2 :
日本@名無史さん:03/06/29 00:58
3 :
日本@名無史さん:03/06/29 01:01
>>隠し芸大会だ
>1
2
3
おつかれ
5 :
日本@名無史さん:03/07/02 07:19
乙age
7 :
日本@名無史さん:03/07/02 10:12
柿は痰の毒ぢゃ。
8 :
日本@名無史さん:03/07/02 22:39
なんにも語ることは無いわけね・・・
新スレの必要があったのか?
10 :
日本@名無史さん:03/07/02 22:45
佐和山引き蘢り
漏れ様が語ってやろうか?(´・ω・`)
13 :
日本@名無史さん:03/07/03 09:05
--------------------------------終了-----------------------------------
14 :
日本@名無史さん:03/07/03 11:35
朝鮮出兵で、金正日の先祖をしばいてほしかった。
15 :
日本@名無史さん:03/07/03 20:54
同じ民族なの?
16 :
日本@名無史さん:03/07/03 22:08
関ケ原の事はメッケルに聞け
17 :
日本@名無史さん:03/07/04 09:46
メッケルは詳しい経緯知らなかったでしょ?
陣形だけ見せられて西軍の勝ちって即答した以外に何かしたの?
18 :
日本@名無史さん:03/07/04 09:57
小早川秀秋が西軍だったら徳川家康も福島正則もあの位置に布陣
しないだろうから、関ヶ原の陣形なんてそもそも意味もない
私の研究によると三成の敗北は、本当の味方である小大名を使いこなせなかった事になりました。
三成は、毛利・上杉・小早川といった大大名に気を遣いすぎています。
小なりと言えど西軍懸命の味方と言える大名がたくさんいましたよね?
川尻、田丸、福原、熊谷、小野木、石川、と言った小大名の事です。
まず、絶対に信用のできる彼ら小大名と自分の兵六千で石田中心軍を作ります。
大谷や戸田、平塚も加えれば3万くらいになるのでは?
まずこの3万の軍勢を編成した上で宇喜田、小西、立花、島津達に声を掛けるべきでした。
信用のならない毛利、増田、小早川は相手にしなくても良かったと思う。
そんなこと言わずに相手にしてくれよ(´・ω・`)
21 :
日本@名無史さん:03/07/04 23:35
福島、加藤に駄目もとで根回ししておくべきだった。
石田三成は福島正則を味方だと信じていた、あるいは味方に
付けようと説得しているが、彼等を事後承認で味方に付ける
ことは不可能だっただろう。あらかじめそれとなく話をつけ
ていれば味方に付けられる芽も有ったのではなかろうか。
そして彼等を敵に回したことによって世間に石田三成謀反を
印象づけてしまい、以後の味方の集まりが悪くなってしまった。
22 :
日本@名無史さん:03/07/05 09:43
いや、三成の敗北は、毛利を大坂から出せなかった事。
私は、大谷を大坂城に置いて、毛利輝元を関が原の中心に持ってくることが出来れば
金吾も吉川も裏切れんでしょう。
まあ、毛利の出陣を止めた淀がそもそもの敗北の原因ですかね?
23 :
日本@名無史さん:03/07/05 10:02
大垣城の垣見・熊谷ら三成の股肱7千を三成の横に布陣させる
それだけでも戦況はかなり変わったのでは
24 :
日本@名無史さん:03/07/05 10:14
>>23 三成は疑い深い性格なので、外様に城を任せるような度量は
存在しないでしょう。伊勢方面にも目付けとして長束正家を
同行させ大坂の毛利輝元にも増田長盛をつけているのだから
25 :
日本@名無史さん:03/07/05 11:09
>>24 確かにそうなんだけど。
平塚、戸田の戦いぶりを知るとそこ(大垣の垣見・熊谷・福原の不戦)が残念。
俺がタイムスリップして脇坂達と陣形を変更してみたいよ。
小早川の裏切りは、変えずに脇坂・小川達と垣見・熊谷達を入れ替えたらどうなるか?
こうすると小早川に対する備えは、大谷が最初から読んでいた通りになるので、少なくても1日では決着がつかないような気がする。
1日で決着がつかない場合にどんな事が起こるか?
血気盛んな毛利秀元が、いつまでも弁当を食べているとは思えない。
一日で決着がついてしまったから、吉川の計略通りに毛利は不戦に終わったのではないか?
26 :
無料動画直リン:03/07/05 11:11
27 :
日本@名無史さん:03/07/05 11:16
大阪夏の陣での秀元の思い切りの良さ(徳川の命令を待たずに出陣、命令が出た時には既に大阪に在って戦闘に加わった)を見るとそこそこ度胸はあったと思う。
もっとも「関ヶ原」が彼を変えたのかも知れないが。
28 :
日本@名無史さん:03/07/07 11:41
>>23 大垣城が落城した時誰か裏切ったんだっけ?
29 :
日本@名無史さん:03/07/07 12:12
>28
相良くんとか秋月くんとか
30 :
日本@名無史さん:03/07/07 13:10
相良は伏見城攻めまでは張り切ってたのにな
32 :
日本@名無史さん:03/07/08 07:52
毛利は参戦しません、というかやるきなしです、
元就公の代から天下はのぞむなといいきかされましたので
馬鹿金吾は養子なんでそのへんをわからずに勝手に戦おっぱじめたけど…
はなから毛利宗家はひよるきまんまんだったのにねー、
西軍が勝っても負けても自家を守る方針
33 :
日本@名無史さん:03/07/08 09:12
>>32 輝元が大坂城入城までしてしまえばあまり言い訳できないのでは?
よく減封で済んだと思う。
34 :
日本@名無史さん:03/07/08 10:05
元就が天下を望むなって言ってたのは、輝元の器を見てかな?
元就は、隆景に毛利家を継がしたかったんだよね?
,、‐'''''''''ヽ、
/:::::;;-‐-、:::ヽ _,,,,,,,_
l::::::l _,,、-‐"iiiiiilllllllllllliiiiiiiー-、__ゞ:::::::::::`ヽ,
ヽ::`/: : : : iiiiiilllll||llllliiiiii: : : : : : ヽイ~`ヽ:::::::i
. /;,..-‐、: : : : : l|l: : : : : : : : : : : : : \ ノ:::::}
/: /: : : : :`.: : : : : : : : :/´ ̄\ : : : : : ヽ:::ノ
. !: : : :iflllli、: : : : : : : : : : : : : : : :ヽ: : : : : :.!
|: : : :llllf l: : : : : : : : : : :.iflllli、: : : : : <iiii|
|: : : :|llll |: : : : : : : : : : .llllf l: : : : : : : : :.|
|: : : :.!lllll!' : : : : : : : : : : |llll |: : : : : : : : :i
/: : : : : ○ : : .!lllll!' : : : : : : : :.i
 ̄|: : :" ,,,,,,,,,,,,,|____ : : : : : : : :.<iii/
. /!.: |:::::/  ̄''''''''l ヽ: : : : :-─/─ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ヽ/ ノ : : :ヽ/ < ボク、石田三成!
\ \,,_ _,,,/ : /\ \ あんまりイジメないでよ。
`''‐、、__  ̄ ̄ __,,,、-‐" \
. //:::::/ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ノ::::/\  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. / /:::::/ ` ̄ ̄ ̄/:::::/. \
関ケ原の時点での毛利、吉川、小早川の関係って実際のところどうなのよ?
なんか小早川だけがハミゴみたいな感じなんだけど、毛利の指示を仰がなくても
いい存在だったのか?関ケ原で吉川広家らと連絡を取り合ったような感じもないし。
>>36 最早秀秋の小早川家は毛利との関係は相当薄いんでなかろうか。
養父隆景が三原に隠居するときに毛利系の家臣を連れて行ってしまったようです。
秀秋本人の認識も、毛利一族と言うよりは豊臣一族だったように思われ。
39 :
日本@名無史さん:03/07/09 09:54
毛利家を守る為、金吾を養子にした隆景ですが、小早川家が無くなるし、
毛利家は、並大名になるしで、踏んだり蹴ったりですね。
しかし、金吾を毛利家に入れようとしたのは、三成だから、関が原の敗戦も
元をただせば、三成が原因ですね。
40 :
日本@名無史さん:03/07/09 10:15
>>39 秀秋を毛利に養子に入れようとしたのは黒田官兵衛
面接官「特技は寝返りとありますが?」
秀秋 「はい。寝返りです。」
面接官「寝返りとは何のことですか?」
秀秋 「関ヶ原の途中で裏切るんです。」
面接官「え、関ヶ原?」
秀秋 「はい。関ヶ原です。西軍に大ダメージを与えます。」
面接官「・・・で、その寝返りは当社において働くうえで何のメリットがあるとお考えですか?」
秀秋 「はい。ウザイ石田三成を退治できます。」
面接官「いや、当社には石田三成のような輩はいません。それに人に危害を加えるのは犯罪ですよね。」
秀秋 「でも、朽木や脇坂もついてきますよ。」
面接官「いや、ついてくるとかそういう問題じゃなくてですね・・・」
秀秋 「大谷吉継も討死ですよ。」
面接官「ふざけないでください。それに討死って何ですか。だいたい・・・」
秀秋 「平塚や戸田なんかイチコロですよ。これで戦況は一気に東軍に傾きます。戦後は備前美作・・・」
面接官「聞いてません。帰って下さい。」
秀秋 「あれあれ?怒らせていいんですか?使いますよ。寝返り。」
面接官「いいですよ。使って下さい。寝返りとやらを。それで満足したら帰って下さい。」
秀秋 「運がよかったな。今日は内府が鉄砲を撃ちかけてこないみたいだ。」
面接官「帰れよ。」
何これ?コピペ?
43 :
日本@名無史さん:03/07/10 18:25
別バージョンもきぼん
44 :
日本@名無史さん:03/07/11 02:00
秀包の立場は!?
面接官「特技は傍観とありますが?」
正家 「はい。傍観です。」
面接官「傍観とは何のことですか?」
正家 「南宮山に布陣したまま動きません。」
面接官「え、動かない?」
正家 「はい。動きません。吉川広家が内通してるらしいので。」
面接官「・・・で、その傍観は当社において働くうえで何のメリットがあるとお考えですか?」
正家 「はい。西軍が負けた時に内府に言い訳ができます。」
面接官「いや、当社には内府なんて人はいません。それに言い訳するのは卑怯ですよね。」
正家 「でも、安国寺や長宗我部もそのつもりみたいですよ。」
面接官「いや、そのつもりとかそういう問題じゃなくてですね・・・」
正家 「毛利秀元はずっと弁当食ってますよ。」
面接官「ふざけないでください。それに弁当って何ですか。だいたい・・・」
正家 「対面の浅野幸長もよくわかってるから動きませんよ。東軍で必死になってるのは福島みたいなバカだけ・・・」
面接官「聞いてません。帰って下さい。」
正家 「あれあれ?怒らせていいんですか?使いますよ。傍観。」
面接官「いいですよ。使って下さい。傍観とやらを。それで満足したら帰って下さい。」
正家 「運がよかったな。水口城が池田長吉に包囲されてるようだ。」
面接官「さっさと腹切れよ。」
47 :
日本@名無史さん:03/07/11 06:13
結果的に三成が豊臣家を滅ぼす原因を作ってしまったのは悲劇だな
が、織田信長の後継者争いでは柴田勝家の場合
豊臣秀吉のざっと3分の1しか軍勢が集まらなかった。
でその柴田関係で落ちぶれた人々が関ヶ原の前哨線で
活躍したようだ。
49 :
日本@名無史さん:03/07/11 11:13
秀吉の種無しがすべての原因!(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
50 :
日本@名無史さん:03/07/11 11:33
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
52 :
日本@名無史さん:03/07/12 11:56
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
54 :
日本@名無史さん:03/07/16 10:28
佐竹が動いてれば勝負は決まってたのに・・・
55 :
日本@名無史さん:03/07/16 13:24
秀吉は種無し・・てことは秀頼は余所の男の種。
それは同意だが・・素朴な疑問淀の方なんだが・・
母親のお市にしても妹にしても基本的に女腹だy
男が生まれたのはがんばってがんばって後の方だ。
なじぇ淀には最初からしかも続けて2階も男だけ誕生?
鶴松が女の子として誕生し、お拾が男子ならまだしも
漏れは女子じゃないから解らんが・・そういったことって
有りなのか?
56 :
日本@名無史さん:03/07/16 13:37
大坂夏の陣(1615年)で、家康は滅ぼした豊臣家の遺児の扱いに腐心する。
秀頼の子どもではあっても、孫娘千姫の養女を殺すに忍びず、東慶寺に入山させることで
、豊臣の家を断つことにした。
当時7歳だった第20世の天秀尼は、寺に預けられた際、家康から望み
を聞かれ「開山以来の寺法が断絶することのないように」と願い出て許された。
これは、江戸時代を通して東慶寺が寺法を行使する上で大きな効力となっ
57 :
日本@名無史さん:03/07/16 13:40
58 :
日本@名無史さん:03/07/16 13:41
東慶寺は、罪人の救済所というよりも、女人救済の「駈込寺」として人々
に知れ渡り、寺法が確立され、江戸時代には幕府から補助金も出たと記録
に残っている。江戸時代に入り、他の寺では救済所としての特権が失われ
ていく中で、東慶寺だけは600年近く縁切りの寺法が引き継がれてきたのである。
当時の女性たちが、いかにこの制度を必要としていたかをうかがい知ることができるだろう。
59 :
日本@名無史さん:03/07/16 13:50
豊臣秀吉の忠実な家臣として活躍した三成は、近江の坂田郡石田村(長浜市)
に生まれました。15歳のとき当時長浜を領していた秀吉に認められ
、側近の吏僚となりました。この時の「三椀の才」の逸話は有名です。
1590年には佐和山城(彦根市)を与えられ湖北を治めました。
この頃は、公平で領民の心を重んじる政治を行い、領民の信を得たといわれています。
また、五奉行の一員として活躍しましたが、秀吉の死後、関ヶ原の合戦で徳川家康に破れ、
逃走中に捕らえられ処刑されました
60 :
日本@名無史さん:03/07/16 13:56
淀君。長浜市近辺小谷生。豊臣秀吉の側室、秀頼の母。父は近江小谷城主浅井長政、
母は織田信長の妹お市の方。幼名は茶々。1573年(天正元)
信長に包囲された小谷城から母に伴われて妹二人とともに脱出し、
信長の尾張清須城に入る。82年柴田勝家に再嫁した母に従い
、越前北ノ庄の城に入る。
61 :
日本@名無史さん:03/07/16 14:04
国松。豊臣秀頼の息子として生まれる。母は北条氏の家臣・成田氏の娘とも、
伊勢より奉公に出てきた娘とも言われている。生まれてすぐ京極家に預け
られるが、その後、若狭の砥石屋弥左衛門に養子に出され、
7歳までそこで育つ。1614年に大坂の陣が起こると、
徳川家から詮索を受けるといけないということで
、最初はどこかへ落ち延びさせようという計画だったが、
和議の使者として京極家の常高院が行くことになったので、
一緒に大坂城につれていくことになった。この時、
徳川軍にばれないように長持(衣類・布団などを入れる木箱)
に入れて運んだと言われている。その後、和議が成立したので、
そのまま国松は大坂城に残ることになった。
62 :
日本@名無史さん:03/07/16 14:06
【斬首】翌年、大坂夏の陣が起こり、豊臣軍が敗北すると、秀頼と5月
8日に別れの盃を交わし城を落ち延びた。京橋筋堤まで来た時、
秀頼のいた山里曲輪の糒蔵に火の手があがったのが見えたと言う。
無事に城を抜け出した国松であったが途中で護衛の者とはぐれ一人でいると
ころを、伏見の商人に保護された。しかし、自分のことを「若君様」、
父親のことを「上様」と呼んだため、気味悪がられ、京都所司代・
板倉勝重の元に連れていかれた。ここで先に捕らえられてた12歳くらいの国松付きの禿
(かむろ)と、国松を引き合わせたところ、互いに懐かしがったので
、間違いないということになった。豊臣家の血を引く男子と言うことで、幼いにも関わらず、
市中引き回しの後、六条河原(七条河原とも)で斬首されている。享年8歳。
>>62 どこから抜粋した?この文面どっかで読んだんだよな。
65 :
日本@名無史さん:03/07/16 18:03
このとき一緒に処刑された田中六左衛門て京極の家臣みたいだけどかわいそうに...
66 :
日本@名無史さん:03/07/16 20:20
>>福島、加藤に駄目もとで根回ししておくべきだった
彼らの憎悪は半端じゃない。
味方は絶対不可能
三成の豊臣家に対する忠誠が
豊臣家滅亡を早めたという皮肉・・・・
三国志でいえば姜維もそうだなあ、
蜀のために魏を攻めまくって
国力を落としたんだよな
68 :
日本@名無史さん:03/07/16 23:48
肉を食らいたい
われらはひえ粥でもてなそう
とても見方にはならんだろう(w
69 :
日本@名無史さん:03/07/17 12:03
,、-.'"´ ` 、
,、-'" .ヽ ` 、
. / ヽ 、 `ヽ,
. / \ ', , i
't-''"´ ̄ ̄ ̄``''‐;,、 ヽ ', `'|
r,ト、 .,、ェ== i;;;;;`';,、 i | .l ゙i
,|_` , __,,, l;;;;;;;;;;;''ヽ ヽl | ヽ
,`゙`,' '"゙'´ l;;;;;;;' ,イ、゙, .j .| ヽ
', i .';;;;' .=ノ/レ'゙ マ゙
', `,, ニ゙ ''_ / ';;'..___,,、-'
. __,、イ,ノ-ヾ`'‐、 ', `'゙ .|7バ,
. `''''"゙,. ≡ ``'-`=ェ、. ,.' /.l |.ヽ
ハ、. .. ... ... / ./ ! ヽ、
.,、r''7゙//ソノルrリ;iレ- ./ ./ l ヽ`ー-
;;;;'y' /,ソノ川;|ソ' ' / / ! .|
`'/ / ハソノリリハ / / / |
/ ./ レ;川ノリ';,`゙ /、 / |
/ ヾソ川;リ, / \ / l
70 :
日本@名無史さん:03/07/17 18:45
吉継は聞きます「現在、最も戦が強いのは誰か?」
三成は答えます「それは内府である。」
吉継は更に聞きます「では最も信望があるのは?」
三成は再び答えます「それも内府である。」
吉継は最期の問いかけをします「豊家で(武将達に)最も嫌われているのは誰か?」
三成は怯まずに答えます「それは自分であろう」
71 :
日本@名無史さん:03/07/18 10:01
(´・ω・`)ふーん
73 :
日本@名無史さん:03/07/19 02:19
松野は聞きます「現在、最もアフォは誰か?」
金吾は答えます「(´・ω・`)ふーん」
松野は更に聞きます「では最もアンポンタンは?」
金吾は再び答えます「(´・ω・`)ふーん」
松野は最期の問いかけをします「日本史板で(住民に)最もエンガチョされているのは誰か?」
金吾は怯まずに答えます「(´・ω・`)ふーん」
74 :
日本@名無史さん:03/07/19 02:21
ヒクソンは聞きます「世界で一番強いのは誰だ?」
フニャキは答えます「それはヒクソンさんです。」
ヒクソンは更に聞きます「いま、お前が戦っているのは誰だ?」
フニャキは再び答えます「それもヒクソンさんです。」
ヒクソンは最期の問いかけをします「格闘家の中で最も弱いのは誰だ?」
フニャキは怯まずに答えます「はい、僕ちんです。」
76 :
日本@名無史さん:03/07/21 00:02
ヒクソンは、弱い奴としかやらねーから、世界一とは言えないねえ。
77 :
日本@名無史さん:03/07/22 07:15
壱 三成は自分の権力ために関ヶ原の戦いをおこした
弐 三成は自分が天下人になる為に関ヶ原の戦いをおこした
参 三成は豊臣家のために関ヶ原の戦いをおこした
四 三成は家康嫌いなだけで関ヶ原の戦いをおこした
五 三成は家康に利用され関ヶ原の戦いをおこした
六 三成は上杉家に利用され関ヶ原の戦いをおこした
七 三成は家康と組んで家康の為に関ヶ原の戦いをおこした
八 三成は淀の為に関ヶ原の戦いをおこした
九 三成は関ヶ原の戦い戦後首謀者にされた単なる官僚
十 三成は何も考えずに関ヶ原の戦いをおこした
78 :
日本@名無史さん:03/07/22 10:32
三成に漏れ様ほどの思慮深さと冷静な判断力があればなぁ(´・ω・`)
80 :
日本@名無史さん:03/07/22 23:24
>>79 釣りにあえて釣られてみるが(w・・それなら関が原起すまでもなく
家康の転化でしたでしょ。
そいで・・
>>77 漏れは壱と五と九が五分五分で入ってくると思うんだが?
皆さんはどんな意見なの?2ちゃんの痴性の見せ所だじょ。
81 :
日本@名無史さん:03/07/22 23:47
>>77 参・90%、四・10%と信じたい!三成ファンだったりする漏れ。
82 :
日本@名無史さん:03/07/23 21:03
83 :
日本@名無史さん:03/07/23 22:12
あれ? 天海になったのは崇伝じゃなかったっけ?
84 :
日本@名無史さん:03/07/23 23:29
ネタだと願いたいな
86 :
日本@名無史さん:03/07/23 23:35
答えは拾壱。
関ヶ原で戦ったのは実は三成ではない。
88 :
日本@名無史さん:03/07/24 11:38
89 :
日本@名無史さん:03/07/25 16:40
>>67 三成がいなければ前田利家が死んだ時点で家康の天下だろ?
90 :
日本@名無史さん:03/07/25 20:38
三成がいなければ、加藤や福島がそれなりに、がんばったんじゃないかな?
91 :
日本@名無史さん:03/07/25 21:01
実は素朴な疑問です。日本史版のお歴々に聞いてみたい。
三成は小早川秀秋に関白就任を約束したというが・・
ということは当然秀秋は豊臣姓に復すだろう(さもないと
毛利分家小早川による関白就任の先例ができてまう)
淀殿の反対も克服したとして、秀頼と秀秋の関係は?
まさか秀秋が秀頼より格上は無理だし豊臣分家扱い
にする気だったのか三成は?
92 :
日本@名無史さん:03/07/25 21:03
もともと秀秋は豊臣姓だよ。羽柴名字だったかどうかまでは知らないが。
言っとくけど加藤清正も福島正則も石田三成もみんな豊臣姓だよ。
で例え秀秋が数年して密かに始末されるとか考えても・・数年は
豊臣宗家長秀頼は関白秀秋より体裁的に格上になる。
豊臣宗家は関白の肩書きに関係なく天下の主なりとの暗黙の
了解か不文律でもする気だったのか?
そして他の大老は関白とはいえあの金吾の下座だろ?まして毛利には
元分家扱いのヤシだ。実質的に大老(武家清華)は関白に準じる状態に
するほかないだろ?秀頼が関白主任しても格下になるんじゃ?
よしんば秀秋が始末できても秀次・秀秋の二代に渡り不穏当な血塗れ
の不吉な職に秀頼を就任させるのか?
あの緻密な三成がその辺なんも考えてなかったのか?
94 :
日本@名無史さん:03/07/25 21:18
秀秋を関白にするという話、そもそもホントなの?
ソースはどこよ?
>>94 私もなんかの論文で見たことがありますよ
三成が秀秋を引き留めるために
「秀頼様が大きくなるまで関白になって下さい」
と文書を送ったらすぃと言う
そのコピーを取ってないんで、今すぐソースは出せないのですが。。。
そこまで頼まれたらしょうがねぇなぁ(´・ω・`)
,、-.'"´ ` 、
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. / ヽ 、 `ヽ,
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r,ト、 .,、ェ== i;;;;;`';,、 i | .l ゙i
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. `''''"゙,. ≡ ``'-`=ェ、. ,.' /.l |.ヽや ら な い か ?
ハ、. .. ... ... / ./ ! ヽ、
.,、r''7゙//ソノルrリ;iレ- ./ ./ l ヽ`ー-
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`'/ / ハソノリリハ / / / |
/ ./ レ;川ノリ';,`゙ /、 / |
/ ヾソ川;リ, / \ / l
>>91 秀秋を関白にした後、秀頼については五大老に格下げするつもりでした。
つまりこうなるわけです。
関白豊臣秀秋
征夷大将軍石田三成
五大老その1毛利輝元
五大老その2宇喜多秀家
五大老その3上杉景勝
五大老その4豊臣秀頼
五大老その5島津義弘
五奉行その1大谷吉継
五奉行その2増田長盛
五奉行その3長束正家
五奉行その4小西行長
五奉行その5真田昌幸
うむ、秀秋内閣の目玉としては秀頼、島津の五大老起用と意表を突いた真田の五奉行入り。
適材適所の素晴らしい組閣だと思います。
>92
小早川秀秋は豊臣姓・羽柴氏
福島正則も同じ
加藤清正は豊臣姓だが(羽柴氏は称していないようだ)、おそらく関ヶ原以降の話
石田三成は豊臣姓でも羽柴氏でもないようだ
兄の正澄は豊臣姓を与えられているようだが
100 :
日本@名無史さん:03/07/27 01:06
清正って豊臣は与えられていないよ。
明日(ていうか今日)関ヶ原散策にいってきまつカキコ
102 :
日本@名無史さん:03/07/27 01:30
秀頼はその時代に人々から殺生関白とよばれていたらしいよ
>100
少なくとも秀吉からは与えられてないけど、
のちに豊臣姓を称しているのは確かだから、
形式としては秀頼から与えられたことになるのかな?
関ヶ原と関係ないのでsage。
>>99 朝鮮出兵の際に勝手に豊臣姓を名乗り秀吉の怒りをかっています。
三成も正則も、豊家の存続を一番優先させたかったはず。
考えていた形が違っただけ。豊家の天下を守りたかった三成。
天下は家康のモノになっても、一大名として豊家の存続を願った正則。
家康は汚いよな
105 :
日本@名無史さん:03/07/27 01:37
朝鮮の役で交渉時に勝手に清正が豊臣姓を名乗って署名したのを
三成に弾劾されたって記憶あるのだが、記憶違いかもしれない
>104
だから「関ヶ原以降」と書いている訳で。
つまり朝鮮出兵時は豊臣姓じゃなかったから弾劾されたと。
>>98 なかなか鋭い洞察力だが、正しくはこう(´・ω・`)
関白 豊臣秀秋
五大老その1 毛利輝元
五大老その2 宇喜多秀家
五大老その3 上杉景勝
五大老その4 豊臣秀頼
五大老その5 島津義弘
三中老その1 石田三成
三中老その2 増田長盛
三中老その3 長束正家
五奉行その1 稲葉正成
五奉行その2 平岡頼勝
五奉行その3 松野重元
五奉行その4 大谷吉継
五奉行その5 小西行長
特別参謀 真田昌幸
109 :
日本@名無史さん:03/07/27 07:22
ところで前から疑問に思ってたんだが、
島津はなぜ真剣に戦ったのですか?
110 :
日本@名無史さん:03/07/27 07:34
あほだから。
111 :
日本@名無史さん:03/07/27 07:55
島津って秀吉に征伐された過去があるのに、朝鮮の役でも関が原でもハッスルしてますね。
長宗我部も秀吉に屈した後は、豊家のためにハッスルしてますね。
秀吉ってかなり魅力があったのでしょうか?
関が原みると、本当に豊臣を思っていた大名は、宇喜多秀家だけな気がする。
戦国時代だから、おのおのが自分の利益だけで動くのは仕方ないが、秀吉死後の瓦解が激しすぎる。
実は、漏れ様も本当に豊臣家を思っていたんだよ(´・ω・`)
その証拠に、漏れ様が関白になれば、秀頼のクソガキを大老に抜擢しる
し、三成にもそれなりの地位をやるよ。
まあ、漏れ様が天下を治めるからには、大船に乗った気でいたまえ。
それがしも
>>108の関白殿下にだいたい同意でござる。
しかし金吾様の政権の独自色が足りないのではござらぬか?
ここは五奉行に民間人の登用をお勧めする。
それから女性も加えるべきではないか。
武闘派の松野、小西をはずしそこへ民間人を入れたらどうでござろう。
それがしの推薦は、曲直瀬道三殿と孝蔵主殿でござる。
つまりこうなるのでござる
五奉行その1 稲葉正成
五奉行その2 平岡頼勝
五奉行その3 曲直瀬道三
五奉行その4 大谷吉継
五奉行その5 孝蔵主
>113
道三じゃ初代か二代目(玄朔)か分からん。
まあ初代は関ヶ原以前に亡くなってるけど。
>>111 朝鮮出兵で頑張って働いたのは、それまでに大友とかいろんな大名が朝鮮がらみで
難癖つけられて改易されたり減封されたりしたから、それを恐れて。
関ヶ原では2番ぞなえで、本格的に戦闘になる前に西軍が総崩れ。
伊吹山方向は既に逃亡する兵が多くて逃げられそうな状態ではなく、意表をついて
正面突破する道を選んだ。
ネタスレでマジレスした自分に萎え(w)
116 :
日本@名無史さん:03/07/27 22:22
117 :
日本@名無史さん:03/07/28 10:51
関白 小早川秀秋(家康の霊により狂死)
新関白 豊臣秀頼
五大老その1 毛利輝元
五大老その2 宇喜多秀家
五大老その3 上杉景勝
五大老その4 石田三成
五大老その5 佐竹義宣
三中老その1 小西行長
三中老その2 立花宗茂
三中老その3 真田昌幸
五奉行その1大谷吉継(病状は大丈夫か?)
五奉行その2増田長盛
五奉行その3長束正家
五奉行その4福原長尭
五奉行その5前田玄以
118 :
日本@名無史さん:03/07/29 11:59
関白の起請文のソース誰かプリーズ!
119 :
日本@名無史さん:03/07/29 12:00
120 :
日本@名無史さん:03/07/29 12:07
秀秋がかりに関白になったとしても「秀頼成人までの期間限定」ということは、
政権内外の共通理解として問題なく定着したんじゃなかろうか。
天皇家の場合、そういう限定つきで即位した天皇が何人もいる。
121 :
日本@名無史さん:03/07/29 21:37
石田三成は島左近の家康陣営奇襲案をしりぞけるべきではなかった。
毛利一族がまったく関が原で働かなかった事でも明白。
石高4万石の近江水口城主であった時に1万5千石で召しかかえた、
有能な自分の部下を信じるべきであった。
>118
一 秀頼公十五歳に被為成候迄は、関白職并に天下の政務秀秋卿へ可譲渡事、
一 秀秋卿上為賄、播磨国可渡之、筑後筑前は如前の事、
一 於江州十一萬石稲葉佐渡へ、同十萬石平岡石見へ、秀頼公より可被下と仰せの事、
一 為當座の御音物金子三百枚稲葉佐渡へ、同三百枚平岡石見へ可被下事、
九月 摂津守
安国寺
刑部少輔
治部少輔
大蔵大輔
秀家
筑前中納言殿
とりあえず典拠は『三河後風土記』。もっと別の元史料があると思うけど。
123 :
日本@名無史さん:03/07/30 00:08
おお! 感謝なり! >>122
|
|・`)コソーリ
|
|
|(´・ω・`)関白なりたいけど、麓から鉄砲撃ってくるから
|
|
|ω・`)
|
|
|彡サッ
|
あの、秀秋への関白就任の書状は、贋物と判断されてますが
根拠は
・それ以外に関白就任の話が一切出てない、それを窺わせる史料さえない
・三河風土記の信憑性の問題
・書状の内容による、疑問点の多さ(秀家以下が、秀頼公と書いてる等)
なんかの研究誌に詳しく書いてあったけど、なんだったけ?
