1 :
信玄 ◆rN4Ru3KDqQ :
いや、そーだって。絶対そーだって。
本能寺の黒幕は、バラモンの一族。
3 :
日本@名無史さん:03/12/28 20:22
本能寺の黒幕はKGB
4 :
日本@名無史さん:03/12/28 20:26
本能寺の変は織田信長の自作自演
家康の陰毛
北の人
7 :
日本@名無史さん:03/12/29 00:16
昔、NHKの番組でそんなこと言ってたなあ。
8 :
日本@名無史さん:03/12/29 01:27
明智光秀が天海として家康の参謀になったとか言う
話もあったが仮説にすぎんように家康陰謀説も
仮説の域をでないと思う
9 :
日本@名無史さん:03/12/29 22:05
家康が黒幕でない理由
1.なんで決行のときに堺で豪遊してるんだ?
黒幕だったら、事後の対応に備え、自国にいるときに
信長を殺させるだろう。
2.なんで決死の思いで伊賀越えしてんだ?
黒幕なら堂々と京都通って帰れよ。信長を殺すという目標が達成
されてんだから、別にこそこそする必要ねーだろ。
この時点で秀吉が中国大返ししてくるなんてだれも想定してない
はずだし。
3.家康が明智を動かせるほどのタマか?
家康がどうやって光秀を動かすんだ?
主従関係でもないし。なんか光秀の弱みでもにぎってたのか?
以上の理由から、家康黒幕なんてあり得ない。
黒幕いるとしたら朝廷か義昭だろう。
俺は明智単独犯行だと思うが。
10 :
日本@名無史さん:03/12/29 23:14
>>9 もれも、明智単独説。
秀吉は(光秀もそうだが)信長のお陰で大名になれたのだし、家康は信玄上洛の際も信長を見捨てなかった。
そんな連中が一緒に信長撃とうぜ、実行犯は君にやってもらいたい、といわれて普通信用するか?
彼らも、光秀に話を持ちかけて、そのまま信長に告げ口されたら、適わないじゃないか?
それにあの時代であればそれだけのことをするなら、互いの裏切り防止のため誓詞を交わし、人質を交換するのが当たり前と思うが。
そうすると単独犯説が一番理にかなう。
11 :
日本@名無史さん:03/12/30 01:15
12 :
日本@名無史さん:03/12/30 01:27
カッコイイから。
漏れがやった
14 :
日本@名無史さん:03/12/30 04:25
黒幕じゃないと思うけど、もしかして事前に知っていたってことは可能性あると思う
上洛前か光秀の接待中に
知ってたら言うだろ。徳川は織田の藩屏
いや、そもそも光秀は接待してないしw
秀吉の陰謀ならまだ分からぬでもないが、
家康の陰謀なんてありえないしぃ〜
18 :
日本@名無史さん:03/12/30 19:54
昔、家康説の根拠として、信康を殺された恨みというのを聞きました。
ただ、そのころの家康は西郷の局(秀忠&忠吉の母)を溺愛し、築山殿とは険悪だったんだよなあ…。
義昭説というのも聞きましたが。
このころの義昭は「鞆幕府」みたいなものを置き、信長に追放された六角や一色を側近くに置いて、妥当信長に執念を燃やしていたとか。
19 :
日本@名無史さん:03/12/30 20:29
天皇家が光秀を唆したんだよ。
首謀者は黒田官兵衛です。
素直に光秀も天下欲しかったから、という理由が一番いいよ。
だれそれに操られて、とかってのは光秀を過小評価しすぎっつーか。
横から口出したやつはいるだろうけどあくまで光秀主体ってことで。
そそのかした、くらいはあるのでは?
23 :
日本@名無史さん:04/01/01 12:49
>>21 信長を殺せば天下が取れるなんて考えたとしたら
光秀は噂と違って相当なアホだな
合戦で倒すならまだしもあんなやり方では・・・_| ̄|○
それとも「あれでは光秀も我慢できまい」という
世論が一部でも形成されてたのか?
24 :
日本@名無史さん:04/01/01 13:23
>>18 信康に付いて言えばそうかもしれんが、築山殿の事は寧ろ
厄介払いしたと思ったんじゃない?
それ以前から両者は結城秀康の生母お万の方の存在で元々険悪
になってたから家康の側室として西郷の局ことお愛の方がいたから
険悪になったと言うより益々冷めた夫婦になった、言う方が正解では?
それゆえに気位の高い築山殿には嫌悪感一杯だったろうから家康にとっては
内心ホッとしてたのでは?
(お愛が生んだ秀忠は確か1579年の3月生まれ、信康と築山殿の
死んだ年に生まれてる。)
もっとも、西郷の局も32か34歳で若死にするのだが、これも病死ではなく
築山殿縁者や付き人、今川遺臣等が西郷の局を殺した,殺害説もあるのだが…。
これに付いては根拠は不明。
ストレートに義昭説の気が……
26 :
日本@名無史さん:04/01/04 15:25
家康も秀吉も事前にある程度は察知してたとは思うが
共謀はしてねーだろと思う。
1)秀吉は信長の天下統一後にどう扱われるか不安はあった
(信長はあの性格だし)と思われる。
2)家康も武田がいなくなって織田にとって徳川は必要ない
国になってたとか将来について不安あったろう。
3)ただ光秀にしても家康や秀吉もお互いがライバルだから
主君殺しなんて大事を打ち明け協力するなんて間柄とは
いえない。
4)光秀が謀反起こすとして密告しても信長に喜ばれる保証は
ない。猜疑心が強くなった信長にどんな目で見られるか?
そう考えれば2人は君子危うきに近寄らずで、見てみぬ振りしてて
万一の場合の警戒はある程度してた程度じゃないのか?
でも朝廷黒幕説にも疑問がある。朝廷が黒幕だったら変の後に
信長は朝敵だから討ったと天下に喧伝して”主殺し”の汚名を受け
ないようにするだろ。朝廷の暗黙の支持があればもう少し味方を
募るなり秀吉と講和するなり手は打てたと思う。
義昭黒幕なら・・事前に決起の日程を義昭に伝達して毛利への
仲介を頼み毛利への成功報告は暗号で済ませるくらいの手は打ったろう。
事後報告で毛利への使者を秀吉に捕らえられるなんてへまはしないだろう。
てことは光秀単独説だろうと思うけど。
あぼーん
28 :
名無しさん@お腹いっぱい。:04/01/14 16:20
>>1
荒木村重の陰謀だよん
29 :
日本@名無史さん:04/01/14 17:09
皆さんいろいろ言いたいことがあるでしょうが
イ ス パ ニ ア 黒 幕 説 が 真 相
です。
単独犯では?
信長は改革派。光秀は伝統を重んじるタイプ。
だから、伝統を破壊しまくる信長は殺さないと!!!という
意識で殺したんでは?
「謀反してあれこれしたい」ではなく、「このままじゃダメ!」
て感じで謀反したんではと思う
31 :
日本@名無史さん:04/01/14 22:20
のぶなが自身がかなり
32 :
日本@名無史さん:04/01/14 22:34
まあ信長が改革派と言う認識からしてどうか。
本人にも周囲にもそういう認識はなかったのでは?
34 :
日本@名無史さん:04/01/14 22:40
>>26がもっとも当を得ていると思う。
察知していたがどうかは、知らないが察知していたとしても、信長に報告したかどうかは「?」な感じ。
もっとも、秀吉は、信長の天下統一後の自分への処遇の保険として秀勝を養子にするわけだが。
>信長は改革派。光秀は伝統を重んじるタイプ。
この点について、定量分析を行ってください。
36 :
震源 ◆rN4Ru3KDqQ :04/01/15 10:45
絶対そーだって!!
37 :
日本@名無しさん:04/01/15 14:08
豊臣秀吉だよ。
38 :
日本@名無史さん:04/01/15 15:27
長そがべってのが基本だろ。
39 :
日本@名無史さん:04/01/15 16:25
>>1 なかなか革新的な考えだな
あながちありえない話でもない
40 :
日本@名無史さん:04/01/15 19:00
>>34 誰もが的を射てると思う解釈ほど
実際とは違ったりするもんだがなあ
光秀単独犯の場合、光秀自身のメリットは限りなく薄い
やはりこれで得した奴から疑っていくべきでは
光秀のメリットってよりも、変後の手際の悪さが不可解。
信長麾下で最も早く城持ちになったほど有能な武将とは思えない。
42 :
日本@名無史さん:04/01/16 03:15
失敗すれば命も家族も家臣も土地も財産も全て失う
名誉さえ末代まで怪我される
これだけリスクの高い行為をまともな神経で画策できただろうか?
実際にこれだけの賭をしなければならないほど
明智が立場的に追い込まれていたというソースがないんだよね
いくら古来の格式にこだわるとはいえ
信念ひとつで動くほど純な武将だったとは思えない
43 :
日本@名無史さん:04/01/16 03:16
×怪我される
○汚される
あまりにも強いストレスに晒されて、精神的に不安定な状態になって衝動的に
やっちまった…ってことはないか?
ことが全て終わってから、「やっちまったよオレ…(゚д゚)」と思ったとか。
衝動的というには愛宕山の件やらあるしなあ。
根回しが充分じゃないからそういう印象を受けるけど。
そんなことより1よ、ちょいと聞いてくれよ。天下の行方とは関係ないけどさ。
昨日、本能寺に行ったんです。父上に挨拶しに。
そしたらなんか公家がめちゃくちゃいっぱいで入れないんです。
で、よく見たらなんか前関白太政大臣近衛前久も来てて、祝辞を述べてるんです。
もうね、アホかと、我御料かと。
お前らな、祝辞ごときで普段から陰で悪口言ってる父上に頭下げてんじゃねーよ、ボケが。
公家なんか眼中にねぇんだよ、父上は。
なんか吉田兼和もいるし。悲参議のくせに従三位に昇進して嬉しいのか。おめでてーな。
よーし麿右府殿の西国平定の戦勝祈願するでおじゃる、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、西国を平らげた暁には父上と共に禁裏を粛正するから覚悟しろと。
今の禁裏ってのはな、もはや腐りきったものなんだよ。
形ばかりの権威や慣例を掲げ、時の権力者にすがって政(まつりごと)には介入しない。
都合の悪い相手は朝敵にして我が身を守ろうとする、そんな雰囲気が父上に嫌悪されてんじゃねーか。女子供みたいな輩はすっこんでろ。
で、父上との会談が終わって妙覚寺に戻ったと思ったら、貞勝が、明智殿謀反です、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな光秀、天下統一を目前にして世を乱してんじゃねーよ。ボケが。
得意げな顔して何が、敵は本能寺にあり、だ。
お前は誰のお陰で国持大名になれたのかと問いたい。問い詰めたい。半刻弱問い詰めたい。
お前、後世に謀反人の名を残すだけちゃうんかと。
父上救出が無理だった俺から言わせてもらえば今、馬廻り衆の議論内容はやっぱり、
二条御所へ篭るか京都からの脱出か、これだね。
明智の大軍をかい潜って脱出して再起を図る。これが後世の自称歴史通が考えるであろう机上の作戦。
俺の元にいる馬廻り衆はわずか。そん代わり士気だけは高め。これ。
でも、落ち延びる途中で名も無き者の手にかかれば織田の名に傷がつく。これ最悪。
しかしここで潔く自害すれば織田の天下は一代限りで終わってしまう危険も伴う、諸刃の剣。
源五には薦められたくない。
まあ三法師よ、生き延びて織田家嫡流の血だけは残してくれ。
結局、いつもこの議論は結論が出ないし、歴史なんだから当たり前なんだけど
それでは、別の強引な、自分でも信じられないトンデモ案でも提案してみよう
「後継者説」
信長は、信忠に跡を継がせたくなかった。その上で、自分はもう長く無いのでは、と考えた。
もちろん、一般的な思考から言えば、自分の子は可愛いだろうが、君主として、最も能力の高いものに自分の事業を継がせたかった。
実行犯、そしてそれを討つ者という図式ではなく、実行犯そのものを継がせようと考えた。
それが光秀だった。普段からよく辱めていた光秀を、さらに難癖をつけ、憎悪を煽った。そして、わざわざ自分の警備を手薄にした状態で、光秀に軍事命令を出した。
信長の真意を分らぬまま、あるいは察したかもしれない光秀は、信長の描いた絵の通りに動いた。誤算は、秀吉だった。
あるいは、後継者に選んだのは秀吉で、焼死自殺をしたところへ光秀を呼びつけ、光秀の野心を煽り、謀反人に仕立てた。秀吉には前もってしらせていた。
age
49 :
日本@名無史さん:04/01/26 06:48
age
50 :
日本@名無史さん:04/01/26 18:56
>>47 でも光秀、信長より年上だし。「後継者」ならもっと若いのを選ぶだろう。
52 :
よっしゃ濃い:04/01/26 19:58
光秀があれ程の事を単独で出来る筈ない。そんな度胸なし。光秀は口封じですぐ消されている。黒幕は必ずいる。
秀吉、家康あたりが一番怪しい
53 :
日本@名無史さん:04/01/26 20:04
ケネディ大統領暗殺と一緒みたいいなもん。オズワルト単独犯としてマフィアの
ジャクルビーにすぐ射殺されている。今では誰も単独と思っていない。
54 :
日本@名無史さん:04/02/01 22:06
小心者の家康がそんな大それた事を…
血気盛んな家臣集団は言い出しかねないけどな。
55 :
日本@名無史さん:04/02/07 16:48
それとなく信長の癇癪のはけ口を光秀へという環境作りは
工作しただろう、自分に不利が来ないように。
で、まさかクーデターに及ぶとは思わず
やばいと逃げたじゃない。
56 :
日本@名無史さん:04/02/07 18:14
さてと、伊達政宗陰謀説はまだ〜!!
ネタとしてももうちょっと考えろ。
信長が死んだ時はまだ輝宗が当主だ。お馬鹿。
58 :
日本@名無史さん:04/02/07 21:22
黒幕は
イスパニアだよ
59 :
日本@名無史さん :04/02/07 21:49
60 :
日本@名無史さん:04/02/11 01:27
裏天皇制が発動したんだよ。
それが本能寺の真相。
立場的に光秀を諫言して信長を説得できるのは秀吉しかおらんな。
直接的には秀吉でいいんじゃないの。
中国大返しも出来すぎだし。
秀吉+安国寺+小早川あたりで絵を書いたとすると、すんなり話が通る。
「諌言」ではなく「讒言」ではないのかと。
長続連の陰謀だよ
64 :
日本@名無史さん:04/03/06 23:47
いくら10数年今川の人質になったからって本能寺とは関係ない気がw
65 :
日本@名無史さん:04/03/06 23:52
アメリカの陰謀じゃないかな?
あのまま信長が覇王になって世界征服の道を歩むようになったら困るのはアメリカだし
66 :
日本@名無史さん:04/03/06 23:53
>>65 も
う
ね
あ
ほ
か
と
馬
鹿
か
と
67 :
日本@名無史さん:04/03/07 00:05
でも当時の日本に欧米勢力が介入してきててもおかしくないでしょ
>>67 も
う
ね
あ
ほ
か
と
馬
鹿
か
と
69 :
日本@名無史さん:04/03/08 01:41
ユダヤの陰謀だな。大航海時代を裏で操った闇のネットワークは、
信長に統一された日本が大陸間交易に乗り出してくることを何より恐れていた。
そのために、光秀を買収して信長を暗殺させた。
その後、秀吉に朝鮮出兵させていたずらに国力を消耗させたのも、
ユダヤが仕掛けた罠に嵌ったとしか考えられない。
徳川政権の鎖国も、ユダヤにとっては好都合だった。
奴らは狡猾だから確実な物証はもちろん残していないが、
状況証拠から見て間違いない。
時代は流れて20世紀末、世界に冠たる日本経済は
またもユダヤ資本の陰謀によって長期停滞を余儀なくされている。
日本人は4世紀前の失敗を繰り返さないためにも、
歴史の教訓に学ぶべきではないか。
その頃はユダヤ資本などと呼びうるものはなかったのでは?
71 :
日本@名無史さん:04/03/13 18:13
72 :
日本@名無史さん:04/03/13 18:26
>>70 ユダヤ陰謀論の本読んだことがあるが、
中国の唐の頃に既にユダヤ世界機関があったらしい。
玄宗皇帝の頃の反乱はユダヤの陰謀だYO!
