の責任です。
他にも、同じ箇所の複数表現を1つしか書いてない場所があります。平群郷とか。
> 畿内原住民が居なくなった後で、どれだけの人間が入植すれば
> すぐ後に始まる古墳文化が可能になるのでしょうか。
こっちの質問に関しては、難しいですね。私は大規模な入植を想定しているけれども、
(畿内派の人によれば、博多湾岸の古墳の作り手が激減しているそうなので、辻褄は合うが。)
それでも入植者以外の力も利用する必要はあったでしょうね。
735 :
日本@名無史さん :04/06/23 20:56
畿内−九州二重帝国
736 :
日本@名無史さん :04/06/23 21:47
本スレよりこっちの方がおもしろいな
737 :
日本@名無史さん :04/06/23 23:08
呉が滅んで統一王朝(西晋)が出来た事が 列島にも影響を及ぼしたのではないか。 隋による中国統一も 日本を中央集権国家に走らせたわけだし。
738 :
日本@名無史さん :04/06/23 23:37
>>737 それはどの説を採るにしても関係ある罠
中国大陸の政治情勢が半島や列島に
常に大きなインパクトを与えているのは動かしがたい事実だろ
>>730 >思いっきり異論はあるでしょう。
どこに?
朝鮮半島・大陸系遺物による交差編年で九州の西新式が2世紀後半から3世紀で異論がないのはいいよね?
で、西新式は畿内の庄内から布留系の土器と共伴する。
だから庄内の開始も2世紀末から3世紀初頭でどこにも異論はないよ。
意見が分かれるのは、2世紀末から3世紀初頭の巾の中でどのあたりに位置するかということだけさ。
740 :
日本@名無史さん :04/06/24 00:10
通常、首都が移転するにはどんな理由があるか?
1.(人口密集など)土地が手狭になった
→広い土地・豊かな土地へ引っ越す
2.国が大きくなって旧首都が相対的に国の中心からずれた
→国の中心に引っ越す
3.別の国に吸収・併合される
→宗主国側の首都に機能集約される
4.なんか宗教的理由
→江戸なんかは風水的(道教的というのかな?)側面もあるようで
たとえば
>>733 のように地名をそっくりコピペしようとすると
九州から大阪へ短期間でひとっ飛びに移転しないとむりでしょ?
他の様々な資料からも広島や岡山に首都があったなんて話は出てこない。
つまり九州にあった国は徐々に東へ広がったのではなさそうだ、と思うのです。
少なくとも西日本が平定されるまでは九州に居続けた。
では西日本がまとまったら即東遷か?というと、おそらくそうではない。
だってわざわざ国の端っこに首都を持ってくる必要がないでしょ?
これから戦でごたごたしそうな国境沿いに首都を移転して、肝心の九州は国の反対の端。
なにかと不都合です。
つまり畿内に移るためにはそれより東側にもそれなりの国土を持ってなきゃいけない。
で、大阪を中心に九州がすっぽり入るような円を描くと、東の端は・・・関東まで行っちゃう?
まあそこまで極端なことは言わないが、かなり東側を意識する必要があると思う。
>>733 のそれぞれの円(と言うにはずいぶんいびつな形状)の中心はどこでしょう?
あるいは地名に関連性はないのかな?
例えば星座の並びのように、ある場所から見てどの方位に地名があるかが重要なのかも。
これなら地名の正確なコピーが比較的容易。
741 :
日本@名無史さん :04/06/24 00:14
私の東遷説=東征説はこうなんだが 後漢が滅亡する際、半島の領土は放棄され、高句麗・倭・百済・新羅は 鉄や領地を求めて、半島で衝突した。 九州倭国は海峡をまたいで、新たな海軍+陸軍戦を戦う時勢となった。 伝統的戦法の海軍を率いる神武軍は、倭国内北九州勢力と結びついて 国軍として君臨していたが、もう時代の人ではなくなっていた。 有明湾の軍港としての有効性を訴える、佐賀・熊本閥に倭国政権は引きずられ、 遠距離航海のできる有明海と半島に詳しい、有明海軍が国軍となった。 九州倭国で政権から遠くなった神武は、国際戦以外に海の軍人としての活路を 見出そうとした。最終的な解が畿内侵入であった。ただし彼の軍隊はいかにも 少数であり、100人以下ということも考えられる。 畿内はよそ者がやってきては住み着くような、小部族がひしめき合う土地だった。 神武はここに多数部族のひとつとして、住み込んだに過ぎない。 後世になって、この神武の出自を貴種伝承として、格好をつけた。それは 文武天皇の世になってからのこと。
742 :
日本@名無史さん :04/06/24 00:30
>>741 後漢滅亡の頃って220年あたりだよね
その頃の畿内は
>よそ者がやってきては住み着くような、小部族がひしめき合う土地
ではなく既に九州勢力の影響を全くといっていいほど受けていない纏向が建設されていたのだが
だから少人数による東征があったと仮定するならば
纏向建設の相当前でなければならない。
逆に東遷説=東征説に立つならば、ニニギなどを想定したほうがいいと思う。
>>742 絶対年代は不明だが、後漢が滅んだ年じゃなくて、4C末ごろかもしれない。
人種・民族は同じなので、多部族であることに変わりはない。
それとも畿内には1部族しかいなかった証拠があるのだろうか。
744 :
日本@名無史さん :04/06/24 00:52
>4C末ごろかもしれない よけい難しいと思う。 それなら連合後の政権交代や入り婿説のほうが整合性は保たれると思う。 >畿内には1部族しかいなかった 部族の定義はさておいて、そうは思ってないだろうね誰も。 纏向建設とほぼ同時期にそれまでの有力集落(唐古・鍵や池上・曽根など)が いっせいに衰退していく。山陰でも北陸でもそう。 これを東遷や東征と見るか、連合への推移過程と見るかで意見が分かれる。 私は740氏などが主張するように、その後の古墳形態や戦乱痕跡の無さなどから連合化だと見ている。
745 :
日本@名無史さん :04/06/24 01:03
人は水も食料も持たずに沖縄からどこまで行けるか? 実は関東まで行っちゃう。 今でも時々石垣島沖からダイバーが流されて関東の沖合いで 漁船に無事救助されるなんてことがある。 つまり、(北)九州を経由しないでも、太平洋沿いに少なくとも 関東まではけっこう簡単に行ける。 畿内にしても関東にしても、北九州で国が統一されるまで 同規模の集落をつくらなかった理由はないので、仮に九州に邪馬台国が できたとして、同時期に畿内に大和があってもいいだろうと。 東征どころか大和が邪馬台国を下したというストーリーも有り得ると 思うのだがどうよ? 遺跡というのは通常、廃れた跡を誰も掘り返さないから遺跡として 残る訳で、畿内に鉄器が出ないのはむしろ自然だと思うんだけどなぁ。
746 :
日本@名無史さん :04/06/24 01:24
>>740 関東が手に入ったので(徴税のため)近畿に都を移したと考えるよりも、
関東を攻めるために、有力豪族が畿内に集まったと考えるはどうですか?
関東を攻めるのに、北九州から出撃するのは、無駄が多すぎますし、
関東が手に入ったらどうせ徴税のため畿内にくる必要があるのですから。
倭の五王時代の倭国の版図は、
東西に広がっていて、西の方が村の数が多い(おそらく国土も広い)
と記録されています。(他に半島内にも支配地域がある)
その時代でさえも、ど真ん中よりは東寄りにあります。
東遷当時は、かなり東よりだったと思われます。
その理由は、その後の歴史が示している通り、
東に勢力を拡大するためと考えるのが自然に思います。
747 :
日本@名無史さん :04/06/24 01:31
出雲のたたら製法が未発見の時代ですから 半島の鉄を入手しにくい畿内から、鉄器は出るが、 数が少ないだけでしょう。 西日本のなかで北九州を最先進文化地帯とすると 纏向は最も後進地域にあったわけで 位取りを間違えてはいけないと思います。
748 :
日本@名無史さん :04/06/24 01:41
>744 誤解されているようですね。 神武の「東遷」説話=「東征」説話=「東侵」実話だろうということです。 神武は数十名を従えて、畿内のわずかな領土を確保した。 その子孫と称する人間が後世、畿内の首長になったというオソマツな話。 纏向の解散?期には警備の隙が多かったはず。当時の様子がいまひとつ 見えてこないが。
749 :
日本@名無史さん :04/06/24 01:59
>>746 普通、戦をするために前線基地をつくることはあっても
戦のために首都を移転するとは考えにくいと思うよ。
何かの間違いで首都「だけ」敵に奪われたらいきなり
国の滅亡につながるんだから。
奈良はいうに及ばず最低でも伊勢とか名古屋くらいまでは
組み込んでからでないと。さすがに関東までとは主張しない。
で、鉄器が出ないのは、続く時代に実用品としてリサイクルされたからだと思う。
砂鉄から新規に作るよりよっぽど労力と時間が節約される訳だし。
逆に言うと、鉄器が見つかる九州はかなり急速に退廃したんじゃなかろうかと。
銅鐸にしても、宗教的な価値が薄れたらただのスクラップ。出土したって
溶かしてナベでも作ろうってなもんだったかもしれない。
750 :
日本@名無史さん :04/06/24 02:02
結局なにが言いたいかというと、九州から畿内へ東遷したのなら 当時貴重な鉄器を放りっぱなして行くだろうか?と。 邪馬台が東遷して大和になったとたんに九州が廃れて鉄器が埋もれたとは どうにも考えにくいと思うのだがどうよ?