126 :
日本@名無史さん:03/07/30 21:49
127 :
日本@名無史さん:03/08/01 00:42
age
(^^)
129 :
日本@名無史さん:03/08/02 18:12
金吾秀秋がらみでもう一つ質問。
秀秋は最初から東軍のつもりで、実はあの松尾山の陣地も、元々そこに陣取っていた
西軍側の武将を追い出してそこに陣取ったらすぃ
、、、と言う話をなんかの本で読んだんだが、根本史料とかが提示されていなかった
ような記憶があり、面白い説とは思いつつも納得できなかった部分がありますた。
この説についてご存じの方、ご教示お願いしまつ。
>129
『寛政譜』の稲葉正成のところに
松尾山城の伊藤長門守を追い払ったことが載っているらしい。
大垣城主の伊藤盛正が三成ら西軍に居城を提供したので
重要拠点だった松尾山の廃城に盛正を入らせ、本格的な城を構築させたのを
稲葉正成(当時は小早川秀秋の与力)が盛正を追い出し、秀秋が入った
余談
ちなみに春日局が家光の乳母になった件で、天海=光秀云々に使われてるが
自分は、秀秋の東軍支持に稲葉正成が尽力したからではないか?と思ってる
それで正室だった春日局が乳母になったと考えております
132 :
日本@名無史さん:03/08/02 23:10
>>131 なるなる・・・面白い・・・もっと書いてタモ
>>131 オープンな一般公募でと言う事になっているが、実際には三条西家からの推薦で、
実質的には縁故採用ということらしい。
134 :
日本@名無史さん:03/08/03 05:23
自作自演の賞賛の多いスレはここですか(w
>>133 縁故という言葉は、漏れは大嫌いだよ(´・ω・`)
漏れ様のように、実力で中納言にまで上り詰めた実力派にとっては、
縁故でのうのうとしているヤシらは大嫌いだ。
>135
さすがチンコ蹴られて死んだ方は言うことが違いますな。
137 :
日本@名無史さん:03/08/05 22:04
米原方面から佐和山のトンネル抜けたすぐ左側に佐和山城の天守が
復元されてるの知ってるひといますか?
(笑のネタになるので、あまり深く突っ込みませんが)
138 :
日本@名無史さん:03/08/05 22:47
,,,--─===─ヽ/へ
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iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
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143 :
日本@名無史さん:03/08/07 14:29
三献茶あげ
144 :
日本@名無史さん:03/08/12 22:36
age
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
146 :
日本@名無史さん:03/08/21 14:20
ネタがないみたいね。
147 :
日本@名無史さん:03/08/24 01:11
じゃあ一つ質問。
最近になって白川亨やその息子隼人が
「北政所と三成は実は仲がよく、
北政所が家康のために働いたと言うのはデタラメ」
と主張してるのを自分は知ったんだけど、
今はこれが関ヶ原を語る上での通説になってるの?
自分は関ヶ原の際、
あの豊臣恩顧の諸大名を家康がまとめ上げる上で、
北政所の存在は極めて大きかったんじゃないか、って思ってしまうんだけど
(白川親子に言わせりゃ、「証拠もないし、色眼鏡でものを見るな」とお叱りを受けそうだが)
今の時代、これは間違いなのかな?
史料を白川親子のような解釈も出来るってだけの話じゃないん?
(自分が見たところどうやら三成シンパが
この説にすごい惹かれているように感じるんだが…)
白川説っていうものがどういう風に学会で位置付けられてるのか、
関ヶ原を語る上でどういうふうに位置付けられてるのか興味があって質問させていただきました。
ご解説よろしくお願いします。
149 :
日本@名無史さん:03/08/24 01:16
>>148 じゃあ白川説の方が今は主流になってるの?
>>147 一次史料駆使した結果から言えば、白川のような主張も出来るって話。
ただし、だからと言って北政所が西軍びいきだったかどうかといえば別。
浅野文書(黒田・浅野から小早川秀秋に送られた書状)を見ても、
北政所の名前を使って、秀秋を凋落しようとしていた事が伺える。
自分は白川説を見て思ったのは、
三成と北政所の関係というのは見直す余地はあるが、
だからと言って北政所の位置付け(東軍か西軍か)にまで結論を持っていくのは違うと思う。
白川説の大きな根拠の一つになってる梵舜日記の解釈をめぐっても
白川と津田(北政所は親家康だったって説)で大きく食い違ってるから。
あと、隼人はかなり強引な脳内解釈もしてるから自分は疑問。
自説に凝り固まりすぎてる嫌いがある。
151 :
日本@名無史さん:03/08/24 01:54
北の政所はどっちに転んでも上手くいく
都合のいいポジションにいたってこったろ。
>>150 白川説は、思い込み厨の伊達遠江守家中と同じ説だからデムパ。
あんなでっち上げを本気で信じてるヤシは、伊達君以下の消防。
153 :
日本@名無史さん:03/08/25 22:23
>>154 「思い込み厨の伊達遠江守家中と同じ説だからデムパ」
ここの意味がよくわからんかったのですよ。スマソ
てか白川って電波なん?
156 :
日本@名無史さん:03/08/27 21:45
葵徳川三代によると北マンは、関ヶ原までは親徳川。
但し豊国神社を壊されてからは、反徳川に転じ大阪の陣で大阪城入城を阻止された時に怒りを爆発させる。
「利用するだけ利用してもう用無しということか(恨)」
>>156 日本史板なので、論文とは言わないまでもせめて新書をネタにして欲しかったで有るが
関ヶ原の戦いの時には家康の立場は形式的には「豊臣家の家老5人の中の一人」ということで
北政所も信用していたようっすね。
が
大坂の陣前後から家康の豊臣家に対する対応は露骨に悪くなり、かといって抵抗する力は無し。
大坂夏の陣が終わってからの実際の北政所は、傍目には気楽な隠居生活に見えていたようですが、
内面では憤懣やるかたない余生だったようでつ。
おまけ
豊国神社が取り壊されて、秀吉から神号を取り上げられたのは大坂夏の陣後の話では?
当然家康の意向も関わっているのだが、豊国神社や豊国廟の取り壊しに関しては、
徳川幕府との確執以上に、妙心院との寺域争いも原因となっていたそうだ。
以上『北政所』(中公新書)より
>>157 この新書の説に対して白川とか三成ヲタは真っ向から否定してるわけ?
159 :
日本@名無史さん:03/08/28 02:56
臣下の家康によって、豊臣を正そうとしたんだろう。
結局、利用されただけだが。
160 :
日本@名無史さん:03/08/28 23:12
「利家とまつ」によると北マンは、親石田とまではいかないが三成が偉くなってからも「佐吉」と呼んでたしなめたりしている。
三成の方も北マンの言う事は聞くしかねえな、という雰囲気で仲が悪くはなかった。
だから北マンは親石田だと思うよ。
誰にだって失敗はある。そうだろ?
俺を責める奴は、一度も失敗をした事がないのか!
あんた神なのかよ!!!
162 :
日本@名無史さん:03/08/30 21:05
age
163 :
日本@名無史さん:03/08/30 21:43
治部少死ね!
164 :
日本@名無史さん:03/08/31 12:29
>>150 白川氏の説(北政所は西軍!)はちょっと極端だとは思うが、
北政所は、豊臣七将襲撃のときは三成助命で動いているし(「人物叢書・石田三成」今井林太郎著)、三成との関係は悪くなかったんじゃないかな。
大谷吉継の母は北政所の側近だった(宮本義己氏の考証による)ようだし、
親しい人が敵味方に別れてしまったので、どっちにつくとも言えなかったのが真相かと。
(´・ω・`)ノ
輝ける勝者になってから、ちょっと具合が悪くなってきたので、
入院してたよ。
もう元気になったから、まじめに藩政にはげむよ。
166 :
大谷吉継(霊):03/09/01 11:57
(´・ω・`)ノ
よぉ、金吾!退院したって?これからよろしくな・・・
(´・ω・`)
吉継にも漏れ様ほどの思慮深さと冷静にして正確な判断力があればなぁ
168 :
平塚為広(霊):03/09/02 07:52
(´・ω・`)
なんか納得できんなぁ・・・
戦はじめた黒幕はほんとうに三成なのか?
実はこの漏れ様が黒幕(´・ω・`)
171 :
日本@名無史さん:03/09/03 00:05
>>169 歴史読本2002年7月号を見ると、
土山公仁という人が、朝鮮使節の記録などを引用して、
控えめな表現ながら、毛利輝元首謀者説をとっているね。
三成は挙兵についてギリギリまで正確な情報は与えられず、
その後の役割も輝元配下の一武将にすぎなかったらしい。
歴史群像シリーズ・決戦関ヶ原(学研)では、
河合秀郎という人が、かなりハッキリと、
豊国神社における宇喜多秀家の出陣式(7月5日)を重視して、
宇喜多秀家(+安国寺恵瓊)首謀者説を唱えている。
7月12日まで挙兵が決しなかったのは、三成が逡巡していたためで、
輝元出馬工作の成功が決め手となったのではないかと推理している。
>>171 土山氏はよく知らんが、河合氏の書いたことを真に受けるというのはなぁ。
おまい、思い込み厨伊達遠江守家中だろ?(w
173 :
日本@名無史さん:03/09/03 01:16
>>172 171は論説を紹介してるだけのようにしか読めんが
おまいの方が思い込み厨に見えるぞ
175 :
日本@名無史さん:03/09/03 11:35
172晒しage
大谷吉継が重家を伴い上杉討伐に参陣することになっていたね。
大谷と石田は、このとき「小早川」になるつもりだったのではないか。
決戦の際には城方に呼応するつもりだ。あるいはいきなり
城に入城して上杉に味方するつもりかもしれない。軍事的に
みれば、「小早川の裏切り」のほうが徳川には怖いわけだが。
これが当初の計画だったのだろう。家康にとって全く
ありがたくない話だが、参陣を断るわけにもいかない。参陣
が踏み絵にならなくなってしまった。田中吉政や古田織部あたりも
実は、そのために東軍に入り込んでいたと思うね。
毛利を動かせることがわかり、当初の計画は破棄されてしまった。
やはり三成が首謀者だと思うね。
178 :
日本@名無史さん:03/09/03 23:03
179 :
日本@名無史さん:03/09/04 16:36
輝元が首謀者なら広家・秀元の動きはどうなんだよ?
家中の統制は取れてなかったと
181 :
日本@名無史さん:03/09/04 23:11
関ヶ原での毛利軍の行動については、後で広家がいろいろ弁明している。
以下、毛利家資料集・吉川広家書案より抜粋。
西軍が勝ちそうな状態になっても、東軍との約束は守るべきだった。
南宮山と関ヶ原は2里も離れていて、山の下には池田など押さえの軍勢もいたし、
霧が深くて戦況はわからなかった。
西軍内部でも、毛利軍が力戦するという約定はなかったし、
山を下りて戦うなど、予定外の行動はとれなかった。
今になっていろいろ言う人がいるが、あの時の対応は間違っていなかった。
その昔、備中高松で、信長自害を知りながら、
和平を守って秀吉を追撃しなかったという前例があるではないか。
広家としても、東軍と話はつけていたけど、決戦当日は結構迷っていたようだ。
182 :
日本@名無史さん:03/09/05 00:04
>>181の続き
毛利としては、首謀者の特権で、なるだけ他人に戦わせて、自分は兵力を温存し、
成果(四国への領土拡大など)だけはいただこうという魂胆だったようだ。
広家の内応は、掛け捨ての保険のようなものだった。
ところが、いざとなると決断がつかず、広家がグズグズしている間に西軍が大敗。
掛け捨てのつもりの保険にすがらざるを得なくなったというのが真相ではないか。
輝元は後の大坂の陣でも佐野道可を大坂に入城させて保険をかけており、
なかなか老獪な人物だったようだ。
負けは負け
西軍に1万本のロケット花火があれば・・・
毛利家中に漏れ様ほどに判断力の優れた人物がいればなぁ(´・ω・`)
って、一応小早川は毛利一門だろうが!
・・・貴君には自覚が全くなかったようだが(w
つまり、この漏れ様の協力が得られなかった事が毛利家の悲劇と
いうわけだな(´・ω・`)
なんでツマンネーなりきりの糞が夏休み終わってもいるんだ?
宇喜多隊が機械化集団だったら・・・
190 :
日本@名無史さん:03/09/06 12:28
>>186 小早川はもともと毛利家臣の家柄ではなく、独立大名。
隆景が養子になったので、毛利一門の扱いを受けただけ。
秀秋が養子になれば、豊臣一門となるのは当然の流れだな。
豊臣一門として何の働きもしていないことは事実だが。
国人、くらいでよくねぇか?
192 :
日本@名無史さん:03/09/07 09:50
>>191 だよな。だから毛利配下で問題ないだろ。
殿様変えたら派閥も変わる、というほど簡単な話じゃない。
隆景を迎えたのは、毛利に屈したから。
歴史のある家だから木下一族を戴くのは家中の反発をくらうのも当然。
主流派が隆景の隠居と同時に散った上に、秀秋につけられたはずの松野主馬まで合戦中に離反したのは何をいわんかや、だ。
離反といえば、山口宗永も逃げ出したんだっけ?
すまん、酔っ払って書いてるんで意味不明な文章になってしまった。
194 :
日本@名無史さん:03/09/07 11:11
金吾秀秋様に質問
南宮山組の連中が先に動いて東軍の池田・浅野・山内を撃破し、関ヶ原に進出してきた場合どうするつもりでした?
>>194 俺様に逆らう馬鹿など、この世にいない。
内府だって、俺様の前では地面に這いつくばるだけだろう(´・ω・`)
>>196 マジレスすると、這い蹲らないと金吾殿が見えないからでは?(w
198 :
自民総裁選:03/09/11 19:49
竹下=秀吉 野中=三成 亀井=小西行長 藤井=宇喜田秀家 古賀=島左近 青木=小早川
199 :
日本@名無史さん:03/09/11 23:27
東北で西軍についたのは植え過ぎだけ?
岩城
201 :
日本@名無史さん:03/09/12 19:59
>>199 出羽横手の小野寺氏も、最上と対立していたことから西軍についた。
関ヶ原後は取り潰された。
アメリカ=家康 アラブ=上杉 古いヨーロッパ=前田
イギリスとオーストラリアと新しいヨーロッパ=福島、加藤、細川 日本=浅野
ロシアと中国=毛利と小早川 真田=アフガニスタン
上杉を牽制し真田を踏み潰して関ヶ原に臨むはずが、
上杉も真田も思い通りにならず、
関ヶ原でも毛利小早川が積極的な裏切りをせず、
前田が不穏な動きを示して福島加藤細川が動揺。
関東では土着の豪族や旧北条氏家臣ら(中南米)が一揆を起こす。
浅野と福島加藤細川に殿を押付けて家康は関東に逆戻り。
>>194 南宮山をイキーに駆け下り、その勢いで福島、井伊を撃破。
関白にしてくれるんだろ?(´・ω・`)
>>196 漏れ様は俺様なんて下品な言葉使わない。
205 :
日本@名無史さん:03/09/13 15:19
>>198 青木は最初から小泉支持だから福島や加藤だと思う
むしろ小早川は堀内ではないか
堀内の裏切りで大勢が決したという意味で
206 :
日本@名無史さん:03/09/13 16:41
>>205 となると堀内の裏切りを見てから
小泉支持を表明した河野洋平は脇坂安治あたりか
207 :
日本@名無史さん:03/09/13 20:15
>>198 確かに関が原に無理矢理当てはめれば
野中=三成・古賀=島左近に成るかもしれないけど
あの二人のどす黒いイメージを考えると、三成や左近に悪いような気がする
208 :
日本@名無史さん:03/09/13 21:46
同意。三成や左近が化けて出そうだ!
性格が悪いという点では共通している。
記念日age
漏れ様は性格がいいんだぜ(´・ω・`)
212 :
日本@名無史さん:03/09/16 03:47
金吾様質問です。金吾様は、その後寝返りにより、東軍に多大な貢献をしたにもかかわらず、他の大名から白眼視され馬鹿にされ、嘲笑され孤立し、あげくに狂い死にし、お家断絶となった
213 :
日本@名無史さん:03/09/16 03:48
歴史上裏切りが、最も裏目に出た人物の部類に入るとは本当ですか?歴史に詳しくないものですいません。
裏切る奴は裏切られるか
そうとも。
裏切るヤシは裏切られる。
わかった?三成。
漏れ様の人望と卓越した人身掌握術を手本にするがいい(´・ω・`)
島津義弘は強かった。!!
217 :
日本@名無史さん:03/09/25 09:06
保守age
218 :
日本@名無史さん:03/10/05 12:37
age
219 :
日本@名無史さん:03/10/10 04:27
西城秀秋
220 :
日本@名無史さん:03/10/10 07:51
津軽が参加してんのに何で南部家が関が原に行ってないのか?!
一気飲みのし過ぎで泥酔してたから。
曹植のことか?
223 :
日本@名無史さん:03/10/14 19:50
打倒金吾!!
224 :
日本@名無史さん:03/10/14 19:55
いいか、奇襲しかなかったんだぞ。三成。
>>220 東北の大名は関ヶ原に直接参加してないのが多いんじゃない?最上も伊達もそうだ
もっとも上杉の牽制(・・・伊達は牽制以外に下心があったようだが)のため参加して無いという建前になっていたと思うが
逆に津軽がはるばる青森くんだりから遠征してたというのに驚き
中央と密接につながることで成立した大名家だから、こういう果敢な行動をとったのかも知れないけどね
くそ、あの頃携帯があれば・・・。
メール攻撃でさらに多くの大名が東軍に内応
228 :
日本@名無史さん:03/10/15 21:35
>>227 三成という人間の救いがたいところは、直通の電話で直談判することにこだわるあまり、
相手の居留守のため、何度も録音を吹き込んだり電話を掛けなおしたりして
この時期の貴重な時間を無駄に費やしたことである。
この点、彼の敵である家康は、ことになれた古強者らしく、
顔文字を駆使したメールを日に数百本も続けざまに打った後は
一転して、それを忘れたごとく戦局の分析に取り掛かったことと対照的である。
金吾の裏切りなど最初から気付いておったわ。
それよりも問題は、吉川の奴じゃ!
奴さえいなければ、毛利勢の加勢により
我が軍の優勢は必定。
金吾も我等の加勢へと心変わりしたはずじゃ。
あやつは、優勢な方へ加担しようと日和見しよって!
なかなか賢いのか、勇気が無いのか、どちらかわからんが。
わしだって勝算があって関ヶ原に陣を敷いたんじゃ!
負けが分かっていたなら、大坂まで退いて秀頼様を
楯にしておったわい!そうすりゃ流石の家康も
弓はひけまい!と考えておったのに。残念じゃ!
ちっ。
家康め老人のクセに顔文字まで。。。。鬱。
231 :
金吾中納言:03/10/16 12:28
秀吉が豊臣家を救うつもりで養子にしたこの男は、小早川家に再び養子に出され、豊臣家をつぶす為だけにうまれ死んでいった。
232 :
日本@名無史さん:03/10/16 13:28
豊臣家の人々
233 :
日本@名無史さん:03/10/16 14:19
尊書具に拝見多幸多幸太閤御死の昨今諸侯の人心大いに変われといえども我が上杉景勝同様思し召す事大いに迷惑又先程来前田利長殿への御仕打ちには御威光の程誠の感服仕る。
234 :
日本@名無史さん:03/10/16 16:16
直江状
235 :
日本@名無史さん:03/10/17 13:01
悲壮美みっちゃん萌え〜
質問ですが、三成が佐和山城をあきらめて大阪城に戻り、篭城した場合の決着はどうなりますか?
佐和山を諦めた時点で、もうそれは三成ではありません。
他人には「豊家のために全てを捨てろ」と建前論を押し付け、
自分でもそれを厳しく覚悟しているつもりでも、
いざ自分の関わったものに手が掛かると
反射的にそれを守ろうとしてしまう女のようなヒステリックな受身と、
反射的にやってしまった身内贔屓に対して
他人に「これは大儀のためにやって当然のことなのだ」と可愛げのない言い訳をかまして
あるいは説明不足でそっくり返った態度をとって
ますます白眼視されることこそ、石田三成の真骨頂、真の人間的魅力なのです。
>>237 本当にそういう人間だったら、あの時代に一手の将にはなれない。
語尾にモキュ(´・ω・`)がつかない時点で、もうそれは金吾ではありません。
うるせぇぞ、モキュ。
もっとお金をばら撒いて、加藤・福島戦争コンビを丸め込めれば、アノ戦勝てたかも。
だって、家康はどケチなんだもん。
>>241 石田隊そのものの軍資金すら尽きかけて
増田長盛に泣き付いていたのに、どこにそんなカネが?
>243
090金融がある。
245 :
日本@名無史さん:03/10/26 19:55
コピペあげ
壱 三成は自分の権力ために関ヶ原の戦いをおこした
弐 三成は自分が天下人になる為に関ヶ原の戦いをおこした
参 三成は豊臣家のために関ヶ原の戦いをおこした
四 三成は家康嫌いなだけで関ヶ原の戦いをおこした
五 三成は家康に利用され関ヶ原の戦いをおこした
六 三成は上杉家に利用され関ヶ原の戦いをおこした
七 三成は家康と組んで家康の為に関ヶ原の戦いをおこした
八 三成は淀の為に関ヶ原の戦いをおこした
九 三成は関ヶ原の戦い戦後首謀者にされた単なる官僚
十 三成は何も考えずに関ヶ原の戦いをおこした
246 :
日本@名無史さん:03/10/26 23:23
小僧に謀られ口惜し口惜し。
( ^▽^)<ハイ、dd♪
248 :
日本@名無史さん:03/10/29 13:10
ウンババーーーー・トイレを汚すのはだれですか?
249 :
日本@名無史さん:03/10/29 18:16
佐吉・寺小姓などやめてわしのところにこぬか?
250 :
日本@名無史さん:03/10/29 18:55
一生懸命働きまする。よろしくおながいしまつ。
きっと淀の方は三成のことを別段味方ともなんとも思ってなかったんだろうな。
252 :
日本@名無史さん:03/11/01 11:08
三成好き
253 :
日本@名無史さん:03/11/01 15:40
みっちゃんについて行きたい女がここにおります。
254 :
日本@名無史さん:03/11/10 03:56
三成好き
255 :
日本@名無史さん:03/11/10 08:28
三成っていい漢だったのかな?
>>255 肖像画は何枚か残っている。どれも目が細くて、肥満体型ではない。
当時の基準から言うとブ男ではなかったと思われ。
ただ、顔だけで判断するのも何ですが、神経質なところも感じさせます。
257 :
日本@名無史さん:03/11/10 16:53
つまり家康と正反対の容姿だったのかな?光成は。
>>255 三成はなかなかいい男だったよ
この漏れ様が保証する(´・ω・`)
259 :
日本@名無史さん:03/11/12 22:03
三成については歴史上の人物としては珍しく遺骨が発掘され、鑑定されている。
鑑定文は次のようなものだった(新人物往来社「石田三成のすべて」)。
1,最初一見して女骨と思われたが、調査の結果、優男の骨格と断定する。
2,長大なる四肢骨は上下端に多少損傷あるも十分研究に役立つものなり。
3,歯は腺病質を表している。
4,頭形は長頭である(才槌頭のこと)。
5,かなりの反っ歯である(現代人にはいないほど)。
6,没年齢は文献上の41歳に相当している。
7,遺骨に混じって錆びた小づかが出土したが、
これは当時、首と胴を別にした遺体を葬る際、
一刀の小づかなどで接合して葬るという風習にあっている。
身長は156±1pで、あまり長身ではなかったようだ。
>>259 をいをいネタで釣るなよw
ってほんとだったらスマソ
一応京都に墓はあるそうだけどね
その骨はどこから発掘したと書かれてましたか?
261 :
日本史@名無史:03/11/12 22:22
大徳寺三玄院ではないか?
__
l;;;l,
l;;;;i
,,、、、、;l;;;l,rt=, 、
,ム二二ニコ'' l .l
,'_ l;;l. l l
L `'''‐ .i;;;l' . l l
. | / ``' '´) l .l
',`_' , i´ . l .l
. ヽ、 ,、.'::: ~
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/ /へ ヘ/ /:::
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__ノ ):::::
(_,,/\
263 :
日本@名無史さん:03/11/12 23:33
ホントのはなしだったんだあ
いい話を教えてもらってちょっと賢くなった気分
サンクスコ
三成にはこの漏れ様の片腕となって働いてもらいたかったし、
それがヤシの本望でもあったわけだが、時勢がそれを許さな
かった。(´・ω・`)
三成のドクロも写真で晒されてたんだよね。
いくらなんでも、ひどい。
世の無常を痛切に感じたよ。
>>266 「いくらなんでもひどい」ってなにが?
別に反三成的な悪意を持って写真を掲載したんじゃないだろ。
あくまでも歴史上の人物における学術資料の発表だぞ?
わけわからん。アホか。
268 :
日本@名無史さん:03/11/13 22:55
別にひどくないだろ。
関ヶ原メナードランド方が、よっぽど世の無常を痛切に感じる。
269 :
日本@名無史さん:03/11/13 22:58
三成の「大丈夫だぁ」発言に感動した!
今調べなおしたら、関ヶ原メラードランドは健在だった…。
申し訳ありません。
切腹だな。
272 :
日本@名無史さん:03/11/14 23:29
しかしなんで三成はああも必死だったんだろ。
五大老ならいざ知らず・・・。
家康に目をつけられていた訳じゃないだろ。
福島等に狙われていただけで。
家康を倒す前にそいつらを叩くべきだったんじゃないですか?
273 :
日本@名無史さん:03/11/14 23:38
関ヶ原メラードランド・・あそこしょぼいよな。
>>272 彼は豊臣の天下を脅かすものをどうにかしたかったわけで。
275 :
日本@名無史さん:03/11/15 00:12
>>274 ごもっとも。
しかし彼にはまず 自分の心配をしろ と言いたい。
現に乗り気なのは宇喜多位なもので他の者はみんな
成り行きまかせみたいなものじゃないの。
空気よまなさすぎですね、簡単に言うと。
>>275 それはただの大名と政権運営に直接携わっていた者とのスタンスの違いでしょ。
組織への忠誠心のために家庭を犠牲にしちゃうタイプの人なんだろうね。
三成にとっては自分よりも豊臣家が大事だったんだと思うよ。
277 :
日本@名無史さん:03/11/15 00:27
>>274 豊臣の天下は清正・正則あたりだって考えていたはず
それでも荷担しないのは家康の行動が直接豊臣の
天下を侵さなかっただけだと思う。
あくまで豊臣の天下の下で牛耳っていただけ。
278 :
日本@名無史さん:03/11/15 00:32
大一大万大吉…絶対勝つぞ!
(秀吉あっての佐吉でした)。
確かに自分の力を過信する傾向が強いんでしょうね、三成。
実際切れ者だったろうし。
秀吉の下でソレが増長された・・・。
三成貴方は何様かと、豊臣家の代表でもないのにね。
>>279 その場の空気で流されまくりの
西軍諸将?
>>275 追加。
空気が読めないっていうのはその通りだと思うよ。
大部分は自分の家が守れればそれでいい→豊臣がどうなろうと気にならない
って考えだろうし、当時は義理なんて感覚は希薄だった時代のようだからね。
力こそが正義だったし。三成にはこれが解ってなかったぽい。
>>277 >家康の行動が直接豊臣の天下を侵さなかった
>あくまで豊臣の天下の下で牛耳っていただけ
何も戦後になって急に家康の天下取りの動きが始まったわけじゃなし。
家康が豊臣の天下を侵すような行動に出ていても、その意味するところが
理解出来なかっただけでしょ。
いわゆる武断派の面々が西軍に荷担せずに家康に付いてしまったのは、
そんな対局が見えずにただ私的な「三成憎し」の感情のままに動いてしまったから。
彼らは家康に荷担して西軍をつぶすことの意味・結果をまるで理解していなかっただけ。
282 :
日本@名無史さん:03/11/15 01:04
義理より利を勧めたのは秀吉だよ(信長は…)。
>>281 家康は戦前豊臣の天下をひっくり返すなんて事は
考えていないと思いますよ。
要するに福島等武断派は豊臣をとりあえず担いでくれれば
家康が実質的に牛耳ろうが構わないスタンスだったのでは?
三成はそれすらも許せなかっただけ。
武断派はいかにも能無しのごとく語られるけど彼らの家臣にだって
頭の良い者は当然いるわけだし単純ではないと思うが。
人たらしの秀吉から何を学んだかな、三成は。
>>284 三成の立場が秀吉なスら福島等を丸め込む
もしくは家康を丸め込む。
>>283 >福島等武断派は豊臣をとりあえず担いでくれれば
たしかに家康に実権を持たせても秀頼が大きくなったらまた返してくれると思ってた
「おめでたい武将達」もいたようだけど、もちろんそうはならなかった。
秀吉が死んだ時点で既に家康は名目上だけでも秀頼を頂き続ける気はさらさら無かったでしょ。
政権の簒奪は、それが暴力的な方法に拠らないにしても、100%考えてたはず。
家康が豊臣の臣下に甘んじる姿勢を見せていたら三成も危機感を持ったりしないでしょ。
それすら許せなかったなんて解釈がどこから出てくるのか甚だ疑問。
武断派の連中は家康の野心が見えなかったのか、あえて見逃したのかは判らないが
いずれにしろ見通しが甘いというか愚かすぎる選択をした。
親豊臣を称する者が自ら最後の砦を壊してしまうなんて。莫迦であることは哀しいね。
なお、有能な家臣がいてもそれが意見出来ないと意味はないわけで。
その意味ではやはり武断派武将の家中に人はいなかったんだろうと思う。
287 :
日本@名無史さん:03/11/15 10:24
>>286 はいはい、ボクちゃんは歴史の本を読んだら
「むかしのひとよりボクのほうがあたまいいー」って舞い上がった
小学生でちゅかねー。
後出しジャンケンならボクちゃんでも間違った選択はしませんよーw
もうちっと知識を蓄えてからまた来てね。
とくに豊臣氏の織田氏に対しての対策などの事例を吟味して
当時の大名の「常識」がどんなものだったか考えてみるのがオススメw
>>286 輝元、吉家、増田・・・騙されまくりの
西軍諸将という事からすれば家康が相当
上手(狸)だっただけでしょう。
でも三成だけが家康の危険性を十分認識して
いたとするなら彼は真に優秀だったんでしょうね。
290 :
日本@名無史さん:03/11/15 13:30
>>286 大幅加増の黒田・細川・藤堂あたりは確信犯
改易くらった加藤・福島はやっぱりわかってなかったんじゃない??
>>287 しかし頭の悪そうな文章だな。書いていて恥ずかしくなかったか?
恥なんて感覚を持ち合わせていればの話だが。
まず、自分と比べて賢いとかそうでないなどとは一言も述べていないのだが。
頭が悪いだけならともかく、妄想癖があるならちょっと問題だぞ。
さて、この時代のことについては君のように昨日今日勉強を始めたわけじゃないから
当時の常識くらい分かってるが、それがここで言っていることとなんの関係がある?
どうしてここで常識の話が出てくるのか理解に苦しむ。全然次元の違う話なんだが。
>>288 家康は確かに10枚も20枚も上手だった。三成とは領地の大きさも人間の大きさも
全然違っていたし。ただ、彼の野心と豊臣政権に対する危険については、三成だけとは
言わず、よほど脳天気な人間(福島達とか)でない限り認識できていたと思う。
あ、中央の情勢がよく分からない遠くの人たちはまた別だろうけど。
当時はまだ天下は強者の回り持ちという感覚が存在していたから家康を勝ち馬と
見込んで当たり前のようにそちら付く者もいたわけだけど、そういったことは意図せず
文治派への対抗意識からだけで家康に付いた連中はやはり大莫迦者。
>>290 そういうことだと思うよ。
292 :
日本@名無史さん:03/11/15 14:14
↑おまいも十分頭悪そうな文章と内容に思えるぞ
思い込みだけで物事を語る
>>286-287は同レベル
>>292 そうか〜いろんな資料から導き出した感想なんけどな。こりゃ失敬。
自分じゃ判らないんだが、おれはどういう事実についてどういう風に思いこんじゃってるの?
294 :
日本@名無史さん:03/11/15 14:33
>>293 色んな資料とはなんですか?
