1 :
日本@名無史さん:
歴史上の人物の血筋がどのように受け継がれているのかをさらに考察してみませう。
2
4 :
血統研究所 ◆b0.PHWt3zk :04/04/26 20:58
織田信秀−苗木勘太郎室−武田勝頼室−武田信勝
武田信勝って信秀の曾孫ってことでいいんでしょ?
6 :
日本@名無史さん:04/04/26 21:56
NHKの日本気象協会の半井小絵さんは、典薬頭の丹波家(先祖は国宝「医心方」を編纂した丹波康頼)が和気家(先祖は宇佐八幡宮のお告げを伝えて道鏡を失脚させた和気清麻呂)の養子となって出来た半井(なからい)家のご子孫ですか?という事は丹波哲郎の遠縁?
7 :
日本@名無史さん:04/04/26 23:38
>>6 正しくは、宇佐八幡神のお告げ「天つ日嗣は必ず皇緒(こうちょ)を立てよ」を伝えて道鏡が天皇になるのを阻止した和気清麻呂。
8 :
日本@名無史さん:04/04/27 00:36
9 :
日本@名無史さん:04/04/27 14:33
佐竹義敦・義和の子孫ってまだ続いているか、知りませんか?
幕末の佐竹義堯で全くとぎれたのは知っているんですけど
確か孫かなんかが宇和島の伊達宗徳に嫁いでるんですよ
で、宗徳を調べてみたら子供はたくさんいて、ただ誰の子供かわからない。
10 :
日本@名無史さん:04/04/27 22:46
11 :
日本@名無史さん:04/04/27 23:18
前スレ落ちたね。
栗山利安−栗山利章(大膳)−内山利政−利久−光隆−武英=務(汲川守衛の弟)−栗山光雄(栗山復姓)−龍麿(断絶)
栗山利安は赤松諸流の出で黒田孝高(官兵衛)に仕えた。
栗山利章(大膳)は黒田騒動で知られる。
配流先で生まれた大膳三男の利政は母方の内山姓を名乗り南部家臣となった。
明治に入って栗山姓に復姓したが、龍麿に子が無く栗山家は断絶した。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/681.html 鴎外の「栗山大膳」に脇役で黒田孝高の隠し子が出てる。
12 :
日本@名無史さん:04/04/28 11:46
山県昌景−上村昌久−笹治正時−正次−良次−正方−正香−正昆−正俊−正興−正任−山県牧夫−昌彦
笹治氏は福井松平家の家老を務めた。後に山県復姓。
前のスレの山県昌景関連の転載
172 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/02/11(水) 14:47
山本勘助−略−義質−義方−美礼=義和(義方の弟)=帯刀(義路)=山本五十六
高野秀右衛門−高野貞吉−山本五十六
山本家は長岡藩(牧野家)の家老。武田信玄の臣山本勘助の子が牧野家に仕えたことに始まる
その名跡が途絶えるのを惜しんで高野五十六が家を継いだ
高野秀右衛門は長岡藩の儒学者
山県昌景=太郎右衛門(野沢豊後の子)−惣左衛門−太郎右衛門−沢右衛門=山三郎(沢右衛門の婿)−山県大弐(昌貞)
太郎右衛門は昌景の猶子
どっちも血は繋がってないね
791 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/04/08(木) 18:43
庄内藩・松平武右衛門家
酒井忠次−松平久恒(甚三郎)−久次−久義(武右衛門)=久寛(久義の弟)=久映(久義の子)−久長=久中(酒井吉之丞の子)−久茂−久彰=久継(塚原権平の子、穆堂)
山県昌景−酒井忠次側室−松平久恒(甚三郎)
松平久恒は酒井忠次の四男、母は山県三郎兵衛昌景の娘。
松平(福釜)左馬助親俊の養子となるが、実子が産まれたため実家に戻る。
養父の意向で松平姓を名乗り、家紋は山県家のものを用いた。
子孫は松平甚三郎家、松平武右衛門家、松平舎人家に分かれ、庄内藩酒井家家老を務めた。
13 :
日本@名無史さん:04/04/28 22:19
報道ステーションに出てる細川隆三記者って、熊本の細川家と関係あるのかな?
ぐぐったら細川隆元の孫じゃ?とか出てきたけど。
14 :
日本@名無史さん:04/04/29 11:32
>>8 荒木村重とか佐々成政の子孫って多いけど、一族や家臣が子供と名乗ってるケースもあるんだろうね。
15 :
日本@名無史さん:04/04/29 19:16
>>13 前スレ465と489に細川隆元・隆一郎氏の系図があるよ。纏めると
細川氏長岡内膳家(の一部)
細川忠興─忠隆┬忠恒
└忠春─忠季─忠英─忠昌─忠虎┬忠寿─忠穀(男爵)─忠雄─忠督─和彦
└忠顕─隆虎┬隆志(二男)─隆一郎
└隆元(三男)
1忠隆は忠興の長男、母は明智光秀女玉子(ガラシャ)
関係があるのは確かですが、肥後熊本藩主家との繋がりは、何と初代藩主の細川忠興まで
辿らなくてはなりません。
この忠隆というのは嫡子でありながら当主になれませんでしたが、理由はガラシャ絡みです。
中津藩主時代、忠興が息子忠隆に対し、正室の千代(前田利家七女)を実家に帰すよう要求
しました。傍にいながらガラシャを救うことが出来なかったというのが理由。しかし忠隆は拒否。
前田家などとのコネクションを重視したのでしょう。結果、勘当されたのです。
後に子孫は六千石を分地され長岡内膳家を立ち上げました。
17 :
日本@名無史さん:04/04/30 02:09
>>14 佐々成政は甥や娘婿がみんな成政の養子を名乗ってるもんな。
実際はそんなに沢山、養子にはしてないんだろうけど。
18 :
日本@名無史さん:04/04/30 21:06
19 :
日本@名無史さん:04/04/30 23:34
>>11 さすが森鴎外、「栗山大膳」には感動しました。
文中の「博多(はかた)の町人が浮世又兵衞の屏風(びやうぶ)を持つてゐる」の浮世又兵衞とは荒木村重の子の絵師岩佐又兵衛(1578〜1650)の事です。
岩佐又兵衛は元和2年(1616)ころに京都から北庄に移住し、38歳から59歳のほぼ20年間を越前ですごしています。
福井では、多くの画工を抱え藩主や寺社・豪商の求めに応じて作画活動をするいわば工房を主催しました。
寛永14年(1637)に将軍家の調度品作成のために福井から妻子を残して出府し江戸で没しました。
「栗山大膳」では寛永3年(1626)に十太夫が浮世又兵衞の屏風(びやうぶ)を博多(はかた)の町人から家來を遣つて強奪させていますが、疑問が残ります。
十太夫が直接福井の岩佐又兵衛に同じ絵を描いてくれと注文すれば良かったわけですから。
注文のルートがみつからずその町人に仲介を依頼して断られたとか?
ちなみに岩佐又兵衛の子荒木村光(弥助)は福岡藩主黒田忠之に400石で召し抱えらますが、寛永20年(1643)20歳の時ですので、この事件には無関係です。
松本清張の小説 岩佐又兵衛
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/kwg1840/geitan.html#nazokinsei29
20 :
日本@名無史さん:04/05/01 01:59
>>18 貞明皇后から辿ってみた。
この「母方の曾祖母」に該当する、鷹司姓を名乗った貞明皇后の従姉妹は二人。
一人は鷹司熙通侯爵の娘、房子。
もう一人は松園尚嘉子爵の娘で、鷹司熙通侯爵の養女になった晃子。
系図にすると
九条尚忠┬九条道孝(公爵)─貞明皇后節子
├松園尚嘉(子爵)─晃子(曽我祐邦夫人)
│ ↓
└鷹司熙通(侯爵)┬=晃子
└房子(上杉憲章伯爵夫人)
房子は伯爵夫人だから多分違うだろう。
晃子は曽我子爵家に嫁いだのか?ならばこちらであろうが・・・
これ以上は手元に資料が無いので判らん。すまん。
21 :
日本@名無史さん:04/05/01 02:48
>>18 >>20 たぶんこんな感じじゃないですかね。
九条尚忠−松園尚嘉−曾我晃子(鷹司熙通養女)−友田某室−鳥取二三子−高円宮妃久子
九条尚忠−九条道孝−貞明皇后節子−三笠宮崇仁親王−高円宮憲仁親王
曾我祐興−曾我祐準(子爵)−曾我祐邦−友田某室−鳥取二三子−高円宮妃久子
曾我家は旧柳川藩士で祐準の代に子爵。
高円宮妃の外祖父母(友田氏)の名前は知りません。
九条尚忠は幕末の関白で、高円宮家はご夫妻とも尚忠の血を引いています。
22 :
日本@名無史さん:04/05/01 03:57
鷹司熙通侯爵 ×
鷹司熙通公爵 ○
ケアレスミスとは言い難い
>>20
23 :
日本@名無史さん:04/05/01 08:53
ちんちんまんまん最強伝説
24 :
日本@名無史さん:04/05/01 10:17
タカマドの奥さんの母方の家系なんか調べて何の意味があるのだw
25 :
日本@名無史さん:04/05/01 11:17
松園家って九条家の分家で男爵だったと思います。鵜殿家なんかも九条の分家ですね。
分家で爵位をもらってるのはだいたい男爵です。
26 :
日本@名無史さん:04/05/01 11:38
>>17 妹の息子ってのは前スレで見たけど他にも居たっけ?<養子
27 :
日本@名無史さん:04/05/01 11:50
分家でしかも女系の女系じゃ、摂関家の子孫なんて言えないな>タカマド妻
28 :
日本@名無史さん:04/05/01 14:05
>>20-21 どうもありがとです。それだと曾祖母が鷹司で貞明皇后の従姉妹。祖母が子爵家でぴったりです。
29 :
日本@名無史さん:04/05/01 14:20
ていうか、明らかに鳥取さんと友田さんの遺伝子が濃厚なわけで、
鷹司の血なんて微々たるもんじゃん。
その程度のつながりで摂関家の親族っていうのもねえ。
30 :
日本@名無史さん:04/05/01 17:27
31 :
日本@名無史さん:04/05/01 21:28
>>30 例の「お公家さんの子孫には、作家、舞踏家、研究者…など一人で活躍される方が多いのに、
大名の子孫にはあまり見当たらないのです」って本
上杉家だけで科学者、指揮者が居るのにね。あと上杉は画家になった人も居るね。
有馬頼義一人だけでも十分活躍してると思うのだが>華族作家
33 :
日本@名無史さん:04/05/01 23:04
34 :
日本@名無史さん:04/05/01 23:23
公家で有名なのって誰?
35 :
日本@名無史さん:04/05/01 23:26
>>33 追加
大河内正敏(おおこうち まさとし)(1878〜1952)
三河吉田藩(豊橋藩/7万石)元藩主家の当主、子爵。科学者、企業経営者。
この家は長沢松平家嫡流の断絶後、大河内正網、信頼らが入って名跡を嗣いだ家。
特に信網は第3代将軍・ 家光に重用されて老中となり、「知恵伊豆」と呼ばれたことで名高い。
維新後、松平から、大河内に復姓・ 正敏は一族の上総大喜多藩主・大河内家からの養子で、東京帝国大学造船学科を卒業後、工学博士号を 取得。
母校の教授となり、造兵学を講じた。
また、理化学研究所を創設して、これを基幹とする 「理研コンツェルン」を短期間に巨大な新興財閥に成長させ、同時に数多くの科学者を育てた。
のちには、 海軍省参事官、軍需省顧問等の軍事関係の要職や、貴族院議員にも就任している。
36 :
日本@名無史さん:04/05/01 23:53
37 :
日本@名無史さん:04/05/02 00:13
>>34 近衛秀麿(音楽家)・武者小路実篤(作家)・中條百合子(作家)
ってスレの趣旨からずれそうなのでこの辺にしておく(w
38 :
日本@名無史さん:04/05/02 00:23
佐竹家中だった徳川氏の系譜と有名な松平郷の「徳阿弥」とかいう人の主張していた
先祖って、どの辺で結びつくのか分かる人いませんか?
少々の本を見ても載っていなかったりするので。
39 :
日本@名無史さん:04/05/02 18:06
六角義治の子孫って続いてるの?高家の六角家って関係ないんでしょ?旗本にはなってないのかな。
40 :
日本@名無史さん:04/05/03 01:16
スケートの八木沼純子って松方正義の子孫だってね。
41 :
日本@名無史さん:04/05/03 13:05
>>37 中條百合子は佐倉藩士族西村茂樹の娘と建築家の中條某の子供で華族ではない。
42 :
日本@名無史さん:04/05/03 13:55
中條百合子の実家って米沢上杉家の家老でしょ?
他にも同姓同名の
43 :
日本@名無史さん:04/05/03 13:57
44 :
日本@名無史さん:04/05/03 14:29
簿簿
中条何とかって名前の武将「信長の野望」にもいたな。
中條資種のこと?
景資とかな
49 :
日本@名無史さん:04/05/03 21:33
51 :
日本@名無史さん:04/05/04 14:26
>>39 >>49 六角義賢−義治=定治(婿養子)−定之−定賢−定明−定国−定則−定正−定舒
佐々木定舒の代で明治を迎えている。
52 :
日本@名無史さん:04/05/04 22:31
秋月種実−秋月種長−秋月種貞室−秋月種春−秋月種信−秋月種封−松浦信秀−平塚為善室−於萬の方−溶姫−前田慶寧−近衛衍子−近衛文麿−細川温子−細川護熙
松浦隆信−松浦鎮信−松浦久信−松浦隆信−秋月種信室−秋月種封−松浦信秀−平塚為善室−於萬の方−溶姫−前田慶寧−近衛衍子−近衛文麿−細川温子−細川護熙
有馬晴純−大村純忠−松浦久信室−松浦隆信−秋月種信室−秋月種封−松浦信秀−平塚為善室−於萬の方−溶姫−前田慶寧−近衛衍子−近衛文麿−細川温子−細川護熙
まだ九州の大名で繋がってないのは宗氏、伊東氏ぐらい?他にあったっけ?
ふーん。
俺も秋月の血が混じっているので上記の三大名の子孫でもあるのだが
徳川溶姫に秋月種封の血が入っているというのは初めて知ったよ。
>>54 すんません。まちがえちゃった。淑姫と勘違いしちゃったです。
溶姫の母の出自に関してはこんなのを見つけますた。
http://www2.u-netsurf.ne.jp/~s-juku/fieldhockey5_2moneburarin.html 溶姫の母お万の方は家斉後年の寵姫で家斉41歳の時に溶姫、更に43歳、45歳の時に2姫をあげている。
絶世の美人で、その容貌をもって家斉の鼻の下の寸法を随分引き伸ばした。側室にあがる前は中野播磨守清茂養女とあるが、
武士の家の子ではない。中山法華経寺派の堕落坊主日啓の破戒の産物としてこの世に生まれてきたようである。
中野清茂の屋敷に奉公に出ることとなったが、家斉の寵臣であった清茂はさらに思し召しを得るべく、新参の奉公人の器量に着眼、
自身の養女に仕立て上げ、千代田の大奥に差し出すこととした。好色将軍家斉を釣るにはまたとない餌で、まんまと成功、
これが中野の出世に繋がったのみならず、親爺日啓のその後の開運にをも大きく役立つこととなった。
58 :
日本@名無史さん:04/05/05 12:46
>>51 20 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/01/04(日) 23:34
義定の系統が青地氏をついで、これも加賀藩士だった気がする。←この青地氏の系譜わかりますか?
59 :
日本@名無史さん:04/05/05 14:17
現存する豊臣氏の血統
木下弥右衛門━瑞龍院━豊臣秀勝━豊臣完子━九条道房━逸姫━浅野綱長━吉長━
宗恒━重晟━斎賢━斎粛━慶熾=長訓=長勲
長訓は、七代浅野重晟の四男浅野右京長懋(ながとし)の九男
長勲は、七代浅野重晟の四男浅野右京長懋(ながとし)の八男浅野式部懋昭(としてる)の長男
60 :
日本@名無史さん:04/05/05 21:43
豊臣完子さんは豊臣家の血をなんとか残して偉いねぇ。
61 :
日本@名無史さん:04/05/05 22:57
日本人種の血統の純度がいかにも低いように見せかける三国人の工作が
2chには頻繁に見られるが、世界中、純粋な人種などは極めて少ない事など
は当然ある。
問題なのはその純度であり、日本人は、中国人や朝鮮人などと比べて、
極めて純度の高い北方モンゴロイドである事をgm遺伝子が証明している。
日本人種は、純度の高い北方モンゴロイドであり、コーカソイドと
分かれた頃の古モンゴロイド形質を残しているという世界でも珍しい
とても貴重な人種。
世界の宝たる日本人種の血統を絶対に汚してはいけない。
http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg
62 :
日本@名無史さん:04/05/05 23:25
ウィキペディアに出てた
秀頼の遺児国松は、同じ1615年(慶長二十年)五月二三日(グレゴリオ暦1615年6月19日)、徳川氏の手によって殺され、ここに秀吉の興した豊臣氏は滅亡した。
なお、国松は薩摩に逃れて島津家にかくまわれ、豊後国日出藩木下家の分家である交代寄合木下家の祖、木下延次になったのであるという異説がある。その子孫は現在豊臣の姓を名乗っているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
63 :
日本@名無史さん:04/05/05 23:57
64 :
日本@名無史さん:04/05/05 23:59
>>62 >その子孫は現在豊臣の姓を名乗っているという。
つーか、交代寄合家に限らず、北政所つながりの木下家ってみんな豊臣姓でしょ。
65 :
日本@名無史さん:04/05/06 00:38
今現在のミヨジが豊臣ってことじゃないの?
66 :
日本@名無史さん:04/05/06 01:00
>65
>立石木下家は11代俊清の時に明治を迎えますが、12代俊明(俊)が大正五年に
>没し、彼の代で同家は断絶したと同書には書いてありましたので私もそう思っ
>ていましたが、『旅とルーツ』第78号によると御子孫がいるという話で、
>現在は豊臣姓を名乗っておられると書いてありました。
たしかに63で紹介のサイトに書いてあるね。だけど、この文章読んで
大垣ニセ有栖川の由来説明を思い出すのよね。そっくりなんで。
67 :
日本@名無史さん:04/05/06 01:44
有栖川もいろいろ研究したんだろうな
68 :
日本@名無史さん:04/05/06 21:06
足利家(平島公方)
足利尊氏−義詮−義満−義教−政知−義澄−義冬−義助−義種−義次−義辰−義武−義宣−義根−義俊−義孝−義廉−進悟
69 :
日本@名無史さん:04/05/07 04:19
>>19 荒木村重の謀反を描いた、遠藤周作の「反逆」に村重の遺児が絵師になったって話が出てました。
あと村重が一族郎党を見殺しにしたのを恥じて、道糞(みちばたの犬のふん)と名乗ったって話も。
70 :
日本@名無史さん:04/05/07 20:58
71 :
日本@名無史さん:04/05/07 21:46
586 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/03/14(日) 13:41
真田昌幸−真田幸村−顕性院(岩城宣隆室)−岩城重隆(亀田藩主)−岩城景隆−岩城秀隆
豊臣秀次−隆清院(真田幸村側室)−顕性院(岩城宣隆側室)−岩城重隆(亀田藩主)−岩城景隆−岩城秀隆
↑
この岩城の血筋もどっかに残ってるんじゃ。一応豊臣家の血入ってるけど。
72 :
日本@名無史さん:04/05/07 22:14
>68
足利も健在ですか
臣戚降下したとはいえこの家も
皇統の一つですね。
皇統は不滅です
73 :
日本@名無史さん:04/05/07 22:17
正統源氏頼光流の子孫の方は
健在でしょうか?
74 :
日本@名無史さん:04/05/08 00:43
石田三成ー岡重政室ーお振の方(徳川家光側室)ー徳川光友室ー徳川綱誠ー宗春=宗勝ー宗睦=斉朝=斉温=斉荘=慶臧=慶勝=茂徳=義宜
75 :
日本@名無史さん:04/05/08 18:10
>>39 高家の六角は、公家の烏丸光広の次男広賢に始まる家で藤原氏。
76 :
日本@名無史さん:04/05/08 23:26
>>73 美濃守護の土岐頼芸の子孫は、頼芸嫡男の頼次の家と四男頼元の家が高家として残った。
頼次の子孫は、泥酔して市中で刃傷沙汰を起こし改易断絶。頼元の子孫は続いてるんじゃないの。
77 :
日本@名無史さん:04/05/09 15:08
某アーカイブにある画像ファイルって見れないのかね。昔、紀州藩、西条藩、宇和島藩等の藩士系譜を掲載されてたサイトが書庫にあるけど、
肝心の系図がGIFなんだよね。
78 :
日本@名無史さん:04/05/09 20:12
>58
加賀藩士青地家
元珍=等定(佐々木高定の四男)=定政(本多朝政の子)−斎賢−蕃宣−愛親=親久(伊藤適の二男)=順信(伴某の子)−順行−順次
元珍=等定=定政−礼幹−忠愛=基時(佐藤治兵衛の二男)−基明=基治(順行の弟)
80 :
日本@名無史さん:04/05/10 14:55
>>78 畠山飛騨守義宣は能登畠山家、畠山左衛門基利は管領家の出。
81 :
日本@名無史さん:04/05/10 17:37
test
82 :
日本@名無史さん:04/05/10 20:57
>>79 青地等定の六角氏との関係
蒲生定秀−青地茂綱−青地光綱(元珍)
青地茂綱は蒲生氏郷の叔父
六角義賢−佐々木承漢(大原高定)−青地等定(光綱の婿養子)
83 :
日本@名無史さん:04/05/10 23:27
>>78 高家の前田は押小路家と高辻家の分家。
戸田家は六条家の分家。有馬家は久我家の分家。
84 :
日本@名無史さん:04/05/11 20:47
>>78 畠山左衛門基利は↓の系統
政長─尚順─政国─政頼─貞政─政信(高家に)─基玄…
85 :
日本@名無史さん:04/05/12 00:25
>>78 吉良中務義房は蒔田吉良氏。東条吉良氏は断絶しちゃったのかね?
86 :
日本@名無史さん:04/05/12 12:49
島勝猛(左近)−柳生利厳(兵庫助)室−柳生厳包(連也斎)
87 :
日本@名無史さん:04/05/12 20:10
>>79 加賀藩士の跡目相続で実子が継ぐ割合は58%。弟や甥、従兄弟が継ぐのが7%。血を繋ぐのも大変。
88 :
日本@名無史さん:04/05/12 20:21
>85
おそらく。江戸時代前に。
あるいは東条城前の畑耕してる
じいさんは子孫かも。
89 :
日本@名無史さん:04/05/12 21:50
モー。加護は公家の末裔
90 :
日本@名無史さん:04/05/13 01:21
>>90 今の津軽家って藩祖の血がどっかから入ってるんですかね。養子続きだけど。
93 :
日本@名無史さん:04/05/13 19:49
>>90 喪主ってだれがやるのかね。娘は全員他家に嫁いでるはず。孫娘がホークスの中内オーナーの嫁だよ。
94 :
日本@名無史さん:04/05/13 19:54
>>93 URL読んだ?
「喪主は久子さんの子で津軽家当主の晋(しん)さん。」
95 :
日本@名無史さん:04/05/13 21:00
津軽晋さんって誰の子供なんだろうね。久子さんの実子ではないよね。
娘が嫁いでる家から養子を取ったのかな。高野家とか。
96 :
日本@名無史さん:04/05/14 09:12
>>91 藩祖津軽為信と現当主の津軽晋さんは血縁関係はないです。
津軽為信の血の繋がった男系子孫は他家に居ます。
97 :
日本@名無史さん:04/05/14 15:56
98 :
日本@名無史さん:04/05/15 14:36
>>96 亀井とか真田、宇和島伊達なんかも藩祖の子孫は他家にいるよ。
99 :
日本@名無史さん:04/05/15 15:34
華族の子孫ネタはキモイ。
ていうか、華族ヲタって30過ぎた無職童貞パラサイトが大半を占めることは
オマエらが一番よく知っているだろ。社会を構成するピラミッドで言うなら
底辺も底辺、土方かチンピラ(価値観もそんなモンだろ)。
一般の社会に出てきてないで自分たちの第三世界で派閥争いでもやってろや。
100 :
日本@名無史さん:04/05/15 15:37
口は悪いがそのとおりだな。
口が悪いが。
102 :
日本@名無史さん:04/05/15 16:11
>>98 松代藩士の中に真田信之の男系子孫が居るのかな?
103 :
日本@名無史さん:04/05/15 21:26
たしか真田勘解由家があったよね。旗本→松代藩士の。
104 :
日本@名無史さん:04/05/15 22:08
自民党の亀井静香と津和野藩主家の子孫の亀井久興は先祖が同じなんですって。しってましたか
遠い先祖が共通だったかもしれないが、普通の意味での一族ではないでしょう。
106 :
日本@名無史さん:04/05/15 23:53
津和野藩主亀井家初代の慈矩と亀井静香の先祖吉助は兄弟だから元はおなじ。片方は江戸時代殿様となり片方は農民となった。うそだとおもうなら亀井吉助で検索してみな
いや、そういうのは「普通」は「一族」とは言わないんでは?
津和野藩の一門ならともかく、江戸時代以前に分かれて農民になったんじゃねw
そもそも、その家系伝承が事実かどうかも怪しいわけだし。
108 :
日本@名無史さん:04/05/16 18:27
109 :
日本@名無史さん:04/05/17 03:41
>>91 津軽義孝氏は尾張徳川家分家からの養子で、その血筋は水戸徳川→高須松平→尾張徳川→尾張分家
この系統には津軽為信の血は入っていないんじゃないかな。
110 :
日本@名無史さん:04/05/17 18:36
111 :
日本@名無史さん:04/05/17 23:39
立石木下(羽柴)家は、子孫が続いてるんですかね?豊臣は姓であり、現在豊臣を名乗っておられるなら、これは苗字の豊臣であり、違和感があるが・・・。
たとえフィクションの家伝だとしても、明治維新後、日出・足守両木下氏が、豊国神社を明治政府公認で復活したのを考えても、江戸時代を通し、両家及び立石家には、それなりの複雑な感慨があったのでは。
ニセ有栖川と一緒にするのは、酷だ。 但し、立石家の子孫なら、羽柴を名乗っている方が自然ですね。
112 :
日本@名無史さん:04/05/18 16:35
113 :
日本@名無史さん:04/05/18 23:27
))112 なるほど。立石木下家自体は、この俊明氏で断絶か?女子の血統は残ると見た。
見れば、その間(江戸期)も女子の血筋はたくさん出ているし、養子に入った男子もある。
これらが、のち豊臣を名乗ってるのかもしれない。
114 :
日本@名無史さん:04/05/18 23:33
庶流が勝手に豊臣を名乗っただけか
115 :
日本@名無史さん:04/05/18 23:37
))114
そんな気もします。
116 :
日本@名無史さん:04/05/19 04:05
117 :
日本@名無史さん:04/05/19 20:39
118 :
日本@名無史さん:04/05/20 01:23
前スレより
572 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/03/13(土) 15:43
赤穂藩五代藩主の森忠洪の血筋がわからん。
父親の家老森縫殿正典って何処の家の人なんや?
とりあえず、赤穂藩主、三日月藩主、新見藩主の系図と森主税家、森続之丞家、
家老各務家、森次郎家、森才兵衛家、森半十郎家、森左兵衛家の系図も見たが判らんかった。
597 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/03/15(月) 18:57
>>572 森忠政−関成次室−森正方室−森某−森正典−森忠洪(赤穂藩5代)
こんな感じで繋がるんじゃないかな、あんまり自信ないけど…
↑の某の名前が判ったので補足
森所左衛門正方−森兵右エ門−森門十郎正典
うひゃひゃ
120 :
日本@名無史さん:04/05/20 21:36
121 :
日本@名無史さん:04/05/21 03:42
高橋鎮種−立花種次−立花種明−立花貫長−立花長煕−立花種周−立花種道−加納久宣−麻生夏子−麻生太賀吉−麻生太郎
122 :
日本@名無史さん:04/05/21 04:11
>>109 津軽って本家(伯爵)も分家(男爵)も細川家の血が入ってるね。
細川立之−細川斉護−津軽承昭−津軽寛子−津軽義孝
細川立之−細川行芬−細川行眞−津軽行雅−津軽承靖
日本で血統といえば男子血統だろう。
女子で血が繋がっていてもそれは血統とは言わない。
124 :
日本@名無史さん:04/05/21 16:44
>123
日本史板の血統スレにいってみ、勉強になるから
125 :
日本@名無史さん:04/05/21 17:26
女系オタ必死だなw
126 :
日本@名無史さん:04/05/21 17:31
昔は政略結婚が多かったから、女系でつながってることなど珍しくもない。
それより、養子で意外なところに意外な人物の男系子孫が残ってることの方が
スレの趣旨にふさわしい。
127 :
日本@名無史さん:04/05/21 17:58
>>123 広辞苑には血統について「血のつながり」と書いてるので男系、女系は関係ないですな。
74 :日本@名無史さん :04/05/08 00:43
石田三成ー岡重政室ーお振の方(徳川家光側室)ー徳川光友室ー徳川綱誠ー宗春=宗勝ー宗睦=斉朝=斉温=斉荘=慶臧=慶勝=茂徳=義宜
前スレにも有りましたが、お振の方を岡重政の娘とするのは兎も角、三成の孫娘とするには無理が有るのでは無いでしょうか?