752 :
日本@名無史さん :04/06/24 02:14
>>748 >その子孫と称する人間が後世、畿内の首長になったという
この発想は面白いよ。そう考えると畿内に政権を置いた団体は
どこの出身でも可能になる。
つまり九州でも近畿でもどこでもいいが、その昔ハツクニシラスかカムヤマトイワレという伝説の勇者がいて
その人の子孫だ!と名乗ることで政権の正当性を主張したとの考え方もできる。
確かに物的証拠にかけるきらいはあるが、可能性は十分にある。
>>746 それと纏向って防御を前提とした施設がひとつも無いんですよ、徹頭徹尾。
なので更なる東征目的の施設とは考えにくいのですが。
753 :
日本@名無史さん :04/06/24 02:24
>>749 > 普通、戦をするために前線基地をつくることはあっても
> 戦のために首都を移転するとは考えにくいと思うよ。
政治と軍事を分ける極めて現代的な制度に心が捉われていませんか?
邪馬台国は豪族たちの軍事連合ですよ。
「強い軍事力を持つ豪族=有力な豪族」である以上、
前線に強い軍事力を持つ豪族を持ってきたら、
自然と連合の主導権は前線に来てしまうのです。
ただし、かなり東にあると言っても、最前線ではないでしょう。
当然、安全な地域になってからの移転でしょう。
754 :
日本@名無史さん :04/06/24 02:47
>>752 > 纏向って防御を前提とした施設がひとつも無いんですよ、徹頭徹尾。
それは、全くおかしい主張ですよ。
マキムクが重要施設を置けない地であるならば、
近畿説が最初から全く成り立たなくなってしまいますよ。
それに東寄りと言っても、さすがに東端ではないでしょう。
東は、熱田神宮辺りが陸路の防衛ラインとしては効率的でしょう。
> なので更なる東征目的の施設とは考えにくいのですが。
しかし、事実、その後に東征は行われているのです。
更には半島への進出もしています。
卑弥呼が狗那国と戦っていた時代から、
連合は常に領土拡大路線を取り続けていたのです。
755 :
日本@名無史さん :04/06/24 02:56
(自分でも信じないが) ****思いつき小説 「纏向の成立」**** 黄巾ノ乱(184)以後、中国の情勢が不安定になったため、九州邪馬台国には もう大陸と国交をやめて、自国内の政治に専念しようという勢力がいた。 一方では積極的に外交をしようという勢力も強かった。先駆的に 纏向に引越したのはこのときの一派である。 邪馬台国内の「内政専念派」は倭国大乱を起こした以後も政権を取れないまま、 ついにあきらめてほとんどが邪馬台国の都落ちをした。 列島各地にいる、賛同部族も集まり、纏向に計画的な都市国家を造成した。 これも邪馬台国の過去の栄光があったからである。 彼らは倭国大乱以前にやっていた交易立国によって、周囲と和合しながら 新時代を迎えていった。 纏向終焉のストーリーはどなたか考えてください!
何でもいいが、土器編年韓国まで持ち込むなよw 日本と韓国だけだろ。こんな変なもの前提にしてるの。
マキムクの年代を機内説でも九州説でもない学者が、正直に、確定しないと議論が進まないと思う。
>>758 頭弱い子かな、方法を言ってるのではないのだけれど・・・
760 :
日本@名無史さん :04/06/24 09:57
>>757 マキムクの年代が確定すれば、議論がスッキリ進むという点では同意で、
それに期待したいが、現状では確定は難しいんじゃないの?
ただ、現状の畿内説は、苦しい点が多すぎとはいえそう。
・ 東遷後に卑弥呼共立の背景となった連合内での対立(倭国大乱)の期間が殆ど取れない
(それも、卑弥呼共立を遅めに設定して。そうでなければ、すでに在位中だ。)
・ 邪馬台国の規模が大きすぎる。狗奴国への苦戦の理由が苦しい。
(そもそも軍事的な行動を目的とした連合ではないのか。)
・ 魏志の記述と矛盾点が多すぎ。海を渡った東にいる倭種は?船で1周すると約5000里の件は?
対して、九州説の苦しい点は、
・ 遺跡の年代が遡りそう。
・ 魏使、歩くの遅すぎ。九州に到着後、1回船に乗っている。何故に?
(ただし、絶海に浮く大きな島とか、東の倭種の存在とか、他の記述はスッキリ理解しやすい。)
761 :
日本@名無史さん :04/06/24 09:58
だから畿内・九州二重帝国なんだって。 天照=卑弥呼ー天孫はどちらにも属していないの。かつがれたんだから 出自不明。小国出身でも流れ者でもなんでもいい。 で、象徴として倭国=畿内・九州二重帝国の女王の座におさまったわけ だけど、当然畿内にも九州にも女王とは別の実質的支配者が存在。 だから対外的に倭国王と名乗るのは卑弥呼だけど、畿内では ナガスネヒコとかニギハヤヒなんて記録が残っていたりもする。
>>757 あいかわらずなくならないね。こういう人。
まあ、機内説の人なんてどこにもいないわけだがそれは愛敬として
『マキムクの年代を畿内説(引用者修正)でも九州説でもない学者が、正直に、確定』した結果、
九州説は事実上壊滅したんだけどね。
763 :
日本@名無史さん :04/06/24 10:52
>>757 出土地不明 :04/03/01 22:16 ID:vaKzEB7s
>沖縄の海底遺跡かな?
九州説にもいろいろあるから一まとめにしないでいただきたい。
>倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体であり、
>従来考えられていたよりも巨大な存在であったことが考古学的資料から導き出されている
畿内にそのような強力な王権が存在したとしても、それが魏志倭人伝に書かれた
「邪馬台国もしくは女王国を中心とした王権」であるという証拠はない。
「邪馬台国」の出典が魏志倭人伝であることは言うまでもないがイコール
「日本列島でもっとも強力な王権」だという断定している記述はどこにもない。
考古学的発見に限って述べられるに値する結論は
>倭国連合とは畿内、瀬戸内、東海、吉備、上越、山陰、関東までを含めた共同体であり、
>従来考えられていたよりも巨大な存在であった。
>ただし邪馬台国を中心にしたものかは不明である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これ以上踏み込むことは考古学だけでは無理。
>>760 >・ 東遷後に卑弥呼共立の背景となった連合内での対立(倭国大乱)の期間が殆ど取れない
倭国(大)乱の開始時期が確定していないので、無効。
>・ 邪馬台国の規模が大きすぎる。狗奴国への苦戦の理由が苦しい。
これは巷間いわれてることの一つではあるのだが、
原典を読めば苦戦してるなんてどこにも書いてないのは一読して明らかなのだが。
>・ 魏志の記述と矛盾点が多すぎ。
これも巷間いわれていることではあるのだが、話が具体化したためしがない。
方位についてだけはどうしても修正しなければならないのだが。
>海を渡った東にいる倭種は?
関東でしょ。おそらく。
畿内説の中でも異論はあるだろうけど。
>船で1周すると約5000里の件は?