73 :
日本@名無史さん:04/03/13 19:48
>>65 アメリカはコロンブスに発見されてまだ100年足らずだから陰謀どころ
ぢゃないでしょ。
74 :
日本@名無史さん:04/03/22 23:10
>73
だいたいそれ以前に入植者がいただけで、まだ国じゃない
75 :
日本@名無史さん:04/04/10 21:48
光秀の発作と考えるのが一番自然
76 :
日本@名無史さん:04/04/10 22:11
たしか信長の取り巻きに六芒星の紋をつけていた連中がいたはず
どこかの博物館に資料画像があった
知ってる人がいたら詳細プリズ
77 :
日本@名無史さん:04/04/11 00:15
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1078618831/562-571 祟神は信長の焼き写しで四道将軍は
北陸:柴田=大彦
山陰:明智=丹波道主
山陽:秀吉=吉備津彦
東海:滝川=武淳川別なのは明らか
柴田→鬼柴田→おにひこ(いろはで、「に」の次は「ほ」)→おほひこ→大彦
明智→ミンチ(音読み)→ミチ→道+明智といえば丹波→丹波道主
秀吉→サル→桃太郎のサル(前田→犬千代→イヌ、丹羽→にわ鳥→キジ?)→吉備津彦
滝川→たきがわ→たけかわ(武川)→たけぬなかわ→武淳川別
徳川家康
↓
徳:TOKU
母音を一つずらす(A→I→U→E→O→A)
健:TAKE
建=徳川
↓
『いへ』やす=「はに」やす
『い』ろ「はに」ほ『へ』 いへ→はに
埴安=家康
↓
建埴安彦
本能寺の変=建埴安彦の乱
本能寺の変の首謀者は徳川家康であることも分かる
偽書を書いた動機は、本能寺の変の首謀者が誰なのかを後世に伝えたかったから
ずばり偽書の製作者は近衛前久父子である!
な、なんだってー
ΩΣΩΩ!!
79 :
日本@名無史さん:04/04/21 21:56
あげ
80 :
日本@名無史さん:04/04/21 21:59
さっき【その時歴史が動いた】でやってた
(゚∀゚) キター
本能寺は足利義昭が首謀者!!
こりゃ義昭の評価がぐんとあがるなあ。
なんか最期の締めのセリフとかでも
将軍の権威を守るために、のブナガと戦い続けた男、
とかいわれちゃってるし。
>>80 そっちのスレでも言ってたが、だったら何で毛利が動かなかったのかと
82 :
日本@名無史さん:04/04/23 21:41
そういえば、家康って後年信長の事をなんて話してたの?
息子殺されたから、秀吉が死んだ後は悪口ばっか言ってたのかな?
83 :
日本@名無史さん:04/04/23 22:05
義昭説はロマンだ。
>>82 「すげーおっかなくて、対面する時は小便ちびりそうだった」って、
家来に言えるわけないだろ(w
85 :
日本@名無史さん:04/04/23 22:45
>>82 本当かよw
そういえばNHKの大河で正宗に信長の思い出を話してるシーンがあった
86 :
日本@名無史さん:04/04/23 22:47
スマソ、↑は84にへです。
88 :
日本@名無史さん:04/04/25 23:22
史実通り秀吉が大Uターンして帰ってくるのは不可能だ
帰って来れても皆バテバテで勝てるわけ無い
って友達が言ってますた
89 :
日本@名無史さん:04/04/25 23:38
本能寺の変以降の歴史を
秀吉が捏造してくれたので
真相は闇の中
とか言ってみてみなさんの反応を見るテスト
90 :
日本@名無史さん:04/04/26 13:11
>>88 賎ヶ岳の時の秀吉軍も何10?Hもの道のりを一日で走破して
引き返しそのまま一気に勝家軍を潰しましたが?当時の日本人
の体力はちょっと今では考えられないくらいのもんがあるん
でしょ。しかも戦いは所詮人間がやるものですから、現れる
ことはあり得ないと思っていた敵が現実に現れた事に対する
相手の心理的動揺や、反対に不可能とも思える行軍をやりと
げた軍の士気の高揚なども大いに影響があるだろうし。
>>88 途中、姫路城で丸一日休んでいます。
桶狭間の合戦でも、20km駆け続けてそのまま戦闘になだれ込んでいます。
ただ駆け続けるだけなら、1日40kmくらい可能だったんでそ。
93 :
日本@名無史さん:04/05/03 00:26
黒幕は足利義昭だったらしいね!
>93
そうだと思います、朝廷には
そんな勇気はない、家康は長男の件だが
本当に武田と通じてた、秀吉は信長あってである。
もーーーのすごく昔に命令して義昭きゅん本人も忘れてたのに
光秀きゅんったら律儀に実行しちったのよ。
96 :
日本@名無史さん:04/05/03 11:12
朝廷説に一票。信長の場合、古い権威・保守的な人間で自分の思い通りになら
ないものは、利用価値があるうちは尊重するけど、なくなったら義昭に
しろ、佐久間・林にしろあっさり捨てるし、比叡山焼き討ちなどの実績もある。
で、天下統一目前にしてもう朝廷の権威は必要ない。しかし、朝廷はある程度全国の大名に
「公平」にあたり、信長に反抗する大名にも官位を送ったりしている。
そんななかで、右大臣辞職に、天皇への譲位要求。今まで、誰もやらなかったことを信長
ならやるかもしれないということで、恐怖にかられて古くからの権威を尊重する光秀をたきつけ、
その結果が本能寺だと思う。
97 :
日本@名無史さん:04/05/03 11:24
もし義昭説が本当なら、信長は義昭の命だけは助けたために、結局は自分が殺された、ってことになるわけだが・・・
陰謀説の輩出する最大の理由は、「なぜ、光秀があんな馬鹿なことを!」だろう。
しかしだ、光秀には十分な勝算があった、が、秀吉の奇跡的な大逆転によって
惜敗したのである。
当時の軍団の主力は現地の小領主の連合体。その結束は脆い。
信長死す、の報で、滝川軍団は北条家の圧力で瓦解、川尻は配下の小領主の反乱。
信孝軍団は内紛、尾張・美濃閥の多い柴田軍団でさえ、攻勢から守勢へ。
現地小領主の多い秀吉軍団など、小領主達の日和見や毛利家への帰参で瓦解する
確率が高かった。上手く行っても、早期の畿内への進出は無理と思われた。
秀吉の大返しが無ければ、畿内の小領主達は、明智軍に加わるしか生き残れる
方法は無い。しかし、明智軍に加わるのに時間はかかる。
畿内の小領主達が、信長の死を確認するのに数日。一族・郎党を集めて、今後の
身の振り方を話し合ったり、近所の小領主の動向を探ったりで10日以上。
ところが、わずか数日で、「秀吉軍団健在」「信長は生きている」との報を
秀吉が畿内に送っている。見事な情報操作。これで、畿内の小領主達の明智軍参加
は阻まれた。
秀吉の大返し・畿内進出によって、小領主達は秀吉側に結集。時間は秀吉の味方。
大逆転。もはや、光秀は絶望的。
ここで、皮肉にも光秀の名将ぶりが発揮。この絶望的状況で、明智軍に加わっている
小領主達の離反や反乱を見事に防いで、山崎まで13000人を連れて行った。
これは、大仕事である。本能寺の変後、光秀は何もしなかったので無い。絶望的
な条件の下で、大会戦を実施して見せた。
>97
油断してたのか。
100get
101 :
日本@名無史さん:04/05/03 16:08
秀吉の大返しは奇跡じゃねーよ。
カンベエのすべて読み筋で、水攻めの態勢が出来上がったら
半分の兵力はすでに大阪方面に返してたのさ。
見てきたわけじゃないけど。
102 :
日本@名無史さん:04/05/04 12:57
イスパニア陰謀説っておもしろそうだがや
光秀とどんな接点があったかがや
103 :
日本@名無史さん:04/05/05 02:12
イスパニアの陰謀ではなく
反イスパニアの陰謀なら
少しは説得力があるかも知れない
心知らぬ人は何とも言はば言へ 身をも惜しまじ名をも惜しまじ
106 :
日本@名無史さん:04/05/12 10:34
>>105 それは家康贔屓のひとたちが、偉大な織田信長を殺すほどの大大人物だったのだーっと錯覚したいが為です。
光秀の家臣の誰かが、光秀の命無く、単独で部隊を率いて
本能寺を襲撃したってことは考えられない?
これを知った光秀は、結局事態を追認するしかないでしょうし
その後の光秀の行動の無気力さも説明できるような。
…てのは無理?ダメかな?てか、これは烈しくガイシュツ?
外出。てか光秀なめすぎ。全然無気力じゃねーですよ。
ただ秀吉がその上を行ったというだけで。
>>107 正解です!
犯人は、光秀の影武者の、坂上主膳という男です。
元忍者で変装の名人で、野心家ですた。
110 :
日本@名無史さん:04/05/13 02:09
秀吉・家康が結託して信長殺して光秀を犯人に仕立てて殺したってことも考えられるな。
111 :
日本@名無史さん:04/05/13 03:22
信長を光秀が討つことによって、秀吉軍が壊滅し、劣勢の毛利が復活すれば、
大友を南北から挟撃して九州を島津が席巻できれば、琉球独立は不安定になり、
明朝の目が南に向けばその隙に北方で女真族が決起することによって中国全土が動乱となれば、
日中を従えて東亜の覇者となることもできると考えた李朝の陰謀
112 :
日本@名無史さん:04/05/13 10:52
織田信長は全身鋼鉄張りで、最新式巨砲を装備した戦艦を、どれくらい海外に通用するかと密かに中国の港に送って、南蛮船やらを襲撃砲撃させて楽しんだ。
これに怒ったスペイン国王が工作して本能寺の変を起こしたと昔読んだ本にありました、、、、、。
108氏が2行にて、的確に語っている。
当時の社会の中核は、地侍・国人と言った小領主。織田家とて、元々は柴田・前田
といった小領主を従えた中領主に過ぎなかった。後に織田家は大領主化するが。
本能寺の変後、畿内の小領主達が、信長の死を確認するのに数日。確認後、光秀に
帰参するかどうか、周りの動向を探りながら一族で話し合うのに数日。
しかし、小領主達が、光秀軍団に帰参を決定する前に、秀吉が宣伝を畿内に送った。
「信長様は生きている」「秀吉軍団健在。畿内に向かって進軍中」これで、
小領主達は光秀軍団に加わることは無い。逆に光秀軍団は大チャンスから、絶望的
状況に陥った。畿内の小領主達は争って、秀吉軍団に帰参する。それは、現光秀軍団内の
小領主達にも及ぶだろう。光秀軍団は、解体する。
しかし、さすが明智光秀、配下の小領主達の、離反も反乱も見事に防いで、山崎
まで連れて行った。やはり、明智光秀は第一級の有能な戦国武将である。
しかし、この時期の秀吉は、おそらく、東播磨攻略の長期化の失敗に懲りて、
軽躁な欠点を反省して、生涯最高の精神的コンディションに恵まれていた。さらに、
黒田如水・石田三成といった切れ者、落ち着いた秀長と、スタッフにも恵まれていた。
当時の社会の構造から、合理的に考えて、明智光秀に十分な勝算はあった。
しかし、羽柴秀吉とそのスタッフは、奇跡的に優秀さで、超難局を見事に逆転した。
>>112 だとしたら2chはスペイン語でカキコですね。
115 :
日本@名無史さん:04/05/14 10:26
真面目な家康黒幕説への反論です。
一 家康と光秀の間に連絡を取り合った書簡、人物、アトのようなものがない。
一 家康は武田勝頼との戦いに忙殺され、謀叛を企むような余裕が無い。
一 家康は、まだ九州、北条、四国攻略が残っている織田信長には必要な駒で、大事にされていた。
一 光秀の謀叛を聞いて、慌てて堺から逃げ出している。だそうです、、、、
信長は自分が紙になると言った
アレは髪になるた為の儀式である
117 :
日本@名無史さん:04/05/15 10:40
徳川家康公は、本能寺以後にチャンス到来と見て頭角を現し始めた。
それ以前は、どちらかというと謀略などにはあまり縁の無い正直者みたいな感じの人である。
家康と光秀は微妙な関係。
あの接待の光秀の不手際は、蜜月の家康と光秀の関係を見事に
否定させた狂言では・・・
信長が死に信忠までもが死んだが、家康はどうもうまく逃げている。
光秀は最初からつるんでいた。
>>118 >あの接待の光秀の不手際は、
は後世の捏造であります
>>119 あのさ、京都にいた信長と信忠と堺にいた家康では死ぬ確率は段違いでしょ。
おまけに主目的は信長で家康の方は光秀の攻撃目標にされてもいない。
そんで家康が生き残ったからってつるんでたとか言われても。
攻撃目標にされてないからこそつるんでたとかいいたいのかも知らんけどさ。
122 :
日本@名無史さん:04/05/16 18:49
家康が天正十年のこの時点で織田信長を殺すことは、
まだ強大な北条家、東北勢力が側に残っている以上、危険では。
123 :
日本@名無史さん:04/05/16 19:15
だから家康と光秀が仲違いしているように見せつける狂言だったら?
それから堺なんて微妙な位置。両者とも堺の豪商津田宗及との交際が。
125 :
日本@名無史さん:04/05/16 19:34
近衛前久が、山崎の戦い後、家康の許に身を寄せたということは、
朝廷、義昭、光秀、そして、家康はグルだったのではないか?
光秀としても、家康を抱き込めば勝算が出てくるはず。
だから、毒殺命令に背いて家康を救い、味方に引き込んだ。
>>123 それは全部妄想。
なんで、この時期に信長が家康を殺そうとするんだ?
毛利・上杉・長曾我部と戦争しているときに、徳川まで敵に回すかよ?
また、家康にしても、
彼は情報網をしっかり構築しているから、
危険の兆候があれば、安土・京見物などに行かない。
127 :
日本@名無史さん:04/05/16 19:40
信長様から金柑頭って言われて、キレたんじゃないの?
むしゃくしゃしてやった。
誰でも良かった。
遊ぶ金が欲しかった。
ついカッとなった。
死ぬとは思わなかった。
申し訳ないことをした。反省している。
信長さんの分も生きてあげたいと思う。
129 :
日本@名無史さん:04/05/17 10:46
家康が犯人なら、晩年、すでに徳川の絶対的な天下が確立し、織田家が没落した時点で、
この変のことを、わしがやった、あの男より上だと自慢してても良い筈。
この時代の公家、武将の日記などは、子孫の教訓のためにつけるので、おしえ、生き方の一つとして残していても良い筈では、、、、。
日記と言えば近衛前久だか誰だかの日記は本能寺の頃の部分だけがなくなってて
光秀に協力したはいいけどあっさり滅んじゃったので慌ててその頃の日記を廃棄したんだ、という説がありましたね。
まあ最近発見されたなくなってた部分にはたいした事書いてなくて本能寺の変にはかかわりがないということになりましたが。
131 :
日本@名無史さん:04/05/17 20:01
>>129 言うわけないだろ、決して立派なことじゃないんだから
132 :
日本@名無史さん:04/05/18 11:11
少なくとも家康の信頼する側近に、
光秀との緊密な橋渡しを務めた人間、その告白、書簡などがないと、
この論は成り立たない。
が、全く無いようだ。
133 :
日本@名無史さん:04/05/18 12:24
秀吉は何であの時点で援軍を信長に要請したのかというと、あの時点では
毛利とのさらなる戦線拡大が懸念されてたからじゃないのか
味方の増援が進行している時点で、どうしていきなり敵との和睦が成り立つの?
134 :
日本@名無史さん:04/05/18 12:38
大抵の○○説は自説に都合のいい部分しか提示していないのが
実情です。
皆、受け売りじゃ〜なくてもっと勉強したらどう?
135 :
日本@名無史さん:04/05/18 15:30
あの時点で信長から暗殺指令が出ていたのなら京都周遊時か堺に至る道中で家康は仕留められただろう
随行者は少人数だし、信長の家来の長谷川秀一が案内役で付き添ってたんだろうが
長谷川が家康を伊賀に逃してやったのは光秀の指示とでもいうのかよ
136 :
日本@名無史さん:04/05/18 15:47
光秀は、天海になったのかな?
137 :
日本@名無史さん:04/05/19 04:24
>133
信長の性格を熟知していた猿にとっては当然の一手だよ。
もし、秀吉単独で毛利を打ち破った場合、その功は巨大になりすぎ、織田軍団における秀吉の存在は大きくなり過ぎる。
そうなれば物惜しみの激しい信長にとって、秀吉は疎ましい存在となってしまうのだ。
信長にとって配下の武将はあくまで道具。必要がなくなれば廃棄処分する。
そして、実際に有力武将が次々と廃棄処分されていった。
だから援軍との連合軍で勝ったことにして信長の息子たちに花を持たせるつもりだったのだ。
138 :
日本@名無史さん:04/05/19 09:45
それがどうしていきなり和睦撤収に切り替えられるの?