1.岡重政は蒲生家の重臣で活躍年代からすると1580年以前の生まれと考えられる。
2.お振の方の生年は未詳ですが、娘の千代姫は1637年誕生なので、1620年頃生まれと思われる。
3.岡重政が三成の婿となったのは関ヶ原以前と考えられるので、三成の娘も80年代の生まれと思われる。
以上の3点から考えると三成の娘は1620年には30代後半となり、不可能では無いが無理が有るのでは無いでしょうか。
もし、お振の方が三成の血を引く可能性が有るとすれば、異説で父とされる岡吉右衛門が重政の息子であり、石田氏腹の場合だけでは
無いでしょうか?
※春日局の側近祖心尼がお振の方の祖母という話があるようですが、どこに絡んでくるのかな・・重政か吉右衛門の姑?
事実誤認など有りましたら指摘していただけると有り難いです。
以上長文失礼しました。
>>128 たしか「徳川実記」には重政の息子と祖心尼の娘の間の子とあったような<お振の方
前スレより
557 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/03/11(木) 18:39
祖心尼は将軍家光に仕えた尼僧で血縁関係は以下のとおり
稲葉通則−稲葉一鉄−稲葉重通−牧村利貞(外祖父牧村助定養子)−祖心尼(前田直知室、後に町野幸和室)
牧村利貞は利休七哲の一人、キリシタン大名
祖心尼−岡吉右衛門室(父は町野幸和)−お振の方(徳川家光側室)−千代姫(徳川光友室)−徳川綱誠(尾張藩主)
岡重政−岡吉右衛門−お振の方(徳川家光側室)
稲葉通則−稲葉一鉄−稲葉重通=稲葉正成(正室は春日局)−正勝(母は春日局、小田原藩主)
稲葉通則−稲葉通明−斎藤利三室−お福(春日局)
芳春院(お松、前田利家室)−幸(前田長種室)−前田直知(加賀藩家老)−前田直正(母は祖心尼)−前田考貞
祖心尼の養子として前田直知の孫直良が旗本牧村家を継いでいる
前田長種−前田直知−前田直成(母は祖心尼)−牧村直良(祖母の名跡を継ぐ)
祖心尼の墓には孫前田考貞修造と刻まれている
関連
>>19 >>392 558 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/03/11(木) 18:57
祖心尼は姑の幸(前田長種室)と折り合いが悪く、前田直知と離別することになった。
再婚相手の町野幸和は蒲生家の家臣。
お振の方(徳川家光側室、祖心尼孫)の祖父岡重政も蒲生家の同僚だった。
祖心尼の父牧村利貞と蒲生氏郷は共に千利休の弟子で、氏郷をキリスト教に勧誘したのは利貞。
じゃあ、やっぱりお振の方は重政の孫娘なのですね。
そうすると残る問題は吉右衛門の母が三成の娘かどうかですが、どなたかご存じな方はおられないでしょうか
131 :
日本@名無史さん:04/05/21 20:33
>>128 引用している尾張家の系図は養子だらけでズタズタに寸断されている。
三成の血統など、途中で完全に途切れているのに幕末の藩主まで書く必要があるのか?
132 :
日本@名無史さん:04/05/21 20:51
俺も
>>128みたいなのはまったく無意味だと思う。
血統スレなのだから女系でもなんでも繋がってればオッケーだと
思ってるけどね。
133 :
日本@名無史さん:04/05/21 21:59
>>130 三成の長女が岡重政に嫁いで吉右衛門を産んだって話をなにかで読んだんだけど、何だったかな。「石田三成のすべて」だったかな。
>>132 >>74と
>>128とは別人なんじゃない?ただ三成とお振の方の関係が知りたかったんじゃないの?
134 :
日本@名無史さん:04/05/22 00:40
74さんとは別ですよ。
もとのレスをコピーしただけなのであしからず。
三成とお振の方が繋がれば元総理まで繋がるので気になったのです。
136 :
日本@名無史さん:04/05/22 11:04
137 :
日本@名無史さん:04/05/22 20:20
赤井悪右衛門キター
138 :
日本@名無史さん:04/05/22 21:06
伊達政宗ー忠宗ー綱宗ー綱村ー吉村ー綱村ー堀田正敦ー正衡ー北条氏恭
堀田正敦は、伊達宗村の八男
北条氏恭は、堀田正衡の三男
139 :
日本@名無史さん:04/05/22 21:37
伊達政宗ー忠宗ー綱宗ー宗贇ー村年ー村侯ー宗紀ー松平忠淳
松平忠淳は島原藩主
140 :
日本@名無史さん:04/05/22 21:42
伊達宗村ー堀田正敦ー毛利元世
(清末藩主)
141 :
日本@名無史さん:04/05/22 21:49
>>138-140 こういう書き込みを待っていた。
伊達の男系子孫が北条くんや毛利くんになってるみたいなネタね。
142 :
日本@名無史さん:04/05/22 22:40
》132
左様。血統は男女関係なく続いているといえる。
男系が問題とされるは、「家」という概念に立つ時だ。特に武家は家の考えが強い。
男系が絶えれば、その家は断絶となる。
たとえ、血がつながらなくても、養子を迎えれば、その家は、続く。家紋も、家宝も継承される。
それはやむを得ぬ場合で、出来れば血を繋げたいからその養子に娘(女子)を娶わせる。
そこに血統の意識が確実に働いている。
143 :
日本@名無史さん:04/05/22 22:51
だから女系で続いてるなんてネタは珍しくもないから、もういいよ。
それより意外なところに意外な人物の男系子孫がいるってネタの方が面白い。
144 :
日本@名無史さん:04/05/22 22:59
男系だろうが女系だろうが好きに書けば良いじゃん。スレ主も変な制約はしたくないって言ってたっしょ。
大名の系図を見ていて思うことがある。
確かに「血」を受け継がせるという意識は強いけれど、それ以上に
「家族」を繋げていきたいという意識のほうが強い感じがする。
藩主家の場合、実際には男の子がいるにも拘わらず娘婿や小舅
に継がせるというケースも多い。藩主の場合は継ぐべき者が年齢
と能力を持っていなければダメということもあるし、また血統大事と
分家から迎え入れるのも、分家同士の勢力争いが既に在れば忌
避されるということもある。また、血縁の無い者でも迎え入れるこ
とがあるが、これには二つ三つ、特別な理由がある。
藩主の場合はまた特別なのかもしれないけれど、その他の家でも、
縁がなかったら敢えて迎え入れようとする感じはない。武家に限っ
たことではないだろうが、血縁は「できるならば」繋げたいという考
え方なのだろうと思う。
146 :
日本@名無史さん:04/05/23 00:09
>藩主家の場合、実際には男の子がいるにも拘わらず娘婿や小舅
に継がせるというケースも多い。
男子がいるのに娘婿に継がせるなんていう例が多いなんて言えないでしょう?
娘婿がいても男子に継がせた(ごくごく当たり前の)ケースがその何十・何百倍も
あることを無視して、例外的なケースをもって「多い」と言ってしまうのは
いかがなものかと思う。
147 :
日本@名無史さん:04/05/23 02:25
伊達宗城ー松平信廣ー松平信鑰 小島藩
伊達宗城ー蒔田廣城ー蒔田廣靖━━蒔田光弘 浅尾藩
伊達宗徳ー丹羽長徳ー丹羽孝一━━丹羽長聡 二本松藩
148 :
日本@名無史さん:04/05/23 02:42
徳川吉宗ー田安宗武ー松平定信ー松平定永ー板倉勝静
伊達絡みで姓が変わるシリーズだったらこの辺が面白いと思うけど・・
伊達政宗ー伊達忠宗ー伊達綱宗ー伊達宗贄ー伊達村年ー青木一貫ー設楽貞喬ー設楽貞丈ー岩瀬忠震
伊達政宗ー伊達忠宗ー伊達綱宗ー伊達宗贄ー伊達村年ー伊達村候ー山口直清ー山口直勝ー伊達宗城ー眞田幸民ー清棲幸保
伊達政宗ー伊達忠宗ー伊達綱宗ー伊達宗贄ー伊達村年ー伊達村候ー伊達村壽ー伊達宗紀ー伊達宗コー二荒芳コー二荒芳忠
150 :
日本@名無史さん:04/05/23 21:16
>>108 加賀の真田勘解由と松代の真田勘解由は別人です。
真田信之の孫が旗本になって真田勘解由家を興したんです。その後不祥事で除封となり松代藩士になったようです。
御子孫の方が本を出版されてます。
151 :
日本@名無史さん:04/05/23 21:35
岩瀬忠震が伊達政宗の男系子孫だったとは意外だった。
152 :
日本@名無史さん:04/05/23 21:39
>149
伊達の子孫 藩主の座 乗っ取り過ぎ
そのくせ宇和島藩に家斉の子を養子に迎えるのは拒否して、貧乏旗本の子を養子に迎えるのだが
154 :
日本@名無史さん:04/05/24 19:19
>152
藩主の時に乗っ取った家は11家(備中浅尾蒔田家は含まず)で、現当主が伊達の男子血統なのは3家(蒔田家は含まず)。
廃藩後に乗っ取った家は6家(蒔田家含む、田沼家は含まず)で、現当主が伊達の男子血統なのは4家(蒔田家含む)。
備中浅尾蒔田家は、交代寄合旗本時代に一度、伊達の男子血統が入った事があるが、大名時代は別の男子血統。
155 :
日本@名無史さん:04/05/24 20:43
>>118 森兵右衛門は、森所左衛門正方の実子ではないようですよ。各務家から養子に入ったみたいです。
156 :
日本@名無史さん:04/05/25 00:57
森兵右衛門の実父は家老の各務利峯。
各務家からは三代藩主の長生、四代の政房を出してます。
157 :
日本@名無史さん:04/05/25 05:23
結果的に伊達家が乗っ取った大名家の石高をあわせるとどのくらいになるんだろう?
158 :
日本@名無史さん:04/05/25 10:17
>>157 乗っ取った年代が違うが、のべ43万4千石。
同時期に伊達の男子血統藩主が存在した最大時(1861〜1869)で23万6千石
これに仙台、一関、宇和島、吉田を加えると、最大時101万6千石。
血統的に見ると、幕末になってやっと百万石のお墨付きが実現しているという皮肉な結果になってます。
159 :
日本@名無史さん:04/05/25 11:04
>>156 各務利峯ってたしか母親が森一族出身だったと思う。その辺から森家の血と繋がってるけど、兵右衛門の母親って誰なんだろ?もっと藩主家に近い血が入ってると思うんだが。
160 :
日本@名無史さん:04/05/25 19:22
近衛文麿夫人の父親、毛利高範子爵の実父って誰?系図では旧佐伯藩主、毛利高謙の養子になってるけど。
161 :
日本@名無史さん:04/05/26 00:42
>>160 毛利高範(1867-1939)
肥後宇土藩主 細川行眞の次男。佐伯藩主 毛利高謙の養子。
元首相は母方からも宇土藩細川家の血が入ってるのです。
細川立之−細川行芬−細川行眞−毛利高範−近衛千代子−細川温子−細川護熙
細川立之−細川斉護−細川護久−細川護立−細川護貞−細川護熙
ちなみに斉護と行芬は同母兄弟。
毛利高範は毛利式速記術の考案者で、
>>122の津軽行雅は実弟
163 :
日本@名無史さん:04/05/27 01:05
>>118 >>159 森忠洪の母親も森氏となってるので(三百藩藩主人名辞典)、たぶん家臣の森家の娘なんじゃないかな。
164 :
日本@名無史さん:04/05/28 01:07
越中神保氏って滅んじゃったんですか?子孫っているの?
165 :
日本@名無史さん:04/05/28 17:49
古代の名門大伴氏って滅んじゃったんですか?伴善男の子孫っているの?
166 :
日本@名無史さん:04/05/29 00:34
>>164 旗本になった神保家
神保春茂−相茂−茂明−元茂−茂映−茂清−茂済−茂常−茂宣=相徳−某
神保春茂は豊臣秀長家臣
神保相徳は陸軍奉行、大目付
167 :
日本@名無史さん:04/05/29 10:04
168 :
日本@名無史さん:04/05/29 11:45
神保春茂は紀州出身なのだが、ももちろん越中の神保氏の子孫。
越中守護代の神保長誠が紀州守護代を務めていた時に輩出した庶子の系統。
169 :
日本@名無史さん:04/05/29 12:57
幕末の会津藩士の神保内蔵助、修理親子も越中神保氏の流れだそうだ。
170 :
日本@名無史さん:04/05/29 20:31
171 :
日本@名無史さん:04/05/30 01:17
神保相茂さん(享年34歳)が、ダーティ政宗にぬっ殺された件は触れないのでつか
172 :
日本@名無史さん:04/05/30 10:45
>>156 >>159 姓氏辞典の「各務氏」の項に、四郎兵衛、喧嘩、身上召し上げ。孫三右衛門、召し出され二千石。四郎兵衛・森伊勢守實方の先祖なり。って書いてありました。
四郎兵衛は同僚と私闘のうえ自刃した「各務元峯」。孫三右衛門は「各務正直」だと思うのですが、森伊勢守實方は誰なんでしょう?
あと「各務利峯」と「各務利正」って同一人物ですよね?親子としている資料もあるけど。
173 :
日本@名無史さん:04/05/30 11:03
繋がりはこんな感じですかね
各務四郎兵衛元峯−各務四良右衛門利峯(利正)−各務三右衛門正直=各務伊織利直−森長生(赤穂藩三代)
各務四郎兵衛元峯−各務四良右衛門利峯−森兵右衛門−森門十郎正典−森忠洪(赤穂藩五代)
174 :
日本@名無史さん:04/05/30 13:06
会津藩の保科正之の男系子孫は、どこかに残っていないでしょうか。
藩主としては容衆で絶えたけれど、ひところは分家もあったはず。
他の大名家には養子はなさそうだが、藩士の家系にはないのかな。
175 :
日本@名無史さん:04/05/30 20:15
>174
男系では続いてないと思います。家臣に養子に出た子供も夭折してます。
正之から容衆まで、隠し子がいた藩主の話も聞いた事ないです。
ちなみに松平容保には隠し子が居たようですが、容保は正之の血筋ではないですし。
177 :
日本@名無史さん:04/05/31 02:57
>>166 どうもありがとうございます。この家ですか、神保町の由来って?
181 :
日本@名無史さん:04/05/31 10:52
「藩史大辞典」に掲載されてる赤穂藩主系図では、森忠洪は各務利直の七男となってた。
「寛政譜」の記述と違ってたので、紹介しておく。
183 :
日本@名無史さん:04/05/31 22:50
森兵右衛門の名前はわからないの?
184 :
日本@名無史さん:04/06/01 19:14
185 :
日本@名無史さん:04/06/02 00:10
333 名前: 日木@名無史さん 投稿日: 2001/05/28(月) 01:33
長谷川秀一の次男、瀬兵衛吉左衛門の子孫が、幕末に水戸家から一橋家
の家来になり、徳川慶喜、茂承らに仕えた。慶応四年の彰義隊に参加した
長谷川正助の子孫が、なんと安達(長谷川)祐実なんだって!
安達祐実の母親が「おしゃれカンケイ」その他でいうてた。
滅亡・改易大名家のその後 過去ログより
長谷川秀一から正助までの系図ってわかりますか?
>185
途中までなら茨城県立図書館で「水府系纂」を調べれば分かると思う。
コピー不可なので誰か手書きで複写を(^^;)
187 :
日本@名無史さん:04/06/02 22:09
長谷川吉左衛門って尾張藩に仕えたそうだけど子孫は水戸藩に移ってたんだね。
>>179 こんな感じで子孫が大名になってまつね
神保元茂(旗本)−板倉重同(安中藩)−板倉勝清−板倉勝意−板倉勝尚−板倉勝殷
神保元茂(旗本)−板倉重同(安中藩)−板倉勝清−板倉勝矩(福島藩)−板倉勝長−板倉勝俊−板倉勝顕−板倉勝尚
神保元茂(旗本)−板倉重同(安中藩)−板倉勝清−板倉勝矩(福島藩)−内藤頼以(高遠藩)−内藤頼寧−内藤頼直
神保元茂(旗本)−板倉重同(安中藩)−板倉勝清−板倉勝矩(福島藩)−板倉勝長−板倉勝俊−板倉勝弘(庭瀬藩)
神保元茂(旗本)−板倉重同(安中藩)−板倉勝清−板倉勝矩(福島藩)−板倉勝長−板倉勝俊−永井尚服(加納藩)
189 :
日本@名無史さん:04/06/03 19:27
大村純忠の大村家って伊丹家から養子が入って血筋が途絶えちゃったんだね。
190 :
日本@名無史さん:04/06/03 21:16
>>189 大村純長(大村藩四代)は、三代大村純信の正室の実弟で実家は徳美藩伊丹家。
その養子入りに際しては、家中に大村家の血筋の候補者を指す動きがあった。
大村純長の正室は、三代純信の伯父大村政直の娘であったが、五代純尹、六代純庸は彼女の子ではない。
ちなみに両家の養子縁組が縁で、長崎県大村市と兵庫県伊丹市は姉妹都市。
191 :
日本@名無史さん:04/06/04 12:24
婿養子も大変だよね。嫁が醜女で性格悪い場合だってあるだろうし。
大関増徳は養子先の娘と離婚したために、家老に座敷牢に押込められてしまった。
彼が狭くて暗い部屋から出れたのは明治維新後。
>>186 茨城県は遠いなあ(笑) 誰か変わりにお願いします〜
たぶんその「水府系纂」には佐々介三郎宗淳の系図も載ってると思うのでそちらもできれば。
宗淳の跡は甥が継いだと聞いた事があるのですが。
193 :
日本@名無史さん:04/06/05 18:23
滝川具和海軍少将の系図、ご存知の方教えてくだされ。
幕臣滝川家の出身らしいので、滝川一益の一族だと思うんだけど。
194 :
日本@名無史さん:04/06/06 04:59
K-1選手武蔵の曽祖父の蜷川新氏の母親は、林田藩主・建部政醇の娘はつ子で、武蔵は建部家の血も引いている事になる。
はつ子の姉道子は、あの小栗上野介忠順に嫁いでおり、二人の娘国子は上野介の従妹アヤ子の夫・大隈重信に引き取られた。
国子は婿養子との間に又一を産んだ。又一の息子が忠人氏、忠人氏の息子が又一郎氏。又一郎氏は漫画家「小栗かずまた」として知られる。
小栗かずまた氏の代表作は
http://www.so-network.net/tenten/ 建部政醇(林田藩主)−建部はつ子−蜷川新−○−○−武蔵(K-1選手)
建部政醇(林田藩主)−小栗上野介忠順室(道子)−国子−又一−忠人−又一郎(漫画家)
195 :
日本@名無史さん:04/06/06 06:07
ちなみに旗本蜷川家の系図は
蜷川親当(新右衛門)−親孝−親順−親世−親長(旗本初代)−親満−親房−親伯−親遥−親豊−親文−親常−親宝−親賢−新
蜷川親当はアニメ「一休さん」の蜷川新右衛門
蜷川新は日本赤十字連盟の発案者
196 :
日本@名無史さん:04/06/06 11:55
>>194 大隈家って江藤新平の遺児も引き取ってるんだよね。
大隈綾子さんと小栗上野介ってどう繋がってるのかな?
綾子夫人は旗本三枝家の出らしいけど。
197 :
日本@名無史さん:04/06/06 15:13
前スレ京兆家の続きがわかったよ
細川勝元−政元 =澄元−晴元−昭元−元勝(三春藩家老)−義元−宣元−忠元=孚元(小野寺泰忠の子)=昌元(秋田太季の子)
秋田頼季−秋田太季−細川内蔵助昌元(細川内蔵助孚元養子)
細川昭元は細川管領家(京兆家)の当主。
室は織田信秀の娘で信長の蹴鞠の相手を務めた。
子孫は三春藩秋田家家臣。
秋田家は外様大名ながら譜代格なのは、二代将軍秀忠の正室と実季室が従姉妹であるため。
198 :
日本@名無史さん:04/06/07 00:45
>>193 「具」が名前に使われてるので瀧川雄利の系統かな。筑波大に御子孫らしき方がいますね。
>>195 「親元日記」に載ってる系図によると
蜷川親当(新右衛門)−親元−親孝−親順−親世−親長(旗本初代)−親満−親房−親伯−親遥−親豊−親文−親常−親宝−親賢−新
200 :
日本@名無史さん:04/06/07 23:55
>>182 この系図が正しいとすると、先代、先々代と同じく高祖母が森家の出ってことになりますな。<森忠洪
かなり遠縁になってしまう。
201 :
日本@名無史さん:04/06/08 12:37
蜂須賀重喜に家臣の身分に落とされた蜂須賀伊豆って子孫居るんですか。
血統から言えば、伊豆の系統が蜂須賀の正系なんだけど。
202 :
日本@名無史さん:04/06/08 23:08
>>194 その漫画の連載が始まった頃にジャンプを読まなくなった。ちなみに小栗の同僚の竹中重固の子孫は人形職人。
203 :
日本@名無史さん:04/06/09 13:15
204 :
日本@名無史さん:04/06/10 14:44
竹中重固の子孫って満州に渡ったんじゃなかったっけ
205 :
日本@名無史さん:04/06/10 19:40
>>203 重固は分家(1000石)からの養子です。
竹中半兵衛の孫の重次って黒田家に仕えて千石の知行。同じ軍師の子孫でもかなりの差だね。
208 :
日本@名無史さん:04/06/11 00:49
>>196 旗本の三枝家は数家あるんだけど、大隈の後妻の実家の三枝家は江戸の途中まで諏訪姓を名乗ってたらしいね。
209 :
日本@名無史さん:04/06/11 00:50
コピペ推奨 :04/06/11 00:18 ID:6gerXCgu
俺ってば 荒川区26歳 こう見えても 北朝鮮籍 エリト!
こんな俺の コリアなプライベートを 教えてあげちゃうんち
男は車 車は男 そして愛車は 新車の現代 最高じゃん
テレビはサムソン レンジはLG 自慢のアイテム アイムフール
派手な服装 かっこよすぎで 武富士ダンスで みな注目
大きい黒目に 薄い眉毛に エラと切れ目と すごい肩幅
服の色は 赤と青 黄色っとか 原色ばかりで レゴブロク
深夜のドライブ クルージングで 知人の大型焼肉店
信号無視とか 飲酒運転 検問あっても スルーな特権
すぐに鳴らす クラクション 安い車は 特に標的
スーパーウーファー ずんどこかまして BoAでグ!
壁には ジョンイル将軍ポスター 山盛りキムチ 延滞中の督促状
テレビは必ず 韓国ドラマに 同胞芸人 出ているテレビ
週に一度は 知人の経営 パチ屋に並んで 指定の台で 10万円
裏口回れば タダ飯警察 向うが挨拶 知人が握らす ソープ券
収入ごまかし 税務署撃退 おかげで 余裕で 生活保護費
先輩神様 後輩奴隷で 男は主役で 女はお酌で チマチョゴリ
日本の女を 彼女にしたら 毎日暴力 それがセオリー 伝統よ
いつもムスッと してるがデフォで 愛想なんかは バカのもの
借りた物は 俺の物 催促されたら 取りに来い だったら返す
自慢話に 身内の話 ひたすら演説 周りは黙って 聞いてるぜ
身内以外は 敵か味方か 世間や道徳 マナーなんて へったくれ
タバコはポイ捨て 道ではどかず 遠慮するバカ 譲るアホ
爺さんいつも 武勇伝 戦後の日本で 殺人 強姦 土地占有
にっぽんじんは チョッパリ ウエノム ずっとお前ら 謝罪しる
普段は通名 使って隠れて 新井 井上 江原に太田に 木下じゃん
寿 嶋田に 清水に 高山 原に 福山 松本 安田 ばれないじゃん
そんな俺って 最高最強 日本は天国 地上の楽園!!
365 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/02/27(金) 11:23
菅原道真−略−大隈家泰−略−大隈満辰−大隈信保−大隈重信(侯爵)=英麿=信常−信幸
大隈家は菅原道真の末裔と称している
大隈英麿は南部利剛(旧盛岡藩主)の子で重信の娘婿、後離縁
大隈信常は松浦詮(旧平戸藩主)の子
松浦清(平戸藩主)−松浦熈−松浦秋−松浦詮(伯爵)−大隈信常(侯爵)−大隈信幸
余談ながら松浦家は嵯峨源氏・渡辺綱の子孫と称しており、名前が一字なのは嵯峨源氏の慣例である
前スレの略の部分が書かれてました。
http://nabeshima-ishii.hp.infoseek.co.jp/ookuma_ishii.htm 大隈茂隆−義隆−安兵衛−孝辰−五太夫−彦兵衛−保陳−政辰−満辰−信保−重信
大隈英麿氏が大隈家を離籍したのは、悪い友人に騙されて借金を背負ってしまったため。
そのことで大隈家に迷惑を及ぼさないためらしいです。
英麿氏の夫人は重信と先妻の娘熊子で、二人の間に子供ができなかった事も離籍の理由なんだとか。
信常氏の夫人として、重信夫人の姪を三枝家から養女に迎えています。
211 :
日本@名無史さん:04/06/11 20:21
>>193 滝川播磨守具挙の息子。具挙は鳥羽伏見の戦いの幕軍司令官。
212 :
日本@名無史さん:04/06/12 17:10
とりあえず寛政譜でわかる範囲で
瀧川雄利−正利=利貞−具章(正利外孫、三郎四郎家初代)−平利=具英(平利の弟)=利行−具紹(平利の弟邦房外孫)=具高−具昌
213 :
日本@名無史さん:04/06/12 17:38
214 :
日本@名無史さん:04/06/12 22:30
215 :
日本@名無史さん:04/06/13 00:26
216 :
日本@名無史さん:04/06/13 01:30
217 :
日本@名無史さん:04/06/13 01:32
竹中家はこんな感じで続いてるらしいよ
竹中重固−鶴子−幸輔−重男
218 :
日本@名無史さん:04/06/13 22:54
>>214 確か2人の上司っていたよね。
2人をアゴで使う上司もすごいな!
なんといっても
「豊 臣 秀 吉 以 来」
ですからね〜
220 :
日本@名無史さん:04/06/14 20:03
>>212 瀧川雄利は伊勢の国司北畠氏の一族木造氏の出身。瀧川一益の娘婿となって瀧川三郎兵衛を名乗っている。
正利は多病を理由に一万八千石を返上。養子の利貞が旗本として家名を存続。
利貞の跡は利錦が継ぎ、弟の具章は分家した。具章は京都町奉行。具章の系統は北畠氏の通字「具」を持つ当主が多い。
221 :
日本@名無史さん:04/06/15 00:41
222 :
日本@名無史さん:04/06/15 09:56
明智憲三郎ってどんな血筋の人??
223 :
日本@名無史さん:04/06/15 19:48
224 :
日本@名無史さん:04/06/15 20:04
この前、明智憲三郎さんが出てたTBSの番組と、織田武田の和睦ニュースを見たテロ朝社員が思いついた企画でFA?
225 :
日本@名無史さん:04/06/15 22:32
織田信和さんの和睦イベントって旧天童・柏原両藩主系のご当主は承知しているの
かしらん。
もしもこれが自称会津松平と萩市の和睦とかだったら大問題だろうな。
226 :
日本@名無史さん:04/06/16 14:39
>>220 瀧川一益の長男、次男の子孫もそれぞれ旗本になっている。木造氏も別に旗本になった。
227 :
日本@名無史さん:04/06/16 14:43
瀧川雄利の家は藩翰譜の一番最後に「瀧川(本姓木造)」として掲載されてる。
小早川秀秋の項目は何故か「小早川」ではなく「金吾」だったよ。
>>38 〆 〆
ミミミヾノノーノノ |ヽ
ミミ彡ミ 《○)《○)、 | ☆ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ミ彡ミミ < (∞) ノ | 丿 < 新田族譜を確認してみる
ミ彡 彡ミミ /∨w∨ | |・: \__________
彡勿ミミ (∧ィMM∧) ηξ:・
彡勿勿勿 〜w〜′/ /
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229 :
日本@名無史さん:04/06/16 23:56
勝家は物部氏の出なんだそうな
勝時直−時武−武平−命雅−曹芳=元良(婿養子、青木左京三男)=惟寅(婿養子、男谷平蔵三男)−義邦(海舟)−小鹿=精(婿養子、徳川慶喜十男)−芳孝
山上徳左衛門−米山検校(男谷検校)−男谷平蔵−勝惟寅−勝海舟
勝海舟の孫精(くわし)は徳川慶喜の実子。
海舟は慶喜の娘達をぞんざいに扱って「なんて嫌なお爺さん」と言われた。
230 :
日本@名無史さん:04/06/17 09:49
徳川慶圀って、だあれ?