周旋を『船で1周』と解釈できるかどうかという点を含めて謎が多い記事ではある。
一万二千里から朝鮮半島分の七千里を引いただけでさして信憑性がある数字ではないという気はするけど。
>>760 の主張はおそらくいわゆる『短里』を想定して『苦しい点』と言ってるんだろうけど、
この考えだと対馬〜唐津間でもう往復四千里を消費しちゃうから九州でも広すぎるよ。
魏晋里を使えば約2000kmだから、西日本を一周でちょうどいいくらい。
それと、原文は『倭地を參問するに周旋可五千餘里』なので、周旋可五千餘里の範囲は
邪馬台国を都とする倭国の範囲ではなく、狗奴国も海の東の倭人の住む領域も含まれていることを忘れちゃいけない。
結論: 畿内説にとって、
>>760 に書いてあることは別に苦しくない。
765 :
日本@名無史さん :04/06/24 12:30
>>764 あんたの反論からして苦しいじゃねーか(藁
766 :
日本@名無史さん :04/06/24 19:38
753氏>邪馬台国は豪族たちの軍事連合ですよ 760氏>そもそも軍事的な行動を目的とした連合ではないのか なるほど九州説や東遷説の発想の原点はここら辺にあるのだな 畿内説とは「経済貿易連合」から出発したというのが発想の原点なんだ。 752氏の>纏向って防御を前提とした施設がひとつも無いんですよ この事実から導き出されるのは、防衛の必要がない施設が180年頃に奈良盆地に建設され それから100年もの間、戦乱の影響を受けずに都市としての寿命を全うしたという事実だ。 だから少なくともこの時期に九州からの東遷は考えられない。 またそれ以前も纏向から九州産土器がほとんど見当たらないことから 建設や運営に際しても九州の直接関与がなかったことは明白。 厨とか言われそうだがw纏向の奇妙とも言える特色が明らかになるにつれて 従来の倭国大乱や邪馬台国時代の政治状況の見直しが余儀なくされたんだな。 だから当時すべての説が再考を迫られたという事だ。 そこで打ち出されたのが、国譲り的な連合説というわけだ。
767 :
日本@名無史さん :04/06/24 20:04
畿内説を、最近のプロ野球状況にたとえると・・・。 北九州で盟主とも言える球団が発足し、後に他の地域に波及した結果 大小併せて100球団以上乱立した。これが倭国大乱。 それらが合併や吸収を繰り返すうちに、2リーグ12球団くらいに落ち着いた。 しばらくそれで運営していたのだが、やはりパリーグ(畿内)は経営が苦しい。 出来ればセリーグ(北九州)と合併したいとの思いが強かった。 最終的に1リーグ6球団くらいになったのが、邪馬台国時代の倭国連合というわけ。 再編成の大きな要因は、やはり公孫氏の滅亡に代表される 半島情勢の悪化が北九州を経済的に圧迫したのと、大陸の脅威だろうな。
>九州説は事実上壊滅したんだけどね いち古墳の年代(推定)だけで一つの学説が壊滅するスレはここでつか? ・・・・・・・・・・・こういうこと結構有名な学者とかが平気で言うから信用できないんだよな (*゚д゚) 、ペッ
769 :
日本@名無史さん :04/06/24 22:09
左翼の嘘、中国人の嘘、韓国人の嘘、ブッシュの嘘、邪馬台国関西説の嘘 2ちゃんで嘘を見抜く目は鍛えられてんだよ。
770 :
日本@名無史さん :04/06/24 22:13
>>769 鍛えられてない・・・全く鍛えられてないyo
>>768 >いち古墳の年代(推定)だけで一つの学説が壊滅するスレはここでつか?
バカですねぇ。
『マキムクの年代』が定まるということは、交差編年を併用して日本(主に西日本)各地の年代が定まるということなんだよ。
というか、九州の年代をベースに交差編年で『マキムクの年代』が定まったんだけどね。
772 :
日本@名無史さん :04/06/24 22:16
とっても後進地域の「纏向」が、畿内説にとって得意満面ですか・・・ 先進地域の九州の圧倒的優位は変わらないんですが。
>九州の墓制と古墳祭祀は明らかにその性格を異にするものだから、九州からの東遷では説明できない。 >古墳祭祀は各地の首長祭祀を融合して初めて出来るものであるから、東遷ではなく、 >各地の勢力の連合により、九州の国とは全く別の新たな国が成立した、と考えます。 なことを主張している学者はいない。 最初期の古墳に吉備、山陰など各地の要素があることは確かだが、副葬品等に ついては、北九州の影響が圧倒的。
774 :
日本@名無史さん :04/06/24 22:22
>>769 確かに考古学藤村新一の石器捏造もココで詳しい情報を知った。
なんかむちゃくちゃ似てるよ、マキムクも50万年前まで遡るのか?
まあ、胸先三寸で年代なんか決められるんだろう。
>>765 進歩がないねぇ。あいかわらず具体性が全くない。
>>773 >最初期の古墳に吉備、山陰など各地の要素があることは確かだが、
確かだろ。だから九州だけじゃだめなんだ。
>副葬品等については、北九州の影響が圧倒的。
それはどうかな。
弥生時代の九州は破鏡だけど、古墳の鏡は完鏡だしね。
鏡は鏡でも本質的に違うでしょ。
777 :
日本@名無史さん :04/06/24 22:24
>>772 なぜ先進地域だったのかよく考えてごらんよ
半島を通じての鉄製品や数々の宝物の輸入の成果だろ
じゃあそれが可能になった経済基盤はというと
列島内の他地域、いわゆる後進地域との貿易じゃないか。
つまり北九州の有力なクニは、貿易国家だったといって良い。
それが半島情勢の混迷化と戦乱で、輸入ルートがズタズタになったから衰退に向かうんだ。
北九州にとっても他地域にとっても、連合化は互いの利害が一致した必然的行為なんだよ。
だからさあ、マキムクの年代から考えてもう「邪馬台国」の九州説なんてありえんのよ。 まだ、主張してんのは、安本みたいなキティ外とか黒岩みたいなド素人 だけじゃん。あと森浩みたいな死に掛けのジジイね。 マキムクを「誰が」「何故」作ったかということを考える方がよっぽど建設的だよ。
最近、邪馬台国に興味を持った。 厨な質問ですまんが、魏志倭人伝でどう読んだら畿内に行き着くんだ? 仮に女王国(邪馬台国)が畿内としてあれか? 末盧國========畿内=============狗奴國 6ヶ国 (女王国) 20ヶ国 ↑ (女王国の境界) こんな巨大王国(連合だったにせよ)だったのかい?東北まで行く気かい?
780 :
日本@名無史さん :04/06/24 22:34
>>779 いや倭人伝をそのまま読めば九州にも近畿にも着かない。海の中だ。
だから放射説(伊都国中心に読む)とか、方位か距離が間違ってるとか
伊都国から先は伝聞に過ぎないとか、様々な解釈が必要になる。
要するに倭人伝つーか文献資料だけでは、どこにあったか判らないのさ
>それが半島情勢の混迷化と戦乱で、輸入ルートがズタズタになったから衰退に向かうんだ それってまだ言っている学者いるけど証拠あるの? 弥生終末期に九州の遺跡が衰退したという兆候はないし、鉄製品の量にしても 減少したということはないでしょう。
>それはどうかな。 >弥生時代の九州は破鏡だけど、古墳の鏡は完鏡だしね。 >鏡は鏡でも本質的に違うでしょ。 破鏡も何も他の地域じゃ、そもそもあんな大量の鏡を副葬するなんてことが ないよね。ましてや弥生期の畿内では全然ないよね。 「北九州、吉備、山陰などいろんな地域の要素があるが、弥生期の畿内文化の要素が ほとんどない。」というとこが問題だと思うよ。ホケノ山でも壷くらいだよね。
783 :
>九州説馬鹿うぜえ :04/06/24 22:42
学会では九州説はもう終わったとされています。 いさぎよくあきらめようね。
784 :
日本@名無史さん :04/06/24 22:42
頼みの綱は「纏向」だけしかない畿内説の挽歌が聞こえてくるな。 九州邪馬台国は何度か遷都しているわけで、北部九州・佐賀・熊本の 出土物も無視できないんだが、破壊された都=北部九州の出土物だけで 文化後進地帯=纏向と比較されても困るな。
>>773 >なことを主張している学者はいない。
おいらの書き方が悪かったのかもしれないが、『王権誕生』で寺沢薫はこう書いている。
『・・・「倭国乱」と書かれたこの八方塞がりの状況を打破すべく、
「筑、備、播、讃」(後の筑紫、吉備、播磨、讃岐のこと)や出雲、
近畿勢力のどこか一つの勢力ではない、これらの国々の合意の元に、
【全く新しい倭国として】、その権力中枢が「ヤマト」に建設された』(【】は筆者追加)
おいらが
>>723 で書きたかったのは基本的にはこれとおんなじことだよ。
おいらと寺沢の違いは、おいらはおそらく東海の関与が無視できないだろうと考えていることと、
九州の影響をおいらは寺沢ほどには評価してないということぐらいかな。
末盧國========???=============狗奴國 (球磨国・琉球) 6ヶ国 (女王国) 20ヶ国 ↑ (女王国の境界) と、しらたどうですか?クナ国を勝手にクマ国(琉球)にしちゃってますけど・・・・゚・(ノД`)・゚・ 女王国の境界が現在の鹿児島県の県境と一致したりしてすっきり。(・∀・)イイ!! ???は九州のどこかになりませんかね? え!学会では九州説終わってるの?そうなんでつか・・・。
787 :
日本@名無史さん :04/06/24 22:45
>弥生終末期に九州の遺跡が衰退したという兆候はないし 思いっきり衰退してますよ。 まず副葬品が一気にしょぼくなる。これが第1段階。 続いて墳墓の規模が縮小されていく。 決定打は板付遺跡以降、隆盛を誇る遺跡がなくなる。 ただし壊滅したわけではない。 装飾古墳などに代表される独特の形態に徐々に変化する。
788 :
日本@名無史さん :04/06/24 22:56
漢委奴国王印が二つ存在するってマジ?