根回しが効いていたとしか思えん
139 :
日本@名無史さん:04/05/19 16:40
>129
下克上社会の終焉を指向した家康がそんなこと言うわけない。
家康じゃなくても、天下人の寝首を掻くことを天下人が美化しないだろ、普通。
>>137みたいに秀吉が考えたかどうかは、知る由もないからわからんが
毛利との和睦は、秀吉は今までに何度も毛利と和睦(停戦?)してるから
本能寺の時の和睦は、その延長上の話じゃないのか?
141 :
日本@名無史さん:04/05/19 19:07
家康が犯人とするとひとつおかしなところがある。
光秀を援助するために、軍隊を三千ばかり率いて上京していても構わないはずです。
毛利か、四国を攻略する加勢したいと理由を何でもつけて。
142 :
日本@名無史さん:04/05/20 10:06
家康と穴山とには、安土から信長の家来の長谷川秀一が案内役でずっと付き添って同行していたわけで
堺からの脱出にも道案内してるじゃん
途中で遭遇した京都の商人からも逃走用にカネを借りたりしている
陰謀を画策しているなら、人に借りるまでもなく緊急予備費ぐらい用意しとけということになる
143 :
日本@名無史さん:04/05/20 10:53
というより、謀叛を知っていたなら逃走用の馬と替え馬くらい何頭も用意していて、
謀叛の噂が広まる前にさっさと帰るくらいのことは。
144 :
日本@名無史さん:04/05/20 11:54
毛利との和睦交渉がそんなに簡単に短時日で可能な状態なら秀吉は信長にわざわざ援軍要請する必要はないわけで
そうなると秀吉は信長を安土から引き出す工作として画策したともいえる
ワンマン信長は茶器を携えての物見遊山気分でほいほい出てきた
信長には和睦などという考えはもとよりないわけだから、秀吉の水面下の和睦交渉の持っていき方は実に怪しいわけだ
秀吉は光秀という武将を見事に見切っていた
光秀はその秀吉による撒き餌同然の策略に見事に引っかかったということになる
怪しくねーだろ。時間稼ぎの和議ぐらい誰だってやるだろ。
146 :
日本@名無史さん:04/05/20 15:14
和議ってなんだ?
和姦のことか
147 :
日本@名無史さん:04/05/20 15:24
秀吉も家康も勝家もみんなぐるで信長暗殺を企てた
それにまったをかけたのが光秀だった
しかし彼は山崎で負けて光秀が信長殺した犯人として汚名をかぶせ
歴史を捏造したのであった
148 :
日本@名無史さん:04/05/20 15:28
いや光秀の家臣団が主人をおもって一気に暴走したんじゃないの
後から光秀は追いついてきて現場を見て茫然自失状態になる
よくある話とおもう
149 :
日本@名無史さん:04/05/20 19:16
いくら主人の気持ちを忖度しても、暴力団じゃないんだし、主人の了解なしに主人のそのまた主人を討つなんて、流石に信じたくないな。
話としては面白くない説だが、しかし、こういうのが案外本当というのは多いかもしれない。
150 :
日本@名無史さん:04/05/20 22:02
本能寺に攻め入った時、雑兵クラスは「徳川殿を討つのだ」と聞かされていたという資料があったような気がするが。
151 :
日本@名無史さん:04/05/21 09:29
光秀は、信長より京都周遊中の家康襲撃を命じられていた
ところが家康は1日早くに堺に発ってしまっていたので、そのまま堺まで追撃するよりは
信長の宿舎本能寺を襲うほうが手っ取り早いと考えたわけだ
頭のいいやつの考えそうなことだ
152 :
日本@名無史さん:04/05/21 11:22
↑意味不明。
日本語は正しく使いましょう。
153 :
日本@名無史さん:04/05/21 13:19
家康が黒幕なら京都で光秀に守られたはず。
で、あらかじめ用意していた三河駿河の兵が上京してくるはず。
もし本当に組んでたとしたら光秀にとっちゃ家康と組んだ意味がない展開だよな。
家康の出る幕なんざねえずら
本当に家康の陰謀だったとしたら、家康って単なる馬鹿だよね。
こんな説が閃いたので、読んで欲しい。もし誰かがたまたま同じことを言っていたらスマソ。
信長は光秀に上洛中の家康の暗殺を命令した。
具体的には本能寺で茶会をやり、その夜は家康を本能寺に泊めるので、そこを襲え、で、信長はタイミングを見計らって脱出する、と。
光秀は、承諾したものの、家康殺しはしたくなかった。そのうち自分も信長に処分されるかもしれないからだ。
かといって、主君の命令にも背きたくない(ここらあたりがインテリ光秀の弱いところ)。
思い悩んだ末、密かに家康に使者を送り、信長が貴方の命を狙っている旨連絡した。
家康は、上手い具合に口実を作って、本能寺には行かず、堺見物に行くと称して、山道ルートで密かに領地に向けて逃走を開始した(これがいわゆる神君伊賀越え)。
家康に逃げられた信長は、仕方がないので、亀山にいる光秀に「作戦中止」の指令文を出した。
ところが、家臣に手違いがあり、指令文は光秀には届かず、何と備中高松城攻略中の秀吉の陣に届いてしまった。
さて、信長と打ち合わせ済みの当日、光秀は予定通り本能寺に向けて軍を発した。
家康は逃げているし、信長もいないから、本能寺はもぬけの殻のはず。
信長の手前上、本能寺を攻撃した事実さえ作ればいいのである。
そして、形だけの本能寺攻撃を開始したところ、嗚呼、何と本能寺には信長がいたのである。
信長は光秀に作戦中止を知らせているつもりだったから、無警戒で本能寺にいたのであった。
かくして、光秀は信長を討ってしまった。
光秀は狼狽、重心と協議し、この際は信長を朝敵に認定し、織田一族を討ち滅ぼすほかあるまい、と決め、二条御殿の信忠攻撃に向かったのだった。
なお、備中高松の秀吉は、作戦中止の密文を読んで、ピーンと来たわけで、これは京で面白いことが起きるぞと、軍の一部を畿内に差し向け、三成らに命じて、即講和、畿内反転の準備を命じたのであった。
これが奇跡の中国大返しが実現できた真相なのである。
どうすか?
この説は
@信長の最期の「是非に及ばす」の言葉の意味が納得できる
Aインテリの光秀が主君殺しという大罪を犯せるような人間ではないという疑問が解消される
B神君伊賀越えについてとかくつきまとっていた謎が解消される
C中国大返しの用意周到ぶりに説明がつく
というメリットがあります。
この説の特長は、家康暗殺指令はあったが、あくまで家康は黒幕ではないということです。
当然、弱点もたくさんあります。
まあ、ネタですので、楽しんでもらえれば幸いです。
皆さん結構誤解してるようだけど光秀って別にインテリじゃないんだよね。頭はよかったかも知らんけど。
足利義昭との関係もよく言われるけど別にたいして恩義を感じなきゃいけない関係でもないし。
美濃からとんづらこいて越前朝倉家に仕えてたときに義昭が転がり込んできてそのときに義昭と信長の橋渡しをしただけで。
家康を殺したいんなら、安土城で切腹を申し付けるもんね(w
161 :
日本@名無史さん:04/05/22 01:52
家康はいくらなんでも、言われてはいと切腹はしないでしょう。
162 :
日本@名無史さん:04/05/22 09:27
いくら信長でも同盟者家康を領地内では殺せまい
まずは京都周辺の手炉の起きそうなところに誘うのが手順
>>157 なかなかいけるとおもう
163 :
日本@名無史さん:04/05/22 10:48
家康を排除しなければならない推測できる理由がない。
家康は北条の押さえとしてまだ価値があったし、
むしろ武田攻めの経緯から同盟者から→実質家臣に取り込んだところだし。
光秀に関しては、信長は小姓上がりの肉体関係のある武将たちに
機内周辺の領土を与え始め光秀の立場が危ういものとなった等
いくらでも理由は付く。
まあ、当時の記録だと明智軍の下っ端は、家康を攻めるんだと
思っていたのもかなりいたらしいので、明智と家康は険悪な中
だったのだろう。
164 :
日本@名無史さん:04/05/22 11:12
家康が故光秀を大切にしたとする見方(春日局の登用、桔梗紋の採用などなど)こと、天海伝説(天海=光秀、天海=明智秀満、天海=明智一族の者など)は、信長が家康を暗殺しようとしたが、光秀のおかげで助かったという筋に立っている。
確かに奇抜な見方であり、当然史料の裏付けなどあるわけはない。
しかし、信長という人物があの時代最大の「殺し屋」であり、その恐怖感が政治的支配力の前提になっていたということを思い起こせば、家康の暗殺もあり得るし、逆に信長のことを怖れる家臣が機を見て信長を殺そうとすることも十分あり得た。
信長は改革者という良い面を高く評価されているが、やはり殺し屋という負の面も大きかったのである。
その意味では、光秀にも家康にも動機は十分にあった。
165 :
日本@名無史さん:04/05/22 11:55
>>157 > ところが、家臣に手違いがあり、指令文は光秀には届かず、何と備中高松城攻略中の秀吉の陣に届いてしまった。
強引だな
166 :
日本@名無史さん:04/05/22 12:06
そこはネタというわけです。
別に、指令文は行方不明になってしまったでいいのですが、家来が届け先を取り違えたとしたら面白いなと思ったまで。
>>166 >そこはネタというわけです。
時系列がメチャメチャのようだけどね〜。
168 :
日本@名無史さん:04/05/22 14:25
指令文は当然、秀吉が本能寺の変を知る前に読んでいるわけですから、時系列は変ではありません。
秀吉は、この作戦中止を知らせる密文が誤って自分のところに届いたことで、これは何かありそうだと閃いたのです。
もっといえば、光秀が家康暗殺作戦にかこつけて信長をやってしまうつもりだろうと感じ取ったのです。
で、密かに大返しの準備を進めた。
その後に、本当の本能寺の変を知ったので、ただちに講和をし大軍を畿内に引き返すことができたわけです。
これが中国大返しの真相なのです。
169 :
日本@名無史さん:04/05/23 00:20
そもそも信長は本当に死んだのか?
>>161 家康が腹を切らなかったら、安土城内で斬るだけ。
>>162 信長は、必要だと思えば、領内で殺すくらいやりかねない。
というか、どの大名でもやってることでそ。
というか、信長には家康を排除する理由がないし、
まだ利用価値があると思っていただろう。
家康にしても、信長の自分に対する意思は気になるから、
安土城内にスパイを放っていたはずで、
安全だと判断できたから、
少人数で、安土・京・堺へ見物に来たと思う。
171 :
日本@名無史さん:04/05/23 01:55
スパイは伊賀忍者か甲賀忍者か。
神君伊賀越えでも忍者が活躍したみたいだが。
暗殺でよく話題になるのが毒殺だが、当時どういう毒があったのだろうか。
光秀が家康の接待役を勤める話がよく家康暗殺とからめて言われるのだが。
どうして家康は危険な伊賀越えしたの?
まあ、あの状況で自分の勢力地に帰るのがいちばん安心だろうが
リスク高杉
俺なら摂津にいた信孝のところにでもいったん逃げるがな
173 :
日本@名無史さん:04/05/23 02:27
>>172 家康は織田の諸将の動向を逐一把握しているわけではないと思う。
また、味方の見極めも難しい。
光秀の襲撃は信孝によるクーデターである可能性だってあるわけで。
伊賀越えはヤオだから。伊賀越えギミックですよ。
長谷川秀一や服部半蔵を介して道中の豪族達には話がついてたしな。
175 :
日本@名無史さん:04/05/23 08:21
>>173 >光秀の襲撃は信孝によるクーデターである可能性だってあるわけで。
全く可能性、根拠無し、却下します。
176 :
日本@名無史さん:04/05/23 10:34
>>172 だから、私が言っているでせう。
光秀から、家康暗殺指令が出ていることを知らされたからです。
だから、必死に逃げたのです。
見つかる危険を避けるため、わざわざ山の中を抜けるコースを選んだのです。
これが神君伊賀越えの真相なのです。
ありえねって。
伊賀越えたところにある伊勢は尾張美濃と並んで織田の本貫といっていいほどの土地。
信長の手から逃げようとする家康がそんなコース取るわけねーだろ。
もっと言うと堺から脱出する前に松井夕官に身柄抑えられるっちゅうの。
松井夕官→松井友閑
179 :
日本@名無史さん:04/05/23 19:51
伊勢は長島一揆もあったし、織田の本貫といえるような支配が及んでいた土地ではないだろう。
信孝をわざわざ神戸家の養子に入れるほどだからな。
180 :
日本@名無史さん:04/05/24 01:12
>>179 伊勢の北畠家には信雄、神戸家には信孝を養子に入れ、乗っ取り成功。
反対派の家臣は粛清済み。だから本貫といってよいほどだ。
長島一揆はあったが、殲滅しているし、百姓が全員一向宗というわけでもない。
信長が家康を殺すつもりで、家康が伊勢に逃げて来たら、簡単に殺されるだろう。
181 :
日本@名無史さん:04/05/24 06:52
征夷大将軍に任命されるには出自を源氏方にする必要があった。
信長は平家方だったから、出自を操作。それを苦々しく思う公家出の
光秀の心を上手く利用したのは大御所だったわけだな。
光秀が公家?
183 :
日本@名無史さん:04/05/24 10:52
家康に随行した家臣にはどんな武将がいたの?
本多忠勝なんかもいたの
>>183 伊賀越えでの功は正成より忠勝のほうが先に名前が出るくらいじゃないか
>>171 家康は水銀(健康のため?)飲んでも死なないし
毒を飲んで抗生を付けようとしてたらしいな、これは晩年かな
185 :
日本@名無史さん:04/05/24 16:35
家康は律儀だから、堺周遊後に再度京に上る予定だったわけだ
それは中国出陣の信長にあらためて挨拶する心積もりだったわけで、そのまま
タイミングがいいと家康自身も本能寺でタヌキの丸焼きになるところだった
後年、家康は本能寺襲撃の日時を早めてくれてありがとう、という気持ちで光秀に
感謝しているわけだな
光秀も家康も律儀さという点では似ていることになるね
>>183 酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、本多重次、大久保忠隣、大久保忠佐、菅沼定政、
本多信俊、松平康直、井伊直政、鳥居忠政、永井直勝、渡辺守綱、服部正成
主立ったところでこんなとこですか
187 :
日本@名無史さん:04/05/24 22:51
すごい豪華なメンバーだね。
188 :
日本@名無史さん:04/05/25 01:32
本能寺の変およびその前後に関する資料が現存してなさすぎ。。その資料をここまで
抹殺できるのはやはり徳川家のような気がする。時代経過からしてそろそろ信長と家康
の同盟関係は必要性が下がってきてたと思う。確か変後、甲州を収めてた織田方の人がなぶり殺し
されたと聞いた事あるが、武田方を味方に多くつけた徳川とも関係ありそう。史実的には
後からいくらでも書き換えできるからねー。
どう考えても秀吉だろ!
190 :
日本@名無史さん:04/05/25 08:19
秀吉はバナナ好き
191 :
日本@名無史さん:04/05/25 09:55
信長は家康とは同盟関係にあったが、これはいわゆる主従関係ではない
対等に付き合うにはギブアンドテイクの計算高さ、リスクもある
信長にしてみれば武田を壊滅させた時点で家康を外す方向に転換してもおかしくはない
すでに家康は北条とは縁戚関係をつくってたんじゃないの
192 :
日本@名無史さん:04/05/25 10:18
家康は考え難いと思います。三方ヶ原の戦いの際、信長が家康に送った手紙などをみても同盟関係というより限りなく主従関係に近いで
すよ。
193 :
日本@名無史さん:04/05/25 10:26
黒幕は、足利義秋っぽいですよ。NHKでやってましたけど、信憑性ありましたよ。
194 :
日本@名無史さん:04/05/25 11:45
武田壊滅直後の家康の信長饗応は凄いよね
あれだけ馳走されたら殺意が沸くのではないか、双方に
195 :
日本@名無史さん:04/05/25 18:00
これだけの事をしでかすのに単独犯は考えにくい。クーデターは成功してもその後の混乱
はだれでもわかる。事前に連合を組むのは必然。変の前後の情勢を考えれば、家康とはもはや
同盟は必要性はなくなってきた。家康もみすみすとりつぶされるほど馬鹿ではない。
生き残るためにも、武田方を味方につけることも必要だし、やればやるほど信長の意思とは
かけ離れていく。関が原などでも明白だが家康はネガイリ工作は得意分野だからね。。
その論理はおかしい。というか仮定を積み重ねすぎ。
197 :
日本@名無史さん:04/05/25 20:52
>>192 主従関係だからというのは理由にはならないぞ
>>194 どゆことだ? ホメ殺しにあったようなものと言いたいのでつか?