231 :
日本@名無史さん:04/06/17 18:28
>>229 徳川慶喜の娘達は義兄の徳川家達さんにも「慶喜さんは徳川家を滅ぼした人、私は再興した人」と言われて悔しがったエピソードがある。
232 :
日本@名無史さん:04/06/17 19:48
大河ドラマ「武田信玄」の番組冒頭のコーナーで、板垣退助は板垣信方の子孫だと紹介されてたよね。
CSでの再放送では、冒頭のコーナーがカットされてるので見れなかったけど。
233 :
日本@名無史さん:04/06/17 20:07
234 :
血統研究所 ◆b0.PHWt3zk :04/06/17 20:40
>>233 面白そうだから報道ステーションにメールしといたよ。
235 :
日本@名無史さん:04/06/17 23:10
一部内容を変更しましたって・・・
236 :
日本@名無史さん:04/06/17 23:46
>>232 系図では板垣退助は板垣信方の十一代目の子孫。
237 :
日本@名無史さん:04/06/18 05:38
>>233 そこの連中って本物の織田家当主の降臨に気づいてないね
238 :
日本@名無史さん:04/06/18 14:32
239 :
日本@名無史さん:04/06/18 15:03
この宗敦って総見寺の住職になるにあたって藩主の名目上の養子になったってだけでしょ。
そんな養子なら他の家にもよくあるけど、それ根拠に宗家なのるのはまずいでしょ。
織田信孝さんこそ、怪しい。
裁判で争そえ。
241 :
日本@名無史さん:04/06/18 16:58
織田無道ですら自称子孫なわけで、別に嫡流とかいってるわけではない
から、本件も問題ないのでは。
どーでもいいか。
>239 明治維新後、宗敦が還俗したならば、津田姓では?
どうも「宗家」というのは、武術の流派の継承者の意味のようです。
信長の男系の末裔ならば、
柏原藩主織田信憑-京都代官小堀正徳-正芳-正明
同 -高家旗本織田信存-信愛-信徳-一磨
あたりなら、信憑性があると思います。
243 :
日本@名無史さん:04/06/18 17:35
>>234>>235 メール読んだか、織田信孝さんサイドからクレームがついたかで放送見合わせたんじゃないの。
昨日は予定を変更するような重大ニュースは無かったよ。マーシーとミラーマンの件だけ。
報道ステーションとしてはこれで済ませようとしてるんでしょ。朝の番組では放送しちゃたそうだけどね。
「平成新修旧華族家系大成」読めば、柏原織田家の当主が信孝さんだってすぐ判るんだけど。
一連の報道見てるとマスコミって全く取材せずに垂れ流してるね。
>>242 でも、もしこの人が織田家に関係のあるひとなら
>>233みたいな言い方しないだろうに。
この人が本物のじゃない可能性はあるけどはっきり「ニセモノ」って言い切っているよ。
245 :
日本@名無史さん:04/06/18 18:27
244>実は私も信憑性が薄いように思います。単に苗字が同じだけとか。
その家に伝わっている確かな証拠のない伝承とか。
実は
東大史料編纂室にある明治期に柏原藩織田家から提出された系譜に
も、柏原藩主織田信民の養子に始まる分家はないのです。
247 :
日本@名無史さん:04/06/18 18:55
津田内蔵助の子孫に宗篤という人物がいて「総見寺第八世」とある。
名前からするとこの家の子孫じゃないのかなぁ?
>247
確かに江戸期の総見寺の住職から数えると12代となります。宗敦は10
代住職ですから。
>249
確かに宗敦は、その津田家出身の住職です。
問題は、宗敦の子三郎が実在したか、否かです。
宗敦のことを滋賀県の町史かなんかで調べてみるのがいいかも?
250 :
日本@名無史さん:04/06/18 20:44
>>247 武田宗家といえば、昌信さんを思い出すけど、息子さんなのかな。
>>250 昌信さんの息子さんが邦信さん。その息子さんは英信さん。
ここで以前話題になっていたと思っていたけれど…
系図を見かけたので載せるよ。
武田宗家(従四位下大膳大夫、高家)
01信玄─02信親(竜芳)─03信道(道快)─04信正─05信興─06信安 ┐
┌─────────────────────────────┘
└=07信明─08護信─09信典=10信之─11崇信─12信任─13要子 ┐
┌─────────────────────────────┘
└=14信保─15昌信─16邦信─17英信
07信明は柳沢伊信 (越後三日市藩主柳沢里之の3男信尹?)の子
10信之は大和郡山藩主柳沢保光の48子
14信保は大和郡山藩主柳沢保申の3男
>251
補足。九代の武田信典は、松平頼亮の三男。十一代の崇信は信典の子です。
>>252 ありがとうございます。
松平頼亮とは水戸の御連枝で陸奥守山藩主だった人物ですね。
254 :
日本@名無史さん:04/06/18 23:08
大正四年に武田晴信(信玄)に政府から贈従三位が贈られてるんだけど、子孫の誰が受け取るのかでもめたそうです。
信玄の次男信親の子孫と七男信清の子孫の二人に候補が絞られて、結局次男の子孫が武田宗家と認定されたんだとか。
だから昌信さんや邦信さんは、政府公認の武田家宗家です。
255 :
日本@名無史さん:04/06/19 12:56
256 :
日本@名無史さん:04/06/19 13:02
織田信秀 贈従三位 明治三十八年
織田信長 贈正一位 大正六年
↑この位階を実際に受け取ったのは天童藩織田家ですか?それとも柏原織田家?
>256
たしか信長の正一位の件は、旧天童藩主家です。
当時の新聞で、当主織田信恒氏が仕事の関係で関西におり、
東京の留守宅で家令たちが、準備している様子を報道してい
ます。
258 :
日本@名無史さん:04/06/19 15:45
>>257 ありがとうございます。当時の政府は天童藩主家を織田の嫡流と認めた訳ですよね。徳川幕府もそうでしたし。
やっぱり「織田宗家」とか「本家」、「嫡流」等の呼称って旧天童藩主家の御当主以外が使うのは変だな。
織田信成、信和氏親子って元々は久田姓で、最近まで織田家に縁があると知らなかったとすれば、
元々は「信」の付かない別の名前だったと考えるのが自然ですね。
天童家が受け取ったのは、受取人を誰か一人に絞る必要性とより柏原家より
兄の系統だからなんでしょうな。
しかし、江戸時代に柏原藩が天童藩を宗家と仰いでいたかどうか知らないけど、
そうでなければ、本家・分家の関係ではなく、2つに分かれたと考えるべき
でしょうな。とすると(仮定も含めて)両方が宗家となのるのは間違いじゃ
ないと思われ。
しかし、あの親子はうさんくさいね。
この柏原藩主家の分家の津田氏子孫と云うことで有れば、織田宗家とか云うのは兎も角、信長子孫というのは間違いないのでしょうかねえ?
>260
総見寺住職の宗敦に「三郎」なる息子が実在し、履歴が判明すれば、信長
の末裔というは事実になります。ここが一番の問題です。
しかし、織田家古式砲術研究会の宗家ということで、「宗家」を名乗るの
は説明不足です。
また、総見寺の初代住職から数えて12代・13代というのも疑問です。
もし、信長の末裔であっても、正確には柏原藩士津田家の分家織田家
の3代・4代目ということになります。傍系なんですね。
262 :
日本@名無史さん:04/06/19 20:14
>>261 この柏原藩士津田家は信長の子孫なんですか?
>262
大和松山藩主織田高長の五男津田頼房を初代とする家です。
織田信長-信雄-高長-津田頼房(以下省略)
264 :
日本@名無史さん:04/06/20 00:10
>>251 武田宗家17世武田英信氏の柳沢氏としての血統は次の通り。
柳沢氏について。清和源氏義光流武田氏族青木氏の分家。
源義光ー武田義清ー逸見清光ー武田信義ー武田信光ー一条信長ー一条信経ー一条時信(甲斐守護。一説に時信の弟宗信)ー青木時光(青木氏祖)
青木氏は、青木の荘(現在の山梨県韮崎市清哲町青木)が名字地。
武川衆の一氏。武川衆とは、一条時信(甲斐守護。一説に時信の弟宗信)の多くの子供が甲斐の武川筋に住んで出来た同族武士団。
武川衆については
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/takeka_g.html 青木時光ー青木常光ー青木信連ー青木貞義ー青木義遠ー青木安遠ー青木義虎
青木安遠2男柳沢信興が柳沢氏祖。
現在の山梨県武川(むかわ)村柳沢が名字地。
青木義虎ー青木信種(信定)ー青木信立(信親)ー柳沢信俊
武田勝頼は、軍命に背いて先駆けした柳沢氏第4代信兼を切腹させ、青木信立3男信俊に柳沢氏を継がせた。
(柳沢信兼の子信久は父の死を知ると、甲斐を脱出して、穴山信君の支配する駿河の清見寺にのがれ、後穴山信君に仕えた。
本能寺の変の時に、わずかな供を連れて堺にいた徳川家康は京を避けて、伊賀の山越えで三河を目指したが、伊賀の山中で家康の供をしていた穴山信君は一行に遅れ、土民に殺された。
この時穴山の供をしていた柳沢信久も、穴山と運命を共にした。柳沢信兼信久父子の話は
http://homepage2.nifty.com/tokawa/nobukane.htm )
柳沢信俊は武田勝頼滅亡後、徳川家康家臣となり、小牧山合戦、第一次、第二次上田城の戦いに参加。
柳沢信俊(武蔵国鉢形領230石)ー館林藩士柳沢安忠(大阪夏の陣に出陣後、忠長付属。忠長切腹後浪人。復帰後綱吉付きとなった。采地160石廩米370俵)ー綱吉側用人、川越藩主、老中上座、初代甲府藩主151200余石柳沢吉保(よしやす)
ー2代甲府藩主、初代大和郡山藩主柳沢吉里(よしさと)ー2代大和郡山藩主柳沢信鴻(のぶとき)ー3代藩主柳沢保光(やすみつ)ー4代藩主柳沢保泰(やすひろ)ー5代藩主柳沢保興(やすおき)ー6代藩主柳沢保申(やすのぶ)ー武田信保(保申3男)─武田昌信─武田邦信─武田英信
265 :
血統研究所 ◆b0.PHWt3zk :04/06/20 00:11
>>243 メールに返事がこない。放送終わってから出すべきだったかな。
266 :
日本@名無史さん:04/06/20 00:14
明智の子孫ほうがもっと怪しい。
267 :
日本@名無史さん:04/06/20 00:14
>>264 巷説では柳沢吉里は徳川綱吉の子供って話もありますよね。
本当に宗家といえるのは武田だけ?
それとて信玄の血統ではないし、とりあえず無かった事に…
269 :
日本@名無史さん:04/06/20 00:32
>>267 確か、東大の山本博文教授は、柳沢吉保への加増分は全て吉里への加増分になる、という理由からその説に賛成でしたね。
という事は、武田宗家17世武田英信氏は徳川家康の子孫と言う事?
270 :
日本@名無史さん:04/06/20 21:02
>>232 板垣信形(信方)−乾正信=正行(山内刑部次男)−正祐−正方−正清−直建−正聡−信武−正成−板垣退助(正形)−鉾太郎−守正
山内刑部は山内一豊の従弟。
そういえば板垣氏も甲斐武田氏から別れた家だよね。
あと前スレから
189 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/02/13(金) 20:26
>>173 織田信長の家臣だった乾和宣は美濃土岐氏の末裔と称した。
和宣の子 乾和信は山内家に仕え山内一豊の姪を妻とし山内姓を与えられた。
和信のあとは子の勝次、勝益が幼いため弟の乾和三が二代目となった。
和三のあとは子の和成が継ぎ家老職を務めた。失脚した野中兼山
>>123 は子や一族を和成に託したが見捨てる形となった。
和成のあとは子の信勝が継いだ。信勝の妻は二代藩主山内忠義の娘である。
武田信玄の家老 板垣信方(信形)の遺児 正信は山内家家老の乾氏をたより、乾家は正信を一族として遇した。
長じて正信は乾正信と名乗り子の正行、孫の正祐と続いた。幕末の乾正成、板垣退助(正形)親子はその子孫。
板垣信方−乾正信−正行−正祐−略−乾正成−板垣退助(正形)
ただし正信が板垣信方(信形)の遺児とするのは疑わしい気がするが…
271 :
日本@名無史さん:04/06/21 03:37
>>263 仮にその津田家の子孫だとすると、信長の子孫とは名乗ってもかまわないと思うけど、
織田さんの「信長の血を引いている」って話は疑わしいんじゃないですかね。
柏原藩主は他所からの養子続きだし(細川、黒田、山崎)、藩内に信長の血を引く者が居れば、
藩主を継いでてもおかしくないと思うのですが。
>271
仮に柏原藩士津田氏の子孫ならば、「宗家」でなく、「信長の子孫」が正確ですね。
なお、江戸後期の柏原藩主織田信守の次男から七男までは津田姓を与えられて、藩士となりました。部屋住(藩主の家族)から藩士(臣籍)
になってしまうと、藩主を継ぐのは難しかったようです。養子候補者に、分家の高家旗本織田家の当主があがっていますから。
徳島藩蜂須賀家では家臣から藩主になって苦労した当主、家族から藩士に落とされて、養子候補からはずされてしまった例があります。
中世まで女系で相続していたそうですが、なんで一部の家には
男系の家系図が残っているんですか?
274 :
日本@名無史さん:04/06/21 18:27
>>272で書かれてる「家族から藩士に落とされて、養子候補からはずされてしまった例」ってのが
>>201で出た蜂須賀伊豆ですね。
10代藩主の蜂須賀重喜(秋田佐竹家の分家出身)は、実子に後を継がせるために、
蜂須賀の正系である喜憲(伊豆)を、家徳相続の資格を奪うため中老1500石の身分としました。
なお喜憲は15歳で夭折、子供は居ないようです。
蜂須賀家では藩主の子や孫によっても身分の差があって、藩主の一門である「公族」から臣下の「家老」、「中老・中老格」、「藩士」などがありました。
7代藩主の宗英は中老格3000石の身分から藩主になってます。
275 :
日本@名無史さん:04/06/22 00:14
徳川光康の件を報じたのは週刊新潮だそうだね。
276 :
日本@名無史さん:04/06/22 18:03
くだんの織田信成、信和親子は、昨年の六月に静岡の西山本門寺で行われた信長公供養祭にも「信長直系子孫」を称して参加しているようだ。
西山本門寺には信長の首塚なるものがあるとかで、供養祭は町興しイベントを兼ねているのだろう。
277 :
日本@名無史さん:04/06/23 13:01
>>274 蜂須賀重喜が藩主を辞めさせられた理由の一つが、平島公方問題だってね。百石の侍なのに二十五万石の殿様をクビにしちゃうなんて平島さんすごいね。
278 :
日本@名無史さん:04/06/23 23:32
柏原藩織田家の信長の血脈って、鶴姫が再婚断って落髪しちゃった時点で絶えちゃったんでしょ?
今の御当主って遡れば嫁さんに刃傷しちゃった人に行き着くんじゃないの?
279 :
日本@名無史さん:04/06/24 04:39
津田内蔵助家の系図って兵庫の図書館にあるね。
280 :
日本@名無史さん:04/06/24 08:28
281 :
日本@名無史さん:04/06/24 09:11
宗敦ってのは法名だから系図には別の諱が書かれるんだろうね。
282 :
日本@名無史さん:04/06/24 21:37
>>261 たぶん信長から数えて12、13代なんじゃないですかね。それでも宗敦で10代になりますよね。
283 :
日本@名無史さん:04/06/25 02:27
宗敦って坊さんなのになんで子供いんの?
284 :
日本@名無史さん:04/06/25 14:04
>>283 三郎は宗敦の弟らしい。実父は津田頼道なのかね。
285 :
日本@名無史さん:04/06/25 15:11
織田信和さんは今川家との和睦も計画中なんだと。
286 :
日本@名無史さん:04/06/25 16:36
今川家の子孫なんているの?
>>286 「今川氏真」でこのスレと前スレを検索しる。
288 :
日本@名無史さん:04/06/25 19:03
検索したが、どの家が今川家の子孫として相応しいのか
さっぱりわからん。
289 :
日本@名無史さん:04/06/25 19:34
>>288 今川家は明治に断絶。ただ今川氏真の次男にはじまる品川家は続いており、現在自転車屋さん。
290 :
日本@名無史さん:04/06/25 19:44
どこで自転車屋してるの?品川家。
291 :
日本@名無史さん:04/06/25 23:01
柏原織田家当主の信孝さんってライターの孝一さんと同一人物ですか?
孝一はペンネームだと思うんですけど。
292 :
日本@名無史さん:04/06/26 11:21
293 :
日本@名無史さん:04/06/26 20:13
藩士人名辞典によると、津田頼道の後を継いで家老になったのは養子の津田要。
津田要の実父は尼崎藩士の市川長寧。要は長寧の三男。
総見寺十世宗敦は織田(?)三郎氏の兄だとか。
旧天童藩織田家の当主は、信正氏の死後いるの?
旧柏原藩織田家の当主信孝氏は、ある対談で「信弘」氏と言及しています。
信正氏の実子、養子?
それとも信正氏の弟の子ども?
295 :
日本@名無史さん:04/06/27 23:33
三戦板“名門シリーズ2第三の管領畠山家”スレより引用。
高家の畠山家(畠山政長の末裔)について。
438 :無名武将@お腹せっぷく :04/05/29 23:32
>>39 高家で5000石、在所は下野国嘉右衛門(現:栃木市嘉右衛門町)。
政信以降、基玄・基祐・国祐・政如・国儔・国祥・基利・基徳・基永と続いて、最後の基永は明治維新後、足利菊麿と改名したようだが、家系はまだ続いてるのかな?
大和大納言秀長の血統を、なんとか探してくれ。
297 :
日本@名無史さん:04/06/28 15:27
>>295 「滅亡・改易大名家のその後 PART2」に系図書いてる人がいたが明治以降は書いて無かったよ。
203 名前: バロン曽志崎 投稿日: 02/01/28 23:00
>>202 こんなんでいいかな・・・?基徳以降は手持ちに資料が無いのでちょっとわかりません。
高政(尾張守)=昭高(左衛門督。実高政弟。家臣遊佐信教の謀反により自害)
=貞政(左衛門佐。実政尚子で昭高の甥。没落し摂津に住す)―政信(民部。家康
に拝謁、摂津国内に300石を賜う)―基玄(侍従。延宝七年、高家となる。後に
加増あり5000石)=基祐(侍従。実基玄弟の義玄子)=国祐(侍従。実義玄弟の
高玄の孫)―政如(二郎四郎)=国儔(侍従。実政如弟)―国祥(侍従)
―基利(侍従)=基徳(侍従。実畠山義方子)・・・
いろいろ皆さん詳しくてびっくりしました。私が当の本当の柏原藩主の直系の織田信孝です。
どなたかが書いているように、ペンネーム「織田孝一」で、文筆業に携っています。
で、天童藩織田家の今の家督相続者は、織田信正氏の甥に当たる信弘氏。この人は
私の友人でもあります。信和、信成親子は、どなたかが書いているように、
旧姓「久田」で、柏原藩織田家の養子として、安土の総見寺の住職となった
、宗敦の子孫に当たりますが、当然、宗家でも何でもない、食わせモノです。
寺の住職でもないし、この住職の任は、世襲でもないので、何で当主とか宗家とか
言うのだか理解できません。織田家をはじめ、ほとんどの大名家は「宗家」という言い方をしません。
いう呼び方は使いません。信和氏、信成氏は何を狙っているのかわかりませんが、限りなく詐欺に近い人たちだと思います。
いろいろ皆さん詳しくてびっくりしました。私が当の本当の柏原藩主の直系の織田信孝です。
どなたかが書いているように、ペンネーム「織田孝一」で、文筆業に携っています。
で、天童藩織田家の今の家督相続者は、織田信正氏の甥に当たる信弘氏。この人は
私の友人でもあります。信和、信成親子は、どなたかが書いているように、
旧姓「久田」で、柏原藩織田家の養子として、安土の総見寺の住職となった
、宗敦の子孫に当たりますが、当然、宗家でも何でもない、食わせモノです。
寺の住職でもないし、この住職の任は、世襲でもないので、何で当主とか宗家とか
言うのだか理解できません。織田家をはじめ、ほとんどの大名家は「宗家」という言い方をしません。
いう呼び方は使いません。信和氏、信成氏は何を狙っているのかわかりませんが、限りなく詐欺に近い人たちだと思います。
織田宗敦は、もともと田中という家から養子で津田家に入り、さらに織田家に養子で
入ったようです。で、明治維新のとき9才。総見寺は機能しなくなり、本人も
後に結婚しているから還俗したんじゃないかと思います。で、自分の子供は
いなくて、もともとの出である田中家から甥っ子を養子にしたんだね。これが
織田三郎だ。この織田三郎の子が、例の織田信和氏の父の信成氏なんだが、この
三郎氏は離婚したので、その妹の嫁ぎ先の久田に引き取られて、久田姓になった
とこういうわけです。そんなのが何で今頃、当主とか言っておるのだ!!
301 :
日本@名無史さん:04/06/28 23:02
そうですか。それはお腹立ちなのももっともですね。
テレビ朝日等には抗議はされましたか?
あの人が織田家の代表者面して、いろいろ「和解」してみせたりするのは
おかしい旨、経緯を説明されたほうがよろしいのではないかと思います。
302 :
日本@名無史さん:04/06/28 23:10
ご当主でも抗議するってのはしっくりこないね。
でも指摘ぐらいなら信孝さんでなくても誰でもできるね。
しかしニセ有栖川夫妻、六条有康氏、徳川光康氏、徳川慶圀(コレはよくしらない)...
などなど、部外者でも調べればおかしいとわかるのが、なんでマスコミに出るのかねぇ。
それで、現在テレビ朝日には抗議中です。で、どうも最近のマスコミは裏をきちんと取らないこと甚だしいですね。
私の母なども、「昔は、家系図を調べたり、図書館で資料を探したりしてから、
取材に来たものだけど・・・」と言っていました。しかし、最近は、誰かが自称すると、
簡単に信じておもしろければ報道してしまう。私も、歴史にある程度詳しい人なら、
本気にしないだろうと放っておいたのですが、調べないままの報道が既成事実になって
しまうのがまずいと思って積極的に抗議することにしました。実際、明智家との
和解イベントも、以前の武田家との和解を報じた読売新聞の記事を鵜呑にしたテレビ朝日が、
「じゃ、今度は明智家と和解しませんか?」と持ちかけたと聞かされました。マスコミが
あまりに不勉強というか、ただおもしろければ垂れ流すというスタンスなので困って
しまいます。法的な処置も検討中ですが、裁判も費用がバカになりませんしね。
304 :
日本@名無史さん:04/06/28 23:47
大手の新聞、テレビといったマスコミが、全く調べずに相手の言うままに「宗家」「宗主」と報道してるのは問題ですよね。
歴史上の人物の御子孫を騙って、トラブルを起こしている人も実際いるわけですし。
>>303 本物さんなら2ちゃんには来ない方がいいよ〜。
306 :
日本@名無史さん:04/06/28 23:48
まあねぇ。
あのテロ朝の番組を見てて、この人はどの家の人か紹介される
だろうと思ってたんだけど、最後まで紹介は無かったからなぁ。
天童藩主家とか旗本高家の出身なら紹介するはずなのにね。
それが不思議だったんだが、やっぱり嘘か。
そういう家出身なら、旧華族のつれとかいるはずなのに、そんな話も無さそうだし。
ちゅうか、信長と多少の縁があったかもしれない程度のもんなのかね。
後、個人的に明智さんも気になる。
ただ、久田親子と違って明智さんは悪意は無いような気がする。
先祖の作り話を律儀に守ってるっていう感じがするな。
なんかアイフルの歌の女の子も光秀子孫らしいが、関係あるのかね。
両方偽物か?
307 :
日本@名無史さん:04/06/28 23:49
そういや織田無道も織田家の末裔って名乗ってなかったっけ?
309 :
日本@名無史さん:04/06/28 23:56
つーか、無道って徳川の子孫も名乗ってなかった?
なんか、自分の寺に葵の紋をでかでかと染め抜いた幔幕を
張ってたが。
なんか、家光の子孫とかテレビで言ってたな。
家光も信長の血を引いてるから間違いじゃ無いが・・
まあ、無道は嘘だとすぐわかるから、詐欺とかも無いだろうから
どっちでもいいが。
織田信孝さん、
なんだ、その名は。織田信長の3男信孝の名を真似していないだろうな?
貴様こそ、偽者じゃ。
あはは。私は本物なんだけど、2チャンに書きこむ本物の当主ってのもいいでしょう。
私はどなたかが指摘されたように、織田孝一のペンネームでライターをしていて、
こんな時間も仕事中なんです。で、例のテレビ朝日事件でくさくさしてるので、
つい、当主自ら書いているわけです(先週はスーパーモーニングに大クレームを入れたので、
くたくたになりました。おかげで報道ステーションで報道されずにすんだようです)。
それからどなたかが書いていたけれども、天童藩の織田家というのは、柏原藩の
織田家の兄筋に当たるので、あちらの方がもともとは本家という感じでした。
ところが明治維新のとき、柏原藩はすぐに官軍にはせ参じたんだけど、天童藩は、
様子を見てぐずぐずしていたもんだから、後で地位が逆転してしまったようなところが
あるんです。最終的にはどちらも子爵家となり、今も、私と天童藩当主の信弘氏は
仲のよい友達です。
それから織田無道はどうなんでしょう。自分では濃姫の系だと言っていたようですが、
濃姫には子供はいないはずですよね。
それから、あのフィギュアスケーターは何者?と当織田家では全員が疑問に思っています。
高家の織田家なのかなあ。少なくとも大名家の織田家の人間ではありませんが、
どなたか、あの高校生スケーターの出自を知りませんか。
織田家にも旗本がいたはずだから、高校生の織田信成君は
その筋の末裔なのかも。
織田信成君は大阪の人なので・・。
314 :
日本@名無史さん:04/06/29 00:14
あの少年は旗本系って他スレにあったような記憶。不明確な説明だったけど。
旗本は柏原藩分家も含めていろいろありますよね。織田一族でもそこまでは
把握しきれないのですね。
諸侯の有楽斎系であれば柏原藩・天童藩両家だったらわかるはずですよね。
>>303 >で、どうも最近のマスコミは裏をきちんと取らないこと甚だしいですね。
私は実は、テレ朝ではないですが、あるマスコミの人間です。
朝日と名前がついていても、これが「朝日新聞」であれば、多少は調査して
対応するんじゃないかとは思うのですが、テレ朝あたりだとそんなものなんですかねえ。
同業者として申し訳ないです。
まあ、実務は下請けの制作会社がやっているかもしれないんですが・・・。
マスコミの人間といっても、歴史に詳しい人間は少ないですからね。
詳しくないなら、尚のこと、なにがしか取り上げるなら慎重を期さねばいけないのだろうけど、
それができていないんですね。
織田さんご自身、文筆業をなさっておられるようなので、釈迦に説法かも
しれませんが、織田さんのお名前で、然るべき家系の来歴もあわせて送られて
抗議なされば、織田「宗家」氏を取り上げた担当者に対しては、有効な
牽制球足り得るのではないかと思います。しかし、他所が三番煎じで
取り上げる可能性もありますしねえ・・・。
週刊誌系(できるだけ筋のいいところ「文春」「新潮」「朝日」あたり)で、
織田「宗家」氏は織田の代表を名乗る資格あらず!、みたいな形で記事を
書いてもらうというのはどうでしょう?
折しも、一連のニセ者騒動があったので、案外取り上げてくれるのではないか
と思うのですが?
そうすれば、「宗家」氏の専横に対する、世間一般に向けての最も有効な
アピール足り得ると思う次第ですが。
>>316 違いますよ。織田さんに失礼だから、そんなこと書かないで。
織田孝一氏。1959年生まれ
フリーライター
となってるけど、この人誰?
信長の末裔とか言ってるけど。
織田の苗字の妄想家。
前レスですた。セプークします。
322 :
日本@名無史さん:04/06/29 00:27
おもしろくなってきたな。
織田さんが本物なら、色々と証明する物がおありだろうから
簡単に勝てるんじゃないの?