789 :
日本@名無史さん :04/06/24 22:57
>>784 >北部九州・佐賀・熊本の出土物も無視できない
無視はしてないが、佐賀や熊本の何という遺跡のどの出土物のことなの?
博多湾沿岸地域(糸島半島含む)以外で、それに該当するようなところを思いつかない。
具体的に言ってくれなければ、賛同も批判も出来ないよ。
790 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:03
>>789 君、九州の遺跡知らないんだろ?
それか知っててもあえて自説のために無視軽視とか(藁
778 名前: >760 投稿日: 04/06/24 22:27 だからさあ、マキムクの年代から考えてもう「邪馬台国」の九州説なんてありえんのよ。 まだ、主張してんのは、安本みたいなキティ外とか黒岩みたいなド素人 だけじゃん。あと森浩みたいな死に掛けのジジイね。 マキムクを「誰が」「何故」作ったかということを考える方がよっぽど建設的だよ。 ↑ あちこちのスレを荒らし回っているシロウト。ワンフレーズだけで人をこき下ろしてフラストレーションを 発散している模様。まともな議論はできないので、放置よろしこw
792 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:25
>>790 おいおい自説に自信があるのならちゃんと教えてやれよ
昨晩みたいな雰囲気で進みたいんだよ、俺は。
佐賀だと、二塚山遺跡、六本松遭跡あたり
熊本では織島西分古墳郡か葉山遺跡あたりの人骨のことか?
しかしあそこに副葬品でたいしたものなかったように思うが・・・。
正直、俺もワカラン。
畿内説の人、すまんが教えてくり。 纒向遺跡の年代云々がどうして邪馬台国と直結するの? 「女王国東渡 海千余里 復有国 皆倭種」って書いてるじゃん。 纒向が女王国の東の海の向こうの倭種の国でないとどうやって結論付けてるわけ? そもそも畿内から東の海の向こうの倭種の国ってどこ? ちゃんと倭人伝読んでるのかな?
794 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:26
纏向遺跡って素直に考えたら九州山陰山陽の勢力が 奴隷化した畿内の銅鐸文化住民に作らせたんじゃないかな 新支配地域畿内で反乱を起こす力を殺ぎ権威を示すために無駄に巨大な古墳 年代も、最高で〜まで遡れるということだから前後100年200年は動くんだし。
795 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:36
『魏志倭人伝』は倭国乱の前に「その国また男子をもって王と為す。 住(とどまる)こと七八十年。倭国乱」とする。 倭国が乱れ内乱に陥る前に、70年から80年男王の時代が続いていたのである。 倭国が内乱に陥った年代を、160年頃と想定すると、 そこから70、80年前は西暦80年から90年ころである。 この年代に倭国が出現するのである。 この最初の男子の王こそ、 記紀が大和朝廷の祖とする、カンヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)、 すなわち神武なのである。 したがって神武東征とは一世紀の末に起こったことである。
神武は架空だよ。
797 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:43
798 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:43
>>795 委奴国王あるいは倭国王帥升等のことかと。
799 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:44
倭人伝では奴隷制らしいのはないよな、大人とか下戸とかいって2つ程度の階級 、中世の英国なんみたいな、ロシアの富農までは行かないような、そんな感じかな。 古墳、埴輪、鏡などの祭祀用青銅器、山立て、設計、管理そういったものには米倉 とかから対価が支払われたんだろうね。ある程度の市というのもあったはずだ。通貨は なくても米なんて通貨の代わりになるものね。当然ガードマンはいたはずであり、裁判、 警察に似た機能もあったであろう。慣習法もね。ガードマンは九州勢が占めていたんじゃないかな。銅剣銅矛なんて見るからにりりしいじゃないか。
父さん!強い電p(ry
801 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:44
『魏志倭人伝』によると 西暦0080 男王の時代 西暦0160 倭国が内乱
802 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:45
西暦0001年から語らなきゃ。
803 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:46
九州だな。場所的に。
804 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:47
>>793 出来るだけ公平さを努めて書きますね。
纒向遺跡は180年頃から300年頃までの3世紀直撃の時代のものと考えられています。
これはもちろん倭人伝の時代、倭国大乱後からトヨの時代までとオーバーラップします。
周辺にはホケノ山古墳や箸墓などの初期前方後円墳が建設されております。
またガイシュツのように、防衛施設の不在や運河や道路などの今までの集落とははっきり異なる特徴を持っています。
はっきりいってオーパーツみたいな存在なんですよw
さてこれが邪馬台国と無関係ならば、当然九州のどこかにあったと考えるのが自然。
しかしその場合、果たして魏に朝貢して金印を授かることが出来るだけの大国であったかどうかが疑問になります。
今更「九州の女酋長が嘘ついて」なんて考えられませんよね。
邪馬台国が近畿の大勢力を隠蔽したと考えるのもかなり苦しいのです。
なぜなら当時、半島との交易ルートは九州が独占していたのではなく
鳥取(出雲?)や丹後、北陸など独自のルートを持つクニグニが存在したのですから。
嘘ついたら一発でバレます。
確かにご指摘のとおり、畿内説は倭人伝の記述と一致しない点も多いです。
あえて言うなら「発掘結果や、そこから導き出された推論が一致した部分のみ、文献を信じる」との立場なのです。
決してはなから無視しているわけではないのですが、そういう考え方だと理解しておいてください。
805 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:49
天皇 第一代 神武天皇 現在、男系が続いてるということです。
806 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:52
>>804 那国はどうなの?
>果たして魏に朝貢して金印を授かることが出来るだけの大国であったかどうかが疑問になります。
金印関係から大国である必要性はないんじゃない?
応神天皇とか、継体天皇のとこで途切れてそうだけどね。 普通に読めばヤマトタケルとか神功皇后が親や爺さんなんてあやしすぎる。 入り婿って考えるのが自然。
808 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:56
ま、普通っつうか定説では神武の存在と欠史八代の存在はかなり怪しいってことだろうがな。 とくに欠史八代は旧辞的なものは何も無くて帝記しかのこってなかったってとこからも 架空って考えるのが自然だな。
809 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:56
>>807 ヤマトタケルは神話だからね。
天皇 第一代 神武天皇
現在、男系が続いてるということです。
810 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:57
史実で天皇は、男系で続いてきたと。
811 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:59
なんか、資料ないの? 中国のように日本で紀元前にかかれた資料?