>>195 あれだけのことだからこそ単独犯じゃないのか
198 :
日本@名無史さん:04/05/25 21:40
信長が、出陣直前に何故少数の部下だけ連れて本能寺に行ったかが鍵。
199 :
日本@名無史さん:04/05/25 22:01
ある物を譲り渡すという誘いを真に受け、のこのこと…
誰が絵を書いた?それは後の持ち主。彼の名は…。
200 :
日本@名無史さん:04/05/25 23:24
ひでよし
201 :
日本@名無史さん:04/05/25 23:44
その後は?そして代々…
202 :
日本@名無史さん:04/06/02 21:23
NHKで家康の伊賀越えやっとるぞ。
203 :
日本@名無史さん:04/06/02 21:47
胡散臭い郷土史家がいっぱい出てくるな(藁
204 :
日本@名無史さん:04/06/02 22:12
あんな空手形を連発してついてくる人がいるとは思えん
さっさと捉えてしばらく様子みて、情勢が固まり次第
次期政権に渡したほうがずっと現実的だよなあ
205 :
日本@名無史さん:04/06/02 22:24
伊賀忍術研究家はどうやって生活してるんだろう
>>204 次期政権って、明智のことか?
やはり謀反人は支持されないっつうか、いずれ滅亡すると見ていたんだろうな。
207 :
日本@名無史さん:04/06/03 01:33
>>206 いやいや、明智なのか、君主の仇討ちで誰が勝ち上がるのかを見てからってことでしょ
それにしても本能寺直後に家康に付くのはどう考えても早計だと思うんだが
明智の動きもまだまだ読めないし、ヘタすれば家康は潰される
オレは秀吉と明智の共謀だと思うね。
中国地方から大急ぎで戻ったってのも嘘なんじゃないのかね。
明智を謀反人に仕立てて自分は殿のために命をかけて戻ってきたってシチュエーションにしたと。
秀吉も信長は天下統一するまでは必要と考えていたけど
その後の統治は無理と考えてたんじゃん?
まぁ想像でしかないが。
ただ本能寺の変が時期的にタイミングが良すぎることから
謀反人よりも信長の直後の支配者を疑うべきな気がする。
当時は謀反なんてそれ程珍しいことではなかったにも関わらず
あまりにも状況が明智に対して不利に働きすぎ。
まぁとにかく明智の単独犯だったってのは疑わしいね。
キャラ的に騙されそうなイメージあるしw
209 :
日本@名無史さん:04/06/03 04:05
秀吉は元々信長を殺すつもりで大返しの準備をしていた、援軍を要請したのも信長を油断させるため。
それを察知した光秀が先を越される前に信長を殺して天下を取ろうとした。
210 :
日本@名無史さん:04/06/03 07:34
211 :
日本@名無史さん:04/06/03 09:17
信長が力で制圧した伊賀が、逃亡中の家康襲撃も含めて直ちに明智の要請を聞き入れるという展開に
終始しているNHKの歴史観はおかしくないか
むしろ明智の襲撃要請などなかったのではないのか
212 :
日本@名無史さん:04/06/03 14:17
>>211 本格的な襲撃要請なんてなかったね
あったらあの人数で生きてるわけがない
結局巧妙な作り話だと思うんだよなあ
伊賀超えも大返しも・・・なんか胡散臭い
結局勝者の歴史だからな
213 :
日本@名無史さん:04/06/03 14:35
まぁ家康がビビッて大急ぎで三河に帰ろうとしたのは事実だろう。
それを伊賀勢が護衛したのも事実では?
襲撃は無かったかもしれんが。
214 :
日本@名無史さん:04/06/03 15:22
暗殺で最も直接的利益を得た者は誰か、
と考えれば真犯人は明か。
清洲会議後にお市タンを手に入れた勝家でしょう。
215 :
日本@名無史さん:04/06/03 15:29
今川氏真
216 :
日本@名無史さん:04/06/03 15:52
家康殺すのに一万の兵は不要。
217 :
日本@名無史さん:04/06/03 16:08
徳川一行に伊賀勢がどっと押しかけて恩を売ったのではないかのう
218 :
日本@名無史さん:04/06/03 17:35
>>213 たった3日程度でどうやって懐柔できるんだろうな
伊賀勢だってほとんど情報が錯綜してる最中じゃないの?
村の長を人質にすれば誰も手を出さないとはいうが
なぜそう易々と拉致できたのかも謎・・・
家康に恩を売るといってもなあ
寺に寄進すると言った土地だって家康の所領じゃないわけで
なにを根拠に信じればいいのか、伊賀勢も即断できないと思う
219 :
日本@名無史さん:04/06/03 17:54
恩を買ってくれる有力大名に先行投資するぐらいの知恵はあっただろうよ
220 :
日本@名無史さん:04/06/03 18:09
信長ってあまり落ち度のない部下でも古参になってきたってだけで切り捨ててたんだって。
だから有力な部下(秀吉や光秀や勝家など)たちはいつ自分が切られるかってビクビクしてたらしい。
要は癇癪持ちな殿様を同盟相手の家康も手を組んで皆でやっちゃったんだよ。
いくらトップだからってムチャクチャやってたらクーデター起こされるんだって。
服部って一応伊賀上忍三家のうちの一つだからだろうな
222 :
日本@名無史さん:04/06/04 15:49
223 :
日本@名無史さん:04/06/04 15:51
蘭丸に男ができた事を知った信長は・・・・
224 :
日本@名無史さん:04/06/04 16:18
本能寺の変の真実は
信長の寝タバコによる火災です。
225 :
日本@名無史さん:04/06/04 17:43
家康は、光秀の謀反をチャンス到来と思った
伊賀越えの逃避行ということでまず同行していた穴山を謀殺
数日で三河に戻るとさっそく穴山領を頂くことにする
ゲット!
事件後姿を消した黒人が怪しい
あいつが全ての黒幕なのでは?
227 :
日本@名無史さん:04/06/09 10:44
家康は本能寺の変前は律儀な努力家としてのイメージを世間に売っていた。
豹変するのは秀吉の死後。
本能寺の変の時点で、天下を狙えるとかの勢力ではなく、むしろ、織田のカバーがなくなって、北条などに攻められるのではないかと怯えたのでは、、、
家康は、本能寺の変の後、三河に帰還すると、
すかさず光秀討伐の挙兵、途中まで進出するが、
すでに秀吉が光秀を討ったとの情報を聞いて引き返す。
代わりに、滝川が撤退して混乱した武田旧領に進入。これを併合する。
信長の仇を討つことが、自分の天下取りの足がかりになる。
すかさず挙兵したことは、秀吉同様、家康も天下を狙っていたことの証明。
ちなみに北条とは、友好的関係。
229 :
日本@名無史さん:04/06/09 20:14
>>228 > 代わりに、滝川が撤退して混乱した武田旧領に進入。これを併合する。
滝川領は上野と小県・佐久郡
甲斐の川尻秀隆は、ご存じのとおり撤退せず討たれている
まぁ、信濃の領主は毛利や森に滝川も撤退しているが
> ちなみに北条とは、友好的関係。
甲斐・信濃出兵の時点においては敵対
氏直率いる大軍が信濃から甲斐にまで進出している
しかし、新府に進出した家康と睨み合いが長期化し
さらに相模から甲斐に進出した援軍が敗退したため和議を結んだ
このときに甲斐・信濃が徳川のものとなり督姫が氏直に嫁ぐことになった
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231 :
日本@名無史さん:04/06/10 10:39
家康は小牧長久手あたりの戦いで秀吉軍十万と互角に戦い、秀次の迂回軍を全滅させたあたりから自信をつけている。
それまでは律儀な正直者のイメージを崩そうとしなかった。本能寺の変あたりでは、織田信長のご機嫌を伺うだけの存在で、
周囲に何か陰謀をめぐらしていた様子、痕跡は全く無い。
互角?
睨みあってただけでは?
>>232 確か家康は小牧山に本陣を構えて長久手で秀吉の軍勢を破った。
そしてそこから膠着状態が続いたはず。
234 :
日本@名無史さん:04/06/11 10:26
その手ごわさを秀吉が必要以上に怖れたため、家康名称伝説が起こった。
これが、後の天下とりに大きく役立った。
235 :
日本@名無史さん:04/06/11 15:08
でも実際は家康にびびったわけじゃあるまい
まあかなり手ごわいし、大きな戦さになってしまいそうなので
コストパフォーマンスを考えて懐柔策に乗り換えたと
豊臣政権が盤石になった時点で潰しておけばよかったのにね
236 :
日本@名無史さん:04/06/11 17:12
秀吉の前でも半分冗談で、家康は秀吉軍を唯一破ったことを自慢していた
いわゆる武将としての自負心だな
徳川の家臣団にもこのことは自ずと浸透していたわけだ
いつの日か家康に天下を取らせるということだな
家康と比べると信雄の扱いが酷いよな。
兵站ぶちきられてどうしようもなくなって和議結んだのにまるでヘタレのようにいわれてる。
238 :
日本@名無史さん:04/06/12 10:55
織田信雄はのちに秀吉の書状一本で百万石の領土とられちゃったから。
文句も言えずに、、、、。
また大阪冬の陣の時、淀君に指揮を頼まれたのに、あっさり逃げて、
大阪は戦うつもりと徳川に密告。三万石ほど貰って大喜びしたと昔読んだ、、、
239 :
岡崎@名無史さん :04/06/12 12:25
はじめてこのスレにカキコするけん
スレタイにちょっと文句が家康の陰謀ってあるけど本能寺で信長を討つことで家康は、何を得たの?
もししっかりとした跡継ぎが豊臣側に出来てたら関ヶ原で勝てないと思うから
240 :
日本@名無史さん:04/06/15 11:12
秀吉はしっかりした後継ぎがいないから、朝鮮、大明国制覇に乗り出したんであって、、
しつかりした後継ぎが出来ていたら、存在していたら、
朝鮮なんか行かずに、一番危険な徳川大潰しに乗り出して、徳川幕府はなかったのでは、、、
241 :
日本@名無史さん:04/06/21 17:25
このスレを読むと、どの説も有力に思えるくらい
信長って、みんなから恨まれてたんだなーとおもた。
242 :
日本@名無史さん:04/06/23 10:29
でも、マキアベリ曰く、君主は愛されるより、怖れられよ。だから。
怖れられていたから、命令が行き渡るわけで、、、、
敵が織田軍来ると名前を聞いただけで逃げ出したり、降伏したりするわけで、、
なめられると、叛乱起こすのが出るわけで。
つまりな、光秀は信長のことを舐めてたわけですよ。
と、ゆうことは、信長はマキャベリの「君主論」を読んでいたんだにゃ
245 :
日本@名無史さん:04/06/26 10:49
宣教師達から、話を聞いていた可能性はあります。
かなり有名な書物だから。当時、商人が持ち込んでても不思議ではないかも。
246 :
日本@名無史さん:04/06/26 11:59
>かなり有名な書物だから。当時、商人が持ち込んでても不思議ではないかも。
わざわざ翻訳して信長に献上した。てってか?
孫子読んでりゃマキャべりなんぞいらん。
過ぎたるは及ばざるがごとし
249 :
日本@名無史さん:04/06/26 12:47
戦国大名のバイブルは『太平記』
250 :
日本@名無史さん:04/06/26 12:53
祖母は京都四条油小路(本能寺跡地)に明治大正昭和初期に住んでいたが、
家(染物工場)を建て替える際、庭を掘り返したところ、日本刀がザクザク出てきたそうな。
今なら歴史マニア垂涎の品だね。
251 :
日本@名無史さん:04/06/26 23:45
>>250 っーか、刀より信長の遺体・・・・・・・・・・・・
信長の遺体は、当事本能寺の隣にあった阿弥陀寺に葬られたらすい。
253 :
日本@名無史さん:04/06/27 01:55
昔、NHKでやってた番組によると、
今川義元が持っていた名刀って、まず桶狭間で信長の手に移って、
最終的には徳川家に行ったんだよな。(ここまでは確かなことらしい。)
何でも、光秀の手に渡り、そのあと、
自分は死んだこととして、家康に下ったとか。
つい最近、織田家の子孫と明智家の子孫だかが和解していたが、
そのとき明智家の人が言うには、家康暗殺命令が光秀に下っていたとか。
そういえば久能山東照宮は
#徳川家康
#豊臣秀吉
#織田信長
が祀られている・・・これは一体・・・
むむむむむ・・・・
255 :
日本@名無史さん:04/07/02 10:41
久能山、そこから徳川家康の遺体は日光東照宮に移された。
吉日を選んで。しかし、それが本当に家康の意志だったかは解からないとか。
天海が耳で聞いただけだとか、いろいろと言われている。
256 :
日本@名無史さん:04/07/03 11:57
いちごパンツ(1582)を語るスレ@日本史板
はここですか?
257 :
日本@名無史さん:04/07/03 13:25
>>252 >信長の遺体は、当事本能寺の隣にあった阿弥陀寺に葬られたらすい。
誰の手で?
>>257 阿弥陀寺の住職。
なんか、寺伝に書いてあるらすい。
寺伝だしねぇ
>>258 阿弥陀寺の史料を入手しますたが、内容読む限り捏造と見ていいかも知れません…
だって、明智勢が本能寺を襲撃してる最中に隣の阿弥陀寺の住職が本能寺に乗り込んで
軒下にあった信長の遺体を見っけて、こっそり持って帰ったって書いてあるんスよ…
>>260 戦闘中でも、僧体なら自由に出入りできるんじゃないかな?
女も無事逃げれたようだし。
>信長の遺体を見っけて、こっそり持って帰ったって
もちろん、住職が一人で持って帰ったんじゃないと思う。
>阿弥陀寺の史料を入手しますたが、
もしよかったら、その文章をアップしてくれませんか?
大田牛一なんかもいつのまにか脱出してるね。
「信長公阿弥陀寺由緒之記録」
抑信長公阿弥陀寺におゐて由緒ふかき來由を委く尋るにもと信長公御生存の内當寺開山
C玉上人と年來御別懇に御目を懸させられし事世に隠れなきことに有し也然る所に明智
日向守光秀か謀反に依て天正十年壬午六月二日拂曉信長公御旅館本能寺へ押寄せ合戦に
及候事早速C玉上人聞つけ大に驚き給ひ手前の坊主并塔頭の儈徒二十人ばかり召連とり
あへす本能寺へ懸付申されしに表門合壁ば軍勢にて中々寄付事叶ひがたく見へしゆへC
玉上人裏道堀溝の案内ば能く存しられたりうら道へまわり本能寺の裏より垣をやふりて
寺内へ漸く懸付られし所にもはや本能寺へ火かヽり信長公御切腹遊され候と聞て力を落
し片脇を見られければ墓のうしろ藪の内にて十人餘り打よりそと葉體のもの折くべ火を
燒ありC玉上人不思議と思ひ其所へ立寄見給ひしに皆知れる武士方なり是はいかに扨信
長公ば如何かならせおわしますと問ひ給ひけれはもはや御切腹遊され御遺言にて御死骸
を敵にとられな首を敵かたへ渡すなと仰置れ候ゑかれとも御死骸を抱きて立退き申すへ
きも四方皆敵の中なり差當り致へき思案もなく候ゆへに御死骸を只今これにて御火葬に
致し灰となして敵に隠し我々はその後切腹仕御供申候はんと存し只今御葬仕と各々一同
に答へ申されける
C玉上人見給ひさては幸ひのとなり此儈は内々各々御存の通奮來御懇意の上意ともに預
り有かたく存奉り居申せし事なれは何かな御用も有らんと存して早々是まて懸付候所に
もはや御生害是非に及はす候火葬は出家の役なれば爰をば愚儈に御渡しあれ儈徒も數多
召連候間御火葬に致し御骨を我寺にもち歸り葬り奉りて御墓を築き御送禮御法事等も愚
儈か力ほとば相勤申へく候の間其段ば御気遣なく爰を此儈に御まかせ敵も表に見へ候へ
ば各々一働き御はたらきありて速に打死し御供なされ候へと申給へば皆々スひ申され兼
て御昵懇の事なれば思召し至極に存候左候ばヽ仰に隨ひ貴儈へこヽをばョ置我々ば罷出
猶入來る敵をふせき心静に切腹し御供仕候ばん間ョ入ると一兩人残し置き皆々立退き表
へ出られ候ゆへC玉上人御火葬を受取暫時に煙と成し奉りさて御骨をとりあつめ衣につ
ヽみ本能寺の儈衆の立退く風情して阿弥陀寺へ帰られ御骨をまつふかく隠しをき暫く日
數もすきて塔頭の儈徒ばかりにて密に御葬禮執り行ひ葬り奉りて御墓を築き給ひしゆへ
に御骨の納り候根元の御墓所ば阿弥陀寺にて今に至るまで御命日懈怠なく相勤奉もの也
信長記ニ御首ヲ求メケレトモ更ニ見ヘサリケレハ光秀深ク怪ミ士卒ニ命シテ事外尋サ
セケレトモ何トナラセ給ヒケン骸骨ト思シキサヘ見ヘサリツルト有ルハ此謂也
ちなみに、このC玉上人という坊さんは
信忠の遺体も二条御所まで行って、コソーリ持ち帰ったって事になっとりますですよ
>>264 ありがとうございました。
清玉さん、大活躍ですな。
本能寺が炎上していて明智兵が近づけなかったのか、死角だったのか。
意外にありえそうにも読めたけれども、
疑問点は、
信長宿泊所として使用された本能寺の周囲は、簡単に破れる垣だったのか?