でも、まあ、ここの反応を見てもわかるけど、多少歴史を知ってる人は
あの信和氏は胡散臭いと思うはずだよな。
323 :
織田ですが、何か?:04/06/29 00:31
織田という苗字です。
ここは、名家系図を、書くところ。
いつまでも織田の偽者がどうのこうの
とか、言わんでいい。
オリンピック選手には源の姓もいるし、織田や徳川が出てきても、フーンって感じ。
315さん、ありがとうございます。実は、読売、毎日、産経そして、テレビ朝日にも、
家系図と合わせて、事情を細かく書いた手紙を送ってあります。だからまともに受けとって
くれていれば、今後、織田信和氏がマスコミでちょろちょろすることはなくなるでしょう。
ただ、少し時間がかかるかも知れないですね。新聞社も横の連携はあまり良くなくて、一つの
支局で嘘がわかっても、別の地域で似たような詐欺的なことをしてすべての所で
発覚するまで、結構時間がかかったりするんだそうです。これは読売の甲府支局の
方が言っていました。それから週刊誌ネタのことは私も考えたんですが、まるで
宗家争いみたいにおもしろおかしく書かれてもちょっとつらいなと。信和氏がただ宗家とか当主を名乗るだけだと、私は
すごく不愉快ですが、記事ネタとしては弱いかも知れません。彼が何かの会費取るとか、寸借詐欺やるとかすれば
きっと取り上げられるでしょうね。それにしても、信和氏をいさめる何かいい方法ないものか、と悩んでいます。
315さん、ありがとうございます。実は、読売、毎日、産経そして、テレビ朝日にも、
家系図と合わせて、事情を細かく書いた手紙を送ってあります。だからまともに受けとって
くれていれば、今後、織田信和氏がマスコミでちょろちょろすることはなくなるでしょう。
ただ、少し時間がかかるかも知れないですね。新聞社も横の連携はあまり良くなくて、一つの
支局で嘘がわかっても、別の地域で似たような詐欺的なことをしてすべての所で
発覚するまで、結構時間がかかったりするんだそうです。これは読売の甲府支局の
方が言っていました。それから週刊誌ネタのことは私も考えたんですが、まるで
宗家争いみたいにおもしろおかしく書かれてもちょっとつらいなと。信和氏がただ宗家とか当主を名乗るだけだと、私は
すごく不愉快ですが、記事ネタとしては弱いかも知れません。彼が何かの会費取るとか、寸借詐欺やるとかすれば
きっと取り上げられるでしょうね。それにしても、信和氏をいさめる何かいい方法ないものか、と悩んでいます。
そんなに、織田信和を、こらしめたいのなら、
マスコミどもに、言え
二重投稿ですか、必死ですな最近の織田氏は。
織田信孝氏は諌められました。
331 :
日本@名無史さん:04/06/29 00:48
知ってますか。家名って著作権ないのよ。だから織田(信孝)さんが裁判で
勝てるとは限らない。棄却になっちゃう可能性もあるよ。
333 :
日本@名無史さん:04/06/29 00:50
>331
別に裁判する必要なんてないよ。マスコミで訂正が出ればいいだけだよ。
>>325 お書きになっておられるように、マスコミ社内の横の連携というのは
確かにあまりよくなくて、実態的には個人個人の社員が
自分でネタを見つけて仕事をしているだけだったりしますので、
各社宛てに手紙を送られても、個々の記者・編集者・制作者レベルの
活動に、どこまで実効が及ぶかというと、かなり厳しいものがあるかも
しれませんね。
週刊誌ネタも、たしかに一つ間違えば、信孝さんの側が道化じみた役割を
演じさせられかねないおそれもありますね。
なかなか厄介ですね。
スケート選手の人は織田信長の息子の信高の子孫だと聞いたことが。
真偽は不明ですが。
>>332 たしか織田有楽斎の御子孫がいまでも有楽流の茶道家元を継がれてると思うんだけどね。
織田孝一という売れないライターに興味を示さないのは正解だな。
>>300 「織田信長と安土城」秋山裕穀著 創元社 のP215にある「織田氏系図とそう見寺歴代住職」の中に
織田高長の息子に始まる「津田内蔵助家」の系図がありまして、十世宗敦住職は津田頼道の子供とあるんです。
ただこの系図は親との続柄(実子なのか、養子なのか)が書かれていません。
宗敦住職は田中家の出身でしたか。その辺のことは兵庫県立図書館にある「柏原織田家臣系譜」に詳しく書かれてるのでしょうが。
情報ありがとうございました。
340 :
日本@名無史さん:04/06/29 06:41
尾張徳川家とか仙台伊達家の御当主は、ホームページに歴代当主の名前や系図なんかを掲載してますよね。
織田家も作れば良いんじゃないですね。縁のある自治体のサイトなんかともリンクして。
そうだそうだ、信孝さん。
ここの姉妹スレ「大名家の系図を現代まで繋げてみるスレ」のHPがありますが…
織田家系図(廃藩置県を迎えた大名家のみ記載)
http://daimyokeizu.hp.infoseek.co.jp/oda.html これでよろしいでしょうか。どこか誤りはございませんでしょうか。
あと、『天童藩主家当主は信弘氏で、先代信正氏の甥(弟の子?)』
というお話でしたが、信弘氏と信正氏の血縁関係を教えて下さいませんか。
差し支えなければ、よろしくお願いいたします。
343 :
日本@名無史さん:04/06/29 14:42
>>332 よくわからんが埼玉県職員を定年したあとにでも、今流行りのNPOでも立ち上げるつもりなのかもな。
344 :
日本@名無史さん:04/06/29 16:08
>>285 今川氏真が上洛した折に、信長に面会して千鳥の香炉を献上したり、
蹴鞠を披露したりしているので、両家は既に和解していると考えるべきでは。
更に、氏真は長篠の戦に織田、徳川両将に続いて参戦しているしね。
>>298 やっぱり同一人物だったんですね。織田孝一さんのプロフィール(年齢、ご職業等)が
以前読んだ「日本の名家、週刊読売編集部」の信孝さんのものと似てたので気になってました。
回答ありがとうございました〜
346 :
日本@名無史さん:04/06/29 22:29
CSで再放送中の「大河ドラマ信長」の放送に、六角承禎が足利義昭の上洛への協力を拒否する場面があった。
結局その為に承禎は、信長に攻め滅ぼされてしまう。
柏原藩織田家家臣に、意外にもこの六角承禎の子孫がいた。
六角義賢(承禎)−高一(織田信雄家臣)−生駒正勝(生駒姓を賜る)−正興…
何だかみんなが無記名で書いている中、本名のまま書いているのも恥ずかしくなってきましたが、乗りかかった船ですから、
このまま、行きます。
342さんへのお答えですが、信弘君は、信正さんの弟さんの信明さんの一人息子です。
信正さんにはお子さんがなく、信明さんは、信弘君が幼少のときに亡くなったため、
引き取ったのです。で、信正さんが亡くなった後、家督を相続しました。現在、彼は
都内の精密機器メーカーに勤めています。
>>347 ありがとうございました。向こうのスレ主に報告させて頂きます。
「何だかみんなが無記名で書いている中、本名のまま書いているのも
恥ずかしくなってきましたが…」
ここは元々無記名掲示板ですし、私とて、本当に、名乗るほどのもの
ではありませんから…また、本名名乗っても意味ないし。でも、お恥
ずかしいというのであれば、PNを使われるか、あるいは「織田某」など、
テキトーなコテハンを使われるとよろしいかと。
>>289 今川家最後の当主の範叙は、維新後生活に困窮してしまって、養子を取ることができずに断絶。
ただ娘が領内の名主に嫁いでいてその子孫が健在とのこと。
351 :
名無しさん:04/06/30 13:26
信長の息子、織田信孝といえば、子孫いるよ。たしか、廣瀬某。
それにしても
当主である織田信孝さん、ここで、しつこくかいていますね。
なぜ、週刊誌や、テレビ番組などに、申されないのですか?
自分が偽者扱いされたくないという気持ちは分かりますが、
ここで、書かれても織田信和さんが謝るわけでもないので、
いみがないですよ。
351さん。その通りです。ここで書いて、別に信和氏に謝らせようとかいうことではなくて、
手を打つ前に、皆さんの意見を聞いてみたかったんです(皆さんの会話を読ん
でいる内に書き込みたくなったということもありますけど)。2ちゃんの参加の
しかたとしては邪道というか変則的かも知れないですが、まあ、
当事者が出てくるおもしろさもあったと思うんで、許してください。。
で、皆さんの意見もいろいろ聞けましたし、私も、既にメディアに対しては
具体的な行動に移っているので、とりあえずここからは引きあげます。
意見を下さった皆さん本当にありがとうございました。もしこの件で私が
テレビに出ることでもあったら、あー、あいつかーと思い出して、
ネタにしてやってください。では。
353 :
日本@名無史さん:04/06/30 15:23
>352
気にしないでちょくちょく来てくださいよ。
織田家以外の家の話も、お聞きするかもしれないし。
元はと言えば別スレでのクイズミリオネアの細川護煕元総理のご先祖様は「明智光秀」って答えに対する話題から分岐したこのスレに、
織田家の現御当主様が書き込みをされる事になるとは・・
なにか因縁めいたものを感じます。
355 :
日本@名無史さん:04/06/30 23:41
蜂須賀侯爵が、煙草を失敬するのを明治天皇に見つかる話が以前出ましたが、
その話が出てるところを発見しました。
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/1997/9711/oshima.html 「明治帝は、ユーモリストとして相当なものであったらしい。
蜂須賀侯爵と話しておられて、ちょっと中座された。侯爵がふと卓上をみると、いい煙草がある。
一本頂戴して火をつけたが、しかしもうすこしほしかったので、何本かつかんでポケットに入れた。
ほどなく明治帝が席にもどって来られた。帝は卓上の煙草入れの様子が変わっているのに気づかれ、
いかにもおかしげに、『蜂須賀。先祖は争えんのう』といわれた」(司馬遼太郎著『余話として』、一三六頁)
実際の蜂須賀氏は、小六正勝以前から岩倉織田家(尾張上四郡の守護代)の家臣であったのが正しいようです。
蜂須賀茂韶侯爵の父斉裕は、十一代将軍徳川家斉の二十二男で、その母は清水家家臣牧野氏の娘。
茂韶侯爵の生母は、彦根藩士山村氏の娘であり、先祖の蜂須賀小六の血は受け継いでいません。
明治天皇は蜂須賀小六の血を引いているようです。
蜂須賀小六正勝−家政−至鎮−池田忠雄室−池田光仲−仲澄−仲央−仲庸−勧修寺経逸室−東京極院−仁孝天皇−孝明天皇−明治天皇
ちなみに蜂須賀茂韶侯爵の奥さんは、蜂須賀小六の血を受け継いでいます。
蜂須賀正子さんが、離婚後アメリカに移住されたって話をどこかで書いてる人が居たけど
今日本に住んでるらしいよ。あと息子さんが居るみたい。
某所に蜂須賀一門の系図が出てたが例の役者さんとの繋がりがイマイチわからんね。
それらしき家は載ってたが。
359 :
日本@名無史さん:04/07/01 18:31
釈由美子が蜂須賀正勝の子孫だって話はどうなったの?
本当らしいぞ
361 :
日本@名無史さん:04/07/01 23:22
俳優の人は、徹子の部屋に出たときに「蜂須賀の分家の子孫」って言ってた。
362 :
あきらめきれない名無しさん:04/07/01 23:52
織田信孝さんに、関東から東海、東北地方に流行した「第六天信仰」と
織田家の人々が関わっているのかどうかお聞きしたかった・・・とほほほ
363 :
日本@名無史さん:04/07/02 00:11
本名なんか名乗って書き込むと必ず傷つけるようなこと
書くヤツが出てくるからなあ・・・。
364 :
日本@名無史さん:04/07/02 00:17
偽源氏蒲池というスレで、子孫が偽の血統をつくろうと頑張ってるぞ
皆さん、私は偽者じゃないですよ。
現在の2chは匿名性が確保されていない。他人の名前を騙る投稿はリスクを伴う。
368 :
日本@名無史さん:04/07/02 18:57
>>194-195 小栗忠順(上野介)と娘の国子さん、蜷川親賢と息子の新さんの間にはそれぞれ中継養子が入っています。
小栗忠順夫人と蜷川親賢夫人は姉妹で、それぞれ維新後に実家の建部子爵家を頼ります。
小栗夫人は世間体もあって追い出されてしまいますが。
知り合いの津田さんが織田信貞の子孫らしいんだけど、信貞の子孫って織田姓じゃないの
370 :
?D?c?M?F:04/07/02 22:18
多分、それは妾腹じゃないですかね。
371 :
?D?c?M?F:04/07/02 22:18
多分、それは妾腹じゃないですかね。
小栗の子孫はファッション・デザイナーでしょ。
373 :
日本@名無史さん:04/07/03 01:11
>>345 日本の名家って面白い本だけど内容が古いね。もう当時と当主が代替わりしてる家も。
脇坂さんが掛布選手の大ファンとか書いてるし。
374 :
日本@名無史さん:04/07/03 01:46
>>369 「織田」と「津田」は関係がある
信長の庶兄は津田信広、甥は津田信澄
旧大名家からつながっている信長次男・織田信雄からの末裔は二家、
ご本人登場の織田信孝さん(柏原)と織田信弘さん(天童)です。
旧華族で構成されている霞会館メンバーでもある。間違いない!
その他、高家もあるが、枝葉やその分かれだ。
マスコミで騒いでいる人ほど偽物だ!間違いない!
最近改名した久田(織田)信和氏はこそ怪しいぞ!間違いない!
376 :
日本@名無史さん:04/07/03 12:35
@旧天童藩の当主織田信弘氏の父は、「信明」ではなく、「信昭」では?
と思ったのですが、織田信孝氏はもう現れないのでしょうか?
Aスケートの織田選手の母の名前に「おりた」とルビをふっている資料を
みたのですが、正確にはどちらでしょう?記憶違い?
B織田信長-信貞-貞置-長迢-津田長経(以下、省略)。津田姓の子孫います。
378 :
日本@名無史さん:04/07/03 23:47
利家の血判状、穴水町に 領地問題和解の証 長家の家宝、当主が寄託
http://www.hokkoku.co.jp/_today/H20040613003.htm 前田利家が重臣の長連龍(ちょうつらたつ)(一五四六―一六一九)にあてた血判起請文(きしょうもん)(誓詞)が、
加賀八家の長家第三十四代当主である長昭連(あきつら)さん(75)=東京在住=から長氏の居城があった穴水町に寄託された。
前スレより
683 :日本@名無史さん:04/03/28 13:09
本多正信−政重−政長−政敏−政質=政昌(政質の弟)=政行(政敏の弟政冬の子)−政成−政禮−政和−政通−政均(政通の弟)−政以(男爵)−政樹−政一−政光
本多政重は本多正信の次男で正純の弟。
徳川家を出奔し宇喜多秀家に仕える。秀家配流後、上杉家に仕え直江兼続の養子となる。
その後前田家に仕え家老。
長連龍−好連=連頼(好連の弟)−元連−尚連=高連(尚連の弟連房の子)−善連=連起(長連安の子)−連愛=連弘(本多政禮の子)−連恭=成連(連恭の弟)−克連(男爵)=基連(本多政以の子)−昭連
長連龍は能登畠山家家臣。畠山家滅亡後、神保家、次いで前田利家に仕える。
あれ、「信長マニア」さん、まだいらっしゃいましたか。
信孝さんが去られたので、貴方に伺いたく思いますが、
>>342の
織田家系図(廃藩置県を迎えた大名家のみ記載)
http://daimyokeizu.hp.infoseek.co.jp/oda.html に、どこか誤りはありませんでしょうか。
なお、この系図には以下の規定があります。
・人名、血縁関係は主として『三百藩藩主人名事典』(新人物往来社刊)に基づく
・人名は可能な限り新字体で表記
・藩主、藩主家主及びその直祖以外の人名は省略
・婚姻関係がある養嗣子(つまり婿養子)は「=」、関係のない養嗣子は「→」で繋げる
・兄弟順は、実男子、実女子、婿養子、その他の順とし、形式上の上下関係によらない。
380 :
日本@名無史さん:04/07/04 01:02
>>369 織田信貞の直系は織田姓で分家が津田姓。この津田家から画家の織田瑟々が出ている。
他に熊本藩士津田家は織田信包(信長の弟)の孫に始まる家。
加賀藩士津田家は津田勝長(信長五男)の子勝良に始まる家。
785 :日本@名無史さん:04/04/07 20:55
>784
補足。
織田信長−織田勝長(津田源三郎)−津田勝良−長政=喬長(奥村湍兵衛の四男)−信要=信節(津田孫十郎の二男)−伝八郎=主税(伝八郎の弟)−信勝−則長
あと鳥取藩家老津田家も織田一族。
>380
>あと鳥取藩家老津田家も織田一族。
信長の妹婿、津田元秀の弟の子孫だね。
鳥取藩には津田勝長の子孫を称する家もあるけれど…、う〜ん。
>379
@織田家の略系図の補足
天童藩主信学の六男は、「寿恵丸」ではなく、「寿重丸」。
旧天童藩主系の信正の弟は「信明」ではなく、「信昭」?(霞会館の本では)。
と思います。
A津田姓について
天童・柏原両藩織田家とも藩主の庶子は津田姓を名乗ることが多いです。
高畠藩主織田信浮-津田長郷-長将 (出典は山形県史)
383 :
日本@名無史さん:04/07/04 15:29
船田元と宇和島伊達家って親戚だってな
>379
申し訳ありません。織田略系図でもう一つ修正箇所があります。
天童藩織田家のところで、信恒は信学の養子ではなく、信敏の
養子です(正式には婿養子)です。
385 :
日本@名無史さん:04/07/04 21:11
>>383 伊達宗曜男爵の家と親類。船田家と相婿の関係だと閨閥関係の資料に出てる。
386 :
日本@名無史さん:04/07/04 21:26
>>384 確か、…信敏=寿重丸=信敏(再襲)=信恒−信正 だったと思う。<天童藩
織田信恒氏は、織田小星という名で漫画家としても知られる。
原作の「正ちゃんの冒険」が大人気となり、正ちゃん帽が流行した。
「正ちゃんの冒険」原作:織田小星、作画:樺島勝一
「正ちゃん帽」漫画「正ちゃんの冒険」の主人公がかぶっていた、
毛糸製で先に丸い毛糸の玉の飾りのついた帽子。
387 :
日本@名無史さん:04/07/04 22:39
小笠原流の宗家って、どなたなんでしょうか?
小笠原流のHP(
ttp://www.ogasawara-ryu.gr.jp/)では
31代小笠原清忠さんという方のようですが、
小笠原敬承斎さんという方も宗家のようです。
小笠原敬承斎さんやそのお父さんの小笠原忠統さんは
上記HPの系図には名前がないようで、混乱しています。
小笠原流とは礼法・弓法・茶道等によってそれぞれ宗家が違うのでしょうか?
どなたかご存知でしたら教えてください。
>>
小笠原敬承斎さんは先代忠統氏の娘ではなく、忠統氏の姉日英尼さんの孫です。
こちらは豊前小倉藩主家、つまり深志小笠原の本家ですが、家督まで継いだのか
どうかはちょっと判りません。礼法だけ継いだのかも。
小笠原流礼法宗家からのご挨拶
http://www.ogasawararyu-reihou.com/contents1/profile.html 弓馬術については、ご紹介のページにありますね。
http://www.ogasawara-ryu.gr.jp/outline/history/history.html ------
この時から惣領家では三階菱の紋を、清経家では三階菱の中に十字を入れた紋
を使うようになりました。その後も両家は密接な関係を保ちながら戦国の世を戦い
抜いてきましたが、清経家の17代経直は、 惣領家の長時、貞慶親子から永禄5年
(1562年)11月に弓馬術礼法の道統を承継しました。
徳川時代に入ると、惣領家の人達は豊前小倉の城主、肥前唐津の城主、越前勝山
の城主として明治に至りますが、経直は、 徳川家康に招かれ、徳川秀忠の弓馬術
礼法師範となり、御維新まで高家として幕府の弓馬術礼法の師範を務めています。
また20代貞政は享保9年(1724年)8代将軍吉宗の命により新儀式としての流鏑馬
を制定し、高田馬場で度々行なっています。
------
389 :
日本@名無史さん:04/07/05 18:01
>>30と
>>264を見比べると上杉家の現当主の方が武田の嫡流に近い血筋なんじゃないかと思える。
390 :
日本@名無史さん:04/07/05 22:31
391 :
日本@名無史さん:04/07/06 20:57
考古学者の坪井正五郎も織田秀信の子孫だと何処かで読んだ気がする。
392 :
日本@名無史さん:04/07/06 23:32
>>378 大久保利通を暗殺した長連豪も長一族。実家は長氏分家の此木家で、維新後に先祖の姓に改姓した。
393 :
日本@名無史さん:04/07/07 00:50
某板にMアナの家系図を書きこんだ人がいるけど全然レス付いてないな。アナだと書いてないからかな。
394 :
日本@名無史さん:04/07/07 05:38
この前テレビ番組で、ある学者が留学先で知り合った旧真田子爵家の人に、「地元のお城はどうされてるんですか?」と聞いたら
「家老が守っています」って答えたって言ってたが、この「家老」って誰?何家の人?
395 :
日本@名無史さん:04/07/07 15:53
織田秀信−坪井某…坪井信之−信道(誠軒)=信良(佐渡養順の二男)−正五郎
坪井正五郎の父親は養子だけど一応こんな感じ。坪井家には織田秀信の子孫だとする家伝がある。
396 :
日本@名無史さん:04/07/07 20:37
397 :
日本@名無史さん:04/07/07 23:27
水戸藩士の一色家からは土浦五十銀行頭取の一色範叔氏がでてる。
398 :
日本@名無史さん:04/07/07 23:58
>>394 松代藩の家老っていうと、矢沢、鎌原、恩田、望月、大熊なんかかな。
地元の名士なのは、矢沢家とか鎌原家なんかが松代町長を出してる。
399 :
日本@名無史さん:04/07/08 01:29
小栗忠順(上野介)=貞雄(小栗上野介の長女クニの婿)−又一−忠人−又一郎(小栗かずまた)
小栗貞雄は矢野文雄(龍渓)の実弟、扇橋製薬社長、衆議院議員。
小栗又一は詩人、小栗又一郎は漫画家(小栗かずまた)。
>>372 前にも小栗上野介の子孫が服飾デザイナーだって書いてる人がいたけど誰の事だろ。
400 :
日本@名無史さん:04/07/08 08:07
401 :
日本@名無史さん:04/07/08 12:11
402 :
日本@名無史さん:04/07/08 12:56
先日から話題になっている綾瀬市コンクリ殺人事件の主犯の一人・○作(旧姓K倉)譲を養子にしていた
神○久子氏は岩槻藩家老の子孫ではないかという話を見たのですが、本当でしょうか?
403 :
日本@名無史さん:04/07/08 17:33
>>401 奥州畠山氏末裔の二本松錠氏が医学博士になってる。
“末は博士か大臣か”と言うぐらいだから一応出世なんでない?
畠山の末裔は、管領家が高家。能登守護家が高家畠山、高家上杉、米沢藩士、紀州藩士。
日向畠山が薩摩藩士。奥州畠山が水野家家臣二本松氏。
405 :
日本@名無史さん:04/07/09 06:55
406 :
日本@名無史さん:04/07/09 23:17
407 :
日本@名無史さん:04/07/10 02:28
今週の新潮にも徳川慶圀の話がでてたぞ。細川元総理に接近したんだと。
俺に言ってくれればもっといい名前考えてやったのにな<慶圀
元総理は最近本出したね。
越中ふんどしを発明したのは細川忠興だと書いてた。
>>407 漏れもその記事読んだ。もっとも最初に出た記事を読み損ねたんだが。
しかし、慶圀って名前、光康よりはセンスあると思うんだが?
喜斉、とでもすればよかったのかね。その方がセンスないか・・・
漏れにはいい名前は考えられなさそうだな。
で、慶圀はどこの子孫を名乗ってるの?
>>382 >>384 そのくらいなら文献間の齟齬レベルですね。
『平成新修旧華族家系大成』などで再確認致したく思います。
ありがとうございました m(_ _)
>>409 慶圀は慶喜直系子孫を名乗ってるそうだね。父親の名前は出てなかったと思う。
413 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 11:28
>>398 大熊家は真田子爵家の家令を務めてる。
大熊家は元上杉謙信家臣で、武田信玄に仕え子孫は松代藩真田家に仕えた。
414 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 11:38
家令が優秀だった家は資産を残せてるね。尾張徳川とか。
逆に御三卿なんかは良い家令が居なかったので没落してる。
>>411 慶喜の子孫は慶朝さんとこ以外は慶の字使ってない、ってことは
普通は知らないもんだもんなあ・・・
慶喜子孫を名乗るなら漏れの「喜斉」ってのも悪くないんじゃないか
>>400 ゴルフの人の息子が津軽家15代。母方は徳川、毛利、細川、近衛等豪華な血筋。
417 :
日本@名無史さん:04/07/11 20:53
418 :
日本@名無史さん:04/07/12 00:43
419 :
日本@名無史さん:04/07/12 00:58
>>417 おもろかったですわ。家達が総理大臣を固辞した理由の一つも
反対派の暴露を恐れたからだったりして。。。
ところで、家達と頼倫って兄弟だったのね。じゃ田安を継いだの誰だっけ。
420 :
日本@名無史さん:04/07/12 01:28
>>419 徳川(田安)慶頼の跡は息子の達孝が継いでます。
達孝の兄が家達(宗家)、弟が頼倫(紀州家)です。
すいません。
そもそも田安亀之助が慶喜の継嗣に選ばれたのはどうしてですか?