812 :
日本@名無史さん :04/06/24 23:59
今わかってること 天皇 第一代 神武天皇 現在、男系が続いてるということです。
九州説の人は纒向における九州の影響を過大評価しすぎ。 纒向以降の王権祭祀は明らかに吉備の墓制を中心に据えた もんだろう。
814 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:00
内容のない反論は意味がない。
816 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:01
ヒミコの前であって倭国乱の前であって70-80年も王様の続いたところというと当然 奴国-伊都国だなー。ところがこの辺は最後は平原の女王みたいだしね。マーこれは その男王と一緒にやっていたのかも。この男王にそむいたのは東遷した筑後のテクノ クラートだろう。彼らが難波方面に進出していた同族をたより東遷するってことはありえ るよな。多少食わしてもらえるだろうし。そして葛城の聖山から出雲を追っ払い、大和で 古墳建設を始める。ただし、唐子鍵の原住民とは共存共栄であったということもありえる ね。百姓と技術屋の関係。
妄想レスはおなかいっぱい。
818 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:04
いや、その神武から応神につながるあいだに神話つうか伝説の人物であるヤマトタケルや神功皇后がいるってのが 血がつながってない可能性が高いって意味です。 学問的にはつながってない気ガス。
819 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:05
,. - ─── - 、 / , `ヽ. /〃//,. ,ィl/|l ト、 !、 、 ヽ ー'´| | l |1 | !l. l| ! | l.|ヽ ! !、 ', おじちゃんたち YレV!ヒエ「! |l.「_ト!Ll」| l l l どうしてよるなのにねないの? ! lハイJ | ´|_jヽ. リ,! ! l. l | |l |l.} ー , L _,ハl.lトl l. | l |l ilト、 n '' ,1l|ィ| |l l | _ 二,ニ^tュ--ェ_t1」l.|l !リ|_lノ r7´ f r┐| 〔/ミヽ>,-、 ̄´ Y ー个‐'t ハ-、_'ゝ、 ヽ ._・ rく ̄ヽト-'丿 ヽ l / (・__,)ゝi┬'´ハ` '`| |ヽ, イ ノ┴くヽヽ、 / `´ ゝ┬ヘ`ヽ | `ー‐1 ゝノ-‐^ー'一''丶 ヽ ヽ ト、_ `ーァ'¨不ヽ | | 「 ̄「 ̄l ̄ト、,イトヒi′ l l. l l ! !└' l | └ L 」_,|__l_l.__L.l′ | | | | l l ! ! l l. l l ト--┤ !--‐1 f‐t央j. ト央ァヘ | 甘l、 / 甘 | l ,.-‐ヽ レ'⌒ヽ/ `く.__ ノ ゝ--‐′
820 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:07
今わかってること 天皇 第一代 神武天皇 現在、男系が続いてるということです。
継体天皇も男系で繋がってると言えるのですか? いきなり蝦夷のうじゃうじゃいる東北から出てきた応神天皇の五世である継体天皇。 桓武天皇の五世である平将門公と同じ五世ですね。 もし、天下を取れていたら、男系の天皇として認められてたんでしょうかね。
822 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:09
欠史八代なんていう、安楽椅子の津田説は単なるアンチ軍国主義のたまもの。 欠けていたなら、バンバン造作すれば良かったわけで、かえって欠史に信憑性がある。
823 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:10
男系と言っても日本武尊を間に挟んでの男系だからな。
学会でも続いてるって言う奴の方が少数派ではある。
応神の親、仲哀も架空説がつよいし。
それ以前にスレ違いかナー。
>>820 たとえウヨ房であっても事実から目をそらしてはならない。
824 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:10
オーパーツとか書いたけど、ホント纒向遺跡には苦労させられるw 九州製の土器は全くといって良いほど出土しないし 逆に東海産のものがわんさか出てくる。それと以外に地元の土器が少ない 全体もいきなり前例もなく区画整理された設計になってるし 住居や倉庫と目される建物の跡もないし、環濠もない そのくせこれもいきなりだが大和川に続く運河を持ってやがる 宗教施設だとしても池上曽根みたいな立派な柱も出てこない せいぜい直径20cmくらいのもの・・・ これじゃあ唐古・鍵の楼閣程度のものも苦しい (あれはあれで問題はあるが・・・土器の模様だけを根拠に建てるなよな!) とても畿内土着の首長のみの力で作れるようなシロモノじゃない いくつもの有力首長が協力して、しかも九州の力を借りずに建設したとしか考えられんのだ 全国の考古学者や古代史家が頭を抱えた訳が判るだろ?
825 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:11
『魏志倭人伝』 西暦0070 倭国誕生 王国時代 西暦0160 倭国内乱
826 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:11
>たとえウヨ房であっても事実から目をそらしてはならない。 史実では、男系で続いてきたしねー。
827 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:12
>>821 一応奈良時代に男系は四世まで皇族とする。となってる。すぐ後に五世に変化した。
なんにしてもぎりぎりセーフではある。
828 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:13
怪しいのは、天智天皇だろ。
>>820 初代より何代か架空の先代を創作することは、当時の東アジアの主流じゃない?
なんにしても帝記的な記録しか残ってないのは事実でしょ。
830 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:14
『後漢書』倭伝 は、西暦107年、倭国王が遣使奉献したとする。 倭とする地域を代表する王ともとれる。 それに比べ西暦57年の遣使奉献は、 倭の奴国王で、倭という地域の一つの国にすぎない。 したがって倭国は107年以前に出現したと考える。
831 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:16
うわまじでやまとたけるが間に入ってる! 今まで続いてるとか思ってたよ・・・。 ショボン。
832 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:16
この男子を王とした七十、八十年という期間の推定は、 107年の遣使奉献と戦乱の時期を前提に、推定された期間だと考える。 倭国が出現したとする。
>>827 いえ、私が言いたいのは
これって王朝交代なんじゃない?
だって敵視してる蝦夷の国から上って来た天皇ですよ。
20年も都に入れなかったって戦争してたんじゃぁ?
834 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:20
>>833 今わかってること
天皇 第一代 神武天皇
現在、男系が続いてるということです。
835 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:22
>>834 その神武がそれまでの王統を引き継いでいることになっているから、話がややこしいんだが。
836 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:22
837 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:23
ギネスブックにも載っている。『魏志倭人伝』は倭国乱の前に「その国また男子をもって王と為す。 住(とどまる)こと七八十年。倭国乱」とする。 倭国が乱れ内乱に陥る前に、70年から80年男王の時代が続いていたのである。 倭国が内乱に陥った年代を、160年頃と想定すると、 そこから70、80年前は西暦80年から90年ころである。 この年代に倭国が出現するのである。 この最初の男子の王こそ、 記紀が大和朝廷の祖とする、カンヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)、 すなわち神武なのである。 したがって神武東征とは一世紀の末に起こったことである。
838 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:24
西暦107年以前に、倭国があったって事か。
839 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:25
卑弥呼の没年は248年ころである。 173年から数えても75年以上である。 一般的な寿命から推測して、王位に就いたのは、幼少であったことが伺える。
841 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:25
そうじゃないでしょ。神武は畿内にひっそりと侵入した、九州邪馬台国の都落ち軍人。 4C後半の人。
842 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:25
皆の衆、コピペで繰り返し同じこと書いてる香具師は無視よろしこ。 残念だが正常な神経の持ち主とは思えない。 可哀想だが無視が一番いい。
843 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:26
>>840 その大和を支配していたのは、西暦なんねんですか?
神武は、西暦0080〜0009だそうです。
844 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:26
ギネスの説なんていまだに渡戸稲造の説をとってるにすぎないじゃん。 武士道が有名だから仕方ないかもしれないけど。
845 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:27
846 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:29
西暦107年以前に、倭国があった。 ↓ 「その国また男子をもって王と為す。 住(とどまる)こと七八十年。倭国乱」 ↓ 最初の男子の王こそ、 記紀が大和朝廷の祖とする、カンヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦) 神武である。 卑弥呼は西暦173年で、幼少で力はない。
847 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:31
神武が九州邪馬台国で「王様」だったことはない
848 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:32
849 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:33
今わかってること 天皇 第一代 神武天皇 現在、男系が続いてるということです。
>>847 そのとおり
神武は九州から大和に移り、大物主(出雲神)の娘を娶って天皇になった。(古事記による)
851 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:34
「倭国王帥升等」は『魏志倭人伝』にみる 「倭女王遣大夫難升米等」と同じように「倭国王(遣)帥升等」と解釈して、 帥升は使節団の長であろう。 またこの王が、初代の神武であるか否かは、微妙であるが 神武か、もしくは二代目くらいの、初期の王であることは間違いない。
852 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:35
853 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:35
週末当たり、俺が邪馬台国行って見てこようか?
855 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:37
>>854 西暦107年以前に、倭国があった。
↓
「その国また男子をもって王と為す。
住(とどまる)こと七八十年。倭国乱」
↓
最初の男子の王こそ、
記紀が大和朝廷の祖とする、カンヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)
神武である。
卑弥呼は西暦173年で、幼少で力はない。
100年生きるとおもってるの?
856 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:39
アホなコピペは無視して 後漢末のあたりから、九州倭国の政治は揺れた。 半島情勢が活発になった4C中が、列島諸国の決断のときだった。 倭国は軍国主義、覇権主義に、畿内は内政主義、交易立国へ。
857 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:41
>>856 お前が、根拠のないことをいってるだけじゃん。
脳内でしかないでしょ。
思考停止状態じゃんか。
>>855 どうして倭国の一地方の有力国、邪馬台国の初代と
倭国を統一(九州から大和まで)した大和朝廷の初代が同一視されないといけないの?
859 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:42
神武が九州で王だった証拠は何一つない
860 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:43
私は神武の実年代を100年頃の人、崇神を300年ころの人物と考えている。 ホケノ山や勝山古墳の被葬者は、 初代神武から十代崇神に至る、 その間の王の墓と推測する。
861 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:43
>>855 俺には「風が吹くと桶屋が儲かる」と書いてるとしか思えんのだが。
神武の後の8代はどこ行ったの?やっぱ架空?
墓はあの墳墓と勘違いされてる山城の跡?
もしかして野ざらしにされたの?イワレヒコは?