どういう資料のどういう記述に基づき、どういう推論を導き出したのか説明求む
295 :
日本@名無史さん:03/11/15 14:41
要点を搾らないと厳しいかと思われるので
>家康は確かに10枚も20枚も上手だった。三成とは領地の大きさも人間の大きさも
>全然違っていたし。ただ、彼の野心と豊臣政権に対する危険については、三成だけとは
>言わず、よほど脳天気な人間(福島達とか)でない限り認識できていたと思う。
>あ、中央の情勢がよく分からない遠くの人たちはまた別だろうけど。
>当時はまだ天下は強者の回り持ちという感覚が存在していたから家康を勝ち馬と
>見込んで当たり前のようにそちら付く者もいたわけだけど、そういったことは意図せず
>文治派への対抗意識からだけで家康に付いた連中はやはり大莫迦者。
この部分を君の言う色んな資料から、どういう記述で、この結論になったのかを頼むね
>>294 それはちょっと難しい。そんなコンパクトにまとめられないし。
論文でも書くことになれば仕方ないから全部チェックして整理するけれど。
とりあえずおれは素人だから資料については一般に市販されている物だけ。
歴史読本やら歴史群像やら各種文庫本、ネット上の資料かな。
著者の主観よりも参考資料の解説に重きを置いて読んでるつもりだけど。
で、参考にした記述なんてそれこそ山のようにあっていちいち書き出せない。
色々見て総合的に判断した結果ってことで。
それにしても書いたことってわりと通説的な見解だと思うけどどの辺が変?
297 :
日本@名無史さん:03/11/15 14:50
>>296 君のは通説じゃなく、素人用の当り障りのない解説の受け売り
つか歴史読本や群像で論文なんか書けんぞ
>彼の野心と豊臣政権に対する危険については、三成だけとは
>言わず、よほど脳天気な人間(福島達とか)でない限り認識できていたと思う
>当時はまだ天下は強者の回り持ちという感覚が存在していた
>文治派への対抗意識からだけで家康に付いた連中
この3点を特に説明願うね
>>295 もちろん論文でも書く場合にはそれぞれの書物の各参考文献を吟味し直しますよ。
質問に質問で返すようで悪いですけど、それらの点についての一般的な解釈って
どんな物ですか?また、あなた自身はどういう風にお考えでしょう?
否定するならば根拠となる材料を示していただけるとこちらも勉強になるのですが。
ちなみに読んだ本達は今手元にそろっていません。正確な引用は不可能です。
このスレもキモイ院生(無職予備軍)の不満のはけ口か?
雰囲気が悪くなったんで皆さんここらで話題を変えて
みませんか?
302 :
日本@名無史さん:03/11/15 15:18
>>298 あのねぇ、自分が
>そうか〜いろんな資料から導き出した感想なんけどな。
と言い出したんだから、質問を言う前に、自身に聞かれた事ぐらい
最低限でも答えてくれんかね?
正確な引用は不可能だとか、それは逃げ口上だよ
自身の論拠すら説明出来んのだったら、人様に妄想とか言えないと思うぞ。
否定になる根拠も、君自身が肯定する根拠を「通説的な見解」と自身の考えを
普遍的なものにしてるだけで、一切説明してないではないか?
何をどうやって否定しろというのかな?
>>302 逃げ口上と言われても無理なものは無理。
手元に資料がない場合にソースを問われたらあなたならどう説明する?
何をどうやって?って、「こういう事実があるからおまえのその意見は妄想に過ぎない」
とか言ってくれればいいのですが。そちらにはこちらの考えに違和感を感じる理由が
あるのでしょうからそれを教えてよ。なんの根拠もなく言いがかりをつけているとしたら
それはおかしな話。
304 :
日本@名無史さん:03/11/15 15:34
>>303 あのさ、自身の説を肯定する場合には論拠がいるよね?
それを否定するにしても、この史料にこういう記述があるからこう解釈出来るのでは?と
出来るわけだけど、肯定する意見の論拠も提示されない場合は、話も出来ないんだよ
というか、君の考えの元が全く説明されてないのに、相手に対して
>なんの根拠もなく言いがかりをつけているとしたら
と言い出す方がおかしくないか?
>>304 いや。全然おかしくないけど。
>自身の説を肯定する場合には論拠がいるよね?
まぁそれが望ましいね。同意してくれない相手を説得しようと思ったら。
でもそちらが反証するのにこちらのソースは必要ないよ。
そちらがおかしいと思うその根拠だけ示せば議論は成り立つ。
とりあえず、
>彼の野心と豊臣政権に対する危険については、三成だけとは
>言わず、よほど脳天気な人間(福島達とか)でない限り認識できていたと思う
これに対する不満をもっと具体的に。
>当時はまだ天下は強者の回り持ちという感覚が存在していた
皆が豊臣の世襲を認めていたとでも?それはあり得ないでしょ。
>文治派への対抗意識からだけで家康に付いた連中
「だけで」というのが気に入らなかったのかな?
ここで念頭に置いたのは親豊臣を謳いながら東軍に付いた面々についてだけど
官僚達への反感以外に、あるいは286の頭で書いたように彼らが戦後を楽観視してた
という認識も一応は持ってる。
ちょいと待て。
一方が根拠あり一方が根拠ない場合、議論が成り立つのか?
307 :
日本@名無史さん:03/11/15 16:11
とっても熱いお茶〜!
熱いお茶〜!
温いお茶〜!
>>305 望ましいじゃなく、それが当然なんですが・・・
反証するにも、相手の論拠を提示しないと話にならないと何度書けば(ry
>これに対する不満をもっと具体的に。
あのさ、君自身が具体的に書いてないのに、どうしてこっちが具体的な反証が出来るのかと(ry
>皆が豊臣の世襲を認めていたとでも?それはあり得ないでしょ。
持ち回りという認識が存在して、それが主流だったという論拠がないでしょ・・・はぁ
君の話に不満や疑問は持ってるのは確かだけど、反証しようにも
君自身が具体的説明や論拠提示なく、曖昧な表現に終始してるのに
こっちに一体どうしろと?
なんか馬鹿らしいなぁ、期待してただけに・・・sage
>>306 だから一方が明確な根拠を持ってるならそれを示して叩けばいいんじゃないか?
その上で叩かれた方が納得いかなければそれを覆せる資料を探して反論するさ。
反論するってそういうものだろ?「それは違う」という側がその証拠を提示するもの。
ちょいと待て。
立証責任ぐらい知っとけ。
>>309
>>308 >>これに対する不満をもっと具体的に。
>あのさ、君自身が具体的に書いてないのに、どうしてこっちが具体的な反証が出来るのかと(ry
具体的な反証以前にその文章のどの部分に引っかかったのか明らかにしてよ。
家康に野心も危険もなかったと言いたいのか、三成だけだと言いたいのか、脳天気でも認識
出来たと言いたいのか、はたまた認識出来たものなどいなかったと言いたいのか。
>>皆が豊臣の世襲を認めていたとでも?それはあり得ないでしょ。
>持ち回りという認識が存在して、それが主流だったという論拠がないでしょ・・・はぁ
主流だなんてどこに?「存在していた」としか書いていませんけど。何?
>>311 あの〜、言葉遊びになりたくないから、肯定する君にも具体的に書いて欲しいんだけどね
>主流だなんてどこに?「存在していた」としか書いていませんけど。何?
君の書き方だと、この考えが主流と受け取れるんだけどね
論拠を提示して、具体的な書き方してもらわないと、言葉遊びにする人がいるから
やって欲しいんだけど、自身の論拠は不用で人にはねぇ・・・疲れるよ
おまいら痛々しいからもうヤメトケ、絶対噛み合わん議論になるぞ。
議論にもならんと思うが。
>>311 知ってる。でもこの場合の立証責任こっちにあるの?
>>312 でひとつ目の点については?
>君の書き方だと、この考えが主流と受け取れるんだけどね
あの文章をそう捉えるのは読解力が欠如してる。だってそれに続く文章で
「〜もいた」という部分限定の書き方をしているんだから。主流だと考えていたら
その部分は「〜ばかりだったor〜が多かった」とうの書き方をするよ。
結局何が言いたいの?ディベート講座を開きたいの?
どういう根拠で、何に不満を持って、それにたいする事実はこうだ、っていう主張が
全く出てこないんだけど。主張出来ることさえなくただ絡んできてるわけ?
言葉で遊んでるのも逃げ口上ばかりなのもそっち。こっちが疲れるわ。
もう止めるわ。別に逃げたとか言われても構わない。
なんかおかしなこと言ってるとしたら正しい知識を身につけさせてもらおうと思ってたけど、
その「正しい知識」の部分がいつになっても出てこないし。期待外れはこっちの台詞。
本題と外れたことばかりで全然話にならない。しかもちゃんと文字が読めないようだし。
んじゃ。
>>314 自分が書いた事は最低でも自分で説明すべきだろ。
>>314 君の論に明確な論拠と、それに対する具体的な解釈説明があれば、それに対して
こちらも具体的な指摘に伴う反論等が出来るんですが、君はそれをしませんので・・・
先ほどの主流云々の件も、指摘したら「存在していた」とだけ書いて、
では、どの考えが主流だったのか、言い換えればどちらが多数派だったのかさえ説明もなし
これじゃあ言葉遊びしてるとしか読めませんが
一つ目もそう
何か問えば言葉遊びで誤魔化されるから、何度も論拠を提示して具体的に君の論を説明願うと
書いてるのだけれども、こっちに不満点挙げろの一点張りでは如何とも出来ません。
>どういう根拠で、何に不満を持って、それにたいする事実はこうだ、っていう主張が
>全く出てこないんだけど
そういう事をしたいのだけれども、君自身が自身の主張さえ全く説明出来てないのに
こちらにどうしろと?
>>317 アンタも捨て台詞はいて逃げるような輩は放置しとけ。
>>317 なんだ、こっちはROMに戻ろうかと思って退いたのに。
あなたが挙げた先ほどのいくつかの点についてあなたの意見を述べてみて下さいよ。
それらの点についてなにか自分なりの考えがあるんでしょう?
「こういう意見があるが私はそうは思わない。なぜなら〜だからだ」といったような形で。
>先ほどの主流云々の件も、
だってそんなことこちらは全然問題にしていないもの。主流だの多数派だのなんて
全然関係ない話をしていたんだけど?その話はいったいどこから来たのやら。
こちらは言葉遊びなんかするつもりは毛頭ないし。
>一つ目もそう
誤魔化すつもりなんてないよ。おかしな人だな。こっちの意見に何か不満を感じたから
レスをつけたんでしょう?"こちらはそれがどういう不満なのか知りたいだけ"で。
それを説明するのにこちらの論拠の提示が必要というのはあり得ない。
っていうか自分自身の意見を述べるにあたって他人の意見の根拠が必要ってどういうこと?
まぁ答えが出ても出なくても本当にこれで終わりにします。
おまえ、さびしがりやだろ。
>>320 相手してくれるに越したことはないね。
無視されるよりは多少おかしなレスでも付いた方がいい。
自論の根拠も無しに他人を批判する厨は(・∀・)カエレ
>>322 批判?どういう意味で?
自身の考えの根拠も明らかにせず一方的に絡んできたのはあちらだけど。
それにしてもここは自作自演し放題だからなぁ…
324 :
日本@名無史さん:03/11/15 18:02
>>283-
これ以降を読めばわかりやすい。
286は自分が何に対して批判受けてるのか分かってない模様。
>>292-295この辺りの展開が大本か。
自身の考えの根拠も明らかにせず一方的に絡んできたのはあちらだけど。
自身の考えの根拠も明らかにせず一方的に絡んできたのはあちらだけど。
自身の考えの根拠も明らかにせず一方的に絡んできたのはあちらだけど。
自身の考えの根拠も明らかにせず一方的に絡んできたのはあちらだけど。
自身の考えの根拠も明らかにせず一方的に絡んできたのはあちらだけど。
自身の考えの根拠も明らかにせず一方的に絡んできたのはあちらだけど。
自身の考えの根拠も明らかにせず一方的に絡んできたのはあちらだけど。
自身の考えの根拠も明らかにせず一方的に絡んできたのはあちらだけど。
自己レスですか?
323 :日本@名無史さん :03/11/15 17:59
>>322 批判?どういう意味で?
自身の考えの根拠も明らかにせず一方的に絡んできたのはあちらだけど。
それにしてもここは自作自演し放題だからなぁ…
自分以外は全て自演らしいw
自作自演は承知のうえで、勇気を持って
参加するしかないでしょ。
それが大人の対応・・・。
自演でもしなきゃ閑散とするからじゃないの?
でも自演は興ざめなんだよね。
どーでもいいけど、自演してる厨ほど自演指摘したがるね。
学問板にはいらない類だな、三戦板へお帰り願おう。
史学に限らずソース提示出来ないのが悪い
それが出来なければ妄想の戯言と一蹴されるのが落ち
おもしろがってる香具師いるだろ?ん?
331 :
日本@名無史さん:03/11/15 18:29
マターリしようよ
>>326 全てだなんて勝手に決めないでくれ。
ところで、
>>324に質問。
あなたは個人的にどの辺が批判されているポイントだと思いますか?
結局あの論拠粘着からはまともな答えは返ってこずか。
さっきの質問に関してこちらの論拠が必要な要素などないのにね。
だいたいこれまでこのスレでもああだこうだと好き勝手なこと言われてきたが、
反論するやつはストレートに反論してたわけだし、論拠論拠と粘着するやつも
居なかったがな。
突然現れてそんなレスが続くとなると騒いでいるやつは一人だけじゃないのかと。
>>328 見てりゃわかると思うがこちらに自演のメリットはない。
>>329 正してもらえるなら妄言と斬り捨てられるのはかまわんのだと何度も言っているけど。
「正しくはこうだ」ということもなくただケチをつけているようにしか見えないから
意見を聞かせてくれと言っているのにいつまでたってもそれがない。
正直、こちらはソースを提示出来ないから勝ち負けで言ったら負けでもいいんですよ。
ただあちらはのらりくらりと逃げるだけで間違いを端的に指摘して理由を説明してくれない
わけでしょ。それじゃただのいちゃもんだとそういっているんです。
自論の根拠はなしに、双方相手を罵倒するだけ
↓
292が「どっちも同レベル」と批判
↓
286が俺は色々な資料(歴史群像や歴史読本とかw)読んで歴史に詳しいんだYO
どこがおかしいんだYOと逆ギレ
↓
拙論の根拠を求められる
↓
286が「不満に思ってるお前が根拠出せ」とワケワカメ
↓
以後、ループするも286が最後に煽り逃げ
↓
が、再度降臨。今に至る。。。
これでFA?
あーそうそう。
別の板なんだけどID強制表示のやつで
激論かわしていたんだよね。
それで第三者が意見すると議論が終了してそいつに向かって
加 わ り た い の?
だって。
これも厨房ですよね、こんなんばっかだよ。
>>332 ソース出して説明しないのが叩かれてんじゃねーの?
普通に根拠示せば終わりじゃん。
なんで頑なに自分の書いた事の根拠ださないの?
つーか、不特定多数の人間が見てるのが理解できない方々はヤフーに行けばよろし
思う思うだけじゃなんも結論でねーよな
それを理解汁!!!>ALL
おぉぅ盛り上がってるw
ここまで読んだ感想。
史学は論拠しめすのは義務だよ。
じゃないと妄言で何ら解決には至らない。
たまーーーーーーに、論拠捏造する低脳もいるがナーw
盛り上げ役が何か言わんと盛り上がんねーぞ!!!!
よくあるループ
@歴史好きの素人同士の会話で
だんだんと盛りあがってくる。
Aソースを出せと厳しく主張する廚が出現。
B素人な事もありソースが出せない。
Cそしてだれもいなくなる。・・・sage
>>341 ここは学問板ですよ?
趣味で話したいなら三国志・戦国板でどーぞ
>>287は煽りなんだろうけど、その後の流れを見ると
>>286の本性をいち早く見抜いていたと言えなくもないな(笑)
286=341でしたw
ソース出せというのが厨というのは初めてだ。
凄いな本物は。
346 :
日本@名無史さん:03/11/15 19:42
ソース厨というのはアカ板ではありえないもんじゃないのか、フツー?
347 :
日本@名無史さん:03/11/15 19:54
ソース厨ってなんですか?
348 :
日本@名無史さん:03/11/15 20:49
なんでもソースつけて食べる人の事だよ
349 :
日本@名無史さん:03/11/15 21:14
ちんこ丸出し
350 :
日本@名無史さん:03/11/15 22:12
なんだ。二人のラブラブチャットは終わったのか?
祭りに乗り遅れちゃったよ('・ω・`)
351 :
日本@名無史さん:03/11/16 13:09
6時間ドラマ 関が原
後編 男たちの祭り
結論:
>>286は思い込み厨の伊達遠江守家中
理由:結城秀康の名乗りでスレが荒れた時も、自分が批判されたことに対する反省なくして
相手に「論拠を出せ」と粘着荒らしをした。
>>352 あのなあ、日本史板のあちこちで同じようなカキコをしているようだけどさ、
「結城秀康の名乗りでスレが荒れた」っていつ、どこのスレの話だよ。
もういい加減、誰かをコテハン「伊達遠江守家中」だと決めつけて叩くのやめたら?
>>353 ( ´,_ゝ`)プッ
伊達遠江守家中が釣れますた(藁
355 :
関ヶ原前夜の主要大名の石高:03/11/17 03:47
1 徳川家康 武藏・江戸 2,557,000 東軍
2 毛利輝元 安藝・廣島 1,205,000 西軍
3 上杉景勝 陸奧・會津若松 1,200,000 西軍
4 前田利長 加賀・金澤 835,000 東軍
5 島津義弘 薩摩・鹿兒島 609,000 西軍
6 伊逹政宗 陸奧・岩出山 580,000 東軍
7 宇喜多秀家 備前・岡山 574,000 西軍
8 佐竹義宣 常陸・水戸 546,000 西軍
9 鍋島直茂 肥前・佐賀 357,000 西軍
10 小早川秀秋 筑前・名島 336,000 西軍
11 堀秀治 越後・春日山 300,000 東軍
12 加藤清正 肥後・熊本 250,000 東軍
13 福島正則 尾張・清洲 240,000 東軍
13 最上義光 出羽・山形 240,000 東軍
15 淺野長政 甲斐・甲府 225,000 東軍
16 長宗我部盛親 土佐・浦戸 222,000 西軍
17 前田利政 能登・七尾 215,000 西軍
18 石田三成 近江・佐和山 210,000 西軍
19 小西行長 肥後・宇土 200,000 西軍
19 筒井定次 伊賀・上野 200,000 東軍
19 増田長盛 大和・郡山 200,000 西軍
356 :
関ヶ原前夜の主要大名の石高:03/11/17 03:48
22 秋田實季 出羽・窪田 190,000 西軍
23 黒田長政 豐前・中津 182,000 東軍
24 蒲生秀行 下野・宇都宮 180,000 東軍
25 蜂須賀家政 阿波・徳島 177,000 中立
26 中村一氏 駿河・駿府 175,000 東軍
27 生駒親正 讚岐・高松 173,000 東軍
28 池田輝政 三河・吉田 152,000 東軍
29 吉川廣家 出雲・富田 142,000 西軍
30 森忠政 信濃・川中島 137,000 東軍
31 織田秀信 美濃・岐阜 133,000 西軍
32 立花宗茂 筑後・柳川 132,000 西軍
33 宮部長熙 因幡・鳥取 131,000 西軍
34 毛利秀包 筑後・久留米 130,000 西軍
35 丹羽長重 加賀・小松 125,000 西軍
36 岩城貞隆 陸奧・磐城平 120,000 西軍
36 堀尾忠氏 遠江・濱松 120,000 東軍
38 結城秀康 下總・結城 101,000 東軍
39 加藤嘉明 伊豫・松山 100,000 東軍
39 京極高知 信濃・飯田 100,000 東軍
39 田中吉政 三河・岡崎 100,000 東軍
39 南部利直 陸奧・盛岡 100,000 東軍
>>353 まさか本人が釣れるとは。鰯を釣ろうとしたらネッシーが釣れてしまった。(w
今度は乃木スレで嶽原でも釣ってくるかな。(w
>>352=354=357
ハズレ。オレは伊達ナントカじゃねーよ。
まったく思いこみ厨にはつける薬がねーな。
いい加減目を覚ましな。
>>358 伊 達 遠 江 守 家 中 必 死 だ な ( 藁
>>359 おまいさんと伊達遠江守家中に何があったのかしらんが、
わけのわからんカキコを続けられると、他の住人に迷惑だ。
関ヶ原の話をするつもりが無いなら、もう来るな。
>>360 それは、全てあなたの思い込みです。
他人を非難する前に、思い込みについて反省しましょう。
>>361 つまらんレスだな。ワンパターン厨か。
>それは、全てあなたの思い込みです。
他にいうことないのかい?
どっちもうざい
365 :
日本@名無史さん:03/11/19 14:03
堀秀治って30万石もあったんだね!
すごい手柄でもたてたのかな・・・
そういえば清正が上杉征伐に参加していなかったのは
どうしてかな。黒田長政は参加しているんだけど。
>>366 清正は豊臣の忠臣で乗り気じゃなかったから。
>>367 即レスサンクス。
やはりそうだったんですね。
ぼくもなんとなくそうじゃないかなあと
予想していたんだよ。
369 :
日本@名無史さん:03/11/20 00:14
>>369 リンク先に書き込んでるヤシらも含めて、それは全てあなたの思い込みです。
371 :
日本@名無史さん:03/11/20 07:00
>>370 まだいたのか。ワンパターン厨。
リンク先を見ると、史料を引用しながら議論しているようだが、
どこが「全て思い込み」なんだ?
根拠を挙げて論証してみな。レスしてやるから。
>>370 思い込みだと指摘されたら、他人を謗る前にまず反省すべきだと思います。
あなたが伊達君なら、「まだ懲りないの?」と言いたい。
あなたが伊達君でなければ、「基地外の轍を踏みなさんな」と言いたい。
374 :
日本@名無史さん:03/11/20 18:46
伊達君なんて言っているお前も全然説得力ねーよ。
伊達君が何なのか知らないし知りたくも無いオレ
からすれば。
上杉と交戦状態になってから挙兵では遅かったのかな?
交戦状態になれば相当数の戦力が釘づけになるんだが。
西軍の戦力を集中させる時間も稼げたと思うよ。
>>375 東上する諸大名が増える一方だから
のんびり構える事は出来ないんじゃない?
377 :
日本@名無史さん:03/11/21 01:03
>>373 おいおい、
「他人の思い込みは反省させなくてはならない」ってことかよ。
恐ろしくバランスを欠いた思考様式だな。
おまいさんの脳内に神でも降臨したのかい?
悪いことはいわん。
精神科医師の診察を受けることをオススメする。
381 :
日本@名無史さん:03/11/22 07:49
373は西軍 377は東軍
>>375 交戦状態に入ったことを、西軍が知るまでの
タイムラグ分(5日程度?)、上杉軍が耐えられればいいけど・・・。
384 :
日本@名無史さん:03/11/22 17:38
なんだかな・・・w
>>384 「全てあなたの思い込みです」でググって、
まさかコウムインがヒットするとは思わなかったので、
漏れも笑ってしまいました。
>>386 グーグルキャッシュにあるので、見られると思いまつ。
公務員板の「公務員の給与は安すぎる!!」というスレでつ。
389 :
日本@名無史さん:03/11/22 22:50
「全てあなたの思い込みです」ってのはウザいコテハン撃退用の常套句みたいなもんじゃなかったのか?
それを単に気に喰わない香具師に対してアホのように使う香具師も多いが。
390 :
日本@名無史さん:03/11/23 00:52
日本が関ヶ原だ、ワーーッ、とかやってる頃、
英国ではシェイクスピアの「ロミオ! おーっ愛しのジュリエット」
とか上品なのやってたんだろ。
凄い差だよな。笑っちゃうよ。
そうかな?
「秀忠! おーっ愛しのお江」とか文通していそうな気もするが・・・。
上田城を離れたあたりで。
確かに凄い差がありそう。笑っちゃうよ。
まあ、能や日本舞踊も十分すぎるくらいお上品だと思うが・・・。
それはともかく、オレも昔、シェークスピアが関ヶ原の時代の人と聞いて意外に感じた記憶がある。
当時のヨーロッパは魔女狩りのような野蛮なことを一生懸命やっていたわけで、凄いギャップがあるんだよね。
お ま え ら 三 戦 板 に 逝 け
394 :
日本@名無史さん:03/11/23 20:34
ここが三戦板の植民地だ。
原住民はどんな権利も主張するな。
>394
ボーグか?
396 :
日本@名無史さん:03/11/25 00:46
議論になってねーじゃん
>>397 議論「らしいもの」はしているようだが。(w
>>396は多分当事者。
それはともかく、誰も書いてないから自説を出しておこう。
「上杉と家康が交戦するまで待っていたら、一緒に挙兵するヤシが史実よりも禿し
く減ってしまうから」だと思われ。
大坂周辺にいて、結果的に西軍についた連中の多くは、上杉攻めに従軍するために
集まってまだ出発してない(少々遅刻気味)という状態でなし崩しに西軍に加わっ
た大名が多かったから。
もっと遅い挙兵だと、史実上の小山軍議に加わる大名の頭数が増えるだけで、三成
にとって利があったかどうか判断が難しいと思われ。
それってどれ?
>>398 この漏れ様は、なし崩しに加わったんじゃなくて、正確な読みによって
西軍に加わったのさ(´・ω・`)
398は痛すぎるな。
まるで津本陽の小説を読んでいるようだ。
>>400 399のようなドキュソ煽り厨を相手するあんたも 同じ厨房だよ
三成はこの漏れ様が認めるほどの優秀さだったんだが、
惜しいことをしたな(´・ω・`)
このナリキリの低脳はどーにかならんものか
三戦板の厨だろーが
俺は金吾秀秋は好きだぞ。結構いい味出してると思うが。
410 :
日本史@名無史:03/12/10 23:17
まあ人にはそれぞれ優れている所もあるんで・・。
利害を超えてまで付き合う人物とは思えないね。
411 :
kotaro:03/12/11 12:41
歴史を遡るなら、秀吉存命の時
まで戻して考えてみたい。
実子の長男の誕生により秀吉の描く
スケジュールは大幅に変ってきた。
もし、それが、無ければ、豊臣家は、
代々磐石に続いたのだろうか。
>>410 > まあ人にはそれぞれ優れている所もあるんで・・。
ここの板に書き込んでるヤシらの多くは、その例外がほとんどだな。
西軍の頭が文官だった時点で
関ヶ原に勝とうが負けようが豊臣は滅びるような
>414
三国志IIIをやったこと無いのか?
>>415 そんなものを種に歴史を語るつもりなの? 捏造と思い込みの次に悪質だな。
二度と書き込むなよ。
>>418 ネタにマジレス、カコワルイ(;´Д`)
420 :
日本@名無史さん:03/12/15 19:11
フセインも石田三成のように穴ぐらから発見されました。
421 :
日本@名無史さん:03/12/17 03:38
>>413 豊臣政権で、文官・武官の区別はあまり意味がない。
例えば石田三成や大谷吉継は小田原征伐や朝鮮出兵では軍を率いており、
武功派の福島正則あたりと比べても、戦歴はそれほど劣らない。
関ヶ原に関していえばむしろ、
総大将(徳川・毛利)の決断力の差の方が影響は大きかったといえる。
毛利が秀頼を擁して関ヶ原に出陣していれば、勝敗はどうなったかわからなかった。
ただ、天下を取った毛利が豊臣家を滅ぼさないという保障はどこにもないわけだが・・・。
まあ、最初から戦争なんてするべきじゃなかったんだろうな。
そうだね。戦争で一番被害を受けるのは一般庶民だし。
423 :
日本@名無史さん:03/12/17 21:06
424 :
日本@名無史さん:03/12/17 21:18
>>422 素晴らしい意見だね
こんなところでくすぶってるのはもったいない
ぜひブッシュに聞かせるべきだ
その前に徳川家康に言ってやってくれ。
426 :
日本@名無史さん:03/12/21 23:41
427 :
TOSSHI:03/12/21 23:55
>>421 石田三成は朝鮮出兵に同行していなかった気がしますが?
>>426 大谷も石田も、枠組み的には同じ「武装官僚」。
429 :
日本@名無史さん:03/12/22 00:46
>>427 軍を直接指揮したわけではなかったけれど、奉行として出向いてますね。
大名の監視役というのがお役目だったようだけど。
430 :
日本@名無史さん:03/12/22 00:58
前田利家の亡くなる前後くらいに家康暗殺に成功してれば?
一応表面上は病没と取り繕って、
徳川家には秀忠の大老就任と
三成に適当な罪状つけて隠居に追い込む事で徳川家中の怒りを
慰撫する。
こうなると戦争は起きないだろ。
ただ大老の顔ぶれが
徳川秀忠 前田利長 毛利輝元 上杉景勝 宇喜多秀家・・
当然奉行に三成不在 秀頼は子供で淀殿いるし・・
へっぽこすぎる。頼りない事この上ないな。
433 :
日本@名無史さん:03/12/22 10:34
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434 :
日本@名無史さん:03/12/22 10:34
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日本@名無史さん:03/12/22 10:35
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日本@名無史さん:03/12/22 10:36
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! | ヽ| 、i ,. イ'
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
440 :
日本@名無史さん:03/12/23 02:17
>>429 三成は秀吉渡海延期を受けて文禄元年6月に2000の兵を率いて渡海。
奉行として秀吉の命令伝達や作戦会議の招集、戦況報告などを行ったが、
宇喜多秀家の指揮下で軍事作戦にも従事している。
例えば、文禄2年1月の碧蹄館の戦いには6番隊として参加。
同年2月の幸州山城の戦いでは2番隊として参加し、負傷している。
こうしてみると朝鮮出兵における三成の役割は目付や監視役じゃなく、
現地軍参謀と部隊指揮官の兼任であったと思われる。
441 :
日本@名無史さん:03/12/23 22:56
軍監の役目が監視役だけだと思っている人が多いのかな?
関が原の本戦でも徳川方の井伊や本多は傍観してたと思っているのだろうか?
名前が思い出せないが、金吾についた家康の目付け役が討ち死にした状況を思い返してみてくれ。
442 :
日本@名無史さん:03/12/24 12:46
>>441 金吾秀秋に監視役としてつけられたのは、
徳川家臣の奥平貞治と黒田家臣の大久保猪之助で、
戦死したのは奥平のほう。
ただ、朝鮮出兵の石田・大谷・増田は、軍監や軍目付ではなく、
総大将宇喜多秀家を補佐する軍奉行として派遣されていたので、
上記の連中とは役職の性格が異なっている。
あぼーん
445 :
日本@名無史さん:04/01/06 22:09
司馬の関ヶ原の下巻がもうすぐ終わります。
どうしても、登場人物が影武者徳川家康(漫画のやつ)やゲームの決戦で
想像して読んでます。
皆さんはどのようにしてますか?
TBSの森繁版関ヶ原ですか?
厨房ぽくってすまん。
446 :
日本@名無史さん:04/01/07 16:47
>>445 家康は何といっても肖像画があるからな。
太っていてギョロ目。耳が大きくヒゲがない。
一度見たら忘れない顔だよな。
どもりの癖があり、ハッキリものを言わない性格で、
歌道や茶道など風流の道は全然ダメだったという。
太っているくせに体力絶倫で鷹狩りが大好き。
25町(2.7キロ)を一気に走って息一つ切らさなかったという伝説がある。
死の前年(大坂陣)においても甲冑を着て馬に乗り諸軍を指揮。
ちなみに家康の没年は、三国志演義の黄忠と同じ(75歳)だったりする。
オレとしては、本物が化け物のようなジジイだけに、
影武者徳川家康や大河ドラマの家康は個性が無くてつまらんと思ったな。
ちょっと訂正。
×ヒゲがない
○ヒゲが少ない
448 :
日本@名無史さん:04/01/07 23:37
>>446 そっちの方がリアルだな。史実は小説より奇なりだな。
レスありがとう。
449 :
日本@名無史さん:04/01/07 23:50
>>446 でも関ヶ原の頃から輿に乗るようになってたね
450 :
日本@名無史さん:04/01/08 01:18
>>449 さすがに年だからな。
でも、戦闘の時は馬に乗っている。
大坂夏の陣で家康が馬に乗れなかったら、
真田軍の捨て身の突撃に逃げ切れず、
今川義元のように討死していたかもしれないな。
451 :
日本@名無史さん:04/01/10 23:23
>>司馬の関ヶ原の下巻がもうすぐ終わります。
司馬の関が原はおもしろいよな
正義 石田 悪 徳川のコンストラクトが絶妙。
>>どうしても、登場人物が影武者徳川家康(漫画のやつ)やゲームの決戦で
>>想像して読んでます。
あれはかっこよすぎ。実際、家康は太りすぎだろう
背も低いし
>>TBSの森繁版関ヶ原ですか?