>>421 徳川 家達は徳川宗家を継いだのであって慶喜家は継いでいない。
>>421 田安慶頼の父田安斉匡の実兄が十一代将軍家斉。
一橋治済(将軍家斉の実父)−田安斉匡−田安慶頼−田安亀之助
亀之助は徳川一門で宗家に最も近い血筋で、十四代将軍家茂の養子になる予定だった。
慶喜の養子として十六代を継いだのは、本来継ぐべき人が、一代遅れて継いだってことですね。
>>423 >>慶喜の養子として十六代を継いだのは
?慶喜の後継は慶久じゃないのか。
425 :
日本@名無史さん:04/07/12 02:38
>>424 徳川家達は十五代将軍慶喜の養子として宗家十六代を継いだ。慶喜の実子達が家達を「義兄」と呼ぶのはその為。
徳川慶喜は後に宗家から別家し徳川慶喜家を立てて、その跡を実子の慶久が継いでいる。
>>425 なるほど、そういう流れですか。ありがとう。
427 :
日本@名無史さん:04/07/12 09:50
みのもんたの実家の御法川家ってほんとに秋田藩士だったんだね。
分家らしいけど本家とどこで分岐したのかな。
>>423 なるほど。元から継ぐ予定だったんですね。ありがとうございました。
ごめん水戸藩士ではなくて土浦藩家老の系統だったヨ<一色氏
足利泰氏−一色公深−範氏−範光−詮範−範貞−範次−藤直−金丸藤次−虎嗣−虎義−
土屋昌恒−忠直−数直(土浦藩主)−政直−陳直−以直−一色範實−略−範疇(土浦藩家老)−範叙−範宏
維新後に一色範疇が第五十国立銀行を創設して、後に土浦五十銀行(常陽銀行の前身)と名を変えた。
息子の範叙も頭取を務めている。
431 :
日本@名無史さん:04/07/13 00:14
>>417 元総理の父君にも同様のスキャンダルが・・・
瀬名義利陸軍少将の系図、ご存知の方教えてくだされ。
幕臣瀬名家の出身らしいので、今川義元の一族だと思うんだけど。
前回レス下さった方ありがとうございました。まだ完全な滝川さんの系図は出てないんでしたっけ。
残念ながら私の血統はサラブレッドではなかったようです…_| ̄|○
>418
高家旗本織田家の末裔・織田一磨は、版画家です。兄の明も芸術家です。
一磨の死後、お孫さん(娘さんの子)が養子入りしたようです。
437 :
日本@名無史さん:04/07/14 00:15
山県家に伝わる系図(昌景から大弐まで)
山県昌景=秀政(実は飯富兵部の子)−政武−昌常(仕甲府公)−昌志(五左衛門)−昌孝(景孝、領蔵)−昌貞(大弐)
438 :
日本@名無史さん:04/07/14 13:21
439 :
日本@名無史さん:04/07/14 20:23
>429
足利泰氏−一色公深−範氏−範光−詮範−範貞−範次−藤直−金丸藤次−虎嗣−虎義−
土屋昌恒−忠直−数直(土浦藩主)−政直−陳直−戸田氏純(以直)−一色範實−範道−範継−範疇(土浦藩家老)−範叙−範宏
略のところを埋めてみた
今週の新潮は、ニセ有栖川の黒幕逮捕間近って小さな記事が出てた
441 :
日本@名無史さん:04/07/15 22:52
442 :
日本@名無史さん:04/07/15 23:53
>>433 今川スレに歴代当主を書きこんでる人がいたよ。寛政譜からかな。
238 名前:日本@名無史さん 投稿日:2003/12/07(日) 11:56
>>235 了俊の系統は了俊の長男・貞臣の家系が瀬名氏を名乗った。
次男・貞継は名和氏、三男・貞兼は尾崎氏を名乗った。
今川貞臣
今川貞相
今川範将
今川貞延
瀬名一秀
瀬名氏貞
瀬名氏俊
瀬名氏明
瀬名政勝
瀬名清貞
瀬名弌明
瀬名俊光 瀬名弌明の養子・氏明と弌明の娘の子の婿養子となる
瀬名貞雄
瀬名貞如
瀬名貞陳
443 :
日本@名無史さん:04/07/16 04:27
444 :
日本@名無史さん:04/07/16 04:56
>>443 “北畠顕家!!”スレより。
199 :日本@名無史さん :04/06/13 21:54
村上天皇−源師房−顕房−久我雅実−顕通−雅定−雅通−通親−中院通方−雅家−
北畠師親−師重−親房−顕能
顕能は顕家の弟。
顕能−顕泰−満雅−教具−政郷−材親−晴具−具教
具教は織田信長の次男信雄を養嗣子とする。
具教−具房−昌教−昌清−有馬昌範−範久−範忠−範行−重範−範顕−酉松−範治
昌教は流浪の末、津軽藩を頼る。昌範は、有馬姓に改姓し、公卿となる。
有馬範顕(1815〜1873)は公武合体・佐幕派として行動。相次ぐ政変に敗れ、津軽浪岡に隠遁。
新政府樹立後、華族への復帰を試みるもならず。
久我建通の四男通城が北畠姓を称し北畠家再興。男爵。
445 :
日本@名無史さん:04/07/16 21:38
>443
こんなカキコがあったよ
62 :日本@名無史さん :03/08/01 22:23
養子に行っても実親との縁が切れるわけでないし、養子先から再度養子に行っても
離縁しない限り元の養親との縁が切れるわけではない。例としては北畠家に養子に出た織田信雄が
北畠家と縁を切らないまま近世織田家の祖となっている。(近世織田家では北畠家の祭祀も行っている)
即ち秀康は家康、秀吉、晴朝いずれの後継者になり得る資格はあった。
446 :
日本@名無史さん:04/07/16 23:52
新しい札は樋口一葉らしい
新渡戸春治(仕南部信直)−常綱(花巻新渡戸祖)−貞紹−義紹=常以(義紹の兄常估の子)=常言(常以の弟)−常賢−維民−傳(常澄)−十次郎(常訓)−七郎=稲造(七郎の弟)=孝夫(河野孝忠次男)
新渡戸家の遠祖は千葉氏で、春治以来南部家家臣
新渡戸維民は盛岡藩士で兵法学者
新渡戸傳は七戸藩家老、大参事
新渡戸十次郎は盛岡藩の奥御勘定奉行、側用人
新渡戸稲造は国際連盟事務次長
萬里夫人(米国人ジョーゼフ・エルキントン長女)との間の実子遠益(トーマス、新渡戸の友人トーマス・エジソンに因む)は夭折。
現在の五千円札に使われている肖像写真は、孝夫の結婚式のもの(トリビアの泉より)
447 :
日本@名無史さん:04/07/17 18:41
瀬名義利少将の奥さんが幕臣の榎本道章の娘なんだけど、
この榎本道章って榎本武揚の身内かね。一緒に蝦夷に行ってるけど。
449 :
日本@名無史さん:04/07/18 21:03
450 :
日本@名無史さん:04/07/19 16:13
>>406 『日本の名門・名家100』(中嶋繁雄・幻冬舎)に“現当主の浩平氏”とあった。
451 :
日本@名無史さん:04/07/19 19:25
303織田信孝さん。あなたこそ、やはり織田家のご本家なのですね。
あなたのテレ朝への抗議は認められ、スーパーモーニングは下記HPを勝手に作り
お騒がせもいいとこの無関係のおっさんの誤りを認め、謝罪の訂正報道を
正式にしたのですね。もう一度登場して是非コメントを。
ところでこんなHP立てていつまでも活動してて問題無いのかしら???
http://www.odanobunaga.net/bbs/topics.cgi
452 :
日本@名無史さん:04/07/19 19:27
>>289 『徳川旗本八万騎人物系譜総覧』(新人物往来社別冊歴史読本83)によると。
今川氏真−品川高久−高如=伊氏−範増=信方−氏如=氏長=
氏維=高美−言氏−高尚=氏繁=氏恒・・・
か。気になる。
453 :
日本@名無史さん:04/07/19 19:38
454 :
日本@名無史さん:04/07/19 20:47
455 :
日本@名無史さん:04/07/19 20:52
456 :
日本@名無史さん:04/07/19 21:01
スーパーモーニングが謝罪報道したってほんとですか<自称織田宗家の件
457 :
日本@名無史さん:04/07/19 21:09
織田木瓜紋会って連絡先とかメールアドレスとか非公開なの?
こうゆう趣旨の会らしい。会員ってどこで集めたんだろう。
↓
織田信長公を奉り、織田信長に関する調査研究等を行い、
国家繁栄を祈念し、会員相互の互助、社会福祉活動等を通して、
社会的貢献に寄与することを目的としています。
458 :
日本@名無史さん:04/07/19 23:23
456さん。他のスレに出ていましたよ。(先月に織田家と武田家が和睦した/織田信雄)
457さん書き込みの織田木瓜紋会って織田宗家を騙る偽者であると柏原藩・織田本家が
テレ朝スーパーモーニングに抗議し、あわてて謝罪報道したみたい。宗家を騙るこのおやじは
つい数年前にわざわざ改名(旧姓・久田?)までしてHP立ち上げていた。武田家も巻き添え食った
らしいが、武田旧温会もテレ朝にならってHP早く訂正した方がいいね。
459 :
日本@名無史さん:04/07/21 00:54
>>458 武田旧温会のHPは無いんじゃない?たぶん武田家ファンの人が作ってるHPのなかで武田旧温会紹介してる部分を指してるんだと思うけど。
そういえば旧武田家家臣の子孫の方の中には、織田との和睦の話しに反対の意見も合ったらしいね。
460 :
日本@名無史さん:04/07/21 01:16
なんか和泉元彌みたいだが
彼の場合親父も宗家だからなあ
ただ能楽協会除名されて宗家もねえんだが
461 :
日本@名無史さん:04/07/21 12:29
462 :
日本@名無史さん:04/07/21 19:38
辞書によると『宗家』の意味は、一門の本家。また、流派の主となる家筋。
和泉元彌氏の場合狂言和泉流の宗家だから後者。織田氏は前者の意味で使っているわけだね。
でも織田一門の本家でないのは明白。
463 :
日本@名無史さん:04/07/21 22:26
>>462 織田家、明智家と和睦なんてテレ朝がスーパーモーニングでついうっかり
やったらしいが、これって「宗家」なり「本家」でないとできないよねえ。
だから改めて謝罪訂正報道したの? 誰か 詳しい方、教えて?
明智の中の人も・・・・。
465 :
日本@名無史さん:04/07/22 16:29
土方歳三函館記念館に、歳三の子孫が怒っているって記事が今週の文春に。
466 :
日本@名無史さん:04/07/23 04:19
>>453 とりあえず宗家のあいさつと系図は保存したよ。あとあと削除or訂正があるかもしれないし。
467 :
日本@名無史さん:04/07/23 19:36
宗家のあいさつに「本来ならその役割(総見禅寺の住職)を私が継承すべきところ」
とあるが、総見禅寺の住職って世襲なの?
468 :
日本@名無史さん:04/07/23 23:59
>>467 現在の安土には寺跡のみ。江戸期に柏原藩・織田家が住職となる僧侶を安土へ
送り込んでいた。「宗家」を騙るおっさんの家は、世襲で継承できるものでも無い。
ましてや勝手に柏原藩・織田家の当主を差しおいて「宗家」を名乗れる筈も無い。
このおっさんの家が仮に一時期、その任にあったとしても還俗して終わり。
現在の柏原藩・織田家当主の織田信孝さん(前述303)が真っ向から彼の主張を
完全否定している。これを「偽物」と言わず何を「偽物」と言うの?
469 :
日本@名無史さん:04/07/24 12:36
>>467 そう見寺の住職は世襲じゃない。子供や孫が継いだ例は無いよ。そもそも家業じゃないんだから。
470 :
日本@名無史さん:04/07/24 13:13
>469
例えるなら「爺ちゃんがダイエーの店長だったから、俺も当然店長のはずなんだけど・・・」
って言ってるようなもんか?
470
むしろ、「お爺ちゃんが郵便局長だったから当然僕も・・」に近いんじゃないかな?
472 :
日本@名無史さん:04/07/24 23:50
>>455 白河や白木も“新羅(シラ)”が入ってるし、群馬県の甘楽郡も“韓”がついてるとも考えられる。
信濃や品川は“シナ”、印旛、因島、因幡、稲城、伊那なんかは“殷(イン、イナ)”っていう説もある。
昔は大陸や半島から多くの人が渡ってきてたわけで、無きにしもあらずの話、地名の起源を探るのも大いに興味ある作業。
ここのスレは歴史上の人物の血筋がどのように受け継がれているのかを考察するところ。情報の充実ぶりはただ感服。
473 :
日本@名無史さん:04/07/25 01:09
>>468 現在、安土城址の土地を所有するのは臨済宗妙心寺派であって、
このおっちゃんはまるで何の関係ない。こんな事言い出したら切りがないよ。
名古屋から尾張一帯は全て織田家の土地だぞ、今から全部返せって騒いでいる
ようなものだ。
474 :
日本@名無史さん:04/07/25 10:16
>>444 それ、どっかの電波系サイトのコピペだと思うけど、具教以降は間違い。
だいたい有馬昌範なんていう公卿はいないし歴史そのものもインチキ。
信じないように。
>>472 コピペにマジレスすな。
475 :
びっくりした名無しさん:04/07/25 21:11
衝撃!!
織田家のご当主様は、なんと明智光秀の子孫だった!!
明智光秀―細川ガラシャ―細川立孝―細川有孝―細川興生―細川興文―細川立礼―細川立之―細川行芬―山崎治正室―織田信親―織田信大―織田信和―織田信孝
476 :
びっくりした名無しさん:04/07/25 21:27
第二弾!
織田家のご当主様は、織田信長の子孫ではない?????
織田長益―(櫻井)松平忠頼室―松平忠重―松平忠倶―松平忠継―松平利喬―松平利名―土井利厚―細川立之室―細川行芬―山崎治正室―織田信親―織田信大―織田信和―織田信孝
>475
細川立孝はガラシャの子じゃないぞ〜。
478 :
日本@名無史さん:04/07/25 21:43
>>476 織田長益(有楽斎)は信長の弟であり、この家系は大和芝村藩主と柳本藩主
として繋がっています。現当主・織田信孝さんは信長次男の信雄から繋がる
柏原藩主の家系。もし山崎治正なる人物がご指摘の織田長益の血縁から繋がる
ものなら、この織田大名家4家が繋がることになるのでは??
479 :
びっくりした名無しさん:04/07/25 22:17
男系を辿ると将軍家光の追い腹を切った内田正信の子孫でつ。
平野というのは賤ヶ岳七本槍の一人平野長泰の家でつ。
内田正信─正衆─正勝─正偏─平野長里─長純─長興─山崎治正─織田信親─信大─信和─信孝
481 :
日本@名無史さん:04/07/28 08:04
明石城の向かいに
織田邸跡ってのがあるのですが
この織田家はいったい何者なんでしょう
482 :
日本@名無史さん:04/07/28 10:36
>>481 兵庫県明石在住の者ですけれど
以前、信長の叔父犬山城主織田信清の子孫と歴史に詳しい方から説明を受けた事があります。
随分以前のことだし、自称歴史に詳しいだったからどこまでが本当だか‥。
信長の叔父に信清っていたんでしょうか?
484 :
日本@名無史さん:04/07/28 21:35
>>483 482です。私も改めて織田家の系図調べました。
信清は信長の従兄弟でした。サンクス!
いま『プロジェクトX』の再放送で「公団住宅のダイニング」編を見ているのですが
ここに出てくる設計士の 尚明(しょう・あきら)さん って、琉球王家の関係者なんでしょうか?
申し訳ありません。
先に検索すべきでした。
そして御教示ありがとうございました。
伊達家家臣大内氏
大内持世―義世…義綱―定綱―重綱―義春―義直―義繁―〇〇―義門―定知―義宣―定行…
定綱の弟は片平親綱。重綱の弟、惟義は小原氏に。
惟義―武清―武清―武元―武春―玄晴…
仁科家
盛東┬盛政―盛孝
└盛清―盛吉―盛久―盛重―盛嗣―盛常―暉里―盛求―盛享―盛長―圭之助=盛保―次郎―正―盛一
武田信玄の子、盛信は盛政の養子。盛保は圭之助の妹しまの婿養子。
491 :
日本@名無史さん:04/08/04 21:11
エイベックスの依田巽会長って依田信蕃の子孫なの?
会長「私の先祖は信州佐久の出身」
依田信蕃の出身も佐久だよね。
492 :
日本@名無史さん:04/08/05 14:09
493 :
日本@名無史さん:04/08/05 22:45
495 :
日本@名無史さん:04/08/06 21:12
496 :
日本@名無史さん:04/08/06 23:28
497 :
日本@名無史さん:04/08/06 23:37
血縁幻想か
498 :
日本@名無史さん:04/08/06 23:47
>>481-482 明石藩松平家の家老に織田家がありますね。織田信清の子孫だとは知りませんでした。
>>495 尾張上四郡守護代の織田信安(織田伊勢守家)の子孫が土佐藩士になっています。
山内一豊の父が織田伊勢守家の家臣だったのが縁です。
伊勢守家が織田家の嫡流で、分家の大和守家が尾張下四郡守護代。信長は大和守家の分家の出ですね。
>>423 田安慶頼の写真を見たけど片目をつぶっていた。隻眼だったのかね。
家達さんの写真を以前見たときキ○イ顔だったので、恐る恐る見たのだが親父はそれほどでもなかった。
>175
保科正之の子孫居るらしいよ。
保科正之−松平正容−容章−容詮−容住−容敬−容保室−保男−保定−保定
501 :
日本@名無史さん:04/08/07 19:24
>493
高崎藩松平家の家臣の神戸三郎左衛門が神戸信孝の曾孫をなのってるけど関係無いかな。
>>500 松平容敬は容住の実子ではないし、松平保男の生母も容敬の娘ではありません。
松平容敬は高須藩主松平義和の子供です。表向きは先々代の容住の子供とされましたが。
容敬自身も、高須藩の出身であることは承知していました。後に実家から甥を養子に迎えています。
容敬の子供は夭折してしまったため、親戚の保科家から養女の照姫をもらいました。
その後で実子の敏姫が産まれ、その婿とするべく実家から甥の容保を迎えたわけです。
敏姫も夭折してしまうのではとの危惧から、保険の意味で照姫の婚期が遅れてしまいました。
照姫は奥平家に嫁ぎますが、離婚して会津藩に戻ってくる事になります。
敏姫は天然痘を患ったため容貌が変わってしまったことや、父親容敬の急死を気に病むあまり19才で亡くなります。
子供のいない容保は水戸藩から喜徳を養子に迎えますが、容保に実子容大が産まれたため喜徳は実家に戻りました。
容大、健雄、英夫、保男の生母は側室田代氏。恒雄の生母は側室川村氏です。
したがって旧会津藩主松平家の御子孫と保科正之は血が繋がっていません。
>>502 > 容大、健雄、英夫、保男の生母は側室田代氏。恒雄の生母は側室川村氏です。
田代一族は名門だね。剣術や芸能で身を立てた人も多い。剣豪人名辞典にも田代姓の人が載ってる。
504 :
日本@名無史さん:04/08/07 20:38
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1067465743/l50 491 :無名武将@お腹せっぷく :04/07/03 15:20
559 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2004/06/27(日) 21:23
今川義元−今川氏真−西尾安信−酒井忠宇(庄内藩士)−酒井忠寧−石野信政−石野信和−石野信一−石野三和−石野宗孝−田代文兵衛−田代文也−田代孝明−田代和政−田代政
脈々と受け継がれる今川の血筋。田代政さんは芸名田代まさし、1980年シャネルズでデビュー。
その後グループ名をRATS&STARに改名、現代に至る。
562 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2004/06/27(日) 23:14
>>559 西尾安信は氏真の三男か四男だったと思う。その子供が庄内藩主の一族の養子になってる。
その家の五男が石野姓をなのってて家紋は先祖にちなんで二つ引両。石野家の子供が田代家(剣術師範)に婿養子に入った。
畠山の子孫にも有名人っているの?
495 :無名武将@お腹せっぷく :04/07/03 20:21
565 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2004/06/28(月) 17:02
昔、田代文也さんの兄の孫にあたる方に系図見せてもらった。
系図は「石野・田代系図」で石野家初代の信政は今川氏真の玄孫と書いてた。
その方が曰く「うちは天皇(清和天皇)の子孫」「足利尊氏も親戚」
「志村けんの番組に出てる、田代まさしって居るでしょ? あれ親戚」だって
こんなカキコもあった
496 :無名武将@お腹せっぷく :04/07/04 00:28
さっそく今川家の一族として新武将登録しますた
505 :
日本@名無史さん:04/08/08 05:08
前スレに出てるけど
×井伊直弼(彦根藩)ー井伊直安(与板藩)ー毛利隆子(毛利高範室)ー近衛千代子(文麿室)ー細川温子(護貞室)ー細川護熙
○井伊直弼(彦根藩)ー井伊直威(滋賀県士族)ー毛利隆子(毛利高範室)ー近衛千代子(文麿室)ー細川温子(護貞室)ー細川護熙
毛利高範室は井伊直安の養女で実は直安の兄直威の娘らしい。
>>505 井伊直威さんってお兄ちゃんは伯爵、弟は子爵、自分は士族。カワイソ。
507 :
日本@名無史さん:04/08/08 05:27
あほか、百姓が一番尊いだろw
さらしあげ!
>>501 上州には元々伊勢の神部氏の一族が居たのだが、それが後で信孝後裔を自称したんじゃなかろうか。<神戸三郎左衛門
509 :
日本@名無史さん:04/08/08 18:56
>466
ほんとにそうなっちゃったね。
>>509 a9斉昭┬a10慶篤─a12篤敬─a13圀順┬a14圀斉─a15斉正(常陸水戸藩主家)
├慶喜 └b12圀弘─b13弘孝(陸奥森山藩主家)
├a11昭武(清水家へ)
├b9喜徳
└b8頼之
であり、男系では慶喜の子孫とはいえない。
>>509 >>511 徳川慶喜−徳川英子−松平圀弘−松平弘孝
圀弘さんは水戸徳川家の出身で母親が慶喜の娘
513 :
日本@名無史さん:04/08/09 19:30
>508
三郎左衛門の祖父は上州小幡家の家臣だったことになってる。
小幡家は武田家の旧臣。織田信長の孫を雇うのかな。
514 :
日本@名無史さん:04/08/09 22:14
515 :
日本@名無史さん:04/08/09 22:38
>>459 そこの掲示板に特攻しちゃった人が居ますよ(笑)
伏字にしてるけどあの書きこみはどうなんですかね。ちょっと心配。
明智関係の板に書きこまれた人とは別の人な感じですね。
516 :
皆様お久しぶり:04/08/10 08:53
496さんへ。
休暇から戻り、久しぶりにのぞいたら、以下の件、御質問があったのでお答えします。
これは「世界帝王事典」が間違えています。
信大の後に、私の父、信和(昭和3年~昭和61年)がいて、私(信孝)となります。
---------------------------------------------------------------------
世界帝王事典
織田氏(高長家系)では
信大の息子は信孝となっていて、信和の名はありません。
http://nekhet.ddo.jp/people/japan/oda03.html この信和氏は、あの信和氏と言う事はないと思いますが、
正しい情報をご存知の方、お教え下さい。(というか、織田信孝さんご本人にご教示頂きたい所です)
517 :
皆様お久しぶり:04/08/10 08:54
496さんへ。
休暇から戻り、久しぶりにのぞいたら、以下の件、御質問があったのでお答えします。
これは「世界帝王事典」が間違えています。
信大の後に、私の父、信和(昭和3年~昭和61年)がいて、私(信孝)となります。
---------------------------------------------------------------------
世界帝王事典
織田氏(高長家系)では
信大の息子は信孝となっていて、信和の名はありません。
http://nekhet.ddo.jp/people/japan/oda03.html この信和氏は、あの信和氏と言う事はないと思いますが、
正しい情報をご存知の方、お教え下さい。(というか、織田信孝さんご本人にご教示頂きたい所です)
?????
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??????????????????????????????????
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織田信孝様
早速の御回答を誠に有り難うございました。
御父君信和氏の名があの自称宗家「第十三世信和氏」と同じ名だったとは!
さぞかし御腹立ちの事とお察しします。
520 :
日本@名無史さん:04/08/11 00:35
>519
たぶん前名が「和夫」とかだったんじゃないの。
>>510 たぶん「宗家」の文字を消しちゃったのはテレビ朝日からご注進があったんじゃないかな。
522 :
日本@名無史さん:04/08/11 21:39
>>518 お前みたいな馬鹿にはコピペできないんだよハゲ
524 :
日本@名無史さん:04/08/12 06:12
>>510 消してた系図が復活してますね。十三世の文字が入ったみたいですな。
525 :
日本@名無史さん:04/08/12 22:04
>>524 このおっちゃん「宗家」は無理だとあきらめて、こんどは「坊主」かい?
でも本人は坊主でもなさそうだし〜いったい何者なんだろう?とほほ。
自称だったら無道のように、何でもアリでしょう。
527 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:30
528 :
日本@名無史さん:04/08/12 23:50
伊達政宗−伊達忠宗−伊達綱宗−伊達宗贇−伊達宗年−伊達村侯−山口直清−山口直勝−伊達宗城−真田幸民
>>496 さん
>>516 さん、(信孝さん)
ご指摘ありがとうございます。
訂正させていただきました。
お恥ずかしい……。
>「織田信長と安土城」秋山裕穀著 創元社 のP215にある「織田氏系図とそう見寺歴代住職」
http://www.odanobunaga.net/kakeizu.html 木瓜紋会の系図が丸々「織田信長と安土城」に載ってる系図に変わった。参考文献として掲示されてないが。
関係者がここ見てるのかな。その系図は続柄が正確ではないですよ。信長との血の繋がりの証明にはならないかと。
そもそも自分の家の系図のはずなのに、本人があんまり詳しくなさそうなのは・・・
そもそもこの系図の数え方だと、信和氏がそう見寺の十三世ってことになるけど
彼はそう見寺の住職でもなんでも無いですし。三郎氏、信成氏も同様ですから、
そう見寺の十三世を名乗るのはまずいと思うんですけど。
以前「宗家」を僭称されていた方々は、まだ充分な説明責任を果たしていないようです。
「柏原織田家臣系譜」によれば、津田頼道の子女は娘2人、長女常に頼順(通称要)を婿として迎えています。
宗敦なる人物は確認できません。やはり、織田信孝氏のご指摘通り、田中家から形式的な養子に迎えられて、総
見寺の住職になったと推測されます(さらに、織田家の猶子となった上で)。維新後、還俗したならば、戸籍上
は田中家の子孫では?ここらへんをきちんと説明しないと。
533 :
日本@名無史さん:04/08/14 19:56
織田信和さんは、戸籍上織田姓に改姓してるの?
もしそうなら家裁にどんな理由で改姓を届け出てるのかね。
あと公務員が本来名乗る立場に無いのに「織田宗家」を名乗ってイベントに参加したり
テレビ出演して、仮に謝礼として金品を受け取っていた場合問題になる?
534 :
日本@名無史さん:04/08/15 01:58
535 :
日本@名無史さん:04/08/17 09:55
山内豊功氏の長男はたしか、豊浩氏(26歳)
歴代ずつ、豊という名を受け継ぐね。
系図だと、全員名前に豊がある。
537 :
日本@名無史さん:04/08/18 01:03
現代まで数十億円の美術品を維持してきた山内家って資産家なんだね。
538 :
日本@名無史さん:04/08/18 21:26
>>450 山陽コカコーラの社長だった人の息子かな
540 :
日本@名無史さん:04/08/18 22:40
541 :
日本@名無史さん:04/08/19 22:34
某華族家当主の息子は、何故か家を継げずに他家に養子に出された。
代わりに継いだ親族は、その息子の事を「先代の胤じゃなかった」と公言してた。
売ってる系譜集には書いてないけどね。
542 :
日本@名無史さん:04/08/20 05:58
544 :
日本@名無史さん:04/08/21 16:20
http://www.odanobunaga.net/aisatsu.html 織田信和氏が織田木瓜紋会のごあいさつを改訂
削除、書きかえられたされた文面
>(削除)特に江戸中期以降その役割を担ってきたのが織田信雄直系である柏原藩織田家であります。
>(改訂前)そこで柏原藩織田家並びに関連する多くの方々の協力を得て、
>(改訂後)そこで織田家並びに関連する多くの方々の協力を得て、
>(改訂前)織田宗家 織田信和
>(改訂後)第十三世 織田信和
とりあえず、「宗家」「柏原藩織田家」の呼称はまずいと本人も思ってるのかな。
2ちゃんねるって怖いねえ。
見てるほうは楽しくていい時代になったなって思うけど。
内容がまともならどんな非力な奴でも世間に訴えられるってのがイイ。
諸刃だけど。
546 :
日本@名無史さん:04/08/21 17:17
>>544 とりあえず織田信和氏は、更新履歴にあいさつを書き換えたことを書かなきゃね。
あと何故「織田宗家」「柏原藩織田家」と名乗るのを止めたのか、ちゃんと説明しなきゃだめじゃん。
547 :
日本@名無史さん:04/08/21 17:26
あげ
548 :
日本@名無史さん:04/08/21 23:51
>>544 (巷の声その1)彼が自らの根拠としていた柏原藩・織田家から正式のクレームがつき取り下げたのでは?
(巷の声その2) 織田家から正式のクレームがついて「宗家」を名乗るのを取り下げたのでは?
(巷の声その3)信長、信雄は武家、第十三世ってなんで坊主の家系をつなげてるいるの?
(巷の声その4) なんで自分の家の家系図がころころと変わっていくの?知らないのでは?
549 :
日本@名無史さん:04/08/22 06:55
津田永忠の先祖の津田信勝(出羽守)と織田信長って系譜上どんな関係?
津田永忠 江戸時代中期の岡山藩家老
550 :
日本@名無史さん:04/08/23 07:55
江戸後期の儒学者の蒲生君平って蒲生氏郷の子孫らしいよ。
油屋の福田家の出で蒲生に改姓してる。
551 :
日本@名無史さん:04/08/23 16:01
関ヶ原関係で
石田三成…子孫は津軽藩士杉山家 石田正澄…子孫は紀州極楽寺住職の石田家
小西行長…子孫は福岡藩士浅山家 小早川秀秋…子孫は足守藩士土肥家
平塚為広…子孫は紀州藩士後に旗本
長束正家…子孫は熊本藩士田中家 赤座直保…子孫は加賀藩士永原家
553 :
日本@名無史さん:04/08/23 21:52
>>551 平塚は吉宗のおかげで旗本になったね。たしか家斉の側室も出してる。
554 :
日本@名無史さん:04/08/24 09:47
>>390 織田秀信の子孫
安国寺恵瓊の子孫は居ないか〜坊主だもんね
あと大坂の陣の豊臣方も細々と生き残ってるよ
555 :
日本@名無史さん:04/08/24 17:18
>>109 「歴史読本」に書いてましたが、十一代津軽順承の養嫡子だった津軽承祐は為信の血筋でした。
藩主一門の津軽順朝が実父。初期の藩主に子沢山の人がいて藩内に数家分家があったわけです。
ところが承祐は砂糖をかけた桃を食べて死んでしまいます。
血筋を重視する家臣一派は、承祐の弟の朝澄を後継に支持しましたが家中の反対で実現しませんでした。
結局近衛家の推薦で細川家から養子をもらっています。
556 :
満洲帝國復興委員會:04/08/24 20:49
今川冶部大輔殿の墓所に詣でたのは吾輩くらいののであらう
558 :
日本@名無史さん:04/08/24 23:29
>557
年子さん(津山松平家当主と離婚)とゴッチャになってませんか?