遺骸を焼いて短時間で骨になったのか?
というあたりですね。
信忠の骨も埋まっているなら、DNA鑑定で、親子かどうか判定できると思う。
もし、親子だと判定できれば、99.9%の確率で信長親子なのだが…。
266 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 17:27
そういえば、子供の頃、
子供相手だと思って適当な嘘つく大人が居たよな・・・・
267 :
日本@名無史さん:04/07/12 08:45
>>262 >大田牛一なんかもいつのまにか脱出してるね。
あんた馬鹿?
太田牛一は当時、京には居なかったんだよ。
まずなにより牛一は信長の近臣ではありません。
丹羽長秀の与力、一説には祐筆であり、本能寺の変当時は
大坂に居たとも言われてます。
268 :
日本@名無史さん:04/07/12 11:21
川西
>>267 大田牛一は、信長の祐筆じゃなかったの?
「是非に及ばず」の名台詞は、こいつの捏造かい。
270 :
日本@名無史さん:04/07/13 14:16
>>269 >大田牛一は、信長の祐筆じゃなかったの?
その誤りはもはや常識でつ。
ちょっとした信長の辞典にもしるされていまつ。
271 :
日本@名無史さん:04/07/14 19:46
そうだったのか・・・
すると、
「是非に及ばず」も、
弓や槍で戦った信長の雄姿も、捏造かもしれんね
272 :
日本@名無史さん:04/07/14 20:25
脱出した女房衆から聞いたとかいう話じゃなかったけか?
273 :
日本@名無史さん:04/07/16 18:30
>>271 >>272 女房衆の他に長谷川秀一も脱出しているから、
彼らの誰かに聞いたのかもしれない。
そのへんはフィクションとノンフィクションの
境目と見ておけばいいと思う。
>>273 >女房衆の他に長谷川秀一も脱出しているから、
お馬鹿2
お竹(秀一)は家康に同行してたんだよ。
275 :
日本@名無史さん:04/07/17 08:59
>>1
羽柴誠三秀吉だろ?
276 :
日本@名無史さん:04/07/17 22:44
277 :
日本@名無史さん:04/07/18 00:08
うん、、、
人を馬鹿呼ばわりするときは、慎重に(w
>人を馬鹿呼ばわりするときは、慎重に(w
馬鹿につける薬はなし。
人が少し間違えただけで
おまえ馬鹿か?なんて言ってたら
誰からも好かれない人間になりますよ。
280 :
日本@名無史さん:04/07/20 23:31
17日放送・本能寺の変から422年ぶりに織田家・明智家が歴史的“和解”
後日訂正放送・全面和解ではなく織田家の一部と明智家が"和解"
てことはまだ大半の織田家は和解していないのでした。これを観て思いだした
のは、昔ニフTの日本史フォラムで
「俺、明智の末裔の分家、圧力あり真実は言えないですけど、怨恨じゃないよ」
「ざけんなよ。本物なら言えよ!嘘つき!」
「どっから圧力がかかんだよ!言えないなら書くな!」
「ご免、マジで迷惑かかるから言えないよ。理解してね」
みたいなやり取りをRomってた事です。多分、真実が解る時って
こういう和解とかがきっかけじゃないかと思ったりします。
281 :
日本@名無史さん:04/07/21 11:10
徳川家康が黒幕の疑いがあったら、後に羽柴秀吉と戦った時、織田信雄が同盟など組むはずが無い。
そして明智軍の生き残りが責任転嫁で、徳川攻撃を勧めるだろう。
徳川を討ったものが織田の跡目を継げるとか何とか言って、、、
本能寺の変の首謀者は秀吉だという説を唱えている本を
図書館で見かけたが、ちらっと立ち読みしただけ。
283 :
日本@名無史さん:04/07/29 22:08
NHKそのとき歴史が動いた の、本能寺の変の放送で、
新たに浮かび上がってきた首謀者とかいうのをやってたらしいんですが、
僕は塾で見れませんでした。首謀者は誰ですか?
284 :
日本@名無史さん:04/07/29 22:53
けっこう胡散臭い結論だったな。光秀って別に義昭に恩義感じて信長殺さなきゃならんほどの間柄でもないような。
ありがとうございました。
すると、将軍を辞めさせられた恨みかなんかですか?
義昭黒幕説は、別に新しい説ってわけじゃない。
昔から浮かんでは消える、泡のようなものだ(w
光秀が、義昭の名を出して手紙を書いたのは、仲間を増やしたいから。
実際に義昭が黒幕なら、毛利、細川、上杉あたりに、光秀に協力するように命じているはず。
こいつら、ピクリとも動いていない。
光秀は、朝廷に将軍宣下を願い出ている(という説がある)。
ので、義昭に動かされたのではない、と思う。
自分が、将軍になりたかったんだ。
289 :
日本@名無史さん :04/09/07 10:44
明智光秀が実は徳川家康だったっていう考え方はなし?
290 :
日本@名無史さん:04/09/07 11:56
。。。本能寺の変は肉人の陰謀。。。。
肉人たあなんです?
292 :
日本@名無史さん:04/09/07 22:46
>>291 慶応年間に駿府城内に現れた妖怪のことだよ。
何のことかと思ったら京極夏彦の本に出てきたアレのことであったか。
294 :
日本@名無史さん:04/09/08 14:24
家康の陰謀?
あり得なくもないですが、ボクは朝廷の輩だと思っとります。
最近、NHKでは義昭こそ黒幕!ってなってましたが、
見終わって「んなこたーない!」と突っ込みいれました・・・
295 :
日本@名無史さん:04/09/08 14:27
>294
兄ちゃん、喧嘩売るんやったら、受信料払ろてくれるか〜
296 :
日本@名無史さん:04/09/08 14:29
。。。本能寺の変は源平交代説。。。。
297 :
日本@名無史さん:04/09/08 14:41
298 :
日本@名無史さん:04/09/08 15:24
>297
いや、俺の分も
299 :
日本@名無史さん:04/09/08 17:38
>298
ハァ〜〜? なんでやねん!
見てるんでしょ、NHK。
だったらちゃんと払わないとダメだよ
300 :
日本@名無史さん:04/09/08 17:57
それはさておき、
明智光秀と徳川家康って親戚だったって話はホント?
301 :
日本@名無史さん:04/09/08 18:38
>299
A「俺ん家、テレビないから」
B「アンテナ見えてまっせ」
302 :
日本@名無史さん:04/09/09 00:27
アンテナなんてただの飾りですよ。
集金人にはそれがわからんのです。
303 :
日本@名無史さん:04/09/09 00:46
テレビないです〜
車でみてます〜
常套手段でつ
304 :
日本@名無史さん:04/09/09 09:28
「NHKだけ見てません」は通用しないらしい。
305 :
日本@名無史さん:04/09/09 11:15
z
306 :
日本@名無史さん :04/09/09 11:23
明智光秀・・・
もうねぇ、名前が良く出来すぎ。
もっとバレないような名前の武将にするべきダターネw
307 :
日本@名無史さん :04/09/09 11:32
本能寺の変で〜陰謀説ってあらゆる人が取り上げられてきたけど
徳川家康陰謀説だけには触れられないって、逆に怪しまれるんだけどな〜w
308 :
日本@名無史さん :04/09/09 11:40
真面目な家康黒幕説への反論です。
一 家康と光秀の間に連絡を取り合った書簡、人物、アトのようなものがない。
一 家康は武田勝頼との戦いに忙殺され、謀叛を企むような余裕が無い。
一 家康は、まだ九州、北条、四国攻略が残っている織田信長には必要な駒で、大事にされていた。
一 光秀の謀叛を聞いて、慌てて堺から逃げ出している。だそうです、、、、
309 :
日本@名無史さん:04/09/09 12:47
毛利家黒幕説はないの?
310 :
日本@名無史さん:04/09/09 14:38
NHK「NHKでーす、受信料払ってください」
妻 「見て無いでーす。」
NHK「それでも、テレビあるなら払ってください。」
妻 「見たくないので、見えないようにしてください。」
NHK「それは出来ません。」
妻 「勝手に家に電波降らしておいて、金払えって、押し売りですか?頼んでも無いのに、電波送らないでください。」
HNK「・・・また来ます。」
妻 「押し売りは来ないでください。」
311 :
日本@名無史さん:04/09/09 21:58
妻=居直り強盗。
法治国家の国民としてあるべからざる対応。
というのはどうでもよい。
しかし、
>勝手に家に電波降らしておいて、金払えって、押し売りですか?頼んでも無いのに、電波送らないでください。
リアルにこういう馬鹿を見ると失笑を禁じ得ない。
312 :
日本@名無史さん:04/09/10 23:54:27
家康陰謀説(光秀=天海説)をまとめ
光秀の首級が秀吉に届けられたが腐敗が酷く見分けにくかった→光秀脱出説
関が原の戦いを描いた絵が残っているが、天海は鎧を着けて武装している→天海武士説
日光東照宮に光秀の家紋が残っている→光秀貢献者説
以上、光秀は当初の予定通り影武者を犠牲にして山崎の戦いから生還し
天海と名を変え家康の参謀として、幕府の基礎を築いた
というのがNHKの言い分
313 :
日本@名無史さん:04/09/11 00:33:30
はいはい、そうそう、言い分ね、言い分と。
NHKもとうとうワイドショーネタやりだした・・・
梨元でも当時に送り込んだか?
314 :
日本@名無史さん:04/09/11 20:45:24
まあ、光秀=天海説はまったくありえないわけでもあるまい
義経=ジンギスカンよりはマシ
315 :
日本@名無史さん :04/09/11 21:07:59
まったくありえないと言い切ると逆に自分の理論の信用性が低下するモンね
316 :
日本@名無史さん:04/09/11 23:31:22
317 :
日本@名無史さん:04/09/11 23:33:30
黒幕は、家臣と同盟者全員。
知らぬは、ただ信長のみ。
318 :
日本@名無史さん:04/09/11 23:51:25
柴田勝家黒幕説きぼん
319 :
日本@名無史さん:04/09/12 00:29:49
320 :
日本@名無史さん:04/09/12 01:31:50
>>319 >>312の
>日光東照宮に光秀の家紋が残っている→光秀貢献者説
これはどう考える?
まあ、別に俺は光秀・家康がグルとは思わないが
東照宮に家紋ってのは興味あるな
321 :
日本@名無史さん:04/09/12 01:36:36
>320
まぐれだよ
322 :
日本@名無史さん:04/09/12 02:28:35
>>320 >日光東照宮に光秀の家紋残っている→これはどう考える?
>まあ、別に俺は光秀・家康がグルとは思わないが
>東照宮に家紋ってのは興味あるな
松平一門の一つ、滝脇松平氏の家紋だよ。
理由は、滝脇松平氏が領内にあった鐘楼を
一旦解体してその資材を寄進したから。
嘘だと思うなら、日光東照宮に聞いてみればよろし。
323 :
日本@名無史さん:04/09/12 02:52:33
家紋なんか、同じデザインがまったく関係ない家で使ってるのは、よくあること(w
324 :
日本@名無史さん:04/09/12 02:54:52
昔から地球は宇宙人に監視されていて、地球人が宇宙人を抜きそうな文明に到達しようとすると、宇宙人は全力で地球を原始時代に戻してたんだよ!
これでオーパーツの謎は解けた!
325 :
日本@名無史さん:04/09/12 09:37:14
本能寺の変で得した人
秀吉、家康、前田、毛利、長曽我部、上杉、北条、高野山
本能寺の変で損した人
織田、柴田、穴山、誠仁親王、真田、鈴木孫一、三好
326 :
日本@名無史さん :04/09/12 20:50:40
秀吉は得してないだろ
結果として織田の代わりになっただけで
家康は織田を暗殺した後、まっさきに関東方面に逃げ帰って
関が原に38度線みたいなのが引かれてたからな
本能寺の変のあと、すぐに西と東に国が分かれたんだよ
327 :
日本@名無史さん:04/09/13 10:07:32
光秀=天海だとおもふ。光秀はいわゆるエリートで、ひでよし&のぶなが(派手ごのみ、革新的)
なのに対し、家康&光秀(地味、保守的)なことからいっても、やはーり黒は家ちゃん。
328 :
日本@名無史さん:04/09/13 10:09:22
秀吉=天海
329 :
日本@名無史さん:04/09/13 10:14:05
まあ光秀が討ったあとで家康と組んだことも考えられる。
ノブは頭蓋コツで酒飲んだり、やぱーり常識的におかしなところがある。
そんなところが家康や光秀のようなエリートには我慢ならぬところが
あったであろう。家康や光秀にはキリシタン虐殺のような有無をいわさぬ
ような熾烈きわまる冷徹さというのが少ないようにおもわれる。
光と家は性格的に似ていたところがあったと考える。
330 :
日本@名無史さん:04/09/13 19:24:24
光秀=天海は何かのテレビで、年令的に違うみたいなのをやってたような・・・
光秀の子供ではと言う結論だったような。
違ってたらスマソ
いろんな説があって面白いね
光秀=エリートと言うのはどっから出てきた話?
天海=光秀の息子、の方が年齢的に無理ありそうだが…
確か、天海って家康よりも年上だったはず
1643年に亡くなった時108歳〜120歳位だったらしいし…
光秀は1528年頃の生まれだから息子っていうのは無理っぽくない?
兄弟とかならありえないこともなさそうだけど、
光秀の男兄弟の話ってあまり聞いたことないなぁ
春日の局の母親が妹かなんかなんだっけ
334 :
日本@名無史さん:04/09/13 23:18:48
>>332 おそらく将軍の「側近」てところからでは?
336 :
日本@名無史さん :04/09/14 07:02:33
何故、在日の人達は家康の肩を持つの?在日の友達がそうだった。。。
敵の敵は味方という発想では。
>>336 秀吉が始めた朝鮮侵略に反対してくれたからだろう。
339 :
雪だるま ◆HMt0KNamnQ :04/09/15 21:17:41
このスレがまだ残っててビックリしました。
>>1の信玄#chingeです。
このスレがまだ残っててビックリしました。
本能寺の変は秀吉の陰謀だろ
ちんげage
ちんげsage
346 :
日本@名無史さん:04/09/16 19:35:28
347 :
日本@名無史さん:04/09/22 08:31:44
↑
NHKの不祥事で、払ってない人増えてるんだ〜
俺も考えようかな
348 :
日本@名無史さん:04/09/22 16:12:16
自分の考えは家臣団(明智・秀吉・柴田)+徳川説
天下統一後の自分たちの立場を恐れて一致団結し実行犯明智になり
変後の当主は信雄でと決まる(信忠ではたいして信長時代と変わらないから)
だが何も知らないバカ信考が立ち上がってしまう。
秀吉は、そこまで読んで明智を討つ。
慌てたのは、柴田・徳川約束違反だと怒り反秀吉連合ができるが、
結局秀吉にしてやられた?