なつかしい。もう20年前。あれのほうが家康と島左近がかさなるんだよな
俺は。島左近かっこいい。
TBSの森繁版関ヶ原ですか?
花の慶次の家康がベスト
453 :
日本@名無史さん:04/01/12 02:07
大河ドラマの影響から
家康=津川雅彦
実際かなり近いと思われる。
454 :
日本@名無史さん:04/01/12 15:35
TBSの関ヶ原はよかったね!
特に
三国連太郎の本多正信は
よかったなぁ
455 :
日本@名無史さん:04/01/12 16:04
>>453 でも晩年の家康って
自分でフンドシまわせないほど
太ってたんでしょ?
デブがいいよ!
456 :
日本@名無史さん:04/01/13 23:18
関が原の戦いシーンは一番葵が良い
6時間ドラマは前置きが長がすぎ
葵の宇喜田は似合わん。
457 :
日本@名無史さん:04/01/13 23:26
長政がもうちょい関ヶ原延ばして如水の天下取りっつうのが見たかった
黒田太平記
459 :
日本@名無史さん:04/01/13 23:30
やっぱ2代目はタリンのじゃろか
460 :
日本@名無史さん:04/01/14 08:18
461 :
日本@名無史さん:04/01/14 08:39
長宗我部は何しに行ったんでしょうか?
長宗我部部隊にいて戦死した漏れの先祖って、
何をしにいったんだろうか…。
一般的な話では
長宗我部盛親は家康について奥州の上杉攻めに加わる予定だった
ところが
京に到着した辺りで石田三成が関所を封鎖し東国に逝けなくなってしまった
やむを得ず長宗我部は西軍に付く羽目になった
関ヶ原の合戦では毛利と一緒に配置され
肝心の毛利本隊が動かなかったために長宗我部も動けず
といわれていたと思う
>>461の先祖はまさしく犬死にでしょうな・・・(つд`)
463 :
日本@名無史さん:04/01/14 18:53
三成が好きと言う人は、100%司馬の関ヶ原を読んでいるね。
まさに石田オタのバイブル。
464 :
日本@名無史さん:04/01/14 19:42
長宗我部め…。
国取り合戦の末が、
訳もわからず敗退かよ!
漏れの先祖は犬死か…。
まぁ道理で大阪の陣には馳参じなかった訳だ。
465 :
日本@名無史さん:04/01/14 22:37
>>463 そうか?
司馬の関ヶ原は家康描写もひどいが三成描写も結構ひどいぞ。
むしろものごとを自分に都合よく考える頭でっかちが、
思うようにいかずに失敗し、「敵が常識知らずだ」とか逆切れする描写が秀逸なんだがw
466 :
日本@名無史さん:04/01/14 23:27
>>462 慶長5年4月27日付けの島津義弘の書状に、
「内府様に伏見城の守備を依頼された。
奥州出張は百石3人役だが、当家は留守番なので百石1人役」とあり、
同じく8月20日付けの島津義弘の書状には、
「長宗我部殿は2千人の軍役であったが、
秀頼様への忠節を示すため5千人を召しつれている。
薩摩軍はわずか千人なので面目次第もない」とある。
これらを総合すると、上杉攻めにおける長宗我部の役割は、
京都・大坂を固める留守部隊であったものと思われる。
467 :
日本@名無史さん:04/01/15 00:45
>>463 この小説でいいのは最後の最後の方だね。
敗戦後の三成の意地と、黒田如水が出てくるところ。
人間描写はちょっと甘い気がした。
最初の方で秀吉や三成が魅力的に描かれていないので、
三成が秀吉に、左近が三成に何で尽くすのかよくわからなかった。
文庫本の解説でも、史実においてキーパーソンであった
安国寺恵瓊の描写がもの足らず、あいまいさが残ると指摘されている。
ただ小説の大部分は秀吉没後の派閥抗争を描いており、
そういうのが好きな人にとってはバイブルになるのかもしれない。
468 :
日本@名無史さん:04/01/15 08:42
岳宏一郎の「群雲、関が原へ」を是非読んでくれ。
関が原の合戦にどうして惹かれるのか、その理由が再認識できた。
司馬版「関が原」も時代を作ったが、岳版は司馬を遥かに凌駕する
出来栄えだと思う。
両者の最大の違いは人物描写。
俺は三成信者だが、この本の家康は非常に魅力的だ。
福島正則、金吾、三斉、三成なども良く書き込めている。
群雄割拠する人間絵巻。新潮文庫でも出てるから、騙されたと
思って一読を!
>>464 大坂の陣の時には、長宗我部は既に改易され、大名ではなくなっています。
当主の盛親が長宗我部再興をねらって大坂城に入城し、豊臣側で戦いました。
が、ご存じのように豊臣家は滅亡し、盛親は京に逃亡。潜伏しているところを見つかり
二条城門前でさらし者にされ、最後斬首されました。
ご存じとは思いますが念のためカキコ
>>468 司馬氏の関ヶ原は、加藤清正>>>福島正則だが、岳氏の関ヶ原では福島正則>>>
加藤清正と両者の人物評価が逆になっていて面白かった。
そういう独自性を肯定するか否定するかは人それぞれだと思うが、個人的には司馬関
ヶ原の劣化コピー版しか送り出さなかった元経済企画庁長官よりは好感が持てる。
471 :
日本@名無史さん:04/01/16 00:10
472 :
日本@名無史さん:04/01/16 03:31
俺は群雲、関が原へより司馬のほうが好きだが。
あくまでも好みの問題とおもうが
「群雲、関が原へ」の家康てなんかかわいい。
474 :
日本@名無史さん:04/01/16 16:14
鶴翼の陣
475 :
日本@名無史さん:04/01/16 21:12
476 :
日本@名無史さん:04/01/16 21:22
>>468 >司馬氏の関ヶ原は、加藤清正>>>福島正則だが、岳氏の関ヶ原では福島正則>>>加藤清正
はぁ?
司馬の「関ヶ原」のどこに加藤清正>>>福島正則だと?
477 :
日本@名無史さん:04/01/17 10:57
群雲関が原では家康は馬鹿あつかいじゃない?
関が原では老獪であるが
>>476 結果的にはそーだろ。もっとも、それは正則を著しく貶めてるから結果的に貶められ方の
少ない清正が上になってるだけとも言えるが。
479 :
日本@名無史さん:04/01/18 18:54
雲は、まだ低い。
で、そろそろ結論ださないか?
結局関が原で一番チンポでかい武将って誰よ??
子供の数から考えて家康
>>478 それは、全てあなたの思い込みです。
伊達君、必死だな。(w
ま た 思 い 込 み 厨 の 伊 達 で す か ! ?
まったく伊達の思い込み厨には呆れたもんだぜ(´・ω・`)
関ヶ原合戦は石田三成が徳川家康を戦場へ引きずり出した。
徳川家康は罠にかかったのだ。
>>486 煽りにマジレスなのだが(苦藁)
これって実際の所どうなんでそ?
関ヶ原には早くから三成が陣地を構築していて、関ヶ原での合戦は西軍の所定の行動だったという説もある
が
小早川秀秋が西軍側の武将を追い出して松尾山に陣取ったために、あわてた三成が関ヶ原に急遽移動したという説もある
どっちが真相?
大筒って急遽移動できるものなのかな?
489 :
日本@名無史さん:04/02/04 00:26
真相は永遠にわからんだろう。
「フィールドワーク関が原」でも読んで夢想に耽ることを勧める。
>>488 少なくとも雨の中を行軍しているのだから、大砲の運搬はできない
と思われる。東軍も霧が晴れてすぐ戦闘になっているので、西軍の
布陣に対して手探り状態で陣を張ったのだろう。東西両軍とも極め
て困難な行軍と陣取りを立派にやってのけて本戦を迎えたと考えて
好いでしょう。その事を考えると東西両軍の先導と陣割りをした、
石田三成、福島正則は二人とも指揮統率能力に優れた実戦指揮官で
あったと考えられる。
つうことは、大筒はあらかじめ
陣地に設置してあったわけだ。
>>491 それはない
笹尾山・天満山・小関からは陣地跡が全く見られない
しかし笹尾山は築城しているので除くが、大谷隊の陣地跡や南宮山の毛利・長宗我部等の陣地には
しっかりと陣地跡が残っている
これを踏まえると、
>>490が書いているような“統一された目的の元で陣割”を東軍は兎も角、
西軍が行なったとは考えにくい
西軍の布陣、石田・宇喜多・小西・島津隊は、東軍の西進を阻止すべく宇喜多隊を中心に
北国街道を封鎖する形を取ったものと思われる
西軍の布陣は大きく3つに分けて考えた方がよいと思う
大垣にいた三成等の本隊、伊勢方面から北上してきた南宮山の毛利秀元を中心とする数隊
松尾山にいる小早川秀秋を中心とする数隊
南宮山の部隊は、主に大垣城を東軍が包囲した場合に備えての後詰、
松尾山城は、大垣城の付城と考えたらいいかと思う
これらは早くから準備されており、三成の策は大垣に篭城してからの持久戦だと考えられ
大坂から毛利輝元の毛利本隊が出てくるのを(秀頼の出陣までも)待っていたと思われる
よって「あのような布陣になると、予め予測し大砲を設置していた」とは考えられず
あの布陣はあくまで東軍の西進に対しての対応の結果だと思われる
494 :
日本@名無史さん:04/02/04 03:36
>>487 いくつかの要素をあわせて考えると、後者の可能性が高いと思われる。
1 歴史読本2003年2月号に「陣跡から読む関ヶ原合戦」という記事があり、
それによると、西軍が布陣した笹尾山や小関、天満山などには、
陣城の痕跡を示す遺構はいっさい見あたらないらしい。
2 東軍に従軍していた板坂卜斎の「慶長見聞書」によると、西軍の関ヶ原転進について、
「秀秋に謀反の風聞があり、仕置のために出陣したが、先手衆(福島等)は知らなかった」
と記録している。
3 また、東軍に内通していた吉川広家の覚書によると、
「秀秋の逆意が明白になり、大谷吉継の陣から心もとないと言われたので引き取った。
佐和山へ2重に引き取る覚悟と見えた。前日の(西軍の)議定と相違した行動だ」とある。
4 「関ヶ原軍記大成」には、「竹中重門が赤坂から菩提山への陣替を家康に進言した」とある。
要するに、東軍は本陣を菩提山に移すつもりで西進し、先手衆を関ヶ原に布陣させた。
一方、西軍は秀秋の裏切りを受け、急きょ方針を転換して関ヶ原に転進した。
だが、霧のためか互いの動きを全くつかんでおらず、出会い頭に関ヶ原で遭遇してしまった。
両軍にとって15日の決戦は予想外の出来事だったようだ。
つまり関ヶ原の戦いは、この漏れ様と家康と三成の3者による
三つ巴の駆け引きだったわけだ(´・ω・`)
徳川家康、毛利輝元、宇喜多秀家、福島正則の四ッ巴だろう
498 :
日本@名無史さん:04/02/13 10:57
大河ドラマの三成良かったですよ。
大谷形部に協力を断られて、哀しそうな表情になるんだよね。
大谷が軍勢をつれて現れた時は、こっちまで嬉しくなったよ。
499
是正
499→498
小早川秀秋に物申す!
汝に二心あるを知らざるは三成痛恨の極みなれど、
約を捨てて約に違い寝返りを打った汝は、武人の風上
にも置けぬ卑怯者なり。その場に平然と着座するを
恥とは思わぬのかっ!!
三成が生け捕りにされて、お寺で東軍の主な諸将が列席する
場面の、この時の台詞が忘れられない。
負け犬の遠吠えのようにも聞こえる。
>>502 クゥちゃんがほえてるんだからかわいいもんだぜ(´・ω・`)
504 :
日本@名無史さん:04/02/13 22:36
>>502 負け犬の遠吠えに非ず
小早川は三成の、この言葉を脳裏から離れる事が出来ず
頭がおかしくなって変死しているから
三成が道連れにしたとも言えなくない
その台詞以降から他の大名から四面楚歌を食らっているしな。
506 :
日本@名無史さん:04/02/14 06:58
金吾様は、淀の方の不倫の子・秀頼が天下の座に就くことを
豊家連枝として許せなかったのです。
たとえ我が身は改ざんされた歴史の中であしざまにののしられようと、
太閤殿下の恩義に報いるため、莞爾と笑って受け入れた運命なのです。
507 :
日本@名無史さん:04/02/14 18:51
豊臣政権は非常な重税を課していたし、
政治面でも安定せず失政続きだったから、
日本にとっては豊臣から徳川に政権が移ったのは
ラッキーな事なんだけどな。
西軍が負けて良かったんだよ。
508 :
日本@名無史さん:04/02/14 19:08
北政所が、秀吉子飼いの武将たちを徳川に味方させ、あるいは不戦を
させたのが大きな要因だね。家康はこれに深く恩義を感じ、京都東山
に高台寺を建てて北政所を手厚くもてなした。
509 :
日本@名無史さん:04/02/14 19:32
>>508 その説は近年否定され気味なんだけどね。
510 :
日本@名無史さん:04/02/15 10:22
既出だろうけど、やっぱ京極高次の功績は東軍にとって大きいよね?
もし、西軍が大津城で足止め食らわずに関ヶ原に間に合っていたら、
ひょっとしたら……。
511 :
日本@名無史さん:04/02/15 10:43
福島正則は秀吉死後あっさり藤堂高虎同様あっさり家康についたから
三成がどうしようと家康派だろ
512 :
日本@名無史さん:04/02/15 10:59
いやっ、あっさりとはついていない
秀吉死後、家康と利家とで一触即発の危機があった時は
利家についている
福島が家康についたのは、三成憎さから
何しろ、清正らと殺そうとしたぐらいだからね
毛利輝元が関ヶ原に駆けつけていたら、
西軍圧勝だったね
所謂「吏僚派」は豊臣家による中央集権体制を強化しようとするので、
豊臣家以外との軋轢にさらされる立場であったからな。
豊臣家と大名家との仲介役を担う前田・徳川は豊臣家からも大名家からも
信頼を得て権勢家になりうる状況。
しかし、仲介役になるには個人的実績や人格・人脈が基盤になるので、
前田利家死後前田利長は仲介役とはなりえなかった。
唯一の仲介役である徳川家康の権勢がより強まり、
豊臣家・大名家共にこれを頼りにしてしまった。
ここに家康が乗じる環境ができあがった。
毛利輝元は個人的実績・人脈が少なかったので、
徳川家康に対抗できなかった。
515 :
日本@名無史さん:04/02/15 14:51
>>512 >秀吉死後、家康と利家とで一触即発の危機があった時は
>利家についている
正則は利家と親しかったらしいが、そのときは家康についている。
自分の息子と家康の養女との結婚問題が法度違反とされたのだから、
成りゆき上、やむを得なかったんじゃないかな。
ちなみに、伏見の家康のもとに集まったのは、
福島正則 池田輝政 森忠政 織田有楽 黒田如水
黒田長政 藤堂高虎 有馬則頼 金森長近 新庄直頼
蜂須賀家政 京極高次 有馬豊氏 山岡景友 大谷吉継
一方、大坂の利家のもとに集まったのは、
宇喜多秀家 上杉景勝 毛利輝元
前田玄以 浅野長政 増田長盛 石田三成 長束正家
細川忠興 加藤清正 加藤嘉明 浅野幸長 佐竹義宣
立花宗茂 小早川秀包 小西行長 長曽我部盛親
岩城 原 熊谷 垣見 福原
516 :
日本@名無史さん:04/02/15 18:13
利家側の方が強力だな。
利家が死んでなければ、互角以下の戦いに持ち込めたかもな。
池田輝政が家康についたってのがようわからんな。
父の仇だろ。どんなに三成が憎くても家康ほどでは
なかっただろに。
519 :
日本@名無史さん:04/02/15 18:58
>>517 池田輝政は家康の娘婿だよ。
しかもその婚姻は皮肉にも秀吉の命令だ。
秀吉は輝政と家康の和解をはかったのかもしれない。
輝政と家康については何度も話し合いをして和解してたと思われる。
例えば輝政が家康に自分の父を討った者の所領を聞き、そのあまり低さに驚いて加増を懇願した話しがある。
>>516 間違いないな。
家康以外の五大老・五奉行が勢ぞろいし、家康の専横を諌めるという点で一致してたので、
利家在命の時点では大阪方有利。
520 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:02
>>511 福島が徳川についたのはあくまで秀頼のため、
秀頼をないがしろにして政権を奪おうとしている逆臣・三成を誠実な家康を利用して討とうとした(妄想が多いが)。
関ヶ原以降も福島は豊臣との関係を大事にし、
常に江戸に行く前に大阪城に行って秀頼に挨拶したり、秀便が病気の時はあわてて見舞いにかけつけたり、
大阪に常に5万石の米を置いて「いざという」時は使うようにと言い含めていたという。
ちなみに最後の件は現実になった。
それと加藤清正も似たようなものであり、
また福島以上に西国大名に影響力があったうえ淀君を説得できる立場であった。
福島は大阪が滅んだ時、「大阪の陣は三年早すぎ、三年遅すぎた」と発言したという。
大阪の陣が三年早かったら清正が生きていたし、三年遅ければ家康は死んでいたという意味。
もちろん、そういう空白ができたからこそ大阪の陣が起こったのであり空論なんだが。
521 :
日本@名無史さん:04/02/15 19:49
三成の娘の一人が北政所の傍に仕えていたと聞いたことがあるが事実だろうか?
>>521 三成の三女が北政所の養女になっている。その娘は津軽藩二代藩主信枚に嫁し、三代藩主信義を生んだ
523 :
日本@名無史さん:04/02/15 20:32
524 :
日本@名無史さん:04/02/15 20:41
大大名の家康に対して、小大名にすぎない石田三成らが短時日に東軍と互角に渡り合えるだけの
軍勢を兎にも角にも西軍として集められたというのはどういうことだろうか
家康にしても意外な展開であったのではないだろうか
ここらの駆け引きについて薀蓄を披露してください
525 :
日本@名無史さん:04/02/15 20:47
>>524 三成は
>>515の利家の家康糾問グループの策を見て、
それで行けると判断し真似ただけ。
しかし才覚はあっても嫌われ者の彼では
利家のようにはいかなかった。
それだけだ。
526 :
日本@名無史さん:04/02/15 21:16
>>524 >小大名にすぎない石田三成らが短時日に東軍と互角に
>渡り合えるだけの軍勢を兎にも角にも西軍として集められた
これがどうもそうじゃないらしい。
三成と親しかった真田昌幸さえ、挙兵のことを知ったのは三成からではなく、
大坂三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)からの書状だった。
三成が勧誘工作を行った形跡があるのは、大谷吉継と織田秀信くらいで、
西軍の大量動員の中心は毛利輝元・宇喜多秀家と大坂三奉行であったと思われる。
527 :
日本@名無史さん:04/02/15 22:17
>>524 三成が小大名にすぎない、というのは単に石高を基準にみたときの
こと。秀吉存命中は彼の側近中の側近であり、いかに大大名といえど
怖い存在だったであろう。
ちなみに秀吉はかつて三成に100万石与えようとしたが、三成はこれを
固辞したとも伝えられる。他の豊臣系大名とのバランスもあるが、
そもそも彼にとって石高はさほど関心のあることではなかったのだろう。
今でいえば給料がさほど多くないが絶大な権限を握っている財務省事務
次官のような存在ではなかっただろうか。(ちなみに家康は北海道知事
くらい)
さて秀吉死後であるが、三成が嫌われ者で人望がなかったというのは
一方的な見方。確かに一部の武将に嫌われていたのは事実だが、家康に
ついた大名の多くも家康が好きで従ったわけでもなく、家康に分があり
そうだったから従っただけ。
三成の方も、直江兼続を通じ上杉とも友好関係を築いていたし、
宇喜多秀家との関係もよかった。淀・秀頼とも親密で、
三成が挙兵すれば、そちらが正当な豊臣政権とみなされる
のは当然で、家康に対抗しうるだけの軍を集められたのも
当然の成り行きといえる。
むしろ当時の状況で家康が勝てたというのが奇跡にちかいのでは
ないか。
どちらにしても、鳥居元忠をみすみす討ち死にさせてしまったのだから、
西軍があれだけの勢力になったのは家康としても誤算だったんだろうね。
「家康がすべての展開を読み切っていた」説はどうも嘘っぽいなあ・・・
529 :
日本@名無史さん:04/02/15 22:31
>>527 北海道の知事なんて、面積が広いだけで、
国政に与える影響なんてたかが知れてる。
家康は、自民党最大派閥の会長かと。
もちろん、派閥政治バリバリの頃のね。
総理大臣(秀頼)より力あるよ。
530 :
日本@名無史さん:04/02/15 22:57
>>527 九州方面に100石を与えようとしたが
三成は太閤殿下の近くに居たいので
佐和山で我慢した。
>>529 いや、北海道知事というのは言い得て妙だと思うよ。
当時の大阪・京に対する箱根以東というのは、現在の東京に対する
北海道程度のものでしょう。
石高が巨大でも大兵を攻め上らせることなど不可能だし。
西国は毛利、東国は家康、という配置にはなっているけど、上杉・佐竹
がいるからネームバリューと戦歴を除けば政治力に乏しい。
(なんていっても、律儀の人だしね)
日本史的にはとんでもない巨魁だった訳だけど、あくまで結果論。
自民党の最大派閥のボスなどというポジションには当たらないと思う。
>531
確かに北海道は米の生産量は多いな。
ただ、当時の米と今の米は価値が違うわけで
そこら辺を考えると、経済的な地位は
今の北海道よりも当時の関東の方が
でかくないかな?
政治的にも鎌倉幕府つう前例があるし。
>528
「葵」ではそこの所が上手く表現されていると思うけど、どうかな?
534 :
日本@名無史さん:04/02/16 12:46
>>527 >>524 三成が小大名にすぎない、というのは単に石高を基準にみたときの
こと。秀吉存命中は彼の側近中の側近であり、いかに大大名といえど
怖い存在だったであろう。
太閤が健在なときなら「虎の医を刈る狐」というような権勢を誇れたかもしれないが、秀吉の死後それも大坂城を出てしまえば
一介の小大名に過ぎない
三成自身もそのことは自覚していただろう
しかも三成が前面に出てくることへの反発は諸大名にもあったのではないか
盟友大谷もそこは三成に指摘したと思う
しかし現実にはそうはならなかた
逆に家康側から見ると、かえって三成が西軍にいることは体制を固める上では好都合だったのではないか
反豊臣を反石田三成というように恣意的にすりかえていったわけだから
ここは家康の戦略外交の巧みさだろう
535 :
日本@名無史さん:04/02/16 13:55
一番中途半端で不完全燃焼だったのは島津殿だったであろうな。
はじめは東軍に参陣しようとして伏見城に赴くも、頑固者の鳥居
元忠に頑強に拒まれ鉄砲を撃ちかけられる始末。
仕方なく成り行きで西軍に与したが、その後の作戦行動は三成との行き違いによる
齟齬ばかり。墨俣に豊久の軍勢を置き去りにされた格好にされながら辛くも救援に
駆け付け虎口を脱出。
関ケ原に至っては、宇喜多とともに東軍への夜襲を献策するも、三成に容れられず。
味方した以上は勝ついくさとばかり島津殿も必死だったが、結局、いくさ知らずの三成
に押し切られた。歴戦の勇将もこれでは臍を曲げるほかない。乱戦の最中、「つまらぬいくさに
出張ってしまった」と言う感想は心底の後悔とやりきれなさを物語ってあまりある。
居残った戦場では、後ろへ退くこともできず、捨て身の戦法で中央突破。甥の豊久をはじめ軍勢の大半の
将兵を犠牲にしてしまった。
国許にようやく辿り着いた島津殿は布団に潜って血涙を噛み締めたであろう。
「あ〜あ、やだやだ、三成のような愚か者の口車にうっかり乗ってしまった我が身の不徳よ。
あ〜あ〜あ、やだやだやだやだやだやだやだ・・・・・・・・」
536 :
日本@名無史さん:04/02/16 14:18
>>535 >国許にようやく辿り着いた島津殿は布団に潜って血涙を噛み締めたであろう。
その悔しさが268年後の明治維新に結びついたとしたら、島津殿は悲喜入り混じった
複雑な心境になるような気がする。
後世も含めたら、もっと不完全燃焼だったのは上杉殿だと思われ。
家康とガチンコ勝負できるかと思っていたのに、実際は最上や伊達など田舎者の三流
大名としか戦えなかったんだから。
しかも、幕末は伊達に騙されてヘタレ仙台と共倒れ。
もっと不完全燃焼は福島正則だろう。
自他共に認める最高の働きをしながら、最後は難癖つけられて改易。
傷心のまま自殺。
538 :
日本@名無史さん:04/02/16 15:26
三成も含めて当時の戦国諸大名基本的スタンスは猜疑心が強いことである
フロイトも書いているが、大名同士の信頼関係は希薄でささいなことでもいさかいが生じやすかった
これは豊臣政権の統治法であって、大名同士を監視させたことに起因している
三成という人物の戦略が最後までうまくいかなかったのは猜疑心がたたっている
それだけに、戦闘力の高いことを頼みに個々の武将が独走することを嫌う部分は多分にあったと思う
赫々たる戦歴を誇る島津氏の作戦を取らなかったことなど、臨機応変に動けなかった同様の状況が次々と重なっていったように見える
539 :
日本@名無史さん:04/02/16 15:46
>>527 >さて秀吉死後であるが、三成が嫌われ者で人望がなかったというのは
一方的な見方。確かに一部の武将に嫌われていたのは事実だが、家康に
ついた大名の多くも家康が好きで従ったわけでもなく、家康に分があり
そうだったから従っただけ。
三成の行政官としてその厳しさは諸大名から恐れられ、多分に恨みを買う損な立場だったと言わざるを得ない
太閤の後ろ盾がなくなるとそれが一気に噴出し襲撃される事態となる
これこそ積年の恨みつらみの現れである
家康はここでも最善の仲裁役を演じる
つねに家康は先を見ている
だから吝嗇でありながら大名にカネを融通してやったり、領地相続問題を仲裁したりと
こまめに対応してやる
実にうまく恩を売るのである
逆に三成は、どこまでも恨みを買う役どころなのである
540 :
日本@名無史さん:04/02/16 15:59
結局人間は好き嫌いの生き物なのね。
541 :
日本@名無史さん:04/02/16 20:00
そう、人間同士の軋轢はた易くは見過ごせない部分がある
大きな歴史の流れと言っても、もとを正せば秀吉の子飼いの武将同士の対立が常に引っかかってくる
三成も清正らと同じ釜の飯を食って育ったろうに皮肉なものである
互いの足を引っ張り合うような対立関係は、戦国時代らしく実に見事に結実し得たと言うべきだろう
542 :
日本@名無史さん:04/02/16 21:52
同じ釜の飯を食って育ったからこそ仲が悪くなったら徹底的に悪くなる。
543 :
日本@名無史さん:04/02/17 09:37
きっとどっかの時点で、おそらく些細な、ほんの些細な
行き違いがあったんだろうね。人間ってほんとに些細なことで
好きになったり嫌いになったりするから。
三成は殺してやりたいと思う人間がいた反面、彼のためなら命も要らぬという
人間もいたわけで、その辺のバランス感覚が欠落してたんだろう。
普通だったら、いけ好かない奴でも、まあ距離を置いて折り合うかってところだろうけど、
三成は親三成人種には、細やかな気遣いや友誼を示すくせに、反三成は徹底して嫌悪した
ところがあり、まあわかりやすいと言えばわかりやすいんだが。
政権内部の暗闘なら、互角に渡り合ったかもしれんが、実力を行使する戦場となると、やはり
そのあたりの破綻は繕いようがなかったんだな。
>>537 福島正則って自殺なん?
スレ違い承知の上の質問。
545 :
日本@名無史さん:04/02/17 09:55
福島正則なんて
リストラされて自殺するタマじゃないよな。
546 :
日本@名無史さん:04/02/17 12:41
石田三成が秀吉の下で台頭してくるにつけ、政権中枢部の人物が次々と倒れていく
逆にいえば後釜が空いたから上に進めるわけだが、この辺りでも策謀家としての側面が誇張されてくるきらいがある
実際に陰険な企てがあったのか、潔癖な人物だったのかその辺りは掴みにくい
後世秀長や利休、小西隆佐の死、蒲生郷氏や島津氏の毒殺とかの黒い噂に三成が後ろで画策していたとして引き出されてくる
当然まっこうから敵対してきた悪役としての評価が徳川方から出てくることは当然なわけだが、皆さんどう思いまつか?
547 :
日本@名無史さん:04/02/17 13:03
548 :
日本@名無史さん:04/02/17 15:48
利休の妻子、娘にも拷問があったとかの噂があった
あと秀次の追い詰められ方も尋常ではなかったらしい
これらも三成が関わったか否か
>>545 福島正則の菩提寺に正則の一生を描いた絵巻物があり、その最後が
切腹のシーンで締め括られているそうだよ。
正則の遺体は幕府の検死が着く前に焼かれてしまったため、幕府の方
では死因を確認できなかった。
550 :
日本@名無史さん:04/02/17 20:52
関が原戦後は大阪の陣で豊臣家が滅亡・・でも江戸時代にも豊臣家の
血筋は一応残って明治維新を迎えてるんだよね。
徳川将軍家6代目の義母にもなってるし。
最終的には東本願寺にその血統を伝えてるそうだ。
皮肉なことに関白秀次の弟古吉秀勝と淀殿の妹(秀忠の女房です)の娘
完子の血筋てのがなんともいえんですが。
551 :
日本@名無史さん:04/02/17 21:00
関ヶ原の戦いについての卒論ってかけますか?どんな論争がありますか?