>558
蜂須賀茂韶侯爵は一門蜂須賀家の娘と離婚後、水戸徳川家の娘と再婚してます。
蜂須賀家は年子さん以外にも離婚している人が結構います。妹さんもしてるはず。
560 :
日本@名無史さん:04/08/25 09:33
華族の離婚理由は子供ができなかったってのが多いね。
あと♂の不倫、♀の不倫。♂が実はホモだったってのもあるよ。
一般にに♀の不倫が理由と思われてる某家は実は逆で♂の不倫。
>>552 赤座吉家(直保、7000石)−永原孝治−孝政−孝貞−孝之−孝友−孝乗−孝吉−孝成−孝敬
永原孝治は大坂の陣で活躍、藩主の命で永原に改姓
天狗党事件の永原甚七郎は分家の出身
家系と血筋がゴチャゴチャになってるじゃん。
>>562 血筋とは先祖から子孫への血のつながり。血統。
家系とはその家の系統。血統。血筋。
当血統スレでは両方とも守備範囲。
>>560 >一般にに♀の不倫が理由と思われてる某家は実は逆で♂の不倫。
該当者が多すぎて誰か分かりません
ヒントプリーズ
565 :
日本@名無史さん:04/08/25 19:30
566 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:03
>>561 再仕官先として前田家はおいしいな。
旗本か他藩に仕官してたら数百石ってところ。<赤座
>561
補足。
赤座吉家(直保、7000石)−永原孝治−孝政(5950石)−孝貞(5000石)−孝之−孝友=孝乗(分家・永原孝成の三男、3000石)−孝吉−孝成=孝敬(孝吉の二男)
永原孝治は木村由信の子という話もあるが…。
>549
手元の史料には
津田左京−弥次右衛門−貞永−永忠…
とあるが、詳細は分からない。
岡山大学付属図書館にある池田家文庫から津田家の奉公書を複写すれば完璧だが、
現地に行かないと手に入れるのは難しそう。
調べると『津田永忠資料集』という本に系譜が載っているらしい。
岡山県立図書館が蔵しているが図書館移転中であと丸一箇月利用できない。
一箇月後、こいつの内容をメールで問い合わせるのが最も確実かな?
>>568 津田信勝はその系図の津田左京の父親。
左京は織田信長、池田家に仕えたらしいので、信勝は信長もしくは信秀と同年代かも。
図書館ってメールでの問い合わせに応じてもらえるものなんですね。
うちの近所の図書館でも電話で所蔵資料の問い合わせに応じているんだけど
系図関係の問い合わせには応じられないと言われたことがあります。
どうして系図関係の問い合わせには応じられないんだろう?
>>567 補足ありがとうございます。分知で石高減っていってますね。
572 :
日本@名無史さん:04/08/26 19:47
>>551 小早川は先祖の土肥に復姓しとるね
毛利に使えた尼子も佐々木に戻してる
上杉から小田原北条に寝返った北条(きたじょう)も毛利をなのった
北条景広と毛利元就の先祖は兄弟なんだよな
>>560 そういえば、森有礼の離婚で夫人の不貞の噂が立ったけど
夫人の親族が伊藤博文暗殺未遂事件に関わったのがほんとの理由らしい
574 :
日本@名無史さん:04/08/27 21:27
>>551 西軍について改易された大名のその後
宮部は水戸藩士に。田丸も水戸藩士。
氏家は熊本藩士。
576 :
日本@名無史さん:04/08/28 18:11
>>574 なんで宇喜多じゃなくて浮田なんですかね。
577 :
日本@名無史さん:04/08/29 02:37
「封じ込められた宇喜多秀家とその一族」の著者の浮田丈男さんも秀家の子孫
「大谷刑部少輔吉隆とその一族」の著者の森脇宏之さんは大谷刑部の子孫らしい
どっちもまだ読んでないけど
578 :
日本@名無史さん:04/08/29 20:09
>>577 大谷刑部って実子がいたのかね。
息子は実は弟、真田に嫁いだ娘は家臣の娘みたいだよ。
>578
初耳ですが、ソースは?
580 :
日本@名無史さん:04/08/30 13:46
本家筋が宇喜多、分家筋が浮田。
本多忠勝と石川数正の子孫は今、何処にいますか?
584 :
日本@名無史さん:04/09/01 14:09
北朝鮮に拉致られました
585 :
日本@名無史さん:04/09/01 19:10
586 :
日本@名無史さん:04/09/01 19:11
587 :
日本@名無史さん:04/09/01 20:43
山崎邦正は、成羽藩山崎家の傍流か?
588 :
日本@名無史さん:04/09/02 12:16
589 :
日本@名無史さん:04/09/02 14:09
>>588 利文氏は利昭氏の兄利久氏の息子で利昭氏の養子。次期当主。
590 :
日本@名無史さん:04/09/02 23:43
>588
たぶん利昭さんも東京在住だよ。靖国神社に務めてるはず。
591 :
日本@名無史さん:04/09/03 12:27
>>544 木瓜紋会のサイトって最近出来たものじゃないね。
たぶん2001年にはもうあったでしょ。
この辺のアイデアって誰が出してるのかね。
信和氏の息子かな。
592 :
日本@名無史さん:04/09/03 23:11
私は八戸に住んでますが、中学の校長が南部直弘という南部氏の子孫のかたでした。高校の同級生には南部恭孝という、これまた南部氏の子孫で父は恭秀さんといいました。宗家とはどういうつながりでしょうか。
593 :
日本@名無史さん:04/09/04 15:49
>>592 八戸藩主の南部家は盛岡藩主南部利直の七男直房に始まる家で、
初代直房、二代直政、十四代直敬氏と名前に「直」がつく当主がいます。
現在は十五代目の匡慶氏が御当主のはずです。
名前に「直」がつくところからも八戸藩主家の一族なのでしょうが、
直敬氏(弟に直光氏がいる)、匡慶氏の兄弟ではなさそうです。分家の出身ですかね。<直弘氏
594 :
日本@名無史さん:04/09/06 14:54
宇喜多家は秀家子孫のうち長男の家が「宇喜多」その他は「浮田」姓らしい
595 :
日本@名無史さん:04/09/07 16:40
五年前に韓国で朝鮮の役で戦った日本、朝鮮の武将の子孫が会合を持ったってニュースがあって、
宇喜多秀臣氏とか、李舜臣の子孫なんかが参加してた。
この辺が例の和睦イベントさんの参考になってると思うよ。
>>231 慶喜は息子の池田さんにも「なんで大政奉還してしまったの」って言われたそうです
599 :
日本@名無史さん:04/09/08 21:34
ちなみに徳川慶朝さんの息子さんは慶敬さんていいます。慶朝さん、慶光さん(慶朝父)は兄弟はいるんですか?徳川慶喜の子、誠さんの孫、康久さんにはご子息はおられるんでしょうか?
600 :
日本@名無史さん:04/09/08 21:49
徳川昭喜さんって方は慶喜家の一族の方でしょうか?徳川義崇さんは誰の息子さんですか?
南部家現当主利昭さんは父利英さんの4男ですが、他の兄弟は利久さんの他に誰ですか?南部利光さん、利明さん、直七さん、剛演さんのつながり、誰かわかりますか?剛演さんは南部利剛の息子剛護さんの子孫ですかね。
601 :
日本@名無史さん:04/09/09 02:00
>600
そのまえに、「徳川昭喜さん」って本当にいるんですか?
文字の入力ミスされたのではないかと。。。
>>600 現南部の長男はお亡くなりになったし、次男は養子で出ました。
初めまして!
教えて下さい。
昭和61年に出た「別冊歴史読本・天皇家系総覧」を見ていましたら
教えて頂きたい人物が、ありました。
今上天皇は光格天皇の子孫ですが、
@光格天皇の母とその父についてです。
光格天皇の母は【大江磐代】で【大江磐代】の父は【岩室宗賢】です。
ほとんどの天皇の母の姓名は藤原○○で、その父は例えば勧修寺とか正親町とかでも
藤原なのは、お公家さんだからだと思います。
だから【大江】という苗字は異色ですし、【岩室宗賢】で検索しましたが判りませんでした。
この父娘はどういう人物なのでしょう?
公家で無いのなら、武家なのでしょうか?
A光格天皇の子・仁孝天皇の母【藤原“女青”子】の、父は勧修寺経逸で
母は【松平仲庸の女】とありました。【松平】なのですから徳川一門だろうと思い、
【松平仲庸】で検索しましたが、判りませんでした。
岩室宗賢と松平仲庸について教えて下さい。
>603
松平仲庸は池田仲庸のこと。松平姓をあたえられてたので。
>>599 慶光さんは姉(高松宮妃)、妹(榊原さん、井出さん)が二人。慶朝さんは妹が二人。
>>600 徳川喜昭さんなら宗家分家にいます。徳川厚男爵の孫、慶喜の曾孫。
徳川義崇さんは義宣さんの息子。尾張徳川家。
南部利昭さんの兄に利博さん。
606 :
日本@名無史さん:04/09/09 18:34
607 :
日本@名無史さん:04/09/09 20:43
レスありがとうございました!徳川喜昭さんは喜堅さんの息子さんでしょうか?今川範道さん、赤松範尊さん、長宗我部尚親さん、龍造寺政盛さんはそれぞれ大名家の子孫の方たちでしょうか?
>>607 喜堅さんの次男です。家はお兄さんの喜壽さんが継いでます。
>>604 早速のお教え、ありがとうございました。
池田仲庸で検索しました。鳥取藩の分家なのですね。
中山慶子の母は平戸藩主・松浦静山の娘ですし、
藩主の娘で公家に嫁ぐひとは多かったんでしょうか・・・
>>606 早速のお教え、ありがとうございました。
『垂簾』、お気に入りに追加しました。
以前の天皇家は近親結婚が多いからナンタラァ〜と、よく云われるけど
大江磐代のような人が母とか、公家には大名家の血も入っているし
光格天皇以後の母親をみると、近親結婚なんて事ないですね・・・
孝明天皇の母と、明治天皇の母が遠い血縁にあるくらいですし。
>>609 > 藩主の娘で公家に嫁ぐひとは多かったんでしょうか・・・
他の大名家に嫁ぐケースが多いわけですが、結構公家にも嫁いでますね。
公家からすれば嫁の実家からの仕送りも期待できますし。
612 :
日本@名無史さん:04/09/10 23:51:26
>>609 >以前の天皇家は近親結婚が多いからナンタラァ〜と、よく云われるけど
大江磐代のような人が母とか、
でも大江磐代の存在は例外中の例外だよ。
>>612 >でも大江磐代の存在は例外中の例外だよ。
だけど、実際に大江磐代が光格天皇の母だという事は、
光格天皇の半分は全く新しい血だから、近親度?が
かなり薄まったという事ですよね。
>613
古代の天皇家は結構近親婚とかあったらしいけど、光格天皇の時代だとさほど心配することないんじゃないですかね。
俗に天皇家は血が濃いとか言いますけど、実はそうでもないみたいですよ。
オーストリアのハプスブルク家とスペインのハプスブルク家が代々婚姻を続けた結果、
スペイン王家に遺伝的な影響が出て家が絶えたらしいですが。
鳥取藩池田家当主の池田百合子さんは徳真さんの娘さんですか?
鳥取の池田家は徳川家に乗っ取られてますけど、後々の婚姻で藩祖光仲の血筋が戻ってますよね。
>614
617 :
日本@名無史さん:04/09/11 13:21:43
>614
>俗に天皇家は血が濃いとか言いますけど、実はそうでもないみたいですよ。
ほんと、ときどき本とか話で「大正天皇は...」って書いてあるのをみるけれど、
調べるとぜんぜんそんなことないよね。
世界史だけど、ロマノフ家もそれほど近親やってないね。
618 :
日本@名無史さん:04/09/11 15:27:49
>光格天皇の半分は全く新しい血だから、近親度?が
かなり薄まったという事ですよね。
でもそのあとは今上天皇まで、代々母親は皇族か公家だからなあ。
皇族・公家といっても天皇とは血縁的にかなり遠いところばかりだと思うが。
光格天皇の父の、閑院宮典仁親王の母親はどなたなんでしょうか?
本を見ても、検索しても判りません。
今日も図書館で、皇室関係の事典みたいなので探しましたが、判りませんでした。
ご存知のかたは、いらっしゃるのでしょうか?
621 :
日本@名無史さん:04/09/11 22:05:12
>>619 でも公家同士の婚姻は多いから、5〜6世代遡ると共通の人物が
ゴロゴロ出てくるよ。
>>621 桓武天皇から平清盛まで五代。
六代も下れば他人も同然。
あなたの六代前は確実に江戸時代の人では?
>>624 >>六代も下れば他人も同然。
>>あなたの六代前は確実に江戸時代の人では?
この意見は分からないでも無いですが、桓武から清盛まで5代というのはどんな計算なのでしょうか・・・
参考までに
桓武-葛原-高見王-高望-国香-貞盛-維衡-正度-正衡-正盛-忠盛-清盛
平将門と間違えたんだろ。
すいません、質問なのですが、
小栗上野介の叔父、数馬が養子に行った日下家の
天保〜慶応年間あたりが載っている家系図はどこかにないでしょうか?
どなたかご存知で教えて頂けたら、大変有り難いです。
なるほど、確かに将門か貞盛なら5代ですね。
>>615 百合子氏は先代の長女です
池田光仲(初代)−池田仲澄−池田吉泰−池田宗泰−池田重寛−池田治道−鍋島斉直室−鍋島直正−池田幸子−池田亨子−池田徳真(十五代)−池田百合子(十六代)
>>622 前スレで既出だけどその血統図の柳原紀光の母は織田信休の娘です
621 :日本@名無史さん:04/03/20 01:43
織田信雄−織田高長−織田長頼−織田信武−織田信休−平郁子−柳原紀光−柳原均光−柳原隆光−柳原光愛−柳原愛子−大正天皇−昭和天皇
>>629 という事は、今上天皇には織田信長の血も流れてる!という事ですよね。
初めて知りました。
ありがとうございます。
631 :
日本@名無史さん:04/09/13 23:24:47
>>620 > 光格天皇の父の、閑院宮典仁親王の母親はどなたなんでしょうか?
歴史人名辞典によると、典仁親王の母親は家女房の左衛門佐とありました。
左衛門佐の出自については書かれていませんでした。
家女房は貴族に仕える女、御殿女中と広辞苑には書かれてます。
ちなみに、典仁親王の父閑院宮直仁親王の母親は、内大臣櫛笥隆賀の娘の新崇賢門院です。
櫛笥隆賀は園池宗朝の息子、園池宗朝は櫛笥隆致の息子、櫛笥隆致は後西天皇の外祖父です。
櫛笥隆致−園池宗朝−櫛笥隆賀−新崇賢門院−直仁親王
>>633 >家女房は貴族に仕える女、御殿女中と広辞苑には書かれてます。
訂正
家女房は貴族に仕える女房、御殿女中と広辞苑には書かれてます。
635 :
日本@名無史さん:04/09/14 20:39:11
家女房ってことは、左衛門佐はあまり身分の高い出自ではなさそうですね。
>>633-634 620です。
ありがとうございました。
家女房の左衛門佐という事は、個人名は判らないとも云えますよね。
光格天皇の母親の大江磐代は長生きしたようですけど、
典仁親王の母親は、長生きしなかったのかもしれませんね。
それで個人名と、誰の娘かも判らなかったのかな・・・と思いました・・・
>>624 >六代も下れば他人も同然。
そんなことはないよ。六代前の先祖64人の誰一人が欠けても俺は
存在しない。他人のわけがない。
>>636 大江磐代は天皇の母親、左衛門佐は閑院宮の母親に過ぎない。
その差のほうが大きいだろう。
と言いつつ、もしかしたら家女・左衛門佐の出自は過去に俺自身
調べて、捜し得たような記憶がある。
今すぐには資料が出てこないけど、そのうち捜しておく。
>>637 >今すぐには資料が出てこないけど、そのうち捜しておく。
是非お願いします。
むかし、ヨーロッパの王侯貴族の系図に関心があって、本を読んでたら
ドイツの諸侯の中で血筋に厳しい宮廷は、5代前の先祖32人全員が
貴族である事が、宮廷に出入り出来る条件だった、という文がありました。
そんな基準だったら、日本の華族は天皇家をはじめとして
ひとつも出入り出来る家はナイですよね・・・
639 :
日本@名無史さん:04/09/15 02:31:48
32人の名前が判明している人間さえ少ないね。
歴代天皇においてさえ。
640 :
日本@名無史さん:04/09/15 04:52:53
日本の場合は八百万の神の国なんで鷹揚というか
Y遺伝子さえ合っていればXはどうでもいいようなところがある
西洋は神に祝福されて結ばれた者同士から生まれたかどうかが重要で
昔は貴族の出産は衆人環視の中で行われた
不妊の妻が偽装出産して庶子を跡継ぎにするのを防ぐため
競馬で有名なダービー卿は10代が子なしで死んだ後
近い世代に何人も庶子がいるのに200年も遡って
2代の別系統の子孫が11代を継いでいる
爵位だけでなく資産の相続にも絡むので大騒ぎになるようだ
家系図屋が繁盛している
>>635 本人の名前も親の名前も出てこないってことは、元はあまり良い家柄では
なかったが、娘が親王を御産み申し上げたために父が左衛門佐の位を
賜った、とかいうストーリーがありそうな気もしないでもない。妄想だけど。
豊臣秀吉の姉の子・秀勝って、徳川秀忠の妻・お江与の最初の夫で
二人の間には完子という娘が産まれてたんですね。
で、完子の嫁ぎ先が九条家で、完子の血が貞明皇后まで続いていた事を
つい先程知りました。
思いがけない名前が現れるのが、系図の面白さですね。
最初の夫 → 2番目の夫 に訂正です。
(最初の夫は従兄の大野城主・佐治与九郎でした。)
前スレの書き込みによるとこんな繋がりですね
羽柴秀勝-豊臣完子-九条道房-九条兼晴室-九条輔実-九条幸教-九条道前-二条宗基-二条治孝-九条尚忠-九条道孝-貞明皇后-昭和天皇
九条輔実は鷹司家からの養子の兼晴と先代道房の娘の子供です
あと池田仲庸は先祖が徳川家康の外孫ですから、徳川家の血も入ってますね
646 :
日本@名無史さん:04/09/17 11:34:35
>>645 細川家も当主は元総理のお父さんなんでしょ?
関係ないけど、今やってる団十郎親子のマンションCMの「松平邸」って高松松平家だって
647 :
日本@名無史さん:04/09/18 01:45:05
>646
高松松平ですか。松平邸じゃ意味わかんないよね。旗本だっているし。
>あと池田仲庸は先祖が徳川家康の外孫ですから、徳川家の血も入ってますね
こうしてみると、今上には島津家・徳川家・織田家・秀吉の血縁者・浅井家
池田家・松浦家・・・と公家以外の血も入っているんですね。
ヨーロッパの王侯貴族の系図って、歴史上の著名人が思いがけない人と
繋がっていて驚くという楽しみがありました。
よく知らない頃は天皇家の系図って、日本史に直接余り関係の無い公家ばかり
と思っていたけど、そうでも無いんですね。
>627
その日下家は寛政譜に載っているニ家のうち『房』が通字の家ですかね。
数馬の息子が徳川家達について静岡に行ってるので、静岡の図書館には資料があるかも。
あと日下家の知行地の郷土史とかにはもしかしたら載ってませんかね。
651 :
日本@名無史さん:04/09/20 20:04:14
>>477だから、護煕はガラシャの子孫になりません。
>651
前スレの2+>505
明智光秀−細川ガラシャ(忠興室)−細川忠利−松平忠弘室−松平清照−忠雅−井伊直存(与板藩)−井伊直幸室−井伊直中(彦根藩)−直弼−直威(滋賀県士族)−毛利隆子(毛利高範室)−近衛千代子(文麿室)−細川温子(護貞室)−細川護熙
>>653 やっぱりガラシャの子孫じゃない
41 :2:04/01/27 18:36
>>2 補足
井伊直中の生母ですが「人物叢書 井伊直弼 」の巻末の系図では幕府馬預大武昌長娘となってました。
「三百藩藩主辞典」では井伊直存の娘となってます。個人的には前者が正しいのではと思うのですが。
やはり明智光秀とは血が繋がらないのでしょうかね。
>>18 訂正
忠熙ー篤麿ー文麿となっていますが、正しくは忠熙ー忠房ー篤麿ー文麿だと思います。
近衛篤麿氏は近衛忠熙の子として届けられましたが、実際は忠房長男で忠熙の孫です。
今日のプロジェクトX「中尊寺金色堂大修理」
奥州藤原三代の清衡、基衛、秀衡の遺体調査で
血液検査の結果、三人の親子関係が証明されたそうな。
>649
ご助言有難うございます。
アク禁にひっかかってご挨拶が遅れ、失礼致しました。
その日下家です。まずは静岡からあたってみます。
>658
その本、是非とも読ませて頂きます!
絶版らしいので機を見て静岡の図書館にでも行って、と
計画立てるのも楽しみです。
本当に有難うございます。
世界史板に、このスレと同じような血統についてのスレはあるのでしょうか?
スレッド一覧からは探せなかったです。
知りたい事がありますので、ご存知の方教えて下さい。
以前にヨーロッパ王室の系図サイトで尋ねたけれど、判りませんでしたので
>>660 現在は無いですね。
王家関係のスレで問い合わせるか、ご自身でスレ立てされたほうが
いいのではないでしょうか。
>86
連也斎は一時期、母方の縁で島新六と名乗っていた。
ちなみに連也斎は生涯女性を近づけなかったので子供は居ない。
甥(兄の子)に墓も位牌もつくるなと遺言したので墓もない。
664 :
日本@名無史さん:04/09/24 16:33:42
徳川慶喜の子供のうち徳川慶久と勝精が自殺してるんだね。
665 :
日本@名無史さん:04/09/24 17:56:56
>>664 徳川慶久って高松宮妃の父親だよね
若くして死んだけど自殺なの?理由は?
>>666 松浦董子さんという方は、平戸藩主の血筋でしょうか?
この方は 久邇邦久侯爵 (香淳皇后の兄)の後妻に入ったのですが、
侯爵が亡くなった後 夫妻には子供がいなかったため、久邇家を離れたそうです。
その後東北の代議士の後妻に入ったけれど、離婚してアパートに一人で住んで、
そのアパートで亡くなって、亡くなった当時に皇后の関係者が・・・と
週刊誌等でとりあげたそうですが・・・
668 :
日本@名無史さん:04/09/27 13:18:59
福井で織田家の肖像画展示会をやってるそうだ。
信長の先祖織田久長の肖像画も見られるそうだが如何せん遠いんだよな。
徳川慶久の慶喜家相続には、兄が分家や養子で家を出ていた他に、
慶喜が慶久を特にかわいがっていたってのもあるそうな。
慶喜自身も七男だったのも、関係しているかもと書いてる本があった。
慶喜の葬儀の喪主は慶久が務めてる。
>>660 まだきてるかな…
そのヨーロッパ王室の系図サイトは恐らく私がたまに遊びにいってるところかなぁ…迷宮?
ここは板違いなので世界史サイトのどこかに現れてくれませんか?
答えられるとは限らないですが…。質問内容に興味あり。sage
>670
660 です。
“世界史なんでも質問スレ15”の 869-870 に書きましたが、
スレ違いだったのかな・・・と思ってます。
だからココのスレの、日本だけでなくヨーロッパの王侯貴族の系図にも
詳しいお方にお訊ねしようかな、と思っていたところでした。
ただ、映画等ではビッグだけど、家系としてはマイナーなのかな?
とは思ってます。
もうすぐ15が終わりそうなので、お教え下さるレスは新スレにお願いします。
「系図の迷宮」と「ヨーロッパ王室の家系図」で去年お訊ねしましたが
判らないというレスを頂きました。
>>661 レスありがとうございました。
>>597 慶朝さんの「世が世なら将軍」ってのは頷けないんだよね
慶喜が子造りに精を出したのは、隠居して何もする事がなかったからだし
673 :
日本@名無史さん:04/09/30 00:24:19
674 :
日本@名無史さん:04/09/30 03:53:54
>644
正しくは
羽柴秀勝−豊臣完子−九条道房−九条兼晴室−九条輔実−九条尚実−九条道前−二条宗基−二条治孝−九条尚忠−九条道孝−貞明皇后−昭和天皇
ですね
>674
すみません
更に訂正
羽柴秀勝−豊臣完子−九条道房−九条兼晴室−九条輔実−九条幸教−二条宗基−二条治孝−九条尚忠−九条道孝−貞明皇后−昭和天皇
676 :
日本@名無史さん:04/09/30 23:12:02
>>476 いまさらですが、織田信親子爵は側室の子供だから織田長益とは繋がらないですよ。
677 :
日本@名無史さん:04/09/30 23:25:47
昭和天皇の先祖たどったら有名人がたくさんいそう。
>>677 先祖の有名人なら天皇家より近衛家がスゴイよ。
織田信親(前名山崎治安)子爵の玄祖父山崎義俊は久留嶋家出身で、
この久留嶋家に、福島正則家臣の津田家の血が入っているらしいのだが、
この津田家というのが、織田家の諸流の出らしい。
とりあえず、思い当たる血縁関係をあげてみた。
>>679 津田信澄なら本能寺の変のゴタゴタに巻き込まれて悲運の死を遂げたはずだが。。。
子孫はいたっけ?
681 :
日本@名無史さん:04/10/01 21:07:13
昌澄とかいうのがいた気がす
大坂の陣で豊臣方に立った
>>680 織田家庶流が信勝だけだと思ってんのか?
>>680 津田信澄の息子昌澄(織田信重)は大阪の陣の後に、
藤堂高虎の口利きで徳川家の旗本に取りたてられてる。
子孫は旗本として代々続いているよ。
>>679で書いた津田家はどうも織田信光の一族らしい。
織田一族の中には津田姓を名乗ってる人は多いね。
織田家庶流が信勝だけだと思ってんのか?
↓
織田家庶流津田が信勝の流れだけだと思ってんのか?
に訂正。まぁどーでもいいことだが。
685 :
日本@名無史さん:04/10/01 21:57:23
織田無道はどの流れなんでしか?
686 :
日本@名無史さん:04/10/01 22:01:38
自称=エセ
687 :
日本@名無史さん:04/10/01 22:28:44
能登畠山家臣に織田氏あり。
尾張の織田家との関係は?
>>687 そりゃ「おた」だよ君。
越前からの流れ者?
689 :
日本@名無史さん:04/10/01 22:41:38
織田 隆長(おだ たかなが) 生没年不詳
仮名与三。左衛門尉。温井家家臣。隆長の「隆」は温井景隆の偏諱と思われる。
1569(永禄12)年の東福寺栗棘庵文書に「織田与三右衛門尉隆長」の名がみえる。
>>689 紹介ありがとうございます。
尾張の織田一族の中から、能登まで流れていった者が居たってことですかね。
勘違いは誰にでもあることだし、織田氏と津田氏の関係なんて知らない人も
多いんじゃないの。とりあえず知ってても全然偉くはない。
信澄の息子は津田から織田に戻しているね。
692 :
日本@名無史さん:04/10/03 13:05:24
>>675 九条兼晴室は羽柴秀勝の曾孫、九条兼晴は佐々成政の玄孫。
二人の子供九条輔実以降、九条家にも成政の血が入ってるね。
秀勝の娘も成政の娘も、豊臣秀吉の口利きで摂家に嫁いでる。
693 :
日本@名無しさん:04/10/03 21:35:23
津田信澄の息子の織田信重ですが、
その織田信重の母親は明智光秀の娘ですな。
てことは・・・
>>660>>671 の世界史板から漂着した方ぁ、いますか〜?
世界史スレ16の144にレスをしておきました。板ちがいのところお邪魔してスマソ。
696 :
日本@名無史さん:04/10/06 21:29:39
>>629 織田信休(信恒)は八条宮智仁親王の曾孫でもある。
八条宮は後陽成天皇の弟で豊臣秀吉の猶子。
細川幽斎の弟子で、関ヶ原の戦いでは田辺城に篭城した師匠と西軍の停戦を調停してる。
697 :
日本@名無史さん:04/10/07 13:53:59
>>696殿
>織田信休(信恒)は八条宮智仁親王の曾孫でもある。
えっ?
八条宮智仁親王の直系子孫は断絶してませんでしたっけ?
698 :
日本@名無史さん:04/10/07 14:03:37
娘だろ
普通に考えればそうなるよな
>>697 八条宮の娘は全く関係無い。
八条宮−息子−娘−織田信休・・・
宮と信休の関係はこんな感じです。
庭田家の系図に母日向守惟任光秀女って人物がいるんだけど
庭田家に嫁いだ光秀の娘っていたっけ
702 :
日本@名無史さん:04/10/09 00:01:24
色んな家の系譜を見てたら、ノーマークだった家にこんな記載があった
『藤原高政は豊臣太閤の家人なり一説に太閤の庶子とも云う』
703 :
日本@名無史さん:04/10/11 15:58:05
前に佐竹家臣の徳川氏について聞いてた人がいたが
佐竹家中系図の下巻に徳川氏の系図が載ってる
704 :
日本@名無史さん:04/10/13 01:23:19
米沢藩の上杉家御年譜の最後に、主だった藩士の家系図が載ってるんだけど、
これって↑の秋田藩佐竹氏に限らず、大体の藩の記録書の類に載ってるのかな?