が自分の説です。
349 :
日本@名無史さん:04/09/23 12:30:03
家康はひとつ間違ってたら死んでた可能性があるので
陰謀ではないです。本能寺の首謀者は足利将軍なので
東国系の武将はあまり関係ないですね。滝川とか柴田の
動きが遅かったのもそのへん。秀吉に情報を提供したのは
足利将軍を保護してた毛利なんで将軍の情報を有効に使った
毛利と秀吉の情報戦の勝ち組と。陰謀にしてはおそまつ。
350 :
日本@名無史さん:04/09/26 14:36:33
age
自分が危ないように見せるなんて、
アリバイ工作が巧みだったんでつね。。。
352 :
雪だるま ◆ZoOk9x51YM :04/09/27 18:30:30
トリップ変更しました。 前:#judiyuki
353 :
日本@名無史さん:04/09/28 00:50:57
354 :
日本@名無史さん:04/09/29 09:43:01
あっただろ。
355 :
日本@名無史さん:04/09/29 18:13:24
時空警察age
356 :
日本@名無史さん:04/09/29 21:24:41
>>355 本能寺の変はイエズス会の陰謀だろ
キリシタン大名が光秀に協力して、
あとで光秀を始末して日本を乗っ取るつもりだった。
357 :
日本@名無史さん:04/09/29 21:40:42
時空警察って肥よりもすごい捏造するね
358 :
日本@名無史さん:04/09/29 21:52:15
「(自らを神として拝ませた)信長が○日以上行き続けることを神は許さない。」
とイエズス会が書き、その日数以内に本能寺の変があったということは、
イエズス会主犯説もあながち否定できないな。
実際、イエズス会関係の報告書では、「火薬が使用された」という注目すべき記述があるし。
要は、キリスト教容認の信長に中国を征服させて中国もキリスト化しようと目論んでいたけど、
信長はいずれキリスト教を迫害し出すと読んで葬り去ったということじゃないか?
359 :
日本@名無史さん:04/09/29 23:00:03
おばば乙
その仮説だと秀吉は知ってたの? ワクワク
361 :
日本@名無史さん:04/10/02 23:44:12
(●´ー`●)
363 :
日本@名無史さん:04/10/03 10:18:19
バカだな。キミたち。
イエズス会は単なる実行犯。主犯は神だ。
364 :
日本@名無史さん:04/10/03 10:20:26
同様に弾圧されていた仏も共犯だった可能性がある。
信長が寺で死んだというのもその証拠のひとつ。
ホントはこんなことを書くのは恐ろしい。
真実を明るみに知らせば犯人からの復讐があることは必然だからだ。
だがわたしは勇気をもってうわなNiwe
365 :
ゆー ◆IcCWFft2M6 :04/10/03 10:37:26
本能寺の変は秀吉のせいだと思うけどなぁ
だって秀吉が備中で苦戦してなければ光秀が信長を襲う
事だってなかったわけだし。まぁ清水宗治も猛将と呼ばれるような
奴だから秀吉を責める事はできないが。
366 :
日本@名無史さん:04/10/03 10:44:11
ショタエロマンガ家は、ちゃんと自分のことを
社会の底辺と認識した上で描いてるのか?
良心の呵責とかあんのか?
どちらにしろ、そんな底辺に自らなりたいと思ってる奴っているの?
単に、マトモな職に就けなかったから
しょうがなくエロマンガ家やってるんだよな?
包茎チンコにしか欲情できない変態なんだよな?
そんな底辺をうらやましがっている奴や、
うらやましがっている奴がいると本気で思ってる香具師って、
頭おかしいんじゃねぇの?
ショタ界なんて早く滅亡すりゃいいのに。
367 :
ゆー ◆IcCWFft2M6 :04/10/03 10:46:56
>>366
板違いじゃない?
のぶながってなんで秀吉や家康と比較されるの?
むしろ、信玄と比較すべきでは?
だって、天下統一してないよね?
369 :
日本@名無史さん:04/10/03 13:36:25
>>368 信長は、天下統一を目指して戦い、
本願寺を降伏させ、武田を滅ぼした時点で、ほぼそれを達成していた。
秀吉・家康は、その事業を継承した。
だから、この三者はよく比較される。
信玄は、甲斐から信濃・駿河を征服したが、
天下統一の戦略的要衝ではない川中島にこだわって、謙信と何年も争っている。
単なる領土拡張を目指す戦国大名に過ぎない。
川中島放置したら謙信が出張ってきてめんどいからじゃん。
放置しなくても春日山のすぐ近くだから謙信が出張ってきちゃうけどさ。
>>369 しかし、信玄も天下統一を目指してたといえるのではないでしょうか?
死ぬ直前、大軍を率いて、京都を目指しましたよね?
372 :
日本@名無史さん:04/10/04 01:52:11
>>371 信玄は、信濃の諸豪族、上杉、北条と目的の明確でない戦争を繰り返し、
甲斐、信濃、駿河の領主になったが、
50歳をいくつも超えてから、足利義昭に利用されてか、利用してか、
大軍を率いて上洛しようとしましたがね。
その歳で天下を目指すなんて、もう遅すぎですよ。
その途中で病死するわけだが、
信長と直接衝突しても勝ち目はなかったでしょう。
信長は、桶狭間合戦の後、隣国の三河が盟主を失って混乱した時に
単なる領土拡張が目的なら、自ら三河を征服することは比較的簡単だった。
それをせずに、家康と同盟して、援助を与え、三河を平定させた。
そして自分は京都を目指す。
この同盟を決めた時、信長はすでに天下統一の志を抱いていた、と断言していいと思う。
彼の戦いは天下統一という目的のための戦いだった。
まあ、一介の大名が天下を取ると考えること自体、当時は非常識なことだったのだが。
>>370 川中島を謙信に取られたら、信玄が天下を目指す上で、何か支障があるのだろうか?
何もない。それよりももっと重要な戦略目的が他にあったはず。
確か6回、十数年にわたって戦っていますよね。
無意味で、実りのない戦いだった。
天下統一という目的を、信玄がもっていたら、川中島の戦いを避けることを考えただろう。
373 :
日本@名無史さん:04/10/04 03:35:33
>>372 禿同
信長以前に、明確な天下取りのビジョンと
それに向けての努力をやった戦国武将はいなかった。
みんな関東制覇とか九州制覇とか、地方での勢力拡大に努めていただけで、
信玄も謙信も元就も氏康も宗麟も義元もみんな信長とは格が違う。
戦国武将で信長と同格の最高ランクにあるのは秀吉だけ。
家康でさえ、やや見劣りがする。まあ、信長、秀吉の次に来ることは間違いないが。
川中島とられたら謙信に信濃荒らされちゃうじゃん。
したら天下獲りどころじゃなくなると思うが。
三好長慶とかは無視?
375 :
○○研究会:04/10/08 16:16:14
>>369 >信玄は、・・ 単なる領土拡張を目指す戦国大名に過ぎない。
そうか?単なる領土拡大の戦なら、信玄の設楽が原の戦術は
どう説明する?家康の対応もいくら見栄とは言われているが
尋常じゃないぞ。
信長に、最初から明確な天下取りのビジョンがあったと見るのは痛い。
将軍義昭との対立は信長の意図しなかったものだった。
義昭が京を落延びる事態となったことに、信長はかなり狼狽していた。
しばしば信長の経歴で挙げられる「将軍追放」というのは間違っている。
実際は義昭が信長の慰留を振り切ったのが事実。
義昭の「追放」後、人質として手許にいた義昭実子(名前は失念)を将軍代理として身近に置いて
信長は何度も岐阜と京を義昭実子と一緒に移動していることから、
あの信長でさえ室町幕府の権威を完全否定するビジョンを建てていたわけでないことがわかる。
これ、常識。
誰ですか?信長を単純な革命児に仕立て上げようとする馬鹿は?
377 :
○○研究会:04/10/08 16:38:13
>>372 天下統一という目的を、信玄がもっていたら、
川中島の戦いを避けることを考えただろう。
確かに全体的に信玄に天下取りのビジョンは無さそうに私にも見えるが
川中島の戦いを避けることがビジョンがあった、無かったの理由付けには
ならんように思えるが。
どちらにしても目の前の邪魔な存在をまず倒さなきゃならんでしょ。
信玄も最初は信濃獲った後は越後に抜けることを考えてたんだしな。
今川、北条と同盟結んでたんだから北陸から近江にまわるのは実にまともな考え方。
実際飛騨や越中の連中にもコナかけてるし。
379 :
日本@名無史さん:04/10/08 19:40:01
信玄が天下統一の目的を持っていたとするならば、競争相手は、謙信ではなくて信長。
(謙信は、目的を持っていたとすれば、関東管領)
信玄は、信長が足利義昭を奉じて上洛するのを、なんとしても妨害しなければ
ならなかったはず。しかし、何もしていない。
信長は、背後から足を引っ張る可能性を持つのは信玄と予想しているから、
当初から、徹底的に懐柔外交をやっている。
(養女を勝頼の嫁にやり、信玄の娘と信忠の婚約を結ぶなど)
結局、信玄は信長の外交戦略に乗せられ、上洛を傍観し、
川中島で十数年間を空費し、
義昭に誘われて挙兵した時には、信長は近畿の周辺に確固たる勢力を築いていた。
ほんとに、最後の挙兵で天下が取れると信じていたのか?
だとしたら、状況認識が甘すぎ。すでに耄碌していたと言うしかない。
あるいは、発病に気づいて焦っていたのかもしれない。
380 :
日本@名無史さん:04/10/08 19:44:06
381 :
○○研究会:04/10/08 21:14:54
>>380様
『設楽が原』で検索できるよ。
まず、それからねw
382 :
日本@名無史さん:04/10/08 22:07:38
>>381 お前アホだろ?w
信玄と家康が戦ったのが「三方が原」で、
信長と勝頼が戦ったのが「設楽が原」(長篠)だろ!w
383 :
日本@名無史さん:04/10/08 22:11:47
384 :
日本@名無史さん:04/10/08 22:16:12
>>381 >『設楽が原』で検索できるよ。
>まず、それからねw
恥ずかしくないか?w
385 :
日本@名無史さん:04/10/08 22:23:06
>>382 そそw ごめんなさい。
間違いでした。 <(_ _)>
>>380様
『三方が原』で検索できるよ。
まず、それからねw
386 :
日本@名無史さん:04/10/08 22:29:16
揚げ足取る方も取られる方も
似たようなものだな。暇人共。
真面目に語れ。
387 :
日本@名無史さん:04/10/08 22:33:48
388 :
日本@名無史さん:04/10/08 22:37:12
389 :
日本@名無史さん:04/10/08 22:39:48
ワクワク、喧嘩でつか?
390 :
日本@名無史さん:04/10/08 22:46:01
391 :
日本@名無史さん:04/10/08 23:38:54
392 :
日本@名無史さん:04/10/08 23:52:45
つまり本能寺の変は家康の自演
393 :
日本@名無史さん:04/10/09 00:16:06
>>392↑
と厨房君がもっともな事を申しており松。
394 :
日本@名無史さん:04/10/09 00:41:41
天海≒氏真
395 :
日本@名無史さん:04/10/09 03:10:26
?光秀≒天海≒信長?
396 :
日本@名無史さん:04/10/09 09:21:22
>>385 >『三方が原』で検索できるよ。
>まず、それからねw
まず、お前が検索しろ。そして勉強しろ。
それからねw
&rfu&rsi&ran&ras&ran;
名前欄にこれ入れると「( ´,_ゝ`)プッ」になるんだね
オモロイ!
doredore
399 :
日本@名無史さん:04/10/09 12:41:38
400get
401 :
日本@名無史さん:04/10/11 19:26:23
hoge
伊達政宗があと10年早く、しかももうちょっと京に近い地に生まれていれば
天下統一してただろうにね
403 :
日本@名無史さん:04/10/13 17:42:40
>>402 もしだらけだな〜
もしを言っていいなら、何人も天下統一してるんじゃないの?
404 :
日本@名無史さん:04/10/13 19:53:47
>>402 伊達政宗は、10年早く、京都に近い地に生まれただけでは、天下統一は無理っぽ。
もっと頭が良く、もっともっと度胸よく生まれないと。(w
もっともそうなると、もはや伊達政宗とはまったく別人になってしまうのだが(www
405 :
日本@名無史さん:04/10/13 22:26:20
つまりは輝宗が色んな意味でもっと頑張っていれば、つーことかい?
東北人にはとてもムリ
407 :
日本@名無史さん:04/10/14 01:42:37
>>402 人間は環境の産物。
別の時間の別の家庭に生まれていれば、別の人間になる。
例えば、あの田舎じみた狡猾さや見栄っ張りなところは、片目の醜い顔や
母親との確執から生み出されたもので、それらがなければただのボンボンに
なっていたかもしれない。
ましてや、大名はたった一人で行動するわけじゃない。
伊達家の家臣団あっての政宗であって、京の近くで伊達家と同規模の朝倉家や
山名家に生まれたところで、天下が取れるかといえばそんなことはありえない。
三戦板に行ってください。
政宗が天下ってw
410 :
ゆきだるま ◆ZoOk9x51YM :04/10/24 14:32:44
保守
411 :
日本@名無史さん:04/10/24 14:49:15
家康のおかんが黒幕だよ。
理由?
旦那と別れさせられたり、姪っ子を息子の正室にしようとしたのを
破棄させられたのは織田信秀のせいだし、
兄貴の水野信元を織田信長に謀殺されたうえ、
水野一族の所領は没収、織田家で冷遇された水野一族の怨念を
姪っ子の旦那(=明智光秀)を唆して、一気に晴らさせたんだよ。
そうとしか考えられん。
412 :
日本@名無史さん:04/10/24 15:45:15
ありもしない事を
歴史を捻じ曲げてどうするの
413 :
ゆきだるま ◆ZoOk9x51YM :04/10/30 01:29:59
∧_∧
(´.・ω・)
( )
| | |
(∩_)_)
| |_∧|
| |゚Д゚) あげ!