862 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:44
倭国を統一(九州から大和まで)した大和朝廷の初代が同一視されないといけないの? ↑ ソンなことは、証明されてないが。脳内でしょ君の。
863 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:44
>>855 この発言だけで電波
神武は九州で王になど全くなれなかった
>最初の男子の王こそ、
>記紀が大和朝廷の祖とする、カンヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)
>神武である。
864 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:45
そもそも神武が実在だったってのを前提にしてるからおかしいのではないかと。 モデルはいたかもしれないが、今つたわってる神武像をそのまま古代にあてはめるのはどうかと。 日本書紀の時代でさえ、神武は伝説の人間であると思われてたフシがあるのに。
866 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:46
脳内は、意味がないんだよ。 文献は?
867 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:47
>>864 この世のすべての書に、神武は九州倭国で王だったと書いていない
868 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:47
1世紀ごろに書かれた、文献を参考に。
869 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:49
早くコピペ馬鹿は、神武が九州で王だった証拠を出せよ ウソ800だろが!!
870 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:49
>>860 あいつら揃いも揃って100年も生きたのかよ
サイボーグかw
・・・と、おきまりの突っ込みはこれくらいにして
100%架空じゃなくて、古代の別の首長一族の系譜を組み込んだ可能性は考えられるが
それにしてもホケノ山やら勝山だと100年間くらいの期間しかないのですが。
871 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:51
歴史書でわかってること。 西暦0057 遣使奉献 倭の奴国王で、倭という地域の一つの国 西暦0070 倭国誕生 王国時代 西暦0160 倭国内乱 西暦0174 卑弥呼 寿命から推測して、王位に就いたのは、幼少 西暦0248 卑弥呼 没
872 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:51
>>869 漢字なんてないわけで、違う言われ方をしてたんでしょ。
873 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:52
>>871 あのね、倭の奴国王なんていないの。倭奴国王。
874 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:54
日本は、なんで、中国のように紀元前からの書物がないんだろう?
875 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:54
神武は九州で王をやっていたという妄想の証拠を早く出せよ!!
876 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:54
877 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:55
>>876 馬鹿?
神武は九州で王をやっていたという妄想の証拠を早く出せよ!!
878 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:55
今わかってること 天皇 第一代 神武天皇 現在、男系が続いてるということです。
879 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:57
>>878 神武の先祖がニニギ=北部九州支配者なんだから、
初代天皇の意味を述べてみなさい。
880 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:58
頼むから皆の衆、無視してくれよ。 内容が電波とかそのソースとかが問題じゃない。 想像してくれ、真夜中に意味のない内容をコピペして 匿名掲示板に連続投稿するやつが、まともな神経しているはずないじゃないか。 俺は精神疾患については差別するつもりもないし、蔑むつもりもないが 相手にするとよけいに症状を進行させる恐れが高いんだ。 匿名って書いたが、すべての掲示板は匿名なんて実際ありえないだろう。 実生活で突然つきまとわれるハメになっても知らんぞ。
881 :
日本@名無史さん :04/06/25 00:59
>>879 西暦107年以前に、倭国があった。
↓
「その国また男子をもって王と為す。
住(とどまる)こと七八十年。倭国乱」
↓
最初の男子の王こそ、
記紀が大和朝廷の祖とする、カンヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)
神武である。
最初の男子の王がいたのは事実な訳で。
882 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:01
コピペ馬鹿は スルーだな
883 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:01
コピペ馬鹿は いい加減スルーだな
884 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:03
男系が途切れるということは、Y遺伝子が途切れるということ。 Y遺伝子にのってるやつは男にしか伝わっていかないので 男系のチェックに使われている
885 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:04
>>884 Y遺伝子が途切れると、どんなマズイ事になるのか?
886 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:05
コピペ馬鹿は いい加減飽きたな
西暦107年以前に、倭国があった。 ↓ 「その国また男子をもって王と為す。 住(とどまる)こと七八十年。倭国乱」 ↓ 最初の男子の王こそ、 記紀が大和朝廷の祖とする、イナザギ命(伊耶那岐命)である。 これでも問題ないんじゃない? あっスルーすか。
888 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:05
>>885 あるでしょ。男系がなくとギネス更新できないでしょ。
2000年続いた天皇制は男系男子が原則。
男系できたのだからもったいない。
889 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:06
今わかってること 天皇 第一代 神武天皇 現在、男系が続いてるということです。
あっ間違えたイザナギ
891 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:08
>>888 マジレスギネスからはとっくにはずされてる。
話が古いよ。
892 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:08
893 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:11
894 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:14
>>892 のリンク見たか!?
こりゃあ・・・ホンモノ降臨だぞ
俺は離れる、マジでやばい
895 :
日本@名無史さん :04/06/25 01:20
おまえら、全体的に出雲を甘く見すぎ。 出雲王朝を忘れるな。
倭国大乱は出雲王朝の邪馬台国侵入っしょ。 とすれば、卑弥呼=アマテラス(大日霊女貴)で、 アマテラスがスサノヲに降参した逸話がなんとなく理解できる。 姉弟のはずのアマテラスとスサノヲに子供がいるのも説明できる。 卑弥呼=日霊女ってトンデモなのかなぁ・・・ こうすると日本神話がすんなりハマルんだけどなぁ・・・
それはさておき、主神のくせに岩の中にヒキコモルっておかしな神様だこと・・・
出雲は西日本の宗主国だったが、アマテルが下克上により宗主権を奪う。 返す刀で、北部九州を襲う。このときの戦勝部族が九州部族連合に発展、 はるか後に、卑弥呼の時代を迎える。 なお、オオヒルメノムチは卑弥呼よりずっと昔の、越の神。 アマテルは卑弥呼より、300年古い。
899 :
日本@名無史さん :04/06/25 02:30
うー・・・せっかく、
>>804 で、やっと畿内派にも、
冷静に自説の長所・短所を分析する人が現れて、話が噛み合いそうに
なったというのに、なんでこのタイミングでコピペ荒らしが来ちゃうの・・・
ただ、その
>>804 さんも、最初180年頃から300年頃と言いながらも、
途中から卑弥呼以降の可能性を完全に捨ててしまってますね。
卑弥呼以降ならば、隠すもなにも、その必要がないですね。
無いのですから。九州説への批判に全くなっていません。
それに、九州説に立った場合、九州の海を越えた東(四国の西岸?)には、
複数(明記されているだけで4つの)倭種の勢力があることを認めています。
邪馬台国が圧倒的な立場ではないことを隠してはいません。
邪馬台国が(弱い連携ながらも)圧倒的な勢力と考えているのは、
畿内説独自の仮定で、文献によるものではなく、(むしろ文献とはやや矛盾
したもので、畿内説の苦しい部分)それを九州説に押し付けないでください。
逆に不思議に思うのは、邪馬台国は内部で戦乱が起きやすいのに、
(事実、卑弥呼の前後で起こっている。)なんで、そんな
無防備な場所に重要施設を置ける(それでいて蹴散らされてない)
と思うのでしょうか。弱い連携と仮定しているのに。
無防備なのは、九州説に有利な証拠でしょう。
防備が必要なほど危険地帯に遷都する訳は無く、
「連合とその地域の安定」があったから東遷もあったのです。
あと、(別の人のレスかもしれないが)倭国大乱の時期は不明だから、
無くて良いというのも変。どこにも置けないのは変。
中国四国恭順と卑弥呼共立の間に時間が無さ杉。
900 :
日本@名無史さん :04/06/25 02:59
>>824 織田信長みたいな人がいたのかもね。
きっと、桶狭間みたいな大逆転もやったんだよ。
901 :
日本@名無史さん :04/06/25 03:17
>>824 土木労働の実務をするのは、
「立場が強い勢力なのか、それとも立場が弱い勢力なのか」
が重要な論点になりそう。
九州説を前提に立場の大小を考えると、
九州(譜代)
出雲(婚姻による無血恭順)
四国(婚姻による無血恭順)
山陽(少々抵抗しちゃった)
東海(新入り)
畿内(ほぼ滅亡まで叩かれた)
と想定される。そして仮に、立場が弱い勢力が実務を負った
とすると、うまく説明がつくと思う。
902 :
日本@名無史さん :04/06/25 07:14
というか、邪馬台国の防御施設は物見櫓とか詳しく出てる、無防備な祭祀だけの都市ではない マキムクの発掘結果からはむしろここには卑弥呼はいないぞ、と物語っている
903 :
日本@名無史さん :04/06/25 07:39
畿内説の人に言うけど 巨大古墳や巨大な他の構築物は民衆の地獄のような労働の結果なんだよ 墓作らせて挙句の果てには殉死として大量に人が埋められたりしてるし 王様が偉大だから民衆が自主的に作ったんじゃないよ、そこんところをまず理解してね つまり、古墳は支配者と奴隷 それ以上の巨大古墳は征服側と被征服側がいてはじめて出来る代物なんだよ
別に奴隷制がなくとも古墳はできるだろうに。
違うね。エジプトのピラミッドに対する最近の説から見ても 巨大墳墓の構築は、まず労働力や食料の余剰があって初めて 可能なのだ。
906 :
日本@名無史さん :04/06/25 07:48
九州内である程度政治が安定したら、奴隷の数もそれ以上増えないから古墳も巨大化より装飾化のほうに向かった 東遷の結果、大量の畿内人(奴隷階級)を得て巨大古墳を作ったんだよ 逃げ遅れた銅鐸文化の畿内人はほとんど古墳造作で死滅したんじゃないかな。
907 :
日本@名無史さん :04/06/25 07:51
>>905 そんなの分かってるよ
新支配地域で労働力と食料を無駄に余らせたら
それこそ力をつけた地元の反乱が起こる
面白い意見だが、奴隷を酷使して古墳を作ったという考えのほうが、最近のピラミッド学に沿ってない気がするが?