552 :
日本@名無史さん:04/02/17 21:39
>>535 いちいち説明するのも飽きたが そういう話しは全部うそ。
伏見城の件なんてまったくの創作。
>>551 書けると思うが、単なるゲームオタになって担当教授を呆れさせないように
とりあえず笠谷和比古氏の『関ヶ原合戦と近世の国制』あたりから読んでみることをオススメ汁
554 :
日本@名無史さん:04/02/18 10:51
島津は幸運だった
島津氏としては当初徳川有利と見ていたのではないか
寺社ルートの情報網を独自に駆使していたわけだから、そうした情勢分析は事前にしていたと思う
しかしながら肝心の兵力が島津の場合は手元に揃っていなかった
それだけに中央の緊迫した臨戦体制状態にアッて、この時の対応に少なからず苦慮したと思う
少ない兵力をもって伏見城に駆けつけてもここではまともには相手にはされまい
が、ここで受け入れられて篭城したとしても一気に西軍に攻め寄せられたら島津といえども勝ち目はない
だから、このとき徳川方にはっきり断られてよかったねといいたい
島津氏に数万規模の兵力があれば、いかに頑迷な三成の反対があろうとも臨機応変の
作戦を縦横に取るといった別の展開はあったであろう
しかしこの場の島津には兵がない
東軍を積極的に攻撃せずに済んでよかったね
関が原でも同様に、積極的に東軍に責めかかったわけではない
戦場からの退路を開くために敵陣をぶち抜いて脱出できたこと、徳川方の追撃をかわして島津義弘を無事に国許まで
返せたことは奇跡としか言いようがない
島津の面目が保ててよかったね
555 :
日本@名無史さん:04/02/18 12:31
>>554さんへ
島津は結構西軍へ加担しているよ。小西の宇土城が攻められた時に援軍を
送っているし、夜襲の件は後世の創作だろうけどそれ以外では積極的に
戦っているよ。
それに当時の人はあの1戦でほぼ片がつくとは誰も思っていなかった筈だから
自家が生き残るよう2股をかけていた所は多いと思う。
556 :
日本@名無史さん:04/02/18 15:38
>>555 そうでつね
当時としては物凄い情報戦があって密書が相互に飛び交った
西軍の奉行であってもこっそりと家康に情報を漏らしたりしている
関が原に布陣してからも疑心暗鬼で成り行きを見ている
勝機がどっちに転ぶか分からない
まさにショウ・ザフラッグの世界でつね
封建時代の戦争は、多数派工作がメイン。戦術や兵器の差などは二義的なこと。
ということが、とっても典型的で良く分かるのが、関ヶ原の戦い。
支持者をいかに多く集めるかが大切。ただし、支持には強弱がある。しばし、
戦国時代に小が大を倒すことがあるのは、この支持の強弱にもよる。強く支持
する1000人が、損害を省みない突撃によって、
弱く支持する5000人に勝つことがあり得る。
三成は見かけ上、5分5分の支持者を集めることに成功したが、偽支持者(小早川)
弱支持者(毛利本家・ちょうそかべ)が多くて負けた。
558 :
日本@名無史さん:04/02/18 17:34
関が原は一日で決着が着いたと言うことでは一つの大きな流れの分岐点だろうが、ここに至るまでの
徳川家康の画策はやはり見事に功を奏したといえよう
それが豊臣家の行政官としての三成の立場からみると、確かに居たたまれない部分がそれこそあれこれ
あったろうね
秀吉が天下人になったときから着々とね
家康のしたたかさは尋常ではないからね
559 :
日本@名無史さん:04/02/18 18:32
>>554 だから伏見城の件は全くのねつ造
それと義弘は積極的西軍で関ヶ原では二番備えの役割。
義久は義弘への派兵を妨害したが
徳川方というより中立主義だったの
島津は山田某が、亀井からの援軍要請で鉄砲隊を派遣している。
関ヶ原でも序盤から少なくとも戦闘している。また一説には井伊は
最初、宇喜多ではなく島津を攻撃したともいわれている。
NHK大河ドラマ「徳川家康」では、その説を採用していた。
561 :
日本@名無史さん:04/02/18 19:03
義弘は関ヶ原の数ヶ月まえに
徳川キモイ、ともに徳川を倒そうという手紙を送ってる。
たた義久は不作や内乱などの経済的理由から
関ヶ原への参加に反対した。
つまり義久にとって関ヶ原とは朝鮮の役のような
自分の国から遠く離れたどうでもいい争いと思ってたようだ
戦後も忠恒の上京に執拗に反対したし。
562 :
日本@名無史さん:04/02/18 19:17
>>559 NHK大河ドラマでは伏見城の城門前で島津義弘らは鉄砲撃ち掛けられて
すごすご退散していたぞい!
563 :
日本@名無史さん:04/02/18 19:25
>>562 島津義弘の伏見入城拒否の話は有名だけど、どうも本当ではないらしいよ。
やや長文だけど慶長5年4月27日付けの兄義久あての島津義弘書状を引用する。
内府殿に庄内の乱平定の報告をしたら、
「上杉との交渉次第では戦争になる。島津殿には伏見城の留守番をしてほしい」
と言われたので、
「御意は承りましたので、子細のご返事はお取次ぎの使者へ申し上げます」
と言ってその場を退出した。
ここにいる知人たちに対応を相談したのだが、
「公儀の言う事なんだから指示通りにした方がいいのでは」との意見ばかりだった。
ただ伏見の留守番するにもこうも人数が少なくては、お家のためにも良くないし、
天下の取り沙汰もいかがなものかと思われる。庄内のこともあり迷惑かもしれないが、
奥州遠征なら百石3人役だけど、留守番は百石1人役だから、
兵を調えられなければ、当家の落ち度となってしまう。
念を入れて、忠恒ともよく相談することが肝要かと。
伏見城には本丸に武田信吉(家康五男)を置き、それ以外は我等に守らせるつもりで、
内府殿は少しの兵しか伏見には残すつもりはないらしい。
さらに、板坂ト斎の慶長記にはこうある。
慶長五年大坂出陣の日(6月16日)、伏見松の丸を島津義弘に預けようと沙汰していたが、
預かってもらえなかったので、木下勝俊殿へ預けることになった。
要するに、島津義弘はもともと伏見入城にそれほど積極的ではなかったらしい。
だから、西軍が挙兵した後で今更「入れてください」なんて言い出すとは到底思えない。
564 :
日本@名無史さん:04/02/18 20:43
もしも伏見城入城の話しが本当だとしても
それはあくまでも形の上では秀頼の命令の上杉討伐令に従っての話しであって、
親徳川とか東軍寄りとかいう話しは関係ない。
むしろ元忠は三成や西軍派との関係が深い義弘に入城されてはたまったものではないから
敵意むきだしで追い払ったのかもね。
いや伏見城入城の件自体なかったと思うけど・・・
なんか島津が西軍サイドに付いた話になると鬼のように熱意を持って語る方が一名お住まいですなw
566 :
日本@名無史さん:04/02/18 22:22
少なくとも二人はいるよ
島津厨は1匹いるよーだがw
568 :
日本@名無史さん:04/02/19 10:13
関が原決着後の西軍諸大名の処分を見たとき、島津氏の所領安堵はやはり伏見城入城拒否問題が
あったからじゃないの
それ相応の徳川方の不手際として実際にあったんじゃないの?
>>562は当事者である島津義弘の書状よりも大河ドラマの脚本の方が信憑性が高いと
思っている模様。(w
570 :
日本@名無史さん:04/02/19 15:12
もとより天下無敵の大衆娯楽歴史観こそ最高権威である
571 :
日本@名無史さん:04/02/19 15:24
∩!∩
/<^^>\ ∩▲∩
又 =●= 丈 ♪ /<nn>\ *◆天下の強権「放送法」が眼に入らぬか!◆*
** >─┌冖┐ 又= ● =丈 低脳な国民大衆を教導してやるぞよ
♪ (└─⊃_回 ─ <)───(> ありがたく「受信料」を奉納たてまつれ
└─┴─┘ \ └─┴─┘ わかったか!ズが高いぞ!愚か者めらが!
568
西軍に付いて本領安堵された大名なんか、いくらでもいるのだから
関係ないだろう。
573 :
日本@名無史さん:04/02/19 18:17
>>572 大抵領地外されたんじゃないの
減封されてんじゃん
574 :
日本@名無史さん:04/02/19 18:36
>>573 まあ徳川も伊奈事件とかで福島の無体な要求を飲むくらいの
柔軟性はあったからね。
575 :
日本@名無史さん:04/02/19 18:38
伏見城入城拒否の件は自体を誤魔化すための狂言だよ。
鳥居たちは全員討ち死にしたから死人に口なし。
577 :
日本@名無史さん:04/02/19 19:05
>>568 話しの筋としては通るね、徳川を相手にしてならあり得るね
>>573 来島とか別所とか、島津同様福島正則の口利きのあった大名は
おとがめなしだった。
>>572-574 >>578 まず、西軍について本領安堵された大名(但し朽木などの寝返り裏切り組は除く)がどれくらいいるのか、
そしてその安堵された石高を整理しましょうか。といっても全然把握できてないがw
とりあえず
島津(この当時は琉球侵攻前なので公称60万石)
宗(公称10万石)
辺りが思い浮かんだが。
580 :
日本@名無史さん:04/02/19 20:05
鍋島直茂、小出吉政、谷衛友、別所吉治、相馬義胤あたりかな。
でも鍋島は途中で進軍止めてるし、小出、谷、別所らも丹後田辺城攻撃に
形式的に参加しただけで内通してたようなものだから純粋に西軍とは言えんわな。
まあ、それだからこそ安堵されたのだろうが。
581 :
日本@名無史さん:04/02/19 20:10
愚人は過去を語り、賢人は現在を語り、狂人は未来を語る。
−−−ナポレオン
582 :
日本@名無史さん:04/02/19 21:16
>>579 1,田辺城包囲に参加
小出吉政(6) 織田信包(3.6) 山崎家盛(2.3) 杉原長房(2)
毛利高政(2) 谷衛友(1.6) 別所吉治(1.5) 藤掛永勝(0.6) 川勝秀氏(0.35)
2,息子が東軍
蜂須賀家政(17.3) 生駒親正(17.18) 小出秀政(3)
3,上記いずれにも当てはまらないケース
島津義弘(60.95) 鍋島直茂(31) 前田玄以(5) 相馬義胤(4.87)
松浦鎮信(6.3) 有馬晴信(4) 大村喜前(2.1) 五島玄雅(1.5) 宗義智(1)
こうして見ると、田辺城包囲軍と九州の諸侯が多いと言えるのかな。
582だけど、リストに追加。
1,中川秀成(6.6) 木下延俊(2) 竹中隆重(1.3)
2,桑山重晴(4)
3,伊東祐兵(5.7) 来島康親(1.4)
やはり九州大名が多いな・・・。
585 :
日本@名無史さん:04/02/20 10:34
島津豊久は、葵では槍隊前え、と戦おうとしたが
6時間はその気が無い。
>>583 伊東は東軍だったので外した方が良いかと。
(西軍→東軍の高橋氏を攻撃してしまったのは地理事情による連絡ミスだったらしいので)
587 :
日本@名無史さん:04/02/20 12:25
わー! 面白いスレじゃ!!
>>582 親兄弟で二またかけてた場合は完全に西軍に味方したとは言いにくいのでおいといて
1,3の大名を見ると
10万石に達しない雑魚大名(汗
が多いな。予想通りだけど。
この辺は雑魚だし大目に見とこうか、という気持ちが働いたのかも知れない。
で、島津と鍋島のでかさだけが突出してる。
九州まで行ってつぶすのマンドクセと思ったのかな>家康
この辺の生殺与奪の甘さ、家康が九州をどう思っていたかがキーポイントになりそうですな。
>>588 鍋島は、2の変形で「親父が東軍(寄り)」に近いと思われ。
息子は西軍についていたが、最終的には伊勢方面軍が宇喜多に率いられて美濃入り
するころにフェードアウトして関ヶ原には行っていない。
親父は東海道筋で米を買い集めて兵糧として家康に献上。
その後、その実績を盾に「息子は騙されて西軍についた。しかし、途中で反省して
関ヶ原には行かず徳川には敵対していない。もしそれを罪に問うなら補佐の家老以
下全員で切腹して抗議する」と開き直ったとどこかで読んだ。
一枚岩で結束した状態で地付きの大名を完全に潰すのは難しいと思われ。
590 :
日本@名無史さん:04/02/20 14:42
>>589さんへ
前半は事実だけど後半は司馬の小説が根拠じゃない。
九州の大名に甘かったのは対外貿易の窓口だしその利権を失いたくなかった
じゃない。
島津は硬軟併せた交渉をする一方で琉球を通じた対明関係、そして宗は朝鮮
関係を重視した思う。
西軍から東軍に乗り換えた小川・宮部など中四国の大名は取り潰している
から。
591 :
日本@名無史さん:04/02/20 15:00
家康は、秀吉みたいに自ら九州に乗り込んで西軍もどきを退治しょうとは考えなかったのかな
592 :
日本@名無史さん:04/02/20 15:09
>>591さんへ
それをするには毛利などを倒して逝かねばならないし、東国はまだ
不安定だし、何といっても兵站に問題がある。
593 :
日本@名無史さん:04/02/20 16:11
毛利勢は秀吉みたいに水攻めで責めたらどうか
加藤と福島の連合軍でやれただろう
594 :
日本@名無史さん:04/02/20 18:19
>>590 >後半は司馬の小説が根拠じゃない。
かの御仁の小説では、史実上の登場人物の行動(台詞以外の〜へ行った、〜をした、
等)は、大抵どこかに引用元の資料が存在する。もちろん、その引用元が信用でき
るものであるかどうかは別として。
その辺が、全部を脳内で書き上げるカゲキやなっちとは大きく違うところだ。
だから、その引用元が発見されるまでは保留にすべきかと。
一次資料があれば信用できるし、「寛政譜」や佐賀藩の家譜に書いてあれば一応表
向きはそう解釈しうる行動を取ったのだろうと思われる。
もちろん、軍記小説あたりが出典なら信憑性は大いに下がることは言うまでもない
けどね。
つーか、「九州の大名」と一口に言っても許された大名全てが対外貿易の窓口とな
っていたとは思えないんですが。
秋月種長とか後日別件で取り潰された高橋元種とか。
595 :
日本@名無史さん:04/02/20 18:23
別件で取りつぶされた長曽我部は?
597 :
日本@名無史さん:04/02/20 20:08
後世の展開を見ると、結局のところ潰すべきところは潰していったように見える
加藤とか福島みたいなのはその典型
>>584 玄以の子・茂勝が勅使に随行して、田辺城を接収したので、
全く無関係とは言えないけど、
他の諸将とはちょっと位置づけが異なるんじゃないかな。
>>586 伊東は東軍に分類されることが多いけれども、
8月5日の三成書状では「勢田橋東番衆」とされているし(真田文書)、
大津城攻めに代理参加した家老2人が戦死したという逸話もある(日向記)。
でも、子の祐慶が帰国して宮崎城や島津領を攻撃しているので、
寝返り組に分類すべきなのかな。
599 :
日本@名無史さん:04/02/20 21:44
>>591 九州攻めのプランはあったらしい。
毛利輝元が大坂城を明け渡した数日後、
「秀忠を広島に出動させるから、輝元は島津征伐の先鋒となれ」
という命令を出している。
輝元はこれを拒否したので、全領土を没収されたが、
吉川広家に与える予定の2カ国で毛利家は存続された。
結果として、島津征伐に出陣してその後に徳川軍が入ってきたら、
帰るところがなくなっちゃうんじゃないかと心配する毛利家の保身が、
九州攻めの最大の障害となったようだ。
これをゴリ押しすれば毛利は島津と結んで徹底抗戦しただろうから、
すでに天下を手中にしていた家康としては、リスクを犯さなかったということなのだろう。
>599
結局、その島津と毛利に幕府は滅ぼされる訳だが…。
皮肉なもんやね。
602 :
日本@名無史さん:04/02/21 08:42
603 :
日本@名無史さん:04/02/21 10:10
手元に史料がないうろ覚えのことについて教えてチョ
家康は秀吉の死後に、国友の鉄砲鍛冶に大筒を注文しているがこれは三成の足元であって、非常に微妙な
状況にあったと思うが、この辺りの事情を知りたい
秀吉の死後家康が大坂城に入城している時期に、南蛮船が座礁漂着し大砲二門が発見され密かに徳川家に隠匿されたというが事実か
604 :
日本@名無史さん:04/02/21 18:57
1600年に漂着したリーフデ号のことね
手元のコピーを探す気はないんだけど、『當代記』では、家康が堺に回航させ、自ら見学してるよ。
中にあった南蛮胴具足とかは、強制的に買い上げて、船員の帰国費用にしたと
書いてあったような気がするので、
大砲を積んでいたら、当然、半強制的に召し上げているかもね
605 :
日本@名無史さん:04/02/21 20:56
>>603 6時間ドラマに三成と鉄砲屋の駆け引きが有る。
606 :
日本@名無史さん:04/02/21 22:28
もし、東軍と西軍の布陣が反対だったら?
607 :
日本@名無史さん:04/02/21 23:21
[関ヶ原西軍甲]
主戦場にて対東軍との戦闘を基本的には行った部隊
{北国街道方面}----------76000
石田光成 (8000)
宇喜多秀家 (17000)
毛利秀元 (15000)
小早川秀秋 (15600)
赤座直安 (600)
小川祐忠 (2100)
朽木元綱 (600)
脇坂安治 (900)
小西行長 (4000)
戸田重政 (1000)
平塚為広 (500)
大谷吉継 (4200)
大谷吉勝 (3000)
木下頼継 (500)
吉川広家 (3000)
-----------------------------
【純西軍計】 76000
[関ヶ原西軍乙]
主戦場にて対東軍との戦闘を基本的に行わず、
戦闘を最後まで静観していた部隊
{天満山方面}-----------1800
安国寺恵瓊 (1800)
{中山道方面}-----------1500
長束正家 (1500)
{松尾山方面}-----------3000
長曽我部盛親 (3000)
{南宮山方面}----------1500
島津義弘 (1500)
-----------------------------
【不西軍計】 7800
[関ヶ原東軍甲]
主戦場にて対西軍との戦闘を基本的には行った部隊
{北国街道}-------33500
徳川家康 (30000)
本多忠勝 (500)
松平忠吉 (3000)
-----------------------------
【純東軍計】 33500
[関ヶ原東軍乙]
主戦場にて対西軍との戦闘を基本的に行わず、
戦闘を最後まで静観していた部隊
{天満山}-------14100
福島正則 (6000)
井伊直政 (3600)
古田重勝 (1200)
織田有楽 (400)
金森長近 (1100)
生駒一正 (1800)
{中山道}--------7800
藤堂高虎 (2400)
京極高知 (3000)
寺沢広高 (2400)
{松尾山}-----19200
黒田長政 (5400)
細川忠興 (5000)
加藤嘉明 (3000)
筒井定継 (2800)
田中吉政 (3000)
{南宮山}-------13900
有馬豊氏 (900)
山内一豊 (2000)
浅野幸長 (6500)
池田輝正 (4500)
-----------------------------
【不東軍計】 55000
612 :
日本@名無史さん:04/02/21 23:45
613 :
日本@名無史さん:04/02/21 23:49
西軍83,800のうち、
正面戦力の76,000(西軍の91%)が戦いました。
他方面戦力の7,800(西軍の9%)が遊んでました。
東軍88,500のうち、
正面戦力の33,500(東軍の38%)が戦いました。
他方面戦力の55,000(東軍の62%)が遊んでました。
この場合の結果を予測すると、
東軍の正面戦力33,500が、西軍の正面戦力76,000に圧倒されて
呆気無く敗北を喫するものと思われます。
ちなみに、西軍の正面戦力76,000は東軍の正面戦力33,500の2.27倍の兵力に該当します。
615 :
日本@名無史さん:04/02/22 03:33
布陣が反対ってどこがどう反対になってんの?
なんで福島や黒田が戦闘に参加しないの?
東軍が包囲殲滅して史実より簡単にかたがつきそうだけど。
616 :
日本@名無史さん:04/02/22 07:41
だよねえ、布陣が反対になったからと言って
なんでそれだけで不戦や寝返りに方針が転換するの?
不戦や寝返りをした部隊は調略や考えによって行動が決定したのであって、布陣のために方針が転換したんじゃない。
>>615の言う通り東軍が布陣の有利を得て圧倒的に有利になるだけ。
[関ヶ原西軍甲]
主戦場にて対東軍との戦闘を基本的には行った部隊
{北国街道}----------23000
石田三成 (6000)
豊臣麾下 (2000)
毛利秀元 (15000)
{天満山}-----------32600
宇喜多秀家 (17000)
小早川秀秋 (15600)
{中山道}------------5600
戸田重政 平塚為広 (1500)
大谷吉継 (600)
大谷吉勝 木下頼継 (3500)
{松尾山}----------8200
赤座直安 (600)
小川祐忠 (2100)
朽木元綱 (600)
脇坂安治 (900)
小西行長 (4000)
-----------------------------
【純西軍計】 69400
[関ヶ原西軍乙]
主戦場とは遠い南宮山山頂・山麓に布陣していたため、
いわゆる"関ヶ原の戦い"に西軍として参戦しなかった部隊
{南宮山}-----------14400
吉川広家 (3000)
安国寺恵瓊 (1800)
長束正家 (1500)
長曽我部盛親 (6600)
島津隊 (1500)
-----------------------------
【不西軍計】 14400
[関ヶ原東軍]
主戦場にて対西軍との戦闘を行った部隊
{北国街道方面}-------35000
徳川家康 (30000)
古田重勝 (1200)
織田有楽 (400)
金森長近 (1100)
生駒一正 (1800)
本多忠勝 (500)
{天満山方面}-------12600
福島正則 (6000)
井伊直政 (3600)
松平忠吉 (3000)
{中山道方面}--------7800
藤堂高虎 (2400)
京極高知 (3000)
寺沢広高 (2400)
{松尾山方面}-----19200
黒田長政 (5400)
細川忠興 (5000)
加藤嘉明 (3000)
筒井定継 (2800)
田中吉政 (3000)
-----------------------------
【純東軍計】 74600
[関ヶ原東軍乙]
主戦場とは遠い南宮山山頂・山麓に布陣していたため、
いわゆる"関ヶ原の戦い"に東軍として参戦しなかった部隊
{南宮山方面}-------13900
有馬豊氏 (900)
山内一豊 (2000)
浅野幸長 (6500)
池田輝正 (4500)
-----------------------------
【不東軍計】 13900
621 :
日本@名無史さん:04/02/22 08:59
西軍83,800のうち、
正面戦力の69,400(西軍の83%)が戦いました。
南宮山の14,400(西軍の17%)が遊んでました。
東軍88,500のうち、
正面戦力の74,600(東軍の84%)が戦いました。
南宮山方面の13,900(東軍の16%)が遊んでました。
これは、小早川秀秋と小西行長の配置が反対で
かつ、毛利秀元と島津隊の配置も反対だった場合の想定です。
小早川秀秋が戦闘に巻き込まれ、東軍に寝返る心配がありません。
ちなみに、この展開なら西軍が有利だと考えられます。
これなら
>>608-611よりは、まだ現実性があると思います。
>>594 最近の研究者(アカデミズムと在野の中間くらいの立場)でよければ、中西豪氏の
『史伝 鍋島直茂』(学研M文庫)が入手容易でその辺の時期の記述もある。
そのものズバリの米の話は、『川角太閤記』が出典なんでちと怪しいが、『藩翰譜』
では家康が「彼(勝茂)の父直茂と約せし事あり」と直ちに免罪したことが紹介さ
れている。
中西氏によれば、直茂が兵糧を献上したのは当初の予定通り、勝茂が西軍についた
のは成り行き、伊勢に留まったのは父の命令が届いたのがその時点だったためで、
元々直茂は徳川に付くつもりであったこと、結果的に兵糧献上は恩賞獲得のためで
なく息子の失敗に対する謝罪のためのものになったと解釈している。
623 :
日本@名無史さん:04/02/22 16:48
624 :
日本@名無史さん:04/02/22 16:53
>>621 小早川はあの位置に強引に布陣した筈、
当初は大谷隊が布陣する予定で先遣隊までいたが、小早川が
強引に追い払って布陣。
まあ小早川は最初っからほとんど東軍だったらしい。
毛利秀元がもう少し良い位置にいたらというのはまあ現実性はある。
625 :
日本@名無史さん:04/02/22 17:37
>毛利秀元がもう少し良い位置にいたらというのはまあ現実性はある。
動けば吉川広家と同士討ちになるでしょうから・・・結局動けず
>当初は大谷隊が布陣する予定で先遣隊までいたが
はぁ?大谷の方が小早川より先に松尾山横に布陣してますが?
なのに大谷が布陣する予定?
毛利だって、あの位置にいたのは大垣後詰の為
大垣篭城の方針を急変させて、関ヶ原で東軍の進行方向を塞ぐ形になったのは
9月14日夜半からだ
状況を知らされてない南宮山や松尾山周辺の部隊が簡単に動ける訳がない
それより布陣が逆とか当時の一連の流れや状況を尽く無視したバカな妄想は三戦板でやれ
627 :
日本@名無史さん:04/02/22 19:45
>>604 :日本@名無史さん :04/02/21 18:57
>1600年に漂着したリーフデ号のことね
関ヶ原直前に豊後に漂着難破したイギリス船リーフデ号からは大砲と火薬が回収され
家康がこれ幸いと確保すると同時に上杉征伐の際にイギリス人砲手も連れて行ったらしい
関ヶ原でも使われ相当の威力を発揮したらしく東軍を勝利に導いた
>>627 ありそうな話だけど
史料のでどころは?
629 :
日本@名無史さん:04/02/22 22:53
>>624 どかしたのは、大谷隊ではない
知らんような大名。
630 :
日本@名無史さん:04/02/22 22:59
>>629 稲葉家家譜から、伊藤彦兵衛(盛正:大垣城主)が守備していたのを
追い払ったとされているね。
632 :
日本@名無史さん:04/02/23 02:41
>>622 またまた信憑性の低そうな引用先の提示、乙。(w
関ヶ原の戦いなど、戦国時代や三国志の戦の話凄く魅力あって
好きなんだけど
近年の第2次世界大戦などの戦争などまったく魅力とか感じられない
みんなもそうですか?
殺し合いには変わりありませんが戦と戦争とわけて考えてるんですが・・・
634 :
日本@名無史さん:04/02/23 13:38
>>622 それは、全てあなたの思い込みです。
そうでなければ、読書力が決定的に不足しています。
もう一度、ひらがなカタカナから勉強をやり直してください。
げんきかい?(´・ω・`)
636 :
日本@名無史さん:04/02/23 16:01
>633
俺もそうだ。
近代戦は死にすぎるんだなぁ。
兵が死ぬのはまだしも、
銃後も糞もないからねぇ。
>>633 時代が違いすぎるのでとっつきにくいのかもしれないけど、
戦闘の事ばかりに目を向けずに、連合国・枢軸国のそれぞれの政治の動きを読み解いていくと楽しめるよ。
軽いところでは現代教養文庫から出てる「第二次世界大戦」などおすすめ。
日本史板なのにスマソ。
640 :
日本@名無史さん:04/02/26 00:42
>>636 たまにしか来ないかわいいやつなんだから、かわいがってやれよ。
>>544 福島正則は罪人となったが、本多正純の弁護もあり、
福島家は信州川中島4万5千石の大名として存続していた。
正則は寛永元年(1624)に死去したが、
幕府の検死の前に遺体が荼毘に付されてしまったらしい。
(このことが原因で4万5千石は没収となった)
だから、その死因についてはいろいろ疑惑があるわけなのだな。
遅レスすまん。
>>622は後のレスで否定されているのに反論しないな。
やっぱり思い込みで書いていたのか?
関ヶ原合戦の3日前に三成が増田長盛に出した手紙が伝えられている。
興味深い点をいくつかまとめてみた。
(作戦について)
・太田・駒野に連絡のための城を築き、輝元の兵を入れる
・近江との国境にある松尾城や各番所にも中国衆を入れる
・毛利輝元の出馬の代わりに中国衆5千を佐和山城に入れる
・丹後田辺城の部隊をこちらに差し向ける
近江や伊勢との国境を固めることに主眼を置いていろいろと意見具申をしており、
3日後に決戦を挑もうという雰囲気は感じられない。
(南宮山について)
三成によると、「人馬の水もこれあるまじきほどの高山にて、
・・・人数の上り下りもならざるほどの山にて候」とあり、
あんなところに布陣されては戦力にならないと嘆いている。
>>643のつづき
(小早川秀秋について)
三成が敵に放ったスパイの情報として、
「大軍を率い、敵と内通して伊勢への出陣を控えていたが、
急に佐和山口から山中に出動してきたので、敵方では話が違うと言っている」と言い、
「万一不慮のこともあろうかと存じ、これがただただ迷惑である」と言っている。
秀秋の裏切りは敵味方公然の秘密のようになっていたらしい。
そういう中で美濃に出陣してきたことは、「東軍と戦って裏切りの嫌疑を晴らそう」
という態度に変わったように見えるため、双方にとって意外に受け取られたようだ。
(大谷吉継について)
三成によると、「長束・安国寺は伊勢から出動してきた中国衆だけではなく、
大谷吉継や御弓鉄砲衆(秀頼麾下)も引き寄せているように見える。
大軍を使えないところに集めているため、兵力が不足している」としている。
この手紙で大谷吉継が出てくるのはここだけ。
別の箇所で秀家・行長・義弘の覚悟を絶賛していることに比べると、
意外だがあまり戦力に考えていなかったようだ。
全体としてとても長い手紙で、味方(特に長束・安国寺)の戦意不足を嘆き、
輝元の未出馬や長盛の人質政策の手ぬるさに繰り返し不満を述べているが、
その分は省略した。
輝元はどうしようもないアホだな
まあっ、その分260年後にこの時の無念さが爆発したから
関が原での大チョンボは帳消しになったわけだ
一番アホなのは藤堂だろ。
維新まで続いたんだから末裔は残っているだろうけど、
あんな家の縁者だなんて、俺だったら恥ずかしくて口に
出せないな。
647 :
日本@名無史さん:04/02/29 14:51
>>646 大谷隊がもう少し頑張ばれば籐堂隊が一番に崩れ
金吾中納言の裏切りもなかった。
648 :
日本@名無史さん:04/02/29 15:25
これで小早川家自体が家中から見捨てられたんじゃなかろうか。
藤堂は長曽我部盛親にも
こてんぱんにやられているな。
やれやれ。
>>649 国内で将としての戦功を挙げたのは、その盛親相手の戦だけだろう?
救いようのないヘタレだな。
>650
戦功と呼べるようなものあったっけ?
身を犠牲にして、盛親が井伊に
攻めかかるのを防いだ!
と言えなくもないけれど。
当時戦場で戦っていた人たちは、どれぐらい体力があったんだろう・・・今と比べたら段違いかな。
関が原の戦いは西軍が前夜、徹夜で移動してたらしいけど、それで翌朝あんなによく善戦できたなぁ。
島津勢は、国許から京都まで馳せ参じたのが大勢いたらしいが。
653 :
日本@名無史さん:04/03/01 17:22
当初から黒子に徹していたらとも思うのだけど、どのあたりから三成はしゃしゃり出てきたのだろうか
五奉行からは外されてたんじゃないの?
西軍の頭目としては役不足だろうにね
654 :
日本@名無史さん:04/03/01 18:45
>>647 おいおい、あれだけ奮戦した大谷にたいして
あんまりの言葉だぞ。
655 :
日本@名無史さん:04/03/01 18:52
>>654 金吾中納言の裏切りがもう少し遅ければに 訂正します。
>>655 松野主馬がゴネずに、一目散に京極勢に襲いかかってたら歴史は
変わっただろうな。
658 :
日本@名無史さん:04/03/02 10:47
三成にとっては役不足じゃないの?
前線にしゃしゃり出てくることはないじゃん、あれだけの経歴を持つ武将なのだから
三成の代りにここは毛利がでればよかったわけだ
三成は秀ヨリの側近中の側近として大坂城にひかえておればよかった
659 :
日本@名無史さん:04/03/02 16:08
俺が聞いた話では小早川は当初、主戦場が美濃大垣方面になると思っていたから、
それに巻き込まれるのが嫌で、少しはなれた松尾山に布陣したらしい。
これで一息つこうと思って朝起きたら、眼下は両軍の将兵でぎっしり。
「うそだじょー」って嘆いたってある史書にはあった。ような気が。
ネタとしては面白い(´・ω・`)
662 :
日本@名無史さん:04/03/05 12:51
中公新書「福島正則」では、「落穂集」からの引用として、
次のようなエピソードを紹介している。
関ヶ原出陣の先陣を承った正則は、前の日に小早川秀秋と通謀し、
互いに鬨の声を挙げて行動を起こす約束をしていた。
ところが家康は、にわかに変更して福島勢を陣の左辺に移させた。
正則は朝靄のなかで鬨の声を挙げさせたが、秀秋軍が応じなかったので、
秀秋の不信を大いに怒った。すると家老の福島丹波治重は正則を諫めて
「昨日の約束とは陣地が変わったので、秀秋が疑って応じないのは当然です」と宥めた。
かねて正則は部下に対して「わが軍は憎むべき三成の軍勢と直接決戦するのだ」
と豪語していた。ところが家康から左翼の先陣を命ぜられて、
果たして西軍の誰と戦うかわからなくなった。靄の中で篝火を焚いて隊伍を組み、
十五日の東明を待って行動したところ、相手は三成軍でなくて宇喜多秀家の軍だとわかった。
正則はそれを残念がったが、治重は「戦機を逸してはなりませぬ」とまたも諫言し、
秀家の中軍に向かって突撃したという。
福島軍の布陣位置を突然変更して小早川軍のそばに移したということがわかる。
家康としては、土壇場になって「やはり正則と秀秋は信用できない」と考えたのかもしれない。
664 :
日本@名無史さん:04/03/06 06:03
665 :
日本@名無史さん:04/03/06 09:48
>>663 正則なら三成の圧勝でしたね
9時30分に正則隊が崩れそれを見ていた金伍が
東軍を攻撃し毛利隊も浅野隊を蹴散らし11時頃
西軍の大勝利で終り。
>>665 福島隊6000は、自軍の3倍近い宇喜多隊17000と交戦しながらも、
それをからくも支えてたんだけど?