| |
| |
./| ∩ |
U U
414 :
日本@名無史さん:04/10/30 17:13:01
いや、陰謀なんかなかったのさ。素直に、光秀が信長さえ殺害すれば、他の家臣は自分に
ついてくると考えていたんだよ。秀吉は岡山にいたし。
415 :
日本@名無史さん:04/11/03 13:04:06
松永久秀が天下盗り最強だろ
秀吉も家康も野望は有ったと思いますが、本能寺はタイミング的に居る場所が
悪過ぎるのでシロだと思いますけどね。
1つ間違えば、2人とも確実にそこが死に場所に…
やはり足利義昭が黒幕かと、信玄&謙信すら動かし信長包囲網を作り上げた実績も有りますし
落ちたりとは言え、足利将軍の権威をあまり舐めない方が…
まあ本人は黒幕のつもりだったかもしれんね。
419 :
日本@名無史さん:04/11/11 17:35:43
>>417 舐めない方が…と言ったって
従ったのは結局光秀だけだぞ
420 :
日本@名無しさん:04/11/14 18:17:49
, - ' ゙ `` ‐ 、_,,,,,
,r' /=ミ
/ 彡ll',''´
. / 彡lll
!-- .、 ,、、、、,,, 彡lノ
l,,,,,__ / ___ 'r''゙ヽ
. |`゙'' ./ `'゙'''" .〉,l |
|. ,' //
. ',. ,' , r'
. ゙, ゙'ー ‐` l |
゙、''゙ ,,、二''‐ ノ l、
''''''''7'ヽ ''' / /`〉`゙T''''''''''
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【ゴールデンレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ宝くじは当たるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
421 :
日本@名無史さん:04/11/14 18:25:45
422 :
日本@名無史さん:04/11/17 18:39:09
422get
423 :
日本@名無史さん:04/11/30 02:58:46
h
まず、正史は常に時の権力者によって都合のいいように定義される(書かれる)事を
忘れてはいけない。
次に、小説などで代表される珍説・奇説の中にはあまりにも非合理的、時代考証を欠
いた荒唐無稽なものも多い。
過去の時代というものは、現代の日本人には簡単に理解(想像)できない、文化・慣習
もあるが、実は以外にも現代とほとんど変わらない理屈で動いている事柄もある。
これらを考慮して正史と真実の狭間を想像し、楽しむのが本スレ等の醍醐味だと思う。
という事で、私なりの見解は、光秀主犯説で要因は信長に対する将来的な不安と、
信長暗殺後に現実的に広がるように思えたタイミングでの天下取りへの野望だ。
家康が上洛の時に光秀から何らかの形で示唆されていたかどうかは微妙だと思う。
ただ、陶隆房(晴賢)の謀反の時は十分に家中に根回しをし、あの毛利元就も事前に
挙兵の事実をほのめかされていた蓋然性は高い(その後の毛利家の早い対応からも)
事から、信長に対して潜在的な不安を抱き続ける家康が、何らかの情報を掴んでいた
可能性もゼロではないかも知れない。
機密を要するので限定的とは思うが、まったくの単独犯ではなく、ある程度の根回し、
情報のやり取り、前将軍・朝廷側からの有形無形の働きかけもあったかも知れない。
応仁の乱以降〜三好長慶の畿内覇権確立まで、畿内では権力者と朝廷その他の
古典的権威が結びついた陰謀・下克上・裏切りが当然のように繰り返されていた。
後の世の人間から見ると、その後の秀吉・家康によって乱世は終息していくのは分か
っているのだが、当時の人々には、まだまだ果てしなく戦国の世が続くいていくと考え
てもおかしくない。
光秀=天海説は、一笑に付すには興味深い事実があり過ぎるので、歴史の闇の部分
として非常に面白いと考えている。
425 :
日本@名無史さん:04/12/07 01:45:42
>>424 >>ただ、陶隆房(晴賢)の謀反の時は十分に家中に根回しをし、あの毛利元就も事前に
>>挙兵の事実をほのめかされていた蓋然性は高い
そりゃ、毛利のスパイ網の働きでそ。
敵に回る可能性の高い国人領主に、陶が根回しするとは思えない。
>>信長に対して潜在的な不安を抱き続ける家康が、何らかの情報を掴んでいた
>>可能性もゼロではないかも知れない
家康も、安土にスパイ網を張っていただろうが、
もし知っていたら、すぐに三河へ帰っただろう。
丸腰状態で堺まで行って窮地に陥ることはなかった。
426 :
日本@名無史さん:04/12/08 03:47:52
光秀=天海説は、一笑に付す値打ちもない
>>425 敵に回る可能性があるからこそ、根回しをするのじゃないか。
大事を起こす前に、事前に周辺勢力が敵対しないように手を回すのは戦国
の常套手段である。
しかも、陶晴賢の謀反の噂は家中で噂に上がり、大内義隆自身の耳に入る
くらい公然と計画されたくらいだ。
事実、謀反後に毛利家は一族・国衆を挙げて、義隆派の諸城を攻略している。
毛利家が陶隆房と通じてなければ、その時点で陶派の攻撃を受けている。
後に陶晴賢と毛利家が厳島合戦で戦った事実から、最初から両家の仲が悪
かった印象があるが、実際それまでの両家はむしろ懇意の間柄であった。
尼子氏の吉田城攻めで、大内方の援軍の総大将として陶隆房が派遣され、
大軍の尼子軍を退けた元就の知略を目の当たりにした隆房は、それ以後
一目を置き、元就も山陽道を統括する大内家一族の重鎮の陶家と懇意にした。
>>425 >家康も、安土にスパイ網を張っていただろうが、
>もし知っていたら、すぐに三河へ帰っただろう。
実際、知っていたかどうかは分からないが、情報を掴んでいたとしても、何も
起こらないうちに勝手に三河へ帰るわけには行かない。
万が一、光秀が漏らしたり、家康の間者が情報を掴んだとしても、それが家康
を試す信長の計略かも知れない。
何食わぬ顔で信長に進められた通り、堺見物に行かねばならない。
そんな情報で右往左往していたら、それこそ戦国の世で生きていけない。
秀吉の小田原征伐でのエピソードがある。
秀吉を出迎えた家康と信雄に、秀吉が「北条と示し合わせて裏切るつもりだな」と
槍を構えて二人に向かって突き出した。
信雄は驚いて後ずさりしたが、家康は顔色一つ変えず「これは目出度い、殿下自ら
槍をお取りなされた」と言ったという。
小田原征伐後、関東への国替え命令に従った家康だが、家康の旧領への国替えを
命じられそれを固辞した信雄は所領を召し上げられた。
429 :
日本@名無史さん:04/12/08 11:07:32
家康は6月2日には堺に入っていた
そこから再度出陣直前の信長に挨拶するため京に戻る予定だった
本能寺がなかったら、家康の帰国ルートは来た道をそのまま帰るの?
430 :
日本@名無史さん:04/12/08 15:33:30
信長は武田勝頼を倒していよいよ関東まで進出した。
家康は論功行賞として駿河を与えられる。
北条は信長には表面上だけでも従っていたように思う。
そうなると西と北は信長がいて、箱根も越えられないという
戦国武将としては甚だ面白くない状況になるのだが。
三遠駿の三国で満足する男なのか?信長に心服していたのか?
室町のように分国の加増を期待していたのか?
いずれにせよ寿命・天寿という意味あいだけでも信長の死を望んで
いたような気がするのは俺だけか?
431 :
日本@名無史さん:04/12/08 21:33:59
本能寺の変のとき、徳川家康と穴山梅雪は堺にいた
堺なら海路で船に乗って三河へ帰ったほうが安全なはずだが、なぜか
神君伊賀越えで危険な陸路を取った 伊賀越えに同行した連中は後で
すべて出世している
穴山梅雪は土民に殺されたということになっているが、果たしてどうか?
土民に殺されるほど弱いとは思えない 誰かの放った刺客によって殺された?
と見るほうが自然だ 穴山梅雪が死んで甲州、信州をただ取りした奴がいる
信長が死んで儲かったのは、毛利と秀吉と家康 共謀説もありえるだろう
光秀をそそのかしたのは、果たして誰?
432 :
日本@名無史さん:04/12/09 02:46:19
やっぱりみなさん山岡荘八読んでらっしゃる?
433 :
日本@名無史さん:04/12/09 02:59:18
>>430 この頃の家康は、信長が天下を取るのは確定だと思っていただろう。
で、信長の天下で生き残るためには、領土的野心を持つのは危険。
それよりも、長年の同盟者としての信用を維持することのほうが大事。
そして、織田政権下で重要な地位を築くことを考えていただろう。
信長よりも長生きすることを望んでいたのは、間違いない。家康は健康オタクとしても有名(w
>>431 堺から海路で三河まで何日かかるのかな?
家康は、一日でも早く三河に戻って、光秀追討の兵を挙げたかった。
もちろん、次の天下人への名乗りとして信長の仇討ちをするために。
だから、安全よりも速度を重視して、陸路を選んだと思う。
甲州・信州を取れたのは、滝川一益が逃げ帰ったからで、家康が共謀に加わっていた根拠はない。
光秀をそそのかしたのは、光秀自身の野心と信長の油断かな。
堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
京へ向けて進発していた。
本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており、京より火急を知らせに駆けつけた
茶屋四郎次郎清延(後の幕府御用商人)と、京にかなり近い河内の飯盛山付近(諸説有)
で出会い、事件を知ったと言われている。
この時点では堺からかなり離れており、なるべく最短距離かつ本街道から離れたルートと
して、伝わっている伊賀越えのルートに特に問題はないと思う。(堺付近には、四国へ渡海
予定だった信孝軍団が展開していたので、不測の事態を考えたら避ける方が無難)
堺の滞在予定を早めて、安土で会ったばかりの信長の下へ挨拶に行こうとしている行動が、
何か不穏な兆しを掴んでいた可能性を示しているのかも知れない。
ただ、別の視点で見ると、この時毛利と対峙していた秀吉からの援軍要請に応えて、信長
自身の出馬準備が進んでいた。
信長から家康に付けられていた案内役の長谷川秀一から、信長が京に滞在中で出馬が近
いとの連絡を受け、用心深い家康が出陣前に挨拶をしておこうと考えたとしても辻褄は合う。
穴山梅雪の殺害は証拠はないのだが、家康の指示の可能性はかなり高いと考えられる。
(その後の梅雪旧領への旧武田家臣や旧梅雪家臣の派遣など、布石が迅速だった)
この間の経緯を含めて、家康が本能寺の変に関わっていたという証拠は当然残されていない
ので、想像を楽しむしかなく、真相は藪の中だろう。
いずれにしても本能寺の変の結果、得をしたのは、秀吉、家康を筆頭に、毛利や滅亡の淵に
いた上杉家や長曾我部、関係が悪化しつつあった北条家、前将軍義昭、大坂の退去勧告に
最後まで従わずようやく紀州に退いた本願寺教如、正親町天皇の退位を迫られていた朝廷や
公家衆も含まれるであろう。
譲位自体は正親町天皇も望んでたことなんじゃないかな?
>>435 正親町天皇も天正元年(1573年)頃から、自ら譲位を口にしていたフシはあるようです。
(信長の譲位の求めに対しての言動という説もあり)
実際の譲位は信長死後の天正14年に行われている。
信長がある意図を持って、正親町帝から誠仁親王への譲位を迫ったかどうかは、当然
ながら正史に記載されている訳ではないので、信長と朝廷の確執を当時の出来事や
他の記録より類推するしかないと思われる。
@ 京での二度にわたる馬揃え(正親町天皇への示威と捉えるかどうかで評価も異なる)
A 正親町天皇の第五皇子である誠仁親王を信長自身の猶子とし、二条御所を築く優遇する
B 二度にわたる暦の改訂を朝廷に求める
(勧修寺晴豊の日記に「これ信長むりなる事に候」)
C 永禄12年 正親町天皇が信長に副将軍職を勧めるが、信長は返答せず
D 天正3年 正親町天皇の官位昇叙の勧めを辞退し、家臣の任官を奏請する
E 天正6年 信長 右大臣、及び右近衛大将を辞官
F 天正9年 信長 左大臣推任も辞退
(信長は,正親町天皇が誠仁親王に譲位すれば,左大臣任官を受けると
朝廷の使者に伝えた「御湯殿上記」)
G 天正10年 朝廷からの三職推任も返答を留保
437 :
日本@名無史さん:04/12/09 15:30:35
家康は信長の饗応に応えて五月下旬には安土に赴き接待を受けている
この時点で信長に正式な御礼言上は出来ている
京や堺見物は信長に進められている
堺から再度京に上ったのは信長が直々に出張ってきていることへの
出陣祝いのためだ
本能寺の変の知らせを受取った時刻には諸説がある
おそらく堺出立前に耳に入っていたのではないか
海路を採らなかったのは当時は海賊が多く海上の治安が悪かったからだ
438 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :04/12/09 23:46:52
トリップ変更しました。 前;#abd
439 :
日本@名無史さん:04/12/12 22:48:11
マンコの陰毛だろ
440 :
日本@名無史さん:04/12/19 21:00:15
信長死亡の密使が明智光秀から、秀吉に発せられた
使者が毛利陣と秀吉陣をいくら夜中といえども間違うわけはない
光秀から「暗殺成功」の密書を受け取った秀吉はその使者を切り殺している
秀吉のその後の動きも迅速、口封じに光秀も殺す必要があった
裏切られた光秀も慌てた 共謀というより、秀吉のそそのかしくらいかな?
中国大返しのスピードぶりから見ると事前に入念に準備していた可能性大
秀吉を見逃した小早川隆景も事前に変を知っていたものと思われる
441 :
日本@名無史さん:04/12/19 22:14:30
秀吉の綿密なる陰謀。
秀吉にとっての最大の功労者光秀を討ち取らなかった
>>440 スピードの速さは、無問題だと思うよ。
桶狭間でも、今川軍が2万5千の兵力だったなら本隊全滅でも2万は残ってい
るので敵討ちしてから帰国できたのに、今川諸隊は一斉に撤収を始めている。
なぜか?
義元の死で武田・北条との盟約が反故になる危険性が出て、諸将の知行地が
侵攻の危機に瀕したから、急いで家族の居る知行地へ引き返したくなったから
だろう。
秀吉も同じ立場になっただけのこと。
迅速に撤収するのは当然で、しかも毛利と明智勢の挟撃を避けるには、どちら
か一方を粉砕する必要もあった。
本能寺以後の予想のつかない乱世を生き残るには、とりあえず急いで戻って明
智勢を撃退し領国を守る必要があった。
安土を出た信長本隊が、信長と小姓だけが本能寺に入り周辺に布陣しない状
況を秀吉が構築するのは難しい。二条城の信忠も同様。
中国出陣の過程で、明智勢の位置関係と信長が精強な馬廻り衆を手近におか
ずに本能寺に入るタイミングが偶然重なったから、「今なら簡単に殺せる」と思った
光秀が動いただけの気がする。その後は織田の敵対勢力頼み。
与力の裏切りやら四国討伐中の信雄勢の秀吉加勢など不利な事態に遭遇した
のは、秀吉の書いたシナリオではなく単に用意周到な事前工作が無く、偶発的に
事を始めてしまったから。
443 :
日本@名無史さん:04/12/20 17:21:11
家康に操られる理由って、、、光秀にあったのか?
444 :
日本@名無史さん:04/12/21 01:25:12
信長討ったら、次が誰か全然わかんないけど重用してくれるんだわさ、
と根拠のない夢をもってやってしまっただけさ。
そしたら、「お前、何しとんねん、コツン」とやられてしまったただの間抜け者。
445 :
日本@名無史さん:04/12/21 01:44:59
→444
『燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや』ってヤツだな。
物事を勉強しなおせ。
四国討伐中の信雄勢
>堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
>京へ向けて進発していた。
>本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており、京より火急を知らせに駆けつけた
>茶屋四郎次郎清延(後の幕府御用商人)と、京にかなり近い河内の飯盛山付近(諸説有)
>で出会い、事件を知ったと言われている。
>この時点では堺からかなり離れており、なるべく最短距離かつ本街道から離れたルートと
>して、伝わっている伊賀越えのルートに特に問題はないと思う。(堺付近には、四国へ渡海
>予定だった信孝軍団が展開していたので、不測の事態を考えたら避ける方が無難)
うわぁ、消防レベルだよ
448 :
日本@名無史さん:04/12/21 23:29:55
>>447 なら、おまいは厨房レベルの見解を示してみそ
449 :
日本@名無史さん:04/12/22 00:57:00
信忠⇔光秀
血迷って信忠まで討ってしまった、、
もしくは裏切ったか?
厨房レベルか知らんけど
>堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
>京へ向けて進発していた
>>48これの根拠示してくれ、昔似たような事書いてた厨いたのを思い出したから。
ちなみに京で家康と同行してた信忠は、5月27日の時点で信長上洛するからって言って
京に残ると書状に残してる。京の公卿等も信長上洛の話を知ってて、出迎えしようとしたが
出迎え無用と言われたと日記に残してる。
なーのに、信忠と一緒だった家康だけ堺見物して、6月2日に「長に御礼言上をする為、急いで上洛」???
前日まで堺衆に接待受けまくってたんだがね。
つーわけで、飯盛かどうかは色々あるが、最低でも
>本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており
というようなのはネタもいいとこ、消防レベル。
>堺付近には、四国へ渡海予定だった信孝軍団が展開していたので、
>不測の事態を考えたら避ける方が無難)
んな訳ない、信孝等が居たのは住吉や石山等の摂津。堺には断られてる。
こんな程度、調べれば簡単に判明すんのに、何見たか知らんけどなぁ。
>>450 >信孝等が居たのは住吉や石山等の摂津。堺には断られてる。
堺の街中に軍勢が駐屯しなかったのは事実だったろう(住民には迷惑この上ない)。
住吉も含めて摂津、和泉に比較的広範囲に展開していた記録があるが、本能寺の変が
起こったまさに6月2日の当日、信孝軍団が渡海する予定だった記録があるのも確かだ。
信孝本隊の渡海はまだ先だとしても、当日堺付近に信孝軍団が集結しつつあり、少なく
とも渡海の先陣部隊が堺付近に存在した蓋然性は高かろう(少なくとも信孝の幕僚部隊
の一部が堺にいなかったとは考えられない)。
また、散々既出だが、歴史というのもは正史(とされる記録)であっても全て真実が記録
されているとは限らない。
都合の悪い事は改竄あるいは記録されず、され、都合のいい事は誇張されるものだ。
ある人物にまつわる一つのエピソードでさえ、複数の人物の事とされている記録がある。
家康が変を堺で知ったのか、あるいは当日の朝出発し途中で知ったのかは、色々な説が
ある。
特にこの時代には、それぞれが大きく矛盾する記録や伝聞が多く存在する。
もちろん、講談や歴史資料的な価値の低い物は割り引いて見なければならないが、一つ
の歴史の出来事を検証する場合、一つの記録を鵜呑みにするのはあまりにもウブである。
特に歴史のミステリーを検証する場合には、多角的な検討が必要であるし、正史とされた
出来事以外を全て唾棄するのであれば、歴史年表でも暗記すればいい。
また、品位のない書込みはスレの本意ではないだろうし、見ている方が恥ずかしくなる場合
がある事を覚えて、ミステリーの解明を楽しめばいいではないか?