909 :
日本@名無史さん :04/06/25 08:01
エジプトのピラミッド建設者の出勤簿ではビールを飲んで二日酔いとか、現代で言えば マイカーで通勤していた感覚のようだ。ナイル川の氾濫期の失業対策として行われた らしい。奴隷とは程遠い。ところがアステカとか、秦の始皇帝とか、殷等は奴隷制みたい だね。日本は天皇でも渡し舟の無賃乗船は拒否されている。ところが人柱が必要だと 平気で殺すようなところもある。南ロシアのクルガン(木郭上円墳)地域では人々が両手に いっぱいの土を献じたという。箸墓のバケツリレー式とやや似ている。ヒミコはよく人を 惑わしたってんだから、大衆宗教的要素も否定できない。 地元の唐子鍵の遺民とかの奈良盆地農耕民については朝鮮半島の六県式の特別氏子 集落を除くそのたの農耕民について奴隷制同様の「庸」(農閑期の古墳建設役務)と「租」 (稲作所得税)を課していたことは考えられる。現在の北朝鮮みたいなもんかね。それと 同様の厳しい租、庸が東海地方に課せられたということもあろうか。
910 :
899さんへ :04/06/25 08:02
ほとんどの畿内説論者は、自説の弱点を熟知してますよ、これは九州説論者でも同様。
ごく一部が無茶苦茶言ってるだけで・・・そういうのは放っておきましょう。
さて纏向に関しては
>>824 を読んで戴いた上に
http://www.sagatokimeki.ne.jp/yosino/kouza/chishiki/schooling/kogi6.html これも是非御一読下さい。
石野氏は畿内説の先鋒でもありますが、それを差し引いていただいてもかまいません。
比較的簡潔に要点がまとまっていると思いますので。
そこで謎なんですが、纏向はなぜ北九州の影響が皆無に近いのでしょうか?
弥生中期から後期にかけての列島は北九州主導で進んできたというのは
動かしがたい事実であり、本来ならその流れに沿って発展するはずなのですが
まるで突然変異を起こしたように出現するのですよ。
しかも戦乱に巻き込まれずに、都市としての寿命を全うして消えていきます。
911 :
899さんへ 2 :04/06/25 08:03
この纏向隆盛期に、果たして北九州の東遷や東征がありえるでしょうか? もしあったのなら纏向が無事に残っていることは不自然ですし 無血征服を想定しても土器の出土状況と矛盾します。 結局、この時期には東遷は成り立たないのです。纏向を避けたとは考えにくいでしょう? それ以前にあったと考えても、やはり土器の問題が立ちふさがります。 纏向以降だと、前方後円墳が全国に広まった説明が出来ません。 初期前方後円墳は、岡山や山陰、丹後といった他の地域の土木技術や様式や祭祀を採用しています。 この事からも、畿内の勢力だけで建造したものではないことが明らかです。 問題はこの様式にいつ頃北九州が参加したのか、あるいはしなかったのかなのです。 この奇異な遺跡が、イコール邪馬台国だったのかどうかはまだ断定できません。 しかし違うのなら九州にあったとの説を採って、検証せねばならないのですが 一気にその規模や影響力はスケールダウンします。北九州周辺の小さな連合でしかなくなるのです。 さらに朝貢後暫くして滅びたか完全に吸収されたと考えざるを得ません。 逆に畿内勢力と並列して独自の発展を遂げたと考えているのが、九州王朝説です。
913 :
899さんへ 3 :04/06/25 08:07
ちなみに纏向の直径20cm四方の柱跡を指して、物見やぐらだと考える説もありますが ちょっと建築上無理があるのではないでしょうか、2階建て程度の高さと強度しかありませんのでね。 そう言う意味では、唐古・鍵の土器模様だけを根拠にした楼閣の復元モデルや 吉野ヶ里の物見やぐらも見切り発車の暴挙に近いものだと思います。 古くは弥生遺跡の竪穴式住居の再現などもそうですね。 マスコミ受けを狙わないと肝心の発掘予算がつかないなどの事情があったにせよ 確定していないものを再現してしまった先走りには、やはり心を痛めます。 長文になりましたが、現時点での纏向に関する仮説提示です。 一応文献史学ではなく考古学的な立場からお話させていただきました。 文献上は、はっきりと少なくとも九州説や東遷説より畿内説は不利だということは 繰り返し述べておきますが、それでも一応の整合性を持った考えもありますので それは後日に指せて下さい。 仕事終わったところなので、眠らせてくだされw
914 :
日本@名無史さん :04/06/25 08:08
ピラミッドは公共事業だってな。 案外古墳増築もそうかもしれない。灌漑工事とリンクしていたのかもしれない。 事実仁徳天皇記などにはそれら記述がなかったか。 いずれにしても生産性の向上と剰余労働力なくしてはあのようなものは できない。 かりにより生産性の向上に結びつく灌漑工事などをかねていたと仮定すると だんだん古墳が巨大化するのもうなづける気がする。
北九州の国家は元々交易で儲けている国家。 東遷する理由がない。装飾古墳に移行し、 巨大墳墓を作らないのも,巨大な労働力を 背景にしているわけではないからだろう。 北九州の国家が独占してきた交易に関する 既得権に反発した瀬戸内海以東の国家群が 大陸の混乱期に作り上げたのが畿内の王権。
916 :
日本@名無史さん :04/06/25 08:17
>>915 仮にあなたの言うように既得権に反発した瀬戸内以東の国家群があれば
それ自体が東征する理由になる
君矛盾してるよ
邪馬台国の時代に畿内まで支配している必要はないだろ? 仮に倭王武がその後継者だとしても、東の征服国の数は、中国、四国までだとしても うなずける数だし。問題は九州勢力と畿内勢力との関係で、その両国の外交関係史が 重要だと思う。出雲も大きいが、これは国譲り神話が史実とすれば連合王権が筑紫に 移動したと言うことだろうね。 何か畿内説の人の話を聞いていると、九州には弥生晩期までしか国が無かったような 錯覚に陥るけど、農業も生産も先進地域で、いきなり国や連合国家が無くなったりする の?・・・いや、連合国家というと、またけちつける輩が湧くけど、国が沢山あれば当然 地方連合は出来る。その段階を王朝と呼ぶかどうかの用語の問題でしかない。 それに、奴国だか倭奴国だかが金印もらってるのに、九州の邪馬台国が金印貰って悪 い理屈はないだろ。畿内説の人、「東に倭種あり」をどう解釈するの?
>最後に、弥生後期の終わりの段階に造られた岡山の楯築古墳の話をいたします。 >全長80メートルの円形の墓で、中心部は丸く両方にでっぱりがあるような形をしています。 >巨大な石によって囲まれている変わった墓で考古学の世界では非常に有名です。 >楯築古墳の流れをみると、弥生時代の最後2世紀後半、卑弥呼が登場する180年代に >造られたもので、この墓の前は日本列島で四角の墓ばかりを数百年間、造り続けた時代でした。 >そして最初に丸く巨大な墓を造ったのが岡山の人間だと言われており、これは非常に重要な >ことです。 >古墳時代の円形墓を大型のものが出てきた時期と考えるなら、古墳時代のはじまりは楯築古墳 >だといえます。卑弥呼の登場とともに世の中に宗教改革がおこり、それをさきがけて実践した >のが岡山の人間なのです。そうするとこの人物は「国々が相談して卑弥呼をたてた」と >魏志倭人伝にあるように、その国々のリーダー役を果たした人物ではないでしょうか。 >そうすると邪馬台国がどこにあるとしても、初期の段階に岡山が果たした役割はかなり >大きかったと思います。 九州の国家の東遷説はあり得ないですね。
919 :
日本@名無史さん :04/06/25 08:24
>>916 それほど強大な軍事力は有してないだろう。
なにしろ中国地方と北陸と近畿が連合してるのだから
そいつを武力で服従させたのなら、必ず痕跡が残るしね。
仮にそれほどまでの大制圧が3世紀にあったら、神武東征などでなく
もっと具体的な形で記紀に記されたのではないか。
920 :
日本@名無史さん :04/06/25 08:41
>>919 痕跡?