仮に正則が宇喜多にさっさと蹴散らされてたらそこでジ・エンドなわけで、
関が原における正則の働きっていうのは、決して小さいものじゃないんだよ。
というか、
>>663を信じるならば、勝負は最初から決まってるじゃん。
[関ヶ原西軍甲]
主戦場にて対東軍との戦闘を基本的には行った部隊
{北国街道}----------23000
石田三成 (6000)
宇喜多秀家 (17000)
{天満山}-----------6000
小西行長 (4000)
豊臣麾下 (2000)
{中山道}------------5600
戸田重政 平塚為広 (1500)
大谷吉継 (600)
大谷吉勝 木下頼継 (3500)
{松尾山麓}----------4200
赤座直安 (600)
小川祐忠 (2100)
朽木元綱 (600)
脇坂安治 (900)
{松尾山頂}---------15600
小早川秀秋 (15600)
-----------------------------
【純西軍計】 54400
[関ヶ原西軍乙]
主戦場とは遠い南宮山山頂・山麓に布陣していたため、
いわゆる"関ヶ原の戦い"に西軍として参戦しなかった部隊
{南宮山}-----------29400
吉川広家 (3000)
毛利秀元 (15000)
安国寺恵瓊 (1800)
長束正家 (1500)
長曽我部盛親 (6600)
島津隊 (1500)
-----------------------------
【不西軍計】 29400
[関ヶ原東軍甲]
主戦場にて対西軍との戦闘を行った部隊
{北国街道方面}-----19200
黒田長政 (5400)
細川忠興 (5000)
加藤嘉明 (3000)
筒井定継 (2800)
田中吉政 (3000)
{天満山方面}-------12600
福島正則 (6000)
井伊直政 (3600)
松平忠吉 (3000)
{中山道方面}--------7800
藤堂高虎 (2400)
京極高知 (3000)
寺沢広高 (2400)
{家康本隊他}-------35000
古田重勝 (1200)
織田有楽 (400)
金森長近 (1100)
生駒一正 (1800)
本多忠勝 (500)
徳川家康 (30000)
-----------------------------
【純東軍計】 74600
[関ヶ原東軍乙]
主戦場とは遠い南宮山山頂・山麓に布陣していたため、
いわゆる"関ヶ原の戦い"に東軍として参戦しなかった部隊
{南宮山方面}-------13900
有馬豊氏 (900)
山内一豊 (2000)
浅野幸長 (6500)
池田輝正 (4500)
-----------------------------
【不東軍計】 13900
671 :
日本@名無史さん:04/03/06 12:53
西軍83,800のうち、
正面戦力の54,400(西軍の65%)が戦いました。
南宮山の29,400(西軍の35%)が遊んでました。
東軍88,500のうち、
正面戦力の74,600(東軍の84%)が戦いました。
南宮山方面の13,900(東軍の16%)が遊んでました。
これは、宇喜多秀家を北国街道に配置した場合の想定です。
天満山には、豊臣麾下を配置して兵力の不足分を補います。
石田隊と宇喜多隊で北国街道方面の東軍を圧倒すれば、小早川秀秋が東軍の家康本隊に攻めかかる可能性が期待できます。
これなら、西軍が有利に戦えたかもしれません。
なお、島津隊を南宮山に配置しておくことで家康を背後から牽制できます。
>>666 短時間の(しかも狭い空間)戦闘では兵力差はあまり関係ない。
単純に先方の優劣の差だと思うよ。
大谷・平塚隊が藤堂・京極隊を圧倒したことと、大谷本隊600が
小早川勢15000を数度押し返した例を考えれば良いと思う。
俺も福島正則の家中が弱兵だとは思わないけれど、”西軍優勢”
という意識があったことと、正則自身が西軍と二股をかけていた
ことに苦戦の理由があると妄想している。
673 :
日本@名無史さん:04/03/06 22:46
6時間ドラマで森繁家康が、三成は佐和山に1万の家臣が居る
と言ったが、その1万が関が原に動員したら結果は変わったかな?
674 :
治部少三成:04/03/07 15:23
>>672 そうそう(´・ω・`)
正則の陣に鉄砲を撃ちかければイキーに寝返る手筈だったんだけどね。
そしたら金吾タンも思いとどまって、西軍が勝ちそうだったから、やめ
といたんだよ。
676 :
日本@名無史さん:04/03/07 19:21
>>643 非常に有名な文書だけど、確か、大津周辺で東軍の手にわたってというふれこみ
じゃなかった。現実的には大津城は落城寸前でそんな余裕はないはず
疑文書じゃない。
677 :
日本@名無史さん:04/03/08 03:59
島津義久が義弘に1万の兵を送り
立花宗茂も関が原にいたら、金吾が裏切ろうと
西軍が勝ってたっぽい。
義弘と宗茂が組んだら、敵が10万でも勝てそう。
二人とも朝鮮出兵で大軍に勝ってるもん。みんなもそう思うだろ?
>島津
加藤清正と黒田官兵衛が九州に居ざってんのに1万の兵なんて送れるかよ…
>立花
の件は禿同
大津城攻めに回したというのは三成の失敗
朝鮮で二万の敵を五万の大軍で袋叩きにしただけの実績しかない
立花を、過大評価しすぎていないか?
[関ヶ原西軍甲]
主戦場にて対東軍との戦闘を基本的には行った部隊
{北国街道}----------25500
石田三成 (6000)
豊臣麾下 (2000)
島津隊 (1500)
立花宗茂 (15000)
{天満山}-----------21000
小西行長 (4000)
宇喜多秀家 (17000)
{中山道}------------5600
戸田重政 平塚為広 (1500)
大谷吉継 (600)
大谷吉勝 木下頼継 (3500)
{松尾山麓}----------4200
赤座直安 (600)
小川祐忠 (2100)
朽木元綱 (600)
脇坂安治 (900)
{松尾山頂}---------15600
小早川秀秋 (15600)
-----------------------------
【純西軍計】 71900
[関ヶ原西軍乙]
主戦場とは遠い南宮山山頂・山麓に布陣していたため、
いわゆる"関ヶ原の戦い"に西軍として参戦しなかった部隊
{南宮山}-----------27900
吉川広家 (3000)
毛利秀元 (15000)
安国寺恵瓊 (1800)
長束正家 (1500)
長曽我部盛親 (6600)
-----------------------------
【不西軍計】 27900
[関ヶ原東軍甲]
主戦場にて対西軍との戦闘を行った部隊
{北国街道方面}-----19200
黒田長政 (5400)
細川忠興 (5000)
加藤嘉明 (3000)
筒井定継 (2800)
田中吉政 (3000)
{天満山方面}-------12600
福島正則 (6000)
井伊直政 (3600)
松平忠吉 (3000)
{中山道方面}--------7800
藤堂高虎 (2400)
京極高知 (3000)
寺沢広高 (2400)
{家康本隊他}-------35000
古田重勝 (1200)
織田有楽 (400)
金森長近 (1100)
生駒一正 (1800)
本多忠勝 (500)
徳川家康 (30000)
-----------------------------
【純東軍計】 74600
[関ヶ原東軍乙]
主戦場とは遠い南宮山山頂・山麓に布陣していたため、
いわゆる"関ヶ原の戦い"に東軍として参戦しなかった部隊
{南宮山方面}-------13900
有馬豊氏 (900)
山内一豊 (2000)
浅野幸長 (6500)
池田輝正 (4500)
-----------------------------
【不東軍計】 13900
686 :
日本@名無史さん:04/03/08 19:29
西軍99,800のうち、
正面戦力の71,900(西軍の72%)が戦いました。
南宮山の27,900(西軍の28%)が遊んでました。
東軍88,500のうち、
正面戦力の74,600(東軍の84%)が戦いました。
南宮山方面の13,900(東軍の16%)が遊んでました。
これは、立花宗茂が関が原に参戦した場合の想定です。
ここで、立花宗茂を北国街道に配置しておくことが重要です。
立花隊と島津隊で北国街道方面の東軍を圧倒すれば、小早川秀秋も即行で西軍に加担することが想定できます。
これなら、西軍が圧倒的に有利です。
687 :
日本@名無史さん:04/03/08 19:38
吉川広家が一番糞だね。
てめぇ自身は東軍の安野津城攻めてるくせに、普通に内応。
結局、本家は領土のほとんど取られた。
大垣城等は捨てて最初から大坂城に篭城すれば良かったのに。
689 :
日本@名無史さん:04/03/08 22:06
>>681 五万の大軍の敵を三千で撃退したの間違いじゃないか?
690 :
日本@名無史さん:04/03/08 22:08
>>680 >加藤清正と黒田官兵衛が九州に居ざってんのに1万の兵なんて送れるかよ…
立花も小西も豊久も殆ど兵送ってるじゃん。
ていうか勘違いしてない?
義弘は早くから家康につくつもりだったのしらないの?
↓上杉征伐の起こる前で義弘が国許に出した手紙(ソース歴史群像島津戦記)
「上杉方の返事によっては、内府様は出陣をお決めになるでしょう。
それについては、伏見城の留守番を務めるようにと、面と向かって拙者に
お命じになりました。
伏見城を守るには、人数が過分に必要になります。
よくよく談合されて、兵糧以下の調達を、早めにお命じください。」
つづけて、
「奥州出陣の大名は100石に3人役を命じられたが
当方は留守番衆なので、100石に1人役を命じられました。
この人数なら国許でも調えられるのではないか?」と送っている。
島津62万石なら6200人の軍役を課せられた事になる。
さらにやむをえなく西軍についた後の手紙
「長宗我部殿(土佐20万石)は2000人の軍役なのに5000人
立花殿(筑後柳川13万石)も1300人の軍役なのに4000人も召し列ねて、
今日、上方に着陣した。
他国の大名がこのような状況なのに、薩摩の仕立てはわずか1000人足らずで、
当地のことをやりくりしないとならない。
幾度申しても面目なき次第、筆紙には載せがたい事である」と送ってる。
693 :
日本@名無史さん:04/03/09 00:48
>>691の見てきたけど、宗茂ってすごいんだな。
朝鮮のことより、一ヶ月で島津を大友領から追い出したってのがすごい。
こりゃ作り話ばっかの幸村より、宗茂の方が全然すごいな。
694 :
日本@名無史さん:04/03/09 00:51
その宗茂を遊ばせてた三成はもう、アホとしかいいようがない。
碧蹄館に押し寄せた李如松率いる明・朝鮮軍は2万。
後の明・朝鮮軍は平壌にいました。
対する日本軍は小早川隆景率いる第6軍(小早川隆景・毛利秀包・立花宗茂・高橋直次・筑紫広門)の1万5700。
筑前の島津に奪われた各城を奪い返した話も、島津が撤退始めてからの話。
宗茂がいくらすごいって言ったって3千そこらの手勢だからどうなんだろ。
>693
信繁じゃなくて幸村じゃ
作り話だらけだろうさ。
698 :
日本@名無史さん:04/03/09 02:03
宗茂は秀吉から賞賛されて13万石の領主にされたぐらいだから
凄いんじゃないの?
関が原でも家康から破格の勧誘されて
浪人の時には秀忠に領地もらうぐらいだからさ。
なんか天下人全員に気に入られてるなぁ…
スレ違いですけど、朝鮮の役について
詳しくかいてある本教えてください。
宗茂がそんなに有能ならなんで西軍についたんだろう。
福島、加藤すら東軍に味方しているのに。
>700
秀吉に恩があったから。
691のリンク先の
>まず先手の800騎が「明・朝鮮」軍3000騎を斬り捨てる活躍!
>しかし、「明軍」の新手7000騎により撃退される。
>そして「宗茂」自ら率いる2000騎が駆けつけ、新手7000騎を撃退する。
これすごいウソくさいんだけどw
刀槍の戦いでそんなに簡単に人死ぬかね?
>700
加藤って清政か?!
>>700 西軍についたほとんどは、上杉征伐の為に上げた兵。
しかし途中で、三成挙兵→街道封鎖→大阪の人質を取る
という流れで、三成に従わざるをえなかった。
大谷吉継でさえ上杉征伐についてくつもりだった。
_,,..、-―-- .,
,..-''" `ヽ、
,. '" _,,... - __ ヽ、
/ ,..=-‐''~ ̄_ ~'''- 、 ヽ
, ′ /,,..-'''"~ ̄::: ̄~'''-ヽ, ヽ
/ ,、'7:::,:'//:::,:´/∧::、:::゛,:::::ヽ、 ゙',
/ .......//,:///!',:://// ',:::!!:::!i::::ヽ:, ...゙,
l ........./n,V::;l;jl-ユTト:{:{ }!}」j:,l!:}:::!l:゙, ...〉
゛, .......,';「rll:´kr_テ'::「`| ノ_,='`メ!l::;;ll!l:l./
゛、../ ハ l!::l| 「!-'lj r'::/`/イ,:ノノ |!'
,ソ//:::|!:::l!  ̄ '-" ,':::イ!../' そうなんだ
/://::;;ハ::::ll\ .__ ' ,,::':::,!l:|
ノ:イ/:/;/;;`ヾ、_ ` ,. -'7_ .イ::く;;ノメ!、
,. '"',イ;'::/;/;;:;-"! / ,イヽ、;;;:!:::!::| ヘヽ
_,,-"/..'/:::/;;;-'" !__/ /-'',ス `''-.,,:! ゙';ヽ、
.,-'":;; ',/,,',.-< ゙'〈 '",-'┐ ,,'"ス、 ゙;:、、、
,.-'"::;;/.'/',/^ヽ``、、 ゙, <ノ ノ' / ,ハ, ゙;:'; ヾ、
/"/:;;/ '‐'/,「`ヽ、 ` 、 = __ ゙、 'v'"/`、' 'l ',::', ヾ、
l' /::;'" ,.:';:"/;;! `.ー、~''ーニ.,ハ, ハ'" ヽ, ゙, !::;! ヾ!
!:/ /:/ /:/;ト、 ...゙, | _| \_,ノ::.\= 、._ l ,!、 l::;! ll
!:! ,//' /::/::ハ ',.. ゙',l ,-',-ト、 `'ー-、ヽ, 7./l ト`、, !ノ 丿
'、 // /:/:,/_,,l ゛、.. ゙',. ヽ:Vヾ、、、_ ~///,ノ l;;:',ヾ'
/,' ,!::/!ll`i;;;| ヽ.. ヽ `/: ヽ ニニ‐=/ノr' ,' l;!l,:l 'ヾ;、
,!:! !::l'l:!l::!;;:::ハ ヽ、. ソ' : ........,~7, ,l / !;;!ll!! ヾ;
>>692 だから早くから家康側と見られていた加藤清正が一人も兵を出してなかったはず。
まして、島津義弘が西軍側に付いたなら、加藤清正が島津領を攻撃する可能性は高くなり、ますます持って国元から兵は出せないと思われ
でも派兵しなかった一番の理由は、庄内の乱で疲弊しており、人様の戦争に行くやつがほとんどいなかったことかとw
>>707 だからぁ。
三成が挙兵する前に兵を送ってたら、その兵力で戦う事になったでしょっての。
>だから早くから家康側と見られていた
>加藤清正が一人も兵を出してなかったはず。
清正は上杉征伐に加えられてなかったとハズ。
それに、加藤の動員兵力なんかたいしたことないんだろ
島津なんか2万は動員できる
1万あれば十分防衛できると思う
だいたい加藤なんか小西領を攻めるので精一杯だろ
黒田にしたって正規軍は長政についてって
かんべえの元に集まった兵なんか、金で雇われた連度の低い兵だろ。
戦慣れした薩兵に勝てるとは到底思えない。
>でも派兵しなかった一番の理由は、庄内の乱で疲弊しており、
>人様の戦争に行くやつがほとんどいなかったことかと
出そうと思えば出せた。
ただ義久が上方情勢に疎かっただけ。
709 :
日本@名無史さん:04/03/09 14:39
>>708
山本博文の本の丸写しキタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!
710 :
日本@名無史さん:04/03/09 15:33
>>692 は?
それはあくまで
形の上では秀頼の命令である
上杉討伐の話しでしょうが。
そんな話しをいくら積み重ねても
義弘が東軍方もしくは親家康という証拠にならない。
>>708 >>709と同じことを煽っても仕方が無いので、別のことを指摘してみよう。
>かんべえの元に集まった兵なんか、金で雇われた連度の低い兵だろ。
「連度」って何?
島津?、金がないのに戦が出来るかよ。
>>709、山本博文?誰それ?なんの本?
俺は歴史群像見て、思ったこと書いただけだけど。
>>710 だからさ、三成が挙兵する前でも後でも
義弘は本国に兵を送るよう催促してるよね。
義久が兵を送ってたらその兵力で戦う事になったでしょ。
>>711 錬度の間違えだった。
それと、書き方が悪かったが、かんべえを馬鹿にしてるわけではないんで。
むしろ、俺は戦国一の謀略家だと思ってる。
横やりだけど、
>>707 黒田や加藤が島津領に攻める事は無いと思う。
まず、官兵衛についてだけど
黒田領と島津領は距離が離れすぎてる。
それに、豊かな北九州を攻めずに国力の低い日向、薩摩に行くとは思えん。
鍋島もいたし、
遠い島津まで攻めに行けば本国がガラ空きで危険になる。
ていうか、島津攻める前に立花領攻めるだろ。
加藤については
朝鮮関係で小西のせいで秀吉の怒りを買い、謹慎させられたりして
恨みがあったから攻めたんであって
清正に政宗のような領土欲があったとは思えない。
そもそも小西領を無視して島津を攻めるわけが無いし、
>>708の言うとおり、例え1万の兵を送ってたとしても
島津は加藤より多くの兵を動員できた。
>>710 >義弘が東軍方もしくは親家康という証拠にならない。
その時でも義弘は東軍方につこうとしてたし、
歴史群像にも書いてあるし、義弘の賭けにも書いてある。
この三つは島津家文書など膨大な資料を参考にしてるから
君はそれに、いちゃもんつけてる事になる。
義弘が東軍につこうとしてない事にしたいのはなんで?
それとソースは何?
是非教えてくれ。
国宝に勝る資料なんだろうな?
716 :
日本@名無史さん:04/03/10 01:25
家康本隊って3万でしょ? でもほとんど戦力にならない部隊の寄せ集めだったんでしょ?
>この三つは島津家文書など膨大な資料を参考にしてるから
>君はそれに、いちゃもんつけてる事になる。
710ではないけど、これの根拠は島津国史の記述だけ
それ以外の史料では、伏見入城を拒否された記述は一切なし
勿論、君の言う島津家文書(旧記雑録にも)にはそれを窺わせる記述なし
徳川側の史料にもなし
逆に「板坂卜斎覚書」では
慶長五年大坂御立の日 伏見松の丸兵庫頭に御預け候わんと沙汰候つるが
御預けなく 若狭少将殿へ御預け候
これは家康が会津征伐で大坂を出立する際の記述です
島津義弘が伏見へ入城するはずなのにしなかったので、木下勝俊へ伏見の留守居を頼んでます
これは明らかに義弘が伏見入城を拒絶していた証拠になります
717
692の手紙の件が
旧記雑録にあるよ。
この手紙の内容からすれば家康につこうとしたんじゃないかな?
加藤が島津領を攻めるのは無理だろ。
清正はこの時、宇土城攻めてた。
宇土城は行長の処刑が知らされまで篭城して粘ってた。
島津を攻めてる余裕なんかない。
720 :
日本@名無史さん:04/03/10 12:44
小早川秀秋が東軍に寝返ったあとに、南宮山方面の東軍が西軍に寝返って
南宮山の西軍と共に東軍を後方から奇襲すれば、戦況が再逆転したかも?
>> 南宮山方面の東軍が西軍に寝返って
この部分がなあ
722 :
日本@名無史さん:04/03/10 17:00
723 :
日本@名無史さん:04/03/10 17:09
なんだ島津家が当初西軍につくか東軍につくかの絞込みは出来ていなかったのか?
この辺りの研究解析はすでに結論でてるだろうが
>>718 >>692の書状の件は承知しています
それを踏まえて
>>717を書きました
時系列を整えて書きますと
最初の書状→2番目の書状→「板坂卜斎覚書」の一文→最後の書状となります
これらから、当初、家康から会津征伐の際に伏見留守居を任された義弘は
これを名目に本国へ兵の催促をしています(4月下旬〜5月上旬)が、送られて来ず
家康が大坂出立の日(6月16日?うろ覚え…)まで伏見に入らずに、結局、伏見留守居は
木下勝俊に任され(木下勝俊も入城拒否しました)、以後は西軍として行動しています
これらから、義弘は当初から伏見留守居をする気がなかったと考えられます
なぜなら留守居を命ぜられたのに、その後1ヶ月近くも入城せず、
また、この間に、家康にこの件に関して一切の弁明をしておらず信頼を失っており
その後の行動(最後の書状でも)では、西軍に“止む無く”付いたのではなく
積極的に参加しようとする意思が見て取れます
会津征伐が決まり、伏見留守居を任された直後は不明ですが
少なくとも家康の大坂出立前後までには、家康とかなりの距離を取っていると考えられます
これは、また少し話がずれるのですが、西軍の首謀者が石田三成ではないと自分は考えているので
(主導的立場だったとは思っています)、この時期には対家康への挙兵云々があり、
義弘もそれに少なからず賛同していたのではないかと考えます(←あくまで仮説です)
うわ、自演臭くなってる…
鬱だ…
726 :
日本@名無史さん:04/03/10 19:38
仮に、上杉が最上を攻めずに関東侵攻の構えをみせた場合、家康の美濃到着が立花らの
大津城攻略組より遅れる可能性が高いのではないでしょうか?
そのようになった場合、西軍が圧倒的に有利な兵力で、一気に合戦に持ち込み、先勝したとすれば、家康の
天下獲りはなかったのではないでしょうか?
727 :
日本@名無史さん:04/03/10 19:53
大津城など無視しておけば良かったのに・・・
>>727 そういう意見の人は多いけど、結果論だよね。
あの場面で、大津と田辺は伏見城と同様に攻め落として見せしめに
するべきだと思うよ。
家康も海道筋の城を遠慮なく、人質もろとも徴収した。
西軍(私も首謀者が三成だとは思えない)は武威で圧倒できなかった
ので、破綻したんだと思う。
729 :
日本@名無史さん:04/03/10 23:09
>>728 >西軍(私も首謀者が三成だとは思えない)
私は、べつに石田三成が西軍の総大将というわけでも無かったと思う。
かといって、他の武将が総大将だったわけでも無いだろう。
結局のところ、西軍には総大将がいなかったのだと思う。
>726
秀忠が間に合うことも計算に入れなきゃ駄目だな。
>>726 それは自分が思うに、関ヶ原のような決戦が起きる事を知っていないと
とても上杉が自領を空けてまで、関東侵攻するという博打は打てないかと思います
でも、確か上杉は伊達や最上と和睦調停を持ち掛けて後背を危険を無くし
関東打ち入りを仕掛けようとしていた記述がある史料あったような…
まぁそれでも、宇都宮にいた結城秀康勢と戦わなければならず
また、もし最上と伊達を結んだとしても完全に後背を空ける訳にもいかず
急進的な侵攻は出来なかったと思います
やはり関東奥羽では、佐竹の不動がかなりの痛手ではないでしょうか?
732 :
日本@名無史さん:04/03/11 09:22
仮に大津や田辺をスルーしたとして、立てこもっていた京極や細川は
関ケ原に参戦したのだろうか。
もし大津や田辺の西軍が関ケ原に集結していたら、間違いなく西軍の勝利
だっただろうな。秀忠軍が間に合ったとしたらまさに横綱相撲が展開したはず。
733 :
日本@名無史さん:04/03/11 09:41
ねえ、このスレにもあったけど三成総大将という見方は、反三成勢力を操る家康の方便であって、実際には
西軍側の一武将という位置付けでしかなかったのではないだろうか
要するに西軍は豊臣政権主流という位置付けでもなく、実質豊臣政権下での東西二軍の勢力争いというステー
ジになってしまっている
当然二股掛けたり寝返ったりの展開が出てこざるを得ない
734 :
日本@名無史さん:04/03/11 10:24
>>733 そのとおりでしょ。
家康がそもそも出兵したのは、秀頼の下命による上杉討伐。
大老の一人であり、京大阪さらには天下の治安を秀頼の命令で守っているという
のが家康の立場であり、その自分の留守の間に畿内で兵を挙げた石田三成はその
秀頼の命に逆らう逆徒であり、それを上杉征伐の途上で取って返したのは秀頼への
忠勤である。という大義名分がある。
そこへもってきて家康の当てにする徳川本隊はいまだ木曽路の山の中。
小山会議で並み居る豊臣恩顧の諸大名の心意を確かめ、秀頼のために豊臣天下の安泰のために
逆賊三成を討つという大義をふりかざして、秀吉存命中からわだかまっていた豊富政権内での
武断派と文治派の対立をうまいこと利用することに成功したわけで、要するに敵同士の対立を
装いも新たに煽り直してその一方に味方することで、邪魔な勢力を一掃、ちゃっかり分捕った領地を
自分の臣下に与えて大名化して徳川天下のインフラ整備をまんまとしとげた。
味方とし、
>>732 細川幽斎in田辺城は元々隠居の上に、手勢も少なかったので
スルーされても参戦はしなかったんじゃないかな。
京極in大津城はどうなったか今の俺の頭では想像できない
が
大津という交通の要所であったことから類推するに
スルーするという選択自体もとからなかったような気がする。
736 :
日本@名無史さん:04/03/11 10:44
>>724 島津義弘が伏見入城に消極的だったのは、
兵力が少なくて世間体が悪いと考えていたからじゃないかな。
義弘の書状(
>>563に全体引用)もそういう趣旨で書かれている。
あと、細かい点だけど、木下勝俊は入城「拒否」はしていない。
伏見城松の丸を守備していたけど、弟の小早川秀秋が西軍についたため、
「徳川家臣が士気を高めるため勝俊を血祭りにあげる」という風説を
耳にして逃亡したと言われているので、任務放棄というのが妥当かと。
737 :
日本@名無史さん:04/03/11 10:47
>>732 田辺城は伏見城とほぼ同時期に攻撃開始しており、
それほど兵力のロスであったとは言えない。
早期攻略に成功すれば、細川幽斎は有名人だし絶大な宣伝効果が期待できた。
また、大津城も東西の交通の要衝であり、これを無視することは考えられない。
まあ、西軍の場合は関ヶ原の時点で兵力は十分にあったわけで、
いくら兵力を集めても南宮山に登られてしまっては何にもならないのだが。
むしろ西軍の作戦で最大の問題は、伊勢攻略に大軍を送ってしまったことだな。
大垣−岐阜−犬山のラインが手薄になり、岐阜合戦での敗北を招いた。
この敗戦の後遺症は大きい。
738 :
日本@名無史さん:04/03/11 16:02
西軍が伊勢に軍勢を割いたのは、もともと伊勢か尾張を決戦場に考えていたから
ではなかったのか。松尾山に築いた大規模な砦はその詰めの城の感覚かと。
だがどういうわけだかその大事な城塞によりにもよって小早川秀秋に入られてしまったのは
誤算だ。
西軍はいっそのこと、大阪オモテまで兵を返して、大阪城すなわち豊臣秀頼を背中にして布陣すれば
よかったかも。さすれば、秀頼の命を奉じて軍を進めているという大義の家康は、西軍に対して
戦端を開けなかったはず。
739 :
日本@名無史さん:04/03/11 17:11
>>738 承久の乱から小牧の役まで、東西対決で伊勢が主戦場になったことはない。
松尾山については、西美濃の奥深く、近江との国境近くにあり、
尾張・伊勢からは離れすぎている。
大坂籠城策は越前・美濃・近江・大和などを敵に明け渡すことになり、
これらの国を領地にもつ大名が籠城戦に耐えうるか、疑問が残る。
大坂に家康軍が迫ってくると淀殿が腰砕けになって勝手に講和してしまうかもしれない。
西軍にとって最上の策は、速やかに美濃に大軍を集め、
犬山から尾張に進攻し、小牧山か清洲を攻略することだったと思われる。
三成なんかよりも、この私が現地で采配を取っていれば、
楽勝だったのに。
関ヶ原に淀丸を築いて東軍を翻弄し、
狙うは家康の首ひとつ!って突撃して西軍大勝。
742 :
日本@名無史さん:04/03/12 12:11
島津義弘の伏見入城云々の経緯が今ひとつすっきりしないね
立場上島津が家康の要請を勝手に無視するわけがなく、そこらの経緯は決着がついていなかったのか?
当時島津は伏見城を単独で守備するだけの兵力を整えることが出来なかったことを
考えれば、これについては明確な態度を早期に申し出ていたはずだろう
あるいは当初の要請を家康が一方的に反故にして出陣してしまったのかもしれないわけだ
筋としてはこの方が通るわけだが
大坂城篭城は当時考えられなかったんだろうね。
そもそも西軍は表向き互角以上に戦える戦力があったんだし。
あと田辺城攻略軍は寄せ集めの軍だし本戦に間に合っても裏切りが
起こると思うよ、大垣城もそうだったよね。
大体西軍は朝鮮の役で相当疲弊していたんじゃない?
744 :
日本@名無史さん:04/03/12 18:01
>>743 朝鮮出兵がなくても、
大事な決戦の前夜に雨の中を夜通し行軍しなきゃならないような軍隊では
私だったら戦いたく有馬温泉。
745 :
日本@名無史さん:04/03/12 18:20
勝算はあったんだがな。
1 賤ガ岳七本槍の一人で東軍方と通じているのが確実な片桐且元を斬る。
2 淀君を軟禁する。
3 秀頼を戦場から見えるところまで引っ張り出して、千成瓢箪を掲げる。
1はともかく、2と3は実行したら豊家に弓を引くことになるわな。
747 :
日本@名無史さん:04/03/12 19:53
>>739 「大坂籠城策は越前・美濃・近江・大和などを敵に明け渡すことになり、
これらの国を領地にもつ大名が籠城戦に耐えうるか、疑問が残る。」
っていうか、逆じゃないの?
確かに東軍が自分の領地に入る前ならば、自分の領地を守ろうとしない
西軍トップの判断に疑問が湧くかもしれないが、大阪城に篭城していて
そのすきに西軍が越前や大和に侵攻すれば、もはや西軍がこの戦に勝って領土を
奪還するしかないと決断して死に物狂いで戦うんじゃないかな。
「大坂に家康軍が迫ってくると淀殿が腰砕けになって勝手に講和してしまうかもしれない。」
これも訳がわからない。
秀頼の家来である建前の家康が自分の主人の母である淀殿と講和する分けないでしょう。
大体、この戦いの実際の敗者は200万石から60万石に減らされた豊臣家でしょう?
淀殿が毛利の意向を無視して講和したとしても、毛利らがが大阪城から出る必要はないわけですし、
戦闘がないまま、淀殿が講和すれば、豊臣家の石高が減らされるわけではないので家康にとっては何のメリットもない
軍事行動になってしまうのでは?