707 :
日本@名無史さん:04/10/18 17:30:48
>>708 足利義弘さんまでどんな風に代数を数えてるんですかね。
>>708 大河ドラマ「太平記」放送当時に地方紙に寄稿されてた尊氏の子孫さんは
進悟さんでも義弘さんでもなかった。どこの足利家の方なんやろ。
松江で、亀井伯爵の写真展をやってます。
亀井氏は旧津和野藩主家の当主で、日清戦争の従軍写真家。
712 :
写真といえば:04/10/27 20:28:19
徳川慶喜が、写真を趣味にしていたのは知られてますけど、
弟の昭武も写真が好きで、二人して撮影に出かけたりしてます。
撮影中の慶喜を写した写真は、昭武が撮影したものだそうです。
713 :
日本@名無史さん:04/10/27 20:43:33
>>714 シャルル・ナポレオン
1950年生まれ。経済学博士(パリ第一大学)。
フランス財務省およびDATAR(フランス国土整備庁)で重職をこなし、
クレディリヨネ銀行の役員等企業重役などもつとめるかたわら、
ミッテラン政権では地方分権政策に携わる。
のちにコルシカ島のアジャクシオ市助役に選ばれ、観光行政を担当。
著作も幾つかあり、島の文化社会活動にも深く関わる。
ボナパルトとの関係ではナポレオンの弟ジェロームの末裔に当たる。
>>715 ありがとうございます、弟の子孫でしたか
717 :
日本@名無史さん:04/11/01 22:17:33
私も足利義弘さんの系図を知りたいですね。進悟さんは平島公方家の方ですし、代数的には義昭以下の可能性が高い気がしますね。でも義昭は孫の代で途絶えていますが、その後は養子を迎えたんでしょうか?26代の武千代さんは祖父?
>>712 慶喜と昭武の共通の趣味は、サイクリングと狩猟と写真。
720 :
明石原人:04/11/04 21:55:06
>>709,717
足利将軍家、平島公方家両系図で私なりに代数を数えてみました。
義弘氏は28代とありましたから初代は義康ではなく尊氏から数えています。
11代将軍義澄以降の当主は義維(義澄長男)−義栄−義助(義栄弟)−義種−義次‥‥と
平島公方家の当主を数えていけば義弘氏で28代になります。
平島公方家としては義維が義澄の長男で10代将軍義植の養子になっていたことから義晴、義輝、義昭
の系統より自分たちの方が直系との思いがあるのかもしれません。
以上が私見でしたが、もしかすると15代当主義昭−高山(義尋)と数え高山の僧侶になった2人の
息子を数え、そして平島公方家の当主へという数え方があるのかもしれませんが・・・。
いかがでしょうか?
721 :
明石原人:04/11/04 22:06:12
722 :
日本@名無史さん:04/11/04 22:15:36
細川本家の当主だった細川護貞氏は、ご存命ですか?
別板で話題が出たものの、くぐっても、近衛文麿に関する日記などが出てくるだけで、
略歴などがほとんどヒットしませんでしたので。
723 :
日本@名無史さん:04/11/05 21:06:34
>>722 細川護貞氏はご存命のはずです。
当方熊本在住なので、死去なされたら新聞などで記事を拝見することになると思います。
最も護貞氏は東京在住だと思いますけど。
細川家の伝来品などを納めた永青文庫という施設が東京にあります。
(というか護煕氏にはまだ家督は譲ってなかったと思います。)
724 :
日本@名無史さん:04/11/05 21:34:31
還暦すぎて、まだ当主じゃないのか。江戸時代じゃありえんな>モリヒロ
725 :
日本@名無史さん:04/11/06 16:35:52
>>724 なんかあんまり詳しい背景は知らないけど、護煕氏あまり親父さんに評価されてないみたい。
ひょっとしたら政界に入ったりしたことが理由かもしれないですけどね。
まー、細川というより祖父さんの近衛公みたいな実績だったしな。
726 :
日本@名無史さん:04/11/06 16:38:38
>>725 政界入りを反対されて勘当されてます。たぶんその後、和解したんだろうけど。
727 :
日本@名無史さん:04/11/06 16:41:29
728 :
日本@名無史さん:04/11/06 16:53:28
廃嫡?
護煕氏、とっくに隠居生活しているというのにねぇ…
730 :
日本@名無史さん:04/11/06 20:13:06
護煕といえばヅラが話題になったことが妙に印象深く残っている。
自毛?増毛?ヅラ?
731 :
城石 憲之:04/11/07 22:59:46
9日(火曜)TV朝日系「徹子の部屋」に徳川18代当主恒孝氏出演予定!
>>732 確かに、細川元首相系の顔ですね。
この人は、細川元首相の祖母(千代子夫人)の兄の孫に当たるはずですから。
紀宮の結婚相手に内定した黒田慶樹さんは、
黒田官兵衛の子孫or黒田清隆の子孫なのでしょうか?
736 :
日本@名無史さん:04/11/19 05:49:39
737 :
日本@名無史さん:04/11/19 11:02:55
>江戸時代は五千八百石を与えられ、尾張藩の大名格の家々と交流があった。
「尾張藩の大名格の家々」ってなんだよ?
尾張徳川家自体のこと? 付家老なんかのことを言ってるわけ?
意味の取りにくい文章だなあ。
三流新聞ってこういうおかしなこと、平気で書くのか?
>>737 付家老のことなのか1万石以上の家臣のことなのかはっきりしないが
尾張徳川家自体はないだろ。家々ってなってるし。
739 :
日本@名無史さん:04/11/19 21:37:21
>>736 鎌倉北条氏の末裔と称する家だと肥後細川家家臣の横井小楠もそうですね。
家の通字も”時”で共通ですね。
遡れば同じ家系なんでしょうなー。
>>737 "尾張藩の大名格の家々"っていう括りだと、万石以上及びそれに準ずる家格の家臣って意味になるのではないですかね。
741 :
日本@名無史さん:04/11/23 05:04:32
>>741補足
文子さん自体は尚泰王の曾孫
最近滋賀県寒かったですからね。急性心不全だったそうです。ご冥福を
喪主が孫の 岳夫 氏となっているが、「直」の通字は廃止されたのかね?
743 :
日本@名無史さん:04/11/23 13:28:46
>>742 直愛氏の息子の直豪氏は亡くなっているよ。
直豪氏に息子がいたって話は聞かないから、もしかしたら外孫なのでは?
それなら直の字がついてないのもわかるし・・・
744 :
日本@名無史さん:04/11/23 13:34:38
佐々木道誉の子孫と名乗る坊主には『氏』がつきます。直系なんているの?
>>495 凄い遅レスですまないですが、曾曾爺さんの名前が出てておもっきし吹いた。
ちなみにそのうちの一族は信長の一族内大粛清が有った頃に、相手してられねーよととっとと田舎へトンズラこいて、戦国の世をマターリと過ごしてた臭いです。
一説(之は確実じゃ無い)によると築城技術等の知識に長けてたらしく、新しく土佐藩を与えられたものの家臣不足だった山内一豊が使える人材を探して
>>498さんの書いてる様な経緯でスカウトしてきたそうです。
待遇は土佐の宿毛二番家老です。
江戸自体には織田姓を名乗っていた事は多くなく、2〜3人を除いては羽田とか田が付く他の姓を名乗って居ました。
その辺りがあるから調べる上では調べ難い所があるかも知れません。
あと之はうろ覚えなのですが、宿毛二番家老として江戸時代を終えた後は本家と分家の二つに分かれ、うちの一族は分家に当たります。
更に明治になると同時に分家の方は織田姓に戻したそうですが、本家の方は其の侭だと言う話しが有ります。
しかし結果としては、その信福さんの明治時代の派手な大活躍が有ったりで、分家の方が実質本家状態の知名度や立場を得て今に至ります。
その写真は過去に麒麟ビールの人が広告に使える幕末〜明治の志士の写真を探してる時に発見された物です。
言われて探したらネガが出てきたと言う顛末が有ります。成人式限定の麒麟ビールの広告として新聞の一面を飾ったのが大きく世間にでた最初の事です。
写真展の広告として大きく新宿の町に飾られた事もあるそうです。撮影した写真家が当時2番目ぐらいにエライ写真家だったのが原因。
一回産経が構図とポーズと服装其の侭ぱくった写真で広告だして、謝罪するに至った顛末とか有ります。
今は中学校の美術の教科書にも乗ってるそうです。婆ちゃんが許可したの忘れてて、私の従姉妹が中学入学した時美術の教科書捲ってたらいきなり曾曾爺さんの写真が乗ってて思いっきし吹いたと言う逸話とかあります。
-続く-
ちなみにその写真以降の写真は全て髭が生えてます。
歯磨き粉作ると偽って爆弾作ってて一回失敗して、顔に大火傷したんだって(;´Д`)
何でも明治新政府に抗議したい事が有って強攻策を取る可能性も考えて作ったとか。
結局使わずに琵琶湖に投げ捨てて帰って来たとか。
ちなみに明治時代にして夫婦別姓を実行、夫婦揃って自由民権運動の急先鋒でクリスチャンだったそうです。
それらの流れが出てる家系図は爺ちゃん婆ちゃんの家に一つと、古い時代からの物で微妙に貴重だかららしく高知のどっかの博物館(何処か忘れてごめん)にコピーがあります。
まあそんな派手な無茶な人だけど、それでも日本で7番目の歯科医の資格を得た人です。
歯医者建物の写真の方は、未だに現役です。日本でも最古の部類の鉄筋コンクリート建築物だそうです。
戦後も空襲で焼けずに残りGHQの高知での本部の為の接収候補に上がったそうな。医療関係と言う事でスルーされたらしいですが。
壁等に高知大空襲の焼け跡等が未だに残っています。
写真に写ってない裏側には、江戸時代から使われている武家屋敷を一部内部改装した部分があり未だに使われています。
更に奥にある隣の家も元々同じ一つの武家屋敷だったらしく、此方は塀が武家屋敷の当時のままです。
ネット上で時折信福って誰だよの様な見たりするし(写真の引用先もそうですよね)正しい情報とかもたいして流れて無いのと、本当に一族の人間かよ嘘じゃネーノ?
等と言われると困るので少し細かめに書いてみました。
たかだか織田の家系の末端の人の情報なのに長文失礼しました。
後、うる覚え部分が有って、曖昧な表現な部分があるのはゴメンね。
748 :
日本@名無史さん:04/11/25 20:49:16
石田三成−次女−岡吉衛門−お振の方−千代姫−徳川綱誠−(略)−女子−女子−松平義建−松平容保
報道ステーションの中継で、度々出てくる毛利庭園の「毛利」の名は
かつてこの地に、毛利甲斐守秀元の屋敷があったことに由来するそうだ。
毛利秀元は、穂井田元清の子で毛利元就の孫。
751 :
日本@名無史さん:04/11/25 21:34:39
何気に、久留米藩の有馬氏って、凄くないか?
有馬記念で有名な有馬氏のほう。
この有馬氏って、実質的に
名門・赤松の直系みたいなもんでしょう?
だって、他の赤松氏族は、殆ど衰退したんだし...
752 :
日本@名無史さん:04/11/26 00:45:17
>>751 主家(渡瀬氏)が改易になったとき所領を貰い、秀吉に仕えて功をなし、
家康に仕えて功をなし、あれよあれよの大大名。幕末まで二十万石の
所領を安堵。いやマジで洒落になっていません。
しかし、この家は名物主が多くて面白いですね。
数学天才あり、犬オタクあり、(別家ですが)時代劇でおなじみの人物ありで。
754 :
日本@名無史さん:04/11/26 21:22:47
>>753 赤松流・有馬氏は、一応、幕末の時点では、分家も合わせて36万石程度。
これは、徳川・松平家を除けば、十番目の石高の一族。
もちろん、爵位は2番目の侯爵。
有馬氏は江戸期に養子が入っていて、
その一族が石野氏だが、これまた赤松の分派。
つーことは、有馬氏というのは、
相当に自分たちが赤松則村の後裔だということを
拘っていたのかしれん。
755 :
日本@名無史さん:04/11/26 21:26:58
ちなみに、有馬氏は、則村の3男で嫡男の則祐の後裔。
石野氏は、則村の長男の範資の後裔。
室町期、赤松宗家は、範資、則祐、双方の系統から当主を擁立してきている。
まるで、南北朝時代の持明院統・大覚寺統、
江戸期の紀州徳川家、水戸徳川家みたいなもん。
756 :
日本@名無史さん:04/11/27 11:17:39
759 :
日本@名無史さん:04/11/27 17:54:16
>>757 2ちゃんの過去ログに
そういうふうに書いてあった。
おそらく、支藩(久留米藩以外の赤松系有馬氏の藩)も含めた石高だと思う。
ちなみに、有馬氏に養子に行った石野氏の本流は
江戸時代の途中に赤松に復姓している。
石野氏は、範資(則村の長男、または則村の従兄弟という説もある)の系統だけど
それ以上に宗家を継いだ、則祐(則村の3男か4男?あるいは長男?)の系統にシンパシーを感じる。
つーのは、赤松氏といえば、やはり、則村、則祐って感じ出し...
範資に関しては則村の長子という説が有力だが
一方で従兄弟という説もあって、そういう意味で系統が曖昧なんだよね...
760 :
日本@名無史さん:04/11/28 01:39:16
>>759 なんだよ石高もぱくりかよ。
少しくらい自分で調べろよ。
大体久留米の支藩って・・・
761 :
日本@名無史さん:04/11/28 15:51:30
久留米の支藩ってどこだよ・・・吹上藩有馬家か?
でもあれは支藩じゃないしな。
しかもあれを含めても36万石には到底ならんだろ。
それとも旗本分が合計10万石以上あるのか?
まさか晴純系も含めてるのかw
両家の分家旗本を全部含めたらそんくらいになるのかもしれん。
762 :
日本@名無史さん:04/11/28 16:02:27
>>261 晴純系って
自称藤原純友系(実際は鎮西平氏系)の香具師か...
763 :
日本@名無史さん:04/11/28 16:27:20
久留米藩は20万石。
これに吹上藩と旗本諸家を合わせても25万石にも届かないだろう。
764 :
日本@名無史さん:04/11/28 16:44:32
三日月藩1万5千石はどうよ?
765 :
日本@名無史さん:04/11/28 17:54:05
石高に関してだけど
表高と実高は、違うんじゃないのか?
実高だと、久留米藩は、もう少しあったんじゃないかと...
766 :
日本@名無史さん:04/11/28 17:57:46
こういう2ちゃんの過去ログがあるが
真実は分からん。
もしかしたら、
>>761の言うように
赤松系とは別系統の有馬氏を含めている可能性もあり。
鎮西平氏系の有馬氏の表高って、どれくらいだった?
296 :日本@名無史さん :02/02/16 21:55
支藩含めた外様実高ベストテン
一位前田家、156万3千石
二位伊達家、111万3千石
三位毛利家、100万1千石
四位池田家、90万8千石
五位島津家、78万8千石
六位細川家、71万6千石
七位黒田家、57万9千石
八位佐竹家、41万2千石
九位蜂須賀家、40万9千石
十位は鍋島家といいたいところだが、意外な伏兵、
真の十位は有馬家、36万6千石
鍋島家は十一位でした。
十二位は上杉家です。
767 :
日本@名無史さん:04/11/28 19:34:52
鎮西平氏系の有馬氏は、
越前・丸岡藩5万石で
明治維新を向かえたみたい。
768 :
日本@名無史さん:04/11/28 21:52:13
有馬晴純なら俺の先祖の1人だな
769 :
日本@名無史さん:04/11/29 12:17:44
元東大学長、元文部大臣の有馬朗人氏も有馬氏の出身。
先祖の有馬伯耆重頼は有馬則頼の娘婿になって有馬姓を許された。
770 :
日本@名無史さん:04/11/29 13:12:58
>769
有馬重頼は有馬則頼の弟で、妻は別所長治の娘という説もある。
1564年生まれで1632年没という。
検索して調べると孫の有馬重良が1604年生まれとあるので、
これでも年代的には問題なさそうだ。
表高が十五万石以上(侯爵の条件)だったとしても現高(実収高)がそれより少なかったから、
有馬家は伯爵なんじゃないの?
要するに武家は徳川宗家、御三家、御三卿、勲功を除いて、すべて現高によって爵位が決まる。
>>773 本当にそうかな?
井伊は直弼のせいで、上杉、伊達は奥羽越列藩同盟に参加したから一格下げられたような気がする。
>>774 井伊は30万石+預領で35万石と言っていたが、10万石減らされて(比率はわからんが)
25万石−αが現高算定の基準となった。
しかし、爵位の基準にした収穫高の比率が低くて10万石級しかなかったために伯爵。
もし表高が35万石だったとしても、収穫高が侯爵の線まで到達していなければやはり伯爵。
伊達は表高62万石・内高100万石と言っていたが、戊辰戦争後に減らされて28万石(ただし
表高換算では18万石に過ぎない)が現高算定の基準となった。
井伊家同様、爵位の基準にした収穫高の比率が低くて10万石級しかなかったために伯爵。
もし減封前の領地だったら、収穫高が侯爵の線まで到達していたかもしれん。
なまじな正義感や自尊心など捨てて、薩長の犬に徹していたら馬鹿にされながらも侯爵に
なったかもしれない。
上杉は18万石→14万石なので減らされなくても多分変化なし。
一旦無嗣断絶した時に幕府に没収された信達地方がそのままだったら際どかったかも。
確かに表高が十五万石以上の大名家はけっこうあるから、侯爵の数が多くなっちゃうな。
778 :
日本@名無史さん:04/12/08 19:30:13
779 :
日本@名無史さん:04/12/11 14:08:52
幕末の敵は平成の友 『子育て支援』 番組作りで“連合”
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20041210/mng_____thatu___000.shtml 幕末の対立を超え子育て支援で団結を−。日本教育放送(東京都中央区)の
「子育て支援・サイエンスチャンネル」(スカイパーフェクTV)には
近代日本の歴史をつくった人物の子孫3人が参加している。
山尾さんの先祖山尾庸三は長州藩士の一人。(中略)
明治三年に帰国後は新政府で工業分野の人材育成や国の発展に尽くして、子爵となった人物だ。
十五代将軍徳川慶喜のひ孫に当たる徳川康久さん(56)、会津藩主松平容保のひ孫、
松平恒忠さん(68)も番組企画懇談会のメンバーに加えた。
松平恒忠氏って確か徳川宗家のお兄さんだよね。
780 :
日本@名無史さん:04/12/11 14:44:28
そうだね
恒忠、恒孝、恒知の3兄弟だね
781 :
日本@名無史さん:04/12/12 16:38:59
康久さんってどういう系統になるの?
782 :
日本@名無史さん:04/12/12 18:04:33
783 :
日本@名無史さん:04/12/13 03:50:10
真宗高田派の常盤井家は皇統だという噂があるが
本当なのか?
たしか、江戸時代に常盤井宮家から養子、
そして、近代になってから
皇統の近衛家から養子。
誰か詳しい人、教えて。
784 :
日本@名無史さん:04/12/13 03:53:37
>>782 いやだから徳川慶喜の誰の系統?
徳川慶喜の子で成人したのって2〜4人くらいだよね。
そのうち徳川姓って二人くらいだよね。
785 :
日本@名無史さん:04/12/13 15:21:09
>>784 調べるくらいしようよ
世界帝王事典くらいに行けばすぐ分かるんだから
慶喜─誠─脩─康久
786 :
日本@名無史さん:04/12/14 09:39:46
>>783 おまいも調べろ。
近衛忠熙の子が常磐井堯熙、堯熙は兄である近衛忠房の子を養子に迎えてる(堯猷)。
787 :
日本@名無史さん:04/12/17 21:03:02
788 :
日本@名無史さん:04/12/18 00:49:17
伊達が十八代ってのは初代藩主(政宗)からだけど、南部の四十五代が初代藩主からのわけがなかろう。
どんだけ代がわりしとんねん!
南部家は南部光行から数えてるんでしょ。
789 :
日本@名無史さん:04/12/18 01:20:25
南部家の歴代って早死がめちゃくちゃ多い。
南部の当主と伊達の当主、歴史読本別冊で対談しているけれど、好対照なんだよね〜
792 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:59:11
793 :
日本@名無史さん:04/12/22 01:03:21
794 :
日本@名無史さん:04/12/22 05:20:03
>>793 さんへ
大炊御門信名の次が大炊御門経光の実子で信名と断絶!
大炊御門信名 近衛基シ熙の次男で経光の養子
天和4年左中将、正四位下
貞享10月14日卒 享年16歳
795 :
日本@名無史さん:04/12/22 05:28:38
796 :
日本@名無史さん:04/12/22 05:37:19
>>795 今回は『堂上家系譜大成』(太田亮著)ですね
797 :
日本@名無史さん:04/12/22 05:39:10
あっ、
>> 貞享10月14日卒 享年16歳
貞享元年10月14日卒 享年16歳
ですね
798 :
日本@名無史さん:04/12/22 06:01:56
>>796 なるほど...
そういうの見れば、公家の家に養子に行った皇孫が
把握できるんですね。
799 :
日本@名無史さん:04/12/22 11:59:45
毛利家って分家は
他の家の人が養子で
きちゃったの?
>>799 ここに書(か)き込(こ)む前(まえ)に国語(こくご)の勉強(べんきょう)をしましょう。
◯ _____
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( ´∀`)// < 日章旗掲揚!
( つ \___________
| | |
(__)_)
802 :
日本@名無史さん:04/12/27 23:53:43
孝忠さんという苗字は、どこの貴族ですか?
803 :
日本@名無史さん:05/01/04 00:56:26
そんな苗字あるの?
804 :
日本@名無史さん:05/01/05 02:27:12
自分の名字が児島ですが、誰か歴史上の人と関連ありますか?
因みに鳥取県の米子に住んでます。
806 :
日本@名無史さん:05/01/10 10:54:48
807 :
日本@名無史さん:05/01/10 21:55:01
信高の家系って、幕末まではたどれるんだけど、そのあと信成クンにいたるまでの系図はどうなんだろうね。
織田信弘さんって何歳ですか?
809 :
七誌:05/01/12 22:22:59
17歳です。今年18かな?
810 :
七誌:05/01/12 22:24:06
結局、信長の子供は、信忠、信孝以外アポが多いな。悲し。
809 さん、それは信成さんのことですよね。僕が聞きたいのは、信弘さん(旧天童藩現当主)の年齢ですので。
またまた遅レスですが、正月に高知に帰省した際に少々調べてきました。
余裕が無いので色々纏めて書く事が出来なかったり、家系図関係は門外不出だから簡単に他人に漏らすのはNGとばーちゃんに言われたので取敢えず歴史的に面白い価値が少しでも有りそうなネタのみを。
一応デジカメで家系図等の資料館系は写して来たのですがね。あくまでもそれを許可するのは私が一族の物である事、もしもオリジナルに何か有って紛失した際に何らかの形でも良いので残っていれば良いから。との事で。
しかしフラッシュ焚くのが不味いものもフラッシュ無しである程度見える様に撮影できるデジカメって便利ですね。
大体、織田信秀の兄弟辺りの世代で織田家本家とは分かれている様です。
山内一豊が織田家の人を土佐の宿毛に領地を与えて召抱えた際に、本人一人のみでは何かと不便だし何か有った時困るだろうとの事で、弟を小姓と言う形で共に土佐入りさせたそうです。
その一族が織田信福の一族になります。
織田姓を名乗って居たのは最初の数代のみだった様です。
その関係も有るのか、その人たちの墓は特殊な形状をしています。
四角く石で囲う形で場所を示すのみで、名前が刻まれた墓石が存在しないのです。
恐らく時代的に織田の名前を刻んだ物を簡単に残せなかったのでは?と言う説や、当時は墓石が無くとも誰の墓か判ったから必要無かった。等の説が有ります。
調査しようとしていた学者の方が居たそうですが、途中で亡くなって其の侭になっています。
墓のある場所一帯も文化財だったかなんかに指定されてるので何かと難しいらしいです。
前述した羽田姓は江戸末期頃に名乗っていた姓の様です。他には津田などの姓を使っていたようです。
その辺りの歴史に詳しい方はその辺りを当たって見れば更に詳しく何か判るかも知れません。
ちなみにその辺りの一族の流れ詳細も色々エピソードがあるようですが(何処で世話になった居たか等)メモをするのを忘れていた関係も有ってきちんと思い出せません。申し訳無い。
続く
続き
織田姓に戻したのは明治時代に入った際に、理由があって姓を変えていた士族は本来の姓を名乗っても良い、と言う法令があったので信福さんが織田姓に戻したそうです。
ちなみに信福の読み名は、一般的に「しんぷく」で通っていますが、それは読みさすさを重視した回りが呼んでいた愛称だそうです。
この辺りはしっかりと覚えてないらしく調べないと判らない様でした、祖母や父の話しだと「のぶなり」「のぶふく」のどちらかの様です。
後、7人目の歯科医師免許と書いてましたが、7月に九番目に免許を得たと言う記述を私がごっちゃに覚えていて間違えた様です。訂正しますね。
ちなみに信福さんは武術の方も達者で柔術の免状も残っているそうです。
更に歯医者の建築物は高知歯科医師会館を兼ねていた時代も有ったそうで、高知で現在二つのみ残る大正建築の一つだそうです(もう一つは高知城追手門の通りにある追手前高校の一部だったかな?)
一般に出回って居る本やインターネットでは調べ難い様ですが、高知の自由民権記念館や、最近出された高知歯科医医師会の年史だったか何かを読むことが出来ればある程度の事が判る様です。
あまり簡単に表に出せない部分が有ったりして、情報量が多いとは言えませんが興味を凭れた方の好奇心を僅かでも満たして頂ければ幸いです。
祖母も健在なうちに何かと当織田家に置ける情報を纏め上げて置きたいらしく、日々余裕がある時に調査して纏めて居る様ですし、私の父にその手の歴史に関しては託していきたいらしいので私も何かと勉強する機会も多くなると思います。
もし興味がある方が居られて、私が更に露出させても問題無い歴史情報などを知る機会があれば、又書き込みをしたいと思います。
ちなみにデジカメ撮影した一部がブレでしっかり見えない部分があるから又頭下げて撮影させて貰わないと駄目になってました。トホホ…… orz
それでは之にて。
814 :
日本@名無史さん:05/01/26 02:50:39
突然、すみません。どなたかご存知の方、教えてください。
暗殺された井伊直弼の子供って、二人いたという話を聞いたことがあるのですが、本当ですか?
一人が男の子で、その子は暗殺と同時に彦根にかくまわれてその末裔が前の彦根市長だとか。
で、娘のほうは、京都にかくまわれて吉里と名乗るようになり、その村自体も吉里となったという話をきいたのですが.
、どなたか教えてください。
細川氏も井伊直弼の末裔という話を聞いたことがあるのですが。
815 :
日本@名無史さん:05/01/26 03:22:33
男の子ってかくまわれたも何も家継いだんだろ
817 :
日本@名無史さん:05/01/27 21:46:37
>>814 井伊直弼のひ孫の故・井伊直豪氏は元彦根市長ですよ。
今週火曜日の日本経済新聞の経済教室で小論書いていた
みずほコーポレート銀行 伊東祐弘氏
って、飫肥藩主伊東の子孫? 通字も入ってるし一応。
>>812-813 、,r‐''" "。'!`./'i、i、''┴.