>>450 「茶屋文書」に京都で本能寺の変を知った茶屋四郎次郎が、堺にいる家康に連絡
しようと早馬を飛ばすと、のんびと帰京途中の家康一行と枚方付近で遭遇したとの
記述がある。
茶屋家が徳川家への貢献を誇張しているかも知れないが、そのような記録は他にも
あるようだ(場所は諸説)。
>信孝等が居たのは住吉や石山等の摂津。
天正10年5月29日 信孝、四国渡海のため摂津住吉に着陣。
翌日泉州岸和田に着陣。 ← (手紙等の記録によるものらしい)
雑賀衆の軍船百艘が待機。
6月1日 阿波の篠原自遁に宛てて、阿波に禁制を発する
少なくとも、軍団の渡海のために大勢の船出衆や軍勢が泉州付近にいた事は間違い
ないのではないか。
家康が変の知らせを堺で知ったとしても、万一の為、陸路を選んだのは妥当だろう。
また、途中で知ったとしたなら、京を避けて最短距離のルートを選んだのはまさに当然
だと思う。
>>451-452 電波発信するのも構わんが、ネタ元ぐらい書けよ。
>本能寺の変が起こったまさに6月2日の当日、信孝軍団が渡海する予定だった記録があるのも確かだ
へぇ、何の記録?俺が知る限りでは、3〜4日辺りだったはずだが。
>渡海の先陣部隊が堺付近に存在した蓋然性は高かろう(少なくとも信孝の幕僚部隊
>の一部が堺にいなかったとは考えられない)
おまいが思えんのは勝手だが、軍が堺に入るのを拒否しらから、信孝は住吉へ移動したんだが。
何か?堺に四国派遣する軍勢が一部でも入っているようなニュアンスの資料でもあんの?
>家康が変を堺で知ったのか、あるいは当日の朝出発し途中で知ったのかは、色々な説がある。
諸説ねーよ、どこに「諸説」あんの?誰がどんな説唱えてるか教えてほしいもんだ。
最低でも鷲森日記・歴代古案ぐらい確認してくれよ。
>講談や歴史資料的な価値の低い物は割り引いて見なければならないが
茶屋文書?茶屋由緒書の事か?これと鷲森日記を天秤に掛けてんの?
>そのような記録は他にもあるようだ(場所は諸説)。
記録ねぇ、どんな「記録」?石川忠総留書には何て書いてある?
同時代の数少ない記録や、時代が近い信憑性の高い記録は何て書いてある?
「他にもある」やら「諸説」あるらしいからさ、他の史料や、他の学説を是非紹介してほしいもんだw
もっともらしく
>歴史の出来事を検証する場合、一つの記録を鵜呑みにするのはあまりにもウブである。
>特に歴史のミステリーを検証する場合には、多角的な検討が必要であるし、正史とされた
>出来事以外を全て唾棄するのであれば、歴史年表でも暗記すればいい。
と書いて、徳川家正史を鵜呑みにしてるんだしなぁw
>家康が変の知らせを堺で知ったとしても、万一の為、陸路を選んだのは妥当だろう。
誰も海路選んだとは書いてねーけど?信孝の軍勢云々って話したから、そりゃ違うだろとは書いたが。
あぁ。それと↓のは、何の記録だ?曖昧な表現で誤魔化さず、正確に書いてね。
> 翌日泉州岸和田に着陣。← (手紙等の記録によるものらしい)
> 雑賀衆の軍船百艘が待機。
鷺森日記が鷲森日記になっとる...orz
今井宗久茶湯日記書抜、鷺森日記、石川忠総留書、家忠日記
これ、本能寺での家康の行動を調べる上で、必須の史料。
こんなの常識。
もうちょっと落ち着いてやわらかい言葉使いで書こうぜ。
>>456 すまそ、そーする。
つか週末いないんであれだが、本能寺関連の史料のコピー結構持ってるから
希望があればうpするよ。
鷺森日記でも、多聞院日記でも、当代記でも、石川忠総留書でも、宗久茶会記でも
家忠日記でも、何でもあるものだったら抜粋しまっせ。
もちろん、茶屋由緒書もあるよw
>>454 もう少し、落ち着けよ。電波にも色々な種類があるぞ。
おまいさん、去年も「本能寺の変の真の黒幕は誰じゃ」のスレで荒れてたヤシじゃねーの?
「鷺森日記」や「家忠日記」ぐらい、このスレ来る人間は一度は目にしてるだろうよ。
軍勢が遠征するには、兵糧・武器・弾薬・馬の飼料その他大量の物資を集積する策源地が必要だ。
当時の泉州での最大の策源地といえば堺だ。合理的に考えて
>>451の言うように監督・指示する
官僚的な武将がいると考える方が普通だと思うぞ。
(軍勢の駐屯を断ったからと言って補給担当の官僚武将の駐在迄断ったとは思えないし、そんな記録が
あるなら後学の為に教えてほしい)
それに
>>451は<渡海の先陣部隊が堺付近に存在した蓋然性は高かろう
<堺の街中に軍勢が駐屯しなかったのは事実だったろう(住民には迷惑この上ない)
と書いていて、堺の街中に大軍勢がいたという事は一言も書いてない。
普通にスレ見てる人間からすれば、おまいが言葉尻を歪曲して大声で叩きたいだけに見えるぞ。
「家忠日記」は同時代の資料として価値が高いと評価されているが、「今井宗久茶湯日記書抜」、「鷺森日記」は
は伝聞や推測や噂話も多く、いくら当時の資料とは言え、全てを鵜呑みにはできないという意見も多い。
松平家忠も当時堺にいたわけでなく、伝聞を記述している。(後日訂正している可能性もあるが)
また、いくら史料価値の高い記録でも、全て真実を記録しているかどうかは分からない。(日記類は主観も多く、また
簡潔に書かれてもいる。家忠も石川忠総も徳川家の家臣だ)
つまり、過去に行けない我々は、100%正しいとは実証できない過去の記録より類推するしかないということだ。
理性的な人間が言うように、大事なのは歴史の闇を解明するには、相互に検証しつつ、ある程度の合理的な推測で
点と点を繋がねばならないという事だろ。
それから言葉使いはコミュニケーションの初歩の初歩だぞ。
>おまいさん、去年も「本能寺の変の真の黒幕は誰じゃ」のスレで荒れてたヤシじゃねーの?
誰それ?俺が知ってるのは、以前こういうスレで、史料の捏造してた電波垂れ流ししてて
突っ込まれたら、スレ荒らして逃げてった阿呆だけだが。
>「今井宗久茶湯日記書抜」、「鷺森日記」は伝聞や推測や噂話も多く、
>いくら当時の資料とは言え、全てを鵜呑みにはできないという意見も多い。
誰の意見?つか、茶屋由緒書っつー、伝聞の噂込みの、成立年代がかーなり後の家譜を鵜呑みに
していた意見とは思えんなぁ。
しかも、本能寺の変の際の記述が「伝聞や推測や噂話」?はぁ?誰の意見でどんな風に否定してるか
はっきり書いてね、俺は聞いたことが無いからさ。
>軍勢が遠征するには、兵糧・武器・弾薬・馬の飼料その他大量の物資を集積する策源地が必要だ。
>当時の泉州での最大の策源地といえば堺だ。合理的に考えて
>>451の言うように監督・指示する
>官僚的な武将がいると考える方が普通だと思うぞ。
策源地?堺が?駐屯地を住吉や石山にしてるのに、どうして軍の駐屯を拒否した堺にしてるんだって聞いてるんだが。
それこそ、本能寺後に信孝等が入った石山と考えるのが常識だが。
補給担当の官僚武将?それは誰を指すのかな?
>つまり、過去に行けない我々は、100%正しいとは実証できない過去の記録より類推するしかないということだ。
>理性的な人間が言うように、大事なのは歴史の闇を解明するには、相互に検証しつつ、ある程度の合理的な推測で
>点と点を繋がねばならないという事だろ。
アホらしくて言葉もないが、じゃあ、おまいは史料から「合理的な推測」してる訳ね。
自分もしてるつもりだから、次に史料を通じて、
>堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
>京へ向けて進発していた。
>本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており、京より火急を知らせに駆けつけた
>茶屋四郎次郎清延(後の幕府御用商人)と、京にかなり近い河内の飯盛山付近(諸説有)
>で出会い、事件を知ったと言われている。
切れたんで、
>>460をもう一度。
>つまり、過去に行けない我々は、100%正しいとは実証できない過去の記録より類推するしかないということだ。
>理性的な人間が言うように、大事なのは歴史の闇を解明するには、相互に検証しつつ、ある程度の合理的な推測で
>点と点を繋がねばならないという事だろ。
アホらしくて言葉もないが、じゃあ、おまいは史料から「合理的な推測」してる訳ね。
自分もしてるつもりだから、次に史料を通じて、
>堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
>京へ向けて進発していた。
>本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており、京より火急を知らせに駆けつけた
>茶屋四郎次郎清延(後の幕府御用商人)と、京にかなり近い河内の飯盛山付近(諸説有)
>で出会い、事件を知ったと言われている。
を否定して
家康が本能寺の変当時、堺にいて、本能寺の変の報を聞き、堺を脱出した
ってのを証明するから、おまいも証明してね。
五月二十七日 信忠が森乱丸宛に、信長上洛を聞き堺見物を取り止めると言う内容の書状(小畠文書)
五月二十九日 家康が堺に到着、三日には宗久邸で茶会予定(今井宗久茶湯日記抜書)
家康が堺に到着、松井友閑・津田宗及等の接待受ける(宗及他会記)
六月一日 朝、今井宗久邸で茶湯朝会、昼、津田宗及邸で茶会、晩、松井友閑邸で茶会、その後、酒宴
家康には案内役として、信忠より杉原(家次?詳細不明)、信長より長谷川秀一付けられてる(鷺森日記)
二日の事は、史料の内容をそのまま書くね。
今井宗久茶湯日記抜書
一 今朝、於京都 上様惟日ヵ為ニ御生害ノ由、友閑老ヨリ申来候
天王寺屋会記(宗及他会記)
午六月二日 上様しやうかひ也
惟任日向守於本能寺御腹ヲキラせ申候、家康モ二日ニ従堺被帰候、我等も可令出京と存、
路次迄上り申候、天王寺辺ニ而承候、宮法モ従途中被帰候
鷺森日記
二日朝徳川殿上洛 火急ニ上洛之儀者、上様安土より二十九日ニ御京上之由アリテ、
それニつきふたふたと上洛由候也(これは信長生害ヲ知テ、計略ヲ云テ上洛也)
以上の史料(他にもあるが、主なのだけね。)から、家康が堺に来るまでには
信長が上洛する事は知っており、また、家康の言い訳の「二十九日に上洛せよと言われていた」と、言うわりには
一日は杉原、長谷川、穴山などと一緒に一日中接待受けてる。
しかし、二日朝に「ふたふた(慌てて)」と出てる事から、宇野主水も書いてるように
明らかに堺を出る「口実」にしており、下記の内容は間違いとなる。
また、本能寺変の時刻は大体午前5〜7時の間であり、それより先に家康が堺を出たというのは
この当時の行動から不自然極まりない。
>堺を見学していた家康一行は予定を早め、京に滞在していた信長に御礼言上をする為に、
>京へ向けて進発していた。
>本能寺で変があった時、家康はすでに堺を離れており、京より火急を知らせに駆けつけた
>茶屋四郎次郎清延(後の幕府御用商人)と、京にかなり近い河内の飯盛山付近(諸説有)
>で出会い、事件を知ったと言われている。
ついでに信孝の件。鷺森日記から
一、三七殿阿州三好山城守養子トシテ御渡海アリ 二十九日住吉ニ御一宿アリ
軍勢堺ニ家陣ヲトルベキ由在之 南北以外迷惑仕候ヘバ 宮内法印ヨリ被申分テ、陣取無之
三七郎殿へ為御使平井越後ヲ被遣也(但罷帰也) 御太刀、馬代鳥目五千疋、御道服一、
御帷五、岸和田迄平越罷上分也 但時宜難計云々 三七郎殿ノ取次岡本右衛門尉ト云
三日今朝阿州ヘ御出船アルベシト云々 然処、二日之朝信長生害ニ付而、岸和田城より摂州表へ陣替之条、
平越御音信を不相届 四日早朝平越帰寺
宗及他会記から
六月五日 於大坂城中七兵衛殿しやうかひ、三七殿五郎左衛門両人之為御覚悟之儀也
これらから、信孝は松井友閑からの申し出で堺に「陣取無之」とし、岸和田へ移ってるのがわかる。
その後3日に四国出兵の予定だったが、変を聞き、岸和田を出て石山(この当時から大坂城としてるのがわかる、
やはり信長は安土から移る気だったのか?)に入ってるのもわかる。
策源地と主張する堺に対して、本能寺以降に信孝から、何の働きかけもない。
堺の奉行的立場だった松井友閑にさえ、それらしき行動をしていない。
これは如何なる事か?
様々な史料による推測で書いてるらしいので、史料的根拠を基に明確な推論を望む。
付け加え
>天正10年5月29日 信孝、四国渡海のため摂津住吉に着陣。
翌日泉州岸和田に着陣。 ← (手紙等の記録によるものらしい)
雑賀衆の軍船百艘が待機。
↑これ、鷺森日記に書かれてる一文だったから、何の史料って聞いたんだけどなぁ。
これは鵜呑み、でも家康に関する記述は否定とw
それと、「諸説ある」「意見もある」「他にもある」とか書いてるが
全くそれを証明してないね。誰がどんな根拠を基にどんな説述べてると書いてくれないとね。
そりゃ学説でなくても構わんからさ。「諸説ある」だけでは、反論にも証明にもならんよ。
466 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:37:07
age
467 :
日本@名無史さん:04/12/27 23:24:11
本能寺の変は変!
過疎化スレなんで冬厨相手の秒殺禁止>465
469 :
ゆきだるま ◆mTjw0CyQU6 :04/12/28 23:44:04
保守
470 :
日本@名無史さん:04/12/29 00:25:40
新田次郎の小説も読んだほうがいいかも。
471 :
日本@名無史さん:04/12/29 13:16:10
精神病の真実 (政治板)
http://money3.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1102516267/l50 世界大百科事典 精神分裂病と向精神薬 より抜粋
「分裂病の原因はなお不明だが〜発生頻度はあらゆる民族,あらゆ
る時代を通じ不変で, 0.7 〜 0.9 %程度とされ,日本でも同様だが,
1963 年の全国調査以後は信頼できる統計がなく,近年の頻度に増減が
あるか否かは明らかではない。」
「精神分裂病には抗精神病薬を数年にわたって長期与薬しなければなら
ぬが,あまり長くなると口や舌がもぞもぞと動いてしまう遅発性ジスキ
ネジアと呼ぶ副作用が出る。これを治すのは難しい。」
「向精神薬が脳のどこへどのように働くかについてはまだよくわからない」
「病気の機序が不明なところへ,作用のしくみがよくわかっていない
精神治療薬を与えて治そうというのには無理がある。」
>>465 >それから言葉使いはコミュニケーションの初歩の初歩だぞ。
これには反論しないんだな。
おまいさんのレス見てたら、全く後出しジャンケンだよな。
しかも別の人同士がやってるゲームの横で、勝手にジャンケンして「勝ったぞ!
勝ったぞ!何とかしろっ」て言ってるようなもんだな。
やっぱ冬休みに入っただけの事はあるわ。
誰かが書いたレスに最初に横レスで出て来て、いきなりエラそうな口叩いて、
批判されたら、それで反論・証明しろもクソもないだろうが。
文字数も行数も制限のある1レスに何を期待してるんだ?
日本史の前に国語を勉強し直した方がいいぞ。
趣味で色々見てる人もいる。
不特定の人間が見るスレであんまり他人の気分を悪くさせない方がいいんじゃないか?
474 :
日本@名無史さん:04/12/29 19:04:14
冬厨age
472のいう後出しジャンケンの意味がわからない。
>>475 学研雑誌しか読んだ事のない漏れの思い込み通りに展開したのに、後から口出すんじゃねぇ!!
と言いたいんです。
これではまともな議論にならんね、一方はレス内容が喧嘩腰。
もう一方は、妄想逆切れ厨。
このまま年明けか?
>>476 君のレスも荒れるもと
>>472 自論を述べたり史料批判するなら求められた論拠提示は必要です
それをしなければ、ただの憶測です
また肯定・否定するにも抽象的表現では誰も納得せず理解を得られません
言葉遣いは兎も角、
>>462-465のように史料からの抜粋とはいかずとも
それなりに明確にし論証されては如何?
478 :
重複:04/12/30 07:21:42
典型的知ったか
冬はまだまだ続くと
根も葉もない与太話をさも真実のように述べ
嘘八百並べて自身のレスをさも正しいかのように書き並べ
論破されると本性現し逃亡
いつものヤツかw
481 :
日本@名無史さん:05/01/05 11:48:09
k;
482 :
日本@名無史さん:
石川忠総留書をうpして頂けないかと