748 :
日本@名無史さん:04/03/12 20:20
大坂城の淀殿周辺はこの東西戦に当初より距離を置こうとした
毛利にしても足元の抗争劇から豊臣家を守るという大儀にしがみ付いて
自らは大坂城から動こうとはしなかった
いい役者である
これこそ家康にとっては願ったり叶ったりであって、豊臣家からある意味引き離された
西軍と対峙できたことはそれ以降有利に展開できる条件となりえたであろう
しかもこの戦に三成が参戦してくれたことは、東軍の戦意を高めることにおおいに
貢献したことになるわけで、家康はほくそえんだと思う
戦いの後では、西軍の位置付けは勝者家康の思惑でどうにでも変えられるわけで
大坂(豊臣家)がこの家康に戦いを挑んだのかと、何とでもいえる
関が原の後どうして豊臣家はあんなに減俸されたの?
家臣同士の戦いに表だって立場を表明していないと思われる
豊臣家がなんで?
それ俺も思った。
豊臣恩顧の大名達から反発なかったのかな?
752 :
日本@名無史さん:04/03/13 00:16
>>747 西軍が大坂まで兵を帰してしまった場合、
家康としては大坂城を真っ直ぐに攻める必要は全くなく、
越前や大和などの西軍方の城をいくつか攻め落とせば、
全国(特に東北)に東軍優勢をアピ−ルできる。
西軍がそれこそ「領土を奪還するしかないと決断して」
大坂城を飛び出してきたら、待ち伏せして叩けばよい。
淀殿に代表される豊臣家はこの一戦に賭けるという意識が全くなく、
東軍優勢となれば保身第一で西軍を見限る可能性は大きい。
豊臣家さえ自分の陣営に取り込んでしまえば、
家康としては自軍の主力を占める豊臣大名の離反の恐れがなくなる。
その上で、毛利軍の大坂城退去を要求し、
毛利がこれを拒否すれば逆賊として討伐すればよい。
結果として、史実よりも家康の天下取りは楽になったものと思われる。
関ヶ原は両軍とも豊臣家の為の戦い
西軍側の大名の所領と豊臣家の所領を恩賞として東軍側の大名に与え
代官が置かれていた重要な場所(金山等)は、豊臣家の大老、秀頼の後見として
家康が自身の家臣を送って管理した、表面上は豊臣家の所領
大名からすれば、朝鮮出兵で殆どが恩賞も貰えておらず
また豊臣家のために関ヶ原の軍役を負担した訳で
豊臣家から貰えるのは当然と考えるべきではないだろうか?
よって各大名は豊臣家を減俸したという認識はなかったのではないだろうか?
>>752 横レスだけど、より畿内に近いところで戦って東軍に勝ち目があるわけ?
下手すると、秀頼を担ぎ出すかもしれないし、
それは無理でも、近くなら輝元自ら出てくる可能性がある。
そうなれば、内通者には期待できない。
また城を2、3落として優勢をアピールとか言っているけど、
逆に落せなかったらどうするわけ?
そもそも地方まで情報が伝わるのは、当時は時間がかかるんだから、
あまり意味がないと思われ。
つーか長期戦になったら、上杉が最上を諦めて関東に迫るかもしれないし、
佐竹が動く可能性も否定できない、さらに東軍だって一枚岩ってわけじゃないんだから、
あまりベストとは言えないよ。
>>750 「関ヶ原の合戦後、豊臣家は65万石の1大名に転落した」というのが、
ちょっと違うらしいんだな。
豊臣家の蔵入(直轄領)が200万石あるといっても、
これは公儀(政府)のものであって、豊臣秀頼の私物ではない。
全国を統治するのに200万石の収入で賄えていたのだから、
大坂城と周辺3か国の維持管理なら65万石で十分すぎるほどと言える。
江戸幕府は豊臣家を内に抱えた、いわば二重公儀体制でスタートした。
豊臣秀頼は千姫の婿として特別な地位を与えられており、
他の大名と違って徳川への臣従や課役を強制されていなかった。
わかりやすく言えば大坂65万石は公儀領(徳川領ではない)であって、
公儀に任命された代官(片桐且元)が管理していた。
大坂城に軍事力がわずか(七手組など)しかなかったのも、
片桐且元の追放が公儀への謀反と見なされたのもこのことによる。
>>754 大坂城に近いところで戦えば、秀頼・輝元が出てくるかなぁ?
てゆーか、近かろうが遠かろうが秀頼・輝元が出てくれば西軍の勝ちでしょ。
出てこないから大坂城に引っ込む作戦をとるんじゃないの???
まあ、「大坂城に主力を引き上げても西軍の城は1つも落とされない」とか、
「上杉が最上をあきらめる」とか、そんな可能性はほとんどないと思うけどね。
上杉が最上をあきらめることは、まずないでしょ。
史実だって最上に対して絶対的に有利で、残るは山形城と長谷堂城だけだったんだから。
この頃の上杉の狙いはあくまでも、
1.会津・米沢と庄内の連携を強めるために、最上領の獲得。
2.旧領越後の回復
にあるわけだからね。
この2点が達成され、後背の伊達をなんとかしない限り、上杉の南下はないでしょ。
佐竹は単独で動いても、短期間で江戸に進撃するのは難しいかと。
関東にはまだ、結城秀康をはじめとして万を超える徳川守備隊がいただろうから。
>>747 自分の領地をむざむざ敵に渡すくらいなら、大阪城になど篭城せずに
天下の兵を引き受けて一戦して果てるだろう。
領地を無視して大阪城に篭れなどという命令を出されて従う武将など
いるとは思えない。(石田三成や長束正家のような奉行衆でも同様)
それと豊臣家が戦後60万石に減らされたという説に対しては、否定する
論文が出されていて、大阪の陣までは家康に西国の支配権はなかった
という見方があるよ。
747以降の書き込みを読まないで書いてしまったので、758は間抜けですね。
すみません。
上杉の西進は、伊達が上杉の先鋒を務めない限りありえないでしょう。
(最上の降伏、秋田の内応があったとしても)上杉に江戸を攻めるだけの
兵力はない。
関が原の結果が逆だったら、最上とは講和、伊達・最上を先陣に佐竹
(そしておそらく堀も)と共に江戸に進出。
秀康がどのように動くかが興味深いですが、蒲生・里見などは寝返る筈。
家名保存が第一義の戦国時代にあって、主家への忠節に殉じるなどと
いうことは稀だと思うので、秀頼・輝元が出陣しても東軍有利とみれば
豊臣恩顧の武将たちは遠慮なく攻めかかるのでは?
760 :
日本@名無史さん:04/03/13 15:02
北条氏は篭城戦がお家芸だったんだけどなあ・・・。
761 :
日本@名無史さん:04/03/13 18:49
>>752 「越前や大和などの西軍方の城をいくつか攻め落とせば、
全国(特に東北)に東軍優勢をアピ−ルできる。」
そもそもほとんど空き城同然の越前や大和の小城を落としたところで、
東軍優勢のアピールにはならない。
逆に、なぜ大坂城を攻めないのかと不審に思われるのでは?
762 :
日本@名無史さん:04/03/13 18:54
>>752 「淀殿に代表される豊臣家はこの一戦に賭けるという意識が全くなく、
東軍優勢となれば保身第一で西軍を見限る可能性は大きい。」
1600年の時点で、淀殿が保身に走る必要など全くないのでは?
もし、本当に保身に走るのであれば、城内にいる毛利軍にこそ媚びを
売る必要があるはずですが。
論理的に考えて、淀殿と秀頼の生殺与奪を握っているのは、
毛利輝元であって、場外にいる家康ではありませぬ。
763 :
日本@名無史さん:04/03/13 18:59
>>756 「「上杉が最上をあきらめる」とか、そんな可能性はほとんどないと思うけどね。」
上杉が最上をあきらめるのではありません。
大坂城で篭城戦がおこなわれている間に、最上家が滅亡するのです。
西軍優勢の声は日本中を駆け巡ることでしょう。
764 :
日本@名無史さん:04/03/13 19:15
>>758 「自分の領地をむざむざ敵に渡すくらいなら、大阪城になど篭城せずに
天下の兵を引き受けて一戦して果てるだろう。」
10万の敵に2000で突撃するほど戦国大名は馬鹿じゃない。
漏れ様が松尾山で篭城して、
天下の兵を引き受けて一戦してやろうか?(´・ω・`)
>>763 >大坂城で篭城戦がおこなわれている間に、最上家が滅亡するのです。
>西軍優勢の声は日本中を駆け巡ることでしょう。
佐和山城落城、伏見城奪還の報せはそれ以上に決定的なニュースになるんでないかい。
767 :
日本@名無史さん:04/03/13 20:40
>>766 空城を落としても何の意味もありません。
768 :
日本@名無史さん:04/03/13 22:50
2
この時代の武士が何よりも大事にするのは、家名存続・本領安堵。
「自分の領土を敵に蹂躙されても我慢しろ、あとで恩賞やるから」なんて命令出されたら、
作戦を立てた首脳陣に対して不信感を抱くだろうよ。
この点に関しては。758にまったく同意。
それに佐和山や伏見は非常に重要な拠点であることがわかんないの?
佐和山は西軍首脳の石田三成の居城だし、伏見の失陥は都の失陥をも意味する。
このような要地を守らずに、大坂に篭らざるを得なかった状況を
各地の大名が見たらどう思うだろうか。
たとえそれが戦略的な放棄だとはいえ、
そのような焦土作戦を当時の大名たちが正確に理解できるだろうか。
<尾平ジャスコ冤罪事件 情報公開請願署名のお願い >
去る2月17日に三重県四日市市で誤認逮捕された68歳の男性が亡くなられました。
死因は「高度のストレスによる高血圧性心不全と不整脈」と発表されましたが、
この「ストレス」は逮捕・制圧の際のストレスである可能性が指摘されています
「泥棒」と叫んだ女性が姿を消し目撃者もいない状況で
後ろ手に手錠をかけ20分間うつぶせで押さえつけた行為について、
四日市南署は「一般的な制圧行動だったと思う」と述べ適切な対応だったと発表しました
(呼びかけ文より、以下略)
--- --- ---
この事件のまとめサイトで、情報開示と真相究明を求めるWEB署名が始まりました。
事件の風化を食い止める為に、ぜひご協力をお願いします <m(__)m>
まとめサイト:三重県四日市尾平ジャスコ冤罪事件
http://mindcom.hp.infoseek.co.jp/ 署名ページ
http://cgi.f33.aaacafe.ne.jp/~mindcom/index.php
771 :
739=752=756:04/03/14 17:48
>>761 >東軍優勢のアピールにはならない。
なるよ。
「敵が退散して空になった城を占領した」ことこそ最大の戦果。
無傷で恩賞となる領土を手に入れられたわけだからね。
>>762 >論理的に考えて、淀殿と秀頼の生殺与奪を握っているのは、
>毛利輝元であって、場外にいる家康ではありませぬ。
それはあり得ない。
毛利は秀頼を人質にとって大坂城に立てこもっていたわけじゃない。
もしそういう素振りを見せれば豊臣系大名の反感を買ってしまうだけ。
>>763 >大坂城で篭城戦がおこなわれている間に、最上家が滅亡するのです。
またそんな希望的観測を・・・。
でも、出羽の一部の攻略のために、近畿数ヶ国を放棄してまで時間を稼ぐ必要があるかな?
最上が滅亡しても伊達が降伏するとは限らないわけだし。
戦国時代の北条氏でもそうだが、籠城策は士気が高く、結束が堅くなければ難しい。
(その北条氏でも支城を空にするようなことはしていない)
残念ながら、関ヶ原合戦の西軍はそうではなかった。
常に戦果をあげて諸将の心をつなぎとめる必要があったんじゃないかな。
>746
1は同情したくなりますよ、関が原ならまだしてないし、
だったら西軍の情報を漏洩してた増田長益にそれをしたら良いのでは。
2はある意味当然かも、大阪の陣でしなかった
ばっかりに落城の憂き目を見ました。
3は現実的でしょ、家康も長期戦になって
それが実現されるのを恐れてました。
773 :
日本@名無史さん:04/03/14 22:24
>>761 >それはあり得ない。
それはあり得ないじゃなくて、淀殿と秀頼の生殺与奪を握っているのは、
毛利輝元というのは現実。
現実を見なきゃいけないのは、淀殿と秀頼。
>無傷で恩賞となる領土を手に入れられたわけだからね。
空き城=領土ですか?
言葉が違えば、語の意味する中身も違うのでは?
小学1年生レベル。
774 :
773 訂正:04/03/14 22:25
>>773 >それはあり得ないじゃなくて、淀殿と秀頼の生殺与奪を握っているのは、
>毛利輝元というのは現実。
>現実を見なきゃいけないのは、淀殿と秀頼。
私は頭が悪いのでちょっと教えてもらいたいのだが、
上記の文章は、毛利輝元が秀頼と淀殿を人質軟禁して、家康に対するということ?
それは、西軍の存在理由・アイデンティティを自ら否定することになるんじゃないの?
西軍の立場っていうのは、あくまでも「豊家御為」なわけでしょ(東軍も一応はそう)。
秀頼と淀殿を軟禁したら、それを否定することにならない?
それから、城と領土とはほぼ同義でしょう。
何のために城攻めをすると思ってんの?
空城であろうとなんだろうと、城の失陥は領土の失陥を意味するんだよ。
秀頼と淀殿なんだけれど、毛利輝元の主君は豊臣秀頼公。
淀殿は主君の実母だけれども、主君ではない。
豊臣家の家老として、例え主君の実の母であっても、政治に介入し、
豊臣家を乗っ取ろうとする逆賊と組もうとするなら、秀頼公のため
他の人々からいかなる非難があろうとも成敗いたしまする。
それと皆に隠しておりましたが、私、輝元、生前、秀吉公より秀頼公を
頼むと依頼されておりました。
秀吉公から賜ったご恩に報いるため、逆賊・家康を討とうではないか、諸大名方!
城と領土とは同義ではございませぬ。
城は領土内にある軍事的支配のための拠点ではありますが、大切なのは
領土の私的所有権でございます。
天下人からある特定地域の私的所有権を認められ(ということは他の大名からも
その私的所有が現時点では自分のものであると認識されているということ)、
かつ実行支配してこそ本当の意味で領土を得たことになるのです。
領土内にある人と収穫物とを自由に使えて、はじめて領土を手に入れたことになるのです。
収穫の終わった冬季に一時的に軍事的拠点を奪ったとはいえ、それが天下人である豊臣家の信認
がない以上、非合法な盗賊集団の略奪行為に過ぎません。
777 :
日本@名無史さん:04/03/15 09:24
関ケ原戦は秀頼の家臣たる家康が逆賊石田三成を誅した戦い。
だのに、なんで戦後の論功行賞を家康が独断で行えるのか。
本来なら秀頼の差配で仕置が行われるべきだったのではないのか。
豊臣恩顧の大名はそれについて異論を述べられなかったのか。
福島も加藤も家康に味方したのではなく、三成を排除したかっただけではないのか。
時代の空気に敏感な名うての戦国大名の面々としては、やはり家康に逆らうのは
将来のためにはならないと踏んだのか。
その辺りの家康vs豊臣恩顧大名の駆け引きが、その後15年にわたって豊臣家を存続
させ得たのか。
778 :
日本@名無史さん:04/03/15 11:39
家康は、秀吉の遺言からみても実質的後見人
関ヶ原の勝者として絶対の威信を確保し得たわけだし、後見人として豊臣家の
家政に関わりを深めるのは当たり前
当然、豊臣政権下での混乱を収束させたとしての名分がいくらでも立つ
三成が排除された時点ですでに豊臣家の家政は家康によって動かされていたということだろう
戦後の論功行賞は豊臣家の家政をもって、それも家康の独善的判断にとって追行されたということになる
779 :
日本@名無史さん:04/03/15 12:03
豊臣家恩顧の武将が残っている内は家康とてすぐには手出しは出来ない
家康は豊臣家の後見人として家政に直接かかわり驚かされたのは秀吉の遺産であった
大坂城の金蔵には膨大な量の金銀、そして大量の兵糧の備蓄があった
家康はこれを前にして何を考えたか
その答えが、15年にわたって豊臣家を存続させた理由だろう
780 :
日本@名無史さん:04/03/15 14:57
>>779 家康とて神ではない、
どうして自分より遥かに年下の太閣恩顧諸将が先に死んで自分の方が生きているなんて計算できたんだよ。
家康は最初からなにがなんでも豊臣を滅ぼすつもりで「豊臣滅亡まで15年かけた」とかいうのは無理なはなし。
やはり家康は豊臣が徳川配下の一大名に収まってくれれば豊臣は存続させるつもりだったんだろうね。
ところが状況的に自分が生きていて太閣恩顧諸将がバタバタ死に淀君らが自分の立場を理解せず強行姿勢を取り続けた
といった条件が重なったから豊臣を滅ぼしただけ。
>>780 立川文庫の読みすぎで、「太閤恩顧諸将がバタバタ死んだのは家康の陰謀」と思い
こんでなければ、そういう結論に自ずから達するはずなんだが。
ましてや当時の平均寿命から言えば家康があと15年生きるというオッズは篠沢教授
の倍率といい勝負なんだし。
782 :
日本@名無史さん:04/03/15 18:10
家康は天海に会ってからその天下取りの戦略は確実なものへと練りあげられていった
家康が健康に恵まれたのはただの偶然ではない
天海による健康長寿法の伝授は家康の寿命を大きく伸ばした
家康の野望そのものは、三成が見切った通り秀吉晩年ごろからすでにあったと見るべきだろう
そうした下準備が功を奏した事実をみれば、単に運がよかったとは言い切れなくなる
783 :
日本@名無史さん:04/03/15 18:43
>>782 天下取り構想はたしかに秀吉晩年からあっただろうよ。
そういう事ではなく、豊臣対策については必ずしも完全なる滅亡を絶対目標としていたわけではないという事だ。
家康もいろいろ豊臣滅亡以外の豊臣対策をいろいろ工夫してたみたいだしね。
784 :
日本@名無史さん:04/03/15 19:12
彡川三三三ミ _
川川 ::::::⌒ ⌒ヽ /  ̄  ̄ \
川川::::::::ー◎-◎-) /、 ヽ
.川(6|:::::::: ( 。。)) |・ |―-、 |
, ―-、川;;;::∴ ノ 3 ノ q -´ 二 ヽ |
| -⊂) \_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ ノ_ ー | |
| ̄ ̄|/ (_ ∧ / 、 \ \. ̄` | /
ヽ ` ,.|  ̄ | | O===== |
`− ´ | | _| / |
| (t ) / / |
「実はオレ秀吉の末裔なんだ」 「君は昔から常人離れした品格があるよね」
785 :
日本@名無史さん:04/03/15 20:35
何より家康自身が「自分が天下を取れたのは運である」
と言ってるんだよね。
義元、信長、秀吉らが自ら手を下しているわけでもないのに
先に死んでいった事を言ってるんだろうけど。
787 :
日本@名無史さん:04/03/16 09:14
結果論から言えば、起きた出来事のすべてに
いろいろな理屈や傍証がこじつけられるんだろうけど、
実際、その人生を生きてた人間からしたら偶然の賜物が
多いんだろうな。まあもちろんその巡ってくる偶然を必然の事実
のようにするのはその人自身の日ごろの努力だろうが。
788 :
日本@名無史さん:04/03/16 09:44
789 :
日本@名無史さん:04/03/16 10:13
運も実力のうちとよく言うが、家康のスタンスはそれだろうね
チャンスは絶対に逃さない
日ごろから耐えることに徹している
それでなかったら、力の時代では三日天下で終わっててしまう
790 :
日本@名無史さん:04/03/16 10:26
「オレは最初から虎視眈々と天下を狙っていたんだぞ!」というのと
「オレはただ運がよかっただけだ」というのは、どちらが受けがいいと思う?
791 :
日本@名無史さん:04/03/16 10:30
家康は豊臣家の存続を考えていたと思います。
その条件は秀頼が諸侯の前で臣従の礼をとり、
朝廷での官職が秀忠よりも下になることでした。
秀吉の主人であった織田秀信がのちに秀吉に臣従を誓った例もあることですから、
豊臣家が徳川家の臣下に下ることは不自然じゃなかったはず。
残念ながら臣従しないとならば反対勢力として滅ぼすしかなかった。
>791
方広寺大仏の難題のように最初から滅ぼすつもりだったとよく言われてるが。
それはそうだ、それをさせず存続を許したらやばいでしょ、
例えば参勤交代、御手伝い普請も免除なんでしょ、
そんなことしたら他の大名が黙ってない。
793 :
日本@名無史さん:04/03/16 12:27
戦国の時代は、臣下として服従するか否かですよ
抵抗し奉ろわない勢力は即潰せるところは潰していくのが鉄則ですよ
それも力が拮抗しておればなおのこと危ない勢力でしかない
>>791 あの段階では、
1.生母淀殿を江戸に人質として送る
2.大和郡山か伊勢に転封する
のどちらかが条件だったはず。
淀殿が前田芳春院(いわゆる「まつ」)くらい見通しが立っていれば1でも良いし、
先に2の条件を履行するのでも良い。
要は、豊臣家が根絶やしにならないためにどこまで身分・領土・役務を切り売りで
きるか?という商取引に尽きる。
武家として残るのなら、一応最低線は大名であることが望ましいので1万石は欲し
いが、公家として残るならそれでは多過ぎて危険なのでその場合は1000石切っても
止むを得ない。
795 :
日本@名無しさん:04/03/16 13:57
>>790 まあしかし、家康が信長や秀吉より先に死んでいたら、
絶対天下は取れなかったというのは歴史的事実だし。
家康が企んだのでない限り、信長や秀吉の死は
家康にとって幸運だし。(伊賀越えの時は危なかったが大局的に)
796 :
日本@名無史さん:04/03/16 15:04
戦国時代だから多かれ少なかれ誰でも死線を越えて存続した武家が大半だろう
戦で生き残っているだけで運がいいと思う
797 :
日本@名無史さん:04/03/16 15:17
豊臣家は吉良や最上のように高家として残る道もあったかもしれない。
高家なら格式が高くて、石高が低い。幕府としては願ったり敵ったりだ。
豊臣上野介なんて饗応の指導役がいて松の廊下で切り付けられたりしたら
できすぎだろうか。
あ、そしたらお家断絶しちゃうか。
798 :
日本@名無史さん:04/03/16 16:13
>>797さんへ
そんな事になったら何百年も敵役をやらされるじゃない。そっちの
方がもっと悲惨だよ。
>>798 でも、浅野内匠頭なら豊臣家は旧主筋なのでちょっとは我慢したかもしれない。(w
むしろ恐ろしいのは元同格だった家か豊臣家からも外様に当たる旧戦国大名系の家
だろう。
800 :
日本@名無史さん:04/03/16 16:58
801 :
日本@名無史さん:04/03/16 17:36
さっさと淀殿を人質に出して大和郡山にでも伊勢にでも行っとけば
よかったんだ。
そしたらたぶんまた別の要求を突きつけられたと思うけど、
徹底的に要求をのみまくる。
そしてまた次の要求があってものむ。要求を次々とのむ。どんどん
のんでいく。
不気味なくらい全然抵抗しない。
気がついたら、今川氏真の家臣になっていた・・・
802 :
日本@名無史さん:04/03/16 18:51
まあ、大納言様の国、大和にでも
さっさと自分から移ってれば問題なかったのにな。
大阪城にこだわったから滅んだんだな。
803 :
日本@名無史さん:04/03/16 18:56
家康は、秀吉の死後あれやこれと誓詞に触れるような違反行為をやりだす
これは明らかに三成ら文治派に対する煽り行為だったように思える
もとより豊臣政権の衰退を見極めての家康の示威行動の始まりであり、相当に三成らは反感を持ったことだろう
この辺りから関ヶ原に至るまでの経緯もいろいろあっておもしろいと思う
804 :
日本@名無史さん:04/03/16 19:24
大和か伊勢かで比べれば伊勢の方が良いともうけどね。
石高や海産物が魅力。
805 :
日本@名無史さん:04/03/16 23:28
応仁の乱は11年も続いたのに何故関ヶ原の戦いは数時間で終わったの?
>797
高家はさすがに無理がないかな?
>>797 豊臣の側から見れば政略的にその道を選んでもよかったかもしれない
809 :
日本@名無史さん:04/03/17 06:28
>799
浅野=北政所派だからねぇ。
>>807 織田家だって高家になってる家があるし、元関白家なんだから格式的には申し分な
いと思うんだが。
あとは、山名・最上みたいに交代寄合という方向もある。
大名同様に参勤交代もできるし大名や高家のように無役でも官位がもらえる。
812 :
日本@名無史さん:04/03/17 12:22
>>806 古今東西、野戦の決戦では殆どは1日、長いものでも数日でけりが着いている。
応仁の乱はやる気がなかったとしか思えない。
813 :
日本@名無史さん:04/03/17 12:49
>>812 ていうか応仁の乱つったって、のべつ幕なしに戦争してたわけではないでしょ。
あれはそういう政治的混乱が11年続いたって言う意味だろ。
まあ三成としては野戦に引っ張り出されることなく、何日でも何ヵ月でも引き伸ばし
たかったんだろうな。いわゆる遅延行為だな。
814 :
日本@名無史さん:04/03/17 14:31
>>813 日本の野党のお家芸「牛歩戦術」ですな。
しかし豊臣は滅んだけど家康も天下人としては
好ましかざる称号を頂いたわけだよね。
古狸とか・・。
天下を取るのに相応しい戦い方ってものがあるだろ?
だから後世でもそこまで人気が無い。
小牧長久手の戦い。
>>815 え?
戦い方はこれ以上ないほど理想的だと思うよ、家康。
天下人になるまで、わずか3回しか戦争(いずれも大合戦)してないし。
孫子の説くところを最も体現したと言えると思う。
>817
え?
すごく間抜けな指摘に見えますよ。
>>817 痛い奴だな・・・ いいキャラに育てよ、期待してるぞ。
820 :
kotaro:04/03/18 10:41
教えて下さい。
明治維新の頃、坂本竜馬は、郷士だった。
西軍に参加した前支配者の子孫と言う事で、
代々苦労している。
不思議なのは、活動していれば、
敗れて後も其処に居続けられないはず。
西軍に参加しながら様子見で、どちらの
側にも参加しなかったとしたら、関が原の
戦いで、西軍に参加して破れた方がまし。
その間の経緯を教えて下さい。
821 :
日本@名無史さん:04/03/18 11:44
関ヶ原に至る過程でみていくと豊臣政権下での戦国武将の配置換え、移封策そのものに失敗があったのではないか?
家康や蒲生を大幅に加増してまで地理的に遠ざけた処置
加藤や小西を遠く九州に置いたこと
忠臣三成を20万石に満たないまま据え置いたこと
822 :
日本@名無史さん:04/03/18 12:12
捕捉
蒲生は秀吉より先に謀殺されたのだが、あとの相続でもめにもめた経緯がある
家康ニコニコ
823 :
日本@名無史さん:04/03/18 12:50
大学四年になるものなんですけど関ヶ原の卒論書こうと思うんですが
どのあたりが書きやすいでしょう?
824 :
日本@名無史さん:04/03/18 14:43
小説のネタが多いから学位論文であることをしっかりと
認識した方がいいな。
俺だったら絶対、書いてるうちに小説家になったような気分で
虚実入り乱れた変な論文になってしまうだろう。
825 :
日本@名無史さん:04/03/18 16:05
>>823 防衛大学校の学生でつか?
大本営作戦部の立てた机上作戦と実戦はこうも違うというテーマがいいでつよ
826 :
日本@名無史さん:04/03/18 17:20
卒論だったら適当でも大丈夫じゃん?
827 :
日本@名無史さん:04/03/18 17:21
>>823 地方の「関ヶ原」と情報の伝達。
不確実性が判断に及ぼす影響について
830 :
日本@名無史さん:04/03/19 09:20
>>827 当時の情報伝達の寒さを考えると、天下分け目の決戦が行なわれた場合、
遠隔地の大名達は我々が想像するよりはるかに敵味方の選別や針路の選択が
大変だっただろうね。
831 :
日本@名無史さん:04/03/19 11:37
情報が少ない分、分析判断が早いとも言える
日ごろから周囲の敵味方の峻別はしているだろうから、いざとなるとさっと左右に分かれる
あとは駆け引き合戦
関ヶ原のように大規模になると多少の混乱はあるだろうね
832 :
日本@名無史さん:04/03/19 11:55
833 :
日本@名無史さん:04/03/19 11:55
あーケータイがほすい!
と武将どもが言っております。
834 :
日本@名無史さん:04/03/19 12:21
家康は手紙書きまくっているよね、何百枚も
それを足で運ばせるわけだから大変だよね
家康はまめなところがあるよね
835 :
日本@名無史さん:04/03/19 23:56
836 :
日本@名無史さん:04/03/20 00:51
三成の家臣の島左近や島津は夜襲を強く迫ったみたいですが、
もし夜襲作戦を敢行していたら結果は違ったものになったのではないでしょうか?
小早川が寝返るという情報はあったわけだし。
『金吾秀秋』さんと『おまえうざい。』って、最近セットになってるね。
838 :
日本@名無史さん:04/03/20 11:02
>>836 当日の悪天候からすると難しかったのでは
839 :
日本@名無史さん:04/03/20 15:29
840 :
日本@名無史さん:04/03/20 16:07
>>838 奇襲の場合悪天候の方が成功率高そうだが
841 :
日本@名無史さん:04/03/20 17:11
>>836 島津が夜襲を要求した事実は資料に残っていない
842 :
日本@名無史さん:04/03/20 17:32
>>836さんへ
現実的にも夜襲は不可能。例え実行したとしてもはけーんされて各個
に撃破されてしまうし、毛利(吉川)が裏切ったら挟み撃ちに合ってし
まう。
宇喜田や島津の夜襲提案は1級資料には出てない。
843 :
日本@名無史さん:04/03/22 03:44
三成は夜襲のような姑息な戦法を嫌がった
844 :
日本@名無史さん:04/03/22 10:05
放言の乱においても源為朝が夜襲を献策したが、そんな卑怯な手が使えるかと
却下され、逆に夜襲されて大敗。
関ケ原の一連の合戦でも逆の夜襲はなかったものの、結果的には然り。
勇将知将による夜襲献策 → 却下 → 敗北
という流れは事実にしても虚構にしても、歴史におけるひとつのパターンなのか。
思えば夜襲・悪天候を衝いての奇襲はひとつの勝ちパターンとなっているが
毛利元就の厳島の合戦
竜造寺隆信の今山の奇襲
北条氏康の川越夜戦
関ケ原の当時、宇喜多島津の夜襲献策はほんとうにフィクションなのか。
845 :
日本@名無史さん:04/03/22 20:41
>>844さんへ
あの時点では難しいと思う。当然東軍も夜襲も警戒しているし、家康
は竹中の献策によって菩提山城へ移ろうとししていた。1部の大名が
西軍の動きとは関係なく関が原へ進出しようとしていた。
どうしても夜襲したければ東軍先鋒が赤坂に進出した時ならできるが
それほどの効果は望めない。
847 :
日本@名無史さん:04/03/22 21:33
>>844 あの時点での赤坂夜襲って本当にいい作戦かなあ?
赤坂周辺だと東軍に圧倒的に地の利があるうえに、
大軍で夜襲をかけると簡単には引けないので、
戦闘が明け方まで長引くと敵の集中砲火を浴びて大損害を受ける危険性がある。
島津の場合、天正15年の根白坂合戦という前例があって、
2万の兵で羽柴軍の宮部継潤の陣地を夜襲して惨敗している。
すでに構築した陣地に夜襲をする危険性は熟知しているはずなのだが・・・。
>>844 > 関ケ原の当時、宇喜多島津の夜襲献策はほんとうにフィクションなのか。
今となっては確認するすべもないけど(良質な史料が出てこないかな)、
夜襲の目的は主将家康の首を取るという事よりはむしろ敵に安寧を与えない事だから、
東軍に戦の主導権を与えないために手を打ち続けるという意味ではやって損はない、と思うなあ。
>844
厳島は仕掛けた罠にはまった敵へ
かけた夜襲であって例えとして不適当だろ。
んで、川越夜戦は夜でなかったという方が
有力でなかったか?