.,,// ./` .,ヽ 、'!、 -,..,,゙'-、
.,r'" 、,、 ` | .| ゙'ハ ヽ
.,/、 .'"l゙ .,.._ ,l゙ .ヽJ│ `, 、<i、
丿/ ゙.,_,゙,,,.,`,i、,!" `,,,,,ll,, .""`.♭
,/ " ,i´.,ノ ゾ/,i,,,|,,,゙″ ゚゙゙,,,,,\ ." 'i、
,l゙ .! ` " ,/` ゙( ●)‐ .゙(● )彳 │| クワッ
! 、 |"" _.‐ !、 ゙l i、 |
│ | ,.| (●、●) .| ".l,| __________
l゙ "" ," ゙l、 ,,,,,,-,、 ,(, l゙.,jリ /
`、 l、タ,i´゙l、 f{++++lレ. ,l゙,l゙,|l゙ < ここはお前の駄文を書き付ける落書き帳じゃねーんだ 便所紙にでも書いてケツふいてろ
| l゙ l゙| │ `'''`'″ ,「"".|l゙ \
l゙ェ'." ,.彳 `"〜 、 ,ィ'゙冫,r゙′  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
フ l ゙l | `゙'''―'''` ,l゙.| |,i
..,r" ! .、 |-,"゙l、
″ ``'‐ ! " \`″
820 :
日本@名無史さん:05/02/18 13:33:11
失礼なこと言うな。
821 :
日本@名無史さん:05/02/19 00:35:03
>>819と
>>820の時間差が半月もある・・・
にちゃんで失礼とか言ってもしゃーないと思うよ。むしろなにか書き込みした時点で、失礼なレスを覚悟すべきでしょ
822 :
日本@名無史さん:05/02/19 00:37:14
しかもマジ駄文だし。もっと工夫して格調のある文章書けないなら書き込みすべきでない
>>821 激しく同意。
能力ないやつにかぎって腹立てるのはいつの世も同じだな
824 :
日本@名無史さん:05/02/22 20:59:07
825 :
日本@名無史さん:05/02/22 21:28:14
その上司は典型的な日本のオヤジだなw
826 :
日本@名無史さん:05/02/23 00:24:47
九州で交通事故起こした僧侶・足利義就さんって
足利将軍家と関係あり??
>>822 匿名掲示板でハイランク文章求めてどうするよ。
どんな文章レベルの人でも気楽に知ってる事を書き込めるってのが大事なんじゃない。
そうじゃないと情報交換とか進まないよ。
そして819のコピペがスレストしたのが真実で、最大の駄文だったのは結果が物語ってる訳で。
まあこのスレで一番大事なのは情報なんじゃないですかね。
828 :
日本@名無史さん:05/02/25 10:43:09
俳優の池田政典さんも
なんか、旧大名池田家と関係ありそうな名前だ。
829 :
日本@名無史さん:05/02/25 11:07:38
そういえば岡山池田家の当主と厚子さんには子供はいないけど
後継ぎはどうするのだろうか?
830 :
日本@名無史さん:05/02/25 11:55:32
断絶か、養子。
でも当主が、亡くなっても夫人が後を継ぐかも????
831 :
日本@名無史さん:05/02/25 16:42:41
御当主には兄弟はいないのか?
832 :
日本@名無史さん:05/02/27 22:08:15
鍋島直正の子女を教えてください。
833 :
日本@名無史さん:05/02/27 22:12:37
息子が直大
834 :
日本@名無史さん:05/02/28 15:31:48
俳優の岸部一徳って、鍋島直正に顔が似ているね。
最初見たとき後子孫かと思った。
孝一さんは通訳関係の本を書いていたような。
836 :
日本@名無史さん:05/03/06 23:01:14
徳川家広さんとか伊達泰宗さんには男子いないよね?
後継ぎどうするんだろう?
女の子でも子供が居れば婿養子ってちょっと前ならよくあったけどな
838 :
日本@名無史さん:05/03/09 16:22:28
池坊保子さん(梅渓家出身)の母夏子さんは香淳皇后のいとこらしいけど誰の娘ですか。
邦彦王も倶子妃も兄弟多すぎなので。
>>836 結婚はしているの? しているなら現在の年齢にもよるが可能性はまだあるのでは?
840 :
日本@名無史さん:05/03/10 18:46:31
鍋島直大の子女を教えてください(その生母も)。
教えて下さいじゃなくて調べようとしてみようぜ?
842 :
836:05/03/12 01:18:19
泰宗さんは結婚してたはず。
家広さんは残念ながら知らないんだよねぇ・・・
でもどちらにしてもかなりいい年だと思うんだけど。
844 :
日本@名無史さん:05/03/12 13:43:39
>>840 長女朗子(前田侯爵夫人)、長男直映の生母は正室梅溪通善長女胤子。
次女伊都子(梨本宮妃)の生母は継室広橋胤保五女栄子。
他は何人かいたと思うけどわからない。
>>832 直柔という息子もいた。
>>844 故秩父宮妃勢津子さまの母・松平信子は次女伊都子(梨本宮妃)の
妹だけど、母親は同じですか?
846 :
渡辺の名無しさん:05/03/13 11:10:31
「槍の半蔵」こと渡辺半蔵守綱の直系の子孫って今でもご存命ですか?
847 :
日本@名無史さん:05/03/13 14:21:02
848 :
渡辺の名無しさん:05/03/13 14:24:41
そうそう。ちなみに俺んちも渡辺だけど、家が違う。
849 :
日本@名無史さん:05/03/13 18:08:05
あのぅ、もしかしたら、このスレと関係ないかもしれないんですが、
政治家麻生太郎の麻生塾に入れる人とはどれくらいの血統以上の人を言うのでしょうか?
知ってる人が卒業生なので、知りたいのです。
850 :
日本@名無史さん:05/03/13 22:59:40
「男爵」の定義とその実際の分け方について教えてください。
例:幕末、城持ちだったら男爵?
851 :
日本@名無史さん:05/03/14 00:16:19
宇喜多秀家の子孫って
誰?
ちなみにソニーの宇喜多義敬氏はこの系とは
関係ないよね?
ソニーの土井利●氏は土井の子孫(分家)
父親は興銀勤務だったそうだ。
853 :
日本@名無史さん:05/03/14 19:09:37
>>容姿が似てるから可能性大
854 :
日本@名無史さん:05/03/14 19:17:05
>>853は鍋島栄子さんと松平信子さんの親子関係です。
>>845なので伊都子さんと信子さんはおそらく同腹です。
直大さんは海外生活がながいので側室はいないと思います。
855 :
日本@名無史さん:05/03/14 19:28:54
>>850 一新後、華族となった者。勲功華族以外では以下の通り。
・維新後に諸侯に取り立てられた者(御三家の付家老、交替寄合など)
・堂上公卿の分家、奈良華族(摂家の子弟で奈良の門跡寺院の住職)
・万石以上の一門、家老(一部、万石未満の者あり)
・神官・僧家華族(国造クラスの社家や真宗大谷家の一門)
856 :
日本@名無史さん:05/03/14 19:42:18
幕末の桑名藩家老服部半蔵は家康に仕えた忍者服部半蔵の子孫ですか?
857 :
日本@名無史さん:05/03/15 09:26:21
>>851 こないだ宇喜多秀臣氏とかいう人がありがちな歴史イベントに出てきたっていうニュースがあったよ
何してる人かはしらんが・・・
>>852 へえー、やっぱりそうなんだ。
名前的にそうかな?と思ってググッたりしたんだけど、
特に見つかんなかったんだよね、今まで。
>>856 そうです。
半蔵の長男、石見守正成は家中不行き届きで改易。
桑名藩家老は次男の家系です。
週刊読売に写真でていました。
服部大参事。
身長が高く、神経質そうだと記事にありました。
863 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 23:27:36
鍋島家って名門なの?
どっかの企業の社長だとか
864 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 16:47:29
>>9 今更かもしれないが伊達宗徳夫人佳姫(?)は四回妊娠したが四回とも流産した。
865 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 18:19:57
>>836 :日本@名無史さん :05/03/06 23:01:14
>徳川家広さんとか伊達泰宗さんには男子いないよね?
>後継ぎどうするんだろう?
家広さんの息子さんは、学習院小中高→筑波
一応、一般人だから個人名はさらせない。
866 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 18:40:32
家広って、そんな大きな息子がいるのか。
867 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 21:02:30
スケートの織田信成って、どういう系統なのか?
868 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 21:08:52
信長の下のほうの息子の子孫で、江戸時代、高家だった家。
つまり分家のひとつにすぎない。
869 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 21:14:29
>>868 それは知っているが
江戸時代に
本家の信雄(信長の三男)の系統が
養子に入っている。
一方、本家のほうは
他家から婿養子が入っているから
系統が入れ替わっている。
870 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 21:25:59
>>868 ただ、途中で織田家とは全く血縁関係のない人物(しかも明智光秀の家臣の子孫だったりする)
が当主になったりしているからもうわけわかめ
871 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 09:24:47
>>869 それは知っているが江戸時代以降はどうなっとるんだろう?
結局養子取ってたりして
872 :
日本@名無史さん:2005/04/08(金) 12:00:14
鍋島直正−鍋島直大−松平信子−松平一郎−徳川恒孝−徳川家広
鍋島直正−細川宏子−細川護立−寺島雅子−徳川幸子−徳川家広
家広さんの両親は鍋島直正の血を引いてる。
873 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 13:20:39
>>872 鍋島直正−鍋島直柔−堀田正恒−徳川義宣−徳川義崇
鍋島直正−鍋島直大−松平信子−徳川正子−徳川三千子−徳川義崇
鍋島直正−細川宏子−一条悦子−南部利英−南部利昭
鍋島直正−池田幸子−南部巌子−南部瑞子−南部利昭
こんなのもある。
874 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 16:15:27
尾張の徳川義崇さん、紀伊の徳川宜子さん、水戸の徳川斉正さんには子供と兄弟はいますか。
875 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 16:47:50
鍋島直正最強
876 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 20:32:13
父系・母系の両方でみれば、
日本中の誰かさんとは、
みんな数十代前さかのぼれば
どこかで繋がっている。
よって、皇族が父系に拘る事によって
出自を限定しているのは、そういうことなわけ。
877 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 20:33:55
現代の尾張・徳川家の当主は
父系でみると
鍋島家の系統に変わっているんだな。
878 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 21:55:08
>>874 水戸の斉正さんには息子も孫(男子)もいるよ
一応名前は伏せとくけどね。
879 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 18:53:29
>>878 えっ!斉正さん孫もいたの。
俺の記憶だと昭和33年生まれのはずだがもしかしたらもっと早く生まれていた?
880 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 18:55:01
他の摂関家も現当主の父系をたどれば武家だよな。
882 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 19:41:31
摂関家って元は藤原鎌足の流れを汲むものだろ
鎌足の子供の不比等は実は中大兄皇子の子供だったという説もあるから
貴種には変わりない。
883 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 19:28:30
>>880 鷹司家みたが、
ちゃんと摂関家の父系の系統を
残している家もあるみたいだぞ、かなり。
一部(宗家か?)、松平家から養子が入ったけど...
884 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 19:31:32
現代の五摂家で
藤原道長の父系の系統を残しているものの全てが
二条治孝(生没年:1754-1826) に繋がる。
彼の子息、孫が
九条、一条、鷹司、松園などに
養子にいっている。
885 :
878:2005/04/13(水) 22:37:38
>>879 失礼。圀斉さんと間違えた。
斉正氏の子供は平成3年生まれだったかな。
平成新修旧華族家系大成に出てるよ。
斉の字がついてるから、水戸は斉を通字にするのかも。
886 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 03:51:12
>>885 徳川斉昭の斉だね。
もともとは将軍家斉からだけど。
887 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 18:48:42
斉正氏は徳川慶喜のひ孫だけどずいぶん世代交代遅いね。末っ子の末っ子の末っ子でもないのに。
888 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 19:30:09
徳川斉昭―徳川慶篤―徳川篤敬―徳川圀順―徳川圀斉―徳川斉正
徳川斉昭―徳川慶喜―徳川英子―徳川圀斉―徳川斉正
889 :
日本@名無史さん:2005/04/14(木) 19:41:02
>>888 徳川治紀―徳川斉昭―徳川慶篤―徳川篤敬―徳川圀順
徳川治紀―松平頼恕―松平頼聡―徳川聡子―徳川圀順
890 :
日本@名無史さん:2005/04/16(土) 13:00:30
広幡家は二代目にして養子
891 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 18:58:59
蜂須賀正韶氏の生母は先妻蜂須賀氏?後妻徳川氏?それとも側室?
892 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 19:08:49
南部利久氏の息子の利文氏の生母は朝香宮女王(名前忘れた)ですか。
893 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 19:56:13
系図オタ、必死だなw
894 :
891:2005/04/20(水) 19:09:26
895 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 12:50:25
896 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 13:00:04
897 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 15:19:43
精は海舟の養子になったの?
小鹿の娘の婿養子ということなら、小鹿の養子のようにも思えるけど。
そうであれば、血統的にも家督的な意味でも曾孫だと思うが?
血筋は男子血統だから、女性の血筋を持ち出しても無意味。
899 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 16:19:42
海舟の長男が亡くなっていたため、慶喜の十男が養子となり、家の跡を継いだ。
読売新聞によると、1月22日に「勝伯が宮内省爵位局に養子申請の手続き」とあり、
海舟死去の記事が掲載されたのが1月23日。
900 :
日本@名無史さん:2005/05/06(金) 16:29:31
朽木道子さんの夫も慶喜の孫?
901 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 10:14:55
慶喜の系図
http://nekhet.ddo.jp/people/japan/tokugawa01.html 徳川慶喜
生没年:1837-1913
正室:貞粛院 一条美賀子(義父:左大臣従一位 一条忠香、父:今出川公久)
1863-1940 (養子)家達
側室:新村信-1905(父:松井勘五郎)
1875- 鉄子(伯爵 徳川達道室)
1877- 池田仲博(子:幹子、義父:伯爵 池田輝知)
1880- 良子
1882- 経子(伏見宮 博恭王妃)
1884-1922 慶久
1887-1923 英子(侯爵 徳川圀順室)
1888-1932 伯爵 勝精(妻:勝小鹿女伊代子)
側室:中根幸(父:中根芳三郎)
1874-1930 厚(宗家分家へ)
1875- 金子
1876- 筆子(侯爵 蜂須賀正韶室)
1880-1954 浪子(男爵 松平斉室)
1882- 国子(子爵 大河内輝耕室)
1883- 糸子(侯爵 四条隆愛室)
1884- 男(死産)
1887- 誠(慶喜家分家へ)
側室:
1873- 鏡子(伯爵 徳川達孝室)
1884- 久
902 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 16:42:12
徳川斉昭―徳川慶喜―池田仲博―朽木綱博(朽木道子さんの夫、朽木綱貞養子)―朽木彰
徳川斉昭―池田慶徳―池田輝知―池田亨子―朽木綱博―朽木彰
徳川斉昭―徳川慶喜―勝精―朽木道子―朽木彰
朽木家、完全に水戸徳川家に乗っ取られたな。
903 :
日本@名無史さん:2005/05/07(土) 17:20:16
すごいインブリード
904 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 13:09:22
慶喜の孫同士が結婚したってことか。
905 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 14:13:39
>>901 新村信の父は、松平(形原支流)勘十郎政隆だよ。
はじめの養父は荒木省吾。
次の養父は新村猛雄。
松井というのは、新人物往来社の誤植を引用したものだと思われ。
906 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 14:18:56
男系の血筋で考えると
あの毛利家は
実は、藤原道長の男系の子孫だったりする。
大江広元は、母親の大江氏を継承したわけだし...
907 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 15:01:02
徳川慶喜の存命の孫は
(七男徳川慶久公爵の子)
榊原喜佐子氏
井手久美子氏
(十一女徳川英子(徳川圀順公爵夫人)の子)
香川典子氏
(十男勝精伯爵の子)
佐々木中子氏
藤田當子氏
の5名に。
※現在存命なのは、すべて新村信の血を引く孫。
(中根幸の血を引く孫は、徳川喜和子氏が亡くなり全員がお亡くなりに。)
908 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 15:06:57
ホントにどうでもいい知識だな。
ていうか、そこまで私人の名前を晒していいのかと(ry
909 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 15:13:34
山中鹿之助の子が鴻池になったんだとか。豪商の
910 :
日本@名無史さん:2005/05/08(日) 22:42:21
>>909 http://www.s-oak.jp/itami/walking/course06/ 清酒発祥の地・鴻池
戦国時代の天正6年(1578)、尼子氏の家臣山中鹿之助の長男、新六幸元が遠縁を頼ってここ鴻池村に住みつき、酒造りを始めました。
最初は濁り酒を造っていましたが、慶長5年(1600)に双白澄酒(もろはくすみざけ=清酒)の製法を初めて発見することができました。
この清酒を江戸に運んで販売し、次第に財を貯え、後に分家を大坂に出して、酒販売・海運業・金融業でも成功を収めました。
これが、豪商・鴻池家の始まりです。
鴻池家の屋敷の後には大きな池があり、これを鴻池といいました。
これは村の名前の由来であり、またその名前を大阪の店の屋号として用いました。
911 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 19:07:06
榊原喜佐子さんの本に「私たちは祖父(慶喜)の孫たちの中で最も若く、従兄弟たちの中には叔父上、叔母上って言ってもよさそうな人がいた」のような内容が書いてあったが、
となると慶喜の生きてる孫はみんな80代90代のおばあさんということだがこの中に慶喜の存命中に生まれた方はいるのだろうか。
>>345 >以前読んだ「日本の名家、週刊読売編集部」
それは写真とかある?
913 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 16:20:32
徳川義直−徳川光友−徳川綱誠−徳川吉通−千姫−二条宗基−二条治孝−九条尚忠−九条道孝−山階宮範子妃−浅野安子−徳川頼子−徳川斉正
尾張初代義直の血が戦後になって水戸家に入った。尾張家は初代義直の血が入っていないのに。
914 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 17:20:28
>>913 千姫ー二条宗基とところを証明する参考資料ってありますか?
915 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 17:21:29
とところ×→のところ です。失礼!
916 :
ケン防:2005/05/23(月) 14:00:56
松平氏の中で家臣となった家系、例えば御三家、御三卿、御連枝の家臣になった人物の系図ご存知の方はいませんか?
917 :
日本@名無史さん:2005/05/24(火) 10:13:19
平家子孫を名乗る伴家をどうにかしろ。
あいつはニセモノだ。
さらに勝手に源氏の子孫と和睦してしまった。
清水家の系図ならわかるかも
919 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 18:34:07
榊原喜佐子さんは実は実枝子女王の子ではないという噂があるけどそれが本当だとしたら戸籍はどうなっているのだろうか。
920 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 19:27:26
>>919 「女聞き書きー徳川慶喜残照」に詳しい。
正室の子では無いにしても、あの時代であればそんなに珍しいことではなさそう。
ご本人の責任でもないしね。
921 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 23:38:58
922 :
914:2005/05/28(土) 00:11:11
>>921 必ずしも1次資料でなくてもいいとは思いますが、そのリンクはどうなのでしょうかね。
名前の不明な側室の腹の子と正室の腹の子をはっきり書き分けてくれていればもっとはっきりするのですが…。
九条家・二条家・尾張徳川家という名だたる名家が関係しているのだから、資料ぐらいありそうですが。
923 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 12:58:34
>>920 喜佐子さんには責任がないけど慶久さんには責任がある。それなのに慶久さんは死んでしまった。
924 :
日本@名無史さん:2005/05/28(土) 17:12:50
自称平家子孫の伴家当主の伴輝彦氏だがニセ子孫である
925 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 18:04:01
926 :
浅野ます道 ◆uPi7wNaMbU :2005/05/31(火) 22:01:19 BE:22806735-
>>238 芝川町の西山本門寺では信長公供養祭を6月初に行っていて
この親子は平成14年からこの祭典に参加してるようだ。
しかしそれがきっかけで芝川に引っ越すとはw
927 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 18:50:25
華族じゃないけど安藤和津って系図では緒方貞子の上の世代なんだな。
年齢的には緒方貞子の方がだいぶ上なのに。
928 :
日本@名無史さん:2005/06/17(金) 19:41:12
犬養健の子?
929 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:08:23
俺の叔母は山県有朋の娘。
930 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 01:44:02
929は何歳?
931 :
929:2005/06/18(土) 05:24:06
間違い。
俺の母親の叔母だったw
932 :
日本@名無史さん:2005/06/18(土) 16:25:15
喜佐子さんが生まれたとき慰子妃は生きていたけど喜佐子さんのことをどう思っていたのだろうか。
日本史的には全くどうでもいい、全く無意味な書きこみだな
937 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:30:42
安藤和津の母親が後藤象二郎の孫なの?
938 :
日本@名無史さん:2005/07/08(金) 19:46:13
安藤和津は妾の娘
スレ違いだけど、
綱吉って身長が124cmで、低身長症だったらしいけど
いわゆるコビトですよね。 マジ、驚きです。
いくら江戸時代でも低すぎですよね。
元靖国宮司の松平永芳氏が亡くなられたのですね。
ご冥福をお祈り致します。
この方の系図を改めて見てみると、徳川吉宗の六世孫なのですね。
徳川吉宗ー一橋宗尹ー一橋治済ー田安斉匡ー松平慶永ー松平慶民ー松平永芳
世代数が少ないですが、慶永と慶民がそれぞれ晩年の子供なので。
戦後に生きた方でこれよりも世代数が少なく元禄・享保期にさかのぼれる人はいるのでしょうか。
941 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 23:29:28
真田家に養子入りした松平定信の子孫ってそのままいるのかな?
942 :
ハイジ:2005/07/18(月) 01:51:15
今川家の血統は素晴らしい。惚れ惚れしてしまうよ。
943 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 08:16:02
今川義元といえば戦国時代一の無能ですね
945 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 18:06:36
真田家に養子入りした松平定信の子孫ってそのままいるのかな?
946 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 12:26:02
>>945 残ってないよ
定信の息子が養子に入ったあとその孫が継いでるけど、その次は伊達宗城の息子が養子に入ってる
今の真田家の当主はその子孫だよ
947 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 00:38:15
948 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 12:39:33
霊元天皇〜徳川慶喜〜徳川斉正(現水戸家当主)も世代数がかなり少ない。
949 :
940:2005/08/04(木) 12:29:16
霊元天皇-職仁親王-織仁親王-吉子女王-徳川慶喜-徳川英子-徳川圀斉-徳川斉正
1654生まれの霊元天皇から1960年生まれ(?)の徳川斉正まで
306年間を八代(平均38年)ですから、かなり短い方ですね。確かに。
ちなみに
徳川吉宗-一橋宗尹-一橋治済-田安斉匡-松平慶永-松平慶民-松平永芳
だと
1684年生まれの徳川吉宗から1916年生まれ松平永芳まで
232年間を七代(平均33年)なので、上記の方が上回ってますね。。
※ちなみに家康から計上しても平均37年ぐらいかと。
950 :
日本@名無史さん:2005/08/05(金) 23:55:54
951 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 09:44:30
>>949 徳川斉正は1958年生まれのはず。それに後水尾天皇(1596年生まれ)を合わせると、362年を九代なので平均40年を2月ほど上回ります。
952 :
940:2005/08/09(火) 09:21:47
後水尾天皇からの計算はしていなかったけど、女性を二人含んでさえ、平均40年越えって言うのはすごいですね。。
比較対象として、
後水尾天皇〜皇太子で計算してみると
後水尾天皇-霊元天皇-東山天皇-直仁親王-典仁親王-光格天皇-仁孝天皇-孝明天皇-明治天皇-大正天皇-昭和天皇-今上-徳仁親王
1596年生まれの後水尾天皇から1960年生まれの皇太子まで
364年を13代で28年になるかと
徳川家康〜徳川宗家当主で計算してみると
徳川家康-徳川頼房-松平頼重-松平頼候-松平頼豊-徳川宗堯-徳川宗翰-徳川治保-松平義和-松平義建-松平容保-松平恒雄-松平一郎-
徳川恒孝-徳川家広
1542年生まれの徳川家康から1965年生まれの徳川家広まで
423年を15代で同じく28年になりますね。(偶然かな・・
953 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 10:42:30
徳川斉正や松平永芳には弟妹や年下の従弟妹はいる?
954 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:29:20
955 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:37:04
現代の私人ネタキモス
956 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:43:18
弘孝さんは斉正さんより年上のはず。永芳さんの父慶民さんには尾張家当主だった義親さんという弟がいてその人けっこう子供が多いから1人くらい永芳さんより年下がいるはず。
957 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 13:53:56
「さん」づけで書かなければいけないような現代の一私人の家系を詮索するキモヲタ。
958 :
940:2005/08/09(火) 18:12:03
斉正氏や永芳氏にもおそらく同世代の年下の方おられるでしょうが、平均年数を大きく伸ばす様な差は無いでしょうね。。。。
数代前に分かれた家系で無いと大きくは変わらないでしょうね。
近衛タン司法試験受かったのかなぁ?
960 :
日本@名無史さん:2005/08/18(木) 23:15:28
室町時代の細川典厩家の当主で細川政賢ってのがいると思います。
この政賢は、尊卑分脈などの系図上では細川政国の子ということになって
いますが、これは当然、政国の実子ということで良いのですよね?
以前にどこかで、実は政賢は政国の実子ではなく養子だという話を聞いたような
気がしないでもないのですが、ソースが突き止められなくて困っています。
961 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 13:08:11
>>513 こんなところで、うちの先祖の名を発見。
962 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 02:37:11
あげ
963 :
日本@名無史さん:2005/09/10(土) 11:35:51
直仁親王―鷹司輔平―鷹司政熙―鷹司政通―鷹司輔熙―三条治子―閑院宮智恵子―閑院春仁(純仁)
女系だけど初代の血が戻っているね。
>>963 その閑院宮家も消滅したからな
なんかもったいない気がする
965 :
日本@名無史さん:2005/09/18(日) 17:14:53
明治天皇の生母の中山慶子が徳川吉宗の子孫って本当でしょうか?
母方の祖母が吉宗の曾孫だとか…。
だとすると昭和天皇は父方も母方の徳川家康の子孫って事ですね。
966 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 00:34:19
諸家系譜というサイトに繋がらないんだが閉鎖したのかな?
967 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 11:47:38
華子女王の男系子孫は伏見宮と閑院宮と有栖川宮の血を引いている
徳川吉宗―田安宗武―松平定信…(不明)…松浦愛子―中山慶子―明治天皇らしいが誰か分かる人いる?
968 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 13:09:30
>>967 松平定信の娘泰姫が松浦煕に嫁いでいるけど
松浦愛子は松浦煕の妹にあたるから血はつながってないと思う。
969 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 13:11:41
皇室ネタは飽きた。
普通の大名、旗本、武士のネタで頼む。
970 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 14:05:24
かの有名な一条尊昭尼は三条実美の孫なの?
971 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 21:11:27
松本剛明民主党政調会長は伊藤博文のひ孫だそうですが、途中の博文の子・孫の名前がわかる人っていますか?
972 :
日本@名無史さん:2005/09/19(月) 21:17:54
ねえ、俺は桓武平氏の血をついているんだけど
どう思う?
973 :
山野野衾:2005/09/19(月) 21:19:28
おまえら所詮はアキバ系だろ?
血統を必死になって論評しあっているのって
なんかキモイ
おまえらの外見まで容易に想像できるんだけど
〃∩ ∧_∧
⊂⌒ ( ・ω・ ) ↑はいはいわろすわろす
`ヽ_っ⌒/⌒c
⌒ ⌒
975 :
日本@名無史さん:2005/09/20(火) 22:51:28
徳川義直−光友−綱誠−吉通−千姫−二条宗基−治孝−九条尚忠−道孝−貞明皇后−昭和天皇−今上天皇
徳川頼宣−光貞−吉宗−宗尹−治済−斉敦−寧姫−島津忠義−俔子−香淳皇后−今上天皇
徳川頼房−頼重−頼侯−頼豊−宗尭−宗翰−嘉姫−九条尚忠−道孝−貞明皇后−昭和天皇−今上天皇
>975
×徳川宗翰-嘉姫- 九条尚忠
↓
○樋口基康-女 -九条尚忠
×一橋斉敦-寧姫 -島津忠義
↓
○島津忠公-千百子-島津忠義
では、無いかと。
※宗翰娘は尚忠兄の二条斉通・斉信兄弟の母かと。
※斉敦娘は忠義叔父の島津斉彬正室かと。
勘違いならごめんなさい。
細川護貞さん93歳(ほそかわ・もりさだ=故近衛文麿元首相秘書官、細川護煕元首相の父)
3日、心不全のため死去。葬儀は6日午後1時、東京都港区南青山の青山葬儀所。
自宅は非公表。喪主は長男護煕(もりひろ)さん。
肥後藩主細川家の17代当主。1940年に近衛首相の秘書官に就任したが、
戦後は細川家の伝来品を収める「永青文庫」理事長として文化活動に専念。
日本いけばな芸術協会会長や日本ゴルフ協会会長、神社本庁統理などを歴任した。
戦中戦後の政府、宮中など中央の動きを記録した「細川日記」などの著書がある。
毎日新聞 2005年10月4日 10時03分
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20051004k0000e060020000c.html ---------
ようやっと死んだのか、この爺さん。
倅が総理大臣になって隠居暮らしに入ってからも細川家主の座を譲らなかったいうが…
978 :
31:2005/10/04(火) 18:39:13
細川斉護―細川護久―細川護立―細川護貞
鍋島直正―細川宏子―細川護立―細川護貞
池田章政―池田詮政―細川博子―細川護貞
島津忠義―松平充子―細川博子―細川護貞
護久、宏子、充子は側室の子だけど詮政は正室鑑子の子なの?
979 :
日本@名無史さん:
どうなんだろ