マキムク遺跡が服従させた痕跡だよ
921 :
日本@名無史さん :04/06/25 09:06
>>920 北九州の土器がほとんど出てないのに、そりゃあ無理だ。
922 :
日本@名無史さん :04/06/25 09:11
923 :
日本@名無史さん :04/06/25 09:18
>>922 いやさ、それなら実労者(被征服者)の大半は東海地方出身者になっちまうぞ。
それにいくらなんでも監督する北九州人が少なからず必要じゃないのか。
まさに王権の出自を示すはずの祭祀は岡山のものを 中心に動いている。岡山を差し置いて九州が東遷の 主体だなんて片腹痛い。
>>899 >あと、(別の人のレスかもしれないが)倭国大乱の時期は不明だから、
えー『別の人』です。
時期が不明なら時間がなさ過ぎかどうかわからないでしょ。
よってたつ根拠がないんだから『時間がなさ過ぎ』はあなたの主観以上のものではないということですよ。
>中国四国恭順と卑弥呼共立の間
恭順というのはあなたのかってな考えで、
対等に近い立場(ある程度の差序はあっただろうけど)での連合により卑弥呼が共立され、
“新生倭国”が成立したと考えるのが普通。
『中国四国恭順と卑弥呼共立の間』の時間は0、というのが普通の考え方です。
927 :
日本@名無史さん :04/06/25 10:08
>>923 大半?
あやふやな言葉使わずに正確なパーセンテージ出してくれる?約何割とかでもいいし
どうやら君はマキムクから九州の土器も出てきている事さえ知らないようだね
無知過ぎる。君は無知なんだから少しは検索くらいしてみなよ。
928 :
日本@名無史さん :04/06/25 10:13
>>926 君の意見も主観以上のものではないよ。
自分の主観だけ普通の考え方だって?なんか笑っちゃうよ。
929 :
日本@名無史さん :04/06/25 10:29
>>927 そんなのパート2辺りで散々ガイシュツだったから皆知ってると思ってたよ。
お望みならどうぞ。
纒向遺跡から出土する土器の約15%以上が
大和以外の地域で製作され纏向に持ち込まれたことがわかっている。
このような土器を「搬入土器」と呼び、形態的・胎土的(成分的)に各地域の特徴を持っている。
これは纒向だけに限ってみられることではなく
他の遺跡や縄文・弥生時代などにおいても例がある。
しかしながら、纒向では搬入土器の出土量が、在地の土器に対して約15%以上あり
このような例は他の遺跡では見ることができない。
また製作された地域を調べても、西は九州北部から東は南関東までと広範囲にわたっている。
このことは、土器と共に人々の交流をも物語り
纒向にどの地域の土器がどれだけ運ばれてきたかを調べることによって
日本の各地域と纒向とのつながりを理解することができる。
搬入土器の出身地を調べてみると、約半数の49%が東海系の土器で
北陸系と山陰系が17%、河内系が10%、吉備系7%、関東系5%、近江系5%、西部瀬戸内系3%
播磨系3%、紀伊系1%となる(『纒向』桜井市教育委員会1980による)。
さらに平成8年の第90次調査では、韓式系土器も出土しており
朝鮮半島の土器も纒向へ運ばれていることがわかった。
ちなみに北九州は1%未満です。
930 :
日本@名無史さん :04/06/25 10:30
>>910 今、出かける直前で、リンク先もあなたのご意見も丁寧に読めないんだけど、
(帰ってから読み直します。多分、そのときはもう次スレ?)
まず、あなたは根本的な勘違いをしています。
東遷説の基本的な考えは、「マキムク建設よりも東征の方が先」です。
無いものを踏み荒らすことは不可能です。
東海まで手を伸ばして、畿内が安定してから作ったのです。
卑弥呼後に殺し合いがあるので、畿内説の方が、
踏み荒れてないことの説明ができないでしょう。
くどいようですが、マキムクの年代を卑弥呼前に固定して、
他の可能性を一切認めないなら、話にならないです。
「もっと遡る可能性が高い」という研究結果があるのは知っています。
しかしながら、あなたが挙げたリンク先のご講義でも
マキムクは280年以降とか仰ってませんか?
それは、東征東遷にとって、もっとも都合が良い年代推定なのですが。
では、また夜にでも。
931 :
日本@名無史さん :04/06/25 10:44
大辞林 第二版 (三省堂) たいはん 【大半】< 全体の半分以上。過半。大部分。副詞的にも用いる。 8割5分が地元、1割5分が搬入 さて 1割5分のうち東海は何割なんですかね? そう考えると>大半は東海地方出身者って・・・ あなたが無知ではないとすると、恣意的な嘘だったんですね。 関西説の為に嘘吐いてるんですか。
932 :
日本@名無史さん :04/06/25 10:49
>>930 910ではないが気になったので横レスごめん。
>リンク先のご講義でもマキムクは280年以降とか仰ってませんか?
言ってません。こう言ってます。
>纏向の不思議な点は2世紀の終わり
西暦180年代に突然現れて350年前後に突然消えるということです
910も300年だと勘違いして書いてるけどね(w
280年というのは箸中山古墳のことを指しているのでしょう。
どうやら
>>920 も同様に、「マキムク建設よりも東征の方が先」と考えているようだが
それなら何故墳墓形態が突然変化して、しかもそれが主流になって広まるのだろうか。
何故支配者であるはずの北九州の土器が1%未満しか出土しないのだろうか。
933 :
日本@名無史さん :04/06/25 10:56
>>931 「大半」は言い過ぎだったな。これは俺のミス。素直に悪かった。
出来れば論拠から省いてくれ。
もうひとつの「北九州の土器が1%未満」ってとこで反論とさせてもらいます。
手間かけさせて悪かったな。
934 :
日本@名無史さん :04/06/25 11:09
>>933 関西説の発言時の虚言・嘘には慣らされてますから
関西説の数字は常に疑われて読まれてるということが判ってくれたらいいですよ。
>>934 ミスを認めて悪かったといってる奴に追い討ちをかけるのはよくないと思いますよ。
仕事がテンパってるのかもしれないが、もう少し余裕持とうや。
>>928 あいかわずですねぇ。まともな応対できないんでしょうか。
もうちょっと説明しましょうか。
前段は「畿内説の苦しい点」としてあげられた事項について、
ただの主観だから反論になってないよ、というお話し。
後段は、
>>989 氏が現在の畿内説側の主張を全く理解していないので、
それについてのコメント。
「普通」という根拠は、過去ログをひっくり返しても、
昨今の畿内説の立場からの出版物(たとえば外出の「王権誕生」ね)を見ても、
『中国四国』が畿内の王権に“恭順”したなんて話はどこにも出てこない、ということ。
で、『対等な連合』が主観かどうかですが、これは、
・各地の要素を持ちながら、日本のどこの墓制とも全く違う新たな首長祭祀の形態が創設されていること
・計画“都市”である纏向の建設には、集落成立前の溝堀の段階から日本各地から人が集まっていること
などの根拠により立論されたれっきとした説なんですね。
というより、これに反対してる考古学研究者がいるという話は、寡聞にしてきかない。
937 :
日本@名無史さん :04/06/25 12:26
>>936 畿内説の出版物を取り上げてを普通と規定してその他(九州説など)は主観なんですか?
畿内説=学会=普通、その他=主観 なんですかね、それ自体が主観だという事を言ってるわけですが・・・
ココは学会ではなくて「その他」がが入り混じっている不特定掲示板ですよ、わかる?
いろんな説が自由に飛び回ってるの、学会の権威だけで
「〜が普通だ!」と虚偽交じりで力説されても説得力無いしつまんないんですが・・・
2chで畿内説が叩かれまくっている理由がわかりましたか?
938 :
日本@名無史さん :04/06/25 12:30
卑弥呼と纏向は、どう考えても無縁だと思うが、なんで畿内説が跋扈してるんだろう。 さっぱりわからないよ。
>>937 文脈の読めない人ですねぇ・・・・・
【畿内説側の考えとして】普通ですが何か?
畿内説側が考えてもいないことを想定して、それに反論しても無意味でしょ?
>>937 そうそう。
あなたは私が
>>926 で書いたことにに対して
>>928 で私の主観であると論難されたわけですが、
これについては畿内説論者一般の考えであり、私の主観ではないということはご理解いただけましたね。