さほど勝ちパターンでは無いようだよ。
>>844 やっても失敗確実だよ。
すぐにでも戦闘始まる緊張感のある、布陣終わったばかりの状態では
東軍も警戒しているから成功率が低い。
警戒がゆるんだところで行えば成功する率は上がるけど
1日でカタがついた関ヶ原では夜襲はノーチャンス。
>850
バカ殿のカッコしていけば
東軍も油断するに違いない。
>>851 西軍を油断させることに成功した(´・ω・`)
もう少し思慮深いヤシらかと思ったんだがな
853 :
日本@名無史さん:04/03/25 00:47
854 :
日本@名無史さん:04/03/25 07:52
豊臣もバカだね。250万石の後北条を残しておけば、徳川のおさえとなったのに。
全国の大名を集めて、後北条をフクロにして、1万石に改易。
結局、豊臣秀吉の死後、豊臣に恨みを持つ徳川が台頭して豊臣は断絶。
徳川の一人天下。まさに漁夫の利ってやつだな。
後北条が残っていれば、豊臣は家名存続したかもしれないのに。
855 :
日本@名無史さん:04/03/25 08:01
戸田勝成&勝隆兄弟は最強です
856 :
日本@名無史さん:04/03/25 08:21
勝隆って誰よ?
857 :
日本@名無史さん:04/03/25 08:35
>>855 信長家臣→浅井家臣の戸田勝直も、名前からすると一族みたいですね。
大坂城に入城した戸田為重は勝隆の一族なので、大坂の役では敵味方に
戸田一族がいたってことだよね〜。
858 :
日本@名無史さん:04/03/25 12:29
859 :
日本@名無史さん:04/03/25 16:22
関ヶ原の西軍の指揮系統はどうなってたんだろう?
ばらばらに布陣して行き当たりばったりでやろうとしてたのか?
どうせなら横一列に布陣すればよかろうに
860 :
日本@名無史さん:04/03/25 17:46
指揮系統なんかないよ。総大将の毛利輝元は大坂城に居たんだから。
861 :
日本@名無史さん:04/03/25 18:42
漏れ様は関ヶ原にいたよ(´・ω・`)
862 :
日本@名無史さん:04/03/25 22:12
それよりも真田に大封を与える事ができなかったのかな?
北条討伐の立て役者なんだから上野全部と北信濃あるいは甲斐などでもやって勢力を伸長させられなかったか?
863 :
日本@名無史さん:04/03/25 22:15
そんな事したら何倍もの加増になるよ。
他の大名とのバランスが取れない。
864 :
日本@名無史さん:04/03/25 23:29
>>859 西軍の指揮系統は、朝鮮出兵時のシステムがベースになっているものと考えられる。
慶長の役では、秀吉の命を受け、次のような編成で内陸部に進撃した。
(船手衆は途中から左翼軍に合流した)
1 右軍=毛利秀元(主将)、長曽我部元親、鍋島直茂、加藤清正、黒田長政 等
2 左軍=宇喜多秀家(主将)、小西行長、島津義弘、蜂須賀家政、生駒一正 等
3 船手衆(水軍)=藤堂高虎、加藤嘉明、脇坂安治 等
4 諸城守備=小早川秀秋(釜山)、立花宗茂(安骨浦)、浅野幸長(西生浦) 等
上記から東軍に味方した大名を差し引いて、奉行衆を加えるとほぼ西軍の編成になる。
1 南宮山布陣部隊=右軍+長束正家
2 関ヶ原布陣部隊=左軍+石田三成
3 北国衆=大谷吉継、脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、京極高次
(北国衆の水軍は強力であり、前田利長を本国に釘付けにするほどだった)
4 諸城守備=小早川秀秋(伊勢口→佐和山口→松尾山)、立花宗茂(瀬田→大津)
まとめると、毛利秀元と宇喜多秀家を主将とする2個軍団で編成され、
北国衆は当初は水軍部隊として行動し、のち秀家軍団に合流した。
小早川秀秋と立花宗茂は拠点防御を行う独立部隊の性格を有していた。
全体を統率していたのは大坂城の毛利輝元(+増田長盛)であったと思われる。
>862
あれって、沼田が帰ってきただけ?
事実上加増無しだなぁ・・・
>>856 戸田勝隆は勝成の兄で、秀吉の古参の家人。
大母衣衆・黄母衣衆を歴任し、播磨時代の秀吉の臣下では、
御子田正治、尾藤知宣、宮田喜八と勝隆の4人が最も戦功抜群とされていた。
宮田が三木攻めで戦死し、御子田・尾藤が秀吉に殺されたため、
4人の中ではただ1人生き残り、伊予板島で7万石を領した。
文禄元年、朝鮮の役に出動し、唐島(巨済島)に滞留して講和交渉に尽力。
文禄3年10月、帰国途中に病死した。無嗣断絶。
秀吉の場合、こういう古参の家人が不遇なんだよなあ。
867 :
日本@名無史さん:04/03/26 09:30
そうだよな・・。関が原は厳密に言うと石田VS徳川ではないもんな。
石田は反徳川の盟主ってだけで、各大名は石田の命令など聞けん、という感じだもんな。
868 :
日本@名無史さん:04/03/26 10:38
三成ら反徳川に煽られて出陣したが、その指揮下に入るのは御免ということか
西軍は皆思惑があってばらばらなんだな
869 :
日本@名無史さん:04/03/26 11:21
西軍は大老が三人、中納言が二人、そして秀吉の一番弟子を自負する
石田三成。結果的に負けたから、みんなほっかむりしたけど、
もし勝ってたら、俺が俺がの大合唱で収拾がつかなりそうなオールスターキャスト。
そこ行くと東軍は反三成の豊臣ウンコの大名が大半を占めて、徳川本隊は
木曽の山の中。家康はウンコを前線に押し立てながらも、先陣はちゃっかり身内で
いただき。いいとこどりの布陣であった。
ばれたか(´・ω・`)
細川→三好→松永っていう流れと、織田→豊臣→徳川→(大久保)っていう流れは、
当時の大部分の人にとっては、現在我々が感じるほどの差異はなかったんじゃないの?
実力主義の時代。家康ですら、「自分が死んだあと、他の大名が天下をとったところで
恨みはしない」と(一応は)言っている。実力者家康が天下を取るのは自然の流れ。
西軍が勝ってたら、知行割を誰が行うのか。悪くすると戦国時代に後戻り。
第二第三の徳川が現れた可能性が高い。
と思った。
872 :
日本@名無史さん:04/03/26 23:42
天元実記の資料的価値は?
873 :
日本@名無史さん:04/03/26 23:56
確かです
>>871 西軍が勝ったなら、この輝ける勝者の漏れ様が関白として天下の知行割を
行うことになるから大丈夫さ(´・ω・`)
875 :
日本@名無史さん:04/03/27 10:18
石田三成は、べつに西軍の総大将だったわけでもないよ。
かといって、他の武将が総大将だったわけでもない。
西軍は、総大将がいなかったのだよ。
876 :
日本@名無史さん:04/03/27 13:16
>>874 秀頼の名を借りた奉行衆に切腹させられるか毛利本家に毒飼いされて秀包に小早川
家を乗っ取られるかなので、結局は史実と大差ない時期にくたばりますが何か?
>>874 あなたが関ヶ原で大活躍して西軍を大勝利に導いたところで
関東の徳川家は(所領を大幅削減されたろうけど)残るだろうし
大阪に近い大大名毛利氏の発言力が(活躍もしとらんのに)大きくなるは
秀頼の淀殿と秀秋の北政所の関係悪化が暗ーい影を落としたろうし
少なくとも
毛利輝元が東軍内応で増田長盛を指摘すれば、三成や秀家が吉川広家の
不戦やらもちだし応酬、毛利・上杉大老と宇喜多や奉行衆の主導権争い
当然小早川秀秋とて東軍内応の疑惑を持ち出され
関白なんぞ反故にされ
前田が越後を攻め落としたろう上杉との関係悪化も懸念されるは
関東攻めで功績大であろう上杉が東国でのさばりだし徳川より危険に
なったり九州の加藤清正や黒田如水、奥州の伊達政宗の存在も容易く
かたつくはずもなく・・・
あなたが関白になる前におおもめにもめて新たな戦乱になってしまうでしょう。
へたをすれば応仁の乱で室町幕府が埋没したように豊臣政権も
全国で領土争いあっても何も口出しできない埋没状態になるから
なれてもお飾り関白・・・。
昨日は大漁だったぜ(´・ω・`)
>>877 ごめんもうちょっと分かりやすい日本語で書いてください・・・
>880
その通り。信長に仕えたのは父の光直。
戸田勝直(1560〜1640)は近江で浅野長吉に召し抱えられた。
浅野氏に仕えたのは光直の妻が浅野長勝の妹だったからだろう。
882 :
日本@名無史さん:04/03/31 10:19
某ファストフード屋にて
店員「お待たせいたしました。ご注文は?」
客「小 早 川 秀 秋 一つ」
店員「今、小早川秀秋をお買いあげの方には
追加料金100円で お ま え う ざ い
が付いてきますが、いかがされますか?」
客「?」
884 :
日本@名無史さん:04/03/31 22:54
>>883 「それは、全てあなたの思い込みです」はセットで頼むといくらですか?
某ファストフード屋にて
店員「お待たせいたしました。ご注文は?」
客「小 早 川 秀 秋 一つ」
店員「今、小早川秀秋をお買いあげの方には
追加料金100円で お ま え う ざ い
が付いてきますが、いかがされますか?」
客「ああ、じゃ おまえうざい の他に
そ れ は 、 全 て あ な た の 思 い こ み で す
もセットで」
店員「大変申し訳ございませんが、そちらの方はセットでは選べなくなっております。」
客「ええ〜 (つд`)」
(´・ω・`)
887 :
日本@名無史さん:04/04/09 20:48
ワンパターンでつまんない。
889 :
日本@名無史さん:04/04/11 01:48
891 :
日本@名無史さん:04/04/11 09:01
892 :
日本@名無史さん:04/04/11 10:52
893 :
日本@名無史さん:04/04/11 17:35
激しくつまらん。
894 :
日本@名無史さん:04/04/11 18:36
895 :
日本@名無史さん:04/04/11 19:27
ループしてるな。
896 :
日本@名無史さん:04/04/11 22:03
897 :
日本@名無史さん:04/04/11 23:59
気持ち悪い。変なヤツ。
>>886 は漏れ様じゃないよ(´・ω・`)
佐和山って金閣寺やヘンな建物がイパーイあるんだね。
関ヶ原の後で攻めようと思ったけど、やる気なくなったよ。
899 :
日本@名無史さん:04/04/12 06:33
>>898 おまえうざい。つーか、ジサクジエーン乙。
900 :
日本@名無史さん:04/04/12 09:29
901 :
日本@名無史さん:04/04/12 12:31
石田三成の子女はなんとか、生き延びたよね?
確か今でも三成の子孫がいるとか・・・・
三成の子女、男子3人女子5人・・・・
903 :
日本@名無史さん:04/04/13 08:16
>>902 長男は僧侶になった。
次男は北政所の元に使えていたがその後津軽家に逃亡、しかし病気で夭折している。
この次男と一緒に逃げた女の子が津軽信牧の側室となり、津軽信義を産んでいる。
戦後賊臣として処断された割には、子供のことは割と分かっているようだ>三成
904 :
日本@名無史さん:04/04/14 23:48
いつも思うのだが、「関ヶ原=家康の策略勝ち」説をとる人って、
家康を誹謗しているようでいて、実は家康の智謀を褒めてる事になるよね。
自分が想像する家康イメージは、
====
自分は三成を武闘派から匿ったこともあるし、
三成の人質も善意で解放した。
恩義を感じた三成は懐柔に成功したも同然。
念のために島津義弘殿に京都の守備を頼んでおこう。
====
とたかをくくって、楽観的に会津に向い、三成の策略にハメられる。
しかも、意外と西軍に人が集まっている。・・・予想外!!
あわてて貸しのある大名たちに手紙で助勢を請うた。
・・・てな感じで、家康がお人よしに見えるのだが。
ただのお人好しが戦後毛利や長宗我部にあんな対応とるかね
906 :
日本@名無史さん:04/04/15 18:51
石田光成なんかただのバカだ
田舎物だ
最上マンセー
高禄やった秀吉もバカだ
>>905 >戦後毛利や長宗我部にあんな対応とるかね
どう見ても、家康から仕組んだとは思えない。
三成のバクチがかえって裏目に出ただけに思える。
家康は、三成方にハメられた憎しみ・不信で
場当たり的な報復的賞罰を行ったっぽい。
自分の意思で家康の味方になってくれた諸大名に、
あのケチな家康が惜しげもなく領土を与えている。
どう見ても、よく考えてレスしてる様には思えない
家康が悪いわけないジャン(w
彼は、豊臣家からの政権移譲を堂々とやってただけ。
身勝手な危機感もった馬鹿が挙兵して、家康が迷惑しただけ。
>>910 迷惑したのは福島や加藤じゃないか?
せっかく豊臣、徳川の間を取り持ってう、まく政権を存続させていこう
と努力しているのに、石田の暴走で豊臣、徳川の友好関係を破壊されそ
うになった。
912 :
日本@名無史さん:04/04/16 23:00
>>911 それ大きいよね。
あのまま、徳川家臣団の大坂城本丸入りが定着してれば、
秀頼の悲劇的な結末はなかったと思う。でもそうはならなかった。
家康が大坂に入らず江戸で執政開始したのは、
いつ大阪城内で暗殺されるか分からなかったからかもしれない。
家康は臆病なので意外とこれが真実だろう。
強いて家康に非があるなら、
1.家康が大坂城で執政しなかった事。
2.あるいは、秀頼を大坂城から退去させなかった事。
どちらも実行しなかったため、
結局時間だけがすぎて悲惨な結末になってしまった。
優柔不断な家康らしい、人生最大の失敗だと思うよ。
三成も、万一関ヶ原で敗れた場合には大坂城に脱出して
篭城戦に持ち込むくらいのことは考えてなかったのかね?
毛利の兵力も温存してたし、のちの大阪の陣での西軍の
奮闘ぶりを見ると、三成に大阪に篭られては
東軍は勝利をおさめるのはまず不可能だったろう
914 :
日本@名無史さん:04/04/17 21:27
>>912 >家康が大坂に入らず江戸で執政開始したのは、
後段はちょっと違っていて、
慶長6年から11年まで、家康は江戸と伏見を頻繁に往復しており、
駿府城ができるまでは主に伏見城で天下の政務を執っていた。
大坂=秀頼、伏見=家康の配置は、秀吉の遺言に沿ったもの。
>1.家康が大坂城で執政しなかった事。
>2.あるいは、秀頼を大坂城から退去させなかった事。
どちらも秀吉の遺言に背くことになるが・・・。
家康としては、すでに実力で天下をとっているのだから、
全然無理する必要はない、と考えただけじゃないの?
無力な豊臣家は徹底放置。
背けば堂々と討伐すればいいだけだし。
>>912 >いつ大阪城内で暗殺されるか分からなかったからかもしれない。
>家康は臆病なので意外とこれが真実だろう。
臆病もなにも、大阪城で家康が与えられた部屋は
三成の命令があればいつでも一斉銃撃されかねない危険な場所。
ある意味、当たり前の判断。
916 :
日本@名無史さん:04/04/18 18:32
>>915 >三成の命令があればいつでも一斉銃撃されかねない危険な場所。
それは伏見のことでは?
家康・利家が対立したとき、
家康邸の隣が福原長尭(三成の婿)の屋敷なので、
三成が家康邸襲撃を企てたとされた。
家康・利家が和談した後、不測の事態に備えるため、
向島(宇治川の対岸)に徳川屋敷を移転した。
この屋敷の建築には50日かかったが、この期間中、
家康は夜ごと密かに宇治川をわたって新旧両邸を往復し、
所在を他人に知られないようにしたという。
一説によると、三成に家康襲撃を煽ったのは細川忠興で、
裏では福島正則らと示し合わせて家康に密告したらしい。
ちなみに三成失脚の原因となった豊臣七将の三成襲撃も、
この家康邸襲撃容疑を表向きの理由としていた。
ハメられた三成の要領の悪さと、家康の用心深さが非常に対照的なエピソードだな。
917 :
日本@名無史さん:04/04/20 19:16
「石田三成名誉回復論」
三成の戦略は当たりました。自軍の退却により時間を稼ぎ、漢城北方に軍
を集結できた日本側は、急追してきた明軍を碧蹄館の地で迎え撃ち、これに
大打撃を与えることが出来たのです。
この碧蹄館の戦いでは、戦場で巧緻な戦術を見せた小早川隆景、立花宗茂
らの活躍のみが後世に喧伝されて、三成の活躍はほとんど無視されています。
ですが、もし三成がいなければ、碧蹄館に至る前に日本側は個別撃破され、
更に容易ならない事態となったことでしょう。
http://www.shirofan.com/mm/018.html
918 :
日本@名無史さん:04/04/20 19:55
淀殿と高台院の仲が、悪くなければ、西軍は勝っていただろう。
>918
ねねたんが子供を産んでいれば・・・
920 :
日本@名無史さん:04/04/21 23:14
秀長が長寿であれば・・・
利家がもっと長寿であれば・・・
霧隠才蔵が家康を・・・
922 :
日本@名無史さん:04/04/26 22:11
西軍(79965)
石田三成(3820)
島勝猛(1000)
蒲生郷舎(1000)
島津義弘(1650)
小西行長(6000)
宇喜多秀家(17220)
大谷吉継(1500)
木下頼継(750)
戸田重政(800)
平塚為広(360)
赤座直保(600)
小川祐忠(2100)
朽木元綱(600)
脇坂安治(990)
小早川秀秋(15675)
毛利秀元(13000)
吉川広家(3000)
長束正家(1500)
安国寺恵瓊(1800)
長宗我部盛親(6600)
923 :
日本@名無史さん:04/04/26 22:12
東軍(88208)
徳川家康(30000)
黒田長政(5400)
細川忠興(5100)
加藤嘉明(3000)
筒井定次(2850)
田中吉政(3000)
井伊直政(3600)
松平忠吉(3000)
古田重勝(1020)
織田有楽(450)
金森長近(1140)
生駒一政(1830)
福島正則(6000)
藤堂高虎(2490)
京極高知(3000)
寺沢広高(2400)
本多忠勝(500)
池田輝政(4560)
浅野幸長(6510)
山内一豊(2058)
有馬則頼(300)
>>924 多分、アレだろ。参謀本部「日本戦史」の曾孫引きじゃないか?
1万石当り300人役とか350人役とかで概算したってやつ。
本によっては土佐一国9.8万石という資料を出典に長宗我部を2000人くらいに見て
いるのもあるな。
926 :
日本@名無史さん:04/04/28 10:22
東軍の大垣城の抑えは誰だっけ?
堀尾、中村他小大名数名
928 :
日本@名無史さん:04/04/28 22:36
>>925 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
富田信高の妻って宇喜多秀家の従姉妹だよな。
宇喜多の内紛がなければ伊勢作戦に多くの時間を費やすこともなかった
だろう。全ては坂崎出羽守が悪い。
930 :
日本@名無史さん:04/04/30 15:59
931 :
日本@名無史さん:04/04/30 21:56
なんで、
>>925が叩かれてるの?
叩いている奴はデータ厨なのかな・・・ だったら消えてくれ。
933 :
日本@名無史さん:04/05/01 08:12
>>932 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
>>933 脳内兵力数を貼って悦に入っているような奴に言われたくないな。
935 :
日本@名無史さん:04/05/01 12:25
参謀本部編纂「日本の戦史・関ヶ原の役」にはこうある。
[兵数]東西両軍の兵員の実数は知ることができない。
しかし・・・島津惟新が同竜伯に送った書に・・・禄百石ごとに三人と書いてある。
そこでこれを基本として東軍諸将の兵を算出したところ、次のようになる。
西軍の兵数は、まだ基本とするべきものがわからないので、
東軍の例によって仮に算出すると、つぎのとおりとなる。
要するに、関ヶ原合戦では兵力について確定的な史料がないので、
百石三人役で仮に推測するしかないってことだな。
ちなみに参謀本部の算定した数字を挙げてみる
1,東軍・関ヶ原に出た兵(約74,000名)
徳川家康(30000)福島正則(6000)黒田長政(5400)細川忠興(5100)井伊直政(3600)
本多忠勝(500)松平忠吉(3000)京極高知(3000)加藤嘉明(3000)田中吉政(3000)
筒井定次(2850)藤堂高虎(2490)寺沢広高(2400)生駒一正(1830)金森長近(1140)
古田重勝(1020)織田有楽(450)有馬則頼(300)分部光嘉(300)
松坂城に籠城していたはずの古田重勝や、安濃津城で西軍に降伏し、
富田信高と共に高野山に登っていたはずの分部光嘉が入っているなど、
必ずしも正確ではないようだ。
2,東軍・南宮山及び大垣に備えた兵(約26,000名)
池田輝政(4560)浅野幸長(6510)山内一豊(2058)有馬豊氏(900)
堀尾忠氏(5100)中村一栄(4350)水野勝成(900)西尾光教(600)
松下重綱(300)一柳直盛(1050)
南宮山に備えたのが池田・浅野・山内・有馬であり、
堀尾・中村は岡山、水野・西尾は曽根、一柳は長松にいたとある。
松下についてはどこに配備されたか書いていない。
(続き)
3,西軍・関ヶ原で決戦するはずの兵(約82,000名)
石田三成(5820)織田信高(不明)伊藤盛正(900)岸田忠氏(300)豊臣麾下の士(1000)
島津惟新(800)島津豊久(858)小西行長(6000)宇喜多秀家(17220)川尻直次(300)
糟屋宗孝(360)大谷吉継(1500)木下頼継(750)平塚為広(360)戸田重政(300)
脇坂安治(990)小川祐忠(2100)朽木元綱(600)赤座直保(600)小早川秀秋(15675)
毛利秀元(16000)長宗我部盛親(6660)長束正家(1500)安国寺恵瓊(1800)
順序は関ヶ原に対する陣地の順によるとある。
関ヶ原で決戦する「はず」と書いているところが笑える。
>>922-923は上記の算定数字とほぼ一致しているが、
伊藤・岸田など活躍していない大名の多くが抜けている。
孫引きではないかという
>>925の推定は当たっているような気がするが。
「1万石当り350人役」ってのがよくわからんが。
(おまけ)
4,東軍・上杉及び佐竹に備えた兵(約18,000名)
結城秀康(3030)蒲生秀行(5400)里見義康(2700)相馬義胤(1800)
佐野政綱(1170)平岩親吉(990)水谷勝俊(750)小笠原秀政(600)
山川朝信(600)皆川広照(390)松平信一(150)植村泰忠(不明)
5,東軍・中山道をのぼった兵(約38,000名)
徳川秀忠(15,000)森忠政(3810)榊原康政(3000)本多忠政(3000)
奥平家昌(2400)石川康長(2400)仙石秀久(1710)大久保忠隣(1350)
酒井家次(900)真田信幸(810)日根野吉明(750)小笠原忠政(600)
菅沼忠政(600)牧野康成(600)諏訪頼水(360)本多正信(300)
戸田一西(150)酒井忠重(90)
6,西軍・大垣を守った兵(約4,800名)
福原長尭(600)高橋元種(1500)秋月種長(900)垣見一直(600)
相良頼房(540)熊谷直盛(450)木村勝正(300)
元気かい?(´・ω・`)
940 :
日本@名無史さん:04/05/02 17:34
941 :
日本@名無史さん:04/05/02 18:23
>>937 > 孫引きではないかという
>>925の推定は当たっているような気がするが。
君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
942 :
日本@名無史さん:04/05/02 19:21
[関ヶ原西軍甲]
主戦場にて対東軍との戦闘を基本的には行った部隊
{北国街道}----------9500
石田三成 (6000)
豊臣麾下 (2000)
島津隊 (1500)
{天満山}-----------21000
小西行長 (4000)
宇喜多秀家 (17000)
{中山道}------------5600
戸田重政 平塚為広 (1500)
大谷吉継 (600)
大谷吉勝 木下頼継 (3500)
-----------------------------
【純西軍計】 36100
[関ヶ原西軍乙]
主戦場とは遠い場所に布陣していたため、
対東軍との戦闘に参戦しなかった部隊
{松尾山}----------18000
吉川広家 (3000)
毛利秀元 (15000)
{南宮山}-----------9900
安国寺恵瓊 (1800)
長束正家 (1500)
長曽我部盛親 (6600)
-----------------------------
【不西軍計】 27900
[関ヶ原東軍甲]
主戦場にて対西軍との戦闘を行った部隊
{北国街道方面}-----19200
黒田長政 (5400)
細川忠興 (5000)
加藤嘉明 (3000)
筒井定継 (2800)
田中吉政 (3000)
{天満山方面}-------12600
福島正則 (6000)
井伊直政 (3600)
松平忠吉 (3000)
{中山道方面}--------7800
藤堂高虎 (2400)
京極高知 (3000)
寺沢広高 (2400)
{松尾山方面}----------19800
赤座直安 (600)
小川祐忠 (2100)
朽木元綱 (600)
脇坂安治 (900)
小早川秀秋 (15600)
{陣場野}-------38000
森忠政 (3800)
榊原康政 (3000)
本多忠政 (3000)
奥平家昌 (2400)
石川康長 (2400)
仙石秀久 (1700)
大久保忠隣 (1400)
酒井家次 (900)
真田信幸 (800)
日根野吉明 (800)
小笠原忠政 (600)
菅沼忠政 (600)
牧野康成 (600)
諏訪頼水 (400)
本多正信 (300)
戸田一西 (200)
酒井忠重 (100)
徳川秀忠 (15000)
{桃配山}-------35000
古田重勝 (1200)
織田有楽 (400)
金森長近 (1100)
生駒一正 (1800)
本多忠勝 (500)
徳川家康 (30000)
-----------------------------
【純東軍計】 132400
[関ヶ原東軍乙]
主戦場とは遠い場所に布陣していたため、
対西軍との戦闘に参戦しなかった部隊
{南宮山方面}-------13900
有馬豊氏 (900)
山内一豊 (2000)
浅野幸長 (6500)
池田輝正 (4500)
-----------------------------
【不東軍計】 13900
西軍64,000のうち、
正面戦力の36,100(西軍の56%)が戦いました。
南宮山の27,900(西軍の44%)が遊んでました。
東軍146,300のうち、
正面戦力の132,400(東軍の90%)が戦いました。
南宮山方面の13,900(東軍の10%)が遊んでました。
これは、徳川秀忠が関が原に参戦して、
小早川秀秋が東軍で布陣した場合の想定です。
松尾山には、小早川秀秋の代わりに毛利秀元が布陣するものと思われます。
しかし、吉川広家が進路を塞いでいるので主戦場に参戦できない可能性が高いです。
東軍が圧倒的ですが、史実とは少し違った展開になる可能性があります。
949 :
日本@名無史さん:04/05/03 13:43
俺が三成だったら小早川金吾は島津と小西の間の中山道沿いに引っ張り出して嫌でも戦闘に参加させたのにね。
松尾山には毛利勢を伊勢街道から入れて穴埋めすればいいじゃん。
>950
簡単に松尾山を降りるくらいなら
東西両軍ともあんなに苦労していないさ。
952 :
日本@名無史さん:04/05/04 01:35
小早川秀秋よりも先に、宇喜多秀家が松尾山に布陣すれば良かったかもしれない
953 :
日本@名無史さん:04/05/04 10:49
>>953 三戦板がお前の住処だ。日本史板から、とっとと去れ。
955 :
日本@名無史さん:04/05/04 10:54
>>954 そいつを三戦板から追い出したのは、お前だろ!?
956 :
日本@名無史さん:04/05/04 12:42
957 :
日本@名無史さん:04/05/04 13:06
まったくうざいやつらだぜ(´・ω・`)
959 :
日本@名無史さん:04/05/04 23:34
このスレずっと見てるけど、もういい加減、
「三戦板に行け」「思い込みです」「うざい」はNGワードにした方がいいな。
思うのは勝手だが、スレの雰囲気が悪くなる。
関ヶ原について語ろうぜ。
961 :
日本@名無史さん:04/05/05 00:06
まあまあ、仲間割れはだめですね。
962 :
日本@名無史さん:04/05/05 00:51
>>952 宇喜多を松尾山に入れると大垣が手薄になってしまうので、現実には難しいだろうな。
本来なら一番近く(山中)にいた大谷吉継が松尾山に入るのがいいんだろうが、
西軍の中で、大谷吉継は小早川秀秋をかばっていたフシがある。
松尾山に入った秀秋に対し、大谷吉継はこう言ったそうだ。
「幼い秀頼公を補佐するものは秀秋公以外にはいないのに、
秀家・三成・正家らは秀秋公を疑って殺そうとしている。
早く心を改めて太閤の恩に報いることを考えてください。
秀秋公は若いので、奸人にたぶらかされないか心配なのです」
秀家・三成らが秀秋を疑い、戸田重政と平塚為広を刺客として、
秀秋の陣営に派遣したのとは、ずいぶんと温度差がある発言だ。
それだけに、裏切られた後の憎悪は人一倍だったろうが・・・。
>962
大谷勢の布陣は、小早川の裏切りに
備えていたように見える。
だから、その発言は政治的なモノではないのかな?
>>963 確かに政治的な発言だったとは思うが、
決戦直前に吉継は陣地を前進させている(山中→関の藤川)。
この移動は果たして「小早川の裏切りに備えていた」といえるのかどうか・・・。
確かに秀秋の陣には近いが、秀秋が裏切って松尾山を西方から下りたら、
東軍と挟撃されてしまう危険のある位置でもある。
秀秋を警戒するなら、付け城を築くか、もっと引いた位置で控えるべきだった。
そうすれば秀秋が裏切っても背後に回られて壊滅することは避けられた。
吉継は秀秋を信じていたので、思い切って前進したのではないだろうか?
付け城を築いたり、引いた位置に陣を置いたら
裏切りを則してしまうことにならないか?
>>965 「オレは信用されていない」と秀秋の心証を害するかもしれない。
でも、裏切る可能性が少しでもあるなら、
側面を晒すような布陣は危険すぎるのではないかと思う。
そもそも小早川隊がどういう道筋で山を下ったか判らないんじゃない?
であれば大谷本隊の陣立ての意図も・・・
>>967 小早川軍の下山ルートは記録がないのでわからないが、
板坂卜斎の慶長記に「小早川・脇坂等は後陣から攻撃した」とあり、
藩翰譜の小早川の項にも「西軍を後ろから攻めた」とあるので、
西軍の背後に回って攻撃した可能性は高いと思われる。
歴史読本2003年2月号に「陣跡から読む関ヶ原合戦」という記事があり、
それによると、山中に大谷吉継が構築していた陣城は、
中山道を眼下に望み、正面に松尾山を見据える絶好の位置にあるそうだ。
ここを引き払って関ヶ原に前進して側面を晒してしまったことが、
秀秋の裏切りを誘発してしまったような気がしてならないのだが・・・。
969 :
日本@名無史さん:04/05/11 02:20
次スレたてる?
970 :
◆0gHjoNa/tU :04/05/11 16:40
次スレたてます
埋め立て
次スレ立ててもいいけど、
「三戦板に行け」「思い込みです」「うざい」
はNGワードにしないと・・・誰も寄りつかん。
>>974 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
976 :
◆0gHjoNa/tU :04/05/14 23:00
先にこっち埋めちゃいましょ
977 :
日本@名無史さん:04/05/14 23:10
うめうめ
有楽
>>981 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
984 :
日本@名無史さん:04/05/15 22:58
985 :
日本@名無史さん:04/05/15 23:36
会社でも言う事は正論だが嫌われまくってる奴がいるよ。
たぶん三成もそんな感じだったと思う。
自分以外はバカばっかだと思ってたんじゃないかな?